1 :
日本@名無史さん :
05/03/10 22:11:47 大和・纒向に成立し、全国を古墳時代へ導いた王権について考察するスレです。 *ローカルルール 1)日本史板ですので、文献無視ではありませんが、 邪馬台国論争・九州王朝ネタ・神武伝承等は専用スレへ。 2)荒らし・粘着・ループは、完全スルー! 初心者・スレ違いは、適時誘導。 3)自説発表及び反論は、コテハン&トリップを推奨。 4)異説、異論を排除してはなりません。大いに議論して真理を探りましょう |
2 :
日本@名無史さん :05/03/10 22:12:32
「王権の誕生」は、かなり幅広い時代を扱ったむものですが、ここでは、邪馬台国関連の時代について、紹介します。 1:二世紀の段階では、包括的(畿内、九州を含む)王権は誕生していない。 2:三世紀初頭、纏向遺跡が誕生する。これこそいわゆる大和政権(寺沢説の用語では、「新生倭国」)の成立によって建設された、王都である。 3:纏向政権(新生倭国、普通にいう、大和政権。面倒なので、纏向政権で統一)は、九州から、瀬戸内、畿内にいたる諸勢力が共同で樹立した、「対等連合政権」(この語を寺沢は使用していない。私が寺沢説を理解するために使用する語である。妥当なものと思う)である。 寺沢説の特徴は、纏向政権を、それまでの唐古・鍵遺跡とは断絶した(発展ではなく)「対等連合政権」であるとるところに、特色がある。つまり、大和勢力が、他地域を屈服させた、とう従来の立場に真っ向から対立するのである。 また、纏向政権成立の段階に、北九州(つまりは伊都国)が参画しているとするのにも、注意したい。
3 :
日本@名無史さん :05/03/10 22:14:03
さらに、寺沢は、諸地方勢力が、纏向に出先機関を置いていたとする。 4:さて、大陸との関係である。 寺沢によれば、三世紀初期においては、大陸系文物(公孫氏系)の量は、北九州が畿内を凌駕する。「対等連合政権」とするのも、そのためだろう。北九州伊都国の隆盛は、三世紀前半を通してつづく。 5:卑弥呼は、むろん、纏向政権の女王である。「倭韓郡に属す」で公孫氏に属した倭は卑弥呼であり、公孫政権滅亡とともに、卑弥呼は魏に属することになる。 「卑弥呼の鏡」は、画文帯を中心としたもの。△鏡は、三世紀後半以降の倭鏡とのこと。
4 :
日本@名無史さん :05/03/10 22:14:24
6:ここで、問題なのは、伊都国が、寺沢説では、「畿内と対等」になって しまうことである。三世紀初期において、伊都国が纏向政権の勢力圏にあり、 しかも大陸文物の優位を誇るとなれば、このような解釈とならざるをえない のだろう。纏向政権初期においては、伊都国が大陸通交のメイ ンとなっていたということになってしまうのだから。しかし、 「世々王有り、皆な女王國に統屬す」の記述上、大いに問題である。 しかも、「大率」というのは、 伊都国が纏向政権の一員として管掌した役職だというのだ。 7:その後の纏向政権について。 対等連合政権の諸勢力首長は、畿内に常駐し、やがては畿内豪族と なった(!)巨大古墳の密度が畿内で高いのは、実に、彼らが本国 ではなく、畿内に古墳を建設したためだという。 つまり、伊都国が三世紀後半衰退するのは、伊都国王が、本拠地を 畿内に移したためらしい。他の地域でも、同様だとのこと。
5 :
日本@名無史さん :05/03/10 22:15:04
楯築ってよく吉備の代表例として採り上げられるけど、あのタイプって後にあまり続かないんですよね。 吉備で円丘+突出部が主流になるのは大和に特殊器台が出だしだす宮山や矢藤治山以降になるのでは? 弧文については元々大和にあるし、近藤義郎あたりは弧帯石と弧文円板の弧文は別のものと言ってたのでは。 庄内式や纒向の外来系土器を考えると全く関係ないとは思わないけど、吉備と大和の直接的な関係は遅れそうな気がするんだけどね。
6 :
日本@名無史さん :05/03/10 22:15:31
>ドイツを統一したプロイセン、オーストリアは、北方辺境拍、東方辺境伯だった。 >辺境での闘争に鍛えられた辺境が中央を制することはいわば歴史の法則とも言えよう。 前段の行は歴史的事実だが、中世国家段階であり、国家形成段階に適用できる例とは思えない。 下段の行も、「歴史の法則」とするが、文明度の高い中心的な国家勢力が領土を広げていくということも「歴史の法則」だ。 いろいろな事例のある歴史から自説に都合のよい例を引っ張って来てもそれは論証にならない。 ちなみに、例えば明は最初、南京に都を置いていたが、永楽帝がモンゴルとの対抗上、北京に遷都した。 アフガンのゴール朝は北インドに侵入し、征服したが、武将アイバクはデリーに独自に王朝を建て(奴隷王朝)、逆にゴール朝を乗っ取った。 アレキサンダー大王の死後、ヘレニズム諸王朝が建設されたが、そのうちもっとも有力なセレウコス朝シリアはシリアのアンティオキアに首都をおいたが、ペルシアまでの東方に広い領土の統治のために、メソポタミアに第2の首都セレウキアを築いた。 はじめヘカトンピルスに都を置いたパルティア王国は、ローマとの戦いによりメソポタミアを奪取すると、そこに新領土の統治のために首都クテシフォンを築いた。 もと地中海東岸に根拠を持ち、地中海貿易で繁栄したフェニキア人は、地中海各地に植民市を築いたが、特にフェニキア最大の都市ティルスは植民市カルタゴを築いた。このカルタゴは母市ティルスを凌ぐ勢力となり、地中海に覇権を築き帝国化した。 以上のように、「東遷説」のような状況を説明する世界史上の類似例を引き出すことができなくはない。 状況が違うだろ、と批判が来るのは承知だし当然だろうが、そうした批判は畿内=スパルタ説や畿内=ローマ説と同じ。 つまり、安易に歴史上の類似例(アナロジー)を持ち出して、不明確な歴史の復元の論拠とはできない(都合のいいアナロジーはいくらでもありうる)、ことを言いたかったまでなので、その点はよく自戒されたい。
1.畿内自生説 弥生時代の畿内勢力が倭王権の主体であり、鉄資源ルートを掌握して後漢の 衰退により後ろ盾を失った北九州を倒した。 【畿内自生説の根拠】 @畿内の方が農業に適しており、生産力が高いので北九州を打倒した (小林行雄)。 A畿内の方形周こう墓は、九州に広がったから畿内の方が強い(佐原真) B銅鐸圏は、北九州文化圏よりデカイから畿内の方が強かったに 違いない(近藤義郎)。 C個人への富の集中を妨げる協力な規制こそが北九州を打倒する原動力 となった。威信財の乏しさこそ畿内の強みなのだ。あたかもスパルタ のように(都出ヒロシ)。 D大安万呂に匹敵する「天才的イデオローグ」が中国思想と日本各地の 墓制を統合し、倭王権を誕生せしめた。 E倭王権が畿内に生じたという考古学的事実を無視すべきでない (白石太一郎?) 安易な権力移動の想定は英雄史観にすぎない。島国であり関東以 西についてはほぼ文化的に均一であった日本において大和朝廷の 誕生に権力移動を持ち出す必要は全くない。 F(東海地域の役割を重視する立場から)ホケノ山や外山茶臼山の 前方部に並べられていた加飾壺(二重口縁、長胴型、底部穿孔の 特徴を持つ形式)は愛知県尾西市の西上免遺跡内の前方後方墳跡 から出土したものと同形式であることが確認されています。 初期古墳の破鏡は、伊勢湾岸等などに見られ、東海の影響である。
D畿内に戦士層の存在が証明できない。畿内の高地性集落は、防御的 なものであり、攻撃的な性格を持たない。 Eホケノ山の壺を東海系といっているのは赤塚氏のみ。 (畿内自生説への反論) @銅鐸祭祀に代表される弥生畿内文化と鏡、玉、剣の古墳文化に何 のつながりなし(大六、森浩、方丈その他) 古墳文化に引き継がれているのはほとんど何もなし。 A鉄器の質量とも西日本最低で、サヌカイトで闘ったら負けるだけ なので鉄器ルートの奪取はありえない(川越哲志、村上恭通) B大集落以上の統一的な権力や流通の存在が考古学的に証明できない。 銅鐸祭祀の中心は近江。 C弥生時代の日本は不均衡である (北九州>・・ 越えられない壁・・>西日本日本海側> 東瀬戸> 畿内(ドンヅマリ」)) D畿内に戦士層の存在が証明できない。畿内の高地性集落は、防御的 なものであり、攻撃的な性格を持たない。 Eホケノ山の壺を東海系といっているのは赤塚氏のみ。
F今、倭王権の畿内自生説やマルクス主義に対して疑問を唱えるべき時ではない。それは、 イラク侵略への日本の荷担がますます深まり、極右暴力集団「新しい教科書を作る会」に よる皇国史観教科書の動きが顕在化している昨今、結果的に皇国史観を側面的に支援するだけだ。
2.九州倭国拡大説 →弥生時代に既に倭国王であった伊都国と奴国による 九州倭国が東瀬戸勢力の協力を得て、東方に拡大し 首都を移転。倭王権成立は画期ではない。 【九州倭国拡大説の根拠】 @鏡の大量埋葬、素環頭太刀、朱の塗布、割竹式木棺など 弥生時代北九州文化と古墳文化の共通性(第六、森浩その他) ホケノ山における内行花紋鏡の破鏡、棟持柱付建造物は平原類似。 A伊都国、奴国を中心とする副葬品のピラミッド型の格差に より示される権力層の階層構造や奴国地域からの鏡など青 銅器の配 布行為が倭王権のそれと同じ(大六、森浩その他)。 B平原の鳥居・大柱が、伊勢神宮、諏訪大社のそれに極似。 鳥居と大柱の延長上に日向峠(伊勢神宮の新嘗と同日に日の出) などで王権祭祀との共通性(柳田康男) C記紀などの国内文献と祖語がない。平原周辺の地名が天孫 降臨の条に見られる地名と一致(大六)。 D九州倭国は、弥生期に西部四国、西瀬戸地域などに領域を 拡大している。山陰など日本海地域や伊勢湾岸とも強い経 済関係があったことが証明されており、終末期には帝国化 していた(柳田康男)。
【九州倭国拡大説に対する反論】 @東遷説は皇国史観の亡霊。軍靴の足音が聞こえる(佐原真)。 A畿内だけでは劣位でも吉備、山陰、丹波を味方にしたので勝った(鏡大の人)。 B大型墓の衰退、副葬の減少など北九州の遺跡は終末期に衰退(鏡大の人)。 C首長霊儀式は、特殊器台の流入に見られるように吉備から受け 継がれた(近藤義郎)。円形という形、木隔、葺石などからも 楯突→石塚の流れがより重要。 Dマキムク遺跡の出土の外来土器に九州土器はなし。一番が東海、 次が吉備。逆に庄内式土器はこの時期九州に行っており九州こ そが劣位の立場(白石太一郎、石野博信等)。
【九州倭国拡大説に対する反論に対する再反論】 @(皇国史観との声に対して)考古学には考古学で反論すべきで、 政治的議論を持ち込むべきではない。 考古学的事象は、日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本 書紀の 神代神話をさけて通ることはできない。研究者にその片鱗 があれば 邪馬台国問題だけでなく古代国家形成研究でさけて通れ ない古墳出現期 の諸問題がここまで時間をかけずにすんだはず (柳田康男)。 A日本海地域は玉器に交易などにより北九州地域との強い経済関係 が考古学的に証明されているが、畿内のそれは全く証明できない。 ましてや畿内とそれ他ブロックとの政治的関係の証明は考古学的 には不可能であるはず。
B三雲、博多湾岸において九州の遺跡の衰退は庄内期ですら全くない (九州の考古学者ほぼ全員)。同時期畿内でも墳墓は減少。 C近藤氏が吉備東遷の示唆の根拠としている特殊器台は、中山大塚以降 に出土。都月と宮山が一緒になるのは吉備でなく畿内。 葺石は、ホケノ山以降。布留期に吉備の文化が大量に流入したことを もってその前の庄内期における倭王権成立の吉備主導を導くのは本末 転倒。特殊器台は、△鏡と同様に倭王権成立とは無関係。 D高級品である庄内式土器と労働者の使う土器、恭献土器の3つの土器を同一 に議論するのはミソもクソも一緒に議論するようなもので成り立たない。 纒向の外来土器の性格は労働力移動説か供献説が主流であり、両説を採用 する場合、九州の土器がないことは逆に九州の主導性を示してる。 高級品である庄内式土器はオオヤマト地域と河内の一部、博多湾岸等だけ にしか出土せず、これは倭政権の構造を表している。 東海系土器が多いから東海が主導したということは考古学的にあり得ない。 F北九州以外の政治的ブロックは、考古学的に証明されていない。 墳墓の共通性から山陰地域で権力者の同盟が証明され、吉備地域は墳墓の 共通性が乏しく、楯突などにより推定されるのみで集落など不明。 経済的ブロックについては、九州以外証明不能。
考古学中心に論じたい方はこちらでお願いします。
北條先生、関先生引き続きご義論お願いします。
>>14 考古学中心に論じたい方は考古板でお願いします。
九州王朝説、邪馬台国九州説、騎馬民族説は禁止します。
18 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:23:02
北條先生質問です。 寺澤氏の銅鐸が特殊埴輪に変形下という説は、学界では定説なんでしょうか? 教えて下さい。
19 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:26:36
今回の橋本氏のご講演はこの問題にヒントと思われる内容を多く含んでいました。 1.纏向の人々は他地域の土器を受け入れ、それを独自のものに 仕立て上げ、さらにそれを外部に輸出する。 (三角縁もそうか?:当世コメント) 2.西日本に広がる布留式土器は2種類ある。本来の布留式と いささかどんくさい布留式土器。 3.どんくさい方の布留式は阿波の人が拡散の担い手らしい。 初期ヤマト政権には阿波が大きく関わっている。 4.纏向は布留0がピークで布留1式土器は少ない。2式は 無いと言っても良い。布留ゼロは260年から300年か?? (箸墓はこの布留ゼロ古から築造が始まり布留ゼロ新までかかっている:と話されたと思われるが) 5.箸墓以前の纏向勢力は弱い勢力。(ONE OF THEM的)箸墓以後にキナイが飛び出てきた。 6.纏向の成立は庄内0。この年代は180年から200年。
20 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:30:21
福岡前原の井原発掘中弥生後期の遺跡鑓溝から中国の「倭人伝」に記載された伊都国の中心部で、以前江戸時期天明年間に 発見されたが、不明になっていた王墓の可能性が出た、それは 方格規矩四神鏡(中国製銅鏡)が見つかった、今日の新聞から、伊都国には世よ王ありとも記されており、三カ所目の王墓という。 これは【柳園古器略考】1822年の銅鏡の拓本と同じ、で(前漢末〜後漢時代作)から製造された。この鏡は四神が描かれたもの、 が特徴とある。「柳園古器略考に農民が見つけた壷中から高貴な人の墓に用いる朱や鏡があったと記す
21 :
日本@名無史さん :05/03/10 23:39:00
北九州には、成人甕棺地帯という一つの文化圏があったこと、 その地帯と今山の磨製石斧、立岩の石包丁など弥生ブランド品の分布、 漢式鏡の副葬が重なることだけは分かっています。 なぜなんでしょうか?
22 :
日本@名無史さん :05/03/11 00:32:32
もう一つのスレッドは電波化したな。 やっぱ北條がいないとダメだ。
考古学板へ誘導します。 以後放置で。
>>23-24 考古学を無視して、妄想爆発させていて楽しいですかw
持論に都合の悪い考古学を排除して論を進めようというのが情けない。
九州説の断末魔か。
考古学の成果も取り入れた自説を展開させてみてよ。
知らないなら知らないで素直に勉強されたし。
主として考古学を語るなら板違いにより移動が妥当。 何のために考古学板があると思っているのか。 2ちゃんのルールくらい守れ。
>>26 いやだから、最近の考古学によって分かってきた3世紀の倭国の様相に対して、
君は興味がないのか?と逆に聞きたい。
私は、考古学も歴史を知る上での手段のひとつだと思っているし、
文献をバカにする気は毛頭ないよ。
ただ、考古学から目を逸らして現実を見ようとしない君の学問的スタンスには、
疑問を感じざるを得ない。
考古学的見地が入ると君の持論が保てないからなの?
>>27 誰かと勘違いしていますか。
私は畿内説です。
考古学はどちらかというと重視、です。
前スレの結論をふまえて、考古学板に立て直しました。
それが荒らされない方法でもあるし、なにより2ちゃんのルールでもあります。
日本史板に固執する必要はありません。
主なレスの転載を終了しました。
私と一緒に移動しましょう。
>>28 ごめん。
俺、考古学は専門じゃないんで止めとくわw
30 :
日本@名無史さん :05/03/11 23:58:30
>19 橋本って石野博信と言っていることが似てない? 弟子なの?
31 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:00:52
>21 >北九州には、成人甕棺地帯という一つの文化圏があったこと、 >その地帯と今山の磨製石斧、立岩の石包丁など弥生ブランド品の分布、 >漢式鏡の副葬が重なることだけは分かっています そら同一の政治権力に服したからじゃん。
32 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:04:00
>九州説の断末魔か。 未だに九州説なんかいるのか?
33 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:14:35
前スレッドにホケノ山をやたら下げようとする奴がいましたね。 何か意図があるのか。
34 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:20:19
佐古とか高島とかいるんじゃないの。 ダメダメな奴ばっかだけど。 高島は吉野ヶ里の宣伝のためで本気じゃないね。 おそらく。
35 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:23:40
>33 いるねそういうの。 副葬品のほんの一部の特徴みて新しいって主張すんのが。 総合的に見なきゃ駄目でしょうが。
高島は奈文研でいじめられて以来の九州説。
37 :
日本史板一同 :05/03/12 00:27:08
38 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:29:58
村上のフロンティア説ってのはついによくわからんかった。 わかりやすく解説してほしいもんだ。
39 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:31:04
>36 なんでいじめられたの? 教えて。
これって司会とかいう気違い粘着が立てたスレだろ。 まともな畿内説はここには来てないと思う。 多分、司会ひとりの自演スレのはずだから、放置で問題ないのでは。
41 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:34:19
佐古は単なる活動家。 学者じゃありません。
42 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:36:31
レス間の経過時間、内容をみると明らかに自演が多い 晒しAGEとくww
43 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:37:50
自演=捏造体質、考古厨曝しあげ♪
44 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:40:54
漏れはじっくり観察することにした
45 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:46:13
>41 河上先生の言うとおりアレは、3世紀前半だろ。
46 :
日本@名無史さん :05/03/12 00:59:19
自演age
47 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:04:48
和製イムホテプ=畿内天才的イデオローグ説は、再検証されるべき。 畿内サヌカイト軍団の物質的劣性をイデオロギーで覆したとみるのは あながち不自然な話ではない。
48 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:05:03
この流れでこのスレにいる人は、確かに基地外。 考古学板に移らず、一人で自演を続ける理解不能な粘着と それに粘着している考古学音痴厨。 どっちもどっちだが、より理解不能なのは司会の自演。
49 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:05:19
>>313 寺沢薫が否定したのは、
都出比呂志が「畿内が世帯共同体の自立性が低く、強い共同体的規制力があり、ピラミッド的集約としての政治的結合体を作った」としたことであり、むしろ畿内がの方が世帯共同体の自立性が高かったことを示している。
なので
>>313 は引用を少し間違っている。
また北部九州の大量副葬について、都出はその階級的卓越性に疑問を呈したのだが、寺沢はこれこそ共同体規制力を乗り越えて階級的隔絶性を示したものだと反論した。
この点は、古墳の副葬品卓越性を同じように評価する以上、やはり寺沢の理解が素直なところであろう。
いずれにしてもこれらに対する反論は無いのはそのとおり。
50 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:05:50
伊都国単独ということはあり得ない。 T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 U 4隅を共有する山陰地域 V 特殊器台を共有する吉備地域 W 阿讃地域 が連合して畿内を制圧して新首都を置いたということではないか と推測している。 ただし、弥生後期におけるT〜W地域の政治的経済的成熟度や 鉄器に代表される物資の興隆等を考慮すれば、このスレッドで指摘 されているようにVが主体であることは考えにくく、T・U連合 が主導したと思う。
51 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:06:22
伊都国単独ということはあり得ない。 T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 U 4隅を共有する山陰地域 V 特殊器台を共有する吉備地域 W 阿讃地域 が連合して畿内を制圧して新首都を置いたということではないか と推測している。 ただし、弥生後期におけるT〜W地域の政治的経済的成熟度や 鉄器に代表される物資の興隆等を考慮すれば、このスレッドで指摘 されているようにVが主体であることは考えにくく、T・U連合 が主導したと思う。
52 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:06:53
いや、特に奈良盆地での庄内甕の偏在性は石野、関川、青木、小池が強調しているところ。 石野氏の『邪馬台国の考古学』吉川弘文館の154頁前後参照。 河内でも奈良盆地ほど極端ではないみたいだが、中田遺跡周辺に中心があり、偏在しているのは確か。 河内周辺は季刊考古学84号の森岡氏の「弥生終末期の土器と土師器」でもとりあえず読んで確認してくれ。
53 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:07:07
テンプレからしてキチガイスレ
54 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:07:22
いや、特に奈良盆地での庄内甕の偏在性は石野、関川、青木、小池が強調しているところ。 石野氏の『邪馬台国の考古学』吉川弘文館の154頁前後参照。 河内でも奈良盆地ほど極端ではないみたいだが、中田遺跡周辺に中心があり、偏在しているのは確か。 河内周辺は季刊考古学84号の森岡氏の「弥生終末期の土器と土師器」でもとりあえず読んで確認してくれ。
55 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:07:57
牙民族説を排除するな。ド素人が。
56 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:08:45
金印の「那国」はナコクと読まれているが 国(コク)は漢読みなので 当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測されるわけだけど ヤマトで国を指す言葉として使われていたのはおそらく"ら" いまでも日本語では地域や場所を指す言葉として"ら"が使われているからだ。 こち"ら" そち"ら" あち"ら" おそこ"ら" む"ら" そ"ら" どち"ら" つまり奈良ができるずっと以前から那国(ナラ)は存在していたってことになる。
57 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:09:23
金印の「那国」は 魏志倭人伝の中では邪馬台国と対立しているクナ国(クナラ)だろう。 クは、お"く" "く"ねる のクで 奥にあるもの、つまり古いとか旧という意味で クナ国(クナラ)は旧ナラという意味で 邪馬台国が新ナラということだ。 クナがなまってクマになったのだろう。 クマは熊、つまり現在の熊本のあるところあたりにクナラはあったことになる。 魏志倭人伝ではクナラは邪馬台国の南にあることになっているから 邪馬台国は現在の熊本の北あたりにあったことになる。 ここは日本の中で大陸と最も交流しやすい地域で 地域的にも邪馬台国があったところと考えるのは自然だろう。 那国(ナラ)=クナラ=熊 が天皇発祥の地だろうな。 だから、熊という字のつく場所は天皇とゆかりの深いところが多いんだと思う。 日本の神話にもあるだろう。 「クマソタケルを殺した皇子がクマソタケルから名前を譲り受けて ヤマトタケルになった」という話が。 隆盛をほこっていた大国那国(ナラ=クナラ)を倒したヤマトが 天皇制を那国(ナラ=クナラ)から受け継いだんだよ。 だから、神社などを調べると 熊という字のつく場所や人はヤマトの神と対立してることが多いのに 天皇とゆかりが深いという混乱した現象があるんだな。 ちなみに日本語の"そ"には一代前という意味がある. "そ"ふ "そ"ぼ クマソというのはクマはヤマトの一代前の国って意味なのだろう。
58 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:10:51
トヨを伊勢に祭るということは、どういうことだろう 出雲の神は出雲において祭っている 同様に考えると、トヨを九州で祭らず元伊勢、伊勢で祭るということは東遷の傍証にはなりはしないか ただ、トヨは現天皇家とは直接繋がらないと考えたいのだが
59 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:11:17
>大王家の権威が強大化したのは、挙国一致で高句麗と半島で激戦を繰り広げた >4世紀末以降のことですよ。 またいい加減なことを言う。 古墳規模は、庄内から圧倒的に畿内が大きい。 庄内かもしれない唯一のまともな古墳(周壕付で50メートル以上) である那珂八幡ですら石塚、勝山より小さい。 ホケノ山の副葬も圧倒的。 こういうと仁徳陵とか応神陵とか言う奴がいるが、この時代には 地方の古墳も巨大化している。
60 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:11:20
祟り神といえば出雲だ。出雲大社より高い建築物を建てられなかったらしいし。 伊勢はどうなんだろうか。皇租神としての扱いではないようにみえる。 物部の神と捉えると自然。第一太陽神は男神で、巫女が女性。 このあたりのすり替えは、確かに匂う。
61 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:12:04
畿内説の私は漠然と畿内自生に軸足をおいて研究してきましたが、いくらなんでも高天原葛城説にはついていけません。 それが筑紫か日向かはともかく、文献には筑紫と書いてあります。 葛城に降臨したのなら、そう書けばいいし、畿内説の立場としては、東遷か九州の神話の借用ではないかと調査すべきであります。 最新の畿内説はこんな電波でないと成り立たなくなってしまっているのでしょうか。
62 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:12:17
240メートルの高台・古墳時代最大級−極楽寺ヒビキ遺跡と命名
奈良盆地南部の奈良県御所市で、石張りの堀に囲まれた5世紀前半の巨大な建物跡が出土した。
古墳時代としては最大級の規模で、県立橿原考古学研究所が21日、極楽寺ヒビキ遺跡と命名すると発表した。
盆地を見下ろす標高約240bの丘陵にあり、大豪族葛城氏が治めた一帯の「王宮」のような施設だったらしい。
火災で全焼した痕跡があり、葛城氏が雄略天皇に焼き打ちされた日本書紀の記述を裏付ける可能性もある。
http://mytown.asahi.com/nara/news01.asp?kiji=3863
63 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:12:35
内宮と外宮の問題、祀られ方の問題、何より天皇家は実は近代までほとんど伊勢参拝を していないということから、神と言ってもむしろたたり神のような存在じゃなかったのだろうか。 ただ、無視は出来ないから大仏建立の際に報告に行ったりはしてる。これはいわば仏教への 表看板の変更という一大事件だから、八百万の代表・アマテラスには報告しておかないと、と いうこと。
64 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:13:08
65 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:13:18
結局、畿内自生説って文献と一致しないことが大杉なんだ。 だからまともな古代史研究家は論じない。いるのは文献音痴の考古学者(門外漢)だけ。
66 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:15:07
なぜ狂ったかのようにコピペしているかというと、自演がバレたからだと思われ アゲ
67 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:17:07
66=自作自演
68 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:17:27
この流れでこのスレにいる人は、確かに基地外。 考古学板に移らず、一人で自演を続ける理解不能な粘着と それに粘着している考古学音痴厨。 どっちもどっちだが、より理解不能なのは司会の自演。
69 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:18:37
>65 安本信者は考古学を勉強しなさい。
70 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:19:30
68=粘着詐欺師の古田信者
71 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:23:41
最大の弥生墳丘墓でも箸墓古墳284mの1/4以下。だからそれでよい。 ちなみに古墳時代の始まりが布留式土器の登場と同時なのは単なる偶然と思われ
72 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:32:14
前方後円墳の定義を確定させて,最古の前方後円墳(箸墓でよろし?)の出現をもって(小林風に云うとその被葬者が生きて即位した時をもって)古墳時代とするとスッキリします? それはそれで実態とかけ離れることも予想されますが… あまり意識されないのですが,「時代区分」には〈使いやすさ〉もあると思われます.
73 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:35:42
>65 今の時代に神武東征はないだろうが。 原田第六以外支持するヤシはいないぞ。
74 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:37:20
箸墓に思い入れがあるようだが、ちょっと中国に目をやって見ろよ。 始皇帝陵(の埋葬時期)を指標にして時代を区切るといったら、お前バカかと言われるのは目にみえてるだろ。 画期はその被葬者の生存中にあるから、古墳(の埋葬時)では明らかに遅れる。 時間軸の確度が50年も100年も幅があるという時代ならいざ知らず、 今のように、10年、20年の分解能で話をするようになったら、明らかにやばい。 箸墓を指標とする昔の時代区分が捨てられつつある背景には、こんな事もあるのではないかな?
75 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:51:01
布留0の箸墓が最初の古墳であるわけねえだろ。 だいたい庄内0は2世紀終末だぞ。
76 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:51:32
庄内式土器の発祥地として、播磨が有力視されていることは吉備との関連で重要だと思います。 .播磨は吉備隣接地域として、吉備同様に弥生終末期の墳丘墓(発生期古墳)が多く見られ、また 特殊器台・特殊壷なども発見されています。私は播磨地域も吉備連合勢力圏の範囲内だったと 考えています。 ・ホケノ山の石囲い木かくは楯築墳丘墓において既に確認されていますが、半島南部の直接的 影響があるという考えも面白いと思います。
77 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:54:44
画文帯神獣鏡が布留0式の前の庄内式で出土するのはホケノ山と萩原だけですし。 その意味でも重要です。 布留0式併行の時期の出土も意外とまだ少なく、布留1式以降が大半。 岡村氏などの主張を鵜呑みにするのは思考停止と言えるでしょう。
78 :
日本@名無史さん :05/03/12 01:57:00
>49 >この点は、古墳の副葬品卓越性を同じように評価する以上、やはり寺沢の理解が素直なところであろう。 その前提が問われていることに気づけよ。 お前は、前方後円墳体制への疑問を呈した季刊考古学の石野論文 を読んでないのかよ。
79 :
日本@名無史さん :05/03/12 02:03:30
>76 播磨の砂礫を混ぜているだけ(石野博信)。 発祥はあくまで大和、河内。発祥地なんてありえん。 布留加賀発生説並のトンデモだよ。そりゃ。
80 :
日本@名無史さん :05/03/12 02:13:06
考古学者が金科玉条としている土器編年については身内からも強い批判が出ています。 河上氏は土器の年代観、編年への強い疑問を終始話されていました。勝山の土器が 土器分類では布留も出ていることに、土器編年こそ訂正すべしとのことでした。 あとは古墳で葺き石や石室の有無を話され、石塚などはそれらが無いので古い とのことであったと思います。 画紋帯神獣鏡も話されましたが、確かホケノの画紋帯も国産(列島産)の可能性 を話されたと思います。
81 :
日本@名無史さん :05/03/12 09:50:29
>76 > 特殊器台・特殊壷なども発見されています。私は播磨地域も吉備連合勢力圏の範囲内だったと ほんの一時期だけだなのだが。
82 :
日本@名無史さん :05/03/12 09:53:42
>57 熊と言えば壇君伝説です。 壇君伝説と共通の神話が日本にも存在していたとは面白いですね。
83 :
日本@名無史さん :05/03/12 10:06:48
小オリエンタリズムと表現する意識構造(私には小中華思想と説明してもい いように思われるのですが)は畿内と東国、東国と東北に限らず日本列島内 に広く存在すると思ってい ます。私の知っている限り九州北部と九州南部の研究史にもそのような状況 が典型的に表れていると思います。 さて、このような構造の大元はなんといってもみずからを中心と意識する地域の 優越意識にあると思います。畿内と東国に例をとれば、畿内の歴史的な優越性の認識に 対してその価値観を認め、そのリフレクションとしての東 国(畿内と比較して後進的な東国)を認識するという構造ができあがります。
>>35 土器や鏃を総合的に見て新しいと言ってると思うが?
石室も季刊考古学での今尾氏のような理解もありうるし。
鏡に三角がないから古いと言うのは、天神山などいくらでもあるので全く根拠にならない。
っていうか、一見古い要素ばかり注目されてるのがおかしいのでは?
>>76 ,
>>79 そもそも播磨の砂礫、ていうことが他の分析法で追認されていない。
播磨の長越遺跡などで大量に出土する庄内甕は確かに播磨産みたいだが、
他の地方で「播磨産」とされたものは型式的に怪しいのが多い。
また播磨での庄内甕の古い型式は、大和や河内との併行ではそう古いところにな行かない。
マキムク3式前半ぐらいまでしか遡らない。
よって、播磨で庄内甕が生産されているのはいいとして、また一部に播磨産の庄内甕が出回っているのもいいが、
大量の播磨甕が出回っているとか、播磨が庄内甕の起源というのはかなり無理と思う。
「外部勢力が畿内在地勢力を打倒して、マキムク、初期古墳を築いた」 というのが、外部勢力論者の言い分。 当時、北部九州〜畿内にかけての、軍事的統一がなされていたとは 思えない、あくまで倭国連合体制であったというのが畿内自生説の立場。 畿内を軍事的に制圧しない限り、大和盆地に侵入、新王都建設するなどは 夢想に過ぎない。マキムクと唐古鍵は5キロ程しか離れておらず、 畿内在地勢力を無視した平和裡の王都建設は難しいだろう。 大規模な戦争の痕跡が見つからず、倭人伝でも女王共立が記載されて いる以上、畿内在地勢力(銅鐸勢力)が3世紀の倭王権の主体となった と考えるのが自然である。
87 :
日本@名無史さん :05/03/12 17:42:48
>85 >そもそも播磨の砂礫、ていうことが他の分析法で追認されていない。 それ本当なの? kkkの人が言って、確か石野氏も認めていたようだが。 詳しく解説希望。
88 :
日本@名無史さん :05/03/12 17:55:48
畿内自生説の本の題名を考えてみました。 「唐古・鍵の女王卑弥呼」−銅鐸を捨てた奇跡の宗教革命− 「実在した鉄器」 −「見えざる鉄器」はあった− 「弥生の和製イムホテプ」−天才的イデオローグの軌道− 「スパルタと畿内」 −精神力で勝った東西の大国− 「虚妄のイト倭国」 −「畿内大王」は輝いていた−
89 :
日本@名無史さん :05/03/12 17:59:23
これって司会とかいう気違い粘着が立てたスレだろ。 まともな畿内説はここには来てないと思う。 多分、司会ひとりの自演スレのはずだから、放置で問題ないのでは。
90 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:06:37
>ドイツを統一したプロイセン、オーストリアは、北方辺境拍、東方辺境伯だった。 >辺境での闘争に鍛えられた辺境が中央を制することはいわば歴史の法則とも言えよう。 前段の行は歴史的事実だが、中世国家段階であり、国家形成段階に適用できる例とは思えない。 下段の行も、「歴史の法則」とするが、文明度の高い中心的な国家勢力が領土を広げていくということも「歴史の法則」だ。 いろいろな事例のある歴史から自説に都合のよい例を引っ張って来てもそれは論証にならない。 ちなみに、例えば明は最初、南京に都を置いていたが、永楽帝がモンゴルとの対抗上、北京に遷都した。 アフガンのゴール朝は北インドに侵入し、征服したが、武将アイバクはデリーに独自に王朝を建て(奴隷王朝)、逆にゴール朝を乗っ取った。 アレキサンダー大王の死後、ヘレニズム諸王朝が建設されたが、そのうちもっとも有力なセレウコス朝シリアはシリアのアンティオキアに首都をおいたが、ペルシアまでの東方に広い領土の統治のために、メソポタミアに第2の首都セレウキアを築いた。 はじめヘカトンピルスに都を置いたパルティア王国は、ローマとの戦いによりメソポタミアを奪取すると、そこに新領土の統治のために首都クテシフォンを築いた。 もと地中海東岸に根拠を持ち、地中海貿易で繁栄したフェニキア人は、地中海各地に植民市を築いたが、特にフェニキア最大の都市ティルスは植民市カルタゴを築いた。このカルタゴは母市ティルスを凌ぐ勢力となり、地中海に覇権を築き帝国化した。 以上のように、「東遷説」のような状況を説明する世界史上の類似例を引き出すことができなくはない。 状況が違うだろ、と批判が来るのは承知だし当然だろうが、そうした批判は畿内=スパルタ説や畿内=ローマ説と同じ。 つまり、安易に歴史上の類似例(アナロジー)を持ち出して、不明確な歴史の復元の論拠とはできない(都合のいいアナロジーはいくらでもありうる)、ことを言いたかったまでなので、その点はよく自戒されたい。
畿内説スレが三つに分裂したのは、誰の責任なんだよ。
92 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:30:11
弥生後期の政治ブロックについて、以下が提唱されました。 T、Uの政治的・経済的優位性が提案されていますが、 ご議論をお願いします。 T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 U 4隅を共有する山陰地域 V 特殊器台を共有する吉備地域 W 阿讃地域
93 :
日本@名無史さん :05/03/12 18:30:46
まず、北九州地域が ・政治的には青銅器威信財、祭器などを共有する地域であり、 ・経済的に見てもこの地域内において、鉄、石斧、石包丁といった 生産財が流通する ことは考古学的に確認されています(下條等)。 また、伊都国・奴国地域を中心に威信財が配布され、この地域を 中心にピラミッド型の階層が形成されていたのではないかとの 推測がなされています(原田、寺澤等)。 さらに、文献の立場からは、伊都国王が中国王朝から倭国王に 任命されていることは広域の支配の傍証とはなるでしょう。 もちろん、私は、 T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 U 4隅を共有する山陰地域 V 特殊器台を共有する吉備地域 W 阿讃地域 のU〜W地域において、そのような政治的・経済的ブロックが 形成されていたことを否定するつもりは毛頭ありません。 しかし、T地域がこれらより少なくとも考古学的に見れば政治的 ・経済的ブロック形成が強く確認されていることは確かなことと 言ってよいのではないかと思います。
94 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:18:39
箸墓」
95 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:47:20
前スレで「弥生都市論」なるデマを飛ばす馬鹿がいたが、 日本の古代に都市はない。当然巻向は都市ではないね。 藤原京ですら単なる専制君主の宿営地にすぎない。 ましてや自治的要素がない「弥生都市」など砂上の楼閣。 羽仁五郎の「都市の理論」で既に証明済み。
96 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:51:03
>15 いえ、定説ではありません。 特定の文様の嗜好が一致するという事実を過大評価しているだけです。 本来、鋸歯紋などは、普遍的な図柄であって、全く関係の無いところで独自に自生することもあります。 そして、何よりも銅鐸と埴輪では用途が違います。 問題の埴輪は、個人に対する葬礼危惧ですが、銅鐸は、共同体での除厄なに使用されたシンボルです。 ハンドバッグで有名な商品ブランドが、同じブランドでハンカチーフを作っても、 バッグがハンカチーフに変形したとは言わないでしょう?
97 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:52:41
21 名前:似非方丈 :05/03/12 14:12:10 ID:KHZFqNFR
>>20 久しぶりにマトモな意見だ。
というか議論がループ化しているので参加する気になれないのですが。
98 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:56:34
>98 後期銅鐸は、首長間で威信財として交換されたことを 想定すべきじゃないの。西谷の特殊台器と同様の役割 をもっていたとみるべきでは?
99 :
日本@名無史さん :05/03/12 22:59:16
弥生後期の政治ブロックについて、以下が提唱されました。 >T、Uの政治的・経済的優位性が提案されていますが、 >ご議論をお願いします。 >T 伊都国を中心とした九州西部四国地域 >U 4隅を共有する山陰地域 >V 特殊器台を共有する吉備地域 >W 阿讃地域 Uは北陸を含むぞ。面積的には一番広大だ。 押している大御所がいないから過小評価されとるが。
100 :
日本@名無史さん :05/03/12 23:17:12
前スレで老教授が文献は70年代にほぼ研究が終わり・・ とか言ってたが、考古学では、90年代に大きな動きが あったわけだ。大きなとこでも、 1.弥生時代が繰り上がって邪馬台国九州説が滅亡。 2.いわゆる畿内自生説が衰退。 3.箸中山の前の庄内(石塚等)が倭王権成立時とされる こういう考古学の成果を取り入れて文献の連中がちゃんと これまでの研究成果を見直しているかというと非常に疑問 ですね。70年代といえばあの小林大先生が主流だった頃 ですから。
101 :
日本@名無史さん :05/03/12 23:21:09
>95 いつの時代の話? 池上曽根遺跡はともかく、例えば那珂遺跡は都出の4条件に照らしても 都市だろ
102 :
日本@名無史さん :05/03/12 23:31:19
今日ブックオフ行ったら、秦の始皇帝は福岡で死んだ。 始皇帝が死んだといわれる平原津とは平原遺跡のことだという本を見かけた。 当然のごとく買わなかったが、これって割と知られてるはなし?
>>100 >2.いわゆる畿内自生説が衰退。
衰退したのはそうだろうけど、
>>86 の主張も尤もだ。
>>93 なぜ政治ブロックの説明で、唐古・鍵やら池上・曽根を抱える畿内地域が、
抜けているんだろう。意図的なものですか?
>まず、北九州地域が
>・政治的には青銅器威信財、祭器などを共有する地域であり、
>・経済的に見てもこの地域内において、鉄、石斧、石包丁といった
> 生産財が流通する
>ことは考古学的に確認されています(下條等)。
いや、だから、青銅器威信財=銅鐸を共有する地域としての畿内は、何故
想定外なんだろう?
銅鐸は所詮、共同体の祭器レベルって扱いで、王権誕生の証拠にはならない
っていうことか。
銅矛や銅剣も、銅鐸と同じく共同体の祭器だと思がなー。
105 :
日本@名無史さん :05/03/13 12:11:36
>104 >銅鐸は所詮、共同体の祭器レベルって扱いで、王権誕生の証拠にはならない >っていうことか。 いまのところ考古学ではそういう扱いになってます。 祭器では権力者間の政治的関係を証明できないという理由です。 しかし銅鐸配布説を示唆する福永氏のような人もいますが。
106 :
日本@名無史さん :05/03/13 12:22:03
>99 弥生時代に限定すれば物の交易の痕跡からは、誰がどう見てもT・U間の 日本海貿易ルートが交易の中心軸なんだよね。 ここからも、「瀬戸内の鉄器交易ルートを奪取」なんてのは絵空事 だということが分かります。 これまだあんまり言われてないことなんだけどね。
13 :日本@名無史さん :05/03/07 23:13:32 2世紀頃の倭国は青銅器をレガリアとした小国家群、巫覡(フゲキ)を 中心とした精霊祭祀の段階。 北部九州には海外交易を通じて富裕化した祭祀王が数名いた。 中国の冊封を受けた伊都王が「倭国王」として対外的に倭国の代表 として君臨したのが倭国大乱以前の倭国の様相。 倭国大乱とは、2世紀末の後漢の政治的混乱により伊都王による政治体制 がグラつき、出雲の離反が契機となったものであろう。 出雲はいち早く青銅器祭祀から決別し、古墳=首長霊祭祀を創始。 出雲は吉備、越、丹波を巻き込んだ日本海諸国連合を築き、伊都王に 対する叛意を鮮明にした。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/03/13 12:56:18
↑ 大筋正しいだろうな。 1世紀末:加茂岩倉の銅鐸祭祀終焉→四隅突出古墳開始という流れだな。 しかし、 銅鐸は吉備・播磨・四国・畿内・近江・美濃・東海・信濃まで広がっているから 日本海連合ではなく 北部九州VS西日本連合だな。 だから大乱で、圧倒的な先進地域の北部九州が勝てなかったわけだ。
>>105 >いまのところ考古学ではそういう扱いになってます。
>祭器では権力者間の政治的関係を証明できないという理由です。
はあ。兄弟銅鐸が全国各地で出土していることは、分かった上で
言ってるよね?
やはり銅鐸は畿内で製作され、各地に配布されたと考えていいと
思いますが。
銅鐸文化圏が三角縁神獣鏡にスライドした、という考えは、
完全否定された古い考えなんでしょうか?
110 :
日本@名無史さん :05/03/14 23:19:32
>109 そうだね。 完全に否定されてるね。 鏡と祭器は、役割が違うしね。
考古学で完全否定なんてあり得ない。
112 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:11:28
逆説の日本史1 古代黎明編/ 封印された「倭」の謎 逆説の日本史2 古代怨霊編/聖徳太子の称号の謎 逆説の日本史3 古代言霊編/平安建都と万葉集の謎 逆説の日本史4 中世鳴動編/ケガレ思想と差別の謎 逆説の日本史5 中世動乱編/源氏勝利の奇蹟の謎 逆説の日本史6 中世神風編/鎌倉仏教と元冦の謎 逆説の日本史7 中世王権編/太平記と南北朝の謎 逆説の日本史8 中世混沌編/ 室町文化と一揆の謎
>>111 いくらでもあるように思うが。でなきゃ学問発展しない。
今、猿人、原人、旧人、新人を直線で結ぶ香具師はいない。
114 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:17:45
>出雲はいち早く青銅器祭祀から決別し、古墳=首長霊祭祀を創始。 そりゃウソだ。 出雲の古墳の出現はどちらかというと遅いほうだ。、
115 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:23:27
邪馬台国九州説とか騎馬民族説とか完全否定されてるじゃん。
116 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:25:19
出雲はなかなか畿内政権の古墳文化圏には入らなかったんだね
117 :
日本@名無史さん :05/03/19 20:53:54
なあ 「考古学板」の方は撃沈されたようだけど こっちにも来るぞ
118 :
日本@名無史さん :05/03/20 23:26:26
もうひとつは九
119 :
日本@名無史さん :05/03/20 23:57:49
◎ B52-DR15(B52-DR2)の頻度
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm 日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
120 :
日本@名無史さん :2005/03/22(火) 00:10:04
ヤマト朝廷の起源を探ると三輪山周辺に行き当たる。 そしてその三輪山の神である大物主だがこの神は実はニギハヤヒの事であるらしい。 しかも大国主とも同体とされる。 また大国主とニギハヤヒは天孫に先立って地上に降りた天神の係累でありながら、 後から来た天孫に国を譲ったという共通点がある。 大物主は崇神天皇の時代に祟りを起こしたという記述もある。 どうもこの辺の符合にきな臭いものを感じるんだが。 大王家以前に三輪山で大物主を祭っていた一族がいたとも言うし。
121 :
日本@名無史さん :2005/03/23(水) 00:00:35
もうひとつのほうは九州王朝信者に占領されちゃったな。
122 :
日本@名無史さん :2005/03/23(水) 00:03:47
Aランク:大形 10000u前後=有力中央豪族 Bランク:中形 3000〜7000u程度=有力地方豪族 Cランク:小形 1000〜2500u程度=大共同体首長 Dランク:極小形1000u未満=小共同体首長 で、これらを上回る超A級が大王居館だと言ってるんだが、 これって妥当なの?
