【初心者】スレッド立てる前に質問をPart26【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 00:08:58
3 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 09:02:46
あれ!
なぜ?日本史掲示板全部途中で更新!? まさに「歴史」だったのに。
お気に入りスレッドもあったのに。
4 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 09:30:47
何故だああああ!?
5 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 12:39:33
日本史の教科書に「1947年に地方自治法が成立して、
都道府県知事が公選となった」という記述があった
のですが、それまで都道府県知事はどのように選ば
れていたのでしょうか?大日本帝国憲法の条文に天
皇が任命するということが書かれていることまでは
分かったのですが、実際にはどのように人選が行わ
れていたのかよく分かっておりません。ご存知の方
がいらっしゃいましたらご教授願います。
6 :
5:2010/09/10(金) 12:44:12
>>5 自己レスです。日本史資料集に「内務省の役人が任命されて
いた」という記述がありました。お騒がせしてすみません。
7 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 14:40:35
何故だああああ!?
8 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 19:31:36
9 :
日本@名無史さん:2010/09/10(金) 21:18:08
>3,4,7
2chの、かなり多くのサーバが連続して吹っ飛んで、かなり多数の板で全スレ過去ログ行きになった模様
行きつけの多数のスレッドが未読のまま読めなくなって悲しいよ。
10 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 06:24:30
>>5 図書館レベルですむ質問。
学力不振のご時世を痛感するな。
性少納言ってオナニーしていたの?
12 :
日本@名無史さん:2010/09/11(土) 14:07:46
夜は自慰。悶々たるさま心苦し。
14 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 12:51:17
功名が辻を観ていて疑問が生じました。
「戦で功名をたてる」といいますが、戦を連戦するには命がいくつあっても足りないと思うのです。
例えば下っ端の場合は、槍で突撃した際に多数が死ぬでしょう。そこで運良く槍の壁を乗り越えても、揉みくちゃの斬り合いで死ぬでしょう。
数え切れない死線を潜り抜けても、また戦場に出たら同じこと。
戦で功名をたてるなど、功名をたててもすぐ死んでしまうのではないですか?歴史上の人物は、ラッキーマンですか?
戦国時代の戦死率って、そんなに高かったっけ?
16 :
日本@名無史さん:2010/09/12(日) 16:49:10
よほどの大敗でもない限り戦死者が10%を超えることはない、らしい
ただ、遠征先で壊滅した場合はバラバラになって敗走する途中で捕らえられて売り払われることもあれば、
主君を見限って逃げ出すヤツも出てくるので(特に主君を渡り歩くタイプの特殊な?雑兵など)、
生還しなかった=戦死、というわけではないわけで、
そういった戦死以外で帰らない数を差し引くと、敗戦でも大多数は戦死率10%未満、って意味だろう。
まあ、個別の戦闘でみると、異常な戦死率の事例もある。
桶狭間の戦いの前哨戦で鳴海城を攻めた別働隊は総勢300人ほどのうち50人ほど戦死だとか聞いた。
(この攻城戦は、たぶん、ヤンマが連載中のセンゴクでも先月ぐらいに描かれてると思うんだが、
数字は出てたかなあ?)
鎌倉末期〜南北朝時代に興味が出てきたのですが、入門にちょうどいい書籍は何がありますか?
記述にはまるで信頼が置けない(党派性が強く、捏造を労してまでも南朝を不当に尊重し、北朝を不当に悪く描く)が、
太平記は読んでおいた方が良い。
この本は明治維新の思想背景になっている。
21 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 02:29:45
どこの板で聞けばいいのかわからなかったのでここで質問されてもらいます
源義経と弁慶が五条大橋で対面する話と、勧進帳のくだりの話の
両方が入ってる小説が読みたいのですが
義経記を購入すればいいのですか?
22 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 23:43:00
義経が岩手の衣川で死んだはずなのに北海道に「判官岬」という地名が存在するのはなぜですか?
新冠周辺への日本人の入植は、開拓史以降のことです。
ゆえに、その頃の入植者による命名でしょう。
義経ジンギスカン説が大っぴらに広まり、信じる人が多かった時期です。
これにちなんだ命名をしても無理はないでしょう。
24 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 03:22:43
日下部景衡の『遺老物語』は刊本化されていて一般人も読めるようになっているのでしょうか?教えてください。
>>21 確か吉川英治『平家物語』では両方のエピソードが出ていたような…
26 :
日本@名無史さん:2010/09/17(金) 22:54:55
現存する、「原本」(写本ではなくて)で「紙」に記載された最も古い書物は何でしょうか?
物語でも日記でも史書でも何でもいいのですが・・・。
印刷物で最も古いのは、朝鮮のイカモノは笑い飛ばすことにして、
百万塔陀羅尼ですね。経典です。
中国では、漢代の竹翰が出土してます。
29 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 00:56:37
>27
の挙げた世界最古の本は、紙の発明より前のシロモノだね。
だから26の質問の条件には該当しない。
「聖徳太子の法華義疏(615年頃)」に関しては、偽書ではないかと疑った上での検証はないんじゃないか?
聖徳太子に仮託された文書が数多く存在する(つまり、聖徳太子撰述と称する偽書が極めて多い)事を考えるとねえ。
本当に大丈夫かなあ?
文書という意味であれば正倉院文書とか漆紙文書あたりが古いのでは。
著名人の書き記したものとしては、御堂関白日記の自筆本が断片的に残ってるらしい。藤原道長の自筆。
と思ったが、空海(弘法大師)の自筆文書は少なからず残ってるんだっけ。
27のwikipedia項目にのってる日本最古は「自筆本として残っている」という条件を全く考慮していないのがネックだねえ。
あくまでも、写本が現存する範囲として書き記されている。
30 :
27:2010/09/18(土) 01:22:00
x51のリンク貼ってる時点で気付けバカ
31 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 07:40:34
32 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 20:02:39
33 :
日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:14:02
江戸時代、年貢はどのような仕組みで決められていたのですか。
戦国期の感状について少し・・・郷土史で何ですが
軍役感状・・・兵糧等後方支援
戦役感状・・・戦に参加について
とあるのですが戦役感状なるものって聞いたことがないのですがあるのですか?
>>34 それって学者や研究者が作った用語なんじゃないの?
その用語と同じ意味合いの書状なら三好氏が摂津の豪族や寺社に出した現物が残ってる
そうかもしれません。というのは軍役感状とされている方は褒美として伝馬免許
軍役の方は加増、領地宛行で分けているのかも知れませんね。
伝馬免許というのは何かしらのメリットはあるのでしょうか?
37 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:03:24
1855年前後の幕末について質問です。
夜、雨が降っていたら、
提灯は使えないと思うのですが、
どうしていたのでしょうか?
例えば、道に落し物をして、探しに行きたいけれど、
日が暮れて、しかも雨が降ってきてしまった。
雨でも大丈夫な提灯があるのでしょうか?
それとも、傘を差して、提灯を守りながら歩いたのでしょうか?
38 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 14:22:28
士農工商という言葉という言葉がありますが、今は商の下に穢多、非人をつけて江戸時代の身分制度と言う者がいます。
穢多、非人の話は別にして士農工商が身分制度などとでたらめを言い始めたのはいつ頃からなんですか。
またそれは誰が言い始めたのでしょうか。
39 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 15:03:10
>>33 検地、検見法、定免法でぐぐったら、大体のことはわかるよ。
毎年の米の収穫量に応じて課税してたのが検見法。これだと年ごとに年貢収入が増減する。
それじゃ面倒くさいので、数年分の平均を基準にして課税したの定免法。
40 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 16:11:19
>39
△ それじゃ面倒くさいので
○ 年貢額算定担当、収穫量検証担当のお役人を接待するのがたいへんで困ったので
最低でも、ある程度の接待をしなくてはならない社会的風潮があったし
(なんせ、村の人より役人の方が身分が高いわけで、客人として遇する責務があった)
接待のしかたが悪くて年貢額を過度に高く認定されたくないからと接待に力を入れるようになって、
接待競争の中で村々が疲弊していったような面もあったらしい
だから、定免法の導入時には多くの村の人たちが喜んだとのこと。
そのかわり飢饉の時には大変なことに...
41 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 16:40:36
テレビドラマ等を観ていると、年貢というのは百姓に相当な負担を課したというイメージがあるのですが、実際はどうだったのでしょうか。
また野菜などの収穫はどうなるのですか。当時の百姓は米作以外してはならなかったのでしょうか。米作は義務づけられていたのですか。
42 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 20:05:46
>>41 確かに、高負担でしょうね、
領主側としては出来る事なら百姓の存続に必要な分以外は、
年貢に欲しい。(家康の言葉に代表)
それでも、百姓の中には商品作物を植えたりして経済力を持つ者も
あらわれ、従来の年貢の仕組みでは、取りたくても取れない状況へ、(神尾若狭の言葉に代表)
でも、豊作〜並作であれば、良いのだけれど(上にも書いた方が居るが、)
飢饉の時には大変なことに...
当然、畑方にも年貢は掛かる。その多くは金納で「夏成金」とも
まあ、年貢の仕組みなど地方支配については
「地方凡例録」あたりを読むことをお勧めしたい。
>>36 時期や地方によるけど室町中期以降はあちこちに関があった。
関を通るには通告料を支払うか関を儲けた大名なり国人に許可証を貰っておかないといけなかった。
荷物の量や運ぶ手段でも通行料は違ったりしたみたいだ。
伝馬というのであれば、軍使や荷馬での通行が許可されているのでは?
戦国時代にも庄屋や問屋はあったらしいですが地侍層とは違って純粋の農民なの?
>>44 庄屋とか地侍っていう捉え方じたいが後世の人の考え。
同じ地域でも国や郡の自治のあり方そのものが色んな勢力の影響で変化している。
興味があるなら自分の地域の郷土史を調べてみたら「庄屋」「農民」「侍」という概念が脳内でしか成立しないものだと感じると思う。
室町期ぐらいの用水路利用や入会地利用を巡る争いを知ると「ヤクザ?」ってぐらいエゲツナイよ。
46 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 01:48:28
徳川家の話ですが、家康が神格化されて奉られるのはわかりますが、江戸幕府
は家康以前の松平家の墓や菩提寺はどういう扱いをしたのでしょうか?
また、松平家の本家は江戸幕府の時代になっても万石どころか数百石という
領地だったのはなにかわけがあるのでしょうか?
徳川家の本家筋なら最低でも万石になってもおかしくないと思いますが。
三河に浄土宗のお寺があります
家康時代に、一向宗(浄土真宗)門徒が多数だった部下へ、一向一揆からの離脱と
家康への忠誠を望む目的で、寺に家康の援助が与えられ、菩提寺ともなりました
あそこに(概念上の)初代からの位牌とかあったとおもいます
あと、松平家は家康のお祖父さんが一代で三河を席巻した人で、それ以前の先祖は
はっきり言って(後世にものすごく立派な家系図が出来ましたが)不明確です
本家云々も、家康の天下取り以降に探され、編成され、権威付けられたものですので、
家康の三河時代は、彼のお祖父ちゃんの武勇伝しか彼を三河の領主とする根拠は存在しなかったわけです
異父弟を関宿藩や桑名藩に封じているから
家康にしてみればイトコよりも大事な人達がいた。
今川氏真から独立する上で異父弟達が人質になったり重要な役割を担った。
49 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 11:53:54
農地改革について少し細かいところが気になっており、
教科書や資料集には目を通したのですが、今いちよく
把握できず困っております。
第一次農地改革は計画だけが行われ、実行に移す前に
GHQに不徹底であると指摘され、再度計画を練り直
して第二次農地改革が行われたということなのでしょ
うか。それとも、第一次農地改革が少しだけ実行され、
その段階で不徹底であると指摘されたのでしょうか。
ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて頂ければと
思っております。よろしくお願いします。
50 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:39:39
秋篠宮家の内親王たちと合コンしたいんですが、
どうすればいいですか?
あと皇族相手に王様ゲームとかありですか?
51 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 08:21:01
秀吉が家康に関東移封を命じた時の、連れションの逸話ですが、
出典は何でしょうか?
津川雅彦さん思い出した
伊達綱村の名は真田幸村にあやかってつけたのではないでしょうか? 綱基からの改名だし。
改名前すでに真田『幸村』を主役にした所謂『真田十勇士モノ』は発行されていたわけで。
しかも『幸村』の孫が仙台藩に仕官しているし“先祖の宗村からいただいた”より信憑性があると思うのですが。
>>53 「自分の先祖にあやかった」よりも「家臣の先祖にあやかった」の方が信憑性があると??
その宗村は名前をあやかるほどの功績がは?
9代目政宗は武勇に優れた武将として知られているけど、
宗村は鎌倉時代初期の人物というくらいしか思いつかない。
>>56 宗村が本当の伊達家初代で吾妻鏡に出てくる「念西入道」と同一人物という説が江戸時代初めからある
伊達氏を興した初代ならば十分すぎる理由だ。
伊達氏の古い系譜はそうなってるものも多いというし。
俺の主観の方が信憑性高いとかどんだけだよ・・・
60 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:13:39
Wikipediaでもそうじゃないか、仙台藩は世界一ぃぃ、薩長滅べ滅べ、てな編集が続いているし。
WWUにおいて、米軍は日本軍の指揮力低下よりも、
日本人の士気激減を念頭に置いて
ブーゲンビルでの山本機撃墜工作を練ったという事ですが
なぜ軍は山本死亡を国民に隠蔽しなかったのでしょうか?
また、山本死亡を知らされた日本国民は@士気低下A弔い合戦的な士気高揚B無関心のうち
どの反応が結局大きかったんでしょうか?
>>61 連合艦隊司令長官の不審な交代をいつまでも隠せるはずもないのを馬鹿な軍令部も理解できたんだよ。
だから、「英雄の非業の死」を強調して国民のアメリカへの敵愾心を煽り、戦意を高揚しようとした。
海軍の大々的な宣伝により、国民はアメリカへの復讐心をたぎらせた。
>>61 お前さんに判り易い様にガンダムで言うと、ギレンはガルマの死を隠さずに戦意高揚の道具に利用しただろ?
江戸時代に行われた改易についての質問です。
各地の藩において給与ではなく領地をもらっていた藩士は改易のとき
どういう風に扱われたのでしょうか。
自領はそのまま残ったのでしょうか。そのばあい、新しく入ってきた
支配者に再雇用という形になったのでしょうか。
それとも支配は受けないけど領地はそのまま認められるのでしょうか。
御附家老みたいなものは外様の藩にはいない
当然、没収される。
なぜなら、その所領自体が改易された大名家のものだから。
68 :
65:2010/09/24(金) 21:50:20
>>66 ちょっと質問がまずかったみたいです。
聞きたかったのは土地の所有権というのは改易のときどういう風に
あつかわれたか?ということです。知行というかたちで藩から土地をもらっていた人は
その藩が改易されたときそれをとりあげられてしまうのか?ということが気になったのです。
もし自分の土地がそのまま認められるならそのひとはどういう扱いになるのか
藩士ではないけど土地の支配権は残るのでしょうか?
>>67 リロードがまにあわなかったみたいです。
なるほどありがとうございます。
でも個々の農民が耕作している土地はたぶんそのまま耕作し続けられますよね?
庄屋階級はどうなるんでしょうか?ここら辺の身分の人間のあつかいは
どうなるのでしょうか。
結局知りたいのは土地の所有権というはどういう扱いをうけるのか?
という問題なのです、農民だけでなく商人も土地を持っているわけですよね。
これが改易でどういう影響を受けるのか?ということに疑問を持ったわけです。
ある意味土地の所有権は誰が保証しているのか?ということです。
そもそも土地の所有権という概念が日本で用いられたのは、明治の地租改正のあと。
武士がもっていたのはその土地を支配する権利、庶民がもっていたのはその土地を使用する権利であって、どっちも所有する権利ではなかった。
では土地の売買は何を取引していたのでしょうか?
>>71 では使用権の売買をしていたとするとそれは改易によってどのくらい影響をうける
のでしょうか?これってすごい行政的には問題になりますよね。
74 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 23:00:37
>65
主家である大名に従って引っ越さざるを得ない
おおむね引っ越し先で、旧領の規模に比例するようにして再配分を受けるんじゃないか。
>69
庄屋は大名に連れられて引っ越さざるを得ない武士身分を離れて農村に固定する道を選んだ人なので、
武士と違って新しく来た大名の元で働くことになる
が、織豊期の改易時には庄屋も入れ替わる例が少なからずあったらしい。
そのころはまだ、庄屋と武士との区分が不明瞭だったからだろう。
>70
所有と領有が区別されたということだと思う。
>>72 >では土地の売買は何を取引していたのでしょうか?
その土地に対する権利だよ。
中世で言う「職(しき)」だよ。
中世には重層的に一つの土地に4〜5人は職を持っている人がいたから、領主が直接耕作している農民から徴税できなかった。
秀吉は検地でその中間搾取を排除して、耕作者の権利を保証した代わりに領主に直接納税させた。
今でも、法律で農地の売買には厳しい規制があるから、農地の名義は「売買」せずに耕作権を売買することが多い。
役所で働く香具師に聞いた話では、公共事業で土地を取得するときは、所有者と実際に使用している地権者両方の了解を得ないと行けないから大変だそうだ。
底地っていうのがあるからな、現在は
漫画とは異なり実際は前田利家の方がカブキ者で前田慶ニの方が頑固な堅物という
のは本当ですか。しかも二人の年齢差は数歳程度で仲も良かったとか。
http://www.maido3.com/server/zousan/nikki202.html 第202日目:Coffee Break〜▲('A`)の自由研究・失われたデータが帰ってきた!
自分のノートPCの話で2CHの話ではない。だからCoffee Break?
>前回testdiskというソフトをご紹介しましたが、そのソフトを提供しているサイトで、
>photorecというファイル復元ソフトを知りました。
>いやあ、うれしかったです、ハイ。
>半ばあきらめていたデータが復活したのですから。
>あ、そうそう。復活したデータは名称が「fxxxxxxx」(xxxxxxxは数字)という
>名前で復元されるので、オリジナルの名称で復活されませんので、注意です。
>なので、1個1個見て、「これなんだったっけ?」と分類しなければなりません。
>データ数が多いと、この分類作業が半端ないボリュームになります、ハア
スレ戻ってくるかもしれない
79 :
日本@名無史さん:2010/09/28(火) 12:33:36
人がゴミのよう(に溢れる?)って台詞をムスカ大佐じゃなくて教科書で見た覚えがあるんですが分かる方いますか?
なんで河内国はあなんに区切が細かい?
面積は小さいのに郡の数が16とか。
都に近かったから、奈良時代には人口が多い部類だったのでは?
82 :
日本@名無史さん:2010/09/29(水) 23:45:41
本朝通鑑に日本人の祖先が呉太伯だという記述がるそうですが
どこにのってるんですか?
また、辞書によると神代から記述がはじまってるそうですが
図書館に置いてある本朝通鑑は神武天皇から述べられてました。
本朝通鑑神代巻はどこで見られるんだろう。
>>81 都がしばしば置かれた、大和国は15郡、山城国は8郡。
山城国は河内国と大体同じかちょっと大きい。大和国は何倍も大きい。
河内国の隣で大きさも殆ど同じ和泉国は3郡
河内国の16郡って、何か特別な理由でもないと、おかしいじゃん。
最近ピラミッドの建設は奴隷的苦役というより公共事業としての側面があった
という話を耳にしました。日本の古墳なんかはどうなんでしょう。結構巨大なものがあるけど
どういった人々が作ったのか、どういう風な扱いを受けたのかというような研究はありますか?
>>84 それはたぶんわかってないんじゃないかなあ
文字資料もほとんどないし
>>83 大和国は一見広く見えても山ばかりと思われる。奈良県の可住地面積は全都道府県で一番狭いそうだから。
和泉国は河内国から分かれたものなので、残った16郡と分かれた3郡の面積が同じくらいだとするとやはり
山ばかりで人口が少なかったのだと想像される。
>86
横レスだけど、和泉国って面積の大半は平地のハズだけど...
居住可能面積のことではなくて、統治していた豪族達の領域が細分化されていた、
小規模な豪族の割合が高かったということでは?
>>83 大和は盆地で都があるから人も多い。当然、よく開拓され豪族も多い。
彼らの権益が犇(ひしめいて)いると、妥協の結果として、行政区も細分化されてきます。
河内は物部氏らの地盤で、古くから大和朝廷のサテライト。
そのせいか、大和・河内のランクは共に最上位の「大国」でした。
山城は少し離れているし、字の通り山が多いので郡の数は少なくなるでしょう。(ランクは一つ落ちる上国)
和泉に至っては、河内から分離された、湿原ばかりの辺境でした。(ランクは下国)
従って、古代の行政においては差があって当然。
郡の数の差も、その影響が残ったままになっていたからでしょう。
地図の面積だけでは、比較する意味がありませんよ。
農産物が権益の基盤であった時代なら、まず、田畑がどれだけあったのかというところを考えないと。
なんで遺跡は地面の下から出てくるんでしょうか。
京都なんかで昔の都市の遺跡が地面の下から出てくることが納得いきません。
ふつう上物は取り払ってから新しい建物を建てますよね。
逆に地面の下、つまり地下に残ってる部分だけ長い年月を経ても残っていると
考えたらどうだろう。
いや、土に埋もれるというところが不思議なのです。
地盤沈下が起きてるわけでも、どんどん土地の高さが高くなっているわけでもないのに。
実際はどんどん土地の高さは高くなっているけど、その一方で地盤そのものが沈下し続けている(自然現象として)。
>>91 埋もれるんじゃない、埋めてその上に建てるんだ。その方が手間が掛からないから。
現代工法では基礎から固める為に一度掘り返すけど、昔はそんな事はしなかった。
そうすると こういうことが起こるんでしょうか。
建物Aがたっていたあとに建物BができるときAの残骸は埋められる
次の時代に建物CができるときBの残骸はまた埋められるこのときAとBの残骸
が混じってしまうけど気にしないでCを建てる。
こういうことが続いていくと地下には各時代の建造物の残骸のミックスが埋まっていることに
なるとおもうのですが。、
>89
海外で大規模な災害が起こったとき、都市ごと新しい場所に引越して都市全体を再建するアメリカ(とか)は凄いって報道がされることがあるけど
日本でも昔は都市ごと引越していたんだよ。
当然放置された旧都市は埋もれていくことになる。現在のアスファルトやコンクリートに覆われた都市とは違い、夏の高温多湿と一定の雨量がある
日本の家屋は手入れせずにいると短い期間で土塊に埋もれてしまう。
戦争などでの大規模火災後に城や寺院などの大型建造物を建てるさいも一定の地固めや礎石等の基礎工事は行うけど、土地全体を掘り下げる
現代のような工事は基本的には行わなかった。
故に一定の年月で踏み固められた地層とその上に撒かれた土の層の違いが後代でも判別でき、遺跡の痕跡が確認できるんだよ。
96 :
日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:40:26
戦国時代って、文化の継承などはどうやって行っていたの?
学校とか教育機関とかは無かったの?大名の家臣とかは、どこで文字や文学知識を得たの?
>>94 埋める度に一度固めてならすからAの残骸はBの下になる。混じる物もあるが、全体としては層になる。だから
同じ建物が何度か建て直されたような場合でも大体の順番は区別出来る。
トロイ遺跡なんか良い例だ。
>>96 師匠に弟子入りして習う。文学は買うか借りて読む。
>96
戦国時代と言っても国民全員が日常的に戦争していたわけではないんだよ
それらの埒外で個人の思いを遂げる人人も一定数いるってこと
>>97 なるほど、でもひとつ気になることがあります。
そうすると地面の高さはどうなるんでしょう、年々高くなっていくことになりませんか。
>>92 の方が言うように
地盤は沈下していくものなのでしょうか。
>>99 それは色々。前に書いたトロイ遺跡は積み上がって丘になってる。
101 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:59:24
>>97-98 なるほど。そういった文章や文学を知っている文化人の中で有名な人って戦国時代にどのような人がいたの?
>>101 細川幽斎。明智光秀の友人で息子忠興の嫁は光秀の娘玉子(洗礼名ガラシャ)。
千利休。商人の出だけど武野紹鴎などに師事し、侘び茶を完成させる。
103 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 02:00:46
町・村や都市は標高の低い平野部に作られることが多いので、
多少の盛り上がりがあっても大きな差にはならない。
高いところが削れてながれくる土砂の影響の方が少し大きい
あと、立て替え時の土砂盛り上げは、十年とか数十年に一度ぐらいだし、
せいぜい数センチ程度のものだから、目立って盛り上がり具合が分かるには何百年か必要だが、
たいていの場合はそれまでに村や町それ自体が引っ越しちゃう。
昔は同じ場所で何百年よりも長く村が続くことは少なかった。
104 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 02:01:45
江戸時代の武家の跡取り息子以外は養子に入るか、一生部屋住みの
厄介者として生涯を送ったようですが。
そんな生き方は嫌だと自分で食い物屋の店を開くとか、商人になれなかったんでしょうか。
それと、跡取りのいない農家や商家に入り婿できなかったんでしょうか?
>>104 藩の役に付けない次男以下が武士からドロップアウトして職人や目明しになったりしてる
おおっびらに認めてはいなかったらしいが養う甲斐性のない藩は黙認していたらしい
106 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 09:22:27
遺跡の発掘でいつも疑問に思うのは、
きれいに古い地面の層や柱の穴などを掘り出していること。
まちがえて、古い地層の表面を深く掘りすぎてしまったり、
柱の穴の縁を必要以上に削ってしまったりしないのだろうか?
それとも層がちがえば、バームクーヘンの皮をめくるみたいに、
ある程度、軽く容易にはがすことができるのだろうか?
柱の穴なんかも、ゴミ箱の中からゴミや紙くずを取り出すみたいに
中の土を容易に軽く取り除けるのだろうか?
107 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 10:44:51
>>104 初代三遊亭円朝の父の橘家圓太郎は、本名は出淵長蔵。
長蔵の父、大五郎は加賀国大聖寺藩の江戸留守居役の長子に生まれたが、
庶子であったために、葛飾新宿村で農民となった。
長蔵は、大五郎の義弟で出淵家の当主・十郎右衛門盛季に預けられたが、
放縦な生活を好み、芸人となって音曲師の圓太郎となった。
108 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 12:18:36
源平争乱の時代、義仲が追討された直後に平家が一旦勢力を回復しますが、それは義仲が死んだことに関係しているんですか?なんで勢力を回復したんでしょうか?
>108
義仲が京都を制圧した時点では、まだまだ京都より西の地方
まあ兵庫県西部から西と和歌山県および四国以西が平氏の勢力圏だった
退勢を立て直す余力が残ってる状態だったから立て直せたってだけだろう
>>106 そういう微妙な部分の作業をするのは当然ベテランだから大丈夫なんだろう。素人考えとしては1センチ削り
すぎても大勢に影響ないと思う。
日本で一番最初に田による水耕稲作をした地域はどこでしょうか。
そういった地域でいまでもずっと水田として維持されているところはありますか?
そういうところの田を掘り返すとすごい昔の遺物なんかがでてきそうですが。
>>112 板付遺跡@博多区
空港なんだよね(^-^)
うちで遺跡調査したときはショベルでがーっと土地を削って
色の変わっているところを調査した。
で、ちょいちょいっと一箇所掘り進めて
柱の跡ですね、ってことで制限区域指定
おかげで杭打ち本数と太さが制限受けた。
115 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 21:33:02
戦国時代ごろまでは、同じ位置で長く維持され続いている村落や集落が少なく、
たいていは数百年もすれば消えていっている。
近隣の新天地へ移住する場合が多いのだろうが、詳細は不明。
したがって、田畑も集落とともに消滅し、野原や森林に変わっている。
ずっと水田を維持し続けている場所といっても、500年より長いところは極めて少ないだろうね。
ちなみに現存する田んぼの過半は明治以後に開拓されたか畑から転用されたかして作られた、、
百数十年程度しか続いていない、新しい田んぼだね。
田の一番古いのは松浦の菜畑遺跡じゃなかったっけ?
縄文終末期
まあ北部九州どこで出てもおかしくはないが
>>112 どんな物が出てくると思うのかな?水田は水田でしかない。出るのは田下駄とか石包丁とか。むしろ畑から
縄文土器の欠片が出る話の方がよくあるような。
九州や近畿の田んぼなんかだと数千年ずっと田んぼというようなところがあるんじゃないかと
思ったのですがそうでもないんですね。
水田で仕事をしているあいだにものを落とすとまず見つからないので
生活用品なんかがそのまま埋まっているんじゃないかと思いました。
>>115 wikipedia「条里制」を見ると、古代から中世後期にかけての土地区画制度である条里制の地割りが
全国各地に残ってる様だよ。
農耕可能な条件が長期にわたって続いた場所ではそういう場所もあり得る
だが、そう言う場所は決して多くは無い
源頼朝が鎌倉幕府を成立させるまでに平将門について言及した記録は
ありますか?関東における武家の京都政権からの独立志向といういう意味では
かなり関係があると思うのですが。
当時の関東の武家は頼朝に将門のイメージを重ね合わせたりしなかったのでしょうか。
>119
古い条里制の名残だと思われていた地割が実は鎌倉期の再開発時のものだったなんて例も珍しくないだろう
太宰府条里遺構とかも(地割りが残っているわけではなくて遺構に過ぎないが)
平安末期や鎌倉期のものだったしな。
>>122 そう言えば、著書もいくつか出していた高校時代の歴史教師が「登呂遺跡は実は条里制遺構じゃないか?」という疑念を抱いていると口にしたことがあったが、その後どうなったのかが分からないのが惜しい。
124 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 18:05:24
誰かこれ立ててくれませんか
【書紀】日本史で読む漢文(含日本漢文)【外史】
日本史で読む漢文に関する話、質問や雑談等何でも可
江戸時代 米の生産高と人口とで計算すると1人1日あたり4合食べてることになるんでしょうか?
