【初心者】スレッド立てる前に質問をPart23【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 19:41:22
3 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 19:42:57
4 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 19:43:58
終了
5 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 20:17:07
藤原兼通はなぜ「忠義公」という諡を贈られたのですか?
兼通の生前の行動に「忠義」があったとは思えません。
6 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 20:30:23
一万石ってどのくらい位の広さなの?
そもそもなんの単位?
7 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 20:38:59
調べてもわからないので教えてください。
1876年茨城、三重、愛知、岐阜県などで発生した農民一揆って何ですか?
国会の早期開設に反対した長州出身の人って井上馨ともう一人誰ですか?
1886年旧自由党の星亨らが唱えたことって何ですか?
教えてください。
8 :
前スレ993:2008/09/19(金) 20:46:47
前スレの993です、宜しくお願いします。
「江戸時代の旅や交通」それも初期のものと、「島原の乱」について調べています。
包括的に学ぶことの出来る本かサイトを教えて下さい。
9 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 21:14:19
10 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 23:05:46
12 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 00:22:26
>>6 「加賀百万石」などの場合は、その大名の領地の生産力。
畑や屋敷も米に換算されて合計される。
面積に単位面積あたりの基準値をかけて算出する。
田と畑の違いや土地の質の高低によって
単位面積あたりの基準値が異なるので、
石高から領地の広さはわからない。
13 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/20(土) 00:26:13
交通史の大辞典がちょっと前に吉川弘文館から出たんでそれで参考文献論文チェックしろ。
そいでをそれらを読破。話はそれからだ。
前スレ994
「水菓子」とか言わなかったっけ?
16 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 12:52:55
そのコテはスルー推奨
17 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 17:21:59
藤原田麻呂が死んでから藤原冬嗣が左大臣に任命されるまで、
40年間以上も左大臣が置かれなかったのは何故ですか?
>>8 初期はよくわからないが
青柳 周一 「近世旅行史研究の成果と課題」(『歴史評論』642,2003)
深井甚三『江戸の旅人たち』(吉川弘文館,1997)
金森敦子『江戸庶民の旅―旅のかたち・関所と女』(平凡社新書,2002)
神崎宣武『江戸の旅文化』(岩波新書,2004)
島原の乱についてはこのへんから参考文献をたどってみては?
神田千里『島原の乱』(中公新書,2005)
大橋幸泰『検証島原天草一揆』(吉川弘文館<歴史文化ライブラリー>,2008)
19 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 23:34:05
20 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 11:56:54
日本史でいう「総本山」とは
例えば「比叡山」ではなく
「比叡山延暦寺」などの寺のことですか?
21 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:40:14
>>20 そうです。
似たようなものに「五山」がありますが、これも寺を指しますよね。
寺と山とは密接な関係があったことから呼ばれるようになったものです。
22 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 20:52:51
23 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:17:14
>>17 藤原氏に有力者がおらず
天皇の政治権限が強い時代だったから
左大臣がいる時代は
藤原氏の影響が強い時代ともいえる
24 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 23:42:35
質問なんですが、室町時代の惣村っていつごろ衰退したんですか?
また、その衰退するきっかけとなった具体的な出来事などがあったら教えてください。
>24
応仁の乱だなw。
おいも質問でごいす。
軍記などにある陣形や大会戦は近代戦ではまったく見かけませんが、
いつからどうしてなくなってしまったのでしょうか?
要害としての城もなくなっているように思います。
>>26 銃や大砲の射程や精度や連写性能の向上によるんじゃないですかたい。
少なくとも、群がっていたら機関銃で薙ぎ倒されるだけだろうし、城は大砲をぶちこまれたらお仕舞いでごわしょう。
28 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 14:36:40
>>24 衰退してません。
室町時代の惣村で培われた自治力は、
江戸時代以降にも継承されます。
村請(年貢の納入を村として請け負う)がその例です。
戦国大名も、村落から税を取り立てる一方で、
村の自治の活用や農民の保護に力を入れています。
村落レベルでは室町後期から江戸時代まで連続している、
というのが現在最も有力な見解だと思います。
鎖国時代、オランダ語の通訳の仕事があったそうですが、
オランダ側には日本語を覚えて話すことのできた人や通訳は
いなかったのでしょうか?
30 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:24:26
>>24の質問に似ているんですが質問させてください。
室町時代から惣が現れましたが、その惣というシステムの弱点というか、
欠点があったらぜひ教えてください。
31 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:52:06
>>29 オランダ商館長が雇っていたようです。
平戸商館時代にはリーフデ号の元船員も通訳として
雇われていたようです。
日本人も多く雇われています。
32 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 21:58:24
>>30 一つには惣の利益が最優先されることが挙げられるでしょうか。
時には惣のために個人の利益が無視されることもありました。
また、惣の利益を守るため、他の惣との抗争が激化する可能性
も孕んでいました。水を巡って村同士で殺し合い、なんて話も
当時は珍しくありません。
弱点、と言い切れるかは微妙ですが、惣とは言っても大抵は
内部に富める者と貧しい者、正式な構成員とそれ以外の構成員との
内部対立を含んでいたことも挙げられます。
33 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:43:43
牛頭天王について、質問なのですが
最初、疫病を流行らす神だったのが、
平安時代に、疫病を流行らさないために、祀られ、
慰撫するために、お祭りが行われるようになり、
いつしか、本来とは逆に「除疫神」とされるようになり、
菅原道真が祟り神になったときにおよび、それを抑えるために
天満宮に置かれる事になったと理解しても、間違いではないでしょうか?
34 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:56:23
織田信長は伊勢・長島や越前では降伏を許さず、一向宗の信徒を皆殺しにしましたが、
一向宗の本拠地である石山本願寺は降伏を許しました。この違いは何故でしょうか?
両方とも祟り神なのだから、祟り神を祭り上げて福の神とする、という意味で
同一視、または同一グループ内の上司と部下という関係を設定することになる。
だから一緒に祭られたのさ。
ギリシャ神話で、同じ海の神で信仰地域の異なったポセイドンとトリトンが
いつの間にか親子ということになっていた、という例もある。
36 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:11:25
>>33 5行目まで異論ないのですが、
6・7行目との繋がりがわかりません。
牛頭天王が天満宮に祀られている、ということですか?
天満宮の祭神は菅原道真その人=天神で、牛頭天王が必ず
天満宮に祀られているというわけではない(確かに牛はいます)
と思いますが、もしそのようなソースなり根拠があれば
教えてください。
私の不勉強でしたら申し訳ありません。
37 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:27:05
>>34 まず、一向宗=殲滅されるべき対象、という構図に
こだわるべきでない、という神田千里氏の指摘は重要と思います。
伊勢長島や越前の一揆は信長の統治に武力で反抗した者たちで、
彼らの掃討には他の宗徒への見せしめの意味も強かったと思います。
一方で石山本願寺・顕如光佐に関しては、武力による掃討よりも
交渉による決着を信長が選択した、という政治的な意味合いが強い
ように思います。全一向宗を掃討するのは絶大な困難が伴いますので、
教団を利用した統制を狙ったのではないでしょうか。
顕如光佐にしても、秀吉には服従を貫いて宗教統制に協力しています。
また、広大な寺内町も付随していたので、石山本願寺を丸ごと
接収することも狙ったものと思われます。
38 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 23:28:25
>>34 簡単にぶっちゃけると、石山本願寺は殲滅が出来なかったから。
後、本拠地である要害石山に籠もっていられてこそ、各地で信徒を煽れたわけで、石山を失う以上下手な動きは出来なくなる。
そうすると、殲滅する必要も無くなる。
>>34 簡単に言うと、
本拠地以外の一向宗=ゲリラとその支援者
本願寺=本国政府
見たいな関係だったから。
ゲリラを殲滅するには補給を絶てばいいわけだが、ゲリラ本隊とその支援者を両方とも始末できる
信徒の皆殺しはその手っ取り早い手段だった。
一方本国政府たる本願寺相手なら交渉ができるし、下手に相手国を滅ぼしてしまえばその後始末
にまた足を取られるので、皆殺しになどできなかった。
40 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:22:18
一味神水について、
その起源がいまいちわかりません。
なんで紙を燃やして飲んだの? というところがどうもはっきりしません。
どなたかわかる人がいたら教えてください。
41 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 00:39:33
>>40 疑問にお答えできているかどうかわかりませんけれど。
燃やされるのはただの神ではなく、一同が心を一つにする旨を書き、
それを神に誓った「起請文」です。起請文には神の名が記され、
その神に対して約束を破った際に罰を受けることを誓うのです。
つまり、神の宿った紙なのです。
そして、一味神水には、神に供えられた神聖なが用いられます。
つまり、紙(の灰)を水に混ぜて飲むという行為は、人と神の「共食」を通じて、
人と神とか一体化する行為に他ならないわけです。
飲むのには灰が適していますし、火も神聖なものですから、
燃やすようになったのでしょうか。
詳しく知りたい場合は勝俣鎮夫『一揆』をご参照ください。
>30
複数のスレに同時期同種の質問が行われているけど皆別人なのだろうか?
質問文から判断すると高校の宿題なのかな・・・本を一冊書ける分量の説明が必要であることに質問者は気づいていないようだが
(今日的な意味での)女性の権利が認められていないとでも書いておけば?
授業で先生が何か言っていると思うけど
・惣村の意思決定の場に参与できない
・人権財産権がない
自分で書いておいてなんだが、突っ込もうと思えば↑は幾らでも突っ込めるけど(苦笑
43 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 11:28:12
木綿普及以前の民衆は麻の服で真冬を過ごしたはずですが
かなり大変じゃないですか?
『疫病と世界史』に欧州の1300年代の農民って木材も羊毛も不足していて
冬は体を寄せ合って耐えるしかなかった、それがペストの感染経路の一つだったとか
書いてあったけど、欧州より気温は高くて木材もあったとしても
野外の活動は制限されそうですよね。寝るときも寒そう。
重ね着しまくったら大丈夫だったりするのかな。
年表には何々時代って書いてありますよね 室町時代とか江戸時代とか
あれは後で誰かが決めたものだとおもうのですが今現在は何時代になりそうですか
何か有力候補とかありますか? あと年号の明治とか昭和とかは大政奉還
がおこなわれて天皇ごとに決まるようになったものでそれまでは徳川将軍
ごとに慶応とかなんたらとか決まってたようにイメージしてるのですが
鎌倉以前は天皇ごとに 鎌倉時代は源氏の将軍ごとに 室町時代は足利将軍ごとに
であってますかね それと戦国時代と安土桃山時代はどうなってるのでしょうか
ちょっと気になってるものでどなたかお願いします
45 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:38:39
>>44 「東京時代」でしょうか。
主たる政治拠点の名前を用いられることが多いですので。
江戸時代以前に将軍ごとに元号が決まっていた、というイメージは
残念ながら間違っています。改元は天皇の専権事項であり、
将軍の代替わりとは原則として関係ありません。
(幕府から改元を促すことはありましたけれど。)
例えば飢饉や疫病が流行った時や甲子年(戦乱の起こる年とされる)・
辛酉年(革命の起こる年とされます)など、頻繁に改元が行われていた
時期もありました。
例えば足利義満が征夷大将軍だった時代には、
応安・永和・康暦・永徳・至徳・嘉慶・康応・明徳・応永(北朝のみ)
の9つの元号が使用されています。
46 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 13:48:50
弘法大師を祀ってるお堂にある紋って何ですか?
五鈷杵がクロス状に交叉したやつです
徳川16代将軍で一番ひどいのって誰ですか?
ローマ皇帝でいうネロとかカリギュラみたいに
無茶苦茶やった将軍はいないんですか?
48 :
44:2008/09/24(水) 14:36:30
>>45 なるほど東京時代ですか 確かに鎌倉とか室町とかみんなそうですからそうなりそうですね
元号に関しては将軍とはまったく関係なく天皇ごとでもないということで
まったくの思い違いでしたw 慶喜のときが慶応だったはずとか考えたのが
まずかったようですw
丁寧に書いていただきありがとございました 大変勉強になりました
東京時代が終わらないことを祈るよ…
>>47 16代目というのは洒落。政権を担うという点では15代までを数える。
それはともかく、徳川幕府将軍で評判悪いのは綱吉(5代目)だろうな。
51 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:57:56
>>36 いえ、「なぜ天満宮に牛が?」の疑問のレスを見たことがあったので、
一応天満宮では、道真の棺を引いた牛が、そこで動かなくなったからという説明でしたが、
それをそのまま信じてよいのだろうかと
御霊信仰の流れで、「すさまじい怨霊」と化した道真を抑えるためには、
祀るだけでは難しいと考え、その当時強く信じられていた、
除疫神の牛頭天王を「牛の像」として(神そのままを送ると、道真がさらに怒る?)
置いたのでは?と自分ながらに解釈しました。
やっぱり、トンデモ説ですよね・・・すいません
>43
紙子浪人が貧しさの比喩として用いられることもありますが
厚手の腰の強い和紙を張り合わせて衣服としたものが保温性が良いようです
時代や地域によっては禁止されることもありますが動物の皮を衣服に用いることもあります
前スレ
>>989 遅くなりましたが、回答ありがとうございます。
wikiの記述はあまり信用できないとの事で避けていたのですが、読んでみました。
そんなに間違ってはいないものと考えていいでしょうか。
なるほど、華族の屋敷が集まったような高級住宅街、という風景は日本にはないわけですか。
考えてみれば、イギリスでもドイツでも、貴族の屋敷が集まった町なんてありませんしね。
屋敷の周囲は、確かに一等地になりそうなので、華族屋敷の位置を調べてみます。
54 :
45:2008/09/25(木) 00:14:40
>>47 遊び呆けて子どもたくさん作って幕府財政を傾けた、
という点では11代の家斉も有名ですね。
ただ、江戸幕府は老中を筆頭に官僚機構がかなり発達して
いましたので、暴君が生まれにくかったのでしょうか、
ネロやら桀紂みたいなわかりやすい暴君はいませんね…。
>>48 恐れ入ります。
>>49 第三新東京時代なんて…怖すぎます
>>51 天満宮の牛に牛頭天王を重ね合わせていなかった、
という確証は全くないのですが、牛そのものが古代から中世に
かけては神聖なものと見なされていたようですので、
特別に牛頭天王に引き付けなくてもよいのかな、と思います。
江戸時代の身分制度は士農工商となっていましたが
農民が2番目というのは形だけですよね
それとも何か身分の差がはっきり出るようなことが実際にあったのですか?
56 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 19:16:46
>>54 天満宮の牛は、「ふつうの牛」と考えるのが、妥当という事ですね
怨霊を封じ込めるためには、一応「祀る」のみで完結していると考えて
いいのでしょうか?
地元民としては、
道真は、内裏に雷を落としたくらいですから、
通常とは違う、封印がかけられているくらいがうれしいのですけど
まあ仕方ないですね
57 :
日本@名無史さん:2008/09/25(木) 21:49:03
>>56 これも確証があるわけでないのですが、
日本の場合は怨霊を封じ込めたり滅したりするよりも、
怨霊をなだめて鎮めて御霊(神)に変えてしまう所に
特徴がありますので、「祀る」ことが最大の「封印」ではないでしょうか。
「教えてクン」は、孤高の戦士である。
相手のことを考えるようでは教えてクン失格というものだ。
以下のような行動が、望ましい。
初心者であることを高らかに宣言し、初心者向けの丁寧で分かりやすい説明を強要する。
専門用語の使用を禁じておくとさらに効果的である。
簡潔な説明を禁じられたヲタクどもは、同じ内容を説明するのに、何倍もの労力を強いられる。
自分は努力せず、相手には多大な努力をさせることこそが「教えてクン」の真骨頂である。マルチポストも有効である。
そのBBSを信用していないことを明確に示せる。
「どうせ、お前らじゃ分からんだろう。」という意志表示として高く評価できる。
もちろんマルチポストの非礼をあらかじめ詫びてはならない。
それでは、単なる「急いでいる人」になってしまう。
それは、教えてクンではない。質問のタイトルは、「教えてください。」で良い。
タイトルを読んだだけでは「何に関する質問」か全く分からない。
そういう努力は、答える人間にさせれば良いのだ。
とにかく、答える人間が答えやすいように気を使って質問してはならない。
傲慢で不遜な態度が必須である。「聞きたいことがあります。」など、プロの仕事であろう。
最後に、言うまでも無いことだとは思うが、答えてくれた人達に礼の言葉を返すなど言語道断である。
せっかく「教えてクン」を貫いてきたのに、最後にお礼を言っているようでは、画竜点睛を欠いていると言わざるを得ない。
質問だけしておいて、後はシカトが基本である。
上級テクニックとして、「そんなことは知ってます。バカは黙っててください。」とか、「そこまで初心者じゃありません。」などと言って、回答者の神経を逆なでしておけば完璧である。
以上のことを踏まえて質問すれば、君も立派な「教えてクン」である。
ビバ!教えてクン! 教えてクンに栄光あれ!!
59 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 16:15:16
江戸時代の農村では、罪(殺人とか強姦とか)を犯した人間に対しては誰が裁いていたんでしょうか
幕府の役人?それとも村の有力者とか?
どなたかご教授願います
世界中の神話で互いに類似性が指摘されているが、確かな証拠は何もない。
ほぼ確実なのは大陸の思想が影響していること。
62 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 20:47:06
>>60 出土品などから、古代にも海を介して半島・大陸・南洋と
盛んに交流が行われていたことはわかっています。
おそらく神話の成り立ちにも影響を受けているでしょう。
が、そこに書かれているのはサッカー半島起源説くらい強引です…
そっか強引なのね
64 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 21:23:51
>>57 何度もすいません
道真ですが、道真は北野に住んでいたんですよね
で、道真が雷神に祀られるより前に、その地には
火雷大神が祀られていたのですか?
790 名前:世界@名無史さん 投稿日:2008/09/26(金) 20:16:37 O
blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara//1554994.html
これを見たんだが日本史いってくる
791 名前:世界@名無史さん 投稿日:2008/09/26(金) 20:18:41 0
カスペルスキーでトロイ反応あり。踏むのは自己責任で
66 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 01:41:30
何故
桓武天皇の蝦夷討伐は東北地方までで終わったのですか?
その先の北海道にまで行かなかったけど
>>66 フェリーも青函トンネルもなかったから、陸軍では海峡を越えた先は手も足も出せないし、
だからといって、大量の渡し船を作って海を渡るほどのメリットも認められなかったから。
68 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 04:24:14
>>66 北海道どころか、東北地方も全て制圧したわけではありません。
現在の青森や岩手の中・北部までは平定できていません。
その理由は、当時蝦夷征伐と平安京の造成が大きな負担となって
いたため、反対意見が力を増していたためです。
藤原緒嗣が「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。」と主張した
徳政論争によって、蝦夷征服は中途でやめられました。
69 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 04:27:29
>>59 基本的に幕府・藩の役人だったと思います。
強姦などは村内で内済(示談)で済ませ、
表沙汰にされなかったことも多かったようです。
当時の村は一定度の自立性を保っていましたので。
>>59 小説だけど、佐藤雅美の桑山十兵衛シリーズを読むと関八州の取り締まりの
様子が分かりやすい。テレビでもやっていたけど。
江戸時代ってのは、徒食する武士を食わせるということでは大きな政府だけ
ど、行政そのものは小さな仕組みだったと思える。
多分歴史っていうジャンルで無いと思うんだけど
日本の昔、100年前とか、200年前、500年前、未開時代の風景、ビジュアルの移り変わりを知りたいんだ
写真とか、絵、想像図とか
そういうジャンルを受け付けてくれる板とかサイトとか
ネット外で勉強するにはどこに当たれば良いだろうか
72 :
59:2008/09/27(土) 20:33:28
73 :
日本@名無史さん:2008/09/27(土) 23:53:25
>>69-70 割り込みだけど、名主とか大家とかが行政の責任と権限を持っていて、司法の犯罪の取り扱いも、
ある程度の範囲までは自分の責任で行って、その範囲を超える「手に余る」事柄だけ、江戸なら
奉行所が扱った、とかじゃなかったでしたっけ?
> 当時の村は一定度の自立性を保っていましたので。
というか、中央集権の現代とは全く違って、ムラなどの単位が、行政や司法の権限を与えられると
同時に責任も負わされていて、「自立性」というか「自律性」を保たさせられていた、
とかではなかったでしたっけ?
75 :
69:2008/09/28(日) 03:43:29
>>74 > 割り込みだけど、名主とか大家とかが行政の責任と権限を持っていて、司法の犯罪の取り扱いも、
ある程度の範囲までは自分の責任で行って、その範囲を超える「手に余る」事柄だけ、江戸なら
奉行所が扱った、とかじゃなかったでしたっけ?
今、手元に『日本史講座』6近世社会論(東京大学出版会、2005)
くらいしかないので細かいところまで確認できませんけれど、
殺人はまさに「手に余る」ケースとして幕府が管轄したようですよ。
(もちろん村ぐるみで隠蔽されて発覚しなければどうしようもないですが…)
独自の村掟に従って村内部で処罰されることもありましたが、
基本的に幕府は私的制裁を否定していました。
(実際には行われていたのですが、幕府もある程度の自立性は
認めざるをえず、黙認をしていました。)
> というか、中央集権の現代とは全く違って、ムラなどの単位が、行政や司法の権限を与えられると
同時に責任も負わされていて、「自立性」というか「自律性」を保たさせられていた、
とかではなかったでしたっけ?
詳しく補足していただいてありがとうございます。
76 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:50:58
元亀3年(1572)三方ケ原の一戦で敗れて意気消沈している徳川軍の前に、またもや甲州武田軍が来襲してきた。
家康は、すっかり元気を失くしている所将を見渡して、酒井忠次に海老すくいの踊りをいたせと命じた−−という伝承があるそうですが
これはどのくらい真実なんでしょうか?
77 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:31:38
どこに聞けばいいのか分からなかったんですがもしご存知の人居たら教えてください。
おばあちゃんからよく「悪さをすると、えんしれんじ におじいちゃんに落っことされた。」
と聞いたんですがググッても出てきません。自分の聞き間違いなのかおばあちゃんのいい間違いなのか分からないのですが
何の事か判る人いらっしゃいますか?
多分明治から大正期にかけて大きいうちなんかにあった倉庫かなんかじゃないかとは思うのですが・・・
>>75 いや、
>>74は割り込み質問なんですが、合ってますか。
> 基本的に幕府は私的制裁を否定していました。
これは、ある程度以上の重罪についてのみの話ですよね?
79 :
日本@名無史さん:2008/09/29(月) 21:59:12
盛者必衰は、本当ですか?
81 :
日本@名無史さん:2008/09/30(火) 21:35:10
>>80 子供の頃から、なぜ?と思ってました
衰退したくないと思って、子孫頑張れ!って言われるはずなのに
それでも衰退・滅亡してしまう
これはなぜなのですか?
これは日本だけの減少ではなく、古今東西、不変の真理のように見えます。
もしそうだとしたら、頑張って子孫繁栄を願う意味はあるのでしょうか?
>>81 真理や事実に抗う想い。願いとはそもそも、そういうものなのです。
繁栄の基盤になる財源の損耗や搾取対象からの反発、支配システムの
腐敗とかかな。平家が敗れたのに凶作の他に貴族化してアゴが退化し
たからなんて俗説もある。
>>81 スポーツのようなお遊びの世界でさえ、栄枯盛衰はあって、強力だったチームにも衰えはあるし、
強力メンバーの二世ばっかり寄せ集めたって、同じように強いどころか、まともに試合にならない
ほうが普通じゃない。
> もしそうだとしたら、頑張って子孫繁栄を願う意味はあるのでしょうか?
何か意味不明なんだけど、特定の同じ分野で延々と目立つような活躍をし続けることだけが
全てのように勘違いしてない?
>>84 多分下のほうは「いつか滅んじゃうんだから、何をやったって意味なくない?」ってことでは?
>>85 そうかな?
なら、「やり過ぎたら反動が大きいだけのこと」、と言っておけばいいのかな?
繁栄とはなにかということですね
競馬の世界では、「血統」というのが重視されますが、
人間の世界でも、「血統」というのは、
その人の能力にどの程度影響出ますか
?
89 :
59:2008/10/02(木) 00:08:52
>>75 またまた今更ですいませんけどありがとうございます
で、もう一個聞きたいんですけど、その「手に余る」場合以外は村八分みたいな私的制裁が行われていたんですか?
90 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:16:15
>>88 長嶋一茂も野村カツノリも親の七光りがなければ二流選手とすら言われないまま戦力外のレベル。
91 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 01:04:44
仁徳天皇陵って
なぜ発掘調査させないのですか?
>>88 ある種の病気などについては、「血統・遺伝」の影響がある程度明確に把握されているから、
「マイナス面での影響」が出るばあいがあることは、一応確認されているといえる。
しかし、プラス面については、影響は明確には把握されていない。
筋肉には、持久力のある筋と、瞬発力のある筋の別があって、それらの割合が人によって相当に違う。
トップレベルの選手になると、マラソンの選手と短距離の選手では、単に練習内容が違うだけではない、
持って生まれた素質の点で、決定的な差がある。
人間の持久筋と瞬発筋の割合がどの程度遺伝するか知らないけど、ともかく、「特定の割合の人間を
作り出すために、多数の人間についてそういった検査を行って、目的にかなった雌雄を掛け合わせる
のを何世代も繰り返す」なんて乱暴なことはできないから、そういった明確な違いがある部分についても、
血統の影響は不明としか言いようがない。
記憶力なり応用力なりも、何らかの方法で多数の人間について検査を行って、それらが良好に、
もしくは劣悪になるように「掛け合わせる」ことは不可能ではないと思われるが、実際問題として
そういう「交配」は、人間の間では行われてないし、今後に行われる可能性も薄いと思われる。
まして、後天的な事柄の影響も確認するために、同じ傾向と考えられる人間をランダムに
選り出して、半分には教育を施し、もう半分には教育を施さないで、どういった違いが生ずるか
調べるのを何世代にもわたって続ける・・・とかいったことは事実上不可能。
> 人間の世界でも、「血統」というのは、その人の能力にどの程度影響出ますか?
ある程度以上の影響があると考えられているが、生育環境も含めた後天的な事柄の影響も
小さいとは思われないので、影響は不明確としかいいようがない。
今時優生学でつのおはなしでつか?
スマソw寝ぼけてるは漏れ↑
優生学は今時、はやらんと思われ
一茂も、カツノリも、お母さんがスポーツ選手というわけではないからね
もし、結構なスポーツ選手との子供だったら結果は違ったかもしれないけど
長嶋監督野村監督は、両親スポーツ選手ってわけじゃないからなぁ・・
でも、おそらくだけど、ある程度運動神経とかよかったんだと思う
筋力もある両親だったんだろう。
あと、これは「遺伝子同士の相性?」みたいなのも、もしかしたらあるのかもね
スポーツ一家の中で育った選手は珍しくありませんが、そうでない人もいっぱいいる。
一茂もカツノリも、一流とは言えなかったにせよ、プロ選手として出られるくらいの実力はあった。
そもそもプロ野球選手なんて、滅多なことでなれるものではないんですよ。
特に一茂は親が偉大でなければ(常時スタメンにはなれたろうに)と惜しむ声が多かった。
そういった意味で、子供がいない一流選手は
仕方ないけど、なにか哀しいね・・・
稲作は、周の王族が戦乱から逃れるために日本にやってきたから
伝来したと聞きました
イチローか・・・
100 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 00:28:48
長く続いていた徳川時代の間に、多くの藩において慢性的な財政赤字に陥っていったと理解していますが
それは何故だったのでしょう?
(各種政策が取られましたが)結局打開策はなかったのでしょうか?(現代的な経済学的視点でも)
また、赤字に陥らなかった藩はどのようなものがあったのでしょう?
>98
周は黄河流域
稲作は長江流域が主
東南アジアからと考えるのが一般的
つーか板違いじゃねぃ?
>100
米の価値の相対的下落
>>100 >長く続いていた徳川時代の間に、多くの藩において
>慢性的な財政赤字に陥っていったと理解していますが
>それは何故だったのでしょう?
上にも出ているけど、米価の下落。
藩の主な収入は年貢、特に米による年貢だったわけだが、
江戸時代入って新田開発や技術の進歩で米の収穫量が増え、
米価が下がった。そのことが藩の収入を直撃した。
>(各種政策が取られましたが)結局打開策はなかったのでしょうか?(現代的な経済学的視点でも)
藩の特産品を専売制にするというのが一般的な対策だったし、ある程度の効果はあった。
現代経済学の視点から言うなら、商業活動から税を取り立てるようにするのが抜本的対策だったが、
そっちは結局の所実現しなかったと言っていい。
>>94 流行廃りなど関係ない。
厳密な意味での実験ができるかできないかなどは、「単なる都合」であって、事実の真否とは何の関係もない。
>>95-96 両親がオリンピック級の体操選手の子供で、いい線をいっている人っていなかったっけ?
やっぱり「ある」と考えるのが穏当じゃないかな。
「だから交配させろ」なんて馬鹿げた暴論は、少なくともまともな国なら通らないのは当然だけどね。
>>100 軍事組織が、何百年もの平和な時代を通して、赤字にならないで続くほうが異常でしょう。
「役に立たんから解散させろ」という動きを未然に防ぐ程度の存在価値は持ち続けた、ともいえる。
> また、赤字に陥らなかった藩はどのようなものがあったのでしょう?
「借金の踏み倒し」なしで黒字を続けたところは、絶無ではないでしょうか。
大和守とか越前守とか、こういう地名のついた官位は名前が重複しないようにどこかで管理されてたのでしょうか?
>軍事組織が、何百年もの平和な時代を通して、赤字にならないで続くほうが異常でしょう。
釣り?
天然?
十年前のBBSならともかく、えらく極端な奴が来たなw
>>107 そういう官位を与えるのは朝廷(天皇)の仕事。
平安以前なら実質的な職務を伴い、それ以後、特に江戸時代は完全な名誉職。
定数とかがもちろんあった。
が、江戸時代にその定数がどのくらいしっかり守られてたのかは知らない。
室町時代は本人が勝手に名乗っていたケースが多いな。
羽柴筑前守は正式な官位名で、むしろ例外だけど。
上司の織田信長が、主要な部下の官位を朝廷から授かってきた。
丹羽長秀は断ってしまったそうだが。
111 :
107:2008/10/03(金) 13:27:14
ありがとうございました
鑑真はなぜ何度も渡海に失敗したのですか?
あと、流された場合、海流から言って、北へ流されるのでは?と
子供の頃から疑問に思っていました。
航路としては、プサンあたりから、対馬・壱岐を経由したほうが
安全でなおかつ確実だったと思ってます。
それなのに、何度も何度も、南京?あたりから、一気に目指したような
航路ではなかったかなぁと記憶してます。
113 :
69:2008/10/03(金) 21:01:08
>>107 蛇足ですが、官位は「官職」と「位階」を一緒に呼ぶものです。
「修理大夫」や「上総介」が前者、「従三位」や「正五位上」が後者です。
ちなみに「越後守」など地名の入った国司名は、特に「受領名」とも呼びます。
重複しますが、中世後期(室町とか戦国とか)以降は、大名クラスを除いて
ほとんどが自称か、あるいは大名など上位者から「私的に」貰ったものです。
114 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 21:26:16
>>112 そもそも当時は海上航行が危険だったのです。
例えば、日本からの遣唐使は、およそ一度に4隻ずつ派遣されるのですが、
全て無事に往復できたのは19回中3回しかありませんでした。
朝鮮半島伝いに中国へ向かう北路は、8世紀半ばには
当時の新羅との外交関係の悪化によって敬遠され、
北九州から直接渡る南海路に切り替えられたと記憶しています。
確かに対馬海流は北東へ流れていますが、鑑真が渡航に失敗したのは
台風(暴風)のせいですし、風などもろもろの影響がありますから、
一概に北東へ流されるとは言えないのではと思います。
実際に東へ流されて沖縄や奄美へ漂着する船もありました。
>>112 上にもあるけど、新羅との関係悪化で奈良時代に入ると
朝鮮半島付近を通ることが出来なくなった。
遣唐使は初夏に出発して秋〜冬に帰ってくることが多かったので、
行きは南東季節風に乗って中国のどこかに着く。
帰りは北〜北西方面の風に乗るので、南西諸島の方に行くことが多かった。
中には運悪く北東の風に吹かれ、マレー半島まで流されたという人もいる。
116 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:25:03
明治のはじめに諸藩を解体そのまま県にして殿様を県知事にと言うのが廃藩置県の第一歩だったそうですが、
この時幕府天領や(あるのか無いのか知らないが)朝廷領なんかは誰が県知事になったんですか?
