日中戦争(支那事変)3 参謀本部第二部支那課

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1イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM
満州事変、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、南京陥落、徐州作戦、
武漢攻略作戦、重慶空襲、トラウトマン工作、拉孟の玉砕、大陸打通作戦等……。
日中戦争を軍事的に語るスレッド。帝国陸海軍の内情も可。

前スレは「容量オーバー」のため、926(暫定)でお亡くなりになりました。合掌w。
まだまだ語るべきことは尽きません。引き続きマイペースで進行していきます。
2名無し三等兵:2006/02/08(水) 00:31:28 ID:???
2ゲット!
ぱんつぅ♪ぱんつぅ♪
3名無し三等兵:2006/02/08(水) 00:31:32 ID:???
一等自営業にささげる
4イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 00:32:40 ID:???
前スレ
「 日  中  戦  争  ( 支 那 事 変 ) 」
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1121259666/

2代目スレ
「日中戦争(支那事変) 被害担当艦@サドンデス! 」
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1132842768/
5名無し三等兵:2006/02/08(水) 00:37:06 ID:???
          __________________
         ./( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/|
         /( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/ .|
        ./( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/  |
       /( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/  / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ./( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/  / <  >>3 ・・・・・・プッ
      /( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/  /   \_________
     ./( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/  /
    /( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)( ´,_ゝ`)/  /
    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |  /
    |      『プッ』詰め合わせ      | /
    |________________ |/
6イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 00:43:38 ID:???
時折、四季映姫・ヤマザナドゥ様が光臨されますが、深く考えたら負けですw。
7イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 00:48:06 ID:???
2代目スレが、「容量オーバー」のため929で正式にお亡くなりになりました。合唱w。
8元前スレ32:2006/02/08(水) 00:59:31 ID:???
>>1
スレ立て乙。
自分の書きこみが最後になってしまいました。
9名無し三等兵:2006/02/08(水) 21:52:49 ID:???
やんけさんのオチまでパクらんでも(w > 古村啓蔵ネタ
10イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 22:11:09 ID:0zGazdUz
>>前スレ929 >>太平洋戦争期ですと、林三郎大佐の書いた岩波新書がコンパクトで
>>大変便利かと思います。ただ、イナゾウ中佐も、このスレのみなさんもごぞんじでしょうね。

ネットで調べましたら、『太平洋戦争陸戦概史』のことでしょうか。まったく存在を知りません
でした。というか、1951年の本ですかw。アマゾンを覗きましたら、「中古で1円」(状態悪)から
売ってましたので、試しに買って読んでみたいと思います。

ふくろうの本の『図説 日中戦争』は、図も大きく写真も豊富なのでお勧めなのですが
(左翼史観を除けば)、太平洋戦争が始まると既述がプッツリ省略されてしまうのが
難点です。

今スレでも、しばらく具体的な戦闘には触れないかもしれません。何か『外堀』を埋めて
ばかりいます。内堀、本丸に辿り着くのは何時になるやら…w。君のゆく道は〜果てしなく
遠い〜♪(藁)。
11イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 22:24:26 ID:0zGazdUz
>>9 >>やんけさんのオチまでパクらんでも(w > 古村啓蔵ネタ

やはりバレましたか…。『人生勝ち組 古村啓三』の項は丸っきりパクリですw。

ご存知ない方のために補足しておくと、コミケやコミティアなどの同人誌即売会で
「えげつないやん家」(ホリエカニコ)というサークルの方が、昭和陸海軍の本を
出されています。

これが凄い! 人物については生い立ちから性格、趣味、性癖、交友関係に至るまで、
ありとあらゆる事項を調べ上げ、絵も上手く(全員美形に描き過ぎですがw)、ネタも
面白い。何より、描いている人物に対して『愛』が感じられる。

軍人の「人物論」については、自分の100倍は詳しいでしょう。しかも、ペンネームから
判断するに描いているのは女性の方です(で、いいんですよね?)。

自分の中ではコミケで「最も神に近い男(女)」のひとりにランキングされていますw。
12名無し三等兵:2006/02/08(水) 22:29:12 ID:G/ALqHJ+
前スレの最後のほうで触れてた和知の西南工作については、
和知にくっついてた夏文運の「黄塵万丈」が結構詳しく書いてます。
夏氏は戦後日本で中華料理店の経営者になりました。
夏文運と寺平忠輔の盧溝橋事件当時の第29軍に対する評価を比較すると
なかなか面白いです。寺平は、張自忠を親日派であると高く評価し、悪いのは
秦徳純や馮治安としてる。それに対し夏は、日本旅行以降張自忠がやや親日的に
なったことは認めてるが、彼が天津市長蕭振瀛を追い落としたことに批判的で、
蕭が南京に追われてから、冀察政権内の親日的空気は跡形も無く消えたと書いている。
ただ宋哲元がロボット的存在であるという点では共通してます。
13俄将軍:2006/02/08(水) 22:30:41 ID:???
>>10
事変と戦争の違いということで、『外堀』を埋めていくという作業は、大事だ、
ということでよいのではなかろうか、などと。
14えICBM:2006/02/08(水) 22:42:09 ID:???
首班である宋哲元は一時、なにもかも嫌になって仕事を部下に任せ、田舎に引きこもったとか。
15元前スレ32:2006/02/08(水) 22:43:55 ID:???
>>10
それのことですが、見てみたら、本文300頁の一割くらいしか、中国戦線の記述がない。
日中戦争を知るということに関するかぎり、あまりよいチョイスではなかったかもしれません。

ただ、戦争指導の全体を通観するという意味では、
参謀本部第2部ロシア課長、阿南陸相の副官を歴任した林大佐の冷徹な記述に萌えます。
16イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 22:43:57 ID:0zGazdUz
まあ、客層は女性が圧倒的に多いらしく、自分は女人の列にシコシコ並んで
買っている訳ですがw。もちろん2冊ずつ買っています(万が一の保存用)。

ほんの「ひとコマ」例を挙げますと、以下の通り。『東京ラプソディ』より抜粋。

「だって、あの人怖いし…。神参謀にニラまれると夜中に家に来て『鬼神もこれを
 避く?』と聞かれ、『神さん神がかり』と3回答えないと、神焼酎2リットルボトルで
 殴られるって、兄貴(猪口敏平)が言ってた」(猪口力平)

「どこの都市伝説だ?」(大西瀧治郎)

上記は「軽いジャブ」な訳ですが、神重徳が「艦隊の泊地突入」について
『断じて行なえば鬼神もこれを避く』と述べたこと、大和の水上特攻作戦の
起案など『神さん神がかり』と周りから揶揄されていたこと、実家が『神焼酎
の醸造元』だったことを知らないと描けない訳です。
17イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 22:47:56 ID:???
あ。>>16 は、マバラカットの一航艦司令部のひとコマですw。
18名無し三等兵:2006/02/08(水) 22:52:28 ID:G/ALqHJ+
一冊にまとまってるというのなら井本熊男大佐の本がいいでしょう。
堀場一雄大佐の本も良いですが、これはちょっと手を出しにくいでしょうね。
19イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 23:06:51 ID:0zGazdUz
前スレ>>835 >>良い意味でも悪い意味でも「人材」のいない満州国において
>>川島芳子の個性は歯応えがありすぎるな

前スレで川島芳子に少し興味を持ちまして、『男装の麗人 川島芳子』(上坂冬子著、
文春文庫:1988年刊)を入手しました。口絵の写真を見て、川島芳子の『五分刈の
坊主頭』を見て激しく萎えました。

誰ですか?「男装の麗人に萌え〜」とか言っていた人は!w ちょっと時間が無いので
読むのはまだ先になりそうですが、優先順位は高めに設定してあります。まあ、川島は
自分の軍服姿によくサインをしたのだとか。

>>13 延々と『外堀』をループしないように頑張りますw。

>>18 >>一冊にまとまってるというのなら井本熊男大佐の本がいいでしょう。

ああ、何か文華堂で見かけた気が…。今度よく立ち読みしてみます。
20イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 23:28:32 ID:0zGazdUz
色々紹介して頂きましたので、自分からもひとつ…。まだ読み終わって
いないのですが…。

『日中戦争裏方記』(岡田酉次著、東洋経済新報社:1974年刊)

終戦時、陸軍主計少将だった著者ですが、日中戦争では「戦争物資の調達」や
「軍票の価値維持」などに従事した人です。さらに維新政府や汪兆銘の国民政府で
軍事顧問兼経済顧問を務めるなど、本のタイトルどおり『日中戦争の裏方』を
綴った内容です。

著者はかなり凄い人物で、経理部将校にとっての「陸軍大学校」である経理学校
高等科を首席で卒業し(1930年)恩賜の銀時計を貰い、御前講演の栄にも浴しています。

その後、東京帝大の経済学部で3年間学び、参謀本部の支那課に配属された
異色の経歴の持ち主でもあります。まだ3分の1強しか読めていないのですが、
既に「プロヴィデンス・ガンダム」クラスの『SEED(種本)』確定の一冊ですw。
21イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/08(水) 23:45:40 ID:0zGazdUz
何が凄いかと言いますと、著者は内容の正確さを期すために、昔の同僚や
関係者に戦後インタビューをして事実関係を再確認しています。

その『インタビュー相手の住所』が「東京都千代田区丸の内****」などと、
大量に記載されているのですw。本を読んで関心を持った人は連絡を取ってくれ、
という事なのでしょうが、本文中に住所を載せる方もOKする方も凄過ぎますw。

まあ、時代性もあるのでしょうが、「個人情報保護法」が喧しい現代では考えられませんw。

後は『岡村寧次大将―支那派遣軍総司令官』(船木繁著、河出書房新社:1984年刊)を
最近買いましたので、読むのが楽しみです。日記の部分が特にです。しかし、肝心の
日中戦争が始まってからの部分が無いようですw。まあ、1920年代や30年代前半の動きは
つかめそうです。
22暫編第一軍:2006/02/08(水) 23:51:13 ID:???
 「太平洋戦争陸戦概史」は高校時代に入手して大変重宝しました。あの頃は未
だ昭和でした。
海軍しか知らない人にとっては安価で全体像がわかる良書です。
 では前スレで予告した張学良の東北軍について。

張学良の東北軍(1)
 張学良が父張作霖から受け継いだ軍は「奉軍」或いは「奉天軍」と通称されてい
ましたが、1928年南京の蒋介石政権への恭順により東北辺防軍司令長官に任じ
られ、それ以降「東北軍」と呼ばれるようになります。
 それに伴い張学良は「東北軍」の改編に乗り出します。これは南京政府から求
められた軍費節約を目的とした縮軍でもあります。まずそれまでの軍、師(師団)
の番号を一律廃止し、「群旅制」を採用、東北軍の戦略単位を「旅」(旅団)としま
す。
 そして指揮下部隊を主力部隊である「国防軍」(東北陸軍第〜旅と呼称)と防衛
目的の「省防軍」(〜省第〜旅と呼称)に大別します。国防軍の旅は3団制(3個
連隊)、省防軍の旅は2団制であり、装備も国防軍が優れています。
つまり、国防軍の旅は実質的に軽装備の師に近い戦力を持っていることになりま
す。
23暫編第一軍:2006/02/08(水) 23:54:01 ID:???
 改編後の東北軍の兵力は国防軍歩兵30個旅、騎兵6個旅、砲兵10個団、空軍5
個中隊、海軍3個艦隊、3個陸戦大隊、省防軍歩兵9個旅、歩兵3個旅、3個団、騎
兵6個旅、4個旅、屯墾軍3個団で総兵力30万を超えます。
(極一部複数の旅で師を編成する例あり)
その後満州事変までの東北軍は常に蒋介石を支持し度重なる反乱に対して武力
をもって蒋介石を支援します。反乱側も東北軍の戦力を重視し、味方に引き入れよ
うと勝手に副司令に任命するなど懐柔策を講じますが、張学良は一貫して蒋介石
側に協力します。
 1931年5月には蒋介石の中央軍と部隊番号を統一する改編が行われ、東北陸
軍第〜旅という呼称から、陸軍独立第〜旅へと変更されます。これにより兵力は
歩兵1個師(3個旅)、25個旅、騎兵9個旅、砲兵3個旅、省防軍歩兵3個旅、騎兵1
個旅となります。(異説あり)
 さて、満州事変が起きた1931年9月頃、張学良は蒋介石に協力し石友三の反乱
鎮圧の為大軍を率いて満州を離れていました。その兵力は北路集団軍司令部の
指揮下に2個集団軍(3個説あり)を配し、歩兵9個旅、騎兵3個旅、砲兵2個旅とい
うもので、歩兵、騎兵の3割、砲兵の6割強ということになります。
(但し兵員3〜4万と少なく見積もる説あり)
石友三軍はあっという間に崩れますが張学良直率の部隊は満州事変勃発に間に
合わなかったのです。
 蒋介石が広東政府や共産党軍との対立を抱え未だ日本との正面対決を避け、
東北軍も手薄という関東軍は実に有利な時期を選んだということになります。蒋介
石の不抵抗命令があったとも言いますが、東北軍のあっけない敗北も頷けるとい
うものです。むしろ少なからぬ戦力を温存して関内に退くことが出来たと評価して
良いかもしれません。
 尚、東北軍は満州事変中に省防軍歩兵7個旅、騎兵6個旅を新編しています。
 その後の東北軍については話題がその時期に進んでから触れたいと思います。
24イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/09(木) 00:08:26 ID:MR8NFckp
>>12 >>それに対し夏は、日本旅行以降張自忠がやや親日的になったことは認めてるが、

まあ、『張自忠』は詳しく取り上げてみても面白いかもしれませんね。いずれやります。

蒋介石は、支那事変で日本軍と戦って戦死した張自忠を『愛国の烈士』として
重慶で国葬しています。また太平洋戦争後、中共の時代となっても、北京市東城区と
天津市解放橋畔に『張自忠路』という街路があり、張の愛国心を讃えています。

国民政府からも共産政府からも、双方に大きく顕彰されるのは珍しいケースですが、
やはり張が「盧溝橋事件」に大きく関わっているためでしょう。

話は変わりますが、「張自忠の娘」の張廉雲は北京に住んでいたそうで、1988年に
広島大学の小林文男教授が北京に彼女を訪ねたそうです。初老となっていた張廉雲は、

『あれほど日本が好きだった父が、日本軍に殺されたのは運命の皮肉としか言いようが
 ありません』と語ったそうです。今現在、廉雲が存命かどうかは分かりません。
25イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/09(木) 00:10:31 ID:???
また張廉雲は「盧溝橋事件」の直前に、父親の張自忠に連れられて
日本に来ています。

当時まだ14歳だったそうで、「箱根と京都が忘れられません」とも
語ったそうです。
269:2006/02/09(木) 23:12:08 ID:???
>>11
>>やはりバレましたか…。

あたしゃナチ本出してた十年前からの行列組なので(w
27名無し三等兵:2006/02/11(土) 16:08:28 ID:???
2月11日(土) 22:00〜23:30 NHK教育

ETV特集アンコール 「わが父・溥傑(ふけつ)ラストエンペラーの弟・波乱の生涯」

日中の激動を生き抜いた清朝王族の愛の物語▽父の面影を求めて娘は旧満州へ

関東軍の畜生ぶりがよく分かりまつよ
28元前スレ32:2006/02/12(日) 03:58:38 ID:???
保守しておきます。
29イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/12(日) 22:26:05 ID:???
ここしばらく休みが続いているイナゾウ中佐ですが、仕事が酷く忙しいようです。
何でも同僚が**で倒れて、フォローの業務が増えているのだとか……。中佐曰く、

「この齢で**になるのかよ!?」「深夜の丑三つ時、フロアに自分しか残って
 いないのに、人の気配が絶えない。ヒィ!」「意識が朦朧として、旅行会社の
 看板コピー『韓国で会いましょう』が『靖国で会いましょう』に見えたw」

「負けないこと 投げださないこと 逃げださないこと 信じぬくこと、ダメに
 な〜りそうな〜とき それが一番大事♪w」

などと、ブツブツ口ずさんでいます。独り言が出るようになったら末期の状態ですねw。
ピークの状態は過ぎたようですが、復帰は時間がかかりそうです。今までハイペースで
続けてきたので、一旦休むと再開する踏ん切りが付かないのだとか…。この辺は、長距離
行軍と同じです。下手に休むと腰を上げるのが死ぬより辛いもの。

小町がちっとも次の霊を運んで来ないので、それまで手慰みに中佐の代わりをして見ましょう。
あら? 間違って中佐の名前が出てしまいましたw。ここを書き換えれば…
>>26 >>あたしゃナチ本出してた十年前からの行列組なので(w

それは貴重ですね。その頃の本が「まんだらけ」の店頭に並んだら、一体いくらの
値が付くのでしょう? 貴方が死んだら、一緒に棺の中へ入れてもらって荼毘に
ふされなさい。そうすれば、あの世まで本を持ち込むことが出来ます。

それが今の貴方が積める善行ですw。
32四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 00:00:45 ID:Zei8aFEA
さて、新スレが始まったようですが、前スレ・前々スレを見ている方は
中佐のある変化に気付いているでしょうか? 以前と比べて最近は「土人」
「土人」と言わなくなった事です。

初代スレなどでは、事あるごとに支那人を口汚く罵っていたのを考えると
顕著な変化です。1927年の南京事件などは特にそうでしたね。

中佐も勉強しながらスレを続けている訳ですが(自転車操業とも言いますw)、
調べれば調べるほど『親日的な支那人』が登場してくるので、果たして一概に
『土人』と一括りにしていいものか?と迷いが生じたようです。

具体的には、支那の高官における「日本留学生」の多さに驚いています。一度
私の裁判記録を調べてみると良いのですが、時間が無いので割愛します。例えば、
支那側もトラウトマン工作には真剣な期待を抱いていた訳です。
33四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 00:17:26 ID:Zei8aFEA
国民政府の和平派における「現場担当者」となったが、外交部日本課長の
董道寧です。彼は寧波生まれですが、横浜で育ち、中学は東京、高等学校は
名古屋、大学は京都を出たという日本とは切っても切れない経歴の持ち主です。

董は上司の高宗武(外交部亜州司長)に命じられ、トラウトマン工作の前後に
和平工作の目的で上海に潜行します(1938年1月初旬)。

和平派の筆頭であり、国民政府の重鎮である汪兆銘にとって、董は高宗武とともに
この上ない幕僚であり、親日家でもありました。

具体的には川越茂公使と会見し、和平工作の推進の是非を問います。
34えICBM:2006/02/13(月) 00:19:20 ID:???
>支那側もトラウトマン工作には真剣な期待を抱いていた訳です。

最初の日本側停戦条件があまりにも緩いため、蒋介石は日本側に確認。
その間に南京が陥落し日本側態度豹変、停戦条件を厳しいものに変更。
そして蒋介石は新たな条件を蹴り、近衛首相の蒋介石を相手にせずとなる。
35名無し三等兵:2006/02/13(月) 00:22:07 ID:???
それぞれの盧溝橋事変(1937.7-10月)時の姿勢。
これで合ってる?

陸軍省
陸相:杉山元(積極)
次官:梅津美治郎(?)
 軍務局長:後宮淳(?)
   軍事課長:田中新一(積極)
   軍務課長:柴山兼四郎(慎重)
大本営陸軍部
参謀総長:閑院宮戴仁(慎重)
参謀次長:多田駿(慎重)
 第一部長:石原莞爾(慎重)→下村定
   第二課長:河辺虎四郎(慎重)
   第三課長:武藤章(積極)
 第二部長:渡久雄(積極)→本間雅春(慎重)
 第三部長:塚田攻
 第四部長:下村定(慎重)
関東軍
司令:植田謙吉(積極)
参謀長:東條英機(積極)
参謀副長:今村均(積極)→笠原幸雄→石原莞爾(慎重)
朝鮮軍司令:小磯国昭(積極)
36えICBM:2006/02/13(月) 00:29:00 ID:???
>四季映姫

ネタバレだったらすんまそん。
37四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 00:40:48 ID:Zei8aFEA
しかし川越茂との会談で、日本政府がトラウトマン仲介による停戦交渉を
決裂させる気配を濃厚に感じ取った董は失望します。せめて上海で旧知の
日本人と会い、気勢を上げることで鬱憤を晴らそうとしました。

ここで『運命』が動き始めます。

董が訪ねたのは、南京駐在満鉄代表の西義顕(陸軍大将・西義一の実弟)
です。西は華中在住が長く、いわば情報マン的な仕事をしていました。

ここで両者は、高まりつつある国民政府内の「和平派」の動きについて
語り合いましたが、西は満州国外交部・上海駐在員の伊藤芳夫を一枚
噛ませて、驚くべき行動に出ます。

首都南京も陥落した「支那事変」の真っ最中、董道寧を敵国の首都である
東京に連れて行ったのです。もちろん、西義一も伊藤芳夫も『日中和平』の
必要性を訴えてのことですが、董を参謀本部の影佐禎昭大佐に引き合わせました。
38四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 00:57:46 ID:Zei8aFEA
いわゆる汪兆銘による『和平工作』がここから動き出す訳ですが、
長くなりそうなので一旦ここで中座します。続きは、また明日…。

もちろん、影佐禎昭にもスポットライトを当てる必要があるでしょう。
参謀本部支那課長から第8課を新設し、自らその初代責任者になった
人物です。第8課が『謀略課』と呼ばれていたことは知られていますね。

また影佐は、汪兆銘工作を担当した『梅機関』の長でもあります。

ちなみに自分で課を新設し、自らその初代課長に収まった例は他に
永田鉄山がいます(陸軍省整備局動員課:初代課長)。

董道寧が上海から船で長崎に着いたのが、1938年2月15日。近衛文麿首相が
「国民政府を対手とせず」の第一次声明を出したのが、同年1月16日。
遥か以前のことでした。
39四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 01:05:39 ID:???
>>35 ええい、その程度自分で調べなさい。と言いたい所ですが、
初代スレから引っ張ってきましょう。ええと、コピーは…

>21 :イナゾウ中佐 :2005/10/08(土) 00:32:37 ID:da9uYOQG
>まずは「盧溝橋事件」直後の、帝国陸軍の『戦局拡大派』と『不拡大派』をまとめると、以下の通り。
>
>『戦局拡大派』
>(中央)
>・陸軍大臣 杉山元大将 ・陸軍次官 梅津美治郎中将 ・軍務局軍事課長 田中新一大佐
>・軍事課員 吉田喜八郎中佐 ・同 西浦進少佐
>
>・参謀本部第一部第三課長 武藤章大佐 ・第二部第七課長 永津佐比重大佐
>・第七課員 高橋担中佐        ・同 渡左近中佐
>
>(現地軍)
>・関東軍司令官 植田謙吉大将 ・参謀長 東条英機中将 ・参謀副長 今村均少将
>・参謀 田中隆吉中佐     ・同 辻政信大尉  
>・朝鮮軍司令官 小磯国昭中将 ・支那駐屯軍司令官 香月清司中将 ・参謀 和知鷹二中佐
40四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 01:07:56 ID:???
もう1つ…。

>24 :イナゾウ中佐 :2005/10/08(土) 00:56:52 ID:da9uYOQG
>『不拡大派』
>(中央)
>・参謀本部参謀次長 多田駿中将 ・第一部長 石原莞爾少将
>・第一部第二課長 河辺虎四郎大佐 ・第二課員 秩父宮中佐 
>・同 高嶋辰彦少佐 ・同 堀場一雄少佐
>・陸軍省軍務局軍務課長 柴山兼四郎大佐
>
>(現地軍)
>・支那駐屯軍参謀長 橋本群少将 ・参謀 池田純久中佐
>・北平特務機関長 松井太久郎中佐 ・北平大使館付武官補佐官 今井武夫少佐
41四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 01:49:32 ID:Zei8aFEA
>>27 >>日中の激動を生き抜いた清朝王族の愛の物語▽父の面影を求めて娘は旧満州へ

それなら河本大作大佐の娘も負けていませんよ。三女は修道女ですが、大連へ自由に
旅行ができるよう規制が緩和されたとき、父の面影を求めて大連を訪ねています。

河本大作は予備役編入後、満鉄の理事や満炭(満州炭鉱株式会社)の理事長をしていましたが、
1938年に満鉄理事の退職金をつぎ込んで、大連市南麓楠町に『終の棲家』を建てます。三女も
洗礼を受けて家を離れるまで、そこに住んでいた訳ですね。

戦後、中共政府に接収されますが、「南山賓館25号」として外人用の接客に使われている
ことを知った三女は、『懐かしの我が家』に泊まるべく旅行を計画したのです。

そのとき、三女は60歳を超えていました。関東軍の娘もまた波乱万丈の人生を送っていたのです。
42天知る 地知る 人知る 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 22:36:17 ID:D9wQBiS6
>>前スレ324 >>結局どうすればシナ事変は解決したのでしょうか?

結局、南京が陥落した前後の「トラウトマン工作」に拠るしかないでしょう。
蒋介石の国民政府は、1930年代の共産軍討伐以来、ドイツから軍事顧問団を
約30人も招いて援助を求めていましたから、ドイツの調停を断れない事情に
ありました。

昨日の話から少し遡りますが、大事なところなので繰り返します。

1937年10月30日、トラウトマン(駐支ドイツ大使)が国民政府外交部の陳介次長と
会談したところ、陳は乗り気となり、日本側の条件を知りたいと希望します。

そして広田弘毅外相は1937年11月2日、ディルクゼン(駐日ドイツ大使)に次の
和平条件を示します。
43四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 22:51:27 ID:D9wQBiS6
●内蒙古(モンゴル)民族の自治政府を樹立する
●北支に非武装地帯(満州国境から天津、北京まで)を設定し、中国
 警察隊が治安維持にあたる
●上海の非武装地帯を拡大し、国際警察隊が管理する
●抗日政策の廃止
●共産主義に対し、協同して戦う
●日本商品の海関(関税)の低減

これを受けたトラウトマンが11月6日、蒋介石に伝えたところ、蒋介石は
『応じられない』と否定します。しかし約1ヵ月後の12月1日、日本軍が
南京攻略のための戦闘序列を下命すると、一転して翌日の12月2日、
トラウトマンに対して次の回答をしました。

●中国はこの条件を、和平を討議する基礎として受け入れる
●北支の宗主権、領土保全権および行政権に変更を加えない
44四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 23:11:48 ID:D9wQBiS6
そして蒋介石は結論として、「中国は協調的精神を持って日本の要求を討議し、
諒解に達する用意がある。日本側にも同様のものを期待する」と述べました。

上記から察するに、蒋介石を和平のテーブルに付かせるためには、
『首都・南京攻略』の構えは最低限必要なことが分かるでしょう。

トラウトマンからこの報告を受けたドイツ本国の外務省は、交渉経過を覚書にして
12月4日、ディルクゼン駐日大使に打電します。ディルクゼンは12月7日、広田
外相にこの覚書を渡し、そのままの条件で話を進めていいか確認を求めました。

ところがこの同日(12月7日)、中支那方面軍司令官・松井石根大将が南京と杭州の
攻略命令をくだし、南京城を占領してしまいます(12月13日)。

そのため広田外相は、「その後の戦況の変化により、以前に示した条件で交渉できるか
どうか疑問がある。軍部の意見を聞いたうえで、改めて回答する」と
ディルクゼンに答えました。
45名無し三等兵:2006/02/13(月) 23:25:15 ID:QAtEeZvH
>>35 >>39-40
そういう区分けはあんまり意味が無いですね。
石原にしても確かに不拡大派ではあるんだけど、一方で三個師団動員を決済してるわけで。
これが痛かったという人は多いです。
河辺弟にしても、堀場当たりから言わせれば、何が何でもという気合はなかったようだし。
高嶋辰彦なんかも、このときは戦争指導班長として不拡大に動いてるけど、
後に極端な排英運動を展開してます。伊藤佐又の領事館焼き討ち未遂事件で後ろから
糸を引いてたのは彼だという説さえあるくらい。
下村定も最後の陸相として評価が高い人だけど、石原の後を継ぐと、渋る多田次長を
押し切って南京攻撃を決定してます。昭和14年に竹田宮によって行われた聞き取り調査
(現代史資料9収録)を読めばそこら辺の経緯がよくわかる。
逆に方面軍参謀長の塚田なんかは、当然の如く南京追撃を訴えてますが、だからと
いって彼が無鉄砲な拡大派とは言えないでしょう。ただ単に職務に忠実なだけです。
軍人の意見はそのときの職務に拘束されること大です。立場が変われば意見も変わります。
あの今村均でさえ、このときは強硬論を述べて河辺に窘められてますからね。

ただ特務機関長として現地で和平に努力した松井太久郎に関しては国府も大いに徳としたようで、
戦後、岡村と共に非常に手厚く遇されてます。東京の松井の留守宅には蒋介石からの
使者が何度も来て、”戦犯に引っかからないように我々が保護してるから何の心配もない”
みたいなことを伝えていったそうです。湯恩伯に至っては直々に尋ねてきて、その貧乏さに
深く感動したとか。
また次長だった多田大将も国府から、”中共がうるさいので止む終えず戦犯に指名したが、
何時までも家で寝ていてくれたら良い”みたいなことを言われたとか。
46四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 23:26:15 ID:D9wQBiS6
近衛首相は、翌日の12月14日、大本営・政府連絡会議でディルクゼン
駐日独大使への回答案を決定しようとしますが、その時のメンバーは
以下の通りです。

●近衛文麿首相●広田弘毅外相●杉山元陸相●米内光政海相●多田駿参謀次長
●古賀峯一軍令部次長●末次信政内相●賀谷興宣蔵相

当時、参謀総長と軍令部総長はともに皇族軍人で、それぞれ閑院宮戴仁、伏見宮
博恭・両元帥ですね。多田と古賀は「総長代理」として会議に出席した訳です。

しかし、この日は回答案を決定するまで至らず、翌15日の連絡会議でようやく
現在の国民政府を『中央政府』と認めて、和平交渉を開始することに決定します。

この会議で、多田駿参謀次長が『事変の早期解決』と『長期戦回避の必要性』を
訴えて諒承を得たことは特筆に価します。
47四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/13(月) 23:46:15 ID:D9wQBiS6
ところが12月17日の「定例閣議」では、大本営・政府連絡会議に出席して
いなかった他の閣僚から『和平条件が軟弱すぎる』と反対を受けるのです。
その時のメンバーは以下の通り。

●塩野季彦司法相●木戸幸一文部相●有馬頼寧農林相●吉野信次商工相
●永井柳太郎逓信相●中島知久平鉄道相●大谷尊由拓務相

翌18日の「臨時閣議」でも反対意見が続出。結局、原案を外務省に再検討
させることになります。

この当時、南京占領の報によって日本全国の街という街が沸き立ち、各地で
旗行列、提灯行列などの祝賀行事が盛大に繰り広げられていました。日本が
敵国の首都を初めて占領したという理由もあるでしょう。

誰も彼もが「戦勝気分」に浮かれて興奮し、政府も鼻息が荒く、国民世論も
非常に強気でした。
48四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 00:09:30 ID:n4aAWS2R
そう。南京占領の時点で、まるで支那を『無条件降伏』させたような思い違い、
かけ違い――。これが全ての始まりでしょう。

日露戦争の(屈辱)講和条約に反対した「日比谷焼討事件」を引き合いに出すまでもなく、
支那に対して『軟弱な和平条件』を許すことは、国民の猛反発を招くと政治家たちは
恐れたのかもしれません。

そして12月19日に「外務省案」が作成され、21日に閣議決定されて昭和天皇に奏上
されます。近衛首相は21日の閣議を『病気欠席』して、態度不明のまま、支那側に
超強硬な条件が提示されることとなります。一国の首相として救い難い所業です。

駐日独大使ディルクゼンへの回答文は以下の通りです。>>43 で示した
一回目(11月2日)の和平条件よりも隔絶して厳しいものです。
そう、まるでアヘン戦争後の『南京条約』のよう――。
49四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 00:18:53 ID:n4aAWS2R
●支那は容共抗日政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること
●所要地域に非武装地帯を設け、特殊の機構を設定すること
●日満支3国間に、密接な経済協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して、所要の賠償をすること

以上の他、『口頭説明』として次の細目を付加しました。

●支那は満州国を正式承認すること
●支那は排日および反満政策を放棄すること
●北支および内蒙古に非武装地帯を設定すること
●北支は支那主権の下において、日満支3国の共存共栄を実現するに適当な
 機構を設定し、これに広汎なる権限を与え、日満支経済合作の実をあげること
●内蒙古に防共自治政府を設立すること
●支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力すること
●日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して、特殊機構を設けること。また
 上海市には租界外に特殊政権を設け、日支協力して治安維持と経済発展にあたる
 こと
50四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 00:28:48 ID:n4aAWS2R
●日満支3国は資源開発、関税、交易、航空、通信等に関して
 協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して、所要の賠償をすること

(付記)
●北支、内蒙古、中支の一定地域に必要な機関、日本軍が保障駐屯するのを
 認めること
●前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する

そして回答期限を『1937年末』と設定しました。広田外相がディルクゼンに
和平条件を提示したのは12月22日です。実質10日間もありませんね。

ざっくばらんに和平条件を見ますと、「北支はすべて日本に寄越せ」
「中支も上海を筆頭として虫食い状態的に寄越せ」「賠償金を支払え」
という事になります。過酷な和平条件ですが、同様のことは汪兆銘の
南京政府樹立のときにも繰り返されることになります。
51四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 00:47:51 ID:n4aAWS2R
ここでまた一旦区切りますが、日本側から見た「トラウトマン工作」が
終わったら、支那側からの視点も同様に検証してみましょう。

少し私から釘を刺して置くと、日本側の最も愚かなところは、和平条件すら
大所高所からまとめる人間がいなかったことです。

官僚の縄張り争い、縦割り行政にも通じることですが、関係各所から出た
要望すべてを並列並記するようなものです。取捨選択が見られないのですね。
汪兆銘が樹立する南京政府との「日華基本条約」は更に露骨ですw。

そしてこの時の首相も近衛文麿です(間に平沼騏一郎、阿部信行、米内光政
内閣を挟む)。宰相としての責任は重いと言わざるを得ないでしょう。
52えICBM:2006/02/14(火) 02:23:40 ID:???
>>34
私のトラウトマン工作の説明など、イナゾウ氏のとは比べ物にならないお粗末さです。

>イナゾウ氏
勉強になります。
53名無し三等兵:2006/02/14(火) 02:36:45 ID:???
トラウトマン工作のとき、支那では「日中独が連携してソ英と戦う」という構想があったらしい。
54天知る 地知る 人知る 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 22:00:59 ID:axBZ29H9
>>50 の続き。

1937年12月22日、広田外相より『日本側の新しい和平条件』を受け取ったディルクゼン
駐日独大使は、その過酷な内容に驚きます。そして、

「この条件では中国側の受諾は困難だろう。とにかく中国側に伝えるが、年末までの回答は
 まず無理だから、翌年(1938)の1月5、6日頃まで延期してみてはどうか?」

と忠告したので、広田外相は「回答期限」の延期を承諾します。しかし、国民政府は
日本側の和平条件に驚愕し、予想通り期限までに返答が出ませんでしたので、日本側は
さらに回答期限を1938年1月15日まで延長します。

1月11日には、昭和天皇の前で御前会議が行なわれます。出席者は以下の通りです。

●近衛文麿首相●広田弘毅外相●杉山元陸相●米内光政海相●末次信政内相●賀谷興宣蔵相
●閑院宮参謀総長●多田駿参謀次長●伏見宮軍令部総長●古賀峯一軍令部次長
55四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 22:24:03 ID:axBZ29H9
前回(1937年12月14日)の「大本営・政府連絡会議」との違いは、皇族軍人の
陸海軍両総長と、これにプラスして平沼騏一郎・枢密院議長が加わったことです。

この御前会議では、広田外相が原案を説明して『支那事変処理根本方針』を
決定しました。その方針内容とは、

「国民政府が和を求めてくれば交渉に応じる。和を求めて来ない場合は、爾後
 これを相手とせず、新興支那政権の成立を助ける」

とするものです。一応は和戦両用の構えですが、和平条件はディルクゼン大使への
回答文と全く変わりません。そして、注目すべきは『爾後、これを相手とせず』の
一文です。

この直後、大日本帝国が完全に道を誤ることになる『近衛第一次声明』の原文が
初めて登場してくるのです。そして当然のことですが、中国側の回答は容易に
出てきません。
56四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 22:45:22 ID:axBZ29H9
蒋介石は当初、日本側の和平条件を『亡国条件』だとして憤激します。
しかし老獪な外交部長である王寵恵は、トラウトマン駐支独大使に対して

「口頭説明だけでは内容に不明な点があるので、日本側から文書にして
 正式に通知して欲しい」と求めました。

これに対して日本政府は、支那側の申し出を単なる「引き伸ばし策」だと判断し、
1月14日の政府閣議では『予定通り、国民政府を相手とせずの政府声明を出すべきだ」
とする意見が一致します。

参謀本部側はこれを『軽率である』と猛然と抗議して、改めて大本営・政府連絡会議で
再討議するよう要求しました。そして翌15日午前に連絡会議が開かれますが、政府は
交渉打ち切りを主張、陸海統帥部は「時期尚早・交渉継続」を強く求めて、会議は
平行線を辿ったのです。
57四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 23:00:46 ID:axBZ29H9
閑院宮参謀総長、伏見宮軍令部総長、古賀軍令部次長ともに回答期限の
延期を主張し、とくに多田参謀次長は

「支那側の最終回答を待たずに、しかも挙国的決意も準備も不十分のまま、
 長期戦に移ることはできない」

と強硬に反対します。まことに常識的な意見です。しかし政府側は頑強に
「交渉打ち切り」を主張し続け、午後に会議を再開しましたが、ここで
一大痛恨事が起こります。

午後の会議には、閑院宮参謀総長と伏見宮軍令部総長が出席しなかったのです。

政府と大本営は、午前中の主張を繰り返して激しく対立。この時、陸海相は政府側に
立っていため、陸相と参謀次長が真っ向から対立しました。
58四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 23:08:19 ID:axBZ29H9
杉山元陸相は、

「期限までに回答が無いのは、国民政府に和平の誠意が無い証拠だ。
 蒋介石が屈服するまで戦うべきだ」と強く主張しました。

また広田外相は、

「私の外交経験からすると、支那側には和平解決の誠意が認められない。
 交渉は打ち切るべきだ。参謀次長は外務大臣を信用しないのか?」

と詰問し、それに合わせて米内海相も、

「統帥部が外務大臣を信用しないのは、政府不信任だ。内閣は総辞職の
 ほかはない」と多田に詰め寄ります。
59四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 23:29:14 ID:axBZ29H9
こういう修羅場になると、「大臣より格下」の参謀次長では押しが効きません。
陸相・海相2人から責められる、多田の心情は察するに余りあります。

総長に皇族軍人をもってくる人事は、平時では派閥の安定などに便利であった
かもしれませんが、実務に乏しいため、その下の次長クラスに土壇場で過度な
負担がかかります。

そもそも省部の局長クラスでも、次官の言うことなど屁とも思っていない場合が
多々あるのです(もちろんケース・バイ・ケースですが)。

それでも「皇族という立場」をフルに活用すれば、この連絡会議でも参謀本部側が
政府側の主張を崩し、『交渉継続』への主導権を握れた可能性はあったのです。
しかし皇族の両総長は、なぜか午後の会議には出席しませんでした――。

頭を冷やすために午後の会議も一旦解散し、多田参謀次長は参謀本部(陸軍)の
幹部会談を開き、古賀の軍令部(海軍)とも意見の調整を図ります。
60四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/14(火) 23:45:58 ID:axBZ29H9
長かった1938年1月15日――。ある意味、大日本帝国の運命を
分けた1日が、もうすぐ終わりを告げようとしています。

同夜(1月15日)7時半に再開された連絡会議で、多田参謀次長は以下のように
述べて、政府側に大幅な譲歩をしました。さじを投げたと言って良いでしょう。

「蒋介石政権の否認を本日の会議で決定するのは時期尚早で、統帥部としては
 反対であるが、崩壊(内閣総辞職)しては、内外に悪影響を及ぼすので、
 交渉打ち切りは『黙過』し、あえて反対しない」
 
参謀本部の『屈服』です。明治の時代ならいざ知らず、目前の作戦そのものに
深く関わる事項で政府に押し切られたのは前代未聞でしょう(軍縮を除く)。

この瞬間、大日本帝国は『日中戦争の底無し沼』に転落しました。1月15日は
日本の運命を賭けた土壇場だったのです。
61名無し三等兵:2006/02/15(水) 00:01:03 ID:???
ああ、一言
「半年や一年は支那で暴れてみせますがそれ以後はわかりません」と言えぬ陸軍軍人の悲しさか。
62四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/15(水) 00:17:28 ID:pixk5V+o
多田参謀次長が、何としても閑院宮参謀総長を担ぎ出して、政府の主張に反対し
蒋介石否認を阻止していれば、日本の歴史もあるいは変わっていたかもしれません。

連絡会議の結果は『蒋介石を否認する』という重大事項であるため、近衛首相、
閑院宮参謀総長、伏見宮軍令部総長が、それぞれ別個に天皇に報告しました。

内容は1月11日の御前会議で決定された『支那事変処理根本方針』に一応は沿うもの
でしたので、昭和天皇も特に異議は唱えなかったのでしょう(>>55 参照)。それにしても
「和戦両様」の方針から、僅か5日間で結論を出したのですから、近衛内閣の短慮と
言わざるを得ません。

広田外相は翌1月16日、ディルクゼン駐日独大使に、支那との和平交渉打ち切りを
通告。これに伴い、ドイツ外務省は、トラウトマンに工作中止を指令しました。

そして同日、近衛内閣は『国民政府を対手とせず…』という重大声明(第一次近衛声明)
を発表して、大日本帝国は完全に道を誤ることとなりました――。
63四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/15(水) 00:44:12 ID:???
>>45
ムム…。「白黒はっきりつける程度の能力」を持つ私に異議を唱えるとは、
なかなか良い度胸ですね…w。下村定の件については同意します。

「なんだよー。ヤマザナドゥだぞー! 偉いんだぞー。ばかにすんなー!」などと

レベッカ宮本のようなことは、期待されても言いませんw。

>>52
何のことですか? 中佐は過度な仕事で「精神を病んで」伏せっていますw。
それにしても3日、もう3日も小町は次の霊を運んで来ない…。

おのれ、どうしてくれよう。戻ってきたら喝を入れてやらなければ…。
とりあえず、スケジュールを組んで置きましょう。「説教(予定17時間)」。
64ue ◆WomMV0C2P. :2006/02/15(水) 01:43:29 ID:???
トラウマン工作の失敗と、近衛の強硬意見の陰には、かの尾崎秀實の陰が見え隠れしていますね。
「国府軍は戦意を失って無条件降伏するだろう」、と近衛に囁いたり、世論を扇動したり、裏で和平工作を
妨害しています。

彼が近衛の信頼を得たのは西安事件の推移を言い当てた事に寄るものだが、
彼はコミンテルンと意を通じているので、出来レースもいいところですね。
65元前スレ32:2006/02/15(水) 08:01:38 ID:???
>>62
四季映姫様、
既出かもしれませんし、このスレのコテハン諸氏には常識でしょうけど、
多田次長の有名な「三嫌譲歩」という言葉をあげておきます。

「交渉打ち切りは嫌だ、長期戦は嫌だ、但し近衛内閣の崩壊はなお嫌だ」というものです。

ちなみに、「三嫌譲歩」と命名したのは黙れ佐藤氏だそうです。

66天知る 地知る 人知る 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/15(水) 22:34:03 ID:+xC1JtAQ
ここで支那側の視点に少し移ります。トラウトマンが和平調停に乗り出した
当時の状況を、馮玉祥が遺著『我所認識的蒋介石』(私の知る蒋介石)で
以下のように語っています。

ちなみに馮玉祥(1880〜1949)は軍閥勢力の一人です。安徽省の出身でキリスト教に
入信したことから、「クリスチャン・ジェネラル」とも言われました。たびたび反蒋運動を
繰り返した後、許されて南京政府の中央執行委員になりますが、それでもなお蒋介石には
批判的でした。太平洋戦争後は、内戦反対を訴えてアメリカで反蒋運動を唱えますが、
奇しくも蒋介石が台湾に逃れた1949年、外遊の帰途に船火事のため不慮の死を遂げました。

「1937年12月2日午後4時、南京で蒋介石は軍事委員会をひらいた。トラウトマン調停案を
 検討する秘密会議であった。蒋介石は私(馮玉祥)が反対するのを恐れて、私を出席させ
 なかった。日本が出した第1次および第2次調停案の内容を説明した徐謨外交部次長は、
『この条件に同意すれば停戦できる』と報告した。(続く)
67天知る 地知る 人知る 四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/15(水) 22:46:42 ID:+xC1JtAQ
>>66 の続き)

「蒋介石はまず唐生智の意見を聞いたが、唐は即答を避けた。白健生は『こんな
 条件なら、なぜ戦争するのか?』。また徐次辰は『これだけの条件なら承認
 してもよい』と答え、みんな賛成した。最後に蒋介石は、『ドイツの調停は
 拒否すべきではない。それに、この程度なら亡国条件とは言えない』と言明した。

 ついで、漢口で汪兆銘が12月6日、最高国防会議を招集した。議長は汪兆銘、
 秘書長は張群、出席者は于右任、孔祥煕、居生、何応欽その他であった(この日、
 蒋介石は南京にいたので、代わって汪兆銘が召集した)。

 徐外交部次長の報告によると、トラウトマンは11月28日、ドイツ政府の訓令を
 受けて、孔祥煕行政院長と王寵恵外交部長と会見した。そして日本の条件を説明し、
 蒋介石との会談を希望した。蒋介石はただちに承諾の返電を出した。
68四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/15(水) 23:01:59 ID:+xC1JtAQ
>>67 の続き)
 トラウトマン大使は蒋介石に『ヒトラー総統の意向だとして、中国がこの
 調停を考慮するよう希望する。またヒトラーの見るところ、日本側の条件は
 さほど苛酷ではない』と伝えた」

以上が、馮玉祥の遺記が伝えるところです。パッと見て、日本の第1次案と第2次案が
ごちゃ混ぜになっていますね。広田外相が第2次案をディルクゼン(駐日独大使)に
手渡したのが1937年12月22日(>>50参照)ですから、明らかに時系列が間違っています。

蒋介石が、
>>『ドイツの調停は拒否すべきではない。それに、この程度なら亡国条件とは言えない』

と述べたのは、第1次案(>>43参照)の方でしょう。とするならば、少なくとも日本側の
和平条件が『第1次案』のままであれば、「支那事変の停戦」は合意できていたはずです。
69四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/15(水) 23:20:00 ID:+xC1JtAQ
ここで『パラドックス(矛盾)』が生じます。>>43 >>44 で述べたように、

>>上記から察するに、蒋介石を和平のテーブルに付かせるためには、
>>『首都・南京攻略』の構えは最低限必要なことが分かるでしょう。

最終的に蒋介石が『第1次案』に対して承諾の意向を示したのは、日本軍が
南京攻略のための戦闘序列を下命(12月1日)した後です。

日本が『南京攻略』をしなければ、『第2次案』は生まれなかった訳ですが、
それでは蒋介石が「第1次案」に対しても和平のテーブルに付きません。

しかし南京攻略を下命すれば、あとは日本軍が『自動的に』南京を占領してしまうので
『第2次案』が登場するのは回避不能だということになります。そして、これこそ
蒋介石が「亡国条件」だとして憤激した和平案でした(>>56参照)。
70四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/15(水) 23:41:06 ID:+xC1JtAQ
ここで「第2次案」が発生しない『選択肢』を幾つか考えてみると、以下の通りです。

●南京攻略を下命(12月1日)するが、南京を占領(12月13日)する前に、
 支那側との停戦合意を取り付けてしまう。

→史実では12月7日に、ディルクゼン(駐日独大使)が広田外相に『第1次案』で
 交渉を進めていいか確認をしてきますが、広田は「戦況の変化」を理由に保留して
 しまいます。

 ここで留保せずに『第一次案』で支那側との停戦合意を結ぶパターンですが、
 首都・南京占領を目前にして、日本軍の進攻が止まるとは到底思えませんw。
 
 おそらくは『既成事実』として南京を占領してしまい、国内世論の沸き立ちと
 それに迎合する政府によって、『第2次案』と類似のものを支那側に再度
 突きつける可能性が極めて高いでしょう。
71四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 00:12:27 ID:AhYTQPQm
●南京攻略を下命(12月1日)するが、南京占領が頓挫してしまう。その間に
 支那側との停戦合意を取り付けてしまう。

→攻略が頓挫するなどあり得ません。本当にありがとうございましたw。

●南京攻略を下命(12月1日)して、南京を占領(12月13日)するが、
 和平条件を『第1次案』のままとする(少なくとも『第2次案』の如き
 苛酷な条件は抑える)。

→やはりこれしか無いのです。たとえ百万歩譲歩したとしても、『交渉打ち切り』は
 是が非でも避けねばなりませんでした。

『第2次案』に対しても国民政府(蒋介石)側は、「中国政府は日本側提案を回避するもの
ではない」とする口上書を、孔祥煕(行政院長)がトラウトマン(駐支独大使)に手渡し、
日本側に伝達を依頼しています(1月15日)。もちろん多分に「時間稼ぎ」目的でしたが…。
72名無し三等兵:2006/02/16(木) 00:23:50 ID:???
トラウトマン和平が成ったとして、第二第三の盧溝橋は確実

日中和平は成立しましたが
共産主義インターナショナルは
永遠に不滅です
73四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 00:34:59 ID:AhYTQPQm
国民政府側から上記(>>71)の「口上書」を手渡されたトラウトマンは、急遽
日本にいるディルクゼン大使に伝達します(同日1月15日)。

これを受けてディルクゼンは直ちに、近衛首相を訪問して期限に遅れた事情を
説明しましたが、近衛は眉をひそめて『受理を拒否』しました。

これはディルクゼンが近衛首相・広田外相に面会できたのが、「近衛第一次声明」を
やっとの思いで採決した(多田駿が屈服した)『大本営・政府連絡会議』が終わって
一同がぞろぞろと出てきた、まさにその時だったためです(1月15日夜半)。

この時期を振り返って、汪兆銘(南京)政権の財政部長だった周仏海は、

「結局、中日両民族の間に運が無かったのだ」と長嘆息し、顔面を紅潮させたと
言います。妙にリアルな回想で、せめてディルクゼン駐日独大使の近衛首相に会うのが、
大本営・政府連絡会議の最中に間に合ってくれていたら、と思わざるを得ません。
74俄将軍:2006/02/16(木) 00:57:05 ID:???
>>66
馮玉祥著「我が義弟 蒋介石」のトラウトマン工作の所と、見比べてい
るのですが、微妙に異なるのは、日本語訳に、問題があるということ
なのでしょうか。
75四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 00:59:12 ID:AhYTQPQm
ただ1つ近衛首相を弁護するとすれば、首相就任から日が浅いことです。
(就任:1937年6月4日、盧溝橋事件:1937年7月7日)。

内閣が誕生して間もない時期なので、近衛自身が状況を正確に判断できない内に、
周りの『強気な意見』に押されて、事態だけがドンドン進行していったとも言えます。

そうなってくると罪深いのが広田弘毅外相です。近衛より以前に、首相を務めている
(1936年3月9日〜1937年2月2日、約1年弱)にも関わらず、外相としての見通しの甘さは
たとえ結果論だとしても非難を免れません。

>>「私の外交経験からすると、支那側には和平解決の誠意が認められない。
>>交渉は打ち切るべきだ。参謀次長は外務大臣を信用しないのか?」

広田弘毅が「A級戦犯」に指定されたのも、この時期の行動が主な理由でしょうし、
日本人から見ても妥当と言ってもいいかもしれません。また、近衛が服毒自殺したために
その身代わりのような形で広田に「死刑判決」が下りますが、何か因果を感じさせます。
76俄将軍:2006/02/16(木) 01:08:28 ID:???
>>74
下記に修正。

馮玉祥著 牧田英二訳「我が義弟 蒋介石  その虚像と実像」のトラウトマ
ン工作の所と、見比べてい るのですが、微妙に異なるのは、編集していると
いうことなのか、長崎出版の日本語訳に、問題があるということ なのでし
ょうか。
77四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 01:10:21 ID:AhYTQPQm
>>74
「抜き出し箇所」でよろしいでしょうか? 私が参考にしたのも『我が義弟・
蒋介石』(牧田英二訳:長崎出版刊行、1976年)にあたりますが、手持ちの本が
そのものズバリの原本ではなく、参考文献として孫引き(プラス要約w)された
全く別の本になりますので、訳がおかしいのはご指摘の通りです。
78四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 01:18:40 ID:???
>>64 >>彼が近衛の信頼を得たのは西安事件の推移を言い当てた事に寄るものだが、
>>彼はコミンテルンと意を通じているので、出来レースもいいところですね。

尾崎は獄中でもコミンテルンに有利に推移するよう電波を飛ばしていますね。
詳しい話は時間がないので割愛しますが、いずれ取り上げるでしょう。

もちろん私が命じて尾崎の舌は抜いておきました。当然、地獄行きです。
79四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 01:21:40 ID:???
>>65 >>「交渉打ち切りは嫌だ、長期戦は嫌だ、但し近衛内閣の崩壊はなお嫌だ」
>>というものです。

いえいえ、全くの初出です。佐藤は喩えるのが上手いですね。
80少佐:2006/02/16(木) 01:36:11 ID:PQuDZFe2
イメージと違って日本は中国との戦争では飛行機、大砲、戦車
をキチンと活用している。
中国にはシャーマン戦車のような戦車はないわけでチハ戦車でも
十分な戦力になるからね。
81少佐:2006/02/16(木) 01:37:52 ID:PQuDZFe2
また日本軍は手榴弾や歩兵が持ち歩ける超ミニサイズの迫撃砲
も標準装備だった訳で何も38ライフル、銃剣、日本刀だけで
戦っていた訳じゃない。
82少佐:2006/02/16(木) 01:39:44 ID:PQuDZFe2
さらに日本軍は中国では毒ガスを使用しまくっている。
何も銃剣だけで戦った訳ではない証拠だろう。
零戦にしてももともとは中国で使用されることを前提とした
戦闘機だったのだしね。
83えICBM:2006/02/16(木) 03:36:48 ID:???
>>63
>何のことですか?・・・
実は、化けるのが良くわからないものでして。
よくわからないままで続けるつもりですが。

>イナゾウ氏
それにしても継続は力なりですね、今後も頑張って下さい。
私としては、手元に「戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>があります。
これにトラウトマン工作に拘わった当時のドイツ側事情がありますのでボチボチレスしたいと思います。

>>75
>広田弘毅が「A級戦犯」に指定されたのも、この時期の行動が主な理由でしょうし、
広田に関しては、人物的に好きですが、現役陸軍大臣制を復活させた点が、大きな失点となったようです。
東京裁判はアメリカが主導ですが、真珠湾を遡ること、満州事変あたりからの公判を行っています。
テンパッてやけになった対米戦直前の内閣メンバーよりも、こちらの方が重要ではと思っています。
日本の軍国主義の解体が東京裁判の目的なので当然なのですが。
84名無し三等兵:2006/02/16(木) 04:14:25 ID:???
私も広田は好きだ。玄洋社との関わりも響いているような気がする。
85名無し三等兵:2006/02/16(木) 04:20:24 ID:???
三国同盟調印の時の首相は誰だ
86えICBM:2006/02/16(木) 04:35:49 ID:???
○ドイツと中国の軍事、経済関係について
 ドイツと中国は伝統的に親善関係にあった。「ハプロ」(HAPRO−工業製品貿易有限会社の略)の設置が
具体的例の第一である。これは中国の生産物と引き換えに中国に武器を供給する目的で設立された特別
の組織であり、1934年(昭和九年)8月23日に締結された貿易協定と36年4月8日締結の借款協定(ハプロ
条約)に基づいて活動した。この借款協定では、ドイツが中国に、中国に軍事工業設立を目的として一億ラ
イヒスマルクという巨額の資金を貸し付けつ事を規定している。
 ドイツは自国の再軍備に必要な貴金属であるタングステンとアンチモニーおよびその他の原料を輸入し、
これに引き換えに、ドイツの兵器や鋳鉄、製鋼のプラントなどを輸出して大きな利潤を上げていた。これは
蒋介石の意図する60師団の建設にも応じるものであった。
 右の条約の締結、遂行のため、後述するライヒュナウ将軍をはじめ、武器商人でありかつドイツ陸軍に力
を持つ退役大尉クラウン等の将校が活躍した。この貿易は、支那事変勃発の後も続けられ、日独間に種々
の物議を起した。

(続く)
87えICBM:2006/02/16(木) 04:36:23 ID:???
(続き)

 ドイツはまた1928年(昭和三年)から38年までの11年間、中国に軍事施設を派遣していた。この間における
使節団長は、陸軍大佐マックス・バウアー(1928〜29)、陸軍中佐へルマン・クリーベル(1929〜31)陸軍大将
ウェツェル(1931〜33)、陸軍元帥フォン・ゼークト(1934〜35)、陸軍歩兵大将アレクサンダー・フォン・ファル
ケンハイゼン(1935〜38)である。ゼークト元帥は、ドイツ国防軍の創始者として威信と名声を博した人であり、
1933年にも中国を訪問している。
 この軍事援助は、軍需品貿易と密接な関係を持っていた。国防軍の有力な軍人で、ナチス党員でもあるワ
ルター・フォン・ライフェナウ将軍(国防省及び陸軍省の大臣官房長、ミュンヘン管区司令官を歴任、1940年、
元帥に昇進)は、1939年に中国を訪問し、「ハプロ条約」の成立と運営に努力した。軍事施設団は、ドイツ国防
軍を中国に強く結びつける作用をするとともに貿易の利益に奉仕した。
蒋介石がドイツ使節団を招いたのは、対日線に備えるためというより、共産軍掃討を目的にあったと思われる。
しかし上海事変以後は、対日戦準備及び指導上において貢献するところが大であった。
(戦史叢書支那事変陸軍作戦<1>p108〜109)

補足、この期間は、ヒトラーがドイツを掌握する以前から、掌握の過渡期までの話です。
次回は、同じく戦史叢書からトラウトマン工作時のドイツの事情を紹介しようと思います。
88えICBM:2006/02/16(木) 05:26:45 ID:???
>>83
>広田に関しては、人物的に好きですが、現役陸軍大臣制を復活させた点が、大きな失点となったようです。

これ、私の勘違いでした。
89名無し三等兵:2006/02/16(木) 06:09:45 ID:???
やっぱり極右のイナゾウは南京大虐殺を華麗にスルーだな

90えICBM:2006/02/16(木) 06:23:35 ID:???
南京攻略の作戦面もやるべきか、やらざるべきか?

他の南京スレは算数スレだからここで軍事面をきっちりするのも悪くない。

>イナゾウ氏
頑張れ。
91ue ◆WomMV0C2P. :2006/02/16(木) 07:05:52 ID:???
廣田が処刑されたのは支那事変当時、文官として近衛の次に序列が高かったからと言われています。
東京裁判は結果が最初から決まっていた出来レースなので、当時の最高位の文官を一人処刑しようと
決まっていたそうです。近衛が自殺したので廣田にそのお鉢が回ってきた、と。

廣田はいい迷惑ですね(w
92名無し三等兵:2006/02/16(木) 20:47:37 ID:???
昭和七年から九年の、荒木貞夫のいう非常時に、
陸軍皇道派は日米親善を目指して
外交官斉藤博らと新たな条約が結べないかといろいろ探っていたが
広田外交がアメリカを激怒させ対日不信感を植え付けてしまった。
93えICBM:2006/02/16(木) 22:23:15 ID:???
>>91
東京裁判の判決であるが、11人の判事による多数決で刑を決定している。
これらの判事は死刑判決の際、コンスタントに賛成、コンスタントに反対、状況に合せて賛成反対を判断
の三派があった。
パル判事はコンスタントに反対派だが、意外にもウエッブ判事長やソ連代表判事は、自国には死刑制度
が無いと言う理由でコンスタントに反対している。
廣田被告の場合は、一人の状況判断派の判事が死刑支持したため、6対5で死刑判決になっている。
東京裁判は出来レース的部分のあるが、そうでない部分もかなりある。
94四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 22:25:43 ID:pfJd3+Lt
>>74 >>馮玉祥著「我が義弟 蒋介石」のトラウトマン工作の所と、見比べているのですが、

参考までに、蒋介石・国民政府の『国防最高会議議事録』を取り上げてみましょう。
馮玉祥の遺記とかなり重複しますが、こちらの方がより詳しく、また蒋介石の考え方が
よく伝わってきます。

何故、このような記録が世に広く出回っているかと言えば、重慶からハノイに脱出した
汪兆銘が暴露したからです。1939年1月1日、国民党中央部が汪兆銘の『党籍剥奪』を公表、
このことに強いショックを受けた汪兆銘は年1月8日、ハノイで『一個の例を挙げて」と
題して、以下の国民党・議事録を明らかにします。

この議事録は、トラウトマン駐支独大使の斡旋による『和平条件案』を討議した際の記録で、
日本との和平が『汪兆銘の単独意思』ではなく、挙国一致の主張であったことを訴えた
ものです。相当長くなりますので、読まれる方は覚悟してください。要約すると以下の通り。
95名無し三等兵:2006/02/16(木) 22:31:54 ID:qeRT5UKC
『諸君!』3月号の中西論文によると、
英国で出版された本とかで、旧ソ連資料を基に、
張作霖爆殺事件はソ連がやったとか、衝撃的な事実が書いてある。
また、確実な史実として、盧溝橋が日中全面戦争に発展した原因といえる、
大山中尉事件や第二次上海事件を仕組んだ、上海・南京防衛総司令官は
共産党員だったんだと。
96四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 22:38:24 ID:pfJd3+Lt
【国防最高会議:第54次常務委員会議事録】

時 :民国26年(西暦1937年)12月6日、午前9時
場所:漢口中央銀行
主席(代理):汪兆銘副主席
秘書長:張羣、秘書主任:曽仲鳴
出席者:干右任、居正、孔祥煕、何応欽
列席者:陳果夫、陳布雷、徐謨、翁文*、劭力子、陳立夫、董顕光

以下は、徐謨(外交部次長)が国防最高会議で報告した内容です。
97四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 22:57:02 ID:pfJd3+Lt
>>96 の続き。
トラウトマン(駐支独大使)は11月28日、ドイツ政府の指令によって孔祥煕院長と
会見、11月29日午前には王寵恵外交部長とも会談した。トラウトマンによると、

自分(トラウトマン)は、ドイツ政府の指令により次のような訓令を受けた。
すなわち、ドイツ駐日大使(ディルクゼン)が東京において、日本陸軍および
外務両大臣に会談して、●日本が現在の局勢を終束する意思があるか否か? 
●また終束するとすればいかなる条件を望むか?を打診した。

日本政府は最終的に「数項目にわたる和平条件」を提出して、ドイツに中国当局へ
伝達するように依頼した。
98四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 23:15:07 ID:pfJd3+Lt
>>97 の続き。その和平条件とは、

@「内蒙の自治」 
A「華北の無駐屯部隊地区の拡大」

*ただし、華北の行政権は全て中国側当局に属するが、将来抗日的な人物を
 華北の「最高首領」として派遣しないことを希望する。現在、終束させる
 ことができればこのような方法があるが、もし将来、華北に新政権が成立する
 ならば、その新政権に任せることになる。ただし現在、日本には華北に新政権を
 樹立する意思は無い。現在交渉中の鉱業開発の件については、継続処理する。

B上海の停戦区域を拡大する――*いかに拡大するかを、日本は提案してきて
 いないが、上海の行政権は従来どおりとする

C排日問題については昨年、張羣部長と川越大使が表明した態度に従い、
 詳細な方法については技術的問題となる
99四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 23:28:02 ID:???
D防共問題:日本側ではこの問題について、適当な方法を希望している
E関税改善問題
F中国政府は、外人の中国における権利を尊重すべきである、以上。

トラウトマン大使は、孔祥煕院長と王寵恵外交部長に会見後、蒋介石委員長にも
会見したいと希望したため、直ちに電報にて指示を要請した。蒋委員長は、トラウト
マン大使と会談することを折り返し返電してきた。

私(徐謨・外交部次長、以下同)は11月30日、トラウトマン大使とともに南京に
同行したが、船中トラウトマン大使と談話したとき、彼は次のように述べている。

●欧州戦争(第一次大戦)のとき、ドイツは幾度か講和すべき好機があったが、
 自己の力量を過信して講和に応ぜず、ベルサイユ条約締結時には、いかなる
 条件も感受せざるを得なかった。
100四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/16(木) 23:45:30 ID:???
●中国の日本に対する現在までの抵抗で、すでに「抗戦の精神」は十分に表示
 されており、現在がその終束の時期ではないか?

