>>1乙。
>>2
どうもです。
またーりと行きましょう。
でみなさん営為をよろしくお願いします。
>>952-953 25さんへ
> 理論には基盤が必要だね。
> おれは、その基盤を形成した過程を見つめたらどうかなと語り続けている。
言ってることがおかしいな。理論そのものが基盤なんだけどな。
で、“理論”は形成するものじゃないし、“基盤”も普通は形成するもんじゃないよ。
砂上の楼閣を作っているような形をしてないから。
イメージとしては塗り絵している感じかな。世界に色を付けて、塗りつぶす感覚。
また“過程を見つめる” このスレの1〜このレスまでの経緯は過程じゃないのかな?
あなたはたまにスレを読み返したりしないの? 私はたまにだけどするんだけどね。
してないのならしたほうがいいね。結構あなたも語ってる方だと思うから。自分の意識の
移り変わりを見られると思うよ。
> それがおれの主張だ。ここで君が「悟り」という語を含んだスレを立てたから気になって書き込んだ。
前々スレ“悟りたいとか自律したいとか”は読んだの?
結構長い間保守されてたと思うけど、よく読まずに書きこんでいるの?
で今のスレタイ名は自分が考えたんだけど“悟りとは、苦とは何か、その二つの接点”
この二つの違いは何?
> なぜそう提案するおれを君が非難しているのか、君はわかるのかな。
なんでだろうか。教えて欲しいな。
で非難? あなたが反論している時点で非難は不成立だよ。
今回の場合、あなたは私の論を一旦は受け入れたことにより、批判が適応されるんじゃないのかな。
> 君は他のスレでも精緻な理論を展開させているようだ。
あなたは理論には興味がないんだね。
でも人それぞれだからいいのかな?
> 君が独り言を書くなら掲示板である必要はないね。
むろん独り言のつもりはないよ。また理論を押しつけたいわけでもない。
では私のしていることはなんだろう? あなたは理解できるかな?
> 悟るというのは君が思っているほど特別なことではないかもしれないよ。
“特別”の基準が分からないんだが なにしろ“私が思っている”ほどとという基準が
示されいていないからね。これは言わなくても理解できるかな? 説明は省くよ。
あのね、悟ることが特別かどうかなんてどうでもいいの。
知りたいだけ、ただ好奇心に従って 行動しているだけ。
> 似たようなことで苦しんでいる人を見るとおせっかいを焼きたくなる。
私にもそういう一面はあるからね。うんおせっかいやいたらいいんじゃないの、2chなんだから。
> すまないと思う。でもやりたいんだね。無理強いはしていないよ。
この言葉が非論理的で恣意的なのは理解できるよね。
でもこの言葉が言葉として理解できるのはなぜ?
私はそれがどうしてなのかってことを全体的に考えているんだけどね。
> そうして今生きている。
> 思考の柔軟性は自分の固定観念を知る勇気をもたねば得られないだろう。
> 思考の柔軟性がないと発展の前段階で共感か争いに終始する。
> そこに発展を見出すには目的の本質に気づく必要がある。
そうだね。そして、いい内容の論だね。正直にそう思うよ。
> 逆にそれをうまく使ってやるという発想を持つことで固定観念は自由なものとなる。
そんなに簡単なものかな?
いやあなたにとっては簡単なものなんだろうけど、私にとってはそれほど簡単じゃないんだよね。
「それをうまく使ってやる」のそれ“固定観念”が見つからないし、うまく使う方法もよくわかんないから。
その、うまく使う方法というのをできれば教えて欲しいな。“方法”じゃなくて“体系”かな
> 君は自分を「いい人」と思われたいかな。自分が好きかな。相手に嫌われたくないかな。
> 自分のしたいことがわかっているかな。自分がいつも気持ちが揺らぐことをどうとらえているかな。
私はいい人と思われたいし、私が好きだし、相手に嫌われたくないし、
自分のしたいことがわかっているのかもわからないし、自分の気持ちが揺らぐことを、
むしろそのために気持ちがあるんだと今は考えているよ。
でちなみにあなたにはべつにいい人と思われなくてもいいと思ってるので、この文体だ。
つまり、私は自分が正しいかどうかを明らかにしたい、そしてそれがこの2chで示されたいと思っている。
最後に感想を言うね。
あなたもなかなか語るじゃないか、って思った。
なかなか面白い考えをしているなとね。あなたの性格もなんとなく理解できる。
あくまでなんとなくだが、いい感じだね。やっぱりあなたは一言レスよりこっちの方がいいよ。
素直にそう思う。で
> 君は他のスレでも精緻な理論を展開させているようだ。
この言葉はそのままあなたに返そう。少なくとも私はそう思うよ。
たぶん他の者もそう思うだろう。
おそらく長文と言うのは、精緻とは対極にあるものだろう。
しかし私の目的はそこではないんだ。もっと泥臭いものだと思っている。
(これはなんの隠喩かわかる?)
そういうことをあなたは理解してくれないのかな。
理解してくれたらもう長文のことは言わないでね。
まあ哲学板において、長文がいいか悪いかの議論だったらしてもいいけど。
もちろん私は“いい”と主張するけどね。
あとすいません。
>>952-953は当然前スレのものです。でついでに訂正
>>950-953の間違いでした。
ちょっと日を置いて作成したので、雰囲気に合わないかもしれませんがご容赦ください。
まだ先の25さんの意見には考えているところはあります。とりあえず今はこれだけです。
自己レスです。
>>6 > (理論とは)イメージとしては塗り絵している感じかな。
> 世界に色を付けて、塗りつぶす感覚。
訂正、もしくは補足として
イメージとしては、結露した曇りガラスを拭き取って透明にする感じかな。
そして、ガラスの向こうにある世界の深淵と認識すること。
また私のやっていることは行き当たりばったりに雑巾がけしている感じのつもり。
>じゆんさん
スレ立てご苦労様でした。m(__)m
(アク禁でした。何故?)
>イメージとしては、結露した曇りガラスを拭き取って透明にする感じかな。
>そして、ガラスの向こうにある世界の深淵と認識すること。
あるがまま、ありのままの世界が現前します。
でも、それもひとつの世界なのだとしたら、
少なくとも感性の枠内に存在してしまっていることになります。
(この発想もまた彼奴のせいなので当てにはなりませんけど)
あるがまま、ありのままの世界への畏れ、驚嘆というのは、
純粋な知覚体験によって感得される圧倒的な情報量にたいしてなのだと思います。
随分と切り捨てられてしまっているみたいですよ。・・・彼奴のために。(笑)
天才を分析すると面白そうかなって、ふと思いました。
10 :
S ◆4Ijqvx1jbw :03/12/19 01:38
>>じゆんさん
新スレお疲れさまです。(今はこれしか言えないけど、サポートしてくださった感謝を込めて。。。)
しかもageちゃった・・ごめん。
前スレ>951 25氏へ
>でも、辛くて苦しかったから、そこから開放される喜びを知ると、
しかしその喜びはつづかないだろう。でもそういう喜びはいいものだと思うよ。
私の開放はあった。それは端的に言うと苦と一体になることだった。
あの体験はすごくリアルだった、今でも忘れられない。
あれは、喜び?
似たようなものだけど違う。自己の発見だ。
心って具体的にどの場所にあるかわかるだろうか? あえて説明してみる。
“のど仏”の辺りに、心がある。よく観察してみればわかる。
どこから心の声が出てるか注意深く探っていくと見えてきた。
厳密な範囲としては、のど仏から裏の首筋に回って脳天までの辺りになるのだろうか。
私はね意識と肉体は必ずしも一緒になってないことに気づいた。
別々のところでそれぞれが自律しているのだと言うこと。意識は、簡単に肉体を離れる。
なぜそれがわかるかというと、私は意識と肉体がずれたことがあるからだ。
そしてずれたことに気づいた理由ははっきりと心の声の存在に気づくことができたからだと思う。
具体的に自分の存在がいつもとずれていた。
そのとき自分は、自分ともう一人の自分の存在がいることに気づいた。
自分のドッペルゲンガーを見るというのはきっとあんな感じなんだろう。
文学的な表現で済まないと思う。精神分裂病もしくは多重人格障害のハシリだと思ってくれてもいい。
しかしなぜか今の私は健康で、落ち着いていて問題はないと思うんだけどね。
またそのような病症を不用意に提出して気を悪くした人がいたら申し訳なく思う。
私のは全くの素人の見解だ。あらかじめおわび申し上げる。
以下そのとき体験の一つと考察と纏め上げる。
今年の8月のさなかの早朝、私は街中を存在について考えながら歩いていた。
とつぜん、自分がずれたことに気づいた。
あのときまさに自分が5センチ後ろに自分がずれているように思われた。
勝手に行動しているもう一人の私がいた。そいつは私を無視して街中をまっすぐに歩いていた。
そして私と言う自己は、小さな意識の中で閉じこもっていることに気づいた。
私がいた場所は身体全体に存立していたのではなく、頭の一部分であり、いつもいる視界そのものに私の心は
存在していなかった。口のあたり、いやそのもっと後方の後頭部から喉のあたりに、小さく存在していたことに気づいた。
声そのものが自我を持ったかのように思われた。
そして身体を支配しているそいつは、ものすごく冷たい印象だった。私なんてなんてお構いなしだった。
それはほんとうに一瞬だった。気づいたとたんに意識が戻ってしまった。
けど一瞬でも意識について理解するには十分だった。
おそらく意識が一瞬分裂したんだと思う。つまり意識に割れ目ができたて二義的になったんだろう。
もちろん虚妄だ。でも虚妄も、意識そのものだ。
私はその日のことを忘れない。それから意識というものを十全に理解しようとつとめてきた。
意識について考えつづけた。そして、意識は、複雑であるように見えるが、とてもシンプルだと言うことに
気づいた。またとても壊れやすいことも理解した。
意識とはつまり各々の感覚から受け取ったものだ。そのようなものから構成されるのだ。
心とはとはそんなものだ。
つまり目であり、喉であり、舌であり、鼻であり、全身の触覚であり、また味覚であり、胃であり、また臓腑であり、痛みだ。
それが心だと気づいた。そして言語はすべて喉から生まれ、舌で形作られる。
心の中でもまったく同様の意識が生まれるのだ。
それが私の心であるとすればなおさらのことだ。
たまに、私の心の声でないものが聞こえてくる。それは私の耳のほうから、他人の聞こえるはずのない声が
聞こえてくることがある。私は気狂いでもないし、幻覚作用を持つ薬物の服用をしていなかったし、
アルコールも普段は飲まない。そのときも飲んでいない。
しょっちゅうあるというわけでもない、人生で数える限りではおそらく二、三度だけだ。
しかし、その声は耳のあたりから聞こえてくることは明らかなのだ。
夢のまどろみの中で聞く、いままで耳にしたこともないようなすばらしい音楽も、
同様に耳のあたりから聞こえてくる。その音楽は耳から旋律が浮かび上がらせる。
またまどろみの中で夢の始まりを意識することがある。
浮かんでは立ち現れる映像体験。それは最初、心の声に従って映像が立ち現れる。
声に従って映像はイメージを強くする。そして浮かんでは消えることを繰り返して
夢の中へと本格的に入っていく、やがて音楽はなくなる。映像にともなった音を発するようになる。
やがて人物が現れ、私に語りかける。
また私は自分の心の状態を知るのに最も有効な手段だと理解していることは、
心の声の質を確かめることだと思っている。
声質は大事だ。私のテンションや状態が丸わかりだからだ。自分が落ち着いているかどうかなど
はっきりと理解することができる。そしてその状態は簡単には変更がきかないことも知っている。
だから今日の声の質が駄目なときは、もう諦めるしかない。その日はおとなしくする。
また次の日に望めばいいと考えるようにする。また声がはっきりとして、また落ち着いていて、
丁寧で、朗らかであると、私にとってはそれはとても望ましい声だと言えるだろう。
私はそんな風に自分を見つめている。声、声帯、喉、そのあたりに私はいる。
そして私に声に根本的に足りないものもだいたい理解できる。
しかしそんなものはどうでもいい。私は私の声を見失いたいとは思わない。今のところそう思う。
またもしかしたら私は今、見失っているなと思えなくもない。
私たちが実際に口を使って会話し、語るとき、一度心の中で暗唱してから喋り出すだろうか?
普通の会話ならそれはしないだろう。しかしタブーは設けてそれに該当しないように喋るように
気をつけるだろう。しかし、留守電に伝言をする場合は、一度暗唱するんだろうか?
私は留守電が嫌いだ。一瞬自分が何を言っているかまったくわからなくなるときがあるからだ。
何を喋っているのか、なんのために喋っているのかわからなくなる。そのときは一度暗唱してから、
その記憶をたぐり寄せるようにただ喋るようにしている。しかしその記憶は少なくとも心の声とは言えない。
また相手に合わせた会話も本当の自分とはまた言い難い。
それをしてはいけないと指示している私が本当の私なのだろうか。おそらくそうなのだろう、
それは声ではないが言葉にすると、おそらくそれはするなと言っているに違いない。
お喋りするときの自分の声と違って、はっきりと強制力を持った力のある声だ。
力のある声にはなかなか逆らうことができない。
しかし力のある声がすべて正しいとは限らない。そう判断しなければならないときがある。
そして正しいとは言えない力のある声を超えるにはより大きな力のある声が必要だろう。
大きな声が必要。また力強い声が必要だ。そのように私は思ってきた。
もしかしたら今まで私は肺活量が少なかったのかもしれない。
少ししか息をしていなかったのかもしれない。そのように思いもした。
おそらくそれは正しいのだろう。小さな声は大きな声にかき消されるのだ。
大きな力強い声を出さなければならない。
しかし力ある声より、もっと別の声が必要なのではないか。
すべてを包括してしまえる声。力を無効化する声。慈愛の声。
そんなふうに今の私は少しだけ思える。
しかしこれも確かなことではないような気がする。皆目わからない。
心の傷というものへの私の解釈を述べる。
一度壊れたものは、なかなか戻らない。心がのびきってしまえば、それはなかなか縮まない。
いわゆる心の傷には、完全に回復させる手だては存在しない。ただ傷口をこれ以上大きくし
ないようにするしかない。傷口を隠す。傷口を硬化させる。傷口を、きたえる。しかし傷跡は消えない。
その傷跡があるだけでどれだけ心を苦しめるのかも理解する必要がある。
時が解決するのだとしても、苦しんでいる限りはまだそれは終わらない。
どうやら本当に人生相談の体裁になってきた。哲学と人生相談を分けることは難しいのは確かだ。
考えることはその意志がすでにその考える行為を正当化しているのだから、それを否定することは難しい。
まあこんな風に考えてみることは悪くないだろうと思った。
人生哲学(いわゆる非学問哲学)もきっとこのように必要なんだろうなと、自己満足する。
長文失礼した。
おれは25だったものだ。
>N
君もようやくおれにレスをくれたね。
>「自分が思い描く基準を変えてやれば、基準を満たしていないと苦しむことはない。」ということを言いたいのかな。
それは含むがそういいたいわけではない。君がそのように理解したのなら、そこに君の思考のシステムを理解するヒントがあるかもしれない。
君はある種の基準を設定していて、その基準外のものをどのように扱っているのか、またはどのように扱いたいのか
そのへんが気がかりなのかもしれない。むろんおれにはわからない。君にしかわからない。
でも君も気づいていないかも。でも上記の君の発言はおれの引用ではないが、君はそう受け取ったんだろ。
なかなか面白いよね。
>これは、人生論としては、なるほどと思えるけど・・・
>これが、すばらしさや尊厳や全てを理解したことになるのだろうか
>これが無常や無我を教えてくれるのだろうか
基準を変えることも可能だし、見つめなおすことで「変わる」かもしれない。
基準自体が思い込みや決め付けだと思うよ。でもそれは「悪い」ことではない。
それを利用することで人は生きている。それに振り回されると「苦」るしいような気がする。
素晴らしさや尊厳は、思い込みになった時点で痛ましいものに変貌しないかな?
偉くもないのに偉そうにされたい人とか、そうしてあげる人とか。
常に人の知覚は変動可能だね。でも思考はとめられる。本来無常である知覚によって「他」を
認識していることに気づかないで、思い込みで思考を停止させると「無常」でないような
錯覚に陥るかもしれない。
自分を知らなければ無我はありえないだろうね。
>じゆん
>>12-16 なかなか興味深い。
神秘体験はさまざまな人が自らの体験として語っている。類似体験を持つものは共感を得ることだろう。
意識が肉体から離れた感覚は、通常夢をみるという体験で得ているがこれは眠っているときの夢だから
といった何の根拠もない理由で「当たり前」のなんでもないことと認識している。
ドラッグ体験者は異常な肉体感覚やさまざまな理解不能な体験を報告している。
だが、薬をやっているから「当たり前」のことと認識されている。
君の体験はいずれでもない。束の間だがはっきりと体験したようだ。否定のしようがない。
君はその体験で思考の基盤が緩んだか変化したか、それとも固まったか。どうかな。
臨死体験や幽体離脱は脳が起こしたバーチャルりアリティという見方が提示されている。
それは事実だろうが、だからといってその体験の神秘さが否定されるものでも、そのときの
気持ちが嘘であったわけでもない。
人の未知なる(昔から言い伝えられてはいるが)可能性を示しているという見方も可能だ。
>>16 じゆん
>その傷跡があるだけでどれだけ心を苦しめるのかも理解する必要がある。
苦から解放されるという前提であれば、君のいうとおりだ。
君も承知のように、人はとかく逃避という安易でその場しのぎの解決法を選択しがちだ。
むろん根本の解決策でないばかりか、押さえ込む労力が多大に必要なため大きなストレスとなる。
おれが「考えて欲しい」「自分を見つめたらどうかな」としつこくいい続けていることは君の
発言を理由とする。
>時が解決するのだとしても、苦しんでいる限りはまだそれは終わらない。
その通りだ。そして時が解決したように見えるのも事実だ。
しかし時が解決してくれるなどと思っている人は注意が必要だろう。そのときの記憶が薄れ、ストレスがなくなったように
見えても、内面の奥底に押し込んでいるだけでいつ反発して出てくるかはわからない。
傷ついたと感じ、そのように思い込んでいるなら、その事実と向き合う必要があるだろう。
その作業なしの解決はかなり困難だろう。人は自分を誤魔化しきれるものではなさそうだから。
>考えることはその意志がすでにその考える行為を正当化しているのだから、それを否定することは難しい。
鋭いね。おれがいいたいことの一つは、上の文を例にとると「正当化」している自分を見つめて
その事実としっかり向き合う作業をする必要性かな。
「正当化」は決して悪いことではないね。相手に伝えるために必要な手段でもある。
大切なのは、自分をしっかりと客観視できているかどうかの確認かな。
おまえは正当化してるな!と相手がきたとして、「違う!」と否定するのはかなりのストレス。
「そうだよ、だからな〜に?」という開き直りは後で心が痛い。
という気がするんだよ。
おれも長文だ。本当に失礼。
>>元25氏
…呆れた。
前スレでもピンぼけな発言しかしていなかったが、その『的外れの自尊心』も此処まで来るとね…も、笑うしかないわ(苦笑)
相変わらずの『自己を見直す事を奨めるのは他者に対してのみ。自分はどれだけ愚かな行為をしているのか一切見直さない』という片手落ち。
更に『本人が一番価値観に固執しているのに気付いていない戯言』も。
本当、醜い。
つーか、臭い。
で、まさか…此処までヒント出してるのに自分の何処が『臭い』とされたのか分からないなんて事はないだろうね?
そこまで愚か?
噛み砕いて一々具体的に指摘しないと分からない?
君が真に君の発言通りの事をした事があるなら、そして今もしてるなら分からない筈はないよな…
キツイのね、あい変わらず。
伴さん、こんばんわ。
前スレ読み直しました。前スレの351-353でハルカさんの言っていたことは
多分、もっと前のスレでも言ってたんですよね。忘れてました、ごめんなさい。
改めて思いました、我を消滅させる精神的な行為は私には無理です。
でも、あんまり悲しくありません。元々求めてなかったからだと思います。
この違いは我の違いじゃなくて、私の違いなんでしょうね。
漏れさんやNさんやハルカさんの体験を読んで、羨ましいなとは思いました。
私は逃げてばかりです。
>>1スレの主旨に関係ないこと言ってごめん。
じゅんさんとSさんとカオルさんと25さんとNさんと・・・
皆さんのおかげで、わかっちゃいないけど誤解がとれました。
ありがとうございます。
>>20 を見て放置できないので忠告する。 ハルカ氏へ
このスレでの罵倒、中傷はやめてくれないかな。
あなたの先の発言は明らかに度をこしているんじゃないか。
あなたの発言は議論の体を為していない。
>>20 ハルカ
>前スレでもピンぼけな発言しかしていなかったが、その『的外れの自尊心』も此処まで来るとね…も、笑うしかないわ(苦笑)
「ピンぼけな発言」の具体例をあげてごらん。自尊心は大方的外れだと思うよ。苦笑するのは自由だね。
したくなかったらとらえ方を変えるか、スルーしたらどうかな。
>相変わらずの『自己を見直す事を奨めるのは他者に対してのみ。自分はどれだけ愚かな行為をしているのか一切見直さない』という片手落ち。
>更に『本人が一番価値観に固執しているのに気付いていない戯言』も。
やはり具体例を示したらどうかな。説得力にかなり欠けると思うよ。
>本当、醜い。
それは同じことを君に返すよ。
>つーか、臭い。
これは指摘通りだね。よくわかっている。作戦なので許して欲しいな。
おれは幼少の頃から言動が粗暴で、相手に真意を伝えるのにかなり苦労を要した経緯がある。
文章のみというこの場ではかなり気を使って書いている。内容も回りくどいね。
でも色眼鏡で読まなければすんなり入ると思うよ。
>で、まさか…此処までヒント出してるのに自分の何処が『臭い』とされたのか分からないなんて事はないだろうね?そこまで愚か?
>噛み砕いて一々具体的に指摘しないと分からない?
上記のようなことならわかるよ。でも共通認識はない。あるというなら君の思い込みだ。気づいたらどう?
>君が真に君の発言通りの事をした事があるなら、そして今もしてるなら分からない筈はないよな…
残念ながらそれも君の思い込み。
人の気持ちはわからないよ。だから話し合う必要が生じる。
君も逃げてばかりいないでおれと話し合ってみてはどうかな。
君はおれが嫌いなだけでなく、自分と向き合うのが怖いのかもしれないね。
>>25貴方の文章嫌いじゃないよ、むしろ読みやすいよ。
いっそのこと聞きたいこと全部訊いちゃったら、いいと思います。
おれは言葉使いに気を使ってくれる人の方が好きだけど、
言葉使いが悪くたって、態度や気持ちが相手を否定するようなものじゃなかったら
大丈夫だと思います。
>>26 そうかい。ありがたいな。
そしてまた、25なんだね。俺悟ったよのスレでも22連続ゲットしていたのでちょっと面白がってしまった。
このような場所では相手を否定したり非難するのは容易だね。おれはなるべくしないように気をつけているが
しなければならないとも思っていない。自由だからね。
ただし、相手によって受け取り方が異なることを考慮する必要はあるだろう。
ハルカはあのような文章でおれを懲らしめられると思っているようだから哀れかな。
懲らしめられないばかりか、自分を貶めかねない。気にしないと突っ張るのかもしれないが、
かなりのストレスがかかりそうな気がする。
>>20のハルカさんの言葉は乱暴だけど、懲らしめようとは思ってないと思う。
言葉が拡大しちゃったけれど、訊き直せばいいと思います。
我が消えたあとの私はどうなるのかとか、死んだら我も消えるんじゃないかとか疑問点は私もあるけれども
ハルカさんの言うように、私に拘る気持ちがあるから、他人に対する気持ちが硬くなってしまう
のは実感しているし、苦について言及している動機は、わからないけれど、
特定のものに結びついているのでも、それが解消されれば気にならなくなることでもないと思います。
こういうことが私の場合は訊きたかったことです。なんか急に横槍入れてごめんなさい。
25さんもハルカさんも嫌な人じゃないと思います。私は正直嫌な奴なので、そう思います。
>>24のじゅんさんの行為は本当に尊敬します。じゅんさんみたいに言葉を出してくれる人がいないと
世の中は怖いですからね、なぐさめがありません。
長々すみませんでした。
>>28 君は
>>26かな。
ハルカがおれを懲らしめようとしているかどうかはわからない。
だが、おれを攻撃しているのは事実だね。そして有効と判断しての行為だろう。
だから「おれを懲らしめられると思っているようだから」と書いた。ハルカの気持ちは
おれにも君にもわからないよ。
おれはそのような基本的な思い込みによって論理を構築させて言い争う愚かしさに気づいたらどうかな
と思って書き込んでいる。断っておくが、君が争っているなどといっているわけではないよ。
>>28 >死んだら我も消えるんじゃないか
とても悩ましい疑問だ。でもそれは考えても「わからない」ことだよ。
そして悩ましい疑問であることが事実だ。それが現実。
わからないことを知りたいと思う気持ちは、多くの利便性の高い技術や理論を生み出し
われわれの生活を一見豊かにしてきた。
でも、生きる意味や死後の状態などに関しては伝承はさまざまあれど化学的に実証されていない。
しかしそれは、太古の昔から人の生存を自ら見つめるときに避けられぬ疑問としてわれわれを悩ましている。
そのような疑問が理論では解消できないことを歴史は証明している。
人の生存にそれらの疑問が付随することが現実であることの認識が必要ではないかな。
そしてその疑問は解決することが重要なのではなく、抱き続けていること、考え続けながら
日々を見つめていくことこそ重要なのではないかな。
>>28 >25さんもハルカさんも嫌な人じゃないと思います。私は正直嫌な奴なので、そう思います。
君がそう思うのだから君の中ではそうなのかな。
おれをハルカは嫌な奴だと思っているかも知れない。それはわからない。おれも断定はしていないね。
嫌だとか好きだとかも主観だね。
自分の気分でどうにでも変わる。そこをどうとらえるかで世界観が変わるかもしれない。
好きという錯覚がなければ人類の繁栄はない。後から嫌いと気づいても好きだったときの行為は消えないから
子孫が残る。
好きだったものが嫌いにもなりまた好きにもなり、どうでもよくなったり。
それが人の主観だ。いい悪いではない。変化する事実がある。
おれのこの「当たり前」の能書を気に入らない人もいるだろう。でも当たり前のことを
認識する作業を疎かにしていると足元がおぼつかない。
人それぞれが自分の気持ちをもっとも大切に思って行動している事実に気づくことで世界観は変わると思う。
うるさくてすまない。
>苦について言及している動機は、わからないけれど
それは、たぶん
苦の正体を知っているからだ
苦の原因を知っているからだ
苦の解決法を知っているからだ
だから、お節介をやいているのだろう
最初はソフトに
次は感情を刺激して
だから、そう悪意に捉えない方がいいと思うよ
ガンコには感情を刺激するぐらいしかないのだよ
いづれ気付くこともあるし、いいんじゃないの好きにすれば。
25のいう提案でストップしたんじゃ、自分の自由な選択とは感じられないわけだから。
言葉では分かりにくいし、分かってもらいにくいだろうと思う。
前スレ949 25さんへ
>君は自分と対峙する恐怖(?)を知っているようだね。
わたしには対峙する"べき"自分がいません。
対峙するべき自分がいないのだから
わたしは"べき世界"にじょうずに参加できないのです。
わたしは"べき世界"の同一性の原理に興味があります。
(悩み相談じゃないです)
>共通認識がないことを理解しているということだから、対話を純粋に楽しめるのかもしれない。
たとえば、対人関係で
「うじうじ悩んでいる(価値命題)」→「うじうじ悩んでいるわたしがいる(事実命題)」
→「事実なら解決する方法はあるはずだ」みたいな合理主義的手法をわたしも使います。
主観的から客観的への視野のスイッチの切り換えです。
このような作業行程で見出されるのが他者との認識の不完全一致などのことです。
けれどここで見出されたことを「根拠に〜」というのは都合のいい幸福論ですね。
なぜなら「うじうじ悩んでいることを解決すること」より「うじうじ悩んでいること」に
価値があるように思うからです。感情は鍛練されないと使い物になりませんから。
なので、わたしはあなたの
>>30にフムフムと同意するのでした。(^.^)
(あなたとの認識の不完全一致のところがあったら教えてくださいね)
前スレ949 25さんへ
>人の言動は基本的には作為的だということが理解可能だろうか。
>人と対するとき、本質的に相手の気持ちを動かしたいという欲求から行動することを理解するだろうか。
>人はそれぞれ自分の気持ちを大切にしていることに気づいているだろうか。
小学生の頃、わたしに親友がいました。とてもやさしくておとなしい子でした。
天真爛漫で派手なわたしと彼女の関係はみんなにとって七不思議のひとつでした。
彼女はいわゆる縁の下の力持ち。わたしのまわりにみんなが集まってくるのも
わたしのわがままがなんとなく通用してしまうのもみんな彼女のおかげでした。
わたしは彼女とふたりだけの時間をかならずつくるようにこころがけたし
そのときには彼女を楽しませることや喜ばせることに夢中になりました。
ありがとうの感謝、ごめんねの罪悪感、一番でいたいからの計算・・・など
いま思い出すといろいろ考え付いて分析できます・・・でもちがうのです。
彼女を楽しませることや喜ばせることがわたしの一番したいことだったのです。
リスクがあっても彼女とのふたりの時間を大切にしたわたしは素直でしたね。(^.^)
いまのあたしは純真でも素直でもないから(^_^;)それを心がけないといけないけれど
それもまた自分の気持ちを大切にしていることにはかわりないと思いますし、
そのこころがけが他人の気持ちを大切にすることになるんだと思っているのです。
なんかカントの定言命法みたい。(笑)
>>22 >改めて思いました、我を消滅させる精神的な行為は私には無理です。
我を消滅させるなんてできない。我を落とすことなんてできない。
我はひとりでに落ちる。我を見失う。といった表現になる。
>でも、あんまり悲しくありません。元々求めてなかったからだと思います。
>この違いは我の違いじゃなくて、私の違いなんでしょうね。
人は幸せを求める。苦しみからの開放を求める。なぜだろうか。
個になるのと引き換えに存在から切り離されたように感じるためだ。
楽園から追放されたようなものだからだ。
だから、何か空虚な感じがする。当然だ。
だから、何かにすがりたくなる。当然だ。
人は幸せを求める。当然だ。
苦しみからの開放を求める。当然だ。
だから、誰もが求めている。求めていないはずはない。
だから、それを見つけると、
長い間旅に出ていてやっと帰り着いた我が家、
ものすごく懐かしい我が家に帰り着いたように感じるだろう。
このスレに来ること自体、それを強く求めている証だ。
そして、そこに帰るまで求め続けるだろう。
>>34 自分がいないという認識は面白いね。君には主体がないということなのかな。
むろん違うだろうね。「べき」という君が規定したカテゴリーに拘った結果なのかな。
>>35 実によく分析して理解しているんだね。
おれのいいたいことは
>それもまた自分の気持ちを大切にしていることにはかわりないと思いますし、
>そのこころがけが他人の気持ちを大切にすることになるんだと思っているのです
と同じだよ。
隣人愛や自己犠牲も自分の気持ちを大切にした行為、自己満足の行為だという見方が可能だね。
その認識一つで世界は変わると思うんだけどね。
>33
その通りだ。
人は自分のしたいことをするのが精神衛生上では効果的だろうね。
自分が何をしたいかに気づき続けていく作業はとても面倒。だからあまりしないようだ。
人はこうあるべき!みたいなのが見つかれば楽そうな感じがするが、おそらくそのようなものはないだろう。
理屈はいくらでも作れる。おれは哲学書に何が書かれてあるか知らない。読んだこともないし
哲学を学んだこともない。でも、理屈を作ることだけが哲学ではないととらえている。
重要なのは考えることではないのかな。
今生きている事実をその人なりに認識して、では次に何をしようかなと選択する自由があること
を知る必要がありそうだ。言葉では伝え切れないね。自分で悟るしかない。
しかし、このスレは相変わらず不毛だね(苦笑)w
前スレ941 じゆんさん
>で意識とはたぶん「知覚→(記憶)→思考→感情」を
>私が何度も何度も繰り返した“線”の集積そのものに
>なるのではないかなと想像している。
>うん、ここでポロッと意識が出てくるみたいだ。
ポロって出てきません。(笑)
ハルカ論では、意識はアプリオリ(生得的)であり、かつアポステリオリ(経験的)なのです。
意識そのものは【芯】なのだから、顕現(実在)するためには個体化の原理が必要なんです。
>○稼動性 … 本来不動である『意識』を中心点から分離し稼動させ『知覚』とする。
で、『意識』=『決して認識され得ぬ認識主体』なんです。(前スレ351参照)
前スレ941 じゆんさん
ちなみに、もし意識によって世界が開かれているとしたなら、
ハルカ論では世界の始まりは『知覚』ということになります。
これは、ウィトゲンシュタインの独我論にとても近いのです。
『主体は世界に属さない。それは世界の限界である。』(5.632)
ウィトは、精神的実体としての「わたし」は認めませんでした。
ですから、ここでいう主体とは「形而上学的主体」のことです。
「わたし」という精神的実体は、すでに否定されていますので、
実在として残るのは「形而上学的主体」としての「世界の限界」
ということになります。
ハルカ論では、この「世界の限界」は『知覚』になりますね。
わたしは、SHスレで『知覚』とまではズバリいえなかった。
>記憶は自分としては別として考えていた。
>この私の「知覚→思考→感情」の図式化はただ単に
>知覚の次には感情はこないという意味に過ぎないものだったんだ。
なぜ? わたしなりに理解できるけど一応聞いてみる。(笑)
前スレ940 じゆんさん
>最初はたぶん反発するかもしれないけど時間が経つと一層、よく理解できて正しいと納
>得するから。彼女の論が正しいと分かるから。
そう。それです。
私が逃げ出すタイミングを測りながらも(難しすぎ。もっとぬるいほうがいい)、まだここにいるのは初手から間違えたことに、こだわっている(取り繕っている)のかもしれない。
>で私が今わかったのは人の言葉を理解するには結構時間がかかるってこと。
>議論して対立して、で議論が終わって、一人で考えて、はじめてその人の言っているこ
>とがわかるんじゃないかってことだ。
同意。
私は相手との距離を測りたいのかな。
で、その距離を測るには、相手の主張を理解する必要がある、というか。
あと【芯】と【我】(+【私】)について、それはブラフマンとアートマンなのかなと、インド哲学に興味を持ちました。でも、じゃあブラフマンとはなんだ?という話になると、まあ私も保留なのですが。
前スレ941-942
私の問題意識とはまさにそれなんですがね、理解するまで時間がかかりそうです。というか無理かもしんない。半泣きです。脳の研究なんかを調べることになりそうで。
前スレ942 じゆんさん
>>わたしは意識の正体が知りたいのです。
>あとこれはちょっと誤解あると思うよ。
>たぶんこれわたし(カオルさん)は(カオルさんの)意識の正体が知りたいのです。
>とただ単に解釈すべきじゃないかな?
なるほど。「わたしとは?」という問題なんですね。それだと確かに、
前スレ954 カオルさん
>こねくりまわしたらポロッと手のひらから落ちました。(笑)
>「知覚→記憶→思考→感情」の先→に意識がこないことだけはわかっています。
ということになってしまいますね。
私は意識という言葉を、例えばマンガの吹き出しを読んでいるときは意識が集中しているなとか、面と点が切り替わっているなとか(この面と点という言葉の使い方もこれまでのスレの流れとは違うかも)、認識論って言うんですかね、そういうことに使っていたようで。
「わたし」という問題はゴソッと抜け落ちていますね。たとえこのような方法で「わたし」に答えを出したとしても、それでは多くのものが抜け落ちてしまいそうですね。
あとネットカフェ利用者なのでレスが遅くなってごめんなさい。
ところで17さんのホームページを見た人って、どのくらいいるのかなと思った。
前スレで私が17さんに「このような営業は意味がない」と言ったのは、
そのうち17さんのホームページに誘導されるのかなとか、
先生の著作を買わされるのかなとか、
でもそれとこれとは話が違うなとか、
だったら次の作品を書き上げたほうが17さんのためになるんじゃないのかなとか、
そういうことでした。
私がそう思ったのは、なにか17さんは2chへの関わり方が他の人とは違うなと感じたからです。
でも17さんは、そういう営業が目的ではないのですよね。その節は失礼しました。
ただそれでも。どうも17さんのレスを見ると、色眼鏡が七色に光ってしまいましてね。
本当はずっと黙っておこうと思っていたのですが、私と同じように17さんに違和感を持ってしまう人もいるのかな、と思って。
あとホームページは、最低でも月に一度は更新したほうがいいと思います。
カオルさん
レスありがとうございます。そして今までレス出来なくて
ごめんなさい。と言うか嬉しいので頑張って考えてレスしたいと思います。
できるかぎり言葉にしたいと思います。
しかしあらかじめ言っておくことがあります。私は自分の言葉が完全に正しいものだとは、
思っていないということです。
ですから、先のあなたのレスを見ての、私の反応はああもっともだと言うのがまず正直な
感想なのです。
よってあなたの批判に対する反論と言う形は今の私には取ることが出来ません。
おそらく批判に対する考察と言う形で弁を取るかと思います。
自分本位な形になることをあらかじめご容赦ください
また不毛と思われるのなら申し訳ありません。まあ私は不毛とはぜんぜん思っていないんですがねw
あなたもそうだと嬉しいです。いやいや前置きも長くてすいません。(今回もさらに長いです)
>ポロって出てきません。(笑)
うひゃ、出てきませんか。……
まず最初に申し上げておくべきことは申し上げておきます。
たぶん私とハルカ論の大きな違いは、【芯】を設定しているかどうかだと思います。
しかし【我】と【私】の設定はおそらくですが、かなり近いところまで言っているかと思うんです。
私は見てのとおり個体化原理も、放置状態なんです。まあそれでもそこそこいい感じかなと自分では思います。
そして今後の私の課題は、おそらくいわゆる【芯】に対するの接近なのかと思います。
この接近が、まだまだかなと自分では思うんです。ですからまだまだ懐疑です。
しかし完全な否定も出来ないのも事実です。
なぜなら虚存の存在が私には認識できないと、ハルカさんもそのように言ってますし。
>【芯】⇔『決して認識され得ぬ認識主体』
とね。
まあここら辺はおそらく瞑想なりの実践が体験が大きく関わってくるんでしょう。
でないと『思考・感情等『意識活動』の原点』=【我】と【芯】の区別はおおよそ見分けがつかないんです。
なぜ私はそういう考察仕方になるのか?
おそらくハルカさんの論のバックボーンは体験による認識なのだと思われます。
その結果、輪廻、虚存、芯などの見識をハルカさんは得られたのだと思われます。
しかし、私は違います。そういう見解は今まで持ったことがありません。
輪廻も叡智界も上位生命も理解不能です。
ですから最初から芯を設定することはできないんです。私の主張の根拠はおそらく意識構造の
自己認識体験、または見聞、私なりの神秘体験、自己の心身理解、などによるものです。
そしてこれらは同時進行中で、瞑想による我への接近なども試んでいます。あくまでそれはマイペースです。
そして瞑想によって、決して認識されぬ認識主体の存在のようなものはなんとなく感じられます。
しかし意識なるものは結構無防備なので気がつくとかなり近いところまで接近できます。
そのときは扉を開く感覚で後戻りできない感覚があって恐いくらいです。しかし私は臆病なのですぐに我に返ります。
まあこれを認識してしまったらおそらく悟りなんだろうなとは思われます。いやそうなのかな?
これってなんか違うもののような気がする。まだ底はありそうだと思われます。
なんだか、よく分からないのです。実感がわかない。一瞬なのでまだ全体把握ができないんです。
で…
>>○稼動性 … 本来不動である『意識』を中心点から分離し稼動させ『知覚』とする。
>で、『意識』=『決して認識され得ぬ認識主体』なんです。(前スレ351参照)
と言う感じには今のところ私には設定できません。意識はおそらく、私見では
アポステリオリ(経験的)にしか私は認識していないのですから。
ですから>『意識』=『決して認識され得ぬ認識主体』
はまずは否定します。おそらくこれは何の定義にもなっていないのではと私は思うからです。
実は何の定義にもなっていないはずなんです。そもそも定義とも言えないのです。
無論体験知を退けての意見ですが。
と言うことでポロッと出てくるものは、言及するうちに立ち現れるものが、意識ということになります。
あくまでアポステリオリなものだと思います。ですからアプリオリ、つまりまあ完全認識は出来ないでしょうね。
すぐに手のひらから落っこちるかと思います。
じゃ何が残るかというと記憶ですかね。余韻が手のひらに残ります。感触やら残り香です。
その感触をもったいないと私は愛でながら考察しているのです。
そのために広く知見を探し求めているところがあるとおもいます。
>>41 前段は同意します。
知覚の限界をハルカ論では世界の限界と言っているような気がします。
しかし、あくまで大雑把な主観ですのでご容赦ください。
ですのでカオルさんの意見を私はまずは支持したいと思います。
私も知覚の限界を世界の限界と言いきることが出来ないのです。
であれば私の限界は客観にゆだねることにします。客観いわゆる言葉の限界が議論の限界であり、
私の限界なのです。つまり私の限界は私は知らないのです。基本的にどうでもよいかなと思います。
私の長文偏愛の一つの理由にサービス精神というものがあります。ピエロになろうというものではないですが
おそらく、この議論を物語化させたいのでしょうね。物語化とは、存在理由を顕現(言語化)させることです。
そうやって世界の限界に迫れたらいいなあと私は、思っています。基本的に人は物語の中で生きています。
意味そのものをなぜか、探し求めています。
おそらくこれは真実です。例外はないと思います。
おそらく生命もそうかじゃないかなと私には思われます。
>なぜ? わたしなりに理解できるけど一応聞いてみる。(笑)
私もまだ十全に理解していないので一応好き勝手に述べてみますw
まず、記憶についての定義が語法としてかなりあいまいだと私は思います。
世間一般でもかなりあいまいなんじゃなかと思われるのです。
たとえば〈記憶〉、〈体験〉、〈経験〉、この三つが同時に浮かんできたら、
みなさんはすぐにどれが適当な語として該当するかと言う使い分けができますか?
これまでの経験では私はちょっとそれは難しかったです。もちろん使い分けるよう
に心がけてはいますが結構厄介な代物だったかと思います。
こんな初歩の問題で躓いてまして本当に申し訳なく思います。
いやそんなことを言いたいのではなくてw(脱線しました)
それとはまた初歩を自覚して実感するのは
『記憶』は、物(モノ)としての『記憶』、また事(コト)としての『記憶』があり、
『対象』と『現象』の違いがまず言語において確認されること。
そしてどちらがおそらく否定されることになるのかというとおそらく事としての『記憶』だと思われるのです。
なぜなら、記憶は機能そのものと言うより、
思考の一部であり、知覚の一部、感覚の一部ではないかと思われるからです。
例えば我々は考える(思考する)、怒る(感情を表す)、見る(知覚、もしくは認識する)とは言いますが
覚える(記憶)とはなかなか言わないというか、不自然な気がするのです。
逆に覚えた(記憶した)なら言いやすいのかな。非常に事後承諾的で、現象として認知は不可能だと思います。
かなりアポステリオリ(経験的)なものですよね。
例えば思考、知覚、感情そのものに関しては個体化原理と言うよりは機能、いわゆる生命原理…ですよね?
しかし記憶はなんだか違う気がするんです。おそらく対象(現象形式としての対象)のようなものだと
私には思われるのです。
例えば映像記憶を保管する。
イメージとしては非常に有効だと思いますが、意識構造の中で、これはどこにどうやって記憶を保管するんですか?
それを考えるとかなりミステリアスです。ちょっと辛い。
つまり客観的立場から記憶そのものを指示することは出来ない
ということを私はおそらく言いたいのですね。
記憶とは主観による意識把握によって、はじめて記憶は認識されるのではないでしょうか。
この主観を超えない、つまり客観にできない記憶に関して言えば、言葉として使用するにはまだまだ
不適当だと私には思えるのです。
真実、善、悪、美と同じくらい不確かな気がします。そんな風に私には思われるのです。
なにもそれは指示していないからです。いや指示していると言っても、それは観念的で感情的で
情緒的なものに見えます。
ちょっと意味不明で、また懐疑になっていない、いや論にもなっていないと思います。
(自分自身「記憶」に関しての言及にはかなりの矛盾点が見つかってます)
ですがとりあえず提出しておきます。
私には主観を超えない=虚妄な言葉には使用することは憚れるのです。
まあこれは言い過ぎですねw みなさんもばんばん記憶を語りましょう。
記憶を切り離す(理解する)のは難しいです。
しかし論理的に思考と感情は切り分けることは可能なのだと思います。
実際に私はそうやってきましたし、無論神経生理学の観点ではなくただの
言語論的な区分ですが。そう申し上げておきます。
ついでついでに言っておくと、私見では「分かる」とは「分ける」です。
言語論的に区分することを「分かる」と言うんだと思います。
ついでに「理解する」は「理を解体する」だと思います。
「解きほぐす」でもいいです。
記憶を切り離す(理解する)のは難しいです。
また記憶は行為なのだろうかかと言う疑問が生まれます。
記憶は行為するものなのか?
いや私は思考や知覚、感情によって「行為されるもの」だと思うのです。
また言い替えると、記憶は即自存在的な存在なのでしょうか?
おそらく記憶の存在自体が、アポステリオリ(経験的認識)そのもののため、無理だと私は思います。
ですから私は記憶とは記憶物、モノとは見ないのですね、現象そのものとして認識した方が無難です。
そもそも私はアプリオリがいまだに、よく分からない。いやなんとなく分かるのですが。
ただ物事はすべからく経験的にしか、認識できないんじゃないの? っていう疑念が私にはあるんですよね。
記憶を分けてみます。
まず認識物記憶(いわゆる知覚記憶)があると思います。
これは知覚を辿り、思考、感情を辿り現象の認識までに至ったものです。これはつまりコップをコップとのみ
理解するまでの認識のことです。それの色は赤色と認識するまでのものとしての記憶。
ただ単純に知覚記憶、つまり映像記憶、音感記憶、味覚記憶が現象として現前に顕現化されただけの
ものとしてご理解ください。
そして『認識』=『記憶』です。
これはマジです。かなり私はそう思います。
ですから認識物記憶と言う言葉にはかなりアホな感じを受けますがご容赦ください。
何がアホなのかというと「乗馬用の馬に乗る」という語法くらいのアホさ加減ですね。
おわかりいただけましたでしょうか。
あと言い忘れていましたが
認識とは「知覚→思考→感情」の論理形式によって顕現します。
意識構造による観点です。
その構造において認識の集積がまた『私』を概念化します。
集積は直列形式を示唆しますから、ちょっと違う気がします。おそらく並列形式だと思われます。
ですから『集積』というよりも『集合』と呼ぶべきでしょうか、ですから今後は両義的解釈を取ってくださると
ありがたいです。
「集積および集合」とこれまでの言葉を置き換えてください。
よろしくお願いします。
そうやってできた、張りぼて(形而上)の不器用な『私』と言うものがまず確認されて、
そいつ(私)が、おそらくモノを考えるのです。
基本的に、こいつ(私)はかなりのアホです。けっこう間違いをやらかします。
しかし『私』というものは洗練されますから間違いは確率的に減少する傾向にあります。
もし私に期待するとしたらこの点なんでしょうか。
そのためには【私】と【我】との信頼関係が大事ですね。これは蛇足ですかね。
そしてもう一つの記憶とは、思考の経路記憶(パターン記憶)、になるんでしょうか。
おそらく175さんの言っていたのはいわゆる知覚の記憶的解釈によるなのだと思います。
しかしなぜか私はこの思考経路記憶を忘れることが出来なかったのです。
しかしそれを言ってしまうと、知覚とはなにか、思考とはそもそもなんなのか、その関係という言及、
意識の全体理論の形成が必要になるのでしょう。(今ちょっとだけやりましたが)
しかしそうではなく通常の認識物記憶ではなく思考経路の記憶。
イメージとして私自身は例えば川を私は連想します。
その思考の経路をただ記憶するのです。いやそもそもこれは記憶とはいえないかもしれない。
経路記憶は基本的に感情の助けを借ります。川に落差を与えます。また繰り返すごとに
川は太さを増していきます。そうやって流れやすいところ、同じ道をを思考は毎度、
辿るようになるのだと思われます。
いやあらかじめ言っておきますと『経路』、『川』というイメージというものは神経回路をみなさんは
想像しやすいのかと思います。
であればそれはちょっとまずいかなと思います。
であれば反復性の拡大、およびそれによる同一性保持という拡大解釈で捉えてください。
例えばこのスレをごらんの通り個々のみなさんの論理形式(発言形式)はある程度、特色があり
個性と言うか、パターン化されているとは思いませんか。
本音を隠さずに申し上げれば、みなさんけっこう面白いというか個性的というか、
ある程度時間が経つとどんな性格なのかだいたい理解できるというか、いろいろ相手を
パターン化しやすいと思えることですね。
いやそれ以上に、思考の発想形式や、また相手との会話のツボみたいなものも見えてくる。
ここを押すとこう反応が返ってくるとかね。いや面白いです。そして楽しいです。
そして、ときどき想像以上の相手の変化、面白い言葉に出会えますよね。
そんなことが哲学板でときどきに見受けらたりもする。私はけっこうそういうのが好きです。
そして非常に私は参考になるのです。
この指摘による語弊についてはあらかじめご容赦ください。
パターン化なんて世間ではあんまりいい言葉じゃないですから。
しかしいまのところ私はそういうしかないのです。
このパターン化に対する論理形式はもはや物理的なものなんじゃないか、とさえ言えるかと思います。
個体化原理とかいうそういうレベルのものじゃないと思います。
ただ易きに流れる。またその流れが一層の易さをつくるのですから。
おそらくですが。
一応述べておきますがこれは短期記憶、長期記憶とは基本的に論旨が違うと思います。
視点は確かに同じみたいですが。おそらく私の方が芸が細かいはずです。
(言い過ぎですね、すいません猛省します)
で意識経路を流れるのは、なにか? おそらく認識物記憶です。
感情はおそらく思考を強化するに違いないですが、どういった原理が働くかというと
流れを開放に向かわせるのだと思われます。開放とはただ単純に経路の幅を広くしたり狭くしたりするんでしょう。
経路の内的作用により川幅が広くなるとは考えず、むしろ外的なものでしょうね。
チャクラを開くとは一般にこのことを言うと私は思いますんで。まあそういった
イメージを感情と思考の関係に対して持っています。
うーん複雑と言うより妄想チックになってきました。辛いものがあります。
あと知覚について、ですか。
例えば世界に対する外的知覚、もうこれこそ知覚と言っていいような気がします。
しかしこれは認識できぬものなのでしょう。知覚そのものは不可知です。
それと反対の可知化させるためには認識が必要なのです。
つまり認識化の作業によって知覚物を知覚(認識)することができるのです。
もはや私は認識を世界(私の全世界)の限界とさせましょう。
と宣言します。私の立場において私はこれ以外の答えを得ることは出来ません。
つまり「知覚する」=「認識」です
「認識」=「知覚⇔思考⇔感情」です。
また「認識」≒「記憶化」でもあります。
また「認識」≒「観念の概念化」でもあります。
なんだか自分でもわけがわからなくなってきます。すいません。
しかし認識するためには、何らかの対照を必要します。
つまり認識するためには二つの認識物が必要だと思われます。
そしてその二つの認識物は、基本的に「類似事項」の多い認識物を、
生命原理的な立場で求める特性を持つようです。
そしてその「類似事項」を元の認識物との差異(のみ)を認識することによって、
その認識の存在意義を定立させるのだと思われます。
認識物の存在を立像化する。そしてそれがまた新たな認識物となるのです。
「認識物」とはいわゆる“観念”そのものでにあたると思います。
(認識物=観念ですね)
いや語弊をなくせばおそらく観念の位置に認識物は配置されます
(もちろんこれは観念的なイメージによるものですがにですが)
私が言及できることはおそらくここまでです。科学的視点?による生命レベルへの言及(言語配置)
のみです。とても英知界までは配置できません。
いや出来なくはないですが、その場合、英知界をあらたに設定をしなくてはいけないのです。
英知界の因果律さえを規定しなくてはいけないんです。その作業はまた面白いかと思いますが
ちょっと今私の求めるところとは違っているのです。今の私にとってはSFチックなものとしてで終わってしまうのです。
いやそれを否定しているわけではなくて、やはり私は何かかけがいのないものを持ち込みたいですね。
不順ですいません。愛とか、善とか、真とか、美とか普通にいとおしいのです。
これを失うとおそらく私は私でありえません。私がいないのと一緒です。
言い方がやばいですが、それが本音です。
そんなところです。
まあ、ところどころ矛盾はあるでしょうから、みなさんご指摘もよろしくお願いします。
けっこう今回はヘビーな作業だったので何を書いたのか忘れている節もありますが
(思いつくまま言っただけですので)そのときはご容赦ください。
あとやはりハルカ論(前スレ>350-351)を大いに参考にさせて頂きました。
ハルカさんには改めてお礼申し上げます。
あと最後に言っておきますが体験は懐疑は可能だと私は思います。
知覚そのものは不可知だからです。知覚は絶対ではないからです。
そしていわゆる絶対であり、知覚可能な記憶については懐疑できるからです。
つまり認識自体しか懐疑できいからです。
なぜなら認識そのものしか我々は扱えず、知覚、思考、感情そのものについては不可知ということです。
しかしまあ、認識を懐疑出来るのは本人だけです。
そして懐疑したからと言って、正解(本当の認識)は決して現れないでしょう。
無意味です。無駄です。
ただ新たな認識が生まれるだけなのだから。
以上、私見を大いに述べさせていただきました。
ちょっと胸がつっかえが取れた気分です。虚言朗々と述べさせて頂き、まことにありがとうございます。
では、、、、カオルさん じゃ、またねん
(あとイナゴさんも、どもでした)
いや最後にもう一度だけ言います。本当にすいません。
言葉をまとめたかったのですが、まとまりきらない。おそらく今の段階での自己の批判点は
論点を理解していないからだと思われます。
それについては私は基本的に下手くそなのです。実際、何について語っているのか分からなくなるときがあります。
今回はかなりそうでした。思考の基準点が不明瞭な感覚に陥りました。
おそらく私自身どこかに問題があるのでしょうね。まあ構いませんが。だははw
ということなのでどうぞよろしくお願いします。
>>43 いなごさんへ
なんだかいい情報をお持ちのようで大変うらやましい。
まあなんて言うんですかね、大丈夫だと思いますよ。色眼鏡掛けたままで
基本的に私たちはけっこう馬鹿だと思いますよ。基本的にその人の性格なんて
変わりませんから。もう直すとかと言うよりも、もう何でもありだと思った方がいいです。
例えば25さんの言っていることなんてずっと一緒だって思ったとしても、私もどうやらかなりずっと
一緒な事を言っています。これはもうみんなそうですね。ハルカさんやカオルさんやSさんや
みんな同じこと(について)ばかり言っている気がします。
失礼を承知で言うと、あるところまで行くと個性だなって思うしかないです。
私もどこか変でした。最近気づきました。
なんで25さん(めんどいので私にとっては25さんはずっと25さんのままです)は変わりません。
それでいいんだと思います。私は私です。いなごさんはいなごさんです。みんなそうです。
その人が別人になったら逆に恐いです。
私自身はときどき別人(別人格になったり名無し)になりますが。
ある意味、25さんもかなり面白いです。ジョークとしてではなく、可能性として。
当たり前すぎて、それもなかなかなのです。これってかなり失礼なんですかね。よく分かりません。
でもたぶん25さんはあまり気にしないような気がします。
あの人はけっこう悟っているんじゃないかなと私は思います。
まあ好きにやったらいいんじゃないでしょうか。よく分かりませんが。
いや本当によく分からないです。全然、先のことが読めない。
まあROM(読む)するより書き込み(語る)する方が、はるかに営為だなというのは感じますけど。
まあ迷いを抱えながら
>>43のレスをいなごさんはおそらくしたのでしょう、複雑な心情は察します。
つーかもう壊れたのかな。それだったらそれでもいいですが。
まあどうとでもなるんですから、いちおう念のため言っておきます。
反省なんてなかなかできない。改善なんてなおさらです。全てにおいてそうです。
つーかどうでも良くなってきました。ずばり不可知です。あはは。
(いやそういう意味じゃないのですが)
で
>>42もレスします。
>まだここにいるのは初手から間違えたことに、こだわっている(取り繕っている)のかもしれない。
おそらくこれが本当のあなたです。いやその悪意解釈ではなく、そこにいるあなたがあなたなのです。
こだわるあなたが、おそらく本当のあなたなのです。
このときの「本当」とはなにか?
