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*ハルカ論 ○記憶○ についての考察*
ハルカ論 ○記憶○ 参照
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1071594996/325-326n ちなみにハルカ論と私の論のどれが重なっているか見るのも面白いと思っている。例えば、ここで言うのはなんだけど、
写像記録については自分的には一考の価値があると思っている。ちなみに写像記録(情報)とはなにか、事実記録
(情報)とはなにか印象記録(情報)とはなにか? それらはどのような形態をしているのかを考えるだけでも、かなり面
白いとはずだ。実は記録と銘打っているだけで、それらの形態様式はまったく違っている。いちおうわざわざ(情報)と
付け加えたのにはわけがある。記録(記憶)情報と知覚情報はまったく概念を異にするからだ。いちおう“情報とはなにか
という問いかけ
>>15の<記憶とはなにか>から端を発している。「情報」今、私はこの言葉には少し懐疑的だ。情報は様
々に形を変える。認識論の一つのキーワードなのではないかと一応思っている。
あとちょっとウィトと勘違いしていたのだが、写像記録は多分ゲシュタルト的なものでもあるんだな。錯視とか錯覚とかそうい
うことか。難しく考えすぎてしまったようだ。
<ハルカさんの記憶論の情報について>
あとハルカ論ではやはり「情報」という主体として設定されているようだ。(ちなみに私は主体を意識としているのかな?)
情報がどのように扱われていくかを見ていくと面白い。例えば勝手に引用してみると
> つまり、『意識の稼動』の流れは
> 知覚 → 写像再生・確認 → 写像記憶 → 事実再生・比較 → 思考 → 事実記録 → 印象再生・比較 → 感情 → 印象記録
> となります。
などでは写像、事実、印象ともに、再生と確認の二つの作業がほぼ一遍に行われているが明示されているからである。
このように考えると、感覚器官から受けとった情報はどのような形をしているのか問いが生まれるのは必然的なのだ。
そもそも再生と確認を一緒に明記したのにはちょっと感動した。やったーというか、すげえと思った。
<ハルカさんの記憶論の事実記録について>
あともう一つ言及してみたいこと。「事実記録」について。事実記録とはなにか? まあ構造上は全然問題ないのだがこ
のあたりがやはりむずかしくなってくる。ちょっと見つめれば見つめるほど不明瞭になりそうな気がしてくる。事実と写像の
違い、事実と印象の違いが不明瞭になってくる。おそらく思考に合わせて設定した概念なんだと思う。
ハルカさんの「意識論の思考」と「記憶論の事実」。この二つが思考と事実の境目で双方が論点変更(パラダイムシフト)、も
しくは転回(ケーレ)するんではないかなと思った。実は思考と事実の二つって結構主観的な観点だったりするわけで、
思考とはなに? 事実ってなに?というのがやっぱり問われるわけなんだ。存在論的に。
写像と事実と印象の関係は意識の中の知覚と思考と感情とそれぞれ対応する。いや自分は意識に記憶を対応させるのは
諦めていた部分があったから、やっぱりハルカさんはすごいと思ったね。ああこんなに見事に対応させちゃうんだって思った。
<私がハルカ論を評価する点>
私がハルカ論のもっとも評価する点はその美しさにある。つねに思うことだけど、論の美しさにおいてハルカさんの
右に出る人はそうはいないと私は考えている。論というかイメージというか。論に美しさを持たせる人はあまりいないだろう。
無意味だと思っている人も多いのではないか。しかしそれは違うと言っておこう。美しいということはつまり無駄がないという
ことだ。ただ単にそれは合理化ということを指しているわけではない。その論以上に見るものはなにもないということを指して
いる。私は長文体質なのでよく分かるが、長文はだめだ。読むのに時間がかかりすぎる。そのかわり整頓された美しい論を
見るとすぐにその正しさを直観することができる。まあなんでもそうだが長けりゃいいてもんじゃないのだ。
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>カオルさんへ
私を利用しましたね(笑)
私へのアドバイスは実は全部ハルカさんへのアドバイスだったんじゃないかって疑惑が一杯です。
ちょっとむかっときましたが、まあ私の力不足が原因なのだからしょうがないか。カオルさんにはか
なわんです。平伏致します。
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