●ヒトラーは、中国の(和平への)考慮を希望し、また彼の見たところ、
 日本の条件は必ずしも苛酷なものではないと考えている

12月3日、南京に到着。私はまず蒋委員長に会見、蒋委員長は私が述べたことに
対して考慮した後、南京にいる各将領と相談することとなる。

午後4時に再び会見。列席者には、●顧祝同●白祟禧●唐生智●徐永昌がいた。
蒋委員長は、私にトラウトマン独大使が南京に来た理由を報告させた。その後、
列席者から「その他の条件は無いのか?」「わが国の軍備を制限するのか?」など
質問があったが、

私は『ドイツ大使の言うところによれば、現在出されている条件だけで、その他の
条件は全く無い。もしこれに応ずるなら、すなわち停戦できる』と答えた。
101四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/17(金) 00:03:17 ID:???
蒋委員長はまず、唐生智に意見を尋ねたが即答が無い。白祟禧に何か意見があるか
尋ねると、白祟禧は「このような条件なら何のために戦争したのか?」と言った。

私(徐謨・外交部次長)は「トラウトマン大使の提示した条件は、この数項目の
条件だけである」と答えた。蒋委員長は、次に徐永昌の意見を求めた。徐は、

「この条件だけなら応じても良いと思う」と答え、顧祝同も同意見であった。再び
唐生智の意見を聞いたが、彼もまた各人の意見に同調した。最後に蒋委員長は次の
ように決断した――。

●ドイツの調停は拒絶すべきでなく、このような条件なら『亡国的条件』とならない
●華北の政権は確保を要する

同日(12月3日)午後5時、トラウトマン独大使が蒋委員長と会見。私は通訳として
陪席する。トラウトマンが蒋委員長に説明したことは、漢口で孔院長と王寵恵部長に
説明した内容と同じものであったが、一言だけ付け加えてこう述べた。
102四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/17(金) 00:15:59 ID:gJGekTJd
●もし現在これに応じなければ、戦争は再び進行してしまい、将来提出される
 条件は、この程度では済まなくなるであろう

蒋委員長は、トラウトマン大使に対して次のように表明した。

●日本は信ずるに足らず。日本は条約を破棄するであろうし、話も信頼できない。
 しかし対ドイツについては友好的であり、今回の調停の努力は『ドイツが調停
 したい』という好意であると信じて、各項条件を交渉の基礎および範囲としたい 

 ただし次の2点については、ドイツ政府に報告してもらいたい

●わが国が日本と交渉中、ドイツは終始、調停者となってもらいたい。すなわち
 ドイツは最後まで仲裁者となって欲しい
●華北行政の主権はあくまで維持する。この範囲内で、先の条件を交渉の基礎としたい
103四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/17(金) 00:27:57 ID:gJGekTJd
トラウトマン独大使は、さらに一言付け加える許可を得てこう言った。

「交渉中、中国政府はさらに譲歩する態度を取れるや?」

蒋委員長は「両方一様になら」と答え、さらに「戦争はこのような緊急事態に
入っており、調停の方法も無い。交渉が進行する段階では、ドイツは日本に
対して『まず停戦せよ』と表明してもらいたい」

これに対してトラウトマン独大使は、「蒋委員長の提言した2点については、
本国政府に伝達し、もしドイツが双方の中に入る調停を望み、日本も望むなら
ヒトラー元首から中日双方に対し、まず停戦することを提案してもらうであろう」

さらに蒋委員長は、「もし日本が自ら戦勝国とみなして宣伝するなら、中国は
各項の条件を承認しても、それ以上の交渉は継続できなくなるであろう」
104四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/17(金) 00:32:51 ID:gJGekTJd
帰途、トラウトマン大使は「今回の会談は希望が持てる」と言っている。

また南京を出発するとき、トラウトマンは蒋委員長に対して「この条件は
決して最後通牒ではない」とも言っている。彼は船中より、東京および
ベルリンに電報したが、現在に至るまでも回答が無く、その後いかに
発展しつつあるか不明である。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
105四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/17(金) 00:53:42 ID:gJGekTJd
非常に長くなりましたが、上記が1937年12月6日の話です。そして>>43>>44
話が繋がっていく訳ですが、お暇な方は一度戻って見るのもいいでしょう。

連投が続きまして、いかにも読む気が無くなりますがw、>>102>>103 だけでも
目を通していただければ話が早いと思います。

蒋介石がいかに日本を信用していなかったか、そして和平交渉でドイツを頼りに
していたかが如実に理解できるでしょう。

トラウトマン工作の破綻後、日本は数多くの特務工作で重慶政府との「和平ルート」を
探る訳ですが、蒋介石が相手にしなかったのも腑に落ちます。

ドイツのような、日本が約束を反古にすることが出来ない『公証人』が必要だった
訳ですw。『独国のカード』が無駄になった後、蒋介石と日本がお互いに納得できる
ような第3国の仲介は他にあったのでしょうか?
106四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/17(金) 01:24:30 ID:???
延々と述べてきましたが、上記の『最高国防会議:議事録』は日本側の
「第1次案」を討議したものです。

12月22日にディルクゼン(駐日独大使)へ手渡した「第2次案」ではないので、
お間違えのないようにw。
107四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/17(金) 01:44:51 ID:???
>>89 >>やっぱり極右のイナゾウは南京大虐殺を華麗にスルーだな

中佐は、私に忠誠を誓った尖兵です。極右も極左も、私の前ではあまり
意味がありません。

>>90 >>南京攻略の作戦面もやるべきか、やらざるべきか?
>>他の南京スレは算数スレだからここで軍事面をきっちりするのも悪くない。

病気(精神)の中佐が、「作戦面はきちんと押さえたいと思いますけど、
虐殺論議になると、スレが崩壊するのでイヤン」と口をパクパクさせていますw。
108元前スレ32:2006/02/17(金) 01:52:57 ID:???
>>107
姫様、中佐の意見はもっともだと思います。
それこそ虐殺議論は電波製造器ですので。
109えICBM:2006/02/17(金) 06:15:37 ID:???
では、トラウトマン工作時のドイツの状況についての解説をば、コピペします。

○トラウトマン工作時のドイツ外交姿勢変化と独支関係
 当時のドイツは、中国における利害関係もあって必ずしも親日とは言えないものがあった。
すなわち、ドイツ国防軍及び外務省は、伝統的に日本に対するものとは比較にならぬ程度に、
中国に対して極めて友好的であった。
 中国に派遣されていた中国軍使節団は、支那事変勃発後も依然として活動を続けていたが、
これは日独防共協定締結後でもあったため、日独間に種々の外交上のトラブルを発せさせた。
日本の参謀本部は、ドイツ軍事施設団が上海戦線では直接戦線に進出して中国軍の戦闘を
指揮したとか、上海やドイツ本国にある幾多のドイツ商社が、軍需品を満載した貨物船を香港
向けに続々繰り出している事実を指摘し、防共協定盟友のこの活躍ぶりに憤慨して激しく抗議
した。
 当時、ドイツ外交は、いまだナチス支配が確立せぬ過渡期的段階であったため、外務省とリッ
ペンドロップ(注:後の独外相)機関とが同時に平行して性格の異なった政策を追求したため、
外交の二元化、二重外交を来たしていた。
 1933年1月30日、ヒットラー政権が発足するに当たり、ヒンデンブルグ大統領は、同政権をコン
トロールする手段として、外相と国防相は大統領が直接指名する事をヒットラーに約束させた。
ヒットラーはこの約束を表面上守ったが、例えば外務省に対抗するリッペンドロップ機関を活躍
させるなどして次第に外務省を懐柔し、実権を掌握するようになった。このため生じた二重外交
の典型は、36年11月の日独防共協定である。これは始終リッペンドロップ機関によって交渉が
進められ、日本で無く中国に親近感を持つ外務省は、つんぼさじきに置かれた。外務省側も、中
国に敵対している日本に接近するこの協定には一切協力していない。ところで、駐日独大使ディ
ルクセンは、1933年以降にナチス党員となったが、駐支大使トラウトマンは外務省側であって、
リッペンドロップの東アジア外交には抵抗した人物であった。

(続く)
110えICBM:2006/02/17(金) 06:19:37 ID:???
(続き)
 北支事変が勃発したとき、七月二十日、ドイツ外務省は在外公使館に対して厳正中立に立
つ事を通告した。それは中国にある経済的権益のためと、日支の紛争は結局中国の共産化
をもたらすという見解から、事変の早期平和的解決を真剣に希望していたのである。しかし、
ドイツ外交のナチス化とともにヒットラーの外交政策は次第に日本支持に変わっていった。
 先に述べた中国に対する武器援助は、日本の要求により、ドイツは七月中旬に禁輸の公式
決定を行った。しかし実際には従来どおりの武器輸出が継続されていた。十月中旬、ヒットラー
は武器禁輸を命令したが、業界の猛烈な反発の結果、命令を取り消さなければならなかった。
結局武器輸出は翌年の軍事使節団引揚げの時期までつづいたようである。
(戦史叢書支那事変陸軍作戦<一> p455-456)

私も長い間、何で支那事変時の上海にドイツ将校がいるのか不思議であったが、これで納得。
111えICBM:2006/02/17(金) 06:31:13 ID:???
>>107
>虐殺論議になると、スレが崩壊するのでイヤン」と口をパクパクさせていますw。

戦史叢書なんかを読むと虐殺は華麗にスルーして見事な包囲殲滅戦をえがいてますよ。
重要なのは、軍事以外はスルーすることです。
112暫編第一軍:2006/02/18(土) 06:59:57 ID:???
トラウトマン工作について。
10/21 日本側、駐日大使ディルクゼン和平斡旋の希望を伝える。
※上海派遣軍と中国軍激戦中。
11/2  日本側条件をディルクゼンに示す。
11/3  ベルギーで九カ国条約会議開催。
11/5  駐華大使トラウトマン、蒋介石へ日本側条件を伝える。
    蒋介石、九カ国条約会議による和平を希望する。
※第十軍、杭州湾上陸。
11/7  ディルクゼン、蒋介石の意向を日本側に伝える。
※11/10 蒋介石、中国軍へ呉福ラインへの転進を命令。
11/19 重慶遷都を決定。
11/24 九カ国条約会議閉幕。
※11/26 蒋介石、首都保衛軍戦闘序列下令。
11/28、29 トラウトマン、漢口において孔行政院副院長、王外交部長に対し蒋介石との再会談を要望。第一次会談実現。
「緩兵の計の為、会わざるを得ないというだけのことだ。」11/29日記
12/1 駐独大使に対し独外相より日本提案を拒絶しないよう勧告。
※12/1 日本、大陸命第八号にて南京攻略発令。
12/2 蒋介石、軍事長官会議を招集。蒋介石、トラウトマンと第二次会談を行い、日本側条件を基礎と出来ると表明。
「倭寇がドイツ大使に調停を提起したのは、我々が屈服しない為、日本に打つ手がなくなっ
たのだろうか」12/6日記
※上海派遣軍、第十軍、南京攻略作戦開始。
113暫編第一軍:2006/02/18(土) 07:01:31 ID:???
12/7 ディルクゼン、広田外相と会見。広田、前条件に疑問を表明。
   蒋介石、南京退去。
※12/13 南京陥落。
12/21 日本側新条件を決定。
12/26 トラウトマン、孔行政院副院長に新条件伝達。
「日本が提出した条件はかくも過酷である。受け入れる余地は絶対にない。」
12/26日記
12/27 孔、トラウトマンに新条件への不満を表明。
「今日、投降することを除いて和平はなく、抗戦の他には生存はない。(後略)」12/27日記
12/28 蒋介石、汪兆銘等と会談し、新条件を問題にしないことで一致。
1/1 トラウトマンより王外交部長に4条件の細目が非公式に伝えられる。
以降、新条件に関しては成立見込みが無いので省略。
114暫編第一軍:2006/02/18(土) 07:07:10 ID:???
訂正 11/28 29の第一次会談の所は消し忘れですので脳内削除して下さい。

蒋介石がトラウトマン工作に多少とも乗る気になったのは上海戦線が崩れ、かつ九ヶ国条約会議が期待はずれに終わったときですね。11/29日記
イナゾウ中佐殿の仰る通り、トラウトマン工作時か、或いは九カ国条約会議(日本は参加拒否)の時が講和の機会だったと見ます。


115イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/18(土) 22:13:49 ID:???
              ,.、              
           / Yヽ、  __                      ,.-‐-、
    ,、  ,.iゝ‐'''"| l  ハ l |`ヽ!、_,.ヘ    /⌒ゝ,.-''"´ ̄ ̄ `"''ヽr'./    !
   /:::`く: : : : : : :| l ヽ_/ l |: : : :/::::::!   i r'i/          ,ゝ、!    |
   .|:::::::::::\_,.へ-'r‐へr‐-!-rへ_:::::/   | |.Y   ,         ヽ-ヘ  | |
   |__,.へイ`i,,..--'─'─'─'-!、_,.イ>'、.   | !/  / / /  i 、 ヽ、   | | |
   ,.i ヽ,.イ´7:::`ト、_;:ハ::::ハ:::::ハ、_!_,!::::::',く] | i  ハ-!‐ !ハ ハハ‐!-ヽ! ハ | | |
  く/Y´::::!:::::::ハ,.ィ=t;、レ' レ',ィ=t、ハ:::ハ:::|   |イ i  ハ ,'--、レ' ' ,.'--、レ'.、/| | |
  //|:::::イ/レ'i 〈 ト__,!    ト__!〉!7::::|V  / レヘ/ .i,,        ,, i | .! ハ |
 / / |::::::::|::::|::| ""       "ハ::i:::トヽ  ヽハ/ | 人   r─、    ハ. |ヘ ハ〉
 |  l |:::::::::|::::|:ハ、     __   人::|:::| i     レV !>.、 、__ノ_,.イ ハ|ンレ'
  \`|::::ハ::::ハ:::::::i>.、.,____,,..イ´::::iノノノノ       レV/,.ィ i_ _./ 〉`レ'、
  /` |/ i::::Yゝ-'":!`'ー‐r‐''i`ハ|/!/イ         ./i |X|__/X // 7 ヽ、
. / /´   /'´`ヽ、::::ヽ、___il__イく_イヽ|ノ|         / イ |X.|/ X/ | /    i
. | l    〈 、   ,.!、:::::::::::::o:::::::i  /7 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄7__/ X/x | _! ,.、,.ヘイ   //
  ヽ、   ゝ、_,./,.ヘ_:::::::::::::i::::::::ト // ____________________ ./__◎三三_l 'く  ヽ、r〈⌒ヽ. 
   く7    ゝ. '´ ,.`-、:o:::::::', ///ENMA BOOK//i''-ハ`ーハ ヘ \  i/ヽ` /
          /\ /7'"´`ヽ、:::!//  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /  /ーヘ  ヽ ハ  ヽ!`,.、 /
       :イ>:ヽL!、_ ,、 ! .ハ://          /ヽ、/」:::::::L____〉イヽ.  // ̄
        /i、:::::::::ト=='===='i二二二二二二二二i/::/::/::::::::ハ:::::::::::',:::::ヽ.//
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
116イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/18(土) 22:22:48 ID:???
四季映姫:「『VIPくさいです』と表示が出て書き込めませんよ……」

小町:「あちゃー、巻き添え喰らいましたね。VIPは地獄行きですね」
117イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/18(土) 22:32:42 ID:o/r0HjVD
という訳で、今日だけは自分が代理で話を進めますw。

>>64 >>トラウマン工作の失敗と、近衛の強硬意見の陰には、かの尾崎秀實の
>>陰が見え隠れしていますね。

その後になりますが、尾崎秀美は『改造』5月号(1938年4月20日発刊)に
「長期抗戦の行方」という論文を発表しています。その中で、

「しばしば日本に伝えられる如く共産党の勢力は大きくはないと思えるのである。
 実際には依然として国民党が圧倒的な勢力を占めていると思われる」

と主張しています。尾崎とコミンテルンの関係を知る現在から見れば、
「日本と国民党を戦わせよう」という魂胆が露骨に現われていますね。
118イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/18(土) 22:54:12 ID:o/r0HjVD
尾崎秀美と言えば「ゾルゲの諜報団」の一員で有名ですが、

>>彼が近衛の信頼を得たのは西安事件の推移を言い当てた事に寄るものだが、
>>彼はコミンテルンと意を通じているので、出来レースもいいところですね。

ご指摘の通り、西安事件(1936年)の推移を的中させて一躍有名になりました。
その後は論壇誌に執筆し、支那関連の書籍を出し、講演会で大衆に支那を論じ、
『支那情勢の権威』と見なされるようになったことは、特筆すべきでしょう。

もともと尾崎は『朝日新聞』の記者でしたが1938年6月に退社し、近衛内閣の
嘱託となります。第一次近衛内閣が崩壊したあとは満鉄の嘱託となり、支那問題
研究室を主宰しました。

近衛文麿の側近が開く『朝飯会』の主要メンバーでもあります。尾崎がスパイ容疑で
逮捕されたのは1941年10月、太平洋戦争が始まる直前でした。
119イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/18(土) 23:27:10 ID:o/r0HjVD
共産党が最も怖れたのは「トラウトマン工作」が成り、蒋介石の国民党と
日本が和平を結ぶことです。その大義名分の矛先は当然、『防共』が
真っ先に来るでしょう。毛沢東にとっては、元の木阿弥ですw。

また1938年4月には「徐州作戦」が始まりますが、徐州を占領し、津浦線の
打通を終えた後の『日本軍の動向』が共産党にとって大問題となります。

日本軍が華北に主力を戻して、河北省・山西省・山東省の『共産党の殲滅』に
力を注いだら、国民党が南京から重慶に引いたおかげで新たに手に入った
支配地を全て失うこととなります。

尾崎はその意を汲んだか、『武漢作戦』を猛烈に主張し始め、「揚子江デルタと
華北を守ろうなどと退嬰的な姿勢で、永遠の勝利を収めることができるか!」と
内閣や陸軍幹部に説いて回りました。
120イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/18(土) 23:40:55 ID:???
結局、1938年6月15日の御前会議で「漢口」と「広東」の攻略作戦を
秋口に行なうことが正式に決定し、尾崎の努力は実を結びました。

獄中で尾崎はこの時期を振り返って、「1938年は自分の生涯で最も
有意義な仕事をした」と語っています。

反省の色が欠片も見られません。「身も心も売り渡す」とは、こういう事を
言うのでしょうw。
121ue ◆WomMV0C2P. :2006/02/19(日) 00:04:48 ID:???
お疲れ様です。
そう言えば尾崎は取調べ中の拷問で死んだ活動家を除けば、
治安維持法で死刑にされた二人のうちの一人でしたね。もう一人はゾルゲですが。
外患誘致罪の適用が為されなかったのが不思議なくらいでしたが。
122イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/19(日) 00:35:06 ID:???
上告が棄却されて、尾崎の死刑が確定したのは1944年4月5日のことです
(死刑執行は、ロシア革命記念日に合わせた同年11月7日)。

しかし、司法省としては「死刑の執行」をする算段はしばらくありませんでした。
陸軍と外務省が協議して、ゾルゲをソ連に引き渡すことで、ソ連との関係改善の
足がかりにしようと考えていたからです。

その「秘密交渉」をソ連大使マリクと始めていたのが、元外相の広田弘毅です。もし
ゾルゲをソ連に引き渡すことになれば、尾崎の死刑も減じることを考えなければ
なりません。もちろん、秘密交渉は頓挫した訳ですが…。

その際、「外患誘致罪」では日本にとって具合が悪いですよね。面目が立ちません。
123俄将軍:2006/02/19(日) 10:13:57 ID:???
順番は、前後しますが。

>>111
35年の蒋介石が法幣、中国幣制改革の影響ですが、日本軍が、現地で、物資
を調達するだけでも、中国側の法幣と、日本側の日本銀行券、満洲中央銀行
券、朝鮮銀行券に、軍票などで、為替レートに、差が生じるということに
なるのだろうか、などと。

>>94
「我が義弟 蒋介石」ですが、最初から最後まで、蒋介石を糾弾し続けている
わけですが、孫文の三民主義を持ち出して、蒋介石を糾弾するにしても、孫
文の日中両国国民の連合を主張した点に関しては、スルーされているよう
な気もしますが、それはそれとして。

「我が義弟 蒋介石」では、武昌で開かれた最高国防会議後に、蒋介石、汪精
衛、白崇禧、馮玉祥の会話で、汪精衛が、「抗戦というのはわかる。徹底抗
戦とはどういう意味です?」と、白崇禧、馮玉祥にたずねるシーンがあり、白
崇禧「敵を撃退し中国から追い出す、これが徹底抗戦の意味です」、馮玉祥
「すべての失地を回復すること、東北四省だけでなく、台湾、琉球各島を返還
させる、日本は無条件降伏、これが徹底抗戦だ」と答えたとあります。
124俄将軍:2006/02/19(日) 10:26:32 ID:???
>>123
汪精衛は青筋を立てて怒りだし、蒋介石の方をむいて、「夢だ夢だ、この二人
は夢でも見ているんだ、そうだろう?」といった時期が、括弧付きで、38
年の10月に。

中国人の反日感情、抗日を押さえるというのは、日中の経済戦、通貨戦とは別
で、困難ということになるのだろうか、などと考えてみると、日本の軍事的
なオプションの行使というのは、経済戦、通貨戦で、劣勢だったから、と
いうことにもなるのだろうか、などと。
125四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/19(日) 16:48:09 ID:ck73So0X
私に「VIP」の嫌疑をかけるとは……。関係者ともども「地獄行き」です。

>>61 >>ああ、一言「半年や一年は支那で暴れてみせますがそれ以後は
>>わかりません」と言えぬ陸軍軍人の悲しさか。

それどころか杉山元陸相は盧溝橋事件後、「2ヵ月もあれば戦争は片付く」と
天皇に報告していますからねw。「国民政府を対手とせず」の第一次声明後、
近衛は苦悩して以下のような手記を残しています。

「いったいどの辺まで行ったら軍事行動は止むのだろうか? 政府としては、だいたいの
 目安を知っておかないと、口に不拡大を唱えても手の打ちようがない。しかし、軍部大臣
 以外のものは、私はじめ各閣僚とも何の報告を得られないから、毎日ジリジリしていた。

 中支最高指揮官の松井大将が出発の際、私は東京駅まで見送りに行ったが、そのとき
 松井大将は杉山陸相に『南京まで行けるように陸軍をまとめろ』と言い、私に対して
 『自分は南京まで行く。総理も諒解していて欲しい』といって出発した。
126四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/19(日) 17:10:08 ID:ck73So0X
 そこで陸相にその点を問い質してみると、『松井はああ言うが、とても南京まで
 行けない。せいぜい蕪湖(南京の西南80キロ)ぐらいで止まるだろう」という
 返事であった。

 ところが、南京はおろか漢口まで行ってしまった。軍部は支那事変に対して、
 確固たる大計画が建っていなかったのではなかろうか。情勢に引きずられて
 だんだん伸びていったもののように思われる」

「この(第一次)声明は非常な失敗であった。余自身、深く失敗なりしを認むる
 ものである。したがって、この声明の誤謬を是正せねばならぬという考えのもとに
 再び重慶とのよりを戻すことに種々手を打ったが成功せず、約10ヶ月間は
 重慶との関係はまったく絶えてしまった」

覆水盆に返らず。近衛第一次声明に比べれば、永田議員の「掘江メール」発言など
可愛いものですw。まあ、民主党は滅びるかもしれませんが…。
127四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/19(日) 19:25:02 ID:5U8V3mA/
>>65 >>多田次長の有名な「三嫌譲歩」という言葉をあげておきます。
>>「交渉打ち切りは嫌だ、長期戦は嫌だ、但し近衛内閣の崩壊はなお嫌だ」というものです。

典型的なジレンマですねw。近衛首相に対して、多田中将は以下のように非難しています。

「政府の強硬声明は議会対策のためであろうが、ふつう戦争については強硬な統帥部が、
 このときは一日も早く戦争を止めようとして弱気であった。逆に弱気なはずの政府が
 強気になっていたのは奇怪だ。政府は支那を軽視し過ぎている」 

また、これは今さら言及するまでもない事でしょうが一応、念のために……。

「国民政府を対手とせず」の声明で『相手』と書くところを『対手』とした理由は、
「新政権が樹立され、日本が正式に承認した後でなければ法律上、国民政府を
 否認することができない。そこで国民政府を無視し、新政権とその承認を
 予告した政治的表現」とされます。
128四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/19(日) 19:49:35 ID:5U8V3mA/
説明を聞けば「何となく言いたい事」は分かりますが、果たして支那側に真意が
通じるのか微妙でしょう。

これは小話ですが、ある編集者が歴史の本を作っていた時のことです。原稿を
チェックする校正者が『対手』を『相手』に直す鉛筆書き(疑問点)を付けてきて、

「おいおい、大丈夫かよ? この校正者w」と苦笑したとか。まあ、校正者もピンキリ、
また専門分野も分かれるという話です。

ちなみにこの「近衛一次声明」は、外務省の一課長が原案をつくり、広田外相が閣議に
かけて決定したものです。

蒋介石の国民政府が首都南京を放棄したことをもって、『地方政権に転落した』(別の
新政権の成立を期待する)とする論理は、日本が延々と続けてきた『分治工作』の
考え方から結局、脱却できていなかったという事でしょう。
129名無し三等兵:2006/02/19(日) 19:56:54 ID:hOLsnh+C
宋美齢とかが米国議会で魅力的な演説をして米国の対中支援をガッチリ得ていた訳ですが、
ああいう蒋介石の対米工作について日本側は米国へのロビー活動とかなんとか
外交努力はむりだったんでしょうか?
130名無し三等兵:2006/02/19(日) 20:11:26 ID:???
杉山は政党代表の中島知久平と永井柳太郎が強硬論を述べると
ポツリとこんなバカこと言う奴がいるから驚くと漏らしたらしいですが
何考えてたかさっぱりですね。
131俄将軍:2006/02/19(日) 20:15:07 ID:???
同じ主張をしているようにみえても、何故、そのような主張しているかという
ことになると、立場によって、全く異なるということになるのか、などと。

戦後日本の非武装中立論も、思惑は、色々ということになるのか、などと。
132名無し三等兵:2006/02/19(日) 21:20:15 ID:hOLsnh+C
日露戦争前に帝大の七博士が桂太郎に強硬論をわめきに逝たのを思い出す。
133四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/19(日) 21:58:47 ID:x1MOL1fY
>>72 >>トラウトマン和平が成ったとして、第二第三の盧溝橋は確実
>>日中和平は成立しましたが共産主義インターナショナルは永遠に不滅です

最近、『禁忌』を破って別宮翁のサイトにある「支那事変」を読んでいるのですが、
一番印象に残っているのが、盧溝橋事件の犯人探しの部分です。5つの可能性を挙げて

●日本軍謀略説●第29路軍射撃説(故意または偶然)●国民党謀略説(藍衣社)
●共産党謀略説●その他(他軍閥または民間人)

それぞれ検証している訳ですが、最終的な別宮翁の回答が『国民党謀略説』(藍衣社)
です。私は「共産党謀略説」を信じていましたが、宛平県城の守備についていた
第3営長(大隊長)の金振中に「共産党関係者」が命令した事実が認められない
という理由で否定されています。う〜むw。

まあ、翁の「国民党謀略説」も限りなく黒に近いグレーという結論なのですが…。
134四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/02/19(日) 22:23:22 ID:???
なぜ、別宮翁のサイトを『禁忌』にしていたかと言えば、ミスリーディング(誤導)
されるのを怖れたからですw。

翁の記事を読んで何となく記憶が残る→ソースが曖昧なまま、うっかりスレに書き込む
→間違いの指摘を受ける→さらにネタが別宮翁のサイトだとバレる→晒し上げを喰らうw

翁の『断言癖』は改めた方が良いかと思いますw。まあ、であるからこそ、短期間で
あれ程の人気【信者】が獲得できたのでしょうが…。あと文章が生硬すぎるのは何とか
ならないでしょうか。

「支那事変」の感想ですが、上海の発展史など、あまり指摘されることの少ない部分も
積極的に取り上げていますから、「ためにはなる」のではないかと思います。むしろ
マイナー人物の珍しい写真があるのに驚きました。

「第29路軍の兵士」の写真など…。いつも思うのですが、別宮翁はどこから
あのような写真を入手してくるのでしょうか?
135えICBM:2006/02/19(日) 23:29:39 ID:???
○ブリュッセル会議
蒋介石は11月6日、駐支独大使トラウトマンに対し和平工作に応じられないと伝えている。
ディルクセン駐日独大使は8日、廣田外相を訪ねこれを次のように伝えた。

一、中国は日本側の現状回復(事変前の状態に帰る)の用意が無ければ交渉に応じられない。
条件の一部については話し合いが可能であるが、これも原状回復後のことである。
 平和条約の締結は両国の将来にわたり友好関係の礎石となるものでなければならない。
二、中国は目下ブリュッセル会議において審議中の列国と協調中なので、日本側の条件を公式
に了承することはできない。
(戦史叢書支那事変陸軍作戦<1>P458より)

蒋介石はブリュッセル会議が芳しくない結果になったあと、トラウトマン工作に乗り気になる。
ブリュッセル会議に対する日本の態度と、会議の流れは以下のとおりである。

 第18回国際連盟総会(9月12日から開催)の10月6日における決議によって示唆された九ヶ国会
議が、ベルギーのブリュッセルで開催されることになり、10月21日、駐日ベルギー大使から廣田外
相に招請状が手交された。日本政府は、27日の臨時閣議で検討した結果、東亜の事態は九ヶ国
条約成立当初とは著しく異なること、今度の会議は、日本を条約違反者と判定し、かつ中国の抵
抗を弱めないと決議した連盟の勧誘によるもので、公正な判決を期待できないこと、日支両国の生
存に重大な関係を持つ問題を、東亜にほとんど利害関係を持たない国をも含む多数国の会議で
解決を図る事は事態を紛糾させるだけであること、などを理由に不参加を決定し、ベルギー大使に
回答するとともに政府声明を発表した。
 この日、廣田外相は、英米独仏伊の各国大使を個別に引見し、ブリュッセル会議不参加の理由を
説明したのち、これは余談だがと前提し、日支両国が直接交渉を開くための第三国の好意的橋渡し
は受諾する用意がある事をあきらかにし、事変解決条件として、10月1日決定の「支那事変対処要
綱」の和平条件の輪郭を打ち明けた。

(続く)
136えICBM:2006/02/19(日) 23:32:42 ID:???
(続き)
 ブリュッセル会議は、10月3日から開催され、非加盟国であるソ連も招かれて参加した。中国代表
顧維釣は、会議参加国が日本に対し同義的、物資的並びに経済的圧迫を加える事を要請した。15日
の本会議に日本を糾弾する宣言案が上程されたが、イタリアが強硬に反対し、スカンジナビア三国が
棄権して15カ国が宣言を採択した。宣言は「各国代表は条約の規定を無視する日本に対し共同態度
を執ることを考慮する」と発表した。会議は中国代表の希望するような日本に対する制裁措置実施ま
で発展せず、11月24日無期休会に入った。
注 イタリアは、11月6日、日独防共協定に参加し、12月1日、満州国承認、同11日、国際連盟を脱退した。
(戦史叢書支那事変陸軍作戦<1>P454〜455より)

トラウトマン工作は結局失敗に終わるのだが、ブリュッセル会議を巡る日本と中国のすれ違いが無ければ、
平和協定樹立の可能性はあっただろう。
ただ、それで日中間の問題が解決するわけでなく、結局同様の事変が勃発したのは確かだろう。
137えICBM:2006/02/19(日) 23:38:19 ID:???
>129
宋美齢の米全土における援蒋活動は日米開戦後です。
アメリカは対中支援を行っていたのは確かです。
しかし、日米開戦前における蒋介石による米議会ロビー活動の有無、規模は・・・どうなんでしょう?
138えICBM:2006/02/19(日) 23:47:20 ID:???
>>133
その5つですが、全て可能性がある上に、全てが日中全面戦争に拡大する可能性が大ではないかと。
現地日本軍の中国感などを読むと、やっちまえ的雰囲気が多々あります。
これは、中国側でも同じようなものだったでしょう。
反日感情が高まる中国で現地軍と日本軍がご近所なのだから紛争が起きないほうがおかしいでしょう。
139名無し三等兵:2006/02/20(月) 08:12:02 ID:???
宋美齢(蒋介石夫人)宋美齢からアメリカの友人への手紙

総統司令部、中国 一九三八年一月五日
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州、ミセス・ミリアム・H・クラーク

私たちは限られた装備と資源でもって、私たちの自由のために最善をつくして戦っています。
非戦闘員の男性、女性そして子供に対する大規模かつ無制限な虐殺は、想像を絶しますが、
現在も行われているのです。
日本軍は宣戦布告もせずにまったく残虐に、そして国際法や人道主義をまったく無視して、
最新鋭の武器を使うことができると信じているのです。

彼らは上海と南京の間で五体満足な男性すべてを一人ずつ、あるいは束にまとめて射殺しているのです。
わずかに生き残った五体満足な男は、日本軍の使役を強制されています。
南京において彼らは冷酷にも何千人も屠殺いたしました。
同様な虐殺は華北全体でも行われてきています。
日本軍は、世界が彼らを恐れている状態が続けられると思っている限り、虐殺行為を続けるでしょう。

中国において私たちは、補給が得られる間は戦えます。
しかし、もし補給が得られなくなれば私たちは敗北することになりますが、それはアメリカと
イギリスおよび他の諸国が日本を助けたがゆえに中国は敗れて亡びるのであって、日本自体に
負けるのではありません。
私たちは、アメリカ政府がなぜ、戦争が始まる前に買ってすでに支払いも済んだ飛行機を、中国
に届けることを中止したのか理解できません。
それらの飛行機はここにはまだないのです。
こうしたことや同様な行為が日本に勇気と自信を与えているのです。

いま、私の国を襲っているようなおぞましい出来事から、アメリカの美しい家庭が自由で
あることを私は祈っています。あなたの好意に深い感謝をこめて、どうぞよろしくお願いいたします。
                     敬 具 宋美齢 (蒋介石夫人)
140イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/20(月) 22:23:42 ID:+QZTW6zr
仕事で手痛い「うっかりミス」をしてしまい、気を引き締めるためにも
初心に戻って元のコテハンに戻させていただきますw。ちょっと最近、
公私ともに弛緩し過ぎました…(藁)。初代スレの自分に戻りますw。

永田議員に比べれば自分のミスは屁みたいなもの、と思えるのが慰めです(核藁)。

まあ、四季さまには『近衛第三次声明』の後で、近衛首相に一発カマして
貰えればと思っております。

>>92 >>昭和七年から九年の、荒木貞夫のいう非常時に、陸軍皇道派は
>>日米親善を目指して

いっそのこと、皇道派が天下を握って「対ソ戦」をオッパジメてくれた方が
良かったかもしれないと思う時があります。ノモンハン事件のもう少し酷い
負け方をして、皇道派が総パージ。その後に統制派が天下を握ると…。
「作戦の鬼」小畑敏四郎に期待ですw。
141名無し三等兵:2006/02/20(月) 22:26:23 ID:???
小畑らの対ソ戦略は基本的に守勢。
服部や辻の方がはるかに積極的。
142イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/20(月) 22:40:20 ID:+QZTW6zr
>>83 >>私としては、手元に「戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>があります。

ああ、自分は「戦史叢書」を持っていないので、「支那事変」関連だけでも
買い揃えようかと考えています。多分、買わないと戦闘部分にはいつまで
経っても入っていけない気がしますw。知り合いに聞いたら支那事変関連は
5、6冊程度とのこと。

文華堂で覗いてみたら一冊6千円前後なり〜w。昼食代を削ってお金を貯めよう
と思いますが、パラパラめくって見たら、読むのも相当大変そうです。な〜む。
付属の地図の方が、意外と重宝しそうな気もします。

ちなみに自分は文華堂でほとんど買い物してますが、すぐ近くの篠村書店でも
結構めぼしいものが見つかります。『支那派遣軍総司令官 岡村寧次大将』は
篠村書店で買いました。まだ未読ですが…。
143イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/20(月) 23:09:38 ID:+QZTW6zr
>>83 >>広田に関しては、人物的に好きですが、現役陸軍大臣制を復活させた点が、
>>大きな失点となったようです。

2.26事件後の「軍部大臣現役武官制」復活は、皇道派の真崎甚三郎が『ザオリク』しない
ための措置ですから、広田を責めるのは後述でご指摘の通り、チト酷な気がします。

荒木貞夫が、近衛内閣で「内閣参議(1937年10月〜)」「文相(1938年5月〜)」と
歴任した事実を考えると、統制派の心配は的外れでは無かったと思います。

まあ、近衛が個人的に、陸軍次官だった梅津美治郎を「アカ」だと嫌っていたのも
あるでしょうがw。

>>93 >>意外にもウエッブ判事長やソ連代表判事は、自国には死刑制度が無いと言う
>>理由でコンスタントに反対している。

初めて知った時は、自分も驚いた覚えがあります。特にウエッブ裁判長は、敵意剥き出しでしたのでw。
144暫編第一軍:2006/02/20(月) 23:20:39 ID:???
>>142 イナゾウ中佐殿
戦史叢書は支那事変3冊、昭和17〜18年の支那派遣軍、一号作戦3冊、昭和20年の支那派遣軍2冊、北支の治安戦2冊
ざっと11冊位ありそうです。私も費用と重さに恐れをなして本土決戦2冊しか購入しておりません。床が抜ける。

盧溝橋事件の原因についてですが、私は国民党謀略説は排除できると考えます。
ドイツ顧問を招いての整編計画も未だ途中で、あと数年は準備が必要でした。
また、実際に事変が始まってからの中国軍の作戦指導は、何とかして主戦線を北支から上海方面に移そうとしています。
これは北支からそのまま日本軍が南下して直接中国中心部に侵攻してきた場合、国民党軍主力は海を背に沿岸方面に圧迫撃滅される危険が大きいというのも一因です。
蒋介石が謀略で日本軍との衝突を望むとすれば時期的にも地理的にも盧溝橋事件は望ましくなかったといえます。
145イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/20(月) 23:37:27 ID:+QZTW6zr
>>86 >>○ドイツと中国の軍事、経済関係について >>129 >>宋美齢とかが
>>米国議会で魅力的な演説をして米国の対中支援をガッチリ得ていた訳ですが、

しかし、1927年3月の「南京暴動事件」の時点では、米国と支那の関係は『クソ最悪』
だったことも指摘しておかなければなりません。暴動を鎮圧するために、米英の砲艦は
無警告で200発の砲弾を南京市街に撃ち込んでいます。もちろん、有力な陸兵が
存在しなかったためですが…。もちろん、この時も蒋介石が南軍を督戦していました。

むしろ蒋介石からして見れば、英米に対する「敵対意識」は一生涯ぬぐえず、
ドイツに対する親近感の方が遥かに強かったように思えます。

ちなみに宋美齢は1932年の「第一次上海事変」で、支那兵が野戦病院で十分な手当を
受けられずに死亡していくのを批判され、

「薬を買う方が、兵隊を雇うよりも高くつく」と発言して総スカンを喰っていますw。
所詮、その程度です。
146イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/20(月) 23:46:58 ID:???
宋美齢の発言は、かのマリー・アントワネットが言ったとされる(本当は
別の人らしい)

「パンが無ければ、死ねば?」に匹敵します。…もちろん冗談ですw。

むしろ、そのような過去がありながら、いけしゃあしゃあと>>139
ような事を述べられる「面の皮の厚さ」を日本人は見習うべきでは
ないでしょうかw。
147暫編第一軍:2006/02/20(月) 23:56:25 ID:???
どこの国でもそういう人はいますね。
かつて湾岸戦争後にPKO議論が起こった際、某推進派の先生が「もし自分の子供だったら戦地に送れるのか」と追求され、「うちの子は優秀だから自衛隊なんか入らない」と答えたとか。
148イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 00:00:53 ID:???
>>144 >>ざっと11冊位ありそうです。

あら、知人に騙されましたw。1冊7千円として計8万円弱ですか……。
コミケの1日分の費用(書籍代)ですね。高いのでしょうか? 安いので
しょうか? 金銭感覚が麻痺しています(核藁)。

読む時間も考えまして、ぼちぼち1冊ずつ買っていこうかと考えています。

>>これは北支からそのまま日本軍が南下して直接中国中心部に侵攻してきた場合、
>>国民党軍主力は海を背に沿岸方面に圧迫撃滅される危険が大きいというのも一因です。

トラウトマン工作のすぐ後が、「徐州作戦」(1938年4月)に入りますので、
少し作戦面にも触れていきたいと考えています。事前の蒋介石の懸念は別として、
実際には「包囲殲滅」は厳しかったでしょうね。
149イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 00:18:17 ID:3PXBb/4e
とは言っても、支那を軍事的に屈服させようとすれば

>>国民党軍主力は海を背に沿岸方面に圧迫撃滅される

しか方法が無い訳です。んなことは不可能だと思われる方がいらっしゃる
でしょうが、実際に中共は国民党政権を文字通り「海に追いやった」訳ですから、
可能性が絶無という訳でもありません。まあ、外国軍には無理でしょうが……w。

>>139 よくよく日付を見れば、南京陥落直後ですねw。

>>123 >>馮玉祥「すべての失地を回復すること、東北四省だけでなく、台湾、
>>琉球各島を返還させる、日本は無条件降伏、これが徹底抗戦だ」と答えた

( ゜д゜)ポカーン 汪兆銘では無いですが、『白昼夢』を見ているようですねw。
1938年10月というと、「武漢作戦」と「広東作戦」の真っ最中です。無条件降伏…。
150イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 00:34:23 ID:3PXBb/4e
この直後の『近衛第二次声明』(1938年11月)を受けて、汪兆銘は重慶を
脱出してハノイに向かう訳ですが、武昌の最高国防会議後のいきさつも
あったのかもしれませんね。

>>123 >>35年の蒋介石が法幣、中国幣制改革の影響ですが、

分かりました。いいでしょう。近衛第三次声明と汪兆銘政権樹立まで話が進んで、
四季さまの『説教』が済んだらw、支那の「幣制改革」をやりましょう。

どのみち「戦争経済」は外せません。
151イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 00:44:55 ID:???
ああ! 元のコテハンに戻したら、何て書きやすい! 四季さまには
『不敬罪』にあたりますが(核藁)。
152名無し三等兵:2006/02/21(火) 20:53:45 ID:???
荒木貞夫の日米親善、対ソ戦争方針は高橋是清と近衛文麿にしめした国策覚書にあります。
だいたいの内容は、昭和七年から二年間非常時政策を行い、対ソ戦をするかしないか決定し、
列強との強調、特に日米親善を目指すと言うものでした。
実際には、ソ連は満州との国境に、昭和七年にコンクリート製の地下陣地を築き、
昭和八年にこれを二、三列にし、大型爆撃機を配備したので対ソ予防戦は危険と判断されました。
一方日米親善のほうは、広田外相はあまりのりきではなかったようですが、
駐米大使らの働きかけで広田ハル交換文書というのがはじまります。
しかし昭和九年四月に天羽英二が対中経済援助に反対せよという有吉駐中公使への命令をばらして(天羽声明)
この文書交換はやめとなりました。
そこで五月下旬、荒木貞夫、小畑敏四郎、鈴木貞一らのバックアップで
近衛文麿が留学中の息子文隆に会うと言う理由で訪米することとなります。
もともとは新渡戸稲造の援助でもっとはやくに訪米する予定もあったようですが、
昭和八年に稲造は死に、さらに皇道派と近衛のパイプ役だった
志賀直方らと大内兵衛ら東大の教授らとの喧嘩があったため天羽声明の後になってしまいました。
(志賀、稲造の二人はこの時期、近衛のブレーン集めなどをやっていました。)
帰国後文芸春秋に掲載された近衛の訪米記には天羽声明への文句と共に、
米国ではソ連側の人間が日本がソ連を攻めると言っいたが
こっちからしかけることはない、と言う風に言っておいたとあるので、
この頃には皇道派も自分たちで仕掛けるつもりがなかったと判ります。
153名無し三等兵:2006/02/21(火) 21:39:15 ID:???
板垣の陸相起用は十河信二の進言でした。十河信二は石原莞爾の日満財政経済研究会のメンバーであり、
宇垣流産後には石原の組閣参謀長となりますが、陸軍の反石原派によって追い出されます。
このとき、十河の組閣案は前もって近衛にも伝えられていました。
日満財政経済研究会では広田内閣期に「緊急実施国策大綱」というものを作っていて、
石原はこれを有力な首相候補や財界首脳陣に見せ、日満財政経済研究会の首相候補というものを決めました。
それが林、近衛、平沼の三人です。さらに国策大綱に特に乗り気だった(と思われた)のは政界では近衛、財界では池田成彬だったので、
軍では石原、政界では近衛、財界では池田でこの国策と実行するのだと十河らは考えていました。
首相が、林のあと近衛、平沼と続くのは単なる偶然でしょ。しかし林が首相になったのは偶然ではありません。
広田内閣後、首相候補として主に挙げられたのは宇垣、林、近衛、平沼の四人。
四人中三人が自分のプランを実行してくれると言うときに石原が行動に出ないはずはなく、宇垣内閣流産となります。
その際の十河らの組閣案が陸相:板垣 海相:末次信正 蔵相:池田成彬
このプランは近衛、平沼にも伝えられ、近衛は組閣案の文相に予定されていた有馬頼寧に対して、
組閣するならば、陸相は板垣、海相は末次がいいと述べます。有馬は、その二人はそんな偉いのか、とたずねますが之に対し
「イヤ、僕もよく知らないのだが、陸軍に於いては板垣、海軍に於いては末次が最も信用があるとのことだ」と答えました。
その、『よく知らない』末次を、荒木らと共に内閣参議としました。米内海相は素早く末次を予備役とします。
予備役となったので近衛は末次を馬場内相の後任にすえました。これが大失敗でした。
末次は対中強硬論で、トラウトマン工作の際にも、新条件にさえ、
「こんな条件が国民が納得するか」と噛み付き、近衛が「国民が納得しても和平が出来なければ仕方ない」と抑えることとなり、
「末次は内閣の癌です」とも言うこととなりました。
154名無し三等兵:2006/02/21(火) 21:41:39 ID:???
これに懲りずに板垣を登用したのですが、これには荒木の助言もありました。
もともと、近衛は杉山の後任になんとか小畑敏四郎を持ってくることが出来ないかと荒木と相談しており、
そこに十河信二が板垣はどうかと言ってきたので、近衛は荒木に之を話しました。
後に荒木はこう言います「板垣はわしが中尉で中央幼年学校の区隊長の時の生徒じゃ。
文相として閣議にわしがおれば、この関係で板垣を説得できると近衛さんに申し上げたのじゃ。」
近衛は板垣、荒木、古野伊之助との四者会談を行って板垣にシナ事変の早期解決、さらに陸軍の政治介入の中止まで約束させました。
もちろん、これがうまくいくはずもないのですが。
そうして近衛は杉山と共に強硬論の賀屋興宣蔵相と彼が推薦した吉野信次商工相を除いて、
板垣陸相、池田成彬蔵相、荒木貞夫文相を迎えます。
板垣起用が失敗に終わったと悟った近衛は、十河に対して「板垣は駄目だった」と言うと、
十河は「次官を東条がやっているのが悪いのだ。次官には石原莞爾を持ってこなければ駄目だったのに」と答えました。
155イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 22:30:24 ID:u9K7NvhL
>>153 >>四人中三人が自分のプランを実行してくれると言うときに
>>石原が行動に出ないはずはなく、宇垣内閣流産となります。

石原としては満州事変時の『越境将軍』である林銑十郎を担いだ訳ですが、
刷新を嫌う陸軍中央の圧力に林が屈したため、組閣の土壇場で裏切られます。

本来のカンジの思惑は、板垣征四郎を陸相にすることでしょう。しかし結果は
中村孝太郎ですw。のちにカンジは宇垣に「なぜあんなに反対したのか自分でも
判らない」と詫びたエピソードがありますが、ひょっとすると林より宇垣を担いだ
方がベターだったかもしれません。

最終的にカンジを潰しにかかったのが、陸軍次官である梅津美治郎です。1937年3月に
カンジは少将に進級ならびに作戦部長に昇進しますが、梅津の画策で軍務局長の磯谷
廉介や軍事課長の町尻量基、軍務局課員の片倉衷が転出させられ、さらに後任の軍務
局長に後宮淳、作戦課長に武藤章が来て、カンジは両翼をもぎ取られた形となります。
156イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 22:58:37 ID:u9K7NvhL
>>154 >>十河は「次官を東条がやっているのが悪いのだ。次官には
>>石原莞爾を持ってこなければ駄目だったのに」と答えました。

これも梅津美治郎(と杉山元)の画策ですね。板垣征四郎が陸士16期なのに
対して、梅津は15期で先輩にあたります。板垣が陸相になれば、梅津は次官に
留まることができませんので、支那戦線の第1軍司令官に転任しました。

ヒデキの陸軍次官就任は、梅津の『置き土産』あるいは『最後っ屁』のようなものですw。
この時点では、近衛首相はヒデキのことをよく知りませんでしたし、実務に乏しい板垣に
「能吏」で通っていたヒデキを次官にあてがう事で丁度良いと思ったのでしょう。

1938年6月に板垣が陸相となり、ヒデキが関東軍参謀長から陸軍次官に転任し、関東軍
参謀副長で不遇を囲っていたカンジに、ようやく春が訪れるかと思いきや、今度は磯谷廉介が
上司の関東軍参謀長に転任してきて大衝突w。カンジの艱難辛苦は続きます。
157イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 23:07:57 ID:u9K7NvhL
少なくとも、副長から『関東軍参謀長』に昇進できると思っていたカンジの
当ては大きく外れることになります。そして予備役編入願いを出す羽目に…。

どうでもいいですが、その昔、永田鉄山が首相になるまでの『あら筋』を
どこかのスレに書いたことがあります。

その中で板垣が陸相になる際に、ヒデキの代わりに永田鉄山が陸軍次官になったら
とか書いていまして、今思うと恥ずかしい限りです。板垣と永田は同期(16期)
ですから、実際にはあり得ない仮定です(藁)。な〜む。
158イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 23:23:52 ID:???
>>152 >>もともとは新渡戸稲造の援助でもっとはやくに訪米する
>>予定もあったようですが、

さらにどうでもいいですが、自分のコテハンの由来は新渡戸稲造です。
ですから、正式には『新渡戸稲造中佐』になります(藁)。

厨房のときに『武士道』を原本で読みまして(ほとんど無理やりで一知半解w)、
冒頭のくだりが強く印象に残ったからです。

ベルギーの法学大家ド・ラブレーに「あなたのお国には宗教教育がないと仰るのですか?」
と問われ、「ありません」と新渡戸が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を止め
「宗教なし! どうやって子弟に道徳教育を授けるのですか!?」と繰り返されて、
新渡戸は答えることが出来なかった、というエピソードですね。

まあ、コテハン名は慎重に決めましょうという事で…w。自分は今さら変えようが
ありません(藁)。
159イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/21(火) 23:45:07 ID:u9K7NvhL
>>37 >>首都南京も陥落した「支那事変」の真っ最中、董道寧を敵国の首都である
>>東京に連れて行ったのです。もちろん、西義一も伊藤芳夫も『日中和平』の
>>必要性を訴えてのことですが、董を参謀本部の影佐禎昭大佐に引き合わせました。

>>38 >>董道寧が上海から船で長崎に着いたのが、1938年2月15日。近衛文麿首相が
>>「国民政府を対手とせず」の第一次声明を出したのが、同年1月16日。
>>遥か以前のことでした。

話を一気にここまで戻して再開します。

影佐禎昭は盧溝橋事件当時、野戦重砲兵第二連隊付(中佐)、その直後に砲兵大佐に
進級して支那課長(1937年8月)、謀略課長(1937年11月)、軍務課長(1938年6月)と
支那事変当初に要職を占めた人物です。

董道寧(国民政府:外交部日本課長)は伊藤芳夫(満州国外交部・上海駐在員)と共に
長崎に上陸して、先行していた西義顕(南京駐在満鉄代表)の案内で、影佐と密会しました。
160イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/22(水) 00:00:24 ID:u9K7NvhL
これが1938年2月17日の話です。

トラウトマン工作を打ち切り、「爾後、国民政府を対手とせず」とした
『近衛第一次声明』が1938年1月14日の発表ですから、ほとんど直後の
出来事と言って良いでしょう。

もちろん話が話ですから秘密保持のため、影佐は横浜ニューグランドホテルで
董道寧と日中和平について意見交換をした後に、董と一緒に上京、多田駿参謀次長と
本間正晴:参本第二部長(情報)と会見させました。

そして董道寧が東京を去るときに、影佐大佐は、蒋介石の腹心である何応欽と張群
宛てに信書をしたため、董にその手紙を託します。影佐と何応欽・張群は、日本の
士官学校時代からの友人でした。
161イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/22(水) 00:28:05 ID:???
>>155 >>ひょっとすると林より宇垣を担いだ方がベターだったかもしれません。

チト補足します。カンジからすれば、宇垣一成は『守旧派』に見えて
仕方がなかった訳です。少なくとも、自らが起こす改革を邪魔する存在で
しかなかった。

西園寺公望は、『陸軍に抑えが効く人物』として「宇垣カード」を切った
訳ですからね。

であるからこそ、宇垣の組閣を徹底して潰した(陸相を出さない)のですが、
ひょっとするとカンジの良いように宇垣は御輿に担がれてくれたのかもしれないと
思う事があります。宇垣の機を見るに敏な性格を考えると、何となくですが…w。
162名無し三等兵:2006/02/22(水) 00:35:21 ID:???
>>馮玉祥「すべての失地を回復すること、東北四省だけでなく、台湾、
>>琉球各島を返還させる、日本は無条件降伏、これが徹底抗戦だ」と答えた

当時のシナにこのような意見がある事は日本の強硬論に弾みをつけました。

軍事評論家武藤貞一は、
シナの抗日は失地回復を目的とするから理解できるというものがいる。
しかしシナの抗日書にある失地とは満州のみならず、台湾、琉球、朝鮮まで含まれる。
それでもまだシナの抗日が理解できるというなら、それはもはや日本人ではないだろう。

という意味のことを書いています。
もっとも、武藤は楽観論から強硬意見を述べたのではありませんでした。

シナ事変は満州事変のような局地戦とは違う全面戦争となる。
全面戦争となれば英米ソのどれかがでてきて世界戦争となる。
日本は明治以来本物の国難は無く、日露だってたいしたものではなかったが、
今事変は間違い無く我が国はじまって以来の国難となるであろう。
とし、さらに物資の窮乏や戦時インフレを予測して、それでも強硬論でした。
163名無し三等兵:2006/02/22(水) 00:50:29 ID:???
↑書き忘れすいません。
さらに『関東大震災』のようなような様相となるだろうとし、
焼弾、毒ガス、細菌兵器の投下にまで言及しています。
164イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/22(水) 22:34:52 ID:hWxtn26m
>>162 >>当時のシナにこのような意見がある事は日本の強硬論に弾みをつけました。

ただ今、支那事変の「経済面」を集中的に調べているのですが、上海や南京などの
『中支経済圏』に脅威を与えれば、容易に国民政府は屈服するだろうという楽観的な
見方が盧溝橋事件直後にありました。

これは「支那の戦争能力判断資料」と呼ばれるもので、当時の日本において最高の
水準にあった満鉄本社の東亜果および産業部、東亜経済調査局のベテランを動員して
まとめたものを、さらに参謀本部が要約したものです。

この調査内容・抗戦能力判断は、参謀本部の独断(楽観)ではなく、いわゆる
左翼転向者を主力とする「満鉄調査マン」の意見であることは特筆すべきでしょう。

結論だけまとめますと以下の通り。日付は『1937年7月29日』です。
165イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/22(水) 22:57:04 ID:hWxtn26m
【戦争意思の挫折】

戦争により最も打撃を蒙るのは「中支経済圏」、特にこれを代表する
浙江財閥である。したがって北上する(国民党)中央軍を徹底的に
掃蕩し、中支経済圏に進撃して重大な脅威を与え、財界を混乱に
追い込めば、南京政権との一蓮托生を恐れる彼らは従来の政府支持の
態度を放棄し、戦争意思を著しく挫折することになるだろう。

以上により「全面戦争」が開始される場合、短期間(数ヶ月)の経過で
(支那の)統一的な戦争遂行は不可能になると判断される――。

原文は「旧カナ」ですが、1つの文章が長い長い。これでも読みやすく
した方ですw。

当時、陸相だった杉山元が「事変は一ヵ月位で片付く」と天皇に上奏したのも、
上記のような当時なりの根拠があってのことかもしれませんw。
166イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/22(水) 23:29:35 ID:hWxtn26m
>>162 >>しかしシナの抗日書にある失地とは満州のみならず、台湾、琉球、
>>朝鮮まで含まれる。

『愛国有理』ではありませんが、現実を度外視してでも『強硬論』を唱えれば
民族の英雄、和平を口にすれば売国奴(漢奸)といったノリがありますので、
この辺は『声の大きいヤツが勝つ』日本の軍部とあまり変わらないと言えますw。

まあ、宋の岳飛と秦檜ですね。岳飛は、国民的英雄として絶大な人気があり、
神様にもなって祀られています。他方、秦檜は売国奴として、その像は後ろ手に
縛られて、通りかかる人々からツバを吐き掛けられています。

支那のタチが悪いのは、指導者層が「自分の名前が歴史にどう残るか」を
異常に気にすることです。「政治的決断」に占める部分は大きいでしょう。

東京裁判のような人生の終着駅でならともかく、ヒデキが太平洋戦争の開戦を
「歴史に自分の名前がどう残るか」を考えて決断したはずがありませんw。
167名無し三等兵:2006/02/22(水) 23:40:22 ID:???
軍隊で慎重論が退けられて主戦論が座を占めるのは、歴史的にみてもありがちですけどね。
それこそ古代ローマの昔から。
168イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/22(水) 23:44:32 ID:hWxtn26m
例えば『近衛第二次声明』『第三次声明』が出された1938年末ごろに
なりますと、国民党政府内でも主戦派の蒋介石と和平派の汪兆銘の
対立が再び深刻化します。現代版、岳飛と秦檜です。

この辺は話がもう少し進展したら詳述しますが、主戦派の一部は蒋介石に

「抗日戦に勝利できれば民族の最大英雄、たとえ敗北しても民族の殉教者
 として歴史に名前を残すことができる」

と囁いています。このような「思考形態(価値観)」の連中と戦争をすると
和平の道は遠いですw。
169イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/23(木) 00:07:11 ID:CsvelPKw
>>160 の続き。
影佐禎昭の信書をたずさえた董道寧(日本課長)は、西義顕・伊藤芳夫と
ともに大連まわりで漢口への帰途に付きました。

途中、香港の「リパルス湾ホテル」で骨休みしますが、董の安否を気にして
漢口から迎えにきた高宋武(外交部亜州局長)が一行に合流します。

ここで今後の和平工作について討議した後、リパルス湾ホテルを相互の
連絡場所として定めました。そして董道寧と高宗武は、九竜啓徳飛行場から
漢口へ飛び立ちますが、1938年4月16日に再び両名は香港に姿を現します。

その後の蒋介石政権の反応、とくに影佐大佐が何応欽と張群宛てにしたためた
信書の効果について、日本側の同志に伝えました。
170名無し三等兵:2006/02/23(木) 00:13:23 ID:???
日本側の経済も調べると面白いですよ。
例えば株価。
事変が拡大した昭和十二年八月には株価が暴落しますが、
南京陥落が近付くと急騰します。
この時には軍需だとかシナへの進出で業績が上がりそうな産業だけではなく
松竹のような平和産業も上がります。
そして相手とせず後も上がり続け、
昭和十三年四月ごろまた下がりはじめる、
つまり国民でもちょっと上のクラスの人の間ではようやく事変が泥沼化したという認識が広まっていきました。
松竹の株価がまたおおきく上がるのは昭和二十年五月ごろで、
このころそろそろ戦争も終わりだと考える人が出て来たわけです。
171名無し三等兵:2006/02/23(木) 00:24:06 ID:???
株の購入者がわかると面白そうですね
172イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/23(木) 00:28:17 ID:CsvelPKw
>>170
おお! その株価の推移は「無茶苦茶」面白いですね。ためになります。

>>昭和十三年四月ごろまた下がりはじめる、

「徐州作戦」のあたりですか。杉山元が陸相を更迭されて、板垣征四郎に
代わる直前ですね。

やはり「経済」も深く突っ込まないとダメですね。とりあえず、支那戦線での
軍票関連を手始めに調べているのですが、戦前の日本経済「全般」となると
サパーリですw。それを言ったら、戦前の政治面もかなり怪しいのですが、まあ
自分は元商学徒です。コツコツやれば何とかなるでしょう。

調べれば調べるほど、調べなければならない事が増えていく自分が
日中戦争の『泥沼』に浸かっています(藁)。
173イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/24(金) 02:54:14 ID:+5E/L6/Q
>>169 の続き。
香港に戻ってきた高宗武(外交部亜州局長)と董道寧(日本課長)は、日本側の
同志にこう伝えます。

「蒋介石さんも、影佐大佐の手紙を見せられて非常に感動した。皆さんを介して
 日本の当局に次のように伝えるよう口授した。内容が内容だから、この際
 文書でお渡しすることは遠慮したいが、大事なことだからよくよく聞いて
 くれたまえ。蒋介石さんの意向は、こういうことだ」
174イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/24(金) 03:05:40 ID:+5E/L6/Q
【蒋介石の意向】(1938年2月〜4月時点)

「影佐大佐の何応欽および張群あての信書を自分(蒋介石)も拝見。敵将に
 書簡を送るのは『武士の生命』を敵に預けるも同然、それをも敢えてするのは
 両国国交のために図る誠意のほど、まことに並々ならぬものと感銘し、
 その誠意と勇気に対して深く敬意を表したい。

 当方も武士の情と礼儀をもってこの事実に対し感銘を持続し、絶対に
 公表するなどの事はいたさざるに付き、ご安心を乞う。

 自分は対日折衝の多年の経験から、今回、董道寧および高宗武によって
 もたらされた報告ほど、日本の誠意を感得させられた事はかつて無い。
 よって自分もまた誠意を披瀝する者なるにつき、予めご了承願いたい。
175イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/24(金) 03:14:13 ID:+5E/L6/Q
 そこで自分の申したいことは、中国が日本と戦う『根本趣旨』は、
 『戦わなければ親日が不可能になるがゆえに戦う』ものであって、
 勝敗はむしろ問う所ではないということである。

 この真意がご了承願えるとすれば、自分は左の条項につき考慮する
 用意がある。

 自分(蒋介石)の考える日本の対中国作戦の真の意図は、@対ソ関係に
 おける安全の保証、A対中国経済発展および依存の確保、の2点にありと
 解する。そしてこの2項目の趣旨は原則として自分はこれを承認する。
176イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/24(金) 03:25:34 ID:+5E/L6/Q
 第1項はさらにこれを分類すると、@東北四省(満州)A内蒙、
 B河北察哈爾に関連する問題となり、

 @およびAは他日の協議に譲りたいが、Bは絶対に中国に返却あるべく、
 『長城以南における中国の領土主権確立と行政の完璧』を期せんとする
 当方の建前は尊重されたい。

 右趣旨に了承の上はまず停戦し、しかるのちに各条項を基礎として
 和平細目の交渉に入るものとする――」

以上が、蒋介石の伝言です。高宗武と董道寧は最後に、「以上が蒋介石さんの
言葉だ。これを間違いなく影佐大佐に伝えてくれ」と日本側の同志に要望しました。
177イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/24(金) 03:38:59 ID:+5E/L6/Q
注目すべきは2点です。

>>中国が日本と戦う『根本趣旨』は、『戦わなければ親日が不可能になる
>>がゆえに戦う』ものであって、勝敗はむしろ問う所ではないということである

自分はこれを「日本が中国を対等な国と認めるまで戦う」と解釈しました。もっと
補足すれば、日本は『分治工作』を根本的に改め、国民政府を中央統一政権として
真に対等に扱うべきである、とも取れます。

>>@およびAは他日の協議に譲りたいが、Bは絶対に中国に返却あるべく、
>>『長城以南における中国の領土主権確立と行政の完璧』を期せんとする

満州を承認するかは含みをもたせていますが、「長城以南は中国に返せ」
ということです。防共を名目にした駐兵も認めない『完全な撤兵』を要求
しているのかは曖昧ですが、とりあえず『当方の建前』を尊重してほしい
と述べていますから、細部は交渉如何ということでしょう。
178イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/24(金) 03:52:50 ID:???
結局、何が言いたかったかと言えば、日本の『北支分治工作』が最大の
ネックだった、ということです。

1930年代半ば、せっかく蒋介石が『共産党覆滅』を優先させてくれているのに、
日本はその隙に着々と「北支分治工作」を進め、第二の満州国を目指します。

追い詰められた中共は窮余の一策として、「今こそ大同団結して抗日を
優先させるべきだ。日本の侵略を放置している蒋介石こそ売国奴だ」と
民衆のナショナリズムに訴えて宣伝しますから、余計にタチが悪いw。

「満州国で止めとけば良かった…」というのが、支那事変(日中戦争)を
避ける単純な真相かもしれません。

及ばざるは過ぎたるより勝れり(過ぎたるは及ばざるより悪し)、なんて
言葉もありますが…w。
179イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/24(金) 23:51:44 ID:YoCqUNug
【閑話休題】で書評を1つ…。

『陸軍贋札(にせさつ)作戦――計画・実行者が明かす日中戦争秘話』
(山本憲蔵著、現代史出版会:1984年刊、定価1500円)

著者は元陸軍主計大佐で、支那の「法幣」偽造工作の中心人物です。ニセ札の
製造そのものは「陸軍登戸研究所」で行なわれていましたので、著者は所属して
いた支那課(兵要地誌班)から謀略課(第8課)付に異動して、さらに登戸研究所に
出向するという、ややこしい形式を取っています。

最終的に製造した「法幣のニセ札」の総額は40億元、実際に支那に流通した額は
25億元とされますが、日中戦争後半の『天文学的インフレーション』に埋没して、
期待された経済的ダメージを支那に与えることが出来たかどうかは疑問とされます。

「ニセ札工作」の最初の発案者として、ここでも岩畔豪雄の名前が挙がるのは
興味深いと言えます。
180イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/25(土) 00:14:07 ID:wvbO+EDA
読んで興味深かった点を挙げると、以下の通り。

●ニセ札を作るのに重要なのは、印刷技術より『用紙(製紙)技術』である。
 本物の法幣そっくりに『すかし』や『赤・青・黄の三色の水玉』『絹糸』を
 紙に漉き込むのは困難を極める。もちろん小手先の印刷で表面上の真似を
 しようとしても、すぐにバレるw

●支那の法幣は、アメリカや英国が製造していた。用紙などの未完成品や
 半製品を支那に持ち込んで、仕上げの印刷(一部)をするケースが多い。

●本来なら、日本の内閣印刷局に協力を頼むのが一番手っ取り早いのだが、
 軍票や蒙疆銀行券、中支の華興商業銀行券、日本国内の紙幣、公債増発に
 追われてパンク状態で、支那「法幣」のニセ札づくりに協力するどころでは
 なかった
181イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/25(土) 00:28:00 ID:wvbO+EDA
●支那の法幣が大量に前線に運ばれてくるので、日本軍の『威光』で
 かき集めているのかと思ったら、後でニセ札だと知ったw。
 ――「敵を騙すにはまず味方から」――

●法幣の「ニセ札づくり」は、国民党政権に経済的ダメージを与えたと
 いうよりも、日本が支那本土で必要な物資を獲得するのに、より役立った
 と言うべき。
 
 例えば、大陸打通作戦における「湘桂作戦」の戦場地域は、軍票も南京政府の
 儲備券も通用しなかったが、法幣のニセ札のおかげで作戦上、部隊に必要な
 物資が入手できた、などなど…。
182名無し三等兵:2006/02/25(土) 01:08:21 ID:???
銃で脅して略奪したんじゃないの?
偽札とはいえ一応は購入していたんだね
183名無し三等兵:2006/02/25(土) 02:28:09 ID:???
略奪するたって限界がありまさぁ。
184名無し三等兵:2006/02/25(土) 17:00:17 ID:???
この頃の日本は、現地が暴走したのを中央が抑えたり、
現地が抑えているのに中央がけしかけたり、めちゃくちゃだよな。
185イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/25(土) 22:25:45 ID:VhGj4QjN
>>182 >>銃で脅して略奪したんじゃないの?

