【初心者】スレッド立てる前に質問をPart8【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
・なお、質問の際はメール欄に何も記入しないでください。
トリップを使ってみるのもいいかも…
質問者を騙る煽りが出現しています。ご注意ください。
・回答があるまでに数日間かかることもあるので辛抱強く待ちましょう。
未回答分はだいたい500か次のスレに変わったときに再度まとめて書き込まれることも
ありますので、その際に回答が出るかもしれません。そのときに再度確認してください。
・age推奨。
常連の人は可能な限り質問への速やかな回答をお願いします。
また、「事実と異なる回答」「憶測に基づく回答」があった場合は、
速やかに指摘・訂正の書き込みをお願いします。
3 :
日本@名無史さん:04/08/20 21:53
391 名前:日本@名無史さん :04/08/20 21:04
>>997 >19世紀末からの帝国主義時代は、イギリスの自由党も国内の矛盾を解決するため、
>積極的な海外進出、植民地拡大政策をとっていたからなあ。
労働党のこと?
392 名前:日本@名無史さん :04/08/20 21:17
>日比谷焼打事件
国家主義団体などが開催したことも要因だが、もともとは民権派も国権
拡張主義を含んでいた。
さらに民衆は、うちつづく戦勝の報道と過大な講和条件への期待を裏切られ、
加えて戦争で多大な犠牲が生じたことに民衆が怒りを爆発させた。
これは国民とくに都市民衆による排外主義・膨張主義的行動の全国的あらわれ
であったが、他面では藩閥専制に対する抵抗運動でもあり、大正デモクラシー
運動の出発を意味するものでもあった。
4 :
日本@名無史さん:04/08/20 22:01
労働党ではない。
自由党は、海外領土からの搾取で本国の民生を安定させる政策をとっていた。
植民相のジョゼフ=チェンバレンはボーア戦争の張本人。
5 :
日本@名無史さん:04/08/20 22:10
自由党は、1820年代から新興ブルジョワジーの党
だから帝国主義政策支持は当然では?
6 :
日本@名無史さん:04/08/20 22:43
明治時代の米田桂次って人について調べたいんですけど、何みればいいですか?
明治維新人名辞典や、海外渡航者総覧にも出てきません。
筑摩の明治文学全集総索引には一箇所だけ出てきました(成島柳北の巻)。
気がついたら浜→濱、沢→澤、斉→斎になってるわけですが
いつのまにか法改正かなんかされた?
小中の頃は普通に斉藤とか沢田だったはずなんだけどなあ。
高校以上は正字を使えっつう決まりとかあんの?
前スレ
>>956 「仲介」というのがポイント。
連合国の条件を全て受け入れるのなら黙って頷けばいいわけで、
この条件じゃ呑めないけど、戦争はなんとしても止めたい、
で有力国(この場合はソ連)を仲裁人に立てて間を取り持ってもらおうとしたわけ。
他にもスウェーデンルートなんてのもあった。
9 :
日本@名無史さん:04/08/21 05:22
>>7 本来、小学生であろうが何だろうが正字で書かなければならないんだが。
俺いろいろと住民票見たけど、ミミズが這ったような字もあったりするからねぇ。驚くよw
10 :
前スレ999:04/08/21 05:22
で、俺の疑問がまだ解けてないんですが。
韓国人の呼び名には配慮して、韓国語の発音に近い表記をするのに、
自国の歴史上の人物の名前を正確に表記しないってのがそもそもおかしい。
漏れが高校の頃のワープロは森鴎外すら鴎外としか表記できなかった。
読売新聞が常用漢字拡大に対して反対の社説を書いていたが、
要は自分の会社の手間ひまが増えるのがイヤなだけ。
正字破壊に新聞社がはたした役割は大きいな。
>>10 >前スレ999
連枝とは高貴な人、身分の高い人(高位公家とか将軍とか、
有力大名なんかの場合もあるかな)の兄弟を示す言葉です。
御三家の始祖は将軍秀忠の兄弟ですから、この人らを
「将軍の御連枝」と呼ぶのは正しいですが、別に御三家だけを
指す言葉じゃありません。もっとずっと古くから用いられている言葉です。
13 :
日本@名無史さん:04/08/21 09:07
信長簒奪って本当か?
そんな気さらさらなかっただろ、多分。
14 :
日本@名無史さん:04/08/21 12:39
尋常小学校はすべて、国民学校に改称されたのでないでしたっけ?
15 :
日本@名無史さん:04/08/21 14:18
御連枝は、御三家のことじゃなくて、
御連枝と言ったら、多くは、「御三家の分家」をさします。
16 :
日本@名無史さん:04/08/21 14:23
>>14 改称というか、1941年の国民学校令により改組した小学校の名称。
初等6年、高等科2年。
17 :
日本@名無史さん:04/08/21 14:28
>>13 途中で死んだので予想しかいえないが、
安土城の再現襖絵などを見ると、武家王権と朝廷王権の
さらに上位の超絶した位置に存在しようとしてたと思える。
中国イメージを使用した理由は、そこにあると思える。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/ ヽ
/ ̄\ l \,, ,,/ |
,┤ ト | (●) (●) | ばかせ覚悟しとけよ。
| \_/ ヽ \___/ |
| __( ̄ | \/ ノ
ヽ___) ノ
社会学板のフルチンより。。。
20 :
日本@名無史さん:04/08/21 16:33
21 :
日本@名無史さん:04/08/21 20:23
>>19 一斉です。
しかし、「尋常」という呼び名は庶民の間では割と使われてたようです。
22 :
日本@名無史さん:04/08/21 20:27
>>20 死んでしまったのでわかりません。
予想では、征夷大将軍をもらい、
かつ、天皇の外戚となり、
皇帝にでもなったのでしょうかね。
簒奪というより篭絡形骸化ですかね。すでに形骸化してましたけど。
23 :
日本@名無史さん:04/08/21 21:21
日本人や、大和朝廷のルーツに興味があるのですが、
・専門教育を受けていない素人でも読める
・科学的根拠を基に議論されている
書籍を紹介していただけませんか?
親韓とか嫌韓とか、そういう思想的なバイアスがかかったものではなく、
さまざまな学説を並立させて公平に議論している、サーベイ的な本が望ましいです。
24 :
前スレ999:04/08/21 21:43
>>12 ありがとうございました。
>>21 そうなんですか。
実はいま、40年ほど前に静岡県で起きた袴田事件というのを調べていて、その事件のルポルタージュの中に、
「○○国民学校から××尋常小学校に転校云々」という表記があって、ちょっと気になったもので。
25 :
日本@名無史さん:04/08/21 23:48
薩摩や土佐の無禄の郷士は士族に列したのですか?
前スレで、将軍は源だけって書いてなかった?
信長って平じゃん。
>>25 鹿児島では卒士となってる。
近所のババアが「ウチは元士族」と自慢するが、たいていは士族ではあっても、
身分が一段低い卒士と戸籍上は明記されてる。しょせんは限りなく農民に近い唐芋郷士ですから。
ただし、郷士でも地域のまとめ役で身分の高いものはちゃんと士族に組み入れられていたし、
「麓(ふもと)士族」と、地元では俗称しているよ。ちょっと高台の良い土地に住んでかららしいが。
ウチのばあちゃん(大正二年生まれ)は麓の人間でそれが自慢だったが、長男の嫁は
家老クラスの領主の家柄だったため、変な敬語を使っていたなぁ。
子供心にも、奇妙に思ったもんだがw
28 :
日本@名無史さん:04/08/22 10:06
>>27 >>たいていは士族ではあっても、 身分が一段低い卒士と戸籍上は明記されてる
士族の中に区分けがありそれが戸籍に記載されているということですか?
29 :
日本@名無史さん:04/08/22 15:37
>>26 それはその当時から今まで続く皇族や、その周りが決めたこと。
それすらも破壊しかねないよ、信長は。
30 :
日本@名無史さん:04/08/22 19:38
下関条約を締結して清が朝鮮の宗主権を放棄した1895年から、
第一次日韓協約を締結するまでの1904年の9年間は、
朝鮮が完全な独立国だったと考えても宜しいのでしょうか?
>>28 そうです。
他県のことは知らないが、鹿児島は郷士としての侍がとてつもなく多いので、
それを全部士族として認めると、税金や秩禄処分の時にメンドくさいことになったからかもしれませんが。
秩禄処分や当時の税制に詳しい人、フォローよろしく。
32 :
日本@名無史さん:04/08/24 08:47
『聿修録』を読むことはできないでしょうか?
33 :
日本@名無史さん:04/08/24 14:05
>>30 はい。
もしかして、新羅・高麗・朝鮮とずっと属国だったと言いたい人?
それとも、完全な独立国を日本は植民地化したといいたい人?
34 :
日本@名無史さん:04/08/24 21:38
琉球と日本は言葉も文化も共通していたそうですね。
と言う事は、琉球と日本は民族性も一致していたのでしょうか?
大和民族性は「山本」「田中」「鈴木」と言ったものが代表的ですが、
琉球人も山本だとか田中だとか鈴木と言った性を使用していたのでしょうか?
>>33 別にからむ気もないし板違いだとは思うが、
所謂三田渡の屈辱以降の李氏朝鮮は清の属国
なのでは?
三田渡の屈辱
丙子胡乱において清軍との間で和議が行われる。
このときの内容は清に服従すること、
明との断交、朝鮮王子を人質として送ることなど。
三田渡で仁祖は膝を屈しなければ成らなかった。
37 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:03
プロ野球の視聴率・観客動員を語る397
http://ex8.2ch.net/test/read.cgi/base/1092560923/ より
サッカーがイタリアに敗戦直後、
546 名前: 代打名無し@実況は実況板で 投稿日: 04/08/16 04:35 ID:LmSw83TQ
気持ちぃ〜
超気持ちぃ〜
サカ豚超死亡wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まぁあとは強い野球代表に任せろ!
弱いサカ代表は世界に恥さらしたから日本に帰ってこなくていいよ
弱くて臭そうだしwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>5 自由党と言っても結構考え(特に対外政策)には違いがあった。そのため、WW1への
参戦or非参戦で分裂状態になる。
39 :
日本@名無史さん:04/08/25 01:05
ひょっとして、こういうのはハン板とかの方が詳しい人が多いの?
あそこは偏ってるんで、あまり聞きに行きたくないんだけど…
東京大空襲以降、天皇や大本営の軍人、国会議員はどこで活動していたのでしょうか?
42 :
日本@名無史さん:04/08/25 09:15
>>41 そのまま東京。
一時期、松代に遷都して最後の一兵まで戦おうとしたことがあるが、断念。
ちなみに、その時掘られた東京〜松代間の地下トンネルは、今でもある。が、公開はされてないので、基本的に見ることはできない。
43 :
日本@名無史さん:04/08/25 09:26
開桜 のほうがいいか
ごめん誤爆した
45 :
日本@名無史さん:04/08/25 09:49
>>35 属国という表現がいいかどうかはわかりませんが、
清の第2回朝鮮侵略の後、清と朝鮮は兄弟関係から君臣関係になり、
朝鮮は清に臣礼をとりました。
朝鮮内部では、清は蛮族だから、これは生きる方便であるとしていました。
46 :
日本@名無史さん:04/08/25 09:55
>>34 そういう姓は、明治以降だから。
沖縄の姓は、本土とはちょっと違うよね。
文化では東南アジアや中国文化の影響が大きいと思うが。
でも、室町言葉が残ってるとか言うしね。
東南・東アジア・日本を含めた、海の文化圏と考えてはどうか。
蝦夷が島の昆布が流通してたくらいだから。
47 :
日本@名無史さん:04/08/25 10:07
>>40 列島人の源流は、
NHKブックスの「日本人はるかな旅」全5巻
かなり、わかりやすいが、高いかも。
大和朝廷成立に関しては、
講談社・集英社・小学館・吉川などの通史の該当巻がいいのでは。
単発本は、けっこうトンデモ本が多いジャンルだから。
通史を数種類読むとだんだん目が開けてくる。と、思う。
48 :
日本@名無史さん:04/08/25 10:12
>>38 アイルランド問題でも割れてたしね。
ただ、すでにブルジョワの党にはなっていた。
それで、労働党に労働者の支持をうばわれた。
49 :
日本@名無史さん:04/08/25 10:14
>>46 山本勘助は?
山田長政は?
鈴木孫太夫は?
50 :
日本@名無史さん:04/08/25 10:15
>>42 スマン。松代のトンネルは知ってるが、東京〜松代のトンネルとは?
どこにあるのか?
51 :
日本@名無史さん:04/08/25 11:31
>>50 松代のトンネルは知らん。
東京〜松代間のトンネルは地下。言うなれば、巨大長大な防空壕ってことですよ。
たしか、そこには地下鉄も通す予定だったとか。
地上での詳細な地名は、東京人ではないのでわからんが、たぶん検索したら数多くヒットするよ。
ただ、ふと思ったら、松代ではなく、トンネルの先は松本だったかも知れない。
>>50 ゴメン。俺、嘘ついてるかも知れない。
気になって、都庁と防衛庁に電話したんだけど、どっちもわからんと言ってきた。
ちょっと今、職場にいてネットできないんで、家に戻ってから調べてみます。
もしかして、単なる俺の妄想だったんだろうか。
松代大本営のことだとしたら50が正しい
54 :
日本@名無史さん:04/08/25 14:49
>49
しかし、その姓が全国に散らばったとは考えにくいから、
まねたりして明治に広がったのでは?
55 :
日本@名無史さん:04/08/25 15:04
>>47 図書館に買わせます。(TдT) アリガトウ
57 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:28
庶民の間で、親が結婚相手を決めたのはいつごろですか?
58 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:36
明治の中期・後期以後のようです。
変な自問自答ヤメレ
そして誰も答えてくれない……
61 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:28
みなさん、巴御前について教えてください。
本名など、何でも良いです
62 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:39
>>61 平安末期〜鎌倉初期の女性。生没年不詳。源義仲の乳父中原兼遠の娘で、
木曾四天王といわれた誇口兼光・今井兼平兄弟の妹。武勇をもって知られ、
義仲に従って合戦に参加したが、1184年(元暦1)正月、義仲が敗死すると
信濃に帰った。
「源平盛衰記」によれば、源頼朝に召喚されて鎌倉に参上し、斬首される
ところを和田義盛の請により免れ、その妻となり、朝比奈三郎義秀を生んだ。
和田合戦で義盛・義秀が討たれると、越中国石黒に行き、出家して91歳まで
生きたという。
万世一系を誇る天皇家のルーツ、実は元祖天皇は朝鮮人だったというのは本当なんですか?
そういう学説はあるのですか、それとも2ちゃんねる内だけのデマ?
64 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:28
入道親王と法親王の違いを教えて下さい。お願いします。
65 :
日本@名無史さん:04/08/26 22:45
>>42 民間人が地上で焼け死んでいる中、地下で働いていたということですか?
>>66 俺がバカなことを言いました。もう許してください。
>>62 ドラマな人生だなあ…
>>63 日本人のご先祖を突き詰めていけば、ほとんどが大陸から来た人間になると思うが…
君も僕も。
69 :
日本@名無史さん:04/08/27 01:17
まあそんだけ天皇制日本は狂ってたってこったな
天皇で思ったんだが、天下分け目と同じような意味で、天皇山だ、って
言い方よくしない?天皇山って何だ?昔重要な戦とかあった場所?
>>70 天皇山じゃなくて天王山だろw
山崎の戦いにおいて枢要の地だったところ。
秀吉軍が光秀軍よりも先に天王山を確保したため
合戦の帰趨が定まった=秀吉が勝利した。
とアホな釣りにひっかかってみる。
72 :
日本@名無史さん:04/08/27 14:18
一般に皇子の中で親王の身分を認められた人が出家した場合、その人を入道親王
と呼び、さきに出家していた皇子が親王の宣下を受けた場合には法親王。
江戸幕府って参勤交代制で人質やらキリスト教禁止やら鎖国やら
色々手を打っていたじゃん。
じゃあ、なんで滅んだの?
74 :
日本@名無史さん:04/08/27 15:33
幕府崩壊の遠因は貨幣経済の浸透による農村の変質と都市へのその反映
に対処できなかったことにあり、享保、寛政、天保の幕政改革も十分な
効果をあげえなかった。
しかし直接の原因は、ペリーの来航に始まる開国の要求に直面しながら、
鎖国にかわる新たな外交体制の樹立に失敗し、征夷大将軍として外国を
統御する能力を幕府がもっていないことが天下に明らかになったことによる。
来航の当初は別として、近代工業を基礎としたヨーロッパ諸国の軍事力に
敵対しえないことが国内で認識されると、これら諸国をオランダのように
江戸城に参府させるものとして受け入れるにせよ、対等な相手として国交
を打ち立てるにせよ、相手方に対抗できる軍事力の建設が幕府の急務となった。
しかし武器や操練法の導入には見るべき成果があったが、軍制の改革は
不徹底なものに終わった。これは、幕府の軍制が家格によって成り立って
おり、その全面的改変は幕府の組織の全面的崩壊に連なりかねなかった。
その点で幕府の軍制改革は、奇兵隊をはじめとする諸隊によって領内諸階層の
軍事的再編に成功した長州藩のそれと対照的であり、その差が第2次長州戦争の敗北
から大政奉還へと結果した。
人質は?長州の人質は殺されたの?
76 :
日本@名無史さん:04/08/27 17:41
第二次世界大戦で国民を地獄に落としながら、戦後、裁かれることなくヌケヌケと逃げたウジムシ官僚とその子孫の事を調べたいのですが、どのスレが参考になりますか?
77 :
日本@名無史さん:04/08/27 22:36
文久2(1862)年の一橋慶喜・松平慶永の幕政改革で、江戸の妻子は、
在府・在国自由になった。
慶応元年に復旧しようとしたが効果あがらず。
江戸にいなかったと思われ。
78 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:46
これは本当ですか?
秀吉が明を攻めたのは、スペインに対する牽制が背景にある。
スペインによる明攻撃計画もあったし。
朝鮮を攻めたのは、本来は(途中で戦略思想が変わったが)、
服属を拒否した朝鮮を罰するのが目的。
79 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:27
80 :
日本@名無史さん:04/08/28 02:36
日本国の成立は何時になりますか?
A・1945年
B・1868年
C・大和朝廷が成立した時
日章旗が国旗になったのはいつですか?
A・1999年国旗及び国歌に関する法律が制定された時
B・1870年郵船商船規則が布告された時
C・1859年御国総標とする触れ書きが出た時
D・1854年日本総船印として幕府が認めた時
E・日章旗を掲げた船が御朱印船と呼ばれるようになった時
81 :
日本@名無史さん:04/08/28 08:58
江戸期の戒名について質問ですが
OO院OOOO信士
OOOO居士 どちらが格上ですか?
>>80 せっかくだから釣られてやるか。
日本国の成立は670年前後。天智天皇が対外的に「日本」国号と「天皇」号を使い始めた時期。
白村江の戦いとその後の日本国号、天皇号の使用は、柵封体制からの独立を意味する。
これは色んな見解があるがな。
日章旗はDで正解。成文法だけが法律じゃないってこった。
日教組のバカ教師はそれがわかっていないから珍妙な「法的根拠なし」説を吹聴してたが。
83 :
日本@名無史さん:04/08/28 11:19
>>78 本来、秀吉の意図は明国を服属させることで、朝鮮に対してはその道案内
を求めるという「仮道入明(かどうにゆうみん)」を標榜していた。
秀吉が出兵の意志を公表した事実が確認できるのは、関白任官直後の
1585年(天正13)9月であるが、その後、対馬の宗義智に命じて外交交渉
にあたらせ、朝鮮国王の来日を求めた。
九州征服後には博多を兵站基地化し、蔵米を集中できる体制をとるなど、
具体的準備がすすめられた。秀吉が対外的な領土拡張を求めて出兵した
ことはいうまでもない。
国内の封建的統一の達成後、秀吉が家臣に知行地を給付するには、原則
として自己の直轄領を割いて与える以外に方法は無く、それには限界があった。
諸大名のなかには海外に所領を希望する者もあり、これらの動きを背景にして、
国内統一の延長上に朝鮮出兵が企図された。
また、16世紀中ごろに勘合貿易が中断されてから、中国産の生糸(白糸)は
ポルトガル船を介して輸入されていたが、秀吉の意図する貿易独占政策は
明国との直接取引を求めていた。この動きは領土拡大の要求に裏打ちされていた。
また朝鮮出兵の準備過程は、太閤検地の施行過程と対応していた。
わずか20年にすぎない豊臣政権の全過程は、一面では朝鮮出兵という対外
侵攻の論理に貫かれていたといえる。
84 :
日本@名無史さん:04/08/28 11:39
>>80 国号「日本」の成立は、天武朝という説が多い。
大日本帝国が敗戦崩壊し、日本国が再独立したという意味では1951年。
日の丸は、船印としては江戸時代からだが、これは日本総船印だけで、
幕府と各藩は別の船印。明治以後も海では軍と商船はこれを継承。
海以外で国民に日の丸が広まるのは、帝国憲法や日清・日露前後。
戦前の政府は菊の御紋との関係からか決められなかったので、
確かに正式には1999年の法の成立を待つ。
恐れ多いから国民には君が代を歌わせないなんて明治の時期もあった
ように、日本の国歌・国旗は他国とちょっと歩みが違ってしまった。
日の丸と戦前の光が差してるような旗とどう違うの?
全然はあれが国旗だった?
軍艦旗のことか?
>86
旭日旗のことか?
【 旭日旗の意味や由来など 】
最初の十六条旭日旗は「聯隊軍旗」と呼ばれ、1874年に日比谷操練場で日本陸軍近衛第一・第二各聯隊に天皇から授けられた。
その後、1889年に「海軍旗章条例」によって軍艦の標識として艦艇の後部に掲げられる「軍艦旗」とされた。ちなみに、艦の国籍標示のために艦首に掲げる艦首旗は、一般の商船と同じく「日の丸」である。
89 :
日本@名無史さん:04/08/28 14:37
旭日って中国語だよね。
意味は、朝日。
旭日旗は正式な国旗じゃなかったんだ。
明治時代も国旗は日の丸なんだね。
>82さん>84さんお答え有難う御座います。
日本国の成立時期については、大和朝廷が成立しただけでは
中国の皇帝に服属する地方政権に過ぎず、独自に国号を定めて
初めて成立したと言える。
国旗の成立については、「日本を示す旗」としては、使われだしたE
では慣習的なものに過ぎず、時の政権(幕府)が認めたDが妥当
で「国旗という概念」で成文化されたのはAが初めて。
という解釈で良いでしょうか。
92 :
日本@名無史さん:04/08/28 19:04
93 :
日本@名無史さん:04/08/28 19:22
94 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:26
服属してるかしてないかはともかくとして、
日本国以前は「倭国」です。
在日の無意味レスキタ━━━━━━\(T▽T)/━━━━━━ !!!!!
尊皇攘夷で開国てのは
親米だけど共産主義者みたいなもん?
反米だけどアメリカ文化大好き人間(将軍様)みたいなもん?
倭国といえば、倭から始まる三国志の漫画が始まるらしい。
原作は北斗の武論尊、作画は池上遼一
97 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:14
池上遼一ってクロ高描いてる人だっけ?
98 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:50
>>96 >反米だけどアメリカ文化大好き人間(将軍様)
将軍様は日本がお好きです。
99 :
日本@名無史さん:04/08/29 09:43
>>90 たまたま職場にあった明治41年11月10日印刷、明治41年11月15日増訂発行した『國民必携 實用百科全書』(矢田常三郎著、博信舘版、定価3円)には、国旗として、日の丸も旭日旗も国旗として扱われている。
100 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:21
戦前において、和暦の他に年月を書く場合、西暦と神武暦のどちらが多かったのでしょうか?
101 :
日本@名無史さん:04/08/29 12:19
西暦
20世紀突入のころはすごかった
102 :
日本@名無史さん:04/08/29 14:52
古代(平安時代)の相撲人ってどんな身分の人?
103 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:37
大会の2・3ヵ月前になると、左近衛府と右近衛府から各地に相撲部領使を
それぞれ派遣して、左府と右府は腕力の強い者・相撲のうまい者を競って
さがし求めて歩いた。つまり、平安時代では身分は関係なし。
ちなみに相撲節会の大会は唐朝をまねて豪華絢爛だったとのこと。
1174年に相撲節会は廃絶。
104 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:14
相撲も唐風か
105 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:27
名古屋城の城主ってどんな人?
106 :
日本@名無史さん:04/08/30 11:42
>>105 『鸚鵡朧中記』か『元禄御畳奉行の日記』(神坂次郎/中公新酒)を嫁。
「紀州に君あり、水戸に臣あり、尾張に大根あり」ってのがよくわかるぞ。
108 :
日本@名無史さん:04/08/30 21:32
>相撲
野見宿衝の相撲起源説は、古墳時代に宿衝を祖とする埴輪や土器をつくる
土師部たちによって伝承・語り伝えられ、奈良時代に編集された「日本書紀」
に収められたというが、さらにこの相撲物語は、新たに渡来した民族(大和族)
と先住民(出雲族)が争った話に挿入されたものであろうともいわれる。
てことは、貴族も選ばれたりするんですか?
110 :
日本@名無史さん:04/08/31 01:59
よろしくお願いいたします。
皆さんにお伺いしたいのは戦前の警察の階級章についてです。
警察板はどうも空気が違うと感じましたのでこちらで質問させていただきます。
警察官及消防官服制(昭和10年勅令第167号)に定める階級章(肩章)ですが、
巡査は金線縁の黒無地に旭日章1つ。巡査部長は2つ。
警部補はこれに金線1条が加わって旭日章1つ。警部は2つです。
パターンからいけば警部の直上の階級である警視は金線2条に旭日章1つとなるはずですが、
さまざまな写真を見ましても金線2条に旭日章が2つのものしか見つかりません。
この点がどうしてもわかりません。ご存知の方、ご教授いただければ幸いです。
111 :
日本@名無史さん:04/08/31 02:58
江戸時代の物価は微妙に上がっていきますよね?
物価が上がる=貨幣価値が下がる
であってますか?
何だかこのあたり、微妙なニュアンスの違いがありそうで・・・
よろしくお願いいたします。
112 :
日本@名無史さん:04/08/31 04:18
パリ不戦条約を最初に破った國はどこですか?
TVの特集ではナチスドイツのポーランド侵攻と言っていたのですが・・
それより前にソ連が満州を犯して張学良軍と戦火を交えたことだというヒトも。
どうなんでしょうか?
113 :
日本@名無史さん:04/08/31 07:12
>>110 お前がパターンにこだわるからダメなんだよ。
もっさこい!!
114 :
日本@名無史さん:04/08/31 12:00
>>109 貴族はどうなんだろうね。あまり聞かないが。
>>111 物価上昇=貨幣価値の下落
>>112 自衛の戦闘は、不戦条約違反にはならない。
となると、国連で正式の議題となった満州事変かも
>>111 江戸時代には両替商と言う存在があるのは知ってるよね?
江戸時代は東日本が金本位、西日本が銀本位の貨幣経済だったから、こういう商売が必要だった。
ただ、一国に二つの貨幣基準があると煩雑であるし、両貨幣経済圏を「貿易」として考えると、
基本的に東日本は常に輸入超過の赤字だった。
これは幕府にとって悩みのタネで、荻原重秀は貨幣改鋳によって市場に流通する小判の絶対量を増やすことで、
相対的に銀の価値を下げる必要性もあった。実際に宝永の改鋳では、品位の異なる4種類の銀貨が発行され、
銀建ての価格体系が複雑となった結果、銀貨の価値が低下して、東日本の貿易赤字が軽減された。
荻原の政策はインフレを招き、物価を上げて「銀貨の」貨幣価値は下げたが、
相対的には銀貨に対する金貨の価値を上げた。もちろん、物価上昇で金貨の価値そのものは下がっているので、
けっきょくは「物価が上がる=貨幣価値が下がる」と言うことなんだがw
当時の日本に二つの経済圏があったから、そういう意味では微妙なんだと思う。
>>112 パリ不戦条約は戦争そのものを違法だとみなした初の国際法ですが、ここにはあるパラドクスが存在します。
“すべての武力行使は違法だ”としながら、“安全保障、条約違反国、自衛権に基づく武力行使は違法ではない”としている点です。
パリ不戦条約の解釈は人によって異なるので安易に解答を求めるのは如何なものかと。
117 :
日本@名無史さん:04/08/31 12:49
東日本の輸入超過を幕府は悩まないだろ。
幕府の赤字を悩むだけでないの?