117 :
日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:39:32
>>116 版籍奉還のことですか?
天領には府・県を設置して知府事・知県事を任じて直轄支配し、
藩領には藩主を知藩事に任じて引き続き統治させました。
大雑把に言ってその藩を解体したのが廃藩置県です。
>>108 君がどこかで拾って丸覚えにした文字列と矛盾しているかね?
旦那、そいつは釣り針が太すぎるぜ
素人の釣りはこれだからいけねぃや
120 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 23:17:58
>>119 どこかで拾って丸覚えにした文字列を鸚鵡返しにしているだけの能なしは引っ込んでいなさいね。
122 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 07:53:58
123 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 15:32:17
廃仏毀釈について質問。
廃仏毀釈運動が最も盛んだった地域は鹿児島、隠岐、富山などですが、
逆に最も廃仏毀釈運動の勢いがなかった地域はどの地域ですか?
124 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 20:43:22
「模」
すまん、
手偏に莫だ。
でも、こういった質問は国語板でしような
127 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 21:15:41
>>126 ありがとうございます。
しかし、辞書ソフトの手書きツールでその通り(手莫)に入力してみても、出てきませんでした。
古いものも大半の漢字はこれで出るので、これに相当する他の漢字があると思うのです。
ちなみに次のような文脈です。
経文の間に観音三十二相の図をましへ、所々に書写●刻せし人の姓名をも識せり。
摸
↑
見つけた。
「も」で出た。
字義的に、は、(手書きで)書き写すという意味だな。
模写とほとんど同じ。
129 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 23:22:14
130 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 23:25:11
熊野水軍についてですが
1本拠地にしてた場所は今の何市になるのでしょうか
2熊野水軍が本拠地に置いた地域は美人が多いといわれ
その理由が襲撃した地域から美女を連れ帰ったからだと言われてるそうですがホントでしょうか
1)
平安期〜鎌倉期は今の田辺市・新宮市。
室町期〜戦国期は今の志摩市・鳥羽市。
2)
まぁ嘘でしょうね。
ネタ話としてなら有りとは思う。
>>124 「ボ、モ」
サ
日
挙(上の点々なし)
ATOKの手書き文字入力 → 文字パレットで調べると
UNICODE:U+6479 面区点:1-84-88
UTF-8:E6 91 B9
>>124 あ、Windows に標準装備のmsime では調べたのかな。
最近は相当に改善されているとはいえ、基本的に帰国子女レベルで、そういう点がタコなので、
ややこしい漢字とかを使う人なら、ATOKを入れておいたほうがいいです。
あんま使わない字だしな。
水滸伝のマイナー脇役に「摸着天の杜遷」というキャラがいるが、
他にはこの字の使い途は知らんw
自摸(ツモ)
136 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 13:43:58
吉田松陰は何人兄弟ですか?
137 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 21:59:37
てす
戦国時代に関して質問。
城門をぶち破るために兵士達が丸太を抱えて突っ込みますよね。
あの丸太っていわゆる破城槌に該当するわけですが、当時の日本じゃなんて呼ばれていたんですか?
139 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 21:52:41
.∧_∧
(´・з・)汁ドゾー旦旦旦
( つ旦O旦旦旦旦旦旦旦旦
と_)_)旦旦旦旦旦旦旦旦
140 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 22:24:48
>>136 「吉田松陰の兄」、「吉田松陰の姉」、「吉田松陰の妹」、「吉田松陰の弟」
で、ぐぐる位はしてね。オイラは算数が苦手で人数は分かんね。
142 :
日本@名無史さん:2008/10/09(木) 22:13:14
江戸幕府の直轄の役職に大名や幕臣でなく、
各藩の家臣が抜擢されることはあったのでしょうか?
もしあったならそういう場合に家禄はそのまま藩から支給されたのですか?
江戸にて参勤中のこと。
結構な地位にある(外様藩の家老?)人物が、職務先で重要書類の忘れ物があることに気付いた。
部下(家来?)に、江戸屋敷へ忘れ物を取りに行かせることにし、用件を言った。
そのとき肌寒くなっていることにも気付き、ついでに上着も持ってくるように付け足した。
が、江戸屋敷へ忘れ物を取りに行った部下は上着だけを大事そうに運んできて、
肝心の書類を持ってくるのを忘れてしまった。
用件を言いつけた人物は
「大事な用件に小事を足すべきではなかった。これは自分の失敗である」
といった主旨で反省し、部下に詫びたそうです。
↑
こんな逸話の主が誰であるか、教えてください。
失敗を部下のせいにしない、興味深い人物に思えて気になります。
徳川将軍って、亡くなったら寛永寺か増上寺に埋葬されてるけど、
どっちに埋めるかってどういう法則で決まってるの?
145 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 01:09:28
江戸時代の「帯刀権」に簡単に教えてください。
146 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 10:53:30
刀を帯びる権利
147 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 01:45:31
148 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:15:38
若者や青年だってきっちりとした年齢区分ではないわけで。
現在は20で成人10代は少年だけど、江戸以前は元服をすれば年齢に関係なく成人。そういう話。
10歳が幼、20で弱、30で壮みたいな具合
150 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 21:48:38
>>147 中学校で「立志式」というのがあるでしょ。
あれが数えで15歳(今だと中学2年生)。
昔でいえば成人。
昔は元服の時期に個人差はあったけれども
概ね数え15歳前後で元服が行われるとされ大人だと判断された。
たまに20歳すぎても元服しない者もいたが
「齢長けても童装」というわけで。
それはそれで「おっさんなのに子供の格好して」ってわけ。
>>147 そこの説明がおかしいだけ。
「青年に関する厳密な年齢定義はない」にもかかわらず、統計を取る上で便宜的に仕切っただけのものを、牽
強付会的にこじつけて並べているだけ。
> 今みたいに「20歳超えたらおっさんだよねー」とかそういうのが無かった程度?
別に「20歳超えたらおっさんだよねー」なんてことはないけど、強いていうなら、男女ともに初婚の年齢が
上がってきていて、その面で、同じ年の人でも、一般的な認識に違いがあるのは確かだね。
といっても、江戸時代以前でもかなりの地域差があったから、単純一律にはいえないけど。
日本語でok
>>152 ナ ゝ / 十_" \/ |! |!
cト /^、_ノ | 、.__ (.__  ̄ ̄ ̄ ̄ ・ ・
154 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 02:15:31
系図纂要ですが明治時代の発行のようですが地方旧家周って系図写してきたの?
155 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 18:16:34
質問です。
戦国時代では衆道が一般的に行われていたそうですが、
排泄する器官に生殖器を入れるとなると病気になると思います。
エイズなどはなかったかもしれませんが、
大腸菌など様々な菌が腸内にはいます。
どのように防いでいたのでしょうか?
それとも尿道炎などの病気に、罹りまくっていたのでしょうか?
156 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:20:00
おまいは尿道炎ごときで医者いくのか?
>>155 病原に対する抵抗力という言葉を知りませんか?
>155
糞便や小便はそれ自体は有害では無い(まったくの無害でもないが)
排便後、空気に触れて腐敗することで有害になる。
質問についてなら、事後に汚れを洗えばそれで終わり。
洗わずに汚れたままにしときゃ病気くらいにはなるかもな。
そもそもおまえは、大腸菌がなんなのか、尿道炎がなんなのかを知らないだろ。
159 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 23:30:38
そう云えば子供の頃、ミミズには絶対小便かけたらダメと云われたな。
ミミズにかけたらチ○コが腫れるって。尿道炎の意味だったんだろうか。
マジ信じていたわ。
質問です。
橘氏ってどうなっちゃったんでしょう?
源平藤橘とまで言われたのに明治初期の華族令の頃には男爵になった家すらありません。
薄家(読み方すらわからない…「うすい」で良いのでしょうか?)というのが宗家だったみたい
ですけど途中で消えちゃってますし、他の橘氏とされる家も明治以後はまるで名前を聞きま
せんし…。
橘氏は簡単に言うとあっさり廃れた。
姓を賜るってのはぶっちゃけ初代の功績が大きいという話にすぎず、その後を保証するようなものではない。
歴史の中に埋没した。
平安中期には実質没落してる上に、武士化した一族も殆ど無かった為の結果でしょう。
薄家の絶家で、歴史的には橘氏の断絶と認識していいかと思います。
一応、河内の楠木一族他、伊予、壱岐、越前、信濃などの地方豪族で橘氏を名乗った家がありますが出自は曖昧です。
まぁ武家に関しては、源平藤を名乗っていても、殆どの場合いい加減なわけですが。
薄家はススキと読みます。
>>155
少し前にオラバつーエロサイトでその話題がでていたな。
素人がゴム無しでいきなりそっちに突っ込むと、次の日は尿道炎の激痛で起き上がれなくなるらしい。
まー書いた奴がその道のベテランなのか、処女願望の強い童貞なのかは知らんがw
風俗に行ってオネーチャンに聞いてくるのが一番確実だと思う。
て、ここ何のスレ?
164 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 02:33:21
>>160 明治になって南朝方の豪族を探したときにも
名和やら菊池は直系に近いと思われる子孫が見つかって
爵位もらったけど、橘氏を名乗る楠木の直系子孫は見つからなかった。
勿論楠木家の子孫を名乗る家は沢山あったんだけど、
歴史の表舞台から消えて久しかったからな。
やっぱり氏族としての絶えたといっていいと思う。
そもそも南朝系の豪族は出自も怪しいけどな…
楠木家が橘氏だったかどうかは不明だし…まあ確かめる手段は無いから否定する必要も無いけど。
>>165 まあ、普通に考えたら南朝系の豪族の出自は嘘だろうな。
確かめる手段もないから、
そう名乗っていたぐらいにするしかないけど。
167 :
160:2008/10/19(日) 02:54:33
皆さんありがとうございます。
薄は「すすき」と読むのですか! しかもちゃんと一発で変換できました!
昭和初期を舞台にした小説を書いていまして、そこで架空の華族家(堂上家で子爵)を
出そうとしたのですが、藤原氏や皇別氏族じゃ面白くないな…そういえば橘氏の家って
あんまり聞かないけどどうなんだろう、と思って質問した次第でした。
橘氏にしたのはちょうど暴れん坊少納言を読んだ後だったからです。
薄家の庶家か何かが半家あたりの家格で残っていて、明治維新のときに授爵された、
というような設定は大丈夫でしょうか?家業とかどうなるのか考えかねますが…。
創作ってのは見てきたように嘘を言う物なんで、別に良いのではないかと。
あんま羽目はずした設定にすると突っ込まれるけどw
ただ下級貴族って経済的にかなり悲惨なんですよ。
爵位を返上したり、大正期になると財産を処分してしまう家もでたりしてます。
マンガの「はいからさんが通る」でも、伊集院伯爵家は貧乏で借金だらけの設定でしたよね。
薄家の傍流がお情けで爵位もらえてたとして、昭和期に果たしてどんな生活できてたやら。
明治以前からの財産でもあれば少しは楽だったようですが、それもありえないし。
169 :
160:2008/10/19(日) 13:16:28
存じております。
一応資料としてタキエ・スギヤマ氏の「近代日本の上流階級」は読みましたので。
とりあえず明治期の当主(というか家令)が有能で、起業して大成功したとかそんな設定を
考えてました。
どうでもいいですが、この本を読むかぎりだと、最近のサブカルチャーでイメージされている
主人(またはその子息)と使用人の関係って実在の華族のそれに近いものなんですね…。
質問です。
縄文時代の竪穴式住居の復元物を見る機会がありますが、
屋根は千木、鰹木のある神社様の形で復元されています。
柱やかまど、溝の類は残るかもしれませんが、
屋根の構造はどうしてあの形に復元されたのでしょう。
空想なのか、根拠を持った推測なのか、明確な証拠があるのか・・・。
171 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 15:15:20
>>162地方豪族に関しては調査自体して無いらしいよ
某氏が今度薄家と某家の系図を照らし合わせて見るとか言ってたけど
172 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 16:53:52
捏造する方だって素人ではないからね
173 :
日本@名無史さん:2008/10/19(日) 23:45:40
江戸時代の商人に関してよく、丁稚奉公からはじめ数十年かけて手代、番頭
になるといいますが、そこまで出世できなかったものはどうしていたのでしょうか?
また、結婚も番頭になるまで出来ないのなら、独身で生涯を終えた商人もたくさんいたのですか?
174 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 05:18:39
天正の時代に日本人が奴隷として海外に売られたらしいけど、その子孫っていないの?
もしくは売られた先で根づいた日本文化などがあれば教えて欲しいです
175 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 09:44:02
「信仰における学問や儀式の重要性を主張して、座禅や
加持祈祷によって悟りを開くことができると説いた」
この説明は道元で会っているでしょうか?
176 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 18:32:55
奥羽越列藩同盟は本来、米沢・会津に寛大な処分を求めるためだったはずなのに
新政府側がこれを敵対視したため軍事同盟に発展したどころか
皇族まで招いて独立政権構想になってしまいましたが本気で独立政権を作るつもりだたんですか?
元々仙台藩主戦派は、奥羽越列藩同盟を反明治新政府の軍事同盟にすりかえるために
画策を続けていました。
他藩は仙台藩に騙されて、和平嘆願のつもりが他藩への軍事侵攻承認を行ってしまったのです。
では仙台藩は明治新政府を倒して何がしたかったかといえば、
薩長の替わりに藩閥政治を行いたかったのだろう、という他ありません。
>173
奉公先を辞めれば済むことです。結婚もせず、一生奉公人として過ごした人もいたでしょうね。
>174
いるかもね。本人も知らないだろうけど。文化は当然残ってません。
>175
全部間違ってます。
>176
ご自身の質問で書かれてますが、成り行きで決まった独立方針が本気であるはずないでしょ。
皇族は西軍への対抗上、頭に頂く必要があっただけです。
なんで幕末の諸藩の政治って、殿様や家老じゃなくて足軽といった下士や、馬廻り役といった中級武士が
担当してたんですか?西郷隆盛とか大久保利通は下級武士なのに薩摩の代表格になってるし…
>>179 家老という職は藩政のかなりの部分を担わなくてはならないわけですが、
幕末前半に見られた尊皇攘夷の活動というのはどうでしょう。
藩の仕事としては外交、しかもいわゆる思想活動やテロ活動、
あるいは治安維持行動という類のものです。
怪しげな口調で語るなら
チンピラ同然の者たちに要人を襲わせたり、
逆に要人や野の有識者たちと密書のやりとりや討論をしたり、
裏金を工面したり、
幕府から禁止されている最新兵器を密輸したり、
(藩の正規軍の隷下に置かない)独立部隊っぽいものの監督司令官にさせたり
などなど…
これは家老の仕事ではありませんよね。
常識的に考えても、もっと下位の実力ある者の勤めでしょう。
>>173 すぐに逃げ出したのは別として、商店を任されるほどの才覚はないといっても、当時なら、
ある程度の読み書き算盤が出来て、商売のノウハウも持っているなら、それだけで
食えたんじゃないですかね?
>>180 ちょっと語弊はあると思いますが、基本的にそういう具合ですよね。
>>179 既存の上位スタッフには出来ないようなことが必要になったから、という表現でもいいかな。
かといって武力には無縁の商人とかでは、一番の脅威である外国の武力に対して無能だから、
リードすることなど不可能。
藩の保有している武力をバックにできる武士が中心になったのは必然。
185 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 04:28:41
善兵衛は(ぜんべい)ですが江戸時代の読み方は?
186 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 04:39:47
もういっこ、O兵衛尉ってのを時々見るのですが
善兵衛尉これで(ぜんべい)?
187 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 11:53:39
>>186 善兵衛尉これで(ぜんべい)?
尉はじょうと読んで官位を表す。
戦国時代に○○守とか○○尉などと官位がついている者が多いが
本来天皇が授けるものだが勝手に名乗っている者も多かったらしい。
江戸期に入りこの傾向はなくなり、天皇からの受位された者だけとなった。
例として遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)
188 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 17:55:35
日本史は高校教科書+信長の野望程度の知識です。
1
藤原氏の地位のはじめは大化の改新の武力クーデターだと思うんですが、そのイメージはいつごろ薄れたんでしょうか
中世や近世に「藤原の貴族も、もとは武人」と指摘する者はいなかったのですか。
逆に源氏等は何故500年経っても貴族化しなかったのですか。
2
保元の乱では源平はわかれなかったのに平治では源対平となったのは何故ですか
3
日本史の各時代(特に安定した治世の長い江戸期)において「文官」と「武官」の区別はどのようにあったのでしょうか
189 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 18:29:10
>>187 >江戸期に入りこの傾向はなくなり、天皇からの受位された者だけとなった。
横レスですみません。
そんなことはありません。
江戸時代にも、ほとんどの武士は○○守や△△尉を勝手に名乗っています。
天皇から与えられたのは藩主レベルだけで、藩士などは藩主から私的に
貰ったりしていました。
190 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 19:01:56
191 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:12:11
>>188 3については、武士の間にも文武の区別はあった。
幕府を例にすると、町奉行・勘定奉行のような行政官僚は「役方」で
大番・書院番や先手組のような将軍の常備軍は「番方」と呼ばれた。
大名家の家中でも同様の区分はあった。
192 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:26:30
>>187.189ありがとうございます。
公式な文書の場合はO兵衛とのという形になるの?
>>188 2.
源氏と平氏が対立したから平治の乱が起きたのではないのですよ。
それぞれが、彼らの上役たちの政争(クーデター)に付き合わされただけです…
194 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:45:55
>>192 重複していて恐縮ですが、整理しておくと、
「兵衛尉」というのは元来、「兵衛府」の「尉」を意味します。
「兵衛府」には左右2つがあり、天皇などの警備を行う役所でした。
「尉」はいわゆる四等官制の三番目で、督(かみ)・佐(すけ)に続く順位です。
そして本来は「左兵衛督」「右兵衛尉」などと呼ばれました。
これが律令官職としての「兵衛」です。
おおむね鎌倉時代くらいまでは朝廷から正式に任命されていましたが、
室町時代くらいから勝手に名乗る者も目立ち始めました。
江戸時代に見られる「兵衛」というのは、以上の呼称が略され、
定着して一般的に用いられるようになったものです。
したがって「○兵衛」さんなら公私ともに「○兵衛」さんです。
戦国時代くらいまでは「○兵衛」という簡略された呼称は目立たないように思います。
195 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:48:35
江戸時代の武士は勝手に守名乗りはできない。
ほとんどの武士の通称は○之助とか○兵衛とか○右衛門の類で、
「安芸」とか「豊後」のような国名も家老クラスに限られた。
○○守や△△尉のような受領名や官途名を名乗れるのは諸大夫になっただけ。
大名を除けば、高級旗本や御三家など一部の大藩の家老。
守抜きの国名を通称にできたのは上記のように、大名家の家老クラス。
布衣以下の旗本は国名を通称に用いることはできなかった。
幕府や藩など、武家の公文書での署名は名字と通称。
諸大夫なら大岡越前守とか遠山左衛門尉、家老クラスなら伊達安芸、原田甲斐、
一般の武士なら勝麟太郎とか桂小五郎のまま。
196 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:51:33
>>188 1.
源氏が公家化しなかった、というのは誤りです。
久我家や中院家など、公家化した源氏も多くいます。
幕末に有名な具視を輩出した岩倉家も、村上源氏の一流です。
197 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:02:01
>>188 1について
古代日本においてはもともと豪族が自分で支配する土地と人民を持ち
その親玉が大王(のちの天皇)といった具合でした
豪族は人民を支配し他の豪族に攻め込まれれば土地を守るために
自分で軍隊を持ち自ら甲冑を身にまとって戦もしたわけです
蘇我馬子なども自ら出陣して物部守屋と戦っています
天皇も同様で白村江の戦いなどでは女帝である斉明天皇が
朝軍を率いて九州まで行っています
もっとも律令が施行されると(天智天皇の近江令が初?)
豪族は土地と人民を天皇に差し上げ
代わりに天皇から給料をもらう官僚になりました
甲冑を捨て文官になったわけです
貴族の誕生です
もっとも治安を守るために武官は必要でした
平安時代には貴族は血を嫌ったこともあり
甲冑を身に着け治安を守るのは身分の低い官僚の仕事になりました
源氏や平氏は天皇の子孫ですが
天皇になれなかった皇子たちは臣籍降下させられ
藤原氏らとの出世争いにも負けた皇子の子孫たちは
身分も低くなり地方へ下っていかざるを得なくなりました
武家の平氏や源氏はこうして生まれたのです
つまり平安末期に突如歴史の表舞台に登場した武家の平氏や源氏は
古代豪族がそのまま武具を身にまとって生き延びたのではなく
もともとは甲冑を身に着けていなかったけれども中央から出世争いに脱落した人々が
人が嫌がる殺傷の仕事を引き受けることによって生き延びたものです
現在にも警察というものがあるように治安を守るための武官は
優雅な平安貴族たちの時代にもいたわけです
源頼朝の先祖などは藤原氏に媚を売っていましたしね
198 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:03:59
>>194-5ありがとうございます。実は先祖の戦国期の感状なのですが
最後の宛名が善兵(これは行書)い(ひらがな)との
と成ってるのですが郷土史だと近くの家はO兵衛尉かO右(左)衛門なんですが・・・
多少うちは格が落ちるのかなと?
199 :
170:2008/10/21(火) 21:05:37
>>181 そうなのですか。
私が知ってたのは銅鐸に描かれていた唐古・鍵の奇抜な櫓だけでした。
絵が残ってれば復元も可能ですよね。
>>188 > 「藤原の貴族も、もとは武人」
・・・「指摘して、だからどうせよと主張する人がいた・いない」という話???
実力で実質的な支配権をはぎ取られたんだから、主張も何もないんじゃない?
> 源氏等は何故500年経っても貴族化しなかったのですか。
??? 平家は「おごって」貴族化して、すぐに潰されたっしょ。
貴族支配というのが直接的な武力によらないカリスマによる支配という風に把握するなら、
カリスマだけで通用する時代が続いたほうが異常だっただけじゃない。
そのカリスマというのが、要するに、祭り上げておくといいことがあるし、祭り上げておかないと
祟られて酷い目にあうとかいう、いってしまえば「無形の実力」があると思い込まれていた、
ということみたいだし。
201 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:13:44
>>198 宛名そのものではありませんが、
一般的に敬称が「とのへ」とひらがなの場合は、「殿へ」より略式とされます。
>>196 じゃなくて、天皇とか藤原とかに完全に取って代わって日本を統括するに到らなかったのは?という意味じゃないかな?
203 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:14:17
>>188 平治の乱は源氏対平氏の戦いではありません。
後白河上皇と二条天皇の親子対立が原因です。
院政をとろうとする後白河上皇と、天皇親政を求める二条天皇はもともと対立しており、
それがそれぞれの近臣によって激化しついに激突したのが平治の乱です。
先の保元の乱では源氏と平氏がそれぞれ内部で争ったことにより、
平氏の棟梁は平清盛、源氏の棟梁は源義朝、ということがほぼ
決定していました。
平治の乱で勝利した清盛はこのとき源氏の棟梁義朝を斬って
権力をもつようになりますが、
平治の乱は清盛と義朝の戦いが主だったわけではありません。
204 :
196:2008/10/21(火) 21:20:50
>>188,202
それならば失礼しました。
色んな事が言われているとは思うのですが、
室町時代以後は天皇や公家はほとんど実権を失っていたので、
わざわざ奪うだけのものはなかった、のではないかと。
205 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:34:16
鎌倉幕府も室町幕府も天皇の子孫であることを宣伝しすぎていたから
本家本元の天皇家を滅ぼせなかったんじゃないかな
源頼朝も足利尊氏も自分はほかの武士どもとは違うと思う根拠が
自分の先祖は天皇だったということだったとしたら
天皇家が滅んでしまったら自分の尊血をも否定することにもなる
徳川家が源氏の血を引いているというのはかなりあやしいが
そういえば他の連中を卓越していて当然という根拠になるのならば
偽の家系図でも作らせて天皇の子孫ということにしちゃうわけだ
結論としては鎌倉幕府も室町幕府も天皇の子孫だったから滅ぼしづらかった
徳川はもうそんな土台の上に面倒だから乗っかっちゃっただけ
206 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:09:36
某大藩の着到帳を参考までに。
江戸初期の着到帳では家臣の95%が衛門、兵衛へ尉がある。
この時代までは戦国の肩書きを使用していたと思われる。
同様に1600年末期の着到帳に衛門、兵衛の名は多いが尉が附いた者は一人も見当たらない。
207 :
189:2008/10/21(火) 22:14:16
>>195,206
江戸初期(慶安とか)のことしか念頭にありませんでした。
勉強になりました、ありがとうございます。
>>205 鎌倉には院政、室町には南朝という敵があ(ry
209 :
188:2008/10/22(水) 01:28:13
丁寧な回答有難うございました。ちょっと感動しました。
210 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 04:53:20
その王「タリシヒコ」って、誰なんですか?
「ヒコ」は男だから、推古帝ではないですよね?
大名が城を作り終えた際、大工を殺して秘密保持したという話はどこまで本当なんでしょうか?
>>205 「滅ぼす」なんて話はどこにも出てないんじゃない?
>>210 推古帝、その代理人の聖徳太子、後見人の蘇我馬子、先代の用明帝という説がありますが…
ここでのアメタリシヒコを特定の人物の呼称、すなわち固有名詞として捉えること自体が
不適切なことではないかと、私は考えます…
214 :
210:2008/10/24(金) 02:30:15
>>213 レス、さんくす。
特定の人物の呼称ではない、
というのは、斬新な考えですね。
古代史の謎がみんな解けちゃうような
4〜6世紀の記録が、ごっそりと
どこからかでてこないですかねぇ・・・w
215 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 07:02:13
4〜6世紀って字が書ける人がどれ位いたんだろう。
>>214 仰るほど斬新な考え方なのでしょうか。
浅学にして寡聞な私は、このような説が存在しているのかどうか知りませんが、
・(アマ)タリシヒコは、推古帝より前の帝たちに時々用いられている。
※それも和風諡号の一部として。
・記紀の一次文献は、少なくともこの推古帝より前に成立したものだろうといわれている。
・意味は「天垂りし彦」。つまり、「高天原から垂下した(地の統治者に相応しい)士」というものらしい。
※一説には「天子」を和訳したものではないかと言われている。
・そもそも、推古・用明・聖徳太子・馬子らはいづれもタリシヒコを諱としていないし、諡号にもない。
・だから、この単語自体は本来、天皇の尊称だろう。
などと思ったからです。
『隋書』のこの文以下、登場する阿輩〇彌(アホキミ)や利歌彌多弗利(リカミタフリ)も、
天皇や皇太子を示す一般名詞に過ぎません。全般的に蛮族の伝奇っぽく風俗を
タラタラ書き連ねているわけですが、そういった中、タリシヒコは固有名詞であり誰それ
のことであると論ずるのにどれほどの意味があるのでしょうか。
>>216続き
また、この隋書の記載は、ハッタリとバカシアイのステージである外交の場。
それもシナ皇帝が(特に風紀の面で)指導する場でのことだという点にも
注意すべきではないかと思うのです。
当時は(朝鮮問題などで)日本は対等外交を目指している局面のことです。
「女の王なんてやはり蛮族」と軽んじられたら、日本は困るのではないでしょうか。
それに、遣使が安易に主君の諱を言うことができるのでしょうか。
そもそも知っているかどうかすら疑わしい。言えたとしても精々、称号でしょう。
シナへの親書にしても、諱を書くかどうか…
裴世清が謁見したのは(推古帝の代理人・後見人であった)太子や馬子かも
しれません。
戦国時代、戦国大名とその正室は、一緒の部屋で寝ていたんでしょうか?
それとも別の部屋で寝ていて、大名がムラムラしたら
正室や側室の部屋に来ていたりしたんでしょうか。
また、その時代に現代で言う「寝室」は何と言っていたのかも
教えてください。
219 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 21:52:26
奈良〜平安時代の貴族の正装では飾り太刀を帯びるのが基本でしたが
あれって実際に太刀として使えた(刃があった)のでしょうか?
220 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:14:42
>>219 刃はありました。
源氏物語で光源氏は物怪の前で刀を抜いたりしています。
下っ端は自分の主人の敵対する相手と道で会ったりすると
すぐに刀を抜いて刃傷沙汰を起こしたりしています。
221 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:21:04
>>218 一般庶民は勿論妻と同じ部屋で寝ていたでしょうが
(そもそも部屋数もないし)
相応の身分の家では主人のいる「表」と婦人のいる「奥」は分けられ、
主人は普段は表で生活をし、夜は婦人たちの住む奥に渡ってきていました。
江戸時代の大奥などでは事前に将軍が今夜指名したい女性を
大奥の御年寄(という役職です)などに伝えておき、
指名された女性が寝所で大奥に渡ってきた将軍を待っていました。
戦国大名には大奥ほどの制度はありませんでしたが、
それなりに今日は奥に泊まるぞ、などと知らせておき、
正室なり側室なりに準備させておいたんじゃないでしょうか
222 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 22:27:40
>>217 推古天皇はまだまだ女盛り。
夫の没後は天皇になりたい異母弟に犯されそうになったり、
いろいろ怖い目に逢っている。
異人にあって恐ろしい目にあったらどうしよう?
と思って男に代役を頼んだ可能性は十分あるよね。
女帝の国なんて野蛮だと思われたらどうしよう、という理由からではないでしょう。
隋書倭国伝にも実は卑弥呼のことが引用されてあって、
中国は日本は女王国だ、ということを周知していましたから。
(だからといって女王国の邪馬台国が蛮国で、
男王のいる対立する狗那国が立派だとは一言も言ってない)
日本書紀にも魏志倭人伝が引用されているのをご存じだと思いますが、
日本人も中国が卑弥呼のことを周知しているのは分かっていたので。
223 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:00:44
1
秀吉は清州会議後、三法師の後見人となったハズなのに、いつのまに三法師の主君になったの?
当時「実力からみてそれが当たり前」ととらえられたとすれば、秀吉の世継も同じ目にあうって予想できただろうに
なんで秀吉は徳川を全力でつぶさないで、半島で遊んでたの?モウロクしてたの?
2
●●管領と●●探題ってどう違うの?
↑みたいなのと守護の関係はどうなってたの?
3
日本にも、いちおう「手盾」「持盾」というものはあったらしいけど
画像を探しても見つかりません。どこかにありますか?
4
江戸時代の出島の貿易ってどれくらいの規模だったの?
鉄砲伝来から普及まですごい早かったっていうけど、
江戸時代には需要のなくなった鉄砲鍛冶があぶれてたはずで、鉄砲輸出すれば儲かったはずじゃね?
224 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:10:44
>>223 秀吉は三法師を擁立して柴田勝家を破った後、
今度は織田信雄(信長次男)を擁した徳川家康との争いになりました。
秀吉はこれを懐柔するために信雄に好条件を示して抱き込もうと考え、
このとき織田家の家督相続者を信雄とすることに同意、
三法師は織田家の家督相続者から外されました。
信雄は織田家の家督は継げたのですが、信雄を天下人として従おうという大名はおらず、
秀吉の世になりました。
成人した三法師は秀吉の養子となり、秀信と名乗り、秀吉の庇護を受けました。
秀吉が三法師の主君になったというより、三法師が成長する過程でいつのまにか
織田家の家督は別人のものとなり、いつしか秀吉が養父として庇護する立場になっていた
ということじゃないでしょうか。
225 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:13:29
>>223 2.