可能ならば、きちんとお金を払って物を買うのが一番楽です。この場合は
ニセ札ですがw。しかし、使っている日本人将兵もニセ札だと知らない可能性が
高いでしょう。もちろん、本物の法幣に混ぜて置くなどの処置をしています。

ちなみに極めて少数ですが、支那の国民党政府も日本の軍票を偽造して
ばら撒いています。
186名無し三等兵:2006/02/25(土) 22:45:57 ID:???
>>185
歴史の捏造をするなよ民族差別者め
187イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/25(土) 22:55:11 ID:VhGj4QjN
>>183 >>略奪するたって限界がありまさぁ。

一例として、上海に司令部を置いていた第13軍の例を挙げてみましょう。
第13軍は1941年当時、『将兵約10万人・軍馬1万2千余』の戦力を
有していましたが、これらの「現地自活率」は

●米、乾燥藁100%●味噌、茶90%●馬糧用麦、漬物85%
●肉類80%●甘味品70%●生野菜、醤油60% に及びます。

いずれも1942年には、100%まで現地で入手自活できるように
なっています。しかも第13軍は、物資の豊かな中支が管轄でしたので
米、麦、卵、皮革、綿花、豚毛、建築材料などを「支那派遣軍全軍」の
ために大量に買い付けるなど、非常に苦労していました。

ちなみに上記の支払いは軍票です。まだ儲備券が主流になる前段階です。
188イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/25(土) 23:18:55 ID:VhGj4QjN
さらに「支那派遣軍」は単に自活を求められただけでなく、支那から
戦略物資を日本内地へ送る役目もありましたから大変です。

例えば、鉄、麻、綿花、皮革、特殊金属(タングステン)等で、出来るだけ
多くの物資を占領地で買い付けて、日本へ送っていました。この支払いも
もちろん軍票です。

あまり書きたくありませんが、物資の豊富だった支那戦線に将兵を送るのは
内地から見れば『体の良い口減らし』でもありますw。太平洋戦争後半は
特にです。

そして支那奥地では衣料品や工業製品が極度に不足していたため、例えば
「木綿一反が米5石」という高値を呼んでいました。逆に第13軍のある
上海では「桐油(木材塗料:耐水性が良いためジャンク船なのに使われる)」が
喉から手が出るほど欲しい。

そのため、木綿と桐油の「物々交換」といった事も支那戦線では行なわれています。
189俄将軍:2006/02/25(土) 23:27:38 ID:???
法幣ということになると、真珠湾攻撃前後で、状況が全く異なるということに
なるのか、などと。

中国国内で、物資を調達する場合と、法幣を、ドル、ポンドなどの外貨と、交
換する場合など、為替レートというのは、軽視できないということになるの
か、などと。

軍票も、何時から、使用を試みようとしたのか、ということになるのか。
190俄将軍:2006/02/25(土) 23:32:02 ID:???
>>189
北支を別にしても、日本経済を語るにも、日本本土、朝鮮、満洲だけで
なく、為替レートと、貿易による物資の移動、ポンドやドルといった、
外貨獲得の状況などが、ということになるのか、などと。

戦前の日本経済というのは、誰が、何処まで把握していたのか、という
ことになると、「A級戦犯」と直結するということになるのか。
191イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 00:02:09 ID:VhGj4QjN
>>189 >>軍票も、何時から、使用を試みようとしたのか、ということになるのか。

この質問が一番答えやすいですね。他の「為替レート」云々は調べてはいますが、
複雑すぎて一知半解、とても現段階で分かりやすくまとめるのは無理ですw。

1937年の「第二次上海事変」で派遣された部隊は、とりあえず日本銀行券を携行
していますが、派遣されて1ヵ月も経たない10月22日には、閣議で慌しく軍票の
発行を決定しています。

軍票のみ携行したのは、11月5日に杭州湾に上陸した『柳川兵団』からです。以降、
中支派遣部隊はすべて「軍票支払い」に切り替えられます。そして戦線が拡大、
長期化するにしたがって、1938年9月23日には遂に『軍票をもって一般通貨』とする
決定がなされるのです。

とにかく、支那事変当初に日本が上海で保有していた法幣の額は、僅か200万元に
過ぎませんからお話になりませんw。
192イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 00:24:35 ID:ksc8m9vX
>>189 >>法幣ということになると、真珠湾攻撃前後で、状況が全く異なるということに
>>なるのか、などと。

太平洋戦争が始まってから、法幣のインフレが急速に進みますので関係はあるでしょう。
例えば、支那の4大銀行の1つである『中央銀行券』の発券額面を見てみると、

1942〜1943年には『百円券』が最高額だったのに、1944年には『二百円券』『五百円券』
『千円券』が、1945年には『四百円券』『五百円券』『千円券』『二千円券』
『二千五百円券』『五千円券』まで登場しますw。

支那事変が起きた頃(1937年)は、『五円券』『十円券』が一般に最も多く使用される
紙幣だったと思います。

ちなみに「クソ紛らわしい」ことに、支那の法幣には『伍圓』『拾圓』『壹百圓』と
額面が記載されています。何で『元』と書かずに『圓』としているのか、ご存知の方が
いらっしゃいましたら教えてください(核藁)。
193ue ◆WomMV0C2P. :2006/02/26(日) 00:37:19 ID:???
>>192
と、言うか元の元々の字がそれだからです。

ウォン、元、円は旧字体では全て”圓”と記述されています。
194イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 00:40:19 ID:ksc8m9vX
>>186 >>歴史の捏造をするなよ

では当時の文書を挙げてみましょう。日本の偽造工作に比べれば取るに足らない
程度ですが。

【偽造軍票発見に関する件通牒】(原文はカナ:現代語に約)
昭和13(1938)年8月4日(中支憲警第1025号)

中支那派遣軍経理部長宛 中支那憲兵隊司令官

7月10日より同31日までの間、上海停車場において発見した偽造軍票を左記の
とおり通牒する

1.種類および所有者、入手先の状況
195イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 00:48:08 ID:ksc8m9vX
>>193 >>と、言うか元の元々の字がそれだからです。
>>ウォン、元、円は旧字体では全て”圓”と記述されています。

( ゚д゚)ポカーン……大きな謎が解けました。自分がアホでしたw。
まことにありがとうございます。あやうく「スレを立てる前に
此処で質問を」で聞くところでした。

「書評スレ」でこんな疑問を書いたら、人非人扱いされるところ…w
196イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 01:04:10 ID:ksc8m9vX
>>194 の続き

●7月10日:1円1枚:蘇州南濠街林三和芋畑 煙草商 盧煥編(41)
 (入手先)7月5日、自宅に煙草を購入に来た氏名不詳の支那人より受領

●7月15日:1円2枚:上海北停車場司令部
 (入手先)7月15日、杭州行き客より受け取った後で発見された 

●7月17日:1円1枚:蘇州東中市60号 桃菊生(34)
 (入手先)7月17日、上海孟徳蘭路53号の盟友・花竹峯より旅費として借用

●7月20日:1円1枚:嘉興県王店四喜街 商業 陸卓英(30)
 (入手先)7月16日、ガーデンブリッジ付近にて支那人と交換したもの

●7月25日:10銭17枚:杭州 叫厚郷(21)
 (入手先)杭州西湖において日本人・永尾一由より強制的に交換させられた   
197イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 01:10:58 ID:ksc8m9vX
2.憲兵の処置所見

最近、偽造軍票が多発しているのに鑑み、停車場司令部の出札係と連絡し、
偽造軍票の発見に努めると共に、これらの入手先等について厳重に取り調べを
行なっているが、いずれも偽造であることに気付かずに所持していたようである。

どのケースも任意で提出させたが、これらの偽造軍票は極めて巧妙に造られており
一見したところ実物と変わりがない。また相当広範囲に使用されている模様で
引き続き注意中である。
198イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 01:41:57 ID:???
>>186 >>歴史の捏造をするなよ民族差別者め

「差別するがために「民族」という括りはあるのだよ。

 一体どこの誰に話しかけているか判っているかね? 私がカーキ色の帝国陸軍
 軍装を着ていれば良かったかな? 我々は参謀本部第二部支那課だぞ? 一体何人
 *したと思っているのかね? 闘争と謀略を呼吸するかのように行なう「支那通」
 の集団にかね? 差別主義者? 何を今更!! 半世紀ほど言うのが遅いぞ!!

 よろしい!! 結構だ!! ならば私を止めてみろ自称健常者諸君!! しかし残念
 ながら私の敵は君らなどではないね。少し黙っていてくれよ。私の敵は、重慶の
 国民党政府!! 延安の共産党政府!! いや!! そこに嬉しそうにたたずんでいる男だ!!」
199イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 01:53:50 ID:ksc8m9vX
まあ、自分は「少佐」ではなく「中佐」ですがね(核藁)。

しかし、自分が真から『レイシスト(人種差別主義者)』であるのは間違いなく、
フィリピンのクーデター騒動と非常事態宣言も、しょせん植民地に毛が生えた
ような国だからと割り切っています。
200名無し三等兵:2006/02/26(日) 02:06:46 ID:???
ヘルシングまで精通しているとはw
奥が深いですな。少佐、もとい中佐は。
201イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 22:24:07 ID:BSk5cB+B
>>190 >>戦前の日本経済というのは、誰が、何処まで把握していたのか、という
>>ことになると、「A級戦犯」と直結するということになるのか。

軍票の問題を調べていますと、銀行の頭取といった人たちが頻繁に登場してくる
のに気がつきます。例えば1936年頃、横浜正金銀行頭取の児玉謙次が、当時
参謀本部の第二部長だった岡村寧次と会合しています。このとき児玉は、

「円で大陸での戦争をやるのは無理ですよ」

と語ったとか。軍の政策面を担当する陸軍省軍務局や、情報を扱う参謀本部の
第二部といった部署は、政財界のトップ層と頻繁に意見の交換・調整を行なって
いましたが、戦前の日本経済すべてを把握していたなんて人はいなかったのでは
ないのでしょうか? 

名目的に、賀谷興宣(蔵相)や鈴木貞一(企画院総裁)が「A級戦犯」に
指名されましたが……。現在の日本経済は、誰が何処まで把握しているの
でしょうね。
202イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 22:51:47 ID:BSk5cB+B
>>182 >>銃で脅して略奪したんじゃないの?

日中戦争(支那事変)をやるうえで、この手の話も避けられないでしょうから、
この機会に少し触れておきます。

もちろん、銃で直接脅すケースもあったでしょうが、日本軍が作戦行動中に設営する
部落の住民はたいてい避難していて留守です。なので、略奪というより『戦場泥棒』と
いった方がより正確だと思います。
203イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 23:06:44 ID:BSk5cB+B
戦闘間の設営は、大隊(1000名)単位で村落を占領して、中隊単位で
2、3戸の大きな家屋を探して、小隊ごとに宿舎の分担を決めることから
始まります。そのあと分隊ごとに分かれて、

●糧秣の米を徴発する者 ●副食となる豚・鶏などの家畜を捕獲する者
●畑に野菜を取りにいく者 ●大きな釜などの調理用具を探す者
●炊事用の薪(まき)を取りに行く者 ●土間に敷く寝ワラを集める者

といった『炊事戦争』が繰り広げられる訳です。

もちろん中隊で約150人、大隊で1000人もの大所帯になりますから、
1つの村落の蓄えでは糧秣が足りないケースが多いです。その場合は、付近の
村落まで『遠征』することになりますw。この場合も大抵の住民は逃げている
ケースが多いでしょう。
204イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 23:18:39 ID:BSk5cB+B
『糧秣甲類』の白米は、昼間の作戦中に『部落の掃討戦』などを通じて、
常時2日分ぐらいを携行しているケースが多いですが、副食の肉・野菜は
そうは行きませんね。ですから、設営が遅れて夕方や夜に近い時間に
部落に到着した場合も、待ったなしの「徴発」が開始される訳です。

ちなみに缶詰・乾パンなどが『糧秣乙類』になります。さらに翌日に
携行する「朝昼2食分」を作って飯盒に詰めなくてはなりません。
205イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 23:40:58 ID:BSk5cB+B
さらに行軍中に風雨に晒されたり、水郷地帯や泥湿地帯を進むと、当然の
ことながら衣服はビショ濡れです。

夜は民家にワラを敷いて「ざこ寝」をする訳ですが、火を焚かないと寒くて
とても寝られません。また衣服も乾かさなくてはなりません。

作戦地域が「山系」ならば民家にマキの用意や、時には炭俵の蓄えがある
場合もありますが、「水郷地帯」だったりするとそんなものは皆無です。

当の住民自体が、沼に自生している枯れ葦やコーリャンの殻、雑草、ワラ
などをマキの代用としている程ですから、大勢の兵士たちが暖を取るには
間に合いませんし、火力も不十分です。

で、どうするかと言えば、炊事の段階で民家にある食卓や椅子、寝台、農器具の
クワの柄まで、マキの代用になりそうな木材は片っ端から火に放り込むことに
なりますw。
206イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/26(日) 23:54:10 ID:BSk5cB+B
住民もそう遠くへ避難している訳ではありません。大抵は、部落の近くの
ヤブや廃屋の中で、「ガクガク震えながら」一夜を過ごしています。

朝になって日本軍が出発するのを見届けると、住民たちは飛ぶように
自分の家に戻ってきます。日本軍が設営すると、自分の家の釜や布団が
隣の家に移動していることが多々あるからです。ぐずぐずしていると、
そのまま盗まれてしまいます。

しかし、釜や布団が盗まれるのはまだ良い方で、やっとの思いで我が家の
無事を祈りながら帰ってみると、食卓や椅子、寝台など家財がことごとく
灰になっているケースもあります。

更にひどいのになると、何代も続いた家屋が跡形も無く消滅している
光景に呆然と立ち尽くす住民も少なくありませんでしたw。
207名無し三等兵:2006/02/26(日) 23:59:18 ID:???
あと、便所が満杯なのはデフォ、なw
208イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/27(月) 00:38:26 ID:8BPrUUif
まあ、酷い話だと思われる方もいるでしょうが、こういった「徴発」が
ふんだんに可能なこと自体、いかに支那戦線が物資的に『恵まれた戦場』
だったかが理解できるでしょう。

南方戦線で餓死にした部隊が多くあるのを考えれば、天国に近いですw。伊達に
人口が既に5億人いた訳ではありませんね(藁)。

>>あと、便所が満杯なのはデフォ、なw

便所があるのは、ごく一部の都会だけ。支那の農村に便所はありませんw。
209名無し三等兵:2006/02/27(月) 01:43:28 ID:???
阿片売買などの首尾はどうなんでしょ。
210名無し三等兵:2006/02/27(月) 09:04:44 ID:???
結局は略奪してるんじゃないか
歴史の捏造をするなよ人種差別者め
211名無し三等兵:2006/02/27(月) 11:24:36 ID:???
中佐は、別に「日本軍は略奪して無い!!!11」なんて言ってないのに、何をシャドーボクシングしているんだろうねこのかわいそうな子は。
212名無し三等兵:2006/02/27(月) 17:46:10 ID:???
>>211
なんだその「11」は?野茂の背番号か?
ノーモアヒロシマか、過ちは繰り返しませんって言ってんだから民族差別はやめろ
日本人は歴史の反省が足りない11
213名無し三等兵:2006/02/27(月) 21:15:09 ID:???
脳内シャドーボクシング乙
214名無し三等兵:2006/02/27(月) 21:38:28 ID:???
いや、難易度の高いジョークと見た。
215名無し三等兵:2006/02/27(月) 22:03:27 ID:???
>>211
まあまあ、想像力と言うものはこうやって育まれていくのだなああと思ってそっとしてやって下さい。。

それにしても戦争に関わる経済の話、とりわけ衣食住のネタは大変興味がありますな。
しかし>>187の数字は驚異的ですね。100%に近い現地自活率って‥‥ほんとに近代軍か?
216名無し三等兵:2006/02/28(火) 01:52:38 ID:???
>>215
それが出来たのはアメリカ軍くらいだよ。
イギリスはアメリカにおんぶに抱っこだったし、独ソ戦も似たり寄ったり。

とは言え100%なんてのは支那戦線くらいだろうけど(w
217名無し三等兵:2006/02/28(火) 03:12:08 ID:???
伊達に1930年代から戦ってるわけじゃないな。
218名無し三等兵:2006/02/28(火) 06:41:54 ID:???
まさに蝗軍だな、通り過ぎた後はペンペン草も残らない。
219名無し三等兵:2006/02/28(火) 13:40:32 ID:???
日本鬼子兵が自ら認めたぞ11111111111
つまり100%略奪暴行放火をしていたということが明らかになった
いちご100%だかいちご注意報だか知らんが民族差別はやめろ1111
220名無し三等兵:2006/02/28(火) 17:52:19 ID:???
良スレなんだから無駄に荒らすな。
以後池沼はスルーで。
221名無し三等兵:2006/02/28(火) 22:16:43 ID:???
畑を耕したり鶏に餌やったり豚を追い回したり麺を打ったり饅頭こねたり魚釣りしたり、してたんだなぁ。。。
222イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/28(火) 22:20:20 ID:omfeFvw2
>>207 >>あと、便所が満杯なのはデフォ、なw

今はどうだか知りませんが、当時の支那には「便所」がありません。『不浄』を
家の中に備えてはならないとする、宗教的な発想から来るものと思われます。

その代わり各寝室に『馬桶(マトン)』と呼ばれる便器が備えてあり、各人そこに
用をたします。県城のある都市では郊外に共同便所が作ってあり、農村では各戸に
「野ツボ」があります。これは日本の肥溜めと同じもので、農業用の肥料に使います。

そして夜が明けると、各戸の主婦が馬桶(便器)を持ち出して、野ツボに捨てる訳です。

ここまでは普通なのですが、その後がいただけません。支那では一般家庭で「井戸」を
持っている所はめったになく、多くの井戸が地主や富豪の占有物です。そのため、飲料水を
含めた生活用水をクリークの水や、近くの小川・沼などに求めるのが普通なのです。

もう後は、言わなくても分かるでしょうw。
223名無し三等兵:2006/02/28(火) 22:24:53 ID:???
そういや中国の婦人用おまるがずいぶんきれいな出来の陶器だったから、
それと気づかずご飯入れておひつ代わりにしてたって話があったなあ。

224イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/28(火) 22:32:35 ID:omfeFvw2
まあ皆まで言いますと、米や野菜を洗ったり、洗面や洗濯をしたりする
同じクリーク・小川・沼で、主婦たちが『馬桶(便器)』を洗うのです。

またクリークでは水牛を放牧していますので、牛糞がぷかぷか浮いていますw。
水が黄濁しているケースもありますが、農村ではまったく気にせず口をすすぎ
生活用水に使っている訳です。

まさに『味噌クソ』一緒ですw。
225イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/28(火) 23:00:54 ID:omfeFvw2
>>209 >>阿片売買などの首尾はどうなんでしょ。

正直、阿片関連についてはよく知らないので、いつか調べなければならないと
思ってはいます…。まあ、ヒデキに絡めて少し触れておきましょう。ネタ元は
佐野増彦という当時の陸軍記者の言です。「東条嫌い」を自称するぐらいですから、
多少は話を割り引く必要があります。

佐野はヒデキの「阿片利権」について、しつこく追及しています。

さて、阿片売買は「関東軍」から話が始めるのが手っ取り早いでしょう。そもそもの
発端は、関東軍:奉天特務機関長だった土肥原賢二(1931年〜1933年)が主務者となって
工作を進めていた『華北分治工作』の謀略資金づくりをサポートするためのものです。

当時、阿片は、蒋介石側軍閥の「重要な資金源」となっていました。
226イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/28(火) 23:20:01 ID:omfeFvw2
土肥原・奉天特務機関長は、酒井隆大佐(支那駐屯軍参謀長・当時)と
協議して、熱河産の「上質な阿片」を華北(北京・天津)に密輸する
ことを考えます。そのメリットは以下の通り。

●甘粛や綏遠産の阿片の需要を減らし、蒋介石側軍閥の財源にダメージを与える
●同時に阿片の密輸によって、莫大な謀略資金を手に入れることが出来る

まさに『一石二鳥』です。ここにヒデキがどう関わってくるかというと、
関東軍憲兵隊が、熱河産阿片の華北への密輸を保護していたからです。

ヒデキは1935年に関東軍憲兵隊司令官に転任しますが、上記の阿片密輸の
サポートを前任の岩佐禄郎中将から引き継ぎます。これがヒデキの阿片利権
との出会いです。

ヒデキは関東軍参謀長(1937〜1938年)になると内蒙古侵攻を図りますが、
これは綏遠省の阿片を支配する目的があったとされます。
227イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/28(火) 23:36:58 ID:omfeFvw2
そこでヒデキは「満州国総務部長」だった星野直樹に相談しますが、
星野は阿片政策に精通した人物として『金井章次』を紹介しました。

そして金井は内蒙古を最大級の阿片供給地に仕立て上げ、支那事変以降、
日本の占領地に阿片を販売し続けます。その量は1939年〜43年の間で
約90万キロという膨大なものです。

そして関東軍(日本陸軍)が得た「闇資金」も莫大な額にのぼります。

例えば1940〜1941年の2年間で、上海の「華中宏済善堂」に販売した総量は
22万キロですが、蒙疆政府側の売価は約8千万円でした。しかし、華中
宏済善堂が仕入れた金額は約1億4500万円と記録にあり、その差額の
6500万円がどこかに消えています。

言うまでも無く、関東軍に吸い取られたと考えるべきでしょう。
228名無し三等兵:2006/02/28(火) 23:42:47 ID:???
>>224
インドだって未だに・・・
まあ、中世以来農村はそんなに発達してこなかったのでしょう。
変革する必要性がなかっただけでしょうが。
229イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/02/28(火) 23:51:28 ID:omfeFvw2
その「闇資金」の最大の功労者がヒデキであり、であるからこそ、一旦
出世コースから外れたはずのヒデキが異例の出世を果たしたのだと、
前出の元陸軍記者・佐野は断じます。

しかし、佐野は資料の出所を明かしていませんから、その真偽のほどは
不明ですw。

それにしても6500万円とは膨大な額です。今村均大将の回顧テープに
よると、今村が関東軍参謀副長を務めていた1936年当時、関東軍の表向きの
機密費は年間500万円。今の金額に直すと、約100億円に相当します。

ちなみに陸軍省の機密費は「表向き25万円」でこれに比べるとスズメの涙
ほどの金額です(約5億円相当)。

しかし、阿片利権で得た差額6500万円が「本当の数字」なら、今の金額に
直すと、約1300億円に達する「闇資金」を(2年間で)得ていたことになります。
230イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/01(水) 00:01:35 ID:???
まあ、満州国にはこの手の「闇資金」の話がゴロゴロしていますw。
231イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/01(水) 00:05:36 ID:???
まあ、支那事変が始まってからは、阿片利権の分け前は関東軍だけの
独占ではなく、日本陸軍全体のものとなっていたのでしょうが…。
232名無し三等兵:2006/03/01(水) 00:17:14 ID:???
満州の夜と霧…

これが浪漫だ。
233名無し三等兵:2006/03/01(水) 17:30:36 ID:???
日本鬼子兵1111111民族差別111111111
234名無し三等兵:2006/03/01(水) 17:34:51 ID:???
日本陸軍系のスレでは必ずこういうのって出現するね。
235名無し三等兵:2006/03/01(水) 18:10:34 ID:???
日本鬼子兵のゼムリャアッーフランツァウホッヨシファ諸島の虐殺事件
111111111111111111111111
236名無し三等兵:2006/03/01(水) 21:17:04 ID:???
フランツ・ヨゼフ島まで日本が行けたらある意味感動する
237イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/01(水) 22:16:53 ID:4QH1y9TN
>>232 >>満州の夜と霧… これが浪漫だ。

『阿片王―満州の夜と霧』ですか? 佐野眞一のルポでは、満州国の「阿片王」として
里見甫が主人公に取り上げられています。

ノンフィクション・ライターの佐野氏の著作では、『だれが「本」を殺すのか』の
印象が強すぎて(通称・本コロ)、『阿片王』は手が伸びずに未読なのですが、
今度機会があったら読んでみようかと思います。

というか、よく出版社がこんなマイナーな人物で出したなと思いますw。やはり
しがらみでしょうか。
238イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/01(水) 22:56:47 ID:4QH1y9TN
さて、日本が『阿片売買』を支那で行なっていたと聞いて、罪悪感を感じる人も
中にはいるかもしれません。何て極悪なのかとw。

そういう人は、知らず知らず「現代の日本」を価値基準に考えているからで、当時
阿片は支那全土に蔓延していました。政府の財源として「戒煙収入」(阿片収入)の
徴収制度もあったほどです。日本としては、その密売ルートを乗っ取ったに過ぎません。

「アヘン戦争(1840年)」の由来は、英国がインドで栽培させていた阿片を
清国からの茶・陶磁器・絹の輸入額と相殺させる目的で密輸していた訳ですが、
支那に阿片吸引の悪弊が広まったのはこの時からです。英国の方が、よほど
『極悪』でしょうw。

そういえば、ひと昔のアメリカは『銃』と同じくらい『麻薬』の問題が取り沙汰
されていましたが、最近はあまり報道で聞きませんね。
239イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/01(水) 23:34:23 ID:4QH1y9TN
>>231 と逆説しますが、関東軍はともかく支那派遣軍は「阿片関連」の仕事を
まことに厄介な問題と捉えていたようです。まあ裏仕事ですから、真っ当な軍人なら
関わりたくないのは当然でしょう。下手したら自分のキャリアが終わってしまいます。

支那事変の拡大によって、日本軍の占領地における『阿片欠乏』は甚だしく、その
供給対策を求める要請が官民双方から、日本の特務部に殺到したと言います。

例えば、日本軍に占領された上海では、阿片が極度に欠乏して価格が暴騰し、
黄浦江の沿岸には香港(イギリス領)から来る阿片密売のジャンク船が密集して
治安も悪化しました。そのため市長から阿片の供給を懇願されています。

そして、占領地で特務部が阿片に手を出し始めたとの情報が流れると、前出の
謀略課長(参本8課)の影佐禎昭大佐はストップをかけます。特務部に直接の
手を引かせるため、東亜同文書院出身で支那人に友人の多い「里見甫」に命じて
支那側の適格者を探させました。ハイ、ここで里見が登場してきましたね。
240名無し三等兵:2006/03/01(水) 23:35:21 ID:???
台湾統治では阿片の官売やってましたね。
241イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/02(木) 00:05:32 ID:4D/6CAQw
そして里見が探してきた「支那側の適格者」が、盛文頤という人物です。
里見と盛文頤は合作して、上海の華中宏済善堂を創設し、阿片の配給と収入を
一手に握る訳ですが、現代風に言えば軍によるアウトソーシングです。

ちなみに盛文頤も『アヘン中毒者』ですw。阿片吸引者のご多聞に漏れず、
昼夜が逆転している生活を送り、盛に会う人は面会する時間を午前3時や
4時に指定されて、ホトホト閉口したそうです。

ちなみに占領地における「阿片の欠乏問題」は、上海派遣軍の高級参謀だった
長勇中佐にも相談がいっており、長は「華北政務委員会からも同様の申し出が
来ている」という理由で、阿片の輸入に踏み切ります。

そして間もなく日本郵船上海支店の倉庫に荷物が入ってきますが、このときは
国際条約上の問題もあって、無国籍の船を仕立てて、何とペルシャから阿片を
仕入れています。里見が出てくるのは、その後になります。
242名無し三等兵:2006/03/02(木) 00:07:24 ID:JoWFMdEt
http://jbbs.livedoor.jp/news/3027/

>アジア・太平洋地域、特に中国やフィリピンに存在した日本軍は軍閥・蛮匪集団そのものだったと思います。


蛮匪などという日本語はありません。
とっとと中国へ帰れ!
243名無し三等兵:2006/03/02(木) 00:37:10 ID:???
流れをぶった切りますが、別スレでこんな本が紹介されてますた。

山本武利編訳、高杉忠明訳『延安リポート―― アメリカ戦時情報局の対日軍事工作 ――』岩波書店、2006年2月24日

大戦末期,アメリカの軍事視察団が延安を訪れた.日本兵捕虜を使って有利に戦いを進める
八路軍の戦略にアメリカは多大の関心を示し,中共側も進んで情報を提供した.米戦時情報局が
野坂参三らの協力を得て作成したリポートは,戦後の米中関係の悪化で長い間ベールに覆われて
いたが,この度情報公開された.これはその全訳である.

岩波に目次と頭20P程度のPDFファイルを見つけました。
ttp://www.iwanami.co.jp/.PDFS/02/6/0222710.pdf
244イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/02(木) 00:38:10 ID:4D/6CAQw
里見は「軍が阿片に関わるのは良くない」と言ってきた(自分の売り込み・セールスw)
そうですが、『餅は餅屋』という意味では正しいでしょう。

そして適当な支那人を『自陣営』に引き込み、阿片問題の大方を任せてしまったのは
賢明な判断だったと言えるのではないでしょうか。

まあ、関東軍がどの程度、支那事変中の「阿片問題」に関わってくるかは調べないと
分かりませんが、佐野氏の『阿片王』に少しは書かれているのかしらん?

ちなみに上記で「特務部」という言葉が出てきますが、「公使館(大使館)付武官」の
名称が変わっただけのものです。事変前は、情報収集などの任務に当たっていましたが、
戦闘が始まってからは「占領地行政」に関わっていくことになります。

特務部と聞くと、いかにも謀略機関や悪の組織というイメージが湧きますが、
そうではありませんw。
245イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/02(木) 00:45:00 ID:???
>>242
何ですか? その面白奇特サイトは?w

ああ、ライブドアで「レンタル掲示板」というのがあるのですね。
初めて知りました。
246えICBM:2006/03/02(木) 01:23:05 ID:???
>>238
中国では清の時代からアヘンの規制は何度も出されており、古くは1792年に禁令を出している。
また、イギリスによる中国へのアヘン輸出は1917年、国際アヘン会議により禁止が決まっている。
一度蔓延したアヘンが中国から簡単になくなるわけではないが、財源確保の為にアヘンを密売する行為は、
当時の価値でも今の価値でも問題だろう。

ちなみに、国際アヘン条約なるものが出来たのは1931年だが、日本はこれを批准していない。
247名無し三等兵:2006/03/02(木) 02:50:57 ID:???
つまり、自分達は充分、上手い汁を吸ったくせに
日本が後から同じ事をし出すとそれを公然と臆面もなく、非難するわけですね。

確かに当時の価値でも今の価値でも問題ありますね。
イギリスの行為はw

中国の二酸化炭素排出量に関する言い訳も同じ理屈ですねぇ。
日本はダメでも他国はいいんでしょうか?あなたはおかしな考え方ですね。
248えICBM:2006/03/02(木) 03:12:58 ID:???
>>247
イギリスにも日本にもアヘン密売の免罪符など無いのだよ。
249名無し三等兵:2006/03/02(木) 03:24:11 ID:jt+HJ+Qo
確かにイギリス領インドからの阿片輸入は禁止されたものの、単にトルコ、ペルシャの阿片密輸業者が喜んだだけで終わりました。
満洲や台湾では阿片の官売が行われていましたが、これは阿片中毒者を漸次的に減らそうと言う後藤新平の案であり、
実際に阿片中毒者は徐々に減り、ケシ畑は徐々に減反されていきました。
この専売を取り上げて云々する人がいますが、本当に金のために専売をするならば、阿片常用者があれほど減ることはありえないのです。
しかし事変がはじまるとそうもいかなくなり、昭和十三年に減反政策は撤廃され堂々と阿片生産が行われるようになります。
国民党だってえらそうなことはいえません。
蒋介石と宋家の仲をとりもったのが青幇の杜月笙で、彼は国民党に阿片を公認させました。
杜月笙もまた、上海の阿片利権を握る重要人物の一人です。
杜月笙は国民党から少将の位をもらっており、蒋介石からも上海の財閥からも信頼されていました。
宇垣外相時代には国民党と日本の和平工作の仲介を試みています。
リチェンセンションとチンパンにもなんらかの縁があったのではという証言もありますが、詳しいところはわかりません。
里見は陸軍の飛行機によって熱河→上海のルートを取り仕切っていたようですが、
内陸に回すルート(熱河→古北口)で杜と協力したのではないかと思われます。
250名無し三等兵:2006/03/02(木) 03:26:34 ID:???
ちょっと待ってください。阿片密売って「罪」なんですか?
日本は批准してないんでしょ?
251名無し三等兵:2006/03/02(木) 03:26:49 ID:jt+HJ+Qo
ハムエッグしか食べない里見の金はやはり特務に回っていたようです。
駐上海のジャーナリスト松本重治と大蔵官僚(戦後大蔵次官)で日本のシャーロックホームズ好きの第一人者長沼弘毅が
里見の阿片取引を止めようとすると、特務の塩沢清宣が手紙を出してそれは我々が使っているから止めるなと言ってきたそうです。
12月14日に政府に無断で王克敏政府を作るのに一役買ったのが彼です。
この政府が出来たために中央は和平条件を変えねばならなくなりましたし、
また変えなかったところで蒋介石が言ってることが違うじゃないかと結局和平できなくなることになったと思われるのですが、
塩沢はさらに中央に対して国民党を相手にするなとの主張もしていました。
盛文頤は中国最大の億万長者盛宣懐の甥でした。盛宣懐の漢冶萍公司は日本から資本を得て、大冶の石炭を北九州に供給していたため
日本との縁は深く、そして上海の実力者でした。里見は満鉄時代に津浦鉄道の盛と親しくなりましたが、
他にも盛と親しい日本人はいました。それが鈴木貞一です。鈴木が武官補佐官として上海にいた際に親しくしていました。
話は変わって、阿片生産というのは汚い金を連想させますが、
中国大陸では阿片でなければ通貨として信用されないと言うことが多いので、
中国を旅行するならば阿片は通貨として持ち歩かねばならない、というのも阿片を取り扱う一つの理由でした。
そして阿片と並んでもうひとつ信用があるものが塩です。
そのため、中国在住の軍の経理を扱う東京帝大経済学部出のエリートが塩を計量するという仕事を行うことになりました。
鈴木貞一が興亜院の実力者となると、
盛文頤は裕華塩公司と言う塩の販売会社をつくり、この阿片と塩の両方を扱うことになりました。
東条内閣において対米開戦回避のためには即時中国撤兵という問題が大きくあったはずです。
しかし、閣僚を並べてみれば、東条、岸、星野、賀屋、そして鈴木、みな中国権益に深い縁のある人ばかりなんです。
星野は満洲行政のために阿片専売の収入を充てにしていましたし、
岸が一官僚としても一閣僚としても尋常でない額の金を動かせたのも里見がいたからでした。
この内閣では即時中国撤兵ははじめから無理でした。
252名無し三等兵:2006/03/02(木) 05:10:29 ID:???
>>208
きいたふうなデタラメを撒き散らす。
工作員殿
まことにありがとうございました。
253えICBM:2006/03/02(木) 05:47:22 ID:???
>>252
イナゾウ氏の在中皇軍の略奪行為を暗に批判してると思うがどうだろう?
少なくとも褒めても賛同もしていない。

>>142 イナゾウ氏
おそレスだが、私も戦史叢書は所有していません、全て図書館から借りてます。
必要に応じてコーピーをしていますので、目次だけは必要分20冊程のコピーをしています。
正直、コピーのほうが安く上がりますし、注釈等の落書きを気楽に出来るから安心です。
蔵書してる図書館はおおいようですので、恐らく大きな図書館にはあると思います。
>>114でシナ事変関係は11冊とありますが、私としては「大本営陸軍部<1><2>」も入れるべきかと思います。
また、「関東軍」も満州事変、ノモンハンに関しては詳しく載ってますが、北支分離政策は書いてません。
あと、大本営陸軍部太平洋開戦経緯<1〜5>と大本営海軍部太平洋戦争開戦経緯<1><2>もシナ事変
に関して記されてます。
と、ここまでそろえると10万以上になるので、図書館が現実的な選択です。
そろってるとこなら、全巻100冊以上もあるので益々図書館ですね。

ところで、今私が読んでるのは大本営陸軍部<2>ですが、陸軍がシナ事変に行き詰まり、欧州大戦勃発に伴い
米英可分論を基に南方進出を企てる過程が延べられていて興味深いです。
政府は消極的、海軍は徹底轍尾米英不可分論のなかで調整をしつつ、欧州の戦局に合せて南方進出が勢いづ
いたり、消極的になっていく過程は新しい歴史を発見する気分です。
当時の方々も苦労した形跡が大いに窺えます。
しかし、米国との戦争は極力避けるという最重要方針が無くなっていく過程は読んでいて苦しさを感じます。
254えICBM:2006/03/02(木) 05:52:37 ID:???
訂正
>イナゾウ氏の在中皇軍
イナゾウ氏も在中皇軍
255名無し三等兵:2006/03/02(木) 06:32:09 ID:???
>>251:訂正
長沼弘毅と一緒に阿片をやめるよう言ったのは岡崎嘉平太でした。
岡崎は日銀から中支特務付で派遣され、同時期に塩沢大佐が中支特務でした。
岡崎は14年には日銀から華興商業銀行へ移ります。
この銀行は金を出し合うことで諸外国の財界人との協調をはかり事変収拾の手助けをしようという宗像久敬の案によるものでした。
しかし、これに参加しようと言う国はほとんど無かったので宗像もやる気をなくし、華興商業銀行はあいまいなものに終わります。
256名無し三等兵:2006/03/02(木) 09:36:01 ID:???
日本鬼子兵が南京で50万人の大虐殺をした歴史的事実を認めれば書き込みを止めてやろう。
257名無し三等兵:2006/03/02(木) 09:39:36 ID:???
はいはいわろすわろす
258名無し三等兵:2006/03/02(木) 16:53:33 ID:???
>>256
本気をだせば500万ぐらいは軽いな
259名無し三等兵:2006/03/02(木) 20:27:52 ID:???
はいはい日本はホロン部
260イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/02(木) 22:53:05 ID:I5Drpn8T
>>249 >>251 >>しかし、閣僚を並べてみれば、東条、岸、星野、賀屋、そして鈴木、
>>みな中国権益に深い縁のある人ばかりなんです。

おお! 凄い知識量ですね。思わず脱帽しました。もっと勉強します……。
とにかく本を読む時間が欲しいのですが、仕事上でも読まなければならない
本が山積みになっているのが悩ましい……。多分、今週末は戦国武将の本を
読まなければならない予定です(藁)。

東条内閣の多くが、「支那権益」に深い関係を持っていたという切り口は
非常に面白いですね。賀屋興宣も北支那開発株式会社の総裁でしたし。
261イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/02(木) 23:09:35 ID:I5Drpn8T
>>251 >>岸が一官僚としても一閣僚としても尋常でない額の金を
>>動かせたのも里見がいたからでした。

一例として、こんな話があります。鮎川義介(日産コンツェルンの創始者)が
「満州重工業開発総裁」を1942年に退職した時のことです。満州重工業から
鮎川に支給された退職金は何と4000万円に及びます。

これに絡んで関東軍では、参謀部第4課の経済班長だった志浦中佐が承認印を
付いていました。

この多額の金は、鮎川からそっくり岸信介に渡され、さらにヒデキらにも政治資金
として供与されたのではないかと、前出の佐野増彦(元陸軍記者)は疑っています。
おそらくは、さらに政界・軍部にバラ撒かれた可能性が高いでしょう。

ちなみに当時の4000万円は、現在の800億円に相当します。
262イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/02(木) 23:28:26 ID:I5Drpn8T
また、上記の4000万円にも『阿片利権』で得た資金が混入していると
考えるべきでしょう。

>>255 >>岡崎は14年には日銀から華興商業銀行へ移ります。

その辺の銀行関係も、いつかまとめないと思うと今から気が重いです…w。
おそらく知らない人が圧倒的だと思いますので、人物だけでも少し簡単に
紹介すると、以下の通り。

●宗像久敬=「支那幣制の権威者」。支那の幣制改革(1935年)が英国で問題に
なったとき、日銀のロンドン駐在員だった宗像はリース・ロスから相談を受ける。

●岡崎嘉平太=日銀為替局の重鎮として、為替関係業務の第一人者。
263少佐:2006/03/02(木) 23:47:11 ID:U301U2B7
太平洋戦争では力不足だったチハ戦車や零戦だが、中国戦線では
末期まで対抗できる兵器は中国側に存在しない。
しかも日本軍は毒ガス使いまくり。
264イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/02(木) 23:47:14 ID:I5Drpn8T
>>この銀行は金を出し合うことで諸外国の財界人との協調をはかり事変収拾の手助け
>>しかし、これに参加しようと言う国はほとんど無かった

ご指摘の通りです。三菱銀行の上海支店長だった吉田政治(同時に上海日本商工会議所
会頭)が、在上海の外国銀行に接触して正式参加を求めますが、結果はさんざんなものでした。

ドイツとイタリアが回答を留保、その他すべての国が拒否です。まあ、1939年5月設立という
時期を考えれば、当然と言えば当然ですがw。第二次世界大戦が始まる直前ですね。

やむを得ず「華興商業銀行」は、日中両国だけで出資することとなり、資本金5千万元を
折半して外貨で振り込みました。ちなみに支那側は維新政府、日本側は興銀・鮮銀・台銀・
三菱・三井・住友で出資しています。

支那の「占領地行政」を調べていると、三井・三菱といった「銀行や商社」の支店長クラスが
ひんぱんに登場してきます。
265少佐:2006/03/02(木) 23:51:08 ID:U301U2B7
38式小銃というと情けないイメージばかりが先行するが、
機関銃のような連射性は無いものの、パン、パン、パンくらい
の感覚では撃てるのである。
もちろん射程も威力も拳銃よりははるかにある。
長い銃身に長い銃剣を取り付ければ銃剣戦でも有利だった訳だしね。
266少佐:2006/03/02(木) 23:54:17 ID:U301U2B7
それから日本軍はスパイ、お金、麻薬なども武器にして
総合戦を展開してたことを忘れたらいかんだろう。
なにも銃剣突撃のみで戦っていた訳ではない。
267イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/03(金) 00:12:53 ID:ll0Pqsnl
>>253 >>イナゾウ氏の在中皇軍の略奪行為を暗に批判してると思うがどうだろう?
>>少なくとも褒めても賛同もしていない。

自分は、このスレを『次の戦争に勝利する』ために主宰していますから、事実なら
反省材料として積極的に取り上げていきます。

前の戦争を日本にとって『美化』『正当化』したいだけなら、不毛な論争が延々と
続くことでしょう。

「次の戦争のために、次の次の戦争のために――」
268暫編第一軍:2006/03/03(金) 00:14:01 ID:???
今度は阿片問題ですか。興味深い。
中国では清朝末期に阿片の禁煙問題にかなり効果を挙げていましたが、軍閥が
割拠するようになると各軍閥は貴重な収入源として阿片の製造販売を復活させ
ます。
蒋介石の国民政府は孫文の「禁煙遺訓」に基づいて1927年11月、阿片・類似
薬品を28年から3年で廃絶する計画を発表します。1928年7月には国民政府
禁煙委員会が発足、禁煙法・同施行条例公布、1929年7月には修整された
禁煙法が公布・施行。これは最高刑で死刑をも含むものでしたが、国民政府
の影響が強い地域では銃殺等の厳しい処罰を含めて効果を挙げつつあった
ものの、軍閥の力が根強く残る北、西南、西方では効果があがりませんでした。
また国民政府支配が及ぶ地域であっても各省政府が特税として禁煙税を徴収
して財源に当てることがありました。
 1934年3月「厳禁烈性薬品暫行条例」でモルヒネ、コカイン、ヘロイン、その他
阿片加工品の禁止が改めて公布。但し阿片の「吸食」者については「限期禁煙
大綱」により期間を定めて禁煙させることとなり、禁煙税も省政府ではなく中央に
集中されます。これを税収の確保目的と見るか、禁煙の実効性を高める為と見る
かは意見が分かれるかもしれません。いずれにしてもこの税収も毎年減少する
よう取り締まらねばならないのですが。
しかし1934年5月ジェネーブでの第18回阿片諮問委員会で従来の絶対禁煙政策
からの後退と受けてられ中国は非難に晒され、11月の第19回委員会では毒品
2年禁絶と阿片6年禁絶計画を発表することとなります。これは日本が非難の
矛先を逸らす目的で中国の阿片公売制情報をリークすると共に満州国の情報
封鎖を行っていたことも関係します。
269暫編第一軍:2006/03/03(金) 00:14:58 ID:???
この計画による「禁毒実施弁法」と「禁煙実施弁法」は軍事委員会の管轄下に
置かれ強力に推し進められ、阿片を公売として吸食者証を発行し、毎年1/5
ずつ減少させ1940年には絶対禁止にすることを目標としています。実際、
都市部で大衆的支持を受け、1937年日中が盧溝橋事件で衝突する前までに
かなりの効果を挙げていたといわれます。(地方はまだまだだったでしょう)
戦争がなければいずれ近いうちには所期の目的を達成できたという見方もあり、
実際各軍閥が中央への帰順を進める時期とも重なっており完全否定もできま
せん。(楽観的な見方とは思いますが)

>>238でイナゾウ中佐殿が中国にも阿片の税収制度があったとしているのは
正しいものの、実際には国民政府は阿片の蔓延を取り締まっており、その税収
制度もこの時期には既に禁絶を目的としています。個人的には我が国の阿片
政策を擁護する気にはなれません。但し、イギリスのように第一次大戦位まで
は阿片の禁輸に消極的な国があったことも確かであり、現在の価値観をその
まま適用することもまた現実的ではないのですが。
また手元資料では1919年のヴェルサイユ条約の調印・批准国は、1912〜
1914年の3回に渡るハーグ条約も調印・批准したものと見なされ、その後の
ジェネーブ阿片第一条約、第二条約、「阿片の製造の制限及び分配取り締まり
に関する条約」にも日本は調印・批准しており、国際法的にも確かに問題があっ
たものと思われます。
270暫編第一軍:2006/03/03(金) 00:24:19 ID:???
と、ここまで書いてみて、えICBM殿と考え方が近いのに気付いてしまいました。
良スレなので常駐したいのですが、何かと忙しくて間が空きます。
いつか時間が出来たときにはハンドルが「暫編」の二文字を外したいものです。

あー純軍事問題に限りたいとか言った気がしますが、阿片に嘴いれてしまいましたわ。
ちょっと反省。
271イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/03(金) 00:33:53 ID:ll0Pqsnl
>>258 >>本気をだせば500万ぐらいは軽いな

5000万人は軽いでしょう。

>>256 >>日本鬼子兵が南京で50万人の大虐殺をした歴史的事実を認めれば
>>書き込みを止めてやろう。

「おまえ達のクソ雑巾共が2人死のうが2兆人死のうが知ったことか。
 猊下直々のご命令でなければうす汚い貴様らなどと話などするか。
 グダグダぬかさずにスレから出ていけ。民度の低い土人のオス豚共」
272名無し三等兵:2006/03/03(金) 00:37:20 ID:???
少佐が蒙昧なのはいつものことだが、

>>265
ちゃんと三八式「歩兵銃」と書きなさい。
273イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/03(金) 00:37:36 ID:???
>>269 >>阿片を公売として吸食者証を発行し、毎年1/5ずつ減少させ
>>1940年には絶対禁止にすることを目標としています。

自分の書き込みには、「ゴッソリ」この点が抜け落ちておりました。
指摘していただき毎度のことながら恐縮です。
274暫編第一軍:2006/03/03(金) 00:47:44 ID:???
>>237
いえいえ。全ての資料に目を通せる人間がいない以上、抜け落ちはお互い様です。
私の書き込みには誤字脱字が多いので別の意味でも問題が…
275イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/03(金) 01:07:39 ID:???
>>271 の『猊下』は、もちろん四季映姫さまですw。とびっきりお人好しの
閻魔様であらせられるので、何と土人も人間扱いされます。
276名無し三等兵:2006/03/03(金) 01:55:04 ID:???
>>271
今度はイスカリオテのマクスウェルですかw
277名無し三等兵:2006/03/03(金) 04:30:18 ID:???
歴史の捏造と民族差別の虐殺者が喚いていますね。
278名無し三等兵:2006/03/03(金) 05:53:56 ID:???
独断と偏見から脱却できない>>277はスルーするが吉。
279名無し三等兵:2006/03/03(金) 14:06:31 ID:???
たぶん行間が読めないんだよ。
まあ行間読むまでもなく本文も読めてないみたいだが。
280名無し三等兵:2006/03/03(金) 16:00:20 ID:???
イナゾウ中佐の博識には脱帽しております。

政治に関わる発言力が海軍より陸軍の方が強いことに疑問を抱いていたのですが、
満州利権を考えれば当然のことと納得できました。
そして利権よりも理想を求めていた(らしい)石原が満州から追い出されて、
閑職に回されたのも納得です。

これからも中佐殿の活躍に期待しております。無理しない程度に。
281イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 00:31:12 ID:V4oJJWPI
>>208 >>便所があるのは、ごく一部の都会だけ。支那の農村に便所はありませんw。

すいません。都会にも便所はありませんでしたw。支那事変より少し時代は
古くなりますが、上海を一例に取りあげましょう。

家々には便所が無く、各ベッドの横には『朱塗りの木桶』が置かれています。
朝が来て玄関に複数の桶を出しておくと、糞尿処理業者がやってきます。

業者はリヤカーに積んだ大きな樽に、木桶から糞尿を移し運び去ります。あとは家の者が
水で木桶を洗い、洗った水はそのまま道端に捨ててしまう――。だから、街には糞尿の
臭いが絶えませんでした。

そして、糞尿処理業者の大元締めが「桂姐」(京劇に出てくる厚化粧のやり手の女)と
呼ばれる中年女性でした。上海中の糞尿処理を一手に握る会社を経営し、『糞尿大王』の
異名を取る凄腕の女経営者でしたがw、彼女の夫が「青幇」の大親分である黄金栄だった
ことも関係しているでしょう。
282えICBM:2006/03/04(土) 01:06:33 ID:???
江戸時代の庶民の長屋には大便する便所ってあったのかな?
まあ、堆肥として回収されるはずだからどこかでまとめて用を足してると思うが。

中国に行ったとき入ったトイレにはマジで仕切りが無かった。
溝に縦に並んで座って用を足す形式で、勿論足してみた。
意外にもしゃがんでケツを出してもそれほど恥ずかしくないし、前の人の行為も目に入らない。
それはそれで合理的な理由があるものであった。

あと、急にもよおして有料トイレに駆け込んだとき、受付のオバちゃんに大か小かを言わなければならないが知らない。
するとオバちゃんが「たーぺい!、しょーぺい!」と景気よく聞いてくれたので、ターペイと答えた。
漢字文化圏のありがたみだね。

皇軍さんたちは大陸でどの様な糞尿の処理をしてたのだろうか?
近所の百姓に譲るとかしたのか・・・逃げてるか。
283名無し三等兵:2006/03/04(土) 01:07:15 ID:???
『糞尿大王』

全然嬉しくない呼び名w
284イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 01:18:56 ID:V4oJJWPI
>>240 >>台湾統治では阿片の官売やってましたね。

日本の明治政府が「阿片の取り締まり」を始めるのは意外に早く、維新から3年後の
1870年のことです。

しかし、ここで問題が起こります。海外の阿片を輸入禁止にしてしまうと、清国の
「アヘン戦争」の二の舞になりかねません。また、日本国内でも薬剤用に阿片の栽培が
細々と行なわれていましたので、この点でも「ダブルスタンダード」と列強から非難を
受ける可能性がありました。

そこで明治政府が取った方法は、国内産も外国産もすべて政府が買い上げてしまう
『専売制』でした(販売鴉片烟律・生鴉片取扱規則:1870年)。

その結果、日本では阿片の蔓延や密輸を防止することができ、なおかつ専売制が
「予想外の収入」を明治政府にもたらすオマケ付きです。そこで日本が台湾を植民地に
すると、安直な財源確保のため、阿片の専売制に手を付けることになりました(1895年)。
285イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 01:29:59 ID:V4oJJWPI
>>『糞尿大王』 全然嬉しくない呼び名w

しかし若い頃の杜月笙は、その『糞尿大王』の情夫ですw。彼女の推薦に
よって、黄金栄が取り仕切っている賭博場の賭博台を任せられて成功し、
次第に足元を固めていくことになります。
286名無し三等兵:2006/03/04(土) 04:46:10 ID:???
日本鬼子兵
南京大虐殺
強制連行
三光作戦
七三一部隊
毒ガス遺棄
287名無し三等兵:2006/03/04(土) 06:03:50 ID:???
>>286
毒ガス遺棄処理で2兆円要求ですか?
随分と吹っ掛けたもんですね、蛮族らしい大した交渉術です。
もはやヤクザの強請りたかりと同列でしか無い。


自分達で歴史を貶めている事に何ゆえ気がつかないのか?
もはや憐憫の情すら感じる次第。
288名無し三等兵:2006/03/04(土) 14:20:03 ID:???
泥棒国家 日本
侵略国家 日本
強姦国家 日本
汚染国家 日本
虐殺国家 日本

289名無し三等兵:2006/03/04(土) 15:22:04 ID:???
麻薬が大きな資金源(=利)になるってぇのは、いつでもどこでも同じなんだなあ‥
と、人の業の深さに思いを馳せてみたり、なんちて。
ところで大陸にいた日本軍の内部では阿片汚染が問題になったことはないのでしょうか?
利権としてがっちり押さえてたから、野放図に蔓延することはなかったのかなあ。
290イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 21:25:40 ID:xulNggfR
>>240 >>台湾統治では阿片の官売やってましたね。

>>284 の説明ですと、まるで日本が阿片を台湾へ最初に広めたような誤解を
招くので、少し補足します。

世界史を取った人は覚えている人もいるでしょうが、かつて台湾島はオランダに
占領された事があります(1624年)。原住民の抵抗にあって、1662年には撤退
しますが、その間に台湾島へ「阿片喫煙」の習慣をもたらしたと思われます。

しかし、その喫煙方法は『前時代的』なものでした。オランダは台湾島に訪れる前、
香辛料を目的にインドネシアを占領しますが、原住民が刻んだビンロウジュの葉に
阿片を混ぜて、火を付けて煙を吸う習慣があることを発見しました。

この頃は、まだ世界的にも阿片の煙の吸うという習慣は無く、のちに世界的な阿片の
産地となるインドでも、阿片は薬用として、そのまま食べたり飲み物に混ぜて飲む
といった具合でした。
291名無し三等兵:2006/03/04(土) 21:37:20 ID:???
   -──- 、   _________
    /_____ \ >            |
    |/⌒ヽ ⌒ヽヽ | ヽ > _______  |
    |  / | ヽ  |─|  l   ̄ |/⌒ヽ ⌒ヽ\|  |
   / ー ヘ ー ′ ´^V  _ |  ^| ^   V⌒i
    l \    /  _丿  \ ̄ー ○ ー ′ _丿
.   \ ` ー ´  /     \        /
      >ー── く      / ____ く
    / |/\/ \       ̄/ |/\/ \    同じスレではこのままだけど
    l  l        |  l      l  l        |  l    違うスレにコピペするとスネ夫がドラえもん
    ヽ、|        | ノ      ヽ、|        | ノ     に変わる不思議なコピペ



292イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 21:42:11 ID:xulNggfR
1700年代の台湾には、すでに「阿片喫煙」の習慣が定着していたと言って
よいでしょう。

この時代の台湾の阿片は、俗に「粗阿片」と呼ばれ、純粋のアラビカの葉を
焼いて混ぜたものです。喫煙するときは、いったん水に溶かして煮出しして
ペースト状にした物に、刻んだタバコやビンロウジュの葉と混ぜて燃やし、
一緒に煙を吸うのです。

上記の説明で分かるように、非常に手間のかかる吸い方です。清国で後の時代に
蔓延する阿片の吸い方と比べると、あくまで『土着的』なものです。

しかし、台湾と狭い海峡を隔てて接する「福建省」では、頻繁に往来する漁民
たちによって、台湾式の阿片の喫煙が既に伝わっています(1700年代初期)。

これとは別に、イギリスが清国へ「土着式ではなく商品」となった阿片を
運んでくるのは、もう間もなくのことです。
293名無し三等兵:2006/03/04(土) 21:49:18 ID:6FG3fkYO
そういえば、角川映画の犬神家の一族でも、犬神製薬が麻薬の精製で
巨大企業にのし上がったという設定だったな。
「戦争では、麻薬は大砲や銃に匹敵する武器になる」という金田一の
台詞が印象的だったよ。4
294イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 21:53:57 ID:xulNggfR
>>289 >>ところで大陸にいた日本軍の内部では阿片汚染が問題に
>>なったことはないのでしょうか?

う〜む。阿片問題は調べ始めたばかりなので、そこまでは分かりません。
ただし、そのような話は今まで聞いたことがないですね。

流通に接する人間が「阿片中毒者」であるケースは、盛文頤のように
多々ありうるでしょう。ですから、絶対無いとは言い切れませんが、
なにぶん戦争中ですから、阿片にうつつを抜す暇は無かったのでは
ないでしょうか?

>>毒ガス遺棄処理で2兆円要求ですか?

これも何時か取り上げないといけない問題なのでしょうが、阿片問題より
さらにモチベーションが起きませんw。地味だわ、資料が左翼ばかりだわ、
本の値段が高いわ、いいところなしです(藁)。
295イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 21:56:01 ID:xulNggfR
>>289 >>ところで大陸にいた日本軍の内部では阿片汚染が問題に
>>なったことはないのでしょうか?

う〜む。阿片問題は調べ始めたばかりなので、そこまでは分かりません。
ただし、そのような話は今まで聞いたことがないですね。

流通に接する人間が「阿片中毒者」であるケースは、盛文頤のように
多々ありうるでしょう。ですから、絶対無いとは言い切れませんが、
なにぶん戦争中ですから、阿片にうつつを抜す暇は無かったのでは
ないでしょうか?

>>毒ガス遺棄処理で2兆円要求ですか?

これも何時か取り上げないといけない問題なのでしょうが、阿片問題より
さらにモチベーションが起きませんw。地味だわ、資料が左翼ばかりだわ、
本の値段が高いわ、いいところなしです(藁)。
296イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/04(土) 21:57:47 ID:???
ギエーッ! 二重カキコしてしまった(藁)。
297名無し三等兵:2006/03/04(土) 22:04:54 ID:???
TRY放送記念カキコ
298名無し三等兵:2006/03/04(土) 22:04:56 ID:sBWjgtp8
299名無し三等兵:2006/03/04(土) 22:48:13 ID:???
>>282

江戸の長屋には近郊農村から屎尿を汲みに来ました。
それも野菜や金と交換で、肥料を仕入れに来たのです。
長屋の大家にとって人糞は重要な副収入でした。
また長屋の汲み取り利権をめぐり、近郊農村の汲み取り組合同士が町奉行
ところで裁判したりしてます。

同時期の中国でどうしてたか知りませんが、江戸についてはそれなりに洗練
されたリサイクルシステムだったといえるでしょう。
人糞の肥料化は寄生虫が問題になりますが、江戸市中は同時期に「汚わいの
中に沈む街」と評されたパリよりも衛生的な環境だったと言えます。
300名無し三等兵:2006/03/04(土) 23:17:47 ID:???
阿片じゃなくてもヒロポンが普通に使われたじゃん。栄養剤とか言って。
301名無し三等兵:2006/03/04(土) 23:45:25 ID:???
本屋に
阿片王 満州の夜と霧
おいてあったので、立ち読みでちらちら見てました。
甘粕の写真も載ってたけど、甘粕もなんか関係してるんですか?

溥儀の奥さん(皇后)が阿片中毒ってのは知っていますが。

この頃というか、満州は、甘粕とか、清朝とか、川嶋芳子とか、日本軍とか、もう色々でわけが分かりません。
302名無し三等兵 :2006/03/05(日) 00:07:50 ID:???
>>287
あんたもな。
てか、戦前の帝国主義国家なんてみなユスリよw
日本のあの世代のツケが我々にまわって来ている面もある。
しかし支那てか中国を馬鹿にする連中が多いな。
たしかに大日本帝国にそっくりだが>北京政府

戦前の日本の理性派陸軍軍人の論や戦中の総合誌の論を見ると、
2ちゃん軍板みたいなはしたない言い方をしない例も多いので驚く。
真面目に亜細亜諸国の独立や対等な同盟を考えていた例も少なくないようだが、
ヤレヤレww
303名無し三等兵:2006/03/05(日) 00:33:49 ID:???
そういう理性派で理想主義的な人は常に少数派にしかなり得ないのが残念なところだ。
304イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 01:49:13 ID:8e+k2r1l
>>301 >>甘粕の写真も載ってたけど、甘粕もなんか関係してるんですか?

坂本龍一が音楽を担当した映画『ラストエンペラー』を参照。最近の新刊では、
『満州裏史――甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』(太田尚樹著、講談社)が
あります。チトお値段高めで、自分も未読ですがw。ちなみに本のコピーが、

鬼憲兵大尉・甘粕正彦と昭和の妖怪・岸信介の人生は満州の地で交錯した――

というオドロオドロしいものです。というか煽り過ぎですw。甘粕については
後で少し補足するでしょう。

>>この頃というか、満州は、甘粕とか、清朝とか、川嶋芳子とか、日本軍とか、
>>もう色々でわけが分かりません。

以前このスレで、日中戦争を「底無し沼」と仰った方がおられましたが、満州も同じぐらい
「底無し沼」です。調べる量としては、満州関連=その他の日中戦争に近いでしょうw。
305名無し三等兵:2006/03/05(日) 01:58:07 ID:???
太田尚樹タン、スペイン史が専門なのに売れるからそそのかされたんだろうな>満州裏史
306イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 02:05:00 ID:???
>>300 >>阿片じゃなくてもヒロポンが普通に使われたじゃん。栄養剤とか言って。

特攻機の搭乗員に一発「気付け」でヒロポンを飲ませるのと、吸うと恍惚とさせる
阿片では全然意味が違うと思われ。

ヒロポンは軍需工場などでも工員に配っていたらしいですが…。
307イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 02:11:45 ID:???
>>303 >>そういう理性派で理想主義的な人は常に少数派にしか
>>なり得ないのが残念なところだ。

とりあえず、陸大を出ていない方には『発言権』が一切合切ありませんw。
308名無し三等兵:2006/03/05(日) 02:38:10 ID:???
あればあったで細部の差異や方法論を巡っていがみ合うという罠w
309名無し三等兵:2006/03/05(日) 02:40:36 ID:???
そしてそっちのほうが馬鹿がやるよりかえって害が大きいw
310ue ◆WomMV0C2P. :2006/03/05(日) 07:57:24 ID:???
>>300
ヒロポンは栄養剤程度の認識でした。何となくヤヴァイってのは分かっている人は分かっていたけど。
当時の化学物質に対する認識は現代とは比較にならないくらい甘く、米ではかのDDTも直接散布していたくらい。
因みにDDTは経口で直接摂取しない限り安全、とか言うとんでもない認識が罷り通っていました。

>>302
過去スレにもありましたが、陸大では教養関係をあまり教えなかったので、知恵はあっても
話の通じないDQNのような方が大半でした。幼年学校から一貫してこんな教育漬けになれば
晴れてカンジや辻ーんのような人間が量産されます。
311名無し三等兵:2006/03/05(日) 09:45:52 ID:???
新渡戸稲造( イナゾウ)
前五千円札で有名。アメリカとドイツに留学した国際人。
「武士道」に代表されるような著作活動によって日本文化を海外に紹介。
当時立ち遅れていた女子教育にも取り組み、東京女子大学初代学長となり設立に尽力。
晩年は「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と新聞紙上で述べ、
激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去っていたという経歴の持ち主。
312名無し三等兵:2006/03/05(日) 10:34:03 ID:???
> 長い間、張作霖の死は、関東軍参謀の河本大作大佐らの謀略によるもの、と、いわれてきました。
> 東京裁判でも、元陸軍省兵務局長の田中隆吉が、河本大佐の計画で実行された、と、証言しています。
> 
> 関東軍による張作霖爆殺事件は、日本のいわゆる中国侵略の重要な起点として、ゆるぎない歴史の定説となっていました。
> 
> ところが、ロシアの歴史家、ドミトリー・プロホロフ氏は、張作霖を爆殺したのは、ソ連の特務機関だと、断言したのです。
> 張作霖の反ソ的な姿勢を重大な脅威とみなした特務機関が、かれを殺害し、日本軍の仕業にみせかけていた、というのです。
> 内藤支局長が、サンクトペテルブルクでプロホロフ氏に取材しました。
> 
> これは衝撃的な見解ですね。歴史に、ウソがあってはいけません。
> 
> 正論 編集部 ブログ 2006年3月 4日 (土)
> ttp://seiron.air-nifty.com/seiron/
313イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 21:10:53 ID:1WUFuz/O
最近は『論壇誌』を読まないのでよく分かりませんが、張作霖爆殺事件の
「ソ連謀略説」というのは、それほど信憑性が高いのでしょうか?