123 :
日本@名無史さん :2005/03/24(木) 00:26:34
我が家の建物は175uだからDランクか
124 :
日本@名無史さん :2005/03/25(金) 01:35:48
l
125 :
日本@名無史さん :2005/04/03(日) 12:07:39
れq
126 :
日本@名無史さん :2005/04/15(金) 00:37:36
庄内式と布留式は連続する様式なので、一言で差を述べることは難しい。 ここではメルクマールとなる甕について述べると、庄内式甕には古くか ら知られた庄内河内形甕と庄内大和形甕があって、両者に共通する特徴は体部 の肩が張り、底部が尖底化。器壁は内面ヘラケズリにより薄く、外面は螺 旋状タタキの細節化。口唇部は鋭くつまみ上げる場合が多い、など。 布留形甕は体部球形化、タタキを残す例は稀で、外面は原則ハケメ調整。 内面はヘラケズリで、布留式特有の内面に肥厚する口唇部。成形はむしろ 型作説も有力。 布留0式には両者に近いものや伝統的畿内第X様式甕も共伴する。
127 :
日本@名無史さん :2005/05/18(水) 21:06:07
ウホウホ
128 :
日本@名無史さん :2005/05/18(水) 21:36:14
西都原に日本最古級の前方後円墳発見 これで、畿内説は修正を余儀無くされると思うが、どうよ
129 :
日本@名無史さん :2005/05/19(木) 12:31:49
九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原(さいとばる)古墳群」(宮崎県西都市)から、
国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの発掘調査でわかった。
出土した土器から、築造は3世紀中ごろと考えられ、南九州では最古。大和政権があった
畿内でも、このころ古墳が造られ始めており、本土の南端でも同じ動きがあったことになる。
これまで、大和政権が主導したとされてきた古墳文化成立に、再考を迫ることになりそうだ。
確認されたのは西都原81号墳。長さ52メートルで、卵形の後円部と短いバチ状の前方部
を持つ「纒向(まきむく)型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場に先
立つもので、3世紀中ごろまでに造られたとされる奈良県桜井市の纒向石塚などと同じ形。
後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる土器が出土した。このため、4世紀
とされてきた西都原古墳群の築造開始も、半世紀前後さかのぼることになる。
纒向型は全国で30例を超えるともいわれるが、南九州での発掘は初めて。南九州は
「地下式横穴」など独自の埋葬文化を持ち、のちに「隼人(はやと)」と呼ばれる人々が中央
政府に反乱を起こすなど、長く中央とは一線を画してきた土地柄だ。
近年、大和政権は全国の有力豪族の連合体だったとの見方もあり、発掘責任者の柳沢
一男・宮崎大教授(考古学)は「南九州の勢力も、古墳文化の成立に参画していた可能性を
考えなくてはならなくなったのではないか」と話している。
宮崎大では夏にも発掘を再開する予定。
引用元:朝日新聞
http://www.asahi.com/culture/update/0518/001.html
130 :
日本@名無史さん :2005/06/03(金) 23:46:37
へえ
>>129 宮崎の最近の古式土師器の編年の論文を見ると、ここで出ている高坏は布留式古相くらいなのだが、、
庄内式というのはちょっと無理、てある人が言ってた。
>>83 九州北部と南部の研究史での話を聞かせて下さいな。
オカーヤスサン?
133 :
日本@名無史さん :2005/06/23(木) 21:10:11
134 :
日本@名無史さん :2005/06/24(金) 00:26:57
>131 地方編年自体怪しいのが多い。 何でも庄内併行にしたがるしな。 実際、この手の古墳で庄内併行の可能性があるのは那珂八幡くらいだろ。
135 :
日本@名無史さん :2005/06/24(金) 00:33:00
前方後円墳の起源を考える 近藤 義郎【著】
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9979344601 弥生時代終末期の墳墓と最古型式前方後円墳の埋葬祭祀のあり方を詳細に比較検討し、前方後円墳成立の謎に迫る。
第1章 楯築弥生墳丘墓とはなにか(墳丘―円丘と突出部;埋葬施設―棺槨と朱 ほか)
第2章 楯築弥生墳丘墓と最古型式前方後円墳(突出部・列石・棺槨・弧帯文石;特殊壷・特殊器台)
第3章 祭祀の象徴化―特殊壷・特殊器台の誕生から円筒形埴輪・朝顔形埴輪まで(象徴化の話;特殊壷・特殊器台はどこに置かれたか)
第4章 東国・吉備・大和(東国への筒形埴輪の波及;東国各地の古型式前方後円墳 ほか)
第5章 最古型式前方後円墳を考える(前方後円墳外来説;九州勢力東征説 ほか)
136 :
日本@名無史さん :2005/06/24(金) 00:35:48
寺沢氏のキビ政権主導マキムク王都建設論には 疑問が多すぎます。 その発想は、空の上から列島を見下ろし適所を選ぶ手法です 当時は少ない情報で尚且つ平面発想の世界です どんなに情報収集に優れたと言っても、たかが知れています 氏の『遠地に王都建設』 これには賛成出来ないし それに基づくマキムク型古墳の楯築墳丘墓参考説も否定せざるおえません。
137 :
日本@名無史さん :2005/06/24(金) 23:24:03
>128 されねえよ。 すでに九州説は絶滅したんだよ。
138 :
日本@名無史さん :2005/06/24(金) 23:50:44
いずれにしろ古墳時代は4世紀。 箸墓は4世紀末築造。
139 :
日本@名無史さん :2005/06/26(日) 22:42:16
a
140 :
日本@名無史さん :2005/06/26(日) 23:34:13
近藤義郎は、とうとう転向しちゃったね。 中堅クラスの後追いが続きそうだ。
どこからどう転向したの?
142 :
日本@名無史さん :2005/06/27(月) 00:31:16
>141 簡単に言うと、 「倭王権が近畿地方から発祥したという旧来の自説を否定し、 吉備勢力が倭王権の主体であるとした」 ということ。
143 :
日本@名無史さん :2005/06/27(月) 23:50:01
巻向の報告書のまとめを石野博信が出したようだ。 寺沢との対談付とか。
>>142 なるほど。最近の著書を読めばいいの?学術誌?
145 :
日本@名無史さん :2005/06/29(水) 00:00:25
>144 135の本を読め。
146 :
>143 :2005/06/29(水) 00:12:02
相変わらず寺澤がグダグタ言っとるな。 石塚断ち割ってまで調べただから間違いないじゃん。
147 :
日本@名無史さん :2005/06/29(水) 23:24:29
井沢元彦の邪馬台国宇佐説はだめですか?
148 :
日本@名無史さん :2005/07/01(金) 23:17:30
>147 井沢は、安本美点なみのキティ外です。
149 :
日本@名無史さん :2005/07/03(日) 21:55:48
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150 :
日本@名無史さん :2005/07/07(木) 23:40:10
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151 :
日本@名無史さん :2005/07/10(日) 00:17:10
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北部九州、吉備や讃岐の勢力と河内、摂津、大和、近江の勢力が 播磨近辺で接触して初期連合が成立。 その後、三世紀になると東海との連携をエネルギーに大和地方が頭角を現し、 やがて、三世紀中葉には、邪馬台国の時代となったのだと思う。
153 :
綾部山39号墳 :2005/07/31(日) 10:34:50
綾部山39号墳は、瀬戸内の海上交通の要衝に位置した弥生墓。 境丘にはハッキリとした高まりがなく、直径10〜11mの円形状の列石を配し、 盛土は、最高でも厚さ10センチ程度、北西側に前方部をもつ可能生があり、 前方後円形になる可能性もあります。 埋葬主体は、石囲い竪穴式石榔内に木棺という構造になっています。 このことから、吉備や大和より阿波・讃岐との関係が強いものと思われます。 副葬品として、鏡・鉄製品・砥石が出土し、 被葬者の頭部付近には『画文帯神獣鏡』が破鏡状態で確認されました。 このことは、九州北部か出雲・丹波地方との関係を示していると思われます。 築年代は3世紀前半と推定されることから、既にその時期にあっては、 瀬戸内を中心とした西日本全体には、強い交流網が成立していたわけです。
154 :
日本@名無史さん :2005/07/31(日) 22:24:56
えらいまともなスレッドだな。 邪馬台国スレッドは電波だらけなのに
3世紀始めごろの赤坂今井墳丘墓を盟主とする丹後地方。 この地は、北部九州に匹敵する鉄製品の埋蔵遺物の宝庫です。 加工残滓のくず鉄だけで10キログラム分も投棄されていた遺跡もあり、 伽耶系土器の出土などから、対朝鮮半島交易の一大拠点だと思います。 ただ、山峡の地で農業生産力は低く、定住人口も少ないことから、 輸入された鉄は、同地で消費されることなく、倭国内に二次輸出されていたことでしょう。 流通先は、当然畿内や東海地方であるわけで、この鉄交易の丹後ルートは、 畿内王権成立の重大ファクターだったことでしょうね。
156 :
がいやまん :2005/08/01(月) 10:40:21
赤坂今井墳丘墓は方形台状墓のようだが、この形式は吉備に多いらしい。
前後関係はどう考えたらいいんだろうか?
「◇方形台状墓としての特色
方形台状墓は最初に記したとおり、瀬戸内地域(岡山県などに多い)の比高50m
程の山上に作られることが多い、方形低墳丘墓の一種である。特に、尾根上の膨ら
んでいる山肌を利用する事で、労力を省略しながらやや大型の墳墓を作ることが可
能だった。
瀬戸内地方の方形台状墓として確実に断言できる上限は、現時点では弥生後期
初頭までにしか遡れないが、これはおそらく古い墳墓が新しい墳墓築造によって消
されている事が多いと思われるので、淵源は実際もっと古くなると思われる。岡山県
に多い台状墓だが、これがそのまま吉備地方の弥生後期大型墳丘墓(前方後円墳
の前段階)に発展していったとする見方もある。」
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouko14yayoibosei2.html
157 :
日本@名無史さん :2005/08/01(月) 20:58:11
前方後円墳の祖形が、楯築やその他の墳丘墓だったとして 実際にあの形を作り上げるには、やはり特別なクリエーターの存在が必要だと思う。
158 :
日本@名無史さん :2005/08/01(月) 21:32:21
159 :
がいやまん :2005/08/01(月) 22:09:36
箸墓の祖形としては楯築、西都原、ホケノ山、萩原、綾部山、赤坂今井等の墳丘墓 なのかな?これらは皆海と関係がある。神武説話の主役たちを髣髴させる。すると 箸墓の時点で四隅というか、保守的な出雲は銅鐸と鏡の交代のように時代から消え 去るのか。この辺が大いに気になるところ。
160 :
日本@名無史さん :2005/08/02(火) 00:41:24
纏向型の成立に最も影響を与えたのは、四国の積石塚タイプでしょうね。
161 :
日本@名無史さん :2005/08/02(火) 00:58:33
>>159 確かに「四隅」を造る地域は、吉備、阿讃、畿内、東海等との広域ブロック化にかなり遅くまで参加しなかった、
つまり、出雲を盟主として独自の交易ルートを保持していたグループなのでしょうね。
162 :
日本@名無史さん :2005/08/02(火) 01:01:48
163 :
がいやまん :2005/08/02(火) 11:14:43
>>161 最北の四隅/方形周溝墓に近い伊佐須美神社は会津における大彦・武ヌナカワワケ
父子合流地点と思われますが、イザナギ・イザナミが祀られている。一方、桜井茶臼山、
メスリ山古墳は安倍氏ゆかりの地であり、大彦等に結びつく可能性があるが、纒向の
初期大型古墳は弓月が嶽兵主神社を向いている。イザナミはヨミノヒラサカに没するが
これは四方平境(四隅)であり、ホトを焼いたカグツチとは銅鐸文化であったのではない
かと思われる。大彦・安倍氏は初期纒向政権にあっては連立政権の旧四隅派閥であり、
兵主神社に結集した瀬戸内海海洋性勢力との連立は長く続かなかったのではないかと
いう感じがする。
164 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:07:20
大型古墳の成立には、方形周溝墓も無視できないと思います。 例えば、福岡の藤崎遺跡では、箱式石棺に三角縁神獣鏡の副葬というペアもあります。 墓域内からは、畿内でいえば布留1に相当する土師器が出土しているそうですので、 早ければ三世紀頭あたりのものでしょうか。
165 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:14:32
>161 なことはない。独自の文化を残せた地域の方が地位が高いということだろう。 3種の器(北九州)>4隅(日本海)>特殊器台(吉備)>・・・・>銅鐸(着ない)
166 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:17:10
井沢元彦さんの説が真実味を帯びてきて 邪馬台国は宇佐を中心とした北九州で 宇佐神宮の比売大神が卑弥呼で神功・応神が 邪馬台国の末裔で4世紀後半に巻き返して 崇神王朝を倒したんですか?
167 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:18:30
神皇正統記か何かに、「天皇は朝鮮と同族って資料があったがダレソレ天皇の時代に捨てた」 って記述があるじゃん? つまり天皇といえど、日本を統治するためには朝鮮系ってことは隠す必要性があったわけだ だから源氏が「新羅三郎」って堂々と名乗ったのは不自然だと思うんだよ そんなあからさまに渡来系であることを名乗ったら周りを従えにくいと思う 渡来系であることを名乗ったほうが統治に有利なら、北条家や足利家もそう名乗るはず つまり「新羅明神」っていうのは数あるよろずの神の中の一人であり、 当時の先進国であった新羅を名前につけて「カッコ付けた」程度の認識でいいと思う 漢語の歌を詠んだり、南蛮の衣装を着たりなんかその後の日本史に良く見られるしな
168 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:18:40
>>165 別に161は、「地位の高さ」のことなど話題にしていないようだが・・・
169 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:21:39
>つまり、出雲を盟主として独自の交易ルートを保持していたグループなのでしょうね。 九州との交易が主であるとされてるので間違いです(村上恭通)。
170 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:24:23
邪馬台国は所詮、奈良百済じゃん。 単なる属国だろ。
171 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:33:10
佐伯なんか糞。 江上先生に比べたら小学校の教師並。
172 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:36:54
>>169 青谷上寺地遺跡などからは、韓系土器が出土する。
直接交易を否定はできないでしょう。
173 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:51:18
>172 否定はしてないよ。 たいしたことはないってだけだよ。
174 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:52:36
「水行十日陸行一月」とは 帯方郡から水行十日陸行一月で 邪馬台国に到着するという意味だよ。 邪馬台国小城説宣伝強化期間 邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園桜ヶ岡です。
175 :
日本@名無史さん :2005/08/03(水) 22:56:54
だから、畿内の元弱小勢力=神武は九州の出身で それとは別に九州に邪馬壱国があって、 天武〜持統〜文武の時代にこの王統と血統を融合したわけ。
176 :
がいやまん :2005/08/04(木) 08:10:36
>>161 例えば銅鐸の場合、吉野ヶ里から出雲に技術が移転されたということだろうが、銅矛
の場合は出雲で独自に発展している。つまり、吉野ヶ里からの移動とは別に朝鮮半島
から直接に伝来したものもあったのだろうか。銅矛が九州から伝来したものなら出雲でも
九州式の銅矛が作られてもいいはずだよなー。この辺のデザインのでどこは半島でな
かろうか。
177 :
日本@名無史さん :2005/08/04(木) 19:29:20
△縁鏡が出土した
>>164 の西新の方形周溝墓が
本当に三世紀早期のものなら、かなりのオーパーツじゃないのかな。
>>178 藤崎遺跡の盤龍鏡出土方形周溝墓は(最近石棺のあった場所が特定された)、報告によると、たしかに三角鏡出土古墳では最も古い時期の例に入る土器が出ているが、布留0式併行とのことであり、3世紀後半にはなっても3世紀早期ということにはならない。
179 :
日本@名無史さん :2005/08/04(木) 22:27:52
>>176 出雲で銅矛って言うと荒神谷くらいしかまとまって出てはいないんじゃない?
180 :
日本@名無史さん :2005/08/04(木) 22:29:42
まだこのスレ動いていたんだ
181 :
日本@名無史さん :2005/08/04(木) 22:51:37
>>178 藤崎の鏡が、少なくとも黒塚や椿井よりは先行するとしたら、
量産化前のプロトタイプみたいなもんかな。
いや盤龍鏡の断面形からすると、量産化段階に入る。副葬時期が古いことになる。 椿井大塚山は土器や鏃からはかなり下がる段階。黒塚はまだ未報告だが、椿井大塚山に近い時期では。
183 :
日本@名無史さん :2005/08/05(金) 07:27:53
>>182 断面形から量産期と・・・
すいません、当方素人なので、も少し御教示頂きたい。
藤崎の周溝墓から出た件の鏡は、
デザインなどの形式的な面が新しいと言うことでしょうか。
それとも、同範関係の世代数が下ると言うことでしょうかね。
いずれにしろ、三角縁神獣鏡の中では、特異な存在だと思われます。
184 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 01:04:09
北九州の初期古墳で△付がこんなにあるそうじゃ。 刈田石塚山 福岡県刈田町 布留0式 神蔵 甘木市 布留0式 原口 筑紫野市 布留0式 名島 福岡市 庄内古式? 那珂八幡 福岡市 庄内古式? 豊前赤塚 大分県宇佐市 庄内式か、布留0式 やっぱ、凄いわ。 機内説コヴァは、事実を直視すべきだね。
185 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 01:05:59
北九州のマキムク型古墳について @なぜ橿原研の畿内説コヴァ信者は、その存在を無視するのか? Aこれらと、石塚や勝山など「おおやまと古墳群」との年代の前後 B北九州における庄内式と西新式の前後 などを語ろう。
186 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 01:07:08
安本氏の名前を出すと必ず、条件反射的に誹謗中傷する馬鹿が現れるよな まあ畿内論者の程度の低さを露呈しているわけだが
187 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 01:08:09
中国に朝貢するという外交センスを もっていたのが九州邪馬台国で 畿内政権はそうした外交には疎かったとすると 266年にイヨが中国に朝貢して、そのおかげで 九州邪馬台国が狗奴国との戦いに一応勝ち、 国力を充実させて東征。畿内政権を倒して 大和朝廷成立。その後朝鮮出兵に失敗。 そして413年の倭王讃(応神?)による 中国朝貢へとつながるわけですか? イヨ〜応神にいたる邪馬台国系の人間にしか 中国朝貢という外交センスはなかったのでしょうか? 大陸から近い九州だったからこそ地理的にみて 優位だったと考えられますけど・・
188 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 01:10:37
>183 漢代の舶載鏡と言うものの出土は、圧倒的に九州に多い。 しかし、その次の時代、つまり三国時代の鏡となると、 めぼしいものは、どこからも出ない。 強いて言えば三角縁神獣鏡が、次代のトレンドとなるが、 これが舶載ものの魏鏡なのかどうか定かでは無い。 ただ、国産鏡であるにしろ、その製作集団は、渡来系と考えられるので、 これを大量に所持していた人物は、対外交易ルートにも関係していたはず。 ところが、今のところ三角縁の最古式のものが、多くでるのは、 九州や大和からでは無く、山背や播磨だったりする。
189 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 01:26:30
190 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 01:30:00
>177
>△縁鏡が出土した
>>164 の西新の方形周溝墓が
>本当に三世紀早期のものなら、かなりのオーパーツじゃないのかな。
畿内の年表を九州にそのまま当てはめるというのは問題
弥生時代の須恵器(もっともC14の測定結果なのでいかがわしいが)
なんてのが出てくるところに畿内と同じ尺度を当て嵌めるということは馬鹿げている。
機内説コヴァは反省すべきだろう。
191 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 02:00:02
少なくとも、多量に三角縁神獣鏡が出土した古墳の多くは布留1式併行(推定古相として 椿井大塚山、桜井茶臼山、雪野山、西求女塚、赤塚、推定新相として黒塚、備前車塚、豊前 石塚山など)で、紫金山、新山や佐味田宝塚は布留2式(前2者が古相、後者が新相)でしょ う。布留0式併行の可能性のある三角縁神獣鏡出土古墳は意外と少なく、まあ良さそうなのは 権現山51号墳で、土器がよく分からないのですが蓋然性として安満宮山古墳(鏡式の組合わせ の一括性から)、また吉島古墳当たりもその可能性がありますが土器は布留1式併行ではない、 とは断定できません。意外と布留0式の三角縁神獣鏡出土古墳が少ないのが問題です。] ならば布留1式の年代を大幅に古くできるかと言うと疑問で、それは、例えば布留1式古相 併行の三角縁神獣鏡群に、製作年代(段階)が複数段階そろっているからです。福永伸哉 氏のように三角縁神獣鏡の製作年代幅をやや長めに見積もると、その分、最新の鏡群の段階 までは古墳の年代を下げる必要があります(実際は布留0式期の権現山51号墳で福永氏のB段 階まで、布留1式古相ではC段階まで、新相ではD段階まで出土している)。もっとも、車崎 正彦氏や岡村秀典氏のように、三角縁の年代幅を短く見積もるなら話は別ですが、、(この 「短期編年説」は問題が多い)。 次に、記年銘鏡が全部布留0、というのは事実に反します。確かに、太田南5号墳の「青龍 三年」(235)は布留0式併行の土器の可能性があり、安満宮山もその時期のその蓋然性はあり ます。
192 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 02:01:20
しかし「景初三年」(239)鏡では、和泉黄金塚は布留2式(布留中相)から3式(布留新相) の間(前期末ないし中期初頭の古墳)、神原神社古墳は布留1式併行(おそらく新相) です。実在しない年号の「景初4年」(240)では、広峰15号墳は布留2式あたりの時期 で、伝持田古墳群の方は出土古墳が不明ですが古墳群の年代からは古くても布留2式であ るいは中期古墳かもしれません。「正始元年」鏡は、竹島御家老屋敷古墳は布留1式頃 の可能性もあるものの(不詳)、群馬柴崎古墳は古墳が不明で、森尾古墳は布留2式ない し3式?の古墳でしょう。 これらは、鏡背が不鮮明なものが多く、伝世による磨滅ないしは踏み返し(後者が主と 思いますが)を考えるべきものが多くあります。
193 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 09:29:47
馬鹿九が暴れているな。
194 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 09:34:22
東日本には九州=朝鮮認定勢力が根強いから。 おそらく、開拓民(東日本人)と土地の人(九州人)の 土地に対する根本的な観念の違いと思われる。 東京で100k離れても同じ東京人だか土地の人は100k離れると 言葉が変わり、民族が変わる意識がある。 それと戦前戦後の固定化した学説
195 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 09:47:18
>>191 それ、どっかからのコピペだろ。
ちなみに椿井は壷を見る限り布留1式でも新相と思うが。鏃も新しいよ。
197 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:02:49
>196 なこたあない。 あれは、△鏡の配付者が眠っている箸墓の次に古い古墳つーのが 正解。小林行雄でも嫁よ。
>>184 誰の編年だよそれw
そんな古くならないって
>>185 年代はともかく、九州のマキムク型は寺沢が重視してますが何か。
ただ、那珂八幡をはじめマキムク型じゃなさそうなのが多くなって来たが。
九州の庄内については、土日中に奈良の香芝市二上山博物館に行って来い。大和の庄内と並べて展示してるし、先月行われたシンポジウムの資料集が有益。
>>192 これもコピペ
199 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:08:35
>189 >これ読みましたが、 >☆箸中山古墳=マキムク古墳群は同時代という驚愕の編年 >☆西谷3号が出てくるのに平原をあえて無視する 奇しくもあのモリコーと言っていることが一致しているのが笑える。 あっちは、邪馬台国九州説に固執するしてこういうこと言ってるから、 方向性は反対なんだけどね。
200 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:09:43
橿考研の市民講座行ってきた。講義のなかで纏向と博多の考古学的関係が考えられるとする、それも早期古墳の勝山古墳のそば。土器の移動での関連は今一つですが鉄関連で纏向と奴国の移動が説明できるかも。 (
201 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:14:28
西都原古墳群は、出土土器から3世紀中後期に築造か。貴重な成果「西都原古墳群の築造が3世 紀にまで古くなるのは衝撃的だ」と石野博信氏。 西都原81号墳・全長52mの纏向型前方後円墳(バチ形)。表土を全部剥い でいるので本格的に発掘調査する。
202 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:19:46
>ただ、那珂八幡をはじめマキムク型じゃなさそうなのが多くなって来たが。 勝山も違うのだが。自分で杓子定規な概念を作ってあれは違うこれは違う というのはどんなものかと→寺沢 要は、古いってことが大事なわけで。
203 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:22:16
平成17年5月19日日本経済新聞朝刊(関西版) 宮崎県西都原古墳群にある前方後円墳が、宮崎大学の調査で18日までに、 国内最古学級と確認された。 築造は3世紀中頃から後半とみられ、畿内で同じ型式の古墳築造が始まった のとほぼ同時期。大和政権の影響下に古墳が広まったとする説に一石を投じ、 古墳の成立を研究する上で貴重な発見となりそうだ。 確認されたのは、「西都原81号墳」。後円部の長さが約33m、前方部が 約19m。前方部が短くバチの形に開いた「纏向型前方後円墳」で本格的な前 方後円墳の前に造られたとされる。南九州では最古という。 後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。 発掘にあたった同大の柳沢一男教授は「大和政権は全国各地の有力者が連合し て誕生したとみられ、南九州の勢力が大和政権の一角を担っていた可能性があ る」と話している。 纏向型古墳は3世紀初めごろから奈良県の纏向遺跡で築造され、本格的な前 方後円墳の起源とする説がある。 徳島文理大学の石野博信教授(考古学)の話 詳しい年代は今後の調査で判明するであろうが、少なくとも西都原古墳群の 築造年代が3世紀までに古くなるのは衝撃的だ。これまで古墳は、大和政権が 権威を示すため各地域の豪族に築造を承認していたというのが定説だった。宮 崎が大和政権の初期から結びついていたことを示したり、古墳が九州、関東な ど各地で造られ、それを大和政権が4世紀に統合したという新たな考えもでき、 古墳の成立過程を探る上で貴重な成果といえる。
>>197 あんたも古い説しか知らないのね。もちろん小林行雄は読んでますが。
今は小林行雄の枠組みはかなり再検討されていて、椿井を最古級にする人はほとんどいなくなったが。
それで改めて土器などを検討すると、新しくせざるを得ない。
京大系の鏡研究者も、三角の型式のセットからやや下げて考える人が今は多いと思うが。
もう少し勉強してくれ。
寺沢自身、マキムク型を一応定義しているが。勝山が合わなくなったのは皮肉だな。 前にも書いたように九州のは真の(寺沢定義の)マキムク型は意外と少ない。 那珂八幡はマキムク型でもないが、これだけは庄内の可能性がある。他はほとんど布留0式か1式に下がるが。
206 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:35:47
>204 なこたあない。俺の言っているのはあくまで「古墳」の話だから。 あくまで2番目と言い張るつもりはないが、最初の古墳である箸墓 に続いて出現した古墳ということは間違いない。 地元の教委の見解も同じだよ。
207 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 10:37:26
>九州の庄内については、土日中に奈良の香芝市二上山博物館に行って来い。 >大和の庄内と並べて展示してるし、先月行われたシンポジウムの資料集が有益。 マジですか?でも遠隔地なので行けないです。よければ詳細をレポートしてください。s
>>207 2ちゃんする暇があったら旅費を工面して行ってこい。
>>206 地元は町起こしで従来の説をとって最古級にしておきたいのが本音だろ。
しかし小林説の根拠の三角の研究の進展で、三角の型式のセットからやや下る時期にせざるを得ないのが今の状況。
二重口縁壷の型式、特に内面ケズリや口縁の調整、形状はどう考えても新しい。桜井茶臼山より新しいとした方が良い。
鉄鏃もあまり古くない。
209 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 12:06:36
>208 離島なので往復5万以上もかかるので無理です。 意地悪しないで教えてください。
210 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 12:09:47
>地元は町起こしで従来の説をとって最古級にしておきたいのが本音だろ。 そりゃあ、下司の勘ぐりだ。 この世界、そんな甘いことが通用するわけない。
211 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 12:14:16
、。<171 安本美典は電波じゃない。 邪馬台国の会という熱心なファンもいるほどだ。
電波な人には、たいがい熱心なファンがいる。 つーか、“ファン”がいる人ってたいがい電波。例外はあるだろうけど。
>>210 いや、通用しないからこそ、ちゃんとあれは今まで思ってたほど古くはなく、新しいとする見解が有力になって来た。
ただし、当該自治体の発表はどこでも、最古とか最大とか実際以上に強調されることが多いのは事実。最古級とする旧説を採用するのも無理はない。
吉野ヶ里や三内丸山を出すまでもなく、古墳もやたら最古とか最大が唄われるのが多い。
それと鏡、鏃、土器の具体的な根拠にちゃんと反論してくれ。
地元の公式見解は上のように割り引いて考える必要がある。 あと、二上山の件だけどネットだけで情報を得ようというのが甘すぎ。せめて電話して資料集だけでも手に入れたら。
214 :
老教授 :2005/08/06(土) 16:04:20
ひさびさにまともな論争がされているスレッドが立ちましたね。 日本史板で繰り広げられる素人臭い邪馬台国論争にはいささか 辟易していたところです。
215 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 16:14:12
>212 いきなり電波扱いはないだろう。 私としては、安本氏の邪馬台国甘木説は非常に説得力のある学説 だと思う。だからこそ彼の支持者がいる。 安本氏がなぜ電波なのか理論的に反論すべきではないか。
216 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 16:16:32
217 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 17:43:51
葛西王朝と大和朝廷は並行王朝だった、結果はご存知の通り 葛西が衰退、大和が繁栄。 遡って倭国乱、葛西・物部・天孫ら全国の王たちは争いに疲れ 三輪山の麓、共立女王に卑弥呼を立てる。
滋賀県の神郷亀塚古墳とか小松古墳、吉野ヶ里のST2200号墳等この辺は邪馬台国連合再編期 の頃のものか
219 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 17:44:58
220 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 18:11:37
134 :日本@名無史さん :2005/06/24(金) 00:26:57 >131 地方編年自体怪しいのが多い。 何でも庄内併行にしたがるしな。 実際、この手の古墳で庄内併行の可能性があるのは那珂八幡くらいだろ。
212ですが、
>>215 さん。私が誰を電波扱いしたというのです?
一般論を述べただけですよ。
223 :
日本@名無史さん :2005/08/06(土) 22:13:35
224 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 09:40:56
誰も安本説の完璧な理論に反論できないようだ。 日本史板には、厨房しかいないのか。
225 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 09:52:28
初めに九州説ありきで引っ込みが付かなくなったのではないか。纒向初期古墳実年代 がヒミコ時代の後であるなら邪馬台国は九州だ。しかし、その実年代がヒミコ時代ならば 邪馬台国は纒向だ。なぜ、こういう風にいえなかったのかは学者生命よりビジネスを優先 させているからではないのか。この辺がいろいろ批判されるところの原因だろう。
226 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 10:20:56
>213 >吉野ヶ里や三内丸山を出すまでもなく、古墳もやたら最古とか最大が唄われるのが多い。 吉野ヶ里は、最大だろ。事実じゃん。
227 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 10:28:59
>その実年代がヒミコ時代ならば邪馬台国は纒向だ。 根拠のない妄想だな。
228 :
227 :2005/08/07(日) 10:47:31
>225 九州説の学者もいるし、巻向の年代はまだ確定していない。 ビジネス優先との批判はあたらない。
229 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 12:26:59
九州説は初めに九州ありきだが、近畿説はどちらでも良いが実年代の 蓋然性は現時点で集まったC14年代特定からすると九州説より高いとするもので 、九州説と明確に違うところは「初めに九州説ありき」、ではなく、「初めに考古学ありき」 ということだ。近畿説なるものはなく、「いんちき学者」と「普通の人間」の差だと思うが。
230 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 13:18:13
>>225 倭人伝の
「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」
この文をどうするかな?
纏向は纏向、九州は九州の独自路線
当時の華人達の言う「倭」とは、九州のほんの一部さ
纏向の経済・文化 がどんなに優れてようと、卑弥呼の時代には
華人達にとっては用の無い「倭種」なのさ
考古学では詮索しようの無い世界
魏王朝(宗主国)の冊封体制下にある「周旋五千餘里」の世界が、当時公認の「倭地」なのさ
231 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 14:14:43
これは倭人伝の一節だであり、全部ではない。魏があれほど鄭重に使節を派遣した 国家はないが、魏の歴史は邪馬台国の歴史に比べると、線香花火のように短いもん じゃないか。比較にならない。
232 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 14:39:08
その線香花火のような魏王朝は、現代の視点から考えるから「線香花火」で リアルタイムで、その想像が働くとは思えんが それに、漢王朝から続く冊封体制も同一地域に於ける一連の流れではないか そうとらえた方が最も自然かと 九州北部地域に、マキムク型前期古墳が希少なのも、その地域が他の地域と一線を引いてる証では
233 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 15:56:52
邪馬台国の女王にしてみれば、公孫、魏、晋など簡単に国を変えて、鏡作りも年号に 付いていけないような中国というものにはホトホトあきれていたと思うがね。 北部九州は一大卒という鎌倉幕府のような強力なやつがいて締め上げているんだ から古墳どころじゃない。しかし、時代はすぐに変わり、やがては三韓征伐の前線 基地に変わる。
>>226 吉野ヶ里は、弥生集落では最大とは言えない。
本当は、スグ岡本や那珂比恵、三雲が一体性のある最大の遺跡であることは専門家は皆知っている。
終末期=庄内まで含めればマキムクや大阪の中田遺跡群が最大級に加わるが。
>>232 真にマキムク型と言えるのは少ない可能性があるが、那珂八幡や津古生掛など初期古墳は少なくないですが。三角縁鏡も多いですし。
三角が中国鏡か否かにかかわらず、ヤマトとの紐帯を示すと思うけどなあ。
236 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 18:46:52
本当は、スグ岡本や那珂比恵、三雲が一体性のある最大の遺跡であることは専門家は皆知っている。
237 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 18:53:28
>234 >本当は、スグ岡本や那珂比恵、三雲が一体性のある最大の遺跡であることは専門家は皆知っている。 個人住宅立て替えの時にチョコチョコ調査しているだけで全貌が不明な 上記遺跡群と全面的な調査により全貌が明らかになっている吉野ヶ里や 平塚川添とは単純比較できない。 上記遺跡が最大の遺跡であるというのは単なる願望だ。 証拠はどこにもない。
238 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 19:21:20
>229 >、九州説と明確に違うところは「初めに九州説ありき」、ではなく、「初めに考古学ありき」 >ということだ。近畿説なるものはなく、「いんちき学者」と「普通の人間」の差だと思うが。 「初めに畿内説ありき」は、安本ではなく考古学者だ。 違うというなら、 特鋳説なる珍妙な説を苦紛れに編み出したり、 弥生時代の近畿地方に大和朝廷の母体となる考古学遺跡がないことを無視し続け、 王墓や鉄器など権力や経済力の傍証となる考古学適な証拠が圧倒的に九州に存在する のみならずそれらが近畿地方には全くないことを隠蔽し続け、 あげく近畿地方の鉄器は溶けたなどという非科学的なウソをつき、 文献学者からの記紀と一致しないとの批判を無視してきた 小林秀雄、都出浩、佐原真、白石正太郎などの畿内説の考古学者のどこがどのように 「いんちき学者」でないのか説明してほしいな。
239 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 19:24:06
>>237 証拠はどこにもないって??おいおいw
ちょこちょこ掘っていても十分分っているみたいだが。
念のためいうと、須玖や比恵なんかは個人住宅ばかりでなくマンション建設とか大型店鋪建設などで比較的広い面積が調査区になっていることもあるので、結構内容は判明している。
比恵は戦前の区画整理で当時の九大の先生だった鏡山氏が、一部分をなんとか調査したが、すでに当時から大集落であることが認識されていた。その区画整理で中央の主要部分はかなり削平されているが、それでもまだ残るほど遺構が多く、しょっちゅう調査している。
三雲も昔の圃場整備の時一部掘って、これを大々的に掘ると大変なことになるので手をつけずなるべく残すようにした経緯がある。
最近は道路の僅かな拡幅で鏡を持つような後期の墳墓群に当たったり、やはり凄いのだが。
逆にちょこちょこ掘るだけでもすごいことが判明しているというのが真相。
ちょこちょこ掘っただけというが、調査面積が吉野ケ里のようにはいかない須玖の青銅器鋳型の出土量を知っているのか?吉野ケ里とは桁違いだぞ。
また三雲と須玖の場合は確実な「王墓」がある。吉野ケ里にはほとんど地表を剥がしてもこれがない。
全部剥がないと証拠がないなどというのは厨房の論理だな。
>>234 は願望などではなく、事実だ。
嘘だと思ったら、前原の伊都国歴史博物館、春日の奴国の丘歴史資料館をまず見に行きなさいって。
それと図書館なんかで上記遺跡の報告書を当たってくれ。
241 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 19:25:49
>>240 で、その強大だった玄界灘沿岸部グループが大和に倭国王の地位を追われるのは
いつの時代なの?
お邪魔します。 前原、今津湾岸、博多湾岸南部一帯は、後漢書に記載ある「倭奴国」であり、後の女王国そのもの 「參問倭地……周旋可五千餘里」も、壱岐を中心にしたこの辺りが 華人が認知する(冊封体制下)倭地、その他の地域は全て「倭種」 考古学的にも十分過ぎる内容でしょう。
>>230 >>232 は、私のレスです。
コテハン&トリップを付けるのを忘れてました。
>>235 鏡は動産で、持ち運び出来るものです。
当時から日本海沿岸諸地域ならびに瀬戸内沿岸・畿内との交易が出土物等により確認出来ます。
人が動けば物も動き 鏡を特別視し判断することは、好ましくないと私は考えます。
連スレ失礼します。 半島又は大陸から入ってくる珍しき物品は、品数が希少ということもあるが 九州北部や壱岐の独占交易により、他地域に、いき渡るのも数える程度でしょう(フィルター効果)。 しかし、畿内を中心とする(纏向マーケット)は、その規制も無く(後世の楽市楽座的)物品も、幅広い地域に分布し 自由な交易により、他に見られない経済力を得たと考えます。 その財源が巨大古墳造成の根本を担っていると思われます。
247 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 21:53:07
248 :
日本@名無史さん :2005/08/07(日) 21:55:00
鏡ってのは、これで神様(の魂)を持ち運べることになったという意味で画期的だった。 つまり、鏡の多く出土する畿内は諸国から山や川などの地神の魂を持ち寄ったということ。 だから畿内は大和朝廷の基礎があったわけだが、それ以前、邪馬台国は畿内ではなく、九州にあった。 鏡を使って神様を持って移動できるようになり、蛮族を平定する過程で畿内に移動してきたわけだ(神武東征)。 昔は世界のどこでも首都移転というのは、蛮族平定の目的が主だった。 北京(モンゴル平定)、ベルリン(スラブ平定)、枚挙に暇が無い。 神武東征も同じこと。
>>245 ー246
レスの趣旨がよくわかりませんが、鏡への嗜好が、
弥生期の北部九州に始まり、やがてそれが各地に広まり、
古墳文化の重要ファクターとなったことは、あなたも認めるでしょう。
それに、三角縁神獣鏡のような量産タイプで形式研究も進んでいるものは、
年代判定の指標としても有用なので、その出土が『重要視』される面もある。
あと、交易云々について。
古墳時代に入ると対外交易に限れば、
実はそのセンター機能は博多湾に集約される現象がある。
実際に交易が行なわれた場所と交易主体者の根拠地が一致するわけでもない。
だから、弥生時代の壱岐のように何もないところでも、
中継地として有効なら人や物が集まる場合がある。
そういうことも頭に入れておいてくださいな。
250 :
がいやまん :2005/08/08(月) 08:03:36
251 :
がいやまん :2005/08/08(月) 08:11:40
スサノオは馬を使用しての農耕を初めとする諸々のルール違反でアマテラスの高天原 を追放される。アマテラスは機織工場を運営しているが、絹の出土するのは吉野ヶ里で あり、養蚕に必要な高温の部屋を維持する乙女の伝承の残るのは熊本県、また、小銅鐸 は吉野ヶ里から出雲に移動したことが確認される。つまり、馬を使用し、稲作、養蚕に 理解を示さない異民族が吉野ヶ里から出雲に追放された。その子孫はその後も馬を隠し 持っていたということかな。
252 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/08(月) 12:25:09
>>249 がいやまん氏レスありがとうございます。
交易の拠点が博多に集約される事については同感です。
その主催者が畿内政権になるのは、四世紀以降と私は考えてます。
253 :
がいやまん :2005/08/08(月) 13:17:13
プラムさん、こんにちわ。 倭国の邪馬台国時代の玄関口は伊都国、一大卒で集中管理したのでしょうが、抜け荷 というか、△縁鏡をちょろまかす近郷の首長もいたようで、とんでもない旧式の方形周溝 墓から△縁鏡が出土するようですね。曲者は蔚山出身の伊都国の県主で、神器らしき 白銅鏡を仲哀の代まで邪馬台国に渡さなかったことですね。邪馬台国というのは進駐軍 だったのでしょう。つーか、外人部隊の集団ですかね。崇神の持っていたのはレプリカ でしょうか。
254 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/08(月) 14:49:22
今、雷の影響で停電していて仕事にならないのでレスします。 がいやまんさん。 華人より手に入れた鏡や、極一部の人だけしか持っていなかった時の鏡と 地方の権力者達が手に入れられる様になった鏡では、全く 使途や意味が違ってくるように思えます。 漢式鏡や初期の国産鏡?などは、トップであることのステータスでしたが、 地方に広まる頃には、おねえちゃん達が群がる、ブランドバック的な意味合いしか持たなくなってきているのかなと、思えてなりません。
255 :
がいやまん :2005/08/08(月) 15:32:42
雷ですか。 鏡ですけど、邪馬台国には赤染さんとか、いわゆる香春出身者、特に、岩戸神事を プロジュースしたと豪語しているオモイカネ命等がブレーンとして入っているんじゃ ないでしょうか。公孫に遣使したときもまさか鏡がもらえるとは考えていなかったと 思います。原料インゴットと最新版でももらえれば偽ブランドを作って大和周辺の 首長にばら撒き九州王国のようなものができると考えていたのでしょう。まー、九州 だって破鏡なんて分け方もありますからね。ただ、崇神が出雲の宝を見たいなんて 言い出していますから、銅鐸資源の回収はうまくいかなかったのかも。
256 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:01:43
257 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:05:00
258 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:06:17
こうした邪馬台(ヤマト)、すなわちヤマトを中心とする広域の政治連合
は、いったい何を契機に成立したものであろうか。わたくしは、その契機
を弥生時代に朝鮮半島東南部からもたらされていた鉄資源や、中国鏡をは
じめとする先進的文物の輸入ルートの支配権をめぐる争いにあると考えて
いる。弥生時代にそれらの入手ルートの支配権を掌握していたのは、いう
までもなく北部九州の玄界灘沿岸部地域であり、北部九州以外の地域には
鉄資源や先進的文物はスムーズには入ってこなかった。このため畿内ヤマ
トを中心に瀬戸内海沿岸各地の勢力が連合して、それまで玄界灘沿岸部地
域が独占していた先進的文物の入手ルートの支配権を奪取しようとしたもの
と思われる。
http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html
259 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:07:38
この争いを直接的に証明する考古学的物証は今のところみられないが、2世紀 代まで北部九州を中心に分布していた中国鏡が、3世紀になると近畿のヤマトを中心 とする分布に一変する事実は、この争いと、近畿・瀬戸内連合の勝利を裏付けるもの と考えて差しつかえなかろう。 この中国鏡の分布状況の大きな変化を、九州勢力の東遷によって説明しようと する説がある。しかしこの時期、近畿や中国地方から北部九州への土器の 移動が顕著に認められるのに対し、その逆の動きがほとんどみられないこ とからも、東遷説は成立しえない。この鏡の分布状況の変化の時期が3世紀初頭頃と 考えられることから、わたくしはこの広域の政治連合の成立は、とりもなおさず 邪馬台国連合の成立にほかならないと考えている。またこの争いこそが 、『魏志』倭人伝や『後漢書』にみられる「倭国乱 」ないし「倭国大乱」にあたるものかも知れない。
260 :
老教授 :2005/08/08(月) 22:11:40
椿井大塚山については、過去の学説に思い入れのない方を中心に近年 新しく見る学者も多いですね。 かといってそれでは説明できない古相の土器が見られることも確かです。 これを辺境という一言で割り切ってよいのか議論を呼ぶところです。
261 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:14:50
>>258 って言うか、売り手市場だった日韓鉄交易で韓人側があまりにふっかけ過ぎなので、
買い手の倭人側が対抗して、交易窓口を一本化したんじゃないかな。
262 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:16:56
263 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:17:56
古田信者はくるなよ。 和田家文書の原本は、和田さんが自分で書いたんだろ それは写本だというのは後から言い出したこと。 昔、八幡書店でバイトしてて、漏れがやめた後、友達に譲ったんだけど、 (漏れは東日流の前にやめた) そいつにきいたら、青森から「また発見されました」ってどんどん 送られてくるんだけど、どっからみても新品の紙に書かれてて 現代人にもすらすら読めて、どこが古文書なのかわからなかったっていってたな。
264 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:17:58
265 :
太 :2005/08/08(月) 22:18:21
プププ・・・!
