日中戦争(支那事変)13 参謀本部第二部支那課

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1イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM
満州事変、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、南京陥落、徐州作戦、
武漢攻略作戦、重慶空襲、トラウトマン工作、拉孟の玉砕、大陸打通作戦等……。
日中戦争を軍事的に語るスレッド。帝国陸海軍の内情も可。

前スレは「容量オーバー」のため、776でお亡くなりになりました。合掌w。
まだまだ語るべきことは尽きません。引き続きマイペースで進行していきます。
2イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/11(木) 23:15:42 ID:4oyQwqLx
初代スレ 「 日  中  戦  争  ( 支 那 事 変 ) 」
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1121259666/

2代目スレ「日中戦争(支那事変) 被害担当艦@サドンデス! 」
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1132842768/

3代目スレ「日中戦争(支那事変)3 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1139326210/

4代目スレ「日中戦争(支那事変)4 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147872368/

5代目スレ「日中戦争(支那事変)5 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1156432384/

6代目スレ「日中戦争(支那事変)6 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1161267950/

7代目スレ「日中戦争(支那事変)7 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1166623522/
3イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/11(木) 23:16:03 ID:4oyQwqLx
8代目スレ「日中戦争(支那事変)8 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1173969351/

9代目スレ「日中戦争(支那事変)9 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1180107898/

10代目スレ「日中戦争(支那事変)10 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/army/1187012017/

11代目スレ「日中戦争(支那事変)11 参謀本部第二部支那課」
ttp://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1202219351/

12代目スレ「日中戦争(支那事変)12 参謀本部第二部支那課」
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1210601721/

過去ログ(ue少将閣下作成)
ttp://kamisato2.hp.infoseek.co.jp/china/

   ,r---、
 . _ソヽ/`、シi
  ._>=ヘ 丞/=<,. 
 ((ん'ノノルレム))  ペチッ
 _ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_ ミ     i っ   状況開始!
  ),k'ヲ_`:´アつXE無旺〉ノ| っ
  (ン::::/:::l::ヽ.      .(_,ノ
  `~i,ンT,ノ~´ 
5イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/11(木) 23:33:26 ID:4oyQwqLx
>>前769 >>ただ、支那駐屯軍の増強については、現地における正規軍の直接的な
>>武力の強化という意味で、それまでの妥協とは一線を画すように思えます。

まあ、支那駐屯軍を増強して一番失敗だったのは、歩兵第1連隊長に牟田口廉也大佐が
やって来たことでしょうかw。ちなみに支那「第29軍」と衝突した歩1第3大隊長は、
ガダルカナル島で戦死した一木清直少佐です――。

>>盧溝橋事件が起こることを視野に入れての結果論かもしれませんが、

あ、肝心なことが抜けていました。今までの日付の流れを見てもらえば分かる通り、
支那駐屯軍の増強が検討され始めたのは1935年9月下旬で、「2・26事件」が
勃発する遥か以前のことです。広田が首相になったのが1936年3月9日、広田
内閣が支那駐屯軍の増強を正式決定したのが4月17日ですから(天皇に増強の話が
伝えられたのが1936年1月中旬)既に●『規定路線』になっており、このことで
広田を責めるのは「チト気の毒」のような気がしますw。まあ、話が飛びますので
盧溝橋事件のことはもう少し後で補足しましょう。
6イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/12(金) 00:14:53 ID:MhfBf5Qk
>>前770 >>内憂外患で内憂を優先した結果でしょう。

●「対支外交」=「対陸軍外交」です。

>>前771 >>本読んでると海軍には、鉄砲屋とか水雷屋とか出身兵科が政治力に
>>影響を与える描写が良く出てくるけど、陸軍はどうだったの

●「支那課」が最強ですw。というか、人数からして「歩兵科」が圧倒的すぎて、
その問いはあまり意味を成しません。騎兵、砲兵、憲兵、工兵、輜重兵、航空兵、
主計、衛生、法務、軍楽……。

>>前769 >>この手の嗅覚が鋭い外交官出身の広田自身、こうした行為によって、
>>現地で軍が揉め事を起こす確率が高くなる

広田の首相在任期間というのは『支那事変』が起こる前年にあたり、日本人への
『テロ事件』が頻発した時期でした。ですので日本が支那を蹂躙ばかりしていた
訳ではなく、支那も日本に対してテロという形で喧嘩を売っていました。
7イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/12(金) 00:38:38 ID:MhfBf5Qk
主だった「テロ事件」を挙げてみると以下の通り。

●萱生(かやう)事件=1936年7月10日。上海共同租界で、三菱商事出入りの
 海産物ブローカーの日本人が知り合いの子供と散歩中に、後ろから突然、後頭部を
 拳銃で撃たれて即死。ちなみに萱生は、被害者の苗字です。

●成都事件=1936年8月24日。領事館の設置を聞きつけ、事前の報道を狙った
『大阪毎日新聞』記者2人と助手2人が、支那の土人から集団暴行を受けて、2名が
 死亡。残りの2名も重傷を負う。

●北海事件=1936年9月3日。広東省北海・珠海中路の日本人商店の店主が
 殺害される。海軍は北海に艦隊を派遣し、武力行使を視野に入れた調査を開始。
 第19路軍(第1次上海事変で出現した抗日感情の強い軍閥)は抗しえずと撤退。

●漢口事件=1936年9月19日=漢口の日本領事館付巡査(吉岡庭二郎)が、
 日本租界の日信埠頭で支那の土人に後頭部を撃たれて即死。海軍は陸戦隊を上陸。

●出雲事件=1936年9月23日=上海の路上で「出雲」乗組の水兵が襲撃され
 1人死亡、2人重傷を負う。海軍は「対支時局処理方針」を決定し、武力行使・
 居留民の引き上げなどを考慮した。
8イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/12(金) 01:04:47 ID:MhfBf5Qk
まあ陸軍だけでなく、海軍(第1遣外艦隊)も陸戦隊を支那各地に派遣して
『居留民保護』にあたっていましたから、上記のテロ事件でも収拾のために
出動したり、はたまた『格好の標的』となったりで大忙しですw。相手の
弱そうな所を突くのは、支那の土人共の常套手段な訳です――。

後で触れますが、上記の8〜9月に集中して起きていた支那の「テロ事件」が、
広田内閣で『日独防共協定』が結ばれようとするとピタリと収まるのですから、
面白いものです。もちろん広田が「蒋介石とヒトラー」の間に楔を打ち込んだ
からに他なりません。

とは言うものの、広田がこれらの『テロ事件』を詳細まで把握していた訳ではなく、
首相の激務に忙殺されており、具体的な対応は外相の有田八郎に任せ切りでした。
東京裁判の尋問でも、日本人新聞記者が暴行された「成都事件」について広田は
●「私は首相として忙しく、外相に尋ねれば詳細が分かるだろう」と語っています。
9イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/12(金) 01:34:04 ID:MhfBf5Qk
>>8 >>広田が「蒋介石とヒトラー」の間に楔を打ち込んだからに他なりません。

このあたりは、過去スレの中テーマ『支那とドイツ軍事顧問団』を参照して
ください。ひと言だけ補足するならば、「経済的なマーケット」として支那と
日本は『月とスッポン』でしたが、もしナチス・ドイツ政権が「英米ソを
牽制する」役割を同盟国に第1に求めるならば、強大な軍事力を誇る日本に
対して支那は『チンチンに毛が生えた程度』の存在に過ぎなかった訳です。

>>前769 >>満洲国の存在が癌となり、広田にとって国民党政府の神経を
>>逆撫でしてまで陸軍と妥協するような本末転倒なやり方以外に選択肢が
>>無かったのはよく分かりました。

非常に分かり易く要約して頂きまして有り難いことです。正にその通りです。
>>8 でも述べたように、首相の広田は国内政治でも忙殺されており、36年
8月25日になってようやく、自身の内閣の政治方針である『七大国策』を
まとめることができました。以前の小泉内閣に例えるならば『骨太の方針』
みたいなものになるでしょうか。
10イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/12(金) 01:51:31 ID:???
>>9 >>小泉内閣に例えるならば『骨太の方針』みたいなものになるでしょうか。

順番に挙げますと、@国防の充実、A教育の刷新改革、B中央地方を通ずる税制
の改革、C国民生活の安定、D産業の振興および貿易の伸長、E対満重要政策の
確立、F行政機構の整備改革――となります。

これに『予算措置』を通せば、首相の広田弘毅が掲げる「庶政一新」が動き始める事に
なります。ちなみにEには、満州国への移民政策や投資の推進も含まれていました。
11俄将軍:2008/12/12(金) 06:36:36 ID:???
朝鮮、満州国への越境ゲリラに対して、大日本帝国による中国への掃討作戦を非難した米国、
ということになると、パキスタンへの越境爆撃など、如何なものか、ということになるの
か、当時の米国政府による大日本帝国批判など、公的に、現在の米国政府に問うてみた
いといったようなスレッドは、此処、ということになるのか、などと、嘯いてみたり。
12俄将軍:2008/12/12(金) 06:39:57 ID:???
ttp://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1210601721/760
高級官僚が、政治団体の中の人に会うのは、不味いが、財閥、政商の中の人に会うのは、何の
問題もない、ということになるのか、などと、嘯いてみたり。

財閥、政商の中の人など、陸軍、海軍に、手のものを送り込んでいる、ということもあるのか、
などと、電波の発信など試みてみたり。
13名無し三等兵:2008/12/14(日) 00:34:16 ID:???
なんで蒋介石は太平洋戦争末期のボロボロの日本軍相手に南京や上海にまで脅威を与えられる攻勢に出なかったんだ?
自力で南京や上海を取り戻せれば、戦後相当有利な立場になりそうなもんだけど
14名無し三等兵:2008/12/14(日) 09:35:33 ID:???
関東軍はともかく、大陸に渡った陸軍部隊はポロポロじゃなかったからだよ。
15名無し三等兵:2008/12/14(日) 23:07:13 ID:???
>13
過去ログ全部読み返せ
16イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/14(日) 23:25:41 ID:???
すいません。また仕事がしょうもないトラブルに嵌りまして、しばらくお休み
させて頂くかもしれません。上手く解決しなかったら、鬱打支脳……w。

>>朝鮮、満州国への越境ゲリラに対して

無敵の関東軍さまに対して、支那の土人ゲリラに『聖域』などありません。
「万里の長城」を越えて追ってきますw。

>>13 カーボナードで過去ログを検索してください。もしくは全部読み返せw。
17イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/14(日) 23:47:51 ID:y4d6NlXS
>>10 の続き。さて『七大国策』とは、首相の広田弘毅が掲げる「庶政一新」の
具体策でありました。もちろん筆頭で●『国防の充実』が上げられているように、
陸海軍に相当気を使った内容だった訳です。

しかし、それにも関わらず寺内陸相と永野海相は1935年9月21日、首相の
広田に『政治行政機構整備改善要綱』という、長ったらしい名前の意見書を提出
してきます。この頃は、のちの『国家総動員法』(1938年:第1次近衛内閣)
などが全面に押し出てくる時代の少し前に当たります。

この意見書は、例えば「外務省と拓務省、農林省と商工省をそれぞれ合併せよ」だとか
「議会制度を改革せよ(議会の権限縮小)」といった内容でした。要するに『総力戦
体制』を整えるための国家改造計画のハシリだった訳です。

「名を捨てて実を取る」ためとはいえ、陸軍と妥協しがちになっていた広田ですが
これにはさすがに反対しまして、●「なおよく研究したうえで、出来るだけ希望に
沿うようにしよう。だが、とにかくこの内閣の為すべきことは、まず第一に仕事を
やるという事であって、先日決めた七大国策を実現していく。それにはまず予算を
第一に通さなければならない――」と、寺内と永野の2人を突っぱねたのでした。
18イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/15(月) 00:17:09 ID:xDjPt13X
>>前769 >>満洲国の存在が癌となり、広田にとって国民党政府の神経を逆撫で
>>してまで陸軍と妥協するような本末転倒なやり方以外に選択肢が無かった

陸軍(そして巨額の軍事予算の点から云えば海軍も)との『外交』に苦労させられた
広田弘毅ですが、それゆえに『統帥の一元化』という大胆な構想も練っておりました。

「陸海軍は政治機構の改革云々を言うけれど、どう考えてもその前にまず『統帥の
 一元化』を図る必要がある」と痛烈に皮肉ります。そして「統帥権は陛下の一手に
集めて『大本営』とし、陸海軍一緒にして対立しないようにしなければならない」

と主張するのでした。もちろん『大本営』は今まで日清戦争と日露戦争の時にしか設置
されなかった最高統帥機関ですが、陸海軍の対立に政治(外交)が混乱させられるならば、
『平時』でも大本営のような統帥一元化の機関を作らなければならないと考えた訳です。

その必要性を裏付けるように、1936年11〜12月には関東軍参謀(徳化特務
機関長兼務)田中隆吉のアンポンタンが『綏遠事件』を起こした挙句、撃退される
という不始末を起こします。やるのは良いですが、支那の土人相手に負けんなw。
19イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/15(月) 00:40:58 ID:xDjPt13X
まあ『綏遠事件』というのは、前スレの最後で取り上げた支那駐屯軍の増強に
伴ないまして(関東軍は『北支の問題』に関わるべからず)、関東軍の矛先が
内蒙古工作に向いたのが背景にあります。広田は良かれと思って、支那駐屯軍の
権限強化に賛成したのですが、どこに飛火するか本当に分かりませんw。

綏遠事件自体は、徳王率いる内蒙古軍が(関東軍の指導の下)起こして敗北した
ことになっていますが、関東軍がメンツの問題で本格的に介入したら悪夢です。
広田は1935年12月4日に、

「もし関東軍が中央の命令を聞かずに(綏遠事件に)出兵するなら、自分は職を
 賭してでも止めなければならない。到底、留まる訳にはいくまい。また時候の
 関係で、大規模な軍事行動は不可能になるだろうから、外交工作で行きたい」

と外相の有田八郎に語っています。以前にも述べましたが、広田政権は支那事変が
起こる前年ということもありまして、本当に「難題」続きです。
20イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/15(月) 01:22:12 ID:xDjPt13X
まあ陸軍中央の反対もありまして、関東軍そのものが綏遠省に出兵する事態は
避けられました。しかし首相の広田弘毅は、西園寺公望の秘書である原田熊雄に

「内蒙古には出兵しないことになった。しかし関東軍が今後どう動くかが問題
 である。どうも自分は首相就任以来、今まで色々考えてみると、やはり陛下の
 統帥大権に対して陛下の統帥本部というものを置き、これに陸海軍を1つに
 まとめ、常にその首班者が『大元帥陛下』に申し上げるようにしたい――」

と12月7日に漏らしています。まあ、鳥居民の『日米開戦の謎』に「なぜ統合
幕僚本部がなかったのか?」という章がありましたが……。もちろん、このような
統帥の一元化機関が現実にできあがれば、その権力は今より絶大なものとなり、
内閣の権限をかえって弱めてしまうことも容易に想像できる訳です。

それでも広田は、陸海軍の戦略的対立(対ソ戦と対米戦を同時にやるようなw)
の方が日本を滅ぼすと考えて、こうした『統帥の一元化』を考えていた訳です。
しかし原田熊雄に漏らしたということは、間違いなく西園寺公望にも伝わっている
はずですが、何の具体的な行動もないまま「尻切れトンボ」で終わりました。
何より翌年の1月には『腹切り問答』で広田内閣は総辞職に追い込まれます。
21イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/15(月) 01:29:51 ID:???
>>20 >>もちろん、このような統帥の一元化機関が現実にできあがれば、
>>その権力は今より絶大なものとなり、内閣の権限をかえって弱めて
>>しまうことも容易に想像できる

まあ「統帥の一元化」機関ができあがれば、昭和天皇のイニシアチブも
より期待できると広田は考えたのでしょうが……。陸海軍の深刻な対立で、
いずれかの肩を持つことを天皇は極端に避けておりましたので。
22イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/15(月) 22:29:46 ID:ysmFtuRq
さて「広田内閣」の話もあと少しでして、肝心要の『日独防共協定』へと移ります。
言うまでもなく、後の『日独伊三国軍事同盟』(1940年9月)の最初の一里塚と
なる条約です。何気にその中間に当たる『日独伊防共協定』(1937年11月)を
締結したのも、広田弘毅だったりする訳です(2回目の外相時:第1次近衛文麿内閣)。

こうした点も、広田弘毅が文官でありながら『死刑』になっても仕方が無いとする
意見に繋がる訳ですが、具体的にもう少し見てみましょう。日独防共協定の言い出し
っぺは、もちろん駐独大使館付武官の大島浩大佐(のちのA級戦犯:終身刑)でした。

外相の有田八郎は、●「薄墨色程度の協定には賛成」としていたものの、外務省の主担当
である欧米局長の東郷茂徳は、●「ナチスの宣伝に利用されかねない」と反対しており
ました。そして首相である肝心の広田はというと、●「閣僚は総て本協定の締結を可と
する――」と前向きな考えだった訳です。

この時の広田の真意が一体『那辺』にあったか、自分には正直つかみかねる
部分があります。ですので「幾つかの説」をこの場で紹介することで、
ブレインストーミングを行なっていきたいと思います。
23イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/15(月) 22:53:30 ID:ysmFtuRq
まず第1は、兵頭軍師がおっしゃるようにドイツと支那の間に『楔を打ち込む』
狙いがあったとするものです。支那の蒋介石はドイツの軍事顧問団の力を借りて
着々と日本との開戦準備を進めていた訳ですが、広田弘毅はそこからドイツを離反
させる事に成功した訳です。先にも述べたように、もしドイツが英米ソを牽制する
役割を他国に求めるならば、同盟を結ぶべきは支那ではなく日本だったからです。

日独防共協定が締結されたのは1935年11月28日ですが、ヒトラーは事前に
支那に連絡するよう指示しています。これを境に、あれほど頻発していた日本人を
狙ったテロ事件も(一時的にですが)ピタリと収まるのですから、なかなか説得力が
あるのではないでしょうか。

もう1つの説は、全く反対に国民政府を『日独防共協定』に参加させる事で、広田は
日中関係の改善を図っていたとするものです。支那との外交要領である「広田三原則」
にも『日支間の防共の推進』が挙げられている事が背景にあります。しかし蒋介石は
●「中国の防共は、中国の内政問題である」と防共協定への参加を拒否し、自ら中共
(八路軍)の討伐に向かいました。
24イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/15(月) 23:21:29 ID:ysmFtuRq
この辺り『鶏が先か? 卵が先か?』の議論に似ておりまして、初めから支那に
悪意があって広田は『防共協定』への参加をわざと呼びかけたのか(嫌味 or
外交的なアリバイ作り)、それとも支那に参加を断られたからドイツとの外交
関係をより強化せざるを得なくなったのか――とても判別しにくい訳です。
願わくば前者であって欲しいのですけれど。

また更には、イギリスを日独の「防共協定」に引き込もうと広田は工作したという
説もありまして、ここまで来ると訳ワカメの状態ですw。国際連盟からの脱退以後、
世界の孤児となっていた日本はこれを奇貨として、独国と犬猿の仲であるフランスは
さすがに無理にせよ、オランダからベルギー、ギリシャの小国に至るまで、広範な
「薄墨色の防共協定」に参加する気はないか、呼びかけたと云うのです。もちろん
大本命は先に述べた様にイギリスだった訳です。まあでも滅茶苦茶すぎる説ですねw。

以上、3つの説を取り上げた訳ですが、判断と評価は皆さんにお任せします。
自分としては、最初の「ドイツと支那の間に楔を打ち込む」説に賛成ですw。
25イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/16(火) 00:03:27 ID:cffN64QI
>>23 >>しかし蒋介石は●「中国の防共は、中国の内政問題である」と防共協定への
>>参加を拒否し、自ら中共(八路軍)の討伐に向かいました。

広田政権での『重大事件』はさらに続きます。1936年12月12日には、八路軍の
根拠地に総攻撃を指示していた蒋介石が、西安に張学良を『督戦』に赴いて、逆に拉致
監禁されるという「一触即発」の危機を迎えました。

ここが運命の分かれ目でして、中共は当初、蒋介石を縊り殺すつもりでしたが、ソ連の
スターリンの「鶴の一声」で立ち消えとなりました。国民政府も張学良の討伐のために
西安を爆撃したり、妻の宋美齢が西安に直接乗り込んで「夫の解放交渉」を行なうなど
すったもんだのうえ、第2次国共合作が成立する訳です。ここで遂に●『抗日民族統一
戦線』が築かれることになりました。
26イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/16(火) 00:33:36 ID:cffN64QI
こうして振り返ると、広田弘毅が首相を務めた僅か10ヵ月半の間には――。

●2・26事件後の「政治空白」解消、●粛軍と軍法会議、●軍部大臣現役武官制の
復活、●支那駐屯軍の増強、●帝国国防方針の改定、●帝国外交方針、●国策の基準、
●支那でのテロ事件頻発、●七大国策、●綏遠事件、●日独防共協定、●西安事件

と重大イベントが目白押しだった訳です。この中には、支那事変や太平洋戦争へと
繋がるものも沢山ありました。さすがに昭和天皇は『良いカン』をしておりまして、
首相の広田弘毅が支那情勢について上奏すると、●「この際、小さな問題で支那に
対して失敗しないようにしなければ」と述べています。

そして広田内閣にも終焉の時が近づいておりまして、何より広田自身が政権を
これ以上維持していくことに限界を感じていました。ひと昔前の「安倍首相」
のようなものでしょうか。軍縮条約からの脱退もありまして、大幅に軍事費を
増大させた予算編成と国民への増税が進む一方、2・26事件の背景ともなり
ました「農村の疲弊」は相変わらずの状況だった訳です。
27イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/16(火) 01:01:45 ID:cffN64QI
1936年末には、首相の広田弘毅に対する『暗殺未遂事件』も起きました。
福島県で興信所に勤務していた渡邊浩という人物が、ダイナマイトを所持して
上京、首相官邸を下見しているところを不審がられて警察に逮捕されました。

芋づる式に共犯者の4人が検挙されましたが、渡邊は●「貧農を救うために、
広田首相暗殺の計画を立てた」と自供しています。

広田は自身の専門分野である外交ばかりか、内政にも行き詰まりを感じるように
なり、1937年1月になると昭和天皇に対して●「近衛公爵あたりが自ら新しい
政党を組織して、空気を一新させることが適当ではないかと思います」と弱音を
吐くようになりました。また東京の支那大使館員は、●「広田は四面楚歌」と
本国・南京に報告するなど、土人共にも軽く見られる始末ですw。

その内に1937年1月21日、前スレでも述べました寺内陸相と浜田国松議員
(政友会)との間に●『腹切り問答』が勃発し、広田内閣は総辞職に追い込まれる
ことになります――。
28イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/16(火) 01:27:00 ID:cffN64QI
まあ、渦中の寺内陸相はお決まりの『粛軍』を名目に、衆議院の解散を首相の広田に
迫りますが、これには政党出身の4閣僚が猛反対します。また「巨額の建艦予算」を
棒に振る訳にはいかない永野海相も解散には難色を示して、議会は停会することになり
ました。広田の選択肢は、それでも議会を解散させるか、内閣総辞職しかありません。

もはや体力と気力に限界を感じていた広田は、陸軍への「最後の抵抗」とばかりに内閣
総辞職の方を選びます。「腹切り問答」が勃発してから僅か2日後、1月23日の閣議の
ことでした。広田は閣僚に向かって、●「異常なる2・26事件の後を受けて大命を拝し、
何ら準備が無かったが微力を尽くして、陸海軍・各政党の援助を受けて今日に至った。
然るに近時の政情は自分の力に及ばぬものがあり、この際、闕下に骸骨を乞いたい――」
と述べ、昭和天皇に辞職を願い出たのでした。

ちなみに「骸骨を乞う」の由来は、『主君に一身を捧げて仕えた身だが、老いさらばえて
残った骨だけは返していただきたい』という春秋の故事によるものです。
29名無し三等兵:2008/12/16(火) 08:34:28 ID:???
>闕下に骸骨を
そこまで言ったらおとなしく引退しろよ
30名無し三等兵:2008/12/16(火) 13:40:02 ID:???
【社会】 田母神氏 「文民統制…戦争したがるのはいつも文民だ」
「村山談話教育を自衛隊に徹底?命かけて日本守る気にならぬ」

★歴史観講座廃止を批判 田母神氏、地元で持論 郡山

・歴史認識に関する政府見解を否定する論文を発表し、更迭された田母神俊雄前航空
 幕僚長(60)が12日、出身地の福島県郡山市で講演した。

 統合幕僚学校長時代に新設した「歴史観・国家観」講座の廃止を浜田靖一防衛相が
 検討していることに触れ、「(侵略と植民地支配を認めた)村山談話に基づいた教育訓練を
 徹底するというが、あんなものを徹底されては、自衛隊はこの国のために命を懸けて
 戦う気になれない」と批判した。

 シビリアンコントロール(文民統制)については「政治家と文官の言うことを何でも聞いて
 いると、軍は弱体化する」「戦争をやりたがるのは文民。ヒトラーもムソリーニも近衛文麿も
 文民。軍人は自分の部下が死ぬので戦争をやりたがらない」と持論を展開した。
 田母神氏は安積高、防衛大卒。講演会は地元月刊誌が主催した。
 http://www.kahoku.co.jp/news/2008/12/20081213t63002.htm

軍人はいつも正しいんだってさw
暴走機関車タモガミを誰か止めてくれ

31名無し三等兵:2008/12/16(火) 21:19:42 ID:???
日中戦争はドイツが仕組んだ / 上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ
ttp://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_detail?isbn=9784093878142
あほ右翼は、遂に友邦独逸まで敵にまわしたのだ。
32名無し三等兵:2008/12/16(火) 21:28:35 ID:???
>>31
完全に友邦となったのは昭和15年以降なので、昭和12年時点の批判は
何等問題はない。
33名無し三等兵:2008/12/16(火) 21:33:57 ID:???
>何等問題はない。
のにドイツが仕組んだと言い切るところがアホ過ぎるw
ドイツの陰謀で日中戦争引き込まれて、そのドイツに和平工作を依頼するとかどんだけwwww

右翼は戦前の日本を馬鹿にしすぎだろw
34元32:2008/12/16(火) 21:48:40 ID:???
>>1
新スレ乙。
御挨拶が遅れました。

ちなみに、日中戦争とドイツですが、
ドイツといってもいろいろありで、複数路線が対立しているのです。
カナルスとブロンベルクとレーダーとノイラートとリッベンでは、
同じドイツでも路線が違っているのです。

それと、反ソという観点から見て、
日中が和解して防共に結集するのがドイツにとって望ましい、
できれば、反ソ各国が結集しての協定が望ましいというのも、
ドイツ側にとってはありえる合理的判断なのです。

もちろん、ダメダメ伍長閣下がぶちこわすんですけど。
35イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/16(火) 23:00:00 ID:bleuYLyg
>>29 >>闕下に骸骨を そこまで言ったらおとなしく引退しろよ

まあ、広田自身もまさか『次』があるとは思っていませんでしたでしょうが、
時代がそれを許さなかった訳です。そこに日本と広田の不幸がありました――。
って、「もうちょっとだけ続くんじゃ」と言ってようやく自分が失踪する所まで
話が戻りましたw。

>>30 >>軍人はいつも正しいんだってさw
まあ、近衛文麿がA級戦犯できちんと『死刑』になっていたら、もう少し日本の
近代史観もマトモになったはずなのですが……。山本五十六も生きて終戦を迎えて
いたら、いくら和平工作に尽力しても「真珠湾奇襲」の罪で100%死刑でしょう。

>>34 >>ドイツといってもいろいろありで、複数路線が対立しているのです。
毎度どうもでございます。全くおっしゃる通りでして、あれだけ短期間に無理を重ねて
ナチス党は政権を獲得したのですから、外交路線でも(既得権者との)対立が起きない
方がおかしい訳です。
36イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/16(火) 23:29:37 ID:bleuYLyg
さて、広田弘毅が内閣総辞職した2日後(1937年1月25日)には『政界の惑星』と
呼ばれた宇垣一成に組閣の大命が降下しました。この辺りは「時系列」が前後しますが、
前スレで先にやりました極小テーマの『宇垣内閣の流産』『石原莞爾の野望と蹉跌』を
それぞれ参照してください。

まあ、広田内閣の後継には真っ先に近衛文麿の名前が挙がったのですが、本人は表面上、
●「大命が出たら死んでもやらなくちゃいかん」と語っていた反面、木戸幸一や原田熊雄には
●「どうか自分を出さないでくれ。絶対に自分は困る!」と尻込みをしておりました――w。

結局、陸軍出身の林銑十郎が組閣(1937年2月2日)するわけですが、議会で予算案を
通過させると「抜き打ち」的に衆議院を解散させました。これがいわゆる『食い逃げ解散』
と呼ばれるものですね。多額の軍事予算が付いていましたから。まあ、当初より議会と対決
姿勢を強めていましたが、裏には政党政治に打撃を与えようとする陸軍の思惑があった訳です。

陸軍は「親軍派政党」である『昭和会』を全面的にバックアップして選挙に望み、また一方、
広田弘毅と同郷で玄洋社社員である中野正剛は『東方会』を組織しました。因みに東方会は
政党ポスターで『排英。アジアの敵! 英国を撃て!!』と訴え、綱領にも『全体主義に則る』
ことを宣言するなど強硬な主張でした。ある意味、玄洋社らしいと云えばらしいのですがw。
37名無し三等兵:2008/12/16(火) 23:39:31 ID:???
>23
個人的には二番の、国民党政府巻き込みキボンだな。
今見ても多分当時見ても現実性のない拙策だが、広田のキャラクターからしてこれが適当じゃないの?
一番の独支離間も、三国同盟成立までドイツ軍人は多数滞在して指導育成やってたんだから、意味ないよねえw
瞬間的に対日テロが止んだってのも、まあ小細工の類だろ。

しかし広田って、政治センスももちろんだが外交センスすらないねw
官僚外交官としていわれたことだけやってる分には優秀なんだろうが。
外務相から首相までなっちゃったのは運命の偶然というほかないが、しかし何でこんなのが・・・とは思わざるをえないなあ。
38イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/16(火) 23:57:29 ID:bleuYLyg
まあ、中野正剛は『同族嫌悪』ではありませんが、広田弘毅の外交政策にかなり
難癖を付けておりまして「欧米依存の範を示し、非常時の肉薄に直面することを
避けて、もっぱらこれを逃避せん」と激しい論難を繰り返しています。おそらく
外相となり首相となった広田に対して、ヤッカミ半分もあったでしょう。

いずれにせよ1937年4月の総選挙で、軍部の支援する『昭和会』は大惨敗
(25→19)『東方会』も中野正剛自身は福岡1区で最高得票を獲得しますが、
党全体では選挙前より現職の議席を減らす結果となりました(11)。

逆に『食い逃げ』された政友会・民政党が議席をほぼ現状維持(170・190)
したのに加え、軍部に批判的な社会大衆党が躍進します(37)。陸軍や中野と
すれば、ここで一気にナチスのような「大衆政党」の流れに持っていきたかった
のでしょうが、余りに時期尚早だった訳です。『大政翼賛会』にはまだまだ早い。

結局、首相の林銑十郎は「議会運営」に全く自信を失い、就任から4ヵ月も満たない
1937年5月末に内閣総辞職を行ないました。それまで弱っていた政党政治が俄然
息を吹き返し、報復の「内閣不信任案」決議が迫っていたからです。林の自爆テロと
いうか、『史上最も無意味な内閣』と評される所以です。凄まじい定見の無さですw。
39イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/17(水) 00:26:27 ID:krEUkPWH
>>37 >>しかし広田って、政治センスももちろんだが外交センスすらないねw
まあ、『駐ソ大使』時代(満州事変が勃発)の穏健で粘り強い外交が高く
評価されて、外相や首相への道が開けた訳ですが、

>>前769 >>満洲国の存在が癌となり、広田にとって国民党政府の神経を
>>逆撫でしてまで陸軍と妥協するような本末転倒なやり方以外に選択肢が
>>無かったのはよく分かりました。

が一番上手く広田を評しているのではないでしょうか。外相以降の広田は
全方位外交というか、事実上の満州国承認をソ連・支那・ドイツに求めて
「日満支」のブロックを模索しつつ、かといって単なるアジア主義に陥らず、
イギリスやアメリカと国際関係を保とうともしました。国際連盟脱退の際の
「いよいよ信を国際に篤くし、大義を宇内に顕揚する」の詔書を地で行きます。

まあ、広田はあらゆる方面を調整しようとし、それゆえ「二面性」「定見が無い」
と後世から批判される訳です。

>>37 >>しかし何でこんなのが・・・とは思わざるをえないなあ。
首相が務まるような「人材の払底」がどんどん進みます。第1次近衛内閣の後は、
それはもう酷いものです。平沼騏一郎と広田弘毅では、どちらが「マシな人物」
だとでも云うのでしょうか。林銑十郎が首相になる時点で相当ヤバイのですw。
40イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/17(水) 01:23:22 ID:krEUkPWH
さて林銑十郎内閣で1つトピックがあるとすれば、外相に佐藤尚武が就任した事
でしょうか。外務省では広田の1期先輩にあたり、国際連盟帝国事務局長や駐仏
大使を歴任しています。太平洋戦争末期には、東郷外相に請われてソ連大使として
赴任。ソ連の満州侵攻――「対日宣戦布告」を直接受けた人物でもあります。

佐藤尚武は外相を引き受ける際、林に1つ注文を付けます。それは『広田外交』を
全て白紙に戻し、傷ついた「対ソ関係」や「対支関係」を立て直すことでした。かつて
広田が斎藤実内閣で外相を引き受ける際、前任の内田康哉の『焦土外交』を全面的に
見直すことを条件に引き受けたのを彷彿とさせます。皮肉以外の何物でもありません。

そうして広田外交を転回すべく、具体的には陸軍の行き過ぎた「北支分治工作」に
佐藤は歯止めをかけようとする訳ですが、林内閣の総辞職により僅か4ヵ月で外相の座
から降ろされました。議会の解散と選挙の混乱を考えれば、実質3ヵ月足らずでしょう。

>>37 >>外務相から首相までなっちゃったのは運命の偶然というほかないが、
>>しかし何でこんなのが・・・とは思わざるをえないなあ。

更に追い討ちとばかりに、第1次近衛内閣の成立により佐藤尚武の後任となった
外相は、佐藤が批判的だった広田弘毅の返り咲きに他ならなかった訳です――。
41元32:2008/12/17(水) 02:52:26 ID:???
>>40
ちなみに、日中外交史の一部専門家の間では、
佐藤外交の評価は無茶苦茶に高いです。
42イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/17(水) 23:12:19 ID:5ml1wSCl
>>41 >>ちなみに、日中外交史の一部専門家の間では、佐藤外交の評価は無茶苦茶に高いです。

1937年6月に僅か4ヵ月で外相を辞任させられて、自分が批判していた当の
広田に外相を引き継ぐという屈辱を味わい、そのまた僅か1ヵ月後の7月7日には
『盧溝橋事件』の勃発です。まあ「佐藤尚武にせめて1年ぐらい外相をやらせて
みればどうなったか?」という気はしますが、自分としては佐藤の運が良くて、
広田の運が悪かったぐらいにしか思えません。

佐藤は外相の引継ぎの際に、自分が果たせなかった『日支関係改善の想い』を
広田に託そうとしますが、肝心の広田は佐藤からすれば「抜け殻」のように
見えました。呆れた佐藤は●「広田に対しては2時間もかかって事務引継をした。
ところが、その後の30日位というものは、自分の向かっていた方向に何もして
いない。その内に7月7日の盧溝橋事件が起こった――」と散々な評価です。

まあ、後で直ぐ述べるように、もし仮に「林内閣」の後継が近衛文麿ではなく、
同じ陸軍出身の「杉山元」だったとしたら、外相は引き続き佐藤尚武の可能性も
あったのでしょうか。
>>42 >>広田に対しては2時間もかかって事務引継をした。

   、 - _- 、 ___
  / 〆~~~, '"  `ヽ,
  l ノ.  、 ! ノ)ノ)λノ)).
  ||    メ从i ゚ ヮ゚ノリi 〜♪ 外相の引継ぎって、2時間で出来るのね。
  ヽ.__.(Oi#lムliづ     
    ~~~~ <#/i#i#iゝ      (◎)
       ''i_ン_ン"      ヽ|〃 .
                 '゛'゛ ゛゛
44名無し三等兵:2008/12/17(水) 23:44:22 ID:???
>43
まあどうせシャッポだしねえw
あるいは、何も反応がないんで佐藤が二時間でさじを投げた可能性もw
45イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/17(水) 23:58:22 ID:5ml1wSCl
>>42 >>「林内閣」の後継が近衛文麿ではなく、同じ陸軍出身の「杉山元」だったら

林内閣の後継には、もちろん近衛文麿の名前が挙がりましたが、毎度のごとく
●「どうも困るなあ」と逃げ回っておりました。周囲の関係者もまた●「近衛は
とても受けまい――」と諦めモードでした。そうこうする内に、首相を辞職した
林銑十郎が、●「どうも自分が今、内閣を投げ出すことは軍部が政党に負けた
ということになり、国の威信にも関係して面白くない。やっぱり自分の後には
まあ杉山大将が出た方が良いと思う――」とトンでもない事を言い出しますw。

『石原莞爾の野望と蹉跌』で林内閣の陸相は結局、カンジの企図した板垣征四郎
ではなく中村孝太郎(中将)になったと述べましたが、当の中村は腸チフスに
罹患したと診断されまして僅か8日間で陸相を辞任してしまいます。何か怪しい
裏の匂いがプンプンしますが、当時は『中村陸相毒殺説』まで噂が流れましたw。
まあ結局、中村の後任陸相には杉山元が就任してしまう訳です。宇垣や林の組閣で
「杉山は三月事件に関与しているから陸相に相応しくない」と陸軍三長官会議で
断っていたのは一体、何だったのでしょうか――w。
46イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/18(木) 00:18:37 ID:nFhiACVe
>>45 >>当時は『中村陸相毒殺説』まで噂が流れましたw

まあ、一説には中村陸相の親戚に『肺結核患者』がいることが判明し、
陸相は「将官人事内奏」のために頻繁に天皇陛下の前に立たなければ
ならないので、やむなく「腸チフス」と偽って一時入院し、辞任した
という話もあります。

また更には、中村は腸チフスではなく開放性の胸部疾患で寝込みます。
その病名が判明するやいなや、陸軍次官の梅津美治郎(中将)が電光
石火で、内閣や陸軍三長官、そして軍事参議官に引っ込んでいた寺内
寿一宅を襲撃して、一夜の内に『陸相:杉山元』『教育総監:寺内寿一』
(参謀総長は相も変わらず閑院宮)に決めてしまったという説も……。

この頃が『梅津の陸軍』と呼ばれる所以でふ。
47イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/18(木) 00:42:46 ID:nFhiACVe
>>45 >>やっぱり自分の後にはまあ杉山大将が出た方が良いと思う

こうして陸相の杉山元が「首相候補」に擬せられるのですが、教育総監の寺内
寿一も猛烈にプッシュし、内大臣の湯浅倉平も「他になり手もいないから」と
賛意を示したので俄然、現実味を帯びてきます。当の杉山がどのように感じた
かは分かりませんが、林銑十郎の『自爆選挙』で議会とも初手から一触即発が
確定していますので、決して「有り難く」思わなかったのではないでしょうか。

さて木戸幸一と原田熊雄が、元老・西園寺公望のもとに『杉山首相』を打診しに
行くと、西園寺から返ってきた答えは●『べトー(断じて拒否)』でした。西園寺は
もはや唯一人の元老として後継首相の推薦を辞退していたのですが、

(宇垣内閣の流産で、西園寺は「犬猿の仲」の平沼騏一郎を首相の第一候補に
 推薦せざるを得なかったことに大きな失意を感じていた)

林の『自爆選挙』で政党政治が勝利したにも関わらず、陸軍出身者が2代続く
結果になる「杉山首相」だけは決して許せなかった訳です。
48イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/18(木) 01:25:03 ID:nFhiACVe
西園寺いわく、

●「それはもう陸軍大臣を首相にすることは良くない。この場合、どうしても
 近衛を出したらどうか? 自分は今まで(最後の、最後のカードである)近衛を
 出すことを躊躇していたし、またなるべく出したくないと思っていたが、自分に
 ご相談ということならば、自分の信念に基づかない者に賛成する訳にはいかない。
 やっぱり筋の立ったことで行かなければならないから、事情から云えば甚だ気の毒
 であるけれど、結局どうしても近衛より他に適任者がいないと思う――。

 何と言っても近衛を推すのが『最善』で、事情においては気の毒だけれど止むを得まい」

と断固たる姿勢を崩しませんでした。これを受けて内大臣の湯浅が興津で西園寺と会談、
帰郷して更に近衛と話し合い、天皇に参内して結局、近衛に組閣の大命が降下することに
なりました。近衛も今まで再三、我がままを通して辞退してきた経緯もあり、また宇垣
内閣の流産の時には、陸軍の横暴を糾弾して『大命の重大さ』を説いたこともありまして
遂に首相を引き受ける決心をしたのでした。
49イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/18(木) 02:05:43 ID:nFhiACVe
>>44 >>あるいは、何も反応がないんで佐藤が二時間でさじを投げた可能性もw

まあ、民間企業の異動でも「2時間で引継ぎが終わる」とは何じゃらほい?
という気がしますw。しかし、円ドル相場は凄いのう。87円台ですか。
50名無し三等兵:2008/12/18(木) 15:20:46 ID:???
中山泰秀(自民党)は、麻生よりもアホか〜!

太田総理と麻生首相 漢字力どっちが上か 2008/12/15

原口一博(民主党)が12問中10問正解でトップ、
「さすが安倍総理の家庭教師。東大出身」(田中)の平沢勝栄、
大村秀章(ともに自民党)が9問で続く。

「これはヒドい」「スタッフも笑わなくなってますよ」(ふかわりょう)と
散々だったのは中山泰秀(自民党)。

12問中なんと2点。「いのぐち(猪口)」「ぼうはん(謀反)」
「まつあき(松明)」「こぶんしょ(古文書)」「最原(モッパラ)」
「勇儀良(イサギヨク)」「眼蓄(ガンチク)」「補10(ホテン)」etc。
アフガニスタンの地図上の位置を答えさせるという次の問題でも、
国会議員ではただ1人間違えてしまった。

http://www.j-cast.com/tv/2008/12/15032245.html
51イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/19(金) 00:12:00 ID:5YeRDUhL
>>前777 >>あと12kb残ってるー

何か『前スレ』が浮上してきていると思ったら……。ぎえー、確認が足りません
でしたw。まあ、さすがにもう書き込めなくなっていますが。何か沈んだはずの
艦がひょっこり顔を出した気分です。

>>前778 >>盧溝橋事件も、関東軍と北支派遣軍の縄張り争いによる混乱と、
>>居留地という手狭な状態が引き起こした側面

どうもでございます。まあ、拡大しても「混成旅団規模」だったとはいえ、一挙に
支那駐屯軍の人間の数が3倍に増えた訳ですから、それなりに衣食住の場所が必要
になる訳です。というか、もともと支那駐屯軍の司令部は「天津」にあり(だから
天津軍とも言われる)、1936年5月に増強される以前の北京には1個中隊規模の
「北京駐屯歩兵隊(221人)」が存在するだけでした。そこから牟田口廉也大佐
率いる「支那駐屯歩兵第1連隊(北平【北京】)」にパワーアップする訳ですからねw。
本編もそろそろ盧溝橋事件に突入れす。
52イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/19(金) 00:18:26 ID:???
>>50 >>中山泰秀(自民党)は、麻生よりもアホか〜!

コピペにレスするのもしょうもないですが、麻生は英語が喋れるのだから多少
漢字が読めなくても、それほど馬鹿にすることはないと思うのですけど。麻生
並に英語が喋れる人間が「麻生は漢字が読めない」と言うのなら分かりますが。
プラマイしてどっちが上なのでしょうか。それよりも麻生は人を小馬鹿にする
ような態度が問題です。
53イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/19(金) 01:02:26 ID:5YeRDUhL
>>48 >>近衛は遂に首相を引き受ける決心をしたのでした。

近衛が首相であれば、陸軍も「御輿を担ぐ」のに大歓迎でした。林内閣の『自爆解散』
により不利な状態で議会と対決になったことも吹っ飛びますし(「杉山首相」では火に
ガソリンを撒く羽目にw)、国民から軍部、革新にいたるまで幅広い層に圧倒的人気を
誇る近衛が内閣を組織すれば、陸軍が望むような「政治改革・国家改造」もやりやすい
と云うものです。究極的には、ナチス政権のような「大衆政党」を組織することも可能
だったでしょう。

実際問題、180センチ超の長身・細身でハンサムの五摂家筆頭・近衛公爵の
人気はすさまじく、新聞もこぞって囃し立てました。このとき近衛は45歳。
安倍晋三が「戦後最年少」で首相になった時でさえ52歳です。

首相を引き受ける決心をした近衛は閣僚人事に取り掛かりますが、さっそく陸軍
から口出しが入ります。陸軍は近衛を●「軍をあげて応援する」と宣言していま
したが、海軍との軍事予算の兼ね合いで大蔵大臣の人選に注文を付けてきたのです。
54イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/19(金) 01:42:05 ID:5YeRDUhL
近衛の推す候補と、陸軍の推す候補が揉みあう形となり、結局そのいずれでもない
「大蔵官僚」出身の賀屋興宣(かや・おきのり)が蔵相となりました。ちなみに賀屋は
ロンドン海軍軍縮会議に随員として出席し(1929年)、同じく随員だった山本五十六と
鼻血を出す殴り合いを演じたエピソードがありますw。

またA級戦犯だったことは言うまでも無く、戦後はCIAの協力者であったり、日本
遺族会を右傾化させたり、自民党政権の法務大臣として死刑執行にはサインしなかったり
(東京裁判で服役中、今まさに処刑場に向かう他のA級戦犯たちを目撃したからという。
1964年は日本の近代史上、初めて死刑が実施されなかった年となる)、石原慎太郎が
尊敬する政治家で「あんなに冷静で、人を喰ってて、明晰だった人はいません」と絶賛したり
する多彩な人物だったりします。

支那事変では第1次近衛内閣の蔵相として多額の戦費の予算を通すなど、賀屋自身、
ここが運命の分かれ道だったと言えるでしょう。後にはヒデキ内閣のもとで太平洋
戦争開戦時の蔵相にもなっています。まあ、話が少し逸れましたが、近衛内閣で
蔵相よりもさらに揉めたのが、実は「外相人事」だった訳です――。
55名無し三等兵:2008/12/20(土) 06:16:35 ID:???
http://up2.viploader.net/pic3/src/vl2_085059.jpg

麻生「おーこんにちは 今まで何してたんだ?」
男性「今 就職相談してて・・・」
麻生「雪かきが今年はものすごく多い?」
男性「そうなんですか?」
麻生「知らねぇけど」


漫才かよwwwwwwwwww
56だつお ◆t0moyVbEXw :2008/12/21(日) 22:10:21 ID:Y7wM6x0s
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/war/1229771260/l50
「だつお」より愛を込めて。お前ら戦史調べてる?

日中戦争にしても太平洋戦争にしても、「自由と民主主義」だの「東亜解放」だの、
そのような主義主張は二の次三の次で、結局のところは工業技術の攻防だったと認識してる。
太平洋戦争で負けたからといってあたかも戦前日本がアジアアフリカ中南米のような開発途上国
であったかのような物言いもあるが、大陸打通作戦では無敵皇軍だったと再三繰り返しておきたい。
「親日派」とされる汪兆銘にしても、支那事変のころは抗日決戦を怒号してたのだし。

中国人の一人をも、一塊の土をも、灰燼に帰せしめて、敵の手に渡さぬ決意である。
(略)大小都市の論なく、これを灰燼に帰せしめねばならぬ。[1, P6]
これは、昭和12年7月末に行われた汪兆銘の「最後の関頭」演説によるものである。
http://shupla.hiho.jp/datas/Nanking.html

>まあ、中テーマ『上海航空決戦』の結論でも述べましたが、支那は『近代戦』、
>ひいては『総力戦』を戦えるようなレベルの国家ではなく(最新鋭機を輸入して
>航空戦力で日本を上回ろうとしたのは一時的なドーピングに終わり、何万機・
>何十万機と航空機の生産と消耗を繰り広げる『総力戦』は全く想像外の
>「神々の世界」の話だった)、日米英独ソと名将云々を同列に比べられるような
>話では無かった訳です。

>ぱっと読んだ感じ、大学の弁論部に入りたての1年生が書きそうな文章だと
>思いました。何も「櫻井よしこ」や「黄文雄」を引き合いに出したり、

「教科書が教えない歴史」「美しい国」というが、実はそういってる保守の人々も案外調べてない。
この辺についての説明はやはり「戦前の少年犯罪」(築地書館)が良いだろう。
57だつお ◆t0moyVbEXw :2008/12/21(日) 22:48:10 ID:Y7wM6x0s
政治経済はスレ違いを承知だが、政治家や学者先生にも信じられない無知が散見されるので一言。

>コピペにレスするのもしょうもないですが、麻生は英語が喋れるのだから多少
>漢字が読めなくても、それほど馬鹿にすることはないと思うのですけど。

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/13
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/10
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/16
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/53
まず麻生首相や長谷川慶太郎や渡部昇一は日本経済楽観論を主張するが、
大多数を占める非製造部門がバブル崩壊以来ずっとゼロ成長と知ってて言ってるのか。

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/14
郵政については自分もあまり詳しくないが、当時から内閣閣僚だった麻生氏が、
郵政民営化は竹中平蔵がどうしたこうしたで俺は知らんという認識で良いのか。

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/43
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/39
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/26
若者の仕事力? 自分らの無能ぶりを棚に上げて何いってんだかww

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/30
「美しい国」で国威発揚を図ったつもりが、靖国参拝者激減で逆効果www

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/37
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/114
青少年の凶悪犯罪など少しも増えてない。「皇室保守」を自称しながら
とんでもない勘違い。そんなこともわからなくなったのか劣化ナベショーは!!

http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/46
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1229267438/110
結局のところ、こんなやつらと比較すれば小泉竹中のほうがまだマシだ。
58元32:2008/12/21(日) 23:16:07 ID:???
>>57
だつお、自重汁。
この貴重なスレを浪費するな。
59名無し三等兵:2008/12/22(月) 01:15:30 ID:???
戦争なんて経済の過熱以外で起こるのか?
発展途上国ならともかくその時代の先進国ならこれ以外の理由じゃ戦争は起こらないだろう
60名無し三等兵:2008/12/22(月) 02:04:42 ID:???
経済の過熱で起こった戦争の例を教えてくれ
61だつお ◆t0moyVbEXw :2008/12/22(月) 20:19:21 ID:ZUd8QoJi
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/war/1229771260/l50
「だつお」より愛を込めて。お前ら戦史調べてる?

>最新鋭機を輸入して航空戦力で日本を上回ろうとしたのは一時的なドーピングに終わり、

手前みそで恐縮だが、米英の予想に反してドイツ軍は東部戦線で大敗し、
逆に日本軍は大陸打通作戦で大勝したこと、これがその後の冷戦構造の
元になったというのが、自分なりに研究した末の結論。
どんなにレンドリースや戦略爆撃を引き合いに出しても赤軍の対独戦勝は不動だし、
またいくら蒋介石をヨイショしてみても弱いものは弱いんでこれはどうしようもない。
東西冷戦が何十年も続いたせいか、自由主義か社会主義かの二極対立史観を引きずってる化石が多すぎ。
62だつお ◆t0moyVbEXw :2008/12/22(月) 20:32:06 ID:ZUd8QoJi
>政治家や学者先生にも信じられない無知が散見される

http://www.c20.jp/p/mccart_j.html
ジョゼフ・R・マッカーシー

歴史への無知がもたらす混迷というのは、日本だけでなくアメリカでも見受けられる。
マッカーシーなど共和党の政治家は、ソ連の対独戦勝と中国の対日戦敗という史実を知らず、
ただ自由と民主主義と反共という理念ばかりを主張するからおかしなことになる。
だがそれはバグラチオン作戦と大陸打通作戦の二箇所をちょっと調べるだけでも自明なことだと判る。
63イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/22(月) 23:13:31 ID:???
すいません。>>16 で述べましたように、やはり仕事がキツクなりまして
もう1日か2日休ませてください……。土日も家でやっていたんですが、
終わらんス。1日100ページ直すのが限度れスw。
64名無し三等兵:2008/12/23(火) 00:11:32 ID:???
仕事もだけど有明要塞攻略戦もあるからだろ(w
65名無し三等兵:2008/12/23(火) 01:34:47 ID:???
>63
株に手を出したとか聞くと、しばらく音沙汰がないとトんだんじゃないかと心配になるから時々でも生存報告だけでも入れてくれ
66ぼぼばん♭ ◆gdH1Km1a0U :2008/12/23(火) 12:02:30 ID:???
イナゾウさんの版元は大丈夫なの?

     ,r---、.       
   _ソヽ/`、シi.
   _>=ヘ 山/=<,    イナゾウ君、今日はもう終わりですか? (ええ)   
.  ((ん'ノノルレム))    はい、じゃあコレやっておいてください。 (バンッ!!) 
   _ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_    例の企画。 (今からですか!?)
   ),k'ヲ:::::::::つ     あなたのタメだから。 (ハァ?)
    (ン::::/:::l::ヽ      あなたの、タメだから。
    `~i,ンT,ノ~´.
               【あなたのタメの善行を――善行オンライン】
68イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/24(水) 01:02:20 ID:???
>>64 >>仕事もだけど有明要塞攻略戦もあるからだろ(w

それもそうですけど年を追うごとに行くのが厳しくなりまして、今年の夏コミは
3日ぐらい前になって「いい加減カタログを買わなくては…」と思ったら、どこを
探しても見つからない! 結局、仕事先から未明に着替えを持って直接向かいまして
現地で買う羽目に…。焦って東と西の駐車場を行ったり来たりして、会場で本気で
倒れそうになりました。あれは初めての経験だわさ、有明要塞2008w。

>>65 10月のドン底で「これは買い場だ!」とその他大勢の人と同じく考えたの
ですが、口座が開くのに2週間近くかかりまして、結局11月初旬になってから
でしたw。自分はマイナスに耐えられないと云うか、損切りするのが早過ぎる性格
らしく(早漏w)、5万円ぐらい負けていまふ。というか仕事のプレッシャーで
精一杯で、これ以上の負荷に耐えられない……orz.w まあ、狼狽売りです……。

>>66 秘密。
69イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/24(水) 01:32:10 ID:???
>>54 の続き。近衛内閣で蔵相よりもさらに揉めたのが、実は「外相人事」だった訳です。

さて小泉政権や安倍政権が、戦前の『近衛文麿内閣』に似ていると比較されることが
過去の新聞やテレビでありましたが、その背景には●「サプライズ人事」●「お友達
内閣」が連想されるからでしょう。近衛は奇抜な人事やいわゆる「お友達」を側近に
置いておくことを好みました。

近衛のそれは「第1次内閣」で早くも発揮されまして、外務大臣には当初、民政党の
永井柳太郎(衆議院議員)をもってこようとしていました。永井は雄弁家として知られ、
外交にも興味を示していたものの、外相としては全くの未知数です。というか素人です。

閣僚の候補者名簿に「外相:永井」と記されているのを見た内大臣の湯浅倉平は思わず、
●「これはあまりに酷すぎる。(外相は)やっぱり広田とか何とかと言ったような人が
良いだろう」と西園寺公望の秘書である原田熊雄に語ったところから全てが始まります。
湯浅は『杉山元・首相』でも已む無しと考えていたのですが、その人物をしても「外相:
永井」は無かった訳です――。
70イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/24(水) 01:53:35 ID:???
ちなみに永井柳太郎は、大日本育英会(日本学生支援機構)の創設者でして、
このスレを見ている人にもお世話になった方はいるでしょうか。また永井の
語録には●「来たり、見たり、敗れたり」(シーザーの戦勝報告のパクリw)、
●「西にレーニン、東に原敬」(衆議院の演説で懲罰動議を喰らうw)など、
色々あります。結局、永井は第1次近衛内閣で逓信大臣となり、のちの阿部
信行内閣でも逓信大臣と鉄道大臣を兼任しています。

さて内大臣の湯浅は、枢密院議長の一木喜徳郎とともに広田弘毅を首相に推した
人物の一人でして、それが消極的選択肢だったとしても、よほど広田を買っていた
ようです。と言うより、陸軍と喧嘩するでもなく(その場合、陸軍は一人旅にw)、
陸軍と調整して穏健な外交を『粘り腰』で耐えに耐えて推し進められるのは広田
しかいないと考えられたのでしょう。

湯浅→原田→西園寺と話が伝わりまして、元老の西園寺も●「外務大臣はどうしたか?」
と近衛にプレッシャーを掛けます。そして原田と近衛が相談したところ、近衛は(内心
渋々ながら)外相は広田で良いと了解したのでした――。
71イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/24(水) 02:19:49 ID:???
こうして水面下で●「外相:広田弘毅」の話が進んでいたのですが、これに困ったのが
当の広田です。1937年1月に身も心も疲弊させて内閣を総辞職して以来、鵠沼の
別荘に引きこもっておりました。当初は恩給生活者として、あるいは恩給も返上して
「得意の書道で、寺子屋の先生でもして食っていこうか」と思い詰めていたのですが、
さすがに「首相経験者」ですから、周りが外聞を気にして放ってはおきません。
辞めたばかりですし、ハンガーストライキなのか、不穏当だと勘違いされますw。

結局、1936年5月に広田は勅選の貴族院議員にあてがわれまして、さしたる
活動も無く日々を過ごしておりました。そこに舞い込んできたのが近衛内閣での
「外相就任」依頼です。広田は大いに困惑します。

まず首相を辞めて(内閣総辞職)半年も経たないうちに表舞台の外相に再就任する
のは如何なものか。安倍晋三が首相を辞任して半年後に外相をやるようなものです。
また下世話な話ですが、首相経験者が外相をやるというのも格下げのような気が
します。まあ、高橋是清は首相をやってから蔵相を務めていますので(そして
2・26事件で倒れる)前例はありますが……。何より広田は、陸軍との軋轢や
折衝、そして先行きの見通せない外交(外務省の部下掌握も含む)に疲れきって
いました。
72イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/24(水) 02:45:13 ID:???
【お詫びと訂正】 ×1936年5月 → ◎1937年5月
>>71 >>結局、『1936年5月』に広田は勅選の貴族院議員にあてがわれまして

さてお決まりのごとく、まず最初に外務省同期である吉田茂から近衛内閣での外相
就任の打診が来ました。広田は乗り気では全然無く、色よい返事をしません。次に
近衛本人から直接入閣を求められても、「自分が入閣して迷惑をかけてはいけない
から――」と断っています。

>>64 >>仕事もだけど有明要塞攻略戦もあるからだろ(w

しかしこれだけ景気が悪くなりますと、コミケに来る人もお金を使いづらいと
思うのですがいかがなものでしょうか。トヨタが「赤字転落」とは1年前には
想像もできないことです。
73イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/24(水) 23:56:32 ID:mtkLuyUe
>>73 >>「自分が入閣して迷惑をかけてはいけないから――」と断っています。

これは広田の偽らぬ本心だったでしょう。また「自分が入ったのでは、若い近衛が
やりくいだろう」とも述べています。しかし組閣の雰囲気は何となく『外相は広田
でなくてはならぬ』という流れになってきます。近衛の秘書である厚地盛茂が派遣
され、広田を更に説得中のところに、元老・西園寺の秘書である原田熊雄が電話を
かけてきます。

●「(西園寺)公爵も外交のことは非常に心配しておられるし、近衛公もぜひ貴下の
 ご奮発を願いたいと言っておられるようだから、どうかこの際一つご承諾願いたい。
 そして願わくば春秋に富む近衛公を助けて、非常な不評判、非常な失敗なしに是非
 何とか責任を全うさせてやってもらいたい」

原田からの懇請を受けても、広田はまだ躊躇います。

●「ちょうどいま近衛さんの秘書の厚地君が交渉に来ておられるところです。
 自分が入ったために近衛公がかえって迷惑されるのではないかと、心配して
 いるところですが……」
74イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 00:13:44 ID:kwy2HFZC
最終的に、原田の●「そんな事は決してないと思います。ぜひ一つご奮発願いたい」
という懇願に折れまして、広田は1年2ヵ月ぶりとなる外相復帰を決意したのでした。

>>73 >>そして願わくば『春秋に富む』近衛公を助けて、非常な不評判、非常な失敗なしに
>>是非何とか責任を全うさせてやってもらいたい

『春秋に富む』とは「年若く前途が洋々と開けている」という意味です。広田がついに
外相を引き受けたことを聞いて、元老・西園寺は●「何とかして近衛を助けてやりたい。
外務大臣も広田で良かった――。まあ、広田も出来るだけ近衛を助けてやって貰いたい
ものだ」と安心し胸を撫で下ろしています。

西園寺は後継首相について、●「近衛公一本槍にて行く決心」と原田に語っており、それは
まだ宮内省に務めていた木戸幸一にも伝わっておりました。西園寺からすれば、拳銃にただ
1発残った銃弾を撃つような気分で、直前の首相経験者でもある広田に穏健な外交を期待した
のに違いありません。

しかし結果論から言えば、近衛は●『非常な不評判』●『非常な失敗』で内閣を総辞職する
訳で、そこに外相の広田も大きく関わっているのは、上記の組閣の経緯を見れば、皮肉以外の
何物でもないでしょう――。
75イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 00:41:16 ID:kwy2HFZC
さて閑話休題ですが、近衛は「五摂家筆頭」の公家ということもあり、その
交際範囲は非常に広いものがありました。というよりも、野心のある人間は
近衛に近づいて歓心を買うのが立身出世に手っ取り早い訳です。そうなると
自分に擦り寄ってくる人材で選り取りみどりになる訳で、近衛が奇抜な人事
を好むのにはそうした背景があります。

実は広田と福岡の同郷で玄洋社出身である中野正剛もまた、近衛と非常に親しく
していただけに自分の入閣を大いに期待しておりました。しかしお呼びはかかり
ませんでした。有馬頼寧(農林大臣:ご存じ有馬記念)や大谷尊由(拓務大臣:
浄土真宗・本願寺門主の4男)など、異色の新人が入閣を果たしているのにです。

さらに近衛が、全く面識のなかった風見章を内閣書記官長に抜擢したのも、中野に
とっては大きなショックでした。というのも、中野と風見は同年同月同日生まれで
同じ早稲田大学の同期、そして同じ新聞記者上がりという、中野にとっては言わば
宿命のライバルだった訳です。

さらに以前から外交方針を『弱腰・軟弱』と批判してきた広田が外相になった事も
中野にとっては面白くありません。近衛公には「北条時宗」的な蛮勇を期待すべき
時なのに、広田が外相ではどうせまた英米追従の現状維持、そして支那に対しては
昔の『広田三原則』をお題目の様に唱えるに違いなかったからです。しかし訪れた
現実は全くそうではありませんでした――。
76イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 01:02:23 ID:kwy2HFZC
>>74 >>広田は1年2ヵ月ぶりとなる外相復帰を決意したのでした。

ここが運命の分かれ道でして、もし広田があくまで2回目の外相を固辞していたら
東京裁判で死刑になることは無かったでしょう。 さて前任の佐藤尚武から引き継ぎ
外相に返り咲いた広田ですが、外務省の部下たちと次第に上手くいかなくなります。

当時、外務次官は堀内謙介(のちに東京裁判で広田の弁護役も務める)、欧亜局長は
信頼する東郷茂徳、一番の懸念である対支関係を扱う東亜局長は石射猪太郎でした。
このうち最も重要な東亜局長の石射猪太郎と広田は、全くそりが合わなくなります。
というよりも、もともと幣原喜重郎や佐分利貞夫の系統に連なる石射が広田に対して
非常に冷ややかな目線で、著しく低い評価だったからです。石射は、

●「(広田外相は)副総理格の入閣だと伝えられたが、私には広田外相に新鮮味も
 強味も感じられなかった。ワシントン在勤時代にこの人に対して持った私の崇拝と
 期待はこの数年来、急に冷めつつあった。先年の広田内閣組閣の際、軍部から
 付けられた注文に唯々諾々として聴従したり、軍部大臣現役制を復活したり
 などした弱体ぶりに幻滅を感じたのだ。

 この人が心から平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを
 持たなかったが、●『軍部と右翼に抵抗力の弱い人だ』というのが、私の見る
 広田さんであった――」と散々な評価です。
77俄将軍:2008/12/25(木) 01:13:55 ID:???
>>75
>有馬頼寧(農林大臣:ご存じ有馬記念)や大谷尊由(拓務大臣:浄土真宗・本願寺門主の4
>男)など、異色の新人が入閣を果たしているのにです。

赤い貴族とも囁かれた有馬頼寧や、戦後、右翼などに食い物にされただけでなく、女性門主な
大谷家など、大東亜戦争は、継続中、ということもあるのか、などと、適当な思いつきなど
書き散らしてみたり。
78イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 01:19:10 ID:kwy2HFZC
また広田の復活させた『軍部大臣現役武官制』のせいで首相になれなかった
(と思い込んでいる)宇垣一成もまた、広田の外相復帰に対して冷ややかで、

「外相として外交の建直しも出来ず、宰相として外交建直しの指導も出来なかった
 広田氏は、外交的手腕においては試験済みである」と日記で酷評していました。

しかし外相に復帰した広田が何もしなかった訳ではもちろんなく、対支関係改善の
ためにまずは民間からと、『福岡―上海間』に航空便を開設させるべく交渉を開始
したりしていました。その背景には当時、陸軍が『恵通公司』なる民間航空会社を
作りまして、北支で勝手に航空機を飛ばしていたからです。もちろん支那の土人は
『主権侵害』だと猛抗議していた訳です。

もちろん「上海―福岡」間にマトモな民間航路を設定するとなれば、広田は陸軍に
働きかける必要がありますから、そうしたところから『三者』(日本・陸軍・支那)
外交の突破口を開こうとしていた訳です。
79イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 01:39:19 ID:kwy2HFZC
しかし広田弘毅が外相に復帰してから僅か33日後の1937年7月7日深夜――。
運命の『盧溝橋事件』が勃発します。