そこに強くあなたが存在自身するからです。
そこに強くあなたの動機が存在するからです。
その理由とは、あなたの存在意義に懐疑が掛けられているからです。
おそらくそこであなたのエゴが刺激されているのでしょうね。反発、同調を繰り返すのは分かります。
そういった感情面の動向は刻々と移り変わります。しかしそれが快方に向かうようなものでもないでしょうね。
もしこのスレにいるもので、何らかの結果を、その手応えを得ようとしているのなら、
まあ考えを改めた方が無難です。おそらくそう思います。
>で、その距離を測るには、相手の主張を理解する必要がある、というか。
非同意。
おそらくこれは無意味です。そうじゃなくて逆に自分の主張を語るべきだと思います。
その方がよいです。
相手の主張を理解する必要があるというか、理解なんかできません。
なぜならエゴなんて所詮、他者のエゴなんてお構いなしなんです。私は私の主張したいことだけ主張します。
であと距離の図る方法ですが、やはり主張してみるしかないですね。で反発を食らったら
近いんだなと、恐いから逃げようと、そういう風になるわけです。
私の場合、まずその「恐怖」をその距離の基準におきますね。まあ適当ですが。
>ブラフマンとアートマン
私はインド哲学が実はよく分かりません。手にとって読み眺めるんですが
もう何が書いているのか自体が分からないんです。
>脳の研究なんかを調べることになりそうで。
神経生理学は私はちょっと好きになりました。
「脳は美をいかに感じるか」セミール・ゼキ(神経生理学的な認識論について書かれています)を読み終えたのですが
けっこうイメージが良かったです。
ずばり認識とは?について書かれていましたので。
>それでは多くのものが抜け落ちてしまいそうですね。
ええやってみると、たくさん抜け落ちましたです。なんだかうなぎみたいです。
つかまえるコツがあったら教えてほしい。
>あとネットカフェ利用者なのでレスが遅くなってごめんなさい。
またーりと行きましょう。
>>43 >ところで17さんのホームページを見た人って、どのくらいいるのかなと思った。
一人もいるはずないよ。
>私がそう思ったのは、なにか17さんは2chへの関わり方が他の人とは違うなと感じたからです。
その理由はおれが誰かに「認めて欲しい」という気持ちが極めて希薄だからかもしれないよ。
おれはとても楽しんでやっている。みんなに気づいて欲しいが、押し付ける気持ちは全くない。
>どうも17さんのレスを見ると、色眼鏡が七色に光ってしまいましてね。
あまりにも当たり前のことを否定しづらい表現で書いているからかな。すまないがこれも作戦の内なんだよ。
>本当はずっと黙っておこうと思っていたのですが、私と同じように17さんに違和感を持ってしまう人もいるのかな、と思って。
さまざまなレスが君と同じように違和感を訴えていると思うよ。
つまりおれはそれを承知でやっている。
でも、違和感なく読む人もいるのは事実だよ。極めて少ないけど。
>あとホームページは、最低でも月に一度は更新したほうがいいと思います。
そうなんだろうが、根拠は何かな。また、それはおれにではなくHP開いている人へ助言したらどう?
おれは方法を知らないし開く気もないよ。本も出さない。
君が決め付ける根拠はなんだろうか。同じようなこと書いている人がいるのかな。
自分の成長を感じ取ろうともしないのなら書き込みは辞めた方がいいよ。
全員に言ってみるテスト
>>63 うるさいだまれ
と言えるのは成長だと思うのですが
>>64 この言葉は撤回させてください。
本当にどうもすいませんでした。
>じゆんさん他
レス待ってもらえますか。ちょっと時間がありません。
週に一回くらいのペースで待っていただけると気が楽です。
>>66 カオルさんへ
>週に一回くらいのペースで待っていただけると気が楽です。
そうしましょう。
今、ようやく自分のレスを見直しました。自分で読んでもけっこうひどいものでした。
言いたいことは分かるけど、もっと整理しろよなと思いました。
そして誰に対して言っているのかも分からないような文章でした。
申し訳ないです。(それと所々暴言に近い箇所も見つかりました。うつです)
で、私も整理したいので、ゆっくりやれたらと思います。
それに今は師走ですしね。
これからは、気が焦らないように、気をつけたいと思います。
>いなごさんへ
いなごさんも私のレスでがっかりされたのなら申し訳ありません。
自分自身、どうとでもとれるような、適当な事を言っていたかなと思いました。
(この台詞自体も失礼ではあるのですが)
またあなたのレスに対して、もう一度考え直したいと思います。
でもこういう(認識論の)問題って本当にどこから手をつけていいかわからないことは
確かなのです。
これからは気をつけたいと思います。
>>45 Merry Christmas じゆんさん
>たぶん私とハルカ論の大きな違いは、【芯】を設定しているかどうかだと思います。
>しかし【我】と【私】の設定はおそらくですが、かなり近いところまで言っているかと思うんです。
>私は見てのとおり個体化原理も、放置状態なんです。
わたしはときどき勝手にハルカ論を解説したりするので不思議に思うかもしれないけれど
わたしの哲学的スタンスからいうならハルカ論についての態度は恐らくあなたに近いです。
また【我】と【私】についていうなら言語にかかわる部分は【我】でなく【私】だと思います。
>>45 じゆんさん
>そして今後の私の課題は、おそらくいわゆる【芯】に対するの接近なのかと思います。
>この接近が、まだまだかなと自分では思うんです。ですからまだまだ懐疑です。
>しかし完全な否定も出来ないのも事実です。
>なぜなら虚存の存在が私には認識できないと、ハルカさんもそのように言ってますし。
>>【芯】⇔『決して認識され得ぬ認識主体』
>とね。
『決して認識され得ぬ認識主体』は【芯】にのみ妥当なのであって
【虚存】は存在無ですから語ることは可能だと思います。妄想の自覚をもって。(笑)
世間一般?にいわれるところの至高体験は【虚存】への回帰であり【私】の縮小です。
世間一般?にいわれるところの悟り体験も同様です。
えっ!【虚存】って【存在】なの? そうです。(笑)
【存在】は体験談から明らかに生命の本拠地としての性質を有していると思います。
ユングなら集合的無意識として、ボームなら内蔵秩序(暗在系)として、
仏教なら色即是空の空として説明されるのでしょうね。それが【存在】です。
わたしは今までずっとこれらをすべて妄想だときびしく批判してきた経緯があります。
わたしはハルカの体験をハルカの背負った苦の大きさから信じることにしました。
だから"苦"をともなわない(根拠にしない)『悟り』話には嫌悪さえ感じます。(ホンネ)
似非覚者はかならず現実でのエゴイズムとしての愛の苦悩を否定する物言いをします。
でもわたしは"わたし"を放棄するような人ならぬヒトにあれこれいわれたくない。
>まあここら辺はおそらく瞑想なりの実践が体験が大きく関わってくるんでしょう。
>でないと『思考・感情等『意識活動』の原点』=【我】と【芯】の区別はおおよそ見分けがつかないんです。
それは思考や感情が生成されていく流れの延長に意識を配置するからでしょうね。
本題には関係ないつなぎ(独り言)でした。次回は46につなぎします。レス不要です。
今日は JOHN LENNON の Happy Christmas (War is Over) を聞きながら寝ます。(^.^)
>今日は JOHN LENNON の Happy Christmas (War is Over) を聞きながら寝ます。(^.^)
横レススマソ。
いいね。
まさしくのこの時間、俺は部屋でこの歌の弾き語りをしていたのだ、一人でな(ハハハ)。
あの…、それと傍若無人な見解かもしれないけれど、
ハルカの存在論や苦の追究は声聞的で、
一般にいわれる悟りは、菩薩信仰的に見えるのだが。
声聞(上座部仏教)と大乗仏教…、
この半年の一連の話し合いは二千年前の別離を見るようで、何だか戦慄を覚える。
hahaha
おおげさだな アホだねまったくww
>>46 じゆんさん
>おそらくハルカさんの論のバックボーンは体験による認識なのだと思われます。
>その結果、輪廻、虚存、芯などの見識をハルカさんは得られたのだと思われます。
ハルカの体験を論として記述することは不可能です。
なぜなら言語の限界という大きな壁があるからです。
この壁の事実性にたいしてどのように対応するかは自由意志にまかされています。
たいていは言語以外の媒体をもちいてその限界を突破しようとするでしょう。
それが芸術的志向であったり科学的志向あったりするのではないかと思います。
けれどどちらも壁の存在を認めているということでは同じです。
壁の向こう側へのアプローチの方法論のちがいでしかありません。
しかし哲学はちがいます。
大きな壁が思考の限界であり世界の終わりであることを知っています。
大きな壁が自分自身であることを熟知しているのです。
それでもなお哲学はあきらめません。
哲学は自分自身を自分自身で乗り越えようとするもっとも勇敢な志なのです。
なぜならこれほどまでに絶望と真っ正面から向き合う行為はないからです。
ちなみに宗教は自分自身を放棄することで
あたかも「大きな壁ははじめから存在していなかった」
としてしまう自己欺瞞のススメ(極致)です。
このように苦悩する自分自身を遺棄してしまうというやり方は、
自己の自由意志とそれにともなう責任の放棄なのですから、
"人間やめました"ということと同じことになるのではないでしょうか。
ですから人間をやめたヒトに価値の世界を批判する権利はないと思うのです。
わたしの"哲学する"は、自分自身でいること、人であることを
けっしてあきらめない、という態度表明でもあるんです。
>>43 彼のひどい絵には幻滅です。
私は一度、注意を喚起しましたが再び他スレで暴れているようです。
荒らしが止められないのなら仕方がありません。
ハルカ粘着キモオタをここに貼り付けておきます。
ボクのHPです。顔写真ものってますYO!
http://www.mars.dti.ne.jp/~fish/index.htm キューブリックの2001年宇宙の旅が大好きです。
アニヲタとかエロゲヲタには永遠に理解できない芸術作品です。
好きな言葉は「ポストモダン」です。
趣味は自作自演です。HPも沢山もってます。
よろしくお願いします。
アストラル界とキューブリックの世界が大好きです。ボクが一番詳しいです。
大学院も出てますYO!!すごいでしょ!
>>46 じゆんさん
>輪廻も叡智界も上位生命も理解不能です。
>ですから最初から芯を設定することはできないんです。
個体の死を知っている人間が輪廻を発想するのは自然です。
でもかならずしも人間は永遠の生を願っているわけではありません。
わたしは15のときにはもう十分生きたと思っていたし
わたしの祖母なんか早くお迎えが来てほしいっていつもいっていました。
人それぞれだと思うけど永遠の命を望む人はそんなにいないと思います。
というか、命をつなげるという目的が達せられると
個体としての生存意欲は薄れていくみたいに感じられます。
わたしは祖母に可愛がられましたけど今思うと祖母は最後の生命力を
わたしに注いでくれていたように感じます。
わたしなんか可愛がらなければもっと長生きできたのにって思うのです。
でも祖母はそれで満足だったはずです。そう信じられるのです。
それは【存在】とつながった人の一生、わたしに出来ないふつうのこと。
あと叡智界や上位生命については、少し違うかもしれないけど
人間は道具(手段)を手にしたと同時に超越者(目的)を誕生させたのかも
しれないっていう文脈でとらえています。
>>46 じゆんさん
>私の主張の根拠はおそらく意識構造の自己認識体験、
>または見聞、私なりの神秘体験、自己の心身理解、などによるものです。
>そしてこれらは同時進行中で、瞑想による我への接近なども試んでいます。
わたしは、わたしの身体と心の根拠である他者の存在を信じることでしか
発言さえできない。自分自身を主張の根拠にできるあなたが羨ましいです。
ところで、わたし小さい頃よく神社で宙に浮いてました。(笑)
あんまり高くに(電信柱くらい?)浮いちゃうので怖くて怖くて
いつも泣かされていました。じつはそこって稲荷神社なのです。
悪い子はキツネさんに懲らしめられるってお母さんから聞かされてたから
誰にも相談できなかったの。っていっても家は真言宗なんだよね。(笑)
宙に浮くのって子供の体験としては珍しくない?と思うのだけれど
なんで宙に浮かぶ必要があるのでしょうね。(笑)
>>46 じゆんさん
>そして瞑想によって、決して認識されぬ認識主体の存在のようなものはなんとなく感じられます。
>しかし意識なるものは結構無防備なので気がつくとかなり近いところまで接近できます。
>そのときは扉を開く感覚で後戻りできない感覚があって恐いくらいです。
>しかし私は臆病なのですぐに我に返ります。
わたしには"接近"するっていう感覚がよくわからないですけど、
もし"わたし"という意識を保ったまま"扉"(存在?)に近づいているのだとしたら
それってスゴイことだと思います。
>まあこれを認識してしまったらおそらく悟りなんだろうなとは思われます。いやそうなのかな?
>これってなんか違うもののような気がする。まだ底はありそうだと思われます。
>なんだか、よく分からないのです。実感がわかない。一瞬なのでまだ全体把握ができないんです。
好奇心から至高体験を求めてもそれを得られると思いますが、
わたしは至高体験を生命讃歌として謳いあげることに疑問を感じます。
存在という命のうねりにわたしという個が呑み込まれていくことのどこが
すばらしいことなのかわからないのです。
>>70さん
>いいね。
>まさしくのこの時間、俺は部屋でこの歌の弾き語りをしていたのだ、一人でな(ハハハ)。
きっと世界中であなたととともに歌われていたと思います。(^.^)
わたしは音楽オンチなのでよくわからないのだけど
JOHN LENNON の音楽はどのように評価されてるのかしら?
彼の音楽は聴いているというより自分に似た人の心と
シンクロしている感覚なのです。
JOHN LENNON のことは、この哲板で知りました。
彼の詩が哲学的っていう・・・どうなんでしょう?
ちなみに BEATLES の彼も聞いてみたけれど別人みたいでした。
>ハルカの存在論や苦の追究は声聞的で、
>一般にいわれる悟りは、菩薩信仰的に見えるのだが。
ハルカは存在していたくないのです。
わたしもそれは同じだけれど、生きているうちに
ちゃんとした人になってみたいと思っているのです。
ハルカの悟りと一般の悟りはやっぱりちがうのでしょう?
カオルさんへ
レスをどうもありがとう
ひとまずあなたのレスを読ませていただきました。
今日は私は北陸にある実家に帰るので、まとまったレスができるか
不安でしたから、まずは返信だけと思いまして。
でもちょっとだけ
>>68 >わたしの哲学的スタンスからいうならハルカ論についての態度は恐らくあなたに近いです。
私もそう思ってました。というより、私はあなたからたくさんのことを学んでいるんですよね。
あと宙に浮く話は面白かったです。でもカオルさん、かなり恐い体験だったんでしょうね。
そういう不思議な体験は私はなかったけど、いつも恐い思いばかりしていました。
お化けや宇宙人や妖怪とか恐くて恐くて仕方がなくて一人で寝られませんでした。
あと今、ちょっと仏教についての見識を理解している途中なんです。
参考書とかからの知識ばっかりなんですけど、体系的に理解してなかったから
やらねばと思いまして。まあ最近レスをしていないですけど、関心は失われていないです。
ただ哲学はこれが初学ですから、追いつくのも、理解するのも大変でして
自分の考えをまとめるには時間が掛かるんです。
>>78 >哲学は自分自身を自分自身で乗り越えようとするもっとも勇敢な志なのです。
そうだと思います。哲学は知を通じて正義と愛を養うのだと思います。
そういった志はいつまでも大事にしたいと思います。
とりあえず今はここまで。時間がなくなってきました。早く準備しないとwww
けっこう書いたんですが整理していないのであとでまた考えて提出するつもりです。
つづき
>>77 >もし"わたし"という意識を保ったまま"扉"(存在?)に近づいているのだとしたら
>それってスゴイことだと思います。
いや、たぶんそこまで行ってないと思います。私は幻覚、幻聴の作用や
夢の作用については、これまでの自己観察によって分かっている気はしてるんですが、
今回のはその系統なんだと思います。
おそらくそれは私という意識を保ちながらただ肉体との接点を失う瞬間だと思われるのです。
“存在”まではとても理解に至らないです。ただ無限の恐怖感の存在を認識だけですので。
そうだ、私は子供の頃一度だけ、身体から精神が離れる? ような状態になった
事がありますよ。
うたた寝してて、とつぜんまだ起きているのに魂が離れるような体験です。(体外離脱?)
まだ眠りに入る途中の、眠りに入ってないのに、意識が勘違いしちゃって勝手に魂だけが、
起き(浮き?)出してしまうんです。
いや、身体はちゃんと起きてるんです。目を開けようとするとひゅいっと肉体に戻るんです。
でも自分が本当に浮いてたのかと言うと懐疑的なんです。なぜなら目を開けたり閉じたりできて
目を閉じた瞬間に身体から意識が離れるからです。おそらくなにかが勘違いしててまだ起きて
いるのに夢の中に入っていくようなものだと思います。
けどなにしろ訳がわからないから、とても変な感じでしたね。
自分が身体から離れていくっていう感覚があって恐くて焦ったのと、
ちょっと面白そうだって気持ちもありました。そのころ私は7歳くらいだったと思うんですが、
けっこう自我は発達していて生意気だったんですね。
いまでも生意気なところは変わっていないんですがね。
そういう後戻りができない感覚です。
ただ今回のは瞑想中にいきなり実体化した夢の世界に入るような感じです。
夢の世界に切り替わる瞬間みたいなものです。
そして今度の怖さはおそらく自分が別人になってしまう怖さだと思うんです。
他の人はどうかわかりませんが、私は現実の私と夢の中の私とではかなり別人なんです。
現実の私は分別があるけど、夢の私はあまり分別がないんです。すぐに行動に出てしまう。
意識は一致しているんです。けど夢の私は行動的で、短絡的で、破滅的です。
すぐに人を殴ったりします。逆に死んでみたり。殺してみたりします。
しかし逆に正義感に厚い印象も受けます。一種のヒーロー的役割を背負っていたりします。
けど現実の評価からすると見るに堪えない。ご都合的です。そして直情的です。
普段の私はそうじゃないのです。けどまあ夢だからしょうがないかな。
それに今はそういうことにもうあんまり気にもしなくなってきました。
けど夢自体はなかなか忘れられないんですよね。
だから夢の中でも私は分別は持ちたいなと、つねづね思っているんです。
でもそうなると夢が夢でなくなるんでしょうか。それはそれでつまらないかもしれないけど。
まあとにかく、そういう別人になる怖さなんだと思います。
だからとても“存在”と言ったレベルじゃないような気がします。
いやそれが同じものであっても、瞑想によって、自分の強烈なエゴ(本性)を
認識してしまうことは無理です。
おそらく私はそのエゴに滅ぼされてしまうでしょう。
>>76 >わたしは、わたしの身体と心の根拠である他者の存在を信じることでしか
>発言さえできない。自分自身を主張の根拠にできるあなたが羨ましいです。
私も似たようなものです。自分自身を根拠にできるほどほんとうは強くはありません。
しかし自分自身の言葉は強固にできるはずだと思います。
そういったことなら私はわりあい信じられるのです。
>好奇心から至高体験を求めてもそれを得られると思いますが、
>わたしは至高体験を生命讃歌として謳いあげることに疑問を感じます。
>存在という命のうねりにわたしという個が呑み込まれていくことのどこが
>すばらしいことなのかわからないのです。
よくわかります。そしてそういった立場から見て私の発言は危ういことも
自覚しているつもりです。「好奇心」これを自ら標榜していますからね。
しかし至高体験を生命賛歌することはしていないつもりです。
至高体験について言えば、むしろどうでもいいものです。
あれはかえって人を貶める気が私はします。
ろくなものじゃない。
というより至高体験(超越感)をする人の状態には必ず何か不健康なものが潜んでいます。
じじつ私はそうでした。至高体験はむしろ精神の防御本能と捉えるべきだと私は思います。
こういった自己観察、解釈はよくします。しょせん解釈なので恣意的であります。
客観的な判断ができなくて、いまのところ相対判断でしか述べられません。。
今日はここまで。
いちおう自分の体験などを少し書いてみました。
まだ、あなたのレスとは充分に向き合ってないですね。もうちょっと待ってください。
明日にまわします。
ではどうもでした。
そうだ言い忘れてた。
メリークリスマス まだいいよね
>>78 「Across The Universe」に見られる言葉への意識の深さは、
哲学徒の喝采を受けてしかるべきものじゃないかな。
詳しくは洋楽板その他へレッツゴーだな。
>ハルカは存在していたくないのです。
>わたしもそれは同じだけれど、生きているうちに
>ちゃんとした人になってみたいと思っているのです。
>ハルカの悟りと一般の悟りはやっぱりちがうのでしょう?
この問題は俺も全然説明しきれていないので、お互い返事しづらいことと思う。
ちょっと長くなるだろうけど、近々まとめてみる。
話しは、半年前、この板に悟りを扱うスレでめぼしいものがひとつしか
なかった頃のことにさかのぼる。
>>83 70さん
Across The Universe は美しい作品だと思います。
洋楽板はチョット無理っぽいです。
芸術全般に興味がないのです。
わたし哲学書か実用書しか読まないのです。(^_^;)
>ちょっと長くなるだろうけど、近々まとめてみる。
タノシミタノシミ (^.^)
>>82 じゆんさん
>まだ、あなたのレスとは充分に向き合ってないですね。もうちょっと待ってください。
>明日にまわします。
まだ本題にも入っていないし、じゆんさんのレス理解できていないし、
どうせわたしついていけないから・・・その辺ヨロシクです。ゆっくりゆっくり。
>>72 >わたしの"哲学する"は、自分自身でいること、人であることを
>けっしてあきらめない、という態度表明でもあるんです。
私について述べてみます。私にとって哲学とは?
“人であること”そうありたいと思います。
“決してあきらめないこと”そう思います。
>>75 もしあなたが15さいで十分生きたのだと実感したのなら
きっと私はまだ生きたりないと言わざるを得ませんね。
わからないことが多すぎます。
私が15の時にはまだまだ私にはやるべきことがある。そう思ってました。気負いすぎてたように思います。
今でも自分は気負いすぎているかなと思います。
いますこし悲しいです。たぶんそれではいけない気がする。
でも、いま色々考えてみたけど、どうすることもできない。
そこ(死)には悲しさのようなものがあるのだ。
これくらいのことだけを述べておきます。
>>76 浮いちゃったんですか。おそらくキツネさんのしわざですね。
でもそのキツネは悪いキツネだったんでしょうか?
おそらくあなたを懲らしめたいんじゃなく、あなたにいたずらしたかった
んじゃないかな。きつねさんはきっと寂しかったんだよ。
あなたのことがもしかして好きだったのかも。
>なんで宙に浮かぶ必要があるのでしょうね。(笑)
なんでかなあ。正直、そんなのわからない。
>>77 >好奇心から至高体験を求めてもそれを得られると思いますが、
>わたしは至高体験を生命讃歌として謳いあげることに疑問を感じます。
>存在という命のうねりにわたしという個が呑み込まれていくことのどこが
>すばらしいことなのかわからないのです。
私もそう思います。でもちょっと考えてみて、どうしてこの問題を意識することが
できるのかについて考えてみます。
考えました。でも書かない。それは無意味だから。
私はいつも長文をたくさん書いてますが、その10倍の以上の量は少なくとも
考えています。そして、それでも得るものは少ない。
それはたった一つの言葉(真理)しか理解できないときもある。
そしてそれは書くべきことなのか? また書くだけの能力があるのかのか?
という問題が常に付きまといます。
私は、他の人とは思うこと(問題意識)についてはそれほど他者と変わらない
と思います。
しかし語るための条件は千差万別です。
たぶん人によってその役割が違うんでしょう。
その中で至高体験を生命讃歌として謳いあげる人もきっと現れるのだと思います。
しかし待ってくれと私(俺)はその人に言いたい。
いやなぜだか、言わなくてはいけない自分の存在を感じる。
何のためにそれを言うのか? それが俺にとって何になるのか?
(……のためだよ)と誰かが言う声が聞こえる。
いやそうじゃない、俺が聞きたいのはなぜそれを説明するための言葉があるのか?
なぜ俺は存在しているのか? という問いだ。
別にその答えが知りたいわけでもないんだ。なぜならそれは“ある”ものだから。
そうするとけっきょく俺は沈黙するしかなくなる。
しかし沈黙はいやだよ。
ハルカ(さん)へ
あなたも同じ問題意識を持って、私と議論してくれると、実はうれしい。
いやこのスレでなくても、他のスレでもいい。
どこのスレだろうと構わない。もうしばらく俺は哲学版にいるつもりだし。
いや、読んでくれているだけでもいいんだ。
それほど俺の話はつまらんかな。
俺はあなたにとって実用的とさえ思っているんだけどね。
なにかしらあなたのヒントになればと思っている。
確かにあなたの悟りは一人でもできることだが、行為が一度きりなら、
一人でやる必要もないのではないかな。
なんとなく、 とりあえず、 そう思ったりするわけだ。
>>87 じゆんさん
浮いちゃったこと(事実)を今は信じていないのです。
サンタクロースがお父さんになってしまったように。
事実なんて信念の選択のように思うこともあります。
わたしの信念によって今日の年末ジャンボ宝くじが
当たったらそれが心の真実なのでしょうね。ワクワク
宝くじ買ったのはじめてなの。
なぜかものすごい敗北感があるの。
なんでかしら?
>>88 じゆんさん
>私はいつも長文をたくさん書いてますが、その10倍の以上の量は少なくとも
>考えています。
わたしなんか喋れたら10倍以上の言葉になってしまいます。(^_^;)
わたしは、おしゃべり→長文→ポエム→アフォリズム→沈黙→行為
なのかな?
>その中で至高体験を生命讃歌として謳いあげる人もきっと現れるのだと思います。
うん。生命讃歌でもいいのだけど、それが「生の肯定」派のおしつけになるとイヤなのです。
>>90 じゆんさん
>それほど俺の話はつまらんかな。
>俺はあなたにとって実用的とさえ思っているんだけどね。
存在することに苦を感じない人にはハルカ論は必要ないのです。
じゆんさんはサルトルのように存在にたいして「嘔吐」したことがありますか?
ハルカの基準はそこなんです。
ハルカ論を議論するのはモチロン自由です。
>じゆんさんはサルトルのように存在にたいして「嘔吐」したことがありますか?
嘔吐はないです。
でもたまにすごい嫌悪感があるときがあります。
しかしそれは今は次第に薄れつつあるものです。
またその嘔吐の存在には気づきました。
あえてそこに近づいてみてわかったことです。
おそらくそこはかなりきつい場所です。身動きがとれないほど、
私にとっては息すら出来ない場所のように思います。
以上の結果から、私は嘔吐する前に嘔吐の存在に気づきました。
だから嘔吐することはこれからもないと思います。そう解釈しています。
だから本当は私が、ちっともハルカさんの助けにならないことは知っています。
でも、私はそれをしなくてはいけないような、そう思うように、動かされているのです。
そして、それが無意味であることは知っているのです。
だから、私は“悟りとは…”と言っているんです。
最初から我々にとって無意味なものとして明示されているから
(それを知っているから)。
そして、“無意味”であるということは、そこから“意味”が、“価値”が
生まれることを 私は望んでいるから。
私に意義があるとするとそれが考えられます。
よって、おそらく“基準”には、あてはまりません。
ごめん。 と、そう言うしかありません。
>うん。生命讃歌でもいいのだけど、
ごめんなさい。いろいろなことが混同していました。
>それが「生の肯定」派のおしつけになるとイヤなのです。
僕もいやです。
>わたしの信念によって今日の年末ジャンボ宝くじが
>当たったらそれが心の真実なのでしょうね。ワクワク
「当たれ」僕がそれを代わりに念じ続けましょう。
だから気を楽にさせてくださいな。
>なぜかものすごい敗北感があるの。
>なんでかしら?
その答えを私は知っていますが、教えません。
>>91 >事実なんて信念の選択のように思うこともあります。
私の基準を言うと、“信念”とは大きな生きるための知恵だと思います。
それだけのもののような気がします。
信じるための“情報”より、信じる“そのもの”の方がずっと価値を
持つでしょう。
で私は信じる必要もなくなるほど、それを体得したいのです。
つまり「何も考えたくないなあ」と言うことです。
いつもそう、ぼやいてます
>浮いちゃったこと(事実)を今は信じていないのです。
>サンタクロースがお父さんになってしまったように。
私はカオルさんが浮いちゃったことを信じられるんですよね。
なんでだろう。
明けましておめでとうございます。
>じゆんさん、皆さん
明けましておめでとうございます。
今年もカオルを見捨てないでくださいね。
お願いします。m(__)m
>>94 じゆんさん
>だから本当は私が、ちっともハルカさんの助けにならないことは知っています。
>でも、私はそれをしなくてはいけないような、そう思うように、動かされているのです。
わかります。
存在していたくないというのは存在していたいということですから。
でもね、一度でも存在に嘔吐したり嫌悪したりしてしまうと
存在を肯定し直すことはとってもむずかしいのだと思います。
よき存在の記憶に恵まれているわたしでさえそうなのですから。
>最初から我々にとって無意味なものとして明示されているから
「我々」にわたしは入ってないと思うけど・・・(笑)
ただわたしの場合、輪廻を確信できるような体験がまったくないので、
どうしても無は死と同じ土俵になってしまうのです。
たぶんわたしは退行催眠とかで前世を見てきたとしてもきっと信じないな。
というか、わたしにとってそういう世界はいつでも傍らに寄り添っていて
大きな口を開いてわたしを呑み込もうとしているのです。
わたしは思考し続けていないとあっという間に食べられちゃうのです。
だからわたしはまず普通の人にならなくっちゃいけないの。
わかってくれますか?
お正月からデンパ全開でごめんなさい。m(__)m
>>96 じゆんさん
>「当たれ」僕がそれを代わりに念じ続けましょう。
>だから気を楽にさせてくださいな。
わたしの代わりにありがとう。
でもはずれちゃったよ。(笑)
じゆんさんのせいということでいいのかしら?
>その答えを私は知っていますが、教えません。
なんでイジワルするの?
おしえてください。
>>97 じゆんさん
>で私は信じる必要もなくなるほど、それを体得したいのです。
>つまり「何も考えたくないなあ」と言うことです。
>いつもそう、ぼやいてます
そうそう。それなんですよ。
わたしにそれができたらみんなと同じになれると思うのです。
本当はいちいち考えたくないのです。
自然にサラッとこなしてみたいんです。
>私はカオルさんが浮いちゃったことを信じられるんですよね。
>なんでだろう。
わたしにも信じるか信じないかの違いでしかないのだけど・・・
みんな目標をもって生活してる?
愚痴ばっか言ってても始まらんぞ
>>47 じゆんさん
そろそろちゃんとレスしないといけないのだけど・・・
じゆんさんとは議論の前提に大きな溝があるんです。
どうすればいいのかな?
>意識はおそらく、私見ではアポステリオリ(経験的)にしか私は認識していないのですから。
>ですから>『意識』=『決して認識され得ぬ認識主体』はまずは否定します。
>おそらくこれは何の定義にもなっていないのではと私は思うからです。
>実は何の定義にもなっていないはずなんです。そもそも定義とも言えないのです。
>無論体験知を退けての意見ですが。
じゆんさんのおっしゃる通りなんです。
で、わたしの今のところの結論からいうと
まさに意識とは定義しきれない「無定義概念」である。
ということなんですね。(笑)
だからハルカ論においての意識の取り上げ方には、
"なるほど"っていう感じがあるんです。
>>47 じゆんさん
>言及するうちに立ち現れるものが、意識ということになります。
>あくまでアポステリオリなものだと思います。
>ですからアプリオリ、つまりまあ完全認識は出来ないでしょうね。
意識とは何か?
を知りたいなら「知覚」からはじめるしかないけれど
どこまでいっても「意識」そのものはつかまえられない。
なぜなら、知覚、記憶、思考、感情が意識になるのではなくて
それらを成り立たせている「前提」が意識なのだから。
というのが、ハルカ論におけるアプリオリな無定義概念としての
意識なんだと思うのです。
わたしはハルカ論で思考しているわけじゃないけれど
結論としては同じなんです。
だからわたしの意見はS論への反論と同じで
実りが少ないような感じがします。
つまらなくてもいいなら次回は48にレスしようと思います。
>じゆんさん
>私は基本的に霊の存在を信じます。怨念や生き霊という類を信じます。もっと言えば
>占いや、予知、超能力、宇宙人なども信じます。と言うか信じた方がいいとさえ思います。
>なぜならそれらは決して悪影響を及ぼさないし、むしろ意志を補強するには大切な役割を
>持つと考えるからです。(前スレ925)
「悪影響」及ぼすと思うのだけれど・・・
じゆんさんは事実として確認(検証)したから信じているの?
たとえば、わたしは「占い」の本とかけっこう読んだけれど
性格とかは主観なのでともかく、
恋人ができるとか、金運アップとか・・・当たらない。(笑)
だから信じられないのだけど。
前スレなんかだとこのたぐい(あえて一まとめ)のことって
ハルカをはじめ当り前のことになっちゃってるでしょ?
わたしなんか今宙に浮いてもたぶん信じないと思うの。
わたしは否定がしたくていってるんじゃないのです。
どうして信じられるのか、が不思議なんです。
ところでお正月は夜更かしできてシアワセですね。
今日はこのまま寝ないで初詣に行ってきます。
おせち食べてゴロゴロしてるとマジヤバイ!(^_^;)
カオルさんへ
えーと、私自身、意識について、だいたいの見当がついてきたので
そろそろ申し上げます。
「意識構造」における「知覚」の構造について
@まず意識内は、“意識”と“認識”に分けられるということ
Aさらには認識内は“認識”と“認知”に分けられるということ。
Bまたさらに認知には“認知”と“感覚器”に分けられるということ
順序から言って知覚はB→A→@の経路をたどります。
そして私の命題を申し上げますと意識は“認識主体”なのか?
それとも、“非認識主体”なのかということです。
そして私の見解はまず“非認識主体”ではないか?ということです。
またハルカ論の“意識”が“認識されえぬもの”と言う
のはいまのところ同意します。意見は一致しています
今やっている検証は、ハルカ論をそのまま否定しているわけでは
ないのです。ご理解ください。
また最後にネタばらしします。
この板にあるスレタイ“SEXの対象は実在する必要があるか”
における“174”の人は私なんです。
いずれここにもコピペするつもりですが興味があれば見ておいてください。
“認知”と“認識”について少し考察しています。
さて次に
意識についての私の私見を言います。
意識とは知覚情報(認識情報)を知覚する“場”であること。
また場に何が入るかは今のところ未確定ですので“場”と
だけ記しておきます。
つまり意識が脳で作られるとすると
脳とは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の次に来る
六番目の感覚器官なのだと言うことです。
この見解は仏教における“十二処、十八界”なる“教え”
から参考にしたものです。仏教には第六感など最初からあったのですね。
驚きました。
カオルさんのレスにはあとでレスします。今じゃなんて答えていいか分からない
>>なぜならそれらは決して悪影響を及ぼさないし、むしろ意志を補強する
>>には大切な役割を持つと考えるからです。(前スレ925)
>「悪影響」及ぼすと思うのだけれど・・・
>じゆんさんは事実として確認(検証)したから信じているの?
まあ言い方の問題なんでしょうね。
あのときはこういう言い方しかできなかった。と言うことです。
それは影響を及ぼすが、悪影響とは限らないと今なら言えます。
やはりそれは意志を補強するためです。ですから例えば宗教への信念は偉大
なものというのが私の見解です。私はほぼ完全に無宗教信者の立場でこの議題に
参入したから、わかるのですがこういったオカルト的な視点は知見への大きな力
となります。まあ同じことを言っている気がするのでここまで。
>悪影響について<
私は925の自分の文が悪影響を持ちうることは理解しました。
しかしどうやら二律背反的な側面を実は持っているようです。
私は意志に帰順する信仰においては好影響を持つと考えられますが
妄信する、信じるを超えて“事実”としてしまうと“悪影響”、
平たく言えば“不都合”を持つと考えられます。
どんな“不都合”なのかはまたあとで言及します。
しかし“不都合”は“不都合”なのかという問題はまた別の問題
という意味でですが
>事実として検証したのか、もしくは確認したのか?<
確認はしました。霊のようなものは見たことはあります。
祟りと考えられることも、遭ったことがあります。
また不可解な悪寒を感じたこともあります。
また“霊に遭遇したと夢(幻覚)としか思えない体験”が私にはあります。
おそらくそれは“存在”にとても近いものです。
しかし確証は得ていません。
しかし今は“検証中”です。
霊についてではなく意識構造についてですが。
つまり幻覚の構造について確認中です。
そして最終的な私の“目標”を申しますと、こういった信じる過程を経て
それらのモノを信じたのなら、信じてもいいのではないかと言うことです。
また信じなくてもよいということ。
しかしそれについて語られる質は、その段階に応じて違ってくるということ。
今は私はその質を判断する立場であるということ。
その質を私は言葉よって判断しているということ。
途中までですがまずは、ここまで。
>>104 >で、わたしの今のところの結論からいうと
>まさに意識とは定義しきれない「無定義概念」である。
では“定義”について申し上げます。
事実を人は言葉によって定義するのだと私は思います。
定義できぬの立場のものなら定義はしてはいけないと思います。
そのような定義は定義という名を借りた偽物であると判断します。
例えば意識が定義しきれないのが事実あれば
「意識がは定義することができない」と定義することが
できるかと思います。
でそれが定義することができないのであれば定義が途中で
あるものを定義としてはいけないと思うのです。
そして定義は“定義するための過程”の中では否定されなくては
いけないのです。
そして定義するための過程とは、“命題”を解体してしまうこと
だと思うのです。それを私は“理解”すると言っています。
>>105 >だからハルカ論においての意識の取り上げ方には、
>"なるほど"っていう感じがあるんです。
私も“なるほど”と思いました。しかしそれを誰も(私のために)
論理的に説明していないのです。
ですから私はそれを試みているつもりです。
理解とは解体すること。それは定義されることでもないということ。
幾何学は別ですが、議論においては定義という行為は“必要悪”
なのだと私は思っています。
“必要あっての悪”なのです。
>それらを成り立たせている「前提」が意識なのだから。
>というのが、ハルカ論におけるアプリオリな無定義概念としての
>意識なんだと思うのです。
私は前提を少しでも明らかにするつもりです。
>だからわたしの意見はS論への反論と同じで
>実りが少ないような感じがします。
>つまらなくてもいいなら次回は48にレスしようと思います。
そんなことは全然ないのですね。カオルさんは私の“ごまかし”
をちゃんと見抜いてくれています。本当にそう思います。
ですから、レスをくれるのは本当にうれしいのです。
あまりにもシロウト意見なので、逆にカオルさんの迷惑ではないか
というのが実際の私の思うところです。
あなたの好きなような形でぜんぜん構いません。
私は結論に至るのが非常にゆっくりなのです。
それでもよろしければご付き合いください。
114 :
考える名無しさん:04/01/02 18:34
サドルだよ全員集合!
115 :
考える名無しさん:04/01/02 18:47
AはAでない。ゆえにAである。
私信失礼。じゆんさんへ
メール欄に記しておきました。です。
117 :
考える名無しさん:04/01/02 23:26
悟りで仕切らせていただきやす
118 :
考える名無しさん:04/01/02 23:33
希哲学撲滅!哲学の真髄は悟り!
>>48 じゆんさん
>知覚の限界をハルカ論では世界の限界と言っているような気がします。
えーと、一応いっておきますが、
ハルカは「世界の限界」を「知覚の限界」なんていってません。
また、ウィトゲンシュタインがそういってるのでもありません。
あくまで、わたしの恣意的な解釈なのであしからず。
他の哲学者についても同様に思ってもらった方が都合がいいです。
たいていわたしの解釈はどの本にも載っていなかったりするので。
それでもショーペンハウアースレからの『論考』(5.632〜5.641)
にたいする一連のわたしの意見とそれにたいするハルカの反応を
わたしなりに考慮して発言しているつもりではあります。(^_^;)
>>48 じゆんさん
>私も知覚の限界を世界の限界と言いきることが出来ないのです。
ええ、わたしもショーペンハウアースレ(890)では、
『観念こそが実在である』と"仮に"しておきました。(笑)
ヒュームの『わたしとは観念の束である』あたりにウィトの独我論を放り込むと、
わたしという精神的実体も否定されてしまうので、実在として残るのは観念だけ
になってしまいます。けれど、その観念も感性に還元可能なので、
つまり『知覚』しか残らないわけです。(暴力的にアバウトな議論ですが)
【感性】
〔哲〕〔英 sensibility; (ドイツ) Sinnlichkeit〕
認識の上では、外界の刺激に応じて、知覚・感覚を生ずる感覚器官の感受能力をいう。
ここで得られたものが、悟性の素材となり認識が成立する。(goo国語辞典から抜粋)
えーと、なぜ↑かといいますと
わたしの言葉の定義はほとんどgoo国語辞典なのでwそこんとこヨロシクです。
(My定義で暴走したいときはできるだけ知らせるようにしているつもりです)
で、じゆんさんの発言、
>「認識物」とはいわゆる“観念”そのものでにあたると思います。
>(認識物=観念ですね)
>>56 を借りていうなら『知覚』が認識物、あるいは観念の基盤ということになります。
もちろんじゆんさんのおっしゃる通り『知覚』そのものは捉えられないのだから
知覚 ⇒ 観念 ⇒ (観念の)カテゴリー化 ⇒ 概念=認識にまで至ってはじめて
『知覚する』になるという解釈は理解しています。(観念と概念の関係はOK?)
・・・つづく
ですが、知覚していることを知覚しているのは一体誰なのでしょう?
あるいは「知覚⇔思考⇔感情」という多様な経験の結合に"先立って"
それを可能にしている「統一性」とはどこからやってくるのでしょうか?
ということになると、なぜハルカ論においての意識が
知覚の前提でありながらも別次元に置かれているのか?
が見えてくると思うのです。
ふたたび『論考』から、
世界の中のどこに形而上学的な主体がみいだされうるのか。
君はこれは眼と視野の関係と同じ事情であるというだろう。
しかし君は実際に眼を見ることはできないのである。
そして視野における何物からも、
それが眼によって見られていることは推論されえない。(5.633)
という文脈でとらえてもらうと分かり易いと思います。
ハルカ論における「知覚-記憶-感情-思考」の一連の説明は、
おそらく生物学への知見に基づいているのだと思いますけど
それだからこそ「知覚→記憶→感情→思考」の流れの先にも
集積の上にも「形而上学的な主体」(ハルカのいう意識)は、
出現しようがないのです。
以前、わたしは(前スレPart3の179-181で)「個体化の原理」を『論考』を前提に、
つまり、ショーペのモノ自体としての「意志」を排除(ホントはその属性を明確に)する
目的で『充足理由律の四つの根』から要約してみたのですが、なにしろ思いつき
のカキコだったから「動機の法則」における「意志の認識」をうまく説明できず、
いつもの困ったときのカント様でw、結局「モノ自体としての意志」を『統覚』に
すげかえただけで終わってしまったことがありましたが、今回はこの『統覚』が
使えそうです。(^_^;)
この『統覚』というのは、
【統覚】〔(ドイツ) Apperzeption〕(名)スル
カントの哲学で、多様な経験を総合して可能にする意識の統一性。(goo国語辞典から)
なのですが、
これは、「わたしは、〜を感じる、〜と考える」という主観性の構造と深くかかわっていて
この「わたしは、〜を感じる、〜と考える」という能力は、個体化の原理によってはじめて
顕現(獲得)する能力であり、「知覚」を起源として生成される「記憶-感情-思考」によって
成立しているという意味では、アポステリオリ(経験的)なのですが、けっして「知覚〜思考」
の流れから、あるいはその経験の集積からは、その存在(生成)を導けないという意味では、
アプリオリ(生得的)でないとならないのです。
ハルカ論においての意識は、経験という入力(知覚)がないと出力(意識)されないのです。
しかも出力(意識)されたと同時に、意識(主体)はもう世界の中には存在できないのです。
ただ独我論を徹底することで、世界の限界としての「実在=知覚」まで溯れるだけです。
>客観いわゆる言葉の限界が議論の限界であり、私の限界なのです。
>つまり私の限界は私は知らないのです。
うーん、今一つ理解できないです。
客観、つまり言葉も実在である、という意味ですか?
>物語化とは、存在理由を顕現(言語化)させることです。
>そうやって世界の限界に迫れたらいいなあと私は、思っています。
>基本的に人は物語の中で生きています。
>意味そのものをなぜか、探し求めています。
>おそらくこれは真実です。例外はないと思います。
>おそらく生命もそうかじゃないかなと私には思われます。
逆転させた視点もあると思います。
意味そのものから問われているとか、
物語の方から出演依頼を受けているとか、
存在理由から試されているとか・・・ね。
まぁ、これがハルカ論の視点なわけですけど
「志向性についてのコペルニクス的転回」
とでも名付けましょうか。(笑)
>>107 じゆんさん
>“認知”と“認識”について少し考察しています。
わたしも考えますね。
認知 ・・・(a)・・・> 認識なら、(a)は何か?
なんとなく答えでてるけど。(笑)
>>108 >意識とは知覚情報(認識情報)を知覚する“場”であること。
>〜
>意識が脳で作られるとすると
>〜
>六番目の感覚器官なのだと言うことです。
なるほど。
ハルカ論の【芯】と真っ向勝負ですか?
でも「生得的」ということでは同じかも。
ただ「脳死」で「解脱」できそうですね。(笑)
>>109 じゆんさん
>それは影響を及ぼすが、悪影響とは限らないと今なら言えます。
了解。
>>110 >霊についてではなく意識構造についてですが。
>つまり幻覚の構造について確認中です。
了解。
>そして最終的な私の“目標”を申しますと、こういった信じる過程を経て
>それらのモノを信じたのなら、信じてもいいのではないかと言うことです。
>また信じなくてもよいということ。
同感です。
けれど過程の途中で"言葉"は消えてしまうでしょうね。
だからといって論理空間に閉じ込めようとすると、
単なる事実がイビツな妄想に化けてしまいそうです。(笑)
"取り扱い注意!"ですね。
>>111 じゆんさん
>でそれが定義することができないのであれば定義が途中で
>あるものを定義としてはいけないと思うのです。
>そして定義は“定義するための過程”の中では否定されなくては
>いけないのです。
>そして定義するための過程とは、“命題”を解体してしまうこと
>だと思うのです。それを私は“理解”すると言っています。
ある現象を説明しようとしたらどうしてもある仮説が必要になった、
ということです。
ハルカが【芯】に意識点を持ってきたときはそういう感じでしたよ。
この部分だけでも相当な議論が出来てしまうのだけれど、
かるーく流したいな。どうしても議論が必要ですか?
>>112 じゆんさん
>私も“なるほど”と思いました。しかしそれを誰も(私のために)
>論理的に説明していないのです。
あんまり論理的ではないけれど頑張ってみました。(^_^;)
具体的には論じていませんけどそれはこれからです。
次は49ですね。道のりは長いです。ふぅ〜
>>49 じゆんさん
>記憶についての定義が語法としてかなりあいまいだと私は思います。
>世間一般でもかなりあいまいなんじゃなかと思われるのです。
>たとえば〈記憶〉、〈体験〉、〈経験〉、この三つが同時に浮かんできたら、
>みなさんはすぐにどれが適当な語として該当するかと言う使い分けができますか?
【体験】(名)スル
〔哲〕〔(ドイツ) Erlebnis〕個々人のうちで直接に感得される経験。
知性的な一般化を経ていない点で経験よりも人格的・個性的な意味をもつ。
【記銘】(名)スル
〔心〕 記憶の第一段階で、経験内容を覚えこみ、定着させること。銘記。
【保持】(名)スル
〔心〕 記憶の第二段階で、記銘された経験内容が
量的には減少し質的には変容しながらも残存・維持される過程。把持。
【再生】(名)スル
〔心〕 記憶の第三段階で、記銘され保持された経験内容を再現すること。想起。
以上、goo国語辞典より。
「体験」と「経験」のちがいは「知性的な一般化を経ていない点」だと思います。
また「記憶」は一般には「銘記、把持」という静的な事象として認識されています。
しかしこれに「再生」という機能を加えると動的なシステムとしてとらえられます。
「銘記、把持」と「再生」はどちらか一方が欠けてしまうと意味を成しませんから、
心理学における記憶の説明は適切だと思います。
>>49 じゆんさん
>『記憶』は、物(モノ)としての『記憶』、また事(コト)としての『記憶』があり、
>『対象』と『現象』の違いがまず言語において確認されること。
>そしてどちらがおそらく否定されることになるのかというと
>おそらく事としての『記憶』だと思われるのです。
否定される、と結論してしまうのは性急ではないでしょうか?
じゆんさんのいう「六番目の感覚器官」はどこへやら?(笑)
モノとしての記憶は、コンピューターでいうなら「0,1」に還元可能な
デジタル情報としての"それ"といえばわかりやすいでしょうか。
コトとしての記憶は、入力情報の質感的な部分、リアリティさ
というところでしょうか。
で、わたしが問題にしたいのは、たとえ脳が質感的な部分まで
ふくめて外界からの情報を記憶できたとしても、
それを感じる主体はどこにいるのってことです。
その感じる主体が意識なのではないでしょうか?
>>49 じゆんさん
>我々は考える(思考する)、怒る(感情を表す)、見る(知覚、もしくは認識する)とは言いますが
>覚える(記憶)とはなかなか言わないというか、不自然な気がするのです。
>逆に覚えた(記憶した)なら言いやすいのかな。
>非常に事後承諾的で、現象として認知は不可能だと思います。
不自然に感じられるのは、記憶が感情や思考の前提としてあるからです。
現象を認知するための基本システムなのですから事後承諾的になるのは当然です。
明日から仕事です。
次の50へのレスはいつになることやら・・・です。(^_^;)
カオルさんへ
レスをどうもです。
私もある程度すぐにレスしたいのですが、(今書いて売る途中です)
いかんせん量が膨大になる傾向でして。
で
>次の50へのレスはいつになることやら・・・です。(^_^;)
を見るといささかゾッとしたのです。
実は私もそのことについては不安です。
あなたに無理をさせるのも私の願うところではないのです。
私も実はこれから仕事が再開でして、今後、込み入って議論することは
難しくなると思います。
お互いの興味や志向性の問題もあります。
なのでちょっと現状ではいろいろと困難が予想されますので
というかどういう風にこれからやっていったらと迷っているのです。
またお互いに懸念しているところは、あるかと思います。
すいません、勝手ばかり言って。
仕事中にレスを考えて(内職します)おきますので、今しばらくお待ちください。
明日の朝までにはなんらかの発言(要旨、決意、希望)を記しておきます。
では仕事に行って参ります。
んじゃ、カオルさん♪
>>131 じゆんさん
>お互いの興味や志向性の問題もあります。
そんなことはじめから分かっています。
それをあとから言われたくないから、
わざわざ、
>>105で釘をさしたのに・・・
だってわたしのレスはあなたの論が妄想に
過ぎないことを指摘することになってしまう。
それがわかっていたから・・・
でもあなたが
>そんなことは全然ないのですね。カオルさんは私の“ごまかし”
>をちゃんと見抜いてくれています。本当にそう思います。
>ですから、レスをくれるのは本当にうれしいのです。
といってくれたので嫌な作業だけれど続けようと思ったんです。
これじゃ去年のトラブルと同じになっちゃう。
だからもうレスしません。
カオルさんへ(132を書く前のカオルさんへ)
>>119−127
カオルさんへ
レスをどうもありがとうございます。
>ハルカは「世界の限界」を「知覚の限界」なんていってません。
そのようです。では訂正させていただきます。
そんなことはハルカさんは言っていないし、それは私が持ち込んだ論点です。
誤解を招いてしまったのならすいませんでした。
しかしその論点を採用した基準を申し上げます。
私は認識という作業においては万人に共通するものだと認識しています。
そして認識から体験が得られるというのもおそらく事実だと思います。
少なくとも認識化されていない知覚情報は経験たりえないと思われます。
ですから以上の見解より、私は意識する立場より認識にせまりまずは
他人の体験というものを私はその人の立場に立って考察してみたいのです。
で実は私もだいたいの考察の検討はついています。目標から申し上げますと
それが事実であるか神秘的ななものであるかは、胸先三寸でどうにでも変わる
のでしょう。しかしどうやらその作業によって私自身ですが、分かることと、分から
ないことの区別ははっきりとしてきました。
私のために私は考察しているだけです。事実そう思います。あまりに
開かれた考察ではないのです。何かを貶めているのも事実です。
>この部分だけでも相当な議論が出来てしまうのだけれど、
>かるーく流したいな。どうしても議論が必要ですか?
いや、大丈夫です。強制するつもりはありません。
もしかしたら議論することでもないことなのかもしれませんし。
ちょっと明日から仕事が再開してしまうし、本格的には私もやりずらい
かもしれない。それにこれは非常にしんどい作業だと思うから
>ある現象を説明しようとしたらどうしてもある仮説が必要になった、
>ということです。
それは理解してます。それは叡智界のことでまた物自体を内包する
世界のことになるのでしょうか。
実はこのころの【芯】を設定したころ議論に私は名無しで参加していた
のです。(そのころロムっていないので手元に資料はないのですが)
闇や虚無であなたとも言い争っていたのが私です。
実はそのころからずっといままで【芯】に違和感がありました。【虚存】
にもです。
おそらくそれは私が理解できなかっていなかたからです。どうしてもある
仮説が必要になったそこまでの論点が私には分からなかったから。
でいまはそれを理解しつつあります。しかし納得できない面もあります。
私にとってハルカさんの論の全体像がいかにも統括的、直列的であり
すぎるということです。全てが順序よく体系化されていて後から先まで
一本化されすぎている、と感じたのです。
それは直列形式の理解を想像しました。
というより私がそのような理解をしてしまいました。
しかし実際にはそれほどハルカさん論の整合性は直列的ではないのです。
彼女の見解はあまりに客観的すぎています。その意味で彼女の論は
正当であると思います。
以前の私との議論で感情や思考に上位、下位とかのレベルではないと
私に指摘したのもおそらくその意味レベルの忠告でしょうし。
そしてただその後の流れで、体験を語るハルカさんを見て、ああこの
ために虚存を語る必要があったのかと理解しました。
つまり私は主観的すぎたということです。
そして私がハルカさんやカオルさんよりも欠けているのはその認識
そのものだと思われるのです。
あなたたちが知っていることをただ私は知らないだけです。
ですからとっくに理解されいることを繰り返しているに過ぎません。
私は私のための理解のためにただ言及しているだけです。
そしてそれを提出しているのは、考えるためにどうやら必要だからです。
私目的ですが、思考は私にとってまとまりづらいものを見られることによって
まとまりやすくしたいだけです。そうすれば思考の迷子は少ないのではない
かと思ったのでして。
>単なる事実がイビツな妄想に化けてしまいそうです。(笑)
>"取り扱い注意!"ですね。
そうですね、その妄想といま格闘中です。事実とオカルト的な妄想が
揺れに揺れます。
その勝負に勝つことはおそらくないですが、負けないために私は
私は私の定めた論理形式(思考そのもの)に従うしかないようですが。
>ハルカ論の【芯】と真っ向勝負ですか?
>でも「生得的」ということでは同じかも。
そうですね。生得的なモノにせまっています。
論理(思考)そのものを明らかにしています。
>ただ「脳死」で「解脱」できそうですね。
どうなんでしょうね。たとえば意識が“主体”であるのなら
意識は残りますし、脳は死んで、解脱(離脱?)は
できるのでしょう。
しかしそういったレベルを保ったままで判断は避けます。
私は認識する幻覚などから接近の方法を採用しただけで、
それ以外のものを、否定するつもりはありません。
体験が幻覚であるとしても、幻覚そのものはなにも明らかには
なっていないのですから。
>>客観いわゆる言葉の限界が議論の限界であり、私の限界なのです。
>うーん、今一つ理解できないです。
>客観、つまり言葉も実在である、という意味ですか?
言葉は意識を二度通ると言うことです。語る者と語られる者
つまりその対応形式で確認されているということは言葉は実在
してしていると思います。認識という作業とイメージを生成する作業を
ここでは知覚−認識作業と同レベルに行われているんですから。
まあ体験にしろ知見であるにしろ、それは確実に認識されている。
そして言葉で語られる。その言葉を信じるのなら言葉は実在すると考えます。
我の実在を私は否定する変わりに言葉を置くのです。
それだけのことが言及できる、それを言葉の限界とした次第です。???
(すいませんまとまってないですね)
えーとここまで書いてみて思ったのですが、議論する意義は見つかっても
議論していいのかという判断はやはり懸念されたままです。
これ以上醜態をさらすわけにはいけないのではということです。
いまこのスレに(書き込んで)いるのは私とあなたですし、私は議論を通じて
ハルカさんをずっと無遠慮に落としてめている。そう思います。
あなたも実はそうなのではないでしょうか。
ですから提案させてもらっていいでしょうか
私はこのスレには書き込まない。少なくともハルカさんのこともハルカ論も
一切語らない。それ以外の形式で悟りと苦のスレタイのテーマ以外は
原則放置放置する。
これは私に限ったことですので、あなたには強制しない。
またそのような要求があった場合には私はこのスレで言及するかもしれない。
しかしそれではあまりに自分勝手ですので、これ以外に私はスレを立てようかと
思います。そこではハルカ論は一切、語りません。おおよそ認識の様々な形式と
考察について自分の経験を用いて誰にも頼らず語るかと思います。
そこでの議論ならあなたも、また誰にでも参加は開かれていると思います。
ですから、このハルカ論への議論は突然ですが終了させていただくということです。
少なくとも私はそれ以上立ち入るべきではないと感じました。
ちなみに私は哲学板は去るつもりはありません。名無しでもこのコテでもちょっと
頑張ってみようかなと思っています。
なぜならこの板には面白いです。興味深い、すてきな人がたくさんいるから。
実は仕事が始まると、私はなにかがおろそかになり過ぎる傾向があります。
ほんとはもっと議論したいのですが時間があまりとれない。
これまで以上に散発的になるかもしれない。論理の整合性を保つのも難しいのです。
そういった中でみんなが議論してきたのは分かります。
しかし私の論は、論自体が閉鎖的です。開かれるようにしたいと思うのですが
それではもっと時間が掛かってしまう。研究者レベルにまで行くのか。
いや私の行動は趣味のレベルですから、申し訳ありませんが趣味に甘んじたい
と思います。
できる範囲のことだけしかできません。それでいいと思います。
ちなみにこれはあなたを強制するつもりはありません。
しかし、あなたもこのハルカ論を議論すること自体いくばくかの苦痛となって
いるのではないかと思われます。
あなたは私のためを思ってレスしていませんか。
あなたにとってハルカ論すら語ることは苦痛かと思われます。
実は私が苦痛なだけですが。
私はハルカ論のことは念頭に置いていますが、ハルカ論そのものを
語りたくないのです。
そしてあなたも私と同じような懸念をされているのであれば、
私の提案に同意して欲しいと思います。
このスレを保守するかどうかはまた後で考えましょう。
ごゆっくり検討ください。むろん回答できないことであれば
されなくても構いません。
私はハルカさんの言葉を忘れたときなど片時もありません。
なぜそれが語られたのかつねに考えます。
そして語られない部分においては想像するだけです。
そしてそれから得られる判断に従って発言してきました。
また今もハルカさんが何を思うのか考えると正直不安です。
彼女はこころよく思っていないだろうから。
そもそもわかりあえると思うのがナンセンスなのです。
それはやはり幻の種類のものだからです。
といろいろ思っていることを打ち明けました。
ですからまたもや意見がまとまっていません。
しかし全体としては私の意見として統一できるかと思います。
ですから詳細なレスは不要です。
カオルさんあなたの気持ちをほんの少しだけお聞かせください。
誰にとっても苦しいだけというのは私はまっぴらなんです。
本当に自分勝手で悪いと思います。
金輪際、私はハルカ論を語りません。私はハルカさんとハルカ論
について語るだけにしたいと思います。
実はカオルさんがこの点について私のフォローをしてくれたのには
気づいていました。しかし、なにかが違うと思われました。
しかしまたあえていうのならあなたと議論する、語り合うことまでは私は
否定していないのです。
いつまでもだらだらと書いてもきりがなくないのでこれでやめにしますね。
すこし文が混乱してますが許してください。いくつかの私の提案のみ考え
てくれれば結構ですから。
>>132のレスありがとうございます。
そう、私の論はほぼ妄想によってます。
そしてそれをあなたが指摘するのはもっともだと思います。
あと誤解されるとあれなんでいっておきますが、私はSさん
の指摘をみてそう思ったのではないということです。
あなたのレスと向き合ってそう思ったのです。その点だけは
誤解しないでください。これらの文章はSさんの
指摘より前から、
>>127のレスまでを念頭に今日一日かけて書いていた
ものですから。
かっこ悪い発言ですが、そういうことですのでよろしくお願いします。
>じゆんさん
このスレ(前スレも含めて)のわたしの目的は、
ハルカ論の哲学的な説明付け(重ね描き)作業です。
去年の8月以来ストップしていた作業を再開したんです。
なぜなら棚上げしていた論点にたいする議論だったからです。
勝手にじゆんさんとの会話をキッカケにさせてもらいました。
ちなみにわたしはハルカ論を磨くことにしか関心がないです。
前スレは、ハルカとハルカ論を中心に議論されていました。
で、あなたの前スレ941だってハルカ論を前提にして話しています。
だから、わたしがハルカ論を使ってレスをするのは自然なことです。
ハルカはハルカ論をみずから議論の対象として提示しているのだから
わたしがハルカ論について議論するのは正当な行為だと思います。
わたしは、あなたへの反論にハルカ論を使うことで
ハルカ論の「重ね描き」作業も同時に行えると思っていたんです。
もちろんわたしのハルカ論へのかかわりがハルカ論を貶めている
ことは以前から自覚しています。わたしは沈黙するべきですか?