もともとの、最初の検地の段階では、
農業生産に使うことのできない屋敷地なども田地として扱った。
それも、屋敷地は基本的に「上田(じょうでん)」で、最も収穫率の高い田地の扱い。
ので、実際の米の収穫量よりも高い数字が設定されていたはず。
江戸時代前半期には各地で開墾が進められたので、すぐに逆転して、
名目上の石高「表高」より実際の収穫の方が多いところが増えただろうけど。
逆に、商品経済の進展で、田地から商品作物のための畑へと転用が進んだ地域も多いので、
ひょっとしたら江戸時代後半にも、「表高」より米の収穫量の方が少なかったかもしれない。
このあたり、精度の高い統計がないので分からないんじゃないかな。
よく昔の名前でO介ってあるけど、これも官名由来ですか?
>>125 126さんに補足します。
磯田道史『武士の家計簿』によると、猪山信之(1775〜1849)は知行70石でしたが、
収入は玄米22石+銀34.5匁(玄米0.5石ほど)でした。
>129
知行の高が70石として、
四公六民なら収入28石ぐらいで、28石のモミを玄米にすると22石、って程度だろうか。
それとも、六公四民だが財政難で俸給半減して21石、みたいなレベルだろうか。
>128
副長官の「スケ」は様々な文字が使われているぞ。
「介」は国司の次官だけ。
衛府とかの副官なら佐だし京官の次官は亮だし、ほかにも弼とか弐(大弐・少弐)とか、たくさんある。
中世における寺社勢力に関する研究のあゆみについて調べたいのですが、
初心者ゆえに何をしていいのやら皆目見当がつかない状況です。
おおまかな流れを掴むための本などを教えてください。
132 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:10:00
官位官職込みの名乗りにおいて官位不相当の時に挿まれる「行」・「守」ですが、
当時からそのまま「ぎょう」・「しゅ」と読むのが正しかったのでしょうか?
どちらかの正式な読み方に「つしな」なるものがある、と聞いたことがあるのですが…
いえいえ、疑問を解決して余るほど参考になりました。
ぴったり解答な263に加えて、相当時と非相当時で位階と官職の順番が
入れ替わるなんていう264がさらにためになりました。
ありがとうございます。
戦国板の逸話スレで、源平から室町の逸話スレ要望が出てるんだが、立ててみてもいいか?
武士の呼称に関してです
新撰組では「〜君」呼びを使っていたようですが、元はいつ頃から使われだしたんでしょうか
また、
福沢諭吉が「自分からは上級武士へは『貴方』、向こうからは『貴様』と呼ばれる」と語っており、
これが帝國軍内での貴様呼びに継承されたのだと思いますが
そもそも「お主」呼びから「貴様」呼びに変わったのはいつ頃からですか?
戦国期の衆道ですが戦場に女を連れていくのが足手まといだから美少年を性処理のために連れて行ったらしいですが
現地調達はやはり厳しいのでしょうか??
普通なら泣き叫ぶ娘を(以下省略)・・・となるような気が・・・
農奴に手だししたら、占領した後に年貢が取れない。だからダメ。
でも落城した武家の婦女子を狙うのはok。
139 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 20:54:25
農奴制(のうどせい、英: Serfdom)は、一般的に封建制のもとで行われる統治制度。農民は自身が耕す土地に拘束され、賦役、貢納といった義務を果たした。
>138
実際には、略奪や人さらいが珍しくなかったことを示す文書も多く見つかってるようだ。
>137
現地の抵抗が厳しいことも多いし、抵抗できないような村は山野に逃げて無人。
中世の惣村とか町衆自治は武器と金に支えられてるからな
都道府県や市町村の郷土研究雑誌とかレポート見ると面白い
田畑用水路とか入会地の利用を巡ってゲリラ戦とか焼き討ちを300年近く断続的にしていた地域もある。
>>141 日本も21世紀になってもまだやっているんですか?
>141
ほ・ん・と・うにその種のモノを読んでいるのなら
くだらないコト書く前にマトモな回答をしてやれよ(苦笑
せいぜい藤木氏の著作かそのコピペをみただけの素人回答では無いヤツをな
今日、中尊寺いってきたんです。
でハタ!と疑問がわきました、「松尾芭蕉は拝観料を払ったのだろうか?」と。
時代はいつでもいいんですが、名刹・観光名所などでの参拝料や拝観料はあったのでしょうか?
>>145 芭蕉が行った頃は金色堂も荒れていたくらいで拝観料など取ってない。
>>144 その人誰?w
俺が読んだ事あるのは京都府内、大阪府内、兵庫県内のモノばかりだけどな。
特に旧摂津国に関しては江戸時代に幕府の直轄領になって惣村自治が強く残って有力農家から多数の文書が資料として見つかってるよ。
まあ君はイチャモンつけるぐらいしかできんのだろうなww
明治期の楢原陳政という外交官、名前の読み方は「ならはら・のぶまさ」でよいのでしょうか?
ググって調べたら「ちんせい」と読んでいるページもあったもので、気になりまして
日本近代史板で訊こうと思ったのですが、むこうには、質問スレってないのでしょうか?
>>147 マジレスすると、藤木久志のことじゃないか?
小和田哲男と並んで戦国史マニアの間では変に熱心な支持者が多い。
>>148 近代史板には質問スレはないみたいだ。
ただし、有職読みとか言ってわざと音読みする場合もあるからどっちも正しい可能性もある。
>>145 うちの父ちゃん(昭和10年生まれ)は、青年の頃
京都のお寺でよく野球やっていたんだって
その頃は拝観料とかなくてと言ってた。
>小和田哲男と並んで戦国史マニアの間では変に熱心な支持者が多い
その多いらしい支持者とやらはどこに行けば会えるんだ(苦笑
2chに来たのは最近かい?
152 :
151:2010/10/18(月) 23:53:33
↑小和田哲男氏のことね藤木氏では無い
度会氏 松木姓の家紋は何ですか?
教えて下さい。
台与はトヨと読むのに邪馬台国はなんでヤマトコクと読まないんでしょうか。
>>154 邪馬台国を「ヤマトコク」とよんだら、恐れ多くも万世一系、無謬の存在である本朝が、シナに貢納する属国であったことになるので、「臺」を「壹」の誤記としたんだよ。戦前の学者が。
戦前は倭の五王はアレは朝貢だったことになってたのか?
それとも倭の五王=天皇とは同定されていなかったのか?
江戸時代の江戸は男の比率がかなり高かったと
本に書いてあったのですが、
という事は江戸以外では女の比率が高かったのでしょうか?
それはいまでも同じじゃないか
今はどういう状況なんですか?
161 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 14:11:34
地方から出稼ぎに出てきた人間の比率が高く、
江戸・東京で生まれ育った人間の比率が低いから。
出稼ぎに出る人間は男の割合が高いので、必然的に、住人の人口比も男の割合が高くなる。
ただ、医療技術が高くなった現代では死亡率が低いので、
昔の江戸ほどには外部流入者の比率が高くはならないだろ。
江戸時代だと、周辺地域、ほぼ1地方の範囲で人口増加が止まるほどハイペースで流入を続けたほどだ。
つまり、関東地方全域の人口増加分を江戸という都市が消費した。
(同様に、近畿地方全域の人口増加分を京都と大坂で消費した)
女の出稼ぎも無いわけではないが、昔は男の出稼ぎより大幅に少なかったしな。
そうすると、江戸以外の所では
出稼ぎに行かない分だけ相対的に
女性の比率が高くなっていったのですか?
163 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 16:39:28
>>157 学者の世界では周知のことでも、
一般の教育では完全スルーだったはず。
戦前の国史教科書の上古のあたりは、
記紀神話に基づく英雄物語にすぎない。
164 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 17:47:51
>>158 既に回答されてる地方からの出稼ぎ人の流入(これは社会問題化している)のほか、
参勤交代による勤番侍の存在もある。
江戸の半数は武家人口だが、大名の江戸屋敷には単身赴任の勤番侍がいっぱいいたから、
いまでいうファーストフードみたいな食生活がわりと充実していた。
165 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 21:05:22
まあ寿司もファストフードだわなw
天ぷらも蕎麦切りもファストフードです。
すしは元々屋台で売ってたものらしいな
168 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 21:50:14
江戸幕府の御家人には、町方役人以外にも与力・同心が各部署にいたようですが、
どういう仕事をしていたのですか?
内偵捜査。
人事考課とか不正摘発の。
でも与力や同心自体が収賄して色んな事をもみ消すケースが多かったとか。
小録なので役得前提で動く人が多くなるのは今の警察の現場と一緒。
170 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 04:52:48
大鎧は騎乗時、鐙に重量を委託していたといいますが、
重量を鐙にどうやって伝えていたのでしょう?
たとえば、直に鎧を鐙に載せることができたのでしょうか?
171 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 06:36:11
おっと鐙じゃなくて鞍ですねすみません
はりぼて構造
>>170 騎乗すると鎧が鞍に載る構造だったようです。
わからないけど、日本の江戸時代までの鞍って、木製で、前後に逆U字の出っ張りがあるような
そこと鎌倉式の大鎧の胴回りの下部が当たれば、ある程度は重さが武者にとっては軽減されるだろうね
安土桃山時代のような体のラインに合わせた鎧では無理だろうけど
175 :
170:2010/10/28(木) 17:28:37
176 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 17:32:00
177 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 01:57:32
門外漢素人の疑問です。
江戸時代末期に、頭のいい学者みたいな人の多くはオランダ語を勉強したそうですが、
そうこうするうちにすぐに、現在まで続く、英語の方がずっとつぶしがきく時代になっちゃいましたよね。
そういうふうに時代が激変したため、オランダ語なんかを勉強しちゃったばかりに、ろくな活躍もできずに
貧乏なままだった人って多かったのでしょうか?
それとも、みんなすぐに気持を切り替えて英語を勉強しなおしてエリートの道を進んだのでしょうか?
エリートで有能な人たちの学ぶべき外国語が、中国語(漢文)からオランダ語、そして英語と変化していく
スピードがむちゃくちゃ早かったと思うんです。
質問です。
近代以前、中国王朝の公式な使者が日本に来たのって、
卑弥呼の時と、聖徳太子の時と、元寇の時だけですか?
唐の時代に来たことがなかったっけ?
あと、足利義満が臣従した時と豊臣秀吉が明と和平交渉した時
180 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 17:42:32
>>177 切り替えた人はわりと多かったんじゃないかな。
福沢諭吉は有名だけど、長崎のオランダ通詞からも英語通訳や外交官になった人がいるし、
もともとオランダ語も英語も同じゲルマン系の言語だから、オランダ語の素養があったら、
英語とかドイツ語の習得はゼロからはじめる場合よりずっと早いでしょう。
英語の習得者は長崎よりも横浜の方が多かったみたいだね。
開国後横浜に英米の領事館が置かれ事務交渉をしたり下働きなどをする中でどうしても英語が必要だったとか。
182 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:03:54
そういえば、「坂の上の雲」の秋山好古の奥さんのオヤジ(元旗本)は、
ドイツ語を習得して明治初期に東大の前身の学校で教えてたらしい。
だから、あの佐久間家とかいう家は、好古が下宿していた頃も昔のお屋敷住まいで、
他の旧幕臣みたいに人力車夫に転落せずにすんでたのか。
183 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:21:19
>>177 >>180 嘘か本当か漢文(中国語)も基本SVO式なんで明治の漢籍を嗜んでいた人間は
英語の習得も早かった…なんて話を聞いたことがあるがw
漢籍はそうだけど、隋唐〜元の間は文法が滅茶苦茶だからw
坊さんはそんなに古い時代の漢文を読んでないから無理だよね。
現代中文は、句読点があるから品詞分解できるけど
仏教経文はいろいろ解釈できて、いろんな新興宗教が立てられるww
185 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:28:18
「鳴かぬなら〜」の川柳?俳句?は誰が作ったんですか?
日本の近代史を知るのにおすすめの本を教えてもらえないでしょうか。
出来れば、新書、文庫本サイズのを。(通勤中車内で読みたいので)
よろしくお願いします。
188 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 21:21:44
>>187 詠み人知らずってやつですか。
田沼のにごり〜も詠み人知らずですか?
189 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 21:31:09
>>186 岩波ジュニア新書の「日本の歴史」シリーズの近代以降の巻がいいよ。
田中彰の「明治維新」とか。
>>188 落首ってのは誰が書いたか判らない様にやる物でしょ。
首が落ちるかもしれんからな
落首ってそういう意味だったのか
違うだろ
でもまあ、作成者の身元がバレたら首が落ちるようなレベルの物が高頻度で含まれてることだけは事実だな。
192の言うような意味ではないんだけど。
本当に191のギャグは上手いな。
195 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 09:55:29
落首っていうのは、オチのある歌(和歌は一首、二首と数える)だから?
便所の落書きだから
おっちくび
198 :
177:2010/11/03(水) 15:17:47
>>180-184 レスありがとうこざいました
こういうトリビアみたいな話が大好きなのですごくうれしいです
199 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 01:14:05
江戸時代後期の町人の女の子の着ている着物の名称ってありますか?
小袖でいいのでしょうか?
200 :
199:2010/11/04(木) 21:48:12
解決しました。
201 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 16:14:06
確か鎌倉時代の頃だと思いますが、手拍子をしながら「近頃都に流行る物〜(?)」と言うような歌や遊びがあったと思いますが思い出せません。分かる方いらっしゃいますか?
>>201 それって二条河原の落書じゃねぇの?
「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨」(以下略)
203 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 18:49:38
考古学の上で天皇家はどこまで遡ることができるのか教えてください。
考古学じゃ天皇家かどうか確定できないんじゃないかな。
で、有史は推古朝から
>203
異なる系統の家系に政権が移ったっぽく思えなくはない事例が無くなるのは
たぶん、継体か欽明あたりからだろう。
もっとも、「異なる系統」の意味を拡大解釈すれば、奈良時代末にも系統が変わってるが。
206 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 19:22:18
>>203 うーん、そうですよね。
稲荷山古墳の金錯銘鉄剣にある獲加多支鹵大王をワカタケル大王(雄略天皇)
と読む説があるらしいですけど。
207 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:01:31
説があるってかそれが一番有力でしょいまのところ
208 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:27:47
209 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:42:09
質問させていただきます
ww2終結直後にGHQか何かの前で手のひらにペンを突き刺し「ペンでも武器になるのです」みたいなことを言い、
復興にトラックを使うことを許可させた人物は誰でしょうか
記憶が曖昧なので↑で述べたことにも間違いがあるかもしれません
伊藤博文はビスマルク崇拝者、というビゴーの風刺画だと思うが
明治憲法のプロイセン憲法への傾倒を意味するから設問に反する
211 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 00:33:39
>>210 ご丁寧にレスをして頂き有難うございました。
検索したらありました。
助かりました。
>>209 白洲正一に似たようなエピソードがあったようななかったような
すいません、教えてください。
鎌倉幕府の税制についてです。
御恩と奉公という形で土地の所有権を保証して軍役を課すほかは、
土地からの収穫物は幕府に納める必要はなかったのでしょうか?
地頭に収奪の権利を保証しますが、収奪物は幕府に入ってきたのでしょうか?
収奪という言葉は適切ではないと思いますが、今他の言葉が見つかりません。
幕府の財源は何だったのでしょう?
有力御家人に土地保証をすることだけで、政務などの立場につかせて働かせたのでしょうか?
>213
ほんの数カ国とはいえ、幕府の裁量で国司を決定できる国があることも忘れないで。
関東御領国とかいうの。
幕府から朝廷に推薦した人事が素通りで通る国があったわけ。
土地からの収穫物は地頭を経由して荘園領主のものになります。
そこには幕府の取り分はありません。
幕府の収入は、関東御分国(将軍の知行国)と関東御領(将軍を荘園領主とする荘園)です。
得宗家が関東御領の収入を徴収していた?
>>216 そこだよね。関東御領はもともと将軍家の荘園なんだけど、
実朝暗殺以後は誰がどのような形で上がりを得てたんだろうと思う。
それに関して言えば4代目以降の将軍の収入源はどうなっていたんだろう。
地頭は奉公には経済的なものもあるよ。
例えば、幕府がやるべき工事や儀式に必要なヒトやモノは御家人が負担して幕府がやったことにする。
幕府の財源について質問したものです。
将軍個人の収入源はあっても、幕府の財源というのとは違う気がします。
将軍の収入から幕府の財政に回したりしたのでしょうか?
褒美をとらすのとは違って政所に就いた人には特に手当てを支給したとか、
就任期間中にのみあてがわれる田んぼがあったとかそういうことはあったのでしょうか?
税制とはずれてしまって申し訳ないです。
税は奉公のみなのですねありがとうございます。
私の質問
御家人に対する税負担が奉公の他に年貢のようなものがあったのか?
と幕府の収入とごっちゃになってますね。
すみません
そもそも、幕府とは将軍家の家政機関。
従って、将軍の分国や荘園などの私領が財政基盤。
鎌倉幕府は政治的に全国を統治していたわけではないので、その程度でも間に合った。
寺院の造営など巨額の出費が必要な時は、段銭と呼ばれる臨時の税を任意の数ヶ国に課した。
室町幕府は頻繁に段銭を課したので、実質上恒常的な税となった。
なるほど色々とご教示ありがとうございました。ためになりました。
そもそも、古代や近代とちがって中世では公的機関と家政機関の区別が曖昧。
あと、中世の「イエ」ってのは、現代社会で言えば会社組織のような、法人のような役割を持ってるから、
個人資産とか個人収入と思って理解すると勘違いの元。
224 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 22:31:21
上杉景勝は
最近読んだ戦国武将の紹介本に出てませんでした
100人以上も紹介されている中で、取り上げられていないのは
なぜでしょうか?
豊臣政権の五大老の1人でありながら、この扱いって・・・
武将としての実績、政治力や武力はあまり大したことないのですか?
素人の質問で恐縮ですが、思い当たる節があったら教えてください
越後国内の予選勝利者という実績はあるわな
>>224 そんな事はその本の出版元に訊け。著者が個人的に嫌いなだけかもしれないし、
知名度が低いと思い込んでるのかもしれん。
>>213 必要はありました。幕府の行事・公事費用や番役の為に。
「関東御公事」という武家役です。いわば政所の維持費ですが、
賦課・統轄は、当然政所自身が行っていました。
ただし作事普請の類は御家人が直接払ったりすることもあったようですが
これは建築主の寺社と施工主の業者が絡むことなので。普通は段銭徴収。
もしこういう負担がなくて将軍や得宗家の私領だけで賄えてたのなら
元寇の後でも、幕府は大して困らず、御家人の困窮が加速することもないんであって。
>227
そうか、後醍醐天皇の蜂起で楠やら赤松やらを鎮圧するための軍事行動でも
動員される御家人だけでなく、動員を免れる御家人達も負担があって苦しかったから、
その困窮ゆえに新田らが挙兵したわけだしなあ。
日本が外国とした戦争で抜けてるものを教えてください
------
大和政権の朝鮮半島進出
白村江の戦い
文永の役、弘安の役
文禄の役、慶長の役
薩英戦争
日清戦争
日露戦争
第一次世界大戦
第二次世界大戦
230 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 12:16:14
失礼、上げるの忘れてました
何で薩英戦争が有って下関戦争が無いんだ。
どれぐらいの規模まで入れればいいかわからないけど
刀伊の入寇、応永の外寇、ノモンハン事件、義和団の乱、シベリア出兵等々まだけっこうあるんじゃね
233 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 15:59:22
>>231 あ、そうですね。歴史あまり詳しくないもので、、、
>>232 明治維新までとしましょうか。それ以降はややこしいので。
あと、向こうの政府が関与してなさそうなのも除外したいです。
日本が外国とした戦争で抜けてるものを教えてください
------
大和政権の朝鮮半島進出
白村江の戦い
応永の外寇
文永の役、弘安の役
文禄の役、慶長の役
下関戦争
薩英戦争
刀伊の入寇は?
>>234 調べたら、どうもあっちの政府は関与してなさそうな感じなんで、、
明治維新以前で、日本が外国とした戦争で抜けてるものを教えてください
------
大和政権の朝鮮半島進出
白村江の戦い
応永の外寇
文永の役、弘安の役
文禄の役、慶長の役
下関戦争
薩英戦争
江戸時代に度々銭湯の混浴禁止令が出されたとか
それでも改まらず、明治に男湯と女湯の完全分離が断行されるとか
ということは、職業として異性と一緒にいる人がいたわけで
>>236 まあそうだな。宿場の低俗な売春婦のことだ。
>>236 江戸時代は吉原とか島原みたいな幕府公認の遊郭以外での売春が禁止されていた。
しかし、家が窮乏したなどの理由でお上に隠れて売春する女子は後を絶たなかった。
だから湯女みたいに表向きは職業を隠して売春が行われていたんだな。
幕府公認の〜とあるが、江戸以外の性処理産業は街道沿いにいる飯盛女とのSEXぐらいしか無かったの?
>>240 売春婦がたむろする「売春街」は昔からあったよ。
たとえば、都のあった京ならば、土地を所有すれば税金がかかるが
川の流れで場所が移動する川の中州などは税金がかからなかった、
だから、鴨川の中州などに売春宿があったらしい。
あとは、淀川に舟を浮かべて春を売ったり。
かの藤原道長もたまたま用事で淀川を下った際、
昵懇にしていた売春婦たちに追いかけられて大変な思いをしている。
「遊郭」を幕府認可制にしたのは江戸時代から。
というのも江戸幕府が風紀を重んじたためで、
その辺にいた売春婦を一角に囲って外界に触れないようにし、
一般社会の風紀の乱れを嫌ったため。
日本人というのは安土桃山時代頃まで着付けもゆったりで、
胸元もあけて着物を着ていたが、
江戸時代に入るととにかく肌を見せないことが第一の美徳で
特に女性は手を挙げるときには必ず袖を抑えて腕も見せない徹底ぶりだった。
女性が舞い踊り男性が見物することも風紀が乱れると禁じて
男性だけが踊る歌舞伎になったのも江戸幕府の風紀規制によるものだった。
>240
解答は出尽くしてる気がするが、ちょっとだけ付け足し。
産業じゃない場合は、おおらかだったらしい。
身分が高い人と接する女性は別だが。
別だがったって暴れん坊将軍吉宗だって風呂場でお手が付いて出来た子じゃん。
信長、秀吉、家康の記録に残っている生涯で一番西、一番東に行ったのって
どこになるんでしょうか?
信長は大阪よりも西に行った事あるのでしょうか?
また家康は西は大阪、東は日光よりでしょうか?
歴史的に天皇断絶の危機だったのって
・蘇我氏がもうちょっと生きていたら
・信長があのまま生きて天下統一していたら
・戦後のマッカーサーが存続を主張していなかったら
この3つ以外にある?
そもそもその3つが天皇家断絶の危機だと言える根拠はあるのかね?
ホワイトハウスはポツダムの時点で昭和天皇を死刑にする方向で動いていて
その延長線上で日本の問題点は神道とか天皇制とかと考えて、完全排除するつもりだったはず
でも、マッカーサーが猛反対で結局残したんじゃないの?
マッカーサーがいなかったら天皇制はかなり危険な状態だったと思うが
じゃあ何故マッカーサーが反対したと思うんだね?
249 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:02:23
ホワイトハウスがサヨクに支配されていると思ったから
>>248 反対したいと思ったから
あ、確実に言われそうだから
なぜ反対したいと思ったかと思えば、そう思ったから
>>250 お前小学生か?少なくとも学問板に来るのにはまだ幼い。
252 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:17:27
>>246 あれ?
蘇我入鹿が大王を無きものにして、自分が支配者になろうとしてたのは有名じゃないの?
で、その前に殺されたから事なきを得たが
>>252 それは中大兄が主張していることであって、
蘇我の本音は古人大兄を担いで傀儡政権を作ることじゃなかったのか?
254 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:58:56
[氏][官職][位階][本姓][(ここから下は位階によって色々朝臣カオス・文献別で言ってる事違うし…)]と、
よく見る名乗りの順番はなってますが、位階の高低でそれが先頭に来る場合がありませんでしたっけ?
いつも分からなくなる、行官・守官絡みだったような気もしますが、気のせいでしょうか。
>>245 足利義満が長生きしていたら
天皇家は断絶し、足利氏が治天の家系になっていたかも。
細川政元が長生きしていたら
天皇家は全員餓死していたかも
承久の乱
朝廷は非常に危機感をもったが、幕府に全国の行政を司る能力が無かったので、都合の良い天皇を立てた
>>244 信長・・・ 東/甲斐 西/摂津(?)
秀吉・・・ 東/会津 西/肥前名護屋
家康・・・ 東/岩出山(宮城県大崎) 西/肥前名護屋
多分ね
秀吉の場合、九州平定時に鹿児島県薩摩川内市で一泊し島津氏の降伏を確かめて中央へ凱旋したから、
微妙にこちらの方が西のような気がする。
(降伏後の統治をやりやすくするために、鹿児島市には入城しなかった)
258 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 02:25:31
>243
ちゃうやん。
高貴な人と会うことがあるような女性が別の男と会うことに関して厳しく制限されたって事で。
お手つきになる可能性がある以上、別の男と会うことはまかりならぬ。!
>245
それ、3つとも断絶の危機ではない。
むしろ。
・継体天皇の出現前後
これが大きな危機だと思う。
>247
米国上層部では、天皇制を残す方が日本の統治に有利という判断が主流で、
他の同盟国の天皇制廃止論が影響しないようにする必要からの、米国による単独占領を必須と考えていたわけですから、
天皇制の廃止は大統領自身も周辺ブレーンも含めて考えていなかったようです。
(少数意見としては、上層部にも存在したようですが、その多くがニューディール派でトルーマン新大統領とは意見が合わなかったらしい)
マッカーサーが体を張って天皇制を残そうとした話はマッカーサー自伝による創作です。
>252
それは日本書紀が大化の改新を正当化するために書いている創作話でしょ。
あくまでも、後代の藤原氏に似た立ち位置を望んでいたとしか思えません。
>254
何回か制度が変わっているので、時間を飛び越えて並べると混乱してるように見えるのはしかたがないでしょう。
>255
少なくとも形式面で見る限り、
・幕府軍の乱入・乱暴を避けたがった朝廷の全体意見によって、
幕府との対決を主張していた後鳥羽廃立と近臣の処断を先におこなっておいて、
幕府の介入を最小限にしようとした
ついで、後継天皇の決定に際して幕府の要望を受け入れた
(当時の都人たちは関東の人を禽獣のごとく思って恐れてたから)
といっても、このとき皇位継承権がある皇族に、後鳥羽による倒幕に荷担していない人物が少なすぎたから、
ほとんど選択の余地はなかったみたいだけどね。
むしろ、この数十年後の、次の継承問題が深刻だったのではないかと。
>>254 >>133のリンク先の263を見たんじゃないのか?
263 :名無し募集中。。。 :2010/06/17(木) 23:51:18.98 0
>>259 官位相当の原則にあって職掌が位階よりも低い場合には 位 行 官職 と書く
この行を「つしな」と読む
また職掌が位階よりも高い場合は 位 守 官職 と書く
この守を「まもる」と読む
ちなみに官位相当の場合は 官職 位 の順で書く
わざわざ入れ替えてみたりするこんな称し方考えた奴って、
ぜってー悪意あるよな。どこの暇な公家だよ
署名の通例をまとめてみた
@「摂政・関白」「将軍」「参議」「蔵人」「検非違使」は全ての役職に優先して、まずこれを書く。
(「将軍」と「参議」を兼任している場合では、「将軍」を先に書く
A官位が相当している場合、役職を先に、次に位階を書く。
B複数の役職を兼任しており、いずれも官位が相当している場合、『兼〔けん〕』の文字を付記し、各役職は、文官→武官→外官の優先順位で書く
兼を省略する場合もあり
C官位が相当していない場合、位階を先に、次に役職を書き、両者の間に以下の文字を付記します。
<行> ぎょう 官位相当よりも低い役職の時
<守> しゅ 官位相当よりも高い役職の時
D官位相当の職と相当でない職を兼任してる時は<官位相当の職>+<官位>+<行or守>+<官位相当でない職>
E現職がない場合は『散位』と記します。ただし、過去に「参議」以上の重職を勤めたことのある人は「前右大臣」「前参議」などと書きます
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_kanshoku.html
おい、そんで
>>235は合ってんだな?返事がないってことは
265 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 15:27:56
転封が無かったので上下が一体化しており
領民に懐かれた藩って庄内藩しか知らないのですが他にありますか?
前橋藩は藩主が戻ってくるように運動があったそうですね。
大分県は小藩分立で県民性はバラバラとも言いますが山形県も庄内、米沢、山形、天童、新庄などでバラバラなんですか?
大分も山形もバラバラです。10〜20の地域の寄せ集めです。
お互いに意志疎通が困難だった歴史があるので
そのバラバラな反面、標準語が早くから普及しています。
イントネーションはまちまちの標準語ですが、大分や山形の住民は
すごく冗長なまわりくどい言い回しをしますので、とてもとても「よだきい」です。
「イラチ」な人はストレスが溜まると思います。
そのせいか、熊本市や仙台市の住民とは、ウマがあいません。
267 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 00:55:08
日本で民家の窓にガラスが使われるようになったのはいつ頃からなのでしょうか?
(外国人の家は除く)おそらく明治以降だとは思いますが、具体的には何年頃から
普及し始めたのでしょうか。
>265
転封が無かった藩は少なくないけど、
上下が一体化しており、領民に懐かれた藩
となると少ない気がするなあ。
薩摩とか長州の場合はどうだろうね?
>大分県は小藩分立で県民性はバラバラとも言いますが山形県も庄内、米沢、山形、天童、新庄などでバラバラなんですか?