江戸は、武家屋敷都市で赤字は当然では?
118 :
日本@名無史さん:04/08/31 13:50
>破った國
この「國」という字をいつも使ってるんだねw
120 :
日本@名無史さん:04/08/31 20:46
お尋ねします。
江戸時代、苗字帯刀を許されていた豪農や豪商は、
明治維新には士族になったのですか?
それともやっぱり平民になったのですか?
121 :
日本@名無史さん:04/08/31 21:35
123 :
日本@名無史さん:04/08/31 22:13
戦中の貨幣価値わかりますか?1円で何が出来たとか…。
>>117 米相場を西日本(大坂)がコントロールしていたのをお忘れ?
金の価値が銀に対して相対的に下がると、米による決済もまた実利が下がる。
江戸時代は幕府も大名も極端な米依存型経済だった。
幕府の赤字と輸入超過による貿易赤字は表裏一体。
友禅や絞に代表される高級な衣服をはじめ、下り物と呼ばれる酒の膨大な消費による
輸入超過に頭を悩ませた吉宗は、栃木や茨城など江戸の周辺地域に酒造りを奨励したぐらい。
125 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:27
>>114 ありがとうございます。
>>115 ありがとうございます。
銀貨に対する金貨の価値は上がったけれど
金貨自体の価値も低下していたということですよね?
そうすると、西日本の物価の上昇は東日本に比べて大きかったんでしょうか。
たびたび申し訳ないです。
126 :
日本@名無史さん:04/09/01 10:18
>>115 江戸期後半には、大阪圏とは別の、江戸経済圏が成立・充実してきている。
127 :
日本@名無史さん:04/09/01 10:21
戊辰戦争で、官軍のエラい人たちって、
なんか変なカツラみたいな帽子かぶってるでしょ。
あれってなんですか?
>>127 「赤熊」(しゃぐま)という戦国時代からある物
兜の装飾、敵の威嚇のためにつけられた。
>>127 128に補足すると、ほかにも黒熊、白熊とある。赤だけではないよ。
元はチベットなどにいる、ヤクという牛の仲間の毛。
江戸城に秘蔵されていた物を、無血開城後に戦利品として官軍が被るようになった。
ゆえに、それ以前の戦いで官軍が被っているのは、厳密に言えばおかしい。
会津や五稜郭はともかく、鳥羽伏見とかで被ってる時代劇とかね。
>>126 江戸期後半の話しはしていない。
115も124も、荻原重秀や八代吉宗のことに言及してる。
何が言いたいんだ?
>>125 一概には言えない。
荻原の貨幣流通量増大策は、結果的に好景気をもたらしたが同時にインフレ経済でもあった。
日本で言えばバブルの頃のような感じ。
んで、その後を継いだ新井白石は荻原大嫌いだったから、貨幣改鋳でデフレ経済になった。
日本で言えば小泉政権のここ数年みたいな感じ。
物価が上がっていても好景気で金の還流が活発ならさほど問題ではないし、
物価がどんどん下がっていても、消費が冷え込んでいてはそれもあまり意味がないのといっしょ。
庶民の細々した物の物価上昇で軽々には言えない。
「物価が上がったので庶民は苦しんだ」というのは、単純すぎる説明モデル。
ただ、物流の中心地であった関西は品物の不足による高騰が、江戸よりも少なかったとは言えるかもね。
また、堂島の米相場で世界初の先物取り引きが行われたのも、投機的な意味合いよりも、
相場の高騰・下落によるリスク回避の意味合いが大きかった。
江戸では大岡越前が何度も商人を呼びつけて価格引き下げを命じたし、
時には牢屋にぶち込んだり強硬手段を用いているが、なかなか物価をコントロールできなかった。
後は自分でいろいろと調べてみたら?
132 :
日本@名無史さん:04/09/01 11:50
吉宗=大岡越前ラインは、改革の末期に、
悪貨鋳造=インフレ政策に変更した。
なぜ前期にこだわるの?
堂島は、資本主義的ではなかったので、明治に対応できず初期に廃止された。
物価は流通の問題だから、売り惜しみすれば上昇し品不足となる。
天保では大阪市中で餓死者が大量に出た。
物価上昇・生活貧窮・飢饉はある意味で都市の問題。
133 :
日本@名無史さん:04/09/01 12:37
>天保では大阪市中で餓死者が大量に出た。
これは江戸への廻米を優先した結果であって
流通の問題というより、政策の問題。
134 :
日本@名無史さん:04/09/01 13:04
何で日本には日本独自の文字が生まれなかったのですか?
中国と陸続きの朝鮮半島では自分達独自の文字、ハングルが作られているのに
何で日本では独自の文字が生まれなったのでしょうか?
(ひらがな、片仮名も漢字の影響を大きく受けた文字みたいですし・・)
135 :
日本@名無史さん:04/09/01 13:53
大阪には米はあっただろう
136 :
日本@名無史さん:04/09/01 13:58
これどうしたらいいんでしょう
ビッグローブの「あなたは”韓国”という言葉から何を連想する?」のアンケートが突如終了。
http://news.fs.biglobe.ne.jp/special/sanmenkiji.html 意にそぐわないコメントは次々に削除して(おそらく数千のコメントが削除されている)いったものの
相次ぐ投稿に削除人が追いつかず悲鳴をあげたものと思われる。
こんなアンケートに意味があるのか?
リアルタイムでコメントが削除されていく様を唖然として眺めていました。
しかもコメントは全て閲覧できなくなっております。すごいですねー。
137 :
日本@名無史さん:04/09/01 14:01
中華文化圏ではしかたあるまい。
漢文好きだからなぁ日本人は。
朝廷、武家、下々、みんな中国大好きで漢文大好きだ。
>>134 質問の方向性が見えないのでレスしにくいのだが、
ハングルは言語学者から評価されている反面
現実世界には対応できない極めて柔軟性の無い
文字だというのは分っているよね?
韓国では一時期、漢字を全く教えずにハングルのみの
教育を行なったけど、その結果は学力の低下をまねき
最新の科学・物理・技術用語に全く対応できないという
事実を露呈したしね。
だから現在では漢字の再教育を行なっているだろ?
日本が漢字文化圏にあり漢字の影響を受けた文字を
使用していることと、ハングルの文字としての歪さを
対照することに何の意味があるのか?
アルファベットとハングルの違いは何ですか?
140 :
日本@名無史さん:04/09/01 14:28
おなじだろ
近親相姦が悪いことだと意識し始めたのはいつ頃からですか?
142 :
日本@名無史さん:04/09/01 16:00
大昔から。サルでも避ける。
では、なぜ古代から近親婚があったのですか?
144 :
日本@名無史さん:04/09/01 17:32
近親相姦と近親婚はちょっと概念が違うのでは・・・
>近親婚
日本では、氏族時代に禁婚範囲は狭く異母兄妹姉弟間の結婚も認め、
直系姻族間の禁止は律令時代に入ってからで、江戸時代は武家家族
の儒教倫理=親族内の身分階層の厳格性の確立から範囲は拡大し、
先妻の子と後妻の連れ子間の結婚も禁じた。
明治前期では外国法の影響からか、逆縁婚(夫の兄弟との再婚)が禁止
や特別許可となり、順縁婚(妻の姉妹との再婚)も特別許可を要する
など、その扱いは一定しなかったが、明治民法は日本の慣習に従い
これらになんらの制限も付さなかった。
現行民法は明治民法の近親婚扱いをそのまま継承している。
人間社会と動物社会を画する境界線といわれる近親婚の禁止は、
驚くべき普遍性と多様性をもつと指摘されるが、法制上は自然
血族の直系と兄妹姉弟間のみが各国共通で、他の親族間の禁止
は一律でない。
日本の禁婚範囲は各国比でほぼ中間に位する。
145 :
日本@名無史さん :04/09/01 18:42
質問させて下さい。
坂本竜馬の誕生日が天保6年11月15日(1836年1月3日)となっているのはなぜなんでしょうか?
なぜこんなにずれているのか教えて下さい。
146 :
日本@名無史さん:04/09/01 21:18
天保6年で1835年。
147 :
日本@名無史さん:04/09/01 22:15
>>145 天保6年11月15日は、当時の日本の暦(太陰太陽暦・旧暦)による年月日。
カッコの中はそれが西暦(太陽暦)ではいつにあたるかを示したもの。
>>146>>147 ありがとうございます、旧暦と西暦の差なんですね。
ということは、現在の11月15日生まれの人が、
「自分は坂本竜馬と同じ誕生日だ」というのは、厳密には違うということですよね?
149 :
日本@名無史さん:04/09/01 23:41
>>148 誕生日のお祝いというものは江戸時代にもありまして
例えば『徳川諸家系譜』家斉公の項には
天明元辛丑年より御誕生日御祝十月五日ニ被定
と見えますが
太陽暦ではありませんので、同じ10月5日でも黄道上の太陽の位置は毎年違います。
つまり西暦で言えば、毎年異なる日を誕生日として祝っているわけです。
だから「厳密に言う」必要はないような気がします。
>>134 単純に答えると、日本では先に漢字から仮名という音標文字
が作られていたから、それ以上必要なかった。
朝鮮では音標文字が発達しなかったので、独自の文字を作った。
151 :
日本@名無史さん:04/09/02 00:51
>>132 前期の話をしているところへ、何の具体性もない後期の話をいれてきたから、チャチャ入れと判断させてもらった。
129のように「補足させてもらうと」ぐらいのことは書いた方が良いんでないの。余計なお世話lかもしれないけど。
別に前期にはこだわっていない。通史として言及すると、経済政策は時期によって方策がコロコロ変わって
煩雑になるので、説明しやすい前期に絞っただけ。吉宗のインフレ経済政策はその時点では効力を発揮せず、
田沼意次の重商主義経済の時代まで待たなくてはならない。
ついでに言わせてもらうと、堂島が廃止された事と、物価の上昇と何の因果関係がある?
吉宗が後期、十組問屋を特権化することで物価コントロールしようとした事と絡めて、問屋の物価上に与えた
影響を説明するならともかく、「堂島は廃止された」だけでは、初心者への質問への回答としては、要領を得ないと思うが。
廃止された背景も含めて、物価との因果関係をきちんと説明すべき。
吉宗はインフレ政策に転換したと言うのも、米公方と言われるほど米価の安定に心を砕き、大岡を使って強硬手段にも出たが、
商人たちが幕閣に取り入って大岡のやり方に圧力をかけ、結果的に商人を放免せざるを得なくなり、ついには大岡は
寺社奉行へ昇格と言うなの左遷をくらった。吉宗自体はそういった政策失敗から、問屋による一種の統制経済に転換した事を
無視して、「インフレ政策に変更した」では、明治期に問屋や堂島が順次廃止された理由がわからないでしょ?
「吉宗以降、一種の統制経済で資本主義的ではなかったので、明治に対応できず初期に廃止された」ぐらいは言わないと。
天保の餓死者については、133氏が突っ込んでるとおり。
153 :
日本@名無史さん:04/09/02 03:11
うざ
154 :
日本@名無史さん:04/09/02 09:35
徳川忠長
松平忠長
どっちが正解?
155 :
日本@名無史さん:04/09/02 13:14
>>1 すみません、日本史板初心者でスレを立てられない身分なのですが
スレ立て依頼はどこに致せば良いでしょうか?
タダでさえクソスレばかりなのに、これ以上初心者が無闇にクソスレを増やしてくれるな。
戦前戦中、ご真影が載ってる新聞てどう処分してたの?
まさか襖の張り紙には使えないだろうし
かといっていつかはボロボロになるだろうし…。
新聞ごとき(といってはなんだが)に載せるのは構わないのに
通貨や切手には載せられないという当時の価値基準もよく分からん
>>156 そうですか・・・・・
では残念ですが(他の板へ)旅にでます。
159 :
日本@名無史さん:04/09/02 17:05
>158
お達者でぇ〜
160 :
日本@名無史さん:04/09/02 17:18
鹿鳴館では欧米の外交官は日本の美女とヤリまくれたんですか?
161 :
日本@名無史さん:04/09/02 18:01
正徳・享保期の貨幣改鋳による良貨政策のため、貨幣流通量が減少し、景気が
沈滞していたので、江戸幕府は元文期の改鋳では再び悪鋳に踏み切り、物価の
調整を行い、景気を持ち直した。
そのため元文金銀は80年以上にわたって通用した。金銀貨のほか、39年には
鉄銭の寛永通宝(1文通用)が発行された。
162 :
日本@名無史さん:04/09/02 18:24
伊藤官邸における仮装舞踏会での伊藤氏の醜聞は有名だがw
163 :
日本@名無史さん:04/09/02 18:28
堂島オタの人か
164 :
日本@名無史さん:04/09/02 18:34
昭和天皇の写真はあまり載らない。
東京大空襲後、不穏な情勢だったときに新聞に出た。
マッカーサーとの写真は検閲で不許可だったが、GHQの指示で出た。
明治天皇は、錦絵で出まくり。ブロマイド見たいのもでてた。
今も切手、通貨にはならない。
165 :
日本@名無史さん:04/09/02 18:35
めんどくさい質問を適度に流すスレはここですか?
キモ
167 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:02
そこがキモです
168 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:40
169 :
日本@名無史さん:04/09/02 21:11
170 :
日本@名無史さん:04/09/02 21:26
詔 書
天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司
ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的
ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル
遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦
帝国カ常ニ国交ノ要義卜為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国卜釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得
サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和
ヲ撹乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ
帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟
尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レ
テ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ
帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神
ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従
セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国
ノ存立亦正ニ危殆二瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕
スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ
東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス
御 名 御 璽 昭和十六年十二月八日 各大臣副署
171 :
日本@名無史さん:04/09/02 21:34
みすずには、開戦の大詔かなんかで載ってない?
172 :
日本@名無史さん:04/09/02 22:37
制作には契丹文字の影響を受けている。
>>169 なるほど、新聞ですか。
論文に引用するのに、
最も一般性のある文献を示したいんですけど、
その日の新聞を読め、でも良いのかしらん。
>>171 詔勅、じゃなくて大詔ですか。
索引で調べてみます。
さんきゅ。
175 :
日本@名無史さん:04/09/03 08:45
>>172 ある意味カナとおなじか。
日本も長らく漢文中心だったからね。
176 :
日本@名無史さん:04/09/03 08:50
ハングルは李朝時代には正字である漢字に対する民間の文字として「偵文」
とよばれ、従の位置を脱しきれなかった。
甲午改革(1894)によって公用文にも用いられるようになって「国文」とよばれ
たが、朝鮮が日本の統治下にはいってから、「ハングル」という名称が考案された。
これは,「大」を意味する古語「ハン」と,文字を意味する「クル」を結びつけた
ものであるが、「韓」の字音にも通ずるとして広く受け入れられ、大韓民国では
今日正式名称として用いられている。朝鮮民主主義人民共和国では「チョソンクル」
(朝鮮文字)とよんでいるようだ。
177 :
日本@名無史さん:04/09/03 10:15
178 :
日本@名無史さん:04/09/03 10:41
>>177 禁制 越中滑川郷
一軍勢甲乙人等亂妨狼藉事
一伐採竹木事
一放火事
右條々堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可處厳科者也、仍下知如件
天正三年九月 日
弾正忠(朱印)
訂正
一伐採竹木事→一伐採山林竹木事
>>178-179 ありがとうございます。文意はなんとなくわかりましたが
真贋のほどはいかがでしょうか?三戦板では「ふつう見出しに禁制などと書かないからあやしい」
と言われました
181 :
日本@名無史さん:04/09/03 11:15
私は信長文書をそれほど見ているわけではないので真贋の程はわかりません。
字体と朱印を他の本物とされる文書と比較するのが、真っ当なやり方です。
現物を見られるなら、紙質も重要な要素ですが
これは写真では確認できません。
>ふつう見出しに禁制などと書かないからあやしい
これは根拠としてはどうなんでしょう?
少なくとも三好三人衆・松永久秀・明智光秀・織田信孝は
冒頭に「禁制」と書いています。
信長は「禁制」という言葉を使わないのですかね。
182 :
日本@名無史さん:04/09/03 11:24
183 :
日本@名無史さん:04/09/03 11:43
ちなみに上のリンク先に見える朱印とオークションの朱印は異なりますが
信長の天下布武朱印は2回変化します。
上のリンク先のものは初期の朱印でして
元亀元年にオークションの文書に見える馬蹄形の朱印に変わり
そして天正4年昇り竜2匹が天下布武の印文を囲むタイプのものに変わります。
オークションの文書は、年記と朱印のタイプは一致していますが
これだけでは何とも言えません。
184 :
日本@名無史さん:04/09/03 11:45
185 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:03
もうひとつ追加です。
天正3年という年記が、やはり怪しいですね。
信長が越中に侵攻するのは
天正6年、謙信の死後のことではないかと思います。
このあたりは三戦板の皆さんの方が詳しいと思うのですが。
天正三年九月 日
弾正忠(朱印)
↑は、いいのか?
187 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:11
188 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:12
>>184 リロードせずに書きましたので、同じような話になってしまいましたね。
字体の件は、祐筆に書かせているかも知れませんので
>>184のリンク先との比較だけでは何とも言えないですね。
オークション文書は弾正忠と受領名になっている点が異なりますし。
ただ天正3年の点は、上に書いたように同意見です。
したがって偽文書と見るのが妥当のように思います。
本物とするならば、天正3年段階で
信中が越中に対してこうした調略を行っていたということになりますが。
>天正3年という年記が、やはり怪しいですね。
>信長が越中に侵攻するのは天正6年、謙信の死後のことではないかと思います。
天正3年八月十二日越州へ御進発。『信長公記』
190 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:28
>>189 それは越前一向一揆との戦いの始まりです。
越中ではありません。
天正3年九月二日、豊原より北庄へ信長御越しなされ(略)
越前国、柴田修理に八郡下され(略)『信長公記』
192 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:39
>>191 だからそれは越前、今の福井県の話でしょ。
滑川は越中、今の富山県ですよ。
193 :
日本@名無史さん:04/09/03 13:00
付け加えておきますと
天正3年段階で越中は基本的に謙信の支配下にあります。
天正5年謙信は能登と加賀の攻略を開始し、閏7月七尾城を攻略します。
これに対し城主畠山春王丸の病死後、家臣の長綱連は信長に救援を求めます。
これに応じて信長は勝家を総大将として加賀に軍勢を送り
9月の手取川の戦いを迎えることになります。
この結果、信長は加賀の南半分(能美郡・江昭郡)の支配に成功しますが
能登と加賀の北半分(河北郡・石河郡)は謙信の支配下に入ります。
もちろん越中は引き続き謙信の支配下にあります。
信長の越中侵攻は、謙信の死後、いわゆる御館の乱を契機に開始されます。
場を騒がせて申し訳ない。
誰か某に口の訊き方を教えてやってくれ。
漏れはおちる。
禁制文書全ての真贋を判断できると豪語する権威がいらっしゃるので、
おそらく漏れの認識と世間の専門家を称する輩が間違っているのだろう。
・自領でなければ一切の禁制・制札はだせない。例外は認めない。←これで良いのかw
195 :
日本@名無史さん:04/09/03 13:08
正徳・享保期の貨幣改鋳による良貨政策のため、貨幣流通量が減少し、景気が
沈滞していたので、江戸幕府は元文期の改鋳では再び悪鋳に踏み切り、物価の
調整を行い、景気を持ち直した。
そのため元文金銀は80年以上にわたって通用した。金銀貨のほか、39年には
鉄銭の寛永通宝(1文通用)が発行された
196 :
日本@名無史さん:04/09/03 13:11
×
ハングル(訓民正音)の意味は文字の通り、”民を訓練して音を正しくする”である。
文化も文明も無い。李朝鮮が終わるまで、卑賤文字、女文字として公式の文献には使われていない。
○
ハングルは李朝時代には正字である漢字に対する民間の文字として「偵文」
とよばれ、従の位置を脱しきれなかった。
甲午改革(1894)によって公用文にも用いられるようになって「国文」とよばれ
たが、朝鮮が日本の統治下にはいってから、「ハングル」という名称が考案された。
これは,「大」を意味する古語「ハン」と,文字を意味する「クル」を結びつけた
ものであるが、「韓」の字音にも通ずるとして広く受け入れられ、大韓民国では
今日正式名称として用いられている。朝鮮民主主義人民共和国では「チョソンクル」
(朝鮮文字)とよんでいるようだ。
197 :
日本@名無史さん:04/09/03 13:14
>>194 >本物とするならば、天正3年段階で
>信中が越中に対してこうした調略を行っていたということになりますが。
私はこのように留保をつけております。
自領以外に禁制は出せないとは思っておりませんが
能登や加賀にもまだ軍を送っていない段階で
そのまだ向こうの、しかも同盟関係にある謙信の勢力下にある越中に
手を出す可能性は低いのではないかと考えます。
198 :
日本@名無史さん:04/09/03 13:30
>>195 >>196 _____
/_ |
/. \ ̄ ̄ ̄ ̄|
/ / ― ― |
| / - - |
||| (6 > |
| | | ┏━┓| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | | | ┃─┃| < 正直、スマンカッタ。
|| | | | \ ┃ ┃/ \________
| || | |  ̄  ̄|
199 :
日本@名無史さん:04/09/03 16:41
_____
/_ |
/. \ ̄ ̄ ̄ ̄|
/ / ― ― |
| / - - |
||| (6 > |
| | | ┏━┓| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | | | ┃─┃| < 吉宗のインフレ政策とハングル語源の間違い、正直、スマンカッタ。
|| | | | \ ┃ ┃/ \________
| || | |  ̄  ̄|
200 :
日本@名無史さん:04/09/03 16:46
☆★☆ 性欲戦隊 オナニーカルテット ☆★☆
カメラレッド 田代
戦隊のリーダー。捕まっても何度も立ち向かう姿はたのもしい。
ミラーグリーン 植草
戦隊の頭脳。的確な判断と話術で確実に任務を果たす。
レイプイエロー 和田
諜報員。多くの部下が各地で諜報活動するのをまとめる。
チンコブラック チョコボール向井
戦闘員。自慢の肉体と肉棒で相手を圧倒する。
201 :
日本@名無史さん:04/09/03 17:19
映画やテレビで戦国時代の戦闘シーンを見るたびに、???、
と思うんですが、実際、どうやって殺しあったのですか?
NHK大河ドラマの「合戦」見てるとほんと涙出ます。
経験ばっちしの健康な大人同士の殺し合いって、どんな感じ?
川中島の合戦で4千人殺されたそうですが、
大量破壊兵器ないのにどうしてそんなに死んだのでしょうか、
気になって夜眠れないんです。
202 :
日本@名無史さん:04/09/03 20:01
>>196 >ハングル(訓民正音)の意味は文字の通り、”民を訓練して音を正しくする”である。
>李朝鮮が終わるまで、卑賤文字、女文字として公式の文献には使われていない。
李朝がハングルは卑しい下賎の文字としていたのは事実。
>>196はどこを誤りだと言いたいのだろう?
ブサヨがその名を聞いただけでファビョル司馬大(w)先生も、
明治になって日本人が教えてやるまで朝鮮人はハングルの存在を忘れていたと語っておられる。
>>197 浅薄な知識をひけらかしたいなら最初から三戦板へいけよ>厨
pedanticな人だね、、、
204 :
日本@名無史さん:04/09/03 21:47
日本語は苦手かな?
×
ハングル(訓民正音)の意味は文字の通り、”民を訓練して音を正しくする”である。
李朝鮮が終わるまで、卑賤文字、女文字として公式の文献には使われていない。
○
・ハングルは漢文に比べ従だったが、李朝時代は「「偵文」」とよばれていた。
・甲午改革(1894)によって公用文にも用いられるようになって「国文」とよばれた。
つまり、李朝で公用文に使われてます。
・朝鮮が日本の統治下にはいってから、「ハングル」という名称が考案された、
つまり「ハングル」という名称が新たに造語されたんだよ。
205 :
日本@名無史さん:04/09/03 21:51
>ハングルの語源
「大」を意味する古語「ハン」と、文字を意味する「クル」を結びつけた
ものであるが、「韓」の字音にも通ずるとして広く受け入れられ、大韓民国では
今日正式名称として用いられている。
↑日本語は苦手だね。
日本語が読めないなら無理して書くなよ。
204へのレス(鬱
208 :
日本@名無史さん:04/09/03 21:56
>>201 鉄砲や長距離弓矢→短距離弓矢→長槍→脳震盪めざし叩きあい→
組み合い→首切り
209 :
日本@名無史さん:04/09/03 21:58
>>204 訓民正音を、”民を訓練して音を正しくする”と日本語で読むことは不可能なのか?
明治期の日本が思い出させる前に、李朝鮮が公式の文献に使用した実例があるのか?
おわかりかな?
210 :
日本@名無史さん:04/09/03 21:58
司馬氏は、昭和の政治層や戦争や軍部などをほぼ全否定してるのはなぜですか?
211 :
日本@名無史さん:04/09/03 22:03
>>210 昭和の政治層や戦争や軍部などを少しでも評価しているのは誰?
212 :
日本@名無史さん:04/09/03 22:07
訓民正音
×民を訓練して音を正しくする
○民に訓(おし)える正しい音
214 :
日本@名無史さん:04/09/03 22:10
×ハングル(訓民正音)の意味は文字の通り、”民を訓練して音を正しくする”である。
○ハングルの意味は、「大」を意味する古語「ハン」と、文字を意味する「クル」を結びつけたもの
215 :
日本@名無史さん:04/09/03 22:13
216 :
日本@名無史さん:04/09/03 22:15
>>215 彼らは最初は毎時肯定・昭和否定の司馬信者。
大東亜戦争正当派に鞍替えするために司馬信者を辞めた。
>>215=216
伝聞だけの憶測だろ。
事実なら誰が何を書いているのか根拠をだせよ。
219 :
日本@名無史さん:04/09/03 22:37
同胞韓国人は嘘つきばかりである。私はそのことが恥かしく、情けない。
「韓国は独力で近代化を成し遂げた」って。馬鹿を云うな。韓国の近代化
は日本の莫大な資本と人材の投与によって成し遂げられたものである。
「韓国は日本の統治に抵抗をもって対抗した」だって。馬鹿馬鹿しい。
同胞韓国人はロバのように日本の統治を甘受したのが実態だ。ごくごく一部の
抵抗はあったが上から下までみんな日本にあこがれ、日本人になろうとした
のだ。「韓国が独立したのは韓国の手によるものだ」にいたっては呆れて
ものも言えない。誰も日本からの独立など望んでいなかったのにアメリカに
強制的に独立させられたというのが真実だ。「漢河の奇蹟」だって!笑わせる。
日本から賠償金という名目で莫大な経済援助と技術援助で成し遂げられたものだ。これだけ
お膳立てしてもらえばどんな未開民族でも経済成長するだろうよ。
「日本文化の祖が韓国」とは恐れ入る。一体、併合前の朝鮮半島のどこに「文化」
なるものがあったのか。併合前、我々先祖は乞食同然の生活をしていたではないか。
現在の韓国の姿、まさに他人により作られた砂の楼閣だ。虚飾と偽善と歪曲とおごり
に満ち満ちている、真似と依存と歪曲が全てである。このような韓国の本質を知らず
「韓国こそ世界一」などとほらを吹いて自己満足している本国、在日の韓国人は正気の沙汰
ではない。これが恥でなくてなんであろうか。
韓国の評論家 金満哲
221 :
日本@名無史さん:04/09/03 23:37
日本には伝統的に唯一神が存在せず、儒教的倫理は江戸時代中期にすでに崩壊していた。
と聞いたのですが、本当ですか?
222 :
日本@名無史さん:04/09/04 00:35
ここで聞くのもどうかと思いますが、1939年当時の1円の価値は現在のどれくらいでしょうか?
ググってもよくわかりませんでした・・
諺文ちゅうのはどっから?