どうも眉唾に感じられるのですが……。過去スレに取り上げました河本大作が
磯谷廉介に宛てた手紙や、あの「日本がやりました」と証拠のボロが出まくりの
爆殺方法は何になるのでしょうか?w それもソ連の特務機関の謀略?

「濡れ衣」で河本大作以下、当時の関東軍首脳部は更迭されて、田中義一首相は
昭和天皇に叱責を喰らってポックリ「悩みの無い世界」に解放されて、息子の
張学良は『晴天白日旗』に易幟したということですか? う〜む…。

で、『正論』を読んでいる人は、「やはり日本は悪くないのだ」と喜ぶ訳でしょうか。
314名無し三等兵:2006/03/05(日) 21:13:11 ID:???
ロシアの仕業だとしたら

兵営近くで要人乗せた列車を木っ端微塵にされて
しかも犯人を捜せず、挙句に自分たちの仕業にしてしまう。

……皇軍はアホの子の集団か
315名無し三等兵:2006/03/05(日) 21:27:54 ID:???
>>313-314
もしもこれが事実なら、その新事実の発見と、それに付いての評価は分けた方が良いと思う
316イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 21:46:25 ID:1WUFuz/O
>>218 >>まさに蝗軍だな、通り過ぎた後はペンペン草も残らない。

家も残らない場合もありますw。一例に『江北殲滅作戦』(1943年2月〜3月)を
取り上げてみましょう。漢口―岳州―沙市を結ぶ三角地帯が戦場で、揚子江の
北側に位置します。

無数の水田・湖沼・運河が錯綜する『泥湿地帯』で、日本軍は敵兵よりも
2月〜3月という寒気の風雪、膝まで没する泥水に難渋しました。

とくに酷い作戦地域では、4キロに渡って道路が「湿田と混交して水没」しており、
そこを進攻する部隊(第40師団・戸田部隊)は、まる1日がかりで周辺の3つの
部落の民家を破壊し、その用材で応急の道路工事をします。

全兵が「濡れ鼠」となりながら、一列縦隊でようやく通過しましたが、2月という
まだ冬の最中、泥水は敵兵よりも恐ろしかったと言います。
317イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 22:00:57 ID:1WUFuz/O
当然のことながら破壊された部落の住民の多くは、家と食料を失い、
着の身着のままガクガク震え上がり、途方に暮れている訳ですw。

野戦軍の進路上にある民家がとり壊されるのは珍しいことではなく、
上記のような『道路工事』よりも、むしろ工兵隊が河川に仮設する
『橋梁の材料』として使用される場合が多くありました。

支那の山野は『ハゲ山』で大きな樹木が生えていない地域が多く、
水郷地帯なら尚更です。砲車、輜重車など歩兵部隊に続いて緊急に
渡河させなければならない戦場で、悠長に遠隔の山林まで用材を
探しに行く時間はありません。

必然的に、近くの部落の民家が『その対象』となる訳です。
318イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 22:18:19 ID:1WUFuz/O
歩兵部隊なら、腰や胸まで水に浸かってでも渡河できます。馬も無理すれば
出来ないことはないでしょう(程度の問題ですがw)。しかし、車両部隊だけは
河川の大小を問わず、どうしても応急の橋が必要になります。

また支那は大河も多いですから、いきおい橋材のために、全町・全村・全部落の
民家が犠牲になることも珍しくありませんでした。

スレの少し上の方で「三光作戦」という言葉が出ていますが、まだ三光作戦の方が
住民を「直接のターゲット」としている分だけ、救いがあるのではないでしょうか?
変な言い方ですが…。

もう少し噛み砕いて言いますと、先祖代々営々築いてきた家・財産が一時の交通の
ための『橋の材料』とされる方が、よほど残酷な気がしますw。日本軍としては
もちろん住民を哀れとは思うでしょうが、罪悪感はそれほど無いでしょうし……。
319名無し三等兵:2006/03/05(日) 22:51:28 ID:???
家と命だったら命の方が大事でしょうに。
320イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 23:01:49 ID:1WUFuz/O
まあ、自分が30年ローンで建てた家、もしくはローンが残っている家が
『三光作戦』の直接の目標となって敵に焼かれたというのなら、まだ
憎しみによって納得もできるかもしれませんが、橋の材料にされら
情けなくて泣きそうですw。

>>311 >>晩年は「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と新聞紙上で述べ、
>>激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去っていたという経歴の持ち主。

それで中佐をやっている訳ですw。

>>314 >>兵営近くで要人乗せた列車を木っ端微塵にされて
>>しかも犯人を捜せず、挙句に自分たちの仕業にしてしまう。

自分に都合のいい出来事は、すべて自分の仕業に装ってしまう
『ひぐらし』の園崎家もビックリ!(藁)。
321名無し三等兵:2006/03/05(日) 23:04:34 ID:???
上野とか新橋で路上に寝てるホームレスの人に話聞くと馬賊の頭目とか愛新覚羅の隠し子とかごろごろおるわい。
322名無し三等兵:2006/03/05(日) 23:06:20 ID:???
中身も確認しないでコメントするのはアレだが、ボリス・スラヴィンスキーみたいなもんで、
ロシアの歴史学界で見向きもされないからこっちに売り込んでみたってとこじゃないだろか。
(スラヴィンスキーの場合「日本語も読めないくせに日ソ関係研究者を自称するアマチュア」と評価されてたみたいだし)

河本たんの自白が撫順の件の収容所で主に収録されたことも影響してるんだろうなー
323名無し三等兵:2006/03/05(日) 23:08:21 ID:???
「あの」撫順収容所かよ。
324イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/05(日) 23:08:30 ID:???
>>319 >>家と命だったら命の方が大事でしょうに。

まあ、そりゃそうですw。
325名無し三等兵:2006/03/05(日) 23:31:34 ID:???
>>323
ごめん、太原だった。自白時期は1953年4−8月

服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918−1931』(有斐閣,2002年,吉田茂賞受賞)
によると、戦前と戦後の河本発言は色々食い違ってるらしい。
戦前の証言だと河本の独断行動扱いされるようなニュアンスがあるが、
太原の自白だと関東軍ぐるみで共謀したみたいになってると。
意図も戦前では満州を混乱に乗じて確保するというニュアンスだったが、
戦後は関東軍上層部の「奉天軍との衝突回避」という意向にしたがっただけ…とか

イナゾウさんの転載した磯谷宛書簡は見てないのでなんともいえないけど
この辺も「関東軍の謀略じゃねえ」説に影響してるんだろうね。
326石原莞爾:2006/03/05(日) 23:44:59 ID:QQ4fKQ5l
押忍!自分は石原莞爾であります!板垣閣下はどこでござるか?
327名無し三等兵:2006/03/06(月) 05:45:24 ID:???
似てね。
328名無し三等兵:2006/03/06(月) 17:05:46 ID:???
ひぐらしやっていたのかボソッ・・・・・・・

そういえば、詩音が魅音に扮して「当主」としてかたったシナ戦線での悪行云々はすげー
2ちゃんねらーの反発を招いていたな。
全部責任を竜騎士07はあれは「詩音」の出鱈目ということで始末つけたみたいだけど
なんだかなw
329イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/06(月) 23:06:18 ID:YXFJkhQD
>>328 >>そういえば、詩音が魅音に扮して「当主」としてかたったシナ戦線での
>>悪行云々はすげー2ちゃんねらーの反発を招いていたな。

あそこは自分も引きましたw。しかし『ひぐらし』は、話のどこまでが当初の規定路線で
どこまでが途中で変更を加えたストーリーなのか、判別が付きません。

「鬼隠し編」の冒頭、主人公の前原圭一が「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんさい」と
誰かが謝り続ける夢を見て、「これだけ謝っているのだから、いい加減に許してやれよ。
何をしでかしたか知らないが、取り返しがつかないことなら、なおさら許してやるべきだ。
だって、もう元には戻らないのだから」とうんざりした感想を漏らします(多少、意訳)。

その後、ずっと放置されていて、謎がようやく『皆殺し編』で解決する訳ですが、
空白だった『ジグソーパズルのピース』がバチーッと収まるのには鳥肌が立ちます。

最初からの構想だとしたら、何と遠大な前振りでしょう。評価は色々あるでしょうが、自分は
やらなきゃ人生損するぐらいの作品だと思います。竜騎士07は、中将を名乗ってもいいかと(藁)。
330イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/06(月) 23:10:12 ID:???
ちなみに大将は、上海アリス幻樂団のZUN氏でしょうw。
331イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/06(月) 23:24:45 ID:???
>>315 >>もしもこれが事実なら、その新事実の発見と、それに付いての評価は
>>分けた方が良いと思う

張作霖は1925年に『安国軍』を編制して「国民革命軍」の北伐に対抗しますが、
戦況が思わしくありません。

そこで盛んに『討赤滅共』を唱えて、日本をはじめ列強の支持を得ようと焦ります。

1926年3月24日に「南京事件」が起こると、張作霖は「中共の蜂起」を防ぐという名目で
4月6日に突然、北京の公使館区域へ兵を入れて、ソ連大使館を強制的に捜索しました。

その結果、大使館内に潜伏していた中共首脳の1人である李大サを筆頭に60人余りを
捕らえ、多数の秘密文書を押収します。そして4月28日に李以下、28名を国家に対する
反逆の罪として絞首刑に処しました。

ですから、ソ連が謀略を使ってでも「張作霖を爆殺」する動機はある訳です。一応はw。
332イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/06(月) 23:47:32 ID:YXFJkhQD
>>314 >>ロシアの仕業だとしたら

しかし、1926年前後の『北伐』というのは、国民革命軍の中で蒋介石率いる
「民党右派」と、ボロジンが指導する「共産党と民党左派」との間の激烈な
権力闘争が行なわれている中で同時に進められている訳です。

ここは非常に「見落とされがち」なのですが、北伐が主目的で「国民革命軍」内の
主導権争いがそれに付随するものなのか、権力闘争の方がメインで北伐はその手段に
過ぎないのか、訳が分からなくなる程ですw。

1926年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こし、中共党員を逮捕して
羅亦農以下、首謀者を銃殺します。周恩来も捕らえられますが、転向を誓うことで
ようやく許されています。まあ、蒋介石との黄埔軍官学校の関係もあるでしょうが。
333イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 00:07:05 ID:YXFJkhQD
蒋介石は一旦下野しますが、宋美齢と結婚したのち「国民革命軍総司令」に
復職します(1927年12月)。

そしてソ連との国交を断絶して、支那各地のソ連領事館の撤退や商業機関の閉鎖、
『共産勢力の巣窟』・武漢在留のソ連人の逮捕と国外追放を強行しました。

すでにボロジン以下、中共党員を追放して「容共」を解消し、さらにソ連と
断行して「連ソ」を清算し、孫文・ヨッフェ宣言から5年に及ぶ両者の提携は
蒋介石のもとで完全に破綻することになる訳です。

つらつらと述べまして何が言いたかったといえば、張作霖爆殺事件というのは
この後の1928年6月4日に起きている訳です。その難易度を無視すれば、ソ連が
謀略を使ってでも殺したいのは、どう考えても張作霖ではなく蒋介石ですねw。

蒋介石の『反共の徹底ぶり』に比べれば、張作霖のそれは列強の歓心を買う『方便』
でしかありません。まるで屁のようなものですw。
334イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 00:22:43 ID:8icFimSM
>>325 >>戦前の証言だと河本の独断行動扱いされるようなニュアンスがあるが、
>>太原の自白だと関東軍ぐるみで共謀したみたいになってると。

両方とも正しいですね。まあ、その辺のくだりは明日やりましょう。

しかし、河本大作が中共に戦犯として逮捕されたのは何と1949年のことです。
太平洋戦争中は、山西産業株式会社の社長をしており、同社が国民党に接収
され、名前が西北実業建築公司へと名前が変わった後も、最高顧問として
引き続き会社経営にあたっています。

すなわち、国民党からは戦犯として裁かれていなかった訳ですね。

1949年に中共が進出すると戦犯として捕らえられ、「あの」大原収容所
送りとなって、1953年に収容所で病死する訳ですが、終戦後にとっとと
日本に帰っていたら、あのような無残な最後は迎えなかったのではない
でしょうかw。
335イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 00:28:00 ID:8icFimSM
ところで「西北実業建築公司」には、河本大作に請われる形で
日本人従業員の半数が、戦前と同じ待遇で残りました。

家族も含めますと、約1200人の日本人がいたそうですが、
その方たちは一体どうなってしまったのでしょうか?……w
336四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 00:33:21 ID:???
>>326 >>押忍!自分は石原莞爾であります!板垣閣下はどこでござるか?

まったく似ていません。死刑。
337名無し三等兵:2006/03/07(火) 14:47:13 ID:???
張作霖を爆弾テロで殺害したのは紛れも無く日本
日本鬼子兵は歴史の捏造をやめろ
338名無し三等兵:2006/03/07(火) 22:06:58 ID:???
>>333
そんな無茶苦茶やったのに、支那事変勃発後、良くソ連は蒋介石を援助する気になったな・・・
339イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 22:16:19 ID:TsrO58n6
>>301 >>甘粕の写真も載ってたけど、甘粕もなんか関係してるんですか?

甘粕正彦・憲兵大尉と言えば、関東大震災直後にアナーキストの大杉栄と妻・伊藤野枝、
甥の橘宗一を憲兵隊本部に強制連行して殺害、同本部裏の古井戸に遺体を投げ込んだと
される『甘粕事件』が有名です。

甘粕大尉は「軍法会議」にかけられる訳ですが、白川義則・陸軍次官は甘粕を直接取調べ、
一切の事情を聞いた後、『この際、軍人らしく決心せよ』と申し渡したと言います。

このため甘粕は、公判で苦渋に満ちた答弁を繰り返します。予審では、甘粕が大杉栄と妻、
甥の3人を殺した事になっていますが、公判で弁護団が甘粕を鋭く問い詰め、「特に罪も
ない子供まで殺すとは、帝国陸軍将校全体の名誉に関わることではないか?」と迫ると、甘粕は

『子供を手にかけたのは自分ではない』と両手で顔を覆い泣きながら自供を覆しました。白川に
全ての罪を一身に背負って軍人らしくと宣告されたようですが、結局、甘粕はそれに耐えることが
できなかった訳です。
340イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 22:39:49 ID:TsrO58n6
その公判の翌日、平井利一以下3名の憲兵上等兵が、「自分たちが子供達を殺した」と
自首してきますが、「殺害は憲兵司令官の指示だった」と供述するなど、真相は今なお
藪の中です。

事件発覚当初、田中義一陸相が小泉六一・憲兵司令官(少将)を呼んで訊ねると、小泉は
むしろ自慢げに報告して、烈火の如く怒りを買ったと言いますから、さもありなんです。

「甘粕事件」を取り上げて何が言いたかったかといえば、上記のような不祥事が起きると、
必ず軍上層部の責任回避のために『人身御供』的な処理がなされるパターンです。

後の時代に顕著となる『中堅将校の下克上』も、ある意味、責任を取らない軍上層部に
対する反発が背景にあります。

張作霖爆殺事件における河本大作の処分も、「甘粕事件」に似た感があると言えるでしょう。
341イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 23:00:12 ID:TsrO58n6
>>325 >>戦前の証言だと河本の独断行動扱いされるようなニュアンスがあるが、
>>太原の自白だと関東軍ぐるみで共謀したみたいになってると。

ただいま岡村寧次(のちの支那派遣軍総司令官)の日記に近い本を読んでいますが、
それによると「独断行動」や「関東軍ぐるみ」どころか、参謀本部の荒木貞夫・第一
部長や小畑敏四郎・作戦課長も、『爆殺計画』を事前に知っていたとされます。

そして当然、白川義則・陸軍大臣、鈴木荘六・参謀総長、武藤信義・教育総監の
いわゆる「陸軍三長官」も知らないはずが無い、と断じている訳です。

岡村寧次は、のちに人事局・補任課長となって河本大作の救済に奔走しますが、

「甘粕事件といい、張作霖爆殺事件といい、やらせておきながら上層部は何も
 責任を取らぬではないか」と怒りを露にしています。
342イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 23:17:54 ID:TsrO58n6
また岡村は、入院中の村岡長太郎中将(事件当時の関東軍司令官)を見舞い、
河本の救済策を相談しています。(村岡は1930年8月に肺炎で死去)

そして張作霖爆殺事件が河本大作の『独断行動』でないのは、最終的な河本の
身の振り方が決まった時の「慰労宴」に出席したメンバーを見ても明らかです。

河本大作は、周りの尽力で「中公司顧問」に就職することとなり(月給200円)、
軍から民間に去ることが確定しますが、1930年10月1日夜に赤坂三島で行なわれた
慰労宴には、

●二宮治重(少将・参謀本部総務部長)●畑俊六(少将・参謀本部第一部長)
●建川美次(少将・参謀本部第二部長)●小磯国昭(少将・軍務局長)
●永田鉄山(大佐・陸軍省軍事課長) ●梅津美治郎(少将・歩兵第一旅団長)
●東条英機(大佐・歩兵第一連隊長) ●重藤千秋(大佐・参謀本部支那課長)

そして陸軍省人事局・補任課長の岡村寧次(大佐)の錚々たるメンバーが集まります。
343イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 23:29:07 ID:TsrO58n6
「詰め腹を切らされた」形の河本大作を慰労しているのは明らかです。

気の毒というか、良心の呵責というか、河本に対して「後ろめたい部分」が
あるからこそ、これだけのメンバーが集まったというべきでしょう。

戦前の陸軍と考えるから理解がしづらいのであって、現代の民間企業をイメージ
すれば分かりやすいかもしれません。

札付きの『不良取引先』をブッタ斬った支店長クラスが、退職に追い込まれた
ようなものですw。
344イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/07(火) 23:48:37 ID:TsrO58n6
『張作霖爆殺事件』の処分は混迷を極めます。

1929年6月28日、白川陸相は参内して以下のような処分が裁可されます。
(昭和天皇が、もう田中首相に会いたくないと激怒する引き金となる)

関東軍司令官・村岡長太郎中将→「依頼予備役」
関東軍参謀長・斉藤恒中将→「重謹慎」
独立守備隊司令官・水町竹三少将→「重謹慎」
関東軍高級参謀・河本大作大佐→「停職」

しかしこの直後の7月2日、1928年11月10日に出された勅令に背反すると気付き、
陸軍省は愕然、狼狽することになるのです。
345イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 00:02:05 ID:TsrO58n6
すなわち、1928年11月10日に『昭和天皇の御大典(即位式)』が行なわれ、
同日に「軍令陸第8号」と「勅令272号」が発布されますが、それは
『懲罰免除を規定した恩典法令』だったのです。すなわち、

「1928年11月10日前の所為に付き、陸軍懲罰令により懲罰の処分を受け、その執行を
 終わり、もしくは免除されたる者、その執行中の者、または執行猶予中、もしくは
 停止中の者に対しては、将来に向かってその懲罰を免除する。未だ処分を受けざる者
 に対しては懲罰を行なわず。ただし、懲罰に基づく既成の効果は免除により変更
 せらるることはなし」

とする少しややこしい法律文ですが、これに従いますと『張作霖爆殺事件』は
1928年6月4日に行なわれたため、この懲罰免除の恩典・特赦に該当するのです(!)。

とどのつまり、河本大佐らを処分することは、勅令違反・天皇の大権無視に
該当しますw。
346イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 00:10:28 ID:CnGqO6bW
結局、白川義則・前陸相や阿部信行・陸軍次官が「苦しい答弁」をして
>>344 の処分は『例外措置』とされる訳ですが、

岡村の日記には、「責任観念地を払う軍隊の堕落も宜なりというべし 嗚呼」
とありますw。
347四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 00:16:52 ID:???
>>338 >>そんな無茶苦茶やったのに、支那事変勃発後、良くソ連は蒋介石を
>>援助する気になったな・・・

大川周明が『三月事件』後に出した手紙の内容に、次のようなものがあります。

「昨日の敵は今日の友 昨日の友は今日の敵 やはり君は純真の友」

もちろん『地獄行き』です。
348四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 00:32:18 ID:???
>>346 >>岡村の日記には、「責任観念地を払う軍隊の堕落も宜なりというべし 嗚呼」
>>とありますw

もう、グダグダですね。
349名無し三等兵:2006/03/08(水) 02:42:20 ID:???
>>338
善かれ悪しかれ、政治家としての彼の器のデカさw
怪物には違いないが、畏敬を覚えずに居られない。
350名無し三等兵:2006/03/08(水) 20:34:18 ID:S76cCVQR
太原で河本は張爆殺の詳細について供述してないよ。
ちゃんと資料集「河本大作与日軍山西「残留」」嫁。
河本が供述してるのはあくまで大局的な話だけ。
中共が河本を追究したのは日本軍の山西残留。
351名無し三等兵:2006/03/08(水) 22:10:02 ID:x3NVs1V7
66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/01(日) 12:46:19 ID:BkXc6n//0
アマゾンから今日マオ本が届いたが、
そんなデムパなことが書いてあるんだ。ショックじゃのう。

張爆殺は、河本自身が終戦直後から証言していて、
近代史専門の伊藤隆さん(いま政策大学院だっけ?)も
直接山西省太原で河本から聞いてるはずだから、
軍事史学会とかで会ったら聞いてみるといいよん。
352イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 22:23:26 ID:0O1HtoBa
しかし、>>325 によると

>>服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918−1931』(有斐閣,2002年,吉田茂賞受賞)
>>によると、戦前と戦後の河本発言は色々食い違ってるらしい。
>>戦前の証言だと河本の独断行動扱いされるようなニュアンスがあるが、
>>太原の自白だと関東軍ぐるみで共謀したみたいになってると。

のようですが…? まあ、どっちも未読なので自分は何とも言えません(藁)。

引き続き、コツコツ調べていきますw。
353イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 22:41:22 ID:0O1HtoBa
>>アマゾンから今日マオ本が届いたが、
>>そんなデムパなことが書いてあるんだ。ショックじゃのう。

自分も未読なので、本当はそう「デムパ」でもないかもしれません。

現在、『支那派遣軍総司令官――岡村寧次大将』を読んでいますが、1920〜30年代の
支那が中心に描かれています。もう既に中共のキチガイぶりが遺憾なく発揮されており、
読んでいて腹が立って仕方がありませんw。

『マオ』も読まなくてはいけないと思いつつ、今日は軍師の新刊『日本刀真剣斬り』を
買ってしまいました…。まあ、平日でも2日あれば読めますが。
354イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 23:24:20 ID:0O1HtoBa
脱線が続きましたので、そろそろ>>178 に話を戻したいと思います…。

参謀本部支那課の『本流』は、青木宣純――坂西利八郎――本庄繁――磯谷廉介と
続きますが、磯谷は「わたしの後継者は影佐禎昭だ」と語り、さらに次の世代では
今井武夫に期待していたといいます。

>>178 までの話に影佐禎昭が多出してきますので、少し影佐のことを取り上げましょう。

ちなみに上記の『本流』は、マンツーマン形式で教えられ(鍛えられ)、さらに
青木の娘を「本庄の媒酌」で磯谷が嫁に貰うなど、同族的な意識も流れていました。
血縁関係に近いですね。

本庄までは「北洋軍閥」と一本やりの関係でしたが、磯谷から国民党との関係が
深まります。
355イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/08(水) 23:42:56 ID:0O1HtoBa
しかし孫文は尊敬していましたが、浙江財閥と結んだ蒋介石を嫌っていた
『磯谷の好み』は弟子の影佐にも影響を与えます。

支那のナショナリズムの高揚に裏打ちされた蒋介石の実力を、過小評価せずに
正しく評価できる「支那通」がいなかったことが、日中戦争を泥沼化させる
重要な一因だったと言えるでしょう。

共産党にいたっては、単なる匪賊の認識ですw。
356イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/09(木) 00:05:43 ID:???
スイマセン。>>354 の「支那通」本流に、松井石根も入れて置いてください。
357名無し三等兵:2006/03/10(金) 18:59:10 ID:???
>もう既に中共のキチガイぶりが遺憾なく発揮
共産主義の評価も、帝国陸海軍なり戦前日本の評価同様、
具体例等を挙げて冷静にされたい
「マオ」にも引用された謀略説の評価もできる。
ただ叩くのでは左翼の反米言説や盲目的戦前たたきとなんら変わりない。


>正しく評価できる「支那通」がいなかったこと
上の方の阿片話しとか読む限り、むりぽw
「支那蔑視」という今もなお2ちゃんで燃え盛るw日本の民族感情が、
おそらく上回ったのでは?
358名無し三等兵:2006/03/10(金) 21:27:56 ID:???
満州事変の調査のために国際連盟が派遣したリットン調査団は、七ヶ月を費し、
二百四十五ページにのぼる報告書を作成した。その『日支紛争に関する国際
連盟調査委員会の報告』を読むと、調査団はたしかに満州国の独立は認めな
かったが、日清戦争までさかのぼって日中の立場と両国の歴史を極めて公正に
分析している。報告書のどこにも、現在の日本や中国で言われている”邪悪な
日本の軍国主義VS.気の毒な中国”の単純構図で事変を分析している部分はない。

それどころか、世界規模でパワーバランスが変化した十九世紀に、中国は孤立
状態を脱すべきだったにもかかわらず、「此新なる接触に應ぜんとするの
用意無かりき」と批判され、日本は「自己の古き價値を減ずることなく西洋の
科學と技術を同化し西洋の標準を採用したる速度と完全性は遍く賞嘆さられ
たり」と称賛された。

調査団は、その日本を攻撃した国民党の激しい反日政策、教科書、人民外交
協会など、社会の各層で鼓舞された抗日反日運動が中国人民の感情の自然
な盛り上がりというより、国民党政府の政策だった面を指摘した。反日教育は
往時も今も、中国不変の国策なのだ。

一方、米国の外交官マクマリーは一九三五年に満州事変を「中国は、満州で
まいた種を自分で刈り取っている」と書いた(『平和はいかに失われたか』原書房)。

彼は中国との条約を含め国際条約を守ったのは日本であり、守らなかったの
が中国であること、両国の公平に扱わなかった米国に偏りが日本にとって
耐え難い状況を作り出したと指摘した。

359名無し三等兵:2006/03/10(金) 21:29:06 ID:???
中国の掟破りは昔も今も日常茶飯だ。一例に一九二六年の関税実施がある。
その四年前のワシントン会議で各国の単独行動が禁止されたにもかかわらず、
広東の国民党政府は突如、これを実施。日本はワシントン会議の参加諸国が
集まり協議すべきだとしたが米国は中国の非をとがめず、逆に日本の要求を
拒否した。

翌二七年春には、国民党軍が日米英各国の公館などを襲い暴動と殺戮を
ほしいままにした。南京事件と呼ばれる右の事態でも米国は国民党への制裁
行為に加わらなかった。

道理を欠く米中両国のやり方に直面しながらも、日本は満州事変までは「ワシ
ントン会議の協約文章ならびにその精神を守ることに極めて忠実であった。
そのことは、中国に駐在していた当時の各国外交団全員がひとしく認めてい
た」「当時、中国問題に最も深くかかわっていた人々は、日本政府は申し分
なく誠実に約束を守っていると考えた」と、マクマリーは書いている(前掲)。

満州事変とその後の歴史の責任を日本のみに求めるのは、もう好い加減に
よしたほうがよい。日本の責任を見つめながらも、米中そしてソ連の行動を
分析して歴史の全体像を見つめる新しい視点を、私たちは持つべき時だ。
それなしには未来永劫、李外相の無知なる発言に脅かされ、日本の領土領海
を侵され資源を奪われても尚、中国の顔色をうかがう国のままだろう。
360名無し三等兵:2006/03/10(金) 22:49:45 ID:???
どこのコビペだ、これ?
361イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/10(金) 23:34:08 ID:kJ5UW+R/
>>もう既に中共のキチガイぶりが遺憾なく発揮

『北伐』は、国民革命軍総司令に就任した蒋介石が指導した訳ですが、中共と国民党
左派が占める『武漢政府』は、蒋の独裁力を弱めるのに躍起となっていました。

1927年3月10日に行なわれた「国民党第二中央第三全体会議」では、三軍の統帥権が
国民革命軍総司令に集中しすぎるとして、7名の軍事委員会主席団に委任することに
勝手に決めました。もちろん、蒋介石は出席していませんw。

そのころ、蒋介石が率いる部隊は「江南攻略」を目指していましたが、武漢政府は
蒋の発言力が増すのを恐れ、何とか失敗させようとしています。具体的には、謀略を
使って「国際問題」を引き起こそうする訳です。

1927年3月24日の「南京事件」はその典型です。この事件は、あえて外国の干渉を誘って
蒋介石を倒そうとした共産党の陰謀だとされています。
362イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/10(金) 23:58:50 ID:kJ5UW+R/
同じころ『上海』も国民革命軍に占領されますが、その主導権をめぐって蒋介石と
武漢政府の対立は最高潮に達します。パリから帰った汪兆銘がそれに加わり、
混乱に拍車をかけた訳ですw。

ソ連人のボロジンが指導する「武漢政府」は、南京と同じように上海でも暴動を起こして
蒋介石に対する列国の信頼を失わせようとします。

しかし、蒋はいち早く手を打ち、3月23日の「第3回武装蜂起」に続く上海での暴動計画は、
薛岳の第1軍第1師が制止したために、南京のようには行きませんでした。

蒋介石が心の底から怖れたのは、上海に『共産党政権』が誕生し、全市が混乱に陥って
列強の介入を招くことです。3月26日、蒋が九江から上海に到着すると、翌27には上海
各界は盛大な「北伐軍歓迎会」を催し、国民革命軍の上海占領を祝福するとともに、
『治安の確立』を要求します。まあ、当然のことですねw。
363イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/11(土) 00:16:51 ID:2We4OUqy
というのも当時、上海総工会は周恩来の指導により、2000人の武装した
『工人糾察隊』を組織して「反動派狩り」を行ない、上海市民の不安を煽っていたのです。

このため蒋介石は、工人糾察隊の武装を解き、前線指揮官である白祟禧の統制に
服するように命令し、一部の不法分子を逮捕しました。

総工会がこのことを「武漢政府」に報告すると、1927年4月1日、中央政治委員会は
蒋介石に「国民革命軍総司令の職を免ず」と通告してきましたが、もちろん蒋は
これを無視します。むしろ、討伐するはずだった軍閥の孫伝芳と妥協して、中共を
抑えようとしています。

そのような中、パリにいた汪兆銘が帰国要請を受けて、ベルリンからモスクワに行き、
ソ連政府とコミンテルンの支持を取り付け、上海に戻ってきます。蒋介石からは
「清党(党内粛清)」を共に実施するため上海に留まるように要請されましたが、
汪兆銘は回答を避けます。
364イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/11(土) 00:38:22 ID:2We4OUqy
逆に汪兆銘は、中共の陳独秀や汪兆銘と接触し、1927年4月5日には
『汪兆銘・陳独秀宣言』を発表します。

「総理・孫文の容共政策に疑問はない」というこの宣言は、国共合作を
より推進することを意味しました。このため「国民党右派」は失望し、
汪兆銘もまた翌4月6日、ひそかに長江をくだって漢口に向かいます。

そして、蒋介石は「反共クーデター」(4月12日)を決意します。>>332 参照

また、張作霖は「南京事件」を口実に北京のソ連大使館の『ガサ入れ』をして
中共首脳の李大サを絞首刑にするのに繋がっていく訳です。>>331 参照

あ、スイマセン。>>331 前後で、1927年と書くところを勘違いして
1926年としていましたw。お詫びして訂正します。
365イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/11(土) 00:59:10 ID:2We4OUqy
張作霖の『ソ連大使館・ガサ入れ』をもう少し補足しますと、以下の通り。

南京事件の「北京への波及」を怖れた7カ国外交団が、厳重かつ然るべき措置を
取ることを、張作霖の安国軍総司令部に勧告したことから始まります。南京事件の
背後には、ソ連と共産党の策動があると疑われたためでした。

ソ連大使館から押収された『極秘文書』には、「外国の干渉を招くための略奪・
惨殺の実行指令」「短時間で軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること」
といった内容の訓令があったと総司令部が発表しています(真偽は別して)。

ソ連はその誕生直後に、不平等条約である「北京議定書」を自ら破棄して
支那の歓心を買う真似をしていますが、そのために支那官憲の捜査を拒むことが
できなかったというのは、皮肉なことですw。
366イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/11(土) 01:10:26 ID:2We4OUqy
また『武漢政府』自体にも反共の兆しが見えてきます。

北伐以来、国民革命軍に協力してきた湖南の「労農階級」がコミンテルンの
指令により、過激な「土地収用」を強行したためです。

蒋介石に敵対的で、武漢政府にとって「有力なカード」だった唐生智軍も、
湖南が郷土のため、将校のみならず兵士までもが反共に傾きます。

唐生智の動揺を防ぐために、武漢政府は中共が指導する「農村革命」を抑制
せざるを得ませんでした。このとき、土地革命を推進していたのが、全国農民
協会主事の毛沢東なのですw。
367イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/11(土) 01:13:08 ID:???
長々と書いてきましたが、北伐も中身は『グダグダ』という事です(藁)。
368イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/11(土) 01:47:05 ID:2We4OUqy
>>「支那蔑視」という今もなお2ちゃんで燃え盛るw日本の民族感情が、
>>おそらく上回ったのでは?

支那をすべて一緒くたに考えるのではなく、「中共」と「国民党」と「軍閥」を
分けて考えなければなりません。当時も出来ていなかったでしょうし、現在も
出来ているとは言い難いでしょう。

まあ、自分もこのスレを始めた当初は、『全ての支那人=土人』という
思考法でしたがw。

そして、現在の支那政権は「中共」です。
369名無し三等兵:2006/03/11(土) 09:06:50 ID:???
>>368
じゃあ今の思考法は?
370俄将軍:2006/03/11(土) 10:20:54 ID:???
>>368
国民党の中の人に限っても、蒋介石直系か否か、容共か否か、旧軍閥の中の人
か否か等々、色々な方々がいるということになるのか、などと。

日本にとって、親日か否か、という違いもあるのか、などと。
371名無し三等兵:2006/03/11(土) 13:25:34 ID:???
孫文が生きていれば
372名無し三等兵:2006/03/11(土) 13:40:36 ID:???
孫文って袁世凱に政権乗っ取られた人じゃん。それでまた日本に亡命。
373ue ◆WomMV0C2P. :2006/03/11(土) 19:07:14 ID:???
>>371
孫文はここでは変な怪しいおじさんと言う評価です(w
まぁ、冗談は抜きにして袁世凱の帝政に対して第三革命を起こして、大陸情勢を益々混迷化させています。
故に生きていた所で劇的に情勢を変えれたかどうかは疑問符が付きます。
374名無し三等兵:2006/03/11(土) 19:46:04 ID:MNds1COg
  □■主要大学政治的社会的実績見積もり■□  ☆…5人以上輩出
内閣官房
副長官事務方  東大☆、九大、中大
 
大蔵次官    東大☆、京大
通産次官    東大☆、岡山大
外務次官    東大☆、京大
警察庁長官   東大☆、京大、東北大
各省事務次官  東大☆、京大☆、東北大、九大、筑波大、岡山大
         中大☆、慶大、早大、日大?
最高裁長官   東大☆、京大、中大
検事総長    東大☆、京大☆?、中大

経団連会長   東大☆、東工大、名大、一橋大、中大*(次期)

日銀総裁    東大☆、慶大

警視総監    東大☆、日大

財閥系銀行頭取 東大☆、慶大☆?、一橋大☆?、阪大
財閥系商社社長 東大☆、一橋大、慶大

総理大臣    東大☆、早大☆、慶大、明大、京大、一橋大、
        中大、上智大、成城大、神戸大、東京海洋大、
        高等小学校卒、学習院、陸軍大☆、海軍大
375名無し三等兵:2006/03/12(日) 00:04:05 ID:???
>>373
孫文は列強の侵略から中国を保つには今の満州王朝では役不足、共和制の国を再編刷るしかないと考えた。
しかし、孫文には宣統帝(まあ幼少だったから御輿にすぎない)を退位に追い込むには実力=軍事力の裏づけが
無かった。
だから、清朝の実力者であった袁世凱に清朝打倒、共和制勃興の密約を結んだが、袁世凱は清朝打倒の大義名分を
欲していただけで、共和制そのものには幻想を抱いていなかった。
だから1911年10月の辛亥革命後、総統になり、ゆくゆくは皇帝就任を考えた。
かの国の歴史観では前王朝を終わらせた人物が新しい王朝を開く伝統があった。
袁世凱は外国に共和制の存在は知っていたし、概念も理解していただろうが、彼自身は自分を止める事が孫文には
事実上不可能である事実と、孫文に力があるのなら、自分自身で打倒すれば済む話なのに出来ないのは実力の
裏づけが無いゆえであること、自分をたよることでしか清朝を終わらせる術を知らないことをみぬいていたからね。

革命いまだならずと遺言して異郷で亡くなった孫文は理想はあったが、中国では軍の兵権=実力な面が強い。
そしてそれは今の共産政権でも続く中国の政治の現実さ。
江沢民も最後まで保っていたのが、軍事主席であったし、継承した今でも軍に影響力を保持しているのはそういうことさ。
376名無し三等兵:2006/03/12(日) 19:43:15 ID:???
当時の中華民国の海軍戦略に関する記事を翻訳したので
転載します

中華民国の空母保有への取り組み
ttp://news.sina.com.cn/o/2006-01-10/15017944688s.shtml

中華民国で空母保有を主張する中心人物となったのは、WW1時に欧州戦
線に観戦武官として派遣された陳紹寛である。彼は3度の海戦に観戦武官
として参加、当時登場した潜水艦、空母など最新技術を目の当たりにした

陳紹寛は1920年帰国。彼の海軍近代化構想が動き出すのは蒋介石によ
る北伐完了後である。1928年、陳紹寛は海軍第2艦隊司令兼海軍署署長
に就任。ただちに彼は海軍拡張案を提出し、その中では2千万元を投じて
空母を建造する案もあった。しかし、当時の深刻な財政難の中でこの案は
否決。これを受けて第一艦隊司令陳季良は抗議の辞職をした。

蒋介石は指導者不在による海軍の混乱を恐れ中で、陳紹寛の慰撫に務め、
陳の海軍再建計画を承諾した。蒋介石は国防における海軍力の重要性を
指摘し、「15年以内に60万トン規模(の艦隊)の建造を希望する。」と述べた。
60万トンのなかには3隻の空母も含まれていた。陳紹寛は蒋介石との会談
を受けて辞職を撤回し、空母建造の前段階となる軍港の検討に入り、月交 
(こう)州湾、象山、大鵬湾の3つの候補地を選定した。
377名無し三等兵:2006/03/12(日) 19:43:57 ID:???
陳紹寛の海軍建設のモデルとなったのは、彼が観戦武官として滞在した英
国であった。。陳紹寛はまた海軍内部における航空機と観戦の役割をめぐる
論争を引き起こした。彼は1934年に出版した著書『海戦』のなかで海戦にお
ける航空機について触れ「現代の海軍は海戦において、攻撃手段をとろうとす
れば、必ず艦載航空機に頼らざるを得ない」と航空機の重要性を主張した。

しかし空母の保有についてはなかなか進展が見られなかった。1つには財源
問題があり、乏しい予算を空軍の建設に回したために軍艦建造費が不足した
こと。もう1つは海軍内部での論争である。外洋艦隊反対派の国民党監察委
員の高友唐は、空母不要論を唱え、商戦の充実に資源を傾注し、海軍は小
型艦艇200隻を購入して沿岸防備に徹するべきだと主張した。

日中戦争開始後、上海や南京方面で日本海軍の空母が活躍したことは、陳
紹寛に自らの空母保有論に確信を抱かせる事例となった。1943年11月、
彼は海軍部を代表して海軍建設計画を提出した。その中では中国沿岸を4つ
の軍区に分けて各軍区に空母5隻を中心とする機動部隊を編成、計20隻の
空母を保有することが計画されていた。空母の建造費は一隻あたり18億元
が想定されていた。この計画は蒋介石を始とする多くの人々を驚愕させた。
陳紹寛は「この支出は国家にとって省き得ないものだ」と述べた。

当時の中国の状況から、この計画は非現実的であったが、陳紹寛は蒋介石の
海軍建設への意志を熟知していた。戦後、再び策定された海軍再建計画では、
12隻の空母を建造する目標が示された。この案について陳紹寛は「12隻の空
母は一度に建造するものではなく、30年をかけて建造する。最初の10年間に、
まず1万トンと8000トン級空母を各1隻づつ、1トンにつき6280ドルかけて建
造する」と述べた

その後国境の内戦が勃発したことで陳紹寛の空母機動部隊建設の努力は無
に帰してしまうことになる。
378名無し三等兵:2006/03/12(日) 22:50:24 ID:???
カモはいる。交渉能力に長けた周恩来が張学良に接近する。
周恩来は、学良に対してあらんかぎりの敬意を払った。
周は学良を「張将軍」と呼んだ。
周は学良に、西北軍と紅軍が東北軍に合流したあかつきには全軍こぞって学良を西北地
域の王に推戴するであろうかのような幻想を抱かせようとしたのである。
学良は周との最初の会談で、「見面礼」として2万大洋(当時の1元銀貨)と20万法幣
(1935年以後、国民党政府が発行した紙幣)を贈っている。
この事実は、張学良が共産党の何たるかについて全く理解を欠いていたということの
証左である。
学良には紅軍は自分たちとおなじ地方勢力のひとつというぐらいの認識しかなかった。
「見面礼」は当時の馬賊間の儀礼である。
周恩来にとっては簡単に篭絡できる相手であった。
379名無し三等兵:2006/03/13(月) 00:40:35 ID:???
>>376-377
dd

「国防における海軍力の重要性を指摘」「英国がモデル」って面白いですね。
そのままだったらどんなタイプの海軍が実現されたのか興味深い。
380名無し三等兵:2006/03/14(火) 14:34:25 ID:???
戦争犯罪国家の日本が靖国をするスレッドはこちらですか?
381名無し三等兵:2006/03/14(火) 14:38:59 ID:???
>>380
そうですよ うひひひっひー
382名無し三等兵 :2006/03/14(火) 18:53:26 ID:???
>>380
ていうか、堂々巡りと鱈レバーのスレw
383名無し三等兵:2006/03/14(火) 19:39:09 ID:???
「靖国をする」ってどうやるんだろう・・・
384名無し三等兵:2006/03/14(火) 20:08:19 ID:???
煽りはスルーするがよろし。
385イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/14(火) 22:16:50 ID:ohk1ZQDg
>>369 >>じゃあ今の思考法は?

とりあえず「中共」は土人ですw。

>>370 >>日本にとって、親日か否か、という違いもあるのか、などと。

清国がようやく近代化に目覚めるのは、日清戦争で日本に敗れてからです。
1300年続いた「科挙」の制度を廃止し、文武官僚を国内の新設学校や
海外に派遣して、新知識の吸収に努めます。

特に日本をモデルケースとして、教官として清国に招かれた日本人は600人、
日本に派遣された留学生の1300人を数えます。これは日本の大きな財産と
言えるでしょう。
386イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/14(火) 22:33:46 ID:ohk1ZQDg
とりわけ清国陸軍は、「北洋新軍」の建設を進めていた時期でもあります。中小地主、
商人、下級読書人の子弟は争って軍人を志願し、「武備学堂」(士官学校)で教育を
受けたあと、選抜されて日本の陸軍士官学校に留学しています。

過去スレでも少し触れましたが、1900年〜1902年を除いて、辛亥革命が始まる1911年
までに、毎年少ない時でも20名、多い時は90名、日露戦争に勝った後の1907年には
250名の留学生が来日しています。

ここで特筆すべきは、日露戦争ごろから清国が派遣した留学生のほとんどが「漢民族」
だということです。1905年に興中会、華興会、光復会などの中国革命団体が、東京で
一同に会合し『中国革命同盟会』が結成されると、中国人留学生の多くが参加します。

彼らは日本から清国に戻ると、各地の「武備学堂」の校長か教官となるか、北洋新軍
の幹部となって軍隊を練成しました。清国が「新軍建設」のために派遣した留学生
たちが、辛亥革命が起こると体制擁護ではなく『滅満興漢』を目指す革命軍の中核
となったのは皮肉なことですw。
387イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/14(火) 22:55:55 ID:ohk1ZQDg
しかし、当時はまだ中国全土に広がるような革命戦力はありませんでしたから、
各省ごとの地縁、血縁による集団に止まります。これが後に「軍閥割拠」の地盤
となる訳ですが、日本留学生出身者たちはこの中にあってエリートして累進し、
ある者は軍閥化し、ある者は革命運動に参加して活躍します。

のちの中国陸軍総司令の何応欽も、日本留学生出身(22期、1908年入校・
1910年卒業)で親日派の最たるものでしたから、それは国民党の中でも
分けて考える必要があるでしょう。

しかしそんな何応欽でも、岡村寧次と酒井隆とで扱いはひどく違いますがw。
388イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/14(火) 23:36:12 ID:ohk1ZQDg
>>371 >>孫文が生きていれば
>>373 >>孫文はここでは変な怪しいおじさんと言う評価です(w

孫文の気の毒なところは、アメリカやイギリスにも相手にされなかった事ですw。

『安直戦争(1920年)』『第一次奉直戦争(1922年)』で直隷派が勝利したことで、
その背後にいたアメリカ・イギリスの影響力が復活・拡大することになります。

要するに、孫文に用は無い訳ですねw。もちろん、段祺瑞・張作霖を支援していた
日本の影響力も、上記の戦いで安徽派・奉天派が敗れたことで急速に衰えますが(藁)。
1921年に「青島守備軍」が撤退し、1922年に山東鉄道を返還する一因にもなっています。

少し前に触れたように、1919年にソ連の代理外務人民委員・カラハンが支那における
半植民地権益を放棄すると宣言して列強を驚かせ、1921年には中国共産党を発足させて
『赤化』を狙った外交攻勢をかけますが、間に合いません。そして当面、軍閥に触手を
伸ばすことになります。
389イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/14(火) 23:54:42 ID:ohk1ZQDg
ソ連はまず、北方の張作霖・呉佩孚に接触しましたが失敗。次いで馮玉祥に
目を向けます。

同時に華南にも触手を伸ばし、まず広東軍閥の陳炯明に近づきますが、実力の
ないことを知ります。そして孫文を説いて、中共との提携をすすめた訳です。

兄弟と頼んだ日本にも見放され、イギリス・アメリカにも相手にされず、
軍事力の無い弱みをつくづく思い知った孫文はついに「連ソ容共政策」を
決断することになります。

そして、張作霖・段祺瑞・孫文で「三角同盟」を組んだのですが、1922年の第一次
奉直戦争で直隷派に敗北。これに陳炯明が呼応してクーデターを起こし、広東にいた
孫文の総統府が襲われる始末w。

1924年の「第二次奉直戦争」でようやく安徽派をくだし、孫文の属する「三角同盟」が
勝利する訳ですが、その翌年の1925年に孫文は亡くなってしまいますw。
390イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/15(水) 00:14:39 ID:6byfdMXN
>>373 >>故に生きていた所で劇的に情勢を変えれたかどうかは疑問符が付きます。

孫文の亡くなった翌年の1926年、蒋介石が総司令となって国民党による「北伐」が
開始される訳ですが、孫文がもう少し長生きしていたらどうなっていたでしょうか。

上の方でつらつら書きましたように、北伐とは「国民党右派」VS「国民党左派・共産党」
による『壮絶な主導権争い』が並行して行なわれた訳です。

孫文が生きていたとしたら、あくまで蒋介石は『軍事面の補佐』として北伐の表舞台には
出てこれません。ひょっとするとソ連のボロジンの指導の下、国民党はズルズルと赤化が
進んでいったのではないでしょうか。

『支那人の幸福』を考えると、やはり孫文は1925年に亡くなってくれて良かったのではない
でしょうかw。まあ、国民党が本気で赤化する前に、蒋介石がクーデターを起こす可能性も
高いと思います。史実でも1回、孫文を軟禁していますし。
391イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/15(水) 00:20:44 ID:6byfdMXN
>>376-377

文句無しに面白いです。

>>382 >>ていうか、堂々巡りと鱈レバーのスレw

過去スレを通じて、少なくとも自分は同じ話を2回していませんよ。
そんな掘って埋めて、また掘ってなんて作業は耐えられませんw。

>>383 >>「靖国をする」ってどうやるんだろう・・・

同感です。最近、靖国神社で鳥居を新しいのに変えていますよ。ビックリ。
392名無し三等兵:2006/03/15(水) 04:58:23 ID:7OgASFj3
仮に日中戦争がなかった場合
蒋介石は中共を叩き潰せたのでしょうか?
それとも史実の台湾逃亡がアメリカ亡命に変わるだけ?
教えてエロイ人
393名無し三等兵:2006/03/15(水) 15:28:01 ID:???
日中戦争はなくても中日戦争は必ず起きますよ111111
ドラゴンズじゃないですよ日本鬼子兵のみなさんウンコをもらさないでください
歴史の捏造をやめ歴史を反省しろ11111111111
394名無し三等兵:2006/03/15(水) 16:23:36 ID:7OgASFj3
>>393が釣れた♪
395名無し三等兵:2006/03/15(水) 16:51:08 ID:wmLgDEdy
伊原剛志が戦前のロサンゼルス五輪の金メダリスト、バロン西こと西竹一に
396イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/15(水) 22:26:35 ID:awQoguaq
>>392 >>仮に日中戦争がなかった場合 蒋介石は中共を叩き潰せたのでしょうか?

それは間違いないでしょう。西安事件が起こる直前、毛沢東が率いる紅軍は
陝西省北部の僻地・保安という集落の東側にある洞窟に潜り込んでいました。

「長征」以前には10万人いた兵力が、わずか7、8千人に磨り減ります。

保安の山奥では食料さえ自給できず、武器・弾薬・医薬品もすべて欠乏し、
日常生活さえままなりません。

しかも蒋介石の命令で、陝西省の省都・西安には国民党軍の「西北掃匪司令部」が置かれ、
東南70キロの延安一帯には、西北掃匪副総司令・張学良の旧東北軍と、陝西綏遠主任
(治安維持責任者)楊虎城の西北軍が、中共軍殲滅のため配備されていました。
397イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/15(水) 22:50:53 ID:awQoguaq
ここまではよく知られていますが、さらに黄河を挟んだ東の山西省には、
山西綏遠主任の「閻錫山」軍が中共包囲の態勢を取っています。

トドメと言わんばかりに、陝西省北部には、53個師の大兵力をもつ第一戦区
司令長官・胡宗南軍が頑張っていました。胡宗南は、蒋介石子飼いの黄埔軍官学校
第1期生で、それが『共産軍・包囲専門部隊』として配置されていましたから、
中共(周恩来)が張学良・楊虎城を寝返らせたとしても、本来はとても追いつかない
訳です。焼け石に水、袋の中のネズミです。

もちろん、蒋介石が『督戦』のため西安へ出向かなければ、の話ですがw。

また、「西安事件」が起きて蒋介石が虜囚の身となると、毛沢東は蒋を殺す気
マンマンでした。結局、ソ連のスターリンの厳命によって、抗日・中共合作を目指し
10日以内に蒋介石を釈放せよ、との指示が下る訳ですが、毛沢東は激怒します。
398イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/15(水) 23:12:35 ID:awQoguaq
西安事件直後、軍政部長だった何応欽が『反乱軍討伐総司令』に就任し、
空軍をもって張学良軍のいる地区の爆撃を開始します。

もちろん「西安事件」が起こらないのが最良ですが、もし毛沢東が怒りに任せて
蒋介石を殺していれば、結局は国民党軍によって殲滅されていたでしょう。

まあ、蒋の後継が決まらず、国民党がバラバラになる可能性も高いですが、
「自分の親玉」を殺されたのですから面子にかけて共産党の覆滅までは、
まとまるのではないでしょうか。その後は知りませんw。

汪兆銘が急浮上してくるのかもしれません。

そして国民党が分裂状態となり、共産党の残党ともども以前の軍閥状態に戻るなら、
日本の『分治工作』の格好の餌食です。この場合も、日中戦争は起きないでしょう。
399名無し三等兵:2006/03/15(水) 23:47:04 ID:7OgASFj3
>>396-397
丁寧な解説ありがとうございますた

日本は日中戦争で蒋介石の足を引っ張り
毛沢東を間接的に支援した…
さらに蒋を交渉相手とせずに
日本自ら外交の手足を縛った…と

その状況と三国同盟でアメリカの対日攻撃材料を与えながら
独ソ戦では同盟国のドイツではなく間接的にソ連を支援し(ソ連を牽制しないことで)
日米開戦してはみたものの戦争集結の算段はなく
ヤルタ会談の意味を見抜けずに
ソ連に和平仲介を依頼する脳天気さ…

昭和の大日本帝国の外交は
自ら破滅の道をたどっていたわけですね

アメリカ対独参戦の為に日中戦争は利用され
中共が息を吹き返すために日中戦争は利用され…

ソ連を利しただけじゃないかw
400イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/15(水) 23:51:05 ID:awQoguaq
>>380 >>戦争犯罪国家の日本が靖国をするスレッドはこちらですか?

結果から言えば、支那大陸が「共産化」するのに日本は大きく貢献している訳です。
日本が『戦争責任』を感じるならば、そのことを第一義とすべきでしょう。

>>387 の補足 >>しかしそんな何応欽でも、岡村寧次と酒井隆とで扱いは
>>ひどく違いますがw。

岡村寧次は、中共による戦犯指定第1号。
酒井隆(中将)は、国民政府による戦犯指定第1号です(1946年9月30日処刑)

酒井が死刑になった直接の原因は、『梅津・何応欽協定』(1935年)の推進役となって
(当時、天津駐屯軍参謀長)、何応欽の面子を潰すような言動を取ったことですが、
他にも理由があります。
401名無し三等兵:2006/03/15(水) 23:53:59 ID:???
>>398
毛沢東が怒りにまかせて蒋介石を殺害する…
破壊の天才であり無能な創造者の毛沢東なら
全然不思議じゃないですねw
402イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/16(木) 00:07:11 ID:awQoguaq
太平洋戦争が始まると、酒井は第23軍司令官として香港攻略を指揮、
その後に「香港軍政庁長官」となりますが、これも瑣末なことでしょう。
(ちなみに酒井の後任となったのが、香港総督の磯谷廉介)

酒井は1943年に予備役編入されたあと、終戦が間近い1945年2月に単身
中国へ渡ります。

北京に着くと「東本願寺」に居を構え、酒井機関と称して『対中共工作』を
始めているのです。将来、支那大陸が中共に統一されると判断して、あらかじめ
連絡を取っておく目的だったと言われますが、真偽は不明です。

終戦直後、北支方面軍の勧告により帰国の途につきますが、天津に着いた
ところで国民政府軍に捕らえられ、戦犯第1号に指定される訳です。

酒井が、「支那大陸は中共に支配される」と踏んだのは慧眼ですが、
国民政府から見れば、癇に障る以外の何物でもなかったでしょう。
403イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/16(木) 00:24:09 ID:???
>>岡村寧次は、中共による戦犯指定第1号。
>>酒井隆(中将)は、国民政府による戦犯指定第1号です(1946年9月30日処刑)

ちなみに、岡村寧次が『上海駐在武官』となった1924年当時、酒井隆は上海駐在員で
直属の上司・部下の関係です。

岡村の前任の小林角太郎(陸士16期:岡村と同期)が、公金の使い込みをやっていた
のを発見して、見て見ぬ振りをしていた(共犯の)酒井を詰問します。

「駄目じゃねえか、一体どういう心算なんだ!」と癇癪玉を破裂させました。

結局、岡村は、表沙汰にすれば酒井の将来に傷がつき、支那班の恥にもなるので
公表は避けました。ただし、小林には痛烈な詰問状を送りつけています。

これが縁で酒井は岡村に恩義を感じ、その後の2人は問題なく共に仕事を続けて
いくことになりますが、他方の小林は最終的に中将まで昇進していますw。
404イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/16(木) 00:25:54 ID:uXaV1Oan
かつての部下である酒井隆が処刑された日――岡村の日記にはただ一言、

「感無量」

とだけ、書かれていました。
405名無し三等兵:2006/03/16(木) 00:36:10 ID:???
昭和十九年にもなると日本全体で延安の中共との提携論が高まり、
七月二日に湘桂作戦の視察から帰り、国民党の弱体化と中共の隆盛を見た参謀次長秦彦三郎は
それまで西北赤色地帯と呼んでいた中共を延安政権と呼ぶよう提案し、これが認められます。
さらに秦は八月十日に最高戦争指導会議で『対延安政権宣伝謀略実施要綱』というものをつくり、
延安政権は独立した政権で日本との提携が可能であり、場合によっては延安政権の勢力拡張を計る、としています。
406名無し三等兵:2006/03/16(木) 01:22:01 ID:???
と、言うことで >>399のこうすれば良かった戦前日本!  講義の始まり始まりぃ〜!