266 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:18:35
267 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:20:08
268 :
太 :2005/08/08(月) 22:21:31
www
269 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:33:10
箸墓も4世紀。間違いない。
270 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:37:54
考古学的に邪馬台国を発見するのは無理だな。 邪馬台国と書いた看板でも見つかれば別だが
271 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:44:36
足利も新田も元をたどれば義家の孫の兄弟。 で、源氏の誰が朝鮮派で誰が倭派?
272 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 22:52:42
トトビが天、モモソが皇居となると欠史8代中天皇の呼称を持つのはモモソヒメ のみとなりますね。卑弥呼かな。
273 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 23:19:16
あげまくり
274 :
畿内説コヴァは反論できないのか :2005/08/08(月) 23:35:02
>229 >、九州説と明確に違うところは「初めに九州説ありき」、ではなく、「初めに考古学ありき」 >ということだ。近畿説なるものはなく、「いんちき学者」と「普通の人間」の差だと思うが。 「初めに畿内説ありき」は、安本ではなく考古学者だ。 違うというなら、 特鋳説なる珍妙な説を苦紛れに編み出したり、 弥生時代の近畿地方に大和朝廷の母体となる考古学遺跡がないことを無視し続け、 王墓や鉄器など権力や経済力の傍証となる考古学適な証拠が圧倒的に九州に存在する のみならずそれらが近畿地方には全くないことを隠蔽し続け、 あげく近畿地方の鉄器は溶けたなどという非科学的なウソをつき、 文献学者からの記紀と一致しないとの批判を無視してきた 小林秀雄、都出浩、佐原真、白石正太郎などの畿内説の考古学者のどこがどのように 「いんちき学者」でないのか説明してほしいな。
>>256 近藤なんかは平原を無視するように九州軽視なので問題外。
また近藤も白石も、墳墓論が主体なので集落はよく調べていない。
白石は関東にいるためか九州の情報に疎い。弥生終末に衰退したなどという今では根拠のない旧説をまだ言っているが。
弥生の集落論を真面目にやってる学者は九州の人でなくともこれらの遺跡には普通言及しているのでよく調べてね。
比恵は区画整理で宅地化、市街化が進み広い指定化は無理。
また全体像が分かり凄いことが分かったのは比較的最近。
それでも時代は違うが、6世紀後半の官家跡は国指定された。那珂は弥生初めの環壕だけは国指定された。一部だが国は動いているようだ。
スグは岡本の王墓など甕棺墓地で国指定されている部分があるが。
しかしスグも早くに宅地化が進み広い指定は無理。しかしスグの凄さは有名なはず。一般書にも載ってるはずだが。
青銅器鋳型の出土量なんて、ほかの全ての遺跡の総出土量より多いくらいだ。これは事実。
三雲は王墓の部分は国指定されている。農地が多く、遺跡の残りが良いので、広い指定に向けて地元も国が動いているようだ。
いずれにしても春日、福岡、前原の資料館や博物館、埋蔵センターに行ってみてくれ。
>>258-259 このような通説というか旧説には村上や北条が徹底的に批判しているが。
「古墳時代像をみなおす」
また寺沢も同様に批判する。「王権誕生」
だいたい3世紀初めに鉄の権益を畿内が奪ったなんて全く根拠がない。これは鉄の研究の第一人者の村上が詳述するところだ。「倭人と鉄の考古学」
ところで椿井の土器の年代は二重口縁壷で決めるべきだ。これが新しい。他は一見古い様相もあるが、南山城の土器様相を示す。
大和東南部とは布留古相でも土器様相がかなり違う。
とりあえず
>>256 には最近発行された別冊太陽の「古代九州」を見てくれと言っておこう。
278 :
がいやまん :2005/08/09(火) 07:58:59
土器編年、C14に信頼性が欠けるなら、長城のごとく風雪に耐える「初めに古墳系列 ありき」を軸にして考えるのがよかろう。古墳というのはその始まりの弥生墳丘墓から 入るべきだ。これを主軸に土器、鏡などの前後関係を局所的に明らかにして大局で つなげる。そうしたことにC14のデータを加味すればよい。基本的にいえることは弥生 経済の単位地域が集落、環濠集落、その上の集合・・・という風に巨大化していく。それ に応じて集落単位の労働、祭事への動員が次第に広域的になる。この過程で銅鐸など は不要になり、広域的に確認が可能な威信材、鏡、青銅武器、また、広域的首長墓 というのが建設され、これが始めて倭国全域のものになる箸墓ができる。この時点が 倭人伝が述べる倭国で初めて女王が共立された時代ということになり、その場所は 箸墓周辺をの除いては他にはないことが歴然であるわけだ。あー、しんど。
279 :
馬耳 :2005/08/09(火) 08:03:37
>>276 もともと、鉄の『権益』なんのは、九州にも与えられていないのでは?
鉄に関する利権は、基本的に帯方や弁辰にあるのであって、
九州の倭人側は輸入して消費するだけでしょう。
さらには近隣に流したものも少しはあったと思いますが、
それをもって流通機構を支配するほどの量ではないです。
二世紀末、
出雲・丹波や瀬戸内では韓人の活動をうかがわせる痕跡も多いので、
畿内あたりでは、九州のおこぼれを頂戴するよりは、
瀬戸内まで進出してきた韓人から、直接輸入する方が多かったかも。
三世紀、
吉備・讃岐などとの政治連合が成立していて、
瀬戸内航路の安定が確立していたならば、
博多まで出向いて、韓人相手に取引もできたでしょう。
この場合の九州の立場は、単に交易場所を提供する
バザールの主催者に過ぎないです。
鉄の流通に関して、九州にはもともと支配権などなかったとしたら、
それを畿内勢力が奪った痕跡がないのも当然です。
280 :
がいやまん :2005/08/09(火) 08:13:20
それと、経済が自給自足、自己完結、環濠型から広域的相互依存型へと変化を遂げる 中にあって「物部」、大陸の流浪の民にあっては「ひゃくさい」といった集合が発生する。 これは金属性武器などを手にすることによって職業的となり、北部九州、吉備、出雲、 河内、秋田などでその移動の形跡が覗える。唐古・鍵遺跡付近に到来したのもそうした 物部の全国大会のようなものであったのだと思う。中核となったのは」冶金技術であり、 時には集団間の」対立もあったであろう。ヒミコとヒミキコの闘争は古墳、土器の背景と なる宗教の違いからイデオロギー闘争の様相を呈したのではなかろか。・・・
281 :
日本@名無史さん :2005/08/09(火) 20:07:47
>>274 >弥生時代の近畿地方に大和朝廷の母体となる考古学遺跡がないことを無視し続け、
>王墓や鉄器など権力や経済力の傍証となる考古学適な証拠が圧倒的に九州に存在する
>のみならずそれらが近畿地方には全くないことを隠蔽し続け
はあ。北部九州東遷→大和朝廷説ですか。で、その東遷の時期はいつ頃だと
思うわけよ?
282 :
日本@名無史さん :2005/08/09(火) 20:50:01
>>279 >瀬戸内まで進出してきた韓人から、直接輸入する方が多かったかも。
確かにそうでしょうね。
イメージとしては、室町期の細川=堺、大内=博多って感じでしょうか。
283 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/09(火) 22:55:09
確かに、瀬戸内沿岸で生活土器としての韓式土器の出土を確認出来ますが それだけで 韓人達が物を売りにきたとはいえないでしょう 交易をしていたのは、韓人ではなく 対馬や壱岐の海上商人達が掛橋の役目をになっていたのでは
284 :
畿内説コヴァは反論できないのか :2005/08/09(火) 23:00:13
>229 >、九州説と明確に違うところは「初めに九州説ありき」、ではなく、「初めに考古学ありき」 >ということだ。近畿説なるものはなく、「いんちき学者」と「普通の人間」の差だと思うが。 「初めに畿内説ありき」は、安本ではなく考古学者だ。 違うというなら、 特鋳説なる珍妙な説を苦紛れに編み出したり、 弥生時代の近畿地方に大和朝廷の母体となる考古学遺跡がないことを無視し続け、 王墓や鉄器など権力や経済力の傍証となる考古学適な証拠が圧倒的に九州に存在する のみならずそれらが近畿地方には全くないことを隠蔽し続け、 あげく近畿地方の鉄器は溶けたなどという非科学的なウソをつき、 文献学者からの記紀と一致しないとの批判を無視してきた 小林秀雄、都出浩、佐原真、白石正太郎などの畿内説の考古学者のどこがどのように 「いんちき学者」でないのか説明してほしいな。
285 :
日本@名無史さん :2005/08/09(火) 23:02:41
>281 安本美典の年代論によれは紀元280年ころだ。
286 :
日本@名無史さん :2005/08/09(火) 23:15:46
>>189 >>これ読みましたが、 >>☆箸中山古墳=マキムク古墳群は同時代という驚愕の編年 >>☆西谷3号が出てくるのに平原をあえて無視する >奇しくもあのモリコーと言っていることが一致しているのが笑 関川、石野、寺沢と営々と研究されてきた編年をいとも簡単に無視する とはさすが近藤御大だな。あ、こっちにもk前副所長てのもいたか。
287 :
日本@名無史さん :2005/08/09(火) 23:18:16
>>283 対馬や壱岐は、日々の米にも不自由するような生産性の無い島です。
原の辻にしたところで、位置づけは、あくまでも日韓海峡の中継点ですよ。
両島の人が、瀬戸内海まで何を売りに来たって言うのですか?
吉備、畿内に売りつけるために、朝鮮半島まで鉄を仕入れに行く原資もないでしょう。
もしかして、鯵の干物で、売るほどの鉄を入手していたとか考えてるのですか?
あなたには、確固とした「弥生商人」のイメージがおありのようですがね。
近藤先生は、昔からそういう考えでしょ。 まえから巻向の古墳はそんなに古くないと言いつづけてたはず。
289 :
日本@名無史さん :2005/08/09(火) 23:58:50
>近藤なんかは平原を無視するように九州軽視なので問題外。 >また近藤も白石も、墳墓論が主体なので集落はよく調べていない。 >白石は関東にいるためか九州の情報に疎い。 いやしくも考古学者なんだから、疎いわけなかろうが。 自分らの祖霊ナンチャラ論とかと整合しないからわざと無視しているだけであって。 彼らの現役で活躍していた時代は、屁理屈こねたような権力形成論が大はやりだった わけだ。西の先進国家が東に領土を拡大しました、ただそれだけです、なんて平凡な 国家形成論はいやなんだろう。
290 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 00:02:48
>288 何を根拠にそんなこと言ってんだろうね。不思議だよな。
291 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 00:07:07
まあ、今の朝鮮人とは違う民族だろうが、縄文人とはもっとずっと違った 民族だろう。古事記や日本書紀では縄文人は人として扱われてないな。 ナガスネヒコは縄文系で、ニギハヤヒは天皇家が来る前にいた 先住の渡来人だろうな。
292 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 00:15:32
>288 >近藤先生は、昔からそういう考えでしょ。 >まえから巻向の古墳はそんなに古くないと言いつづけてたはず。 それは正しい。統計数理学に基づく安本美典の古墳編年表によって、 前方部が大きく開くマキムク古墳群は新しいことがわかっている。 不確かな土器編年や年輪年代法よりも統計数理学を重視すべきだと 思う。
293 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 00:17:41
大学に所属する考古学者は大学に所属していない考古学者を素人とか言うけど、例の史跡捏造事件でわかるとおりどっちが素人ですか。 捏造を見破ったのはあなた方が言うところの素人でしょ。 明確な根拠もなしに勝手に方向を南から東に変えたり、勝手に聞き間違いにしたりとか、自分の説に都合が良いような捻じ曲げた解釈は止めてください。 邪馬台国が畿内にあったというなら、みんなが思っている疑問に答えて、ちゃんとした根拠を示してください。 の歴史捏造を糺したい方、どんどん書き込みをお願いします。そしてみんなで歴史の捏造を糺しましょう。
294 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 00:19:50
私、現在3冊目の古代史関連の本を執筆中です。 今まで、「倭国歴訪」(邪馬台国地理論)「卑弥呼の登場」(弥生時代中後期の歴史、出雲や倭面土国や、卑弥呼の登場までの歴史) の2冊をだしましたが、サッパリうれませんでした。いずれも従来の古代史研究におおきな影響をあたえるものなのですが、 既成の方々にとっては、世に出まわって欲しくない書物であったのでしょうか。 3冊目も、日本古代史研究におおきな影響をあたえるものであると自負しております。 発行のおりには、図書館に買わせてご一読ください。 邪馬台国小城説宣伝強化期間 邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園内の桜ヶ丘です。
>>286 「こっちにも」って・・・所属バレバレじゃんw
>>293 捏造を暴く元ネタのでどこは考古学で飯食ってるプロですが、何か?
>>292 やめてくれ・・・・ orz
>>286 編年を無視してるわけじゃない。
年代根拠となる土器の出方が良くないので、古いとは決められないということ。
>>285 >安本美典の年代論によれは紀元280年ころだ。
で、その東遷勢力がマキムクを築いた、と。
根拠のない妄想、神武の亡霊だな。
玄界灘沿岸部グループの強大さを語るのはいいとして、結論は、 東遷して大和朝廷になった〜、だからな。 荒唐無稽すぎ。
300 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 21:49:01
>299 邪馬台国は、甘木だ。安本美点を読んでその壮大な理論を 理解しろ。
301 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 22:14:06
>297 >編年を無視してるわけじゃない。 >年代根拠となる土器の出方が良くないので、古いとは決められないということ。 石塚は墳丘を断ち割って調査しているし、東田大塚も造成前の地表面まで掘り下 げて調査している。関係者に「土器の出方がよくない」なんて言ってるやつは誰 もいない。また、箸中山の土器はほぼ布留0の範囲。 近藤が編年を無視しているのは、特殊器台の出る箸中山が最初の古墳でないと 自分の理屈に都合が悪いから。
302 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 22:43:17
>294 それ読みたい。 どんな内容ですか?
303 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 22:47:15
【鉄器についてのテンプレ】 @1〜4世紀の出土例は北部九州500余り、近畿100余り、 北部九州は1〜3世紀中頃までが多く、それ以降は近畿が多い。 特に副葬品としての鉄製品は、3世紀前半までは玄界灘グループ以外はあまり出ないが、 以降は一気に広まる。 A九州、近畿以外の地域(関東、東海、上越、山陰、中部など多数)で 1世紀の弥生遺跡から鉄製品による木材加工跡が次々と報告されている。 B出土する鉄器の多くは、台地上の遺跡跡か墳墓石室内等の 比較的保存条件の良い場所にて発見されている。 九州でも低湿地である平塚遺跡などでは鉄器は発見されていない。 陵墓指定地の多い近畿では十分な調査が行われていないため、 鉄器の発掘分布データから、当時の状況を推測するのは困難である。 Cこれらにより、2世紀までの鉄輸入は、北部九州勢力が弁辰へ出向いて入手したほか、 帯方郡や三韓諸国から少量が列島各地に持ち込まれていたが、多くは北部九州で消費されていた。 しかし、3世紀前半には国内交易グループが輸入も管理するようになり、 倭人主体の鉄流通が確立したのちは、徐々に列島各地に普及するようになったものとの推量も可能である。 Dその後、楽浪・帯方郡が消滅すると韓半島の鉄交易の主体も弁辰諸国となり、 倭人は権益確保のため半島進出など影響力の強化に努めるようになる。
305 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 22:55:54
経済的な勢力争い、経済的な文化の衝突 通商を主とする文化圏、農耕を主とする文化圏の 衝突はないだろうか。 今でも、博多湾周辺と筑後平野周辺は少し違うのだが、 (吉野ヶ里の戦いの跡は博多周辺の部族との争いではという説はある) この勢力が熊本の勢力と結びつくと九州のバランスは完全に南より になって博多の商人勢力はとても九州全土を統治できない。
>>301 墳丘内の土器で年代を決めるのは、基本的にはアウトだというのは常識でしょう?
そして実際、石塚の年代は意見が割れていることは衆知の事実。
東田大塚は箸墓とほとんど差はないので特に取り上げる必要なし。
ということで、編年を無視しているわけではありませんデス。
>>301 そうそう。
>特殊器台の出る箸中山が最初の古墳でないと自分の理屈に都合が悪いから。
これはそのとおりだと思うデス。でも編年は無視してないです。
308 :
馬耳 :2005/08/10(水) 23:26:05
>>306 墳丘内の土器じゃなくて、その下の基盤層に「纏向2以降の出土が無い」ことが決めてじゃなかったっけ?
309 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 23:42:32
>306 >墳丘内の土器で年代を決めるのは、基本的にはアウトだというのは常識でしょう? 別に常識じゃないよ。最終的にそれで決めたと石野さんや橋本さんは言って いるわけだからね。石塚の年代について異論を唱えている寺沢さんにしても 布留0まで下げるなどという非常識なことは言ってない。 その他、勝山が布留0なんてやつもいない(少なくとも関係者には)。 手法に疑問の声もあるが、年輪年代法などの結果もこれと矛盾してない。 よって土器が不明などというのは世迷いごとの類。 だいたい、あのk前副所長にしても土器編年については異論を持っている らしいが、これら古墳群が明らかに箸中山や中山大塚に先行することは認 めている。
>>305 フェニキアにしてもそうだが、海上通商国家はいくら繁栄しても、
最終的には内陸部の農業国家に屈服してしまうんだよな。
結局、農業に裏打ちされたマンパワー=軍事力に太刀打ち出来なくなるのだろう。
>>310 北部九州の初期古墳に大きなものが存在しないのは、
大規模な労働力を動員出来る首長が存在していなかったから。
小規模国家が割拠していたのだろう。
倭人伝の記述通りだ。
312 :
日本@名無史さん :2005/08/10(水) 23:59:44
>308 いや、それと封土内にないことも根拠になった。 逆に東田大塚は下層に庄内3があったんでそれより後ってことになった。
313 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:05:33
>311 こらウソつくな。そもそも庄内の可能性のある前方後円墳のうち 50メートル以上の大規模なものは、 大和の石塚、勝山、矢塚、ホケノ山、東田大塚 九州の那珂八幡、原口 くらいしかない。
314 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:06:47
>304 異論を排除するのはよくない。 おもしろそうだし、ここで議論してほしいな。
>>309 >別に常識じゃないよ。
“基本的”に常識です。墳丘内の盛り土から縄文土器が出てくることなど、よくあります。
問題は、石塚が常識で図れるかどうかで、石野さん他は石塚の場合はいいのだといい、
その他は、常識から考えてだめだといっているわけです。
>313 奴國、二万戸てえーのも無視してるしな。
317 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:12:41
↓これ行った人いませんか?もしいたら概要を教えてほしいです。 ふたかみ邪馬台国シンポジウム5「邪馬台国時代の筑紫と大和」 日時 2005.7.17(日)〜2005.7.18(月・祝日) 会場 ふたかみ文化センター 市民ホール ●第1日目 7月17日(日) 13:00〜13:10 開催挨拶 13:10〜14:00 「3世紀ツクシの住居と集落」 武末純一氏(福岡大学人文学部教授) 14:00〜14:50 「3世紀ツクシの近畿系土器とツクシから見た近畿の九州系土器」 常松幹雄氏(福岡埋蔵文化財センター主任文化財主事) 14:50〜15:00 休憩 15:00〜15:50 「武器型祭器の終焉と大型墳墓の出現」 柳田康雄氏 (元九州歴史資料館副館長) 15:50〜16:40 「銅鐸の廃棄と大型墳墓の出現」 寺澤薫氏 (奈良県立橿原考古学研究所部長) 16:40〜17:30 「3世紀の鉄器ーツクシとヤマトー」 村上恭通氏(愛媛大学法文学部助教授)
318 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:13:17
●第2日目 7月18日(月・祝日) 9:30〜10:20 「3世紀の鏡ーツクシとヤマトー」 森岡秀人氏(芦屋市教育委員会文化財担当主査) 10:20〜11:10 「吉野ヶ里から見たヤマト」 高島忠平氏(佐賀女子短期大学学長) 11:10〜12:00 「纒向からみたツクシ」 石野博信 (香芝市二上山博物館館長) 12:00〜13:00 休憩 13:00〜13:50 「“倭国乱る”と邪馬台国」 山尾幸久氏(立命館大学名誉教授) 13:50〜14:10 休憩 14:10〜16:10 シンポジウム「邪馬台国時代のツクシとヤマト」 テーマ1「住居と集落」・テーマ2「土器交流ーツクシとヤマトー」 テーマ3「鏡と鉄」 ・テーマ4「弥生祭器の廃棄と墳墓」 テーマ5「邪馬台国とは何か?ー私の邪馬台国論ー」 司会・進行:石野博信 パネリスト:上記基調講演者
319 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:23:22
>315 だからさあ、だめだと言っている寺沢さんにしても「箸中山=石塚他」 なんてことは言ってないのよ。また、さっきも書いたように勝山が古いこと についてはほとんど異論がない。 石塚やホケノ山の年代について、多少の意見の相違はあるにしても 石塚他→箸中山という順番について、異論を持っている関係者はい ないの。
320 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:27:13
321 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:30:01
322 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:30:30
とりあえず、それぞれの説をあげてみるのも一興かとおもいます。 私は佐賀県小城説です。 唐津(西唐津八幡町)から東南に33.3km進み(松浦川沿いの芦や柳の生い茂る中を進みます)、多久市南多久の庄集落の延寿寺にとうちゃくします。ここが伊都国です。ここから東南に6.6kmが奴国ですが、「行」という字がないのでいきません。 延寿寺から東へ6.8kmで小城町(不彌国)に到着します。町の南の大江から南に20日で投馬国にいたりますが『行」という字がないのでいきません。 小城町の南、不彌国に面して邪馬台国の都があります。「行く」とかいていませんが、面して接しているので『行く」は省略しています。 水行10日陸行1月はここまでの総日数です。 道順を説明するとき、道のりを説明したあと、5分ぐらいですよ、と時間を付け加えることがあるでしょう。それとおなじですよ。 卑弥呼の墓は小城公園内の桜ケ岡です。この岡はかつて娑婆岡とよばれ、江戸時代以前に大量の人骨が発見されています。 これらは、卑弥呼の殉死者でしょう。 郡治のソウルからここまで786.7kmであるが、海上の千余里は実測より長く表示しているので千余里は67kmとしてみると、 総キロ数は828.8kmとなる。1里はざっと67〜68mですから、68で割ると12188里となり1万2千余里にあう。 よって邪馬台国は佐賀県小城市であることがなりたつ。
323 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 00:32:22
>295 「こっち」ってのは関西という意味です。
石塚>勝山>矢塚>東田大塚>ホケノ山>箸墓
>>316 奴国の2万も、投馬の5万、邪馬台の7万に比べるとね〜。
奴国が玄界灘沿岸部のリーダーだったことには異論がないですが。
>>313 じゃあ、那珂八幡、原口以降、九州の前方後円墳文化が途切れるのは何故だと
思います?
>>325 北部九州で前方後円墳が途切れるのに対して、畿内のそれはどんどん巨大化
していく。
で、東遷みたいな珍妙な説を言う輩が現れる訳だ。
那珂八幡、原口にしても3世紀半ば。マキムクの初期古墳と同時期か、それ
以降だろ。
庄内期以降、瀬戸内海経済圏で同時多発的に前方後円墳祭祀が始まって いるのに。 倭人伝に記載される女王共立、倭国大同団結の証拠だろう。 競争相手は日本海経済圏=出雲、四隅突出型古墳か。 オバQは北部九州が最古で、古墳文化が東漸したと思ってるみたいだね。
328 :
馬耳 :2005/08/11(木) 07:24:52
>327 呪術的な鏡の位置付けなど一部九州の要素も ミックスカルチャーである前方後円墳には取り入れられてるけどね。
329 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/11(木) 21:09:19
>>321 322さん
私のレスを再録していただきまして有難うございます。
けど、何故「邪馬台国はどこにあったのか?」のアドレスはでないのでしょうか?
検索でおねがいします。
330 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 22:46:38
>329 サガミハラの本が読みたいです。 概要も紹介してちょ。
331 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 22:48:23
>326 >北部九州で前方後円墳が途切れるのに対して、畿内のそれはどんどん巨大化 >していく。 こら、素人相手にウソつくな。 九州は、畿内に次いで前期古墳が集中するところ。 一から勉強しなおせ。
332 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 22:51:23
「外部勢力が畿内在地勢力を打倒して、マキムク、初期古墳を築いた」 というのが、外部勢力論者の言い分。 当時、北部九州〜畿内にかけての、軍事的統一がなされていたとは 思えない、あくまで倭国連合体制であったというのが畿内自生説の立場。 畿内を軍事的に制圧しない限り、大和盆地に侵入、新王都建設するなどは 夢想に過ぎない。マキムクと唐古鍵は5キロ程しか離れておらず、 畿内在地勢力を無視した平和裡の王都建設は難しいだろう。 大規模な戦争の痕跡が見つからず、倭人伝でも女王共立が記載されて いる以上、畿内在地勢力(銅鐸勢力)が3世紀の倭王権の主体となった と考えるのが自然である。
333 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:04:33
>324 石塚>勝山>矢塚>ホケノ山>東田大塚>中山大塚>箸墓 だろ。
334 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:24:24
昔はやった大論争っていう掲示版みたがひどいもんだ。 変なのが入ってレベルが低下しているな。
335 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:27:58
女王・卑弥呼の墓といわれる桜井市の箸墓古墳など、古墳時代初頭に造 られた3つの古墳が、築造後50―100年ほどで荒れ放題となり、水をたた えていた周濠(しゅうごう)も6世紀ごろまでに埋められたことが、奈 良教育大学の金原正明助教授(環境考古学)の分析で明らかになった。 浚渫(しゅんせつ)や樹木の伐採は行われなかったとみられ、古墳に対す る意識をうかがわせる資料となりそうだ。 金原さんらは、三輪山の西側に点在する箸墓古墳(3世紀中ごろ―後半)と 纒向石塚古墳(3世紀前半)、東田大塚古墳(3世紀後半)の3基につい て、発掘調査で出土した周濠の堆積(たいせき)物を分析。 今月9日から北海道で開かれた日本文化財科学会の大会で発表した。
336 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:31:36
久住論で特に目に付いた点を以下に記す。 1.三角縁神獣鏡を出した那珂八幡古墳は出土土器の検討から築造時期は氏 の土器編年のTB新相とする。墳形は寺澤氏の提唱する「纏向型」とは異 なる前方後円墳で、北九州の多くの前期古墳の型式の基点となったとする。 氏の編年ではTBの次がUAでこの時期が寺澤編年の布留0に相当する。一 般には大分の赤塚古墳も那珂八幡古墳と同時期と推定されているが、この古 墳からは三角縁神獣鏡が4面発見されている(ただし第2主体から)。 赤塚古墳の三角縁神獣鏡の岸本編年は舶載では比較的新しいとされている。 IB新相とは庄内式3式の後葉から終末、あるいは布留0の最古式が入るの であろうか?久住氏の論では那珂八幡古墳などは箸墓以前となる可能性があ り、三角縁神獣鏡の入っている古墳としては最も古い古墳となる。もしそう ならば画期的な事実となるが、三角縁神獣鏡の発見が第2主体からなのがポ イントではなかろうか。いずれにしても奴国領域の那珂八幡、藤崎32次調 査1号墓など列島最古時期の古墳から三角縁神獣鏡が出ていることは歴史論議 として重要である。なお寺澤氏の提唱する「纒向型古墳」はかなり幅を持っ たものであり、出現期古墳は墳形が明確で無いケースも多く、「纒向型」か 否かの議論は水掛け論になる可能性がある。 2.TBからUA期に「奴国」中枢で韓半島の土器が増加し、TBで庄内式 土器が受容され、UAで布留0式土器が受容される。「奴国」の勢力と初期ヤ マト政権が結びつく。西日本各地の勢力は「伊都国」中枢を経由せずに対外 交易が可能になったとする。箸墓の時代に奴国が伊都国を押しやって韓半島貿 易の中心になったとするのは面白い。この事実は邪馬台国=畿内説でも、邪馬 台国=九州説でも色々な議論が可能である。例えば九州説では、卑弥呼の時代 に伊都国に抑えられていた奴国がキナイと連携して地位の奪回を図ったなどはド ラマ的で面白い。北九州では庄内式系土器、布留式系土器は奴国以外の地域 でも出ているとの論も多く、これらの土器がどこから来たかの判断によるとこ ろが多い。久住論には反論もあると思われる。
337 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:32:57
原田常二って面白い。「ニギハヤヒの呪い」とか
338 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:46:39
>334 あの手の掲示板は、だいたい九州王朝キティガイが乱入してきて 終わるってのがパターンですな。
339 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:49:51
『古墳時代の政治構造』を読んで 2000年に出版された溝口、北條、村上の『古墳時代像を見直す』は 我々に大きな衝撃を与えた。それは1950年代前半に行われた共同研究 「階級社会の成立」に始まる古墳時代像に転換を迫る内容であったから である。 「階級社会の成立」に助言者として参画した小林等に始まる古墳時代像 を思い切って「前方後円墳中心史観」と呼ばせて頂くと近藤義郎、都出比呂志、 白石太一郎等もこの方向の研究者と位置付けられる。この発想はそもそも「首長概念」や 「共同体概念」の基本に関わるものである。血縁のある首長が長期的に共同体 のリーダーとして継続するとか、各時代に一人のリーダー(王や大王)がいる と言う考えを前面に出したものと言える。日本列島規模では奈良の箸墓を基点 として前述のような支配体制が発生、継続したとする思想につながり「大和中 心史観」とも呼べるものになっていると考える。
340 :
日本@名無史さん :2005/08/11(木) 23:51:13
一方列島各地の古墳発掘データが増加すると、前述のような理解では解釈困 難となり、各地で独自の古墳体制があることが強調されることとなった。こ の考えをおし進めると「地方中心史観」とも言える発想となる。 2004年5月に発刊された『古墳時代の政治構造』は広瀬和雄の呼びかけ で始まった「古墳時代政治構造研究会」の集大成である。この研究会は「地 域を主眼におきながらもけっして地域至上主義におちいらない」を視座に置 くとしたもので、新しい古墳時代像を模索した力作である。惜しむらくは研 究会の主要メンバーであった北條芳隆、福永申哉の執筆が無い。おおやまと 古墳群を記述した広瀬の論文はさすがに小林以来の発想は払拭されているが 、早くから大和が列島政治構造の中心で、その力が継続したと言う従来通り の発想と読ませて頂いた。しかしながら他の執筆者の多くは前方後円墳築造 圏を一つの政治機関が総括する単一政治圏とは言いがたとする方向であり、 中央=大和、列島他地域=地方と言う発想に賛同しない論文が多い。 突然出現した巨大前方後円墳の箸墓を大きな画期と捉え、ここから大和=中 央が始まったとする発想はもっともと思えるが、古墳T期からV期の列島各 地域の古墳状況や、同時代のおおやまと古墳群を詳細にみれば、古墳時代前 期ではヤマトが日本列島のほとんどを政治的に支配したとは言い難いのでは なかろうか。ヤマトが実際に列島の大王 として動き始める時期についてはさらな る議論が必要である。
二上山の特別展示「三世紀の筑紫と大和」は21日まで。
342 :
日本@名無史さん :2005/08/12(金) 22:04:34
アゲ
343 :
日本@名無史さん :2005/08/12(金) 23:07:57
>341 それおもしろいの?
344 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 00:09:57
>340 >、古墳T期からV期の列島各 >地域の古墳状況や、同時代のおおやまと古墳群を詳細にみれば、古墳時代前 >期ではヤマトが日本列島のほとんどを政治的に支配したとは言い難いのでは >なかろうか。 で、関東大王とか言い出すわけね。
345 :
sage :2005/08/13(土) 00:10:03
展示は小さいが、このスレのテーマに興味があるなら見て損はないと思うが。
346 :
sage :2005/08/13(土) 00:12:31
>>344 『古墳時代の政治構造』(広瀬編)を読め。
>>関東大王とか
言う訳ないだro
sageの仕方を間違えた、、 逝ってきます
348 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 00:19:24
>306
ぐだぐた言ってないで矢田見直せや→寺沢
特に布留0。
上述のように築造年代との関連の点でなお不確定な要素のある木製品の
一事例によって、積み上げられてきた精緻な土器研究がすぐに瓦解する
とはいえない。しかし、おなじような不整合が繰り返されるなら、
「布留0式」のもつ時間幅や土器様式としてのとらえかたを再検討する
必要もうまれてこよう。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/katu.htm
349 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 00:26:46
>346 広瀬「天才的イデオローグが前方後円墳を作った。」 失笑モノですね。
351 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 00:28:31
やはり邪馬台国は北九州(宇佐)で、 畿内に吸収併合されたとみるべきか・・
矢田ってなに?
usa説の根拠は?
354 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 00:43:47
ピラミッドもイムホテプが作った。
355 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 00:46:54
>350 誰?
聞く前に読めよw
359 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 16:56:45
アゲ
360 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 20:49:34
yt
361 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 20:55:09
新モンゴロイドという表現は、縄文系(古モンゴロイド)と比較した 日本的な概念であり、中央モンゴロイドは、戦前から西洋人が形質 (考古学的要素も含め)から称えたもの。ロシア人は更に細分化しておる。 『モスクワの街を歩くと「日本人ではないか」と思う人を見かけることが よくあるが、中央アジアの出身者であることが多い。これは同じ モンゴロイドでも、日本人とシベリアの人々では、顔の平べったさの 度合いが、少し違うためであろう。』と石田肇氏「顔面平坦度を測る」に ある。 形質から北方モンゴロイドは、顔は広く扁平で、鼻が低いという特徴。 中央モンゴロイドは、北モンゴロイドほど顔は平坦でなく、長顔で 鼻の高いグループ。ただし頭の形には両者とも差異がある。
362 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 23:26:13
>353 井沢を読んだ事がないのか? とんだ厨房だな。
井沢だったら読む価値なしw 井沢なんかを鵜呑みにするとはとんだ厨房だな。
>363 スレ違いで紛れ込んできたヤマタイ厨の相手なんかするなよ・・・
>>313 >九州の那珂八幡、原口
どちらも三角縁を副葬された前方後円墳。
それまでの後漢鏡副葬の北部九州の伝統とは断絶がある。
宇佐の赤塚とかと同じく、邪馬台連合=前方後円墳体制に参画した
地方王権の墓だろう。
366 :
日本@名無史さん :2005/08/15(月) 11:28:53
age
367 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/15(月) 11:38:51
ただ単に畿内の豪族たちが連合しただけの政権でしょ。 最初は共立王だったっぽいですがそれでは争いが起きるので 天皇家が世襲して王位に就くという不文律を作ることにより 争いを避けるようにしたのだと思います。
>>365 三角縁を副葬するからと言って、以前の伝統と断絶があるというのは必ずしも言えないだろう。
藤崎遺跡の周溝墓の中には、三角縁盤龍鏡を副葬しながら弥生的な箱式石棺を有するものがある。
赤塚古墳も同様に石棺だし。
>>368 箱式石棺自体も古墳時代に引き継がれていくけどな。
370 :
日本@名無史さん :2005/08/16(火) 22:04:44
あげ
371 :
日本@名無史さん :2005/08/16(火) 22:21:46
e3ee333ee
372 :
日本@名無史さん :2005/08/16(火) 23:06:28
>365 そりゃ第2主体部からの出土だ。 そんなこともしらんのか。
>>372 だから何? 何が言いたいのか分からない。
374 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 10:21:03
@後漢の権威衰退により、伊都・奴の玄界灘沿岸部グループを盟主とした 倭国王体制がグラつく。 A出雲盟主の日本海経済ブロックが倭国王体制から離脱。 青銅器を大量遺棄し(荒神谷・加茂岩倉)、四隅突出型墳丘墓築造 (首長霊祭祀)を創始。倭国大乱。 B三輪の巫女を共立することで、瀬戸内海経済ブロックが大同団結(邪馬台= プレヤマト政権)。各地の葬送儀礼をパッチワークした前方後円墳の祭りを 始める。公孫氏から入手した三角縁神獣鏡を複製、邪馬台がその権威を承認 した各地の王に配布する。それ以前の後漢鏡と峻別するために、縁を三角に した。
>>374 の@に見える
>伊都と奴を盟主とする玄界灘沿岸グループ
グループは考えられない。
376 :
馬耳 :2005/08/18(木) 20:29:39
>>374 『倭国王体制』と言うのはどのようなものでしょうか?
まさか漢書の奴國王を頂点とし、出雲、瀬戸内にまで統制力を有する『体制』を考えているわけじゃないですよね。
ゆるやかな交易同盟はありうるのでは? 「倭人」の代表として奴国(57年)や伊都国が認められていたことはありうる。 107年の記事の「倭国王」を認めるなら、この盟主は伊都国だろう。 弥生後期の後漢鏡の状況や楽浪系土器の状況はこれを裏付ける。 3世紀以降の畿内大和が盟主の倭国体制ほどの統制されていないのは言うまでもないが、その前にその前身としてゆるやかな連合があったことは認められてもよいと思います。 日本海ブロックは直接に大陸と交易できた部分もあるが、現実は量的には玄界灘沿岸経由が大半のはず。
378 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 22:34:58
>>376 魏志倭人伝の
その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、
相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
を読む限り、卑弥呼以前に倭国王がいたことが分かると思いますが。
379 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 23:15:53
>365 そりゃ逆だ。平原の内行花文鏡の破鏡や割竹型木棺が畿内 の初期古墳に継承されることが証明されている。 「平原王墓の性格」(柳田康雄)
380 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 23:20:09
>374 その手の旧定説は、現在では、ほぼ否定されている。 >375 博多湾岸どころか、弥生時代の北九州で政治的・経済的連合が 成立していることは考古学的に証明されていること。
381 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/18(木) 23:27:33
>>380 >政治、経済的連合があったことは、すでに考古学的に証明されている
知らなかった!
政治、経済的連合の有無を考古学で証明できるとは
これは勉強不足だね
もしよければ
その、証明を説明してもらえないでしょうか?
382 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 23:32:26
?>363 >井沢だったら読む価値なしw >井沢なんかを鵜呑みにするとはとんだ厨房だな。 井沢元彦が斬新かつ正鵠を得た学説で学会でも注目されている存在である ことを知らないようだな。 せいぜい勉強することだな。
383 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 23:40:33
>381 立岩産の石斧等の流通と奴国からの青銅器威信材の配付が ほぼ重複することなど。 寺澤薫の「王権誕生」 村上恭道らの「古墳時代を見直す」 柳田康雄の「伊戸国を掘る」 などを読め。
384 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 23:42:53
井沢の日食卑弥呼殺人説は最新の天文学の成果に基づく科学的な学説。 藤村のような詐欺野郎を放置してきた学者たちに井沢を批判する権利 はないね。
385 :
馬耳 :2005/08/18(木) 23:44:03
>>377 「ゆるやかな交易同盟」、短いセンテンスでの表現としては、私のイメージもそうです。
例えば出雲ですが、「倭国王体制から離脱」と言うような表現が適切でしょうか。
>374の第2項で例示された銅剣銅鐸の大量埋納のような事象をもって
二世紀後半に経済的な分離が証明されるわけでもないと思うし、
単に、出雲・九州以外のブロック勢力が成長したため、両地域間相互の交流が、
それぞれの他の地域との交流に比べて相対的に低下した程度の現象かな、と思います。
出雲は、「木幡家伝世銅鐸」のように九州との古くからの交流の痕跡もありますからね。
でも、基本的には吉備や丹波との交流の方がが顕著でしょう。
それから、初期の四隅突出型墳丘墓は、まだ弥生型祭祀の場であり、
首長霊祭祀の段階には達していないようにも思えます(微妙ですが)。
>>383 >立岩産の石斧等の流通と奴国からの青銅器威信材の配付が
>ほぼ重複することなど。
こんなことを言う人に限って、銅鐸は村落レベルの祭器に過ぎないとか
言うんだよね。
387 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 23:51:13
>386 考古学ではそういうことになっている。 それが嫌なら、考古学雑誌にでも投稿して反論することだ。 相手にされるかは知らないけどね。
388 :
日本@名無史さん :2005/08/18(木) 23:56:45
>出雲は、「木幡家伝世銅鐸」のように九州との古くからの交流の痕跡もありますからね。 >でも、基本的には吉備や丹波との交流の方がが顕著でしょう。 少なくとも鉄器・玉器の交易については、北九州ー山陰間が主流。 >それから、初期の四隅突出型墳丘墓は、まだ弥生型祭祀の場であり、 >首長霊祭祀の段階には達していないようにも思えます(微妙ですが)。 たとえば西谷3号は「王墓」級。 そもそも「四隅体制」ができているという点でその背後に単独の 存在でしかない楯築などはるかに組織された政治体制が推定される。
>>385 確かに出雲の倭国王体制離脱は全く証拠なんてないです。
ただ、出雲がヤマト連合の征伐対象であったのは事実でしょう。
妻木晩田遺跡の解体、青谷上寺地遺跡の遺棄された戦死者などは
記紀神話の言うところの「国譲り」があった証左。
実際の出雲征伐は、崇神の頃でしょうが(紀を読む限り)
で出雲国造家は、後代まで大和朝廷から警戒され続けたと。
>>387 いや、だからさー。
銅鐸と北部九州の青銅器威信財がどう違うのか、君の言葉で語ってみてよ。
391 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 00:01:40
>389 青銅器の大量埋葬は、弥生時代だが。
392 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 00:04:14
今日週間文春を読んだら、立花茂さんが安本美典を誉めていました。 「古代史は基本的にこれでいい」とか。 やっぱ、安本美典は凄いですね。
>>391 青銅器大量埋葬は、出雲勢力が自主的に行なったこと。
銅鐸、銅矛、銅剣勢力との決別宣言なんだよ。
で、四隅突出型墳丘墓=首長霊祭祀を始めたんであって。
394 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/19(金) 00:08:46
>>383 お手数かけます。
今、手元に「王権誕生」がありますので読み返してみます。
ところで、
「連合」となるとある程度対等が基本だと思います。そこに「王」を擁立した瞬間「対等」は、消滅し上下関係が発生「連合から支配」に、変わるのではないでしょうか?
何処かで一つの国としなければ
後漢王朝の冊封下にはなれないと考えるのですが
例えば
奴国が朝貢し、時を同じくして伊都国の王が朝貢し、等という事は出来なかったと
一対一が原則の朝貢外交では?
中華外交を視野に入れた場合、倭側での「連合」は成立しないのでは
395 :
馬耳 :2005/08/19(金) 00:12:31
>>393 でも西谷の場合、傑出したリーダーを輩出した首長一族の家族墓的な性格じゃないのでしょうか。
時代的には楯築>西谷三号であることは間違いないでしょうが・・・
396 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 00:14:40
>390 考古学では銅鐸は村落単位の祭器ということになっている。 なのでそんなものがいくら出土しようが村落権力があるという 証明になっても広域的な政治権力の証拠にはならないということ。 北九州の青銅器については、それが配付され、首長の個人墓から 出土しており、そのレベルに階層が存在することから、首長同士 の政治的関係・階層の存在が推定されているわけだ。 福永氏のように銅鐸の配布行為を想定している人もいるようだが、 基本的に相手にされていない。 とりあえす考古学の基礎を勉強してから書き込め。
397 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 00:17:59
>>394 初期ヤマト政権は、有力豪族による大王位の持ち回りだったんだよ。
有力豪族たちに共立されることで初めて大王になれた。
大王家が世襲制になるのは応神以降。記紀の記述でも、それまでの
非現実的な父子相続から、急にリアルな兄弟相続に変化する。
後代、継体が近江・越・尾張の勢力をバックに大王位に就いた時、
応神の末裔であると自称したのもそのため。
応神が事実上の始祖王であるという認識があったためであろう。
398 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 00:18:50
>394 後期には、奴国の王墓はなく、伊都国だけ。 なので政治権力は、伊都国におかれたと推定されている。 ただし、奴国の工業力等が衰退したわけではない。
399 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 00:20:20
>393 北九州勢力への呪詛であると寺澤は言っている。 正しいかどうかはしらんが。
400 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 00:24:25
>395 といっても四人にすぎないが。 「前方後円墳体制」として倭王権を想定するなら「四隅体制」 としての出雲「王権」?を否定するのはダブスタだろうな。
>>396 結局、銅鐸が首長の個人墓から出てこないことが決め手な訳ですか。
ただ、あなたの書き方、「基本的には」とか「学会では相手にされて
いない」とか、一刀両断なのはどうかと思うよ。
せめて否定の根拠と一緒に書いてもらわないと。
私は銅鐸が大事にされて、兄弟銅鐸が広範囲に出土するのは、 やっぱり銅鐸を供給した畿内勢力が宗教的権威として君臨していた からだと思います。 だからこそ三輪の一巫女がヤマト連合の女王に共立されたんだし。 首長墓から銅鐸が出ないのは当たり前。銅鐸=精霊祭祀→古墳=首長霊祭祀 に切り替わったんだから。その時に銅鐸は遺棄されたのでしょう。出雲の 時のように。
>>402 畿内の宗教的権威って、銅鐸の生産センターとしてのそれだっだのかも
しれませんね。
東瀬戸内地域や東海に銅鐸出土が多いのは、畿内とそれだけ結びつきが
強かったのでは、と思います。
倭国大連合もいきなり成立したんじゃなく、銅鐸文化圏という下地が
あったからこそとも思いますし。
>>396 銅鐸=畿内自生勢力を貶めることに必死だな。
「北部九州東遷→ヤマト政権」説なだけに。
405 :
馬耳 :2005/08/19(金) 01:04:13
>>400 西谷三号の場合、5個以上の主体部の存在が想定されてると思いましたが(一説には8個)
それ以外にも5個以上の埋壙が見込まれるものが多いですよね。
それに、「出雲王権」を否定しているわけではありませんよ。
ただ、西谷三号で行われた祭礼が、前方後円墳級の「首長霊祭祀」として、
その体裁を整えたものだったかどうかは不明でしょう。
まだ、過渡期の存在のように思えます。
確かに、吉備の特殊壺、器台は取り入れられていますが、
これは四隅自体が北部吉備から伝播したものと考えれば当然です。
では、同じ四隅出現地域である因幡や丹波との関係はどうでしょうか?