発行時の価値が、現在の貨幣価値に換算してどのくらいかというのは、なかなか難しいのですが、
小学館編『日本20世紀館』に掲載されている物価の推移表(偶数年)中の米価をもとに、
平成8年(1996)の米価を基準として価値を算出してみました(小数点第3位以下四捨五入、1厘×10=1銭、1銭×100=1円)。
ただし、同書には明治期のうち明治33年(1900)以降の物価を掲載していますので、明治期は明治33年(1900)の1厘の価値を算定しています。
また、同書には、昭和13年の米価は掲載されていませんので、昭和15年(1940)の米価から当時の1銭硬貨の価値を算出しています。
なお、他の資料から推定しますと明治6年の1厘は、明治33年の1厘の2倍以上の価値と思われます。
明治33年 1厘… 4.98円 1円…4980.54円
大正5年 5厘…23.45円 1円…4689.35円
昭和15年 1銭… 1.62円 1円…1618.19円
また、ご参考までに戦争直後と戦後10年ごとの1円の価値も算出しました。
昭和21年(1946):1円…267.23円
昭和25年(1950):1円…12.08円
昭和35年(1960):1円…6.18円
昭和45年(1970):1円…2.89円
昭和55年(1980):1円…1.30円
ちなみに、江戸時代につくられた寛永通寳銅銭も、昭和28年に小額通貨に関する法律が改正されるまでは、
法律上、1厘(四文銅銭は2厘)として通用する貨幣でした。九州や東北地方などでは、
実際に昭和初期まで流通していたようです。
226 :
日本@名無史さん:04/09/04 02:34
227 :
日本@名無史さん:04/09/04 09:11
>>217 日韓併合(1910)以前の甲午改革(1894)のとき、
ハングルは公用文にも用いられ「国文」とよばれました
平凡社『朝鮮を知る事典』1994
228 :
日本@名無史さん:04/09/04 09:16
>>226 そういうことはあまり聞きません。さほどなかったと思われます。
229 :
日本@名無史さん:04/09/04 09:21
>>221 日蓮宗や浄土系は一神教的ですけどね。
儒教道徳は、江戸中期に忠君が異様な発達を遂げ、
明治初期で変化が見られたものの、改正教育令あたりで、
強烈な儒教の巻き返しが明治に起きたと思われ。
教育勅語などは儒教的。
>>227 明治は1868年からだと記憶しているが?
231 :
日本@名無史さん:04/09/04 14:56
232 :
日本@名無史さん:04/09/04 15:17
>203 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/09/03(金) 20:22
>ブサヨがその名を聞いただけでファビョル司馬大(w)先生も、
>
>>197 >浅薄な知識をひけらかしたいなら最初から三戦板へいけよ>厨
>pedanticな人だね、、、
ひっこみのつかない在日が次は↑にからみだすヨカン。
234 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:21
235 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:30
>>229 日蓮宗どこが一神教的
法華神道知らんのか
そういう議論はキリがないから禁止。
やりたいならスレ立ててね。
×172 :日本@名無史さん :04/09/02 22:37
×李朝鮮が終わるまで、卑賤文字、女文字として公式の文献には使われていない。
○甲午改革(1894)のとき、ハングルは公用文にも用いられ「国文」とよばれました
平凡社『朝鮮を知る事典』1994
238 :
日本@名無史さん:04/09/04 21:50
>>231 すごいね。
どんな本に書いてあるの?教えて!
239 :
日本@名無史さん:04/09/04 21:59
層加は生き神さま一神教だどw。
240 :
日本@名無史さん:04/09/04 22:04
>>237 近代教育の発展
近代教育は開化運動の一環として1880年代からはじめられた。威鏡道徳源の住民は開化派人物の勧誘によって元山学舎を建て、近代学問と武術を教えた。
同じ時期に政府は同文学という英語講習機関を建て英語を教えた。その後、政府は育英公院を建てて、
外国人教師を招聰して上流層の子弟を選んで英語をはじめとして数学、地理学、政治学など各種の近代学問を教育した。
甲午改革によって近代的教育制度が整い、つづいて「国家の富強は国民の教育にある」という内容の教育立国詔書が頒布された。
教育立国の精神によって政府は小学校、中学校、師範学校、外国語学校などの各種の官立学校を建てた。
外国人教師・・・ねw
で、全文を否定できる根拠は?
242 :
日本@名無史さん:04/09/04 22:46
×172 :日本@名無史さん :04/09/02 22:37
×李朝鮮が終わるまで、卑賤文字、女文字として公式の文献には使われていない。
で、これは間違いでいいのね。
お雇い外国人がどうかしましたか?
>242
そこだけが間違えていると認めるのに
随分時間がかかるんだね。
もっとも、これまでの経過を見れば
正しいのやら、また捏造なのやら、、、
亡国人が卑しい工作に
どれ程熱心かよくわかったよ。
どうりで世界中から蛇蝎のように嫌われるわけだw
ま、○○に言ってもしょうがないことか、、、
245 :
日本@名無史さん:04/09/04 23:13
>>244 やっと認めたのかな?
ハングルは、1894年から公式文で使用。
語源はハンとグルから。
>>244 あの民族の電波を簡単に信じる喪前は馬鹿か?
それとも相手をするのが嫌になったのか?
1894年に李朝鮮が独立した国家かどうか喪前とやりあう気はないから>245
以下、ちと長いが。
しかも、漢字・漢文が正字、あるいは真書とされ重んじられたのに対し、ハングルはオムムンと呼ばれさげすまれていました。
〈ハングル〉の普及を真剣に考えたのは、実はハングルを民族文化の誇りとしている朝鮮人でなく、日本人でした。
朝鮮総督府が支配のために努力したのでしょうか? それはもっと後のことです。
まず、最初に〈ハングル〉の普及を重要事項と考えたのは福沢諭吉です。
もう少し正確に言えば、未開国朝鮮を文明国へと導くためには、何よりも、世界で起こっている出来事を、
文明開化とは何かということを万人に伝えなければならないと考えた福沢は、識字率を上げる必要を痛切に感じていたのです。
そこで、福沢は朝鮮政府に招聘された福沢の弟子、牛場卓蔵・高橋正信・井上角五郎に朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙のためには、
朝鮮語による新開の発行が不可欠であるという薫陶を与え、彼らを朝鮮に送ったのでした。
しかし、ことは簡単には進まず、牛場卓蔵、高橋正信はきびしい情勢に見切りをつけて帰国してしまいました。
井上だけは朝鮮にとどまり、やがて外衙門顧問となりました。福澤は自費でハングル活字を作り、井上に漢字ハングル混じりの表記での新聞発行を奨めたのでした。
当時、朝鮮国内で日本と朝鮮の覇権を争っていた清国官憲と朝鮮人の一部からはげしい反撥と憎悪はあったものの、
井上は朝鮮における最初の新開『漢城旬報』の発行に成功したのでした。
しかし、『漢城旬報』が清国兵の京城(今のソウル)での暴行(甲申政変)を非難した記事をのせたところ、
李鴻章から朝鮮政府にたいする抗議があり、井上はその責任をとって、1884年(明治17年)5月に辞職におい込まれてしまい、
それに伴い、『漢城旬報』も廃刊となってしまったのです。
http://mk-iccs.cool.ne.jp/hangul.htm
247 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:16
プータンで最高位の爵位ダショーと日本のダジョウ(太上天皇・太政大臣)て関係ある?
250 :
日本@名無史さん:04/09/05 07:13
昔の領主の奥さん、城主の奥さんなどはなんと呼ぶのでしょう。
「奥方様」や「御方様」や「奥様」「御台所様」とか、なんだか
色々あるみたいで、どう使い分けているのでしょうか。
251 :
日本@名無史さん:04/09/05 09:48
>>246 話題そらし乙。
>『漢城旬報』
純漢文による18ページ内外の冊子。7〜10日に1回発行。全40号。
責任者は金晩植で、その管轄下の博文局で発行。
252 :
日本@名無史さん:04/09/05 11:41
>>231 すごいね。
どんな本に書いてあるの?教えて!
253 :
日本@名無史さん:04/09/05 19:47
254 :
日本@名無史さん:04/09/05 20:34
成島柳北なら多少はわかるが、米田は。
日本史大事典は?
255 :
日本@名無史さん:04/09/05 23:17
そんなことより聞いてくれよ○●教授よ。
発表の内容と関係無いけどさ。
昨日、近所の学会会場行ったんです。学会会場。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、×○先生記念講演、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、×○先生記念講演如きで普段来てない学会に来てんじゃねーよ、ボケが。
×○先生記念講演だよ、×○先生記念講演。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で文科研費観光か。おめでてーな。
よーしパパ質問しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、講演要旨やるからその席空けろと。
学会発表ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
演者の向かいに座った質問者といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
論破するか干されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、「今の質問に関連して」、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、関連質問なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、関連して、だ。
お前は本当に関連した質問が出来るのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、質問!って言いたいだけちゃうんかと。
学会通の俺から言わせてもらえば今、学会通の間での最新流行はやっぱり、
アブスト差し替え、これだね。
新事実が有りますので、先のアブストは破棄して下さい。これが通の講演。
アブストってのは嘘が多めに入ってる。そん代わり評価が少なめ。これ。
で、それに関係者の自作自演質疑。これ最強。
しかしこれを頼むと次から学会事務局にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、OHPでプレゼンしてなさいってこった。
官位についている『権』ってどういう意味ですか?
「権中納言」とか言うけど、「中納言」とはまた別物?
教えて、エロイ人。
257 :
日本@名無史さん:04/09/06 00:20
>>257 即レスありがと。
なるほど「副」ですか。
260 :
日本@名無史さん:04/09/06 07:32
副じゃなくて福だろ!
馬鹿さらしあげ!
261 :
日本@名無史さん:04/09/06 08:43
俺も馬鹿さらしあげ!
262 :
日本@名無史さん:04/09/06 11:25
つけたし、スマソ。
>権官
大宝・養老令に定められた定員以外に権(かり)に任ぜられた官員。
8世紀前半にも権に兵馬司史生に充て、権に参議と為したことが見えるが、
正規の権官の初見は779年(宝亀10)に藤原田麻呂が中衛権大将に任ぜられた記事か。
781年(天応1)員外官が全面的に廃止されると、これに代わって権官の任命が増加し、
平安時代には内・外官にわたって盛行した。
特に外官の権官は、公廨稲の取得のみを目的とする遥任の風潮と結びついて恒常化した。
263 :
日本@名無史さん:04/09/06 12:23
たいへん遅くなりましたが、208さんありがとうございました。
なんとなく想像できるようになったのでさらに妄想してみます。
264 :
日本@名無史さん:04/09/06 17:22
成島柳北はいいのか?
265 :
日本@名無史さん:04/09/06 18:53
ひいてないが「日本史大事典」では出てないのでは? 乾照夫「成島柳北研究」にすら見えない名前だが。
官省符荘=太政官・民部省によって不輸の権を認められた荘園
国免荘=国司によって不輸の権を認められた荘園
不輸の権=国司が派遣する検田使の立ち入りを拒む権利
国司の干渉に対抗するために開発領主が寄進した土地(国衙領)を
立券荘号で正式な荘園にしたのが官省符荘・国免荘
というとらえ方で良いですか?
なぜ国司が国免荘をつくるのですか?
国免荘をつくる国司と検田使を送り込む国司が別なんですか?
それとも単に、公領を国司の荘園のようにするための
手段と考えればいいのでしょうか?
なかなかココを説明してくれている本やサイトに行き当たりません。
ご教授願います。
267 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:08
>国免荘
荘園の不輸租を公認できるのは太政官だけであり、国守にその権限はなかった。
ところが10世紀初頭から国守の任国内支配について中央政府がこまかく干渉しない
方針に転換すると、国守が独断で荘園の不輸(10世紀からは不輸官物というのが正しい)
を認めはじめた。
このように国守の独断で不輸が認定された荘園を国免荘というが、その不輸認定は
その国守の在任中だけ有効であった。
中央政府はいうまでもなく国免荘を認めず、902年(延喜2)官符を基準とする格前・格後の
荘園整理方針をとり続けてきたが、1040年(長久1)の荘園整理令で当任国司以後の新立荘園
は認めないとする新方針がうちだされてから、国免荘の実績をもつ荘園が公認される根拠が
出現し、さらに延久の記録荘園券契所では1045年(寛徳2)が荘園整理基準とされ、
同所の審査で不輸が認められた国免荘は、中央政府が不輸を公認したのと同様になった。
269 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:25
癖でsageてしもた(´Д`;)
レスありがd
どうも勉強不足っぽいから
もうちょっと調べてくるypヽ(・∀・)ノアリガトヨ
>267氏
>国守が独断で荘園の不輸を認めはじめた
ってのは、それが国守の利益になるからですよね。
そこを国司の荘園のように支配できるから、と考えればいいのかな…
国免荘がこんな風になしくずし的にできたというのは初めて知りました。
ありがとう。
274 :
日本@名無史さん:04/09/07 12:52
収入のくずれをを実態に合わせたのでは?
増加したとも聞いた気がしたけど
275 :
日本@名無史さん:04/09/07 14:04
確かに平安後期のほうが前期よりも経済的に豊かになってる気はするが
276 :
日本@名無史さん:04/09/07 15:51
京の経済を見ていると、明らかに平安前期より中後期の方が豊かだ。
生産請負制みたいな感じなのかな?
国司とか荘園領主やら地頭や守護って、多重支配構造だったの?
それとも棲み分け?
278 :
日本@名無史さん:04/09/07 16:12
すみわけ→武家勢力の力の向上
279 :
日本@名無史さん:04/09/07 16:13
日本では明治まで犬を食べてたんですか?
じゃあ、川を境にこっちは国司が納める国衙領、あっちは地頭の荘園、
向こうは・・・って感じだったんだ。
281 :
日本@名無史さん:04/09/07 16:25
下地中分とか地頭受けってかんじかいな?
282 :
日本@名無史さん:04/09/07 16:28
>>279 江戸初期は野良犬はすぐ食べられたとか。
憐れみの令のあとも何度も禁制が出てるから、実は食べてたようだ。
明治で欧米文化で一時減ったが、戦後の一時期や、地方によっては
その後も食べてたとか。
283 :
日本@名無史さん:04/09/07 16:29
昭和30年代まで食べてたかも?
地頭って税を取り締まった後、お上に納税してたの?
鎌倉幕府の財源って?
あと、地頭は何時代までいたの?
285 :
日本@名無史さん:04/09/07 19:20
>>282 >憐れみの令のあとも何度も禁制が出てるから、実は食べてたようだ
その短絡的発想はどこから来るんだ?w
国立歴史民族博物館の西本先生からご教授いただきましたが何か?
287 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:11
本所・領家、国衙、並びに自己のための年貢公事を徴収
南北朝以降、守護に吸収され実態を失う。
知行国と平家没官領をもととした荘園(関東御領)
新撰組の最初のメンバーで、
近藤、土方、沖田、と、あとひとりいると思うんですが、
だれだかわかりません。
始めは4人だったと何かでききました。
だれでしょうか?教えてください。
>>268 自虐史観は論外だが、上のような「日本は悪くない、負けたのはアメリカの陰謀」論も、また同じぐらい問題外だよ。
日本は結果としてコテンコテンに負けたわけで、
それを真摯に受け止め反省し、のちのちの方策に活かしていかなきゃ、
それこそ、あの戦争で亡くなった方が浮かばれん。
とりあえず、まっとうな軍記ものあたりから読むといいよ。
290 :
日本@名無史さん:04/09/07 21:02
>>288 新撰組最初のメンバーではなく。
試衛館出身者という意味なのでは。
だとすれば井上 源三郎です。
291 :
日本@名無史さん:04/09/07 21:10
>>268 通史を何種類か読んで、次に秦氏と江口氏の読み比べだな。
とりあえず、まっとうな軍記ものってなんだ?
福井静夫著作集
児島襄とかどうよ?
>>294 釣り?漏れは福井静夫氏を批判する気は毛頭ないけど、、、
福井静夫氏はあくまで日本の、それも大型艦中心の造船官だということを踏まえて、
それでも今日的観点から初心者への入門書として、まっとうだと?
福井静夫氏の著作は、筆の滑りとして書かれたと思われる部分もあるし(私は文章の「味」と理解しています)
造船官である福井静夫氏だが、造船官でしかない為に間違えることは多々あるんです。
資料の少ない時代に活躍された方ですので、ご自分の埒外にある小艦艇、外国艦についての記述の曖昧さ語弊など、
今日的観点からは、どうにもならない部分がある、ということです。
(´-`).。o○(児島襄は、個人的な趣向を無視すればモウマンタイかな
300 :
日本@名無史さん:04/09/08 17:20
坂上田村麻呂スレはないんですか?最近興味が出てきたんで
301 :
日本@名無史さん:04/09/08 17:20
江戸時代の公卿が、鷹を飼うのまで幕府に禁止されてたのは本当ですか?
303 :
日本@名無史さん:04/09/08 17:53
>>302 セイイタイ将軍(←漢字がわかりません)
らしいんです。蝦夷征伐がどうたらこうたら。
304 :
日本@名無史さん:04/09/08 18:23
305 :
日本@名無史さん:04/09/08 18:34
>>304 どんな歴史的な事をしたのか、坂上神社と関係あるのかとかです。
306 :
日本@名無史さん:04/09/08 18:52
平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来した
という阿知使主を祖先とし大和国高市郡に蟠踞した倭(東)漢氏の一族で、
武術に秀でていた。
田村麻呂も「赤面黄鬚、勇力人に過ぐ、将帥の量あり」といわれた。
785年(延暦4)従五位下、787年近衛少将となり、以後越後守などを兼任し
ていたが、791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。
数年にわたる戦闘で功をあげ、795年従四位下、翌年陸奥出羽按察使兼
陸奥守、さらに鎮守府将軍を経て、797年征夷大将軍に任じられた。
801年胆沢を平定し、功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった。
802年胆沢城を築城し、鎮守府を多賀城から移し、翌年志波城を築城する
など古代蝦夷経営の成果をあげ、804年再度征夷大将軍に任じられた。
しかしその経営は「往還の間、従者限りなし。人馬給し難く、累路費え多し」
と田村麻呂の没時の伝にも見えるように、大規模な遠征は多くの問題を残し、
805年の徳政の論争によって、平安京造営とともに征夷が中止された。
その後の田村麻呂は、中納言、中衛大将、右近衛大将、兵部縁、大納言
などに任じられ、正三位まで昇ったが、811年粟田別業で没した。54歳。
坂上神社とは東山の将軍塚のこと?清水寺のこと?
307 :
日本@名無史さん:04/09/08 19:41
>>306 詳しくありがとうございます。結構凄い人ですね。
坂上神社が昔地元にあって坂上田村麻呂が関係してると聞いたんで気になったんです。
308 :
日本@名無史さん:04/09/08 19:53
>>307 東北地方には延暦・大同年間(782‐810)に田村麻呂が創建したと伝える
寺社がきわめて多いです。
なかでも観音堂にそれが多く、神社・毘沙門堂がこれに次いでいるが、
それらの縁起はたいてい切畑山の悪路王、大石嶽の大石丸、米木山の
大滝丸などの鬼神退治譚を伴っています。
これらからすると、この伝承は清水寺や鞍馬の毘沙門天の信仰が東北地方
にひろまる過程で、地方の山岳信仰と結びついて形成されていたものと考
えられてます。
309 :
日本@名無史さん:04/09/08 21:00
どこの坂上神社?
310 :
日本@名無史さん:04/09/09 00:38
>>308 ほんとありがとうございます。
>>309 今はもう多治速比売神社に合祀されたんですが大阪府の堺市です。
311 :
日本@名無史さん:04/09/09 01:35
>>309 堺の平井にあった坂上神社は式内社です。
312 :
日本@名無史さん:04/09/09 09:21
>>311 式内社って何ですか?
どこにあったかわかりませんか?
313 :
日本@名無史さん:04/09/09 12:13
>>312 式内社というのは「延喜式」神名帳に登載されている神社を言います。
つまり「延喜式」ができた10世紀には既に存在していたことが確実です。
全国で3132座、神社の数にして2861座あります。
なお平井の坂上神社は明治43年和田の多治速比売神社に合祀されていますが
平井村(現在の堺市平井)のどこにあったかまでは、私にはわかりません。
『堺市史』とかをみればわかるのかもしれませんが
いま、手元にはありませんので。
なんかさわやかなやり取りだ
大宝君は路線変更か、
初心者スレだからって、
嘘書いてちゃだめだろ。
316 :
日本@名無史さん:04/09/09 15:42
大阪府堺市宮山台の神社なら
坂上氏の祖神かともいわれているがどうなのかね?
317 :
日本@名無史さん:04/09/09 16:01
亀だが
日本でも近世はほぼ漢文。
寺子屋も最初は漢文で手習い。
318 :
日本@名無史さん:04/09/09 16:16
>>313,316
ありがとうございます。明治まであったんですね。式内神社ってのも始めて知りました。
勉強になりました。ありがとうございます。
319 :
日本@名無史さん:04/09/09 20:00
>>317 しかたないよ、日本も朝鮮も漢字文化圏だからね
320 :
日本@名無史さん:04/09/09 20:56
江戸時代の公用文は漢文のみ?
>戦前戦中、ご真影が載ってる新聞てどう処分してたの?
そんな新聞は存在していないから安心しろ
322 :
日本@名無史さん:04/09/09 22:11
真影は明治、大正の死んだときと、東京大空襲視察のときか?
戦争末期に皇太子がでたことがあったような。
譲位に備えてか?
323 :
日本@名無史さん:04/09/09 22:17
>>316 それが多治速比売神社に合祀された坂上神社です。
和田というのは旧村名です。
昔誰かのエッセイで読んだことがある。
新聞をまたいだりすると父に叱られた。陛下等の高貴な方のお写真が載っていることも
あるのだから、って感じの文章だった。
325 :
日本@名無史さん:04/09/10 11:24
326 :
日本@名無史さん:04/09/10 11:38
>>325 嘘を書いてはいけません。
幕府・諸藩・天皇が出す文書は仮名漢字交じりの候文ですよ。
庶民が幕府領主に差し出す書類も同様です。
327 :
日本@名無史さん:04/09/10 11:49
福沢諭吉は兄の本を跨いだら怒られた
328 :
小学生みたいな質問で申し訳ございません。:04/09/10 13:04
備中国とか、紀伊国とか、そういった国割りがはじまったのはいつごろですか?
また、それが完成したのはいつごろなのでしょうか?
教えてください、ヨロシクお願い致します。
ちなみに、自分はケータイからなので、「このサイトに詳しく載ってる」とかは大変にありがたいんですが、見ることができないのであらかじめ御了承くださいませ。
国【くに】
古代の地方行政区画。
<くに>は政治的社会的領域を意味し,国造の支配領域が国とよばれ,広域の<筑紫国><吉備国>の称が見られる。
7世紀後半以降律令制の成立にともない国は管下に<こおり>(評のち郡)を置く行政区画・行政組織として整備され,
8世紀初に2字の佳い名による国名表記の統一がなされ,同前半には国の分立併合が頻繁に行われた。
国の数は8世紀初に58,平安時代以降は66でほぼ固定。
令制で諸国は五畿七道に編成され,大・上・中・下の等級により国司の定員等に差が設けられ,
畿外諸国は配流先として,京からの遠近により遠・中・近に区分された。
律令制の国の領域の枠組はその後も中・近世を通じて基本的に維持された。
330 :
日本@名無史さん:04/09/10 14:27:17
軍隊の階級についてお聞きしたいんですが。
軍曹や上等兵、あるいは二等兵ってのは、陸軍の場合、必ず前に陸軍(例:上等兵→陸軍上等兵)をつけなきゃならんのですか?
それが正式階級名なんでしょうか?
お願いしまっす
陸海軍とも正式には
「〇軍、兵科、階級」
と続けます
佐官以下は例外無し
333 :
日本@名無史さん:04/09/10 15:09:07
1ではなかった 御免なさい
334 :
日本@名無史さん:04/09/10 16:59:58
陸軍歩兵大尉安藤輝三
335 :
日本@名無史さん:04/09/10 17:45:59
>>320 >>325 >>326 禁中並公家諸法度や武家諸法度や外交文書は、原文は全文漢文体。
武家諸法度は一時和文体になったが、また漢文体に戻した。
336 :
日本@名無史さん:04/09/10 17:51:09
>>328 824年(天長1)以後は66国2島に定着
337 :
日本@名無史さん:04/09/10 18:05:31
>>335 むしろそれは少数例かと。
幕府や諸藩の文書の大半は仮名漢字交じりですし
幕末の戊午の密勅も仮名漢字交じりですよ。
338 :
日本@名無史さん:04/09/10 18:13:23
>外交文書
慶長18年イギリス船クローブ号に与えた朱印状は候文で書かれているし
また安政元年の日米和親条約も候文で書かれている。
339 :
日本@名無史さん:04/09/10 18:41:50
東南アジア貿易許可の朱印状のことなら普通は漢文。
外交文書は、江戸時代全般を見れば、対馬文書など漢文。
340 :
日本@名無史さん:04/09/10 19:39:01
>対馬文書など漢文
朝鮮は漢文の国だから、候文ではなく漢文を使ったに過ぎない。
その他に基本的にあなたがあげている例は近世初頭に限定される。
享保以降の幕府の基本法令である公事方御定書も候文だし
戊午の密勅が漢字仮名交じり文で書かれていると指摘したことを
全く無視しているのはなぜなのか。
341 :
日本@名無史さん:04/09/10 21:35:26
朝鮮・明・スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・タイ・ベトナムなど
東南アジア諸国との外交文書は漢文。
武家諸法度は代替わりごとに発令するが、吉宗から再度、和文を漢文体に。
幕末まで。初頭のみとは思えない。
王政復古の大号令も原文は手元にないが漢文体では?
密勅を別に無視はしてないが、朝議を通しているとはいえ、
密勅なのでコメントは差し控えた。
主要な公用文に漢文体が少なくないことを確認しただけ。
民衆むけの法令はまた意味が違う。
ちなみに、寺子屋でも普通は、漢文から学習を始めた。
おまけでは、古事記伝も漢文。
漢文が江戸時代にあたえた力は無視できないと言いたい。
だから、明治、さらに昭和の戦後、今も漢文教育は復活している。
342 :
日本@名無史さん:04/09/10 21:55:06
頼山陽の日本外史だっけ。あれも漢文だったような。
完成したのは19世紀じゃなかったっけ?
343 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:13:10
>王政復古の大号令も原文は手元にないが漢文体では?
徳川内府從前御委任大政返上、將軍職辭退之兩條、今般斷然被聞食候。
抑癸丑以來未曾有之國難、先帝頻年被惱宸襟候御次第、衆庶之所知ニ
候。依之被決叡慮王政復古、國威挽回ノ御基被爲立候間、自今攝關幕府
等廢絶、即今先假ニ總裁、議定、參與之三職ヲ被置、萬機可被爲行、諸事
神武創業之始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下之無別、至當之公議ヲ竭シ、
天下ト休戚ヲ同ク可被遊叡慮ニ付、各勉勵舊來驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報
國之誠ヲ以テ可レ致奉公候事。(以下略)
これは漢文ではなく候文です。
引用最終行を訂正
國之誠ヲ以テ可致奉公候事。
倒幕の密勅wはどうなのよ?
346 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:25:29
>主要な公用文に漢文体が少なくないことを確認しただけ。
例えば寛永12年の鎖国令は漢文ではないし
家光の軍役令も漢文でない。
また正史たる「徳川実紀」も漢文ではない。
公用文が漢文でない例などいくらでも挙げられる。
王政復古の大号令を漢文体と書いているが
上に書いたように、これは明らかに漢文とは異なる。
漢文と候文の区別がついていないのではないか?
347 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:26:11
たしかに漢文は無視できないではあるがな
348 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:30:00
>>342>>347 たしかに学者はまともな漢文が書けないと駄目ですが
これは学問の世界に限定される話であって
だから公用文は漢文ということにはなりません。
349 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:33:59
なんで国学者なのに本居は漢文で書いたの?
350 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:37:53
確かに外交文や武家諸法度や禁中並びは漢文。
特に武家諸法度は幕末までの根本法。
352 :
日本@名無史さん:04/09/10 23:21:20
>>350 現在のわが国の基本法たる日本国憲法は旧仮名遣いですが
公用文を旧仮名遣いで書く人は少数派でしょう。
基本法・根本法が漢文だからといって
公用文の中心が漢文ということにはなりません。
353 :
日本@名無史さん:04/09/10 23:28:47
>>351 ほとんど漢字ばかりで書かれていても候文には少しは仮名が交じるわけだし
「間敷」など、当て字としか言えない漢字の使い方をする。
候文を漢文と呼ぶのは
万葉仮名で書かれた文章を漢文と呼ぶのに近いような気がするが。
354 :
日本@名無史さん:04/09/11 00:54:12
ここはいつからなりきり板になったんだ?
355 :
日本@名無史さん:04/09/11 22:24:57
日本でポロをやってたんですか?