大阪府も小藩乱立だけど、それほどムチャクチャに県民性(?)がバラバラって事はないな。
幕府直轄地が大半って事もあるかもしれんけど。
狭山藩(北条氏)とか岸和田藩、高槻藩等、いくつもの小藩が府内に分立してはいたよ。
>267
一般普及は高度成長期ごろじゃないの?
それまでは贅沢品だったんじゃないかなあ。
200mm X 200mm ぐらいの板ガラスだろうね
>>268 戦時中の窓ガラスに飛散防止の紙テープ貼ってるじゃん
272 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 02:42:56
森田芳光が『こころ』を撮影するとき明治の時代を感じさせるガラスが欲しいと方方に探させ
東北の郵便局に残っていたガラスを借用したという話を思い出した
明治の頃の小説でも読み散らせば見当はつくんじゃねぃ
確か漱石三部作のラスト、零落した主人公の借家にもガラス云云という記述があった希ガス
つーても漱石なんか読んでたのは四半世紀も前の話なので俺の記憶がとっちらかしている鴨
あたまにきたので、今日からこのスレを荒らすことにします
俺は
べつに学校の
宿題できいたんじゃねーんだよ
ぐぐれカスってか?
ぐぐっても出てこねーからきいてんだろ
あまりにも基礎情報だと逆に摘出しづらいのがインターネットってもんだろ
いくら歴史勉強してもバカはバカだからそんなこともわかんねーんだろ
バカが歴史を勉強しても
「歴史に詳しいバカ」 が一人増えるだけ
そんなバカが歴史知ってるからって政治に口出されても迷惑・悪影響なんだよ
たーーーたきだせーーーーーーーw
w
また何度も何度も来ます
282 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 14:00:02
>>277 住宅史は基礎情報なんかではなく
建築工学や生活科学系の専門情報だぞ。
テレビドラマの時代公証など文献や絵図を解釈して
作っている難しい分野だ。
284 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 15:14:57
幕末あたりの剣豪や達人て言われる人物は現代の価値観では強いと言えますか?大抵は160センチ代?下手したら150センチ代の女子並みの体ではたいした事ないですよね?笑
>>284 実戦でバサバサ人斬りまくってた人間が真剣持って目の前にいたら、
たとえ身長が低くて女の子並でも怖ろしいだろ
たとえ同じ条件でも(こっちも真剣持っていたとしても)俺はぜったい戦いたくないが
帰ったぞ
あいさつはどうした
287 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 01:56:37
もしかして基本的な事かもしれませんが
意外によく知らなかったので教えてください
江戸時代の京都や大阪って誰がどういう形で支配してたの?
江戸幕府の直轄地?
京都は天皇の直轄地?
大阪城の殿様っていないですよね
もっといえば幕末でいうところの
幕府側、倒幕派でいったら京都大阪はどういう立場だったの?
>>268-269>>271 ありがとうございました。
>>287 京都は京都所司代(幕末は京都守護職)、大坂は大坂城代では?
いずれも幕府直轄地だったはず。
幕末も支配者はあくまで幕府。
だからこそ倒幕派は新撰組(幕府側)から逃げ回ってたわけで。
289 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 02:19:54
江戸幕府で言えば
吉宗以降から慶喜までの将軍ってほとんど語られる事がないが
形式的にいただけではっきり言って歴史的に見ても無価値なものなの?
いわば今の天皇みたいなもの?
ただいただけで政治的な要素がないからあまり重要な人物ではないって感じ
50年も将軍やってた奴もいても、下が決めた事をただ追認してるだけ?
>>289 そういうシステムを確立したからこそ吉宗も安心して家重を後継者に出来たとも言えるかな。
でも歴史的に見て無価値では無い。11代家斉はいっぱい子供つくって諸藩の養子に押し込んでる。
12代家慶は天保の改革が天下を混乱させる事を悟るとこれを取りやめて、水野忠邦を謹慎させている。
14代家茂は後の慶喜同様幕末の混乱の中を舵取りする筈だったが若死にしてしまった。それでも和宮の
降嫁によって公武合体を成している。
>>289 政治的な見地から見ただけで「歴史的に無価値」というのはいかがなものかと。
日本史の教科書が政治史偏重になっているからかもしれないが
(それでも近年は社会史や文化史、生活史なども結構取り扱うようになっている)
その理屈で言えば天皇は歴史的に無価値とでも?
天皇の歴史的地位と祭祀や伝統文化の継承、諸外国から見た位置づけ等等を
ふまえただけでも天皇=歴史的に無価値という解釈はあまりにも表層的で浅薄な理解だろう。
292 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 20:28:02
>その理屈で言えば天皇は歴史的に無価値とでも?
室町や江戸の天皇とか継承し続けたと言う意味では価値はあるけど
日本の歴史にとって重大な功績を残したと言うと疑問
まぁ存在価値はあったが、空気みたいなものであまり意識はしない存在ってのが正しいかな
天皇機関説
重大な功績w
君はその功績を数値化して序列化でもできるのかね?
その序列によって価値指数が決まるんだな
その序列を教えてくれや
295 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 00:08:47
>>289 >江戸幕府で言えば
>吉宗以降から慶喜までの将軍ってほとんど語られる事がないが
そもそもその前提がおかしい
家斉とか家慶とか普通に歴史上の有名人じゃん
日本史好き以外は家康難かと比較するからマイナーかも知れんが、
日本史好きだと徳川将軍全員とか普通に言えるはず
たぶん教科書にも載ってるだろ?
>>287 >>288が知識も無いのに出鱈目書いているが無視して。
大坂城代は大坂在住の幕府役人の統括、大坂城の防御、西国諸藩の監視が任務。
>江戸時代の京都や大阪って誰がどういう形で支配してたの?
同じ江戸時代でも変化しているので「大坂町奉行 京都所司代 京都町奉行 京都代官」を
検索した方がここで中途半端に回答するよりも正確に理解できると思います。
>幕末でいうところの幕府側、倒幕派でいったら京都大阪はどういう立場だったの
戦国時代の堺や下京をイメージしているのであれば、そういうことはありませんでした。
江戸時代を通じて京・大坂は江戸幕府の支配下にありました。
297 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:48:21
戦前の右翼団体の名前を見ると○○社ってのが多いと思うのですが
この社という漢字に鼻にか意味があるのでしょうか?
また、○○社の代表名は社長になるの?
秘密結社の「社」
社稷の「社」
牛の耳から血を啜って盟約を結びます。
秘密儀式は血盟といって、家畜を犠牲にする祭祀であり
地縁・血縁が無いものが新たな縁を結ぶものです。
代表者は、領袖でも頭袖でもそこの用語で呼ばれマチマチ
299 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 16:55:07
これは掛川城だな
にしてもよそのカップルの写真の背景を気にするなんて気になるな
掛川城かな
横レスだがおまいらすごいな…
>296
そうだな。
オレの居住市は大阪市に隣接する衛星都市だが、
市内の諸村の領主は旗本、大坂城代、京都所司代、某大名領(飛び地)などが入り乱れてはいた。
たしか、旗本領と京都所司代領と京都代官が多かった気がする。
305 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 09:16:32
聖徳太子が立て焼失した旧の法隆寺ですが、なぜ「若草伽藍」と呼称されるのでしょうか?
何かの文献にその呼称名が出ているのでしょうか?
307 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 08:39:55
>>306 もっと古い時代からの呼称だと思っていたんだけど、意外と新しいですね
回答ありがとう
たまたま今上陛下のウィキ見てたら、皇太子時代に後奈良天皇に言及したことがある、
ってな記述があったんだけどソース等々知ってる人います?
>>309 山って書いたの俺だけどさ、すぐあとの
>>88で山じゃなくて湿原と突っ込まれてるやん。
河内も古くは16郡だったんだろうが、幕末明治には19の郡に分かれてたな。
いつ増えたんだろう。
郡の分割や再編は平安時代中期あたりまでには終わったはずだから、
それよりは古い話だよな?
明治期の郡の再編で、中河内と南河内の両郡がそれぞれ約8郡を合併させたものなのに対し、
北河内郡は旧三郡だけしかないから、北河内地域は中〜南部ほど細分化されてはいなかったと思われる。
>>311 湿原なはずないよ。
わざわざ溜池いっぱいこさえなきゃあならんほどの乾燥地帯で、それも、奈良時代から、垂仁天皇、光明皇后
藤原不比等、行基、橘諸兄、弘法大師と、いろんな面子が灌漑用の池の普請をしている。
百舌鳥地区は巨大古墳だらけ、明治以降は玉葱の産地。これも、土地が乾いている証拠だし。
>>313 じゃぁ乾燥地帯で農業生産が上がらなかった為に人口が少なかったって事かな。
はいはい、和泉国は砂漠でしたヨ、砂漠さばくー
316 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 21:39:03
建武の新政をを
建武の中興
って言う人がいるのはなんでですか?
あと新撰組は「三番『隊』」なのに、
なんで、斉藤一「組」長、なんですか?
>316
国学系の幕末思想で建武の中興と呼んだ価値観を踏襲する教育の中で育った人たちか、
もしくはその手の幕末思想系の特殊な思想にかぶれてる人。
朝廷の古い因習をことごとく破却して新法に変えていった強引な手法は新政と呼ぶ以外に呼び方を考えられない。
いや、「新制」でもいいか、という気もするけど。
後半は、たぶん組と隊の編成替えがあったって意味ではないのかな?
当初と編成替え以後とでグループの呼び方が違うのを、現代人が呼称の時期の区別もせずに勝手に呼んでしまっているとかの気がする。
318 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 02:08:26
建武の「中興」と寛政の「改革」は同じ意味。
後醍醐天皇の政権では全く社会は良くならなかったし、松平定信のせいで改革どころか幕府は破綻へ突き進んだ。
当時の権力者が勝手に誇り、その用語が踏襲されているだけ。
「バブル退治」のようなもの。あれの実態は「日本退治」だった。
319 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 02:26:14
散々出尽くしてるのかもしれませんが
当時の龍馬の認知度ってどんなもんなんでしょうか?
名前は知られていたのかもしれませんが
数ある倒幕派の連中の1人としてしか認識されてなかったのか
それとも西郷や木戸なんかと並ぶ超重要人物で幕府側からもビッグネームとして知られていたのか?
あと龍馬伝なんかを見てると当然龍馬に焦点を当てて
めちゃくちゃ活躍してるようにみえますが
実情は彼の功績というか他の人たちと比べても傑出した活躍だったのでしょうか?
維新三傑にも名前がないし、少なくとも明治初期はどう思われていたのかなと
320 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 02:48:40
坂本龍馬及び中岡慎太郎は、討幕側からは、結構知られた人間だったと思います。
特に第二次長幕戦争以降、土佐藩が薩長側に急接近した時からの扱いは、
土佐藩内では、土佐藩首脳と同等のものでした。
土佐藩の後藤らは、坂本・中岡の薩長同盟締結などの功績を土佐藩の功績とするために、
両名を土佐藩代表のような存在に仕立て上げていました。
一会桑側からはどうだったかと言うと、寺田屋で書類を押収するまでは、小者扱いだったかもしれません。
しかし元会津藩公用人の手代木直右衛門の証言によると、薩長の連合を謀り土佐の藩論を覆し倒幕に一致させた罪状で討った
というものなので、暗殺時には重要人物だから狙ったという認識があったようです。
321 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 03:06:30
>>320 当時の幕府の人間や長州や薩摩から見ても誰もが知ってる有名人だったの?
西郷や木戸は一応薩摩や長州の代表として認識されてただろうから
幕府側や薩長の互いからは名前は確実に知っていただろうけど
322 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 03:26:37
大政奉還時や三条辻高札事件で京都の一会桑政権関係者に何度も面会しているので、
京都の一会桑政権内では顔を知っている人間は結構居たと思います。
323 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 22:34:14
赤穂事件で、浅野匠頭が刃傷事件をおこし、事件の第一報を知らせる使者が
江戸から赤穂までを、わずか4日と半日ほど(3月14日昼過ぎから3月19日明け方)
で到着しています。
ところで、この道中について、使者は夜通し強行軍で赤穂まで急いだのか?、
それとも夜は多少なりとも就寝をして、昼間だけ道を急いだのか?
その道中の件に関して、何か史料は残っているのでしょうか?
早駕籠で不眠不休。
うたた寝して転がり落ちたこともあるだろう。
>323-324
ただ乗ってるだけでも苦痛といわれる早駕籠で、しかも不眠不休という、
拷問といえるほどの荒行で走り通したんだったっけ。
>>323 既に回答が付いてるけど早駕篭と言って、確か担ぎ手は四人で担いで宿場ごとかなんかで交代する
特別便の駕篭。凄い揺れるんで乗ってるだけでも大変。落ちない為に紐かなんかに捕まって、舌を
噛まないように手ぬぐいかなんか口にくわえて乗る。
327 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 10:01:12
>324−326
レスありがとう
その不眠不休なんですけど、暗い真夜中(月が出ていたらいいけど)に、
どうやって籠を担いで走っていたのか、その点に疑問を感じたものですから
329 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 14:24:52
>327
旧暦では15日が満月だから、当の早駕籠が走った中旬ごろには月が出てる。
出てないときは沿道で複数の松明を設置するとかして対策したんじゃなかったか。
そういう経費も含めて超高額の運賃が必要だったわけだし...
現代ならチャーター機を飛ばす(もしくは事前に確保しておく)レベルの費用が必要だったんじゃなかったか?
330 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 21:05:18
>>328、329
レスありがとう
今の私の考えは、想像でしかないですけど、やっぱり328さんの書いてる通り、
がんどうみたいな照明を、担ぎ手とは別に、これも3、4人がそれぞれ持って籠に先導して
走っていたような気がします
329さんの意見ですけど、月が出ていたとしても、雨天になるとダメだし、晴れてても、
雲や山に隠れることがあるから、当てにしづらいように思います
また、松明は、さすがに東海道の全行程何百キロにすべて設置するのは、
物理的に困難じゃないかと思うのですけど、どうでしょう?
>>330 担ぎ手は交代要員も同伴していったようだ。
素人目には早馬の方が速そうな気がするけど、馬の方が金が掛かったのかな?それとも早駕籠のほうが速かった?
332 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 02:51:42
学校の歴史の授業で近代以前の日本人は殺生を禁じた仏教思想の影響?で
獣肉を食べなかったと習いましたが、ではなぜ魚肉は食べていたのでしょうか。
獣肉は駄目だけど魚肉はOK、というのはどういう論理なのでしょう?
仏教思想の影響ではないからです。
魚は本来不浄のものです。
定置網,刺し網,まき網などの漁法が開発されたのは12世紀以降。全国普及したのは江戸時代。
新食材として入ってきたから、海水魚は食タブーに取り沙汰されなかったのでしょう。
淡水魚で民俗学考察をするといいかもしれませんね。
鯉 鮒 鮎 鯰 7世紀の記録だと淡水魚が多いな
鯔 鱸 鮭など汽水域のも出てくることがある
既得権益が大きく 鯉鮒の禁漁区の設定をするかわりに
制限できなかった地域もあるのであろう
コイ科の魚の料理法
甘露煮 いや味噌煮かな?
>>332 高度成長期までは獣肉は特別な時しかたべないのが一般的。
鳥肉は普通に食べていた。
何故かウサギも食べていた。理由は「ウサギは鳥の一種」だから。ウサギを一羽二羽と数えるのはその名残。
>>332 鯨を獲ってはかわいそう。牛は天地開闢から神様が与えてくれた食べ物。カンガルーなんか撃ち殺して犬の餌だ。
……とか言ってるガイジンの自然保護団体とあんまし変わらないよ。
今でも、魚類には痛覚が無いなんてことを大マジで信じている人が沢山居たりするし。
田んぼや溜池にうじゃうじゃいて農民が日常的に食べていたる鯉や鮒や鰻や川海老を食べるのを禁じたら、それこそ
反乱につながってしまう。
牛馬は貴重だったから、そもそも食べる機会はあまりなかった。日常的に狩猟の成り立つほど野獣は多くなかった。
>>331 距離が短ければ馬の方が早いが、寝たら落ちてしまうから不眠不休は無理。
>>332 おそらく鳥や魚には魂が無いと考えたのかもしれない。ただの思いつきだけど。
>>339 一寸の虫にも三厘の魂、だっけか。殺生を戒めるときに言う。
342 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 13:00:06
>>339 ウマだと、夜走るのは危なくて無理でしょ
もしかしたら、全行程駕籠ではなくて、昼間は一部区間で馬を飛ばしていた
可能性はありますね
>>342 いや、早駕篭に乗ってるだけで着いた時には半死半生の状態だから。
野獣は多かっただろう。どんだけ猿と鹿と猪の被害に悩まされてるとおもってんだ。
かつてはそいつら害獣の上に君臨するオオカミがいたのだがね
346 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 09:03:22
最近ではよくある「首脳電話会談」ですが、
日本の首相(あるいは外相クラスでもいいんですが)で、
外国の首脳と初めて「電話会談」した人は誰で、いつ行われたのでしょうか?
347 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 14:00:47
戦争中に、金属類回収令が出て、官民こぞって銅などの金属類を供出するよう命令されたはずなのに、
なぜ、上野の西郷像や、京都方広寺の鐘はそのまんま残ってるの?
戦前からの他にも残っている銅像や鐘はたくさんありそうだけど、
供出の例外、特例でも認められていたの?
はい
価値が高いもの、国民の抵抗の多いものは後回し
>>346 ケネディ大統領(米)だったかと。キューバ危機のときね。
351 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 17:11:24
武士について質問
1、武士が切腹する時、どういった罪をおかしたの?
2、武士と町民の人口比率はどの程度だったの?
3、武士が理由もなく町民を切り殺しても罪にはならなかった?
352 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 18:24:06
>351
3は罪になる。
なぜ殺したかを書類で提出して、理由が正当だと認められないと有罪。
認めてもらえるかどうかが微妙な場合は我慢するのが普通だった模様。
殺した武士の立場によってかなり裁判の成り行きや取り調べに差があったみたいだな。
こんばんは。
例えば、30騎+足軽の軍役を課されている小名の場合、足軽はどれくらい連れて行くものでしょうか?
また、一つの砦に住んでいる場合、一族郎党全部で何人くらいの人間がいるものでしょうか。
もう一つ、これくらいの規模の一族の場合、使用人や足軽たちは当主のことを何と呼ぶのでしょう?
仮に大名の少し離れた親戚で、ちょっとした官職をもらっている助兵衛さんとします。
六条天皇(六条上皇)って後白河上皇(後白河法王)に暗殺されたと思いませんか。
すみません上手く変換しませんでした。法王→法皇
日本史って世界で一番難しい自国史じゃない?
他に日本史ほど難しい自国史って存在する?
縄文、弥生、鎌倉、平安京、戦国時代と覚えることが多すぎw
他の国はそんなに勉強することあるのかな?アメリカ史とかちょろそう
>>357 中国・インド・エジプト・イラクあたりは難しいそうって思う
359 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 14:46:07
切腹ってのは、「オレは潔白だ」という弁明の意味が込められているという話で、
死罪に該当しないレベルの犯罪に限定のはず?
普通なら懲戒免職になる程度の罪状での嫌疑がかかれば、普通は切腹するんじゃないのかな。
後には形骸化して、「武士なら基本は切腹」に変貌していったようだが...
弁明の機会を与える余地もない状況で、死罪になって当然の罪状なら、
本来的には切腹は適用されないんじゃなかったかな。武士でも打ち首とかで。
赤穂藩主の浅野の事例とかだと、本来的に、切腹は無理なはずだ。
361 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 17:15:06
>>360 なんで潔白で自分が悪くないのに、自決必要がある?
>>360 いい加減すぎる!
>>359 普通に死に値する罪。武士でなかったら打ち首とかになるが、武士は自分で処理出来る筈だから切腹する。
逆に切腹を認められなかった近藤勇は武士として扱われなかった事になる。
>>360 内匠頭の場合は本来ならちゃんと事情聴取する必要が有るのに綱吉が切腹を命じた。しかも大名の身分
からすれば座敷で行うべき所を庭先でやらされた。これが赤穂浪士たちに「主君の無念」という情を湧かせた。
364 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 17:56:43
>>362 その武士が死に値する罪とはたとえばどんな罪ですか?
>>364 武士とか関係なく、普通に死に値する罪。
理由も無く人を切ったとか。例えば
>>352で「理由が正当だと認められないと有罪。」とある。この場合も死罪。
無罪か切腹か極端なのだ。
他にどんな罪か具体的には答えられん。例えば江戸時代には俗に「十両盗めば死罪」と言われていたが
これも武士ならば切腹という事になるだろう。
江戸時代には放火は磔獄門だが、この場合は武士でも磔かもしれない。それとも切腹で済ますのか、その辺は
知らない。
そもそも何が知りたいの?
366 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 18:48:17
>>365 ども。
武士といえば切腹があまりにも有名だから、その切腹する罪とはどのようなものがあるか知りたかっただけ。
その割には、切腹する理由はあまり知られてないんだね。
>>366 そういう事であるならば切腹の理由は必ずしも法による罪では無い。何らかの形で責任を取る必要が有る時に
死ぬ必要が有ると思えば切腹する。場合によっては上から命じられる事も有る。一般論ではなく個々の事例を
見なければ意味が無い。
368 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 20:34:04
死罪になるような罪なら当然だが、
たとえば懲戒免職レベルの罪状でも、
現代の懲戒免職と違って江戸時代の制度では
本人だけではなく子孫代々ことごとく就職できなくなるわけで、
申し開き、もしくは、罪状を自分だけに留めて子孫までは及ぼさないため、などで、
普通なら死罪にならない罪状でも切腹することが珍しくないという意味。
武士じゃなかったら死罪にならない程度の罪でも、
子孫まで影響が出る関係で切腹を余儀なくされることが普通にあった。
>362
近藤は、本人的には、「幕府高官の特命で武士に取り立てられた」と思っていたが、
敵対者からは「成り上がりの農民風情が武士のフリするな」と思われてたのでは。
浅野内匠頭は、武士でも打ち首にされるレベルの重罪を犯してるから、しかたがない。
>>368 それはどうかなぁ。切腹した段階で家禄没収で子孫は浪人だと思うが。
近藤についてはその通り。内匠頭については先に書いた通りだが、何をもって打ち首ものだと?
370 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 20:59:27
大日本帝国憲法の草案は、長野県にほど近い群馬県の山の中にある霧積温泉 金湯館
で作成されたそうです。しかし、理由までは分かりませんでした。
なぜ、東京を遠く離れた温泉地で作成したのでしょうか?
東京にある政府の執務室とか事務室でなく、わざわざ遠出した理由は??
また、どうしても遠出し、温泉に浸かって、くつろぎ、鋭気を養って、最高の草案を作りたいと言うのであれば
温泉地なら他にもいっぱいある中で、特に霧積温泉が選ばれた理由は何でしょうか?
>>370 東京なんかでやったら色々と提案だの要望だの言ってくる連中がいて五月蝿くて作業出来ないから
誰にも知られない山奥でやったんでしょ。
恒例行事ではない特別な勅使を迎える当日に刃傷沙汰を起こして将軍の面子を丸つぶれにさせた罪状は、
お家取りつぶしどころか、親族まで連座で死罪になるほどの重大事件のハズだが。
そういう特別な日じゃなくても、幕府の「殿中」で刃傷沙汰を起こせば切腹やむなし(切腹しなくても死罪)なんだから、
浅野は本来なら打ち首になるべき。
殿中での刃傷沙汰には前例があって、
斬りかかった方は死罪。
応戦していたら両成敗で両方とも死罪だが、斬りかかられた方が刀を抜いていない場合はおとがめ無し。
両成敗を避けるために証人に刀を抜いていないことを確認させて死んだ事件の前例もあり、
吉良の「お咎め無し」は必然。
あと、罪状とも関係ないし処分内容にも影響しないとはいえ、
浅野が言ったという「遺恨」の内容についても、当時の人にも分からなかった模様。
浅野に近しい人でさえまったく想像もできなかった様子。
>>372 >重大事件のハズだが。
それでも取り調べをしないって法は無いし、大名で打ち首なんて例があるのか?特別な日ってのも綱吉が個
人的に盛り上がってただけで打ち首なんて規定は無い。
>応戦していたら両成敗で両方とも死罪だが、斬りかかられた方が刀を抜いていない場合はおとがめ無し。
以下は田沼意知事件の話だが、これと矛盾するな。
『「意知が脇差で防いだ」ことにしたのは逃げ回り一方的に攻撃されて殺されたのでは「武士としてあるまじき
行為=不覚をとる」だからである。武士は事件の被害者であっても相手から逃げて背後を斬られることは
「武士の不覚」である。事件被害者であっても御家断絶か御役御免など厳しい処分が下されることがある。
防いだという証拠はないが体面上そういうことにしておかなければ意知の武士としての名誉が守られない。』
ttp://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/dentyu.htm wikipediaの細川宗孝
『殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用されるうえ、世継ぎまで欠いては肥後54万石細
川家は改易必至だった。』
この例では人違いで厠で背後から斬りつけられてるがそれでも喧嘩両成敗だ。
>>366 今更だがいくつか例を挙げよう。
平手政秀。織田信長の傅役(もりやく:教育係)だったが信長がうつけ者になった責任を取って切腹した。
客観的に言えば政秀に罪は無いのだが、責任を感じたのと自分が死ぬ事で信長が目を覚ます事を期
待して切腹した。
萱野三平。赤穂浪士の一人。『父の萱野重利から大島家へ仕官するよう強く勧められる。大島家は吉
良家との繋がりの深い家柄であり、同志との義盟、旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになった』。
『』内はwikipediaの引用だが板挟みとなった結果切腹した。
飯富虎昌。武田信玄の家臣で嫡男義信の傅役。桶狭間の後、今川家が弱体化すると信玄は駿河侵攻
を計画する。義信の妻は今川の出だったので義信は駿河侵攻に反対する。信玄がこれを拒否すると義信
はクーデターを計画し、虎昌を誘う。虎昌は大局的に見て信玄が正しいと判断するが傅役としての情と忠か
ら承知する。しかしクーデターは御家の為にならないのでわざと計画が漏れるように画策し、全ての罪を自分
が被る事で、信玄への忠と義信への忠を両立させて切腹した。
375 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 23:58:43
>374
平手にせよ飯富にせよ、切腹したという事実は確実でも、理由は憶測に過ぎない。
「こういう理由で切腹した」という事情の説明には、極めて不適切だと思う。
だいいち、「罪を犯したから切腹する」という風習の成立は江戸時代の話なので、
それより古い事例は質問の本題から外れている。
>>375 確かに憶測だが武士がどういう時に腹を切ると考えられてきたかの参考にはなるだろう。
質問は「どんな罪か?」との事だが、俺は罪が有るとは限らないと答えたからその例として挙げた訳だし。
377 :
370:2010/12/05(日) 13:54:48
>>371 なるほど、納得です。ありがとうございました。
>376
なるほど、そういう意味なら、飯富の方は納得できる。
平手の方は、理由付けが行われたのが戦国時代のうちであるから
(信長没後ではある)、「そういう理由で切腹するべきである」という発想があったかどうかすら不明。
379 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 10:05:01
以前は「足利尊氏」の肖像とされていた「騎馬武者像」、
今では高師直との説が有力みたいですけど
そもそも、あの肖像画が足利尊氏とされていた根拠は何なのですか?
肖像の上方に尊氏の花押が書かれているんですよ。
で、肖像も尊氏かなあ、と。
しかし、似た肖像+花押の絵で、肖像の人物と花押の人物が一致した例がない。
むしろ上司と部下の例ばっかり。
だから、尊氏の第一の部下というと高師直あたりかなあ、と。
381 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 17:56:47
そもそも供養用の掛け軸なんですよ
死んだ人の肖像を掲げて、その前で手を合わせるわけです。
で、足利尊氏が供養するような自分より前に死んだ第一の部下というと、
高師直や高一族を第一に挙げるということになるわけで。
382 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 19:27:43
383 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 04:52:03
滝川一益は
たきがわいちますと
たきがわかずます
どっちが正しいんですか?
384 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 09:26:33
古代の天皇陵は国有地ですか?、それとも、私有地(皇室財産)ですか?
>>383 昔の文献にはルビなんてふっていないのだから、今となっては、どちらが正しいかなんて確認の
しようがない
かなでたまたまその名前が書かれた新たな文書でも発見されるか、タイムマシンでも発明されない
限り、どちらが正しいかなんてわからないよ
戦国時代の滝川一益どころか、ほんの百数十年前の幕末の伊東甲子太郎でさえ、「きねたろう」
なのか「かしたろう」なのかわからない
ただ、現代の小説では読み方の難しい人名にはルビをつけないといけないし、ましてセリフで
名前を呼ぶ映画やドラマなどでは、名前の読み方を決めないわけにはいかない
だから、その作品ごとに、作家やシナリオライターの趣味で、どちらかに決めている
特に根拠があるわけじゃないよ
>>386 そういえば、角田文衛だったかが「平安時代の女性の読み方を音読みするのはおかしい」と藤原定子(ていし→さだこ)・藤原彰子(しょうし→あきこ)と読み方を変えて物議を醸したことがあった。
すみません、流れてしまったのでもう一度お願いします。
30騎+足軽の軍役を課されている小名の場合、足軽はどれくらい連れて行くものでしょうか?
また、一つの舘に住んでいる場合、一族郎党全部で何人くらいの人間がいるものでしょうか(すごくいい加減でいいです)。
もう一つ、これくらいの規模の一族の場合、使用人や足軽たちは当主のことを何と呼ぶのでしょう?
大名の少し離れた親戚で、ちょっとした官職をもらっている江呂助兵衛さんとします。
>>384 古代における天皇陵の管理を聞いているのか
現代における天皇陵の管理をきいているのか
どっち?