また、北陸地域の四隅は同時代性が無く、出雲王権傘下とも思えませんです。
406 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 01:20:51
銅鐸祭祀終了とともに庄内期に入るのも意味深だな。 倭国内に、大きな政治的変動があったのかもしれん。
407 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 01:34:29
>>374 >それ以前の後漢鏡と峻別するために、縁を三角にした。
こんな説、聞いたことありませんが。
408 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 22:47:03
>404 396に書いたことは考古学では普通に言われていること。 君の言うところの畿内自生勢力を過大評価していた昔の学者 でも特に否定はしておらんよ。 逆にその手の連中は、村落が点在するにすぎない畿内社会が 「階級闘争」やら「社会変革」やら「人間革命」を経て、 「天才的イデオローグ」によって「階級支配の道具」とやらの 倭王権や貴族社会がなぜか数十年で成立したとかいう失笑 もののアホ理論を捏ね回していたわけでね。 もちろん今やそれが間違っているのは考古学的には明らかだが。
409 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 22:52:47
>405 >ただ、西谷三号で行われた祭礼が、前方後円墳級の「首長霊祭祀」として、 >その体裁を整えたものだったかどうかは不明でしょう。 >まだ、過渡期の存在のように思えます。 むろん、極大化した王墓が存在する北九州には劣るが、その次に位置する ことは間違いない。また、首長霊祭祀は、近藤が言っているだけで、考古 学的に証明できているわけではないね。 >確かに、吉備の特殊壺、器台は取り入れられていますが、 >これは四隅自体が北部吉備から伝播したものと考えれば当然です。 >では、同じ四隅出現地域である因幡や丹波との関係はどうでしょうか? >また、北陸地域の四隅は同時代性が無く、出雲王権傘下とも思えませんです。 丹後は、四隅ではないが。北陸については同感だが。
410 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 22:55:02
>401 >結局、銅鐸が首長の個人墓から出てこないことが決め手な訳ですか。 その前に首長の個人墓そのものが存在しないということが大きい。
411 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:02:37
>402 >だからこそ三輪の一巫女がヤマト連合の女王に共立されたんだし。 寺澤も同じことを言っているが考古学的に全く根拠がない。 日本最古の前方後円墳とされるホケノ山古墳には弥生時代の 畿内文化の影響は何もない。むしろ、棺内は、平原に極似し、 葺石は4隅か楯突か積石塚のどれかという具合に前方後円墳 祭祀自体が外部勢力によって作られたことが証明されている。
412 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:07:51
中国のインターネット事情 中国政府賛美ばかりのホームページだらけで、 少しでも中国政府の方針が矛盾していたり事実と違うことを 批判しようものなら、削除及びアクセス禁止され、個人情報を 中国政府当局に調べられて監視される 中国においてのインターネットに自由というのはどこにもなく、 中国国内のインターネットは、すべてが中国政府賛美のための プロパガンダのためにあるといっても過言ではない 人権擁護法案は、こうした中国国内のインターネットと同じ監視体制が 敷かれるものであり、そこには真実の暴露も正当な批判も矛盾も追及 できない、自由を完全に剥奪されたインターネット利用者しか存在しなくなる。
413 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:08:32
日本書紀がどういうスタンスで書かれたかを理解していないアホが多いね。 渡来人による征服王朝を正当化し、滅ぼした前政権を引き継ぎ、自分の歴史として歴史まで簒奪して高句麗など近隣諸国より長い歴史を持っていると主張するために書かれたのだ。 九州には倭国があり、大和政権とは別の物だった。 磐井の乱は大和と九州の戦いではなく、九州王朝内の権力争いだった。 物部と磐井の戦いで大和政権は無関係だったろう。結果、物部が勝利した。 九州王朝が滅んだのは白村江の戦いの後だ。 継体天皇が応神朝を奪うのに20年を費やし、九州王朝を滅ぼす余裕などなかった。 ようやく応神朝から皇位を奪うのに成功したばかりで、翌年朝鮮出兵などするはずは無い。 大和側は九州が内乱と半島出兵で疲弊し自滅するのを待っていた。 九州王朝が滅ぶと大和は九州王朝の史書を奪いあたかも九州王朝の歴史が自分の歴史であったかのように偽装しようとした。 しかし、九州王朝と戦った唐に対しては自分が九州王朝ではないと言わざるを得なかった。 だから、「倭と日本は別種」とか、「元日本は小国、後に倭を併せた」などの記述になったのだ。 一方日本国内では日本書紀が書いてあるから又変な言い訳が必要になる。 旧唐書の記述の混乱がそれを示している。
414 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:08:41
>>410 橿原・曲川遺跡で、割と大きな方形周溝墓が見つかってますが。
415 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:10:20
白江村の戦いで、大和は新羅と唐の連合軍に破れ、占領された。 「唐が九州を支配するためにおいたのが大宰府」 これは古事記には、はっきりと書かれていることです。 学者達によって創られた日本の正史とは異なりますが。
416 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:11:07
最初は大王だと思う。 天君(天皇)制はやはり新羅が本家です。 それ以前は馬韓だという説が根強い。 畿内に大王家が移った後、本州で天皇の名称に変わったのでは なかろうか? それを裏付ける神話として新羅勢力とナガスネヒコが畿内で 反乱をし神武が抑えたという上記での記述がある。 それに、神武は本来正当な支配者では無かったのであるから 日向天孫降臨神話を創作し新羅神話とくっつけたとも考えられる。
417 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:12:00
大和は唐と新羅に占領されて 中華から見て東のはてにある最も野蛮な国という意味になる「日本」 にかいめいさせらたのだろう。 そう考えると、なぜこの時代以前の歴史がはっきりわからないのかの説明もついちゃうし。
>>408 人間革命とか流石に失笑だとは思いますが、
>村落が点在するにすぎない畿内社会
は言い過ぎじゃないでしょうか。
唐古鍵とか池上曽根とか普通に大きいよ。北部九州には見劣りするかも
しれませんが。
419 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:13:54
磐井の乱の戦場は久留米市御井だったそうです。 まさに、高良山の神籠石の場所です。 この戦いはあまり歴史では教えませんが、もっと大規模な長期戦 だったと思われます。 太宰府、大保、小郡、御井の遺跡が消滅したのも この頃だと思います。西の夷 熊襲成敗、山に籠もって時々出てくる土蜘蛛の話もこれと繋がります。 この戦いの際に朝鮮式山城作ったのが秦氏を中心とする大和政権では ないでしょうか???? そう考えるとゾッとします。
420 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:15:56
5・6世紀の埴輪の着ている衣服は 北方騎馬民族の影響だと思うがほんと不思議だね。 朝鮮半島ではなくもっと彼方から渡来した一族かも。 みずらなども時代は下るがモンゴル人が耳の横で髪を輪っか状に結うのと 関係性があるのかもしれない。
421 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:16:34
埴輪の服は俺の知ってる限りだと匈奴の服と瓜二つ 匈奴の土偶は中国でも多数残っているが基本的に 新モンゴロイド的特長がある。想像だけど、 弥生後期に出雲あたりに匈奴系が渡来して広島・岡山 から畿内に大和政権を立てたんじゃないだろうか? 先に到着していた徐福の一団との戦争が倭国大乱
ageるな
423 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:22:28
そりゃもちろん(プス日本を支配していたのは、(プス 全て百済人で、(プス 桓武天皇をはじめとして、すべての天皇は(プス 百済人だし、(プス すべての日本文化は百済発祥(プスだし、法隆寺の 壁画なんかも百済人が(プス描いたものだし、(プス 歴史的に日本は(プス、朝鮮を(プス宗主国(プスだと見ていた。(プス ああ俺は日本人に生まれて、ずっと(プス 韓国を兄の国(プスであると(プスス 思って(プスおります(プスです。(プス
424 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:24:57
日本は所詮奈良百済。
425 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:31:43
ヒラカナの起源 「平仮名」は「安、似、宇」の漢字をくずして「あ、い、う」と表記したものですが 字体は簡単に略して書き、その音はやはり同じです。 韓国語での「ピョダ」 注B は「広げる」「開く」「容易にする」という意味です。 その命令形が「ピョラ」です。 「ラ」 注C は「・・・よ」「・・・せよ」という命令詞で、「見てみよ」、「行って見よ」という表現に用います。 「ヒラカナ」は韓国語の「ピラ、カンナ」がなまったものです。
426 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:33:18
源氏は新羅じゃないか? 新羅三郎なんてのもいるし、白旗掲げている。 平氏はモンゴルかな? モンゴルは赤い旗だ。モンゴルの首都ウランバートルは「赤い戦士」と言う意味。
>>411 >前方後円墳祭祀自体が外部勢力によって作られたことが証明されている。
それは言い過ぎでしょう。
各地の葬送儀礼のパッチワークである事は間違いないとは思いますが。
葬送儀礼の劇的な変化を外部勢力の進入による、っていうのは余りに単純な
物の見方。外部の先進文化を積極的に取り入れることは有り得ます。
例えば、大化の薄葬令は外部勢力の強制によるものじゃありませんよね。
出雲の四隅突出型墳丘墓にしても、別に外部勢力の制圧による結果じゃないでしょう。
古墳文化、首長霊祭祀が立ち遅れていた畿内が、各地の祭祀の良い部分を色々
取り入れた結果でしょう。
出雲から野見宿禰を呼んで埴輪を作らせたり、出雲の神宝を強奪したり、
ヤマト政権は色んなことをやってます。
少なくとも前方後円墳祭祀の中心地であったマキムクに、九州系土器が 殆ど出土しないことから、北部九州勢力入植→大和古墳群築造は 有り得ないんだけどね。
429 :
日本@名無史さん :2005/08/19(金) 23:52:40
>428 マキムクの外来土器の性格は、強制労働随伴説か服属儀礼随伴説のどちらか をとる考古学者がほとんど。なのでもっとも劣位な東海が多く、優位な 吉備、出雲、九州の順に少ないのは当然。 逆に高級土器である逆に庄内式土器は、畿内以外では、博多湾岸や三雲に 圧倒的に集中している。
430 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:01:25
>427 >古墳文化、首長霊祭祀が立ち遅れていた畿内が、各地の祭祀の良い部分を色々 >取り入れた結果でしょう。 取り入れるにしてもその母体となる権力が畿内では全く証明されてない。 終末期直前の奈良盆地ですら10数個の共同体があって、非常に好意的 に見て3つ程度のまとまりが「あったかもしれない」という程度。 同じ時期に帝国化して平原のようなトンデモ王慕があった地域や 4隅体制のある出雲を差し置いて、倭王権になりましたなんてのは今や トンデモ説でしかない。
431 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:10:35
>392 ぎゃーぎゃーわめいているやつは、単に安本美典が怖いんだろう。 これまで何人もの権威を打ち砕いてきた人だからね。 定説化しつつあった古田武彦の九州王朝説を完膚なきまで粉砕したのも 安本だ。 安本=立花の知の巨人連合はますます手ごわそうだね。
432 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:11:49
>>429 だからageるな、って。よく分からん輩が来るだろ。
>マキムクの外来土器の性格は、強制労働随伴説か服属儀礼随伴説のどちらか
>をとる考古学者がほとんど。
また極端だな。そもそも、北部九州が東遷して支配者階級になったなんて
根拠ないだろ。
もし、外来の征服王朝だったとするなら、唐古鍵との共存なんて有り得ない。
畿内の遺跡に戦乱の痕跡がないことも散々言われていること。
倭人伝で言う通り、女王共立による倭国連合が成立したのであって、
外部勢力の制圧による畿内自生勢力の断絶なんて妄想だよ。
倭国連合故に、各地の葬送儀礼をミックスさせた前方後円墳の祭りに
なったのだろう。
そういう意味では、円筒埴輪の林立する箸中山は画期的。
築造当時、吉備勢力との融合が図られた結果だろう。箸中山の被葬者とされる
ヤマトトトヒモモソ媛が、吉備津彦神社に祀られているのも意味深。
434 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:13:59
1980年代になって来て、三世紀の古墳というものが、だんだん 考古学調査で解ってまいりまして、そこから鏡が出て来る。三角縁 神獣鏡ではなくて、もう少し古い鏡です。 そこには製鏡もあれば、中国製の鏡もある。というようなことが、 だんだん解ってまいりまして、そういう ものをもう一度検討してみる必要があるだろうということになった。 そうすると、やっぱり方格規矩鏡とか、それから内行花文鏡とか、 飛禽鏡とか、あるいは菱鳳鏡とか、あるいは盤竜鏡とか、 さっき王(仲殊)先生がおあげになったようなものとだいたい 似たような鏡が、三角縁神獣鏡がお墓に埋められるようになる前の 日本の古墳からも出ているということが、解って来ております。 王仲殊・樋口隆康・西谷正共著『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、1997年刊
435 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:23:10
>433 異論を排除するその姿勢が藤村の捏造事件を生んだことがよくわからないようだな。
>>430 君の視点で決定的に欠けているのは、なぜ倭国連合の王都がマキムクに
選定されたのかの説明がなされていないこと。
当時、瀬戸内海経済ブロックの最大の貿易相手が、東海であったからこそ、
マキムクが王都=商業の中心地に選ばれた。
東海の搬入土器が多いのは、単純に商取引が多かったから。
前方後方墳という独自の文化を築いていて、狗奴国にも比定される東海が
なぜ奴隷を供出した下位勢力と言えるのか。
北部九州が東遷したとすれば、マキムクのような内陸部ではなく、
大阪湾沿岸部に王都を築いただろう。
437 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:28:46
安本の名前を出すだけでアレルギーを起こすキティガイが一匹いますね(笑)。
438 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:30:07
>436 >東海の搬入土器が多いのは、単純に商取引が多かったから。 初めて聞いた珍説だな。面白いから投稿したら。
439 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:30:49
440 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:32:27
>大阪湾沿岸部に王都を築いただろう。 そんなものは当時ないのだが。 河内湖沿岸ならともかく。 ちょっとは勉強してから書き込めよ。
>>434 その通り。
後漢鏡と呉系統の神獣鏡の間には、明らかな断絶がある。
それが、後漢の権威失墜→公孫氏の帯方郡設置の時期と一致するのでは
ないでしょうか。
倭国大乱による政権交代→邪馬台国体制(前方後円墳、三角縁神獣鏡)の
成立があったのではないか、と。
>>440 おいおい、揚げ足取りかよ。
で、
@なぜ王都にマキムクが選ばれたのか
A橿原・曲川遺跡
については、いつになったら答えてくれるのかな?
443 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:42:27
>433 >そういう意味では、円筒埴輪の林立する箸中山は画期的。 それは布留0だからぜんぜん画期的じゃないよ。マキムク成立から50年以上 後のもんだよ。それに埴輪じゃなくて「特殊器台」だけどさ。
444 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:47:31
>442 @については、しらないね。 今のところ考古学で証明されているのは、マキムクと弥生時代の畿内文化 との関係を示す物証は何もない、しかし外部勢力と関係を示す物証は 多数あるということだけ。 学者はいろいろいるが推測だからね。 「古墳時代を見直す」でも読めよ。 Aについては、マキムクとは関係なし。
445 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:49:18
>436 >北部九州が東遷したとすれば、マキムクのような内陸部ではなく、 >大阪湾沿岸部に王都を築いただろう。 三雲は内陸だけど。湾岸に都市を築くなんて法則がどっから出たんだよ。 ちょっとは勉強しろよ。
446 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:50:29
安本を無視しつづける約一匹の馬鹿が粘着しているな・ 早くでていけよ
447 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 00:53:15
>433 >外部勢力の制圧による畿内自生勢力の断絶なんて妄想だよ。 集落が断絶・再編していると地元の研究者ですら言っているんだが。
448 :
なぜ畿内説コヴァは、安本を無視するのか :2005/08/20(土) 00:56:23
>>444 考古学だけで、古代を分かった気になるのは傲慢だな。
もっと文献を読んで下さい。
「八十の岐」と言われた海石榴市とか知りませんか。
当時マキムクは、瀬戸内海→大和川→陸上輸送に切り替わる、商取引が
盛んだった地域なんですよ。
で、その商売の相手というのが、近江や山城、東海だった訳です。
>>444 >Aについては、マキムクとは関係なし。
はー、切り捨てる訳ね。大和古墳群以前に畿内に首長墓は無かったとか
言ってたのに。
曲川の方形周溝墓と、君の好きな北部九州の墓とどう違うんですか。
>>447 だから、戦乱の痕跡が無いんだって。
倭人伝でも、倭国大乱のあと、女王を共立して連合したと書いてるだろ。
なぜそこまで、外来王朝征服説に拘るのか。
>>447 瀬戸内海経済ブロックで、同時多発的に前方後円墳の祭りが始まっている
んだけど。
全部、北部九州に制圧されたんですか。凄いですね。
曲川の方形周溝墓って副葬品は何もないだろ? 念のため言うと、私は東遷粘着君ではないので
>>453 >曲川の方形周溝墓って副葬品は何もないだろ?
削平されているから。
455 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 08:16:34
>450 方形周壕慕なら加美とかいくらでもあるが、そういうものを 王墓という学者はいない。 逆に岡本、三雲、井原、平原などが倭国王墓であることを 否定する学者もいないね。 そういうものは、楯突や西谷にもはるかに及ばないという評価しかない。 これは、畿内を過大評価している学者でも同じ。
456 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 08:25:59
>瀬戸内海経済ブロックで、同時多発的に前方後円墳の祭りが始まっている >んだけど。 >全部、北部九州に制圧されたんですか。凄いですね。 まず事実として、庄内に遡る可能性のある前方後円墳は、畿内以外では 原口、那珂八幡が推測されているだけなのよく勉強するように。 また、倭王権は、当時西日本にあった大きな地域国家が何らかの理由で連合して できた政権であり、だから前方後円墳に各地の祭祀が見られるとされている。 北九州(西部四国、西瀬戸、対馬含む)、出雲(意義もあるが)、吉備が連合 しているわけだから別に北九州単独ですべて制圧したわけではない。 鉄器の量、集落の巨大さなど圧倒的なので優位であったと推測はされているがね。
457 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 08:31:45
>だから、戦乱の痕跡が無いんだって。 >倭人伝でも、倭国大乱のあと、女王を共立して連合したと書いてるだろ。 >なぜそこまで、外来王朝征服説に拘るのか。 瀬戸内の高地性集落は、北九州勢力との戦闘に備えたものというのが 一般的な見解なのでよく勉強するように。 君の言う外来王朝説は、若手では普通の見解。 近藤義郎のような大物ですら旧定説を破棄して、東遷説に転向した。
458 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 08:46:24
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。 古田武彦氏もその一人。 「九州王朝」でサイトを検索して、 又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、 九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。 九州王朝批判のサイトも見つかります。 九州王朝に関するサイトやHPでは、 中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。 大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。 ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、 初心者入門レベルでは理解し難い内容です。 最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
459 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 08:50:12
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古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
460 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 08:50:52
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461 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 08:51:52
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古田武彦氏もその一人。
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http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
462 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 09:05:02
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http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/ 171
463 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 09:41:10
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大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
464 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 11:29:26
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
>>457 >瀬戸内の高地性集落は、北九州勢力との戦闘に備えたものというのが
>一般的な見解なのでよく勉強するように。
倭国大乱のような中央(倭国王)の統制の低下、治安の悪化によるものだろう。
北部九州の攻撃に備えてなんて、今時言ってる奴いるのか?
北部九州と在地勢力が瀬戸内で一進一退の攻防を繰り広げたってか?
事実、高地性集落に戦闘の跡が殆ど見つかっていない。
高地性集落という防御技術の向上で、戦線が膠着。軍事的解決が困難となり、
政治的決着が図られたのだろう。
それが、女王共立による倭国大連合という離れ業。
>>445 >湾岸に都市を築くなんて法則がどっから出たんだよ。
兵站を考えればそうなる。わざわざ金剛葛城山脈を分け入って内陸部には
入っていかないだろう。
まあ、兵站を考えれば、東遷自体が非現実的なんだが。
>>455 >そういうものは、楯突や西谷にもはるかに及ばないという評価しかない。
「畿内に首長の個人墓がまったく見られない」って言ったのに、ニュアンスが
変わってきてますね。
>>456 >まず事実として、庄内に遡る可能性のある前方後円墳は、畿内以外では
>原口、那珂八幡が推測されているだけなのよく勉強するように。
原口、那珂八幡はマキムクの初期古墳より古くなるなんてことはない。
そのあたり、ぼやかせて書いてるね、意図的に。
この前、西都原が3世紀中〜後とか発表されてましたが、そのあたりどうですか?
469 :
馬耳 :2005/08/20(土) 14:49:04
>>467 畿内でも尼崎の田能みたいに顕著な首長墓はありますけど、
埋葬の豪華さだけでは「はるかに及ばない」と
言われればそうなんでしょうね。
でも、建築・土木・治水技術など総合的に判断して、
吉備や出雲に見劣りするわけじゃないでしょう。
>>454 確かにあれは削平されているが、5様式段階で(庄内以前)、確実に副葬品が豊富な墳墓って畿内にあるかよ?
削平されているなら特定個人墓かどうかも怪しいなw そういうのしか無いのか?
>>470 おいおい。畿内の首長墓といえる墳丘墓が絶無とか言ってたのに、副葬品が豊富
とか、違う条件を付け加えるのね。まあ、自分の間違いを素直に認めたと
いうことか。
確かに、北部九州の首長墓が倭国のどの地域より卓絶していたのは確かで、
それを否定する人はいない。漢委奴国王以来、玄界灘沿岸部グループが
倭国王として君臨していただろうと、私も思っている。
後漢の衰退でその権威は、畿内に奪われたけど。
>>441 どうやら公孫氏は、それまで後漢の封建を受けていた奴国を認めず、
畿内勢力を厚遇したらしい。公孫氏が後漢からの独立を企てていたの
だから、奴国を冷遇したのも当然か。
中平の銘がある素環頭鉄刀(元々は後漢の霊帝が公孫度に授けたものらしい)
が奈良県天理市から出土していることもその証拠。
そもそも、唐古鍵や池上曽根から巨大な建物や倉庫群の遺跡が発見されて いるっていうのに、「畿内社会は小規模な村落レベルに過ぎない」っていう論調に 無理があるんだよ。 弥生後期に巨大墳丘墓が畿内から殆ど見つからないのは、何らかの規制が 働いたと見るべき。
>>473 「何らかの規制」って都出とかの言ってた「共同体の規制力」?
寺沢にこっぴどく批判されてますが w
中平年大刀は、環頭がすげかえられているので(本来の環頭が裁断されているのは弥生後期から終末期の日本海側の風習)、そのままの形で2世末に大和にもたらせられたか疑問。
伝世鏡と同じ問題がある。しかも1例のみで憶測を語っていいのかね?
あと、
>>471 特定個人墓か否かには答えて無いが?答えられないから「何らかの規制」とか逃げているのはよくあるやり口だなw
ちょっと大きい周溝墓があっても、特定個人墓かどうかもわからないし、隔絶した首長墓である証明はない。
だから副葬品はどうよ?って他の要素を確認しただけ。勘違いしないでね。
そんなに大きい墳丘墓でなくても平原なんかは明らかに王墓。
楯築なんかは単に大きいだけで無く、他にも隔絶している王墓。西谷や赤坂今井はそれらに準ずる。
ところが畿内にはそれがない。そういうのが出て来るのは纒向以降。
>>474 複数葬であれ大型墳丘墓に葬られる以上、大共同体の王族であったことは
間違いないだろ。クニの特定首長(一族)墓なわけ。
一族内での力関係が均衡しており(階層性が未成熟)、王個人の政治的絶対性
は確立出来ていないのだろう、と推測できるだけ。
複数葬をもって、畿内勢力は村落レベルとか、片腹痛い。
唐古鍵や池上曽根を見て下さい。
476 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 12:08:17
>原口、那珂八幡はマキムクの初期古墳より古くなるなんてことはない。 >そのあたり、ぼやかせて書いてるね、意図的に。 なことは言ってないが。 一番古いのはマキムク石塚、勝山あたりで、そういうのはその次にふるい。 ただし、九州以外ではその次もない。
477 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 12:12:51
>でも、建築・土木・治水技術など総合的に判断して、 >吉備や出雲に見劣りするわけじゃないでしょう。 首長の個人慕が見られない点で、社会的に階層化が進んでいないと いう評価がなされている。 集落のことを言っているなら、吉備も出雲も王都?はまだよくわからない。
478 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 12:17:08
>そもそも、唐古鍵や池上曽根から巨大な建物や倉庫群の遺跡が発見されて >いるっていうのに、「畿内社会は小規模な村落レベルに過ぎない」っていう論調に >無理があるんだよ そんなものは、北九州倭国?の一集落でしかない、吉野ヶ里にも劣るレベルの もんでしかないよ。吉野ヶ里にしても特定集団墓(マスコミは王墓って言ってたが) があるくらいでね。池上、唐古にはそれすらない。
479 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 12:19:58
>後漢の衰退でその権威は、畿内に奪われたけど。 考古学的にそのような事実はない。 逆に後期になると畿内では鉄器もないし、石器も減少してるが。
480 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 12:29:52
>一族内での力関係が均衡しており(階層性が未成熟)、王個人の政治的絶対性 >は確立出来ていないのだろう、と推測できるだけ。 >複数葬をもって、畿内勢力は村落レベルとか、片腹痛い。 それと畿内広域権力の証明がどう関係あるのかよくわからないな。 広域権力が証明できないということには何ら変わりない。
結局、畿内の広域権力の証拠は不明か。 銅鐸については、後期は近江(特に湖東)が出土数でも鋳造関係遺物でも中心だから、庄内以降の大和の勢力の母胎とは言えない。 銅鐸をもって後期の大和の中心性を言うのは×。 しかも銅鐸はやっぱり共同体の祭器で、鏡に繋げる議論はおかしいと思う。
>>畿内は小規模な村落レベルに過ぎない ??? そんなことは思っていないがw ただし、正しくは「大規模な村落レベル」だな。「都市」的様相には至っていないかと。
>>475 そもそも曲川の周溝墓ってそんなに大きかったか?それが「クニ」レベルの「王族」?
だからちょっと大きい程度だけのことで「クニ」の「王墓」っていうのが無理だって言ってるのだが。
>>476 >ただし、九州以外ではその次もない。
阿波や讃岐、播磨あたりに、あったと思うが。
ヤマト中心史観なんて最近流行らないけど、極端なツクシ中心史観だな。
>>475 >>一族内での力関係が均衡しており(階層性が未成熟)、
>>王個人の政治的絶対性 は確立出来ていないのだろう、と推測できるだけ。
つまり、北部九州、吉備、出雲、北近畿に比べて畿内は階層化の進行や首長の強大化は遅れてました、って認めてるわけね。
それなのに、無理な解釈するからおかしくなる。
畿内から庄内以降の中心的な大きな権力が自生する前史が十分でない、ということを認めた方がよいだろ。
>>485 >畿内から庄内以降の中心的な大きな権力が自生する前史が十分でない
そもそもの前提として、国力と王個人の権力を同一視するのはどうかと
思うけどね。別に専制君主がいないと国が弱小なわけじゃないし。
銅鐸地域が首長霊祭祀に切り替わる時期は庄内の頃なんだろうけど、
ヤマトに限らず、それ以前に首長の大型個人墓なんて見当たらない。
その全ての地域に、北部九州勢力の侵入・強制があったとか思ってますか?
あくまで地域社会の変革のようなものがあって、自主的に銅鐸を破壊→地域
勢力によって古墳が築造され始めたと考えるよ、普通。
玄界灘グループ中心秩序の崩壊→倭国大乱がその契機になったと推測する。
で、その古墳先進地域であった東瀬戸内地域が中心になって、新秩序の構築、
プレ邪馬台国体制が誕生したのだろう。公孫氏のバックアップもあったのかも
しれない。
前倭国王であったツクシは、体制の一構成員に過ぎなくなる。
ややスリカエがあるな。 だったら畿内の国力が大きかった証拠は? あと漏れは単純な九州東遷論じゃないので。 畿内自生でなく東瀬戸内を重視するのは同意。 ただ、九州は新しい王権でもかなり重要だったと思うが。 結局、北部九州諸国がうんと言わないと倭国王は共立できないのが実態だっただろう。
>>487 俺も、ヤマト中心主義じゃないし、前々から初期ヤマト政権は連合体制だったと
言ってる。
ただ、マキムクが王都に選ばれた以上、イニシアティブを取ったのは
畿内勢力だったのだろうと推測しているわけ。征服者がマキムクを築いたなんて
全く根拠がない。各地の王が兵を率いて、女王に近侍したことはあっただろう
けど。搬入土器を見る限り、最大の勢力は東海の王だったみたいだ。
九州の王が来ていないのは、単に遠かったためか、一大率の方で勤務して
いたためか分からない。
瀬戸内海交易路の安全を保障する新秩序として邪馬台国が生まれた以上、
ツクシの権威が相対的に低下したことは否めない。
一大率で監視されてるし。
489 :
馬耳 :2005/08/21(日) 14:05:51
>>485 ー488
畿内や東海は、縄文社会と未分化、と言うか強く融合した状態で
弥生時代に突入しているので古墳時代での変化が
劇的に見られるのでしょう。
共同体内の階層分化は、唐古などではしばらくの間、旧型社会が維持され、
久宝寺あたりでも王墓級のものは発見されていないものの、
庄内期に開発された新興集落では、
それなりに進行していたのではないですか。
当然、その「進行」を促したものは、外部要因(吉備、丹波や渡来系)
によるところは大きいのでしょうが、前方後円墳体制を
築き上げる母体となった土木技術、食料生産力は土着のものでしょう。
古墳時代になって、他所から新たな勢力が侵出してきた痕跡も無いし、
畿内王権の「自生力」を首長祭祈の後発性だけで否定できないと思いますが。
相応「畿内」勢力って畿内自生なのか疑問。「畿内」勢力は新しく「畿内」になった勢力。 九州系の王も連合にいたと漏れは思う。そう考えた方が、九州的な王権儀礼を取り入れている説明が容易。 また九州諸国も新しい倭国王を承認しやすい。 なお九州の相対的な低下だが、あまり強調すると考古学的証拠と矛盾する。3世紀に衰退した状況はない。 一大卒の件も、一度成立した王権としては、外交権を確立するためだっただろうし、また監視が不可欠なほど九州諸国の実力をおそれていたとも見れる。
>>489 唐古に旧型社会が残っているということは、マキムクの新勢力に続かないことになりますが。
つまり自生説は破綻します。
やはり外的要因が大きいのでは?
>>491 唐古に残った人もいたでしょう。
大部分はマキムクに移住したと思いますよ。
>>492 もしそうなら、そして唐古の人々が纒向王権の主体なら、その彼等の故地である唐古の社会もより(当時として)「近代的」に変化したはずではないか?
しかし初期の前方後円墳は無く、いまだに環濠を掘削し(庄内末に再掘削している)、庄内甕が普及しないのはどういうことか。
つまり、唐古の人々は纒向に移動した者も多くいただろうが、それは移動させられた(新しい王都建設のために)、というのが真相だろう。
議論が盛り上がってますねえ ところで前の方のレスで出ていた二上山博物館のシンポジウムと展示の内容のレポートを誰かしてホスイ
橿原で今年の春にやった特別展「ムラの変貌」は、あの橿考研が大和王権自生説に疑問を呈したことを示す画期的な内容だったが。 要するに、これまでかなり掘ってきたけど弥生後期の大和は大したことありませんよ、と現状のデータを整理した良い企画だったと思う。
496 :
馬耳 :2005/08/21(日) 14:51:58
>>491 漠然とした言い方ですが、伝統的な農村とその近郊の新興工業団地。
資本投下は、地元からも余所からの場合もあります。
先端技術者は外来の場合が多いでしょうが、
基盤技術を担う労働者や管理者は地元出身者が主体でしょう。
組織形態や生活文化はそれなりに異なりますが、
全く断絶した存在とも言い切れないでしょう。
>>496 労働者はともかく、管理者も地元でなければいけない理由がそれでは分からない。
>>493 にも答えるべき。
あと、
>>495 の展示は見ましたか?見て無ければ図録に目を通すことをお勧めする。
まあ資本投下は、植民地化して外国企業が行なってもできるわけで。 もちろん労働者は現地徴用でね。
ところで、那珂八幡はともかく、原口ってそんなに古くないだろ。三角縁は新しい型式だけのセットだが。 那珂八幡は、三角は古い型式だし、出土したのは第2主体だし、土器も古そうだし、築造が古くなるというのは納得できるが。
500get!
501 :
馬耳 :2005/08/21(日) 15:42:26
>>495 そうですね。
管理者が地元出身である場合は、出資も地元負担になりますね。
農村と工業団地のモデルの提示は、唐古と纏向の併存状況を説明したつもりです。
現代ですら新旧並立状態の一方が消滅するのには、二〜三世代を要することだと思います。
二上の件は、勉強させていただきましょう。
唐古にそんな出資ができるほど資本蓄積があったとは思えないが
503 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 19:48:26
アゲとくw
504 :
馬耳 :2005/08/21(日) 19:54:30
>>502 当然無理でしょう。
唐古を例にしているのは、纏向との対比のためです。
久宝寺など大和川、河内湖地域全体が母体じゃないでしょうか。
加美・久宝寺なんかも庄内初頭に急に大きくなった集落だと思うが。 河内にはさらに中田・東郷・成法寺の巨大遺跡群があり(これも庄内式初頭に急に成立)、特に中田の成立なんかは吉備の関与の可能性がある(庄内初頭の土器様相)。 東郷には確か向木見式の特殊器台も出ている。 中河内でも外来のインパクトが大きく、大和の纒向の成立に手を貸すどころではない。 大和川流域だけでない、より広域(西日本全体)が母胎と考えた方が至当。
506 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 21:08:46
>そもそもの前提として、国力と王個人の権力を同一視するのはどうかと >思うけどね。別に専制君主がいないと国が弱小なわけじゃないし。 西日本では鉄器量が圧倒的に劣位。 集落も三雲やスクどころか吉野ヶ里以下のものしかない。 北九州、出雲、吉備など他地域と違い、広域権力が全く証明されていない。 >銅鐸地域が首長霊祭祀に切り替わる時期は庄内の頃なんだろうけど、 >ヤマトに限らず、それ以前に首長の大型個人墓なんて見当たらない。 また、ウソをつく。 北九州では倭国王慕が連続しているし、吉備でも楯突がある。 出雲には個人墓ではないものの西谷など大規模なものが存在。
507 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 21:10:00
>504 >唐古を例にしているのは、纏向との対比のためです。 >久宝寺など大和川、河内湖地域全体が母体じゃないでしょうか。 そんなものは考古学では全く証明されていない。
508 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 21:18:32
>阿波や讃岐、播磨あたりに、あったと思うが。 >ヤマト中心史観なんて最近流行らないけど、極端なツクシ中心史観だな。 庄内の可能性があって勝山、石塚に匹敵する大きさのものは北九州しかないんだが。 庄内が大量に出土するもの同様。
509 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 21:31:49
>489 >共同体内の階層分化は、唐古などではしばらくの間、旧型社会が維持され、 >久宝寺あたりでも王墓級のものは発見されていないものの、 >庄内期に開発された新興集落では、 >それなりに進行していたのではないですか。 そんな証拠は一切ない。 >当然、その「進行」を促したものは、外部要因(吉備、丹波や渡来系) >によるところは大きいのでしょうが、前方後円墳体制を >築き上げる母体となった土木技術、食料生産力は土着のものでしょう。 何度も言うように考古学上、広域の畿内権力は一切証明されていない。 >古墳時代になって、他所から新たな勢力が侵出してきた痕跡も無いし、 >畿内王権の「自生力」を首長祭祈の後発性だけで否定できないと思いますが。 考古学上は逆。弥生時代の機内文化の痕跡はマキムクにはほとんどない。 首長祭祀どころか、首長の個人墓すらない。後期でも最大勢力とされる 唐古の首長は、奈良盆地内の数個の権力のうちのひとつでしかないと 推測されているだけ。鉄器量も圧倒的に劣位している。
510 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 21:35:02
>499 >ところで、那珂八幡はともかく、原口ってそんなに古くないだろ。三角縁は新しい型式だけのセットだが。 >那珂八幡は、三角は古い型式だし、出土したのは第2主体だし、土器も古そうだし、築造が古くなるというのは納得できるが。 これはそうかもしれない。那珂八幡は庄内かも?、原口は不明というのが正しい かもね。ただ、他地域ではこの時代でこの規模のものはないわけで。
>>508 庄内甕は筑紫で確かに大量に出土するが、畿内よりはやや遅れた時期からだが。
しかも伊都国ではなく奴国に圧倒的に多いようで(二上山の展示資料集)、そういう意味では伊都国東遷説は単純にはいかない。
512 :
老講師 :2005/08/21(日) 21:46:56
>474 >「何らかの規制」って都出とかの言ってた「共同体の規制力」? >寺沢にこっぴどく批判されてますが w 都出氏の見解はそれほど奇異なものではないでしょう。 古代ギリシャ社会など世界的によく見られる共同体規制を念頭に置いたもの ではないでしょうか。 それに彼は、現在、近畿地方で出土している弥生期の墳墓類似のものが 弥生期の倭王権の源流の墳墓であるととらえているわけではなく、 未発掘の「まだ見ぬ王墓」が大和盆地のどこかにあるという見解です。 広い大和盆地で現在まで発掘が行われた地域が微々たるものであること を考えればそのような王墓が今後発見されることは十分ありうるのでは ないですか。
まだ見ぬ王墓はどうも無さそうだというのが橿原の最近の展示。 内容からして、本当に老講師みたいですねW 最近までの考古学的事実をよく整理して下さいな。 それに古代ギリシアの事例が畿内に結びつくという証拠が全くない。 もしそうなら、なぜギリシアが民主制で、畿内王権は専制に向かったのか? ちゃんちゃらおかしいですが。
514 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 21:53:35
>511 >庄内甕は筑紫で確かに大量に出土するが、畿内よりはやや遅れた時期からだが。 なにか誤解があるようだが、庄内はあくまで畿内でできたもんだから、そりゃ当然だが。 他の地域にはほとんど出てこないといっているだけだよ。 >しかも伊都国ではなく奴国に圧倒的に多いようで(二上山の展示資料集) >、そういう意味では伊都国東遷説は単純にはいかない 奴国には後期に王墓はない。工業は相変わらず凄いが。政治権力は三雲に一元と 見るのが正しいだろ。ああいう形式の墓だから今後、奴国から出てくる可能性 は否定しないけどね。その場合は枠組みの再考が必要という点では同感だけど。
515 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 21:55:25
>513 >まだ見ぬ王墓はどうも無さそうだというのが橿原の最近の展示。 あそこは前からそうだろ。桜井市の埋文のおっさんもそんなこと言ってたような。
>>514 さんへ
>>512 に何か言ってやれ。
それと奴国の王墓は、少なくとも後期前半には金印の王の墓はあるはずだ。
107年以降に「倭国王」が成立して伊都国に一元化したと思うが。
ただ、庄内期の変動では、また奴国と伊都国が分かれたという見方がいいと思うが。
弥生博の去年の「大和王権と渡来人」の内容が興味深い見解だ。
那珂八幡も奴国だし。伊都国にはそこまで古そうな確実な根拠のあるものが無いのが問題。
>>515 >>あそこは前からそうだろ、
ってどう言う意味?
>>513 共同体の内部規制って、普通にあるだろうと思いますが。
族長法とか聞いたことありませんか?
銅鐸祭祀をしていたから、特定個人の権力の肥大化がなかった訳で。
で、庄内式のころに銅鐸→古墳への劇的な変化がある。
それは、邪馬台国という上位政治権力の誕生のためだろう。
518 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 22:13:35
>516
>107年以降に「倭国王」が成立して伊都国に一元化したと思うが。
>ただ、庄内期の変動では、また奴国と伊都国が分かれたという見方がいいと思うが。
可能性は否定しないが、極大化した平原が終末期であり、その上、終末期の
「奴国権力」が考古学的に証明されていない以上無理な仮説。
さらに、この時期の北九州社会の混乱や衰退は、現在考古学上ほぼ否定され
ている。
>>515 >>>あそこは前からそうだろ、
>ってどう言う意味?
天下り所長はともかくとして寺澤とか前からそうだろが。
だからその「上位権力」がどうやって出現したかが問題。 なぜ劇的に変化したか、ほとんど説明になってないがW 墳丘墓→古墳、なら分かるが、銅鐸→古墳って、あんた、相当古い頭の持ち主だな。 それと都出が「共同体規制」の根拠とした点は、具体的に寺沢が批判していることもお忘れなく。 専門家みたいなのに、読んで無いんじゃないの?
520 :
517 :2005/08/21(日) 22:19:25
邪馬台国という倭王権の誕生によって、旧来の族長を上回る権力が 生まれた。それは女王共立という東瀬戸内を中心とした政治連合の 結成による為である。 社会変化が起きるのは征服王朝とか外部勢力による政治的介入に違いない、 なんて単純なものの見方だと思うな。 騎馬民族征服説と同じで、今時流行らないよ。
522 :
老講師 :2005/08/21(日) 22:21:13
>519 共同体祭祀に用いられる銅鐸の首長霊祭祀に用いられる特殊器台への転換を もって、共同体祭祀→首長霊祭祀への社会的変化を説いているのはほかならぬ 寺沢氏なのですが、ご存知ありませんでしたかね。
>>517 ,
>>520 ちょっと待て、>>女王共立という東瀬戸内を中心とした政治連合
ってどの範囲だ?
取りようによっては、瀬戸内に面しない大和は入っていなくて、東瀬戸内勢力が大和に新都を建設したともとれるが?
一般的に社会変化が全て外部勢力の侵入とか、誰も言ってない。急激な変化があり、かつ外部要素の多い大和王権の成立に関しては、その可能性もあるのでは、と言っているにすぎない。
論点をスリカエないでほしいな。
それと、その倭王権は、それまでの倭王権である北部九州をどうして出し抜いたかということが全く説明されていないが?
524 :
老講師 :2005/08/21(日) 22:29:14
>513 >まだ見ぬ王墓はどうも無さそうだというのが橿原の最近の展示。 >内容からして、本当に老講師みたいですねW >最近までの考古学的事実をよく整理して下さいな。 奈良盆地に発掘面積は、まだ数%しかないわけで、十分 ありえます。吉野ヶ里の発見前に九州に大規模な集落は ないと言われていたことをお忘れなく。 >それに古代ギリシアの事例が畿内に結びつくという証拠が全くない。 >もしそうなら、なぜギリシアが民主制で、畿内王権は専制に向かったのか? >ちゃんちゃらおかしいですが ギリシャだけでなく、世界的によく見られる現象だと思います。 民主制や専制の話はここでは関係がありません。 >517 そのとおりですね。戦後の畿内社会の階級闘争や社会変革 を巡る膨大な研究成果を無視する東遷説の跳梁跋扈にはい ささか疑問を覚えます。
>>522 それが起こったのはまず吉備。
大和にそれが波及するということだろ。ところが大和でのその道筋は急激で、外来的。それが問題。
それと問題は共同体規制などというが、畿内だけ特殊なあり方を想定する根拠がないと言うこと。
畿内だけ後期いっぱいまで特殊な規制があったとか、何の根拠もない。
単に共同体の規制なら他の地方もあっただろうが、それを首長権が乗り越えていく歴史過程がスムーズに追える。
畿内にはそれがない。
526 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 22:33:26
>521 >那珂八幡が庄内に遡るとすれば、実質「終末期」だが。 いやだから、平原→マキムク建設→石塚・勝山→那珂八幡の順でしょうが。 マキムク建設にかなり近接している平原の時期に奴国権力の証明が考古学上 なされていないということ。
527 :
馬耳 :2005/08/21(日) 22:34:41
>505 >507 加美・久宝寺自体は、河内庄内の中心地ですが、 それ以前から交易や生産活動の活発な地域で、 それなりに「資本」蓄積は進んでいたのではないでしょうか? それでいて庄内期になっても墳墓は家族墓形態を保つ 旧タイプの社会でもあります。 しかし弥生中期にあっても瀬戸内東端の交易拠点であり、 纏向方面に指向性を持たせる 東海系との強い結びつきも(土器の出土)認められます。 纏向開発の投資元候補としては不自然ではないでしょう。 新たな開発地では最新の社会システムを取り入れ、 周辺集落からも「資本」を集め、 やがては本家を凌駕してしまったのかもしれませんねw
>>524 と
>>517 は自作自演だろW
全部掘らないと分からないとかいうのは反則。現状でどう予想できるかを言うべき。
>ギリシャだけでなく、世界的によく見られる現象だと思います。
>民主制や専制の話はここでは関係がありません。
そうはいかない。その共同体規制が世界史的にどうなのかというときに、関係がないとか、自分で話を振っておいておかしいぞ。
世界史的によくみられることと、畿内弥生社会の事例が同じかどうかの説明がなければ全く無意味。
また良くあると言っても、それが全てではなく、いろんな歴史事例があるはずなので、特定の条件や証拠をつけず、都合の良い事例をこじつけするのはおかしいだろ。
529 :
521 :2005/08/21(日) 22:42:24
>>527 加美・久宝寺遺跡は後期はそれほどないと思うが。亀井遺跡などの方が中心的。
>>526 編年的には意見が一致してますので、問題は伊都国の権力がそのまま古墳初頭期まで移行したかということ。
また庄内甕は伊都国を指向しないのはどういうわけということ。
まあ意見はかなり一致するところもあると思うので、考えておいて下さい。
ついでに
>>520 ,
>>524 に何か言ってやってくれ。
530 :
老講師 :2005/08/21(日) 22:52:53
>528 >全部掘らないと分からないとかいうのは反則。現状でどう予想できるかを言うべき。 あまりに軽率な見解ですね。そもそも権力移動は基本的に文献に証拠 があるならともなく、安易に想定すべきものなのでしょうか。 その前に畿内社会内部での社会変革の可能性を十分吟味した後である べきです。 >世界史的によくみられることと、畿内弥生社会の事例が同じかどうかの説明がなければ全く無意味。 逆に普遍的なものを抽出することも必要でしょう。
531 :
517 :2005/08/21(日) 22:58:25
>>525 >それが起こったのはまず吉備。大和にそれが波及するということだろ。
マキムクの初期古墳に円筒埴輪(特殊器台でもいいですが)が無いことから、
マキムクの吉備主導説は否定出来ると思いますが。
>ところが大和でのその道筋は急激で、外来的。それが問題。
>それと問題は共同体規制などというが、畿内だけ特殊なあり方を想定する
>根拠がないと言うこと。
ヤマトに限らず、銅鐸地域はみんなそうです。ヤマトだけが急激な変化じゃありません。
いずれも首長個人の大型墳丘墓が無かったところに、突然、古墳=首長霊祭祀が
始まっています。それら全てを征服者による強制と見ることはナンセンス。
>>530 普遍的って、普遍的な発展段階とかいまだに考えているの?