356 :
日本@名無史さん:04/09/12 11:28:30
唐を通じて、平安期には伝わっている。
庶民には、馬無しで打つ遊びがはやった。
357 :
大學教授:04/09/12 12:20:21
候文は公的には戦後まで、私的には今なほ用ひられますが、國語力の低下と共に
減勢傾向にあります
江戸文とも和様漢文とも呼ばれますが、狭義の漢文でないのは勿論です
トリップ付ける気ないの?
文法的に漢文でない物を漢文と混同してる香具師がいるな。
仮名がまったくない候文もあるよ。
てか、当時は送り仮名の使い方が厳密ではなかったので、
仮名を略して漢字のみの文章を書くわけだ。
ついでに言えば、候文の中にも不知(しらず)とか無之(これなく)とか、
漢文のレ点が必要な文を、慣用的に混在させてるから、全文を良く読むと
漢文のような候文だったりする。
360 :
日本@名無史さん:04/09/12 18:53:27
候文というのは古文書学的には武家様文書から派生してきたものと考えられます。
「侍」にかわって「候」の語が用いられるようになるのは平安時代後期以降とされます。
こうして生まれた和様漢文体を漢文ととらえるなら
近世の公用文は漢文だった、と言えなくもありませんが
学者はきちんとした漢文を書いています。
林羅山や山鹿素行の文章を見ればそれは明らかです。
したがって、和様漢文体は漢文とは区別されるべき文体であって
近世の公用文の中心は漢文であったというのはやはり無理があると思います。
自己流の文法も多く見受けられます。
362 :
日本@名無史さん:04/09/12 21:49:46
明治になって断髪令が出たとき、月代を剃っていた人はどうしたのでしょうか?
前髪が生えそろうまで待っていたのか、いきなり髷を切ったのか気になります。
髷を落として9:1わけにした後、上髪が伸びるのを待って西洋髪型かな。
364 :
日本@名無史さん:04/09/13 11:07:58
あげ
365 :
日本@名無史さん:04/09/13 11:33:30
一度、総髪にするんじゃねぇか?
>>365 総髪にするまで相当時間掛かると思うが。
二枚刈りぐらいから角刈りを経て6:4分けとかに進むんじゃないのか?
367 :
日本@名無史さん:04/09/13 16:57:51
>>打毬(だきゅう)
ポロ系統の騎馬競技。ペルシア起源のポロが東進して唐代の中国に入り、日本
に伝わったとされる。「万葉集」に載る727年(神亀4)の春日野の打毬が日本初見
である。打毬は(まりうち)とよむ。もっぱら宮中の行事で左右楽を伴って華や
かに催された。唐装束の騎手(多く舎人が務める)を2隊に分け、第三者が毬場に
投入する1個の毬を、手にした曲杖で先にゴール(毬門)へ打ち込むことを競った。
中国では毬門を毬場の中央に一つ立てる形と、毬場両端に対置する形との2形式
が行われたが、平安時代の宮中でいずれをとったかは分明でない。打毬は鎌倉
時代にはやみ、18世紀前半徳川8代将軍吉宗により武士の馬術奨励の意味から
復活をみた。しかし復活した打毬は往古のものと同じではなかった。騎馬の2隊
は毬場の一端に並置(あるいは毬場両端に対置)されたそれぞれの毬門に、あら
かじめ地上に並べられた各隊に属する一定数の毬を先に投入し終えることを競った。
しかも曲杖は、先の部分に毬を保持するための網を新たに付していた。こうした
新ルールは、各自が地上の一定数の毬を、木の細板を楕円状にしたものを先に
つけた杖で保持して毬門に投げ入れ、その成功数を競う李氏朝鮮の打毬(個人騎馬
競技。またこれを2隊対抗としても行う)との関係を思わせる。平安時代の毬1個を
2隊が争う形は「あげまり」として行うこともあったが、将軍家新ルールが主流をなした。
新ルールは土佐藩や八戸藩など地方でも行われ、明治維新後は宮内省主馬寮に受け継がれ
て今日に至る。平安宮中では打毬を徒歩で行うこともあり、さらに平安時代末には庶民の
間に馬と毬門を用いないより簡略化した毬杖(ぎつちよう)が生み出された。
368 :
日本@名無史さん:04/09/13 17:37:31
毬杖(ぎつちよう)?
370 :
日本@名無史さん:04/09/13 20:18:11
>>毬杖(ぎっちょう)
中国から渡来した打毬(だきゆう)が転化した遊び。毬打とも記し、〈きゅうじょう〉
〈ぎちょう〉〈ぎっちょ〉〈たまうち〉〈だきゅう〉〈まりうち〉などともいった。
平安末期の《年中行事絵巻》正月遊戯の条に毬杖の図が描かれているのをはじめ、
古文献に記述は多く見られるが、遊事法について詳述した文献はほとんどない。
1713年(正徳3)刊の《和漢三才図会》には、当時すでに本式の毬杖は下向の道をたどり、
他方わらべ遊びとしての毬杖が行われていたことが記されている。
《骨董集》(上編下之巻、1814)はその遊事法を次のように説明する。〈毬杖といへ
るは椎(つち)の形したる杖なり。玉といへるは、片木(へぎ)を平にけづりて玉のかたち
につくりたる物なり。打やうは、そのあいだおよそ十間、あるひは十二三間をへだて、
そのなかばの地上にすぢをひきてかぎりとし、男児双方にわかれてかの玉を地上
になげめぐらすを、一方より椎もてうちとむるなり。とめえずして、かぎりの
すぢよりさきへ玉のめぐり越たるを、なげたる方の勝とし、打とむるかたの負とす。
あるひはうちとめて、かぎりのすぢより玉をこさせざれば、とめたるかたの勝とし、
玉を投げたるかたの負とす〉。
明治以降も地方により〈はまなげ〉〈はんまなげ〉〈ぎっちょ〉などと呼ばれる
このたぐいの遊びが行われていた。
371 :
日本@名無史さん:04/09/14 09:08:00
ぎっちょ?
あ、ちょ。
372 :
日本@名無史さん:04/09/14 18:44:49
南京事件の井出宣時中將の詳細ギボン
373 :
日本@名無史さん:04/09/14 21:30:16
松井大将は皇軍の統制不能に泣きました。
374 :
日本@名無史さん:04/09/14 22:04:26
今日なんとなくふと思ったのですが…
どうして日本の中近世には馬車が発達しなかったんでしょう?
江戸時代なんか、伊勢参りに馬車があったら江戸市民も随分便利だったと思うんですが…
「思いつかなかった」ってこともないように思うんですけど、どうしてなんですかね?
375 :
日本@名無史さん:04/09/14 22:39:48
>>374 日本の馬は小型で牽引にあんまり向かない
牛車からの連想もあり得たもんね
ま重なるけど
山や坂が多いってことじゃね
375と376に付け加えると、日本に蹄鉄が伝わるのがかなり遅くなったので、
実は長時間の使役に向かないという点もある。
幕末の写真や浮世絵を見るとわかるが、日本の馬は蹄鉄の代わりに草蛙を履かせているのよ。
ある程度使役したら休ませ、藁で脚をマッサージしてやらないと鬱血を起こしたりと、
馬って実はかなり繊細な生き物。戦場でもいざと言うとき以外は騎乗せずに徒で歩く事の方が多かった。
時代劇のように長時間疾走ってできないらしいよ。
また、盲腸で草を発酵分解させるため、栄養効率も悪い。
反芻する牛と比較して、栄養価の高い餌が必要で、飼育自体もかなり手間がかかる。
牧草地が豊富な欧米とは、飼育条件が違いすぎる。
西洋人やアラブ人は馬に大麦を与えていたりする。
380 :
質問:04/09/15 01:59:13
1.墾田永年私財法によって公地公民制の原則は崩れたのでしょうか?
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/134730.htmではそう書いてあるのですが、
http://www.tabiken.com/history/doc/G/G348L100.HTMでは、
同法によって公地公民制が崩壊したとする従来の通説は再考を迫られているとして、
同法が律令制と矛盾しないとしています。
おそらく、後者の方が最近のものだと思うのですが、これは既に通説と言えるのでしょうか?
2.浮浪と逃亡について、その実質的な相違はあるのでしょうか?
山川出版社の概説書(『詳説日本史(改訂版)教授資料』2002.p105)では
浮浪・逃亡については、当時(8cころ)の理解では、流浪先が明らかで
当地において調・庸負担を負うものを浮浪、流浪先不明で調・庸負担を
追っていないものを逃亡と区別していたものの、実態的に大差はないと
されているのですが、
同じ山川の教科書(『詳説日本史』2003.p46)においては、
「口分田を捨てて戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪したり、
都の造営工事現場などから、逃亡して、地方豪族などのもとに
身をよせるものもふえた。」となっており、両者をあたかもその
発生形態の相違から区別しているような印象を受けます。
教科書の記述からは「都の造営工事現場」(おそらく雑徭および
歳役の現場?)から姿をくらました者のみを「逃亡」と呼称し、口分田を放棄し
行方をくらました場合は全て「浮浪」であるかのように読めます。
「「都の造営工事現場」から脱走したこと」を「逃亡」と認定する要件として
理解しておくのは通説に照らして正しいのでしょうか?
381 :
380:04/09/15 02:00:06
>>378 牛が「ぞうり」を履けるかよw
それを言うなら「わらじ」だろ低脳。
横レスですが、わらじとぞうりの違いをキチンと理解した方がよろしいかと。
>>382 草蛙(わらじ)
草履(ぞうり)
釣りにしては寒いな。
牛は偶蹄目だから、草蛙だろうが草履だろうが、履こうと思えば履ける罠。
鼻緒を蹄に(ry
387 :
日本@名無史さん:04/09/15 11:10:26
>>380 1.後者が通説です。例えば近年の概説書のひとつ『概論日本歴史』(吉川弘文館、2000年)は
墾田永年法はかつては公地公民制の崩壊とみなされていた。しかし、そもそも班田収
授制の手本である唐の均田制は墾田も把握できるしくみだった。永年私財法によって
はじめて既懇・未墾を含む全耕地の掌握が可能となり、国家の土地支配はむしろ一
段と深まったとみることができる。
としています。
2.本貫と居住地が一致しているのが律令制の原則です。
正当な理由がなく本貫を離れた状態にあるのが「浮浪」であり
この状態にあるだけで不法なわけですが
さらに課役を出さないのが「逃亡」とされ、一段罪が重くなります。
問題の教科書の記述は
他国に「戸籍に登録された地を離れて他国に浮浪」と書かれていますので
まさに「浮浪」の説明であるわけですし
「都の造営工事現場などから、逃亡」すれば課役を負担しないわけですから
「逃亡」の説明としても、これは正しいと思います。
ちなみに『詳説日本史(改訂版)教授資料』を概説書と書いておられますが
これはいわゆる「指導書」ですね。
高校関係者以外の一般の方でも入手できるのでしょうか?
過疎板の奴らはメール欄すら見ないのか。
さすがに入れ食いしてるぜ。
>>386 草履は踵に固定されないから
履こうという意識がない者には履けない。
牛には草履を履きたいという意識はたぶんないだろうから、脱げてしまうはず。
草鞋なら足首に結びつけるので、脱げない。
マジレス、スマソ。
>>388 みんなわかって付き合ってやってると思うが?
384はメール欄を見ればボケてやってるのがわかるし、
385はわざわざ「釣りにしては寒い」って揶揄してるし、
386はノリツッコミだし。
383はよくわからんが、一匹だけでは入れ食いとは言わんと思うぞw
今後はもうちょっと発展性のある切り返しツッコミをしてください。
ま、釣れたと思い込みたいのならそれでもいいけど。
それとここは質問板なので、2ちゃん初心者みたいなマネはよそでやってね。
親切な人が多いから、低レベルな釣りにも、ついつい構ってあげちゃうけど。
ほかが撒き餌で
>>390が一本釣りされたようにも見える
388=391
いや391=377=314
今スレでは3レスしかしてないな俺
394 :
日本@名無史さん:04/09/15 14:50:47
近代史の区分というのは終戦まででいいんでしょうか?
396 :
日本@名無史さん:04/09/15 16:30:59
>>394 山川のサイトで検索してみましたがヒットしませんでした。
あるオンライン書店で検索すると、ヒットはするものの「ご注文いただけません」と出ます。
ちなみにamazonだと引っかかりません。
というわけで私は一般には販売されていないものと認識していたのですが
入手できるものなんですかね。
例年5月か6月には山川の社長が営業に来ますから
そのときに尋ねてみようかと思います。
しかしまあ、これはあくまで教員が授業を組み立てる際の参考にする本ですから
概説書と呼べるものではないと思います。
一般の方が9450円も出して買う本ではないでしょう。
概説書なら岩波ジュニア新書とか増補改訂された中公文庫とか
そういうもので十分かと思います。
397 :
日本@名無史さん:04/09/15 17:15:58
>>395 近代と現代をどこで区分するか、という質問でしょうか。
これは時代の経過とともに、どんどん前倒しになっていくものだと思います。
例えば60年代には20世紀以降を現代と扱うことが多かったように思いますが
70年代から80年代になると、敗戦以降を現代と見るのが一般的となり
いまでは講和以降を現代とする見解が有力ではないかと思います。
やがては高度経済成長の終焉以降とか
あるいはバブル経済の破局以降を
現代と見るようになるのかも知れません。
398 :
日本@名無史さん:04/09/15 21:09:49
>>395 日本史では敗戦からが現代、西欧史では20世紀から現代が一般的か?
結構釣れるもんだな。
400 :
日本@名無史さん:04/09/15 23:58:39
某板で
>織田信長だって政教分離のために平然と女・子供まで虐殺してんじゃん
>その近代合理主義においてフセインと近いじゃないか
と言っている人がいたのですが、
織田信長による一向宗弾圧や比叡山焼き討ちなどは
政教分離が目的だったのですが?
ただの社寺勢力との勢力争いの結果でしかないと思っていたのですが。
>>400 少なくとも信長のは宗教政策ではない
逆に言えば世俗と宗教が混在しているから信長は世俗的な感覚で宗教勢力と対決したといえる
政教分離の概念の定義がはっきりしていないからな
>>400 フセインは政教分離のために平然と女・子供を虐殺したのですか?
政権維持のために平然と女・子供を虐殺した例なら
・歴代米大統領
・中国皇帝
・欧州主要国
・印度
・アフリカ
過去数千年幾等でも類例があります。
政教分離と近代合理主義が、どう繋がるのかも判りません。
前後の文脈無しにコメントを求めるのは如何なものかと、、、
なお、信長が政教分離を指向したというのは一般の小説ビジネス書向きではありますが、
信長は当時のインテリである僧侶に意見を求めることもありますし、
安土宗論等で寺社勢力を政権運用で利用しております。
寺社勢力が、見返り無しに信長に協力するとは考えにくいですね。
信長は小説などでイメージされているような独裁者ではありませんから。
404 :
日本@名無史さん:04/09/16 09:45:56
質問です。
日本の歴史では奴隷制は存在したのでしょうか?
405 :
日本@名無史さん:04/09/16 10:48:14
しないのですが、左翼はしたしたと言いたがります
406 :
日本@名無史さん:04/09/16 11:48:11
>>405 「良」に区分される公民をどう見るかですが
奴隷制概念とは異なる隷農制概念で把握しようという考えも出ています。
それから古代日本に奴婢という奴隷は存在します。
まあ奴隷がいるだけで奴隷制社会とは言えないことは
19世紀前半のアメリカ合衆国を見ても確かなのですが。
おいらんとかああいうのは奴隷じゃないの?
おいらはかかあの奴隷じゃい
>>407 別に制度じゃないからな
上位者の生殺与奪の権力の強さは奴隷制は関係ないし
410 :
日本@名無史さん:04/09/16 12:15:58
じゃあ奴隷制ってなんなのさ
411 :
日本@名無史さん:04/09/16 12:27:47
【奴隷制】
人身的に主人に所有・隷属させられ、みずからの生産手段を保持しない生産様式。
このような奴隷制生産様式が全社会的に発展したのは古典古代のギリシア、帝国
期のローマのみである。日本史上の奴隷制は奴婢制のなかに認められるが、生産
様式として全社会を規定するようなものとしては発達しなかった。古代日本に奴隷制
を認めようとする論者は、共同体成員全体が天皇のもとで奴隷化されたとみなす立
場に立つ。(『日本史広辞典』(山川出版社、1997年))
最後の方に書かれているのが、いわゆる総体的奴隷制説だが
もはやそれを乗り越えた記述になっている。
この項目の担当者が誰であるか明らかでないが
この辞典の編集委員で、こういう問題に関わりを持つのは大津透氏のみ。
彼は岩波からも本を出しているから
一般的には「左」に区分されると思う。
>>405の指摘は70年代までの感覚であって、もはや時代遅れかと。
卑弥呼が魏に贈った生口は奴隷じゃないの?
>>399 うんうん、いっぱい釣れたね。
入れ食いだったね。
良かったね。
IDの出ない板でw
414 :
日本@名無史さん:04/09/16 13:15:22
>>421 >奴隷制生産様式が全社会的に発展したのは古典古代のギリシア、帝国
>期のローマのみである。
この「全社会的」という部分に注目して欲しい。
生口は奴隷だと思うが
上にも書いたように、奴隷が存在するだけで、奴隷制社会だということはできない。
1860年のアメリカ合衆国の人口に占める黒人奴隷の割合は14%だという。
しかしこの時代のアメリカ合衆国を奴隷制社会だという人はいない。
417 :
日本@名無史さん:04/09/16 16:23:22
教えていただきたいのですが
>昭和12年10月26日 閣議決定
>支那事変ニ関連シ支那ニ於ケル経済ニ関スル重要諸事項ヲ審議セシムル為
>内閣ニ第三委員会(以下委員会ト称ス)
>ヲ設置ス
ということがあったようなのですが、この委員会のメンバーや
業績などに関して少しのことでもご存知のことがありましたら教えてください。
418 :
日本@名無史さん:04/09/16 19:48:11
>>417 このあたりはあまり詳しくないのですが
確か興亜院設置は第三委員会に提議されて具体化したのではなかったかと。
>>400 とりあえず、そのカキコしたヤツは、
信長についてもフセインについても、なんらわかっちゃいねえとだけは言えるな。
420 :
日本@名無史さん:04/09/16 21:18:43
古代日本は韓国人の支配下
http://japanese.joins.com/html/2004/0916/20040916191641700.html 30年以上も世界各地を渡って活動してきた貿易会社社長が、韓国と日本の
古代史についての本を英文で編集して出版した。 パク・ジョンファ(株)サムエサ社長が
その人だ。70歳を過ぎたパク社長は最近、ニューヨークで『The Historic Long,
Deep KoreanRoots in Japan』(歴史的に深くて永い日本の中にある韓国の根、
ビンテージプレス刊)という本を出した。
パク社長はこの本で、古代日本の支配階層および主流階級は大和民族でなく、
韓半島からの渡来人であることを立証すべく力を注いだ。 「日本列島には本来
大和民族という先住民が居住し、韓半島の渡来人は日本の文物形成に断片的に
寄与しただけだ」とする皇国史観の間違いを、各種文献史料を引用して1つ1つ
批判した。 この本には▽日本の国号「ニッポン」は7世紀後半に高句麗(コグリョ)の
高僧によって命名された▽645年まで日本の通称だった「倭」は伽耶(カヤ)の
別称だった▽日本の建国神話に出てくる韓神は、大己貴尊(おおあなむちのみこと)と
少彦名命(すくなひこなのみこと)であり、今でも奈良市の神社に韓国の神として
祭られている−−などと詳細な記録とを根拠に記述している。
パク社長は「韓日古代史を世界に正確に知らしめるには、韓国語や日本語よりも
英語で本を出した方が良い」と話した。
さらにパク社長は「米国に続き、今年中にも英国・オーストラリア・ニュージーランド・
インド・南ア共和国などで同時に出版する計画だ」と話した。
421 :
日本@名無史さん:04/09/16 21:41:39
422 :
日本@名無史さん:04/09/16 22:07:30
>>421 黒人奴隷を使ってプランテーションで生産される綿花は
資本主義の本家イギリスに輸出されていた。
合衆国南部はイギリス資本主義体制に組み込まれているわけで
いかに多くの奴隷が存在しようとも
その社会を奴隷制と規定することはできないだろう。
奴隷制と規定できる社会って対象が随分狭くなるね
424 :
日本@名無史さん:04/09/16 22:45:06
>>404 狭義の奴隷制は存在しない。
しかし、
・古代の生口・奴婢
だけでなく、中世の
・下人・郎中・奉公人
なども、奴隷的な地位であった。
また、この関連から、人身売買のときに
「譜代となす」と表現したこともわかっており、
「譜代」という言葉も奴隷に近い概念だったと考えるべき。
江戸時代になると、ちょっと違うかもしれない。
譜代大名なんていう言葉もあるし。
>>387氏
亀レスですが
詳しいご説明dクスコです。
墾田永年私財法については私の理解不足でした。
浮浪・逃亡については、並列的に論じるべきではなく
浮浪の延長状態として逃亡があると捉えておきます。
『詳説日本史(改訂版)教授資料』についてですが、
現在とあるルートで手元にあります。
概説書と書いたのは私のミスです。
私もamazon等で検索しましたがヒットしませんでした。
教科書卸の会社に行けば手に入るようです。
428 :
日本@名無史さん:04/09/17 13:48:59
日本におけるチョコレート・ココアの歴史を教えてください。
鳥取に住む友達の50歳の母が、小学校で給食で出るようになった
と言っていますが、それ以前にもココアは庶民に飲まれていたのでしょうか?
429 :
日本@名無史さん:04/09/17 17:27:16
江戸の風呂事情について質問です。
江戸時代、庶民は内風呂が禁止されていたと言われますが、その境目はどのあたりなんでしょう?
ある程度金持ちの商人なども銭湯だったんでしょうか?
かなりの豪商だと、郊外の別宅などに風呂を持っていたかもしれませんが、そういうのではなく江戸市中に限っての事が知りたいです。
430 :
日本@名無史さん:04/09/17 19:36:43
>>429 西山松之助「江戸っ子」(吉川弘文館)は
(1)火災が多かったから火元としての疑いをかけられたくない
(2)大勢の使用人のうちには立派な商家の息子などもいて
そういう使用人たちを銭湯に行かせ<
自家の者だけでノウノウと湯に入ったのでは申訳けがない
こうした理由から大店にも内湯はなかったとしています。
ちなみに御家人の隠居の日記
「官府御沙汰略記」には風呂を沸かしたという記述が月に何度か出てきますので
武家の暮らしはまた別物でした。
うちの高校の女教師(日本史)は
伊藤博文やら福沢諭吉やら黒田やら西郷どんがあまりお好きでないようです。
伊藤さんに関しては新撰組に有能の人物が次々と殺されて
無能なのに生き残ったやつだと豪語しております。ほんとにそうなのかな?
432 :
日本@名無史さん:04/09/17 20:56:39
>>431 山口県ではわりと良く耳にする話ではないでしょうか。
妻の実家は旧長州藩士ですが
そこで似たような話を聞いた記憶があります。
>>431 伊藤に関しては司馬が小説の中で何度かそういう書き方をしています。
只、その先生の言う「新撰組に殺された有能な人物」が誰を指すのかは不明だがw
434 :
429:04/09/17 21:11:55
435 :
日本@名無史さん:04/09/17 21:33:56
>>428 ○ 「長崎寄合町議事書上控帳」(長崎県立図書館蔵)
寛政9年(1797年)3月の項、長崎丸山“筑後屋平右衛門”からの届出に、同人抱遊女大和路の貰い品として【しょくらあと 六つ】と記載されています。
○ 「長崎見聞禄」(広川某著)(長崎県立図書館蔵)
寛政9年の項、「しょくらとを」の飲み方、味が記されています。
これらの文献から、18世紀後半にはチョコレートが日本に伝わっていたことが証明されています。
また、外国に唯一門戸を開いていた長崎が日本ではじめてチョコレートを食べた地であることもわかります。
○ 明治10年:米津風月堂、貯古齢糖を広告
我が国で初めてチョコレートを商品として加工・販売したのは、東京・両国若松町にあった米津風月堂(店主米津松蔵)といわれています。
明治10年(1877年)11月1日の東京報知新聞に「新製猪口齢糖」として、広告を掲載しています。
当時は、チョコレートの当て字として、[貯古齢糖],「知古辣他」の呼び名が見えます。
http://www.chocolate-cocoa.com/histry_j/histry_j1.html
437 :
日本@名無史さん:04/09/17 22:27:25
ココアは、大正中期までなかった。
438 :
日本@名無史さん:04/09/17 22:35:50
日本へは江戸初期にチョコレートが持ち込まれたというが、1873年の岩倉
遣欧使節団がフランスのチョコレート工場を見学した際の記録が残されている。
東京の両国若松町の風月堂が製造を始め、〈貯古齢糖〉という最初の広告が
出たのは78年であった。その後各社でつくられたが、1918年森永製菓が初めて
カカオ豆の処理からの一貫生産に着手し、以後数社が追随して、生産量は急激に増加した。
しかし、40年にはカカオ豆が輸入禁止となり、50年の輸入再開まではチョコレート
の生産は事実上不可能となった。しかし業界では代用品の開発に努め、
ココアバターの代りにしょうゆ、大豆油、ヤシ油などを原料とした硬化油
を用い、カカオ・マスの代りにユリ球根、決明子(エビスグサの豆)、脱脂大豆粉
などを配合したものを用いて代用チョコレートをつくる研究報告を1941年に発表した。
また第2次世界大戦後はアメリカ製チョコレートが進駐軍の兵士を通じて
出回るようになると、日本の業者はグルコースを原料に薬用カカオ脂の副産物
であるココアなどを配合した代用グルチョコを考案して大衆の欲求にこたえた。
ココア(Cocoa)はカカオの実を発酵させ皮と胚芽を取り除いてすりつぶしたもの(カカオマス)に
湯や砂糖、牛乳などを加えた飲料で、ホットチョコレートとも呼ぶ。
440 :
日本@名無史さん:04/09/17 22:42:13
>>432 その先生は京都出身みたいなんですけどね。
何気に授業の中でホモの話とかしてくる漫画描くのが大好きなちょっと腐った先生です。
>>433 たぶん、司馬の小説に感化されたのかな。
彼女の言う有能な人物とは、間違いなく坂本竜馬だと思いますw
>>441 伊藤は長州閥のリーダーになっていくわけですが
伊藤を小物と評する長州人に言わせれば
維新を迎えることができなかった有能な人物の代表は
たぶん久坂玄瑞と高杉晋作でしょう。
久坂は戦死とも言うべき自決、高杉は病死ですから
新撰組に殺されたわけではないのですが
長州で一番偉いのは何と言っても、松陰先生ですから
その門下でも何でもない龍馬など、評価の対象外ということになるかと思います。
>>442の続きです。
ちなみに妻は長州人ですが
私自身は上方の人間ですので
長州をひいきするつもりはありません。
歴史にIFは禁物ですが
もし龍馬が殺されていなかったら
明治政府とは関わり合いを持たず
政商の代表である岩崎のような生き方をしていたのではないかと思います。
海援隊などにその萌芽が見られるように思うのですが。
再度追加です。
「関わり合いを持たない」というのは
官職に就かないという意味です。
445 :
日本@名無史さん:04/09/18 15:22:28
442の文てなんか変でない?
446 :
日本@名無史さん:04/09/18 15:43:17
坂本と伊藤が途中で混ざってるんでないのかな?
てか、質問スレの趣旨を踏み外してるしなw
質問スレの趣旨を踏み外してるついでに
漏れは>447がこのスレに書きこんだレス番号を知り鯛
449 :
日本@名無史さん:04/09/18 20:45:06
「ぼろ」って何ですか?
暮露?
禅宗の一派である普化宗の別称
一般には虚無宗
451 :
日本@名無史さん:04/09/19 12:30:09
452 :
日本@名無史さん:04/09/19 15:59:20
中国唐代の鎮州普化を祖とし、日本には無本覚心が鎌倉時代に伝えた。
徒然草に「ぼろぼろ」で出ている。
中世ではロン毛、はちまき。またはのび放題の坊主頭。
執念深く暴力的だが、武士の弓矢の餌食や生首の供給にされたりしている。
近世では虚無僧になった。
明治政府は禁止したが、復活し今もいる。
453 :
日本@名無史さん:04/09/19 16:04:25
亀レスですが、牛も馬も中世からわらじをはいてたようです。
絵巻物に出ているそうです。
454 :
日本@名無史さん:04/09/19 21:51:04
>>452 徒然草では「我執深く闘争を事にする卑徒」とされてる。
近世では、1614年(慶長19)の虚無僧掟書によると、武者修行の宗門と心得て
全国に自由往来することが許可されている。特別の扱いをうけているが
浪人取締りの手段としている。
江戸中期以降には遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になり横行したため、幕府は天蓋の
販売規制をするなど取締りをしている。
普化自身はなかなか面白い坊主なんだがな…
456 :
日本@名無史さん:04/09/19 22:20:41
普化って覚心のこと?