389 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 02:24:46
甘ったれるな。自分で調べろ。失礼じゃないか。
質問スレで質問して失礼って事は無いだろ。
俺は質問者じゃないけどさ。
>>387は別の板で回答もらってるだろ マルチすんな
>>385 伊東甲子太郎については、樫太郎と書かれた文献もあるので、「かしたろう」が正しい
板違いじゃいいんでないの?
>>387 単なる地侍じゃないなら「殿」かな。親戚で年下なら渾名とか年下なら様付けとか?
394 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 16:13:22
385については、
392の例で分かるように、「同じ読み方の当て字で書いた事例」ってのが参考になる。
それによって読み方が判明する人物は少なくない。
それでも分からない人の方が多いので、そういう場合は憶測に頼ることになる。
あと、偏諡で主君(など)の文字をもらっている事例で、
主君または家臣の読み方が判明すれば、そのグループ内で当該文字の読み方が同じ。とか
395 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 19:24:11
396 :
388:2010/12/13(月) 00:29:32
397 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 01:40:20
まあ私有地なら莫大な税金かかるよなwww
398 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 11:18:53
>>396 回答ありがとう
古代の天皇陵は、被葬者が誰かもわからないのに、なぜ発掘調査が出来ないのか
どうも腑に落ちないんですよね
そりゃ「天皇陵」になっちゃってるからだよ。
(伝)仁徳天皇陵も孝明天皇陵も「天皇家の御先祖の墓」という意味では同じ。
「孝明天皇の遺体調査」をしたいからといって、孝明天皇陵を発掘させてはくれんだろ?
一方でおそらく本物の「継体陵」や「斉明陵」は発掘出来てる。
なぜなら「天皇陵」にはなっていないから。
でもね、「発掘」はともかく、現天皇陵の墳丘への立ち入り調査とかは、少しずつ許可されていくと思うよ。
400 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 16:10:17
切腹は武士にとって最も名誉ある死に方
401 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 16:45:30
京都の西本願寺と東本願寺は今でも対立してるんですか?
両者とも「真宗教団連合」ってのに加盟して仲良くやってるよ
東・西本願寺を含む真宗10派でね
こっちが正統あっちは異端、なんて非難合戦は、もはや遠い昔話さね
>400
もとは、「敗北者の死に方としては最も名誉のある死に方」にすぎなかった。
それも、江戸時代と違って「敗北こそ、武士にとっての最大の不名誉」だった時代の話。
実質的には、敵を倒す上で有効な高い戦果と引き替えの戦死の方が敗北時の切腹よりも名誉が高かったわけ。
もっとも。
撤退戦で「しんがり」を勤めて敗北し切腹したが、その間に無事に撤退した主君が、
後の雪辱戦で当の相手を倒して勢力拡大した、なんて場合だと、敗死・切腹といっても極めて高い名誉だろうが。
404 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 18:06:53
戦場で敗北した時点で、普通は切腹にはならない。
和睦でもない限り平和な帰還はありえず、相手に首を取られてお終いだ。
あるいは雑兵なら一生奴隷暮らしになったりする。
そして、いくら有益な死に様でも、死んだ人には栄誉は与えられないことが多い。
普通は栄誉は生き残った人にのみ与えられる。例外は三浦大介など一部の場合しか聞かない。
どうも、ハラキリに名誉を求める人の中には認識がおかしい人がいる。
405 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 18:19:12
切腹は戦国時代にはあまり行われてはいない。
むしろ江戸時代の見得武士道の一つとしての殉死として様式化した、歪んだ死に様だったとも言える。
武士にとって切腹は、死の自己決定権として、武士の名誉の重要な一つとして様式化された。
しかし内実は、藩主の死に際し殉死を行えば行った者の子に褒賞が得られるという文化が成立しており、
加増狙いの殉死が相次ぎ、殉死には許可を必要とするよう定められた。
無駄に美化すべきものとも思えないし、第一戦国時代にはそれほど例はない。
>>404 いやいや、もう本丸になだれ込んで大将斬れば終わりなのに、
あえて時間を与えて切腹させてやる、なんてこともあるじゃん。
これは「敵に死を強制される不名誉」を与えるのを同じ武士として憐れみ、
「自分の手で、それも切腹という苦痛に満ちた方法で、
己の豪胆さをアピールしつつ死ぬ名誉」を与えてやる、ってことじゃないのかな。
太平の世でもそうでしょ。罪を得た武士の刑としてただ首斬ったっていいのに、
短刀・扇子を腹に当てるだけの儀式とはいえ切腹をさせるってのは、そういう意識の現われだわな。
あやつも武士として死んだわ、と言ってもらえる最低限の名誉というか面目というか、
切腹という行為にはそういうのが多少なりとも付与されると思うけどね。
>>389-390 @inosenaoki:甘ったれるな。有権者なら自分で調べろ。都議に失礼じゃないか
世界史だと、3B政策3C政策は
「誰が言い出したかもわからんが何故か日本の教科書だけで定着してる謎の語」
とされています。
このように、高校レベルの日本史で、
教科書特有の変な用語ってありますか?
410 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:52:42
加藤高内閣?
あのあたり、用語がややこしい。
質問よろしいでしょうか。
歴史上の人物で「為」と書いて「なり」と読む人名が確かなかったでしょうか?
こないだふと思い出してそれ以来ずっと気になっています。
その人物の名字も「為」の前後になんという字がつくのかも
いつの時代でどんな人物だったのかも思い出せず、気になって仕方ありません。
「人名 為 なり」などで検索してみたのですが分かりませんでした。
つまらない質問で恐縮ですが、どなたか心当たりがあれば教えてください。
お願いします。
藤原為業の勘違いではないよね?
>>412 多分違います
検索ではその人がよくヒットしました
辞典で調べたところ「為」で「なり」と読む読み方もあるようなので
間違ってはいないと思うのですが…
前田利為
415 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:45:11
武士は例えば「大石内蔵助藤原良雄」のように家名・官職・氏・諱で呼ばれたりしますが、
それは公家や社家なども同様だったのでしょうか。
よく戦国時代とかに政略結婚で他家に娘をやったり、人質として差し出したりしてるじゃないですか。
あれって、「これは間違いなく某家の娘です」っていう本人証明って
どうやってたんですか?
まったくの偽者送って騒動になったケースってありますか?
>>414 ありがとうございます
やっとスッキリしました
最初から仲良くする気がないと宣言して宣戦布告するにも等しい愚行だから、
普通はやらないと思うけどなあ。
戦うつもりだけどタイミングが悪いから時間稼ぎ、とかいう場合じゃなかったら、
普通は誰もやろうとしないだろう。コストばかりかかって効果がない。
>>416 トンデモ説のたぐいでよければ、将軍家に降嫁した和宮はニセモノだったと言ってる人もいる
映画かなんかでヨーロッパの王妃が処女かどうかを確かめるシーンがあった気がするが、
その王妃が本物かどうかなんて確かめられんわな。
質問です
織田信長の行ったことで有名な楽市楽座ですが、
その目的は何だったのでしょうか?
教科書的な回答として商工業を発展させるためとは言われますよね
でもそれがどうしたんでしょうか?
楽座とは座を解散させることで、
確かにそれによって新規参入者増により商工業が発展することは期待できます
でも楽市でもあるわけでつまり税が免除されてしまうんですよね
城下がいくら発展しても税収が望めないのであれば
無意味の一言に尽きます
楽市場ってのは、元から楽市場だったところに対する既得権益保護だけだったんじゃなかったかな?
美濃攻め時に最初に楽市令を出したトコは確か信長以前の古い楽市場の文書があるとかどうとか。
楽座は振興城下町を早急に整備する必要とかの気がする。
たぶん安土限定。
少なくとも京都とかで座を保護してるし、領土全体で楽座を実施してはいないことが確実。
いわゆる「教科書的な説明」は古い俗説に過ぎないとは思う。
そうそう、城下町の発展は、城下の近くを通り過ぎることを禁止する目的もあった。
近くを通る人は必ず城下町(安土)を経由するように、という命令が出てる。
ちなみに、城下町ってのは城で働く人の生活を支えるためにも必要不可欠だし、
町の有力者は行財政の面で大名の手助けを要求されている。
むしろ、城下町と大名が運命共同体というべきかも。
そういう面で、他の町との間で差別化されていたのは確か。城下町だけ特殊と言ってもいい。
>>40 >最低でも、ある程度の接待をしなくてはならない社会的風潮があったし
>(なんせ、村の人より役人の方が身分が高いわけで、客人として遇する責務があった)
>接待のしかたが悪くて年貢額を過度に高く認定されたくないからと接待に力を入れるようになって、
>接待競争の中で村々が疲弊していったような面もあったらしい
424 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 06:44:56
>>409さん
すぐ思いつくのは、
「両統迭立」「観応の擾乱」「ABCD包囲網」もっとあるでしょう。
>>422 ありがとうございます
楽市と楽座が行われた地域はそれぞれ異なる所だったんですか
驚きました
自身が天皇に代わることを目指したといわれる信長が
首都たる地に安土を選んだことは想像に難くないです
美濃のある地域に既得権益である楽市を許し
安土を急速に発展させる…
ま さ に 天 下 布 武 !!
>425
町を新規に統治する際に、
敵対してから降伏したか、敵対することなく早急に降伏したか
状況によって既得権益の保護のしかたが違う、ってことじゃないの?
武士(というか、領主)が降伏するときにも、
敵対度によって本領安堵とか加増とか逆に部分的な安堵とか差があるように。
美濃の楽市場の事例は、他の地域より先駆けて早く降伏した事例だったと思う。
427 :
日本@名無史さん:2010/12/24(金) 17:02:08
質問です。日本で水車って何に使うのですか。灌漑?
粉をひくのは少なくとも第一の用途ではないですよね。
>>426 堺は徹底抗戦の構え見せて既得権をある程度認められたけど屋銭はごっそり持っていかれた。
信長もやり過ぎたから「茶器」という打出の小槌を認めて利休を懐柔。
ついでに対明、南蛮貿易の共同出資者を募りつつ瀬戸内海の都市支配を強化。
小西やら黒田はこれに乗っかり織田、豊臣政権下で繁栄。
>>427 粉挽きや脱穀じゃないの。
足で踏んで水を汲み上げるための水車のことか?
あだ名のつけ方で(江戸っ子ぽく?)○△を「○の字」って呼んだりしますよね
こういう呼び方は実在したんですか?時代劇用語?
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝継承の根拠になったAgnes von Staufen(ルドルフT世の祖母)が
ホーエンシュタウフェン朝の誰とどう繋がってるのかわかる方がいれば教えていただけませんか?
すみません、誤爆しました
433 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 03:08:32
>>410>>424 回答ありがとうございます。
しかし、自分には日本史の知識は高校レベルのそれしかないもので、
指摘のあった用語はどれも違和感がないです。
諸用語のどこがヘンテコなんでしょうか?
434 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 00:47:23
>>433 戦前の皇国史観用語と受験用に整理された言葉。
論文や一般的な歴史の本などでは普通には用いられない。
「俗に○○と言われるこの状態(出来事)」みたいな扱いの言葉。
研究者向けの本でなく一般向けの通史シリーズを一回読んでみたら何となく分かると思う。
法律で決まってるような事じゃないんで明確に説明するのは不可能。
「不細工な顔」を誰にでも分かる基準や法律で決めていないのと一緒だよw
秀頼って結局、デブなのかデブじゃないのかわからんけど
どっちなんだろう?
437 :
日本@名無史さん:2011/01/01(土) 22:33:41
日本の政治権力が公家から武家に移りつつあった時代、
公家自身が武装し、自らの直轄軍事力を持とうとしなかった理由は何でしょうか?
鎌倉幕府などが出来てしまえば、その軍事力の差は明らか。どうやっても公家は武家に対して直接軍事力に
よって対抗することが出来ません。
武家の勢力がまだ充分に発達していなかった頃、公家と武家の勢力差がまだそう離れていなかった頃、
あるいは、公家にまだ予算が有った頃に、さっさと公家が武装を強化しなかった理由はなんでしょうか?
皇族・貴族の中の威勢のよい連中が我こそはと指揮官になり、武器を買い兵を雇い公家軍を作ると言う
わけには行かなかったのでしょうか?
438 :
日本@名無史さん:2011/01/01(土) 22:48:36
父子で争った、または仲の悪かった日本史上の人物を何人か教えてください。
>438
武田信玄。父親である信虎を国外追放した。
信虎が甲斐国に帰国したのは信玄の没後だったんだよな。(なんて長生きな!
>437
武家って言っても一応は公家からの別れではある。
職能は違っても貴種であることには変わりがない。
まあ、殿上人とは比べようもないとは言え。
ということで、幕府ができた当初には、朝廷・公家に仕える武士はまだまだ少なくなかった。
西日本の武士は特に、幕府よりも朝廷に従う者が多かった。
幕府ができるより半世紀ほど前だと、武士ってのは上皇やら摂関家やらの家来に過ぎなかったのに、えらく変わったものだ。
>>437 受領とか被官という形で荘園経営したり朝廷内の買収やら大寺社の神人、僧兵とかセットだったから。
組織化に無理がある。
中世史を扱った新書とかシリーズ本を読むと何となく分かるかと。
441 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 01:58:56
天皇陛下「家族や社会の絆を大切に」
天皇陛下は、新年に当たっての感想を発表された。
感想では、昨年は猛暑が続き、経済状況も厳しかったことに触れ、
「人々の生活にはさまざまの苦労があったことと察しています」と国民の
暮らしぶりを案じられた。その上で、「家族や社会の絆を大切にし、国民
皆が支え合ってこれらの困難を克服するとともに、世界の人々とも相携え、
その安寧のために力を尽くすことを切に願っています」とメッセージを送られた。
天皇、皇后両陛下は今年5月に全国植樹祭で和歌山県、10月には秋季
国体で山口県、全国豊かな海づくり大会で鳥取県をそれぞれ訪問される予定。
また、同月、皇后さまは77歳、喜寿の誕生日を迎えられる。
皇太子さまは、今年150周年を迎える日独交流の記念事業の名誉総裁に
就任されており、関連行事への出席が検討される。秋篠宮ご夫妻は1月24日
からコスタリカを公式訪問。ご夫妻の長女眞子さまは10月に20歳を迎えられる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110101-OYT1T00567.htm
>>438 源為義と嫡子の義朝。詳しい事はウィキれ。
うぃきれ とは あたらすぃ ニホンゴ ですね
444 :
438:2011/01/02(日) 13:42:37
>>439 ありがとうございます。
武田信虎と信玄の対立は有名ですね。
>>442 ありがとうございます。
もう何組か教えてもらえるとありがたいです。
保元の乱が起こる直前頃。
摂関家の当主と嫡男が争って、摂関家分裂を引き起こしたっけ。
摂関家を背負う父親が嫡男を勘当して次男を後継に据えようとした。
対抗して、上皇方が家督争いに介入し、勘当されていた嫡男を関白に就任させたんだっけ。
公職としては摂関に就任しているけど摂関家からは追い出される形となって、摂関家分裂となった。
悪左府頼長 とか、関連国でググルと楽しいかもしれない。
ちなみに、摂関家側は崇徳上皇をかついで後白河と争い敗北して、
摂関家の家臣だった武士達が全員処刑で壊滅的打撃を受けた。
保元の乱で上皇方に付いた武士達ってみんな摂関家の家臣だったみたいでね。
もっとも、保元の乱には、白河-鳥羽親子と鳥羽-崇徳親子の両対立も関係してるから、かなり複雑ではある。
>>444 伊達天文の乱とか最上義光とそのオヤジとか。
浅井久政、長政親子とか。
細川幽斎、龍興父子もなかがわるかった。
戦国時代に父子相剋は珍しくない。
ごめん
龍興⇨忠興
あと斎藤道三親子も仲が悪かったぞ
>>444 後陽成天皇と後水尾天皇という親子も最悪の親子関係といっていいだろう。
特に子である後水尾天皇の父親に対する嫌悪はものすごい。追号に表現されている。
有名どころだと保元の乱のきっかけになった鳥羽院と崇徳天皇の対立。
∧l二|ヘ
(・ω・ ) おいらをどこかのスレに送るんよ
./ ̄ ̄ ̄ハ お別れの時にはお土産を持たせるんよ
| 福 | |
| 袋 | |,,,....
 ̄ ̄ ̄ ̄
現在の所持品: 帽子 老眼鏡 爪楊枝 ステテコ コタツ 栗きんとん 手帳
NintendoDSi LL 劇場版ガンダム00BD 肝油ドロップ 仁丹 8Pチーズ
バードカフェのおせち うみねこEP8 FF14 USBオナホール ダイアモンド
無の力 最後の鍵 みかん 1024ガルド 源氏の小手 DQバトル鉛筆
アイスソード カニタマ マグロ テレビデオ 粉っぽいカレー 皆伝の証
イオナズン マスカレイド ずんだ餅 コーラ ハワイ4泊5日 エネループ
穴抜けの紐 古文書 マドレーヌ ピーナッツ ブリキの鎧 ジャムパン
ファミチキL バードカフェのおせち 亀の子たわし トイレットペーパー
チャクラ 風神雷神図屏風 ひこにゃんストラップ
451 :
438:2011/01/03(月) 18:09:02
>>445−449
ありがとうございました。
参考にして調べたいと思います。
そういや。
亀山天皇や後宇多天皇も、自分の子供に対し、
「お前の皇位は中継ぎだ、別の子供に皇位を譲れ」とか言って実子と不和になってるね。
亀山天皇(当時、上皇)は後宇多天皇に対し、末弟(亀山の末子)へ皇位を譲らせようとしたし、
後宇多天皇は後醍醐に対し、嫡孫(後醍醐の甥)へ皇位を譲らせようとした。
453 :
日本@名無史さん:2011/01/06(木) 18:25:42
日本の戦国時代は織田信長とか武将の武勇伝ばかりが取りざたされるけど、
戦国時代の天皇は何をしていたのですか?
生きていました。
何せ戦国時代は、五摂家も地方領主の所へ招かれたりして生きているご時世ですから。
>生きていました。
>>454は面白いと思ってやっているんだろうなw
器の小さいというかなんというか。
まあ可哀想な子なんだろうねw
456 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:14:21
馬鹿だよな。
そういうこと聞いてるんじゃないってわかるだろうに。
>453
つ今谷明
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
質問です。
なぜ日本はメートル法を採用したのですか?
1寸≒1インチ、1尺≒1フィートだからヤードポンド法の方が切り替えが楽…ってこともないか。
ついでに華氏も採用すれば良かったのにね
>>455-456 454はフランス革命期のシエイエスにかけてたのかもしれん
ある人が、「恐怖政治の間は何をしていたのか」と尋ねたところ、
シエイエスはただ一言、「生き ていた」と答えた。
>>458 1875年のメートル条約で世界の流れがメートル法による統一だったからじゃないかな
坂本龍馬などは銃本体と一緒に銃弾は何発くらい入手したんですか?
弾は一般的に買うことはできたんですか?
不明
ない
龍馬は貿易業者だから一般人と一緒にしてはいかんな。
学生時代ロクに勉強しなかったので改めて世界史を学びたいのですが、
J・M・ロバーツの「世界の歴史」シリーズは入門書としてオススメですか?本屋でチラッと見て気になったので
>>458 メートル法は、徹底した十進法の採用や、ある記号で10の何乗かを現す体系(たとえば、ミリとつけば
長さであれ重量であれ、それがついている単位の1/1000、キロなら1000倍、など)と
非常に合理的な体系
日常ではヤードポンド法を使っている国々でも、科学者は論文では必ずメートル法を使う
どうせ尺貫法から切り替えるのなら、時代遅れのヤードポンド法ではなく、科学に適したメートル法
だろう
469 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 10:11:10
イギリスもメートル法へ切り替えたって聞きました。
今、世界でヤードポンド法を使っている国って、アメリカだけじゃないかな!
アメリカ行くと、オンス・ポンド、マイルはピンと来ないし、
一番わかりにくいのが、気温の華氏(°F)だね!
平城京って1000年以上ずっと都でありつづけたのにどうして京都の市街地に埋もれてしまったんですか?
勝手に城内に建物立てるなんてことができたの?
平城京は奈良です。
平城京=土木工事で平らに造成した都→均した都→奈良
で、どこも栄枯盛衰はあります。
京都とて戦国時代は塀で住民が囲って防衛した地域だけが京都で、寺も各自武力で自衛及び侵略をしていました。
>>471 あ、すんません。平安京の間違いだった(汗)
栄枯盛衰は判りますが、ずっと日本の中心地だった都がどうして埋もれたのか不思議です。
埋もれてないし
大内裏なんか完全に埋もれてるだろ。
少なくとも西半分は造成当時の道路すら残ってないもんな。
平安京の中央大通りだった朱雀大路が現在の西大路の元になってるわけだろ。
476 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 21:05:36
今の京都市内に平安京遷都当時の名残は、まったくと言っていいほどないよな
京都市内の一番古い木造建築物でも、大報恩寺で13世紀だろ
この前の戦争でみんな焼けちゃったからな
どうして田んぼになっちゃったのだろう
グーグルアースでみたら、町の碁板の目構造は残ってるな。
道の材質は変わっても、道そのものは残っている。
>477
ああ、京都で言う「この前の戦争」だな。
その前から生きてる人なんかいないのにな。(いや、高野山の奥の院で生きているとかいう人がいるか)
西半分、右京の方は平安時代のうちから早々に衰退して田んぼになったから道路も残ってない。
>479
いちおう、道路の概略が残ってはいるが、
かつて直線だった道路が微妙に屈曲したり、
かつての大路が細くなってたり(それでも充分に太いが)と、それなりの変化はある。
道路の碁盤の目構造そのものは、平安京当時というより、秀吉時代の再開発時のものに近いとは思う。
このときには街区(のようなもの)のブロックのサイズが半分になったんだったかな。
仮に、1年間に1mm土が溜まると仮定して、10年で1cm、100年で10cm、1000年で1m埋まる
日本には黄砂が飛んでくるんだし、土ぼこりも堆積する
植物が繁茂して、その枯死体や落ち葉が分解されれば土になり、これまた堆積する
時には火山灰(遠い外国の火山の灰も気流に乗って飛来する)も堆積するだろう
屋根に落ちた堆積物は雨で流れてしまうけど、その建物自体が崩れてしまえば、人間が管理
していない限り、やがて埋まってしまうしかない
482 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 09:12:24
>>477、480
君たち、わざとそんな書き方をして・・・
オレはわかってるよ、もちろん!
ただ、みんなが誤解していることがあるので、書いておこう
それは、京都は太平洋戦争で空襲を受けていることだ
京都には空襲がなかったと勘違いしている人が多いのでね
>482
だが、京都には「原爆の実用試験のため、極力、空襲を行わないように」と通達が出ていて、
広島等の候補地の筆頭に入ってたわけで、
手違いやら事故による小規模な空襲しかなかったじゃんか。
484 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 18:41:13
原爆投下って人体実験目的と対ソ連への威嚇目的?
>>483 手違いについてkwsk
まあ京都空襲はその他の大都市に比べたら比較にならないくらい小規模であることは間違いないが、
現在の京都のベースは元治元年のどんどん焼けの後の復興した街並みだろ。
上京下京の古い店も慶応年間前後創業が多い。
自分は京都人だが、京都の人間がしたり顔で「先の大戦と言うたら応仁の乱」と言ってるのを
見るとあほやなーって思うわ。あんなもん元ネタは冗談から始まったようなもんなのに。
実際幕末以前から続いてる家はどんどん焼けの被害を知ってるからそんなことはよう言わん。
486 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 20:21:01
>>483 482だけど、君の書いたことは知ってるよ
しかし、日本人の多くが、京都が空襲を受けていないと信じ込んでいる理由は
そんなことではないだろ
アメリカのウォーナー博士が文化財保護リストとやらを軍に提出して守ってくれたものと
とんでもない勘違いをしていることが元になっているんだから
487 :
日本@名無史さん:2011/01/14(金) 20:25:54
堺の人間が、「この前の戦争」言うたら、大坂の陣やって言うようなもん
すると、博多の人の「この前の戦争」は元寇だったりするんだろうか
>>488 「先の戦争は応仁の乱」なんて言ってるのはそれくらいのレベルの無知ことなんだよね
490 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 09:33:24
無知とかじゃなくて、シャレのつもりなんだろう
しかし、もういい加減にやめた方がいいよな
他地域の人には、誤解させるし通じないんだから
491 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 09:49:07
応仁の乱以降京都に火事がなかったのなら、きっと禁門の変の時の祇園祭の焼け山の人たちも
街に意図的に大砲を撃ち込んだ徳川慶喜や松平容保を許してくれるよね。
>>490 いやいや最初に言い出した人は洒落のつもりだったんだろうけど
今となってはそれをリアルに誇る京都人がいるのは事実だよ
ソースは京都人の俺。よそ者にドヤ顔で言ってるのを見ると指摘する気にもなれん。
お前の周りがヘンなだけだな
494 :
日本@名無史さん:2011/01/15(土) 16:01:02
足利義政の時代の「三魔の落書」についてお尋ねいたします。
これが載っている『臥雲日件録』の康正元年(享徳4年)正月6日条を見ると、
「世有三魔之説、俗所謂落書者也、画三人形、立之路頭、蓋政出於三魔也、御今・有馬・烏丸也云々、」
と書かれているのですが、これはどのように訓読すれば良いのでしょうか。
前半部分もよく分からないのですが、特に後半部分については、
wikipediaで有馬持家の項目を見ると、「政は三魔より出づ」と
書かれています。
「政出於三魔」と書いて、「政は三魔より出づ」と訓読するのでしょうか。
『書き下し』
世に三魔の説有り。俗に所謂落書なる者也。三人の形を画き、路頭に立ち、
蓋し政は三魔より出る也。御今・有馬・烏丸也云々。
『現代語訳』
世に「三魔の説」というのがある。いわゆる落書である。
(その内容は)路頭に立つ三人の形を描き、
「思うに政治は三魔が行っている。御今・有馬・烏丸の3つの”ま”である」と言っている。
蓋は再読文字ではなく「けだし」で、「〜だと思う」の意味。
於は置き字。
……だと思うが、古文漢文板で聞いた方が良いと思う。
「俗所謂落書者也」は「俗に落書と謂ふ所のものなり」じゃないかな?
。三人の形を画き、之を路頭に立つ。」
「所謂落書なるものなり」だと、「所」と「者」の対応関係の納まりが
何となくしっくり来ない。
あと「立之路頭」は「立」が他動詞だと考えれば目的語が欲しいので、
「之」を「これ」と読んで目的語と見なし、「之を路頭に立つ」でいい
と思う(「立つ」は現代語「立てる」の古語における終止形のつもり)。
「蓋政出於三魔也」は「於」を置き字とせず、普通に
「蓋し政は三魔において出づるなり」でもよいと思う。
「蓋」の意味は、高校の漢文の授業なんかでは、
「蓋〜」=「I think that 〜」みたいな説明を確かに受けるが、
「おおよそ」「大略」みたいな意味もあるので、ここでは意訳するなら
「(その落書内容の)大略は〜」みたいなニュアンスのように思える。
もっとも確信があるわけじゃないけど。
>494-497
ところで、その3人が並立してた期間って数ヶ月ほどの短期間なんでしょ、
3人がともに政治的に有力だった僅かな期間をことさらに取り上げてるのって、
落書の作者も記録を残した人も、両方が彼らの政敵だったからなんじゃないの?
499 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 15:57:12
>>498 でも、落書があったことをそれから何年も経ってから日記に書くってのも、
あまり考えにくい気がするな。
やはり普通に考えるならば、日記の記主が落書の存在を認識したのは、
それを日記に書く直前だったと見るべきではないかな?
あとウィキペディアだと、持家の没年は1450年ってことになっていて、
実際には三魔の一人の有馬は、持家の子の元家じゃないかって、
書いてあるけど、これはどうなんだろう?
個人的に有馬持家がどんな権力を持っていたのかが理解できないな。
今参は乳母だし、烏丸の屋敷で義政が育てられていたので理解できるが、最後の1人が理解できない。
501 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 16:20:40
室町時代だと、将軍が有馬温泉に湯治に行くなんていう話が割と史料によく出てくるけど、そのへんの繋がりで有馬が将軍家に影響力を持つとかかな?
今参と烏丸は将軍を取り合うライバルだし有馬は赤松家復興のために画策する他は特段のことはしてないんじゃないの。
この三者のいずれとも対立する陣営って、かなり限られる気がする。
>>497 「所謂」は普通に「いわゆる」と読んだほうがいいんじゃないかな?
504 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 16:35:27
今参と烏丸とどちらもウザいと感じていそうなのは、やはり日野家かな。
有馬が赤松再興を画策していたのであれば、それを一番嫌がるのは山名。
>>504 烏丸は日野重子の後見人(当時の日野家当主は若年の勝光で重子・義政を後見出来なかったから、従弟である日野家庶流の烏丸が義政の面倒を見ていた)
506 :
日本@名無史さん:2011/01/16(日) 23:19:05
>>494で「三魔の落書」の質問をした者です。
>>495-497のご説明で、だいたい分かってきたのですが、
「俗所謂落書者也」の部分は
>>495の方の説と
>>497の説といずれも、
説得力があり、迷っております。
>>495の方のご指示の通り、古文漢文板でも聞いてみようと思います。
ありがとうございました。
507 :
日本@名無史さん:2011/01/17(月) 15:30:26
古文漢文板って壊れてなかったっけ?…と思ったら復活してる
508 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 22:15:38
大化の改新とかの時代のスレってある?
それ以前の歴史って実は作られたもので
大化の改新から日本史始まったみたいな説あるよね?
ああいうのの本当の所が知りたいんだけど。
509 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 09:11:27
あったとしても、すぐ過疎るよ
それに、過疎らせまいとして、ちょっとでも話題を広げようとすると
すぐ、得意げに「スレチ」だと、嬉しそうに(?)指摘したがるバカがいるんだな
ここにもいるけど・・・。
510 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:16:05
詳しい人教えてほしいんだけど。日本書紀とかが作られた頃の
一般人とか貴族とかの日記とかそういうのって残ってるの?