ご存知のとおり、牟田口廉也大佐が連隊長を務める「支那駐屯軍第1連隊」の、
一木清直少佐が大隊長を務める「第3大隊」(のそのまた第8中隊)が、北京
郊外の盧溝橋で夜間演習中、支那第29軍の陣地から発せられた射撃音を耳に
しました。急遽、部隊に集合を命じると兵士1人が行方不明になっております
(のちに無事帰隊する)。

この報告を聞いた牟田口大佐が第3大隊に出動を命じたために、支那第29軍と
戦闘に入りました――というのが「盧溝橋事件」勃発の簡単な流れな訳です。

このとき広田は湘南鵠沼の別荘におりまして、外務省からの深夜の電話で叩き
起こされました。電話口では「支那軍が日本軍に発砲し、日中両軍は北平(北京)
付近で交戦中」と聞かされたと云います。
80イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 01:47:01 ID:???
ちなみに有馬頼寧も大谷尊由も、貴族院議員です。近衛内閣で閣僚の
政党出身者は、前述の永井柳太郎(民政党・逓信大臣)と中島知久平
(政友会・鉄道大臣)の各1名です。残りはほぼ貴族院議員ですね。
81風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 23:13:44 ID:???
>>79 >>急遽、部隊に集合を命じると兵士1人が行方不明になっております。
         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ' さては……w。
      ゙,ヘi_i][i,l\ []
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄
82イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/25(木) 23:44:39 ID:/pwo4V10
まあ、盧溝橋事件をマトモに扱うとそれだけで『大テーマ』が確実ですので
テキトーに素っ飛ばして逝きますw。

1937年7月7日深夜に『盧溝橋事件』が勃発すると、広田は翌8日の早朝に
外務省へ急行します。外務次官の堀内謙介と東亜局長の石射猪太郎、欧亜局長の
東郷茂徳を集めまして、●「事件不拡大、局地(現地)解決」の2点に外務省の
方針を絞りました。

7月9日には臨時閣議が開かれまして、陸相の杉山元がさっそく内地から3個師団の
派遣を主張しますが、外相の広田は上記に述べた「事件不拡大、局地解決」を強く訴え、
『必要なし』と反対しました。つまり広田は『不拡大方針』のもとで事件が現地解決に
収まるのを待とうと促し、これに海相の米内光政が同調したため、閣議はひとまず
その流れで落ち着いたのでした。

また広田は北平の加藤伝次郎総領事に、●「もとより帝国政府はことを荒立てない
つもりだが、事態の展開は支那側の態度次第であるから、貴官は支那当局に懇切
説明し、速やかに時局を収拾すべく措置を講じるよう(支那側に)強く要求されたい」
と訓令を出しています。
83イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/26(金) 00:06:42 ID:/pwo4V10
これで一旦落ち着いたかと思いきや、翌7月10日に参謀本部が「支那駐屯軍の
自衛」と「居留民保護」を理由に派兵を再提案します。作戦部長だったカンジは
深みに嵌るのではないかと逡巡しますが、国民政府軍の北上と現地情勢の逼迫が
伝えられたため、最終的には心が折れました。

当時、参謀本部戦争指導課長だった河辺虎四郎(大佐)があくまで派兵に反対
しますと、作戦部長のカンジは色をなして怒鳴り散らしたと云います。

虎「(石原)部長は私に対しては、私の課の意見を全面的に容れるように言われ
 ながら、自室に帰られては、第三課(編制動員)の要請・意見を大体そのまま
 採って、どんどん応急増兵や内地の動員準備を進めておられる。私は部長の
 真意が分からぬ!」

石「何を貴公は言うか! 今朝からの情報を読んだか? 支那中央軍が北方に向かって
 動いているじゃないか!」
84イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/26(金) 00:28:53 ID:nUG7BahD
もはや売り言葉に買い言葉でして、河辺も興奮し、

虎「読みましたよ。現在、日本軍の処理は石原少将に全責任がかかっています。
 支那中央軍の北進は、あなたの『映像』だと私は思います。応急派兵も内地の
 動員準備も停止されたら、その『映像』は消えましょう――」

これを聞いたカンジは、咄嗟に近くの地図を河辺の目の前に突き出しまして、

石「この配置を見よ! 貴公の兄貴の旅団が全滅するのを俺が見送ってよいと思うか!」
虎「全滅はしますまいよ」

と河辺が返事をするのを聞こうともせず、カンジは怒り心頭で部屋を出ていきました。
言うまでも無く、当時の支那駐屯歩兵旅団長の河辺正三(少将)は、河辺虎四郎の実兄
だった訳です。

当時、北上する国民政府軍は20万とも言われ、いくら支那駐屯軍が増強されたとはいえ、
その規模は「混成旅団」(5700名)程度です。対ソ戦(満州国)重視のカンジとしては
支那で深みに嵌るのは絶対にノーだった訳ですが、背に腹は代えられぬと苦汁の思いだった
にも関わらず、河辺に猛反対されたので『俺の気持ちも理解せずに!』とキレたのでした。
85イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/26(金) 01:01:43 ID:nUG7BahD
結局、参謀本部の「派遣再提案」が陸軍省にも回されまして、支那への出兵の
動きが加速することになります。これが7月10日の話ですね。まあ、第3課
(編制動員)が出兵でカンジをせっつくのは職務上、仕方の無いことでしょう。
「やるなら早く決めてくれ!」という訳です。いきなり言われても困りますw。

そんな事とは露知らず、外相の広田弘毅は週末を利用して湘南鵠沼の別荘に
静養に出かけておりまして、日曜日の7月11日に急いで東京へ戻る羽目に
なりますw。これが広田のケチの付け始めでして、広田を電話で呼び出した
内閣書記官長の風見章は、非常事態なのに鵠沼の別荘に向かった事について、

●「外務当局も広田大臣はじめ何れも北支の情勢を楽観しおること明らかなり」

と嘆いています。それはさて置き、上京した広田は外務省で幹部たち(堀内・石射・
東郷)の意見を聞いて、陸軍の動員案に反対する事を申し合わせ、五相会議と閣議に
臨んだのでした。ここで陸相の杉山元が5個師団、さし当たり3個師団の動員を再度
主張してきます――。
86イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/26(金) 01:21:29 ID:nUG7BahD
杉山の『動員』を主張する理屈はこうでした。

仮に内地から3個師団を派遣するとしても、その兵力は4万5千人である。対して
北上する国民党軍は20万人。これは邦人保護と自衛のために最低限必要な兵力で
ある。決して事変を拡大し、支那軍の制圧を狙うと云ったものではない。

また動員から出兵まで少なくとも10日間は掛かる。緊急事態だからといって
いきなり下令しても出来るものではない。これは動員準備のそのまた準備案で
あり、せめて心構えなりしておかないといざという時、役に立たない。

その意味でも、これは軍としての最小限の要求であり、これが容れられなければ
陸相としての任務と責任を遂行できない――。

と暗に陸相の辞任を匂わせます。外相の広田は「現地交渉が続けられている最中
であり、この間にも解決に至っているかもしれない。だから今しばらくは、この
案の審議そのものを(現地を刺激しないように)行わない方が良い」と反対しま
したが、杉山が強硬に抵抗して万が一にも陸相を辞任するようなら、その時点で
近衛文麿内閣は総辞職に追い込まれます――。    
87だつお ◆t0moyVbEXw :2008/12/27(土) 10:17:50 ID:og7lu3zM
>>56の続き。

逃げたチンピラゴロツキ(蒋介石・張学良)、隠れたチンピラゴロツキ(毛沢東・周恩来)、
降参したチンピラゴロツキ(汪精衛・江沢民)、それぞれ競合と分裂を繰り返しているが、
中国人という中国人はどいつもこいつもチンピラゴロツキ。

 1943年、17歳の江沢民は実は当時、日本政府に協力した汪精衛政権の
下の南京大学に通っていた。江沢民が上海交通大学に移ったのはのちの
ことである。江沢民の実の父は日本占領下の江蘇で公務員をしていた、
江世俊という人である。江沢民の履歴には、叔父江上青だけがいつも
載っているが、それは父が同時期の日本政府に協力していたからである。

ttp://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_02.html
88イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/28(日) 00:33:30 ID:???
>>86 の続き。>>と杉山は暗に陸相の辞任を匂わせます。

近衛文麿内閣の成立が1937年6月4日。この時点で1ヵ月ちょっとしか
経っていません(7月11日)。もし杉山が本気で陸相を辞任すれば、それは
『陸軍の総意』を意味しますから、後任の陸相は得られないことになります。
イコールで近衛は「内閣総辞職」を余儀なくされます。

7月9日の臨時閣議(>>82)で近衛は、外相の広田や海相の米内と共に事件の
不拡大派でしたが、杉山が陸相の辞任をチラつかせると途端にグラつきました。

広田としても、杉山に「これは(内地師団)動員準備のそのまた準備であること」
「もし(内地師団の)派兵を決定するならば、在留邦人の具体的安全を図る必要が
生じた時に限ること」「実際に(内地師団に)動員令を発動する際は、さらに閣議
での検討を必要とすること」を条件に、五相会議で杉山の主張を呑みました。

広田が今までにして来た様に『名を捨てて実を取った』のですが、これは国内の
強硬派(陸軍に限らず)のガス抜きの狙いもあった訳です――。
89イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/28(日) 00:58:57 ID:???
>>89 >>「これは(内地師団)動員準備のそのまた準備であること」

なぜ、何回もカッコ書きで(内地師団)とあるのかと云うと、同時に参謀
本部からの要求で関東軍から2個旅団、朝鮮軍から1個師団の北支派兵を
決定してしまうからです。

派兵による『威力誇示』により、支那側の謝罪と保障を確保するという
陸軍の主張が通ったのがその理由でした。

まあ、これらはもともと外地にある部隊ですからまだマシですが、日本内地
から師団が派遣されるとなれば、完全に『戦争準備』を意味しますのでイン
パクトが違いますw。五相会議(首相、陸海相、外相、蔵相)と同じ決定を
臨時閣議でも繰り返し(7月11日午後2時)、近衛首相は神奈川県葉山に
避暑に出かけていた天皇の下に赴きます。そして『北支派兵』の上奏裁可を
得たのでした(午後4時)。
90だつお ◆t0moyVbEXw :2008/12/28(日) 10:09:15 ID:uJYYBuYv
朝日岩波の侵略戦争史観もさることながら、保守系でも間違いが少なくないと自分は感じている。

「反日」で有名な江沢民政権だが、江沢民は日本政府に協力した汪精衛政権の末裔。
いや汪精衛でさえも支那事変のときは「最後の関頭」を怒号してたのだから、
抗日戦に無縁だった江沢民の一族は、それよりも遥かに親日漢奸ということになる。
そしてそのコンプレックスの裏返しとして、ものすごい反日愛国を怒号するわけだ。
江沢民政権こそ汪精衛政権の血筋に他ならないというのが自分の見解。
91JY:2008/12/30(火) 03:43:06 ID:???
うみねこ買いましたか?
人大杉でつ(´・ω・`)
1個旅団はいましたね。ふぅ。
92イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/30(火) 23:58:07 ID:???
>>91 >>うみねこ買いましたか? 人大杉でつ(´・ω・`)
>>1個旅団はいましたね。ふぅ。

それは07th Expansion の『うみねこのなく頃に』のことですか? それとも
東方サークルの「うみねこ亭」のことですか? 一体どちらでしょうかw。

たぶん前者の方だと思いますが、自分はなかなか時間が取れないので控えて
います。実のところ『地霊殿』もロクすっぽやれていないのです!(核藁)。
このスレに地霊殿キャラが出てこないのは、その為だったりw。東方前日に
カタログを見ながら「宝の地図」を作成していましたら、「あれ? 今日って
例大祭の日だったっけ? 西1ホール分、東方で埋まっている?」と絶望しま
したw。1人じゃ回れねえよ…orz.

まあ、『うみねこ』は今回で「出題編」が揃いましたので、まとめてプレイ
するには丁度良いと思うのですが……。まあ、「ひぐらし」もこの頃にやり
始めました。
93イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/31(水) 00:33:08 ID:3LNC3KzF
>>89 の続き。さて『諸般の事情』により時間が開いてしまいましたが、1937年
7月11日の話を続けましょう。何故この日をクドクドしくやるのかと云いますと、
やはり支那事変を考える上で、この日が「運命の分かれ道」だからです。

>>89 >>近衛首相は神奈川県葉山に避暑に出かけていた天皇の下に赴きます。
>>そして『北支派兵』の上奏裁可を得たのでした(午後4時)。

こうして1937年7月11日の夕方、天皇から「北支派兵」の裁可を得た近衛
ですが、午後6時半頃に政府声明を発表します。その中で「支那側の計画的武力
抗日」を責め、●「政府は本日の閣議において重大決意をなし、『北支出兵』に
関し政府として採るべき所要の措置をなす」と宣言するという強硬な内容でした。

一応は、政府声明の末尾に●「政府は今後とも局面不拡大のため平和的折衝に
望みを棄てず、支那側の速やかなる反省により事態の円満なる解決を希望する」
という一文が挿入されましたが、国内外の目から見てどちらに注目が集まるかは
言うまでも無いことでしょう。
94イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/31(水) 01:14:59 ID:3LNC3KzF
外相の広田としては、簡潔に強い姿勢を「政府声明」に示すことで、沸騰
してきた国内の対支強硬論を抑えると共に、支那側に速く交渉のテーブルに
付くよう促す狙いもあったでしょう。しかし結果から見れば、広田が良かれ
と思って辻褄を合わせた『バランス感覚』は、ただ単に陸軍に引き摺られた
だけのものと端からは理解されました(他の閣僚や外務省の幹部など)。

また同じ日(7月11日)の閣議で、盧溝橋に端を発する一連の事件を
『北支事変』と名称する事が決定したのも大きくマイナスに響きます。
どうしても『満州事変』や『(第1次)上海事変』を想起させ、今回も
北支派兵とともに大きな戦いが起こることを日本側が決意しているかの
ように受け止められます。

さらに近衛首相がこの日の夜(午後9時〜11時)に政府官邸へ財界人や
新聞記者など有力者を集めて余計なことをします。北支派兵ついて政府の
決心を発表し、国内世論の統一のための理解と協力を要請したのでした。
これ以降、有力新聞紙の論調は『強硬論』が主流を占めるようになります。
95イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/31(水) 01:53:36 ID:3LNC3KzF
こうした近衛首相の「豹変」ぶりは●『先手論』と呼ばれるものです。
強硬な陸軍に振り回されがちな近衛が先手を打って、更なる強硬論を
ブチあげることで『主導権』を回復しようしたのでした。

国民の圧倒的支持を得ていた全盛期の安倍晋三総理がマスゴミに向かって
対外強硬論を打つようなもので、この時の首相官邸はお祭り騒ぎになりま
した。広田弘毅が「陸軍という暴れ馬」をいかに宥めすかし誘導するかに
苦心していたのとは対極的に、近衛は「暴れ馬」を自ら率先して走らせる
ことでコントロールしようとした訳です。

ニトログリセリンが入った水風船を弄ぶようなもので、背筋が凍ります。
ただし、近衛自らが思いついたことではもちろん無く、周りの入れ知恵に
よるものでした。不拡大方針を180度転換して「国民の戦争熱」を煽る
という献策を近衛にしたのは、新聞記者あがりの内閣書記官長・風見章
だった訳です。ちなみに風見は、大阪朝日新聞社・国際通信社の記者を
経て、信濃毎日新聞社の主筆を務めていました。
96イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/31(水) 02:21:31 ID:3LNC3KzF
>>95 >>近衛は「暴れ馬」を自ら率先して走らせることでコントロール
>>しようとした

昼間のハムレット的宰相が、夜には凛然たる武断派的宰相に急変した訳です。
もちろん陸軍をコントロールできる実力の無い近衛が、国民を煽って熱狂的な
支持を得ることは、戦争の収拾がつかなくなる可能性を意味していました。

陸軍に引き摺られた近衛が、逆に陸軍を引き摺ろうと画策し、外相の広田は
近衛にも引き摺られ始めるといった構図です。

第1次近衛内閣で農相だった有馬頼寧(有馬記念)は、「総理が最近、軍部に
引き摺られる傾向甚だしく、外務も大蔵も如何ともしがたい」と自身の日記に
不満を綴っています。ただし有馬は農相ですから、陸海相を交えての第一の
重要政策決定会合である「五相会議」には出席していません。出席できない
からこその不満・苛立ちなのか――? もし五相会議に実際に出てみたら、
とてもそんな批判は言えないと思うのは自分だけでしょうか。
97イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/31(水) 02:31:28 ID:3LNC3KzF
それはさて置き、近衛が首相官邸で各界の有力者に『怪気炎』をブチ
まけていた頃、支那では現地で『停戦協定』がまとまっていた訳です
(7月11日午後8時)。ほんの1時間か、2時間の差で文字どおり
「北支派兵」の声明は最悪のタイミングとなりました――。
98風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/31(水) 02:57:33 ID:???
>>95 >>近衛は「暴れ馬」を自ら率先して走らせることでコントロール
>>しようとした

         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ'      踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら
      ゙,ヘi_i][i,l\ []     踊らにゃ損々、という訳ですね。
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄
99イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2008/12/31(水) 03:23:57 ID:???
>>96 >>出席できないからこその不満・苛立ちなのか――?

まあ、分かりにくい表現だったかもしれませんが、要は安全地帯からの
物言いではないか、ということです。

>>91 >>うみねこ買いましたか? 人大杉でつ(´・ω・`)
>>1個旅団はいましたね。ふぅ。

よくよく読み直しましたら 07th Expansion に1個旅団程度、列が並んだ
ということでしょうか? 確か明日、店頭販売が始まるのでは……???

2日目は徹夜で並びましたが(といっても終電間際)、最初に東と西で列を
分けるときに、西:東=10:1の比率だったのには思わず吹きましたw。
今思えば、東に並んで開場と同時に西にダッシュした方が、西館の入り口が
開いていましたので断然早く入れたような気が…。まあ、結果論ですけどw。
100JY:2008/12/31(水) 04:04:09 ID:5NZncFDV
ええ、竜騎士さんのほうです(´・ω・`)にはは
西館外になんかぐるっと数千人いたです(笑)
近寄れませんでした。
テレビクルーも来てたです。

もしかしたら、イナゾウさんとどっかですれ違ったかもしれないですぬ(´・ω・`)ノシ
101名無し三等兵:2009/01/01(木) 18:31:18 ID:???
その昔、イナゾウ氏が書いたレスを思い出して初コミケついでに「えげつないやん家」で再録本買いましたが、確かにこれは面白いw

かなり知識がある方ですね。
102イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/01(木) 23:21:17 ID:???
>>100 >>西館外になんかぐるっと数千人いたです(笑)
>>もしかしたら、イナゾウさんとどっかですれ違ったかもしれないですぬ(´・ω・`)ノシ

うーむ、信じられません。帰省先で「タイガーズ・ホール」に立ち寄りましたら、
しっかり売っていましたけど……。まあ、しかし自分の住んでいる県内に専門店が
無い人は、あの場で買うしかないのでしょうか。テレビは東館にNHKも来てましたw。

>>101 >>かなり知識がある方ですね。

3日目の11時頃に「えげつないやん家」の所に逝きましたら、新刊のプレ本が
売り切れておりました……。新境地の『北斗の拳』本だったのに超ショック!w
まあ、どの売り子の方が堀江蟹子さんか分かりませんが、自分の10倍は知識が
あって漫画のセンスもあり、絵も超絶上手い訳ですから『中将』クラスの方です。
103イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/02(金) 00:06:07 ID:EMJEMgK1
>>98 >>ほんの1時間か、2時間の差で「北支派兵」の声明は文字通り最悪の
>>タイミングとなりました――。

7月11日の午後8時に「責任者の処分」「支那軍の盧溝橋城郭、竜王廟からの撤退」
「抗日団体の取締り」を骨子とする現地停戦協定がまとまった訳で、外相の広田にとって
北支派兵の政府声明は最大の痛恨事となりました。株に喩えますと、損害を最小限に
抑えるために『ナンピン買い』をしましたら直後に大暴落……。逆に言うと思い切って
『損切り』の決断をした直後に大暴騰……w。

あと1日「不拡大方針」を堅持していたら史実の支那事変は起こらず、盧溝橋事件も
案外すんなり解決していたかもしれません。まあ、日米交渉をもう少し耐えて独ソ戦
冒頭の「バルバロッサ作戦」(短期決戦)が頓挫するのを見ていたら、太平洋戦争の
歴史も少しは変わったのではないか?――というのに似ています。

『副首相格』で入閣した外相(2回目)の広田弘毅は本来、首相経験者という立場で
近衛のポピュリズム的な暴走を食い止める事が求められた訳ですが、その調整主義者
的な「バランス感覚」ゆえに役割を果たせませんでした。
104イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/02(金) 01:20:15 ID:lWhHPmEy
結局、近衛内閣は「現地停戦協定」を否認するかのように北支出兵を断行して
しまいます。

>>97 >>近衛が首相官邸で各界の有力者に『怪気炎』をブチまけていた頃、

数日後に池田純久(支那駐屯軍参謀)が近衛文麿の下を訪れます。池田は陸大卒後に
東大経済学部に3年間派遣された(兵本附)異色の経歴の持ち主です。近衛は池田を
見るなり開口一番、「池田君、とうとうやったね! 北支事変は軍の若い人たちの陰謀だ」
と文句を言ってきます。

池田は、近衛が満州事変(関東軍)を類推して「今回も軍の陰謀だ」と言っているのだと
察しがつきましたが、ただ弁解するのはツマラナイと思いました。そこで池田は「公爵。
戦争の張本人は、軍ではなくて総理たる貴方ですよ」と告げると、近衛はビックリした
顔で「何ですって!」と池田を見つめ直します。

池田は1枚の新聞紙を取り出して近衛に見せ、「そうですよ。公爵、貴方の責任ですよ」
と更に追い討ちをかけます。それは7月13日付の新聞で、池田たちが支那側とせっかく
調印した「現地解決案」は新聞の隅に小さく扱われ、1面から3面にかけて北支派兵など
近衛が大々的にアピールした国民の戦争熱を煽るような記事で充満していました。
105イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/02(金) 02:29:05 ID:lWhHPmEy
池田純久が、●「公爵、政府は『不拡大主義』を唱えながら、この新聞の扱いは
何ですか? これでは戦争にならない方が不思議ではありませんか?――」と
問い詰めると、近衛は池田の真意が理解できたのか黙り込んでしまいました。

まあこの時、池田は一介の中佐に過ぎませんから、首相の近衛にこれだけの口を
聞くのは、かなり良い度胸だと言えます。よほど腹に据えかねたのでしょう。

また「北支派兵の決定」は、外相の広田弘毅にとっても非常に大きなダメージと
なります。閣議から外務省に帰った広田は、派兵決定にいたる経緯を幹部たちに
説明しますが、東亜局長の石射猪太郎を筆頭に「手も無く軍部に1点入れられた」
と広田に失望しました。
106イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/03(土) 21:23:23 ID:37GVpIPs
ようやく年越しのお持ち帰りの仕事が終わったと思ったら、正月3日が終わって
しまいました……。冬コミの新刊も全然読めていませんし、MGのシナンジュも
最初から「予定調和」とはいえ買っただけ……。

>>105 >>「北支派兵の決定」は、外相の広田弘毅にとっても非常に大きなダメージ

外務省の幹部は「近衛内閣」のポピュリズムの危険性を指摘します。東亜局第1課長の
上村伸一は、●「政府が1歩先んじれば、強硬派はさらに1歩も2歩も先行する。政府に
それを抑えるだけの力は無いのだから、(近衛のそれは)危険を通り越した『火遊び』である。
実力の無い近衛公が『小手先の芸当』で、軍を操ろうなどと考えるのは『身の程知らず』
と言うべきである――」と述べています。

結果から言えば、外相の広田は『北支派兵』(の動員)に消極的ながら賛成に回っており、
第1次外相時(斉藤実内閣)に●「私の在任中に戦争は断じて無い」と国会で答弁した頃
とは別人のようである、と揶揄されました。
107楽園の素敵な巫女 博麗霊夢 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/03(土) 21:28:15 ID:???

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 ::::::::|ヽ,ry'^i
 ::::::::|´ ⌒`ヽ
 ::::::::|ノノハノ)」 
 ::::::::|i ゚ ヮ゚ノi! ……誰も博麗神社に賽銭を入れに来ない……。 
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 ::::::::|,_,_i,ゝ
 ::::::::|'i,ノ´
108イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/03(土) 22:00:38 ID:37GVpIPs
>>104 >>結局、近衛内閣は「現地停戦協定」を否認するかのように北支出兵を
>>断行してしまいます。

ただし支那側も「一枚岩」である訳ではなく、7月12日の『北支派兵』の日本政府
声明を受けて蒋介石は4個師を急ぎ北上させようとしますが、そのうち本当の意味で
自由に動かせる「中央直系」は1個師しかありません。また秦徳純(北平市長)が、
●『準備不足で北上すると、日本を刺激して拡大の危険があるから4個師は原駐地で
待機してほしい』と要望していた事もあり、その動きは緩慢でした。

また、このスレでも過去にさんざん登場してきたスティルウェル(米陸軍大将)は
この当時、在支アメリカ大使館附武官(大佐)でしたが、●『有能な米将校の調査に
よると、7月16日夜までに津浦線方面で中央軍が北上した事実はなく、第29軍への
救援意図は疑わしい――」と述べています。まあ、スティルウェルはのちに蒋介石の
参謀長として、「中国・ビルマ・インド戦域米陸軍司令官」「連合国・東南アジア軍
副最高司令官」などを歴任しています。とどのつまり、支那側の内部もグチャグチャ
していた訳です。
109元32:2009/01/03(土) 22:25:03 ID:???
>>106
あけおめ、です。
無理されないように。

しかし、近衛首相はねえ…
日本近代史最大の謎は、今でも近衛首相を褒める人がいるところです。
110名無し三等兵:2009/01/03(土) 23:01:14 ID:???
まあ悪い人ではないんだよ。
111イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/03(土) 23:02:37 ID:37GVpIPs
>>105 >>「北支派兵の決定」は、外相の広田弘毅にとっても非常に大きなダメージ

さらに7月17日には、五相会議で陸軍大臣の杉山元がさらに「強硬な陸軍案」を
提示してきます。「宋哲元(第29軍長)の陳謝」「責任者の処罰」「北京からの
部隊の撤退」などを期限付きで支那に要求し、それが履行されなければ支那軍を
『膺懲』するというのです。

外相の広田弘毅は、国民政府との交渉に『期限』を付けることに反対しましたが、
肝心の首相である『近衛文麿が病欠』であったため、結局、五相会議で押し切ら
れてしまいました。つまり広田も消極的ながら賛成に回った訳ですが、五相会議の
メンバーは、「首相:近衛文麿」「陸相:杉山元」「海相:米内光政」「外相:広田
弘毅」「蔵相:賀屋興宣」の5人です。

このうち前述したとおり、近衛が病欠しましたので陸軍の矢面に立つのは広田しか
いない事になります。海相の米内は、この時はまだ「不拡大派」でしたが、陸軍と
全面的に対立するまでの理由がありませんし、蔵相の賀屋はもともと「妥協の産物」で
蔵相に就任した人物ですから、陸軍に何か物を言えるような立場ではありませんw。
112イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/03(土) 23:38:07 ID:37GVpIPs
>>109 >>日本近代史最大の謎は、今でも近衛首相を褒める人がいるところです。

あけおめでございます。まあ、最近は『われ巣鴨に出頭せず』(工藤美代子著)、
『近衛文麿「黙」して死す』(鳥居民著)と「近衛擁護論」で分厚いのが出て
いますからね。

「東条英機肯定論」が一時期つづいた後に「近衛文麿肯定論」が出てくるのは
象徴的なことです。いずれも木戸幸一と近衛文麿の暗闘が指摘されている所は
面白いですが。まあ、近衛も服毒自殺して東京裁判に掛けられなかったために
現在に至っても近衛の責任についての評価は確定していませんが、内大臣だった
木戸幸一のそれは、東京裁判で終身禁固の刑を受けたにも関わらず、未だに
曖昧模糊としています。ちなみに木戸幸一も判事団の内訳は11人中5人が
死刑賛成で、僅か1票差で死刑を免れています(これは荒木貞夫、大島浩、
嶋田繁太郎も同様)。
113イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/04(日) 00:09:04 ID:p5svXFeI
結局、日本の近現代史がオカシクなっているのは、近衛文麿を筆頭に本来、
「A級戦犯」の上位にいるべき人物が自殺をし、東京裁判から姿を消して
しまっていることです。地味なところで『杉山元』が自殺していなければ
有力な死刑候補でしょう。これまで何度か述べているように、東京裁判の
死刑の人数は、ニュルンベルク裁判での死刑の数とバランスが図られます
から、杉山が死刑になれば「史実の誰か」が助かった可能性が高いです。

必然的に、近現代史の一般的な評価も大きく変わったでしょう。ヒデキも
自殺未遂していますので偉そうな事は言えませんが、それでも東京裁判で
A級戦犯筆頭の立場として『味噌も糞も』引き受けたのが、自分がヒデキに
同情的で近衛に批判的な最大の理由です。まあ、それらを全て差し引いても
ヒデキが死刑になる事実は動かないでしょうがw。

>>110 >>まあ悪い人ではないんだよ。

まあ、『安全地帯』にいなければ何事も出来ない人だと思っています。
114イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/04(日) 00:53:07 ID:p5svXFeI
>>111 >>近衛が病欠しましたので陸軍の矢面に立つのは広田しかいない

>>111 で述べた「五相会議」の面子で(しかも近衛は病欠)広田が陸軍と
妥協したとしても、それを責めるのは酷だと思うのは自分だけでしょうか。

しかし五相会議や閣議の実情を知らない外務省の部下たちは、広田の妥協を
『煮え切らない態度』だとして失望します。とくに東亜局長の石射猪太郎は
手厳しく、

●「広田外務大臣がこれほどご都合主義的な、無定見な人物だとは思わなかった。
 いわゆる非常時日本、殊に今度のような事変に、彼の如きを外務大臣に頂いた
 のは日本の不幸であると、つくづく思うのである――」

さらに1937年7月19日には、廬山会談で「最後の関頭」演説を蒋介石が
行ないます。タイミング的には7月11日の、日本の『北支派兵』声明に対抗
したものになりますが、当然17日に陸軍案で提示した新たな要求も支那側を
より反発させていたでしょう。
115イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/04(日) 01:35:55 ID:p5svXFeI
>>114 >>廬山会談で「最後の関頭」演説を蒋介石が行ないます。

補足になりますが、「盧山会談」は別に盧溝橋事件の衝突を受けて行なわれた
訳ではなく、中共のかねてからの要求に従って開催されたものでした。支那全土
から中共も含めた政界・財界・言論界の有力者150名が一堂に集まりましたが、
当然のことながら反日抗日の雰囲気は熱狂的に高まります。

このため蒋介石としても『日和った態度』を取るのは国民政府――ひいては自身の
命取りになりますので、

●「満州を失ってすでに6年、いまや衝突地点は北京の盧溝橋に達している。
 我々はもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、
 歴史上の責任を背負わざるを得ない。『最後の関頭』に至ったならば、
 あらゆる犠牲を払っても、徹底抗戦する――」
116元32:2009/01/04(日) 22:20:18 ID:???
>>114
近衛さんというのは重大問題が起こると必ず病気になるのです。

広田さん可哀相。
117イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/04(日) 23:37:30 ID:DckcuWx8
支那で廬山会議が行われた翌日の1937年7月20日には、陸相の杉山元が
午前中の閣議でふたたび『内地師団の派兵』を提案してきます。

外相の広田弘毅と海相の米内光政がこれに反対して、一度は見送らせましたが、
この日の午後に「支那軍がまた日本軍を射撃した」との報せが入ります。この
ため閣議を重ねること3回、夜になって●『内地3個師団の北支派兵』が遂に
決定される事になりました。つまりは「第2次動員」です。

広田としては、事態が好転すれば途中からでも軍を引き返させるという条件を
付けさせるのが精一杯でした。仮にそれが「空手形」の約束だとしてもです。

しかし周りからは、副首相格で近衛のお目付け役であるはずの広田に対して
非難が集中します。あまりにも陸軍に容易く妥協するという理由からです。
内務大臣の馬場^一は、「広田外務大臣の如きは余りに消極的で、こういう
大事な時に進んで発言しない。自分のような素人が見ていても、甚だ歯痒い
感じを持つ――」と西園寺の秘書である原田熊雄に漏らしています。
118イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/05(月) 00:17:37 ID:cGib3Wke
ちなみに馬場^一は、広田弘毅内閣で「大蔵大臣」を務めた人物でした。広田
内閣での積極財政や軍事予算の増額にイニシアチブを取り(いわゆる馬場財政)、
近衛内閣でも蔵相への再任が有力視されていましたが、財界の強い反対で内務
大臣に横滑りしていた訳です。

これは馬場財政で、原材料などの需要増を見込んだが商社が一斉に輸入を増や
したため、円の為替相場が急落し、更に輸入物資の高騰を招いて経済の混乱を
招いたという理由によります。

広田とは『2・26事件』直後の内閣で「同じ釜の飯」を喰った仲でしたが、
広田に対して穏健な外交の期待が大きかった分、馬場は手厳しい言い様です。

また首相である当の近衛文麿は、●「外務省は広田さんの消極的な態度には
ほとんど呆れ返って、下の者がまるでサボタージュというような状態だ」と
述べていますが、言うに事欠いて何たる言い草か。首相のお前が、以下略w。
119風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/05(月) 00:23:26 ID:???
>>107 >>……誰も博麗神社に賽銭を入れに来ない……。

         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ'     洩矢神社には「山の妖怪」しか来ませんでしたw。
      ゙,ヘi_i][i,l\ []     
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄
120名無し三等兵:2009/01/05(月) 05:05:31 ID:???
「神風特別攻撃隊」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5754585
(初音みく曲・ゼロ戦実機映像あり)
日本人ならば、是非ともご覧頂くべき動画であります。大東亜戦争を英霊の想ひを歌ひます。
この特攻隊の歴史をより多くの若いニコニコユーザーに知つて頂くため、是非ともご支援のほどよろしくお願ひ致します。
121名無し三等兵:2009/01/05(月) 08:50:51 ID:VyYakTxr
シナ事変をやらせたがったのは、中国共産党とスターリンです。
スターリンはシナを使ってでも日本の力を削ぎたかった。
中国共産党の毛沢東は、当時、蒋介石に追い詰められていたので、蒋介石の国民政府軍の力を削ぎたかった。
戦後、社会党の佐々木更三が毛沢東に、「 戦争をして申し訳ありませんでした 」と言ったら、毛沢東は「 国民政府を潰せたのは日本軍のおかげです 」と感謝しました。
これは冗談ではなく、本当のことです。
皆、この事実を知るべきです。
122イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/06(火) 00:05:14 ID:h+aTZhqD
>>118 >>「外務省は広田さんの消極的な態度にはほとんど呆れ返って、
>>下の者がまるでサボタージュというような状態だ」

内地3個師団の北支派兵(第2次動員)を閣議で決定した翌日の7月21日、
以前から派兵に反対していた外務省・東亜局長の石射猪太郎と、東亜局第1課長の
上村紳一が『連名の辞表』を外相の広田の下に提出します。

実は石射らは7月20日の閣議前に『事変の不拡大』を訴える自分たちの嘆願書を
広田に手渡して奮闘を期待していた訳です。しかし、結果は前述の通りです。この
閣議決定を不服として一本気な性格の石射は、

●「私ども事務当局の進言も嘆願もご採用なく(広田が)動員に賛成されたのは、
 事務当局の不信任に他ならないと思いますから――」

と広田に三行半(辞表)を叩きつけたのでした。
123イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/06(火) 00:20:12 ID:h+aTZhqD
広田「君たちは部下の連袂辞職を戒めるべき地位にありながら、連名の
 辞表を出すとは不都合ではないか?」

石射「連署は便宜上そうしただけです。別々の辞表として見なして頂きます」

こうしたやり取りが続いた後、なおも石射が「北支派兵」について抗議すると、
いつもは温厚な広田が珍しく感情を顕わにして声を張り上げます。
124広田弘毅 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/06(火) 00:21:33 ID:???

「黙れ! 閣議の事情も知らぬくせに余計なことを言うな!」
125イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/06(火) 00:54:19 ID:h+aTZhqD
これは広田の偽らぬ本心だったでしょう。自国の陸軍との『外交』を
第一に考えなくてはならない自分と、本来の外交だけを考えればよい
外務省の部下達とではギャップというか、そもそも次元が異なります。

意固地になった石射がそれでも「ご立腹は恐縮ですが」とあくまで辞表を
出そうとしますので、広田はいつもの穏やかな口調に戻って、「動員は実施
しても、事態が急迫しない限り出兵はしないと陸軍大臣が言っており、また
現地の情勢は解決が近づいているのだから、しばらく成り行きを見守ること
にして辞表は撤回してくれ。諸君の意見はよく了解している」と説得しました。

石射たちは「不承不承」ながら辞表を撤回しますが、外相の広田と部下たち
との間に修復不可能な『断絶』が生まれたことは間違いありません。もともと
石射は前にも述べた通り、幣原喜重郎や佐分利貞夫の系列に属する人物ですが、
吉田茂と同様に気が強く、吉林総領事や上海総領事時代には陸軍と正面から
衝突することも辞さない硬骨漢でした。広田からすれば『支那通』であり、
陸軍とも対抗できることから東亜局長の適材と見ていたはずでしたが……。
126イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/06(火) 01:38:42 ID:h+aTZhqD
この時の広田は「不拡大方針」を自身が望みつつも、混乱する現地支那情勢、
連日の陸軍とのやり取り、深まる外務省の部下たちとの溝、ポピュリズムで
迷走する首相の近衛、自分に過大な期待と失望を抱く他の人間……などなど、
『四面楚歌』『板挟み』『孤立無援』の状態でした。

石射ではありませんが『辞表』を出したいのはむしろ広田自身であり、もはや
憔悴しきって、破局に向かう時流に抗する気力を失いつつありました。父親の
心中を察した三男の正雄が、●「いっそのこと(外相を)辞めてしまったら?」と
気遣いますが、広田は本来の我慢強さが顔を出しまして、●「そういう事をすれば
自分はいいだろうけど」と耐えてしまいます――。

もし近衛文麿よろしく、この時点で外相を投げ出してしまえば、広田が東京裁判で
死刑になる事もありませんでしたし、また佐藤尚武のように今まで陸軍と対立して
『痛い目』に遭ったことがない人物が新しい外相になった方が、支那事変も違った
展開を見せたかもしれません。
127イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/06(火) 02:09:18 ID:h+aTZhqD
しかし広田は1回目の外相の際に、陸軍の意向を無視して「支那公使館の
大使館昇格」を強行して、より過激な陸軍の「北支分治工作」を誘引する
羽目に陥る『痛い目』に遭っています。

広田からすれば今回も、どこかのラインで陸軍との妥協を行わなければ
余計に事態を悪化させかねない、とする思いというか経験がありました。

『羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く』と言えばそれまでですが、
元老の西園寺や重臣から、近衛内閣の外相として「穏健な外交」を期待
された広田にとって、その「穏健な外交」の対象には『陸軍』すらも
含まれていたのでした――。
128ue ◆WomMV0C2P. :2009/01/06(火) 21:43:41 ID:???
遅れましたが過去ログ更新しておきました。
仕事が猛烈に忙しくて有明要塞攻略戦に参加できませんでした…orz

腹いせにとらで散財したら収入印紙付きの領収書を渡されました。
会計中、後ろの人の冷たい視線がいたかとです。
129イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/07(水) 01:03:38 ID:???
>>128 毎度どうもでございます。ue少将閣下におかれましては、ご多忙の折に
重ねてのご厚意かたじけなく思っております。自分もトラなどで散財しましたが
3日目などは余りの混雑ぶりに『入店規制』を行なうのが普通になっております。

店外に並ばされるのにブーイングする人も多い様ですが、自分は店内のレジで
長蛇の列で待たされるよりは本を読んだり自由度が高いので、歓迎しています。
秋庭のメロンは暖房つけ過ぎの『灼熱地獄』ですので……。

>>会計中、後ろの人の冷たい視線がいたかとです。

まあ、レジのスピードにもよるでしょうか。むしろ見本誌をレジに持ってくる
素人の方がイラつくかと……。店員が見本誌を入れ替えに走る時間がもったい
ないです。土産物屋でガラス張りの見本の饅頭箱をレジに持ってくるのと同じ
レベルですw。
130イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/07(水) 01:37:03 ID:mF0vkk6H
>>127 >>広田の「穏健な外交」の対象には『陸軍』すらも含まれていたのでした。

さて、今までの話の流れですと「陸軍の北支派兵」の決定は全く無謀であるかの
ように思えますが、実際の所どうだったのでしょうか? 少し時間を巻き戻して、
支那駐屯軍や現地情勢を検証してみたいと思います。

まず支那駐屯軍ですが、司令官の田代皖一郎(中将)が危篤状態に陥り、7月
15日に心筋梗塞で死亡します。その少し前の7月11日には「宇垣内閣の流産」
でも登場した香月清司(中将・近衛師団長)が支那駐屯軍の新司令官に慌しく任命
されるという混乱の中にありました。

香月は直ちに立川飛行場から出発することを命じられましたが、陸相の杉山元から
受けた指示は『政治問題回避・事件不拡大・局地解決』の3点だけだったと云います。
しかし香月を乗せた飛行機は天候不順のため、朝鮮の京城で一泊。支那駐屯軍司令部
入りしたのは7月12日の午後2時でした。現地で「停戦協定」が結ばれた翌日に
あたります――。
131イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/07(水) 02:10:02 ID:mF0vkk6H
>>130 >>司令官の田代皖一郎(中将)が危篤状態に陥り、7月15日に心筋梗塞で死亡

当時、支那大使館附武官補佐官だった今井武夫は「穏健で部下から信望を集めていた
田代軍司令官が、危篤状態でなく健在だったならば、日中戦争にいたらなかったかも
しれない。これも天の配剤か――」と嘆いています。

>>香月清司が支那駐屯軍司令部入りしたのは7月12日の午後2時

このとき、支那駐屯軍の参謀連は混乱を極めておりました。橋本群・参謀長(少将)や、
河辺正三・支那駐屯歩兵旅団長(少将)は、第29軍の宋哲元と妥協が可能であると
考えていました。また北平特務機関も、前日の7月11日に支那側と「停戦協定」を
結んだ手前上、事態は終息しつつあると踏んでいたのです。

また支那側の宋哲元(第29軍)もまた、日本側との妥協を望んでおりました。
自分の私兵・所有物に近い部隊が磨り潰されて歓ぶ指揮官はいないでしょう。
しかし日本側は、相次ぐテロ事件に直ぐに悩まされることになりました。
132イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/08(木) 00:25:52 ID:To6StR2t
>>131 >>しかし日本側は、相次ぐテロ事件に直ぐに悩まされることになりました。

新司令官の香月が現地入りした7月12日以降も、支那第29軍との対峙は続いて
いました。夜間になると『盧溝橋事件』の初日よろしく、銃声や爆竹音が連日連夜
鳴り響きます。7月13日には日本軍のトラックが爆破され、4人が死亡。14日
には日本軍騎兵1人が何者かに惨殺されました。これは第29軍の仕業というより
国民政府(蒋介石)直系の「藍衣社」によるテロの可能性が高いでしょう。

7月15日には、国民政府が第3次動員を下令。隴海線(中支を東西に横断する幹線
鉄道)以南における集中は30個師に及びました。ここから真っ直ぐ北上するのか、
それとも上海を突くのかは蒋介石次第で、問題は北京で対峙する第29軍への対処
だけでは済まなくなってきます。

7月17日(19日発表)には蒋介石が廬山会議で「最後の関頭」演説をし、日本との
徹底抗戦を訴えました。19日に北京の宛平城から一文字山に布陣する日本軍に対して
砲弾が撃ち込まれます。この頃から永定河を挟んだ散発的な砲撃が繰り返されるように
なり、そして20日には外相の広田たちが「内地3個師団の北支派兵」(第2次動員)を
閣議で決定です。
133イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/08(木) 00:56:42 ID:To6StR2t
>>131 >>このとき、支那駐屯軍の参謀連は混乱を極めておりました。

支那駐屯軍もそうですが、中央の参謀本部も混乱していました。もう一度、時間を
巻き戻しますと、まず参本・戦争指導課長だった河辺虎四郎が「現地解決」を主張
>>83 参照)。これに対して参本・作戦課長だった武藤章が「こんな抽象論は役に
立たず」と一蹴しました。まあ、河辺虎四郎は兄の河辺正三(支那駐屯歩兵旅団長)の
情報に引き摺られ過ぎていたとも云えます。

参謀本部の大多数は●『全面戦争は避けられず』に傾いていましたが、それでも尚
●『事態を第29軍に限定して解決できる』という支那駐屯軍の考え方を完全には
払拭できずにいました。

このとき肝心の参謀本部第1部長(作戦)は石原莞爾です。カンジは蒋介石の開戦決意は
固く、いくら『不拡大主義』でも一度戦争になれば『全面戦争』になるのは避けられない
と予想していました。そして戦争は持久戦となり、第1次大戦のような『塹壕線』で泥沼に
嵌る――そこをソ連に衝かれるのではないか?と至極悲観的だった訳です。
134イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/08(木) 01:17:59 ID:To6StR2t
>>133 >>支那駐屯軍もそうですが、中央の参謀本部も混乱していました。

7月18日は、陸軍部内で●「杉山元陸相」●「梅津美治郎次官」●「石原莞爾
作戦部長」●「田中新一軍事課長」との間で4者会談が行なわれました。

石原「本年度の動員計画師団数は30個師団、そのうち11個師団しか支那方面に
 充てられないから到底、全面戦争はできない。しかし、このままでは全面戦争の
 危険が大である。その結果は、あたかもスペイン戦争におけるナポレオン同様、
 底なし沼に嵌ることになる。この際、思い切って北支にある我が軍全部を一挙に
 山海関まで下げる。そして近衡首相自らが南京に飛び、蒋介石と膝詰めで日支の
 根本間題を解決すべきである――」

梅津「実はそうしたいのである。だがそれは総理に相談し、総理の自信を確めたのか?
 北支邦人が築いた多年の権益財産を放棄するのか? 満州国はそれで安定するのか?」

田中「要するに近衛総理が外交に自信がなければ、在支権益の放棄、北支満州の敗退に
 終わる危険がある。今や不拡大に徹して総権益を捨てるか? 権益擁護のため不拡大を
 放棄するか? の二者択一の関頭に立たされた――」
135イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/08(木) 02:01:18 ID:To6StR2t
>>134 >>そして近衡首相自らが南京に飛び、蒋介石と膝詰めで日支の根本間題を
>>解決すべきである――。

「トップ会談」で全てが解決できると考えるのは、軍人にありがちな思い込みと
云えるでしょう。三国史や戦国時代ではあるまいし。近衛と蒋介石がサシで話し
合って問題が収まるのであれば誰も苦労はしません。カンジが空恐ろしいことを
ヤケクソで提案し、次官の梅津や田中新一が猛反対しているのが興味深いです。

しかしカンジに余計なことを吹き込まれた近衛文麿は本気にし、その前段階として
外相の広田や、玄洋社の頭山満を支那に派遣しようとしました(実際は宮崎龍介と
西園寺公一に)。まあ、この辺りは少し後で触れましょう。

19日には蒋介石の廬山会議の談話が発表され、参謀本部でも「本気の開戦決意」を
示すものなのか、半信半疑で受け止められます。そして20日には政府閣議で内地
3個師団の動員が決定されますが、支那のドイツ軍事顧問団長だったファルケン
ハウゼンは21日、本国のブロムベルク国防長官に蒋介石が戦争を決意した事を
報告しています。そして、

「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦でなく全面戦争である。日本はソ連の介入を
 懸念し、全軍を中国に投入できないから、中国の勝利は困難ではない。中国の歩兵は
 優秀で空軍はほぼ同じ、士気も高く日本の勝利は疑わしい」と、カンジの弱気と全く
 正反対(つまり裏返しで同じ)のような事を述べています。

   ___/,k-‐-v'7ァ
   `>(_ノ)o,___`>
   `Y〈 ハλノ) )
    !イリ ゚ ヮ゚ノリ    「ゴルディオスの結び目」みたいに複雑ねw。
    ノィ(,_i`{:}'l]つ   誰か一刀両断にできる人はいないのかしら?
    ,(ノゝ、;_,_〉、
    `''r_ァ'r_ァ'"
137イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/09(金) 00:37:51 ID:9lP0QNN1
>>93 >>「政府は今後とも局面不拡大のため平和的折衝に望みを棄てず、
>>支那側の速やかなる反省により事態の円満なる解決を希望する」

さてこの間、外相の広田が何もやっていないかと云えば、無論そうではありません。
広田は南京駐在の日高六郎参事官に命じて、国民政府の外交部長・王寵恵に対して
次のように要求させました。

「帝国政府は去る7月11日政府声明(>>93)の方針通り、あくまで『事態不拡大の
 方針』を堅持するといえども、その後の国民政府の態度に鑑みて左記を要求する。

 1.あらゆる挑戦的な言動の即時停止。
 2.現地、両国間で行われつつある解決交渉を妨害せざること。

 右は概ね7月19日を期して回答を求める」
138イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/09(金) 00:59:48 ID:9lP0QNN1
>>137 >>2.現地、両国間で行われつつある解決交渉を妨害せざること。

2を見れば分かる通り、広田もまた支那駐屯軍と、第29軍(宋哲元)との
「現地交渉」で事件が終息するのを期待していた事が伺えます。

広田の訓電を受けた日高は7月17日夜、王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡します。
その要旨をまとめると以下の通りです。

「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して
 事件の拡大を阻止することが最緊要である――。また現地におげる日支両軍の兵力は、
 日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の
 勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけ
 ではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。

 従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に
 当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むもので
 ある。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」
139イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/09(金) 01:47:53 ID:9lP0QNN1
また念のため支那の土人共に手渡した公文は、英訳して「在南京の英米大使」にも
送られました。アリバイ作りのためにも国際世論にきちんと配慮した訳です――。

しかしタイミングが悪く、蒋介石が廬山会議(17日)に出かけていたために
南京を留守にしていました。熱狂的な抗日の空気のもと「最後の関頭」演説が
行われると、もはや分水嶺(ポイント・オブ・ノーリターン)を越えました。

19日に廬山会議の談話が発表されると同時に、支那の南京政府は前述の
「日高申入れ」に対して正式に拒否回答をしてきた訳です。

こうした経緯もありまして、翌7月20日には●『内地3個師団の北支派兵』が
閣議決定されますが(>>117)、さらに翌日の21日には東亜局長の石射猪太郎と
第1課長の上村伸一が、『事変の不拡大方針』を放棄したとして広田に辞表を2人
そろって提出してくる訳です。まあ、これでは広田の『立つ瀬が無い』と思うのは
自分だけでしょうか。北支派兵については陸軍内部も相当混乱している訳です。
140名無し三等兵:2009/01/09(金) 10:21:40 ID:???
素朴な疑問だが大陸まで出かけていって、性欲処理はどうしていたんだろうか
141元32:2009/01/10(土) 01:02:35 ID:???
>>136
あの時代に、満州を国連委任統治にしてしまえば、
実質植民地で(満州国以上に)好き放題がやれるし、
中国の主権は認めてあちらの顔は立ち、
連盟の顔も立つから完璧、という、
奇跡的妙案を思いついた人はいました。

何で、誰も取りあげなかったかよくわからない。
142名無し三等兵:2009/01/10(土) 01:56:12 ID:n94y5uxX
イナゾウ様、ご苦労様です。
昨今のご時世、このスレが永久(とわ)に続きますよう本業もおろそかにしないように、ナムナム。
143名無し三等兵:2009/01/10(土) 04:28:27 ID:ZkxhE88F
盧溝橋事件は蒋介石の仕込みなんじゃないのか。
144名無し三等兵:2009/01/10(土) 19:05:53 ID:???
>>141
夫れはリットン調査団が提案した「滿洲を各国警察機構による警備防衛」論と
違うのか?
聯盟委任統治案は一体何処が其処を委任統治するんだ?
状況から考えれば隣国であり常任理事国であった日本しかないと思うのだが、
内田外相以下日本政府は「其案は無理じゃないのか?」と言うスタンスであった
記憶が。
145元32:2009/01/10(土) 22:30:33 ID:???
>>144
ふつうに日本を受任国とするA式委任統治だったと思います。
ですから、パレスチナとかシリア、ヨルダン、イラクと同じ扱いです。
146イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/11(日) 01:44:29 ID:+jPCiXVF
>>140 >>素朴な疑問だが大陸まで出かけていって、性欲処理はどうしていたんだろうか
つ和姦、職業的和姦、強姦の3択でどうぞw。

>>142 毎度どうもでございます。長期持久戦で頑張りたいと思いますと言いたい
ところですが、こんなご時世ですし、人間死ぬ時には今日死にますので。

>>143 >>盧溝橋事件は蒋介石の仕込みなんじゃないのか。

過去の中テーマ『上海航空決戦』でも書きましたが、蒋介石が日本との開戦を
決意したとしても、史実の支那事変は「2〜3年」早いと思ったのではないで
しょうか。要するに準備不足です。また1937年はソ連の赤軍が『大粛清』の
最中にあり(トハチェフスキー元帥の銃殺が6月12日)、支那の国民政府と
しては著しく不利な時期にあたります。

つまり(極東)ソ連軍が健在であれば、蒋介石は北と南で日本を挟撃する事も
可能ですが、日本(関東軍)がソ連の圧力をそれほど気にしなくて良いのなら、
支那に全力を傾注できる事になります。
147イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/11(日) 02:06:50 ID:+jPCiXVF
いわゆる『対支一撃論』と言われるものがありますが、これは要するに「ソ連が
ダラしない内に、来たる対ソ戦での後顧の憂いを断つために、支那を一撃(短期
決戦)でやっちまえ!w」と云う話です。要するに1937年は、ソ連の脅威が
一番薄らいでいた時期です。

>>143 >>盧溝橋事件は蒋介石の仕込みなんじゃないのか。

ですので、ちょっと無理がありますね。中共が盧溝橋事件を仕込んだと言うなら
『真逆の論理』で筋が通るのですけど。日本と国民政府が衝突すれば、もちろん
中共とソ連は漁夫の利を得ることになります。

しかし自分は『陰謀論』は嫌いです。たまたまキッカケになったのが「盧溝橋
事件」だったという話であって、日支衝突の下地は、今まで書いてきたように
既に出来ていた訳です。
>>146 >>こんなご時世ですし、人間死ぬ時には今日死にますので。

   ,>ッ-ヘ。__。ヘ
. / ,レ, '´゚   `,〉
( (( i ハ)))ハ))ノ)
 ` ,)).イオi ゚ ヮ゚ノヘ    ひとおもいに死ねるといいね。
  ((  .,ぐ`i盃、ツぅ
     ,メ∪イ-i、ゝ. \
      ゙'ーi_'ォ_ァ"
149イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/11(日) 02:45:23 ID:???
>>147 >>たまたまキッカケになったのが「盧溝橋事件」だったという話であって、

日中戦争の開戦原因を調べると、必ず誰しも疑問に思うことがあります。それは
盧溝橋事件が1937年7月7日で、7月28日に支那駐屯軍が北支で総攻撃を
始めるまでに一体何をやっとったんじゃ?ということですw。大抵の歴史教科書
では、その間がすっ飛ばされてしまいますからね。

くどくなるようですが、もう少しこの辺りをお付き合いください。
150元32:2009/01/11(日) 02:53:27 ID:???
>>147
>、日支衝突の下地は、今まで書いてきたように
>既に出来ていた訳です。

これは卓見だと思います。
151名無し三等兵:2009/01/11(日) 08:33:40 ID:???
7月 6日 日本軍 盧溝橋の通行を求めるが中国軍によって阻止される ※両軍にらみ合いの末に日本側が譲歩・退却
.   7日 盧溝橋事件 ※北京郊外の盧溝橋付近にて数発の銃声が起こる 
.   8日 前日の蘆溝橋事件に端を発し、日中両軍が衝突する
.   9日 日本政府、閣議にて盧溝橋事件の不拡大を決定 ※杉山陸相の華北増派案を見送る
  11日 盧溝橋事件 現地停戦協定成立 ※ソ連の脅威を考慮した場合、陸軍は戦線は拡大せず早期和平するべきと判断?
  11日 日本政府 華北への増援派兵を表明
      ※政府は徹底的に叩いて圧倒的譲歩を引き出す事を優先
      (PM6:30に声明発表後 PM8:00に現地から停戦合意の報が入るが増援決定取り消さず)
  14日 廬山会談(第2次) ※廬山(江西省) ※国民党(蒋介石など)と共産党(周恩来など)が国共合作について会談
  16日 米・ハル国務長官 第1次ハル声明で、日本の対中政策を非難
  25日 郎坊事件 ※北京〜天津間の軍用電線を修理中の日本軍(五の井中隊)が張自忠軍による銃撃を受け重症者2名他
  26日 広安門事件 ※北京広安門で中国軍が日本軍に対し銃撃 ※日本軍も応戦し両軍衝突
  27日 近衛内閣 北支事変に関し自衛行動をとると声明 ※内地3個師団を華北に派遣命令
  27日 参謀本部 内地3個師団の派遣を見送り、関東軍・朝鮮軍から派兵を決定
  28日 日本軍 総攻撃開始 ※華北に突入 ※通州を爆撃した際に冀東防共自治政府保安隊兵舎に誤爆する
  29日 通州事件
152名無し三等兵:2009/01/11(日) 08:43:51 ID:???
あと盧溝橋事件の1月前の6月19日に関東軍とソ連軍がアムール川で小競り合いを起こしてます(乾岔子島事件)
事件の1週間前の6月30日には、ソ連砲艦3隻が関東・満州軍部隊に射撃を浴びせ、日満軍は直ちに速射砲にて応戦してソ連砲艇1隻(50t級)を撃沈、1隻に損傷
という出来事が発生してます
153イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/11(日) 23:51:18 ID:+jPCiXVF
>>151-152 一覧を載せて頂きまして、ありがとうございます。乾岔子島事件は
当時、関東軍参謀長だったヒデキ(東条英機)も関わっていますね。

>>139 の続き。>>北支派兵については陸軍内部も相当混乱している訳です。

最も困惑していたのは、新司令官として支那駐屯軍に赴任した香月清司(中将)
だったかもしれません。

>>7月20日 条件付きながら内地師団の動員を閣議決定

外相の広田や海相の米内の抵抗により「状況が好転すれば、いつでも軍を引き
返させる」という条件で動員が閣議決定された訳ですが、さっそく支那駐屯軍
参謀長の橋本群(ぐん・少将)が、内地師団の動員に反対意見を送ってきます。

●「第29軍は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ、逐次実行に移しつつあり――」
154イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/12(月) 00:18:49 ID:3mD3HfrW
橋本群はのちに参謀本部第一部長(作戦)になりますが、運悪く1939年5月に
起きたノモンハン事件の責任を取らされる形となり引責辞任、同年11月に予備役
編入されてしまった人物です。

>>●「第29軍は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ、逐次実行に移しつつあり――」

「現地停戦」に拘る橋本参謀長の反対意見を、司令官の香月清司は冷めた目で見て
いました。香月いわく、●「今回、複雑怪奇なる情勢下に突如、新司令官に補され、
着任して現地『支那通』なる者の意見を聞くと、ほとんど各人各様でなんら一定の
見識をもっていない。支那問題について私は確乎たる定見を持つ事ができなかった」

まあ、橋本参謀長が「現地停戦」に拘泥したのは、第29軍が国民政府の非直系で
あることから何とでもなると考えたのでしょう。第29軍長の宋哲元は、もともと
蒋介石の政敵である馮玉祥の部下であり、その「五虎将」に数えられた人物でした。

いずれにせよ、支那駐屯軍参謀長の橋本が強く反対したことから、7月21日には
一旦、参謀本部が「内地3個師団」の動員を停止させることになりました。
155イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/12(月) 01:13:56 ID:3mD3HfrW
>>154 >>7月21日には一旦、参謀本部が「内地3個師団」の動員を停止

しかし『最後の関頭』演説で開戦決意をした蒋介石は、宋哲元に日本軍との曖昧な
態度を許しませんでした。蒋介石は、日本軍を圧倒する兵力を北上させる事を条件に
徹底抗戦を命じます。また7月20日には、参謀次長の熊斌を北平に派遣して、
宋哲元の説得にあたらせます。事実上、これがトドメとなりました。

トップである宋哲元は逡巡していましたが、もともと第29軍の土人兵の
抗日意識は激しいものがあります。宋哲元が蒋介石の要求を受け入れると、
第29軍は俄然『徹底抗戦』の構えを取りました――。

そうした緊迫した状況の中、2つの大きな事件が起こります。『廊坊事件』と
『広安門事件』です。まず廊坊事件から取り上げますが、これは7月25日の
深夜に起きた日本軍と土人軍との武力衝突でした。
156イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/12(月) 01:50:40 ID:3mD3HfrW
もともと支那駐屯軍への嫌がらせとして、日本側の軍用電線を支那側が
破壊工作する妨害が頻発していましたが(もちろん証拠は見つからない)、
7月25日にも廊坊付近でそれがありました。まあ、鉄道線路を傷つける
のと同様、典型的なゲリラ活動の1つです。また廊坊は、北平から南東
50キロに位置します。

当然、切断された軍用電線(電信機)を修理しなければなりませんから、
支那駐屯軍は通信隊に歩兵1個中隊(第20師団所属〈龍山・朝鮮〉)を
護衛に付けて現地に派遣しました。また、これは支那側にあらかじめ通告
されたものでした。

夕方4時半に廊坊駅に到着した同部隊(中隊長:五ノ井淀之助中尉)は、
同所付近を守備していた支那軍(第38師)の連隊と重ねて折衝した上、
軍用電線の修理に取り掛かります。そうして修理が深夜に差し掛かった
25日の夜11時10分頃に突如、土人軍から小銃と軽機関銃の射撃を
受けました。さらに廊坊駅北方300メートルに位置する土人軍兵営から
迫撃砲も撃ち込まれ、部隊長の五ノ井中尉は反撃を命じます――。
157イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/12(月) 02:22:02 ID:3mD3HfrW
兵力的には「日本軍1個中隊」に対して「土人軍1個連隊」ですから、支那駐屯軍は
26日深夜0時ごろ、原隊である第20師団に同中隊の救援を命じます。これにより
同師団の歩兵第77連隊(鯉登行一大佐)が廊坊駅へと急行しました。

また念のため支那駐屯軍は深夜2時半ごろ、事態の急変に備えるために天津、
山海関の間にあった第20師団の各部隊に逐次前進を命じました。

そして明くる26日払暁、日本陸軍の飛行隊が廊坊の「土人軍兵営」を爆撃し、
朝8時には増援部隊が現地に到着します。最終的に、土人軍を通州街道方面に
潰走させましたが、衝突の規模としては盧溝橋事件と同じか、それよりも全然
大きいぐらいです。

これを受けて26日午後、支那駐屯軍は第29軍の第37師・第38師の北平
近郊からの撤退を求める『最後通牒』を行なう事になります――。
158イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/14(水) 00:37:42 ID:04Bxqd0m
『廊坊事件』は8時間以上にも及ぶ戦闘となりました。この事件の直後、支那駐屯軍
司令官の香月清司中将は、参謀本部に対して●「支那側の挑発行為にはたとえ事変が
拡大しても、兵力を使用することを認めて欲しい」と許可を求めました。

この訴えに作戦部長のカンジ(石原莞爾)は、いい加減にサジを投げまして●「徹底的に
膺懲せらるべし。上奏(天皇への申し開き)など一切の責任は参謀本部にて負う」と返電
しました。

>>157 >>これを受けて26日午後、支那駐屯軍は第29軍の第37師・第38師の
>>北平近郊からの撤退を求める『最後通牒』を行なう事になります――。

参謀本部の了解が得られましたので香月司令官は、宋哲元(第29軍長)に対して、
「(土人)部隊を盧溝橋(永定河)を渡りきった川岸に7月28日正午までに撤退
させよ。さもなければ攻撃する」と最後通牒を26日に発した訳です。ところが同日、
日本軍のトラック部隊が北平城の入口で土人兵から銃撃を受ける事件が勃発しました。
これがいわゆる『広安門事件』です。
159イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/14(水) 01:10:00 ID:04Bxqd0m
簡単に経緯を説明しますと、以下の通りです。7月26日に北平入城を命じられた
広部大隊(支那駐屯軍・歩兵第2連隊第2大隊)は午後2時、豊台駅に到着し、26両の
トラックに乗り換えて広安門に向かいます。もちろん、このような緊迫した状況ですから
事前に冀察当局(第29軍)と交渉して、午後4時開門の予定でした。

しかし土人軍は「廊坊事件」や「最後通牒」で硬化しており、城門を閉じて戦備を整え、
なかなか開門に応じようとしません。このとき第29軍の『日本人軍事顧問』だった桜井
徳太郎少佐(支那駐屯軍附)らが奔走して折衝し、ようやく夜7時に開門となりました。

ところが広部大隊のトラックの先頭3両が広安門を通過した段階で突如、土人兵たちが
城壁の上から猛射を浴びせてきます。大隊は全速力で12両までが城門を通過しますが、
後続のトラックは銃撃によって分断させられ、ついに門を閉められてしまいました。

驚いた桜井少佐らが土人兵を宥めましたが、事態は一向に収まりません。夜8時には
広部大隊も反撃を開始します。しかし第29軍は続々と部隊を集め、広部大隊は包囲
される結果となりました。危急を知った豊台の河辺正三旅団長が21時30分に救援
部隊を派遣して、ようやく日本人軍事顧問による調停が成立します――。
160イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/14(水) 01:35:39 ID:04Bxqd0m
この調停によって、第29軍は部隊を集結して城門から離れ、すでに北平城に
入場した広部大隊は公使館区域へ、北平城外の同部隊は豊台に引き返すことに
なりました。結局2時間余りの戦闘の後、夜22時に停戦となり、広部大隊が
公使館区域に入ったのは27日の深夜2時です――。

支那駐屯軍司令官の香月清司は、連日の土人共の挑発行為に激怒します。そして
指揮下部隊に27日正午を期して総攻撃を命令しますが、北平特務機関長だった
松井太久郎大佐が北平の日本人居留民の避難が終わっていないことを理由に反対、
総攻撃を1日遅らせる事を提案しました(実際は27日早朝に大使館地区に避難済み)。

香月司令官は、事前の最後通牒の期日が28日正午だったことを思い出し、悩んだ末
最初の命令を取り消して部隊に待機を命じ、宋哲元にも重ねて通告しました。そして
28日午前8時についに総攻撃が始まります。これが『平津(北平・天津)地方掃討
作戦』と呼ばれるもので、7月30日まで続きます――。
161イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/15(木) 01:07:45 ID:WBCEwnr3
>>160 >>そして28日午前8時についに総攻撃が始まります。

支那駐屯軍は、「今や治安全く紊(みだ)れ、居留民の生命財産は危殆に瀕するに
至れり。素より北支治安の維持は、日満両国の重大関心事たり。事ここに至りては
和平解決の万策尽きて膺懲の師を進むる外なし。真に遺憾とするところなり――」と
声明を発して総攻撃に入りました。また一方の第29軍も増援を蒋介石に求めます。

これを遡る前日の7月27日、東京では早朝に緊急閣議が行われました。ここで内地
3個師団の動員が無条件に認められましたが、外相の広田弘毅は●「戦火は北支だけに
留まるだろうか?」と疑義を呈するのが精一杯でした。海相の米内光政もまた「上海・
青島への陸兵派遣の考慮」を要求しています。海軍もまた「在支居留民」の保護に一役
買っていますので、これ以上戦火が広がるなら自分の足元に火がつくからです――。

また同じく臨時開催中の議会(貴族院・衆議院)は9700万円の戦費を即日可決した
ばかりか、北支派遣将兵に対して『感謝決議』まで採択します。国内の新聞もまた
『皇軍ついに膺懲の兵を進む――全29軍掃滅を期し、総攻撃開始さる』(東京朝日
新聞)と煽り立てます。もはや戦場は北支全域に広がりつつありました。
162イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/15(木) 01:29:57 ID:WBCEwnr3
>>161 >>もはや戦場は北支全域に広がりつつありました。

日本軍の航空隊は7月28日早朝、南宛の第29軍の兵舎を猛爆撃して灰燼と
しました。また同日の午前11時ごろ、盧溝橋事件の中心となった一木大隊は
南宛を脱出して北平に向かう第29軍副長の冬凌閣と第132師長の趙登禹の
隊列を待ち伏せして襲撃し、この2人を戦死させています。

しかし日本軍も楽勝という訳ではなく、第29軍長の宋哲元が天津や塘沽など、
日本軍の兵站基地を狙って奇襲するよう命じたため、一部では窮地に陥りました。
特に支那駐屯軍司令部がある天津では28日深夜、第29軍の騎兵5千が急襲。
もともと部隊が分散配置されていたため危機に瀕しますが、29日を終日戦い、
30日になってようやく撃退しました――。

しかし29日には通州で異変が生じます。いわゆる『通州事件』ですが、本来は
日本側だった冀東政府の通州保安隊3千が突如反乱を起こし、主席である股汝耕を
捕らえ、日本軍守備隊ならびに特務機関員、そして日本人居留民を襲ったのでした。
163イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/15(木) 01:54:17 ID:WBCEwnr3
まあ、悪名高き『通州事件』な訳ですが結局、特務機関員のほとんど
全員が戦死し、日本人居留民385名のうち223名が土人兵の手に
かかり虐殺されました。

当時、通州には支那駐屯歩兵第1連隊の1個小隊が駐留し、また同地に
兵站自動車1個中隊が滞在しておりましたが、この2つの隊を合わせても
総兵力110名。土人兵の襲撃をよく撃退し、自らの宿営地を辛うじて
守り抜きましたが、日本人居留民を保護する余力は全く無かった訳です。

また通州の保安隊が反乱を起こした理由ですが、7月27日の戦闘の際に、
関東軍の飛行隊が保安隊の兵舎を誤爆したこと、また第29軍が宣伝戦として
自分たちの勝利を吹聴したのを通州の保安隊が真に受けて、自分らも寝返って
報奨を得ようと、日本軍を急襲したためです。

この変事を知った支那駐屯軍司令部は、航空隊に通州を爆撃させるとともに
(7月29日夕方)、支那駐屯歩兵第2連隊主力を救援に向かわせ(30日早朝
到着)、通州一帯を掃討させました。しかし時すでに遅し、反乱を起こした
保安隊の土人兵共は爆撃とともに蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、一部は
北平に向かったと云います――。
164イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/16(金) 00:14:29 ID:s1lslk+s
さて支那駐屯軍の進攻は7月30日夜8時に一旦ストップします。司令官である
香月清司が「次期作戦」の準備のため「戦闘終結」を宣言したのでした。7月
7日の盧溝橋事件以来、日本軍の戦死者は先の「通州事件」を含めても127人、
戦傷者348人であり、ほぼ一方的に支那土人軍を北支から駆逐したと云える
でしょう。第29軍長の宋哲元は北平を脱出し、保定の方向に逃げたとされます。

また参謀本部は「保定〜独流鎮(天津の南方26キロ)」のラインで戦線を整える
ことを決め、支那駐屯軍はその直前で停止した事になります。日本陸軍が意図した
『北支分治工作』は図らずも一部が達成され、北平(北京)への入城式が8月8日
から3日間に渡って挙行されたのでした――。
165楽園の素敵な巫女 博麗霊夢 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/16(金) 00:20:25 ID:???