●●管領は、室町幕府が置いた組織。
●●探題は、鎌倉幕府が置いた組織です。
いずれも重要な地域を総括する幕府の出張所などの位置づけで、
長官には将軍や執権の一族の者が就任するなどしました。
守護は原則一国の支配にとどまりますから、
広範囲の地域を統括する探題や管領の支配下に置かれていました。
226 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:26:16
227 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 18:45:06
(^O^)/韓国経済崩壊特別前夜祭参加者募集中♪
[会場はこちら]ENJOYKorea日韓翻訳掲示板HOT!討論板
http://bbs.enjoykorea.jp/ ※祝賀会の参加者を集めてます♪コピペしてばら撒いてください
韓国支援反対運動も開始しています。
@
228 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 19:07:42
>>223,225
室町幕府も奥州探題や九州探題を設置しています。
「管領」は将軍の下で政務を統括する役職と考えると良いと思います。
将軍−管領とか鎌倉公方−関東管領とか。
鎌倉時代の将軍−執権をイメージするとわかりやすいかもしれません。
「探題」は225さんの仰るとおり地方の出先機関で、
九州や東北など一定地域を広域的に管轄しました。
奥州探題の前身が奥州管領だったりと、すっきりとしない部分もあるのですが…。
江戸時代から明治・大正に移った背景には、
過去に徳川系大名にはむかった大名家達が時を経て、今で言う政権を徳川家から奪ったという歴史でもあった
と言えると思います。
そういう観点で見たとき、昭和・平成の現在はどのような歴史なのですか?
明治維新で政権を奪われた勢力が、また政権を奪い直している現在なのですか?
それとも、明治維新の時に政権を奪った勢力が今も世の中の中心にいるのですか?
どっちでもねーよ
武家の残滓が政権を奪い合う歴史が延々と繰り返され続けてるとでも思ってるのか?
そういう観点に拘る事が無意味になった時代です。
それから、スレ違いです。>1
日本近代史板へGo!
移動します、どうも
移動する前に一個だけお聞かせください
>>231 そういう観点に拘る事が無意味になった時代とは、どういう意味合いなのでしょうか?
適切な例じゃないかも知れないがひとつ。
俺は広島生まれだが、今は茨城県に住んでる。
で、広島人という意識も茨城人という意識も無い。単に日本人って言う意識があるだけだ。
なるほど、なんとなく理解できるような気がします
ずるずると聞いてしまいますが、選挙によって政治家が選ばれるようになった事は関係していますか?
236 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 18:45:33
>>222 ここは問答スレですので論は差し控えたいと思いますが、とりあえず…
>異人にあって恐ろしい目にあったらどうしよう?
>と思って
現役の天皇ですら簡単に殺されるあの頃に、前例のない女帝になって/ならされて、
しかも後見人馬子の専横を諌めるような女性が、こちらにやってきた遣使ごときに
そんな恐怖を抱くような気の小さい女性だとは、とても思えませんが…
>女帝の国なんて野蛮だと思われたらどうしよう、という理由からではないでしょう…
>…日本は女王国だ、ということを周知していましたから。
いえいえ、そこが日本にとっては付けこみどころ…
もし日本側が
「倭はもはや(オタクらが漢書らで読み知っているような、女性が治める)未開辺境の王国ではない。
(オタクらシナが)伉礼を結ぶべき小帝国に な っ た のだっ!」
という意志を持っていたとしたら…
当時(たまたまとはいえ)女帝であったことは都合が悪かったのでは?
女帝であったら、帝国に進化しているというアピールができないのではと思うのですよ。
238 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:08:23
>>235 「明治維新の時に政権を奪った勢力」つまり「藩閥勢力」による政治主導は
明治時代から批判の的で、選挙やら専門官僚・軍人の増加やらで、
昭和に入るころには力を失っています。
そこから先の細かい話は…。
「徳川系大名にはむかった大名家達が」「政権を徳川家から奪った」も
若干ずれているような気がします。
薩摩や肥前藩は関ヶ原では西軍に付きましたが所領は安堵されていますし、
土佐藩なんて家康にくっついて土佐一国を手に入れたのですから。
>>237続き
「タリシヒコ」の話に戻しますが、アレはこういった日本の意志に沿った
カマかけの単語に過ぎなかったと思うのですよね。
あのプレ外交の段階で「倭王の名はタリシヒコと申します」と言っとけば、
次から国書に「ナンタラカンタラ…タリシヒコ(天子)へ」なんて書かれるようになり、
「シナから天子様と呼ばれるようになった!これで伉礼に持ち込めたぞぉ(^^)v」
ということになり、隋がどう思っていようとも日本にとっては外交的大勝利になる。
はっきり言って詐欺同然ですが、これが外交というもの…
だから、次の来隋のとき、日本側は気を良くしていたのでしょうね。
あの「日出づる処の 天 子 が…」と書いた。はっきり言って勇み足。
妹子らは日隋の認識ギャップを誤魔化すのにおおわらわ…と。
隋は「アホかコイツは!…だが昔は柵封もしていたところだし…
それから何百年も知らないでいたところだし…
もしや…高句麗以上の脅威になっているの…かも?
今の朝鮮半島問題を考えると…」
とか思ったのか思っていないのか、とにかく返遣を送った。
こうなると日本は(改革も含めて)全力でハッタリまさんといかんわけでして…
だから「タリシヒコが男か女か誰なのか」なんていうのは…ね…
240 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:46:28
>>239 その「アメ・タリシヒコ(=天帯日子・天足彦)」は、
隋書では「阿毎・多利思比孤」という字で表記されてます。
とくにタリシヒコに「多利思」という佳字が使われていることから、
倭国側の国書にあった表記と思われます。
これは奈良時代に唐の皇帝の勅書で日本の天皇のことを、
「日本国王・主明楽美御徳」と書いてあったのを想起させます。
「主明楽美御徳」とはスメラミコト、すなわち天皇の訓読みであり、
これも本来は日本側の自称だったと思われます。
天皇号成立以前の推古朝は「天子」と同義のアメタラシヒコを、
天皇号成立後の奈良時代はスメラミコトを対中国外交で用いることで、
中国には君主の個人名のように思わせ、その名前で中国側に呼ばせることで、
対内的には中国に対して天子として対等というポーズをとれたのでしょう。
241 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 17:55:41
戦国時代の日本ではどの様なお祭りが行われていたんでしょうか?
踊りがあったそうな
それは戦国時代だけってこと?
それとも古代から続いてきて、戦国時代でも中絶せずに行われていた祭ってこと?
245 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:37:23
2008年10月12日 「元寇」を教えない対馬と九州の教育
賭人の独り言から転送します。ご参照いただければ幸いです。
8月の対馬視察では意外な事実を知らされた。対馬の小中学校ではだいぶ前から、歴史の授業で『元寇』に
於ける対馬侵略が教えられていない…と云うのである。
この話は複数の議員が現地の人と接触して確認している。ある対馬市民などは「元寇は福岡の話でしょ?」と
軽く言ってのけた由。次回の対馬視察では、『蒙古襲来』に関する歴史授業の実情について調べてみる必要がある。
対馬だけではなく、福岡県太宰府市の「九州国立博物館」常設展示でも「蒙古襲来」に関する展示が極端に少ない。
私も何度か見学したが、どうやら意図的に「蒙古襲来」を避けている節がある。
特に酷いのが『蒙古襲来絵詞』複製展示の解説文。「蒙古襲来」とか「元・高麗の侵略」という言葉が全然無く、
「対モンゴル戦争」(?)という珍妙な用語なのである。
これでは文永・弘安の役がまるで日本によるモンゴル侵略と勘違いするよう、児童・生徒を誘導しかねない表現ではないか。
この「九州国立博物館」はオープン以前の8年前、常設展示案が報道された時分から「九州と云う地域の特性を
生かした内容にする」方針にも関わらず「蒙古襲来」展示が無く、問題視されていた。
つまり元(=中国)が日本を侵略した事実を隠したいという思惑があるのだろう。
これは展示監修の歴史学者が親中派だった為か、中華人民共和国駐福岡総領事館の圧力があったのか、よく判らない。
草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
246 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:37:59
●また『元寇』自体の教え方にも問題がある。元の侵略は鎌倉幕府側に責任がある…という馬鹿げた論説が
罷り通っているのだ。
モンゴル(1271年より元)の意図は日本に朝貢させて(つまり臣下の礼をとらせて)服属させるものだった事が明らかなのに
「元の国書は通商を求めたに過ぎない」とする解釈だが、これは日本を貶める偏向解釈以外の何物でもない。
NHKなどもそんな邪説に与した番組を流しているのだから問題外である。
そしてどんなに事実を捻じ曲げようと、文永11年(1274年)10月5日に来襲した元・高麗軍が対馬西海岸の各所で一週間に
渡り一般島民を虐殺・拉致し、児童200人を奴隷として高麗に連行する等、暴虐の限りを尽くした事実は消しようがないのだ。
・もう一つ悪意の感じられる論説もある。当時の鎌倉幕府が対馬や壱岐などの離島防衛を初めから諦めていた、
つまり見捨てたというもの。
この論説を唱える者の視野には、明らかに「沖縄」が入っている。
「沖縄は先の戦争で本土に見捨てられた」と主張し、被害者意識を増幅する。
その感情の先に「米軍追い出し→沖縄独立論→中共支配」が繋がっている。沖縄タイムスに出てきた金城信一氏が
喜びそうな論説と云えよう。
しかし史実では、文永の役において対馬で玉砕した宗助国の軍勢の中に肥前(佐賀・長崎県)や阿波(徳島県)の御家人
がいたことが記録されている。本土からの増援兵力が僅かながらも差し向けられていた訳である。
また弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。出身地も広範囲で、陸奥・出羽(東北地方)、
上野(群馬県)、下野(栃木県)、信濃(長野県)、三河・尾張(愛知県)、遠江(静岡県)、近江(滋賀県)、丹波(京都府)、備前(岡山県)、
筑前(福岡県)、日向(宮崎県)、肥前(佐賀・長崎県)、豊後(大分県)と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。
賭人の独り言
247 :
243:2008/10/29(水) 20:58:07
248 :
241:2008/10/30(木) 08:03:34
戦国大名の子孫が持つ家柄って現代の政治家が持つ格式と比べると無意味でしょうか?
比較することが無意味
>>249 「低脳」というより「異常性格」だな。
そういうタイプの異常性格者は、左翼と呼ばれる新興宗教系の狂信者にありふれてるじゃない。
253 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 08:29:32
戊辰戦争のときの薩摩兵は洋服で戦ったのに、10年後の西南戦争のときは、
甲冑や和装で戦っている。なんで戊辰のときの軍服を着なかったんだろう?
10年前に軍服を着てた元官軍兵が、10年後には甲冑に逆戻りというのは、
理解に苦しむ。
政府に歯向かうのに、政府支給の軍服を着るの?
紛らわしくて味方にやられそう。
255 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 11:08:04
戊辰のときの薩摩兵の服は官給ではなく、薩摩藩の支給ではないのか?
まあ、藩の支給=官給といえなくもないが、あくまで薩摩藩の軍服であって、
明治政府の軍服ではないはずだが。
不平士族はあえて旧式の武具を身にまとったとかって書き込み
ならどっかで見たことあるよ。
257 :
日本@名無史さん:2008/11/01(土) 12:05:33
明治10年代の加波山事件のときの首謀者が挙兵時に撮影した写真でも、
旧式の甲冑に身を固め戦国武士のような格好だった。
西南戦争の西郷軍の主力(兵力の約半数)は、熊本の不平士族でした。
ゆえに薩摩の軍服ではありえません。
>>258 あれ? 良く知らないけど、半分もいましたっけ?
よく時代劇なんかで江戸の裕福な商人が庭付きの一軒家(住居兼店のような)に住んでいる場面があるのですが
あれは本当なんですか?
いわゆる大店の経営者なんかはほとんど江戸以外に住んでいたと聞きますし、
江戸の町人地に一軒家を建てるスペースなんてあったのでしょうか?
261 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 19:02:53
蘇我馬子の娘で聖徳太子の后になった刀自古という人ですが、聖徳太子より年上だという話を聞いた事があるのですが、
調べてみると刀自古の生没年は不明ばかりです。
私は何かガセネタ掴んだのでしょうか?
>>261 良く知らんけど、生年は未詳で、何歳違いかは分かりようがないものの、何らかの状況証拠で年上年下の関係だけは判明しているばあいもあるんじゃないすか。
この板にはじめてきました
私の祖母が四国に住んでいるのですが
菊の紋が入った大きなぼろぼろの旗を持っているそうです
所が何か恐ろしいことがわかったら怖いからと言って
大学の先生に一度見せたきり調査を拒んでいるそうです
こうした旗って珍しいものなのでしょうか
>263
写真を撮ってウプしてくれないと誰にも断定はできないけど、
おそらくは無問題。
>>264 ありがとうございます
平家の落人の島なので
その絡みのものではないかと言われたため
心配しているようでした
>>265 平家落人村ってその多くは辺境山村の自尊心から生まれた伝説じゃまいか?
てか菊の紋ならばもっと後の時代のものだと思うが。
菊の紋なら、明治維新期の諸国隊かなあ?
西日本では総じて勝者側だから、そんなに悪いものじゃないよ。
菊水で、南朝の武士の末裔だったとか…考えにくいな…
実は官軍からの鹵獲品…
>>263 四国といっても、大ざっぱにいってどっち側?
まあ少なくとも平家うんぬんとは関係ないでしょう
273 :
日本@名無史さん:2008/11/06(木) 03:58:56
徴兵検査じゃね
>>274 女子身長も書いてあるのですから、それはありませんよ…
>>273 昭和20年から実施された、現厚生労働省の「国民健康・栄養調査」からではないでしょうか。
276 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 12:46:58
二階堂氏の先祖が後醍醐天皇の寵童だったという俗説が徳川時代に広く流布していた
と聞きますが、この「二階堂氏の先祖」とは一体誰のことをいうのでしょうか?
教えて下さい。
大塔宮でしょう。
278 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 20:29:33
自分の息子を男色相手にしたとでもお言いやるのかゑ?
279 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 21:16:36
>>278 いつもの腐女子のおばはんが来た!
本名がばれてしばらく消えてたのに。
質問です。
江戸時代の藩は一万石の小さなものから七十万石の大きなものまであったようですが、
譜代・外様のような分け方以外に、石高で分類したわけ方は使われていたのでしょうか?
例えば古代の日本では国を大上中下の四等に分けていましたが、そういう風な分類を
江戸幕府は使っていなかったのですか?
律令制における大国・上国などの区分の明確な基準であるのでしょうか?
生産力や蝦夷との関係というのは分かるのですが、例えば生産力を表す数値とか。
それと7世紀頃の関東地方はそんなに生産力があったのでしょうか?
平野の広い地域なので農業生産に適しているのは当然ですが、
律令制黎明期においてどれだけの人口と耕地面積、およい生産力を有していたのかが
気になります。
予備校の世界史の先生が「アジアの小国日本が大国清、ロシアを倒した」とある良く見る記述について
少なくとも7世紀から日本はアジアの大国としての力と文明があったから日本が清やロシアを倒したことは
不思議ではないといいモンゴルの侵略も2回防いだことにもベトナムとエジプトもモンゴルを破っているが
日本がモンゴルを破ったのと意味が違う。国力がモンゴルや宋やアッバース朝、さらに元を上回ってといいます。
またよく植民地化を逃れたアジアアフリカの国としてタイやネパールをあげるけどタイやネパールが植民地に
ならなかったのと日本が植民地にならなかったのは訳が違いやはり西欧列強並みの国力が日本にあったから
よいいます。実際どうなんでしょうか?
国力の有無と植民地化とは、必ずしも相関関係があるとは限らない。
ネパールはグルカ戦争の結果、形式としてイギリスの宗主権を認めたが、王国としての自治は保たれた。
オスマントルコ国内でメフメット・パシャはエジプトを統治し中進国程度の国力を得たが、植民地化された。
要するに欧米諸国は機会主義で、日本は、明治政府が法制度や殖産興業など、
何から何まで西欧諸国の真似事に走ったために、
西欧化という名目で植民地化された他の轍を踏まずに、何とか逃げ切ったのだよ。
>>285 日本が西欧植民地化されなかった理由を、
古代〜近世にも西欧諸国に植民地化されませんでした。なぜなら……、と書くほうが不自然。
なぜなら、西欧諸国は大航海時代以前は世界の辺境の力もない国家群だったのだから。
>>283 その先生おかしんじゃないかな?元寇は確かに博多で激戦が行われたけど諸説あるけど台風やモンゴルと
中国人・朝鮮人との内部不和が日本が侵略を免れた要因。
エジプトのマムルーク朝は独力でフラグの軍を破りカリフを擁立してイスラムの盟主になったしベトナムも
モンゴル軍を破りむしろ追撃までしている。
植民地化についてはご指摘のネパールとタイは確かに植民地化を免れたけどうまい外交政策の結果。属領カンボジアと
ミャンマーをくれてやることにより伝統的タイ民族の居住地域を保持。ネパールはイギリスの宗主権を認めていない。
ネパールは対等で共に不干渉で話がついたはず。
だから日本を過剰評価しよその国を下に落とすのはどうかと思うな。しかも先生がね。
288 :
287:2008/11/08(土) 22:55:20
289 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 01:04:41
二階堂氏の先祖が後醍醐天皇の寵童だったという俗説が徳川時代に広く流布していた
と聞きますが、この「二階堂氏の先祖」とは一体誰のことをいうのでしょうか?
教えて下さい。
二階堂行貞あたりでしょうか?
識者の方々の御回答をお待ち申し上げて居ります。
>>279 そこな慮外者めが!
わらわは「腐女子のおばはん」などでは無いぞよ。
次第によっては、その分には差し許しませぬぞ!
290 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 01:26:01
『続々古事談』という書に上の「二階堂氏の先祖が後醍醐天皇の寵童だった」
という話が載っているらしい。
されど、この「二階堂氏の先祖」というのは全体、誰のことであろうかの?
ちなみに云うておく。
わらわの本名は何人たりとも明らかにした例し等ないぞゑ。
あらぬゲスの勘ぐりは慎むがよい!
291 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 01:57:22
ああ
まじめに質問できないKYがいるスレはここでつか?
今の世界史質問スレに日本史ネタを誘導するな!
と書き込もうと思ったが、既に遅かったwww
あっちは賑やかだなぁ。
294 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 17:48:26
>>289 なっちゃん(腐女子のおばはん)、
あっちの本スレ(ホモスレ)で呼んでたよ
ホモスレいきなよ
おばはんのは掘らせてもらえないけど
295 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 20:16:28
明治以前に日本に舗装道路ってあったんでしょうか?
何をもって舗装と見なす?
直線道路を作り、排水溝を端に通し、道はかさ上げして搗き固めたのなら、
古代大和朝廷以前の神代にも記述はある。
石の舗装?熊野古道はあちこち石畳だよ。
江戸期の五街道ももちろん、あちこちの地方街道も難所は石畳だ。
まさか、ヨーロッパの石畳が舗装に非ず、と?
>>295 舗装というのが現在一般的なアスファルトやコンクリートで固める事なら、無い。
むちゃくちゃ広く取れば、神社なんかの石を敷き詰めたのも舗装の一部になるはずで、そういうのならあった。
299 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 15:21:59
日本は中世以来、関東(一部京都や織豊時代のよう権力者)と京都の朝廷が並立
する形だったけどこのように国内に2つの王朝(皇統、君主)が並びたった状況は
日本独特ですか?
西欧に無理矢理当てはめれば教皇と神聖ローマ皇帝の関係とは言える、ってのは世界史スレとか
このスレとかでよく聞く意見だな。俺もこれに同意だけど。
権威と権力の非対称的な両立、ってのはどこで見た言葉だっけな…
303 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 20:48:18
>>295 「アスファルト」自体は奈良時代にあった
聖武天皇に「燃える土」が献上されている
もっとも奈良時代
アスファルトが舗装に使われたわけではないようだが
>>299 「権威と権力の二元体制」をいうならば、欧州や中東の例もあるように
そんなに珍しいことではないよ。
ただここまで極端な分担(格差)を長期にわたって続けた例は稀かも。
戦国時代(本能寺の変あたり)の日本に、『布団』という言葉はあったのでしょうか。
今の布団のような役割のものはあったと思いますが、それらは
何と呼ばれていたのですか?『寝具』?
また、上杉謙信は武田信玄というか甲斐に塩を送ったとされていますが、
それはプレゼント的な「送った」ですか?
それとも、上杉領で生産された塩を売ってあげるよ的な「送った」ですか?
そして塩を送ってもらった武田は、上杉になにかお礼はしたのでしょうか。
>>299 「対立」するほどの実質的な意味での権力がある状態でいた期間はごく短くて、実権なしで
祭り上げられた形になっている期間のほうが長いのだから、「並び立ったりしてない」じゃない。
>>302 「地域ローカル」かどうか、その地域の板で聞いても意味ないっしょ。
>305
元は「蒲団」です。
何時頃からあった言葉かはちょと知らないです。江戸期にはあったよ。
塩の件は後者です。
返礼は特に無いです。信玄存命中は対立したままだし。
謙信の美談として語られる逸話ですが、うがった見方をすれば、武田への塩輸出を独占して大儲けできるってことでもあります。
>>305 知らんけど、「かいまき」を使ってたとかいわなかったっけ?
戦国時〜江戸時代の駿河、遠江の産業について分かる本やHPってないでしょうか?
よく取り潰されたり没落した大名家のその後を調べてると、子孫は旗本として○○石を与えられ
明治維新を迎えた〜って形で終わってるけど、明治維新の際にこういった旗本は根絶やしにでもされたんですか?
>>311 まさか。
江戸時代は、大名や旗本の人員と系譜は幕府が登録管理していましたが、
維新を迎えてからは、その制度がなくなった。
大名のほうは華族に移行したので公式記録が残っているわけですが、
旗本はその対象ではなかったので。
>>307 「蒲団」は江戸期から。
布の中に綿を入れて敷いて寝る、いわゆるこんにちの「布団」は
江戸時代に初めて登場し、当初は「蒲団」と書かれていました。
それ以前の時代には厚手の着物をかけて寝るなどし、
こちらは「夜着」と呼ばれていました。
着物に綿を入れて保温するものは上流貴族の間には少なくとも
平安時代からはあったようです。
「大鏡」に出家した顕信に母の明子が綿の入った着物を贈ったとあります。
夜着としてではなく着用目的であるようですが、
寒い夜にはそのまま夜着トしていたかもしれません。
315 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 08:37:18
天保年間の一両はいくら程度ですか?
>>306 武家と公家の対立概念自体が江戸時代に発生した概念
江戸幕府(武家政権)が朝廷を財政などを楯に統制できるようになってから生じたもので、実際には実力では武家側が勝ったものの、正統性や権威では公家側が勝っていた。
国友、根来、堺以外で有名な鉄砲の生産地ってあったのでしょうか?
薩摩
319 :
315:2008/11/18(火) 18:36:04
自己解決
320 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 23:49:21
鎌倉時代の北条氏って、桓武平氏の本流だったっていうのは本当ですか?
>>320 知らんけど、あの辺に、そう称しても直ちにウソとは断定しきれない一族がいた可能性は、低くはないんじゃない。
>>321 ごめん。番組のスレ見つけたのでそっちに移動した。
>>320は取り消しってことで。すまん。
戦国〜江戸時代前半の、自宅でできる職業を教えてください
薬屋・呉服屋・鍛冶屋を想像したのですが、これ以外にあるんでしょうか?
というか、上記3つは当時存在したのでしょうか。
また、上杉が武田に塩を送ったのは、だいたい何月くらいの出来事なのでしょうか?
質問の意味がよくわからない。
自宅で出来る職業って問われたら、普通は内職のような事を指すと思うんだが。
越後屋の店前売のような例を考えてるなら、店舗と自宅が必ず一緒とは限らないよ。
塩のお話ですが、そもそも作り話だとされてますので、何年の何月だったかなどわかりようがありません。
そもそも塩は一年中必要なので、何月だけ送ってもらえたら助かるって物でもないです。
「藤原道長」は「ふじわらのみちなが」、源頼朝は「みなもとのよりとも」と読むのに、なんで
「豊臣秀吉」は「とよとみのひでよし」と読まないんですか?
藤原も源も氏だけど豊臣は氏じゃないから。
姓(氏)の後に「の」を入れなければならないと厳格に定められてるわけではないよ。
「とよとみ ひでよし」と読まれるのが慣用となってるだけ。
「とよとみ の ひでよし」と読んでも問題はないし、そう読む人もいる。
でも「ふじわら みちなが」「みなもと よりとも」と読むと、問題は無いけど突っ込まれる事は確実。
>>327 逆に、何で姓(氏)に「の」を入れるんだろ。
根拠を学んだことがないので宜しく。
じゃあお前は何故苗字と名前を繋げて読むか理解しているというのか?
あと、氏と姓は違う。いや平安以降はほぼごっちゃになってるけどさ。
何故<の>を入れるかわからないけど
外国でも貴族って<の>を入れてる例がちょこちょこあるんだよねえ
>>330 それは領地の関係かな。
「の」を入れるのは当然中国とは無関係だろうけど、何なのかな?
332 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:48:07
333 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 21:49:58
最近、どうしてチャンコロの易やタオイズムが通用しないのか教えてください。
334 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:04:59
>>326 藤原も源も豊臣も姓。
「の」を入れるか入れないかは慣例だとしか言いようがない。
古代〜平安末期頃まで姓と名の間に「の」を入れて読んでいたが
それ以降この風習が廃れた
姓には「の」をいれて氏には「の」を入れないと言っている人を見かけるが
姓の豊臣秀吉には「の」がない
安土桃山時代にはこの慣習がすでになかったのだろう
いや、藤原と源は氏だと思うぞ…
織田信長で言えば、平が氏、朝臣が姓、織田が苗字。
336 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 22:35:28
最近、どうしてチャンコロの易やタオイズムが通用しないのか教えてください
338 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/11/22(土) 00:17:52
>>328 想像だが、「の」を入れるのは、普段、下の名前だけを使っていたためと思われる。
通常の生活では、姓氏を使う必要がなかったと・・・
今でも、敢えて居住や同名を区別するために”東京「の」山田太郎さん”と
いった使い方をするだろう?
>>339 むしろ、同姓が異常に多いせいで、書いても意味がないから名札に姓を書かない田舎の学校とかの例がふさわしくない。
屋号とか、個人なら名前だけで区別してるみたいだし。
341 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 12:41:30
エキサイト翻訳のように、
「東京」を「江戸語」に翻訳すると「江戸」になるようなサイトってありますか?
342 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 14:05:43
あれっ野球のベースって漢字にするとどうだったっけ?
ちょっと待って...【ヒキ一族】に関することだったみたいだけど...。
”糞”? えーと、違うなあ、もっと存在そのものを表していたような...。
”蓄”? 人は飼いそうにないけど、動物って点は少しはあってる(該当一族は優良動物ではない)
”馬鹿”? 一字だったなあ、確か。
”尿”? 尿素は役に立つよ、役立たずって意味だよ。
ん〜、弱いからなあ奴らは。 近いよ。中国語で弱いって漢字だよ。
そういえば昨日来た馬鹿のバレバレスパイ野菜盗んでったなあ。
てことは泥棒か...。
ちょっとまって、思い出した盗塁ってあったよねえ。ああ、あの英語で泥棒って意味な。
そうだ【塁】だ。【ヒキ一族】=【塁】だよ、【塁】。
【ヒキ一族】は頭がわ【塁】、存在自体が公害のように【わ塁】、塁、塁づくしの塁づくしだな。
344 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 15:08:00
>>335 古代においては全くそのとおりなんだが、後世になると氏姓が混同されるようになり、
氏である源平藤橘を源姓とか藤姓とかいうようになる。
賜姓源氏とか豊臣賜姓という場合がそれ。
その辺を整理するのに明治維新は絶好の機会だったと思うんだけどなあ…
恐ろしいほどざっくばらんに改革しちゃって。
346 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 01:17:18
禿(かむろ)って遊女の場合だよね。
普通に小さな女の子って何か言い方あったのかな?
男の子がぼうずと言われたように
>>346 そういえば、方言で「ぼこ」とかいうところがあったような? 静岡の山奥だったかな?
348 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 11:32:09
藤原道長の墓はどこにありますか?
調べても調べても判らない。
藤原兼家も藤原師輔も藤原道隆も判らない。
平安時代のトップクラス貴族は墓を作らなかったのでしょうか?
349 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 21:21:45
>>348 この時代、極楽浄土へ行くために有力貴族は盛んに寺を建てたが
墓にはそれほど執着心はなかったようだね。
藤原道長は、没すると鳥辺野で火葬されたあと(貴族の多くもここで火葬されている)、
木幡(現在の京都府宇治市)にあった藤原氏の墓所に葬られた。
道長は1005年に藤原氏の墓所である木幡に浄妙寺という藤氏の菩提寺を建てており、
道長もここに葬られた記録に残る(道長の正確な墓の地点は不明)。
道長の父兼家もまた、と鳥辺野で火葬された後、木幡墓所に埋葬された。
木幡墓所は藤原氏出身の男子はもとより、天皇の妃などになった
藤原氏出身の女子の墓所にもなっていた。
現在、木幡墓所のうち、藤原氏出身の天皇妃の墓とされる37墓が
「宇治陵」として宮内庁管轄になっている。
但し、どの墓が誰のものであるかは明確ではないらしい。
350 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 22:36:51
「お墓」ってのは永続する「家」の意識が確立しないと、
作る意味も守る意味もないからですかねー
351 :
348:2008/11/27(木) 15:09:22
なるほど、平安貴族が墓に執着しなかった事と末法思想って関連するんでしょうか?
あと、ほぼ原型をとどめている平安時代の墓ってどこかにあるのでしょうか?
古墳や石碑はあれほど研究されているのに、平安時代の墓というのは
ちっともイメージが沸きません。
352 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 16:49:03
勝安房は徳川家が江戸城主として100万石くらい領有することを望んでおり、
江戸開城後、あらためて江戸百万石を賜るという最終処分を期待していたらしいのですが、
上野戦争で彰義隊があっさり負けてしまったのでそれが潰れたというには本当ですか?
逆に言うと、彰義隊が一日で壊滅しなければ江戸百万石もありえたのですか?
勝阿波守は、確かに明治以降そのような話をしている。
しかし、彼は明治以降ホラ吹き隠居になったので、彼の発言をそのまま真実とすることは出来ない。
354 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 23:40:49
江戸時代は暗く、行灯ばかりだったそうですが、
行灯には何で火をつけたのですか?
当時マッチはないし、火打石じゃ古すぎるし、謎です。
>>351 むしろ穢れの問題じゃないのかな?
家族の死に際さえ、自分らが穢れるのを恐れて近づかなかったというし。
>>354 あと火口箱(=発火セット)に入ってる紙縒(こより)
358 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 21:10:53
江戸開城後、徳川宗家は静岡70万石の大大名になったわけですが、
そのクラスの大名なら大奥なみとはいかずとも、ある程度の規模の奥組織があるはず。
大奥も縮小の上で、静岡藩の奥組織にそのまま移行できなかったのでしょうか?
亀之助がまだ幼少とはいえ、女主人の篤姫はじめ、本寿院やら実成院もいたのだから、
そういう組織が維持されてもおかしくないと思うのですが。
>>354 必要になったときにその場で一々発火させたんじゃなくて、囲炉裏やカマドの火を取ってきたんじゃないのかな。
>>358 憶測だけで語るので間違っていたら済まないが、田安家の奥組織が静岡に移ったというのはないのだろうか?
そういえば、将軍を止めたのなら、将軍という地位に付属する性質の組織類はすべて解消とか?