日本書紀とか古事記が捏造って可能性はどれくらいあるの?
勝者に都合のいいように書かれている印象
512 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 23:11:07
鎌倉時代〜江戸時代の農民て何食べてたの?
>>510 日本書紀の編纂は8世紀で、そんな古い文書は日記も含めてほとんど残ってない。有るのは万葉集くらいか?
内容的には当時の政権を正当化するように編纂されていると言われている。少なくとも全て真実という事は
無いだろう。だからと言って全てが嘘でもないので中国の史料とか考古学的な発掘品とかと照らし合わせて
真実を探す努力が必要となる。
古事記については全くの偽書という説も有るが、俺はそうは思わない。日本書紀よりも謎が多いのは確か。
>>510 そんなに詳しくないけど
日本書紀・古事記が実は成立年代がもっと後でって可能性はほぼ0%
成立が疑われるような事は別にないんじゃないかな。
516 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 08:06:09
レスどうも。日本書紀以外ほとんどないのか。
聖徳太子とかも日本書紀に書かれてるんだよね。実はいなかった説あるけど。
他の日記とかがないんじゃ日本書紀に書かれてることが本当かどうかは確かめるの
難しそう。
古代には紙自体が貴重品だからね
私的な日記なんて気楽につけられなかったんだよ
518 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 09:35:32
古事記日本書紀当時の書物と言えば、あと、風土記があるな
あとは、銘文とか
有名なのに、法隆寺の釈迦三尊像の光背銘がある
聖徳太子の没年が622年とされているのはこの光背銘による(『日本書紀』だと621年)
それと、後の時代に書かれた史書とか、『元興寺伽藍縁起』のような寺社の縁起とか、
『三国史記』などの朝鮮半島の史書なども(もちろんそれらの史料の記述が信用でき
るかどうかも検討しつつ)照合して、古代史は組み立てられていく
信頼できる史料が少ないからこそ、専門の歴史学者たちからもいろいろな説が出るし、
作家などの素人もあれこれと想像をたくましくする余地があるわけで、そこが古代史の
楽しいところとも言えるね
520 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 19:42:07
けどさ。それらって聖徳太子が死んだ後に作られたって事だよね。
日本書紀見て日本書紀の記述通りに作ったって事も考えられるよね。
なんかどっかで見たのだと。中国の歴史書だと遣隋使とかは
日本の王にとかなってて聖徳太子じゃないんじゃないか?みたいな説なかったっけ?
521 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 19:51:43
「聖徳太子はいなかった」みたいな珍説は、ただの目立ちたがり屋
そもそも、あの説の欠点は、そんなに厩戸皇子を神格化したいのなら、
書紀はなぜ、いっそのこと聖徳太子が天皇に即位したと書かなかったのか?
その説明がないんだよ
522 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:11:58
そうなのか。そこあたりいろいろ議論したいもんだけど。スレのびないかな。
テレビとかで日本史の謎みたいな事やっても大体戦国時代とかからなんだよなあ。
平安京とかの頃とか大化の改新の頃のやってほしいわ。
523 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:37:37
目立ちたがり屋、あるいは、とにかく本を売りたい・・・、こういう連中の最も手っ取り早い方法。
それが一番端的に現れるのが、創作説とか、後世捏造説なんだよ
>>520 西暦600年の遣隋使だな
日本側の『日本書紀』等にはまったく記録がなく、中国側にのみ記録が残っている
その記述では日本の王は明らかに男性なので、当時の女帝推古天皇とは思えず、男尊女卑の儒教の国の
中国に献使するのに、日本の元首が女帝ではなめられるから、聖徳太子あるいは蘇我馬子が帝のふりをし
て送ったという説や、九州あたりの豪族が私的に送ったという説など、諸説ある
>>521>>523 あながち珍説とも言い切れない
聖徳太子がいなかったというから珍説に聞こえるが、それを唱えている人たちの言い分は、正確にいうと
「厩戸皇子という皇族はいたかもしれない、それは否定しないが、しかし『日本書紀』で彼の事績とされて
いることの大半は捏造。だから、聖徳太子というスーパーマンは架空の存在」というもの
実際、十七条憲法には、その時代にはなかったはずの、もっと後の時代(『日本書紀』成立の頃の時代)の
用語も使われているので、聖徳太子の事績自体が架空という説にもそれなりに説得力はある
525 :
日本@名無史さん:2011/01/20(木) 21:52:10
そうか。遣隋使で日本側の記録と中国側の記録を合わせれば
日本がちゃんとやってたってわかるのか。
中国さまさまだなあ。
謎の4世紀とかもあるみたいだし。ここ当たりはすごい面白い時代だと思うんだけどな。
>>525 ただ中国側の記録も不正確ってのは正史の日本関係読むとすぐわかるレベルなのよ
あくまで参考ってとこ
中国は、ずっと新しい明代でさえ、豊臣秀吉について不正確なこと書いてるしな
528 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 01:02:03
>>524 日本の王が男性なんて書いてないよ、日本の王のことを天足彦って書いてあるんだよ
>聖徳太子というスーパーマン
べつに対等外交したり仏教導入したりすんのがスーパーマンとも思えんが
天足彦ってほぼ一般名詞だし、聖徳太子は、一休さんや遠山金さんみたいな
実在モデルがいるだけのフィクションと
考えれば、さして不思議には思えない。
531 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 09:08:57
>>524 >実際、十七条憲法には、その時代にはなかったはずの、もっと後の時代(『日本書紀』成立の頃の時代)の
>用語も使われているので、聖徳太子の事績自体が架空という説にもそれなりに説得力はある
まぁ、あんまりここで議論するつもりはないのだが、
そういう理屈を言うんなら、ではなぜ、十七条憲法を「偽作」するのなら、
聖徳太子の時代の用語を使わなかったのか?、という疑問が生じるのだよ
今の学者が考えることぐらい、当時の学者だって考えるんだから
偽作するんなら、もっと巧妙にすると思うけどね
「天皇」の称号がなかった時代の人物についても、全部遡って「天皇」にしているのと一緒だよ
>>524 >実際、十七条憲法には、その時代にはなかったはずの
内容はともかく、正確な原文は残ってなくて、日本書紀編纂時の用語で書いた可能性も有る。
533 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 09:47:14
いわゆる「聖徳太子非実在人物説」について質問ですが、
その説の主張として、(正誤は別にして)、そもそもスーパーマンとして神格化された人物に、
なぜ「厩戸皇子」が選ばれたんでしょうか?
534 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 09:49:57
追加
533ですが、逆の言い方をすれば、なぜ、「厩戸皇子」を神格化する必要があったのでしょうか?
そういう意味の質問です
535 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 08:26:14
あげ。遣隋使の時点で文字はあるわけでしょ。
普通の人たちは日記とか残さなかったのかな?手紙とか。
そういうのが残ってないってなんか不思議だなあ。
日記って、平安時代以降の習慣じゃなかったっけ?
日記を書く媒体たる紙が希少で高価だったから、
奈良時代の手紙や日記は記されることが少なかったんじゃ?
平安時代だって、公家、殿上人クラスの人じゃないと日記が残る例が少ないし。
そういえば、あの道長の日記も断片とはいえ自筆本が残ってるんだよなあ。御堂関白日記。
大部分は写本だけ残存で、自筆が残っている部分は少ないんだったっけ?
538 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 15:12:52
紙が貴重かどうかも重要なんだが、写本になるかどうかも重要なんだよな
こんなんどうでもいいかと思われたら誰も書き写さないし
539 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 16:44:48
竹に書くとかそういう文化はなかったの?
長屋王の屋敷跡などから木簡が出土している
物資とか人間の管理とかの、事務用って感じだね
まあ、木簡、竹簡はかさばって不便だけど、細かい事務記録にいちいち高価な紙は
使えない、でも物の出入りなどの記録は必要だから木簡を使っとこう、って感じかな
541 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 17:02:52
木簡竹簡は、日記には向かない材料だと思うよ。
かさ張ってしようがないから、自室のどこかに置いておくこともできない。
倉庫にでもしまっておくとしたら、私的に書いたものが、他人の目に触れる可能性が高い。
行単位で編集できてしまうので、パブリッシュした時点の原本保証がないんだよ>木簡竹簡
日記を残すためには、
書いた本人がそれを残したいと考えるだけではなくて、
それを引き継ぐ子孫達が、その日記を残すために労力を払おうと思うことも必要なんだよな。
残すための動機、守り伝えるための動機。
そういう素地ができてくるのは、「家職」という概念が定着する平安中期ごろからじゃないの?
それ以前の文書は、
・破棄された文書を他の用途に流用して、それがたまたま残される(紙背文書とか漆紙文書とか)
・破棄された木簡が土中で幸運にも腐らずに残って発掘される
なんかの事例ぐらいしかなかったと思う。
他に、古代を知る面白い史料に、漆紙文書というのがあるよ
漆を貯めておく壺の蓋に紙が使われたが、新しい紙は貴重品なのだから、そんなことには使えない
何かを書いて、その後いらなくなった紙、たとえば古くなった記録などの紙が使われた
結果的に、漆を吸った紙は地中に埋まっても、比較的朽ちることなく保存される
出土した漆紙をX線などで解析すると、もともと書かれていた文字が判読できる
そういう紙が、多賀城跡などから発見されている
ただ、もとがほご紙の再利用の上に、残るのが蓋に使われて漆を吸った部分だけだから、きわめて
断片的にしか残っていないのが残念
>>543 >そういう素地ができてくるのは、「家職」という概念が定着する平安中期ごろからじゃないの?
既にあがっている道長の日記なんかはそういう類いだな。子孫の役に立てる為に書き残す。
546 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 19:08:29
やっぱ飛鳥時代とか謎が多くて面白いなあ。服装とかも平安時代と結構違うもんね。
すごい変換機だったんだろうなあ。
天皇家とかには古い日記とか残ってないのかね。飛鳥時代でも天皇家ともなれば
紙とかいくら高級でも手に入っただろうし。
あと古墳とかもなんか調べるの禁止してるのあるみたいね。
547 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 19:17:20
1885年当時で伊藤博文が初代首相になる事って
誰も異存はなかったのでしょうか?
つまり西郷、木戸、大久保、岩倉が相次いで消えて、
その下の連中が自動的に上がって行ったとしても
当時の彼の地位や実力から考えてライバルであった薩摩の人間も
認めざるを得ない位圧倒的な存在だったの?
板垣大隈や山県とかも含めて
ていうか西郷と大久保に次いで実力者って誰がいたっけ?
西郷弟や大山や桂って感じで当時からすれば小粒感は否めない?
548 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 19:39:22
伊藤は英語が喋れるからって理由で初代になったんじゃね。
西郷弟の方が大物だろうけど。西郷弟はなんか総理大臣になりたがらなかった
らしいな。
>>546 日記は無い。仮に書いていたとしても残ってない。石か金属にでも刻んでないとそうそう残らない。
日本の湿度の高い環境では有機物は腐り易い。ちなみに日本書紀にしろ古事記にしろ残ってる
のは写本であってオリジナルでは無い。
古墳で調査出来ないのは明治時代に天皇陵として指定された所。
550 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 09:56:03
仏像とかで日本最古のはどうなってるの?古い古墳とかには文字は残ってないの?
>>550 どうなってるのとはどういう意味だ?日本で最初の仏師は聖徳太子と同じ頃の鞍作止利と言われている。
それ以前は新羅とか百済から渡ってきた物しか無い。
文字史料は例えば稲荷山古墳の鉄剣の銘文が有名。
552 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 10:38:35
>>551 レスどうも。すごいなあ。ちゃんと剣に書いてあるんだ。これで日本書紀とかと照らし合わせれば
本当かどうかわかるか。古墳時代の天皇って一勢力ぐらいだったんだろうけど。
>>552 せめてwikipediaくらい読め。稲荷山古墳のそれは他に例を見ない長文で、大変珍しい。
そして出土地が埼玉だから天皇の勢力は少なくとも埼玉まで及んでいた事になる。
554 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 16:14:44
けどさ。古墳時代って名前が全然ちがうよね
なんとかヒコとか、これがこの天皇に当てはまるとか結構難しいと思うんだが。
555 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 17:07:24
稲荷山鉄剣銘文に出てくる「ワカタケル大王」の場合、
雄略天皇の名前「オオハツセノワカタケ(ル)」と一致している。
名前の前半の「オオハツセ」は美称(オオ=大)と地名(ハツセ)だから、
後半の「ワカタケ(ル)」が実名部分。
銘文解読以前から、中国史料の「倭王武」との一致は指摘されていた。
しかも、この銘文の内容との共通点の多い、熊本の江田船山古墳鉄刀銘文から、
ワカタケル大王の支配が少なくとも関東から九州中部にまで及んでいたことが、
ほぼ認めらるようになった。
556 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 17:16:16
おっ情報ありがとう。おもしろいなあ。
こういうの知るとゴッドハンドの人がやった事がいかに酷い事かわかるなあ。
本屋とかでこの手のが分かりやすく解説してる本とかあればいいんだけど
大体坂本竜馬とか信長とかお江とかなんだもんな。
大河でやらないとダメなのか。大河で古墳時代とかやんねえかな。無理か。
せめて聖徳太子の時代から大化の改新までなら大河でできそうだけど。
557 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 17:22:40
>>550 最古かどうか分からんが、かなり古い伝承で
成務48年 千如寺 大悲王院 印度僧 清賀上人 千手観音を刻す
がある。千如寺は福岡佐賀県境に位置する。非公式佛伝のようだな。
成務48年といったら、倍暦逆算で実年代 338年 だな。同48年は足仲彦
(仲哀天皇)の立太子年であり、成務の先帝の景行の代、九州行幸を
果たしたことからその地域にこんな言い伝えが出来る因となったの
だろう? その地域のへんに油山というのがあるが、ここに清賀上人が
椿油を採ったという伝承があり、それで油山というらしい。
558 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 19:14:25
初心者質問スレで、倍暦だの、成務や仲哀のような実在性の希薄な天皇だの、
一般的に広く認められていないシロモノを持ち出すのはやめるべき。
かつて日本テレビの上田哲也プロデューサーが古フィルムの保存を訴えて収集に日本中を飛び回りはじめたのが昭和32年のこと
伊藤博文暗殺1分前の動画が今も存在しているという確かな情報を掴み撮影者の孫が住むという栃木の山奥でついに当人を探しあてて尋ねたところ
「こんなフィルムがあるよと知人に話したら古いフィルムは自然発火するぞとかおどかされた。ひどい臭いがするし撮った祖父ももう亡くなってるし、
もういいかと思ってちょうど昨晩風呂の炊きつけにしたところですよ」とケロッとして言うので気絶しそうになったなどというエピソードがあるな
ついでに海外のはなしも
当時の米国法規では映画フィルムの著作権がまだ認められなかったため、エディソン社ではフィルムのすべての駒を印画紙に密着プリントして、
長大なロール状の連続写真として著作権申請を行ったのである。この申請方式は初期の1890年代から(映画そのものの著作権が認められた)1912年まで続いたため、
エジソン社が制作・配給にあたった夥しい数の映画が巻紙状の「ペーパープリント」として奇蹟的に後世に残された。
周知のとおり、黎明期の映画は消耗品と看做されて保存が顧みられず、フィルムの材質が脆弱で可燃性だったことも手伝って、作品の大部分は早くに消滅してしまった。
その意味で、権利保護の目的からとはいえ、エディソンが映画を紙に焼き付けてくれた功績は計り知れないのである。
>>556 >本屋とかでこの手のが分かりやすく解説してる本とかあればいいんだけど
おまえ、ほんとに本屋をチェックしてるのか?
本屋にはいくらでもあるぞ
非公式佛伝?
562 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:15:04
第二次近衛内閣とか言うけど第二次ってなんやねん第二次って
今そんなのないで
>>562 お前釣り針が大きすぎ。
現行憲法だって、衆議院の選挙をしたら、選挙の結果を問わず次の特別国会の直前に一回内閣総辞職をしなければならない。
解散した総理が、勝利の後に再び首班指名を受けて組閣した内閣は「第二次内閣」になる。
>>556 ゴッドハンドとか懐かしいw
もう10年も経つのね
565 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:56:42
日本は、英独仏の三国を足したのと同じくらいの軍事力と科学力を持てるはずですが、
何故それができないのでしょうか?
GHQの所為で、国会議員の質が大きく低下したからですか?
その3国のうち、ドイツの科学力は世界一ィィィィだからです
567 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 08:49:07
>>558 >実在性の希薄
古代天皇は幽霊ではない。最も古い仏像は何との質問なら、そのへんの
古代史の論が出て当然だ。オマエも津田の妄想に脳がやられているよう
だな?w
>565
>GHQの所為で、国会議員の質が大きく低下したからですか?
戦後に始まったことではなく、もっと前から続いてるだろう。
何でもかんでもGHQのせいにしてたらダメだよ。
現代日本の閉塞状況は戦前の日本との共通項が多すぎる。
569 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 14:53:05
>>546>>549 現在一部でも残っている一番古い日記って、『宇多天皇宸記』じゃなかったっけ?
天皇の日記としても、公家日記全体として見ても、これが最古だったような…。
570 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:03:11
明治天皇が左利きだったというのは本当ですか?
検索しても、明治天皇替え玉説のページばかりが出てきて、信頼できるような記述に辿り着けません。
信頼性のあるサイトを紹介して頂けると嬉しいです。
574 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:48:31
松尾芭蕉のさ
「夏草や つわものどもが ゆめのあと」
って俳句あるじゃん。あれって鎌倉時代のこと詠ってるらしいけど
戦国時代のほうがしっくりこない?鎌倉時代だと別に夢で戦ってたわけじゃないし
戦国大名のほうが天下統一の夢で戦ってた幹事するし。
>>574 そういう意味の夢じゃなくて、「一炊の夢」のような意味での夢だ。
しかも鎌倉時代じゃないし
578 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 13:42:22
>>574 天下統一を目指した戦国大名なんて、実際には最後の数年間の織田信長だけでしょ。
戦国大名はみんな天下統一を目指したなんていうのは、後世に作られた虚構。
>>571 10世紀に入ると、『醍醐天皇宸記』『村上天皇宸記』や、藤原忠平の『貞信公記』なんかが出てくる。
さらにもう少し下れば、藤原道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』なんかがある。
580 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:00:15
飛鳥時代や奈良時代の貴族は日記を書く習慣はなかったのかな。
聖徳太子みたいな人なら、生前、そういうものを書いていてもおかしくなさそうだが。
581 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:03:21
あ、あの、樹木の年輪を数えることで年齢がわかるってことは、湖に石を投げて波紋を数えれば湖の年齢がわかるのかしら?
>>578 どの本を読めば書いてありますか(わかりますか)?
>581
分かるとしても、せいぜい「波紋の年齢」(数秒ぐらいだな)だけだろ
そりゃ、湖ができた日からずっと拡大を続けてるような波紋があれば別だが。
584 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 05:44:09
>>574 そもそも、芭蕉がその俳句を詠んだのは、衣川の古戦場じゃなかったっけ?
586 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 09:19:30
>>580 聖徳太子の時代じゃ紙が日本に伝来したばかりだし、国内で紙を生産する体制だって多分ないだろ。
あと日記(古記録)じゃなくて古文書なんかの場合も、「正倉院文書」のようなものを除けば奈良時代段階のものが出てくることは、極めて稀。
それに公家の日記は、必要があって書かれている面もあるわけで、その必要が生じるのは、やはり公家の家職化と朝廷の先例主義化が進む平安中期以降。
587 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 09:28:38
てゆうか、日本みたいに10世紀とかのかなり古い時代の段階から大量の日記が残るようになること自体が、世界史的に見ればかなり特異。
現存する公家の日記をすべて調べれば、平安中期以降明治維新までの京都の天気が一日単位で完全に復元可能なんて話もあるしw
588 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 17:51:14
何故
大和朝廷以来、時の政権は
北海道まで植民しなかったのですか?
樺太→シベリア、千島列島まで進めたのでは?
よくわからん地域だったから
米作に適さないから
591 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:12:56
けどヨーロッパだと、2000年前のキリストの発言とかが普通に残ってるじゃん。
中国でも史記とかあるし。
>2000年前のキリストの発言
イエスがラテン語を話すんだよな
スゲー教養人>イエス
>>588 古代には、そもそも坂上田村麻呂あたりまでは東北南部ぐらいまでしか支配していなかった
中世・近世には、
>>590も言うように、日本人にとっては、米が生産できるかどうかが重要だった
江戸時代の藩の規模は何で比較したか?
「○○石」と、米の生産量で計っていたのだ
北海道で米が作れるようになるのは、寒冷地に対応した品種改良が進んだ明治以降
松前藩は、米が取れないので、昆布などの物産の収入で1万石格(後に3万石)とされては
いたが、当時はそれぐらい、米こそがすべての基本だった
>592
いや、ギリシャ語だろ?
新約聖書の原書はギリシャ語だし。
もちろんイエスはラテン語もギリシャ語もしゃべれません。
>594
小説・映画ネタのつもりで書いたんだが…
ギリシヤ語のイエスのセリフってどんなのがあるの?
>>592 新約聖書にしろ、史記にしろ日記ではない。
新約聖書にあるキリストの言葉は少し後になってから偉大な教祖様のお言葉として種々書かれた物を
更に後の人が取捨選択して今の形になったものであって、キリストの発言そのものでは無い。
新約聖書の四福音書を比べただけでも色々食い違っているし、新約聖書に含まれなかった偽典外典も
見れば更に全然違う事が書いてある。
597 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:40:15
598 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:43:19
東北地方全域(津軽海峡まで)が中央の影響下に入るのが11世紀後半くらい。
一応、1070年の延久蝦夷合戦の際に、陸奥守源頼俊と鎮守府将軍清原真衡が東北地方最北部まで征服したことになってはいるけど、現実的には後三年合戦後の奥州藤原氏かな。
599 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:55:27
日記云々に関しては、ちょうど六国史が終わるあたりから、古記録(公家日記)が出始めるというのも面白いな。
松薗斉さんが、国史の編纂途絶と日記の尊重機運との間に関係があると言っていたはず。
質問です
時代劇では、よく、江戸時代の人が拍手をしています
たとえば、忠臣蔵もので、吉良を討った赤穂浪士たちが、泉岳寺へと歩いていくシーンで
江戸の町民達がパチパチと手を打って彼らを讃えるのを見かけます
江戸時代に、拍手ってあったのでしょうか?
もちろん、手拍子とか、手締めなど、手を打つ風習自体は日本にももとからあったでしょうが、
人や芸を讃える時に拍手をするというのは、西洋的な風習のように思えます
江戸時代、すでにその風習はあったのか、それとも単純に、時代劇の考証がいい加減な
だけでしょうか?
602 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 19:57:25
本能寺の変の時に秀吉と毛利が講話してますが、
備中国の所属は誰に決められたのでしょうか?
関ヶ原敗戦まではずっと毛利方ですか?
603 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:09:40
>602
城主切腹の上で開城、という形で講和してるんだから、
高松城の周辺は秀吉が取ったと考えるべきだろう。
備中国全体として考えるなら、秀吉と毛利の間で分割されたと思う。
その後、秀吉が天下を取る過程で国境が変更されている。
毛利は加増されたわけ。(吉川と小早川を独立大名にして、毛利本家の領地は削減だったかもしれないが)
織田政権の末期に切り取られた土地も、豊臣政権の成立過程で少なからず毛利一門に与えられたんだよ。
ヤマタノおろちの神話は
青銅を使う文化が製鉄文化を征圧する話
ですが劣位文化がどうやって勝つのでしょうか? まともに考えて勝ち目は
なさそうです。
地の利を活かした先述で…
>>605 ヤマタノオロチは、氾濫する川、洪水の象徴
征服を表しているのではなく、治水を表す話
そもそも征圧したわけではない。
神話のように友好派閥と婚姻したり酒宴でもてなしたり。
609 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:11:13
>>602>>604 wikipediaによると、備中11郡のうち3郡を秀吉側へ引き渡し、高松城には宇喜多氏重臣の花房氏が入ったらしい。
610 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 18:16:45
ディアゴスティーニとか買ったりする人いる?
611 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:06:55
ううむ、
ヤマタノオロチに甘い上等の酒(もしくは毒酒)
を飲ませて、大蛇の首を切り落としていく。
友好条約を結んで、各郷の首長を酒宴に招き
各個撃破していく?とかいう裏が隠されてたりして。
612 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:48:57
出雲の国にはヤマタノオロチ川があって、
ときどき川が氾濫して水害が起きる。
騙し討ち
一回目で手の内がばれる。
友好的酒宴
各派閥相手に何回も繰り返し実行することが出来る。
8回可能なのは後者。
614 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 07:46:37
18cあたりの幕府は、貨幣を弄ることによって、米価をあげようとしたりしていますが、
これでは他の物資も値段があがって、結局意味がないのではないですか?確かに堂島の米市場公認などは行っていますが・・・。
互市と朝貢の違いって何ですか?
日本国が歴史上中国大陸と行ってきた貿易はどちらに当たりますか?
要するに我が国は朝貢をしていたんですか?
616 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:18:56
室町時代の日明貿易なんかは完全に朝貢形式だが、それはあくまで対外的な方便というべきもの。
617 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 20:32:11
>>615 朝貢とは一方の国が一方の国の臣下であるという立場で貿易をする形態。
歴史的には、貿易を開始するにあたってまず、中国皇帝が自分の部下である
日本国王(倭国王)の称号を贈ることに特徴がある。
その意味では、倭の五王、遣隋使、遣唐使、日明貿易、すべてこの形態だった。
江戸時代の清との関係は、長崎の出島に限った一部の交易であったために、
江戸幕府将軍は日本国王の称号を得ていない。
渡来僧という問題もね。
明からの渡来僧は清への敵愾心が強く、清との朝貢貿易へは否定的だった。
その意味では宋代の元との外交に近いものがある。
朱子学と共に渡来僧の持ち込んだ清=野蛮国家説が、日本国内の国学=日本神国論と合わさる形で
日本国内で日本を頂点とした中華秩序再興論を生むことになる
天皇が存在する限り朝貢ではないよ
622 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 21:31:40
そういう天皇原理主義はいらないよ
>>617 そだね。明や清は、冊封という国王の称号を贈ってくることがセットだ。
624 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 23:09:39
>>617 >江戸時代の清との関係は、長崎の出島に限った一部の交易であったために
清のとき国交ないよ。何言ってんの?
>623
横レスだが、唐も日本を冊封してたんだぞ
日本側で唐から冊封されていることを国内に隠す対処を行ったから、
国内一般では冊封されているという意識が薄かっただけだ。
ただ。遠方の国だから、毎年じゃなく二十年に一回と特別な低頻度朝貢に決められていた。
それだけだ。
とはいえ、国内向けには朝貢関係であることを隠した事実が、
日本の当時の首脳部にとっては中国への朝貢が屈辱的と思われていたであろう事を物語ってもいる。
屈辱的ではあるが、その際に得られる利得を無視できなかったんだろう。
(あと、遣唐使の初期に関しては、白村江での敗戦の戦後処理的意味もあって、
屈辱的であっても避けるわけにはいかなかった可能性がある。)
626 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 01:02:05
いやーどうなんだろうね
屈辱的っていう概念が生まれてくるのはもうちょい後でない?
日本人として見るからそう見えるだけで東アジアを覆っていた華夷秩序から見れば”それが普通”だったんじゃないのかなぁ
ちなみに日本は卑弥呼から冊封を受けているよ。
厩戸皇子が、推古天皇にも隋皇帝にも
国王として二重冊封されたことにしておいたんだろう。
天皇も、国王なんざいくらでも冊封できる。
628 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 01:58:34
>>621 その考えは、江戸期以降起こった。
源流としては北畠親房の天皇優越説・天皇君主説があるのだが、
具体的な政治思想として形をとるのには
・朱子学(鎌倉以来の仏教僧侶・朱子学者)
・清国野蛮視(明からの渡来文化人)
・国学の日本神国論
が合同した形で、
・日本国には征夷大将軍(大君)より一段上の天皇がいる
・天皇は万世一系であり野蛮に侵されていない
・なら、野蛮に滅ぼされた明の次の中華は日本に他ならない
・新しい中華の皇帝は日本の天皇しかありえない
という形の、日本を中心にした華夷秩序形成論へ発展してゆく
629 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 21:51:48
みなさん、こんばんは。
日本は侵略戦争したと左巻きが宣伝していますが、おかしいとおもいませんか?
ttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/1461149.html 太平洋戦争で日本はアジアを侵略したのですか? 役に立った:14件
質問者:ramuke 投稿日時:2005/06/20 14:04 困り度:暇なときに回答をください
歴史の教科書の中で 日本が宣戦布告したのは、アメリカ・イギリス・オランダの国しかしなかった様な気がするのですが、タイ国には了解済みで進駐したし、
ベトナム?にはフランス(ビシ-政権)許可をもらって
進駐したとおもいます。日本が戦ったのはアメリカ・イギリス・オランダではないのですか?中国にも宣戦布告はしていないと思いますが?
どう考えてもアジア人の自由と平和の為に戦った解放戦争ですよね。
質問される方は日本人になりすまさず、有色人種の為にどこの国が戦ってくれたか真剣に考えてから答えてください。
特に朝鮮の人々は日本に恩を受けた事実を認識した上で発言してください。
それでは回答をお待ちしています!