日本列島内でさえ全然違うのに?
どう言う条件下でその「普遍的」なことがありうるかも言わないと検証になってない。
まあ、何言っても聞かんだろうねこの人は。
まだ一部しか掘ってないから望みを託すっていうのも軽率だと思うがw
>>530 文献になくても考古学的証拠によりいろいろな場合を想定して吟味するのが考古学だろ。
畿内社会内部での社会変革の可能性って、これまで思ってたけどやはり無理よ、というのが資料の蓄積の結果。
それに、仮に畿内内部で変革しても、それがなぜ急激に他の地域を出し抜いてトップとなり、従えていくのか、ということの説明がつかない。
>>531 銅鐸地域でも、出雲や丹後は墳丘墓の発展と銅鐸祭祀の時期は一部重複してるが。
吉備の場合は、基本的に木槨墓の採用以外は在地的様相の集大成で楯築が作られている。
備中足守川の遺跡群に断絶もない。
大和はほとんど外来的。纒向は以前の拠点集落とは断絶的。
初期古墳がって、箸墓古墳段階には吉備の影響が凄く強い。
その前は吉備の直接影響は薄いが、弧文円板などに影響があるし、讃岐・播磨あたりの墳墓の影響が考えられる。
しかも、突然に巨大すぎる。
何度も言うが、大和の王権成立の場合については、外来的要因が大きいと言っている。
王権の成立が一般的に征服によるとは、全く言ってない。
分かる?
「老講師」って前スレにいた自生説粘着君みたいね。古い学説マンセ−のw ガンガレw
535 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 23:21:47
>いずれも首長個人の大型墳丘墓が無かったところに、突然、古墳=首長霊祭祀が >始まっています。 だからあるって。ウソつくなよ。 北九州ではそれが数百年続いている
536 :
517 :2005/08/21(日) 23:22:45
>>523 >それと、その倭王権は、それまでの倭王権である北部九州をどうして
>出し抜いたかということが全く説明されていないが?
もう何度も書いてきましたが、後漢をバックにした玄界灘沿岸部グループ
の権威失墜、倭国大乱。出雲の叛旗。瀬戸内海交易路の商業取引に支障が出る。
で、瀬戸内海交易路の安全を保障する新秩序として、邪馬台国体制が誕生する。
もしかすると新興勢力である公孫氏のバックアップがあったのかもしれない。
邪馬台国体制の女王に祀り上げられたのは、三輪の一巫女。銅鐸祭祀以来の
宗教的権威として。奈良盆地の農業生産に裏打ちされたマンパワー=陸軍力を
期待されたのかもしれない。もしくはヤマトは船材として優れている吉野杉を
押さえており、東瀬戸内の海運通商国家も頭が上がらなかったのかもしれない。
その後、吉備勢力も参加し、マキムク倭王権の権威が絶対化。前方後円墳は
他地域の追随を許さないほどに巨大化する。
537 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 23:25:19
日本書紀がどういうスタンスで書かれたかを理解していないアホが多いね。 渡来人による征服王朝を正当化し、滅ぼした前政権を引き継ぎ、自分の歴史として歴史まで簒奪して高句麗など近隣諸国より長い歴史を持っていると主張するために書かれたのだ。 九州には倭国があり、大和政権とは別の物だった。 磐井の乱は大和と九州の戦いではなく、九州王朝内の権力争いだった。 物部と磐井の戦いで大和政権は無関係だったろう。結果、物部が勝利した。 九州王朝が滅んだのは白村江の戦いの後だ。 継体天皇が応神朝を奪うのに20年を費やし、九州王朝を滅ぼす余裕などなかった。 ようやく応神朝から皇位を奪うのに成功したばかりで、翌年朝鮮出兵などするはずは無い。 大和側は九州が内乱と半島出兵で疲弊し自滅するのを待っていた。 九州王朝が滅ぶと大和は九州王朝の史書を奪いあたかも九州王朝の歴史が自分の歴史であったかのように偽装しようとした。 しかし、九州王朝と戦った唐に対しては自分が九州王朝ではないと言わざるを得なかった。 だから、「倭と日本は別種」とか、「元日本は小国、後に倭を併せた」などの記述になったのだ。 一方日本国内では日本書紀が書いてあるから又変な言い訳が必要になる。 旧唐書の記述の混乱がそれを示している。
538 :
517 :2005/08/21(日) 23:25:29
>>535 銅鐸地域って書いてますよ。ちゃんと読んで下さい。
539 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 23:26:17
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
ageると変なのが来るので、以後、慎んでもらいたい。
541 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 23:27:04
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
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九州王朝批判のサイトも見つかります。
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大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
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最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
>>536 まず玄界灘沿岸グループが2世紀末以降にに衰退したと言う根拠が全くない。
平原遺跡はその時期、伊都国、奴国の巨大集落は継続。事実は全く異なる。
出雲が叛旗を翻しというのも根拠は全くない。
潤地頭給遺跡や西新町遺跡などで言えるのは、弥生終末から古墳初頭も玄界灘と山陰の繋がりは濃厚ということ。
これも事実が異なる。
まず最初の2つはダメですが。
以下はほとんど>536の想像に過ぎないこと。
銅鐸祭祀以来の宗教的権威とするが、それを否定して新しい王権ができたんじゃなかったの?
それに、弥生後期後半の銅鐸祭祀の中心は近江なので、大和に「銅鐸祭祀以来の宗教的権威」の中心なぞ無かった。
これも考古学的証拠に欠ける。
奈良盆地の農業生産とか良く言うが、弥生後期までの鉄器の普及度からみてもそれよく達成していなかった(潜在的可能性が)とみるべき。
畿内が他の地方に比べて農業生産力が特に弥生時代に優れていた具体的証拠はない。
灌漑技術にしても北九州のほうが優れているし、それゆえ乾田も出現しているが、畿内はまだほとんどない。
農業生産についても考古学的根拠に乏しいな。
吉野杉云々って、その後の話だろ?
こう見ると、>536って考古学的根拠のほとんどない事実に反する、想像でしかない下手な作文にすぎないな。
>>540 いや、前スレでは自生説粘着が論破されると、訳の分からないコピペが多くなりスレが荒れた前歴がある。
自作自演で荒らしているんじゃないのかw
544 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 23:51:27
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
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545 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 23:52:51
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
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546 :
517 :2005/08/21(日) 23:53:22
>>542 >弥生後期後半の銅鐸祭祀の中心は近江
ていうか、ヤマトはその頃すでに首長霊祭祀に移行していたから。
>まず玄界灘沿岸グループが2世紀末以降にに衰退したと言う根拠が全くない。
それはそうだ。ただ倭人伝では一大率を置かれて、監視されている存在。
倭国王位を畿内に奪われ、北部九州の斜陽が始まる。マキムクのような巨大な
前方後円墳が無いことからもそれは分かる。
>出雲が叛旗を翻しというのも根拠は全くない。
いち早く四隅突出型墳丘墓を発展させ、畿内とは違う独自の文化を
築いていた。で、畿内王権の征伐の対象となったようである。出雲は後世まで、
畿内王権に警戒され続けた。出雲の高地性集落が畿内土器の流入と共に解体されるのは、
畿内・吉備勢力による屈服の証だろう。
547 :
老講師 :2005/08/21(日) 23:54:52
>542 >畿内が他の地方に比べて農業生産力が特に弥生時代に優れていた具体的証拠はない。 これは、あの小林行雄氏も指摘されいますが、知りませんかね。
548 :
517 :2005/08/21(日) 23:57:38
>>542 >吉野杉云々って、その後の話だろ?
そう思う考古学的根拠を述べてもらいたいな。
549 :
日本@名無史さん :2005/08/21(日) 23:58:53
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
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九州王朝批判のサイトも見つかります。
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大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
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最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
出雲や吉備で起きたことが、ヤマトで起きただけなのにね。 青銅祭器からの脱却、首長霊祭祀・古墳築造への移行。 出雲は四隅突出型、吉備は双方中円型に特殊器台。 ヤマトはマキムク型前方後円墳と。 なぜヤマトだけ、外来勢力の征服でなければならないのか。 神武の亡霊、東遷説のなせる業か。最早信仰に近い。
>>542 >まず玄界灘沿岸グループが2世紀末以降にに衰退したと言う根拠が全くない。
もし本当に玄界灘沿岸グループが政治権威を保ち得たとするなら、もっと大きな
前方後円墳が築造されてしかるべき。
邪馬台国=前方後円墳体制の中では、ツクシは一構成員に過ぎなくなる。
>>550 全くその通り。
吉備や出雲でも、首長個人の大型墳丘墓がそれまでの伝統とは隔絶して、
突如として始まる。
それを外部勢力の征服によるなんて考える人はいない。
自生説とヤマト中心史観は別に考えてもらいたいな。 ヤマト連合でイニシアティブを取ったのが、外部勢力じゃなくて、 畿内自生勢力だったんだろうってこと。
>>551 政治権威と古墳の大きさの関係を、全国レベルの比較で考えてもよいのか?
555 :
馬耳 :2005/08/22(月) 19:00:59
>>550 おっしゃるとおりだと思います。
銅鐸祭祈から前方後円墳による首長霊祭祈への移行は劇的ではありますが
外部勢力による進攻などを想定しなくても起こり得ることでしょう。
特に畿内の場合、九州や吉備に比べれば後発であるので、
手本となる先達が多い分変化の速度も大きいのかも。
ただ、前段となる文化が畿内に『無い』(築造術や労働力は満たしていると思います)
と言う点が私自身整理できない問題となっています。
あまりに独創的なデザインのベースは積石塚で盾築の巨墳嗜好や
九州の葬送儀礼などがミックスされたということでしょうか。
まあ、この『ミックス』と言う点に着目すると吉備だけや九州だけ
といった特定勢力による進攻と言う考えは否定できますけどね。
556 :
日本@名無史さん :2005/08/22(月) 23:24:19
>552 >吉備や出雲でも、首長個人の大型墳丘墓がそれまでの伝統とは隔絶して、 >突如として始まる。 こら、いいかげんなウソつくな。 四隅は、中期から継続している。
557 :
日本@名無史さん :2005/08/22(月) 23:28:15
>555 >手本となる先達が多い分変化の速度も大きいのかも。 畿内には、「広域権力への変化の考古学的な痕跡が全く見られない」 ということが問題になっているんだが。
558 :
日本@名無史さん :2005/08/22(月) 23:34:54
>529 >編年的には意見が一致してますので、問題は伊都国の権力がそのまま古墳初頭期まで移行したかということ。 違う編年を言う奴なんかいないと思うが。 >また庄内甕は伊都国を指向しないのはどういうわけということ。 弥生時代も商工業は奴国が圧倒しているが、政治権力は伊都国におかれる。 庄内に入っても同様の地域分担が続いているということじゃないの。
>>556 その前に出雲の中期の四隅は個人墓ではない。
560 :
日本@名無史さん :2005/08/22(月) 23:58:15
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
561 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:00:12
>もし本当に玄界灘沿岸グループが政治権威を保ち得たとするなら、もっと大きな >前方後円墳が築造されてしかるべき 初期古墳の数と大きさは畿内以外の他地域を圧倒しているのだが。 そんなことも知らずに書き込むなよ。
562 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:00:53
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
563 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:01:46
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
564 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:02:57
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
565 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:12:10
>553 >ヤマト連合でイニシアティブを取ったのが、外部勢力じゃなくて、 >畿内自生勢力だったんだろうってこと。 その前に自生勢力の存在自体を証明しろよ。
566 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:13:13
宇佐神宮って卑弥呼が死んだところ。 すなわち邪馬台国なの? 宇佐神宮に祭られてる比売大神は卑弥呼だという 説もあるくらいだけど・・ だとすると一緒に祭られてる神功皇后・応神天皇も 卑弥呼や邪馬台国となんらかのかかわりがあるの?
567 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:16:19
>546 >マキムクのような巨大な >前方後円墳が無いことからもそれは分かる。 これもとんでもないウソだ。
568 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:19:38
意 味 :山(名詞)・高(形容詞) 原 文 :「土山県本高句麗ノ息達」「高木根県本高句麗達ノ乙斬」など十余例 (『三国史記』) 参考「阿斯達」(『三国遺事』) 漢 字 音:達(中:dat、朝:tal) 再 構 音:tar(李) tat〜tal〜ta<*tak(村) 比較(日):古代日本語「take2(岳)」(村) 「taka-si(高)」(村) 比較(韓):ナシ 比較(他):トルコ語「taγ(山)」 考 説 : 日本語との一致は第一音節のみであるが、双方ともに名詞・形容詞の両形を 持つという共通点があるのは大きい。
569 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 00:20:08
No.02 意 味 :峰(名詞)※とがった山? 原 文 :「峯城県一ニ云フ述爾忽県」「述[人/水]忽県一ニ云フ首泥忽」(『三国史記』) 漢 字 音:述爾(中:dзiuet-nie、朝:syul-zi) 首泥(中:∫i∂u-nei、朝:syu-ni) 再 構 音:su¨ri〜sul'i〜suni〜sulni(李) ?(村) 比較(日):ナシ 比較(韓):後期中世語「su-nщrk(嶺)」(李) 比較(他):ナシ 考 説 : 語末音を除けば中期朝鮮語とかなり近い語形。『李朝語辞典』を見ると現代朝鮮 語では「su-nuk」というようだが、翻訳エンジンでは翻訳されないので、今ではもう 死語と化しているようだ。高句麗系渤海語からの借用語彙か。
570 :
馬耳 :2005/08/23(火) 00:49:08
>>557 「広域権力への変化の考古学的な痕跡が”全く”見られない」
『変化の痕跡』とは、具体的にどのようなものを想定されていますか?
中期以降における墳丘墓の大型化や
吉備、東海、又は馬韓系の土器が搬入されていることなどでは、
傍証にもなりませんか?
やはり、個人墓がないとダメですかね?
>>556 出雲の四隅の巨大化は後期後半。
で、それは銅鐸遺棄の時期と重なる。
>>561 そう怒るなよ。
筑紫<大和は間違いないだろ。特に箸中山以降。
畿内勢力って言っても大和だけじゃなくて、 摂津、河内、和泉、山城など広範囲で考えないと。これらの国々では 弥生後期になっても特定首長の個人墓が見られない。 庄内式の頃に画期があって、突然、大和に巨大なホケノ山が造られる。
>>573 そんな多くの国々を短期間で制圧出来た、北部九州東遷勢力って凄いですねw
やっぱり鉄の力は偉大だな〜。鉄さえあれば戦争で負けないし。
庄内期の土器の流れは、畿内→北部九州という一方的なもの。 大和東南部から比恵・那珂遺跡への土器生産の技術提供があったとされている。 こういった事実からも、北部九州東遷説には説得力がないんだよな。
>>575 土器の流れはそうだが、銅鏡等の墳墓祭祀の北部九州的儀礼が前後して大和にもたらされることが説かれているが(二上山の資料集の久住氏の論)
また、博多→纒向の鍛冶技術の提供があったのことも村上氏が明らかにしている。
単純な東遷論はともかく、前方後円墳祭祀の成立に北部九州も関与していることは認めるべきだろう。
>>558 伊都国と奴国の関係について、弥生時代についてはその通りと思うが、庄内以後も同じ構造かは疑問。那珂八幡に相当するものが伊都国にはない。
また庄内式の受容は、単に商業だけでなく、墳墓祭祀にも用いられたりするので、政治的側面を無視はできない(強調しすぎるのは誤りだが)。
布留式以降は伊都国には以前ほどの求心性はないと思うが。
578 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 20:28:08
>>574 北部九州東遷勢力なんて妄想もいいところ
紙の上なら東遷どころか、世界制覇も筆一本
東遷出来る余裕があるなら南の狗奴国なんとかしなよ
自生説も妄想
図形は簡単に真似することが出来る 前方後円墳の広がりも、単なるブームの一環という見方も否定できない 勝手に真似したときのペナルティーでも証明出来れば話は別だが
581 :
馬耳 :2005/08/23(火) 21:25:48
>>580 畿内発祥のデザインが全国に広まった理由が「模倣」だとしたら、
それはそれで、模倣された方の文化的優位を意味することでしょうに。
>>581 果たして「模倣」されたからといって、先進文化といえるだろうか
大阪で発祥した「ノーパン喫茶」 典型的な「模倣」により、全国に広まった。 特に東京での広まり方は著しい しかし、 発祥である大阪は、決して東京より文化的優位にあるとは思えない
584 :
馬耳 :2005/08/23(火) 22:46:49
>>583 ここは、お国自慢板じゃないので何なんですが、
その手の風俗面では大阪>東京なのではないですか?
いずれにしろ、ピントのあった例え方じゃないですねw
>>575 庄内式の技術移転は、前方後円墳祭祀とセットで行なわれたもの。
北部九州の前方後円墳祭祀の受け入れ、邪馬台国体制への参画を意味している。
>>579 自生説ってネーミングも悪いが、その主張するところは、単にアンチ東遷説
なんだけどね。
筑紫も参加した倭国大連合を想定しているんであって、大和中心史観とは
区別して欲しい。
>>585 福岡平野での庄内式の受容が意外に早そうなので微妙。
畿内で完成された古墳祭祀がいつからかが問題。
ホケノ山は箸墓と併行する時期に下がる可能性が大きいので、その前の可能性がある勝山や石塚の正確な時期と内容がまだ不明なのでまだ分からない。
>>577 の説が成り立つかは分からないが、北部九州系の要素があるのは確かであり、北部九州的儀礼要素をいつ採用して前方後円墳祭祀が完成したかが問題だろう。
前方後円墳祭祀自体、畿内外部の墳墓祭祀の寄せ集めであり、各地→大和→各地へ拡散の相互作用がある。
単純にアプリオリに畿内に発生した体制への一方的参加、一方的な古墳祭祀の拡散では片付かない問題だ。
その意味では寺沢説が実際的な説明原理と思う。
これを単純に東遷説として排斥するのはいかがなものか。
588 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/23(火) 23:51:15
>>584 馬耳さん
日本から大量の古伊万里がヨーロッパに輸出され、その染め付け絵柄が現在もマイセンの図柄の基礎となっています。
しかしながら決して、ヨーロッパの文化優位性は日本に劣っているとは思いませんが
>>587 >前方後円墳祭祀自体、畿内外部の墳墓祭祀の寄せ集めであり、
>各地→大和→各地へ拡散の相互作用がある。
寄せ集め、って言うか、連合したからこそ各地の葬送儀礼がミックスされたんで
しょう。
で生まれたマキムク・スタンダードが全国展開していく。
>>553 そういうのを「自生説」というんだが。
出雲や丹後では初期には青銅器祭祀と共存しながら、墳丘墓が成立し、特定集団墓→王墓への過程に時間をかけている。
吉備は楯築の出現はやや唐突ではあるが、特殊器台の成立なども後期の大型土器の延長線上であり、基本的には在地要素の発展上に置ける。
集落等の遺跡の断絶もない。
ところが大和での大型墳丘墓の出現はあまりに唐突で、かつ外部要素だらけ。
ほとんど大型墓や特定個人墓がなかったところに、列島最大のものが出て来るわけ。
また弥生後期までの拠点集落が断絶・衰退し、纒向が突然出現する。
だから吉備や出雲の事例とは全く異なります。
>>552 はその点、何もかも一緒にしている非常に粗い議論ですね。
まあ納得しない人がいるのも分かるのだが、外部勢力(特定ではなく複数の)主導による王権の成立を仮説として検討することは大いにありうること。
もう少し柔軟に考えてほしいですね。
>>547 小林行雄は弥生後期までの具体的考古学的証拠によって述べているわけではないが。
すでに寺沢がかなり以前に批判済みですが。まともな反論は聞こえてきません。
灌漑技術や水田の型、鉄器の普及から当時(弥生終末まで)は九州から中国地方までと畿内以東には差がある。
>>548 吉野杉云々を言ったのはそちらなので、吉野杉の利用の考古学的立証責任はそちらにあります。
時期の検討はそれからですね。
>>588 私はウマミミさんじゃないですが。
首長霊祭祀に使用された庄内式土器と、古伊万里のような一部富裕層の
贅沢品とを比較するのは、ナンセンスかと思います。
>>589 連合っていうのはいいんですが、まともな力がなかった畿内「自生」勢力が、中心(上位)に立つというのがどうも納得できません。
>>555 馬耳さんの方が、弥生後期までの畿内の実態と古墳成立期の断絶・飛躍を認め、外部要素にも目を配られ、河内勢力の大和進出説なども提出されていますので、より柔軟ですね。
>>546 2世紀末以降の玄界灘グループの衰退は認められないことに同意されたわけですね。
まあ考古学的証拠からは当然ですが。
2世紀末に後漢が衰退したので、北部九州が弱体化し、畿内・吉備がこれに打ち勝ったと述べていたはずですがね。
これは違う、撤回するということいいですね。でもそれでは、どうやって畿内が北部九州を出し抜いたかという前提が崩れてしまいますね。
確認しますが、一大率は女王共立後のある時点からの話しであって、原因ではないですが。
邪馬台国体制成立後、一大率が派遣されるようになって<徐々に>北部九州が弱くなったというのなら、一応は同意しますが、
原因と結果がいつのまにか転倒していますが。
それでも九州が急に衰退した証拠も無いのが実情ですが。
大和の王権成立に北部九州が関与していたとしても、外交権の一元化、交易の統制のために代官を派遣するのは<国家>として別に不思議ではないでしょう。
むしろ監視していないとまずいというところがあったのでしょう。
>出雲が叛旗
これについては、
>>536 の文脈では玄界灘の倭国に出雲が叛旗したということだったはずですが。
また大和王権成立より前の四隅の時代から畿内が警戒してたってなんでしょう?
それと畿内系土器の流入って、どの時期のどの土器を指して言ってますか?
かなり長いスパンのいろいろな話が一緒くたにされているようですが?
出雲の高地性集落の終焉と出雲での畿内系土器の流入普及って、かなり時期差があると思うのですが。
>>551 についてですが、
倭王が存在する畿内中枢に巨大古墳が集中するのはいいとして、それ以外の地域の古墳を、全国一律基準で規模=勢力と判断するのはどうでしょう?
まず地方ごとに築造原理が違うことは、大久保徹也氏が明らかにしています.
例えば北部九州では、前期末ですが、鋤崎や老司のような初期横穴式石室を持つことで独自外交が推定でき、副葬品も豊富な古墳は60mから80mぐらいです。
これを他の地方の100m級の古墳の首長より、単純に勢力が劣るといってよいかというと大いに疑問です。
また前期前半は、最近よく強調されるように博多湾岸から糸島地方の遺跡群は弥生時代にも増して隆盛をきわめているようなので、
これを束ねる在地首長の力は侮れないと思いますが。
まあ江戸幕府も親藩・譜代だからって監視するしな。
>>593 の一大率の話は分かる。
>>593 >2世紀末に後漢が衰退したので、北部九州が弱体化し、畿内・吉備がこれに
>打ち勝ったと述べていたはずですがね。
打ち勝ったとは言ってなかった筈ですが。瀬戸内海経済ブロックの新秩序と
して、北部九州に替わる権威として、マキムク王権が時代に要請された
ということでしょう。北部九州もマキムク体制の一構成員となってますし、
軍事的に制圧されたわけじゃないから、極端な国力の衰退は無かったでしょう。
以降、徐々に衰退していくだけで。
マキムク政権成立による相対的な地位の低下はあったでしょうが。
>>517 >銅鐸祭祀をしていたから、特定個人の権力の肥大化がなかった訳で。
>で、庄内式のころに銅鐸→古墳への劇的な変化がある。
>>536 邪馬台国体制の女王に祀り上げられたのは、三輪の一巫女。
銅鐸祭祀以来の 宗教的権威として。
以上のように自生説派が言ったので、
>>542 弥生後期後半の銅鐸祭祀の中心は近江なので、大和に「銅鐸祭祀以来の宗教的権威」の中心なぞ無かった。
と言ったら、
>546
>弥生後期後半の銅鐸祭祀の中心は近江
ていうか、ヤマトはその頃すでに首長霊祭祀に移行していたから。
というが、あれっ、「すでに」っていつだ?
>>517 を見ると「庄内式」と言ってるから、後期後半(?」様式後半)にはまだ大和も銅鐸祭祀圏の一翼だったわけですよね。
すると、
>>546 はご自身の時系列が転倒していることになります。
実際、近畿式銅鐸の末期型式が纒向の流路から破片が出ています。
再度、考古学的事実を確認しますが、?」様式末まで、大和は銅鐸祭祀圏。
しかし、銅鐸祭祀圏ではその時期(?」様式後半以降)では中心的存在ではなかった。その中心は近江湖東。
つまり、銅鐸圏の(祭祀の中心としての)宗教的権威云々はおかしなことになりますね。
そして纒向石塚の成立は古く見て、庄内1式。?」様式末にはまだ首長霊祭祀に移行した証拠はないですね。
そもそも「銅鐸祭祀以来の宗教的権威」と書いたり、「ヤマトはその頃すでに首長霊祭祀に移行していたから。 」としたり、論理が一貫していませんが。
結論的に、論理破綻がみられるその説は有効ではないでしょう。
>>北部九州に替わる権威として、マキムク王権が時代に要請された その理由と過程が分かりません。しかも前身勢力が不明な点が致命的です。 「自生説」の場合、従来の北部九州の王がそんな後進の新勢力を王に認める理由がわかりません。 これは北部九州だけでなく、吉備や出雲の王もです。 まあ、前には九州が衰退と簡単に書いていましたが、それは撤回されたことはよいことです。 いずれにしても、そうなると、従来の説明はかなりの修正、再考をしなければならないことは認めていただきたいものです。
>>590 >出雲や丹後では初期には青銅器祭祀と共存しながら、墳丘墓が成立し、
>特定集団墓→王墓への過程に時間をかけている。
いや、だから、畿内にも特定集団墓なら弥生中期からあるだろうと。
>>597 ヤマト周辺地域の銅鐸→首長霊祭祀の転換は庄内0式からだろ。
まあ色んな説があることは認めるが、君のは決め付けが多いな。
ホケノ山築造時期の解釈にしても。
「これは常識」「学会では」とか権威を持ち出して相手を黙らせるのは、
ディベートの常套句なんだろうが。
>>597 >実際、近畿式銅鐸の末期型式が纒向の流路から破片が出ています。
え、どういうこと?
マキムクが造られた頃は、まだ銅鐸祭祀をやっていて、まだ前方後円墳祭祀
は行なっていなかったんですか?
>>598 >「自生説」の場合、従来の北部九州の王がそんな後進の新勢力を王に認める理由が
>わかりません。これは北部九州だけでなく、吉備や出雲の王もです。
確かに私も分かりませんが、
@ 畿内勢力(大和、河内、摂津、和泉、山城)・東瀬戸内勢力(讃岐、阿波、
播磨)の連合という広域王権の成立
A 公孫氏のバックアップ
などが考えられます。
東遷説よりかは、可能性が高いと思いますが。
@は元々銅鐸地域で、突然、首長霊祭祀が始まる地域。大和と同じである。 この広範囲の地域を、東遷勢力の征服による前方後円墳祭祀の強制と見る のは、やっぱり無理がある。 各地の王たちが自主的に行なったとみる方が現実的。 征服を物語るような戦争の痕跡が発見されれば、前言を撤回するが。
確かに中期末まではそうですね。 しかし後期に入ってからは停滞します。 大阪湾岸は後期になると拠点集落が解体して特定集団墓が不明になります。 大和は集落は継続しますが、社会の階層化の進展は遅くなるように思います。 いずれにしても、首長墓としての特定集団墓から特定個人墓への変化は著しく鈍いのは確かで、 あっても著しく貧弱なもので(黒石など)、 また古墳に繋がるような厚葬墓は現れず、 庄内になって首長墓としての特定個人墓、大型墳丘墓、厚葬墓がまとめて一気に出現するのが事実でしょう。
605 :
598 :2005/08/24(水) 02:07:58
私は「征服」説ではないのですが。 外部勢力主導説ですが九州勢力だけの征服なんて一言も言ってませんが。 言ってないことを批判されても。 マキムクの銅鐸ですが、河川跡出土と思いますので、どこでいつ埋納されたか不明です。 型式はかなり新しいようですが、 また銅鐸の下限ですが、近江の様相を見ると庄内式初めまでは製作し、さらに少し後まではサイシがあったかも知れません。 庄内0式に近畿一円で一斉に銅鐸祭シが終わった証拠はありません。 またマキムクの首長霊サイシは、石塚築造からとすれば、石塚が庄内1式ないし以降なのでそれ以降です。 ホケノの時期は諸説ありますが、鏃と土器の型式から下げた方がより妥当です。
>>600 「これは常識」「学会では」という言い方は私はしてませんよ。
別の人です。
私はなるべく具体的証拠をあげて丁寧に説明していると思いますが。
>>605 外部勢力主導説って、具体的にどういうことを想定しますか?
>>602 吉備と丹後、北九州を入れてないのは納得できないですね。
しかも主体が「畿内」自生勢力とするならますます納得できない。
東瀬戸内勢力が主体というのはありそうですが。
公孫氏のバックアップというのは憶測で、証拠がないですね。
中平年太刀を証拠とすねのは問題が多いことはすでに書いてますし。
基本的には寺沢氏の「王権誕生」に近い考え。ただし問題もあるので詳細は後日に。
>>608 吉備は、初期マキムク型墳丘墓に吉備の影響が無いことから、
外していいと思います。
>>609 吉備勢力の後押しで、北部九州が…、みたいな説ですか?
外部勢力主導説、って主体をぼやかせた説ですね。 反論されないための故意なんでしょうか。 「畿内勢力以外のどこかがマキムクを」っていう、アンチ畿内自生説みたいな ものなんでしょうね。
弧文円板は? また吉備直接ではないが、東瀬戸内の影響は大きいよな。
「共立」だから仕方がない。 新しい広域王権の場所として大和が選ばれただけ。
>>614 じゃあ、なぜマキムクの地が選ばれたんでしょう。
私は連合政権を主導した勢力が、自らの勢力圏に王都を築いたんだと思います。
大規模な戦争で征服したのなら別ですが、なぜわざわざ自分の根拠から遠い地に
都を築く必要があったのでしょうか。
外部勢力主導説に対する、主たる疑問がそこにあります。
そしてその疑問にまともに答えてくれた方はいません。
>>615 対狗奴国(東海)に対する前線基地としてではないでしょうか?
>>608 >吉備と丹後、北九州を入れてないのは納得できないですね。
納得出来なかろうが、倭人伝の時代、投馬=吉備、奴国、伊都国は、
あくまで邪馬台国とは別国という認識。
邪馬台国体制は、畿内=北部九州=吉備の対等関係でそもそも始まったが、 後に、都に近い畿内勢力が王権を牛耳った、ってことでいいんでは?
>>597 いや、長文で反論を書いてくれたのはいいのだが、何が言いたいのかよく
分からない。
「大和で銅鐸祭祀が廃れたこと」「銅鐸祭祀が近江中心に見えること」
は一つの現象をどう見るかの違いだよね。
結局、銅鐸祭祀の中心が昔から近江であると言い切れる根拠は何なの?
>実際、近畿式銅鐸の末期型式が纒向の流路から破片が出ています。
マキムクが、外部勢力が旧勢力を排除して建設した新王都だったとしたら、
おかしなことになりませんか?
>>593 >大和の王権成立に北部九州が関与していたとしても、外交権の一元化、
>交易の統制のために代官を派遣するのは<国家>として別に不思議では
>ないでしょう。
君と私が根本的に相容れないのは、当時のマキムク王権の規模を
どれくらいに考えるかの違い、だと思います。
連合が成った当初、マキムク王権がそれほど広範囲を直轄していたとは
思えないんですよね、私は。あくまで宗教的権威として君臨してただけで。
代官とか言う発想自体、かなり中央集権的国家を想定されているようですね。
>>614 >「共立」だから仕方がない。
はあ。では邪馬台国7万戸って、どのクニを想定してますか?
奈良盆地だけ?
622 :
馬耳 :2005/08/24(水) 08:50:57
畿内が北部九州や出雲に比べて貧相(後進的?)に見られる原因は、 基本的には鉄器の普及量と埋納威信財の質ですよね。 首長制度など社会構造上の違いは、この後に登場する 倭王武などの『大王時代』まで、 まだ時間的猶予が有りますから 邪馬台国連合成立の時点では二次的な問題だと思います。 しからば、食料生産力など総合的国力で勝っていれば、 畿内が北部九州や吉備に対し主導権を持つことは可能だと思います。
>>615 >>じゃあ、なぜマキムクの地が選ばれたんでしょう。
>>大規模な戦争で征服したのなら別ですが、なぜわざわざ自分の根拠から遠い地に
>>都を築く必要があったのでしょうか。
「自分の根拠」(地)っていっても複数勢力が背景にあります。
逆にお互いの妥協と牽制で故地を避けたのが一つの理由でしょう。「倭国乱れ、歴年主なし」の上に、明確な勝者が無く「共立」されたのですから。
もう一つは、すでに当時の鉄をはじめとする交易網や、首長間の政治的関係が東日本まで広がりをもっていたため、それらを含む連携をはかる、
物資流通の拠点を作ると言う意味で地理的中心地におかれたのであろういうことです。また東日本諸国を含めた利害調整の場所としても選ばれたのでしょう。
その意味では近江や山城も候補地でしたが、瀬戸内回廊の末端である大阪湾岸から、有力勢力であり東日本の結節点である伊勢湾岸への最短ルートの中央が選択されたのでしょう。
近江などは銅鐸祭祀の末期の中心で有力な勢力で、むしろそこを避けたということでしょう。大和はむしろもっとも有力ではないからこそ、選ばれたのだろうと。
その意味では、大和の盆地の中でも未開発地で、旧勢力の拠点集落が無い、東南部の扇状地が選ばれたのでしょう。
また、その時点では農業技術の後進性や鉄器普及の遅れのため未開発地が残っているが、土地に農業発展のポテンシャルが認められたということもあるでしょう。
>>617
>>納得出来なかろうが、倭人伝の時代、投馬=吉備、奴国、伊都国は、
>>あくまで邪馬台国とは別国という認識。
おかしいですね。ヒミコは「倭国女王」であり、「邪馬台国女王」ではないですが。
邪馬台国はあくまで「女王の都する所」
倭国女王として共立された以上、女王の共立範囲は倭国広域でしょう。
旧倭国王を擁する玄界灘グループも含めての共立と考えるべきではないでしょうか?
>>618 >>邪馬台国体制は、畿内=北部九州=吉備の対等関係でそもそも始まったが、
「邪馬台国」体制というよりは(新しい)「倭国」体制が正しいですね。
>>後に、都に近い畿内勢力が王権を牛耳った、ってことでいいんでは?
これは同意。自生でも東遷でも外部主導連合でも、中心地はますます富み、権力が集中するものです。
ttp://www.momoso.net/trade_model.html 上記の「中心地の成立と空間経済」が参考になります。
>>619 >>結局、銅鐸祭祀の中心が昔から近江であると言い切れる根拠は何なの?
突線鈕式銅鐸の新式の分布の中心は近江周辺です。大和や河内はむしろ少ないですね。
さらに5様式後半前後の青銅器鋳造関係遺物の検出は、近江湖東周辺に集中しています。
「昔から」近江が中心とは思っていません。
>>>実際、近畿式銅鐸の末期型式が纒向の流路から破片が出ています。
>>マキムクが、外部勢力が旧勢力を排除して建設した新王都だったとしたら、
>>おかしなことになりませんか?
大和だけ早くに銅鐸祭祀を捨てて首長霊祭祀に移行したようなことを言ったので、新式銅鐸が実際はありますよと指摘したのが一つ。つまり5様式末頃までは銅鐸祭祀圏にあったと。
これは別に異論はないと思います。
もう一つは、外部勢力は旧勢力を完全に排除したとは言っていません。
新技術の供与や、交易の便宜と差し換えに、労働力確保する必要から、在地旧勢力とは当然協力したと思います。
ただ在地勢力の拠点が無かった土地に作ったことが重要です。
>>620 >>君と私が根本的に相容れないのは、当時のマキムク王権の規模を
>>どれくらいに考えるかの違い、だと思います。
>>連合が成った当初、マキムク王権がそれほど広範囲を直轄していたとは
>>思えないんですよね、私は。あくまで宗教的権威として君臨してただけで。
>>代官とか言う発想自体、かなり中央集権的国家を想定されているようですね。
「倭国王」の共立である以上、王権の基盤は広域だと思いますし、纒向に集まる各地の土器や、墳墓祭祀への各地儀礼の集合からこれは言えます。
このことと「中央集権」か否かとは別の次元の話しだと思いますが。私は諸初期国家ないし首長国単位の連合体と考えておりますが。「中央集権」とは考えていません。倭国王を頂点とする分節的な(銀河系政体モデル)連合国家体制を考えております。
「邪馬台国」として直轄している領域と、連合として(「倭国王」として)間接的にしたがえている範囲は別でしょう。
しかし、対外交易・外交の代表という権力の一部分についてはこれを強く維持するのが王権としての本質です。
「代官」という発想ですが、中央集権とは思いません。ただ一大率の記事はそのような内容ではないですか。
あなたも一大率が派遣されて、北部九州を監視し、そのために北部九州が衰退していったと書いていたはずなので、一大率の役職に対する認識は同じと思いますが。
あまり的外れな批判をされると「一大率」の存在も否定することにもなりかねないですよ。
対外代表としての倭国王としては、交易/外交窓口の北部九州に王の代理を置く必要があったし、「倭国王」をさしおいて他の諸国が好き勝手に外交をすることは制限されたということでしょうし、それが倭人伝の内容です。
それを「中央集権だからありえない」と否定したら、北部九州をおさえていないことになり、北部九州にあった「倭国王」位を奪ったことも否定することになります。
繰返しますが、ヒミコは「倭国女王」であり、「邪馬台国女王」ではないですが。
邪馬台国はあくまで「女王の都する所」
倭国女王として共立された以上、女王の共立範囲は倭国広域でしょう。その共立範囲に倭国王の権力がある程度及ぶのはむしろ当然です。
>>621 >>>「共立」だから仕方がない。
>>はあ。では邪馬台国7万戸って、どのクニを想定してますか?
>>奈良盆地だけ?
困りましたね。「共立」は倭国全体によるものであり、問い自体が不毛です。
あと戸数の問題は、相対的実態が反映されていると思いますが、戸籍があったわけでもなく、実数かどうか疑問です。(一支国が「三千戸」とか疑わしい。)
一応、「邪馬台国」自体は大和川流域の大和・河内(和泉を含む)を考えていますが。七万戸は必ずしも実数とは考えません。大型古墳の分布などからみても「畿内」が一国一勢力だったか疑問です。
>>602 >>(1) 畿内勢力(大和、河内、摂津、和泉、山城)・東瀬戸内勢力(讃岐、阿波、播磨)
>>の連合という広域王権の成立
>>603 >>(1)は元々銅鐸地域で、突然、首長霊祭祀が始まる地域。大和と同じである。
(1)東瀬戸内の場合は、突然首長霊祭祀が始まったのではないと思いますが。
阿波は畿内に時期が近いと思いますが、播磨や讃岐では後期後半に墳丘墓が成立しています。
また、銅鐸などの青銅器祭祀を乗り越えた新しい首長霊(首長墓)祭祀なのに、銅鐸圏に限ることが矛盾している気がしますが。
また銅鐸圏だけでの祭祀の転換の連合体なら、「倭国王」として、他地方、他の旧祭祀圏の首長の上に立った理由と過程の説明がつきません。
また
>>610 で纒向の初期古墳に吉備の影響がないからとの理由(これには異論がありますが)で吉備を除外されましたが、では(1)のうち摂津、和泉、山城、阿波の影響が纒向の初期古墳にあるでしょうか?
あるから連合に含めているのですよね?その考古学的事象をあげてください。
もしなければ、吉備を排除した論理でないところを排除して下さい。
「畿内」という地域統一体がアプリオリに弥生時代からあったと思ってませんか?
最近は弥生時代研究者の研究動向として、土器や墓制、集落の動態から、弥生時代における「畿内」の一体性を疑う、あるいは否定する論調が目立ってきているのを御存じではないでしょうか?
>>622 馬耳さん、
>>首長制度など社会構造上の違いは、この後に登場する
>>倭王武などの『大王時代』まで、
>>まだ時間的猶予が有りますから
>>邪馬台国連合成立の時点では二次的な問題だと思います。
>>しからば、食料生産力など総合的国力で勝っていれば、
>>畿内が北部九州や吉備に対し主導権を持つことは可能だと思います。
「食料生産力」といっても、王権成立頃までについては、畿内が他の地域より勝っていた証拠はないのです。したがって「総合的国力」では、王権成立当初はそれほどでもなかったと思います。
だから畿内「自生」勢力が主導して、他の地方を従えたというのは無理と思うのです。
しかし、その地に一度成立した王権はその後、王権の所在地のため、技術と労働力が集約し、他の地方に優位に立つことになったのでしょう。5世紀の倭の五王の時代はそれが発展し、王権も専制化したのでしょう。
それと「邪馬台国連合」ではなく「倭国連合」の方がより妥当な呼称と思います。
628 :
626 :2005/08/24(水) 18:55:41
>>もしなければ、吉備を排除した論理でないところを排除して下さい。 →もしそれらの地域の影響を示す考古学的事象が認められなければ、吉備を排除したのと同じ論理で、その地域を連合の範囲から排除して下さい。
>>623 >おかしいですね。ヒミコは「倭国女王」であり、「邪馬台国女王」ではないですが。
>邪馬台国はあくまで「女王の都する所」
いや、邪馬台国のことを女王国とも言っているのだが。
倭人伝の邪馬台国7万戸の記載を信用すれば、少なくともその当時、大和川
水系を一まとまりにしたクニがあったことになる。で、大和川水系には吉備の5万や
奴国の2万を上回る人口が住んでいた。これって、畿内勢力が充分な国力を有していた
ことになるんじゃないかな。「まとまりさえすれば」という条件付けでだけど。
で、庄内期にその条件が満たされて7万戸という大勢力が誕生する。
「共立」は文脈上、倭国王としての共立と思いますし、定説はそうですね。 では、「女王国」=「邪馬台国」と解釈されるべき倭人伝の箇所はどこでしょうか。 また倭人伝の戸数を額面通りとするのは、壱岐の例をあげましたが、かなり問題がありますね。 これを根拠とするのは危ういです。またこれをよいとしても、結果の話しであって、原因の話しではないですね。 また「畿内」が庄内期に一体化していた考古学的根拠をあげてください。 あとあなたの考えた連合の範囲についての考古学的証拠を求めましたが、これも答えてください。
>>624 これを読んでみても、
>>597 で何が言いたかったのか分からないな。
庄内0式の頃に、大和周辺地域で銅鐸→前方後円墳があったことに否定的なの?
>>630 言いたかないが、考古学で全て分かるなんて傲慢だよ。
>>630 >では、「女王国」=「邪馬台国」と解釈されるべき倭人伝の箇所はどこでしょうか。
女王国自り以北は、其の戸数・道里略載を得べきも、その余の旁国は
遠絶にして詳を得べからず。
>>630 >またこれをよいとしても、結果の話しであって、原因の話しではないですね。
うー、書いてる意味が分からない。連合国家の都として人・物が流入、
結果的に人口が増えたという意味ですか?
>また「畿内」が庄内期に一体化していた考古学的根拠をあげてください。
だからそれが、庄内期に始まる前方後円墳祭祀だよ。
>>625 >あなたも一大率が派遣されて、北部九州を監視し、そのために北部九州が
>衰退していったと書いていたはずなので、一大率の役職に対する認識は同じと
>思いますが。あまり的外れな批判をされると「一大率」の存在も否定すること
>にもなりかねないですよ。
中央から派遣された執政官的意味合いで書いておられるのかあ、と思いまして。
一大率は代官かもしれませんが、北部九州の政治はやっぱり在来の王たちが
執り行っていたと思います。
>>635 その認識は同意。
で、庄内段階(ただし布留0以前)で畿内諸国に前方後円墳ってどれだけありますか?
>>634 邪馬台国が倭国王の都の所在地になったので、各地から人が集まり、また直轄地が拡張したこともあるでしょう。それ以前は河内と大和でさえ別の国だったと思います。
つまり、初めから邪馬台国が大国だったとは思いません。
倭国王共立以後の結果でしょう。
>>631 最近の寺沢氏の論では(二上山シンポジウム)、銅鐸の終焉は必ずしも一斉ではなく、下限は庄内に下るとしています。
若手の北島大輔氏も、やはり銅鐸の製作を含む下限は庄内に下るとしています。(考古学協会総会発表)
なお、銅鐸の中心が近江になるのは、大和でも確実に銅鐸がある5様式後半でしょう。
庄内0式には大和のマキムク周辺では銅鐸サイシが終わっていた可能性がありますが、盆地内の全てがそうか疑問です。
またすぐに首長墓サイシに移行したかもまだ確実ではありません。
>>637 マキムク建設から倭人伝の記載された時点まで、どれ位の期間を考えて
るのか知りませんが、そんな短期間で人口って増えるものなんですか?