たしかにSさんのスレでもわたしはハルカに無視されています。
でもだからこそわたしにはハルカ論とかかわるという方法しか
残されていないじゃないですか。
>じゆんさん
わたしの132を読んで、さらに132を読む前のあなたの結論が
>私はこのスレには書き込まない。
なのだったら、あなたは133〜142を書き込む必要はなかったです。
ひとつだけあなたに謝ります。
わたしの132の「もうレスしません」はあなたを試したのです。
なぜならあなたの131のレスが
あきらかにわたしとの議論から逃げているからです。
あなたの
>カオルさんは私の“ごまかし”をちゃんと見抜いてくれています。
>本当にそう思います。 ですから、レスをくれるのは本当にうれしいのです。
が、本心ならあなたはわたしが「もうレスしません」といっても
了解しないと思ったからです。
>>133 >それは私が持ち込んだ論点です。
いいえ。(苦笑)
わたしがハルカ論における世界の限界を知覚と解釈したんです。
>>136 >論理(思考)そのものを明らかにしています。
今までのあなたのレスではまったく説明されていませんでしたね。(苦笑)
>>138 >私は議論を通じてハルカさんをずっと無遠慮に落としてめている。
今回の議論をここで中止するなら貶めて終わりでしょうね。(苦笑)
わたしはあなたの「知覚/記憶/感情/思考」論の"ごまかし"を
100%指摘できると思いますし論破できます。
あなたはわたしに論破されることでハルカを貶めた罪から救われます。
>>138 >私はこのスレには書き込まない。
>少なくともハルカさんのこともハルカ論も一切語らない。
この一連のスレはハルカとハルカ論で成立してきたのです。
それなのにこのスレでハルカ論を語らないと宣言することに
何の意味があるのですか。あなたはハルカ論を語れないだけです。
>これ以外に私はスレを立てようかと思います。
勝手になさい。
あなたの妄想を快く受け入れてくれる人とだけ話しなさい。
そうやって逃げ続けなさい。
>そこでの議論ならあなたも、また誰にでも参加は開かれていると思います。
このスレだって誰にでも開かれています。何言ってんだか。(苦笑)
>>139 >このハルカ論への議論は突然ですが終了させていただくということです。
>少なくとも私はそれ以上立ち入るべきではないと感じました。
勝手になさい。
ただ一つ、二度とあなたにはハルカ論を語る資格はないことを自覚してください。
>>140 >あなたにとってハルカ論すら語ることは苦痛かと思われます。
>実は私が苦痛なだけですが。
あなたがなぜ苦痛なのかわかりませんが、
少なくともわたしは苦痛ではありません。むしろうれしい。
もちろんわたしの議論の程度の低さがハルカやハルカ論を
貶めていることの自覚はありますよ。でもそれは仕方ない。
>私はハルカ論のことは念頭に置いていますが、
>ハルカ論そのものを語りたくないのです。
わたしはハルカ論が語りたいからこのスレにいるのです。
>このスレを保守するかどうかはまた後で考えましょう。
いえ、あなたはこのスレから去るのだから
あとはわたしがこつこつ一人でやります。ご心配なく。
>カオルさんあなたの気持ちをほんの少しだけお聞かせください。
またもや人格攻撃してしまいました。
まぁ今回はそれが目的だから反省はしません。
最後にじゆんさんのレスは勝手に使わせてもらいますので。
では、さようなら。お元気で。
おれはしかとされたままなわけだが。
人はみんな自分の気持ちが一番大事。
悟ろう。
>>カオルさん
ボクがSHスレから一貫して貴方に伝えたかったこと。貴方が何度読み返しても気付いて
くださらなかったこと。貴方は今もじゆんさんに対して、いえ恐らく関わるひとすべてに
対して反復しています。
>>144以降のレスはあまりに酷いです。というかSHスレからボク
に対して投げて来た言葉とまるで同じです。
貴方がハルカさんが好きで、ハルカさんを語りたいのであれば、どうかハルカさんに向か
ってお話しください。ハルカさんに見切られても、そうであるなら尚更、ハルカさんに呼
びかけてください。貴方が自分を持てないという苦しみにあることは皆理解していて、そ
れ故に貴方は多くの気遣いに包まれています。でもそれを笠にエゴイズムを押し着せるこ
とは卑怯です。「自己自律」を導き理解くださった貴方、相手の立場を思いやる倫理や道
徳の大切さを分かち合えた貴方だからこそ、もう一度伝えました。
ハルカ論。S論。磨きをかける。一体誰の持ち物で誰のためなのでしょうか?そこにハルカ
さんやボクやじゆんさんはいるのでしょうか?いえ、貴方はいますか?ハルカさんと貴方の
間に赤い血は流れると貴方は言った。その通りだと思います。「ハルカロン」と「カオル」
の間に、「ハルカロン」と「ジユン」の間に赤い血は流れない、ボクはそう思います。ボク
はね、じゆんさんとカオルさんの間に赤い血が流れて欲しいのです。そして貴方が言うよう
にハルカさんにしか興味がないなら、独善的に他者を利用したりせず、最初からそう宣言す
るのが心遣いだと思います。違いますか?
あとは貴方とじゆんさんにお任せします。
すべて自分の気持ちだと気づけば依存を利用することも可能だろうが、難しいそうだ。
ここは不特定多数が閲覧可能な掲示板。少数限定が希望ならメールが適切だろう。
君たちだけが特別なわけではない。辛く苦しんでいる点ではみんな同じだ。
理論や言葉はきっかけに過ぎない。
本当に苦しんでいるなら、苦しんでいる自分が愛しいのだろう。
99%楽しくても1%辛かったら気に入らないという生き方もある。
人から見たら99%辛いだろうと見える人が幸せだと言い切る生き方もある。
善悪は主観であり判断は自分の自由。人は自分の気持ちを満足させるために生きている。
いい加減気づけ。
152 :
考える名無しさん:04/01/05 20:25
傍から斜め読みしたら、逆転移して感情が昂ぶったオスたちの痴話喧嘩だな…
さて、と。
久々に二つ三つ書いとこうかな…
>>カオルさん
無視してる訳じゃあないんです。
単に『何も言う必要がない』だけです。
貴方の理解(と言うのは相応しくないのだが適当な言葉が無いので)に私が付け加える点は無い、って事。
>>Sさん
あのね、カオルさんは私の論を『上書きしてくれてる』だけなのだよ。
もっと正確に言うなら…
『体験知をつたない知識等で論形にしたものを正確な知識で構成し直してくれている』のだよ。
第一『磨きをかける』ってのは私が頼んでやってもらっている事でもあるのだから(苦笑)
>>じゆんさん
…貴方には(カオルさんと逆の意味で)何も言う事は無いわ。
勝手にしなさい。
>>153 ハルカへ
久しぶりー(^.^)
>無視してる訳じゃあないんです。
よかった(^.^)
>貴方の理解(と言うのは相応しくないのだが適当な言葉が無いので)に私が付け加える点は無い、って事。
うん、わかった。相応しくないのはわかってる。
あなたの体験知を知識で上書きすると質を落とすのもわかってる。
ただちょっとカッコつけていうとわたしはハルカの体験知を宗教にしたくない。
だから哲学なのだ。エヘン
>>149 17さん
>おれはしかとされたままなわけだが。
あぁ、ごめんなさい。
でもハルカのこといってるならあきらめた方がいいかも。(笑)
>>37 17さん
>自分がいないという認識は面白いね。君には主体がないということなのかな。
主体の自己同一性が確固としたものではないのだと思います。
常識(common sense)−共通感覚としての"それ"に欠けているみたいです。
>「べき」という君が規定したカテゴリーに拘った結果なのかな。
わたしは共通感覚の歴史性みたいなものを自分の中に取り込むのが下手なんです。
きっとそれはわたしがわたしの過去を取り込めないのとリンクしてるんでしょう。
いえ、取り込めないというより取り込む"べき"過去がないような感じでしょうか。
何かそのような行為への必然性みたいなものを、つまり"べき"を感じないんです。
でもそれじゃふつうのフリさえできないから非合理だしマヌケだなと感じつつも
神や倫理や道徳も愛さないと愛してるフリをしないとあたしはバケモノですから。
ハチ公口のスクランブル交差点を109に向かってふつうに歩いてみたいんです。
>>37 17さん
>隣人愛や自己犠牲も自分の気持ちを大切にした行為、自己満足の行為だという見方が可能だね。
>その認識一つで世界は変わると思うんだけどね。
"そう思います"と答えるべきなのでしょうね。
そうでないと以前の会話でのわたしの発言と矛盾しますから。
でも"そう思います"と答えるのことが「自分の気持ちを大切にした行為」
なのかどうかはよくわかってないです。
だからご存知のようにわたしの発言に一貫性は皆無です。(^_^;)<---コレ大事?w
(ハルカが来てるのでいいわけしておくと置かれた状況(=苦)は一貫してるw)
「自分の気持ちを無理しない」(意味不明?w)ということなら
わたしに隣人愛や自己犠牲の精神は皆無だと思います。
でもそのような価値観に従って死んでみるのも良いかなって思います。
利己的に生きるのも自己犠牲に生きるのもわたしにとっては同じこと。
だったらわたしのお父さんとお母さんはわたしを人としてこの世界に
誕生させたのだから最後くらいは人としての化粧をしたままっていう
親孝行というんでしょうか、お父さんもういないけど。(笑)
>ハルカへ
2ちゃんねるの本に哲板の主要なコテハンとして
ハルカが稲やOFWと一緒にのってるみたいだよ。
少し嫉妬したけどハルカが認められてて嬉しかった。
(ハルカにはどうでもいいことなのはわかってるけどw)
>>150 Sさん
>卑怯です。
そうですよ。
それがわかっているからソフィアにだって謝ったんじゃないですか。
彼女を論破し続けるのは簡単だったけど
あなたがわたしをフォローしてくれているのを見て
わたしはあなたに良い子のフリをしたのです。
もちろん彼女に悪意がなかったからできたことですけどね。
>気に入らないならあなたが論点を明確にして反論すればいい。
>ネカマで粘着のあなたは人格攻撃しかできない最低のクズです。
>悔しかったらわたしと議論してみなさい。
謝罪のレスで↑の例を挙げたのもわたしは↑があなただと思っていたから。
自演疑惑・・・最低ですか。
わたしがわたしの視点においても自分が間違っていると
思っていたならわたしはあなたのフォローにたいしても
批判を加えなければいけなかったのです。
でもわたしはそれをしなかった
彼女をあなたの非難から助けなかった。
どちらに転んでもわたしは卑怯者にしかなれなかったのです。
ただわたしはあなたのわたしへの気持ちに応えるべき、
べき、べき、べき・・・だと思ったんです。人として。
>おまえみたいな奴はさっさと消えなよ!
>おまえには生きる権利も存在する資格もないんだよ!
>気がつけよ!
だから本来わたしやハルカは↑なんですよ。
気づいているけど厚顔無恥に卑怯に生きてるんです。
いまさら卑怯なんていわれたって、はい、そうですが何か?です。(苦笑)
ハルカ論をハルカでない人間が読む場合、
両者が根底では訣別していないとお互いの了解が得られないという仕組みになっていると思うんだけどな。
ハルカの体験が、最後の最後まで自分の体験でないがゆえに。
それで、少なくともカオルさんはその訣別が完了した上で、
このスレで活動を行っているというのが、なんていうか雰囲気でわかる。
要するに、つまみや独善的利用というのではないということが。
こんなことを、
ハルカ本人が現れて自分で発言した上で、俺がなぞることにはたいした意味はないのだが。
もっと早くパソコンを開くべきだった!
しかし、あれだな。
ある主体が、決して客体の立場にはなれない、主観からは逃れられない、
というのは、何度取り組んでみても大変なことだな。
自己が自分の主であることの重みが、精神の金属疲労みたいなものと重なったとき、
人は謝り合って流そうとしたり、「私は卑怯」と居直るか、無言で立ち去るかする。俺もそうだ。
しかし、それでは主体と客体の謎は解決されない。んで、また来る。
「これの繰り返しか…。」と、気を抜いたとき、
人と人が独り言の一方通行しか行っていない、
壁に向かって訴えるのと、人に向かって訴えることに大差がない、
というところまで転落するのだから、哲学的考究はまさしく「取り扱い注意」だね。
えーと自己レス(再考)します。
>>客観いわゆる言葉の限界が議論の限界であり、私の限界なのです。
>うーん、今一つ理解できないです。
>客観、つまり言葉も実在である、という意味ですか?
「哲学することとはなんなのか」について答えます。
私は「哲学する」とは“完全な言葉”を見つけることだと思います。
完全な言葉とは“真実の言葉”です。
完全な言葉とは“善から成る言葉”です。
完全な言葉とは“美しい言葉”です。
完全な言葉とは別に完全な言葉と名付ける必要はありませんが、
まあ完全な言葉のことです。
またなぜ完全な言葉を見つけるのかというと、完全な言葉を語りたい
からです。
それが私の哲学する姿勢です。
そのために議論します。そのために自分自身を試したりします。
言葉が“実在”なのかどうかなんてそんなの知りません。
答えられるわけがない。
以上。
>>162 >ある主体が、決して客体の立場にはなれない、主観からは逃れられない、というのは、何度取り組んでみても大変なことだな。
その通り。鋭いね。
>しかし、それでは主体と客体の謎は解決されない。んで、また来る。
全てが主体だよ。その立場に立てばね。主体とは全ての世界(主体が認知した範囲)を自己に内包している。
何度もいってるけど、他人のことはわからない。自分のことだって常に新たに認識し続けないとわからない。
だから気持ちが大事(だと無意識にみんな思って生きてんだよ)になる。
>哲学的考究はまさしく「取り扱い注意」だね。
本質をつい見失うからね。
人は自分でないものに認められたい。でもそれがあまり自分にとって意味がないことに気づかないで苦しむ。
ここで行なわれていることは日常どこにでも見られることだ。
「言葉」「イメージ」「感情」「意識」などをそれぞれに固定して生きている。
分かり合うことは不可能に近いだろう。でも人はそれを目標に生きることをよしとして思い込まされている。
その本質が、たかだか自分の気持ちを満足させるためだけの行為などとは考えたくもないのかもしれない。
>カオル
君が自分を特別視する理由は過去(一般的解釈で言えば今を認識し続けていない限り経験は過去だね)
の体験によるのかな。
自己同一性は病気が流行っているくらいだから、崩壊している人はかなりの数にのぼるだろう。
人の気持ち(考え)はどんなに努力してもわからない。固体化原理という捉え方で理解していることだろうが。
みんな辛いんだよ。君の周りの人がなにやら幸せそうで普通っぽくて君には理解できない人種に見えても。
みんな気づいていないだけだと思うよ。そう育てられているからね。
でもいつか気づくかもしれない。君のように。だって生きること自体「苦」だ(とも捉えられる)。
君やハルカのように本気で(他人から見ればどうでもいいことで)苦しんだ人は貴重だと思う。
みんな苦しくても、他の快楽を求めることで無意味な埋め合わせを試みる。
その結果が今。君のいう「普通」。「べき」だ。
そのようなものが本質的には存在していないこと。多くの人の思いで辛うじて存続していること
を君は理解するだろう。
ハルカ論は君の救いかもしれない。それで渋谷を歩けるかもしれない。
でも、それを理解した君の能力がなしたことであり、君の意志と行動が歩かせることを
本当に理解しているのかな。
ここの書き込みの多くに「いい わるい」といった思い込み的主張が見られる。
「いい わるい」的な思考が方便であり、目標達成に利便的なものだという認識が希薄なようだ。
解脱を悟りととらえるのはその人の自由だ。その実は「楽」になりたい。「苦」から逃れたい。
本質は自分の気持ちを満足させたい。
人が喜ぶことをしてあげる行為。これは善?偽善?隣人愛? いずれでもありいずれでもない。
自分のした行為を相手が喜べば、そのような行為。嫌がれば、そのような行為。反応がなければそのような行為。
ここの本質は、相手の気持ちを動かしたい という自分の気持ちと相手の反応との折り合いだ。
人は人の気持ちを知りたい。また、知りたくもない。気持ちよくして欲しい。わざとらしいのは嫌いだ。
これら「くだらないようなこと」が人の生活の本質にあり、ここでもさんざん行なわれている。
このようなことに気づくことが、おれのいう悟りの入り口でもあり、悟り自身でもある。
人は自分の気持ちを満足させるために、あらゆるテクニックを駆使する。
理論も肉体的快楽も社会的犯罪も自傷行為もなんでもありだ。
>>17氏
私が今まで君に対して時に罵り時に沈黙してきたのには理由がある。
それは…君の言う『全てが主体』『善も悪もその人次第』『何でもアリ」
これらが『もうとっくの昔に言った事』だからだ。
私にとっては『はるか昔に既に通過した地点』だからだ。
そんな『分かりきった当然の事』をしたり顔で語るから『愚か』なのであり『どうしようもない馬鹿』だと言うのだ。
私は過去から繰り返し言っている。
『道徳や善などは人間が多数決で定めた自己都合の産物に過ぎない』と。
『それでも唯一言えるのは生存続行目的の行為は何であれ【生命】にとっての善だ』と。
今更何を言っているのやら…馬鹿かね?(嘲笑)
>>167 >これらが『もうとっくの昔に言った事』だからだ。
>私にとっては『はるか昔に既に通過した地点』だからだ。
そうなんだろうが、通過できることではないようだよ。君が嘲笑することでしかおれと
関わりをもてないと思い込みたい気持ちは察するに余りあるが。
おれは気づき続ける重要性を語っている。君は、気づいて、それを知識として「知っている」に
過ぎないようだよ。もはや「そんなわかりきったこと」に気づこうとはしない。
でも、そのわかりきったことに気づき続けることが悟りではないのかな。
知識はその手助けをする道具であって、使い方を間違えると君のようになる。
>そんな『分かりきった当然の事』をしたり顔で語るから『愚か』なのであり『どうしようもない馬鹿』だと言うのだ。
君の指摘を理解していないでおれが同じ事を書き続けていると思える君が「愚か」だね。
おれが馬鹿なことは充分認めるけど、君も同等のようだよ。少し考えてごらん。
>私は過去から繰り返し言っている。
そうかい。おれもガキの頃から気づいていたけど、誰も聞いてくれないから繰り返しはしなかったよ。
それをおれがようやく今気づいたから嬉しそうに吹聴し続けていると本気で思っているとしたら、あまりに洞察力に
欠ける。
おれはそれを基盤として「生きる」話をしている。でも基盤は別でも構わない。
善悪を固定させれば思考は容易だ。君は芯という仮想で主体を消滅させることを「善」としているのではないかな。
君の気持ちがそうしたいからだろ。
ことの本質を見なよ。君はそうしたいんだよ。理由はそうすれば苦から逃れられると思い込んでいるからだろ。
「いい わるい」ではない。君は悪くないし、良くもない。したいことをするまでだ。
おれはそのことをいっている。気づけよ。
>今更何を言っているのやら…馬鹿かね?(嘲笑)
というわけで、今回もそっくりお返し。(嘲笑なし)
君は気づいているかな。
>私が今まで君に対して時に罵り時に沈黙してきたのには理由がある。
とあるが、理由は「スルー決め込んだから」のはずだったが、今回はとっくの昔に君が言った
こととある。でもそれは理由にはなっていないね。
罵り時に、君がおれを罵りたい気持ちはあったが、以前君が言っていたことだから言わなかった。
変でしょ。
そして、君はおれを罵りたかった。その気持ちはどこから来るんだろう。おれはきっかけに過ぎない。
君の中に、おれの言葉が引っ掛かるのかな。おれは君に当ててレスしていなかったしね。
全て君の気持ちの問題だよね。
じゆんさんのスレにこれ以上ご迷惑を掛けたくないので、
カオルさんと17さん(?)へのレスは自スレに書きます。
ボクの思いは
>>150で変わらないよ。じゆんさんガンバ!!
>>161 70さん
ありがとう。
>>162 >壁に向かって訴えるのと、人に向かって訴えることに大差がない、
>というところまで転落するのだから、哲学的考究はまさしく「取り扱い注意」だね。
わたしのことですね。自覚はかろうじてありますよ。
この瞬間だけの思い付きですけど、
わたしは「わたし-誰か-わたし」という構造なのかもしれませんね。
で、たぶん誰かという他人として生きるのが"正常"ということなのかな?
あなたにはいろいろ教えてもらえそう。例のアレ纏まりましたか?
>>164 17さん
「この人誰だったっけ?」と思って、
過去ログを改めて瞥見したんだけど、あなたのレスとそれが縁起となって登場したレスの応酬を見ていて、
「この人は随分と不思議な業を背負っているなぁ」と思いました。
哲学徒同士が相手と別れを告げ合うのは、自殺した人と遺族の間の告別くらいシビアだと、自分は思っています。
相手が何を考えているのか、相手の立場には立てないがゆえに、最後の最後まで「わからない」んですからね。
何を告げられ、それを受けて何を訴えようと。
こと哲学に打ち込む者同士の間では、死を告げるに似た規模の訣別が至るところで起こらざるを得ない。
人生や存在が丸ごとひとつ懸かっているがゆえに。こうして対話をしている俺とあなたの間にも。
AがBに「私は君の誤謬を知っている」的なことを告げるとき、Aはちょっとした自殺と殺人を同時に行っているように思えます。
これを同様の題材において何遍も繰り返した場合、AとBは存在しているのは間違いないけれど、
「生きているのか?」については到底定かじゃありません。こんな業が垣間見えました。
この両者訣別の緊張感に慣れるのには時間がかかりそうだな…。
こんな感じでお気持ちお察しします。
>>161 同時刻のレスだったのか…。
おまけで、
なんかさ、思ったんだけど。
君の目指している関係は、ナーガールジュナとチャンドラキールティの関係に似ていないか。
すなわち、「論考する人」と「注釈する人」というような関係に。
あの黄金コンビと比較すると、非難を加える隙はないし、妙な摩擦の引き金にもならないだろうし、
要するに辻褄が合うんじゃないかな。
壁に向かってと人に向かってが大差ないというのは、俺の体験でもあるんだ。
笑いたくもなったし、泣きたくもなったよ。
ただ、壁に向かって呪いを吐けるが、人に向かっては呪いは吐けなかった。
その違いは何なのか。世の中一般で何と呼ばれている概念に相当するのか。
これを個人的に考究せねばならなかった。まったくあんな目には二度と遭いたくはないものだ。
分かった気になっていると怪我するよね。
分かっていないんだもん。
謙虚に鳴¥なった方が得るものは多いと思っている
一回自分を疑うといいかもしれない
ごめん疑うじゃ弱いわ。
白紙に戻して一から考えてみなと
どんだけ穴があるか分かると思う。がんがれ
>>165 17さん
>君が自分を特別視する理由は
前にもいったけどわたしを「特別視する」のはわたしじゃなくて世間(あなたw)です。
>人の気持ち(考え)はどんなに努力してもわからない。固体化原理という捉え方で理解していることだろうが。
ウィトの独我論とかにおける論理的帰結としての"それ"はさておき
わからないというのは検証できないということでしかない、くらいの程度で良いと思いますよ。
なぜって、人の生の形式や思考の形式はみんな同じなのだから
どんな人も"そのようにしか"生きられないということでは同じ穴のむじなです。(笑)
この形式の限界を指摘しているのが、あなたの意見なのだと解釈してますよ。
>でも、それを理解した君の能力がなしたことであり、君の意志と行動が歩かせることを
>本当に理解しているのかな。
わたしでなくても成り立つでしょう。匿名の誰かでも同じなのです。
>>173 70さん
このスレにいてアレなんだけど
わたし仏教とかの知識が無いのです。
だからナーガールジュナとチャンドラキールティの・・・を調べてみます。(^_^;)
おやすみなさい。
>>173 70さん
>ただ、壁に向かって呪いを吐けるが、人に向かっては呪いは吐けなかった。
>その違いは何なのか。世の中一般で何と呼ばれている概念に相当するのか。
>これを個人的に考究せねばならなかった。
じゆんさんとの会話が続いたら、
おそらくこの"規範"の起源にも触れていたのかなって思います。
リアルで会話できなくてごめんなさい。
胸騒ぎがして、返事をしないと寝れそうにない。理屈では「寝る」で決まっているのに、体が言うことをきかない。
何でこんなことが起こるのか毎度毎度まったくわからない。
>リアルで会話できなくてごめんなさい。
そんな小さなことで何を謝る必要があるのか。
じゅんさんとの議論は続きがあれば見てみたい。
彼は、自分が信念を懸けている事柄に取り組んだことで、挫折を被ったみたいに見えた。
産みの苦しみを味わっているようだ。
誰しもが同じ目に遭うのだろうから、俺も注意しておかなくちゃ。
>仏教の知識がない
誰しもが教養には欠けている部分があるんだろう。
俺の例だと、まずドイツ観念論がない。ギリシアやプラグマティズムも乏しい。
他者の論考の哲学的な説明付け、重ね描き、磨き上げ…。これらは注釈以外の何ものだろうか。
で、俺の中で注釈といったら上記の二人に絞られる。手本のひとつとしてみたらどうか。
昨晩の返事のつづき
>わたしは「わたし-誰か-わたし」という構造なのかもしれませんね。
>で、たぶん誰かという他人として生きるのが"正常"ということなのかな?
俺も似たようなことを考えたことがある。
「Aは自己中だ」とBが言う、というのがよくあるけど、このときBにとっては「自己中でないA」があることになる。
自己中だと指摘されたAは、自分の主体性を疑う。「いったい何が俺のこの意識の中心に居座る主(ぬし)なのか」というふうに。
主があるのなら、賓客もあるんだろう。
君にとっては「誰か」というふうに人格を設定して、その人格を中心とした関係が主であるのか。
俺も似たように、自己を主体として、「非自己一切」を客体として、その関係に従って行動する。
あとは自己同一性の問題において、君と俺とどこまで接近しているかが肝だな。
「我思う、ゆえに我あり」にどのくらい驚愕したかだな。
「関係に従う」が正常かどうかについては、
自分の教義を告白すると、無常観、空観にひどく傾倒しているから、どうともいえないな。
俺、一人のときは独我論者だし、「非自己一切」と対するときは縁起論者だよ。
>>179 70さん
>胸騒ぎがして、
走らずにはいられない。
何から逃走するのかわからないけれど・・・いえ、わたしの場合。
ところでまさか、わたしのこと心配してくれたの?
止めた方がいいと思うよ。みんな後悔してるし。(笑)
>そんな小さなことで何を謝る必要があるのか。
書き込む時間は同じなのに、わたしの方は寝る時間だから。
>じゅんさんとの議論は続きがあれば見てみたい。
無理っぽい。
>>163は彼の決別宣言と受け取っています。
>>179 70さん
>彼は、自分が信念を懸けている事柄に取り組んだことで、挫折を被ったみたいに見えた。
>産みの苦しみを味わっているようだ。
「挫折を被った」ってどういうことですか?
男の人の気持ちがサッパリわかりません。(自滅?)
女ジャイアンのあたしを粉々にしてくれるような男子はいないの?
>他者の論考の哲学的な説明付け、重ね描き、磨き上げ…。これらは注釈以外の何ものだろうか。
注釈にもなっていないけどね。(^_^;)
>で、俺の中で注釈といったら上記の二人に絞られる。手本のひとつとしてみたらどうか。
調べてみたけれど、取り組む姿勢について書かれたものがありませんでした。
>>180 70さん
思いつきにレスありがとう。
少し考えてからレスします。
わたしの幼い頃、いつも遊んでくれる男の子が無鉄砲だったので毎日が冒険でした。
わたしは、その子に負けたくなかったし、好きだったのでどこまでもついていきました。
どこまでもついていくことが、わたしの気持ちでした。
だんだん日が暮れてきて、お母さんに叱られるなとか、お父さんが心配するなとか、
もっと暗くなると、ぜんぜん知らないところに行ってしまう心配が大きく膨らんできて、
もう戻れないかもしれないって本当に怖くなってきて泣きそうになってしまうんだけど、
それでもわたしが我慢するからその子も冒険をやめないんです。(今想うときっとそう)
そうして完全に日が暮れてしまっても歩いていると色んな心配もどこかにいっちゃって
こんどはただただひたすらにどんどん前に進むっていう感じになってくるんです。
そのうちその子とわたしと世界が一つになったような不思議な心地よさが感じられてきて
疲れているのもわすれてもっともっとずっと歩き続けていたい気持ちになってくるんです。
で、結局いつも大事件になってしまって、親同士の仲が悪くなってしまって、交際禁止。
それ以来、その子のような勇気のある男の子に出会ったことがないな。わたしの初恋。
でんぱ船カオル号がさ迷っています。灯台は誰ですか?
>ところでまさか、わたしのこと心配してくれたの?
>止めた方がいいと思うよ。みんな後悔してるし。(笑)
胸騒ぎは、俺は元々このスレの住人ではなかったことに起因する。用を済ませば名無しになる。
アウェーの地で試合に臨むサッカー選手には、それなりの緊張があるだろう。
>調べてみたけれど、取り組む姿勢について書かれたものがありませんでした。
そうなんだ。大事なことを言い忘れていた。
「論考する人」の哲学と「注釈する人」の哲学は、根底において一致しない。
よって、注釈する人の哲学が、注釈の隙間からしか垣間見えない。ここに注釈者の不憫さがある。
どの書物を読んでも、注釈者の態度は最後まで隠匿されている。そうでなければ注釈でない。
注釈者にとって放浪状態における灯台は、自分の考究ではなく、最後まで他人の教義なんである。
君の求める灯台の灯りとは、自分の内面を照らすのか、それとも他人の胸の内を照らすのか、定かじゃない。
こういうジレンマを抱えざるを得ない。
一日の別れについては挨拶したほうがいいっぽいね。おやすみ。
>>172 >「この人は随分と不思議な業を背負っているなぁ」と思いました。
おれに人と相容れようとする様子が見られないということから思ったのかな。
>この両者訣別の緊張感に慣れるのには時間がかかりそうだな…。
その主語はだれだろう。君?
君は世間の「常識」とか「こういうもんだ」といった割り切りを咀嚼なしに受け入れているのだろうか。
君やここの住人の多くが馴れ合いで語り合うことを責めるつもりもないし、非難したこともない。
会話も弾むだろうし、知的な時を楽しめるかもしれない。
おれは争いやいがみ合いを好んで誘発しているつもりはない。
促しているのは自己の啓発だ。わかりきったと思い込んでいることで見失っていること、
気づかずに通り過ぎていることがあるという事実を見つめたらどうかなとおせっかいを焼いている。
それはスレタイに悟りや苦が記してあるからだ。
おれの希望、喜びは、一人でも多く気づいてもらいたいこと。そのためだけに生きているわけではないけど
ここの住人は現実に苦しんでいるという点で気づくにふさわしいと考えている。
断っておくけど、何かの宗教でもなければ洗脳やおれを認めて欲しいということではないよ。
自分の思考過程、言動を見つめることで見えてくるものがあるということに気づいて欲しい。
>>176 >前にもいったけどわたしを「特別視する」のはわたしじゃなくて世間(あなたw)です。
槙原の歌詞と同じだけど、みんな特別な存在だし、世界に一人じゃないのかな。
>神や倫理や道徳も愛さないと愛してるフリをしないとあたしはバケモノですから。
>ハチ公口のスクランブル交差点を109に向かってふつうに歩いてみたいんです。
というような表記を君が好んでするから、特別だと思っているんだろうなと思ったんだけど、おれの勘違いなんだね。
>ウィトの独我論とかにおける論理的帰結としての"それ"はさておき
>わからないというのは検証できないということでしかない、くらいの程度で良いと思いますよ。
そうだね。でも意味は同じだし、君は誰かの思考や気持ちが本当にわかったことがあるのかい?
相手の表情、動作、言葉、トーンなどを自分の五感(という不確かな認識)で感じ取って判断しているのだから
わかりようがないと思うけど。
>なぜって、人の生の形式や思考の形式はみんな同じなのだから
と、君はいろいろな情報からそう思い込んでいるだけかもしれないとは思わないんだね。
>>176 >どんな人も"そのようにしか"生きられないということでは同じ穴のむじなです。(笑)
その通りだし、全く逆の見方も可能だね。視点で変わると思うよ。
つまり、どのようにも生きられる。
>この形式の限界を指摘しているのが、あなたの意見なのだと解釈してますよ。
これだけ書いてきてもそう理解されるんだから、人の思考(気持ち)はわからないね。
人は自分や自分以外にとても興味があって知りたい。でもわからない。その事実を「空しい」「辛い」
ととらえているのが苦しんでいる人。ここで多く行なわれていることだよ。
わからない事実を「おもしろい」「楽しい」などと考えることも可能だろ、と言ってるんだけどな。
事実は「わからない」あとはそれぞれの選択。本当にその意味がわからないの?
>わたしでなくても成り立つでしょう。匿名の誰かでも同じなのです。
何が?論点ずれとるよ。歩きたいのが君なら、歩くのが君でなければ成り立たない話じゃないの?
歩くという行為は誰がやっても同じだ(と思い込んでる)ね。障害者は得別かな。
悟りということばに他の国々の人がどのように反応するか知らないが、日本人には何らかの反応
をする人が少なくない。
培われた地域性なんだろうね。でも、捉え方はさまざまだ。
気づけば悟りだし、過ぎれば知識だ。多くの人が毎日体験していることだろう。
ここは哲学版だから定義付けたり論じるのは道理だ。
でも定義付けには悟り自体の認識が明確である必要があるだろう。そして、それは難しい。
このスレタイには「苦」がある。これの回避がとりあえず悟りに近いような感じがして、
というよりそう決めて話が進んでいる。それも真だろう。
自分で決め付けていることに気づくことがこれほど困難なのは、生得的な省エネ体質の影響かもしれない。
行動するのが億劫。基礎代謝程度にエネルギー消費をとどめようとするかのようなこの現象は加齢と共に加速するかのようだ。
合理化を美徳とし、出来る限り体を動かさないで生活したいかのような文明の発達の仕方をしてきている。
そのわりに文明の発達と共に美食を好んだが、血行不良により身体を犯され見直されている。
思考も酷似している。
でも、見直されていない。
省エネはある側面美徳だが、この場合も老廃物をためる。思い込みや決め付けがそれ。
共感的理解は思い込みや決め付けが一致するもの同士でのみ可能なわけではない。
老廃物を除いたその事象の本質を理解し合ったときに得られる。それを知らないから擬似行為に走る。
意見が食い違うと争い。食い違いは老廃物を個々に抱えていることによる。
意見を交し合っている内容の本質をわりと簡単に見失う。そういう事実をふまえないと話し合いは困難だろうね。
>>163 自己レス(再考)
>言葉は実在しない?<
言葉は真、善、美である。
真善美であるから言葉を信じられる。
言葉が信じられるものであるから言葉は実在するのではないか?
信じられるものが言葉だから私は実在できるのではないか?
私は実在する。私は言葉から成る存在だ。
言葉は意味を持つ。
あなたは言葉だ。あなたは言葉から成る存在だ。
あなたは語る者だ。
あなたは言葉を信じているから、あなたは実在する。
あなたも実在する。あなたは語る者なのだろう?
語ると言うことは、“信じる”という一つの形式だ。
耳を澄ますということ、これも“信じる”という一つの形式だ。
>信実<
(言葉が) 実在すると信じる。
(言葉が) 信じられるから実在する。
(言葉を) 信じるから実在する。
(言葉を) 信じるから実(意味)がある。
>私の定理<
言葉は実在そのもの (言葉は意味を持つ)
語る者は実在する
語る者は言葉を成立させる(意味を与える)者のことである。
>沈黙<
沈黙とは“信じないこと”の一つの形式である。
私は沈黙する者を信じることはできない。
信じたくても、それは信じるそのものの存在形式をえぐり続ける。
私は沈黙する者を信じたりしない。
沈黙する者は実在しないと考えることにしている。
“信実”は“真実”だと私は思う。
>信実は真実か<
国語辞典には信実=誠実な様のこと、とある。
では、真実=信実は真か?
証明
誠=真 マコト ハ マコト デアル -@
誠=言+成 マコト ハ コトバ カラ ナル
言+成→信 コトバ カラ ナルモノ ハ シンジラレル
誠=信 マコト ハ シンジル コト −A
@+A 信=真 ヨリ シンジル コト ハ マコト デアル −B
定理 言=実在 コトバ ハ ジツザイ デアル −C
B+C 信実=真実 ヨッテ シンジツ ハ シンジツ
証明完了 エヘン
>>193 じゆんさん
エヘンじゃないよ、エヘンじゃ(苦笑)
なーんで、そういう愚かな事を言うかね…
貴方に対して昔言ったよね?
『各個人が自らの中で信じている事がその人にとっての【真実】だよ』と。
『だから【真実】ってのは、個人個人の価値観のフィルターを掛けられたものだよ』と。
『つまり、各人が【真】であると信じ込んでいる事【実】でしかないんだよ』と。
『それは【真実】は【真の事実】である必要はなく【各人各様の信じる事実】であればいいんだ』と。
だから…
『【真実】ではなく【"信"実】なんだ』と。
>>184 カオルさん
あのさ、今日一日の思索において、君が哲学的な態度を捨てて、「男の人の気持ちがわからない」とか述べ、
女性に特有の態度を何回か示したことがあるのを思い出したんだけど、
これらは、その文面のとおりに、あらゆる確信から離れ、四方定かでなく、戸惑い、疲労しきった状態でそうしているのか。
それとも、誰か特定の人物にたいして、何らかの「試し」の想いが、どんなに小さなものでも、どれほどに一瞬のものでも、
また後に利用しうる形で残されていてでも、あることにはあってそうしているのか。
今回、俺が言えるのは、
あらゆる出会いがあれば、それはあらゆる訣別に帰すことを、邂逅した者同士は避けることができないということだ。
なんらかの邂逅があれば、訣別はすでに始まっている。君の周囲で、今も刻一刻と。
誰であれ墓の中までついてくることはできないのだから、墓の中以降と比較すれば、一瞬だろうと八十年だろうと大差ない。
何の因果かは知れないが、俺は君と会った。もうこの事実を覆す術はない。
俺は、「はじめまして」について、いついかなる場合でも、「いかに振舞うか」ではなく「いかに去るか」を考えざるを得ない。
特に君についてはいったん結んだ約束をいかに果たして、去るかを。
「邂逅」と「訣別」…、この二つの把握は、紙一重だし、かつ正反対の作用を為す。そしてこの二つ以外に、どの在り様もない。
こういう紙一重で正反対の頂が二つの関係を、なぜか知らないが人は忘れることはできない。
こんな関係性に振り回されるのは確かに面倒でもある。
ただ、君の枯れた初恋の思い出も、永訣に触れなければ、こうして俺の目に届くこともなかったし、こんな返事を書くこともなかった。
俺は、思春期を過ぎてから、こんな考えが具象化するのを待つ状態だったし、口が上手じゃないし、今ようやっとこんだけ言える程度で、
要するに、女を何べん失望させてきたか計りしれない男だから、言えるのはこれだけなんだが。
>>191 17さん
>老廃物
「悪貨、良貨を駆逐する」という経済学の法則は、
貨幣の流通においてだけでなく、人間の精神の流通においても起こりえるのかもしれませんね。
同じ流通というポイントによって結ばれているがゆえに。
もちろん、ここでいう「悪貨良貨」は、唯名論的呼称ゲームに従って述べているので、
肩の力を抜いて読んでもらわないと困るんですけど。
ただ何らかの駆逐の有無について、あなたとは同意です。
個人と個人だけでなく、個人の内面においても、
つまり、(もう一辺使いますけど)唯名論的呼称ゲームに従って、個体と呼びうるあらゆる精神において、
何らかの駆逐があるということについてです。
>>42 いなごさん
>「わたし」という問題はゴソッと抜け落ちていますね。
激遅レスすみません。
「わたし」という問題は、わたしにもわかっていないのです。
と、いうときの"わたし"は実在するのか?
いいえ、"わかっていない"という事実があるだけなのです。
と、いうときの"事実"は実在するのか?
いいえ、事実は現に成立している事態なのです。
と、いうときの"事態"は実在するのか?
いいえ、実在は認識され得ることではなく「世界の限界」なのです。
・・・みたいな考えも・・・ある・・・ということが「形式世界」の属性です。
気が向かれましたら、また書き込んでくださいね。(^.^)
>>196 >ただ何らかの駆逐の有無について、あなたとは同意です。
駆逐という言葉から受ける印象はなかなかハードだね。
客観視する程度でも充分じゃないかな。確かに老廃物は排泄しているから例え通りなら君の言うとおりだね。
君もスレタイが気になって覗いたことと推測するが、君は何がしたくてここにいるのかな。
>用を済ませば名無しになる。
とあったから、いつか名無しに戻るのかもしれないね。
その前に君の「用」もしくは「ここにいる理由」などについて話してもらえないかな。
おれはここの住人と話がしたいのでいる。細かい理由は何度も書いてきたけど、君の印象に残っていない
だろうから必要があれば書くよ。
>>198 >>70においての、ジョン・レノンの話がきっかけでした。
ついでに俺はひとつ仕事をしなければならなくなりました。
あと、ここだけの話なんですけど、
俺はかつてこの板でひどいことをやったのです。このスレの成立も関わっています。
まぁ端的に言って良心の呵責です。始末をつけたい。
時を待ってはいなかった、といえば嘘になります。
これは「本当に」ここだけの話ですよ!
>必要があれば書くよ。
細かい理由は他スレで読み直しましたよ。あなたは不思議な人だ。
あれだけの罵詈雑言の雨嵐のなか、それをそよ風のように済ます態度を貫いているんですもの。
俺はそこに遊戯やゲームの精神を見ました。
どうなんでしょう、この「ゲーム」という俺の呼称は。あなたには伝わりますか。
もし、お互いに罵詈雑言を浴びせるような仲になっても、
それは古代オリンピアのような競技の精神で行いたいもんです。
>>192 じゅんさん
「真善美」のほかに「壮」という概念が加わるとどうなるんだろう。
というのも、夏目漱石の『文芸の哲学的基礎』という評論において、「真善美」の理想のほかに「壮」が加えられているからである。
千円札の顔になっている(もうすぐ交代するけど)くらいの人が言っているんだから、「壮」には何かあるんだろう。
例えば、「信じる」にはある種の勇壮さが関わっているだろ?
とある主体Aの信仰の度合いによっては、「壮」は、Aを「臆病」な沈黙に至らせたり、病的に「凶暴」な罵詈雑言を吐かせたりもするのだろう。
この掲示板のいたるところで目にするように。
時には「エヘン」といった鼻息に化けるかもしれないし。
人間の精神の働きを「知情意」に分けるときがあるけれど、「壮」は「意志」に関わっている模様なんだ。
こんな感じで機会があったら、君とあまねく生命の壮烈さについて話してみたいんだけど。
>>200 レスどうもです。
なんと言っていいか分からないけど、すごく助かる思いです。
・・・「壮」を夏目漱石が言っていたんですか。それは知りませんでした、と言うより
教えていただいてどうもありがとうございます。今度、自分で調べてみます。
で、ちょっとあなたの言う「壮」がまだ理解していないので「信じる」について述べて
みることにします。(気がついたことを思うままにですが)
おそらくこの「壮」、「信じる(信念)」「意志」にはあなたの言うとおり、勇壮さが備わっている
のでしょう。そしてどうやらこれも真善美と同じように人にしかない問題意識のようです。
とまずはここまでとさせてください。
現状として今の私はとても微妙な立場にいますので、これ以上語るとただの愚痴になります。
私が「信じる」という言語形式を得たのはここからなので、ここで「信じる」ことの意味を問われる
と、私はここでの自分自身の意志に基づく行為の「信じる」「信じない」の一形式を
ずらずらと書いてしまうのです、今それはご勘弁ください。(今やってみると実際にそうなりました)。
私の立場が落ち着いてきたら、そのあなたの意見に対する考察を提出します。
と言うより面白いそうなので暇なときに考えることにします。
ちょっと時間をください。よろしくお願いします。
>>199 >これは「本当に」ここだけの話ですよ!
おれと君の間だけというわけにはいきそうもないけど。
一体何をやらかしたんだろうね。でもこのスレのきっかけになったんなら意義はあるんじゃないかな。
>どうなんでしょう、この「ゲーム」という俺の呼称は。あなたには伝わりますか。
もちろん。
おれがどれほど楽しんでこの作業をしているかが、君には少しだけ伝わっているんだろうか。
別スレでまたもやハルカがおれにレスを返している。ありがたいことだよ。
>お互いに罵詈雑言を浴びせるような仲になっても
たぶんおれは誰にも罵詈雑言を浴びせる作戦は使わないと思う。
普段のおれが言動が激しすぎて会話が不成立(むろん楽しんでるけど)なので、このような
文章表現のみの伝達媒体では誤解を招きやすいためなおさらしない。
君はとても思考が柔軟そうだね。
悟りとかいまや解脱について語られている本質について考察を聞かせてくれると嬉しいな。
>じゆん
がんばれよ。
>それは知りませんでした >今の私はとても微妙な立場にいます
君の意志は、これらの告白を秘匿しておくこともできるだろう、真善美との関わりの如何によっては。
>今度、自分で調べてみます。
意志は、他人への約束の申し出の全てを、蹴ってみることが可能である。
今回の場合、君は千円札の顔になっているくらいの人の考を蹴るのだから、
これは「壮」に則しているだろ? 「無謀」なのか「大胆」の「壮」なのかは知らないが。
つまり、接近と廃棄のいずれにしても、君は「壮」に触れることになる。
摩訶不思議だ。意志は死を決しさえする。人間の意志は人間を、一体どこに連れて行くのだろうか。
君が三船敏郎を例にとったのを目にしたことがある。で、俺にとって、君における「壮」の代表物は「三船敏郎」のままなんだ。
俺の代表物も示すから、
君と俺の「壮」を限りなく接近させてみないか、っていうのが俺の提案だな(上のレスの「あまねく生命の壮烈さ」の部分)。
なんにしろ、もちろんマターリで構わない。
あとレスの十倍思索するって言っていたから、交通事故には気をつけろ。返事はいらない。
皆さん、おやすみなさい。
じゆんさんへ。
年末から、ずっとじゆんさんになんかレスしなけりゃって、
もらった分は返しとかなあかんって、ずーっと、あーでもない、こーでもないって考えていたんですよ。
そしたらね、身体の調子が悪くなって。なんだろ、身体の血液量って一定じゃないですか。で、あまり頭に栄養が持っていかれると、内臓を動かす分の血液が足りなくなるっていうか、胃が弱っている感じで。
食べては吐き出す無意味な生活で水分も補給できなくて困ったのですが、ようやく食べれるようになってきたところです。
で、どうでしょう?
その考えていたモノはまだぜんぜんまとまってなくて、もうまとめる気力もなくて。
でももし興味があるのでしたら、メールしますが。文になってないメモ書きですが。まあなかなか笑えるんじゃないかと。
(ちょっと今、調べてみたら、どうも感覚脳、論理脳ってのを勘違いしていたようで)
審判さんとカオルさんへ。
レスがあるとうれしいれす。
なにか返せないかなと、あれこれ考えています。
もうちょっと待ってくだされ。
あと。哲学でつわり!?Σ( ̄д ̄;)
ちょっと調べてみたら、つわりってその原因がよくわかっていないらしいですね。あ、つわりって妊婦さんのアレですよ。
で、私の症状とつわりって似てないかなと、妄想が爆発しまして。
つまり私の場合は脳に栄養が取られてしまった感じですが、妊婦さんは胎児に栄養が取られて、それで胃の機能が低下するんじゃないかと思ってしまったりしたわけで。
そう仮説を立てると、それなりに対策もできるんじゃないかと。
あ、いや、じゆんさんに言っているわけではなくて、このスレを見ている方でそんな関係者がいたら、ご一考をと思いまして。
ただ漢方ではつわりは胃が熱を持っているから、らしいですね。
でも。そしたら私は「漢方」に聞きたいんだが、なぜ胃が熱をもつんじゃい、そのカラクリを説明せい。つーか、つわりは胃酸の出過ぎかよ。そうじゃなくて、むしろ胃が冷えているからと考えるほうが論理的じゃないのか、と。
で、思った事をべらべらと。
カレーやキムチはダメなのかな。私はけっこう良かったんだけど。でもやっぱり、お粥が一番か。
生姜湯も血行をよくして新陳代謝を促すからいいと思う。
脱水症状を起こしかけているんだから風呂はキツイんだけど、血行を良くするために短い時間でも入ったほうがいいんじゃないか。
昔から、つわりは根性で直せって感じらしいけど、でもそれは、ちょっとでも無理してでも動いていたほうが血行が良くなるってことじゃないのかな。
においに敏感になるのは、頭に血液が集中しているから。
パパさんも一緒につわりになることもあるそうだけど、それは赤ちゃんが生まれるという事に対して、考えてもしょうがない事を考える(不安になる)から。これは哲学でつわりの類。
あれ?妊婦さんのつわりもいろいろ考えすぎてなるのかな。でもつわりになる時期が決まっているのだから、それは胎児の成長と関係していると考えた方が自然だ。
とか思った。でも妄想なので取り扱い注意。
>>187 17さん
>槙原の歌詞と同じだけど、みんな特別な存在だし、世界に一人じゃないのかな。
わたしのレス(の意図)は、そういうことじゃないでしょ。
>というような表記を君が好んでするから、特別だと思っているんだろうなと思ったんだけど、
>おれの勘違いなんだね。
わたしは、"ふつう"が苦手だったりする、といってるだけです。
べつに特別扱いしてもらいたくていってるんじゃないんだけど。
あなたにだってどこか"ふつう"じゃないところがあるんじゃない?
それでも、俺は特別なんだ!、なんて思わないでしょ?
>そうだね。でも意味は同じだし、〜
「そうだね」で終わりにしませんか?(笑)
>と、君はいろいろな情報からそう思い込んでいるだけかもしれないとは思わないんだね。
「相手の表情、動作、言葉、トーンなどを自分の五感(という不確かな認識)で
感じ取って判断しているのだから」みたいな情報から、そう思いこんでいます。(笑)
>>188 17さん
>その通りだし、全く逆の見方も可能だね。視点で変わると思うよ。
>つまり、どのようにも生きられる。
わたしのいっているのは、あなたは生きているし、思考してるのでは?
ということです。
>この形式の限界を指摘しているのが、あなたの意見なのだと解釈してますよ。
>これだけ書いてきてもそう理解されるんだから、人の思考(気持ち)はわからないね。
>人は自分や自分以外にとても興味があって知りたい。でもわからない。その事実を「空しい」「辛い」
>ととらえているのが苦しんでいる人。ここで多く行なわれていることだよ。
>わからない事実を「おもしろい」「楽しい」などと考えることも可能だろ、と言ってるんだけどな。
うん。だから「空しい」「辛い」「おもしろい」「楽しい」が形式の限界でしょ?
>事実は「わからない」あとはそれぞれの選択。本当にその意味がわからないの?
「わからない」が、真かどうかも「わからない」けれど、(笑)
とりあえず、みんな何かしらの価値の選択をしながら生きている、
くらいでいいと思うよ。そんなに「わからない」に拘らなくても。
その人の動機や心模様を他人が決定することなんてできないから
その人の言動や行動を指して、その人の気持ちは「〜だ」ということは、
主観による憶測でしかないです。
だからといって、他人や自分を信じることによって、
意味を創造し価値の世界に生きることも自由ですね。
苦しむのも楽しむのも自由なのですから。
>>188 17さん
>歩くという行為は誰がやっても同じだ(と思い込んでる)ね。
ええ。
人間という存在形式を「超えたこと」=「特別なこと」なんて
人間にはできやしない、ということです。
>障害者は得別かな。
単独者としての"わたし"に、そんなに拘らなくてもいいと思うけど。
いえ、わたしは拘っているけどね。(笑)
あなたはもっと自由でいいんじゃない?
>実存するわたしの真理は、客観的真理ではないかもしれません。
>けれど、わたしが実存しているという事実は、わたしに帰属します。
>この事実には疑問の余地がないです。これだけは確信したいのです。
(あっちのスレからコピペ)
ということでさえ、障害者のわたしにはむずかしいですから。
「その匿名の誰かだって君ではないか」とか、一々指摘しないで。(笑)
>イナゴさん
>なにか返せないかなと、あれこれ考えています。
>もうちょっと待ってくだされ。
無理とかしないでください。ホントにホントに。
>お粥が一番か。
七草かゆ食べられましたか?
「邪気を追い払い、万病にかからないように」
ということらしいです。
七草かゆセットに入っていた説明書にそう書いてありました。(^_^;)
普段から食べるように心がけても良いのかなって思います。
材料はそろわないかもしれないけど代わりになる野菜は
いくらでもあるから。たぶん根ものと葉ものをバランスよく
とれば良いのだと思います。お身体を大切にしてください。(^.^)
それから、つわりの話とっても面白いと思いました。
「哲学でつわり」には笑いました。でも当たってるかも。
しつこいけどホントに無理はしないでくださいね。ではでは。
>カオル
レスありがとう。
君は知的好奇心を満足させようとしてここでの作業をしているのかな。
それとも意識の正体を知って「楽」になりたいからしているのかな。
>苦しむのも楽しむのも自由なのですから。
そうだね。「ふつう」というカテゴリーの設定も自由。自由は不安定。不安定をどうとらえるかも自由。
「苦」の発生の根源についての見解はどう?考えてくれたかな。
イナゴさんへ
>年末から、ずっとじゆんさんになんかレスしなけりゃって、
それはご無体なことをおっしゃる〜
私のせいでありますか? 私のせいなのですか?