457 :
日本@名無史さん:04/09/19 22:48:36
漫画で、出てたんですが、六条合戦ってどんな感じだったんですか?
教えてくださいよろしくお願いします。
458 :
日本@名無史さん:04/09/19 23:53:03
吉田松陰の「指導者の条件」を4つくらい教えてください。
調べても見つけられなくて・・・
よろしくお願いします。
>>457 信長公記巻二永禄十二年三好勢返す六条合戦の事
永禄12(1569)年正月4日、三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し、
薬師寺九郎左衛門を先懸けに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた。門前はまたたく間に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち、
敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた。
このとき寺内にあって公方様を警護していたのは、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・
明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らであった。このうち若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く、
そろって敵将薬師寺の旗本勢へ突入し、並居る敵勢を切り崩して激闘した。しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き、
両名とも槍下にて討死した。
他の御所勢も奮戦し、敵が突入してくればその都度これを押し返し、なかには敵勢三十騎を一度に射倒して敵が算を乱す場面も見られた。
三好勢は攻めあぐねた。
そのような中、三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆らの援軍がようやく到着し、
桂川河畔で三好勢にぶつかった。戦は黒煙うずまく激戦となったが、来援軍は高安権頭ら敵方の大将を次々と討ち取って勝利を得、
三好勢の撃退に成功した。
戦の後、来援軍は岐阜の信長公のもとへ急使を送って変事出来を知らせた。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho5.html
460 :
日本@名無史さん:04/09/20 00:19:16
>458
「志を持て、知識を磨け、気力を養え、しかしそれだけでは学者に過ぎぬ、
真の指導者は徹底して行動せよ」
>460
ありがとうございました!!!
462 :
日本@名無史さん:04/09/20 08:35:17
しんちょうこうきってデマじゃなかったっけか?
そんなの常識だよ
464 :
日本@名無史さん:04/09/20 11:02:01
465 :
日本@名無史さん:04/09/20 11:44:18
なんで専門板なのに知識が浅い奴多いの?
>>465 ここだけをみてた頃は
漏れもそう思っていたけど
世界史板の初心者質問スレを
みたら考えがかわった
下をみるときりがないよ
465がスレの質を高めてホスイ
日本史板は今は隔離板に近いからなあ…。
目ぼしいコテも消え、一部の日本史コテも世界史板や他の板に移住してしまったし。
一時期よりマシになったがまだまだ荒れ模様の板だから仕方ないか?
「知識が浅い」つうよりケチなんじゃないの?
自分は努力して知識を仕入れた。楽するんじゃねえってことでは?
で、結果、知識の浅い人の回答が増える。
>>468 日本史板とはいいつつも、いつも上がってるのは天皇、チョンがらみのスレか
家系関連のスレ。
そりゃ、まともな連中は世界史板に移住する罠(鬱
世界史板で亡命住民が嘆いていたが、日本史板の癖に中世関係のスレがほとんどないんだよ。
幕末とか戦国は人気あるのに。
結局みんなミーハー根性だけで学問は好きじゃないのねって思う。
世界史板の連中がまともか?
まあ何をどう思うかは人それぞれだが・・・
世界史板で亡命住民が幕末板をつくれと言っているけど、
それをやると今度は、日本史板の癖に幕末関係のスレがほとんどないんだよ。
という話になる罠。
世界史板は今の燦々たる有様の日本史板よりマシだと思ふ。
上位スレを見るとゲンナリするもん。日本史板は。
世界史板上位スレ
1: ◆ ◇◆世界史系ジョーク集・第14集◆◇◆
2: とっても助平な世界史
3: ポンペイ総合スレッド
4: 20世紀最大の捏造 ホロコースト 21
5: ☆☆☆韓国皇帝高宗☆☆☆
6: 教科書が教えない朝鮮の歴史2
7: 高句麗、百済、新羅の日本読みの起源
8: 【・∀・】 カノッサの屈辱 【・∀・】
9: 南京大虐殺 夏の陣
10: 王国が増えてほしいと思う今日この頃
読んでみると意外と良スレだぞ。
除、ホロコと南京。
477 :
日本@名無史さん:04/09/20 19:48:52
>>473 日本語(漢字)苦手?
燦々[文]形動タリ
美しく光り輝くさま。鮮やかに輝くさま。
「太陽の光が―とふりそそぐ」
478 :
日本@名無史さん:04/09/20 19:52:09
4: 20世紀最大の捏造 ホロコースト 21
↑のスレは密かに読み続けている漏れは日本史板的にはどうなん?
479 :
日本@名無史さん:04/09/20 19:52:10
禿げしく同位
掲示板に書き込む時は誤字は気を付けよう
すげー気になるぞ
読んでて不快だ
2ちゃんで誤字脱字をつっこむ香具師の方が(ry
>>478 いいんじゃない?
俺はループしてるし今は読んでないけどね。
やっぱり古代史、チョンネタ、天皇ネタ、家系ネタが多い。
1: ※九州王朝はなかったのか?※ 9 (209)
2: 【初心者】スレッド立てる前に質問をPart8【歓迎】 (477)
3: 宗教弾圧大本事件とはなんだったのか? (270)
4: ◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART10 (659)
5: 鹿児島県は危険な存在。廃県にするべき。 (244)
6: おまいらに官位を与えてやるスレpart2 (572)
7: ♪♪歴史上の人物になって前の人に一言13♪♪ (485)
8: ☆ 神社・国造・社家の歴史 ☆ (459)
9: 特攻隊の守りたかったもの (286)
10: 坂本竜馬は実際どれくらいすごいの?part6 (235)
11: もし大日本帝国が今も続いていたら・・・ (42)
12: 朝鮮人が日本を作った可能性は (977)
13: 男系断絶?女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part21 (415)
14: 学生運動って何だったのか (843)
15: 【痛い】会津・新撰組研究家【痛い】Part5 (839)
16: おまいは南朝派or北朝派【Live or die】 (312)
17: 井沢元彦「逆説の日本史」8 (762)
18: 九州・山陰は韓国領土 (52)
19: 昔の武士の言葉遣い (367)
20: 公家の系図についても語ろう (37)
読んでみると意外と良スレだぞ。
みごとにクソスレばかりだな
484 :
日本@名無史さん:04/09/20 20:02:50
アメリカのイラク占領は、WWUの時の日本占領とどう違うんですか?
山野に毛利元就列伝30レス連発を世界史板側に書かれるようじゃ日本史板もだめだな。
おっと質問か。
スマンコ
>>484 むしろ、世界史板の方が良心的な回答を期待できるかと・・・
>485
モズグス様と「ベルセルク」の時代背景を語るのです
のスレで何を書きこんでも住人からスルーされているコテが
何の判断基準になるんだ?
489 :
日本@名無史さん:04/09/20 20:26:11
487のキタイに応へてw
>>484 比較は無意味。
全てが違う。
むしろ同一性を求めること自体間違っている。
>>488 だから日本史板は駄目になったんだと思おう。
491 :
日本@名無史さん:04/09/20 20:36:58
日本史板はね、2ちゃんでも真面目すぎるといわれた時もあったのよ。
東大の人達がいなくなってからは子供の遊び場になってしもうた。
スレ違いの話で随分盛り上がっていたようだが、
現在の世界史板は良いが日本史板は駄目だと
言っている香具師は、漢字よかハングルの方が
得意でFA?(サンサンとサンザンは誤字脱字
じゃ無いだろ。漢字の知識不足だと思ワレ)
世界史板と日本史板両方を見比べても、
目糞鼻糞の類の話だと思うのだが・・・
チョン認定キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
さすがレベルの高い日本史板!
…なんつうか人間が小さいね。
何言ってんだ?
誤字じゃないだろ?完全に。
ああいうのは誤字とは言わない。辞書で調べろ。
チョンが生意気なこと言うから痛い目にあうだけだ。
ていうかお前、今の日本史板がチョン叩きが多いから気に食わないだけだろw
バレバレなんだよ
496 :
日本@名無史さん:04/09/20 21:40:52
粘着ウゼーヨ
やっぱりな。
過度に日本史板を辱め、世界史板を持ち上げる工作員はチョンということでFAということか。
どうも書き込みからキムチ臭がすると思ったよ。
チョンネタが多すぎ。日本について語れ。
なんでもチョンに結びつけるヤツが多いのがウザイ。
そこまでチョンにこだわり、関心を持つ理由がわからない。
日本史板だったら、もっと真っ当なな話題がいくらでもあるだろうに・・・
…と、サンサンとサンザンの区別のつかないチョンが何か申しております。
なんで日本史板なのに朝鮮に関心の強い人が多いのでしょうか?
なんで日本史そのものより、朝鮮人について語りたがる人が多いのでしょうか?
492みたいなアホが多いからだろう。
しかしそういう住民を追い出すことはほぼ不可能。
隔離スレを作っても流れ出てくるし。
どうすりゃいいんだろうね。
日本人が朝鮮人に関心が強いというのは朝鮮人最大の誤解だね。
韓国の核開発にしても当初はNHKが少しだけ報道した程度で、
大手マスコミは完全スルーだったのに韓国のマスコミは、日本のマスコミは
必要以上に過剰報道をしていると騒いでいるんだから・・・
502が自白しているように永遠に日本に粘着するつもりなんだろ。
またまたチョン認定キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
すみません、日本史板の話なのに、いつ大手マスコミや日本人全体の話にすりかわっているのですか?
核開発はこの話題と関係あるのですか?
いずれにしてもいい加減やめて欲しいのですが。
506 :
日本@名無史さん:04/09/20 22:50:20
491 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/09/20(月) 20:36
492 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/09/20(月) 21:34
493 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/09/20(月) 21:36
チョン認定キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
502 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/09/20(月) 22:10
503 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/09/20(月) 22:44
504 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/09/20(月) 22:45
またまたチョン認定キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
本当に一日中日本史板に粘着しているんだねw
>493=>504は他にすること何も無いの?
普通の良識のある人間なら502の書き込みを見て、
チョンだと気づくだろうね。
時流を読めば今やチョンの悪行は暴かれているわけだし、
一部マスゴミ以外日本人はチョンを嫌っているわけだし
そういう不自然な擁護をしてるからついつい本音が出て
生粋の日本人にはバレバレな結果になってしまう。
ま、自ら自白乙です。
>>505 すみません今後は北鮮の話だけにしまつ
ここはアナタタチが言論統制を行なっている板なんでつね
認定もクソもないだろw
502を見ればチョンだと一発でわかるw
503氏にはげしく同意だ。
503氏がんばれ!
510 :
日本@名無史さん:04/09/20 22:54:39
で、質問なんですけど、
斎藤右兵衛太輔龍興と三好それから明智光秀大活躍の六条合戦についてもっと詳しく教えてください。
だから、日本史板で朝鮮の話題はやめろって。
結論。朝鮮ネタは伸びる。
513 :
日本@名無史さん:04/09/20 22:58:57
結局、愉快犯なんだな>朝鮮ネタ
514 :
日本@名無史さん:04/09/20 23:01:49
>510
斎藤右兵衛太輔龍興大活躍のソースキボン
戊辰戦争の時、官軍はどうやって大井川や箱根を越えたのですか?
誰も抵抗しなかったんじゃないの?
517 :
日本@名無史さん:04/09/20 23:32:11
>>513 ネタ認定するしかないかわいそうなチョンだな。
そんなことしてもお前に味方するのはお前の同胞だけだぞ?
518 :
日本@名無史さん:04/09/21 00:00:37
>>515 大井川には仮橋を架けました。
箱根は小田原藩が官軍に明け渡しました。
519 :
日本@名無史さん:04/09/21 07:50:46
少年使節のヴァリニャーノ神父の綴りを教えてください
520 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:02:22
>>519 ALexandro Valignano
521 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:04:47
>>520 迅速なレスに感謝
ありがとゴザイマスタ
アテブレーベオヴィギャード
522 :
日本@名無史さん:04/09/21 14:51:58
日清戦争の賠償金二億両って、当時の日本国家予算の何倍の金額なのですか?
523 :
日本@名無史さん:04/09/21 14:59:26
10倍
524 :
日本@名無史さん:04/09/21 19:36:50
日清戦争前の明治26年の一般会計歳入は1億1380万円。
戦後明治29年の一般会計歳入は1億8700万円。
一方、賠償金2億3150万両を邦貨に換算すると3億6407万円。
10倍は大嘘。
525 :
日本@名無史さん:04/09/21 21:56:44
3倍
526 :
日本@名無史さん:04/09/21 22:01:06
覚心 1207‐98(承元1‐永仁6)
鎌倉時代の禅僧で、臨済宗法灯派の祖。号は無本、房号は心地房。
信濃の人。1235年(嘉禎1)東大寺にて受戒、高野山金剛三昧院の退耕行勇
について葉上流の台密禅を学んだ。のち行勇に従って鎌倉寿福寺に赴き、
さらに道元、栄朝、蔵叟朗誉、天祐思順など各地の禅僧を歴参した。
49年(建長1)入宋、径山の癡絶道冲に参じ、ついで杭州護国寺の無門慧開
の会下に投じて得法、54年帰国した。58年(正嘉2)紀州由良荘(和歌山県由良町)
の西方寺(のちの興国寺)に招かれ、これを禅寺に改めて開山となったが、
多くの禅徒が風をしたって参集した。覚心は亀山上皇、花山院師継など、
皇室・公家の帰依を受け、しばしば宮中に参内して禅法を説くことがあったが、
韜祁主義を守り、長く在京しなかった。彼の門派は法灯派といわれ、孤峰覚明、
高山慈照など名禅僧を輩出したが、いずれも密教色の強い禅を説き、また
中央権力に接近しなかった。覚心は普化宗の招来者とも伝えられる。
法灯円明国師と諡された。
いいかげん、質問スレの本義を踏み外した自問自答荒らしはやめろや。
>>515 大井川ではなかったかもしれんが、船を横につなげて仮橋を造ったりしていたようだ。
船の上に戸板をおいて。かなり不安定だけど、それでも人足を使ったりするより効率的。
528 :
日本@名無史さん:04/09/22 09:45:48
昭和15年はやはり、太平洋戦争以前の、最後にしてもっとも華々しい年だったと言えるのでしょうか?
日中戦争では勝ってたわけですし、なにより、紀元2600年という国家総動員の祭典があったわけですし。
中途半端な知識しかないんですが、このような認識をしても構わないんでしょうか?
529 :
日本@名無史さん:04/09/22 12:05:23
物資不足のため、生活必需品に切符制を採用。
泥沼でもがいてた年。
530 :
日本@名無史さん:04/09/22 12:40:47
>>528 永井荷風の「断腸亭日乗」をお読みになることをお薦めする。
荷風はこの年9月15日に
黄昏花村に至り夕飯を喫して後、三越店頭に立ちて電車を待つ。
女の事務員売子ら町の両側に群れをなして同じく車の来るを待てり。
颯々たる薄暮の涼風、短きスカートと縮らしたる頭髪を翻すさま、また人の目を喜ばすに足る。
いかにも荷風らしく女性のファッションに触れているが
以後こういう記述は姿を消し、物資や食糧不足を嘆く記述が目につくようになる。
また11月10日の紀元2600年式典のお祭り騒ぎを
この御許しは年末にかけて窮民の暴動を起さんことを恐れしが為にて
来春に至らば政府の専横いよいよ甚だしくなるべし
と評している。
531 :
日本@名無史さん:04/09/22 20:55:52
>>530 博識に驚きました
当時のダン朝廷の所在地はご存知ですか?かなり1当地にあったそうですが
532 :
日本@名無史さん:04/09/22 21:07:40
大久保余丁町から麻布偏奇館への移居、罹災、岡山疎開、敗戦、
熱海から市川定住
533 :
日本@名無史さん:04/09/22 21:20:19
>>532 ありがとうございます 永井は麻布にいた時代もあったのかぁ・・
素人が失礼しました
534 :
日本@名無史さん:04/09/22 22:26:12
永井は反戦主義者ですか?
535 :
日本@名無史さん:04/09/22 22:35:37
多分戦争も社会もどうでもいいって人だったんじゃないかなと。
毎日がそこそこ楽しければそれでいいという、快楽主義者とゆうか自由人とゆうか
作品読んだことないですが 私見すみませんでした
536 :
日本@名無史さん:04/09/22 22:36:04
ん〜、反国策的というか、反時代的というか?
537 :
日本@名無史さん:04/09/22 22:42:46
日本文明についても、
「不死の薬を探していた1000人の中国少年・少女が、紀元前209年、植民地化のために日本列島に渡って始まった」
と書いていると、同紙は付け加えた。
538 :
夕焼け:04/09/23 02:46:06
教えてください
士農工商エタ非人。てありますよね
教えてほしいのですが、
江戸時代エタで、明治、大正時代、豪農てありえますか?
江戸時代エタで、皮産業などで儲けて
幕末ぐらいにから土地を買って、
豪農になるってパターンどうなんでしょう?
豪農て、幕末〜大正ぐらいにかけて現れだしたんですよね?
539 :
夕焼けにやん:04/09/23 02:46:55
おねがいします
540 :
夕焼けにやん:04/09/23 06:57:11
だれか、教えて
豪農について知りたいです
期待をこめてage
542 :
日本@名無史さん:04/09/23 13:13:15
豪農というと普通は江戸時代。
江戸時代の手工業制皮革産業は、
明治期の新しい資本の導入で、ほとんど壊滅して、
穢多の人々は皮革独占の特権をほとんど失っています。
いまは肉屋で儲けてます
544 :
日本@名無史さん:04/09/23 16:20:31
食肉関係にも大資本が来てる
546 :
日本@名無史さん:04/09/23 19:37:43
糾弾て合法なの?
>528
戦前・戦中、日本の国力のピークは昭和14年だったと
アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の報告書だか
『戦時戦後の日本経済』だかに記載されていたような・・・
昭和15年という年は、ある意味(日中戦争等による)バブルのはじけた頃ですから
太平洋戦争以前の、最後にしてもっとも華々しい年だとも言えると思います。
ようは、どの階層からの観点かという視点の問題ではないでしょうか。
548 :
日本@名無史さん:04/09/24 13:02:25
日中戦争しなきゃ良かったのになぁ
549 :
日本@名無史さん:04/09/24 17:38:21
それをいうなら、満州事変起こさなきゃ良かった
550 :
日本@名無史さん:04/09/24 20:21:49
満州事変の原因は、本当に日本軍の自作自演なんですか?
551 :
日本@名無史さん:04/09/24 21:10:06
当事者の証言も1人出てたような気がしたが
朝鮮併合しなきゃ良かったのになあ…
やっぱ日本は大陸に手を出しちゃいかんのだよ。
ここって、雑談も可になったのか?
林健太郎の本はどれくらい信用していいものですか?
特に明治以降の歴史については。
戦前や脳内が戦前な学者の学究に触れたときにおもうんですが
見返りを前提とした献金て勤皇なんですか?
556 :
日本@名無史さん:04/09/25 12:44:13
それは金納
ウマイっ!! ざぶとんっ!!
558 :
日本@名無史さん:04/09/25 15:14:27
中岡慎太郎て何して評価高くなったの?
どっかのスレに龍馬より凄い人とか書いてあったけど本当ですか?詳しく説明できる神いたらお願いします。
559 :
日本@名無史さん:04/09/25 16:53:28
幕末の尊攘派志士。道正と名のり、大山彦太郎、石川清之助などの変名をもつ。
土佐国安芸郡北川郷大庄屋の中岡小伝次の長男。
1857年(安政4)より大庄屋見習として村政にかかわるが、間崎滄浪から文を、
武市瑞山から剣を学んだことから、61年(文久1)土佐勤王党結成に参加し、
瑞山の〈正系〉を継承すると評価される。
勤王党弾圧後は脱藩して長州に走った。しかし長州尊攘派の敗北と再起を
目のあたりにして単純な尊攘主義を克服し、富国強兵と武力討幕のための
薩長同盟を構想して、坂本竜馬とともに奔走した。
67年(慶応3)脱藩の罪が許され、京都で「陸援隊」を組織して藩に協力するように
なったが、藩の大政奉還の方針をのりこえて武力討幕の方針を固め、薩長両藩の
討幕路線に同調する方向を土佐藩に求めるが、同年11月15日京都三条で坂本竜馬
とともに暗殺された。
560 :
日本@名無史さん:04/09/25 17:06:49
陸援隊
1867年(慶応3)京都で土佐藩の中岡慎太郎によって編成された討幕組織。
中岡慎太郎が坂本竜馬とともに脱藩の罪を許されたのは67年2月で、
土佐藩は4月に竜馬を海援隊長に任ずるとともに、慎太郎を陸援隊長とし
在京官に属せしめるとした。
このことは、ようやく討幕戦争のありうることを考えはじめた土佐藩主流が、
2人を通じて討幕勢力と連絡をとり、慎太郎とその周辺の勢力を藩の正式の
機関ではないが連絡のとれる組織に編成して利用することを考えたためである。
彼が実際に陸援隊を組織したのは7月29日佐々木高行の許可を得て京都白川
の藩邸に寄宿してからで、彼は土佐藩の援助を得て諸藩出身の浪士を集め、
討幕の挙兵にむけて組織的訓練をはじめた。集まる者約50名、副隊長格は
田中顕助(光顕)で、香川敬三、中島信行、大江卓らも参加。11月の中岡暗殺
により中心を失うが、12月に入って鷲尾隆聚を擁して高野山に屯集。
相ついで兵が集まり翌年1月帰京したときは1300名をこえていた。
しかしそれぞれ自藩に戻り、あるいは親兵に改編されて、陸援隊は解散する。
池田 敬正
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>>558 長井死後、幕府に「調子に乗りすぎたな」と苛められ辛酸を舐める長州。
そのドン底の長州こそ幕府の動きを最も牽制しうる組織だと見込んで、
長州志士とともに尊皇攘夷活動をがんばったのが中岡。
苦しい時から色々奔走したので長州志士の信頼は厚く、薩摩志士にも一目置かれていた。
自分の都合で幕府に近寄ったり、薩長に近寄ったりしていた坂本はあまり信用されてなかったようだ。
坂本の幕府関係の人脈も重要だったと思うが、「同志」としてみた場合中岡の方が信用できる。
563 :
日本@名無史さん:04/09/25 22:09:39
564 :
日本@名無史さん:04/09/25 22:23:00
>559〜562
本当、詳しい説明ありがとう!!
565 :
日本@名無史さん:04/09/26 08:47:54
中国は民度が低いと一般に言われますが、民度なる尺度とは一体なんでしょう。
566 :
日本@名無史さん:04/09/26 08:59:25
簡単に言ってマナーの悪さのことだ。
切符買うときに並ばない民族や、
立て膝で食べる民族や、
謝罪できない社会性の無い民族を指して民度が低いという。
567 :
日本@名無史さん:04/09/26 09:00:44
念のため言っておくが、一番下は中国韓国の奴らのことだからな
奴らは謝罪謝罪といいつつ自分達が謝るという文化がない
つまり民度が低い
568 :
日本@名無史さん:04/09/26 09:25:22
日本以外、ほとんどの国の民度が低いって事になるな。
>565
民度の話題は世界史板の初心者質問スレで何度も荒れているのに、
何故日本史板でその質問をしようと考えたの?
↓辞書の説明が気に入らないのなら、適切な板で質問してほしい。
【民度】
ある地域に住む人々の、生活水準や文化水準の程度。
三省堂提供「大辞林 第二版」
【民度】
国民や住民の生活程度、また、経済力や文明の進歩の程度。「―が高い」
大辞泉 提供:JapanKnowledge
辞書なんか持ち出してくる奴はアホ。
570=世界史板でも同じ反応をした荒らし
誰だ其れ?
妄想か?
573 :
日本@名無史さん:04/09/26 15:33:21
大阪のおばさんは列に並ばないし、
自分が間違ってってもあやまらない。
欧米人なみだw。
なんで日本史板のスレは特定の時代とテーマに偏っているの?
575 :
日本@名無史さん:04/09/26 18:01:56
自演乙
荒らしたいだけなんだから
相手にするなよ・・・
サ ヨ 必 死 だ な !
ま、近現代の戦争ネタと皇室ネタ、朝鮮ネタが諸悪の根源だな。
あと系図ネタも人気あるな。
しかし、2チャンネラーはこういうネタには食いつきがいい・・・
たとえば交通史とか貨幣史とかに興味持つ者はいないのか?
580 :
日本@名無史さん:04/09/26 20:54:20
質問スレなんだからアゲとけ
この板にくる連中の大半はなんちゃってウヨと嫌韓厨。
ウヨサヨ論議とチョン叩きが目的で、天皇とか朝鮮とか偏った分野にしか興味がない。
交通史とか貨幣史に関する興味も知識もないよ。
582 :
日本@名無史さん:04/09/27 01:15:53
↑は放置
質問スレを再開しましょう↓
大室寅之祐 明治天皇説って誰が言い出したの?
信頼できる文献ってあるの?
平安時代は通い婚だったらしいんですが、天皇の嫁だけは
後宮に囲っていたので通い婚と言えるのですか?
通うには通っていたと思うけど。
585 :
日本@名無史さん:04/09/27 14:55:31
>>584 囲っていたんだから通い婚とは言いづらいよね。
後宮制度?
586 :
日本@名無史さん:04/09/27 15:25:21
満州事変以後・降伏以前において、天皇が大元帥として奉勅命令を出す場合の手続きを
教えて下さい。また奉勅命令が必要なのはどのような場合でしょうか。
通い婚だから子供は母方の影響大→外祖父ウハウハ→摂関政治
だと思うんだけど、天皇の嫁の所ってそんなに頻繁に父親が出入りし
ていたのか?って思うし、天皇だって、囲っているんだから子供と沢山
接する機会があっただろうに。
日中戦争って柳条湖事件が始まりなんですか?盧溝橋事件が始まりなんですか?
589 :
日本@名無史さん:04/09/27 21:47:21
590 :
日本@名無史さん:04/09/27 21:50:34
盧溝橋
盧溝橋が始まりだったら、15年戦争って言い方おかしくない?
592 :
日本@名無史さん:04/09/27 22:50:53
>>591 日中戦争とは盧溝橋事件に始まる戦争を指すが
十五年戦争とは満州事変から太平洋戦争終結までを一連の戦争と見るもの。
実際の期間は14年足らずだが
足掛け15年ということで、このように呼ばれる。
日中戦争≠十五年戦争なんだ。
初めて知った。
日中戦争+太平洋戦争=十五年戦争でもないし、難しいね。
鶴見俊輔 「国際シンポジウム 東京裁判を問う」(講談社学術文庫) p.344-345
私は、偶然に「十五年戦争」という言葉をつくったんですけれども、それは、子供のとき、小学校三年生のとき満州
事変が起こったんです。それが片付いたといわれて、今度は上海事変が起きた。これも片付いたといわれて、今度
また日中事変でしょう。そのときは中学二年生ですけれども、そのことから、全部バラバラにおぼえていたんですね。
戦後になってから、バラバラにおぼえていたんではだめだということに気がついて、一つながりに見たほうがいいと
いう考え方を持つようになった。
ですから、私自身の主観的な経験からいえば、バラバラなんですよ。主観的に書くとすれば、バラバラでいいと思
います。しかし、歴史として大きく見るのは、十五年をまとめたほうが、わかるところが多い。 −(略)−
それから、31年から45年をよくよく計れば十三年戦争か十四年戦争かというのは、たしかに自分の満年齢を計る
ときにはそういうふうに計りますけれども、1931から1945というと正確にいえば十三年と、学者として考証すれば
そうなるんですけれども、 私は専門的な学者じゃない、雑文家だもんですから、1931から45というと、やっぱり
「十五年戦争」のほうが通りやすいと思ってそういうふうにしたんです。
別称がややこしい、日中事変ってなんだっけ?
支那事変?日華事変?
596 :
日本@名無史さん:04/09/27 23:05:07
満州事変が終わったのは(塘沽協定)33年の5月の終わり
支那事変が始まったのは(盧溝橋)37年の7月
間の約4年間も戦争中でつか?