362 :
354:2008/12/02(火) 05:28:38
レス、ありがとうございました。
infoweb規制でお礼が遅れて、済みませんでした。
各時代の税や法律なんかの制度を図なんかを使って
視覚的に見やすい本はないでしょうか?
>>363 「そういうものは存在し得ない」んじゃないかな。
特定の時代の特定の関係の法律を詳しく調べるだけで、「だけで」といえるようなお手軽なことでは済まなくて、博士号が取れるんじゃない。
法律なら何法が何条とか、税なら何に対して何パーセントとか、一貫した図とか表が作れると思ってない?
現代の何法のどういう条文に当たるものは、どういう範囲で通用していたどういう慣習がどうのこうのとかいう具合で、グチャグチャですよ。
グチャグチャなのを簡単に大ざっぱにまとめても、中身が何もないのと同じにしかならないだろうし。
>>364 レスありがとうございます。
言葉が足りなくて申し訳ないです。
受験参考書についてるような各時代の制度を表にしてまとめたようなものです。
>>365 そういうのは受験参考書ならではのものでは?
>>365 あ 雑誌というかムック系の本で、あるかもしれない。
期待通りかは知らないけど。
>>366>>367 ありがとうございます。
受験参考書だとどうしても受験上重要かどうかになってしまうと思うので。
ファミコンの「いっき」ってゲームありますよね?
あれよく「一人や二人で一揆ができるか」なんて言われてますけど
あのゲームは代表越訴型一揆とは違うんですか?
将軍に鎌投げつける佐倉惣五郎か
>>368 大学受験レベルでは不足ということなら、まず、明治以降の法律や税がどうなっているか勉強してみたら?
373 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 02:22:45
今川義元が敗死した後、離叛した松平家広 (形原松平家)の息子が処刑されたと聞きました。
この今川家に人質になっていた息子というのは、何という名前の少年だったのでしょうか?
ある人は「松平左近」だと言いますし、別の人は「松平右近」だと主張しています。
どちらが正しいのですか?
教えて下さい。
>>370 将軍っていうより大名ですかね
とあるサイトにはあのゲームは
世直し一揆(主人公の2人だけが貧乏な村)という見解がありました
なるほど
一揆という言葉の本来的意義から考えたら
ひとりで一揆というのはかなり矛盾があるな。
でもやっぱりあのゲーム好きだ。
たまに思い出してやったりする。
377 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 19:57:38
>>358 将軍時代とは比べものにならないくらい収入も減ったのだから無理だろうね。
普通に当主の妻や妾、それに仕える女性使用人はいただろうから
それをもって大奥の小さい版といえば言えなくもないが。
>>369,376
ファミコン3大クソゲー「いっき」、「アトランチスの謎」、「スペランカー」の1つだなw
いっきはクソゲーにしてインパクトのあるゲームだったな。
ソフトバンク田村をクソゲーだなんて、下りエレベーターの中でジャンプさせますよ。
380 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 14:30:41
今川義元が敗死した後、離叛した松平家広 (形原松平家)の息子が処刑されたと聞きました。
この今川家に人質になっていた松平家広の息子というのは、何という名前の少年だったのでしょうか?
ある人は「松平左近」だと言いますし、別の人は「松平右近」だと主張しています。
どちらが正しいのですか?
教えて下さい。
381 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 22:28:30
質問します。
80歳の祖母の誕生日に何が欲しいかと尋ねたら
日本史の本が欲しいと言われたのですが、お薦めの本はありますでしょうか?
どんな本が欲しいか詳しく尋ねると、
私が高校の参考書で使っていた「図表」のような本が良いとのことでした。
祖母は建築技術や陶磁器などの美術、古文から俳句短歌などの文学まで
文化や芸術に広く興味を持っており、特に奈良平安時代の文学や江戸時代の大衆文化が好きなようです。
日本史は学校以外で勉強したことがなかったので
欲しいと言われた「日本史図表」と「日本史B用語集」という参考書をあげようと思っていますが、
もう何冊か、長く楽しめる本をあげたいと思っています。
選考にあたって不足がありましたらご指摘下さい。
お手数ですが回答宜しくお願い致します。
近所の親しい古本屋によく立読みに行くんだけど…
明治大正の古本で、最後の将軍「徳川慶喜」の「慶喜」のふりがなを「ケイキ」てしてあるのを何冊か見たことがある。
そんな本の中に、
「名乗の『ヨシノブ様』トノ訓ミハ今ノ處俗説ニ過ギヌ。十六代様(貴族院議長)ニ徴シタル者有リト聞クモ確カナコトハ不明。
十六代様ニテモ専ラ『ケイキ公、ケイキ公』と仰セラレ…」
との記述を見たことがあります。(書名も著者名も全て忘れました)
だいぶん前のことで、その時は何とも思わなかったのですが、実際のところはどうなのでしょうか?
今の辞書や歴史辞典の類は皆「よしのぶ」ですよね。
その後の研究の進歩で、「よしのぶ」との読みが確定しているのでしょうか?
名前を音読みするか訓読みするかは、あまり一定してないことが多い。
例えば源義経の場合読みは「よしつね」だが、義経記は「ぎけいき」と読む。
織田信長は「のぶなが」だが、信長公記は「しんちょうこうき」と読む場合が多い。
それに、例えば藤原定家は「さだいえ」だが、歌人として彼を呼ぶ場合「ていか」と呼ぶ。
これは有職読みと言って、音読みすることで敬意を表す方法。
>>381 「文字が大きいこと」が絶対条件だけど、そういうのがあるかな???
拡大コピーしてあげるとか???
386 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 23:46:11
>>385 いえ、普段から文庫本も読んでいるので文字は約款のように特別小さくなければ問題ありません。
よろしくお願いします。
387 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 23:59:12
新研究日本史(A5版512頁・山本武夫著・旺文社)はカラー刷りで写真の掲載も多く
大変重宝している。しかし30年前に購入したので今あるか不明
388 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2008/12/05(金) 00:07:01
自分で本屋や古書店めぐりして条件にあうものを探すのが一番だよ。
>>383 目下の分際で実名を「呼び捨て」にするのを憚るというニュアンスですかね。
390 :
382:2008/12/05(金) 01:06:11
wikiの紹介、ありがとうございます。
それによっても、やはり「よしのぶ」との読みは、確かでは無さそう…。
何故、今の学者は「よしのぶ」とふりがなを付けるのでしょうね。
>>389 「実名を憚る」のとは、ちょっと違うでしょう。
というのは、15代「慶喜」だけなんですよね、名乗の正確な読みが不明とされているのは…。
14代までは皆、わかっている。(出身家の記録がある)
「家康」なら、正に「いえやす」との名乗がハッキリしている。
>>390 あ、いや、「有職読み」というのが、そういう意味じゃないかなという話。
>>390 >>383のいうように、音読み訓読み、いづれも称し、また称されたわけですが、
将軍も含め徳川一族では訓読ばかりなので、彼のみ音読というのは不自然でしょう。
大方、旧幕臣たちはいわゆる有職読みに倣う格好で「けいき」と音読していたのでしょう。
それを本人が好んで、自らそう名乗るようになっただけのような気がします。
しかしそうなりますと、歴史の世界では『事実上「けいき」ならそれが正しいってことになるじゃない』と
看做されがちなのでして、結果
>>383のような話になっていったりもするのです。
>>392 やっぱり、なんらかの「秘められた読み」があったでしょうね。
でも、少なくとも○×試験で「けいき」という読みに×をつけたら、それは採点間違いということでいいわけ ですよね?
それは学校で教えられたとおりに書くべきだろ
395 :
381:2008/12/05(金) 17:10:10
>>387 調べましたところ、残念ながら絶版になっているようです。
古書店で扱いがあるようなので、とりあえず取り寄せてみようと思います。
>>388 さっそく明日にでも大型書店を回ってみます。
ありがとうございました!
>>394 うむ、それはその通りだ。試験はしょせんは試験と割り切るのが賢い。
397 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 12:37:33
「倭」という名称そのものに興味を持っています。
手持ちの辞書には「背が曲がって丈の低い小人の意」などとあるのですが、
「“矮”と同系の字だから」という以外に根拠はあるのでしょうか?
色々検索してみたのですが、逆に以下のように疑問が増えるだけでした。
◎歴史書や『康熙字典』までの字書に、倭人の背丈に関する記述はない?
◎大陸系の流入が古くからあるのに7世紀頃まで改称しなかったり、
その後も国内で「倭」を使った例があるのは、卑字ではないからでは?
※『新唐書』にも「後稍習夏音惡倭名更號日本」と「音(漢音)を嫌った」とある。
◎「倭」の字は人名や地名に使われている。やはり卑字ではないのでは?
※魯・宣公が「倭」(現「餒」)、後燕・慕容和の別表記(幼名?)が「倭奴」など。
◎より「倭」に近い字に「[女委]」という字があり、意味は「美好」である。
また、「倭妥」は「美好貌」を表す熟語。やはり卑字では(ry
◎金代の字書にずばり「低身長」を表す「[身委]」という字が見えるが、
新たに作られた(?)のは「倭」にそういうイメージがなかったからでは?
398 :
397:2008/12/06(土) 12:38:38
もうひとつ。
「倭」もその原字「委」の字も、甲骨文や金文にはなく、小篆から見られるようですが、
縄文時代から大陸との交流があったわけで、当然何かしら呼称はあったはず。
検索で上手くヒットしなかったのですが、何か説はありますか?
また、調べていくうちに、以下の理由から「“[イ畏]”(畏)だったのでは?」と
思い付いたのですが、強引すぎるでしょうか?
◎「[イ畏]」は国名として複数の字書に載っている。(『山海経』の「[イ畏]人」が典拠)
◎「[イ畏]」は「依」と類義であり、『魏志倭人伝』の「依山島爲國邑」を連想させる。
◎原字の「畏」は「通“隈”」でもあり、九州北部には「隈(クマ)」のつく地名が多い。
※「隈」の意味は「山水等弯曲的地方」であり、上記とも通じる。
◎「倭国」の別表記(?)に「倭面土国」があるが、「面」「土」とも甲骨文からある字。
「畏」も甲骨文にあり、当初は「畏面土」だったとしたら、バランス(?)が取れる。
◎同系の「猥」は本来「狗叫声」を表す字だが、「古文中常仮借爲“委”」として用いられた。
つまり、現在「委」と書かれている箇所は、古文では「猥」の字を当てられていた。
※「狗叫声」といえば「隼人の狗吠」を連想させる。
以上、よろしくお願いします。
日本史板の皆様、ご質問したいのですが。
私は軍事板に出入りしている者です。
最近、いわゆる「酷使様」が、板に入ってきて右翼というか、田母神さんの理論を100倍くらい右寄りにした理論をまくし立て、
当板の住人との間で祭りになってしまうことが多くあります。
彼らの理論は、過去の文献の都合のいい部分だけ持ってきて、それを論拠に意見の違う人たちを攻撃する、という方法なのですが、
軍事板は格好の攻撃目標のようです。
で、史学の過去の史料をぼつぼつ読み始めたのですが、取捨選択に苦労しています。
本業は医者ですが、一般的に医学系の論文の書き方は、
@主題を設定(この段階では仮説)する
A過去の論文を渉猟して、主題の正確性をおおまかに推測する
Bその主題に沿って、症例を集めて「統計を用いて結果を出す」
C今回の主題が正しいと結果が出たら、過去の論文から結論の肉付けをして出来上がり
論文は学者の様にはうまく書けませんが、こんな感じです。
史学の論文に関しては、統計処理という方法が使えないでしょうし、だからこそ酷使様のようなトンデモや
オカルトのような変な通説が一部の人には説得力を持ち、一般に流布してしまうんでしょうが、
日本史板の皆様はどのように過去の史料を評価、取捨するんでしょうか?
大変ぶしつけな質問ですが、お教えいただければ幸いです。
すみません、ageます。
401 :
日本@名無史さん:2008/12/06(土) 23:07:13
あげ
>>397 何か勘違いしているような?
> 「“矮”と同系の字だから」という以外に根拠はあるのでしょうか?
外国の固有名詞の類いなのだから、「当時に何らかの理由に基づいてそういう字を当てることにした」だけでしょう。
というか、外国の固有名詞の類いは、基本的に、自己申告の音を適当な字に当てているだけなのが普通では?
根拠といったら、当時の担当の人が、それが適切と考えた、という以上には何らの意味もあり得ないんじゃないですか。
>>398 というか、「自称」が、上古音の「倭」(に近い)音だったというだけのことでは?
>>399 学校で一通り習ったはずの精神病理の勉強でもしたほうが早いんじゃないですか。
405 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 02:10:01
>399
同じ内容を記した史料を比較します。
記述が異なる場合、同時代史料の記述が優先されます。
後の時代に書かれた歴史書の類は優先度が下がり、
同時代の書状や日記の内容の方が重要度が高いです。
ですが、同時代史料にも必ず当事者のバイアスがかかるものですので、
複数の史料を比較したり、前後の史料との整合性を説明する必要があります。
どのようにして作られた史料なのか、という点にも注意します。
戦時下の国民生活を論じるのに大本営発表を使っても仕方がないですから。
また、解釈する際には、特に語彙や語法など、同時代的な意味に注意します。
例えば、壇ノ浦の戦いに関しては、
同時代史料であるがあくまで風聞を書き留めたにすぎない「玉葉」など公家の日記、
後にまとめられた物語である「平家物語」、
後に幕府がまとめた歴史書である「吾妻鏡」、
などの史料がありますが、どれを優先させるかは、正直難しいです。
人によってそれぞれでしょうか。
これら信頼性の高さがある程度担保されている史料ではわからないことについて、
隙間を埋めるために、後世の地誌や伝承を使います。逆ではありません。
いわゆるトンデモ説は、
例えば同時代史料を読まず後の時代に書かれた物を元にしていたり、
例えば同時代の語法を踏まえずに史料を勝手に解釈していたり、
例えば推量に推量を重ねてそれを「根拠」とする倒錯を犯していたり、
といった問題があることが多いです。
よく、史料がないからといって否定するのは歴史研究者の傲慢だ、
などと言う方がいますが、根拠もないことを述べるのは「研究」ではありません。
実態がないからと言ったって、あると考えた方が「自然」なことが多いではないか、
などというスピリチュアルな方と大差ありません。
もちろん知的好奇心や生活を豊かにしてくれるものとしては有用ですけれど。
406 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 02:29:07
江戸幕府は何で年貢の米納に拘ったの?
財政がどうにもならないなら地租改正でもすればよかったのに
407 :
miklikov:2008/12/07(日) 04:10:54
皆様、ご丁寧な返答ありがとうございました。
>>406 1.石高制は年貢賦課基準だけでなく、知行(軍役)体系も担っていた
2.そもそも、年貢を金納にしなければならないという発想自体が
超歴史的(現代の視点から見た考え方)
当時の人から見たら年貢=米納があたりまえ
3.代金納が実施された地域もある
409 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 20:57:54
くだらない質問だけど
昔の日本人、たとえば徳川家康や源頼朝が普段会話してた言葉って
今の人間が聞いても理解できる言葉でしゃべってたの?
頼朝とか時代から明治維新まで700年の年月を経て
外来語とかを除いても、普段の会話でも大きく日本語が様変わりしたと思うけど
そういう研究てされてるの?
よくローマ人とかブリタニア人は文字は通じるけど今の言葉と全く違うって話だし
>よくローマ人とかブリタニア人は文字は通じるけど今の言葉と全く違うって話だし
20数年前にNHK教育が二ヶ月に一度シェークスピア劇場を放送していたけど
何を話しているのか、さっぱり聞き取れなかったな(苦笑
411 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:12:11
くだらん質問ですが
某テレビ局の番組に「天璋院篤姫」って出ていますよね
後家になっても「姫」って云っていたんだろうか?
お姫様と云えるのは精々嫁入り前までと思うけど、如何でしょうか
412 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 11:50:38
戦前の教育・皇国史観では
楠木正成>新田義貞
みたいな妙なウェイトを感じるのですが
単に功労に対する評価なんでしょうか?
個人的には成り上がり伝説的美談も加味されてるとか
勝手に考えてますがどうでしょうか
413 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 11:52:23
大河ドラマ篤姫について
・小松と厚姫は幼馴染だった
・小松と厚姫はお互い好意を抱いていた
・小松と厚姫は倒幕後も交流があった
のは史実なんでしょうか?
>>412 戦前教育を受けていた方はお帰りください
415 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 16:48:27
今川義元が敗死した後、離叛した松平家広 (形原松平家)の息子が処刑されたと聞きました。
この今川家に人質になっていた松平家広の息子というのは、何という名前の少年だったのでしょうか?
ある人は「松平左近」だと言いますし、別の人は「松平右近」だと主張しています。
どちらが正しいのですか?
教えて下さい。
>>409 確かに疑問。
いわゆる標準語がラジオテレビを通じて全国に広まったのは近頃のことで、それ以前は、普通に喋ったのではお互いに何を言っているか
分からないくらい強烈な方言が普通だったくらいだから、「内輪の日常会話」は、少なくとも「標準語人」には分からなかったんじゃないかな。
でも、「方言ネイティブ」なら、爺さん婆さんの話し方と大差ない具合で難なく分かったような気もする。
さて、ここで問題。
頼朝や家康は、どちらもあちこちに追いやられた経歴があるけど、どうだったのかな?
少なくとも、京都かぶれの今川の元で、将来の主要スタッフ候補として育てられた家康がコテコテの三河弁スピーカーとは考えにくい。
とはいえ、部下は大概三河弁のコテコテだろうから、宮廷言葉と三河弁のバイリンガルとかかな。
>>411 知らんけど、親とかを除いて、人の名前を表だって気軽に呼び捨てにしたりすることはありえないっしょ。
「姫」ってのは、記紀に出てくる「男なら命・女なら姫」の乗りかな?
>>416 家康は神格化されているせいもあって
肉声は伝わってないなあ
将軍で肉声がわかるのは吉宗
吉宗は自分のことを「俺」と言って、
さらに紀州なまりが酷い感じ
420 :
397:2008/12/08(月) 23:26:11
>>402,403 レスありがとうございます。質問が下手ですみません。
以前は、「倭=ワ(我/吾)の音写だろう」くらいで特に考えていなかったのですが、
何がきっかけだったか、百科事典の「倭」の項目を引いてみたところ、
「中国は中華思想により、周囲にすむ人々にいやしい名をつけた。倭にすむ倭人とは、
背丈が短く背がまるくまがっている人の姿をいう。」(Microsoft『エンカルタ総合大百科』)
「後漢に成立した《説文解字》に〈倭は順(しなやか)なる貌(すがた)なり。人に従い委の声〉とある。
転じて背が丸く曲がって低い人を指すといわれる。」(平凡社『世界大百科事典』)
とあって、気になってぐぐってみたのが始まりです。知りたかったのは以下の点でした。
◎倭人は部族名にそういった字を当てられるほど、非常に小柄で背が曲がっていたのか?
◎そもそも、「倭」の字に「背が曲がった」とか「低い人」という意味はあるのか?
◎でも、専門家が明記しているのだから根拠があるはず。それは何なのか?
結果、
>>397 のように逆に疑問が増え、また以下のページなども見付けたのですが、
上のは政治色があるようですし、下のは音韻学など含め専門的で難しいので、
他にこの辺りに触れている本やページがあれば、と思ったのです。
ttp://salon.gooside.com/wakao.htm ttp://www.massangeana.com/mas/cgi-bin/iroiro.cgi/lingua/zh/wo1.htm
421 :
397:2008/12/08(月) 23:27:31
>>398 についてですが――
民族の自称の音写でも、蒙古は「萌古/蒙兀」、柔然は「蠕蠕/茹茹」など変遷がありますし、
特に、「倭」および「委」の字が始皇帝が作らせた小篆からしか見られないということは、
例えば、『論衡』に見える「倭人貢鬯」の「倭人」も、周・成王の時にはまだ「倭」の字が無いので、
原資料には別の字が記されていたはず――その辺りを考察したものがあれば、と。
自分で答えを見付けようと、中国の字書サイトを睨んでいて思い付いたのが、398 の下部です。
前回は省きましたが、「畏」と「委」の関係で特に顕著なのが「[シ畏]」と「[シ委]」で、
熟語「[シ畏][シ委]」は「汚穢/[シ于][シ歳]」の別表記(旧表記?)であり、
「[シ畏]」は単独でも「穢」の異体字であるので、「[シ畏]=[シ委]」とも言え、
ここでも「畏」系の字と「委」系の字がつながります。
また、「穢/[シ歳]」といえば中国東北部〜朝鮮半島にいた「ワイ」を表す字なわけで、
「委」に「サンズイ」が「ワイ」で、「人」が「倭」というのも興味深かったりします。
いずれにしても、素人考えにすぎないので、あの部分は軽く流していただければ。
>>419 あ! 逆にいうと、そういうのが例外的に目立ったということだよね。
将軍も含めて大名の類いは全般に江戸の生まれ育ちだろうから、江戸「官話」が普通かな。
そういえば、日本語なり英語なりがペラペラだった子でも、母国に帰ってしばらくするとケロッと忘れて母国語一辺倒になるとかいうけど、
小学校中学年以降くらいの年齢で固まるんだったかな? そうすると、家康の母国語は何だろう?
まあ、内輪と外で難なく使い分けていただろうけど。
頼朝はいくつで流されたんだっけ? 京都弁、なのかな? どんなのか知らんけど、伊豆あたりの方言とバイリンガル(笑い)かな。
>>413 亀レスで日本史からずれるが、民放ではドラマの最後に「このドラマは
完全なフィクションであり、・・・」というお断りが出るが、大河ドラ
マは、関連旧跡の紹介などして逆の効果を狙っているように見られる。
近松門左衛門の「虚実皮膜論」が思い出される。
大河ドラマの脚色は今に始まったことじゃないけど、昔は守るべき「お約束」というのが
あったんだけど、「秀吉」あたりから、その「お約束」も守られなくなってきた感がある。
数字取れれば何やってもオッケーみたいな。
大河ドラマの話で何だけど、小松帯刀が篤姫と結婚するって家格的にどうなの?
肝付家って傍流とは言え島津家のお姫様を嫁にもらえるような家だったの?嫡男ならともかく。
傍流どころか、島津本家から嫁をもらったこともある家柄だよ。
427 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 07:28:23
大河ドラマを見なかったのは初めてだな
三文芝居と三文芸者(あの女)
>>426 こんな質問にお答えいただき感謝します。
>>427 ドラマとしては面白かった、去年や何年か前の新撰組に比べれば。
オレも見てないけど、一度だけテレビつけたらやってたので見てたら、山岡鉄太郎がオバチャン化されてて萎えた。
430 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 23:16:06
オレは見てたけどアヒルがでてこないからがっかりした。
431 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 00:28:19
お前らはヒゲ面の暑苦しいオッサン武士が甲冑姿で
「武者震いがするのおおおおおおお!!」
とか絶叫して刀振り回すようなドラマなら満足なのか?
ヒゲ面の暑苦しいオッサン武士が褌姿で組み討ちアッー
なドラマが見たいです。
大河ドラマは、時としてとてつもなく気色悪いのがあるから見る気もしなかったりする。
どう考えても優等生でしかも運動部系のバリバリタイプでしかありえないはずの人物を、これ以下はないような卑屈で矮小な愚物に仕立てやがったことがある。
落ちこぼれていじけたお釜みたいな脚本家自身の地が出たのだろうか。
中村半次郎(桐野利秋)の人物像については、池波正太郎の捏造が悪影響を与えているね。
京都で、義務も無いのに毎日ちまちま日記を克明に記し、
人を斬った記録なら、町娘を追いかけていた浪人一人しか確認できない人間が、
彼の小説ではとんでもないことになってしまっている。
435 :
日本@名無史さん:2008/12/11(木) 22:25:59
農家は名士だったりお金持ちだったりする人(子孫)多いけど
漁師で同じように名士の子孫っているのでしょうか?
つまり漁師はどういう扱いされてたのでしょうかって意味です
今でも網元は漁協の理事ですがな
437 :
日本@名無史さん:2008/12/12(金) 17:41:59
高校2年生です。疑問に思ったので質問させてください。
平安時代や鎌倉時代等、国司(受領)・地頭は年貢を徴収する権利があったんですよね。
でもその権利って彼らにとって何かいいことがあったのですか?
徴収したそれらの税は、結局は上の朝廷や幕府のものになってしまうんですよね。
一部は自分のものにできたということですか?
おかしい質問だったらごめんなさい。
一部は自分のものにできたということです
アイヌの人たちはなんで文字を作って
統一国家にまとまろうとしなかったのでしょうか。
隣に住んでるヤマト系の人たちは大陸から輸入した文字を改良して
独自の文化を作った。あと法律とか社会制度も輸入して国家を作った。
アイヌもヤマトも同じ人間なんだから、
同じことができないはずないと思います。
体制が整ったら随に使節を送って、
「国として認めてください。生意気なヤマトをシメてあげますから、
武器とか戦略物資とか援助してください」
そうしたら【日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す】なんて
国書を送られて頭にきてる皇帝が本気になったりして。
大国のバックアップを受けてアイヌの人が日本列島を支配するって
歴史もありだったんじゃないのでしょうか。
441 :
437:2008/12/12(金) 20:07:19
>>437 「何かいいことがあったのですか?」どころではありません。
徴税権は、人がカネを得る上で最も合法的な権利といえるものです。
それがどれほど有利有益なものか、ここで改めて認識する必要があるでしょう。
利益の源は、その通り「一部を自分のものにできた」からです。
税ですから、規格に沿って決められた量を決められた期日に納めさえすればいい。
物納の場合、たとえば米の場合だと、俵にガッチガチに詰めず、籾殻つきを混ぜたり、
あるいはこぼれた米を回収したりなどなど…つまりはピンハネです。
あと、不作を理由に滞納したり、いろんな理由をつけて自分の領地(本領という)にしたり…
地頭は警察権も持っていましたから、やろうと思えば文字通りの「悪代官」もやれたわけです。
なお、地頭は国衙領(公領)や荘園(私領)にも赴任しました。
この場合、納税先は当然、地権者の朝廷や貴族/国司であって、幕府ではありません。
ただし、御家人には公事(くうじ)という米銭の納入義務はあったようです。
>>437 >>442 あと、現代みたいにオンブズマンみたいなものがなかったから、実際の徴収額は徴収する人にしかわからなかったことも大きい。
平安京の初期(期間としては九世紀頃)における貨幣について質問です。
当時は既に貨幣が幾つか鋳造されていた様ですが、畿内外での流通の差はどの程度だったのでしょうか。
やはり都の市籍人の間では普通に使われていて、辺境では物々交換の方が多かったりしたのでしょうか?
江戸時代、農民に圧政を強いて取り潰しとか改易にあった藩ってどれくらいあるんでしょうか?
448 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 20:51:15
>>431 954 :公共放送名無しさん:2008/12/13(土) 20:45:26.41 ID:OiHcVt3k
大河は髭面のオッサンが合戦やってりゃいいんだよ。
449 :
437:2008/12/13(土) 22:15:40
>>442>>443 今までうやむやだった部分が解消されました。
現地での徴税権というのは、何かとやりたい放題だったわけですね。
詳しい説明ありがとうございました。
ですがあと2つだけ質問させてください。
ひとつは
「何故荘園が朝廷・幕府の手のものになってしまったか」です。
もともと私領であったはずなのに・・?
教科書には
「平治の乱後の平氏全盛期、清盛は武士団の一部を<地頭>として荘園や公領の現地支配者として派遣した。」
と、突然のことであるにも関わらず当たり前のように書いてあるのですが、
武士団の力が強かったために侵略されてしまったということでしょうか?
でも寄進地形荘園などについては、領家や本家という強い後ろ盾があったはずですよね。
もうひとつは、
鎌倉後期〜室町時代にかけて、地方では惣村が形成され、
領主に収める年貢などを惣村がひとまとめにして請け負う<地下請>が行われたようですが
この<地下請>には何か惣村にとって利益になることがあったのでしょうか?
長文にも関わらず日本語が下手ですみません。
解説していただけると幸いです。
>>446 トンクス。
ほとんどが無嗣廃絶で失政による処罰は少ないんですね。
しかし一揆だと農民側だけ首謀者が殺されたりして理不尽かと
思っていたけど、一揆された方もリスクは大きいんですね。
>>449 何かとやり放題…と言いますが、土着民の不興を買えば只で済むわけがないのは、昔も今も変わらないこと。
逃亡されるか暴動を起こされるのがオチです。最悪殺されます。身内以外、誰も助けてはくれません。
さて質問の答えですが…
まず、平家が設置した「地頭」というのは、元々全国に散らばっていた平家の荘園の管理代行人でした。
しかしその出自は様々で、平家が一門を赴任させたり、あるいは土地の者が開墾し、平家に寄進された
荘園の支配者として承認するだけのケースまでありました。朝廷に承認させさえすれば、それ以外の
公領にも赴任させられたでしょう。当然、彼らは朝廷の官位官職も持っていました。
さて、源氏の世になって平家は滅びましたが、その荘園と支配者をどうすればいいと思いますか。
平家が構成しつつあった「地頭」というものをどう利用していけばよいと思いますか。
そして、源平の戦いの勝者たちに、どのような褒美を与えればよいと思いますか。
頼朝が行ったことは「地頭」などを正式な官職として認めさせ、その任命罷免権を幕府が握ったことでした。
その影響力は、承久の乱後、決定的に大きくなりました。
更に、地頭は権限を持っていたため、支配権を次第に広げていった…ということです。
地下請についてですが、地頭請という制度と合わせて考えれば、お分かりになると思います。
地下請とは、要するに百姓サイドが徴税を管理し、徴税権を握るということです。
それがどれほど有利有益なものか…ここからは
>>442
>>451 詳しい解説ありがとうございます。
なんと感謝を言ってよいかわかりません。
>>449に関してですが
やりたい放題という言い方はおかしかったですね。「やろうと思えば」という趣旨の言葉が抜けていました。
>>450 (農民)一揆は本来領内問題ですからね。
>>447の例のように、それを超越してしまうとダメ。
幕府にとっても諸藩への監督責任を問われますから
放任できないということです。
また、強訴は非合法な訴訟ですから、代表者が厳罰に処されるのは、
法理的には当然のことで、それ自体は理不尽ではありません。
ただし、訴えに合理性があるか、受け入れられるかどうかは全く別の話ですが。
455 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 20:48:38
大政奉還後の徳川宗家は400万石から駿河駿府70万石の一大名に
なったわけですが、これは結果であって、新政府は他に改易とし
宗家は斬首でお家断絶という選択肢も持っていたのでしょうか?
あるいは摂津大坂65万石の羽柴家の運命のように後にいわば「駿府の陣」
のように攻め滅ぼそうとしていたのでしょうか?
456 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:25:59
しかし、70万石といえば薩摩島津家とどっこいどっこいだからな。
一大名としては前田、島津に次ぐビッグ3だし、朝敵に対する処遇としては寛大だろ。
457 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:29:03
篤姫みたら徳川十六代が県の統括役やってるとか政治から退いたのでは?完全に退くのは何代から? あと太平洋戦争 日本が勝ってたら今どうなってるんでしょうか?