そんな、言いがかりですよ。絶対そうに決まってます。
私のせいでイナゴさんが不調だったなんて。うーん、悔やんでも悔やみきれないです。
うーん、人ごとだと思って、大げさに嘆いてみました。これでまたあなたの身体がおかしくなると
いけないので私も程々にしておきますね。
いま私は身体は元気なんでそんな症状はあいにく出ておりません。
が、気分はめっきり沈んでいます。いらだちやはたまたうれしさや、辛さや、切なさなどなどを
日々感じながら、生きております。決して顔には出しません。けどまあ心の中は色々あるのです。
まあ元気出してください。きっと冬が辛いだけです。寒さが痛い季節です。
みんな身体を丸めなきゃ外にも出歩けないのです。普通でいられる方がちょっと変なんですよ。
そのうちいいことがありますよ(無責任でごめんなさい)
>その考えていたモノはまだぜんぜんまとまってなくて、もうまとめる気力もなくて。
実は、私もそんな状態です。だいたい整理ついてるんですが、そんな気がしないのです。
ホントはずっと逃げ回っていたいです。じつは長文4.5レスくらい書くと、そのあと5日ぐらい
なんにも考える気がしないんです。で正月からずっとそんな感じです。
>でももし興味があるのでしたら、メールしますが。
むろん興味ありです。お願いします。みしてくれー
>>207 哲学で“つわり”ですか? なかなか面白いですね。
ホントは笑い事じゃないんでしょうね。身体を張って得た人生哲学だなと感心いたします。
今後の参考にさせていただきましょう。と言っても私にはつわりのなんたるかは皆目、
見当もつかないわけですけど(えとパパさんもなるのですか? 奥が深いですね)
>つわりは根性で直せ
おそらく哲学も根性です。「石の上にも三年」
それと「果報は寝て待て」ですかね。
>それは胎児の成長と関係していると考えた方が自然だ。
どうなんでしょう。妊婦の胎児の負荷の割合が大きくなるからでしょうか、
もしくはメンタルな部分にサイクル(月の周期)がある(つまり体調は毎日一定じゃない)と信じる者
なのでそういうサイクルに影響、与えるのかな。
えーとイナゴさんすいません。
私の場合、時間を忘れて考えるのが好きなタイプなのですよ。あなたに考えることを
催促する形になって申し訳ない。人には向き不向きがあります。というかいきなりこんな
ことを考え始めたら、知恵熱も出てしまいますよね。
私もこんなに頭を酷使したのは大学受験以来です。毎日がぎりぎりだったりします。
ただ私のはだらだらとあれこれ考えてはまとまりきらない優柔不断さという欠点あって、
どうも壁にぶち当たっては「これは壁だ」と認識(エウレカ)するに留まる始末。
たいしたことは言ってないのです。
まあそう言うことですから、私のことはお気になさらないでください。
あなたの心の中の私を大いにいたぶってあげてください
いやいやイナゴさん、じゅうぶん身体は大事にしてくだされ。
よろしくお願いしますね。ではでは。
>70さんへ
「壮」について考えてみましたけど、なかなか思い浮かびません。
で文芸の哲学的基礎をhtmlでプリントアウトして読んでみました。
なるほど面白かったです。こういうの凄く好きですね。夏目漱石ってやっぱ
すごいなあと思いました。彼が哲学者になっていたとしてもそれなりに名を
馳せたんじゃないかと思えるほどです。昔の文士はいろいろと多岐にわたって
考えているんだなとしみじみ思いました。あと氏の文体が私は大好きなのです。
ってこれでは感想文ですね。自分の頭で考えてみなければね。
○意志とは
「意志は存在である。」
私の定義では意志とはこのような解釈でもって理解しています。
意志を持つとは存在することをやめないことである。つまりあきらめない精神のことである。
あきらめないとは私見ですが、あきらめない方法を模索すること。しぶとくあること。
「私」とは“我という存在”の意志の表象である。すでに目的が存在し(生きるための)、
存在しているということがつまり意志の発現なのである。ここに私は荘厳さを見ることはできない。
なぜならそれは生の形式に従っただけの卑小な精神がただ横たわっているだけだからだ。
そこに崇高な精神など皆無である。
しかし意志の“理想”としての“荘厳”を求めることは理解できるだろう。
○また理想とは
理想とは意志の一つの形式である。
「我」は選択する。失敗や成功、または選択そのものへの逡巡、葛藤が生まれる。
そして経験が蓄積される。失敗や成功は経験となる。後の選択の礎となるだろう。
しかし選択そのものへの逡巡、葛藤は本来答えの出ぬもの経験としては運用できぬ。
そこに人は“定式”などを求めるのではないか、逡巡を起こさぬため、また選択による“葛藤”を
起こさぬため、人は理想を掲げるのでは。と思われる。なぜ逡巡や葛藤が理想を掲げるのかは
ひとまず置いておいて、そのような“理想”という存在が、選択をすみやかに行わせるのは明らかだろう。
“真”を理想とするから正しい選択を得られるのであり、“善”があるから人との和を持続できる。
“美”があるから正しい振る舞いをすることができる。そのように考えれば“理想”の持つ意義も私
にはわりあい簡単に認められる。
○壮とは
まず目的がある。生存のみではない、掲げる理想が一つだけその者にはある。
崇高な精神がある。命を賭してでも守るべき、得るべき何かがある。
自分の意志に気づいた者としての例。
もしくは目的などない。生存する保証は与えられている。掲げる理想などない。
その者は崇高な精神すらない。しかしその者の存在が、他の者にとっての大きな意志の
助けとなることがある。その者の“存在”は他者に必要なものとして存在している。
自分の意志に気づかぬが他の者にとっては気づく“意志” (三船敏郎が演ずる登場人物をイメージ)
とりあえずここまで、次は「信じる」という形式について述べてみたいと思います。
十倍はとても考えられませんでした。今度はあなたの意見を聞かせてください。
むろん私の解釈への批判、問題点もありがたく頂戴するつもりですのでどうか
よろしくお願いします。
>カオルさんへ
一つ言っておきたいことがあります。
やはり言わねば理解されないと思いましたので申し上げますね。
私が終了宣言をした当時では、皆さんは沈黙していました。問題のハルカさんなどは
何日も姿を現さなかった。そんなところで私がハルカ論を語るなど無理、無謀だと思っ
たのです。どうせこないのであれば、私の論だけで言及して欲しかった。そう思い、
新スレを立ち上げるようなことを私は言ったのです。私は議論の意義までは見捨てては
いなかったはずです。
しかしこれは完全に私の状況判断のミスです。私のタイミングを逸した行為だと自覚して
おります。なぜなら皆、健在だったからです。これにはいささかびっくりしました。なんだ皆
いるんじゃんと思ったわけです。ハルカさんまでひょっこり顔を出したわけです(しかも我先にと)。
なに一人で突っ走っていたんだろうかと思いました。
いやこれで良かったのかとさえと思いました。何だか知らないけどハルカ論の
議論まで再開しているし、まあこのままでもいいのかなと思ったわけです。
私は普通の人間ですから、悔しいと思ったり、悲しいと思ったり落ち込んだりします。
何かが信じられなくて今まであなたに対して沈黙していたのは認めます。
しかし私はなるべく正しい行いをしたいと思っています。そのためあまり気違いじみた
行為はできません。それをするのならなるべく沈黙するようにします。
その意を汲んでくださるとありがたいです。私は誰に言われるまでもなく卑怯なのです。
指摘されるほどのことではないな、と思っているだけです。
>カオルさんへ
あなたのことを裏切った形になって申し訳ないです。
議論を放棄した。そのように受けとられても致し方がないですね。
また機会がありましたら、議論を再開させてください。
そのときはハルカ論抜きでよろしくお願いします。それでは。
じゅんさん宛て
えぇ? もうまとめたの? …消化しやすいのか。やっぱり千円札の顔だけあるね。降板は寂しいよ。
著作集なら、ちくま文庫の全集10巻目か講談社学術文庫がいいのではないか。
意志と理想と、とんとん拍子に読み進めてきて、「定式」だなんて俺にとって未開の言葉も頂戴できて儲けものだったのだが、
やっぱり、「壮」で止った。ここで、俺と君の愛すべき三船敏郎がうろうろと迷子みたいにならざるを得ない。
三船敏郎も侍、リーマン、チンピラとさまざまな役をやっているよね。
>目的がある。生存のみではない、掲げる理想が一つだけその者にはある。
>崇高な精神がある。命を賭してでも守るべき、得るべき何かがある。自分の意志に気づいた者
俺は君の言ったこれを、「隠し砦の三悪人」「用心棒」等における侍のもつ「壮」という風に取れる。
理想があり、自分の生存を省みない仕事をする点で。
>目的などない。生存する保証は与えられている。掲げる理想などない。
>その者は崇高な精神すらない。しかしその者の存在が、他の者にとっての大きな意志の
>助けとなることがある。その者の“存在”は他者に必要なものとして存在している。
>自分の意志に気づかぬが他の者にとっては気づく“意志”
俺は君の言ったこれを、「天国と地獄」の社長のもつ「壮」に見て取れる。
魅力あり、迷いの渦中にあり、生存が保証されている点で(チョット苦しいかな)。
(つづき)
そして、俺の中にはもう一つ三船敏郎像がある。それが君に欠けているのか、眠っているのか、覚めているのかを尋ねたい。
それは「羅生門」における盗賊や、「七人の侍」における菊千代の持つ「壮」のことなんだ。
君にはどう見えるのだろうか。
「キーッ、ヒッヒーッ!」と笑いだす。真剣な斬り合いのときに突然、相手に背中を見せる。平気で人を騙す。
不気味な風貌。腕が立つのか否か定かではない。他人の死を弔うこともある。雄弁かと思えば、沈黙もする。
総じて【読めない】【真似できない】。受け答えはしっかりしているので狂っているともいえない。自分の死を恐れていない。そして話の中で死ぬ。
君の言葉を借りると、「目的、掲げる理想が一つもない、崇高ともいえない、かつ、生存に固執していない誰の保証もない」かな?
付け加えると、「なぜ存在しているのか定められない、面と向かって尋ねても本人にもうまく答えられない。」
実は、俺は、君の「エヘン」にこの「壮」を見たのだ! ついでに言うと、君は決して信じたくないかもしれないが、
17さんの一連の態度に類似性をも見ている! いったん思ってしまった以上、なかなか覆しようがないのが、人間の情なのだ。
俺も君から「この壮」を分離していいのかいけないのかわからない。そして、どんな呼び名を与えればいいのかもわからず、悩む。
ただ、分離するとどうなるかというと。
綱引きって一本の綱を二組に分かれて、行ったり来たりするよね。それを繰り返すと、二組に疲労が蓄積する。
ところが、三組の綱引きって想像したことあるかな? メルセデスベンツのエンブレムみたいな形の綱を三人が引っ張るとどうなるか?
動かないんだよ。何か「完」の感じがする。時が止まったようになる。いずれもが傾き、いずれもが傾倒しない。均衡が保たれつづける。
二本の手で逆立ちすると、すぐ限界がやってくる。でも頭を加えた三点倒立だと長持ちする。要するに三位一体のことなんだ。
(つづき)
こうした三位一体に気づくことは、俺にとって悟りではない。気づきは気づきだけど、まだ大事なものが残っている。
登竜門というトンネルはまだ終わっていない。
それにしても、当世、なぜ「真善美」しか残っていないのだろう?
「しんぜんび」に「そう」を組み合わせた三十何通りが、俺のIMEでは漢字に変換されない。
つまり「壮」だけ廃棄されているのだ。戦争の影響かな。学生運動の影響かな。ビルゲイツかアメリカの謀略かな。
意志を司る人間の勇壮さ、大胆不敵さは我が国の書物や言葉の中から失われていく一方なのか。
人間の意志の、その行方がさっぱり読めない世の中に感じるのも、こんな理由からなのか。
それとも、99年前の講演で、一回だけ「壮」が加えられたきりなのかもしれない。
俺は文献学者ではないから、その辺の真相がさっぱりわからない。
総じて、真善美壮は別スレを立てたほうがいい話題だね。
17さん宛て
>悟りとかいまや解脱について語られている本質について考察を聞かせてくれると嬉しいな。
急ごしらえの俺の存在解体論考になります。
【自己−精神の働きである「知/情(または感)/意」と、認識の働きである「覚」】
【非自己一切−認識の働きの対象としての知覚物/感覚物の全集合、かつ意志の対象の全集合】
で、あくまで俺の主観ですけど、
「知/情/意」のうち、「知恵」と「情緒」の自己同一性は、ほとんどスッカラカンにもできるし、病的に濃縮なものにもできます。
ただ濃縮の方には、必要のない限りは、傾きたくはない。煩悩というか、病巣になった場合の恐ろしさは計り知れない。
これは意志でどこまでも操作可能です。
このような仕方で、本来は知恵と情緒は自己同一性のない「空っぽ」のものだと断言できます。
所有権は常に非自己一切の領域にあるといっても過言ではない。元々は自己と同一のものではなかったがゆえ。
「知恵」
「恵み」などという漢字が入っているのだから、いついかなるときであれ非自己一切の所有物なのではないんでしょうか。
恵み恵まれ、常に自己の周囲を回遊し、留まらない。
「情緒」
胸にいかなる激情が沸き、それに従って何を働かせても、後々振り返ってみれば、みな絵空事ではなかったでしたか。
つづき
「意志」
残りの意志は、できうるかぎり対等の関係を保つように処方しています。自己と非自己一切で、常に半分こという仕組みです。
「書き込み」をクリックするとき、枠の向こうから、非自己一切の側からのクリックも見えるかの如くまで。
相手に知見と感想を譲渡する意志なのだから、心の中における相手と一緒にスイッチを押すかのような処方です。
意志をスッカラカンにして、非自己一切が深く占めているとき、自己は自動機械の車輪のひとつになるでしょう。
逆に、意志が非自己一切の領域の深くまで踏み込み、
相手の意志を尽滅したら、神の如き力による暴力になるでしょう、エゴイズムという名前の。
よって、ケース・バイ・ケースだろうけれども、やっぱり半分こを目指すのが、一番辻褄が合うのではないでしょうか。
こうやって論考を組み立てている間でも、ドミノ倒しのような勢いで、「意志」が脳裏の知と胸中の情を自己同一のものと決断している。
「これが俺の所有物です」の合わせ鏡的な連鎖みたいなものです。
ということは、今、合わせ鏡と訣別して、「合わせ鏡」と記している俺は誰なのか…? このときの意識が摩訶不思議です。
…このように、意志はやはり「存在」にまつわる性質を強く持っていると思います。何かからくりが仕掛けられている。
意志に意志を向けるのは何度やっても不思議です。「俺(私)は誰だ?」にならざるを得ません。
17さん宛てのつづき 兼 カオルさん宛て
上記は、名づけて(俺の)空観論・縁起論的存在解体論とでも言うのかどうかは知らないけれど、
これに則すと、俗塵の一切は、特にこの掲示板での受け答えなどは、唯名論的呼称ゲームになります。
自己投影物を使った、自己と非自己一切の両者が互いの存在性を懸けた、自己の精神を舞台とした陣取りゲームみたいなものです。
しかし、このゲーム感覚だけでは【悟りにはならない】。【三昧境】とは呼べると思います。
これも一つの気づきなのだけれど、登竜門というトンネルはまだ続いている。
以下の肝心なものが抜け落ちているがゆえに…。以前、俺はこれをまったく知らなかった。
「感覚、知覚」
自己から「覚」を分捕るのが、現実主義の立場をとる俺の【解脱】になります。
これはまだ学の浅い領域のことです。このスレで最近知ったばかりということです。見習いです。
「時間」や「記憶」や「意識と無意識」のことが、明らかに関わっています。
俺の個人的意見ですと、解脱したら、
本人にとって限りなく死体に近い状態になるでしょう。非自己一切が認識されないのだから。
周囲にとって限りなく狂人に近い状態になるでしょう。非自己一切を認識していないのだから。
しかし、なのです。
理想主義的な「解脱」を志向する人にとって、輪廻の有無に関わらず、【確実に解脱する方法】がひとつだけあることが判明しました。
これを自分の【悟り】だと、いま、声高らかに宣言できます。このスレには、もう知っている人も知らない人も両方いるのでしょう。
知っていて言わないのか、もう周知なのか。でも、誰かが言わねばならないでしょう。
【確実に解脱する方法】とは、カオルさんと約束した例のヤツにも深く関わっています。
>>223 >「俺(私)は誰だ?」
いいですね。このテーマは。
私も長い間、答を探していた。答を探して彷徨っていた。
あるとき、駅の改札で誰かと肩がぶつかった。
相手が「何だ、おまえは!」と言った。
私が「おまえがぶつかってきたのだろう」と言った。
・・・中略
まあ、殴りあう寸前で、
相手が「俺が誰か知っとるんかい!」と言ってきた
私は呆然とした。「誰だ、おまえは誰だ」「おまえは自分が誰か知っているのか?」
何を思ったのか相手はスタスタと小走りに去っていった。
しかし、結局のところどこにも見つけられなかった。
どこにもないことが分かった。
これが、答なんだけどね。
>>225 俺もアコギの人と邂逅したことがあります。一辺だけ。
俺の体験は
>>224よりハードかもしれない。
「腕の一本は折る」「身売りするぞ」「当たり所が悪ければ死ぬ」
でも、俺…、そのとき、首を包丁で貫いたある知り合いのことを二年余り考えていて、
そんなこともあって、自分の肉体が傷つくのが何か遠い世界のことに思われた。
で、三時間の問答のあと、結局、握手で別れることができました。
「また会う機会があったら、飯でも奢ってやる」と。…ありがたい言葉です。
アコギの人との握手ですから、
さすがに、現金二千円と携帯電話は犠牲にせねばなりませんでしたが。
また会うのなら、それ相応の食事にしてもらおうと思っている今日この頃です。
>>218 わたしを追い出したいならハッキリそう言いなさい。
わたしはあなたが、
>私はこのスレには書き込まない。
>>138 といったから、このスレにいるのです。
あなたが書き込みを続けるならわたしが去ります。
>>226 そんなアコギな人には会ったことがありません。
運がいいのかもしれません。
因縁をつけてくるのは、みんな人相が良くない人ばかりだけど・・・
私は至って真面目なんですが、なぜか絡んでくるんです。
いつもは、先制攻撃をして、騒ぎが大きくならないうちに逃げます。
しかし、私は反省して、成長して話し合いをするようになりました。
話し合いはほんの数十秒から数分で終わりますが、
不思議なことに、いつも相手が、なにかよく聞きとれないことを言って、去っていきます。
以前に、子連れの、お父さんが因縁をつけてきたので、相手をしてやったのですが、(もちろん、話し合いです)
小さい子供が怯えたのか「すみません」と何度も謝られてしまいました。
それ以来、最近では、あほらしくて、人相が悪いのと、警○はできるだけ避けるようにしています。
>>227 よせ。クリスマスに耳を澄ませた歌のことを忘れたのか。嘘だったのなら、俺も去るぞ。
でも、もう寝なくちゃ。日々の務めをきちんと果たし、また明日考え直そうぜ。おやすみなさい。
俺は口がとことん下手くそなので、徹底的な黙考と運命受容です。
でも、あの時は、約束を交わしました。
俺の侠気は運命受容力となって、今後一切、この一件を犬ども(警○)にもれないよう尽力する。
彼の侠気は統率力となって、今後一切、部下からの俺に対する攻撃の名のもとのあらゆる行動から守る。
俺が約束を破った場合、俺と家族の肉体は彼の手のひらの上であり(住所がバレた)、
彼が約束を破った場合、彼の義侠心は俺の嘲笑に晒される。
俺たちはこれから二度と会わない可能性があるけれど、お互いこの契約を一生忘れない、…こんな感じでした。
ん〜、振り返ってみると、俺の方が利点がないですね。近くに住んでるとは言っていたけれど、名前も知らないんですもの。
名前を使えないのでは、どう守ってくれるというのでしょう。その点、失敗でした。「アニキ」ではねぇ。
何にしても、出会うんであれば、約束を守ってくれるタイプでなくては困りますよね。おやすみなさい。
>カオルさんへ
(70さんご気遣いどうもありがとうございます、今ずっとあなたへの返答を書いてい
たのですが、それどころではないようですね)
私に去ってほしいのなら、去ります。
しかし私にもお願いがあります。
あなたも一緒に去りませんか。
私は今そう思っています。できればあなたにはもう、悟りとか、解脱とかそういうことには関わって
欲しくないと思います。
そういう意味でならあなたには去ってほしいと心より思います。
ここは、あなたには負担が大きすぎるのではないですか。イナゴさんの体調不良の件は決して
冗談ではないと言うことです。
いつも思うのですが睡眠時間はちゃんと取れているんですか?
本当に元気でやっているんですか? それがちょっと信じられないんです。
あなたのレスの量を見てもそう思わざるをえません。
またあなたがこのスレより他のスレにいる方が輝いている、あなたらしいと思えるのは気の
せいですか?
できれば、去ってください。Sさんのスレも同様です。勝手な言い分ではありますがご一考ください。
あなたはハルカさんがいなくてもすでに成立しています。ごまかすのはよしましょう。
あなたが過去を語らなくてもあなたの言葉だけであなただと私にはわかります。
私は自分に酔っているんですかね。まあ酔っているんでしょうね。あなたにならなにを
言っても恥ずかしくはないですから。
(ちょっと気分を変えて)
えと新スレのタイトル実は“哲学遊戯”にするつもりでした。これならわりあい、
いいんじゃないかと思ったんですが、あなたが“遊戯”という言葉をあっちで使ってしまったん
でやめますね。面白みがなくなりましたんで。それに哲学は遊戯じゃないですしね。
まあ何を言ってもあなたは激怒するんでしょうね。私には分かります。
どうぞお怒りください。そのつもりで書きました。というより私の罪を償う方法は
あまりないのですしね。えといいです、私が去ります。あなたは残ってください。
そしてこのスレが、Sさんのスレが営為となるよう励んでください。
あなたが望むのなら、私もそれを望むようにします。
で私はこの板には残ります。まだ完全に去るつもりはないです。
なぜなら、あなたがわめく姿を見たくないから。だってあなた悲しいとすぐ泣くでしょう。
私はそれが非常にまいるんですよね。かなり辛いです。できればやめて欲しい。
あなたがあとで全部自分のせいにする姿が見えるんですよ。
と今度は、あなたのせいにしてしまいました。(全部私のせいなのにね)
感情で書くのもきついものがあります。
本心かどうかも分からないのに言葉が組み上がっていく。
「議論の再開お待ちします」これも本心なのかどうかぜんぜん分からない。
まあもう少し考えさせてくださいな。でも再開できる準備だけはしておきましょう。
しかし私もそのときは醜くとも徹底的に反論しますんで、そのつもりでよろしくです。
実は私はあなたを憎めないのが難点なのですね。それを望んでいるのならあきらめてください。
あなたの「(苦笑)」には笑ってしまいました。あれは誰かのまねのつもりだったんですか?
それともあれは遊びだったんですか?
まあいいや、それではさようなら。
こうでもしないと私は自分の罪を感じきれないんですよ。ご理解ください。
>70さん、
あなたへのレスを今返せるかは迷うところですね。
せっかくたくさん書いたのに無駄になりそうな勢いですね。
まあもうちょっと待ってください。
それと落ち着いてくださいな。こういった問題は最初に片づけるべきだったのです。
>イナゴさん、
本当にすいませんでしたね。あなたの体調の不良は本当に私のせいです。
まあ運が悪かったとあきらめてください。
おそらくあなたにはこのスレは不釣り合いだと思いますよ。
あなたも感情移入が強い人だと思われますので忠告しておきます。
このスレがなにかの救いになることはまずありえないのだと、お考えください。
まあ他のスレでお会いできるといいですね。あとやっぱりあなたの論は書いたのなら
見せてほしいなと思います。じゃないとせっかく病気になったかいがないじゃないですか。
もったいないです。ぜひ載せてください。ここじゃ駄目なら私が乗っ取ってしまった四次元スレ
もあります。妄想であるならなおさら見てみたいです。よろしくお願いします。
>>カオルさん、じゆんさん
今回のトラブルはまたもボクが発端になってしまいましたので、レスを書きます。
ボクの思いは以前書いた通りなのですが、ボクの認識が甘い(わかってない)
為に無用の混乱を招いてしまったことを反省しています。
それはハルカさんとカオルさんの絆の深さゆえに、ハルカさん不在と思われた
議論が決してそうではなかったこと。だからカオルさんが言うように、ハルカさん
の論を中心に展開してきた流れにあるこのスレにおいて、その論を語ることは
正当だということです。そうであるなら、じゆんさんもまた同じということ。つまり
筋は通っていたのです。そしてボクが発言した、つまみにする、一般提示された
モデルを使う云々は不当でした。撤回し謝ります。
それだけでは以前書いたように、いびつな関係は残ってしまいますし、誤解も
生じやすいと思い発言を続けたのですが、これも当事者間のことで、ボクが鼻
を突っ込むのは不用意でした。これも厳に反省します。
過去スレからずっと、誤解するのもトラブルメーカーも、いつもボクなので、どうか
巻きこまれないように注意して下さい。これ以上おこがましい発言はできないの
で、お二人の前に醜態を晒すに留めます。ですからどうか・・・
>>224 レスありがとう。決めているけど決め付けていないんだね。感心した。楽しみました。
>俗塵の一切は、特にこの掲示板での受け答えなどは、唯名論的呼称ゲームになります。
面白い。
>自己投影物を使った、自己と非自己一切の両者が互いの存在性を懸けた、自己の精神を舞台とした陣取りゲームみたいなものです。
鋭いし面白い。みんなが君のその指摘を認めるともっと面白くなるだろうね。
>しかし、このゲーム感覚だけでは【悟りにはならない】。【三昧境】とは呼べると思います。
三昧という感じはあまり演出されていないかな。おれはやってるけど。
ここの人は悟りを特別視し過ぎかも。ここではおれは悟りなど到底叶わないというレッテルが貼られているようだしね。
>理想主義的な「解脱」を志向する人にとって、輪廻の有無に関わらず、【確実に解脱する方法】がひとつだけあることが判明しました。
是非聞かせて欲しいな。君の定義する「解脱」限定で充分だね。面白そう。
>これを自分の【悟り】だと、いま、声高らかに宣言できます。
そう決めたんだね。潔いわ。まあ、いつでも変更可能だろうし、とにかく聞かせて欲しいな。お願いします。
>自己投影物を使った、自己と非自己一切の両者が互いの存在性を懸けた、自己の精神を舞台とした陣取りゲームみたいなものです。
もう一度引用させてもらおうかな。
おれが何度か書いたことと類似した指摘だね。
ここでは相手の気持ちを動かす作業に終始している感が否めない。それは確かに面白いが自覚していないと
気づくことすら出来ないかもしれない。スレタイと無縁とは思えないし、むしろそのことこそ
ここの住人にとっては重要なのだろう。
このような掲示板への書き込みは70の指摘通りゲームだし、おれの言う作戦やテクニックを駆使した
伝達方法だ。へたをすると真意は伝わらず、動揺や焦り、ぬか喜び、怒りなどが伝わる。
みんながわかりきっていることを承知で書いているにはそれなりの意味がある。
知識は利用しなければあまり価値がない。既知の再認識もまた新鮮であること、そこに
新たな発見がありそれをし続けていないと老廃物ばかりが溜まる。
面倒な作業だが、見返りは充分にあると思うが。
>>230 事件なら届けるね。自分で解決したら、捕まるかもしれないから。
それに、相手を威嚇しなきゃならない。
威嚇されたら、はったりに応じず、威嚇する。
基地外だったら、その場は逃げる。
危険物を持っていたら通報する。
だと思いますよ。
>>236 >既知の再認識もまた新鮮であること、そこに
>新たな発見がありそれをし続けていないと老廃物ばかりが溜まる。
それには同意。
最後まで追及しないと、永遠に終わらないからね。
Nさん
そうそうそう。威嚇をせねばなりませんでした。
彼の言いがかりが始まったとき、俺は狼狽のあまり、呆けてしまって乾いた笑いを彼に見せてしまったのです。
相手はカンカンになってしまいました。そこから先の、「俺は彼に謝らなければならない」の組み立て方は、プロの腕前でした。
究極の運命受容を試す実験でいいだろ、と思って、ハッタリにもすべて「ハイ、どうぞ」で応じました。
で、一悶着ついた後、その笑いを利用して威嚇したのです。
あなたが、今日から以後、どんなに微かにでも、俺を金銭的なカモとして利用しうると判断したそのとき、
あなたの心の中で、俺はあなたの義侠心を冷たく笑っている。同時にそれ以後の一生のすべても。
また、
あなたの統率から逃れた手下が、俺を金銭的なカモとして利用したのがあなたに一瞬でも判明したそのとき、
あなたの心の中で、俺はあなたの義侠心を冷たく笑っている。同時にそれ以後の一生のすべても。
この内容でもって、俺が知りうる任侠の世界のあらゆる出来事を想定して、いちいち喰いつかねばなりませんでした。一時間半くらい。
で、この威嚇でもって、俺は警察には届けないという約束を結び、なんとか無傷で握手でした。
それに…、実は1月10日のことだったのです。仕事で特大のミスをやらかしたことも重なって、クタクタになりましたよ。
また、このスレのためのテキストの制作で頭の中が忙しかった。それで警察は断念しました。調書とか面倒なのは大嫌いです。
やっぱり奇怪な感じもするなぁ。でも、哲学に打ち込む間って人は奇人になるでしょう。例えば、つわりを起こしたというイナゴさんのように。
その点ご容赦を。何にしても、早く哲学一本の生活をおしまいにして、春頃には引越しをしようと思います。
17さん
上のような事件も関わりがあったテキストが今日、ほぼまとまりました。
俺の今までの人生にないほどスケールの大きい話で、かつ信実を限りなく真実に接近させる内容なので、やたらに長い。
9レスです。いま俺ができうる、この上なく激辛の内容です。もちろん、サラッと伝える譲歩の用意もありますけど。
9つの俺のレスが続けて、このスレを独占するのは、普通に考えて恥ずかしいです。
どんな態度、どんな品位が相応しいのか、さっぱりわかりません。何でこんなことになったんだろう、と不思議な気持ちになります。
しかし、俺の本音を明かすと、
今の俺にとって、これをたった一人の小学生にであれ、日本語を読める人の誰かに打ち明けずには死ねない。
これに尽きます。
17さん
昨日の晩、一番最初に述べなければならなかったあることに、今日気がつきました。
>面白い 鋭いし面白い 潔いね
恐縮です。こちらも返事を楽しみました。
あなたのレスで、反論に乏しい賛辞中心というのはあまりにも珍しかったので、
こちらの大事な気持ちと共に見落としてしまいました。
普段、ずれたことしかいわない俺でも、たまには人の役に立てるのだなと思いました。
>>238 >それには同意。
そうかい。助かるよ。
>最後まで追及しないと、永遠に終わらないからね。
そう。最後の見極めもなかなか困難だしね。
>>240 >いま俺ができうる、この上なく激辛の内容です。もちろん、サラッと伝える譲歩の用意もありますけど。
おれ個人は「君のやりやすいやり方」でお願いしたいな。
ここで何度も述べたように、表現は伝達手段であるため方法を誤ると気持ちの動かし合いに終始する可能性もある。
本質だけを理解するなら何でもいいはず。おれは読むからあまり気にせずお願いします。
>今の俺にとって、これをたった一人の小学生にであれ、日本語を読める人の誰かに打ち明けずには死ねない。
こういうところが面白い。「伝えたい」んだね。このスレにここまで自分したいことを明確に表現した人は
少ないね。楽しみ。
>>241 >あなたのレスで、反論に乏しい賛辞中心というのはあまりにも珍しかったので、
>こちらの大事な気持ちと共に見落としてしまいました。
反論をしているつもりはないんだけど、そう見えるのはよくわかる。
君へのレスでも変わりなかったと思うけど、今回は確かに「面白い」を連発したね。
「面白い」はおれの主観でありかなり素直な気持ち。ここではかなり気を使った表現(あれでも
おれとしては気を使っている)をしているが、今回はあまり気を使わなかった。
君が好意的に受け取ってくれたのなら幸いだ。
>あはははは!(爆笑)いいわ、君最高だ。『害悪』って意味で最上級だわ。
>いやー、ここまで素晴らしい輩を見たのは久しぶりだ。君の発言で笑い転げたよ…ありがとう。
>全くもって素晴らしい(爆笑)
これはあっちのスレでハルカがおれに宛てたレスからの引用。
どうやら楽しそうというより、おれの気持ちを動かそうという作為的なものが感じられる。
おれはこのような表現を面白いと思うが、当然君に対して使った意味とは異なる。
なにやら必死でおれの気分を害そうと試みているようにみえるところが悲しいし健気な感じがする。
事象は事象。それをどうとらえるかはとらえる側の自由。いくら作為的に相手の気持ちを動かそうとしても
結果醜態をさらすことにもなりかねない(それを非難しているのではないよ)。とおれは思う。
人はしたいことをやりたい。やりたくないけどしかたないこともやる。たいていどっちかだね。
ここでの作業はみんなどうなのかな?やりたいこと?仕方ないこと?
70はやりたいんだろうね。おれも楽しんでやってる。
17さん宛 兼 カオルさん宛
>おれ個人は「君のやりやすいやり方」でお願いしたいな。
>おれは読むからあまり気にせずお願いします。
マターリで、あくまでゲーム感覚でいきましょう。
これは、オリンピックで三段跳びとかの選手が会場に拍手を求めてからスタートするように、
全体の気分を盛り上げようとして言っているのでは、ない。
理由は、カオルさんの
>>78「ハルカの悟りと一般の悟りはやっぱりちがうのでしょう?」
…これに答える形でテキストが始まっているからです。カオルさんにも読んでもらわないと、何か腑に落ちないものが俺に残る。
ところが、俺はカオルさんとまったく言葉を交わしていない。
複雑な気持ちを抱えたままなのかもしれない。交通事故に遭ってしまったのかもしれない。
この三週間を読み返してみると、俺は不覚をいっぱいやらかしている。「あの一句、あの宛先…」
少なくとも「近々まとめる」と言っておきながら、経過報告を全くしなかった。
だから、今日から一週間だけカオルさんを待ちます。
17さん宛
>ハルカさんが悲しく健気
この発言は見ていました。驚きました。ここでいう驚きとは、
「その対象が我われにとって【都合のよいものかそうでないかを我われが知る前に起こりうる】」
というデカルトの驚きに従ったものでして、それに続く判断を今回、俺は何も述べません。
>70はやりたいんだろうね。おれも楽しんでやってる。
俺はこの三週間のあいだ、現実の人生よりこの掲示板における人生のほうが、俺の一生であっても構わないと思えるほどでした。
特にじゅんさんとのやり取りが楽しい。続きも楽しみだ。
せわしい資本主義社会下では決して成立不可能なような、丁寧で慎重な論歩で話し合うと、
顔を一遍も見たことがない人でも、その精神を目前にできるっぽい。
素性を隠しながら人生一体をぶつけ合えるのは、緊張もありますけど、楽しいです。
何かほかの話をして時間をつぶしましょう。
音楽ソフトをいくつ持っていますか。
ゲーム感覚というのはいつ頃から身に付けたんですか。前スレの25の書き込みのとき(俺は振り返れない)からですか。
この掲示板にて、無報酬で一日の多くを費やしていることをどう思いますか。
その他、何でもいいんで。一つだけ。
>>245-246 お好きに。楽しみに待つよ。
>音楽ソフトをいくつ持っていますか。
CDとか?あまりないかな。ずっとギターやってたんだけど、今はチェロ弾いてる。聞くより弾くかな。
>ゲーム感覚というのはいつ頃から身に付けたんですか。前スレの25の書き込みのとき(俺は振り返れない)からですか。
2chでということならそうだね。
>この掲示板にて、無報酬で一日の多くを費やしていることをどう思いますか。
収入についてが一番悩ましいね。金はとても必要だから欲しいんだけどあまり勤勉ではないね。
というか経済の本質を見ると消費経済に自分が不適応だなーと。
おれはここ以外でも、メールとか直接とか人によくここで話しているようなことを語りかけている。
おれのしたいことの一つだからね。とても有意義。金は誰かにパトロンにでもなってもらえるとありがたいよ。
他の人はどうしているんだろうね。おれはあまり歓迎されていないようだし、おれとふつーに
会話を楽しむ君に被害(?)が及ぶことがないと喜ばしいんだけどね。
>>73 審判さんへ。
あの、実を言うと審判さんの書き込みを読んで、よくわからなかったんです。
審判さんは、25=17さんを高坂均さんだと主張しているのですよね。
でも私はその高坂均さんを知らなくて、ですね、17さんとこの人がどう結びつくのか、すぐに理解できませんでした。
で、高坂さんてどういう方なのか検索してみました。映画板の人のようですね。
私はなにかあると、すぐ検索してみる性質のようなんですね。
前スレでヘンなコピペ荒らしがあったときも(漏れさんが「どこから弾かれて来たんだ?」と言ったアレ)、どこでこんな楽しい会話をしているのかなと、コピペから文を抜き出して検索してみたんです。
そしたら掲示板ではなくHPに行き当たってしまいましてね。コピペそのまんまのモノがそのHPに載っていました。
で、そのHPに書かれていた主張と25さんの主張が同じような感じだったので、このコピペ荒らしは25さんだと思ったわけです。
その荒らしの前にハルカさんが25さんをスルーしますと書いてあったから、それを見た25さんがかんしゃくを起こして荒らしになったのかなと(それに名無しさんへのレスで25さんは自分が荒らしたことを認めていたはず)。
あと、前スレの「にゃん」さんって誰なんだろう。タイミングとしては25さんの書き込みに誰もレスしなくなったところで出てきたような。
でも、まあ。
私は17さんのお相手はできませんが、17さんが楽しんで2chにいるなら、それでいいのかな、と思います。
ただ、その楽しみによって誰にも相手にされなくなってしまうのでは、とも思うんですけど。
じゆんさんへ。
>>213-214 >>年末から、ずっとじゆんさんになんかレスしなけりゃって、
>それはご無体なことをおっしゃる〜
うん。確かにご無体ですね。まあ、じゆんさんに負けられんって、頑張っちゃっただけです。
「20年間無敗の雀鬼」桜井章一も大きな勝負の前は眠れなくて食べれなくて吐いていたというから、そんな感じのことです(私は麻雀はやらないんですけどね)。
>それは胎児の成長と関係していると考えた方が自然だ。
というのは、
妊娠初期[1ヶ月]
[2〜3ヶ月] つわり
[4ヶ月]
妊娠中期[5〜7ヶ月]
妊娠後期[8〜臨月]
と分けたとき、胎児の内臓ができて機能し始める[4ヶ月]にはつわりが収まるというから、問題は[1〜3ヶ月]のとき胎児は何によって作られるか、だと思うんです。
[1ヶ月]のときにつわりがないのは、胎児は本当に小さくて母体が感知できるほどの影響はないからで。
胎児は母体の栄養を直接使っているのではないのか(この「直接」とは、内臓を機能させて栄養を作り出す「間接」に対して)。
でも自分で言っておいて、どうかな?とも思ってしまって。
ニューロンで使うタンパク質と胎児を作り出すタンパク質は同じなのかな、とか考えてみたけど、そういうのはいくら考えても私には答えは出せないなと、ここらへんで思考停止したほうが無難ですね。
>>233 >あとやっぱりあなたの論は書いたのなら見せてほしいなと思います。
ええ。それは構わないのですが、
>ぜひ載せてください。ここじゃ駄目なら私が乗っ取ってしまった四次元スレもあります。
掲示板に載せるのは無理です。まず文章になっていないし、それを文章にするには、もっと知識を仕入れないと無理な感じでして。
メール:
[email protected] 適当にフリーメールを取って、こちらにアドレスを送ってもらえばメールしますよ(word文書添付でいいですよね)。
そのメールを見て掲示板に書き込めそうなネタがあったら、それはじゆんさんの言葉で書き込んでください(私が書き込めないモノを、それをじゆんさんが書き込んだとしたら、そのときは、私がじゆんさんに反論することになりそうですが)。
でも頭の悪いことを考えていたので、やさしい目で見てくださいね。
>あなたも感情移入が強い人だと思われますので忠告しておきます。
>このスレがなにかの救いになることはまずありえないのだと、お考えください。
きっとじゆんさんにレスをもらうことでも何かの救いには成っていると思うのですが、そういうことではないですね。
私は2chで考えるお題をもらっているようなもので、救いを求めているわけではないです。
この場合で言えば「救いとはなんだろな」って感じです。
いや別に考えるのが好きだというわけでもないのですが、自分に足りないものは何か、自分の限界はどの程度か、把握しておくのもいいかなと。
ん?何か理屈っぽくなってきましたね。
>まあ他のスレでお会いできるといいですね。
実を言うと、掲示板に書き込むこと自体、この一連のヤツが初めてで。でも、もう慣れて来たのかな。他のスレにも書き込みたくなっています。そのときは、よろしくお願いします。
カオルさんへ。
>無理とかしないでください。ホントにホントに。
カオルさんはやさしいなぁ、と思いました。でも今は全然大丈夫ですよ。
ご心配をかけてしまったのなら返って申し訳ないです。まあ、ただの笑い話として受け取ってください。
>七草かゆ食べられましたか?
そう言えば、私は今まで一度も七草かゆと言うものを食べたことがないことに気が付いた。
ファミレスの五穀雑炊はおいしかったです。
>それから、つわりの話とっても面白いと思いました。
>「哲学でつわり」には笑いました。でも当たってるかも。
最新のネタとしては。
4日ほど前かな、バイト先に高校生が遊びに来て、パチンコのボーダー理論の話から(回る台で一日中打ってれば負けないとか。いやパチンコもやらないんですが)、年末のテレビ番組の話に変わって。
なんでもプラズマの大槻教授が言うには「アポロは月に着陸していない」んですって。
その根拠にカメラのことを指摘したらしいんですが。
でもカメラ以前に、スペースシャトル様にできないことをアポロ君ができるとは思えない。
それに、もうヘロヘロになって月に着陸したのに、そこから地球に戻ってくるなんて無理。
月にも地球に向けてロケットを打ち上げる発射台が必要なのに、じゃあその発射台はどうやって作るのか。
ゆえに「アポロは月に着陸していない」という結論になりました。
それから話は変わって。
なんでも宇宙は膨張しているんですって。そして、そのうち今度は収縮するんですって。
そしたら時間が逆行するとか、どこかの頭のいい人が言っているらしいんです(まあアメリカ人だな)。
いや、宇宙が膨張するとか収縮するとか、宇宙の人も大変だなと思うんですが、まあ、それはわからない。何か観測データがあるんでしょうね。
でも、たとえ宇宙が収縮したとしても時間が逆行することは、ありえない。
そもそも宇宙の膨張とか収縮とか、それって空間の話なのに、なぜ時間の話が出てくるのか。
こんなネタはどうでしょう?ではでは。
「壮」について。70さんとじゆんさんへ。でも直接は関係ない話です。
「壮」という言葉を見て思い浮かんだのは、「龍」です。何を言っているのか分かりませんね。
「東洋思想入門」みたいな本で中国思想が載っていたのかな。昔に読んだきりで、うろ覚えですが。
なんでも、人は誰でも龍の卵を持って生まれてくるそうです。
でも下手をするとそれはいつの間にか人に迷惑をかける蛇になってしまったり、または、卵のまま何も孵らなかったりするそうで。
そうではなくて龍の卵から龍が孵るように育てなければならないと(ごく簡単なことなのかもしれませんね。もともと龍の卵なんだから)。
そういうのを思い出しました。
今、まったくの偶然で夏目漱石を読んでいます。
新聞の社説の教育論に、「いや、それはいかんだろ」とツッコミを入れたくなって。
呉善花の日本論で『吾輩は猫である』からの引用があって、それと社説の教育論が私の中でぶつかってしまって。
でも引用を根拠に新聞に文句をつけるのもなんだからと『猫』を読んでいます。
でも『猫』ってけっこう厚いのね。読み終える頃には新聞に文句をつけるのも、どうでもよくなってるかも。
夏目漱石は。
そのうち読まなければ、と思いつつ今まで読んだ事がなかったのだけど、おもしろいですね。
「文芸の哲学的基礎」もまだ始めの方しか読んでいないけど、
>>215でじゆんさんが言うように、
>彼が哲学者になっていたとしてもそれなりに名を馳せたんじゃないかと思えるほどです。
そのとおりだと思いました。
ただ『猫』を読んでいて何か微妙に引っ掛かるところもあるんですよね。
なんだろ?言葉にできませんが。
>>251 >なんでも宇宙は膨張しているんですって。そして、そのうち今度は収縮するんですって。
>そしたら時間が逆行するとか、どこかの頭のいい人が言っているらしいんです(まあアメリカ人だな)。
>いや、宇宙が膨張するとか収縮するとか、宇宙の人も大変だなと思うんですが、まあ、それはわからない。
>何か観測データがあるんでしょうね。
>でも、たとえ宇宙が収縮したとしても時間が逆行することは、ありえない。
>そもそも宇宙の膨張とか収縮とか、それって空間の話なのに、なぜ時間の話が出てくるのか。
宇宙が膨張している根拠としているのが、
地球から見て星が赤方偏移している。
遠い星ほどより赤方偏移している。
だったと思います。
つまり、
全ての星が赤方偏移している⇒
ということは、星が互いに遠ざかっている⇒
遠い星はより早く遠ざかっている⇒
ということは、宇宙は膨張している⇒
ということは、宇宙はビッグバンからはじまった
という仮説。
で、膨張するスピードが落ちてくると、今度は互いの重力で収縮を始めるという仮説。
宇宙の収縮とともに時間が逆行するという根拠は、
ビッグバンがあって宇宙の膨張によって、『時間』と『空間』が始まったという仮説から来るものです。
ビッグバン以来の膨張が逆行するなら、『時間』と『空間』も逆行するとういう考え方から来ているのです。
でも、時間が逆行するなんて時間の観念が誤っていますね。
そもそも、時間が流れるという観念が誤っています。
時間について・・・
すべてのものは今現在でしか存在していない。
過去と思っているものは、記憶の中にしかない。それは、今思い出している。
未来と思っているものは、想像の中にしかない。それは、今想像している。
物事は常に変化を続けている。
過去は起こったがもう存在していない。
未来は起こるだろうがまだ存在していない。
だから、真円や正三角形が理論上のものであるのとおなじで、
今現在が常に変化を続けているのみで、時間とは概念上の思考の産物になるのです。
人にビッグバンがやってきたのが悟りです。
内部で何かが爆発するのです。
爆発後、一変する。
あれ?俺がいないぞ。どこいった?
今まで、在ると思っていた俺がいない。
目の前にあるものが全部俺?
記憶を確認すれば、こちらに俺がいるが、はてな?
ってな具合です。
>>252 イナゴさん
漱石の英国留学から『猫』によるデビューまでは、彼の哲学徒としての苦闘時代でした。
ひどい神経衰弱に罹っていて、精神不安定だったみたいです。まいにち下宿で泣きながら、洋書を何百冊と読んでいたとか。
自分も『文芸の哲学的基礎』を読み返してみたんですけど、ちょっと俺の紹介に不備があることがわかりました。
『文芸の哲学的基礎』では四種の理想のうち、最後に「荘厳」という単語を中心として説かれていました。
そして、次の講演である『創作家の態度』で、真善美「壮」となっていて、
これでは、『文芸の哲学的基礎』と『創作家の態度』を合わせて読まないと、俺の紹介した意図がわからない仕組みになっています。
すみません。
中国史の詳細に目を通してみると、龍の卵から孵ったとしか思えないほどの壮士がいっぱい登場してきますよね。
自分は、学生時代に陳舜臣『中国の歴史』を繰り返し読んで、壮士のコレクションをつくっていました。
でも、時局の趨勢にあらがう彼らの意志はあまりにも小さく、儚い。そこも、また魅力のひとつなんですよね。
>>248 >審判さんは、25=17さんを高坂均さんだと主張しているのですよね。
そうなの?しかし、君はおれの「正体」が気になるようだね。
>で、そのHPに書かれていた主張と25さんの主張が同じような感じだったので、このコピペ荒らしは25さんだと思ったわけです。
なるほど。でも誰も質問していないのにどうしたのかな?
>(それに名無しさんへのレスで25さんは自分が荒らしたことを認めていたはず)。
認めた記憶はないかな。70が指摘するところのゲーム性のあるおふざけで答えた記憶はあるよ。
>あと、前スレの「にゃん」さんって誰なんだろう。タイミングとしては25さんの書き込みに誰もレスしなくなったところで出てきたような。
まあ、おれではないよ。信じる必要もないけど。
>私は17さんのお相手はできませんが、17さんが楽しんで2chにいるなら、それでいいのかな、と思います。
繰り返しで恐縮だけど、「いいわるい」は主観だね。ここの住人でこれを理解できている人が少ないことが悲しいな。
君がいいと思うのは自由。おれにはあまり関係がないね。
>ただ、その楽しみによって誰にも相手にされなくなってしまうのでは、とも思うんですけど。
現実がそうだね。ほとんど相手にはされていない。よくわかっているよ。
人のその場の気持ちを動かすことはおれの作業の目的にはない。
人は自分の気持ちが大事。
これは、人はその場の自分の気持ちや気分で自分を見失う ということも指している。
おれが語り合いたいのは、それを認識した上での話。
話し合いたいのは山々だけど、表面上の話はとりあえずだね。
>カオルさんへ
よく考えてみたのですが、
どちらかが去らなければならないなんてナンセンスだと思います。
私はここで話す、そうするとカオルさんは話せなくなる。沈黙
カオルさんが話している、そうすると私は話せない。沈黙
私がカオルさんと話したくてもこれじゃ話せなくなる。
こんなの不条理ですよ。
仲直りしませんか。
議論を放棄したのはすいませんでした。
あなたの信頼を裏切ってすいませんでした。
実はメルアド取りましたので、書きにくいことがあれば
ここに送ってくれると助かります。実はここに書きにくいことがけっこう私にはあります。
あなたに直接聞いてもらいたいことがあるんです。まあここで話せればどんなにいいことかとは
思いますが、自分としては整理もついていないことが大部分で機が早いように思われるのです。
[email protected] >イナゴさん、アレもここに送ってくださいな。
>70さんのアレも書き込みにくければここに送ってください。
(私の壮はかなり主観的なのでここでは語れないことが判明しましたので、
まずはあなたに直接伝えたいかなと思っております)
まだまだ口足らずで、話したりない気分なのですが、心持ち長居しにくいので
一旦ここで失礼させていただきます。
>>247 17さん
やっぱり、あんな風な立ち回りは、何らかの技芸の鍛錬によって磨かれた、しなやかな感性がないとできないと思いました。
詳しく述べようとしても上手くいえないんですけど、例えば、
「害悪として最上級」の奥にあるものを普通に感受したら、ただでは済まないでしょう。
あなたは「害悪として最上級」から感受される情緒を、知覚によって
「害悪として最上級である」と「害悪として最上級ではない」とに分解し、
その中間の「いずれでもない、真相は読めない」の上に立って、その刺激に従っているんじゃないかと思いました。
「害悪として最上級」の絶望から、「害悪として最上級ではない」の一縷の望みまで、どれほどの規模があるのかはわかりませんけど、
その中間に「いずれでもあるし、いずれでもない、総括するに読めない」を設置して、その上に立って次の行為を行う。
読めないものを追うのはゲームそのものですので、これが「面白い」という俺への告白につながるのかな、と思いました。
これはじゅんさんとの対話
>>220で言った、二組の綱引きを三組の綱引きに分離する、「第三のための概念」を得る能力と同じです。
疲労がない、長持ちするのやつです。
理屈でいうのは簡単ですけれど、人間の情ですから、「読めない」の真空に立つのは大変だと思います。
一瞬なのか時間をかけてなのか、とにかく情緒の刺激のスケールを描けるのは、楽器の演奏家でもないとできないと思いました。
>>259 まあ、それほど難しい解釈をしてるわけじゃないんだけどね。
あっちにレスしたけど、害悪という規定は主観だから(絶対的な害悪は存在し得ないね)
基本的にあまり気にならないというか、そういう表現が面白い。最上級だし。かなり面白い。
また、害悪には対象が必要不可欠であり、この場合おれ以外の住人のはず。
ところがほとんどの人が(君以外)おれと絡もうとしない現状ではおれは存在していないに
等しい(どうやらそうでもないのかも)。
よって彼女の規定は無意味。のはずなんだけど、おれにレス返せないところを見ると、
彼女の論理を展開する上で、おれが最上級の害悪だという「思い込み」は彼女の中にはあるのかも。
彼女が「解脱」の種類を知っているような論調だから、なんか根拠があるのかな?と思って聞いたまでなんだけどね。
これって触れちゃいけないのかい?根本的なとこだと思うんだけど。
あるなら、とても知りたいし、ないなら彼女独自の理論だということだね。
裸の王様ってことなの?そりゃあんまりだよね。理論は基盤がしっかりしていないと後で困ると思う。
>「第三のための概念」
面白いね。客観性とは違うのかな?
共通認識はないよ、とおれがしつこくいう意味があまり理解されないんだけど、君はわかるんだろうね。
「馬鹿」は侮蔑用語たりえるし、愛情表現にもなる。状況や言い方で言う方も受け取る方もなんとなく
わかるような気がしている事象だ。そしてその「言葉」の本質は「ない」。付着した「あいまいな雰囲気」
を言う方も受け取る方も独自に解釈している。
そこでやりとりされているのは「気持ち」。気持ちの動かし合い。
おれは相手の言葉でいつでも反射的に気持ちが動くわけではない。というかあまりない。以前はひどいもんだったけど。
おれの気持ちは自分で決めている。ということかな。
おそらく理解可能だろうね。
261 :
考える名無しさん:04/01/19 23:39
17さん大好き。これからもイパーイカキコしてね
>>261 それはどうも。書きたいけど独り言ではあまり意味がないね。
君も書き込んでくれよ。
70さんへ
ちょっと進行が遅れ気味なんで「壮」についてちょこっと書いてみます。
もうカオルさんとの書く書かないは後回しです。順番に片づけていこうと思ったけど
無理というか、難しい、なんでこんなにややこしいんだ。
って自分にもその責任の片棒は担いでいるわけだけどさ。
「壮」
壮ってなんだ。つまり生き様か。信念とか理想とか“うす甘いもの”なのか。
いやそうじゃない。そんなものではなく目的があって目的のためなら何をしてもいいという
気合いのことなのか? どうも「壮」ていうのがよくわからない。自分の「壮」は見ることはできるの?
70さんは私のエヘンに「壮」を見たというけど、ほんとにそうなの?
エヘンエヘンエヘンエヘン、4回言ってみたけどこれも「壮」なの? そんなに俺って変?
これってすごいことなの? なんかだね俺も仕事で失敗してちょっとまいってるんだけど(まあたいし
たことではないが)、精神的に疲れてくると気が触れてくるのは分かる、まあ気が触れている自分を
演じたいのは分かる。でもその気が触れてる自分て本物か?
そもそも17さんの言うように気持ちにすぎないのか。
(+17さんへ)
私はね、それほど生きるのが上手じゃない。たぶんコツっていうものがあるんだけどどうもそれを
掴みきれない。うまく波に乗りきれない。だからまあそれほど計算高いわけではない。
思いこみが強いだろうしね。うまく感情をコントロールできない。まあでも総合してみてね、
こういう思いこみの強い自分は嫌いじゃない。感情に流されるのも悪くないと思っている。
17さんは感情をコントロールすることを大事にするようだけど、私の場合は逆に感情に流される
流される、流されて流されまくる方向に惹きつけられる。ちょっと危険ですかね?
まあそれでいいと自分が思っているのはなぜ? なぜなら感情ってコントロールできないから。
本能、きれいな私から見る、醜い欲望が感情にあったとしても、それは制御できないんだよね。
醜い欲望はそのままでてくる。その感情に抵抗しようとしても無駄だね。ならその感情に乗っちゃえ
ってことなのかな。いやいろんなことを試すんだね。でねある選択をしたときに一瞬、みごとにいやな
感情が解消されることに気づくの。もしかするとそれが17さんの言う気づきなの? だとしたら甘くないか? それも思いこみだと思うよ。でもその気づきは思いこみじゃないと17さんは思っているらしい。
そこがよっくわかんねーんだよね。なんでそんなに自分の気づきが立派だとふるまってんのかよく
わからない。だってそれも思いこみじゃん。17さんの言ってることって、自己啓発本に書かれている
こととあんまり変わらないんだよね。まあ似たようなものにみえるんだけど17さんは違うつもりなのかな。どっちで
もいいけど。
まああなたのように乱暴にあつかえるキャラっていいね。
例えばうるせい、とかアフォーとか言っても、また邪険に扱ってもお互いしこりが残らないからね。
たぶん17さんはそういうことには本当に慣れているみたいだから、本当に気にしてないように見える。
すごいね。うらやましいよ。
17さんへ
えとあなたを無視していたのは答えるのも不便だったからです。ごめんなさい。
たんにめんどくさかった。もうちょっと気の利いたことを言えるようになったら私も
レスしやすいんだけど。
あと興味がないんだよね。あなたのレスに答えるんだったら
他のスレでいろいろ面白いスレを読んでた方が気分はいい。
基本的にここで哲学を勉強しにきてるんでそれ以外のことはあんまり興味がない。
まだまだ哲学を語るレベルが足りなくて、あんまり学問的なスレに触れられないけど
そのうち触れていきたいと思ってる。独学だから時間が掛かるし、時間もあまりないから
的を絞りたい。会話しても無意味と思われるあなたのレスはスルーしたいんだよね。
ちょっとあなたとの会話は無意味チック。
まあ気が向いたらこれからもレスするから許してね。それでは。
イナゴさんへ
>「救いとはなんだろな」
そういえば「救い」ってなんなのでしょうか?
自分の存在を実感できる瞬間が「救い」なのかな。自分の役割を知ったとき救われていると
感じられるかも知れない。
>きっとじゆんさんにレスをもらうことでも何かの救いには成っていると思うのですが
そう言われるとうれしいです。ちょっと救われた気分になれます。
実は私も「猫」は引っかかってまして、途中で読むのを放棄してしまいました。
今度もう一度再チャレンジしてみようかと思います。
ちなみに私は「それから」が好きです。
では
>カオルさんへ
あなたと議論したい項目を述べます。
1
カオルさんは自我がないとあっちのスレでおっしゃってましたが、
私は自我ってあると思うんですよね。あれってどういう意味ですか?
ウィトの独我論が関係してくるみたいだけど、ウィトはまだまだ理解が足りないんで
ちょっと分かりづらいです。そこら辺のところの意見を出していきたいかと思います。
そこら辺の(知覚、思考、感情)から自我、意識などについて言及してみたいです
2
あとカントの統覚って言葉がどうもなじまないんです。
私の理解が足りないだけかな。カントの物自体の発見にはとてもすばらしいものだと
思うんですけどどうも統覚が存在するようには思えないんですよね。これもなんだかいわゆる
無定義概念なんですかね。統覚って機能として存在しますか?