   .「^ヽ,ry'^i
   ,ゝ"´ ⌒`ヽ  ♪
  くi Lノノハノ)」   ふぅ
   λ[i -ヮ-ノi! =3    これで北支の戦線も一服よね。
   レ|Y(つ旦)        ひと休み、ひと休み。
    とレ'_}_〉
     ̄ ̄ ̄
166イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/16(金) 00:48:38 ID:s1lslk+s
>>165 >>これで北支の戦線も一服よね。

北支の戦線が一服したのは良いですが、どこかで政治的な収拾をつけねばなりません。
『通州事件』の惨劇を聞いた外相の広田弘毅は、『外務大臣救恤金』として2万円を
日本人居留民に寄付して、その再起を図らせたのでした。

首相の近衛文麿は「北支出兵」で自身を勇ましく演出したのは良いですが、戦線が
際限なく広がりそうなことに焦り始めます。参本作戦部長のカンジ(石原莞爾)が以前、
蒋介石との首脳会談により一挙に『政治的解決』を図ることを進言していた事もあり、
南京行きを真剣に考えました。近衛いわく、

「政治的になるべく大きく解決したい。各国をして日本に領土的野心の無いこと、
 いたずらに武力の使用を欲しないことを知らせ、(蒋介石に)合理的な要求をして
 帰ってこれば、もし事柄が不成立に終わっても日本の立場と意図が列国に明らかに
 なるから、それでよい――」
167御大韓さま ◆3yfCH5upaQ :2009/01/16(金) 01:04:28 ID:???
よく、こんな気持ち悪い書き込みができるなあ。
168イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/16(金) 01:04:48 ID:s1lslk+s
などと意気込みますが、そこは「公家出身」の近衛です。全てをお膳立てして
貰わなければ、自身の動く気がしません。料理するのは他人でも、食べるのは
自分です。これは後々の「新体制運動」でも同じ態度です。よって近衛は、

●「瀬踏みするという意味合いで、まず一足先に広田外相に南京に乗り込んで
 貰ったらどうだろうか?」

と眠たいことを書記官長の風見章に持ちかけます。そこで風見が広田を訪ねると
広田は何とも素っ気ない態度です。キセルで煙草を吸いながら話を聞き終えると、

●「さあ、そういうことをやってみても、どうかね?」

と漏らしたきり黙り込んでしまいました。風見は「相談しても無駄だ」と悟り、
外相の広田の南京行きは立ち消えとなってしまいました。
169イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/16(金) 01:25:32 ID:s1lslk+s
まあ、こういう態度が『外相としての不評』を広田が買う一因にもなるのですが、
広田の意図するところは明らかです。

つまり、陸軍の頭ごなしに政府が勝手に何かを決めたとしても、陸軍の猛反発を
喰らうだけに終わるからです。つまりは、ヤブヘビです。それは広田が1回目の
外相時代に「支那公使館の大使館への昇格」を断行して、更なる『北支分治工作』の
激化を招いたという苦い経験に基づくものでした。>>134 を読み直してください。

>>梅津「実はそうしたいのである。だがそれは総理に相談し、総理の自信を確めたのか?
>>在支邦人が築いた多年の権益財産を放棄するのか? 満州国はそれで安定するのか?」

>>田中「要するに近衛総理が外交に自信がなければ、在支権益の放棄、北支満州の敗退に
>>終わる危険がある。今や不拡大に徹して総権益を捨てるか? 権益擁護のため不拡大を
>>放棄するか? の二者択一の関頭に立たされた――」

首相の近衛が今すべきことは「ド派手なスタンドプレー」に走ることではなく、陸軍の
強硬派とも向かい合い、『停戦』のために政府と軍の方針の一本化を図ることなのです。
170イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/16(金) 01:45:07 ID:s1lslk+s
そもそも「陸軍の強硬派」を野放しにしたまま、近衛が蒋介石に会いに行っても
相手にされないでしょう。また仮に何らかの言質を取られて、帰国後に陸軍の
猛反対により実現できなければ、赤っ恥をかくどころか、日本の国際的立場を
いよいよ難しくします。

近衛がのめり込む先は蒋介石のいる遠い南京ではなく、官邸から目と鼻の先にある
三宅坂の陸軍省なのです。しかも1回目の外相時に陸軍を無視して『痛い目』を見た
広田に再度そうしたお膳立てをさせようなどと、意図的な嫌がらせのようなものです。

そんな広田の心中を知ってか知らずか、元老の西園寺公望は●「支那にはむしろ
不信用な広田をやるよりも、近衛自身が出かけていく方が非常に良いじゃないか?」
と秘書の原田熊雄に語っています。まあ、西園寺は広田云々よりも、一向に自分の
腰を上げようとしない近衛に文句を言いたかったのでしょう。

広田が駄目と知った近衛ですが、今度は広田と親密な「玄洋社の頭山満」を内閣参議に
仕立て上げ、自身の使者として南京に送り込もうとする訳ですから話になりませんw。
171土着神の頂点 洩矢諏訪子 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/16(金) 01:56:32 ID:???
>>166 >>外相の広田弘毅は、『外務大臣救恤金』として2万円を日本人居留民に寄付して、
>>その再起を図らせた


    ,◎‐◎、
  _,.-'-‐‐‐‐-'、_
 'ー( ( メ (^)ノ))-'  
  ノ_ハi ゚ ヮ゚ノゝ   2万円よりも、 2万人の報復が欲しいね。
   ノ´i(ヨ:::i,つ 
   <_/:fォ::f):ヽ,
   ``'i_フi_フ´´
172名無し三等兵:2009/01/16(金) 22:34:18 ID:2DlKLnpQ
「戦場のレクイエム」原題「集結号」(集合ラッパ)
公式サイト

http://requiem-movie.jp/
173名無し三等兵:2009/01/16(金) 22:58:55 ID:Rm5p2PXC
支那人はゴキブリ!ゴキブリ支那人!ゴキブリ支那人!
174名無し三等兵:2009/01/17(土) 02:45:41 ID:???
二・二六で閑職に追い込まれた皇道派幹部は
日中戦争について、どう考えていたんですかねえ。
175名無し三等兵:2009/01/17(土) 14:28:04 ID:???
>>174
俺たちの敵はソ連なのに・・・。
176名無し三等兵:2009/01/17(土) 20:03:09 ID:???
年表を見ると1941年までにいろいろなことがおきています。
スターリンはナチスの攻撃に備えて1936年から国際戦略を発動していました。
その一つは東西挟撃の予防としての東部国境の安全化、すなわち反共勢力の蒋介石軍閥と
日本軍の無力化、すなわち支那事変です。これは西安事件の謀略
により成功し、日本は3年越しの大陸の全面戦争に引きずり込まれ苦しんでいました。
戦前の日本の常備軍は20万、ソ連は190万であり、動員すれば即
700万といわれ、日本は軍事力で劣り、ソ連と戦争する力は到底ありませんでした。
シベリヤ出兵でも広大なシベリヤで大変な苦労しています。
他方、ソ連は米国ルーズベルト政権の取り込みに大成功をおさめていました。
米国は1938年から莫大な蒋介石援助を開始しています。これは蒋介石を
傀儡につかった実質米国の対日戦争の開始です。
ソ連のスターリンは先の先を読んで工作していました。
また戦前の日本の軍事力は世界のCクラスであったことを確認したいと
思います。だから列強は日本を圧迫し、攻撃したのです。
あのオランダさえ日本に真珠j湾直後に対日宣戦布告しています。
白人優越主義で馬鹿にし切っていたのです。日本は海軍力はありましたが、
ユーラシア大陸の奥地である外モンゴルに島国の日本陸軍が出兵するのは、軍事補給能力からいっても如何なものか、と思います。
補給を絶たれれば、即スターリングラードの二の舞ですから。

(宮崎正弘のコメント)もう一度、「世界情勢は複雑怪奇」(平沼騏一郎)
177名無し三等兵:2009/01/17(土) 23:28:06 ID:???
>176
もう突っ込みどころが多すぎてニマニマしちゃうなw
宮崎正弘ってだいぶ昔の本を買ったまま放り出してあるが、電波認定して捨てちまうかそれとも刺激を楽しむべきか?w
178イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/18(日) 22:07:21 ID:0AhYBn80
>>174 >>二・二六で閑職に追い込まれた皇道派幹部は日中戦争について、
>>どう考えていたんですかねえ。

まあ、皇道派の重鎮の1人だった柳川平助は、いったん「2・26事件」後に
予備役に編入されますが、上海戦の真っ最中(1937年10月)に第10軍
司令官として再召集され、杭州湾上陸を果たしています。これは2・26事件
後の『粛軍』により、軍司令官を務められるほどの適当な人材が不足していた
ためです(柳川は台湾軍司令官の職歴あり)。

まあ、皇道派はパージ(追放)された訳ですが、日中戦争が拡大し始めると高級
将校(師団長クラスも)の人出が不足して、どんどん再召集されます。刀剣収集家で
愚にもつかない山岡重厚(荒木陸相の下で軍務局長を務める)も『粛軍』で予備役に
編入されますが、上海戦が開始して間もない8月26日に召集されて第109師団長
です。そして北支那方面軍に配置されて、太原攻略戦などに参加しています。

『統制派』に顎で使われるのは屈辱でしょうが、軍人として活躍の舞台がもう一度
与えられるのであれば「日中戦争」も歓迎だったのではないでしょうか。予備役は
免れても閑職に回された連中だって、『平時』のままでは先が見えてしまいます。
179イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/18(日) 22:38:42 ID:0AhYBn80
また小畑敏四郎の「秘蔵っ子」だった鈴木率道もまた『粛軍』により、支那駐屯
砲兵連隊長に飛ばされますが(その前は参本作戦課長)、支那事変が始まると
第2軍参謀長として北支に赴き、風向きが変わってきます。その後は「航空畑」を
一貫して歩き、陸軍航空隊の発展に努めます(陸軍航空本部総務部長など)。

また忘れてはならない山下奉文も、『粛軍』で歩兵第40旅団長(20D)に
飛ばされますが、支那事変直後に支那駐屯混成旅団長、そして北支那方面軍
参謀長です。あの小畑敏四郎とて、1937年8月末に再召集されてホントの
閑職とはいえ、留守第14師団長ですから支那事変直後の人手不足は推して
知るべしでしょう。もっとも小畑の場合は、単なる嫌がらせ臭いですがw。

まあ、重要なのは『皇道派』にシンパシーを感じていた大量の若手将校抜きに
戦争はできないということですし(=で最前線の下級指揮官)、もし支那事変が
不本意な結果に終わるようであれば、当然ながら陸軍内部でも責任者探しのうえ
糾弾が行われます。そうなると「統制派の凋落(皇道派の復活)」も有り得る訳で、
支那事変の拡大は望む所だったでしょう。これ以上、落ちようがありませんしw。
180風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/18(日) 22:46:05 ID:???
         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ    はやく戦争にな〜れ。'
      ゙,ヘi_i][i,l\ []
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄
181名無し三等兵:2009/01/18(日) 22:56:15 ID:???
それはドロシー嬢の台詞。
182イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/18(日) 23:27:31 ID:0AhYBn80
まあ、2・26事件で天皇と決起部隊の仲介をしようと陸相官邸に乗り込んで
予備役に編入された橋本欣五郎でさえ、再召集によって野重砲兵第13連隊長
です。南京攻略戦の最中、アメリカの砲艦パネー号を撃沈するわ、イギリスの
砲艦レディーバード号も撃破するわで、もう無茶苦茶ですがw。

また「皇道派」に強いシンパシーを持つ近衛文麿が首相だった事も、タイミング
としては良かったでしょう。

しかし、柳川平助が1938年3月9日に召集解除、山岡重厚も1939年1月1日に
召集解除ですから、『戦時体制』が次第に軌道に乗ると「皇道派」の幹部連中はやっぱり
お払い箱なのでした。次に引っ張り出されるのは、太平洋戦争末期の本土決戦(超大量
動員)となりますw。まあ、柳川はその間、興亜院総務長官、法相、国務相など忙しい
ですが。小磯内閣の後継候補にも擬せられましたから、皇道派の中でも別格でしょう。
183イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/19(月) 00:11:58 ID:nWIP9ri4
>>175 >>俺たちの敵はソ連なのに・・・。

誤解があるようですが、最も脅威の国がソ連であることは参謀本部内で
1人の反対もありませんでした。ただ、その『方法論』で激しく対立した
のが「皇道派」の小畑敏四郎と「統制派」の永田鉄山だった訳です。

当時、参謀本部第3部長(兵站・小畑)と第2部長(情報・永田)だった
2人は、以下のように主張しました。

小畑「ソ連1国を目標とする自衛すら困難が予想される今日、支那とは和協・
 提携を求めて、対ソ防衛を第一義とすべきである」

永田「抗日侮日、飽くなき支那問題を力をもって処理し、足元を固めた後に
 ソ連に当たるべきである」

一見、小畑の方がマトモに見えますが(むやみに戦争の相手を増やさないという
意味で)、大きな落とし穴があります。それは支那が信頼に足る相手かどうか?
という意味です。いくら支那に和協を訴えても、それが逆に侮られて更なる抗日
侮日を招かないとも限りません。要するに小畑と永田の2人の対立は、●『支那が
信用できるか?』という根源的な問題に行き当たると云えます。さて、話は変わり
ますが、21世紀の現代支那は信用できる相手でしょうか?――
184イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/19(月) 00:42:11 ID:nWIP9ri4
>>170 >>今度は広田と親密な「玄洋社の頭山満」を内閣参議に仕立て上げ

玄洋社の頭山満は「孫文の時代」から支那の国民革命を支援していました。袁世凱
との政争に敗れた孫文が日本に逃れようとすると、時の日本政府(山本権兵衛内閣)は
袁世凱を支援していましたので、その亡命を認めない予定でした。

しかし頭山満が犬養毅を通じて首相の山本権兵衛を説得したため、亡命が認められ、
孫文は雲南坂(現・港区)にあった頭山邸の隣家に住むことになります。

また、孫文の跡を継いで国民革命軍総司令官となった蒋介石が1927年に一旦
失脚し下野すると、蒋介石は頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家に
起居するようになります(その後、帰国して復権し北伐を完了させる)。

1929年には南京の中山陵で行われた孫文の慰霊祭に、頭山は犬養毅とともに
日本を代表して出席し、その時の「頭・犬・蒋」の記念写真が今も残っています。
そんな訳で、頭山満は蒋介石の恩人とも言える人物でしたので、近衛が目をつけた
としても(誰の入れ知恵かは知りませんが)不思議は無いでしょう。
185イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/20(火) 00:28:00 ID:F7bToqFs
>>170 >>今度は広田と親密な「玄洋社の頭山満」を内閣参議に仕立て上げ

この一報に外相の広田弘毅は驚きます。「内閣参議」といえば首相の相談役であり、
待遇は閣僚並みです。近衛の思惑としては、●「頭山満と蒋介石は昔から非常に仲が
良いし、頭山と広田は非常に懇意だから、この2人を(南京に)やればいいじゃないか」
とお気軽に言ったと云います。

しかし広田の人生にとって頭山満は『恩人中の恩人』であり、頭山がいなければ東京に
上京する学資も得られなかったですし、何より外交の師匠である山座円次郎に出会う事も
無かったでしょう。もし頭山の力添えがなければ、広田は父親の跡を継いで『石屋』に
なったか、初志のままに『陸軍士官学校』に進んだか、おそらくは福岡でごく普通の
市井人となっていたに違いありません。少なくとも、外相や首相は夢のまた夢です。

そこで広田は、頭山に『参議』を打診してさっそく内諾を得ます。内心では頭山の
お供として南京に赴くことも真剣に考えたでしょう。
186名無し三等兵:2009/01/20(火) 00:32:48 ID:???
ソ連と国民党は孫文以来の付き合いなのに、
中共とコミンテルンの関係ばっかり注目されているのはなんか見落としている気がする。
インテリジェンスとか言って胡散臭い陰謀論を振りまくより、
まだまともな外交ラインのあった国民党―ソ連政府のつながりと影響を調べたほうがよっぽどましだろ。
187イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/20(火) 00:57:30 ID:F7bToqFs
しかし、内大臣の湯浅倉平が頭山を「内閣参議」とすることに猛反対します。
湯浅にとって見れば、玄洋社の頭山は●『市井の無頼漢に毛の生えたもの』と
しか映らなかった訳です。結局、頭山の南京派遣どころか参議の就任もお流れ
となり、広田と頭山は赤っ恥をかかされる事になりました――。

最終的に近衛は、宮崎滔天(孫文の盟友)の息子である宮崎龍介を個人的な密使
として南京に送る事に決めました。近衛は秘かに国民政府の在日大使館を通じて
南京に連絡を取り、宮崎を出発させましたが、この頃の支那の暗号は帝国陸軍に
よって傍受、解読されています。近衛の水面下の動きに反発した陸軍は、宮崎が
神戸で乗船するところを憲兵隊に捕えさせてオジャンですw。

また同様なことは外相の広田も行なって失敗しています。元外相の有田八郎(広田
内閣時)を支那に送り込んで南京政府に和平の探りを入れようとしましたが、これも
また陸軍の妨害にあって果たせませんでした。
188イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/20(火) 01:37:59 ID:F7bToqFs
有田八郎の回想によれば、以下の通りです。避暑地にいた有田は広田に呼び出され、

●「君は最近まで外務大臣をしていた関係もあり、何もしないでいいから、上海へ
行ってくれないか? そうすれば君が上海にいるだけで、黙っていても上海に来て
いる南京側の者をはじめ、いろんな者が自然に君に接近してくるだろう。そんな所
から蒋介石との交渉の端緒をつかみたいと思っている」

と説得されたと云います。しかし結局、陸軍の横やりで有田はソ満国境から
北支を視察しただけに終わり、上海に入ることすら出来ませんでした。

とは言うものの、さすがに元外相の有田派遣は『探り』というか『釣りの餌』
というか、幾ら何でも漠然とし過ぎていました。外務省内部や他の閣僚などの
端から見ると「陸軍に遠慮ばかりして気迫が無い」と思われた広田は、次第に
周りから不評を買っていきます――。
189名無し三等兵:2009/01/20(火) 01:43:38 ID:???
>187
陸軍のそういった妨害はどんな筋から出てたんだろうね?
元はといえば参謀本部の石原の言い出したことだろw
それともあくまで近衛に行けって事なんだろうか?w

まあこの手の私的外交で打開しようとするんだかお茶を濁そうとするんだかはこの後も続く愚行だわね。
互いに責任も権限も強制力も持たせえない小細工なんて無意味でしかないのだが。
だからといってごろつき右翼を内閣参議になんてのもコリャ考えるやつの頭カチ割って調べるべきだったよねw
適当な外交上の空手形勝手に振り出しまくって混乱の種まいてくるに決まってるわw
190イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/21(水) 00:37:10 ID:P9fgQht1
>>186 >>まだまともな外交ラインのあった国民党―ソ連政府のつながりと
>>影響を調べたほうがよっぽどましだろ。

まあ、話は少し飛びますが1937年8月21日に『中ソ不可侵条約』が結ばれます。
過去の中テーマ「上海航空決戦」でも少し触れましたが、この条約によりソ連の空軍
支援が始まり、同時に大量の武器弾薬が国民政府に供給されました。もちろんソ連は
東西をドイツと日本(満州)に挟まれていますので、『敵の敵は味方』の論理がそっくり
当てはまる訳です。

しかし、同じく過去の中テーマ「支那とドイツ軍事顧問団」でも触れたように、この
中ソ不可侵条約は、ただでさえ日本に向き始めていたナチス・ドイツの軸足に拍車を
かけます(独支関係の悪化)。結局、ドイツによる満州国の承認(1938年5月)と
ドイツ軍事顧問団の支那からの撤退によって頂点に達することになりました。
191イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/21(水) 01:06:37 ID:P9fgQht1
>>189 >>陸軍のそういった妨害はどんな筋から出てたんだろうね?
>>元はといえば参謀本部の石原の言い出したことだろw

カンジ(石原莞爾)は1937年9月27日に、参本作戦部長から関東軍参謀
副長に左遷されますから推して知るべしです。繰り返しになりますが、トップ
会談で物事がすんなり解決するなら誰も苦労はしません。

>>だからといってごろつき右翼を内閣参議になんてのもコリャ考えるやつの
>>頭カチ割って調べるべきだったよねw

頭山満は1941年6月にも、蒋介石との和平会談を試みるよう東久邇宮稔彦王から
依頼をされています。日中戦争の終わりが見えず、日米関係が急速に悪化していた頃
です。頭山は玄洋社社員である緒方竹虎に連絡を取らせ、蒋介石から「頭山となら
会ってもよい」という返事を受け取ります。

これを聞いた東久邇宮が首相となったヒデキに飛行機の手配を依頼すると、ヒデキは
「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶し、今回も幻と消えたのでした。ちなみに
東久邇宮稔彦王は第2師団長(仙台)、第4師団(大阪)、航空本部長を歴任。支那事変
初期は第2軍の司令官(北支那方面軍)を務めました。また、1941年時点では大将で
軍事参議官です。そして言うまでも無く、東久邇宮は敗戦直後の首相であります。
192イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/21(水) 01:24:45 ID:P9fgQht1
>>188 >>「陸軍に遠慮ばかりして気迫が無い」と思われた広田は、次第に
>>周囲から不評を買っていきます。

本来「副首相格」として近衛を助け、陸軍と正面きって『不拡大方針』に向けて
戦うことを広田に期待していた人々は、広田が陸軍と妥協的であることに幻滅を
感じます。ただ何度も繰り返しになりますが、陸軍の頭ごなしに何かしようと
(出し抜こうと)しても結局、近衛(頭山満)の例を見ても分かるように、妨害
されるか潰されるのです。広田は1回目の外相時に身をもって理解していました。

しかし、それが分からない人々は広田を批判し、近衛首相が外相の広田を罷免
するという噂も流れます。また同じ福岡の修猷館中学出身で、衆議議員だった
中野正剛や、戦前最大の世論形成家であったジャーナリストの徳富蘇峰が広田
外相の免職を求めるのを、玄洋社の頭山満が抑えていたのです。
193イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/21(水) 01:48:13 ID:P9fgQht1
頭山満は、司法大臣(加藤高明内閣)などを歴任した小川平吉に以下の様に伝えます。

●「広田外相不評なり。然れども他に適任者もあるまじ。願わくば留任せしめん。
 万一罷免せんとならば自分より談じて辞せしむべし、この旨、近公(近衛)に
 進言を乞う――」

つまり頭山満は小川を通じて「広田の外相留任」を近衛に進言するとともに、
もし万が一、広田を罷免するときは自分(頭山)が広田を説得して辞任させる
と訴えたのでした。頭山はこの時、傘寿(88歳)を過ぎていましたが、一高
時代から広田の後見人としてその成長を見守り、58歳とはいえ政治家としては
まだ将来性のある広田の今後を傷つけまいと尽力したのでした―ー。

これを小川から聞いた近衛は、●「広田はその名の如く『毅』ならず、『薄弱』なり」
と呟いたと言いますが、近衛にだけは言われたくないでしょうw。ちなみに広田は
修猷館中学を卒業と同時に自ら『弘毅』に改名しましたが、中野正剛もまた修猷館
在学中に自ら『正剛』と改名しています(幼名は甚太郎)。
194イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/22(木) 00:42:49 ID:0RY9dDVX
>>192 >>広田が陸軍と妥協的であることに幻滅を感じます。

周囲から煮え切らない態度と思われていた外相の広田ですが、まだ蒋介石との
『和平を完全に諦めていた』訳ではありませんでした。というよりも、広田は
『支那との戦争は避けられない』と半ば覚悟していたと表現した方が相応しい
かもしれません――。

いずれにせよ、1937年8月初旬の今なら戦線は北支で留まっています(北支
事変)。昭和天皇が「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか?」と
注文を付けた事もあり、陸軍の強硬派にもブレーキがかかりました。

この間に外相の広田弘毅や東亜局長の石射猪太郎は『寛大』な条件で、停戦・和平に
持ち込もうとした訳です。いわゆる『船津工作』ですが、この背後には参本作戦部長の
カンジ(石原莞爾)の影もチラ付きます。カンジは一貫して不拡大派だった訳ですが、
戦線を広げようとする部下の武藤章(参本作戦課長・大佐)に、●「あなたが満州で
したことと、同じことを行なっているだけです」と言われて、ショックを受けます。
195イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/22(木) 01:14:09 ID:0RY9dDVX
『因果は巡る』ではありませんが、自らの芸術作品とも言うべき『満州事変』が
まさかこんな結果をもたらそうとは?と、カンジは気が動転します。政府が軍部の
統帥権に手出し出来ないと同様、統帥権の根本たる参謀本部もまた政治(外交)に
関与は出来ません(※陸軍省は異なる)。

カンジは同様の考えを持つ陸軍省軍務課長の柴山兼四郎(大佐)を通じて、「幣原
外交」の直系である東亜局長の石射猪太郎に、蒋介石との和平交渉を持ちかけます。

これが『船津工作』のきっかけであり、石射はこれに熱中します。当然、外相である
広田弘毅もまた上司として『和平工作』に最後の望みをかけますが、石射と広田では
かなり温度差がありました。まあ、これは追々触れていきますので話を進めましょう。

まず『船津工作』の「船津」とは当時、在支・日本紡績同業会総務理事だった「船津
辰一郎(たついちろう)」の人名です。船津は上海総領事を務めた事のある元外交官
で、支那側にも知己の大変多い人物でした。
196イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/22(木) 01:32:19 ID:0RY9dDVX
この「和平工作」に熱中した石射は、船津のもとに駆けつけます。しかし火中の栗を
拾うというか、鉄砲玉のような「特使」な訳ですから、初めは船津から色よい返事が
出ませんでした。そこで外相の広田が改めて、●「是非頼む」との懇請をしてようやく
船津を口説き落としたと云います。石射と広田の依頼で、船津は上海へ急行します。
197名無し三等兵:2009/01/22(木) 19:24:12 ID:???




●  もしも日本が米英に負けていたら    ●
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1231164586/




198名無し三等兵:2009/01/22(木) 20:03:28 ID:???
ジジイどもが支那やアメリカをサクッと倒しておかないから、遺された我々が苦労する羽目になる
199名無し三等兵:2009/01/23(金) 15:32:40 ID:???
満足な装備や食料もなく勝てるわけないだろ
無条件降伏したのに領土も賠償も取らず
援助してくれたアメリカに感謝すべき

200名無し三等兵:2009/01/23(金) 21:27:51 ID:???
アフガンやイラクもアメリカに感謝すべきなのか・・・
201名無し三等兵:2009/01/23(金) 21:38:21 ID:KsBQ83Tr
201
202名無し三等兵:2009/01/23(金) 22:04:17 ID:???
>>199
アメリカが戦前戦中に唱えてたお題目からすれば当然のこと
203イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/25(日) 00:58:36 ID:YoL6BF1T
>>196 >>石射と広田の依頼で、船津は上海へ急行します。

その一方で、外相の広田は天津に滞在していた駐支大使の川越茂に、上海への帰任を
命じます。この川越という人物、欧米で在勤中も和服を着るなど、一風変わった人物
でした。この頃、日本の大使館は国民政府の首都である南京ではなく上海にあり、
上海日本総領事館と同じ建物に入っています。ややこしいですが、逆に首都・南京
には総領事館しかありません。

1937年8月7日、外相の広田は川越に●「停戦交渉のきっかけは諸般の関係上、
ぜひ支那側より申し出た形とすることが望ましい」、●「船津と極秘会見する予定の
高宗武(国民政府・外交部亜州司長)から、貴方(川越)に停戦方『アプローチ』
せしむるようにした」と伝えます。

要するに広田は、船津を介して高宗武から駐支大使である川越茂に「停戦協定」を
提起させることを期待した訳でした。以前から親交のあった船津と高宗武は8月9日に
上海で会見し、川越はその日の夜に船津の交渉を引き継ぐ形で会談に入ります――。
204イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/25(日) 01:45:56 ID:YoL6BF1T
しかし、まさに『船津工作』の会談が行なわれた8月9日当日の夕方(午後5時頃)、
足元の上海で大山勇夫海軍中尉(上海特別陸戦隊・中隊長)とお供の運転手である
斉藤要蔵一等水兵が射殺される事件が起こりました。

これにより事態が一挙に緊迫し、駐支大使の川越も船津も、停戦協定に向けた
高宗武との会談をほとんど出来ないまま交渉が途絶える結果になります。のちに
外務省・東亜局長の石射猪太郎は、「(途中で船津の仕事を奪うようにしゃしゃり
出てきた)川越がサボタージュした」と怨みつらみの無念を書き残していますが、
これは少しピントがズレているでしょう。まあ、これについては後で触れます。

それにしても『大山事件』(死後、大尉に特進)は「船津工作」の開始日という
最悪のタイミングで起こりまして、和平に少しでも望みをかけていた外相の広田
(そして熱中していた石射)にとって予期できないものであり、『不運』でした。

まあ、教科書で『大山事件』はサラッと「4文字」で済まされる事が多いのですが、
わりと凄惨な内容なのは余り知られていないので、もう少し補足しておきましょう。
205イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/25(日) 02:22:51 ID:YoL6BF1T
上海特別陸戦隊の第1中隊長である大山中尉は夕方、自動車で共同租界のモニュ
メント路を走行中、支那の保安隊に多数包囲されます。そして乗っていた自動車
ごと、機関銃や小銃の射撃を受けて即死しました。

現場検証によれば、大山中尉は30発以上の弾丸を全身に浴び、特に頭部と腹部は
「蜂の巣」のような有り様です。また車体の弾痕は遠距離・近距離が入り混じって
いることから、待ち伏せによる奇襲を受けたと断定されました。

また射殺された大山中尉は車から引きずり出され、さらに頭部・腹部に鈍器で
損傷を与えられ、「靴・財布・時計」などの貴重品が持ち去られます。

同日の夜21時45分には、上海陸戦隊司令部が上記のような●『無法鬼畜の如き
保安隊の行為』と非難の声明を出します。また、事件現場であるモニュメント路は
共同租界で各国人の通行自由な場所であり、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢・
地雷・鹿角などの防御陣地を構築し、夜間は勝手に兵力をもって往来を通行禁止にし、
昼間でも通行人にピストルを突き付けて「身体検査」を強要するなど、一連の無法を
徹底抗議します。
206イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/25(日) 02:48:59 ID:YoL6BF1T
また斉藤要蔵・一等水兵が座席に大量の血痕を残したまま、いずこかに拉致
されたこと、また大山中尉が軍服を着ていた(私服のスパイ行為等ではない)
ことを挙げ、第一次上海事変(1933)で結ばれた『停戦協定』違反も訴えました。

ちなみに支那側の報道では、日本側将兵2名が自動車で虹橋飛行場に突然現れ
場内に侵入しようとし、衛兵が止めようとしたところ日本側が発砲、付近の
保安隊が駆けつけて更に日本側が発砲したため撃ち合いとなり、保安隊1名が
死亡、日本側も2名が死亡と伝えました。一体、どこの「神風特攻」でしょうw。

ちなみにですが、毛沢東の伝記である『マオ――誰も知らなかった毛沢東』には、

「8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が
 配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。
 さらに、1人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。
 日本側が先に発砲したように見せかける工作である――」

とありまして、上記が真相なら(いかにもありそうですが)、カンジ(石原莞爾)の
『満州事変』(柳条湖事件)もビックリのお粗末な自作自演といえますw。
207イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/25(日) 23:57:38 ID:vbfpKAA/
>>204 >>和平に少しでも望みをかけていた外相の広田(そして熱中していた石射)に
>>とって予期できないものであり、不運でした。

>>194 >>周囲から煮え切らない態度と思われていた外相の広田ですが、まだ蒋介石
>>との『和平を完全に諦めていた』訳ではありませんでした。というよりも、広田は
>>『支那との戦争は避けられない』と半ば覚悟していたと表現した方が相応しい
>>かもしれません――。

確かに船津工作の出鼻を挫いた『大山事件』は不運でしたが、うすうす支那との戦争は
『不可避』ではないか?と覚悟していた外相の広田にとっては、粛々と次の仕事に取り
かかるだけでした。

船津工作については昭和天皇も耳にしていまして、1937年8月6日に軍令部総長の
伏見宮が、支那沿岸・揚子江方面の用兵について上奏した際、以下の様に述べています。
208イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/26(月) 00:14:15 ID:gV9yI/dI
●天皇「近衛首相の話によれば、船津が上海にて内面交渉を行なう由なるが、上手く
 行けばよろしいが、若しこの条件にて支那が同意せざるなれば、むしろこれを公表し、
 日本がかくも公明正大な条件を出したるに支那同意せざるなりとせば、各国の世論も
 帝国に同情すべし。出来るだけ交渉を行ない、纏まらざれば『止むを得ず戦うの外なし』。
 
 先日、参謀本部の話に(戦いが)長引く時に露を考慮するの必要上、支那に大兵力を
 用い得ずとの事なるが、やれるだけやるの外なし。陸軍も困ったものなるも、海軍のみ
 にてもしっかりやる様に――」

上記のように昭和天皇は、この段階で支那(蒋介石)の開戦決意が固いと見抜いており、
『船津工作』に過大な期待は寄せていません。ちなみに工作の概要は近衛首相から聞いて
いますが、これは「石射→広田→近衛」のルートでまさかカンジ(石原莞爾)が絡んで
いるとは知らなかったでしょう。もし耳にしていたら別の感想があるはずです。

また後段に出てくる「対ソ戦略上、大兵力は用いえない」とする参謀本部の話は、
明らかに第一部長(作戦)だったカンジの説明でしょう。
209イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/26(月) 00:48:19 ID:gV9yI/dI
要するに昭和天皇は「日本は交渉をする意志があったのだが、蒋介石が拒絶した」
という体裁を作りたかった訳です。外相の広田(プラス近衛首相、杉山陸相、米内
海相の四相会議のメンバー)は、この点を理解していたでしょうが、作戦部長の
カンジや東亜局長の石射は全くピントがずれていました。

逆に『大山事件』が起こらずに支那との交渉が続いていたら「和平が成ったか?」
というと、これもまた疑問です。

広田自身は、船津工作で出した和平条件を●「今回、政府の取りたる『寛大なる態度』は
恐らく支那といえども意外とする所であり、世界も挙げて帝国の公正無私の態度に敬服
すべき所である」とシラッと自賛しましたが――、

その条件とは、●「北平から天津いたる地域を非武装地帯にする」、●「満州国を承認
ないし、今後問題とせずと約束」、●「日支防共協定の締結」など、かなりキツイ内容
だった訳です。広田としては、今までの対支外交で拒否されていた懸案を一気に解決
しようとする狙いもあり、逆に言えば、このくらいの要求を通さなければ、陸軍を
筆頭に国内の強硬派がまるで納得しないでしょう。日本が下手に出る理由や必要性は
どこにも無かった訳です。
210イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/26(月) 00:59:34 ID:???
>>209 >>日本が下手に出る理由や必要性はどこにも無かった訳です。

そして最早「開戦決意」をしている蒋介石にとっても、下手に乗る必要は
どこにも無かった訳です――。
211名無し三等兵:2009/01/26(月) 03:25:57 ID:???
【問2】あなたは、麻生内閣を支持しますか。
      11/2-11/9-11/16-11/23-11/30-12/7-12/14-12/21-12/28-1/11-1/18-1/25 
支持する46・0--42・4--32.6--38.4--30.4---22.6--19.8--22.2---21.2---20.2-18.2-14.4
不支持 45・4--49・6--58.4--56.0--61.6---69.2--75.0--72.6---72.8---73.2-76.6-79.2 
その他  8・6----8・0--9.0---5.6---8.0----8.2----5.2---5.2----6.0----6.6--5.2--6.4

新報道2001の支持率の推移
 
67.0% 安倍内閣発足時の内閣支持率 民主21.4% 自民37.4%
55.6% 福田内閣発足時の内閣支持率 民主27.8% 自民25.6%
47.2% 麻生内閣発足時の内閣支持率 民主27.6% 自民28.4% 
28.6% 参議院選挙前の安倍内閣支持率の最低値
23.6% 辞意表明前の安倍内閣支持率の最低値
21.8% 辞意表明後の安倍内閣支持率の最低値
20.2% 辞意表明前の福田内閣支持率の最低値
15.8% 辞意表明後の福田内閣支持率の最低値
14.4% 麻生内閣支持率の最低値          
14.4% 麻生内閣支持率            ←●現在ここ(1/22調査)

ついに福田超えだ〜!
212名無し三等兵:2009/01/26(月) 06:50:48 ID:???
213イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/27(火) 00:48:48 ID:ZVKZ3XMc
>>209 >>外相の広田(プラス近衛首相、杉山陸相、米内海相の四相会議の
>>メンバー)は、この点を理解していたでしょうが、

さて、ここで海相の米内光政の動きにも注目してみましょう。米内は盧溝橋事件
当初は明確な『不拡大方針』の立場を取っていましたが、第2次上海事変を契機に
支那事変に対して『最強硬派』に転じるという極端な動きをしているからです。

少し話を戻しまして、8月9日に「大山事件」(船津工作の頓挫)が起こりますと
海軍内部では、●「支那側において遂に反省するところ無くば、その飽くなき非異
不法を糾弾是正するため真に断固たる一撃を加えるべき」という強硬論が沸騰します。

しかし海相の米内は「船津工作」(外交交渉)の進展にまだ望みを繋ぎ、●「今日
明日中に何とかその成果を期待すべきであって、直ちに陸軍派兵の件を決定するのは
暫し待つべき」と上海へ陸軍増派の決定を求める『軍令部の要求』を見送った訳です。
これが8月10日の動きです。――上海では「大山事件」の現場検証が日本側と支那
共同で行なわれていました。
214イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/27(火) 01:09:38 ID:ZVKZ3XMc
翌日の8月11日午前には、軍令部総長の伏見宮が海相の米内光政を呼び出し、

伏見「外交交渉も必要だが『相手は支那人』なので、その成否は不明である。
 これを重視することは出来ない」

と米内を問い質します。これに対して米内は、

米内「外交交渉に絶対的信頼を置くことは出来ないが、これを促進することは
 必要である。また今打つべき手があるにも関わらず、直ちに攻撃するのは
 大義名分が立たないので今しばらく様子を見たい」

と反論し『外交交渉優先』の方針を譲りませんでした。皇族総長の伏見宮にも
屈しないほど、米内の「不拡大方針」の考えは強かった訳ですが、同日の現地
では上海市長が●「自分は無力で何も出来ない」(治安に責任が持てない)と
無責任極まりないことを日本領事に伝えてきたため、危機感を覚えた日本側は
陸戦隊の1支隊を予防のために上陸させました――。
215イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/27(火) 01:32:13 ID:ZVKZ3XMc
8月12日未明には、支那・国民党軍の本隊が共同租界の日本人区域を包囲します。
このため日本領事は、英米仏伊など各国の領事からなる国際委員会を召集し、直ちに
支那軍の撤退を要求しました。

しかし上海市長は、●「中国は既に侵略を受けている」と訳の分からない事を
抜かし、●「中国軍は攻撃されない限り攻撃しない。中国政府として認められる
のは精々それ位だ」と断言し、実質上の最後通告(降伏・無抵抗の要求)をしました。
日本側はこれに対し、「上海近辺での派兵の責任はすべて支那にある」と一触即発の
状況を迎えます。土人共は上海市街への自国軍の駐留を熱狂的に歓迎しました――。

事ここに至り、軍令部側では次長の嶋田繁太郎(中将・太平洋戦争開戦時の海相)も
また、●「逼迫せる状況に鑑み、もはや最後の手段を取らない訳にはいかない」と
海相の米内をせっつきました――。
216イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/28(水) 00:54:40 ID:TsnF39s8
軍令部次長の嶋田からも懇請を受けて、ようやく海相の米内光政は陸軍の上海
派兵を閣議に要請すること、また海軍の作戦準備の促進に同意し、8月12日
夜には「上海確保」のための『大海令』が発令されました。

第3艦隊司令長官の長谷川清(中将)には、●「上海居留民保護に必要な地域を
確保すると共に、機を失せず敵航空兵力を撃滅すべし――」と伏見宮軍令部総長
から発令が出ます。

そして8月13日未明より、租界を包囲した支那軍と日本の海軍陸戦隊との間で
戦闘が始まります。ただこの時点では、日本が国際租界に戦線が広がらないよう
迎撃に終始したこと(低空を飛来した支那軍機にも発砲していない)で、戦線は
まだ限定的でした。他の列強各国の領事の調停の申し出を期待した事もあります。

東京では12日夜から13日にかけての閣議で、ついに陸軍の上海派兵が決定され
ました。ただし、北支に気を取られていたため、現地の長谷川第3艦隊司令長官が
蒋介石の開戦決意を必至として5個師団の増援を要請しましたが、1個師団の決定に
留まります。それでも海相の米内としては『渋々』での同意でした。しかし、次の日
から米内の態度は一変します――。
217イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/28(水) 01:16:15 ID:TsnF39s8
なぜ海相の米内光政が『不拡大方針』にこれほど固執したかと云えば、米内独自の
『対支観』というか、ポリシーがあった訳です。米内は「対支政策について」という
文章の中で、以下のように自身の考えを述べています。

●「あらゆる点において優位にある日本が、大国の襟度をもって積極的に支那を
 リードしてやるべき――」

●「弱者の方から強者の方へ接近することは困難であり、優者をもって自認する
 日本が劣弱な支那に対して握手の手を差し伸べても、日本の威厳とプライドを
 傷つけるものではない――」

米内もまた第3艦隊司令長官(1932〜)を務めた事がありますが、米内の『対支観』は
このように非常に独特でした。一見、協和的な考え方に思えますが、実際は日本の優越を
はっきり謳っており、支那を劣弱国だと見下していた訳です。裕福なボランティアが
ホームレスに対して『良かれ』と思って一方的に抱く感情――勘違いにも似ています。
218イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/28(水) 01:27:29 ID:TsnF39s8
軍令部総長の伏見宮は、こうした米内の『慈善』(逆に言えば、侮り)を危惧して
前述のように述べた訳ですが、

>>214 >>伏見「外交交渉も必要だが『相手は支那人』なので、その成否は
>>不明である。これを重視することは出来ない」

8月13日午後9時には、ふたたび海軍陸戦隊と支那保安隊が戦闘に突入し、
14日午前10時頃には、支那空軍の攻撃隊10数機が上海に停泊していた
第3艦隊旗艦「出雲」を奇襲爆撃し、さらに海軍陸戦隊本部、上海総領事館
などを2回に渡って攻撃しました――。

ちなみに「出雲」は日露戦争時の装甲巡洋艦で、日本海海戦では第2艦隊の
旗艦も務めた武勲の艦でした。もちろん米内光政も第3艦隊司令長官時代に
座乗して指揮を取っています。
219イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/28(水) 01:48:34 ID:TsnF39s8
悪く言えば「慈善家」気取りで、●「まさか日本に本気で歯向かう訳がない」
と支那を舐め切っていた米内光政は、棍棒で頭を殴られたかのように自身の
甘い考えの誤りを修正させられる事になりました。

感謝されていると勘違いしてホームレスを支援していた人間が、その相手から
強盗に遭うようなものです。

支那の空軍機が飛来してくるという事は、「偶発的な武力衝突」では全然なく
明確な蒋介石(国民政府)の日本に対する開戦決意(宣戦布告)とイコールです。

皮肉なことを言えば、太平洋戦争開戦直前のアメリカもどこか日本(国力が
10分の1)に対してまさか全面戦争を仕掛けて来るとは――という油断が
あったのと似ています。その結果は、真珠湾攻撃のパールハーバーです。

米内光政にとっても、日本の在支艦隊のシンボルである旗艦「出雲」爆撃は
パールハーバー奇襲に近い衝撃を与えたのでした。まあ、国力の違いから
起きた現象はこの程度ですがw。
220イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/29(木) 01:04:27 ID:VetvquQf
>>219 >>日本の在支艦隊のシンボルである旗艦「出雲」爆撃はパールハーバー
>>奇襲に近い衝撃を与えた

「**に手を噛まれた」ではないですが、『自身の不明』に海相の米内光政は
怒り狂います。同日の14日午後には、

●「本14日午前10時ごろ、支那飛行機10数機は、我が艦船・陸戦隊本部
 および総領事館などに対し爆撃を加える不法をあえてし、暴戻言語に絶する。
 帝国海軍は今日まで隠忍に隠忍を重ねて来たが、今や必要にしてかつ有効な
 あらゆる手段を取らざるべからざるに至れば、従来の念願に鑑み甚だ遺憾と
 する所なるも止むを得ざる次第なり――」
 
この瞬間に支那事変における海軍の『不拡大主義』は消滅し、支那膺懲のための
積極拡大論が全面に出ることになりました。海相の米内光政は14日深夜の閣議
でも「感情に走った」と見られるほど興奮し、首都・南京占領の提案、さらには
●「海軍としては必要なだけやる考えである」と超強硬論に一変します――。
221イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/29(木) 01:31:09 ID:VetvquQf
この超強硬論には、昭和天皇も翌15日に拝謁した海相の米内に対して「感情に
走らぬように」と嗜めるほどでした――。

なぜこれほど動転したかと云えば、前述したように海相の米内は「外交交渉」を
優先させて、軍令部や現地の第3艦隊から再三要請のあった『作戦準備』を遅ら
せる危険を招いていたからです。そして結果は『このザマ』です。

また、以前から支那空軍が最新鋭機を外国から輸入して航空戦力を高めるなど、
在支権益の保護において海軍が大きな弱点と危機感を抱いた「空からの攻撃」を
受けたのでした(空母を派遣しないと対抗不能:当初は艦載の水上偵察機で迎撃)。

14日夕方には支那の空軍基地を叩くべく、海軍の中攻が台湾の基地から発進
しますが天候不順もあり、多くの損害を出していました。軍令部の部員だった
高松宮(少佐)は日記に、●「中攻6機その他9機、人員計54名の損失――
遺憾なり」と記しています。更に支那空軍機の攻撃は14日夕方まで反復され
ました。
222イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/29(木) 01:58:45 ID:VetvquQf
>>221 >>更に支那空軍機の攻撃は14日夕方まで反復されました。

海相の米内1人が『赤っ恥』を掻くだけなら話は単純ですが、戦争準備を遅らせた
ことは●「死ななくてもよかった人間が多数死ぬ」という事態を招きかねません。

実際のところ1〜2日の遅れでしたがでしょうが、開戦直前の「戦争準備」において
この1日の差は致命的なものになります。

何日か前に、救急車が搬送先の病院を間違えて5〜10分ロス、担送患者が死亡する
というニュースがありました。別に正しい病院に直行しても、担送患者は死んでいた
可能性の方が高いのでしょうが、この5〜10分の差が生死を分けたのではないか?
という答えの出しようが無い『イフ(IF)』が堂々巡りで永遠に付きまといます。

海相の米内もまた、自分がもし戦争準備を遅らせなければ『不必要な戦死者』を数十人
単位(あるいは100人〜)で出さなくても済んだのではないか?――という後悔と
自責の念に憑かれる結果となりました。それが米内を『超々強硬論』へと駆り立てます。
223土着神の頂点 洩矢諏訪子 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/29(木) 02:03:31 ID:???
>>218 >>軍令部総長の伏見宮は、こうした米内の『慈善』

    ,◎‐◎、
  _,.-'-‐‐‐‐-'、_
 'ー( ( メ (^)ノ))-'  
  ノ_ハi ゚ ヮ゚ノゝ   甘いよね。人は感謝を忘れても、恐怖は決して忘れないよ?
   ノ´i(ヨ:::i,つ 
   <_/:fォ::f):ヽ,
   ``'i_フi_フ´´
224名無し三等兵:2009/01/29(木) 07:56:06 ID:???
>223
しかしシナ人は何度痛い目にあっても懲りないよw
225名無し三等兵:2009/01/29(木) 13:45:48 ID:???
そりゃ統一した「シナ人」なんてのが存在しないからな
226土着神の頂点 洩矢諏訪子 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/30(金) 00:50:14 ID:???
>>224 >>しかしシナ人は何度痛い目にあっても懲りないよw

    ,◎‐◎、
  _,.-'-‐‐‐‐-'、_
 'ー( ( メ (^)ノ))-'  そりゃあ、恐怖の与え方が足りないんだよ。
  ノ_ハi ゚ ヮ゚ノゝ   凶作の恐怖、災害の恐怖、そして死の恐怖……。 
   ノ´i(ヨ:::i,〉    誰かの心に私への恐怖が残っている限り、
   <_/:fォ::f):ヽ,   私の力が消えることは無い――。
   ``'i_フi_フ´´
227風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/30(金) 01:01:06 ID:???
         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ   諏訪子さまの仰りたいことを分かりやすくしますと、
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ'    誰かの心に『日本軍』への恐怖が残っている限り、
      ゙,ヘi_i][i,l\ []   日本軍の力が消えることは無い――になりますw。
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄
228イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/01/30(金) 01:33:47 ID:mgUEmybc
>>222 >>それが米内を『超々強硬論』へと駆り立てます。

話は飛びますが、海相の米内はその後「トラウトマン工作」の打ち切りを強硬に
主張し、1938年1月16日の●『国民政府を対手とせず』の政府声明を導く
のに一役買っています。

陸軍が和平工作の継続をめぐって、参謀本部(次長・多田駿)と陸軍省(陸相・
杉山元)で激しく対立した事はよく知られていますが、海軍もまた軍令部と
海軍省でその後の戦争継続について意見が大きく分かれました。

盧溝橋事件の勃発当初とは『真逆』となり、軍令部が交渉継続を支持していた
のに対して、海相の米内が率いる海軍省は「打ち切り論」でした。米内光政は
1938年1月15日の大本営政府連絡会議で、軍令部次長の古賀峯一(中将)に、
和平工作を主張する陸軍の参謀次長・多田駿への賛成を止めるよう説得しています。
229名無し三等兵:2009/01/30(金) 04:38:30 ID:???
シナ事変勃発前後のごたごたはみっちゃんの人生でも最大の汚点よね。
ま〜真面目な東北人本気で怒らすといかに怖いかってことですがw

この米内の怒りがなけりゃ南京陥落前後で和平どうなってたのかね?
どうせ近衛・広田コンビがひっくり返したような気もするが、軍が止めろっつえば流石に空気読んだような気もしないでもない・・・
230イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/01(日) 22:04:21 ID:33PVTf3w
>>229 >>この米内の怒りがなけりゃ南京陥落前後で和平どうなってたのかね?
>>どうせ近衛・広田コンビがひっくり返したような気もするが、軍が止めろっ
>>つえば流石に空気読んだような気もしないでもない・・・

陸相の杉山が「和平」に絶対反対するので、どのみち難しいでしょう。杉山は
不拡大派の多田駿(参謀次長)と激しく衝突しますが、結局――。

杉山陸相「期限までに(支那側の)回答が無いのは、国民政府に和平の誠意が
 無い証拠だ。蒋介石が屈服するまで戦うべきだ」

広田外相「私の外交経験から判断すると、支那側には和平解決の誠意が認め
 られない。交渉は打ち切るべきだ。参謀次長は外務大臣を信用しないのか?」

米内海相「統帥部(大本営)が外務大臣を信用しないのは、政府不信任だ――。
 内閣は総辞職のほかはない」
231イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/01(日) 22:23:18 ID:33PVTf3w
上記の3人のうち、米内の名前が消えたとしても「和平」に転がり込んだとは
思えません。結局、多田は●「統帥部としては反対であるが、『崩壊』(内閣
総辞職)しては、内外に悪影響を及ぼすので、交渉打ち切りは黙過(見過ごす)
し、あえて反対しない」と、参謀次長という一段弱い立場もあり、ついに政府
側に屈服しました。ちなみに閑院宮参謀総長と伏見宮軍令部総長は、この政府・
大本営連絡会議に出席していません――。

要するに、陸相の杉山が●『責任が持てない』と閣僚を辞任して、陸軍が後継
陸相を出さなければ、内閣は総辞職に追い込まれます。まあ、史実の米内光政も
>>230 で分かるように海相を辞任しかねない勢いですが……w。

しかし徐州会戦後に、近衛文麿が「支那事変の泥沼化」の詰め腹を切らせるために
外相の広田と陸相の杉山を辞めさせますが、海相の米内光政は留任です(〜1939)。
その意味では、ほか2人に比べて米内の『和平反対』の影響の度合いはまだ少ない
と言えるかもしれません。
232イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/01(日) 23:10:52 ID:33PVTf3w
ただ外相の広田(と首相の近衛)を1つだけ(他は後述)弁護するならば、議会の
再開が迫っていました(>>230-231 が1938年1月15日。中断されていた
第73回帝国議会が再開したのが1週間後の1月22日)。

当然、政府としての『旗幟』を鮮明にしなければなりませんから、継戦なのか
和平なのか、結論を焦っていた訳です。そこに支那側の引き伸ばし工作なので、
『和平への誠意がない』という早急な結論に至ったのでしょう。ただ忘れては
ならないのは、既に2万人超の戦死者と、その倍以上の戦傷者を出しています。
首都南京の占領と合わせて、生半可な和平条件では国民が納得しないでしょう。

運命の悪戯というか残念なのは、このとき外相の広田は「2・26事件」後の
『粛軍』内閣として首相を経験していたことでした。それゆえに「副首相格」で
近衛政権の外相に就いた訳ですが、国会運営の困難さは骨身に染みていました。
233イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/01(日) 23:25:32 ID:33PVTf3w
もし1回目の外相のとき(斎藤実内閣、岡田啓介内閣)のように、「外交は自分に
任せてもらう(のが就任の条件)」と首相に啖呵を切って、『外交馬鹿』に徹する
ことができる「真っサラ」の状態であれば、また支那事変の行方も変わったのかも
しれません。

しかし、この時の広田は●「私の(外相)在任中に戦争は起こらない」と議会で
宣言できる程の外交官としての純粋さは既に無く、むしろ政治家(首相経験者)
としての側面や、色んなものが混じり合っていたのでした――。
234山坂と湖の権化 八坂神奈子 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/01(日) 23:41:22 ID:???
>>227 >>諏訪子さまの仰りたいことを分かりやすくしますと、

     ___ __ ___
   ,__´l___l___l___l`__、
  ,_'__,´〈〉_r、...._〈〉`ヽ_ヽ,
 /__/〈〉ノ*'´`l⌒ヽ〈〉 i___|
 i___|〈〉( ( ノ ハノ ))〈〉|___i   ちょっと、早苗…。せめて、「反日」よりも「抗日」よりも、
  i___i (( ハ ゚ - ゚ノハ) /__/    『侮日』が一番タチが悪いとか、そのぐらいの表現に
  ' ,_>、_(,_i+○+l,)_,<_ノ      しときなさいよw。
  〈〉'ー,(ン´  ̄ `ヽ,‐' 〈〉
  〈〉  '〜r_ァr_ァ〜'  〈〉
235イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/02(月) 00:24:34 ID:wdUKJkO9
>>233 >>『外交馬鹿』に徹することができる「真っサラ」の状態

話が進み過ぎましたので1937年8月の「第2次上海事変」まで時間を戻します。
しかし、その前に外相の広田弘毅の下で『東亜局長』だった石射猪太郎(いしい・
いたろう)について、少し補足してみるのも良いかもしれません。

もう既に何回も石射はこのスレに登場しているので、お暇な方は「Ctrl+F」で
名前を検索して読み返してみてください。外務省では「幣原―佐分利―石射」
というラインに属するため、広田に対しては非常に厳しい評価(というか酷評)
ですが、その外交官離れした特異なキャラクターはきちんと触れておかないと、
却ってミスリーディングになる可能性が高いでしょう。

ちなみに石射は1887年の福島県生まれ。広田が1878年生まれですから、
約10歳ほど違います。福島中学を経て、1908年に上海の東亜同文書院を
卒業し、最初は満鉄に入社しました――。
236名無し三等兵:2009/02/02(月) 04:37:25 ID:???
      , -‐'"´ ̄ ̄ ̄ ``ヽ
    /爪  ヽ `ヽ、`ヽ、   \
   / / !lヽヽ  \  \ \  }、  サーチアンドデストロイ サーチアンドデストロイだ
  / l l l ヽ ヽ、_弐_ --ヽ _ヽノノ!
  /! ll__l ヽ-‐' "┴─`  l/rヌ、ノ|   我々の邪魔をするあらゆる勢力は叩いて潰せ
  !l/fri刀          >'〉} ノ!
     l ̄ 、 _      ,Lノノ |    逃げも隠れもせず正面玄関から打って出ろ
      ',  ヽ'´ヽ    / | 「||l!,|
       ヽ、  ー'    / .| | | |!|    全ての障害はただ進み 押し潰し 粉砕しろ
       ``ー-ャァ' ´ _」、lLl l!|
         __ノ /==三三ヽL    
       / }ム/==ニ三-ァ-─‐ヽ
        」ll /O/ ニ, -'´ /    , -'´!  
      i´{、/ //   /  , -'´   |
    / ̄  ̄ ー─‐'´   l      |、
   /l  /`ヽ           ノ     /」ヽ
   / l/   l     、   ヽ    / /'iヽヽ
237名無し三等兵:2009/02/02(月) 06:14:47 ID:???
そういう台詞はムサイ男が言ってこそ萌えるもの。
機微がわかってないねぇ。
238名無し三等兵:2009/02/02(月) 06:40:30 ID:???
いちいち語りだすヤツが一番分かってない
239名無し三等兵:2009/02/02(月) 07:12:13 ID:???
>235
>東亜同文書院
>最初は満鉄に入社
臭うぞ!
大アジア主義の腐臭がぷんぷん臭うぞ!!

まあそれはともかくよく、まあ帝大卒じゃなくて出世できたもんだね(棒読み)
240名無し三等兵:2009/02/02(月) 07:47:47 ID:???
>>238
図星指されて狼狽えるなよw
241イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/03(火) 00:21:10 ID:???
>>236

一体どこの誰に話しかけているか判っているのかね? 私がカーキ色の帝国陸軍
軍装を着ていれば良かったかな? 我々は参謀本部第二部支那課だぞ。一体何人
*したと思っているのかね? 暴力と謀略を呼吸するかのように行なう『支那通』
の集団にかね? 叩いて潰せ? 何を今更。半世紀ほど言うのが遅いぞ!