597 :
日本@名無史さん:04/09/27 23:05:44
戦国時代あたり、朝廷に出入りの許されていた家で、
孝子または悌子という女性がいた家をご存知の方はいらっしゃいますか?
たぶん八番目の子供だと思います。
598 :
日本@名無史さん:04/09/27 23:07:21
>>595 支那事変や日華事変は日中戦争のことですが
日中事変という言い方は聞いたことがありません。
599 :
日本@名無史さん:04/09/27 23:09:59
>>596 塘沽協定は停戦協定ですからね
戦争状態は継続していると見ることもできます。
601 :
日本@名無史さん:04/09/27 23:58:47
>>600 戦前の日本では「支那事変」と呼ぶのが一般的であった。
戦後「支那」を避けて、「日中事変」などという言葉を作ったのだと思う。
宣戦布告はしていないものの、実質は戦争状態にあるわけだから、「日中戦争」でよいと思うし
当時の言い方を尊重するなら「支那事変」だろう。
なお「十五年戦争」も戦後の造語というかタームだが
これは満州事変からを一連の戦争ととらえようという発想として
こちらは理解できるものだが。
ちなみに例の「作る会」の教科書は
「日中戦争」と書いている。
支那事変は最初は北支事変だったろ?
>>603 はい、それはご指摘の通りですが
重箱の隅かと。
605 :
日本@名無史さん:04/09/28 21:22:10
15年戦争でもよい
606 :
日本@名無史さん:04/09/28 21:36:33
>>599 もし、その論理が妥当だとすなら
1972〔昭和47〕年9月29日、日中共同声明まで
戦争状態が継続したことになる。
結局十五年戦争なんて呼称はイイカゲンナモノでしかないということ。
607 :
日本@名無史さん:04/09/28 21:48:42
いや、全体像を把握するためにも15年戦争がいい
608 :
日本@名無史さん:04/09/28 22:11:27
中華民国と講和しただろう
610 :
日本@名無史さん:04/09/28 22:41:31
>>606 昭和20年9月2日、日本はアメリカ・イギリス・中国(中華民国)等に対する無条件降伏文書に調印している。
だからこれは塘沽協定とは根本的に異なる。
611 :
日本@名無史さん:04/09/28 22:52:17
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
1931年の満州事変から日中戦争を経て1945年の
太平洋戦争終結に至るまでの延べ15年間にわた
る戦争を、総称して十五年戦争と呼ぶ。満州事変
から太平洋戦争終結までの期間が、連続的に一
体化した日本の侵略行為であるという考えに基づ
いた呼称である。
しかし、満州事変(1931年-)は塘沽協定(1933年)
で終了し、日華事変(1937年-)とは別々の戦争で
ある。これを纏めてしまうのは非合理的だとする
説も有力に唱えられている。
復交三原則
(1972年4月13日「民社党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明」より)
民社党側は次のように声明した。一日もはやく両国間の戦争状態を終結させ、
平和条約を締結し、国交を回復するためには、まずつぎの基本的原則を認めなければならない。
なんかイタイ香具師がいてるな・・・
台湾しか頭に無いのか>609-610
じゃあ、中国とは42年戦争?
>>612 中華人民共和国と国交を結ぶまでは
中国での戦争の当時者及び講和の主体は
中華民国だったんだから日華平和条約発効の時点で一応、戦争状態は終結している
別にイタイわけではない
ここ、入れ食いだな…
(日華平和条約)
1952年4月28日 台北で署名
1952年7月5日 国会承認
1952年7月8日 内閣批准
1952年7月8日 批准書認証
1952年8月5日 批准書交換・発効
1952(昭和27)年8月5日 条約第10号
たしかに、、、かなりイタイ
既に争点を忘れているんじゃないか>614
>>612 まあ、当時の中華人民共和国と戦争状態ってのは
ホントはかなり微妙な表現なわけだけどね
国家として認めてない国に戦争状態もくそもないし
618 :
日本@名無史さん:04/09/29 13:47:18
幕末の掛川藩医『山本頤庵』の寿蔵碑(海保漁村撰)の全文を知りたい
のですが、お心当たりの方ご教示きぼんぬ
【雑誌「掃苔」(昭和12年12月15日号)によると、四谷の日蓮宗妙行寺
に山本の墓があるとされているが現存せず。勿論この雑誌に碑文自体は
掲載されていない】
619 :
日本@名無史さん:04/09/29 15:05:37
>>618 昭和9年発行の「四谷区史」に出てきませんかね。
私は現物を見てませんので、出てなければごめんなさいですが。
620 :
日本@名無史さん:04/09/29 18:54:46
>>619 どうもありがとうございます。「四谷区史」あたってみます。
他にも可能性のありそうなものがあったらお願いします>諸兄姉
621 :
日本@名無史さん:04/09/30 02:36:12
鎌倉時代の位による装束(特に烏帽子)の違いが分かるサイトって無いでしょうか?
頼綱の烏帽子が何烏帽子なのか知りたいです
よろしくお願いします
622 :
日本@名無史さん:04/09/30 22:33:25
宣旨枡って後三条天皇によっていつ制定されたもんでつか?
漏れの持ってる本には延喜の荘園整理令とともに〜って書いてるから1069年?
623 :
日本@名無史さん:04/10/01 01:58:39
家康の次男坊の結城秀康はやっぱり毒殺されたのでしょうか?
あんだけ、豪腕でならした人が34でぽっくりいくとは思えません。
なんかそういう事かいて昔の人の落書きとかないですか?
教えてエロい人。
624 :
日本@名無史さん:04/10/01 02:13:26
競狩記
なんて読むのですか?
>>623 毒殺以前に、鼻がかけるほど梅毒が進行していた。
鹿猟は後に薬草採りに変わったが、競って採るところから競狩(きそいかり)といわれた。
競狩あるいは薬狩の原義は、「着襲(きそ)い狩」(着飾って行う狩)で、成人戒の成否を占う
誓約(うけい)猟で菖蒲の縵はその「しるし」とされたのである
627 :
日本@名無史さん:04/10/01 19:31:32
ある掲示板で見かけたのだが、面白そうなので誰か説明してください。
↓
>> 無題 Name 名無し 04/10/01(金)18:45 No.30678
奥州出羽国って・・・激しく矛盾してる。
陸奥国(奥州)
出羽国(羽州)
どっちなんだ。
>> 無題 Name 名無し 04/10/01(金)19:15 No.30685
矛盾してない。奥州出羽国という場合、出羽国(ほぼ秋田・山形)のうち、山形に相当する部分を指す。
628 :
日本@名無史さん:04/10/01 19:44:13
629 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:13:54
>>627 大化改新以後、日本海側に出羽国、太平洋側に陸奥国がつくられ、東山道に属した。
両国の総称として奥羽、あるいは『奥州』と呼ばれた。
630 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:30:20
書籍紹介のスレはありますか?
631 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:31:41
奥州出羽国という場合、出羽国(ほぼ秋田・山形)に相当する部分を指す。
632 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:44:27
633 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:54:28
電波扱い
634 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:59:36
636 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:22:39
637 :
日本@名無史さん:04/10/02 16:56:42
>>611-612 ポツダム宣言受諾時には、中国を代表する政府は
国民党(中華民国政府)と、国際的に公認されていた。
この時期の中国共産党はまだ「反政府軍」でしかなかった。
だから、この時点で「中国を含む連合国に降伏」
よって、戦争状態は終結した。
平和条約締結&国交回復ということを戦争終結の条件とするなら、
アメリカとの平和条約だって「サンフランシスコ講和条約」だし。
まあ、ポツダム宣言受諾からサンフランシスコ応和条約までの間は、
日本は国際社会から離脱していたわけで
(アメリカの占領下にあり、独立国ではなくなっていた)
この期間はどことも戦争状態にあったわけではないはず。
って、今さら釣られるのもいかがなものか。
638 :
日本@名無史さん:04/10/02 18:37:43
北朝鮮とは平壌会議まで戦争状態?
としたら共産中国とは平和友好条約まで?
日本は台湾政府を唯一の政府としてたからなぁ。
639 :
日本@名無史さん:04/10/02 20:22:06
となると、やはり中国本土とは平和条約まで戦争状態?
640 :
日本@名無史さん:04/10/02 20:23:11
ええと
641 :
ベッカム:04/10/02 20:23:33
これでは
>>638 朝鮮半島の国々とは戦争状態にすらなってないし
ソ連だな。
644 :
日本@名無史さん:04/10/03 09:54:00
1956年10月に発せられた日ソ共同宣言。
サンフランシスコ講和会議以降も、平和条約が締結されなかった日本とソ連の
間には、国際法上は第2次大戦における戦争状態がつづいていた。
馬鹿はほっとけよ
十五年戦争なんて言っている香具師は
算数が出来ないんだろw
646 :
日本@名無史さん:04/10/03 15:32:14
源氏嫡流の頼朝の家系は、なんで名字がなかったんでしょうか?
647 :
日本@名無史さん:04/10/03 16:15:32
15年であってますが、何か?
648 :
日本@名無史さん:04/10/03 16:39:13
確かに「鎌倉氏」とか名乗ってもよさそうなもんだが、なんでだろう。
650 :
日本@名無史さん:04/10/03 16:57:42
公家はこの時期から「近衛」とか「松殿」とか名乗りはじめている。
頼朝系が絶えなければ、「鎌倉殿」が「鎌倉」という名字になってたかもしれない。
本家嫡流だから源でいいのだ。
652 :
日本@名無史さん:04/10/03 17:32:35
源氏長者か?
653 :
日本@名無史さん:04/10/03 17:41:00
源氏長者は村上源氏の久我家では?
鎌倉の源氏は清和源氏。
他にも
嵯峨源氏、陽成源氏、宇多源氏、醍醐源氏、花山源氏、
655 :
日本@名無史さん:04/10/03 17:47:07
あと正親町源氏も。
656 :
日本@名無史さん:04/10/03 17:53:37
摂津源氏、河内源氏は?
657 :
日本@名無史さん:04/10/03 17:59:02
河内源氏、摂津源氏、大和源氏、多田源氏、甲斐源氏
信濃源氏、美濃源氏、尾張源氏、三河源氏、等は、
清和源氏の庶流。
大工の源さんは?
659 :
日本@名無史さん:04/10/04 16:21:33
質問があります。
僕の肛門から出てくるブリヌリウンコって、何か元ネタが有るんでしょうか?
昨日の晩飯ってことはわかるんだけど、茶色や匂いって。
660 :
日本@名無史さん:04/10/04 18:27:03
質問があります。
明知光秀が織田信長をころした本当の理由ってほんとはなんですか?
あと、NHKはわざと新撰組のはなしをねじまげているのですか?
一ツ橋慶喜公があんな奴のはずがないとおもうのれすが
ドラマって意味知ってる?
教えてください。
荘園公領制ってなんですか?
663 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:57:26
権門体制論って今では古いんですか?
664 :
日本@名無史さん:04/10/04 20:57:27
タコの赤ちゃんキタワー.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*!!☆
生まれたよ!生まれたよ!
666 :
日本@名無史さん:04/10/04 21:37:50
>>660 >一ツ橋慶喜公があんな奴のはずがないとおもうのれすが
お前の主観で語られてもw
667 :
日本@名無史さん:04/10/04 22:25:32
質問。
日本に鉄砲伝来して最初の戦いはなに?
つまり、実戦に最初に鉄砲が導入されたのはいつ、どことどこが戦った合戦なんでしょう?
668 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/04 22:45:37
>>660 及ばずながら質問に答えたいと思います
明智光秀が信長を殺した理由はいまだに分かっていません
>>667 確か鉄砲が伝来して初めてに戦は長篠の戦では?
長篠の戦は1575年5月21日、
織田信長と武田勝頼が戦い
当然鉄砲を使った信長が勝ちました
・・・多分そうだと思います
変なコテハンだがちょっと面白いな
670 :
日本@名無史さん:04/10/04 23:33:25
明智は織田の横暴さや冷たさにキレた、と聞いているが
671 :
日本@名無史さん:04/10/04 23:40:01
>>数字
を青くするにはどうしたらいいのでしょうか?
672 :
日本@名無史さん:04/10/04 23:40:57
時は今天が下しる五月哉
>>667 正確な年代は忘れてしまいましたが、三好・松永軍の戦いにおいて、三好方
の与力が射殺されたのが、鉄砲による被害者の初見だとか。
西国では、毛利氏が厳島合戦で大内軍を破った時にも敵の鉄砲に警戒してい
ます。それから数年後には、毛利でも採用された様ですが。
因みに、鉄砲伝来は1542年の事とする史料も存在します。
戦闘に初めて使用されたのは、文献にみえる限りであるが、天文十九年(1550)七月十四日、
畿内で細川晴元と三好長慶の戦いに与力が鉄砲に当たって戦死したという。
「細川右京兆人数足軽百人計出会、野伏有之 きう介鉄砲に当死云々」『言継卿記』より
しかし鉄砲という言葉自体は、「蒙古襲来絵詞」にも見られ鎌倉時代にも使われていた。
応仁の乱の頃、中国伝来の火薬を使用して殺傷力は小さなものであったが、
銃火器は存在していたことが、『蔭涼軒日録』や『碧山日録』にみられる。
種子島開発センター落成シンポジウムでの諸氏の公演をまとめたものが「鉄砲伝来前後」という本として
出版されていますが、その中で所荘吉氏が説得的な仮説を展開しておられます。
要点は、こうです。1542年にポルトガル人が漂流して日本のある島に漂着して、
彼らが貿易相手国か金儲けの相手としていい国を見つけたという情報を携えて東南アジアか
インドのポルトガルの拠点に帰る。そして翌年今度は 本気で鉄砲という商売道具を携えて、
日本を目指したというものです。
http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory_gun02.htm
675 :
日本@名無史さん:04/10/05 00:07:29
660っす。ありがとうっす。
ああ、対細川戦でしたか。これは失礼を。
677 :
日本@名無史さん:04/10/05 03:07:27
また山野が(ry
678 :
日本@名無史さん:04/10/05 13:36:21
>>671
>>671 >>を半角の<<にします。数字も半角ね。
<<じゃなくて、>>だった。
680 :
この文章は正しいのですか?:04/10/05 15:20:34
○戦中戦後の世代70代以降
逃げ切りの世代
のうのうと支払った以上の年金を受け取り借金を後の世代に押し付けることに成功
○団塊世代50代〜60代
自分達が日本を作り上げたと思ってる"超"勘違い世代。 キチガイ多し。
行動力や根性は多少は持ち合わせているがたいした事は無い。
唯一評価できるのは繁殖力の高さ。ただしあまりにも高すぎて未だにエロイ事件を起こすのもこの世代。
日本を滅ぼそうと密かにたくらんでいる。もういいから早く団体で中央線にダイブして欲しい。
○バブル世代 30代後半から40代後半
未だにバブルもう一回とか言ってるバカや、バブル後の脱力感で魂まで抜けた奴が多い
未だに金銭感覚が狂ってるため消費率は高めなのが救いだがほとんどは無能
企業内でがん細胞化している世代
○団塊Jr 20代後半〜30代前半
親世代の団塊に反発 戦後世代の爺さんに無条件で可愛がられ内緒で小遣いを貰いリアル昔話を
聞かされるなど隔世遺伝で右全開。ただし世代人口が一番多いにもかかわらず出生率を下げていたりと、
繁殖力は極めて低い。団塊の付けを一手に引き受けているのもこの世代。100年後の日本史には悲惨な世代として登場予定
○無気力世代 20代前半
あきらめモード全開。やる気ナッシング。パラサイト多すぎ。 気持ちはわかるが、仕事しろよと。
愚痴らせたり文句言わせたりすると最強な所や、他人に頼りまくるところは団塊そっくり。
近親憎悪なのか団塊への反感で右率高め
○これからの世代 10代
セックルセックル!小学生のうちから無駄なセックスしすぎ。おまえら大丈夫かよマジで?。
あんま期待して無いけど頑張って。
○日本終焉を見守る世代 〜9歳
戦後動き出した日本の鼓動がゆっくりと止まるのを見守ることになる世代
彼らの未来は暗く冷たい。
681 :
日本@名無史さん:04/10/05 15:31:41
宋代と明代について詳しく語っているスレがありましたら、よろしくご教唆ください。
682 :
日本@名無史さん:04/10/05 20:34:18
>>680 >リアル昔話を聞かされるなど隔世遺伝で右全開
おまえ、爺さんいないだろ
リアル昔はなし聞かされたら、右になるバカがいるわけはないw
右ってのはせいぜい珍走の10代まで
683 :
日本@名無史さん:04/10/05 21:51:59
江戸時代の料理に関する質問です。
江戸時代は金属製品は高価だったと思うのですが、
庶民の使う鍋に金属製の物はあったのでしょうか?
釜とかは誰でも持てた物だったのでしょうか?
684 :
日本@名無史さん:04/10/05 21:55:09
>>682 貴方は確かに隔世遺伝している。
かくせい-いでん ―ゐ― 5 【隔世遺伝】
(1)先祖にあった劣性形質が世代をへだてて子孫に現れる現象。
両親には発現しなかった祖父母の形質が子に現れる場合など。
(2)「先祖返(せんぞがえ)り」に同じ。
685 :
日本@名無史さん:04/10/05 22:10:51
>先祖にあった劣性形質が世代をへだてて子孫に現れる現象
やっぱりウヨってのは劣勢形質なのか。
>>683 金属製品が高価って、なんでそう思い込んだの?
弥生時代じゃあるまいしw
生活必需品なんだから、持っててあたりまえ。
当時の風俗画を見ても、普通に庶民の家にもへっついがある。
こういう物は一度買ったら一生物として使う物だしね。
修理専門の鋳物師とかいて、底が割れたりしても直して使い続ける。
良い物なら親子代々使うし。
戦国時代と幕末
戦争における兵力があまりにも違うのはなぜ?
江戸時代って総人口は増えたよね
>>687 戦国が兵が多いように見えるのは軍記ものの誇張もしくは大合戦中心で語られるため
幕末の部隊が少数なのは政治闘争が主で日本中の兵隊を総動員という状態までいかなかったため
689 :
日本@名無史さん:04/10/06 10:13:32
やっぱりウヨってのは劣勢形質なのか。
20代後半だと、もうウヨっていないしな。
残るのは職業右翼だけだもんね。
690 :
日本@名無史さん:04/10/06 10:23:49
いえるかもw
691 :
日本@名無史さん:04/10/06 15:36:05
資本の原始的蓄積の段階で農民が土地を収奪されたと言われていますが
漁民には何か影響がなかったのでしょうか?
資本主義の成立と漁民・漁村の関係について何か文献があれば教えて下さい
既出かも知れませんが失礼します
南京虐殺事件についてですが現場に大勢の人間が関わっており
100人でも1000人でも聞き取り調査をして相応な結論が出せる問題だと考えています
いまだに事実関係について大差のある説があり議論が続いているのはなぜですか?
本格的に調査した人がこれまで居なかったのでしょか?
693 :
日本@名無史さん:04/10/06 20:17:41
南京大虐殺に関しては、当時の国民党政府が外国の
学者や記者に金を渡して記事や論説の捏造を依頼
しろと言う指令を出していた事がわかっている。
国民党の「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」という
1940年の機密文書中の「対敵宣伝科工作活動概況」
という項目に明記されてるのよ。台湾で去年原本が
見つかって、捏造が確定しました。
まともな歴史学者はもはや話題にもしない捏造です。
694 :
日本@名無史さん:04/10/06 22:29:49
>>691 網元と被使用人との関係でしょう
>>692-
>>693 南京ネタは、専用スレで行いましょう
常識的には、現在は1万5千人〜10万人の間あたりです
旧軍団体がアンケートで加害を確認し、謝罪の大英断を行ってすでに久しいです
1940年の国民党がどうのこうのは、研究の大勢には影響してません。
全滅した部隊の生き残りで当時小学生だった旧軍関係者
,/|ミ=、
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| |ミ| |ミミミ|
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| |ミ| |ミミミ|
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,,.-''" r _、 三三タ_,.-''" | |ミ| ,.彡ヾミ|
/ i {ぃ}} _ニ/ -=三| 」ミヒ彡彡イミヾ
/,.、 `--" ニl -=ニ三=-''レ彡ミミr'" |ミミミ|
l {ゞ} i .ニl==三三ニ=''" ,>'"|ミ| |ミミミ|
.l `" i_,,...-''| ニ`=-=i'" | |ミl,..-=彡ヾミ|
_,.-! ! i -ニ三三/ L.. -ニヾ|ヾ彡'='''"
l´,.- l \/ -ニ三三/ ヾ-‐''"
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j'‘´l `´ | ! ` ミ三三三三三=''"
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l,.. r´ '´
}
696 :
日本@名無史さん:04/10/06 22:50:46
皆行社が謝罪してもう20〜30年くらいたってる?
南京否定を出版しようとしたら、
肯定の返事ばかりで、180度変更して謝罪したんだよね。
あれを握りつぶそうとしたのは、ウヨ評論家のKだっけ?
697 :
日本@名無史さん:04/10/06 22:51:42
Tじゃん?
698 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:03:24
中国で出された資料だけでまとめる
鈴木明氏は二十六年前、『「南京大虐殺」のまぼろし』を書いてセンセーションを巻き起こした。
日中戦争初期の南京攻略戦の際に行われたという日本陸軍による"大虐殺"の謎を追及したノン
フィクションで、大宅壯一賞を受賞したが、賛否の渦も呼び起こした。あれから四半世紀余りを経
て、このほど書下ろされた『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社)は、全く新しい視点からこの
事件の真相に迫った作品だ。〈日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、二十一世紀の
世界に最も大きな影響を与えるかも知れない重要な三つの国の中で、いまでも喉もとに突き刺さ
ったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる「南京大虐殺論
争」である〉と、鈴木氏は書き出している。
「前に書いた時は、まだ自由に中国を歩き回ることなどできない時代だったので、日本国内で取
材して書いたんですが、今度は日本の資料は使わない、日本人には会わない、中国で出された
資料か、中国人に聞いた話だけでまとめてみることに徹したんです」
鈴木氏はこのため、一九八七年(昭和六十二)以来、数度にわたり中国を取材した。南京の「南
京大虐殺記念館」にも足を運んだ。記念館の入口には"300000"という数字が大書されている。
中国人三十万人が虐殺されたというアピールだ。たしかに、「東京裁判」の南京地方法院首席検
察官・陳光虞の供述書には、「被屠殺者タル我同胞、二七九、五八六名」とある。
だが、意外なことに、中国でこの事件のことを知っている人は、ほとんどいないという。現地で鈴
木氏を案内してくれた中国人によると、「300000と書かれているのは"沢山"という意味」。日本で
考える三十万とは違うというのだ。中国で知識人として知られた王若望氏(現在アメリカに亡命中)
に尋ねても「戦時中、南京大虐殺の話をきいた記憶はない」という意外な返事。
699 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:09:39
>>691 面白い着眼点。私も班田収授の頃、漁民は租庸調の制度にどう対応したのか
ちょっと興味があります。御調町とか調布市とか見ると米による年貢以外に
納税したのだなと想像しています。
で、漁業の資本化は、
>>694 さんの指摘に尽きると思いますが、漁法、船舶
の変化を見ると分かるかなと想像します。
(農民は明治になって年貢が金納になって小作化したというのがあるので、
年貢/税金の話が重要な要素に思えていますが、漁民の年貢が分からない。
干し鮑を納めたとかは話題になりますが)
>>686 五右衛門風呂とかいうから釜は鉄だろうが、鍋類は土鍋もあったのでは。
焼き物なら、縄文時代からある
702 :
日本@名無史さん:04/10/06 23:18:09
>692
マジレス
日本と中国双方が資料を出して事実関係を究明しようとの日本政府の提案は
中国側によって常に却下されています。
>694
荒れるから他スレへ誘導したいと思うなら、それだけを書けば良いのに
一方の主張のみを記して以後議論禁止ですか・・・
本音は荒らしたいの?
>>686 中世なら、『更級日記』や『古今著聞集』に「釜盗人」が出て来ます。
いろはかるたにも「月夜に釜を抜く」が出て来るような貴重品。
704 :
日本@名無史さん:04/10/07 07:54:41
江戸時代にノックみたいなのはあったんでしょうか?
よく時代劇でドンドンて戸を叩いてるのを見かけますが。
長屋のトイレは人が入っているのは外から見えたから、ノックなし
泥棒の手引きで裏口をトントンと叩くのはあっただろう
706 :
日本@名無史さん:04/10/07 09:41:31
>>700 租庸調は水田農民を想定してるけど、網野氏らの指摘のごとく
百姓のうち水田農民が6割程度なら、現実の租税制度は租庸調を
特産物中心に変質させてたはず。
ということは、漁民は名目はともかく実質は海産類中心の租税体系と予想される。
原始的蓄積については、和人がアイヌを使役していく過程を追っていくと、
見えやすいかも。
確かに資本論の原始的蓄積の過程も、耕作農民をとらえていて、
海の民はおっていない。
江戸期に大きく進行したんだろうか?
大正デモ期には、労働側の改善要求に入っていたと思います。
>>704 中世の絵巻や説話を参照しても、呼びかけるのに外から戸を叩く場面があります。
708 :
日本@名無史さん:04/10/07 09:56:58
>>704 さすがに、家の中ではしないけどね。
以前、大河ドラマ『武蔵』の撮影中に、米倉おつうが、市川武蔵がいる部屋の引戸をノックして怒られたって話をしてたよ。
>>706 気にしている方がいるとはうれしい
>>海の民はおっていない。
あまり言うとその筋からメクジラ立てられるかも知れませんが、山の方も
あるんでは。今だかって山の検地はないとか。地方交付税の受取で一部の
地方自治体が熱心とかは聞いてますが。
710 :
日本@名無史さん:04/10/07 10:44:50
大河ドラマ『武蔵』ねえ・・・
711 :
日本@名無史さん:04/10/07 11:01:40
>>709 海と山の民ですね。
ニエを献上し、租税免除もありえたかもしれません。
山は古くから聖域でしたからね。
逃散した農民が山に入ると領主は手出しができなかった。
義満とか信長って日本国王ですよね?
そんな肩書きで天皇を凌駕しようとしていたんですか?
以下世界史板より
>>154 西欧の皇帝と東アジアの皇帝は別物です。
西欧の「皇帝」とは、ローマ皇帝の後継者を意味し、俗界諸侯の首位です。
神聖ローマ(ドイツ)皇帝、ドイツ帝国皇帝、オーストリア皇帝、ちょっと外れて
フランス皇帝、(東ローマ系に当たる)ロシア皇帝なんかもこれに当たります。
それに対し東アジアにおける「皇帝」とは、主に中華世界の「天子」にあたり、
地上における唯一の支配者を意味します。
日本の場合は、(これは異論があるところですが)中華世界からの独立を示す
意味で「皇」と称したとも言われていますね。
西ヨーロッパの「皇帝」について理解するには、封建制を勉強する必要があるか
もしれませんね。(皇帝のうち「王位」を別に持っている者も少なくなかったですから)
ちなみに天皇は現存唯一の皇帝。
皇帝>王なので天皇は世界でもっとも権威のある存在であるといえる。
権威だけ見ればアメリカ大統領より当然上。
ひとたび天皇が飛行場に降り立てば、大統領以下議員全員がホワイトタイで迎えるという歓迎ぶり。
714 :
日本@名無史さん:04/10/07 16:28:01
庄屋って足軽の子孫なの?
下郎史の質問は遠慮してくれ。
赤い電波に頭が侵されておるのか?
716 :
日本@名無史さん:04/10/07 16:32:40
>>714 足軽の子孫の庄屋もいただろうが、庄屋がすべて足軽の子孫ではない。
ここは下郎史ではなく日本史の歴史板である。
>>713 おそれおおくも、かしこけきも、「すめらみこと」に天皇などと外国の字を
当てるべきではない。ましてや皇帝とかエンペラとかの訳語を当てるべきで
はない 文字のない時代から「すめらみこと」である
719 :
日本@名無史さん:04/10/07 17:54:33
坂本竜馬の本スレどこ?
720 :
日本@名無史さん:04/10/07 17:56:56
721 :
日本@名無史さん:04/10/07 17:58:41
722 :
日本@名無史さん:04/10/07 19:07:17
723 :
日本@名無史さん:04/10/07 19:16:59
南朝が正統な流れらしいんですが、それって現在の皇室の存在を
否定していません?