私の言った仏教の六識脳が、第六の感覚器官と同じようにかなりあやふやな定義という感じが
するんですけど、気のせいですか。
そこら辺の認識、知覚システムについて科学的に実証してみたいです。
ちなみに私にとって1と2は別の観点を採用していますのでご注意ください。
1は極めて形而上的な言及に終始されますが、2はいちおう脳生理学への見解をもとにします。
1と2はどちらも相互に論を補完し合います。2についてはここではあまり語ってないですが
正月の「セックスの対象は実在する必要はあるのか」スレでの174の自分の論を基にしています。
見れる人がいれば見といてください。そこら辺も整理して後々に提出したいのですが時間がなくて
棚上げ中です。ちなみに科学的の根拠となるもの、としていま「脳のなかの幽霊」という本を読んでます。これらのことも後々紹介できたらと思います。この本の紹介はこの板で見つけました。
まだ半分も読んでないですが結構面白いです。
3
認識主体はあるのか、ないのか。認識主体とはそもそもどのように構成されてきたのか
まあこれはハルカ論の反論になるんですが、意識点とか虚存とか、それらのハルカ論の
性質について言及してみたいです。最終的には快苦の二元判断の否定を行いたいのです。
快苦の二元判断はないと考えるのです。つまり「快/非快」と「苦/非苦」の判断に
分けられるだけです。そして「非苦」は存在しないという方向へ持って行きたい。
あと他にもいろいろと主張したいことはあるのですがとりあえずこんなところで。
えーといまさら思ったんですけど、
>>131以降の私のレスはかなりひどいことを私は言ってますね。
当たり前のことですがかなりカオルさんのことを侮辱していますね。申し訳ありませんでした。
でも気づいてよかったと思う。
あと誤解されると困るんですが、私はすべての私の発言が正しいと思って発言しているわけ
ではないです。何でもかんでもハルカ論に反論しているつもりはないんです。私は間違ってても
発言しちゃうんです。間違ってると思ったら指摘してください。その指摘はありがたく頂戴
します。ていうか私は考える素材を提供する意味も含めていろいろ発言しているつもりなんです。
問題意識をみんなに提供しているぐらいにしか思っていません。
スレに自分の言葉を載せてそれを眺めて、他の人の意見を見てまた自分でも再考するように
努めているだけです。
基本的に形而上学的のことについて言及しているわけだから論破とか無意味だと思うんですよ。
でカオルさんに私がハルカ論の論破者に設定されたのがいやで議論を放棄したというのもある
んです。ハルカさんにそう受けとられるのは仕方がないかもしれないし、むしろ議論が活性化
される場合もあるからそれは構わないけれど、カオルさんにそう受けとられるのは嫌なのでした。
だって議論て一人に向かって訴えるものでしょ。それしか私にはできない。二人の言葉をまとめて
反論なんて不可能ですよ。まったく同じことをカオルさんとハルカさんが考えているのならそれでも
いいんだけど、二人は同一人物じゃないでしょ。よく見ると微妙に主張が違っている。
カオルさん一対一で議論しませんか? 私はかなり物わかりが悪いですけどそれでもよければ
議論に付き合ってくれるとありがたいんですが。これまで通り間違っていると思われるところを指摘
してくれると助かります。
実は新スレを立ち上げたいと思った当初の目的は、脳生理学や認識論のことを専門的に
言及したいかと思ったのですが。まあここでもできることですもんね。
もう自分にとって悟りとはどこへやらですが、今はちょっと「悟り」はどうでもいいです。
好きなことだけやらしてください。わがままな私を許してください。
70さんへ
きっとカオルさんは帰ってきますから(そう信じています)
だから気兼ねなくこのスレで活躍してみませんか、私もこれからちょくちょくレスしますんで。
私はあなたと比べて学のない、いい加減な男ですができるだけ努力してあなたの意見に
耳を傾けるつもりです。夏目漱石氏の話も詳しそうだし、いろいろたくさん物事を知っているし
経験豊富そうだし、うらやましいです。まあ期間限定の住人のようですが、それまでの間は
お付き合いしていただけると助かります。(実は私もいつまでいれるかは微妙なのです)
まあ思ったことはばんばん言いましょう。なるべく私もそういう風にしたいと思います。
ただ時間が余り取れないのがいつも口惜しいですね。
もっとあなたからもいろいろ学びたいと思うのだけど、毎日が簡単に過ぎていく。
けっこう焦ります。
なのでできるだけ有意義であると望ましいですね。いろいろご意見お聞かせください。
そうだ言うのを忘れておりましたが、あなたの意見はかなり興味深いし面白いです。
ご感謝申し上げます。そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。
あと最後に私見ですが「壮」はどうも物語だからこそ生きるのであって
現実では「壮」はあってもなくてもよいですね。むしろ自分自身には必要ないもの
逆に自分を見てくれている人に与える印象にすぎないということ。
そういう俯瞰的な視点が壮を考える上で私には必要なのでした。
そこらへんてどうなのでしょう? 自分さえよければっていう、
自分のみの視点からなる「壮」ってありますか?
ちょっとこれから気合い入れようかと思います。だから早くカオルさん帰ってきてください。
よろしくお願いします。
>>264-265 「思い込み」を利用することで人は生活している。
おれはそれに気づいた。君はまだ気づいていないんだろうか。
感情はコントロールなど出来ない。表面上でそう見えても心(?)の奥にしこり(ストレス)
が蓄積する。だから、おれはそんなことを奨励していない。
おれは啓発本と同じことをいっているのかもしれないが、実は読んだことはないのでわからない。
啓発本には、自分の気持ちが大事(だと思い込んで人は生きている)と書いてあるのかい?
その場の自分の気持ちを最優先にしてしまっている自分を本当にみんなは気づいているのかな?
いつかこうなろう というやり方の基盤に 今こうしよう がなかったら「生きていない」事実を知っている?
自分の使用している言語、思い込んでいる雰囲気は共通認識ではないから、伝わる相手とそうでない相手がある。
そうでない相手を排除するやり方もあるし、理解するために話し合うやり方もある。
この場において、おれの考えは語り合うことでしか表現し得ない。自論を相手に訴える方法がおれにはとれない。
なぜなら、おれが言う悟りは理屈ではないからだ。ちなみに体を使う方法もある。ここでは無理だね。
レスはお好きなときにどうぞ。
17さん、カオルさん、出来上がりました。
まず、前置きがなくてはならない。
というのも、このスレにおけるこれまでの存在論よりも、これから俺が受け持つ立場の存在論は一歩浅い。
上手くいえないが、【芯】の設定による部分だけリードされている。
これから行うのは、そのリードはどうやら正当のものだという証明である。
また、逆にいえばこの存在論は、これから述べる俺の立場からの追及があった場合、常に一歩深くリードし続けなければならない。
重なった同じ長さの定規をずらしたとき、片端にリードが生まれるかわりに、もう片端にもリードが生じる。
今宵、俺はハルカ論がリードされている部分を司さどる立場に立ちたい。
*
>>78の一番初めのレスへの返事 *
>ハルカの悟りと一般の悟りはやっぱりちがうのでしょう?
違うと言わざるを得ない。どう違うかというと、プロフェッショナルとアマチュアの相違に酷似した仕方で違う。
仏教でいう、出家信者の学ぶことと、在家信者の学ぶことの違いに似ている。
とある個人が悟りを「究める」と、「伝える託す」の違いでもある。
自己の存在を標的としたものと、非自己一切の存在を標的としたもの、要するに利己的と利他的の違いにそっくりだ。
まるで兄と弟の関係にも見える。
ホワイトカラー(研究員)とブルーカラー(現場作業員)の違いにも見える。理系と文系の違いにも…、左脳型と右脳型の違いにも…、
挙げればきりがないので、
以上をもって、「声聞、阿羅漢、アビダルマ、小乗仏教」と「菩薩、大乗仏教」との違いというように、便宜上の判断を下す以外にない。
辞書からの引用
―声聞(ショウモン)―
釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子。縁覚・菩薩に対しては、仏の教説によって四諦の理(苦・集・滅・道)を悟り、
阿羅漢になることを究極の目的とする仏弟子。
その目的とするものが個人的解脱にすぎないので、大乗仏教の立場からは小乗の徒とされる。
―菩薩―
大乗仏教が興って、修行を経た未来に仏になる者の意で用いる。悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者。
声聞系と菩薩系の両者が、この相違を了解せずに話し合うと、途方もないすれ違いが起こる。
先人の話し合いにおいて曰く、「上下の階層の違う地下鉄に乗って、相手の顔を見ずに話し合っているようだ」という。
もちろん、小乗だとか大乗だとかいう名称にしたがって、どちらかが正当で、どちらかがそうでないというような、
そういうトチ狂ったことを言っているのでないのは、言うまでも無い。
* 声聞と菩薩とは? *
仏教の十界哲学では、声聞が七界、菩薩が九界というように順序がつけられているように感じられるが、今回は考察しない。
また、声聞と菩薩のあいだに、三乗のひとつとして「縁覚」という存在も設定されているが、その考察は哲学からはずれるので略す。
この板の悟りに関するスレの過去ログを漁っていると、主観の解脱は可能という人と不可能という人で、
果てしない論争が繰り広げられているのを目にすることがある。そして必ず決着がつかない。
その他、思想書や歴史書を合わせると、声聞思想と菩薩思想は「決して相容れない、訣別している」ことを現実的に結論づけられる。
声聞思想−主観の解脱は可能、理想主義、保守的、利己志向、学僧向け、理性的、主知主義的、客観的考究
菩薩思想−主観の解脱は不可能、現実主義、進歩的、利他志向、庶民向け、感性的、主情主義的、主観的考究
こんなふうに訣別しているのがわかる。
上記をまとめて、「利」の結果の如何にかかわらず、
声聞思想が人間の利己心の一切を司るもの、菩薩思想が人間の利他心の一切を司るもの、として話を進めたい。
そして、利己心と利他心の関係を、さまざまな角度から考察し、
【この現実の世においては、声聞と菩薩が共に存在していなければならず、かつ相互依存と相克の関係にある】ことを証明したい。
* ハルカ論と声聞思想 *
個人の解脱を追求するこれまでの内容から、ハルカ論は限りなく声聞思想に近いと言える。
文献では声聞の考究は利己的だと言われているが、まったく同じようにエゴイズムの中のエゴイズムを追求している。
第一、【声を聞く】を以って「声聞」というのだから、決定的である。俺は本人の自認を目にしたことがない。
この二つを同一のものとしようとすればするほど、
それがたとえどれほどに胡散臭く非科学的なものだとしても、ハルカ論には強固な歴史性が備わることになる。
完全な独学による偶然なのか、意図されたものであるのかはわからない。
日本は大乗仏教のもとにある国なので、俺は声聞の思想を目にしたことがない。お坊さんの世界でしか触れられないものと考えられる。
真相は本人にしかわからない。
ハルカ論の非科学的な話の一連については、俺も深くは触れられない。ただ、先人の話において、
「神秘体験には二種類ある、脳の部位への働きの相違によって、
一方は、一般に言われるように神との一体感に満ちた至福感をもたらすもの、
もう一方は、幻覚や幻聴、奈落の底へ落とすような恐怖感をもたらすもの
というように分けられる、さながらドラッグの体験のアッパーとダウナーのように。」というのがあった。
これだけを考えてみても、声聞系と菩薩系の追求する「解脱、悟り」に相違が生じるのも無理はないと思われる。
以上の論決として、
【仏とほぼ同義の阿羅漢を目指す声聞…、その声聞に限りなく類似した思想を追求している人物がいる】というのは、
誰でもご承知のとおりだと思う。俺は慎ましい気持ちで経過を見守りたいし、できる範囲で役に立ちたい。
これは決して笑い事をけしかけているのではない。
というのも、声聞思想による開拓がないと、この世は次第に行き詰まり、病んでいくからである。この世に生きる俺も病むことになる。
* 声聞と菩薩の関係性についての考察 T *
現実に声聞が存在している場合、ちょっと巧妙なからくりによって、菩薩も事実上存在しうる仕組みになっている。
自分が仏となるのに、この仏国に生まれる生きものが、みなおなじ金色になるのでないならば、
そのあいだ自分は正覚して仏となることがない (『大無量寿経』法蔵菩薩第三願)
菩薩はなぜ、これほどまでに途方もない利他を言い出すのか。「五六億年後に衆生済度しに現れる」とか、一体どういうことなのだろう。
これらは、見方を意地の悪いほうに変えてみると、胡散臭さ万点なのだが…。カビの生えた古の思想なのか。
第一、その仏国に生まれる生きものが、みなおなじ金色になりきったあと、その仏国はどうなるというのだろう。
実は、みなおなじ金色にはなり得ないのである。
とあるからくりが働き続けているがゆえに。だから、みなおなじ金色にし続けなければならない。
ここには本当に摩訶不思議なからくりがある。ゼロの観念が生まれた国土ならではの、【輪廻】というからくりが。
* 声聞と菩薩の関係性についての考察 U 〜輪廻が存在する場合〜 *
歴史の中で、解脱を志向してきた全声聞にいっぺん尋ねてみたいことが俺にはある。
至極単純で、極端で、恐ろしくもあることなのだが、
輪廻を信じる声聞にとっては、【この世にあまねく生命の全てを殺し尽くしたのちに自分が死ねば、解脱は成る】のではないのか。
輪廻があるのならば、何度生まれ変わってでも。
現代においてなら、どこかの国家元首になって戦争と内乱をしかけるとか、他の何らかの方法で…。
そうすれば成るものは成る。星そのものを荒土にする。
本当に存在したくなく、かつ解脱の方法が見当たらない場合、生物の数をゼロにさせれば、輪廻の続きがないがゆえに存在できない。
それはもう解脱とは呼べないかもしれないが、「存在しない」という目的を一にする点で同じである。
しかし、単一の人間は決してそれをよしとすることができない! それこそが声聞の声聞である所以らしい。
すなわち、僧侶や司祭という職に就き、子孫を残さず、黙々と修行と考究に励む。何度生まれ変わったとしても、修行と考究である。
その時代、その国土における習慣に従った、文字、言葉、その他の形式での。
あるいは、全ての生物が死滅し尽くすときを、単に待っているだけなのかもしれない。
いずれにしても、意識を分解するかの如き難解な形而上学に取り組む。ただひたすら。
それは一生命としてのジレンマとの戦いなのかもしれない。
何万回と生命が繰り返されている感覚の中での、「解脱したいが、殺し尽くせはしない」という。
凶暴になるのも止むを得ないほどの。
凶暴と錯乱の結果、難解な形而上学に挫折した声聞は、輪廻転生に従いながら、この世で何を為すのだろう。
それは、【この世にあまねく生命が最後の一匹になるまでの殺し合い】の世界歴史的な画策なのではないのか。
「難解な形而上学による意識の静止」の表の方法、「輪廻断絶」の裏の方法…。
何にしても、この二つの仕方によって解脱を達成する際の声聞のエゴイズムは、結果の側から視線をあてると、
ほぼ等値の関係にあると思われる。
(つづき)
そして、現在、これを記している俺が存在しているということは、
声聞思想の、こうしたエゴイズムへの抗議の意味を司る、何か特殊な働きが生身の人間のうちにあることが説明されなければならない。
もちろん、これを目にするあなたの存在の説明のためにも。
声聞その人にであろうと誰にであろうと、その働きが全くなかった場合、もう生物は存在していない可能性があるゆえに。
* 輪廻についての付言 *
上記の考察は、今回のテキストの中で唯一、オカルトの領域に深く足を踏み入れているので、付言が必要である。
同一の人格が、繰り返しこの世に生まれるのかどうかについては、いっぺん死んでみないと誰もわからない。
ただし、人間の意識が輪廻するのではなく、
利己心と利他心と呼ばれうるものの伝達や系譜としてなら、輪廻の存在をある程度描写できると思われる。
利己心を持った生物は繰り返し生まれうるし、家庭教育や社会教育等によって、利他心は常に世間で伝達されている。
もし、輪廻があるとするならば、
デジャビューにあるように、知覚や感覚による認識の仕組みに輪廻の秘密を解くカギがあるようだ。
もしかしたら、輪廻を濃厚に認識できる人間が、この世に何人かいるのかもしれない。
以下はゲーム感覚で弄び深めた空想なのだけれども、
輪廻を察知する特殊能力を持った声聞たちは、精神的堕落の目立つ坊さんの世界も飛び出さざるを得ず、
街の占い師になるとか、本を記して収入を得るとか、秘密結社的にこの世で暮らしているのかもしれない。
(西洋のフリーメイソンとの類似性や同化性をここで連想しないわけにはいかない)
科学全盛の肩身の狭いの環境のなかで、オカルト系の本が流通しつづけるのも、そんな理由からなのかもしれない。
もちろん、この掲示板群に現れて、思想を広めるのも自由である。
「輪廻を察知するような人間は本当に一人としていない」と断言するためには、世間は諸科学の進歩を待たなければならない。
* 声聞と菩薩の関係性についての考察 V 〜輪廻が完全にまやかしである場合〜 *
輪廻はなく、声聞をはじめとする全生命の一生が完璧に一代限りのものだとしても、
生命種が誕生した以上、生命種が滅するときがあるのを人間の理性は考察しうる。
誕生がある以上、やっぱり滅するときもあるのだろう。
誕生の瞬間と、その辺の草の根の先端の細胞一個すら残らないほどの滅亡の瞬間との間には、
「存」の傾きか「亡」の傾きかのいずれかである「今」という時間しかない。
もちろん生命種という、この上なく大げさなものでなくても、
生命と生命のあいだの、どんなに小さな規模の、またどんなに一瞬の機会のものであれ、
その合意の上に成り立っている、あらゆる集団、徒党、組織、民族、部族、血族、流派…、
要するに、何らかの個体と呼びうる衆生の一切の滅亡や、または単純に一個の生命の滅亡を、人間の理性は考察しうる。
現実の歴史では、急激な社会情勢の変化において、菩薩信仰や救世主思想が勃興する。宗教思想の転換が起こる。
バラモン教と釈迦、ユダヤ教とキリスト、上座部仏教と大乗仏教、カソリックとプロテスタント、大乗仏教とヒンズー教、日本の末法思想…
例えば、大乗仏教が中華世界に広まりだし、人びとの心の拠り所となった時代はどんな時代だったか。
一説では、政府の数えうる人口が三十年あまりで三分の一にまで減ったと言われている。三分の二は死人か流民である。
そんなことは今後一切、二十一世紀の世界を含めて起こりえないと誰か断言できる人はいるのか。
例えば、巨大隕石は今後一切この星に飛んでこないと誰か断言できるのか。そのときの経済がそれを耐えうるかを知る人はいるのか。
生存がどれほどに苦なのかはわからないけれど、「生物ゼロ」を想うとき、
やっぱり…、どれほどに胡散臭いものであれ、どれほどに複雑な状況においてであれ、
一生命には何か伝え託さなければならないものがあるのではないのか。
(つづき)
これらを鑑みてまとめるに、輪廻の有無に関わらず、
【限りなく仏に近いと伝えられる菩薩は理論上存在しうるし、その菩薩に限りなく近い生身の人間も現実上に存在しうる】がほぼ成り立つ。
常に現実上に、誰の心においても、いついかなるときにも、菩薩は存在している。
菩薩が存在していなければ、これを記す俺や読む人の存在が説明できない。
* 息抜き 〜上位生命の声について 〜 *
歴史の中で、ハルカさんと同じように、「仏の声」を聞いて解脱を志向する人間が何人もいたのだと推察されるのだが、
その「仏の声」の同一性を考えるとき、俺も戦慄を感じざるを得ない。
全てが個人の瞑想中の幻聴や幻覚だとしても、同じような物質、同じような機能で構成された頭脳に響くという声。
それを捉える心は別々のものだとしても、頭脳という同じような物体に響く声の各々に、一つの生命性や意志を見出すとき、
同じ生きとし生けるものの一人として、その超越的存在にたいして、俺も戦慄に感じざるを得ない。
まるで、その上位生命が俺の心臓に冷たい手を伸ばしていて、いつでも握りつぶす準備が完了しているかのような戦慄である。
それは明らかに個人が把握しうる領域を超えている。少なくとも二千年余以前には準備されていた声なのだから。
「仏の顔も三度まで」とあるように、仏も慈悲の心を捨てるときがあるのである。
この二十一世紀の世は、仏の冷笑のもとにあるのか??? 人びとの苦悩する訳とは???
* かくして俺は考える *
声聞思想−主観の解脱は可能、理想主義、保守的、利己志向、学僧向け、理性的、主知主義的、客観的考究
菩薩思想−主観の解脱は不可能、現実主義、進歩的、利他志向、庶民向け、感性的、主情主義的、主観的考究
もう詳細は略すけれども、何べんと繰り返し、どんな角度から考えてみても、声聞と菩薩は相対的な形で存在していなければならない。
例えば、中学で習った反比例のグラフの両極端のように、
片方の軸は「解脱」を示し、もう片方の軸は「悟り」を示していて、声聞と菩薩はその軸に限りなく近づくことができる。
しかし、両者ともその軸に触れることはできない。
それは、声聞にも菩薩の心(利他心)があり、菩薩にも声聞の心(利己心)があるからなのだろう。
もし、どちらかが軸に触れた場合、生物の数はゼロになる。
利己心のみを究極に高めると、生物は星からいなくなる。
利他心のみを究極に高めると、身体はごろごろあったとしても、自己を持たない生物は生物と呼べなくなる。
そして、この限りなく接近しうるのみという事実によって、声聞も菩薩も生身の人間としてこの世に存在しうる。
その過程で、輪廻断絶や生物ゼロに至るまでの利己心と、それをよしとはできない利他心の、
双方の極北とその攻防のエネルギーを人間は知りうるようだ。
(つづき)
このように、
悟りや解脱という頂きに限りなく近づく道は、一つではなく二つあり、この声聞と菩薩の二つは相互依存の相克の関係になっている。
両者の統一へと向かう【比肩、拮抗、相克】のエネルギーがないと、両者はその存在性を限りなく損ねていく。
二つともなくてはならない、かつ火花を散らしていないとならない。
これは、利己的だという個人と利他的だという個人同士の間に起こることだけではなく、個人の内面においても起こる。
すなわち、人間の精神においては、利己心と利他心が、紙一重の関係ながら、全く正反対の作用を為すから。
例えば、人間の精神の働きのうち、怒りという情念が自分向けと自分以外向けとでは大きく異なるように。
かつ、利己と利他における「利」は、「自己」と「非自己一切」以外の矛先を知らない。
声聞と菩薩の関係の根本は、これに基づいている。紙一重で、正反対で、矛先二つの関係に。
そして、今回、俺が最も強調したいのは、悟りや解脱に関する、世界中のあらゆる文献、言い伝え、
そのスケールを描き得る人の感性、骨格を組み立て得る純粋な理性、限りなく接近しようとする意志、
これらがゼロになるときと、この星の生物がゼロになるときとは、限りなく一致するのではないかということだ。
以上で終わりです。お忙しい中ありがとうございました。
>70さんへ
たいへん興味深く読ませていただきました。
そしてとても考えさせられる内容だったと思います。
自分自身、誰が声聞で、誰が菩薩だとかは考えないようにしていましたけれど、
70さんの客観的な視点、その考察の仕方、その徹底さには脱帽するものがありました。
とりあえずそんな私信でした。
おつかれさまです。ということで。
これからじっくりあなたの論を読んでじっくり考察したいかと思います。
それでは。
>>272-281 70お疲れ様。実に楽しく読ませてもらったよ。
君のテキストによれば、ハルカが声聞だとしたらさしずめおれの行為は菩薩的だね。
その実、ハルカは小乗に留まらずカリスマ性をもって人々を惹きつけさとりに導くかのような
行動をとっている。
おれはといえば、誰にも相手にされず啓発だけを繰り返しつつも、利己的な思考方法による
利他を語っている。
中途半端といことかな。
輪廻に関する考察は同感。
極論的な考察に関しては面白いなと思った。
声聞・菩薩を相容れぬが双方の歩み寄りが互いの存在を「生かす」という捉え方は素敵だな。
どう利用するかだろうか。
とにかく実践だよね。
>>272-281 70さん
うん。大筋は合っていますね…『声聞的』かぁ(苦笑)
だがしかし、幾つか言っておかなきゃならない点が。
>【この世にあまねく生命の全てを殺し尽くしたのちに自分が死ねば、解脱は成る】のではないか?
んー…これは『違う』と言わざるを得ない。
何故なら【生命】が存在するのは『地球』だけでも『この次元』だけでも無いからね。
それこそ、地球人から見たら『エ?』ってな物が【生命】だったりする。
言ってみれば、全ての【存在】がイコール【生命】だったりするからヤヤコシイ。
今までは『敢えて』語らなかったけど…言ってしまおうか。
【物質】も【生命】の一形態だったりする。
そこら辺の石も空気も−惑星や宇宙も、空間さえもが【生命】だったりする。
だから【全物質全空間全存在を消滅した上でなら】その後の死は【解脱】と言える。
だがそれは『人知を遥かに超越した存在の自殺』でしかないから我々【個体化形式存在】には無理だ。
>>285 >【物質】も【生命】の一形態だったりする。
それは君が思考上作り上げたものなのか、確証があるのか、聞いてみたいところだな。
でも、そのような考え方があるのは事実だろうね。
>だから【全物質全空間全存在を消滅した上でなら】その後の死は【解脱】と言える。
おれもそう思った。でもそれも捉え方の一形態に過ぎない。
重要なのはどうしていくかじゃないかな。
実践していこうや。
>>272-281 長文だけど読ませてもらった。
声聞と菩薩、利己的と利他的、大筋はいいですよ。
これは違う道、違う入口に見えるけど、そこに着く時には、同じ扉の前に立つんですよ。
結局、同じ扉を開け、同じことを理解するのです。
いやー、驚きました。
キリスト教スレがあるんですが、
暗ーくて、ほとんど話さず、聖書のコピペばかりしてた子供が、
何ヶ月かぶりに見たら、えらく雄弁に語ってました。
どうやら、悟ったようです。
と言っても、一時的なようですが、
また、悟った内容は、愛のようです。
利他的な道の方が容易いのかな。
と思わせる子供でした。
じゅんさん
>客観的な視点、その考察の仕方、その徹底さ
細かいところは突かれると弱い部分だらけなのだが、大筋が伝わったのなら嬉しい。
>おつかれさまです。
確かに疲れた。遊びたい。追ってメールの返事もする。
17さん
>ハルカは小乗に留まらずカリスマ性をもって人々を惹きつけさとりに導くかのような行動をとっている。
そういう疑問が抜けなかったんですよね。
ハルカさん
>うん。大筋は合っていますね
そーかぁ。認めるかぁ。
>『声聞的』かぁ(苦笑)
本当に気が付かなかったんですか? 読めない人だ。
>だがしかし、幾つか言っておかなきゃならない点が。−以下
プロの「存在」へのそういう追究がなくては、アマの現実の世界もすぐ倦んでしまいます。
Nさん
長文だったのに読んでもらってありがとうございます。
>これは違う道、違う入口に見えるけど、そこに着く時には、同じ扉の前に立つんですよ。
でも、そうなると、「究める」と「伝える」が一緒になってしまって、
何で俺とあなたが別人で、なぜいま伝え合っているのかが、俺にはわからなくなってしまいます。
悟りや解脱を存在の極地とした思考は苦悩を体験したものにとっては縋り付きたい救いの道だろう。
それについて多くの人が語り伝えている。だが実証例は過去の遺物だ。全てが伝聞であり、なんら根拠がない。
またその真偽も不明。
そして都合の良いことに細分化され固有名詞が付けられ「学習」しやすい。
さまざまな捉え方が可能であるが故に喜びも得られれば苦しみも味わう。
そして、自己の存在という命題がまさにそれである。
これに気づかない者は自己を省みず自己を語る。
瞬間の存在を認識し続けることを拒絶し続けている自己を認識できない。
縁起の本質を見つめ続けることを怠り、知識として蓄えて満足する。
方法は人の数だけある。それを自覚しない者に成就はない。
重要なことは何を望み、何をするか。最も重要なのは今何をしているか。
瞬間の認識を人はどれほど怠っているだろう。
チョットばかり長文になります。
読むのが面倒臭いかもしれませんね(苦笑)
○私の言う【悟り】と一般の【悟り】と何処が違うのか?○
70さんの言葉を借りるならば『声聞的』(私)『菩薩的』(一般)となりますが…
かなり近い所まで行ってるんだけど、少しずれてるかな。
そもそもこの『声聞』と『菩薩』ってのは『悟りを目指す動機の発生と持続形態』でしょ?
だけどねー、その『声聞』てのにも二通りあるのさ。
一つは『自らの【苦】の解消行為として【悟り】を選んだ』場合。
一つは『極大化した【苦】の結果【悟り】しか無くなってしまった』場合。
まぁ分かり易く言えば…
前者は『アレもコレもの選択肢の中で【悟り】を選択した』、後者は『選択肢が絶たれて【悟り】か【死】かしか残らなかった』−その違い。
極論すれば『嗜好的な自発志向』と『外部圧力による発心』の違いとでも言おうか。
で、私は(恐らくNさんも)後者(以降はこれを『発心』と呼ぶ)。
だから繰り返し言っている通り『地獄の道でしかない』『誰かに勧める事なんて出来ない』わけ。
普通に暮らすのなら【悟り】なんぞ必要無いんだから(苦笑)
じゃあ一般に言う【悟り】って何?ってなるんだけど…
これは『賞賛や優越性を求めるだけの嗜好行為』と言えるのさ。
『選択肢が残ってない』ので無ければイコール『数多の選択肢が残っている』わけだからね。
ワザワザ【悟り】なんぞと言う、訳が分からん上に証明すら出来ないものを求めなくとも良かろう。
『菩薩』の人は現実社会で『力』を付ければ良いだけ。
『経済力』だろうが『社会的影響力』だろうが『知識』だろうが『啓蒙』だろうが…その方がよっぽど手っ取り早かろうに。
第一【悟り】が『世界平和』『衆生救済』に役立った事があったかい?
仏教やキリスト教なんかが成立してから何千年経つよ?
それこそ単なる『幻想』だ。
(続く)
(続き)
『声聞』の人は心理学の世界でも行くべきじゃないのかな?
詐欺師とかセールスとか、それこそ新興宗教とか。
そっちの方が実際に人生には役立つ訳だし、世間的な成功も得られるよね。
上記に『違う』って反論する人はコッチかな?
『自分が想像する事さえ不可能な【悟り】という世界を手に入れたい』ってな願望か、
『現実世間では賞賛や優越性を得られないから精神世間で得たい』ってな欲求か。
ま、どっちにしろ『選択肢の一』でしかない訳だ。
仮に『3億円当選しました』とか『買った株が大暴騰しました』とか『逆玉に乗りました』とか僥倖が来てみ?
【悟り】なんぞ投げ出すから。
『発心』の人は違う。
最早、金でも成功でも地位でも何であっても…その人の【苦】を消せない。
だから悲しい事に(そう、真に悲しい事に!)【悟り】を求めるしか無くなってしまった人達なんだ。
前から言っている通り『最悪の重病人』『壊れている【生命】』であり、決して『優れた人間ではない』んだよ。
これは『差別』ではなく『差異』なんだ。
健康な人と病人では『違う』だろう?それだけだよ。
【悟り】ってのは『重病人に与えられる末期の薬』なんだよ。
その『薬』は万能薬ではないだけでなく『劇薬』なんだ。
言ってみれば『毒』だって事。
与えられた途端に死んでしまって転生して『はいリセット!もう一回』って確率の方が高いんだからさ。
それでもいいからって【悟り】に飢えてる哀れな人が『発心』なのさね。
○何故私は書いてるのか?○
一言で言っちゃえば単なるエゴなんだよねー(苦笑)
本当はここで書く必要なんか無いんだよ、前から言っている通り。
ただね、こんな風に【生命】として壊れた時に自分が迷ったからさ。
同じような人がいたら『ソレの正体はコレだよ』と言ってあげたいのさね。
(続く)
(続き)
私は『その時』に苦労したよー。
それまで感じていた『喜び』とか『楽しみ』が一切消えたのさ。
『喜び?楽しみ?コリャなんだ?単なる価値観の影響物だろ』ってね。
じゃあ、価値観に無関係な喜びや楽しみ(食事や睡眠や性行為等)は?−なんだ。『生存維持の為の燃料』じゃないか。
こうなると【生命】全部が無意味で無価値なものにしか見えない。
ならば【世界】は?【存在】は?有意味で有価値なのか?
仮に【全生命】が消えたとしたら…その時点で有っても無くてもいいものにしかならない。
認識する【生命】がいなければ【存在】の意味すら消える。
これは即ち【存在】すら無意味で無価値でしかない事を意味する。
その『有っても無くてもいい』ものが確実に『存在して』いる。
何故かは分からないが、何の意味も無く『存在して』いる。
(『上位生命』なるものを想定した処で『我々にとっては』意味が無いのは変わらず。むしろ『彼ら』に利用される為に『在る』のだから始末に悪い)
…最早【全存在】が(無論『自分』も)『嫌悪』の対象でしかない。
じゃあ、死ねば自分独りだけでも『嫌悪する世界』から逃れられるかって言うと無理だと分かっていた。
元々子供の頃から『視』たり『感』じたり出来た。
『信じる信じない』ではなく『実際に疑い様もなく在った』。
だから『輪廻転生』が知識ではなく実感としてなんとなく分かっていた。
死ねば『自分という【自我】』は消え逃れられるだろうが『自分という【存在】』はまた『嫌悪する世界』に来るのがなんとなく分かっていた。
(続く)
(続き)
さぁ、八方塞がりだ−自分独りじゃどうしようない所まできた。
生きていても『無意味な世界』に閉じ込められる『地獄』、死んでも『無意味な世界』に戻される『地獄』。
脱するには『自分という【存在】を消滅させるしかない』と分かっていながらも、その方法さえ皆目検討が付かないという『地獄』。
だから、アチコチの文献を漁って先人達の記録に頼るしかなかった。
そして、コレが『発心』というものだと気付いたのさ。
ここから逃れるには【悟り】そして【解脱】しかない事も。
で、実践してみて…後はご存知の通り(苦笑)
恐怖にかられ逃げ出して戻ってきて今現在に至るって訳。
本当に中途半端だねー(苦笑)
で。
ハッキリ言ってしまうと、あんなもの証明なんて出来る訳が無い。
だから『証明できないものは無いのと同じ』って考える人はソレでいいよ。
それどころか『妄想』『戯言』『電波』なんて取ってくれても構わない。
反証なんて挙げられないんだから。
ただ、この『末期の薬』が必要な人は必ずいるんだよ−信じるか否かに関わらず。
そんな人の為に書いてるんだ。
>ハルカさんへ
ちょっとだけレス。
>本当に中途半端だねー(苦笑)
まあ中途半端でいいんではないでしょうか?
何事にも中途半端な私の言うことなんであてにはなりませんが、
あなたが悟ろうと、解脱しようとあせる必要はないってこと。
あなたが、それでいいと思ったのなら、やはりそれは正しかったのだと思います。
おそらくまだ、あなたはなにかの「途中」なのでしょ。なにをやろうと構わないと思います。
ただ、生命賛歌を私は言っているのではなく、絶望も『地獄』もひとしおだということ。
私のことを申し上げると、私自身、これまで“人格的な変容”というものを、何度か繰り返し
それを自覚して今の状態にいるのですが
前までは、コンビニとかで買い物しても挨拶はしなかったのが、今は必ず「どうも」って
挨拶して店を出ますからね、くだらないことだけどけっこう大きな変化だと自分では思っ
てます、そして気分はいいです。
それでも、苦しみの質だけは変わらないんだなってことです。よく世間で言われる、
生きる苦しみみたいなものでしょうか。たえず、それは無意味だ、価値がない、なにをやっ
ても無駄さ、という声が時々聞こえてきたりするんですが (もちろん“声”というのは比喩ですよ)
この声そのものは、これからも決して消えないんだってこと。
それには気づいていましたよ。あなたの言うような“燃料”という見識には私は至っておりませんがね。
無駄さながらに私は生きてますよ。かけがえのない生を。
無駄さながらにあなたは、今、存在してます。あなたの声とともに。
無意味っちゃあ、無意味なんですが、安寧な気持ちで発言してみました。よろしくです。
>>296 …アンタ、本当に馬鹿?(呆)
>生命賛歌を私は言っているのではなく
こう書くって事は、その手の発言をしないように『わざわざ意識している』って事だよね。
そう言っておきながら直後に、意識しないで出た発言だろうけど…
>無駄さながらに私は生きてますよ。かけがえのない生を。
…無意識で自覚して無い分だけ余計に馬鹿だって言うの。
何?この『かけがえのない生』ってのは。
これこそが無意識に刻まれた価値観として『生命賞賛』だっての分からない?
さっきの『生命賛歌では無く〜』ってわざわざ断ってるのもそう。
本当にそう思っているのなら常の発言の端々に出るもの。
しかし、それが出てないからわざわざ断りを入れなきゃならない。
思ってもいない事を口先だけで語るのは止めてもらえない?
はっきり言って今の貴方は17氏より醜いわ。
『声聞』
確かに、これは的を得ている。
誰とは特定はしないが、悟りの教えを聞かなければ(俺の場合は読むかな)、悟らなかっただろう。
>>292-295 ハルカ氏へ
その通りだね。うまい表現だね。と言うしかないよ。
>ハルカへ
生命讃歌ではなく、かけがえのない生を≠ニいうのは、
悟りごときに現を抜かす「脳内麻薬中毒者」より、ずっと好感が持てるな、わたしは。
悟りというのは、「個体化の原理」を捨てて「種」としての生命の本流に合流すること。
もっというと、最終的には「生命原理」、ショーペでいうなら「盲目の意志」に同化すること。
わたしにいわせるなら、これこそ最大最高の生命讃歌≠セよ。ハッキリいって吐き気がする。
この感覚は、「個体化」を維持したまま「存在」に触れてみることで感じられるはず。
でもその方法はわからない。ちなみに自分の存在自体が嘔吐の対象になることもあるから
知っていても教えられないな。だって確実に死にたくなるはずだから。責任負えないしね。
で、瞑想による「個体化」の shade off は、至福感として"ごまかされて"しまうからNGです。
生に意味があるとしたら、生それ自体に意味なんか無いということに気づくことじゃない?
だから生命讃歌ではなく、かけがえのない生を≠ニいうのは、
わたし≠フ生の、一回限りの、唯一の、という事態それ自体が、
両親からも、上位生命からも、盲目の意志からも、独立した系(世界)として
存在できる可能性への「挑戦の意志」とも受け止めることもできるのではないかしら?
これは、無自覚的に「生を肯定」する態度とは、根本的に違うとわたしは思います。
わたしが「悟り」と「解脱」の違いに拘るのもこの辺りのことが絡みます。
だって「悟り」と「解脱」では、「存在」へのかかわり方が正反対ですから。
わたしにとっては、「存在」からの徹底的な「個体化」の後での「死」が「解脱」です。
解脱や悟りの認識は設定によっていくらでも変化する可能性を考慮せぬものに成就は果てしなく困難なものだろう。
信ずるのは己が感性のみであり選択も己。
文献から得た知識を考察するは己が感性の正当性を己に思い込ませる方便であり、または気づき。
対象の詳細を語るのみでは洗脳に過ぎない。
本質を語るなら、実践すべき詳細を語りなさい。己が行動をよく見つめなさい。
突き放した表現で自己責任を回避しつつ、結果として洗脳を続けていることを悟りなさい。
語るなら抽象的概念での遊戯より、自己の努力の経緯を具体的に語りなさい。
ここにはそれを必要としている人がいる。
>>297 ハルカさんへ
>…アンタ、本当に馬鹿?(呆)
よくわかりませんね。あなたより馬鹿なのか、それともあなたより
馬鹿でないのか、よく分かりません。
ということはそれすら分かってないのだから分かっていない“私という存在”は馬鹿なのかな?
(むろん、あなたの主観を離れて私は自分を馬鹿だと設定しました)
>こう書くって事は、その手の発言をしないように『わざわざ意識している』って事だよね。
そういうレベルのことを言っているのではないです。その前に“意識する”ってなんですか?
>そう言っておきながら直後に、意識しないで出た発言だろうけど…
あなたは馬鹿ですか? 私はあれを書くだけで軽く2時間は掛けてるんです。
意識しないでた発言? なに言ってんですか。
あえて言う言葉、言わねばならぬ発言が、あることはあなたはご存じではないのですか?
意識して書いたに決まってるでしょう。
(続く)
>…無意識で自覚して無い分だけ余計に馬鹿だって言うの。
>何?この『かけがえのない生』ってのは。
ですから無意識ではなく意識的に出た発言です。て“無意識”ってなんですか
“かけがえのない生” 私はこの言葉をおそらく、生まれて初めて使ったんです。
けっこうどきどきしながら緊張しながら出した言葉なのです。そして、なかなかいい言葉だな
としみじみ思っております。ちなみに今(時間を超えてね)はあなたを逆上させているんだなと
それが恐ろしくて手が震えております。私は緊張すると、キーボードを打つ手が震えるんです。
こうなるとけっこうタイプミスが多くなります。なのでちょっと落ち着きますね。あなたも落ち着いてください。
それと勝手な思いこみはやめましょうね。
いちおうあなたの判断は誤りだということを指摘したつもりです。
>これこそが無意識に刻まれた価値観として『生命賞賛』だっての分からない?
あえて先ほどの意味の無意識とは受けとらないことにしましょう。あなたは“これこそ”とわざわざ
言っているのだからそれが妥当かと思われますので。
“無意識に刻まれた価値観として『生命賞賛』”とはなんでしょうね。
そもそも生命賛歌は無意識に刻まれるものなのでしょうか?
私はかなり“生命賛歌”する自分に無理を感じているのです。かなり窮屈だし、例えばお店の人に
挨拶するのだって本当はかなりめんどくさいのです。挨拶を無視されるとやっぱり悲しくなるし、
なにやってるんだろって思うんですね。それでもあえて私は挨拶するんです。どこへいっても私は
“どうも”と一言だけ礼を言います。そう心がけるのです。
それくらいのことを言うのならできるから私はいちおうそれをするんです。
“生命賛歌”は決して無意識にはできない行為ですよ。意識的にならないとできない。
これだけは間違いなく言えます。私は自ら生命賛歌する価値観を植え付けたのです。
>本当にそう思っているのなら常の発言の端々に出るもの。
>しかし、それが出てないからわざわざ断りを入れなきゃならない。
そうでしょうね。おそらく正式に“生命賛歌” かけがえのない生と唱えたのはこれが
初めてですから。そしてそうそう言えるような言葉でもないでしょう。エヘンとはわけが違います。
けっこう勇気がいるのです。断りぐらい入れさせて下さいな。
>思ってもいない事を口先だけで語るのは止めてもらえない?
思うってなんですか? 発言が“思ったこと”になるんですか?
私は“発言する”って目標だと思うんですよね。矢を放つような行為です。
言うなれば“理想”です。発言することとは“私自身への約束行為”です。
私は生命賛歌を唱えることにより、私は生命賛歌の重い鎖に施錠されるのです。
しかしこの私の“約束の重さ”はきっとあなたには理解されないのでしょう?
だから私を罵倒できる。そういう風にあなたが受けとったのだと私は理解していますよ。
それについては私はなにも言いません。私にも私の約束の重さは計り知れないのです。
約束を反故すれば、その時点で“かけがえのない生”という牙城が崩れ落ちる。
往々にして、“生命賛歌”とはそういうものです。
>はっきり言って今の貴方は17氏より醜いわ。
比べられても困るんですよね。誰かと比べられるために、私がいるわけではないわけでして。
酷い、そうあなたが思うのならそれでもいいですよ。そしてそう思う自分を信じてください。
あなたが語ったのならそれだけの価値があるということでしょう。
あえて罵倒文句には拘りませんよ。全ての発言にあなたの存在が確かめられるのです。
もちろん、あなたはあえて罵倒しているのでしょ? それも勇気ある行動だと私は思います。
そう思うのは、沈黙が楽なことだと言えるからです。
(決して沈黙が悪いと入っているわけではないですが)
(続く)
どうでしょう。私はなおも、あなたの重荷を背負わないようにすることで無責任を実行していますが
これでも“生命賛歌”と言えるのでしょうか?
とても畏れ多くて私にはこれを生命賛歌を自認することはできません。
比べるのもあれですが、ゲーテの詩のように生命の美しさを謳いあげることなぞできぬのです。
またカオルさんもSさんいることですし一つ申し上げますが、
実は、私は“プライド(自尊心)”という言葉があんまり好きではないのです。
どうも私には慣れぬ言葉なのです。もちろんこれは人それぞれですから、
誰かを否定しているわけではないです。
ただこういう考え方をしている自分を知って欲しいから申し上げるのです。
むしろ“自尊心”より私は“自負心”という言葉を好むのです。
この言葉が、いわば私のシンボルなのだと捉えてください。
私はふん転がしのようになんでも背負いたがる性質をもっている人間だと捉えてください。
(むろんやりたいことに限ります)
私はこの“自負心”という言葉に史上の真理を見出します。
本当に私の一番好きな言葉なのです。ですから私はいくらでも鎖を背負ってもいいと思っているのです。
まあそれも適度が本当はいいのでしょうね。無理をしては体も心も粉々になってしまうでしょうから。
そういうことですから、“自負心”によって私は行動しています。
侮辱と感じたなら申し訳なく思います。しかしこれ以外に“理想”の因果を見出せぬのです。
いやいや私が背負うものは決してあなたたちではないのですね。自分でも勘違いしそうです。
私は私の罪や約束を背負うのです。それが私の自負心なのです。
以上弁明をしました。ですので今度はこちらからあなたの
>>292-295の発言を批判します。
>ただ、この『末期の薬』が必要な人は必ずいるんだよ−信じるか否かに関わらず。
>そんな人の為に書いてるんだ。
こんなことは初耳です。あなたのねつ造ではないですか。本当にそんなことをあなたは思って
これまで書いてきたのですか? 半年前から、そのつもりで? 本当に? 最近できた考えではないの?
そんなことあなたはこれまで一言でも言ってきましたか。あちらのスレでも似たような
ことをおっしゃっていましたが、ちょっと理解しかねます。誰と誰があなたの論を必要としているのですか?
それはSさんとカオルさんですか? それは真実ですか? それとも信実ですか?
>反証なんて挙げられないんだから。
そもそも反証という言葉をあなたが使うのはおかしい。あなたは自らの意志で発言してきたのでしょう。
それに対して反証とはいかに? “立証”の間違いではないの? ただ立証することができないだけではないの?
むろん私はあなたに立証しろとは問わなかったはずです。私は検証だけ自らの意志で行ってきました。
もし私のこの検証行為が迷惑なら私は別スレに移動しましょうか。あなたを汚すつもりは元々ないので。
>じゃあ一般に言う【悟り】って何?ってなるんだけど…
>これは『賞賛や優越性を求めるだけの嗜好行為』と言えるのさ。
まあ、あなたの一般論ですからね。そもそも“悟り”って宗教語でしょ。
『賞賛や優越性を求めるだけの嗜好行為』とは普通なりませんよね。仮にも宗教なんですから。
そもそもどうやって賞賛や優越性を一般の人が“悟り”に求めるのか私には理解できない。
ちょっとアバウトすぎませんか?
>第一【悟り】が『世界平和』『衆生救済』に役立った事があったかい?
けっこう世界平和や衆生救済に役に立ってたりするんじゃないですか?
ガンジーとか立派な人は過去にいたわけでしょう。宗教が政治に関わった例なぞ数多くあります。
そもそも世界平和、衆生救済の概念が曖昧です。存在論以前の問題でしょう。
役に立ったことがあるとも言える。それとも役に立ってないとも言えない。むちゃくちゃです。
幻想以前ですね。役に立ったことは確実にありますね。
そもそも戦争が起きた要因は別にあるのではないでしょうか。ですからこのような問いかけは愚問でしょう。
もちろん私の返しも愚答ですけどね。
>それでもいいからって【悟り】に飢えてる哀れな人が『発心』なのさね。
『発心』の意味は本当にこれで正しいのですか? ちょっと自分でgoogieで調べてみましたけど
なんか全然違うっぽいですよ。ちょっと使うには不適当ではありませんか?
『発心』という言葉を使うのはやめてください。もしくはあなた用に、定義し直してください。
ちょっと遊びますね。
>仮に『3億円当選しました』とか『買った株が大暴騰しました』とか『逆玉に乗りました』とか僥倖が来てみ?
>【悟り】なんぞ投げ出すから。
私は宝くじも買わないし、株も買わない、逆玉にも乗らない。だから僥倖なんて来まスン。
>一言で言っちゃえば単なるエゴなんだよねー(苦笑)
>本当はここで書く必要なんか無いんだよ、前から言っている通り。
まあまったくそのとおりエゴですよねー。だって私“エゴのみだ”って以前に指摘しましたもんね。
>ただね、こんな風に【生命】として壊れた時に自分が迷ったからさ。
>同じような人がいたら『ソレの正体はコレだよ』と言ってあげたいのさね。
これって優越感というエゴじゃん?
そういうことでよろしいのかな。
>【悟り】ってのは『重病人に与えられる末期の薬』なんだよ。
>その『薬』は万能薬ではないだけでなく『劇薬』なんだ。
>言ってみれば『毒』だって事。
これは比喩として使用するには、不適切です。
いまなぜか、悟りとドラッグの関係が取り上げられています。
この“薬”と銘打つのは誤解を与えませんか?
オウムでは、入団勧誘の際にLSDを服用しての(もちろん知らずに)瞑想を行って神秘体験をさせ、
洗脳して入団させたと聞きます。許されざる非人道的行為です。
あなたはそんな誤解を招きますよ。もしくはあなたに疑いを持つことになります。
ちょっとここら辺を私は今検証しているのですね。
だからよけいなことかと思いますがあえて言わせてもらいました。(そうです。よけいなことです)
ちなみに私はドラッグはやったことはありませんが、幻覚を見たことは多少あります。
あとついでに煙草は身体に悪いから、やめました。
とりあえずこんなところで、えとこれにハルカさんが反論するのは
結構なんですが、その場合、なるべく全部答えてくださいね。
時間がかかってもいいですから。というか時間をかけて吟味して反論してくれると助かります。
私もゆっくり対応できたらなと思いますんで
議論自体がいやならそれでも結構ですが。その場合は何事もなくスルーしてください。
>カオルさんへ
>>299 ブラボーな意見ありがとうございます。
ともかく元気そうでなによりだ。
>Nさんへ
>その通りだね。うまい表現だね。と言うしかないよ。
なにがうまい表現だね、なの。言ってることがわけわからないよ。
言ってることがあいまいすぎる。なにを指示してのうまい表現だと言ってるわけですか?
いちおう私はハルカ論を反論している身なので教えてください。
70氏の論は私は結構、的を得ていると思いますが、あのハルカさんの論は的を得ていると
いうレベルなのでしょうか? あなたの主観的判断ですか?
長文にしては整理されていない部分があります。まず言葉遣いが荒っぽいのも長文を書く上で
失礼だと思います。
あと、あなたに一つ聞きたいのですが、あなたはここで何をしたいのでしょうか?
あなたもハルカさんと同じようにここである特定の悟りの必要な人を探しているのでしょうか。
そして、あなたの行動も“エゴ”なのですか?
ちなみに私の行動はどうやら“エゴ”のようですが。
>Sさんへ
あなたも“悟り”が必要なのですか。私はここにある“悟り”も“解脱”もいらんです。
あとSさん、瞑想のコツは動かないことです。あとすぐに眠ってしまうのなら
座禅してみるとよろしいですよ。座禅すると寝にくくなります。
>70さん
あなたの論への考察はまたおいおい。
壮もほったらかしですしね。それもまたおいおい。まあ固くならずに、雑談などできるといいですね。
(雑談スレつくろっかな・・・、とりあえず今はもう寝ますが)
>イナゴさんへ
“アレ”明日か明後日くらいに整理して載せますよ(イナゴさんのご指示通りにね)。
>カオルさんへ(再び)
もし私のことを気にしているのなら、大丈夫ですよ。これこそがあなたへの侮辱だと理解しながら
あえて申し上げます。
そうでないのならまあ結構です。
私はあなたの
>>299の言葉を見て一瞬、救われましたから。
まあみなさん営為にいきましょうか!
あなたたちの、かけがえのない生です。
まあこんなところ。。。
とりあえずこんなところで。
ではみなさん、かけがいのない生を!
>>308 いい内容(
>>292-295)を見たら、絶句してしまう。のですよ。
すばらしい表現。心底同意してしまう。
大変いい。ぶらぼーーーー。
どこに、文句のつけようがある??
たいへんすばらしい。
ここにいる理由?
前に一度書いたが、知らないことを知るため。
もう、見つかったので、今は惰性かな。エゴかな。
>みなさんへ
えー、イナゴさんのご厚意によって、イナゴさんのこの論考の掲載の許可を頂きましたので下段レスに
彼女の論考を掲載させて頂きます。
まあイナゴさんも載せることに躊躇していたものを無理を承知でお願いしたものですから、厳しい批判
や煽りはたいへん恐縮ではありますがご遠慮下さい。
また私の手で修正した部分が多少ありますので、下記の文がイナゴさんの意図と違う場合が考えられま
すので、それも併せて、あらかじめご了承下さい。
まあこんなこというのも蛇足とは思っておりますが、私はイナゴさんの“思考”は、かなり好きだということです。
まあみなさん読んだってください。よろしくおねがいします。
>>67 じゆんさんへ。
>いなごさんも私のレスでがっかりされたのなら申し訳ありません。
そんなことはありません。むしろこの私のレスこそ、なんなんだってもんで、自分でも困ってしまいます。
いや、あのね。
じゆんさんの書き込みを読んで「なんか述べねばならん」って思った所まではいいんですが、
>でもこういう(認識論の)問題って本当にどこから手をつけていいかわからないことは
>確かなのです。
私も、もうなにをやっているのか、わけがわかりません。
2週間くらい考え続けたものの、何一つ確かなものが出てこなくて、イヤになります。
なんか、歩きながら「時間とは何か」とか「時間は関係ないだろ」とか、ぶつぶつ言っていてヤバイかなと。
で、体系的な発言はあきらめました。
じゆんさんの書き込みを読んで、思いついた事をそのまま書き込もうと。そんなレスなので、こちらこそです。
・「スプーン曲げ」は気功だ
ね。ずいぶん遠い所まで行ってしまった感じがするでしょ?でも、まあ聞いてください。
なぜスプーンは曲がるのか。なぜスプーンなのか。なぜこするのか。なぜ意識を集中するのか。
金属は熱を加えると曲がりやすくなるんじゃないのかな。
(そんな金属が曲がるほどの熱なんて、とは私も思うんですけど)
スプーンは金属で、こすると熱が発生して、金属は熱によって曲がりやすくなる、と。
でも人によって曲げれる人と曲げれない人がいて、それは何によるのか。
それが意識の集中ではないか。
つまり念力は、スプーンに影響するのではなく、指先に意識が集中することではないかな、と。
では指先に意識が集中すると、どうなるのか。
血液の流れが速くなるのではないのか。その血液の運動によってさらに熱が加わるのではないのか。
・気功療法とは
さらに妖しげな所に行きますよ。いや、私もよく知らないんですが、なんか「先生が手を当てると病気が治る」とか、
そんなもんだったかと。
まず先生は手から熱を出しているわけです(先程と別の表現をすれば『焼きたて!!ジャぱん』(橋口たかし)で
言うところの「太陽の手」です)。で、患者の血行の悪い所を温めると血液が流れるようになる
(血液の流れる方向も重要か。上流でせき止められている流れを下流に持ってくる)。
そして血液が流れるようになると細胞が活性化する。
まあ、そういうのも楽しいかなと思うのですが、私は毎日、風呂に入って身体を温めれば、それでいいかなと思います。
・「丹田」は腎臓だ
丹田って場所からいって腎臓かな、と思うんですよ。で、そこに意識を集中すると腎臓に血液が入るわけです。
たん‐でん【丹田】へそから三センチメートルほど下の所。ここに力を入れると健康と勇気を得られるという。
勇気はともかく健康が得られるというのは、なんか納得できます。
「考える」とは行為である。
「考える」とは、何かスプーン曲げのように、意識的(行為的)であると思う。
その行為によって、脳に血液が集中し、脳細胞が活性化されるのだと思う。
誰かが言っていたが(前スレだっけ?他スレ?)、答えは記憶の海の中からポコって浮上してくるような、
そんなイメージを私も持っています。そして考える事によって記憶の海が泡立つような。
(あ、あと上の「勇気が得られる」というのは頭に行ってしまう血液を代わりに腎臓にやれば、
脳細胞の活動が抑えられ、あれこれ考えること、迷うことがなくなるということか)
・存在と思考の関わり
思考の必要性は私(存在)から発せられる。存在が思考(認識)を必要とする。命令を発する。
しかし、それゆえに思考の結果に存在が関与する。
>そうやってできた、張りぼて(形而上)の不器用な『私』と言うものがまず確認されて、
>そいつ(私)が、おそらくモノを考えるのです。
>基本的に、こいつ(私)はかなりのアホです。けっこう間違いをやらかします。
>しかし『私』というものは洗練されますから間違いは確率的に減少する傾向にあります。
>もし私に期待するとしたらこの点なんでしょうか。
>そのためには【私】と【我】との信頼関係が大事ですね。これは蛇足ですかね。
私(存在)なんて、スリッパでバンバンやってゴミ箱に捨てても、そのうちまた
だから私にできる事は、違うな、私(存在)がしてもいい事は、知識や経験を増やす事と脳細胞の
活性化を持続させる事、そこまで。答えが出るかどうかは私を超えた所にある。
これも違うな、思考はその答えを自分が持っていないことも教えてくれるんだから。
私が望まない答えを思考が出したとしても、私はそれを尊重しなければならない。動かないという行動。忍耐
たまにこのスレ関連でサルトルが出てくるけど(私はサルトルを読んだことがないのだけれど)、
何かサルトルの「考える」と私の「考える」は根本的に違うように思う。
・存在と思考の関わり
思考の必要性が存在から発せられる。存在が思考を必要とする。
しかし、それゆえに思考の結果に存在が関与する。
話はさらに変になるけど、太極拳は、普段の生活では動かさないような所を動かして、
そういう所の血行をよくするものだと思います。血行には呼吸も影響するでしょう。
思考は「そんなもん知るわけねーだろ」と答えを出すのに、存在は「いや、知らないとは言えない」
思考停止かもしれませんが、その答えに「私」は関与しないほうがいいように思います。
>>46 >瞑想による我への接近なども試んでいます。
私は瞑想の第一義は、動かない事、静止する事だと思っています。
これをどう説明すればいいのか。。。
勝海舟は
「人生にも相場というものがあって自分の相場が下がっているとき、そこで10年我慢できる者は大豪傑だ」
と『氷川清話』で言いますが、
案外、動く事より動かない事の方が、自己にとって難しい感じがします。
知覚したら脳は勝手に認識しようとするじゃないですか。
で、感情が湧き起こって、なにかしらそれを表現・行動しようとする。
いや、それはそうでなければ困りますが、でもその行動によって、かえって危険な目に合うこともあって。
その感情が湧き起こる所までは、しょうがない。そんなふうに人はできているんだから。
では私は私に対してまったく無力なのか。いや表現・行動の段階で私が介入する余地があると思うんですね。
人生にもブレーキがあったほうが、より安全じゃないか、とか。
いやそういうことを言いたいんじゃなかった。
瞑想によって何が得られるか、ではなく、瞑想は何をするものなのか。
やっぱ、なにもしていないなあ、と思います。
普通に生きていたら人は無意味な事はしようとしない。でもそれをやってみるのが瞑想だと、私は思います。
次に、なぜ感情によって行動してしまうのか。
これは、ヤクザに「静かにして下さい」と言うと、なぜビールビンを割るのか、そんな問題です。
それは動く事によって存在を獲得してきた「私」にとって、動かない事は存在を手放すように感じるのだと思います。
スピノザは『エチカ』で、喜びとは自己が大きくなる事、悲しみとは自己が小さくなる事、と言います。
やはり存在、あるという意識は動く事(経験)によって獲得されるもの
小泉純一郎が「国会答弁のとき、自らに「丸くなれ」と言い聞かせていた」というのも一つの瞑想だと思います。
それで得られるものは同じモノだと思います。
動く事によって「存在」を獲得してきた「私」にとって、動かない事は「存在」を手放す事に感じるからではないだろうか。
やはり存在あるという意識は動く事によって獲得されるもの
「存在」は経験的であると思う。
なぜなら表現・行動するのは「私」なんだから。もちろん動かなければ得るものはない
その介入する私とは、おそらく自らの無根拠性に怯える私ではないかと思う。
なぜ、あるという存在である私が無根拠性に怯えることになるのか、動かない事にもそれなりの良さがある。
では静止する事の利益は?