よろしい、結構だ! ならば我々を止めてみろ「自称健常者」諸君! しかし、残念
ながら我々の敵は君らなどではないね。少し黙っていてくれよ、***。私の敵は、
重慶の蒋介石! 延安の毛沢東! いや、そこで嬉しそうにたたずんでいるお前だ!!
242イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/03(火) 00:40:34 ID:aHFyZDPu
>>239 >>まあそれはともかくよく、まあ帝大卒じゃなくて出世できたもんだね

玄洋社社員である広田弘毅も『異色の外交官』ですが、支那事変の勃発当時の
外務省・東亜局長である石射猪太郎(いしい・いたろう)には一歩譲るでしょう。

外交官といえば、一高(事実上の帝大教養学部)を通じて東京帝国大学部に進む
のが王道でしたが、石井は東亜同文書院を卒業して満鉄に3年ほど務めています。

石井は父親の事業を手伝うために満鉄を辞め、内地に帰国しました。けれど程なく
して事業は失敗し、石井は結婚して家庭を持ちながらも失業者の身に窶してしまい
ます――。ちょうど空前の好景気を迎える第1世界大戦が始まる数年前で、資格が
なければ「再就職」もままなりません。何やら今時のご時勢を見るようですw。

石井は岳父の生活援助を受けながら、独学で「高等文官試験」(高級官僚の登用
試験)をパスして実質上の大学卒(並み)になりますが、なかなか希望する職が
見つかりません。石井はさらに一念発起して「外交官試験ならば通りさえすれば
採用してくれる」という理由で受験し、2回目でようやく合格して外務省入りと
なりました。
243イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/03(火) 00:56:13 ID:aHFyZDPu
石井猪太郎が「外務省」に入省したのが1915年――。1916年に領事館補
として広東に赴任しますが、間もなくして『原因不明の高熱』に苦しみ、帰国を
余儀なくされます。

おそらくマラリアではないかと思われますが、支那(とくに南支)は「伝染病の
巣窟」のような場所で、正体不明の風土病も数多くありました。中支でも武漢
辺りは、地図に伝染病の印を付けていくと「真っ黒」になると言われたものです。

1916年に石井は磯辺温泉(群馬県・温泉マークの発祥地)で静養しますが、
ここで後の支那事変『不拡大派』となる柴山兼四郎(当時、輜重兵中尉)の知遇を
得ます。同年暮に体調が回復すると、石井は天津で「総領事代理」として赴任し、
日本人居留民の間で起きた訴訟や刑事事件で「領事裁判」を担当しました。

しかし石井の苦労はまだまだ続き、天津ではインフレや家族の病気で金銭的に大変
窮乏し、天津を離任する時には3000ドルの借金をこさえてしまいます。しかし、
東亜同文書院の先輩の援助によって難を逃れたと云います――。
244イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/03(火) 01:15:10 ID:aHFyZDPu
>>242-243 気がついたら「◎石射」を「×石井」とタイプミスしていました。
お詫びして訂正しますw。

>>239 >>まあそれはともかくよく、まあ帝大卒じゃなくて出世できたもんだね

石射猪太郎自身、●「就職難が私を外交に追いつめたのであって、おおよそ外交官
たるの適格として世俗的に挙げられる社交性、俊敏さ、端正な容姿などは1つとして
持ち合わせていない」と皮肉っており、外務省に入省してからも散々だった訳ですが、
1920年にワシントンの駐米三等書記官に任じられてから、大きな転機が訪れます。

当時の駐米日本大使館は「錚々たるメンバー」で、トップの駐米大使は幣原喜重郎、
館員には佐分利貞夫、広田弘毅、またちなみにですが山本五十六(少佐)も駐米して
いた時期にあたります。

ここで石射は「幣原喜重郎(男爵)・佐分利貞夫」の薫陶を受け、出自やキャラクターは
似ても似つきませんが、幣原流の『協調外交・平和外交』の信念を石射は受け継ぎました。
245イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/03(火) 01:33:02 ID:aHFyZDPu
>>244 >>ここで石射は「幣原喜重郎(男爵)・佐分利貞夫」の薫陶を受け、

この時点で「広田弘毅と石射猪太郎」は対立する運命にある訳ですが、まあ、
おいおい触れていきましょう。

その後の石射は、駐メキシコ公使館勤務、外務省本省の通商第3課長、駐イギリス
一等書記官を経て、大恐慌が始まる1929年には上海総領事に命じられました。
その後、外相の幣原喜重郎の意向により「吉林総領事」に転出し、1931年には
満州事変を迎えました――。

ここで関東軍やリットン調査団相手に苦労させられ、満州国建国、そして第1次上海
事変が停戦した後の1932年に再び上海総領事へと舞い戻り、実に1936年7月
までの長期間務めあげました。この間、石射は新聞記者に●「国際都市上海を平和に
保つことが自分の使命であり、上海だけはいかなる場合にも『無風状態』に置くのが
赴任時の私の抱負だった」と語っています――。
246イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/04(水) 01:02:58 ID:oPWNqlHq
石射猪太郎は4年ほど上海総領事を務めていましたが、1936年に駐タイ
大使へと転出します。ちなみに外交評論家の岡崎久彦も駐タイ大使でした。

バンコク在勤中の1937年3月、石射は外務省の東亜局長に抜擢されます
(林銑十郎内閣)。石射は電報を前にして一晩悩んだ末、●「対支問題につき、
大局的見地より軍部とそりの合わぬことをご承知のうえならば、よろしく
お取り計らいを乞う――」と返電して就任しました。

程なくして林内閣が潰れて「第1次近衛内閣」が成立し、上司の外相には
広田弘毅がカムバックします。石射にとっては「よりによって」といった
感じでしたでしょう。言うまでもなく、広田が1930年代以降に外交の
表舞台に立った背景には、満州事変以降の『幣原外交』の没落と表裏一体
だからです。また、広田と怪死を遂げた佐分利貞夫が「ライバル関係」に
あったことは言うまでもありません。

ただ外相に復帰した広田弘毅からすれば、石射を東亜局長のポストから外す
ことは自由でしたが、あえて留任させた訳です。
247イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/04(水) 01:20:22 ID:oPWNqlHq
>>243 >>しかし石射の苦労はまだまだ続きます。

本来、華やかなはずの外交官としては異常に『苦労人』の石射ですが、それだけに
人を見る目は独特で厳しいものがありました。人相学にも関心を持ち、自分なりの
観相眼を養っていたと云います。

例えば、溥儀が満州国の執政になった時に初めてその顔を見て、あまりの不幸な
運命を示す『兇相』に驚き、満州国の将来に暗雲を感じたと語っています。
248イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/04(水) 01:25:54 ID:oPWNqlHq
>>246 >>ただ外相に復帰した広田弘毅からすれば、石射を東亜局長のポストから
>>外すことは自由でしたが、あえて留任させた訳です。

しかし広田と石射が上手く連携できなかったのは、>>76 で既に述べた通りです。

>当時、外務次官は堀内謙介(のちに東京裁判で広田の弁護役も務める)、欧亜局長は
>信頼する東郷茂徳、一番の懸念である対支関係を扱う東亜局長は石射猪太郎でした。
>このうち最も重要な東亜局長の石射猪太郎と広田は、全くそりが合わなくなります。
>というよりも、もともと幣原喜重郎や佐分利貞夫の系統に連なる石射が広田に対して
>非常に冷ややかな目線で、著しく低い評価だったからです。石射は、

>●「(広田外相は)副総理格の入閣だと伝えられたが、私には広田外相に新鮮味も
>強味も感じられなかった。ワシントン在勤時代にこの人に対して持った私の崇拝と
>期待はこの数年来、急に冷めつつあった。先年の広田内閣組閣の際、軍部から
>付けられた注文に唯々諾々として聴従したり、軍部大臣現役制を復活したり
>などした弱体ぶりに幻滅を感じたのだ。

>この人が心から平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを
>持たなかったが、●『軍部と右翼に抵抗力の弱い人だ』というのが、私の見る
>広田さんであった――」と散々な評価です。
249名無し三等兵:2009/02/04(水) 02:41:12 ID:???
>246
タイは当時でも大使待遇だったのか。
優遇してるね。

タイタイシ…
250イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/05(木) 00:29:11 ID:IjKPfv6p
>>249 >>タイは当時でも大使待遇だったのか。優遇してるね。タイタイシ…

スマン……。ウィキで石射の経歴を簡単にチェックしたのですが、ウィキの方が
間違っていました。正しくは『駐タイ公使』になります……orz. 何か自分でも
書いていておかしいなあと昨日思っていたのですが、やっぱり駄目でしたw。

前スレ>>652 >>今でこそコスタリカやトンガ、ルワンダにだって日本の大使館は
>>ありますが、広田の活躍した時代である1930年代半ばには、●イギリス、
>>●アメリカ、●フランス、●ドイツ、●ソ連、●イタリア、●ベルギー、
>>●ブラジル、●トルコ、●満州国の10ヵ国にしか存在しませんでした。

自分で「前スレ」に書いているのに……。ちなみにタイの公使館が大使館に
昇格したのは1941年8月16日でしたw。
251イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/05(木) 00:51:20 ID:IjKPfv6p
>>246 >>程なくして林内閣が潰れて「第1次近衛内閣」が成立し、上司の外相
>>には広田弘毅がカムバックします。石射にとっては「よりによって……」

もう少し補足しますと、石射猪太郎が「東亜局長」になったのは林銑十郎内閣の時で、
外相は佐藤尚武でした。既に述べたとおり、佐藤は前政権である「広田内閣」の下で
傷ついた支那やソ連との関係(陸軍の北支分治工作・日独防共協定)を改善させる事を
条件に外相に就任したのですが、僅か4ヵ月で総辞職を余儀なくされます(食い逃げ解散)。

>>246 >>●「対支問題につき、大局的見地より軍部とそりの合わぬことを
>>ご承知のうえならば

石射としても佐藤外相の下で『対支外交』の見直しは望む所でしたでしょうが、
数ヵ月で肝心の上司が入れ代わり、よりによって広田弘毅の返り咲きです――。
そして1ヵ月後には『盧溝橋事件』の勃発ですから、運命とは皮肉なものです。
252イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/05(木) 01:24:48 ID:IjKPfv6p
>>248 >>しかし広田と石射が上手く連携できなかったのは、>>76
>>既に述べた通りです。

逆に広田弘毅からすれば、とっとと石射を「東亜局長」から飛ばしてしまえば
良かったと端から見れば思えますが、そうしませんでした。いくら石射の異動
から数ヵ月も経たないとはいえ、政権自体が変わった訳ですから、何とでも
理由はついたはずです。

これは広田自身、外務省の欧米局長時代(1924年)に幣原喜重郎が外相に
カムバック(加藤高明内閣)してきた際に、本来なら1年足らずで左遷させら
れてもおかしくない所を、そのまま留め置かれた経験に因るのかもしれません。

外務省上層部の人事は、政変や自分の感情・いきがかりで軽々しく動かしては
ならないと云う幣原の官僚としての信念ですが、更に幣原自身もまた外務次官
時代に、4年間に渡って5代の外務大臣が自分を次官に据え置いてくれた理由
もあったでしょう。まあ、因果は巡るというヤツです。
253イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/05(木) 02:05:33 ID:IjKPfv6p
しかし、それ以上に広田は石射の「外務官僚離れ」したキャラクターを
東亜局長に貴重だと思ったのではないでしょうか。

広田自身、外務大臣に抜擢されたのは「駐ソ大使」時代に満州事変に
直面した際、厄介なソ連政府との交渉を乗り切った(翌年には満足な
日ソ漁業協定にもこぎつける)タフ・ネゴシエーターぶりが評価された
理由も大きかった訳です。

また何より日本の外交の主導権を奪いつつあった陸軍に対抗するには、
お行儀のいい公家の様なエリート外交官では務まらない……。玄洋社
にも繋がる博多の蛮人・広田の時代が1930年代にやってきたのは
単なる偶然ではありませんでした。

同様に強硬な陸軍人の脅しにも屈せず、また上海総領事を長期間務めた
石射は、幣原ライン(そして1歩先行くライバルだった故・佐分利の系統)
とはいえ、広田にとって期待するところ大だと思えたのでしょう。
254イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/06(金) 00:35:53 ID:qucoxRde
>>253 >>広田にとって期待するところ大だと思えたのでしょう。

しかし石射が上海総領事から駐タイ公使として支那を離れていた1年間の内に
「綏遠事件」や「西安事件」が起こり、反日ナショナリズムが膨れ上がるなど
情勢は様変わりしていました。外交評論家の岡崎久彦の表現を借りれば、

●「情勢判断でもっとも怖いのは、自分がよく知っていると思っている情勢が、
 ちょっと目を離している内にいつの間にか、様変わりになっている事である。
 何十年の経験を誇るプロでも、1年間情勢の変化から目を逸らしていると、その
 1年情勢をフォローしてきた駆け出しの現場の人間より判断が劣る事がある――」

石射にはまさにこれが当てはまり、石射の盧溝橋事件の第一印象は●「また(日本の)
軍部がやりやがったw」でした。上海総領事時代の石射の記憶にあったのは「日本軍の
脅威におびえつつも、最後の繁栄を楽しんでいたつかの間の平和の上海のイメージ」
だった訳です。これでは事変の処理を巡って広田とズレが生じるのは、むしろ必然です。
255イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/06(金) 01:04:44 ID:qucoxRde
>>254 >>石射の盧溝橋事件の第一印象は●「また(日本の)軍部がやりやがった」

ちなみに『北支出兵』の閣議決定(1937年7月12日)に対する石射の感想は、

●「冗談じゃない、野獣に生肉を投じたのだ――」

でした。「野獣」が何を指すかは言うまでもないでしょうw。

さて脱線が続きましたが、「第2次上海事変」に話を戻します。近衛内閣は8月
13日の閣議で、内地2個師団の上海派兵を決定しました。これは従来からの
陸海軍の協定で、上海有事の際は2個師団出兵の約束があった訳です。何とか
不拡大に抑えたいカンジ(石原莞爾・参本作戦部長)でしたが、止むを得ず
同意しています。しかし結論から言えば、2個師団で足りる訳がありません。

満州事変後の第1次上海事変(1932)で日本軍は、3個師団半の兵力を投入
しても戦況は容易でなかった訳です。「肉弾三勇士」や「空閑大隊長の自決」
(少佐・捕虜になり送還後に戦場跡で自決)のエピソードは、この際の戦闘で
生まれたものでした。日本軍の戦死者は769人、戦傷者は2300人です。
256イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/06(金) 01:40:27 ID:qucoxRde
そして1937年8月14日には、海相の米内光政の逆鱗に触れた日本海軍の
艦艇を狙った空襲(奇襲)が始まり、上海租界の海軍陸戦隊も国民党軍の攻撃に
晒されます。幸いなことに土人軍共は砲を持たなかったために、緒戦の攻撃は
失敗に終わりました。

8月15日には九州の大村基地等から96式陸攻が飛び立ち、国民政府の首都
南京に対して「渡洋爆撃」が開始されます。さらに16日には、南京総領事館
から日本人の館員が総引き揚げです。

支那側の航空機による奇襲爆撃は、日本に対する事実上の「宣戦布告(開戦決意)」に
等しいものです。外相の広田弘毅は、国民政府の駐日大使である許世英を呼び出し、
●「支那側の態度は帝国政府の『不拡大方針』とは全然反対のものなり」と批判し、
さらに●「自分は満州国承認(支那に認めさせる)の時期は今日、遂にやって来た
と考えている」と脅しあげました。

8月15日には政府から『暴支膺懲』の声明が出される事になります――。
257名無し三等兵:2009/02/06(金) 18:42:43 ID:???
朝のさわやかな気分を間抜けの糞虫さながらの書き込みで気分を害されたぞ
知ったかもいい加減にしろよ
俺がお前の居場所を知ってたら、本当に指の二三本落として鯉の餌にしてやるわ

高橋是清翁が暗殺されたのは、粛軍予算と国会で荒木貞夫陸軍大将とやりあって
荒木が憤懣やる方無きを皇道派の青年将校にぶちまけていたからだ
それほど金を出せないと言う高橋蔵相に、支離滅裂な説明をして挙句の果てに
竹槍一千万本あれば英米なにするものぞとやり、噴飯ものにされたからだぞ
輪切りと書いてるが、お前検視報告書を読んだのか?
左だか右だか忘れたが、腕は切断寸前だが輪切りなんかになってないぞ
高橋蔵相が行った金融政策は、赤字国債を直接日銀に引き受けさせて、同時に
公共事業を増やし地方にもお金が回る様にした
積極財政政策で、野党がばら撒きだの何だのと悪口を言う予算だ
ただ、前任の浜口雄幸ー井上準之助のラインが緊縮財政だったからその反動で
景気は回復したんだぞ
それが順調に景気が回復したので、インフレを防ぐ方策として粛軍含む予算の基本的な
方針を少し変えた・・・
粛軍は出来ない、陸海軍とも軍備増強を強硬に言って、帷幄上奏と言う禁じ手を使おうとしたのが
海軍の軍令部長の加藤寛治で、それを止めたのが当時侍従武官だった鈴木貫太郎じゃないか
それが統帥権の干犯にあたると言うので鈴木も襲われたし内大臣だった斎藤実も暗殺されてる

赤字国債発行日銀引き受けが政府紙幣になるのか?
それなら、過去にずいぶん発行してる事になるわな?
俺はついぞ地域振興券以外見たことねえぞ
258名無し三等兵:2009/02/06(金) 22:03:57 ID:???
誤爆だろうけど、穏やかな話じゃねぇなぁ。
259名無し三等兵:2009/02/07(土) 03:33:04 ID:???
匿名掲示板の書きこみ一つでそこまで思いつめてたら生きていけないと思う
260イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/08(日) 01:15:38 ID:kaLR7U+c
>>256 >>8月15日には政府から『暴支膺懲』の声明が出される事になります。

8月14日午後10時から開かれた臨時閣議で陸相の杉山元は「日本政府は
いぜん不拡大方針を堅持し、事変の早期解決を目指すべきである」と前置き
しつつも、「このような政府声明を出して貰いたい――」とガリ版刷りの案文を
他の閣僚に配りました。要約すると以下の通り。

「南京政府は共産主義勢力と投合して反日・侮日がいよいよ甚だしい。更に
 中南支でも『挑戦的』態度で帝国臣民の生命財産を脅かし、わが居留民は
 徹底を余儀なくされ、帝国としては『隠忍自重の限度』に達した。

 支那軍の『暴戻を膺懲』し、もって南京政府の反省を促すため、今や断固
 たる措置を取るの已む無きに至れり。しかし、いささかも領土的意図を持つ
 ものではなく、一般大衆に何ら敵意を有するものではない。かつ列国の権益
 尊重には最善の努力を惜しまない――」
261イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/08(日) 01:37:59 ID:kaLR7U+c
いまや海相の米内光政が「南京占領」を提起するようになり、鉄道相の中島
知久平が「この際、徹底的に叩きつけるのが良い」と強硬意見を述べると、
逓信相の永井柳太郎も「それがよい」と相槌を打ちました。

肝心の外相の広田弘毅ですが、原文ママの『共産主義勢力』では、ソ連まで
声明に含んでいると誤解されるので、『赤化勢力』(中共)に修正する方が良い
と指摘するに留まり、とくに反対していません。

結局、賽は既に振られている訳で、残りの閣議は「宣戦布告」が必要かどうか?
など雑談レベルの話に終始したと云います。このとき首相の近衛はいつもどおり
黙って皆の意見を聞くだけでした。

そして翌8月15日、●「暴支膺懲、南京政府の反省を促す」と政府声明が発表
され、日本の各新聞が「日支全面戦争に拡大」と大見出しで報じる事になります。
また近衛内閣は8月17日に『不拡大方針を放棄する』と正式決定しました――。
262イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/08(日) 02:09:05 ID:kaLR7U+c
さて「広田弘毅」がこのテーマの主役とはいえ、外交だけ追っていくと当然
片手落ちのミスリーディングになりますので(逆もまた真なり)、戦闘の推移も
簡単に触れていきましょう。なので「話の時系列」が前後していくのはご容赦下さい。

>>255 >>近衛内閣は8月13日の閣議で、内地2個師団の上海派兵を決定

こうして第3師団(名古屋・師団長:藤田進中将)と第11師団(善通寺・
師団長:山室宗武中将)の両師団に上海派遣のための動員令が下りました。
他にも北支に派遣するための動員が第14師団(宇都宮・土肥原賢二中将)
に対して行なわれています。

8月15日には上海派遣軍の司令部が新設され、当時予備役だった松井石根
(大将、第11師団長・台湾軍司令官など歴任)が軍司令官に召集されました。
参謀長は飯沼守(少将)です。ちなみにですが、松井は予備役に編入(1935年)
された後は「大亜細亜協会長」を務めていました。
263イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/09(月) 00:12:16 ID:UD6yjT9J
>>262 >>8月15日には上海派遣軍の司令部が新設され、

海相の米内から「南京占領」など強硬意見も出ますが、当初の段階での上海派遣軍の
任務は、●「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、帝国臣民を保護すべし」という
内容に抑えられ、首都・南京まで攻略するのが目的の作戦軍ではありませんでした。
それは「2個師団派遣」という中途半端な兵力投入にもよく現れています。

これに対して軍司令官の松井石根は8月18日、東京出発に先立って開かれた陸軍
三長官(陸相・参謀総長・教育総監)主催の壮行会の席上、上海派遣軍の『任務』に
ついて●「不満」を述べています。そのあと松井は参謀本部に赴き、参謀次長の
多田駿(中将)以下、各部長級と懇談して、以下のようなやり取りがありました。

松井「不拡大・局地解決方針の放棄に伴ない、作戦も転換すべきだ。国民政府が存在
 する限り、支那問題は解決できない。蒋介石の下野と国民政府の没落によってのみ、
 支那問題は解決できる。支那問題が解決すれば、対ソ問題もある程度解決し、イギ
 リスも追随する――。

 我が国は北支より南京攻略に主力を注ぎ、速戦即決を図るべきだ。終局は南京占領を
 目標とし、5〜6個師団をもって宣戦布告するのが良い。また経済封鎖をして、英米の
 支那援助を遮断すべきだ」
264イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/09(月) 00:38:36 ID:UD6yjT9J
要するに松井は、作戦目的(兵力投入)が中途半端すぎて「良い所、第1次上海事変の
繰り返しになるだけだ」と言いたかったのでしょう。弥縫策というか対症療法というか、
初手から最低限の兵力で戦わされる軍司令官はたまったものではありません。これに
対して、あくまで「不拡大派」の多田駿(参謀次長)とカンジ(石原莞爾・作戦部長)は、

多田「南京攻略の着想は誰しも同じだが、具体的に研究すればするほど困難が加わる」
石原「今(邦人保護)の作戦目的を達成したのち、南京をどのくらいの兵力で何ヵ月で
 攻略できるかを研究したい。『参謀本部にはそうした資料が無い』。故に今のところ
 南京攻略は『不可能』だと考えている」

と作戦の中心たる参謀本部の最高責任者である2人(総長は閑院宮)は煮え切りません。
多田駿とカンジは、日支全面戦争に乗じてソ連が満州に侵攻してくるのを極度に怖れて
いた訳ですが、南京攻略が『そうした資料が無くて不可能』とは言いも言ったりです。
自分の「ポジショントーク」の無理やりな言い訳にしても酷すぎますw。

逆に松井は、国民政府の首都である南京さえ占領すれば戦争は終結し、長年の日支の
懸念問題(最たるものは満州国の承認)も、一挙に解決できると考えていた訳です。
265名無し三等兵:2009/02/09(月) 01:00:29 ID:???
>>263
>当初の段階での上海派遣軍の
>任務は、●「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、帝国臣民を保護すべし」という
>内容に抑えられ、首都・南京まで攻略するのが目的の作戦軍ではありませんでした。

上海派遣軍は編成時点では「戦闘序列」が下令されず、「編組」が示されたのは、このためなんだろうか?(戦闘序列が下令されたのは、9月11日)。
266イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/09(月) 01:11:27 ID:UD6yjT9J
>>264 >>『参謀本部にはそうした資料が無い』。故に今のところ南京攻略は
>>『不可能』だと考えている。

こうした過小な兵力投入は、『不拡大方針』の放棄を宣言しつつも未だに未練を残す
政府側の問題も大きいですが、何より参謀本部のやる気が無かった(中堅幕僚は除く)
ことも挙げられます。上2人はサボタージュに近いですがw。特に日支戦争が泥沼に
陥るのを怖れる余り「2個師団」しか派遣しなかったというのは、現場が血で大量に
補う結果となりました。

松井は東京駅に見送りに来た陸相の杉山元に対して●「南京まで行くように陸軍を
まとめてくれ」と言い、首相の近衛文麿には●「どうしても自分は南京まで行くから、
総理もこの点、了解して頂きたい」と啖呵を切ります。

驚いた近衛は杉山に●「陸軍は本当に南京まで行くつもりか?」と問うと、杉山は
●「松井はああ言うが、とても南京まで行けない。精々蕪湖くらいで止まるだろう」と
答えています。そりゃあ増援が前提の話でしょうが、仮に2個師団で南京まで行けたら、
それこそ『神軍』です。松井が言うように最低限5〜6師団は必要であり、実際の史実
では中支那派遣軍だけで2個軍・9個師団です――。(※北支に2個軍・7個師団)
267イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/09(月) 01:46:04 ID:UD6yjT9J
さて蒋介石の思惑ですが、過去の中テーマ『上海航空決戦』や『支那とドイツ軍事
顧問団』でも少し触れたとおり、国際都市・上海という欧米列強の目前で日本軍を
『超短期決戦』で叩き潰すことでした。「公開レイプ」みたいなものですw。

まあ言い方は悪いですが、後に日本がアメリカに対して真珠湾攻撃の奇襲を行ない、
国民の継戦意欲を喪失させるのを狙った事に、似ていると言えない事もありません。

そのために蒋介石自身の私兵であり、虎の子の『中央直系軍』(蒋介石の国内政治
力の源泉であり担保でもある)を磨り潰す覚悟で、初手から投入しています。逆に
言うなら「最初から後が無い」とも表現できます。

ドイツ軍事顧問団の指導により、第1次世界大戦(WW1)型の塹壕(陣地)戦を
展開すれば、海軍陸戦隊と居留民の救援に上陸してきた日本軍を「逐次消滅」させる
ことが出来ると考えたのでした。

WW1のような英仏独ソの塹壕線における戦死者を見れば、海軍陸戦隊と居留民という
人質を取られた形の日本軍は、『時間制限』もあり攻め手に回らざるを得ませんから、
そのように夢想できなくもありません。またカンジが異常に日支戦争の泥沼化を怖れた
のもこのためでした。また支那・中央直系軍の装備は、機関銃や手榴弾など歩兵レベルで
部分的にですが、日本軍のそれを上回ります。そしてエリート意識は抗日感情に支えられ
士気は強烈でした――。
268名無し三等兵:2009/02/09(月) 01:50:08 ID:???
日中戦争=蒋介石の謀略+近衛文麿のボンボン外交方針

269御大韓さま ◆3yfCH5upaQ :2009/02/09(月) 19:56:59 ID:???
戦史叢書をなぞってるだけのスレ
270名無し三等兵:2009/02/10(火) 00:28:59 ID:???
中佐って戦史叢書は『北支の治安戦』しかもってないんじゃなかったっけ?
なぞってるということはないでしょ。
271イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/10(火) 00:30:06 ID:V4BaVuks
>>265 >>上海派遣軍は編成時点では「戦闘序列」が下令されず、「編組」が示された
>>のは、このためなんだろうか?(戦闘序列が下令されたのは、9月11日)。

手元に資料が無いので何とも言えませんが、簡単な調べ物にいつも重宝している
このサイトですと、ttp://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/unit/guntop.html
1937年8月15日に下令になっています。こちらの方が間違いかしらん?

もし9月11日だとすると、直前の9月7日に北支那方面軍から部隊の転用や、
同じく9月9日に重藤支隊、第9師団、第13師団、第18師団、第101師団
……などの大量動員が決定されていますから、考えられなくもありません。

>>267 は半分寝そうになりながら書いていました。文脈が乱れ過ぎw。

×まあ言い方は悪いですが、後に日本がアメリカに対して真珠湾攻撃の奇襲を行ない、
 国民の継戦意欲を喪失させるのを狙った事に、似ていると言えない事もありません。

◎まあ言い方は悪いですが、後に日本がアメリカに対して真珠湾攻撃の奇襲を行ない、
 米国民の継戦意欲を喪失させ『早期講和』を狙ったのに、似ていなくもありません。
272元32:2009/02/10(火) 00:30:38 ID:???
ずいぶん新しい研究を参照されています。
というか、広田は戦史叢書にはあまり出てこない。
>>267 >>国際都市・上海という欧米列強の目前で日本軍を『超短期決戦』で叩き潰すことでした。

     _...,、.._))
   ,,´,===?、
    ( ソノ))ノハ((  
   Xネ.゚ ー.゚ノ(   苛められっ子が、先生のいる前を狙って(止められるのを期待して)
    /^i、_:@つ  わざとキレるのに似ていませんか? まあ、今の先生は止めてくれる
   (ン'ー-:->、_  のか知りませんが…。どうでもいいですけど、私のAAは可愛いのが
    '〜i_テi_テ〜'  なかなか無いですねえ。某脱走兵は、私の株が急上昇らしいですw。
      ̄  ̄
274名無し三等兵:2009/02/10(火) 00:48:47 ID:???
八日のサンクリはまた隔離状態でしたなぁ。
これでおしまいなのかしら。
275名無し三等兵:2009/02/10(火) 00:52:28 ID:???
次のサンクリはつこうたで中止…
276イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/10(火) 01:04:20 ID:???
>>270,>>272 『北支の治安戦』以外には、いつか「重慶攻略作戦」のテーマをやるために
『昭和17・8年の支那派遣軍』しか持っていません。これは自慢なのか、自虐なのかw。

>>274 サークルの個人情報のダダ漏れ問題で、どうなることやらw。3月に『例大祭』が
あって物入りなので、4月のサンクリは中止で構いませんが、本当に「オシマイ」になる
と困りますw。レボとサンクリが交互にあった時代が懐かしいです。
277イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/10(火) 01:26:34 ID:V4BaVuks
さて『地獄の上海決戦』です。上海派遣軍司令官の松井石根は第3師団(名古屋)と
第11師団(善通寺)を、揚子江の河口にほど近い祟明島の対岸――河沙鎮と呉淞に
上陸させようとしました。これは最初に上海北方地区を制圧するための作戦です。

第11師団は8月23日払暁の午前5時、川沙鎮付近に敵前上陸しますが、国民党軍の
猛反撃を喰らって大苦戦に陥ります。これは日本側の『兵要地誌』が誤記により「上海
付近の地形は野砲以上の大砲が使用できず」と書かれていたためです。そのため重砲が
不足し、また>>267 の最後の方で述べたように、はっきり言って「小火器レベル」では
支那の土人軍の方が『装備弾薬量』共に優秀ですから、結果は書くまでもありませんw。

また第3師団は同じく8月23日の払暁に、呉淞の鉄道桟橋付近へと強行上陸しましたが、
これも猛反撃を受けて四苦八苦します。海軍の協力と、第11師団から浅間支隊(徳島歩兵
第43連隊)の増援を受けて、呉淞鎮を占領したのは実に1週間以上も経過した8月31日
のことでした――。
278 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/10(火) 01:32:19 ID:???

               _∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧_
   _,,....,,_      > 上海決戦、ゆっくりしていってね ! ! ! <
-''":::::::::::::::`''丶、    ̄V V V V V V V V V V VVVVVVVV ̄
ヽ::::::::::::::::::::::::::::::::\_,. -‐ァ     __  _____   ______
 |::::,-' ̄ヽ、ヽr-r'"´  (.__  ,´ _,,'-´ ̄ ̄`-ゝ、_ イ、
_,.!イ_ _,.ヘーァ'二ハ二ヽ、へ,_7  'r ´         ヽ、ン、
::::::rー''7コ-‐'"´   ; ', `ヽ/`7 ,'==‐-      -‐==', i
r-'ァ'.,' | /__,.!/ V、!__ハ  ,' ,ゝ i イ iゝ、イ人レ/_ルヽイ i |
`!  !/レi' (ヒ]    ヒン レ'i ノ   レリY! (ヒ]    ヒン  ト !ノ i |
,'  ノ  ! '"  、─ッ "i .レ'      L','" 、─ッ  "'L」 ノ| .|
,.ヘ,)、ノ )>,、 _ ` ´ ,.ノ! ハ       レ|ヽ、_` ´_ ,イレレイレ'
279イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/10(火) 01:41:43 ID:V4BaVuks
>>278 >>上海決戦、ゆっくりしていってね ! ! !

まあ、言うまでもなく●「ゆっくりした結果がこれだよ!!!」
になる訳ですが……w。
280名無し三等兵:2009/02/10(火) 21:10:43 ID:GerCNhU+
>>271
井本熊男・監修、森松俊夫・執筆、外山操・執筆、上法快男・企画編集「帝国陸軍編制総覧 第1巻」(芙蓉書房)の『前編 帝国陸軍編制史概説(森松俊夫)』から転載
(前略)
 しかし、中国の戦意は高まり、8月13日、抗日運動の燃え上がっていた上海に戦端が開かれた。この方面の居留民保護は海軍の担当であり、陸軍は、事変を華北に限定しようとしていたので、上海方面派兵には極めて慎重であった。
 しかし、情勢の急変により、14日、上海派遣軍司令部、第3・第11・第14師団等104個部隊の動員が下令された。
 15日、上海派遣軍は、一時的派遣の意味をもって、「戦闘序列」を下令することなく、「編組」が示された。第3・第11師団(天谷支隊欠)基幹の軍である。派遣軍は、同月下旬、逐次上海戦線に加入した。
(中略)
 上海派遣軍方面の戦況進展は極めて困難であった。このため、野戦重砲兵大隊、攻城重砲隊等を派遣軍に増派し、華北から砲兵隊等を上海に転用し、また天谷支隊を第11師団に復帰させ、台湾守備隊を応急動員した藤重支隊を派遣した。
 9月上旬、第9・第13・第18・第101師団をはじめ91個の部隊に逐次動員が下令された。
 9月11日、第3・第9・第11・第13・第101師団、第3飛行団等を基幹とする上海派遣軍の戦闘序列が下令され、同軍の軍容を一新した。

※戦闘序列:戦時または事変に際し、天皇の令する作戦軍の編組であり、これにより統率の関係を律した。
※編組:作戦上の必要性に応じ、一時的に、数個の部隊を適宜に組み合わせること。また、作戦軍でなく、戦闘序列を下令しない軍に「編組」を令することがあった。たとえば、「関東軍の編組」「上海派遣軍の編組」など。
281イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/11(水) 23:40:01 ID:Z6liBe/0
>>280 >>15日、上海派遣軍は、一時的派遣の意味をもって、「戦闘序列」を
>>下令することなく、「編組」が示された。

どうもでございます。よく分かりました。あくまで『一時的な派遣』の意味合いですね。

>>263 >>当初の段階での上海派遣軍の任務は、●「海軍と協力して上海付近の
>>敵を掃滅し、帝国臣民を保護すべし」という内容に抑えられ、首都・南京まで
>>攻略するのが目的の作戦軍ではありませんでした。

>>267 >>海軍陸戦隊と居留民という『人質』を取られた形の日本軍は『時間制限』も
>>あり、攻め手に回らざるを得ませんから

補足になりますが、外相の広田弘毅は1937年7月28日に、揚子江上流の重慶、
宜昌、沙市、長沙、武漢、九江、蕪湖、大冶、南京、鎮江に在住の日本人居留民・
2万9230人に引き揚げを勧告していました。そして日本海軍の艦艇で8月上旬に
上海へと運んだのですが、元からいた上海の3万人、そして青島の2万人の居留民は
『現地保護』の方針だった訳です。
282イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/11(水) 23:58:11 ID:Z6liBe/0
ちなみにですが、上海決戦の起こる前に、国民党軍が『大挙北上』(数十万)の報が
流れると、青島在住の日本人が『通州事件』のように皆殺しにされるのではないかと
参謀本部は慌てました。作戦課長の武藤章(大佐)は、この支那北上軍を返り討ちにし、
その勢いで南京まで雪崩れ込む作戦プランを立てていたのですが、結果は陽動に終わり
『上海決戦』に突入した訳です。

>>281 >>元からいた上海の3万人、そして青島の2万人の居留民は『現地保護』の
>>方針だった訳です。

しかし8月上旬にさらに上海周辺がキナ臭くなると、第3艦隊司令長官の長谷川清中将は
佐世保に待機中の海軍部隊に上海出動を命じます。そして日本人居留民もさらに内地へと
送還され、上海決戦が勃発した8月中旬には1万人が残っている状況でした。また南支に
いた日本人居留民1万2千人は8月中に引き揚げを完了しています。
283イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/12(木) 00:31:19 ID:aMBEt8TF
>>279 >>まあ、言うまでもなく●「ゆっくりした結果がこれだよ!!!」
>>になる訳ですが……w。

いかに上海決戦で日本軍が苦戦したかは、過去スレでも少し取り上げた『オ父サンノ
センサウ――小長井少佐日中戦争陣中日誌』が第3師団の現場の中隊長(40代!)の
視点で描かれていてピカイチなのですが、残念ながら上陸第1波ではありません。なので
真っ先に上陸した将兵が一体どんな体験を味わったか、分からないのが残念なところです。

また同じく過去に取り上げた『上海敵前上陸』(第11師団)の描写も9月3日の上陸の
ため、やはり上陸第1波ではありません……。まあ、ちなみにこんな感じです。
284イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/12(木) 00:42:26 ID:aMBEt8TF
「呉淞の岸壁に這い上がった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。修羅の巷も
 こんなに酷くないであろうと思われるほど、残酷なものであった。岸壁の上一面が
 見渡すかぎりの死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に
 積まれたマグロのように、数千の兵の屍が雑然と転がっている。それと同時に
 ヘドの出そうな、嫌な死臭が私の鼻をついた。
 
 これは10日前に敵前上陸した名古屋第3師団の将兵の変り果てた姿であった。
 彼らはこの地に中国軍の大部隊が待ち構えていると知ってか知らずか、上陸するや
 いなや次々に薙ぎ倒されていったに違いない。そして兵達は何が何やら分からない
 まま死んでいったのだ――」

また第3師師団の「衛生隊」や「通信隊」の将兵が残した回想録によると(後方部隊
だからこそ生き残って手記が残せた。また冷静な手記を残す余裕があった)、

「8月23日午前9時頃、呉淞鉄道桟橋に上陸――。
 想像していた以上の苦戦が続いた。こんな事は考えてもいなかった。自分らは
 同時に『当陽丸』病院船へと急いだ。午前10時頃、病院船に行って見て驚いた。
 患者が船に収容できぬほど満員で、砲弾の患者が多く、また重傷者ばかりであった」
285イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/12(木) 00:55:29 ID:aMBEt8TF
「8月23日――。包帯所に戦死者の遺体が山となり、戦傷患者の担架で船倉が
 一杯となる。激しい銃弾の中で、駆逐艦が堤に横付けにされていた『当陽丸』に
 接舷した。上陸して直ぐだった。

 当陽丸まで担架隊が負傷兵を運んできた。陸戦隊も相当混じっていた。当陽丸の
 大船室をとりあえず収容場所として、われわれ衛生部員は包帯と止血に忙殺された。
 周囲が暗くて分からなかったが、足の負傷が大変多かったのが印象に残っている」

「8月23日。ジリジリと前進を続ける彼我の状況を知らんとす。しかし上陸部隊の
 被害甚大で、その後の敵情が定かでない。正午までに上陸を予定していた師団長も
 後退まで考え出した。惨胆たるものがある」

「9月2日夕方。敵前再上陸を開始。上陸地点一帯は、縦横に八番線が張られ、
 地雷が装備されていた。歩兵部隊では小隊長をはじめ多数の方が戦死された」

「9月13日。現役当時の同年兵の軍曹に会う。彼は8月23日、歩兵分隊として
 敵前上陸し、1個分隊中2名しか残らなかったと話す。長話もできず、命があったら
 また会うことを約して、手を硬く握りあい別れた――」
>>283 >>真っ先に上陸した将兵が一体どんな体験を味わったか、分からないのが
>>残念なところです。

   ッ-ヘ。__。ヘ     /ー- 、
   レ, '´゚   `,〉.   /==ヽ i
   i ハ)))ハ))ノ)  /   .)ノ
    イオi ゚ ヮ゚ノヘ  /    ((   まあ、みんな死んでるからね。
    ,ぐ`i盃、ツつ'
   ,メ∪イ-i、ゝ/
    ゙'ーi_'ォ_ァ"/
287イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/12(木) 01:12:10 ID:aMBEt8TF
>>285 >>上陸地点一帯は、縦横に『八番線』が張られ、地雷が装備されていた。

補足ですが『八番線』とは、径4ミリほどの太い鉄線(針金)のことですね。
288名無し三等兵:2009/02/12(木) 01:32:37 ID:???
鉄条網じゃなかっただけましということで・・・
289名無し三等兵:2009/02/12(木) 01:52:49 ID:???
旅順の再来か。

     _...,、.._))
   ,,´,===?、
    ( ソノ))ノハ((
   Xネ.゚ ー.゚ノ(   第2次上海事変は、名称が『事変』と付くだけに、その損害の実態が
    /^i、_:@つ   満州事変、あるいは第1次上海事変と同じようなレベルで歴史的に 
   (ン'ー-:->、_   「過小評価」されていますね。名称の与える影響は、怖いのですよ。
    '〜i_テi_テ〜'  歴史の教科書に『上海決戦』と載っていたら、近現代史観もまた
      ̄  ̄    少しは変わっていたでしょうか――。さあ、これからが本番です。

        眠りを覚ます恐怖の記憶(トラウマ)で眠るがいい! 『想起 上海決戦』!
291名無し三等兵:2009/02/12(木) 21:28:58 ID:???
上海事変で国民党軍が日本軍部隊につけた符号
・台湾土民軍
・中央直系第十一師団
・中央直系第九師団
・中央直系第三師団
・第百一偽軍
・海軍陸戦隊
292名無し三等兵:2009/02/12(木) 22:17:09 ID:???
わが中国の精鋭部隊が友好国ドイツの援助で日本を徹底的に叩いておけばよかったのだ
あんな中日戦争の終わり方はいやだ

まあ軍事的に見れば、縦深な要塞線を構築し日本軍を正面から迎え撃ったところまでは正しい作戦だった。
そのため、日本軍側は多大なる損害を受け、要塞線突破も思うように進まなかった。
しかし、杭州湾から別部隊が上陸し、要塞線を側面から攻撃したため中国軍は総崩れに陥る。
結局、要塞線は機動戦に対応できないため、側面や背面からの攻撃には非常にもろい。
これは第一次世界大戦の教訓である。
結局、中国軍を指導したドイツ軍の用兵思想が第一次世界大戦から進歩して無かったと言えるだろう。
つまり、機動戦に対応する為にトラック、装甲車、戦車等の戦闘車両を大量に中国に売りつけ、もっとウハウハ
すれば勝てたのだ。
もっと、中国から金を巻き上げれば勝てたのだ。
293名無し三等兵:2009/02/12(木) 22:37:25 ID:???
 八月三十一日白昼再度上陸用舟艇に分乗し、呉淞鎮に上陸した。幸いそのときは死傷者もなく成功裡に進撃できたが
翌九月一日の戦斗はまさに死斗そのものであったと今でも脳裡を去らない。
 この日第九中隊は、同成大学から五百米位北方にある皮家宅攻略を命ぜられ、正午すぎ一斉攻撃に移ったのであるが、
敵は皮家宅の南側にあるクリークの防衛線に堅固な陣地を構築しておりチェコ機銃を始め、あらゆる火器を駆使し雨霰のように
乱射し攻撃前進は意の如く進展しなかった。

当時の攻撃方法は上陸間もないときでもあり内地で歩兵操典によって教育を受けたとおりに、
「早駈け前へ」の号令と共に一斉に駈け足で前進したものである。このため敵の集中射撃による弾幕の中へ飛び込んで行く結果となり、
あちらこちらで倒れる戦友は跡を絶たず、苦戦という表現がぴったりするような戦況であった。

…この陣地を撲滅しなければ皮家宅の攻略は不可能な状況であった。
…山口金市中隊長は…大隊本部へ行き…大隊砲による砲撃を依頼するよう命ぜられた。
…これに対し大隊砲小隊では上陸以来約一週間すでに携行した砲弾は使い果たし、補充もないため撃つ弾丸がないとのつれない回答、

…中隊が集結したところにたどりついたときには約百六十名の応急動員編成であった兵員は半数の八十名ばかりに減ってしまっていた。
…僅か半日の戦いに三十数名が戦死しこれ以上の負傷者があったと覚えている。この日の激戦は、内地において我々の中隊は
全滅したとの風評がたったといわれた…
(68連隊9中隊)

見渡す限り輜重車とトラックの列で動いていない。その間隙を縫って前進である。
トラックは四十糎砲弾を一発しか積んでいない輜重車も米俵一俵だけである而も泥濘で動けないのである。
(10月12日 34連隊)
294名無し三等兵:2009/02/12(木) 23:24:50 ID:???
午前三時突如呉淞鉄道桟橋に接岸した。敵は上陸を察知し江岸至近陣地より銃機関銃弾を集中し、
迫撃砲弾雨下を強行上陸を敢行した。海軍陸戦隊は南方江岸に、歩兵第六十八連隊第五中隊は
北方江岸に地歩を占め、歩兵第六連隊はその乗船信陽、当陽、雲陽丸は接着繋留し、敵弾をおかして
第三大隊、連隊本部、予備隊である第一中隊、工兵一個小隊、旅団無線隊の順序で午前三時四十分
上陸に成功した。直ちに倉永部隊長(歩六連隊長)は竹下部隊長(陸戦隊)を併せ指揮した。
…午前三時四十分倉永部隊長は藤田師団長並に片山旅団長に宛てて「午前三時四十分上陸完了、目下敵を攻撃中」
と打電したのであった。…歩兵第五旅団司令部が午前五時、歩六第一大隊(一中隊欠)第二大隊、工兵連隊の一小隊はぞくぞく上陸し
午前七時頃上陸を完了した。
その時点で確保していた地域は東西百五十米、南北約千米にすぎなかった。
(歩兵第六連隊副官の回想)

戦死者を荼毘に付すために認識票をそれぞれ表示して十体、十五体とならべて点火すると、
たちのぼる煙をめがけて敵砲弾の集中攻撃を受け、あわれ作業兵全員死傷するという悲惨な場面もあった。
(同上)
>>290 >>眠りを覚ます恐怖の記憶(トラウマ)で眠るがいい! 『想起 上海決戦』!

     _...,、.._))
   ,,´,===?、   
    ( ソノ))ノハ((  他にも、『想起 インパール作戦』、『想起 蕋江作戦』
   Xネ.゚ ー.゚ノ(   『想起 ノルマンディー上陸作戦』、『想起 南京事件』
    /^i、_:@つ   『想起 スターリングラード』、『想起 アウシュヴィッツ』
   (ン'ー-:->、_   『想起 731部隊』、『想起 母親に**ーが見つかる』 
    '〜i_テi_テ〜'  などなど……色々できますよw。
      ̄  ̄  
296イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/13(金) 01:58:37 ID:???
>>292 先に結論を言っちゃイヤンw。まあ、おいおい補足させて頂きます。
ただ、ひと言だけ今述べますと、

>>しかし、杭州湾から別部隊が上陸し、要塞線を側面から攻撃したため中国軍は
>>総崩れに陥る。要塞線は機動戦に対応できないため、側面や背面からの攻撃には
>>非常にもろい。

日本軍に対して制海権の「せ」の字も持てない支那――。そのために支那が全力で
傾注したのが『上海航空決戦』だった訳です。この「制空権」が取れなくなった段階で
杭州湾上陸もそうですし、地上戦でも明らかに戦線が破綻していきます。
297イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/13(金) 02:30:32 ID:KSwE7WhR
>>277 >>呉淞鎮を占領したのは実に1週間以上も経過した8月31日のことでした。

支那軍はこの頃、第15集団軍総司令の陳城が指揮する4個師が増援に到着しています。
また同様に、第3師団と第11師団が全滅の危機に陥った上海派遣軍司令官の松井石根も
8月31日、参謀本部と陸軍省宛に3個師団の増援を要請しました。

しかし参本作戦部長のカンジ(石原莞爾)は、●「対ソ戦準備のため上海に出す
兵力が無い。ソ連が立てば満州国が危ない」と容易には応じません。これは遡る
8月21日、支那とソ連が『中ソ相互不可侵条約』を結んだためですが、カンジは
松井を、ひいては上海(陸戦隊、居留民)を見捨てる腹積もりだったのでしょうか。

ちなみにソ連は3億ドルの借款を支那に与え、それを原資に航空機140機と戦車、
重砲、各種弾薬などを大量に売却しています――。

さらに補足ですが、松井石根の経歴には第11師団長があります。つまりは、かつて
自分が長を務めた師団が壊滅に瀕している訳です。また第11師団は5年前の第1次
上海事変にも出動していますが、その時とは比較にならないほど、国民党軍はドイツ
軍事顧問団の指導によって質量ともに強化されていました(中央直系に限りますが)。
298イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/15(日) 00:23:32 ID:wGaDizgd
>>293 >>敵は皮家宅の南側にあるクリークの防衛線に堅固な陣地を構築しており
>>チェコ機銃を始め、あらゆる火器を駆使し雨霰のように乱射し攻撃前進は
>>意の如く進展しなかった。

水郷地帯で網目のようにクリーク(用水路)が交錯し、そこにフォン・ゼークトを
長とするドイツ軍事顧問団の指導の下、WW1式の堅固な陣地が設けられた訳です。
また大小の湖沼を渡河するための漁船の徴発が思うように出来ず、なおさら進撃を
妨げました。さらに兵要地誌の不備により当初、重砲が不足した(弾薬も)ことも
既に述べました。そして何よりも、上海の権益・居留民保護の名目で2個師団という
どう考えても、これより下は無い『最低限』の兵力で小出しにしたのが致命的でした。

これは蒋介石の上海での決戦意図を見抜けず、むしろ「北支」に主戦場を想定した
取り返しのつかない『初動の遅れ』となります。上海の呉淞に第3師団が上陸した
翌日の24日――第4次動員の閣議決定で、第16師団(京都・中島今朝吾)、
第108師団(弘前)、第109師団(金沢)が、いずれも北支那派遣軍の隷下
として動員されている事からも明らかです。
299イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/15(日) 01:05:36 ID:wGaDizgd
ちなみに第16師団(中島今朝吾)は、10月中旬に北支那方面軍から上海
派遣軍に転用されており、これは第6師団(熊本・谷寿夫)も同様です――。
モルトケの格言に●『当初配備の失敗は取り返すことが出来ない』というものが
ありますが、上海派遣軍の苦戦はまさにそれでした。

更に追い討ちをかけるように、戦闘時期が8月以降の盛夏だったため、伝染病が
蔓延します(第1次上海事変は冬季の1月)。第11師団(善通寺)第43連隊を
例に取ると、コレラ93人、マラリア11人、赤痢11人、腸チフス2人がそれぞれ
戦病死しています。

第3師団と第11師団が全滅の危機に陥り、海軍の陸戦隊の救出も雲行きが怪しく
なります。9月初旬に皇族の伏見宮軍令部総長が天皇に上海への陸軍増派を具申し、
閑院宮参謀総長も賛成したため、それが大きな転機となりました。

9月1日に第101師団(東京)が、9月9日に第9師団(金沢)、第13師団
(仙台)、第18師団(久留米)、台湾守備隊から重藤支隊(長・藤藤千秋少将)、
野戦重砲兵第5・第15旅団の多数が動員されます。また台湾の第3飛行団司令部
(値賀忠治少将)と戦爆の独立飛行中隊が、呉淞西方の王浜基地に急派されました。
300名無し三等兵:2009/02/15(日) 01:48:50 ID:???
いやまあ取り返しついてるじゃん
実際撃破して余勢で首都まで陥落させちゃったんだから

まあその代償は安くなかったが、それでも上海-南京で3万人も死んでないよね
301イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/15(日) 02:10:04 ID:wGaDizgd
少し話が飛びますが、『上海決戦』での日本軍の損害を中間報告してみましょう。

・9月――戦死者:2528人、戦傷者:9806人、合計:1万2334人
・10月23日――戦死者:3809人、戦傷者:2万1514人、合計:2万5323人
・11月8日――戦死者:9115人、戦傷者:3万1257人、合計:4万372人

となり、日露戦争での旅順攻略戦の戦死者:1万5400人、戦傷者:4万4千人に
匹敵します。余談ですがこの頃、各新聞社は「上海戦線」に出した自社の特派員から
郷土部隊の戦死傷者の名前を打電させ、それを号外速報し販促しています。

先に例に挙げた第11師団・第43連隊(徳島)の場合、毎日新聞の徳島支局があり、
戦死傷者の号外速報や遺族訪問の取材をしていましたが、余りの戦死傷者の多さに
支局員が呆然としたと云います。第43連隊だけで戦死者は第3大隊長の藤本少佐
以下、半数近くの1282人の多数に及びました――。
302名無し三等兵:2009/02/15(日) 02:12:39 ID:???
イナゾウに告ぐ

今度こそ南京大虐殺をスル−するなよ

by 半藤 一利
303地獄の輪禍 火焔猫 燐 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/15(日) 02:37:44 ID:???
>>284 >>岸壁の上一面が見渡すかぎりの死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。

 _,....,_   ,、
( (O.0) //l_,....,_/l   __
 ゝ、(  |:レ´  `く|  (。..o)
   `' {><}ノノハノ)ノ)  ノノ      ワオーッ! これは壮観じゃないか。お兄さん、
     〈ヲ|リ ゚ ー.゚ノ§ '´ ___,,.ィ  ここいらの死体、持っていってもいいかい?
     {X(:(m)_:';l]つ‐‐‐/_ _,ノ|  旧灼熱地獄の燃料にするんだ。ああ、死体運び
     rく:i_ヲ;:V:>、‐‐く    ノ  って楽しいなあー。良ければ、お兄さんの死体も
     `^'i_フ'i_ヲ´    `(*)´   運んであげるよ。
304イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/15(日) 03:07:39 ID:wGaDizgd
>>299 >>9月初旬に皇族の伏見宮軍令部総長が天皇に上海への陸軍増派を具申し、
>>閑院宮参謀総長も賛成したため、それが大きな転機となりました。

上海への陸軍増派が決定されると、盧溝橋事件以来、満州国の防衛を最優先して
『不拡大方針』に執着していたカンジ(石原莞爾)が作戦部長の辞任を申し出ます。

またまた時間が飛びますが、9月28日にカンジが関東軍の参謀副長に転出すると、
後任には下村定少将(前・参本第4部長[戦史])が就きます。カンジ更迭の背景には
対ソ戦を最優先する第1部(作戦)と、対支処理の先行を主張する第2部(情報)の
対立が根本にありましたが、加えてカンジのお膝元でも、作戦課長の武藤章が対支
強硬派で、事あるごとに『不拡大方針』に反発していたことも挙げられます。

予想外の上海決戦の苦戦もあり(カンジとしては確信犯だったかもしれませんが)、
結局、カンジは孤立して関東軍に飛ばされました。しかし武藤章も『喧嘩両成敗』の
形で、新設された中支那方面軍の参謀副長として中央から外されます(11月1日)。

まあ話が脱線しましたが、カンジの後任となった下村定も病気で直ぐに更迭され、
翌年の1938年1月11日には橋本群少将(盧溝橋事件時の支那駐屯軍参謀長)が
参謀本部の作戦部長となりました――。
305イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/15(日) 03:12:02 ID:???
>>299 >>9月初旬に皇族の伏見宮軍令部総長が天皇に上海への陸軍増派を具申し、
>>閑院宮参謀総長も賛成したため、それが大きな転機となりました。

そして9月2日には、「北支事変」を『支那事変』に名前を改称することが
近衛内閣で決定されました――。
306名無し三等兵:2009/02/15(日) 20:04:33 ID:???
支那土人や朝鮮土人に最大限の温情を与え、捕虜としても寛大に取り扱い、法規にのっとって土人どもを保護した結果が今の日本。
こんなことになるくらいなら、目に付いた土人を皆殺しにして食料や物資を奪っていれば、
兵士たちが飢えの犠牲になることもなく、卑怯な便衣兵に苦しめられた上、
支那土人の蛮行を、なにひとつ罪を犯していない清廉潔白なる皇軍に被せられるようなことはなかった。
307イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/15(日) 23:46:50 ID:g1be4esj
>>305 >>そして9月2日には、「北支事変」を『支那事変』に名前を改称する
>>ことが近衛内閣で決定されました――。

さて戦火が広がった以上、外相の広田弘毅の主な仕事は『支那事変』における
日本の正当性を国際社会に訴えることでした。つまり事変の拡大は「支那側の
挑発的行動によるもの」、そして「日本に領土的野心は無いこと」の2点です。

広田は、親米英仏派で元外相の枢密顧問官・石井菊次郎をイギリス・フランス・
イタリアに派遣して、日本の支那事変での正当性を宣伝させました。また他にも、
ドイツには伍堂卓雄(元海軍造兵中将・満鉄理事・林銑十郎内閣で商工兼鉄道相)、
アメリカには松方幸次郎(松方正義の次男・衆議院議員)などが送られています。

しかし部下の外務省東亜局長・石射猪太郎は非常に冷めた目で、●「こんなことで
列国の世論を啓発できるならお安いものであった。気休めのための国費消費としか
思えぬので、私には何らの興味も無かった――」と非常に手厳しく語っています。
308イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/16(月) 00:18:25 ID:Kb7IvznE
>>239 >>臭うぞ!大アジア主義の腐臭がぷんぷん臭うぞ!!

石射猪太郎は、その経歴(上海総領事を4年弱)から見ても分かる通り「中国問題」の
スペシャリストだった訳ですが、師匠格である『幣原外交』(穏健な協調外交)に
囚われすぎて、外相の広田と全く噛み合わなくなります。二人三脚、阿吽の呼吸など、
夢のまた夢です。

石射は自分の著書で、「日中戦争」でもなく「支那事変」でもなく「日支戦争」ですらなく、
『中日事変』という独特の表現を使っていることも、その『特異なキャラクター』の一端を
よく表しているでしょう。なぜ支那が先に来るのか? 第2次上海事変が勃発した直後の
石射の日記を見ますと、

●「無銘の師だ。それがもとだ。日本はまず悔い改めねばならぬ。然らば中国も悔い改める
 に決まっている。中日親善は日本次第という中国の言い分が正しい――」
309石射猪太郎 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/16(月) 00:22:38 ID:???
「日本は馬鹿にしてかかった中国に手強い相手を見出したのだ。私の
 不吉な予感が当たりつつあるのを如何にせん? 犬だと思っていた
 中国が、ウルフになっていたのだ。軍部のミスカルキュレーション
 (誤算)。国民は愚に乗せられてウルフを相手にしているのを、
 知らないのだ――」
310名無し三等兵:2009/02/16(月) 00:51:39 ID:???
誤算をミスカリュキレーションってなんて直訳なwって思いつつ一応辞書引いたら本当にmis・calculationって載ってたw
でも狼じゃなくて野犬だろうw
一部大アジア主義者は飼犬と思っていたであろうがw
311イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/16(月) 01:06:39 ID:Kb7IvznE
>>239 >>臭うぞ!大アジア主義の腐臭がぷんぷん臭うぞ!!