マキムク以前から、畿内は人口の多い地域だったと考えてしかるべきかと。
>>633 「邪馬台国」=「女王国」の用法はそこだけ。
「女王の境界尽きる所」をはじめ、「女王(国)」のほとんどは、「女王を倭国王としている倭国(の諸国)」の意味。
また文脈上、卑弥呼共立などの前後で出て来る「その国」は、=「倭国」であり「女王国」でしょう。
だいたい、「倭国乱れ」の後の共立は、その共立主体は倭国(の諸国)とすべきでしょう。
倭人伝には、卑弥呼は「倭の女王」とはありますが「邪馬台国王」とはありません。
また「邪馬台国」は一箇所しかありません。
>>639 畿内は弥生から比較的人口が多かったとは思います。
しかし、まとまっていなければ無意味でしょう。
卑弥呼が倭国王として共立され、その倭国の都が邪馬台国に建設された後に、直轄国としての範囲自体が拡張されたものと考えます。
>>640 まあ普通に読めば、邪馬台国の女王・卑弥呼だと思うけどね。
君のは、かなり特殊な読み方だな。
>>642 いや、今は定説化しつつありますよ。
もともと内藤湖南がすでに言っていたことです。
ところが、その後の邪馬台国論争、邪馬台国ブームでその辺が曖昧になってしまったのです。
しかし西嶋定生が晩年に注意を喚起して以来、本来の正しい読み方に戻ってきています。
嘘と思ったら最近の古代史学者の書いたいくつかの本を見てください。
>>641 畿内が人口が多い地域だったことが、大倭国連合の中心勢力足り得た、
ということでしょ。
畿内地域の食料生産力が劣っていたとかは言ってましたが、前言撤回ですか。
当時は、国力=人口といっても過言じゃない。多くの労働力を集められる
ということは、灌漑で耕作面積を増やすことができ、軍事力に転用することで
他国を圧することも出来る。
>>643 じゃあ、邪馬台国には別に王がいたんですか?
前言撤回はしません。畿内に話しを広げれば人口は多かったということ。 環境に恵まれていたとは思いますが、弥生後期までは、農業技術上の制約があり、そのポテンシャルがよく達成されていなかったと。 畿内まとめれば人口が多いでしょうが、庄内以前は政治的まとまりがあった証拠がないわけです。 したがって倭国王共立過程において、畿内全体の人口力により主体となったというのはナンセンスです。 その時点ではまとまっていなかったのですから。 一度、倭国王の都となりその直轄領域となって以降、農業技術や鉄器も集中し、環境的ポテンシャルを十分活用できるようになり、 はじめて他地方より畿内全体として優位になったのでしょう。 なお人口=国力というのは単純すぎるでしょう。経済力、技術力、組織力(政治力、軍事力)がないと無意味でしょう。
>>645 一つの解釈としては、倭国王が兼任したことも考えられます。
なぜなら、畿内とりわけ大和には、倭国王共立以前の弥生後期に「王」たる存在があった形跡がないからです。
各拠点集落の首長はいたでしょうが、「王」はいなかったようです。
つまり倭国王の都のある直轄領域としての「邪馬台国」が出来てはじめて「王」をいただく社会になったという見方ができるからです。
ただ、あくまでも卑弥呼は倭国王であることがが第一義であったと思いますが。
648 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 22:52:09
>577 >伊都国と奴国の関係について、弥生時代についてはその通りと思うが、庄内以後も同じ構造かは疑問。那珂八幡に相当するものが伊都国にはない。 はあ、一大卒は、伊都国だが。 >また庄内式の受容は、単に商業だけでなく、墳墓祭祀にも用いられたりするので、政治的側面を無視はできない(強調しすぎるのは誤りだが)。 >布留式以降は伊都国には以前ほどの求心性はないと思うが。 倭国の首都は、マキムクに移ったのだがら当たり前。それでも倭人伝によれば政治的には九州の中心。
649 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 22:55:34
>602 @ 畿内勢力(大和、河内、摂津、和泉、山城)・東瀬戸内勢力(讃岐、阿波、 播磨)の連合という広域王権の成立 @はもちろんだが、Aの「東瀬戸勢力」とやらも広域権力として証明されたことは、 考古学的には一度もない。却下だね。
650 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:11:07
>622 >畿内が北部九州や出雲に比べて貧相(後進的?)に見られる原因は、 >基本的には鉄器の普及量と埋納威信財の質ですよね。 威信財そのものがないに等しい。 広域権力及び権力者間の階層が想定されず、小共同体が分立していたと 想定されることもある。 >首長制度など社会構造上の違いは、この後に登場する >倭王武などの『大王時代』まで、 >まだ時間的猶予が有りますから >邪馬台国連合成立の時点では二次的な問題だと思います。 北九州については、権力層の墳墓の副葬品から四段階の厳格な 階級制度及び倭国王の存在が証明されている。山陰地域につい てもこれに順ずる構造が存在するとされている。 全く2次的な問題ではない。 >しからば、食料生産力など総合的国力で勝っていれば、 >畿内が北部九州や吉備に対し主導権を持つことは可能だと思います。 広域権力でもない畿内の小共同体が出雲や北九州のような広域地域国家 に勝っているわけがない。そんな可能性はない。
>>647 >つまり倭国王の都のある直轄領域としての「邪馬台国」が出来て
>はじめて「王」をいただく社会になったという見方ができるからです。
国の成り立ちとして、かなりイレギュラーという印象ですね。
しかし勉強になりました。
652 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:24:38
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
653 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:25:33
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
654 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:30:06
畿内説はここでは、ほとんど見かけませんねw 北九州という点で、ほぼ一致か 俺は吉野ヶ里だと思っています。 見張り台の数の多さはまるで何かに怯えているようですし 地名を信用できるかどうか未調査ですが近くに大和町があります。
>>648 でも一大卒って、女王が派遣した代官であって、伊都国勢力そのものではないじゃん。
旧倭国王の地の外交上、対外交易上のインフラを活用しただけかもよ。
>>649 以下は同意するところが多いけど。
ただ、東瀬戸内の諸国、播磨や讃岐(阿波も?)は古墳サイシ成立に影響与えたと思うし、旧国単位並みではまとまっていたのでは。
あと吉備も出雲に準ずるよな。
656 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:37:13
>651 >国の成り立ちとして、かなりイレギュラーという印象ですね。 >しかし勉強になりました。 647ではないが、圧倒的な文明に隣接する2次的国家が、後背地を 征服するってのは普通だろ。何らイレギュラーではない。 盆地内の小権力のひとつでしかない唐古の村長が突然、倭国王に変貌 したって妄想の方がよっぽどイレギュラーだろが。
スレッドを不用意に上げてしまう方がいますが、変なのが紛れたりマルチポストが来るので気をつけましょう。 メール欄に「sage」と入れましょう。
レスを拝見していると、度々「共立」という文字を拝見致します。 「共立」そのものの言葉の意味を疑問視しているわけではなく 「連合」や「持ち回り」「話し合い」と、とらえた時その様な行動が可能かどうかが、疑問の対象になってきます。 「共立」される以前の状況等を判断すると、 お互い反目しあう二国間なら、和睦という方法も考えられますが 何ヶ国かに跨がる争乱の場合、常識的には「共立」という言葉は不似合いかと思われます。 私の場合 大陸から大きな圧力が加わり「共立」させられたと とらえています。
659 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:48:04
畿内説はここでは、ほとんど見かけませんねw 北九州という点で、ほぼ一致か 俺は吉野ヶ里だと思っています。 見張り台の数の多さはまるで何かに怯えているようですし 地名を信用できるかどうか未調査ですが近くに大和町があります。
660 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:48:53
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
661 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:51:05
たしかに平原は不思議な(例外的というか)墓ですね。きちんと 調査されるべき墓でしたね・・・。
662 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:53:00
何も知らない畿内説コヴァ信者が現れた(藁)
663 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:57:33
>655 >でも一大卒って、女王が派遣した代官であって、伊都国勢力そのものではないじゃん。 >旧倭国王の地の外交上、対外交易上のインフラを活用しただけかもよ。 倭王権そのものが、移動したんだから当然だろ。 >ただ、東瀬戸内の諸国、播磨や讃岐(阿波も?)は古墳サイシ成立に影響与えたと思うし、旧国単位並みではまとまっていたのでは。 そういうとこは、あくまで大きな墓があるから推定されているだけ。 北九州や山陰のように権力者間の同盟や上下関係は証明されていない。 >あと吉備も出雲に準ずるよな 楯突があるから推定されているだけで、権力者間の同盟は証明されて ないだろ。近藤義郎御大が大騒ぎしたから目立っているだけの話。
664 :
日本@名無史さん :2005/08/24(水) 23:59:16
意 味 :山(名詞)・高(形容詞) 原 文 :「土山県本高句麗ノ息達」「高木根県本高句麗達ノ乙斬」など十余例 (『三国史記』) 参考「阿斯達」(『三国遺事』) 漢 字 音:達(中:dat、朝:tal) 再 構 音:tar(李) tat〜tal〜ta<*tak(村) 比較(日):古代日本語「take2(岳)」(村) 「taka-si(高)」(村) 比較(韓):ナシ 比較(他):トルコ語「taγ(山)」 考 説 : 日本語との一致は第一音節のみであるが、双方ともに名詞・形容詞の両形を 持つという共通点があるのは大きい。
665 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 00:00:27
No.02 意 味 :峰(名詞)※とがった山? 原 文 :「峯城県一ニ云フ述爾忽県」「述[人/水]忽県一ニ云フ首泥忽」(『三国史記』) 漢 字 音:述爾(中:dзiuet-nie、朝:syul-zi) 首泥(中:∫i∂u-nei、朝:syu-ni) 再 構 音:su¨ri〜sul'i〜suni〜sulni(李) ?(村) 比較(日):ナシ 比較(韓):後期中世語「su-nщrk(嶺)」(李) 比較(他):ナシ 考 説 : 語末音を除けば中期朝鮮語とかなり近い語形。『李朝語辞典』を見ると現代朝鮮 語では「su-nuk」というようだが、翻訳エンジンでは翻訳されないので、今ではもう 死語と化しているようだ。高句麗系渤海語からの借用語彙か。
666 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 00:02:33
667 :
かかってこいや :2005/08/25(木) 00:04:01
これで決定だろ。ちゃんと読めよ。 【邪馬台国畿内纏向説テンプレ】 @2世紀頃、各地の有力首長が以前から存在した通商ルートを基にまとまり、 纏向(ヤマト)に中心的拠点を置いた。 高地性集落などから倭国乱と称される緊張状態が考察されるが、 実際に大規模な戦闘は行われていない。 Aこの冷戦状態が逆に物流や人的交流を刺激し、 より広域の首長グループへと成長した。 狗奴国については、東海、近江、関東、南九州などの説あり。 Bこの首長グループは、それまで鉄貿易で繁栄していた北部九州にも影響力を行使し、 3世紀前半、ついには凌駕するに到った。 この時期に、各地域ばらばらだった三韓諸国との交易も首長グループが管理するようになり、 福岡・西新町遺跡周辺が対半島交易の拠点となった。 Cこの時期に列島規模で「銅鐸」「銅矛」祭祀などに代表される小部族的集団祭祀が廃れ、 新たに誕生した大集団の権力者祭祀が行われるようになる。 D纏向において最古の前方後円墳建造も始まり、続いて豊前、肥前、筑紫、日向、吉備、 伊予、讃岐、丹波、山城、近江、西上総で確認される。
668 :
かかってこいや :2005/08/25(木) 00:05:21
【鉄器についてのテンプレ】 @1〜4世紀の出土例は北部九州500余り、近畿100余り、 北部九州は1〜3世紀中頃までが多く、それ以降は近畿が多い。 特に副葬品としての鉄製品は、3世紀前半までは玄界灘グループ以外はあまり出ないが、 以降は一気に広まる。 A九州、近畿以外の地域(関東、東海、上越、山陰、中部など多数)で 1世紀の弥生遺跡から鉄製品による木材加工跡が次々と報告されている。 B出土する鉄器の多くは、台地上の遺跡跡か墳墓石室内等の 比較的保存条件の良い場所にて発見されている。 九州でも低湿地である平塚遺跡などでは鉄器は発見されていない。 陵墓指定地の多い近畿では十分な調査が行われていないため、 鉄器の発掘分布データから、当時の状況を推測するのは困難である。 Cこれらにより、2世紀までの鉄輸入は、北部九州勢力が弁辰へ出向いて入手したほか、 帯方郡や三韓諸国から少量が列島各地に持ち込まれていたが、多くは北部九州で消費されていた。 しかし、3世紀前半には国内交易グループが輸入も管理するようになり、 倭人主体の鉄流通が確立したのちは、徐々に列島各地に普及するようになったものとの推量も可能である。 Dその後、楽浪・帯方郡が消滅すると韓半島の鉄交易の主体も弁辰諸国となり、 倭人は権益確保のため半島進出など影響力の強化に努めるようになる。
>>667 非常に分かり易いテンプレでした。
しかし今までの流れでは@の首長グループについて、「北部九州が入ってる」とか、
「吉備が主導した」とか、「いや畿内自生が中心となって」とかで議論してきたんであって。
誰に対するかかってこいや、なんでしょうか?
伊都国東遷とか言う人に対してですか?
吉備には特殊器台・壷の広がりがあるが。
平塚川添は鉄器出ているが。 九州は低地遺跡でも鉄器が結構出ているが。 あと問題は鍛冶技術の明確な地理勾配。 鍛冶は痕跡が必ず残りますので。村上氏の著作をちゃんと読め。 しかし上のテンプレはそれ以外は当たり前の話ばかりで自生説でも東遷説でもありな話なので、かかってこいやっていわれても。
>>663 いやだから、伊都国の在地勢力はどうなったの?
布留以降も九州の政治中心である考古学的証拠は?
あと伊都国東遷の人はスレッドをあげないように。 メール欄に「sage」と入れてくださいね。 訳わからない書き込みがされないようにご協力ください。
>>669 投稿時間から見るに数レス前から続くアラシさんのようです
>>671 平塚川添は水没期間が有るので鉄は残っていないと思っていました。
どのようなものが出ていたのですか。
>>667 大きな流れはいいんだが、有力首長の範囲ってどこまで?
北部九州に影響力というが、はじめから北部九州も連合に入っていて、通商圏を広げたということではないか。
またそれ以前はバラバラというが、三雲や原の辻などの楽浪土器のありかたから、伊都国王=倭国王が楽浪のお墨つきで、ある程度統制していたのでは。
漢末の動乱で楽浪の権威やお墨つきが動揺して交易網が混乱したかもしれないが、
かといって他の地域うが北部九州に打ち勝つほどの実力もないので、結果として大連合となったのでは。
あと西新町って、拠点化は3世紀後半からで最盛期は4世紀初めぐらいみたいですが。(弥生文化博物館「大和王権と渡来人」) 3世紀前半までは伊都国に楽浪土器が多いみたいですので、倭国王卑弥呼の共立からすぐに対外交易体制が変わった訳じゃなさそうです。
>>674 平塚川添の鉄器は鍬先とかいくつか概要報告にすでに載ってたが。
調べてみてくださいね。
九州では三雲なんかは台地上というより微高地だけどかなりの鉄器が出ている。
他でもさらに低地の遺跡でも、ある程度掘るとたいがい出るが。
畿内は後期の丘陵上でも、鉄器は出るにはでるが、基本的に少ない。
>>667 副葬品としての鉄器は、山陰とか日本海側では結構あるぞ。特に丹後など北近畿は特定墓への多量副葬が始まっているよ。
まあ総量では九州だろうけどね。
>667は、単なる無意味コピペ荒らしだよ。 このスレのテンプレ貼ってくれたんだけどね。
680 :
橿原一派2 :2005/08/25(木) 22:33:35
>673 このスレッドのレベルの低さはそういう閉鎖性のためだな。 「邪馬台国は大和朝廷になったのか」スレッドとは比較にならない 低調さ。 こんなとこ書き込んで楽しいか。
681 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 22:35:21
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
682 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 22:36:34
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
683 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 22:38:26
宮内庁も必死・・・と言うか、暇だな。 今更、神話を無理矢理歴史に組み込もうとするなよ。 ホニャララウンタラミコト←こういうのとか、創作物だって判るだろうに・・・。 天照大神=卑弥呼 は、もう殆ど確定。 ただ、宮内府的にはあってはならないので、第一回捏造作戦。 卑弥呼=神功皇后 魏志倭人伝の卑弥呼をモデルにした女摂政が(西暦?)200年頃活躍する話を捏造。 しかし、年代的に神武の存在が危うくなり失敗。 暦がちげーんだよ・・・と、慌てて取り繕う。(ごくろうさん) しかし、どうしても卑弥呼は神武の下に取り込みたいので、第二回捏造作戦。 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫 しかし卑弥呼の時代の後に、 近畿の銅鐸人(笑)が討伐されている跡が何となく見えて来た。 って事は、神武東征の後に一度国が引っ繰り返ってる!? いかーん、この銅鐸人討伐=神武東征に仕立てあげねばっ! ・・・って事になり失敗。(おつかれさん) 結局、神武は270-280頃に落ち着きそうだ。 空白の150年に収めるのが、一番懸命な選択だと思う。 やはり、天照大神を下に取り込むなんざ、宮内庁が許しても、 この美少女仮面ポワト・・・(以下略)
684 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 22:41:52
685 :
老講師 :2005/08/25(木) 23:09:14
>532 >普遍的って、普遍的な発展段階とかいまだに考えているの? >日本列島内でさえ全然違うのに? >どう言う条件下でその「普遍的」なことがありうるかも言わないと検証になってない。 >まあ、何言っても聞かんだろうねこの人は。 >まだ一部しか掘ってないから望みを託すっていうのも軽率だと思うがw ご存知ないようですが、国家形成の国際比較研究はよく行われていますし、 日本の考古学者も参加されていますよ。各地域に固有な条件は考慮しつつも 普遍の歴史的発展形態は十分抽出されている。むしろそのような特殊条件の みを強調する考古学が結局のところファシズムに荷担するものであることを 忘れるべきではないですね。 >602 >@ 畿内勢力(大和、河内、摂津、和泉、山城)・東瀬戸内勢力(讃岐、阿波、 >播磨)の連合という広域王権の成立 終末期の畿内や東瀬戸は、階層がまだ未確定であるが、あたかも ホメロスの叙事詩が物語るような新しい時代の魁となる英雄が並 立した時代でした。その中から、「大英雄」たる倭王が誕生した。
686 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 23:13:23
大和朝廷が九州を支配下に置いたという記録はありません。唐突に景行天皇の時に、熊襲が背いたとでてきます。 ということは、始めは平和裏に大和は九州を併合したのではないでしょうか。とすると、この三十ケ国の貢献は、大和朝廷の九州併合の実年代を解く重要な鍵となるのではないでしょうか。 つまり、289年の段階ではまだ併合されていないと。
687 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 23:14:32
最近は前方後円墳体制論に対する批判論文が多いと思います。 『古墳時代の政治構造』青木書店2004での大久保徹也氏 の論文はその方向の論旨です。古墳前期では前方後円墳も地域 (近畿、東部瀬戸内南岸、西部瀬戸内海、九州中北部、近江北部・越前、東海、濃尾の区分けレベル)内で独自の表示体系を構成しているとしています。近畿は未だ列島の中央とは なっていなかった、ただし近畿の体系は他地域の変動の触発には なったとしています。(文章は当世流に改変してます) 私は大久保氏の意見を魅力的に思っています。では何時からヤマトが列島の中心となったかにはまだ結論を出していません。雄略の時代はその転機かもしれません。奥野会長も以前古墳形状と政権領域は一致しないと言う論文を出されていました。納得できる内容でした。 では何故前方後円墳が古墳形状として優勢になったかは今後の課題と考えます。 9月からの「古墳と古代国家」シリーズに是非ご参加ください。 最初は橿原考古学研究所調査部長の寺澤氏です。次は東海大学 の北條氏。彼はかなり意欲的な報告をしそうです。最後は弥生博 の小山田氏。氏は日本海勢力の見直しから論ずるはずです。
688 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 23:26:37
>686 確かに悪しき畿内中心史観とは今や決別すべきですね。 古田先生の九州王朝説をもう一度批判的に摂取すべきと思います。
689 :
日本@名無史さん :2005/08/25(木) 23:47:31
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
690 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 00:10:36
x
平原王墓の銅鏡の埋葬方法って、以降と隔絶してるよね。 破砕した銅鏡40枚(全て砕かれていたかどうかは分からないが)を棺外に 置くというあたり、けっして銅鏡を重視していたとは思えない。 大量の鏡を破壊するという行為自体には、何らかの呪術的意図はあったんだろうけど。 あくまで青銅祭器を破壊するという行為として、銅鐸遺棄とかと関連付けて 考察されている方とかおられるのでしょうか?
>>687 >古墳前期では前方後円墳も地域(近畿、東部瀬戸内南岸、西部瀬戸内海、
>九州中北部、近江北部・越前、東海、濃尾の区分けレベル)内で独自の
>表示体系を構成しているとしています。近畿は未だ列島の中央とは
>なっていなかった、ただし近畿の体系は他地域の変動の触発にはなった
>としています。
これは実は、畿内自生説の主張に通じる考えなんだよね。
マキムク王権を宗教的権威として考え、広域に軍事力を行使できたとは
考えていない(「倭王」という外交権は手に入れていたでしょうが)。
吉備、筑紫、東海など各地の王はまだまだ自立性を有しており、
大和の女王がその霊威により、彼らの代表に選ばれたに過ぎない。
マキムク王権はもっと強大で、各地の王に権力を行使し得た筈というのが、
外部勢力主導説。畿内だけでそのような国力は無いとの理由で、外部勢力が
みんなで大和にやって来て、大きな国を築いたとする。
693 :
馬耳 :2005/08/26(金) 06:32:47
>>627 弥生後期の畿内(特に河内湖周辺)の農業技術(低湿地の開発力とか)は、
吉備や博多湾などの地域(環境的に似ているところ)と比べてかなり見劣りがするのでしょうか?
>>685 >終末期の畿内や東瀬戸は、階層がまだ未確定であるが、あたかも
>ホメロスの叙事詩が物語るような新しい時代の魁となる英雄が並
>立した時代でした。
その「英雄(≠王)」さん達の活躍は、どのような痕跡を残していますか?
>>692 >外部勢力がみんなで大和にやって来て、大きな国を築いたとする。
そんなアホなことを言う奴はいない。
695 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 21:40:32
agemakuri
696 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 21:50:07
>672 >いやだから、伊都国の在地勢力はどうなったの? 倭王権の主体になって畿内に行ったんだろが。 >布留以降も九州の政治中心である考古学的証拠は? 確実に証明できるのは倭人伝=庄内に一大卒があったという ことだけ。一大卒の遺構は発見されてないから布留以降どう だったかは知らんな。そのうち見つかるだろうがね。
697 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 21:56:16
>675 >漢末の動乱で楽浪の権威やお墨つきが動揺して交易網が混乱したかもしれないが またウソを言う。 半島からの鉄器の流通はこの時期も変わりなくというよりより むしろ盛んになっている(村上)。 さらにこの時期九州の集落は爆発的に増加している(橋口)。 最後に平原という極大化した王墓が終末期に出現する。 君のいうような仮定は、考古学的には完全に否定されている。
698 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 22:01:14
>691 >平原王墓の銅鏡の埋葬方法って、以降と隔絶してるよね。 >破砕した銅鏡40枚(全て砕かれていたかどうかは分からないが)を棺外に >置くというあたり、けっして銅鏡を重視していたとは思えない。 ホケノ山の報告書も呼んだことがないのかね。 大型の内行花文鏡が破鏡されていたのだが。 しかもご丁寧に「平原類似」と書いてある。 そもそも畿内(というより九州以外)には鏡の 副葬自体が存在していなかったのだが。
>>698 でも棺内あった画文帯神獣鏡は破砕されてなかったっしょ。
>>696-698 少なくとも、伊都国東遷説を唱えてるのは君だけみたいだから、
君の論旨をコンパクトにまとめてくれれば。
701 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 22:47:04
>699 平原でも一部の鏡は、完鏡として頭部付近におかれていたと推定 されているのだが(柳田「平原王墓」)。 そもそも何度も言うようにホケノ山まで畿内に鏡の副葬の習慣は 全くない。
>>701 でも、棺内には無かった、とされてるよね。
703 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:03:03
>693 >弥生後期の畿内(特に河内湖周辺)の農業技術(低湿地の開発力とか)は、 >吉備や博多湾などの地域(環境的に似ているところ)と比べてかなり見劣りが >するのでしょうか 農工具の鉄器化と言う点では、西日本最低。 といっても農工具まで鉄器化したのは九州だけだが。 だいたい後期の畿内の集落は、従来の平地集落が衰えて、その後背地に防御的な高地性集落 ができるなど、政治的な劣勢が予想されるのでそれどころではなかろう。
>>694 俺も、そんなアホなと思うのだが、
寺沢以下、結構主流になりつつあるみたいだぞ。
705 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:09:09
>702 数枚が完鏡として頭部付近にあったとされているだけで詳細は不明。 多少の相違はあっても、近い時期に平原以外の類似例は全くない。
706 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:16:44
>704 昔から普通にある考えでアホでもなんでもない。 唐古村の村長が数十年で倭国王になったとか、 畿内では鉄が溶ける魔法があるだとか、 手でこすった跡のある伝世鏡とか、 中国にないのは特鋳だからですとか、 箸墓が最初の古墳だとか、 天才的イデオローグとか、 卑弥呼の宗教革命 とやらのほうがよっぽどアホだろ。
707 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:20:37
卑弥呼=ヤマトトビモモソノヒメ説はどこまで信憑性にあるのでしょうか? 誰か教えてください。
708 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:21:57
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
709 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:24:27
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
710 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:26:59
>>706 >手でこすった跡のある伝世鏡とか
今時、伝世鏡とか言ってるのは、大和古墳群を新しくしたいと思ってる、
九州説の人だけだろ。
712 :
橿原一派2 :2005/08/26(金) 23:30:50
ここは考古学ヲタの据えた匂いがするな。 このスレッドは考古学板に移管すべき。
>>705 詳細は不明ときたか。
自説に都合の悪いことは全て「詳細不明」になるわけね。
かなり決め付けの多い人だと思っていましたがw
714 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:33:22
>711 そもそも九州説の学者など今やいないが。
>>701 >平原でも一部の鏡は、完鏡として頭部付近におかれていたと推定されている
でも実際のところ、割れて発見されているよね。
埋葬段階で破砕されていなかった証拠ってあるの?
あくまで推定に過ぎないよね。
716 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:38:15
>713 完鏡で一部の鏡について頭部付近にあった可能性 があると記述されているだけなのでね。 なので、俺に文句を言われても困る。 柳田に文句を言えよ。
>>712 なぜageながらそんなこと書くの?
かまって君ですか?
このスレに来なくても、考古学無視の君に相応しい非科学的なスレが
他に一杯あるじゃないかw
718 :
日本@名無史さん :2005/08/26(金) 23:41:48
>715 そりゃあるんじゃないの。 どっちにしても破鏡はおろか、鏡の副葬自体畿内には ないので平原の影響を否定できないがね。
719 :
橿原一派2 :2005/08/26(金) 23:43:39
>717 板違いだから。 それに、ここよりレベルの高い古代史スレッドは たくさんありますからね。
720 :
橿原一派2 :2005/08/26(金) 23:44:45
いずれにせよ九州王朝無視はありえないです。
>>719 板違いかどうかは君が判断することじゃない。頭が高いよ。
それとsage方、知らないんですか?
>それに、ここよりレベルの高い古代史スレッドは
>たくさんありますからね。
だったらそこに移って。二度と来るな。
722 :
橿原一派2 :2005/08/26(金) 23:52:58
>721 排他的なスレッドですね。 なんでそんなに仲間内で群れたがるのがわかりません。 違う意見の人たちと議論してこそ学問ではないでしょうか。
>>720 君に足りないのは謙虚な姿勢。
議論に加えて欲しいなら、それなりの言い方ってものがあるだろう。
否定一行レスなんか不毛だから止めてさ、きちっと根拠を示して
反論してみたらどうだい?
724 :
日本@名無史さん :2005/08/27(土) 09:25:34
あげまくり
725 :
日本@名無史さん :2005/08/27(土) 09:32:14
邪馬台国は、宇佐でしょう。 宇佐には、卑弥呼の墓とされる大きな古墳もあるし。 宇佐神託事件は、いかに宇佐が重要なものであったのか という証拠です。
726 :
日本@名無史さん :2005/08/27(土) 09:49:22
>691 >破砕した銅鏡40枚(全て砕かれていたかどうかは分からないが)を棺外に >置くというあたり、けっして銅鏡を重視していたとは思えない。 そりゃ完全な間違い。 平原、ホケノ山で破鏡されている大型内行花文鏡は、後には 特別に小隔を設けて丁重に埋葬されることになる(下池山等) また、伊勢の神体もこの鏡とされている(小さいが元伊勢もこれ)。 なのでこういう鏡が序列的に最高位の鏡ということになっている。 つまり、 大型内行花文鏡(首長霊継承の呪器+威信財) >>舶載鏡(宝器+威信財) >・・・超えられない壁・・・>△鏡 ということ。 >あくまで青銅祭器を破壊するという行為として、銅鐸遺棄とかと関連付けて >考察されている方とかおられるのでしょうか? 役割が違うので、考察する意味がない。 同じ首長霊継承の際に用いられる、鏡の破鏡と特殊器台の破砕 とか墳墓上構造物の破壊との関係を考察するなら意味があるが。
727 :
日本@名無史さん :2005/08/27(土) 09:53:12
それから首長霊継承ってのは近藤義郎が言い出して、 なんとなく定説になっているだけで考古学的な根拠 はありませんが便利なので暫定的に使っている。
728 :
日本@名無史さん :2005/08/27(土) 10:03:43
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
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ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
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最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
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729 :
日本@名無史さん :2005/08/27(土) 10:18:13
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
>>726 そういう考え方が一般的なんでしょうね。
しかし、ホケノ山では扱いが、画文帯神獣鏡>内行花文鏡だったような。
わざわざ砕くっていう行為自体、銅鏡をそれ程重要視してなかったように感じる
んですよね。平原王墓にしても、あくまで棺外に安置されてましたし。
本当に大事なら、棺内に入れるでしょ。
北部九州の鏡を破砕する風習と、畿内前方後円墳以降の鏡を棺内に副葬する行為 とは、全く違うと思うが。 北部九州の鏡祭祀がそのまま東遷、前方後円墳に取り入れられたなんて 言えないだろう。
732 :
馬耳 :2005/08/27(土) 16:11:34
>>731 破砕祭祈自体は、九州以外でも行なわれていませんか。
733 :
日本@名無史さん :2005/08/28(日) 00:10:54
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
734 :
日本@名無史さん :2005/08/28(日) 00:11:50
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
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735 :
日本@名無史さん :2005/08/28(日) 00:25:30
>730 そりゃ間違い。 九州の倭国時代では鏡は、副葬品の中では最高位に位置し、 倭国王=数十枚 大首長=数枚 中首長=一枚 それ以下の首長は鏡の副葬はなく、鉄器威信財のみ。 と言う風に厳格に階層化され、かつ限定された配付 がなされている。 それから宝器としての鏡と呪器としての鏡は役割が 違うわな。で、後に石隔つきで大事にされるのは 呪器の方であって、宝器ではないわけだ。 この辺りは寺沢の「王権誕生」に非常に分かりやすく 解説されているから呼んでみたら。
>>735 >それ以下の首長は鏡の副葬はなく、鉄器威信財のみ。
平原王墓とかに鏡が多いのは、宗教的祭祀者だったからと言われてるよね。
耳飾の出土から、被葬者は女性と言われている。
武器が少ないのはそのためとも考えられるよね。
被葬者の性格によって副葬品は変えられた可能性がある。だから、
>九州の倭国時代では鏡は、副葬品の中では最高位に位置し
はあくまで推測に過ぎない。ていうか、そう言い切れる根拠なんて何も
ないです。
鏡の数で階層化とか、あくまで妄想の域。
・北部九州で出土する後漢鏡、鏡破砕祭祀 ・畿内中心で出土する画文帯・三角縁神獣鏡、鏡を棺内に副葬 と明らかな断絶がある。 庄内式、マキムク型前方後円墳が出現した辺りから、 鏡の種類及びその取り扱いが、ガラリと変わっている。
>>737 そう簡単にはいかないよ。
まず、北部九州だけど、中期後半の副葬は基本的に完形鏡。
後期前半のどこかで破砕鏡が出現し、棺内副葬とともに棺外副葬も出て来る。
後期中頃以降は破砕鏡が増加し、終末には多数を占める。
破砕鏡は古墳前期になると減少するが、確実に存在する。
なおこの間も、完形鏡副葬も並行して存在する。時期により破砕鏡が多いことがあるだけ。
平原遺跡をみると、棺内の完形鏡と棺外の破砕鏡と言う組み合わせ。
ここで注意されるのは棺外に多量の鏡を用い、破砕するものの四隅を囲むもの。
破砕の有無の違いがあるが、前期古墳の多量の三角縁神獣鏡を棺外に、棺内に一部の鏡を副葬するという反復行為の源流とみるべき。
さて破砕鏡だが、早くに後期中頃には濃尾の瑞龍寺山で内行花文鏡の破砕鏡がある。
その後、庄内直前ぐらいから破砕鏡は東に広がり、庄内期には多く九州以外でもみられる。
矢藤治山は方格規矩鏡を、西条52号は内行花文鏡を、萩原1号・綾部山39号は画文帯神獣鏡を破砕する。
庄内式頃の破砕鏡は、九州も当然多いが、瀬戸内〜近畿にかけて確実に存在する。
これは北部九州から東に向かって広がったのは明らかだ。
布留0式前後には、ホケノ山の一部鏡(内行花文鏡と画文帯神獣鏡、ただし完形鏡も伴う)は破砕鏡と指摘されている。
同時期では黒田古墳の位至三公鏡は明らかな破砕鏡。
安満宮山の5面のうち、斜縁吾作神獣鏡は破砕鏡の可能性がある。他にもいくつか指摘できる。
他にも布留0〜1式には破砕鏡例が九州以外でも散見する。山陰や瀬戸内によくみかける。
高部30号の斜縁神獣鏡も破砕鏡的だ。
小松古墳(近江)の内行花文鏡・方格規矩鏡も破砕鏡の疑いがある。
「定型化」した古墳では、椿井大塚山の内行花文鏡はそれだけ異常に粉々であり、破砕鏡の可能性が高い。
桜井茶臼山の大型倣製内行花文鏡は、破砕鏡の疑いがあり、さらに破談面研磨の破鏡の存在も指摘される。
象鼻山1号のキ鳳鏡は破砕鏡だ。
なお鏡の種類が古墳時代になって変わるのは当たり前で、時代が違うから鏡式が新しくなっただけじゃないの。 ただし、神獣鏡系が多くなるのは思想的変化(神仙思想の受容?)もありうるので、鏡の図像を理解するようになり破砕するのを止めるようになっていったこともありうる。 これは小山田宏一氏が言っている。 ただ、神獣鏡の受容当初では、綾部山・萩原・ホケノは割っていることは、当初は北部九州で成立した葬送儀礼の影響の下にあったことが分かる。 いずれにしても、突然断絶するわけではない。 北部九州の弥生後期までに成立した銅鏡祭祀・葬送儀礼を基礎としつつ、この上に新しい思想・儀礼が加わって変容したとすべきだろう。
>>736 女性じゃなくても銅鏡は出ますが。
井原鑓溝遺跡なんかは青柳種信の記録では方格規矩鏡多数+鉄製武器多数だったようだし。
立岩式(中期後半)の時期の副葬品組成と甕棺の大きさ、区画の有無、他の副葬品との関係から、鏡はやはり上位のアイテムだったと証明されていますが(中園聡氏の研究)。
後期でも鉄製武器(素環頭大刀など)との伴出状況や、「王墓」に必ず鏡が多数はいるのを見ると、鏡が上位のアイテムだという仮説は非常に妥当性を有すると思いますけどね。
他地方はともかく北部九州内ではそうでしょう。
少なくとも「妄想」と断ずるのはどうかしてますね。
そんでもって、前期古墳は鏡が唯一ではないものの上位のアイテムとして銅鏡を導入します。
前期古墳において銅鏡が非常に重要なアイテム、上位の威信財であったことを否定しますか?
これを否定しないのであれば、九州の弥生も同じです。
なお、鏡の副葬位置が棺内だから重要、棺外だから軽視というのは議論が単純すぎ。
それぞれ役割や儀礼過程が違うとまずとらえるべき。
棺外のみの副葬例もあり、ことはそう簡単じゃないよ。
また破砕だから大事でないというのも間違いだろう。
破砕行為自体が葬送儀礼の中で非常に意味あるものとされていたならば、大事なものを破砕することがむしろ意味があったこともあるだろう。
たとえば楯築の弧帯文のある亀石は一つは破砕されている。
平原でも超大型鏡は破砕されていたが、このきわめて稀な鏡が重用視されていなかったと考える方がどうかしている。
>>711 いや、いまだに伝世鏡を信じたがってるのは、残念ながら畿内自生説の一部の人だよ。
岡村氏なんかもろそうじゃない。
>>739 いや、神獣鏡は華南の影響が強いって話で、ただ単に、時代が違うから鏡の
様式が違うなんてものじゃないと思いますが。
つまり、鏡の供給先が変わったことを意味するんじゃないでしょうか。
>>741 >鏡の副葬位置が棺内だから重要、棺外だから軽視というのは議論が単純すぎ。
確かにそうなんですが。単純だから間違いって訳でもないでしょう。
しかし黒塚で、画文帯>三角縁の根拠とされてますよね。
>>696 >>672 >いやだから、伊都国の在地勢力はどうなったの?
倭王権の主体になって畿内に行ったんだろが。
ちょっと待て、在地勢力はいないのか?前期古墳の分布からもそんなことはないだろ?
その前期古墳は数は多いが、必ずしも九州で主導的な古墳はないと思うが(前期後半の一貴山銚子塚を除く)
>>>布留以降も九州の政治中心である考古学的証拠は?
>>確実に証明できるのは倭人伝=庄内に一大卒があったという
ことだけ。一大卒の遺構は発見されてないから布留以降どう
だったかは知らんな。そのうち見つかるだろうがね。
ちゃんと調べてくれよ。考古学的事象を多く使う君がここで文献だけとは期待はずれだよ。
>>697 >
>>675 >>漢末の動乱で楽浪の権威やお墨つきが動揺して交易網が混乱したかもしれないが
>>またウソを言う。
半島からの鉄器の流通はこの時期も変わりなくというよりより
むしろ盛んになっている(村上)。
さらにこの時期九州の集落は爆発的に増加している(橋口)。
>>最後に平原という極大化した王墓が終末期に出現する。
よく読んでくれ、「漢末の動乱で楽浪の権威やお墨つきが動揺して交易網が混乱したかもしれないが」
の次に続く文章は、実際は北部九州は衰退していないということを書いているが。
君と意見はそんなに違わないはずだよ。
ただ、楽浪の権威のもとで交易をしていたのも事実だろうから、何らかの動揺があって倭国乱となった可能性は認めるべきではないかな?
>>742 神獣鏡は江南に多いのは事実だが、むしろ2世紀代は四川も多いし、地方様式としては華北・山東・楽浪が指摘されている。
問題のホケノの同向式神獣鏡をはじめ、3〜4世紀に流入し古墳から出土する神獣鏡は、実は江南系ではない亜流(華北〜楽浪)型式が主体との研究がある(西川寿勝氏・上野祥史氏など)。
>>743 棺内には内行花文鏡や方格規矩鏡など後漢鏡系や画文帯神獣鏡が多いのも事実だが、三角縁も棺内の頭部付近に来る例も多々あり、そう簡単ではない。
なお三角縁神獣鏡自体、楽浪鏡(西川寿勝氏)・渤海湾岸(山東・河北・東北部)あたりの鏡(福永伸哉氏)というように、他の日本列島にもたらされた神獣鏡の多数派(中国での多数派と異なる)の故地に近いとされている。 またこれらの地域は弥生時代からの倭国への鏡の供給地であっただろう。(ただし中期後半の王墓の鏡等は中原から直接もたらされたものもある。)
>>746 鏡の形式の変化に、後漢→公孫氏へ、倭国が鞍替えした事実が隠されている
気がするのだが。
公孫氏の鏡って何と思うの、と聞いてみる。
>>749 まあはっきり言っちゃえば、画文帯と三角縁神獣鏡ではないかと。
三角縁神獣鏡は公孫氏じゃなくて「魏」鏡じゃないの?(舶載説の場合) 製作地は旧公孫氏領域としてもね。 しかも製作は239年以降だろ。公孫氏滅亡後。 画文帯神獣鏡は、同向式など倭国に来ている主要な型式の一部は確かに公孫氏領域の製作で時期(2世紀末〜3世紀前半)も合う。 問題は、いつ舶載されたか。 画文帯神獣鏡出土古墳のほとんどが三角縁出現後=布留0式以降なので、他の後漢鏡(ただし復古鏡や踏返し鏡多数)や三角縁神獣鏡と一緒にもたらされたものが多かった可能性を排除できない。 実際、ホケノ山が布留0式に下る可能性があるので(入れても2、3枚なのだが)、確実に真正庄内式の時期の画文帯神獣鏡は綾部山、萩原1号、あと何がある?? 数枚程度しかない。 まあ、すでに入って来てたよと簡単に結論している論者が多い(福永氏、岡村氏等)のは遺憾であるが。 しかし他の大陸系遺物が畿内にほとんどない庄内式(布留0式以前)の時期に画文帯三角縁神獣鏡だけが入って来たというのはきわめて怪しいと思うが。 三角縁と一緒に239年以降に流入したものが大部分だとする寺沢氏、小山田氏、辻田氏等の説の方が時期的な出土傾向を説明できると思うが。
画文帯「三角縁」神獣鏡→画文帯神獣鏡、だよな
>>751 公孫氏滅亡後、主を失った鏡作りの技術者集団が倭国に逃れてきた、とか。
>>751 庄内式と布留式の境界を西暦何年頃として論じているのかな?
>>751 >他の大陸系遺物が畿内にほとんどない庄内式(布留0式以前)の時期に
>画文帯三角縁神獣鏡だけが入って来たというのはきわめて怪しいと思うが。
庄内土器がマキムク政権成立の証だと思うのだが。
庄内式の頃には、まだマキムク政権は誕生していなかったの?
もしくは庄内式の頃、マキムクはまだ筑紫から外交権を奪取していなかった
のでしょうか?
756 :
日本@名無史さん :2005/08/29(月) 23:09:37
>744 >ちょっと待て、在地勢力はいないのか?前期古墳の分布からもそんなことはないだろ? そりゃ、いるんじゃないの。 それが、御三家のような分家なのか、大宰府みたいに単なる豪族が派遣されたのか、 本家のつもりでいたら分家になってしまったのか、派遣なのか世襲なのかは、 よく分からないがね。 >ちゃんと調べてくれよ。考古学的事象を多く使う君がここで文献だけとは期待はずれだよ。 遺構が確認されていない以上、それしか言いようがないだろ。 一般的には、三雲は5世紀頃に衰退したと言われているが、それが一大卒の移動を伴う のか、そもそもその時期まで存続したのかは分からないとしか言いようがないね。 庄内頃にそういうものがあったと文献に書いてある。で、前期古墳が大和盆地 東南についで集中するし、都市の反映も変わらず続くと言う具合に考古学的にも これに反する物証はない。 なので、この記述を疑問視する考古学者は誰もいないんだよ。
757 :
日本@名無史さん :2005/08/29(月) 23:18:43
>744 >ただ、楽浪の権威のもとで交易をしていたのも事実だろうから、何らかの動揺があって倭国乱となった可能性は認めるべきではないかな? 「動揺」は、否定していないが。 ただし、後期の「動揺」の考古学的物証は畿内(集落の衰退、 防御的高地性集落、石器の現象)や山陰地域であって、九州に はそのような考古学的物証は全くない。 なので、「倭国乱が終末期で、非常に大規模なものという前提」 であれば、それは畿内を舞台にしたものというしかないね。
758 :
日本@名無史さん :2005/08/29(月) 23:25:26
>233 >まあ、すでに入って来てたよと簡単に結論している論者が多い(福永氏、岡村氏等)のは遺憾であるが。 >しかし他の大陸系遺物が畿内にほとんどない庄内式(布留0式以前)の時期に画文帯三角縁神獣鏡だけが入って来たというのはきわめて怪しいと思うが。 全く同意。 日本の画文帯は、楽浪に職人が派遣された233年以降だろう。 岡村の編年を鵜呑みにするのは具の骨頂。
759 :
日本@名無史さん :2005/08/29(月) 23:34:20
このスレは専門家の方々が多そうで勉強になります。 結局、畿内自生説を唱える人は、若い研究者にはいないみたいですね。 大和中心史観がようやくグラつき始めてるってことですか。 邪馬台国成立時期の倭国の激動についても、興味がそそられます。 老講師さんも言っておられたような、石母田の唱えるような「英雄時代」が 3〜4Cの日本列島で確かにあったのかもしれません。 神武東征や欠史八代、ヤマトタケルなど、神話と否定されてきた伝承にも 何らかの史実が含まれているのでしょうか。
760 :
日本@名無史さん :2005/08/29(月) 23:35:04
>755 >庄内土器がマキムク政権成立の証だと思うのだが。 >庄内式の頃には、まだマキムク政権は誕生していなかったの? >もしくは庄内式の頃、マキムクはまだ筑紫から外交権を奪取していなかった マキムクの最初は在来の土器。寺沢が庄内0という紛らわしい名称を作って、 非難されているのをしらんのか。
761 :
日本@名無史さん :2005/08/29(月) 23:47:04
>759 >結局、畿内自生説を唱える人は、若い研究者にはいないみたいですね。 >大和中心史観がようやくグラつき始めてるってことですか。 グラつきつーか、もう終わった。 >邪馬台国成立時期の倭国の激動についても、興味がそそられます。 >老講師さんも言っておられたような、石母田の唱えるような「英雄時代」が >3〜4Cの日本列島で確かにあったのかもしれません。 詳しく知らないが、「英雄時代」ってのは、階級未分化な原始時代と文明時代 の間のこと指すのだとしたら、間違いだ。古墳時代より前の北九州倭国にすら、 「都市」「階級(権力者間の階級含む)」「国際的に承認された王」が存在する。 >神武東征や欠史八代、ヤマトタケルなど、神話と否定されてきた伝承にも >何らかの史実が含まれているのでしょうか 東遷自体は考古学的事実。 崇神陵より前の大王「級」の古墳は、現段階で10を超える。 ヤマトタケルは知らん。
762 :
日本@名無史さん :2005/08/29(月) 23:47:59
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
763 :
日本@名無史さん :2005/08/30(火) 02:22:43
>>761 >「英雄時代」ってのは、階級未分化な原始時代と文明時代 の間のこと指すのだとしたら、
>間違いだ。古墳時代より前の北九州倭国にすら、「都市」「階級(権力者間の階級含む)」
>「国際的に承認された王」が存在する。
知らないようなら、一度、「英雄時代論争」で検索してみて下さい。
少なくとも、記紀の英雄の叙事詩の中で九州を思わせるものは、
日向からの神武東征、景行の西征、タケルの熊襲征伐、仲哀戦死、神功三韓
征伐、応神東征くらいです。
北部九州が2〜3世紀の段階でいち早く、原始的族長世界から古代社会へ
脱却し、東遷して大和朝廷になったとすれば、記紀に筑紫地方の英雄譚が記載されて
いないのはおかしいことだと思いますが。
>>760 >マキムクの最初は在来の土器。寺沢が庄内0という紛らわしい名称を作って、
>非難されているのをしらんのか。
具体的にどのような非難なんですか?