458 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 21:43:20
家達は知藩事を解任されたあと、明治後期から昭和初期まで30年にわたって
貴族院議長をつとめ、その間、ワシントン会議の日本全権もつとめている。
また、組閣の大命を辞退したのも有名な話。
17代家正は外交官となり、駐カナダ公使や駐トルコ大使を歴任したのち、
終戦直後には最後の貴族院議長をつとめた。
敗戦がなかったら、まあ、いまでも徳川公爵のままだろうね。
>>455 少なくても後者の選択は無い。
なぜなら、それこそ外国の軍事干渉を招いて日本を植民地化するのをアシストするだけだから。
もっとも、廃藩置県が上手くいかなければ、どこかの藩……徳川じゃなくて毛利や島津の可能性も含めてかかる事態もあったかも知れません。
>>455 前段については、可能性はあったとしても、結果として「できなかった」ということがすべてではないかと。
少なくとも、既に累積赤字でガランドウになっていた幕藩体制がそのまま継続した可能性はないし、もう駄目という間際に
どさくさにまぎれて将軍にさせられた慶喜が全面的な徹底抗戦を行う可能性もなかったと思われるし、それにもかかわらず
徹底殲滅することは、諸般の事情から「無理筋」にしかならなかったんじゃないかな。
後段については、それ自体が既に「自滅してくれるように、故意に狭い範囲に押し込めた」ということで、実際にも、
食うや食わずで捲土重来も何もない状態になってますが、普通なら何をどう間違っても許されるはずがない
内乱の首魁(の一人)ともいうべき榎本を登用したとかは氷山の一角で、主に実務の方面で、少なくとも当座は、
旧幕府系の人材を流用してやっと政府の形を保っていたのだから、そういった人材を係累絡みでことごとく失うリスクを
冒してまで積極的に滅ぼすという意図は持ち得なかったでしょうね。
>>459 植民地化への強烈な危機感は、どちらにも共通してあって、それが強力な安全弁になったということはありますね。
一衣帯水の中国が蚕食されていたなどは対岸の火事くらいにしか思っていなかったところ、黒船で初めて現実的になって、
いきなりドタバタし始めて、しかし幕府は累積赤字でどうもならなくて、10年ちょっとでひっくり返ったと。
461 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 21:37:43
専門家の皆様に質問があります。
日本で最も由緒ある家系はもちろん天皇一族ですが、
では日本で二番目、三番目に由緒ある家系はどこでしょうか?
>>461 源氏・平氏などの、「先祖を辿れば皇室に辿り着く」家系が山ほどあるので
2番目・3番目を探すこと自体が無意味。
でも出雲大社の宮司の家系は古かったような…
464 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 22:24:37
天皇家のピンチについて質問です。
天皇は万世一系ですがこれまで何度か存続の危機に立たされたこともありました。
「第25代で途絶えたが、応神天皇5世孫と称する奴を連れてきてしのいだ」
「南北朝に分かれて、どっちが正統か分からなくなった」
「足利義満がデカイ顔をし始めた」
「信長が官位などいらんと言った」
「GHQが天皇の処刑について話し合った」
「悠仁親王の後、だれも男子がいない」
・・・・・・などなど。他に何かありますか?
>>461,463
紀氏(国造のほう)が一番古いんじゃなかったっけ? 予想するに、
1位 紀氏、2位 出雲氏、3位 天皇家、かな?
まあ
>>462 の言うように、家系などつまらない因習にとらわれる
生き方ほど無意味なものはない、オレは思うがw
466 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 23:06:39
>>465 えっ、天皇家よりも古い家があるなんて・・・
知りませんでした。
私は理系なんですが、現生人類はアフリカから徒歩で出発したのは分かってるから
家系図があるかないかの差でしかないんですよね。実際は。
「二千年も家系図を残してるから偉い!」
というのであれば、我が家もやっとくべきでした。
我が家だって類人猿から連綿と続く系統の家であり、
その気さえあれば「神統譜」「皇統譜」に相当するものが作れたはずです。
天皇家が家系図を作ってる間、うちの先祖は畑を耕してたんだろうなぁ・・・
ちなみに私は当家第4代当主です。ああ、全然ダメ・・・・・・。負けた。
467 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 00:53:42
日本に限定しなければ、孔子の子孫の家系図が学術的にももっとも明確で連続した系図。
天皇家は卑弥呼から連綿と続いていたとしても、諸葛亮の系図よりも新しい。
ただし、現存する王家としては世界最古。
>>466 家系をたどれる、すなわち確固たる家系図がある、そのことこそがすごいことなんですよ。
469 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 17:11:40
>>455 駿府城を15万の大軍で包囲して砲撃して疲れさせた所を「外堀を埋める」と
いう条件で講和して、騙して内堀まで埋めた後、難癖をつけて滅ぼすという
手段なら徳川家のお家芸だから、それを真似されたかもしれんな。
470 :
日本史に学ぶ政治テツガク:2008/12/17(水) 01:42:16
>>469 勝つためにはどんな手でも使って、文句が出てもねじ伏せて押し通すくらいでないと、難局に当たるのは無理というこったな。
ねじ伏せられるほうはたまったもんじゃないけど、チマチマ気に病むようなヘタレはお呼びでないと。
ガチョーンであると。
471 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 03:09:10
人類みな万世一系。
472 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 06:13:06
家系図なんて本気だしたら網目状の総戸籍図に
>>464 >>464 分裂や断絶の危機なら、もっとたくさんありますよ。
皇統別に王朝として定義するのなら、継体天皇以降でも
・天武王朝(天武〜称徳)
・光仁王朝(光仁〜仁明)
・文徳王朝(文徳〜陽成)
・光孝王朝(光孝〜三条)
・円融王朝(円融〜六条)
・高倉王朝(高倉〜四条)
・後鳥羽王朝(後鳥羽〜後嵯峨)
・後深草王朝(いわゆる持明院統)
・亀山王朝(いわゆる大覚寺統)
・後花園王朝(後花園〜後桃園王朝)
・光格王朝(光格〜今上)
学問もへったくれもない、てきとーな分け方でもこんなところ。
ピンチといえるものをあげるなら、南北朝以後では後花園天皇と光格天皇のところが重要かと。
474 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 19:02:06
>>473 こんなにいっぱい王朝があるなら、
中国とかエジプトとたいして変わらないですね。
たしかに宮家から天皇をだすのはグレーゾーンですね。
それはそれとして、旧11宮家を復活させるべきだ。
皇太子様と悠仁親王には、美少女ハーレムを与えるべきだ。
断絶したらどうする。
私はしろうとですけど、
悠仁親王で途絶えて旧11宮家まで引っ張りだしかねない
現在こそ、一番ピンチだと思います。
>>474 そういう意見は、特に皇族の間でありますね。
私も賛成です。
将軍でも大名家でも同じですが、直系って意外に続かないもので、5代持てば長いほうだといえます。
「閑院宮」「世襲親王家」あたりでググってみてほしいですが、閑院宮はバックアップの成功例であり、
それが今に続いているのです。皇統維持というばかりでなく、現代政治の悪弊から守るという意味でも
天皇と皇室の藩屏として、三〜四宮家くらいはやっぱり必要だというのが私の考えです。
476 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 00:55:59
坂本龍馬は暗殺された後に検死はされてますか?
477 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 01:11:19
古来日本では日月旗が天皇即位の際に使われていますが、
これの元々の起源とはなんですか?
文武天皇が好んだ故に今も使われていると聞きましたが、それ以前は日月ではなかったのですか?
また、今遡れる最も古い日月紋様の入った調度品や御印はなんですか、具体的に教えてください。
>>476 当時のレベルの検死はしてるっしょ。外傷を調べるだけに留まるだろうけど。
コロンビア号が日本にきた時に100人くらいの日本人が乗船して歓待を受けたそうですが、もしかしたら、ほとんどが見物に来た町民だったのでしようか?
480 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 01:07:09
徳川幕府の将軍様はものすごく強権的なイメージがあります。それは例えば、
一日三色贅沢な料理を食べ放題で、美女や少女を抱き放題で、好きな時に
好きな場所で好きなだけ寝る事ができ、諌言する家臣は手討ちにして、反
抗的な家臣も上意討ちと称して隠密に殺害させ、顔が気に入らぬと言うよ
うなささいな理由で大名を改易し、逆らえば一族郎党皆殺しにし、ストレ
スがたまれば狩と称して郊外で百姓を射殺でき、辻斬りもでき、好みの村娘
や町娘はその場で御手付きにでき、逆らえば手討ちにし、庶民に重税を貸
し、無理難題をふっかけて困る所を高みの見物で喜び、逆らえば皆殺しに
し、性欲、食欲、支配欲のおもむくまま、自分の生きたい様、やりたい様
、だれに遠慮も無く生きていけるのが将軍さまだと思っていたのですが
実際、どこまで自由にできたのでしょうか?
徳田新之助まで読んだ
0点
>>480 それは北朝鮮の将軍様ではないでしょうか?
485 :
日本@名無史さん:2008/12/19(金) 21:48:14
日本は偉い人ほど質素倹約で身を慎むべしというプレッシャーがあるから。
たまに暴走する暴君が出ても、家臣に押し込められる。
486 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 01:13:55
どこで聞いていいか分からないので教えて欲しいのですが
1941年に制定された中等学校令によって4年に改められたとの事ですが
例えば1940年に入学した人は修業年限何年になるのでしょうか
>>486 基本的には「入学した年度の規定通り」だけど、戦時中は戦時体制特例法で、結果として短縮されたほうが普通じゃないかな。
中学ではないけど、まさにその頃にそのくらいの年代だった津村節子氏の自伝小説で、東京府立高女でそういう具合だったと書いてあった。
「茜色の戦記」かな。
何年度の人がどうとかいう具体的な数字は、何々学校の何年度の生徒はどうするとかいった特例法の類いを継ぎ合わせて、
結果として何年在学したはずか調べるしかない、のかな?
大老井伊直弼は兄の養子として彦根藩継いだそうですが、よそから来た本当の養子ならともかく
兄から弟でも養子にしないと相続認められなかったんですか?
質問です。
戦前の高等官なのですが、現在の国Iのようなものだと認識しています。
例えば帝大を出て高文に受かり大蔵省とか内務省で高等官として採用された場合、
最初はどのような立場でどのような部署に付けられるのでしょうか?
現代であれば、昇進速度はともかく最初は平からでしょうが、戦前は採用時から明確に
高等官であり他の判任官とかと待遇が違ったわけですよね?
いきなり係長とか課長補佐とかに補任されたのでしょうか?
490 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 04:30:51
長子相続が基本だから。
兄貴が藩主になると弟は基本的に家臣扱いになるから。
兄弟でも家臣に相続は筋が通らないので、いったん養子にする。
大名というのは茶道や花道の家とは違う。
あくまでも軍事政権だから、行動原理はヤクザのそれに近い。
親分が変われば盃をやり直すし、例えば親分が出世して大きな団体の跡目を襲名したら、子分のポジションも変わる。
司組の組長が山口組の跡目をついだら、
それまでの司組の子分はいったん盃を返し、
司組の新しい組長のみが山口組の直系子分となり、
司組の子分たちは改めて新組長と親子の盃を交わす。
システムとしてはそれにちょっと近い。
>>489 具体的なところは、日経の「私の履歴書」で、何人かが書いていたと思いますが、最近では元総理の福田(父)かな?
何人分か調べれば、非常に具体的な細かいことが分かるはず。
このご時世、「一揆、内戦、内乱スレ」をおねがいします。
493 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:33:40
494 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 23:36:28
これ有名なやらせ写真
495 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 00:03:47
>>494 やはりやらせ写真ですか
どういう方法で撮ったんでしょうか?
496 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 02:06:10
鎌倉幕府の執権や室町幕府の将軍と比べて、
江戸幕府の将軍は最後の15代・慶喜まで権力を持ってましたが
どうしてでしょうか?
>>495 どういうって? 単に前列の人の間から顔出してるだけとしか見えないけど、写真撮ったことがない人には何か奇妙に見えたりするの???
498 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:07:36
>>489 高文合格者だからといって、いきなり高等官に任命されるわけではない。
まず判任官の「属」(ヒラ職員)として任命され、事務官→書記官と昇進する。
判任官とは軍隊では下士官に相当する。
陸海軍士官の方が、陸士や海兵を卒業後、すぐに少尉(高等官)に任官するので、
先に高等官になれる。
499 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 12:15:58
ただ、戦前の高等文官の方が現在のキャリア官僚より昇進速度は速く、
内務省でも40代で官選知事や本省局長、警視総監、次官などになっている。
500 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 15:10:40
まぁ、あの時代は次官は上がりポストじゃないから。
その上に枢密院顧問や貴族院勅撰議員もあるからな。
現行法の国家公務員も、昔は旧制並の超速度昇進だったよ。
さすがに批判が出て遅くなったが…
>>498 戦前の士官教育だと隊付勤務や見習士官があって士官学校卒業して
すぐ、というわけじゃないんじゃなかったっけ? まあ二ヶ月そこそこだが。
それに昇進速度は本省と比べると圧倒的に遅いしね。
502 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 16:42:16
戦後は、さすがに40代で警視総監になったり事務次官になった例はないだろう。
少し前まで20代で警察署長や税務署長になる人事が行われたのは事実だけど、
本省にもどってからは上がつかえてるから、昔ほど早く昇進してない。
戦前は40代でなれたポストに50代で就任するようになったから、10年遅れてる。
503 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 20:48:37
昔の女性の髪形だけど、大坂夏の陣のあたりまでは長い髪を伸ばして下ろしてたのに、
家康の死んだあとくらいから、髷を結い上げた日本髪になるのはなんで?
秀忠時代に髪型がガラッと変わった印象があるんだけど。
偏った情報収集による錯覚です
505 :
489:2008/12/24(水) 17:25:55
>>498-502 遅くなりましたが、ありがとうございます。
採用後の成り行きは(速度の違いこそあれ)現代と同じようなものなのですね。
ただ次官の次にもポストがあるので、上がそれほど閊えてない、ということですね。
>>505 税制がまるで違うから、地位に伴う物の中身はまるで違うけど。
507 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 13:23:56
戦前の看護師についてですが、おそらく女性が多かったと思いますが
その人たちはどういう手順で看護師になったのでしょうか?
現在だと高卒後に専門学校なり大学の看護学部に進学というのが一般的ですが
昔はどうだったのでしょうか
509 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 23:33:21
>>509 ありました。
正確には「御目見医師」と書きます。
いわゆる御典医というのは朝廷内の医官のことで、江戸幕府においては(正確には)奥御典医と呼ばれ、
若年寄の監督下に置かれていたそうです。
いろいろ種類・・・というか、階級がありまして、典薬頭・表御番外科・表御番医師・奥御外科・奥御鍼治・奥御医師・
奥御口科医師・奥御外科医師・寄合医師・御目見医師・小普請医師などがあったそうです。
これらの医師は法印・法眼・法橋といった僧位も叙せられていました。
その中でも御目見医師は高位のもので、言うまでもなく御目見得(謁見)資格がありました。
まあ暴れん坊将軍の世界ですから(笑)アレですが、(待遇だけは士分ですが)士分ではない医師ですからね・・・
切腹はない。でも鋸挽か斬首獄門はありえるでしょうねぇ・・・
>>495 幕府自身の権力差によるものでしょう。
あと、鎌倉や室町は内部対立が次第に大きくなっていきましたから・・・
512 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 13:24:28
尋常小学校について調べてたら高等小学校という存在を知ったのですが
この高等小学校というのは義務教育なんでしょうか?
今でいう中学校になるのかな
513 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:21:38
尋常小学校(6年)が義務教育で、そのあと高等小学校(2年)があります。
昭和16年に国民学校に改称された後も、義務教育は初等科(6年)だけで、
もとの高等小学校である高等科(2年)は義務教育ではありません。
戦後、新制中学校の母体となったのは旧高等小学校です。
514 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 14:38:43
>>512 尋常小学校の義務教育は四年間、附属して高等科があり、引続き勉学する子は
二年間進学したようです。進学すれば六年間ですから現在の小学校同等となります。
ただし当時の高等科は義務教育ではなかったようです。
其の後、教育改革によって義務教育が六年間となり名称が尋常高等小学校と変更に
なったと聞いています
尋常高等小学校→高等小学校→小学校
515 :
514:2008/12/26(金) 15:09:03
祖父(94)から当時を聞いてレスしたけど間違っているみたいです。
申し訳ない!
昭和20年代の改革案では義務教育を8年にしようっていう案が優性だったみたいだから
(英国に近いかな)、戦争が無ければ高等小学校までが義務教育になってた可能性が
高かっただろうけどね。
>>510 暴れん坊将軍だからあれなのは言うまでもないとして、万が一こんな事態になったら医者たちの前に小姓と取次役が切腹だよな。
上様に斬りかかるのを許したんだから。
518 :
日本@名無史さん:2008/12/26(金) 22:24:35
>>510 お答えいただきありがとうございます。
最近、暴れん坊将軍にはまっていまして・・・ 理系の人間なので日本史は疎いのです
が、この典型的な勧善懲悪ものの時代劇から歴史に興味がでてきました。
ただ、これは実在人物を元にしたフィクションですので、上様が町に下りて
悪者をみねうちで倒す、などという事は事実とは異なる事は承知していますが、どこ
まで本物かわかりかねる部分もあります。
もう1つ皆様に質問よろしいでしょうか?
http://jp.youtube.com/watch?v=ruBAOqTycbc これにでてくる板倉修理という3000石の旗本ですが、板倉という名の大名は
聞いた事がありますが、板倉家において旗本の分家というものは存在していたのでしょうか?
それと5分40秒あたりの鍔迫り合いを見て思ったのですが、上様こと吉宗は実際
剣術は強かったのでしょうか?
>>518 大名や旗本は、家族関係が複雑なところが少なくありませんでした。
しかも元が武士ですから、特に跡取りでない下の子は、比較的自由なこともあって
若い頃、飲む打つ買う暴れるなど放蕩する者もいたわけです。
暴れん坊将軍こと徳川吉宗も四男坊でしたが、まあそんな境遇がタフな心身を育て
世情にも通じているという庶民受けする殿様として、フィクションの世界でも好まれて
使われたりしてるわけです。
でも現役になったらこんなことはまず無理。社会的立場が如何という以前に、時間の余裕がありませんよ。
しかし隠居したら話は別で、松浦静山(元平戸藩主)のように世情をひたすら探って
『甲子夜話』のような随筆を書くような人もいたのですが、これは珍しいほうといえるでしょう。
板倉氏は旗本をやっていた分家でも、筑後小次郎家(8000石)とかありましたが、
板倉修理といえば、逆恨みから細川宗孝(熊本藩主)を誤殺した勝該という人物がいましたね。
ただしこの事件は九代家重の頃のこと。
>>519続き
ごめんなさい。筑後小次郎家ではなく、筑後守(小次郎)家の間違い。
最後に、吉宗は関取と相撲を取ったこともある大男で、武芸を奨励した
ことでも知られていますが、剣術については免許を受けるほど
通じてはいなかったようです。
521 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 14:51:40
>>513 国民学校令によって義務教育は8年に延長された。ただし施行は延期された。
522 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:17:08
現在の女子の憧れの職業といえば、教師だったり看護師だったり女子アナだったりですが、
戦前の女性(1920年前半くらい)の憧れの職業はなんだったのでしょうか?
裕福な家庭ではなく中流クラス(農家?)の家庭の話でお願いします。
1920年代前半の中流クラスって何よ?
農家なら職業意識もへったくれもないだろうに。
524 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 22:37:28
>>518 板倉修理やってる役者誰だろうな?
「なに?余じゃと〜?」と斬り合いのシーン、いい味だしてるわw
526 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 10:57:42
カミシモが役人の服装として着用されてたのはいつ頃まで?
廃藩置県で藩がなくなった日まで?
527 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:17:05
忠臣蔵の松の廊下の場面で
浅野さんが吉良さんに襲い掛かる時に着てる長袴ってありますよね
その長袴の家紋に細長い布が付いてるようなんですが
あれは一体、どのような意味があるのでしょうか
なんかエロ本などの、形だけの修正みたいな感じで隠してるようですが…
お願いします
528 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:30:57
韓国併合について質問です。
・最後の皇帝純宗は韓国併合を批准したのでしょうか。
・当時の朝鮮での朝鮮人の反応はどうだったのでしょうか、内乱や反対行動などが起こったのですか?
・日本は一方的に韓国併合を押し付けたのでしょうか?
・日本は軍事によって朝鮮を攻めたのですか?
・朝鮮のインフラ化は、満州攻撃に備えるためのもので朝鮮人のためであったのでしょうか?
・当時の韓国併合は合法と考えますか?
併合には関係ないですが、朝鮮人には徴兵制が適用されたのでしょうか?
朝鮮人が戦地に向かうのは日本側の強制であったか、希望制であったのかどちらでしょうか。
量が多いですが、よろしくお願いします。
この質問に対して自分の中ではだいたいは答えが出ているのですが、客観的に見るためにも、答えていただけるとうれしいです。
529 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 13:11:14
>>522 >戦前の女性(1920年前半くらい)の憧れの職業
普通にいいとこの嫁さん
>中流クラス(農家?)の家庭
小地主や富農くらいなら、女学校に行かせるか習い事させて花嫁修業のあと、
嫁にやるのが普通。
530 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 14:17:12
上流〜中流家庭の女子は「良い奥様」になるのが理想だったろうね
外に働きに出るのは貧困層の女子だったから
農業に従事したり工場にはたらきにでたりさ
>>528 板違いの上にマルチかよ。
非常識な人間だな。
532 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 15:54:03
今の子は私立中学に行くわけでもないのに学習塾に通ってるそうですが(月謝も高いようですが)
例えば1950年代前半くらいの都市部でも同じような現象起きてたのでしょうか?
僕は人口3万人弱のド田舎で生まれ育った26歳ですが塾に行ってる子は
がり勉や勉強マニアと呼ばれバカにされてて塾に行く子は少なかったと思います。
詳しい方いたら教えてください。
533 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 17:16:45
源・徳川・松平 の違いを教えて下さい。
苗字?姓?
534 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 18:42:37
氏(うじ)・・・古代の氏族集団(源平藤橘や菅原・大江など)
のちに姓(せい)の字と混同して使用され、源姓と賜姓源氏とかの用例あり。
名字(みょうじ)・・・中世以降、居住地や所領にちなんで名乗ったもの(足利・吉良・今川など)
のちに氏(うじ、し)の字と混同して使用され、普通に足利氏とか吉良氏などと使われる。
源氏は氏族で、松平はその中の一名字。徳川は松平から改称した名字。
だから家康以下歴代将軍が名乗った「源氏長者」とは源氏という氏族の族長という意味。
535 :
533:2008/12/28(日) 19:10:18
>>534 よく分かりました。
有り難うございます。
536 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 20:44:29
蒙古襲来によって日本が変わった事で、それが現在にも繋がることってどんな事がありますか?
昔、その地区に住む人々の呼び方を調べております。
愛知県岡崎市なら「三河武士(みかわぶし)」「三河衆(みかわしゅう)」
鹿児島なら「薩摩隼人(さつまはやと)」
高知「土佐っぽ(とさっぽ)」
などなど全国各地で独特の呼び方など知っている方がいらっしゃいましたら
教えてください。
538 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 21:04:28
党
>>527 アレは布ではなく、8の字に結んでいる丸組みの紐です。
菊綴(きくとじ)といいます。前身頃の中央・後身頃の袖の継ぎ目・袖の中央の継ぎ目についてました。
装飾化していますが、本来は引っ張りから裂けるのを防ぐ補強のためのものです。
それからあの服は大紋といい、古代からあった直垂の一種です。
文字通り大きな紋を染め抜いたことに由来していて、江戸時代には長袴とセットになり
五位以上の大名の礼服になっているのですが、菊綴は室町時代から現れたようです。
>>526 礼服として廃止されたのは、明治五年十一月十ニ日の太政官布告373号で
大礼服が洋式に改められてからでしょう。
>>527で大紋が出てきたので、ついでに説明してしまいますが、
大紋長袴は大紋と長袴のセットで、これが大名の正式な礼服ならば、
長裃(ながかみしも)は裃(かみしも)でも肩衣と長袴のセットで、将軍から下っ端までの通常礼服。
ちなみに裃が肩衣と半袴になると、時代劇でお馴染みの武士の服装。
裃とは肩衣(上)と袴(下)のセットなのでこう呼ばれるものなのです。
そういえば、忠臣蔵で「明日の礼服は長裃」と嘘を教えられていたが、五右衛門が念のために
大紋も持参していたため、恥をかかずにすんだ云々・・・という話がありましたね。
それを信じた内匠頭が裃で来ちゃった日には吉良も怒られるんじゃないのかなと思うのだけど、そこらへんどうなんでしょうか?
当然、指南役も責任を問われる。
なので、お芝居の忠臣蔵の吉良の数々のイジメというのは、
幕府の内情を知らない庶民が考えたフィクション。
吉良が役職辞任したのも、浅野の不始末の責任を問われての自主的な行動とも言われる。
武士の行動原理ってのはヤクザのそれに近い。
吉良に落ち度がなくても、背中から切られるのは士道不覚悟と言われる。
吉良の息子は討ち入りで孤軍奮闘して重傷を負ったのに、父親を守れなかったことを咎められた。
544 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 07:45:32
薩摩には郷士が多かったみたいですが全員島津氏の家臣なの?
島津氏の家臣でない郷士っていたんだろうか
例えば扶持は貰わず百姓で食っていたとか
545 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 10:25:23
古代日本が大陸から律令制度等国家の機構を輸入した際、
それが輸入元と別物に変貌したのはいつごろでしょうか
それとも別物というほど大きな差異は発生しなかったのでしょうか
また鎌倉以降の幕府の機構は頼朝他のオリジナルだったのでしょうか
それとも大陸や京の朝廷に模倣する要素があったのでしょうか
546 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 10:54:47
>鎌倉以降の幕府の機構
政所とかは京の摂関家とかの家政機関の模倣でしょう。
もともと鎌倉幕府は、鎌倉殿頼朝の家政機関が拡大していったものだし。
>>545 大陸の律令制とは差異がありましたが、導入時に決定的な変貌はなかったように思います。
ただ導入時既に大陸では破綻していたこともあってか、日本においても直ぐ破綻してしまいましたが。
幕府の機構は、元々平家による武士団統括の私的な家政機関に基づいています。
守護地頭、藩主らの地方武官は朝廷に認証(あるいは追認)させる形になっていたので、
朝廷の制度に同調する要素は当然ありえたわけです。特に官名においては。
しかし、その上の幕府の機構自体はオリジナルといえるものでしょう。
私的機関でしたからある意味当然なのですが。
なお、大陸での都督や節度使らの組織は、(建前上は)権限が軍事に限定されていたもので
かなり異なります。
548 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 16:07:13
550 :
日本@名無史さん:2008/12/29(月) 23:29:17
>>544 島津家が薩摩藩の藩主である以上
薩摩藩内に住んでいる郷士は皆島津の家臣
小藩だろうが藩主として独立しているならともかく
>>548 一方的に「後継者は○○にしろ!」というような、足利義満や義教が
やったような類いの家政干渉はしてないはず。
ただし、内紛などの裁定をしている例はしばしばある。
最上騒動や黒田騒動などがそうかな。
(ただし、江戸時代初期の御家騒動は、家臣団の主家への帰属意識が
薄かったという点が要因の一つにあり、最上騒動のころから裁定の
性格が変わってくる)
新政府・朝廷側が徳川家を潰さなかった理由きぼん
>>522 戦前は、「良妻賢母」が一番のあこがれで、「女だてらに」職業に就くことに憧れるとかいうことはなかったみたいですね。
「女性が選びうる職業」自体がごく限られていて、実際にやった人を直接知っている範囲では、教師とか、看護婦とか、洋裁の技術者とか。
職業に就こうとする例外的な人のばあいなら、それらが、まあ、あこがれの職業だったのかも。
実際にやった本人、叔母とか祖母とかは、そんな自慢たらしいことは言わなかったですけどね。
>>529 そういう感じですな。
>>530 そうね。
「工場にはたらきにでたり」といえば、「女工哀史」なんてので、いかにも「ことさらに酷い目にあわされた」みたいに勘違いされてるけど、
冗談じゃなくて、衣食住が曲がりなりに確保されて、給与もあるというのは「上々」だったそうで、悲惨な例はもちろんあったにしても、
それにしても、親元にいたら安穏でいられたなんてことは全くなくて、そのままでは共倒れになるから「口減らし」に出されて、
工場で働いたおかげで、少なくとも当座は共倒れにならずに済んだわけで。
>>552 んー、家を潰すって具体的に考えてみたが
(1)当主の死
(2)後継者の死(あるいは不認可)
(3)不動産と動産の収公
ってところか?でもなー
慶喜は大政奉還のあとさっさと家督を譲ってしまったし
後継者といっても、慶喜にとっては選ぼうと思えばいくらでも用意できたし
収公といっても多すぎてすぐにはできんし
おまけに幕府はなくなっても、徳川家の「家臣」は山ほどいて、しかも軍備があったし
現実無理な相談じゃねーか?
徳川家から藩を切り離すだけならまだしも。
556 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 00:28:08
558 :
日本@名無史さん:2008/12/30(火) 19:11:10
渡良瀬川と利根川に挟まれた館林周辺が
何故栃木ではなく群馬なのか、つまり、
なぜ毛野があのような形に分割されたのか、
思い当たることがありましたら教えて下さい。
気になって年を越せません。
>>559 ? 単に、川が境になっているだけじゃない?
気になるなら年は越さないでけっこうです。
>>560 この部分が突出していて変な感じですが
やっぱり自然国境ですか。朝廷が毛野の勢力を削ぐために
故意に中心部を両国に分けたのではないかと思ったんです。
563 :
日本@名無史さん:2008/12/31(水) 22:07:34
摂家の門流について、二条家は4家、鷹司家は8家に過ぎませんし、
羽林や名家の内家格の高い家、主流の家は多くがが他の3家に属し、
二条・鷹司の門流はほとんどがあまりパッとしない家ばかりです。
摂家筆頭の近衛家が一番多いのはまあなんとなく納得がいきますが、
二番目に多いが一条家で九条家のほぼ倍と言うのも不思議で、
しかも清華5家(非門流を除く全て)が集中しています。
どうしてこのような偏りが出来たのでしょうか?
また門流の質・量は摂家にとってどのような意味があったのでしょうか?
あるいは二条家等は門流を持つことにデメリットを感じて、
あえて門流を増やさなかったのでしょうか?
また逆に非門流の家は門流となることが出来なかったのか、
あるいは非門流であることにメリットがありあえてそうなったのでしょうか?
>>562 その当時の河川の通り具合は知らないけど、現時点での地勢を案ずるに、特に何の不審もなさそうだけど?
藤岡遊水池あたりは、近代の改修以前の川の筋道沿いで、「今見ると不自然なグネグネ」だったりするけど。
ひょっとして、地勢を書いてない白地図みたいなのを見てない?
565 :
559:2009/01/02(金) 03:03:02
566 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 13:47:17
なんで和弓って下が短いの?
>>566 Wikipediaでいいから調べて読んでみて
問;1960年の安保条約改定過程における、沖縄が「防衛区域(適用区域)」から排除された最大の理由は?
宿題をそのままここに書き写しただけで、答えを教えて貰おうというその魂胆が気に入らない。
>568
沖縄が日本に返還されたのは何年?
戦国時代に日本にやって来た西洋人は南蛮人と呼ばれていましたが
これは「南から来た野蛮人」の略でいいのでしょうか?
>>573 支那の中華思想では、中州の外の人ははそれぞれ
東夷、西戎、南蛮、北狄とよばれてたので、結果的に
南からやって来る事になった西洋人も南蛮と呼ばれただけ。
577 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 18:58:36
俺は子供の頃から近所の方々から○○坊と呼ばれた。
今でも里帰りすると年配は○○坊と云うよ。
因みに武士→士族の家系
>>576 中国人かい?
普通「○○坊」と呼びかけるなら男児に対して使うのが
当然の用法なので、ここでは女児に対して使われる事が
あったかどうかを問うた方が建設的だと思う。
なおリンク先のテレビドラマの題がそもそも『暴れん坊将軍』
なわけだけども、実際に18世紀の日本語をきっちり考証してる
わけではなく完全に現代人向けになってるのであしからず。
>>577 >>578 ありがとうございます。「**坊」との呼称は現在でもあるんですね。
私の周りには居なかったので気がつきませんでした。
「おーい竜馬」というマンガでも、千代という女児に「お千代坊」との
呼称が使われていたし、この『暴れん坊将軍』の「おさき坊」の話の件も
時代劇の中では時代考証が比較的なされていると聞いていたので質問させ
ていただきました。
>>575 ありがとうございます。
野蛮人みたいに見えるのに野蛮人じゃなかったんですね(´・ω・`)
581 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 22:49:31
大学生なんだけど今まで本当に歴史が嫌いで避けてきたせいで本当に何もわからない。
でも最近興味持ち始めたから勉強したいんだけどどうすれば良い?
図書館で漫画日本史が無難かね?
漫画日本史が無難
小学館のはよくできてるよ
>>581 いいんじゃない。
受験のための勉強と違って、何年にどこで何が起きたとか、骨と皮だけ憶え込む必要はまるでなくて、要するに
「ほう、こんなことがあったのか、こんな人がいたのか」と面白がれるようになればいいわけだから。
できれば、活字だけで面白がれるようになるほうがいいけど、そんなのは後回しで済むし。
ムック類もいいんじゃないかな。
前後関係が分からないことには年号を覚えたって身に付かないと思う。
鎌倉時代が室町時代より前の時代だということも分かっていないと話にもならないだろうし。
>>581 私は歴史地図見たり、年表見たりしていました
>>585 骨と皮だけでも足から頭まではたどれるじゃない。
質問の人は、今さらそういう形の勉強をする気は毛頭無いだろうけど。
「時代の後先」とかは、とりあえずは関係ないんじゃないかな。
いわゆる三国志の時代がいつなのか、どころか、どこの国の話なのかさえも分かってなくても、物語としては十分に楽しめるということもあるわけだし。
断片的に「知人」を増やしていって、その後で前後関係が気になったらつなぎ合わせる、というので十分じゃないすか。
588 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 10:10:14
歴史に興味を持ったきっかけはどうよ
俺は物心ついた頃から祖父に先祖の話を聞かされていたのがきっかけだね。
小学校の頃は教科書とかノートに城とか鎧兜を落書きして母に叱られたものだ。
589 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 13:18:43
坊ちゃんって夏目漱石の本にあるね
子供を大人がボクって呼ぶのも坊→僕の変化につながってるのかもね。
歴史の興味が出てきたなら
吉川英治の三国志を読んだり、中古の信長の野望全国版でもやってゲームを楽しめれば、いろいろ興味でるんじゃないかな?
春秋戦国時代における政戦略や奇策による戦術で劣勢を挽回する天才の話や、老子や孟子など個性的な指導者の逸話とか諸子百家の思想とかも面白いし。
他に東京裁判に関わるSMAP中居くん主演「僕は貝になりたい」の映画見て興味出てきたら、太平洋戦争史や日本擁護本を読むと今まで学校で習ってきた程度のつまらない話ではない生きた人間達のドラマがあるし歴史って視点によって180度評価が変わるからモノの考え方が広がるよ。
590 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 18:13:14
正倉院の宝物って全部合わせて時価いくらぐらいなの?
ペルシャとかシリアの産物がいい状態であるって事は歴史的にもすごいよね?
591 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 19:21:18
>>590 夕方にNHK見て思いつきで質問してんだろ?
思いつかずに質問するのは不可能だ
593 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 21:06:18
肥前鍋島って龍増寺(変換テキトー)を下克上したの?
594 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 21:26:09
中国での戦争について書かれた小説で、こういう描写がありました。
すなわち、今の鹿児島県出身の兵士は中国人から非常に恐怖されていた。
「チェーイ」という奇妙な雄たけびを上げながら白刃をふるって突撃してくるその姿もさることながら、ある二つの風評によるものである。
それは、「倒した敵の肉(正確には肝)を食う」、及び「捕らえた敵兵(男)をレイプする」という噂である。
つまり彼ら(中国人の兵士)は「食われる」恐怖と「犯される」恐怖に取り付かれていたのである。
というものです。
続く文章で「これはまだ薩摩隼人と中央政府から蛮族としてさげすまれていた時代の風習である」とされていたのですが、
はたして古代の薩摩では本当にこのような風習が存在していたのでしょうか?
人肉を喰らうのも男色レイプが横行するのも何れも支那の戦場の風俗。
明兵は強敢な薩摩兵児の猛攻を受けて、己の影に怯えてそのような噂を作ったのだろう。
薩摩の風俗(日本の他の地域と違って、獣肉を結構食べる)と日本の衆道(武家社会では同性愛がタブーじゃない)の
件が元になって尾ひれがついたんじゃね?
しかし、むくつけき男性兵士の捕虜をチョメチョメするなんて、いくら戦場とはいえなあ。。。
>594
・何故、著者と書名を明示しないのですか?
・鹿児島県出身の兵士と断言できるのであれば、部隊名と場所と日時を明らかにしてください。
分からなければ著者に問い合わせてください。
・戦場という極限状態ではどのようなことも起こりえます。あったかも知れないし、なかったかもしれない。
しかしながら一部の事例をもとにそれを普遍化するのはさけるべきです。
察するに古代薩摩では幾つかの蛮習があるということを知った著者が、
あなたの仰る事例を“噂”として妄想の翼をひろげたのではないかと思慮いたします。
>「食われる」恐怖
人の肝が特定の病気に薬効があるという誤った民間伝承は世界中にあります。薩摩隼人だけのことではありません。
>「犯される」恐怖
世界ではあなたが想像すらできない蛮行が、戦時でなくとも恒常的におこなわれています。
一部地域に限定する意図が全く分かりません。
599 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 22:47:55
>594
伊達正宗の軍記に誇らしく敵将の人肉を食らう記事が頻繁に出てきます。
東北で新政府が行なった、とされる記述はこれからの複写的引用です。
600 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 23:12:17
江戸時代以前の日本では牛豚などの獣肉をほとんど食べなかったそうですが、
むかし学校の歴史の授業ではそれが仏教の殺生禁止の影響だと習った記憶があります。
しかし、そうだとするとなぜ魚を食べるのは平気だったのでしょうか。
魚肉はよくて獣肉はダメというのはどういう理屈なのでしょう?
イノシシはどうだったかな。
宗像教授にはイノシシだといって人を食うという話があるが。
鶏はどうだろう?
単純に経済原理
肉食を禁じられているキリスト教徒も魚は例外として食べることができた
>>594 そりゃぁ、ハヤトと島津が血統的に別人種だと知らないか、知ってて
ワザとやってるかのどっちかだな。
人食い人種に朝廷の奥深くを警護させるとは、朝廷も太っ腹w
604 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 00:30:37
戦国三美少年と云えば、名古屋山三郎、不破万作に浅香庄次郎ですが、
或る本(小説・フィクションの類ではありませぬ)に、三人目の浅香氏は
「京極高次の小姓」と書かれていました。
ふつう、この浅香氏は「木村伊勢守の小姓」とされていますけれど、
京極高次に仕えたこともあったのでしょうか?
よろしく。
>>594 チェーイってなんだそれ?示現流のつもりか?
示現流が薩摩藩お抱えの流派になったのは初代薩摩藩主家久の代だぜ?
607 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 05:33:24
>>582-588 たくさんのお答えありがとうございます。
ですね、図書館で(あれば)小学館の読みます。
まさに
>>584みたいな勉強したいです。
何も知らない僕が言うのも何ですが、歴史って物語としてすごく面白いと思うんです。
だから漫画で全体をぼんやりつかんで、個別に好きな時代、人物、事件についてさらに知りたくなったらまた来ます。
ありがとうございました。
>>607 知れば知るほど面白くなるから、趣味として息が長いです。
ま、プロから見たら「そういうのはちょっとなあ」という感じはあるに決まってるけど、そのへんがアマの特権ですな。
>>609 三成に仕えたの、木村の後なのか先なのかよくわからん。
611 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 15:22:16
肥前鍋島が龍造寺配下から君主になったいきさつを教えてください
593 名前:日本@名無史さん 投稿日:2009/01/04(日) 21:06:18
肥前鍋島って龍増寺(変換テキトー)を下克上したの?
614 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 17:37:39
スルー
>>597 戦って死ぬのはともかく、掴まって悉く犯されるなんて言われたら戦いたくないよなw
616 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 20:07:09
>>609-610 まことに以て忝ない。
なれば、この水野庄次郎(浅香左馬)の生没年は分かりませぬか?
>>615 勝ったら食べちゃうぞ、のほうがいいか?
時代劇のパターンでありがちな話ですが、悪奉行や悪代官が地元の商人
とかやくざと組んで政敵を暗殺したり、百姓町人に狼藉を働くなどと
いった事例はあったのでしょうか?
>>594 「人間の肉は美味しい」冷蔵庫に4歳少女のバラバラ死体
中国・広州日報(Guangzhou Daily)によると、広州(Guangzhou)市のアパートの冷蔵庫から4歳の少
女のバラバラ死体が発見され、警察は少女と同じアパートに住む出稼ぎ労働者の男を逮捕した。
警察の発表によると、逮捕された通称A He容疑者のアパートの部屋の外に残っていた血痕から
逮捕につながった。同容疑者は精神疾患にかかっていたとみられ、周囲の人たちは容疑者が人間
の肉は「美味しい」と語ったのを聞いたこともあるという。
前週2日朝から行方不明となっていたLi Lingliちゃん(4)の遺体は、A He容疑者の部屋にあった小
さな冷蔵庫の中から警察が発見した。Lingliちゃんが行方不明になってから、警察ではLingliちゃん
が住んでいた賃貸アパートに入居する50戸の捜索を進めていた。血痕に最初に気づいたのは、Lin
gliちゃんの祖母だったという。
近所の人たちによると、A He容疑者は人付き合いは少なく、家にこもりがちだったが、時々女性も
のの衣服を着て人前に現われていた。また、近隣一帯で共有のテレビを見ている際に、興奮すると
独り言を言っていた。A He容疑者は特に戦争映画を好み、ある住民によると、戦闘で人が殺されて
いる場面を見ているときに「人肉は美味しい」と発言したことがあったという。(c)AFP
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2554753/3655534
奉行所の同心は幕府の役職じゃないですか、給料幕府から出ている訳じゃないですか。
身分としては御家人とか旗本って事でいいんですか?
>>621 御目見得以下なので、御家人になります。
>>618 辻斬りや罪無き庶民の娘に狼藉を働き、辱めたとして改易された武家は
かなりあります。
江戸時代は江戸の町中でレイプしても罪に問われなかったとか
歴史トリビア番組でやってたが、嘘だったんだ
>>618 よく知らんけど、実際には「領地を与えてやっている大名共に対する統治のお手本を示す」ということで、
少なくとも無茶苦茶なことはできるものではなかったとかでは?
>>623 なるほど、あったわけですね。
ただ、「時代劇と同じように」無茶苦茶なことのやり放しはできなかった、という感じですかね。
>>624 レイプそのものが犯罪として扱われていたかまでは知りませんが
領民に対するレイプ、あるいは職権をかさにしたものは領主、役人として
の信用失墜行為と扱われ、事情次第では改易の理由となります。
ただし、昔の人は名誉を重んじるのでレイプが明るみに出る事は
滅多に無かったようです。被害者側が泣き寝入りする事が多く、
自決する人も珍しくありませんでした。
628 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 15:37:31
どこで質問させていただくか迷いましたが、
こちらが一番相応しいと思ったので
質問させてください。
坂本竜馬について勉強してみようと思うのですが
わかりやすくて読みやすいオススメの本がありましたら教えてください。
とりあえず何も知らないならこれ一冊読んどけばオーケーって本です。
よろしくお願い致します。
629 :
日本@名無史さん:2009/01/07(水) 19:05:01
戊辰戦争の悲劇として知られる二本松少年隊は
木村銃太郎の率いる隊と交戦した新政府軍側の記録があるのに
会津娘子隊のそれは記録に無いんでしょうか?
>>628 とりあえず「あくまで面白い読み物」として司馬遼太郎の「龍馬が行く」とか。文庫で何分冊かな?
もっと短くまとまっていて面白いというのは、何かあるかも知れないけど、知らないです。
まあ、面白いと思うかどうかは本人が決めることだから、図書館とかで借りてみるとか。
皇室って言葉はいつ頃から使われ始めたのでしょうか?
やはり明治以降からでしょうか?
日本で馬車が普及しなかった件について色々言われていますが
導入したがこういう訳で使えなかった、という記録は残ってないんでしょうか?
633 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 19:55:12
>>632 「導入を試みた」という史料は見たことがない。
山や谷、川、と起伏の激しい日本の大地は
馬車でかけると脱輪、転倒が考えられたためそもそも
導入を全く試みなかったのでは?
日本では戦時や長距離の移動には乗馬、
それ以外や女性の移動には人が担ぐ輿が用いられていた。
馬車が輿を上回る乗り心地ではなかったのだろう。
>>632 日本の馬は小型で、馬車にするなど無茶。
何しろ現在の区分だとポニーになるから。
牛の方が力がある分マシだったのだろう。
635 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 20:21:14
>>634 ポニーみたいな馬に乗馬していたことを考えれば
車輪をつけた馬車のほうが馬の負担は少なかったと思うが。
でも、都大路を行き来したのは牛車だったっけ。
馬はスピードが出る分馬車は都合悪かったのかな。
牛車は牛飼童と呼ばれる子供が引いて歩いており、
子供が歩行する並みのスピードだった。
日本の馬の体格が今でいえばポニークラスなんてのはデマだが…
まあアラブ馬やオランダ馬とは比べられないことは確かだが。
馬車は戦国時代の一時期には用いられていたが、江戸時代に入ってから消えていった。
理由は徳川の保守的な政策によるもの。
>>634 馬の区分について断定的に述べているけどなんらかの史料に基づいてる?
そうじゃなきゃテレビ番組のネタの受け売り程度でしかないのだが。
日本在来の馬についてはもう少し系統付けて論ぜられる必要があると思うのだが
日本史板に出入りしている人でさえも在来馬=ポニーという結論を前提にしているのは
いかがなものかと思う。
>>635 車体重量も考えてね。車輪があるといってもきついだろ。
>>636-637 在来種=ポニーというのを当然のように前提としている。
間違っているというなら申し訳ないが、在来種が自動的にポニーになるわけではないというなら、それこそ根拠がほしいが。
なんで明治維新からきわめて短期間に日本の馬が絶滅寸前になったかを考えると在来種にも大きいのがあったと言われてもいまいち信じがたい。
639 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 23:53:05
>638
どこかのスレで読みかじった話だけど、
日本馬=ポニーってのは宣教師が本国に当てた手紙に「日本の馬はポニー並み」と書いてあったことから来ているらしい。
だけどポニーってのは小型の馬の総称で、130pのモンゴル馬もポニーに含まれる。
しかし日本人はポニーと聞くと100pのポニーしか思い浮かばず、そのことをそのまま本にした奴がいたせいで誤解されるようになったらしい。
640 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:36:48
1876〜1914頃の政治状況と経済状況と恋愛・結婚観をそれぞれ教えてください。
641 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 02:57:03
今の公務員に一律半知借し上げみたいなことできないんですかね?
戦国時代の馬はモンゴルの馬とほぼ同じ
見た目がずんぐりしてるけど、
現在のポニーとは全然違う
詳しく反証しているサイトがどこかにあったな
戦国時代の真実などとして喧伝されている嘘には他にも、
・男色の大流行(信長と乱丸、利家などは信憑性なし)
・騎馬隊の完全なる不在
・謙信が略奪や人狩りを目的に遠征していた
・今川は東海道一の弓取り(あくまで現代の批評、当時そう呼ばれた形跡なし)
なんかが有名だね
643 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 08:27:41
戦前の話ですが、旧制中学に進学する率はすごく少なかったと聞きますが
卒業後の進路はどういう風だったのでしょうか?
今だと良い高校入って良い大学入ってってのが一般的?というか理想とされてますが
戦前はどうだったの?
644 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 12:55:02
はじめまして
日本史板なので、ほとんどが史学科や史学科卒の方だと思いますが
そこで質問させてもらいます。
史料の語句を調べる際に、大体は日本国語大辞典を使っていると思いますが
カシオの電子辞書エクスワード(XD-GW6900)に内蔵されてる日本国語大辞典[精選版]は使いやすいですかね?
もし使ってる方がいたら使い心地やメリット・デメリットを教えてください
本当は他の板がいいかもしれませんが、
日本史に関する質問なのでここに書かせてもらいました
長々とすみません
>>638 幕末日本にきたシュリーマンも「ポニーというけれどポニーのそれより大分大きい」
という感想を述べている。
あなたの頭の中でのポニーがいかほどの大きさか知らないけど
かなり極端な説を何の検証もなく信じてしかもそれを根拠に妄想されても。
そもそも馬車が日本で用いられなかった理由に大きさを第一にしている時点で
根拠のない想像で論じるというかなり無理をしていることになる。
>>643 昔も同じ。
良い高校(または大学予科)行っていい大学行って、果ては博士か大臣か、が理想。
または士官学校か兵学校に入って士官に、という道もある。
前者は、官僚なら大学の政治経済系の学部を出て高等文官試験を通るのが一般的。
後者の場合、陸軍だと幼年学校組が幅をきかせてるから中卒だと出世は厳しかった。
士官になる方が先に高等官になれたが、官僚の方が昇進速度は速かった。
>>639 だから、「サイズ区分」として「日本の在来馬はポニー」だといって、それに対してデマだとのレスをもらった。
じゃあその根拠は?ってこと。
馬の品種としてのポニーって実在するの?大人になっても大きくならない馬をポニーっていうんじゃないの?
極端な話ナリタブライアンと雌のサラブレッドとの間の子供でも、何らかの事情でちっちゃいままならポニーじゃないの?
(もちろん遺伝的にそれがあり得ないからサラブレッドなんだろうけど)
649 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 21:24:58
>>627 庶民レベルでは被害女性の親兄弟による報復、村八分が待っているから
それほど頻繁には起こらない。
村の中でレイプなどする男が出れば、その男の親兄弟は
もうその村に住めないから。
大奥や内裏で将軍や天皇の手がつくのはレイプとは言わないでしょ。
だからちっちゃい馬っての例えでポニーという言葉が用いられたんだろ?
それがイメージとして定着しちゃって種としてのポニーと混同され、
さらには日本の在来馬はポニーとかいう輩まで登場しちゃったと。
要するにポニーという用語を用いてるその本人の認識がどうなってるかが問題だけど
当然のように「日本の在来馬はポニー程度の大きさだった」などとしたり顔で言えば
何の知識もない人は普通にいわゆるポニーのサイズを想像するだろ?
それともそうに違いないと断定したいのかい?
だから「いわゆるポニー」ってのはなんだ?
もうちょっと不毛な罵りあいが続くだろうから観察しておこう
いや、もうやめよう。
>>638がひとりで「在来種=ポニーというのを当然のように前提としている。」
と言ってるだけだろ。
それに対して多数の反論があったわけで、それで十分だよもう。
654 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 23:21:47
>>646 では就職となるとどこに就職するのが周りからうらやましがられたのでしょうか?
今だと公務員や電力会社が勝ち組のような扱いされてますが戦前はどうだったの?
>>644 辞書は知らんけど、一般的ではない用語を頻繁に使うなら、日本語変換システムはWinの標準のmsimeよりATOKのほうが便利。
>>653 反論が反論になってないっつうに。サイズ区分としてのポニーに在来種が当てはまるのは事実だろ、そしてポニーという種類の馬は存在しない。
ポニーというのはサイズ区分の事だ。
だから反論があったというのなら、その内容はポニーに当てはまらない在来種の存在をあげてもらわないと。
でググってみたがみんなが反論しているつもりの「ポニー」ってのはシェトランドポニーってやつか?ウィキによると100cmらしいし。
「ポニーに含まれる馬の種類の一つ(で代表的なんだろうなきっと)」ではあるが、「ポニーという種類」ではないぞ。
勝手にポニーという言葉に自分の想像した種類を当てはめて、「反論している」といわれてもねえ。
こっちは馬の種類なんて詳しくないし。
ポニーは、イギリス基準だと体高148cm以下の小型馬の総称であり、品種ではない。
日本の在来種馬はだいたい100〜130cm程の体高で、ポニーの範疇に入れられている。
馬車馬に使うには、用途や馬車の大きさにもよるが、体高100cmもあれば十分利用可能。
日本馬の体格が小さいので馬車馬には使えないと言うのは誤り。
ポニーの中には乗馬に使われる種もいれば、馬車馬に使われる種もいる。体高50cmくらいの愛玩用馬までいる。
範疇が広すぎなので、日本馬をポニーの一語に括って用途を論じても意味がない。
>>656 お前そうとう頭悪いな。
まあ、デマを鵜呑みにしてるだけのことはある。
勝手に馬車が使用されなかったのは日本の馬がポニー並みだったからって思っておけば?
ただ根拠もないのに初心者に偉そうに自説を語るのだけは止めてくれ。
脳内だけにとどめておくのは何も問題ない。
http://mltr.ganriki.net/faq22e.html 【質問】
戦国時代の馬って小さかったの?
【回答】
「戦国時代の馬はポニーと同等以下の大きさ」というのは,それを言った歴史研究家が日本の在来種である木曽馬が「ポニー」に分類される大きさというだけで小さいと早とちりして広めた話.
実際には木曽馬はポニーに相当すると大型の部類ということになるサイズだし,一般にポニーとしてイメージが定着している種類は,ポニーの中でもかなり小型の部類の特定の一種の事.
でもって,発掘された戦国時代の馬の骨の復元からすると,当時の馬は木曽馬よりも大型だという(つまり,違う種類というわけで…)
660 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:12:23
武士の子供がみんな武士になるとすると
少なくとも
江戸の260年間だけでも
世の中武士だらけになってしまうと思うのですが
なぜそうならなかったのでしょうか
661 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:16:32
>>660 家督を継げるのは長男だけ。
いわゆる次男以下は「部屋住み」で、兄が死んだり、
後継ぎがいない家の養子にならない限り当主とはなれなかった。
江戸時代初期には豊臣の息のかかった大名や不祥事があった大名などの
お取りつぶしが相次ぎ武士全体は縮小傾向にあったが
幕府に功があったものの取り立てなどで逆に増加した
その結果が増えすぎた支配階級の自衛策としての「貧粗倹約」だった
歴史群像アーカイブ戦国合戦入門って本がちょうど今、発売中だけど。
その中に書いてあったのは
・江戸末期の書物によると、当時の分類では肩甲骨までの高さが4尺(121cm)が基本(小馬と呼ぶ)で、
4尺5寸を中馬、5尺を大馬と呼ぶ
・軍記ものに出てくる鎌倉-戦国期の名馬といわれるものは、概ね140cm以上
・鎌倉材木座で出土した馬の骨の平均は129,5cmで上記の名馬よりかなり小さい
(蒙古馬は140cmくらい)
・西洋の分類でいえば、148cm以下をポニーと呼ぶので、当時の日本の馬はそれよりも小さい
・中世ヨーロッパで騎兵用だったノリーカー種の平均は147cm
・当時の日本人の平均身長は150cm(現代は約170cm)で、馬と人の対比でいくと
西洋人とサラブレッド(160-165cm)と同じ割合い
などなど。
その他いろいろな点から、戦国時代は騎馬隊は存在せず下馬戦闘が主だったという
説に対する反論のような内容だった。
つーか、
・車輪が存在し、牛車や荷車(大八車とか)という使用例もある
・馬を用いた輸送業(馬借)も存在しているし、農耕馬も存在しているので
馬が牛よりはるかに高価ってわけではなさそう
のに、この2つを何で組み合わせなかったのか? ってことを議論することが大事なんじゃねーの?
663 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:48:49
>>661 ありがとうございます
次男以下の子孫たちは
どういう身分になるんですか
単純に日本が山ばっかだからだろ
荷車引きながら勾配を行き来するには坂に弱い馬より牛のほうが都合が良かった
江戸時代には荷車を馬とかで曳くのを禁止されていたっていうから
禁止される前はいわゆる馬車ってあったんじゃないかと想像してる。
具体的に史料見たわけじゃないからいい加減だけど。
http://jp.youtube.com/watch?v=E-Y-IVsmbGc この動画の6:25秒から見ていただきたいのですが、諸大名の子息が江戸にて
殺人を犯した場合、その子息は幕府により捕縛されて処罰されるんでしょうか?
それとも、各藩によって独自に裁いていたんでしょうか?
そして、よく将軍家は自らを「余」と称していますが、この動画では1万8000石
の大関家の当主が「余」といっております、この表現は将軍家に限らず、各大名家や
旗本家で使われていたんでしょうか?
昔の絵を見ると馬はみんなそれなりにでかくて体格がよい
とてもじゃないが今でいうポニーとは似ていない
昔の人全員が示し合わせて捏造したのか?
>>660 武士の子が武士になるとなんで武士だらけになるんだい?
農民の子だって農民なんだから武士の割合だけが増えるというのはそもそもおかしいでしょ?
農民や町人は子を残さないとでも言うのかい?
明治以降は使ってたみたいだな。大久保利通が馬車の中で暗殺されたのは有名。
ちなみに明治の頃、馬車に乗れるのは勅任官(おおむね現在で言う指定職)
以上の特権だったとか。
みたいだなって…常識だと思ってたけど。
鉄道馬車は結構すぐに廃れちゃったけどな。
人力車というオリジナルが末端交通の中心として長く続くね。
馬車は所詮西洋がぶれの乗り物でしかなかったわけで、
身分の高い人物の乗り物という立場以上には広まらなかったね。
江戸時代の4つの重罪とは何ですか?姦通、放火、尊属殺・・?
それと江戸時代の村制とは何のことですか?
>>666 余という一人称は下級武士も使っているし、明治時代には一般人も使っています。
松平健が使ったから貴人の言葉のようなイメージがありますが、普通の一人称です。
>>662 ヨーロッパと比べ雨の多い日本では必然的に地面がぬかるんでいることも多くなる。
道が狭いし舗装されていないからあまりスピードが出るのは返ってデメリット。
日本で馬車って維持費の割に使うメリットが思い浮かばない。
牛に比べて高くないだろっていう説もあったが、馬を市場で売るってのは聞いたことあっても牛を売るってのはあまり聞かないから、
「市場価値」が牛より高いくらいには貴重品だったのではないかな。
やっぱり馬車は大平原で使う物だよ。
黄河流域くらいだった頃には戦車が決戦兵器だったのに、山岳戦も増えた漢と楚の戦いの頃には過去の兵器になっているし。三国志にはでても来ない。
674 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:54:32
馬の場合、徳川時代には車は使わなくても、荷物を背負わせて街道を隊商が行く光景はよく見られました。
五街道然り、鯖街道しかり。
問題は、何故江戸時代では車は存在していたのに禁止・制限されていたのか、ということでしょう。
>>674 川に橋を架けなかったのと同じじゃないかな
導入しようって意見も出たけど、「そんなものを許したら飛脚や籠が失業してしまう!」
って反対意見が出ておしゃかになったと聞いたけどな…
>>673 そうだったんですが。ありがとうございます。
大名家の人間が江戸にて犯罪を犯した場合の処罰は幕府なのか諸藩なのかは
わからないでしょうか?
>>677 幕府だと聞いた覚えはあるけど、自信はあまりない。
その土地での裁判権の第一はその地の領主、天領なら幕府だろうと思うよ。
犯人の何とか藩の藩士だという話が事実とは限らないし。
679 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 08:09:39
1860年頃の江戸で、ちょっと遠い距離の移動はどうしていたのでしょうか?
現在の東京駅辺りに在住在勤の武士が吉原へ遊びに行って帰ってくるのは、
やっぱり籠でしょうか?
それとも直線距離で6kmほどあるのですが普通に徒歩でしょうか?
吉原へ行ったはいいけれど急ぎの用で帰らなければならない場合など、どうしていたのでしょう。
よろしくお願いします。
680 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 08:14:20
>>659 そんなヲタサイトをソースとして持ち出すようなやつは日本史板に来るなよ
ここは学問板だぞ
軍事板みたいなヲタの隔離板と一緒にすんなよ
と日本史オタがなんか言ってます
そこ異論聞いて間違ってるなら訂正するみたいだからやってみれば?
>>679 「普通に徒歩」です。急ぐのなら走るしかありません。
辻駕籠は金がかかります。しかも乗るのには制限がありました(後に撤廃)
>吉原へ行ったはいいけれど急ぎの用で帰らなければならない場合など、どうしていたのでしょう。
この場合はやむなく辻駕籠を使います。
まあ吉原へ行ったら贅沢をしたかった、歩くのがアレ、人目を忍ぶなどの理由があったのでしょう。
吉原へは駕籠移動が普通で、駕籠産業は吉原で支えられていたといっても過言ではありません。
>>679 同じような疑問をお持ちの方がおられる。
以前自分もどうなのかなと思って、浅草寺から吉原まで歩いたり、
仲之町や枝道へ入ったり、今戸から元の日本堤の通りを通ったり
しました。どこも一時間もかかるところじゃありません。
ただ昔は夜は暗くて大変だったろうと思います。
なんせ、今の新宿が郊外と見られた時代。市街地は歩ける範囲の
ところにしかなかったのでしょう。
余談ながら昔マンハッタンに行ったとき同僚が夜10時頃ごそごそ
しているので、どうしたんだと聞いたら南端まで歩いて見物して
来たと。セントラルパークの側のホテルから。乗り物が分かりにく
いから外国へ行くと歩く歩く。
684 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 13:44:09
吉原といえば、江戸時代以前の売春婦は、
どのようにして避妊していたのでしょうか?
まさか妊娠覚悟だったのでしょうか?
685 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 14:48:10
妊娠も覚悟の上出し性病も運任せ。
出来ても産ませてはくれない。
感染したら地下牢にぶちこまれる。
顔が腐ってきたら殺される。
686 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 17:22:10
江戸時代の人が
短命だったのはなぜですか?
将軍や大名は
栄養的にも恵まれていたと思うのですが
688 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 17:36:36
山階宮の初代が天保の頃に妹と出奔、駆け落ちしたという話を聞いたことがあります。
ということは彼ら兄妹は性関係にあったと見なしてよいのでしょうか。
689 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 18:10:57
>>684 生涯を女郎で終わるような下級の売春婦は性病や疾病で長生きできない人が多かった
紙をつめて精液を吸い取らせれば妊娠しないといったようなあまり効果のなさそうな避妊法があったりしたらしい。
一般的に頻繁に精液が体内に入ってくると女性の体の中に精液を異物として取り入れない抗体ができるため
女郎や芸者は妊娠しにくいといわれていたが、中には妊娠するものもあった。
勿論、それでは商売にならないため堕胎も行われていたらしいが、
水銀を中に入れて胎児を殺すといった毒薬を使うものであったり、
ひどいときには懐妊させた男が腹を殴るといったひどいものであったために
堕胎に失敗して死ぬ者も多かったという。
売春婦ではあっても最終的に見請けされた者は裕福な商人の妾などとして長寿を全うしたものも多い。
美貌、教養ともに最上級の太夫などは、自分で産んだ娘を連れて道中を
堂々と歩いていたなどという話もある。
>>686 日本の食糧事情の落とし穴として、ビタミンB不足と言うのがありました。
豆、米ぬか等にに含まれています。
そして偉い人ほど「銀シャリ」しかたべません。
「バランスが悪い」と言うことです。
691 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 19:12:14
>>679 本当に急いでいて、金銭に余裕があるなら、船を使います。
江戸は埋め立てで作られた街なので水運が発達しています。
吉原もある程度までは船で行くのがお大尽のステータス。
移動用の猪牙舟は横幅が狭く不安定ですが、その分高速です。
古典落語にも船を使うシーンが随所に出てきますが、
高額な屋根舟や屋形船から肥やゴミを運ぶ舟まで、多種多様な船がありました。
692 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 19:18:21
馬は使えないの?
693 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 19:24:05
>690
そう言えば、徳川将軍家の、
家治(十代)と、
家定(十三代)と、
家茂(十四代)は、
死因は脚気だったらしいね。
696 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 02:13:37
今生きている全人類(日本人だけでもいいんだが)の全DNAが入手できれば、全人類の系図が書けますか?