しかし、石射が「大アジア主義者」だったかと云えば全くそうではありません。
石射が上海総領事時代に、松井石根が1〜2度訪れますが、●「大アジア主義
なるものを中国人に押し売りするので、至るところで気不味い話題を醸し、その
来遊は中日国交上『有害』ですらあった」と述べている事からも明らかですw。

やはり>>308 で述べた通り、石射は中国問題のスペシャリストという側面に
関心が行きがちですが、『幣原外交』の継承者という点を特に強調した方が
よいでしょう。

しかし石射の広田批判は、事変の現実から乖離した「この期に及んで」という
気がします。それとも広田の平和に対する執着が、「その名の如くに毅ならず、
薄弱なり――」だったのでしょうか?
312239:2009/02/16(月) 01:07:40 ID:???
>308
なんてロングパスw

無銘(無名?)の師とかいわれてもな〜
侵略への反撃を否定されちゃ困るわw
戦後はこっちのほうがデフォだったりするから性質が悪いが・・・
シナに必要以上に関わるのがそもそものまちがいっつうんなら全面的に同意だがねw

>日本はまず悔い改めねばならぬ。然らば中国も悔い改めるに決まっている。中日親善は日本次第という中国の言い分が正しい――」
思いっきり電波飛ばしてるね・・・
いちおくそうざんげちゃん・・・?
戦後に書き直したりしてない・・・?
当時でこんな発想してるんじゃ外交官務まらんだろ
幣原だとただの日和見融和主義+軍隊に頭下げるのが心底嫌だっただけだろうが
313イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/16(月) 01:10:45 ID:???
>>312 >>無銘(無名?)の師とかいわれてもな〜

スマンス。自分のタイプミスで正しくは「無名の師」です。
314名無し三等兵:2009/02/16(月) 01:20:15 ID:???
「中日事変」などの用語法は、回顧録の執筆時期が占領期だったことによる。
そもそも執筆の理由が公職追放解除請願のためだからね。
しかし日記の編者は伊藤隆。捏造や改変はあるまいよ。
315名無し三等兵:2009/02/16(月) 15:02:22 ID:I31pKEWE
>>198


ほぉ〜w


それならばw


キモブサ童貞の貴殿がw


どうやって支那やwアメリカを☆倒すのかw


ご教示願おうかw?
316イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/17(火) 00:15:47 ID:C2/Vwy6+
>>314 >>「中日事変」などの用語法は、回顧録の執筆時期が占領期だったこと
>>による。そもそも執筆の理由が公職追放解除請願のためだからね。

再度スマンス。>>308 はミスリーディングでした…orz。戸部良一教授も「石射が
用いている『中日関係』『中日事変』といった文言には、やや違和感を感じない
でもないが、それはそれでこれが執筆された時代の一面を垣間見せてくれる」
と述べておりましたw。

>>311 >>『幣原外交』の継承者

同じく戸部教授の言を参考にすると、●「『霞ヶ関正統外交』を引き継ぐと自認する
石射にとって、その実戦を妨げる陸軍と、陸軍に同調する外務省革新派グループは
許し難い存在であった」と言い換えられるかもしれません。その意味では、陸軍と
折り合いというか、何とか現実的な妥協点を模索していた広田弘毅は、石射にとって
同様に、外務省の『異端者』『変心者』にしか見えなかったのでしょう。ただ石射も
(外相か)首相を1回やると考えが180度変わったと思いますよw。
317イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/17(火) 00:54:20 ID:C2/Vwy6+
>>305 >>そして9月2日には、「北支事変」を『支那事変』に名前を改称する
>>ことが近衛内閣で決定されました――。

翌日の9月3日に召集された第72臨時帝国議会では、25億円の戦費支出が
認められ、更に9月15日には最初の『支那事変公債』1億円が発行されました。

この臨時議会で首相の近衛文麿は、支那事変の局地解決方針を、全面的かつ徹底的
打撃を支那に加える方針へ切り換える旨を明らかにし、その目的を達成するまでは
長期戦を辞さないと演説しました。曰く、●「諸君と共に、この国家の大事を『翼賛』し
奉ることを以って誠に光栄とする――」。

ちなみに石射の日記には、●「軍部に強いられた案であるに相違ない。中国を膺懲する
とある。排日抗日を止めさせるには、最後までブッ叩かねばならぬとある。彼は日本を
どこへ持ってゆくというのか? アキれ果てた非常時首相だ――」とありますw。

またこの臨時議会では、軍需工業動員法、防空法、新軍機保護法など『総力戦体制』の
嚆矢となる法令が施行され、9月28日には兵役の服役や在営期限も延長されました。
こうして日本は徐々に『準戦時体制』へと切り替わっていく事になります――。
318地獄の輪禍 火焔猫 燐 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/17(火) 01:06:24 ID:???
>>302 >>今度こそ南京大虐殺をスル−するなよ by 半藤 一利

    /'i_..../i   ,
    _|:レ'´⌒`ヽ ((、
    }X{,(_))_))_)) ) )
   8ilソ.゚ ヮ゚ノ8(○)  そのハンドーさんの死体はどこにあるの?
    }x(_l、::T;;jl)つ"
    ,(ン' ::チ:::ヽ、
   `^'i_ヲ^i_ヲ^"
       ̄  ̄
319名無し三等兵:2009/02/17(火) 01:25:18 ID:???
…艦は二十一日午後ある海岸の二千米位の沖合いに錨を降ろした。
この時始めて先般の海軍下士官にここは上海黄浦江附近であるらしいと聞かされた。

…そのとき始めて中隊の整列があり我が第一機関銃中隊長安田大尉から前述の陸戦隊の戦況と
これから敢行される倉永部隊の作戦について説明があった。それによると、
「最初の作戦を変更して呉淞の鉄道期間庫附近の比較的守備の薄いと思われる処へ上陸する。
なお当中隊は特殊性のため本日より本官の指揮下を離れ各それぞれ配属中隊長の指揮下に入れ。」

…駆逐艦の舷側に鉄板で假設の弾除けを施したその蔭で私達は身を潜めていた。
八月二十三日午前二時頃、半弦の月はとうに西沈んで真の闇、黄浦江河にから全速で遡る。
 呉淞砲台附近から盛んに艦の前後に砲弾が落下するが幸い艦には命中しなかった。
…「上陸開始。」石丸中隊長の号令だ。満を持していた小銃隊がいつの間にか掛けられたのか
岸壁に巾一m程の鉄桟橋(一艦に六、七個)を歓声を上げて突入し始めた。
この時敵から打ち上げられた照明弾で艦も地上も真昼のような明るさ同時に敵からの一斉射撃。
これにもまして我々の進路を阻んだのはこの明るさで始めて目に入った二重三重の竹矢来であった。
しかものの竹矢来に一触即発の手榴弾が一杯につりさげてあったのである。
これを突き破ろうとした味方はあちこちで炸裂する手榴弾と機銃の掃射にあってばたばたと倒れてゆく。
…八月二十三日の太陽は焼け付くような暑さ、重い機関銃を搬送し乍らの追跡は死ぬほどの苦しみ、
…夜半原隊への集合命令が出ていた。集合して中隊の損傷調査の結果戦死十三名負傷十八名で
ほぼ半数の戦力を失ってしまった訳である。
(歩兵第六連隊第一機関銃中隊)

とりあえず二十三日の呉淞上陸に就いての手元にある書籍から書き出せるのはこんだけ
320イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/17(火) 01:37:42 ID:C2/Vwy6+
>>299 >>9月1日に第101師団(東京)が、9月9日に第9師団(金沢)、
>>第13師団(仙台)、第18師団(久留米)、台湾守備隊から重藤支隊(長・
>>藤藤千秋少将)、野戦重砲兵第5・第15旅団の多数が動員されます。

さて再び『上海決戦』に戻りますが、松井石根大将率いる上海派遣軍のもとに
増援を含めた隷下の5.5師団(3D、9D、11D、13D、101D、重藤
支隊)の集中を終えたのは9月27日のことでした。松井は9月29日に以降の
作戦指導を定めますが、次回そこから話を続けていきたいと思います――。
321名無し三等兵:2009/02/17(火) 15:32:24 ID:???
真紀子@TBSラジオ・デイキャッチ

「小泉発言直後の土曜日、右翼の街宣車が大挙して国会周辺に集結し『麻生ヤメロ!』の嵐。
小泉発言と合わせて、裏で『GO』がかかったのではないか…と背筋が寒くなった…」


見たよ、土曜日の街宣車の山。
「なにわ」 ナンバーが多かったぞ。
てっきりヒラリーが来るのでそれでかと思っていたが、
麻生への攻撃だったか。

なぜ 「なにわ」 ナンバーなのか判った。
オリックスを追い詰めるなって事だな。
ゴーサインを出したのはもちろん・・・・
322名無し三等兵:2009/02/17(火) 21:49:43 ID:???
>>319
へー呉淞の守備が薄いと判断されていたのか。
国民党軍の実際の配置はどうだったのかな。
323名無し三等兵:2009/02/17(火) 23:44:36 ID:???
上海派遣軍の歌

一 昭和十二の夏半ば 暴戻支那を懲らさんと 暁眛(くら)き長江に 迫る上海派遣軍

二 呉淞沖に轟々と 正義の火蓋切らぬれば 敵前上陸忽ちに 羅店に響く鬨の声

三 鉄条網にトーチカに 敵が頼みの陣地帯 篠つく雨や血の嵐 十字火浴びて進撃す

四 屍はクリーク埋めども 勇猛果敢の強者は 大場の堅突破して 血潮を洗う蘇州河

五 青空高く上海の 囲みを解きしその朝 軍を旋(かえ)して西を指し 水陸迫うや呉福陣

六 江陰無錫陥(おちい)れば 鎮めの宮を戴きて 聖旗は競い進み行く 太湖湖畔に秋深し

七 我が肉弾の雄叫びは 紫金の峰を揺るがして 鉄血奪う光華門 見よ感激の日章旗

八 長駆追撃一百里 青史を永く飾るべき 首都南京の入城に 殆(たお)れし戦友(とも)も微笑まん

九 御稜威(みいつ)は暢(の)びて江北に 揚州鳳陽霜を踏み 精鋭厳と行くところ 皇道頌(たた)う民の群

十 聖戦茲に燦然と 東洋平和の礎を 築き上げたるこの勲 輝く上海派遣軍
324イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/18(水) 03:48:36 ID:???
>>319 >>しかものの竹矢来に一触即発の手榴弾が一杯につりさげてあったのである。
>>これを突き破ろうとした味方はあちこちで炸裂する手榴弾と機銃の掃射にあって
>>ばたばたと倒れてゆく。

どうもでございます。キツイっすね。
325イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/18(水) 04:05:46 ID:???
<9月29日>

← 重藤支隊
                 川沙鎮(8月23日上陸)
← 11D

← 13D
                       【呉淞クリーク】
         【主攻3個師団】       呉淞(8月23日上陸)
        9D  3D  101D
        |   |   ↓
        |   ↓
        |     大場鎮
        ↓            競馬場

               上海市街                    
326イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/19(木) 00:27:11 ID:4i7odwQs
>>325 で、ごくごく簡単な地図を作ってみましたw。

さて上海北方に布陣する形の『上海派遣軍』ですが、【主攻3個師団】をもって
一気に南下を目指します。9月9日に新たに動員された増援の9D(金沢)が
上海の後背を大きく回り込み、国府軍の包囲殲滅を視野に入れます。また同じく
増援の101D(東京)が最大の要衝である大場鎮を突く格好です。緒戦で疲弊した
3D(名古屋)はその中間に位置し、9Dと同じく支那軍の退路を断つ動きとなり
ました。残りの11D(善通寺)と13D(仙台)は、【主攻3個師団】の右側面を
援護すると同時に「予備兵力」の扱いです。

そして『上海決戦』最大の激戦地となった大場鎮ですが、上海から4キロ北西に
位置し、当時の人口は約4万でした。京滬鉄道(けいこ:南京〜上海間鉄道:
『滬』は上海の別称)と蘇州河を後方に控え、国府軍からすると大場鎮を
抜かれれば、いよいよ日本軍に上海市街地への突入を許します――。
327イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/19(木) 01:14:44 ID:4i7odwQs
まあ『上海決戦』を詳しく述べれば、それだけで「中テーマ」が確実ですので
以降は簡単に流します。近いうちに『オ父サンノセンサウ』を下地にして再度
地上戦を取り上げようとは思いますが。

さて上海派遣軍司令官の松井石根は、>>326 の内容の作戦指導方針を立てましたが、
【主攻3個師団】の師団長には、攻撃開始日を10月8日〜12日までに発起する
自由裁量を認め、現場の判断に幅を持たせました。

結局、101Dが予定より早く10月6日に真っ先に行動を開始して橋頭堡を築き、
10月10日に3Dと9Dも前進して、支那軍との本格的な戦闘が開始されました。
>>325 の図を見れば分かる通り、もし国府軍が日本軍の包囲殲滅の意図を粉砕しよう
とすれば、自身の最も有力な戦力を包囲翼の先端となる9Dに当てなければなりません。
しかし、包囲翼の軸となる101Dが最初に橋頭堡を築いたため、そこに最優良の部隊を
投入せざるを得ず、最終的に9D・3Dの進撃を押し止める事に失敗しました。つまりは
101Dの功績が大な訳です。

そして10月23日には国府軍が総崩れとなり、南翔方面に撤退。101Dが大場鎮を
遂に占領して、『上海決戦』は最大のヤマを越えたのでした――。
328イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/19(木) 23:37:32 ID:JelaZ7gc
>>327 >>つまりは101Dの功績が大な訳です。

さて書店の棚で『第百一師団長日誌――伊藤政喜中将の日中戦争』という本が
ページの厚さ(600P)とお値段(4410円)で一際異彩を放っていますが、
まさしくこの上海戦で活躍した101Dの師団長のお話です。

この日誌を書いた伊藤政喜中将(大分出身)は一貫して「砲兵畑」を歩んだ人物で、
近衛野砲兵連隊長、軍務局砲兵課長、野戦重砲兵第1旅団長、野戦砲兵学校校長、
砲兵監、第3師団長(名古屋)を歴任しています。まさに砲のエキスパートな
訳ですが、1937年8月に中将で予備役に編入された直後に第2次上海事変が
勃発して翌9月には再召集――。特設師団として新設された第101師団長(東京)
となり出征しました。

伊藤が指揮する101Dは「特設師団」であるため、予備・後備役の召集兵(社会の
中堅層)で編成され、訓練の時間もなくピチピチの現役兵と比べて体力不足、下手に
世慣れしている分だけ素行不良で、伊藤は苦心惨憺したと云います。社会人になって
7〜8年も経つと色々、体にも心にもガタが来るよなあ、オイw。
329イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/20(金) 00:07:33 ID:JelaZ7gc
しかし『オ父サンノセンサウ』の小長井少佐(大尉、戦死後昇進)は41歳の
現役中隊長で「上海決戦」を最前線でバリバリ指揮しているのですから、理由
にはなりません。

さて伊藤の指揮する101Dは「特設師団」であるため人員の他にも大きなハンデが
ありました。いわゆる1級師団である「常設師団」に比べ装備も旧式で、機関銃以上の
火力は精々半分、携行する砲弾や弾薬も3分の1程度だったと云います。そのような
101Dが>>325 で書いたように、最大の要衝である「大場鎮」の攻略に当てられた
訳ですから堪りません。

実際は101Dの中でも、歩兵第101連隊が真っ先に呉淞クリークの渡河に成功
して「橋頭堡」を築きます。当然、突出点となり国府軍の袋叩きに遭います(同じ
101Dの歩103連隊が増援に向かうが反撃が激しく渡河に失敗。食糧の乾パンを
渡せる程度に)。しかし、この犠牲的活躍のおかげで国府軍の主力部隊を拘束でき、
全体の戦局として3D、9Dの進撃をよく助けました。

ちなみに歩101連隊長の加納治雄大佐は、10月11日に連隊司令部へ迫撃砲弾の
直撃を受けて戦死しています。
330イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/20(金) 00:46:12 ID:WcMFcVL4
また将校や下士官の戦死傷者が多いのは、「近接戦闘において自ら先頭に立つ
ようになる。そうしなければ兵が従わないからだ――」という話もしています。

さて第101師団長の伊藤政喜中将は『上海決戦』における支那国府軍の特徴を
以下のように総括しています。

【敵軍の短所】
1、敵はその戦略的防御配置において、甚だ要領を解しない。
2、敵は余りに大兵を一地に集めており、その使用は攻勢的軽快性を失わせている。
3、敵は純然たる持久防御しかしない。
4、敵の砲撃、追撃砲ともに射撃が散漫で、戦闘目的に一致しないものが多い。

【敵の長所】
1、その戦術的防御は極めて頑強である。
2、陣地編成は上空地上に対する遮蔽が極めて良好で、特にMG(機関銃)の
  側防的用法は賞賛すべきものがある。これが我軍の損害に帰している。
3、敵の頑強振りは日露戦争の『旅順』におけるものと大差ない。むしろ一部の
  地点ではそれ以上であり、いかに砲撃を加えても全滅まで固守する風がある。
331イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/20(金) 01:14:34 ID:WcMFcVL4
>>330 >>陣地編成は上空地上に対する遮蔽が極めて良好で、特にMG(機関銃)の
>>側防的用法は賞賛すべきものがある。これが我軍の損害に帰している。

>>敵は余りに大兵を一地に集めており、その使用は攻勢的軽快性を失わせている。

ドイツ軍事顧問団の指導の賜物と言うべきか、WW1型の塹壕やトーチカ陣地は、
日本軍を非常に苦しめます。しかし余りにそれに固執し過ぎ、大兵を密集させたため、
国府軍は防御から攻撃への転換が上手くいきません。もちろん日本軍陣地への逆襲は
頻繁に行なわれる訳ですが、いかにも五月雨的でした。また、このような密集戦術は
後でも述べるように、日本軍の砲撃や空からの爆撃、艦砲射撃の好餌となります――。

>>敵の砲撃、追撃砲ともに射撃が散漫で、戦闘目的に一致しないものが多い。

これは一晩中、日本軍の夜襲を怖れて機関銃をあらぬ場所へ撃ち続けているのを
想像して貰えれば理解が早いでしょう。逆に言えば、それが出来るだけの弾薬を
持っていた訳です。
>>277 >>はっきり言って「小火器レベル」では支那の土人軍の方が『装備弾薬量』共に
>>優秀ですから、結果は書くまでもありませんw。

   _,........,_
 , ´,.-== ,ヽ
 i (ノノλノ)リ
 ルイ) ゚ ヮ゚ノ)   支那の土人軍に対して、「機関銃でダメ、手榴弾でダメ、迫撃砲でもダメ」の
  `,く_,`ハ,イつ  日本軍がどうやって、上海まで戦線を抜くことが出来たのかしら?
  ,(,ノ┐ハゝ
  `'-i'_ィ,ァ"´
333名無し三等兵:2009/02/22(日) 00:36:07 ID:???
重砲と戦車をお届けに参りました サインお願いします
334名無し三等兵:2009/02/22(日) 00:56:26 ID:???
>>332
軽機とか、96式なんてほとんど無しであるのは言うこと機関銃ばっかだもんなあ・・・
それすら十分にあったかというと・・・
そしてさらに、十分な弾すら・・・
335イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 01:04:17 ID:P+jJd0LQ
>>331 >>このような密集戦術は後でも述べるように、日本軍の砲撃や空からの爆撃、
>>艦砲射撃の好餌となります――。

まあ『浸透戦術』と言いたいところですが、重砲や航空機、あるいは海軍力(艦砲射撃など)の
圧倒的優位でしょうね。いくら支那の土人軍が、カネに物を言わせて外国製の高性能な小火器を
輸入して塹壕やトーチカに並べても(バカみたいな大量の弾薬と共に)、砲や航空機でアウト
レンジされては全く意味が無い訳です。兵頭軍師的に言えば、『対抗不能性』の追求といった
ところでしょうか――。

蒋介石もそれが分かっていたからこそ、陸軍に匹敵する巨額の予算を『上海航空決戦』に勝利
するべく空軍力の整備に注ぎ込んでいました。ちなみに支那事変直前の空軍予算は7千万元で、
陸軍予算の1億2千万元にこそ及ばないものの、海軍予算の230万元と比べれば、数十倍にも
達します。

中テーマ『上海航空決戦』でも述べましたが、十年単位の時間がかかる海軍力の整備に比べて
空軍力は、外国製の最新鋭機を輸入するなど『ドーピング』が手っ取り早く効きます――。
また日本は『国産』という縛り(性能の限界)がどうしてもありますし、仮に日本も支那と同様に
欧米から最新鋭機を輸入しようとしても、相手国から警戒されて売って貰えない可能性が高いでしょう。
そのあたり支那の土人国なら後顧の憂いなく安心です。イランにF14を売るようなものですw。
336イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 01:42:36 ID:P+jJd0LQ
>>335 >>蒋介石もそれが分かっていたからこそ、陸軍に匹敵する巨額の予算を
>>空軍力の整備に注ぎ込んでいました。

日本に海軍力では『逆立ち』しても勝てないので空軍に『大博打』を掛けたのと、
蒋介石一族が予算を私(着服)しやすいという理由も他にありました。航空機の
機種選定の権限は、宋美齢から兄の宋子文を通じて中国銀行が握っており、航空
委員会主任の周至柔でさえ関与できなかったと云います。リベート臭いですw。

もし蒋介石の国府軍が『上海航空決戦』に勝利して制空権を握っていれば、日本軍の
地上における機動の自由を大幅に制限できたでしょうし(砲の優位も)、天と地ほど
差のある海軍力についても牽制が可能と考えたと思われます。

それゆえ執拗に、日本海軍の第3艦隊に爆撃を加えてきた訳です。しかし、本末転倒に段々
なってきまして、戦闘機による迎撃戦は互角以上の戦いが出来ていたにも関わらず、爆撃の
効果が上がらないと見るや、戦闘機まで非効率な爆撃ミッションに投入して自滅しました。

まあ、支那の土人軍を弁護すれば、いくら迎撃戦で相手に効率的な出血を与えられても
いつかはジリ貧になるのが分かっていますから、「ここはドカンと1発……」な訳ですw。
硫黄島や沖縄戦の日本軍と似たようなものでして、「天佑を信じて一大攻勢を……」という
誘惑に勝つのは、生きている人間としてどうしても難しい――。
337名無し三等兵:2009/02/22(日) 01:42:42 ID:???
わざわざ土人って言うのには何か意味があるの?
ポリネシア人とか黒人のイメージが浮かんできてしまうんだが
338イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 02:06:30 ID:P+jJd0LQ
>>335 >>空軍力は、外国製の最新鋭機を輸入するなど『ドーピング』が
>>手っ取り早く効きます――。

またこの頃の航空機は、ものの数年で『時代遅れ』の旧式になるというのも
重要な点ですね。史実における優秀かどうかの評価は、ほとんど戦線での
登場のタイミングによるでしょう。こうなると自国で開発生産保有するより、
その時々で外国から一番良い機体を輸入すればいい、という浅はかな考えが
正当化されていきます――。

また話が大きく脱線しましたがw、こうして支那空軍は上海決戦の開始から
1ヵ月後の9月中には『制空権』を失い、夜間爆撃に頼る事態となりました。
そして11月には開戦前に保有していた機体の大半を喪失し、地上戦でも
日本軍機の「跳梁跋扈」を許すことになります――。
339名無し三等兵:2009/02/22(日) 02:11:43 ID:???
まあ停戦に失敗して膠着してからはそれなりに成果を挙げていたんだからそういじめてやるない > 青天白日空軍
いちばん大事なときに役に立たないあたりが実にらしいがw
あれも日本側航空隊の無理攻めと油断のおかげでもあるか
340名無し三等兵:2009/02/22(日) 02:22:06 ID:???
>>338
>こうなると自国で開発生産保有するより、
>その時々で外国から一番良い機体を輸入すればいい
輸入できればいいんだけどね〜
どんな国でも自国空軍向けが最優先で、ラインが空くころには下手すりゃ旧式化してるわw
実験台に新鋭機供与ってパターンもあるがそれだとえてして数が不十分・・・

土民軍の弱点としてチームプレイができないってのをイナリン前に指摘していたが、航空戦は無線での指揮管制が確立される以前は究極個人戦の世界だから蒋介石あたりこの辺可能性見出したかもね。
まあ整備とか運用はそれこそシステム化されたチームプレイが必要なわけだが、こっちは外人呼んでやらせりゃいいしな〜w
341イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 03:07:53 ID:P+jJd0LQ
>>331 >>このような密集戦術は後でも述べるように、日本軍の砲撃や空からの爆撃、
>>艦砲射撃の好餌となります――。

さて話がクドクくなりますが、支那とドイツ軍事顧問団が上海戦で企図していたのは
WW1の繰り返しです。日本はWW1での欧州の地上戦を経験していない訳ですから、
さぞかし彼らは戦果の大きさを期待したことでしょう。しかし大きな誤算がありました。

1つには、日本軍の重砲の威力がWW1とは比較にならなかった事です。いくら何でも
20年近く経っている訳です。WW1では75ミリの野砲が中心でしたが、日本の上海
派遣軍は10センチや15センチの重砲を持ち込んでいます。砲弾の炸薬量は一般的に
口径の3乗に拠りますから、WW1と同日の話では全くありません。

もちろん重砲ですから歩兵とともに前進はできませんが、トーチカなど陣地に密集して
籠もる土人軍に対しては効果絶大でした。歩兵の頭上を飛び越えて砲弾が炸裂していき
ます――。『オ父サンノセンサウ』の記述の中には、
342イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 03:26:32 ID:P+jJd0LQ
「砲兵の観測班来たりて嬉しい」「戦車も協力してくれた」

「友軍飛行機は数十機となく飛んで西に行く。これは要点爆撃だろう。
 徹底的にやれ、うんとやれ、頑迷なる支那だ。大いに膺懲してやれ」

「飛行機爆撃のため、我が攻城砲砲撃のため、500m後方の王港まで後退した。
 せっかく獲得した利益を捨てた様な気もして惜しいが、更に効果を期待する。
 攻城砲の威力は実に大なるものありと、今日は何としても北部八房宅を奪取せん」

「敵の飛行機来たれりとかで、高射砲の音あり。ウソか誠か珍しい」

「相変わらず飛行機戦車、活躍して居る様だ。しかし野郎共頑張る。実際話にならぬ。
 督戦隊の力は偉大なり。支那の国民には最大の効果を有す。人間としての取扱に非ず」

「砲兵は最早距離届かず、2千m前進するとか? かくなる事は二晩前の静粛な前兆により
 知ることを得た。一挙に押せ。押さざれば駄目だ。徹底的に押せ押せ。今日が最後を聞け」

「24榴(弾砲)では(撃たれた)支那兵が木の上に乗っかって居ると、大場鎮付近の戦場は
 支那兵の死体で一杯だと。――相変わらず砲撃爆撃甚だし」
>>337 >>わざわざ土人って言うのには何か意味があるの?

      ,  ‐‐-、___
    /   ., '´⌒⌒ヽ 〜♪
   ./   、 i´ )ノ)ノ))ハ)
   ||     メ)ハ)゚ ー.゚ノl)   それは「真性キチガイレイシスト」だからよ。
   ヽ.   _Q)#」ネl」)つ
      ̄ ,<´_#,#ハ
        ` "i_フ_フ"
344イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 03:47:25 ID:???
>>343 >>それは「真性キチガイレイシスト」だからよ。

USC(アルティメット・サディスティック・クリーチャー:究極加虐生物)の
幽香姉さんにだけは言われたくありません……w。
345イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 04:26:27 ID:P+jJd0LQ
>>330 >>敵は余りに大兵を一地に集めており、その使用は攻勢的軽快性を失わせている。
>>335 >>まあ『浸透戦術』と言いたいところですが、

もちろん『浸透戦術』にも触れない訳にはいきません。これは日本陸軍がよくWW1の
戦訓を研究していた理由に尽きる訳ですが、日露戦争の旅順攻略戦などで『メガデス』を
プレ体験していた事も大きいでしょう。また国府軍が陣地に固執し過ぎた事は、日本軍の
浸透戦術にとってプラスに働きました。

また日本では『肉弾戦術』とも呼ばれましたが、別に必死の特攻をかける意味ではなく、
「分隊単位」で敵陣地の弱点を捜索し、第一線を突破する様が『弾丸』と見て取られた
だけです。言うまでもなく「優秀で分厚い下士官層」が無ければ到底不可能な戦術です。

>>331 >>このような密集戦術は後でも述べるように、日本軍の砲撃や空からの爆撃、
>>『艦砲射撃の好餌』となります――。

「艦砲射撃」と聞いて違和感を覚える人もいるかもしれません。これはおそらく太平洋戦争の
米戦艦に酷い目に遭わされたのをイメージする(もしくは日本海軍のガダルカナル島砲撃)から
であって、本来は駆逐艦の主砲であっても「陸軍の重砲クラス」であり脅威です。

上海決戦では、黄浦江(上海で揚子江に合流する川)に陣取る日本海軍の艦艇から
国府軍は艦砲射撃を受けています。もちろん地上部隊の援護のためです。揚子江の
宝山陣地に艦砲が命中した際には、支那軍の戦死600人とも言われました――。
346イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 04:39:44 ID:P+jJd0LQ
また南京と上海を結ぶ鉄道が「揚子江沿岸」を走っていたため、制海権を握る
日本海軍の艦艇に容易に補足されます。このため国府軍は「総予備」の到着が
間に合わず、また上海決戦に敗れて潰走する際にも日本軍に補足される大きな
原因となりました。本来は、内陸に軽便鉄道も用意するべきだった訳です。

この辺り、明治維新直後の日本が欧米列強の軍艦による艦砲射撃を怖れて、
なかなか海沿岸部に鉄道の建設を決断できなかったのが思い出されます。
国防最優先にするならば、コスト度外視でトンネルを掘ってでも内陸部に
造るしかないのです。
347だつお ◆t0moyVbEXw :2009/02/22(日) 08:00:50 ID:j7/+g7B2
>>183
> 誤解があるようですが、最も脅威の国がソ連であることは参謀本部内で
> 1人の反対もありませんでした。

>http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4768477720/
>1945年・ベルリン解放の真実―戦争・強姦・子ども
>
>あーあ。
>
>野獣みたいな劣等スラブ民族に、優秀なゲルマン人女性が犯られちまったよ・・・
>
>ところでゴリラのオスの男根を、人間女性の膣にぶち込んだら、どうなるんだろ?

http://www.youtube.com/watch?v=zwKjIBPPSCw
1990 - TOKKEI WINSPECTOR 特警ウィンスペクター
http://www.youtube.com/watch?v=X5hl9-vOSUM
仮面ライダー BLACK RX OP フルヴァージョン

「や…やったあ!!」

「つ…ついに…!!」「ついにハーデスを討ち破ったぞ!!」
「見たか星矢―ッ」「ぼくたちは勝ったんだよ―――ッ」


むうう〜    バ…バカな  死を総括する余が…
か…神である余が   この冥界において倒されるというのか…
し…信じられぬ…   信じられぬ…

http://www.toei-anim.co.jp/sp/seiya/
聖闘士星矢冥王ハーデスエリシオン編
http://zenkandokuha.com/products/detail/317.html
【古本】聖闘士星矢(セイントセイヤ) [1~28全巻] (著)車田正美
348名無し三等兵:2009/02/22(日) 13:57:16 ID:???
>むうう〜    バ…バカな  死を総括する余が…
>か…神である余が   この冥界において倒されるというのか…
>し…信じられぬ…   信じられぬ…

もうすぐ「下等人間」の勝利に帰するであろうことには、
もうすぐ「下等人間」の勝利に帰するであろうことには、
もうすぐ「下等人間」の勝利に帰するであろうことには、

「第二の罪 ドイツ人であることの重荷」(ラルフ・ジョルダーノ)
 所によっては報復への不安がはっきり確認されることになったが、
その背景には、自己を過大に評価する人間に典型的な、あの深い
不安感もひそんでいた。長いこと抱いてきた優越感の幻想が、いまや
世界史のなかで正当に報いられることもなく崩壊に直面するや、今度は、
これまでとはまったく変わった条件の下で、自らが行った苛酷な行為が
どんな結果をもたらしうるかという、臆病な疑念が忍びよってきた。
ミッチャーリヒ夫妻がナチ・イデオロギーの核心部分に関して次のように
論評している予感が頭をもたげてきたのだ。
「軍事的崩壊とともに、<ドイツ人種の保護>のための措置は、ナチスの
狂気の範囲外で判断されていたものに再びなった。犯罪なのだ!」
 ナチスの狂気の範囲外・・・・・・。すべての期待、憧憬、願望、希望、そして
教え込まれたファナティズムに反して、一九四五年一月以後は、東方戦争が
もうすぐ「下等人間」の勝利に帰するであろうことには、何らの疑いもなかった。

http://www.ia.inf.shizuoka.ac.jp/~nakao/thesis/maruyama/M-3.html
第3章 「第二の罪」――「過去の克服」の難しさ――
349イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 21:41:25 ID:0Qq36Nbz
>>340 >>(最新鋭機を)輸入できればいいんだけどね〜

まあ、実際に支那空軍が輸入できたのは、戦闘機では「カーチス・ホークV」、
攻撃機や爆撃機では「カーチス・A12シュライク」「ノースロップ2E」程度
でした。しかし「ホークV」は複葉機とはいえ、高速性と急降下速度でそれなりの
性能を持ち、中口径の12.7ミリ機銃を1挺(プラス7.7ミリ2挺)を装備していた
ことから、日本海軍の「90式艦戦」や実際に多くの犠牲を出した「89式艦攻」
「96式陸攻」にとっては脅威だったでしょう。

また戦闘機や軽爆撃機は比較的容易に売ってくれますが、重爆撃機となるとそうは
いきませんでした。蒋介石はソ連に対して、日本本土への攻撃も可能な重爆撃機・
「TB-3」を100機売ってくれるよう最優先課題で交渉していますが、申し訳
程度の6機に留まっています。他の戦闘機・軽爆撃機250機は、ほぼ支那側の希望
どおり供給されたにも関わらずです。また交渉の合間の機体見学も、重爆撃機だけは
外されていました。
350イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 22:12:23 ID:0Qq36Nbz
>>340 >>航空戦は無線での指揮管制が確立される以前は究極個人戦の世界だから
>>蒋介石あたりこの辺可能性見出したかもね。

まあ、その意味で『宣伝戦』のための「航空英雄」を生み出しやすい利点もありました。
不時着後に日本軍に包囲されて自決した閻海文、日本の輸送船に体当たりして自爆した
沈祟誨、撃墜王として愛機と共に散った高志航・柳枠剛などです――。国民の愛国心を
煽る『伝説』の一丁あがりな訳ですが、究極個人戦の世界だからでしょう。

最後に補足しておくと、1937年の支那の保有機数が約300機、日本の陸海軍が
合計1800機ですが「対ソ対米」の関係から支那事変に投入できるのは精々300〜
500機です。有形無形の海外の援助も期待でき、戦場までの距離や補給など地理上の
有利不利を考えると、互角の戦いが出来ると支那側は踏んだ訳です。

300機と聞くと「何?そのチンカス」と感じるかもしれませんが、やはり太平洋戦争や
WW2が『神々の戦い』な訳でして、支那側からすれば後の「ノモンハン事件」レベルの
航空戦をやるのが国力からしても精一杯だったのでしょう。それ以上というのは『想像外』
だったと思います。まあ、支那をマトモな国家と考えるからイメージしにくいのであって、
軍閥の大きなものに「毛の生えたもの」と見れば、300機を揃えるのだって至難の技です。
>>345 >>もちろん『浸透戦術』にも触れない訳にはいきません。

   _,........,_
 , ´,.-== ,ヽ
 i (ノノλノ)リ
 ルイ) ゚ ヮ゚ノ)   私の可愛い人形達で、戦線に『浸透』させて
  `,く_,`ハ,イつ  背後に回りこみ……
  ,(,ノ┐ハゝ
  `'-i'_ィ,ァ"´
352普通の魔法使い 霧雨魔理沙 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 22:50:07 ID:???
>>331 >>日本軍の砲撃や空からの爆撃、艦砲射撃の好餌となります――。
   ______
  ´>  `ヽ、
 _,.'-=[><]=.,_
 ヽi (レノλノ)レ〉'  私の「マスタースパーク」で、支那のトーチカ陣地を
  ノ,レパ ヮ゚ノ§   根こそぎ吹っ飛ばす、という訳か……。
 (( / ):-:!つ    うん、アリスは全く必要ないな。
   (ン'〈_〉>、    ちょこまかすると、土人や人形ごと焼き払うぜ。
    ~'i,フT,フ^~
353名無し三等兵:2009/02/22(日) 23:34:14 ID:???
イナゾウさんへ、↓の本って読んだことありますか、また感想はどんな感じでした?

満州事変から日中全面戦争へ (戦争の日本史)
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%96%9E%8FB%8E%96%95%CF%82%A9%82%E7%93%FA%92%86%91S%96%CA%90%ED%91%88%82%D6&x=19&y=13
354名無し三等兵:2009/02/22(日) 23:48:24 ID:???
三和を巡る話は、知っていても書けない話ばかりだ
それをつらつら考えていたら、偶然と言うか・・・阪急電鉄を巡る話にも
三和は絡み、そして村上ファンドまで出てくる

阪急が阪急ブレーブスを持っていた事は皆さん承知の事と思う
三和は客の入らないブレーブスを売却して、西宮球場を再開発しよう・・・そればかりか
宝塚なんか止めちまって、遊園地から大劇場から動物園だったか??それも
全部売り飛ばしてそれで梅田地域の地上げを進めてと言う構想を持ちかけた
野球については同意したが、宝塚歌劇については経営陣一同大激怒して
一時は出入り禁止になったとの噂もあった
結果的に宝塚は売却しなかったが・・・野球を引き受けたのはオリックスだ
そして、宮内の子分格が村上で、村上は阪神電鉄株で仕手戦をやって最終的に
阪神電鉄は阪急が吸収する格好になった
つまり、阪急をネタにボロ儲けを考えていた宮内が、村上を使って大儲けしたんだろう・・・
何の事はない、三和の頃から宮内は阪急に目を付けていて、何かを仕掛けようとしたんだろう
実際、阪急の茶屋町再開発は失敗であり、宮内が何かを仕掛けるにはちょうど
良かったかもしれないが・・・それはさすがにさせなかったんだろうな
ただ、規制緩和の座長は宮内であり運輸業に対する参入自由化は話し合われていたから
宮内のやり方からして仕掛けはあったと思う
村上を使って阪神電鉄株を買い占め、村上ファンドの経営参加をさせる事で揺さぶりを掛け
結果的に阪急に買わせて、その売却益から個人的に謝礼を受け取ったんだろう
この辺の事は、村上ファンドを巡る国会審議でも参考人として呼ばれ、追及されている
文章がまとまらなくて申し訳ないが、阪急・阪神そして阪急と三和の関係、規制改革会議での
西川との関係、さらに村上と宮内の関係、村上と組織の関係・・・
これも三和を巡る闇の一つだな・・・あまり書くと、サメの餌にされそうだから
これ以上は書かないが
355イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/22(日) 23:50:56 ID:0Qq36Nbz
>>327 >>そして10月23日には国府軍が総崩れとなり、南翔方面に撤退。101Dが
>>大場鎮を遂に占領して、『上海決戦』は最大のヤマを越えたのでした――。

さて最大の要衝『大場鎮』を攻略し、後方に位置する『蘇州河』の渡河に成功した時点で
上海攻略は成ったと言っても過言では無いでしょう。その意味で第10軍の杭州湾上陸が
仮に無かったとしても、松井石根は上海決戦に勝利できていた訳です。しかし、現実には
第10軍の上陸は行なわれ、最後の止め以上の働き(南京追撃戦への扉を開く)をした訳
ですから、そこまでの動きを急ぎで追っていきましょう――。

カンジ(石原莞爾)の後任で参謀本部作戦部長となった下村定(少将)ですが、1937年
10月12日に今後の作戦方針を決定しました。その結果、「主戦場」が北支から上海方面に
正式に転換され、北支戦線からかなりの兵力が上海に転用される事になります。

まず北支那方面軍の第2軍から第16師団(京都・中島今朝吾中将)が上海派遣軍に編入され、
重藤支隊(台湾軍の5個大隊)が揚子江の白茆口に上陸しました。そして上海派遣軍とは別個の
軍団として「第10軍」を組織し、杭州湾に上陸させることで上海方面の国府軍を南北から挟撃、
包囲殲滅を図ります。
356白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/02/22(日) 23:53:05 ID:kV8NbJS1
>>337-343
土人につぃて、前回イナゾウ氏から回答がなかったんですが、
「土人」とは、概ね西洋的理性重視の価値観に外れた非近代人、「未開人」
に対して、偏見と先入観で他民族蔑視する人たちの為の用語です。
近代人と非近代人の脳に差があるわけないのですが、19世紀の西洋中心中華
主義に心酔した狂信者に多いので、中華主義レイシスト要素が強いで
しょう。
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/postmodern3/structuralism.html
(4)近代的世界観の崩壊のように、西洋近代的世界観が崩壊した、20世紀
後半じゃのうて、21世紀においても、19世紀の理性的論理実証主義を
信仰しとるんですからカルトです。教条的左翼がマルキシズムを信奉する
よう、レイシストは自由主義者と自称する時代錯誤の人たちでしょうね。
彼らは優生学とか、ドイツ観念論哲学が好きなんですよ。
日本人は朱子学的攘夷論の影響が強いですから、自分達は華「文明人」で、
近隣民族を夷「野蛮人」とすることで自慰しとるんですよ。
つまり「愛国無罪」を叫ぶ中国人と精神構造と思想は朱子学同士で
変わらんわけです。紳士とは野蛮人なりの英国とは違いますね。
「合理的な制度の探求と哲学的観念論にはまり込んでしまった不幸な
大陸住民」「イデオロギーは先入観を黙過し、客観性を妨げる」と
英国人は、大陸的な哲学やイデオロギーより現実を鳥瞰的な視点で
見つめます。じゃけぇ云うて英国人が優れておるわけも無いんですが、
イデオロギーは人間に文明的懦弱をもたらしますから、逆に日本人は、
「我等、野蛮人なり」「我等、土人なり」との自覚が大切でしょう。
357名無し三等兵:2009/02/22(日) 23:57:06 ID:???
もしかして毎日チェックしてんの?
イナゾウが土人発言するのを。
358イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/23(月) 00:13:31 ID:???
                 川沙鎮(8月23日上陸)
← 11D
← 13D
                       【呉淞クリーク】
         【主攻3個師団】       呉淞(8月23日上陸)
        9D  3D  101D
【蘇州】    |   |   ↓
        |   ↓
    南翔 |     大場鎮
        ↓            競馬場

              ★上海市街★ 

                        黄浦江


                松江
【嘉興】     ↑        金山
         |
         |
         |      
      ★【第10軍】上陸(11月5日)
         杭州湾(金山衛城)
359イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/23(月) 01:01:35 ID:Qt9jADG8
>>353 すいませんが、ありませム。

【蘇州】と【嘉興】は後に「制令線」(前進限界線)に指定されますが、>>358
地図上の位置より実際はもっと西方にありますw。まあ、第10軍がこのまま北上
すると上海周辺の国府軍は包囲殲滅ですから、雪崩をうって西方に壊走しました。

さて10月20日に第10軍の戦闘序列が下令されまして、軍司令官は皇道派の重鎮で
2・26事件後(1936年)に予備役に編入されていた柳川平助中将が選ばれました。
また第10軍は、北支那方面軍の第1軍から転用された第6師団(熊本・谷寿夫中将)の
ほか、第18師団(久留米・牛島貞雄中将)、第104師団(宇都宮・末松茂治中将)等で
編成されましたが、この段階においても第10軍の任務は●「上海付近の日本人居留民の
保護」であり、南京攻略の作戦計画は欠片も含まれていません。

また第10軍の杭州湾上陸が行なわれる直前には『中支那方面軍』が新設され、上海派遣軍と
第10軍を統轄します(軍司令官は松井石根が兼任)。ここで特筆すべきは、カンジと衝突して
「喧嘩両成敗」の形で参謀本部から追い出された武藤章が参謀副長に転出していることです
(参謀長は塚田攻)。

また海軍も従来の第3艦隊を、第3・第4の両艦隊に分割し、第4艦隊が第10軍の杭州湾
上陸を支援することになります――。
360白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/02/23(月) 01:56:11 ID:0JalaAxu
>>357
毎日チェックしとったら、その日に書き込んどるよ。
>>359
柳川第10軍司令官に感状を授与された福山第四十一聯隊(国崎支隊)を
「等」とわざとらしゅう省かんでもええのに。
杭州湾上陸は最先頭の先陣を任されたんですよ。
361名無し三等兵:2009/02/23(月) 03:05:52 ID:???
イナゾウ粘着されててワロス
362イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/24(火) 00:39:02 ID:n6iA7xvB
さて航空偵察によると、杭州湾北岸の【金山衛城】(>>358 の地図参照)の国府軍は
2個師ですが、付近の増援兵力は10個師程度と見積もられました。

第10軍の「第1次上陸兵団」となる6D(熊本)と18D(久留米)の輸送船団は
済州島付近で合流し、馬鞍群島(上海南東105キロ)を経て11月4日夜、杭州湾
へと進入します。

杭州湾は干満の差が5メートルもある難所で、旧暦8月の大潮には海水が銭塘江を
遡って2〜3メートルの波となり押し寄せる『大逆流現象』で世界的に有名な場所です。
11万の将兵を乗せた155隻の輸送船団は翌11月5日の払暁、支援の第4艦隊が張った
煙幕をついて6Dが金山衛の西側に、18Dが東側にそれぞれ奇襲上陸となりました。

11月10日に【松江】(上海西南)へ進出した第10軍は、同時に【蘇州】【嘉興】にも
分派し、上海派遣軍と南北で国府軍を挟撃します。このため前日9日には包囲殲滅を恐れた
蒋介石が撤退命令を出し、11日には上海南部から国府軍が去り始め、市長が「上海陥落」を
告げる文書を発表することになりました。と同時に日本の新聞も「事変以来89日、上海制覇の
覇業成る。敵潰乱、全線に総退却」(東京朝日新聞)と一面で報じます――。
363イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/24(火) 01:14:26 ID:n6iA7xvB
ついで上海派遣軍の16D(京都)と重藤支隊が海軍の支援のもと、いったん
呉淞から離れて揚子江を遡行し【白茆口】への再上陸に成功します。白茆口は
>>358 の地図の更に北方で、「第1次上海事変」でターニングポイントとなった
七了口よりも揚子江上流の地点になります。そして11月19日には16Dが
【常熟】を、上海派遣軍が【蘇州】を、第10軍の18D(久留米)と114D
(宇都宮)が【嘉興】を占領しました。

こうして第2次上海事変は【常熟】―【蘇州】―【嘉興】の「制令線」(前進
限界線)で一段落することになった訳です。

ちなみに『上海決戦』における日本軍と支那土人軍のキルレートですが、日本の
戦死者9115人・戦傷者3万1257人(合計4万372人)に対して、支那は
戦死傷者18万7200人でした。

ちなみに北支戦線でも日本軍は9月までだけで、戦死2300人・戦傷者6262人
(合計8562人)の損害を出しています――。
364名無し三等兵:2009/02/24(火) 01:23:01 ID:???
>ちなみに北支戦線でも日本軍は9月までだけで、戦死2300人・戦傷者6262人
>(合計8562人)の損害を出しています――。

第二次長沙作戦超えたね。
365イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/24(火) 01:29:30 ID:???
>>364 まあ「北支全域」ですからね。

     _...,、.._))
   ,,´,===?、   
    ( ソノ))ノハ((  
   Xネ.゚ ー.゚ノ(   切りが良いところになりましたので、
    /^i、_:@つ   いったん広田の話に戻って、さらに
   (ン'ー-:->、_   『南京追撃戦』に逝きたいと思います。
    '〜i_テi_テ〜'  
      ̄  ̄
367白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/02/24(火) 03:06:20 ID:s+IfWZJi
>>362-363
11月5日、国崎支隊は、「第6師団の先頭に上陸し、支隊のの右部隊
たる片山第3大隊は主力を以て西山衛城西門に左部隊たる山田部隊
主力は午前8時第一線たる第一大隊を右旋回して第3大隊の右方より
金山衛西南角に向かいはしめ、第3大隊は午前10時40分西門を占領、
第1大隊は、11時西南角を、また左大隊の第2大隊は、11時半北門を、
第1大隊の一部は午後1時東門を占領した。之は平素第5師団の
訓練せる上陸戦闘の成果の発揮で、備後健児の意気を遺憾なく
発揮したものである。
国崎支隊は、9日より松江を攻撃、その間敵の密集隊形による逆撃を
受け、白兵戦闘でその大半を殲滅し、10日11時ごろ完全に占領した。
敵の主力は1D107D108Dだった。支隊は19〜24日には、昇山市・八里店
及び湖州付近の戦闘で、第10軍の先頭に善戦し、多量の戦利品(小銃
だけでも1,700挺)を得、24日要地湖州を占領した。11月29〜30日広徳
を奪取した支隊は、12月3日に、建平、7日に高淳、9日に大平に進入
し、11日に彩石鎮付近で揚子江を渡河、13日に浦口に突入し、支隊の
任務は完了された。感状の日付は、12月16日であり、18日に浦口で
伝達されたが、この授与は異例の早さであり、これは第10軍が緒戦で
既に支隊の功績を認めたものと判断され、戦って勝たざるなく、攻め
てとらざるなき勇猛果敢な備後健児の名声を遺憾なく発揮した。」
わざとらしゅう、福山聯隊を無視すな云うとるんですで。
>>364
第二次長沙作戦は、芋引いたけぇ、完全な敗北じゃが、北支戦線は、
芋引いとらんですど。
368名無し三等兵:2009/02/24(火) 04:20:24 ID:???
475 名前:名無し三等兵 :2007/06/29(金) 13:34:21 ID:???
いろいろ湧いてるけど、基本的にイナゾウのスルー力は信頼できるから

信頼してるよ
369名無し三等兵:2009/02/24(火) 12:48:56 ID:KiNMRwAc
>>363
1年ぶりに見たが、稲造、まだ本の丸写しがんばってるのか。
あとキルレートっておま、レートって言うからには
分母と分子が必要だかんな。
370名無し三等兵:2009/02/24(火) 21:35:59 ID:???
本の丸写しでタイピングの練習ですね
371名無し三等兵:2009/02/24(火) 22:02:32 ID:???
>敵機が乱舞する戦域で、歩兵は昼は防空壕を掘りつつ夜は眠らず3000キロを歩くのか?

・あるこう あるこう わたしはげんき
 あるくの だいすき どんどんいこう
 さかみち トンネル くさっぱら
 いっぽんばしに でこぼこじゃりみち
 くものす くぐって くだりみち

・あるこう あるこう わたしはげんき
 あるくの だいすき どんどんいこう
 ミツバチ ぶんぶん はなばたけ
 ひなたに とかげ へびは ひるね
 ばったがとんで まがりみち

・あるこう あるこう わたしはげんき
 あるくの だいすき どんどんいこう
 きつねも たぬきも でておいで
 たんけんしよう はやしのおくまで
 ともだち たくさん うれしいな
 ともだち たくさん うれしいな 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11252991
372イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 00:00:17 ID:DtQsO+1Y
さて『上海決戦』が一区切りしましたので、広田の話に時間を巻き戻したいと
思います。日本軍が呉淞に上陸して本格的な戦闘が始まった後の9月、支那は
「一連の事変」を国際連盟に提訴しました。

支那事変が始まる直前の1937年4月26日には、スペイン内戦における
『ゲルニカ爆撃』(都市爆撃の嚆矢)が国際的な非難を集めておりましたので、
日本海軍の中攻による支那への渡洋爆撃もまた同様に槍玉に上げられました。

まあ、過去スレでも取り上げましたが、例えば

◎8月14日=台北から9機が広徳を、別の9機が杭州を爆撃
◎8月15日=台北から14機が出撃し、うち8機が南昌を爆撃
        長崎県大村から20機が南京を爆撃
◎8月16日=台北から13機が南京、揚州などを爆撃、
        済州島から9機が蘇州を爆撃
◎8月19日=台北から7機、済州島から南京を爆撃
◎8月21日=済州島から9機が揚州を爆撃、同じく別の6機が浦口を爆撃
        台北から3機が考感(湖北省)を爆撃
◎8月22日=済州島から6機が南京を爆撃
◎8月24日=済州島から8機が南京を爆撃
◎8月26日=台北から6機が南昌を爆撃
◎8月27日=済州島から8機が南京を爆撃、台北から6機が南京を爆撃
◎8月30日=済州島から6機が徐州を爆撃
373イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 00:30:47 ID:1HtsGIAK
>>372 >>◎8月19日=台北から7機、済州島から南京を爆撃

例えば、8月19日には上海を飛び越えて「96式陸攻」が南京の火薬工廠を
爆撃しています。まあ、規模は小さいですが戦略爆撃の嚆矢であり、ドゥーエ
理論に則るならば、『毒ガス』も支那の各都市に落としてやらなければならない
ところですがw。また、こうした戦略爆撃の他にも、空母「加賀」「龍驤」「鳳翔」が
上海付近に進出して、戦術レベルで支那陣地に爆撃を行なっています。この辺りが
「土人軍」との地力の差になる訳ですが、それはさて置き、

1937年9月28日に国際連盟総会が、日本軍による支那の都市爆撃に対する
『非難決議』を全会一致で採決しています。まあ、>>372 で既に述べたように
『ゲルニカ』が直前にありましたので、いかにも「間が悪かった」とも言えます。

また「盧溝橋事件」に端を発する日支の武力衝突は、満州事変における柳条湖事件を
諸外国に想起させました。まずアメリカ国務省が日本の武力行動を「9ヵ国条約」
(1922年)と「パリ不戦条約」(1928年)違反だと声明を出します――。

(念のための補足ですが「9ヵ国条約」は、ワシントン会議で支那の主権尊重と
 門戸開放を規定したものです)
374イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 01:03:09 ID:1HtsGIAK
また他方でイギリスは、アメリカとの協議のうえ「9ヵ国条約」の締結国が
ベルギーのブリュッセルで国際会議を開き、日支間の武力衝突を議論する事を
提起しました。支那に利害関係の一番薄いベルギーが、会議の開催場所として
ふさわしいという理由でしたが、外相の広田弘毅は1937年10月21日に
駐日ベルギー大使から会議への招請状を手渡される事になります――。

蒋介石からすれば「予想通り」というか「目論見通り」の展開であり、日本(悪ガキ)が
とうとう欧米諸国(先生)から『呼び出し』を喰らったかのように思えたでしょう。実際、
ブリュッセル会議の開催が決まる直前の10月15日の蒋介石日記には、●「半年(上海を)
堅持すれば、遅くとも来年3月頃には、倭国内乱が無くとも『外患』が出るはずだ、忍ぶのだ」
と自らを励ますように書き付けられています。

要するに上海で善戦を続ければ、欧米諸国の同情を呼び、やがては具体的な中国支援と
日本に対する非難が始まると期待していたのでした。まあ、具体的には日本に対する
『経済制裁』と英米が『ソ連の対日参戦』を認めることです。のちに南京防衛司令官
となる唐生智の回想によると、蒋介石は唐に●「この上海戦は、外国人にやって見せる
ためのものだ」と心境を明かしたと云います。
375イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 01:28:59 ID:1HtsGIAK
>>374 >>外相の広田弘毅は1937年10月21日に駐日ベルギー大使から
>>ブリュッセル会議への招請状を手渡される

しかし外相の広田弘毅は、翌10月22日の午前10時からの閣議で諮って、
とっととブリュッセル会議への『不参加』を決めてしまいます。その理由は、

●日本は国際連盟を脱退していて、その活動には参加しない立場にあること
●支那の工作により、既に『日本非難』の決議を出す準備がされていること
●日本が出席しても意味(利点)が無いばかりか、(満州事変時の松岡洋右の
 ように)かえって国際社会との摩擦が大きくなる可能性が高いこと
●仮に日本代表が非を率直に認めて引き下がったとしても、国内世論が激昂して
 収拾がつかなくなるのが目に見ていること

などが挙げられます。広田は極めて現実的な判断をした訳ですが、この点は
広田に批判的な前出の外務省東亜局長の石射猪太郎でさえ同意見で、こんな
●『井戸端会議』に意味はなく招請を拒絶すべきだと、省内会議で主張して
います――。そして広田は10月27日に、ブリュッセル会議に出席しない
旨をベルギー大使に回答するのでした。
376イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 01:58:36 ID:1HtsGIAK
広田はベルギー大使に対して、会議を謝絶しつつも●「支那における日本の行動は、
『排日抗日政策』を続ける支那の実力行使によって挑発された『自衛措置』であり、
9ヵ国条約の範囲外である」と述べました。

強引な後段はともかくとして、前段は「第2次上海事変」が支那の明白な開戦決意に
よって火蓋が切られたことを考えれば、至極もっともな主張でしょう。別宮翁も毀誉
褒貶が激しいですが、やはり作戦計画に基づいて『先制攻撃』を仕掛けたのは誰か?
という視点を一般的に広めたのは最大の功績だと思います。このときは、

広田も石射も珍しく意見が一致しまして、●「支那事変は『井戸端会議』の段階を
すでに過ぎており、日支の直談判以外に解決の道は無い。その仲介の橋渡しをして
くれる第3国の役割こそ必要だが、それを無責任な国際会議に求めるべきではない」
という訳です。

実際、9ヵ国会議は日本不在のまま11月3日からブリュッセルで3週間に渡って
開かれましたが、●「日本は9ヵ国条約・不戦条約違反である。事変の解決は日中の
直接交渉では成就しない。『関係列国との協議』によってのみ解決し得る」と、広田と
石射の思惑とは全く逆の決議をして散会しましたw。別に「対日制裁」がある訳でもなく、
何の意味も効果もありません。

石射独特の皮肉を借りれば、●「暴れる猫の顎に鈴を付けようとする者のいない、
鼠の会議であった」となります――。
377イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 02:01:08 ID:???
そして蒋介石が、期待し待ち望んだ「ブリュッセル会議」の結果に
非常なショックを受けたのは言うまでも無いことです。
>>374 >>蒋介石からすれば「期待どおり」の展開であり、日本(悪ガキ)が
とうとう欧米諸国(先生)から『呼び出し』を喰らったかのように思えたでしょう。

     _...,、.._))
   ,,´,===?、   
    ( ソノ))ノハ((  
   Xネ.゚ ー.゚ノ(   なんか苛められっ子が、わざわざ先生の目の前で
    /^i、_:@つ   苛めっ子に反撃する確信犯に似てますね。
   (ン'ー-:->、_  
    '〜i_テi_テ〜'  
      ̄  ̄
379名無し三等兵:2009/02/25(水) 02:17:28 ID:???
いじめられっこと同情するには民国政府はあまりにおいたが過ぎたわけだが。
【USC(アルティメット・サディスティック・クリーチャー:究極加虐生物】

 、 - _- 、
/ 〆~~~~ヽ.  ___
lノ  、   , '"  `ヽ, バッ
ll    〈Q)(,ノノ ))ノ))
ヽ.    /ミヽ) ゚ ー ゚ノリ   なにやら、呼ばれた気がして出てきました。
.  ~~~~~ (弋#ム⊂fヽ.   さあ、先生役はどなた? 博麗の巫女?
.      /#/##;i#ヾ    それとも紫? 説教の多い閻魔さま?
       'i_r〜〜-、)   楽しみにお待ちしております。
381名無し三等兵:2009/02/25(水) 12:46:21 ID:???

【1949年以降に皇帝を称した人物一覧】 exp板
原題「【......】1949年以後中國称帝人物一覧表 」
ttp://tieba.baidu.com/f?kz=152009930  2006-12-2 12:58

2 名前:AL_shin@exp

【大中華佛国】(1947〜1953,1983)

 初代皇帝・石頂武(位1947〜1953)
  …反乱を計画し、人民政府により処刑。

 2代皇帝・石金キン(位1983)
  …石頂武の子。1983年に農民をやっていた「丞相」李丕瑞の補佐のもと即位。
   湖南省醴陵県(当時)の農村で再建国するが、県の公安局に鎮圧される。


【道徳金門皇帝】

 丁興来(位1981〜1990)
  …盲人。大別山で道徳金門教を創始して皇帝を名乗り、
   「正宮娘娘」「西宮娘娘」「宰相」などの21人を位に封じ、「仙印」41枚を下賜する。
   交通が不便な地域だったため、即位して10年後にやっと当局に発見され処理される。
382名無し三等兵:2009/02/25(水) 12:46:46 ID:???

3 名前:AL_shin@exp

【中原皇清国】

 正皇帝・張清安 位1982
 副皇帝・廖桂堂 位1982

  …皇清を年号として大巴山に建国。
   張清安は「玉璽」や「後宮」を持ち、丞相と文武百官を任命。『天律森吏』の書を頒布。
   四川省巴中県(当時)を首都に定めようと計画し、巴中四川劇団の建物を皇居とする。
   さらに台湾に対して「蒋介石を威国王に封ず」という綸旨を発し(郵便局を利用)、
   「朕を救うため親征せよ」と命令。
   結果、決起前に県の公安局によって滅ぼされる。



4 名前:AL_shin@exp

【聖朝国】(1980〜82)

  …皇帝・林文勇
   大巴山の儀隴山区に建国するも、県の公安局に鎮圧される。
383名無し三等兵:2009/02/25(水) 12:47:09 ID:???

5 名前:AL_shin@exp

【ユーホアン大帝】
  …1982年に大巴山に住む曹家元がユーホアン大帝を自称するも、
   まもなく滅ぼされる。


【朱仕強】
  …1980年に大巴山の朱仕強が皇帝を称するも、
   7日後に人手を連れた村書記がやってきて滅亡する。



6 名前:AL_shin@exp

【大聖王朝】(1986〜1988)
  …女皇帝・晁正坤(位1986〜1988)が山東半島に建国。
   巫術をおこない、童貞を集めて「後宮」を築く。
   県の人民政府により鎮圧。
384名無し三等兵:2009/02/25(水) 12:47:29 ID:???

【万順天国】(1990〜1992)
  …皇帝・李成福(位1990〜1992)。唐王朝の末裔を名乗る。
   河南省(豫州)西部で安民党と万李起義軍を組織し、
   農村が都市を包囲する方式により、唐王朝の皇帝位に返り咲き西安に首都を置こうと考える。
   その後、派出所の警官3名によって滅亡。


【その他】
  …皇帝・姓名不詳。70年代末か80年代初期に即位。
   計画生育政策(一人っ子政策)への反対をきっかけとする。
   農村で建国して皇帝を名乗り、大軍(数百人)を率いて県城に攻め入り県の医院を攻略。
   医院内の医師・看護士全員を捕虜とし、計画生育用品をすべて破壊。

   その後、人民解放軍の迅速な反撃によって県医院は包囲され、
   皇帝は軍を率いて頑強に抵抗したが一敗地にまみれ捕虜となる。
   この皇帝は死刑にならず、なぜか無期懲役となった。
385名無し三等兵:2009/02/25(水) 21:01:10 ID:???
イナゾウ脱走兵的にこの本はどう思う?

553 :名無し三等兵 :2009/02/25(水) 12:08:20 ID:???
中国抗日軍事史 1937-1945 菊池一隆 著
http://www18.ocn.ne.jp/~yushisha/newpage2.html
強大な戦力と高い軍事技術をもった日本軍に、圧倒的に劣勢だった中国軍はいかにして勝利したのか。
盧溝橋事件から日本敗戦までの日中戦争史を、中国現代史の視点から、その戦闘を中心にして多面的に論じ、新たな軍事史の姿を提示する。
386名無し三等兵:2009/02/25(水) 21:39:30 ID:???
いやこれっぽっちも勝ってないからw
387イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 23:30:55 ID:+rxfAmnE
>>385 >>イナゾウ脱走兵的にこの本はどう思う?

カバー画像を見て一体、何十年前の本かと思ったら発売日が2009年2月24日なのね。
って、昨日じゃねえかw。紀伊国屋のネット検索でも出てこないし、アマゾンでも
「1〜3週間以内に発送」なので事実上、この本は世に流通するのかしらん?

序章 強国日本は弱国中国になぜ敗けたのか
第1章 日本軍攻勢段階の国民党戦場―盧溝橋事件から武漢陥落まで
第2章 日中対峙段階の国民党戦場と国共矛盾?南昌会戦と第一次・第二次長沙会戦
第3章 太平洋戦争以降の国民党戦場と海外派兵―国民政府軍攻勢段階への転換
第4章 国民党系特務の抗日テロ・ゲリラ―「藍衣社」と「C・C団」
第5章 毛沢東の遊撃戦構想と共産党戦場
第6章 世界華僑による抗日支援ネットワーク
第7章 抗日戦争の背景とその基盤―国民政府による「抗戦建国」路線の展開
終章 中国勝利・日本敗戦の構造

目次だけ引っ張ってきましたけど「判断不能」ですねえ。著者の既刊も調べましたが
『中国初期協同組合史論』(6825円)、『日本人反戦兵士と日中戦争』(7140円)、
『中国工業合作運動史の研究』(1万5750円)で申し訳ないですが、とても『中国抗日
軍事史』を買って読む気にはならんス。
388名無し三等兵:2009/02/25(水) 23:37:28 ID:???
>    その後、派出所の警官3名によって滅亡。

( ´ω`)
389イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/25(水) 23:51:00 ID:+rxfAmnE
>>385 >>強大な戦力と高い軍事技術をもった日本軍に、圧倒的に劣勢だった
>>中国軍はいかにして勝利したのか

>>387 だけではあんまりなので、まず最低限の前提条件として『日米戦争』が
勃発しなけば支那は戦勝国になれませんでしたよね。支那にとって考えられる
最高の理想的シナリオは、米国の援助によって強化された国府軍が支那戦線で
日本軍を打ち破り、また日本の本土爆撃や上陸作戦も●『支那大陸が足場』と
なって日本を降伏に追いやるというものです。

要するに、B29もサイパンからではなく支那大陸から飛び立ち、日本本土
上陸作戦も支那大陸を拠点として行なわれる――という訳です。そのぐらい
やれば、『中国軍はいかにして勝利したのか』と謳って良いと思いますが、
あとは現実を見て判断してくださいw。

つーか、支那が戦勝国に名を連ねているのは、第2次世界大戦を『人種戦争』に
しないためという面も大きい訳です。つまりは日本の主張する大東亜共栄圏、
アジア人のためのアジア――のプロパガンダの根拠を崩すためです。
390名無し三等兵:2009/02/25(水) 23:53:46 ID:???
>支那は戦勝国になれませんでしたよね。
それは微妙かと思われる。
日中戦争だけで対米戦が無かったとしても日本は国家破産寸前まで追い込まれてますし。
391名無し三等兵:2009/02/26(木) 00:00:34 ID:???
>385
数年前でしたか、過去スレで黄仁宇『蒋介石』(東方書店/1997)を紹介
したことがありましたが、こちらの本も、ちょうど購入予定なので手に入り
ましたら紹介いたします。

392名無し三等兵:2009/02/26(木) 00:09:16 ID:???
日中戦争は対米宣戦前に終わりのない泥沼に既にはまってたからなあ。
393イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/26(木) 00:20:46 ID:QL484Ips
>>390 >>日中戦争だけで対米戦が無かったとしても日本は国家破産寸前まで
>>追い込まれてますし。

なんぼ米英の援助があっても『国家破産寸前』なのは支那も同じかとw。まあ、
1つ補足しておきますと、1939年9月ごろに参謀本部でも支那戦線を縮小
すべし、という「建議書」が出されたのは特筆しても良いと思います。

いわゆる●『中南支放棄論』ですが、背景にはお決まりのパターンとなりますが
参謀本部が「対ソ戦」を憂慮したことが挙げられます。もちろん国家予算が破綻
寸前という理由もありまして、1940年の予算は史上初めて100億円オーバー、
しかもその内の64%が軍事費と消える予定でした。

インフレや米不足も深刻になり、阿部信行(陸軍大将)内閣で「物価・賃金統制令」を
出して、物価・賃金を1939年9月18日時点を基準に凍結しようとしましたが、
こんな政策が『不可能』なのは特に経済学を履修していない人でも理解できるでしょう。

ちょうど「汪兆銘工作」が進んでおりましたので、中南支を汪政権に任せる形というか1つの
方便として、日本軍の兵力を「黄河以北」まで引き揚げさせようという目論見だった訳です。
394名無し三等兵:2009/02/26(木) 00:23:49 ID:???
>>390
実際に破産した大国は近代国家ではないわけですよ。
395イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/26(木) 00:37:06 ID:QL484Ips
>>393 >>●『中南支放棄論』ですが、背景にはお決まりのパターンとなりますが
>>参謀本部が「対ソ戦」を憂慮したこと

ユダヤ人難民の救出で有名な樋口季一郎(当時、少将)も『中南支放棄論』の1人
でして、参謀本部第二部長(情報)だった樋口は戦後の回想で、

●「ある日の省部(陸軍省・参謀本部)連絡会議において私は『北方(満州国と
 朝鮮のソ連国境)の不安上、何としても満州国への兵力集中は必要であり、
 汪兆銘の如きは単なる兵力集中上の【方便】に過ぎないのであり、またそれで
 十分ではないか? およそ時局処理には【大義名分】を必要とする。汪兆銘の
 価値は、この重大行動の変動に大義名分を与え得るものだ』と述べたところ、

 阿南(惟幾・陸軍)次官は顔面を朱にそそぎ、『君は部下を率いて戦場に立った
 ことが無い。それだから、そのような暴論を吐き得る。君には数万、数十万英霊
 に対する感謝も責任も持ち合わせてはいない。君の意見は一顧にも値しない――』
 というのであった」

と述べています。ちなみに「汪兆銘政権の樹立」は1940年3月のことです。
396イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/26(木) 01:09:19 ID:QL484Ips
>>395 >>汪兆銘の如きは単なる兵力集中上の【方便】に過ぎないのであり、

『対ソ戦』のためなら「汪兆銘政権」も支那戦線から兵力(予算・物資)を
引き揚げる【方便】に過ぎないと、樋口季一郎も酷いことを言っていますが、
ある程度、現実味のある話ではないでしょうか。少なくとも国家予算が破綻
しそうだからという理由よりは……(核藁)w。

まあ、阿南惟幾は陸軍次官の前職に第109師団長(金沢)として山西省で粛正
作戦を行なってきたばかりでしたので(1938年11月〜1939年9月)、樋口季一郎の
支那事変の処理に対する【方便論】に色をなしたのでしょう。

また同じような『撤退論』は1940年4月頃にも出され、参謀本部第3課長
(編制動員)だった那須義雄大佐が「建議書」を作成したところ、陸軍省軍事
課長だった岩畔豪雄大佐から●「皇軍将兵の血を流した土地を手放されるか?」
と華麗にスルーされ、次いで●「シンガポールを攻略すべし!」と怒鳴られて
シマイだったと云います(英国の援蒋ルートの断絶ぐらいの意味)。

まあ、常に参謀本部が『支那戦線の縮小』を訴え、陸軍省が『反対する』という
パターンが繰り返されるのは興味深いと思いますが。しかし、これも「人物が」
というよりも、どちらに所属(役職)しているかの方が大きいのでしょうけど。
397イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/26(木) 01:37:34 ID:QL484Ips
>>392 >>日中戦争は対米宣戦前に終わりのない泥沼に既にはまってたからなあ。

まあ、日本が「終わりのない泥沼」に嵌っていたのは事実ですが、それを言ったら
支那はそれ以上です。支那にとっての恐怖は、日本が程ほどの占領地で長期持久の
構えを取ってしまうことであり、英米仏ソが支那に対して『無関心』に転じること
でした。ひたすら「他人頼み」で主導権の欠片も無い支那よりは日本の方がマシだ
と思いますw。

>>377 >>そして蒋介石が、期待し待ち望んだ「ブリュッセル会議」の結果に
>>非常なショックを受けたのは言うまでも無い事です(国際社会の無関心)。

という訳で、次回は>>377 の続きに戻りたいと思います。

 、 - _- 、
/ 〆~~~~ヽ.  ___
lノ  、   , '"  `ヽ, バッ
ll    〈Q)(,ノノ ))ノ))
ヽ.    /ミヽ) ゚ ー ゚ノリ   強さとは……我が儘を通す力!
.  ~~~~~ (弋#ム⊂fヽ.   
.      /#/##;i#ヾ   
       'i_r〜〜-、) 
399名無し三等兵:2009/02/26(木) 07:40:31 ID:???
>>387
>>389
ありがとう。
何か目次からして怪しいなとは思ってたよ。
「中国軍」に負けたと言われるような戦いって台児荘と第二次長沙作戦
末期のシ江作戦位しか知らないしなぁ。
400名無し三等兵:2009/02/26(木) 15:57:34 ID:4wQA9W1V
>ちなみに「汪兆銘政権の樹立」は1940年3月のことです。

大虐殺の後の南京になだれ込んでくる中国人wwww

 ゴ キ ブ リ は 自 ら 進 ん で ゴ キ ブ リ ホ イ ホ イ に 入 る
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 ゴ キ ブ リ は 自 ら 進 ん で ゴ キ ブ リ ホ イ ホ イ に 入 る
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266 :名無し三等兵:2008/09/03(水) 20:20:05 ID:ruEmvhCo
■江沢民が日本を恨む理由

 2003年3月26日、中国中央軍委、中紀委、政法委、中組部、国防部、
公安部、人事部、高検などに、中国第二世界大戦史研究会会員の
呂加平研究員から「江沢民の経歴及び入党時間等の問題を調査すべき
だ」という要望書が届いた。 ここで最も注目されたことは、江沢民が
父のことを隠し続けていたことである。それはなぜだろうか。

 1943年、17歳の江沢民は実は当時、日本政府に協力した汪精衛政権の
下の南京大学に通っていた。江沢民が上海交通大学に移ったのはのちの
ことである。江沢民の実の父は日本占領下の江蘇で公務員をしていた
、江世俊という人である。江沢民の履歴には、叔父江上青だけがいつも
載っているが、それは父が同時期の日本政府に協力していたからである。

 江沢民は当時、学生運動に参加し抗日運動に積極的に参加したと嘘を
ついているが、全くのでたらめである。江世俊と江沢民の親子が同時に
戦争時代の日本政府に協力した過去の自分と家族の歴史を調査される
ことを最も恐れ、自ら先頭に立って反日教育を行ってきたのである。
http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_02.html
401名無し三等兵:2009/02/26(木) 16:03:18 ID:???
402名無し三等兵:2009/02/26(木) 16:08:00 ID:???
英霊が!英雄が!とわめく奴に限って自分が英霊になることも無く、
事態を打開できる案を出す訳でもなく…orz
403名無し三等兵:2009/02/26(木) 18:39:51 ID:???
そもそも南京で民間人を殺したのは支那人。
日本人はひとりの民間人も殺さず、捕虜もすぐに釈放していた。
鬼の首でも取ったように日記を持ち出してくるブサヨがいるが、
その日記が本物であることを示す決定的証拠はどこにもない。
つまり、そういった日記や書類は証拠写真と同様に明らかな捏造である。
404御大韓さま ◆3yfCH5upaQ :2009/02/26(木) 19:08:15 ID:???
>>403
冗談だろ…?
405名無し三等兵:2009/02/26(木) 19:13:54 ID:???
松井大将の日記でも捕虜を解放した記述がある
404はブサヨで帰化人で博士号すら持ってない
秦郁彦みたいなド素人の言う事を鵜呑みにしてる情弱か?
406御大韓さま ◆3yfCH5upaQ :2009/02/26(木) 19:33:42 ID:???
マジなの?
407名無し三等兵:2009/02/26(木) 21:15:59 ID:???
そこは、また華麗にスルーするだろう
408イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/26(木) 23:57:55 ID:8k4DJJcz
>>397 >>ひたすら「他人頼み」で主導権の欠片も無い支那よりは日本の方がマシ