630 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:43:54
>>629 その認識は正しくもあるし、間違ってもいる。
日本が侵略したことは確か。ただし、欧米とは少し根底にある考えは違ったものだったと思う。
大東亜系の思想の元になってるのは「このままじゃ俺らも侵略されちゃう。やばい。アジアの国々に頑張ってもらわねば・・・」
という考えから来てるんだよね。だから、朝鮮とかにインフラとか凄まじい額で支援してるし赤字も気にしなかった。自国の為だと信じ込んでいたから。
でもこの考えが残ったのは国民だけで、上の方(ちゃんと勉強したりした人とか)
は、「なーんだ。主権国家体制の世界で侵略されることなんてアメリカと日米和親結んだ時点でないんじゃん。」となって、大東亜系の思想が段々帝国主義的なものに変わっていく(つまり日本も帝国主義を目指せるということに気付いた。)
で、アジアの人達も最初は日本人の大半と同じで、日本はまじで解放してくれると思ってたわけ。(日露戦争とかの影響も大きい。)
軍とかは確かにひどいことはしたけど日本人は本気でアジアのために戦ってるとおもっとる人も多かったし、アジアの解放戦争として捉えることも可能。
解答になってないかな?これはこんな短い文章じゃ語り切れないことだから大分省略したけどこんな感じだよ。
左も右も好きなとこだけつまみ食いして話しをしているのかなーと思う。
朝鮮なんかはほんとに一つまみって感じかな?
>630
つかな。
そもそも、「侵略は悪だ」という概念が普及していなかった時代の話だろ。
併合下の韓国からわざわざ渡欧して民族自決の原則に則って韓国も独立させてと訴えた人らに対し、
「自力で時刻の独立を勝ち取ることもできんヤツがそういうことを訴え出るなんて国際秩序を乱す野蛮人は去れ。」
なんて感じで冷笑したのが当時の欧米(まあ、実質全世界の、だが)の常識だっただろ。
それにな。
当時の韓国は日本が併合しなかったらロシア領になってたはず、という状況。
ロシアのアジア進出意欲はスゴかったよな。
第一次大戦中に革命が起きてソ連に変わったことでアジア進出が長く中断させられたが、意欲を失ったわけではなかったはず。
ロシアがアジアにおいて獲得しようとしていた二大目標は、
・不凍港の完全確保
ウラジオストック港から太平洋へ出る海路(海峡)を完全にロシア領として確保すること。
要するに、津軽海峡両岸もしくは対馬海峡両岸(もしくは両方の海峡)を完全にロシア領にするってわけだな。
北海道と青森県まで。または、朝鮮半島から九州島まで制圧するってわけだ。
・中国進出
ヨーロッパの先進国同様に(当時のロシアは国内産業の水準では先進国というより中進国だったはず)
中国に進出して各種利権を確保したかった
ただし、他の国々は海路はるばる... という制限があったが、ロシアだけは陸路で本国と往来できる好条件つき。
で、ロシア本国から中国へ行くルート途上に朝鮮半島があったから(ロシア国内の鉄道ルートの関係)、
ロシアが朝鮮半島を領有しないで放置することは不可能だった。
とはいえ。
>629
中国に対して宣戦布告していないのは、当時の国際法では
「国際戦争は禁止」と定められていたからで、
日本としては「中国との間の紛争は国際戦争ではない」ということにしたかったから、
どうしても宣戦布告するわけにはいかなかった。それだけ。
もっとも...
日本国内は方針の統一・意思の統一がまったくできない分裂状況にあって、
様々な部局の様々な人がバラバラの目標で独自に行動していて、
思惑のズレが欧米諸国からの国際的不信を受けることになり、孤立していった。
南方進出はあくまでも資源獲得のために行ったものであって、
アジア植民地の欧米列強からの開放というスローガンは単なる名目上のものでしかなかった。
戦況が不利になって、現地人の協力が欲しくなってから、慌てて実質を伴うものにしようと方針転換しただけ。
633 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 23:31:28
>>631 わざわざどうも。そういう書き方を俺がしても良かったけど中立的な見方から
っていう質問だったからね。
当時の日本含め欧米は民族自決とかそういうのは単なるゲームのルールであって建前でしかないってわかってた
一方でアジアの国々は本気で信じ込んでた。
だから上みたいな書き方になったわけだが。
>「自力で時刻の独立を勝ち取ることもできんヤツがそういうことを訴え出るなんて国際秩序を乱す野蛮人は去れ。」
これはちょっと違うな。普通に「俺ら植民地失ったらただの小さい国だからやだよ」ってだけ。
あと俺も日本が統治してたあげたからロシアの支配下に入らずに済んだっていうのは宣伝してるウヨよりだ。
でも中立で、って言われたからそういう朝鮮に拘った書き方はしなかった。
いちおう、こちらも中立のつもりではある...
「 >630,633 さんと違って、どちらに対しても喧嘩腰」な言いぐさと言うべきか。
>日本が統治してたあげたからロシアの支配下に入らずに済んだ
という見解に関しては、「そのように言うことは可能」程度にしか思ってない。
まあ、あちらの連中にしてみたら、日本の支配下に入るのもロシアの支配下に入るのも、ほとんど同じ事だっただろうしな。
日本の側としては、韓国を助けるために併合したわけではなく、あくまでも日本の都合。
上で書いたように、韓国がロシアに制圧されたら日本列島まで進出することが明白だから、
ロシアに渡すわけにはいかなかった。
まあ、韓国の富を奪いたくて侵略したってわけじゃないが、
アオリを受けて貧しくなった人も少なくはなかったわな。(主に富裕層の人だが。)
それだって、日本が富を持ち去ったから貧しくなったってわけではない
「明治政府的農業政策」(明治期ではなく大正期だが)を日本列島だけでなく韓国にも押し広げた影響ってだけのハズ。
635 :
日本@名無史さん:2011/02/03(木) 00:08:39
まぁ日本が植民地支配をしたというのは明らかな嘘だよなー
ありゃぁただここも日本に入れよう!って感じで外に県作ってる雰囲気で向こうの人もワーイって感じだったんでしょ?
でも、行政の長が「総督」だったり、
当初は選挙権が本土と違ってたり、不平等もあったのも事実で、難しい。
ただ---
日韓併合で韓国の地主層が凋落した一方では、
日本本土でも農民が貧しくなったりしてるしなあ。
ちなみに、現代と違って当時は人口の大半が農民。
つまり「本土の国民も貧しくなった」ともいえる。
ちうか効率的に収奪するノウハウを知らなかったもんだから
今で言う過疎地域の振興対策と同じようなやりかたやっちまったんで
あと、朝鮮銀行を通じて経済支配は確立させている
太平洋戦争のころの
日本のインフレ率と
朝鮮半島のインフレ率を比べてみると面白いぞ
本土で人口が増えてきたので食料輸入しなくていいように半島で増産路線とったんだよな。
かなり強引に、大規模に灌漑設備の拡充を行わせて米の大増産をさせた。
この工事費用で半島の富裕層は破産者続出。農地の多くは本土の資本家や地主が買い占める結果になった。
こうして半島から安い米が本土に入ったので米価下落で本土の農家は収入激減。
このとき、増産の影響で半島では人口急増したが、生活レベルは決して上がっていない。
たぶんだが、副食の量やらバリエーションは減っただろうと予想される。(この意味では、貧しくなったとも言えるだろう)
とはいえ、半島では多くの人が飢えから解放されたのは事実だろう。(だから人口が増えた)
朝鮮や清や琉球なんかとも交易はあったのでは…とタイトルをみておもうた
641 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:20:24
東亜細亜系人種は、西欧白人系人種よりもIQが高いにも関わらず、
何故、台湾先住民は原始時代と代わらない文明しか築けなくて、
高麗人は石器時代に毛が生えた程度の文明しか築けなくて、
支那人は様々な分野で日本や欧米の劣化コピーしかできなくて、
日本人はバナナ共和国レベルの民主主義と政治制度しか実現できないのでしょうか?
642 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:21:37
なんであんなに幕府がキリスト教嫌いだったかっていう話からはじめるけど
織田信長が全国統一で一番苦労したのって一向宗だったんだよね。
最後まで戦ってた。宗教の力っていうのはそれくらい大きかった。
織田信長がさんざん苦労したの見てたから秀吉も家康も宗教には厳しかった。
キリスト教にもこの考えかたが当てはまるから幕府としてはキリスト教布教はなるたけ避けたかった。
これがひとつ。
あとは当時は侵略されるかもーって意識はまだ薄いけど、一応あったんだろうね
じゃぁななんでオランダは許したの?って話になるけど
オランダがキリスト教布教に他の国よりは熱心じゃなかったってのがある。プロテスタントだから。
あとは西洋の文明をなんとか取り入れる窓口が必要だった。
そして確かに清とかは着てたけど圧倒的に需要に届いてない(生糸)
なんといっても清と江戸時代の日本は国交ないからね。全然足りない
オランダみたいな国がいてくれないと、国内需要が満たせなかったんだな。
あとねー、オランダって覇権国家だったからね。当時のオランダ語って今の英語みたいな雰囲気だったって言えばいいのかな。
オランダ語が普通だった。
あとは、鎖国っていう意識は当時の日本人持ってないんだよね。
これが伝統なので・・・・っていう良く分からん態度。
俺ここは詳しくないから他の人に譲るわ
643 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:23:07
>>641 歴史を作ってきたのが向こうだから。
天才もルールが決められてたらそのルールの範囲内でしか動けない。
みたいな感じに俺はとらえるけどどうなんだろうね
>>641 台湾先住民は、4世紀に文明の総入れ替えがあり
原始時代はバッサリ終わりました。
実のところ高山族というのは、鉄やガラスを使った4世紀以降の新世代住民だったのです。
645 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:35:55
すいません。16代 将軍 地蔵 で何か句があるらしいのですが、よくわかりません。
このキーワードで出てくる有名な言葉ってありますか?
ググっても電気グルーブとかよくわからないものしか出てきませんでした。
よろしくおねがいします。
646 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:55:03
>>617 ローマ帝国もオランダもイギリスも朝貢形式だろ
647 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 00:57:49
>>646 儲かるからねー。ローマはどっかの商人が「僕マルクスアウレリウスアントニヌスの使者」
って嘘ついてウマーしたんじゃね?って言われてなかった?
648 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:17:42
GHQは公職追放で、アメリカやフリーメーソンにとって都合が悪い国会議員、官僚、公務員、軍人を公の職業から追放しましたが、
何故、歴史の教科書では、危険な軍国主義者、極右勢力、戦争犯罪者がGHQの指導で追放されたなどと、
事実と異なる事が書かれているのでしょうか?
649 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:19:21
何を歴史として見るかは史実を選ぶ歴史家にかかっています
また、史実の解釈も歴史家にかかっています
>危険な軍国主義者、極右勢力、戦争犯罪者
こういう解釈も不可能ではないのでそういう書き方も可能です。
歴史とはそういうものです
ドイツ人留学生いわく
「古代ローマ帝国が東ローマ帝国と西ローマ帝国に別れ、西ローマ帝国は後に蛮族に滅ぼされた。」
「ゲルマン民族は東フランク王国を前身として神聖ローマ帝国を建国した。」
「この神聖ローマ帝国こそかつての西ローマ帝国の蘇った姿である。」
なんか無茶苦茶な歴史認識のような気がする。
それともこれで合ってる?
○
△
×
つーか何で世界史板で聞かない?
すまん、純粋に間違えた。
653 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:50:14
>>650 歴史はフィクション。俺らの歴史認識が正しい保障はゼロ
世界史の質問スレが・・
どうしてこうなTT
>>650 フランス人なら、こう書くだろう
・「古代ローマ帝国が東ローマ帝国と西ローマ帝国に別れ、西ローマ帝国は後に蛮族に滅ぼされた。」
・「フランスの国祖シャルルマーニュ戴冠によって西ローマ皇帝断絶以来途絶えていたローマ皇帝は復活された。」
・「シャルルマーニュの後継者たるフランス王国こそ、かつての西ローマ帝国の正統を継ぐものである。」
>648-649
アメリカにとって危険な政治家とか公務員は、
公職追放の命令が出る前に戦争犯罪の嫌疑で逮捕されてないか?
GHQによる公職追放は、戦犯の容疑を免れた残りの人間に対するものだろう?
軍国主義者や極右勢力が戦犯にならずにのうのうと残留できる時代だったとは思えないんだが。
そう考えると648は妄想力がたくましいのではないかと思えてならない。
朝鮮戦争前後からグダグダだがな
掃海艇を50隻編成させたり東条ラインの軍人を復職させたり
658 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 02:06:15
659 :
日本@名無しさん:2011/02/05(土) 03:47:56
ヘンリー=フォード曰く、「歴史とは戯れごとなり」だ。
朝のトップにとっても、野のオッサンにとっても、当事者にとっても、後世の傍観者にとっても、
歴史とは、どこかの誰かさんの思惑と意志の物語でしかない。
その中において、事象の真実とは群盲の把握した形以外のものではない。
元寇の前にモンゴルの密使が来ましたが彼らと日本側は何語(中国語?)で会話したのでしょうか?
内陸モンゴル人が日本語を学ぶ機会は無いと思いますが。
鎌倉に葬られている記録からは、契丹人、回鶻人、高麗人による使節でした。
高麗人が通訳に入ったのでは?ないでしょうか。
>>650蛮族ってお前らの先祖のことじゃん
と言い返してやれ。
>655
いや、フランク王国のことをフランス王国と呼ぶんじゃないか。
だいたい、綴りは同じだろう?
664 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:32:31
>>660 当時の3大都市(京都・鎌倉・博多)とかには、普通に中国系商人なんかが
住んでいたのだから、通訳は中国語によって行われたと考えるのが
自然じゃないの。
>>628 清以前に、元によって中国全土が征服された段階で古代以来の中華文明は
断絶したというような意識もあったと聞く。
明は漢民族の王朝ではあるものの、祖の朱元璋は貧民の出身だったりして、
あまり文化水準の高い王朝とは、中近世の日本の知識人は見なして
いなかった。
一方、元の前の宋に関しては、日本の文化や思想に多大な影響を与えた
王朝としてプラスに見る意識が結構あったとか。
元の使節を毒盛って頃したんだから
話さなくても無問題
666 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 17:32:38
ところで西洋人って中国をとおって日本に着たりしなかったの?フランスあたりから中国なんて
無理すれば結構いけると思うんだけど。幕末の西洋ムチっぷりはなんだったんだろう?
668 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:39:49
>>666 普通に着てたし無知といっても民衆レベルじゃない?
というか多分あの頃は出島から出たらぶっころされんじゃね?
>>666 江戸時代を想定して言ってるのか?江戸時代なら西洋人はオランダ商船に乗ってやってきた。
有名なシーボルトはドイツ人だ。普通は出島の外へは出られないが、シーボルトは医術を教える
からと理由を付けて出島の外に出る許可を得た。
670 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 17:12:22
江戸時代っていうかさ。ヨーロッパってすごい文化が混合してるじゃん。
キリスト教圏って感じでなのに中国は仏教圏でよく混合しなかったなあ。
って地続きなのに。
>>670 中国自体がヨーロッパ全体に相当するデカさだと考えたら何の不思議も無いぞ。
日本や朝鮮は仏教とか儒教とか色々と中国の影響を受けて、混合してるとも言える。
地続きって何処を念頭に置いて言ってるの?
672 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:43:13
昭和44年9月4日 葛飾公会堂
_ -―- _
, ', -、ヽ'´ `'´, -、ヽ 革命とは!戦争により勝ち取られるものであるッ!!
! { / ゙ } i
ヽ`ー,' ● _ ● ゙ー'ノ 日和見主義の共産主義者同盟主流派の戦旗派はカスである!!
` ! , '´ ▼ ヽ l"
/ `ヽ i 人 i ノ ヽ 我々は日和見主義、戦旗派より分離独立し
ヽ./ `==ァ'⌒ヽ==' ヽ/
ヽ, {(^) } 〈 「赤軍派」
! ヽ!l__,ノ ゙
l i を結成するッ!!
赤軍派 田宮クマ麿
ttp://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-439.html
邪馬台国の生活描写は魏志倭人伝では夏冬ともに生野菜を食べたり海に潜ったりと温暖に見えますが
畿内説でこれを説明できるのでしょうか。
三重や和歌山なら温暖なので何とかなるかもしれませんが。
九州説でも北九州ではかなり難しいような気もします。
674 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:05:30
今の気候と違ったんだよ
で終わりそうですが、違った考えをお持ちなのですか?
675 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:57:16
ロシアってあんなに近いのに江戸時代まで日本にこれなかったの?
白人と東洋人がなぜここまで触れ合わずに来たのかすごい不思議なんだよね。
チンギスハンとかいたし。
幕末の日本なんて白人はかかとがないとか言われててすごい無知っぷりだった
みたいだし。国際交流ほんとうになかったのかな?
そもそもロシアが沿海州とかカムチャッカに到達したのは日本が鎖国するよりも後だったのだが。
ウラル山脈越えるのがきつかったから
>>673 伝聞の伝聞の伝聞の•••
だから正確なはずがない。
そもそも邪馬台国までの里程がどうみても出鱈目だ。
>>673 古代中国が倭と呼んだのは日本だけじゃないんですよ。
そしてそれをはっきりと区別していなかった(区別できてないからみんな倭と呼んだ)ので、
倭と呼ばれてる地域の情報を魏志倭人伝にまとめてのせちゃったって感じ。
そんな倭のひとつ広西省あたりの風俗じゃないかな
680 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 03:26:23
烏丸、鮮卑、あとはまとめて東夷〜
681 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 09:02:09
>>673 古代温暖期なら無問題、更に過去の縄文海進の頃なら更に温暖。
中華思想だと日本も匈奴と同等の扱いだからなぁ。
同等の扱いが転じて同一扱いでもおかしくない。
684 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 19:19:42
>>683 一応序列あるんじゃなかった?
新羅とどっちが1位かもめとったし
秀吉と言えば大阪 家康と言えば江戸
みたいになってるのになんで信長と言えば滋賀 じゃなくて名古屋になってるんですか?
安土が新快速も止まらないド田舎だからですか?
おかしいですよ!
新快速って、京都以西では一般快速の上位にくる列車種別だけど、滋賀県内では事実上ただの快速ですからw
そうだ、長浜市へ行こう!
688 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 00:41:01
新快速って、湘南新宿ラインの真似して関西にできたやつだろ?
そんな田舎電車の話なんて日本史板でするなよw
689 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:13:48
そうだね、君たち惨めな歴ヲタが威張れる場所なんてネット上だけだから
せめてこの場でぐらいは他人にへりくだってもらいたいよね
コンビニ店員以外の人間から頭を下げて貰える数少ない機会だしね
690 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:21:07
新快速って都会の電車にはあるまじきボックスシートなんだよね。
よう釣れるのう
滋賀や京都には、グランクラス−グリーン車−普通車の三等級制運賃なんて馴染みませんから(w
中国のように、高−軟−硬というネーミングにすれば、また違うかもしれません。
693 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 03:36:53
日本史板って鉄ヲタ多いんだねw
18切符シーズンになると、新快速の車内で、転換クロスシートを転換できずに後ろ向きのまま座っている田舎者をよく見かけるよね。
古代史だと、近鉄を使うんだな
近鉄にも転換クロスシートあるよ。
なぜか京都線だけはないけど。
快速とか新快速って、
私鉄と違って急行や特急が有料(乗車料金の上に追加料金が要る)で私鉄との競争に不利だから、
それを埋め合わせるように「追加料金が不要な急行・特急」って位置づけだろ?
急行に相当するのが快速で、特急に相当するのが新快速。
私鉄がJRのライバルになれない、単にJRを補完する従属的な位置づけでしかない関東と違って、
私鉄が互角以上にJRと競合・競争できる関西では、
急行料金や特急料金を上乗せするシステムでは戦えないから快速と新快速が必要になったわけで、
関西における私鉄の強さを示してるだけ。
>686
それは「滋賀県内では各停と特急の間を埋める位置づけに入る急行列車の余地がない」
「特急と急行を区別できないほど停車駅の格差が乏しい」ってことだよな
698 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:12:09
>>697は私鉄にも有料特急があることを知らないらしい。
関西は貧乏人が多いからグリーン車とかあっても誰も使わないんだな。
結論
関東の電車は格好いい。
関西の電車は田舎臭い。
以上
701 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:56:45
なんだよ鉄オタでしゃばんなや死ね
702 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:11:22
ぶっちゃけ関東の電車のほうが安物だろ。
蛍光灯はカバーなしの剥き出しだし、ドアの内側も化粧板を貼らないからステンレス剥き出しのことが多いし。
いずれも関西では考えられないこと。
新快速なら名古屋にもありますが、何か?
704 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:19:01
味噌はすっこんでろ!
鉄板では相手にされないヲタがあぶれてきたのか?
このスレは、関西私鉄と関西の鉄道事情の特殊性についての歴史を語るスレになりました。
>>694 後ろ向きの方が目が疲れないんだよ。知らないの?
なんで鉄スレに?!
709 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:39:47
昔、地理・お国自慢板に
「転換クロスシートを転換できない奴は田舎者」
っていうスレがあった。
710 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:12:07
>>688 逆だ。
関西に昔からあった新快速を真似して関東にできたのが湘南新宿ライン。
関西は歴史的に見ても、鉄道先進地域で、自動改札機なんかも関東より20年も早く普及している。
関西は標準軌間だと聞いていたが、明日香村のあたりは関東と変わらなかったな。
大阪へ出るために通った羽曳野のあたりもカーブが多くて、揺れ揺れなもんで関東と変わらなかった。
日本の国旗をデザインした人は?
ついでにお隣さんの国旗が日本の国旗になんとなく似てるのは関係ありますか?
>698
だって、関西の私鉄で特急料金が別に必要なのは近鉄だけでしょ。
おれ、近鉄はまったく利用してないから忘れちゃうんだよな。ゴメン。
>712
日の丸を国旗としたのは幕末の人だと聞いた。
明治維新時の幕軍vs官軍の戦争時には幕軍の国旗だった。官軍ではなく朝敵の旗だな。
お隣さんの国旗は日韓併合が原因だろう。
あちらさんは認めてなくても、至る所に日帝(とやら)の影響とか残渣が散在してる。
あちらの人が日本に来て、「え?これ日本製だったの?」とか「これ日本文化だったの?」とか、
「韓国発祥だと思ってた」という驚きの声を何回言うか調べてみるといい。
>>712 日の丸という意匠は誰がデザインしたと言えないくらい古くから有る。
韓国のは日の丸とは何の関係もない、太極図。wikipediaによると『朝鮮人の服色である民の白、臣の青、
王の赤にちなんだ白底青雲紅龍の図案を提案し』たが『青雲と紅龍は作るのに手間がかかるため、赤地
に青と白が交わった円の図案はどうかと述べたが、これに対して馬建忠は地は白で中央に半紅半黒の
太極文様を描き』ということになったらしい。
参勤交代が方言の研究に
繋がり国学にも繋がた
というのは本当ですか
717 :
716:2011/02/14(月) 02:40:46
「伝狐妖」かとも思ったのですが、
真ん中が狐に見えないのです。
718 :
716:2011/02/14(月) 02:44:21
>>714 何の関係もないことはありえない。
龍の図案から大極図に変えようとした時点で影響があるし
陰陽魚を旗の中心に持ってきたのも日の丸の影響だろう。
明らかに国旗制定前に他国の国旗を参照した時に日の丸に強く影響を受けたのは疑いの余地がない。
>>719 龍から太極図に変えた理由は龍は複雑で書きにくい(手間が掛かる)なんだから、最も簡単な図形である円に
するのは自然な流れであって、日の丸が影響した可能性があるにしても『何の関係もないことはありえない。』
なんて事は言えない。
そもそもは清の冊封国だからその国旗を参考に龍にするって話だよ。それで朝鮮と清とで相談して決めた。
日の丸を参考にする理由は無いだろ。
>>719 >陰陽魚を旗の中心に持ってきたのも日の丸の影響だろう。
>明らかに国旗制定前に他国の国旗を参照した時に日の丸に強く影響を受けたのは疑いの余地がない
そうかな〜?
722 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:53:09
原敬、浜口雄幸、伊藤博文、山県有朋、夏目漱石、大隈重信
この辺の動く記録映像や肉声って残ってるのでしょうか?
>722
>559
>>722 浜口雄幸の映像はテレビで見たような記憶があります。
当時のニュース映画の一部だと思うけど、NHKスペシャル関連だったかな。
探せばネットでも見られるかも。
他の人は、活躍時期がもう少し前なのでないかもしれないですね。
「活動写真」の登場より前に死んだ人たちの映像は残りようがありません。
たしか昭和に入ってからだったような?
伊藤・夏目・大隈あたりは時代的に無理のような気がする。
あと、当時はフィルム代が高かったから、現役政治家か裕福な人じゃない限り映像に残してないのでは?
明治30年頃からあるよ
えっ?
すいません、デマを流してしまったようで。訂正しときます。
728 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:00:26
現役の総理大臣だと記録に残すだろ
>>725 活動写真(かつどうしゃしん)は明治・大正期における映画の呼称。元来は幻灯機のことを指す。
後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも。自動幻画、活動大写真、自動写真
という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは昭和になってからである。
730 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:33:14
ラジオや音の録音技術っていつ頃から具体的に出来るようになったんだっけ?
言っても首相とかなら即座に記録するとはお思うが
中国では国名が目まぐるしく変わりましたが日本は国名が倭→日本だけでその後の指導者が誰も国名を変えようとしなかったのはなぜですか。
>>732 中国では王朝が変わったけど日本では変わらなかったからです。幕府とかは天皇の朝廷から政治を
執り行う権利を預かるという建前になっていて、天皇が天下の支配者で有るという点は変わらないので
国名も変わらなかったのです。
日本の実質的な政治の中心は鎌倉だったり安土だったり江戸だったりと変革したけれど
皇居は京都に有り、名目上の「首都(都)」はずっと京都であり続けた…
と、僕は認識しています
しかし、権力者としては担がれて反抗の材料となる危険性のある天皇は身近に置いておきたいはずだし
守りにくいと言われる京都が都であり続けるのは何かと不利だったと思います
それなのに何故、1000年以上も遷都せず、京都を「首都」とし続けてきたのでしょうか
>>734 身近に置くのは政治の表舞台に近すぎて、アレコレと口出ししかねない危険が有る。引っ越しを強要されれば
天皇も公家たちも反発する事も間違いない。むしろ千年一日の如く変わらない日々を送り続けてもらった方が
波風が立たない。古都京都に押し込めたまま京都所司代のような見張りを付けておく方が利口ってもんでしょ?
源頼朝の頃は幕府が天下全体を支配してた訳じゃなくて関東の地方政権程度のモノだった様だから、遷都とか
言える立場ではなかったらしい。鎌倉時代は幕府の力が増大してもそのまま行く事にした。
次の室町時代は逆に京都に幕府を置いた。次の天下人信長はそこまでやる前に死んだし、秀吉は関白として
政治を行ったから朝廷に近い立場。
次の家康の時には既にそういう伝統になってるから、最初に書いたようにそのままにしとくのがベスト。
>>734 >守りにくいと言われる京都が都であり続けるのは何かと不利
守りにくいということは、逆に言えば、鎌倉や江戸の政権にとって、攻めやすいということです
実際、朝廷が鎌倉幕府に刃向かった承久の乱では、幕府軍が京都に侵攻しています
幕末の鳥羽伏見の戦いにしても、負けたのは慶喜のせいで、条件的には幕府軍の方が有利だったはずです
あと、
>>735さんに補足すると、戦国時代に、天皇の権威は大きく失墜していました
天皇が退位して上皇になりたくても、資金がなくて次の天皇の即位式ができないために、退位すらできない、
という状態にまで朝廷は落ちぶれていたのです
そんな朝廷を、利用するためとはいえ、一応形だけは敬って建て直してやったのが信長、秀吉です
それを見てきた家康にしてみれば、朝廷など恐れるに足りぬ存在で、おそらく、わざわざ江戸に移す必要など
微塵も感じなかったはずです
室町幕府が京都に置いた最大の理由は吉野の南朝対策と言われている。
>737
誰の説だよ?ネタ元は小説かい?
>736
>守りにくいということは、逆に言えば、鎌倉や江戸の政権にとって、攻めやすいということです
守り難いってのは、攻め込まれたときには守るに足る戦力・情勢になかった結果論で、京が政治的に安定していて七口に兵を置けば守るに適していると思う。
京より守りやすい地の候補ってどこよ?
>そんな朝廷を、利用するためとはいえ、一応形だけは敬って建て直してやったのが
朝廷の形を整え、それを利用することで武家支配を正当化するという解釈が一般的。
>家康にしてみれば、朝廷など恐れるに足りぬ存在で、おそらく、わざわざ江戸に移す必要など微塵も感じなかったはずです
吝いことには定評がある家康が朝廷の存続を認めていることは、当時の朝廷が如何に有用かという証左。
家康といえど「京という密室に閉じ込める」しか方策はなかった。
>>738 釣りだよな?
南朝が通算して4度も京都を占領している訳で、こうした状況で室町幕府が北朝の正統性を保持するために京都を離れられる訳がないのは語るまでもないことなのだが。
南朝から「朝敵」扱いされている足利尊氏の勢力が維持されているのは北朝の天皇を担いでいるからだという事くらいは分かっているよな?
徳川家康はケチというよりは伝統に弱い骨董品収集家ですので、
伝統のある幕府と将軍職を求め、それには朝廷の存在が不可欠だったと見るほうが良いのではないでしょうか。
>739
小説依拠で無いのなら誰がそう主張しているのか、それを示してくれればそれでいい。
それと737は用語を定義して書き直してくれ。
意味は分かるが、そんな拙い文章では議論にすらならない。
>740
すまん。何を言いたいのかさっぱりわからん。736を撤回するということかい?
朝廷は不可欠な存在なのか、どうでもいい存在なのか?