さぁどうぞ↓
407名無し三等兵:2006/03/16(木) 01:27:26 ID:???
>>406
釣られちゃった♪
408名無し三等兵:2006/03/16(木) 04:28:44 ID:???
■極悪人参謀だった辻正信の戦後■

辻正信を悪人であると断ずるのは容易い。
彼はシンガポールの華僑大量虐殺とバターンの虐殺の黒幕だ。
のみならず、服部と結託してノモンハン事件を扇動、本国の不拡大方針にも関わらず
際限なく戦線を拡大した挙句、惨敗。多数の将兵の命が失われた責任の多くが辻にあると言える。

しかしながら…

忘れてはならないのは、戦後の日本国民は彼を断罪しようとしなかったこと。
辻は「潜行三千里」で得た名声をもって、1952年の衆院選に石川一区から出馬、
トップ当選を果たす。
戦後の日本は、辻正信を受け入れたのだ。その後の選挙でも辻は順当に当選を果たし、
1961年に失踪するまで、衆議院・参議院の議員を務めている。

国民は辻の実相を知らなかったのか? そんなハズは無い。
辻の名声のほとんどは「潜行三千里」から来ている。
そもそも辻が潜行しなければならなかった理由がシンガポールの華僑虐殺であるわけだし、
辻自身もこの虐殺を命じたのが自分であることを否定していない。
国民は、他民族の大量虐殺事件の首謀者を、再び国家の指導者として選んだ。

人に与えた痛みというのは、かくも忘れやすいものだ。
5年や6年で忘れてしまうほどに。
409名無し三等兵:2006/03/16(木) 09:54:20 ID:???
人殺し国家 日本111111111111
410名無し三等兵:2006/03/16(木) 12:29:31 ID:O6/Xy+hB
辻は中国人に匿われていたからねw
411名無し三等兵:2006/03/16(木) 13:22:32 ID:???
>>408
辻は読売新聞の記者をしていた鈴木東民というマルクス主義者と話し合っていました。
内容は中国共産党とソ連を味方にするというもので、
鈴木は辻のバイタリティーに魅せられ、辻が軍部を動かしてくれるなら、
自分が延安に行って毛沢東と話をつけてくると言います。
そして中共を延安政権と呼ぶようになった昭和十九年七月に
鈴木は辻との話を元に東京・モスクワ・延安枢軸同盟を目指せという記事を書きます。
さすがにこれは不審に思われ弾圧を受けました。
412名無し三等兵:2006/03/16(木) 17:21:21 ID:???
捏造国家 日本111111111111
413名無し三等兵:2006/03/16(木) 20:02:53 ID:RedTwtjL
侵略戦争、」支那事変。南京大虐殺で30万の市民を虐殺。
414名無し三等兵:2006/03/16(木) 21:30:15 ID:???
日本軍から逃げるために国民党軍が堰を切って七十万の民衆を
水中に没せしめた徐州作戦の詳細についておねがいします
415イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/16(木) 22:43:46 ID:gHDi+vQU
>>405 >>昭和十九年にもなると日本全体で延安の中共との提携論が高まり、

迷走。溺れる者は藁をもつかむ。ミイラ取りがミイラ。太平洋戦争末期には
ソ連に和平の仲介を依頼するくらいですから、仕方がありませんかね。しかし、
中共との提携を模索するほど、落ちぶれたくはないものですw。

>>408 >>辻正信を悪人であると断ずるのは容易い。

辻政信は「日中戦争・支那事変」を語るうえでも重要な人物ですから、
少し触れておきましょうか。

太平洋戦争終戦時、辻政信(大佐)はバンコクの第18方面軍高級参謀でした。
サイゴンの南方軍総司令部に飛んだ辻は、「大本営の弱腰を激励して来るから、
飛行機を出せ!」と迫りますが、断られますw。

ここから僧形に身を扮した辻の「潜行三千里」が始まった訳です。辻クエスト―
416イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/16(木) 22:58:31 ID:gHDi+vQU
辻の逃避行は何を目指したものだったのか? ベストセラーになった『潜行三千里』には

「腹を切ってお詫びするのが武士道だが……苦悶ののち一人で大陸にもぐり、仏の道を
 通して、日タイ永遠の柱になろう」

と書いている程度に過ぎません。また、サンケイ記者・野田衛が書いた『辻政信は生きている』
によると辻の潜行は、

「同僚の林憲兵大佐が、日本の敗退のあとアジアの指導者となるべき蒋介石を助けて
 中共軍を撃破することを勧めたから」

と書いていますが、真相は藪の中です。普通に考えれば「戦犯逃れ」が一番可能性が高く、
納得も出来るのですが、本気で上記のようなことを思い込んでいたとしても不思議では
ないのが『辻の辻たる由縁』ですw。
417イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/16(木) 23:27:06 ID:gHDi+vQU
さて、辻政信を語るうえで欠かせないのが石原莞爾との関係です。辻はカンジを
『導師』と呼び、カンジもまた辻を『後継者』として嘱望していました。

2.26事件(1936年)直後の「粛軍」で、辻政信(大尉)は関東軍参謀部付に異動して
満州国へ赴きます。招いたのは、「柳条湖事件」で森嶋領事を軍刀で脅かして問題と
なった花谷正中佐とされます。

そもそも満州国の建国目的は、「五族協和」「王道楽土」を実現することですが、無論
現実は理想と程遠いものでした。本来であれば、日・満・支・蒙・鮮の五民族が協力し合い
繁栄していく建前でしたが、関東軍は暗黙のうちに『満人』を優遇して『朝鮮人』を
冷遇します。

満州への「朝鮮農民の流入」を抑える目的もありましたが、朝鮮総督府から「日本人である
朝鮮民族を軽視されては困る」とねじ込まれたことも、一度や二度ではありませんでしたw。
418イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/16(木) 23:46:52 ID:gHDi+vQU
また五族の盟主である『日本人』の間でも、関東軍・日系官僚・協和会の勢力が
入り乱れて争っていました。なかでも一番の懸念となっていたのが、教化団体で
ありながら、『一国一党的な政治勢力』に成長しようとしていた協和会の位置付けです。

この「協和会」の取り扱いは一種のタブーで、後年、関東軍参謀副長となったカンジが
参謀長の磯谷廉介と大喧嘩して満州を去る原因ともなります。満州国の生みの親をも
葬り去る鬼門です。

さて、辻政信は「満州国の根本理念と協和会の本質」と題したパンフレットを作成し、
板垣征四郎・参謀長の決済を得たうえで、関東軍司令官(植田謙吉)の名で配布しました。

その内容は、「協和会の内紛に明確な方向性を与え、官僚化せんとする協和会に筋金を
入れる」「満州帝国は民主主義的議会政治の弊にならわず、王道政治を実現す」「皇道
連邦の中心たる日本の天皇…」など、議会政治の否定と協和会の独裁に繋がるものです。
419イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/17(金) 00:09:55 ID:ay+V0DPr
カンジと言えば「東亜連盟」が思い浮かびますが、この「東亜連盟」が難物で
「東亜連盟運動」との違い、「協和会」「最終戦争論」との関連など、とても
一筋縄ではいきません。

しかし、辻がパンフレットで述べた「皇道連邦」は、後の「東亜連盟」に通じる
部分が無いわけでもありません。事実、辻がカンジの知遇を得たのはこの頃からです。
(カンジは参本戦争指導課長→作戦部長)

辻が「協和会運動」に介入したのも、植民地化を深めつつあった満州国を「建国の理想」
に引き戻そうとするカンジに影響されての事だったと言われます。そして辻は終生、
カンジを「導師」と呼んで敬意を払うのです。

ただ、盧溝橋事件から支那事変が勃発すると、カンジは「不拡大論」を唱えて
孤軍奮闘しますが、辻は北京に飛んで強硬派を煽動して回りますw。この辺は
ちっとも変わりありません。
420イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/17(金) 00:24:28 ID:ay+V0DPr
辻は「支那派遣軍」にも在籍していますが、そこまで辿り着くのに
死ぬほど話が長くなりますので、今日は一旦中座しますw。

しかし、本当に辻政信は一人で「スレ1つ」消化できるぐらい密度の濃い
人物であることを、少し書いただけで実感します……。

>>405 >>昭和十九年にもなると日本全体で延安の中共との提携論が高まり、

先ほど書き忘れましたが、尾崎秀実が「泣いて」喜びそうですね。ちなみに
尾崎が処刑されたのが1944年11月です。尾崎が知っていたら、文字通り良い
『冥土の土産』となったでしょう。

>>376-377 支那の海軍話は面白いので、話が一段落したら是非やりましょう。

>>414 一応、自分の頭の中では「1938年初頭」でスレの時間が止まっています。
    徐州作戦は4月なので、もう少し気長に待ってくださいw。
421イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/17(金) 00:44:10 ID:???
ヒデキの腹心も『三奸四愚』(鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二@木村兵太郎、
佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄)、他にも富永恭次、牟田口廉也、田中隆吉
など散々な人間ばかりですが、

カンジの『後継者』も辻政信では褒められたものではありませんw。
422名無し三等兵:2006/03/17(金) 14:26:11 ID:???
>招いたのは、「柳条湖事件」で森嶋領事を軍刀で脅かして問題と
なった花谷正中佐とされます。

まさしくキ○ガイに刃物ですな。
類は友を呼ぶというか。
423名無し三等兵:2006/03/17(金) 18:15:03 ID:???
知日派ってのも意味わかんない単語だね。
例えばハン板は知韓派だが反韓であるし
424イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/18(土) 00:14:01 ID:eBt4E7rz
>>420 の続き。

辻政信(大尉)は、北支那派遣軍参謀(1937年8月〜1938年3月)に転出しますが、
もちろん後方でじっとしていられる性分ではありません。山西省に侵攻した板垣
征四郎率いる第5師団の『作戦指導』に出かけると、激戦場を駆けずり回ります。

華北作戦がひと段落すると、辻は「少佐」に進級。関東軍の作戦担当参謀として
満州へ舞い戻りました(1938年3月)。そして運命のノモンハン事件が起きる訳です。

事件の詳細は長くなるので割愛しますが、よく言われるように関東軍が直前に
前線部隊へ配布した「満ソ国境処理要綱」が影響しているのは間違いないでしょう。

その第4項には、『国境明確ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に
国境線を認定し…』とあります。これは支那事変の途中だから、北方ではソ連と
なるべく事を構えたくないという軍中央の態度は軟弱すぎる、と批判していた
辻の起案によるものです。
425イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/18(土) 00:34:53 ID:eBt4E7rz
内地出張から帰ってきた片倉衷中佐(関東軍参謀)は、辻の起案した要綱を
読んでビックリしますw。『国境線を認定する』のは外交権の侵害にあたるから、
『防衛線を認定する』に改めるべきだ、と磯谷廉介参謀長に進言しました。

>>408 >>服部と結託してノモンハン事件を扇動

辻と辻が兄事していた服部卓四郎中佐(関東軍・作戦主任参謀)が主戦派の
『最右翼』だったことは、今更言うまでもないですが、その上には作戦課長の
寺田雅雄大佐や、参謀長の磯谷廉介中将もいた訳です。

上層部が揃いも揃ってこの2人に引きずられたのは、いかに陸軍に下克上が
横行していたとはいえ、やはり不可解と言うべきでしょう。

磯谷が辻政信を非常に高く買っていた(金沢連隊長時代)のは過去スレでも
取り上げましたが、人にその理由を尋ねられると、磯谷は「積極果敢なところが
気に入った。間違ったかなあ」と戦後に語っています。
426イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/18(土) 00:57:20 ID:eBt4E7rz
磯谷廉介は「ノモンハン事件」によって自身の軍歴にトドメを刺されて
しまう訳ですが(1939年12月予備役、1942年1月に召集→香港総督へ)
それでも辻を恨むようなことはなく、戦後に辻がラオスに赴くときには
護身用に『虎徹』を貸しています。結局、戻らず仕舞いですがw。

しかし、辻が「積極果敢」であるのは紛れも無い事実です。ノモンハン事件でも
多くのエピソードがあります。幾つか挙げると、以下の通り。

●全滅した東騎兵隊捜索に向かう山県連隊に同行した辻は、夜半、黒焦げになった
 200近い死体を発見した。呆然と立ちすくむ連隊長に代わって辻は「3人で
 1人の死体をかつげ。1つも余すな」と指示した。

→本来、参謀には指揮権はありませんが、辻が顔を出した戦場では、上記のように
 辻が指揮官に早変わりしてしまいます。気合の差もあるでしょうが、動物的な
 勘をもつ辻の戦術眼に、居合わせた将兵がたちまち急傾斜するせいだと言います。
 しかも、危険な役割を自ら買って出ますので、上官としても文句をつけにくい。
427名無し三等兵:2006/03/18(土) 01:03:35 ID:???
辻はガダルカナルにまで行ったような
428名無し三等兵:2006/03/18(土) 01:08:59 ID:???
>護身用に『虎徹』を貸しています
虎は千里を往きて千里を帰る、といいますが…
私は笹井中尉と坂井上飛曹の話をを思い浮かべます。

行ってますよ。というか本を出していて大学のとき、読みましたね。
オンボロ駆逐艦(駆潜艇だったかな)で爆撃を受けた話なんかは面白かったです。
429イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/18(土) 01:15:01 ID:eBt4E7rz
●不拡大方針を取る大本営と衝突を起こした「タムスク爆撃」の際も、
 辻は小型偵察機に便乗して、ソ連の戦闘機が出没する外蒙領を飛んで
 いる。低空の事前偵察で確認したのち、軍司令部に攻撃計画を提出し、
 さらに爆撃機に乗って戦果を確認した。

→将校斥候は中尉どまりが相場なのに、辻は大佐になっても自身で第一線に
 出て敵情偵察を行なったのち、作戦計画をまとめるのが普通でした。辻の
 作戦計画が説得力を発揮したのも理由があります。  

●ノモンハン事件末期、第6軍司令部に辻が立ち寄ると、小松原師団が敵中に
 孤立包囲されて全滅寸前なのに、司令部の空気は沈滞して誰も動かない。辻は
 「軍の統帥は師団長を見殺しにすることですかっ!」と軍司令官(荻洲立兵中将)
 を大喝した。
430イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/18(土) 01:37:54 ID:eBt4E7rz
→辻は幕僚室へ行き、「誰か若い参謀で決死隊を作り、師団長を救い
 出して来い」と命じますが、誰一人行こうとする者がいません。すると
「よし、君達が行かないなら俺が行く」と辻はタンカを切ります。

最後のは『ノモンハン』(辻政信著)の一場面ですから、脚色が濃いですw。

>>427 >>辻はガダルカナルにまで行ったような

当時の辻は「参本作戦班長」(中佐)で、作戦指導のため南方に派遣されて
います。ガダルカナルでは、ヘンダーソン飛行場の占領に失敗していますが、
まず最前線の現地に行っていることが異色でしょう。

>>428 >>虎は千里を往きて千里を帰る、といいますが…

ああ、辻の場合も、そういう故事というか「ゲン」が込められていたのですね。
431イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/18(土) 02:28:10 ID:eBt4E7rz
「ノモンハン事件」の敗戦の責任を取らされた辻は、第11軍司令部付を経て
(1939年9月)、支那派遣軍司令部付に飛ばされます。

『司令部付』というのは正式な参謀と異なり、特定の業務を持たない閑職です。
昔風に言えば「窓際族」、リストラが吹き荒れた少し前なら「窓も無い部屋に
1日閉じ込められる」ようなものでしょうかw。これは、ちょっと言い過ぎです。

辻は、内地の政治謀略事件に連座して飛ばされた桜井徳太郎大佐とともに、司令部
別棟の一室をあてがわれました。他の参謀たちは、この部屋を「猛獣小屋」と呼んで
敬遠したと言いますw。

しかし、ここで大人しく終わるような「辻政信」ではありません。むしろ、
ここから支那大陸で本領を発揮していく訳ですが、長くなりましたので
またもや以降は後半に続きますw。
432イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/18(土) 02:44:42 ID:???
>>423 >>知日派ってのも意味わかんない単語だね。
>>例えばハン板は知韓派だが反韓であるし

それなら自分は「知支派」であるかもしれませんが、
「親中派」ではありませんねw。というか嫌中派です。
433名無し三等兵:2006/03/18(土) 03:00:45 ID:ME7NlpU5
【【中国】軍事費は日本の2倍以上、先制核使用の可能性も…米国防省資料★2[3/17]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1142600381/l50
【ガス田】 二階経産相 「中国の言いなりじゃない」「"中国へ対抗措置"発言で、交渉進むのか」…麻生氏批判
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1142593823/

35 :名無しさん@6周年:2006/03/17(金) 20:16:32 ID:batct5SZ0
全く事実無根−二階氏 中国企業優遇との報道
二階俊博経済産業相は26日午後、自民党二階派の総会あいさつで、
一部週刊誌が年金施設の払い下げをめぐり中国系企業を優遇したなどと
報じたことについて「全くの事実無根」と述べ、名誉棄損で法的措置を
取る考えを示した。
 週刊誌は、二階氏が地元・和歌山県にある年金施設の払い下げで自治体に
中国系企業をあっせん、約120億円をかけて建設した施設をこの企業に
「ただ同然でプレゼントしたようなもの」などとする記事を掲載した。
 二階氏は「地元に関することで、事実とかけ離れた文書が掲載されている。
私自身や関係者の名誉を著しく侵害している。法的手段を考え、弁護士と
協議している」と述べた。(共同通信) - 1月26日16時36分更新
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060126-00000166-kyodo-pol

チベット人虐殺で、江沢民らスペインで起訴される
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/china/1120221204/

【社会】 「自衛隊など置かず、近隣国と平和友好を」 "(占領OKの)無防備条例"で、署名活動手続き…国境の町・竹富
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1142588643/l50
【日中】 「南京大虐殺から20万人の中国人を救った」中国版『シンドラー』再評価[03/16]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1142611674/

拉致】拉致解決に三様の意欲 安倍氏、麻生氏、谷垣氏 [03/18]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1142610723/53n-
434名無し三等兵:2006/03/18(土) 11:51:15 ID:Hl6wEMUR
戦争犯罪国家の日本、帝国陸軍は支那大陸で三光作戦を敢行せり
435イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 14:38:46 ID:UyYDPC6X
WBC福留ホームラン万歳!! >>431 の続き。

支那派遣軍「司令部付」という閑職に飛ばされた辻政信ですが、その謹慎生活は
3日と続きません。間もなく本拠地を留守にした東西奔走が始まります。 

その頃の辻は、支那占領地の民心を捉える格好の理念として、カンジが推進していた
「東亜連盟運動」に着目します。その頃、支那派遣軍総参謀長だった板垣征四郎(中将)
を説得して占領地での運動を盛り上げました。

辻が起案して、板垣の名前で「支那派遣軍」全軍に配布した『派遣軍将兵に告ぐ』
(1940年4月29日付)では、

「戦いの悲しむべき運命を自認し、事変解決は『東亜連盟』の結成以外になく、現下の
 事変は、その陣痛として克服し、真に両大民族の心からの提携を目標として進む」

ことを強調し、これを機に支那派遣軍は「東亜連盟」一本立てで進むことになります。
436イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 15:13:09 ID:UyYDPC6X
左遷されてきた「一介の少佐風情」がよくやると思いますが、カンジと昵懇だった
板垣征四郎との関係を考えれば、支那派遣軍で「東亜連盟」を盛り上げるというのは、
そう突拍子もない話でもないでしょう。

ちなみにカンジはこの時、多田駿や板垣の尽力で、中将に昇進して第16師団長(京都)
でした。この2人がいなければ、とっくの昔に少将で予備役編入です。幸運にも少し前に
板垣が陸軍大臣だった事といい、一部の人間関係が歴史を少なからず動かしている訳です。

さて辻政信は1940年8月に中佐へ昇進して、台湾軍研究部員を経て参謀本部兵站班長に
転属します。こうして一時、支那大陸を去る訳ですが、1940年11月には「東亜連盟中国
同志会」が設立され、大民会、新民会、共和党など、それまで日本が作ってきた民衆団体は
解散させられました。

ある意味、カンジが予想していた以上に「東亜連盟運動」は急速に広がっていく訳ですが、
これには理由があります。占領地での人心掌握に苦労していた支那派遣軍にとってみても、
重慶政権や中共のナショナリズムに対抗する「思想的な理論武装」として重宝したのです。
437イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 15:35:45 ID:UyYDPC6X
しかし「東亜連盟運動」の拡大は、軍中央にとって不気味なものに映ります。

満州国や汪兆銘の南京政府が「東亜連盟共同宣言」を発表する動きに至って、
内地の大政翼賛運動や従来の占領地統治をゆるがす『異端思想』とされました。

結局、1941年1月の閣議決定で「皇国の主権を晦冥ならしむる虞れがあるが如き
国家連合理論」として、東亜連盟運動は非合法化されます。

このときヒデキが陸相だったことも大きく関係しているでしょう。そして直後の
1941年3月、カンジは予備役に編入されてしまいます。ヒデキにとっては、この
東亜連盟運動が、そしてカンジがどうしようもなく『危険人物』に思えたに違い
ありません。
438名無し三等兵:2006/03/19(日) 15:40:58 ID:???
fv
439イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 15:47:34 ID:???
祝! 日本軍勝利!!
440名無し三等兵:2006/03/19(日) 17:33:00 ID:ctwtaTC1
古来日本は朝鮮半島を兄として慕い従いながら
文化の恩恵を受けてきました。しかし、ある時
兄が病気で調子が悪いのをいいことに兄を押さえ込み
兄の財産はおろか生命までも奪おうとしました。
弟に対しては慈しみをもって接していた兄は
弟のなすがままにさせてやろうと大慈悲の心で
弟の暴虐に耐えていましたが、ついに弟は親にまで
手をかけたのです。それには周りの人たちも非難しましたが
弟は聞く耳を持ちませんでした。そしてついに弟は近所の人々を
相手に喧嘩を始めました。しかし、弟は不意打ちで次々と近所の
人を倒してしまうので、ついに兄は立ち上がりました。
兄は弱いものだと思っていた弟は驚きました。
兄の怒りによって近所の人たちも大いに驚き兄に味方しました。
弟は全てを失い近所の人々にもうしませんと泣いて謝りました。
兄はとても慈悲深い心で弟を許してあげて、近所の人にも
とりなしてあげました。近所の人も兄を心から尊敬し敬服して
弟を許してあげました。 兄は弟に色々と物心両面で助けてやりました。
息を吹き返した弟はまた兄を批判したり馬鹿にしたりしています。
まさに喉元すぎればなんとやらですね。 そんなことしてたら
またいずれ痛い目に遭いますよと兄は何度も忠告してますが
弟はなかなか聞こうとしません。 また同じことを繰り返さないことを
願うばかりです。
441名無し三等兵:2006/03/19(日) 17:39:06 ID:???
天皇陛下万歳まで読んだ
442名無し三等兵:2006/03/19(日) 19:12:48 ID:QIcfHQOb
他国人を支配することは悪いことではないよ。
とくにそれが大っぴらに、大々的に行なわれていた時代であれば尚更だ。
443名無し三等兵:2006/03/19(日) 20:19:46 ID:???
石原莞爾

「敵は中国人ではない。むしろ日本人である。
自己の野心と功名にかりたてられて、武器をとって立った東条と梅津こそ日本の敵である。
平和をかきみだした点から見ると世界の敵でもある。
彼らをとらえて銃殺すべきである。 」

「この二人(東條と梅津)は、日本を亡国にみちびく元兇であります。これは、私
の個人感情ではありません。東亜全局に亘る事変をひき起こしたのは、彼等の
野心遂行が目的であって、彼等をこのままに放置すれば、勢の赴くところ、何を
仕出かすか分かりません。日本の陸軍は、陛下の股肱として存在するのであっ
て、東條・梅津の駆使のままに任せる私兵ではありません。閣下は陸軍大臣と
して、この際、両人をきって捨てる、ご処置を願いたいと存じます」
444イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 20:49:38 ID:Orqg3hOK
さて支那派遣軍「総司令部付」という不遇の1年を過ごした後、辻は中佐に
昇進して「台湾軍研究部員」に転出します(1940年8月)。

そこで辻は、半年間に渡って『南方作戦』の研究・立案に熱中するのですが、
今まで「対ソ作戦」を主眼としてきた日本陸軍は、南方作戦については白紙同然
の状況でした。そのような背景もあって、辻は一躍『南方通』の評価を得ます。

「一中佐ながら」辻の書き上げた作戦計画書は、ほとんどそのまま採用され、
太平洋戦争が始まると、マレー攻略を担当した山下奉文率いる第25軍の
作戦主任参謀に抜擢されます。

そこで辻は69日間でシンガポール要塞までを攻略する「神速ぶり」を発揮する
訳ですが、逆に手持ち無沙汰になってしまいますw。占領地でのんびり骨休み
するような気持ちがある訳もなく、参本作戦班長に転任して東京に戻った辻は
もたついているフィリピン戦線の現地指導に向かうのです。根っからの戦争狂w。
445イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 21:16:14 ID:Orqg3hOK
辻のテコ入れで(?w)バターン半島は落ちる訳ですが、ついでに
『ジャングルから出てきた米比軍の捕虜を始末せよ』という問題の
私物命令を出します。

歩兵第141連隊長だった今井武夫大佐(のちの支那派遣軍参謀副長)は
これを怪しみ「筆記命令を出せ」とかけ会って辻は拒絶する訳ですが、
上からの命令ということで正直に実行してしまった部隊は、戦後になって
『バターン死の行進』の責任を問われることとなりますw。

辻はシンガポール占領時にも、抗日系華僑の大量虐殺事件(5千人とも
4〜5万人とも)を引き起こしますが、終戦後の「潜行三千里」は
両事件の戦犯追及を避けるためというのが通説になっています。

さてフィリピン後の辻ですが、少し前に述べた通り、ガダルカナルの
作戦指導に赴き、死にそうな目に遭って来ますw。
446イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 21:34:29 ID:???
さすがの辻も、今度ばかりは陸大教官に転任して(1943年2月)
半年間ほど内地で大人しくしている訳ですが……。

1943年8月、大佐に昇進した辻は、支那派遣軍参謀「第三課長」に
転任してくるのです。

さあ、真からのウォーモンガーが、戦争の犬が「支那大陸」に戻って
来ましたよ(藁)。
447イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 22:02:43 ID:Orqg3hOK
>>443 >>閣下は陸軍大臣として、この際、両人をきって捨てる、
>>ご処置を願いたいと存じます

時期的には、板垣征四郎が陸相のころですか? それとも杉山元のころですか?
おそらく板垣の時でしょうが、ヒデキが陸軍次官にいますから無理でしょう。
もしヒデキと梅津の首が斬れたら、単なる人間の好き嫌いによる強権発動ですw。

軍政家としての板垣は「無能」でしたから、尚更です。

別段、板垣がすべからく無能だと言っている訳ではなく、彼の人の経歴を
挙げるだけで説明はいらないでしょう。

陸大卒業→支那駐在武官→支那課員→兵要地誌班長→第33旅団参謀→関東軍
高級参謀→関東軍第2課長→関東軍司令部付・満州国執政顧問→参謀本部付
(欧米出張)→満州国軍政部最高顧問→関東軍副参謀長→関東軍参謀長→
第5師団長→参謀本部付→陸軍大臣
448イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/19(日) 22:18:44 ID:Orqg3hOK
いわゆる「支那通」のスペシャリストの典型であり、良い意味でも
悪い意味でも『専門バカ』です。

陸軍省での職歴は一切ありません。この場合、本人を責めるよりも
板垣に陸相としての指導力を期待した近衛総理の方がどうかしていますw。

似たような軍歴を歩み、陸相の話もチラホラ出ていた「支那通」に同期(16期)の
岡村寧次がいますが、岡村は陸軍省人事局長を務めていますから話はまた別です。

しかも人事局長を務めていたのは、皇道派と統制派がしのぎを削っていた時期ですから
苦労していますw。
449名無し三等兵:2006/03/19(日) 23:05:13 ID:???
辻は第三次近衛内閣のときに、
張の爆殺にならい、六郷の橋に爆薬をしかけ近衛を暗殺する計画をたてていたり、
先述のようにマルクス主義者に中共との提携論をけしかけたり、
文字通り陰日向に問題行動を繰り返しているところが恐ろしいです。
450名無し三等兵:2006/03/20(月) 08:01:42 ID:???
辻政信の選挙区を継ぐのが森喜朗であり、辻政信の娘婿が富士急行会長・堀内光雄
衆議院議員である。
451イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 00:04:13 ID:bkIrduEI
>>448 >>岡村は陸軍省人事局長を務めていますから話はまた別です。

スイマセン。岡村は人事局長ではなく「人事局補任課長」です。寝ぼけながら
書いていました(藁)。

>>449 >>辻は第三次近衛内閣のときに、張の爆殺にならい、六郷の橋に爆薬を
>>しかけ近衛を暗殺する計画をたてていたり、

辻は1941年8月末、水交社で開かれた陸海軍の連絡会議で「上海から持ち帰った
手榴弾の持ち合わせがあるから、近衛首相を暗殺してしまおう」と公言して
いますから、「ガチ」でやる気だったしょう。

六郷川の鉄橋で「ルーズベルト会談」に向かう近衛首相を爆殺する計画という
話の大元は田中隆吉(『裁かれる歴史』)だと思いますが、そのまんま張作霖
事件のオマージュですねw。もはや「テロ参謀」です。
452イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 00:36:21 ID:ZiklenNF
当時、辻政信は作戦課(兵站班長)に属していましたが、のちに『支那事変作戦日誌』を
書いた井本熊男(大佐)は、「失敗してもトライアル・アンド・エラーだと割り切って
平気な辻の図太い神経がうらやましかった」と当時を回想しています。ちなみに井本は
「石橋を叩いても渡らぬ小心者」を自認していました。

>>450 >>辻政信の選挙区を継ぐのが森喜朗であり、辻政信の娘婿が
>>富士急行会長・堀内光雄衆議院議員である。

辻政信が堀内光雄の「義父」にあたるとは初めて知りました。ビックリです。
あまり表沙汰にはしたくないでしょうねw。

辻は「旧石川1区」から衆議院に出馬しますが、強力な支持母体となったのが
下士官兵連中です。すでに金沢連隊の小中尉時代から「模範的将校」として辻は
伝説的な存在でしたが、神様のように尊敬する人間が非常に多かったのです。そんな
理想的な青年将校が急変したのが、陸大を卒業してからだと言います。
453イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 01:37:19 ID:ZiklenNF
>>446 の続き。 >>さあ、真からのウォーモンガーが、戦争の犬が
>>「支那大陸」に戻って来ましたよ(藁)。

辻が再び中国に戻ってきたのが1943年8月、太平洋戦争も後半にあたります。
大佐に昇進して支那派遣軍総司令部「第3課長」に転任しますが、汪兆銘・
南京政府の内面指導と後方補給にあたる部署です。

すでに太平洋の戦局は日本にとって決定的に不利になりつつあり、軍事面では
支那大陸で優勢を保っていたものの、汪兆銘政権は「法幣インフレ」によって
経済的打撃を受けつつありました。

しかし、南京・上海など主要都市では、日本の高級将校が「占領地の権力者」
として特権的階級にあり、ガダルカナルの戦場帰りだった辻の神経を大いに
逆撫でしますw。
454イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 02:00:02 ID:ZiklenNF
風紀・軍紀の取り締まりは、もちろん辻の職務ではありませんでしたが
そんなことは関係ありませんw。

辻は仮借なく将校たちの非行を正し、料亭を征伐し(当時、上海一の料亭を
焼き払ったのは辻の命令だと噂された)、辻の名前はたちまち支那派遣軍
全軍を震撼させました。

辻の赴くところは全て震撼してばかりですw。

さて辻は汪兆銘主席とも何度か会見して、その高潔な人格に心服しては
いましたが、日本を救うには蒋介石と和平を結ぶしかないと考えます。

早速辻は行動に移しますが、その1つが浙江省で蒋介石の亡き母のために
慰霊祭を行なうという奇想天外なもので、このことを聞いた蒋介石は会談の
席を外し1人別室に退いて涙にくれた、と辻は著書(『亜細亜の共感』)で
得意げに書いていますが、真偽は不明です。
455イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 02:25:53 ID:ZiklenNF
辻はこうした下工作のうえで、重慶に飛行機で乗り込み、蒋介石と膝づめ談判し
和平をまとめたいと進言しましたが認められませんでした。

客観的に見れば、日本側内部の「政策不統一」に苦汁を舐めつづけた蒋介石が
一大佐に過ぎない辻を信じるとは到底思えません。

話がずっと止まっていますが、スレ上部の影佐禎昭(謀略課長)でも無理でしたから、
辻のような気合や押し、精神論でどうにかなる話ではないでしょう。ガダルカナルの
ヘンダーソン飛行場奪取の時と同じようなものですw。影佐については、いつか話を
再開します。

しかし、辻も全く考え無しに「重慶乗り込み」を思いついた訳ではなく、汪兆銘政権の
「軍事顧問兼経済顧問」だった岡田酉次(陸軍主計少将)に同行を依頼しています。
456イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 22:12:56 ID:C7+9Aw1f
辻が岡田少将に同行を頼んだということは、「遠回し」に汪兆銘政権の周仏海
財政部長も連れて来い、と言っているのとイコールです。

周仏海は、蒋介石の「侍従室第2処副主任」として身近に仕えていたこともあり、
汪兆銘に追随して重慶を脱出する前は、「国民党中央宣伝部副部長」という要職も
務めていました。

また若い頃は中国共産党創立大会にも「留日代表」として名を連ね(1924年に離党)、
毛沢東や周恩来とも旧交があるという稀有な経歴の持ち主です。

辻(大佐)は、すでに中央の了解を得て飛行機の手配も済んでいると豪語しましたが、
単なるブラフでしょう。支那派遣軍総司令官の畑俊六大将はこれを問題にもせず、
許可する様子など全く無かったので、岡田少将と周仏海は辻の申し出を断りました。

結局、辻の「重慶乗り込み」はお流れに終わりますが、これが後に思わぬ尾を引く
こととなります。
457イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 22:51:02 ID:C7+9Aw1f
辻政信は「汪兆銘政権」以前、すなわち(中華民国)維新政府時代に顧宝衡
農工部長が収賄している噂を聞きつけます。

まだ確たる証拠が上がっていない状況で、辻は上司の反対も押し切り、中国側に
圧力をかけて顧宝衡を抹殺する事件を引き起こしています。これにより辻の名前は、
支那要人からこの上なく怖れられる結果となりました。

当然、周仏海(と岡田少将)が「重慶乗り込み」の申し出を断ったことは
『辻の覚え』が悪くなることを意味しますが、この後日「辻大佐が周仏海先生を
暗殺する準備を進めている」という噂が南京政府の間で流れ、少なからぬ混乱を
引き起こしました。当時の周仏海の日記にも、

「一部の中国人は余を抹殺せんと欲している。一部の日本人もまた余を殺さんと
 している。これにはいずれも十分な証拠がある。余の妻は甚だこれを心配して
 いるが、これがいま余の立っている立場だと思う」とあり、実名こそ避けていますが
 周を暗殺しようとしている日本人が、辻政信を指しているのは明らかでしょう。
458イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 23:24:01 ID:C7+9Aw1f
結局、軍中央・支那派遣軍司令部との折り合いも悪くなり、辻は第33軍参謀に
飛ばされてビルマ防衛の任務につきました(1944年7月)。

しかし「蒋介石の母親の慰霊」をしたことは、重慶政府に辻の名前を印象付ける結果と
なり、のちに戦犯を逃れて『潜行三千里』に出発した辻を受け入れる下地となった事は
特筆すべきです。まさに塞翁が馬、瓢箪からコマ。人生何が幸いするか分かりませんw。

さて話は少し変わりますが、辻の部隊指揮官を務めた経験は「中隊長」以外皆無です。
第一次上海事変(1932年)に出征して負傷していますが、その指揮ぶりは勇猛果敢と
高い評価を受けています。

しかし、その後の辻は「大隊長」も「連隊長」も務めずに「参謀畑」ばかりを歩んでいます。
にも関わらず、戦場ではいつの間にか、辻が実兵指揮しているのは既に触れた通りです。
459名無し三等兵:2006/03/21(火) 23:35:24 ID:???
絶対に部隊指揮官向きだよなぁ…
誰だよ、こいつ参謀にした奴は(w
460イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/21(火) 23:38:13 ID:C7+9Aw1f
ビルマの第33軍「高級参謀」の辻は、退却戦という点もありましたが
司令部衛兵長・連隊長・大隊長の3役を1人で兼ねていた観があり、
小銃で敵戦闘機と射ち合って撃墜した(真偽不明w)といいますから
一兵士としても働いていた計算になります。

本来の参謀も合わせれば『1人5役』ですw。

辻はその戦功が認められ、参謀としては「帝国陸軍初」の個人感状まで
貰っています。

ガダルカナルは置いておくとして、マレー攻略戦での辻の働きを考えれば
辻は軍中央や司令部の参謀よりも、大隊長あるいは連隊長として第一線の
部隊指揮官にした方が歴史に良く名前を残したのではないかと思います。
461イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/22(水) 00:11:08 ID:fRRaBbCK
>>459 >>絶対に部隊指揮官向きだよなぁ… 誰だよ、こいつ参謀にした奴は(w

陸幼首席、陸士首席、陸大3位卒業の「超秀才」ですからね。参謀コースに
行くのは当然というか、仕方ないでしょう。

仮にそこまで頭が良くなかったとしたら、辻は石川県の貧困の家庭出身ですから
陸幼に入学すること自体無理だったでしょう。辻の父親は相当無理していますw。

この「超秀才」が「戦略レベルの参謀」としては徹底的に無能というか、自軍を地獄、
あるいは魔女の婆さんの釜に叩き込むことばかりして、むしろ第一線の実戦指揮官にこそ
『抜群の適性』を示しているのですから、不条理というか歪としか表現できません。

惜しむらくは、三笠宮が陸士に入学する(48期)のを狙って、辻は陸士中隊長を志願し、
陸大卒業の特典である「欧米留学」を蹴っています。これも意図的なパフォーマンスだった
のでしょうが、辻は海外に行っていた方が視野が広がって良かったと思います。
462元前スレ32:2006/03/22(水) 06:29:24 ID:???
ごぶさたしております。書きこまないときもいつも拝読しております。
大変に参考になります。

>>445
辻のガダルカナル派遣については、
ヒデキがなぜか天才的な戦略眼と航空戦術への深い洞察を発揮して、
海軍作戦のもたらした危機を地図だけから見破り、
誰も何も気づいてないうちに先手を打って辻を派遣したとのこと。
なんか、にわかには信じがたいですけど。

>>456
辻は長距離連絡飛行機に乗って欧州にいき、
和平を実現するという無茶苦茶な提案もしていますね。
463名無し三等兵:2006/03/22(水) 21:28:01 ID:koE3P7OZ
国賊、辻政信 天誅!
464名無し三等兵:2006/03/22(水) 21:31:05 ID:koE3P7OZ
帝国陸軍は支那方面にて三光作戦を敢行せり
465イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/22(水) 22:24:37 ID:K8uxgmAP
>>462 こちらこそどうもでございます。

>>辻は長距離連絡飛行機に乗って欧州にいき、
>>和平を実現するという無茶苦茶な提案もしていますね。

単なる大法螺吹きではなく、許可したら「本気」で行きますからね。辻の場合w。
あの無限の行動力は恐ろしい……。

>>辻のガダルカナル派遣については、
>>ヒデキがなぜか天才的な戦略眼と航空戦術への深い洞察を発揮して、

あら、そんなエピソードがあったのですね。最近、辻の著作の『潜行三千里』を入手しました
(未読)。『ガダルカナル』もその隣に売っていましたので、今度買おうと思っています。
カビだらけのボロボロですけどw。読んだら手を洗わないと食事が出来ません。

奥付を見たら、昭和26年発行:価格150円なり。
466イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/22(水) 22:46:17 ID:K8uxgmAP
日本の書籍(新刊)の値段は安いと言われる事がたまにありますが、

>>奥付を見たら、昭和26年発行:価格150円なり。

を考えると、その通りなのかもしれません。現在の単行本の価格が約10倍の
1500円程度です。他の物価は昭和26年頃と比べて10倍では済みませんよね。
資料を調べていないので何となくの印象ですが…。

>>帝国陸軍は支那方面にて三光作戦を敢行せり

「殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くす」は中共の地主階級に対する
行為だと思いますがw。紅軍が地主を殺すと、その用心棒たる蒋介石は
面子を失い、国民政府の存在する意義もなくなってしまう――。

蒋介石が抗日よりも「中共の討伐」を優先した背景には、そんな理由があります。
467イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/22(水) 23:08:12 ID:K8uxgmAP
>>460 の続き。辻の最後のまとめです。

敗戦後『潜行三千里』に旅立った辻政信は、僧形に身をやつしバンコクから
仏印・ラオスを経て中国に入ります。

辻の脱出は、蒋介石の特務機関である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)の首領・
載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したと言われますが、>>458 で述べたとおり
「蒋介石の母親の慰霊」をしたことも多少は効いているのかもしれません。

そして何より辻が『小物』だった要因も大きいでしょう。今でこそ名前はビッグですがw
実際は1943年に大佐になったばかりです。「支那事変」勃発当時、辻はまだ大尉なのです。

盧溝橋事件の当事者である牟田口廉也すら「うやむや」になって戦犯から釈放されています
し(中共の劉少奇が『俺の功績』と自己宣伝w)、シンガポールとバターン虐殺の容疑は
直接支那とは関係がありません。
468イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/22(水) 23:27:09 ID:K8uxgmAP
さて中国に入った辻は、蒋政権の情報機関で、土居明夫中将らと共に「対中共作戦」の
兵要地誌の作成に当たります。

また蒋介石に対して「新しい日本と勝った中国との合作」を説く意見書を提出したり、
陳公博(行政院院長)など旧汪兆銘(南京)政権幹部の助命嘆願もしていますが、
特に反応はありませんでした。

国共内戦が再開して国民政府の敗色が濃厚になると、辻は国府に見切りをつけて
密かに日本本土へ帰ります。辻は上海に立ち寄ると、戦犯として滞在し続けている
岡村寧次大将のもとを訪ねます。辻はノモンハン事件後に「第11軍司令部付」に
飛ばされて以来、岡村に恨みを持ち続けていました。

「その二階には岡村大将が肺病を治療している。松井(太久郎)中将も邦人宅に居候し、
 度々大将を訪ねていた。別に会いたい二人ではないが、日本の旧軍人として最後の礼を
 尽くすべく挨拶した。部下の多数を戦犯として銃殺せられ、あるいは監獄に繋がれながら、
 一人その圏外に安位される両将軍の苦悩に同情したが、案外平気で元気が良かった」
469名無し三等兵:2006/03/22(水) 23:27:51 ID:lWVwtWi3
ガダルカナルに陸軍航空隊を投入することに反対してたのは辻の親友、航空班長久門有文
「俺が此職にある間は絶対判を押さん」と辻と激論を交わしたが、南方視察中に墜死。
彼の死後、陸軍はなし崩し的にガダルに戦力を投入していくことに。
470イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/22(水) 23:46:25 ID:K8uxgmAP
と『潜行三千里』でこれでもかと皮肉っていますw。同じように国民政府に
戦犯として監獄に繋がれていた磯谷廉介(中将)に対して辻は、

「磯谷閣下は義父」「ああ、わが父を囹圄に繋ぎながら、中国に協力しなければ
 ならないのか」

と書き、実際に「毛布、シャツ、冬外套、バター、砂糖等々を乏しき財布の底を
はたいて」磯谷に差し入れをしています。磯谷に送った手紙の返事が懐かしい
筆跡でもたらされた時は、中国人の友人の前で泣いて見せるなど、余りの
ギャップの大きさに驚かされます。

やはり辻の立場としては、敵味方を峻別しなければ生きていけなかった
のでしょう。既に「士官学校事件」(1934年)当時から同僚から白眼視され
石を投げつけられ、就寝時には雨戸を閉めて拳銃を抱きながら床に入ったと
いいます。
471イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/23(木) 00:05:53 ID:iHN2rg04
>>408 >>忘れてはならないのは、戦後の日本国民は彼を断罪しようとしなかったこと。

辻が戦犯を解除されたのは1950年1月です。例の『潜行三千里』は、その後に
姿を現した辻が『サンデー毎日』に連載した記事をまとめたものです。

戦犯が解除された理由は、東京裁判など一連の戦犯裁判がひと段落し(ヒデキが
処刑されたのが1948年12月23日)、中共内戦の結果や同年に起きた朝鮮戦争
(1950年6月)など、米ソ対立が激化していった要因が大きいでしょう。

そして「日本国民による断罪」ですが、今もってA級戦犯すら自らの手で
定義づけられないのに、ちゃんちゃら可笑しいというのが正直な感想です。

本来の「A級戦犯」筆頭は、ヒデキではなく近衛文麿であるはずです。
472イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/23(木) 00:43:00 ID:???
明日には「辻政信」にケリが付けられそうです。長かった……。
丸々1週間かかった気がします……orz.w
473名無し三等兵:2006/03/23(木) 05:39:01 ID:???
>>443
お前が言うかと。
474名無し三等兵:2006/03/23(木) 09:06:16 ID:???
http://014.gamushara.net/gunji/data/up063673.jpg

辻政信の野心遂行の結果

475名無し三等兵:2006/03/23(木) 13:50:53 ID:???
>>474
でも、国民の惨状みると、儲かったイメージがまったくないんだよな
大日本帝国ってさ・・・・・
476名無し三等兵:2006/03/23(木) 16:49:47 ID:???
国民の惨状?
ナイーブな意見だね。
477名無し三等兵:2006/03/23(木) 19:34:32 ID:???
酷使様には焼け野原になった故郷がみえないのですかw
478名無し三等兵:2006/03/23(木) 22:02:43 ID:???
>>447
板垣に対してですね。
両人をきって捨てる、というのは、職を奪うと言うことではなく、
本当に刀で首を斬るということらしいですw
479イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/23(木) 22:38:48 ID:RcJcyZ+s
>>469 >>「俺が此職にある間は絶対判を押さん」と辻と激論を交わしたが、
>>南方視察中に墜死。

自分の普段の仕事ぶりを考えますと、「俺の目の黒い内は」と言える人が
羨ましい限りです。優柔不断で「こっちの**の方がいいんじゃない?」と
上司や同僚に示唆されると、「ああ、そうなのかなあ……」とグラついて
しまいますw。

死ぬまでに、いつか言ってみたい『台詞』でもあります。

まあ、軍人は「他人の命」を預かっているというか、職務に応じて「生殺与奪」の
権力を握っていますからね。自分のような単に「糊口を凌ぐ」だけのような
仕事とは訳が違うのでしょう。

その一方で、現地部隊を「将棋の駒」のように扱う参謀も多くいたのですから歪です。
480イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/23(木) 22:56:17 ID:RcJcyZ+s
>>474 >>辻政信の野心遂行の結果

辻がプラスに関わったのは、せいぜい「マレー攻略戦」ぐらいです。
ノモンハンもガダルカナルも惨敗ですし。まあ、バターン攻略戦と
ビルマ防衛にも多少は貢献しているでしょうが。

>>475 >>でも、国民の惨状みると、儲かったイメージがまったくない
>>んだよな 大日本帝国ってさ・・・・・

「ジリ貧を避けてドカ貧に陥る」の一言です。しかし、大日本帝国が
日清戦争でせしめた二億両を1つとってみても、どれだけ日本の近代化に
寄与したか分かりません。それ程の額です。
481イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/23(木) 23:08:12 ID:RcJcyZ+s
>>478 >>板垣に対してですね。両人をきって捨てる、というのは、
>>職を奪うと言うことではなく、本当に刀で首を斬るということらしいですw

陸相は「最高人事権」を握っていますから、てっきり2人を予備役に編入せよ
と言っているのかと思いました。

カンジは板垣征四郎に頼むよりも、相沢三郎中佐に似たような人間を
見つけた方が早いでしょうw。
482名無し三等兵:2006/03/23(木) 23:29:27 ID:???
コピペ

マジ話すると
              ―→北朝鮮内→北朝鮮政府→北朝鮮工作員―→
             ↑                  /           ↓
             |                 /              |          
            ↑                ↓                ↓
中国共産党→中国工作員―→韓国国内→韓国政府→韓国工作員―→日本国内→日本の重要部分へ
            ↓                                 ↑                                
             ――――――――――――――――――――――→




こういう構図になっているから日本の闇はややこしい。 韓国人も朝鮮人もいいように扱われてるねww
反日の流れも一緒ですねww
483イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/23(木) 23:32:48 ID:RcJcyZ+s
>>472 の続き。さて「辻政信の評価」に触れて、一連の締めとしたいと
思います。

「陸軍きっての秀才」「5カ国の弾丸を体内に残した不死身の男」
「下に優しく上に強い正義漢」「智力、体力絶倫のスーパーマン」

と辻を高く評価する向きもあれば、

「師団参謀が限度の猪武者」「無頼のハッタリ屋」「民間人や捕虜を
 平気で虐殺した残虐男」

などと酷評する人間も多くいます。

しかし、マレー攻略作戦時の上官による評価がいちばんよく辻を
表していると言えるでしょう。
484イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/23(木) 23:57:20 ID:RcJcyZ+s
太平洋戦争開戦時、マレー攻略を担当した「第25軍」(山下奉文)の参謀であり、
辻の上官であった池谷半二郎(元少将)の回想が残っています。

マレー攻略は、12月8日の半島上陸からシンガポール要塞攻略(1942年2月15日)まで、
わずか69日間で攻め落とす「神速ぶり」を発揮。

フィリピン攻略は「第一次バターン攻略」などで一旦頓挫しますが、迅速なマレー攻略と
比較されて、指揮官の本間雅晴中将が「大将」に昇進できず、すぐに予備役に編入された
ことは指摘しておくべきでしょう。

また辻政信(中佐)が「第5師団」の先頭に立って作戦指導を行ない、敵戦車を奪取して
敵軍陣地に突入するなど、数々の奇策を実行しました。これらは辻が「作戦の神様」の
異名を取るきっかけとなります。
485イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/24(金) 00:08:38 ID:MAE6CPUw
池谷は、当時の辻について

「勇敢の一語につき、戦機を見破る眼は非凡であった。戦いのツボをよく
 心得ていた。不死身で戦争が好きで好きで堪らぬ男で、師団、軍参謀
 としてはうってつけ」

と賞賛します。しかし、マレー攻略作戦が終わって「考課評(勤務評定)」を
書かされた時に、池谷は頭を抱えます。歴代の考課評を見ると、

「将来、国軍の至宝たりうる人物」(東条英機)のような絶賛型と、「協調性に欠け
 自我が強烈で、将来中央の要職には絶対に充用してはならない」(青木重誠・第11軍
 参謀長)という酷評型に、真っ二つに分かれていたからです。

数十年にわたって辻を観察してきた池谷の結論は、「治世の能臣、乱世の奸雄」
(『ある作戦参謀の回想手記』)だと言います。
486イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/24(金) 00:20:09 ID:MAE6CPUw
>>485 >>不死身で戦争が好きで好きで堪らぬ男

さて、ここで誰かを思い出しませんか? そうです。『ヘルシング』の
某「少佐」です。辻も「ノモンハン事件」で少佐でしたw。

『非道い人だ。あなたは何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も連れて回して
 一人残らず地獄に向かって進撃させる気だ』

「戦争とはそれだ。地獄はここだ。
 ――見ろ。敗北が来るぞ。勝利と共に」

辻政信こそは、実在の人物で「リアル少佐」を張れる唯一の人物でしょう。
487名無し三等兵:2006/03/24(金) 00:22:37 ID:???
むしろ平野が辻から少佐を思いついたんではなかろうか。
いやあの人はそんなに日本軍には詳しくないか。
488名無し三等兵:2006/03/24(金) 00:26:50 ID:???
”こすい男”というのがマレー攻略時の上官山下奉文の辻評。
自分の意見が通らないと、辞めさせてくれと喚きまわったらしい。
鈴木参謀長は温厚な秀才肌だからさぞ困っただろう。

久門は辻と同期で、作戦課では珍しい中学出身者。
一説にはガダルカナルに拘ることの危険性に気付いていたとか。
それにしても久門とか有末弟とか、しっかりした人ほど死ぬ。
田中新一なんかは飛行機落ちても骨折で済んだのに。
489四季映姫・ヤマザナドゥ ◆FU/OcfTlfM :2006/03/24(金) 00:34:31 ID:???
いきなり呼び出されたのですが……。

辻政信――。そう、あなたは少し、臆病で前しか見なさ過ぎる。

自分の来た道をいつか振り返ること、それが次のあなたが積める善行です。
490イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/24(金) 00:48:52 ID:???
四季さまには、突然ご登場を願いまして恐悦至極です。

ttp://homepage3.nifty.com/blue-monday/jpeg/tab92.jpg

今日は一段と「アダルティ」なお姿で……。拝謁の栄に浴し、
感謝の極みです。いつもの子閻魔様のお姿も魅力的ですが…。
491ぶるーめ:2006/03/24(金) 01:40:44 ID:cI+Oa/9X
帝国軍人として、感謝の極みとの表現をあらわすのは、
大元帥陛下に対してのみであるべきである!www
492名無し三等兵:2006/03/24(金) 07:53:11 ID:???
日露戦争は大赤字だったんだろ
493名無し三等兵:2006/03/24(金) 08:32:43 ID:???
赤字だよ。あんな戦争しないほうがよかった。
494名無し三等兵:2006/03/24(金) 10:52:26 ID:???
日本は帝国主義下の植民地支配を受けていないアジアで唯一の国と言えた
私はその事に信頼を持っていた
植民地支配を受けなかった日本は、共産主義と帝国主義を嫌う条件を持った国で、
世界開放の役割を持つ国だと我々は認めていたのですよ・・・・・
なぜ帝国主義国と同じように覇を求めて中国へ入ってきたのか
中国と日本が戦う事は誰の利益になったか、考えて見ればよく分かるはずです。

1930年代に国民党情報部長だった陳立夫氏

トラウトマンは陳立夫に感化されてドイツ本国でリッペントロップと衝突したそうな

495名無し三等兵:2006/03/24(金) 12:24:56 ID:HDTQcyn5
大日本帝国と中華民国の戦争は中共を利しただけ
496名無し三等兵:2006/03/24(金) 12:26:02 ID:l4N6nvGg
それは、金鵄勲章がほしかったからだYO-
497イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/24(金) 23:21:40 ID:7R3vMyyX
>>488 >>”こすい男”というのがマレー攻略時の上官山下奉文の辻評。

当然のことながら、辻政信は「統制派」には受けがよく、「皇道派」には
蛇蝎のように嫌われている訳です。そして山下は皇道派の一人です。

辻が「ノモンハン事件」によって漢口の第11軍司令部付に飛ばされた時のことです。
1939年9月15日、辻が司令部に着任の申告に出頭した際の岡村寧次軍司令官(中将)の
対応を『亜細亜の共感』(辻政信著w)は以下のように描いています。

「(岡村軍司令官は)浴衣がけで、手に『講談倶楽部』を持ちながら、この
 札付きの少佐の申告を受けられた。……参謀本部部員とか、陸軍省課員の
 身分で訪れたら、勲章をつけた軍服姿で、下にも置かずもてなすであろう
 この将軍には、今満身創痍の一少佐を厄介視こそすれ、一介の同情、一分の
 好意を寄せるような気持ちは、微塵も見出すことが出来なかったのである」

極めて辻らしい文章です。辻は文体のクセが強いので一目瞭然で分かります。
498イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/24(金) 23:47:46 ID:7R3vMyyX
「バーデンバーデンの三羽烏」(陸士16期)の内、永田鉄山と小畑敏四郎が
それぞれ統制派と皇道派のバリバリの中核だったため、両者の間を取り持った
岡村寧次は『無派閥の中間派』と見られがちですが、実はそうではありません。

岡村は「皇道派」よりです。岡村が本心でどう思っていたかは分かりませんが、
日記などを見ると、「自分は周りから皇道派として見られている」との記述が
見つかります。以下は、余談ですが――。

1940年3月、支那の第11軍司令官から「軍事参議官」に転出し、久しぶりに内地に
戻ってきた岡村は、世田谷にある盟友の小畑の家を訪ねます。既に永田は斬殺されて
この世に無く、小畑も2.26事件後の「粛軍」で予備役の身でした。

久しぶりに会いに来た親友の岡村を、小畑はニコリともせずに招き入れ、応接間で
しばらく話し込んでいましたが、やがて玄関に見送って「君はもう俺のところには
来んでもいいよ」と素っ気なく告げたと言います。
499イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/25(土) 00:08:56 ID:7R3vMyyX
実は岡村は、東条陸相(ヒデキ)の意向を受けて「満州ででも働かないか」と
小畑を誘いに来たのでした。

これは別にレアケースではなく、ノモンハン事件で予備役に編入された「支那通」の
磯谷廉介中将も、1942年1月に再召集されて「香港総督」に充てがわれています。

岡村とすれば、「予備役でずっと燻り続けているよりは…」と小畑の将来を心配して
誘ってみたのでしょうが、「東条の使い走り」と捉えた小畑は、その激しい気性を
剥き出しにしています。

「小畑もまだ治っておらんな」と半分白けた、半分もの寂しい気持ちで岡村は帰って
行きましたが、直後の1941年4月、岡村は大将に進級して「北支那方面軍司令官」
として北京に赴任します。以後、終戦まで内地の土を踏みませんでした。
500イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/25(土) 00:21:21 ID:o+ZpVT4J
>>487 >>むしろ平野が辻から少佐を思いついたんではなかろうか。

まあ、『ラピュタ』のムスカという説がありましたけどね。真偽は不明です。
全然関係ありませんが、WBCを見ていてイチローが軍人になったら、いい線
行きそうだなどと考えてみたりw。太平洋戦争あたりで戦っていませんでしょうか?
前世で(藁)。
501イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/25(土) 00:57:53 ID:???
>>491 >>帝国軍人として、感謝の極みとの表現をあらわすのは、
>>大元帥陛下に対してのみであるべきである!www

自分は大元帥陛下の股肱の臣たると同時に、四季映姫さまの忠実な尖兵でもあります。

言うまでも無く、此の世と彼の世の「二君に仕えている」状態で、現世の帝国軍人として
二律背反、時おり我が身が引き裂かれるような思いに駆られることが多々あります。

幸いなことに今のところ立場が相反せず両立できていますが、いざ二者択一を
迫られる事態となったら、どちらに転んでも「最悪の裏切り者」です。早晩
殺されるのは間違いないでしょう。

ttp://homepage3.nifty.com/blue-monday/jpeg/tab92.jpg

四季さまに、そうなった場合の悩みを相談してみたら
「そう、苦労したのね。でも地獄行き」だそうですw。
502イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/25(土) 01:39:38 ID:o+ZpVT4J
>>492 >>日露戦争は大赤字だったんだろ
>>493 >>赤字だよ。あんな戦争しないほうがよかった。

日露戦争の17億円の戦費の内、8億円は英米からの借款で賄われました。
残りの6億円は内国債、3億円は国民への増税です。

17億円という額は当時の歳入の7年分に達し、日露戦争後25年に渡って
陸軍予算を圧縮し続けることになります(満州事変前後まで)。そして
この外債を英米両国に完済したのは実に1950年代に入ってからです。

また権益を除いて領土として手に入れたのは、南樺太ですが、1921年の
専門家による評価では僅かに1億250万円でした。ですから大赤字と
言えば、全くその通りでしょう。

しかし、戦争は金儲けのためだけにやるものではありません。一銭の得にならずとも、
大借金を背負ってでも、戦わなければならない戦争はあります。
503名無し三等兵:2006/03/25(土) 01:54:56 ID:???
戦史ヲタクはアンヴィバレンスに陶酔するのが好きだと思う。
504イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/25(土) 02:04:12 ID:o+ZpVT4J
日本陸軍の近代化が遅れた理由が、日露戦争の負債(文字通りカネ)
だとすれば、それは皮肉であるのは間違いないでしょう。

>>494 >>なぜ帝国主義国と同じように覇を求めて中国へ入ってきたのか

三等国から「二等国」に昇格するためですw。当時の日本では、欧米列強と
結んだ不平等条約の改正が叫ばれ始めていました。

>>495 >>大日本帝国と中華民国の戦争は中共を利しただけ

日本は支那戦線で「点と線」を支配していただけ、とよく言われますが
国民政府とて似たようなものだったのかもしれません。喩えるならば、
「点と線と網」です。とても面で支配していたとは思えません。
505イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/25(土) 02:37:45 ID:???
>>503 >>戦史ヲタクはアンヴィバレンスに陶酔するのが好きだと思う。

「悲劇の主人公」ぶりたいからさね。安っぽいことこの上ないw。

しかし、それを言うなら『皇国の守護者』の新城直衛中佐だって、
重度のシスター・コンプレックスですよw。
506名無し三等兵:2006/03/25(土) 02:49:56 ID:???
今度は大輔ネタですかw
507名無し三等兵:2006/03/25(土) 12:47:08 ID:???
辻さん、マジで最前線まで行ってたのか。

ttp://www2.cny.ne.jp/yp0440/step0283.html

その直後、有名な辻正信参謀が壕に駆け込んで来て、「戦況は?」と聞かれました。
隊長が「参謀殿、この陣地は敵砲兵や戦闘機に目をつけられていて大変危険です」と答えますと、
「そうか」と言ってそそくさと後方へ下がって行きました。
508名無し三等兵:2006/03/25(土) 14:45:26 ID:???
辻が最前線も何も
ガ島での川口支隊長罷免事件を知らないのはちょっと不勉強では?
509名無し三等兵:2006/03/25(土) 15:49:52 ID:???
辻の話しているところ、割り込むようだが、蒋介石の一級史料公開されたぞ。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060325it05.htm?from=top

雪恥」対日戦へ決意の文…蒋介石日記、米大で初公開
 【パロアルト(米カリフォルニア州)=古沢由紀子】毛沢東と並ぶ現代中国の指導者、
蒋介石(1887〜1975)が長年にわたってつづった日記の原本が24日、
当地のスタンフォード大フーバー研究所で、初公開された。

 日中戦争の導火線となった満州事変(1931年)をめぐる心情や、当時の中国の最高実力者
としての本音などがつづられており、中国近現代史や日中関係史の第一級資料として注目される。
これまで台湾の研究者が日記の写しから一部を抜粋、引用してきたが、蒋介石自筆の原本が
公開されるのは初めて。

 蒋介石が1917年から、75年に台湾で死去するまでつけていた日記は昨年、遺族から、
台湾研究で知られる同大に寄託された。歴史資料としての価値が高いとして、大学が遺族に公開を要請したという。

この日は、原本の一部が国民党関係者や研究者、報道陣に公開された。

 公開された日記は原本とコピーの計5日分。満州事変の約3週間後の10月7日の日記は、「雪恥」(恥辱をぬぐい去る)という
2文字から書き始めている。「(対日関係は)戦争の勝敗にあるわけではなく、民族精神の消長と国家の存亡にある」
「私が持っているのは、良心、人格、そして革命の精神主義だけだ」「もしも倭寇(わこう)(日本)が、わが政府を追いつめて、
わが民族の独立と存続の余地をなくそうとするならば、もはや、勝敗や利益を考えている場合ではなく、自ら犠牲によって、
国家の格を示し、民族精神を発揚しなければならない」などと記され、対日戦に向け徐々に決意を固める様子がにじんでいる。



510名無し三等兵:2006/03/25(土) 17:20:13 ID:???
なんか凄くタイミングいいですね。こっちは終戦間近の話ですが。

★日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに

・太平洋戦争の末期、近衛文麿元首相(1891〜1945)が中国の蒋介石政権との
 間で和平交渉を模索したことを示す資料が見つかった。近衛が書き写し、家族の
 鏡台に隠していたもので、交渉の可能性を探るため北京で行われた会談の内容などが
 記録されていた。

 近衛の娘の山本斐子(あやこ)さん(74)が、昨年秋に発見した。母の縫子さんが
 使っていた三面鏡の、鏡と化粧台の間に外からは分からないように作られた引き出し
 に隠されていた。便箋(びんせん)23枚に万年筆で書かれていた。斐子さんら
 家族によれば、すべて近衛の筆跡だという。(以下省略)
※以下の部分はソース元にてご確認下さい

ソース/朝日新聞社
http://www.asahi.com/politics/update/0325/004.html
511名無し三等兵:2006/03/25(土) 20:47:49 ID:???
マスメディアの使う「初公開」「発見」というのは、いったん篩にかけたほうがいいですね。
よく見ると既に活字化されてたり、別ソースから既知の証言だったりします。
512名無し三等兵:2006/03/25(土) 21:16:06 ID:???
蒋介石の日記の全文の翻訳とこの絵の便箋の中身をみてみたいな。
このスレの議論も又変わることもあるかもしれないし。
513名無し三等兵:2006/03/26(日) 02:37:32 ID:???
これで近衛文麿の汚名が晴れそうだな

514名無し三等兵:2006/03/26(日) 05:05:55 ID:???
フーミンの失敗は日中和平失敗だけじゃないので。
515名無し三等兵:2006/03/26(日) 19:04:23 ID:???
残念ながらソース見る限りだと、45年に和平工作を模索してるが、政治的効果低いだろ。
37年の日記とかだったら、政治的効果や説得力を帯びてくるが、そういった記述はないな。
516イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 19:52:31 ID:???
>>505 >>今度は大輔ネタですかw

「直衛でいいっていったもん!」

転んだのは自分だけではないはず…(藁)。
517イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 21:01:03 ID:/7pWfFud
>>509 >>辻の話しているところ、割り込むようだが、蒋介石の一級史料公開されたぞ。

自分は『蒋介石――マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記』(黄仁宇著)を
だいぶ前に買いましたが、まだ未読です。だって恐ろしく長いんだもん!w また、
こういう日記類は、読み手に『予備知識』が相当備わっていないと、苦労したにも
関わらず、単なる「暗中模索」で終わります。いわば時間の無駄ですw。

肉体的なトレーニングと同じで、自分の力量以上の書物を無理やり読んだところで
ろくな結果は望めません。

さて「蒋介石日記」ですが、蒋は1915年から日記を書き始め、1975年に死ぬまで
中断していません。最初の3年間の日記だけは散逸したと言われますが、その後の
50余年間の日記は全てどこかに存在するはずです。

日記は蒋家の私有物とされ、台北の「国家安全局」が保管していると言われて
いましたから、今回の報道のはそれでしょう。
518イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 22:01:47 ID:VlpxbQmZ
>>511 >>マスメディアの使う「初公開」「発見」というのは、いったん篩にかけた
>>ほうがいいですね。よく見ると既に活字化されてたり、別ソースから既知の証言
>>だったりします。

>>509 の「初公開」というのは『原本』がという意味でしょう。日記の一部の抜粋で
あるならば、>>517 で挙げた『マクロヒストリー〜』だって相当な量があります。
そして今でも「新刊書店」で手に入ります。自分は紀伊国屋の新宿本店で買っています。
(ただし、本体価格で4200円しますがw)

報道の詳細は知りませんが、50余年間の「蒋介石日記」の原本全てがフーバー
研究所に渡ったというなら驚きです。

それまで、「蒋介石日記を見た」「蒋介石日記を閲読するのは、台湾の高級官僚の
職務の一部とされている」といった話は、すべてコピーを指していたからです。
519イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 22:34:27 ID:VlpxbQmZ
この「蒋介石日記」のコピーは『大溪當案』に属します。ああ、「當」の字には
本来、左に「木ヘン」が付くのですが、なぜか字が出せないのでご容赦を…w。

『大溪當案』とは、1949年に大陸から台湾に運ばれた、蒋介石の講演原稿・電報・
命令・手紙などを含む膨大な資料です。初めは桃園県大溪鎮にある書庫に保存された
ので、この名前で呼ばれています。

まあ、こんな面倒なトリビアを披露しても意味がありませんw。何が言いたかったか
というと、中国の歴代王朝と同じく、蒋介石もまた自身の言動の記録を詳細に記録し
続けていたことです。
520イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 22:57:21 ID:VlpxbQmZ
また『當案』(本当は、當に木ヘンが付く)とは、政府・役所・企業などが
整理・保存している様々な文書や資料、および所属人員に関する記録を意味します。

太平洋戦争中、蒋介石は「軍事命令」を自筆で書いていましたが、命令を受けた人間は
読んで筆写するだけで、所持することは許されませんでした。原文は、伝達官によって
『侍従室』に持ち帰られ、文書箱に保管されました。

そして侍従室は、国民党内の要人の『自伝』を保存しています。この『自伝』は
「強制的に書かされる」ものであって、形式は一定しており、用紙も侍従室から
所定のものが支給されました。会社の「日報」のように考えればいいでしょうかw。

さらに蒋介石が呼んだ人間との談話も、秘書や侍従が記録を取っています。もちろん
蒋介石の演説・講演の原稿もすべて保存されており、もしこれらの文献が全て公開
されれば、少なくない研究者が一生涯かけても閲読するのは困難でしょう。

中国人の「記録」にかける執念は、日本人の想像外のものがあります。それは現政権も同じでしょう。
521イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 23:14:10 ID:VlpxbQmZ
>>512 >>蒋介石の日記の全文の翻訳とこの絵の便箋の中身をみてみたいな。
>>このスレの議論も又変わることもあるかもしれないし。

正気ですか? 50年分ですよ?w

もう既に、日本には『蒋介石秘録――日中関係80年の証言』(産経新聞社)が
ありますから、それを読んでから考えてもいいでしょう。これにしたって、
それぞれ500ページ弱の「上・下巻」です(藁)。

本書を知らない人のために補足しますと、1973年に『産経新聞』が国民政府の同意を得て、
編纂委員の古屋奎二など5人を台北に派遣します。

国民政府および党史委員会から、「蒋総統講演日記、回憶録など」を含む4千万字に達する
資料を提供され『蒋介石秘録』をまとめたものです。この全文は、産経新聞で1974年8月15日に
連載が開始され、1976年末に終了したのは有名な話です。
522イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 23:28:59 ID:VlpxbQmZ
また『産経新聞』に連載中、台北の『中央日報社』が中国語に翻訳して
書籍として刊行しました。

これが『蒋総統秘録――中日関係八十年之証言』で全15冊、1975年から
1978年で発刊が終了しました。『秘録』には、引用した蒋の日記の部分に
ついて、すべて明示がされています。

また「蒋介石の日記」をまとめた最も古い書籍が、毛思誠が編纂した
『民国十五年以前之蒋介石先生』全20冊です。

これは1926年末の北伐開始後まで(蒋が39歳)で終わっていますが、
刊行は「支那事変」直前の1937年3月です。ちなみに毛思誠は、蒋の中学
以前の私塾の先生で、黄埔軍官学校の秘書にも任命されて、蒋の思想に
相当影響を与えた人物です。
523イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 23:46:37 ID:VlpxbQmZ
>>509 >>辻の話しているところ、割り込むようだが、蒋介石の一級史料公開されたぞ。

まあ、長々とツラツラ書いてきましたが、何が言いたかったかというと、蒋介石の日記
自体は一部ですが、かなり公開されている訳です。しかし、当然のことながら、蒋に
都合の悪い部分は、差し控えられてきたと考えるべきでしょう。

今回、原本が寄託されたことで、そういう部分も明らかになれば良いですね、
ということです。

しかし「蒋の日記」は、別に「毎日の出来事」や「個人的な感想」が書かれて
いる訳ではありません。あくまで為政の道具としてです。本人の日記にも、
「これは倫理と修養に最も有益な方法である」と書かれていますし、

また当然、後世「人に読まれる」ことを前提に書いていますから、何か品の無い
スキャンダラスのような事を期待している人は裏切られるでしょう。
524イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/26(日) 23:55:38 ID:VlpxbQmZ
1つだけ日記を紹介しておきましょう。ヒトラーが軍事顧問団を支那から
引き揚げさせようとした時のことです。

蒋介石は軍事顧問団の離職をすぐには許さず、蒋の日記には(1938年6月17日)、

「私がドイツ軍事顧問が自由に離職するのを許さないのは、公(おおやけ)のこと
 である。もしドイツがこのことで報復として、緯国(蒋緯国)の行動を束縛する
 としても、それは私(わたくし)のことである。私(わたくし)によって公
(おおやけ)を妨げることは出来ない。私は緯国の安否は成り行きに任せるだけである」

当時、ドイツには蒋の息子である緯国が滞在していました。蒋はドイツ軍事顧問団の
引き揚げにショックを受けて、強引に止まらせようとした節がありますが、最終的には
顧問団は支那を離れ、緯国はドイツで拘留されることなく、真珠湾攻撃の後になって
ドイツからアメリカに赴きました。
525イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/27(月) 00:49:27 ID:???
>>516 の補足。>>505 >>今度は大輔ネタですかw

「直衛でいいっていったもん!」

転んだのは自分だけではないはず…(藁)。

ああ、自分も「幼女ヴァージョン」の四季さまに、

「イナゾウでいいっていったもん!」

などと言わy=-( ゚д ゚)・∵パーン
526イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/27(月) 22:06:38 ID:e84wdrgM
>>523 の補足 >>本人の日記にも、「これは倫理と修養に最も有益な方法である」と
>>書かれていますし、

1944年に蒋介石は、長男の蒋経国とお互いの日記を交換して批評し合っています。
「これは倫理と修養に最も有益な方法である」との言は、この1944年1月2日に
書かれている訳です。

試しに想像してもらいたいのですが、いつか他人に読まれることを前提に日記を
書くというのは、相当に悩ましい作業です。もちろん、蒋介石だけが特別であった
訳ではなく、戦前の上級階級者はみなそうです。

例えば、陸軍幼年学校に入学すると生徒たち(13歳前後)は、『予』という
一人称を使って日記を書いて提出することを義務付けられます。もちろん年齢に応じた
個人的な感想をそのまま語る訳ではなく、日々の行事や講話などの記録とそれに関する
『模範的感想』をひねり出して書き連ねます。まあ、「建前の世界」にどっぷり浸かる訳です。
527イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/27(月) 22:13:57 ID:e84wdrgM
例えば、旧軍人の1人は昔を以下のように振り返っています。

「生徒のころの私は、日記に嘘ばかり並べて書くのが非常に苦痛だった。
 この義務から解放されて以来、私は二度と日記というものを書いたことが
 ない。子供の時から『建前』で書く習慣をつけられたので、もう本当の
 日記は書けなくなっている――」

まあ、軍人の場合は極端ですが、戦前の政治家なりの日記を読むときは
意識する必要があるでしょう。
528イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/27(月) 22:42:59 ID:e84wdrgM
>>510 >>★日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに
>>515 >>残念ながらソース見る限りだと、45年に和平工作を模索してるが、
>>政治的効果低いだろ。

「カイロ会談」(1943年11月)が、米国のルーズベルト・英国のチャーチル・
中国の蒋介石との3者で行なわれた後は、事実上『単独講和』は禁止です。

このとき発表された「カイロ宣言」は、米・英・中の3国が、日本に対する
将来の軍事行動を協定したものであり、「日本の侵略を制止し、日本を罰する
ために、今次の戦争を行なっている」ことが宣言されました。