1つだけ補足ですが、なぜイギリスが支那を援助(援蒋ルート)したかと云うと、
最大の権益である『香港』が危ないからです。日本の武漢攻略作戦(1938年)で
揚子江の交通が制限されただけでも大打撃なのに、同時期に広東も攻略されたため、
珠江も閉鎖され粤漢線(広東〜漢口)も遮断され、もう踏んだり蹴ったりです。

ちなみに珠江は、南支における河川交通の大動脈であり、北支の黄河・中支の揚子江に
相当する大河です。また言うまでもなく、広東市の対岸には『香港』がある訳ですね。
これでは香港、引いてはイギリスの立つ瀬がありません。また支那もイギリスからの
援助物資が入らなくなりましたので、大いに困りました。

ここからビルマルート(雲南省経由)の「援蒋ルート」が実現する訳ですが、蒋介石は
武漢と広東が陥落した直後の1938年11月7日、長沙でイギリスのカー駐支大使と
会談します。蒋介石はこの場で、イギリスは引き続き中国を助けるつもりがあるのか?
無ければ、●「中国は全政策を転換して別途の友人を捜さねばならなくなるだろう――」
と脅しあげました。

これに驚いたカー大使は、妻の宋美齢にも会って蒋介石の真意を確かめようとしますが、
宋美齢は●「蒋介石の中国における影響力は決定的である」と嘯(うそぶ)きましたw。
409イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/27(金) 00:15:36 ID:UgbkNhAi
>>408 >>●「中国は全政策を転換して別途の友人を捜さねばならなくなるだろう」

要するに「日本と和平を結ぶ」という暗喩ですが、イギリスにとって最大の悪夢は
支那が日本とグルになって、香港を筆頭に自国の権益を完全に放逐することでした。

>>397 >>ひたすら「他人頼み」で主導権の欠片も無い支那よりは日本の方がマシ

もし支那に何かしらの『主導権』があるのだとしたら、それは諸外国の既存権益を
人質に取った、あるいは将来の権益の可能性をニンジンにした『弱者の脅迫』でしか
無かったでしょう――。
410イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/27(金) 00:48:22 ID:UgbkNhAi
>>377 >>そして蒋介石が、期待し待ち望んだ「ブリュッセル会議」の結果に
>>非常なショックを受けたのは言うまでも無いことです。

日本が経済制裁を受けるぐらいを期待していた『9ヵ国会議』が不首尾に終わり、
強気一辺倒だった蒋介石も大きなショックを受けます。上海戦が始まって間もない
10月5日頃には、米国のルーズベルト大統領がシカゴで『隔離演説』を行なって
物議を醸していたにも関わらずです。

この『隔離演説』とは、●「戦争は伝染病である。これを惹起する病人を隔離しなければ
ならない」と、日本を『保菌者』に見立てた内容でした。ハンセン病患者ではあるまいしw
現代なら大問題ですが、まあ時代が時代です。これに対して日本も売り言葉に買い言葉で、
対外宣伝を担当する外務省情報部長の河相達夫が、●「無産者が有産者に進路を阻まれる
時は、戦争になるのが自然の勢いだ」と声明を発し、さすがの陸海軍も外務省にやり過ぎだ
と抗議しましたw。

このような一騒動がありましたので、蒋介石も「9ヵ国会議」に期待するところ大だった
訳ですが、ぬか喜びに終わる結果となります。乾坤一擲の『上海決戦』にも完敗したため、
この時期から日本との早期講和も真剣に考えるようになる訳ですが――。
411イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/27(金) 01:43:29 ID:UgbkNhAi
また日本の国内政治にも触れておかなければなりません。10月15日、首相の
近衛文麿は内相の馬場^一の進言を容れ、内閣を補強するための『内閣参議制度』
を作りますが、これが後に思わぬガンとなります。

形式上は「政府諮問機関」で各界から閣僚級の人物を選び、重要政務について
内閣に進言するというものです。しかし近衛が「選んだ人物」が問題でした。

宇垣一成(陸軍大将)を筆頭に、荒木貞夫(皇道派・陸軍大将)、末次信正(艦隊派・
海軍大将)、安保清種(元海相・海軍大将)、松岡洋右(元外交官)、池田成彬(三井
財閥総帥)、町田忠治、前田米蔵、秋田清、郷誠之助です。

まあ、表面上は陸海軍人の他に、政界・財界・官界から各2人が選ばれた形ですが、
近衛の「人物の好み」がモロに出ています。皇道派の荒木貞夫、艦隊派の末次信正を
入れている点が正にそうですが、組閣を流産させられた宇垣一成も名を連ねています。

はっきり言って、今の陸相の杉山元に対する当てつけ以外の何ものでもありません。
もっと言えば「2・26事件」後の、統制派が固める陸軍に対しての『牽制』でした。
412イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/27(金) 02:08:59 ID:UgbkNhAi
近衛は首相に就任した直後に、「2・26事件」で逮捕された皇道派将校の
大赦(究極的には真崎甚三郎の救済)を主張して、周りを驚愕させました。
結局、元老・西園寺の反対によりお流れになりましたが……。

それはさて置き、この内閣参議制度はいわば「第2の内閣」であり「閣僚予備軍」
でした。>>411 に挙げた人物のなかでも、馬場内相が1937年12月に心筋梗塞で
急死すると、その後釜によりによって末次信正が。

また1938年の内閣改造後になりますが、蔵相には池田成彬、文部大臣には(木戸
幸一を経て)荒木貞夫、そして外相には(近衛のホンネは松岡洋右だったでしょうが)
宇垣一成がとって代わることになります。

まあ、『お友達内閣』のハシリのようなものですが、トラウトマン工作時に
内相に代わったばかりの末次信正が「超強硬論」を主張したことは、いかに
この内閣参議制度(というか近衛の人選)が迷走を招いたかが分かるでしょう。

近衛にとってはカウンターパートのつもりだったでしょうが、閣僚との相互不信を
助長させただけのような気がします。あるいは船頭多くして……。何か今日は乱筆御免。
413白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/02/27(金) 03:02:32 ID:RWztx6SU
>>399
台児荘は退却した姫路第10Dと関わりのう広島第5師団だけで戦闘せぇ
云うんか。しかも途中の向城に浜田第21聯隊第1大隊を残して。
広島第5師団は、姫路第10師団を救援した後、沂州攻略を再度実施しとるし
敗走しとらん。第二次長沙作戦の敗走や仙台第13師団が防御出来んで大隊が
潰滅した冬季作戦と一緒にすなや。
414イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/28(土) 01:21:45 ID:z1++otnw
>>412 >>文部大臣には(木戸幸一を経て)荒木貞夫、

補足ですが、首相の近衛文麿の引きによって木戸幸一が「文部大臣」として
政界デビューした事にも触れておきましょう。言うまでも無く木戸は侯爵、
2歳年下の近衛とは(その後も)切っても切れない縁です。

木戸は学習院高等科を卒業後、京都帝国大学に進み、農商務省に入省します。
1930年に近衛の推薦で内大臣府秘書官長に就任したのを最初のステップに、
第1次近衛内閣で初入閣した訳です(その後・初代厚生大臣も兼務)。

官僚経験があり実務能力もある木戸が内閣に加わったことで、近衛は心強い味方を
得た思いでしたでしょう。これに気を良くした近衛は、首相も構成員に加える形の
『大本営』の設置を考えます。従来から「統帥権独立」の名の元に首相といえども
軍事面にアンタッチャブルな点(統帥と政治の背反)に歯止めをかけようと考えた
のでした――。まあ、日清戦争で首相の伊藤博文が天皇の命により、大本営・御前
会議に加わったのが想起されます。
415391:2009/02/28(土) 01:38:45 ID:???
>385 >399
何か、既に納得された様な観があり、こちらをご覧になられているか
分かりませんが、『中国抗日軍事史』書店に注文中ですので、入手
して内容を確認いたしましたら紹介させていただきます。

>「中国軍」に負けたと言われるような戦いって台児荘と第二次長沙作戦
>末期のシ江作戦位しか知らないしなぁ。

上記の本とは直接関係無い事ですが、>399でご提示いただきました例
は、いずれも「戦闘」での勝利であって「戦争」での勝敗ではありません。
「戦闘の勝利」は、あくまで「戦争での勝利」を得るための手段でしかな
く、いくら戦闘での勝利を重ねたとしても、相手側の交戦意思を挫き、こ
ちら側の国家意思を受諾させられなければ、戦闘での勝利を戦争での
勝利に活かす事は叶いません。

大規模な会戦により勝敗を決した普仏戦争や日露戦争とは異なり、日中
戦争は日本側の短期決戦の意図に反して長期戦となり、戦闘での勝利を
積み重ねながらも、中国側を屈服させる事は叶いませんでした。
416391:2009/02/28(土) 01:42:07 ID:???
>415 続き
結果として日中戦争の解決が出来なかった事が日本をアメリカとの戦争に導
く要因となってしまった事を考えても、中国側の継戦意思を絶つ事が出来ず、日
本側優位の内に戦争を終結させられなかった時点で、日本は打つ手が無くなっ
たことになり、その点で日本は勝利への道筋を失った事になります。

痛切に感じるのは、個々の勝利を戦争の勝利につなげる事が出来なくなった当
時の日本の陥った深刻なジレンマです。イナゾウ様のご提示される興味深いエ
ピソードのなかにも、さまざまな局面でこの問題が表れています。

戦闘での勝利と戦争での勝利はイコールでは無いという事について少し記載さ
せていただきました。(諸賢の皆様には常識の範疇で、あえて記述するのは汗顔
のいたりですが、1つの考え方として参考にしていただけ増したら幸いです。)
417イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/02/28(土) 02:03:46 ID:???
しかし当然の事ながら、陸海軍が猛反発しまして『大本営』は近衛の意図とは
反する形で、陸海軍合同の作戦指導部という純粋な統帥機関として設置される
ことになりました。これが1937年11月20日です。日露戦争以来の設置
ですが、支那事変は正式には『戦争状態』ではありません。戦時でも無いのに、
大本営が開かれるとはこれいかに? まあ異常事態な訳です。結局、大本営条例
で『戦時に限る』とされていたのを廃止し、戦時ではなく事変でも設置可能に
した大本営令を新たに制定したのでした。

それはさて置き、自分の希望が通らなかった近衛はこれで一気にやる気を無くし、
また「辞職する」と言い出します。これには、近衛に頼まれて文部大臣になった
木戸幸一が驚いて結局、近衛を翻意させることが木戸の最初の仕事になった訳ですw。
418名無し三等兵 :2009/02/28(土) 16:11:51 ID:Bczm7RVh
>>416
それは残念だが確かに否定できないね。
しかし「支那が日本に勝利」したなどというのは荒唐無稽な詭弁でしょう。
419名無し三等兵:2009/02/28(土) 17:35:13 ID:???
>>418
世の中には日本が勝てなかったって真実から目をそらす人がいるから……。
この板にはあんまりいないと思うけどね。
420名無し三等兵 :2009/02/28(土) 22:31:07 ID:Bczm7RVh
日本が勝てなかったのは事実だがそれは米英の援助のため。
大東亜戦争と石油禁輸がなければ遠からず支那は崩壊したでせう。
決して支那に負けたわけではないよ。
421名無し三等兵:2009/02/28(土) 22:57:06 ID:???
蒋介石は失脚するかもしれないけど、
戦争そのものが、そこでおわるということにはならないのでは?
蒋没落後にできた政権なり、中央政府としてみとめられた汪政権なりと、
一時的に条約結んで停戦しても満洲問題も未解決のままだろうし、
ナショナリズムの勃興した中国が何年も黙ってる(強硬論を抑えて黙っていられる)とは思えない。
日本のほうでも「解決」したくてウズウズしてるひとびとが謀略やらかすだろうし、
結局、戦争がなしくずし的に再開してしまうのでは。
422御大韓さま ◆3yfCH5upaQ :2009/02/28(土) 23:04:04 ID:???
だから、戦術的な強弱と戦争の勝敗を同一視するなよ…
423白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/02/28(土) 23:12:59 ID:R6JatPTH
>>415
じゃけぇ、台児荘付近の「戦闘」で中国軍が勝利しとらん云うととるんで。
逆に日華事変の「戦争」じゃあ、長期戦の膠着状態になった時点で
戦闘主導権を中国側に奪われた云うことじゃ。じゃけぇ、個々の
「戦闘」に勝っても、日本軍に勝ち目はのうなったんじゃ。
ほいで、中国軍が広島第5師団に勝った云う根拠があるんなら提示せぇや。
424名無し三等兵:2009/02/28(土) 23:15:40 ID:???
国民政府が潰れたら米・英は中国共産党に支援するのか?ありえないな
425名無し三等兵:2009/03/01(日) 06:05:19 ID:???
国民党政府を潰せなかったのが問題な訳で・・・
426イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/01(日) 23:44:14 ID:yDnKTp5x
>>417 >>結局、近衛を翻意させることが木戸の最初の仕事になった訳ですw。

近衛はさらに現在の閣僚全員をそっくり「内閣参議」と入れ替えたいと恐ろしいことを
言い出しますw。これには陸海軍も妥協しまして、「首相・外相・陸相・海相」4相の他、
閣僚が適宜出席できる『大本営・政府連絡会議』が設けられる事になります。しかし、
実際にこれが開かれるのは12月14日と、かなり後の事になりますが……。

まあ、近衛首相と杉山陸相の関係がギクシャクしたのは、先にも述べた『宮崎龍介事件』が
大きなきっかけとなります。近衛の個人的な「和平特使」として上海に宮崎を派遣する事は
事前に杉山にも伝えたのですが、海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍の強硬派が憲兵を
動かして宮崎を神戸港で拘束し、東京へと送還してしまいます。

この件に関して、杉山は関係者の処分や聴取すら行なわず結局「事後承諾」を与える様な
形となりました。事件発覚当時、杉山本人も戸惑って明確な説明ができない状態で、以後
近衛は杉山に強い不信感を抱くようになります。
427イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/02(月) 00:08:26 ID:z6TZN7Nu
ただ杉山にも言い分がありまして、「色んな事が近衛の側近から漏れて困る」と
軍事機密に対する「近衛の口の軽さ」に不満を述べています。これは外相の広田も
同様で、「閣議では重要なことをうっかり言えない。直ぐにソ連大使あたりに
筒抜けになってしまう」と、近衛の左右両翼の取り巻きを懸念していました。

こうなると悪循環で、陸相の杉山は言うに及ばず、近衛は広田に対しても「外相が
閣議等で情報や意見を十分に打ち明けず、相談相手にならない」と不信を募らせます。

>>375 >>そして広田は10月27日に、ブリュッセル会議に出席しない旨を
>>ベルギー大使に回答するのでした。

さて、そろそろ「トラウトマン和平工作」にも話を進めて逝きたいと思います。別に
●『南京虐殺は華麗にスルー』ではなくw、そもそもトラウトマン和平工作は、南京
追撃戦が行なわれるどころか、上海決戦が完全に終わる前に始まっているからです。
428イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/02(月) 00:48:52 ID:z6TZN7Nu
さてブリュッセルでの「9ヵ国会議」の招請を断った広田弘毅ですが、東亜局長の
石射と同様、本当に望んだのは国際会議ではなく『日支直接交渉』の仲介でした。

ですので広田はブリュッセル会議への不参加を表明すると同時に、駐日アメリカ
大使のグルーと、駐日イギリス大使のクレーギーには、●「日支直接交渉を促進
する様、南京政府または蒋介石を説得してもらうのは『デザイアブル』(望ましい)
なり」と付言しています。

そして日支仲介の申し出は、まずイギリス側からありましたが、陸軍の反対で
お流れになりました。当時、支那の背後にはイギリスがいて国民政府の補強を
しているという説が流布されており、反英決起大会さえ行なわれる国内感情の
もとでは、イギリスの仲介は望ましくないという理由でした。まあ、中野正剛の
『東方会』も「アジアの敵!英国を撃て!! 排英 東亜民族大会」のポスターを
街頭に貼っていたりしますw。

まあ、しかし陸軍の本当の腹積もりはドイツに期待するところ大だった訳で、
日支双方に関係の深いドイツの仲介は広田としても、大きな選択肢の1つでした。
当時の駐日ドイツ大使・ディルクセンは、広田が駐ソ大使を務めていた時期に
同じく駐ソ大使で、親しかったという事情もあります。
429閉じた恋の瞳 古明地こいし ◆FU/OcfTlfM :2009/03/02(月) 23:53:27 ID:???

        _....._ム
  ゚  (¨゛==:::`,,
  、  ((,(( ((()\i, 
 -   sリi、ヮ ゚.リも_) ))  あ、ダウが7000ドル割れしている!
  ´   /^i、_:Q、_〉    いま、6966ドルだね。
     <y/::ノ:::iヽ、
    `^t_ァ'i_ァ^´
      ̄  ̄  ̄
430楽園の素敵な巫女 博麗霊夢 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/03(火) 00:00:13 ID:???

.「^ヽ,ry'^i
ゝ"´ ⌒`ヽ   /[] 
くi Lノノハノ)」  / []]
λ.[i ゚ ヮ゚ノi! / [] []  昔、懐かしの『ニューエコノミー論』も
レ',ヘ.i`ム'」つ/ [] [][]  幻想郷入りしています。今思えば、
..く_,//T.iλ        『大東亜共栄圏』も真っ青のスゴ理論
. "ーr_,t_ァ'"        だったわよね…という間に、6936ドル…。
431イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/03(火) 00:50:58 ID:5PlCH7e9
>>428 >>日支双方に関係の深いドイツの仲介は広田としても、大きな選択肢の1つでした。

ダウ6900ドル割れ(6897ドル)キター!wという訳で、>>428 の続きです。
「トラウトマン工作」の始まりは諸説あって、カンジ(石原莞爾)が作戦部長時代に
既に仕掛けていたとも、参謀次長の多田駿がドイツ大使館付武官の大島浩少将に
和平の『ドイツ斡旋』を打電したとも言われます。

正式な外交ルートでは、外相の広田弘毅が駐日ドイツ大使のディルクセンに1937年
10月21日に和平の仲介を依頼したところから始まります。ただこれも日付が10月
28日で、広田の指示を受けた堀内謙介次官がディルクセン大使に仲介を依頼したとも、
あるいは石射の弁ですと11月7日に突然、ディルクセンから「重要問題についてお話し
申し上げたいが、病気療養中のため外出が叶わない。失礼ながらお茶を用意して御来駕を
待つ」と広田外相に私信が届いたので、これを受けて広田が行ってみると、果たして和平
仲介の話であった――というものもあります。

まあ、ここでは11月21日に広田がディルクセンに「和平仲介」を依頼した説で話を
進めたいと思います。広田の意向は、駐支ドイツ大使のトラウトマンを通じて、国民
政府の陳介・外交部常務次長に伝えられたと云います。
432イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/03(火) 01:18:48 ID:5PlCH7e9
>>431 >>まあ、ここでは11月21日に広田がディルクセンに「和平仲介」を
>>依頼した説で話を進めたいと思います。

スイマセン。×11月21日ではなく『◎10月21日』の打ち間違いでしたw。

>>431 >>広田の意向は、駐支ドイツ大使のトラウトマンを通じて、国民政府の
>>陳介・外交部常務次長に伝えられた

これが1937年10月30日で、陳介もトラウトマン大使の話に乗り気になり、
日本側の「和平条件」を知りたいと希望しました。そこで外相の広田弘毅は11月
2日、東京のディルクゼン大使に次のような『和平条件』を提示します。

1.内蒙古(内モンゴル)民族の自治政府を樹立する。
2.北支に非武装地帯(満州国境から天津・北京まで)を設定し、支那警察隊が
  治安維持に当たる。
3.上海の非武装地帯を拡大し、国際警察隊が管理する。
4.抗日政策の廃止。
5.共産主義に対して、共同して戦う(共同防共)
6.日本製品への関税率低減。
7.支那における外国人の権利尊重。
433イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/03(火) 01:51:22 ID:5PlCH7e9
>>432 >>そこで外相の広田弘毅は11月2日、東京のディルクゼン大使に
>>次のような『和平条件』を提示します。

この辺りの背景がクソややこしくなるのですが、駐支トラウトマン大使が蒋介石に
日本側の「和平条件」を11月6日に伝えたところ、蒋は『応じられない』と拒否
しています。これが後に●『クソ高い代償』を支払わされる羽目になる訳ですが……。

まあ、蒋介石が拒否した理由には幾つかあります。まず「9ヵ国会議」への期待です。

>>376 >>実際、9ヵ国会議は日本不在のまま11月3日からブリュッセルで
>>3週間に渡って開かれましたが

ちょうど広田の「和平条件」提示と時期を同じくして、ベルギーのブリュッセルで
11月3日から3週間に渡って9ヵ国会議が開かれました。蒋介石としては待ちに
待った念願の国際会議で、日本に対する非難決議、あわよくば経済制裁やソ連の
対日参戦すら期待していた訳です。これがために日本の和平提案を蹴ったのですが、
その一方で柳川兵団(第10軍)の杭州湾上陸が11月5日ですし、更に翌日の
11月6日には『日独伊三国防共協定』が成立しています(『日独防共協定』は
1936年11月25日)。
434イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/03(火) 02:23:24 ID:5PlCH7e9
11月11日には上海南部から国府軍が撤退に追い込まれ、上海市長が
「上海陥落」を告げる文書を発表する事になりました。更に19日には
常熟―蘇州―嘉興の線まで日本軍に占領され、11月末には期待していた
「9ヵ国会議」も不首尾に終わり(列国の誰も火中の栗を敢えて拾わず)、
蒋介石の一縷の望みというか、淡い希望は微塵に砕かれる結果となります。

>>433 >>日本側の「和平条件」を11月6日に伝えたところ、蒋は『応じられない』
>>と拒否しています。

約1ヵ月後の12月2日になって、ようやく現実を直視した蒋介石は日本側の
「和平条件」に対してトラウトマン大使に回答しますが、時すでに遅しとは
この事でしょう。日本軍による南京攻略が目前に迫っていました――。
435イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/03(火) 02:31:52 ID:???
蒋介石の気分としては、今日のダウの様なものではないでしょうかw。
既に6850ドル割れしていますが、円が少し戻ってきたという事は
ここから『昇竜拳』が見られるのかしらん?

まあノーポジなので気が楽ですけど、何かワクワクして寝付けません。
明日の朝のビジネスサテライトが楽しみです。
436イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/04(水) 00:52:58 ID:9SvTCIVB
>>「トラウトマン工作」の始まりは諸説あって、カンジ(石原莞爾)が作戦部長時代に
>>既に仕掛けていたとも、参謀次長の多田駿がドイツ大使館付武官の大島浩少将に
>>和平の『ドイツ斡旋』を打電したとも言われます。

>>431 の補足ですが、一説にはこうです。カンジ(石原莞爾)が参謀本部第二部
(情報)ドイツ班長の馬奈木敬信中佐を通じて、東京のドイツ大使館付陸軍武官の
オットー少将に連絡し、駐日ドイツ大使のディルクゼンに根回しをしたところ、
「和平仲介」の話に乗ってきました。

そこで馬奈木中佐がオットー少将とともに秘かに上海に出張して、旧知の駐支
ドイツ大使・トラウトマンに調停を依頼して、了解を得た――という訳です。
ちなみに馬奈木の経歴は一貫して「ドイツ畑」で、ドイツ大使館付武官補佐官も
務めています(1929〜1931年)。

東京のディルクゼンが本国に一連の報告をすると、ドイツ外務省はトラウトマンに
「調停せよ」と訓令を発したと云います。
437イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/04(水) 01:26:02 ID:9SvTCIVB
>>432 >>そこで外相の広田弘毅は11月2日、東京のディルクゼン大使に
>>次のような『和平条件』を提示します。

またまた補足ですが、石射の回想によると>>432 で挙げた項目の他にも
和平条件に『損害賠償』の要求が付け加えられたと云います。

これはディルクゼン大使による和平仲介の申し出を受けて、近衛首相・広田外相・
杉山陸相・米内海相が「四相会議」を開いて即刻受諾。さらに陸軍省・海軍省・
外務省の三局長会議で『損害賠償』要求が挙がりました。

ただし、これは「支那が日本の権益に加えた不当の損害」に限ったもので、戦費
は含まれません。例えば、支那の土人が上海の邦人が所有する工場を焼き払った、
あるいは、もっとダイレクトに邦人を死傷させたといったケースを指します。
438イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/04(水) 01:37:41 ID:???
>>433 >>まあ、蒋介石が拒否した理由には幾つかあります。
>>まず「9ヵ国会議」への期待です。

さらに補足ですが、実際に蒋介石は●『ブリュッセル会議で列強国と
協力中』という名目で和平仲介を拒絶しています。
439名無し三等兵:2009/03/04(水) 20:08:17 ID:???
イナゾウさんは旧日本軍の毒ガス使用はどう考える?
頻繁にバカスカ使ったようだが。
440名無し三等兵:2009/03/04(水) 20:44:28 ID:???
そんなのイナゾウなら、
「せっかくだからもうちょっと盛大に撒いておけば、
支那は昨今の人口爆発で困ったりしなかった」
とかいうに決まってるじゃあないか。
441イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/06(金) 00:31:05 ID:???
アクセス規制解除?
442イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/06(金) 00:56:58 ID:???
あれ?「大規模規制」で半月は書き込めないと思っていたのですが、今日は
書き込めるの? 明日はどうか知りませんが。

>>439-440 まあ、支那にもアウシュヴィッツみたいな『強制収容所』をたくさん
作って、居るだけ火釜にくべれば良かったとは思いますよ。「一人っ子政策」は
しなくて済むようになったかと。

一応、以前にも述べたように『広田弘毅とその時代』が終わりましたら、次の
大テーマは『日本陸軍と毒ガス兵器』の予定です。あいだに小テーマを挟むと
思いますが。
>>428 >>日支双方に関係の深いドイツの仲介は広田としても、大きな選択肢の1つでした。
>>433 >>更に翌日の11月6日には『日独伊三国防共協定』が成立しています(『日独防共
>>協定』は1936年11月25日)。
   _,........,_
 , ´,.-== ,ヽ
 i (ノノλノ)リ
 ルイ) ゚ ヮ゚ノ)   日独防共協定も、日独伊三国防共協定も、広田の「首相・外相」   
  `,く_,`ハ,イつ  時代に結ばれたものだったのね。広田のドイツに対する思惑は、
  ,(,ノ┐ハゝ   一体、那辺にあったのかしら?――
  `'-i'_ィ,ァ"´
444イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/06(金) 01:43:01 ID:gdS4hvfg
>>443 >>広田のドイツに対する思惑は、一体、那辺にあったのかしら?

1つには『満州国』の存在があります。この頃、ドイツやイタリア、スペインによる
満州国の承認が期待されていました。広田弘毅が1937年11月中旬に、西園寺の
秘書である原田熊雄に語ったところによると、

●「ドイツはあるいは、11月25日頃ぐらいに満州国を承認するかもしれない。なお
 スペインが新しい政府の承認を求めて来ているが、これもやはり承認してやれば、
 同時に満州国を承認するということになる。また引き続いてイタリアも承認する。

 そしてこういう風になれば、対支問題の条件として満州国の承認を固執しないでも、
 事実上、列国が承認するような空気が出来るから、他になお重きを置くことが出来る。
 つまり他のもっと重い条件を出すことが出来るから、これは条件としないつもりだ」

つまり欧米列国が次第に『満州国』を承認していけば、支那がいかに首を横に振ろうとも
既成事実が出来がっていく――という訳です。まあ、大坂城の堀を埋めていくようなもの
でしょうか。まあ、日独防共協定も、支那とドイツの蜜月関係に「楔を打ち込む」という
側面がありましたが、過去スレ11の最後の方でも述べたように広田の積極的な『ビザン
チン外交』であったか、単なる場当たりの無定見だったか、後世の評価が分かれる所です。
445イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/06(金) 02:09:58 ID:gdS4hvfg
ただドイツも相当なクセ者で「満州国を承認」したのは、>>444 で挙げた3国のうち
一番遅かったりします(1938年5月)。徐州会戦の後ですね。

むしろイタリアが最も早くて1937年11月に。スペインの場合は、日本が
フランコ政権を承認する引き換えに同年12月に満州国を承認させています。

まあ、支那が『9ヵ国会議』に過大な期待をしてドイツの仲介(日本の和平条件)を
拒否している以上、11月は広田にとって外堀・内堀を埋めるような『待ちの状態』
だった訳です。しかし、その間に「上海戦線」は激しく動いています。ある意味、
支那にとっては「賭け金」のレートが青天井で上がっているようなものでした――。

という訳で、次回からは『南京追撃戦』に入りたいと思います。また時間が戻りますが、
そもそも「第10軍」(司令官・柳川平助の独断による南京進撃が始まり)とは、一体
何だったのか?から始まります。
446イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/06(金) 02:16:41 ID:???
>>439 >>イナゾウさんは旧日本軍の毒ガス使用はどう考える?
>>頻繁にバカスカ使ったようだが。

少し真面目に答えますと「対ソ戦」の練習場です。

 、 - _- 、
/ 〆~~~~ヽ.  ___
lノ  、   , '"  `ヽ, バッ
ll    〈Q)(,ノノ ))ノ))
ヽ.    /ミヽ) ゚ ー ゚ノリ   またダウが逝っている件について。
.  ~~~~~ (弋#ム⊂fヽ.   
.      /#/##;i#ヾ   
       'i_r〜〜-、) 
448名無し三等兵:2009/03/06(金) 09:00:29 ID:???
ttp://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4076545.htmlより
>(「陸山会」側から請求書があった?)
> 「ちょっとおかしいですね。普通献金の場合は、『請求書』が出たりしないので」
>(西松建設・石橋直現社長)

東京地検が請求書の存在を否定。請求書は無かったと発表 @ピンポン(TBS)

888 :無党派さん:2009/03/05(木) 21:57:40 ID:JGaZWgEH
さっきのニュースの深層で平野貞夫が言うには
献金宜しくお願いします♪
振込先はこちらです♪
これを請求書と検察がリークしてる  だとさ
こんなのどこの政治家もやってるだろw

974 :無党派さん:2009/03/06(金) 00:55:49 ID:AnxmtX8Y
平野貞夫@ニュースの深層
検察のリークは実は公務員の守秘義務違反 だから「関係者の証言により」という表現になってる。
参議院で「国政調査権で調べる」と言うと面白いかも。

381 :私だけの十字架 ◆GVjPtgkKao :2009/03/05(木) 20:12:09 ID:L5FBA/nb
献金捜査、自民に波及せずと高官 異例の言及
政府高官は5日、西松建設の巨額献金事件の捜査について「自民党議員に波及する可能性はないと思う」
との認識を示した。政府高官が政治家の絡む事件で捜査の見通しに言及するのは異例。捜査の中立、
公正を確保する観点から批判も予想され、波紋を広げそうだ。
http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009030501000792.html

641 :無党派さん:2009/03/05(木) 23:40:03 ID:RVw4rxAL
NHKで来たか・・・。じゃあ、もうもみ消し不可で、明日から報道されまくるな。
449名無し三等兵:2009/03/07(土) 17:04:50 ID:Nx1f2EfM
蒋介石は西安事件で舞い上がりすぎたね。
450イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/07(土) 23:45:37 ID:???

         明日は『東方』の例大祭 ワッショイ!!
     \\  年に一度の例大祭 ワッショイ!! //
 +   + \\ 早朝ペナが恐ろしいw ワッショイ!!/+
                       .   +                      +
      (;´Д`∩(´Д`∩)(; ´Д`)
 +  (( (つ   ノ(つ  丿(つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ ( ヽノ  ) ) )
       (_)し' し(_) (_)_)
451楽園の素敵な巫女 博麗霊夢 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/07(土) 23:46:59 ID:???

  「^ヽ,ry'^i   いいから落ち着け!w
  ,ゝ"´ ⌒`ヽ
  く.i #ノハノ)」 \\
  _λ.[i ゚ ヮ゚ノi!   ', ',  
 'ーLヽi ム.r'」イ    | |   ガッ
  ',く//_ι'ゝ  ヽ人/ 
  `'i_ン./,ン  彡 <  >-∧∩
    /[] []  ノノV´`Д´)/ >>イナ脱
   [] [] []    /    /
   []]  彡     
452イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/07(土) 23:54:44 ID:???
>>449 >>蒋介石は西安事件で舞い上がりすぎたね。

まあ、蒋介石が「独裁者」だったら話が早いんですがね。独裁者の様な立場で
いて実は独裁者でない。史実でも、もっと戦況が悪くなっていたら『下野』も
余裕であったでしょう。緩やかな『御輿』に担がれているような存在……日本
には「天皇制」があって本当に良かったと思います。
453イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/08(日) 00:13:54 ID:???
>>445 >>そもそも「第10軍」(司令官・柳川平助の独断による南京進撃が
>>始まり)とは、一体何だったのか?

上海決戦のダメ押しの形となった『第10軍』の杭州湾上陸ですが、上海派遣軍
司令官の松井石根からすれば全く納得の行かない形で始まりました。かねてから
松井は『第2軍』(第10軍のこと、※第1軍は上海派遣軍を意味する)の投入を
要請していましたが、東京の参謀本部とことごとく意見が対立します。

まず参謀本部は当初、第10軍を松井石根(上海派遣軍)の指揮系統から切り離し、
独立した軍編成をとるつもりでした。これには松井が、●「方面軍司令官の権限を
はなはだ制限し、統率上の支障を来たすものであるから絶対に同意できない」と
強硬に反発しています。

松井からすれば、占領地の民政や上海での国際問題(権益)の処理も、最前線の
軍司令官である自分に全権限を与えて解決させて欲しい、という希望だった訳です。
454名無し三等兵:2009/03/09(月) 00:47:34 ID:???
○南京事件関連

・南京日本領事館で 掠奪、凌辱、発砲、殴打 駐在武官と警察署長負傷 南軍の暴状言語に絶す
大阪朝日新聞 1927.3.26(昭和2)
ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789371
>【上海特電二十五日発】その筋着電によれば南京日本領事館内にて南京駐在武官根本陸軍少佐は
>南軍兵士のため右腹部および臀部を銃剣にて突かれ負傷し、

・南京事件のその後 責任者来艦して速かに解決を図れ 三ヶ条の最後通牒を 南京の外国艦隊から放送
 大阪朝日新聞 1927.3.27(昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789372
・全身血を浴びて倒れた根本少佐と木村署長 鬨を揚げて押寄せた暴兵
 大阪朝日新聞 1927.3.30(昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789375
・上海の日本陸戦隊遂に革命軍と衝突す わが水兵を狙撃した便衣隊に対し直に機関銃をもって応戦
 大阪朝日新聞 1927.4.9(昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789387
・南京事件抗議に対し国民政府の回答文邦人の損害は全部賠償す 外交的手段を希望
 国民新聞 1913.4.20(大正2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789400

根本少佐アッーの元ネタは一番上の記事かな
455名無し三等兵:2009/03/09(月) 00:48:53 ID:???
・南京政府は必ず分裂 左右両派の妥協は絶望 汪兆銘氏語る
 大阪毎日新聞 1927.5.10(昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789418
・最近の蒋介石氏とボロヂン氏 : ボロヂン氏に操られ武漢派は自滅を急ぐ : 共産制は支那には駄目 : 蒋介石氏本社記者に語る
 大阪朝日新聞 1927.5.10 (昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789419
・寝返りまた寝返りで内から崩れる奉天軍 : 大元帥の夢さめて張将軍の涙舞台はこれからどう廻る?
 (大阪朝日新聞) 1927.6.4 (昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789452
・三民主義を奉ぜねば張氏と関係を断つ : 馮軍の一部山西に入る : 閻氏の立場につき代表者の談
 (大阪朝日新聞) 1927.6.11 (昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789460
・昨の味方はきょうの敵 : 支那は不可解の国だよ : 満洲の赤化……吾人の健在する間は大丈夫 : 昨夕着神帰東した児玉長官の気焔
 (神戸又新日報) 1927.6.18 (昭和2)
 ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=00789472

あと北伐関連の記事を追っかけてるだけでも面白い。
北伐と同時並行い北京で開かれてる関税会議での駆け引きもいいな。
456イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/09(月) 21:36:30 ID:x+8yJygj
>>453 >>上海決戦のダメ押しの形となった『第10軍』の杭州湾上陸ですが、
>>上海派遣軍司令官の松井石根からすれば全く納得の行かない形で始まりました。

>>453 で述べた指揮権の問題は、松井石根が異議を唱えたことから結局、松井が
新設された中支那方面軍と上海派遣軍の司令官を兼務し、第10軍もその指揮下
に入ることに変更されました。

しかし肝心要めの第10軍の上陸地点についても、松井と参謀本部は意見が対立
しています。そもそも松井は杭州湾の上陸に反対であり、その理由は前にも述べた
とおり潮の干満差が5メートルもある難所で、冬季の季節風や上陸後の道路状況の
懸念もありました。何より杭州湾から上海までは距離的に70キロほど離れており、
確かに支那の土人軍の意表は突く(奇襲)でしょうが、いかにも迂遠すぎた訳です。

松井の作戦案としては、もっと直截的に2個師団半を「第2軍」として黄浦江・
浦東地区に敵前上陸させ、一挙に国府軍の『包囲殲滅』を図るというものでした。
457イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/09(月) 22:16:56 ID:x+8yJygj
一応、杭州湾の金山衛城にも部隊を上陸させ、要衝の松江を押さえて上海南方の
支那軍を捕捉させる腹づもりでしたが、あくまで「支隊」です。また松井は上海
など占領地の統治に、予備役に退いていた建川美次中将を『特務機関長』に起用
する案を参謀本部に提出しましたが、これも却下されました。

松井は『第10軍』の杭州湾(オンリー)上陸の報に唖然とし、●「中央部のやり方は、
軍統帥の真の精神を解せざる『若年者共の小細工』にして今後、方面軍の編成も戦闘
序列に拠らずして、編合集団の形式に拠る(>>453で述べた、松井の指揮下から外れる
のを指す)など遺憾の至りなり」と日記で批判しています(1937年11月4日)。
これは第10軍の杭州湾上陸が行なわれる前日のものです。

「軍の命令」といえばそれまでですが、どうも松井にとって『第10軍』の方針は、
現場責任者である自分を除け者にして、参謀本部(下村定・作戦部長)と柳川平助
第10軍司令官で勝手に決められてしまった感がありました。具体的には第10軍が
上陸するまでは「参謀本部の主導」ですが、部隊の上陸後の成否は「松井の責任」に
される訳ですから、松井が納得いかないのは当然でしょう。
458イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/09(月) 22:31:57 ID:???
                       【呉淞クリーク】
         【主攻3個師団】       呉淞(8月23日上陸)
        9D  3D  101D
【蘇州】    |   |   ↓
        |   ↓
    南翔 |    【大場鎮】
        ↓            競馬場

              ◆【上海市街】◆ 

                      ★【黄浦江】★
                   ←―――

              【松江】
【嘉興】            


         ↑【金山衛城】
         |      
      ★【第10軍】上陸(11月5日)
         杭州湾(金山衛城)
459イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/09(月) 23:52:15 ID:x+8yJygj
前の地図の使い回しですがw、★【黄浦江】★の下の←―矢印が松井の作戦案の
「主攻」となります。

実際、第10軍の上陸自体は奇襲となり、心配された杭州湾の季節風も吹かず
成功しました。しかし上陸後は「泥濘の悪路」に苦戦させられます。第6師団
(熊本)の通信隊将校の回想によると、

●揚陸した野砲を中心とする重車両部隊は、揚陸地点に残置。
●師団は小銃、軽・重機関銃、軽砲(山砲と歩兵砲)をすべて兵の肩に担ぎ、
 携帯口糧とできるだけ多くの弾薬だけを身につけて前進。
●狙撃を避けるため師団長以下、将校も兵服に着替え、泥濘の畦道を一列縦隊
 となって歩く。師団長も馬なし。
●網の目のように走るクリークの橋は全て落とされている。畦道伝いに迂回路を
 探しながら進むので、大隊の行軍列は4キロほどに延びている。
●道が粘土質なので、行軍で踏み固められてツルツル滑り、油断すると装備や
 担いだ荷ごと深田に滑り落ちる。
●行軍速度は1時間に精々1.5〜2キロ程度で、朝から歩いて金山に着いた
 のは夕方の午後4時頃だった。
460イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/10(火) 00:25:57 ID:fnlrpxS2
結局、第1派の上陸こそ成功したものの、その後の第10軍の上陸は難渋します。

第6師団(熊本)と第18師団(久留米)の野砲は、上陸3日目の11月8日に
なっても揚陸できないままでした。第114師団(宇都宮)は輸送船内に閉じ
込められ、上陸自体もままなりません。

クリークの渡河や水運に不可欠な(人間はともかく野砲や輜重が渡れない)河川用
(携帯)舟艇も揚陸困難で、辛うじて折り畳み式の簡易版で済ませました。

松井石根の回想によると、第10軍は補給が滞り、部隊はほとんど現地の徴用物資で
ここ数日の給養を迫られる羽目になったと憤っています。さらに松井は、

●「これは参謀本部が不完全な知識と偵察により、この計画(主力の杭州湾上陸)を定めた
 結果である。幸いにして上海派遣軍の【蘇州河岸】の攻撃のため、【松江】付近の敵兵が
 上海南方地区に移動し、松江付近の敵兵が微弱となったため(序盤の危機を乗り切り)、
 第10軍は予定の目的を達成した次第である」

と述べており、これでは増援のはずの第10軍が助けて貰ったかのようですw。
461イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/10(火) 00:47:58 ID:fnlrpxS2
「金山衛城」付近の遠浅の海岸に500メートルの長さの桟橋を突貫作業で
作りますが、結局、杭州湾への兵站物資の揚陸は3分の2が断念されました。

このため杭州湾上陸のために準備された輸送船155隻のうち、実に97隻が
上海へと回航されます。しかし黄浦江には上海派遣軍の物資を積載した輸送船
27隻が既に停泊しており、そこに97隻の輸送船が到着してきたのですから、
さあ大変ですw。

揚陸現場は大混乱し、どの船に何が積んであるかを把握するために3日を要した
と云います。これには松井石根も怒り心頭で、●「机上で戦争する若造どもが!
国民の金をみすみす棄てるようなものだ」と呆れ果てています。
462名無し三等兵:2009/03/11(水) 04:27:19 ID:???
真珠湾攻撃の事前察知、「米側に相手にされなかった」―台湾メディア

2009年3月9日、台湾紙・今日新聞は、国民党の特務機関「軍統」(軍事委員会調査統計局)の暗号解読班が
1941年の日本軍による真珠湾攻撃を事前に察知していたが、米軍側が重視しなかったため、悲劇を未然に防げなかったと報じた。中国新聞網が伝えた。

記事によると、当時、「軍統」の戴笠(ダイ・リー)処長率いる暗号解読班のリーダーだった姜毅英(ジアン・イーイン)さんが、
真珠湾攻撃の1週間前に日本軍の暗号解読に成功。すぐに米軍側に伝えたが、「日米の仲を引き裂くための仕業だ」と相手にされなかった。
米軍が第2次世界大戦に参戦するきっかけとなった真珠湾攻撃。記事は、「もしこれが未然に防げていたら、世界史は大きく変わっていただろう」と指摘する。

功績が認められた姜さんは、戴笠から「姜鶴根(ジアン・ホーゲン)」という名を授かり、改名。国民党の指導者、蒋介石(しょう・かいせき)も
姜さんのお手柄を褒め称えた。だが、この記録は軍部の資料には載せられておらず、情報局の資料に残されているだけだという。(翻訳・編集/NN)

ソース:レコードチャイナ
http://news.livedoor.com/article/detail/4054151/


真珠湾攻撃はアメリカの陰謀とまではいわんが、半藤一利の真珠湾の日あたりと照らし合わせると、かなり疑わしいな・・・
本当に「真珠湾攻撃」を予期していなかったのだろうか? あまりにもくさ過ぎる・・・・
463名無し三等兵:2009/03/11(水) 04:35:15 ID:???
脱走兵のパーフェクトしなじへん教室はじまるよー
464名無し三等兵:2009/03/11(水) 13:36:50 ID:???
             /)
           ///)
          /,.=゙''"/
   /     i f ,.r='"-‐'つ____   イナゾウさんは今の版元から脱出したくてしかたがないんだよ!!
  /      /   _,.-‐'~/⌒  ⌒\
    /   ,i   ,二ニ⊃( ●). (●)\
   /    ノ    il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /
465イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/11(水) 23:26:52 ID:T3VhNc10
>>460 >>第1派の上陸こそ成功したものの、その後の第10軍の上陸は難渋します。

結局、1937年11月5日に第10軍が杭州湾に上陸を開始してから、松井石根に
指揮権が参謀本部から移譲されたのは2日後の11月7日です。

第10軍の杭州湾上陸は「その事実だけで」支那土人軍の心理を大きく動揺させ、
潰走へと導きましたが、当初、松井石根が目指していたような『包囲殲滅』には
失敗します。要するに「包囲の輪」を閉じる以前に逃げられてしまった訳です。

松井は●「結局、同軍(第10軍)の作戦を最初から自分に委任しなかった結果で
ある。可惜(おしむべし)」と嘆きますが――もはや後の祭り、覆水盆に還らずです。

松井にとっては『困ったちゃん』になってしまった第10軍ですが、作戦の方針を
根本から変えなくてはなりません。11月8日、松井は第10軍の6D、18D、
114Dの3個師団の戦力の内、1個師団を上海西南に向けさせて上海派遣軍の
作戦に協力させると同時に、残2個師団を嘉興方面に進撃するよう命令しました。
466イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/11(水) 23:40:31 ID:T3VhNc10
ただ、これでは第10軍(柳川平助中将)の面目が丸潰れですし、その後の部隊
将兵の士気にも差障ります。松井は上海派遣軍と第10軍の今後の団結を強める
ために、嘉興方面の2個師団の指揮は柳川司令官に任せる気遣いを見せました。
まあ、以前から「使い回しの地図」で見ると以下のようになりますw。

(11月10日に第10軍が松江を占領、11月9日に上海派遣軍が上海を「封鎖」。
※「占領」と表現しないのは欧米列国の権益の租界が内部にあるから)
467イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/11(水) 23:52:21 ID:???
                       【呉淞クリーク】
         【主攻3個師団】       呉淞(8月23日上陸)
        9D  3D  101D
【蘇州】    |   |   |
        |   |   |
    南翔 |   |【大場鎮】
        |   |   |     競馬場
        |   |   ↓
        ↓    ↓ ◆【上海市街】◆ 
 
                       黄浦江

          |→ 【松江】
【嘉興】     |      
          |(1個師団)
(2個師団)   |
↑______|
          |【金山衛城】
          |      
      ★【第10軍】上陸(11月5日)
         杭州湾(金山衛城)
468イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/11(水) 23:54:10 ID:???
Janeでやっても盛大にズレました…orz。東方のAAは上手くいくんですがw。
469イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/12(木) 00:22:31 ID:RvgMIv7e
国府軍の最精鋭である中央直轄軍の『包囲殲滅』にこそ失敗しますが、南北からの
挟撃を怖れた土人兵達は雪崩をうって潰走していきます。上海決戦の指揮官の1人
である郭汝塊はその時の模様を、

●「私は淞滬(しょうこ・淞は呉淞、滬は上海の別称)戦役において終始第一線にあり、
 3ヵ月間がむしゃらに抵抗したせいで人員の損失は大きくても、士気は低落していな
 かったこと、規律がきちんとしたことを分かっていた。『うまく撤退して(戦線を)
 整頓したら』戦力はすぐ回復できたはずであった。ただ崩れるような敗退で、数日間で
 精鋭を喪失し、軍規も大きく乱れた。もし敵(日本軍)が『大場鎮を占領した際に、
 計画的に撤退したら』、数十万の大軍が総崩れになることは避けられたはずだ――」

また、かつて蒋介石の政敵でもあった李宋仁(広西軍司令官)の回想によると、

●「各軍は大慌てで撤退した。敵機の日夜を問わぬ爆撃が加えられ、人馬は錯綜し
 秩序は大きく乱れた。数十万の軍隊は、鉄筋コンクリートで作られた蘇嘉(蘇州・
 嘉興:>>467 の地図参照)のラインの国防陣地に辿り着いた。しかし退却の足を
 止められなかった。陣地には堅固なトーチカがあったが、退却する兵士たちは
 その『鍵』を見つけられず、中には入れなかった。その結果『トーチカは全て
 放棄』された。壊滅的退却の悲惨さは、ひと言では尽くし難い――」
470イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/12(木) 00:57:35 ID:RvgMIv7e
余談ですが、11月中旬には蒋介石が中山陵の洞窟内の大本営で「首都南京の
防衛」の可否について最高会議を開いています。出席者は、ドイツ軍事顧問団の
ファルケンハウゼン、参謀総長の何応欽、軍令部長の徐永昌、李宋仁、白崇禧、
そして後に南京防衛軍指令官となる唐生智の7人です。

会議では李宋仁が「南京は三方から包囲可能で、なおかつ味方の退路は長江で
遮断されていること」などを理由に、南京の防衛は不可能、それよりは無防備
都市宣言をして整然と撤退し、日本軍の更なる西進を防ぐべきだと主張します。

これに白崇禧とファルケンハウゼンが同調。しかし蒋介石が『南京死守』に拘り、
何応欽と徐永昌に意見を求めますが、2人とも「我々に意見はない。蒋委員長に
従う」と責任回避。最後に蒋介石が唐生智に問うと、威勢よく「南京で1人2人の
大将の犠牲を払うことすらしないとあっては、総理(孫文)在天の霊に申し訳が
立たない」と檄を飛ばしましたので、蒋介石は●『これ幸い』とばかりに、唐を
南京防衛軍司令官に任命した訳です――。
471イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/12(木) 01:54:01 ID:RvgMIv7e
>>363 >>こうして第2次上海事変は【常熟】―【蘇州】―【嘉興】の「制令線」
>>(前進限界線)で一段落することになった訳です。

さて話が飛びましたので戻りますが、11月19日をもって【常熟】―【蘇州】
―【嘉興】のラインの占領が完了し、戦線がひと段落することになりました。
ちなみに常熟は>>467 の地図にありませんが、蘇州のずっと上の方にあります。

しばらく迂遠な話が続きましたが、要するに第10軍がいかに『浮いてしまった
存在』(とくに松井石根にとって)であったかを理解しておいて下さい。これが
後々の第10軍の独走の始まりにも繋がっていきます――。

それはさて置き、松井はこれまでの戦闘を『湖東会戦』と命名しています。この
『湖』とは南京と上海の中間にある『太湖』を指し、支那で3番目に大きい湖です。
松井は「常・蘇・嘉」ラインで一旦戦線を建て直し、約1ヵ月後の12月中旬から
南京に向けて進撃を開始するつもりでしたが、「湖東会戦」の命名の仕方からして、
その意気込みが伺えるというものです(太湖の東があるなら、西もある)。
472イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/15(日) 00:31:47 ID:1cz6pdN/
>>471 >>松井は「常・蘇・嘉」ラインで一旦戦線を建て直し、約1ヵ月後の
>>12月中旬から南京に向けて進撃を開始するつもり

同様の趣旨を松井は、現地調査のために上海へ飛んだ河辺虎四郎大佐(参本戦争指導課長)、
影佐禎昭大佐(参本支那課長)、柴山兼四郎大佐(陸軍省軍務課長)らに伝え、また後日、
閑院宮参謀総長にも「12月中旬以降の南京進撃」を意見具申しています――。

「上海決戦」で松井が直率する上海派遣軍は特に疲弊していたためで、具体的には
●「今すぐとは言わないが、南京攻略は是非やらなければならない」と河辺に語り、
11月18日に 東京へ帰った河辺は参本作戦部長の下村定少将に、●「今直ちに
新命令を出す必要は無い。 兵力の整理と休養が必要である」と報告していた訳です。

>>359 >>この段階においても第10軍の任務は●「上海付近の日本人居留民の
>>保護」であり、南京攻略の作戦計画は欠片も含まれていません。

>>359 で以前こう書きましたが、第10軍から「驚天動地の報告」が11月20日に
参謀本部へ届きました。それが柳川平助(中将)司令官独断の南京追撃の開始です。
473イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/15(日) 01:08:08 ID:1cz6pdN/
>>472 >>第10軍から「驚天動地の報告」が11月20日に参謀本部へ届きました。

第10軍司令部は11月15日の幕僚会議で既に●『独断南京追撃敢行』を決定
しており、その4日後の19日に行動を開始した訳です。これは上級部隊である
中支那方面軍(松井石根)の指示を仰がず、直接東京の参謀本部に連絡を取ると
いう前代未聞のやり方です。ちなみに第10軍の電報を要約すると以下の通り。

1.集団(第10軍)は本日正午ごろ嘉興を占領し、夕刻ほぼ掃討を完了す。
2.集団は(11月)19日朝、全力を持って南京に向かってする追撃を命令し、
  おおむね左のごとく部署せり。

 ・岡崎支隊は湖州、広徳を経て蕪湖に向かい追撃し、敵の退路を遮断す。
 ・第18師団は湖州、広徳、句容を経て南京に追撃。
 ・第114師団は湖州、長興、漂陽を経て南京に追撃。
 ・第6師団はまず湖州に前進。

これが参本作戦部長の下村定(少将)宛に届いた訳ですが、下村は「非常に勢いの
いい電報」としか感想を漏らしていません。むしろ泡を吹いたのが『不拡大派』の
多田駿参謀次長です。「これは直ぐに止めさせなくてはいかん。作戦指導もこれでは
いかん!」と慌てました。この辺りから参謀本部内でも混乱が酷くなります――。
474イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/15(日) 01:46:21 ID:1cz6pdN/
企業に喩えると、課長が部長を抜かして取締役に直接交渉するようなもので、
松井は全く無視された事になります。参謀次長の多田は急いでストップさせ
ようとしますが、作戦部長の下村は●「当然、(中支那)方面軍が第10軍に
対して処置するだろう。それを中央が直接指示することは良くないと思う」
と反対し、2人の間に微妙な空気が流れます。

松井は第10軍の独断専行を知ると直ぐに、田辺盛武・第10軍参謀長を呼び出し
追撃を一時差し止めますが、基本的に松井自身も「南京攻略」は望むところであり、
異なるのは「今すぐ」か「12月中旬開始」かだけの違いです。

改めて松井は参謀本部に南京攻略の必要性を訴え、「現有兵力で2ヵ月以内に
目的を達成できる」と主張しています。

(第10軍は、新鋭の気溢れあるをもって後方成立、次第に躍進を続け得べく、
 また上海派遣軍は連戦の疲労やや大なるものありと云えども、旬日の休養を
 与えることにより戦力を回復し、軍隊の整頓を完了し得べく、南京に向かう
 追撃は可能なりと判断しあり)
475名無し三等兵:2009/03/15(日) 09:54:17 ID:???
共産主義者の大東亜戦争責任
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6396722


共産主義者の大東亜戦争責任(1/3)
http://www.youtube.com/watch?v=GqJSU4v4VHA

共産主義者の大東亜戦争責任(2/3)
http://www.youtube.com/watch?v=F8-suGPP4sA

共産主義者の大東亜戦争責任(3/3)
http://www.youtube.com/watch?v=uFMtTokCuXs

1937.07.07 盧溝橋事件発生
1937.07.11 現地停戦協定締結 陸軍「不拡大」方針 石原莞爾ら
 同日、近衛文麿、「北支派兵」を3回に亘り大宣伝→全世界へ
 朝日新聞「日支全面衝突の危機」と扇動(現実と乖離した戦争プロパガンダ)

この後、近衛文麿は「軍に先手を打つ」として予算を先に付けて戦線拡大へ。
 名称も「北支事変」→「支那事変」(9.2)へ
※戦争の拡大よりも先んじて予算を付け、名称を誇大に変え、朝日新聞などで
これを宣伝しまくる近衛文麿。如何に共産主義者によって戦争が作られていった
かが分かります。
476名無し三等兵:2009/03/15(日) 18:28:51 ID:???
大攻の大活躍が記載されてた。これだけだけどなw

九五式陸上攻撃機
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%BA%94%E5%BC%8F%E9%99%B8%E4%B8%8A%E6%94%BB%E6%92%83%E6%A9%9F
477イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/15(日) 21:47:34 ID:n7zXhv+d
>>474 >>松井は第10軍の独断専行を知ると直ぐに追撃を一時差し止めますが

しかし一旦動き出した「追撃の手」は止まりません。11月24日には第1回
大本営御前会議がようやく開かれます。先にも述べたとおり、正式な『戦争』
ではないのに(支那事変)大本営を開くとはこれいかに?――という理由で、
条例を改めるのに時間がかかった訳です。

大本営御前会議の出席者は、閑院宮参謀総長、杉山元陸相、多田駿参謀次長、
下村定第一部長、伏見宮軍令部総長、米内光政海相、嶋田繁太郎軍令部次長、
近藤信竹第一部長の6人と天皇です。『大本営政府連絡会議』ではないので
首相の近衛や外相の広田弘毅は出席できません。

この席上、閑院宮参謀総長が作戦の方針を奏上しますが、その後に説明に立った
下村少将が●「中支那方面軍は、上海付近の敵掃滅を任務としていますが、統帥部
としては今後の状況如何により、南京を攻撃させることも考慮しております――」
と述べており、この段階で下村も『南京攻略』を決意したと見ていいでしょう。
478イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/15(日) 22:22:32 ID:n7zXhv+d
>>477 >>この段階で下村も『南京攻略』を決意したと見ていいでしょう。

しかし、下村の御前会議での『南京攻略』の示唆は陸軍の原案に無かったもの
であり、事前の了解を得ていなかった多田参謀次長は驚きます。多田は下村を
叱責しました。

多田は今でも『不拡大方針』『トラウトマン工作』に期待して「前進不可」を
堅持していましたが、下村など度重なる部下の説得についに折れ、蘇州〜嘉興の
『制令線』廃止が決定されました。しかし、多田駿と下村定の方針の相違による
混乱はまだまだ続きます――。

11月25日には、中支那方面軍宛てに2通の電文が参謀本部から届きました。
松井石根は、御前会議の直後の電文ということで『南京攻略』決定を期待して
いましたが、1通は閑院宮参謀総長名で●「蘇州〜嘉興の制止を解く」という
もので『南京攻略』の命令ではありませんでした。
479イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/15(日) 22:42:09 ID:n7zXhv+d
2通目は多田駿・参謀次長から、塚田攻・中支那方面軍参謀長宛ての電報です。

●「方面軍は蘇州・嘉興線に留まり、『一部』を無錫・湖州の線を占領しても
 今後さらに西方に作戦を拡大させない。また12月上旬までに、重藤支隊、
 第11師団、第18師団を『他に転用』する予定である――」

という松井にとって衝撃的な内容でした。この電報が届いたのが11月25日。
仮に12月上旬が「10日」を指すとしても半月しかありません。そもそも松井は
南京攻略を2ヵ月以内、作戦の開始を12月中旬と設定して意見具申していました。

この多田駿参謀次長からの電報によれば、その前に2個師団半が引き抜かれる事になり、
南京攻略の作戦を根本から変更せざるを得ません。それでいて下村定作戦部長からは、

●「当部においては南京攻略を実行する固き決意の下に着々審議中なり。いまだ決裁を
 得るまでには至らざるを、とりあえずお含みまで――」と来ます。
480イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/15(日) 23:21:53 ID:n7zXhv+d
多田参謀次長と下村作戦部長から「真逆の電報」が来た訳で、松井石根は
理解に苦しみます。東京の参謀本部は、一体何を考えているのか? なかでも
12月上旬に「2個師団半」を引き抜くというのは、南京攻略に致命的です。

●南京攻略をさせないつもりか? ●2個師団半を抜いた戦力で南京攻略ができる
ならやってみろ、という意味か? ●それとも2個師団半を引き抜けば南京攻略を
諦めるだろう、という揺さぶりか?

いずれにせよ、松井は「その真実、いずれにあるやら解しあたわざるところなり」
と塚田参謀長から、多田参謀次長に問い合わさせています。

結局、南京攻略を参謀次長の多田駿が「頑として認めない」ことに尽きる訳ですが、
11月24日〜28日にかけて参謀本部内で連日審議が続けられます。実は中支那
方面軍からの「2個師団半」引き抜きは、広東攻略の第5軍編成のためでしたが、
肝心の松井には知らされませんでした。
481イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/16(月) 00:21:01 ID:2chby9QW
>>481 >>結局、南京攻略を参謀次長の多田駿が「頑として認めない」ことに尽きる

この頃から参謀本部内でも本格的に『南京攻略』の研究を始めています。作戦部長の
下村定は現地軍からの督促を背景に多田駿参謀次長の説得を続け、遂に11月28日、
多田の同意を得ることに成功しました。

ところで「上海―南京」間は300キロと、近いようで意外と距離があります。
日本人のイメージですと「東京―横浜」「大阪―京都」ぐらいに思うかもしれ
ませんが、実際は「東京―名古屋」の距離に匹敵します。

多田がようやく同意した頃には、第10軍は太湖の南の湖州をとっくに占領して
更に西進し、太湖の北を進む上海派遣軍も無錫を占領していました。そして正式な
南京攻略の命令が下る12月1日には、先遣部隊は南京まで100キロの地点まで
迫っていたと云います。

結局、第10軍の独走に上海派遣軍も引き摺られた格好で、松井の心境としては
このまま「2個師団半」が引き抜かれれば、南京攻略が困難になるという危惧が
あったでしょう。当初、過小の戦力で無理攻めした「上海決戦」の繰り返しです。
482イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/16(月) 00:37:45 ID:2chby9QW
>>481 >>11月28日、多田の同意を得ることに成功しました。

遂に南京攻撃を命じた「大陸命第8号」(大本営陸軍部命令)が下る事になった
訳ですが、参謀本部内で誰が上海に持っていくかで揉めます。当初、作戦部長の
下村定が自分で持っていくと言いましたが、もともと下村定は病弱な体質です。

多田参謀次長と中島鉄蔵・参本総務部長が「あなたは体が悪いからいかん。そこ
までして行く必要は無い」と止めたと云います。下村は夜中に抜け出しても自分で
持って行こうと考えましたが、それも「大人気ない」と思い直して断念し、結局、
最後まで「南京攻略」に反対し続けていた多田参謀次長が上海に飛ぶ事になりました。

1937年12月1日に、上海派遣軍司令部のある上海の音楽学校に到着した多田は、
「大陸命8号」を持ち込みます(他にも上海派遣軍司令官に、朝香宮鳩彦王が親補)。
483イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/16(月) 00:39:37 ID:???
1.中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし。
2.細項に関しては、参謀総長をして指示せしむ。
484イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/16(月) 23:19:43 ID:TaCltUwN
そして松井石根は12月2日、●「第10軍は12月3日頃より、上海派遣軍は
12月5日頃より前進を開始する」と南京攻略命令を中支那方面軍に下します。
この報に、そもそも独断で南京追撃を開始した当の本人である柳川平助(中将)は
●「我が意を得たり」と高らかに快笑したと云います。

さて、ここで話が180度変わりまして『トラウトマン工作』に戻りますが、松井が
中支那方面軍に南京攻略を下令したこの12月2日こそ、それまで「応じられない」と
黙殺していた蒋介石が駐支ドイツ大使・トラウトマンに回答をした日な訳です。大きな
期待を掛けていたブリュッセルでの「9ヵ国会議」が失望に終わり、その間に上海は陥落、
日本軍は首都南京にまで迫っています。まあ、今頃になって『尻に火がついた』訳ですw。

しかし繰り返しになりますが、日本側の和平条件がまだ寛大だったこの時期の
トラウトマン工作を1ヵ月近く引き延ばした代償は非常に高いものになりました。
任天堂の株を700万(2007年11月)ぐらいで買った老人が、その後暴落して
300万を割り(今現在)何とか元に近い値で売れないか証券マンに携帯電話で
泣きついているようなものでしょう。つーか、ネットで見れば一目瞭然なのに…w。
485イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/16(月) 23:55:18 ID:TaCltUwN
さて少しだけ閑話休題ですが、幣原喜重郎の回想によると、この時期に支那との
和平を勧めるために、外相の広田弘毅のもとを訪れたとあります。今までに散々
述べてきたように、幣原喜重郎と広田弘毅の『縁』は単なる「外務省の先輩後輩」
では済まない浅からぬものがあります。吉田茂と広田弘毅の縁に匹敵するでしょう。
一言で云えば、幣原外交の衰退が、1930年代半ばの広田外交に繋がった訳です。

1937年の幣原は既に在野の身となって久しいですが、日本軍が上海を越えて
南京を攻略する前に、何とか支那と和平を結ぶよう広田に説いたと云います。

●「中国側にも確かに日華間の平和解決に熱心な者がいるように見える。これを
 利用するといえば語弊があるが、君たちももっとよく考えたら良かろう」

広田は即答を避け、しばらくしてから幣原に秘書を通じて答えたと云います。

●「陸軍大臣(杉山元)に話してみたら、いずれにしても日本が南京を取ったうえ
 でなければ、その話を進める訳にはいかない。日本がクリーク戦に引っかかって
 いる今日、そういう話を進めるのは陸軍の弱音を吐くように解される。相手を
 ひどく叩きつけたうえでそういう話をするならいい。だから一路南京を占領した
 うえで、その話に乗ろうと陸軍は言っています」
486イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/17(火) 00:41:07 ID:csEK4Asf
幣原の言によると、外相の広田は「南京攻略まで和平すべきでない」という
杉山陸相の見解をそのまま伝えたことになります。これに幣原は即答して、

●「ああ、それならもう駄目だ。なぜなら、日本が南京に入ってしまえば、
 呉鉄城(幣原が独自に情報を入手していた広東省主席で前上海市長)も
 どこへ行ってしまうか判らない。奥地へでも逃げて行って連絡する方法も
 無くなるだろう。それに日本に面目があるなら、中国にも面目があるの
 だから、それは出来ない相談だ――」

要するに上海を越えて南京を攻略すれば、面目のうえからも中国は和平に応じ
なくなるから、その前に和平を行なわなければならない、と幣原は広田に言い
聞かせようとしたと云う訳ですが、幣原の回想には幾つか疑問点があります。

まず直前でも述べたように、参謀本部が『南京攻略』を決意したのは上海を
攻略して第10軍が独走を開始した以降ですから、上海のクリーク戦に引っ
かかっている最中に『南京攻略』云々はいくらなんでも早過ぎます。
487イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/17(火) 01:02:41 ID:csEK4Asf
また松井石根は当初より『南京攻略』を視野に入れていましたが、
陸相の杉山元が上海戦の最中に南京攻略を考えていたというのは、
これもまた早過ぎます。

松井が出征する際に、首相の近衛文麿と杉山が東京駅まで見送りに
行きますが、松井は杉山に「南京まで行くように陸軍をまとめてくれ」
と繰り返し言い、近衛にも「どうしても自分は南京まで行くから総理も
この点、了解して頂きたい」と念を押しました。

そもそも上海派遣軍の目的は、上海の邦人と日本権益の保護ですから
驚いた近衛は、杉山陸相に●「陸軍は本当に南京まで行くつもりか?」
と訊くと、杉山は●「松井はああいうが、とても南京まで行けない。
精々、蕪湖くらいで止まるだろう」と返事しています。その後の上海
での苦戦があったとしても、幣原の回想とはかなり食い違います。

また蕪湖(太湖の南)は、制令線となった嘉興より西方にありますが、
南京までは全然距離があります。
488イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/17(火) 01:26:39 ID:???
また何より外相の広田弘毅が、駐日ドイツ大使ディルクゼンに「和平条件」を
伝えたのが(トラウトマン工作)11月2日で、上海が陥落する以前ですから
広田は幣原に言われるまでもなく(あるいは幣原に言われたからとなるのか?)
仕事をしています。ただ、蒋介石が1ヵ月近く『放置プレイ』をしただけです。
489イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/18(水) 00:48:20 ID:0/xeBLru
>>484 >>『トラウトマン工作』に戻りますが、松井が中支那方面軍に南京攻略を
>>下令した12月2日こそ、それまで「応じられない」と黙殺していた蒋介石が
>>駐支ドイツ大使・トラウトマンに回答をした日な訳です。

1937年12月2日、蒋介石はトラウトマン大使に以下の回答を告げます。

1.中国はこの条件を、和平を討議する基礎として受け入れる。
2.北支の宗主権、領土保全権および行政権に変更を加えない。

そして蒋介石は、●「中国は協調的精神をもって日本の要求を討議し、了解に
達する用意がある。日本側にも同様のものを期待する」と結論を述べました。

トラウトマンから報告を受けたドイツ本国の外務省は、交渉経過を「覚書」にして
12月4日、駐日ドイツ大使ディルクゼンに打電します。ディルクゼンは3日後の
12月7日、外相の広田弘毅に「覚書」を手渡し、●「このままの和平条件で進めて
よろしいか?」と確認を求めました。
490イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/18(水) 01:26:13 ID:0/xeBLru
さて>>489 の『日付』に注目してください。広田弘毅に回答が戻ってきたのは、
中支那方面軍が南京城の手前で一旦停止し、全軍に『南京城攻撃要領』を下令
した当日な訳です。結果論ですが、支那の土人の『泥縄式』に形容する言葉が
見つかりません。もはや、手遅れもいいところです。

今まさに南京攻撃の火蓋が切られる訳で、外相の広田弘毅としては●「先般、
日本側の和平条件についてお話ししたが、その後1ヵ月余りも経過して戦局も
大いに進捗し、今日に至っては日本国民の支那に対する考え方にも変化を生じ、
日支関係の根本的建て直しを求めている」と回答を保留しました。

つまり広田弘毅は、中支那派遣軍が『上海決戦』に勝利し『南京攻略』が現実化
しつつある今となっては、以前に示した和平条件では交渉し難いと述べた訳です。
まことに至極当然なことで、株に例えれば1ヵ月前の「株価」で取引きする馬鹿が
一体どこにいるでしょうか。しかも蒋介石は、自身の大博打に失敗している訳です。

陸軍も混乱しまして、翌日の12月8日早朝、陸相の杉山元が広田外相の元を訪れ、
●「ドイツの仲介を断ることにしたい。近衛首相も同意した」と突然言い出します。
もちろん「南京攻略」が目前に迫っているからに他なりません。これに外務省東亜
局長の石射猪太郎は、●「アキレ果てたる大臣どもである」と回想していますが、
普通の感覚でないのは一体どちらでしょうか?
491名無し三等兵:2009/03/18(水) 20:49:15 ID:???
上海の共同租界とフランス租界に駐屯していた列強各国軍の担当地区 1940年

http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/map/shanghaimap003.jpeg
492イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/19(木) 00:37:15 ID:wfYmHZ/w
そこで閣議が開かれまして、支那との『和平条件』を再検討するかが話し合われる
ことになります。『南京攻略』を目前にして、外相の広田弘毅は対応に悩みますが
●「多くの犠牲を出した今日、現状のような軽易な和平条件では容認しがたい」と
自ら真っ先に発言して機先を制することにしました。

これに陸相の杉山元が同調し、首相の近衛文麿も賛成。結局、閣議は蒋介石の

>>489 >>●「中国は協調的精神をもって日本の要求を討議し、了解に達する
>>用意がある。日本側にも同様のものを期待する」

という回答が、●「大体『敗者』としての言辞無礼なり」との結論に達し、
以前ディルクゼンに伝えた和平条件では交渉できないことに決定しました。
まあ、陸軍はともかくとして文民の広田達の態度がこれほど硬化したのは、
戦局がクライマックスを迎えるにつれて高揚する国民世論に配慮せざるを
得なかったからでしょう。広田としては、どこかで現実的な折り合いを
付けようとした訳です――。
493イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/19(木) 00:56:48 ID:wfYmHZ/w
>>493 >>戦局がクライマックスを迎えるにつれて高揚する国民世論

例えば『東京朝日新聞』の社説は、「日本の真意を諒解しているドイツが、この際
日本の喜ばない調停に乗り出すはずが無いだろう」と、日本の不利益になるような
調停そのものを否定し、「いよいよ眼前に迫った南京の陥落は戦局に大きな段階を
画する」とし、「蒋介石政権の『否認』問題も当然起こってくる」(12月6日)と
論じています――。また皇軍の快進撃を連日、写真と共に新聞各社が競って報じ
続けていることは言うまでもありません。

そして南京陥落を目前にして、東京市教育局は手旗40万本、提灯1万5000個を
小中学校に配布し「南京攻略」の祝賀行進の手はずが整えられました。そして銀座や
神田、上野、新宿などでは、待ちきれずに『祝 南京陥落』の祝勝のぼりが次々と掲げ
られ、紅白の提灯とともに帝都は夜も湧きかえっていたと云います(『東京朝日新聞』
12月8日)。
494イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/19(木) 01:26:42 ID:wfYmHZ/w
>>493 >>戦局がクライマックスを迎えるにつれて高揚する国民世論

もっと生々しい話をしてみましょう。例えば、外務省東亜局長の石射猪太郎の
当時の回想によると――。

●地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者たちから「この聖戦で
 占領した土地を手放すような講和をしたら、我々は筵(むしろ)旗で外務省に
 押しかける」と詰め寄られた。

●ある自称・中国通が私(石射)を来訪して、「山東か河北くらいを貰わにゃあ
 ならぬ」と意気込んだ。

●また、ある宗教家が来訪して「上海あたりを取ってしまえ。それが平和確保の道だ」
 と説いた。もっともそれは、コーランを片手に剣を片手にする回教師だったがw。
495イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/19(木) 01:50:03 ID:wfYmHZ/w
●私(石射)が外務次官室に行くと、官界出身のある知名の(貴族院)勅撰議員が
 来談中であった。(堀内)次官が(広田)大臣に呼ばれて席を外した後、その人
 との間で支那事変の話が出た。その人は、「こうなったからには長江筋の要所を
 割譲せしめ、その他の所を長期占領すべきだ」と凄い鼻息だ。

 こんな知識人でもそんな暴論を唱えるのかと、腹立ち紛れに私はその誤りを鋭く
 指摘してやった。この人は、既に故人となった著名な外交官を弟に持っていた。
『賢弟愚兄』だと思った。この愚兄氏が、私の悪声を議会内に放った。「こんな時局に
 あんな弱い東亜局長では困る」と言いふらしているとのことで、同じ勅撰議員の
 小幡元大使が心配して「人を見て法を説け」と私に注意してよこされた。
496イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/19(木) 02:15:57 ID:wfYmHZ/w
>>495 は石射の『性格』がよく現れていますがw、当時の雰囲気としては
「支那から領土の1つや2つ割譲させなければ講和などまかりならぬ」
ぐらいの勢いだったことが分かります。

まあ「領土」云々というよりも、この時点で戦死者に戦病死者も含めれば
2万人もの日本人の血と命が流されていますので(それも支那の土人相手に)、
誰にでも『目に見える形』で支那事変の成果が獲得できなければ、とても
納得いかなかったでしょう。それに加えて、敵国の首都である南京を陥落
させたとあっては尚更です。

もし生半可な講和条件となれば、日比谷焼討どころの騒ぎではありません。
もっと言えば、これほどの戦死者を出してしまった『軍の責任』を糊塗する、
または回避するためにも、国民を納得させられるだけの成果が求められました。

ちなみに「第1次上海事変」(1932)での日本側の戦死者は769人、
戦傷者は2322人。国民には『満州国』という目に見える形の成果が
現れた訳です。
497名無し三等兵:2009/03/19(木) 07:29:04 ID:???
>実際は「東京―名古屋」の距離に匹敵します。

食料無しの兵隊が20万人も進軍なんて、どんだけ鬼畜なんだ
498だつお ◆t0moyVbEXw :2009/03/19(木) 18:33:49 ID:9QvmwhXh
本土決戦なら、朝鮮戦争の中朝軍よりは遥かに有利な条件で戦えたと確信している。
だが一番の問題はやはりソ連の対日参戦。

>@大東亜戦争でB-29は延べ28558機出撃で喪失518機、朝鮮戦争では延べ21000機出撃で喪失34機。
>(朝鮮戦争でFEAFは延べ720,980機の出撃で、戦死に負傷と行方不明加えて1,841人)

このように補給状況でいえば、実は朝鮮戦争の中朝軍のほうが旧日本軍より遥かに劣悪だった。
499名無し三等兵:2009/03/19(木) 19:17:14 ID:???
おまえはアホか
あのまま降伏しなかったら
45年だけで原爆をもう7発喰らってたんだぞ
500だつお ◆t0moyVbEXw :2009/03/19(木) 19:21:15 ID:9QvmwhXh
http://www.fben.jp/bookcolumn/2008/07/post_1873.html
2008年07月17日
日本史(近代)
甘粕正彦 乱心の曠野

こういうのはナチスのゲシュタポみたいなもので、とにかく怪しいやつは見つけ次第殺す、
先に殺らなければ自分たちが殺られるからことで、犯行グループの憲兵隊も命がけ。
戦前は日本でも欧米ロシアでも政情不安定で暴力テロが絶えない世の中だった。
501名無し三等兵:2009/03/19(木) 22:05:51 ID:7/EHYmH/
501
502イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/20(金) 02:03:48 ID:oLxrDSZe
>>492 >>広田としては、どこかで現実的な折り合いを付けようとした訳です――。

当時の有馬頼寧(第1次近衛内閣の農林大臣)の回想によれば、●「広田外相が
トラウトマン大使と蒋介石との会見について、先方の電報を有りのままに報告。
拓相(大谷尊由)、文相(木戸幸一)より蒋介石政権『否認』の意見があった。
結局『南京陥落』と4時に首相の声明がある。降伏すれば認めるも、それ以外
ならば否認することになる――」(12月10日)とあります。

>>結局『南京陥落』と4時に首相の声明がある。

要するに、●「南京が陥落してから内閣の方針を決める」と戦局の進展を待つ
ことになった訳です。
503名無し三等兵:2009/03/22(日) 18:10:46 ID:???
http://ytydtrdy.cocolog-nifty.com/blog/files/matterhorn.pdf
マッターホーン作戦(和訳)
http://ytydtrdy.cocolog-nifty.com/blog/files/cbi.pdf
スティルウェルのCBI戦線

http://software.fujitsu.com/jp/atlas/V14/top.html
ATLAS V14 -プロユースの本格英日・日英翻訳ソフトウェア
504イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/23(月) 00:07:45 ID:jU4IHa9Z
>>502 >>●「南京が陥落してから内閣の方針を決める」と戦局の進展を待つ事になった

結局、南京は『風前の灯』な訳ですから、その土壇場で支那側からトラウトマン工作の
回答を貰ったところで、日本政府として何が出来る訳でもありません。

さて迂遠なようですが、もう一度『南京攻略戦』に戻りたいと思います。朝香宮鳩彦王が
新しい上海派遣軍司令官に任命されると、ようやく中支那方面軍司令官との兼任が外れた
松井石根は12月4日、上海をあとにしました。ちょうどその頃、上海〜蘇州間の鉄道が
復旧しましたので、松井ら幕僚は司令部をより前線に近づけるため蘇州へと向かいます。

この時の松井はマラリアに罹患しており、肺炎も合併しかねない重症状態でした。高熱と
悪寒が交互に襲ってくるなか、松井はオーバーコートにマフラーを二重に巻いて、前線を
視察したと云います。

さて『南京攻略命令』が正式に下ると、全軍は凄まじい勢いで追撃を始めます。特に期待
外れの様な活躍しかできていない第10軍(上陸のインパクト自体はともかくとして)は、
ここぞとばかりに歩を進めます。上海派遣軍は疲弊していましたが、緒戦に投入されて
消耗の激しい部隊(3Dなど)は後から追随するような形でとにかく進撃を続けました。
505イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/23(月) 00:42:05 ID:jU4IHa9Z
>>504 >>『南京攻略命令』が正式に下ると、全軍は凄まじい勢いで追撃を始めます。

全軍の将兵は、●「イチ・ニを4つ揃えた合言葉」(12月12日12時12分)を
攻略目標として、各部隊が『南京城一番乗り』を目指して怒涛の勢いで進みます。
当然、不眠不休で補給も追いつかず、地獄の上海決戦よりも南京への強行軍の方が
辛かったと回想する将兵もいます――。今日の東京マラソンより当然キツイですw。

さて問題の南京城ですが、北と西を長江に、東を紫金山と玄武湖、南を雨下台丘陵に
囲まれ、一見「要害の地」に思われますが、水陸から囲んで兵糧攻めにすれば戦わず
して落とせると言われたくらい、古来多くの王朝の首都になったにも関わらず防衛が
困難な都市でした。

しかし、ファルケンハウゼン率いるドイツ軍事顧問団の指導の下、南京城には鉄筋
コンクリート製の永久陣地が多数構築されました。もともと明の太祖が築いた南京城の
城壁は、周囲50キロ、高さ12〜25メートル、厚さ6〜12メートルもあり、
野砲の直撃にも十分耐えます。さらに城壁の外側は、幅40〜200メートルの
水濠までもが張り巡らされていました。
506イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/23(月) 01:23:28 ID:jU4IHa9Z
>>505 >>ファルケンハウゼン率いるドイツ軍事顧問団の指導の下、

実は『上海決戦』の最大のターニングポイントとなった「大場鎮」の陣地も、ドイツ
軍事顧問団の指導の下に造られたもので、非常に自信満々の出来でした。しかし結果は
あっけなく日本軍に攻略されてしまった訳で、駐日ドイツ大使館武官のオットーがその後の
大場鎮の戦跡を見て歩くと、「この分では南京もやられるのではないか?」と危機感を
抱いたと云います(のちにオットーは、ディルクゼンの後の駐日ドイツ大使に)。

日本に飛んで帰ったオットーは、日本の参謀本部に南京攻撃(戦線拡大)の不利を説き、
それが「トラウトマン工作」に繋がっていったという説もあります。つまりは南京城の
城郭陣地は、ドイツの近代的築城法で造られたものであり、ドイツは支那に非常に高く
売りつけ、支那からも大きく評価されていました。

しかし先に大場鎮が陥落し、この分では南京城も危ないとなると、支那からの信用維持の
ためにドイツは「日本の南京攻略を阻止」しようとしたと云う訳です。つまりはドイツの
「和平仲介」は日本に対する好意でも何でもなく、単なる自己の保身ではなかったか?と
黒田清(伯爵・黒木為髑蜿ォの3男で、黒田清隆の養子)が後に西園寺らに疑問を呈して
います。まあ、ちなみにの余談話でした。
507391:2009/03/23(月) 21:40:47 ID:???
>385
もう見ているかどうか分からないが

中国抗日軍事史 1937-1945 菊池一隆 著
ttp://www18.ocn.ne.jp/~yushisha/newpage2.html

がようやく手元に届いた。
半分くらい読んだところであるが、中々興味深く読んでいる。

国民政府側の視点から見た日中戦争史といった内容で、これまで余り
触れられる事のなかった国民政府側の遊撃戦戦略や1941年12月以降の
日中戦線、戦場後方でのテロ活動、ソ連の支援、海外華僑との関わり
など、さまざまな諸相が描き出されている。

蒋介石 マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記(東方書店/1997)
とセットで読むことで、国民政府側から見た日中戦争像が浮かび上
がってくる様に思われた。これまで台湾の書籍を見なければならな
かった視点を日本語で読めるのはありがたい。

台湾側からの視角を台湾の公刊戦史などを基に描写しているので日
本の戦史叢書との記述の食い違いが幾つか見られる。これについて
指摘はしているが、記述の差に関する詳しい分析はなされていない。
これは紙面の都合もあってのことだと思われるが、少し残念。

また、一般向けの本なので、その分ディープに知りたい人向けには
喰い足りない部分もあるかもしれない。

読了したらもう少し詳しい紹介をしたい。
508名無し三等兵:2009/03/23(月) 22:34:58 ID:???
509イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/23(月) 23:40:59 ID:9Fe809DJ
さて12月7日には南京城の包囲が完了し、松井石根は全軍に「一旦停止」を
命じます。そして以下の『南京城攻撃要領』を示したのでした――。

1.まず開城を勧告して平和裏に入城する。
2.敵の残兵が城壁より抵抗する場合は砲撃して城壁を奪取し、城内を掃討する。
3.城内掃討戦は作戦地域を指定し、友軍の相撃を防ぎ、かつ不法行為に対する
  責任を明らかにする。
4.各軍の配当城門は上海派遣軍=中山門・太平門・和平門、第10軍=共和門・
  中華門・水西門。
5.南京入城後、各兵団に地域を指定して警備させ、主力は城外に集結する。
6.皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の盛事で、全世界の注目を集めて
  いる。よって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為は絶対になからしめること。
7.各部隊の軍紀・風紀を特に厳しくして、名誉を毀損する行為の絶無を期すること。
8.掠奪行為をなし、失火する者は厳罰に処する。
510イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/24(火) 00:17:12 ID:xRD14QIe
>>509 >>1.まず開城を勧告して平和裏に入城する。

方面軍司令官の松井石根は、12月7日〜15日まで後方の蘇州で指揮を取って
いました。そして松井は12月8日の会議の席上、情報参謀の中山寧人少佐に
『降伏勧告文』を作成し、南京上空に散布することを命じます。

これを受けて中山は原文を起案し、松井のチェックを受けた後、支那語に翻訳される
事になりました。しかし本来の翻訳官が上海の留守司令部に残っていたため、松井の
側にいた通訳官の岡田尚が担当します。さらに松井の最終確認を受けた後、すぐに印刷
に取りかかって飛行場に持ち込まれ、12月9日午後4時、1機の97式重爆が何千枚
かのビラを南京上空に撒いたと云います。その内容を要約すると、以下の通り――。

「南京城はまさに包囲の中にあり、今後の交戦は百害あって一利なし。南京は中国の旧都
 にして明の孝陵、中山陵など古跡多し。貴軍にて交戦を継続せんとすれば、千載の文化は
 灰燼に帰すべし。

 よって本司令官は南京城を和平裡に開放するよう貴軍に勧告する。本勧告に対する回答は、
 12月10日正午、中山路、句容道上、歩哨線において受領する。もし貴軍が責任者を
 派遣する時は、本司令官代表者(参謀副長以下参謀2名、通訳官1名)との間に南京城
 接収に関する必要の協定をなす準備あり。もし時間指定内に回答が無ければ、日本軍は
 やむなく南京攻略を開始する――」
511イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/24(火) 00:51:28 ID:xRD14QIe
こうして蘇州の軍司令部から自動車で8時間かけて、参謀副長の武藤章(大佐)、
高級参謀の公平匡武(中佐)、情報参謀の中山寧人(少佐)、支那語への翻訳を担当
した通訳官の岡田尚の4人が、指定場所の中山門外を目指して南京に急行します。

しかし、当然と言うべきか予想通りと言うべきか、南京防衛司令官である唐生智は
日本軍の降伏勧告を無視し、武藤らが指定の正午を過ぎて午後1時まで待っても、
支那側の軍使はついに現れませんでした。

武藤章が●「やっぱり駄目だったか、さあ帰ろう」と溜息をついて、行きと同様
8時間かけて車で蘇州へと戻ります。武藤ら3人の参謀は睡眠不足と疲れで爆睡
しましたが、通訳官の岡田尚だけは「自分の翻訳が不味かったのではないか?」と
責任と不安を感じ、車中でまんじりとも出来なかったと云います。

そして12月10日午後1時、「軍使来たらず」の一報を受けた松井石根は
全軍に対して「南京城攻撃続行」の命令を下します。支隊がぐるりと迂回して
長江を渡り、南京対岸の浦口に到達しますから、●『完全包囲殲滅戦』の火蓋が
切って落とされる事になりました。
512だつお ◆t0moyVbEXw :2009/03/24(火) 20:04:18 ID:9CrDUCQ9
>>499
>45年だけで原爆をもう7発喰らってたんだぞ

東京大空襲も原爆も死者は十万前後でそう変わらない。だが核兵器の優位性を高く評価するなら、
ソ連の核開発はイギリスよりも早かった。ソ連の核開発は米軍の核独占に歯止めをかけた快挙だった。
だからソ連の核兵器は、世界平和に貢献する清潔な核兵器であったといえる。
またソ連参戦なら赤軍は不慣れな上陸戦(例えば占守島の戦いとか)を避けて南下するから、
支那派遣軍が全滅してもその代償として中国の街は赤軍に破壊しつくされるwwwww

>>509
>そして以下の『南京城攻撃要領』を示したのでした――。

南京大虐殺というがもしそうだとしたら、中国人は大虐殺の後の南京にわらわらやってきて、
「南京維新政府」なるものを作ってしまう非常に面白い生き物ではなかろうか。
それはゴキブリが自ら進んでゴキブリホイホイに入って死んでいくのと同じことだ。>>400

ソ連はグラスノスチで史料公開されるようになったというが、あれは意外ときちんと記録が取ってある。
以前は幹部だけが閲覧可能だった非公開史料が、一般人にも公開されるようになった。
この点中国の場合は非公開ではなくて当時の記録そのものが残されてないのではないかと。
国共内戦で国民党が台湾へ逃れて60年も経って、そんなに隠し通せるとも思えないし。
(そもそも国民党は皇軍の大陸打通作戦でみんなボロが出てしまったであろう)
記録をしっかり取ってないというのはいかにもチンピラゴロツキらしいことだwwwwww
513名無し三等兵:2009/03/24(火) 20:23:13 ID:???
>6.皇軍が外国の首都に入城するのは有史以来の盛事で、全世界の注目を集めて
>  いる。よって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為は絶対になからしめること。
>7.各部隊の軍紀・風紀を特に厳しくして、名誉を毀損する行為の絶無を期すること。
>8.掠奪行為をなし、失火する者は厳罰に処する。
このような支持が出ているのに蛮行に走るなど日本人であればありえない。
これは強力な南京虐殺が存在しなかった証拠である。
ただし、略奪のために志願兵として従軍した、朝鮮人志願兵についてはその限りではなく、
南京虐殺の賠償を、日本も韓国に対して求めるべきである。
514イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/25(水) 00:26:01 ID:B8PGufYe
さて南京城は最長で東西5.3キロ、南北8キロにおよび、総面積は35平方キロに
達します。平時の人口は100万、日本軍の占領時には「安全区」に20万の難民が
いたと云います(南京防衛の国府軍部隊を除く)。

まあ、文字通り『風前の灯』となった南京になお20万もの『難民』が残っていた
ことを疑問に思うかもしれませんが、これは国府軍の「焦土戦術」によるものです。
日本軍に利用されないよう進撃路にある村々を「空室清野」の戦術で焼いたため、
行き場を失った住民は南京城内に逃げ込むしか無かった訳です。

12月7日のニューヨーク特電では、●「首都陥落を前にして支那軍は、7日も
南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を
与えるようなものは全て焼き払わんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に
包まれてしまった。(ダーディン)記者は、自動車を駆って南京市東部の戦線に
視察に赴いたが、中山門を出ると総理陵苑の彼方の低地は、一面猛火の海と化して
おり、焼け落ちた家々からは今まで踏み止まっていた村民の群が、僅かばかりの
家財道具を背負ったり、小脇に抱えたりしてよろめきながら南京城内目指して
逃げ込んでくる――」
515イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/25(水) 00:39:54 ID:B8PGufYe
同じく12月8日のニューヨーク特電では、

●「中国軍の堅壁清野戦術により、南京郊外の農村はほとんど焼き払われた。
 中立国軍事専門家の目には、この焼き払いは、軍事的には日本軍の阻止には
 ほとんど役立たず、ただ農民たちに計り知れない惨禍をもたらすジンギスカン
 以来の組織的破壊と映った――」

またこの前日の12月7日(払暁の午前5時45分)には、蒋介石が妻の宋美齢を
連れて南京城内の飛行場から軍用機で脱出し、武漢へと逃げ込みます。この噂が
瞬く間に広まると混乱に拍車がかかります。

●「蒋介石委員長、宋美齢は早朝、飛行機でついに南京を落ちた。漢口に向かった
 と伝えられたが、行き先は不明である。蒋委員長の都落ちが伝わるや、全市民は
 家財を抱えて避難民区に雪崩れ込む――」(外国人の日記)
516イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/25(水) 00:51:57 ID:B8PGufYe
ちなみに南京防衛軍の兵力は7個軍(11個師)で、城内の兵力は6〜7万、城外を
含めて約10万でした。そのほとんどが『上海決戦』の敗残兵であり、蒋介石の中央
直系軍が4個軍(5個師)で、あとは北方系や広東系に属する『雑軍』です――。

また言うまでもなく、南京防衛軍司令官は前述の「唐生智」であり、このとき48歳。
軍事委員会執行部主任の職にあり、もともとは湖南省の生まれ。保定軍官学校(清朝の
北洋軍閥が作った支那初の陸軍学校)に学び、第8軍長、湖南省主席を経て、いわゆる
「反蒋戦」を2回起こして敗れた蒋介石の政敵でもありました――。その後、許されて
「外様」として用いられることになります。
517地獄の輪禍 火焔猫 燐 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/25(水) 01:05:48 ID:???
>>515 >>ただ農民たちに計り知れない惨禍をもたらすジンギスカン
>>以来の組織的破壊

 _,....,_   ,、
( (O.0) //l_,....,_/l   __
 ゝ、(  |:レ´  `く|  (。..o)
   `' {><}ノノハノ)ノ)  ノノ
     〈ヲ|リ ゚ ヮ゚ノ§ '´    この死体を回収していった先に、南京とやらが
     {X(*i:E`:';l]つ   ノ|   あるんだね。更なる『燃料』、ゲットの予感…。
     ,(ンi_ヲ;:V:>、 (○ノ
     `^'i_フ'i_ヲ'´
518名無し三等兵:2009/03/25(水) 08:12:28 ID:???
ジンギスカンっていうからムッチーかと思った
519名無し三等兵:2009/03/25(水) 14:49:06 ID:???
第二次上海事変から南京攻略までの軍事を理解する為の良書を教えて下さい。
520イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/26(木) 00:06:29 ID:???
>>519 『日中戦争の軍事的展開』(慶応義塾大学出版会)がよろしいのでは?
521イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/26(木) 00:31:03 ID:???

           南京駅
【揚子江】 下関
                     和平門駅
       ★獅子山砲台        
                       中央門★   
           海軍部                
    ★?江門     鉄道部                  【玄武湖】               【紫金山】
         交通部                玄武門★
        英国領事館      中央党部
                    ソ連大使館
         最高法院
             日本領事館
                    中央学校    鶏鳴寺                       【中山陵】
      清涼山                参謀本部            【前湖】
            司法院            国民政府  中央軍官学校
     ★漢西門                     中央医院
                   財政部                   中山門★

      
       ★水西門                 飛行場
                 内政部                  光華門★
                      孔子廟       通済門★
                        武定門★
              ★中華門           火薬廠
                      兵工廠          大兵営
522名無し三等兵:2009/03/26(木) 00:48:18 ID:???
既に100人斬りスルーしてるもんなあW
南京戦なんて首斬り魔で溢れかえってたんだろう
523イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/26(木) 01:28:02 ID:Ntvotx/s
>>521 は、ごく簡単な南京城の地図になります。※(D=師団、@=歩兵連隊)

さて12月10日午後1時より、南京城の『完全包囲殲滅戦』が開始される訳ですが、
【中山門】のある東側からは上海派遣軍の9D(金沢)と16D(京都)、13D(仙台)の
山田支隊が迫り、【中華門】のある南側へは第10軍の6D(熊本)、114D(宇都宮)が
向かいます。ちなみに6Dの師団長は、のちに南京虐殺の責任を問われて南京で処刑される
谷寿夫中将で『機密日露戦史』の作者でもあります。

しかし南京城内への突入は、まず城外の支那軍の防衛線に阻まれて難渋します。16Dは
【中山門】から北東2キロにある紫金山(標高494メートル)を攻撃しますが、砲撃でも
容易には敵陣地を破壊できませんでした。33@(津)と38@(奈良)が、国府軍の教導
総隊と昼夜にわたって白兵戦を続けながら、2日後の12日にようやく占領しました――。

また紫金山から南西へと広がる「雨花台」は丘陵地帯で、南京城外の『最終防衛ライン』でも
あります。古来、「雨花台を占めれば南京を制す」と言われており、その先には南京の城門中、
最も堅固な『中華門』があった訳です。
524イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/26(木) 02:19:42 ID:Ntvotx/s
まあ、>>521 は★印の「〜門」に囲まれた部分が南京城だとイメージしてくらさい。

>>523 >>古来、「雨花台を占めれば南京を制す」と言われており、

雨花台はべトンで固められたトーチカ、鉄条網、対戦車壕で半ば要塞化されており、
ここを通過して【中華門】に突入しようとした6D、114Dは国府軍の最精鋭・
88師と正面衝突します。88師はドイツ製、イギリス製、アメリカ製の重砲の他、
日本の15センチ榴弾砲まで入手しており、これには日本軍の砲兵部隊も驚いたと
云います。

この雨花台を突破するため、左翼の6Dは13i(熊本)、23@(都城)、45@(鹿児島)、
47@(大分)の各連隊を『並列前進』させました。同様に右翼の114Dも、66@(宇都宮)、
102@(水戸)、115@(高崎)、150@(松本)の各連隊を横一列に揃えて進みます。

しかし115@は大隊長1名が戦死し、連隊長も重傷を負うなど、苦戦が続きます。上海から
南京までの猛追撃が災いして補給が追いつかず、現地で食糧を『徴発』しようにも時間がなく、
また先にも述べたように支那の土人軍は「空室清野」戦術で村々を焼いていたため、将兵は三食、
四食抜きの激戦に疲れ果てました。また弾薬も欠乏したため、夜間の射撃が禁止されています。
525名無し三等兵:2009/03/26(木) 02:35:05 ID:???
度人に夜襲をやる根性があればえらいことになっていたね
結果としては当然あっさり殲滅されてたろうがw
526名無し三等兵:2009/03/26(木) 08:14:32 ID:???
>>522
多く殺したらそれだけ名誉で称えられること、って認識が軍で一般的だったことの証左だからねえ。
527名無し三等兵:2009/03/26(木) 08:18:00 ID:???
清野戦術っつっても時間の不足からか不十分で残ってる村落も多かったって南京従軍した人の日誌になかったっけ?
飯の準備して野糞してる間に南京攻略戦が始まっちゃった記述のある奴。
本当に食料がなかったんではなく、単に真っ先に南京に到達した軍の指揮官たちは功を焦ってて、
徴発のために停止して家屋を漁る手間を惜しんだんじゃねーの?
528名無し三等兵:2009/03/26(木) 10:56:03 ID:???
南京戦で百人首斬ったからってこんな講演するなよ・・・ orz

小学校で行った野田氏の講演を聴いた方の証言
(「ペンの陰謀」所収 鈴木二郎「当時の従軍記者として」1977年から抜粋)

〜実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない・・・。
占領した敵の塹壕に向かって、”ニーライライ”と呼びかけると
シナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。
それを並ばせておいて、片っぱしから斬る・・。
百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ・・〜

■首斬り魔 向井少尉■
野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失
はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。
公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。

■首斬り魔 野田少尉■
向井君から父上へ、”口は禍の元、冗談をいったばかりに、大事な独り息子さんを、
死の道連れにして申し訳けありません”とのことです。

と、お互いに記者に言ったのは相手側だと責任のなすり合いはしていますが、いずれにせよ二人
の少尉(のどちらか)が「記者に言ったこと」が記事になったと認めています。
さらに、これも今年になって発見された資料ですが、大阪毎日新聞の鹿児島版には、野田少尉が
中村氏という同郷の友人に書き送った手紙が報じられています。
それは、百人斬りの報道に触れた上で、報道の時点では105人だったが、

■■■今はもう253人まで記録が伸びた、■■■

と自慢する内容です。
529名無し三等兵:2009/03/26(木) 15:10:30 ID:???
>>520
ありがとうございます。
530名無し三等兵:2009/03/26(木) 19:02:31 ID:???
>>528
「南京大虐殺のまぼろし」なんかで、誇張した数字であるとほぼ確定されてるけどな。
とはいえ、誇張するという時点で、民間人や捕虜を殺害するのが悪いことだという認識が、
当時小隊長や大隊副官といった、兵卒を指揮する立場の将校にすらなかったことの証拠でもある。
531名無し三等兵:2009/03/26(木) 19:26:29 ID:???
今の話のどこに民間人が?
532名無し三等兵:2009/03/26(木) 19:28:07 ID:???
>>531
いわゆる百人斬り事件の両少尉は、自分で農民や捕虜を殺したって言ってるのよ。
533名無し三等兵:2009/03/26(木) 19:50:25 ID:???
その手の話は他の板でやってくださいな
534名無し三等兵:2009/03/26(木) 20:23:30 ID:dC8yYd5w
??事部直属??:
禁??,司令官?名久,??春。
航空?,司令官田中收,?沈?。
高射炮?,司令官?牧禅,?沈?。
?兵司令部,司令官?尚?。
?路警??,司令官太田(名不?)中将。
江上?,司令官曹秉森,?哈??。
?石部?,?冀?。
地方??:
第1?管区,??奉天、?州、安?、通化4省。司令官王之佑,司令部?沈?。??旅。
第2?管区,??吉林、四平省。司令官?成山,司令部?吉林。??旅。
第3?管区,管???江省。司令官?秋航,司令部???哈?。??旅。
第4?管区,???江省。司令官李文?,司令部?哈??。??旅。
第5?管区,???河省。司令官赫慕侠,司令部?承コ。?个?兵旅。
第6?管区,??牡丹江、??省。司令官??杰,司令部?牡丹江。??兵3旅。
第7?管区,??三江省。司令官?衡,司令部?佳木斯。??兵7旅。
第8?管区,??北安、K河省。司令官周大?,司令部?北安。??兵12旅。
第9?管区,???安省南、?安西省。司令官甘珠?扎布,司令部?通?。?第2?。
第10?管区,???安?、?安北省。司令官郭文林,司令部?海拉?。??安?兵第47、48?,均?南屯。
第11?管区,???安省。司令官郭若霖,司令部?密山。??兵11旅,配属第1?。
此外,?有3支特殊部?。
(1)朝?族特殊部?――??特??。1938年9月成立,由3个??成,???日本人。首任???染川一男,?官?日本人和朝?人,士兵全部是朝?人,?部?于???省明月?(?属安
535暫編第一軍:2009/03/26(木) 22:45:34 ID:???
>>534
 満洲国軍ですね。
536イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/27(金) 00:11:45 ID:4qnTZEvz
>>527 >>本当に食料がなかったんではなく、単に真っ先に南京に到達した軍の
>>指揮官たちは功を焦ってて、徴発のために停止して家屋を漁る手間を惜しんだ

やはりツッコミが入りましたか……。実は自分が3D(名古屋)で中隊長をやっていた時、
緒戦の上海敵前上陸と、中盤の蘇州河渡河で、部隊はほぼ壊滅してしまいました――。

自分と同じように『上海決戦』に序盤から投入されて消耗の著しい部隊は、『南京追撃戦』で
わき目も振らずに怒涛の進撃を行なう部隊を横目にして、後からゆっくり追いかけていく事が
許されました。まあ「お前達は休め」ではありませんが、後続の部隊とバランスが取られた訳です。
第10軍など元気が余っているというか、功が挙げられなくて焦っている連中が沢山いました
からね――。当時の自分の日記を見ると以下の通りです。

●11月23日:午後、稲葉曹長以下25名が徴発に出かけて、鶏27羽、大根・ネギなど
持って来る。大隊長に明朝、鶏を進呈した。
537イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/27(金) 00:30:56 ID:4qnTZEvz
●11月27日(土):稲葉曹長の一隊は、今日も徴発に出かけた。牛7頭、鶏40余羽を
徴発してきた。内地では到底できないことである。ご馳走。今日、初めて鶏のスキ焼らしき
ものを食べた。酒は旅団で用意してくれた。いかにも肥えそうな気がした。

●11月28日(日):風呂を沸かして入った。心地いい。ニュース。しかも皆、快ニュース
である。南京も食糧難であるとの事。快の快。

●11月29日(月):南京の食糧問題が深刻化すればよい。食糧欠乏の道を講ずる必要あり。

●12月13日(月):徴発とは何といい言葉だろう。即ち軍事に供する物は徴発してよろしい。
牛、豚、鶏、野菜、米など、一度に牛を7頭、鶏47羽、豚5頭などという始末。お金にしても
一頭120〜30円はする牛を2、3頭捕まえて来て、これを食料に供する。砂糖が10表あった
とか、米は「南京米」ではあるが、軍師団で食するほどに徴発してくる。憐れなのは国民である。
付近に支那の便衣隊および敗残兵。
538イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/27(金) 00:42:44 ID:4qnTZEvz
まあ、自分たちの部隊は、所属旅団の「予備隊」に指定されたため、こんな
チンタラな行動が可能だった訳ですが。>>536-537 は、自分の日記の『徴発』に
関する部分だけの抜き書きですので、こんな事ばかりしていたのではありません。
誤解のなきよう。また『共食い』ではありませんが、支那人同士の掠奪も見ていて
酷いものでした。あ、12月6日(月)の日記をチラと見ましたら、

●赤子(2、3歳)を捨てて逃げた親がある。兵が拾って来て大事にしているが、
今日は止む得ない。また捨てることにする。食事もさせて藁で暖かくしている兵の
心情は和やかなものがある――。
539イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/27(金) 01:12:42 ID:4qnTZEvz
まあ、>>524 で述べた通り、

>>上海から南京までの猛追撃が災いして補給が追いつかず、現地で食糧を『徴発』
>>しようにも時間がなく、

な訳です。また更に>>515 で述べた通り、

>>●「中国軍の堅壁清野戦術により、南京郊外の農村はほとんど焼き払われた。
>>中立国軍事専門家の目には、この焼き払いは、軍事的には『日本軍の阻止には
>>ほとんど役立たず』、ただ農民たちに計り知れない惨禍をもたらすジンギスカン
>>以来の組織的破壊と映った――」

な訳です。まあ、>>537 >>南京も食糧難であるとの事。快の快。南京の食糧問題が
>>深刻化すればよい。食糧欠乏の道を講ずる必要あり。

これも不十分であったにせよ、南京周辺の『村落の焼き払い』(プラス、余計な難民が
多数発生して南京城内に逃げ込む)が影響している訳で、どうせ日本軍の進軍の阻止に
役立たないならば、日本軍に『徴発』されるに任せた方がよほど農民はマシだったで
しょうが……。

     ,r---、.       
   _ソヽ/`、シi.
   _>=ヘ 山/=<, 
.  ((ん'ノノルレム))
   _ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_   戦争が非人間的ですって?  
   ),k'ヲ:::::::::つ    人間以外に誰がしますか?   
    (ン::::/:::l::ヽ 
    `~i,ンT,ノ~´
541名無し三等兵:2009/03/27(金) 01:39:47 ID:???
俺だよ、俺
542名無し三等兵:2009/03/28(土) 20:04:48 ID:???
家康と光秀が通じていたのはよく知られた歴史的事実。
江戸幕府後も、徳川家は明智家関連の人を重要ポストに据えまくり。
もともと信長は家康の妻と子に罪を着せて殺している。
家康は涙を飲んでそれを受け入れた経緯もある。

同盟者というより・・・

それと、信長は比叡山焼き討ち、他、坊主を殺しすぎて、比叡山と
同じ密教の高野山で信長調伏の祈祷が密かに行われた矢先に本能寺の変が
あったことも知られている事実ですな。

けだし、「おのれの業はおのれに返る」。
543名無し三等兵:2009/03/28(土) 22:32:45 ID:???
どこの誤爆だw
544イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/29(日) 21:38:21 ID:X1yLYV2n
>>525 >>度人に夜襲をやる根性があればえらいことになっていたね
>>結果としては当然あっさり殲滅されてたろうがw

まあ、土人兵に付き合って「夜間の盲撃ち」を禁じるといった程度でしょう。

>>524 >>雨花台はべトンで固められたトーチカ、鉄条網、対戦車壕で半ば要塞化
>>されており、ここを通過して【中華門】に突入しようとした6D、114Dは
>>国府軍の最精鋭・88師と正面衝突します。

さて88師の戦意は激烈で、逃げ出す兵がいれば容赦なく味方の「督戦隊」が射殺
しました。また、トーチカは外から鎖を巻いて文字通り「死守」させました。この
ような激戦の結果、6Dと114Dが雨花台を占領したのは翌11日となります。

また支那側の記述では、●「午後2時、我が88師の雨花台右翼陣地は敵に突破され、
中華門城門も敵の砲撃で突破された……」とあります。
545イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/29(日) 22:01:27 ID:X1yLYV2n
支那側の記述では時系列に少しズレがありますが、とりあえず話を続けましょう。

12月12日の朝、ようやく南京城の城壁へと迫り、中華門の西側城壁にあった
幅30メートルの水濠前で待機していた47@(大分歩兵連隊・6D所属)の
決死隊7名がクリークで拾った小舟で渡河し、高さ20メートルの城壁に竹梯子を
かけてよじ登りました。しかし城壁の頂上まで、あと3メートル足りません――。

そこで城壁のレンガを抜いて足場を何とか作りつつ、中華門の西北400メートルの
城壁上に登って『日の丸』を振ったのが中津留大作伍長でした。その時刻は、12月
12日午後12時20分。「イチ・ニを4つあわせた合言葉(12月12日12時12分)」
より8分遅れましたが、これが南京城南側城壁の『1番乗り』となりました。

また6Dも「13@・I・2中」(熊本第13連隊・第1大隊・第2中隊)の
突撃隊が12月13日午前3時に中華門城壁へと取り付き、続いて大隊主力が
その西方200メートルの城壁を占領しました。
546イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/29(日) 22:29:50 ID:X1yLYV2n
また中華門の東の「光華門」でも激戦が繰り広げられます。門に通じる道路は
対戦車壕と鉄条網で遮断され、城壁は高さ13メートル、外濠は幅35メートル、
深さ4メートルがありました。

ここを攻めた9D(金沢)の36@(鯖江)T(第1大隊)は12月10日、
山砲連隊の砲撃と工兵連隊の決死隊が爆破した「光華門」の破壊孔から城門の
一角に取り付いて『南京城内一番乗り』を果たします。>>545 と時系列が前後
しましたが、一応「中華門」が南京城の最大の城門であり、3千人の土人兵を
収容できたと云います。

それはさて置き「光華門」に取り付いたI/36@ですが、逆に土人兵に包囲
されて身動きできなくなります。大隊長の伊藤善光少佐は手榴弾が頭に命中し、
全身を粉砕されて戦死。最後まで残った少尉以下13名が全員負傷しながら、
12月13日払暁まで死守します。この頃、国府軍が南京城から撤退し始めた
ため、36@の脇坂次郎連隊長(大佐)が軍旗を翻して前進し、城壁上で
『万歳三唱』をしました。
547イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/29(日) 22:56:13 ID:X1yLYV2n
光華門の戦闘だけで、36@(脇坂連隊)は戦死257、負傷546の損害を
出して部隊としては、ほぼ全滅に近い状態です。

また他の部隊は、16D(京都)が中山門から突入しようとしましたが、正門の
鉄扉は土嚢を積み上げて侵入不可能のため一旦、脇門の瓦礫の山を越えて入城。

13D(仙台)の山田支隊(歩兵第103旅団長・山田栴ニ少将)は12月13日〜
14日にかけて、下関西北の鳥竜山と幕府山砲台を占領して、国府軍1万4千人を
捕虜としました。このうち非戦闘員と見られた者は釈放し、残り8千を収容したと
云います。しかし捕虜を警戒・管理する兵が不足し、夜中に半分が逃走しますw。

また食料不足に困った山田旅団長が17日、長江の対岸に残った捕虜を釈放する
ために江岸に移動させたところ、捕虜が逆襲に転じて乱戦となり、捕虜1千名を
射殺しました(残りは逃亡)。日本軍は将兵7人が戦死です――。
548イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/29(日) 23:21:23 ID:X1yLYV2n
さらに補足すると、13Dの国崎支隊が長江を渡って南京対岸の浦口を占領して
退路を断ちます。また6Dの一部も14日、下関(南京北方の船着場)に出て、
長江を船で逃げようとする国府軍を撃滅しました。さらに6Dの主力は、他に
退却中の国府軍大部隊と遭遇して、これを蹴散らしています。

結局、16D(京都)の20@(福知山)が中山門から城内に進入して国民政府
庁舎に『日章旗』を立てた12月13日午後4時を●『南京占領』の時刻とし、
同日の夜10時に上海派遣軍司令部は、●「わが南京城攻撃軍は、13日夕刻、
南京城を完全に占領せり」と公式発表し、

また大本営陸軍部も同夜11時20分、●「昭和12年12月13日夕刻、
敵首都・南京を攻略せり」と宣言しました――。
549名無し三等兵:2009/03/29(日) 23:21:50 ID:???
こっそりきちんと史料のある幕府山事件をうやむやにしてんじゃねーよ。
550だつお ◆t0moyVbEXw :2009/03/29(日) 23:29:58 ID:lXKA11ZP
「弱小列伝」もだいぶ読んだし、賛同できる面もかなりあったんだけど、どうして潰れちゃったのかな。
やっぱり大陸打通作戦とかを持ち出されると分が悪くなってくるからなのかもしれないな。
日本軍は弱い武器もボロい工業技術も低い、でもそのオンボロな日本軍に歯が立たなかった中国軍、
中国人はチンピラゴロツキ蛆虫・・・ってな論法に持っていかれるからwwww

品質は劣るとはいえ、大日本帝国は飛行機も軍艦も火砲も無線機も戦車もみんな国産でやった。
それを「弱い」というのは、旧ソ連が「弱い」と言ってるのと同じ。中国はどうだドイツはどうだでお終い。

 ところが、ナチズムの権力掌握後、独ソ関係の悪化によりこの軍事協力関係
の維持は不可能となり、ドイツ国防軍がみずからの活力を維持するためには、
あらたな軍事的パートナーを必要とするにいたったのである。この面で
ドイツ国防軍、主として陸軍が注目したのは中国であった。・・・中略・・・
 また、国防経済という観点からも、ドイツ国防軍が親中路線を採用する理由が
存在した。なぜなら、両国の経済は相互補完的であったからである。ドイツ国防
経済は、ロシアとの関係悪化後、技術刷新の継続のためにも、また付加的な
輸出の拡大のためにも、あらたな市場を求めていた。一方、中国側は、ドイツから
の工業製品輸入を天然資源の輸出で相殺することができたし、また一九三五〜三六年
のドイツの武器輸出総額のうち、実に五七・五パーセント(二千万ライヒスマルク)
が中国に向けられていたのである。
 これに対し日本はその一パーセントにも満たない十七万七千ライヒスマルクであった。
<ナチズム極東戦略 日独防共協定を巡る諜報戦 / 田嶋信雄/著 >
551イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/29(日) 23:42:14 ID:X1yLYV2n
また上海から杭州方面に逃げた長発奎指揮の5個師を撃破するため、18D(久留米)が
南京攻略から反転して、101D(東京)とともに杭州を12月24日朝、無血占領する
など紆余曲折ありますが、『南京攻略作戦』の人的損害は、以下の通りです――。

上海派遣軍:戦死966、戦傷者2848、合計3814
第10軍 :戦死592、戦傷者1771、合計2363
総合計 :戦死1558、戦傷者4619、合計6177

土人相手に多いようですが、9千人以上の戦死者(3万人以上の戦傷者)を出した
『上海決戦』に比べれば、そして敵国の首都攻略ということを考えれば、比較に
ならないくらい少ないでしょう。

また当時の日本軍が推定した支那軍の戦死者が2万9千人、長江を渡河して逃走に
成功した支那兵が1万5千人、陸路で逃走に成功した支那兵が3千人です。元々の
南京城防衛軍が6〜7万として、それから4万7千を引いた1万3千〜2万3千が
日本軍の捕虜ないし民間人に紛れ込んだ便衣隊だったという計算になります。
552イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/30(月) 00:11:23 ID:r0810IKK
また補足までに、その時の外国人の記述を見ると、

●「城内の支那軍は総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は、学生抗日軍を
 残して南京市内に雪崩れこんだ。唐生智は激怒して、自身が指揮する36師に
 命じてこれら敗残兵を片っ端から銃殺するが、大勢如何ともする事ができず、
 唐生智は憲兵と共に夜8時ごろ、どこともなく落ち延びる」(12月12日)

またドイツ大使館の報告によれば、12日の支那軍の退却の様子を

●「支那軍の退却は、市街南部の部隊の退却をもって徐々に開始された。退却命令は
 退却の開始を午後8時と定めていたが、実際にはもっと早く開始された。午後5時
 までは、退却は秩序ある集団として極めて静粛に行われたが、午後5時を過ぎると
 調子は早くなり、次第に秩序は乱れ、ついに真夜中近く、退却は本当の大潰走に
 変貌した――」
553イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/30(月) 00:13:12 ID:???
以上、駆け足での「南京攻略作戦」でした。補足は続きますがw。
>>522 >>既に100人斬りスルーしてるもんなあW
>>南京戦なんて首斬り魔で溢れかえってたんだろう

     _...,、.._))
   ,,´,===?、
    ( ソノ))ノハ((
   Xネ.゚ ー.゚ノ(  そこの脱走兵さんは、「100人から先は覚えていません」
    /^i、_:@つ  と心の中で思っていますw。
   (ン'ー-:->、_
    '〜i_テi_テ〜'
      ̄  ̄
>>554 >>「100人から先は覚えていません」

   ,.ィ ーrーr 、
  y' "´ ̄`'ヽ
  .ノくノノ人リ))ゝ
  ルi§゚ ヮ゚ノ§     無粋な答え方ね。うちのお嬢様なら瀟洒に
   'k'_,i`ム'_i〈つ[|三> 「あなたは今まで食べてきたパンの枚数を
   ,し'/_ハ.ゝ、      覚えているの?」と返すわ。
   `'ト_ノ'ト,ノ"
×『昨夜』 → ◎『咲夜』

    ./´脱 ` 、        ,.ィ ーrーr 、
    .!/´ ̄ ヽ、.ヽ      y' "´ ̄`'ヽ
    〈(( リノl、」 i<三|]≡ く((リ人iヽ>ヽ
 .:.゚.:。+、.|i・ω(:;(<三|]≡三§!、゚ヮ ゚§ルゝ  >>555 で私の名前が間違っていますわ。
      (っΣ<三|]<三|]⊂) `ム'i;_')
       乂  ,つザクザクザク く_/___i,kJゝ
         ゝ、)          ∪ ̄\)
557名無し三等兵:2009/03/30(月) 03:25:34 ID:???
君にもう1つ教えてやろう。

織田信長は小さいころから法華宗に帰依しており、かつ自称していた。
信長が殺された本能寺は、実に法華宗の総本山だ。

つまり自分が信奉する宗教の総本山が人生の最期になったということなんだな
558名無し三等兵:2009/03/30(月) 06:40:36 ID:???
華麗宗?
559だつお ◆t0moyVbEXw :2009/03/30(月) 15:14:17 ID:BNURXm4S
>>550
陸戦火器だとドイツ優位、軍艦だと日本優位。ドイツもソ連もいくつかの点で日本よりも優れた工業技術
を有してたとはいえ、航空母艦の一隻も完成させてはいない。この方面は日本の圧倒的優位を認めるか、
あるいはドイツにとって対イギリス戦は目くそに等しくまじめに取り組む気がなかったとみるかのどちらか。
また陸軍国に航空母艦は要らないという意見もあるが、ソ連は戦後になって航空母艦を大建造してる。
あと一人当たりGDPは米英が圧倒的で独伊が真ん中辺で、日ソが列強中では下位と記録される。

http://en.wikipedia.org/wiki/Military_production_during_World_War_II
WW2各国の軍需生産データ

日本の重工業は、1935年〜1940年の間で爆発的に伸びている。やはり重工業は戦争用ということかと。
量ではなくて質で比較するなら、『航空戦力』で比較するのが一番よいと自分は考える。
例えばドイツは1944年だけで4万機もの航空機を生産しているが、量ではなくて質の面ではどうだったか、
4万機のうち飛ばせたのはいかほどだったか、○○の戦いで制空権はどっちにあったか、等々。
航空戦力は純粋に工業技術の集大成であり、他国からの援助や天然資源の有無で覆るものではないからだ。

>まあ、中テーマ『上海航空決戦』の結論でも述べましたが、支那は『近代戦』、
>ひいては『総力戦』を戦えるようなレベルの国家ではなく(最新鋭機を輸入して
>航空戦力で日本を上回ろうとしたのは一時的なドーピングに終わり、何万機・
>何十万機と航空機の生産と消耗を繰り広げる『総力戦』は全く想像外の
>「神々の世界」の話だった)、日米英独ソと名将云々を同列に比べられるような
>話では無かった訳です。 (イナゾウ氏のレスを引用)

#以上は「独断と偏見」なので、異論があれば何なりと。
560イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/31(火) 00:41:06 ID:dJd8GFO/
>>522 >>既に100人斬りスルーしてるもんなあW
>>南京戦なんて首斬り魔で溢れかえってたんだろう

まあ、真面目な話「100人斬り」云々よりかは、以下の馮玉祥の回想の方が
『南京追撃戦』の状況をよく表していると思います。あ、もちろん知らない人
のために念のため補足しておくと、100人斬りは南京追撃戦の最中に起きた
とされるものです(9@/16D【京都第16師団・歩兵第9連隊】の歩兵砲
小隊長と大隊副官の少尉2名)。

●「上海から南京への交通路は、鉄道、自動車道路、蘇州河の3つがあったが、
 自動車道路は狭くて管理が悪く、中国軍の軍紀は乱れ無統制で、負傷兵が多数
 道路に打ち捨てられたままであった。それに日帝(日本軍)の飛行機が爆撃を
 加えていた。避難民を満載した各列車も日帝機に爆破され、屍が野原一面に
 横たわり、血は川となって流れた――」

上記は、馮玉祥が妻の利徳全夫人に口述筆記させたものです。
561イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/31(火) 00:56:12 ID:dJd8GFO/
当時の自分の日記にも、

●11月27日(土)「兎にも角にも飛行機が非常に暴れているのが心地よし」
●11月29日(月)「飛行機が朝から爆撃を加えている。南京政府も死に物
 狂いだろう」

●12月3日(金)「真偽不明の事。敵飛行機は勇敢に行動して昼間、我が方を
 爆撃してきたと。戦争なので当然だろうが、しかし癪でもある。近々のうちに
 我が飛行機のため、徹底的にやられるだろう。馬鹿な奴だ。恐らくロシア人で
 支那の雇い人だろう。命は惜しくないのか」

●12月7日(火)「海軍航空隊は敵飛行機20何機かを爆撃したという。何と
 いう痛快事だろうか。陸海飛行機は、蕪湖に向かって退却中の敵を爆撃、退路を
 遮断したという」
562イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/03/31(火) 01:11:43 ID:dJd8GFO/
まあ、同様のことは「南京攻略戦」でも普通にありまして、例えば南京城の西側と
長江の河岸は支那軍の退路にあたり、敗残兵と民間人がゴチャゴチャになりました。

これが6D(熊本)の目の前を潰走したため当然、追撃の銃砲弾を浴びせて付近
一帯の沼沢は死体で埋まったと云いますが、これもしっかり支那側では虐殺に
カウントされていたりしますw。

それはさて置き、本来、南京城内の掃討戦は各師団が歩兵1個連隊を出して
行なう事になっていましたが、各城門が破壊されると「これで戦争が終わる」
と興奮した全軍が城内に突入して大混乱になりました。

また後述しますがその後、12月17日に南京入城式、18日に戦没者慰霊祭が
南京城内の飛行場で行なわれ、22日から16Dが城内の警備を担当する流れと
なります。
563イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/01(水) 00:26:19 ID:4uaSSbEt
>>548 >>●「わが南京城攻撃軍は13日夕刻、南京城を完全に占領せり」

さて中支那方面軍司令官の松井石根は、その頃どうしていたか?というと、
前述したように遥か後方の蘇州におり、マラリアに肺炎を併発する寸前の
重病でした。南京が13日夕刻に陥落し、本来なら翌14日には湯水鎮
(南京から東30キロ)に臨時方面軍司令部を移動させる予定でしたが、
軍医に止められて1日延期となっています。

結局、12月15日午後1時に蘇州を出発し、蘇州飛行場から句容飛行場に
降り立ち、そこから自動車で湯水鎮の軍司令部へ夕方4時に到着しました。
湯水鎮はその名の通り温泉が湧き、蒋介石の別荘もあったのですが、既に
焼け落ちて跡形もなかったと云います。ここで松井は参謀と共に入浴して
体力を持ち直しました。またこの時、松井の通訳官が捨てられた赤子を外で
見つけ、松井に見せたところ南京まで一緒に連れて行く事になり、松井の名を
取って「松子」と名付けられました――。
564イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/01(水) 00:58:21 ID:4uaSSbEt
ここで1点特筆するならば「南京入城式」の日程調整で揉めていることです。

松井石根は蘇州から、塚田攻(中支那方面軍)参謀長を通じて「南京入城式は
12月17日に行なう」と上海派遣軍に通達していました(12月14日)。
しかし上海派遣軍は「17日は不可能」と返答してきます。これは城内の掃討が
とても間に合わないという理由からです。

ちょうど中支那方面軍情報参謀だった長勇(中佐)が16D(京都、師団長:中島今朝吾)と
相談して「掃討の関係から入城式は20日以降がよい」と松井に事情を説明していましたが、
15日に塚田攻参謀長が直接、上海派遣軍司令部を尋ねて「17日」で念を押します。

それでも上海派遣軍参謀長の飯沼守(少将)が「18日入城式」で粘りますが、結局「17日
入城式決行」で押し切られてしまいます。まあ、松井石根が入城式をこれほど急いだ理由は、
参謀本部からの広東作戦や上海での自治政府構想、またパネー号事件(後述)などの処理で
難題山積で、早く上海の本部司令部に戻らねばならなかった事などが挙げられます。
565イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/01(水) 01:17:12 ID:4uaSSbEt
実際、松井が南京に滞在していたのは12月17日〜22日の5日間で
上海にトンボ帰りしています。まあ、その間にも色々あったのですが、
後で述べましょう。

しかしよく言われる話ですが、上海派遣軍司令官が皇族の朝香宮鳩彦王
だったため、万が一のことがあってはならず、城内の掃討が短い期間で
急いで行なわれる一因ともなりました。
566名無し三等兵:2009/04/01(水) 20:12:33 ID:???
一九三八年一月一三日付
作成者−クレ−ガー(南京)

<途中省略>
南京城内とくに難民収容所の徹底捜索は、十二月一四日に始まった。
脱ぎ捨てられた多数の軍服は、城内に平服をまとった大勢の兵士が潜伏している
ことを日本側に示唆していた。これを大儀名文にして、残虐行為が容認され、
無数のまったく無意味な射殺が日常業務と化した。収容所の捜索はまったく無
差別で、勝手気侭に何度も繰り消された結果、わずか数日の間に、いかなる軍法
会議[軍律会議]もなく、また市民からの一発の発砲もなかったにもかかわらず、
五、六千人が射殺された。その大部分が、埋葬の手間を省くため、川岸で撃ち殺された。
この数字は控えめに見積もったものである。

石田勇治編集・翻訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P55
 また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのは
もつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ
中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり、逃げ口をふさがれた
黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃の
いつせい掃射で片ツぱしから殺害した」 (石川達三 作家 「裁かれる残虐『南京事件』」)

「当時の日本人というのは少しいかれてるから、自分の悪いこと、日本の首をしめるような写真をどん
どんとって得意になっている。それをこともあろうに中国人の写真屋に現像してもらう。そういう間抜けな
ところがある」「しかし、入場前後、入場までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。
三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺が
あったということは、私も目撃者として充分いえるね」
 (大宅壮一 ジャーナリスト サンデー毎日「大宅考察組の中共報告」)
567名無し三等兵:2009/04/01(水) 20:13:51 ID:???
「戦域が逐次拡大し、作戦兵力の増大に伴って、その要員の多数が教育不十分な新募又は召集の将兵
を以って充たされるようになると、思いがけぬ非行が益々無雑作に行われるようになる。これには、指揮
統率者の責任は固よりのことだが、わが国民の一般的教養の如何に低いかを痛感させられた。
 皇軍々々と叫ばれていたが、これでは皇軍が聞いてあきれる状態であったので、憲兵は一地を占領す
る都度、その都市村落の入口や要所に露骨な字句や、敵に逆用される虞れある文句を避けて、婉曲に
日本兵に告ぐと題し、火災予防、盗難排除、住民愛護の三項を大きく書いて掲示した」
 (上砂勝七 元柳川軍憲兵隊長 『憲兵三十一年』)

「見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。(中略)私は揚子江でも
銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書き
たくない」 (白井茂 映画カメラマン(東宝記録映画『南京』撮影者) 『カメラと人生』)

「谷大佐の陸戦術は、興味と教訓の多い名講義だったが、ただひとつ私の心に引っかかったのは、 「勝ち
戦の後や、追撃戦のとき、略奪、強盗、強姦は かえって士気を旺盛にする、・・・・」 という所見だった。後日、
日華事変で柳川兵団(第十軍)に付属した谷師団長が、 南京残虐事件に連座されたことは周知のことで
あるが、残念でならない」 (高木惣吉 元海軍少将 (海軍大学校時代の回顧) 実松譲『海軍大学教育』)
568名無し三等兵:2009/04/02(木) 00:43:11 ID:ZkZsWuhu
初めて質問します。彼氏から来るメールのことです。

最近になって急に、メールがおかしくなりました。
文末に、メールの内容と何も関係ないのに、
「スイーツ」(←これが一番多いです)とか「ロハス」
「夏色コスメ」「パスタ」とかそんなようなのを毎回つけてきます。
私が買い物に行ったとか何を買ったとかってメールすると、
「がんばった自分へのご褒美(笑)」というのが必ず返信されてきたり。
意味がわかりません・・・。
意味わかんないからヤメテって言っても、
はやってるんだよ知らないの?って言うだけです。
ホントにはやってるのでしょうか?だんだんイライラしてきてしまいました。
小ばかにされてるみたいで。
もう、返信が面倒になりつつあります。
アドバイスお願いします。。。
569イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/02(木) 00:43:39 ID:4tDdC+11
>>562 >>12月17日に南京入城式、18日に戦没者慰霊祭が南京城内の
>>飛行場で行なわれ、22日から16Dが城内の警備を担当する流れ

さて、よく引用される部分ですが、入城式と慰霊祭の終了直後に松井石根が
朝香宮(上海派遣軍司令官)を始めとする参列者一同に叱責の演説をしたと
云います(『上海時代』松本重治)。

●「お前達はせっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって一挙にして
  皇威を墜してしまった」

●「何たることをお前達は、してくれたのか。皇軍として、あるまじきことでは
  ないか。お前達は、今日より以後は、あくまで軍紀を厳正に、絶対に無辜の
  民を虐げてはならぬ。それがまた、戦病没者への供養となるであろう」

また東京裁判の死刑判決後に、松井が教誨師の花山信勝に語ったとされる以下の
文もよく引用されるところです。

●「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は
  朝香宮もおられ柳川中将も方面軍司令官だったが、せっかく皇威を輝かした
  のに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった、と。ところが、
  この後で皆が笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』
  とさえ言った。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の
  軍人達に、1人でも多く深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい――」
570イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/02(木) 00:59:45 ID:4tDdC+11
また東京裁判で1947年11月24日に、松井は証人台に立って以下のように
口述していますが、>>564 『南京入場式』の日程調整で揉めた時系列を考えると
興味深いところではあります。ちなみにですが、東京裁判で「A級戦犯」の被告が
自ら証人台に立てる機会は、ただ一度限りの『オンリーワン』です。

●「予の南京占領に関する周到な配慮に拘わらず、占領当時の倥惚たる情勢に
 おける一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行ないたる者ありたるならむ。
 これ予の甚だ遺憾とするところなり。
 
 ちなみに南京陥落当時、予は南京を去る40里の蘇州において病臥中にて、
 予の命令に拘わらず、これら非行の行われた事につきこれを知らず、また
 何らの報告に接せず。12月17日の南京入城後、初めて憲兵隊長より
 これを聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり」

まあ、やはり>>564 で述べた内容とほぼ一致します。
571イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/02(木) 01:12:13 ID:4tDdC+11
>>569 >>甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った。

言うまでもありませんが、この「ある師団長の如き」とは第16師団長(京都)の
中島今朝吾を指しています。ちなみに中島今朝吾の16Dは12月15日の午後に
勝手に独自の「南京入城式」を行なって、物議をかもしていました。先頭の馬に
師団長の中島今朝吾が乗り、その後の馬に師団参謀長が続く形ですw。
572名無し三等兵:2009/04/02(木) 01:14:38 ID:???
全員、女性の部隊で解放軍を迎え撃て。
>>565 >>実際、松井が南京に滞在していたのは12月17日〜22日の5日間

   _,........,_
 , ´,.-== ,ヽ
 i (ノノλノ)リ
 ルイ) ゚ ヮ゚ノ)   『南京入城式』の日程を無理に早めたのが、結果として祟ったのかしら?
  `,く_,`ハ,イつ   逆に松井石根のお爺ちゃんが、とっとと全軍に叱責を加える形になって
  ,(,ノ┐ハゝ    良かったのかしら?
  `'-i'_ィ,ァ"´
574イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/02(木) 01:33:46 ID:4tDdC+11
>>565 >>実際、松井が南京に滞在していたのは12月17日〜22日の5日間

まあ、南京事件の責任追及で「皇族に累を及ぼしてはいけない」とされた朝香宮
鳩彦王も、よくよく考えれば上海派遣軍司令官に任命されたのが12月2日で
(当然、赴任はもっと後)、南京陥落の僅か10日ほど前に過ぎませんからねえ……。
575名無し三等兵:2009/04/02(木) 02:05:36 ID:???
全員、女性の部隊で解放軍を迎え撃て。
576イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/03(金) 00:27:45 ID:CKjsBsS3
>>571 >>「ある師団長の如き」とは第16師団長(京都)の中島今朝吾を指しています。

中島今朝吾は南京城占領後、城内の『治安維持』の警備司令官にもなっていますから、
敗戦後に間もなくして死亡(1945年10月28日)しなければ、間違いなく戦犯
として支那側に裁かれていたでしょう。そして死刑です。

中支那方面軍司令官の松井石根は言うまでもなく、東京裁判に「A級戦犯」として
引き出されていますし、南京追撃戦で最初のきっかけとなる独走を始めた第10軍
司令官の柳川平助(中将)も1945年1月22日に既に病没しています。

第16師団長の中島今朝吾の直属上官は、上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王(中将)
ですから、先にも述べたように皇族に累を及ぼしかねません。という訳で、不幸な
巡りあわせとして当時、第6師団(熊本)長だった谷寿夫中将が1946年8月に
「南京虐殺」の責任を問われる形で身柄を支那に送られる結果となりました。そして
同年12月31日の大晦日に、国民政府の軍事法廷で「平和破壊罪」「人道違反罪」
という取って付けたような罪名で起訴されることになります――。
577イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/03(金) 00:57:06 ID:CKjsBsS3
「風が吹けば桶屋が〜」的な災厄ですが、軍事法廷では第6師団の犯罪なるものを、
証人400余人を連れてきて証言させました。開廷のたびに1千人以上の傍聴人が
つめかけて満員になったので、法廷外に拡声器をつけて裁判を実況中継するなど、
『劇場型裁判』というか、大芝居もいいところですw。

谷寿夫は法廷で、●「大虐殺の中心は、紫金山方面と南京城内中央部以北、下関
方面の長江岸で、中華門(>>521)を攻撃した自分の第6師団は関係ない」と否認し、
上級司令部である第10軍参謀長の田辺盛武、部下だった6D参謀長の下野一霍、
第11旅団長(6D)の坂井徳太郎を証人として喚問するよう申請しましたが、
却下されました。

結局、1947年3月10日に死刑が宣告され、谷寿夫は3月31日に長文の
上申書を最後に提出しましたが、これも却下。4月26日に南京城内を引き回し
のうえ、『南京攻略戦』で6Dの激戦地だった(>>544)「雨花台」の刑場で
銃殺刑に処されました。まあ、谷寿夫は色々な不幸が重なった訳ですが、支那側に
「日本軍最強師団」(武漢戦で漢口占領一番乗り)と怖れられた6Dの師団長を
務めたことも結果として災いしたでしょう。支那の土人民衆にとって、日本軍の
「6D師団長を処刑する」というのは、『特別な意味』があった訳です――。
578秘神流し雛 鍵山 雛 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/03(金) 01:13:17 ID:???