>736
横レスだけど、
>幕末の鳥羽伏見の戦いにしても、負けたのは慶喜のせいで、条件的には幕府軍の方が有利だったはずです
このときって朝廷は軍事力を持ってなかったよね。
幕府と戦ったのはあくまでも薩長であって、
薩長が幕府との戦いを有利に進めるために天皇をミコシとして担いだと言う方が正確ですよね。
>739
それに、南朝が何回も京都を占領しても必ず幕府に奪回されている。
南朝が京都を奪取するのも、それを幕府が奪還するのも、いずれも、どちらかといえば容易な範疇にはいる。
守りやすさという点では飛鳥とか吉野の方が京都より上。
ただ、吉野は田舎すぎて、とても首都にできる土地じゃない。
が...
首都にできるような開けた土地なら必ず守りにくい、守りやすい土地は辺鄙で首都をおけない
ような傾向があるとは思う。
743 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 09:34:20
我が栃木県は地味だと言われてるが
尊氏は鎌倉や江戸みたいに幕府を東日本に開けば
栃木県も京都や鎌倉みたいなメジャーな観光地になったかと思いませんか?
そう考えると尊氏のヤロームカつきます
1617年(元和3年)前後に生まれた剣豪、武芸者、兵法家を教えてください
本人は剣豪でも兵法家でもないけど父親や師匠が有名(宮本伊織みたいな感じ)でもかまいません
栃木はそもそも下野だろ
群馬は上野
>>741 私は
>>736ですが、
>>740さんは私じゃありませんよ
読点の有無で別人の文章とわかりそうなものですが
アクセス規制に巻き込まれているせいで、ラウンジクラシック板のレス代行スレにお願いして貼ってもらっていますので、
その板の文字数制限がきつくて、文章を削っていくうちに言いたいことが十分に伝わらなくなってしまいましたが
そもそも
>>736は、天皇を政権所在地に置かないと反抗の危険があるのでは、と言う
>>734さんへのレスですから
家康の場合、そこまでしないといけないほど警戒すべき対象であったはずがない、と主張したものです
どうでもいい存在とまでは言っていません
朝廷の利用価値は当然、家康も認めていたはずです
749 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:45:00
新井白石の讀史余論にある九変五変説は孫子からインスピレーションを得たのでしょうか?
教えてください。
>>749 さあ、どうかなあ(;´д`)
イングウェイのインスピレーションというアルバムがなかなかの良作なのは知っているんだが
>>743 江戸や鎌倉といった東日本幕府が栃木に何をしてくれた?
尊氏に何を期待してるか知らんけど
薩長も首都は地元じゃなく東京にしたんだぜ
尊氏は足利には住んだことないんじゃなかったっけ?
>747
>読点の有無で別人の文章とわかりそうなものですが
…板の誰かに個人的な感情があるのでなければ話しの流れで相手を判読するだけで通常そんなものを気にしてレスする人はいないと思うぉ
俺は句読点を付けるかどうかはそのときの気分で決めているしアンカーを一つしか付けない珍しいレスが続いているが>741と>742は別人だしね
で、本題
>そんな朝廷を、利用するためとはいえ、一応形だけは敬って建て直してやったのが信長、秀吉ですそれを見てきた家康にしてみれば、朝廷など恐れるに足りぬ存在
信長が朝廷をどう捉えていたのかは長年の論争に未だ決着がついていない
秀吉は朝廷の権威にしがみつくしかなかった形だけの敬いでは自身の権威に箔がつかない
家康についてはクドクド説明すると冗長になるので高埜利彦「江戸幕府の朝廷支配」『日本史研究』319号を読んでくれ
755 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 13:20:31
秀頼が夏の陣で生きて投降してたら
切腹、晒し首は避けられなかったの?
鶴松がそうだったように
家康がともかく秀忠がなぜか異常に憎んでたみたいだし
あと平清盛があと5年長生きしてたらやっぱ源氏に滅ぼされて
処刑→晒し首は間違いなかった?
>>755 秀頼は切腹したことにしてその場で切られたよ
757 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 18:10:07
質問 日本書紀に卑弥呼の事書いてないけど
なんで?
>>757 日本書紀では神功皇后が卑弥呼で有るという解釈で編纂してるんじゃなかったかな。
759 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 18:45:35
>>758 親魏倭王の金印は大和の何処かにあるのかな?
陸軍騎兵学校の甲種学生と乙種学生は、学ぶ内容についてどう違うのでしょうか?
761 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 20:18:31.72
幕末の志士たちって古事記とか日本書紀とかのをまるっきり史実だと思ってたの?
神武天皇とか。
西洋史とかエジプト文明とかが日本にちゃんと知られるようになったのっていつぐらいからなんだろう?
>>758 時代が合わないじゃないか。それは卑弥呼に擬してという意味じゃねーの?
>>757 明確な理由は分かっていないけど
・中国王朝に服属していたと認めたくなかった。
・邪馬台国からの連続性が大和朝廷にないと考えていた。(実際あるかどうかは不明)
このへんが推測されている。
>>761 >幕末の志士たちって古事記とか日本書紀とかのをまるっきり史実だと思ってたの?
本居宣長と上田秋成の「日の神論争」に象徴される様に、人によったでしょう。
>西洋史とかエジプト文明とかが日本にちゃんと知られるようになったのっていつぐらいからなんだろう?
平田篤胤の著作を読んでいると、古代エジプト神話の神々と八百万の神々を同一視し
ていたり、アレクサンドロス大王についても書いていますね。
ナポレオンについては、開国前から英雄として知られていました。
『イソップ物語』が江戸時代初期に翻訳されていますが、バビロニアやエジプトの王
に頓知を見せるイソップが描写されています。
挿絵ではイソップが訪れる国の風俗が中国風で、ギリシャ本国は日本風。
イソップ自身は同朋衆の様な姿で描かれています。
西川如見の『増補華夷通商考』は、1708年の成立。
ペルシャ、トルコ、エジプト、アラビアからヨーロッパの国々、ペルーなど
の新大陸の国々も登場しています。
『イリアス』と共通した地理の説明もありますね。
フェニックスや死海、イスラーム、アルキメデスの鏡の話もあります。
『耳袋』には、アマゾン川の話を記主がオランダ人から聞いたとあります。
江戸後期の浮世絵には、エジプトを描いたものもありました。
こぎれいなピラミッドの周囲に、平らな砂地と松の木が点在する光景が存在
するという、珍妙なものでしたが。
砂地→防風林→松
日本人だなあ
767 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 11:49:04.83
>>765 レスありがとうございます。意外と知ってたんですね。
徳川幕府からしたら別に天皇を神聖化する必要はなかったから
意外とおおっぴろげに議論できてたんですかね。
768 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 02:21:41.86
古代日本の「倭」と「大和」の「和」,それに,邪馬台国の「邪馬台」と「ヤマト」は明らかに繋がりがあると思うのですが,いかがでしょう。
多くの歴史家や小説家がそういう見解を持ったが、証明できた人は一人もいない。
歴史家の場合、断定的にその話を持ち出したなら、飛躍が過ぎると言われてしまう。
771 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 10:02:49.46
>>768 ヤマトは、邪馬台、倭、大和、日本(日本武尊)
「わ」もその通り
全部繋がっていると考える方が自然でしょう
仮説はもっとも合理的に考えて妥当な説を採用すればいい
772 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:06:39.72
邪馬台国九州説が否定される根拠は結局卑弥呼の時代の有力な遺構がないから
ということに尽きるように思います。
しかし、嘗ては出雲王朝も遺構が発見されていなかったため記紀の創作だと
されていました。
九州から邪馬台国時代の遺構が発見される確率ってどんなもんなんでしょうか。
発掘は進んでいてほぼ絶望的な状態なのか、まだまだ完全ではないのでよく分からない状態
なのか、どちらでしょう?
773 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 12:41:24.72
>>772 出雲は「雲太、和二、京三」という言葉通り
上古には日本一の巨大建造物が出雲大社に建っていたことが
文献上からもはっきり確認されており、あながち大きな王国があったという
記紀の内容が初めから否定されていたわけでもなかったような。
大和にもマキムクの古代王権が拝んだという大社大神大社がありますね。
しかし、九州といえば、どこなんでしょう。
太古の昔から残る大社といえば・・
昔は祭(まつりごと)=政ですから、まず、巨大王国の信仰の中心となる
巨大な大社があることが条件かと思われます。
しかし、九州説の候補地には日本を代表するような大社がないんですよね・・・
774 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 13:10:35.25
詳説日本史研究の旧版を105円で手に入れたよ。
今達成感に浸ってる。
難問題の系統とその解き方(物理)も英文解釈教室の旧版も105円
で手に入れた。
次のターゲットは詳説世界史研究だ。
775 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 13:12:20.92
それから
山川の詳説日本史(教科書)も新品同様のを105円で手に入れた。
776 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 14:15:40.51
>>773 纒向だって1971年に発掘されるまでは小規模な遺跡にすぎないとされて
いたでしょ?昔から大社として認識されていたわけでは無いですよ。
そうではなくて、九州の考古学的調査の進捗の具合を知りたいのです。
おおよそめぼしいところは発掘されつくしていて、新たな発見は絶望的なのか
それとも、まだまだ調査は不完全なのか。
777 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 14:19:50.93
「卑弥呼」は「姫巫女」からなのでしょうか?
778 :
日本@名無史さん:2011/02/21(月) 15:47:04.33
>>776 大神神社は昔から大社だよ。
まず、「日本書紀」に登場していること。
これだけで歴史があることが分かる。
そして延喜式によって高い位が与えられている。
考古学的調査の進捗だが、それほどに有力な場所がきまっているのならば、
すでに堀り起こされているだろう。
現在堀起こされていないということは九州にそれほど有力な比定地が想定
されていないということになる。
じゃあ、九州はどこもかしこも掘られていてこれ以上出てこないのか、
それを証明できるのかと言われれば、農地も宅地も全部つぶして
全域を掘ってみるしかない。
九州も畿内も全域を掘ることは困難だし、有力な比定地はすべて掘られている
としかいいようがない。
邪馬台国は畿内説と九州説が有力だが、全く違う場所から
有力な遺跡が出てくれば、それ以外の説も急遽現れるしね。
779 :
>>776:2011/02/21(月) 16:02:31.72
>768
少なくとも古事記の段階で「倭」と書いていた文字表記が
日本書紀では「和」と変更されている。(当時は併用期だったのかな?)
その和訓は「ヤマト」だ。
だから、「和」と「倭」は確実に関係がある。
それと、音韻研究から、「邪馬台」を当時は「ヤマト」と読んだのではないかという推測はすでに出されている。
ただし、古事記の「倭」と魏志倭人伝や後漢書の「倭」が同一かどうかはまったく不明なままだし、
邪馬台をヤマトと読んでいたとしても、それが大和朝廷の前身かどうかは何一つ分からない。
音韻や文字表記はつながっているだろうけど、呼び名の対象そのものがつながっているかどうかは未知数。
>772
邪馬台国時代の遺構はいくつも出土しているだろうに。
どれも地方領主の物としか思えない物ばかりで、
全国政権/広域政権の中心部とおぼしい物がゼロっていうだけのこと。
九州にいた人物が当時の日本列島の広い範囲を率いていた可能性は極めて低いと言わざるをえないと思う。
ヤマトと言う言葉自体が特定の政権や地方の呼称ではなかった可能性もあるみたいだしな。
首長や首長のいる場所を一般にヤマトと呼んでいたとするとこの時期の歴史の全体像を解明するのはほぼ不可能
782 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 09:45:27.53
「ヤマト」は、山の向こうという意味。即ち「ト」は、外(そと)。
しかし、そうだといっても邪馬台国の位置はわからない。
ヤマトという言葉は松本零士が作ったんです!1!!
784 :
表六玉:2011/02/22(火) 12:17:40.99
>>780 日本書紀には「大和」という表記は無かったはず。
日本書紀において「やまと」は、「倭」「大倭」「日本」と書かれている。
>>782 大和の「ト」は乙音だが、外の「ト」は甲音なのではなかろうか。
786 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 12:57:18.54
上代特殊仮名遣い(橋本進吉説)ですね。なるほどっ!
源頼朝の流刑地が伊豆になった理由はなんなのでしょうか。
俊寛でさえ鬼界ヶ島なのに武士が伊豆とは
いかにも無用心な気がするのですが。
is-land
790 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 19:40:18.30
戦前の日本って民主主義?
一応、立憲君主制
民主主義という言葉を使うと国体を否定したアカとして特高に引っ張られて拷問を受ける
>>787 伴善男など、歴史上の政治犯が何人か伊豆に流罪にされています。
相応の地位の持主の流刑先として、相応しかったのでは。
頼朝が討った山木判官も、『吾妻鏡』によれば、頼朝と同じ「伊豆国流人」
であり、「平家一流氏族」でしたから、伊豆がそこそこの地位の人物の流刑
先として、頼朝以外・以前から意識されていたのではないかと。
無用心とかいう感覚は、あまりなかったと思います。先例・慣例第一。
あまり『吾妻鏡』を信用するのも問題ですが、以仁王の挙兵後に、三善康信
から送られて来た書簡では、平家に追討されぬ様、早く「奥州方」へと逃れ
る様に言っています。
挙兵され、それが成功するということ自体、後から見ないと当然と思われな
いことであった、という考え方も出来るでしょう。
事実、反平家政権に対する挙兵が、全て成功していた訳ではない。
>787
蛭ヶ島を文字通り島だとおもった
冗談はさておき
当時と現代の感覚の違いだと思われ
当時
俊寛>頼朝
現代
俊寛<頼朝
九州の離れ小島と東国は都から見れば蛮夷の地ということでさして変わらないつーか寧ろ東国の方が文明の及ばない未開の地だと思われていたんじゃねぃ?
頼朝を脅威だと感じていたなら流刑にせず殺していた罠
795 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 01:52:14.42
>>778 >考古学的調査の進捗だが、それほどに有力な場所がきまっているのならば、
>すでに堀り起こされているだろう。
>九州も畿内も全域を掘ることは困難だし、有力な比定地はすべて掘られている
>としかいいようがない。
考古学すごすぎワロタwww
>>780 > それと、音韻研究から、「邪馬台」を当時は「ヤマト」と読んだのではないかという推測はすでに出されている。
推測?希望的観測の間違いでは・・・
>>794 頼朝が南関東を制圧した時点での『玉葉』の評価が、「宛も将門の如し」ですからね。
中央政権に辺土で反乱を起こしたという扱いですが、いずれ鎮圧されると見ていたと
思います。
仰る通り、喜界ヶ島組の当時の重要性も、考えるべきでしょうし。
もし伊豆で「やはり都合が悪いので」と殺されていたら、頼朝なんて歴史好きにしか
知られていなかったでしょう。
この人物を主人公に、仮想戦記小説を書こうという人もいなかった筈。
人名の命名史といったものが知りたいのですが
今の名づけ辞典のようなその時代の名前がまとまった本などはないのでしょうか?
学のない地元から出ることもない庶民が名前のストックを蓄積する過程に興味があります。
一部ですが、『日本の女性名』という、やや古典的な著作があります。
Amazonのレビューの様に、女性差別がどうたらと評価するのは、違う気がしますが。
差別というか役割による違いであったことは、この後論文がいくつか出ていますが、
生憎と失念してしまいました。
800 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 15:07:40.29
日本史の通算年次に、なぜ、西暦を使うのですか?
歴とした皇紀が存在するのに?
ユトリ世代の時期からははどうか知らないが、
その前までは少しマニアックな子供向けの歴史本でも、
通算年次に「永正三年(皇紀2166年)」等と皇紀を使っていて、
元号の時期・前後はその目安で憶えたもの。
その頃でも中学に這入ったとたん教科書では西暦なんだな。
日本史は西洋史とは関係ないんですけどね?
現状で皇紀を使う書物にまともなものが存在しないので、無理
>>800 戦前・戦中はともかく、戦後のマトモな本でそんな風に皇紀で書いてるのは見た事無いな。
そもそも皇紀元年の設定が間違ってるんだから抜き差しならない程普及する前に使用を
取りやめるのが正しい。
>日本史は西洋史とは関係ないんですけどね?
そんな風に世界と日本を断絶した捉え方だと視野狭窄で独善的な物の見方しか出来なくなるよ。
神社とかだとたまに使ってるらしい。
>>803 宗教はいいんだよ
信じる者は救われるって
あの国、あの地域でああいう事件が起きた頃、
別の国(日本も含む)では何が起きていたか
という点を考えることができないと歴史を学ぶ意味さえないんだから、
共通の年代指標があるかどうかは非常に重要だな。
フランス革命が起きた頃に日本では大飢饉があった
ぐらいのことは即座に思い出せるようにならないと、
>800 のような考え方では、馬鹿を量産する方向に迷い込みかねない。
もっとも、一昔前までの古代史や考古学の年代観は、それに近いほどに迷宮状態だったが。
神社はどうして日本にしかないの?朝鮮半島や中国には神社は無いんでしょ?
それなのに日本には離島も含めて隅々まで神社がある。しかも鳥居や社の形は殆ど同じ。
因みに
>>806の意図するところではないだろうけど、明治以降に建った神社だったら
ハワイとか東南アジアにもある。
>>806 神道は当然の事ながら日本固有の信仰だから日本にしかない。朝鮮とか台湾とかでも日本が支配してた
時代には各地に神社を作ってるらしいが、戦争に負けて撤退したから拝む人が居なくなった。
809 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 22:58:15.61
>806
どこの国や地域にも、(げんざいはともかく、もともとは)それぞpれの土着信仰、土俗がある。
それらの多くは周辺地域の影響を受けたりして徐々に変形・変質して残った。
日本の場合は、それが神社だった。
少なからず仏教やら同郷やらの外敵影響を受けて、原型から比べるとかなり変形してはいるが。
キリスト教やらイスラム教などに飲み込まれた地域であっても、
それぞれの地域宗教の影響を残しているところも少なくはないが、
それらの多くは原型を失っているから、あまりよく分からないのは確かだな。
そういった点を敢えて無視して「なぜ神社は日本にしか〜」というのであれば、
それは「なぜ大阪弁は大坂にしかないの?」などと質問するも同然の、意味のない質問になる。
810 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:44:44.41
>>806 海外にもあるよ
椿神社とか
逆に、日本にイスラム教のモスクがあって、
アラブにあるモスクと似た様式だけど
なんか変?
中国だと祖先を祀る廟(デッカイ仏壇)だったり道教の寺院?みたいなのは大体似たような感じみたいだが。
理屈で作られた宗教ではなくある民族・地域で自然からのインスピレーションで生まれた信仰はシンプルな偶像化に向かいやすいのかも知れんな。
元々の神祇信仰に神社みたいな建物はなく、石を並べて聖域と俗世を分かち、
それをヤシロ(屋代=建物の代わり)にしていた。
>>811 廟は仏教伝来以前の、少なくとも西周の頃には有る。俺は知らんけど現代の廟がデッカい仏壇だったり、
道教の寺院(道観という)も似たような感じになってるとしたらそれは長い歴史の中で仏教と道鏡と儒教などが
影響しあった結果だな。
>シンプルな偶像化に向かいやすいのかも知れんな。
大神神社が三輪山そのものをご神体とするように、自然そのものを信仰の対象とするのが神道の古い形だと
考えられている。仏教の影響を受けて神社を建てたり、神の画や像を作ったりするようになったと謂われている。
東北の古い仏像には逆にこの古い信仰の影響を受けて、わざとキレイに仕上げずに材料となった樹木自体が
魂を持っている事を示している物が多く有る。
814 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 22:43:20.35
鎖国ってどれくらい厳重にやってたのかな?
なんか中国に普通に行って戻ってきた人とかいるでしょ。
江戸時代に。
816 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 22:51:51.59
>>815 島原の乱の後に中国にわたって戻ってきてその後130歳まで生きて
武蔵の話しとかをした人。
普通な寿命じゃないから、普通な行き方で中国に渡った気がしないな
おそらく助けた亀に乗って渡ったな。
>>814 中国まで行ったかどうかは知らんが、長州・対馬周辺は抜け荷(密貿易)をする船がかなりいたようだな。
大阪船場にはこの抜け荷で財をなした商人が多かったらしいが幕府が厳罰を科すようになって地方の名産品を取り扱うようになった。
それが廻船の隆興の基。
越智宿禰 伊藤博文
菅原朝臣 大隈重信
藤原朝臣 西園寺公望
藤原朝臣 近衛文麿
源朝臣 細川護熙
菅原朝臣 菅直人
これ以外に本姓の判る首相はいますか?
>820
越智って「姓」ではなく「苗字」じゃないか?
あと、藤原姓から派生した苗字のハズなのになぜ藤原じゃないの? >伊藤
伊藤博文がそれがいいと言ったから
武家奉公人で武士ですらなかった伊藤博文に姓などあるはずがない。
越智氏は孝霊天皇後胤の皇別氏族
824 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 19:46:20.02
825 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 20:55:41.44
>>824 渡辺幸庵のことだろ。
それなら人名辞典にも出てる。
鎖国がゆるいも厳しいも、支那へ渡ったのは浪人した時で、直前の前田家だかどこかを通じて
願いを出し幕府から公認されて行ったんだから、不法渡航ではない。
尤も当人は粋狂で行ったんだけど、それを幕命の留学の形にしてもらったもの。
幕府が直接そうしてやったのか、願いを受付けた藩が幕府に取りはからったのかわからない。
多分、相談を受けた幕府が「アイツなら好きなようにさせてやれ」とほとんど快諾した模様。
(幸庵の手記(「手書」という)から推測すれば)
826 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:38:51.48
どうして神社のトリーは赤いのですか?
鳥居か?
赤と限ったわけじゃないよ
でも宗教学というか民俗学的にしか説明できん
歴史学的な説明って、簡単なようで意外に難しいもんだな
828 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 23:38:48.63
石造りの鳥居は基本的に塗らないよね。
あ、でも近所は木製でも無垢のままだ。
829 :
日本@名無史さん:2011/02/26(土) 23:57:24.91
京都のお方にお尋ねします。
大晦日にNHK「ゆく年くる年」で放映される京都の知恩院の鐘は、
普段でも毎日、時を知らせる鐘として撞かれているのでしょうか?
830 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:23:31.31
>>824 >>825 えぇ〜? 渡辺幸庵って、司馬遼太郎さんが創造した架空の人物でしょ。
その作品のために造られた人物で、聞き書きの対話本というのも架空の書名でしょ。
小説本論に這入る前にノンフィクション仕立で登場させ最後にもまた登場させて
小説が如何にも史伝的であるようにした手法ではないでしょうか。
アメリカの小説『マディソン郡の橋 』はこの司馬さんの手法を真似た実話仕立では。
なお、司馬さんのエッセイで幸庵に触れるところがあるが、
そこでも「わかってるね、あの作品で登場させた例の人物ですよ」というニュアンスでしょ。
831 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:33:01.43
↑追加です。
ホントに人名辞典に出てるんだったら困ったもんですねえ。
司馬さんが書けば何でも史実に思われてしまうんですから。
最もヒドイのは坂本龍馬でしょうね。名だけ仮りたほとんど創造の人物なのに。
832 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:43:39.64
>>829 >>829 知恩院はどうか知りませんが、京の町々にある小さな寺はほとんど刻の鐘をついてますよ。
しかも昔ながらの不定時法で鳴らしています。
要所要所の比較的大きな寺には和時計があって各節気ごとに時計を調整する管理をしています。
他の小さな寺は、どこの寺の鐘に倣うかが決っていて対象の寺の鐘に合わせて鳴らします。
833 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:56:03.35
>>831 > 最もヒドイのは坂本龍馬でしょうね。名だけ仮りたほとんど創造の人物なのに。
えーっ(´゚ω゚`)
神社の社殿や鳥居が丹塗りなのは寺の影響らしい。
もともと赤かったのは寺の方で、わびさびが流行してからは
むしろ丹塗りの寺のほうが少なくなったとNHKの特集で言っていた。
>>835 わびさびっていうか、鎌倉のとか禅宗の寺は黒が多い印象だな。あくまで印象だけど。
>>808 沖縄には明治以前の神社があるみたいだけど、台湾や朝鮮にも
それっぽい似たものがあっても不思議じゃない気がするんだけど。
日本が日本になる前から神社の原型はあちこちにあったんじゃないの?
>>837 沖縄の神社は薩摩藩が建てたもの
沖縄の伝統ではない
>>837 吉野ケ里遺跡で鳥居のような物が出土した時に、東南アジアの何処やらに
似たような物が有るという話は出てたな。
840 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 10:32:13.88
今の日本で「新進気鋭のマルクス主義者」と言うべき人材はいるの?
それとももう学界ではマルクス主義は単なる研究対象で
主義として身に纏うべきものではない?
841 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 15:53:51.37
小和田哲男とか言うクソ学者どうにかならないんですかね
母方の先祖が馬場信春と言ってたり
韓国人みたいなんだよなこの人
俺の先祖は両班だぞみたいな
>>835 寺の影響といえば、擬宝珠もそうでしょうね。
ただ丹塗りについては、寺がやってくる以前の仏教文化普及によるところもあるかと。
古墳石室の丹塗りがありますから。
>>834 「竜」馬がゆくというタイトルで、作者の意図を推して知るべし。
とはいえ、これとて元ネタが…
三河武士は忠義に厚いといいますが、その民族的性格?はどうやって形成されたのでしょうか?
例えば
・東国武士が強かったのは、いわゆる田舎で荒くれ者が多かった
・逆に、畿内の武士がいまいち弱かったのは商業が発達しすぎていたから
みたいな感じの理由を教えてもらいたいのです
>>844 そんなの後付けだよ。
他に褒め言葉が見つからなかっただけだ。
いちいち真に受けることはない。
>844-845
いわゆる「三河一向一揆」って呼ばれてるヤツって、
ホントは一向一揆じゃなくて家康と対立する武士が当時は多かっただけなんじゃないかな。
三河の武士達の過半が敵だった、それだけ。
のちに、家康が天下を取った後で、「いや、あれはただの一向一揆だったんだよ」ということにした、
「三河譜代」たちの名誉を守るための政治的な「言い換え」だったんじゃないのかなあ。
同様に、「三河武士が忠義に篤い」も、政治的な表現であって事実ではない(事実無根というか証拠がないというか...)
ような気がします。
江戸時代の軍学の中でも最大会派である甲州流軍学そのものが徳川家の顔色をうかがう必然性がありましたし。
(武田家の家臣達の多くは、「本能寺」直後から徳川家の家臣になっている関係がある)
そうだろうな。
わざわざ身内同士の対立を煽って幕府の危機を作らないように丸く治めるように美談や逸話っぽいものを使ったんだろ
>>844-
比較論だよ
他の武田とか織田とか今川とかに比べれば…って話
そうなった原因としてはやっぱ
強国に挟まれた土地柄だけに
団結が必要されたってことじゃね?
849 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:55:34.57
今大学在学中なんですが、ゼロから日本古代史を勉強するにあたって何かいい本ないですかね
中国地方で謀将がたくさん生まれた理由
播磨人は強情だと言うが、その理由
堺が商業都市として発展した理由
も教えて欲しいです
>中国地方で謀将がたくさん生まれた理由
中央とのつながりが深いから
>播磨人は強情だと言うが、その理由
しらんがな
>堺が商業都市として発展した理由
京奈良へのアクセスに便利だったから
>851
ワロタ
ついでに同氏のマッドメンも併せて読んでおくと完璧かもな。
>852
なんか、戦国時代の状況を見ると、
中国地方って他の地域と比べて「雪崩」現象が激しいみたいだな、
諸氏の離合集散が活発すぎる感じ。
謀将じゃないと大名として生き残れないような何かがあったんじゃないか?
>京奈良へのアクセスに便利だったから
だけじゃなくて、瀬戸内海水運の京都方面への集積地(?)だったこととか、
中国地方やら四国との関係まで考えるべきじゃないの?
中国地方西端の大内が叛乱を起こした場所が堺だったり、
四国出身の大名である三好氏の近畿における拠点が堺だったり
そういう特徴とも関係あるような気がするんだけど...
855 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 23:42:28.96
先祖の出生地を調べてみると、現在でも『家のすぐ裏側が海、反対側には道を挟んですぐ山』みたいな土地でした。
武家だったと聞いていますが、お城から30キロほど離れたそんな土地にも武士って住んでたんですか?
ちなみに四国。
武士でなく、郷士の類。
土佐藩だと「下士」
岩崎弥太郎の出自なんかはそれ
857 :
日本@名無史さん:2011/03/04(金) 23:45:38.55
>>849 志茂田景樹の著作群
古田古代史の一連の著作と東日流外三郡誌
講談社日本の歴史 第一巻 縄文の生活誌
858 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 00:19:25.63
>>856 土佐ではなく宇和島城から30キロほど離れた愛南町って所です。
やっぱり藩士は宇和島城周りでそこから離れた所は郷士なんでしょうか。
859 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 00:59:17.10
>>849 古代史関係の書籍はね、藤村旧石器ブームで地方発自尊地域史関係の書籍が盛んに出た後で
藤村旧石器が全て捏造だったと判明したので、その時期に書かれた書籍が現在見るに耐えない馬鹿本と化している。
だから、通史なら藤村以前のものか、捏造判明後の著作を読むほうが良い。
「倭国誕生」(吉川弘文館 日本の時代史 第一巻)あたりから読んでみたらどうだろう。
>>858 藩によって扱いが変わったりしますが、基本城下住まいを藩士
在郷するのは郷士となります
861 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 20:23:15.63
>>854 マテ「孔子暗黒伝」もワスレルナ
>>859 「倭国誕生」か…確かに白石自身が頁をさいてあの事件に言及していたなw
862 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:40:17.44
日本史って弥生〜古墳の間に謎の空白の100年が存在するけど解明したらまずいことでもあんの?
863 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:53:18.07
>>860 確認だけど在郷してる郷士は藩士でないの?
864 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:58:33.66
皇国史観の右翼は空白の一世紀が埋まると困るだろう。
邪馬台国も無かった事にして神武からの歴史がある。
ちなみに元号では邪馬台国を表記できない。
はあ?
