*ハルカ論の反論という形で*
1『意識の所在は何処なのか』
意識に所在はありません。意識は形而上世界のある、ないという存在論的な解釈を飛び越えません。
存在論はカテゴライズされます。意識の所在は“意識となにか”について思う自分の心の中にその在処があります。
2『どういう流れで【意識】というものが出来るのか』
意識を思う心の中で意識は醸成され明確にされます。意識とは何かという問いかけが意識を生みます。
その問いかけそのものに、意識の存在があります。
ハイデカーの“転回”はこのことを言っているのかな? ちょっと自分でもごまかしじゃないかなと思えるの
ですがとりあえずそういうことです。まだハイデカーを分かってないのですが、ハイデカーの功績はあらゆ
る哲学問題を日常に回帰(転回)させたことにあるのではないかと思いました。(ここでの回帰とは(個→
全体)の形式を言います。“思う”こと、そこに“存在”が「ある」。
この“存在”つまり“在る”は時の中で生のある限り無限連関します。在処はないです。その“在る”は
場所(処)を持たないのです。記憶の中に在るのだと言えます。自分の変化の中でその“在る”が見つけら
れる、見つめられるのだと思います。
(哲学とは、歴史とは)
このように考えると哲学とは、歴史の中にあるのではなく、今の中にあるのではないかと。
哲学者とは歴史の中で啓蒙されるべき存在ではなく、今を生きる標本なのだと思えます。昔と今では状況
が違います。歴史の変化があります。歴史に見出すものは、やはり“普遍真理”です。普遍を超えての啓蒙
することなどしてはならないと、やはり私は思います。歴史人物を超人化してはならない。これは仏陀でもガ
ンジーでも、カントでもヒットラーでもそういうことです。私はその強い個は集団によって醸成されたとまずは
考えます。集団が求めたものを、個が体現したそういうことです。仏陀が誕生したのではなく、その当時に
仏陀という存在が生まれたのです。ヒットラーが生まれたのではなくヒットラーという存在があのときのドイツで
は必要とされたのです。個が先、集団が先に生まれたというわけではない。もちろん個が悪いというわけでも
ない、集団が悪いというわけでもない。そういう状況がそうであったというだけです。
まあこれはハルカさんに言うことでもないですから、とりあえずということで。
3『もし【繰り返した“線”の集積そのもの】なのだとしたら生まれたての赤子には何の意識も無いのか?』
まあこれにも答えてみましょう。多少、屁理屈になりますのであらかじめご容赦下さい。
赤子に意識はありません。存在論的にはそういうことになります。なぜなら意識という言葉を知らないわけで
意識を思う心を赤子は与えられていないからです。
ですが自我はあるということです。そして赤子には自己はないのです。思う心が赤子にはないからです。
世界内自我の形式が赤子の状態です。
実は私は赤ちゃんに触れたことがあまりないので、赤ちゃんのことはよく分からないというのが実情なのです。
いちおう実存レベルでは、赤子を思う自分の心の中に赤子の意識があるのだと信じられそうです。
存在論的な解釈はちょっとやりかたが卑怯ですね。でもまあちょっとおもしろいです。
こんな考えを提唱したハイデカーは哲学者ではなく山師(詐欺師)と言われた経緯があるそうです。
まあちょっと納得です。ですがこれは面白いですね。こんなことは『存在と時間』を読んでから言えと
名無しさんに言われそうですのでこの辺で。
<存在論的な答えとはなにか>
答えはエウレカだったりします。答えは喜びだったりします。うれしさだったりします。救いだったりします。
哲学的考察における答えの形式は省察に限定されるのであれば、それは論点の変更だったりします。
問題を解ける可能性だったりします。希望だったりします。勇気かも知れない。自信かも知れない。
光と比喩できるかも知れない。光明とかね。そういうのでいいのだったらいくらでも答えはでてくる。
たとえば数学の問題。テスト用紙に答えを埋める。この書き込まれた答えと我々は混同しやすい
知っていることと、知らないことの違い。知っている者と知らない者の違い。
これが答えを知っているかいないかの違い。テスト用紙に書かれている問題は本質的な問題か?
形而上か形而下か。幾何数の形而上の問題だ。国語のテスト用紙も形而上の問題だ。社会のテストも
そうだ。
しかしそこにテストで答えを埋める“喜び”が答えだと言うこともできる。
喜びがなければ答えは生まれない。不条理の中では答えは決して生まれない。