>>685 >>ご存知ないようですが、国家形成の国際比較研究はよく行われていますし、
>>日本の考古学者も参加されていますよ。各地域に固有な条件は考慮しつつも
>>普遍の歴史的発展形態は十分抽出されている。
あのね、よく知ってるけどね。じゃあ聞くけど、「英雄時代」なんて「普遍の歴史発展形態」として認められているのかよ?
最近の京大系学者が中心となった『国家形成の比較研究』(学生社)でも、世界各地の古代国家成立過程が論じられ比較されている。
しかし「英雄時代」なんてさっき書いた松木氏の検討不十分な理論以外は出て来ない。
またその中で(編者の総括)、国家形成の普遍的な一般理論は難しいとも書いている。
>>むしろそのような特殊条件のみを強調する考古学が
>>結局のところファシズムに荷担するものであることを
>>忘れるべきではないですね。
またそういうイデオローグな言説で他説を封じ込めようとする。その方がよっぽどファッショだって。
>>終末期の畿内や東瀬戸は、階層がまだ未確定であるが、あたかも
>>ホメロスの叙事詩が物語るような新しい時代の魁となる英雄が並
>>立した時代でした。その中から、「大英雄」たる倭王が誕生した。
あの「終末期」っていつですか?
「庄内」ですか「5様式」ですか?
庄内なら畿内でも(突然だが)階層化が急に進んで纒向に初期古墳(大墳丘墓)ができる。
5様式なら階層化はまだ未熟だが(おいおいこれ認めるわけね)。
ただ東瀬戸内は、弥生後期には播磨や讃岐あたりは墳丘墓もいくつもあるから階層化は進展してると思うが。
畿内と同列ではない。
それになぜまたここで突然「英雄時代」が出て来るか、まったく脈絡が無い。
この人は「天才的イデオローグ」「宗教革命」とか想像が多いな。
どうしようもない論理だな。
>>763 英雄時代論争ってかなり前の史観だよな?老講師もずいぶん古いの持ち出すな。
今の学者で「英雄時代」が普遍的にあったと考えているヤシって誰がいる?
実際は松木武彦氏が最近では言及しているが、学史的総括をしていないで唐突に持ち出すので、ちょっとそれはという気が。
だいたい
>>685 で「英雄時代」を認めて「大英雄」とか言ってるが、それじゃあ神武天皇でもありになりかねんが。
>>692 大久保氏の言説は、氏自身がどうかはともかく、別に自生説でも外部勢力主導説でもありだと思うが。
自生説でも、大和王権を強いものとして評価する論者は多いはずだが。
あなたの歴史観が全てではない。
また各地の古墳築造体系を無視して、全国同基準で古墳の規模で評価して、古墳初頭にだからこの地域は勢力が大きいとか、弱くなったとか安易に言ってる論者は自生説にも多いが。
例えば白石太一郎氏や福永伸哉氏など。福永氏の言説については
>>766 の文献の47頁以下参照。
外部勢力主導説でも、逆にだからこそ、地方の自律性を(王権成立当初は)統制できなかった、と解釈もできる。
769 :
763 :2005/08/30(火) 05:03:56
>>767 わたしは老講師さんとは別人です。
少なくとも、記紀に筑紫神話が殆ど採用されていないことは、
伊都国東遷説の弱点のひとつ。
>>756 >>庄内頃にそういうものがあったと文献に書いてある。
>>で、前期古墳が大和盆地
>>東南についで集中するし、
別にそれは否定しない。ただ、「一大卒」は派遣官であって在地勢力じゃなさそう。しかも諸国を検察して怖れられているという。
だから伊都の在地勢力が九州の中心だったわけではない。
ちょっと論点にスレ違いがあるが。
むしろ九州在地勢力の代表格は、那珂八幡古墳や原口古墳の存在、比恵遺跡の隆盛、博多湾沿岸での貿易の集中、畿内系土器(古墳祭祀にも関わるので政治的要素がない訳では無い)の波及中心からして奴国(福岡平野)に移っているのじゃないかということ。
>>都市の反映も変わらず続くと言う具合に考古学的にも
>>これに反する物証はない。
これはそのとおり。三雲遺跡は大集落として続いている。
>>758 同意してくれてありがとう。
>>769 私は外部勢力主導説で、通商圏拡大の意向からその勢力に筑紫も入ってたと思いますが、伊都国東遷説は採りません。
>>755 庄内式土器自体は単に土器の一様式であって、それ自体が王権の成立を示すと言うのは無理がある。
また庄内甕や精製土器等、典型的な庄内式は畿内といっても中河内や大和東南部等ごく一部にしか成立・普及していない。
もちろん纒向遺跡が大溝の掘削とともに突然出現するので王権は成立したと思うが、一大卒を派遣して筑紫を抑えるようになるのは必ずしも初めからではないだろう。
王権が成立して、そこに情報や技術、人が集中して力を貯える過程でもともと連合のメンバーであった筑紫をも制御するようになるかと。
実際的には庄内式後半からぐらいと考えるが。
「神代」の話って、全てではないにしても筑紫のことだと思うが
>>768 外部主導説の分からないのは、一部支配者階級たちが民を率いて畿内に土着→
大和政権へ、って、かなり月日がかかるだろうことを、
庄内→箸墓建設の短期間に詰め込み過ぎる点だな。
具体的にどのような状況を想像しているんだろ?
>>771 >典型的な庄内式は畿内といっても中河内や大和東南部等ごく一部にしか
>成立・普及していない。
ここが、マキムク政権最初の支配領域だったんでしょう。この地域の首長たちが
通商関係を通じて卑弥呼を共立した、と。
あなたは卑弥呼共立の時期を布留0の頃だと思っているんですか?
庄内にマキムクに王権が誕生していたことは間違いないと思いますが。
>>774 いや「神代」として地上の話にしないために書かなかった。
それでも天孫降臨は「筑紫の日向」
またイザナギの禊の場所も「筑紫のアオキ原」
777 :
768 :2005/08/30(火) 05:58:43
>>773 それは誤解。
纒向建設=2世紀最末期頃開始。
当初はおそらく東瀬戸内から大阪湾岸の連中主体だが、その後各地勢力が参与する。ただし当初の建設もこの新拠点の建設の株主はおそらく吉備や筑紫。
纒向が大型化した庄内後半から中心となる。
箸墓古墳=漏れは3世紀後半(トヨ?)
石塚や勝山が3世紀前半〜中頃
箸墓古墳まではかなり時間がある。
>>775 いやだから、王権成立と、それが強い力を持つ時期は別だと。
ヒミコ共立は庄内初めでもいいが、一大卒を派遣するようになったりするのは布留0式よりは前だろうが庄内式後半。
>>ここが、マキムク政権最初の支配領域だったんでしょう。この地域の>>首長たちが 通商関係を通じて卑弥呼を共立した、と。
あれ、じゃあヒミコ共立範囲は中河内(の一部)と大和東南部(の一部)だけ?(唐古鍵とか庄内甕はほとんどない)
畿内全部じゃなかったのかよ?
そうすると、その両方(中田遺跡付近と纒向付近)は先行する集落がほとんどないのだが。共立も何も誰が共立したんだ?
「共立」によって新しい拠点が形成されたのではないのか。
その共立主体は在地も巻き込むがもっと広い通商背景ではないのか?
>>777 共立の主体は、大和川水系の首長たちでいいのでは?
遠方からやって来た人々がいきなり拠点を次々作った、て方が非現実的だ
と思うが。
>当初の建設もこの新拠点の建設の株主はおそらく吉備や筑紫。
だとしたら
>>751 の「他の大陸系遺物が畿内にほとんどない庄内式(布留0式以前)
の時期に画文帯三角縁神獣鏡だけが入って来たというのはきわめて怪しい」という
指摘と矛盾するのでは?
もし筑紫勢力が主体的に関わっていたら、もっと大陸系遺物が出てくる筈
だよ。
>>778 矛盾しません。
だから「株主」(背後の主体)と書いている。
よく読め、纒向建設の「当初はおそらく東瀬戸内から大阪湾岸の連中主体だが」としているが。
ただし王が共立されたがまだ当初の実権はツクシや吉備。
ただ「中心」が形成されて、そこに力が集中するようになったと言っている。むしろはじめから纒向が外交権も持ったと言う方が矛盾する。
ある時点から(力を持った時点から)「一大卒」などの機構が整備されたのではないかと。
実際の大陸系文物は庄内後半から。
王権の伸長を2段階で考えている。
またすでにたいがい言っているし、有効な反論はないと思うが、「自生」勢力の根拠がないので、その方が非現実的。
目を覚まして下さい。
大和川水系がまとまって邪馬台国7万戸が成立。 その後、吉備、北部九州が参加して大倭国連合=前方後円墳体制が誕生した と。 マキムク建設時に、そのような倭国大連合が生まれていたとは思いにくい のだが。
>>779 いや、だから卑弥呼共立の時期はいつなのよ?
マキムク建設時ですか? その時に、筑紫も吉備も卑弥呼を倭国王として
承認してたのなら、
>むしろはじめから纒向が外交権も持ったと言う方が矛盾する
って言う方が矛盾するだろ。
>>780 と
>>781 って矛盾してないか?
邪馬台国がはたしてはじめから「7万戸」だったか疑問で、だんだん大きくなった(倭国王直轄領域として)と書いた。
ヒミコ共立は、「邪馬台国」だけでなく「倭国」王としての共立だと書いたし、そっちの方が定説。
もちろんその倭国連合の統制程度には諸説あるが、漏れの説を勝手に中央集権だからおかしいと批判するのは筋違いというこも書いた。
同じことのループしないでくれ。
あと「大和川水系」がまとまった考古学的証拠述べてくれ。
庄内式は上記の理由で却下。
外交権の問題は、3世紀前半までの大陸系文物の実際の分布から推定。
3世紀中頃の遣使の少し前くらいから実権を掌握するようになり、また魏に「倭国王」として承認されて、それが定着し、さらなる権力の集中となるということ。
倭国代表の王だったが、筑紫の従来からの実権は当初は統制できなかったということ。
>>781 どちらにしろ、地域間の交易で、大和が吉備や筑紫などの先進文化の影響を
受けたのは間違いない。人の流入、入植、技術者の受け入れも当然あっただろう。
ただそれを、オウたちが郎党を引き連れて移り住んだとか、クニレベルで話すから、
おかしくなるんだよ。
>>782 ながながと書いてるが、
>>781 の疑問には答えてくれないんだな。
卑弥呼「倭国王」共立とマキムク建設の前後関係はどうなるのさ?
785 :
782 :2005/08/30(火) 06:52:25
>>623-626 ,
>>630 ,
>>637 ,
>>640-641 ,
>>643 ,
>>646 の議論をもう一度読んで下さい。
あと何度も言うように、弥生時代以来のの大和川水系の「自生」勢力がまとまった(まとまっていた)考古学的証拠を提出して下さい。
庄内式は上記に述べたように一部の突然出来た拠点のみの話なので×です。
また前方後円墳成立後は結果の話ですから却下です。もしあげるなら庄内期の墳墓をあげてください、纒向以外のね。
786 :
782 :2005/08/30(火) 06:55:04
>>784 2世紀最末期と述べているが、、
>>783 「自生」勢力の発展による「倭国」王権の成立過程が証明し難い以上、外部勢力主導と言う仮説を排除する方が不自然だ。
頭からその仮説はあり得ない、おかしいと言う方がおかしい。
>>783 >倭国代表の王だったが、筑紫の従来からの実権は当初は統制できなかった
>ということ。
倭国王って、対外的に倭国の代表ってことだろ。外交権を握ってなかったって
無茶苦茶な言い分だな。
筑紫が「漢委奴国王」以来の外交権を手放さなかったのなら、
何のための倭国王共立なんだよ、まったく…
>また魏に「倭国王」として承認されて、それが定着し、さらなる権力の
>集中となるということ
遣魏使は公孫氏滅亡による鞍替えのためだろ。卑弥呼はその前から倭国王
だった。
>>787 >倭国王って、対外的に倭国の代表ってことだろ。外交権を握ってなかったって
>無茶苦茶な言い分だな。
つまり、「マキムクの女王は当初、倭国王ではなかった」
ってことでいいのでは?
>>786 あなたのいう外部勢力主導の「主導」って、どういう意味で書いてるのか?
>>788 そう。つまり、マキムク建設時、まだ筑紫は倭国王としての体面を保って
おり、プレ・大和政権に参加していなかった。
791 :
日本@名無史さん :2005/08/30(火) 08:24:30
卑弥呼の共立は、文献史学での研究から183+1年となっています。 倭国王は筑紫に都を構えており、勢力圏は九州以西(狗奴国を除く)です。
792 :
日本@名無史さん :2005/08/30(火) 09:08:25
誤記 筑紫は北部九州の誤りです.
倭国乱をとりあえず収拾するための倭国王→名目的な国王から実質的な倭国王へ→北部九州の外交権の掌握へ、ということ。 柔軟に考えたら? 3世紀前半までは畿内に中国文物は少ない。だからこのような想定は可能。
しかも当初は共立だから権力が統一されてなくても不思議ではない。 外部勢力主導共立説に賛同。
795 :
日本@名無史さん :2005/08/30(火) 17:06:39
外部勢力とは中国や楽浪郡のこととおもわれますが、どの文献のどこをどのように読んだら 共立を主導したとよめるのでしょうか。
>>795 はぁ?
このスレッドで議論している「外部勢力」説とは、その正否はともかく、畿内王権の成立が「自生」勢力か「外部勢力」かということであって(スレの議論をよく嫁)、日本列島外だということは誰も言ってないが。
日本列島の内部の畿内から見て外部の勢力と言う意味。
その主体も諸説あるが、伊都国説、北部九州説、吉備説、東瀬戸内説、河内説、あるいはこれらの複数の連合体と言う説など。
どうしてそういうふうに受け取るのか不思議だな。
797 :
日本@名無史さん :2005/08/30(火) 17:59:01
卑弥呼の共立は倭国の王ということだから、外部勢力とは違和感を感じます。
「外部勢力」=「畿内外部勢力」の略。 漏れは別にこの言葉に違和感は感じないが。 他に適切な言葉があれば教えてくれ。
>>793 >倭国乱をとりあえず収拾するための倭国王→名目的な国王から実質的な
>倭国王へ→北部九州の外交権の掌握へ、ということ。
外部勢力「主導」について、具体的にどういった流れを想定しているのか
まったく分からないので、反論のしようもないが、
>>783 で書いたような
>オウたちが郎党を引き連れて移り住んだ
とか考えていたら、おかしなことにならないか?
筑紫のオウがマキムクに移住した時に、何故「倭国王位」を故郷に残してきたん
だろうか?
倭国王位を筑紫に残して来たとは言ってない。 別の人の言説とごっちゃになってるよ。 「倭国王」は大和に成立した可能性が高いが、外交実権がしばらくは北部九州が持っていただろうということ。 筑紫や吉備や讃岐や播磨や丹後の「王族」が大和に来た可能性はあるとは思っているが。(寺沢薫説参照) 「王」は北部九州の某国か吉備、あるいはその両者を引くものだと思うが分からない。 纒向だけでなくオオヤマト古墳群全体で庄内新相ぐらいから複数系列の大型古墳があるから。 外部勢力主導説の流れはまだ未確定なのが正直なところだが、考古学的資料の実情からは苦しい自生説(畿内自生勢力発展倭王説)よりは可能性があるということでの仮説。 はじめからダメとか言わないでくれ。 ただし、ここまでの議論で「流れ」の想定はかなり述べているはずなので、よく読み返してほしい。 まあいろいろ柔軟に考えてくれ。
>>800 九州系の土器がマキムクから殆ど出土しないという考古学的資料の実情は
無視するわけね。
外部勢力主導説って、アンチ自生説なんだろうけど、何かよく分からん説だ、 というのが実感。主張している人がきちんとイメージ出来ていないことも あるんだろうけど。 各地のオウがマキムクに集まって、故郷に残してきたクニとは別に、 邪馬台国を築いた、って。歴史上、それに類例するような事例が 古代に見つけられるのか、と訊きたい。古代の政治形態では不可能に近い だろう。まだ、征服説の方が説得力がある。 考古学だけで考えるから、そんな非現実的な主張になるんだろうけど。
外部勢力主導説の言うことは、頭では理解できる。 っていうか、そのようなことは実際あっただろう。 弥生以降、文化は東漸、西日本の人々が新たな技術を携えて畿内に 入植していったのも間違いないだろう。 しかし、その変化のスパンを、庄内期に押し込めることに、どうしようもない 無理を感じるんだよな。
>>802 >各地のオウがマキムクに集まって、故郷に残してきたクニとは別に、
>邪馬台国を築いた
たぶん、寺沢は明治維新を念頭に置いてるんだろうけど。
確かに、古代倭国にそんなことがあったとは普通思われない。
地方の独自性が強く、倭国が一つであるという認識も無かった時代に、
そのような連合政権→中央国家成立を想定することは難しいと。
>>800 >「王」は北部九州の某国か吉備、あるいはその両者を引くものだと思うが
>分からない。
結局、外部主導説が主体勢力と言うのは、当時倭国で強国だっただろうクニを
上から二つ挙げているだけ。
石塚、ホケノに特殊器台がなく、マキムク搬入土器に九州の土器が出土しない
ことからも、この二国がマキムクを主導したなんて証拠は、何も見つかって
いないのが現状。
平城京や藤原京を造営する時に、かなりの数の古墳が削平されてるみたい だし、三輪山や葛城山の山間部に首長が葬られ未だ発見されていない可能性 もある。 外部勢力が入植してきた、ってアクロバティックな論を展開する以上、 もっと慎重な態度こそが肝要かと。
>>803 >しかし、その変化のスパンを、庄内期に押し込めることに、どうしようもない
>無理を感じるんだよな。
卑弥呼共立→マキムク建設を3世紀初頭、箸墓築造を3世紀半ばとすれば、
50年間か。
確かに、何も無かった所に外部から人が入植して大きな国が出来たと
考えるには、期間が短か過ぎる。239年の時点で考えれば、もっと短期間
になってしまうし。
なんらかの畿内自生勢力が、マキムク王権の基礎となったと考えた方が無難か。
大規模な征服があったと想定すれば別だけど。
>>804 >たぶん、寺沢は明治維新を念頭に置いてるんだろうけど。
あほらしい。3世紀と19世紀の交通事情の違いとかは、全く考慮していないのか
spring8の分析で、三角縁が中国産であることは決定なの?
伊都国東遷説の人は、津古生掛古墳についてどう考えているのだろう? 北部九州の前方後円墳の出現が、伊都や奴から遠く離れているのは 何故でしょうか?
811 :
馬耳 :2005/08/31(水) 07:59:50
>>803 庄内の最古式出現の実年代が何時頃なのか、私には判りませんが、
その作り手の母体には、吉備や九州から河内へ新規移住してきた
倭人や渡来系集団が含まれていると思います。
当然、移住集団には首長層などは含まれておらず、
畿内在地勢力と折り合いを付けながら混合し、
次第に成長して行ったのでしょう。
纏向はこの河内の新興勢力の分派が築いたクニ。
卑弥呼共立を三世紀初頭とすれば、庄内開始を二世紀末にでもしない限り、
タイムテーブル的な問題は無いかと。
卑弥呼は吉備系の王女ではないかと思っている。 箸墓被葬者の伝承があるヤマトトトヒモモソ媛が、吉備津彦神社に祀られて いること。 大和古墳群では箸墓で初めて円筒埴輪が並べられ、吉備の影響が強さが 認められること。 大和の人々は初めて見る円筒埴輪に囲まれた特異な古墳を、土師墓(ハジノハカ)と 呼び習わしたのだろう。 その大きさ、築造に関わる伝承が存在していることなども、箸墓は 当時、非常に重要視された古墳であったと思う。 つまり卑弥呼共立による吉備・大和連合成立のモニュメントとして、箸墓を 考えたい。 吉備系王女の共立で、キビ、ヤマトは勿論、カツラギやワニ、ヤマシロなど の畿内在地勢力の協力も取り付けたのだろうと思う。
津古生掛か。那珂八幡は同じくらいか、さらに古い可能性があるが。
814 :
日本@名無史さん :2005/08/31(水) 19:22:45
卑弥呼の共立は183年であることは、諸文献を照合することで算出されています。 この年を基準にして論議をすべきだと思います。
815 :
日本@名無史さん :2005/09/02(金) 08:17:55
あげとく
816 :
日本@名無史さん :2005/09/02(金) 20:01:11
>>809 初めの方の三角縁は舶載鏡と考えるのが妥当。
少なくとも、このスレの住人はマキムク王権=邪馬台国という考えだから、
三角縁は余り論点にはならないと思う。国産にしろ舶載にしろ、
三角縁は所詮、マキムク王権が出来た後、布留以降の話だから。
817 :
日本@名無史さん :2005/09/02(金) 21:09:45
>>813 津古生掛以外にも、石塚山や赤塚とか、那珂八幡より古いか同年代の
マキムク型がある。
北部九州勢力がけっして一枚岩ではなく、小国が群立していたことの証。
小国乱立は倭人伝の記載とも符合する。
また北部九州が先進地域だからこそ、小国家乱立が可能だったとも言える。
つまり、それなりの由緒のある国家が沢山あり、旧来の王たちは既得権益を
手放さず、新興の大和や吉備のような諸国連合→統一国家形成が阻害されたのだろう。
818 :
日本@名無史さん :2005/09/02(金) 22:18:44
>770 >別にそれは否定しない。ただ、「一大卒」は派遣官であって在地勢力じゃなさそう。しかも諸国を検察して怖れられているという。 >だから伊都の在地勢力が九州の中心だったわけではない。 >ちょっと論点にスレ違いがあるが。 >むしろ九州在地勢力の代表格は、那珂八幡古墳や原口古墳の存在、比恵遺跡の隆盛、博多湾沿岸での貿易の集中、畿内系土器(古墳祭祀にも関わるので政治的要素がない訳では無い)の波及中心からして奴国(福岡平野)に移っているのじゃないかということ。 奴国の王墓は後期には出てない以上、そういうのが「在地勢力」なのか 派遣された者なのか不明だろ。こりゃ三雲でも同じで、どれが一大卒の 墓でどれが地元の者で、どれが派遣者の墓なんてやってる学者はおらんぞ。 そういう区別が考古学的には困難である以上意味のない議論だ。 もしそういうこと言うなら、塗金鏡が出たから、伊都国在地勢力が復活だとか なんでも言えるわけでね。 それから、奴国の遺跡が凄いのは弥生時代から同じで古墳時代も続いた というだけ。どっちかというと庄内以降、奴国の遺跡は再編されてるが (衰退ということではない)、伊都国はそのままだ。
>>818 一大卒の定義によるけどね。
私は、中央・マキムクから派遣された代官なんていなかったと思います。
伊都国に大した古墳が無いことからも。
西都原や赤塚、那珂八幡、石塚山、津古生掛の首長たちが順番にその任に
就いたんでしょう。
820 :
日本@名無史さん :2005/09/02(金) 23:52:53
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/ 5
821 :
日本@名無史さん :2005/09/02(金) 23:53:25
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/ 5
822 :
日本@名無史さん :2005/09/02(金) 23:57:02
>805 >石塚、ホケノに特殊器台がなく、マキムク搬入土器に九州の土器が出土しない >ことからも、この二国がマキムクを主導したなんて証拠は、何も見つかって >いないのが現状。 特殊器台と倭王権成立を関連させているのは近藤義郎他一部の連中のみ で一般的な意見ではない。 土器については、強制労働随伴説がほとんどなので関係なし。
823 :
日本@名無史さん :2005/09/03(土) 00:03:43
>817 >北部九州勢力がけっして一枚岩ではなく、小国が群立していたことの証。 >小国乱立は倭人伝の記載とも符合する。 >また北部九州が先進地域だからこそ、小国家乱立が可能だったとも言える。 >つまり、それなりの由緒のある国家が沢山あり、旧来の王たちは既得権益を >手放さず、新興の大和や吉備のような諸国連合→統一国家形成が阻害されたのだろう。 これは全くのデタラメ。 後期の北九州ほど考古学的に政治的な序列が証明できる地域はない。 また、西四国のみならず、西瀬戸や南朝鮮、伊勢湾岸などにも影響が 推定される。さらに近年の玉器工房の遺跡から山陰地方との政治的関係も 推定されている。 庄内でも伊都国、奴国の遺跡は圧倒的であり、三雲には大和盆地に 次いで前期古墳が集中している。
824 :
日本@名無史さん :2005/09/03(土) 00:07:04
>808 >あほらしい。3世紀と19世紀の交通事情の違いとかは、全く考慮していないのか はあ、すでに北九州倭国時代でも朝鮮海峡の制海権を押さえていたと推定されて いるが。近年の考古学的発見からも日本海側の制海権も同様の可能性あり。 なんら不思議でもない。
825 :
日本@名無史さん :2005/09/03(土) 00:09:23
>804 >地方の独自性が強く、倭国が一つであるという認識も無かった時代に、 >そのような連合政権→中央国家成立を想定することは難しいと。 根拠なし。すでに2世紀初頭に「倭国王」概念が出来ている。
826 :
日本@名無史さん :2005/09/03(土) 00:10:52
>806 >平城京や藤原京を造営する時に、かなりの数の古墳が削平されてるみたい >だし、三輪山や葛城山の山間部に首長が葬られ未だ発見されていない可能性 >もある。 君の妄想だ。何の根拠もない。
827 :
日本@名無史さん :2005/09/03(土) 00:14:11
畿内王朝すなわち大和政権の誕生と発展という本スレの主題に沿して言えば、 経済力において大和が伸長拡張拡大したという経緯の考察が主眼ではないかと思う。 いわゆる経済史観が重要であると申し上げたい。 当時の軍事力は兵力つまりは兵数の多寡つまりは人口、人口は食料生産力の大小。 さらには地勢。気候。つまり、畿内大和は台風直撃の可能性は九州より大変少ない。 よって翌年の種籾にも腐心することもないことは、非常に恵まれたことです。 さらには、北部九州の国々が夫々の川に各々のクニが存したのに比して、大和は、 大和川の一本の水系にクニグニが生まれた。古来、治世は治水のこと。なんとなれば 大和は脆弱な九州の邪馬台国連合よりも強権的な国が醸成されたとして自然。 大阪平野に進出した大和が服属させた住吉水軍は、軍事的支配経緯考究にて重要。 当時、陸路進行しての軍事的勢力拡大はほぼ無い。瀬戸内の海が経済発展軍事力展開 の経路。卑弥呼の死を契機として入手量が増えた鉄器も、大和の拡大における大切な 要因要素。瀬戸内沿岸部陸地の制圧を西へ西へと展開。楽浪郡の滅亡による高等知識 保有難民の大和への大量流入による知識技術の取得が他の地域を凌駕したのも主因。
>>826 弥生後期後半の畿内地方で丘陵上に墳墓が造られたこと。
藤原京、平城京の造営で多くの古墳が壊されたこと。
いずれも事実だと思うが。
弥生中期以降、畿内地方が衰退した証拠はない。むしろ人口は増加していた。
後期以降、それまで存在していた墳丘墓が突然無くなったと考える方が不自然。
丘陵上に墓が造られたのは、首長たちが高地性集落に居住するようになった
ためではないかと思われる。
>>823 三雲遺跡に前期古墳がないのが痛いな。
古墳時代以降、筑紫独自の威信財体系は消失してしまうし。
比恵・那珂の首長は庄内土器を積極的に導入し、マキムク式古墳を造っている。
奴国が伊都国を裏切って大和に従った、と考えるのが通説だよね。
>>829 ×前期古墳→○初期古墳ね。
それ以外は概ね同意。
古墳時代以降の北部九州は、古墳の分布を見る限り、三雲が中心では
なくなっている。
831 :
馬耳 :2005/09/03(土) 08:31:51
>>829 「奴国が伊都国を裏切って」
伊都はもともと独立した地域では無く、奴國に抱合される地域だと考えられませんか?
単に奴國内で中心勢力が移動しただけ。
>>831 確かにそういう説もありますね。
しかし、倭人伝で伊都国と奴国を別国としていること。
三雲遺跡群が古墳時代中期前半まで存続していることなどから、私はその説を
取りません。
>>829 独自の威信財体系がないとだめなのか?
破鏡や折り曲げ鉄器副葬は九州では多く続くが。独自性がある。
モノは全国共通でも扱いが違うことがある。
また副葬用鉄鏃の一部には九州独自のものがある。
また方格T字鏡が九州にかなり多いことはどう評価しますか?
>>828 藤原京や平城京で削平されたのは中期古墳がほとんど。藤原京は後期古墳も削平しているが(四条あたり)。
初期古墳やましてや弥生後期の墳丘墓を削平したという根拠はない。
後期の丘陵上に高地性集落が増えるのも事実だが、そこに首長が居住したって、何を根拠に言っているのか?
遺跡名とその内容をあげて見て下さい。
また調査も増えているが、丘陵上に墳丘墓ができるのは庄内期以降がほとんど(実際は庄内後半からがほとんど)。
5様式後半になりそうな黒石墓などがあるが、貧弱な内容だ。
>>826 の言う通り、妄想に近い期待だな。
>>829 >>比恵・那珂の首長は庄内土器を積極的に導入し、マキムク式古墳を造っている。
>>奴国が伊都国を裏切って大和に従った、と考えるのが通説だよね。
それっていつから通説になったんだ?むしろ伊都国が畿内と結んで奴国を破ったとか最近まで都出氏などがいっていたが?
誰の説よ?
>>819 >>西都原や赤塚、那珂八幡、石塚山、津古生掛の首長たちが順番にその任に
>>就いたんでしょう。
地域も規模も時代もバラバラ。一大卒の範囲はすごい広いですねw
>>817 >>津古生掛以外にも、石塚山や赤塚とか、那珂八幡より古いか同年代の
>>マキムク型がある
津古生掛って、あのいびつな墳形が「纒向型」なのか?
石塚山や赤塚が纒向型っていう話は初めて聞いたが。石塚山なんかは定型化しているが。
那珂八幡は独自の型(纒向型より前方部が長い)。赤塚はその系統という説もあるようだし。
>>802 >>各地のオウがマキムクに集まって、故郷に残してきたクニとは別に、
>>邪馬台国を築いた、って。歴史上、それに類例するような事例が
>>古代に見つけられるのか、と訊きたい。古代の政治形態では不可能に近い
歴史上のアナロジーの有無で正否を決めるのは不毛です。実際には歴史上もいろんな例がありますし。例えば
>>6 を参照。
「共立」という文献上の記述と考古学的状況からはそういう仮説もありという状況です。
>>806 >> 三輪山や葛城山の山間部に首長が葬られ未だ発見されていない可能性
って、この方が上に批判があるようにもっとアクロバティックな話し。
「もっと慎重な態度こそが肝要かと。」
>>807 >>>しかし、その変化のスパンを、庄内期に押し込めることに、どうしようもない
>>>無理を感じるんだよな。
>>卑弥呼共立→マキムク建設を3世紀初頭、箸墓築造を3世紀半ばとすれば、
>>50 年間か。確かに、何も無かった所に外部から人が入植して大きな国が出来た
>>と考えるには、期間が短か過ぎる。
あのね、大した勢力じゃなかった、田舎の小勢力だった大和の自生勢力が50年で自力でマキムク王権、しかも倭国を統率する王権を作ったと言う方が無理がある。
もともと各地の強大な勢力(北部九州、吉備、丹後など)が大同団結したとすれば、大きな国が急速にできたとしても全く不思議ではない。
839 :
馬耳 :2005/09/03(土) 21:38:49
>>808 >>あほらしい。3世紀と19世紀の交通事情の違いとかは、
>>全く考慮していないのか
それを言い出すと、畿内が九州を抑えられるわけがない、中国の状況をリアルタイムに知るはずもない(公孫氏→魏とか)、ということになりかねず、畿内説の首を自ら絞めることになるので、無意味な議論ですね。
実際そういう理屈で九州説を主張する人もいますし。
ですが、
>>824-825 の言う通り、倭国の交通網は情報伝達や物資流通に支障がない程度には整備されていたと思いますが。
>>839 普通に古い可能性はありますが(布留1式くらいとか)、最古級とか庄内とかいう根拠はないと思います。
>>811 馬耳さん
>>庄内の最古式出現の実年代が何時頃なのか、私には判りませんが、
>>その作り手の母体には、吉備や九州から河内へ新規移住してきた
>>倭人や渡来系集団が含まれていると思います。
さすがに畿内自生説の他の方より柔軟な考えですね。ただ、
>>当然、移住集団には首長層などは含まれておらず、
これは問題でしょう?九州からの集団は、むしろ首長層、エリート層、技術者と思いますが。葬送儀礼の思想や秘儀を知っている人や、外交や統治に精通している人がいたのではないでしょうか?
>>801 >>九州系の土器がマキムクから殆ど出土しないという考古学的資料の実情は
>>無視するわけね。
まず事実関係ですが、九州系土器は少しですが纒向にあります。九州の弥生終末頃の複合口縁壺の口縁部と(常松氏が指摘)、頸部(纒向石塚盛土中に1点)があるようです。
最近は、福岡平野で作られた庄内甕がわずかながら(1、2点)逆輸入されているものがあるという指摘もあります。(二上山博物館シンポジウム資料の久住氏の指摘)
ただしこれは布留0式に下るとのことです。
確かに少ないのは事実ですね。
しかし土器の有無については、政治勢力、王権の移動に伴って必ず伴うかは別問題です。
例えば原田大六は(この人はガチガチの征服説ですが)、軍隊は土器なんか持たず、当時は略奪か現地調達だと割り切っていました。やや極端ですが、一理あります。
ただし、金関丈夫は、弥生文化の成立が朝鮮半島からの多くの渡来人が来たことによるものだとして、土器にはそれほどの影響はないのは、渡来人が男性が多かったからとしています。
そうです、当時の土器作りは性別分業で、女性が主体的であることが定説です。この点は都出氏や佐原氏も強調していますね。
さらに、弥生土器の生産は全てではないとしても、ある程度専業化していたのではないかというのが最近の研究の潮流です。
そうすると、(1)入植した人々は男性主体であり、また(2)土器生産に直接関わらないような首長層などの特定層、がやって来たとすれば、土器様式上の影響はあまりなかった可能性があります。
「古墳時代像を見直す」の中で、北條氏が北部九州からエリート層が来たかというような図がありますが(130頁)、そういうことであればありえない話しではありません。
少し違いますが、弥生後期の日本海側では、漁具(石錘や釣針)や鉄器から北部九州の人々がかなり各地へ行っていたはずです.
しかし土器は、一部に複合口縁壺は点々と出土するものの、土器様式の各地への影響はほとんどありません。
これは男性主体の漁撈民(=海洋交易民)が移動していたからでしょう。
>>843 の続きです。
また当時の九州の土器は、なぜか厚手の土器が主流で(粗製でも大量に作る方に重点がおかれた可能性がありますが)、土器の精巧さという点においては他の地方とは違う方向に行っています。
したがって新たな王権を象徴する土器としては、畿内の在地土器様式に瀬戸内や東海の要素を混合して新たに創造された「庄内式」を採用したとも思われます。
あくまで「共立」ですから、他の地方のより優れた要素が優先されたこともあるのでしょう。
吉備系土器については、河内の庄内式初頭には中田遺跡に吉備系がかなり集中するセットがあるなど、吉備の土器の強い影響で5様式が一部で突然変異して庄内式が作られたというのはほぼ通説と思われます
纒向でも、庄内0式にたしか辻土坑3でしたか、吉備の土器がまとまって出土しています。ですから新たな土器様式については吉備の影響下にあるのでしょう。
>>805 >>石塚、ホケノに特殊器台がなく、
弧文円板の文様は特殊器台や弧帯石が前提じゃないの?
また箸墓古墳段階にあれだけ吉備の影響が強くなるのはその前から関係が深かったと考えるのが自然。
またホケノの場合、吉備ではないが讃岐や播磨の強い影響があきらかだが。
>>マキムク搬入土器に九州の土器が出土しない
これについては説明した。
>>819 一大率は女王が派遣したことになっているが?
女王の都するところは邪馬台国、これが纒向中心だったら纒向王権が派遣したことになる。
このことは自生説でも東遷説でも基本的な話。
しかも各国を監察しているとも書いている。ある種の代官的な職掌であったのは明らかだ。
派遣官なので、あるいは在地勢力化して伊都国に古墳があってもいいが、あるいは帰葬しているかもしれないが。
>>818 後期の奴国王墓は不明だが、57年の倭奴国王は奴国ではないのかい?
また須玖岡本縁辺の松添遺跡(方格規矩鏡+内行花文鏡)などを見ると、その上に須玖岡本の某所に鏡多数の王墓があってもいいと思うが。
107年の「倭国王」以後は王は伊都国に一本化されたのだろうが。
那珂八幡は墳形も畿内と少し違うし、比恵那珂遺跡の継続からすれば在地勢力でいいんじゃないか?
いや、やっぱりね。大和に王都が造られたのは、大和が人口が多くて豊かな 地域だったんだと思うんだよ。 そこに、外部主導説の人と私の根本的な違いがあるんだよね。 エリートが来たにしろ、たかが50年で人口が急増したり、耕地面積が倍増 したりなんか、非現実的な絵空事と思うわけ。 豊かなクニに大きな権力が生まれるのは、別に不思議じゃない。 いやむしろ、吉備や北部九州のエリートたち(王族?)が、 なぜ、豊かな故地を捨ててまで、わざわざ貧困な地域に移住する必要がある のだろう。
一部エリートが畿内勢力の王として迎え入れられたことは、あったかもしれない と思う。私自身、卑弥呼が吉備出身であったのでは、と思ってるし。 しかし、在地性の強い古代の農業国家が、クニごと移動するなんて普通では 考え難いんだよね。 一部エリートを王として推戴したにしろ、その勢力はやっぱり畿内在地勢力と 思うな。 このあたりまでは妥協してもいいよ。
>>847 大和が「豊かな」地域だったというのはある程度肯定するが、実際は弥生時代までの灌漑技術や鉄器の質量では限界があった。
ちまり、外からの集中的な資本投下と入植によりポテンシャルがあったところに飛躍的に力が増大したと考えるわけ。
それに弥生時代まで大した勢力じゃなかった大和の勢力が50年で自前で(=自生)で倭国で最も強大な勢力になったと言う方が絵空事なわけ。
そのプロセスが、考古学的資料に基づき示されなければまさに絵空事ですよ。また弥生時代ですでに「豊か」であったというなら、どの程度のモノかも考古学資料で示してもらわないとそれも絵空事です。
>>豊かなクニに大きな権力が生まれるのは、別に不思議じゃない
と言っても、具体的にどう豊かだったか示さないと。
>>なぜ、豊かな故地を捨ててまで、わざわざ貧困な地域に移住する必要>>>があるのだろう。
「共立」のための妥協と、商圏拡大の中心地にするためでしょ。それに、王族やエリート層が全て移住した訳でもない。
故地に残った連中も多かったが、「共立」したはずだが、思いのほか、新たに成立した王権に人、物、技術、権力が集中して強大化してしまい、結局その支配下になってしまったということ。
>>623-625 も参照して下さい。
>>846 >女王の都するところは邪馬台国、これが纒向中心だったら纒向王権が
>派遣したことになる。
なんか、頭固いよね。
親大和の北部九州勢力に、軍役を課したとは考えられないかな。
畿内から代官を派遣したところで、北部九州の王たちの軍事力をアテに
してただろうし。代官に拘る理由が分からないな。
当時はまだ各地の王たちは自主性を有しており、大和政権も中央集権国家とは
程遠い、有力豪族の連合政権というのが実体なんだよ。
>>849 農業国家が移動するなんて想定自体、かなり無理があるけどね。
戦国時代ですら、大名が本拠地を移すのには苦労したんだし。
征服王朝なら別ですが。
>>849 >と言っても、具体的にどう豊かだったか示さないと。
自分で言ってるじゃない。>大和が「豊かな」地域だったというのはある程度肯定する
って。
>>848 いや、北部九州諸国や、あるいは日本海側の出雲や丹後なんかは、農業国家というだけでなく、海洋交易国家だったと思うが。
丹後なんか後背地の農業生産力なんか大したことないので交易国家だっただろうとは広瀬和雄氏等も言っている。
北部九州諸国は言わずもがな。
実際、倭人伝でも交易の話しはかなり出て来るので、倭国が交易を非常に重視していたのが分かる。(南北市テキ、国々に市、大倭、一大率、「都市」牛利など)
だから単純に、農業国家だから在地性が強いとは言えない。むしろ地中海のギリシアやフェニキアのような都市国家とその合従連衡みたいなことを考えた方がいいのではと思う。
ただし、大和に王権が出来てからは、農業に重点が傾いたとは思うが。
>>852 ただし書きがついているが。
弥生後期では倭国第一の勢力となるほどの豊かさはなかった。
自然環境上、やや優位な点はあったが、物流関係上、技術上問題から弥生後期までは強大な社会を形成するには至らなかった。
潜在生産性としてはあったが、弥生時代にはそれが達成されてなかった。
>>838 >大した勢力じゃなかった、田舎の小勢力だった大和の自生勢力が50年で
>自力でマキムク王権、しかも倭国を統率する王権を作ったと言う方が無理がある。
畿内勢力が大同団結して大きなクニが生まれたとは考えられませんか?
>>854 >弥生後期では倭国第一の勢力となるほどの豊かさはなかった。
うーん。首長墓だけでしょ。その根拠は。
何らかの共同体の規制があったかもしれないし。
少なくとも、弥生中期には畿内にも首長墓が出現してるわけで、
それが後期に消えるのは、畿内が衰退したからと考えてるのかな?
>>855 すでに言っているように、ない。
畿内が大同団結した証拠がない。
纒向に、例えば摂津や山城、和泉の要素があるか?
庄内期の古墳はどれほどあるか?
百歩譲って、畿内諸国あたりの領域で大同団結しても、地域ブロックができるだけで、吉備や北部九州を乗り越えられない。
>>857 なんか思い込み、激しいね。
なんでそこまで断言出来るのかな。
>纒向に、例えば摂津や山城、和泉の要素があるか?
そもそも、首長霊祭祀自体が始まってないし、要素が無いのは当然と
言える。
外来の(阿波、讃岐地域あたり)先進葬送儀礼を取り入れたのかもしれない。
阿波も讃岐も銅鐸地域。古くから畿内と関係が深いし。
860 :
馬耳 :2005/09/03(土) 23:22:56
>>842 >九州からの集団は、むしろ首長層、エリート層、技術者と思いますが。
>葬送儀礼の思想や秘儀を知っている人や、外交や統治に精通している人がいたのではないでしょうか?
首長層まで来てしまうと、もう本格的な「侵出」ですよね。
弥生中期以前に河内湖周辺にたどり着いた集団ならともかく、
後期以降なら、在地勢力との間でかなり大きな軋轢が生じると思います。
唐古と纏向が並存するような状況には当てはまらないのではないのでしょうか?
>>844 庄内式土器の成立に吉備系の影響が強いのはそうかもしれませんが、
馬韓系軟質土器の影響もないでしょうか?
大阪・平野の長原遺跡や堺の四ツ池遺跡(畿内V様式期)に出土例があるそうです。
>>858 「思い込み」という根拠は?
なおこちらが「断言」している根拠はここまでもスレッドをもう一度よく読むように。
「自生」でなければならないという「思い込み」を一回捨てた方が宜しいかと思いますが。
また、
>>>纒向に、例えば摂津や山城、和泉の要素があるか?
>>そもそも、首長霊祭祀自体が始まってないし、要素が無いのは当然 と言える。
だから、畿内が団結したという根拠を示せないということですね?