>>696 遡ることができて、「今確認できている枝分かれパターン」から、過去の状況もある程度推定は出来ても、枝分かれの先が実際に
どうなったかは推定しか成り立たないのだから、「系図」として半端なものしかできないじゃない。
早い話が、今年生まれた子の次、その次・・・がどうなるとか、推定しか成り立たないっしょ。「過去に生まれていた子」でも、
「現時点で確認できている枝分かれ」以外については、同じく推定しか成り立たないじゃない。
698 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 08:56:40
お伽衆は殿の夜伽もしてたのですか?
699 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 17:04:18
室町や織豊政権時代、中国や朝鮮へ渡った日本国の使節は、
どのような衣装で現地の王や皇帝の前に参内したのですか?
先日見た韓国ドラマで、文禄の役の直前に朝鮮へ渡った日本使節が
束帯や直衣をまとっていて、妙な気分になったものでして。
韓国ドラマなんぞをまともに見てたら歴史感もくそもめっちゃくちゃだぞ
あれは彼らの自尊心という名の妄想によって作られてるものだから。
母がやたらはまってついでに見ていたが「チャングムという女医がいた」という一文からあれだけのドラマを作り上げられる妄想力は良い意味で感心したw
母にも半島の真実を教えてやれ
微妙に話はずれるが、ヘウレーカ(岩明均)の作品も「ダミッポスっていうギリシャ人が
いた」ってだけで話作ってるし、同じ作者のヒストリエにしても、主人公のエウメネスは
非常に資料が少ない人物の一人なんだが、そこから上手く話を作っていってる。
むしろ資料が少ない人物の方が、作品の自由度が増えて良いんじゃないんだろうかと
俺は思うよ。
だからって史実に反するようなストーリーにしたり、いい加減な設定(身分とかから小物
とか、服装や使える染料の制限とかも)をしてちゃダメだけどな。
まあ韓国ドラマに限らず、外国人の作る時代劇は総じて設定がメチャメチャだが・・・
逆に日本人の作る西部劇なども同じだけどなw
日本もあまり大きな子といえない気もするけど。
山本勘助と上杉謙信がチャンバラってのは「ドラマだから」でスルーできなくもないが、
「山本勘助の殺陣シーン」自体は無茶がすぎるだろ。
まあそれを面白さの為にやるか民族的な自尊心の為にやるかの間には大きな溝があるけどな
そうかな?
708 :
699:2009/01/12(月) 18:35:10
で・・
織豊政権時代の日本使節は、どのような衣装だったのでありましょうか。
織豊時代に朝鮮への使者なんて無かった気がする。
行ったとしたら対馬の宗氏くらいだから、あちらにとっての「正装」詳しくは知らんが向こうの役人が着ているような服だろ。
710 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 19:36:30
>>699 室町時代、所謂「勘合貿易」の際には、「遣明使」を描いた絵巻物を見る限り、
日本側からの使者は日本の公家の衣装(直衣・袴)をまとっていたようだ。
しかし、室町幕府の権威が訪れ、勘合貿易が衰退すると、
日本人は中国や朝鮮に使節を送らなくなった。
織豊政権時代にも、日本から使節は送られていない。
豊臣政権時代には秀吉のもとへ朝鮮や明からの使者は訪れたが
秀吉の正式な使者が明皇帝や朝鮮国王のもとへ送られたことはない。
謡曲「鉢の木」の設定のように、小身の武士が功績により遠隔地の土地を恩賞に貰い、
その領地経営をまかせるような一族や近親者がいない場合はどうしたんでしょうか?
712 :
711:2009/01/12(月) 20:51:59
あ、すいません。
age ます。
713 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:20:12
で・・
お伽衆は主君の夜伽も任務だったのですか?
714 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 21:29:09
>>711 その土地にいる名主(庄屋)(たち)にまかせるんじゃないの?
つうか、領主と農民の間に名主(庄屋)が入るのが当たり前だと思ってたけど、、
>>711 謡曲の方を知らないので軽くググってみたが、
鎌倉時代なら代理に誰か行かせます。
ぶっちゃけ一族近親者がいても自分たちは鎌倉にいて領地経営は現地豪族に丸投げってのもあります。
>>713 お伽集というのは主君の暇つぶしのための話し相手が主要任務。
716 :
711:2009/01/12(月) 21:45:41
718 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 00:26:08
上杉謙信が寵愛した鯵坂長実の生没年や主な事績に就いて教えて下さい。
また彼が謙信に愛されたことを記載した文献は何でしょうか?
719 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 04:04:06
教えて下さい。
森蘭丸が越後へ潜入したけれど、すぐに上杉謙信に看破された
という史譚は何という文献に載っておりましたでしょうか?
よろしく
>>713 ナッちゃん、マルチポストはお控えなさい
>>719 その逸話はあなたの脳内以外に知られていますか?
>>719 ん〜〜〜 何かそんな小説があったような気も?
>>699 使節とは話が違うけど、清の独自の風俗のせいで中国服というもの自体が勘違いされてるけど、和服というのは、
明あたりまでの「本来の中国服」で、清代に向こうへ和服で行ったら、清の風俗を押しつけられていた地元の婆さんが
明代の昔を懐かしんだとか。
一般には、特に変わった格好をする理由も意味もなさそう。
帯で縛るぐらいしか似てないぞ
元々の中国服は日本の公家の服装
これは唐からそのまま輸入されたものだが貴族の間にしか浸透してない
日本の元来の服装は貫頭衣であって武家の服装や和服もこれに由来する
724 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 14:32:50
ここで聞くのは不適当かもしれませんが、史実を追求する幕末歴史ファンから見て
歴史小説や創作第一の幕末ファン(特に司馬遼太郎、新撰組&竜馬)ってどう感じるんですか?
>>682 やっぱり駕籠ですか。
当時の人達はよく歩くと言われていますけど、
いくらなんでも歩きすぎのように思えます。
>>683 実際に歩かれるとはマニアですね!
外国は、町並みなど景色がいいと歩くのも大して苦ではありませんね。
>>691 目的地が目的地だけに乗り合いってわけにはいかなそうですね。
勉強になりました。有難うございました。
>>718 >>720 事実かどうかは知りませんが、逸話自体は現存するようです。
『森家先代実録』か『信長公記』か『常山紀談』あたりにあるのではないでしょうか。
728 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 16:52:17
>>720 そもじは、『森家先代実録』すら繙いたためしとて無い無知無学な者ぢゃなう!
>724
自分の若い頃を見てるようで楽しいです。
730 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 17:20:10
昭和元年って約一週間しかないそうですが、その期間に生まれた有名人っているでしょうか?
検索しても出てこないのでいないのかな
>>730 1926年の年末に分類されてるせいで勘違いしたのでは?
> 1926/12/25 植木 等 (うえき・ひとし) 【タレント、俳優】 〔三重県〕 [戸籍上は1927/02/25生まれ]
> 1926/12/26 藤森 昭一 (ふじもり・しょういち) 【官僚】 〔長野県〕 ※日本赤十字社 社長
> 1926/12/28 木野 親之 (きの・ちかゆき) 【経営者】 〔大阪府〕 ※松下電送 元社長・会長
出産は日数に応じてあったとしても、1年の1/50としたら、元々、100人並べ立てたうちの1〜2人にしかならない計算で、
上述を見る限り特に不審はないですね。
あと、そのへんの世代は、大正世代ほどではなくても、有名になる前に戦争で亡くなった方が滅茶苦茶に多いですね。
(ー人ー)なむー
まだまだ乳幼児の死亡率が高かった時代だから、出生の届け出も届け出上の日付も、それまでと同じく、
適当に前後させたりすることも珍しくないままでしょうね。
「植木等」の戸籍上の生年月日なんかが、その典型例ではないかと。
734 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 19:29:41
>>733 どうもありがとうです。
あと大正生まれと昭和元年生まれって学年同じなのかな?
735 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 19:34:56
>>734ですが質問の変更です。
戦争で亡くなった人が多いとの事ですが
それは軍人としてでしょうか?それとも空襲とか?
よろしくです。
>>732 いやいや、たとえば肩衣なんかは完全に貫頭衣の系統
和服も中国服と似ていても生地のつなげ方が根本的に違う
ちなみに公家の服は中国服そのままだったが気候が合わなかったのか
時代が下るに連れてゆったりしたものになってる
元々の中国服はきっちりしたものに近かった
737 :
日本@名無史さん:2009/01/13(火) 22:18:34
>>734 学年とかも含めた年度の区切りは今と同じじゃなかったかな? 「年号」は何も関係ないっしょ。
>>735 えっと、改めて考えてみると、1926年生まれは、終戦の1945年の「生月日」に満19才になって、順次徴兵検査を受けたわけだから、
当然、8月半ば以降の生まれの人は徴兵検査も受けてないですね。
とすると、まさにギリギリで、同年の始めから終わりまでの生まれの男子が徴兵にかかった世代の次。
その前年以前の人と比べたら、「戦争で亡くなった方が無茶苦茶に多い」ということはないですね。
その少し後の昭和初年生まれの人でも、家でとか、学生のうちに行かされた工場とかで空襲でなくなった人の話とかがあるから、
どちらかというと空襲、ですね。
740 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 01:07:34
年度の区切りは4月1日からで、学年は4月2日じゃなかったけ?
741 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/14(水) 01:12:06
>>724 “幕末歴史ファン”自体が司馬から派生したもんだよ。「自分はそうじゃない!」と否定する奴らもいるだろーが、司馬の地固めした幕末歴史読み物のブームで生まれた書物なり映像なりに影響受けてる訳でしょ?
まあ鞍馬天狗なんかは時代は古いから違うけどさ、かちっとした歴史好きなら幕末は興味ないこと多いでしょ。
先祖とか郷土がらみは別にして幕末歴史好きは通俗読み物の影響下にあるよ。
私は幕末なんて興味ない。基本的に幕末がどうとかいう奴はおおむね馬鹿だ、という先入観が私には拭いがたくあるんだよな
ちゃんとした人もいるけどね
>724
歴史物に関心を持つ動機ってそういうものじゃないですか?
この板でも時折り散見しますが、史実を追求する幕末歴史ファンが歴史小説や創作第一の幕末ファンを
罵倒することの方がむしろ私としては不愉快ですね。
史実と創作物の区別ができるのであれば、後人に論点を整理し道を示すのが先人の義務ではないでしょうか。
講談では明治以降、幕末ものは常に一定の人気があります。
一一時代背景や当時の習慣を説明する必要のない直近の時代は庶民に分かりやすいものですからね。
(一線から退かれた)日本を代表する顕学から若い頃の話を聞かされることがありますが、
こうした庶民層からこういう方方がでてきたのだなと感じるとき、日本のような階層分化の少ない国に生まれてきた幸福を実感します。
743 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 07:58:41
>>731 誠に以て忝ない。
厚くお礼申し上げる次第也。
744 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 09:14:14
1926年12月1日生まれと1926年12月26日生まれって学校に行けば同学年なんでしょうか?
745 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 22:28:57
アメリカの命令によって日本は戦後婦人参政権を導入したんだと思うんですが、
もし戦争を回避、もしくは占領下に置かれない形で集結させていたら、
婦人参政権の導入はいつ頃になったと考えられているんですか?
大阪の陣の後の日本に石高ってどれ位
郷土史を調べていたら苗字帯刀浪人扱いの家と帰農後名主の家があるのですが元の出自は同じようなのに対偶の差は何故?
748 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 09:14:23
実際は待遇には差はない。
士族には給料がなかったのだから。
>>745 普通選挙制が導入された当初から既に女性参政権の機運は高くてですね…
原敬だったか、そのことについて「夫婦喧嘩の元になるだろう」みたいな答弁をしてた記憶があります。
地方選挙権はこれより遙かに早い(戸主限定でしたが)。これは婦人の公民権を認めたという意味もあるわけですが、
結社権につきましては認知が遅かった。ここがネックかと。参政権導入が実現できたとするならば昭和初期。
翼賛体制はずっと後のことですから、まあこればかりに参政権導入の延滞責任を被せてもいられないわけで。
750 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 17:34:38
1950年代の食料についてですが、高級魚と米と果物比べたらどれが効果だったのでしょうか?
東京など大都市圏でお願いします
>>745 仮定に過ぎないが、アメリカを中心とする諸国の人権政策への圧力と
経済制裁によって、遅くてもアメリカの公民権法の1960年代までには
導入されていたんじゃないか?
>>748なるほど・・・ただ浪人扱いの方は苗字帯刀を許されてるが名主の帯刀は役職のあるときだけでしょ?微妙ですね?
武士には品がある、と考える人もいるようだが、
会津武士のように下劣な連中もいる。豪農と比べられるようなものではない。
>>742 > 史実と創作物の区別ができるのであれば、後人に論点を整理し道を示すのが先人の義務ではないでしょうか。
いきなり「罵倒」するような手合いに、そんな人間じみた真っ当なことができるほどの知能はないでしょ。
756 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 04:19:06
天照大神に調べているうちに日食に興味を持ちました。
日食の後におかしな事件がいくつか起こっているのですが、これを指摘している人がいますでしょうか。
現在ブログで書いてるんですけど、八幡神託事件とか、持統が三河に行幸したり、和銅が献上されたり、
現時点では書いてないですけど、中大兄が無理やり飛鳥に遷都した前後とか、用明元年11月にも日食が
ありますから翌二年の新嘗はこのために延期されたんじゃないかとか。
もし指摘している人がいたら、教えてほしいのですが。
もう一つ、これをネタに新しいスレを起こそうかと思うのですがどう思いますか?
ちなみに当方のブログは
http://blog.goo.ne.jp/amaterasu-eclipse です。
757 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 09:24:46
758 :
757:2009/01/16(金) 09:29:35
自己解決しました。
京橋の辺りでした。
失礼しました。
759 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 16:11:24
対馬の対朝鮮貿易が幕末に振るわなくなったのは何故?
760 :
ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/01/16(金) 16:32:48
金出せば永永苗字帯刀御免もらえるよ多分。
>>755 まあ中二病的発想だろうね
三年生ともなれば経済ってもんが大まかにでも分かって来て個々人が自分自身の為に精一杯頑張る事が
最も社会(彼らは地球・世界・市民といった表現が好きなようだが)の為になるって事に気付くもんだけど
>756
なんとなくオカルト臭がするんだが・・・そっち系の板で聞く方がいいんじゃね?
>751
公民権法は関係無くねぃ?
フランスなどの大国が婦人参政権を認めた後が順当だと思うが
>>764 いや、アメリカやフランスの婦人参政権は1945年以前だったように思ったが・・・?
そもそもIFの話しだし、人権というものに積極的に取り組み始めた公民権法あたり
が妥当かなと思う。まあ、ここではスレ違いだがw
アメリカ板(←需要あるのか?)でやれと言われそうだが
>767は公民権運動の主体や婦人参政権についてググった方がよくね?
769 :
756です:2009/01/17(土) 08:30:50
>>762 そうですか・・・オカルト臭・・・ちょっとショックです。でも考えてみれば
そちら系とか、古天文学でもいいわけですよね。
ただ、スレは日本史板で立てたいと思います。よろしかったら覗いてください。
>>769 まあ気を落とさずに。
日蝕のあとおかしな事件が起きるというのは、古代からごく当たり前の認識。
占星学的には現在でもなお重要なテーマです。
現に、聖武天皇のときも記紀に書かれていることはご存じの通り。
(あのブログの解釈は?と思うところもありますが、ここは我彼の認識の差)
白鳳時代のことでもそういう解釈をしてもおかしくはないと思います。
当時日蝕を理由に政策を打ち出すことは何ら隠すべきことではないからです。
(天文現象ですから隠しようがないことですし)
あたしとしては別に、歴史テーマとして取り上げてもいいと思いますよ。
ただ、オカルトというよりも古天文学や占星学での話として取り上げたほうがよいでしょう。
記録で実証できない以上、歴史論として通用するかどうかは少々難しくなるからですが、
ここは書き方次第でしょうね。今ちょっとしたブームになってますし。
そうそう、こういうソフトもあります。
http://www.kotenmon.com/cal/emapwin_jpn.htm
日本が攻めてきたとき、明は朝鮮には兵を出したのに琉球には出さなかったのは何故?
772 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 09:33:15
温度差
質問です。
戦前の大学のことを見ていると、○○大学○科大学(ex:東京帝国大学法科大学)という
記述を良く見ます。現代でいえば、上の例なら東大法学部の事なんでしょうけど、総合
大学の下の単科大学のように記述してあるのは、組織として東大法科大学が東大から
ある程度独立した地位を占めていたということなんでしょうか?
現代で云う○学部とどう違ったんでしょうか?
774 :
756です:2009/01/17(土) 11:10:17
>>770 励ましのお言葉、ありがとうございます。
スレを立てましたので、報告にきたのですが意外でした。
かねて疑問に思っていたことがありましたので、天文板であわせて質問をしてきました。
オカルト版にも書こうと思ったのですが、さすがに違うだろ、と思ってやめました。
申し上げにくいのですが、ブログの中で用いているデータはemapwinのものです。
なにはともあれ、ありがとうございます。
>>767 確か婦人参政権法は戦前に一度衆議院を通過して貴族院で廃案になった筈。
>>733-734 ウィキの植木の項目だと、官庁自体が天皇崩御で休止していてそのまま手続を忘れていたっぽい
>>773 それは日本近代史板のほうのネタではないかと。
知らんけど、「独立した地位」とかいう以前の問題で、差し迫った必要がある単科大学から順に手当たり次第に作っていって、
後になって、なんらかの必要に応じて適当に統合したりした、というだけじゃないですか。
法科大学なら、法制度などの研究と官僚等の育成、医科大学なら医学の研究と医者の・・・ 音楽学校、美術学校なら・・・ 等々
> 組織として
予算とか人員とかを融通し合ったりすることがないなら、名称はどうであっても、実質的には無関係の独立したものでしかありえないですね。
その点はどうだったのか? 予科なり教養なりから、先に進むときの融通の効き具合は? また、逆に「現代で云う○学部」はどうなのか?
どういう異同があるか調べれば、分かるはずですね。つか、それらを細かく調べないと分からないですね。
>>775 あ、そうなの? 実際と届け出内容を故意に変えるとかは、基本的には「なし」になってたのかな?
そういえば、大きく遅らせるのは、徴兵を故意に遅らせるのにつながるよね。
778 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 17:40:32
戦後混乱期についてだけど農家と漁師どっちが裕福だったのでしょうか?
いわゆる中流クラスの農家と漁師でお願いします
日本の第二次大戦の戦後処理はどのような点が良く
どのような点が悪いと思いますか?
あとその当時の民主化によってどう影響があったと思いますか?
780 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/01/18(日) 18:48:58
>>779 「日本の」戦後処理云々する前に、「進駐軍」の戦後処理についても論じたほうがいいんじゃない?
>>778 それ自体の「換金価値」が高くて、かつ、生ものと違って傷みにくいから商品価値が短日時で失われない「米」が何といっても「切り札」だったから、
農家、それも米を多く生産できるところ。
ただし、戦争末期でも、鉄道などの運送が不可能になったせいで、いわゆる米どころでは、かえってだぶついていたそうで、戦後もかなりの期間は、
それに準じた問題が継続したに決まってる。
総合すると、米を量産できる地域で、闇米として流通しやすい「大都市から近い範囲」、じゃないですか。
いわゆる闇米で大もうけした者がいたということは、その闇米の供給元も、リスクを伴う運搬の分の利益は受け取れなかったにしても、
「不当に儲けたりしなかったぞ」
・・・などとしらばっくれようとしても、お天道様はちゃーんとお見通しだよ。なんてね。
>>778-779 どっちも「日本近代史」板にどうぞ。
ただし、
>>779は、戦争にまつわる歴史的な問題なのは確かだけど、多分に政治の問題だね。良い悪いの評価がポイントなら。
783 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 21:21:04
いつだったかなあ。NHKの番組で60年代の米農家の特集やってて
儲かってるらしく海外旅行に家族で行くって話してたけど米農家って儲かるの?
>>782 近代史板は返事遅すぎなんでここにします
>>783 儲かってたんじゃない。
農地改革のときに只で横取りした他人の土地で、国際価格を全く無視したべらぼうな高値が障された米を作っていれば、それは儲からないほうがおかしいわけだけど。
逆に農地改革で大部分の土地をとられた家は痛かった。
うちの祖父は田地の多くが取られて、小農家に転落した。
近辺に林地も所有していたが、資産価値がほとんどなかったので早くに売却。
しかし、のちに林地は宅地化され、市内有数の住宅・商業エリアに。
林野の処分が面倒でそのまま所有していた家は一転して大地主となったとさ。
786 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 02:19:33
多摩郡の鍛冶谷海道村って何処ですか?
木枯らし紋次郎という小説だと、渡世人が長ドスもって云々という描写がありますが
そのような武器を携行してあちこち行ったりするのは実際可能だったのでしょうか?
道中差と言って、庶民でも旅行の際などに短めの刀を携帯することが許されてました。
やくざ連中はそれを抜け道にして、長めの脇差などを持ち歩いてたのです。
だいたい2尺が目安ですが、いちいち長さを調べて摘発されることも少ないし、1尺9寸9分だと言い張ったりします。
ちなみに武士と言うのは刀と脇差の二本差しが許されてる人のことを言います。
仙石秀久の小諸藩時代の家臣(特に信濃国人衆)を調べたいのですか文献等ありますか?
791 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 21:56:50
人物名で●●守とありますが、どのような意味なんでしょうか?
●●の地域は何を根拠にしているのか、また、
刀工職人なんかでも●●守とありますが…
少しは調べようとか思わないのか…
守ってのは国の長官の官名。平安時代まではその名前どおりに機能してたが、
時代が下るにつれ朝廷に実質的な支配力が無くなって、名誉職以上の存在では
無くなってきた。戦国時代には、朝廷に許可を得ずに勝手に名乗りだした者もいる。
刀工とかで守の職を持ってるのは、その技術を認められて大名とかから職を与え
られたって事。勿論この場合実際の守としての業務なんて無く、単なる名誉職。
外国の伯爵とか公爵とか、そういう称号に近い。
793 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 16:22:28
便乗質問。
江戸時代が主かなと思うんですが、「●●守」とついた人を呼ぶとき、
薩摩守だったら、薩州殿とかの敬称を使っていたようですが、
伊豆、伊勢、出雲、伊予が豆州、勢州、雲州、予州で可能でしょうが、
備前、備中、備後や越前、越中、越後はどう呼んだのでしょうか。
あるいは呼べなくて呼ばなかったのでしょうか。
794 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 16:50:54
上杉謙信は女犯の穢れを一切断って、生涯にわたり男色のみの清い一生を全うしたとのよし。
ところで、彼の寵愛した衆道の芳契相手の中では、どんな人々が有名でしょうか?
識者の御教示を願い上げまする。
宜敷く。
795 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 17:32:08
80 名前:日本@名無史さん 投稿日:2009/01/21(水) 16:49:46
上杉謙信は女犯の穢れを一切断って、生涯にわたり男色のみの清い一生を全うしたとのよし。
ところで、彼の寵愛した衆道の芳契相手の中では、どんな人々が有名でしょうか?
識者の御教示を願い上げまする。
81 名前:日本@名無史さん 投稿日:2009/01/21(水) 17:28:13
残念ながら謙信に男色は無理です。
女性ですから。
>>793 「州」は「黄門」と同じく唐様かぶれの呼称でしょ。
備後殿や越中殿で何の違和感もないんですけど。
州といえば、いつも薩摩と長州って言い方に違和感を覚えるんだよな…
昔からそう言ってたんだろうけどさ、何で薩摩はそのままで長州は州って言い方何だろ。
薩摩と長門、あるいは薩州と長州って言い方の方が普通だと思うんだがな。
いや、昔からの言い方なんだから、変だから変えろとか言う気は無いけどさ。
宗義盛は宗氏実録のどこらへんに載ってますか?
出来れば宗氏実録―対馬藩史料(清文堂史料叢書)で教えて欲しいのですが…どなたかよろしくお願いします。
799 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:56:52
以前、ここでお目見え医者について質問した者ですが、医者とは武士とは
また違った身分なんでしょうか?そうであるなら、武士が医学を学ぶとい
う事はありえると思うんですが、そうなると武士ではなくなるという事でしょうか?
これの6:50以降を見ていただければわかると思いますが、自裁を勧めているような
シーンがありますが、医者も武士かそれと同等に扱っていたという事でしょうか?
http://jp.youtube.com/watch?v=rGpLf2zx0Ys
800 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 00:03:45
謙信のの衆道で思ったんだけど、当時の大名とかって小姓相手に「掘る」方が
メインだったの?
「掘られる」のが好きだった有名人とかいる?
802 :
793:2009/01/22(木) 09:01:05
お寿司は江戸のファストフードだったとよく言われるけど、お値段はどんな感じだったの?
現代は銀座の高級から100円回転まであるけど、江戸でもそんなふうに幅があったのかな。
それとも一様に庶民的だったのかな。
なら、江戸での高級料理って何なんだろう。和食しかない時代だし。。
古代時代から近代まで
日本史のおすすめ本をおしえてください。
807 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 22:23:06
>804
天保期に屋台で一握り4文から、現代の貨幣価値だと80円くらいかな。
ちなみに立ち食いそばで16文です。
高級寿司店も握りずしが出来た当初から存在してました。
江戸期の高級料理なら、まずは「八百善」でぐぐってみるとよろしいかと。
ペリーの接待料理を作ったことで有名で、今でも代が続いて営業しています。
接待料理の再現なんかもされてますよ。ペリーには不評だったらしいけどw
今、立ち食いそばって300円くらいかな?かけそばで。
それと比べると、一握り1/4で70円ちょっとか。
回転寿司が一皿二握りだから140円だね。
家の近くの105円均一のお寿司より高かったのか!!
こりゃ身体を動かす職人さんとか毎日腹いっぱい食べるわけにはいかないね。
もっと安い定食屋さんとかあったんだろうね。
>>809 ハンバーガーみたいなものですね。
ちょっとおいしいものだと結構な値段になる。
麺類のほうが腹持ちがする。
武将が使っていた兜、特に変わり兜の類に興味を持ったんですが、
それを集めた図鑑ってありますか?
甲冑図鑑みたいなのは結構ありますが、なるべく兜メインのものがほしいです。
>>809 江戸時代の寿司は現在の物の倍かそれ以上の大きさがあります。
>>809 職人(特に大工)は腹一杯食べると動くが鈍くなったり、
腹がつっぱった感じになるのを嫌って、
チョットつまめる食事を好みました。
天ぷらや寿司、今川焼などチョットつまめる食事が流行ったのも、
職人が多い江戸の状況の反映です。
江戸時代は元禄ぐらいから一日二食から三食になったとされますが、
実際には一日一食でどか食いする人や、小まめに五食ぐらいに分ける人、様々でした。
>一日一食
俺の事か。
昼起きる → 研究室行く → 夜飯食う → 空が明るくなってきたら寝る
815 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 02:10:26
浪岡御所の家臣の
@北畠左近顕忠
@赤松隼人
@沼山備中
@和田五郎左衛門
の詳細わかる方おられますか?
他の浪岡氏の将は所属城、館等調べたらでてきたけど
この四人はどうしてもわからなかった(´・ω・)
>>813 天ぷらや寿司を時々でも食べていれば、脚気にはなりにくそうな気がするけど、実際には脚気が流行ったとかいうから、
「誰でもが当たり前に食べていたわけではない」という感じですかね?
江戸市民の平均寿命は、45歳前後ですよ。
栄養か運動か衛生か、どこかに欠陥があったことは間違いないでしょう。
江戸時代の江戸を、理想都市の理想市民のように表現するのは、間違いだと思います。
幼児とかも早死にするから、それが平均寿命さげてるのが分らんのか?
>>808 いっぱい用意したつもりだったけど「少ない」って不評だったんだよねw
時代の限界を社会の欠陥のように表現するのは、もっと酷い間違いだろ。
18.9世紀の江戸に20.21世紀の医療概念が存在しなかった事を欠陥だとでも言うのか?
平気寿命って言葉は現代(先進国)と近代以前では意味が違うんだよね。
>817はオバカな教師に言われた言葉を、内容の理解ができないままリピートする可哀相なコ。
あまり虐めてやるな。
栄養面
江戸は庶民も比較的白米の率が高かったらしいから、問題有りだな、。
運動
これはない。
衛生
細菌とかウイルスの存在自体が知られていないわけで有りに決まっている。
しかたないわな。
漬物には結構ビタミンが豊富なんだが
>栄養面 江戸は庶民も比較的白米の率が高かったらしいから、問題有りだな、。
>運動 これはない。
>衛生 細菌とかウイルスの存在自体が知られていないわけで有りに決まっている。
>栄養面
西洋の食習慣が前提の栄養学を近世以前に持ち込むのはおかしい。
日本の食習慣がくずれたのは明治以降。
>衛生
細菌・ウイルスの存在を知らなくても経験則から予防できた。
中・近世における日本の衛生概念は他国に比べて突出していると言って良い。
>822は歴史板より人権板とかで脳内お花畑の持論を展開するがよろしかろう。
せいぜい最新・最善の知識で世の中を啓蒙してくれたまえ。
君の批判はこの板では全く的外れだ。
825 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 21:39:12
822は二十一世紀の医療が十九世紀では受けられないから問題が有るってw
ゆとり世代の発想は常人には追随できんな。
>>824 江戸期の脚気死亡率の高さを忘れている。
江戸礼賛が過ぎてボケが進んだらしい。
828 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:56:08
質問です。関ヶ原の戦いのとき、奥州・信州・九州などの各地でも
同時多発的に東軍と西軍の戦闘がありましたが、これらの戦いを総称した
「○○の乱」のような呼び名はないのでしょうか?
日本史上の他の大きな戦乱は壬申の乱、承久の乱、応仁の乱など
複数の戦闘をまとめた呼称があるのに関ヶ原関連の一連の戦いには
どの本を見ても戦争の総称が載ってないのが不思議なのですが。
関ヶ原の戦いに関連して各地で起こった戦闘には、特に総称は存在しません、以上。
都市部の富裕層が日本国民の何パーセントを占めるかも理解できない
おバカがいるスレはここですか?
初心者スレだが、これでは意味不明
中・上級者質問スレや入門者質問スレがこの板にあるのか?
831は意味不明
834 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 05:23:55
脚気がビタミンBの不足からくる病気だってのは明治以降に発見された医学知識で、その前には伝染病説もあった。
しかし漢方医は原因も因果関係も知らなかったが、経験値から脚気治療競争では蘭方医に勝ってる。
江戸を礼賛するのも暗黒時代呼ばわりも、バランスを欠いてる。
835 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 12:18:23
明治維新は下級武士がリードしたのはよく知られてることですが
戊辰戦争で新政府側の各藩の部隊を率いて戦ったのは西郷隆盛や板垣退助とかですが
藩本来の家老は何をしていたんですか?
>834
江戸在住の庶民が白米を常食できるのは後期だろ?
一部分の事例をもって全体であると強弁するのは詭弁だとは思わんか?
まあ、江戸礼賛者の論は俺にもよくわからんがw
837 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 20:15:17
織田信長の末子達(信高・信吉・信貞・信好・長次ら)に
興味あって調べたいと思うのですが、どういう史料や資料を当たればいいですか?
信長の息子とは言えかなりマイナーな面々なので
手がかりが少なそうな予感はしますが…。
838 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 20:44:14
寛政重修諸家譜の織田氏の部分で信長の子女を調べたら、
一応、息子たちの経歴はわかる。
839 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 22:17:58
>>838 ありがとうございます。
寛政重修諸家譜ですね。図書館で探してみます。
後はやはり、関原軍記大成とかですかね。
関ヶ原では秀信が西軍でしたが、同じ西軍でも信吉らは別行動だったようで、
岐阜城に集結して「織田家」として戦うような一体性は
もうなかったという事なんでしょうか?
小牧長久手の戦いの結果、徳川家康と同盟した信雄が織田家の後継者に選任されたので、
家中の人間も逃げ出す信雄の不人気ぶりの結果、分裂状態のままとなった。
841 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 00:10:18
>>840 清洲会議の決定が小牧長久手戦後に破棄されたという事ですか?