       ,、ィyァ,、
       ァ,'^⌒^ヽ 
       lil(_(ノリ))_)
       リ、!.゚ ヮ゚ノリ、 あらあら、あなた厄いわね。その厄、私が預かりましょうか?
       (,〉,>リ<i,)、   
      ,(ン、ハハ@ヽ
      ``''l.ツl.ツ''´
579名無し三等兵:2009/04/03(金) 22:46:48 ID:???
http://www.excite.co.jp/News/china/20090401/Searchina_20090401082.html

中国、ドイツ、日本で上映を予定していた中国、ドイツ、フランス合作の『ジョン・ラーベ』が、
日本での公開を断念したことが明らかになった。この中国版『シンドラーのリスト』は、
国際的視点で南京大虐殺という歴史的事件を正面から描いていることから、日本での上映は
全面的に禁止され、日本の映画配給会社も映画を見ることさえ断ったという。

◆日本での上映を断念
日本国内で批判の声を浴びているのが、『ジョン・ラーベ』で朝香宮鳩彦親王役を演じた香川照之さんだ。
「この役は多くの人の批判を招くと思うが、自分がこの役を演じて経験したことはとても意義がある」
と香川さん。

また日本国内で上映されないことについては、「日本で南京をテーマとした映画は普通上映できないし、
日本人も撮影しない。しかしこの映画が少しでも中国の人たちの苦しみを取り除いてくれるよう望んで
います」と話す。映画に出てくる朝香宮鳩彦親王は裕仁天皇の叔父にあたる。南京大虐殺で重大な責任を
負っていたが、戦後は皇族の身分で軍事法廷に出なくて済んだ。このような非常に敏感な役を、香川さん
という日本でもよく知られている俳優が演じたことで、不快感を示す日本の右翼の人も多い。

『ジョン・ラーベ』は4月2日からドイツ、4月28日からは中国、11月にはベルギー、フランス、
イタリア、スペインでも上映されることになっている。しかし日本はこの映画に対して沈黙あるいは
拒絶の態度をとっていたため、『ジョン・ラーベ』は日本での上映をあきらめざるを得なかった。
580名無し三等兵:2009/04/04(土) 23:02:35 ID:???
全面的に禁止って……w
誰がいつ禁止したんだか?w
何をするにも党のお許しをいただかなきゃならない国の人は大変ですねw
581名無し三等兵:2009/04/04(土) 23:21:12 ID:???
朝香宮はこの件で兵を叱責して、天皇の兵たる自覚が足りないと説教してなかったっけ。
582名無し三等兵:2009/04/05(日) 04:59:14 ID:???
朝香宮って親王じゃねえだろ
583イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/05(日) 23:05:14 ID:K84/L7X5
>>582 >>朝香宮って親王じゃねえだろ

「親王」は論外ですが、

>>579 >>映画に出てくる朝香宮鳩彦親王は『裕仁天皇の叔父』にあたる。

も書き方が怪しくないですか。皇族は「子供作りまくり」で訳ワカメなのですが、
裕仁天皇との繋がりでいくと、皇后の良子女王の父親が久邇宮邦彦王(元帥・陸軍大将)で、
久邇宮の弟が「朝香宮鳩彦王」になります。要するに「自分の奥さんの叔父」ですから
『義理の叔父』ですよね。

というか「久邇宮邦彦王」の父親の「久邇宮朝彦親王」が相当の精力家で、昨今の
『大家族テレビ番組』に余裕で出れるぐらいの子供18人ですから、そのあたりの
事情を知っておかないとミスリーディングになります。
584イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/05(日) 23:24:08 ID:K84/L7X5
>>583 も訳ワカメですが、要するに久邇宮朝彦親王の子供である

●久邇宮邦彦王(第3王子・元帥陸軍大将)
●梨本宮守正王(第4王子・元帥陸軍大将)
●朝香宮鳩彦王(第8王子・陸軍大将)
●東久邇宮稔彦王(第9王子・陸軍大将:敗戦処理内閣の首相)

が兄弟で、朝香宮鳩彦王の14ほど年上の兄である久邇宮邦彦王の娘が、
昭和天皇の皇后である良子女王な訳です。まあ、『皇族』というからには
文字どおり『みな親戚』な訳で、その辺の背景をきちんと理解していれば、

>>579 >>映画に出てくる朝香宮鳩彦親王は『裕仁天皇の叔父』にあたる。

が、いかにも「政治的に胡散臭い」書き方であることが分かりますw。
585イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/06(月) 00:14:20 ID:ETli/eRN
さて本スレでは『南京大虐殺は華麗にスルー』が原則なのですが、多少なりとも
触れたのは、広田弘毅がA級戦犯として死刑になった大きな理由の1つが『南京
事件』の処理対応だからです。広田はこの時、外相だった訳ですが、残虐行為を
止めさせるために必要な措置を取らず(不作為)、広田は『犯罪的な過失』だと
断罪された訳です――。

当時、広田の外務省には続々と南京事件の詳細が送られてきたと云います。戦火を
逃れて上海に避退していた福井淳・南京総領事が南京に戻って、最初に送った現地
報告が「南京事件」でした。また上海総領事の岡本季正もまた、南京事件を書面で
詳報してきます。

お決まりの「南京安全区国際委員会」からの抗議も、南京総領事館を経由して
日本の外務省本省にも寄せられ、東亜局には報告書や証拠写真で山積みになり
ました。言うまでもなく東亜局長は今までにも度々登場してきた石射猪太郎です。
586イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/06(月) 01:05:16 ID:ETli/eRN
>>585 >>言うまでもなく東亜局長は今までにも度々登場してきた石射猪太郎です。

石射の1月6日の日記によれば、●「上海から来信、南京における我が軍の暴状を詳報
し来る。掠奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の
頽廃であろう。大きな社会問題だ」とあります。また●「私はその当時からこの事件を
『南京アトロシティーズ』と呼びならわしていた。『暴虐』という漢字よりも、適切な
語感が出るからであった」とも。しかし「アトロシティ」には適当な和訳がありません
ので、石射の言わんとしたイメージは『大虐殺』とかそういった感じでしょうかw。

さて東亜局長の石射からの報告を受けた外相の広田弘毅は驚き、●「早く何とかせねば
ならぬ」と、石射を通じて「三省(陸軍省・海軍省・外務省)事務局長会議」で陸軍
軍務局に事件に対する『厳重注意』『即時善処』を申し入れました。ちなみにこの時の
軍務局長は町尻量基です。しかし南京の現地軍は「軍のアラ探しをして中央に報告する
とは心外に耐えぬ」と南京総領事館を突き上げました。また激怒した広田弘毅は陸相の
杉山元に直接『軍紀粛正』を要求します――。
587イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/06(月) 23:45:50 ID:eW5w/6Tw
>>586 >>また激怒した広田弘毅は陸相の杉山元に直接『軍紀粛正』を要求します――。

しかし広田は閣議で●『南京事件』を取り上げて、陸軍を非難する事はしませんでした。
結果的にこれが東京裁判での広田の命取りになります。南京事件の詳細をを知りながら
閣議で「必要な措置」を取らなかったのが、●『犯罪的な過失』と弾劾された訳です。

この点について南京事件当時、駐支大使館参事官として上海にいた日高新六郎は以下の
様に広田を弁護します。ちなみに日高は修猷館中学(福岡)で広田の後輩に当たります。

●「広田外務大臣は(南京)事件を閣議に持ち出すべきだったという議論もあるが、それは
 当時の事情からいって、かえって逆効果を来たしたであろう。もし閣議に諮ったりすれば
 閣議が『統帥権に容喙する』として、一層陸軍を刺激したに違いない。そこで外務省としては
 陸軍大臣に厳談し、(陸軍)軍務局に厳重抗議したのである。広田さんとしては、南京事件に
 関する限り、最も有効と思われる手段を取ったと私は思う――」

ここでポイントとなるのが、やはり『統帥権』の問題です。 
588イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/07(火) 00:31:57 ID:ad9PTP6v
南京事件は『陸軍の恥部』になる訳ですから、過剰な反発を回避するために広田が
陸相の杉山元に直談判するに留めた(プラス陸海外の局長会議)のは、もっともな
判断だったと思われます。何も閣議でヒステリックに騒ぎ立てればよい訳ではなく、
それこそ面子の問題となって、話を横道にずらすような『統帥権に容喙』云々の
余計な面倒が陸軍から発生するのが目に浮かびます。

まあ、閣議に諮らなかったことで「陸海外」の他の閣僚の多くが南京事件について
よく知らされない結果となったのは事実ですが、知った所で大した影響を与えたとは
思えません。何より『統帥権』の大問題を捨象して、今の日本政府と同じ様な感覚で
広田を責めるのは酷すぎるでしょう。

シビリアン・コントロール(文民統制)の行き届いた米国では、外相が閣議に
諮らなかったのは「非常な怠慢」になるのでしょうが、そもそも日本の統帥権と
政府の関係は、彼らに『理解不能』でしょう。少なくとも同列の段ではありません。
東京裁判ではそのような「手続き論」が広田の命取りになった訳です。
589イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/07(火) 01:05:35 ID:ad9PTP6v
また広田弘毅の『軍紀粛正』の直談判は決して無駄ではなく、陸軍中央でも「南京事件」が
大きく問題視されます。まず教育総監の畑俊六が、松井石根の更迭を陸相の杉山元に要求し、

●「支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍規風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに
 忌まわしき行為も少なからず様なれば、この際、召集予後備役者を内地に帰らしめ、
 また上海方面にある松井大将も『現役者』をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの
 召集者も逐次『現役者』をもって交代せしむるの必要あり。この意見を(杉山)大臣に
 進言いたしおきおる」(『畑俊六日記』1938年1月9日)

結局、畑俊六は松井の後任となって「中支那派遣軍司令官」(1938年2月14日)と
なる訳ですが、代わりに松井が2月に内地へ召還されます(3月復員)。またその前段階の
1月下旬には、参謀本部第二部長の本間雅晴が南京に調査のため派遣されていました。

まあ、畑俊六に限った話ではありませんが、予備・後備役に対する不信感というか、
『現役』至上主義の拘りが見受けられます――。
590イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/08(水) 00:07:36 ID:x+dtCR0t
>>589 >>代わりに松井が2月に内地へ召還されます(3月復員)

上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王も内地に召還され(3月に軍事参議官に転出)
一説には、朝香宮はわざわざ外務省の広田を訪ね、堀内謙介外務次官の立会いの下、
●「いろいろご迷惑をおかけしました」と南京事件でのゴタゴタを詫びたと云います。

>>587 で述べた駐支大使館・参事の日高新六郎が南京事件当時、上海派遣軍司令官の
朝香宮を訪ねて、●「南京における軍の行動が、世界中で問題になっていますので…」
と軍紀の自粛を申し入れたのも背景にあるでしょう。

またもう1点、南京事件での広田の対応を弁護するならば、南京占領とほぼ同時期に
発生した2つの大きな国際問題(事件)が挙げられます。それは英国の「レディバード号」
事件と米国の「パネー号」事件です――。どちらも1937年12月12日に起きました。
591イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/08(水) 00:51:37 ID:x+dtCR0t
『レディバード号』とは英国の砲艦です。1937年12月12日払暁、●「敵軍は
10数隻の汽船により南京から上流に退却中」との第10軍情報を受けた、野戦重砲兵
第13連隊(長:橋本欣五郎大佐)は、蕪湖付近の長江筋で大型汽船4隻を発見します。

これらに橋本欣五郎大佐は砲撃を加えて、内1隻を撃沈しましたが、後にそれは
英国砲艦『レディバード号』だと判明しました。「煙幕で英国旗が視認できなかった
のだ」との弁明がなされましたが、責任者の連隊長が『あの』橋本欣五郎であったため、
実は誤認ではなく『故意』の砲撃では無かったか?という疑惑が取り沙汰されますw。

まあ「煙幕で英国旗が視認できなかった」と主張する一方で、「英国汽船が多数の
支那敗残兵を乗せた舟(12、3艘)を擁護していた」と述べており、『これも煙幕で
見えなかったはずでは?』云々の矛盾が指摘される事があります。まあ、目立ち具合
からいって英国旗は見落としても、多数の支那土人兵に気付くのは有り得ないこと
ではないと思いますが、どちらせよ第10軍司令部が●「蕪湖附近を通過する船は
国籍の如何を問わず撃沈すべし――」と命令しているので事は同じでしょうw。
592イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/08(水) 01:18:47 ID:x+dtCR0t
また同様に『パネー号』とは米国砲艦(警備艦)で、海軍の第13航空隊が
「支那兵満載」との情報により、南京上流15マイルの長江筋を航行中の汽船
4隻を爆撃し、2隻を撃沈・残り2隻を炎上させました。しかし、これものちに
撃沈したのは米国避難民を乗せた『パネー号』と米国籍の商船だと判明します
(12日正午)。しかも爆撃のみならず、空からの機銃掃射に加え、さらに
陸軍の大発も寄って来て銃撃を行なう念の入り様です。

ちなみに『パネー号事件』の死者は4人(負傷者15人)、『レディバード号
事件』の死者は1人(重傷者1人)です。

当然の事ながらこの2つの事件は(南京占領と相まって)、米英の対日感情を
極度に悪化させ、米英世論を激昂させる結果となりました――。
593イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/08(水) 01:25:05 ID:???
>>591 >>「煙幕で英国旗が視認できなかったのだ」との弁明がなされましたが

『濃霧』のため視認できなかったという説や、この『煙幕』は橋本欣五郎大佐が
自ら張ったのだという話もありますw。
>>591 >>これらに橋本欣五郎大佐は砲撃を加えて、内1隻を撃沈しましたが、
>>後にそれは英国砲艦『レディバード号』だと判明しました。

   ,>ッ-ヘ。__。ヘ
. / ,レ, '´゚   `,〉
( (( i ハ)))ハ))ノ)
 ` ,)).イオi ゚ ヮ゚ノヘ   沈んでない、沈んでないw。
  ((  .,ぐ`i盃、ツぅ
     ,メ∪イ-i、ゝ. \
      ゙'ーi_'ォ_ァ"
595イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/09(木) 01:01:47 ID:hTDOpZKw
>>592 >>『パネー号事件』の死者は4人(負傷者15人)

特に米国の世論は激昂し、駐日アメリカ大使のグルーは『国交断絶』まで予期し、
引き揚げの荷造りプランまで考えたと云います。一説には、ですけどw。

この陸海軍の不祥事に外相の広田弘毅は迅速に対応し、まず英国の『レディバード号』
事件に対しては、駐日イギリス大使・クレーギーを訪れて素早く謝罪して賠償を申し
入れました。この対応の早さにはクレーギーも驚きまして、●「広田外相は大いなる
精神的勇気を示した」(『Behind the Japanese Mask』)と記しています。

また米国の『パネー号事件』についても翌日、広田は直ちにグルー大使を訪問して
言い逃れを全くせず●「心からの謝罪と遺憾」を表明してグルーを驚かせました。

また広田はワシントンの駐米大使・斎藤博に訓令を出して、米国のハル国務長官に
深甚な陳謝をさせ(12月14日)、また斎藤大使は独自に3分52秒のラジオ
放送枠を買い取り「全米中継」で事件の謝罪を表明しました。
596イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/09(木) 01:25:19 ID:hTDOpZKw
先の『ヒューゼッケン事件』で懲りていた海軍も、今度はさっさと非を認めます。
翌日の13日、上海の第3艦隊司令長官・長谷川清中将が、米アジア艦隊旗艦の
巡洋艦「オーガスタ」に杉山六蔵参謀長を派遣して陳謝させました。

また広田の対応にグルーも「日本政府の反応は迅速であり、かつ推称されるべきもの」
と満足を示し、これ以上の対米関係の悪化は避けることが出来た訳です。広田は事件から
2日後の12月14日の閣議で『レディバード号』事件と『パネー号』事件について
その他の閣僚に説明し、このとき農林大臣だった有馬頼寧は、

●「英米軍艦砲撃事件は相当大きくなる怖れあるも、外相、海相などの早速の陳謝は
 米国に悪い印象を与えて居らぬ模様である」と記して、胸を撫で下ろしています。

その後「パネー号」事件の詳細が判明すると、海軍次官だった山本五十六は当事者である
第3艦隊首席参謀の高田利種中佐と、陸軍省軍務課長の柴山兼四郎大佐を連れて、米国
大使館に陳謝を行ない、事件から「約2週間」でおおよその決着が付きました――。
597白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/04/09(木) 22:27:53 ID:uTjo+/uJ
>>576-577
どうもイナゾウ氏は、熊本師団のファンで、蛮行で名高い熊本兵団を棚に
あげ京都16Dにそらしておられるのう。
http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AC%AC5%E5%B8%88%E5%9B%A2&variant=zh-tw
http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AC%AC9%E5%B8%88%E5%9B%A2&variant=zh-tw
http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AC%AC6%E5%B8%88%E5%9B%A2&variant=zh-tw
http://www.geocities.jp/yu77799/okamura.html
http://ameblo.jp/scopedog/entry-1073740722.html
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/02/post_69f3.html
上から三番目まで挙げた中文ウイキの日本の精強師団のもんじゃが、
上一、二番、広島5Dや金沢9Dの最精鋭師団評価と違い、三番目の
熊本師団に関しては、悪名にして戦闘作風が野蛮、剽悍と出とる。
四、五番目の岡本寧次氏やわが広島人の岡部直三郎氏も熊本師団の
蛮行に触れとる。特に岡村氏は具体名として熊本6Dと漢口一番乗り
を競うた同じ、南九州兵の台湾旅団(後の48D)の波多支隊は強姦が
多かったと。
九州兵の蛮行、特に強姦は、一番下の、下の方に今東光氏の引用に
出とるよう、九州兵の伝統じゃろう。
598だつお ◆t0moyVbEXw :2009/04/09(木) 22:51:11 ID:PKCDPQw5
でも皇軍が虐殺した中国人は多ければ多いほどお国自慢になるし、また進歩的でリベラルだと思うぞ。

皇軍が中国人を虐殺するのは、ハエやゴキブリを駆除するのと同じで、米英ソも認めた当然の権利。
文句があるならオーバーロード作戦を中止にして、中国人救済のために極東派兵すべきだった。
そうしなかったのは中国人はいくら皇軍に虐殺されてもよいのだと、殺戮許可証を皇軍に与えたのと同じ。
599白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/04/09(木) 23:41:41 ID:uTjo+/uJ
>>597の続き。五番目のんは、
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10073740722.html
じゃったか。〇が一つ欠けとったようじゃ。
一番下の今東光氏の『続・極道辻説法』のp.190よりも、出とらん
p113の引用を要約すると、「大体、九州人なんていうのはハッタリ
だけでな、豪傑ぶっているけど、ちっとも豪傑じゃあありゃあ
しねえ。それに助平でな。戦争中なんか、「九州の部隊がくる」
っていうと、村の人たちは娘を全部隠したもんだ。女と見るとみんな
やっちゃうんだ、九州の兵隊は。権力側につくと九州人ほど強くなる
人種もないんでね。虎の威を借る狐よ。」と九州人の大言壮語癖を
ボロクソにゆうておられるが、概ねそがん傾向じゃ。
九州人のハッタリ喇叭吹き、見栄っ張りから来る虚言癖。
強姦も熊本兵団に次いで、久留米師団菊兵団なんか、
親日国のビルマでも女を捜しては、強姦して始末(殺害)したもん
じゃが、軍紀厳正な久留米の龍兵団は例外として、九州兵は蛮行が
激しい。地域特色として、広島師団や中国地方の壮丁の多い
姫路師団は、強姦するものが皆無ではないが、概ね少なくストイック
な自己抑制が左右し、規律正しかったが、九州兵団は欲望のままに
振舞う性質が強かったけんのう。熊本兵団じゃあ点呼過ぎても
古兵が酒を飲む習慣があったようで、軍紀厳正をカラーとした
広島師団なら営倉入りになる。各地域の郷土兵団で地域差が
あるけんのう。
600名無し三等兵:2009/04/10(金) 01:13:48 ID:???
パネー(パナイ)号事件といえば、当の艦攻搭乗員は村田重治海軍大尉。
九六艦攻で2500mから一撃必殺の投弾で、美事撃沈した。
が、米艦であった事は村田にとっては可成後迄トラウマになった様子が知られてい
るな。
彼にとって明示的な処罰が無かったのは或意味救い。

村田は少佐に進級し、其後大東亜戦争での真珠湾での雷撃で名を馳せ、「雷撃
の神様」の異名を得たな。
異名といえば、海軍内では「ブーツ」だったな。
第一種だろうが第二種だろうが事業服だろうが航空服だろうが何時もブーツだっ
たらしいし、「物」がでかかったから「ぶつ」を「ぶ〜つ」と伸ばしたとか異論
もあるな。

南太平洋海戦で、ミッドウェーの敵討ちと斗り果敢に突撃して、散華された。


合掌。
601イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/10(金) 01:16:16 ID:e/T2dydU
>>590 >>もう1点、南京事件での広田の対応を弁護するならば、「南京占領」とほぼ同時期に
>>発生した2つの大きな国際問題(事件)が挙げられます。それは英国の「レディバード号」
>>事件と米国の「パネー号」事件です――。どちらも1937年12月12日に起きました。

>>596 >>事件から「約2週間」でおおよその決着が付きました――。

結局、何が言いたかったかと言えば、『南京事件』が起きている最中、外相の広田弘毅は
英国の「レディバード号事件」と米国の「パネー号事件」の対応処理に追われて(これも
陸海軍の尻拭いw)それどころではなかった訳です。

最終的に1938年4月22日、日本政府は事件の「賠償金」として米国に321万4千ドルを
支払っています。駆逐艦1隻分の高額とも揶揄されますが、先方も「パネー号」が沈んでいますし、
4人死んでいることを考えれば、この金額は『実質損害額』で『懲罰的なボッタクリ』は含まれて
いなかったと云います。
602名無し三等兵:2009/04/10(金) 01:24:05 ID:???
>>597
毛利のお膝元の広島師団は悪しき長州閥の末裔
おいしいとこだけやってくる糞のような師団
みんな死ねばよかったのに
603名無し三等兵:2009/04/10(金) 01:26:34 ID:???
南京で強姦虐殺をむさぼったのも広島、日本の恥
弱いくせにおいしいとこだけとっていく参謀本部の権化
みんな死ねばよかったのに
604イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/10(金) 01:42:40 ID:e/T2dydU
>>600 >>パネー(パナイ)号事件といえば、当の艦攻搭乗員は村田重治海軍大尉。
>>九六艦攻で2500mから一撃必殺の投弾で、美事撃沈した。

村田重治は3機の「96式艦攻」を率いて、水平爆撃で『パネー号』に直撃弾を
与えていますね。まあ、他にも奥宮正武大尉の「96式艦爆」6機、小牧一郎
大尉の「94式艦爆」6機、潮田良平大尉の「95式艦戦」9機(機銃掃射)が
パネー号その他の商船3隻に攻撃を加えています。

まあ、当時の海軍大臣は米内光政で、上記の4人の隊長は後に呼び出されて直接
戒告されていますが……。

それはさて置き、英国の「レディバード号」事件の処分は陸軍が、というよりも
現場責任者である第10軍司令部が一向に非を認めず、海軍と対照的な処理と
なりました。軍司令官は柳川平助中将ですが、広田が「レディバード号事件」の
砲撃について英国に陳謝したことを非難して、●「すべからく取り消させる」
必要があるとゴネていますw。
605イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/10(金) 02:06:47 ID:e/T2dydU
事件の調査に携わった第10軍の法務官の回想によれば、軍司令官の柳川平助は

●「内地における政府当局の措置は全く不適切で、よく事実を調査せず相手国の
 言うがままに認めて直ぐに(広田外相が)陳謝するのは以ての外である。毫も
 我が軍が責任を問われるような事実はなく、この点深く遺憾とする所である」

と非を全く認めませんでした。そればかりか、日清戦争での東郷平八郎による
『高陞号』(イギリス国旗を掲げていた)撃沈を引き合いに出して、

●「(支那事変は)宣戦の布告がされていないが、今回は単なる『事変』ではなく
 宣戦の布告がある『戦争』と何ら変わらない。従って第3国に対する関係対応も
 これに従って処理すべきである。東郷平八郎元帥は、自分の一生を通じて功績と
 思うのは、日清戦争における宣戦布告前の黄海で起きた支那の『高陞号』撃沈で
 ある――と述べている」

と『海軍の軍神』を自分の正当化のダシに使っていますw。
606白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/04/10(金) 02:29:32 ID:Usqn8hKq
>>602-603
他板でも書きよる九州ハッタリ・ボーイ君か。
強姦、蛮行癖なら、九州の兵隊は世界屈指にもなれよう。
九州兵は、戦闘は強引な強襲癖から下手でも蛮行なら。
ほいで、久留米師団なんか盗人癖もあって泥棒部隊で、
機敏な広島部隊なら盗めんが、ガ島で共に戦うた部隊なんか、
味方の九州兵の盗人に泡食うたんじゃないか。
ビルマでも戦闘力なら最強は姫路54D(兵)、敵味方の略奪の腕前では
久留米18D(菊)じゃろう。強姦癖以外にも手癖も悪りい。
長州と広島を結びつけとるが、長州の地域は室町期から大内氏が
京都の幕府に口出しする権威主義が強いが、広島は中国地方だけで
まとまったらええ。他の地域まで強欲は無いのう。
儒教的風土の九州の白髪三千丈を、浄土真宗王国の広島と同一概念で
云われても、風土が違う。
607名無し三等兵:2009/04/10(金) 14:11:01 ID:???
>>606
豊臣にあっさり降った長州の糞どもの末裔なんど
長州お膝元でで温存されたへたれ師団
姫路54師団も趨勢がきまってからきた糞師団
長州にとりまこれら大内などとつにたらんもんもちだされてものお
強姦陵辱は広島の儀式だからしかたない
松井大将はいった・広島の師団が強姦略奪しとるのか
戦列維持の溜めないにしかたないいうことか
所詮朝鮮の末裔としいうしかないのかもしれんな
608名無し三等兵:2009/04/10(金) 14:15:25 ID:???
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA
609元32:2009/04/10(金) 14:41:53 ID:???
というか、郷土部隊自慢は専用スレでやりましょう。
スレをスレ違いのネタで埋めないように。
双方とも、自重されたし。
610白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/04/10(金) 22:27:24 ID:Usqn8hKq
>>597
だつお氏は、イナゾウ氏と同様レイシストじゃのう。
>>607
豊臣に降伏したんは薩摩で。豊臣勢の中でも毛利や黒田勢に勝てん薩摩
はせいぜい四国勢相手がええとこよ。具体例がのうて広島や姫路の師団を
罵りよるわい。強姦陵辱も九州が東洋一じゃに、軍紀厳正の広島へ
擦りつけよる。所詮朝鮮人の末裔なら、薩摩人の海音寺潮五郎氏が、
「朝鮮がイギリス、日本がアメリカ」と云われたよう、人種、民族は
近いけどのう。本土日本人は、琉球人やアイヌ人よりも、朝鮮人に
近いし、特に北部九州、中国、近畿地方は人種的に朝鮮人に近い。
ほいじゃが、朝鮮人の気質、特に慶尚道人の気質に近いんは九州、
特に儒教の影響が強い、熊本や鹿児島人じゃろう。
>>609
郷土部隊自慢は、イナゾウ氏も>>577で、しょってでしょう。
熊本6Dが強かったけぇ、中国側が谷元師団長を処刑した云う喇叭
吹きよりんさるんですよ。
611名無し三等兵:2009/04/11(土) 01:43:34 ID:???
イナゾウ氏の郷土は熊本なのか?違うだろ阿呆
612名無し三等兵:2009/04/11(土) 02:11:38 ID:???
兵隊=底辺

土人の集まりW

613白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2009/04/12(日) 01:42:34 ID:12gFKCES
>>611
イナゾウ氏が日本の韓国人気質の熊本人かどうかまで知るかい。
じゃが、華夷論的中華思想の強さから、そう思える部分もあるのう。
ほいで、熊本師団とやらが強かったそうで、中国側が谷元師団長を
処刑したじゃの希望的観測論なんか、高級将校の希望的観測が如く、
今度こそシナ側は降伏するじゃろうとして、中国側は降伏せず、戦闘を
長期化して泥沼化してしもうた失策と同様の希望的観測じゃないか。
614名無し三等兵:2009/04/12(日) 04:22:40 ID:???
はいはい、もういいから消えてね
615イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/12(日) 23:50:03 ID:HbjMUiom
>>605 >>『海軍の軍神』を自分の正当化のダシに使っていますw。

柳川平助の抗弁はさて置き、外相の広田が英米に迅速に謝罪したことは、陸海軍を
刺激することにもなりかねず、それなりに覚悟と行動力が求められる措置でした。
駐日アメリカ大使のグルーは、

●「広田外相が、日本の極端論者の興奮した感情を配慮しつつも、遺憾の意を表するため
 異例の措置を取って自ら余をを訪問した事は、相当の道義的勇気を示したものであった」

と高く評価しています。東京の英米大使館には、全国から見舞いやお詫びの手紙が殺到し、
見舞金や花が届けられ、中には謝罪のため女性が黒髪を切って差し出して先方を困惑させた
と云います。しかし、東亜局長の石射猪太郎が穿った見方をしておりまして、子供までもが
事件を心配してアメリカ大使館に手紙を出す事に、●『不純さ』を感じたと表現しています。
616名無し三等兵:2009/04/12(日) 23:57:24 ID:WbrctTE0
あなたは愛を発見..もし..単語を発見する( (イスラムは、宗教の慈悲) )が表示さ何か非常に、非常に快適にする

この海、陸と空、非常に、非常に大きい創作..知りたいと思うw hoは..
617イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/13(月) 00:08:05 ID:MqsJ7qbj
>>616 >>東亜局長の石射猪太郎が穿った見方をしておりまして

石射は●「本当に童心から出た誠意なのであろうか。私はちょっと不純さを感じた」と綴り、

要するに、その頃の日本国民には『米主英従』というか、英国はどうでもいいが、米国の
ご機嫌だけは損ねては不味いという空気が染み込んでいたと云います。とどの詰まり、英国は
日本人に舐められていた訳で、それゆえに「反英決起大会」なども巷でよく開かれますが、
米国は子供心でも無意識に怖れていたため、国民の謝罪の手紙が殺到したのだという訳です。

石射の視点はなかなか面白いですが、外交官として『人格的にかなり屈折』しているのが
よく分かります。これで「幣原外交」の正当継承者を自負し、またあながち外れていない
訳ですから、人間というのは面白いものですw。

ただ日本にも同様に当てはまる事であり、支那の「反日・抗日」は望むところでありますが、
それが「侮日」に変わり始めて支那事変が勃発したというのは、もっと想起されるべきです。
当然、今の日本にも当てはまります。
618イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/13(月) 00:32:20 ID:MqsJ7qbj
>>615 >>外相の広田が英米に迅速に謝罪したことは、陸海軍を刺激することにも
>>なりかねず、それなりに覚悟と行動力が求められる措置

ほぼ同じ時期に起きた陸海軍の不祥事である『レディバード号事件』『パネー号事件』と
『南京事件』――。外相の広田は、英米が絡む前者の事件には迅速に対応したにも関わらず、
南京事件は閣議に諮らず、陸相の杉山元に直接抗議するなど省レベルでの対応にとどまった
ことについて、●『広田の二面性』であると非難する向きもありますが、「何だかなあ……」
という気がします。

英米との外交関係と支那の土人共、一体どちらが大切だと言うのでしょうか? もちろん前者です。

ちなみに石射が局長会議で、『レディバード号事件』の責任者である橋本欣五郎大佐を処分しない
手ぬるさについて、陸軍省・軍務局長の町尻量基(少将)をなじると、町尻は●「軍の内部情勢上、
彼を処分し得ない事情を諒察されたい」と逃げたと言います。まあ、橋本は特異なケースですが、
『レディバード号事件』ひとつ取ってもこうな訳です。
619イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/13(月) 00:53:32 ID:MqsJ7qbj
広田が「レディバード号事件」「パネー号事件」とは比較ならない規模の不祥事である
「南京事件」を閣議にかけて、一体どういう反応が陸軍から返ってきたのか?は、最早
神のみぞ知るです――。しかし東京裁判では、閣議に上げるという、その『手続き論』
こそが問題になった訳でした。

ただ広田としては「2・26事件」後に首相を務めた際の『粛軍』と同様に、巨大すぎる
陸軍の問題は、陸軍の「自助努力」「内部処理」に任せるほか無いのは、身に染みて実感
していたと思います。外相の今の自分にできることは、手綱も鐙(あぶみ)も無い荒馬に
乗っていかに誘導できるかでした――。

さて余談が長くなりましたが、南京事件は「広田の死刑」にとってサブ的な問題でしょう。
いよいよ本番の「トラウトマン工作」の顛末の話に触れていきたいと思います。

まず基本的なおさらいですが、トラウトマン工作は『上海決戦』が行なわれている最中に
始まり、1937年11月2日に外相の広田が、駐日ドイツ大使・ディルクゼンに「和平
条件」を伝えますが、蒋介石は「これに応じられない」と11月6日に駐支ドイツ大使・
トラウトマンに答えています。
620イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/13(月) 01:23:51 ID:MqsJ7qbj
蒋介石としては、11月にベルギーのブリュッセルで行なわれる「9ヵ国会議」の
進展(日本への制裁決議etc)に賭けていた訳で、このあたりの心境は北朝鮮問題での
「6ヵ国協議」に期待するのと少し似ていますかねw。

まあ、当然ごとく「9ヵ国会議」は蒋介石の失望する結果となり、その間に戦局は
怒涛の如く進んで上海は陥落、首都南京も「風前の灯」の状態になってきます。

そしてケツに火が付いた蒋介石は、12月2日になって先の「トラウトマン工作」に
応じる回答をトラウトマンに示しますが、その前日に日本の大本営は『南京攻略』を
正式に命じています。ドイツ本国の外務省を経て、その返答が12月7日に広田へ
ディルクゼンから伝えられますが、当然の如く広田は、

●「その後、戦局の変化により以前示した和平条件で交渉できるか疑問がある。
 軍部の意見を聞いたうえで、改めて回答する――」と答えました。

まあ『賞味期限切れ』な訳でして、前にも述べましたが1ヵ月前の株価で取引する
バカがどこにいるか?という話です。1ヵ月前のトヨタの株価は、2800円です。
今の株価は3900円ですw。
621風の現人神 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/13(月) 01:42:04 ID:???
         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)
     i|(( ) )) )iリ   アイモ アイモ ネーデル ルーシェ 
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ'    振りかざせ いま我らの旗を
      ゙,ヘi_i][i,l\ []   ここは 新たな 神の国 ♪
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄
622イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/13(月) 02:00:43 ID:???
以上、簡単な復習ですが次回から「トラウトマン工作」(国民政府を対手とせず)に
突入します。時間軸は1937年12月14日から始まります。

>>611 >>イナゾウ氏の郷土は熊本なのか?違うだろ阿呆

「だもんで〜」(so because)は、日本語でも便利な言葉だと思いますw。
623名無し三等兵:2009/04/13(月) 12:03:25 ID:???
第3師団?
624だつお ◆t0moyVbEXw :2009/04/13(月) 12:23:47 ID:CimFBjFF
>>617
「旧日本軍弱小列伝」のデータが示すがごとく、1930年ごろの日本の重工業はお寒い限りで、
例えば自動車生産一つとっても敗戦国のドイツと比較してもゼロに近い数字だ。
質的にみてもノックダウン生産だというからこれもやはりお里が知れてくる。
こんな状況で軍縮などといって軍艦製造まで止められてしまっては、列強先進国ではなくなってしまう。
当時の世の中(今でもイラク戦争が下火になったら一気に景気後退!)で重工業なんて戦争需要しかない。
支那事変から大東亜戦争にかけて重工業が爆発的に増加しているのはその証拠であろう。

そういうわけでドイツの支援を受けた中国人が排日侮日に走るのは当然と言えば当然。
強きに媚びて弱きを挫くにかけては、この地球上に中国人の右に出るものはないからww
625だつお ◆t0moyVbEXw :2009/04/13(月) 20:04:52 ID:CimFBjFF
軍縮軍縮と、あたかもそれが良いことのように語られるが、あの当時の日本で軍艦製造を止められたら、
列強工業国としての地位を放棄させられるのと同じだったというのが自分の認識。
いやしくも列強工業国であれば、これだけは絶対負けないという分野を最低一つは維持していかねばならない。
戦史家パウル・カレルは独ソ戦の転換点はスターリングラードではなくてクルスクといってるが、
これはドイツ軍ご自慢の機甲部隊がすっかり撃破されたところで勝負ありというところだろう。

機甲部隊でドイツやソ連と肩を並べることはできない(チンピラゴロツキ殺戮マシーンはそれでいいとしても)。
この方面で勝負しようとしてもせいぜいライセンス生産止まりでそれ以上には到底ならない。
電波通信に関してもおそらくそんなところだろう。自分はコベントリーや真珠湾は米英が解読済みで、
この分野に関しては米英は日独に絶対負けないというだけのものはあったと考えている。
(もしそのような重大な局面でチョンボがあったとすればそれこそ米英技術史の汚点だ)
626イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/14(火) 01:24:00 ID:xKIAc7VB
>>622 >>次回から「トラウトマン工作」(国民政府を対手とせず)に突入します。
>>時間軸は1937年12月14日から始まります。

12月14日は、東京で「大本営政府連絡会議」が開催された日です。首都・南京の
占領が成り、新しい和平条件が話し合われた訳ですが、ちょうど同じ14日に北平で
『中華民国臨時政府』が樹立されました。北支那方面軍が王克敏を担ぎ出して、行政
委員長としたものですが、外相の広田弘毅は『寝耳に水』の出来事だったと云います。

内閣書記官長(現在の官房長官にあたる)の風見章の回想によると、外相の広田も海相の
米内光政も、新聞報道によって初めてこの『北支新政権』について知ったとありますw。

それはさて置き、14日の大本営政府連絡会議は「トラウトマン工作」に関して、駐日
ドイツ大使のディルクゼンに、いかなる回答を出すべきかを中心に話し合われました。

出席者は首相の近衛文麿、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政、参謀次長の
多田駿、軍令部次長の古賀峯一、蔵相の賀屋興宣、内相の末次信正の6人です。皇族の
参謀総長の閑院宮と軍令部総長の伏見宮は、会議には出席していません――。
627イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/14(火) 01:39:32 ID:xKIAc7VB
そもそも11月2日に、広田弘毅がディルクゼンに手渡した「和平条件」はまだ寛大なもので、

1.内蒙古(内モンゴル)民族の自治政府を樹立する
2.北支に非武装地帯(満州国境から天津、北京まで)を設定し、中国警察隊が治安維持にあたる
3.上海の非武装地帯を拡大し、国際警察隊が管理する
4.抗日政策の廃止 5.共産主義に対し、共同で戦う 6.日本商品の海関(税関)の低減

というものでした。いわゆる蒋介石が南京で軍事委員会を開き、日本の和平条件を討議して

●徐謨外交部次長「この条件に同意すれば停戦できる」
●唐生智「……(即答を避ける)」
●白健生「こんな条件なら、なぜ戦争をするのか?」
●徐次辰「これだけの条件なら承認してもいい」
●蒋介石「ドイツの調停案は拒否すべきではない。それに、この程度なら『亡国条件』とは言えない」

などのやり取りを聞いた事がある人も多いと思いますが、このやり取りは広田弘毅が11月2日に
ディルクゼンに手渡した最初の「トラウトマン工作」の和平条件になります。
628イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/14(火) 01:57:04 ID:xKIAc7VB
この最初の和平条件について、トラウトマン大使は蒋介石に●「ヒトラー総統の
意向として、中国がこの調停を考慮するよう希望する。またヒトラーの見るところ、
日本側の条件はさほど苛酷ではない」と伝えたと云います。

まあ、いずれにせよ蒋介石が12月初旬に回答を出した頃は「南京攻略作戦」の
下令と同時期であり、>>626 の12月14日に話が行き着く訳です――。
629だつお ◆2bI15KGHWw :2009/04/14(火) 11:02:54 ID:etHCELri
日中戦争でつくづく自分が思うことは、日本と中国との「工業技術の格差」。

川島芳子など対日協力の中国人も少なくはなかったというが、それは決して親日ということではなく、
単に中国の工業技術が低すぎて低すぎていくら米英独ソの支援を受けても皇軍に歯が立たなかったから。>>56
スティルウェルの指示に従わなければ対中援助を停止するとのルーズベルト覚書で、蒋介石は号泣したとか。
戦後も戦後でソ連はスプートニク打ち上げなどの独自技術があって西側を脅かすものがあったのに対し、
中国の独自技術はというと毛沢東ご自慢のタタラ製鉄所で農民から取り上げた鍋や鎌を潰してできた、牛糞のような鉄塊だけww

命がけでナチの暴虐と戦って勝利したソ連邦大祖国戦争と、97式中戦車チハでどつき回された中国抗日戦争とを同列に置くなよww

いくら負けた負けたといってもそれは米軍に負けたのであって中国に負けたわけではないのだ。
二流工業国であっても工業技術そのものが皆無な中国なんかと同列にしてはいけない。
630イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/15(水) 00:18:40 ID:UFn4DaLF
>>627 >>蒋介石「ドイツの調停案は拒否すべきではない。それに、
>>この程度なら『亡国条件』とは言えない」

12月14日に「大本営政府連絡会議」が開かれた訳ですが、この中には内相の
末次信正が含まれておりました。言うまでもなく「元艦隊派の海軍大将」で、
支那との和平条件に関して『超強硬意見』を述べて会議を引っ掻き回しました。

このあたり石射の回想が詳しいのですが、石射は外務省の東亜局長ですから和平
条件を説明する役として、特別に「大本営政府連絡会議」にも席が与えられました。
石射は外相の広田弘毅と海相の米内光政の間に座ると、

●「はじめ私は米内海相と賀屋蔵相との間に座した『海軍大将服の小柄な見慣れぬ
 人物』を誰か?と怪しんだ――」

とありますが、これが新任早々の内相・末次信正だった訳です。
631イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/15(水) 00:45:39 ID:UFn4DaLF
内相の末次信正は、隣席の米内光政(海相)に向かって●「海軍はこんな寛大な
和平条件でいいのか?」「華南地区に海軍基地として、永久占領地を持つ必要は
ないのか?」などと度々詰問したと云います。

さらに末次は内相としての地位を逆手に取りまして、「これ以外の条件では国民が
納得せず、内相として治安の責任が取れない」と辞任をほのめかし(=内閣総辞職)
近衛首相を脅しました――。

もちろん陸相の杉山元も『和平条件の加重』を主張しましたが、陸軍がそう言うのは
ある意味、当然というか自然というか、納得できる話です。もちろん海軍も第2次上海
事変以降、航空機も艦隊も派遣し、陸戦隊を筆頭に多大な犠牲を払った訳です。しかし
海軍を予備役となり、内相となった末次信正がこれほど強硬意見を吐くのは異様です。

もちろん「なぜ末次が内相に?」という疑問が湧く訳ですが、直接の要因としては前任の
馬場^一内相が病気で倒れ(のち12月21日に心筋梗塞で死去)、内閣参議だった末次
信正が横滑りした形になります。もちろん末次を起用したのは、首相の近衛文麿です――。
632元32:2009/04/15(水) 00:56:16 ID:???
>>631
近衛の皇道派(艦隊派)幻想ですな。
633イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/15(水) 01:11:01 ID:UFn4DaLF
>>632 >>もちろん末次を起用したのは、首相の近衛文麿です――。

当然、そこまでにも色々な経緯がありまして、末次信正は非常に癖のある人物で
ロンドン海軍軍縮会議(1930年)では「艦隊派」の重鎮として強硬に反対し、
一旦は中央から遠ざけられますが、のちに連合艦隊司令長官も務め(1933年)、
海軍大将にも昇進し『ある特定の分野』で人気がありました。

近衛文麿は「内閣参議」制度を導入する際、末次の人気を欲しがって入閣を希望
します。これを海軍からの「末次追放の絶好の機会」と考えた海相の米内光政は、
内閣参議を餌にして末次を予備役に編入したのです。

実は近衛は、末次を支持する海軍強硬派や右翼団体、国粋主義者の「人気取り」を
図ろうと恐ろしいことを考えた訳ですが、末次の強硬さは近衛の制御できる範囲を
遥かに超えていました。それが>>631の顛末なのですが、末次を内相に引き上げた
早々の「トラウトマン工作」で最悪の形になって現れます。まあ、いつもの近衛の
『自爆人事』なのですw。
634イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/15(水) 01:30:51 ID:UFn4DaLF
>>632 >>近衛の皇道派(艦隊派)幻想ですな。

毎度どうもでございます。もともと米内光政と末次信正の関係は『最悪』で、
海軍の一大不祥事である「5・15事件」の責任の所在をめぐって宴席で口論し、
二度と口を利かなくなっています。ですので、

>>633 >>これを海軍からの●「末次追放の絶好の機会」と考えた海相の米内光政は、
>>内閣参議を餌にして末次を予備役に編入した

には米内の裏がある訳です。まあ、海相は人事権を握っていますからね。しかし末次信正も
海軍の大物であることには間違いなく、のちに太平洋戦争末期に海相と軍令部総長を兼任
していた嶋田繁太郎が更迭されるとき、その役職の後任をどう配分するかで揉めました。
海軍重鎮である岡田啓介は、米内光政と末次信正の2人を現役に復帰させ、それぞれを海相、
軍令部総長にしようと考えましたが、その背景には海軍の「末次系統」の顔も立てなければ
ならないという「バランス人事」がありました。

まあ、昭和天皇を筆頭とする猛烈な反対がありまして、末次の軍令部総長は見送りに
なりましたが、岡田啓介は、米内と末次の2人を藤山愛一郎宅で引き合わせ、和解と
いうか関係修復を図ったりしています。
635イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/15(水) 01:52:01 ID:UFn4DaLF
>>633 >>末次の強硬さは近衛の制御できる範囲を遥かに超えていました

のちに近衛の痛恨事となった「トラウトマン工作の失敗」(→国民政府を対手とせず)
により、近衛は二度と末次と関係を持とうとしなかったと云います。

>>632 >>近衛の皇道派(艦隊派)幻想ですな。

また『最強硬派』であるがゆえに、太平洋戦争直前の「第3次近衛内閣」の後継
首相に擬せられたりもしましたが(ヒデキと同様、虎穴に入らずんば虎子を得ず
理論か、果たまた毒を喰らわば皿までかw)、この噂を聞いた伏見宮(この頃には
軍令部総長を辞職)は、●「奴だけは許さぬ」と憤ったと云います。

もっとも末次本人は大乗り気で、正装で使者を待ち構えていましたが、ヒデキに
大命が降下したことを知ってガックリでしたw。しかし、支那事変当時の第1次
近衛文麿内閣には『木戸幸一』が文相として入閣しており、当然、末次の所業を
見ているはずなので、当たり前といえば当たり前の結果であります。
>>631 >>内相の末次信正は、隣り席の米内光政(海相)に向かって、●「海軍は
こんな寛大な和平条件でいいのか?」などと度々詰問したと云います。

     _...,、.._))
   ,,´,===?、
    ( ソノ))ノハ((
   Xネ.゚ ー.゚ノ(   人を呪わば、何とやらですね。
    /^i、_:@つ
   (ン'ー-:->、_
    '〜i_テi_テ〜'
      ̄  ̄
637閉じた恋の瞳 古明地こいし ◆FU/OcfTlfM :2009/04/15(水) 02:05:25 ID:???

        _....._ム
  ゚  (¨゛==:::`,,
  、  ((,(( ((()\i, 
 -   sリi、ヮ ゚.リも_) ))  あ、おねいちゃん。ダウと円が死んでるよw。
  ´   /^i、_:Q、_〉
     <y/::ノ:::iヽ、
    `^t_ァ'i_ァ^´
      ̄  ̄  ̄
638名無し三等兵:2009/04/15(水) 23:27:25 ID:cHsHC/Fe
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
639イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/16(木) 01:22:12 ID:Kki14L1W
さて『大本営政府連絡会議』の流れですが、関係者によって回想している内容が
それぞれ異なりますので、正直言って訳ワカメ状態ですw。しかし大体の流れを
まとめると以下の通りになります。

まず1937年12月14日に、先に述べた内相の末次信正の他、陸相の杉山元が
支那との『和平条件』の加重を主張します。ここで外相の広田弘毅は何も発言せず、
東亜局長の石射猪太郎をヤキモキさせたと云います。

その翌日(15日)、翌々日(16日)の会議では、広田が「国民政府を否認すべき
ではない」と訴えて、とにかく現在の蒋介石・国民政府を『中央政府』と認めて和平
交渉を行なうことが決定されました。当然、この段階ではトラウトマンへの回答案は
全然まとまっておりません。

補足になりますが、ここでわざわざ『国民政府を中央政府と認めて』などと議論されて
いるのは、北平・天津・上海・南京など、首都ならびに主要都市を日本軍に占領された
蒋介石は最早『地方政権』に転落したという見方が強かったからです。前述のように、
北平には既に「中華民国臨時政府」が樹立されておりますし、松井石根は中支に自治
政府を作ろうと熱心に動いていました(→中華民国維新政府:1938年3月)。
640反米イスラム過激派:2009/04/16(木) 01:35:52 ID:jxpHsXfl
おい!貴様ら!このスレに書き込んでくれ。

アメリカに原爆を落とそう!!!!!!!
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1226770139/

イギリスに原爆を落とそう!!!!!!!
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1239541797/
641イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/16(木) 01:46:25 ID:Kki14L1W
>>639 >>蒋介石は最早『地方政権』に転落したという見方が強かったからです。

ここから最後には●『国民政府を対手とせず』という文句が生まれてくる訳ですが、
日本としては蒋介石を無視して、>>639 の臨時政府や維新政府といった、いわゆる
傀儡政権を育成すれば手っ取り早いではないか?(第2満州国、第3満州国)という
発想が現実味を帯びてきます――。

まあ、話が急ぎすぎましたが、12月17日に開かれた内閣の定例閣議では「大本営
政府連絡会議」に出席できない他の閣僚から、支那との「和平条件」について強硬な
意見が相次ぎました。

具体的には、●木戸幸一文相、●中島知久平鉄道相、●塩野季彦法相、●有馬頼寧農林相、
●吉野信次商工相、●永井柳太郎逓信相、●大谷尊由拓務相 たちが「和平条件が軟弱過ぎる」
と反対した訳ですが、つーか内相の末次信正などを含めましたら、近衛内閣の閣僚のほとんど
全員ですねw。加えて12月18日にも臨時閣議が開かれますが、同様の強硬意見が続出しました。

ですから「和平条件」は根本的に見直されることになりましたが、この当時は日本国中が
南京占領に沸き立ち、祝賀行事も盛大に繰り広げられ、誰もが戦勝気分で高揚していました。
当然、国民世論も非常に強気で、閣僚たちの強硬さはある意味、日本が民主主義国家だった
ことの証左でもあります。
642だつお ◆t0moyVbEXw :2009/04/16(木) 22:42:28 ID:YdYJ5RT9
>ここから最後には●『国民政府を対手とせず』という文句が生まれてくる訳ですが、
>日本としては蒋介石を無視して、>>639 の臨時政府や維新政府といった、いわゆる
>傀儡政権を育成すれば手っ取り早いではないか?(第2満州国、第3満州国)という
>発想が現実味を帯びてきます――。

ここは時々日本外交の失敗と批判されるが、蒋介石の国民政府なんて早々潰れるものだ、
あるいは日本陸軍の戦闘能力で強引に潰してやるとのことならそれでも良かったと思う。
そもそも中国で共産革命が起こって困るのは専ら米英であって日本ではないのだ。
マリアナ・レイテ決戦を放棄して大陸打通作戦にだけ絞って、蒋介石を国外逃亡させればよかったのだ。
ドイツのように首都陥落ではどうもならないが、日本の場合はどんなに太平洋戦線で敗退しても、
中国で中国人を軍靴の下に隷属させている限りは外交カードとして利用できる。
日本本土決戦ならソ連参戦で日本人よりも先に中国人が虫けら同様に大量虐殺されますよってwww

そもそも自動車産業や通信産業がライセンス止まりなのに、軍縮だから造船を止めろなんて聞けるわけない。
>>638
>>家あれども帰り得ず 
>>涙あれども語り得ず
>>法あれども正しきを得ず 
>>冤あれども誰にか訴えん

   ,r---、
 . _ソヽ/`、シi
  ._>=ヘ 丞/=<,. 
 ((ん'ノノルレム))  ペチッ      誰しもが最期には私の前に立つのですよ。
 _ソレリ ゚ ヮ゚ノリ(_ ミ     i っ  川島芳子。魂の価値こそが、死後の唯一の
  ),k'ヲ_`:´アつXE無旺〉ノ| っ  財産だと思いなさい。
  (ン::::/:::l::ヽ.      .(_,ノ
  `~i,ンT,ノ~
644イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/17(金) 00:45:28 ID:PZRf3OrR
>>639 >>さて『大本営政府連絡会議』の流れですが、関係者によって回想している
>>内容がそれぞれ異なります。

例えば、東亜局長の石射猪太郎の回想もかなり独特です。まず「大本営政府連絡会議」は
本来なら12月13日に開かれる予定が、首相の近衛の都合により翌14日にずれ込んだ
とあります。

なお会議の説明のあと意見交換に移りますが、近衛首相は終始沈黙。和平工作の当初案を
忠実に支持したのは海相の米内光政と、軍令部次長の古賀峯一2人だけだったと云います。
しかし米内はのちに『トラウトマン工作』の打ち切りを強硬に主張しますから、初めから
大人しいのは違和感を覚えます。本当は、ハラワタが煮えくり返っているはずだからです。

また石射によれば「不拡大派」「和平論」の筆頭格である参謀次長の多田駿も、和平条件の
加重を主張して『不可解』さを感じています。もちろん会議の駆け引き等もあるでしょうが、
確かに『不可解』以外の何物でも無いでしょう。結局、和平条件は「当初案」と比較になら
ないほど厳しくなり、さらに「停戦協定」は和平協定の成立後に初めて始まるとされました。
要するに戦線が動き続けるということで、株に喩えれば『無限ナンピン』のようなものですw。
645イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/17(金) 01:18:22 ID:PZRf3OrR
「日本権益に与えた損害賠償」のみの予定だった賠償金が、『戦費』も要求する
内容へ変わり、さらに「支那側は日本に講和使節を送ること」「支那側の回答は
年内になされること(※この日は12月14日w)」も加わります。

まるで日清戦争での『下関条約』を彷彿させるような条件にエスカレートしていき、
石射が堪りかねて●「かくの如き条件が加重されるのであれば、中国側は到底和平に
応じないであろう!」と叫ぶと、誰も応じる者がなく冷たく無視されたと云います。

支那側に「降伏」を強いるような会議の流れにブチ切れた石射は、議論が終わると
石射と同様に会議に席を与えられていた陸海軍務局長の町尻量基と井上成美の下に
駆け寄り、●「これではブチ壊しだ! もう一度会議のやり直しを工作しようでは
ないか」と詰め寄ると、●「一旦決まった以上、やり直しは不可能」と2人同時に
答えたと云いますw。石射の当時の日記には、

「続いて連絡会議、我輩呼び入れられて案の説明をなす。賀屋蔵相、末次新内相、
 陸相、参謀次長など強硬論を吐き、わが方大臣(広田)一言も言わず。とうとう
 陸軍案にて終わる。アキレタ話――」
646イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/17(金) 01:28:14 ID:PZRf3OrR
しかし石射の回想では、その後に行なわれたはずの「閣議」(大本営政府連絡
会議に出られない閣僚を加えた)と話が繋がりませんし、

>>「続いて連絡会議、我輩呼び入れられて案の説明をなす。賀屋蔵相、末次新内相、
>> 陸相、参謀次長など強硬論を吐き、わが方大臣(広田)一言も言わず。とうとう
>> 陸軍案にて終わる。アキレタ話――」

首相の近衛文麿の存在は『華麗にスルー』というか、初めから会議にいなかった
ような扱いな訳ですw。
647反米イスラム過激派:2009/04/17(金) 17:43:51 ID:NJ0qJikf
>>1
そんなことどうでも良いだろ。

どっちみち地球、いや、最終的には宇宙も消滅するわけだから、そんなちっぽけなことどうでも良いだろ。

てか、糞スレ立てんなよカス頭。
648名無し三等兵:2009/04/18(土) 08:08:53 ID:???
党首が代わり過ぎて批判される自民、辞めないで批判される民主

649名無し三等兵:2009/04/18(土) 12:59:40 ID:???
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1240023141/-100

周防氏が「二刀使い」である、と喧伝されるにいたったきっかけは「郷ひろみ失踪事件」と「噂」されるものでございます。
その「噂」の「全容」とは以下のごときことであります。

郷ひろみが「ジャニーズ事務所」に「所属」していた「時代」のことでございます。ジャニーさんのおぼえめでたくその「?愛」を
夜毎うけていた郷ひろみが、エスカレートする変態行為に我慢できなくなって逃亡し行方不明となったことに始まります。
行方をめぐって大騒動となっている最中、親元に「僕は今北海道にいる、ジャニーの元へ帰れというなら死ぬ」との郷ひろみ本人からの
連絡が入ったのでありました。驚いた親は急拠関係者に連絡、前後策を相談して「ホワイトナイト」の「ご指名」をうけ登場したのが
周防氏なのでありました。周防氏は早速ジャニーズ事務所と交渉し「逃亡」を不問としてバーニングに「円満に移籍」し、郷ひろみが
「芸能活動」を「再スタート」することで話をつけたのでありました。

しかしこれが「前門の虎、肛門のオオカミ」となったのでありました。

今度は周防氏のジャニーと入れ変わっての郷ひろみへの「ご?愛」がはじまり、とうとう郷ひろみはお気の毒なことに「心療内科」に
「入院」する破目に追い込まれた、という「話」でございます。この「話」の「真相」はいまもって不明であります。
650イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/19(日) 00:00:57 ID:h1xi1C0z
>>641 >>ですから「和平条件」は根本的に見直されることになりましたが、

そして1937年12月19日に「外務省・改案」が出来まして、12月21日に
閣議決定されました。ちなみにこの時、首相の近衛文麿は病気で閣議を欠席して
『態度不明』のまま決定されていますw。新しい和平条件は、以下のとおりです。

1.支那は「容共・抗日満政策」を放棄し、日満両国の「防共政策」に協力すること。
2.所要地域に「非武装地帯」をもうけ、特殊の機構を設定すること。
3.日満支三国間に密接な経済協定を締結すること。
4.支那は帝国(日本)に対して「所要の賠償」をすること。

上記の他に、●『口頭説明』として次の細目を加えられました。
651イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/19(日) 00:17:47 ID:yDakA2d5
1.支那は『満州国』を正式承認すること。
2.支那は排日および反満政策を放棄すること。
3.北支および内蒙古に「非武装地帯」を設定すること。
4.北支は支那主権の下において、日満支3国の共存共栄を実現するのに適当な
  機構を設定し、これに広範なる権限を与え、日満支経済合作の実をあげること。
5.内蒙古に自治政府を設立すること。
6.支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力すること。
7.日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して、特殊機構を設ける。また上海市は
  租界外に特殊政権を儲け、日支協力して治安維持と経済発展に当たること。
8.日満支3国は資源開発、関税、交易、航空、通信等に関し、協定を締結すること。
9.支那は帝国に対し、所要の賠償をすること。

(付記)
1.北支・内蒙古・中支の一定地域に必要な期間、日本軍が保障駐屯するのを認めること。
2.前諸項に関する日支間の協定設立後に停戦する。

という「膨大な条件」となります。そして回答期限を1937年末まで区切りました――。
652イナゾウ脱走兵 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/19(日) 00:41:25 ID:yDakA2d5
翌日の12月22日、外相の広田弘毅は駐日ドイツ大使・ディルクゼンに、新しい
「和平条件」の回答を伝えますが、まるで支那に降伏を強いるような強硬な内容に
変わっています。驚いたディルクゼンの質問に対して、広田は「当然、和平条件
には満州国の承認が含まれるし、非武装地帯には北支のみならず、揚子江地域も
想定している」と答えました。

ディルクゼンは「この条件では中国政府が受け入れるとはとても思えない」としつつも、
「とにかく中国側に伝えるが、年末までの回答は無理だから、せめて明年1月5〜6日
頃まで延期してはどうか?」と申し出たので、外相の広田はこれだけは承諾しています。
653豊かさと稔りの象徴 秋稔子 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/19(日) 00:44:33 ID:???
   ,..-─.-、
   ,(,ィモr〜k)
  ~.(^(ノメハノ) )~
  (ハ( ゚ ヮ゚ノl(   過ぎたる実りも、目が回るほどの豊潤さも、
   >,Y_iHi)<   無いよりはましなのだ。
   <_/ '、__,),>
   `'-r_ァィ_ァ'
654寂しさと終焉の象徴 秋静葉 ◆FU/OcfTlfM :2009/04/19(日) 00:47:33 ID:???
    __,.>*x
  ,:´ ⌒ ^ヾ,
  (ノ( ノノハノ)
  (ハノ ゚ ヮ゚ノl )  枯れ枝に咲く紅葉も、やがて来る終焉も、
   ;´i"'':'゙i,)   有り過ぎるよりはましなのだ。
  (シ´  ̄`ヾ)
  ~^'i_ツi_ヅ~
655広田弘毅 ◆FU/OcfTlfM
「軍事情勢の変化と世論の圧力があるので、(和平条件は)これ以外には
 有りえない――」(Documents on German Foreign Policy, 1918-1945)