普通それは感情をどのように表現するかという段階だと思うのだが、そこで静止してみると、さらに脳が勝手に
別に動かなくても死にはしないなと分かればそれでいいんじゃないかな、と思います。
とかく私たちは知覚するじゃないですか。意識的に考える事もありますが、それだけではなく、
知覚する事によって勝手に脳が働いてしまうことがあるのでは?
連想って、私とは関係なく勝手に思い浮かんでくるものだと思います。
それは知覚したものを認識しようとするからだと思いますが、
>>58 >(あとイナゴさんも、どもでした)
いえいえ。使えそうなものがあったら、持って行きなされ。でも品質の保証はできませんよ。
と、言えるほど何かをしたわけじゃありませんね、私は。
>>67 >いなごさんも私のレスでがっかりされたのなら申し訳ありません。
レスをもらえただけでうれしいです。
でも、それに対して私の考えを述べるというのは、かなりつらいなというのが正直なところです。
それはつまり、じゆんさんの書き込みを読んでいろいろ考えるのですが、その私の考えは無意味なものか
もしれない、根本的に間違っているという懐疑がどこまでいっても消えないのです。それはやはり神経生理
学ですか? そういうのを知らないからだと思います。
でも、今こうして書き込もうとしているのは、私にはじゆんさんにレスしなければならない責任があるのでは
ないか、とも思えるからです。だからこの書き込みは、読み流してください。
この書き込みの本当の意味は、レスがあってうれしかったよ、ということです。
じゆんさんの
>>45-58を読んで最終的に頭に浮かんできたのは、なぜかハイデガーの『存在と時間』でした。
ただ私はハイデガーの伝記風のを読んだことがあっただけで、『存在と時間』そのものは読んだことはありません。
だから「存在と時間」という言葉にたどりつき、そこからハイデガーの『存在と時間』を連想した、と言ったほうが正
しいと思います。で、どういうわけか存在と時間は同じ意味ではないか、と思いました。いや違うな。記憶の差異
(現在と過去。ハイデガーの言葉で言えば「現存在」と「実存」?)から時間が出てくる、という考えはおかしいで
しょうか。
もう一つ。記憶の差異から存在(ハイデガーの用語なら「実存」?)が出てくる、というのはどうでしょう。私は、ハイ
デガーもこのような考えにいたって『存在と時間』を執筆したのかな、と思いました。(今「存在と時間」スレを読んで
います。存在論を転回させたのがハイデガーの凄さですかね?)で、これはひとまず置いといて。次に、なぜ「存在
と時間」に飛躍したのか、です。
右目と左目って機能としては「見る」ってことで同じですよね。そうすると右脳と左脳で
(どっちがどっちだったか忘れましたが)「思考」と「感情」というように機能が違うってのは、変な感じがしませんか?
(情報が古いですか?というより知識が足りない)右脳と左脳の機能が違うっていうのは、
なにか右目が遠距離用、左目が近距離用というような話ではないのかな、と思うのですが。
また赤ちゃんは感情的であり歳を取るにつれ思慮深くなるというのは、使う脳を感情脳から思考脳に、
と変更するのだろうか。それは右利きが歳を取るにつれ左利きになる、というようなことではないだろうか。
では右脳と左脳の違いは何か。
右目と左目の機能が同じであるように、基本的に右脳と左脳に違いはないと思う。
右脳も左脳もその機能は記憶(=イメージ。これが脳細胞の形式だと思う)であるとして、
その差異は時間的なものではないのか。
思考そのものとは何か。
考えるとは、知覚対象物Xと記憶(イメージ)の是非を行うために、意識を脳に集中し、
脳に栄養(血液)を集める。行為。
思考とは脳内における勝手な連関。ここに意識は介入できない。さらに思考を持続するかどうかの判断。
もちろん私は考えているつもりなのだが、しかし、それは対象物Xのイメージによって
何かが浮かび上がってくるのを待っているだけのようなもの。
右脳が現在の記憶なら、左脳は1秒前の記憶であるというように
(「歩く」のが右足と左足を交互に踏み出す形式であるように)、右脳が全体を把握したその結果の
モノ・イメージを左脳が受け取り、さらに否定→発展させる。
その左脳のイメージをまた右脳が受け取る。これを交互に行うことなのか。
それとも輪唱のように、思考は直列なのか並列なのか。
思考や感情に意志を持ち込むことができるとしたら、それは否定することだけ。
脳が右と左に分かれていることによって客観的な判断が可能となるのではないのか。
そして主客未分というのは、右脳と左脳の差異が少ない状態ではないのか。
赤ちゃんは右脳と左脳に差異がないから、自分が自分ではなく知覚したものを自分と思うのではないのか。
では感情とは。
これは思考のどん詰まり、これ以上無理ってところで感情が表れるのではないのか。
もうこれ以上ネタが広がんない、打ち止め、どうしようもない。
その出力物(ストレス)によって脳汁→感情が出るのではないのか。
感情は思考より表面的であり、表現や行動に近い(思考→感情→行動)。
赤ちゃんが感情的なのは感情脳が発達しているからではなく、
経験(記憶)の少なさによるのではないのか(すぐに打ち止めになってしまう)。
このモデルの利点は、脳細胞に難しい働きを要求する必要がないことである。
対象物Xから受けたイメージとこれまでの記憶Aのイメージは同じかどうかの単純なチェックで
すむのではないか(これが思考か。X=Aの是非。この是非もまたイメージとなる。ニューロンの電位変化)。
思考と感情のように機能が分かれているとすると、その右脳を構成する脳細胞と左脳を構成する脳細胞では、
その脳細胞の性質に差異がなければならなくなるのではないのか(なにによって分かれているのか考える必要
が出てくる)。脳溢血かなんかで脳の半分がダメになった人でも、思考や感情はあるんじゃないのか。
もし脳が思考と感情に分かれているのなら、感情脳を取り去る事で純粋な思考人間になれるのか。
では、存在とは?時間とは?
その記憶の時間的なズレによって存在が仮定されるのかなと思ったのですが、しかしこの時間を「時間」といっ
ていいのか。
時間を考えたくなった。
その時間に答えを出して、その答えを出すまでの考察の中で、今までの考え(右脳とか左脳とか思考とか感情とか)が
自己否定されなければ、それは、もちろん私にとってではあるが、意味があるものではないかと思う。
その形は「点」。だって細胞なんだから
もうわけがわからなくなってきているのですが、私の「思考」のイメージは水泳ですかね。
息をとめて右脳がザブンと潜るわけです。で、苦しくなったら水面に顔を出して一息ついて、次は左脳が潜り、
それを繰り返して思考は深化するといった感じで。(なぜ腕は2本なのかとか。もちろん遺伝子だな)
主客未分なヤンキーに時間感覚はないのか。
現存在、実存、わたし、時間
その一つ目が対象物Xとはなんだ?という照合。
二つ目が客観的な判断。XはAだとする、それへの懐疑。
なぜ脳はふたつなのか。いや右脳が左半身、左脳が右半身
知覚や思考や感情は片方の脳でできることではないだろうか
(まあ違うとも思うのですが、このように仮定して行ける所まで行って、行き止まりになったらまたここに戻ってこよ
うと思っている)。
感情とは何か?
思考のどん詰まりとも考えられる。このとき私が考えているのは、キレるとか、かんしゃくとか、
赤ちゃんはなぜ泣くのか、考えてもカップラーメンの3分が意識するのとしないのでは、
その長さが違うように思えるのは、記憶の書き換え右脳も左脳もその機能は「記憶」である。
そうすると右脳と左脳の違いは
では右脳と左脳の違いは何か。
右目と左目の機能が同じであるように、基本的に右脳と左脳には違いはないと思います
(脳梗塞だったか脳溢血だったか、そんなのでどちらかの脳がダメになっても、半身不随にはなっても、
思考や感情がなくなるということはない。それは片目が見えなくなるようなものではないのか)。
右脳と左脳があることによって自己を客観視することができるのではないかなと。
「考える」ところで右脳と左脳のズレが出る
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上です。
腹の虫が収まらない、腹が立つ、肝を冷やす、肝っ玉が太い、万感胸に迫る…
これらは感情に関係する慣用句だよね?
日本語の成り立ちにおいては、感情の作用を首から下の部位に関連付ける取り組みが為されてきたと思うんだけど。
ご先祖の慧眼とたゆまぬ研鑚を重んじてみた場合、
感情は脳における働きだけでなく、首から下の影響と大きく関係していると断定できる。
例えば、肺が圧迫されれば呼吸もそれだけ乱れる。
瞑想でまず第一に整えんとする呼吸が乱れるのだから、これは思考が乱れると同義なのだろう。
「頭にきた」というとき、何が頭にきたのかと言えば、百家争鳴状態の情念が頭に来た、思考を奪ったということを意味するのだろう。
感情のこうした働きと脳との関係については、俺はあんまり勉強してないや…。
脳にて起こることが首から下に影響しているのか、それとも逆の順序なのか相互に影響し合うのかも、ちょっと把握できない。
でも、脳と首から下とを、「別のものなんだな」というふうに一旦訣別してみる、要するに自己同一性の放棄を処してみると、
なんか自分とは別の生き物が腹や胸に常に隠れ住んでいるようで、ちょっと不気味な気分になる。
ケース・バイ・ケースなんだろうけれど、一体どっちが自己なんだろうね。
以上、ちょっと別の角度から感情というものを考察してみた。また今度ね。
無意味で無価値な「悟り」になんのいみがあんのかねぇ。
矛盾してない?
悟りは「矛盾方程式の解である」って読んだことあるけど。
真理はかぎりなく信理に近い
チョット読み返したら議論がこの辺りで止まってましたので…
○記憶○
『記憶』とは大まかに言って『記録』と『再生』の二大作用を有します。
『記録』は『意識の稼動』の一連の流れの中の三箇所で行われます。
知覚 → 記録[1] → 思考 → 記録[2] → 感情 → 記録[3]
この[1]の部分で『記録』が行われます。
ここで行われるのは
・転写(知覚情報を脳に書き込む)
・保存(転写された内容を維持する)
更に[2]の部分で再度『記録』が行われます。
ここで行われるのは
・銘記(認識情報を事実として脳に書き込む)
・保存(銘記された内容を維持する)
そして[3]の部分でもう一度『記録』が行われます。
ここで行われるのは
・追記(思考結果より得られた感情結果を印象として銘記保存された情報に追加する)
・保存(追記された内容を維持する)
つまり記録は三段階で行われるんですよ。
記録[1]で行われるのは『写像記録』−言い換えれば『未加工の情報』の記録です。
記録[2]で行われるのは『事実記録』−言い換えれば『ラベリングされた情報』の記録です。
記録[3]で行われるのは『印象記録』−言い換えれば『派生情報』の記録です。
この三つが合成されて始めて『記憶』となります。
しかし通常は『写像記録』は殆ど作用しません。
いえ、作用してはいるのですが殆どにおいて(意識的には)有名無実と化しています。
何故ならば大抵の場合は『写像記録』が意識上に昇る事が無いからです。
(生得的、あるいは訓練により得られる能力で『写真記憶=フォトグラフィックメモリー』というものもありますが)
(続く)
(続き)
『記録』された情報=記憶では『事実記録』より『印象記録』の方が『再生』が容易という特徴があります。
いきなり『事実』を『再生』しようとするよりも『印象』を『再生』してから連なる『事実』を『再生』する方が容易なのです。
よく『音楽を聴くとその当時の感情が思い出される』とか言うでしょ?
アレは『事実記録』(何時何処でどんな状況で何の音楽を聴いた)より『印象記録』(何の音楽を聴いて何を思った)の方が『再生』し易いからです。
例えば『忘れている時期の記憶でも、音楽を聴くとそれを聴いていた当時だけは思い出す』という状況。
これは
音楽を聴く(知覚) → 当時何を思った(印象再生) → その時の状況(事実再生)
となっているからなんです。
『再生』は『意識の稼動』の一連の流れの中の二箇所で行われます。
知覚 → 再生[1] → 再生[2] → 思考 → 再生[3] → 感情
この[1][2][3]の各部で記憶の『再生』が行われます。
『再生』とは以下の二行程を経ます。
・再生(『記憶』された情報を読み出す)
・再認(読み出した情報が間違いないか確認する)
行程は同じものの[1]と[2]と[3]では読み出される情報が異なります。
[1]で再生される内容は『写像記録』です。
得た知覚情報と記憶に在る『写像記録』を比較対照して『自己同一性』を確認します。
[2]で再生される内容は『事実記録』です。
得た知覚情報と記憶に在る『事実記録』を比較対照して『思考』が発生します。
[3]で再生される内容は『印象記録』です。
産出された思考配列の結果物と『印象記録』を比較対照して『感情』が発生します。
つまり、『意識の稼動』の流れは
知覚 → 写像再生・確認 → 写像記憶 → 事実再生・比較 → 思考 → 事実記録 → 印象再生・比較 → 感情 → 印象記録
となります。
感情って思いだせるの?
よくわかんないな。記憶によって感情が作用されるんじゃない。思い出した記憶によって作用される感情はよく誤るんじゃないかな
>>327 ハルカ論の批判になってもいないような舌足らずなレスだけど、私が代わりにお答えしましょう。
>感情って思いだせるの?
感情は思い出せますよ、って言うか、感情のみが思い出されるわけでもないということ。
[1]と[2]と[3]のすべて合わさった状態で記憶は思い出されるということ。(そういうことでよろしいかな?)
そしてそのときの感情が思い出されないはずはない。感情がより強く思い出される事象の例として
やはりハルカさんの言う音楽の例が適当でしょう。私も昔の音楽を聴くと、そのときの自分を思い出します。
ミスチルが好きだった高校生の頃の自分の状態、友達のことや、そのとき何を考えていたか、よく記憶を見つめれば、
そのときの部屋の様子だって詳細に思いだせるくらい脳裏に浮かびます。(みんなが音楽を大事にするのって多分
記憶を大事にしたいから聞くのだと思う。なんか最近そう思えるようになってきた)
>ハルカさんへ
ウィトが少し入ってるんですか?
勉強不足ですいません、何か参考にしている物があるのなら教えてください。
それと、とても興味深く読ませて頂きました。
あとそれと、どうもありがとうです。
(これは言わない方がよかったかな? いちおう言っておきたいと思いました)
>>327 良くお読み。
>いきなり『事実』を『再生』しようとするよりも『印象』を『再生』してから連なる『事実』を『再生』する方が容易なのです。(
>>326)
って書いてあるでしょ?
『印象』と『事実』は連なってるの。
『印象』を再生しようとすると『事実』は必ず一緒に『再生』されるの。
>>328 …私の言ってた『意識と知覚/思考/感情は別』に反論してたんだからさぁ。
過去に
>で意識とはたぶん「知覚→(記憶)→思考→感情」を
>私が何度も何度も繰り返した“線”の集積そのものに
>なるのではないかなと想像している。
>うん、ここでポロッと意識が出てくるみたいだ。(前スレ940)
とか言ってたでしょうが。
だったら
>とても興味深く読ませて頂きました。
だけじゃなくて『意識の所在は何処なのか』『どういう流れで【意識】というものが出来るのか』に的確に反論しなって。
仮にもスレ主でしょ?(呆)
あと、私から一点だけ大きな疑問点を挙げさせてもらうと
『もし【繰り返した“線”の集積そのもの】なのだとしたら生まれたての赤子には何の意識も無いのか?』
さぁ、答えておくれ。
視覚や聴覚や触角や嗅覚や味覚によっても記憶が刺激されるじゃない。
僕はとくに思想などは持ち合わせていないからわかんないだけなのかもしれないけど。
さあて、さっそく答えたいかと思います。
その前に一つだけ。まったくもって申し訳ありませんが、もしハルカさんやカオルさんが
ここであの文面通りに理解されているのだとしたら、まあ誤解というか、なんていうか。
つまりこの文章がおかしい、もしくは間違っている、もしくは厳密に定義されなくてはならないことを
私は認めているのです。ですからあやまります。どうも申し訳ありませんでした。
いちおう弁明だけはした方がよいかと思いますので以下に簡単に記します。
>うん、ここでポロッと意識が出てくるみたいだ。(前スレ940)
たしかにここで意識は出てきません。意識は出てくるものではなく、意識は意識として“在る”ものです。
ちょっと記憶が定かではないので推論形式で述べさせて頂きますが、おそらく私はこのとき意識と自我を
混同していたような気がします。まあそういうことです。自我と意識の区別がついていなかった。つーか自我に
ついては指摘されるまで考えもしなかった。要はそういうことです。まあ指摘されてようやく気づきまして助かる
思いだったのですが、なにせあのとき自分的にまいっていたものでして(正月頃ですよね)、それとその問題
意識を自分では通過していたもので、それとそのときなかなか議論が錯綜していたものですから、答えるタイ
ミングを逸してしまいました。まあ、私の現在の思考形態はあちらの方に記してありますので、また指摘があれ
ばよろしくお願いします。
またこれでも納得いかないというのであれば、また改めて言及下さい。
推論、その2
もう一つの可能性を述べますと、このポロって出てくるって言うのは、おそらく内観による観察によって意識の
存在が“確認”されるという程度だと解釈していただけるとよかったのかも知れません。
意識については今のところ私は“思考停止状態(エポケー)”です。いくら考えても答えは出てきません。
答えとはなんでしょうか(ちなみに答えとはなんだろう)
とりあえず弁明はこんなところでよろしいでしょうか?
>じゆんさん
あっちこっち行くの面倒。
ROMる人も面倒。
今でも自律スレを"あっちのスレ"とか呼んでこっちのレスにあっちで答えるとか・・
新スレは"四次元スレからエクソダスしてきました"(笑)、でいいと思うのだけれど。
1に書いてある関連スレはみんなハルカのスレなのは認めるでしょ?
このスレ立てるのあなたにお願いしたのもハルカの書き込む場所を確保するため。
わかってると思ったんだけどな?(デンパのあたしが前面に出るのはマズイのです)
それにハルカの発言はハルカ論を前提にしてる訳だし、
今の議論はハルカ論における個別の議論なんだから、
やっぱり別スレで議論するのは不自然だと思います。
このスレで続行してほしいです。そうしてくれたらあなたのこと許してあげます。
わたしはこの一連のスレをハルカの記憶として残したいの。どうしても。
>じゆんさん
今あなたの新スレ"読み"ました。
眠れなくてナントナク一部だけ。
336は書く必要なかったみたいです。
ごめんなさい。m(__)m
今仕事にすごく集中してるの。
だから頭が眠らないのです。
眠らなくても頑張れてしまうのです。
いつものパターンなんですけど。
哲学から逃げてるのかな?
仕事してると創造する機械になれる。
一番楽な生き方なんだよね。
ということでハルカのレスだけ一生懸命読むけど
あとは知らない。そんな感じ。
実りある議論をしてください。
>70さん他
レス返す気力が無いです。
レスも読んでないけどまたいつか。
「エンヤ」とかいう人の音楽。知ってますか?
脳内麻薬でますね。(笑)
アイルランド系の音楽って性に合うみたい。
なんか灰色の曇った空のイメージ。
なんかおススメありませんか?
とりあえず今夜はエンヤを聞きながら存在に抱かれて眠ります。
わたしを忘れて。
>カオルさんへ
>なんかおススメありませんか?
私の一番のお薦めは葉加瀬太郎の「VIOLINISM U」です。
赤いジャケットが目印。これも結構でます。生きると希望やらが。。。
よろしければ、そっこうで買いに行ってみてください。
訂正
生きると希望やらや
↓
生きる希望とやらが
全然意味が違ってくる。(日本語って難しい)
ついでに下にハルカ論の考察をコピペしますね。
確かにたくさんあると読む人はめんどいですね。
*ハルカ論 ○記憶○ についての考察*
>>325-326 ちなみにハルカ論と私の論のどれが重なっているか見るのも面白いと思っている。例えば、ここで言うのはなんだけど、
写像記録については自分的には一考の価値があると思っている。ちなみに写像記録(情報)とはなにか、事実記録
(情報)とはなにか印象記録(情報)とはなにか? それらはどのような形態をしているのかを考えるだけでも、かなり面
白いとはずだ。実は記録と銘打っているだけで、それらの形態様式はまったく違っている。いちおうわざわざ(情報)と
付け加えたのにはわけがある。記録(記憶)情報と知覚情報はまったく概念を異にするからだ。いちおう“情報とはなにか
という問いかけは
>>15の<記憶とはなにか>から端を発している。「情報」今、私はこの言葉には少し懐疑的だ。情報は様
々に形を変える。認識論の一つのキーワードなのではないかと一応思っている。
あとちょっとウィトと勘違いしていたのだが、写像記録は多分ゲシュタルト的なものでもあるんだな。錯視とか錯覚とかそうい
うことか。難しく考えすぎてしまったようだ。
<ハルカさんの記憶論の情報について>
あとハルカ論ではやはり「情報」という主体として設定されているようだ。(ちなみに私は主体を意識としているのかな?)
情報がどのように扱われていくかを見ていくと面白い。例えば勝手に引用してみると
> つまり、『意識の稼動』の流れは
> 知覚 → 写像再生・確認 → 写像記憶 → 事実再生・比較 → 思考 → 事実記録 → 印象再生・比較 → 感情 → 印象記録
> となります。
などでは写像、事実、印象ともに、再生と確認の二つの作業がほぼ一遍に行われているが明示されているからである。
このように考えると、感覚器官から受けとった情報はどのような形をしているのか問いが生まれるのは必然的なのだ。
そもそも再生と確認を一緒に明記したのにはちょっと感動した。やったーというか、すげえと思った。
<ハルカさんの記憶論の事実記録について>
あともう一つ言及してみたいこと。「事実記録」について。事実記録とはなにか? まあ構造上は全然問題ないのだがこ
のあたりがやはりむずかしくなってくる。ちょっと見つめれば見つめるほど不明瞭になりそうな気がしてくる。事実と写像の
違い、事実と印象の違いが不明瞭になってくる。おそらく思考に合わせて設定した概念なんだと思う。
ハルカさんの「意識論の思考」と「記憶論の事実」。この二つが思考と事実の境目で双方が論点変更(パラダイムシフト)、も
しくは転回(ケーレ)するんではないかなと思った。実は思考と事実の二つって結構主観的な観点だったりするわけで、
思考とはなに? 事実ってなに?というのがやっぱり問われるわけなんだ。存在論的に。
写像と事実と印象の関係は意識の中の知覚と思考と感情とそれぞれ対応する。いや自分は意識に記憶を対応させるのは
諦めていた部分があったから、やっぱりハルカさんはすごいと思ったね。ああこんなに見事に対応させちゃうんだって思った。
<私がハルカ論を評価する点>
私がハルカ論のもっとも評価する点はその美しさにある。つねに思うことだけど、論の美しさにおいてハルカさんの
右に出る人はそうはいないと私は考えている。論というかイメージというか。論に美しさを持たせる人はあまりいないだろう。
無意味だと思っている人も多いのではないか。しかしそれは違うと言っておこう。美しいということはつまり無駄がないという
ことだ。ただ単にそれは合理化ということを指しているわけではない。その論以上に見るものはなにもないということを指して
いる。私は長文体質なのでよく分かるが、長文はだめだ。読むのに時間がかかりすぎる。そのかわり整頓された美しい論を
見るとすぐにその正しさを直観することができる。まあなんでもそうだが長けりゃいいてもんじゃないのだ。
>>253 Nさんへ
>宇宙が膨張している根拠としているのが、
>地球から見て星が赤方偏移している。
赤方偏移ですか。いや全然知らなかったです。
教えていただき、ありがとうございます。
遠ざかるモノから出た光はドップラー効果で赤くなるから、それを観測して、宇宙は膨張しているとなるんですね。
>全ての星が赤方偏移している⇒
>ということは、星が互いに遠ざかっている⇒
>遠い星はより早く遠ざかっている⇒
>ということは、宇宙は膨張している⇒
>ということは、宇宙はビッグバンからはじまった
うん。理解できた感じがします。
ただ、宇宙の収縮とか時間については、相対性理論が関係するようで、それを理解するのに、てこずっています(本当のことを言えば重力もよくわかっていません)。
なんとなくアインシュタインの時間ってゼノンの逆説のように思えて理解が進まないです(「アキレスと亀」のように自分の理屈に合わせて時間を取り扱っているというか)。
でもそれは根本的に人間抜きの時間論であって、私は、その物理的な数学的な時間論に抵抗があるのかも。
もう少し勉強してみますね(途中で投げ出しそうですが)。
でも、あまりレスが遅くなってもナンなので中途半端ですが書き込んじゃいました。
>>254 「時間」って難しいですよね。
この前、体調を崩したのも、「時間」が原因でした。
「時間とは何か」「時間とはどういうものか」以前に、「時間」を考察する方法すら、どこから手をつけていいのかも分からなくなってしまいました。
最近読んだのですが、NHK出版の『シリーズ・哲学のエッセンス「ベルクソン」』で、空間的な時間とは別の時間、ベルクソンの純粋持続が書かれていました。
「おお、そんな考え方もあるのか」と、なんか頭の上のほうで電球が光ったような感じがしました。
なんかニューロンってのは。
一つのシナプスから一回だけ入力を受けても、小さな電位変化しか起きず、その電位変化はすぐに減衰してしまうそうです。
そして他のニューロンへの出力となる活動電位は、ある一定の値を超えるような多くの、大きな入力によって引き起こされるそうです。
[参考『BraiNet』
ttp://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/1850/] >>255 >人にビッグバンがやってきたのが悟りです。
>内部で何かが爆発するのです。
>爆発後、一変する。
私の場合、電球がピコンと光るようなものですが、Nさんの場合、電球が破裂するほどの(つまり、より大きな)電位変化があったのでしょうか。
そういう感覚を体験してみたいような、でも怖いから遠慮しておきたいような、複雑な気持ちになりました。
でも「体験してみたい」と言っても、それは自分でどうにかなるコトじゃないですよね。
これを無理やりスレタイの「悟りとは、苦とはなにか、その二つの接点」に関係させれば。
苦というマイナスに何か(真理?)プラスの入力がされたとき、その電位差によって、ものすごい爆発(活動電位)が起こって、その出力を悟りと呼ぶのか。
まあ適当ですけど。
>>323 考える名無しさんの、
>悟りは「矛盾方程式の解である」って読んだことあるけど。
にも、かすっているかな。
>70さんへ。
ようやく『文芸の哲学的基礎』だけですが、読み終えました。
読んでみてよかったです。
「人間の観察と云う者は深くなると狭くなるものです。(中略)真を重んずるの結果、真に
到着すれば何を書いても構わない事となる。真を発揮するの結果、美を構わない、善を構
わない、荘厳を構わないまではよいが、一歩を超(こ)えて真のために美を傷つける、善
をそこなう、荘厳を踏み潰(つぶ)すとなっては、真派の人はそれで万歳をあげる気かも
知れぬが美党、善党、荘厳党は指を啣(くわ)えて、ごもっともと屏息(へいそく)して
いる訳には行くまいと思います。目的が違うんだから仕方がないと云うのは、他に累(る
い)を及ぼさない範囲内において云う事であります。」
そんなところが私にはあるので、頭のすみに置いておこうと思いました。
そう言えば、この「壮」は、じゆんさんの「エヘン」が元になっているのでしたね。
ただ、じゆんさんは、
>>304でじゆんさん自身が言うように、なんでも背負い込むような人なんだと思います。
しかしそれによって潰れてしまいそうなとき、「エヘン」ぐらい言いたくなるのではないでしょうか。
70さんと同じように私も、じゆんさんの「エヘン」に「壮」を見るのですが、でも大丈夫なんじゃないかと思います。
ここで大丈夫と言うのは、たとえ潰れてしまったとしても、それは自分のエゴによるものだとわかっていると思うからです。
>>282 >このように、悟りや解脱という頂きに限りなく近づく道は、一つではなく二つあり、こ
>の声聞と菩薩の二つは相互依存の相克の関係になっている。
また適当なことを言ってしまいますが、私は、哲学者と哲学学者の関係について、そんな感じのことを思っていました。
真理を追究する人と、それを一般に広める人。
上限を押し上げる人と、底上げする人。
まだ、70さんの論を理解できるほど読んではいないのですが、とりあえずですが、そんな感想を持ちました。
17(まぬけ)氏への反論
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1070722800/377-378n 参照
君も本当に、めんどくさい男だね。そういう議論のための議論は頭の悪いことのすることだって
分からないの? 少なくとも流れを読もうぜ。あんまりあっちのスレで口出しするな。
>気持ちの奪い合いをして面白いのはわかるが、スレタイとかけ離れた行為であることの
>自認はあるのか?
どこがかけ離れてる? ハルカさんは悟りたいと言っている、Sさんは自律したいと言っている。
だから本来はそれ以外の人間は必要ないんだよ(俺も含めて)。あんまりがたがた騒ぐなって。
あと“気持ちの奪い合い”って面白い例えを使うね。君は少し成長したんだな。
>>2年前から何度も同じこと言わされてる。どうして?
>さあ?おれは尋ねていないのでなんとも。おそらく大方の見解がなぜメールでなく2ch?といった疑問かも。
なにゆえに2ちゃんねるじゃ駄目なの? それを俺に分かるように説明してくれ。
>おれはスレタイが「ハルカ論学会」といった類なら確実にいなくなる。
>客寄せみえみえのスレタイだからレスせずとも悟り等に関心のある人は覗くこともあろう。
くだらないよ。あと馬鹿にしてるんだろう。コテハンはスレタイトルに本来は盛り込んじゃいけない。
なんでわざわざこんなこともまで言わなければならないんだ。静かにして欲しい。頼むから。
あとあなたのせいでこの議論がすぐにとまる。当事者以外のメタ議論はルール違反。興味のある方のみ
ご自由に、ってのが2ちゃんねるでの“哲学板”での姿勢じゃないの? 少なくともあなたのためにちっとも
議論が進まない。
さて前スレから参照してもらえば分かることだが、あちらのスレはハルカさんとSさんの互いの論破が目的になって
いる。でカオルさんが進行役。その3人以外は本来は無用。お願いだから、あっちではあなたは口出すな。あちら
での進行役であるカオルさんに口出ししても無意味。あなたも自スレがあるんなら、しかもこの「悟りと苦」スレで最初
に自己主張したのなら、そこで主張するべき。
>レギュラー陣
えとこれはどういう意味だ。レギュラー陣が誰だか全員明記しろ。省略するな。何度も言うようだが君には礼儀がない。
質問する姿勢として不十分だろ。礼儀もないやつは書き込むな。これが失礼かどうかも分からないなどとは間違っても
言うなよ。
>>あなたもわたしに掲示板に"書き込むな!"ってことがいいたい訳?
>いいえ。それはあなたの推測だね。
219さん、俺はあなたに書き込むなと言ってる。こっちの「悟りと苦」スレがある。こっちでのみ語れ。檻から出るな。
>もういい加減予測できると思うが、おれは「〜いいと思う」的な発言は
>したことがない。あっちのスレにはじめて「〜しなさい」と書いて主張の強調を演出してみた。
>でも基本的にはしない。おれにとっては無意味だから。
はっきり言って、あなたのレスはつまんないから読んでない(本当に驚くほどつまらない)。
どこが「しなさい」なのか、どこがが「いいと思う」なのかよく読んでないからよく分からない。説明してくれよ。
あなたが思うほどみんなは賢くない。強く説明を求む。
>悟り解脱に拘っているのがなにやらハルカだけというのも興味を引く一因だと思うよ。
再度、詳しく説明キボン。“拘り”ってなんだよ。このときなにがどういう意味で拘っているわけ。こういう文章は
活字の無駄。もうちょっと頭を使え。ふやけた頭で考えるな。
もうこういうメタ議論やめようぜ。。。しょうがないか、じゃあ俺が付き合ってやるよって書いた。
だから「悟りたいとか自律したいとか」スレには関わるな。いちおうそういうつもりであなたにレスした。
理解してくれるとありがたいのだが。
スレを飛び越えるのはルール違反だろう。あっととこっちではまったく別の議論をしているのがあなたには
分からないのか?
あと「わかったんだよ」スレが、本当にあなたのスレなのならあなたのコテハンは“まぬけ”でいいかな、
一応勝手に命名する。このコテハンが気に入らなければ、自分で名乗ってくれて構わない。
なぜコテハンにしなければならないのか聞くなら、その前にコテハンを名乗らないための、もしくは名乗る
必要のないことの理由を主張として述べて欲しい。議論はまあ、弁明と主張(反論)の二つから成り立つ。
このどちらも議論には必要なこと。まあ頑張って頭を使ってくれ。あなたにとっても勉強になるだろう。せっかく
2ちゃんねるにいるんだから、芸の一つでも覚えて帰れ。芸は身を助けるというしな。
あと誰も読まないようなくだらないレスなら書かなくていいよ。みんなが見るに価するレスをくれ。あなたのレスと
カオルさんのレスの違いはそれ。例えば70氏のように、イナゴさんのように、ハルカさんのように、ちゃんと自分の
思っていることをきれいな形で説明してみろ。時間がかかってもいいからさ。そもそもそれも書けないというのなら、
あなたに悟りなど興味などないということ。もう書き込むな。それでも書き込むのなら意味のあるレスをしろ。メタ議論
に終始するな。本当に疲れるから。ためしにもう一度、70氏の論考を読んでみろ。でわからない部分があったら
質問してみりゃいい。そうすれば70氏か、俺のどっちか答えることだろう。
あとちなみに「わかったんだよ」スレは早く削除申請しろ。哲学板としてのあるべきスレじゃない。一応、ここは
学問板スレだ。ネタスレは本当に勘弁してほしい。板が荒れる一方だ。ああいうの駄スレというのだ。わかったか!
あなたは不要なんだということを理解しろ。ちっとも議論していない。コテハンを名乗るのは長く議論するため。
ほんとうにうざいよ。何度いったら分かるんだよ。たのむからお前は黙れ。ほんとにお前みたいな奴がいると
死にたくなる。邪魔だから消えろ。頼むからもうこの板で二度と書き込むな。
議論ぐらい自由にやらせろ。静観しろっていう意味が分からないのかよ。頼むからこのまま黙って消えてくれ。
今まであった中で君は最悪の哲学板の住人だ。本は読まない、質問には質問で返してくる。メタ議論しかしない。
もごもごとはっきり喋らない。文句だけ言う。自分のことしか考えない。スレは荒らす。駄スレは立てる。哲学の話は
さっぱりしない。誰かパトロンになってくれないかとどうでもよいことをぼやく。レスは不快そのもの。見当違いのこと
しか言えない。文章が下手。なにをとっても最悪。死にたくなる。
「メタ議論」とは、
なんのために議論するのかを議論すること。もしくは“なんのために議論しているのかを議論すること。
そのような議論がなぜあるのか問いかける様。(ちなみに“なんのため”が強調される)基本的に「メタ議論」は揶揄する
目的で使われる。
また「議論のための議論」とはまた違う。“議論のため”の議論とは、論点を整理、かつ再構成するためにされる議論のこと。
(“議論のために”がちなみに強調される)
一応あなたに言っておく、「邪魔だ」もしくは「黙れ」あるいは「消えろ」と。これが言えるのが、メールではなく
2ちゃんねるを選択する理由かな。以上をまぬけ氏へ送る。あなたのためにかなりの時間をつぶしてしまった。
この労力が無駄にならないためにも誠意ある返答を君に求む。
>じゆん
>なにゆえに2ちゃんねるじゃ駄目なの? それを俺に分かるように説明してくれ。
読んでないということだから(ではなぜ質問が?)しかたないが、おれは駄目だなどと書いていない。
カオルがそう聞いたのであって、彼女の思い込みだ。こういうところがわからずによく議論が出来るね。
>あとあなたのせいでこの議論がすぐにとまる。
おれが止めているのかな?スルーして続けることも可だろ。自分で止めていることに気づけよ。
>あなたも自スレがあるんなら、しかもこの「悟りと苦」スレで最初に自己主張したのなら、そこで主張するべき。
それは君の考え。おれが従うかはおれの自由。Sのスレには彼から呼ばれた。
>レギュラー陣が誰だか全員明記しろ。省略するな。何度も言うようだが君には礼儀がない。
命令に決め付けだね。それを気にするも従うもおれの自由なんだよ。
>はっきり言って、あなたのレスはつまんないから読んでない(本当に驚くほどつまらない)。
読んでないから理解できない。だが、読んでないのに君はおれの言を知っている。面白いね。
>“拘り”ってなんだよ。このときなにがどういう意味で拘っているわけ。こういう文章は
>活字の無駄。もうちょっと頭を使え。ふやけた頭で考えるな。
命令には従えないな。疑問には答えよう。
君もカオルもハルカが提示している悟りや解脱の実現より、ハルカ論の理解を希望しているように見える。
Sはハルカとの関わりを通して自律を図ろうとしている。
悟りや解脱の実現を望んでいそうなのはハルカだけのように見える。ということ。
>>352は60でなく17のレスです。訂正。
>スレを飛び越えるのはルール違反だろう。あっととこっちではまったく別の議論をしているのがあなたには
>分からないのか?
Sから呼ばれた。違反は知らない。おれは自己自律の実践を話していた。
>なぜコテハンにしなければならないのか聞くなら、
少なくともおれは一度もそのような疑問をだれにも投げかけていないよ。
>その前にコテハンを名乗らないための、もしくは名乗る必要のないことの理由を主張として述べて欲しい。
それは個人の自由であり、理由も様々。おれは適宜遊び心で使っている。
>あと誰も読まないようなくだらないレスなら書かなくていいよ
君が反論したレスはカオルへの返信。誰も読まないか、くだらないかも人それぞれだよ。
>ためしにもう一度、70氏の論考を読んでみろ。でわからない部分があったら
>質問してみりゃいい。そうすれば70氏か、俺のどっちか答えることだろう。
それは助かるな。考えておくよ。でも70の考えは理解したつもりだ。
>あとちなみに「わかったんだよ」スレは早く削除申請しろ。
それは先の君の「自スレで主張しろ」と矛盾するね。もう少しわかりやすく命令したら?
>たのむからお前は黙れ。ほんとにお前みたいな奴がいると死にたくなる。邪魔だから消えろ。
>頼むからもうこの板で二度と書き込むな。
結局このスレにも書き込むなということかな?また矛盾してるけど、どうやらそれが本音のようだね。
>議論ぐらい自由にやらせろ。静観しろっていう意味が分からないのかよ。頼むからこのまま黙って消えてくれ。
自由にやれば。どうぞ。なぜおれを気にするのかな?読んでないんだろ。
おれは話し合いを提案している。これは悟りやら自律やらに悩む人にはうってつけの実践方法だ。
拒んでいるのが何よりの証拠だよ。
君もハルカもカオルもおれに君たちの質問に誠意的に答える命令をする割には、おれの質問には
ほとんど答えていない事実を知っているかい?
おれが発する程度のくだらない質問にすらまともにこたえられず、全てを否定されたかのような被害妄想
に陥っているのは誰だい?
おれはなんら否定していない。
議論するなら、その基盤を明確にしたらどうかという提案をした。
気持ちの動かし合いばかりでは議論として成立していないだろうと書いた。
素朴な疑問と感想だ。目を覚ましたらどうだ。言いがかりをつけているのはどちらかな?
まぬけ(17)氏へ
だからあなたの言っていることはずーとメタ議論。
なんのために議論をしているのかとあなたは問い続けている。
そんなことを聞くくらいなら、静観してろってこと。迷惑だから。
なぜあなたの質問に答えないかというと、はっきり言って、答えたくないから。
そういうあなたの態度だから。馬鹿にしているから。見下しているから。そんな奴に少なくとも俺は答えたくない。
そう、ようは黙って欲しいってこと。俺が目を覚まそうが、目を覚まさないがあんたには関係ない。
だから喋るな。メタ議論、これがあなたの質問を拒否する最大の理由。本当に黙って欲しい。
本当に悲しくなるから。俺の文章が矛盾してようがはっきり言って、もうどうでもいい。
頼むから静かにしてくれ。煽りはもうけっこうだ。もうこれ以上、時間を無駄に使いたくない。
>>あとちなみに「わかったんだよ」スレは早く削除申請しろ。
>それは先の君の「自スレで主張しろ」と矛盾するね。もう少しわかりやすく命令したら?
あのスレは人生相談板のネタ、板違い。内容もまったく哲学に触れてない。それがわかったならとっとと削除してくれ。
どうせ飽きたんだろ。わかったか!
以上。もう一回よく考えろ。もしくは静観してろ。
>>じゆん
貴方は2ちゃんねるというのが分かっていないようですね。
静観しろだのなんだの言うことは出来ない。他人の発言(荒らし以外ね)の権利を
他人がどうこうできないのが匿名掲示板であって、余計な口出しされたくないなら
メールを使うだのなんだのした方がいいって17の人は言ってるんじゃないの?
もしくはスルーするか。17の人のレスを気にするかどうかって結局貴方が決めることでしょ?
あと明確に板違いだって分かるんだったら削除依頼でも消せるのでご自分で削除なされば?
それと礼儀がなってないのは貴方の方だよ。
>>356 あまい。静観しろとは言うだけなら言えるんだよ。言うだけならまったく自由だ。
>あと明確に板違いだって分かるんだったら削除依頼でも消せるのでご自分で削除なされば?
>それと礼儀がなってないのは貴方の方だよ。
“礼儀”という観点を採用したのは後にも先にも私だけだ。
それをあなたもよく理解して発言してほしい。
権利とか義務とかというレベルの問題ではない。スルーするかどうかも私の自由だ。
無意味だから言わない(スルー)では、それこそ無意味だ。
言いたいことを言ってこそだ。まず自分の利益を主張する。
そこからしか議論は生まれない。私は今17氏と議論しているつもりだ。あなたは私と議論したいのか?
ちなみに私は彼の“レギュラー陣”という言葉にむかついた。これがスルーできるか? 関連スレ、スレそのもの、ここのスレ
住人を馬鹿にしてるんだぞ。馬鹿にされてスルーしろだと。ここは議論するところのつもりで立てた。馬鹿にされれば
当然反発する。ふざけるのもいい加減しろ。
(続き)
あと言わせてもらえば議論板にあって、白熱した議論中に横レスする方がマナーとして反する。
議論している者はじっさいのところ議論を楽しんでる。それを勝手に他人が喧嘩と勘違いする。
議論してもよい関係は生まれる。今の17氏と俺との関係も俺はそうだと思っている。(17氏はどう思ってい
るかわからないがね)むろんあなたとも私はそうだと思っている。(あなたはどう思っているかわからないがね)
あとそれでも議論したいならこれからは名無しで言うのはやめて欲しい。俺はあなたのことを卑怯だと思い
続けることになる。
さて問題だが私は前向きにハルカ論などの考察を続けてきた。いろいろ試行錯誤してきた経緯がある。
そして私にとってはハルカさんもカオルさんもSさんもイナゴさんも70さんもNさんも大事な人だと思っている。
それをまとめて馬鹿にしているんだな。そのように17氏に対して思った。いろいろ総合してこいつは馬鹿に
しているんだなと思った。それしかこいつには目的がないんだなと思った。だから排除する方向に走る。当たり
前のことだ。それをするもしないも俺の自由だ。甘い倫理観を俺に押しつけるな。そんなことを俺は学びにきた
んじゃない。こんなことを、わざわざ説明して欲しくてあなたはレスしたのか。もうそろそろ俺も本来の考察を続けたい。
頼むから邪魔をしないで欲しい。あなたのようなレスが進行を止める原因なのだと理解できるだろう。お願いだから邪魔するな。
純粋に、時間の無駄なんだ。しょせん厨房の戯言だからあなたもそのまま静観してくれ。
(
>>308より)
>あと、あなたに一つ聞きたいのですが、あなたはここで何をしたいのでしょうか?
それで、俺にこんなことを聞いてきたんだね。
(
>>336より)
>1に書いてある関連スレはみんなハルカのスレなのは認めるでしょ?
>このスレ立てるのあなたにお願いしたのもハルカの書き込む場所を確保するため。
>わかってると思ったんだけどな?(デンパのあたしが前面に出るのはマズイのです)
>それにハルカの発言はハルカ論を前提にしてる訳だし、
>今の議論はハルカ論における個別の議論なんだから、
>やっぱり別スレで議論するのは不自然だと思います。
>このスレで続行してほしいです。そうしてくれたらあなたのこと許してあげます。
>わたしはこの一連のスレをハルカの記憶として残したいの。どうしても。
カオル氏も同じようなことを言ってるしね。
まあ、君の希望に沿えるかどうかわからないけど、
頭の片隅に置いておくよ。
それに俺も、17氏の方に分があるように見えるな。
17氏のほうが、茶目っ気があるしね。
もう、知りたいことは、無くなったし、
いちいち、そこは、正解。そこは違う。そこは知らない。
なんて突っ込むのも、ばからしいし。
まあ、気の向いたときだけ書き込むだけかな。
>>345 いなごさん
>この前、体調を崩したのも、「時間」が原因でした。
思考しすぎると、今まで上手く働いていたものが、上手く働かなくなるのでしょうね。
経験の積み重ねで作り上げた固定化、自動化が上手くいかなくなるのかもしれません。
時間は、そんなに難しく考えなくても、単純な単位ですよ。
時計は
振り子のリズムや、
クウォーツの振動の変化
セシウムの変化
を基準として、(単位として)
他の物事の変化を測っているだけのものです。
>>345 いなごさん
これが、重要なのは、今現在しか、存在していない
というポイントが重要なのです。
過去、現在は思考によってあると思っているものだからです。
今現在を捉えられるのは、危機的な状況か、ひどい頭痛か、景色を見て感動したときとか、
限られています。
思考を離れれば、今現在しか捉えられないのです。
>>345 いなごさん
>私の場合、電球がピコンと光るようなものですが、Nさんの場合、電球が破裂するほどの(つまり、より大きな)電位変化があったのでしょうか。
>そういう感覚を体験してみたいような、でも怖いから遠慮しておきたいような、複雑な気持ちになりました
何の音だったのでしょう?電球が破裂するというよりも、自分と思っているものが吹き飛ばされていた。
という感じです。
あなたが、哲学などで、真実を追い求め、気づいてはいけないことに気づいたら、もっと、真実を追い求めるようになるでしょう。
真実を追い求めすぎて、死にもせず狂いもせず生きていたら訪れるでしょう。
それは、外部の環境に恵まれているとか、いないとかは、まるで関係がありません。
きっと、私の周辺の人は、恵まれていると思われていたことでしょう。
きっと、私は、絶好調に見られていた。
しかし、内面では大変な問題を抱えていた。
そんなときに起こりました。
>>359-360 >Nさんへ
なにかあなたを怒らせたようで。あなたもきっといい奴なんでしょうね。
まあ気にせず、参加してください。私はただ議論の圧力を設定しているだけですので。
私はまあスレのために発言しているだけです。議論スレですので、横レスが過剰になって荒れる
のは勘弁してほしいと。それだけです。どうか皆さんも自分の意志に従って発言してください。
>それに俺も、17氏の方に分があるように見えるな。
>17氏のほうが、茶目っ気があるしね。
分があるとか、そんなのはまあどうでも良いです。誰がどう思っているかというのが議論では重要なんです。
そのために、相手の腹を探り合うのは、ただそれだけで疲れます。
少なくとも正体不明の人間と議論していたんではノイローゼでの幻聴の被害と大して変わらないわけ
ですからね。私の望みは要はそういうことです。また「レギュラー陣」とのたまい、挑発を次から次へと
仕掛けてくる者に対して私は正常な反応をとることはできない。彼は私の立場から見て間違っている。そう思った。
それだけです。私は立場によって発言しているんです。あとあなたも私の煽りは何度か見てきたわけだから
慣れてきたでしょ。今更、気になさるのもどうかと。スルーしてくれればよかったのに。
あとカオルさんが、どう思っているのかについては私はよく知らない。
でも今までの行為が、それほど彼女のことを裏切っている行為だとも思わない。
私は私なりに、カオルさんのことを考えています。カオルさんのその言葉は私はずっと以前から
胸に刻み込んでいるのです。そしてカオルさんにも私の行動が理解していただいているものと思
っています。単に共感というレベルではなくてね。
>>359-360 あと屁理屈を言わせてもらうと(+カオルさんへ)
>わたしはこの一連のスレをハルカの記憶として残したいの。どうしても。
記憶は残すためにあるのではない。残すものでもない。記憶は作るものだ。
もしくは作られるものだ。そしてスレに記憶を残せると考えるのも馬鹿げている。
あなたたちの記憶は私の中でただ再現される。カテゴライズされそして明記される。
こんなことあなたに言わせれば、私の言葉なんぞただのゲームなんだろうけどね。
>もう、知りたいことは、無くなったし、
>いちいち、そこは、正解。そこは違う。そこは知らない。
>なんて突っ込むのも、ばからしいし。
>まあ、気の向いたときだけ書き込むだけかな。
そうしてください。そして、あんまり邪魔をしないで下さい。
>まあ、君の希望に沿えるかどうかわからないけど、
>頭の片隅に置いておくよ。
よろしくお願いします。
>つまり、スレタイには書いてないけど、
>「内容は「ハルカ論学会」だから、それ以外の話は進行の邪魔。」
>と言いたいわけね。
ようはそういうことですね。横レスほど楽なことはない。あなたのするように説教するほど楽なことはないと
私は思っている。しかし議論なら違うでしょ、相手とも向き合わなくちゃいけない。相手の言い分を聞かなく
ちゃいけない。そんなことをやっていちゃあ、ひどく疲れます。まあ苦そのものですよ。基本的に何を言おうと
無益です。しかし、言おうと言うまいと無益なんですから。ならば、それが正しいと思ったのなら言った方がましです。
もうちょっとちょっとあなたにつついてみたいのですが。またの機会に。
言い方が、これじゃあまずいですね、あなたとも一度話し込んでみたいと思っています。
>>362 訂正
>過去、現在は思考によってあると思っているものだからです。
↓
過去と未来は思考によってあると思っているものだからです。
>>357-358 だから今貴方が挙げたことをするのに一番都合がいいのはメールするか自分のHPを作るかなんじゃないかなと。
別にここで書き込むなと言ってるんじゃないけどさ、何も世界は一人の人間中心に回ってるわけじゃないんだからさ
どこかで折り合いをつけなきゃ何もできないよってこと。過去と他人は変えられないって言うけどだったた変えるのは
自分になるわけじゃん。ここでの発言は強制力をまったくもたないんだから去れだの静観しろだのは本当に無意味だよ。
それをスルーするかは何度も出てるけど個人の自由だから。だから議論も周りが止めてるんじゃなくて自分で止めてる
ってことくらいは分かってるでしょ?仮に私が貴方に去れと言ったら貴方はどうします?
いやもちろんそんなことは思ってないですよ。いつも楽しませてもらってますんで。
そこでスルーするか去るか屁理屈こねるかあるけど貴方ならどうする?私は屁理屈こねてみたけどね。
あなたの思うように全ては成り立たないってこと。だからうざいならスルーして下さい。一番効率的です。
礼儀については貴方が以前ハルカに言った言葉をそっくりお返しできますよ。「これはすでに議論の範疇を
超え、罵倒になっています」とね。私は礼儀をこんな感じで解釈したけど違うならいいいです。
でも世間一般の礼儀だったら明らかに貴方は礼儀正しくないということになるけど。
あと偉そうだからとかメタ議論だとかでスルーしてるけど17の人の問いかけは論の根底にかかわることだから
そこをしっかりしないと論自体が成り立たないと思う。ここでなんだかんだ言って思考停止するのは
普段思考停止を非難している人間としてはいけないんではないかと思います。
それにこれって論点のすり替えだよね?たまには真っ向から付き合ってあげれば?
貴方が「レギュラー陣」と言う言葉をスルー出来なかったように私が罵倒をスルー出来なかったんで書き込んだ
わけですからそんな偉そうなこと言えた義理でもないんだけどね。
なので最後にお願いします。あまり罵倒したりしないで下さい。それと2ちゃんねるはあくまで掲示板です。
大多数の人が見ています。そのなかには私のように17の人の発言を楽しみにしている人もいるので
その辺も考えていただきたいです。命令ではなくお願いです。あなた方は私の中では分別のある方々ということに
なってまっすんで。
>>351みたいなのもネチケというルールに反するのも本当は分かっているでしょ?
無意味な争いは見たくないんです。消えろ去れ言う前に出来ることもありますよね?