>855
基本、戦国時代までは「武士は城下町に住む」なんて常識は存在しなくて、
どこの村にも住んでた。
が、豊臣政権や徳川政権の元で武士は農村に住むな、城下町に住めということになり、
普通の地域では城下町に住むのが普通になった。
土佐藩(高知県)のように、外来武士が「上士」として城下町に住み、
在来の武士は城下町に住んでも仕事がない(ので農村に戻ることが多かった)
という土地も、あるにはあった。
>857
最下段はまだしも、上段中段は論外だな。
>864-865
皇国史観の元では中国への朝貢は天皇家の権威に支障があるとかで
中国に朝貢した邪馬台国(のときの倭王)は天皇家の祖先じゃないことにしたいってトコか。
そういう関係からか、かつては邪馬台国九州説の拠点は東大だったんだよな。
>862
中国の混乱期と日本のソレが一致しているので史料が存在しないから
未盗掘の古墳や墓から墓誌でも出てこない限りこれからも不明のママ
868 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 09:40:53.05
歴史を勉強してる者です。
工事中に遺跡とかが出てくると、文化財保護で工事が中止にされますよね?
その、間の工事業者の損失に補償が無いと言うのは本当ですか?
まず、公共工事の場合。
入札した工事業者の規模にもよります。
大規模な工事の場合は、入札資格も資産状態や従業員数もハードルが高めです。
規模が大きい工事業者の場合は、損失補償は一切ありません。
小規模工事の場合は、単年度会計なので、進捗率出来高清算によって、一旦契約終了にしてしまう。
次に民間の開発の場合。
埋蔵文化財を発掘してしまった場合は、開発中止するか
発掘費用を負担して工事続行をするかを迫られます。
不動産を売買して、損切りをしても、埋蔵文化財の属性がついているので
評価額は低下しがちです。
>>869 丁寧に教えていただき
ありがとうございます。
公費負担については、都道府県により違いがあり、条例に依存する部分がある。
あと、宅地建物取引業法では、埋蔵文化財の属性について告知義務があるね。
>>871 言い換えれば負担や損失を回避するために発見されたものを隠蔽するケースがあるって事か
当然あるよ。
874 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 15:51:51.20
破砕鏡とかがみ開き(かがみ割り)は関係がありますか。
875 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 18:51:19.43
>>866 「城下町」の概念は戦国時代には成立していた。
朝倉氏遺跡では家臣たちが集まって住んだ武家屋敷跡が発掘されているし、
北条氏の小田原でもこの形跡が残る。
それ以前にこの形態が曖昧なのは、兵農分離が進んでいなかったためで、
戦時には武士として参集されるが、普段は農村で畑を耕す、半農半民が多かったため。
そのために、平時は農村に暮らし、戦のときだけ城に入る武士が多かった。
876 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:19:54.30
歴博って所に言ってきたんだけど。
古墳時代と奈良時代で文化レベルが違いすぎるとおもうんだけど
平城京とかなんであそこまで技術レベル進化したんだろ?
877 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:28:55.86
>>876 知ってて聞いてるのかも知れんが、
外国の技術や技術者を導入し政治制度や教育制度(現代の普通教育とかじゃないよ)を改革
これを言えば歴史修正主義の人が怒りのレスをいれる可能性がある
878 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:31:03.90
中国から人呼んで来てたの?
歴博で模型飾ってあったけどすごかったよ。
三匹の子豚の一匹目から三匹目ぐらいのレベルアップがあった。
古墳時代まだからぶき屋根でしょ。
879 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:50:43.21
推古朝に遣隋使が始まってからは
中国から野蛮国と見られないために明治時代の文明改革に匹敵する大改革をやった。
とはいえ、いきなり中国から技術者を呼んだのではなく、
当時友好関係にあった朝鮮から呼んだ。
蘇我馬子が日本初の仏教建築飛鳥寺を造るときに
百済から技術者を呼んできて造らせ、初めて瓦や色彩をもちいた建造物が造られて、
これがやがて王宮にも採用されていくことになる。
同時に朝鮮半島から僧侶を読んだことから、暦や墨も伝わった。
推古朝には役人は位によって色が違う朝堂服を着て出勤した。
しかし、庶民の生活レベルはいっきに上がらず、
平安時代ごろまで竪穴式住居に住んだ地域もあったし、
瓦を葺かない藁葺き屋根なんて昭和初期まであったでしょ。
880 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 20:02:45.55
>>876 昭和30年代と現在も、50年程度しか経ってないのに、文化レベルが全然違うよね。
文化の進歩って、早い時にはもの凄く早いんだろうな。。
>>878 >からぶき屋根
それを言うなら茅(かや)葺き屋根じゃないのか?乾拭きは雑巾がけだろう。
平安時代でも庶民は竪穴式住居だし、20世紀でも茅葺き屋根は普通に有る。
奈良時代には遣唐船で留学生をたくさん送り込んでいたし、鑑真和上など日本に
呼ばれてきた人も居る。技術導入しなければ奈良の大仏だって建たないだろう。
882 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 20:12:53.60
家の概念や苗字、呉服や漢字、仏教に儒教、冠位や暦
日常生活も大きく変わる。
源為朝、源範頼は母親が遊女だと言われていますが
遊女って基本的にいろんな男の相手するもんだと思うんですけど
為義や義朝はどうやって自分の子だと認定したんでしょうか?
実は全然違う男の子供だと言う可能性はないんでしょうか?
884 :
日本@名無史さん:2011/03/06(日) 23:06:56.78
>>883 大学で習ったけど、うろ覚え。
・昔は出生率が低く、生まれても成人までに亡くなる確立が高かった。
・母親は出産により確定できるが父親は確定できない。
・通い婚であり子供は母親の家で育てられるのが当時の慣習。
・性交は比較的自由に行われ、灯りも無く性交の相手が誰だか判らない状態(源氏物語にも出てくる)
よって実子かどうかはあまり問題とされず、養子が家督を継ぐことも多かった。
現代の感覚や婚姻に対してのイメージ、親子(父子)関係とはだいぶ違う。
>875
いや、城下町が成立していなかったという意味ではなくて、
城下町に必ず住むものという常識が、まだなかったと言いたかった。
つまり、城下町に住む武士もいれば農村に住む武士もいた、ということ。
>876
古墳時代だって百済などから少なからず技術者は来てたけど、
奈良時代には技術者の招聘のみならず、留学生の派遣も書物の輸入も大規模に行ったはず。
>878
古墳時代には、外国人に対する飾り立て(など)が必要なかったが、
藤原京・平城京は唐の都の見栄えを模する志向性があったから、
そういう志向性の違いというのもあるよ。
都(および諸国の国府の庁舎)をのぞけば、まだまだ何百年も後まで
「からぶき屋根」の建物が主流。
竪穴式住居でさえ、879の言うように鎌倉時代まで用いられ続けている。
木の板を量産することができるようになったことで竪穴式住居が廃れた模様。
木の板を量産するためには、木目が真っ直ぐでない木材からでも真っ直ぐな板を切り出すことを可能にする「大? 」
大[金我]---おが---
というものが導入される必要があった。
>>885 >「からぶき屋根」の建物が主流。
「からぶき屋根」に悪態ついた881ですが、「からぶき屋根」で正しかったの?
ググっても何も出て来ないけど。
ひわだぶき?
それとも、かやぶきか?
889 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 02:49:04.16
1570年3月に信長が朝廷より天下静謐権なるものを許可されたそうですが、
これって本当のことですか?天下静謐権なんて権利を信長以外で認められた人物はいましたか?
890 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 11:03:53.59
885は嫌味でからぶき屋根って言ってるだけでしょ。
891 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 11:48:32.80
>>883 遊女出身ではあっても囲われ妾のようになっていた女性もいる。
源義経の恋人として有名な静御前は、
もともと白拍子という名の宴会に侍って舞を披露しその後売春する遊女の出身。
子供の父親が特定でいないのは当時に限らず、有る意味現代でもそうだけれども。
「落胤(父親が認知しない子供)」が多かった時代に遊女の子を認知しているということは、
余程母親が寵愛されていたか囲われ妾になっていたという可能性はある。
>889
将軍が担うべき責務を代行するって意味ではないかと。
その時代の「天下」という言葉は京都周辺の狭い地域を意味していたので、
要するに「京都の治安・平和の維持」ってこと。
従来の大名は将軍を追放もしくは殺害した場合に別の人物を将軍にして担ぎ上げるのが普通だったから、
本来ならば新しい将軍(を担ぎ上げる人物)の業務だが、
信長は新しい将軍を担ぎ上げないことにしたために、新将軍ではなくて信長自身が執行するしかなかった、ということだろう。
893 :
日本@名無史さん:2011/03/07(月) 20:10:19.28
戦国時代、日本に銃を伝えたのがブローニングだったらどうなっていましたか?
ブローニングになってた
M1やM2が戦国時代で使われるのか。
朝鮮とか東南アジアとか明とか一気に制圧できそう。
>>883 専属でしょう。白拍子・遊女の地位が低下するのは鎌倉末期で、それまでは白拍
子腹の武将も存在していました。
>>896 広い意味での商売女を囲う習慣はあったみたいだもんな。
後白河法王の歌の先生も元舟女郎だったし、単に性技に長けていたというんじゃなく遊びや文化面での特技から寵愛された白拍子は多かっただろうな。
起源的には遊女は神職の派生だろ
中世前半までは、もとの神職の名残も残ってたんじゃなかったか
つまりあれだ。
鎌倉初期までは、巫女に類するものという側面もあったって感じで。
>>898 巫女の一種という考え方もあるけど神社御抱えの白拍子が法皇・天皇や有力貴族に気に入られると神社にも「見舞金」やら荘園間の争いで優位に取り計らってもらえる面があったようだが。
乱暴な言い方をすると神社が高級愛人クラブの側面を持っていたと。
900 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 09:34:43.05
901 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 23:21:20.68
大衆が娯楽に興じることができるようになったのって江戸時代からなのかな?
平城京って中に住んでたのは全員貴族でしょ?
>901
ちがうよ
貴族達の生活を支える流通業とか、
さまざまな労働に従事するために臨時で徴用された(?)庶民とか、
いろんな人が住んでた。
人数的には、下級貴族とか、地方豪族の子弟とかが多かったのかな?
903 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 17:04:23.91
>>898 安土桃山時代の出雲阿国も出雲大社の巫女だと言っていた。
実際には芸を見せた後売春もする商売集団だったみたいだけど。
>>899 神社が白拍子を抱えていたという事実はない。
白拍子の舞が巫女が神社で奉納する女舞に起源を持ち、
今でも神社で白拍子の舞を伝えているところはあるが、
そもそも神社が白拍子という名の売春婦集団を組織したことはないし、
白拍子は遊女たちが宴席で巫女の奉納舞をまねて勝手に踊り始めたもの。
904 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 18:01:05.02
天皇の国事行為に災害が起こらない様にする祈祷とか、神宮への祈祷の依頼とかないんですか?
905 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 18:25:23.71
>>904 明治以前の天皇は災害が起きると寺社仏閣に対して祈祷を依頼していました。
しかし、現在の天皇は特定の宗教とは無関係とされているので
寺社仏閣に祈祷の依頼はできないですね。
では、天皇自身が何か祈りをささげるのかというとそれもないみたいです。
現在の天皇家では五穀豊穣を祈る大嘗祭だけは復興されて行っています。
皇居の中に天皇の祖先神を祀る神殿があって、そこで神事が行われるみたいです。
906 :
井伊直角@三戦板自治新党党首 ◆MBJJ/Dv7y2 :2011/03/12(土) 20:39:16.57
日本史板の皆さんこんにちは
この度、三戦板の第三十一代自治新党党首に就任した井伊直角です
若輩者ではございますが、自治の総本山、自治新党発祥の地三戦板のさらなる
発展を目指して死力を尽くして頑張る所存です
ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします
ぜひ夢の楽園、三戦板にもお越しください^^
【三国戦国板(三戦板)】
http://yuzuru.2ch.net/warhis/index.html <三戦板の特徴>
・2002年12月、学徒出陣が自治新党結党。以後、全2ちゃんねる自治の総本山となる。
・名無し、コテが垣根無く自由に意見をぶつけ合う真剣勝負の議論の場。
・三国志、戦国時代のネタを存分に語り合う自由なフィールドが広がっている。
907 :
日本@名無史さん:2011/03/13(日) 01:26:32.53
142 名前:世界@名無史さん [] 投稿日:2011/03/10(木) 03:10:00.15 0
初歩的な質問で、すごく恥ずかしいのですが、教えてください。
日本の古墳では、中国のお墓のように、
被葬者に仕えていた人々も殉葬していたのですか??
143 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:25:25.57 0
>>142 遺跡からあきらかな殉死者の骨が出た、ということはないけど
魏志東夷伝で卑弥呼に100人ほどの殉死者がついた、とか
大化の改新で、殉死を禁ずる法令がでていたりとか
状況証拠として殉死はあったと見ても良いみたいです
144 名前:世界@名無史さん [sage] 投稿日:2011/03/10(木) 12:40:31.41 0
そうゆう話は日本史板でやれよ
古代出雲は何故発展したのでしょうか?
平地が多く、肥沃な土地である奈良で大和王朝が興ったというのは分かります
ですが荒々しい日本海に面し、耕作への適応は中の上といったレベルの出雲が何故発展したのか解せません
出雲で王朝が興るのなら讃岐や尾張等でも同じくらい発展した王朝が興ってもおかしくはなかったと思うのですが…
出雲とそのほかの土地では一体何が違ったのでしょうか?
>>908 荒々しい日本海と言うけど、その日本海こそ、古代には、越の国や北九州、さらには
大陸にも通じる重要な交通ルート
910 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 09:38:47.80
子供の頃に図書館で読んだ日本史の漫画を、この前久しぶりに読んだのですが
「編集委員は全員、邪馬台国北九州説を主張してます。」と書かれてました。
なんで編集委員全員が来た九州説なんだと疑問に思いましたが・・・編集委員の名前をぐぐると、九条の会だと原水爆禁止とかいろいろでてきました。
結局・・・・北九州説って左翼の人が信じてるんですか?
言い過ぎだったかもしれませんが、左翼の人が多いんですかね?
教えてください。
信長公、光圀公などの「公」はどういう意味合いなのでしょうか。
武士にだけ使われる敬称の様な気もしますが、「ポリ公」や「アメ公」といった使い方もありますし・・・。
912 :
911:2011/03/15(火) 13:07:53.98
sageてましたスミマセン
>>911 本来は敬称。「ポリ公」「アメ公」はそれを逆転して蔑称として使っている。
>>910 最近はそうでもないけど、以前は、北九州説・畿内説がどうとかいう以前に、そもそも歴史学・考古学の研究者自体に
左よりが多かった
たぶん、戦前に皇国史観からはずれた研究や発表ができなかった反動で、戦後しばらくの間そうなっちゃったんだろう
915 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 14:56:21.87
まあ今年で日本の歴史は終わるんだけどね
>>910 皇国史観のガチウヨは邪馬台国自体を無視する
917 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 19:07:55.50
関連質問だけど
じゃあガチウヨは縄文人も否定するの?
神武天皇が最初の人間なんでしょ?
ガチウヨにとって縄文時代は別な国の話。
奴らの「正しい歴史」は記紀と神皇正統記。
>910
昔、戦前の論争中には、九州説支持者は東大系だった。
京大系の学者が畿内説で。
いつの間にか逆転してたんかね?
>914
研究の方法論として、マルクス主義の前提となったような要素が含まれるのは確かではある。
歴史を研究した結果、社会の成熟の最終段階として社会主義に到達するのだ、
なんていう結論を出してたんだよな。
その方法論とか枠組みも今では否定されてしまったが。
戦前戦中は、右翼的イデオロギーによる学説批難、誹謗中傷が横行したこともあるな。
>917
>神武天皇が最初の人間なんでしょ?
ちがう。
天孫降臨(神武天皇の父親が天下った、んだっけ)の時点で、地上には人間が住んでただろ
それと、古い学説の中では「縄文人は日本人の祖先じゃない」とされてたが、
ガチウヨは今でもそれを信じてるかもしれん。
>913
そういえば、貴様 とか お前 とかも、敬称/尊称から蔑称に転換されたんだっけ。
921 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 23:07:53.96
尊敬語のはずの「のたまふ」も今は侮蔑語として使われることが多いですね。
慇懃無礼ってやつだね
>>919 >神武天皇の父親が天下った、んだっけ
天下ったのはアマテラスの孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。木花之開耶姫と結ばれて山幸彦らが生まれる。
山幸彦(彦火火出見尊)の更に孫が神武。
925 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 15:53:58.79
>>908 日本海側の出雲や越前は古代、朝鮮半島へ渡る独自ルートを持っており、
文化の先進地域だった。
そのために大きな文明が発達し、大きな王権が宿った。
日本海に面していない讃岐や尾張では文化が直接入ってこない。
出雲では大きな文明が発達したし、越前には継体を生みだす巨大王権があった。
福井県敦賀市では神功皇后が敦賀湾から三韓征討に出かけたという伝承があり、
山陰・北陸では朝鮮語起源とみられる難解な地名が多い。
>山陰・北陸では朝鮮語起源とみられる難解な地名が多い
現代韓国語で『万葉集』を読める(箇所もある)ので『万葉集』は古代朝鮮人作というトンデモ本が昔あったなw
X日本海側の出雲や越前は古代、朝鮮半島へ渡る独自ルートを持っており、 文化の先進地域だった。
○環日本海文化圏は交易が盛んだった。青森の三内丸山遺跡クラスは朝鮮半島にも存在しない。
927 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 16:54:22.28
>>926 武生(たけふ)、足羽(あすわ)
これが難解だと思わないのか?
研究者は朝鮮半島からの技術民がわたってきた可能性を指摘。
青森などおよそ関係がない。
潮の流れの関係で朝鮮半島を出港すると船はおよそ北陸〜山陰に到達。
(島伝いに行けば北九州)
東北に流れ着くこと、特に青森や北海道は全く論外で、無知すぎる。
>>927 博識な925=927の古代史知識としては当然稲作も朝鮮半島で整備され
朝鮮半島中南部では全く広まらなかった事実は無視して何故か完成さ
れた灌漑システムとして日本に持ち込まれ爆発的なスピードで本州北部
まで広まったという認識でOK?
君の古代史知識は高校日本史教科書レベル
環日本海文化圏を知らないとは無知にも程があるし朝鮮由来とされる
難解な地名は太平洋側も含めて日本中にある
訂正
朝鮮半島中南部
↓
朝鮮半島中北部
>>908 まあ、主な理由は
>>909>>925 他に、讃岐や尾張がダメな理由を付け加えると
讃岐は、瀬戸内気候で降雨が少ないから、ため池とかをしっかり作って農業用水を確保しないと米作に適さない
尾張の濃尾平野は、江戸時代に治水工事されるまでは木曽川・長良川・揖斐川が氾濫をおこしやすかった、いわば
洪水多発地域
濃尾平野の取れ高が飛躍的に上がったのは織豊期
洪水多発地域から脱したのも戦後暫らく経ってから
>908
何故讃岐がでてくるのか分からないけど出雲に関しては砂鉄の産地であることと良港
あと大和は肥沃な土地とは言えない
嘘だと思うんですけど、江戸時代に江戸より人口が多かった日本の都市があったと聞いたのですが
これは事実でしょうか。
新潟が100万都市だったとか。
美濃尾張は、古代から受領たちの人気国だったよ。
都に近いし、身入りも多いから。
尾張は海部氏だな。天皇家より由緒ある。
>>934 由緒そのものが曖昧なので比較する際に由緒を持ち出すと収拾つかないw
936 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 21:56:14.35
>>908 古代には、平地の方が耕作に有利とはかならずしもかぎらない
灌漑の技術がまだあまり発達していないから、多少の傾斜がないと、水源から田んぼに水を引くのが困難だった
大和でも、古代に発達していたのは、盆地の中央よりもむしろ山際だ
ナイルでは氾濫が土壌を良化する働きをして文明が発達したんだよな。
>937
全く知らない事をしたり顔で話したがる昨日の子かい?
弥生時代前期には湛水田や湿田など地下水系土壌の天水田が開かれ、後期には小水路利用の人工灌漑が行われていたし、
古墳時代は溜池や小河川と中河川支流の灌漑も可能になっていた。
君は大和へ訪れた事が一度もないんだろね。山之辺の道を一度でも歩けば其処まで無知を晒すことも無かったろうに…
>大和でも、古代に発達していたのは、盆地の中央よりもむしろ山際だ
中世末「今井千軒」と呼ばれ新たに開発された新地の更に奥に明日香や土佐はあることをグーグルマップで確認してみてはどうだろうか。
古代渡来系氏族が彼の地に住み着いたのは土地が豊かだからでは無く、軍事上の理由であることが確認できるし此の事は筒井や植村の事跡からも明らか。
こんな珍説は成り立たない。それとも奈良市が盆地の中央ではなく山際だから発達したとでも言い張るのかい(苦笑
>>927 「足羽(あすわ)」って「足場(あしば)」が訛ってできた名前じゃないの?
941 :
日本@名無史さん:2011/03/18(金) 17:56:23.27
>>940 アイヌ語起源
asir (新しい) + wakka(酒)から転訛した
>942
蒸留酒「ウォッカ」はロシア語だよ。意味は「水」
「ウォトゥカ」みたいな発音のハズ。
英語のウォーターと共通語源らしいので、アイヌ語と似てるとしたら偶然の一致だろう。
越前でアイヌ地名は無いや。
越前は渡来系氏族が多かった所だから、半島系と見た方が良い。
カムイは神?
カムイは忍者だな。
そういやウィスキーとウォッカも語源が同じと聞いたことがある。
日本語とアイヌ語はどちらもサンスクリット語からの借用語が多いんじゃないかな?
海神「わだつみ」の「わだ」もサンスクリット語の「水」が由来という説が有る。
>>927 朝鮮語起源ってのは意味不明だけどな。
朝鮮語ってのは日本語との系統関係があったとしてもせいぜい兄弟言語。
親子関係には無いと考えるのが普通。
日本語と朝鮮語の共通の祖語から分かれたという可能性はあっても朝鮮語から
日本語が生れたなんて可能性は0.01%も無いんだが。
>>947 そうすると「ウィスキー」も「ウォッカ」も「わだ」も皆共通の語源ってことじゃないのか?
>>943みたいに英語と共通語源な言葉がアイヌ語と似てたら偶然ってのはどうなんだろ
アイヌ人だって突然湧き出た訳じゃないんだから人類共通の祖先が居るんだし。
阿須波神も渡来系ってことか?
951 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 15:56:53.17
952 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 16:00:32.49
>越前でアイヌ地名は無いや。
甘いな
学者によっては関門海峡から東の地名は全部
アイヌ語で解釈できると主張してるやつもいる
元はアイヌ人は本州全土に生息していたのだから
当然の話かも試練
953 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 18:36:08.21
火山に 浅間山 阿蘇山 雲仙 有珠山のように似た名称が有るのは何故です
か。
954 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 21:06:06.38
955 :
日本@名無史さん:2011/03/20(日) 17:45:12.56
日本史板で初心者じゃないと見做されるのはどの程度の人から?
レスアンカーがまともに付けられる程度から
くくく956
958 :
日本@名無史さん:2011/03/22(火) 09:15:39.14
その時代の文化や生活様式を学ぶことで分かることってなんですか?
江戸時代は島津様とか伊達様とかって言わなかったのですか?
誰と言われると、困るが。
みんな松平さんだから、旧姓で呼ぶのはタブーなのかなと。
>>962 ますます意味不明
荒らしでなく、本当に質問をしたいのなら、せめて質問したいことの内容がわかる程度の文章を書いてほしい
>>962 みんな松平さんでは区別がつかないだろう。それじゃ困ると思わないの?
うーん、揚げ足とりの荒らししかいないスレで質問した自分が
馬鹿でした。
日本史板ってレベルが随分と落ちましたね。
>江戸幕府開府以降、徳川氏は松平氏と血縁関係のない有力大名にも松平の
>名字を名乗る許可をあたえた。これらの大名は公的な場では松平姓を名乗り、
>本来の名字は使用しなかった。ただし、松平姓を名乗ったのは当主と、
>将軍家への披露が済み、叙位任官を受けた世子に限られ、披露前の世子や
>一族は本来の名字もしくは別の名字を名乗った。慶応4年の新政府命令により、
>これらの一族は本姓に復した。(Wikipedia・[[松平氏]]より)
「公的な場では」って位だから、私的な場では普通に島津とか伊達とか名乗って
いたんでしょう。あと区別したければ「松平薩摩守」「松平陸奥守」と呼べばいい。
質問がちゃんとしてなくて揚げ足とられるのは自分が悪いと反省してください。
ちゃんと書き直せばちゃんと答える用意は有ったのに。
968 :
日本@名無史さん:2011/03/26(土) 23:10:36.68
東京で検出された放射性ヨウ素は210Bq(ベクレル)/kg(リットル)
Q:どのくらい飲んじゃいけないの?
A:10000Bqのヨウ素は0.22mSvの内部被曝を起こすそうです。
Q:だからどのくらい飲んじゃいけないのかと。
A:0.22mSvの内部被ばくを起こすために、50リットル飲まなきゃいけません。
Q:こたえろや、どれくらい飲んだらあかんねん。
A:一般人が被曝して良いのは1mSv/年なので、一年に250リットル飲むと限度です。
Q:ええと?
A:大体、十日で6〜7リットル飲むと限度です。
Q:わりと普通に飲めますね。それを超えるとどうなるの?
A:特に何も起きません。そもそも自然放射線が2.4mSvありますので、1mSvを越えたらそっこー何かあるようじゃレントゲンも取れませんし、飛行機も乗れません。
Q:じゃあ、放射線の影響が出てくるにはどれくらい飲むと危険なの?
A:目安として、実際に影響が表れてくるのは1Sv(=1000mSv)くらいです。とりあえず、100mSvが放射線の業務に携わる人が一発で受けてもいい限界の値なのでひとつの目安になるんじゃないでしょうか。
Q:つまり、どう呼びかければいいんだ。
A:「毎日、バスタブ(200リットル換算)の水を三杯以上飲むのはやめた方がいいです。また一日にバスタブ13杯以上の水道水を飲む生活を一年続けるとマジに放射線の影響が出かねません」
Q:乳児に飲ませるなというのは?
A:子供は甲状腺がちっこかったりしてヨウ素を吸収しやすかったり割合が大きくなりやすいのと、発育途中なので何が起きるかわかりません。乳児にバケツいっぱいの水を毎日飲み干せというのはやめてあげてください。
969 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 04:06:47.09
ちょっとした疑問ですけれど、刀は兜を切断できるそうなんですが、
刀を双方が持って刀同士切り結んだ場合、双方の刀は双方の刀を切断するのでしょうか?
970 :
969です:2011/03/27(日) 04:41:30.26
質問しといてすいませんが、寝ます。
有難う御座いました。
>>969 どちらかというと
日本史というより工学の担当だが
その場合は脆いほうの刀が折れる
「いくさばで数打ち(量産型)の刀は役に立たない」といわれたゆえん
量産型が弱いってのはこの頃からの伝統なのか。
量産型という物が誕生したときからの伝統だよ
でも組織戦の場合は特注品ばかりでは役に立たない
戦いは数だぜ、ですな。
976 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 19:02:48.41
業物同士だとどうなるんだ?
>974-975
朝倉孝景の遺言だったか朝倉宗滴のことばだったか、
戦国初期の含蓄ある言葉として残ってるな。
とにかく数をそろえろ、と。
業物同士でも脆いほうが折れるなら量産型と変わらん。
結果残したブツしか量産には移行できないのに・・・
打ち合ったら片方が折れるなら槍のほうが使えるな
981 :
日本@名無史さん:2011/03/28(月) 21:49:21.40
江戸庶民って毎日あんな着付けが大変な着物を着ていたなんて信じられません。
夏は暑く冬は寒い。
ときに今大河ドラマで見る着物(というか帯)はいつごろ廃れたんでしょうか
日本で投石器が発達しなかったのはなぜなんだろ?
武士道に反するから?
たぶん。
・投石機が必要になるような堅牢な城壁は戦国時代末期になってから発達した。
このため、城壁を崩すための兵器が発達するための時間的余裕が少なかった。
・堅牢な城壁が発達した頃には、すでに「大筒」と呼ばれる銃器(鉄砲と大砲の中間ぐらい?)があって、
投石機を新規導入する必要が薄かった
・投石機を移動させるのが困難な険阻な道路ばかりだった(街道でさえ道幅が1間を超える区間は限られていた)
などでしょうか。
戦国時代の半ばごろまでは、城壁というのは土塀と柵が主流でした。
そうそう。
投石機のような大型兵器を持ち出すような大規模な攻城戦よりも、
防衛が数十〜数百人程度、攻め込む側も多くて数千人程度の、
どちらかと言えば小規模な攻城戦の方が普通であったことも、投石機が発達しにくかった理由かも。
>981
日常の衣類としての着物と、ハレの日に着飾るための晴着とは、少なからぬ違いがあるのではないかという気もしますが
特に、あの帯(オビ)は、晴着専用の日常用ではない帯ですよね。
985 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 06:52:42.88
幕末に他藩に私費で遊学する場合、下宿先は自分で手配するの?
それとも藩邸で生活できる?
皆様に質問です。
徐福に関するスレッドは、どこかにありますでしょうか?
987 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 10:55:55.12
東の方にあるんじゃないかな
>>985 江戸での話なの?他所の藩に藩邸置ける訳無いでしょ?
989 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 16:44:15.36
>>989 だったらその人の身分とか立場によるんじゃないでしょうか。よく知らないけど。
藩命で行く場合は藩が、本人希望で行く時は本人が基本的に費用を負担する。
住みかは受け入れ先と本人の都合だった模様。