(実際の力関係はどうであれ)名目上はずっと
秀信が織田家の後継者だったと思っていたのですがそうではない?
842 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 00:39:07
天正十三年(1585)に北条氏直の近習・田村千代丸をはじめとする四人の若侍が
連続的に切腹自害して果てたという事件があったと聞きました。
おそらく『北条五代記』あたりに記載されているのでしょうが、
その詳しい理由や経緯、また自刃した他の三名の氏名などを教えて頂けませんか。
お願いします。
>>841 小牧長久手の戦いの結果、秀信は織田家の跡取りから外れ、豊臣の養子となった。
>>822 運動については、交通機関が発達した現在と比べたら、むしろ有利ともいえるね。
どこに行くにも何をするにも、自分で歩くしかなかったわけで。
>>823 量があまりにショボショボじゃ足りないわけだし、その漬け物さえもろくに食わないのがけっこういた、ということだな。
>>824 > 西洋の食習慣が前提の栄養学を近世以前に持ち込むのはおかしい。
おかしいもへったくれもなくて、脚気が流行りまくったというのがアンバランスの動かぬ証拠。
将軍でさえやられてるくらいで。
>>834 だから、現に流行って、将軍さえも死亡した例があるくらいだから、原因は明白だっての。
食いもんがアンバランス。
春画ってズリネタに使われてたの?
>>835 西郷や板垣らを監督・後見・支援、及び彼らの管轄外の重要なこと。
家老が戦うこともありますが義務ではないし、それ以外の仕事もある。
まあ明治維新は、後世の連中からは西郷ら志士の列伝のように
識られてきた面があったので、小松帯刀のような人が
全然目立たんかったのですよね。
850 :
841:2009/01/27(火) 20:20:44
>>843 恥ずかしながら初耳でした。ありがとう御座います。
検索してみたら、愛知県史研究 第10号という本に
信雄家督に触れた論文があるようなのでこれで調べてみます。
と言う事はつまり、秀信が成人してしかも秀吉が死んだあの時期には、
清洲会議の約定(秀信が成長するまで秀吉が後見を〜)に基づく
豊臣→織田の政権返還は、実情的には勿論、
名目上でも成り立たない論理となってしまっていたという事ですか?
851 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 20:58:08
>>850 小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んだ織田信雄を懐柔するために
秀吉は織田家の家督相続者を信雄とすることを了承。
信雄は織田家宗家となることを条件に秀吉との和睦の道を選んだ。
これにより織田家の家督は秀信からその叔父信雄へと移り、
秀信は秀吉の養子としてその保護を受けた。
秀吉が柴田勝家を破ったあたりから、織田政権そのものが瓦解してたからね。
秀吉自身、関白太政大臣にまで登って、
信長の生前の最高位である右大臣を越えてしまっていたし。
852 :
841:2009/01/27(火) 21:29:08
>>851 詳しい説明ありがとう御座います。
清洲会議での秀信の地位って本当に一時的なものだったんですね。
しかも信雄も小田原攻めの後に一度改易されているし…。
かなり早い時期から、織田家も豊臣政権下の一大名に過ぎなくなっていたのですね。
叔父に父を殺され、その父の家はお家乗っ取りされたわけですらなくいつの間にか家臣だったはずの男の家臣、
家康に頭を下げて摂津60万石の大名になるなんて淀殿には飲めない話なんだな。
どうせなんだかんだと理由を付けて取りつぶされたのは明らかだし。
千姫との間に男の子が生まれていればなぁ・・・お家取りつぶし「だけ」はなかったかもしれないが。
854 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 22:39:48
戦前の話ですが、昔の商業学校(商業高校)は旧制中学(高校)より卒業するの難しかったと聞いたのですが
ホントでしょうか?詳しく教えて下さい
旧制中学は中等教育機関(今の○○商業高校はこっち)、旧制商業学校は高等教育機関(今で言うとむしろ大学に近い)
卒業が難しいと言うより、入学が難しいな。
ちなみに戦前の○○高校ってのも大学に近い物。
857 :
824:2009/01/28(水) 00:00:24
流れ豚切りスマソ。
序でに、一レスに纏めて書けないスレ汚しは華麗にスルー。
>>836 中二病の患者を黙らせようとしただけなので(結果的には失敗)説明不足なのは認める。
白米の常食は江戸中期頃からだね。
私の言いたいことは代弁してくれたようなので少しだけ補足させてもらう。
私は医学や栄養学の専門家では無いので推測だけでモノを語ってもしょうがないと思うから、一先ずは個人的な話をする。
二十の頃に通風と診断されて以降、年配者からは「贅沢な物を食べ過ぎているのではないか」とか、
訳知り顔で語りたがる人からは「ビールの飲みすぎに注意しろ」と言われてきたが、
私はアルコールの類は一切口にしないし、(プリン体が多い)動物の内臓も食べない。
学生の時私の下宿先に訪れた者が冷蔵庫を開けたとき、私が食品の栄養バランスに配慮していることを賞賛しないものはいなかった。
これまで何人もの医者から診断を受けてきたが、私が通風に罹った原因を言い当てた医者は一人もいない。
睡眠不足とストレスからくる心因性のものであろうと言われるだけだ。
近年のNHKが放送している医療番組でも、腰痛を含む様様な病に罹患する原因を心因性とすることが多い。
であるならば(以下、推測)江戸時代、急速に広まった“銀シャリ食い”の風潮にのっかた都市部の人が、
慣れ親しんだ飯の変更を強いられことや、江戸中期以降の社会不安によってストレスが高まった結果、
脚気に罹ることがあっても、その原因を栄養の偏りにのみ起因するかのような言はこれを容認できない。
というのが個人的経験に基づく推論。
的外れさん、また出現
859 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 00:45:25
>>853 あれは実質上の家康による謀反でしょ。
善悪は別にしてさ。
家康は別に大坂羽柴家を出奔したわけじゃないんだから。
徳川家康は、織田時代は織田信長の劣位の同盟者、
以後暫く自立していましたが、豊臣時代では五大老の一人として豊臣家の家臣となりました。
徳川家康の天下取りは、家臣が主君から天下を奪う下克上の一つでした。
五大老を家臣とするのはちょっと違う気がする
というか、その主従制の論理は近世からみた視点だな
862 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 20:02:05
臣下の礼をとっている以上、家臣だろ。
863 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 20:45:06
>>861 秀吉の没後、北政所が家康に隠居寺を用意させる代わりに
大阪城の自分の居室を家康に明け渡したのは
家康が真の豊臣家家臣だと信じて疑わなかったから。
家臣でもない家康に大阪城の一室を明け渡したのならば、
その時点で北政所は家康に降伏したのかという話になるわな。
864 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:04:34
おれが明治維新の薩長側の責任者なら、徳川家が駿府城に移った後、難癖
をつけて駿府城を攻めて、適当に攻めた後、外堀を埋める事で講和して
「うっかり間違えてw」で内堀まで埋めて、難癖つけて再び攻めて滅ぼして
やるものを。
家康がやった事の意趣返しとしてね。
家康は秀吉の妹婿
豊臣家の親族である
866 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 18:41:58
虚構橋事件ってなんですか?
867 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 19:08:54
虚構橋でおきた事件です
>>864 当時は徳川よりもエゲレス・メリケンの方が強敵だったから、ガキを相手にする余裕は無かった。
もっとも、西郷隆盛は廃藩置県をやった後に諸藩の家臣が反乱を起こすのを秘かに楽しみにしていたという風説はあるけど。
869 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 21:07:43
>>865 天正14年(1586年)4月23日、秀吉の妹朝日姫(44歳)と徳川家康(45歳)の祝言が挙げられ
(両方とも再婚)家康は豊臣秀吉の妹婿となった。
しかし、天正16年、朝日姫は母大政所の病気の見舞いを口実に上洛、
そのまま家康のもとへは戻らず、天正18年、兄秀吉の屋敷である京の聚楽第で没した。
よって、秀吉没時にはすでに朝日姫はこの世になく、家康は秀吉の親族ではなかった。
>>869 離縁したわけじゃないんだから、別居していようが、死んでいようが関係ないだろ?
>>870 家康は最初の正室築山殿と死別。
離縁ではない。
それを持って、家康は終世今川家家臣の娘婿として
行動したとでも?
前方後円墳は朝廷に許可された一部の豪族だけに許された特権だったというのは本当ですか?
>>865 「親族」というのはちょっと無理だね〜〜〜。
でも、「秀吉がなけなしの親族を人質と、実質人質に出したくらい」というステータスは間違いなくそのまま印象づけられていたはずだね。
>>871 嘘で〜〜〜。圧力で自分で処分させられたのだから、形なんか何の関係もなしに、当然離縁扱いでしょ。
>>873 死んでしまえば、正室の実家との関係は善意以上のものは無くなる筈。
>>875 だから、「あの太閤」さえも一目も二目も置いたという実績だけが残ると。
んーでも、家康は一時は秀吉の義弟だったってことでしょ
朝日が死んだら義弟じゃなくなる?
一応待遇としては残るんじゃないのかな
879 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 04:37:39
昭和天皇が皇太子時代、
大正天皇の摂政になったのって・・・
もしかして飛鳥〜奈良時代以来、千数百年振りの皇族摂政?
880 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 06:45:53
昭和一桁生まれの人の次代についてですが、この頃の平均的な兄弟数ってどれくらいでしょうか?
今だと2人以上は多いといわれますが昔はどうだったのでしょうか?
一人っ子はそうとう珍しかったのかな
881 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 07:49:27
>>880 平成生まれか?
近代史板に行きなさい。
882 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 13:32:01
サンフランシスコ平和条約と
サンフランシスコ講和条約は同じものと考えていいんですか?
>>877 朝日姫は結婚した一年半後、逃げるように家康のもとを後にし、
兄秀吉の聚楽第で没している。
離婚も同然だったんじゃ?
朝日姫の墓は京都の東福寺にあり、徳川家の墓地じゃないし。
家康の正室だったのに家康の嫡子秀忠と養子縁組もしていない。
あいつは俺の義弟なんだぜ、親族だぜとのたまうことは可能だが、
実際に親族として機能していなかっただけのこと
885 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 18:50:01
島津久光、毛利元徳、山内容堂は古文書などで
官軍(薩長土)のどういう位置だとされているのでしょうか?
それぞれの藩の隊旗(軍旗)についてもお聞きしたいのですが、
探しても出てこなかったのですがどういうものだったのでしょうか?
886 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 20:02:12
>>880 昭和ヒトケタ生まれの人知ってるけど、6人兄弟だった。
ただし、一番上は大正生まれで一番下は昭和10年代だが。
まあ、当時は兄弟が4〜6人くらいはザラだろ。
>>883 なんで父の継室と息子がわざわざ養子縁組する必要があるんだよ?
正室は血がつながっていなくても、息子の立場からみたら「母」でしょ。
秀頼が「母親」の北政所に宛てた手紙が残っていたはずだけど、
いつこの二人が養子縁組したの?
朝日姫と大政所は、実際のところは家康が上洛して秀吉に臣従している姿をアピールする際に
徳川家を安心させるための人質でしょ。秀吉のメンツから婚姻としているけど。
家康上洛のとき、国許の家臣達はこの母娘を人質として扱っている。
888 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:00:25
>>887 なんか都合のいいところだけスルーしてるよなw
朝日姫の墓所が東福寺なのはなぜ?
家康が秀吉義弟として豊臣家親族としてのふるまいをしていないのはなぜ?
家康も二男の秀康を人質として秀吉のもとへ送っているよね。
こちらは本当に人質で、家康の上洛が終われば秀吉のもとへ帰ってよかった
大政所や朝日姫とは異なり、秀吉のもとから返してもらってないし。
議論スレ?
>>888 利用価値が無くなった後のことは関係ないじゃない。
> 大政所や朝日姫とは異なり、秀吉のもとから返してもらってないし。
何いってんの? 他にかけがえがない母親や妹をもろともに預けたというのが、すなわち「人質」そのものなのであって、
人質に出したという事実が動くはずがないじゃない。
891 :
日本@名無史さん:2009/02/02(月) 21:23:31
>>890 その説はおかしいよね。
大政所はともかく、朝日姫はただの人質?
織田信長は配下の同盟者徳川家康はおろか、
自分の家臣である前田利家の長男にまで娘を嫁にやっているが、
徳川家康や前田利家に人質を差し出したの?
徳川家康もまた前田家や京極家に孫娘をやっているが
将軍たる家康から拝領した姫君が人質であるとは言い難い。
この時代、男の人質は格下→格上へ忠誠の証として差し出されたが、
嫁入りの場合はむしろ娘や妹を格上→格下へ下げ渡した例が多い。
家康と1歳違いの朝日姫が長生きすれば、
家康亡きあとの徳川家を後家である朝日姫がどうすることも可能であって、
この時代の嫁が単なる人質とは言い難いよね。
>>891 形式の上ではともかく、子も孫も何人もいるのとは貴重度が違うじゃない。
> 家康亡きあとの徳川家を後家である朝日姫がどうすることも可能
なんてことはあるはずがなくて、何人もいる子供を全部処分でもしないと手も足も出るはずがないし。
石田三成の仮名って何ですかね?
佐吉は幼名だと思うんですが。
普通に佐吉だったんじゃないの。
佐吉で、全然おかしくない。
むしろ〜丸とかの幼名が別にあったけど伝わっていない可能性すらある。
一丁前に役職や地位を得てからも、上司や同僚から佐吉と呼ばれていたのなら、
仮名として立派に機能していたわけだ。
佐吉は幼名だという決め付けの方が間違い成分をふくんでいるように思える。
895 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:00:27
1947年3月に旧制高等学校を卒業して大学に入学した場合、留年などせず卒業となる場合
何年後に卒業となるのでしょうか?
896 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:37:10
>>892 武家では子も孫もみな嫡母に従ったんだよ。
古くは平清盛が実母でもない父の正室池禅尼に従って頼朝を助命したし、
北政所だって子供を一人も産んでいないのに秀吉没後豊臣家の家臣を動かす力を持っていた。
幕末の大奥を率いた篤姫も子供は一人も生んでいない。
正室はそういう地位ってこと。
897 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:42:35
日本の海賊の特殊な喋り方や隠語どういうのがある?
>896
正室の「実力」の実例としては、弱いね。
「頼朝の助命」なんかは、当時としては、
敗軍の子供を救ってやるかぐらいだし。
結果として、致命傷になったのは、別の話だな。
秀吉の北政所は、大阪城を出たし。
篤姫は、「大奥ぐらい」しか「支配」できなかった。
幕末の政局で、篤姫の影響があったのかな?
結局、
「ないがしろにされた正室」の方が、大多数でしょう。
899 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 01:11:32
すみません、本についての質問があり参りました。
戦前・戦後期の選挙運動の模様が写ってる写真が載ってる写真集や書籍を探しています。
新聞の一面などをかたっぱしから見ましたが、あまり良いのはありませんでした。
もしご存知でしたら、書籍名等教えていただけないでしょうか?
この時期ですのでまずありえないとおもいますが、学校の宿題ではありませんので。
901 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 17:38:38
井伊直弼の娘全員の名前が分かる方いませんか?
弥千代、砂千代など○千代って名前が多くて気になったもので。
902 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 19:27:51
私立の大学予科って部活動ってあったの?
例えば柔道部とかボクシング部とかあったのでしょうか
903 :
>>885 ◆jU4a0IcEJk :2009/02/05(木) 23:43:00
>>903 そんな最近の人は古文書なんて言われるような物には出てこない。
まじめな話としては維新後藩主たちは丁重に扱われたが、冷徹に実務からは遠ざけられた。
よって、軍内部での位置自体がない。あと藩自体が存在していないので藩の隊旗も何もない。
維新前なら藩主は最高権力者、隊旗は藩の家紋(とそれぞれ個人の家紋)
906 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 02:23:06
最近この板に来たんだけど
どうして一部にお国厨みたいなスレがあるの?
対決だとか朝鮮化とか馬鹿らしいんだが
質問です。
戦前の高等文官試験に合格した人も入省する時は属だったそうですが、
大体何年くらいで高等官たる事務官に昇進できたのでしょうか?
910 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 17:52:51
会津藩士の間では何故に幕末に至るまで男色が盛んだったのですか?
911 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 18:27:21
会津という訳ではない。
江戸時代の衆道の中心として謳われていたのは芝の増上寺と薩摩藩邸であり、
しかも男気を示すものとして、歌舞伎役者同様に讃えられていた。
>>911 男に惚れられなければ(真の)男とは言えん、という訳か(苦笑)
真の男はFabを持つものだ(違
質問です。
戦国時代頃の尾張に『平安忠浜口左衛門太郎』と言う人がいたらしいのですが、
平安時代の「平安忠」と何らかの関係があるということになるのでしょうか?
浜口左衛門太郎さんの本姓が平、諱が安忠ってことでは。
なるほど、ありがとうございます。
>>915 すみません途切れました。
つまり、平氏の流れであるということにはならないですよね?
>>917 >つまり、平氏の流れであるということにはならないですよね?
ならないでしょうね。
平某からの系図が伝わっていても、それが正しいとは証明できないし。
>>918 よくわかりました。ありがとうございます。
阿部さんは真の男なの?
第二次世界大戦時、ミッドウェーの戦いで負けた日本は、戦争に敗北することを確信した。
元軍人がニュースかなんかのインタビューで「ミッドウェー以降は消化試合だった。」
と発言した。
軍の有識者は、早い時点で昭和20年くらいに戦争に負けるのは確実だと確信し、ではどうすれば、日本は存続するか。
結論は国体の維持(天皇存続)だと結論づけた。
って友達から言われたんだけど、ソースとなる文献とかわかりますでしょうか。
そのお友達に聞かれたほうが早いと思いますが。
923 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 20:11:48
あ
924 :
>>885 ◆jU4a0IcEJk :2009/02/07(土) 20:25:15
>>904 レスありがとうございます。
でも”維新後大日本帝国軍”ではなくて”維新前官軍”話なんですが
質問します
戦国時代まで日本において駄載獣としてラバかそれに近い異種交配種が存在した事はありますか?
>>787 幕末には存在していないし小名みたいだな。
高座郡本郷村を恩馬村とか書いている人達だからねw
927 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 20:59:04
>>898 北政所は徳川家康を大阪城に入れるために城を出たのであって、
いられなくなったから出たのではないよ。
関ヶ原の合戦で豊臣恩顧の武将を誘導するだけの力を有していたのは嘘なの?
池禅尼も清盛らに尊敬されているから、史料を見てみよう。
壇ノ浦でも男ではなく清盛正室(平時子)が安徳天皇を抱いて沈んだ。
それくらい力があったということが分からないかな?
928 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:47:10
たぶれ心のみぞ(←当然のごとく変換できない)って、香具山と石上の間の
どこらへんを走っていたか、おおよそのことはわかっているんでしょうか?
929 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 00:31:50
関が原の戦いのとき、東軍側についた加藤清正や福島正則など、いわゆる豊臣恩顧の武将は、この戦いが
天下が豊臣から徳川に移るかどうかの天下分け目の決戦という認識はあったのでしょうか?
それとも、この戦いはあくまで豊臣家臣団の内紛で東軍側が勝っても豊臣政権は続くという認識だったのでしょうか?
後者。
加藤らは、君側の奸=石田を始めとする五奉行を殲滅すれば、
五大老と加藤・福島ら豊臣恩顧の大名による豊臣政権が成立する、と思っていた。
それが裏切られたのが、宇喜多の改易と毛利・上杉処分以後の徳川政権成立の流れであった。
>>929 >>930 どうだろ、前田利家の生前、徳川家と他の大名家の婚姻(秀吉の法度への違反)が原因となって
利家と家康が対立したときには関が原で家康についた細川とか加藤清正・嘉明などは利家の方を支持している。
このときは家康を抑えることが出来れば豊臣氏を中心の政権が続けられると考えたかもしれないけど
関が原時点では、家康が勝ったときに対抗できる大名が残っていない。
(五大老で唯一東軍の前田家は既に人質を江戸に出している)
それに、秀吉自身が、有能な当主が死んで、跡継ぎが器量がないと判断したら領地を減らし、
重要拠点から外している(蒲生とか丹羽)。
同様に、秀頼に天下人としての実力がないと豊臣政権の継続は無理と考えていたのでは。
将来の政権構想にまで考えが及んだのだろうか。
仮に石田三成派が豊臣政権で権力を握り、徳川が追い落とされでもしたら、
まず第一に自家の存続に危険を感じてたってことじゃないのかな。
過去にどれだけ恩を受けたかではなく、
この先自分の家と領地を守ってくれそうな人こそが戦国武士にとって良い領主。
だから徳川についたというだけの話だろう。
(福島正則は最終的に改易されたけど)
そういう理由で徳川についたなら良いんだけど、加藤や福島は明らかに「天下人は秀頼様」という意識を持っていた。
一人の著者が書いた日本史の通史の本はありますでしょうか。
もし複数あるのであればその中でオススメを教えてください。
当方も調べましたが井沢の逆説ぐらいしか分からなかったもので、
それではあんまりと思い質問させていただきました。
逆説は小説だから論外として、小和田哲男って人が文庫本三冊にまとめているのがあるけど、端折りまくり(これは仕方ないが)の上に
なんて言うか「進歩的」すぎて止めておけって内容なので見てもスルーするように。
レスありがとうございます。
やはり一人の著者でとなると難しいのでしょうか…。
>>935 オススメを今思いついた。
石ノ森章太郎「漫画 日本の歴史」
小和田氏は戦国史家かつ戦国マニア。
探偵ナイトスクープにも出たぜよ。
その時歴史は〜の戦国あたりはよく出るね。
一般受けしやすい学者さんだと思う。
日本通史の専門家っているのか?
日本通史の専門家は予備校講師です。
942 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:56:28
上野国は「上州」って言うのに
下野国はなぜ「下州」じゃなく「野州」なの?
野州じゃあ上野国と区別ついてないじゃん
俺の勘だ下野国を野州と呼んでも
上野国を野州以外の呼び方にすれば
区別がつくと思う。
皇族の男子には◯仁ってつくのが慣例のようですが
その命名の大本をたどっていくと誰が最初なんでしょう?
一番最初は清和天皇だったかな。
ただその後、○仁が続くという訳でなく名のパターンの1つとなってた。
その後は大覚寺統〜南朝の後二条天皇〜亀山天皇の5人の天皇を除き、
承久の乱後の後堀河天皇からは○仁が現在まで続いてと思う。
間違ってたらすまん。あとでちゃんと調べてみるわ。
内親王、女王もそうだが、そのうち漢字がなくなりそうで怖いんだがw
947 :
945:2009/02/11(水) 15:54:47
調べたらおおむね合ってたようだ。
てなわけで○仁という忌み名を持つ天皇を代数で上げてみた。
56、60、66、70〜81、83、86〜93、95、北朝1〜5、100〜125(今上)
清和天皇が初出で、70代後冷泉天皇以降はほぼ「○仁」なのだが
承久の乱と南朝の天皇が異なる字を用いているというのが特徴的だ。
>>941 竹内か?
受験用以外に通史の本あったっけ?
武光誠さんは古代日本史専攻だけど、いろんな時代の本を書いていないか?
時の権力者とは何ですか?
豊臣秀吉について勉強してたら出てきたんですが
その時代に力を持っていた人のことですか?
そう。
953 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:10:01
平氏、源氏以前に武士っていなかったの?
平氏とか源氏って、誰の子孫なの?
iいる。
平さんや減さんの子孫。
955 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 21:45:33
「池袋村の娘を女中にすると必ず不思議な出来事が起きる」という俗信の初出は
どんな文献ですか?
戦国時代って大名同士外交はしてたでしょうけど、有能な”外交官”にあたる存在って居たんですか?
>>957 安国寺恵瓊や滝本寺非有、金地院崇伝…
正規でない交渉は主として宗教家が担っていたのです。
世界的にみても、テロリスト相手とかでは今でもそうだと言えますが。
三国志みたいに舌戦ってあったのかな。
門外漢なのですが、平安末期から鎌倉時代にかけての封主による封の没収の要件について調べています。
朝河寛一の論文では平安末期の庄の職は、名目上は庄の所有者の御恩によって与えられているため、
庄の所有者の恣意によって没収しうることになっているが、庄の職についた軍事貴族たちは実力によって庄を支配していた
ために、事実上、庄の所有者の恣意による没収は不可能だろうみたいに書いてありました。
しかし、幾つか論文を当たってみたのですが、実際の封の没収や、誠実義務違反のときの封の取り扱いについて
詳しい記述がなかなか見つからなくて困っています。
封主による封の没収の要件や、それについて詳しい文献などがあったらご教授いただけないでしょうか?
「土地を20年貸したら相手の物になる」
はいつまで通用したのですか?
>>959 戦場での言葉戦いというのは源平合戦から戦国期まで
行われていたよ。
直接ではないけれど、寺社に捧げる願文で敵を
凶徒だ悪人だと罵ったりもする。
性質が残忍だから学が穢れるので嫌、とかで受講を断られた大名って誰でしたっけ?
断ったほうは藤原惺窩かと思ったのですが、エピソードが出ないのでこれも違うかも。
>>963 豊臣秀次じゃなかったかな。
家康に服装を注意したり、直江兼続を奸雄と評価して機嫌を損ねないようにす
る話があったりするな。
藤原惺窩という人は、逸話を見るかぎりだといかにも儒学者な嫌らしさが
あってあまり好きじゃないんだが・・・。
965 :
960:2009/02/22(日) 16:15:11
専門スレを探して聞いて見ます。ありがとうございました。
>>964 間違いなくそうでした、ありがとうございました。
秀次から引かないと見つからないとなると、藤原惺窩側からして取るに足らない
出来事だったのかー。
あと、日本の儒学者は、中国の清談派に宦官混ぜたような独特の臭さがふしぎ。
教えてください。
昔の日本で、酒が防腐目的に使われた事例はありますか?
たまたま酒に漬けたものが腐らなかったと言う話ではなく、
酒のアルコールを明らかに防腐の目的で使ったような事例です。
源義経の首を酒に漬けて平泉から鎌倉まで運んだが着いた時には
人相がわからないほど腐っていたという話を聞き、これが事実なら
防腐目的には違いないが、琉球の泡盛ならともかく、本土の日本酒
のアルコール度数は防腐に使えるほど強いものだろうかという疑問
がわきました。
戦国時代板ではスルーされてしまったのでここで質問させて下さい。
関ヶ原合戦当時、織田秀信の家臣に「岐阜四天王」なる四将がいたそうですが、
調べても飯沼小勘平長資しか名前が分からなかったのですが
残る三人は誰ですか?
家老の木造長政や百々綱家らがそうなのですか?
それと、秀信に西軍加担を勧めたとされる
入江右近(左近?)、高橋一徳という近習達ですが、
彼らの生没年や経歴が簡単にでも知りたいです。
『慶長五年岐阜落城軍記』では秀信を裏切って櫓に放火したら
自分達まで炎に呑まれて死亡…なんてトホホな末路になってますが、
戦後も生きて高橋は高野山まで秀信に付き従ったとの記録もあるようですが
どうなのでしょうか?
>>967 知らんけど日本酒なら腐るんじゃない。
防腐剤なら塩とか。
970 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 10:30:44
日本酒の防腐効果はどうもアルコールによるものではないらしい。
下のサイトでは無添加の酢の物が2週間腐らなかった例が紹介されてるけど、
死体の防腐措置にまで応用出来るかは分からん。
http://www.polano.org/12_oji/13_bofu.html >抗菌というと、アルコールによるものと思われ勝ちですが、
>使用量(素材・浸け液に対して2%程) から見ても考えにくいのです。
>岡山大学の有元佐賀恵博士は「アルコール以外の成分」であると報告されています(2002年)
>しかし、今のところ固有の物質を特定するところまでは至ってはいないようですが、
>日本酒にはアミノ酸のグリシン(抗菌・酸化防止効果がある) が
>かなり含まれているところから想像に難くない話です。
江戸時代、掴まった人が牢死するときの死因っていうのは何が多いのでしょうか?
やはり牢内虐めだったりするのでしょうか?
972 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 21:03:19
>>968 「岐阜四天王」はおそらくWikiに書いてあるので
そういう人がいるに違いないとここで質問しているのだろうが
wiki自体個人が勝手に編集できるので根拠がない。
強いて言うなら編纂者にどういう根拠があるのか質問するしかない。
これこれの史料にこう出ているのですが・・・というならともかく
ソースの引っ張りところが悪すぎる。
この板でもスルーされる可能性大。
973 :
968:2009/02/27(金) 21:46:43
>>972 仰る通り、質問の出所はWikiの記述でした。
そうか、「岐阜四天王」がいるに違いないという時点から誤りだったとは…。
確かに史料を見ても飯沼を四天王の一人とは紹介してませんし、
道理で他の三人が見つからない訳ですね。
ありがとうございました。
何十俵何人扶持 とかの、扶持って何?
米俵で俸禄が支給される以外に何かくれるの?
976 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 14:01:44
>>975 そういう幼稚園児レベルの質問は放置しとけ
相手すると学問板としての品位が下がる
>>974 領地の支配権の有 知行取り (支配に伴う余録あり)
無 蔵米取り (なし)
領地には当然物理的な限界があるのだから、領地にあぶれたのが蔵米取りかな?
扶持米(ふちまい):追加のボーナスみたいなもんかな?
>>976 お前、「品位」を保つために適宜訂正しろ。すぐにやれ。
大阪府の橋本知事が、公務員の給与明細を公開することを検討しているというニュースが報じられました。
そこで疑問に思ったのですが、日本史上において
支配者層の報酬を被支配者層が認知していたケースというものは存在するのでしょうか?
ありがとうございます。
早速関連書物に目を通してきます。
人物の人となりや逸話を集めた本はないでしょうか?
集英社版「日本の歴史」とか読んでみて
・どういう戦いがあってその原因や結果は
・どういう制度が作られてその目的や効果は
って話はいっぱい載ってるんですけど
徳川綱吉がどういう性格の人でどういう人生を送ったかとか
そういうのが期待したほど載ってなかったので質問しました
982 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 17:53:01
吉川弘文館とかミネルバの評伝集にあたったら?
新書なんかでも人物に焦点をあてた著作はいっぱいあるよ。
>>981 歴史小説や歴史関係のエッセーはほとんどがそういうものだから、興味がある人物について書いてあるものを読んでみたら?
もっとも、採り上げられている人物は相当に偏りがあるけど。
984 :
981:2009/03/06(金) 01:46:21
評伝調べててみましたがちょっと濃そうですね・・・
Wikipediaでわかるくらいの内容でいいので
たくさん載ってるのがあればうれしいんですけど
まあ地道に自分で収集していくことにします・・・
>>983 ありがとうございます。
江戸時代、特に歴代将軍や政治の指揮を執った人間の人となりを
調べたいのですが、そういう感じの本はないですかね
>>985 奉行ならば、新人物往来社の『江戸の名奉行』という本がある。
40数名の江戸時代の奉行(町奉行に限らないが)の事績や逸話を
簡潔にまとめた本。わりと新しいので、入手はしやすいと思うけど。
その人物個人となると、『日本の歴史』のような通史ものより、
人物叢書や新書などをあたった方がやはり良いでしょうね。
>>985 うーん、「思いっきりダイジェスト」というのも、あると便利そうではあるけど、あるかな?
「メシ・風呂・寝る」だけの一点張りというか、簡にしすぎて要を得ないものになっちゃわないかな。
988 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 22:03:19
江戸時代の天
皇や将軍の一般的な一日の仕事ってどういう感じなんでしょうか?
将軍も吉宗を過ぎたあたりから形骸化してるっぽいし
>>988 将軍のほうは、徳川の現当主の本に書いてあったような?
990 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:30:22
初?
脇坂安治が戸次川の戦いで処分されなかったのはどうしてでしょうか?
992 :
日本@名無史さん:
処分された仙石は軍監であり、無理な攻勢を主導したと認定された。
そして仙石は秀吉にとって中級武士時代からの部下であり、
彼から全ての所領を奪うことで秀吉自身の責任を示した。