まあ散々自分で言ったように結局は本人しだいなんでこれ以上は言うこともないんで消えます。
これ以上があればしかたないけどスルーします。
ふだんは2ちゃんブラウザ使ってるんだけど最近なんかあぼーんが目立つので来ただけですので。
うざい、嘲笑、消えろなんかがNGワードになってるんで。
じゃあお邪魔して悪かったね。楽な横レスっていうけど一番客観的で冷静な名無しさんたちもわすれないでね。
レスは返さなくていいよ。ってなんか偉そうだね。返さなくてもいいです。無駄に長い文になってスマソ
ごめんまた続き
上で言ってるネチケっていわゆる「第3者に不快感を与える書き込みはしたい」ってやつね。
これは2ちゃんねるのルールにも記載されている絶対のルールです。哲板の人たち的には
善悪は主観ですがここはそういうルールを定め作られた世界で、ひろゆきが神ですw
この世界に入るものはそのようなルールがあるとわかって自ら入り込むわけですから
そのルールを守った上で書き込みをしなければならないという暗黙の契約があると思います。
いやならこの世界から解脱することが可能な世界です。
1人の意見じゃ測れないことだけど17の人の書き込みは個人的には不快感を覚えません。
>>348-351は内容はともかく文体にとても不快感を覚えます。そんだけです
訂正
×「第3者に不快感を与える書き込みはしたい」
○「第3者に不快感を与える書き込みはしない」
意味が全然違ってきますねw。すいませんでした。
>>356 おれのレスを読んでいるということだね。大変有難いな。文字通りに。
君がもし悟りに興味があるなら、ここが(2ch)実践に有益であることを理解するだろう。
在家の凄さがここにある。君がとても柔軟な思考をしていることが文脈から読み取れる。
楽しんで参加して欲しいな。
>>359 君も驚いたんだね。おれはここの前スレで何度もスレタイの話をじゆんに尋ねた。
はっきりした返答がなかったから、スレタイ関連の話をしているつもり。
君も間違いなく内容はスレタイに関連していたね。
>じゆん
>ちなみに私は彼の“レギュラー陣”という言葉にむかついた。これがスルーできるか? 関連スレ、スレそのもの、ここのスレ
>住人を馬鹿にしてるんだぞ。馬鹿にされてスルーしろだと。ここは議論するところのつもりで立てた。馬鹿にされれば
>当然反発する。ふざけるのもいい加減しろ。
「被害妄想」だと書いた後にこれかい。
カオルのレスを見る限り彼女は君のようなとらえかたをしていないようだよ。なおかつ、彼女のレスに
返信した内容に君が腹立てているということもよく認識して欲しいところだね。
おれを馬鹿にしたのはハルカと君とN。君とNはその後態度を改めた様子も見せた。ハルカは逃亡中。
重複で失礼するが、おれは誰に馬鹿にされてもそれを客観視することで残念ながら(おれを懲らしめたい
人の立場でという意味)自己の感情を長引かせて「してやられたー」的な状態には成り得ない。
理由はその状態が自己に不利益であり、かつそのような君達の反応が興味深く思えるからだ。
逆にそのようなテクニックを知らないか使わない人に対して、あえてむかつかせたり苛立たせるような行為は
極力とらないように戒めている。理由はこのようになるのが面倒だから。
君の怒りは当然だが、全くの誤解だ。
人の意識は感情に左右されていることは十分理解可能だろう。
その感情は過去の生活で蓄積されたパターン化された知識との照会によって引き起こされている。
パターン化は利便性が高いため人以外の動物の観察でも顕著だ。
パターン化の目的の主なものは、認識・思考の単純化(エネルギー消費をなるべく抑えるため)と
保身のため瞬時に関わる事象の良し悪しの判断を行なうためと考える。
大方本能ととらえられる内容がそれ。でもその実五感を通して脳で瞬時に認識分析していることがほとんど。
感情は瞬時に変化可能。持続するには労力が必要となる。だが、人は育成過程においてあまりにも多くの
パターン化を身に付けさせられるため、多くの固定観念を宝物のように抱えて生活することとなる。
パターン化で分類された事項は新たに遭遇する事象と共に生じる感情によって少しずつ
修正が加えられる。
この修正が大きいと人生観が変わったような気分に浸る。
しかしこの作業はかなり面倒なのでなるべく修正の必要ない「完璧な」パターン化を目指すことが多い。
多くの人はそのパターン化された分類に遭遇した事象を照らし「反射的」に「反応」する。
それを正直な気持ちだと認識し、それ以外は誤魔化しだと自らを納得させる。
ある事象でむかついたとする。その感情を持続させることが自己に不利益であることを知りつつも
身を委ねる(むかついた記憶をリフレインして自動的に持続させる)方が「楽」な印象をもつ。
その方が自分に正直な気がする。さっきむかついた自分を恥じる気持ちもあるかもしれない。
それを正当化するためにも、むかついた状態の持続は自己満足には必要だと感じる。
結果ストレスばかりが蓄積する。すっきりしない。
思い込みを信じることで多くの目標は達成するだろう。
そして、それは原因と結果だ。
人は自らの信念を貫き目標を成就させた際に比類なき喜びを得る。
それも原因と結果だ。
人は何かを憎みその憎しみを持ち続けることでその対象の気持ちを不快なものにできるかもしれない。
でもそれは確かめようがない。対象が相手の感情であるからだ。
相手の状態であっても大差ない。こちらから最悪の状況に見えても当の本人の気持ちは「わからない」。
このような行為も原因と結果だ。ここで学習できるのは、一時的な相手の感情の変化でこちらが
満足しない限り、変化しうる相手の感情に付き合い続けるのはなかなか労力を要するということ。
そして、原因と結果も実は確定できるほど明確であるばかりでもない。
達成した喜びもすぐに薄れ記憶として蓄積されると、人はまた新たな目標を求めたがる。
これを空しいと感じることも「苦」の一種だろう。
そして人は死ぬまでその繰り返しをする。固定観念を利用している意識があるなしに関わらずに。
悟りはそれに気づき続ける作業かもしれない。
解脱はそれを超越した状態かもしれない。
選択は各人の自由。どのような生き方も自由。自由は安定ではない。空恐ろしいほどに
不安定だ。なんら定まらない。指標すらない。
そのような「苦」から逃避するために人は自ら手近な手ごろな「苦」に安住を求めがちだ。
結局はそれも自由。いいも悪いも本人次第。誰の非難も寄せ付けない。結局選択は自らしているから。
>じゆん
レギュラー陣という言葉にむかついたということで、大変失礼した。
おれが繰り返している「共通認識はない」ということを「当たり前、前から知ってる」
といった内容で切り捨てた人がほとんどだ。
実際はどうか。
カオルは君のような反応を示していない。Nも同様。
一般的見解もおそらく君のような反応は少ないと予測される。
この時点で君と他の人とでは「レギュラー陣」という語に関する印象が異なることがわかる。
むろんおれも君たちを侮蔑した意味で使用したわけではない。便宜上が理由。
スポーツやTV番組で頻繁に使用される語であり、悪印象がないというおれの固定観念で使用した。
君がどのように受け取るのも自由だが、おれの本意ではない。これをどうとらえるかも君の自由。
おれは作為的に君を操作する気は全くない。できることでもない。
>>367-370 356氏へ
了解した。あなたの主張はよく理解したつもりだ。
長くは書かないが、自己の反省もしているし、善処したいと思っている。
まずは、申し訳なかった、とあなたにだけでなく他のみんなにも謝る。
あなたが私のために、もしくは皆のために時間を割いて語ってくれたのにはありがたく思っている。
ちなみに手元には3時間かけて、あなたの言葉と向き合って書いた文章がある。結局は載せる
のはやめにした。まあつまり、そういうことだ(後悔したのだと)と理解してくれるとありがたい。
一応、これからの私の態度、発言によって私はあなたとの議論を暗黙に交わしているものだと理解
して頂ければ幸いだ。あとちなみに、あなたの要求(主張)を全て飲むわけにはいかないのは、理解して欲しい。
私の主張は前(悟りと苦)スレの875氏との議論の私の論旨はさほど変わらない。
むろん主張自体は多少は変わっているんだがね。まああのときのことを私はあなたの意見を見て強く意識したよ。
あとそうだな。私は確かにハルカさんを断罪したが、それが正しい行為だとは自覚していない。
それがたまたま正しく見えたりするだけ。そしてあなたが私の言葉を罵倒だと思えたのなら、それは
たまたまそのように、あなたは見ただけ(これはあなたにはよく理解できるはずのことだと思う)。
ついでに
>ひろゆきが神ですw
私にとってはそれは違う。冗談だとは理解している。しかし冗談だろうからこそあえて言上げした。
そしてこれがどうやらあなたと私の論点の違いなのだろうね(べつにあなたを揶揄するつもりではなく事実として)
ちなみに私は不快なものにも当然、神は潜むものだと思っている。私にとっての神(絶対性)は善悪を定義しない。
神はそもそも善悪すら所有しない。
>>372 17氏
バカにしたつもりはないけど、すまなかったね。
>>364 じゆんさん
何も怒ってませんよ。
たぶんもう議論の邪魔はしませんよ。
しばらく、休憩して悟りに興味が湧いたらまた来ますよ
えーと実は、私は誤解していた部分があり、イナゴさんよりメールにて忠告承ったのですが
どうやらイナゴさんは彼女(おんな)ではなく、彼(おとこ)なのだ、ということだそうです。
まあ、たびたびの失態、申し訳ありません(もう慣れてますが)。いちおうそういうことなのでみなさん
よろしくお願いします。
まあ2chの匿名掲示板においては、本来どちらでもよいことなのですが、彼の名誉に関わる
ことだそうなので、申し上げます。ちなみに当方、男です。で東京につつましく住んでおります。
今後とも(イナゴさんとともに)よろしくお願いします。ではでは。
>カオルさん
日本は非常に音楽ソフトの充実した国で、
人によっては数千枚を所有し、一枚一枚の趣向を自分で区別している人までいる。
俺も収集にはまった時期があって、棚に何百枚と並んでいる。
そんな俺のオススメの音楽は、Mike OldfieldとかThe Chieftainsとかかな。
返事はいつでも構わないよ。
早めの返事なのなら、お腹いっぱいになるくらいオススメの音楽を紹介できるよ。
>イナゴさん
ごめんなさい。子持ちで30歳〜40歳の主婦だと思っていました。
いろんな人が哲学に打ち込むんだなぁと感心までしていました。
哲学学者というのはあまり聞かないのでわからないんですけど、
>真理を追究する人と、それを一般に広める人。
>上限を押し上げる人と、底上げする人。
これは、当に俺の考える声聞と菩薩のことです。
いま、古今東西の哲学者や思想家をどの程度まで声聞と菩薩というように分けることができるかに挑戦中です。
世界の名著や人類の知的遺産シリーズの名前を見比べて、
「こいつの存在論の深さは声聞系だな」とか「この伝わりやすさは菩薩系だな」とか、
「でもそうするとこの点が食い違うな」とか
ジグソーパズルのように当てはめています。新たな展開があります。
機会があれば、お互いの思う声聞と菩薩を比べてみたいものです。
俺はいま、出張先で取引を終え、ホテルで明日からの予定を考える営業マンのような気分です。
つまり、このスレ以外の腰を落ち着ける先を見つけて、そこに向かうつもりなんです。
全く新しい人との話し合いが始まることにたいして戦略を練っています。
もちろん、質問や批判があったらすぐにすっ飛んできます。
今回俺が取り組んだ信実のうちの大筋は、一体どの程度、真実に接近していたのだろうか、
この問いについては、自分でもやっぱりもっと輪郭をあらわにしたいからです。
一体なぜ、プロとアマやその他の関係なのか、
最後に強調したことにおいて、生物がゼロになるのは本当なのか、
生物がゼロになることは一個人にとってどんなことか、etc
何も知らない人に一から説くこともあるだろうから、もっと研磨しておかないと…。
もちろん解脱の話やたわいない雑談でもすっ飛んできますよ。でも、腰を落ち着ける位置を変える決意は固いです。
それじゃ。
スレを跨ぐ必要上、コテハン使うことにしました。70でした。
>>382-383 あれ?そんなに女性っぽいですかね?
紛らわしい文章みたいで、ご迷惑をおかけしました。
>子持ちで30歳〜40歳の主婦だと思っていました。
この2月で30になったから「30歳〜40歳」ってのは、まあ、そうなんだけど。
いや、それにしても。私もビックリです。
>鉄冠子(70)さんへ。
>哲学学者というのはあまり聞かないのでわからないんですけど、
そうか、一般的じゃないんですかね。私は、堀川哲の『おもしろ哲学史』かなんかで知ったのですが、哲学者が哲学(思考)でメシを食う人なら、哲学学者は哲学者や哲学史でメシを食う人と理解しています。哲学の文献学者となりますかね。
>古今東西の哲学者や思想家をどの程度まで声聞と菩薩というように分けることができる
>かに挑戦中です。
マルクスとエンゲルスがそんな関係だったと何かで読んだ記憶があるような。
平安末期の比叡山と山から下りてきた法然は、また違う話かな。
イエスとパウロになると、もっと違うか。
鉄冠子さんの論を読んで「輪廻」ってどういうことか、ちょっと考えています。
考えがまとまれば、そのうち書き込みたいと思っています。
>>361-363 Nさんへ。
>過去、未来は思考によってあると思っているものだからです。
>今現在を捉えられるのは、危機的な状況か、ひどい頭痛か、景色を見て感動したときと>か、限られています。
>思考を離れれば、今現在しか捉えられないのです。
なにか、西田幾多郎の「色を見、音を聞く刹那」という「純粋経験」のフレーズを思い出しました。
西田幾多郎は好きな哲学者なんですが、でも私は、この「純粋経験」が理解できませんでした。
うーん、「思考を離れる」というのが難しい。
もう、考えている時点でダメなんだろうな、とは思うのですが。
>何の音だったのでしょう?電球が破裂するというよりも、自分と思っているものが吹き
>飛ばされていた。
>という感じです。
>あなたが、哲学などで、真実を追い求め、気づいてはいけないことに気づいたら、もっ
>と、真実を追い求めるようになるでしょう。
>真実を追い求めすぎて、死にもせず狂いもせず生きていたら訪れるでしょう。
なんとなく分かる感じがします。
でも、なぜ「気づいてはいけないことに気づいたら、もっと、真実を追い求めるようになる」んでしょうか。
知ることは楽しみだからなのか。それとも「知る」という一つの道具を手に入れたら、それを様々なことに応用しようとするのか。
そして、その真実を追い求めることは最終的に、自分(と思っているもの)と真実との選択を迫られることになるのか。
そんなことを考えました。
>イナゴさん
「上限を押し上げる人と底辺を押し上げる人」というように、抽象概念では一致しているのに、
具体的な例証となると上手く噛み合わなくなってしまうのは、人間の感性の為す妙だな、と思います。
声聞と菩薩というのは、哲学板悟りスレ一群の哲学と、書物の中の哲学一般とに、一本の筋を見出すために抽出した名称で、
俺の全くの独創によるモデリングなので、具体的例証の不一致は無理もないと思います。
(おもてに現した以上、このモデリングは別に俺の所有物でもないので、気を揉む必要はありませんよ。)
声聞−主観の解脱は可能、理想主義、保守的、利己志向、学僧向け、理性的、主知主義的、客観的考究
菩薩−主観の解脱は不可能、現実主義、進歩的、利他志向、庶民向け、感性的、主情主義的、主観的考究
こんなふうにモデリングしたんでした。そこには以下のような区分けが念頭にありました。
-声聞-
人間の「理性的な意識としての存在」に、細緻をきわめた形而上学によって踏み込んでいくのがその仕事です。
「存在」の裏側を追い求めることです。
その唱える言葉は理知と論究がベースになっていて、逐次、整然とした抽象用語によって組み立てられています。
伝わりやすい例として以下の例証を挙げます。
・大乗仏教の唯識派
いきなり大乗仏教の名前が挙がって食い違っているじゃないか、と思うかもしれませんけれど、
唯識学を体系化したヴァスバンドゥは、伝統的・保守的な説一切有部の流れを汲んだ『アビダルマ倶舎論』を著しているので、
声聞の側に組み入れても差し支えないと思います。
何よりも、ハルカ論における「芯-我-私」の三層の構造とその内容が、
唯識学派の「阿頼耶識-末那識-六識」に酷似しているんです。読めば読むほど、双方が双方の理解に役立つ仕組みになっている。
いずれにしても、わかりやすい現代日本語によって形而上学が編まれているのは、彼女の大手柄といっていいと思います。
・ドイツの批判哲学を中心とする観念論
認識の原理や理性の限界に取り組んでいる以上、彼らもはずせません。
でも、カントは学僧ではないし、利己的だとか解脱を志向しているとか声を聞いたことがあるかになると、外れます。
よって、これらは俺にとっては枝葉末節にほかなりません。
・その他
ハイデガー、『論哲』におけるウィトゲンシュタイン、トマス・アクィナス、フロイト、ユング、アインシュタイン
‐菩薩‐
人間の「理性的な意識としての存在」の謎について、謎はそのままにして入り口まで導くとか、
応用して市民社会の危機において、人びとの「理性的な意識としての存在」に積もった埃を払うとかがその仕事です。
その唱える言葉は、感慨的で、実際にこの世に見られる具体的例証とその比較によって、
読者に理性の問題のスケールやイメージを喚起させることに長けています。
その代わり、形而上学によって踏み込むことは苦手で、思想は断片的だったり論究性に欠けていたりします。
・仏陀、キリスト、クリシュナムルティ、親鸞、
宗教的な聖者として共通している点でわかりやすいので、この人たちを挙げます。
市民社会との関わりが強いため、探究としての思想体系はちょっと甘くならざるを得ません。
よって、役目を終えたら、書物の中で眠りについてしまう。
それが、宗教的側面が強調されてしまう理由なのかもしれません。
・文芸的哲学者‐ニーチェ、サルトル、荘子
菩薩に特有の奉仕の精神からは離れていますが、
理性による存在のことに取り組んでいる点によって、この人たちも加えられると思います。
「文芸的」というのは、もちろん『ツァラトゥストゥラ』、『嘔吐』、『荘子』の寓話のことを指しています。
・哲学的文芸家‐トルストイ、ドストエフスキー、夏目漱石
本職は他にあるんですけど、哲学の深みを横目に見ながら仕事をしている人たちです。
または事のスケールを感受しているのが、その書いたことに現れている人たちです。
文芸家であるために、とにかく読みやすいので、理性による存在の問題の入門に適していると思います。
でも、形而上学には全く触れていません。
・その他
『哲学探究』におけるウィトゲンシュタイン、パスカル
以上が、俺ん家にある資料から類推できる区分けです。
折衷型というのも考えられます。デカルトとかキルケゴールとか…。『存在と無』のサルトルもそうかもしれない。
マルクスだとかマックス・ウェーバーだとか、どこにも属さないように見える人たちもいます。
仏教哲学十界論に従うと、声聞の先に菩薩の仕事があるように見えますけど、決してそんなことはないと思います。
声聞界には抜け道があって、それは哲学の根本的問題へと続いています。
抜け道を知らない声聞は、「誰々が言ったことはこうこう」というような形式主義にかぶれてしまう。
そうではなくて、独創性をもって存在の問題に取り組んでいる点を重視して、今回、声聞という名前を推したのです。
自分の意識以外に題材となるものがないんですから、形式主義では困ります。
この、「理性ある自意識」というのが、哲学の根源的問題だと、俺は捉えています。
いかに無我や一切空の境地に立っても、自分としての意識は残っている。
ものをしゃべったり、受け答えがあった以上、仏陀にも「理性ある自意識」はあったと考えられます。
今トルストイの『人生論』っていうのを読んでいるんですけど、
途中から、一ページに一回は「理性的な意識」だとか「理性の法則」だとかの言葉が登場してくるようになっています。
この「理性的な意識」っていうのに、哲学は最初から最後まで取り組んでいるのかなぁと思えるんです。
まあ、いまさらだけど、私の219に対する罵倒はすごいなあと思った。
よくここまで言えたなあと思えます。私はなにを考えていたんでしょうか?
もうよくわかりません。いやわかるんだけどもうわかりたくもないです。
記憶を隠蔽したいです。いちおうそう思ったのでそのように書き込んでおきます。
いま私は、ちょっと宙ぶらりんです。まるで遠い過去のようです。
昨日、今日は風が強かった。春の陽気を感じました。
今までの議論を、忘れようとしている私がいます。
経験にしてしまおうとしている自分がいますね。
>カオルさんへ
ところで、カオルさんは今までいちばん、うれしかったことはなんですか?
2番目にうれしかったことは?
3番目にうれしかったことは?
4番目にうれしかったことは?
・
・
・
・
それは愛ですか、希望ですか、光ですか、柔らかな闇の記憶ですか。
母は赤ん坊の全存在を認めるそうです。赤ん坊のエゴも狂気も排泄物も嘔吐したものも
生命を生命として認めるそうです。価値として信じるそうです。私は母を恨んだことがありました。
私は今の自分の感情に欺瞞を感じるわけでもないです。そんなことはいちいち考えないです。
疲れるのはきらいです。もし自由があるのなら、好きなことだけに耳を傾けたい。
意志を感じ取りたい。意志を感じ続けたい。
自由がないのなら、我慢するしかしょうがないです。でも自由であることを私は模索し続けます。
意志の純粋なるものは好奇心だと思います。
草原に風が吹きます。白い雲が見えます。強く固い風です。
湖面が波打ちます。土は手で触るとひんやりとします。砂つぶがざらりとします。
おたまじゃくしがみえる。
それでね、風がいっしゅんやむんですよ。とてもしずかになってしまいました。
ねえどうして泣いているの?
ちなみに私は、松本太陽作の「花男」(マンガ)が好きです。
存在の柔らかな闇に抱かれてしまいましょう。
>>172 鉄冠子さん
>哲学徒同士が相手と別れを告げ合うのは、自殺した人と遺族の間の告別くらいシビアだと、
>自分は思っています。
そう思います。
必然的自然的個性としての身体、あるいは血の縛りとの決別以上なのかもしれません。
今まさに自殺しようとしている"わたし"を目の前にしてわたしに何ができるでしょう。
ただ全身全霊で抱きしめるだけです。しかしこの全身全霊には"わたし"は存在しない。
だからこそ"わたし"という自由意志を封殺することができるのです。
要するに"悟り"と同じ原理です。"命"は救われました。"わたし"は救われましたか?
>こと哲学に打ち込む者同士の間では、死を告げるに似た規模の訣別が至るところで起こらざるを得ない。
>人生や存在が丸ごとひとつ懸かっているがゆえに。〜(中略)〜
>ちょっとした自殺と殺人を同時に行っているように思えます。〜(中略)〜
>AとBは存在しているのは間違いないけれど、「生きているのか?」については到底定かじゃありません。
そうなんです。哲学徒の存在価値は、真理を探究し続けるその志向性そのものにあるのですから。
真理を探究し続けること自体の否定、あるいはその限界を指し示すことになる発言はそれ自体が、
その哲学徒の存在価値の否定になります。身体は傷つけませんが魂は切り裂きます。
だから、わたしはクリーム(感情)たっぷりのパイをぶつけます。
論破とかはしゃいで、真剣にエモーションのベールを巻き付けてなまくらにします。
いえ、わたしが傷つきたくないからです。だから、決別というのは良い結果なのです。
もし受け入れてしまったなら、ホントに「生きているのか?」にして(なって)しまいますから。
>>180 鉄冠子さん
>自己中だと指摘されたAは、自分の主体性を疑う。
>「いったい何が俺のこの意識の中心に居座る主(ぬし)なのか」というふうに。
Bとの関係性において存在させられているAは、いったい誰?
Aは、Bによって観察されないかぎり存在できないのですか?
だとしたら、Aは誰かという他人としてしか存在できないことになります。
Aは、Bの存在に依存してしか生きられない、他律的な恩恵に浴さないと
存在することすらままならない。
ところで、"わたし"はどこにいるの? "わたし"は存在しますか?
わたしは、かしげた首をまっすぐにして、今日も依存の論理を受苦します。
やらないとならない仕事があるからです。でもシンドイな。
>>180 鉄冠子さん
>俺も似たように、自己を主体として、「非自己一切」を客体として、その関係に従って行動する。
「わたし−誰か−わたし」というのは、
「色んなわたし−たとえば人魚のわたし−唯一のわたし」みたいな感じなのかな?
これじゃ、トーテミズムか?
わたしの志向は、「自己を主体として、非自己一切を客体として」という、
まるっとそのまんまのデカルト的二元論を、"カオル"に結実させることです。
>「我思う、ゆえに我あり」にどのくらい驚愕したかだな。
「我思う、ゆえに我あり」というのは、
「我思う」という思考についての思考なのではないですか?
たしかにコギトは、"自己"言及システムなのですけど、
言及する自己の"実在"を証明しているわけではありません、よね?
とかいっても、コギトを捨て去るのは、容易ではありません。
なにせ"わたし"の自殺ですから。わたしは、コギトにこだわりたい!
>俺、一人のときは独我論者だし、「非自己一切」と対するときは縁起論者だよ。
うまいかわしかただと思います。そういうところわたし器用じゃないな。
>>185 鉄冠子さん
>注釈する人の哲学が、注釈の隙間からしか垣間見えない。ここに注釈者の不憫さがある。
その不憫さってカッコイイと思う。(=わたしじゃなくてw)
わたしがなんで2ちゃんねるに書き込むかというと、
あっという間に消えてしまうからです。それが心地いいんです。なぜか。
ちゃんとした?ところに発表した方がいいなんていわれたこともあるけれど、
わたしはあっという間に消えてしまうから2ちゃんねるに真剣に書き込むの。
女子柔道の田村亮子さんが「歴史とは勝者の歴史である」
だからわたしは、勝者になりたい!、っていってました。
わたしのような中途半端な自己顕示欲は醜いと思いました。
>どの書物を読んでも、注釈者の態度は最後まで隠匿されている。そうでなければ注釈でない。
痛みがあり、恐怖があり、それだけが本物なのです。
それさえ共感できるなら、わたしは誰の注釈者にもなれるような気がします。
>>185 鉄冠子さん
>注釈者にとって放浪状態における灯台は、自分の考究ではなく、最後まで他人の教義なんである。
>君の求める灯台の灯りとは、自分の内面を照らすのか、
>それとも他人の胸の内を照らすのか、定かじゃない。こういうジレンマを抱えざるを得ない。
わたしのジレンマは、
1、ハルカ論という灯台は、わたしの死を受け入れてくれる。でも、
2、ハルカという灯台は、わたしの生きる希望になってしまっている。
というもの。
2、を断ち切らないと目的が果たせない。苦しいだけ。
>>195 鉄冠子さん
>戸惑い、疲労しきった状態でそうしているのか。
そうです。
容易に理解してしまえる傍観者(あなた)が男性だったので、
なんとなく嫌味も込めて・・・(^_^;)
>あらゆる出会いがあれば、それはあらゆる訣別に帰すことを、
>邂逅した者同士は避けることができないということだ。
肉体によって存在させられるカオルではなくて、
言語によって存在するカオルの出逢いと別れは、
意味の純度が高いように感じています。
わたしはここでの会話を大切にしたいと思います。
>>195 鉄冠子さん
>特に君についてはいったん結んだ約束をいかに果たして、去るかを。
ありがとうございます。
興味深く読ませていただきました。
約束(言葉)は、日々刻々変わりゆく Dasein とちがって、
(事実として)不変です。言葉は、Sein の正統な継承者です。
約束を守るあなたが、真摯に、そして紳士に感じられます。
リアルよりバーチャルの方がよっぽど信用できますね。(^.^)
>君の枯れた初恋の思い出も、永訣に触れなければ、こうして俺の目に届くこともなかったし、
>こんな返事を書くこともなかった。
くだらない話をすみませんでした。
世界にくるまれるのがまだカンタンだった頃、10歳くらいまで(かな?)
沢山の"ゼッタイ忘れない!"と誓ったことのほとんどを忘れてしまったような気がします。
わたしの苦しみは、その忘れてしまったことへの罰なのかもしれないって思ったりします。
(別スレにもそんな詩を書いてました) 過去の自分を裏切り続けているのでしょうか?
>>212 17さん
>君は知的好奇心を満足させようとしてここでの作業をしているのかな。
>それとも意識の正体を知って「楽」になりたいからしているのかな。
色々あるけど、最後の「こだわり」を見つけたいのだと思います。
そしてそれは哲学徒の最後(思考停止=死)なのです。(あくまで理想です)
>「苦」の発生の根源についての見解はどう?考えてくれたかな。
生まれてきたこと。
"わたし"として実存してること。
>>224 鉄冠子さん
>特にこの掲示板での受け答えなどは、唯名論的呼称ゲームになります。
同感です。
けど呼称されたから自己が生まれたのです。
わたしは、掲示板にカオルを誕生させました。
カオルは、命です。存在です。わたしです。
>このゲーム感覚だけでは【悟りにはならない】。
わたしは、悟りを求めていません。
わたしにとって悟りは、絶対に負けてはいけない誘惑です。
わたしは、独りで立ちたい。それだけなんです。
>俺の個人的意見ですと、解脱したら、
>本人にとって限りなく死体に近い状態になるでしょう。非自己一切が認識されないのだから。
>周囲にとって限りなく狂人に近い状態になるでしょう。非自己一切を認識していないのだから。
うん。
あっちのスレでハルカが紹介している「EO(えお)」のHPにも
詳しく書いてあります。
>>229 鉄冠子さん
>クリスマスに耳を澄ませた歌のことを忘れたのか。嘘だったのなら、俺も去るぞ。
きっとあなたをがっかりさせるのでしょうけど、
わたしが彼に好意を持つのは、彼が洋子しか愛さなかったからです。
愛は、一人しか愛さない!
そこが、自分に似てると思ったんです。
いえ、わたしはその約束を破ってしまっています。
だから、こんなに苦しいのだと思うんです。
彼は、「Grow Old With Me」という曲で、
Got bless our love(神よ、我らの愛を祝福したまえ!)
と歌っています。
ひとりしか愛さないふたりの愛を祝福しろ!
っていうのは、神の愛の否定ではないですか?
そんなものいらない!っていう、"わたし"の高らかな勝利宣言!
そうわたしには聞こえました。
でも、わたしの流す涙は神の愛なんです。くやしいけれど。
>>245 鉄冠子さん
>だから、今日から一週間だけカオルさんを待ちます。
ごめんなさい。
まったく見ていませんでした。
PCを立ち上げる状況になかったのです。
今日のレスだって奇蹟のレスかもしれませんよ。(笑)
これからもレスをもらっても返せるかわからないので
あらかじめあやまっておきます。m(__)m
鉄冠子さん以外の人にも同様ですので
無理にレスなんかしないでくださいね。
>>267 じゆんさん
>あなたと議論したい項目を述べます。
うれしいです。
わたしにその時間と能力があらんことを。
とりあえず、簡単に触れておきます。
>>267 じゆんさん
>カオルさんは自我がないとあっちのスレでおっしゃってましたが、
すでに議論したところの、形而上学的主体 ⇒ 哲学的自我、のことです。
『独我論が徹底されるなら、純粋な実在論と一致することが見てとられるのである。
独我論の自我は、延長を欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される。』
(TLP 5.64)
『それゆえに、哲学において自我については、心理学的にではなく論じうる意味が
確かにある。自我は、世界はわたしの世界である、ということを通して哲学に入り込む。
哲学的自我は、人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質を備えた人間の心でもない。
それは、形而上学的主体であり、すなわち、世界の(一部分ではなく)限界、なのである。』
(TLP 5.641)
まぁ、気楽に受け取ってください。捨ててもいいです。
単にウィトに惚れちゃってるだけですから。なんでかな?(笑)
>>267 じゆんさん
>どうも統覚が存在するようには思えないんですよね。
>これもなんだかいわゆる無定義概念なんですかね。
もちろん!
自由意志とか意識とか統覚とか、
いまだに納得のいく定義なんてみたことないです。(笑)
>統覚って機能として存在しますか?
思考が思考であるために、感情が感情であるために
必然的に要請されてしまうという代物ですよん。
>そこら辺の認識、知覚システムについて科学的に実証してみたいです。
できたらノーベル賞もの、いやそれ以上です。
新たな入れ子の世界が生まれます。超人の誕生か?
>ちなみに科学的の根拠となるもの、としていま「脳のなかの幽霊」という本を読んでます。
かなり有名な本ですよね。なぜかまだ読んでいません。
読んでおかないと議論に負けそうな気がします。(笑)
>>268 じゆんさん
>認識主体はあるのか、ないのか。
>認識主体とはそもそもどのように構成されてきたのか
とくに議論はしてないけど、ショーぺスレかどこかで触れていると思います。
ウィトまでいかなくても「認識する主体」と「主体本体」はショーぺでも別だし、
「認識する主体(自我)」の構成というのは、主に「個体化の原理」によってです。
>意識点とか虚存とか、それらのハルカ論の性質について言及してみたいです。
この辺りはぐちゃぐちゃになりそうですね。
【虚存】だって元々は、エントロピー増大の法則による現象界の万物の
行きつく先(混沌-無秩序)として、ハルカ論に組み込んでもらったのです。
にもかかわらず、わたしは平気で「生命の本拠地」とか言い出す始末。(^_^;)
でもあながち否定できなかったりする、そんな場?が【虚存】みたいです。
>最終的には快苦の二元判断の否定を行いたいのです。
>快苦の二元判断はないと考えるのです。つまり「快/非快」と「苦/非苦」の判断に
>分けられるだけです。そして「非苦」は存在しないという方向へ持って行きたい。
「非苦は存在しない」って、まんまハルカ論だよ。(笑)
だって「存在=苦」っていうのが、ハルカ論の根本定義なんだから。
>>269 じゆんさん
>基本的に形而上学的のことについて言及しているわけだから論破とか無意味だと思うんですよ。
わたしが、論破というとき、それはわたしが、懐疑論、不可知論、独我論、
あるいは、論理学の立場に立つことを意味します。
およそその指向は、形而上の命題の否定に傾いてしまいます。
たとえば、17さんやソフィアさんの発言を参考にしてみてください。
(ごめんなさい。お二人に悪意はないです。w)
論と論のぶつかり合いのなかに、論破という作用が介在することで
論は止揚されるのだし、磨かれていくのだと(わたしは)思います。
議論において論破は、避けては通れない重要な要素ではないですか?
>>269 じゆんさん
>カオルさんに私がハルカ論の論破者に設定されたのがいやで議論を放棄したというのもある
>んです。〜カオルさんにそう受けとられるのは嫌なのでした。
わかりました。
>二人は同一人物じゃないでしょ。よく見ると微妙に主張が違っている。
みなさん勘違いされていますけど、おそらくわたしの主張は、
微妙どころか、他の誰よりもハルカ論から遠いと思いますよ。
わたしは悟りを望んでいないし、解脱は原理的に不可能だと
思っているし、輪廻も信じていないのだし・・・。
>実は新スレを立ち上げたいと思った当初の目的は、脳生理学や認識論のことを専門的に
>言及したいかと思ったのですが。まあここでもできることですもんね。
っていうか、じゆんさんとの議論は、その認識論だったのでは?
>鉄冠子さん
あのー
>【確実に解脱する方法】がひとつだけあることが判明しました。
>>224 これってどこかに書いてありましたっけ?
まさか、生命抹殺論のことをいっているのですか?
>カオルさん
>>397〜
>>403 どうも、久しぶり。達者で暮らしているんだろうと思っていたけど、
そう楽観的には受け取れないような、自己嫌悪というか、
魂の分裂に伴うやり切れない苦痛へのうめきのようなものが、随所に見えるんで心配だ。
君の使う「"わたし"」という概念が、自分専用の実存体系のどこに合致するのかがわからない。
こういう状況では何を書いても安易な返事に思えてしまうので、大きなことは言えない。
>>415 >これってどこかに書いてありましたっけ?
>まさか、生命抹殺論のことをいっているのですか?
この辺りは自分としてもお寒い内容で、悔やみ恥ずかしく思っているところなんだけど、そのまさかの通り、
一匹も生物がいなくて、かつ後に生まれうる可能性も一切ないような世界のことだよ。
あくまで想像上の世界だけれど。
こんなことを実行するとしても、結局は「人知を超えた奥の手」になるし、
だいいち方法論的に考えてみても「これは解脱と言えるのか?」という疑問が残る。
さらに、後にハルカさんから、
>>285 「んー…これは『違う』と言わざるを得ない。
今までは『敢えて』語らなかったけど…言ってしまおうか。
【物質】も【生命】の一形態だったりする。
そこら辺の石も空気も−惑星や宇宙も、空間さえもが【生命】だったりする。
だから【全物質全空間全存在を消滅した上でなら】その後の死は【解脱】と言える。
だがそれは『人知を遥かに超越した存在の自殺』でしかないから我々【個体化形式存在】には無理だ。」
とあったから、自分でも確実な解脱の有無については一から再考を迫られている。
具体的な経緯は省くけど、
無機物→有機物(タンパク質とか)→ウィルス(核酸とタンパク質)→単細胞生物…植物動物人間
の進化のこととかを考えるようになった。
>>416 鉄冠子さん
>君の使う「"わたし"」という概念が、自分専用の実存体系のどこに合致するのかがわからない。
"わたし"なるものの正体は不明です。
あるのかないのかも。
普段は、オーソドックスな解釈での実存のことです。
「いまここにある」ことを意識する"わたし"を指しています。
>>417 鉄冠子さん
>こんなことを実行するとしても、結局は「人知を超えた奥の手」になるし、
そうですね。
「存在=生命」と定義してしまうなら、
ハルカのいうように「【個体化形式存在】には無理だ。」
というのは、原理的にも論理的にも必然的帰結だしね。
それに【個体化形式存在】にとっては、
解脱、つまり、無に関する如何なる問いも、
問いそれ自体に根拠がないし、成立しないし・・・ということは、
言わない!、というのがこのスレで議論する前提なんですけど。
でも、ときどきは言っておかないと
・・・デンパのあたしでも自覚はあるってね。(笑)
>>273 鉄冠子さん
>―声聞― 〜その目的とするものが個人的解脱にすぎないので、
>―菩薩― 〜悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者。
『声聞』・・・ 生命嫌悪 ---> 存在からの離脱 = 解脱
『菩薩』・・・ 生命讃歌 ---> 存在との同一化 = 悟り
という感じの理解で良いでしょうか?
以下、稚拙な感想文を眺めるようなつもりでヨロシクです。(^.^)
>>274 鉄冠子さん
>主観の解脱は可能という人と不可能という人で、
>果てしない論争が繰り広げられているのを目にすることがある。
>〜
>声聞思想が人間の利己心の一切を司るもの、菩薩思想が人間の利他心の一切を司るもの、
1.両者の論争の論点はどこにあると思いますか?
2.主観の解脱可能⇔利己心 主観の解脱不可能⇔利他心
という関係性(⇔)が成り立つ根拠は何ですか?
3.利己心と利他心の発生源は同じなのでしょうか?
>>275 鉄冠子さん
>ハルカ論は 〜 エゴイズムの中のエゴイズムを追求している。
>第一、【声を聞く】を以って「声聞」というのだから、決定的である。
>俺は本人の自認を目にしたことがない。
【声を聞く】=【エゴイズムの中のエゴイズムの追求】→ 決定的
の意味がよくわかりません。それから「本人の自認」って何ですか?
>「神秘体験には二種類ある、脳の部位への働きの相違によって、
>一方は、一般に言われるように神との一体感に満ちた至福感をもたらすもの、
>もう一方は、幻覚や幻聴、奈落の底へ落とすような恐怖感をもたらすもの
>というように分けられる、さながらドラッグの体験のアッパーとダウナーのように。」
体験の差異の原因はどこにあるのですか?
また、体験の結果にはどのような差異があるのですか?
>声聞思想による開拓がないと、この世は次第に行き詰まり、病んでいくからである。
>この世に生きる俺も病むことになる。
「開拓」とは具体的にどのようなことですか?
また、なぜ「病んで」しまうのですか?
>>276 鉄冠子さん
>実は、みなおなじ金色にはなり得ないのである。
>とあるからくりが働き続けているがゆえに。
>だから、みなおなじ金色にし続けなければならない。
>〜【輪廻】というからくりが。
なるほど、
1.輪廻それ自体に(仏になる)目的がないのなら、
2.菩薩が衆生済度するために輪廻があるのかな?
↓(悪意w)
菩薩の趣味(衆生済度)のために輪廻させられている?
菩薩って、ハルカのいう上位生命じゃないの?(笑)
あるいは、上位生命が美味しい餌を得るための
「シンカ」という仕掛けのことかな?
どちらにしろ相容れることはむずかしそうです。(笑)
>>277 鉄冠子さん
>僧侶や司祭という職に就き、子孫を残さず、黙々と修行と考究に励む。
今でも憧れています。
修道女とか尼さんとか。
でも、神さま仏さまを信じてないから・・・
子供は絶対につくらないと決めています。
わたしにできることはそのくらい。
>>278 鉄冠子さん
>人間の意識が輪廻するのではなく、
>利己心と利他心と呼ばれうるものの伝達や系譜としてなら、
>輪廻の存在をある程度描写できると思われる。
>利己心を持った生物は繰り返し生まれうるし、
>家庭教育や社会教育等によって、利他心は常に世間で伝達されている。
これなら納得!
>街の占い師になるとか、本を記して収入を得るとか、秘密結社的にこの世で暮らしているのかもしれない。
世界の不条理(非合理、無意味)さへの諦観。厭世。
これじゃ職業も必然的に決まってしまうような。(笑)
ショーペンハウアーやニーチェも似たような系譜かな?
哲学徒としては一線を画していると信じたいですけど。
>>279 鉄冠子さん
>生命種が誕生した以上、生命種が滅するときがあるのを人間の理性は考察しうる。
宇宙が死んでお終いなら、
すべてが無意味に帰してしまうと心配して、
宇宙を創造しようと真面目に考えている人もいます。(^.^)
>一生命には何か伝え託さなければならないものがあるのではないのか。
DNAの自己複製以外に何があるのでしょうか?
>>280 鉄冠子さん
>常に現実上に、誰の心においても、いついかなるときにも、菩薩は存在している。
>菩薩が存在していなければ、これを記す俺や読む人の存在が説明できない。
わたしは、生を肯定します。
わたしは、生命を礼賛します。
わたしは、存在との合一をめざします。
ご主人様お好みの美味しい餌となるため
菩薩という優雅な「シンカ」システムにのって。
>その「仏の声」の同一性を考えるとき、俺も戦慄を感じざるを得ない。
仏の声の同一性といっても、脳内での出来事、というところだけですね。
分泌される脳内麻薬の種類がちがうなら生理的反応もちがってくるのだし、
だからこそ、解脱と悟りでは仏の声もちがってしまうのではないですか?
たとえば人間が動物を飼い慣らせるのは、動物の脳内麻薬をコントロール
しているからだし、それとおなじように人間が上位生命にとって都合の良い
(意図に沿った)ことをしてくれたときのご褒美が悟りの脳内麻薬(至福感)で、
都合の悪い(意図に沿わない)ことをしたときのお仕置きが解脱の脳内麻薬
(恐怖感)かもしれないですよね。(^.^)
ちなみに、脳内麻薬の起源は「二千年余以前」どころじゃないです。
>>281 鉄冠子さん
>しかし、両者ともその軸に触れることはできない。
>それは、声聞にも菩薩の心(利他心)があり、菩薩にも声聞の心(利己心)があるからなのだろう。
>〜そして、この限りなく接近しうるのみという事実によって、
>声聞も菩薩も生身の人間としてこの世に存在しうる。
>その過程で、輪廻断絶や生物ゼロに至るまでの利己心と、
>それをよしとはできない利他心の、双方の極北とその攻防のエネルギーを人間は知りうるようだ。
そう思います。素晴らしい文章です。
>>282 鉄冠子さん
>両者の統一へと向かう【比肩、拮抗、相克】のエネルギーがないと、
>両者はその存在性を限りなく損ねていく。
声聞と菩薩の両者を
統一しようという志向性は、菩薩的、普遍的、一元論的・・・
分離しようという志向性は、声聞的、特殊的、二元論的・・・
だと思いました。
>そして、今回、俺が最も強調したいのは、悟りや解脱に関する、世界中のあらゆる文献、言い伝え、
>そのスケールを描き得る人の感性、骨格を組み立て得る純粋な理性、限りなく接近しようとする意志、
>これらがゼロになるときと、この星の生物がゼロになるときとは、
>限りなく一致するのではないかということだ。
少なくとも人間はゼロになるでしょう。
最後に改めて、素晴らしい内容の長文ご苦労様でした。
>>292-295 ハルカへ
ハルカは、いつもその通りのことをその通りに書きます。
ハルカのその純粋さとまっすぐさは悲しいほど綺麗です。
ハルカのまなざしが、存在を突き抜け、神をつらぬき、
宇宙の果ての向こうまで届くことをわたしは祈ります。
>>325-326 ハルカの書き込みは、いつも輪郭が光っていて美しいです。
よく整理されていて感心しきりです。
何もいうことがないのがちょっぴりさびしいです。
>>339 じゆんさん
>私の一番のお薦めは葉加瀬太郎の「VIOLINISM U」です。
おススメありがとう。
「わたしは東大」「俺は芸大」とかって自慢し合う夫婦の芸大の方ですね。(笑)
(彼はジャケットに写らない方がいいと思いましたw)
>>431 カオルさんへ
>おススメありがとう。
どういたしまして。
>(彼はジャケットに写らない方がいいと思いましたw)
それは言いっこなしですよw
>じゆんさん
まだ起きてたんだ。(笑)
じゆんさんへのレス、今ひとつ書き終えたところです。ふぅー
>>341 じゆんさん
>記録(記憶)情報と知覚情報はまったく概念を異にするからだ。
あなたのいう知覚情報とは「純粋経験」と呼ばれているものだと思います。
ハルカは、それを「意識的には有名無実」な「未加工の情報」と定義しました。
知覚情報は、記号化されることにより、各神経系での処理が可能になります。
情報を記号化するということは、外界と自分を分け隔てるということでしょう。
この主客の分離によって個体は主体となり、外界を受容することになるのでしょう。
ハルカが、写像記録を「未加工の情報」としたのには、
個体が、「主体(意識)化する以前の」とか「外界と未分化なままに」
という意を含めたかったからだと思います。
たとえば、集合的無意識のような組織系の知、暗黙知のような身体系の知としての
情報(記録)は、主体(意識)の介在しない=「意識的には有名無実」な情報(記録)です。
つまり、「主体⇒記録」のような序列関係にはなく、「主体⇔記録」のように相互に
依存する関係にあるのではないでしょうか。「純粋経験」が、主客未分化(外界=個体)
での事態であるのと同じようにです。また、集合的無意識、暗黙知、「純粋経験」を、
主体の生成基盤であるととらえるなら、「記録⇒主体」という序列関係も成立します。
ハルカ論は、主体と記憶の関係性が、認識論的には「主体⇒記録」であったり、
「記録⇒主体」であったりしても、存在論的には「主体⇔記録」の相互依存関係に
あることを示しているのではないでしょうか。
>>347 イナゴさん
いっぱい紹介してくれてありがとう。
「コアーズ」と「エニグマ」は、知っていました。
「コアーズ」のファーストアルバムはお気に入りです。
>>365 じゆんさん
>そしてスレに記憶を残せると考えるのも馬鹿げている。
うん、わかってる。
ただわたしはハルカ論があっちこっちに分散してしまうのを見ると
まるでハルカの魂が切り裂かれてるみたいに感じてしまうの。
妄想です。まったく100%の純正。でも痛いのはイヤなのです。
>>383 鉄冠子さん
おススメありがとうございます。
実はまだ聞いてないのです。(とことん失礼なヤツ!)
ずっと芸術と書物と縁を切っていたから、そろそろいいかなって。
(理由はないけど・・・) でも結局、感心が湧いてこないんです。
最近テレビも見ないし、(「エースをねらえ!」はときどきw)
ただただゴロゴロしています。
ある朝起きたら芋虫になっていそうです。(笑)
>>436 スレにハルカが残ります。
できるだけひとつにまとまっていた方がやっぱりいいです。
たしかもうそれで良いことになってるんですよね?
たしかそうですそのはずです。わたしは安心したんだから。
じゆんさんがそうしてくれたんです。たしかそうです。
>>438 カオルさんへ
>スレにハルカが残ります。
うん。
>じゆんさんがそうしてくれたんです。たしかそうです。
うん。たしかに。
>>439 じゆんさん
良かったです。安心しました。(^.^)
>>437 訂正です。
感心→関心でした。
昨日から間違えてばかりいます。
何で見逃すのかな? 不思議です。
今日はちゃんと見直したつもりなのに変です。
いつもこれが寝る合図なのはわかるけど
今日は合図してくれなくても良かったのに。
だって今日は日曜日ですもの。
全国的にお休みなのです。
お昼まで寝てていいんですから。
本当は他にもたくさん間違っていそうです。
気がついた人は教えてください。
ずっと知らないままだとバカみたいですから。
お願いします。
>気がついた人は教えてください。
>ずっと知らないままだとバカみたいですから。
>お願いします。
いやです。お馬鹿なままのカオルでいてくださいwww。
むささび
青い森で、むささびが月をかくす
一瞬、月が隠れる
むささびは、ななめに落下する
流れ星のように
のびやかに身体をひろげる
ここちよく風を受け止める
風がいたくない程度に、やわらかく受け止める
むささびは、風の言葉を理解していた
むささび、音も立てず、風を滑っていく
なめらかに、すっと
青の森の、青の夜の、青の月の下で
むささびは、影を切っていく
彼はどこからやってきて、
どこへ行ったのか
月が一瞬、消えたことが驚きだった
むささびは、どこに行った
むささびは、どこにいる
またあえるだろうか
それともまぼろし?
かさかさと乾いた葉っぱのこすれる音がする
>>421 1.両者の論争の論点はどこにあると思いますか?
片方は「何で存在しているのか」が疑問になっていて、もう片方は「何で(どう)生きるのか」が疑問になっている。
結果、生の「否定か肯定か」の観点でも、異なる立場をとるみたい。
両者とも、存在しているし、生きてもいる。
「どう生きるのか」を考究する後者には、実存の問題が立ちはだかっていて、
そのとき「実存/虚存」に取り組んでいる前者のお世話になる。
でも菩薩にとっては、「虚存」なるものはあまり興味がないみたい。
ましてや、ここで互いの立場について両者の分別が整ってなかったりすると、果てしなく相手にいちゃもんをつけ続けることになる。
「それが仏陀の説いた教義だったか?」というのが、論争の発端になるみたい。
2.主観の解脱可能⇔利己心 主観の解脱不可能⇔利他心
という関係性(⇔)が成り立つ根拠は何ですか?
直接に掛かっている橋(⇔)はない。全部述べると長くなる。
でも、EO氏もプロローグ「詩句」の冒頭で、エゴイスティックなことを言っているじゃない?
他にも例えば、「自分よりも他者が先であっても構わない」というような解脱は成り立たなくない?
こういう点で利己的だと思うんだけど。
でも、声聞だってコミュニケーションとるときまで利己的だったら、それは自分の目的にそぐわないだろうから、
何らかの「相手のために」が一切ないとは言えない。
また、菩薩の務めも自己欺瞞に過ぎないのであれば、それは利己的なのだろうから、
究極的に突き詰めて考えると、両者とも利己的で利他的なのだと思う。
3.利己心と利他心の発生源は同じなのでしょうか?
2の返答の末尾を考えると、人間の自由意志として同じなのではないだろうか?
>>422 >【声を聞く】=【エゴイズムの中のエゴイズムの追求】→ 決定的
>の意味がよくわかりません。それから「本人の自認」って何ですか?
従来の、本の中の声聞の姿勢は、他者から見てエゴイスティックに見えるというだけで、エゴイストを自称しているわけではない。
でも、最後の最後に解脱を達成するためには、自利排他の態度をとらなくちゃならない。
その態度は、最低でも全部の生命を殺し尽くすのでも構わないほどの規模になる、というのが今回の提議だった。
本人の自認というのは、単純に、ハルカさんの「私は仏教哲学十界論における声聞のようだ」という発言を見たことがないということ。
この辺りは、根幹でありながら自分ひとりでは構築が成り立たない部分なので、焦って早急に決した(!)。
>体験の差異の原因はどこにあるのですか?
>また、体験の結果にはどのような差異があるのですか?
これと、
>>427の後半、「仏の声を聞く」ことについてを、脳科学の専門用語を踏まえてまとめるのに時間がかかっている。
俺は理系じゃないし、脳科学は昨今、発展著しい分野だから、諸説紛糾の状態のなか、何を手本としていいのか決められない。
>「開拓」とは具体的にどのようなことですか?
>また、なぜ「病んで」しまうのですか?
この板を例にとると、ハルカさんが「意識点」という聞いたこともないことを言った。
これだけでこのスレにおける解脱の問題は一歩前進していると思うんだけど。
菩薩はこのような独創的な意識の分析を広めたりはできない。
菩薩も実存の問題に取り組みはするけれど、「今現在このレベルまで話が進んでいるよ」という報告以上のことはできない。
そして、このような意識への分析と切り込みが一切途絶えたとすると、
この世は菩薩の報告に伴う、もう一つの効能である、慈悲や美談に満ちてしまう。みな金色になってしまう。
これがどういうことなのかについては、先日話題になったEO氏が、調度よく以下のようなこと言ってた。
―プロローグ「詩句」の真ん中辺りより
古来より言われる悟りを「すべての人々が開いたら世界はどうなるのか」と人々は、ときおり私に問う。ならば私は言おう。
『この、今の世界は滅びる。』 …というよりも用がなくなるであろう。
すなわちこの世とは悟りの種子が割れるための地中であって、地中で開花する花などおるまい。地中は花の咲く場所ではない。
子宮は子供を生み出す場所であって、子供が生きる場所ではない。
故にこの世はブッダたちを生み出す場所であって、ここはブッダたちの暮らす場所ではない。
ここは「暮らす場所ではない」のだ。ここは『生まれる場所』だ。
俺にとっては「この世がこの世としての用を為さなくなる」というのは、どんなことかよくわからないけれど、
非常に悪い予感がするので、「病む」とした。
>>423 ここは随分とあまのじゃくさんで来たね。仏像の表情を参照してみればどうだい?
菩薩の仏像は、大抵は口元を引き締め、物思いに耽っているような表情をしているけれど、
あれは一体何を考えているんだろうね。
明白に怪しげで胡散臭い表情に見えるんだったら、即座に君に同意できるんだけれど…。
でも君の言う通り、菩薩は表向きは嘘を言っているのかもしれない。
「嘘をつくとき、人は最も真剣な表情をする」だなんて聞いたことあるし。
あんな真剣な表情で上位生命やっているんだとしたら、そこから逃れるのは、より容易でなくなるよ。
それか、もしくは、
「上位生命―声聞―菩薩―衆生」の板ばさみの状態で、どっちに向かうか考え込んでいるジレンマの表情なのかも知れない。
つまり、存在に苦しんでいるのかもしれない。
この二極の間のどれかじゃない?
>>423 ここは随分とあまのじゃくさんで来たね。仏像の表情を参照してみればどうだい?
菩薩の仏像は、大抵は口元を引き締め、物思いに耽っているような表情をしているけれど、
あれは一体何を考えているんだろうね。
明白に怪しげで胡散臭い表情に見えるんだったら、即座に君に同意できるんだけれど…。
でも君の言う通り、菩薩は表向きは嘘を言っているのかもしれない。
「嘘をつくとき、人は最も真剣な表情をする」だなんて聞いたことあるし。
あんな真剣な表情で上位生命やっているんだとしたら、そこから逃れるのは、より容易でなくなるよ。
それか、もしくは、
「上位生命―声聞―菩薩―衆生」の板ばさみの状態で、どっちに向かうか考え込んでいる表情なのかも知れない。
つまり、存在に苦しんでいるのかもしれない。
この二極の間のどれかじゃない?
↑同内容の文の連続、…失礼。
>>424 俺も坊さんの仕事に就こうかとよく考える。哲学に取り組むようになってから「ふけ」がひどくなった。
髪の毛が邪魔。丸坊主でできる仕事って言ったら、やっぱり限られてくるもの。
>>425 秘密結社だとか生命抹殺論だとかの部分は、ひどく妄想的になってしまったなぁ。
厭世哲学を究めている人が、自身の哲学に従って稼いでいくとしたら、この世はそれだけパニックになるだろうね。
やっぱりあらゆる人間社会の地下に潜って、孤独に暖めていくしかないんじゃない?
>>426、427前半
こんな告白が許されるのかわからないけれど、この辺りはマッチョな発言にしなくちゃならなかった。
当時、スレに不穏な空気が強まっているように見えて、それに対抗しなくては自分の論が成り立たなかったから。
他の部分より勇気が要ったよ。
だから君の不貞腐れた態度の感想は無理もないね。
>DNAの自己複製以外に何があるのでしょうか?
非唯物論的な回答は、今日、用意できていない。いつか使いこなしてみたい。
>>429 >統一しようという志向性は、菩薩的、普遍的、一元論的・・・
>分離しようという志向性は、声聞的、特殊的、二元論的・・・
>だと思いました。
この辺りは結びだったのでマッチョにした。「統一」というのも大袈裟なもので、俺はバラバラで構わないと思うよ。
両者の立場がきちんと整頓されていて、果てしなく感情的対立が続くのでないならば。
>少なくとも人間はゼロになるでしょう。
どこまで道連れにするんだろうね。一方的に精錬していく科学技術のことを、ここで挙げないわけにはいかない。
科学のもたらす不安が叫ばれるようになってから百年経つ。でも止まらないものは止まらない。
生活の不便さや病気ですぐ死ぬ危険性とか、
それから単純に、科学的真理の無知の状態などに、今から立ち戻るわけにもいかない。
俺にとって、菩提心(悟りとか解脱を求める心)が全くなかった時期、
すなわち哲学書を手に取ることを夢にも思わなかった時期というのがあって。
で、その時期の俺が、ひどく薄情で怠惰で凶暴で臆病で品性下劣で甘ったれだったものだから、
科学者や政治家や軍人や、武器を売る商人や、医者や、学校の先生や出版業者やらの全部が、あんなふうになると思うと
その災厄の被害についての空想は底なしのものになるよ。
>最後に改めて、素晴らしい内容の長文ご苦労様でした。
礼なんていらない、と言いたいところだけれど、ありがたく頂戴するよ。
俺も生活の大部分を犠牲にして哲学に打ち込んできたから、
自分の考えが、反論や質問を受けるなどして、ちょっとは長持ちしてもらわないとこれ以上続けられないもの。
こちらこそ返事どうも。
>>294-295 ○に・が入っていないから、いつまでも堂々巡りなんですよ。自分で目をふさいで
それが原因で見えないし、その原因を忘れて周囲、世界、上位生命、生そのもの等々
のセイニしている結果、文字通り無明、地獄に落ちているのですよ。先ずは我と解ら
んガに気付けてくれる情報(批判、批難、忠告)に素直に己を磨く事から、つまり一
からやり直すことです。このことに気付き、改心しなければ、苦しかろうが、なんだ
ろうが、輪廻だろうが、結末だろうが、無に帰すだろうが、貴方のその様な精神性、
汚れたマンマで不平、嘆きを抱いている様では、何度も強制的に出直しやり直しです
よ。強制しているのは、「上位生命体」などではなく、貴方自身以外にないのですよ。
>>392 じゆんさん
>カオルさんは今までいちばん、うれしかったことはなんですか?
スルーさせてください。ごめんなさい。
>>393 >母は赤ん坊の全存在を認めるそうです。
幻想だと思います。悲しいけれど。
>>394 >ねえどうして泣いているの?
ただ、生きることができないからでしょうか?
せっかく・・・・って思ってしまうんでしょうね。
>>443 じゆんさん
すばらしい詩です。
ほんとうに素敵です。
哲学してるあなたがかわいそう。
かさかさ の つづき
カサカサッ、乾いた葉っぱのこすれる音。
息をとめカメラをかまえる。
ザワッザワヮー、森の奥の洞窟からはじきだされた冷たい風。
じっと耳を凝らす。
ちぇっ!、風と共に去りぬ、か。
まだら模様の木漏れ日がまだゆれている、きれいだな。
カサカサッ、ん!
カサッ、そこだ!
レンズの端に気配をとらえたその瞬間、
すべての葉陰がとじられ森は真っ暗になった。
どうしたんだ? なんなんだ?
静寂のなかに問いだけが木霊する。
カサカサッ、カサカサッ、近づいてくる。
カサッ、もうそこにいる。
全身を鎧のようにして身構える。
「じゅん?」
ギクッ!、うゎうゎ、うわぁー
目をつぶって頭をかかえて叫びつづける。
どれくらいたったろう。
おそるおそる瞼から力を抜いてみる。
うっすらと白い光が射し込んでくる。
一気に開ける。
前よりも少し静かになった森・・・今だ!
リュックも水筒もカメラもみんな投げ出して走りだす。
出口が見えた。
まばたきと垂直に交差する楕円形の出口。
まだ霞んでる目を必死で見開く。
消えないように、消えないように・・・
まぶしい!
助かった!
膝がガクンと折れた。
両手をついた。
手のひらから命の温もりが伝わってきた。
ゼイゼイという音は他人事のように思えた。
鼻先の草の匂いでどうにか自分でいられた。
首筋のなまぬるい汗を
草原のうねりをつたってきた風がかわかした。
その首筋を今度はジリジリと熱い太陽が焼いた。
汗でない雫が落ちた。
そこに自分の影があった。
ふたたび時が流れだした。
立ち上がって歩き出そうとした。
「じゅん」
また悪寒が走った。
「ごめんなさい」
「わたし・・・」
ふりむいたらお仕舞いだと思った。
一目散に走り出した。
「カ...オ...ル」
そう聞こえたような気がした。
誰なのか思い出したくなかった。
>>444 鉄冠子さん
少しだけレス。
>>1.両者の論争の論点はどこにあると思いますか?