>>「中国を圧迫、侵略する必要も力も日本にはもうない。疑うのをやめてほしい」
>>と日本側が話すと、

ですから、既にそういう次元の話ではありませんねw。
529イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/27(月) 23:15:21 ID:e84wdrgM
分かりやすく言うと、

●支那は米国の了解なく、勝手に日本と講和できないし、
●支那が日本と「単独講和」するときは、米国に見放されたと諦めた

場合だけです。カイロ宣言は、重慶に追い詰められている蒋介石(中国)が
連合国から脱落しないように、ルーズベルトがご機嫌を取ったものとも言えます。

太平洋戦争中に「重慶政府」と和平を結ぼうと考えれば、その条件は単純至極です。

上記に述べたように、蒋介石に「米国から見捨てられた」と思わせれば良いのです。
さもなければ、たとえ日本軍が重慶を陥落させたとしても、成都あるいは昆明に
首都を移して抗戦するでしょうし、場合によっては蘭州に引き篭もるかもしれません。
530名無し三等兵:2006/03/27(月) 23:27:22 ID:???
スチュアートの秘書と会談を行ったのは中山優ですね。
ソースには近衛の側近とありますが、確かに第一近衛内閣期に近衛の支那問題のブレーンだったものの、
むしろ東亜連盟の重要人物であり石原莞爾周辺の人物、
そして『虹色のトロツキー』の登場人物として有名なのではないでしょうか。
中山は東亜同文書院卒でした。東亜同文書院は文麿の父篤麿の同文会と犬養毅の東亜会が合併して出来た
東亜同文会(会長:近衛篤麿)を母体とする教育機関です。
支那語を覚えるには最も良い大学であり、その倍率は東京帝国大学より高く、
石射猪太郎のような支那派外交官、里見甫のような人物を輩出していました。
この東亜同文書院の卒業者たちは満洲建国にも積極的にかかわります。
中山も満洲建国大学の教授となりました。
近衛が中山の支那論を高く評価し彼とあったのは昭和十二年夏の話でしたが、
その後支那問題に関する演説の代作や声明のチェックを手伝うようになります。
第二次近衛内閣になると石原莞爾の東亜連盟と東條英機が対立します。
石原が>>443「東条と梅津こそ日本の敵である。」と演説した翌月の一月十三日、
中山は久しぶりに近衛を訪問し、東亜連盟の存続、保護を要請しますが、翌日には東亜連盟の弾圧が決定されます。
531イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/27(月) 23:31:52 ID:e84wdrgM
>>上記に述べたように、蒋介石に「米国から見捨てられた」と思わせれば良いのです。

まあ、太平洋戦争が始まっては不可能ですけどね(藁)。『カイロ会談』でルーズベルトと
会った時の蒋の日記を見ると、次の一節があります。

「会談が終了したとき、彼(ルーズベルト)は私に感慨深そうに『現在、最も問題に
 なっているのは、人に苦痛を与えるチャーチルの問題である』と言った。また『英国は
 中国が強国になるのを望んでいない』とも言った」(1943年11月25日)

将は、それ以前から「英国は信用できない」と感じているはずです。やはり、
支那にとって頼みの綱は米国なのです。 

>>513 >>これで近衛文麿の汚名が晴れそうだな

晴れません。その程度で「チャラ」になるような生易しい失策ではありません。
532名無し三等兵:2006/03/27(月) 23:55:38 ID:???
昭和二十年になると、近衛は民間和平総力戦ということで日支親善団体、留学生を援助する団体を日華協会に統合します。
真珠湾以降の民間を基盤にした大規模な和平運動というのは大変珍しいものですが、
伊藤武雄のいうように「非常に手遅れな」ものだったので、あまりその存在は知られていません。
伊藤は津田静枝の頼みでこの活動に参加します。津田は海軍には珍しい優秀な支那通軍人でした。
津田は昭和十三年九月一日に総裁近衛文麿、副総裁大蔵公望で作られた大規模な研究団体で、現在の財団法人政治経済研究所の母体です。
日華協会も総裁近衛文麿、副総裁細川衛立、文化局長河上徹太郎、海軍から津田、あとはだいたい似たメンバーが中心になりました。
留学生のかかわる団体の存在によって、どちらも教育者である中山とスチュアート側の接触が助けられたと思われます。
中山、傳(スチュアートの秘書)会談では「日本は対重慶和平と同時に対米の問題を有す」という方針が明らかにされますが、
このように重慶を通じて対米和平をはかるという近衛サイドの方針がはっきりするのは昭和十九年末です。
十二月に吉田茂は小磯内閣の国務相、海軍予備役大将小林躋造に書簡を送ります。
元々、近衛と吉田と小林が目指す東條内閣の後継は小林首相、吉田外相、小畑陸相、真崎参謀長でしたが、
海軍の協力、そして皇道派への信頼がなかったため挫折、小林が国務相となるにとどまりました。
書簡では近衛と吉田が二人で渡支し、重慶を仲介して英米との和平交渉を進めることが説かれ、
これを首相等にも提案してほしいと書かれていました。
533イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 00:04:32 ID:cWkVqPjz
>>530 >>中山は東亜同文書院卒でした 支那語を覚えるには最も良い大学であり、
>>その倍率は東京帝国大学より高く、

「幻の名門校」と言われる所以ですね。東亜同文書院は「参本支那課」とも
関係が深く、支那における『兵要地誌』作成に大きく貢献しています。

というのも、同院の学生は、卒業論文に当たり支那奥地で調査旅行をすることが
許されていたからです。これは『大旅行』とも呼ばれ、学生が5、6人のチームを
組んで、3〜6ヵ月間に渡り「支那各地」を動き回るという気合の入ったものです。

1915年から1921年にかけて『支那省別全誌』全18巻が作成され、1918年に「支那
研究部」が設立されると、この『大旅行』はさらに本格化することになります。

とにかく反日・抗日運動が激しくなるにつれて、一般の日本人の調査行動はほとんど
不可能になってきますから、合法的に動ける東亜同文書院の存在は大きかったでしょう。
534名無し三等兵:2006/03/28(火) 00:08:44 ID:???
先述したように、中山は石原莞爾と近いのですが、この会談の詳細は伝えられたのでしょうか。
石原は当時山形に引きこもっていました。
石原側の証言だと、昭和二十年には文麿の長男が山形へ出向いて石原と連絡をとっていたらしいのですが、
長男はそのとき満洲砲兵連隊にいるはずです。よくわかりませんね。
細川日記の五月二十四日の記述にこうあります。
『河相(達夫)氏は…小畑、石原両中将の和解の必要を説き、且つ自身ありと述ぶ。』
吉田の計画では河相も近衛らと一緒に渡支する予定でした。
535名無し三等兵:2006/03/28(火) 00:26:32 ID:???
すいません。
津田はの後ろに
東亜研究所の主要メンバーで、東亜研究所は
が抜けてました。
536イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 00:27:27 ID:cWkVqPjz
支那課でも『禊(みそぎ)』として、兵要地誌作成のための参謀旅行を
させる訳ですが、悪くするとスパイとして「中村震太郎大尉殺害事件」の
ような憂き目に遭う訳ですw。

ですから、合法的な活動が許される同文書院の学生に協力を依頼することは、
ごく自然な成り行きとも言えますが、やはり「スパイ活動」の片棒を担いで
いるように見られるのは避けられませんでした。

>>532 >>書簡では近衛と吉田が二人で渡支し、重慶を仲介して英米との
>>和平交渉を進めることが説かれ、

う〜む。1943年末以降は、日本を「無条件降伏」に追い込むところまで
『規定路線』になっていますからね。まあ、ソ連に仲介を頼むよりは
100倍マシだと思いますがw。
537イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 00:41:03 ID:cWkVqPjz
>>534 >>先述したように、中山は石原莞爾と近いのですが、この会談の
>>詳細は伝えられたのでしょうか。

スイマセン。そこまではとても分かりませんw。カンジについては、鬼の
ように詳しく調べている好事家が多いと思いますから、その方にプリーズ。

>>細川日記の五月二十四日の記述にこうあります。
>>『河相(達夫)氏は…小畑、石原両中将の和解の必要を説き、且つ自身ありと述ぶ。』

さらにスイマセン。自分は日中戦争を少し詳しく調べているだけで、終戦工作については
人並み程度の知識しかありません。間違いなく貴官の方が詳しそうです。

特に近現代の政治史は「パッパラパー」ですw。
538名無し三等兵:2006/03/28(火) 00:43:18 ID:???
吉田は憲兵に捕らえられ釈放されたのち、
後輩の河相と接触します。
吉田、河相、石原、小畑らはみなソ連の仲介に反対であり、
重慶仲介の和平を目指していました。
だから河相は小畑と石原を協力させようとしたのでしょう。
七月二日、吉田は、吉田、河相、近衛の渡支による和平案を鈴木内閣に提出します。
そこでは、ソ連の勢力拡大の問題を持ち出せば反共で日支米は団結できると
近衛上奏文あたりからの和平方針が記されています。
このような認識を持つ吉田によって戦後日本は反共一致でアメリカの傘下に加わるわけです。
ちなみにこのころ内閣の方針のもと海軍で作られたソ連仲介案では、
将来ソ連派とアメリカ派で別れた場合日本はソ連につくとありました。
もしそうなったらどうなっていたか考えるだけでも恐ろしいですね。
しかし、東郷外相は吉田の和平案に反して近衛にソ連に行くよう要請しました。
539名無し三等兵:2006/03/28(火) 00:57:25 ID:???
やっぱりまだわからないところというのは多いんですね。
先述のように中山は近衛内閣の主要声明に関与していますが、
対手とせず声明でも東亜新秩序声明でもよくわからない部分は多いです。
中山は対手にせず声明が出る前に秘書官に見せられたと書いていますが、
誰のなんという秘書官か書いていません。
また、その文は文体が内閣で話し合われるようなものではなかったとしています。
中山が見たものが外務省原案のものであればそんなことないはずなのですが。
外務省原案については上村紳一が書いたという周囲の証言がありますが、
彼は覚えていないと言っています。
540イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 22:46:32 ID:NONV2iUr
>>532 >>元々、近衛と吉田と小林が目指す東條内閣の後継は小林首相、吉田外相、小畑陸相、
>>真崎参謀長でしたが、海軍の協力、そして皇道派への信頼がなかったため挫折、

真崎甚三郎が陸相で、小畑敏四郎が参謀総長に擬せられたという説もありますね。

実現するためには、天皇に直結する「内大臣」の木戸幸一を口説かなければなりませんが、
木戸は真崎を忌み嫌っていました。また他方、真崎は木戸のことを日記に『大魔王』と書く
始末ですから手に負えませんw。

この背景には、2.26事件(1936年)の後始末があります。木戸はその当時、内大臣秘書官長
として、皇道派の将官たちを追放する基本方針をつくっていた訳です。また、近衛は当時
木戸の処理案に反対であり、2.26事件の関係者の恩赦を図ろうと説いていました。

終戦工作では、近衛と木戸の対立が顕在化してきますね。
541イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 23:04:54 ID:NONV2iUr
>>538 >>ちなみにこのころ内閣の方針のもと海軍で作られたソ連仲介案では、
>>将来ソ連派とアメリカ派で別れた場合日本はソ連につくとありました。

空恐ろしい限りですw。ソ連に「和平の仲介」を求めた背景には、戦争責任者・
戦争犯罪人の追及の問題がありました。日米開戦に深く関わった軍人たちは
自分たちの責任追及を恐れて、アメリカに降伏を申し入れることができなかった
訳ですが、海軍もブルっていたのでしょうかw。

皇道派の真崎と小畑は、日米開戦には直接の関係がありませんから、重慶政府を
通じて日米和平を目指す近衛や吉田にとって、陸軍の頭を抑えるにはうってつけの
人材だったのでしょう。
542イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 23:35:45 ID:NONV2iUr
>>539 >>中山が見たものが外務省原案のものであればそんなことないはずなのですが。

う〜む。「近衛第一次声明」で自分が知っているのは、外務省の一課長が原案をつくり、
広田外相が閣議にかけて決定した、ということぐらいですw。

>>外務省原案については上村紳一が書いたという周囲の証言がありますが、

名前までは知らなかったのですが、この上村紳一という人物が「外務省の一課長」で
よろしいんでしょうか?w

>>530 >>第二次近衛内閣になると石原莞爾の東亜連盟と東條英機が対立します。

カンジの予備役編入(1941年3月)の内奏が終わったと聞いた服部卓四郎中佐
(参本作戦班長)は、ヒデキを訪ねて「決まった話は変えられぬでしょうが、
石原を駐支大使に、板垣(征四郎)を支那派遣軍総司令官にして、何とか重慶
との和平を…」と言い出します。なかなか服部も良い度胸ですw。
543イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 23:39:31 ID:???
もちろんヒデキが額に青筋を立てて、

「若造は高級人事に口を出すもんじゃない……!」

と一喝してお仕舞いですがw。
544イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/28(火) 23:57:18 ID:NONV2iUr
>>530 >>第二次近衛内閣になると石原莞爾の東亜連盟と東條英機が対立します。

まあ、カンジは京都帝大の講演会でも、

「敵は中国人ではない。日本人である。東条、梅津こそ日本の敵である。
 彼らこそ『銃殺』されるべき人物である」

と演説して、満場から嵐のような拍手を受けたと言います。この背景には
東亜連盟運動の高まりと、日増しに強まる言論統制に不満を積もらせた聴衆が
カンジの毒舌に快哉を叫んだことがあります。各種の講演会では、一躍
「石原ブーム」が巻き起こった訳です。

まあ、現役の京都師団長の発言という点も大きいでしょう。カンジの発言に
青くなった京都府知事が、「ただ今のお話はこの場限りで…」ともみ消しに
かかると、「いや遠慮はいりません。公人としての石原の発言です」と平然
たるものです。それはヒデキも切れるでしょうw。
545イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/29(水) 00:05:21 ID:UWSfD8m7
まあ、ヒデキも「石原信者」の報復テロを怖れていた訳です。

ちょっと、「麻*信者」じゃありませんよ。念のため(藁)。

ですから、なかなかカンジの予備役編入には踏み切れなかった訳ですが、
ついに1941年1月の閣議決定で「東亜連盟運動」の非合法化を決定し、
直後の3月に退役処分のカードを出したのです。

何か「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉が浮かびます。石原自身の
舌禍が無ければ、太平洋戦争開始まで現役でいられた可能性も高いと思います。

その場合、外地に出されて二度と日本本土には帰れないでしょうが…w。
546名無し三等兵:2006/03/29(水) 00:35:38 ID:???
すいません。上村『伸』一でした。
外務省東亜局第一課長です。
547名無し三等兵:2006/03/29(水) 01:49:55 ID:???
>>イナゾウ中佐
日中戦争は
ソ連の間接的な利益になったと思うがいかがお考えで塚?
548名無し三等兵:2006/03/29(水) 03:41:36 ID:???
>>500ヘルシングの少佐はコミケ準備会のあの人がモデルというウワサ
549イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/30(木) 01:08:16 ID:???
>>548 >>ヘルシングの少佐はコミケ準備会のあの人がモデルというウワサ

また、マニアックな方ですね……w。いわゆる即売会には足を踏み込んで
年数が浅いのですが、中小のイベントに行きますと、いつも同じ人が
『主』のように取り仕切っているのに驚かされます。

>>546 >>すいません。上村『伸』一でした。外務省東亜局第一課長です。

どうもでございます。やはり自分には「政治史」の知識が圧倒的に無いのを
気付かされます。最近は『戦記』(ここ数日は、『大陸通信戦記』)ばかり
読んでいるのですが、これはこれで押さえておく必要がありますし……w。
550イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/30(木) 01:32:11 ID:???
>>546 >>日中戦争はソ連の間接的な利益になったと思うがいかがお考えで塚?

盧溝橋事件が起きたのは1937年7月ですが、スターリンの『赤軍大粛清』(1937〜1938年)
と時期が重なります。トハチェフスキー元帥が「スパイ容疑」で逮捕されて、秘密軍法会議
のうえ『即刻銃殺』されたのが1937年6月11日ですからね。

これ以後、1938年までに「元帥5人中3人」「軍管区司令官15人中13人」
「軍団長85人中62人」「師団長195人中110人」「旅団長406人中220人」
の大粛清が始まる訳です。

赤軍全体で実に「将官と佐官」の8割が反逆罪の名の下に殺害されたと言われますから、
支那事変の勃発がソ連の利益になっていないとしたら嘘でしょう。
551イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/30(木) 01:55:04 ID:???
>>514 >>フーミンの失敗は日中和平失敗だけじゃないので。

二回とも「土壇場」で政権を放り出していますから、どうしようもありませんw。

今日久しぶりに細川護煕の名前を思い出しました。遥か昔の人物のような気がしますが、
まだ68歳なのですね。ちなみに福田康夫が数えで70歳です。

近衛の場合、国民福祉税や金権スキャンダルで『電撃辞職』するのとは
訳が違います。
552名無し三等兵:2006/03/30(木) 02:19:09 ID:???
戦前、戦中派の二世三世がこんなところに!
というので最近驚いたのは谷垣財務大臣ですが、
近衛の孫の前は近衛家に二代に渡って使えた側近の孫だったり、
ちょっと前に首相候補レースから脱落した二人は複雑怪奇の養子に近衛の秘書の息子で
今の首相候補もみな二世三世でもう本当に民主主義かと。
553名無し三等兵:2006/03/30(木) 02:25:22 ID:TpAAP5kI
>>550
ありがとうございました
554名無し三等兵:2006/03/30(木) 14:36:42 ID:???
二世三世以外の奮闘を期待する…べきか?
555イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/30(木) 22:38:12 ID:fqsiU+aW
>>552 >>というので最近驚いたのは谷垣財務大臣ですが、

谷垣禎一財務大臣の母方の祖父が、影佐禎昭(中将)になりますね。影佐は
参本謀略課長のときに国民政府との和平工作に関わっています。このスレの
前半で話が止まっていますから、そろそろ再開しようかと…。近衛との絡み
もありますし。

谷垣の『禎』の字が、影佐から一字もらっているのは有名な話ですね。
父親の谷垣専一も大平正芳政権で文相を務めていますが、岳父の影佐を偲んで

「影佐が中日戦争の収拾について如何なる見解を持ち、いかなる行動をしたかは、
 その同志の方々からの記述があろう。若しその運動が功を奏していたならば、日本の
 歴史も、アジアの歴史も今日とは異なった展開をしたであろうと残念至極である」

『中日戦争』としているところが気に食わないですが、影佐が支那事変の収拾に
尽力したのは事実です。
556イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/30(木) 23:02:34 ID:fqsiU+aW
今でもたまに放送されますが、『加藤の乱』(2000年11月)で不信任票を投じに
行こうとする加藤紘一を

「だめですよ、大将なんだから」と谷垣が泣きながら止めていたのを思い出します。

未来永劫、消えない汚点ですね。影佐が草葉の陰で泣いているでしょうw。

>>二世三世以外の奮闘を期待する…べきか?

杉村タイゾー先生がいらっしゃるではありませんか?w まあ、有能であれば
二世だろう何だろうが構わないと言いたいところですが、政治家を一から始めるには、
政治家という職業自体に旨みが無くなってしまったと思います。
557イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/30(木) 23:34:26 ID:fqsiU+aW
>>546 >>日中戦争はソ連の間接的な利益になったと思うがいかがお考えで塚?

日中戦争は太平洋戦争へと繋がる訳ですが、ソ連は終戦直前に満州へ侵攻した
ことで「直接的な利益」も得ています。

ソ連は、容共に転じた孫文の広東政府以来、黄埔軍官学校の設立や支那事変初期に
5千万ドルに及ぶ資金やその他諸々を支那につぎ込んでいた訳ですが、日本資産を
掠奪することで一気に回収しました。

その総額は、米国のボーレー委員会の公表によると、1ドル・4円20銭換算で
「8億9千万ドル」に上ります。満州国の工業設備の4割を持ち去った(4割を破壊)
と言いますから、ボロ儲けです。そして関東軍の兵器は「中共軍」に与えています。

米国は「37億ドル超」もの援助借款を支那にほどこして、1ドルも返還されません
でしたから、ソ連としては「してやったり」でしょう。
558名無し三等兵:2006/03/30(木) 23:35:10 ID:???
>『中日戦争』としているところが気に食わないですが、影佐が支那事変の収拾に
>尽力したのは事実です。

宮沢の祖父は小川平吉という近衛篤麿、文麿父子の側近の右翼ですが、彼も和平工作をやっていました。
彼の和平工作が失敗した最大の原因は宇垣が直前で職を投げ出したことですが、
影佐はあくまでも武力解決を求める東條とともにこの工作に反対していました。
今井武夫は事変当初から明白な不拡大派でしたが、彼は彼等以外のルートで和平工作が行われると
日本国内の右翼団体に対しこの妨害の依頼を仄めかす様なメッセージを送っています。
こういう和平のセクト主義も事変収拾が困難になった原因の一つです。
559イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/31(金) 00:17:57 ID:6205oyfm
「クリスチャン・ジェネラル」と呼ばれ軍閥の巨頭だった馮玉祥はソ連に
ごく近い立場であると同時に、軍需品などの多額の借金がありました。

1948年、アメリカに水利視察に出ていた馮は、新しい『赤い中国』の成立が
近いと見て祖国への旅を急ぎます。しかし、ソ連を経由して黒海を汽船で航海中、
馮は謎の『焼死』を遂げました。

馮は債務を一文も払わず、モスクワを怒らせていたましたから、ひょっとすると
ひょっとするかもしれませんw。もちろん、今さら旧時代の化石のような人物が
ノコノコ北京に乗り込まれては困ると、毛沢東がスターリンに依頼したのでは
ないかという噂も当時、流れました。
560イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/32(土) 00:16:31 ID:ZL8wvQQf
>>557 の補足。 >>米国は「37億ドル超」もの援助借款を支那にほどこして、
>>1ドルも返還されませんでしたから、ソ連としては「してやったり」でしょう。

ちなみに支那要人に着服されたも金額もハンパではありません。戦後にトルーマン米大統領は、
「奴等は盗っ人だ。我々が中国に与えた金37億ドルのうち7億5千万ドルを掠め取ったのだ!」
と述べています。

ソ連が満州に侵攻して掠奪した日本資産の総額が「8億9千万ドル」ですから、いかに巨額の
私腹を肥やしていたかが分かるでしょう。そして真面目に日本軍と戦わなかった訳です。
これではアメリカに見限られても仕方がありませんw。

とくに酷かったのが孔祥煕です。蒋介石の義兄であり、国民政府の中央銀行総裁、財政部長
を歴任した孔は私財蓄積に狂奔します。戦後の1947年には、支那大陸の赤化を察知して
アメリカへ亡命しましたが、中共の戦犯名簿には「第一級」に名前が載っています。
561イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/03/32(土) 00:45:52 ID:ZL8wvQQf
孔祥煕は終戦時、65歳でした。米国に移ってから、記者に「あなたの在米資産は
5億ドルを超えているそうですが……w」と質問されると、この老人は辛そうに
首を振って、「国民政府の敗北で皆失ってしまった」と目に涙を浮かべました(藁)。

孔は天寿を全うして心臓病により89歳で死去(1969年)。葬儀はニューヨーク5番街の
マーブル教会でとり行なわれます。主だった出席者は、リチャード・ニクソン米大統領、
スペルマン枢機卿、上院議員連中、宋美齢、蒋緯国などです。米国人はチャイナ・ロビーの
面々で、たっぷり孔から資金を受けていました。

悪党世にはばかりの典型例ですが、あの世で四季さまが手ぐすね引いて待っているのは
言うまでもないことですw。
562名無し三等兵:2006/03/32(土) 10:58:32 ID:6jv99BcA
最初に軍旗を親授される際は、「軍旗親授の儀」(皇室儀制令(大正15年10月21日皇室令))により
正装・大礼服着用の上、諸式にのっとり宮中にてとりおこなわれた。
連隊旗手は、若い少尉(眉目秀麗・成績優秀であることが求められた)が勤めることが多かったが
軍旗には誘導将校や軍旗衛兵が付され、また戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成された。
軍旗に対しては、天皇に対するのと同様の敬礼が行われた。
563名無し三等兵:2006/03/32(土) 20:00:05 ID:???
 
一方、海軍は汚れたら普通に取り替えていた。
564元前スレ32:2006/04/04(火) 12:19:14 ID:???
sageでも保守はできたですよね。
565名無し三等兵:2006/04/04(火) 22:40:54 ID:???
11月11日夜、当面の支那軍は退却を開始、あまりにも速い退却に、上海決戦を
しようとした日本軍は空振りに終わった。
そうなると第十軍の柳川中将などはまともな戦闘行為をしていないので、上海周辺
の残敵掃討では満足できず、「南京追撃」という意見をあげた。
松井石根も上海決戦で和平を求める方針であったが、強硬派にひきずられてゆく。
軍人は戦争で名を挙げたいと思っている。
自軍が戦果を挙げずに帰国することは不名誉であるとさえ思っている。
柳川中将は独断で参謀本部に南京攻略を打診していた。

石原莞爾は戦争不拡大の持論を曲げなかったので、上海事変後の9月27日、ついに
参謀本部作戦部長から関東軍の参謀副長の役職になり、日本を離れた。
しかし、上司の参謀総長は天敵ともいえる東条英機である。
すんなりと石原の意見がとおるとは思えない。
昭和12年10月9日、新潟港を出発し、清津、羅清港に着き、一人で宿屋に宿泊し、翌日
は羅清港の開発状況を視察して石原の計画より遅れているのを確認し、ソ連軍の動向にも
注意して、12日新京駅に着いた。

それでも最後に日本をたつ前に和平工作を仕掛けていた。
ドイツの駐支大使トラウトマンに日・支の和平の仲介役を頼んだ。
566名無し三等兵:2006/04/06(木) 20:09:52 ID:9VOfwfyg
蜀が全軍で攻め込んだところで
魏軍は一地方軍で十分対応できるんだよな・・・
やっぱ国力だねえ・・
567イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/07(金) 22:42:43 ID:N3R9IcWv
仕事がテンパリ気味なのと、花粉症が「目に来る」タイプなのでしばらく
ご無沙汰しておりましたw。パソコンの画面を見るのが辛い季節です…。

>>558 >>今井武夫は事変当初から明白な不拡大派でしたが、
>>こういう和平のセクト主義も事変収拾が困難になった原因の一つです。

今井武夫は、「支那派遣軍総参謀副長」時代にも和平工作を進めていました。
太平洋戦争末期の1945年7月、今井は何柱國(第15集団軍司令官)との会見に
成功して「日中和平」を説きましたが、失敗に終わります。

何は「もはや中日の単独和平はあり得ない」と答え、「日本が連合国との和平を
望むならばそれを米英に伝えてもいいが、その場合、日本は本土以外の領土を全て
放棄する覚悟が必要だろう」と勧告します。

今井は大きな衝撃を受けて会見の顛末を大本営に報告しますが、中央はポツダム宣言を
めぐる混乱に追われていました。その内に原爆投下、ソ連の満州侵攻が始まります。
568イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/07(金) 23:09:37 ID:N3R9IcWv
>>こういう和平のセクト主義も事変収拾が困難になった原因の一つです。

「支那通」同士の対立として最も極端な例が、支那事変初期に成立した中華民国
臨時政府と維新政府の並立です。簡単にまとめると、以下の通り。

●中華民国「臨時政府」:工作担当者(北支那方面軍)特務部長・喜多誠一少将、根本博ほか
 1937年12月成立、最高軍事顧問:永津佐比重

●中華民国「維新政府」:工作担当者(上海派遣軍)特務部長・原田熊吉少将、楠本実隆ほか
 1938年3月成立

維新政府は、「華中にこそ中央政権を樹立すべきだ」と主張する松井石根大将(上海派遣軍
司令官)の肝いりで樹立工作が進められる訳ですが、特務部の他にも軍司令部参謀の長勇や
南京特務機関長の臼田寛三が強引に動いたために、北支那方面軍と激しく対立しました。

司令官の松井の交代が既に予定されていましたので、何とかしてその前の政権樹立を急いだ訳です。
569イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/07(金) 23:43:31 ID:N3R9IcWv
そして支那事変初期の「和平問題」で最大の問題になったのが賠償金ですね。

和平を結びたいのは山々ですが、支那から「着の身着のまま」引き揚げて来た
居留民や企業への補償を考えると、なまじの金額では国民感情的にも収まりが
つかない訳です。

また官僚的な「縦割り行政」が顔を出し始めると、状況は更に悪化します。
だれも和平条件を取捨選択してまとめる人間がおらず、単に各部門の要求を
『全て並列する』結果となり、和平条件が雪ダルマ式に膨れ上がりますw。

>>562 >>また戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成された。

まあ、実際は「予備隊」扱いです。激戦区を担当して消耗した中隊に
休息を与えるため、配置換えするケースが多い訳です。よほどの事がない限り、
連隊旗は比較的安全な場所に位置していますからね。特に支那戦線では。
570イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/08(土) 00:41:25 ID:fGsnRsGn
>>562 >>軍旗に対しては、天皇に対するのと同様の敬礼が行われた。

言うまでもない事ですが、「連隊旗」に万一のことがあれば連隊長は切腹です。

そして支那戦線で一番困ったのが『敵前渡河』の場合です。最も考えられる危険は、
●舟が沈む ●漕ぎ手が全滅して下流に流されて行方不明w の2点です。

従って対策としては、竿頭に綱を結んで引っ張っていく等がある訳ですが、もちろん
切腹の可能性がある当の連隊長は心配で心配で、気が気ではありません。

実際の例として「桂林攻略作戦」(1944年)における桂江の敵前渡河では、
ある連隊長が安全のために軍旗を後方に残したために、士気が少なからず
阻喪しています。

その連隊の作戦参謀は、「こんな危急の時こそ、軍旗を中心とする団結力を発揮
しなければならないのに、土壇場で『奉じない』と言われるとは…」と不満タラタラですw。
571名無し三等兵:2006/04/08(土) 23:20:37 ID:???
日本人は歴史の反省が足りない
572名無し三等兵:2006/04/08(土) 23:26:53 ID:???
【中国】時速450`で空から人糞が降ってきて小学校直撃、女児一人が軽傷
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/material/1143790291/4-
573名無し三等兵:2006/04/09(日) 03:02:30 ID:???
独立愚連隊って映画で軍旗を取り戻す為だけに敵地に乗り込むんだけど
マジな話だったのか
たかが旗のために死ねないなあ
574名無し三等兵:2006/04/09(日) 09:18:51 ID:F9yqdu7l
アルビンDクックス著 ノモンハン 全4巻 朝日文庫  良著でつ
575名無し三等兵:2006/04/09(日) 10:38:22 ID:KRq/lCMT
>>573
昔は支那戦線を舞台にした映画多かったのに、最近はさっぱりですね。まぁ、現代では作りづらい環境だろうし、たとえ作られたとしても…
576名無し三等兵:2006/04/09(日) 13:20:05 ID:LP8q2yUW
>>575
571みたいな売国左翼や反日チョン・チャンコロら基地外共は無視して
どんどん作って欲しいね
かつて祖父達が国(家族・故郷)のために命がけで戦った誇りを忘れさせないために
577名無し三等兵:2006/04/09(日) 14:39:14 ID:???
陶菊隠 著 『北洋軍閥統治時期史話』(全三冊) 三聯書店出版社 1983年3月
丁中江 著 『北洋軍閥史話』(全四冊) 中国友誼出版社 1992年12月
来新夏 著 『北洋軍閥史稿』 湖北人民出版社 1983年11月
謝本書 著 『袁世凱与北洋軍閥』 上海人民出版社 1984年6月
李剣農 著 『戊戌以後三十年中国政治史』 中華書局 1965年7月
銭実甫 著 『北洋政府時期的政治制度』(全二冊) 中華書局 1984年5月
張静如・劉志強 主編 『北洋軍閥統治時期中国社会之変遷』 中国人民大学出版社 1992年6月
徐友春 主編 『民国人物大辞典』 華北人民出版社 1991年5月
劉寿林・萬仁元・王玉文・孔慶泰 主編 『民国職官年表』 中華書局 1995年8月
陳旭麓・方詩銘・魏建猷 主編 『中国近代史辞典』 上海辞書出版社 1982年10月
陳旭麓・李華興 主編 『中華民国史辞典』 上海人民出版社 1991年8月
何本方 編 『中華民国知識辞典』 中国国際広播出版社 1992年10月
尚海・孔凡軍・何虎生 主編 『民国史大辞典』 中国広播電視出版社 1991年9月
578名無し三等兵:2006/04/09(日) 14:40:38 ID:???
李新総編 韓信夫・姜克夫 主編 『中華民国大事記』(全五冊) 中国文史出版社 1997年2月
来新夏 主編 『北洋軍閥』(全五冊) 上海人民出版社 1988年8月
章伯鋒・李宗一 主編 『北洋軍閥 1912〜1928』(全六冊) 武漢出版社 1990年6月
杜春和・林斌生・丘権政 主編 『北洋軍閥資料選輯』(上下二冊) 中国社会科学出版社 1981年6月
張侠・孫宝銘・陳長河 主編 『北洋陸軍資料 1912〜1916』 天津人民出版社 1987年10月
焦静宜  『北洋軍閥史研究の回顧と展望』
(『中華民国史研究述略』に収録) 中国社会科学出版社 1992年6月
馮年zhi(左至+右秦) 著 『袁世凱伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
張立真 著 『馮国璋伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
周俊旗・汪丹 著 『段祺瑞伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
陳崇橋・耿麗華 著 『張作霖伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
郭剣林 著 『呉佩孚伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
朱寒冬・王彦民 著 『徐樹錚伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
何徳sai(塞-土+馬) 著 『孫伝芳伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
董守義・王加会 著 『張宗昌伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
高虹・房広順 著 『呉俊昇伝』 遼寧古籍出版社 1997年8月
陶菊隠 著 『督軍団伝』 上海書店出版社 1998年1月
陶菊隠 著 『呉佩孚伝』 上海書店出版社 1998年1月
横山宏章 著 『中華民国−賢人支配の善政主義』 中央公論社 1997年12月

579俄将軍:2006/04/09(日) 16:54:58 ID:???
>>577-578
著者の中の人が立場も、重要でありますが、出版社が、何処にあり、何時出版
されたのか、というのも軽視してはならないということになるのだろうか、
などと、適当なことなど、書き込んでみたりするのです。
580イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/09(日) 20:54:27 ID:+dvJCP8O
>>574>>独立愚連隊って映画で軍旗を取り戻す為だけに敵地に乗り込むんだけど
>>マジな話だったのか たかが旗のために死ねないなあ

それは取り戻しに逝かないとダメでしょうw。連隊長個人の切腹問題にとどまらず、
「連隊そのもの」の名誉に関わります。連隊は郷土の誇りそのものです。

ちなみに軍旗の「奉拝式」をごく簡単に伝えると以下の通り。

――着剣した旗護兵に前後を護衛された軍旗が、奉持する連隊旗手(少尉)を
中心に部隊正面の台上に位置します。

「軍旗に対したてまつり、ささげー銃(つつ)!」

のどを絞るような号令のもとに、連隊長以下が抜刀払いの最敬礼。終わって奉安所に
軍旗が帰還するときも、またひとしおの緊張を要します。軍旗が部隊の前を通る際に
もう一度「捧げ銃」をしますが、軍機に注目する頭に気をつけなければなりません。
581名無し三等兵:2006/04/09(日) 21:03:15 ID:???
×>>574
>>573

>>573
今の感覚でいうと甲子園の優勝旗ぐらいに考えてもいいかもしれないね。
旗の為に皆必死になっているが誰もそれを笑いはしないだろう?
582名無し三等兵:2006/04/09(日) 21:22:37 ID:???
>>580
ヨソの軍隊(ソ連、アメリカ、ドイツ)でもそうなの?
映画ではやっと見つけた軍旗は破れてボロボロ・・・でも見つけた兵隊は喜んでた
何が嬉しいのか意味が分からんかった・・・

日本軍のイカレタ精神主義も嫌だけど後ろから玉が飛んでくるソ連軍も嫌だなあ


583えICBM:2006/04/09(日) 21:27:06 ID:???
それでも最後には自分等で焼くのだが。
正直パニクリの延長だと思うが。
584イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/09(日) 21:30:54 ID:+dvJCP8O
最後は、軍旗送還に対する「最敬礼」を指しますが、上官によっては
「軍旗が部隊の前を『お通り』になる」と兵にいちいち注意します。

さて「軍旗=天皇の分身」であり、「軍旗のために死ねるか?」ですが
現代の自分達から見れば、確かにアホらしいの一言でしょう。

しかし戦前の日本軍が、劣悪な装備にも関わらず士気を維持し、容易に
部隊が崩壊しなかったのは、やはり「天皇の軍隊」としての意識と縛りが
あったためだと思います。たとえ『無意識』であったとしてもです。

そのための軍旗であれば、存在価値は有ったでしょう。

とにかく「弾薬の量」など総合して考えれば、ある意味、日本軍というのは
支那(国府)軍よりも装備が劣っていた訳です。上海攻略戦(第二次)では
土人兵が機関銃を1日中撃ちまくっているにも関わらず、日本兵は弾薬の消費を
(事実上)禁じられ、銃剣突撃です。そして勝ったのは日本軍です。
585イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/09(日) 21:54:19 ID:+dvJCP8O
例えば、上海攻略戦で初期に上陸した兵が携行していた弾薬は200発です。
また軍司令部命令で「火力によらず銃剣で戦う」ように言われます。そして
弾薬の補給は部隊にもよるでしょうが、3ヶ月間無かったところもあります。

ある兵は、上海上陸から南京追撃戦まで使用した弾薬がわずか70発で、
1日1発も撃っていない計算になります。補給が無いので、弾丸一発は
文字通り「血の一発」と考えざるを得ません。

そして土人兵は1日中、機関銃を撃ってきます。最終的に潰走したのは
国府軍です。この事実は考えさせられます。

>>582 >>ヨソの軍隊(ソ連、アメリカ、ドイツ)でもそうなの?

ウィキペディアの「連隊」「連隊旗」を見ると手っ取り早いでしょう。
586イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/09(日) 22:17:14 ID:+dvJCP8O
>>582 >>日本軍のイカレタ精神主義も嫌だけど後ろから玉が飛んでくる
>>ソ連軍も嫌だなあ

敵前のトーチカの中に、鉄鎖で機関銃と足をがんじがらめにされて、
さらに鍵で閉じ込められ、足元には干し飯と竹の水筒が置いてある
支那軍も嫌ですよ。もちろん糞尿垂れ流しですw。

ちなみにトーチカには、縦10センチ×横20センチの銃眼の穴が
開いており、ある一箇所しか撃てないようなのも有ります。
587名無し三等兵:2006/04/09(日) 22:21:46 ID:???
>>584
>>585
>「火力によらず銃剣で戦う」
小部隊戦術としてならそれは正しい。
中隊以下で持つ火力はあまりに無力。

>ある兵は、上海上陸から南京追撃戦まで使用した弾薬がわずか70発で、
>1日1発も撃っていない計算になります。

軽機で70発なら大問題だね。でも小銃だとしたらそうおかしな話ではないと思う。

どういう状況なのかわからんと判断しにくい。ソース明示してくれないか?
588イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/09(日) 22:32:02 ID:+dvJCP8O
>>587 >>軽機で70発なら大問題だね。でも小銃だとしたらそうおかしな話では
>>ないと思う。

小銃の方ですね。軽機はもう少しバリバリ撃ってますw。夜中になると陣地に
支那兵が手榴弾を投げ込んできますから(しかし突入はして来ない)、軽機が
追い払う訳です。

したがって、軽機を担当する兵は昼間に寝て、夜中にその他の兵と代わって
起きていることになります。

>>どういう状況なのかわからんと判断しにくい。ソース明示してくれないか?

『上海敵前上陸』(三好捷三著:図書出版社、1979年刊)でふ。
589えICBM:2006/04/09(日) 22:49:28 ID:???
第一次世界大戦の教訓で、列強各国は軍備の近代化が最優先課題である事を学んだ。
日本陸軍も近代化を進めようとしたが、大陸で戦費がかさみ、近代化どころではない。
で、近代化の代わりに選んだのが精神主義。
強靭な愛国精神に支えられた皇軍は無敵であるという妄想。
まあ、中国軍相手では実際無敵であったのだが、ソ連、アメリカ相手では虐殺される事となる。

それに引きかえ、海軍は対米戦まで着々と戦備を整えていた。
そのため、世界最大の海軍国アメリカと緒戦ではそれなりの戦いができた。

貧乏がみんな悪いんや、とはちょっと違うか。
590えICBM:2006/04/09(日) 22:53:59 ID:???
>>585
>そして土人兵は1日中、機関銃を撃ってきます。最終的に潰走したのは
>国府軍です。この事実は考えさせられます。

そりゃ、上陸部隊が側面からいきなり現れたら壊走しますわ。
上海正面での戦いは、日本側が若干有利な状況程度であり、国府軍側はきっちり戦ってる。
591イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/09(日) 23:42:28 ID:+dvJCP8O
>>590 >>そりゃ、上陸部隊が側面からいきなり現れたら壊走しますわ。

結論、先に言っちゃイヤンw。蒋介石からすれば、日本軍に可能な限りの
出血を与える「必勝体制」でしたでしょうが、テーブルごと盤面をひっくり
返されたようなものです。

最初に呉淞に上陸した第3師団(名古屋)は全滅状態で、200人いた中隊で
半月後に残ったのが10人なんてのがザラな訳です。

というか、何でこの話をしていたのでしょうか……? ああ、軍旗の話をして
いたのかw。
592名無し三等兵 ◆KoxG3j4sWc :2006/04/10(月) 00:16:24 ID:???
割り込み失礼。
>>581
>>582
連隊旗のお話ですが、簡単に言うとこれって「国家」そのものなわけで。
家族を、郷土を、天皇陛下すなわち日本国を背負っていたわけで。
軍旗の下で死すことを男子の本懐とする伝統が旧軍にはあったわけで。
硫黄島での歩145連隊の軍旗奉焼のくだりはなんとも言いがたく。
まあ、そんなわけです。

593えICBM:2006/04/10(月) 00:30:07 ID:???
>>591
>結論、先に言っちゃイヤンw。
正直すまんかった。。

ところで、何故中国側は側面からの上陸に対策をしなかったのだろうか?
594名無し三等兵:2006/04/10(月) 15:31:44 ID:???
陸戦隊の記述が、下士官達の太平洋戦争に書いてあったような・・・(勘違いならすまぬ)
595名無し三等兵:2006/04/10(月) 17:26:36 ID:???
>>589
ちょ、おま、海軍が上海事変拡大を推進したのは無視かw
596元前スレ32:2006/04/10(月) 17:51:57 ID:???
>>589
>>590
大戦末期における日本陸軍の勇戦はかなりアメリカ上層部の政策判断に影響を及ぼしているので、
虐殺とはいえないかと存じます。
歩兵の敢闘精神というのは太平洋戦争の頃にはまだ有効だったみたいですね。
だからといって、あのような犠牲の多い戦争を肯定していいわけにはなりませんが。

上海前面における国府軍精鋭の敢闘も印象的ですが、
それだけに、これを突破・追撃した日本軍の作戦もみごとなものですよ。

国府軍指揮官ファルケンハウゼンと日本側指揮官との力量の違いもあるでしょうが、
純粋に軍事的に見れば、歩兵の敢闘精神は賞賛に値すると思います。
597元前スレ32:2006/04/10(月) 17:55:28 ID:???
>>596
わかりにくいですねえ。自己レス。

国府軍の作戦を実質的に指導したファルケンハウゼンに対して、
日本側の指揮官は一枚も二枚も上手だったようであり、
純粋に軍事的には、日本軍歩兵の訓練と敢闘精神は賞賛に値するだろう、ということです。
598えICBM:2006/04/10(月) 22:24:14 ID:???
>>595
戦費を負担したのは主に陸軍だが。

>>596
降伏する状況で降伏しないから、やむなく虐殺という意味だが。
日本軍では兵士に対して虐殺される教育を徹底していたという見方も成り立つ。

>それだけに、これを突破・追撃・・・
いや、だから、それを可能にしたのは、第十軍が奇襲上陸し、側背から上海の国府軍を衝いたのであって・・

>>597
>純粋に軍事的には、日本軍歩兵の訓練と敢闘精神は賞賛に値するだろう、ということです。

純粋に軍事的に考えれば、装備の近代化をせず、兵士の精神に頼るのはまずいだろう。
最新の装備と、勇猛果敢な精神ならハナマルなのだが。
599元前スレ32:2006/04/10(月) 23:17:37 ID:???
>>598
>虐殺
ああ、そういう意味だったんですか。
日本の陸兵が米兵に一方的に殺戮されたという意味かと思いました。

>奇襲上陸
蘇州川渡河に至る過程で、柳川兵団投入前に、
国府軍防衛線は事実上崩壊していたのかと思っていました。
600名無し三等兵:2006/04/11(火) 01:27:08 ID:???
米軍と戦闘すると、日本兵にはなぜか負傷者がほとんどいない不思議。
601名無し三等兵:2006/04/11(火) 14:16:12 ID:???
>>598

精神ではなくて歩兵戦術ドクトリンの問題かと思うのですが。
602イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/11(火) 22:53:45 ID:Hesoe0zE
>>574>>独立愚連隊って映画で軍旗を取り戻す為だけに敵地に乗り込むんだけど
>>マジな話だったのか たかが旗のために死ねないなあ

補足しますと『宣伝戦』に悪用されますから尚更回収しなければなりません。

支那とて『大本営発表』をやっている訳です。国民政府の軍事委員長でもあった
蒋介石は戦後、日中戦争について「公式記録では中国軍と日本軍の戦闘は、小戦闘
3万8931回、重要戦闘1017回、大会戦22回。計4万70回」と発表しています。

そのなかで「中国軍が大勝利した」と誇大に宣伝して狂喜した戦闘が2つありまして、それが
「平型関の戦闘」と「台児荘の戦い」です。
603イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/11(火) 23:17:37 ID:Hesoe0zE
「平型関の戦闘」は1937年9月25日、第5師団(板垣征四郎中将)の第6兵站
自動車隊と、浜田歩兵第21連隊の大行李(輸送部隊)が八路軍(中共)に
襲われた事件です。

前者が、70余台の車両に輜重兵15人・特務兵70人・護衛の一個小隊
後者が、トラック約80両に指揮官の新庄中佐以下200人

の、ほとんど無力な輜重部隊が全滅させられた訳ですが、中共はこれを
「万余の日本軍と激戦の末、敵を全滅させた」と大宣伝しましたw。

「台児荘の戦い」(1938年3月〜4月)は、第5師団と第10師団の一部が
大苦戦を強いられ実際1万人余りの死傷者が出た訳ですが、国民政府は
「日本の第10師団と第5師団を包囲して、3万人を殲滅した」と発表し
盛大な祝賀のタイマツ行列まで行なっています。

まあ、何が言いたかったといえば、日本軍の連隊旗が支那に鹵獲されたら
どう宣伝されるか分かったものではない、という事ですw。支那は宣伝上手ですから。
604イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/11(火) 23:49:04 ID:Hesoe0zE
>>593 >>ところで、何故中国側は側面からの上陸に対策をしなかったのだろうか?

ドイツ人に『丸投げ』するからですw。と言いたいところですが、満州事変後の
第一次上海事変(1933年)では、揚子江に面した「七了口」から日本軍に奇襲上陸されて
支那は一敗地にまみれる訳です。第19路軍長の蔡廷楷は、友軍に無連絡のまま深夜に
総退却命令を出しています。

実際、蒋介石も「七了口に敵を上陸させたのが致命的だ」と嘆息している訳です。

今回の「第二次上海事変」では陣地図を見る限り「七了口」への備えは万全でしたが
正反対の杭州湾への上陸は『想定の範囲外』だったのでしょう。

蒋介石からすれば、同じ轍を踏まないように万全の態勢を整えたはずだったのですが、
別宮翁がよく言うように「人は1つ前の戦争に備える」がピタリ当てはまると思います。
605名無し三等兵:2006/04/11(火) 23:51:50 ID:???
錦の御旗は幕末からの伝統なんかね?
606イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/12(水) 00:18:53 ID:???
日本側は、最初に上陸した第3師団と第11師団がほぼ全滅状態。

のちに重藤(千秋)支隊、第9師団、第13師団、第101師団などが
増援されて徐々に戦線を力押ししていく訳です(総兵力16万2千人)。

上海戦線の日本軍の損害累計が、戦死者9115人・戦傷者3万1257人で
合計4万372人ですから、第10軍(約8万人)を無視すると、約4分の1が
死傷しています。もちろん、その多くは第3師団と第11師団が占めますが……。

ちなみに第11師団の第43連隊(徳島)は、半数近くの1282人が戦没しています
から、この一例を挙げるだけで十分でしょう。戦傷・戦病を含めたら…何をかを況やです。

国府軍は一歩ずつ後方の陣地に撤退していきながら、一兵でも多く日本軍に消耗を強いる
戦略でしたから(最終的には、第一次大戦なみに部隊を消滅させる)、第10軍の杭州湾
上陸という『ちゃぶ台返し』が無ければ、惨憺たる結果に終わっていたでしょう。
シュレッダーに正面から手を突っ込むようなものです。
607イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/12(水) 00:36:23 ID:TkOWk8j+
蒋介石の言に「上海で3ヶ月を持ちこたえたのだから、次のヒンデンブルク・
ラインで半年は粘ってみせる」というものがあります。

攻勢を取らざるを得ない日本軍を逐一迎え撃って消滅させてやろう、という
意気込みが感じられ、もし蒋の思い通りことが運んだらと思うとゾッとします。

>>597 >>国府軍の作戦を実質的に指導したファルケンハウゼンに対して、
>>日本側の指揮官は一枚も二枚も上手だったようであり、

そして今までの解説は、そのまま「史実の日本軍」の賞賛へと転換される訳です。
ヒンデンブル・クラインについては後日、補足します。
608えICBM:2006/04/12(水) 01:18:03 ID:???
>>604
杭州湾方面の国府軍だが、日本軍の事前の偵察によれば、陣地構築、部隊の配備がされていたようだ。
そのため、上陸時にはかなりの出血を伴う事が予想されたため、奇襲と上陸後の迅速な行動を心がけた。
609名無し三等兵:2006/04/12(水) 04:32:20 ID:???
*老河口作戦(20/3/20〜6月)
 老河口(湖南省北西部)は落陽(河南省西部)の南南西250キロ、漢口の北西300キロに位置し、攻撃には
 第12軍の2個師団、戦車師団、騎兵部隊が参加。
 進撃は米軍の航空攻撃とこれまでにない豊富な砲撃による反撃を受けて難渋したが、それでも騎兵部隊
 が老河口飛行場を占領(3/27)し、第115師団が老河口城を占領した(4/8)
 しかし勢いもそこまでで、中国軍トラックは夜間も平気でヘッドライトを点灯し、悠々と兵員物資を輸送
 して多くの陣地で日本軍を攻め立てた。これまで見られなかった余裕のある中国軍の姿だった。
 日本軍は中国軍の陣地を突破出来ず、各部隊はなし崩し的に撤退し、作戦の目的は達成されなかった。
 日本軍の総合的な損害は計り知れない。
*し江作戦(20/4/15〜5/19)
 し江作戦の場合はもっとはっきりと敗北した。し江(湖南省西部)は衝陽の西北西290キロ、漢口の南西
 600キロ。し江の北西370キロに重慶があり、重慶の北西265キロに成都がある。老河口作戦前の岡村大将
 の最初の構想では、このし江を足がかりにして重慶、成都を攻撃するものだった。
 第6方面軍に属する第20軍の2個師団、1個独混が、衝陽の西100キロの宝慶から進撃したが、その西の
 雪峰 山脈は越えたものの、猛烈な反撃を受けてし江までたどり着くことなく撤退した。
 豊富な火力、航空部隊と地上軍の密接な連携プレー、米式装備の地上部隊、迅速な増援部隊の投入など
 これまでの中国軍からは想像も出来ないような攻撃ぶりだった。
 先頭を進んだ第116師団第119連隊は約3千名中755名が戦死、その他大部分が負傷した。参加部隊全体の
 戦死者は約2,400名、戦傷者の合計では2万8千名の大損害での敗退であった。

以上、太平洋戦争研究会の「日中戦争」から要約
610名無し三等兵:2006/04/12(水) 18:04:06 ID:???
おいゴボウお遊戯事なら外でやってこいよ。
せっかくおれが携帯から非常に面白く内容の濃い長文書いてるってのに
くだらん議論すんのやめてくれないかね。
民主主義とかいう抽象論で結論だそうってのが無理なんだよ。
三流雑誌文化の糞評論家どもの傾向として細かい事実の解釈よりも
概念で議論しあうってのが多いがこんなアホなことはない。
せいぜい挙げられる具体例二、三しかもってないのにな。
まず戦前の政治史総ざらえに勉強したあと細部の解釈で議論して
概論なんてだすのはもう自分の知識が完璧になってからだろ。
これが逆に概論からはじめるやつばっかだからろくな話が出来ない。
611名無し三等兵:2006/04/12(水) 18:32:19 ID:???
ここにもコピペか。春だなぁ。
612名無し三等兵:2006/04/12(水) 19:27:17 ID:???
悔しかったんだろうね
コピペした奴は
613名無し三等兵:2006/04/12(水) 19:57:58 ID:???
        o____________
        ./:::::::☆:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/
       /::☆::::::☆:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/
      ./:::::::::::::☆:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/    軍事拡大路線 中 国
     /::::::::::☆::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/
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     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                             />
               /\            /:::<
             /:::::::::::\        <:::::<<
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   ブーーン/::::::::::::::::\\      \:::< .. . : : : :    . . . :: .. .
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    /⊃::: ヽ   :::::::\     .. . :: : : : :: : . .
   .<:::::::梟::  [二〔 竜::::>
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      \:::ゝ___ノ:\\        /:>`
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  .. . .. . ::    ..: ... : :. ..:\\     \>      
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   .. . .:.: : :: ..      \/        
614元前スレ32:2006/04/12(水) 22:06:07 ID:???
>>609
このあと服部卓四郎の衝撃の実戦指揮官デビューがあり、
会津連隊を指揮して、
圧倒的に優勢な米式装備の国府軍を翻弄して先鋒を粉砕、
第11軍奇蹟の撤退作戦が成功するというところで日中戦争戦記は終わるのでしょうけれど、
それまで道はながいですねえ。

イナゾウ中佐、がんばれ。
615イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/12(水) 22:31:51 ID:trsnzhJy
>>608 >>杭州湾方面の国府軍だが、日本軍の事前の偵察によれば、陣地構築、
>>部隊の配備がされていたようだ。

戦史叢書の戦場図を見ると、確かに『国府軍の陣地』が杭州湾付近にもありますが、
内陸部の「嘉善」〜「平湖」〜海岸沿いの「乍浦鎮」と南北を結ぶ縦のラインです。

これは黄浦江沿いに、または鉄道路線沿いに『上海から南京』(西→東)へ侵攻する
日本軍を食い止める目的に作られた陣地ですから、杭州湾上陸に備えたものでは
無いでしょう。

唯一、実際の上陸地点となった「金山衛城」の右に杭州湾を指向する陣地がありますが
僅かなものです。戦場図ではページが途切れていますので、実際にはもっと続いている
かもしれませんが、日本軍はその隙間を突くように無陣地の地点に上陸しているのです。

そして第10軍は、遠浅の海岸を歩いて上陸しています。ほとんど抵抗を受けずに
完全な奇襲上陸でした(1937年11月5日)。
616イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/12(水) 23:04:35 ID:trsnzhJy
ちなみに第10軍の戦闘序列は以下の通り。

軍司令官・柳川平助中将、参謀長・田辺盛武少将
○第6師団(熊本)谷寿夫中将 ○第18師団(久留米)牛島貞雄中将
○第114師団(宇都宮)末松茂治中将

事前の航空偵察によると、杭州湾北岸の「金山衛」付近に約2個師の国府軍が
いると判定されましたので、もちろん全く敵がいなかったという訳ではありません。
予想される増援兵力は、10個師と見られたので迅速な展開が必要とされたのも
ご指摘の通りでしょう。

杭州湾は干満の差が5メートルもある難所で、旧暦8月の大潮には、海水が銭塘江を遡り、
2〜3メートルの波となって押し寄せる『大逆流現象』で世界的に有名な場所です。

杭州湾の第1次上陸兵団となった第6・第18師団の輸送船団は155隻にのぼり、
支援した海軍の「第4艦隊」が煙幕を張ったのちに奇襲上陸することになります。
617えICBM:2006/04/12(水) 23:41:55 ID:???
>>615
お、戦史叢書ですか、確かに挿図から読み取るとそんな感じですね。
しかし、私の>>608のレスも戦史叢書からです。
下手にまとめないでコピペすると、上陸地点の状況評価は、

当時、航空偵察によれば、第十軍が上陸しようとする杭州湾の北岸、海塩(杭州東北東約80キロ)
以東に配備された敵兵兵力は約二個師で、乍浦要塞が現存し、金山衛城東西一帯の海岸には堅
固な既設陣地があり、金山衛城以西の地区には海岸におおむね三線、同以東には地区には一線
の堅固な陣地を認め、なお目下陣地の増強中であった。
また、これに増援を予想される兵力は浦東地区に約一個師、上海南市付近に二〜三個師、松江に
一個師、嘉興に一個師、杭州に二個師、寧波に二個師と見積もられた。
(戦史叢書支那事変陸軍作戦<1>p395より)

これに加え、遠浅、泊地の問題、潮流、干満の激しさ等の地形的な問題も多々あった。
そのため、作戦について叢書によれば、

第十軍は、以上の諸件を考慮し、とくに企図の秘匿、陸海軍の密接な協力、上陸後の放胆な機動作戦
に着意し次のような作戦計画を策定した。敵側の対応のいとまを与えぬため、上陸点付近で態勢を整理
することなく一挙に黄浦江北岸に向かい(約40キロ)前進する構想であった。
(戦史叢書支那事変陸軍作戦<1>p395より)

だそうです。
(続く)
618えICBM:2006/04/12(水) 23:44:17 ID:???
(続き)
上陸の様子は、叢書によれば、

五日(11月)払暁、軍は第六師団(国崎支隊配属)をもって金山衛城西側地区に、第十八師団主力をもって金
山衛城東地区に、左側支隊(第十八師団の歩兵第三十五旅団長手塚省三少将の指揮する歩兵第三十五旅
団<歩兵第百十四連隊欠>、野砲兵第十二連隊第三大隊基幹)をもって第六師団の左側地区から奇襲上陸し、
敵の抵抗を排除しつつ、困難な地形を克服して北進し、一挙に黄浦江の線に達した。すなわち、第六師団は、
国崎支隊をもって上陸後金山衛城を占領させ、師団主力をもって北進し、八日、松江南西黄浦江左岸地区に、
第十八師団主力は六日、亭林鎮付近に、また左側支隊は八日、楓鎮東方にそれぞれ進出した。
(戦史叢書支那事変陸軍作戦<1>p401より)
だそうです。

評価は・・・、正直よく解りませんので解説よろしく。
619イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/12(水) 23:54:59 ID:trsnzhJy
第10軍は、>>616 で述べた以外にも、独立山砲兵第2連隊や野戦重砲兵
第6旅団、第1後備歩兵団、第2後備歩兵団で編成されていますが、
まずは第6師団と第18師団が先鋒を務めることとなります。

第6師団が「金山衛」西側に、第18師団が東側に奇襲上陸し、黄浦江を
目指して北上します。

第10軍は「松江」(上海西南)に進出して、上海派遣軍と国府軍を挟撃しますが、
同時に西の「嘉興」(鉄道分岐点)にも向かい、

>>内陸部の「嘉善」〜「平湖」〜海岸沿いの「乍浦鎮」と南北を結ぶ縦のライン

あらかじめ国府軍が構築していた陣地を突破しました。こうして第10軍という
『鬼札』は大当たりする訳ですが、この構想をリードしたのは作戦部長だった
下村定(少将)です。蒋介石は11月9日、ついに撤退命令を出しました。
620えICBM:2006/04/12(水) 23:58:06 ID:???
>>619
あ、ネタバレすまそ。
621イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 00:13:51 ID:w771a4qG
>>あ、ネタバレすまそ。
いえいえ。いつも書き込む時間帯がほとんど同じですねw。正直、『戦史叢書』は
手元に持っていないので、戦場図うんぬんは『図説 日中戦争』から引いています。
だって「戦史叢書から地図を転載しました」というのがモロバレですから(藁)。

さて支那側の損害ですが、蒋介石の参謀長格だった何応欽の談話によると以下の通り。

「劣勢な装備の国軍は肉弾により必死に抵抗した。兵員の損傷を補うために、毎日
 1個師から2個師の増援が必要であった。10週間(2ヵ月半)のうちに、我が軍の
 消耗は85個師の多きに達した。負傷あるいは戦死した士官と兵士は、33万3500人
 であった」

どう考えても、劣勢な装備で肉弾で戦ったのは日本軍の方です。本当にありがとうございましたw。
622イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 00:32:05 ID:w771a4qG
>>しかし、私の>>608のレスも戦史叢書からです。

スイマセン。ですから、>>604 で杭州湾にまったく陣地が無いかのように書いた
としたら自分の勇み足です。失礼しました。

>>兵員の損傷を補うために、毎日1個師から2個師の増援が必要であった。

また支那軍の「潰走癖」ですが、上記のように頻繁に増援を送ることが
1つの原因となっています。もちろん「どこでもドア」で瞬間移動できる
訳ではありませんので、ただでさえ良くない道路が増援部隊でギュウギュウに
なります。

そこに撤退してくる部隊が「カチ合う」と最早収拾がつかなくなる訳です。そして
一緒くたになって『潰走』が始まりますw。また国府軍は、実際の損害とは関係なく
まあ、これぐらいだろうと『見込み』で増援を送ることが多いので尚更混乱を招きます。

兵士の数が『無尽蔵』と思える支那軍ですが、この辺は裏目に出る訳です。
623えICBM:2006/04/13(木) 00:42:27 ID:???
>>622
大陸国の軍隊は、ロシアにしても中国にしても、簡単に退却して後方で建て直し戦闘、また退却をするようだ。
これはやはり、広大な後方があるから出来ることで、連中の作戦の常套手段ではないだろか?
攻める側は兵站が伸びるため、次第に不利な状況になるからやはり合理的。

日本軍は当初は、上海で国府軍主力を包囲殲滅するつもりであったが、あっさり逃げられる。
その後も数度包囲殲滅を狙うが、その都度逃げられ、結局南京という包囲殲滅のためにあるような地形でやっと成功。
それでも、蒋介石は意固地に負けを認めないどころか軍を建て直し、再度日本軍に挑戦。
日本軍はその都度包囲殲滅を狙うが、やはりあっさり逃げられる。
イタチゴッコな対中国戦は、果たして日本軍に有利だったのだろうか?

撤退時の混乱は仕方が無いが、撤退することに意味があるんじゃないかな?
624イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 00:43:44 ID:???
まあ、兵士が戦場に辿り着くのも大変です。

>>第11軍奇蹟の撤退作戦が成功するというところで日中戦争戦記は終わるのでしょうけれど、
>>それまで道はながいですねえ。

一体いつになることやら…。しかし、太平洋戦争後の国共内戦も触れることが
あると思います。極端な話、支那と日本に関係があれば何でもやりますw。
625イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 00:50:36 ID:???
>>撤退することに意味があるんじゃないかな?

それは仰るとおりで、「上海戦線」で一歩一歩、後方の陣地に撤退しながら
日本軍に消耗を強いたのは、ミクロレベルのそれである訳です。
626イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 23:00:36 ID:/7n6WULB
>>609 >>*老河口作戦(20/3/20〜6月)>>*し江作戦(20/4/15〜5/19)

『大陸打通作戦』によって、支那沿岸部の「航空基地」を喪失した米空軍は
湖北省「老河口」と湖南省「?江」から日本軍の占領地を攻撃し始めました。

そのため1945年に入ると、支那派遣軍は両基地の攻略作戦を実施することに
なります。制空権を取られている中で、歩兵が航空機をやっつける訳ですから
歪といえば歪です。

まず「老河口」ですが、参加主要部隊は以下の通り。

●北支那方面軍:第12軍(鷹森孝中将)の第110師団、第115師団、
 戦車第3師団、騎兵第4旅団、関東軍所属の第127師団で編成された
 吉武支隊、野戦重砲兵第6連隊の一部、機動砲兵第3連隊の一部
627イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 23:16:20 ID:/7n6WULB
他にも中支那方面軍:第34軍の第39師団が参加し、南北から「老河口」を
挟撃することになりました。ちなみに「老河口」は漢口の西北400キロに
位置します。

老河口作戦で最も注目されるべきは、『騎兵第4旅団』です。第二次大戦末期の
この頃、世界各国では騎兵を廃止し、騎兵の名称はあっても馬が車両に変わって
いました。もちろん日本も例外ではなく、この騎兵第4旅団だけが唯一の乗馬部隊
として、支那大陸に残っていたのです。

旅団長の藤田茂少将は、駐屯地の河南省「帰徳」から西南に出発しました。そして
河南平原を越えて長躯300キロ、疾風のごとく湖北省に入り、1945年3月27日には
在支米空軍の「老河口飛行場」を急襲して占領したのです。

世界戦史上、最後の「純粋な騎兵戦」を飾るにふさわしい胸のすくような戦果であり、
他の各部隊も老河口城など、周辺地区を完全に占領しました。
628名無し三等兵:2006/04/13(木) 23:19:51 ID:???
拉致問題なんてなかったんだよ。

こないだの「北朝鮮非難」の国連決議で明らかだろ?