>>724 家系的には南朝の最後の天皇の後に合一時の北朝の天皇だから何の問題もないよ
>>712 そのコピペを書いた人は
物事を端的に説明するのが
苦手か、本質を見誤っている。
>義満って日本国王ですよね?
諸外国での皇帝・王をこの国に比定
するのは無理がありすぎるので便宜的な
使用と考えるべき。
追記
世界史板にこのレスを貼って、妙な香具師を
このスレに呼び込むのは遠慮してね。
727 :
日本@名無史さん:04/10/07 21:12:54
>>712 >義満とか信長って日本国王ですよね?
>そんな肩書きで天皇を凌駕しようとしていたんですか?
完膚なきまでに凌駕してたね。
少しでも日本史を勉強した人ならわかってるよね!
728 :
日本@名無史さん:04/10/07 21:21:42
>>713 >ちなみに天皇は現存唯一の皇帝。
>皇帝>王なので天皇は世界でもっとも権威のある存在であるといえる。
国内でさえ、総理や某宗教団体代表に権威の軍配を上げる人は多いね。
まして、他国は他国の首相・大統領か宗教代表者か国王だろうね。
対の人って王様を尊敬してる人多いよね。天皇を小ばかにしてる日本とは雲泥。
>権威だけ見ればアメリカ大統領より当然上。
>ひとたび天皇が飛行場に降り立てば、大統領以下議員全員がホワイトタイで迎えるという歓迎ぶり。
プーチンや中共代表が来ても同じことしてるけどねw。
ちなみに、議員全員が空港に着たら混んじゃうから来ないけどねw。
729 :
日本@名無史さん:04/10/07 21:22:19
730 :
日本@名無史さん:04/10/07 21:54:32
>すめらみこと
天皇号の成立で、未開の酋長スメラミコトを脱出できて、
中華風になれてよかったね!
>>728 サヨは史ねよ。
なんでそんなに天皇が嫌いなんだ?
732 :
日本@名無史さん:04/10/07 22:12:21
>>731 事実を書くとサヨかよw。
俺はニューキャピタリストだよ。
天皇制は必要としない右なんだ。
確か義満って明の策封体制下に入って日本国王になったんじゃなかったっけ?
その時、明は天皇の扱いはどうしたの?
義満より下?
信長はフロイスか誰かの記録で日本国王扱いだった気がするが、
じゃあその記録で天皇の扱いがどうだったかわからん。
義満は簒奪の可能性大って言われてるけど、信長は自分の地位を
どうもって行きたがっていたのかもよくわからん。
>>732 サヨはみんなそう言うんだよ。
なんつーか、工作もつかれ。
736 :
日本@名無史さん:04/10/08 00:23:57
とりあえず天皇がいるあいだは「国王」としか名のれないのでは。
737 :
日本@名無史さん:04/10/08 01:15:02
こんばんは、
学校に通っていた頃は社会科が大嫌いでしたが、
何のきっかけだったか、日本史を扱ったサイトを見るうちに興味が持てる様になりました。嬉しくて楽しい事です。
ですがやはり年号を覚える事は絶望的なオツムの持ち主です。
しかしながらせめて、ひとつひとつの歴史的出来事や人物が、今よりもう少しスムーズに
流れとして繋がっていく方法がないものかなーと思っています。
日本史にお詳しいみなさんはさぞ楽しくあれこれ思いを馳せられる事と思いますが、
トントントーンと人物や出来事を繋げて考えていく「コツ」がありましたら是非お教え頂きたいです。
尚、私は一介のおばーさんなので受験のライバルとは成り得ません。
宜しくお教え願います。
>>737 お好きな時代の古典、それも長く範囲の広いものをお読みになっては
どうでしょうか。絵画史料からおおよそのイメージを掴むのも大切。
博物館にも、積極的に足を運ばれる事をお奨めします。
一応、私の好きな本をご紹介しておくと『今昔物語集』ですが。
>>738さん
>>739さん
amazonで今昔物語を見てみた処、カドカワさんのビギナーズ云々というのが私向きの様な気がしてウキウキしてお返事を書きにきました。
そうしたら、少年少女日本の歴史も載せて頂き、どちらも1000円しませんしありがたい事です。本を読むのは好きです。
毎晩英国ファンタジーを子供に読み聞かせて居りますが、これを期に日本史を読み聞かせ始められたらなんとも壮大です。
日本とは、過去面白い国であったんですね。夢が膨らむ楽しい事です。
わざわざご親切にお教え頂き、ありがとうございました。
741 :
日本@名無史さん:04/10/08 09:17:03
>>733 明は天皇は無視。
義満を中国皇帝の下という意味での国王にした。
天皇がいたから国王になったわけではない。
中国に皇帝がいたから国王。
742 :
日本@名無史さん:04/10/08 09:17:42
>>734 ザビエルだかフロイスの記録で、彼らが布教の許可を取りに京都に行く。
ところが将軍は落ちぶれててダメだった。
かつて王だった天皇は今は力がないと、会いに行きもしなかった。
それで山口の大内氏か誰かの許可で不況を始めた。
ところが、布教の禁止が南都や比叡山やらが天皇を通して出させて、
彼らは京都でうまく動けなくなる。
でも、実際には、信長のキリシタン許容に朝廷は何もいえなかったから、
仏教王というわけでもない。
要は、南都北嶺に弱い体質のままだったんだろうね。
そして南都北嶺は、伝統どおり強訴したと。それだけのことかもしれない。
南都北嶺に弱い時代って白河あたりからだっけ?
荘園が理由だっけ?
大岡忠光の人物像について質問します。
日本史辞典では、権力をふるわず老中政治に協力した
人格者という記述です。
一方、笹沢佐保の「失脚」や「影の軍団2」などでは、
権力をほしいままにし、賄賂を取り放題の
悪人になってます。
実際は、どうだったのでしょうか?
笹沢佐保の書いた竹中半兵衛の小説を消防の頃読んだけど
この人の小説って今でも手に入るんだ。
とっくに亡くなられたと思っていた。
746 :
日本@名無史さん:04/10/08 13:16:21
>>743 有名なのは白河のころからだけど、
10世紀後半から僧兵が増えだし、
神木やらでの強訴が始まったようなようすもあった気がした。
理由は、宗教が権威を持っていた中世だったからって答えになっちゃうんだけど
どうですかね?
鎌倉期に武家が押さえつけ始めたけど完全にはうまくは行かず、
戦国で各地の領地が取られ始め衰弱しだし、信長がとどめを刺して家康がてなづけた。
747 :
日本@名無史さん:04/10/08 13:19:01
>>744 どっちかっていったら、辞典のほうがリアルでしょw。
「権勢を集めたが、おごることはなかったと言われる」
とよく言われるけどね。
山野降臨の予感。
>745>747
レスどうも。ああ自信もって悪人にするには
なんか資料があるのかなと思って。
笹沢氏は、酒井忠清、柳沢吉保、大岡忠光、田沼意次、水野忠邦を
江戸時代の賄賂政治五本指にしているのだけれど、
ほんとなのかなと思って。
資料ないですかねぇ。
>>743 単なる寺社の横暴(荘園への不可侵を主張する聖徳太子手跡が捏造され、王法
と仏法は車の両輪云々がよく言われるようになった時代)に留まらず、院から
寺院への介入(押し付け人事ほか)が行なわれ、院と反主流派が結びついたの
に反発して事態が深刻化したという事もある様です。
院政期までは90年間に4回しか無かった強訴が、院政期の110年間に60
回以上も起きているのも、こうした反発によるらしい。
因みに、主な強訴・争乱は天元4年(981)から天文18年(1549)に全部
で260回起きています。白河・鳥羽・後白河の時代がずば抜けて多い。
>>750 強訴はその寺社のトップの意思によるものなのでしょうか?
それとも、一部の強硬派によるものなのでしょうか?
よくさぁ、桓武の平安京遷都って奈良の仏教勢力から逃れるためって
言われているじゃん。学校でもそう教わった。
こういう話聞くと、なんの実効性も無かった気がする。
>751
大衆が集まって開かれた「大衆詮議」の場で、覆面をした参加者が鼻をつまんで
(声色を変えるため)意見を出し、衆議一決して、「一味同心」が成立しました。
何処から出て来るか分からない声には神の声が混じっているものとされ、意見
の一致もまた神の意志によるという「道理」がここで成立します。
三千人の衆徒が大講堂の庭(当時は特定の場の意)に集まった訳で、実に壮観。
>752
天武系のもとで仏教が過剰にもてはやされたのに対し、天智系に皇統が移って
からは神祇や巫者の権利回復が行なわれた様です。
754 :
日本@名無史さん:04/10/08 20:40:21
>院の人事介入への反発
でも、これは両側面で、皇統をいただけたから
寺院も大きな顔をできる側面があるわけだから
>鼻をつまんで
声色は使っていたけど鼻をつままない場合もあった
神の声・神の意思というより、衆議自体がエネルギーを高め、
分別の制御をできなくしてしまう一揆のパワー構造
755 :
日本@名無史さん:04/10/08 21:09:05
>天智系
桓武は正当性誇示に躍起だったから。
新王朝の如し。
神道、仏教はおいといて、結局平安京へ移ってもわざわざ奈良から
強訴に来たわけでしょ。移転した意味無いじゃん。
>>755 信仰面での巻き返し自体は光仁天皇の時代から存在し、景戒も間接的に不満
を表明していたとは、志田諄一氏の弁。桓武天皇が躍起だったのは確かでし
ょうが。
758 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:35:23
訂正
躍起は光仁。
桓武は必死w。
だから、桓武は中国皇帝のように装い、行動した。
759 :
日本@名無史さん:04/10/09 02:54:23
荘園制と条里制を比較した場合、どっちがどういう風に優れていたのか、
比較検討した場合、国有地と私用地の様な差は分かるんですけど、
比較って言う風に見た場合はどうなんでしょうか?
ご意見お聞かせくださいませ
760 :
日本@名無史さん:04/10/09 12:02:04
耕作者というか所有者の気合が違うでしょ。
ルイジュウ三代格ってなんですか?
『類聚三代格』でお調べになっては。とりあえずおおよその説明
をさせて頂くと。平安時代中期に、既存の三代格を事項別に分
類した法制書です。現存するものは全三十巻中の十五巻。
『類聚三代格』
平安時代に編纂された法令集。編者は不明。1002‐89年(長保4‐寛治3)
の間に編纂されたと推定される。《本朝書籍目録》は30巻と記すが,写本
として残存するのは12巻本と20巻本で,いずれも完本はなく,両者を併せ
ても欠失部分がある。内容は,弘仁格,貞観格,延喜格の三代の格(きや
く)を類によって聚(あつ)めたもので,三代の格が官司ごとに配列されてい
たのを,内容により神社事,国分寺事,分置諸国事,調庸事,禁制事,断
罪贖銅事など類によって集め,再編成している。三代の格の個々の格は,
すべて《類聚三代格》に収録されたと考えられるが,その類聚にあたって
は,機械的に配置を変えただけでなく,三代の格が執務の便宜上同一の
格を二つの官司の項に収めている場合にはその一方だけを収めており,
逆に,一つの格を二つの類に収めた場合もある。また類聚する際に官司
名の追加など,形式的な書換えも行っている。本書が編纂されたのは,
令外官(りようげのかん)の出現などにより,おもな政務が律令制の官司ご
とに分掌されなくなった平安中期の状況を反映するものと考えられる。編
纂当時から政務にあたるものの必読書として尊重されたようで,その普及
につれて,三代の格はしだいに読まれなくなったと推定される。三代の格
の写本も,弘仁格の事書と日付を抜き書きした《弘仁格抄》のほかには残
存しない。したがって,欠失部分があるとはいえ,《類聚三代格》は三代の
格の内容を伝える貴重な法令集で,律令制の変遷を研究する上で不可欠
の史料となっている。《新訂増補国史大系》に収める《類聚三代格》が,もっ
とも優れた活字本であるが,東北大学図書館の狩野文庫所蔵の写本など
によって,国史大系本の欠失部分を補う必要がある。 吉田 孝
>>759 大土地所有の一形態と、
土地の表示・管理の方法とをどのように比較せよと?
つーか、荘園においても条理地割りや、
土地の条理呼称が存在してたケースもあるし。
あなたの質問は、
株式会社制度と法人登記制度を比較検討せよ、というようなもの。
765 :
日本@名無史さん:04/10/09 21:59:30
>>759 荘園制の方が生産性が高まり生産力も上がってます。
766 :
日本@名無史さん:04/10/10 02:10:33
戦国時代、合戦や行軍の際の排泄物はどう処理されていたのでしょうか。そのまま
放っておいたら士気や衛生面からも無視できない状態になると思います。特に、
関が原の戦いのような15万人もの大軍が集結する事態になれば、少々の処理能力
では対応できない筈です。
でも、このような問題で武士たちが困ったという記述を読んだことがないのです。
>>703 江戸時代の話をしてるのに、中世の話を持ち出すなよ。
いろはカルタは諺や警句だろ。転ばぬ先の杖、とか犬も歩けば棒に当たるみたいな。
なぜ釜を盗むのが「月夜」なのかわかってるの?
泥棒するのは本来は朔の前後だよ。
そもそも、金属製品が高価で庶民が使ってなかったという思い込みへの意見なのに、何をトンチンカンな。
「金属の鍋釜は高価で買えなかった」という反論でないのなら、
揚げ足取りにもならない揚げ足取り。
768 :
日本@名無史さん:04/10/10 03:37:40
徳富蘇峰や中江兆民って士族ですか?
769 :
日本@名無史さん:04/10/10 04:34:02
流れ読まずにすいませんが…
吉村貫一郎は息子が東京帝国大学で教授やってたらしいですが、
その子孫は現在どこで何をしているのでしょうか?
もしくは子孫は存在していないのでしょうか?
1時間くらい調べたけどわかりません。親切な人教えてください
770 :
日本@名無史さん:04/10/10 09:09:05
771 :
日本@名無史さん:04/10/10 10:04:14
772 :
日本@名無史さん:04/10/10 10:09:51
たぶん
>>767 なにそんなにムキになってんだ?あんな短レスに。
>>769は釣り
万一答えたら個人情報の開示、んでレス削除対象
う〜ん、俺は
>>767の言いたいことは分かるな。
揚げ足取り云々ってのとはちょっと違うけどね。
山野にはどうも、自分の知識をひけらかせる方向に、強引に
話を持ってこうとする癖があるでしょ。そのせいだと思うけど、
山野のレスを読むと分かったような分からんような、
なにかピントがずれてる感じを受けるんだよな。
「何関係ない話しとんじゃ、コイツは」という不快感を覚えることもあるわさ。
質問された範囲で答えりゃいいのよ。博学アピールはイラネ。
ここの人間はまだ固定に寛容な方だな
固定の絶対数が少ないからかも知れんが
三戦板の質問スレでは普通に解答してる固定に対して
感情的な中傷バッシングが横行していて
みんな毛嫌いして質問を放置したり下らんレスで解答したり
もう終わってるよ
低脳が知識ないからやっかんでるだけだろ。
山野は普通に良コテだ。
横レスを嫌う粘着は某スレにしか登場しないんですかね。
>中世なら
と自分の土俵に引っ張り込むのは
やはりお門違いではなかろうかと。
コテ叩きは専用スレで。
780 :
日本@名無史さん:04/10/10 16:48:33
山野の自演疑惑って知ってる?
781 :
日本@名無史さん:04/10/10 17:08:02
聞いたこと無いな。
782 :
日本@名無史さん:04/10/10 17:11:05
>>769 創作小説の主人公には子孫などいません。
784 :
日本@名無史さん:04/10/10 20:40:55
sageてるのはみんな山野w
785 :
日本@名無史さん:04/10/11 13:53:13
だから山野は世界史板に亡命したんだな。
厨ばっかりだ。
786 :
日本@名無史さん:04/10/11 14:15:26
すいません、質問します。
今高三で、AOで某大学に合格したので、教養として
日本史を勉強したいと思っています。
そこで何か勉強するのに良い本はないでしょうか?
お願いします。
そんなもん社会じゃやくにたたんから、資格の勉強でもしろ。
789 :
質問:04/10/11 15:27:42
質問ですが鳥羽伏見の戦いの時の薩長軍5000人はどうやって集めたのでしょうか?
長州からイギリスの軍艦に乗って神戸で上陸し上洛しようとしたところで徳川慶喜軍
に出くわして戦ったのでしょうか?
それとも薩長軍は長州から中国地方を横断し歩いて上洛したの?
790 :
日本@名無史さん:04/10/11 16:05:25
江戸時代の手紙があるのですが、自分では読めません。
読んでくれる人はどうやってさがせばいいのでしょうか。
お金は出してもいいと思っています。
>>790 1.近所の歴史系の博物館に電話する。
2.文書館のある県なら、文書館に電話する。
3.県や市の教育委員会に電話する。
こんなところでしょうか。補完ヨロ。
792 :
日本@名無史さん:04/10/11 16:24:16
公民館とかカルチャーセンターの古文書講座の先生に頼んだら?
写真ウプしたら読める人が板におるかもよ。
794 :
日本@名無史さん:04/10/11 16:50:49
維新直前の幕府海軍は東洋一の海軍力だったと読んだことがあるが、
日清戦争当時の明治海軍は規模において清より劣っていたと読んだこともある。
これは清が急速に巨大な海軍を建設したと解釈していいのだろうか?
795 :
日本@名無史さん:04/10/11 17:53:46
>>794 清は、欧米から購入した新型の海軍をそろえていた。
人的資源が完備していれば、制海権は互角だったかも。
規模・総t数などの比較はくぐって下さい。
796 :
日本@名無史さん:04/10/11 17:59:10
>>789 すでに京都にいた。京都警護のお題目で上洛していた。
797 :
日本@名無史さん:04/10/11 22:04:31
>>791,792, 793
いろいろ助言をしていただき、どうもありがとうございました。
とりあえず、公共機関に連絡をとってみます。
また、ご相談するかもしれませんが、そのときは
よろしくお願いいたします。
798 :
日本@名無史さん:04/10/12 00:36:43
すいません、こんど大河で義経をやるそうですが、従軍慰安婦だった、静御(石原さとみ)、常盤御前(稲森いずみ)、巴御前(小池栄子)
とかは、激しい濡場シーン連続というのはないのでしょうか?
つーか、そもそも実在してないじゃんというのは本当ですか?
799 :
日本@名無史さん:04/10/12 02:15:38
>>798 源平盛衰記や平家物語の登場人物ですね。
モデルになった方々はいたのでしょう。
800 :
日本@名無史さん:04/10/12 09:03:04
日本の歴史全集みたいな感じのシリーズ物で、お薦めがあれば教えて下さい。
トンデモ説に騙されない本当の知識が欲しいです。
801 :
日本@名無史さん:04/10/12 10:24:17
初心者→漫画日本の歴史
初級者→岩波ジュニア新書、集英社「日本の歴史」
中級以上→講談社や吉川弘文館など各社の「日本の歴史」
802 :
日本@名無史さん:04/10/12 11:56:30
歴史は一次資料一次資料というものの、なぜそれさえ調べても人によって解釈が違うため180度違うことになってしまうのでしょうか?
803 :
日本@名無史さん:04/10/12 12:21:29
史料ですね。
読み方や、意味の取り方によって解釈が変わります。
新たな史料が出てきて、以前の史料の解釈が変わったりもします。
逆に言えば、そこに歴史の深みもあります。
804 :
日本@名無史さん:04/10/12 12:35:21
ものすごく初歩的な質問ですみません。
史料と資料の違いって何ですか?
また、一次史料、二次史料、三次史料の違いは?
それから一級史料は一次史料のことでいいでしょうか?
資料と史料のの違いは教える先生によって違ったりする。
紙に文字で書かれたもののみ(つまり木簡や金石文等を除く)を史料と呼ぶ先生もいれば、
それらを含めて史料と呼ぶ先生もいる。前者の先生は金石文を拓本して初めて史料と呼ぶ。
例えば、昔の公家の日記そのものが一次史料、後世にそれを編纂したり書き写したり
活字化したりしたものが二次史料。
古事記伝とか群書類従は二次史料になってしまうのかね?
808 :
日本@名無史さん:04/10/12 14:38:35
>>798 >激しい濡場シーン連続というのはないのでしょうか?
NHKということを考えろ。
せいぜい、夕方に近親相姦アニメをやるぐらいだ。
809 :
日本@名無史さん:04/10/12 16:46:27
群書類従はともかく、古事記伝は解釈がオリジナルだから1次でいいんでない?
それまで誰もああは読まなかった古事記を、
みんなが本居のように読むようになった。
>>807 古事記伝や本居宣長の研究者にとっては一次史料
811 :
日本@名無史さん:04/10/12 20:45:13
>>807 んなら、群書類従は、塙保己一の研究には一次資料
812 :
日本@名無史さん:04/10/13 08:10:43
法隆寺金堂が終戦直後、焼失した原因は当時、壁画を模写していた有名な日本画家が
使っていた電気毛布をスイッチを切らずに放置していたための失火だそうですが、
その画家は誰だったんでしょうか?
814 :
日本@名無史さん:04/10/13 12:10:48
>>813 いい話だ!
けど、失火は失火なわけで・・・
815 :
日本@名無史さん:04/10/13 13:26:51
816 :
日本@名無史さん:04/10/13 17:13:10
米国は日本をどう民主化させたのでしょうか?
アメリカの鏡と言う本を読んだだけでは、
日本は民主化された訳ではないと書かれていますが。
民主化民主化訴えられても何がどう日本が民主化されたのか解りません。
教えて下さい。
>>816 民主化の定義にもよるが
新憲法で天皇主権から国民主権へ
女性まで含めた普通選挙の実施
治安維持法などの言論統制するための法廃止
財閥解体、農地改革
教科書的に言うとこれらかな
天皇がいるからホントの民主主義ではない
とか
未だに旧体制は温存されている
って言う人もいるがそのあたりは質問で簡単に答えられる部類ではないので私はパス
818 :
日本@名無史さん:04/10/13 17:31:42
>>817 ご回答ありがとう御座います。
天皇主権から国民主権、財閥解体の何所が民主化なのでしょうか?
と言うより民主化と関係あるんですか?
>>818 あなたは民主化という言葉はどういう意味だと思ってるの?
820 :
日本@名無史さん:04/10/13 17:49:24
天皇制を廃止し、みな平等な社会を築くことだと思ってます…
>>820 その定義によるなら
天皇主権から国民主権
財閥解体
が
>天皇制を廃止し、みな平等な社会を築くことだと思ってます…
にそのままつながると思うんだが
それぞれの内実はどうあれ
822 :
日本@名無史さん:04/10/13 18:02:54
しかしまだ天皇制はのこってるので、真に人民は平等ではないような気がするんですが、
そこらへんはどうなんでしょうか。
823 :
日本@名無史さん:04/10/13 18:05:51
敗戦後の日本は、どのような無償援助を米国から受ける事ができたのでしょうか?
>>822 そういう意見なら817で
>天皇がいるからホントの民主主義ではない
>とか
>未だに旧体制は温存されている
>って言う人もいるがそのあたりは質問で簡単に答えられる部類ではないので私はパス
と書いたはずだが
あなたがどうだかはともかく
こういう話題には思想論を持ち出すサヨクが出てくるので
質問スレでだらだらやりたくないのよ
825 :
日本@名無史さん:04/10/13 18:17:47
大韓民国は民主国家なのでしょうか?
そうそう。
大体2ちゃんの荒らしの95パーセントはサヨクが原因だからな…。
なんでこんないびつな国になっちゃったんだろう…。
827 :
日本@名無史さん:04/10/13 18:51:28
同意。
サヨクがいなくなれば、ずいぶんと2chも大人の掲示板になることだろう。
在日と中共の思想に洗脳されたかわいそうな奴だから仕方ないんだろうがな。
828 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:02:34
GHQが財閥の解体に乗り出したのは
日本が再び大戦を引き起こさないように牙を抜く為だと言うのは本当ですか?
829 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:05:38
サヨクの陰謀論者は消えてくれるか?
お前らすげー迷惑だ。
830 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:09:24
GHQが日本占領の際に日本の文化財を接収したのは本当ですか?
また、事実だとしたらなぜ日本政府は米政府に対してGHQが接収した日本の文化財の返還を求めないのですか?
92 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :04/10/13 14:53:33 ID:sgPycf/k
韓国が日本帝国の略奪品と主張する。統治時代に日本に持ち込まれた品の大部分は、民間が買い上げたものであり、つまり合法的に得たものだ。
李朝末期の混乱の中で朝鮮半島の文化財の多くが、外国に流出したであろうことは想像できるだろ。
日本はその時の顧客だったに過ぎない。
だいたい大英美術館何か見てみろや、大英帝国の犯罪資料館の異名があるほど略奪品の宝庫だし
アメリカが日本に進駐して来て、真っ先にやったことは日本の文化財の接取だったのだよ。
アメリカのスミソニアン博物館には、いまも当時、GHQに持っていかれた日本美術品が多く残されている。
そんな時代のことを穿り返されても、辟易するだけだな
>822
英は王制がのこってるので、真に人民は平等ではないような気がするんですが、
そこらへんはどうなんでしょうか。
>>831 昨日だったか、日経の夕刊にアウディ日本の人が、中国へ進出した日本の豆腐
メーカの話を紹介していた。そのメーカはグループでの業績を重視するという
方針で始めたそうだが、中国人の従業員に猛反発食ったそうだ。
表現は適切ではないが、「そんな社会主義みたいなことはできん」と。
日本人が戦後どんな状態に慣れ親しんで来たか、奇しくも物語っている。
>832
中国人は個人主義が国民性ということを理解していたうえでのレスだとしても
何故漏れに?
つか日経なんか読むなよ・・・
834 :
日本@名無史さん:04/10/14 03:21:45
ふと思ったんだけど、愛知県ってなんで愛知県にしたの?(他の県でも良いけど)
廃藩置県の時に藩が県になって、名古屋県と犬山県になったのはわかる
更に合併が進んで最終的に愛知県になったのもわかる
愛知県の由来が、県庁があった場所が愛知郡だったのもわかる
でも、名古屋県で良いじゃん、わざわざマイナーな愛知にしなくても
(地元ではマイナーじゃなっかたのかも知れないけど)
要するにそれぞれの元旧領の人たちが不満唱えたから
結局余り関係の無い当たり障りの無い愛知にしたの?
(最近の市町合併後の市名みたいに)
当時の愛知の人は愛知県って県名に拒絶感とか無かったのかな?
>>834 名古屋県じゃカコワルイからにきまってるだろ。
愛知県人は日本一センスがいいんだよ。
当たり前のことを聞くなこの島根県人。
836 :
日本@名無史さん:04/10/14 03:40:41
「旧国」っていつ頃まで正式な行政区画だったんでしょうか?
明治の頃は「〜国〜県」となっていたようですが
837 :
日本@名無史さん:04/10/14 06:37:32
中国は度重なる宮殿建設などで木材が不足し、ヨーロッパでも帆船を作るために
木をたくさん消費し、木材が不足したと聞きました。
日本でも城、神社仏閣、民家、船、燃料など木をたくさん消費しましたが、
木が不足したということをあまり聞きません。なぜでしょうか?
839 :
日本@名無史さん:04/10/14 10:01:32
>>823 >敗戦後の日本は、どのような無償援助を米国から受ける事ができたのでしょうか?