聞いていることに答えていません。全く違うことを言っています。
あと、何度も言いますが、畿内で団結できたとしても、何ゆえにそれが北部九州をも包摂する「倭国王」になれたのかという説明がその場合に根本的に欠けることになるのですが。
>>860 馬韓系土器の畿内の出土は九州に比べたらかなり少ない。
その影響を受けた(馬韓とは断言できないが)可能性のある格子目タタキのある5様式系土器もいくつかのいせきで僅かにあるが、継続性がない。調整の一部に影響があるが、ごく僅かで、器種の模倣などは全くない。
これらは庄内式の成立には無関係のイレギュラーな一部の変容である。
>>後期以降なら、在地勢力との間でかなり大きな軋轢が生じると思います。
>>唐古と纏向が並存するような状況には当てはまらないのではないのでしょうか?
いや、唐古に庄内式甕がなかなか進出しないという点、庄内になっても環濠を掘る点で、軋轢とまでは言わないが、唐古は纒向の外部につながる、新しい社会とはかなり異質で保守的な様相。
庄内甕が唐古になかなか入らないのは物流関係上も近い割りには疎外された状況とも考えられる。だから唐古の在地勢力主体で纒向を作ったと言うのは難しいのではないでしょうか?
>>850 頭かたいとか言う以前に、倭人伝の記述と全然違うことを言ってるが。
大体、軍役を課すぐらいだったら、重要な権力は握っていることになり、連合政権とは言ってもかなり大和が優位の政権ということ。
むしろ私の方は軍役を課したとまでは思ってないが。
それに、ここまで議論したように、この問題はかなりスレ違いがあるようで、私の方も「中央集権」なぞ考えていないことは何度も説明したし、そのことは一度合意したはずだが。
反論のための反論はやめてほしい。
>>863 軍役を課さないということは、畿内から大軍勢を連れていったってことですか。
そのマキムクの代官が。
一大率については、「諸国を検察」「国中において刺史の如き」とある。また「諸国これを畏憚す」とある。 その後に続いて津での外交文書や文物のやり取りについての記述がある。 つまり、やはり代官的な監察官であり、外交・対外(国家的)交易を担当していたことが明白。 そのままではつながらないかもしれないが、後世の大宰帥のような役職だった。 諸国への権力行使は大宰府の時代ほどではないにしても、その原型とみてよい。 というか、そういう見方が通説だと思いますが。
866 :
馬耳 :2005/09/04(日) 00:18:17
>>862 私も唐古から纏向と言う直接的な動きではないと思います。
もともと、纏向は河内と伊勢湾方面との流通経路の中継点にあたります。
庄内式の最古式が河内発生だとすると、纏向での作り手達は河内からの分派でしょう。
この集団は河内湖一帯での低地水田の開発などにも長じていて、
その治水・土木技術などにより、大和在地勢力が利用していなかった未開地を開発したが、
もともと唐古を中心とする大和の勢力は、瀬戸内への出口である河内と同一経済圏に属し、
この関係の下、さして重大な衝突は生じなかった。
ただ、あくまでも唐古などは保守的な旧習を守り、徐々に衰退していき、
新興の纏向は、播磨あたりまで浸透してきていた新しい首長制度を取り入れたのだと思います。
それと、庄内式の作り手はかなり特殊な特定集団だと思います。
製作地の偏在がその証ですが、新規の渡来系集団の存在が考えられると思うのですが・・・
>>864 話がそれている気がするが?
軍勢を連れていった可能性があるが、「大」軍勢とは思わない。
現地での徴用も考えられないこともないが、そのこと自体はここでの問題ではない。
倭人伝では軍役のありかたについては記さず、一大率の役目として書いている訳ではない。
また連れて来た軍勢自体も、各国からの混成軍だっただろう。
おっと、ここでやっぱり諸国に軍役を課してるのを認めるのかよ、と言われるかもしれないが、
一大率の役目とはそれはまた別と言っておく。
馬耳さん、 庄内式という土器の作り手自体は、畿内(中河内と、少し遅れて大和東南部)の在地工人集団と、吉備系の連中の混合かと。 それ自体が渡来系ではないと思いますし、その根拠もないです。
>>848 一部エリートがやって来て、マキムク政権が誕生ってことでいいと
言ってるじゃない。
そのエリートを担いだのが畿内自生勢力ってことで。
なんでクニ丸ごとの移動に拘るのかなあ?
何か思想的なものがあるの?
>>867 なんか混乱してるね。
君が何に拘っているのか分からないな。
倭国王に地位を承認されること。その見返りに軍役を課される。
ありきたりな関係だと思うが。
>軍勢を連れていった可能性があるが、「大」軍勢とは思わない。
北部九州諸国を圧するには、それなりの軍勢が必要でしょ。
>現地での徴用も考えられないこともないが、
どこの村から徴用したのやら。ヤマト政権の屯倉がこの時期に北部九州
にあったんですか?
>>869 寺沢氏や北條氏が言っているように、もともと大きな権力主体がないのに、また首長墓祭祀などの重要要素が外部起源ばかりなのに、
<自生>勢力が主体的イニシチアブをとることが考え難いからです。
また「担ぐ」のも、北部九州までを巻き込んだ広域でないと、そもそも広域の「倭国」の王たりえないからです。
単に外部のエリートを畿内の連中だけで担いだのなら、畿内地域だけの王が成立するだけですが、「倭国王」は成立しないと思います。
担いだのは畿内の連中だけではないし、また主要な儀礼系譜とそれまでの勢力分布から、主体は畿内から見たら外部の連中が主体とすべきです。
この点は何度も説明していますが、その地域だから、その地域の自生勢力に決まってるジャン、という無意味な反論しかありませんね。
この点については北條氏の「古墳時代像を見直す」85頁以下をよくもう一度読んで下さい。
別に私の場合、思想的なものはありません。ただ単に考古学的資料の状況からですが。
それともなんで「自生」にこだわるのかな?
>>どこの村から徴用したのやら。ヤマト政権の屯倉がこの時期に北部九州
>>にあったんですか?
一大卒が北部九州で軍役を課したといったのは
>>850 なんだが。そっちに言えよ。
現地徴用があったとしても、「倭国王」名で、各国の大首長に要請したということだとう。
>>北部九州諸国を圧するには、それなりの軍勢が必要でしょ。
圧するとうより、もともと連合国であり、共立諸国。
だから「圧する」ほどの軍勢はいらない。
しかし、外交権は今後こちらに一元化しますよ、魏の認める代表である「王」はこちらですよ、ということをあらためて認めさせ、その示威には必要な
程度の軍勢だろう。
>>倭国王に地位を承認されること。その見返りに軍役を課される。
>>ありきたりな関係だと思うが。
この時点ではありきたりな関係とは思わない。
どういう制度を考えているんだ?
なお、倭国王による「地位承認」の確立はもう少し後と思う。この時期(3世紀中頃)は過渡期かと。
元々共立負うであり、連合色が強かったが、魏との外交により倭国王としての権限が強化し、権力が集中していくのだと思う。
873 :
872 :2005/09/04(日) 00:50:20
共立負う→共立王
>>871 >もともと大きな権力主体がないのに、また首長墓祭祀などの重要要素が
>外部起源ばかりなのに
このあたりのことは、君とはずっと平行線だし、君の言わんとするところは
分かるが、まあ、根拠に乏しいと。
あと、当時のヤマト政権の軍は豪族の混成軍だっただろうし、直轄軍という
発想自体、中央集権的国家を想定していると言われて仕方がないよ。
構成する有力首長層からの徴集だろ。 王の直轄軍はいても、中央集権かどうかはその制度と規模によるから君の批判はあたらない。 また中央集権的かどうか、地方が自立的かどうか、またその程度について、君は考えを述べているだけで、その証拠が示されていないが。
875の根拠が乏しいって、例えば畿内に大きな権力主体がなかったことについてかなり説明しているが。 それに有効な反論を示せず、大きな権力主体があったことの方が根拠がきわめて乏しい。 古墳の重要要素が外部起源であることは君も認めている。 だから外部勢力説は十分に根拠がある。君が認めないとしても、仮説としての可能性は認めるべきだ。 外部のエリートを担いだことまで認めているなら(担いだ主体はあくまで在地にこだわるとしても)、それに至る理由は外部勢力説と重なっているはずだ。 だから、こちらの仮説の根拠が乏しいというのは矛盾している。
>>874 いきなり屯倉を言い出した
>>870 に聞けよ。
その成立は6世紀以降だろ。ここでの話しには無関係だ。
879 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:03:46
>829 >三雲遺跡に前期古墳がないのが痛いな。 これはウソ。大和盆地東南部に次ぐ集中を見せている。 >古墳時代以降、筑紫独自の威信財体系は消失してしまうし。 これもウソ。 その威信在体系が前方後円墳体制下でそのままほぼ拡大している。 >比恵・那珂の首長は庄内土器を積極的に導入し、マキムク式古墳を造っている。 >奴国が伊都国を裏切って大和に従った、と考えるのが通説だよね。 通説どころかそんなことを言っている学者自体がいない。 考古学的にはもちろん、文献からも証拠なし。
880 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:05:58
>830 >古墳時代以降の北部九州は、古墳の分布を見る限り、三雲が中心では >なくなっている。 これもウソ。 圧倒的に三雲に集中している。
881 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:12:45
>819 >一大卒の定義によるけどね。 >私は、中央・マキムクから派遣された代官なんていなかったと思います。 一大卒が地元の人間か派遣者かは、不明だが、派遣者と見る人が多いだろうな。 証明しようがないがね。 >伊都国に大した古墳が無いことからも。 これはウソ。 >西都原や赤塚、那珂八幡、石塚山、津古生掛の首長たちが順番にその任に >就いたんでしょう。 そういう可能性はあるかもしれないが、伊都国で埋葬かもしれないし、 畿内に帰って埋葬されたのかもしれないわけで、考古学では証明不可能 な問題だな。
882 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:17:47
>828 >弥生後期後半の畿内地方で丘陵上に墳墓が造られたこと。 >藤原京、平城京の造営で多くの古墳が壊されたこと。 >いずれも事実だと思うが。 そんな事実はない。一から勉強しなおせ。 >弥生中期以降、畿内地方が衰退した証拠はない。むしろ人口は増加していた。 >後期以降、それまで存在していた墳丘墓が突然無くなったと考える方が不自然。 集落の衰退・石器の減少・防御的高地性集落といくらでも証拠があるのだが 知らないのか。
883 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:21:47
>835 >津古生掛って、あのいびつな墳形が「纒向型」なのか? >石塚山や赤塚が纒向型っていう話は初めて聞いたが。石塚山なんかは定型化しているが。 >那珂八幡は独自の型(纒向型より前方部が長い)。赤塚はその系統という説もあるようだし。 マキムク型というのは寺沢が勝手に定義しているだけなので、最初の方の古墳でも その定義の範疇外はある。そもそもマキムク勝山(那珂八幡もこれと同じ)自体が 違っていたのですでに学説として妥当性を失っている。
884 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:31:33
>845 >>>石塚、ホケノに特殊器台がなく、 >弧文円板の文様は特殊器台や弧帯石が前提じゃないの? >また箸墓古墳段階にあれだけ吉備の影響が強くなるのはその前から関係が深かったと考えるのが自然。 なことはない。石野とかが言っているだけ。 これについては、各学者の言っていることがバラバラな状態。 近藤義郎もなぜか否定しているようだ。 それから布留期の宮山式規については、吉備への逆輸入説も 唱えられているような有様。
885 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:47:20
>846 >後期の奴国王墓は不明だが、57年の倭奴国王は奴国ではないのかい? >また須玖岡本縁辺の松添遺跡(方格規矩鏡+内行花文鏡)などを見ると、その上に須玖岡本の某所に鏡多数の王墓があってもいいと思うが。 >107年の「倭国王」以後は王は伊都国に一本化されたのだろうが。 そりゃそうじゃないの。別にそれを否定してないが。 >那珂八幡は墳形も畿内と少し違うし、比恵那珂遺跡の継続からすれば在地勢力でいいんじゃないか? 勝山と同じタイプと推定されているが(つーかまだ詳細不明)? どっちも「寺沢言うところの」典型的なマキムク型ではないのはたしかだが、仮に 詳細調査の結果で形が違っているからこれは在地勢力で・・・なんてことは 証明されるわけがない。 三雲の古墳もはかなり調査されているが、そんなことは判別してない。
886 :
日本@名無史さん :2005/09/04(日) 19:57:22
>848 >一部エリートが畿内勢力の王として迎え入れられたことは、あったかもしれない >と思う。 「王」権継承に伴う儀礼そのものが、北九州のものなのだが。 なので考古学的には王権が移動したという結論以外ありようがない。 その前に畿内では王そのものの存在が証明できない。 >私自身、卑弥呼が吉備出身であったのでは、と思ってるし。 卑弥呼共立=マキムク成立という前提なら、特殊器台は布留0以降しか 出ないので却下。近藤の旧説は、マキムクに焦点があたる前に作られたもので これも布留期からしかでない△鏡卑弥呼共立記念説と同様に今では通用し ない学問史の遺物だ。 >しかし、在地性の強い古代の農業国家が、クニごと移動するなんて普通では >考え難いんだよね。 >一部エリートを王として推戴したにしろ、その勢力はやっぱり畿内在地勢力と >思うな。 >このあたりまでは妥協してもいいよ。 そんな法則はない。世界史を勉強しろ。
887 :
老講師 :2005/09/04(日) 22:07:39
>畿内王朝すなわち大和政権の誕生と発展という本スレの主題に沿して言えば、 >経済力において大和が伸長拡張拡大したという経緯の考察が主眼ではないかと思う。 >いわゆる経済史観が重要であると申し上げたい。 おっしゃるとおり、この時代の経済情勢を無視した単純な征服史観が 蔓延しているのは憂慮すべきですね。 >当時の軍事力は兵力つまりは兵数の多寡つまりは人口、人口は食料生産力の大小。 >さらには地勢。気候。つまり、畿内大和は台風直撃の可能性は九州より大変少ない。 >よって翌年の種籾にも腐心することもないことは、非常に恵まれたことです。 >さらには、北部九州の国々が夫々の川に各々のクニが存したのに比して、大和は、 >大和川の一本の水系にクニグニが生まれた。古来、治世は治水のこと。なんとなれば >大和は脆弱な九州の邪馬台国連合よりも強権的な国が醸成されたとして自然。 >大阪平野に進出した大和が服属させた住吉水軍は、軍事的支配経緯考究にて重要。 >当時、陸路進行しての軍事的勢力拡大はほぼ無い。瀬戸内の海が経済発展軍事力展開 >の経路。卑弥呼の死を契機として入手量が増えた鉄器も、大和の拡大における大切な >要因要素。瀬戸内沿岸部陸地の制圧を西へ西へと展開。楽浪郡の滅亡による高等知識 >保有難民の大和への大量流入による知識技術の取得が他の地域を凌駕したのも主因。 同感です。大規模な治水が必要とされる畿内では、小権力による富の 蓄積が規制された可能性が高い。その治水の必要性こそが倭王権誕生 の契機となったと言う仮説は一定の説得力を持ちます。 北九州の個人墓の豪華さに幻惑され、このことを無視する学者は多い。
888 :
老講師 :2005/09/04(日) 22:12:35
とはいえ、そのような素朴な征服史観が蔓延していた九州の 考古学者の間にもこれを疑問視する声が一部あるようですね。 たとえば日本海地域と朝鮮半島との鉄器の交易を実証した 武末氏などは今後、注目すべき学者です。 ここから日本海貿易を通じ、鉄器を初めとした先進文明が 畿内勢力にもたらされた可能性、そしてされによって、 瀬戸内ルートを九州勢力から奪取した可能性が非常に高い 確立で導かれるわけです。
889 :
馬耳 :2005/09/04(日) 22:21:12
>>886 "「王」権継承に伴う儀礼そのものが、北九州のものなのだが。"
これって「三種の神器」セットのことを言ってますか。
それとも、綾部山39号墳や楯築でも見られる破砕祭祀とかですか?
890 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 21:20:46
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
891 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 21:22:17
「九州説を主張するサイト」は数多くの人がたてていますよ。
古田武彦氏もその一人。
「九州王朝」でサイトを検索して、
又そこに出てくるキーワードを再検索すれば、
九州王朝についてのサイトやHPは続々と出てきます。
九州王朝批判のサイトも見つかります。
九州王朝に関するサイトやHPでは、
中には大和朝廷説派の立ち入り書き込みを規制しているところもあります。
大和朝廷説派が誹謗中傷のアラシをするからです。
ただ、どの九州王朝に関するサイトも学術的なものが多いですから、
初心者入門レベルでは理解し難い内容です。
最初は前述等の書籍(サイトでも書籍の紹介ページがあります。)から取り付くのが良いかと思います。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/
892 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 21:56:29
ここは、畿内説コヴァ専用スレッドだな。 恐ろしくレベルが低い。あきれ返るばかりだ。
>>887-888 老講師氏
何処かで見覚えのあるレスの内容???
もしや………
可能性ありかな?
894 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/06(火) 22:12:44
おたずねします。 箸墓ですが、この古墳からは埴輪は発見されているのでしょうか。発見されているならば、どのような埴輪でしょうか。 はいって調べられないようですのでよろしくお願い致します. ついでにもうひとつ。倭彦命の陵はどこと比定されているのでしょうか。
895 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 22:21:11
網野善彦が指摘したように日本という国号と天皇は表裏一体である 日本国は天皇制と不可分の歴史的構造体である 日本の歴史的統治構造は天皇と律令を基盤としている 日本の上流社会の閨閥は天皇家を基盤・中心としている 日本の文化的構造は天皇を不可欠としている 天皇制打倒こそが日本改革唯一の道である 天皇が日本国なる幻影を生み出す諸悪の根源である 天皇制打倒から必然的に日本という国号を廃止 国旗・国歌も全て廃止 革命後の新制国家は 過去の血塗られた日本国の歴史・伝統を一切拒絶し 科学と理性を中心とし社会契約論に基づいて建国された 唯物的企業連合国家となるべきである 大統領制は米帝国家主義の権化である 日本革命後の新制企業連合国家は立法者と一般意思の体現した 科学的情報共同体による相対的政治を実現する
896 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 22:23:09
897 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 22:31:39
いや倭人伝も尊重しながら、また場合によって記紀も参照し、考古学的に検証している。 この時代は考古学が主体なのは仕方ない。しかし考古学も歴史学の一部。 またこのスレッドがあるおかげで、心ある古代史ファンが考古学の方法や学説を知ることが出来ている。 これは古代史研究にとって有意義だ。 馬耳さんも、プラムさんもここにあった方がいいですよね。
899 :
老講師 :2005/09/06(火) 23:21:43
>766 >最近の京大系学者が中心となった『国家形成の比較研究』(学生社)でも、世界各地の古代国家成立過程が論じられ比較されている。 >しかし「英雄時代」なんてさっき書いた松木氏の検討不十分な理論以外は出て来ない。 その本に先立って松木氏は、古代ギリシャとの比較研究を詳しく 論考されていますがね。 いずれにせよ『国家形成の比較研究』(学生社)は、近年の考古学 界隈では白眉といえる出来映えです。 今後20年必読の書となるでしょう。
>>893 プラムさん、もしやって、どういう意味?
901 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 23:27:52
新井宏氏の講演: 考古学では日本の製鉄は古墳時代後期とされている。 鉄スラグでのFEO、FE2O3の量を分析し 弥生以前に日本列島で砂鉄製鉄の可能性があるとした。
902 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 23:29:17
西都原81号墳の発掘現場を見学してきました。 年代は纏向石塚と相似形で同年代、箸墓より古く三世紀中頃説は 変更ないようです。尚、現在は表土の除去を終了されたぐらいの 段階ですが、墳丘裾で煮炊き用石積遺構を3点ほど検出されてお りました関心事の石槨・玄室の発掘は出来ない約束になっている。 (柳田一男先生直々にご説明いただき感激しました。) 但しトレンチ調査は為される様なので調査報告はでるのであろ と思われます。
903 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 23:31:04
都出氏の新著もすばらしい。 20世紀考古学の集大成とも言っていいでしょう。
904 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 23:36:10
三角縁はおろか、古墳出土の方格規矩鏡までが倣製鏡と鉛同位体比が同じというのは驚くと共に我が意を得たりです(私は個人的には三角縁はもちろん、古墳から出土するほとんどすべての“舶載鏡”は国産だと思ってますので)。 それから、前から平井進さんの尺度の論文に関心があったのですが、新井先生がその方面でも画期的な業績を挙げられているとは知りませんでした。
905 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 23:37:21
新井宏氏は冶金学者であり、古代銅の成分分析データを数多く収集・ 分析し多くの知見を得ている。泉屋博古館が発表した三角縁神獣鏡の 蛍光エックス線分析結果についても専門の立場から鋭い批判を行い、 新聞・雑誌で高く評価された。 今回、三角縁神獣鏡とその前後の鏡の鉛同位体比を詳細に分析され、 大多数の三角縁神獣鏡がいわゆる舶載鏡とは異なり、いわゆるぼう製 鏡の鉛同位体比に極めて近いことを発見された。すなわち三角縁神獣 鏡のほとんどは日本列島製の可能性が高いと結論された。三角縁神獣 鏡の紀年鏡の分析から、同一紀年の鏡でも異なる時期・場所で製作さ れたものがあること、異なる紀年の鏡が同一時期・場所で製作された 可能性のあることを究明されたことは注目される。
906 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 23:39:25
907 :
日本@名無史さん :2005/09/06(火) 23:44:52
>894 >箸墓ですが、この古墳からは埴輪は発見されているのでしょうか。発見されているならば、どのような埴輪でしょうか。 >はいって調べられないようですので 特殊器台というものがある。 都月と宮山という2つの形式があるそうです。
909 :
日本@名無史さん :2005/09/07(水) 00:05:17
平成16年の5月15日から16日にかけて、日本のマスメディアは一斉に「卑弥呼の鏡、中国鏡と成分一致、製作地論争に新展開か」と報じた。このところ筆者は日韓を往復しながらの生活をしているので全く気がつかずにいたが、最近になってそのニュースを知った。 非常に興味ある内容であり、さっそく関連する詳細な報告書「SPring-8を利 用した古代青銅鏡の放射光蛍光分析」(以下泉屋論文と略称)を入手し一読して驚いた。 すくなくとも、金属考古学を多少でも知る者にとっては、 とても容認しがたい議論がそこには展開されていた。 結論から言えば、銀と錫の比率を縦軸に、アンチモンと錫の比率を横軸 にとって描いたグラフをもとにして、「舶載鏡」と「製鏡」の間に、 原料差があるとした推論方法には明らかに間違いがある。したがって、 泉屋論文を踏まえて、5月15日に日本文化財科学会で発表された講 演趣旨すなわち三角縁神獣鏡に関する測定結果を追加して、「舶載」 三角縁神獣鏡の原料は漢三国鏡と等しく、「製」三角縁神獣鏡はそれ とは明らかに微量成分が異なるとする結論にも誤りがある。
910 :
日本@名無史さん :2005/09/07(水) 00:06:59
これをもし正しく言うならば、微量成分(銀、アンチモン)に差があると 言うのではなく、主成分である錫に差があると訂正されなければならない。 しかも、「舶載鏡」と「製鏡」の間で、錫が異なることは既に40年以上 も前に、田辺義一が化学分析により明らかにしているし、更には20余年前 にも沢田正昭が蛍光X線分析を利用して明解に示している。 このように問題の多い論文なので、既に間違いを指摘している方が多くいると思うが、誤った情報をもとにして、三角縁神獣鏡の産地論争が行われるのを、金属考古学を研究している筆者としては見過ごすわけには行かない。 重複するかも知れないが、以下泉屋論文と日本文化財科学会の発表 の誤りについて追及し、その論拠を明らかにしておきたい。 なお、泉屋博報告書の末尾には「これまで、鏡にかぎらず古代青銅器に ついて、主要成分以外の不純物として存在している微量成分に着目した 研究はほとんどなされておらず… 」とあるが、これなどは60年以上 も前の昭和12年に、梅原末治が小松茂、山内淑人に依頼して行った 55件にもおよぶ古鏡の分析事例について「まったく知らなかった」 ことを示していて極めて遺憾である。 そこにはアンチモンをはじめとして、砒素、鉄、ニッケル、、 亜鉛などの微量成分の分析が明示されているからである。
都出氏の最新の著書って何?
912 :
馬耳 :2005/09/07(水) 05:07:11
>>898 考古板の姉妹スレも今一なので、日本史板の片隅にひっそりとお邪魔させていただきたいですね。
>>898 私もチョコチョコお邪魔させて貰います
今、関連スレで順調に機能してるのは、このスレだけのように思えますので
>>909 >卑弥呼の鏡
どんな鏡なんでしょうか
マスコミに聞いてみたいものです。
>>900 まだもしや?
の、段階ですよ
レスの内容、パターンが似ていたもので
>>914 だから、「もしや」って何?
どう言うパターンやレスが何と似てたの?
916 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/07(水) 16:20:47
>>915 老講師=〇〇氏じゃないかなと
ふと! 思っただけ
私の勘違いかもしれないので 忘れて下さい。
申し訳ない
>>916 そこまで言ったら気になるな。イニシャルだけでも、、、
918 :
日本@名無史さん :2005/09/07(水) 17:41:30
まあいいじゃん。イニシャルだけなら、、もしかして結構有名な人だったりして?
>>917 言っとくが、老講師はバリバリの畿内自生説だぞ。
分ってるがな
>>920 老講師って、とりあえず強大学派系だよね。
それと実際のところ考古学は旧説しか知らず、最近の情報に疎いみたいだから、案外専攻は文献史系かと。
ガチガチのマルキストのようなので、本当にかなり年が逝ってて、50代以上かと。
ところで「老教授」ってどうしたの?
>>923 ROMっては、いるだろう。
最近では
>>260 のレスあり。
諸勢力連合説に強力な反論かませば、ご登場いただけるかも。
926 :
924 :2005/09/07(水) 19:59:40
>>925 連合成立にかかる畿内のウェイトはかなり低くみていましたね。
纏向が王都となったのは、単に地理的な要因であるとの主張です。
吉備や玄海諸国を重視していますね。
エセ方丈はどこに?
928 :
老講師 :2005/09/07(水) 22:38:10
>651 >あと問題は鍛冶技術の明確な地理勾配。 >鍛冶は痕跡が必ず残りますので。村上氏の著作をちゃんと読め。 村上氏の批判は意図的なものとは思いますが、論点がずれて いますね。 つまり、これまでの鉄器論の要点は、石器から鉄器という 長距離交易を必要とするであろう物資の流通の開始される ことにより、共同体間の関係が形成され、畿内社会における 社会統合や階級形成が促進されたということにあるわけです。 この流通のグローバル化とも言うべき現象が、弥生後期の 広域地域国家を作り出した原動力であり、三雲、比恵・那珂 遺跡などの巨大集落の突然の出現は、このグローバル化の傍 証に他ならない。 また、畿内社会においては、広域の銅鐸の配付行為が伴います。
929 :
老講師 :2005/09/07(水) 22:43:59
また、弥生後期の鉄器による流通革命のダイナミズムは、 瀬戸内海から畿内の集落の高地性集落への再編=新たな流通ルートの開始 という考古学的事実からも証明されています。 このような考古学的事実に対する有効な反論は一度も なされていないと記憶しています。
>>928 村上氏のが意図的?
事実を述べてるだけ。
また三雲や比恵の巨大化は中期後半から。
畿内に後期に「階級社会」が形成された証拠はない。
むしろ後期に中期までの大社会が解体され、社会が袋小路に陥った感じ。後期の畿内には流通を新たに差配したシステムを構築できていない。
都出氏やネギタ氏や松木氏の論理なんだろうが、村上氏の実証的な反論に反論できていない。
「反論」と思っていても、1次資料による実証的反論ではないものがほとんど。「論理」に実際の資料がついていっていない。
>>高地性集落
あらたな高地性集落が流通で重要な位置を占めているのはある程度いいとしても、なぜ、平地の集落を捨てて(解体して)、より非生産的立地で防御的な集落になるのか説明されていない。
むしろ西からの新たな動き(再編)への受動的変化と見るべき。
「証明されています」って、されてないって
>>928 銅鐸(=共同体祭器)の「配布」は古墳時代の威信財配布とは同列にできないのは論じ尽されている話。
いい加減にしろよっていうこと。
932 :
老講師 :2005/09/07(水) 23:18:53
>931 突線紐式銅鐸の原料の均一性、スタイルの共通性、分布の特徴から 限定された工房で製作され、政治的に配付されたものと理解されて います(福永氏など)が、ご存知ないようですね。
933 :
老講師 :2005/09/07(水) 23:24:20
>932 >むしろ後期に中期までの大社会が解体され、社会が袋小路に陥った感じ。後期の畿内には流通を新たに差配したシステムを構築できていない 銅鐸の流通や日本海勢力を通じた鉄器の流通を無視されていますね。 また、集落の再編については、唐古・鍵遺跡への権力の集中という面 も想定すべきです。
いやよく知ってますよ。佐原氏も福永氏もよく読んでます。 ただし、現在はその(後期中頃以降の銅鐸)分布と鋳造遺物の出土状況から、近江が中心。 残念ながら、大和自生勢力には関係ない、継続しないようですね。 また威信財でない以上、その広がりが上下のある政治的同盟かは怪しいですね。つまり「政治」的配布とは言えないでしょう。 鏡の配布の原型は九州ですしね。 それを無視して銅鐸→銅鏡と、木に竹を接ぐからおかしくなる。 いい加減にしてほしいですね。
>>933 日本海側から畿内への鉄器流通は証明されていない。無視も何もないですよ。
どういう物証で言っていますか?
唐古も最後まで(庄内まで)頑張って環濠作ってご苦労様ですね。
大阪湾岸では環濠集落が後期に解体してしまっていることを御存じないのですかね。大和が単に保守的なだけですよ。
それに唐古が言うほど突出しているかは疑問ですしね。少なくとも九州の三雲や須玖のようなセンターにはなりえていませんね。
あと、鍛冶技術の話や鉄器流通ルートの話しについては、村上氏だけでなく野島氏もおおむね同様に考えていますからね。 瀬戸内→畿内ルートと日本海ルートは、基本的に動脈が異なります。 これは鍛冶技術の伝播と地理勾配、刀剣類などの優秀な鉄器の出土状況その他から言えることです。 御存じないようですが。
別スレッドからコピペ 57 名前:日本@名無史さん メェル:sage 投稿日:2005/09/07(水) 23:24:12 村上は、鉄流通の畿内奪取を古墳時代の始まりと同一視することに 警鐘を鳴らしたわけだが。 3世紀以降も鉄は北部九州が優勢。もしマキムク以降、北部九州が ヤマト政権で重要な位置を占めていたなら、鉄において畿内が爆発的に 増加する筈。 村上は言っている。 「鉄を社会変革の主たる動因にすべきではない」と。
938 :
老講師 :2005/09/07(水) 23:39:58
>934 >ただし、現在はその(後期中頃以降の銅鐸)分布と鋳造遺物の出土状況から、近江が中心。 >残念ながら、大和自生勢力には関係ない、継続しないようですね。 それこそが広域権力の証明なのですが。 広域地域国家の拠点集落は、後期に唯一繁栄を続ける 唐古・鍵遺跡でしかありえないが、青銅製祭器の生産・ 配付中心は近江である。 九州地域国家の青銅製祭器の生産・配付の中心は奴国地域 ですが、伊都国地域が政治的な拠点集落であった。 つまり、これと全く同様の構造が畿内において見られる 個人墓の有無という些細な事実のみで広域権力の存在を 否定することは考古学上も妥当性を欠くといえます。
939 :
老講師 :2005/09/07(水) 23:43:27
>935 >日本海側から畿内への鉄器流通は証明されていない。無視も何もないですよ。 >どういう物証で言っていますか? たとえば、武末氏などは、半島との直接交易による日本海側の鉄器の充実 を論証されているますね。
>>938 はぁ?
唐古しか知らない世代ですかね?
近江と大和じゃ銅鐸を持つと言う以外、かなり違いますけどね。
また近江にも伊勢遺跡とかの拠点集落群があります。
唐古だけが大きい訳でも繁栄してるわけでもない。
大和でも唐古の調査は他より進んでいるが、平等坊岩室遺跡とか多遺跡とか、鴨都波遺跡とか準ずる遺跡が後期でも継続してます。
前にも書いたが、九州での須玖や三雲みたいな突出のような状況にはないでしょうよ。
威信財の分布もないし。
個人墓の有無だけで言ってるわけじゃないって。
伊都国と奴国のような政治的拠点って、何の根拠もないですよ。
銅鐸は近江と認めるわけだし。
いい加減にしろって言いたいですよ。
学説の枠組みが1980年頃で止まってますね。
橿原の最近の特別展示で大和の後期は大したことがない、と認めざるをえないようになったのが実情なんですけどね。
あなたは今も認めたくないでしょうが、もはや少数派ですよ。
はじめに結論ありきで、議論するのもバカバカしいでスよ、全く。
>>940 今までROMってて思ったが、外部勢力主導説の人って余裕ないよね。
考古学で古代の全てが分かるとわかったような気になっているのがイタいな。
>>939 だからそれは日本海側の話し。畿内にそれがもたらされた証拠はない。
我田引水が過ぎるな。
それに日本海側も、直接交易よりも九州経由が実際は主体ですがね。
日本海側には三韓系や楽浪系土器があっても九州より圧倒的に少ない。
(というかわずか)
北近畿系や山陰系土器が須玖や三雲、比恵に出る。
北部九州系の鉄剣や鉄斧、漁用石錘、釣針が出る。
鉛ガラス製品(須玖で大量生産)を丹後周辺で消費。
武末氏が重視する、半島系の鉄斧の存在も、九州に出ないのは逆に九州は自前で優品を作れるから。
実際のところそれも僅かな出土なので過大評価できない。
>>939 それに鍛冶工房も九州が半島直接。
日本海側はそうではない。
村上氏や野島氏の方が、1次資料に即した冷静な議論をやってるのでそちらをよく読まれた方がよいでしょう。
>>942 の「僅かな出土」って武末氏の重視する半島系鉄斧のことね。
>>941 余裕ないのは自生説原理主義者の老講師だろ?
旧説を頑迷に墨守するのがイタイな。
948 :
日本@名無史さん :2005/09/09(金) 23:57:02
伊都国東遷の人、村上の説をよく引用してるけど、 自説に都合が悪くないの? 「古墳時代が始まっても、鉄は北部九州>畿内」って言ってるんだからさあ。
949 :
馬耳 :2005/09/10(土) 23:33:30
>>938 二世紀の畿内が「国家」的段階だったかどうかは、はなはだ疑問です。
外部勢力説の方々がおっしゃるように、北部九州的な「階級社会」ではなかったと思います。
ただ、生産性や余剰物の社会的蓄積は、それなりに進行していて、
それが、外的事情(韓人との接触や他の広域圏との競合)により初期国家が出現し、
それと併行して社会の階級化が急激に進んだ、そういう特異な国家形成が行われたのでは
ないでしょうか?
先進モデルとなりうる社会が至近に存在したわけですから、可能な推論だと思います。
馬耳さんおはようございます。 さて上の意見ですが、結局自生説の論理ですね。疑問があります。 1、「急激に」階級化した理由と過程が不明。説明が不十分でしょう。急激すぎです。 2、それまでの「それなりの」余剰蓄積の内容が不明です。 3、仮に畿内地方に「国家」が他との接触や相互作用により自生的に成立したとしても、 なにゆえにまたいかにして後発のその国家が九州などの先発の強国を出し抜き、上に立てたのか。これが説明できません。 4、大和の弥生大集落が順調に発展してマキムクになったのではない点。在地社会が解体したりする点。寺沢氏の分析と結論と合いません。 唐古など残る集落はマキムクのネットワークに近い割に疎外される点。(庄内甕の分布) 5、卑弥呼は畿内だけの王として共立されたのではないこと。 倭の国王として共立されたこと。
951 :
馬耳 :2005/09/11(日) 22:15:09
>>950 「急激性」についてのご指摘には、「外圧」を想定しているとしか申し上げられません。
確かに弱いですね・・・
ただ、畿内中期においても、大阪市平野区の加美遺跡Y1号墓のように、
二重木棺や銅釧、ガラス勾玉の副葬等の例がありますので、
階級化への萌芽はかなり大きくなっていたと思います。
また、この加美の墳丘墓は、長辺26m短辺15mマウンド高2m超の大型です。
こういったものの存在も纏向へ継承されていると思います。
この大和川下流から摂津方面にかけての弥生中期以降の密度は、
けっして北部九州に引けを取らないとも思います。
祭器について言えば、近隣の八尾南で出土した龍刻土器などは、
銅鐸などと同じく共同体祭祈に使われたものと思われますが、
あきらかに漢式鏡の図柄を取り入れたものです。
これなどは、「銅鐸」と「鏡」の間を埋める過渡期の祭具でしょう。
以上の例は畿内が「それなり」に成熟していたことの傍証にはなると思います。
でも、倭王権の成立基盤となる地方政権と呼べるような痕跡はが見あたらないですね。
中期の事例はあるが、肝心の後期はそのまま発展したか疑問。 人口は増えたが、単純に階級化が進行した痕跡に乏しい。 後期の首長墓が大したことない、というかあまりに不明確。 遺跡密度だけではなく、その質が問題。 都市的とまで言いうる集落がない。 また酒井龍一なども認めているが、畿内で拠点集落といえる規模の集落の集落間距離が北部九州では近く、社会的密度に格差がある。
953 :
馬耳 :2005/09/13(火) 01:06:22
>>952 さんは纏向が拠点化した実年代をいつ頃だと考えますか?
2世紀中葉以降でしょうか?
>>953 952さんじゃないですが、マキムクの発掘調査で後期中葉ころの遺構が
出てきたらしいです。
少なくとも、マキムクは3世紀初頭に突然出現したなんてものじゃない
みたいです。
マキムクの後期中頃の遺跡は僅か。 マキムク1式からの大規模な展開には無関係。
>>955 大規模化したのは確かにそうだが、
無関係かどうかは考古学では分からない。
957 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/14(水) 23:13:59
>後期中頃の遺蹟ーーー突然出現したなんてものじゃない。 横浜も幕末から爆発的に発展する前に、小さな村があったそうですよ。
>>957 それは文献から分かったことでしょ。
考古学的に証明されたことじゃないです。
古代史は文献が倭人伝くらいしか無く、考古学重視になるのは仕方ないけれど、
考古学だけででしか物が考えられない、「考古学が全て」みたいに考えてる人が
多くて(特に畿内説)、嘆かわしい限りです。
考古学は新たな発見で塗り替えられていく学問だし、断定口調で喋ってるのは
どうかと思うよ、ホント。
開港前の横浜は、現在の石川町付近に在った小漁村。 その後の関内地区の埋め立てのため全村移転しているので、 それこそ今の横浜とは何の繋がりも無い。 外部主導説の方は、纏向の場合もそうだったろうと言うわけですね。
960 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/09/15(木) 07:43:21
>>958 チョット意味がとりかねますが、横浜の小漁村が考古学的に証明されたことじゃない
からみとめられないというのであれば、それは考古学の限界ですね。
サガミは無視として、論理としては
>>959 が正しい。
纒向に後期の遺構が僅かにあっても「都市」纒向の前提にはならない、ということ。
纒向の拠点化は2世紀末。大溝の掘削から。 ただし規模的に他(畿内において)を絶する大拠点になったのは庄内2式くらいからで、おそらく石塚の築造直後くらいから。 箸墓築造による物資と人員の集中によりさらに大規模化する。
>>伊都国東遷の人、村上の説をよく引用してるけど、 >>自説に都合が悪くないの? >>「古墳時代が始まっても、鉄は北部九州>畿内」って言ってるんだからさあ。 はぁ? まず、村上の言説だが、古墳時代になって急に畿内が圧倒的に優位になったのではないということを博多の鍛冶遺構などをもとに言っているもの。 そもそも、すでにひどい説では後期から、よくある説では終末期に、畿内が鉄器において九州と同等と九州より優位などという根拠のない説に対する実証的反論として村上説があるわけ。 後期後半から終末のある時期に「倭国大乱」で畿内が九州から鉄を奪ったなどということはないということを言っている訳。 村上も、古墳時代になれば畿内が優位になっていく、ということは言っている。 ただそれが、古墳時代の初頭ではまだまだだと言っているに過ぎない。 村上は典型的な東遷説ではないが、その学説は東遷説と矛盾はきたさない。 畿内に大量に鉄器がもたらされるきっかけとしては、東遷という説明はありうる。ただしそれが妥当かどうかは別問題だが。 よく読めよ。
964 :
馬耳 :2005/09/15(木) 23:08:52
鉄器の流れの変化は、輸入する倭人側の事情では無く、輸出元である朝鮮側の事情だと思います。 弥生期の交易痕跡として楽浪系の遺物が多いのは北部九州だけ。 しかし、三韓系となると活動範囲は畿内にまで広がります。 楽浪・帯方二郡の衰退後は、鉄器の輸出元が三韓系主体となり、 それ以降は、西日本全体に満遍なく鉄器がもたらされたように見えるのでは無いでしょうか? 鉄器にかかる現象は、倭人内部の勢力変動とは無関係に生じたものだと思います。
無関係というのは無理。 三韓系土器は北部九州以外でも出るが、実際は北部九州以外は量的に少ない。 馬耳さんの論理だと韓国の人が日本列島に出て鉄を売りに出ていたような感じだが、それは無理。 東夷伝でもカヤの鉄を倭がやって来て得ていたと読める。 また西新町なんか見ると鉄(だけじゃないだろうが)の列島内の交易は、あくまで日本列島内の論理による。 ただし、倭などに鉄を交易するにあたり、カヤ側の政治体制や社会の変化、統合が進み、それがまた倭との関係や交易のあり方に影響したことはあるだろうが。
966 :
馬耳 :2005/09/16(金) 01:12:53
>>965 九州自体の輸入量の増大が、他地域への供給量の増加につながったとも考えられますが、
畿内への鉄器流入増大は、それまでの北部九州からの二次輸出が抑制的であったことを思うと
やや疑問です。
地の利が違いますので、三韓系との交易量が畿内>九州だとは思いませんが、
弥生終末期の加美・久宝寺などは、博多湾に匹敵する交易拠点であるとは思います。
これは、中国王朝の衰退に伴う伽耶の勢力拡大の影響が大きいのではないでしょうか。
また、北部九州勢力が河内に勢力を伸ばしたり、逆に畿内勢力が博多湾に拠点を築いたからとか、
倭人内部の交易網の変化だとすると、この時期について、その実証は難しいでしょう?
967 :
馬耳 :2005/09/16(金) 02:02:44
>>965 ちなみに966のレスは、韓人の交易活動の可能性についての例であって、
964とは時期の違う話です。
当然、魏志の記載のとおり、倭人が半島側に交易に出向くことも
あったと思います。
>>963 「よく読め」とか命令口調は余裕のない証。
>後期後半から終末のある時期に「倭国大乱」で畿内が九州から鉄を奪った
>などということはないということを言っている訳。
倭国大乱で伊都国が東遷したのなら、弥生期終末期の畿内王権(この場合は
伊都国)は、鉄ルートを掌握していたことにならないか?
伊都国は東遷前から鉄ルートを握っていたんだからさ。
横レスだが... 倭国大乱の後は、もう古墳時代じゃないか?
>>969 倭国大乱の後、
@ 畿内勢力が鉄ルートを奪取
A 伊都国東遷→畿内王権
@もしくはAであっても、倭国大乱で畿内王権が鉄ルートを確保している
ことになる。
この倭国大乱後、畿内王権がただちに鉄ルート確保したという言説に対して、
村上は批判しているわけ。
>>970 @でもAでもないとするなら、
村上は邪馬台国九州説なわけか?
>>971 村上自身は考古学者らしく、邪馬台国比定地には言及していませんが、
少なくとも村上の論は、九州説に有利な材料となっていることは確かです。
973 :
日本@名無史さん :2005/09/21(水) 20:37:05
>>970 もともと九州にも鉄流通の支配権が無かったってことだろう。
鉄の東への広がりは、交通手段や交通網の発展ではないでしょうか
975 :
日本@名無史さん :2005/09/23(金) 10:16:01
>>974 韓国からの供給量が増えたからでしょ。
楽浪郡滅亡により、そっち方面に流れていた分が回ってきたのでは?
>>975 それは違うでしょう
都が大和に有るなら、同数量程度は入るだろう
都に構わず 九州で勝手に消費は無いのでは
977 :
日本@名無史さん :2005/09/23(金) 11:47:21
>>976 北部九州でも遠賀川流域の石器製造なんて後期でも盛んじゃないですか。
那珂でも終末期まで銅鏃使ってたり、鉄の供給量ってかなり少ないのでは?
派手な副葬物から、実用品としての鉄の供給量まで過大視し過ぎてませんかねえ。
『祭
北條芳隆氏講演 『祭祀構造から読み解く弥生時代社会と古墳時代社会』 日時 平成17年10月22日(土) 午後1時30分〜 場所 渋谷区勤労福祉会館
>>977 量の問題ではないでしょう。
鉄は当時希少品
まずは 都に入り、その入手量が増えるに従い地方に広まるのでは(初期段階)
>>980 弥生初期から師升遣使のころまでは、そうだったでしょうね。
後漢王朝衰退に伴い、自立した半島南部勢力が、積極的に鉄の供給先を 開拓していったのだろう。それが日本海諸国であったと思われる。 日本海諸国は畿内へ鉄を輸出することで、その地位を高めた。 日本海沿岸諸国の勃興にはそのような背景が考えられる。 しかし、日本海沿岸部には、古墳時代初頭の有力な前方後円墳や前方後方墳が 見当たらない。 おそらくは、倭国大乱後、筑紫による瀬戸内海航路の規制が解除され、相対的に 日本海ルートの存在意義が薄れたためと考えられる。