東南アジア南アジアまで全部含めても、賛成だった国は日本以外にはわずかブータン1カ国しかない・・・。

タイもベトナムもマレーシアも中国もロシアも韓国もシンガポールもラオスも 、
ビルマもインドネシアも、インドもネパールもフィリピンもパキスタンも、とにかくすべてが反対か棄権。

これが現実なんだよ。拉致ヒステリーなんて所詮その程度。
ゴミウヨニートは底辺の馴れ合い掲示板で「特定アジア」 なんて
妄言オナニー吐いてるけど、いい加減、現実を直視した方がいいよ。

ばら撒くカネの資金力もだんだん弱くなり、日本の残酷な行く末が姿を現してきた。

残酷な日本の現実 国連の公式ページ(一番下が各国の表決) 
http://www.un.org/News/Press/docs/2005/gashc3840.doc.htm
↑北朝鮮がカウンターで出した”日本の民族差別非難決議”も同時に載っていますが、
こちらはなんと賛成97/反対4のぶっちぎりの可決・・・・全アジアから険悪な視線が日本に注がれています。
629名無し三等兵:2006/04/13(木) 23:21:04 ID:???
630イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 23:27:19 ID:/7n6WULB
老河口には1945年7月まで残っていましたが、米式装備の国府軍の圧力、
6月に沖縄戦が始まったこと、また米軍が中国大陸に上陸して東西から
挟撃されることを支那派遣軍は恐れていましたので、逐次撤退していく
ことになります。

老河口に比べて、「し江作戦」(漢字が?になって出てこないw)は
文字通りの惨敗です。ある意味、支那戦線での「インパール作戦」と
言えますが、話が長くなるので日を改めましょう。

『大陸打通作戦』は大勝しましたが、日中戦争の最後の戦いである「し江作戦」が
日本軍の最初で最後の完敗に終わったのは、有終の美を飾れず悔いが残ります。
蛇足の一言です。
631イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/13(木) 23:47:29 ID:???
>>630 訂正w

6月に沖縄戦が始まったこと → 6月には沖縄戦が始まっていたこと
632名無し三等兵:2006/04/14(金) 00:54:56 ID:???
昭和20年6月には沖縄戦はほぼ終了しております。
沖縄戦の終息に伴い、危機感を強めた、と考える方が妥当かと。
蛇足とは重々承知ですが。
633アドバルーン:2006/04/14(金) 22:07:03 ID:???
日軍百万上海上陸
634名無し三等兵:2006/04/14(金) 22:39:34 ID:???
先日、裸の大将こと山下清の絵を友人と見に行きました。
なんで裸の大将と呼ばれているか友人に聞いたら、なんでも
この人は戦争中は「マネーの虎」と渾名される陸軍大将だったそうですね。
で敗戦のショックで少々おかしくなり、絵を描いて各地を放浪したとか。
635イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/14(金) 23:04:29 ID:urqjTWF9
>>631 >>昭和20年6月には沖縄戦はほぼ終了しております。

スイマセン、脳に虫が湧いていましたw。沖縄戦の組織的な戦闘は、1945年3月26日〜
6月23日ですね。日中戦争ばかり調べているので、太平洋戦争の方がどんどんお留守に
なってきますw。

>>633 >>日軍百万上海上陸

ノンノン。正しくは、『日軍百万上陸杭州北岸』です。

>>634 >>絵を描いて各地を放浪したとか。

ノンノン。山下清大将は各地を放浪されていますが、現地で絵を描いたことは
ありません。帰宅してから全て記憶で構成しています。そもそも貼り絵です。
636イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/15(土) 00:07:47 ID:U50n329h
さて『在支米空軍基地』というのは、どの程度の規模だったのでしょうか?
桂林飛行場を1つの例に挙げると以下の通り。

桂林飛行場は、在支米空軍の「日本本土空襲」の予定基地です。桂林城の南門外の
遠くに3ヵ所ありました。大陸打通作戦の一貫により1944年11月に占領されます。

第1飛行場は「桂林城」の南13キロに位置し、長さ3キロ・幅500メートル
という大規模なものです。B29をここから飛ばす予定でしたから当然ですね。

日本軍の侵攻により作戦変更を余儀なくされ、滑走路を爆破して撤退しましたが
爆破跡は直径12メートル・深さ5メートルという巨大な穴で、雨水が溜まって
完全な池になっていました。それが47個もあった訳です。

滑走路の周辺は、1000メートル級の岩山がそびえ、その麓には格納庫や洞窟が
多数ありました。大きい洞窟は数百人が収容できたと言います。
637イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/15(土) 00:33:04 ID:U50n329h
対空陣地は、岩山の陰に隠蔽され、空からの攻撃には「絶対不死身」の
航空要塞になっていました。

米軍の対空無線局、弾薬庫、燃料庫、食糧倉庫もすべてが洞窟内に隠蔽され、
主滑走路の南側にはB29を入れる『コの字』型の掩体がいくつも用意
されています。

結局、B29は成都から北九州を爆撃していますが(1944年6月)、米軍の
物量の凄まじさを感じさせられます。しかし、航空基地を守るはずだった
国府軍の陸上部隊の不甲斐なさによって、全くの浪費になってしまうの
ですから少し同情を感じます。

そして制空権のない戦場を、歩兵が長躯『飛行場を攻め落とす』という
日本軍の偉業に涙が止まりませんw。
638イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/15(土) 02:24:59 ID:U50n329h
>>609 >>*し江作戦(20/4/15〜5/19)し江作戦の場合はもっとはっきりと敗北した。

続いて「し江作戦」です。「し」は書き込むと、なぜか「?」に変換されてしまうので
あえて平仮名で書いていますが、「止」に草かんむりです。

「し江」は衡陽の西300キロにある湖南の要衝で、重慶まで直線距離で400キロ、
重慶の玄関口にあたります。ちなみに日本軍降伏時の予備会談は、この地で行なわれました。

そのため、国府軍は『米式装備』で固めた湯恩伯軍の10個師、第9戦区・薜岳の
31個師、第6戦区・孫連仲の26個師が守備を固め、米空軍と重慶空軍が制空権を
握っていました。その使用できる飛行機の数は2000機とも言われます。

それに対して日本軍は、第6方面軍から「し江」攻略命令を受けた第20軍
(司令官・坂西一良中将、参謀長・川目太郎少将)が、実質2個師団と1個旅団、
山砲3個大隊に過ぎず、航空機の出動も皆無という無謀の作戦でした。ちなみに
第6方面軍司令官は、岡部直三郎大将です。
639名無し三等兵:2006/04/15(土) 02:48:52 ID:???
打通作戦終了時期からの米式装備の中国軍が行った日本軍に対しての反撃に
ついて、アメリカ軍事顧問団がどう評価したかはウェデマイヤー回想録を
読まれたし。(彼は打通作戦後半頃から中国に赴任している)

=一部抜粋=
カーボナード作戦計画の第一期作戦目標(南寧、福州、桂林)を奪回した
ことは、部隊全員の士気を大いに鼓舞した。海岸地方を奪いかえして、海上
からの補給路を再開するのだという意気込みが、中国戦線全域の将兵の間に浸透していった。
(中略)
中国軍部隊の兵士は、糧食もじゅうぶんに支給されており、また弾薬および
兵器類の補給も、負傷者の後送も、スムーズに実施出来るように用意が整備
されていた。われわれはこうした処置をとった結果、中国軍の闘志を高揚させ
た事を知っていた。われわれは一同、中国軍がじゅうぶんに食料、兵器を支給
され、その上正しく訓練、統率された場合は、世界のどの国の兵士にも劣らない
、りっぱな兵士である事を認めた。

呉淞の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。
修羅の巷もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。
岸壁の上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。

まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵の屍が雑然ところがっている。
それと同時にヘドの出そうないやな死臭が私の鼻をついた。

これは十日前に敵前上陸した名古屋第三師団の将兵の変りはてた姿であった。
彼らはこの地に中国軍の大部隊が待ち構えていると知ってか知らずか、上陸する
いなや次々になぎ倒されていったにちがいない。
そして兵たちは何が何やらわからないまま死んでいったのだ。
640947:2006/04/15(土) 14:05:26 ID:???
下記の日記(2004.10.5, 2004.10.12, 2004.10.16 の項)に、戦史叢書のし江作戦からのエピソードが紹介されてます。

http://homepage2.nifty.com/muraji/zare/zaregoto2004-10.htm


完敗するのも無理はないですなあ。
641イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 20:15:55 ID:IQHxaLk2
>>639 >>アメリカ軍事顧問団がどう評価したかはウェデマイヤー回想録を読まれたし

講談社学術文庫の『ウェデマイヤー回想録』(上・下)ですか。アマゾンで検索したら
ユーズドマーケットにありましたので、今度取り寄せて読んでみます。上巻だけでも
450ページの大部ですか……。基本的に移動時間しか本が読めないので、学生の時に
もっと本を読んでおけば良かったとつくづく思いますw。

>>中国軍部隊の兵士は、糧食もじゅうぶんに支給されており、

初代スレの冒頭にも少し書きましたが、給料が兵士にきちんと支払われていたのも
大きいです。以前は、師団給与の総額を受け取った部隊長がピンハネしていましたw。

また湯水のように国府軍へ援助物資を放出していた米国ですが、1つだけ十分に
手が回らなかったものがあります。それは軍靴です。他の被服と比べて手間が段違いに
かかるのでしょう。ですから戦争後半でも、普通の靴や草履に毛が生えたものを
履いている兵士が幾らでもいます。
642イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 20:40:18 ID:IQHxaLk2
>>負傷者の後送も、スムーズに実施出来るように用意が整備されていた

北伐のころの国府軍と比べたら雲泥の差ですね。軍閥の雑軍となるともっと
ひどく、例えば山東省の支配者だった張宗昌軍ではこんな感じです。

銃をもつ者は3割に過ぎず、14歳以下の少年兵が2割で老人も混入しています。
米と小麦粉だけは配給されていますが、給料は10年近くも不払いという状態。
禿げ頭、垢面、爪は真っ黒く1センチも伸び、裸足もいれば草履履きもいます。
そして雨傘と支那鍋を背にしています。

重傷者は見捨てられ、軽傷者は通過する町で「治療費を払え」と集団で暴れます。
手や足を無くした負傷者は、結局上海などに流れ込んで花子(乞食)の大群となります。

上記は第二次北伐(1928年)の描写ですが、支那事変(1937年)までの10年間で
どれくらい変わったかは疑問です。さすがに国民政府の直系軍(蒋介石)は「マトモ」
でしょうが、地方の雑軍となると昔と大同小異かもしれません。
643イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 20:59:19 ID:IQHxaLk2
>>639 >>呉淞の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。

後半は少し前に挙げた『上海敵前上陸』の一節ですね。貴官も現物をお持ちなのか、
結構いろんなところにコピペされているのでしょうか?

>>そして雨傘と支那鍋を背にしています。

その本にも既述がありますが、支那兵は雨が降ると傘をさします。上海戦でも
目と鼻の先に日本兵がいるのに、傘を差しながら鉄条網などの陣地工事をして
いますから、余ほど雨に濡れるのを嫌う民族性なのでしょうか。もちろん
日本兵は雨合羽です。

>>重傷者は見捨てられ、

もちろん日本でも上海戦ではあった訳で、戦闘中に動けない重傷者は次の突撃時に
置き去りされました。
644イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 21:22:08 ID:IQHxaLk2
後続の部隊(の衛生兵)に拾われることに一縷の望みを残して置き去りにする訳ですが、
実際はまず有り得ないでしょう。仮に人事不省から立ち直ったとしても、部隊に合流でき
なければ待つのは死あるのみです。

戦記などを読んでいると、「もし(あのとき置き去りにした)××が、後続の部隊に拾われて
助かっていれば、今ごろ孫と元気に暮らしているだろうか」などの記述がしばしば見られます。
罪悪感と希望的観測というところでしょうか。止むを得ないところではあります。
645イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 21:55:25 ID:IQHxaLk2
さて「し江作戦」の続きです。>>638

主力の第116師団(京都:菱田元四郎中将)は1945年4月15日、衡陽西方の
宝慶から「し江」を目指しました。これを中央として、右翼の独立歩兵第58旅団
(関根久太郎少将)と、左翼の第47師団(渡辺洋中将)の3軸で進攻しますが、
重火器は「山砲3個大隊」のみで、航空機の出動も皆無に等しかったのは既に述べました。

そして「し江」手前には、雪峰山脈の難関が待ち受けています。第116師団は空襲を避けて
夜間に行動を開始しますが、左右両翼が国府軍の大群にクギ付けにされて、中央の第116師団
だけが30〜50キロ前方に突出。そこを重包囲された上に米空軍の爆撃に晒されて全滅しました。

一例を挙げると、歩兵第109連隊(滝寺保三郎大佐)は数個師の国府軍に包囲されて、
連隊長以下、2千数百名が戦死して生き残りは僅か二十数名です。

このため支那派遣軍は5月9日、第6方面軍に作戦中止と撤退を命じます。しかし、撤退時も
空陸の猛追撃を受けて負傷者や戦病者は自殺が相次ぎ、悲惨をきわめました。
646イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 22:17:00 ID:IQHxaLk2
支那戦線で日本軍が「作戦目的を果たさずに」作戦中止したのは、「し江作戦」が
最初で最後です。

この決定の背景には、米式装備の「新編支那軍」がミイトキーナ(ビルマ北部)から
昆明へ、そして「し江」へと続々と空輸されてきた理由もあります。ちなみにその数は
4月22日から5月11日までで『2万6千人』に上ります。げに恐ろしきは米軍なのです。

>>640 >>下記の日記(2004.10.5, 2004.10.12, 2004.10.16 の項)に、戦史叢書の
>>し江作戦からのエピソードが紹介されてます。

結局、「し江作戦」に参加した第20軍の将兵(約5万人)の内、戦死4千名
(戦病死含む)、負傷者860名、戦病者2万2500人です。

「全滅に近い」と言っても過言でなく、戦傷者が極端に少ないこと、戦病者が
異常に多いことなど、支那戦線での「インパール作戦」とも呼ばれる所以です。
重傷者は置き去りに近い潰走でしょう。
647元前スレ32:2006/04/16(日) 22:35:16 ID:???
>>604
>>606
そこのところが気になっていて。

翁のホーム・ページでは松井の多点突破・並行進撃のあげた成果を重視して、
柳川兵団の上陸も軽視しているようで、
上海戦線の日本側損害も良好程度と考えているようなんで、
ちょっと評価に迷ってしまうんです。

648イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 22:48:23 ID:IQHxaLk2
雪峰山脈を越えて、「し江」前方の?江を渡河する前に作戦中止となった訳ですが、
面子大事にそのまま強行されていたらと思うとゾッとしますw。

>>640 のサイトに出てくる支隊長や大隊長は、指揮官の個人的な資質の問題だと
思います。いくら「し江作戦」が惨憺たる敗戦だったとしても、それはあくまで
支那戦線での話です。やはり、ガダルカナルやインパール、ニューギニアの戦いと
比べられるものではありません。安達二十三や宮崎繁三郎だっていた訳です。

>>609 >>岡村大将の最初の構想では、このし江を足がかりにして重慶、成都を
>>攻撃するものだった。

蒋介石はもちろん「重慶侵攻作戦」の前触れと危惧した訳です。そのために
米式装備の部隊を大量に「し江」へ空輸してきました。しかし支那派遣軍としては
先の「老河口」と同様に、米空軍の飛行場潰しの一貫として作戦計画を立てていたと
思います。その見通しの甘さというか、蒋介石との危機感の食い違いが、あの結果と
なった訳ですw。
649イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/16(日) 22:50:33 ID:???
>>647 >>翁のホーム・ページでは松井の多点突破・並行進撃のあげた成果を重視して、
>>柳川兵団の上陸も軽視しているようで、

ぬぅわにぃー! 今度チェックしてみます(藁)。
650名無し三等兵:2006/04/16(日) 22:59:42 ID:???
呉淞戦については日比野士朗『呉淞クリーク』(中公文庫)があります。
著者は第101師団第157連隊の伍長として従軍。
戦争小説ですが、末端の兵士の視点からの呉淞戦の記録としては佳作かと。
651イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/17(月) 00:12:27 ID:???
>>646 >>「全滅に近い」と言っても過言でなく、戦傷者が極端に少ないこと、
念のため補足しておくと、重傷者は自決している訳です。

>>650 >>呉淞戦については日比野士朗『呉淞クリーク』(中公文庫)があります。
ベリーサンクス。どこかに第3師団の手記みたいなものは無いでしょうか……。
652名無し三等兵:2006/04/17(月) 08:51:27 ID:???
12月18日松井司令官は非常に憂鬱な顔をしていた。
敵首都を攻略した武勲輝かしき将軍の顔としては不似合いなのでその理由を尋ねると
沈痛な面持ちで次のように答えた。

自分は南京を度々訪問したが、それは30数年来念願してきた中日両国の平和な姿を
実現するためであった。
しかるに今自分は夢にさえ考えなかった最も悲しむべき結果をもたらした。
中国の友人たちはどんな気持ちで南京を退いた事かと思えば感慨無量である。
そして中日両国の前途を考えると胸がいっぱいになって戦勝の喜びに酔う気持ちに
なれない、実に寂しい思いがする。

後日、児童の自由画、慰問文などを持って二階堂雅堂氏(小学校教師)が慰問のため
松井司令官に面会した所、同軍司令官は

児童の慰問文にはどれもこれも”憎い憎いチャンコロ”だとか”暴支鷹懲”だとか
いう文字が使ってあるが、子供にあんな事を書かせるのは日本の教育が
低劣であるからだ。
今後はあんな事を書かせぬように注意せねばならぬ。

と大変叱った。

岡田尚氏 東京裁判証言
653名無し三等兵:2006/04/17(月) 22:48:32 ID:???
脱亜論の最後に、
『惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。』
とあるけれど、今の中国は『悪友』ではなくて、『極悪人』といってもいいのではないかな。
654イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/17(月) 22:55:02 ID:cG62yHTl
>>647 >>翁のホーム・ページでは松井の多点突破・並行進撃のあげた成果を重視して、
>>柳川兵団の上陸も軽視しているようで、上海戦線の日本側損害も良好程度と考えている

別宮翁の「支那事変」は以前に一度読みまして、また今回「上海決戦」を見直してみましたが、
『第一次大戦』と無理に比較しようとするあまり、少し極端な結論になっているのだと思います。

とにかく上海決戦時の日本軍は、重火器が不足していた訳です。弾薬の補給もです。1つには
『兵要地誌』の不備があり「クリークが多いので重砲の運用は困難」との記述がありました。
それを真に受けて軽装備で送り込んだ訳です。結果は「む〜ざん、むざん」の虎眼流ですw。

弾薬不足は深刻で、砲兵は1日の砲弾使用を「0.2基数」に制限されていましたから、
前線の歩兵は「支援砲火」を仰ぐことができず、結果的に肉弾戦を強いられた訳です。

砲弾1基数は、砲1門が1日に使用できる弾薬基準量を指し、野・山砲では300発、
15センチ榴弾砲で100発、10センチ加農砲級で70発と言われていましたから、
「0.2基数」ではその僅か5分の1です。
655イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/17(月) 23:29:25 ID:cG62yHTl
弾薬はどうやって前線へ運ばれていたかというと、これは写真を見て頂ければ
話が早いです。まあ、輸送隊の一人ひとりが背中にしょって、匍匐前進で一歩ずつ
送り届けていた訳です。

とにかく国府軍は機関銃を撃ちまくってくる。しかし日本軍は弾薬不足もあって
応射せずに沈黙を守ります。すると中国側は日本軍の第一線がどこまで迫っているか
容易につかめません。その不明の戦線から、突如銃剣をかざして日本軍が突撃してきます。

国府軍からみれば、まことに不気味で厄介な存在であった訳で、日本軍を近づけないために
怪しいと見れば、なおさら1日中弾幕を張り続けることになります。

別宮翁に負けず、自分も極端な言い方をすれば、ベトナム戦争で陣地に立て篭もる米軍が国府軍で、
音も無く忍び寄って突撃してくるベトコンが上海戦線の日本軍というところでしょうかw。

手榴弾1つ取ってみても、日本兵は「日露戦争時」の骨董品を渡されました。そして暴発するので
その多くが捨てられてしまいました。国府軍の手榴弾は、ドイツの柄つきポテトマッシャーです。
656元前スレ32:2006/04/17(月) 23:47:06 ID:???
>>654
支那派の庭同然で、いつも彼らが往来していた上海について、
最も基本であるべき兵要地誌の不備があったことは、
参謀本部・省部中枢の側から痛烈に批判されていますね。

弾薬や地誌の準備不足という点は、翁の記述には欠けているところです。

しかし、火力不足・近接兵器の手榴弾すら不備な状況で、
独式訓練・独式装備・独軍人が指導する中国軍の強固な陣地を突破したわけだから、
日本軍というのはよほど強いのか、よほど指揮官が優秀だったのか。

翁の場合は、この極端に不利な状況で、
戦史に類の少ない古典的な敵前線突破を成立させた松井大将に対する思い入れがあって、
それで日本軍の準備不足についての記述が少ないのかもしれません。
657イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/17(月) 23:50:58 ID:cG62yHTl
上海戦線初期の代表的な激戦が「白壁の家」をめぐる戦いです。

「白壁の家」は羅店鎮南方にあり、1937年8月下旬から27日間にわたり攻防戦が
繰り広げられました。担当したのは第11師団第44連隊(和知鷹二大佐)でしたが、
支援砲火の不足から肉弾戦となり、壊滅的な損害を出しています。

「白壁の家」は、高さ10メートル・100メートル四方の堅固な白壁に囲まれた兵営であり、
全体がトーチカになっていました。無数の銃眼が取り囲み、最終的に和知連隊は「白壁の家」の
真下にクリークの底をくぐる坑道を掘り進み、爆破決死隊を送り込んでようやく中国守備隊を
沈黙させて占領しました。(1937年9月23日午後4時半)

結局、砲兵から爆撃機、戦車まで総動員しての奪取でしたが、初期に火力が不足していたのは
否めないでしょう。

>>柳川兵団の上陸も軽視しているようで、上海戦線の日本側損害も良好程度と考えている

ですから、翁の意見にはとても同意できません。
658元前スレ32:2006/04/17(月) 23:53:19 ID:???
>>657
なぜか代表的支那派が連隊長ですねえ。
659イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/18(火) 00:01:19 ID:jPFQptvy
>>652 >>児童の慰問文にはどれもこれも”憎い憎いチャンコロ”だとか”
>>暴支鷹懲”だとかいう文字が使ってあるが、子供にあんな事を書かせるのは
>>日本の教育が低劣であるからだ。

「チャンコロ」は、中国人の(チュンコレン)の発音がなまったものだという
説明もありますが、子供の教育うんぬんについてはお互い様です。こんなものが
あります。

『反日運動歌』 宋寿昌・作文曲

日本倭奴の凶暴は 誰でも知っていることだ 
時々我が国土を侵略し 我が同胞を侮辱し その心や甚だ狡猾 怨むべし彼 
この度の5月3日 また済南において略奪殺傷し 全く性狼の如し 
愛国の志士よ 早く武装して起て 恥を雪げ 報告せよ 帝国主義を打倒せよ♪
660イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/18(火) 00:04:19 ID:???
さらに幾つか知っていますが、また今度w。
661名無し三等兵:2006/04/18(火) 07:56:03 ID:???
その日本の教育は「進歩的」なはずの近代欧米諸国に倣ったもんなんだけどなあ。
大体からして、先進諸国だってどこも似たような愛国教育やってたのに。
662名無し三等兵:2006/04/18(火) 18:43:14 ID:???
愛国教育ってのは他国を貶める教育じゃないぞ。

アメリカの児童が「Fuck'in JAP!」とか書いてたら
まともなアメリカ人なら憂うだろう。
663名無し三等兵:2006/04/18(火) 19:31:55 ID:???
今の戦後民主主義の教育を受けてきた中から、チョンとかチャンコロとか言っているヤツ
が出てくる訳だから、教育のせいだけでも無いだろう。

     ・・・・民族的欠陥(ボソ
664イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/18(火) 22:39:17 ID:YeDcdvFa
>>660 の続きw。『抗日歌』(五・三国恥歌) 朱田:作歌、呉伯超:作曲

傷(いた)ましい哉 傷ましい哉 軍閥発狂して 彼の豺狼を招く
日本我が辺防を侵し 我が善良を殺し 我の山東に篭る
その亡びんとする 焦眉に迫る 亡ぶを知れば亡ばざるべし
家を以って破るべし 五・三は忘るべからず

急に迫る! 急に迫る! 驚くなかれ! 傍徨するなかれ!
我が国恥の歌を聞いて 速に立って豺狼を殺せ 
家を毀し死を誓って 沙場(戦場)に至れ♪

国民政府の指導する「反日教育」は、文教に最も力を入れています。例えば、
漢口の場合、小学校5年生以上および中学生には反日週刊誌を携帯させ、これを
課外読本として教師が講義をする訳です。あるいは朝礼において、教師と生徒の間で
以下のような斉唱をしていますw。
665イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/18(火) 22:55:45 ID:YeDcdvFa
1.汝等は何国人か? 中国人。 
2.汝等は何省の人か? 山東人。
3.汝等は山東を愛するか? 山東を愛す。 
4.汝等は中国を愛するか? 中国を愛す。
5.山東最大の仇敵は誰か? 日本人なり。
6.朝鮮、琉球、台湾は元来誰のものか? 中国のものなり。
7.現在朝鮮、琉球、台湾は誰に奪われているか? 日本人に。
8.旅順港と大連港は何処にあるか? 奉天省。
9.誰に強奪されたのか? 日本人。
10.二十一条を提出して我が国を亡ぼさんとするものは誰か? 日本人。
11.日本は山東および東三省を占領せんと考えているが汝は知っているか? 知っている。
12.済南事変で日本人が同胞幾千人を惨殺せり。汝は忘れたりや? 忘れない。
13.日本人は済南において掠奪強姦す。汝は残念に思わぬか? 残念なり。
14.日本の侵略に対し如何にすればよいか? 日本を打倒す。
15.汝は如何なる方法をもって彼等を打倒するか? 我々は読書に勉強に革命に努力する。
16.外に如何なる方法があるか? 死しても日貨は買わず。死んでも日本に糧食を売らないことを誓う。
666イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/18(火) 23:30:38 ID:YeDcdvFa
以上は『革命日読』です。「日貨」は「日本商品」の意味ですね。ボイコットです。

>>653 >>今の中国は『悪友』ではなくて、『極悪人』といってもいいのではないかな。

何度も書いていますが、日本の『最大の戦争犯罪』は大陸に中共政権を生み出したことです。

>>663 >>・・・・民族的欠陥(ボソ

隣の国の方が更にどうしようもありません。いくら今のご時世でも、日本人の方が
謙虚という言葉を知っているでしょうw。ポイントは「根拠のない優越感」の度合いです。
667イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/18(火) 23:42:45 ID:YeDcdvFa
ついでのオマケで、こんなネタ話もあります。支那事変が起こると日本軍の
占領地区では、日本語が必修科目とされました(県立師範学校など)。

日本語の先生に対して組長は、

「起立! 礼! 直れ! 着席!」と号令をかける訳ですが、反発する支那人の学生は

「野狸子!(イエリツ) 来?!(ライラ) 拿過来!(ナグオライ) 握死他!(ツアスタ)」

と日本語の発音に近い中国語で言っていました。訳は、

「野狸! 来た! 持って来い! 絞め殺せ!」になりますw。
668名無し三等兵:2006/04/19(水) 00:40:20 ID:???
戦後教育の反動や深淵に堕っこちたってのもあるだろうけど・・・・

ところで、支那では反英感情やその他の攘夷運動は問題にならなかった
のでしょうか?
669名無し三等兵:2006/04/19(水) 01:13:07 ID:???
通説では、国権回復という点から利権の多いイギリスへの反英感情が
強かった初期の国民党と支持者が、反日メインにシフトしたのは
済南事件の時とか、でしたっけ。
670イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/19(水) 22:31:22 ID:vic7QZiO
>>668 >>669 >>反日メインにシフトしたのは済南事件の時とか、でしたっけ。

支那で「反日の動き」が強くなった1つのタイミングは、日露戦争以後です。
これは米国で『排日運動』が高まったのと時期を同じくしています。
早い話、支那の知識人(青年)層はこう考えた訳です。

「米国は日本を見捨てたのだ。米国の後ろ盾があれば、排日しても恐ろしくはない。
 むしろ排日こそ、米国に愛される近道なのだ――」

虎の威を借る狐、品性下劣と言えばそれまでですが、事実その通りでしょう。

日露戦争以後、米国での「排日の空気」はサンフランシスコ市の日本児童排斥
事件から高まります。また格式の高いホテルでは、日本人の立ち入りが禁止され
日本大使館の保証がなければ宿泊は許されませんでした。これは、日本人ばかり
でなく黄色人種全体への反感でもあります。
671イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/19(水) 23:00:20 ID:vic7QZiO
いわゆる米国の『グレート・ホワイト・フリート』が日本に来航したのは
1908年10月です。白色彗星艦隊でないのは言うまでも無いことですw。

米国の西海岸から南米・ハワイ・オーストラリア経由で日本を訪れる訳ですが
(後に清国のアモイ・フィリピン・スリランカ・スエズ運河・地中海を経由・
大西洋を横断して帰国、航海を終えます)、フランスの新聞などは『日米戦争
不可避』と連日騒ぎ立て、日本の外債が暴落したほどです。

もちろん他のヨーロッパ諸国、そして米国内でも同様で、大統領のセオドア・ルーズベルトも
「日本艦隊との交戦の可能性は1割捨て切れなかった」と回想しています。また米西戦争
直後でもあったため、スペインの資本家や貴族は日本公使に軍資金の提供を打診しています。

結局、白色艦隊は1908年10月に横浜沖に整列して親善訪問していますが、日本を威圧する
目的だったことは間違いないでしょう。ちなみにこの時、ニミッツが東郷平八郎に握手を
求めたのは有名ですが、ハルゼーもまた来日して東郷平八郎の胴上げに参加しています。
672イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/19(水) 23:30:16 ID:vic7QZiO
>>668 >>669 >>反日メインにシフトしたのは済南事件の時とか、でしたっけ。

やはり「21ヶ条要求」(1915年)とそれに伴う「五・四運動」「国恥記念日(5月9日)」
などの流れでしょう。ただし「五・四運動」は中国革命の発起点のように美化されていますが、
単なる『学生の暴動事件』です。しかし知識人層でもあります。

もし遠い将来、中共に再び革命が起こり民主化されるのであれば、1989年の学生を中心とした
天安門事件は「民主革命」の発起点として、盛大に美化されるでしょう。そして1915年の
「五・四運動」も学生が集結した場所は、同じ天安門広場です。その程度の話です。

さて「21ヶ条要求」ですが、これが一昔前の19世紀であれば、この位の条約は大した
問題ではありませんでした。時代の流れが大きく変わった(支那に権益を持つ列強が
現状維持のため守勢に回った)のが1900年の北清事変以降です。

日本は最後にババを引いたというか、根本的に支那へ進出するのが遅すぎた訳です。
ラストオーダーが過ぎているのに、無理に店員に注文しているようなものでしょう。
673イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 00:01:24 ID:vic7QZiO
>>668 >>ところで、支那では反英感情やその他の攘夷運動は問題にならなかったのでしょうか?

もちろん問題になりました。本来なら列強が団結して、支那の「排外運動」に対抗するべき
でしたが実際は逆です。自国の権益(だけ)を維持するために、支那のご機嫌を取り、身代わりに
他国を排外運動の「矢面に立たせる」動きをしていた訳です。もちろん、これは土人の思う壺ですね。

英国はよく分かっていて、例えば排日運動の最中、日本兵が支那人を飲酒殴打する事件が発生して
中国側から謝罪要求が出されました。日本軍が躊躇していると、英字紙である『北京ガセット』は

「陳謝するな。一度頭を下げたら果てしなく中国から要求が出るであろう」

と日本側を激励しています。「排外運動」の矛先が日本に向いたとしても、一旦
火が付けば自国にも巡ってくるのが分かっていたからです。これが1910年代の話ですが
1920年代・30年代になってくると、次第に我が身可愛さが優先されてきます。

そして一番の問題は米国です。日本と同様、支那に遅れて進出してきた大国です。
674イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 00:15:03 ID:v6cnvjxl
参考として幾つか例を挙げると、以下は関東軍で起きた事件です(1918年)。

奉天の「満鉄線」を警戒巡察中の日本兵3人が、立ち入り禁止の線路内を歩いていた
白人女性を詰問したところ、逆にステッキで殴打されましたw。もちろん取り押さえて
聴取したところ『米国籍』だと判明したため、立入禁止区域の説明をして、本人も
了解し陳謝したため釈放しました。しかし、問題はその後です。

この白人女は「日本兵に辱めを受けた」と嘘を並べ立て、米国の奉天領事館に泣き
ついたために外交問題に発展しました。

米本国への波及(排日運動)を恐れた日本政府は陳謝の一点張りで、先方の要求である
関東軍司令官の謝罪こそ応じませんでしたが、この白人女の属する教会へ「金1万円」
もの大金を寄付させられましたw。

また満鉄線「八面城駅」で起きたケースですが、タバコ・トラスト勤務の米国人が
公務中の日本兵を殴打した事件でも、日本側が陳謝する結果となりました。
675イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 00:22:36 ID:v6cnvjxl
悲しいことですが、これが当時の「国力の差」というものです。

強大な国力を背景にアジアを闊歩している米国と、いまだ小国日本との
違いです。

『排日姿勢』が強い米国を刺激するのを恐れた日本側の卑屈な態度が、
また一段と支那側の「排日運動」を煽る格好の材料となる訳です。

まさに虎の威を借る狐――

後にカンジは「日中問題は究極にして日米問題である」と喝破していますが、
この頃から既に始まっているのです。
676名無し三等兵:2006/04/20(木) 20:37:27 ID:???
>>662
日本車ぶっ壊すような連中が憂えてるのか?

>>663
人間の本性だろう。
劣っている者は侮蔑したい、まして過去に痛い目合わされたのだから尚更…とね。
677名無し三等兵:2006/04/20(木) 20:53:31 ID:???
>>663
民主主義の本場だってジャップだのサルだの言ってる。
それに倣っただけだよ。
678イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 22:32:47 ID:64rRggg3
さらに参考として、金谷範三(支那駐屯軍司令官)が陸相の田中義一に宛てた
反日に関する『上申書』を載せておきましょう。

日付は1919年7月22日。ちなみに金谷は満州事変(1931年)当時の参謀総長で、
支那駐屯軍の司令部は「天津」にありました。以下、読みやすいように口語体に
意訳しています。
679イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 23:04:26 ID:64rRggg3
支那駐屯軍司令官 金谷範三 → 陸軍大臣 田中義一殿 
『反日運動に関する上申』

別冊のように支那における「排日思想」に対する観察および所見を上申します。

5月4日、北京における排日の第一声を聞いてから既に3ヵ月。この間、本職は
支那官憲に対して友誼的な注意を与えつつ、今日まで状況を静かに観察してきましたが
今日にいたり遂に黙視できなくなってきました。ここに所見を開陳したいと思います。

1.「排日風潮」に対する性質上の観察。

今回の排日は、今までとは大きく性質が異なります。今までの排日経験で状況を
推断することは大きな誤りです。今回は外国の後援があります。これこそ排日派の
根底なのです。米人経営の教会・学校等において、支那官憲の手が出ない場所で
画策は行なわれています。
680イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 23:22:24 ID:64rRggg3
>>679 の続き。〜『排日運動に関する上申』〜

今までの「排日運動」は一時騒ぎが起きても2・3ヶ月で沈静し、資金も尽き、
運動員は愛国者の虚名に満足して終わることが通常でした。今回は米人により
煽動され、資金が続くので永続的に続く見込みです。

今まで「排日の運動費」は一般商民が負担していましたが、長引くと(負担が)
重くなるため永続を嫌いました。また運動員が「運動費」を横領して仲間割れで
終わることが多かったのです。

今回は巨万の運動費が「米国側」より支給され、英米「トラスト」の米国商人が
日貨排斥運動に便乗し、日本商品を支那から駆逐しようと『広告費』の代わりに
運動費を供給しています。

このため支那商人は全く損が無く、運動員は一種の「職業」として排日運動の
継続を永続を希望しています。
681イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 23:35:23 ID:64rRggg3
>>680 の続き。〜『排日運動に関する上申』〜

天津市、万徳成祥布荘における日貨焼却、石家荘における日貨封鎖など惨憺たる
行為は無数に挙げられます。英米人の商人が指揮にあたり、英字紙が排日運動を
賞揚し、公然と「日貨を使用するな、国貨(国内商品)を使用せよ。国貨がなければ
米国商品を使用せよ」と『益世報』(米国の機関紙)は宣伝しています。

支那官憲も従来は表面上の取り締まりをしていましたが、今回は放任しており
排日運動員は米国の後援を頼んで、公然と過激な行動を行なっています。

2.「排日運動」の前途に対する観察

上海、天津における天皇陛下に対する不敬事件、上海における邦人に対する多くの
暴行事件はすべて新聞に掲載せず、日本人の激怒を用心しています。今後、日本が
隠忍自重しても排日運動は緩和しないでしょう。
682イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 23:47:52 ID:64rRggg3
>>681 の続き。〜『排日運動に関する上申』〜

新聞は公然と日本を「仇敵」と称し、日本人を「仇人」と呼び、日貨を「敵貨」と
しています。親日家に危害を加え、日貨取扱者を迫害し、遂には増長して天津租界内の
支那人をも脅迫するに至っています。

愚民を煽動して飲食物に毒を入れて「日本人の仕業だ」と騒ぎます。将来、暴動が
発生すれば、まさに「義和団事件」に近いことになるでしょう。このまま放置すれば
日本人を軽侮し、どのような事態を招くか、寒心に堪えません。また現在は親日家の
人間であっても、自己防衛上、米国を謳歌礼賛し始めるでしょう。

3.本職も従来、日本人が支那国民の悪感情を買ってきたことは否認しませんが
「弱者に残虐にして強者に従順」であるのは支那の国民性であり、英米の後援を
有する排日・排貨は遂に日本を屈服させたと「侮蔑の念」を高めるばかりです。
今や世界における米国の優越した地位は、支那人をして皮相的観察によって
『親米・排日思想』を固くさせています。
683イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/20(木) 23:52:31 ID:64rRggg3
>>682 の続き。〜『排日運動に関する上申』〜

4.結論

自衛上、隠忍自重すべき時ではありません。支那政府に対し、その怠慢を責め
排日取締りを要求するべきです。また帝国は一歩を進め、英米とくに米国に
対して、公然と排日運動を援助している事実を指摘し、国際上の徳義により
取締りを要求する必要があります。隠忍のみで一時を糊塗するのは必ず近い
将来、禍害を招くでしょう。
684イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/21(金) 00:05:21 ID:2ejF69b3
上記は日付が少しおかしい気がしますが(原典ママ)、1910年代末の
話です。このような流れから、1920年代の「軍閥割拠・北伐」が続く
最もややこしい時代に入る訳です。

米国が「排日運動」を引き起こした理由は、自国が支那市場に喰い込む
ためということが一目瞭然ですね。

第一次大戦後で「欧州経済が疲弊していた」という理由も大きいでしょう。
685名無し三等兵:2006/04/21(金) 07:55:15 ID:???
動機がよく分からんのですが。
孤立主義のアメリカがなんでシナ市場なんぞを求めるんでしょうか?
686名無し三等兵:2006/04/21(金) 11:49:13 ID:YAzTbupX
>>685
アメリカの孤立主義は1890年代に門戸開放政策へ転換されている

Wikiだがとりあえず参照までに
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E6%88%B8%E9%96%8B%E6%94%BE%E6%94%BF%E7%AD%96

>>670
日露戦争後の日本と清朝の関係は、20世紀で最も良好な関係とのちに呼ばれ
るようになったという側面もある。教育、軍事など多くの方面で日本をモデルとし
た近代化「新政改革」が展開されたのもこの時期である

>>684
WW1からアメリカは、中国において積極的な宣伝活動を展開していた。これは
当時中国で大きな影響力を有していた英字紙で伝えられる海外情報を、アメリ
カに有利な形で伝えるという方法である。ここで報道された内容が、中国紙に引
用されることで一般の中国人読者にその意見を浸透させることが可能になった

これはパリ講和会議の情報の中国における伝播、ひいては五四運動の発生に
おいて大きな影響を与えることになった

(参照)アメリカの中国における宣伝活動について
ttp://modernchina.rwx.jp/magazine/1415/yamagoshi.pdf
ttp://www.geocities.jp/crow1919jp/may_4th/japanese/may4th_j.html
ttp://www.geocities.jp/crow1919jp/may_4th/mayfourth.html

日本もアメリカの宣伝活動への警戒感を強めて、対抗して日本側も英字紙を作り
情報発信をおこなうなどの対抗策をとることになる
687名無し三等兵:2006/04/21(金) 19:34:55 ID:???
どうでもいいんだけど、毎日新聞社刊の
「一億人の昭和史 日本の戦史 計10巻」を古本市で購入しました。
あまり偏向した内容ではなく、見たことない写真が豊富に載せられて
いてとても満足しています。 支那戦線の兵隊さんがなんか
人間味のある表情してていいですねぇ
688名無し三等兵:2006/04/21(金) 19:46:31 ID:???
日本大使を招いた席上で原爆をネタに笑う韓国人達(動画)
http://www.youtube.com/watch?v=gX-JbBYkiZ8

韓国が外国貴賓を招いた会での事。
ビールの泡を見ながら『泡が原爆の煙のようだ。広島原子爆弾酒だ』と発言。
それを受けて盛り上がる韓国人達。
わざわざ別カメラを用意し日本大使の表情を撮影。
一人、険しい顔で屈辱に耐える駐韓大島日本大使。
689イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 00:21:56 ID:Sfx5lmK+
>>686 >>日露戦争後の日本と清朝の関係は、20世紀で最も良好な関係とのちに呼ばれ

スイマセン。>>670 は筆が走りすぎました。米国の反日感情と支那でのそれがリンク
するまでにはタイムラグがあります。やはり1915年の「対華21ヵ条要求」が節目でしょう。
また「辛亥革命」が1911年で「中華民国」が成立するのが1912年です。

>>日本もアメリカの宣伝活動への警戒感を強めて、対抗して日本側も英字紙を作り
>>情報発信をおこなうなどの対抗策をとることになる

例えば、南次郎が「支那駐屯軍司令官」時代、新聞社に対する援助を行なっています。
まず『上海亜州日報』(井出三郎経営)に1万5千円を支給し、『天津市チャイナ・
アドバイザー』(3千部発行)には2万5千円の補助金を出しています。

それに関する文書を意訳すると以下の通り。日付は1919年11月21日です。
690イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 00:37:37 ID:Sfx5lmK+
支那駐屯軍司令官:南次郎 → 陸軍大臣:田中義一殿 (1919年11月21日)

松尾利男の経営している英字新聞、『チャイナ・アドバタイザー』の収支状況に
ついて別紙の通り報告するものです。当新聞は松村の奮励努力により、順調に
経営しており、外国人の間でも認められています。

現下(支那の排日運動)の時局において「英字新聞」の重要性を感じております。
北京公使、青島、朝鮮総督府に補助金の交付を懇請中であり、陸軍においても
その必要性があると考えます――。

対外的な『宣伝戦』というのは、昔も今も日本の最も不得意とする部分ですが、
この頃から既に苦労している訳です。涙ぐましい努力をしていますが、日本の
国力や乏しい陸軍予算からでは「焼け石に水」の感がありました。

現代の日本でも、『宣伝戦』が上手くいっているとは口が裂けても言えませんw。
691イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 01:24:22 ID:Sfx5lmK+
>>639 >>アメリカ軍事顧問団がどう評価したかはウェデマイヤー回想録を読まれたし

今日、上下巻とも手元に届きました。装丁カッコイイ―! WEDEMEYER REPORTS!
支那戦線は「下巻」からですが、「上巻」から読んだ方がいいんですよね……。参りましたね、
まだ『萌えよ!戦車学校 02式』も読了しておりません(藁)。

>>687 >>どうでもいいんだけど、毎日新聞社刊の「一億人の昭和史 日本の戦史 計10巻」を
>>古本市で購入しました。

自分も「日中戦争」は全てもっています。カビ臭いのと大判なので、電車の中ではとても
読めませんがw。写真が数え切れないほど収録されていますが、一枚一枚じっくり時間を
かけて見ると、気付かされることが多いでしょう。しかし、キャプションは鵜呑みにせず
疑って考えるクセを付けるべきです。

「一億人の昭和史」では『不許可写真史』も面白いでしょう。「不許可写真」関連は、他の
版元の戦記シリーズでも出版されています。しかし、10冊まとめ買いだと結構なお値段に
なりませんでしたか?
692イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 01:32:50 ID:Sfx5lmK+
>>688 >>日本大使を招いた席上で原爆をネタに笑う韓国人達(動画)

所詮は土人のやることです。間違っても同じ人間だとは思わないようにする
べきです。そうすれば冷静な判断ができるでしょうw。
693名無し三等兵:2006/04/22(土) 01:40:15 ID:???
>>692
なるほどイギリス人がインド人を同じ人間と見なかったようにしろと。
694イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 01:41:36 ID:???
このスレも容量が400KBを超えてきましたので、そろそろ次スレが
視野に入ってきたのですが〜。ひょっとしたら「日本近代史」に立てるかも
しれません。以前、お誘いがありましたので実験的にということで……。

ちょっと迷っていますw。
695元前スレ32:2006/04/22(土) 06:42:41 ID:???
>>691
ウェデマイヤー回想録は上巻でもかなり山場があります。

特にドイツ陸軍大学での経験と、
フォン・ベレンツィン、フライターク・ローリングホーフェン、
ベック大将、シュタウフェンベルクなど著名な軍人との出会い。

有名な「勝利の計画」が、
ドイツ参謀本部の総力戦理論の影響を受けたことがわかります。
696名無し三等兵:2006/04/22(土) 19:22:04 ID:???
697名無し三等兵:2006/04/22(土) 19:41:40 ID:???
イナゾウ中佐殿、巡回先が増えると大変なので次スレもココでおながいします。
698イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 21:31:02 ID:???
>>693 >>なるほどイギリス人がインド人を同じ人間と見なかったようにしろと。

その通りです。正しくは「動物学者」が生態を観察するが如く、です。

>>695 >>ウェデマイヤー回想録は上巻でもかなり山場があります。

「洋モノ」はあまり手にしないので、久しぶりに暗中模索の思いです。読み始めても
なかなかピンと来ませんw。本日は、『日本工兵物語』(吉原矩、他著:原書房)を
入手。パラパラと捲って、ちょっと当たりを引いた予感……。

>>697 ゴールデンウィークまでこのスレは持つでしょうから、その時に決心します。
並列で2つ立てるのが一番良いのかもしれませんが、十中八九、両方とも破綻しますw。
699イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 21:52:06 ID:X0UEHysy
>>690 の補足。>>涙ぐましい努力をしていますが、日本の国力や乏しい陸軍予算
>>からでは「焼け石に水」

例えば、天津市にある「東亜医院」に対しても日本は10万円の補助を支出して、
支那民衆に安価な医療が受けられるように配慮しています。

同院には支那駐屯軍出身の日本の医師が勤務しており、総建坪400坪の建物でした。
ちなみに外来患者は月1000人、入院患者は月200人。前者の医療費は平均一人
60銭、後者は3円でした。
700イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/22(土) 22:47:51 ID:X0UEHysy
>>685 >>孤立主義のアメリカがなんでシナ市場なんぞを求めるんでしょうか?

第一次大戦によって支那も大いに輸出を伸ばし、資本家たちは富を蓄積することが
できた訳です。その一方、欧州諸国は疲弊して輸出能力を失っていましたから、
日本と米国がチャンスとばかりに支那市場で占めるウェイトを増したのです。

例えば大戦前の1913年ごろ、支那の対外貿易総額の2割を日本が占めていましたが、
戦争が終わった1919年には4割に倍増させています。もちろん列国でも第1位です。

また支那への「資本投資」も盛んになり、1914年に列国の対支投資は英国が6億ドル、
日本が2億2千万ドル、米国が6千万ドルであったのが、10年後の1924年には
日本が6億2千万ドルとなって英国と並び、米国も1億5千万ドルと倍増させています。
701名無し三等兵:2006/04/23(日) 06:36:12 ID:???
不許可写真史は毎日新聞の良心
702イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/23(日) 23:00:01 ID:LE02yjOZ
>>673 の補足。 >>本来なら列強が団結して、支那の「排外運動」に対抗するべきでしたが
>>実際は逆です。

米国の外交官にジョン・マクマリ(1881〜1960年)という外交官いました。マクマリは、
国務省の極東部長の経歴もあり、何より「中国公使」を1925年から5年間にわたって務めた
いわゆる「支那通」です。マクマリが1935年にしたためた『覚書』(プリンストン大学蔵)
にはこうあります。

「ワシントン体制から最初に脱落したのは中国であった。この条約は主権回復に至る手続きや
 中国の義務を定めていたのに、中国はこれを無視して帝国主義的権益の即時回収を叫び、
 暴力行使を含む革命外交に出たからである。

 中国の国情からして止むを得ない面もあったが、問題は米英日三国が協調して中国革命外交に
 対処せず、それぞれ自国だけは中国の批判を免れようと、譲歩=好意を示し始めたことにあった。
703イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/23(日) 23:15:38 ID:LE02yjOZ
 この競争で一番不利だったのは、最大の『帝国主義的権益』を持つ日本であった。
 アメリカは自ら譲歩をみせかけ巧みに革命外交の標的を満州に向けさせ、日本陸軍を
 暴発させ、ワシントン体制を破壊してしまった。

 日米協調路線を選ぶことも出来た米国が、広く長期的な視野を欠いた親中政策を取った
 ことからアジアの悲劇は始まったのだ。

 いずれ日中全面戦争となり、米国も巻き込まれる。大きな犠牲を払えば勝利も得られるが
 米国は得るところがないであろう。対日戦で国民党は痛手を受け、結局中国共産党と
 ソ連の進出を招くであろう」

繰り返しますが、この「覚書」は1935年に書かれたものです。歴史の流れを見事に予測した
貴重な意見と評価できるでしょう。まるで未来を見てきたか、第二次大戦後に書かれたもの
のようです。
704イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/23(日) 23:53:06 ID:LE02yjOZ
>>685 >>孤立主義のアメリカがなんでシナ市場なんぞを求めるんでしょうか?

最終的に、太平洋戦争で日本を蹴落としたアメリカは1946年11月に南京で
国民政府と『中米友好通商条約』を結びます。

第二次大戦で他の列強が弱体化している隙をつけこみ、門戸開放とは名ばかりの
自国に有利な条約で「巨大な支那市場」の一国独占を狙った訳です。

>>686 >>アメリカの孤立主義は1890年代に門戸開放政策へ転換されている

米国の野望はついに実現した訳ですが、大陸が中共政権に支配されたため
全て「ご破算」に終わったのは広く知られるところですw。米国が『大戦略』
レベルで「手痛い失敗」をよくやらかすのは覚えておくべきことでしょう。

ちなみに1949年8月5日に米国国務省が公表した『中国白書』では、「国民政府に
対する軍事援助の打ち切り」と「大陸での敗北の責任の全ては、蒋介石と彼が指導する
国民党政権の腐敗と無能にあり、『不信の政権』」と断定していますw。
705名無し三等兵:2006/04/24(月) 01:00:36 ID:???
長期戦略で失敗しない国なんぞあるのだろうか?
706名無し三等兵:2006/04/24(月) 05:03:29 ID:???
ない。
不屈の精神を持つ国家が勝つ。
七転び八起きである。
707名無し三等兵:2006/04/24(月) 08:12:35 ID:???
国民党も終戦後に拘束した日本兵や将校を国共内戦で使えば良かったのになあ
天皇のためとか無罪放免を約束するば戦ったんじゃ無いの?
中国はせめて朝鮮みたいに北(共産)と南(国民)に別れていればなあ

708名無し三等兵:2006/04/24(月) 17:17:57 ID:???
台湾の金門島では旧日本軍の根本中将が国民党軍について参戦していたらしい。
709名無し三等兵:2006/04/24(月) 17:44:17 ID:???
>707
そんなことをアメリカが許すわけがない。
中国に引き渡す武器ですら、アメリカ軍が押収・破壊したぐらいだから。
710イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/24(月) 22:28:39 ID:UnM0I8ZQ
>>705 >>長期戦略で失敗しない国なんぞあるのだろうか? >>706 >>ない。不屈の精神を
>>持つ国家が勝つ。七転び八起きである。

大日本帝国も長期戦略で大失敗しました。しかしアメリカの場合、戦争自体には
勝利したにも関わらず、戦略目的を達せられなかった訳です。まあ、物量というか
馬力の違いというか、国力でいくらでもリカバリーしてしまいますがw。

>>707 >>国民党も終戦後に拘束した日本兵や将校を国共内戦で使えば良かったのになあ

まあ、延安の周恩来は終戦後に以下のように主張していますから、国民党側に立って
戦うという「選択肢」も分からないではありませんw。

「日本軍が中国に与えた損害の賠償として500億ドル(当時の日本円で18兆円!)を
 要求するとともに日本国内の鉱工業施設をすべて接収し、これを大陸に移すべきである。
 同時に中国に残留する日本軍人および一般人、約200万人はそのまま抑留し、中国が
 戦争以前の姿に復旧するまで労務使役するべきである」
711イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/24(月) 22:52:10 ID:UnM0I8ZQ
中共の主張通りに終戦処理したら「シベリア抑留」なんて屁でもありませんw。
邦人200万人抑留です。そして第一次大戦で敗れたドイツ顔負けの天文学的
賠償金を課せられるでしょう。

>>707 >>天皇のためとか無罪放免を約束するば戦ったんじゃ無いの?

言われるまでもなく日本は敗戦後も支那で戦っています。というのも支那派遣軍は
連合国の一員である「蒋介石の国民政府」に降伏して、武装解除されることになって
いましたが、アラ不思議。

華北では国府軍が存在しませんでしたw。周りは八路軍だけです。

したがって華中から国府軍が北上してくるのを助けるために、華北では引き続き中共軍と
戦わなければならなかったのです。例えば、破壊された膠済線(膠州湾と済南を繋ぐ線路)を
打通させるなど、「国府軍に降伏するまで」周辺の治安維持にも責任を負っていました。
712イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/24(月) 23:18:53 ID:UnM0I8ZQ
周辺の治安維持のために、敗戦後も中共軍に対して「中隊討伐」や「大隊討伐」を
日本軍は行なっています。もちろん戦死者も発生する訳で、せっかく戦争が終わったのに
内地への帰国を目前にして亡くなられた方は、まことにお気の毒です。「1945年12月」の
戦死者なんてザラな訳です。

とにかく中共は、第二次大戦後の「国共内戦」に備えて、華北の鉄道路線を徹底的に破壊
していました。鉄道を使用不能にしてしまえば、蒋介石の国府軍は華中からそう簡単には
華北へ北上できません。敗戦によって日本軍が(ほぼ)無力化した後の「支配地域」を
少しでも拡大するため、時間を稼ぐためです。

津浦線(天津と、揚子江を挟んで南京と対峙する浦口を結ぶ)、膠済線、京漢線(北京―漢口)
の北部がもっとも酷く破壊されましたが、レールと枕木は1本残らず持ち去られ、影も形も無い
状態です。線路が変じて「単なる道路」に変わっていましたw。
713イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/24(月) 23:38:10 ID:UnM0I8ZQ
>>707 >>国民党も終戦後に拘束した日本兵や将校を国共内戦で使えば良かったのになあ

逆説的ではありますが、何応欽上将の言を引用するのが手っ取り早いでしょう。

「日本人の無条件送還こそ、日本軍の武装解除をトラブルなしに実現できる
 唯一の方法である」

とにかく支那戦線では、戦闘自体は日本軍が勝っていた訳です。本来ならチェック
メイトに近い形まで進んだ後で、日本側優位の「千日手」に陥っていた状況ですから
そこを忘れてはいけません。当時の支那戦線の兵士は一様にこう呟きました。

「米国には負けていたかもしれないが、中国には勝っていたのに、無条件降伏とは
 残念だなあ」

ちなみに将棋の「千日手」では、一方が王手を繰り返したために千日手に陥った場合は
王手をかけていた側の負けになるそうです。何やら日本のことを言っているようですw。
714イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/24(月) 23:49:06 ID:UnM0I8ZQ
>>708 >>台湾の金門島では旧日本軍の根本中将が国民党軍について
>>参戦していたらしい。

中共軍3万3千人(8個連隊)を包囲殲滅しましたからスッキリ爽快です。
ちなみに中共側には、この「金門戦役」に関する資料が存在しません。

もちろん「無かった」ことにされていますw。
715名無し三等兵:2006/04/25(火) 00:41:00 ID:???
>>714
さすがに金門島の上陸戦がなかった事にされたのは昔の話しで
最近の中国の軍事雑誌では金門島の上陸戦やその敗北が取り
上げられております

とはいえ意思決定に関わる一次資料が一般人や外国人にも公開
されるのは現体制下では不可能でしょう
716名無し三等兵:2006/04/25(火) 20:21:08 ID:???
>>691
10冊 5000円でした
717イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/25(火) 22:30:25 ID:ER8sWsF1
>>715 >>さすがに金門島の上陸戦がなかった事にされたのは昔の話しで

それは失礼しました。スマソw。ついでに根本博の供述をもとに「金門島」
防衛戦を取り上げると以下の通り。

1949年10月17日、厦門を攻略した中共軍は「金門島」と目と鼻の先にある厦門湾、
コロンス島の対岸に押し寄せて来ました。そして10月25日深夜、中共の第28軍と
第29軍の一部である8個連隊は、50門以上の砲兵の援護の下に、ジャンク船
約200隻を各地に集結させ、「金門島」を3方面から包囲、一気に奪取する
布陣を整えていました。

対する国民政府軍は、湯恩伯の保衛1個連隊と台湾より派遣された新編の1個師団、
そして汕頭方面から撤退してきた2個師団です。同日25日午前2時より、両軍の戦闘が
開始されました。

ちなみに根本博の立場は、湯恩伯の個人顧問です。
718イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/25(火) 22:53:53 ID:ER8sWsF1
国府軍は当初「水際作戦」を立てて、中共軍を一兵たりとも上陸させない方針でしたが、
それまで中共軍は破竹の勢いで進撃しており士気も高く、根本は危惧を覚えます。
もし守備隊に死傷者が続出して防衛線の一角が突破されると、作戦が一気に
瓦解することを恐れたのです。

そこで根本は湯恩伯に、まず中共軍を全部上陸させることを提言します。海岸から
少し離れた高地に逆襲部隊の陣を張った訳です。

さらに石油と発火物をもった奇襲部隊を、予想される中共軍の上陸地点から距離を
置いた海岸の洞窟に多数隠しておきました。

そして遂に、ジャンク船200隻を連ねた中共軍3万3千人が厦門湾を渡って
「金門島」に迫ってきましたが、1発の砲弾を受けることなく無血上陸を
果たした訳です。
719イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/25(火) 23:14:57 ID:ER8sWsF1
中共軍が全員上陸した頃を見計らい、日が暮れると海岸の洞穴に隠しておいた
奇襲部隊が、兵員を上陸させたカラのジャンク船を襲い始めます。
次々に火を放って86隻を焼き払いました。

補給と退路を断たれて動揺する中共軍に対して、観音亭山などの陣地から
国府軍は逆襲に出ました。逃げ場を失った中共軍は袋の鼠同然に包囲され、
その大半が死傷して、初日で既に戦闘はヤマ場を越えたのです。

しかし古寧頭地区の中共軍は、なお頑強に抵抗を続けます。近くには集落もあり、
無理攻めして住民に被害を与えることを心配した根本は、包囲陣の一角を解いて
海岸線に道を空けることを湯恩伯に進言しました。

一方、国府軍は海軍の艦艇を古寧頭沖合いの島影に待機させておきました。それとは
知らない中共軍は、包囲陣が敗れたとばかりに元上陸した海岸線に向かって
雪崩をうって逃げていきます。それを見た湯恩伯軍は、全力を挙げて追撃に移り、
陸海から挟撃したため、3万3千人の中共軍はジ・エンドです。
720イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/25(火) 23:44:50 ID:ER8sWsF1
>>714 の補足。 >>もちろん「無かった」ことにされていますw。

もちろん金門島における「根本の存在」も無かった事にされています。この防衛戦に
ついては陸・海・空それぞれの国民党資料が存在しますが、そこに根本博の名前は
確認できません。

しかし後に「白団」の教育を受けた黄蓮如は、金門島戦役で副師団長を務めており、
確かに根本が作戦指導していたと証言しています。

それにしても1947年6月以来、延々と負け戦を続けてきた国府軍が、勢いに乗った
中共軍をこれほど短期間(丸2日)で殲滅できたことは、1つの奇跡に違いありません。
721イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/25(火) 23:48:44 ID:???
>>716 >>10冊 5000円でした

それは安い! 自分は「日中戦争」の2か3で、一冊2千円ぐらい
支払った覚えがあります。ボッタクられたのかしらん?w
722名無し三等兵:2006/04/26(水) 02:40:40 ID:???
一億人の昭和史は大量に出回った本なので、あの手の写真集としてはかなり安め。
不許可写真史や別冊戦史シリーズは多少高くなるみたいですが。
それにしても1冊2000円とはボッタクられておりますぞ。
723名無し三等兵:2006/04/26(水) 21:11:00 ID:???
>>476
島流しにあって「やる事は喰うことしかねーぜ!」、なノリで食べてたらピザデブになったそうだ。
724イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/26(水) 22:23:48 ID:JxR44jYM
>>722 >>それにしても1冊2000円とはボッタクられておりますぞ。

いやーんw。神保町の篠村書店ですが、『別冊歴史読本』など棚が探しやすいので、
つい他で探すのを面倒くさがって買ってしまうのですよね。

>>707 >>中国はせめて朝鮮みたいに北(共産)と南(国民)に別れていればなあ

このスレで推薦して頂いて『WEDEMEYER REPORTS!』を読み始めていますが、米国の
ウェデマイヤー中将は終戦直後、米軍7個師団の派遣を本国に要請しています。
その目的は、北支および満州での「ソ連軍の南下」に対して防衛線を張るためです。

ちなみにウェデマイヤーは、「中国戦線米軍総司令官」兼「蒋介石付参謀長」を
務めていました。後年(1965年)、岡村寧次(最後の支那派遣軍総司令官)と面会
しますが、上記のウェデマイヤーの要請を岡村は以下のように評価しています。
725イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/26(水) 22:52:07 ID:JxR44jYM
>>707 >>中国はせめて朝鮮みたいに北(共産)と南(国民)に別れていればなあ

「もし米国政府が終戦直後にウェデマイヤー将軍の言(米軍7個師団派遣)に
 従っていたならば、共産勢力の南下は万里の長城の線で防止できたはずであり、
 また昭和22(1947)年の勧告が採用されていたならば、中国本土の赤化は
 揚子江の線で食い止められ、したがって朝鮮戦争もベトナム戦争も起きて
 いなかったものと思われる」(岡村寧次)

岡村のコメントには、多分にリップサービスも含まれるでしょう。しかし、
ウェデマイヤーの言う事が本当に正しかったとすれば、揚子江を挟んで
中国が「北(共産):南(国府)」の2国に別れていたかもしれません。

その場合、国民政府はまさか南京に首都は置けないですから(国境線が目の前w)、
おそらく広東に移すでしょう。孫文と国民革命、発祥の地でもあります。
726名無し三等兵:2006/04/26(水) 23:02:56 ID:???
重慶大爆撃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E5%A4%A7%E7%88%86%E6%92%83

また、プロ市民が好き放題書いてますね・・・。
727イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/26(水) 23:38:35 ID:JxR44jYM
米国のハーレー大使の調停のもと、内戦回避のために1945年8月28日から始まった
「国共重慶会議」が事実上の物別れに終わると、史実でも米国は大軍を派遣しています。

一応、10月10日には「政府と中共代表会談紀要(双十協定)」が調印されていますが
内戦回避への具体的な合意は得られず、ほとんど両者の言い分を併記しただけの協定に
過ぎません。

この直後、国共の衝突を恐れたアメリカは、第1海兵師団を中核とした5万3千人の兵力を
北平と天津、また周辺の海岸地区に派遣しています。ですから岡村寧次が評した

>>もし米国政府が終戦直後にウェデマイヤー将軍の言(米軍7個師団派遣)に
>>従っていたならば、共産勢力の南下は万里の長城の線で防止できたはずであり、

は、ちょっと言い過ぎですね。5万3千人が7個師団に増えたら中共に対する
プレッシャーは格段に増しますが、とても万里の長城の線では止まらないでしょう。
728イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/26(水) 23:56:56 ID:JxR44jYM
ちなみに米国のハーレー大使は、事実上の調停失敗を理由に辞職して
しまいますが(1945年11月26日)、

「調停が失敗した原因の大部分は、国民政府内の『親中共の外務官僚』による
 妨害工作があったためだ」

と非難し、さらに後日「中国を失ったのは彼らのせいだ」と発表して
物議をかもします。次にトルーマンは調停者として、マーシャル(元陸軍
参謀総長)のカードを切ってきますが、話が長くなるのでまた今度…。

何にせよ、アメリカが中国を失ったのは「自分でサジを投げた」ためです。
そして自分の責任は絶対に認めず、必ず他人のせいにします。今も大して
変わりませんがw。
729イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/27(木) 00:13:36 ID:1zgMRIMr
>>726 >>重慶大爆撃 また、プロ市民が好き放題書いてますね・・・。

ちょっとちょっと。こんな「土人の落書き」のような内容を載せていいんですか?w

>>日本人が、重慶を旅行する場合は、このことを、十分理解した上で、接する必要がある。

読点(、)が多過ぎですw。
730名無し三等兵:2006/04/27(木) 00:34:19 ID:???
>>729
お暇ではないでしょうが、できれば何方かに訂正しておいてほしいですね。
まさか外国人が日本のウィキを書いているなんて悪い冗談ですよ。

>焼痍兵器を重視し
いったいどこの国の言葉でしょうw
>世界で始めての
「初めて」と「始めて」を間違えていい日本人は小学生までですw

世界で“初めて”の戦略爆撃を行なったのも
1914年8月6日に
ドイツ軍のツェッペリン・L-Z号がリエージュに爆弾13発を投下し、(市民九人死亡)
ベルギー国民を「脅して」抵抗を断念させようとしたのが最初です。
731名無し三等兵:2006/04/27(木) 04:57:14 ID:???
重慶大爆撃とはプロ市民用語だね。
爆弾を何トン落としたのか触れられていないのがミソ
732イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/27(木) 23:10:12 ID:ZrSS3hct
>>730 >>お暇ではないでしょうが、できれば何方かに訂正しておいてほしいですね。
>>731 >>爆弾を何トン落としたのか触れられていないのがミソ

「101号作戦」(1940年5月18日〜1940年9月5日)の名前も出てこないようでは
あんまりな内容ですw。上記作戦では成都・蘭州も爆撃していますが、重慶だけに
限ると投弾数は以下の通り。

●投弾数:2万21発(1405トン) ●攻撃延べ機数(海軍1737機、陸軍286機)

成都・蘭州など全体を含めますと、●投弾数:2万7107発(2957トン) 
●攻撃延べ機数(海軍3627機、陸軍727機)

重慶に対する投弾数は作戦全体の74%、トン数では48%です。これは重慶以外の
目標は飛行場が主なため破壊力の大きい爆弾を使用し、市街地の重慶では火災目的の
焼夷弾が多数を占めていたからです。
733イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/27(木) 23:30:56 ID:ZrSS3hct
「攻撃延べ機数」を見れば一目瞭然ですが、主役は海軍(中攻)です。陸軍は
九七式重爆が主でしたが劣勢は明らかです。いかに陸軍航空が立ち遅れていた
かが分かるでしょう。参謀本部の一員として情けない限りです……(藁)。

>>世界で“初めて”の戦略爆撃を行なったのも

支那事変冒頭の『渡洋爆撃』を「世界初の戦略爆撃」とした方が良いですね。
これにしたって海軍の作戦で、しかも1937年8月の出来事です。

長崎県大村・台湾・済州島から飛び立ち、支那華中の主要都市を爆撃しました。
(杭州・南昌・南京・揚州・蘇州・浦口・徐州など)

陸軍は1938年冬から重慶爆撃を始めますが、その貧しい台所事情を見ると
思わず涙がこぼれそうになりますw。
734イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/27(木) 23:40:10 ID:???
>>732 >>重慶 ●投弾数:2万21発(1405トン)

ちなみに「東京大空襲」(1945年3月10日)は38万発(1700トン)で、
101号作戦の重慶分を1日で上回りますw。

>>728 >>何にせよ、アメリカが中国を失ったのは「自分でサジを投げた」ためです。
>>そして自分の責任は絶対に認めず、必ず他人のせいにします。

補足ですが、今のイラクで想像を働かせていただくと分かり易いと思います。
仮に「サジを投げた」としたら、一体誰のせいにするでしょうか?w
735名無し三等兵:2006/04/27(木) 23:48:13 ID:???
プロ市民の定義
いついかなる場合でも日本が悪でなければ発狂してしまう輩
よって東京大空襲や原爆でもアメリカを責めない
ある意味究極に親米派
736名無し三等兵:2006/04/28(金) 06:51:00 ID:???
投弾量で言うと、その「東京大空襲」はドレスデンの半分以下。東京中空襲とでも呼ぶ?
737名無し三等兵:2006/04/28(金) 08:13:03 ID:???
>補足ですが、今のイラクで想像を働かせていただくと分かり易いと思います。
>仮に「サジを投げた」としたら、一体誰のせいにするでしょうか?w

日本のせいにされたりしてw
「なんで止めなかったんだ馬鹿野郎。もっと金出せ」みたいなw
738イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/28(金) 23:25:45 ID:7wQF3OHs
>>736 >>投弾量で言うと、その「東京大空襲」はドレスデンの半分以下。
>>東京中空襲とでも呼ぶ?

1945年2月13日から14日にかけて、●英空軍の投弾量が2978トン、●米陸軍
航空隊のそれが783トン:●合計3761トンですから、確かに半分以下です。
「東京中空襲」と呼べないこともありませんw。

>>737 >>日本のせいにされたりしてw

「イラク人はどうしようもない民族だ」の可能性が一番高いでしょう。もう少し、
宗教対立がどうなどと理屈を付けるでしょうがw。

>>735 >>プロ市民の定義 いついかなる場合でも日本が悪でなければ発狂してしまう輩

日本の「大戦果」を誇って下さっているのですw。ある意味、「大本営発表」です。
739イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/28(金) 23:59:19 ID:7wQF3OHs
これを機会に「支那事変」での陸軍航空作戦も少し触れておきましょう。

>>733 の補足。 >>いかに陸軍航空が立ち遅れていたかが分かるでしょう。

「重慶爆撃」に絡めまして、なぜ陸軍航空の「重爆撃機」の研究開発・生産は
遅れていたのか? それは主敵をソ連極東空軍に定めていたため、かの膨大な
数に対抗するには、戦闘機・軽爆撃機など中小型機を多数そろえる方が有利だ
と考えられたためです。

もちろん、日本の国力・工業力では「重爆撃機」を多数整備するなど無理な話
だったことは言うまでもありませんw。

陸軍航空隊の「初の重慶爆撃」が始まるのは1938年末ですが、これは武漢攻略作戦、
広東攻略作戦がひと段落した直後にあたります。
740イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/29(土) 00:27:45 ID:add8ZuOv
1938年11月ごろ、陸軍の重爆隊は5個戦隊ありましたが、その内の2個戦隊は
新編着手したばかりです。

そのため、重慶・成都・蘭州など支那奥地に爆撃侵攻が可能なのは、
●九七式重爆の飛行第60戦隊、●伊式重の飛行第12戦隊、
●同じく伊式重の飛行第98戦隊 の僅か3個戦隊のみとなります。

九七式重爆は、名称からの分かるとおり「1937年末」に採用され、
1938年11月までに約100機が生産されていました。初期段階では
相当数が教育・研究用に機体が回されますから、部隊への配備は
上記の通り、まだまだ少ない状態でした。

「伊式重」は重爆の生産が間に合わないため、イタリアから購入した
『フィアットBR-20』型機で、この時までに72機を入手していました。
海軍の九六式中攻はすでに50〜60機が支那に配備され、「渡洋爆撃」など
遠距離爆撃に慣熟していましたので、陸軍は大きく水を空けられていたと言えるでしょう。
741イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/29(土) 01:05:11 ID:add8ZuOv
1938年11月15日、「航空兵団司令官」の徳川好敏中将は、第1飛行師団長の
寺倉正三少将に遠距離の要地爆撃の訓練を命じます。同時に漢口・運城など
侵攻基地の整備を始めました。

支那事変以来、陸軍航空は「地上直協」を作戦の主眼としていましたので、
奥地爆撃を開始するには相応の準備期間が必要とされたのです。

第1飛行師団には「重爆隊の全力」と九七戦4個中隊、九七司偵の独立飛行
第18中隊が集められますが、漢口―重慶間の800キロ弱、運城―蘭州間の
750キロは、当時の陸軍航空にとって容易ならざる侵攻距離でした。

この頃、航空兵団が「作戦計画の基礎」としていた数字は以下の通り。

●九七式重爆(爆弾500キロ搭載)約800キロ(距離)
●伊式重爆(同)約750キロ ●九七司偵 約900キロ(距離)
●九七戦(450キロ) 
742イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/29(土) 01:54:35 ID:add8ZuOv
漢口―重慶間800キロの数字と比べて見て下さい。ギッチョン、ギッチョンです。
もちろん距離は片道分(実際は×2)ですが、いくら何でも悲観的な見通しに思う
かもしれません。

九七式重爆の航続距離は2700キロ(ただし2型甲、重慶爆撃では1型)ですし、
伊式重爆でも2500キロはあります。

しかし編隊を組んで、赫々たる秦嶺山脈を越えて、重慶上空での戦闘機動を考えると
上記のような見込みの数字が出されたのでした。実際に寺倉:第1飛行師団長は
「伊式重爆」の爆弾搭載量を300キロに減らしています。

もちろん護衛の戦闘機(九七戦)の随伴が不可能だったことは、言うまでもありません。
743名無し三等兵:2006/04/29(土) 19:28:30 ID:???
伊式重爆と聞くと地元の新聞社が出した本に載っていた。
重爆の移送中、中国軍の支配地域に不時着して戦死した、
大室大尉の事を思い出してしまう・・・
744えICBM:2006/04/29(土) 20:47:31 ID:???
重慶爆撃は戦略的に効果があり、一時期は重慶中が講和に傾き共産党のみが反対って時期もあった。
その後、アメリカの支援が本格化して息を吹き返したそうだが。
蒋ちゃんが辛い時期に日本が手をさし伸ばしてたらなぁ。
745名無し三等兵:2006/04/29(土) 21:32:07 ID:???
>>744
特に何時と限らず、当時の日本は空気を読めてない。
746独島是中国的領土:2006/04/29(土) 22:29:25 ID:XQRX76o4
>>745
おまえもな
747\[・ム・ ] ‖苗‖:2006/04/29(土) 22:58:20 ID:???
(〇m〇)フィアットBR20は、日本で使用された唯一のイタリア機だな。


(^■^ ラ 実はイタリア降伏後、ドイツでも使用されたのだ。


[・ム・ ] 同じフィアット社のCR32が、支那国民党軍で使用されたことは黙っておこう。
748イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/30(日) 21:29:37 ID:OFTI0IVI
>>743 >>重爆の移送中、中国軍の支配地域に不時着して戦死した、
>>大室大尉の事を思い出してしまう・・・

伊式重爆(フィアットBR20)が導入された当初、日本陸軍内の評価は芳しい
ものではありませんでした。「航続距離の短さ」もその1つです。

名前が分からず苗字だけですが、渡辺大佐と藤田某というパイロットが伊式重爆の
試験飛行をしています。東京から漢口まで飛んでいますから「渡洋爆撃」以上の
飛距離(ただし片道w)だった訳ですが、何故か渡辺大佐は漢口で機体を降ろしません。
さらに、その先の限界まで飛んで行きます。

結局、漢口の先で不時着して渡辺大佐は死んでいます。ここまでして、ようやく
伊式重爆の性能自体は認められますが、それでも評判が高まる事はありませんでした。

その背景には、日本陸軍の「ドイツ万能論」があった訳です。イタリアの機体なんて、
ということです。
749イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/30(日) 21:45:57 ID:???
>>何故か渡辺大佐は漢口で機体を降ろしません。さらに、その先の限界まで飛んで行きます。

渡辺大佐の行動が理解できないという人は、「鳥人間コンテスト」を想起してみること。

記録を伸ばすため、琵琶湖をはるか越えて陸上まで飛んで、最後には自爆したような
ものですw。とにかく渡辺大佐は、伊式重爆の「性能の限界」まで、我が身をもって
示したかったものと思われます。
750イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/30(日) 22:22:55 ID:OFTI0IVI
>>744 >>重慶爆撃は戦略的に効果があり、一時期は重慶中が講和に傾き

日本陸軍が初めて重慶を爆撃したのは、1938年12月26日。そして汪兆銘が
「重慶を脱出」したのが1938年12月18日です。

1938年12月末の段階では、まだまだ陸軍の重爆隊の錬度は不足していましたが、
国民党政府が「政治的に動揺」している今が好機と、爆撃が決定された訳です。

また和平問題ですが、蒋介石は第二次世界大戦が始まると(1939年9月1日)、
大戦の推移で抗日戦争を打開しようと模索します。ですから、重慶が和平に
傾いたというのは、その前にあたるでしょう。

要するに日中戦争における和平は、1939年9月1日が現実的なリミットであって、
それ以降の和平の試みというのは単なる「謀略」の類です。太平洋戦争末期など
日本は真剣だったかもしれませんが、蒋介石は相手にしていないでしょう。

そして日独伊三国同盟(1940年9月27日)が結ばれると、蒋介石は欣喜雀躍します。
751イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/30(日) 22:53:59 ID:OFTI0IVI
>>ですから、重慶が和平に傾いたというのは、その前にあたるでしょう。

ちなみに、焼夷弾の無差別空襲でよく言われる「五・三」「五・四」は、
1939年5月3日・5月4日です。

しかし悲しいことですが、この戦果は「陸軍航空隊」によるものではなく、
「海軍航空隊」によるものなのですw(九六式・中攻)。

まあ、ゴールデンウィークに重慶に行くなんて「奇特な方」はいないと
思いますが、お気をつけて逝ってらっしゃいませ(?)。

スレと全く関係ありませんが今日、NHKで「煙と金に沈む島」を見ていて
温暖化に伴う「排出権ビジネス」で石炭を掘りまくる重慶が出てきました。

二酸化炭素を出しまくっている中国のご機嫌を取って、日本など先進諸国が
「排出権」を買わせていただく(発電所などを貢いで)というのは納得いきませんw。
752イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/04/30(日) 23:33:18 ID:OFTI0IVI
>>747 >>(〇m〇)フィアットBR20は、日本で使用された唯一のイタリア機だな。

九七式重爆より「速度が遅い」こともありまして、搭乗員は伊式重爆を好まない
ようになります。もちろん一連の重慶・成都爆撃で損害が多かったのも事実です。

速度がより遅い「伊式重爆」に被害が集中した訳ですね。
1939年5月には、飛行第12戦隊(伊式重)が満州に移動となり、その後
新たに誕生した満州国空軍に引き渡されました。

ちなみに「伊式重爆」は72機がイタリアから購入されましたが、フィアット社に
支払われた金額は6200万円に及びます。戦艦大和の予算が約1億4千万円ですから、
九七式重爆への「ワンポイント・リリーフ」にしては大した活躍もできず、単なる
貴重な外貨の無駄遣いだ、と非難されることもあります(三野正洋など)。

しかし、自分は単にそう思いません。BR20の購入までに至るエピソードには
考えさせられる話は多々あるのですが、非常に長くなるので次の機会にw。
753イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/01(月) 22:23:09 ID:PLTf9PID
>>752 の続き。>>BR20の購入までに至るエピソードには考えさせられる
>>話は多々あるのですが、

さて、ここで1人の人物にご登場を願いましょう。有末精三(陸軍中将)です。
どマイナーな人物ではありますが、北支那方面軍参謀副長や参謀本部第二部長を
務めていますし、戦後も雑誌インタビューに登場したことがありますから、全く
知られていないという訳ではありません。

有末の経歴で特徴的なのは、イタリアにどっぷりと浸かっている事です。我々が
「支那通」であるならば、有末はまさしく「イタ通」であります。有末は陸大を
卒業した後、参本部員に籍を置いたまま、ボローニャ歩兵第35連隊付(大尉)、
そしてイタリア陸大に入学して卒業しています(少佐)。

さらに陸軍省・軍務局軍事課「外交班長」を務めたあと、イタリア大使館付武官
となり(中佐)、任地で歩兵から航空兵に兵科を転換しました(1938年3月に航空兵大佐)。

もう言うまでもありませんが、フィアットBR20の購入には有末が大きく関わっています。
754名無し三等兵:2006/05/01(月) 22:29:57 ID:???
インタビューも何も三冊も本出してる>有末
北京の朝のラジオ体操の会場で、ムッソリーニから貰ったと称するきんちゃくを取り出して
長々と演説をして、北京の邦人を呆れさせた御仁。
755イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/01(月) 23:02:43 ID:PLTf9PID
時間は1937年8月中旬に遡ります。「イタリア大使館付武官」だった有末精三
(航空兵大佐)は、軍事課員の真田穣一郎(少佐)をローマに迎えました。

いい機会だと思って、有末は「陸軍の重爆を補充する必要」を聞いてみたところ、真田は
「いま三菱に一機作らせており、年末までには完成する」と答えます。これが『九七式重爆』
を指していることは言うまでもありません。

北支事変(支那事変)が上海に飛火したにも関わらず、そんなことでは話にならんと感じた
有末はここで「驚くべき行動」に出ます。イタリアの空軍大臣に「半年以内にフィアット
BR20爆撃機を『1千機』造れるか?」と打診したのですw。

戦後に有末がこの時を振り返って曰く、「その時分、イタリア空軍はスペイン内乱で戦果を
あげていて(ゲルニカ空爆など)世界的に評判が高かった。この機体をまとまって買い入れて
翌(1938)年3月頃までに日本へ輸送できれば、支那事変に貢献できるという希望があった」
としています。
756イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/01(月) 23:40:02 ID:PLTf9PID
ああ、無情! 有末が打診してから1週間後、イタリア側からは官房長のカガリ少将が
「1千機、造れる」との返事を寄こしますw。「造れない」と言って欲しかった……。

有末は早速とばかりに東京へ電報を打ちますが、陸軍省からの返電は「見本として1機のみ
購入されたし」というものでした。これには有末も頭を抱えます。

「1千機の見積もりに対して1機の注文では、イタリア空軍に面子が立たない。同盟国の
 空軍に、軍事機密に属する情報を出せておいて、1機しか買わないなんてそんな事は
 とても言えない。せめて100機ぐらい注文して欲しい。さもなくば小官を罷免してくれ」

有末は涙が滲まんばかりの文面で、参謀本部の作戦部長である(1937年8月末当時)カンジに
泣きついたのでしたw。するとカンジは、有末に対して以下の返電を送ってきます。

「フィアットBR20爆撃機72機、発動機144機、各部品20パーセントを買い入れて
 明春(1938年)3月までに輸送されたし。それに要する費用6200万円はロンドン支店の
 貴官口座に振り込んだ」
757イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/01(月) 23:53:10 ID:PLTf9PID
流石はカンジと言うべきところですが、これには有末の方が驚きますw。

「これまで1機も買ったことのない陸軍が6千万円も出して買うなんて…!」と。

つーか、貴様が1千機も見積もり出したくせに、どの口が言うのか?と小一時間
問い詰めたい気もしますが、仮に泣きついた先がヒデキなら絶対にこうはいかない
でしょう。いや、そうとも言えませんか……。「身内」に泣きつかれると弱いのは
ヒデキの悪い癖ですから、場合によっては何らかの妥協をしたかもしれませんw。

>>754 >>インタビューも何も三冊も本出してる>有末

それは失礼しましたw。
758名無し三等兵:2006/05/02(火) 01:18:49 ID:???
失礼します。
どこかでフィアット爆撃機の導入の前にハインケルHe111を陸軍が
導入する予定だったがハインケル社に断られたと言う話を聞きました。
この話はほんとうですか?
759名無し三等兵:2006/05/02(火) 01:27:28 ID:???
当初の見積もり通りに1000機購入してたら陸軍予算が破綻して
支那事変は早期に終わったかもしれないなw
760名無し三等兵:2006/05/02(火) 13:08:14 ID:???
ハインケルって輸入したはいいけどカタログの性能が全然出なくて
飛行場の脇に捨てられたらしいけど。
761名無し三等兵:2006/05/02(火) 16:43:56 ID:2kfUhtof
762イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/02(火) 23:07:31 ID:NyUZ799L
>>758 >>どこかでフィアット爆撃機の導入の前にハインケルHe111を陸軍が
>>導入する予定だったがハインケル社に断られたと言う話を聞きました。

フィアットと同じく「ハインケルHe111」もスペイン内戦で活躍した機体です。
そしてドイツに傾倒していた日本陸軍が、最初に購入を打診したのも事実です。

>>755 >>真田は「いま三菱に一機作らせており、年末までには完成する」と答えます。

少し話を戻しますと>>755 には続きがありまして、真田穣一郎(少佐)は有末に対して
「いま1つはドイツのハインケル社に頼んで、買入れのためにミッションを送って交渉中」
と語っています。

外貨不足に悩んでいたヒトラー総統は、日本の申し出に喜んだとされますが、軍首脳が
「いくら盟友国(1936年11月に日独伊防共協定)といえども、生産を開始したばかりの
新鋭機を売り渡すのはいかがなものか?」というクレームが付いたために、実現しませんでした。

ちなみにドイツの購買ミッションの責任者は、渡辺広太郎(航空)大佐です。
763イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/02(火) 23:34:45 ID:NyUZ799L
ドイツに向かった渡辺大佐の言によると「部品の分かる通訳をつけろ」などと、
ハインケルから細かい注文を付けられて苦慮したと言います。

>>757 の続き。
さて、カンジから「フィアットBR20」購入の了解を得た有末大佐は、翌日
イタリア空軍省に向かいます。ここで空軍次官のバアレル中将とイラリ官房長に
会うのですが、当然の事ながらイタリア側からクレームが出ましたw。

「コロネル有末、酷いではないか! 価格は1000機の注文に対するもので、
 同じ価格で72機造れと言われても困る!」という訳です。

相手側のもっともな理屈に困った有末は、「今度の購買は商取引ではなく、
イタリア空軍と日本陸軍の協力ということでやってくれ。イタリア空軍の寛大な
処置に期待する。自分は武官の職を賭している」と居直りますw。
764イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/03(水) 00:17:07 ID:I2K469co
それでもラチが明かずに議論を続けていると、遂にバアレル次官が電話でムッソリーニに
直接意見を尋ねます。ムッソリーニは有末を電話口に呼び出すと、「一体どういうことだ?」
と問い質しました。これに対して有末は、

「いま、値段のことを言われて困っている。この戦時に値段の話なんかしに来たのではない
 んだ。イタリア空軍と日本陸軍の協力を要請しにきたんだ。助けてもらえるか、もらえない
 かの問題なんだ」

と苦境を訴えます。するとムッソリーニは、バアレル次官に「コロネル有末の希望する
ように契約したらよい。間に合わないなら、動員用の爆撃機を立て替えてやればよい」と
あっさり承諾したと言います。

>>754 >>北京の朝のラジオ体操の会場で、ムッソリーニから貰ったと称する
>>きんちゃくを取り出して長々と演説をして、北京の邦人を呆れさせた御仁。

ここまで書いてきて、単なる有末の「自慢話」のような気がしてきましたw。
765イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/03(水) 00:52:30 ID:I2K469co
ドイツと同様、イタリアが「外貨不足」に苦しんでいたのは事実です。有末の
「フィアットBR20」購入の申し出にムッソリーニもまた大いに喜び、

「全力をもって日本に引き渡せ! 我が軍の航空機など後回しでよい!!」

と指令したという話もありますから、有末の苦労話は「脚色の度合い」が強いと
した方が無難かもしれませんw。

そうこうしている内に、ドイツの「ハインケル」へ購買ミッションに行っていた
渡辺広太郎大佐から「イタリアで航空機が買えるそうだが、大丈夫か?」と電話が
入ります。有末は「明日、契約するからこっちへ来い」と渡辺を誘ったのですが――

「BR20戦時編成通り」と6200万円の小切手にサインすると、イタリア側から
スイスのバーゼルで支払ってくれと言ってきます。交換比率の問題でリラが儲かるように
とのことですが、円に信用が無いのか、外貨不足うんぬんの話を裏付けるようなエピソード
であると言えます。
766イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/03(水) 01:30:06 ID:I2K469co
>>759 >>当初の見積もり通りに1000機購入してたら陸軍予算が破綻して
>>支那事変は早期に終わったかもしれないなw

「フィアットBR20」72機と「発動機144機・部品その他」の契約金額
6200万円を、現在価値に直すと約1000億円とされます。

先に述べたように、戦艦大和の予算:約1億4千万円が、現在価値で2600億円
ですから、ほぼ一致します。

仮に有末の見積もり通り「1000機」購入したとすれば、単純に10倍の金額として
6億2千万円。現在価値で1兆円ということになります。戦艦大和4隻分ですね。

まあ、陸軍予算が破綻するのは間違い無いでしょうw。それにしても戦艦大和1隻の
予算は、当時の「国家予算3%」にあたると言われます。すると現在価値に直すと
8兆6千億円になります。もちろん平時の国家予算でしょうが、この程度の国力で
日中戦争と太平洋戦争を同時に戦った訳ですから、何とも言い難いものがありますw。
767イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/03(水) 01:33:27 ID:???
というより、今の「日本国」が隔絶し過ぎている訳ですw。
768東亜:2006/05/03(水) 01:45:37 ID:???
【中国】 中国、2年後に空母戦闘群を配備か・・・
事実とすれば日本のシーレーン(海上交通路)に対する重大な軍事圧力★3 [05/02]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1146585578/
769イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/03(水) 09:45:55 ID:???
2、3日、実家に帰省します。皆さま、良いゴールデンウィークを……。
770名無し三等兵:2006/05/03(水) 19:32:40 ID:2RfJYVCe
帰省途上、乗機を撃墜されて戦死 (少将に昇進)
771名無し三等兵:2006/05/03(水) 19:33:53 ID:???
>>770
不吉なことを書くな!
772名無し三等兵:2006/05/03(水) 20:31:44 ID:???
少し爆弾等裁量が減るが、BR20よりSM79スパルビエロ輸入した方がまだ使えたんじゃないか
773名無し三等兵:2006/05/03(水) 21:28:14 ID:???
約2500年前の歴史を持つ「孫子兵法」が、
中国人民解放軍の訓練教材として正式採用されることになった。
3日付で解放軍報が伝えた。

「孫子兵法」は紀元前5世紀頃、春秋時代の呉などで活躍した孫武が著したもの。
ただし、早い時代から散逸したり他人の著作が混入したため、
現在は三国時代の曹操(155−220AD)が整理した版が使われることが多い。

解放軍が使用する「孫子兵法」は、軍事科学院の専門家が編さんした
「孫子兵法軍官読本」として、近日中に発行される予定。
「孫子兵法」は13章に分かれるが、それぞれ原文以外に
解題、注釈、現代中国語訳、軍事用語解説、思想的要点と例証、自習用課題が加えられる。

また、巻末付録では孫子名言集、国内外における孫子研究書物のリストも掲載される。

解放軍報は、「孫子兵法」を正式教材にする目的を
「軍官の計略及び指揮の水準をさらに向上させるため」と報じている。

日系軍官にも配布の予定
774名無し三等兵:2006/05/06(土) 11:09:13 ID:???
>日系軍官にも配布の予定

中国にも日系軍官っているものなんですかね。
775名無し三等兵:2006/05/06(土) 13:20:37 ID:???
ありがたくも自衛隊にも御下賜くださるということだろ、中国様が
776743:2006/05/06(土) 15:15:40 ID:???
前に大室大尉、伊式重爆に乗って不時着・・・と書きましたが
間違いでした、どうも97式司偵部隊で個人感状授与の記事とその後にあった
97式司偵生みの親、藤田雄蔵少佐の記事を混同してしまったらしい。
申し訳ないです。

>>748に似た記事で藤田雄蔵少佐が
昭和14年、5月中旬に伊式重爆の航続距離等を調べる為、
立川から上海の大場鎮飛行場に向けて飛行したが、燃料に余裕があるため
さらに飛んで、漢口まで飛行を続けたところ、漢口上空が密雲に覆われており
着陸不能となって燃料切れを起こし、漢水河畔紗洋鎮の中州に不時着してしまい、
やむなく飛行機を処分したが、敵の襲撃を受けて藤田少佐以下、全員戦死したとの事でした。

後日、独立飛行第18中隊の中隊長、荒蒔義次大尉達の乗る97式司偵3機は、荒蒔大尉の教官だった藤田少佐を偲んで、
同地上空で花束を投下したとの事です。
777イナゾウ少将in白玉楼 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/06(土) 22:38:23 ID:???
>>770 >>帰省途上、乗機を撃墜されて戦死 (少将に昇進)

撃墜はされませんでしたが、着陸時に主脚が折れまして「火ダルマ」になりました。
まあ、「戦死扱い」で昇進は成りましたけどw。しかし死んだこと自体、四季さまに
よれば手違いらしく、現世に復帰できるそうです。という訳で、体が再生するまで
冥界の白玉楼に一時お邪魔させていただいております。

「あ、お茶をどうも。助かります。しかしお嬢ちゃんも大変ですね。こんな広い庭の
 手入れを1人で任されているんでしょ? 二百由旬? 『由旬』というと、神の軍勢が
 1日で行軍できる距離の単位ですよね。いやあ、職業柄ちょっと興味が湧きますね。

 それに主の警護役や身の回りの世話も全部1人でやっているんですか? 頭が下がり
 ます。え? 正確には「剣術指南役」ですって?。それは失礼。ところでお嬢ちゃん、
 お年はいくつ?」
778えICBM:2006/05/06(土) 23:03:07 ID:???
言っちゃあなんだが、マヌケな最後であった。
合掌。

次ぎ頑張ろう。
779イナゾウ少将in白玉楼 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/06(土) 23:39:13 ID:???
「え〜!? お嬢ちゃんの『身体の半分』は幽霊で出来ているから、成長の速度が
 遅いだけで、実際は自分より遥かに年上ですって? いやー。その外見でソレは
 反則ですねーw。参本謀略課の連中も顔負けです。

 なになに? 本当は全部知っているくせに、ワザとらしく聞くなって? いやいや、
 ご明察w。貴女の場合、分かっていても尋ねるのはお約束というヤツです。気を悪く
 されたら謝りますよ。現世というか、外の世界に来られる機会がありましたら、
 支那課までどうぞ。自分が特務付か在外武官のときなら、機密費もありますし、
 さらに大歓迎できます。まあ、内密に願いますが(笑)」

???
「あらー。それは楽しみだわ。ねえ、**。ぜひご馳走になりましょうよ。外の
 世界の珍味には、どんなものがあるのかしら? お土産も付けていただけると、
 なお嬉しいわ。外の世界へは*に境界を頼めば手っ取り早いから、式と式の式も
 一緒として、都合5人に……。ああ、もっと増えるかも。でも、少将閣下に
 なられたんですもの。これぐらい大丈夫よね?」
780イナゾウ少将in白玉楼 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 00:44:01 ID:???
「いや…多分というか間違いなく、現世に戻ったら中佐に戻されるんですが…。
 まあホントに少将だったら、公使館付武官か特務機関長か、はては第二部長で
 ウハウハなんでしょうけどね…ハハ。

 中佐では領事館付武官がせいぜいで、機密費の裁量も僅かなものです。というか、
 人数はともかく、約1名の方の『食べられる量』が……。後任に引き継げない
 ような羽目になるのはご勘弁くださいw」 

???
「せっかく偉くなったのに気の毒ね……。そう! 肉体なんて戻らずにそのまま
 現世に戻ったらどうかしら? あなたの世界では、幽霊は『英霊』と呼ばれて
 いて『特別にえらい存在』なんでしょ? ぜひ、そうしましょう! それなら
 あなたも出世したままで、私も外の世界の珍味が……」

「……幽々子さま」
781名無し三等兵:2006/05/07(日) 01:50:24 ID:???
RB20と比較されたのがCa135
Ca135はハンガリー空軍などにも採用され独ソ戦でも実績あるのに、
RB20を採用した外国空軍は日本だけだ。
782イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 19:08:07 ID:TZmvCXdP
>>772 >>少し爆弾等裁量が減るが、BR20よりSM79スパルビエロ輸入した方が
>>まだ使えたんじゃないか

祝!現世復帰w。スパルビエロ(灰鷹)もスペイン内戦で活躍した機体ですね。
BR20よりも1年ほど前の開発で、見るからに古めかしい格好ですが、撃たれ
強さには定評がありました。

BR20が日本陸軍に採用された理由としては、イタリア自身が最新鋭の中型爆撃機
として世界の航空界に大宣伝していたこと。また、SM79が航空雷撃にも使用されて
いたことが敬遠されたのかもしれません。陸軍としてはお門違いとしてw。

BR20が次第に使用されなくなり「置き捨てられる」形になったのは、カタログ通り
の性能が出なかったためと言われています。どちらにせよ、完成品を輸入する形式では
余剰の部品が尽きた段階でお役御免です。また機体は使い捨てに出来ても、搭乗員を
使い捨てにする訳にはいきませんw。
783イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 19:50:27 ID:TZmvCXdP
>>781 >>RB20と比較されたのがCa135

Ca135は、BR20と同時に日本陸軍のトライアルを受けていましたが、
不採用でした。その理由として、スペイン内戦で活躍できなかったこと(原型機に防御
武装を施したら、エンジン出力を増したにも関わらず、生産型の最高速度が1割減w)、
そして航続距離の不足(約2000キロ)が挙げらます。

「伊式重」(BR20:約2500キロ)でさえ、重慶や成都・蘭州の爆撃には
ギリギリでしたから、Ca135を選ばずに正解だったのではないでしょうか。

そして先にも述べましたが、よく言われるのが「伊式重」を輸入するよりも海軍の
「九六式陸攻」を陸軍も採用するべきだったという意見です。確かに、渡洋爆撃で
既に実績を挙げていた機体ですから説得力はありますが、現実的な選択肢では
全くありませんねえw。

陸海軍の「仲の悪さ」を非難するがために、わざと無理難題を言っている気がします。
784イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 20:44:18 ID:TZmvCXdP
このとき「九六式陸攻」を陸軍が採用してみたと仮定してみましょう。

航続距離(約4000キロ)も爆弾搭載量(800キロ)も十分お釣りが来る
ほどですが、問題は最高速度です。最初期の11型で350キロですから、伊式
重爆の405キロにも大きく水を開けられています(九七式重爆は423キロ)。

支那戦線で「伊式重爆」が搭乗員になぜ不評だったかと言えば、九七式重爆よりも
速度が劣るために、迎撃に上がった敵機から集中攻撃を喰らうためです。

九六式陸攻はさらに遅い訳ですから、陸軍の搭乗員から大不評になる恐れが…という
よりも、速度差があり過ぎて九七式重爆と一緒に作戦行動が取れないかもしれませんw。

まあ、陸軍の重爆というのは、航続距離や爆弾搭載量を犠牲にしてでも「速度性能」を
優先させていましたから、海軍とは「設計思想」が違い過ぎて比較できないでしょうが。
785名無し三等兵:2006/05/07(日) 20:51:47 ID:evaol5ST
陸軍参謀本部作戦課!?所詮は軍人官僚 アドバンスド大戦略やってる
小学生以下じゃないか。
786イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 21:12:23 ID:TZmvCXdP
ああ、「設計思想」というより「用兵思想」と言うべきかもしれません。
また陸軍は、爆弾搭載量の不足は『反復攻撃』で補うという考え方でした。
艦船攻撃など、ワンチャンスに賭けなければならない海軍とは全然異なり
ますねw。

ここまで自分が書いてきたのを読み直してみて、まるで「九六式陸攻」が
役たたずのようですが、もちろん全く違います。太平洋戦争が始まるまで
支那の奥地爆撃の主役は、上記に述べた冒頭を除いては海軍であり、
「九六式陸攻」が圧倒的多数を占めていました。ちなみに、

●重慶大爆撃:1939年5月3日〜4日、海軍:九六式陸攻45機
●100号作戦:1939年1月28日〜12月1日、海軍:九六式陸攻63機、
 陸軍:九七式重爆・伊式重爆36機
●101号作戦:1940年5月18日〜9月5日、海軍:九六式陸攻132機、
 陸軍:九七式重爆ほか36機  まあ、その差は歴然としていますw。
787名無し三等兵:2006/05/07(日) 21:15:50 ID:Y7FgHHlW
中国奥地爆撃行に精根尽き果てて燃え尽きた、、もう真っ白だよ。

http://users72.psychedance.com/up/u2/img/?alpha1=110613&alpha2=45450739&recon=3296022&check6=2093828

788イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 21:18:22 ID:???
>>陸軍参謀本部作戦課!?所詮は軍人官僚 アドバンスド大戦略やってる
>>小学生以下じゃないか。

ここは参本第二部(情報)です。第一部(作戦)と混同しないように。
789名無し三等兵:2006/05/07(日) 21:24:21 ID:evaol5ST
失礼、情報といえば関連しているのですが、主計大佐だった新庄健吉がアメリカで
総力戦に関する正確な情報を纏め上げたのですが、それが首脳部に省みられることなかったことを
考えてみれば、当時の戦争指導者は幼稚園児以下ですな。
790イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 21:51:53 ID:TZmvCXdP
なぜ「伊式重爆」の評価だけが散々かと言えば、冒頭の奥地爆撃のときに『蘭州』を
担当しているためです。1938年末より陸軍の重慶爆撃が始まりましたが、その後
天候不順が続いたため、目標を蘭州へ切り替えたのです。

このとき蘭州は「ソ連の援蒋ルート」となっており、ソ連空軍機がますます増加、
航空学校も設立され、多数のソ連軍人が進出していました。

1939年2月12日より蘭州爆撃が始まりますが、もちろん航続距離の不足のために
護衛の戦闘機はありません。I-15改、I-16など多数の迎撃戦闘機が上がり、
九七式重爆より速度が劣る、伊式重爆に攻撃が集中した訳です。

二回目で2機、三回目で5機の伊式重爆が撃墜されましたから、これだけで全体の
輸入量の1割が喪失です。とくに三回目では、約50機の戦闘機から1時間に渡り
執拗な迎撃を受け、攻撃隊の全機が被弾し、帰還できた中でも最大のものは150発を
喰らっていました。
791イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 22:07:53 ID:TZmvCXdP
>>773 >>日系軍官にも配布の予定
>>774 >>中国にも日系軍官っているものなんですかね。

ヤフーニュースの「サーチナ・中国情報局」で同じ文面を確認しましたが、
肝心の「日系軍官にも配布の予定」という一文が見当たりませんでしたけどー。

ガセ? もしくは消されたのかしらん? あるいは駐在武官に配布するという
ことでしょうか?

念のため補足しますと、「日系軍官」とは満州国軍で主に使われていた言葉です。
792イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/07(日) 22:12:47 ID:???
>>790 の補足。
仮に上記の蘭州爆撃で「九六式陸攻」もいたとしたら、伊式重爆の
代わりにカモとなっていた可能性が高いでしょうw。

伊式重爆が使われなくなった理由には、何より「発動機の不調」や
「部品不足」など整備面の欠点もありますが、運が悪かったという
気も少しだけしますw。
793名無し三等兵:2006/05/08(月) 12:34:26 ID:???
映画「蟻の兵隊」が6月公開   www.arinoheitai.com/#

終戦後、中国山西省に駐屯していた北支方面軍1万人が国民党軍に引き渡された
この世界史上で類を見ない売軍行為は、戦犯逃れを目論む日本軍司令官と
国民党司令官の密約によって行なわれた
残留を余儀なくされた2600人の兵隊は4年間共産軍と戦い550名が戦死
日本兵から想像を絶する性暴力を受けた中国人女性が衝撃的な証言
中国戦線での日本兵の狂気を追う80歳の元日本兵
香港国際映画祭でも上演 大反響
794イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/08(月) 22:36:05 ID:Dt2gt8wQ
>>776 >>748に似た記事で藤田雄蔵少佐が

スイマセン。全く同じ出来事を指していると思われますが、事実関係はそちらの
方が正しいでしょうw。自分が>>748 で書いたのは有末精三の戦後インタビューに
寄っていますが(『未公開写真に見る日中戦争』別冊歴史読本1989)、当事者の
昔話ほど当てにならないものはない、ということでw。事実関係のダブルチェックを
怠っておりました。

>>748 >>何故か渡辺大佐は漢口で機体を降ろしません。さらに、その先の限界
>>まで飛んで行きます。

有末の談話の文脈からすると、上記の渡辺大佐はドイツに購買ミッションで
行っていた渡辺大佐(その後、イタリアの有末と合流)と推定されますが、
どこまで本当か、本当にその渡辺大佐が同乗していたのか不明ですw。
795イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/08(月) 23:06:43 ID:Dt2gt8wQ
こうなって来ますと、有末は「フィアットBR20」購入の決済を行なったのが
さも「カンジ1人の決断」のように話していますが、いくら作戦部長とはいえ、
現在価値で1000億円に匹敵する額を個人の力でどうこう出来るのか?という
疑念も湧いてきます。

まあ当初、陸軍省が見本として1機購入としていたのが、72機購入に化けた
訳ですから、用兵側の参謀本部から強いイニシアティブがあったのは事実でしょう。
ですから「カンジが云々」というのは嘘では無いでしょうが、割り引いて考えた方が
良いかもしれませんw。

そして有末の話を信じるならば、支那事変の拡大に反対していたはずのカンジが
「支那事変に間に合わせるために」フィアット購入を決断したことになり、非常に
興味深いものがあります。事実上、作戦部長としての「置き土産」となった訳で
カンジが焼けクソになったのか、何らかの目論見があったのか謎は深まるばかり
です。まあ、有末の話を信じるならば、ですがw。
796元前スレ32:2006/05/08(月) 23:24:45 ID:???
>>795
参謀本部から四十機要求のところを、
陸軍省軍事課予算班で、西浦進が勝手に一気に七十二機に増やしたようです。

この人は四式戦闘機でも同じようなことをしていますが、
おだやかなふりをして、豪腕の総力戦専門家です(ソースは西浦『昭和戦争史の証言』)。
797イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/08(月) 23:48:14 ID:Dt2gt8wQ
>>796 >>参謀本部から四十機要求のところを、陸軍省軍事課予算班で、
>>西浦進が勝手に一気に七十二機に増やしたようです。

毎度どうもでございます。
ギャーッ! また有末に騙されました(藁)。

今度、『昭和戦争史の証言』も探して読んでみたいと思います。ネットで少し
調べましたら、ヤフーオークションに過去出品されたこともあるみたいです。
まあ、アマゾンの「ユーズドマーケット」にあるのが一番手っ取り早いのですが…
もしくは文華堂に転がってないかしらん?w

ウェデマイヤーは、もうすぐ下巻が読み終わりそうです。メチャクチャ面白かったです。
個人的には、ウェデマイヤーのような「愚直な男」は惹かれるものがあります。自分は
首が据わってない人間なのでw。
798名無し三等兵:2006/05/09(火) 00:32:28 ID:tWGxrkEL
  「日満支経済建設要綱」決定す  内閣情報部 (昭15.11.13)

 世界新秩序建設を目ざす大東亜共栄圏の確立といふ皇国の大方針は、
日独伊三国条約の締結によつて新たなる段階に入つた。政府としては
この事態に照応すべく、基本的経済政策中「日満支経済建設要綱」を
過日の閣議に於て決定し、今後この方針に基づき政策を統一し実行す
ることとした。
 而して右政策の目標とするところは、新経済秩序観に基づき日満支
経済の綜合的発達を基底とする、大東亜共栄圏の飛躍的前進を計画せ
んとするにある。
 憶ふに、各国が自由に物資を交易し得ることを建前とする自由貿易
の世界経済は、既に旧秩序としてわれ/\の眼前に崩壊しつゝある。
皇国の経済も、この旧秩序依存の旧体制を振り捨てて、新たなる編成
を決行せねばならぬ。而してこの再編成によつて、皇国の経済をして
より高く、より広く、より強いものたらしめ、これによつて東亜諸民
族の生活向上を齎らし、各々の所と得しめる如く指導せねばならぬ。
即ち「より高く」とは国民の持つ生活力に一層高度の生産性を持たし
めることであり、「より広く」とは経済相互依存圏を日満支より更に
大東亜に拡大して、鞏固なる共栄圏を確立することであり、「より強
く」とは皇国の経済が外国に依存する程度を最小限にして、如何なる
事態に当面しても微動だにせざる底力を保持することである。
 かくの如く皇国の経済をして高く、広く、強きものたらしめるには、
全国民の総力を結集して、強固なる意志をもつて、内に於ては革新に
伴ふ苦悩を克服すると共に、外より来る如何なる圧迫脅威をもこれを
排撃し、今後凡そ十年にして日本を指導力の中心とする新たなる東亜
経済の秩序を完成しなくてはならぬ。この秩序の中に於てこそ、満洲
支那はもとより東亜諸国の経済は、その輝かしい向上発展を所期し得
るのである。
799イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/09(火) 23:48:41 ID:hPjCLmGE
そろそろ「スレの容量」が怪しくなってきましたので、初期の重慶爆撃までを
早く終わらせてしまいたいと思います。

1938年末から重慶爆撃の準備が進められいく訳ですが、第1飛行団が投入できる
兵力は僅かなものでした。●飛行第60戦隊(九七式重爆)12機、●飛行第12
戦隊(伊式重爆)9機、●飛行第98戦隊(伊式重爆)9機の『計30機』のみですw。

九七式重爆は故障の多発、伊式重爆は発動機の不調と部品不足、何より熟練搭乗員の不足が
稼動機数を大幅に減らしていたのです。ちなみに全体の保有機数を含めても、九七式重爆が
23機、伊式重爆が40機でしたから、いかに帝国陸軍の重爆隊が未成熟だったかが分かるでしょう。

1938年12月15日、航空兵団の徳川好敏中将は過労のために倒れ、江橋栄次郎中将と交代
します。ちなみに徳川中将は、父の篤守が水戸藩主・慶篤の次男であるなど、水戸藩と
重縁で、最後の徳川将軍・慶喜とも血統的に近いです。そして好敏は日本国内初飛行に
成功するなど、陸軍航空のパイオニア的存在でもありました。
800名無し三等兵:2006/05/09(火) 23:56:08 ID:mrH0/coy
同時期の海軍陸攻隊より劣るかもしれんね。。

801イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/10(水) 00:15:27 ID:soiPfgkV
1938年8月の「渡洋爆撃」で海軍は38機の「九六式陸攻」を実戦投入して連日
出動させていますから、間違いなく劣るでしょうw。ちなみにその内訳は、
●木更津航空隊:20機、●鹿屋航空隊:18機 となります。

8月14日:台北(鹿屋)から9機が広徳を、別の9機が杭州を爆撃。
8月15日:台北から14機が出撃、うち8機が南昌を爆撃。
      長崎県・大村(木更津)から20機が南京を爆撃。
8月16日:台北から13機が南京と揚州を爆撃。
      済州島(木更津)から9機が蘇州を爆撃。
8月19日:台北から7機、済州島から14機が南京を爆撃。
8月21日:済州島から9機が揚州を、別の6機が浦口を爆撃。
8月22日:済州島から6機が南京を爆撃。
8月24日:済州島から8機が南京を爆撃。

支那事変当初から、これだけの実績を積んでいる訳です。しかし、連日の出撃により、
保有38機のうち喪失14機、大破13機と70%を超える被害を出しています。
802名無し三等兵:2006/05/10(水) 00:19:34 ID:???
戦闘機無用論の崩壊ですな。
803イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/10(水) 00:42:27 ID:soiPfgkV
実はもう少し続きがありまして、

8月26日:台北から6機が南昌を爆撃。
8月27日:済州島から8機が、台北から6機が南京を爆撃。
8月30日:済州島から6機が徐州を爆撃。

正直、海軍の活躍をうらやましく感じるのですが、やはり「九六式陸攻」と
「九七式重爆」、開発時期のたった1年の差がこれほど大きく響いてくる訳です。

もちろん両機の開発は支那事変が勃発する前からスタートしていましたから、
初期の活躍の度合いは「運・不運」以外の何物でもない訳ですが、陸軍が
フィアットBR20の購入を急遽決定したのは故あるものだと思います。

やれ外貨の無駄遣いだの、九七式重爆の量産を待つべきだったという意見も根強いですが、
まさかそれまで海軍の活躍を指を咥えて見ている訳にもいかないでしょうw。
804名無し三等兵:2006/05/10(水) 01:06:17 ID:???
まるで零戦と隼のような関係ですね
805名無し三等兵:2006/05/12(金) 16:39:02 ID:???
「日鮮問題」

●石坂 「俺はね、日本の女達より、朝鮮の女達の方が付き合いが多かった。
だから、朝鮮の女は大好きだね。でも、朝鮮の男は大嫌い」

■藤本 「女は好きなのに、なぜ男は嫌いなんですか」

●石坂 「朝鮮人の男はたちが悪いからね。乱暴者が多くて面倒ばかりおこしていた」

■藤本 「そんなにひどいかったんですか」

●石坂 「ああ、そうだよ。ワルだった。
 演習なんかで兵舎を出ると、夜は民家に泊まるんだけど
鮮人部落には絶対泊まらなかったからね。恐くてさ」

■藤本 「えっ、やくざ者ばかりだったんですか、朝鮮人って」

●石坂 「ああ、そうだよ。断っておくけど、俺個人の差別意識じゃないよ。
部隊単位でも朝鮮の部落は危ないから、宿泊しないようにしていたんだから」

■藤本 「貴重な証言ですね。天下の日本軍が朝鮮人を恐れていたなんて(笑)」

●石坂 「ビクビクしていた訳じゃないけど、要は無用な問題に巻き込まれないようにしただけだよ。
伊藤博文なんかが跳ねっ返りの朝鮮人に暗殺されているじゃない」

▲明夫 「昔の人って、みんな朝鮮人嫌いだよね(笑)」
806名無し三等兵:2006/05/12(金) 16:43:11 ID:???
■藤本 「言われてみればそうだね(笑)。
 でも、一面の真実は含んでいると思うよ。だって明夫さんさあ
暴力団の組長名簿がインターネットに流れているけど
組長の名前がみんな金とか朴とか趙とかじゃない。
それに石坂准尉より後の世代でも、朝鮮学校の連中と張り合って
喧嘩とかしたはずでしょ。俺だって正直言えば、北も南も問わず
朝鮮人は大嫌いだよ。勿論、彼等の目の前では失礼だから言えないけどさ。

俺が朝鮮人を毛嫌いしているのは、一言でいってしまえば歴史認識の問題なんだけど
特に腹立たしいのは大嘘を平気でつき、捏造するところ。あの国はずっと支那の支配下にあって
同情する余地はかなりあるけど、だからといって宗主国の人間の悪い点
つまり言ったもん勝ちとばかり、大袈裟に嘘をつく悪癖を真似しなくてもいいと思うんだ。

全ての罪を日本に被せて、自分達は被害者面して糾弾するだけなんだからさ。
それじゃ、日本人に相手にされない訳だよ。こちら側にも多少の落ち度があるとは思うけど
それにしたって度を越している。冷静にあの時代の『常識』を踏まえた上
真摯に歴史と向き合わなければ駄目だ。

まあ、そうは言っても、我が国と朝鮮がいがみ合っているのはここ半世紀にはじまったことじゃないか。
もう太古の昔から犬猿の仲だからね。例えば、江戸時代に来日した朝鮮通信使の日記なんか
日本人の悪口ばかり書いてあるし。 いつも感じるんだけど、どうしてこう隣国同士は仲が悪いのかな(笑)。
ドイツ・フランスの関係もそうだけど、お隣さんとは仲良くやっていきたいと互いに思っているはずなんだけど」

807名無し三等兵:2006/05/12(金) 16:45:35 ID:???
▲明夫 「なかなか難しい問題だよね」

●石坂 「…何度も言うけど、朝鮮人の女は本当に大好きだよ。みんな優しいし
綺麗な女が朝鮮人には沢山いたからね。 慰問に来るのは、みんな朝鮮人ばかりなんだ。
だから、俺は一杯、朝鮮人の娘と付き合った。 そういえば、あの当時
彼女達はよく言ったものだよ。 『朝鮮人、朝鮮人って馬鹿にしないでくださいな。
妾(わたし)だって立派な大日本帝国の一員なんですから』 と、ね。

あの頃朝鮮は、我が国の領土だったから、そんなことが言えたんだろうがね」

▲明夫 「どうでもいいけど親父、それはただの女好きなんじゃないの(笑)」

◆一同 (笑)
808名無し三等兵:2006/05/12(金) 16:49:52 ID:???
■藤本 「石坂准尉のあい反する朝鮮人への気持ちはよく分かります。
俺もとにかく朝鮮人が大嫌いなんですよ。我が日本軍の悪口を目の前で言おうものなら
それこそ張り倒してやろうと身構えているくらいに。でも、大嫌いな連中だからこそ
こっちが隙あらばと鉄拳を握り締めて窺っているのに、連中が礼儀正しい態度で接してくると
急に戦意が失せてしまい、同胞の日本人以上に手厚くもてなしちゃうんですよ。
もう、いたれりつくせりです。 前にこんなことがありました。西川口駅前の
青木公園というところで交通誘導のアルバイトを十八歳の時にしたんです。
そしたら、仕事の最中に、小さな男の子と女の子を連れた朝鮮人の若奥さんに
道を聞かれたんです。

俺ははじめの頃、日本人だと思って、おもいっきり日本語で道を教えてやったんですが
なんだか分かったような分かってないような素振りをするので、もしやと思って
朝鮮語で話し掛けたらその奥さんは会心の笑みを浮かべて喜んだんです。
俺は嬉しくなってしまって子連れの奥さんが行きたいという教会が
近くにあることに気付き、勤務時間中なのに仕事をサボタージュして
その場所まで連れていってやったんです。そうして、朝鮮人の
役に立てて良かったと一人ニコニコしていたんですが
持ち場に戻ると、一緒に勤務に入っていた意地の悪いおやじが
大声で怒鳴るんです。
『親切とはいえ、自分の仕事を怠けて道案内する馬鹿がいるか』 と、ね。
 朝鮮人のために怒られたんですよ(笑)。

なんて俺は親切なんでしょうね。でも今になっても、この時の行為は間違っていましたが
良かったと思っています。日本語をまともに話せない朝鮮人を放っておけないですよ。
 こうして思うと、反鮮日本人というのは、実は親鮮日本人なんですよ(笑)。
嫌いだからこそ、彼等が気になり、必要以上に意識してしまう。
そして『敵を知り己を知れば百戦危うからず』じゃないですけど、
朝鮮人に日々むかついていますから、独学で朝鮮の歴史を勉強してしまって、
気が付くといつの間にか、かなりの朝鮮通だったりするんです(笑)」
809イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/13(土) 23:13:17 ID:9Dd9nt1A
>>799 の続き。

1938年12月2日、大本営は航空兵団に「敵の戦政略中枢を制圧擾乱するとともに
敵航空勢力の撃滅に努むべし」と支那奥地爆撃の任務を与えますが、実働僅か
30機内外の重爆ではムチャな命令と言えますw。徳川中将が過労で倒れたのにも、
少なからず影響しているでしょう。

そして最初の方で述べたように、「汪兆銘の重慶脱出」とも偶然時期が重なり、
中支那派遣軍は12月24・25日頃の爆撃が政治的動揺を与えるチャンスであると
伝えてきます。

重慶は古来より「蜀犬日に吠ゆ」と言われるように、天候の悪い土地ですから
必然的に戦略爆撃には苦労させられます。九七司偵の偵察によって、あと数日は
侵攻可能と判断され、重慶への第一撃は1938年12月26日に決定されました。
810イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/13(土) 23:49:45 ID:9Dd9nt1A
第一飛行団長・寺倉正三少将は、重慶への爆撃予定時刻を13時と決定します。
この時間帯が「雲の切れ目が最も出やすい」という理由からです。当然、昼間
爆撃となりますが、敵機の迎撃は防御火網によって対抗できると判断されました。

1938年12月26日、ついに重慶爆撃への火蓋が切られ、第60戦隊(九七式重爆)、
第98戦隊(伊式重爆)が漢口を発進します。ところが重慶上空は密雲に閉ざされて
おり、第60戦隊は爆撃を断念してしまいます。第98戦隊のみが雲の切れ目から
重慶東部を推測爆撃しますが、当然戦果は不明ですw。

国民政府に脅威は与えたと判断されましたが、失敗に終わったと言ってよいでしょう。
その後、しばらく天候不良が続いて出撃できませんでしたが、1939年1月7日、天候が
やや好転したと判断されて、3個戦隊によって重慶への第二撃が加えられました。

しかし、またしても重慶上空は高度2500メートルの密雲に覆われており、重爆隊は
雲海上に姿を現している「山頂」を基準にして推測爆撃を行ないました。重慶爆撃は
敵機うんぬんより、まず『天候』という大きな壁があった訳です。
811えICBM:2006/05/14(日) 12:13:09 ID:???
B29の本土爆撃でも高高度爆撃は天候不良の為になかなか成果が上がらなかったそうだ。
そのため、爆撃方法を夜間低高度爆撃に切り替えたそうだ。
勿論危険は高くなり被撃墜率も増加するのだが。
特に高高度では無かった対空砲での被弾率が大きく生じる。
爆撃任務ってのは天候ってのが成否を決定する最大の要因のようだ。
812イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/14(日) 20:30:01 ID:wBWf50qh
1939年1月7日の重慶侵攻では、密雲により「推測爆撃」を余儀なくされた代わりに
損害も発生しませんでした。しかし、重慶放送は何故か「爆撃を受けたるも日本軍機
8機を撃墜せり」と報道していますw。

それから3日後の1月10日、天候の回復を確認して30機による第3撃を行ないます。
今度は重慶市街を確認した上で、高度4500メートルから爆撃、全弾命中を果たし
ました。

4機の支那軍戦闘機の離陸を認めますが、空中戦は発生していません。高射砲の射撃も
受けませんでしたので、重慶の防空態勢はいまだ整っていたなかったと言えるでしょう。

さらに1月15日に第4撃を行ないます。快晴の重慶に29機で爆撃を加えますが、
この時は国府軍戦闘機・10機余の迎撃を受けました。迎撃は速度の劣る伊式重
(第12戦隊、第98戦隊)に集中し、被弾機を出しますが全機帰還が成りました。
敵の6機を撃墜したとされますが、これは不確実でしょうw。
813イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/14(日) 21:05:53 ID:wBWf50qh
以後、天候不良が続き、重慶から蘭州へ爆撃目標が変更されますが、そこで
伊式重を中心にI-15改、I-16の手痛い感激を受けたのは先に述べた
通りです。これにより護衛戦闘機のない「重爆単独」の爆撃の困難であることが
印象づけられ、重爆隊の戦力が充実するまで奥地の戦略爆撃は中止されました。

最初期の「重慶爆撃」の話はこれにてお仕舞いですが、現地の欧米関係からの
情報によれば、重慶土民の疎開も始まり、相当混乱させたのは事実でしょう。

重慶の防空体制がようやく整い始めるのが、最初の爆撃(1938年12月26日)より
約20日。日本は小刻みに攻撃を加えてはいますが、国府軍が当初、何も対応
できなかった事を考えると、「小規模すぎて勿体無かった」と感じるのは
自分だけでしょうか?w

間断の多い、所要兵力に満たない爆撃は、かえって敵に対応の手段を多く与え、
次回の攻撃をより困難にしていくでしょう。
814イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/14(日) 21:22:31 ID:wBWf50qh
>>810 >>またしても重慶上空は高度2500メートルの密雲に覆われており、
>>811 >>そのため、爆撃方法を夜間低高度爆撃に切り替えたそうだ。

B29の夜間低空爆撃の場合、高度1500〜2000メートルが一般的ですが、
仮に九七式重爆や伊式重に「これをやれ」というのは酷な気がします…w。結果論で
言えば、重慶の防空体制が整っていなかった最初期に限り、「低高度爆撃」も
十分可能だったでしょうが。

防弾装備を考えると鬱になりますw。
815えICBM:2006/05/14(日) 22:55:49 ID:???
>>814
蒋介石を中原から重慶に追いやり、即追撃する姿勢を評価すべきでしょう。
その結果、防空体制が未完の敵本拠地を爆撃せしめたのですから。
もっとも、持久戦体制に持ち込まれてどうすんねんという疑問はありますが。
816イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/14(日) 23:46:43 ID:A2tBxbyS
>>815 >>即追撃する姿勢を評価すべきでしょう。

そうですね。そう言われると救いを感じますw。しかし、九七式重爆にしても
あと1年登場が早ければと悔いが残ります。また事変が長期化すると、重慶は
兵器工場など重要施設の「地下化」を次々と進めますから、地上侵攻を伴わない
戦略爆撃だけで屈服させることは不可能だったでしょう。

重慶爆撃の最盛期は1941年。太平洋戦争が始まった1942年以降は、火が消えたように
無くなります。

>>793 >>映画「蟻の兵隊」が6月公開   www.arinoheitai.com/#
>>この世界史上で類を見ない売軍行為は、戦犯逃れを目論む日本軍司令官と

第1軍司令官だった澄田らい(漢字が出ないw)四郎中将と、第二戦区軍
司令官の閻錫山との裏取り引きとされるものですね。
817名無し三等兵:2006/05/14(日) 23:53:23 ID:???
B-29は3600機が生産されたが260機がテスト飛行で喪失、512機が戦闘中に喪失した
そのうち約400機は日本軍による撃墜であった

撃墜された理由はもちろんあり、その多くは
カーチスルメイ将軍の悪魔的な発案によるものだった

まずB-29を徹底的に軽量化させた
・元々鋼鉄製のエンジンはマグネシウム合金製のものに置き換えられたが
 熱をもちやすく発火する危険もあった
・本来はオリーブ淡褐色/灰色のカムフラージュ塗装であったが、
 軽量化の為に無塗装になり、その銀ピカのボディはとても目だった
・さらなる軽量化の為に尾部の銃だけ残して、ジェネラル・エレクトリック社製の
 防御用銃座は全て外され、その尾部の銃座用の弾丸さえも最小限に制限された。
・さらに軽量化の為に燃料タンク以外のほとんどの防弾装甲は外され、
 機内の椅子やテーブルなども全て外された。
・さらにさらに、高々度爆撃は成層圏までの上昇に多大な燃料の消費が必要な為、
 作戦を夜間低空爆撃に切替え大幅に搭載燃料を切り詰めた。さらに往復ギリギリの
 燃料だけを積む事により大幅な軽量化を達成した。
この軽量化により出来た余剰搭載量に離陸出来るぎりぎりまでの
M69焼夷弾を詰め込んだ。

乗員はもう帰れないと思いながら離陸していった。。。
ちなみにこのルメイ将軍は、戦後航空自衛隊創設に尽力し日本政府から勲章をもらってる。
818えICBM:2006/05/15(月) 00:56:05 ID:???
3月10日の東京大空襲では334機のB29が低高度焼夷弾爆撃に参加している。
日本軍戦闘機による被害は無かったが、高射砲による損害は大きく、14機撃墜、42機撃破、損失機
比率は4.2パーセントであった。
この攻撃の成果で15平方マイルを焼き尽くした。
この戦果は損害に対するB29の損失は軽微であるり、ルメイの戦法は正しいとされた。
819名無し三等兵:2006/05/15(月) 07:43:04 ID:???
なにを言ってるんだおまえわ
戦後国民党が共産党にやっつけられたのは国民党の責任で日本の責任じゃねーだろ
ただのゲリラ集団に過ぎなかった毛沢東にコテンパンにやられた蒋介石がブザマってだけの話だ
あとソ連が満州攻めてきたのは、向こうが中立条約一方的に破ったからだろ
なんだよ日本が与えた口実って。ソ連に日本を攻撃する口実=大義名分なんかカケラもないわ
海軍整備されてるから侵略されることはないって、これまたスゴイ乱暴な話だな
釜山にソ連の海軍基地置かれてもまだそんなこと言えますか?朝鮮戦争では下手したらそうなってたかも
知れんのだが?あと国際連盟ってそんな大したものなんかいな?
アメリカの言う大義名分=一次大戦後の秩序ってのは、要するに「シナのおいしいところをオレにも寄越せ」
っていう門戸開放路線だろ。どっちにせよ大して美しい話じゃないんだから、日本のやってることを
非難される覚えはない
820名無し三等兵:2006/05/15(月) 10:43:16 ID:???
>>819どのレスに対して言ってるんだ?
アンカーくらい付けろよ
821名無し三等兵:2006/05/15(月) 16:48:34 ID:???
>>820
>>819は誤爆
822イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/15(月) 23:48:19 ID:Ir9GnIdq
残りあと2KB……。このスレも天寿をまっとうする事が出来ました。お相手
くださった皆様方に感謝。

ざっと読み直してみて、支那での日本軍の生活(略奪)風景、阿片問題などが
盛り上がった気がします。やはり、ぶっそうな話の方が盛り上がるのかしらん?
個人的には「支那事変から見た辻政信」は良い仕事をした気がしますw。

前半の「四季映姫・ヤマザナドゥさま」が異彩を放っています(藁)。軍板でも
『東方』人口が増えることを祈りますが……来週は例大祭です。地獄です。

次スレは今のところ未定です。仕事がテンパリ気味でして、少し間を置きたいと
思うのですが、気分しだいで明日には立っているかもしれませんw。

あと1KBほど残っていると思いますので、何かご要望・ご批判・リクエスト等が
ございましたらどうぞ。
823名無し三等兵:2006/05/16(火) 00:32:57 ID:rV3snM6J
このスレを見るのがいつもの日課です
イナゾウ中佐様の知識の深さに感嘆いたしております。
お忙しいでしょうが次スレ楽しみにしております。
 
                    警察職員 46歳 男
824名無し三等兵:2006/05/16(火) 15:26:04 ID:???
いつも拝見しております。
軍政と阿片問題にはビックリしました。
自分の即物(戦史書オンリー)的な見方は、
当時を理解するのに非常に危険な事に気が付けました。重重サンコスコ。
825えICBM:2006/05/16(火) 22:33:24 ID:???
埋まる前にとりあえず次スレ立てたら?
立てたら一階級昇進して良いから。
他の人が立てたら、降格ね。
826イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/16(火) 23:03:04 ID:???
昇進はともかく降格はイヤですので、とりあえず次スレを立てますか……。

毎度のことながら索引をつくるのはメチャクチャしんどいですw。
827イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/05/16(火) 23:09:50 ID:???
   ,..-─,ヘ-.、
  (,.r-/_@_r-i   i
  i ノルハノリノノ  ノ|  ご臨終になったスレは白玉楼に送られてきます。
  ルl.リ_゚ ヮ゚ノリ (_,ノ  
   rX,_,i.∞i,〉
   <_/_,§! |〉
   `'-r_,ィ_ァ'
828えICBM:2006/05/16(火) 23:34:38 ID:???
降格がいやならクーデターを起せば良いじゃない。
829イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM
スレが埋まるまでが微妙に長い……。

加えましてパソコンのキーボードの調子がおかしいので、次スレは明日に
立てたいと思います。最近1つキーを押すと2、3文字同時に出てきて
しまうのですw。今も騙し騙しやっています。

キーボードを新しくしようと思いますが、自分は「ノートパソコン」なので
どうしませふw。後ろに繋げば何とかなるかしらん?