>片方は「何で存在しているのか」が疑問になっていて、
>もう片方は「何で(どう)生きるのか」が疑問になっている。
>結果、生の「否定か肯定か」の観点でも、異なる立場をとるみたい。
わたしは、「基体」の位置づけにも関係があるように思いました。
【基体】あるものについて性質や状態が語られる際に、
そうした性質や状態が帰属するそのもの。(goo国語辞典より)
「主観の解脱の可能派」と「主観の解脱の不可能派」の対立は、
双方の主観と基体の関係性のとらえ方の違いにあるのではないでしょうか。
基体的主体としての主観=「近代的自我」は、たかだかデカルト、カント
以降の話ですし、仏教なら基体は当然「存在」側にあるのだろうけど、
その語り部は、近代的自我を疑えない人だったりする、とかね。(笑)
>>454 >哲学してるあなたがかわいそう。
あはは、ごめんなさい。まあちょっと正直、自分には哲学は難しいかなって思う。
本を読んでもちょっと理解できないことの方が多いから。基本は私は理系なんで
数学的処理だけを自動的に行って、意味についてはあまり深く考えたりしないタイプ
だったりするんで。それにあんまり人のことで悩んだりしないの。(自分のことではよく悩むけど)
そういう人なの自分は。まあそういう個人的なことはいいやね。
で、哲学する自分は嫌いじゃないというかね。ここでの発見はすごく感謝している。
私はここでみんなからいろいろなものもらってばっかりだ。本当にそう思う。私は舌足
らずだから、いつも言いたいことを言えない。でもそれを他の誰かが言ってくれてる。(本当に色んな人がね)
そういうのが嬉しくて自分も哲学するんだと思う。だから不完全な自分でもいいのさって。
だから自分がかわいそうだとは思わないのさ。
哲学って楽しいよ。これは確かなことだよ。カオルさん、だから私のことをかわいそう
だなんて思わないでいい。哲学は楽しい。だから私はかわいそうじゃないんだ。
>>456 >>457 カオルさん。
まじで面白いです。
どきどきしました。
へえ〜 (ニヤニヤ) そうかカオルさんにはこういう才能もあったんですね。
きっと、まだまだ続きがあるんですよね。もっと聞かせてくださいませんか。
よろしくお願いしますね。
>>548 訂正
>私はここでみんなからいろいろなものもらってばっかりだ。
↓
私はここでみんなからいろいろなことを教えてもらってばっかりだ。
>>458 じゆんさん
哲学がいつまでも楽しいものであったらいいですね。
>>459 >まじで面白いです。
面白いわけないですけど
最後のオチには自信がありました。(笑)
>きっと、まだまだ続きがあるんですよね。
期待を裏切って悪いけど続きなんてないですよ。
だってオチつけたんだし。
>>343 じゆんさん
>事実記録とはなにか?
【事実】〔哲〕時間空間内に現に存在するものとして我々に経験される出来事や存在。
(goo国語辞典から抜粋)
の「記録」で良いのではないですか?
重要なのは、「時間空間内に現に存在するものとして(認識される)」という部分です。
ハルカ論では、
『言語化という認識手段を経て各カテゴリーに分類(#1)』された『思考配列物』の『記録』。
=『ラベリングされた情報』の『記録』が、『事実記録』となります。
(#1) 人間の記憶の特徴は、言語によるカテゴリー分類にあります。
>事実と写像の違い
写像記録と事実記録の違いは、
>>434(写像記録)と上述(事実記録)の違いでいいですか。
>>343 じゆんさん
>事実と印象の違い
まず『事実記録』の説明から。(再生→記録の方の)
(時空を場として)知覚情報と事実記録の比較対照+判断(#2)が行われる。
= 思考の発生。
(#2) 判断するためには「規準」が必要です。
思考における規準は「論理」でしょう。
論理は「因果律」の理解を前提にします。
思考の結果(思考配列物)を記録する。=『事実記録』となります。
次に『印象記録』の説明をします。
思考配列物と印象記録の比較対照+判断(#3)が行われる。= 感情の発生。
(#3) 判断するためには「規準」が必要です。
感情における規準は「快/不快」でしょう。
感情は「本能」を前提にします。
思考(論理)の結果は、必ずしも生存に有利であるとは限りません。
しかし、それでは個体も種も生き残れない危険性が大きくなります。
そこで、本能にしたがう行為にたいしては「快」を、逆らう行為に
たいしては「不快」を、というのが感情の起源ではないでしょうか。
思考配列物への印象や思考との葛藤を記録する。=『印象記録』となります。
>>342 じゆんさん
>あとハルカ論ではやはり「情報」という主体として設定されているようだ。
>(ちなみに私は主体を意識としているのかな?)
ハルカ論では「外界(情報)-世界」と「知覚」の主客未分の事態(「純粋経験」)が、
『(形而上学的)主体は世界に属さない。それは世界の限界である。』(TLP 5.632)
という意味において、現象界における実在論の根拠になっています。(
>>40-41参照)
(飛躍した解釈としては、
>>434も参照してください。)
>再生と確認の二つの作業がほぼ一遍に行われている
いくら記録と再生がくりかえされても、所詮それは個別の情報です。
個別の情報をいくら集めても、個別の情報は個別の情報でしかない。
事実記録も印象記録も同じです。だからハルカは認識から始めてる。
認識を前提にしてるんです。なぜなら、個別の情報を比較対照して
判断するためには、個別(不連続)から「連続」を、特殊から「普遍」
を知る能力が、"どうしても"必要になってくるからです。
ただし、ハルカは写像記録には認識をかかわらせていないですよね。
あやしいでしょ?(笑)
なので、
>>434みたいなことを書いてみたのです。
連続(無限)、普遍(存在、神) → 集合的無意識、阿頼耶識・・・ね!(笑)
ハルカ論では「意識」が、ここに深く介在してくるはずです。
でも、わたしがいまだハルカ論の意識および意識点について
理解できていないものだから、じゆんさんとの議論とかでも
とりあえず、カントの超越論的統覚で代行してきたわけです。(^_^;)
>>342 じゆんさん
>感覚器官から受けとった情報はどのような形をしているのか
知覚情報を各神経系が処理するためには、情報の記号化が必要です。
記号化される時点で生存に不必要なものは間引かれてるはずだから、
それを捨象されていると捉えるなら、記号化とは抽象化のことです。
このあたりは、じゆんさんの方がくわしいのでは?
ところで「脳の中の幽霊」は、どうでしたか?
>>445 鉄冠子さん
>声聞だってコミュニケーションとるときまで利己的だったら、
>それは自分の目的にそぐわないだろうから、
>何らかの「相手のために」が一切ないとは言えない。
核心を突いてますね。さすがです。
【自我】
〔哲〕意識や行為をつかさどる主体としての私。
対象(非我)・他者(他我)から区別されるが、他我もまた一個の自我である。
人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。(goo国語辞典)
上の説明にもあるように「他我もまた一個の自我」です。
なぜなら、自我は言語の獲得なしには成立しないからです。
自我の存在根拠になる言語の属性であるコミュニケーションが、
他我の存在を前提としている以上、他我の存在を否定することは、
自我が自分自身の存在根拠を否定することと同義になりますから。
人間は、ホモロクエンス(言語的存在)なのです。
>>445 鉄冠子さん
>>利己心と利他心の発生源は同じなのでしょうか?
>人間の自由意志として同じなのではないだろうか?
個人は「世界−内−存在」として、その存在仕方を運命づけられています。
この存在仕方は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」のように、
世界と個人の排他的な関係性ではなく、相互依存的な関係性を意味しています。
個人の存在の場を仮に世界としたときの反対概念としての自我(基体的主体)は、
贈与された世界、あるいは他者(他我)からの自律(自律)の志向性をもちます。
この志向性が、"心の世界"における「利己心」だと思います。
他の側面、つまり人間の"生物の世界"における振る舞いは、
言語なき生命がそうであるように、DNAの生き残り戦略システムの指令に
従おうとしますが、これも「利己心」と呼ばれてしまっていますね。(笑)
次に、個人の「世界−内−存在」としての存在仕方を考えます。
世界と個人の相互依存的な存在仕方とは、世界に個人の存在基盤がある、
という考え方です。たとえば、存在、神、宇宙、地球、自然、生命、人間、
日本、東京、学校、家庭、あなた、というように個人的価値観としての幅は
様々でしょう。普通は、自然環境とか、生態系とか、大きなことをいいますが、
ここでは、あいまいな表現として共同体意識とでもしておきましょうか。(笑)
この共同体という場(or他者)なしには、個の存在はあり得ないということを
基盤に、歴史、伝統、文化をもその視野に含めて「道徳」という知恵によって
「利己心」の暴走に歯止めをかける、あるいは「道徳」的規範を規準にして
「より良くより高く」への志向性をもつこと。
この志向性が、心の世界における「利他心」だと思います。
>>446 鉄冠子さん
>ハルカさんの「私は仏教哲学十界論における声聞のようだ」
>という発言を見たことがないということ。
ハルカの天才と純粋の2つの事実の組み合わせが苦を生成してしまうんです。
天から与えられた才によって天に刃向かわなければならないなんて残酷です。
>>447 鉄冠子さん
>この板を例にとると、ハルカさんが「意識点」という聞いたこともないことを言った。
>これだけでこのスレにおける解脱の問題は一歩前進していると思うんだけど。
うん。(^.^)
>この世は菩薩の報告に伴う、もう一つの効能である、慈悲や美談に満ちてしまう。
>みな金色になってしまう。
>〜『この、今の世界は滅びる。』 …というよりも用がなくなるであろう。
>〜 俺にとっては「この世がこの世としての用を為さなくなる」というのは、
>どんなことかよくわからないけれど、非常に悪い予感がするので、「病む」とした。
「この世がこの世としての用を為さなくなる」のではなくて、
人間にとって「用を為さなくなる」らしいです。
『聖なる予言』(James Redfield著)って知ってますか?
人間が波動関数の収縮をやめて実体を消してしまう場面があります。これは小説ですけど、
マイケル・ポランニーの「暗黙知理論」の紹介者でもある栗本慎一郎という経済人類学者も
『人類新世紀終局の選択』(絶版)で、200年後くらいにはそうなるっていってました。(笑)
>>448 鉄冠子さん
>ここは随分とあまのじゃくさんで来たね。仏像の表情を参照してみればどうだい?
>菩薩の仏像は、大抵は口元を引き締め、物思いに耽っているような表情をしているけれど、
>あれは一体何を考えているんだろうね。
>明白に怪しげで胡散臭い表情に見えるんだったら、即座に君に同意できるんだけれど…。
あはは、でも目の前にいたら宇宙人でも見るように見るでしょうね。(笑)
かといって、無著菩薩立像とか世親菩薩立像とかみたいなリアルな菩薩も
なんかアレですけどw。(両方とも奈良の興福寺にある運慶作の国宝です)
>でも君の言う通り、菩薩は表向きは嘘を言っているのかもしれない。
うん。だから、わたしは同じ興福寺の阿修羅像が好きです。
怒ってるのに綺麗だから信じられます。ハルカみたいでしょ?
もともと阿修羅はお釈迦さまの説法を聴く人=声聞だし。(笑)
>>449 鉄冠子さん
>髪の毛が邪魔。丸坊主でできる仕事って言ったら、やっぱり限られてくるもの。
好きなファッションでできる仕事って、やっぱりSOHOですよね。
特殊技能系だから人一倍の努力と才能がいりますね。
アパレル業界なんかは、都心ならけっこうゆるいです。
金髪くらいなら大手でもOKのところ(部署)多いです。
というか、男の人でも「紳士服の○○」みたいな格好だと
注意されたりすることもありますからね。(笑)
(ブランドイメージとかもあるから)
>やっぱりあらゆる人間社会の地下に潜って、孤独に暖めていくしかないんじゃない?
やっぱりモグラにならないといけませんか。
モグラは陽の光に当たると鼻血を出して死んでしまうそうです。
ホントの話かどうか知らないけど親近感はもっています。
以前に怖い人の話してましたけど、地下に潜るということでは、共通してますね。(笑)
>>449 鉄冠子さん
>スレに不穏な空気が強まっているように見えて、
>それに対抗しなくては自分の論が成り立たなかったから。
哲学徒がまともな人間である筈がないです。(笑)
不穏な空気は当然です。
>だから君の不貞腐れた態度の感想は無理もないね。
相手を認めて我慢すると"不貞腐れた態度"になるのです。
わたしにとっては協調性の発揮なんですけど・・・
世間はそのように受け取ってくれません。仕方ないけど。(笑)
>非唯物論的な回答は、今日、用意できていない。いつか使いこなしてみたい。
がんばってください。(^.^)
>>327 考える名無しさん
>感情って思い出せるの?
>よくわかんないな。記憶によって感情が作用されるんじゃない。
もう解決した問題なのかもしれないけど、ちょっと考えたもんで、せっかくだから書き込みますよ。
327さんの「感情って思い出せるの?」というのは、
例えば「思い出し笑い」で考えてみる。
ここで「笑い」とは、「A→B→C→Z」という進行・展開によって引き起こされる(脳汁Zが出る)ものとする(A,B,Cは知覚や思考。またA〃,B〃,C〃はABCそれぞれの記憶とする。するけど、厳密にはA=A〃であると思う。でも、ややこしくなるので)。
さて「思い出し笑い」とは、笑いの感情Zそのものを思い出すのではなく、記憶A〃を思い出したことで,A〃→B〃→C→〃を脳内で再現し、その展開によって「笑いZ」が生じる(同じように脳汁が出る)ものである、と思う。
だから327さんの「記憶によって感情が作用されるんじゃない」というのは、私にも分かりやすいです。
あと、この他に考えたのは。
・現在と過去との対比で感情が引き起こされる。過去A〃→現在a→感情Z。
・脳細胞のプラスイオンやマイナスイオンが感情の元になっているのか。
記憶とはイメージであるから、そのイメージには主観が含まれる。そのポジティブ、ネガティブな感覚がプラスイオン、マイナスイオンなのか。
記憶そのものに正負の感覚がイメージとして取り込まれている。ただこれは、泣き笑い怒りといった感情(脳汁)とは別のもの、か?
これらも加えて止揚できればいいと思うのですが、ちょっと頭が働かないので、ここまで。
(中途半端でツッコミようがないですね。)
>>387 鉄冠子さん
>声聞−主観の解脱は可能、理想主義、保守的、利己志向、学僧向け、理性的、主知主義的、客観的考究
>菩薩−主観の解脱は不可能、現実主義、進歩的、利他志向、庶民向け、感性的、主情主義的、主観的考究
これは、
声聞 → 認識論
菩薩 → 幸福論
このように理解してはダメでしょうか。ダメかな。まあ聞いてくださいな。
そうするとハルカさんの論が声聞的=認識論というのも納得できますし(と言っても前々スレ以前の話の流れは知らないのですが)。
また、小乗仏教は認識論であるし(怪しげな知識ですが何かで読んだ記憶がある)、日本仏教が幸福論しか説かないのも、それは大乗仏教だからと理解することができます。
そしてそこから。。。
認識論だけではダメ。なぜなら「何のために」という目的がなくては無意味であるから。
幸福論だけではダメ。なぜなら、往々にしてユートピアを求めることになるから。その理想が真の幸福と言えるのか、根拠や基盤といったものが必要になる。
そして認識論と幸福論に優劣はない。それは「存在」(=「理性ある自意識」?)に対するアプローチの違いである。
と、このようなことが言えるかと思います。
以上のことは鉄冠子さんの
>>387-390を読んで考えたことで、
>>385の自分の書き込みは、やはり変なことを言っていますね。
それに比べれば今回のは、ちょっとはマシになったかな。いや、もっと遠い所へ行ってしまったのか。
>>435 カオルさん
>「コアーズ」と「エニグマ」は、知っていました。
やっぱり有名なんですね。
>「コアーズ」のファーストアルバムはお気に入りです。
実は、ベスト盤しか持っていないのに、薦めていたりして。
あ、そういえば「U2」もアイルランドだったっけ。
でも私にとって、アレはちょっと違うな。
>いっぱい紹介してくれてありがとう。
どういたしまして、ということで。
「創造****神を作ろう(2)」スレ、ちょっとのぞいてみますね。
>>473 イナゴさん
わたし的には、
声聞は、「何のために」という存在理由のないこと、を
菩薩は、「何のために」と問うこと自体の無根拠さ、を
声聞は、「存在(幸福)」とはなにか、を
菩薩は、「存在(幸福)」になれるか、を
声聞は、「認識を超える」こと、を
菩薩は、「認識を止める」こと、を
みたいなスタンスのちがいを感じます。
これでいくとわたしは声聞と菩薩のヤヌスなのです。(笑)
ところで「認識を超える」と「認識を止める」のちがいは何でしょう?
ちがいがないなら、声聞の求める「解脱」と菩薩の求める「悟り」は、
行き着くところは「思考停止」なんだから同じになってしまいますね。
両者の論の構造を比較するなら、
声聞 ・・・ 「存在≠無」である、よって"わたし"の解脱は可能である。
菩薩 ・・・ 「存在=無」である、よって"わたし"の解脱は不可能である。
となるようなのですが、これは「存在」にたいする快/不快の感覚が、
根深く関係していて、そのちがいがイナゴさんのいうように「存在」
へのアプローチの仕方のちがいになっているようにも思えるのです。
(傍観者的な見方でひんしゅくものですが)
>>474 イナゴさん
>あ、そういえば「U2」もアイルランドだったっけ。
>でも私にとって、アレはちょっと違うな。
ええ、アイルランドです。U2も好きです。
「ANGEL OF HARLEM」という曲が好きです。
曲というより、ボノの好きな人のイメージが
「ハスの花」みたいな人だから、同じだーみたいな。(笑)
えーと、ボノは「あなたはハーレムの天使だ!」
みたいな褒め方するんです。(笑)
彼らはアイルランドの政治的な部分の体現者ですから、
田舎道に「妖精に注意!」とかいう標識が立っているらしい
アイルランドの神秘的なイメージとはかけ離れていますけどね。(笑)
有即無、無即有です。思考停止ではないです。と思う。
次元の違いじゃないかな?
私は私では無い故に私は私である。
私は私で有る故に私は私では無い。
>>477さん
>有即無、無即有です。思考停止ではないです。と思う。
>次元の違いじゃないかな?
うん。いいたいことはわかります。
「思考停止」というのは、エポケーでも、
ましてや「何も考えないでボーっとしてる」でもありません。(笑)
主客未分の事態といいますか、その時の状態です。
>私は私では無い故に私は私である。
>私は私で有る故に私は私では無い。
たとえば「私は私では無い」というときの、最初の"私"は「人間の視点」でとらえた"私"です。
そして、次の私≠ヘ「神の視点」でとらえた私≠ナす。「人間の視点」でとらえた私≠ヘ、
「思考の形式」および「生の形式」にある私≠ナす。そして当然のことながら「神の視点」で
とらえた"私"は「思考の形式」および「生の形式」を超越しています。というか、超越している
ということさえわからない訳ですが。で、この両者のあいだに「境界線」は引けるでしょうか?
もちろん、引けません。なぜなら「境界線」を引くためには両者とも認識可能でないとならない
からです。この「人間の視点」と「神の視点」の不連続性を「次元の違い」として捉えています。
で、こういう話は去年の夏からしていまして、前スレみてください、ということなんですけど、
それもアレですので、とりあえず、こんな話をしながら、ここまで来ました、の例として
ひとつだけコピペしておきます。で、日付に注目してもらいたいのですが、あくまで途中経過の
たとえばの話での、"かつての"ハルカ論のわたしなりの解釈ですのでそこんとこヨロシクです。
197 名前:カオル ◆BBBRv/ousU 投稿日:03/07/26 22:56
>ハルカへ
>【有】を知覚する為にはどうしても『対極』に在る【無】が必要です。
>【無】である【芯】をその内部に抱えているからこそ、外界の【有】を知覚可能です。
ハルカの論をわたしの論と重ね合わせて解釈してみました。(暫定版)
いままでのハルカの論、
(1)【存在】=【無】である。
(2)【存在】≠【有】である。
(3)【有】と【無】(=【存在】)は『対極』する。
(4)【実在(人)】は【有】であり、かつ【無】(=【存在】)である。(【有】=【実在】)
を(説明の都合上)以下のように表現します。
a.【存在】【無】<----->【実在(有)】(【実在】と【存在】【無】の「対照性」)
b.【存在】<-----【実在(有)】----->【無】(【実在】の「存在仕方」)
1.【有】への方向性 ・・・・・ 反エントロピーの志向性。生への本能。
2.【無】への方向性 ・・・・・ 超越への志向性。死への本能。
3.【実在】は【不確定性原理】および【相補性の原理】にしたがう。
4. 3.から【実在】の存在態様は「仮(想)的」かつ「相対的」である。
5. 4.から【実在】は、自身の存在の「不確かさ」によって、
むしろ、その実在性を否定され得ないという「存在仕方」をする。
6. 5.の「存在仕方」を生成する原理としての構造が【存在】【無】である。
7. 原理としての構造である【存在】【無】は、分離できる実体ではない。
(【存在】【無】を実体として捉えるなら「【存在】【無】は分離できない」の表現まで)
どうかしら?
>>393 >母は赤ん坊の全存在を認めるそうです。
子が親を殺しました
親が子を殺しました
毎日流れるニュース
いつもの事ですもの
悲しくなんてないの
はい、家庭は裕福です
ええ、教育も十分です
もちろん殺さないです
もちろん虐待しません
わたしには縁のない事
わたしはシアワセです
ひとさし指をにぎる小さな手
ふっくらホッペに頬擦りします
なにが可笑しいの?
わたしだけをみつめてる
こんなにあたたかい
こんなにやわらかい
こんなによわい
やっと生きてるのね
わたしの命 いとしい子
やすらかに やすからに
叱らないで お母さん
ごめんなさい お母さん
ボクでなかったらよかったのに
お母さん ごめんなさい
シャモンや、ボーディサッタ類別して何をしようとしているですか?それは、奇妙にせまい
非現実的世界で、おのれの自己保身という、さらにつましい命運の先細りにしか結果しませ
んよ?ここでの会話もそのようですが。これは、悟りと言うよりも、お互いの傷の舐めあい
ですね?気付いてらっしゃいましたか?自由ですが、一向に前に進みませんよ。バーチャル
を好む人は、実は自己が癒されたいからいつまでもその中で、相変わらず同状態でそのまま
ずっといたいのだ。といいますが。それは本当のようです。
>>479 悟りにかんして言えばそういう分別を出た所の我やと思う。
だから「無分別の分別」「空」「自由」「只今」とか言われるんじゃないかな。
そんな難しいことじゃないと思うけど。
てかこういう話はもう終わってるぽいね。
癒し行動のひとつですね。いいことですよ。
>>481 ガラクタさんへ
>シャモンや、ボーディサッタ類別して何をしようとしているですか?
あーでもないこーでもないってダイアローグしてるじゃん!
ちなみにわたしのモノローグについてはあきらめてください。(^_^;)
>奇妙にせまい非現実的世界で、
奇妙でない現実的世界より、奇妙なぶんだけ面白そうじゃない?
って思えるゆとりもなさそうだから、きっと現実の奇妙さにも
気づかないんでしょうね。人生つまんなくないですか? カワイソー
>おのれの自己保身という、
あなたはどうやって生きてるの?
まさかゾンビだったりして。キャー!
それとも自分のことボーディサッタだと妄想してたりして。キモーイ
>さらにつましい命運の先細りにしか結果しませんよ?
わたしは、"つましい"性格なのでw、先太りは似合いません。キッパリ
ダイエットの必要もないみたいだし、先細りに甘んじましょう!?
あと、確信するなら「?」とかつけないで言い切りましょうね。
>これは、悟りと言うよりも、お互いの傷の舐めあいですね?
あららまた「?」なのね。いちいち自信のない子だこと。
もっと意思をハッキリ示した方がいいと思います。
だって今のままじゃ恋愛運先細りですことよ。ケラケラ
>気付いてらっしゃいましたか?
うん。っていうか「自己憐憫してまーす!」って宣言済みです。エヘン
それとも「キズナメ宣言!」も必要でしたでしょうか?(笑)
わたしは、傷を舐め合えるってすばらしいことだと思いますけどね。
>自由ですが、一向に前に進みませんよ。
「自由」って前に進む「乗り物」のことかしらん?
くわしくその新概念の説明を聞かせていただけますか?(笑)
(訂正) 自由ですが、→ 自由ですが。煽りでも推敲ヨロシクね。
>バーチャルを好む人は、実は自己が癒されたいからいつまでもその中で、
>相変わらず同状態でそのままずっといたいのだ。
あなたが現実だと思っている世界も所詮はバーチャルなのわかってます?
だってどんな世界だって解釈されたからこそあるんですから。
あっ、ごめんなさい。マジレスはルール違反でしたか?(笑)
ずーっとこんな風に楽しくすごせたらいいなぁーって思っています。(^.^)
>>482(477)さん
>てかこういう話はもう終わってるぽいね。
うん。言葉は終わってるかも。
でも、実践といわれても「悟り」とか求めていないから・・・
哲学徒の倫理としては、エポケーした方が良いのでしょうね。
一応、ショーペンハウアーのスレからここに至るわけです。
その過程で多くのものを学べたと思います。謝謝なのです。
それで満足するべきだとわたしの倫理は申しております。(^_^;)
>>483さん
>癒し行動のひとつですね。いいことですよ。
できることなら入り浸りくらい哲板が好きです。(^.^)
>>484 じゆんさん他の方々へ
>もうこれは感嘆するしかないでしょう。
勘違いされると困るのでハッキリ言っておきます。
479はハルカ論をただなぞっただけなのです。
ハルカ論の哲学的な「重ね描き」のつもりの暫定版です。
最新のハルカ論はもっと強力になっていますので
前スレから順次ご覧頂ければと希望します。
490 :
考える名無しさん:04/03/07 10:46
ハルカたんどこいった??
「悟りとは、苦とはなにか、その二つの接点 A」
この悟りと苦の二つの関連性がよくわからないです。
>>482この場合、「無分別の分別」が非常に重要だと思います。貴方の言説は
極めて適切であると思います。最近煽りレスが多いようなので、気を着
けてください(笑。
>>487 エポケーする、しない、は後なんです。
ただ気付く事なんです。
神が光あれという前
そのみそのままがつまり
>>494 はじめに言ありき。
わたしはそこから始めるしかない。
神が光あれ、という前の"それ"に身をあずけたくない。
わたしは"それ"を望まず、想わず、手を伸ばしているのです。
救われないわたしに慈愛をありがとう。
>>493 >最近煽りレスが多いようなので、気を着けてください(笑。
他人を利用するのは、よくないと思います。
わたしの指摘に発奮してほしいものです。
回避してばかりいては、わたしと同じになっちゃうよ。(笑)
前に進まないし、建設的じゃないし・・・壷から出てみては如何ですか?
>>496心配には及びませんよ。
>>483は、私ですから。そして、私が言っている事は、
全て本当の事ですから、安心してください。癒しは非現実的な度合いが、あまりに
進み過ぎてしまうと、効果がどんどん薄くなってしまいますから。ある程度、現実
にしっかりとした足取りがないと、また癒し行動であると言う自覚=対象化がない
と、効果がなかったり、反対に害があったりしますから。
まあ、そんな訳も含め(私の目的は非常に多義的なので貴方にはこのように説明
しておきましょう)
>>481 を書いたわけです。
従って、また内容的にも貴方の
>>485-486の「指摘」は、私の言説とは余りにもずれ過ぎてい
て、「発奮」しようにも仕様がないわけです。
>>485-486であんなにも反応してくださったと言う事は、相当にイタかったと言う事
なんでしょうね?だって、特に貴方宛に
>>481は書かれている訳ではないですから。
そこで、
>>483を書いた。私には「少しだけ」予知能力があるんですよ。貴方の邪
魔をするつもりはありません。安心してください。また、貴方と話すのを楽しみに
しています。
それから、貴方は前に進んでいるし、建設的だと思いますよ。根拠は
>>485-486が
「ズレテイル」事だし、
>>488の内容です。これは、ほぼ決定的な事です。
>>386 イナゴさんへ
>西田幾多郎は好きな哲学者なんですが、でも私は、この「純粋経験」が理解できませんでした。
>うーん、「思考を離れる」というのが難しい。
おそらくですが、純粋持続とセットにして考えるからなのではないかな。憶測ですが
純粋持続は自己内部に厳然として在るものとして設定されていることが条件。
純粋経験は世界と自己の真ん中その主客未分化されたその境界にあるものなんでしょうか。
だから思考を離れるというよりも、思考のちょうど向こう側(間)に、その純粋経験はあると
いっていいでしょう。 まあこの辺は
>>434のカオルさんの言葉の方が整理されているでしょうね。
鉄冠子さんへ
>>387 >声聞−主観の解脱は可能、理想主義、保守的、利己志向、学僧向け、理性的、主知主義的、客観的考究
>菩薩−主観の解脱は不可能、現実主義、進歩的、利他志向、庶民向け、感性的、主情主義的、主観的考究
カオルさんへ
>>429 >声聞と菩薩の両者を
>統一しようという志向性は、菩薩的、普遍的、一元論的...
>分離しようという志向性は、声聞的、特殊的、二元論的...
お二人に申し上げます。この辺の二元対立のモデリングは見事しか言うしかないです。
鉄冠子さんへ
>・哲学的文芸家‐トルストイ、ドストエフスキー、夏目漱石
>文芸家であるために、とにかく読みやすいので、理性による存在の問題の入門に適していると思います。
>でも、形而上学には全く触れていません。
何だかお情けで(夏目漱石氏を)入れてもらったみたいで申し訳ありません。
でも全然、読書する暇がないです。どうもずれてます。
>>411 カオルさんへ
>できたらノーベル賞もの、いやそれ以上です。
>新たな入れ子の世界が生まれます。超人の誕生か?
実はいくつかそれに近い考察があるにはあるのです。(じゆん理論?)
そんときはそんときでよろしくお願いします。まあ妄想ですが。。。
少なくともそれを認めるような驚きが私の自己の内部においてあるのです 。ははは
「脳のなかの幽霊」について
>かなり有名な本ですよね。なぜかまだ読んでいません。
>読んでおかないと議論に負けそうな気がします。(笑)
できたらいつかは、きっと読んでおいて欲しいです。この本は面白いのは確かなので。
ちなみに私はどうしてこの本が面白いのかなあと今考えています。
>>412 カオルさんへ
>>認識主体はあるのか、ないのか。
>>認識主体とはそもそもどのように構成されてきたのか
>
>とくに議論はしてないけど、ショーぺスレかどこかで触れていると思います。
>ウィトまでいかなくても「認識する主体」と「主体本体」はショーぺでも別だし、
認識主体は端的に言って左脳です。なぜなら認識そのものが左脳だからです。
もし主体が左脳と右脳のどちらにあるのか。それを問うと左脳と言う言語脳に行き
当たるんじゃないですか。もちろん形而上的(形而下ではなく)な話なんですが。
>「非苦は存在しない」って、まんまハルカ論だよ。(笑)
>だって「存在=苦」っていうのが、ハルカ論の根本定義なんだから。
そうですよ。私のやっているのはハルカ論の、なぞりではなく縁取りですから
しかし私は快苦の二元対立が存在しないのではと言っているのです。
>論と論のぶつかり合いのなかに、論破という作用が介在することで
>論は止揚されるのだし、磨かれていくのだと(わたしは)思います。
>議論において論破は、避けては通れない重要な要素ではないですか?
このあたりの議論のことはどうやら決定することは出来なさそうです。
いかようにも解釈は可能ですので。
>>430 >ハルカは、いつもその通りのことをその通りに書きます。
>ハルカのその純粋さとまっすぐさは悲しいほど綺麗です。
そのとおりだと思います。
>
>>325-326 >ハルカの書き込みは、いつも輪郭が光っていて美しいです。
>よく整理されていて感心しきりです。
>何もいうことがないのがちょっぴりさびしいです。
そうですね。
>>436 >うん、わかってる。
>ただわたしはハルカ論があっちこっちに分散してしまうのを見ると
>まるでハルカの魂が切り裂かれてるみたいに感じてしまうの。
>妄想です。まったく100%の純正。でも痛いのはイヤなのです
妄想、現実、真実はどっちなんですか?
>スレにハルカが残ります。
〜
>じゆんさんがそうしてくれたんです。たしかそうです。
そうです。
>>444 鉄冠子さんへ
>両者とも、存在しているし、生きてもいる。
>「どう生きるのか」を考究する後者には、実存の問題が立ちはだかっていて、
>そのとき「実存/虚存」に取り組んでいる前者のお世話になる。
>でも菩薩にとっては、「虚存」なるものはあまり興味がないみたい。
>ましてや、ここで互いの立場について両者の分別が整ってなかったりすると、
>果てしなく相手にいちゃもんをつけ続けることになる。
>「それが仏陀の説いた教義だったか?」というのが、論争の発端になるみたい。
まあ私はどうやら菩薩的な冠をかぶっているみたいですね?
『虚存』に興味がないとかで。
まあ何と言うか、しかしその声の主は次第に見えてくるようですよ。
実はおそらくこの虚存はどうやら『虚空』的な意味を持つのではないかなとひそかに私は思っています。
『空虚』ではなく【虚空】です。おそらく虚空の存在感をたぶんハルカさんは表現したかったのでは
ないかなと私は思っています。まあこれはハルカさんに聞いてみないとわかりませんがね。
少なくとも存在感は【虚空】に近いものと私は考えます。質的には【涅槃】【闇】のような生ぬるい水のような
感じですかね。
いちおう、無をカテゴライズしてみました。くろしろさんの議論により。
【無】の直観形式
1 2 3 4
A【否定】→【懐疑する無】→【虚空】→「あれないぞう?」
B【無実】→【実在しない無】→【空】→「やはりないんだ」
C【無意味】→【循環する無】→【無終】→「なにをなやったって無駄だ」
D【無価値】→【極点の無】→【絶無】→「あんたって最低」
E【無意識】→【意識しない無】→【闇】→「なんだかおちつかんな」
F【非論理】→【偽である無】→【虚構】→「話にならん」
G【無論】→【なにもないさま】→【虚無】→「言うまでもない」
1論理的認識
2論理的認識の論理的説明
3感覚的認識
4直観の認識結果(直観の翻訳)
なお感覚的認識3によって整理し直します。
A【虚空】とB【空】は論理的に対を為します
C【無終】とD【絶無】は時間的に対を為します
F【虚構】とG【虚無】は空間的(実在的)に対を為します。
E【闇】と【無】は直観的(存在的)に対を為します。
ちょっとこんな感じの妄想してみましたんで、参考にどうぞ。
>>461 カオルさんへ
>(#1) 人間の記憶の特徴は、言語によるカテゴリー分類にあります。
続きを申し上げると、指示によるカテゴライズの(我が)指示する、(世界)指示される
関係性において情報は記憶化されます。私的にはそんな感じですかね。
写像そのもののカテゴライズはおそらく言語だけでは説明できないでしょうから。
なんで言語ではなく、情動的なものによるカテゴライズもあるような気がします。
いやこれはそもそもカテゴライズとは言わんのですね(ただの分類)。とりあえず失礼しました。
>>462 >(#2) 判断するためには「規準」が必要です。
> 思考における規準は「論理」でしょう。
> 論理は「因果律」の理解を前提にします。
出ましたね因果律。この未分化な言葉が、なおも私の前に立ちはだかります。
そろそろこの因果律を解き明かしたいなと考えます。確かハルカさんもそれに
チャレンジしましたよね。今仕事中なんで過去ログ見れないけど。家に着いたらみます 。
> 思考(論理)の結果は、必ずしも生存に有利であるとは限りません。
> しかし、それでは個体も種も生き残れない危険性が大きくなります。
> そこで、本能にしたがう行為にたいしては「快」を、逆らう行為に
> たいしては「不快」を、というのが感情の起源ではないでしょうか。
例えばこんな空想をしてみます。思考の究極目的はカテゴライズにあると。
我々は基本的に定在することを望みます。なるべく動かず、単調な動きを求めるか
と思えば、見知らぬ世界に惹かれます。それはすなわち世界をカテゴライズしたい
欲求があるからではないかと。非常に空想的です。いわんや空虚でもありますが。
イメージががまとまんないのでとりあえず ここまで。
>>434 >ハルカ論は、主体と記憶の関係性が、認識論的には「主体⇒記録」であったり、
>「記録⇒主体」であったりしても、存在論的には「主体⇔記録」の相互依存関係に
>あることを示しているのではないでしょうか。
このあたりの視点はやはり面白いですね。というより、あれえ? と声が裏返ってしまいします
この『⇔』で解釈した円環的説明はやはり、これは只者ではないです。ハルカさんではなく
カオルさんを表彰したいかなと思います。最近ハルカさんばっかり誉めているような気がしますので 。
>>464 >知覚情報を各神経系が処理するためには、情報の記号化が必要です。
>記号化される時点で生存に不必要なものは間引かれてるはずだから、
>それを捨象されていると捉えるなら、記号化とは抽象化のことです。
このあたりの記号化については、私はカテゴライズ=記号化を支持したいと思います。
カテゴライズの究極目的は網目そのものが次第に極点化するような感じを見ているからです。
まあイメージなんでお好きに解釈してください。 でも、抽象化は観点が甘いのではないかなと思います。
>>469 カオルさんへ
>うん。だから、わたしは同じ興福寺の阿修羅像が好きです。
>怒ってるのに綺麗だから信じられます。ハルカみたいでしょ?
実は今(仕事中ですけどね)ちょっとびっくりしています。こういうことを言うと馬鹿に
されそうですが、 私が夢で見たハルカさんの顔が本当にこんな顔してました。本当に瓜二つです。
(1月の初めに見た夢です、ちなみにそのときカオルさんも登場していました。夢の内容については秘密ですが)
↓
ttp://ww81.tiki.ne.jp/~morikawaakir/newpage121.htm でもまあ、すごくいい顔ですね。今度見に行こうかな。
>>475 カオルさんへ
>声聞は、「何のために」という存在理由のないこと、を
>菩薩は、「何のために」と問うこと自体の無根拠さ、を
>声聞は、「存在(幸福)」とはなにか、を
>菩薩は、「存在(幸福)」になれるか、を
>声聞は、「認識を超える」こと、を
>菩薩は、「認識を止める」こと、を
>みたいなスタンスのちがいを感じます。
ふーんなんかなあ・・・ 私的にはそうじゃないんですよね
↓ちょっと勝手に書き換えました。
>声聞は、「何のために」という存在理由のないこと、を
>菩薩は、「何のために」と問うこと自体の無根拠さ、を
>声聞は、「存在(幸福)」とはなにか、を
>菩薩は、「存在(幸福)」は“ある”か、を
>声聞は、「認識を超える」こと、を
>菩薩は、「認識に“いかに留まれるか”」、を
てな感じなんですがね。私の視点ではありますが、
まあ私の一方的な菩薩の解釈ではありますがね。
私の視点では菩薩ははっきりと声聞を俯瞰して(見下して)しまっている
印象を受けます。
>これでいくとわたしは声聞と菩薩のヤヌスなのです。(笑)
自分、『ヤヌス』がよく、わからなかったのでちょっと調べました。
【ヤヌス】
戸口と門の守護神。
物事の始まりを司る神ともされた。
双面の神。
ローマ人は、物事の始まり方が結果の善しあしを決定すると信じ、
「最初」を大切にした。英語のJanuary(1月)はヤヌスの名が語源であり、
1月1日にはヤヌスへの祈りがささげられた。また、家々の毎朝の祈りや
葬儀は、ヤヌスへの呼びかけで始められた。開戦の際にもヤヌスへの
祈りが捧げられた。
ローマのフォルムにあるヤヌスの神殿は、日の出と日没を象徴して東と
西に門があり、その中央のヤヌス像は、前方と後方を同時にみられる
よう双面の像となっている。戦争中は、東西の門扉は開けはなたれ、
平和なときには閉じられたという。ギリシア神話には、ヤヌスに相当す
る神はいない。
参照
ttp://www.asahi-net.or.jp/~QI3M-OONK/tosyokan/fantasy/w-janus.htm いろいろな意味がありますね。 ちょっと解釈が難しくなるな。
では。
>>497 コンガラ童子さん
>ある程度、現実にしっかりとした足取りがないと、
>また癒し行動であると言う自覚=対象化がないと、
>効果がなかったり、反対に害があったりしますから。
「認められたい病」に罹患しないように
つねに自覚と自律(自立)の精神を持ちつつ
リアルとヴァーチャルの垣根を越えていこうとする
志向性をもった人たちが真剣に対話をかわす場だと思っています。
ですから、
>相当にイタかったと言う事なんでしょうね?
というのは、わたし個人は認めてもいいですけど
というか、わたしはいつも認めているんですが、
>特に貴方宛に
じゃなく書いていらっしゃるので、ちょっとデンパってみました。
>それから、貴方は前に進んでいるし、建設的だと思いますよ。
>〜これは、ほぼ決定的な事です。
「前に進むこと」「建設的であること」に
もし、わたしが価値を見出しているとしたなら、
おそらく、ここでの対話には参加しないと思います。
それから、わたしは暇つぶしに哲板に来てるわけじゃないから、
自分の発言は、どうでもいいものじゃないのです。
時々は、あなたにしたように、冷やかしたり、デンパ飛ばしたり、
他愛のないことを話したり、ということもありますけど
基本的には、「自分の発言には責任を持つ」というのが、
哲板でのわたしの姿勢ですし、哲学徒としての倫理だと思っています。
やはりと思ったが来て良かった。
>>505 はじゆんたんのまとめであり,くろしろとしては同意していないので、
詳しくは無のスレを見てくれ。
513 :
考える名無しさん:04/03/10 00:44
悟りは 勘違い。 苦は 真実。
>>511 嬉しい!貴方は誠実な人ですね?でも、全部は素直じゃない。もっと、
何もかも、認めてしまうともっといいのにね!貴方の冷やかしの文章もとても
楽しめますよ。だから、その、ややワザとデンパッテみた文章の事こそを言っ
ているんですよ?わかりますか?私は決して貴方の事キライじゃありませんよ。
もっとも、キライな人ってあまりいないんですけどね。
倫理ですね?大変ですね?私の方は、もっと広く眺望しています。もともと
人というものは、不完全なものですから。無くて七癖、欠点の無い人間はいな
い。弱点も泣き所も無ければ人でなし、、「言葉に責任」も大事だけれど、そ
れに見とれてばかりいると、自分が「本当は」大事にしていたかった事が、知
らぬ間に知らぬ間に、漏れ落ち流れてしまっていて、もう取り戻す方法がワカラナ
クナッテシマッていた。なんて事があります。それを感じたから、
>>481>>493を書き
ました。
時に主観がどうであろうと、それとは別にその人の位置してしまっている状
態というものがあります。私の言説はそういう種類の言説です。その事を貴方
が、もっとハッキリと認められると、もう少し話がかみ合ってくるのではない
かと思うんですがいかがですか?それとも、私の方が自分の言説を捨てなけれ
ば成らないのでしょうか?言っている事は、お分かりでしょうか?
あと、私のレスはその気になれなければ、無視してもらっても構いませんよ?
記憶に残してもらわなくても全然いいものです。無理してレスを返す必要もサ
ラサラありません。忠言批難罵倒攻撃泣き言なすり付け削除依頼なんでも結構
ヨロズ結構ですので、なあんにも気遣う必要はありません。全て自由です。で
すから、貴方の気遣いや思いやりやハッパかけや批判やらも、それは私にでは
なく、貴方のために貴方がやっている事だという事です。だから、私が、
カオルのスかんち〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んんっ!!!!!!!!!
って、言ったとしても、それは単に私がただそう書いてみたかっただけ、
ただそれだけにしか過ぎません。そういうことです。これを見て動揺したっ
てダメですよ。そんなの、貴方の経験です。冷たいようですが、これが一番
自由な実質的なあり方です。
追伸;素直に言うと、実は私が一番イタかったのは、「恋愛運先細りです
ことよ。」です。イタいなあー。マジでイタいです。イタタタタタタタタタ。
>>499 じゆんさん
わたしは、あなたの言い分を理解しない機械らしくて、
対話は無意味といわれたモノですけど、なぜかレスされたので返しておきます。
>この辺の二元対立のモデリングは見事しか言うしかないです。
わたしは、シンカに善なる価値は見出さないけれど、
おそらく、この二元(菩薩と声聞)のたえまない葛藤が、人類のシンカの歴史であり、
この二元対立の世界観のなかに存在し続けるかぎり、シンカは終わらないのだと思います。
そして、菩薩には統合の、声聞には分裂の、ベクトルが存在しています。
ですから、二元(菩薩と声聞)の価値の一元化など論理的に矛盾しています。
それは単に、二元(分裂)から一元(統合)への価値観の反転にすぎないのです。
現文明の流行は、一元論のようですが。(笑)
わたしは、二元(分裂と統合)の双方は、通底しているのだと思います。
そして、この二極が容易に通底してしまうことは、とても危険に思えます。
>>500 じゆんさん
>実はいくつかそれに近い考察があるにはあるのです。(じゆん理論?)
>そんときはそんときでよろしくお願いします。まあ妄想ですが。。。
近ごろは、頭に「じゆん」という冠を、謙遜ではなく自己顕示として
かぶられているようで、むかしのいつも謝ってばかりいた、あのかわいい
じゆんが懐かしく想い出されます。
子離れのできないわたしには少しさびしいけれど。
この年老いた母に「じゆん理論」聞かせてくださいませ。
>できたらいつかは、きっと読んでおいて欲しいです。
>この本は面白いのは確かなので。
>ちなみに私はどうしてこの本が面白いのかなあと今考えています。
ひとつくらいは、とっておきのネタがあるでしょう?
このスレからは、たくさん得るものがあったはず。
少しは恩返ししても罰は当たらないと思いますよ。(^.^)
>>501 じゆんさん
>認識主体は端的に言って左脳です。
これは、一般常識ですね。しかも偽りの。
占いの手相の世界でも常識だったりして。(笑)
心は脳の機能である!、とか言い出さないでね。(笑)
>もちろん形而上的(形而下ではなく)な話なんですが。
やっとカントを学ばれたみたいなので、いいことです。(^.^)
>そうですよ。私のやっているのはハルカ論の、なぞりではなく縁取りですから
なぞりではなく?
うーん、親の悪いとこばっかりマネてますね。(笑)
反面教師にしてくれるといいんだけどな。
あと、縁取って輪郭がボケてしまうことがないようにお願いしますね。
>しかし私は快苦の二元対立が存在しないのではと言っているのです。
快苦じゃなくて、快/不快でいいんじゃない?
>>502 じゆんさん
>>論と論のぶつかり合いのなかに、論破という作用が介在することで
>>論は止揚されるのだし、磨かれていくのだと(わたしは)思います。
>>議論において論破は、避けては通れない重要な要素ではないですか?
>このあたりの議論のことはどうやら決定することは出来なさそうです。
>いかようにも解釈は可能ですので。
あなたは、とにかく言いたいことを全部言えればOKなのでしょうね。
でも、それは議論じゃないと思います。単なる自己満足です。
ただうなずくだけの相手とならそれでもいいのでしょうけど、
議論する力のある相手にたいしては、あなたの態度は失礼でもあります。
だって相手はあなたから何も得るものがないじゃないですか?
「これはこうではないの?」「あれはこれのまちがいでは?」
という論理による指摘を受け付けない議論なんてあり得るのですか?
もちろん論破が目的ではその人の人格に問題ありだと思いますが。
えっ!、それってわたし?(笑)
>>505 じゆんさん
>ちょっとこんな感じの妄想してみましたんで、参考にどうぞ。
たしかに妄想だと思います。
でも、くろしろさんの説明とセットなら理解は可能です。
だから、結果だけを見せられても参考にするのは難しいかな?
二人の議論はヒヤヒヤしながら見させてもらいました。
あのじゆんが、くろしろさんと議論してるなんて・・・
母としては感慨無量でした。くろしろさんやさしかったね。(^.^)
>>506 じゆんさん
>続きを申し上げると、〜
反論ではないのでスルーします。
>出ましたね因果律。〜
反論ではないのでスルーします。
(わたしはいつもあなたに最高の果実をあげてるつもりなんだけどな)
>例えばこんな空想をしてみます。〜
うーん。
母は与えるばかりなり?
そろそろ親孝行もしてほしかったりして。(笑)
>>507 じゆんさん
>カオルさんを表彰したいかなと思います。
あら、この子ったら生意気になって!
>このあたりの記号化については、私はカテゴライズ=記号化を支持したいと思います。
まぁ、わたしの説明も簡略すぎたんですけど・・・
それにしても、いきなり「カテゴライズ=記号化」はマズイでしょう?(笑)
もっと段階ふまなっきゃ。
>カテゴライズの究極目的は網目そのものが次第に極点化するような感じを見ているからです。
網目はどうやってできるの?
わたしが前に言った、観念の集合 → 概念、と同じかな?
記号化〜観念、そして概念に至るまでの道筋はどうなってるの?
>でも、抽象化は観点が甘いのではないかなと思います。
「抽象化」というキーワードは、かなり使えるんだけどな。
いつものあまーい果実のつもりなの。
今回はあなたに教えてもらいたいの。
>>509 じゆんさん
>菩薩は、「存在(幸福)」は“ある”か、を
菩薩にとって、ある、は前提なんじゃないかしら?
そして、それにたいして「何のために」と問うこと自体の無根拠さを
知っているから「存在(幸福)」になれるかに重心がうつるんじゃないの?
だから、自然と実践方法のニュアンスが「認識を止める」みたいな感じに
なるような・・・というつながりが一応あるんだけどね。(笑)
それに、何か?という問いは、あるか?という問いにつながるから同じだよね。
あと、「認識に“いかに留まれるか”」は、悟りから遠いと思いますけど・・・?
っていうか、わたしは17さんをイメージしちゃいました。(笑)
>>510 あんまり気にしないでください。
>コンガラ童子さん
レスありがとうございます。
少し考えてみます。← これがイケナイのかな?
今日はもう遅いので、おやすみなさい。
カオルさん宛
>>457 基体か…。確かにこれが言語的な位相の原因になっているのかも。
>>465 人間はホモロクエンスね、メモしとこ。
>>466 うんうん。うまくまとめているね。
>DNAの生き残り戦略システムの指令に
>従おうとしますが、これも「利己心」と呼ばれてしまっていますね。(笑)
これ、俺はそう呼ばれてんの聞いたことないんだけど。
人間という生物におけるDNAの生き残り戦略システムが、理性的意識の強制的稼動でいいのかな?
>>468 >人間が波動関数の収縮をやめて実体を消してしまう場面があります。
調べてみたんだけど、少なくとも人間は生きていけないような世界の終わりって、科学の分野ではいろいろ解明中なんだね。
物理学における宇宙の終焉として
陽子崩壊とかの熱的死、ビッグクランチ、一番最近のでビッグリップ、
ブラックホールにすべての物質が飲み込まれる時間まできちんと見積もられている…(!)。
また、生物の歴史を見てみても、
25億年前のバクテリアの絶滅危機、2億8000万年前の三葉虫・フズリナの絶滅危機、6500万年前の恐竜の絶滅があった。
今後、考えられる災厄として、
・隕石衝突
1908年、シベリアに衝突、周囲30Kmが焼け野原に
1937年、直径1.6Kmのが地表から300,000Kmを通過
1972年、直径12mのが地表から50Kmを通過
1989年、直径1Kmのが地表から800,000Kmを通過
X年 ??
・D”層周期的浮上説(マントル・プルーム理論)―地球磁場に変化があったらその合図
>>469 阿修羅
やっぱり君も! この世の生物のどうしようもない救いのなさを説くときの、
ハルカさん独特の、力みのはいった峻烈さは、
何に似てるかっていったら、ゆいいつ阿修羅や明王などの憤怒相に似ているな、と思ってたんだ。
イナゴさん宛
>>473 そうそう、ぴったしカンカンです。認識論と幸福論か…。
メロディは馬鹿にはっきりしているのだけど名前が思い浮かばない楽曲の名前が、ようやく明らかになったような気分です。
でも優劣の有無については、自分も再考中です。
>>474、476
アイルランドって個性的な音楽家がいっぱいです。
渋声ひとつで四十年、休みを知らずに一年一作、異常なコンスタンシーのヴァン・モリソン。
何か悩み事があるとすぐ頭を丸めるシニード・オコーナー。
ケルトとパンクの並立、前歯ぼろぼろ、いつもへべれけでステージではまともに歌いっこないボーカリストのポーグス。
アクの強い歌声のクランベリーズ。
街中でアコーディオン演奏している風景とかテレビでよく見ますもんね。
独自な音楽の土壌を築き上げた国なんだろうなぁ。
>>499 じゅんさん
>お情け
そんなことないよ、勘違いだよ。『文芸の哲学的基礎』は意識の話から始まっているじゃない?
理性の絶え間ない働きについても、「意識の連続性」って言っている。
でも、その快/不快についてはショーペンハウエルを紹介する程度で、さっさと次の話に進めていて、真意や姿勢はわからないけれど。
>>514 コンガラ童子さん
>何もかも、認めてしまうともっといいのにね!
>貴方の冷やかしの文章もとても楽しめますよ。
>だから、その、ややワザとデンパッテみた文章の事こそを言っているんですよ?
>わかりますか?
あなたの文章を↑のように書き直して、まず個々の命題を理解し、
それぞれの命題のつながりからコンテクストを取り出す。
という手法では返答不能なやつ・・・禅問答系は苦手ですぅ。(笑)
きっと「秩序構築→自動処理」系の思考への批判なのでしょう?
でも、何もかも認めてしまうのもバランス悪いなーと思うのです。
わざと的外してごめんなさい。
>倫理ですね?大変ですね?
うん。神さま(倫理)にハグされながらハグらかされてしまってます。(笑)
>私の方は、もっと広く眺望しています。
倫理にこだわるのは、倫理の正しさゆえに、ではなく、
わたしの始点であり、支点でもあると思えるからです。
簡単に言うなら、何かを価値判断するための基準です。
アクロバットの飛行機からでは眺望するのは難しそうです。
>>514 コンガラ童子さん
>「言葉に責任」も大事だけれど、それに見とれてばかりいると、
>自分が「本当は」大事にしていたかった事が、知らぬ間に知らぬ間に、
>漏れ落ち流れてしまっていて、もう取り戻す方法がワカラナクナッテシマッていた。
カオルの発言は、カオルの存在証明です。
リアルで評価されたり、承認されたりしているカオルは、
前に進むこと、建設的であること、をモットーに頑張っています。
でも、それは組織の一員としての集団的自我との同一性からなのです。
組織の「御伽噺」の登場人物であるわたしは「御伽噺」の崩壊を恐れます。
言いかえるなら「御伽噺」からの支配に安住し拘束されたがっているのでしょう。
わたしは「御伽噺」から逃げ出そうかとも考えました。
人的環境や経済的基盤をととのえて、しっかりスキルアップもする。
いずれは生の満足のすべてを独立した自我に還元するべく努力する。
だってわたしは自己チューなんだから、わたしに組織は似合わない。
ポジティブに前を向いて歩く、建設的にことを進める・・・自己実現?
どちらにしても、カオルは、そこにはいないなぁー、と思うのです。
これも的外れでしたか?(ホントはわざとじゃないんだけど・・・)
>>514 コンガラ童子さん
>時に主観がどうであろうと、
>それとは別にその人の位置してしまっている状態というものがあります。
たぶん、わたしはあなたの心配していることをやりたいのです。
ですから、あなたの指摘はわたしには妥当するのだと思います。
たとえ客観的に観察されたわたしの状態がどのようなものであれ
その強度がわたしにとって確かなものであることが大切なんです。
>言っている事は、お分かりでしょうか?
どうなんでしょう? よくわかんないです。
>>515 >貴方のために貴方がやっている事だという事です。
うん。たしかに自覚的にはそうですけど、
実際そうでもないところが人と人とのあいだの不思議なところ。
自我なるものの多面性というか多次元性というか未知性というか。
>>525 鉄冠子さん
>人間という生物におけるDNAの生き残り戦略システムが、理性的意識の強制的稼動でいいのかな?
「利己性」を還元主義的に遡源していくと「個別的生命」に行き着きます。・・・ @
「個別的生命」を還元していくと「素粒子」に行き着きます。・・・ A
「素粒子」って「あったり」「なかったり」するそうです。
「あったり」したとき「存在」するっていうみたいです。
だったら「存在」することが「利己性」の根源なのかもしれない。みたいな話。(笑)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
@には、心と生命の断絶があります。
なぜなら、脳科学の知見をいくら積み重ねても、
なぜ「意識」が生成されるのかには答えられないからです。
Aには、生命と物質の断絶があります。
なぜなら、物質をいくら集めてみても、生命は誕生しないからです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
で、この還元を「心」でストップさせたのが、
>>466です。
物質系、生命系から心系を独立させて「世界」を分けたわけです。
生命系の原理 ⇒ DNAのふるまいを心系から眺めると"自己中だよねー"
と思うので、DNAは「利己的遺伝子」などと呼ばれたりします。(笑)
ハルカ論の連環(入れ子)世界のイメージでいうと、
「??<物質の世界<生命の世界<心の世界<神さまの世界?」という感じかな。
で、それぞれの世界は「通底している」というのがハルカ論です。
>海上に出ている小島が各【世界】(【実存】)、で海面下で繋がっている岩盤が【虚存】。
悟りたいとか自律したいとか(2)
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1063709757/485-486 を参照してください。
>>526 鉄冠子さん
>物理学における宇宙の終焉として
>陽子崩壊とかの熱的死、ビッグクランチ、一番最近のでビッグリップ、
>ブラックホールにすべての物質が飲み込まれる時間まできちんと見積もられている…(!)。
でね、その宇宙の誕生と消滅が「全く同じに繰り返される」っていう妄想が、
ニーチェの「永劫回帰」なんだ、という妄想wを語る人をいまだに見かけます。(笑)
新しい宇宙は、その母体になった宇宙とは重なり合わないから、新たな物理法則の
もとで成長するらしいのですが、そうすると波動関数も通用しなくなっちゃうから
マジで逝っちゃうことになるみたいです。= 完全解脱なのでしょうか?
>やっぱり君も!
>この世の生物のどうしようもない救いのなさを説くときの、
>ハルカさん独特の、力みのはいった峻烈さは、
あんまり言うと(ってわたしか?w)ハルカに怒られそうです。(^_^;)
どうしようもなさ、を感じてしまうのは、繊細で純粋だからです。
>コンガラ童子さん
>追伸〜
ごめんなさい。m(__)m
>>534 あやまらなくて、いいですよ。ちっとも、かまいませんよ。