本来なら負けたい本が賠償金を払うのが筋。アメリカは請求を放棄した。
無償援助は、占領地域統治救済資金 (略称ガリオア)と占領地域経済復興資金(略称エロア)。
いずれも第2次大戦後、アメリカが占領地に対して与えた資金ないし援助である。
ガリオアは主として疾病・飢餓を防いで社会不安を除き、もって占領行政を円滑
ならしめる目的で、アメリカ政府の予算から1947‐50年度(アメリカ会計年度)に
かけて支出された。この資金で食料、医療品、肥料などが供給され、日本では
その代金は見返資金として積み立てられた。
エロアは、冷戦の展開に応じ、単なる救済でなく経済の復興と強化を目的として、
アメリカ政府の予算から1949、50年度(アメリカ会計年度)の2回、日本や韓国を
対象として支出された。この資金では鉄鉱石、石油、石炭、機械などの基礎資材
が輸入された。
両資金とも当初は贈与とされていたが、結局債務ということになり、日本の場合
合計18億ドルにのぼった資金の返済交渉は、1954年以来続き、61年に妥結した。
840 :
日本@名無史さん:04/10/14 10:05:36
>>830 アメリカもお金を払って買って行きました。
841 :
日本@名無史さん:04/10/14 10:08:25
>>834 名古屋県は愛知県と改称し、額田県を併せて現在の愛知県が誕生した。
改称が先みたいですね。
>>832 中国人のことをいいたいのではなく、言葉が好きではないが、「日本は
世界で唯一社会主義が成功した国」というのもあながち間違いでないかな
と思われるほどの、状態にあるということ。
被害者意識のほかには、国民には、平等とか階級とかでは緊張感はない
ような感じ。なくて幸せといえば幸せだが。
日経がお好みでないようだが、他のも一応目は通しています。
843 :
日本@名無史さん:04/10/14 10:17:11
>>837 日本でも、京都近辺では不足し、熊野やらまで大きな木を取りにいってます。
主な理由
1つは、温暖湿潤で降水が多く、気の自然の再生産が早いということ
2つは、急な山が多いので伐採に適さず、手をつけられなかったこと
3つは、日本の木材消費が、近世までは諸外国よりは少なかったこと
4つは、鉄の生産量が少なかったこと(木材を大量消費します)
それでも、よくみると、各地で森林は減少してましたけどね。
砂漠化にまでは行きませんでした。
844 :
日本@名無史さん:04/10/14 10:20:42
>>836 一応、廃藩置県まででいいと思います。
民間では、その後も伝承されたでしょうが。
今でも、好きな人は旧国名を使いますけどねw。
>>837 そこそこ外国から輸入できたということではないか。
明治に神社仏閣の森を伐採して、保護運動になったという話もある。
民間が使う細い木材は、高温多湿で(植林にも熱心で)供給が間に
合ったというのもある。
古くは、お城やお寺は他からの転用で間に合わせたというのもある。
どっかの神社の楠の柱は、台湾からとか書いてあった。
846 :
日本@名無史さん:04/10/14 11:20:29
藩は明治に生まれたものだと聞きました。では、なぜそんなものを作る必要があったんでしょうか?
また、その(藩という)名前の由来なんかは何なんでしょうか?
>>846 >藩は明治に生まれたものだと
それは間違いです。江戸時代の古文書でも藩という言葉は使われています
あまり一般的ではなかったという程度です
一般的には「松平肥前守様御領分」などと書きます
藩屏というのを漢和辞典で引いてみてください
848 :
日本@名無史さん:04/10/14 13:51:53
>>845 木材の輸入?前近現代で?
あまり聞かんがなぁ。。。
建て替えのとき古い木材を転用するのはよく聞く。よくあったことらしい。
>>846 それぞれの大名勢力に「藩」という名称は新井白石あたりが使い始めましたが
公式文書などでは847のいうような「〜家中」「〜御領分」というのが一般的です
その俗称を明治になってから大名あたりの政治区域を指すものとして政府が採用したわけです
これには政府が幕府その他から収公した領地に府県をおいていたのと区別するためです
「藩」という言葉の意味は中国で皇帝が直轄領の他に親族や重臣をして、地方に王国を作らせて
支配や防衛を担当させ、それらを藩屏と称したところからきています
>これには政府が幕府その他から収公した領地に府県をおいていたのと区別するためです
んじゃ、一時期は府県と藩が混在していたわけ?
>>850 版籍奉還(明治2年)から廃藩置県(明治4年)までの間は混在していました。
852 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:08:46
「藩」という語を大名の支配領域を示す公称として初めて用いたのは
慶応4年閏4月21日の政体書。
ここからいわゆる府藩県三治制が始まる。
日本の歴史を、学校の教科書みたいに紹介しているサイトってありませんか?
855 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:28:44
ビゴーの風刺画についてまとめているサイトありませんか?
日進・日露戦争あたりの風刺画について知りたいのですが・・・
おねがいします。
856 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:29:30
北海道土産の木彫の熊って徳川家の人が考えたのが元祖って本当ですか?
公領が府県になったって事は府と県の差は?
天領が府で、なんとかは府でとか区別あったんかな。
858 :
日本@名無史さん:04/10/15 00:31:24
相撲の世界では昔から左より右のほうが上位とされていたらしいんですが
朝廷内では右より左のほうが上位ですよね、相撲会のときとかどうだったんでしょうか。
「相撲では右が上位」は朝青龍の手刀にキレた協会の講習会で出た話です。
859 :
日本@名無史さん:04/10/15 00:51:15
>>857 箱館府・江戸府(東京府)・神奈川府・越後府(新潟府/高田→柏崎→新潟)・越後府(水原)・甲斐府・渡会府・奈良府・京都府・大阪府・長崎府
以上11府が設置されています。
幕府直轄の主要都市が府となり、その他の幕領・旗本領が県となったと考えていただければよいかと思います。
なお明治2年7月17日の太政官布告で、京都・東京・大阪のみを府とし、他は県に改称されることになります。
860 :
日本@名無史さん:04/10/15 01:32:20
「日本国」と言う国号は誰が考えたんでしょうか?GHQでしょうか?
862 :
日本@名無史さん:04/10/15 02:11:13
>>855 グーグルにいって「ビゴー」をキーワードにイメージ検索したらいくつかでてくる。
文庫本でビゴーの風刺画集が何冊かある。
それぞれの風刺画の解説があったかどうかは忘れた。
静岡って府じゃなかったんだ。
865 :
日本@名無史さん:04/10/15 10:16:01
>>856 徳川義親(越前藩主松平春嶽の子)は尾張徳川家当主となり徳川黎明会を起こし
徳川美術館を作り宝物を公開した。
北海道八雲に入植した旧尾張藩士の生計を助ける副業に北海道みやげで有名な
鮭をくわえた木彫りの熊を、スイスの木彫りをまねて教えた。
それをアイヌに見せたところ、アイヌにも広まった。
866 :
日本@名無史さん:04/10/15 10:20:51
867 :
日本@名無史さん:04/10/15 10:37:53
大江広元は、どうしてあんなに鎌倉幕府に尽くしたんですか。
朝廷の官人だったんですよね。
いくら頼朝と親しく、養子兄弟だからって、
北条氏の権力確立まで援助したり、承久の乱まで関係したり?です。
なんか京都に恨みがあったか、それともビジョンがあったんですか?
ちょいまち。
じゃあ、「幕藩体制」ってのも維新後に作られた言葉なの?
ちょいまち。
じゃあ、「幕藩体制」ってのも維新後に作られた言葉なの?
安土城は天主、その他の城は天守と俗に言われてますが、
当時の日記や記録にはどう書かれているんでしょう?
当て字が普通だった当時の事、ただ単に安土だけ主って
字を使ったんじゃないんですか?
>>860 我が国の国号は昭和11年4月18日以前は「日本国」なのだが。
どうしてその時代より前の話にGHQなんてものがでてくるんだ?
872 :
日本@名無史さん:04/10/15 17:22:42
>>871 日本国使用以前は大日本帝国では・・・。
874 :
日本@名無史さん:04/10/15 17:32:33
>>874 上のリンク先「韓国併合ニ関スル條約」を見てもらえばわかるが、昔から「日本国」。
日本は天智天皇
877 :
日本@名無史さん:04/10/15 17:53:38
>>868 幕藩体制というのはタームですよ。
史料に出てくる言葉ではありません。
878 :
日本@名無史さん:04/10/15 18:19:48
>>874 日露和親条約
第二条 今より後、日本国と魯西亜国との境は「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし。
「エトロプ」全島は日本に属し、「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す。
「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす。これ迄仕来の通たるへし。
日米修好通商条約
第二条 日本国と欧羅巴中の或る国との間に、差し障り起る時は、日本政府の嘱に応し、
合衆国の大統領、和親の媒となりて扱ふへし。(後略)
879 :
日本@名無史さん:04/10/15 18:24:34
880 :
日本@名無史さん:04/10/15 23:46:56
>>872>>874 俺が聞いた話では、2/26事件を契機に改称したそうな。
理由は確か、天皇陛下と軍部の力を強化・誇示するためだったと。
歴史の流れで行くと
明治・大正・昭和11年まで
「日本国」(大日本国・大日本帝国・日本帝国)
昭和11年から昭和21年まで
「大日本帝国」
昭和21年以降
「日本国」
882 :
日本@名無史さん:04/10/16 02:23:53
>>836です
>>844 ありがとうございます
廃藩置県で廃止されたのなら
石狩国とか十勝国とか陸前国とかの明治期に設置された行政区画は一瞬しかつかわれなかったということでしょうか?
廃藩置県の時点では北海道はどうなっていたのでしょうか?
883 :
日本@名無史さん:04/10/16 06:33:53
つーか坂上田村麻呂のスレはなんでないんだ?
あってもいいんじゃないか?
884 :
日本@名無史さん:04/10/16 13:17:52
>北海道
明治に蝦夷地を北海道と改称して11国86郡に分けた。
しかし当初開拓使が管轄したのはこのうち20郡余にすぎず、他は省、府、藩、
士族、寺院に分割支配させ、70年には樺太を管轄する樺太開拓使を分置した。
翌71年開拓使は樺太開拓使を併合、さらに諸県(旧藩)などの支配地も管轄下
に収めた。
一方、松前(福山)藩は69年館藩と改称、71年の廃藩置県を経て弘前県(後に青森
県と改称)に併合されたが、72年開拓使に移管された。
82年開拓使は廃止、北海道にも県制がしかれて札幌、函館、根室の3県となり、
開拓関連諸事業は翌年農商務省の北海道事業管理局へ移された。
しかしこの3県1局制は成功せず、86年廃されて北海道庁が置かれ、全道を管轄した。
885 :
日本@名無史さん:04/10/16 14:35:31
日本史の参考書で、大学受験に役立つオススメの参考書おしえてください
886 :
日本@名無史さん:04/10/16 16:29:05
質問ですが
ここの↓追悼のコウをソウず、は「追悼の功を奏ず」なのですか?
<(慶応2年)8月8日、参内した慶喜に対し孝明天皇は、
すみやかに追悼のコウをソウずべしとの勅命を与えている。>
大河「新選組!」ナレーションより
887 :
日本@名無史さん:04/10/16 16:42:56
村落、単位で動員されていた時代から
いつ頃、兵農分離というものはされたのですか?
それから、動員された兵士は村単位でたとえば10人動員した村はその10人というのが一つの単位グループとなり
その10人の内訳が、じじい3人、達人2人、初心者4人、馬鹿1人だとしても他の村の達人を集めて達人だけ
部隊を作ったり武器をそろえたりと言う事はありえ名かっと聞いたのですがほんとうですか?
888 :
日本@名無史さん:04/10/16 19:09:56
昭和天皇は戦争で負けた後、マッカーサーに土下座して命乞いをしたと聞いたのですが、本当ですか?
890 :
886:04/10/16 19:43:21
>>888さん、ありがとうございました。
コウをソウず、って言うのは
説得が功を奏した、と同じ使い方なんですね。
891 :
日本@名無史さん:04/10/16 20:04:55
>(慶応2年)8月8日
この勅諚が降.るのは6月7日では?
あのね、旧暦って知ってる?
なんか呆れて言葉も出ないよ。
説明する気もうせる…。
6月7日は旧暦です。
太陽暦の1866年8月8日は旧暦では6月28日になるのでは?
>>893 そういう意味じゃないよ。
まあ説明しても分からないだろうから、これ以上は何も言わないけど。
もう消えるからレスしないよ。
横レスですが、894さんが正しいと思います。
済みません、私の勘違いでした。
徳川実紀をみると8月8日ですね。
897 :
日本@名無史さん:04/10/16 20:56:26
>>889 同席した通訳の記録によるとありません。
私は立憲君主を守り戦争を止められなかったとの嘘はついたようですが。
マッカーサー自伝の
「私の身はどうなってもいいから国民を守って欲しい」との天皇の発言も
なかったようです。
♪ふたーりだけーの 秘め〜ごと タメ息が出ちゃう〜〜〜
899 :
日本@名無史さん:04/10/16 21:03:22
900 :
日本@名無史さん:04/10/16 22:07:08
天皇は秘密にしたまま死んで行きました。
言えない理由があったのでしょう。
マッカーサー自伝は嘘だらけなので信頼できる資料ではありません。
通訳の記録は、しばらく前に公開されて新聞に載ってました。
あとは自分でどうぞ。
>>886,890
釣りかも知れんけど「コウをソウず」じゃなくて「コウをソウす」。
語尾は濁音じゃなくて清音だよ
903 :
837:04/10/17 07:39:06
遅くなりましたが、答えてくださったみなさん、ありがとうございました。
904 :
886:04/10/17 08:48:34
>>901さん、ご指摘ありがとうございました。
再度ビデオ見直しました。ちゃんと「そうす」と言っていました。
905 :
日本@名無史さん:04/10/17 11:24:48
いま大奥見てるんですけど
竹千代と国松は元服したら名前はどのように変わるのですか?
竹千代は家康、国松は子供の時点で家康に斬首されます。
907 :
日本@名無史さん:04/10/17 13:53:51
関西と九州の人はたかじんのTVを、
日曜の昼まに南京虐殺なんか無かった
という方向で話が進められているぞ。
言論界では南京虐殺派は表に出てこないで
逃げ回っていると言いたい放題w
ゲストの金美齢が日本人ならそんな酷いことはしないと日本人を何度も口にしていたのは、
日本軍だとKの国の人が入るから、そっちは責任をとれないという意味で日本人と言っていたのかな(苦笑
長文スマソ。
「南京大虐殺はなかった」ってのは言いすぎだと思う。
市街戦というか、攻城戦をやってたのだから、
なんらかの残虐行為は絶対におこる。
それが戦争。
実際、「南京大虐殺」を告発してる、中国軍であっても
朝鮮戦争・中越紛争・チベット紛争での虐殺行為が報告されてる、と聞いてるし、
日本人居留民の虐殺事件の存在を主張する、ウヨだっている。
同じことは米英についても言える。もちろん、日本にとっても同じ。
戦争をやる以上、残虐行為はかならず、起こる。
そして、その被害者は次の加害者になるし、
その逆だってある。
だから、にくむべきは「戦争」であって、
考えるべきは、過去の戦争での善悪を云々することではなく、
未来に戦争をしないように、過去を生かすこと、だと思う。
のだが、
サヨは日本の過去の悪のみを、いまだ現実に存在するかのように糾弾するし、
ウヨは過去の善についてのみ、同じことを言う。
本当の未来志向とは、過去の悲劇を繰り返さないように、
過去を将来へと生かすことではなかろうか。
>朝鮮戦争・中越紛争・チベット紛争での虐殺行為が報告されてる、と聞いてるし、
>日本人居留民の虐殺事件の存在を主張する、ウヨだっている。
>910
中道を装うなら、もちっとうまくやれw
朝鮮戦争・中国による越侵略・チベット侵略(民族浄化)での虐殺行為が報告されてる。
日本人居留民への虐殺事件が日中戦争の発端だというウヨだっている。
912 :
日本@名無史さん:04/10/17 18:12:27
何時から日本は「倭」から「大和」へ国号を変更したんですか?
>>911 ふーん、これで今は、「中道」なのか。
オレはリア中時代にこれを言って、「バリバリの右翼」の
レッテルを貼られたもんだが。
時代は変わるもんだねぇ。
今時チベット紛争なんていう香具師って
明らかに事実から目を逸らしているな・・・
つか、こういう中共の犬(工作員)なら
文革は成功だとか言ってそうで鬱
南京大虐殺の問題は、非戦闘員が殺害されたかと言うことがポイントなのだと思うが
例えば東京大空襲で10万を超える非戦闘員が殺されているのに
右翼の方々はどうしてこれを批判・非難しないのか。
米軍の空襲を記憶している人は、今なおわが国にかなり存命なのだが。
原爆ですらアレなのに
何を言ってんだか>915
>原爆ですらアレなのに
アレってどういうことですか?
>>914 こういう奴が「言葉狩り」をするんだろうな。
910=913=915=917=こういう奴が「言葉狩り」をするんだろうな。
921 :
日本@名無史さん:04/10/17 19:24:27
>>915 右派は米国には批判できないんだよ。
中韓朝の場合は日本より劣っていて弱いから批判は容易くできる。
しかしながら米国は日本以上の国力と潜在能力を保有しているから
怖くて米批判ができない。
922 :
日本@名無史さん:04/10/17 19:27:09
>>915 それに米批判を行えば墓穴を掘る事になる。
ヤンキーに対して米軍の日本人大虐殺を語れば、
アジアでの日本軍の蛮行を引き合いに出してきて、
日本はアジアに対して謝罪と賠償していないと主張する。
日本がアジアに謝らないのであれば、
米国も日本に謝る必要性はないと、さ。
追い詰められたブサヨの醜態がリアルで見物できるスレはここですか?
924 :
日本@名無史さん:04/10/17 19:36:22
とりあえずJAPは真珠湾で謝罪しとけ
925 :
日本@名無史さん:04/10/17 19:43:57
>>923 近現代史は専門ではないので
南京大虐殺があったかなかったかという議論に加わる意志はない。
ただ米軍の大空襲については
父親・親戚・知り合いの年寄りからいろいろと聞いているから
非戦闘員に対する大量殺戮が行われたことは実感できる。
そこで率直な疑問を呈したのみ。
左翼的立場から何かを主張しようというものではない。
いまさらむかしのはなしで、ことをあらだてないということと
みにおぼえのない、いいがかりに、はんろんすることの
ちがいのわからないひとのいてるスレはここでつか?
927 :
日本@名無史さん:04/10/17 19:59:44
「南京大虐殺はあったんだ、日本はひどい事したんだと言う人を
ゲストにお招きして喋ってもらおうと色々お願いしたんですけど
そういう方は出て来て論争に参加しようとしないんですよ
私はぜひTVを通じてそういう立場の方、もういっぺん又やるんで
ぜひテレビを通じて、ここに出ていただいて議論していただきたい
割と苦情の匿名のメールやFAXは結構来るんですが
顔を出してはなかなか議論にならない」
http://www.ytv.co.jp/takajin/index_set.html
928 :
日本@名無史さん:04/10/17 20:05:56
枢軸国と言うのは日独伊の自称ですか?
それとも連合国側が日独伊を称した言葉ですか?
929 :
日本@名無史さん:04/10/17 20:08:19
ベルリン・ローマ枢軸という言葉があるから、独伊が起源では?
930 :
日本@名無史さん:04/10/17 20:14:10
>>929 いや・・・。
日独伊側が「我らは枢軸国だ」と自称したのか、
連合国側が日独伊を「枢軸国」と称したのか、
と言う事をお聞きしております。
931 :
日本@名無史さん:04/10/17 20:26:19
932 :
931:04/10/17 20:29:09
右よりの俺ですら、
2ちゃんねるの右派の中韓朝しか叩かない態度には腹立たしさも感じる。
2ちゃんねるの右派は沖縄で米軍が不祥事を起こしても叩こうとしない。
中韓朝しか叩かない2ちゃんねる右派の姿勢には苛立たしさを感じる。
933 :
日本@名無史さん:04/10/17 20:32:03
ホントの右派なら米軍の半永久的駐留に反対してもよさそうだが。
今すぐは無理でも、駐留なき日米同盟をめざすのが右派のあるべき姿だろうに。
中道の俺ですら、
日本のマスコミの中韓朝を叩かない態度には腹立たしさも感じる。
日本のマスコミは沖縄で米軍が不祥事を起こしたことは熱心に叩く。
韓国の核兵器開発に対する日本のマスコミの姿勢には苛立たしさしか感じない。
935 :
931:04/10/17 21:13:43
>>934は俺に対するあてつけか?
俺は別に中韓朝の批判をするなとは言ってないし、
中韓朝に対する批判は大歓迎だ。
ただ2ちゃんねる右派の中には中韓朝は叩くが米露は叩かない奴がいるんでね。
しかしまぁ、「自分も相手もどっちも悪い」ですら
許容できないんだなぁ、ウヨって。
日本の歴史に最も影響を与えた人は誰かとか、議論してるとこどこ?
ただの人気投票でもいいです。
文革を熱心に賞賛するのがサヨ
サヨは米は批判するが中国の周辺地域での蛮行は批判しない
サヨは西側の核問題は熱心に叩くが南北朝鮮の核には何も言わない
ウヨは中韓朝は叩くが米露は叩かない
だがウヨも米の過去現在を批判しなければならないはずだ
ウヨであるためには世界中を敵にまわせ
すばらしいぞ>931
940 :
日本@名無史さん:04/10/17 21:44:51
日本の保守に気骨があったら、米軍撤退を要求するべきだな。
日本本土に米軍基地を置かずに、日米同盟を持続させる方法を考えるべきだ。
941 :
日本@名無史さん:04/10/17 22:00:38
ウヨって本当に対米追従だね。
保守政党とつながってるからかな?
942 :
日本@名無史さん:04/10/17 22:04:39
保守政党もホントに保守なのかねえ。
愛国心とか言ってるけど
この国土を愛する気持ちがあるなら
開発優先の土建行政はやめるべきだと思う。
こういう開発主義はスターリンのやり口と同じではないのか。
943 :
日本@名無史さん:04/10/17 22:09:00
土建と遺族会と宗教で当選してますからw。
おめーら、スレ違い。
それ以上やりたかったら、別スレ立ててくださいな。
つか「叩く」って言葉を普通に使って誰も気にしないんだね。
946 :
日本@名無史さん:04/10/17 22:56:39
徳川康重っていう家康の息子について教えてください。
篠山に封じられたとか聴いたのですが、初耳でして・・・
947 :
日本@名無史さん:04/10/18 03:33:32
>>946 それは松井松平だよ。
松平康重。
息子じゃない。
948 :
日本@名無史さん:04/10/18 11:39:46
1619年(元和5)に丹波篠山から松平(松井)康重が5万石をもって封ぜられた
949 :
日本@名無史さん:04/10/18 22:54:22
反米右翼なんていくらでもいるだろおめーらガキかよ。
951 :
日本@名無史さん:04/10/19 00:22:20
>>912 3年前の「倭の意味を教えてください。」スレより
9 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 01/09/21 08:17
どうして人偏をつけてもらえたのかしら。
10 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 01/09/21 19:57
>9
いきなり襲いかかってきたりしなかったからじゃないか?
ややうけ。
952 :
日本@名無史さん:04/10/19 08:34:43
坂上田村麻呂に関してなんですがこんど地車を新調予定でわからない事があるので教えてください。
装飾品類(刀や勾玉みたいなもの)はどんな物を持っていた、使っていたのか等
坂上田村麻呂、坂上神社の家紋、社紋や坂上田村麻呂を表す文様等
を教えて頂きたいのです。お願いします。
953 :
日本@名無史さん:04/10/19 22:09:23
明治天皇に対する人々の考え方ってどうだったの?
あとなんで大正天皇っておかしいの?
954 :
日本@名無史さん:04/10/19 22:55:17
ガチガチの南朝方だった伊勢国司の北畠氏が室町時代を生き延びれた
理由を教えてたもう。
国司って言えば、守護とか地頭が置かれて失業しちゃった
国司とかいないの?
957 :
日本@名無史さん:04/10/19 23:39:43
夏目漱石のこころ読んだけど難しい。この時代の天皇に対する考え方教えてください。
958 :
日本@名無史さん:04/10/20 02:08:02
藤原道長の死因は糖尿病だと言いますが、あの頃の食生活で糖尿病などに
なれたのでしょうか?それともきわめて糖尿病になりやすい体質だったのでしょうか。
959 :
日本@名無史さん:04/10/20 03:44:44
江戸時代に院政をしていた上皇というのは、具体的に何をしていたんでしょうか?
政治は幕府がやってるのに。
960 :
日本@名無史さん:04/10/20 05:08:13
葵の御紋って何種類存在しているのですか?
宗家・御三家・御三卿・その他の松平等いますが・・・
961 :
日本@名無史さん:04/10/20 11:31:24
岩倉具視のチョンマゲ姿の写真を見て気づいたんだが、
耳の辺りから下を剃ってないか?
962 :
日本@名無史さん:04/10/20 11:33:11
平家落人=部落民(えた、よつ)でいいのですか?
963 :
日本@名無史さん:04/10/20 11:36:15
>>962 確実に違います。
もっと昔から被差別部落民はいました。
中国から見て、日本はいつから日本って国号で扱われるように
なったんですか?
ちゃんと日本が日本って名乗った時から、倭じゃなくて日本扱い
にしてくれたんでしょうか?
965 :
日本@名無史さん:04/10/20 12:09:52
>>963 戦(いくさ)に負けた者、とくに平家(一門及び家臣)は二度と権力を持てないよう
源氏から凄まじい迫害を受けその流れから、徳川(源氏)時代に
士農工商より下の身分になったのでは?
966 :
日本@名無史さん:04/10/20 12:12:16
>>963 お詳しいそうなので、ひょいと思い出したのですが、
瀬戸内海に、生口島ってのがあり、名前からして空恐ろしい感じがしますが、
いつから、あるんでしょうか。指摘してはいけないことだったら、無視して
下さい。
スイマセン質問ですが
太平洋戦争以前の範囲で
日本の教育と世界の教育を比較するなどのスレってないですか?
例えば江戸時代の寺子屋とその頃のイギリスやフランスの教育水準に
関して議論をしているスレとか
969 :
日本@名無史さん:04/10/20 15:11:21
生糸の製糸法について質問します。
蚕の繭から糸を紡ぐとき、繭をお湯の中につけていますが、
あれは熱湯で繭の中の虫を殺しているのでしょうか?
>>969 そうだよ。
我々はお蚕さんの犠牲の上に生きているんだって事を忘れてはならない。
971 :
日本@名無史さん:04/10/20 16:33:57
972 :
日本@名無史さん:04/10/20 16:53:37
朝廷より「平氏」姓を拝領している。
信長・・・・・平氏
秀吉・・・・・藤原
家康・・・・・源氏
974 :
日本@名無史さん:04/10/21 18:21:35
>>958 糖尿病を患う原因を調べなさい。そうすれば、おのずと答えが見えてくるでしょう。
村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」が
どういう経緯を経て国会で承認されて、どういう類いの声明として
発せられたのか、説明しているサイトなどありますでしょうか?
信長は勝手に平氏を名乗ったのか、
それとも朝廷から貰ったのか、公家から買い取ったのか
どれですか?
勝手に名乗った、が正解。系図なんかどこでもぐちゃぐちゃで
証明や否定なんかできない時代ですから、名乗ったもん勝ち。
そもそも当初は藤原を名乗ってます(これもいい加減なもんですが)。
源平交替思想で平に乗り換えたとかいいますが、どうですかね。
じゃあ、勝手に名乗っていて朝廷の位がつくんですか?
秀吉は関白を貰うために藤原氏を貰いましたが、
勝手に名乗っていて関白などになれますか?
血統がいい加減なのは充分承知ですが、氏姓を名乗るのが
そんなにいい加減なものには思えません。
・・・困ったな。秀吉は特殊なんですよ。秀吉は名も無い土民だって事が
知れ渡っていて、「実は誰それの末裔で」なんて今さら名乗っても
誰も信じませんから、藤原家の養子になるという非常手段で
家系を手に入れた人です。そんなのを例に出しても仕方ありません。
そもそも信長は、って質問だったでしょう。なんで秀吉に飛ぶんです。
だいたい家系に自信と確信を持ってたら、藤原→平と、ころころ
名乗りを変えたりしませんよ。適当に都合いい氏を名乗ってる、なによりの
証左だと思いますがね。
>>980 厨房に絡まれているときに横レスするのもアレだが・・・
>秀吉は名も無い土民
秀吉の祖父・国吉は近江、浅井郡の出自で、秀吉は「ワタリ」と呼ばれる定住地をもたない
技術者集団に関係していたと小和田氏は『豊臣秀吉』中央公論社に書かれてます。
秀吉の母・なかはワタリの鍛冶師・関兼定の娘であるとも小和田氏は言われています。
>>976 googleでは、その発言の全部または簡単なコメントの類いしか
見つからないので、ここに質問投稿した次第です。
983 :
日本@名無史さん:04/10/22 04:18:38
餓鬼が喧嘩していますな。
984 :
日本@名無史さん:04/10/22 04:20:38
村山内閣ですか?
現代史なので板違いです。
985 :
日本@名無史さん:04/10/22 04:44:46
>>975 >どういう経緯を経て国会で承認されて
国会承認の部分なら、国会の議事録でも読め。ヤフーでキーワード「国会」ですぐに出てくる。
986 :
日本@名無史さん:04/10/22 04:49:47
家康も藤原氏→新田流清和源氏やね。
988 :
日本@名無史さん: