日  中  戦  争  ( 支 那 事 変 )

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1名無し三等兵
盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、
南京陥落、徐州作戦、重慶空襲、トラウトマン工作、大陸打通作戦等・・。
日中戦争を軍事的に語るスレッド。
2名無し三等兵:2005/07/13(水) 22:02:30 ID:2hdirx45
2げっちょ
3名無し三等兵:2005/07/13(水) 22:02:47 ID:ZY6CvoJL
3様
4名無し三等兵:2005/07/13(水) 22:05:42 ID:c7FH++mj
<丶`∀´>ウリが微笑みの亀甲縛り4様ニダ
5名無し三等兵:2005/07/13(水) 23:52:45 ID:???
シナ兵弱すぎ
6名無し三等兵:2005/07/14(木) 02:35:03 ID:???
中国の軍事雑誌で 抗日戦争?とかいう感じの名の雑誌が
あるのだけれども どんな内容か知ってる人いる?
7名無し三等兵:2005/07/15(金) 05:45:17 ID:???
>>1
軍事板ローカルルール違反

(6)スレッドタイトルは検索しやすい名前に。検索しにくいスレッドタイトルは重複スレッドの元です。
   ★■◆●などによるスレッドタイトルの装飾は極力控えてください。

 スレタイに空白を入れるな。
8名無し三等兵:2005/07/15(金) 18:55:58 ID:ZghlCnCT
良スレage
9名無し三等兵:2005/07/15(金) 19:17:32 ID:???
シナ軍兵士ってのはベテランぞろいだったんだろ?
10名無し三等兵:2005/07/16(土) 16:34:50 ID:???
軍板で日中戦争スレが盛り上がらないのは何故だろう?
兵器がショボイから?軍事よりも政治的な話になるから?
11名無し三等兵:2005/08/02(火) 10:21:20 ID:???
スレタイに空白入れて、検索できないよにする馬鹿が多いから
12名無し三等兵:2005/08/12(金) 20:13:52 ID:???
上海で一般市民の群れの中に爆弾投下した支那空軍。
13名無し三等兵:2005/08/12(金) 20:19:22 ID:AW/ChdUQ
人気ないねえ
14逝け袋キター!愚痴:2005/08/12(金) 22:05:18 ID:???
至忠ー奉公ー 四つのー文字〜♪
15名無し三等兵:2005/08/15(月) 08:03:11 ID:???
68年前の今頃は96式陸攻で南京郊外の軍事施設爆撃祭り真っ最中。
16名無し三等兵:2005/09/04(日) 21:24:00 ID:bZIwV23R
【中国】抗日戦争を題材にしたオンラインゲームの開発進む
ttp://news18.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1124719107/l50
17名無し三等兵:2005/09/28(水) 16:25:14 ID:???
18イナゾウ中佐:2005/10/06(木) 23:37:43 ID:T9JF/ex1
インドで米式訓練を受けた「新編中国軍」の士気が高かったのは何故か?

●肉などの食料がふんだんに食べられたから? ●米国の優秀な兵器を与えられたから?
●実弾訓練を豊富に受けたから? ●マラリアから潰瘍まで何でも治療してもらったから? 

否。それは彼等が「有給」だったからです。それ以前は、師団給与の総額を受け取った部隊長が
ピンハネをしていました。末端の兵士には、小遣い程度の現金が練兵場で手渡されていたそうです。

逆に言えば、上に挙げた項目の裏返しが、他の大多数のシナ軍の士気が最低だった理由になります。
当たり前のことですが、人が戦う理由に金銭の占める割合は高いのです。
19ゲログロ太夫 ◆lLxLI7HFKk :2005/10/07(金) 00:42:26 ID:???
8 名前:名無し三等兵 投稿日:2005/07/15(金) 18:55:58 ID:ZghlCnCT
良スレage

10 名前:名無し三等兵 投稿日:2005/07/16(土) 16:34:50 ID:???
軍板で日中戦争スレが盛り上がらないのは何故だろう?
兵器がショボイから?軍事よりも政治的な話になるから?

13 名前:名無し三等兵 投稿日:2005/08/12(金) 20:19:22 ID:AW/ChdUQ
人気ないねえ


・・・・・。
20イナゾウ中佐:2005/10/08(土) 00:05:56 ID:???
ではスレの番号も若いことですし、自分が頂きましょう。

ただ今現時刻を持ちまして、このスレは『被害担当艦』になりますw。
21イナゾウ中佐:2005/10/08(土) 00:32:37 ID:da9uYOQG
まずは「盧溝橋事件」直後の、帝国陸軍の『戦局拡大派』と『不拡大派』をまとめると、以下の通り。

『戦局拡大派』
(中央)
・陸軍大臣 杉山元大将 ・陸軍次官 梅津美治郎中将 ・軍務局軍事課長 田中新一大佐
・軍事課員 吉田喜八郎中佐 ・同 西浦進少佐

・参謀本部第一部第三課長 武藤章大佐 ・第二部第七課長 永津佐比重大佐
・第七課員 高橋担中佐        ・同 渡左近中佐

(現地軍)
・関東軍司令官 植田謙吉大将 ・参謀長 東条英機中将 ・参謀副長 今村均少将
・参謀 田中隆吉中佐     ・同 辻政信大尉  
・朝鮮軍司令官 小磯国昭中将 ・支那駐屯軍司令官 香月清司中将 ・参謀 和知鷹二中佐
22名無し三等兵:2005/10/08(土) 00:34:37 ID:???
      _,,..:--─‐-=,,._
    ./;;,ィ''"´ ̄`゙゙ヾ;ミミミ;;、
   ./ミミ/゙       ゙:::゙iミミミ:l
   iミミ′:     :  ..::::_;ミミ;ミ;リ
    ヽ,! ゙ .,;;;..''  ''゙゙;;_ ゙:::ヾ;;;;;;/
.    } :'゙::“:゙:. l::'゙.”:゙;.::'':;;゙irく
.    | ヽ .,r ..:::、   ..::::;;;トl;|    
    |..  :' ''ー;^''::ヽ. :':::::;;;i::ソ  
.    l、 ←‐'‐→、! ..::::;;;l゙´   
     ヽ.. `゙゙゙.,゙´ '":::';;;ハ、   
    _,,/`i、 -:: -:::'::゙:::;;ツ'::::`;、_  \
_,...-‐''" | ゙;、 i":;;:::::;,/':::::::::;!::::`::-、\
     .l゙  ゙ヽ:;,ン'":::::::::::::/::::::::: : -  
     l   .,/;l     ,r"      
     .ヽ /r;:ヘ、 ,,/;''
      ゙ ''::'`'´ ヽィ::'
23イナゾウ中佐:2005/10/08(土) 00:46:42 ID:da9uYOQG
ヒデキを筆頭に小磯国昭や武藤章など、永田鉄山亡き後の「統制派」の
首領格が並んでいます。

統制派が天下を取った「2.26事件」は僅か1年前の1936年、陸軍の至宝・永田鉄山が
斬殺された「相沢事件」は2年前の1935年の出来事です。

他に特筆すべきは、田中新一や今村均、若き日の辻政信大尉でしょう。
「オマケ」で田中隆吉も関東軍の参謀として名を連ねていますw。
24イナゾウ中佐:2005/10/08(土) 00:56:52 ID:da9uYOQG
『不拡大派』
(中央)
・参謀本部参謀次長 多田駿中将 ・第一部長 石原莞爾少将
・第一部第二課長 河辺虎四郎大佐 ・第二課員 秩父宮中佐 
・同 高嶋辰彦少佐 ・同 堀場一雄少佐
・陸軍省軍務局軍務課長 柴山兼四郎大佐

(現地軍)
・支那駐屯軍参謀長 橋本群少将 ・参謀 池田純久中佐
・北平特務機関長 松井太久郎中佐 ・北平大使館付武官補佐官 今井武夫少佐
25イナゾウ中佐:2005/10/08(土) 01:05:03 ID:da9uYOQG
「不拡大派」で特筆すべきは言うまでもなく、石原莞爾でしょう。
ヒデキの終生のライバルは、何時いかなる時でも舞台を共にするのです。

またカンジと同等に重要な人物が、多田駿中将です。後ほど詳しく取り上げる
ことになります。

他に特筆すべきは、河辺虎四郎大佐、そして皇族であり昭和天皇の弟である
秩父宮中佐が名を連ねていることでしょう。
26名無し三等兵:2005/10/08(土) 01:32:37 ID:???
>>イナゾウ
はいはい。支那事変語るなら、別歴くらい目通しておけよ。
27イナゾウ中佐:2005/10/08(土) 01:58:05 ID:???
はいはい。言われなくてもです。ご注進、痛み入ります。

取っ掛かりがないので、最初から話を始めるしかないわけです。
28名無し三等兵:2005/10/08(土) 03:33:21 ID:rQ6ARvAv
中共の謀略にまんまとはまった関東軍が間抜けだったってこった。
29逝け袋キター!愚痴:2005/10/08(土) 10:35:46 ID:???
つまり、夜間や早朝には戦わない訳だ!そうだよな?な?
30名無し三等兵:2005/10/08(土) 10:41:33 ID:???
でも何だかんだいって陸軍は勝ち続けた。
それに対して海軍は・・・。
最近、海軍より陸軍の方が作戦能力は高かったと思うようになった。
中国軍に勝ち続けた陸軍はアメリカ軍にボロ負けした海軍よりも強い!
なんて言うと叩かれそうだけど、どんな戦であれ勝利するのは大したものだ。
31名無し三等兵:2005/10/08(土) 10:50:42 ID:???
どうなんだろう
俺には、陸軍が無駄に戦線を広げて、せっかくの資産を食いつぶし
戦争をせざる終えない泥沼へと引きずり込んだという気がする

戦闘に勝って、戦略で負けたというのが正しいんじゃないかな?
32名無し三等兵:2005/10/08(土) 13:56:30 ID:???
>>21

疑問をいくつか、話を展開させるためにあげておきましょう。

 1/永田門下の優秀な幕僚が多く拡大派だけど、このときはなにを血迷ったのでしょう。
   (東條、武藤、西浦)

 2/この戦争開始時には、悲劇の人松井をはじめとする支那派の重鎮はどう考えていたのでしょう。
   高橋担は支那派でよかったかな?

 3/全軍の信望が厚かった梅津まで拡大派というのは不思議ですね。
   さして大きな問題にならないという自身が、拡大派にはあったんですかねえ。

>>24

  北支駐留軍は全体に不拡大派でよかったですかね。

33イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 00:58:06 ID:RQKX4NUz
>中共の謀略にまんまとはまった関東軍が間抜けだったってこった。

関東軍に取っても「渡りに船」だったということです。

話は『中央』に飛びますが、支那駐屯軍参謀長・橋本群少将より盧溝橋事件の第2報が
飛び込んだとき、軍務課長・柴山大佐は、参謀本部第一部第二課長・河辺虎四郎大佐に
「やっかいなことがおこったな」と電話をかけています。

逆に、二人のやりとりを耳にした武藤章大佐(第一部第三課長)は高らかにそれを嘲笑し、
「愉快なことがおこったではないか」と待ちに待っていたかのように小躍りしました。

そして関東軍参謀長のヒデキは、盧溝橋事件の翌日には、参謀の辻政信大尉を天津に派遣し
支那駐屯軍司令部に「両軍(関東軍・支那駐屯軍)が連帯して、中央に『支那軍を徹底的に
膺懲すべし』と意見具申しよう」と呼びかけています。

橋本群少将は即座に拒絶しています。
34名無し三等兵:2005/10/09(日) 00:59:13 ID:???
・・・軍部が勝手に戦線拡大するんだから政府も大変だよな。
政府も政府で首相が阿呆だったり・・・・帝国ダメポ。
35名無し三等兵:2005/10/09(日) 01:04:47 ID:???
まあ、ある意味マスコミが煽った部分も大きいんじゃねえの?
某、アカヒ新聞とか
36イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 01:25:25 ID:RQKX4NUz
>>33「肩書き」が多過ぎますね…w。もっと簡略化するか、それとも
   知らない人のためにも詳しく補足した方がいいのか……。

かねてより関東軍は、「第二の満州国」の建設計画を練っていました。すなわち、
北支および内蒙古に「親日満の防共地方政権」をつくる構想です。

具体的には「河北・山東・山西・チャハル・綏遠」の5省に地方自治政府をつくります。

そして「両軍の分け前」(*あくまで関東軍の皮算用)ですが、チャハル・綏遠については
張家口に関東軍の大特務機関を、河北・三東・山西については北京に支那駐屯軍の大特務機関を置き、
それぞれ内面指導を行ないます。地図があれば分かりやすいですが、面積は満州国に匹敵します。

もちろん日本人顧問も置きますし、日本軍の部隊も駐屯させます。支那軍の駐兵は認めず、
警察程度に止めます。そして徴税も行ないます。

そして関東軍司令部の思惑には当然、参謀本部の武藤章も一枚噛んでいます。
37イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 01:39:06 ID:RQKX4NUz
こう書くと、関東軍のヒデキの所業は「極悪人」のように思えます。

しかし、カンジが関東軍の参謀として満州事変を起こしたとき、ヒデキは
参謀本部の編制動員課長として「関東軍の暴走」に歯軋りしています。

別のスレでも書きましたが、支那事変では両者の立場がそっくり逆転しており、
運命の皮肉を感じさせます(今度は石原が、ヒデキの関東軍の暴走を止める羽目に)。

中央ではまともな人間も、なぜか関東軍に入ると暴走する「呪い」のようなものが
あります。これこそ石原莞爾の残した「大いなる負の遺産」と呼ぶべきでしょう。
38イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 02:18:10 ID:RQKX4NUz
>でも何だかんだいって陸軍は勝ち続けた。それに対して海軍は・・・。
>最近、海軍より陸軍の方が作戦能力は高かったと思うようになった。

太平洋戦争後半、ヒデキの大臣秘書官だった服部卓四郎が、参謀本部第二課長に
返り咲きます(1943年10月)。
就任直後、米軍の消耗戦略で無力化されたラバウルを視察した服部が考えたことは、

『海軍に依存することのない戦場でしか勝利は望めない』

という結論でした。これは既に陸軍の総意といっても過言ではないでしょう。

そして服部が発案したのが、中国大陸での「一号作戦」、いわゆる大陸打通作戦です。

他には、南方軍の寺内寿一元帥が強く押す、ビルマからアッサムへの侵攻案もありましたが、
ちょうど中国大陸を発進基地とするB-29の爆撃が始まり(この時の目標はまだ台湾)、
前者が遂行されることとなります。 大陸打通作戦にはスレの後半で詳しく触れます。
39イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 02:45:24 ID:RQKX4NUz
>俺には、陸軍が無駄に戦線を広げて、せっかくの資産を食いつぶし
>戦争をせざる終えない泥沼へと引きずり込んだという気がする

泥沼に引きずり込んだのは、近衛首相です。

順番に挙げれば、広田弘毅外相であり、中島知久平鉄道大臣であり、
永井柳太郎逓信大臣であり、その他、木戸幸一文部、塩野季彦司法、
有馬頼寧農林、吉野信次商工、大谷尊由拓務などの閣僚たちです。

トラウトマン工作の現実性については議論が別ですが、和平条件が
軟弱すぎると反対し、無理難題の条件を付きつけ、支那側の最終回答を待たずに
「交渉打ち切り」を強硬に主張したのは彼等です。

少なくとも多田駿中将を筆頭に、陸軍参謀本部は早期和平に懸命の努力をしました。
40イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 03:18:04 ID:RQKX4NUz
いわゆる『国民政府を対手とせず』という近衛の声明です(1938年1月16日)。

自分は別スレで、ヒデキよりも近衛首相を「A級戦犯筆頭」に挙げていますが、
その理由はこの一言に因ります。

長官・次官級の陸海軍人で「交渉打ち切り」に反対したのは以下の通り。

多田駿・参謀本部次長、閑院宮・参謀総長、(石原莞爾・第一部長、*既に関東軍参謀副長へ転出)、
伏見宮・軍令部総長、古賀峯一・軍令部次長

逆に政府側に立って「交渉打ち切り」を主張したのは、陸海軍大臣です。むろん大臣は
内閣の一員だからと言えばそれまですが、陸軍省は一部の者を除いて非常に強気でした。

本来、作戦を担当する参謀本部が強気で、戦備を担当する陸軍省がそれをセーブするはずが
『真逆』になっています。
41イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 03:36:15 ID:RQKX4NUz
最後まで「交渉打ち切り」に反対し、真っ向から激論を続ける多田参謀次長に、広田外相は、

「私の外交経験から判断すると、支那側には和平解決の誠意が認められない。
 交渉は打ち切るべきだ。参謀次長は外務大臣を信用していないのか?」

と詰問し、米内光政海軍大臣も

「統帥部が外務大臣を信用しないのでは、政府不信任だ。内閣は総辞職の他はない」

と脅し詰め寄ります。

1つ格下の次官級であり、立場の弱い多田参謀次長はついに屈服します。間の悪いことに閑院宮、
伏見宮の両総長ともに会議に出席しておらず、この瞬間が日中戦争の泥沼にはまり込んだ瞬間でした。

また言うまでもなく、杉山元陸軍大臣は強気の一点張りです。
42イナゾウ中佐:2005/10/09(日) 03:44:56 ID:???
多田駿参謀次長が、早期和平に最後まで粘っていたのは
もっと評価されていいと思います。

そして多田中将は、東京裁判でこの過程の証言を行なうことになります。

連投が長く続きましたので、>>32 の回答は少し待って下さい。眠い…。
4332:2005/10/09(日) 11:40:12 ID:???
32はあとでもいいですよ。スレ活性化のため感想など書いておきます。長文スマソ

>>36
参謀本部の組織は、変なときに改変をやるので慣れていてもときどきわからなくなります。
第1部は当時から作戦部でいいのですか。
ならば、普通に理解するには、作戦部長のほうが通りがいいかもしれません。
第1部第1課も、やはり作戦課なら、作戦課長のほうがいいかもしれないですね。

>>37
私は全体にヒデキに高評価ですが、失敗をいうと支那事変のときと、
参謀総長時代にビアクで作戦に介入しすぎたことかな。
優秀な戦略家で実戦指揮官ですが、参謀としての戦術指導には難点があります。
あと、満州治安の安定という現地の要求に引きずられすぎた面もあるな。

>>38
ああ、はっきり書いちゃったですね(笑)。
これをいうと、血迷ったとしか思えない1号作戦も一部で囁かれた5号作戦復活案も、
インパール作戦実行許可も、サイパン放棄本土決戦論も説明がつくんですよ。
というか、絶対国防圏そのものが駄目な海軍に対応する、
せめて現地の兵士に腹一杯喰わした上で、
ほとんど陸兵の血だけで持久戦を戦う凄絶な戦略であるわけで。

>>40
前に、イナゾウ中佐に同意した覚えがあります。
44イナゾウ中佐:2005/10/10(月) 02:28:56 ID:cmzuTqWs
早めにお答えできるものから……。

>>32
>>2/この戦争開始時には、悲劇の人松井をはじめとする支那派の重鎮はどう考えていたのでしょう。
 
1937年8月18日、陸軍三長官主催による上海派遣軍の壮行会が行なわれます。その席上で松井石根
軍司令官(陸軍大将)は、上海派遣軍の任務にはっきり『不満だ』と述べています。

上海派遣軍の任務とは、「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、帝国臣民を保護すべし」です。

壮行会後、松井軍司令官は参謀本部で各部長クラスと懇談し、次のような強硬意見を主張します。
多少長くなりますが、意訳すると以下の通り。
45イナゾウ中佐:2005/10/10(月) 02:46:44 ID:cmzuTqWs
>>44の続き

「不拡大・局地解決の方針の放棄にともない、作戦も転換すべきである。国民政府が
 存在するかぎり、支那問題は解決できない。

 蒋介石の下野と国民政府の没落によってのみ、支那問題は解決できる。支那問題が
 解決すれば、対ソ問題もある程度解決し、英国も追随する。

 わが軍は北支より南京攻略に主力を注ぎ、速戦即決をはかるべきだ。5、6個師団を
 もって宣戦布告するのがよい。また、経済封鎖をして英米の支那援助を遮断すべきだ」

冒頭の『不拡大・局地解決方針の放棄』とは、8月15日に発表された「暴支膺懲、南京政府の
反省を促す」の政府声明です。事変の不拡大を近衛に働きかける政府閣僚は誰一人いませんでした。

このように松井軍司令官の考えは、『南京を占領すれば戦争は終わる』でした。これは
いわゆる「支那通」のみならず、軍中央も政府も銃後の国民もそう見ていたと言ってよいでしょう。
4632:2005/10/10(月) 03:12:25 ID:???
>>45

レス多謝。

陸軍支那通の長老である松井石根がこのような思想を持っていたとすると、
陸軍全体(国民全体)の対支認識に問題があったといわなければならないでしょうか。

孫中山を身をもってかばった国民党同志のひとりである松井が、
このような強硬意見を持つには、それなりの理由があったという見方もできるでしょうけれど。
やっぱり、彼は悲劇の人という感じですねえ。
逆にいうと、参謀本部の卓見のほうが不思議に見えてもきます。
47イナゾウ中佐:2005/10/10(月) 03:23:18 ID:cmzuTqWs
>>32
>>3/全軍の信望が厚かった梅津まで拡大派というのは不思議ですね。

梅津美治郎(陸軍次官)は微妙かもしれません。ただ、大臣の杉山元を諌める
ことのできる立場にいたのも事実です。

自分はヒデキと同様、梅津にも好意的ですから、多少無いものねだりをしているかもしれません。

>>21 で梅津を『戦局拡大派』に入れたのは、1934年3月から1935年7月まで支那駐屯軍司令官を
務めていたこと、その間の1935年6月に『梅津−何応欽協定』を結んでいることに因ります。

念のため『梅津−何応欽協定』とは、河北から国民党の支那中央軍の撤退を要求し、認めさせた
協定です。いわゆる河北分離政策であり、南京政府の影響力の除外です。
48イナゾウ中佐:2005/10/10(月) 18:48:14 ID:OQ8WGo/b
>>47 >>いわゆる河北分離政策であり、南京政府の影響力の除外です。

×「河北分離政策」→◎「北支分治政策」に訂正w。

>>43 >>参謀本部の組織は、変なときに改変をやるので慣れていてもときどきわからなくなります。
   >>第1部は当時から作戦部でいいのですか。

第一部は通称「作戦部」でいつでもOKです。

参謀本部の編制改定は自分も混乱することがあります。改定のタイミングは次のように
覚えておくと理解が早いでしょう。計4回です。

●1936年6月(2.26事件後) ●1937年12月(支那事変開始後)
●1940年8月(太平洋戦争前)  ●1943年10月(太平洋戦争中期)

第二課長=作戦課長など名称は統一できればいいのですが、少し難しいかも…w。
49イナゾウ中佐:2005/10/10(月) 23:00:09 ID:cvrv8sRh
>>32 >>1/永田門下の優秀な幕僚が多く拡大派だけど、このときはなにを血迷ったのでしょう。
   (東條、武藤、西浦)

永田鉄山が「対支那派」だったという一説があります。いわゆる『対支一撃論者』と
いう訳ですね。永田亡き後、残された統制派の面々が支那事変にのめり込んでいくのは、
永田の残したレールをそのまま突っ走っていたという説明です。

これだと非常に分かりやすい理由になるのですが、自分は疑問です。
永田の思想は、むしろ石原莞爾のそれに近いのです。すなわち、

●「対ソ作戦の重視」●「軍備技術の近代化」●「満蒙問題の武力解決」です

ここで注意すべきは、最後の項目です。武力解決すべきは、あくまで『満蒙』問題
(対ソ戦略)であって、決して『支那』に深入りする意図はなかったはずです。
50名無し三等兵:2005/10/10(月) 23:19:07 ID:???
石原莞爾は天才だったかもしれないが、他人は天才ではないってことを理解していただろうか?
51名無し三等兵:2005/10/10(月) 23:23:50 ID:???
ちょっと亀レスですが

不拡大派の代表的人物である柴山は梅津の数少ない腹心の一人です。
そのことからいっても、梅津を単純に拡大派と断じることは出来ないと思います。
例の大本営連絡会議のときは、彼は柴山と一緒に現地視察にいっていませんでした。
彼と柴山がもしいたらと考えますが・・・・・まあ結局は何も変わらなかったでしょうね。
何といっても明哲保身の人ですから。身を捨ててまで何かをするということはないでしょう。

多田次長の先見性はノモンハン事件でも発揮されてますね。沢田茂中将が戦後手記に
書いてます。沢田中将にとっても多田中将の発言は印象深かったんでしょう。
何せ沢田中将は次長としてノモンハンの後始末をしたんですから。
52イナゾウ中佐:2005/10/10(月) 23:39:30 ID:cvrv8sRh
ヒデキの関東軍が「第二の満州帝国」を建国しようと暴走したのは、
残された『統制派』をまとめるリーダーがいなかったからです。

このときの「拡大派」の動きは、当面ソ連は動かないだろうから
火事場泥棒的に支那から切り取ってしまおう、という程度です。
第二の石原となるべく勲章が欲しかったと言えばそれまでですが。

むろん永田が生きていれば『指導力』を発揮して、拡大派の暴走を
止められていたかどうかは微妙です。しかし、一万歩譲ったとしても
戦場を「北支」に限定しようとするはずです。

永田は、石原のように「上海に陸軍を出すな」と言わないでしょう。そして
おそらく南京占領までは史実の通り進むでしょう。

しかし、南京で必ず「手打ち」にするはずです。決して支那との泥沼の
全面戦争は避けただろうと自分は思います。
53名無し三等兵:2005/10/10(月) 23:48:27 ID:???
>>32
>北支駐留軍は全体に不拡大派でよかったですかね。

よくないです。不拡大派だったのは参謀長の橋本と参謀の池田純久ぐらいです。
運の悪い事に、高潔な人格で知られる田代軍司令官は当時死の床にありました。
梨本祐平「中国の中の日本人」を読むと、当時の支那駐屯軍司令部内の空気が
良くわかります。当時支那駐屯軍には、和知を筆頭に、土肥原と組んで冀東政府を
つくった専田や茂川などの事件屋が揃ってました。
北支交通の嘱託として司令部に詰めてた梨本氏は、茂川や専田にちくちく嫌味を言われて
居心地悪かったそうです。東大で経済をやった池田とは同じインテリで話があったようですが、
池田もまた軍司令部の中では浮き上がった存在だったそうです。
ただ和知だけはさすがに出色の存在で、彼とは話がはずんだそうです。しかしそうやって
彼と長話をしてると、今度は池田が部屋の隅からいや〜な目でこっちを睨むんだとかw

参謀本部の部課については
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/index.html
の参謀本部というところが参考になります。
54イナゾウ中佐:2005/10/10(月) 23:59:14 ID:cvrv8sRh
>>50
>>石原莞爾は天才だったかもしれないが、他人は天才ではないってことを理解していただろうか?

石原莞爾が天才であったことを疑う余地はありません。ただし、人格的には

「馬鹿には我慢ができない、頭の切れる馬鹿」であったことも事実です。
(元ネタ分かる方いますか?)

ヒデキが永田鉄山に「べったり」だったのはよく知られていますが、意外に石原莞爾と
永田の関係も深いのです。

そもそも石原中佐が満州事変で使った「二四センチ榴弾砲・2門」を本土から
密送したのは、永田鉄山大佐(と重藤千秋大佐〔参謀本部支那課長〕)です。

そして1935年に、石原が参謀本部作戦課長になるのを支持したのも永田鉄山です。
55名無し三等兵:2005/10/11(火) 00:02:25 ID:???
>>53の続き
池田は永田鉄山の弟子を自認する人物ですが、
支那事変の前年、関東軍参謀長板垣少将が、武藤、花谷、田中といった参謀を
引き連れて、支那駐屯軍の多田軍司令官を訪問したことがありました。
このとき板垣は内蒙工作を提案、しかし同席した池田参謀はこれに強く反対しました。
花谷や田中との間で激しい論戦が起りましたが、結局多田少将が池田を支持したことで
会談は物別れに終わりました。その後、田中隆吉が綏遠事件を引き起こすのは有名な話
ですね。この事件については、松井忠雄「内蒙三国志」が面白いです。
後にこのことについて、岡村寧次が板垣を面詰すると、板垣は
「田中にはおもちゃを与えておかないと」と言ったそうです。どこまで本気の発言かは
判りませんがね。
とにかく、この事件や冀東政府設立などの、関東軍の支那駐屯軍軽視の姿勢が、
石原莞爾をして支那駐屯軍を増強せしめたといえるでしょう。
56イナゾウ中佐:2005/10/11(火) 00:12:35 ID:???
いささか持ち上げ過ぎですが、

永田鉄山こそは「右手に東条英機、左手に石原莞爾」と両手で使えた
可能性のある人物です。

>>何といっても明哲保身の人ですから。身を捨ててまで何かをするということはないでしょう。

梅津さんは、評価の難しい人物ですね。惜しいというか、何というか、やりようによっては
もっと歴史に名を残せた人だと思います。

>>参謀本部の部課については

ギエーッ! >>48 で改定は4回なんて書いてしまいましたよ。大きなのが4回と
いうことで勘弁してくださいw。支那駐屯軍については、またどこかで補足します。
57イナゾウ中佐:2005/10/11(火) 00:15:08 ID:???
と思ったら、53さんが詳しく書いてくださいました。
58名無し三等兵:2005/10/11(火) 00:16:31 ID:???
>>55
ちょっと訂正
綏遠事件自体は、支那駐屯軍増強の後に起ってますので、駐屯軍増強の原因とは
言えなかったですね。まあそれ以前から、察東事変だなんだと、関東軍は管轄外の
内蒙に手を突っ込んでましたが。
今村参謀副長が内蒙工作の費用をねだりに東京まで行って、梅津次官に説教された
のは有名な話ですね。今村副長は、支那事変勃発後も、東京まで強硬論をぶちに行って、
今度はかつての部下の河辺虎四郎の説教されてます。昭和の聖将も、関東軍参謀副長
時代はどういうわけかさっぱりです。
59名無し三等兵:2005/10/11(火) 00:30:41 ID:???
これは全く余談ですが、秋永月三、池田純久が近衛や皇道派からアカ呼ばわりされてたのは
有名な話ですね。2人とも大分出身で、東京帝大に派遣されて、経済を学んでました。
池田は自らを統制派と呼ぶ数少ない人物です(基本的に軍人は派閥の存在を認めたがりません)。
同じ大分の先輩というだけで、梅津もアカ認定を受けてましたが、池田によれば梅津とは
全く親しくなかったようです。このへんが近衛の軽率なところでしょうか。
6032:2005/10/11(火) 00:34:12 ID:???
>>53
くわしい説明、ありがとうございます(文献紹介までしてくださって)。
北平における現地解決努力のイメージが強すぎたようですね。
陸軍有数の経済通である池田が事件屋さんと一緒では、気苦労が耐えなかったことでしょう。

>>56
ヒデキと石原が協力できたら、永田は寝ていても陸軍最強の布陣ですなあ。
61名無し三等兵:2005/10/11(火) 00:55:49 ID:???
支那駐屯軍に関しては、田代皖一郎中将の死が痛かったと思いますね。
佐賀出身でありながら、皇道派とは一線を画していた、中々の人物だったようですので。

専田盛寿が強硬論を唱えたのは、せっかく自分が作った冀東防共自治政府を
つぶされたくないという考えからだという人もあります。
分治工作のため、土肥原賢二が北支に乗り込んできたとき、専田は上司である
多田軍司令官の意に反して、土肥原に協力し、殷汝耕を擁して冀東政府を設立しました。
この件に多田少将はかなり怒って、土肥原少将を軍司令部に呼びつけ長時間叱責したそうです。
二人は仙台地方幼年学校の1期生と2期生であり、所謂坂西公館で坂西利八郎中将の助手を
務めるなど、同じような経路を辿った支那通同士でしたが、考え方に違いがあったようですね。
62イナゾウ中佐:2005/10/11(火) 22:16:33 ID:xYpSo3Qa
>>53 >>ただ和知だけはさすがに出色の存在で、

和知鷹二中佐(支那駐屯軍・参謀)の奥さんにも面白いエピソードがあります。

日ごろ懇意にしていた『大阪毎日/東京日日新聞』の天津支局長である橘善守記者に
盧溝橋事件の速報を電話で教えてあげたのです。

「橘さん、主人がただ今、追っ取り刀で出動しましたよ…」

深夜の支那駐屯軍司令部に自動車で飛ばした橘記者は、盧溝橋での日中両軍の激突をいち早く知り、
おかげで『大阪毎日/東京日日新聞』の号外は他社より2時間以上早かったそうです。

橘記者が「第一報」を本社に打電した30分以上後、支那駐屯軍司令部から天津駐在の各新聞、
通信社特派員に参集が求められました。
63イナゾウ中佐 >>62 の続き:2005/10/11(火) 22:40:22 ID:xYpSo3Qa
各社の記者は、危篤状態だった支那駐屯軍司令官・田代皖一郎中将の
訃報だろうと思いながら、人力車でゆっくり司令部に向かったそうです。

>>58 >>昭和の聖将も、関東軍参謀副長時代はどういうわけかさっぱりです。

そうなんです。関東軍に行くとみんなおかしくなるんです。今村さんも満州事変の時は
正常でした。当時、今村大佐は参謀本部・作戦課長として部長代理を務めていましたが
(作戦部長の建川美次少将は満州に出張中)、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将による無断越境を聞くと

「統帥の大権を犯す」として激怒します。

しかし、周りの参謀本部と陸軍省の大多数は越境に対して快哉を叫び、
今村さんは孤立します。ついには今村がクリスチャンであることから、

「アーメン課長を追放せよ!」と個人攻撃の声まで上がる始末w。
64名無し三等兵:2005/10/11(火) 22:46:01 ID:???
統帥権の独立ってのは、軍事的な安全弁のはずなのに
三長官会議とかのように、軍令・軍政・教育の長が会議して意見を統一したり
関東軍の独走に、議会が予算を出したりするおかげで戦争が勃発した。

昭和のこの時代ってのは、制度的な安全弁が全て機能しない時代なんだよなーー
統帥の大権ってのは、予算とは関係ないのになんで若槻内閣が臨軍費だしたのやら……
独立した統帥権ってのは、軍事的な安全弁のはずだったのに。
65イナゾウ中佐:2005/10/11(火) 23:03:26 ID:xYpSo3Qa
その今村が関東軍参謀副長(少将)になると一変します。

田代中将死後、支那駐屯軍司令官の後任となった香月清司中将を天津まで
追いかけ、「このさい思い切って…」と煽るのです。

その時のお供は、田中隆吉と辻政信という極悪コンビw。
66イナゾウ中佐:2005/10/11(火) 23:23:05 ID:xYpSo3Qa
まあ、「統帥権」は軍部の中でも一人歩きしていますからね。

陸軍大臣といえども、場合によっては「統帥権」を盾に作戦の詳細を
知らされなかったりします。常識で考えても異常です。

陸軍大臣の使者である柴山兼四郎大佐(陸軍省軍務課長)が香月司令官に
「不拡大方針」を伝え、兵力の運用はあらかじめ中央の承認を受けるように
伝達したところ、香月司令官は何と答えたと思いますか?

「それでは突発時に対応できない。陸軍大臣といえども用兵に関与するのは
 統帥権の干犯である」

と答えました。いわんや「政府の方針」なんて屁みたいなものでしょう。

個人的には、統帥権問題よりも「軍部大臣現役武官制度」と「閣内不一致=内閣総辞職」
という明治憲法の欠陥の方が大きいと思います。
67名無し三等兵:2005/10/11(火) 23:24:56 ID:???
>>66
始末書書けって言われたんでしょ、柴山は。
68イナゾウ中佐:2005/10/11(火) 23:39:21 ID:???
余談ですが、なぜ陸軍大臣と参謀総長が兼任できなかったというと、要は
袁世凱、あるいは西太后みたいなのを出さないためです。

「何を馬鹿な」とお思いになるかもしれませんが、皇室と重臣たちが第一に
心を砕いてきたのはこの事です。

太平洋戦争末期、軍政と軍令の両方を握ったヒデキに、秩父宮は3度
「詰問状」を出しています。
69イナゾウ中佐:2005/10/12(水) 00:10:06 ID:???
あまりに理不尽…。
70イナゾウ中佐:2005/10/12(水) 00:23:41 ID:GdvZv/pY
ここで一度、スレの結論(の一部)を書いてしまいます。

●なぜ帝国陸軍は支那から撤兵できなかったか?

A.皇道派の巻き返しを怖れたからです。

なぜなら、支那事変(日中戦争)は2.26事件直後、天下を握った統制派が翌年に
始めた戦争だからです。当然、支那からの撤退となれば責任追及が始まります。

それは海軍との主導権争いや、国民から向けられるだろう失望と怨嗟の声より
遥かに具体的で、まざまざと想像できる「内側の恐怖」だったでしょう。
71俄将軍:2005/10/12(水) 08:34:05 ID:???
>>64 >>66
明治憲法制定前後からの流れがありますから、統帥権独立も、政党間での政争
の具となっていたことも。

政党内閣の時代では、軍政改革と軍縮が、政党と軍部の間での争点になってい
ますし、国防会議と国家総動員の機関設置が両院で可決され、26年に陸軍
省は整備局を新設し、動員課長には永田鉄山中佐が。

国家総動員体制、総力戦体制も、政党と軍部の主導権争いという見方もできる
のではなかろうか、などと。
72俄将軍:2005/10/12(水) 08:42:53 ID:???
>>71
軍部、官僚、政党、枢密院、元老など、権力分散のシステムは、元老がコント
ロールすることによってのみ機能していたのが、元老を失い暴走しただけ、
ということになるのか。
73イナゾウ中佐:2005/10/12(水) 23:29:12 ID:ojHnIiNm
>>72

1914年、陸軍の「平時25個師団構想」や海軍の「八・八艦隊計画」など、陸海軍による
予算配分の争いが余りにも激しいことから、元老・井上馨の呼びかけで『防務会議』
なるものが作られます。

首相が議長となり、陸海軍の大臣と統帥部長、外相、蔵相が出席し、8年間ほど
軍事費配分の調整が図られてきました。

しかし、1922年に山県有朋が死去するとこの制度は廃止されてしまい、再び陸海軍による
軍備拡張競争は「内閣総理大臣の監督」から外れ、抗争化します。

仰られるとおり、元老を失い暴走したというのは的を射ていると思います。
74イナゾウ中佐:2005/10/12(水) 23:49:09 ID:ojHnIiNm
>>71 >>26年に陸軍省は整備局を新設し、動員課長には永田鉄山中佐が

永田の偉大な功績の一つに「国家総動員計画の立案」があります。ヒデキは
これを読んで感銘し、以後、永田を師事します。

1924年に欧州視察旅行から帰国した永田は「総力戦に関する報告書」を発表、
この論文が陸海軍の首脳を驚愕させ、ご指摘のとおり整備局・動員課が新設され、
永田が初代の動員課長の椅子に座ることとなります。

ちなみに永田の後任はヒデキです。永田の意向を受けて、国家総動員体制の
研究を引き継ぎます。
7532:2005/10/12(水) 23:52:53 ID:???
イナゾウ中佐、いつもご苦労様です。

>>69
ここで、「理不尽」という言葉でおっしゃりたいことはわかるような気がします。
しかし結局、ヒデキたんは人生でただ一人に理解してもらえばよく、
そして、そのただ一人だけはヒデキたんを確実に理解して終生評価してくれたのだから、
敗軍の将としてはやはり幸せだったのだと思います。
76イナゾウ中佐:2005/10/13(木) 00:05:53 ID:5Tnh33wD
統帥権の問題に戻るならば、なぜ日本には陸軍と海軍の「統合幕僚本部」と
「統合幕僚長」が無かったのか? という問いについても考えなければ
ならないでしょう。

いえ、設問が正しくありませんでした。両者は共に日本にありました。途中で
無くなっただけです。
77イナゾウ中佐:2005/10/13(木) 00:13:54 ID:???
>>32

こちらこそ、このような『被害担当艦スレ』に毎度お付き合い頂きまして
まことにありがとうございます。で、大変申し訳ないのですが、>>69

>>あまりに理不尽…。

は、>>67

>>始末書書けって言われたんでしょ、柴山は。

に対するレスでございました。紛らわしい書き方で申し訳ございません。

ヒデキたんを擁護して頂いて感激です。ただ一人というのは、昭和天皇で
よかったですかね。
7832:2005/10/13(木) 00:25:32 ID:???
>>77
はい、そういう意味で書きました。

統合参謀本部問題は昭和19年に陸軍大臣参謀総長兼務問題などとも関係してくるわけで、
そちらの方向の話題かと誤解しました。早とちりおわびします。

無茶な構想を打ちだす海軍と参謀本部の暴走を止めるために、
ヒデキたんと昭和天皇は日夜苦しんだだろうなあと、
想像するだに、ふたりの心痛が思いうかんで気の毒になります。

トップが総力戦を理解していてもだめなものはだめなんですね。
79イナゾウ中佐:2005/10/13(木) 00:42:01 ID:5Tnh33wD
>>68 の秩父宮についてですが、「強大な権力者」が生まれることに対する
皇室の危機感というのも分かる気がするのです。本能と言ってもいいでしょう。

その最大の原因となったのが、大正天皇が虚弱だったことです。皇太子時代は
特にひどく、周辺の人物の日記には

「殿下の病気は非常に悪く、実際にはあらゆる兆候から肺炎に罹っていることを
 示している。また、幼年期に髄膜炎に罹ったことがるので、おそらく潜伏していた
 結核菌がチブスに罹ったのを契機として、再び活発化したのだろう」

「東宮殿下の健康状態は非常に悪い。侍医団の話では回復は望めないと言う。衰弱の進行は
 遅いが、もう勉学は無理だろう。まだある期間はもつだろうが、回復は難しいとのこと」

などと書かれています。

>>68 で書きました袁世凱や西太后うんぬん、というのはそういうことです。
80イナゾウ中佐:2005/10/13(木) 00:52:33 ID:???
皇太子である裕仁親王が、大正天皇の摂政に付いてようやく
元老や重臣、宮廷関係者は胸を撫で下ろしたとか。
8132:2005/10/13(木) 01:01:36 ID:???
>>79
よくいう「幕府的存在」とはそのような意味なんですねえ。

78での私のレスは混乱して誤解の余地がありますね。
まるで、75の時点で76を予想していたみたいだ。重ねてお詫びします。
82名無し三等兵:2005/10/13(木) 09:23:10 ID:???
元老制の問題ってのは、元老の規定が明治憲法にも法令にも全く規定されておらず
馬上天下を取った元老の功績と発言力のみで、明治政府は動かされてきた。

だから最後の元老である西園寺公望がいなくなって、昭和の日本は迷走を始めたとも言える。
ドライバーがいなくなったけどアクセルに重りを付けた自動車みたいなものだ。
83名無し三等兵:2005/10/13(木) 09:33:04 ID:???
>>82
元老といっても公家出身の西園寺だけに、その影響力は山縣とはかなり違う気もするが。
政党の影響力拡大と西園寺詣でにも限界があったんじゃ。
84名無し三等兵:2005/10/13(木) 13:23:28 ID:???
政権交代、大命降下を考えると西園寺公望がいるときでも迷走していたのかもしれん。
85俄将軍:2005/10/13(木) 19:26:20 ID:???
>>73
>軍備拡張競争は「内閣総理大臣の監督」から外れ、抗争化します。

内閣総理大臣も大命降下、政党の総裁、幹部の公選論など、官僚派、党人派な
どプロセスに、問題を抱えていたわけですから、「政府の中の政府」である
軍部は、ますますコントロール出来なくなるでしょうね。

>>74
>●「対ソ作戦の重視」●「軍備技術の近代化」●「満蒙問題の武力解決」です

総力戦体制に備えたはずが、>>49で指摘なされた「満蒙問題の武力解決」の中
国への影響を読み違えたのではなかろうか、などと思うわけですが、北支も
含めて、何時、何処から泥沼化ということになり、国民党との政治的な解
決の為の条件は、ということになるのか。
86名無し三等兵:2005/10/13(木) 21:25:43 ID:???
>>76
明治19年に参謀本部長(陸軍)の下に陸海軍の参謀本部が置かれるという事実上の
統合幕僚本部が成立した。しかしこれは海軍の伸張に合わせて3年でなくなってしまった。
その後、戦時大本営条例で、戦時に於いては参謀総長が陸海軍を指揮するように定められたが、
これも海軍の発展により、日露戦争前には改正されてしまった。
詳しい経緯はみすず書房の現代史資料(大本営)を読むといいが、
簡単な説明はttp://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/staf/dairiku/dtop.htmlとか
ttp://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/jiten/daihonei.htmlにある
87イナゾウ中佐:2005/10/14(金) 00:00:45 ID:2piTiXhJ
>>81 >>よくいう「幕府的存在」とはそのような意味なんですねえ。

もし誰かが、陸海軍それぞれの統帥部の上に「統合幕僚本部」あるいは「統合参謀本部」を
作ろうとすれば、彼の政敵は必ず

「そのような大きな権力を持った将軍は、いつの日にか病弱な天皇を脇に押しやり、幕府を
 作ることになる」

と周りに囁き、反対勢力を結集したでしょう。>>79 は、伊藤博文の周りの話です。伊藤は
「日本のビスマルク」と呼ばれた人物ですが、そのようなことはしませんでしたし、出来ませんでした。

1909年に伊藤が暗殺された後、陸海軍の統帥を一本化し、同じく陸海軍の軍備拡張を調整できるのは
山県有朋ただ一人となります。
88イナゾウ中佐:2005/10/14(金) 00:29:28 ID:2piTiXhJ
>>87 の続き。

山県は伊藤とは異なり、終身の元帥・陸軍大将かつ、国家の元老です。山県は自ら
軍備拡張競争の先頭に立ち、陸軍の予算を増やすことに傾注します。

山県とすれば、日露戦争の直前に自らの手で「統合幕僚長制度」を廃止してしまったことを悔やみ、
是が非でも復活させよう(もちろん陸軍上位で)と考えたことでしょう。しかし、うかつに身動きは
取れませんでした。なぜなら――、

言うまでもなく海軍首脳と彼の政敵が、「山県は幕府を作ろうとしている。病弱な天皇を押しのけ、
絶大な権力を握ろうとしているのだ」と非難を始めるに違いないからです。

またそれ以前に、山県は「宮中某重大事件」に引っかかり、手痛い目に遭います。
89イナゾウ中佐:2005/10/14(金) 01:08:24 ID:2piTiXhJ
>>73 で述べたように、山県の出来たことは『防務会議』で調整を図る(陸軍の利益を
   最大限主張して)ことだけです。  

山県亡き後は「防務会議」も廃止され、陸海軍の利害調整(統帥)は振り出しに戻ります。

そして最後の元老として登場するのが、西園寺公望です。もはや西園寺は「防務会議」のような
陸海軍の利害を調整できる機関をつくることは不可能と諦めていたはずです。言うまでもなく、
「統合幕僚本部」など夢のまた夢です。 

そこで西園寺が最終的に考えたのは、『内大臣』に穏健的な人物を構え、自身の指名した首相と
一致協力のもと、陸海軍の強硬派を抑えていく長期構想でした。つまり、内大臣に陸海軍の
調整能力をもたせる訳です。

西園寺の腹積もりとすれば、海軍の長老で国際協調派である斉藤実を内大臣に据え、いずれその後を
同じ立場の岡田啓介が継げばよいと考えていたのでしょう。しかし、2.26事件で全てがぶち壊しになります。

しかし、内大臣が重要な役割を果たすというシステムはその後も受け継がれ、それは開戦前の木戸内大臣を挙げれば済むことでしょう。
90イナゾウ中佐:2005/10/14(金) 01:55:40 ID:???
ちなみに西園寺が最後に首相を推薦したのが、1937年の近衛内閣です。

以後は老齢を理由に推薦を断り、内大臣を中心とする重臣との協議体制に
移ります。

そしてヒデキを首相に推薦したのは木戸内相です。
91イナゾウ中佐:2005/10/14(金) 02:28:58 ID:2piTiXhJ
>>85
>>総力戦体制に備えたはずが、>>49で指摘なされた「満蒙問題の武力解決」の中
>>国への影響を読み違えたのではなかろうか、などと思うわけですが、

永田鉄山についてはひとまず置いておきます。石原莞爾について言うならば、満州事変後
1935年に参謀本部作戦課長に就き、日本が近代国家としての総力戦体制に欠けていることに
「初めて気付いた」と言います。

また、極東ソ連軍に対する日本陸軍の対ソ戦備が非常に遅れていることにも
同様に驚くのです。

ここから高度国防国家の建設と、対ソ戦備の増強と近代化、中国との互助共栄に基づく
独自の満州建国へと石原の理想が傾くこととなります。
92イナゾウ中佐:2005/10/14(金) 02:43:36 ID:???
ぶっちゃけ満州事変当時、石原は若気の至りというか、才気走っていたというか
あまり深く考えていなかったと思いますw。

「満蒙問題の武力解決」について言えば、1928年の『一夕会』第一回会合決議に
既にありますから、その辺りまで遡って考えなければならないでしょう。

ちなみにその時の決議は、以下の通り。

●陸軍の人事を刷新し、諸政策を強力に推進する
●満蒙問題の解決
●荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を擁護して、正しい陸軍を再建する

「一夕会」は石原が所属していたグループです。軍閥についてはまた触れます。
93俄将軍:2005/10/14(金) 19:04:11 ID:???
>>90-92
日露戦争後、満洲権益に関して伊藤博文と児玉源太郎の間で、満洲を欧米にも
解放するか否かで、意見の対立がおきているわけですが、陸軍の主張が。

1911年の辛亥革命後、翌年に中華民国が誕生するわけですが、中華民国と
の関係について、陸軍、山縣有朋などは、どう考えていたのか、ということ
になるのだろうか、などと。

世界恐慌後、経済ブロックが形成されるわけですが、満州事変後、北支分離政
策、広田三原則に繋がり、経済問題を解決する為には、中国問題を解決しな
ければという第一次近衛内閣成立後、盧溝橋事件が勃発したということに。
94イナゾウ中佐:2005/10/14(金) 23:52:29 ID:CdqpJp5R
【今日は何の日?】10月14日 東条陸相が閣議で日米交渉の打ち切りを主張(1941年)

「米国の圧迫に屈したら支那事変の成果を失い、満州国も、朝鮮統治も危うくする。
 支那事変は数十万の戦死者(注:約18万4千人)とそれに数倍する負傷者を出し、
 数百億の国費を費やしている。支那からの撤兵は退却だ! 撤兵とは降伏だ!」

と興奮して叫ぶ。東条陸相は同日夜、鈴木企画院総裁を通じて近衛首相に次の伝言。

「その後さぐると、海軍が戦争を欲しないようである。それなら及川海軍大臣は、
 なぜ自分にそれをはっきり言ってくれないのか? そうすれば、自分としても、
 また考えなければならない。

 海軍大臣が全部の責任を総理に任せているのは、まことに遺憾である。海軍の腹が
 決まらないのであれば、9月6日の御前会議の決定は、根本的にくつがえることになる。
 したがって我々は(天皇に対する)輔弼の職責を尽くせなかったことになる。よって、
 このさい内閣は総辞職する以外に途はない。後継内閣の首班は東久邇宮殿下が最適任だと思う」
95名無し三等兵:2005/10/15(土) 00:00:56 ID:???
96イナゾウ中佐:2005/10/15(土) 00:11:15 ID:bEESXWPF
【今日は何の日?】10月15日 

近衛首相、天皇に>>94 を報告するも、木戸内大臣は皇族が和平の決断を下すことに絶対反対

ついでに翌々日まで挙げておきますと、

【今日は何の日?】10月16日 追い詰められた近衛首相は、内閣を総辞職
【今日は何の日?】10月17日 東条英機前陸相に組閣の大命が降下
9732:2005/10/15(土) 00:34:08 ID:???
>>96
決定的なときに、ヒデキは本当にいいことをいうのですが、
過激すぎて、というか本質を衝きすぎてヒデキ案は採用されないのですよね。

ヒデキがみなが口にできない正論をあっさりといって実行の準備と決意を示すと、
いらぬ憶測、情実、怯懦から、みなは沈黙してスルーしてしまう。

それではと、ヒデキが別の方向で努力すると、
みながやっぱりあちらの案のほうがよかったと文句をいいだすわけで。
98イナゾウ中佐:2005/10/15(土) 01:50:01 ID:4Wta91S/
>>32
ご指摘の通り、ヒデキの >>後継内閣の首班は東久邇宮殿下が最適任だと思う、は
秀逸だったと思います。

なぜヒデキが「閣内不一致」を暴露する >>94 のような意見を閣議で叫んだか
というと、(1941年)10月7日、10月12日、そして10月14日の閣議前にも、頻繁に近衛から
「中国から撤兵すべきだ」という説得を受けていたからです。当然、ヒデキは陸軍大臣として
陸軍の利益を主張しますから、断固反対を続けます。

しかし、次第にヒデキはある疑念が生じます。首相のみならず外務大臣も、そして海軍も
本当は対米戦に自信がなく、中国から撤兵してでも戦争を避けたいと考えているのではないか?と。

そして、3ヶ月前に外相の松岡洋右が内閣総辞職してでも閣外に放逐されたように、自分も
追われるのではないか?と。
ヒデキの性格からしてメラメラと闘争心に火が付き、>>94 を半狂乱に叫んだのだと思います。
99イナゾウ中佐:2005/10/15(土) 02:25:51 ID:4Wta91S/
ヒデキは言いたいことを言って満足だったかというと、無論そうではありません。
「とんでもないことを喋った」と気が動転し、後悔していたでしょう。

何より内閣をぶち壊し、もし「本当に海軍が対米戦に自信が無かったら?」と
不安を覚えたはずです。

ではどうすればいいか? 9月6日の御前会議で決まった帝国国策遂行要領を
覆すほかありません。陸軍参謀総長と海軍軍令部長の『両統帥部長』を抑える
唯一の方法は、皇族が首相になることです。

その日の夜に鈴木企画院総裁を通じて、せめてもの罪滅ぼしとばかりに近衛に代案を伝えます。
近衛もこれしかないと思ったでしょう。翌日15日、近衛が東久邇宮を訪ねると、なんと
東久邇宮は首相になることに応じるのです(!)。

しかし木戸内相が翌日これに反対し、激怒した近衛が内閣を投げ出したことは既に述べました。
ヒデキの苦悩は続くことになります。そして運命の10月17日が訪れました。
10032:2005/10/15(土) 02:49:22 ID:???
>>99
この時期、武藤が海軍に泣かんばかりに真意を語るように懇願したり、
佐藤が宴会で海軍の本音を聞き出せといってヒデキを怒らせたり、
ヒデキの爆弾演説にあの武藤が切れて怒りだしてしまったり、
海軍の真意をめぐる陸軍省部の苦悩はすさまじいものがありますね。
101名無し三等兵:2005/10/16(日) 20:15:53 ID:???
米国と中国問題で収拾がつかなくなって、海軍の弱腰を理由に陸軍内部の強硬派を押さえ込もうとしているだけで、
これは陸軍と海軍の間でのチキンレースなのでは?

内相の反対も皇族に傷がつくのを恐れたのでしょうが、一種のチキンレースであることには変わりはないでしょうし。
102名無し三等兵:2005/10/16(日) 20:27:07 ID:???
皇族内閣に関しては天皇も反対だからどうにもならんよ。
開戦の責任は陸海軍に等分にある。なぜなら陸海は同じ権限を
持ってたんだから。戦後何から何まで陸軍に押し付ける傾向があるがね。
ただし東條に関しては、関東軍参謀長、陸軍次官として、察哈爾出兵、二正面作戦放言、
あげくのはてには不拡大派最後の砦であった多田参謀次長との心中辞職と、
事変拡大に大きく寄与してるだけに、同情など一切できんね。
10332:2005/10/16(日) 21:00:18 ID:???
>>101
海軍側から出た説明だとそうなっていますが、
国力的に戦争は無理と主張することもできるので、必ずしもそうではないです。
戦力判断のための一部の数字は海軍だけが権威をもって主張できるので。

むしろ海軍内部でも、意見がまとまっていなかったことが重要ではないかと。
対米戦では軍令部と海軍省の中堅層強硬派が楽観的で、省部上層部は慎重なわけで、
そのあたりが問題なのだと思います。
104イナゾウ中佐:2005/10/16(日) 21:57:25 ID:mzg7SBqW
>>101 >>海軍の弱腰を理由に陸軍内部の強硬派を押さえ込もうとしている

ご名答。

>>一種のチキンレースであることには変わりはないでしょうし。

『支那撤兵の責任』を誰が被るかという壮大な「ババ抜き」です。

なぜ>>99 で木戸内相は「東久邇宮内閣」に反対したのか? 皇族内閣だから
という理由だけではありません。撤兵に際して「天皇の裁可」を求める重大な
役割を背負わされるのは木戸自身になるからです。

皇族内閣であるからこそ、『不義不臣の奸賊』の中心人物として、陸海軍の強硬派に
標的とされること間違いないでしょう。
105イナゾウ中佐:2005/10/16(日) 22:11:43 ID:mzg7SBqW
>>102 >>皇族内閣に関しては天皇も反対だからどうにもならんよ。

あ、言っちゃったw。では、もう少し補足をします。以下、木戸日記より要約。

「日米戦うや否やの緊迫した空気の中で、東久邇宮は『この局面を打開するには、
 天皇陛下が裁断される以外に方法なし』と言った。陛下は、『軍も困ったものだ』
 とたびたび言われたそうである。

 そのとき東久邇宮は、『陛下が批評家のようなことを言われずに、いけないと思われたら
 いけないと言われるべきではありますまいか』と申し上げたと承っている」
106イナゾウ中佐:2005/10/16(日) 22:38:40 ID:mzg7SBqW
>>皇族内閣であるからこそ、『不義不臣の奸賊』の中心人物として、陸海軍の強硬派に
>>標的とされること間違いないでしょう。

補足。仮に「全面撤兵」が実現した場合、陸軍内部で「支那事変」の責任追及の声が
巻き上がるでしょう。それは当時、陸軍大臣だった杉山元、次官だった梅津美治郎、
もちろんヒデキや武藤章も標的となります。

すなわち事変を拡大させた「統制派」の粛清を意味します。そして怨嗟の声を挙げるのは
支那事変の前年(2.26事件)にパージされた皇道派の面々です。

そして木戸は「皇道派の恨み」を買っています。2.26事件の際、反乱軍に同情的で理解のある軍指導者の
暫定政権をつくるべきだと主張する、陸軍大臣・川島義之や伏見宮・軍令部総長の意見に反対し
あくまで現内閣で時局収拾を行なう(武力鎮圧)すべきと木戸は主張し、天皇に受け入れられました。

ちなみにこの時、木戸は内大臣秘書官長です。内大臣・斉藤実は殺害され、侍従長の鈴木貫太郎も
岡田啓介も生死不明だったので、宮内大臣の湯浅倉平を通じて言上されました。
107イナゾウ中佐:2005/10/16(日) 22:47:20 ID:???
とりあえず、>>105 で東久邇宮が「やる気」だったことは間違いないでしょう。

このスレでも既出ですが、元老・西園寺公望や牧野伸顕(伯爵・元内大臣)が
英国流の憲法運用に沿って「イニシアチブを取らないように」と天皇に教え込んだのは、
果たして良かったのかという話になります。

だんだん、早くも日中戦争から話が離れてきました……。まあ、不可避なんですがw。
108良スレ傍観者:2005/10/17(月) 00:13:10 ID:???
傍観者の私としてはありがたく拝見させていただいております。
日中戦争を軸としていれば多少、話が逸脱しても根幹ではまた繋がるので問題ないかと。
109名無し三等兵:2005/10/17(月) 21:15:35 ID:???
>>107
>英国流の憲法運用に沿って「イニシアチブを取らないように」と天皇に教え込んだのは、

日本の権力分散システムでの天皇の影響力は、田中上奏、226事件といい英国流のイニシアチブを取らないというのは、
似て異なるもののような気が。

政権交代に首相選出も、元老西園寺の意向を伺う形でしたから。
110名無し三等兵:2005/10/17(月) 21:52:24 ID:959vL/c9
天皇に重要な決断をさせないという点では皆一致してた。
例えば、第一次近衛声明を出す前、トラウトマン工作打ち切りか否かで
大揉めに揉めた大本営連絡会議の合間に、当時戦争指導班にいた秩父宮殿下が
交渉延長を求めて孤軍奮闘していた多田参謀次長を訪れ、「かくの如き重大な
時機においてこそ御前会議を奏請し、御前で各人夫々の所信を披瀝し、陛下の
清らかな御心の鏡に映して、御判決を願うべきであろう」と述べたが、多田中将は、
「現憲法の精神からいっても、結論が出ないからといって陛下に御裁定を願うのは、
自ら御信託の責を放棄するもので、こればかりはいかな殿下の仰せであっても
賛同しかねる」と反対した。

もしこのとき御前会議が開かれていたらどうなったかは、面白い話題ではある。
しかし、せめて両総長宮は出席すべきだったな。近衛、米内、廣田、末次、杉山
に対して、多田、古賀ではいかにも軽い。
111イナゾウ中佐:2005/10/17(月) 23:38:39 ID:???
>>102
>>ただし東條に関しては、関東軍参謀長、陸軍次官として、察哈爾出兵、二正面作戦放言、
>>あげくのはてには不拡大派最後の砦であった多田参謀次長との心中辞職と、
>>事変拡大に大きく寄与してるだけに、同情など一切できんね。

だから、関東軍に行くと「みんな頭がおかしくなる」んですよ。

満州事変(1931年9月18日)の翌年1月、編制動員課長のヒデキ(大佐)は、陸軍省の
清水規矩中佐、西原一策少佐、参謀本部の鈴木宗作などを引き連れて、奉天に到着します。

ここに満州国の「統治部」の形態をめぐり、ヒデキとカンジの直接対決が実現するのです。
112イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 00:08:44 ID:eOEqueps
カンジの考えはこうです。関東軍としては満州国の指導にあまり干渉せず、
文治組織の「シビリアン的」な統治部を目指す。

対してヒデキの考えはこうです。これ以上、満州で関東軍に好き勝手やられては
堪らない。勝手に「独立国家」でもつくる気か? 満州国の統治部は、関東軍の
指導機構として、軍参謀長を部長とする「軍特務部案」とする。言うまでも無く、
関東軍は「軍中央の統帥」に従うこと!

もちろん舌戦となれば、ヒデキよりカンジの方が一枚も二枚も上です。両者の意見は
平行線を辿り、物別れのままヒデキは東京に戻ります。

そしてヒデキが呟いたことは、「石原は統帥権を屁とも思っていない。関東軍の方が
参謀本部より偉いとでも思っているのか? このままでは陸軍の統制が乱れる」でした。
113イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 00:38:38 ID:eOEqueps
そのヒデキが関東軍参謀長になると、梅津美治郎参謀総長に以下のような
『極秘至急電報』を打ちます(1937年6月9日)。

「軍事力が許すならば、(対ソ戦準備の見地から)南京政府に一撃を加え、
 日本の背後を脅かす支那の脅威を取り除くべきである」

もちろん関東軍が対支政策に口を出す権限はありません。ましてやヒデキは一介の
参謀長です。梅津は「寝言は寝てから言え」と相手にしませんでした。しかし――、

奇しくもその10日後、ソ連がアムール河(黒竜江)の中にある、国境が不確定だった
カンチャス、キンアムカ両島に上陸し、関東軍との銃撃戦が始まります。

連絡を受けた参謀本部は、ソ連との全面戦争を恐れ、関東軍に自重を命じます。しかし、
ヒデキは独断で一個師団を送り込み、ウラジオストクから送り込まれた砲艦を撃沈する
離れ業まで演じますw。
114イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 00:54:19 ID:eOEqueps
「ソ連砲艦撃沈」の報を受け、顔面蒼白となった近衛政府は交渉による
解決を決定します(1937年7月1日)。ちなみに、この時の閣僚は以下の通り。
(杉山陸相、米内海相、広田外相、モスクワ大使・重光葵)

これを受け正気に返ったヒデキは、関東軍を現地から引き上げさせます。ヒデキの
行為は明らかに「統帥権の干犯」であり、軽率に砲艦を撃沈したのは大失態でした。

自らの短慮を恥じたヒデキは軍籍を離れることを決意。しかし参謀長が責任を取って
辞めれば、司令官の植田謙吉や参謀副長の今村均も巻き添えを喰らうことになります。

しばらく迷ったヒデキは、病気を理由に辞表を提出することを思いつきました。
適当な病名が思いつかなかったヒデキは『脳神経衰弱症』にしようと考えます。

文字通り、関東軍に行って『頭がおかしくなった』ことにしたのです。
115イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 01:06:01 ID:???
しかし、妻のかつ子から

「そんな病名では、娘たちの結婚に差し支えます」

と釘を刺され、根が生真面目なヒデキは「病名」の思案に暮れますw。

本来なら、このままヒデキは中将で軍歴を終えたでしょう。

しかし『運命』というべきか『神の配剤』というべきか、天はヒデキを
見放しません。いや、魅入られていたのは悪魔だったかもしれません。

その僅か6日後に、1937年7月7日を迎えます。そう盧溝橋事件です。
116イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 01:26:27 ID:???
>>108

どうもでございます。>>107 では、あのようなことを申し上げましたが、
日中戦争に少しでも関係があれば幅広くやっていきたいと考えております。

海人氏並みの【悪質な閑話休題】も出来ればな〜と(笑)。要はネタも有りです。
117名無し三等兵:2005/10/18(火) 22:51:58 ID:???
陸軍の統制派で考えると、満鉄調査部の「支那抗戦力調査報告書」「日満支ブロック・インフレーション報告書」の扱いは
どうなるのでしょう?
35年に関東憲兵隊司令官についた東条英機が、満州国を押さえたわけですが。
118イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 23:07:16 ID:Rhtxydt0
(補足)そして>>115 は、>>33 の後半に繋がります。再録すると以下の通り。

>>そして関東軍参謀長のヒデキは、盧溝橋事件の翌日には、参謀の辻政信大尉を天津に派遣し
>>支那駐屯軍司令部に「両軍(関東軍・支那駐屯軍)が連帯して、中央に『支那軍を徹底的に
>>膺懲すべし』と意見具申しよう」と呼びかけています。

ここだけ見ると、ヒデキは自分の不始末を「うやむや」にするべく盧溝橋事件に対して
強硬に反応したと邪推できなくもありません。

しかし、>>113 でも述べたように、盧溝橋事件が起こるほぼ1ヶ月前(1937年6月9日)、
梅津参謀総長に「南京政府に一撃を加えるべき」と打電していますから、自分の思惑通り
行動しただけとも言えます。

真相を知るのは、ヒデキの心の中だけでしょう。更にしつこく勘繰れば、梅津への打電は偶然
「良いアリバイ」となったとも評せます。
119名無し三等兵:2005/10/18(火) 23:16:57 ID:???
察哈爾作戦は綏遠事件の穴埋め
120イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 23:17:29 ID:???
>>113 >>118 すいません。風邪で頭がボーとしていて思い切り勘違いしていました。

ヒデキが電報を打ったのは、×『梅津参謀総長』ではなく、◎『梅津陸軍次官』です。

お詫びして訂正します。
121イナゾウ中佐:2005/10/18(火) 23:46:00 ID:Rhtxydt0
>>117 その辺りは詳しくないので、分かる方に解説キボンヌw。
    断片的に少し調べたことを記すと…

1932年に関東軍直属の調査機関「経済調査会(経調派)」が設立され、その委員長には
1934年より河本大作がその座を占めたこと。この頃は関東軍とも蜜月関係でした。

ご指摘の「支那抗戦力調査報告書」「日満支ブロックインフレーション報告書」それにプラスして
「戦時経済調査」は、大調査部の3大調査と言われ、当時の満鉄総裁・松岡洋右が設立を決定したこと。

「支那抗戦力調査報告書」は尾崎秀実や中西功が関わり、尾崎の政治情報や中西の支那派遣軍総司令部や
中共との繋がりによって極めて高度な調査となったこと。

「日満支ブロックインフレーション報告書」「戦時経済調査」は、戦時経済体制の
行き詰まりと軍の生産規模縮小の必要性を示し、軍の不興を買ったことぐらいですかね。

あと、ヒデキが1942年5月に「今度は満鉄を手に入れますよ」と言ったとか、言わないとかw。
122名無し三等兵:2005/10/19(水) 01:38:46 ID:???
>>121
37年の近衛内閣で「産金法」が制定されるほど為替平衡準備金が苦しくなってきている。
中国問題の解決は、盧溝橋事件から支那事変にまで拡大して済し崩しになったものの大調査部の三大調査で明らかになったように、
問題解決どころか先送りにもならなかったことが明らかに。

満洲だけでも松岡、岸、鮎川といった親族関係に、関東軍の思惑などの思惑が呉越同舟の状態。
123名無し三等兵:2005/10/19(水) 02:14:34 ID:???
永田は「朝飯会」で暗躍している。
皇道派の荒木、真崎から別れて統制派を結成したのは同期の小畑敏四郎との出世争いじゃ。
124イナゾウ中佐:2005/10/19(水) 23:40:29 ID:PjWGpRvU
>>123
小畑は同じロシア畑として、皇道派の荒木貞夫と深い繋がりがありましたからね。永田とはお互い
統制派と皇道派のエースとして「骨肉の争い」だったと言っていいでしょう。

>>49 で永田について自分はこう書きました。該当箇所を再録すると以下の通り。

>>永田鉄山が「対支那派」だったという一説があります。いわゆる『対支一撃論者』と
>>いう訳ですね。永田亡き後、残された統制派の面々が支那事変にのめり込んでいくのは、
>>永田の残したレールをそのまま突っ走っていたという説明です。

永田鉄山が『対支一激論』を説いたのは、小畑の『対ソ主戦論』に対する「嫌がらせ」ないし
当て付けです。

『作戦の鬼』と称され、純粋な作戦家として政治的なものを好まない小畑からすれば、永田の「政治的主張」は
さぞかし裏切られた思いだったでしょう。
125イナゾウ中佐:2005/10/20(木) 00:02:24 ID:PjWGpRvU
知らない方のために『朝飯会』を補足すると、

林銑十郎大将を応援する、皇族・重臣を中心とした集まりです。

会員には永田鉄山少将、伊沢多喜男、原田熊雄男爵、木戸幸一侯爵、
岡部長景子爵、黒田長和男爵、後藤文雄、唐沢俊樹など。

ちなみに林銑十郎は、永田が軍務局長時代の陸軍大臣です。

もちろん『朝飯会』は、皇道派からは「軍閥逆臣閥の大逆不逞」
「暗躍策動の主動部をなす」など、怪文書で糞ミソに叩かれます。
126名無し三等兵:2005/10/20(木) 00:06:02 ID:???
>>124
> 永田鉄山が『対支一激論』を説いたのは、小畑の『対ソ主戦論』に対する「嫌がらせ」ないし
> 当て付けです。

すると永田も小畑も,国民党・満洲権益に関する考えには違いはなかったということに?
127名無し三等兵:2005/10/20(木) 00:18:39 ID:???
>>125
原田熊雄男爵は、西園寺秘書でもありますな。
元老から内大臣に変わっても「大命降下」のプロセスに関わっていると考えると、怪文書が出回るのも
しかたがないところはありますな。
128イナゾウ中佐:2005/10/20(木) 00:33:52 ID:7o2+K+/U
また誤植…w。 ×『対支一激論』→◎『対支一撃論』

>>125
満州事変までは、同じ『バーデンバーデンの三羽烏』であり、温厚な性格の岡村寧次が
永田と小畑の仲を取り持っていましたから、特に争いは起こりませんでした。

急激に関係が悪化するのは、皇道派の荒木が小畑を作戦課長に復帰させるなど異常に
厚遇し始めてからです。ちなみに小畑が作戦課長をやるのは2度目ですが、前回は
小畑の『純粋な作戦家』ぶりが他課との軋轢を生んで不評でした。

自分は、永田の考えは石原莞爾のそれに近いと考えていますから、小畑(必然的に皇道派)
のように「対ソ戦至上主義(予防戦争も辞さない)」とまで行かなくても、支那問題よりも
対ソ戦「重視」だったと思います。「対支一撃論」はあくまで政治的方便でしょう。

ただ、小畑敏四郎は2.26事件で退役に追い込まれ、永田鉄山はその前年の「相沢事件」で斬殺
されますから、ご質問に対してはあくまで想像上の答えでしかありませんw。
129イナゾウ中佐:2005/10/20(木) 00:46:43 ID:???
>>128 の理屈だと当然、小畑敏四郎と石原莞爾の「考え方も近い」ことになります。

ですから、石原莞爾が主人公の『火葬戦記』には、石原がカムバックして首相になると
小畑も「対ソ戦の神様、ジョーカー」として復活を遂げる本もあります。

>>127

あの時代は、どちらも怪文書だらけですw。
130イナゾウ中佐:2005/10/20(木) 00:51:59 ID:7o2+K+/U
>>113 で、ヒデキが「ソ連の砲艦を撃沈した事件」の名前が昨日どうしても
思い出せなかったのですが、ようやく分かったので備忘録w。  

『カンチャズ島事件』(1937年6月20日)

この前後の時期に(ヒデキの事件とは無関係です)、昭和天皇が「蒋介石との妥協」を
杉山陸軍大臣と閑院宮参謀総長に説いていますが、詳細はまた次の機会に…。
131名無しの三等兵:2005/10/20(木) 01:00:42 ID:rf2geiqr
久々に提督の決断2以来に日中戦争で戦えるゲームが出たぞ
http://www.4gamer.net/news.php?url=/news/history/2005.10/20051019185232detail.htm
132名無しの三等兵:2005/10/20(木) 01:03:00 ID:rf2geiqr
ごめんこっちだわ、まちがって須磨祖
ttp://www.4gamer.net/news/history/2005.10/20051019185232detail.html
133名無し三等兵:2005/10/20(木) 01:06:39 ID:???
>>126
日露戦争で手に入れた満洲権益は、ロシア革命・辛亥革命で権益の確保をどうするのかに変化が生じている。
ロシア革命前なら日露で米国を排除する選択肢は共産革命によって潰え、日本が満洲を独占するには清国から中国に変わったよう
に中国のナショナリズムと相反するものになった。

満州事変前の日本資本は抗日反日で満洲から駆逐される寸前になっていた。
そして37年には貿易が苦しくなり、第一次近衛内閣での盧溝橋事件に繋がっていく。
134名無しの三等兵:2005/10/20(木) 01:10:21 ID:???
>満州事変前の日本資本は抗日反日で満洲から駆逐される寸前になっていた。

当時は今以上に不買運動が激しかったのか?
それとも張作霖軍閥がちゃちゃでも入れたのか?
135名無し三等兵:2005/10/20(木) 01:19:20 ID:???
>>134
張学良の排日排日貨運動で満鉄は収益減少。ほかの投資も推して知るべし。
財閥の投資は満洲に集中していた。
136名無し三等兵:2005/10/20(木) 01:25:00 ID:???
>>133-135
戦前の日本経済はどうなの3
ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1127011298/l50

君たちはこっち。
137名無し三等兵:2005/10/20(木) 22:19:47 ID:32l/j9kh
国民政府は一部日本製品に対して欧米諸国より高い関税を掛けてた。
冀東防共自治政府の関税はそれよりはぐっと低く設定されてた為、
日本製品は一旦通州に揚陸され、そこから中国全土を席巻。
これに対し南京は強く反発し、排日運動も盛り上がった。
関東軍はこの冀東の”密貿易”の上前をはねて、内蒙工作の費用にしてた。
138名無し三等兵:2005/10/20(木) 22:26:00 ID:???
139名無し三等兵:2005/10/21(金) 08:19:07 ID:???
>>137
満州事変前なら、満洲、朝鮮、日本の為替レートも無視できないだろう?
スレ違いだとは思うが。

張作霖爆殺も日本側に裏目に出た。
満鉄と対立した形になる港湾鉄道建設。貿易額の激減。
満州事変でも起こさなければ、収拾がつかないよ。

工作費用というなら、阿片も忘れてはいけない。
140名無し三等兵:2005/10/21(金) 08:44:21 ID:???
>>139
正確に言えば満州事変を起こしても収拾つかなかったけどね。
141名無し三等兵:2005/10/21(金) 11:57:27 ID:???
なんというか日満ブロックだけでは始めからどうにもならないよ。だからこそ日満北支ブロックに繋がるんだろう。
日露戦争以後、日本は世界の政治・経済情勢の変化についていけていない。中国情勢すら読みが裏目に出ている。

国民党が中国共産党の脅威を理由に日本に妥協するにしても、日本のイメージが悪化しすぎている。
世界恐慌前ではあるが、27年の東方会議には奉天総領事の吉田茂も参加、日本のA級戦犯ということになるとどこまで遡れば
いいのやらという話になる。
142イナゾウ中佐:2005/10/21(金) 23:07:53 ID:vCCPJ6gj
>>133 >>134
>>満州事変前の日本資本は抗日反日で満洲から駆逐される寸前になっていた。

父親を殺された張学良は、関東軍と真っ向から正面衝突しては不利なので、
日本の諸権益をじわじわと奪回する戦術に出ます。主な内容は以下の通り。

1.満鉄包囲の鉄道網を建設
2.満鉄の貨物積み出し港である大連に対抗するため、葫蘆(ころ)島に築港する
3.満鉄付属地の経済封鎖
4.日本人の事業と居住を禁止し、朝鮮人農民を追い出す。

特に『2』の葫蘆港の完成は、北満の大豆輸送と東満の貨物輸送を奪って
満鉄に致命的な大打撃を与えます。

この時(1928年)、張学良は27歳。蒋介石率いる国民党政府から与えられた地位は、
「東北政務委員会主席委員・東北辺防軍総司令」でした。
143名無し三等兵:2005/10/21(金) 23:15:30 ID:Ah1w8taS
【質問】陸軍は一体中国なんかに勝って何を手に入れようとしたわけ?
重荷になるばかりで得るものがあまりないと思うんだけど。特に石原。

あとなんで支那派遣軍は孤立した終戦間際から大陸打通作戦なんかやってんの?
タイマン勝負の時からやってれば勝ってるじゃん。
144イナゾウ中佐:2005/10/21(金) 23:31:25 ID:vCCPJ6gj
よくよく考えたら、張学良は自分と年齢はほとんど変わりませんね。う〜む。

月並みな答えで恐縮ですが、やはり『張作霖爆殺事件』が日中戦争を考える上で
致命的な出来事になります。田中義一が泣いていますw。

張作霖が乗った列車は「黄色火薬300キロ」の大爆発で、床と車輪のみを残して
木っ端微塵です。両手両足を全て吹き飛ばされ、全身血だるまと化した張作霖ですが、
驚くべきことに即死ではありませんでした。現場で虫の息ながら、ただ一言、

「日本人がやった」と遺して絶命したと言います。

息子の張学良はその当時、河北省東北部の奉天軍前線にいました。父親爆死の報を受けた
張学良は一兵士の服装に変装して、事件翌日の1928年6月5日に奉天に帰り、遺体と直面します。
そして紆余曲折があったものの日本に対する復讐を始めるのです。
145イナゾウ中佐:2005/10/21(金) 23:48:23 ID:vCCPJ6gj
>>142 の補足 
>>4.日本人の事業と居住を禁止し、朝鮮人農民を追い出す。

張学良は1930年に『盗売国士懲罰令』という法律を作ります。

これは、日本人や朝鮮人に土地を売ったり貸したりた者を国賊として
『死刑』にする法律ですw。これに付随して大小様々な排日行為が
巻き起こり、日本人の居住はほぼ不可能になります。

またその頃、日本の領土であった朝鮮人に対する圧迫も激化しています。当時、
満州には100万人の朝鮮人が住んでいました。これは特に移民という訳ではなく
古くから定住して稲作を営んでた者が多数を占めていました。

しかし上記の法令のために、農地を奪われ、財産を略奪され、暴行を受け、抵抗すると
容赦なく監獄にぶち込まれるという事態に発達します。そのような中で起きたのが
いわゆる『万宝山事件』(1931年7月)です。
146イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 00:07:51 ID:vCCPJ6gj
>>139 >>満州事変でも起こさなければ、収拾がつかないよ。

正解。

>>92 でも書いていますが、1928年11月3日の『一夕会』第1回会合決議で既に
満蒙問題の武力解決について触れられています。再録すれば以下の通り。

>>●陸軍の人事を刷新し、諸政策を強力に推進する ●満蒙問題の解決
>>●荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を擁護して、正しい陸軍を再建する

張作霖爆殺事件が1928年6月4日。その跡を引き継いだ張学良は日本に対する態度を
猛烈に硬化させ、蒋介石率いる南京・国民政府との合体に向けて揺れ動きます。

そして1928年12月31日、満州全土に『青天白日満地紅旗』が翻ります。易幟(旗を変えること)が
遂に成されたのです。日本人居留民も関東軍も総領事館も、ただただ呆然とするのみでした。
147イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 00:16:30 ID:???
それは『満州事変でも起こさなければ、収拾がつかない』でしょうねw

しかし「張作霖爆殺事件」さえ起こさなければ、満州事変を起こす必要は
無かったでしょう。

田中義一首相は、張作霖爆殺の急報を受けた瞬間、顔を真っ赤にさせ激怒し、

「親の心子知らずとは、まさにこの事だ! 何たる馬鹿どもだ!!」

と、周りに何度も何度も怒鳴り散らしました。
148名無し三等兵:2005/10/22(土) 00:22:08 ID:???
>>143
>【質問】陸軍は一体中国なんかに勝って何を手に入れようとしたわけ?
>重荷になるばかりで得るものがあまりないと思うんだけど。特に石原。

この清国ではない統一された「中国」というところに、全ての答えはあるのです。
軍閥でバラバラな支那であれば、日本が切り取り放題のはずだったと。

石原の場合、個人的な思想に基づくものであり陸軍の総意とも異なるものでは。
単に、満州事変に関しては思惑が一致していただけというところでは?
149名無し三等兵:2005/10/22(土) 00:32:22 ID:???
>>147
満蒙五鉄道問題が解決していないのに、張作霖は日本ー朝鮮ー満洲の為替制度の欠陥を利用して得た資金で、満鉄に対抗する鉄道を
施設していたわけですから、現地としては解決のメドがたたないのであれば田中首相の政策は不満でしょう。
150名無し三等兵:2005/10/22(土) 00:35:45 ID:UYoJ2EJl
張作霖死後、作霖周辺の人間は張学良擁立派と楊宇霆擁立派に分かれてた。
結局、学良が楊を謀殺して、易幟を断行するわけだが、もしこれが逆だったら
どうなってたか。
まあしかし、日本は学良を馬鹿にしすぎた。
151名無し三等兵:2005/10/22(土) 00:38:37 ID:???
ま、軍人の領土欲よりも租界を拠点に経済搾取した方が実利はあるんだろうけど。
邦人保護や権益保護がいつしか目的を見失っていったってとこだろな。
当時の日本人の島国根性と古い価値観は否めない。
152名無し三等兵:2005/10/22(土) 00:40:14 ID:???
>>149
「鉄道を敷設」の誤りです。鉄道だけでなく武器弾薬にも化けましたが。
153名無し三等兵:2005/10/22(土) 00:40:15 ID:???
154名無し三等兵:2005/10/22(土) 00:48:54 ID:???
>>150
日満ブロックだけでは成りたたないので,北支に侵出しないと辻褄があわなくなるから,それほど
変わらないんじゃないの?

35年の蒋介石による法幣が成功すると,その時点でお終いだからね.

>>151
朝鮮から満洲へ直結した鉄道は,軍事目的の面も大きいからね.微妙なところだ.
155だつお:2005/10/22(土) 00:49:03 ID:KNWogBEY
>そして紆余曲折があったものの日本に対する復讐を始めるのです。

その割には、満州事変のとき張学良はろくな抗戦指導も
せずに36万の大軍を失って命からがら逃げるわけだがな。

張学良にしてみれば、その屈辱をはらすための「抗日愛国」だが、
いかにもチンピラゴロツキらしい逆恨みであったことだろう。

張学良が「抗日英雄」なのは、中国人の本質がチンピラゴロツキで、
チンピラゴロツキ道を極限まで究めた者こそが崇拝されるからだ。
156名無し三等兵:2005/10/22(土) 01:04:28 ID:R/grVyEa
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157イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 01:05:22 ID:J1OvDk+J
>>150
事件後当初、「張(作霖)大元帥は負傷にて療養中」とその死は極秘にされていましたが、
これも内乱を恐れたからですね。具体的には、関東軍が「反張派」の張景恵あたりに新政権を
作らせ、満州全土を占領するのを危惧した訳です。

張学良が「易幟」に至るまでは、田中義一首相が「元駐支公使」の林権助や、奉天軍顧問の
土肥原賢二大佐を説得に出したり、蒋介石が「政府委員(閣僚級)」16人の中に張学良を
抜擢して釣ったりなど、紆余曲折が続きます。8月13日には一度「易幟」を断行しようと
していますが、楊宇霆に反対されて延期していますね。

易幟後は、楊宇霆を私邸に呼びつけ、奉天軍総参議(参謀長)の地位を取り消した後、
衛兵を呼んで拳銃で射殺して血祭りに挙げています。

>>まあしかし、日本は学良を馬鹿にしすぎた。

まったく同意。親を殺されてホイホイ従う人間がどこにいるでしょうw。
158イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 01:25:14 ID:J1OvDk+J
>>149
その一方で「爆殺事件」直前に満鉄社長の山本條太郎が、田中義一首相の指示のもとで
張作霖と「満蒙5路線」と呼ばれる鉄道敷設権の獲得交渉をしていますから、
交渉の余地はあったでしょう。

ちなみに「5路線」には、満州の鉄と石炭を日本海に運ぶ「吉会鉄道(吉林→朝鮮・会寧)」
といった重要路線を含みます。だから、急報を受けて田中義一は >>147 のように激怒する訳です。

>>151
>>ま、軍人の領土欲よりも租界を拠点に経済搾取した方が実利はあるんだろうけど。
>>邦人保護や権益保護がいつしか目的を見失っていったってとこだろな。

同意。「張作霖爆殺事件」に関しては、本当なら情けない限りですが、満州が安泰になると
軍縮が激しくなることに危機感を覚えた軍人が「動乱目的」で起こした臭いです。理想も
ヘッタクレもあったものではありませんw。そして案を出したのは、河本大作大佐というよりも
斉藤恒・関東軍参謀長です。
15932:2005/10/22(土) 01:31:26 ID:???
イナゾウ中佐、いつもありがとうございます。勉強になります。

>>143
あの時期に大陸打通を実行すること(重慶攻略は実行しない)については、
陸海軍の血で血を洗う戦略方針の対立が関係しているのだと思います。
160俄将軍:2005/10/22(土) 01:40:47 ID:???
>>157
張学良が、「西安事件」によって、盧溝橋事件後、第二次国共合作に至
ったことを考えると、支那事変までもが、裏目にでたという恐ろしさ。

>>158
「吉会鉄道」が完成することによって、朝鮮半島から、奉天と長春に直
結することによる、軍事的にも価値があると。

27年の「東方会議」と「大連会議」で、満蒙分離政策が決定するわけ
ですが、関東軍は関東州と満鉄沿線のみに、制限されていたはずであ
りますから、どうにもならないような。

満洲が、日本の望まない形で安定することを、恐れたのではなかろうか、
などと。
161イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 02:00:52 ID:J1OvDk+J
>>32

こちらこそ、いつもどうもでございます。自分の勘ですが以前、別のスレでも
お相手いただいた方ですよね? その時は「番号」が三桁だったような覚えが…
勘違いでしたらスマソ。
162イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 02:23:03 ID:J1OvDk+J
>>143 >>【質問】陸軍は一体中国なんかに勝って何を手に入れようとしたわけ?

具体的には、「トラウトマン工作」で2回目に日本が提出した『和平条件案』
(1937年12月22日)を見れば理解が早いでしょう。A級『真』戦犯・近衛首相は
本当に驚くべきことに、閣議を病気欠席して態度不明のまま決定させていますw。

時期的には、南京を攻略した(1937年12月13日)直後です。日本人の大多数は
戦勝気分に沸き立ち、旗行列・提灯行列が街を埋め尽くし、支那との戦争は
終わったと考えていた頃です。

『和平条件案』は、長くなりますが以下の通り。すべて書き終わるまで割り込まないで
いただけると見やすくなって有難いです。
163イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 02:28:04 ID:J1OvDk+J
>>162 の続き。

1.支那は容共抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること。

2.所要地域に非武装地帯をもうけ、特殊の機構を設定すること。

3.日満支三国間に密接な経済協定を締結すること。

4.支那は帝国(日本)に対して、所要の賠償をすること。

上記のほか、「口頭説明」として以下の細目を加えています。
164イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 02:33:54 ID:J1OvDk+J
>>163 の続き。「口頭説明」は以下の通り。

1.支那は満州国を正式承認すること。

2.支那は排日および反満政策を放棄すること。

3.北支および内蒙古に非武装地帯を設定すること。

4.北支は支那主権の下において、日満支三国の共存共栄を実現するに
  適当な機構を設定し、これに広汎なる権限を与え、日満支経済合作
  の実をあげること。

5.内蒙古に防共自治政府を設立すること。

6.支那は防共政策を確立し、日満両国の防共政策遂行に協力すること。
165イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 02:41:52 ID:J1OvDk+J
>>164 の続き。

7.日本軍の中支那占拠地に非武装地帯を設定して、特殊機構を設ける。
  また、上海市には租界外に特殊政権を設け、日支協力して治安維持と
  経済発展にあたること。

8.日満支三国は資源開発、関税、交易、航空、通信等に関し、協定を締結すること。

9.支那は帝国に対し、所要の賠償をすること。

(付記)
1.北支、内蒙古、中支の一定地域に必要な期間、日本軍が保障駐屯するのを認めること。

2.前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する。 

等です。そして回答期限を1937年末に切ります。以上になります。
166イナゾウ中佐:2005/10/22(土) 02:57:04 ID:???
満州国の正式承認。北支・内蒙古を事実上、日本の手中に収めること。
中支にも影響力を確保すること。保障駐屯という名目で日本軍が必要な
地域に必要なだけ居座ること。経済的な利権を獲得すること。

賠償金をふんだくれるだけ、ふんだくること(無論、膨大な戦費にノシを付けて)。

こんなところですかねw
167俄将軍:2005/10/22(土) 03:09:38 ID:???
>>158
「張作霖爆殺事件」も、日本が望まない形での満洲の安泰によって、満蒙分離
政策が、破綻するだけでなく、日本の満洲権益そのものが、危なくなると考
えたのではなかろうか、などと思うのですが、どのようなものでしょうか。

>>166
南京攻略によって、蒋介石が屈服すると考えていたのか、「爾後国民政府を対
手とせず」というほどに、軍事的な勝利をおさめたと考えていたのかは、よ
く分かりませんが、重慶政府の法幣が、日本軍の占領地域でも流通し、日
本が外貨の獲得に失敗しているということになると、日中戦争による負
担のみが、重くのしかかってきたということになるのか。
168俄将軍:2005/10/22(土) 03:16:31 ID:???
満蒙分離政策というのは、何を根拠に、何を目的として、ということに
なるのか、などと。

ソビエト、共産主義に備えるはずが、日中戦争で泥沼ということになる
と、本末転倒というだけでなく、ABCD包囲網ということになると。

>>167
「日本が望まない形での満洲の安泰」を「日本が望まない形での満洲の
安定」に修正。
16932:2005/10/22(土) 12:23:10 ID:???
>>161

はい、そのとおりです(汗)。
むかし某スレで大変にお世話になりました。m(_ _)m

太平洋戦争期については少しは調べたのですが、
三十年代については特に弱いので勉強させていただきたく存じます。
この良スレのスレ汚し、ご容赦ください。
170名無し三等兵:2005/10/22(土) 13:32:00 ID:???
円・元・ドル・ユーロの同時代史 第21回〜日本が手がけた贋金づくり
ttp://bizns.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/search/wcs-bun.cgi?ID=301065&FORM=biztechnews

円・元・ドル・ユーロの同時代史 第22回〜英米VS日本、通貨の暗闘
ttp://bizns.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/search/bun.cgi?NP_BNO=%31%31%34%39%37%30&NP_BHTML=%62%75%6e%2d%73%61%6d%70%6c%65&NP_KKEY=%c3%ab%b8%fd%20%c3%d2%c9%a7
171イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 03:13:12 ID:eYGRorEz
>>32様 こちらこそ、どうもでございます。
    自分も勉強中でございますので、よろしければまたお付き合い下さいませ。   
     
さて、日本の二十年代・三十年代は『魑魅魍魎』でして、全体を総合的に把握するのは
極めて困難です。1つの見方だけでは、幾ら詳しく調べても「片手落ち」になります。

さらに追い討ちをかけるのが、最も大きな影響を与えている「支那事変」について、
上手くまとめた「手頃な書籍」が皆無に等しいことが挙げられます。

上記のような動機で、このスレを『被害担当艦』として私的させていただいている次第です。
172イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 03:29:44 ID:eYGRorEz
例えば、>>128 で自分は下記のように書きました。再録すると以下の通り。

>>急激に関係が悪化するのは、皇道派の荒木が小畑を作戦課長に復帰させるなど異常に
>>厚遇し始めてからです。ちなみに小畑が作戦課長をやるのは2度目ですが、前回は
>>小畑の『純粋な作戦家』ぶりが他課との軋轢を生んで不評でした。

あれから少し考えまして「言葉足らず」だったと反省しました。

『軍閥』の観点から、それも「統制派」の立場で見ると、荒木陸軍大臣が腹心の小畑敏四郎を
2度目の作戦課長に抜擢したのは「異常な厚遇」だったと見ることができます。

しかしこの当時(1932年)、「第一次上海事変」で日本は悪戦苦闘中でして、荒木陸軍大臣が当時
作戦課長だった今村均大佐と陸軍大学校教官だった小畑敏四郎を入れ替えた判断は至当だったと
評価できます。
173イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 03:53:37 ID:eYGRorEz
「第二次上海事変」(1937年)の死闘と比べると、どうしても「第一次」の方は
軽く見られがちです。しかし、『爆弾三勇士』のエピソードからも分かる通り、
日本は上海周辺の「兵用地誌」すら整備していない状態で非常な悪戦を続けていました。

そのような状態の中、一気に戦況を打開したのが、小畑敏四郎が作戦課長として指揮した
第11師団(善通寺)の七了口に対する敵前上陸です。上陸地点を呉淞と主張する海軍軍令部と
小畑は揉めますが、その辺のエピソードは割愛します。

結果から言うと「七了口上陸」は、第二次上海事変における「第十軍の抗州湾上陸」と
同じ効果をもたらし、中国軍・第十九路軍は友軍を見捨てて潰走します。

蒋介石も後日、「七了口に敵を上陸させたのが致命的だった」と悔やんだように、
「作戦の神様・小畑敏四郎」の面目躍如でした。
174イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 03:55:30 ID:???
結局、何が言いたかったといえば、「軍閥」の視点からしか見ない(勉強しない)と
上記のような『小畑(と抜擢した荒木貞夫)の評価』には絶対に当たらない訳です。

どの時代にも当てはまる事ですが、特にあの時代を見るときは「常に視点」を変えて
多重的に捉えるべきです。そして残念なことに、そのように解説してくれる書籍は
どこにも見当たりません。
175イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 04:34:33 ID:eYGRorEz
例えば、いま自分の手元に『分かりやすい日中戦争』(三野正洋著・光人社
・1998年刊)があります。本体価格は2000円です。

アマゾンのユーズド・マーケットなら一発でしょうが、新刊書店や古本屋で
探そうとしたら、入手はかなり困難でしょう。

結論から言えば、クソ本です。前半しか読んでいませんが、著者の考察が「表層」過ぎて
お話になりません。逆に誤解を招いています。年代順に出来るだけ分かりやすく構成しているのは
評価できますし、また後半の「各論」まで読めば、もう少し評価が上がると思います。しかし、
読む優先順位がどんどん後回しになっている状況です。

そうなってくると数千円もする高価な「専門書(?)」を読んで、自分の頭の中で総合するしか手が
無くなる訳です。そして多くの本は難解で読み辛く、左につけ右に付け「思想的」にも偏っています。

現状、日本が中国に言われ放題で反論できないのも、日中戦争を冷静に読みやすくまとめた本が
(新刊書店で容易に入手可能で、2000円以下)皆無だからと考えています。
176名無し三等兵:2005/10/23(日) 07:43:32 ID:???
と言うことで、イナゾウ中佐が決定版「猿でもわかる日中戦争 定価1500円前後」を作って下され
応援してますぞ
177俄将軍:2005/10/23(日) 09:11:13 ID:???
引用が前後しますが。

>>174
>そうなってくると数千円もする高価な「専門書(?)」を読んで、自分の頭の中で総合するしか手が
>無くなる訳です。そして多くの本は難解で読み辛く、左につけ右に付け「思想的」にも偏っています。

当時も、思想的な対立など、おきていたわけですから、権力闘争の建前であっ
たとしても、政治的、経済的な現状認識にも、差があったということに。

>どの時代にも当てはまる事ですが、特にあの時代を見るときは「常に視点」を変えて
>多重的に捉えるべきです。そして残念なことに、そのように解説してくれる書籍は
>どこにも見当たりません。

日本が、国内外の情勢、政治システムに対応できなくなり、石原完爾は「国防
国策大綱」を発表しますが、陸軍内部ですら、纏まっていないという有様で
ありましたから。

>現状、日本が中国に言われ放題で反論できないのも、日中戦争を冷静に読みやすくまとめた本が
>(新刊書店で容易に入手可能で、2000円以下)皆無だからと考えています。

著者の価値観が反映されるでしょうが、そのような本が必要であることには、
変わりがないということになるのか。
178だつお:2005/10/23(日) 09:14:03 ID:V5lOV7xF
児島襄「日中戦争」
S・シーグレーブ「宋王朝」
古野直也「張家三代の興亡」
R・ハイファーマン「日中航空決戦」
伊藤正徳「帝国陸軍の最期」
鳥居民「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」
野村浩一「蒋介石と毛沢東」

#日中戦争は、皇軍の完全勝利だったんだよ!!!
179俄将軍:2005/10/23(日) 09:27:55 ID:???
>>177
総力戦体制の構築となると、産業計画も、同時にということでなければ、成立
しないでしょうし、日本は総力戦体制を構築する前に、真珠湾を攻撃したの
ではなかろうか、などと。
180だつお:2005/10/23(日) 10:04:57 ID:V5lOV7xF
 ところが、ナチズムの権力掌握後、独ソ関係の悪化によりこの軍事協力関係
の維持は不可能となり、ドイツ国防軍がみずからの活力を維持するためには、
あらたな軍事的パートナーを必要とするにいたったのである。この面で
ドイツ国防軍、主として陸軍が注目したのは中国であった。・・・中略・・・
 また、国防経済という観点からも、ドイツ国防軍が親中路線を採用する理由が
存在した。なぜなら、両国の経済は相互補完的であったからである。ドイツ国防
経済は、ロシアとの関係悪化後、技術刷新の継続のためにも、また付加的な
輸出の拡大のためにも、あらたな市場を求めていた。一方、中国側は、ドイツから
の工業製品輸入を天然資源の輸出で相殺することができたし、また一九三五〜三六年
のドイツの武器輸出総額のうち、実に五七・五パーセント(二千万ライヒスマルク)
が中国に向けられていたのである。
 これに対し日本はその一パーセントにも満たない十七万七千ライヒスマルクであった。

ナチズム極東戦略 日独防共協定を巡る諜報戦 / 田嶋信雄/著
181名無し三等兵:2005/10/23(日) 17:30:33 ID:RjKQoNt6
張作霖と田中義一の関係は、日露戦争で露探をしていた張が日本軍に捕まったとき、
田中がその命を助けた事に始まると云われてる(少々出来すぎた話とも思うが)。
一方永沼挺進隊に随行した馬賊の参謀長格だったのが、川島芳子の舅になるパブチャップ。
パブチャップと張は大正5年に朝陽坡で激突し、パブチャップが戦死する。この少し前に
張を暗殺しようとして失敗したのが「夕陽と拳銃」の伊達順之助。パブチャップ軍には
多くの日本人が身を投じており、参本の小磯国昭少佐なども関ってた。このとき張軍にいて、
パ軍の日本砲兵隊にいたく感心して日本びいきになったのが、察東事変、綏遠事変で
関東軍と行動を共にする李守信。

また、やはり日露戦争で日本側の密偵として活躍したのが呉佩孚。呉と張は第一次奉直戦争で
激突。総崩れとなって敗走する奉天軍を山海関でなんとか立て直したのが本庄繁中佐。
第二次奉直戦争でも奉天軍は不利な状況に陥るが、クリスチャンジェネラル馮玉祥が突如
裏切り、呉は敗走する。この馮買収に一役買ったのが、松井石根の弟七夫や馮の顧問松室孝良。
大正14年、郭松齢がクーデターを起こし、今度こそ張作霖も万事休すかと思われたが、
関東軍司令官白川義則が、日本に亡命したいと泣きつく張学良を叱咤し、満鉄沿線に軍事行動
禁止区域を設けることで郭軍の勢いを止め、張を助けた。この措置によって郭軍は破れ、
郭夫妻は処刑された。その後、張作霖は爆殺され、呉佩孚も隠退するが、支那事変が起ると、
土肥原賢二がこの呉に注目し、引き出し工作を行う(結局、呉はなんだかんだ云って出馬はしなかったが)。

このように日中人士の入り乱れる複雑さは、とても一筋縄ではいかない。
ここでは割愛したが、当然孫文らとも日本人は深く関ってる。

ちなみに日本人にうらみ骨髄の張学良が、死ぬまで尊崇し続けた唯一の帝國軍人が
満洲事変時の関東軍司令官本庄繁というのも面白い。
更に、学良の顧問だった柴山兼四郎によると、西安事変の前に、日本に亡命して来いという
手紙を出したところ、結構手応えがあったという。まあ、これは柴山の一人相撲の可能性が高いが、
それにしても、日中関係というのは、現在云われてるほど単純に黒白で分けられるようなものではないのは確か。
182名無し三等兵:2005/10/23(日) 18:15:26 ID:???
>それにしても、日中関係というのは、現在云われてるほど単純に黒白で分けられるようなものではないのは確か。

その結末が真珠湾攻撃では、お話にならない。そこが問題なのでは?
183名無し三等兵:2005/10/23(日) 20:00:56 ID:???
小日向白郎とか野中進一郎みたいに軍部と一線おいて戦ってる奴のほうが
なんか軍上層部よりうまく中国と付き合ってたような気がする。
いっその事蒋介石が反日に傾く前に反共で親日親中関係を築いた方が良かったかも。
184名無し三等兵:2005/10/23(日) 21:39:57 ID:???
>>183
其れは難しいだろう。国民党の最終目標は日本を含めた列強の半植民地状態からの脱却。
その為に幾度と無く条約違反や協定違反を犯している。日本が何かと標的にされたのは
地理上の問題から、大陸に積極的に介入可能なのが日本以外なかったから。
とどのつまり、日本さえ追い出せれば、他国の利権は交渉、脅しを含めてどうにでもなる。
共産党を壊滅させた後、彼らのその矛先は間違いなく日本に向かっただろう。
185イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 22:08:58 ID:KWTXigEy
>>176
ベリーサンクスコ。でも「自費出版」がいいところですね。棚ざしで3日並んで
返品されると(爆藁)。何より自分にそんな実力はありません。色んな本から総合して
まとめているだけです。もちろん自分なりの味付けは加えていますが。

せっかくこのような媒体があるのですから、書くべきことはここで書きます。何より
「書く方も読む方も」通信費以外はタダなのです。非常に結構なことです。

願わくば、次スレが立つ(無理ポw)ような事があれば、スレタイに空白を入れて
検索できないようにするのだけは避けたいですw

ただ「日中戦争本」が売れないかというと、一概にそうとは言えません。紀伊国屋書店の
パブラインで販売の数字を見ると、例えば河出の「ふくろうの本」にあります
『図説 日中戦争』は相当売れています。
186イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 22:11:48 ID:KWTXigEy
今年の夏、河出文庫で「東京裁判」が文庫化されましたが、原本は河出の「ふくろうの本」です。

あれが文庫化できるなら同様に「日中戦争」も文庫化できるはずです。しかし、図説本を無理やり
文庫化するのは著者が嫌がるでしょうね。

ひよっとしたら前者も版元が無理無理やったかもしれません。
187イナゾウ中佐@閑話休題:2005/10/23(日) 23:12:22 ID:KWTXigEy
閑話休題になりますが、本文に掲載する『戦場写真』などを他所から借りてくると
非常に高くつくのです。

我々のいちばん身近なものが『毎日フォトバンク』でしょう。これは誰でも写真を
検索して探せますので、興味のある方はググってみて下さい。適当に用語を検索して
写真を眺めているだけでも楽しいです。新しい発見があるかもしれません。

類似の「写真提供サービス」に、共同通信社の『トレジャー』、時事通信社『Jループ』が
ありますが、パスワードの申請などが面倒くさい(トライアルでも写真は探せます)ので割愛。

時代の古い写真でしたら「毎日フォトバンク」の方が充実しているでしょう。

それで本文写真をモノクロで借りてくると、一点6300円も掛かります。表紙カバーでしたら
1万5750円です。
188イナゾウ中佐@閑話休題:2005/10/23(日) 23:26:12 ID:KWTXigEy
仮に「本文写真」を20点借りてくる(人物写真や戦場風景、戦闘機や艦船など)と
それだけで費用が12万円以上かかります。

類似の写真貸出しは、皆さんご存知の光人社(潮書房)でもやっていますが、こちらは
個人に貸し出ししてくれるかどうかは分かりません。『丸』以来の積み重ねがありますから、
マニアックな写真はここがダンチではないかと思います。

とどのつまり、専門出版社か超大手の出版社で「自社の資料室」が充実しているところで
ないと、費用の面で(本体価格にそのまま跳ね返る)非常な悪戦苦闘を強いられる訳です。

一番いいのは、著者が豊富な写真を持っていることです。それならタダで使えますw。

「字ばっかりの本」は読みたくもないし、面白くもない。資料的価値の点からも
エンターテイメント性を高めるにも、写真は豊富に使いたいのは山々です。
しかし、上記のような『お金の問題』もある訳です。
189イナゾウ中佐:2005/10/23(日) 23:37:20 ID:???
>>178
>>鳥居民「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」

この本は「大陸打通作戦」の見方を変えてくれますね。良著です。

と言うわけで、このスレの後半で『一号作戦』を取り上げることになると思いますが、
上記の本から『相当引っ張ってくる』予定ですw。

前もって皆さんに告知しておくと、その時になって「この本のパク・アンド・リーじゃねえか!」と
文句を言われても、この>>189 を再録して返事が終わりになりますので、よろしくです(藁)。
190イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 00:02:52 ID:KWTXigEy
>>181
>>このように日中人士の入り乱れる複雑さは、とても一筋縄ではいかない。
>>ここでは割愛したが、当然孫文らとも日本人は深く関ってる。

もう・全く・極めて・激しく・同意です。この辺りも詳しくやるべきですね。
というか、いずれスレの前半でやります。気長にお待ちを…。

孫文が日本に亡命していた頃の偽名が「中山樵(きこり)」だったのは有名な話ですね。孫文には、
「中国の山のきこり」と意味を説明しました。

日本で孫文を匿ったのは、玄洋社(国家主義的右翼団体)の初代社長・平岡浩太郎です。
東京・平岡町(現・早稲田鶴巻町)に隠れ家を設けて自分も同居しています。当然、清国政府の
刺客(テロ団)が日本にウヨウヨしていましたので、グッドな度胸です。

南京には孫文を祀る「中山陵」がありますが、「中山」はこのときの偽名に因ります。
191イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 00:04:51 ID:???
あと、田中義一と張学良も補足します。いずれw
192名無し三等兵:2005/10/24(月) 00:06:53 ID:x4wQvF5L
193名無し三等兵:2005/10/24(月) 00:07:45 ID:???
>>鳥居民

この人の本には、なんつーか「小説臭さ」が多いのですよ
だから小説なのか資料として使えるのか曖昧みーな部分があって、一式揃える気にはならない。

揃えるべきなんでしょうけどね
194イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 00:28:37 ID:???
>>190
>>東京・平岡町(現・早稲田鶴巻町)に隠れ家を設けて自分も同居しています。

誤植の訂正:×『東京・平岡町』→◎『東京・平河町』
195良スレ傍観者:2005/10/24(月) 04:18:46 ID:???
個人的にはまとめたHPを作ってもらうのがありがたいかと(無責任な発言ですが)
そして、あわよくば広告料をw
196崩れ:2005/10/24(月) 10:27:04 ID:???
イナゾウ中佐さんは近現代史の方でしょうか?
ただの軍事マニアさんとは思えないのですが・・・。
197イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 21:42:00 ID:tuTkiBzh
>>193

鳥居民氏は「確信犯」ですからね。以下の通り、本人も公言していますし。

「そして次のことをつけ加えておきたい。石田幹之助、あるいはE・H・カーといった
 歴史家が強調したように、歴史を書くにあたっては想像力が必要であり、人の心を
 想像力を働かせて理解するように努めなければならない」

その点を理解して読む分には問題ないと思います。「小説臭さ」をもっと悪く言い換えれば、
「陰謀史観」「謀略史観」になるでしょうw 自分は好きな部類ですが。

>>だから小説なのか資料として使えるのか曖昧みーな部分があって、

「仮説」あるいは「思考トレーニング」の要素が強いですね。当然、歴史の初心者に
お薦めすると大変危険です。初手から思い込みというか、あさっての方向に行ってしまう
可能性が高いでしょう。
198名無し三等兵:2005/10/24(月) 21:48:00 ID:???
>>192
発展というか日本は地震国だからね。
高層ビル群なら負けるさ
199イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 22:04:44 ID:tuTkiBzh
>>195 >>個人的にはまとめたHPを作ってもらうのがありがたいかと

絶対無理ですw。だいたい自分はパソコンに無知です。維持・管理する時間も
とても捻出できません。本などで「ブログなら簡単にできる」とよく耳にしますが、
ググって調べ物をしているとよく

『ページが遥か下まで延々と続いていて、該当箇所を探す気にもならない』

といったブログに出くわします。文字通り「奈落の底」です。
もう「人に読ませる気ないだろ?」と小一時間…w。という訳でHPは無理です。

あと「まとめる」のも不可能です。その都度にツッコミを入れて頂く形が一番やりやすいのです。

兵頭軍師が『地獄のX島』や『日本有事って何だ』など、『質疑応答本』を多産されている
理由が今なら分かる気がします。
200イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 22:11:52 ID:???
>>196

昔は経済板にいました。その頃は「イナゾウ@商学徒」と名乗っていました。
「銅鑼殿」や「すりらんか殿」といった苺の御大方が2chに光臨あそばされていた
ギリギリの時期ぞなもしw。
201イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 22:38:32 ID:tuTkiBzh
>>155 >>その割には、満州事変のとき張学良はろくな抗戦指導も
>>せずに36万の大軍を失って命からがら逃げるわけだがな。

張学張は事件当時(1931年9月18日)、奉天にはいませんでした。阿片中毒の療養中で
11万の兵を率いて北京に進出しています。確かに「ろくな抗戦指導」は取っていませんが、
よく史実で言われる「張学良軍25万人」は分けて考える必要があります。

実際に奉天の留守を守っていたのは、参謀長の栄臻です(兵力14万人)。ちなみに関東軍の兵力は
1万1000人余りでした。10倍以上の兵力差を緒戦で埋めたのは、有名な24センチ榴弾砲(攻城砲)
2門の威力です。

それぞれ東北辺防軍の「北大営兵舎」と「奉天飛行場」に向けられ、前者は外郭だけ残して
木っ端微塵ですし、後者は滑走路に大穴があいて使用不能に追い込まれています。当然、土人は
戦意を失いました。いやはや「現実は小説より奇なり」です。
202イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 23:00:49 ID:tuTkiBzh
>>155 >>36万の大軍を失って命からがら逃げるわけだがな。

この後、張学良は「反攻の拠点」として満州国南西部にある熱河省に
引きこもりますが、関東軍に当然のことながら駆逐されます。

蒋介石は「熱河敗戦」の責任を追求し、張学良の東北軍を4個軍に解体。
行き場がなくなった張学良は、東北軍の残党とともに陝西省・西安に追いやられ
延安の「共産軍討伐」をやらされます。

はい。ここで歴史が繋がりましたね。

蒋介石からすれば、北支の影響力を手中に収めるために、張学良の追放を
狙っていたのです。こういうのを「いい面の皮にされる」と言いますw

ちなみに役職の変更はこうです。軍事委員会北平(北京)分会代理委員長の
張学良が解任され、国民政府軍政部長の何応欽が兼務となりました。長い…w
203イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 23:18:19 ID:tuTkiBzh
してやったりの蒋介石ですが、この「追放劇」が後々の西安事件で自分の
墓穴を掘る訳ですから皮肉なものです。

さて、陝西省の省都・西安には国民政府軍の「西北掃匪司令部」が置かれ、
張学良は「西北掃匪副総司令」として配備されます(総司令は蒋介石)。

そして1936年12月12日に「西安事件」が起こるわけですが、詳細は割愛。
既に張学良は、自らの旧東北軍に対して統制を失っていたことと、宋美齢の
肝っ玉ぶりを褒めておきます。

宋美齢は周囲の反対を押し切り、1936年12月22日、空軍機で西安に乗り込み
周恩来と張学良と会見。共産党との合作を受け入れて蒋介石の救出に成功します。

やはり、宋美齢は只者ではないのです。

ちなみに何応欽は「反乱軍討伐総司令」となり、張学良軍を空爆しています。
204イナゾウ中佐:2005/10/24(月) 23:33:35 ID:tuTkiBzh
その後の顛末ですが、1936年12月26日、蒋介石は宋美齢とともに空軍機で
南京に帰還します。

このとき何を考えたのか、張学良は自発的に同行。軍法会議で10年の懲役判決を受け
ますが、蒋介石の特赦により翌年1月4日に釈放。以後、身柄は国防部の監視下に置かれます。

太平洋戦争後、国民政府が共産軍に大陸を追われて台湾に移ってからは、台北で
軟禁生活を送ります。その後、1990年に名誉を回復。実に54年が経過していました。

1994年にハワイに移住してからは、ホノルルで静かに余生を送ります。1995年に米国政府は
張学良と夫人に永住許可を与え、2001年に死去。ニュースで流れたのを記憶しています。

蒋介石死後は、軟禁生活も緩まり次第に行動の自由も広がったようです。1990年にNHKの
取材に答えて大きな反響を呼んだそうですが、詳細については分かりません。

張学良自身については、もう述べることは無いでしょう。
205だつお:2005/10/25(火) 04:54:34 ID:JpT9K72w
日英同盟を失った日本は、米英ソのみならずドイツからも、
二流国としてナメられていた。中国国民党への支援が何よりの証拠で、
これは日本側がいくら抗議しても門前払いだった。

中国人という生き物は、皇軍による大量殺戮の標的にされることでしか、
日本の工業水準がどれだけ先進的で優秀なものかを実感できなかった。
206イナゾウ中佐:2005/10/25(火) 22:46:31 ID:uNPtbDd6
日中戦争を調べていると、支那軍側の膨大な戦死者数(遺棄死体)に驚かされます。
もちろん誇大化された数字なのでしょうが、それを抜きにしても信じがたい比率です。
一例を挙げてみると、

中原会戦(1941年5月7日〜6月15日):山西省南部・河北省北部

日本軍の戦死者:673人、戦傷者:2292人
支那軍の遺棄死体:約4万2千人、捕虜:約3万5千人

ちなみに日本側の総兵力は約9万人、それに対して支那軍は26個師:約18万人で
2倍近いです。どう戦ったら、こんな数字になるのでしょうか?
207イナゾウ中佐:2005/10/25(火) 23:05:18 ID:uNPtbDd6
もちろん日本軍側も、個別の戦いでは「全滅」に近い損害を受けた
部隊が多々あります。支那側の数に包囲圧倒されたか、劣勢な部隊で
支那側が防備を固めている陣地に強攻したとか、そんなケースです。

例えば、武漢攻略戦(1938年)における「徳安」付近の戦いでは
熊本第106師団(松浦淳六郎中将)が、戦死者:3300人、
戦傷者:4000人:入院患者9900人という損害で、文字通り
「全滅」です。

本によって数が異なりますから、細かい数字のツッコミはご勘弁を。
あまりに懸け離れていたら別ですが。

機会があれば「個別の戦闘」も少しまとめます。明日は朝が早いのでもう寝ますw。
208名無し三等兵:2005/10/26(水) 01:26:06 ID:HoZVWsKt
>>39
条件を加えたのは、賠償については賀屋興宣、特殊地帯については杉山元だったと思いますが、
わざわざ何人もあげている中になぜかこの二人が抜けているのはおかしな感じがします。
賀屋は吉野と財政と経済は不可分を合言葉にコンビを組んで、
石原莞爾の五ヶ年計画を実行に移していた人ですが、
(二人の後を継いだ池田成彬も石原のこの計画に関わっています。池田は元々石原の満州組内閣に入る予定でした。)
彼はこれまでの内閣が駄目になったのは腹切りのせいでも食い逃げのせいでもなく
為替の問題だと思っていた人です。これは政府が弱気では云々の部分について見逃せない話だと思います。
また、『対手とせず』については特務機関の人間を中心に、王克敏政府との関係させて考える人が多いです。
王克敏政府の為相手にするなと中央に言った人間もおり、
後で対手とせずについてああいう裏付けがあったと残念そうに語る人もいました。(今井武夫ですが)
王克敏政府は北支分離の考えにもとづいて作られた傀儡政権ですが、
日本が退いたら蒋介石に漢奸にされるのではないかと恐れ人材が集まりません。
それとどれほど関係があるのかわかりませんが、陸軍の方では王克敏を将来の首班にすると約束し、
そのために蒋介石を追い落とす必要が生まれたものと考えられます。
そして杉山が付け加えた特殊地帯もこれに関するものです。

こうなるとやはり北支問題が重要になってきます。
小畑の対ソ予防戦と永田の北守南進ですが、対ソ予防戦が1934年にソ連側が防備を備えた為立ち消えになるのに対し、
北守南進の方は実行に移されています。天津駐屯軍司令官多田駿が
反満抗日分子を北支から徹底駆逐、華北経済圈の独立、華北5省との軍事協力・赤化防止の声明を出したのは
永田の死後だったと思いますが、それまでずっと策動されていたものです。
そして、石原がこれからの対支交流は文化的経済的なもので無ければならず、軍人が出るべきでない
とメモに書いたのは永田が死んだ35年末のことでした。分離工作の放棄は37年1月のことです。
この点、永田と石原の対支構想がどれだけ一致を見ていたか疑問です。
209名無し三等兵:2005/10/26(水) 03:33:33 ID:WJ5I2TKe
参謀本部は近衛と宋子文で交渉して
「事変の解決にかんし、蒋総統は近衛首相と意見の一致を見たる」
までこぎつけた和平工作を使者を憲兵に拘束させるというやり口で
ぶっこわしてる。
参謀本部は不拡大ということはよく言われるが、一部だけだろう。
閣議で軍はどこでやめるのかという質問がでれば杉山は
「なんだ君は、こんなところで、そんなことを」
と言い、答えない始末。
当初は松井石根も南京占領までする気は無かったが、
その方針をぶっこわしたのは杭州湾上陸。
この作戦は政府には知らされていなかった。
王克敏政府の樹立も知らされていない。
近衛が大本営設営で作戦を知ろうとしても日清の先例があるのに
統帥権を理由に拒否。
これで政府側の責任を云々してもしかたない。
210名無し三等兵:2005/10/26(水) 05:50:03 ID:2jjlO0CV
第二次大戦って、やっぱ大日本帝国は悪者だったんでしょうか?
211名無し三等兵:2005/10/26(水) 08:05:25 ID:???
>>210
周回遅れの帝国主義国家として普通の悪者から、極悪非道に転げ落ちていったからね。
ちなみに侵略戦争を国家総動員体制でやったのは日本だけ。
212名無し三等兵:2005/10/26(水) 18:31:40 ID:???
>>210
なんで日本だけなんだよ
213イナゾウ中佐:2005/10/26(水) 22:19:50 ID:6PCACysD
>>208 >条件を加えたのは、賠償については賀屋興宣、特殊地帯については杉山元だったと思いますが、
>わざわざ何人もあげている中になぜかこの二人が抜けているのはおかしな感じがします。

>>39 は、近衛政権の「その他」閣僚が、和平条件に対して強硬な意見を述べていた
という論旨です。杉山については(特殊地帯について言及していませんでしたが)、

直後の >>40
>逆に政府側に立って「交渉打ち切り」を主張したのは、陸海軍大臣です。むろん大臣は
>内閣の一員だからと言えばそれまですが、陸軍省は一部の者を除いて非常に強気でした。
>本来、作戦を担当する参謀本部が強気で、戦備を担当する陸軍省がそれをセーブするはずが
>『真逆』になっています。

同様に、>>41で、
>また言うまでもなく、杉山元陸軍大臣は強気の一点張りです。

と指摘しています。蔵相の賀屋興宣が抜けていたのは、ご指摘の通りです。スマソ。
214名無し三等兵:2005/10/26(水) 22:22:53 ID:???
杉山元は元帥になったほどなのに、その評価は軍人としても戦術家としても戦略下としても人間としても低いなあ
なんで元帥になれたんだろう
やぱーり陸大のせいだろうか?
215名無し三等兵:2005/10/26(水) 22:41:01 ID:???
>イナゾウ中佐
無駄に血を流したといえば打通んときの衛陽攻略戦なんか酷かったような。
216イナゾウ中佐:2005/10/26(水) 22:44:28 ID:6PCACysD
ぶっちゃけ、杉山元・陸軍大臣は指摘するまでもないと思いましたw。

>>39 について補足すると、1937年12月17日の定例会議で国民政府に送る
「和平条件案」に対して強硬論を述べた「その他」閣僚の名前です。

その直前に行なわれた(1937年12月14日)大本営・政府連絡会議に出席でき
なかったメンバーを指します。ちなみに連絡会議に出席したのは、以下の通り。

近衛首相、杉山元・陸軍大臣、米内光政・海軍大臣、広田弘毅・外相(以上、4相会議
のメンバー)に、多田駿参謀次長、古賀峯一軍令部次長(ともに総長代理)を加え、
さらに政府側が先の4相にプラスして、末次信正・内務大臣、賀屋興宣蔵相(ここに登場します)
が出席したものです。

時期的には、南京占領にあたって、トラウトマン工作の条件を見直すところです。
217名無し三等兵:2005/10/26(水) 22:54:46 ID:1huV3Hrr
>>208
>また、『対手とせず』については特務機関の人間を中心に、王克敏政府との関係させて考える人が多いです。
>王克敏政府の為相手にするなと中央に言った人間もおり、
塩沢清宣大佐ですね。上京して、蒋政府の否認を求めてた。
日本はその後、王克敏の臨時政府に飽き足らず、梁鴻志の維新政府までつくった。
さらに唐紹儀や呉佩孚の引き出し工作も行われたが、どちらも失敗。
土肥原の不注意で唐紹儀は暗殺されてしまう。

>>209
> 参謀本部は近衛と宋子文で交渉して
> 「事変の解決にかんし、蒋総統は近衛首相と意見の一致を見たる」
> までこぎつけた和平工作を使者を憲兵に拘束させるというやり口で
> ぶっこわしてる。
これは宮崎龍介のことかな?憲兵は陸相の隷下で参本とは無関係。

> 参謀本部は不拡大ということはよく言われるが、一部だけだろう。
これはその通り。第二部の支那課なんかは非常な楽観的強硬論だった。

> 当初は松井石根も南京占領までする気は無かったが、
> その方針をぶっこわしたのは杭州湾上陸。
これは半分正しい。松井は駅頭で南京までいくと漏らしてたが、上海で凄まじい損害を
受け、とてもそれどころじゃなくなった。そこに新手の第十軍が来たことで、南京行きが
復活した。多田参謀次長は南京攻略に反対だったが、石原の後任の下村少将が、上司を
出し抜く形で、御前会議で南京攻撃を言い出し、その後も出先と協力して次長を説得した。
この辺に関しては、昭和14年に竹田宮が行ったインタビューが参考になる。
218イナゾウ中佐:2005/10/26(水) 22:56:31 ID:6PCACysD
大本営・政府連絡会議に出席したのは計8人ですね。

翌・1937年12月15日に回答案がまとまりますが、この時は「現在の国民政府を
中央政府」と認めて、和平交渉を開始することに決定しています。

またこの時、多田駿参謀次長が「支那事変の早期解決」と「長期戦回避」の
必要性を主張して、それが諒承されています。

ところが >>39 で述べた通り、12月17日の定例会議で「連絡会議」に出席して
いなかった閣僚から「軟弱すぎる!」との強硬意見が続出し、翌12月18日の
臨時会議でも同様でした。結局、原案を事務当局で再検討することになります。
219イナゾウ中佐:2005/10/26(水) 23:04:07 ID:6PCACysD
>>218 の続き。

それで出来てきたのが、>>163 >>164 >>165 >>166 な訳ですw。

12月22日に、広田外相から「2回目の回答」を受けたディルクゼン独大使は

「この条件では中国政府の受諾は困難だろう」と述べています。この時の
近衛首相の怠慢ぶりは、>>162 で既に述べたとおりです。以下、再録。

>具体的には、「トラウトマン工作」で2回目に日本が提出した『和平条件案』
>(1937年12月22日)を見れば理解が早いでしょう。A級『真』戦犯・近衛首相は
>本当に驚くべきことに、閣議を病気欠席して態度不明のまま決定させていますw。

順序が錯綜して、ややこしい回答で激スマソw
220イナゾウ中佐:2005/10/26(水) 23:18:27 ID:6PCACysD
>>208
>彼はこれまでの内閣が駄目になったのは腹切りのせいでも食い逃げのせいでもなく
>為替の問題だと思っていた人です。これは政府が弱気では云々の部分について見逃せない話だと思います。

すいません。為替の問題とかが絡むと、自分はチンプンカンプンですw。

>また、『対手とせず』については特務機関の人間を中心に、王克敏政府との関係させて考える人が多いです。

これは、その通りでしょう。
221名無し三等兵:2005/10/26(水) 23:19:42 ID:WJ5I2TKe
>>217
参謀本部が陸軍省に急報でつげて憲兵が動いている。
だから参本も関与している。
222イナゾウ中佐:2005/10/26(水) 23:23:54 ID:6PCACysD
>この点、永田と石原の対支構想がどれだけ一致を見ていたか疑問です。

すいません。自分は >>128 でこう述べているんですがw。

>自分は、永田の考えは石原莞爾のそれに近いと考えていますから、小畑(必然的に皇道派)
>のように「対ソ戦至上主義(予防戦争も辞さない)」とまで行かなくても、支那問題よりも
>対ソ戦「重視」だったと思います。「対支一撃論」はあくまで政治的方便でしょう。

永田と石原で近いと言ったのは「対ソ構想」です。
223イナゾウ中佐@心配になってきた…:2005/10/26(水) 23:29:01 ID:???
調子に乗って「 >> 」を乱用していますが、これを使い過ぎると
スレが重くなって1000まで書き込めなくなると、どこかで
聞いたのですが本当でしょうか?

文書を保存する前にいきなり「突然死」は困ります…w まあ、
先の心配でしょうが。
224名無し三等兵:2005/10/26(水) 23:43:39 ID:1huV3Hrr
>>221
そういえばそうだったかな。
宮崎逮捕に関して杉山は近衛に問い詰められ、むにゃむにゃと要領を得ない様子だったとか。

南京の維新政府は松井の強い意向で設立され、北支方面軍の後援を受ける北京の臨時政府
と悶着を起してる。結局梅工作により、汪兆銘政府が両政府に上乗せされるわけだけど。
とにかく当時目ぼしい中国人には大抵日本人がくっついていて、自分の旦那を売り込もうと
暗躍してた。
225イナゾウ中佐:2005/10/27(木) 00:21:45 ID:JhsZB0LA
>>210
>第二次大戦って、やっぱ大日本帝国は悪者だったんでしょうか?

みんな悪党ばかりです。善人だった国なんてありませんw。

所詮、この世は悪しき世界です…。
226イナゾウ中佐:2005/10/27(木) 00:27:49 ID:JhsZB0LA
ああ、汪兆銘もやっておかないといけませんね。

とりとめもなく各論を続けているようですが、今は「ジグソーパズルのピース」を
作っているようなものです。

最終的に1枚の「完成した絵」にはならずとも、ある部分はピースが繋がっていくでしょう。
227名無し三等兵:2005/10/27(木) 21:04:11 ID:???
>>223
アンカーは1レスに10個、20個でもない限りさほど気にする必要はありません。
ぶっちゃけ、アンカーより長文の方が容量的にヤヴァイです。
現在、123KBです。ペース的には900程度で容量限界に達すると思われます。
228イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/27(木) 23:07:09 ID:LIGbMW5I
>>227
お教えいただき、まことにありがとうございます。

アンカーは今までどおりに貼っていきたいと思います。ですが、長文自体は
どうしようもないので、このスレは結局『サドンデス・スレ』になりますw。

あと思うところありまして、トリップを付けることにしました。
229イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/27(木) 23:34:41 ID:LIGbMW5I
>>214 >>杉山元は元帥になったほどなのに、その評価は軍人としても戦術家としても
    >>戦略下としても人間としても低いなあ なんで元帥になれたんだろう

2.26事件(1936年)で、皇道派(青年将校)のクーデターを叩き潰すのに功績があったからです。
この時、杉山元は参謀次長です。

クーデターの首謀者たちは、「川島義之・陸軍大臣は自分たちの味方に付くだろう。
渡辺錠太郎・教育総監は、過激派には厳しい立場を取るだろうから殺してしまえ。
残る陸軍三長官の内、参謀総長は閑院宮戴仁親王でお飾りだ。

参謀次長なんてどうでもいい。小物の一掃は後からだ。それよりも岡田啓介首相、
斉藤実・内相、鈴木貫太郎・侍従長が先だ――。」彼等はそう思っていました。

ところがどっこい。杉山参謀次長は昭和天皇に、東京の外の連隊で最も近い第1師団の
甲府連隊と佐倉連隊の出動の決済を求めます。また、皇道派の軍事参議官である荒木貞夫や
真崎甚三郎が自らに有利なように事態収拾しようとするのを阻止します。
230イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/27(木) 23:47:01 ID:LIGbMW5I
>>229 の続き。

また、戒厳司令官が反乱軍よりの宥和策を取ろうとするのにも強く反対しました。
こうして宮中の深い信頼を得た杉山元は、皇道派を対象とした粛清も相まって
「トントン拍子」で出世することになります。

もちろん、部下から担がれやすい「神輿」だったこともあります。

ちなみに梅津美治郎も仙台第2師団長で、「反乱軍を討伐せよ!」と最初に
陸軍大臣に意見具申の電報を送り、出動待機した唯一の部隊です。他はすべて
日和見です。事態がどう転んでもいいように「玉虫色」の電報を送ったのが精々です。

また、ヒデキも関東軍の憲兵司令官として過激派をすべて拘束しています。

ただし、梅津もヒデキも遠隔地で影響力はありませんでした。東京にいたのは杉山です。
231イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/28(金) 00:10:20 ID:vB5YMJ3d
>>230 の続き。と、ここまでは他のスレでも書きましたが、

「石原莞爾の働きはガン無視かよ!」

という有難いツッコミを頂きましたw。この当時、石原は作戦課長として
反乱軍の鎮圧に貢献しています。戒厳令の布告を参謀次長の杉山に進言し、
陸相官邸で反乱将校を一喝するなど、その他のエピソードにも事欠きません。

ただ、宮中の「カンジの評価」は思いのほか低いのです。『昭和天皇独白録』の
「二二六事件」のくだりは以下の通り。多少、現代語に意訳。

「参謀本部の石原からも町尻武官を通じて、討伐命令を出して戴きたいと言って来た。
 一体、石原という人間はどういう人間なのか、よく分からない。満州事件の張本人で
 ありながら、この時の態度は正当なものであった」

一見、褒めているようで「昭和天皇の石原評価」は最悪だったことが分かります。
232イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/28(金) 00:26:55 ID:vB5YMJ3d
やはり「満州事変」が余程効いているのです。

この点、昭和天皇の信頼が「絶大」であったヒデキとは大きく異なる部分です。

もちろん関東軍時代のヒデキの所業は、カンジと大差ないものです。しかし、
昭和天皇の心証は「満州事変→第一次上海事変→国際連盟の脱退」といった経緯で
日本の道を誤らせたとして最悪になっているのでしょう。

また、太平洋戦争末期の「対重慶工作」で石原の名前が出たときも、昭和天皇は
信用できなかったと言います。
233名無し三等兵:2005/10/28(金) 00:36:48 ID:1ZBW5C23
>>226
汪兆銘はかなり日本側に好かれていたのでは?
234莞爾:2005/10/28(金) 00:38:50 ID:???
あ〜あ、河豚作戦さえうまく行ってりゃよぉ。
23532:2005/10/28(金) 00:53:14 ID:???
>>232
二人とも激しく現地軍の主張を突っぱるのですが、
命令されれば聞くヒデキと、勝手に動いてしまうカンジの差が、
昭和天皇の信頼感の違いにつながったのだと解釈しています。

>>234
思いきって日本側が先行してユダヤ人自治区を建設するくらいのことをしないと、
頭の固いアメリカ・ユダヤ人協会(ワイズ博士)は動かせないかな。
しかし日本側でも、アメリカ側の一定の理解がなければ内部を説得するのが難しいわけで。
以外と、欧米の文献では日本側ではなくワイズに否定的なものがありますね。
236イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/28(金) 01:09:12 ID:???
このスレを通じて強調したいことは、「統制派」と「皇道派」の暗闘は決して2.26事件で
終わっていないという事です。支那事変にも太平洋戦争にも、連綿と続いています。

>>217
>>松井は駅頭で南京までいくと漏らしてたが、上海で凄まじい損害を受け、とても
>>それどころじゃなくなった。そこに新手の第十軍が来たことで、南京行きが復活した。

第十軍の司令官は、柳川平助中将です。そして荒木貞夫が陸軍大臣を務めていた時の
陸軍次官です。当然のことながら皇道派です。

勘ぐれば第十軍の独断専行は、「『統制派』が始めた支那事変なんて知ったことか!
精々引っかき回してやれ! 俺のやりたいようにやってやる」と思っていたかもしれません。

逆に、統制派が天下を取った帝国陸軍の中で「何とか大きな手柄を立てなければ
生き残れない…。来年にも予備役編入か…」と焦っていたのかもしれません。
237イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/28(金) 01:17:02 ID:vB5YMJ3d
また太平洋戦争末期、陸軍大臣の候補に阿南惟幾と山下奉文の2人が挙がったとき、
ヒデキは断固として山下奉文を陸軍大臣に据えることに反対します。

理由は言わなくても分かるでしょう。山下奉文は皇道派です。ヒデキは
山下が陸軍大臣となって「統制派」が行なってきた人事を覆されることを
極度に恐れたのです。もちろん、その先にある「報復人事」もです。

そして史実は、阿南陸軍大臣です。
23832:2005/10/28(金) 02:45:21 ID:???
>>237
武藤の伝記に、武藤が南方軍政務幕僚の石井秋穂にむかって、
山下さんはお上の思し召しが悪いのを大臣が庇っているので、
大臣にあまり盾突かないようにしてほしい、と伝えた話がありました。

統制派と皇道派の微妙な政治力学の背後に、昭和天皇の意志もありそうですね。
239ササキ:2005/10/28(金) 16:31:59 ID:nohpiUcN
支那事変、「事変」なので職業軍人は出張手当もらってた、太平洋戦争勃発
と同時に「戦争」になり出張手当はなくなった。
240('◇')ゞ鳥肌実中将:2005/10/28(金) 17:42:23 ID:???
『太平洋戦争』だって?

|●|
|八|<_☆_>
|紘|(〇m〇)< 公式にも大東亞戦争だ!
|一|※:@ \
|宇|――――¬
241名無し三等兵:2005/10/28(金) 19:59:51 ID:KlZm8+/c
杉山は基本的に非常に慎重な人物。三月事件に対する対応を見れば判る。
極端な動きに与することはないが、かといって積極的に反対するわけでもない。
結局最高位にまで昇るのはそういう人物。

東條が満洲でやったことは、永田事件の意趣返しでしかない。彼が天皇に信頼されたのは、
細かい事まできっちり上奏するから。杉山や板垣に呆れてた天皇はその辺がお気に召した。

師団長レベルで2.26事件にはっきり反対の立場を示したのは、2Dの梅津、4Dの建川。
6Dからも強硬な電文が来たが、これは参謀の佐藤幸徳が谷寿夫師団長を説得して出したもの。
同じく支那駐屯軍でも、池田純久参謀が多田駿軍司令官を説得して断固討伐という主旨の
電文を打ってる。

石原莞爾は、満井佐吉や上京してきた橋本欣五郎と帝国ホテルで会談し、
事件を利用して昭和維新を、みたいなことを考えてたようだが、すぐに方向転換した。
相沢裁判の証人の一件も胡散臭い。板垣が石原を師団長にしようとして、陛下の御裁可を
得られなかったことがあった。板垣は、自分が陸相を退任する時にもう一度石原を師団長に
しようとし、今度は御裁可を得ることができた。二人の関係を物語るエピソード。
石原が殆ど無断に近い形で、満洲から帰ってきたときも、板垣と多田が随分手を回して
事なきを得た。浅原事件のときも、板垣は東條に激怒してる。
242名無し三等兵:2005/10/28(金) 20:13:19 ID:???
元老の影響力が薄れていくのとは逆に、天皇の政治的影響力は拡大している。
天皇の側近が追放されることは、何を意味しているのか?
243名無し三等兵:2005/10/28(金) 20:31:56 ID:KlZm8+/c
山下奉文も、石原と同じく一度天皇に親任を拒否されてる。しかしこれも、同期の沢田茂や
阿南惟幾の心遣いで、航空総監になることができた。
基本的には皇道派は支那事変には反対。これは民主党が郵政民営化に反対するような
ものだろう。また傍目八目ということもある。ところが皮肉な事に、多くの皇道派将校が
支那事変勃発当時、前線指揮官として活躍してる。第十軍の柳川平助に関しては、
もともと年度計画で第十軍の引当てとなってたわけだが、そのほかにも、山下、鈴木率道、
酒井鎬次、牟田口廉也といった人々が北支に在った。
柳川はとにかく統帥一本槍の人物。政略など頭にない人だから、南京への追撃に反対しないのは
当然といえば当然。
244名無し三等兵:2005/10/29(土) 00:19:15 ID:???
>>242
元老の影響力って、長州閥の山県と公家の西園寺じゃ天皇にとっては正反対じゃないのか?
245イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 00:42:48 ID:2S1+F6XG
>>235
満州国のユダヤ人受け入れについては、ハルピン特務機関長の樋口季一郎少将が
知られていますね。1938年3月、満ソ国境で吹雪の中を立ち往生している約2万人の
ユダヤ難民の受け入れを、満州国外務部を通さず「独断」で決めています。

当然、独逸のリッペンドロップ外相から責任者を処分するようクレームが付き、
樋口少将は関東軍司令部から出頭命令を受けます。しかし、断固として抗議します。
この時の関東軍参謀長はヒデキです。

「東条参謀長! ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめをする事を正しいとお思い
 になりますか!?」 ヒデキは返事に詰まり、天井を仰いで言いました。

「樋口君、よく分かった。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は
 不問に付すよう伝えておこう」

樋口少将を待っていたのは、「不問」に付すどころか参謀本部情報部長への栄転でした。
246イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 01:13:10 ID:2S1+F6XG
この件は、ヒデキが偉いのか、「ヒトラー基地外」だったヒデキを説き伏せた
樋口少将が偉かったのか微妙ですw。

何はともあれ、情報部長への栄転を受け、満州を出発する樋口少将を見送るべく
ユダヤ難民たち(樋口が土地や住居を世話していました)が駅頭に駆けつけます。

樋口少将が、特急「あじあ号」最後尾の展望台に立つと、ユダヤ難民たちは一斉に
日の丸と満州国旗を打ち振り、「ヒグチ!ヒグチ!ゼネラル・ヒグチ!」と歓声を上げます。

その後、樋口は中将となり、北部管区司令官・第5方面軍司令官としてアッツ・キスカ、
そして占守島で最後の戦いを指揮します。

エルサレムの丘には、高さ3メートル・厚さ1メートルの本を広げた形の「黄金碑」が
立っていますが、これはユダヤ民族の幸福のために尽力した人々の恩を永久に讃えるために
鋳造されたものです。世界中のユダヤ人が金貨や指輪などを供出した本物の黄金碑――、
その中に「偉大なる人道主義者、樋口将軍」の名が刻まれています。
247イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 01:18:44 ID:???
樋口季一郎少将は、カンジと仲が良かったにも関わらず、ヒデキにも
気に入られていた「稀有な人物」です。本当に恐るべきことです。

人徳だったのかもしれません。
248名無し三等兵:2005/10/29(土) 01:32:27 ID:???
満州事変については、ここで質問してよろしいのでしょうか?
柳条湖事件から全土制圧までの経過を、内地、満州、外交の動向をふまえて。
249イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 01:34:59 ID:2S1+F6XG
>>241
>>師団長レベルで2.26事件にはっきり反対の立場を示したのは、2Dの梅津、4Dの建川。
>>6Dからも強硬な電文が来たが

>>230 で強硬論を打ち出したのは「梅津だけ」と述べたのは言い過ぎでした。スマソw。

また、昭和天皇の山下奉文に対する「心証が最悪」なのは、>>231 の直後に『独白録』で
こう続くことからも明らかです。

「また、本庄武官長が山下奉文(軍事調査部長)の案を持ってきた。それによると、反乱軍の
 首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わす
 という事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。

 赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を
 出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出したのである」
250イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 01:50:08 ID:2S1+F6XG
2.26事件で昭和天皇の不興を買った人間は、もう二度と信用されていません。
文字通り「俺の目の黒いうちは…」です。>>249 の山下奉文は「致命的」としか
言いようがありません。

『木戸日記』や『本庄日記』には、もっと強い調子で描かれています。

「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以ってのほかなり」

生々しいよ、ママン…w

>>248 中国に関連するなら何でもOKです。自分が分からなくても、どなたかに
答えて頂けるでしょう。ただ、質問は具体的にお願いします。範囲が広過ぎると
どうしようもありませんw。あと、超亀レスになる可能性も大です。
251名無し三等兵:2005/10/29(土) 01:56:20 ID:???
226じゃあ自分の父代わりの人が殺されたわけで
どんな人間だって、そんなときの対応を心に刻み込むだろうてな。
専制君主なら即座に皆殺しだろうけど、立憲君主はそれができないので
だからこそ後を引くだろう。
252名無し三等兵:2005/10/29(土) 02:04:59 ID:???
>>250
では、関東軍の動きに関して。これを制しようとした政府は、ことごとく先手を取られたと聞いたのですが
どのような手法を用いて関東軍は内地の動きに対して先手を打ったのでしょうか?
253イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 02:49:53 ID:2S1+F6XG
>>252

満州事変が勃発する3日前(1931年9月15日)、関東軍の謀略を察知した
陸軍三長官(南次郎陸相、金谷範三参謀総長、教育総監武藤信義)は、
これにストップをかけるべく作戦部長の建川美次少将を満州へ派遣します。

建川少将の奉天着は9月18日予定でした。

この情報を現地の板垣征四郎大佐(関東軍高級参謀)に送ったのが、
参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎(砲兵中佐)です。

橋本中佐は桜会の中心人物ですが、「桜会」の別名は『ヤミの参謀本部』です。

そして桜会は「陸軍革新」を目指す佐官級実力者の集まりです。彼らを通じて
情報は筒抜けだった訳です。
254イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 02:59:46 ID:2S1+F6XG
満州事変は1931年9月18日に起きていますが、カンジ達が予定していた

『本来の決行日』は9月28日です。10日以上も先の話です。

橋本中佐から建川少将来訪の情報を送ってもらったはいいが、カンジ達は
決行を大いに悩み、延期論すら出始めます。

最終的には、若い今田新太郎大尉の強硬論に引きづられ、建川少将が
到着する9月18日に決行を早めることを決断します。

この辺りから分かるように、何でも関東軍の思い通りに運んでいたと考える
のは間違いです。今田大尉が言い出さなければ、満州事変が起こらなかった
可能性も高いのです。
255名無し三等兵:2005/10/29(土) 05:58:56 ID:0Hard0hN
256ササキ:2005/10/29(土) 09:59:07 ID:sMu3MoqA
>>247
樋口季一郎中将ってあまり知られてないが本を読んで感服した。この人
なんであんまりでてこないの?アッツ玉砕、キスカ作戦、占守(シュムシュ)
島の戦い。いろいろからんだ人なんだね。
257名無し三等兵:2005/10/29(土) 11:55:43 ID:???
日本のサヨク史観では、戦前に活躍した人物は徹底的に無視、いい所があった人も
脛に傷があるなら、そちらのみを徹底的に記して、功績は無視ってのが連中のやり口だから。
満州でのヒデキの件なんかいい例だ。
258名無し三等兵:2005/10/29(土) 12:08:43 ID:???
>>257
現代の死刑囚もいいところが全くないわけではないだろう。
チンピラの妹が、「お兄ちゃんは優しかった」というようなものだ。
ヒトラーを持ち出されるとスレが荒れると思うよ。
259名無し三等兵:2005/10/29(土) 12:10:15 ID:???
樋口中将を調べてみたら、あの悪名高き桜会の発起人として名を連ねているようなのですが…
これってかなり拙い気がするのですが、どうなのでしょうか?
260名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. :2005/10/29(土) 12:13:20 ID:??? BE:20146043-#
皆様ごきげんよう

   , ´  ̄`ヽ 
   ! . ノベ)ソ)     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  从(!゚ ヮ゚从   /樋口季一郎閣下のお話が出ましたので、ご挨拶に参りました(笑
    ([l蟹l]⊃ < 閣下こそ、帝国陸軍で最も優れた将軍の一人であったと、私は
    く/_|〉     \確信しております。
     UU       \____________________

樋口閣下が、帝国陸軍ではなく、英米独の将軍であったならば、多分歴史にその勲を
確実に残したでしょうに、まことにもって残念です。
261名無し三等兵:2005/10/29(土) 12:40:38 ID:???
樋口将軍のユダヤ問題への取り組みには、おなじみ日ユ同祖論も微妙に関わっているようで。
四王天延高や酒井勝軍のユダヤ論というトンデモが、回りまわって影響しているのが面白いですね。
262名無し三等兵:2005/10/29(土) 15:07:32 ID:KGbWx7S4
ぶったぎってスマソ
東京の、中央大学杉並高校の文化祭で、研修旅行のブースに「昭和十二年支那事変上海戦線写真帳」がある!研修旅行の資料として購入したらしいけど、絶対軍ヲタがいるw 普通に座り読みできるから、近場の人は行くといいかも。

263名無し三等兵:2005/10/29(土) 19:41:24 ID:???
>>262
いいなぁ
うちの大学のサークルに来ないかな。
264イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 22:54:52 ID:Z2b3VTxs
>>259
>>樋口中将を調べてみたら、あの悪名高き桜会の発起人として名を連ねているようなのですが…
>>これってかなり拙い気がするのですが、どうなのでしょうか?

『桜会』の第一回会合が行なわれたのが、1930年9月下旬です。田中隆吉の悪名高き『日本軍閥暗闘史』
には、はっきり10月1日と書かれていますが、資料そのものが全く信用できませんw。

さて、ご指摘いただいた「桜会の発起人」ですが、確かに橋本欣五郎中佐(参謀本部ロシア班長)の
他に2名、すなわち坂田義朗中佐(陸軍省調査班長・その後病死)と樋口季一郎中佐(東京警備司令部
参謀)の名前があります。

この第一回会合は偕行社で行なわれ、橋本・坂田・樋口の発起人3名の他、根本博中佐(後年の陸軍省
新聞班長)、土橋勇逸(歩一大隊長)、小原重厚大尉(参謀本部ロシア班)、田中弥大尉(33期首席、
ロシア班)、天野勇(ロシア班)ほか、十数名です。

橋本の部下である参謀本部ロシア班の面子が目立ちますね。あるいは上司に無理やり連れて来られたのかもしれません。
265イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 23:07:07 ID:Z2b3VTxs
『一夕会』の第一回会合の決議が、>>92 でも書いた通り、

●陸軍の人事を刷新し、諸政策を強力に推進する
●満蒙問題の解決
●荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を擁護して、正しい陸軍を再建する

と穏健なものに対して(3番目に注目!)、「桜会」の第一回決議は

●目的 本会は国家改造を以って終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞せず。
●会員 現役陸軍将校中にて階級は中佐以下、国家改造に関心を有し私心なきものに限る。

と武力行使(テロ・クーデター)を認める「超強硬」なものです。もし樋口中佐がこの会と
志を同じくしていたなら非常に問題ありです。
266イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 23:22:13 ID:Z2b3VTxs
>>265 の続き。

しかし、です。
土橋勇逸中佐(歩一大隊長:ちなみに連隊長はヒデキです)の手記にはこうあります。

『桜会』第一回会合の閉会後、神楽坂の料亭に連れて行かれたが、来ていたのは
坂田・橋本・根本・張など他1、2名だった――。

とあり、樋口の名前は出ていません。もちろん、「他1、2名」の中に含まれている
可能性もありますが、発起人の名前を割愛するとは考えられません(坂田・橋本の名前は
最初に書いている)。この「他1、2名」は『アウトオブ眼中」の有象無象でしょう。

ちなみに土橋中佐は「一夕会」のメンバーでもあり、『一夕会』という会の名前の
名付け親でもあります。
267イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 23:34:09 ID:Z2b3VTxs
そして、打ち上げとなった神楽坂の料亭で、土橋は次のように
『桜会』の趣旨に反論します。

●クーデターでも起こしかねないことが心配である。
●隊付や若い将校が結集することは危険である。
●陸軍の革新(引いては国家全体)、それ自体は自分も賛成である。しかし、
 過激な手段は断固排撃し、あくまで合法的手段に頼るべきだ。

しかし、他のメンバーは聞く耳を持たず、馬の耳に念仏でした。土橋はその後の
桜会の会合には出ていません。

長々と書いてきましたが結論を申しますと、樋口季一郎中佐は、橋本中佐に口説かれて
半ば無理やり『桜会』の発起人に名を連ねたのではないかと思います。まず、第一回会合の
打ち上げに出ていないのが理由の1つ。土橋中佐のように、自分の考えに合わないと思えば
会を抜けてしまうことも多々あるのが2つ。
268イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/29(土) 23:54:26 ID:Z2b3VTxs
そして何より、橋本欣五郎が中心となった『十月事件』(1931年)で
憲兵隊に検挙されたメンバー、

橋本欣五郎中佐、長勇少佐、田中弥大尉、小原重厚大尉、馬奈木敬信少佐、
和知鷹二大尉、根本博中佐、藤塚止伐少佐、野田謙伍少佐、佐藤幸徳少佐、
影佐禎昭少佐、田中信夫少佐、野田又雄中尉、天野勇中尉――

以上14名の中に、樋口中佐の名前は無いからです。

話は外れますが、14名の名前を見ると「豪華な人」も混じっていますw
インパール作戦での第31師団長・第33師団長、汪兆銘に絡む影佐機関長、
「スレの初め」に既出の盧溝橋事件時の支那駐屯軍参謀・和知鷹二など…。

最終的な結論を申しますと、樋口中佐は「東京警備司令部参謀」でしたので、
橋本がクーデターを睨んで、無理やり「発起人」に仕立てたのだと思います。
269イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/30(日) 00:03:35 ID:???
ちなみに樋口季一郎は、1935年8月1日まで福山の歩兵第41連隊長です。

永田鉄山を斬殺した「相沢事件」の相沢三郎中佐が所属していたのが、
この連隊です。

同年8月12日、相沢中佐に台湾転属の辞令が下り、激怒した相沢は
「行きがけの駄賃」とばかりに、永田を斬殺するのです。

台湾転属の理由は、相沢中佐が「青年将校の追っかけ(呼び出し)」で
『無断上京』を頻繁に行なうのが問題になったからですw。
270イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/30(日) 00:26:22 ID:3VjKgmu6
上記のは、あくまで自分の推量ですので、違っていればご指摘ください。
271イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/30(日) 00:34:27 ID:3VjKgmu6
>>262
高校生で「支那事変」に興味を持つなんて、なかなな前途有望な方ですね。
色んな意味でw。

自分が高校生の頃は、佐治芳彦の『世界最終戦争―不敗の石原莞爾』なんて
火葬戦記を読んでいました(爆藁)。最近の高校生は進んでいるのかしらん?
272名無し三等兵:2005/10/30(日) 01:13:58 ID:zsBxco8t
樋口と橋本は古い友達です。桜会も無理やりというわけではありません。
ただ二人は昭和6年の夏に、神楽坂の料亭で会談を持ち、急進論と漸進論とで
意見が分かれ、橋本だか長だかが樋口にビール瓶を投げつけたのを切欠に
袂を別ってます。桜会はその後も、急進派の橋本や長と、それに反対の根本や
影佐、藤塚らに分裂し、十月事件も結局、根本らの密告で露見してます。

ちなみに、一夕会に関する、土橋勇逸の記述は日付などに間違いが多いです。
岡村日記の方が正確でしょう。
273名無し三等兵:2005/10/30(日) 01:31:37 ID:???
>>271
最近は大の大人すら(サヨの時点で精神年齢には疑問符が付くが)論破できる
高校生論客が存在するくらいです。そー言う意味ではまだ日本は捨てたモンじゃないと思いますよ。
274名無し三等兵:2005/10/30(日) 20:31:04 ID:???
>>273
現役だけど、自慢じゃないが漏れも左巻き教師を火病に追い込んだことがあるよ。
授業終わってから二時間監禁されましたがwwww
275名無し三等兵:2005/10/30(日) 20:50:32 ID:???
>>274
権力による生徒の思想の侵害は、軍事力による相手の意図の圧殺とどう違うのですかと言えば
もっと追い込めたかもしれないけど、まあ内申に響いたらナンだからやめとけ。w
276イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/30(日) 22:16:33 ID:jO/12TCf
>>272 
ムーチャス・グラシアス、グラシアス。

軍事史を調べていると「何でコイツとアイツが絡んでくるの?」と疑問に思うことがあります。
>>259 さんの質問はその典型だと思います。結局、自分も全然分かっていませんでしたが(核藁)。

>>272 さんのお答えにあるように、それは古い友人関係だったり、あるいは出身地が同じだった
からなんて理由もあります(橋本と樋口は違いますが)。例えば、佐賀県出身の牟田口廉也と
土橋勇逸が同じ佐賀出身の真崎甚三郎を訪ねて(大正末頃)、こう言っています。

「閣下。派閥などというのは我々の親爺の時代までで打ち止めにすべきものです。我々は
 日本を一つの単位として、物事に処せねばなりません。であるから、真崎さんが佐賀の
 先輩という事だけで、真崎さんが悪くても真崎さんにクッ付けというのは、時代錯誤
 です。だからと言って、同郷の先輩なれば、真崎さんを悪者にするようなことは致し 
 たくありません。同郷の後輩に対しても力の無い者をひいきにして世話をするような
 ことは私の性分に合いません」
277イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/30(日) 22:39:15 ID:jO/12TCf
ああ、牟田口の言葉とはとても信じられませんw。

他にも娘婿の関係だったり(本庄繁侍従武官長と青年将校の山口一太郎大尉
通称ワン太さん)というのもありますし、甚だしいのは「自分の奥さんの
妹(姉)の旦那」という関係もあります。義理の兄弟という関係ですね。

こんなもん知るか!w

しかし最も典型的な例が、映画『宋家の三姉妹』を見ても分かる通り、
孫文と蒋介石は「義理の兄弟関係」です。

宋慶齢が孫文の妻。妹の宋美齢が蒋介石の妻ですね。ちなみに宋慶齢は
孫文の国父に対して「国母」と称されます。

これは極端な例ですが、「歴史の出来事」だけ追っていては分からなくなることが
多々あります。歴史を作るのは人間だから、と言ってしまえば当たり前のことですが。
27832:2005/10/30(日) 23:01:21 ID:???
>>130
カンチャーズ島事件については、『証言・私の昭和史』(旺文社文庫)第2巻に記述があります。
本当にソ連の砲艦が、とつぜん日本側の陣地に砲撃を始めたらしいです。
しかも、日本側は移動準備中で小隊長もいなかったので、分隊長の判断で応射したとか。

>>227
人脈・血縁ということならば、日本の現在の政治指導者はなぜか戦争指導者の末裔ばかり。
影佐の孫とかが総理大臣になるかもしれないわけで。
279名無し三等兵:2005/10/30(日) 23:07:39 ID:???
橋欣と樋口はロシア班で一緒に勤務し、樋口がハバロフスクより帰国する時は、
「筆舌に及ばぬ心配をしてくれ」、警備参謀時代は、連れ立って杉山茂丸を訪ねたりしてた。
「かくのごとく因縁深き橋本を現役より去らしめた責任者の一人は私であった。私はまだ
彼を巣鴨に見舞っていない」

錦旗革命を今村均にちくった3名のうち、藤塚について同期の谷田勇元中将によれば、
仲間を売ったと回りから白眼視され、肩身が狭くなって航空兵科に転科したとか。


>>277
> 甚だしいのは「自分の奥さんの妹(姉)の旦那」という関係もあります。
中村孝太郎と今村均、山梨半造と本間雅晴、宇垣一成と笠原幸雄などがこれですね。
嫁さんが姉妹、その父は軍人。他にも苗字が違うけど実の兄弟というのもよくあります。
鈴木重康と河村参郎とか坂西一良と稲田正純とか。稲田といえば、彼の舅阿部信行は
井上成美と義兄弟ですね。終戦時のごたごたに関りの深い井田正孝中佐は、岩田家から
井田磐楠の養子に来て、男爵も継いでますが、戦後は実家に戻り岩田の復姓されましたね。
それから今村均のお姉さんの子供は、陸士34期で陸大恩賜の武田功大佐です。
今村さんのところは弟3人も軍人で、騎兵、航空兵、砲兵と綺麗に分かれてますね。
騎兵の弟はオリンピックにも出ましたが、末弟は山西省に残留して中共と戦い、
最後は服毒自決されましたね。昭和24年のことです。
280イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/30(日) 23:18:22 ID:zfzOe6Km
>>279

樋口もロシア班でしたか。また根本的な見落としを…orz.w
そうすると>>264 の『桜会』第一回会合のメンバーはロシア班ばかりですね。

おお! ものの30分でよくそこまで名前を挙げられますね。自分なら調べて書き込むまで
1時間半は掛かっているでしょう。

養子なども考えると「人間関係」はワケワカメw。誰もが知っている山本五十六なんて
典型的な例もありますが。
281名無し三等兵:2005/10/30(日) 23:27:43 ID:???
当時は家が途絶えたら困るっちゅうことで養子とりまくりですから。
NHKの磯村元アナウンサーのお爺さんも滋賀の生まれで石川の家に養子に行かれました。
が、もし滋賀のままだったら大将までなれたかどうか。
反ユダヤ主義者で、特徴的な苗字でお馴染みの四王天中将も養子ですからね。
ちなみにこの人、日本回教協会の会長を務めておられました。そう考えると結構面白い。
まあ今のアラブ人で四王天中将なんて知ってる人はいないでしょうが。
282イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 00:01:29 ID:zfzOe6Km
>>278 >>影佐の孫とかが総理大臣になるかもしれないわけで。

そうですね。最近、小泉総理に「抵抗勢力」と罵倒されたそうで、チト苦しそうですが。
明日の内閣改造が楽しみです。今ニュースを見たら、国交相は留任だそうですね。

知らない人のために補足すると、財務大臣の谷垣禎一氏の「禎」は外祖父に当たる
影佐禎昭からもらったものです。

この点を捉えて谷垣を「国賊のサラブレッド」と非難する向きもあるそうですが、
安倍氏の場合と似たようなものですw。しかし、自分はこの論調に組しません。
人物評価はきちんと本人を見てやるべきです。

でないと、中国や韓国の土人がやるような「反日法(過去にさかのぼり戦前の
親日行為を断罪。当然、法不遡及の原則に反します)」と同じレベルに堕落します。

どうも土人共がよくやる「先祖の罪が延々と子孫にかぶる」というのが理解できません。
283イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 00:06:33 ID:zfzOe6Km
正確には、「親日究明法」ですね。
284名無し三等兵:2005/10/31(月) 00:08:12 ID:???
阿南の孫とか、有名人の子孫が国賊なんて例もある
285イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 00:35:39 ID:tzv+1Vxe
逆パターン。ご先祖様が草葉の陰で泣いていますw。

>>273
>>最近は大の大人すら(サヨの時点で精神年齢には疑問符が付くが)論破できる
>>高校生論客が存在するくらいです。そー言う意味ではまだ日本は捨てたモンじゃないと思いますよ。

空恐ろしいですね。卒業式の『君が代』斉唱問題で校長が自殺した広島県立世羅高校は
有名ですが、以下のような例もあります。

2000年に行なわれた東京都国立市立第二小学校の卒業式の話です。
(産経新聞2000年4月5日記事より要約)
286イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 00:45:19 ID:tzv+1Vxe
卒業式が終わった後、児童6〜7人が校長先生に

「校長先生は昨日の夜12時まで先生たちと話し合ったのに、どうして
 国旗を揚げたのか?」「二小は49年間、国旗を揚げなかった」
「卒業式は私達もの、国旗を降ろせ」と詰め寄ったという。

その後、校長と児童は屋上に向かい、教頭の手によって国旗は降ろされた。
次第に児童は30人近くに増え、教員や保護者も沸いて出てきて、ある教員が

「子供に相談しないで国旗を揚げたのは民主主義に反する」と話すと、児童たちは次々に

「基本的人権や憲法に反する」「多数決で決めるのが民主主義」「謝れ」「土下座しろ」
「戦争で多くの人が死んでいる」「国旗国歌法は、一部の人が勝手に決めたもの」

などと、興奮して涙ながらに校長を非難したそうですw。
287イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 01:00:27 ID:tzv+1Vxe
このスレの絡みで集中的に支那事変を調べていますが、共産党の思想教育
というのは本当に徹底しています。

張学良が「西安事件」を起こしたのも、共産党を討伐中の部下が逆にオルグされて
言うことを聞かなくなったからです。そこに「共産党撃滅」の督促をかける蒋介石との
板挟みになって……というパターンです。

ガキを細工すると本当にヤバイんです。戦前の支那も今の中国もやることは
全く変わっていないと調べていて痛感します。

そして不思議に思うことなのですが、土人は「システムを構築する」のが絶望的に
向いていないから、空母機動部隊など持っても使いこなせない、とはよく言われます。
自分もそうだと思います。日本人でさえアングロサクソンに比べれば隔絶の差があります。

しかし、こと「思想教育」に関しては、土人は緻密なマニュアルを作り上げ現に
成功させているのですから、この辺の『ギャップ』がよく分からないのです。
288名無し三等兵:2005/10/31(月) 02:01:46 ID:???
>>287
どうして張学良の部下がオルグされるのかというと、当時の中国共産党と日本のどちらが悪いのかという
単純な話になるからでは。
当時の中国の民衆にとっても同じことになるのでしょうが。

戦争は軍事力だけで行うものでもないでしょうし、向き不向きというやつでは。
289名無し三等兵:2005/10/31(月) 12:33:22 ID:???
共産主義は科学を偽装した宗教であり、どこぞの馬の骨とも知れん神を信じるには知性的過ぎ、
且つ自分の正義要求(自分が正しいと思うことを実現したいという思い)に飢えている人間を取り込み易い。
そして、そのような人間は得てして社会において最も不幸な人々(だと自分で信じている者)である。

ってのは思想史では20世紀初頭から既に言われていることなんだけどねw

ちなみに『知性的』ってトコロがミソで共産主義国は総じて教育水準が高い。
日本でも共産党は盛んに勉強会を開いている。
また自分が不幸だと勘違いした有産階級の落ちこぼれ共が大挙して共産主義に嵌ったり
貧しい出自ながらも教育を受けた陸軍青年将校もやはり嵌ったのはご存知の通り。

毛沢東(中共)はまず教育を受けた中産階級をとりこんだ後、農民達に教育を施した。
290名無し三等兵:2005/10/31(月) 13:09:54 ID:???
宗教のからくりは人間では無い物に依存する奇跡の類だから、
人間的活動の中には実質的根拠は無い。だから無知蒙昧な
人間の方が引っかかる。

共産主義というのは人間が作り出すシステムのことで、
だから人間の活動の中に実質的根拠がある(もちろんそれが
成功するかどうかは別問題として)。
従って知性が無い人間よりは、中途半端には知性がある人間を
洗脳する方が染めやすいというのはあると思う(知性が無いと、
逆に現在の社会システムを改めないといけない理由が分からない)。

もちろんその共産主義による人間の幸福というのは、永久機関を
追求するようなものだけど。
291名無し三等兵:2005/10/31(月) 14:22:30 ID:???
>>288
満州事変で張学良とその手下達は満洲から追われているから、日本軍に対する反感のほうが強いだろうな。
まずは外敵の日本軍を追い出そうというオルグに引っかかるのは自然だろう。

>>289-290
貧しい出自で教育を受けた連中(陸軍将校含む)なら、身売りされていった同級生を見て感じるところがあるのは当たり前でしょう。
都市のモボやモガとの差が激しすぎると、社会正義ということになるのでしょうか。

頻繁に勉強会を開いている某宗教団体の扱いはどうなるのでしょう?
アメリカでは共産党の封じ込めに成功しているようですが。
292名無し三等兵:2005/10/31(月) 15:04:13 ID:???
>>291
宗教の全てが低学歴層を相手にしていると言うわけでは無い。
その宗派がどのような教えをしているかにもよるけれども。
イスラム過激派だって教育していると言えばしているかもね、その教育は
洗脳と言われる部類のものにしても。

ただ、宗教は、特にその信仰の内容が人間の実質面での生活から
かけ離れればかけ離れるほど(奇跡でも起きない限り実現できないような
ジハードだとか神の審判だとか)、学歴の高い人間を取り込みにくくなる。
しかし低学歴層に対しては、自分が何の努力もしなくても誰かが助けてくれると
言う信仰を持てる分、受け入れられる可能性は高くなる。
共産主義については逆に社会生産システムに対する理解が深くないと、何が
どうすごいのか分からないから、教養がある人間でないと受け入れにくい面が
あるとは思う。社会主義になったところで、結局働かなくてはいけないのは
働かなくてはいけないわけで。
293名無し三等兵:2005/10/31(月) 15:50:16 ID:???
>>292
共産党対策として宗教を利用しているということでしょう。

戦前から宣伝の語源はラテン語のポロバラタスで、グレゴリオ15世によってキリスト教の
教義を外国に宣伝する委員会云々というのは、宣伝戦の説明に使われていたわけですから。

働くのは変わらなくても、「搾取」というやつがどれだけ共感を得るかでしょうし。
294イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 22:14:58 ID:IzrtM9jv
>>288 >>291 
>>満州事変で張学良とその手下達は満洲から追われているから、日本軍に対する反感のほうが強いだろうな。
>>まずは外敵の日本軍を追い出そうというオルグに引っかかるのは自然だろう。

張学良の例は、少し「典型的」過ぎたようで。仰る通りですw。

旧東北軍の兵士はほとんどが「満州族」ですから、彼等にとって「関内(万里の長城以南)」も
異郷の地に当たる訳です。望郷の念がつのると同時に、自分たちを追い出した日本への恨みが
高ぶります。そこに周恩来が送り込んだ工作員が入隊してくると、一気に共産軍討伐への
戦意を失った訳です。

加えて、旧東北軍は共産軍と最初に交戦したとき、周恩来に3個師を撃破され、数千人が捕虜に
なります。周恩来は『微笑工作』と称して、「我々とともに抗日戦を勝ち抜こう」と篭絡して
捕虜を全て解放します。これがために旧東北軍は張学良の命令を聞かなくなり、
骨抜きにされたのです。『餓死寸前』の共産軍に蹴散らされた旧東北軍のヘタレっぷりは筆舌し難い
ものがありますw。
295イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 22:30:45 ID:IzrtM9jv
「大長征」を経た共産軍は、1935年10月20日、陝西省北部の僻地である「呉起」に
辿りつきます。10万の兵力が1万人以下にまで落ち込みましたが、呉起では
食料も無く生活できないので、すぐ東側にある「保安」という集落の洞窟に
潜り込みますが、山奥地で食料さえも自給できません。

武器・弾薬・食料のすべてが欠乏し、風前の灯だった共産軍に敗北するの
ですから、旧東北軍の弱兵ぶりとやる気の無さが窺えます。

周恩来の工作後は、共産軍との馴れ合いが進み、「武器の横流し」すら
始まりました。旧東北軍が指定場所に武器弾薬を埋めておき、それを共産軍が
掘り出して、代わりに金を埋めておくのです。次第に生活必需品にまで及びました。
296イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/10/31(月) 22:52:21 ID:IzrtM9jv
>>257
>>日本のサヨク史観では、戦前に活躍した人物は徹底的に無視、いい所があった人も
>>脛に傷があるなら、そちらのみを徹底的に記して、功績は無視ってのが連中のやり口だから。

先ごろ取り上げた樋口季一郎少将の例で言いますと、満州へのユダヤ難民受け入れについて当時
満鉄総裁だった松岡洋右も列車の手配に一役買っているのです。

しかし現代では、ほとんど語られることはありませんね。
297名無し三等兵:2005/10/31(月) 22:59:20 ID:u4TDRw83
樋口や安江がユダヤ人を助けたのは、人道主義もあるが、
ユダヤ人の技術や資本を日本のために使いたいという思惑もあった。
ところが、せっかく満洲に入れたユダヤ人は殆どが上海からアメリカに行ってしまった。
日本政府がちゃんとした方針をもってなかったからで、このことは樋口も残念がってる。
樋口はユダヤ人大会に出席して、「ユダヤ人に国を与えよ」と演説し、リッベントロップから
抗議されるんだけど、これについて彼は、あまりにもユダヤ人が自分を「天使」扱いするもんで
つい調子に乗ってしまったと、照れ隠しめいた口調で振り返ってる。
298名無し三等兵:2005/10/31(月) 23:58:32 ID:???
>宗教のからくりは人間では無い物に依存する奇跡の類だから、
>人間的活動の中には実質的根拠は無い。だから無知蒙昧な
>人間の方が引っかかる。

宗教というとまず石原莞爾が頭に浮かぶのですが(笑)
「世界最終戦論」で述べていることはどのくらい本気だったのでしょうかね。
あれは国柱会の支持者向けのリップサービスで、満州事変当時はそういうものではなかったのでしょうか。

昭和天皇の石原莞爾への不信には法華経信仰があったという推測もありますが。
摂政時代に『日本国改造法案』を献呈されたりしてますので、昭和天皇が国柱会について知らなかったはずはない。
北一輝や井上日召と同信仰とくれば、石原莞爾に危惧を感じておかしくはないかと。
299イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/01(火) 00:01:15 ID:azEdkVzy
>>あまりにもユダヤ人が自分を「天使」扱いするもんで

樋口が満州を去るときの模様は、>>246 でも述べましたが少し補足します。

「孫に手をひかれた白髪のユダヤの老婆は、路面にひざまずいて樋口を拝み
 涙を流し続けていた」

「ユダヤ人と血みどろの暗闘を繰り広げてきた白系ロシア人の代表である
 ロザノフと、ハルピンのユダヤ人協会の会長であるカウフマン博士は
 お互いの頬に長い接吻を続け、巧みな日本語で『これが樋口閣下への
 餞別です。仲を取り持って頂いた閣下の言葉を忘れずに、これからは
 仲良くやっていきます』と言った」

確かに、これだけ持ち上げられると「全能感」というか、自分でも舞い上がって
しまいそうです。
300イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/01(火) 00:18:25 ID:8aVaf6Sn
よくよく調べましたら、樋口も『養子』でした orz/

元々は兵庫県南淡町の生まれで、18歳のときに岐阜県大垣市の
樋口家に養子に入りました。本当に今の時代では考えられないくらい
当時は養子が多いです。

>>ユダヤ人の技術や資本を日本のために使いたいという思惑もあった。

ユダヤ人と言えばドイツ人ですが、松岡洋右が「ドイツ系アメリカ人2千万人
(その内、ドイツ生まれは600万人)」を過大評価して、4国同盟を成立
させれば、必ず米国政府は世論に屈服して折れると考えていたのを思い出しました。

>>昭和天皇の石原莞爾への不信には法華経信仰があったという推測もありますが。

それは面白いですね。軍人の「人物論」をやる時は、宗教まで念頭に入れないと
いけなくなりそうな罠w。今村のクリスチャンは有名ですが。
301名無し三等兵:2005/11/01(火) 00:33:28 ID:???
>>298
石原に対する昭和帝の不信は、満州事変の独断専行と、
支那事変初期での兵力投入の躊躇(昭和帝は大陸情勢介入への関してはさほど反対の立場ではない)、
「対重慶工作」等の私的外交が要因かと。2.26を除けば、常に事態を悪化させる方向にしか
才能を発揮していない訳だから。
302名無し三等兵:2005/11/01(火) 00:46:04 ID:???
>>227-228
陸軍の長州閥は、「皇道派」と「統制派」の抗争で復権、「統制派」と手打ちをしたとみてもよいのでは?
永田暗殺の影響が、「統制派」と「長州閥」の呉越同舟に影響を与えていたことはないのでしょうか?

ttp://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1127011298/241-242
303302:2005/11/01(火) 01:14:13 ID:???
レスは、>>277-278 にあてたものです。

>>296
外交に与えた影響を比較すれば、是々非々のレベルになっていないからでしょう。
蜘蛛の糸の世界ですよ。
304名無し三等兵:2005/11/01(火) 20:07:41 ID:NE8H0CwZ
珍しいところでは、田中静壹大将が生長の家の信者>>300

カウフマンが、妻以外で唯一信頼できた人間と呼んでいるのが、安江仙弘大佐。
安江大佐はソ聯に拘引され、ラーゲリで病死するが、戦後、彼と親しくしていた
ユダヤ人らが慰霊祭を執り行っている。その中心となったのが、タイトーの設立者ミハイル・コーガン。
305名無し三等兵:2005/11/01(火) 21:43:05 ID:???
>301

まあ私も満州事変のほうが決定的とは思いますが。
クリスチャンと違うのは、国柱会周辺の法華経信奉者が満州事変や革新運動に露骨に関
ってることです。
その点で石原の法華経絡みの言動は、否定的評価への念押しになったのではないかとも
思います。

二.二六事件の際の石原についての昭和天皇の、
「一体、石原という人間はどういう人間なのか、よく分からない。満州事件の張本人で
 ありながら、この時の態度は正当なものであった」
という評価も、井上日召や北一輝といった国柱会系法華教徒の存在を念頭に置くと、
これまた腑に落ちるところがあるように思うのです。
306名無し三等兵:2005/11/01(火) 22:03:49 ID:???
民権運動で地方政治は既得権益に拘泥するか国家社会主義的なものを指向するかに分かれた。
満州事変時の関東軍司令官本庄も師団長時代に無産階級の躍進を憂いている。
307イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/01(火) 23:08:36 ID:WVa/UdBC
>>301
>>石原に対する昭和帝の不信は、満州事変の独断専行と、
>>支那事変初期での兵力投入の躊躇(昭和帝は大陸情勢介入への関してはさほど反対の立場ではない)、

お馴染みの『昭和天皇独白録』から「第二次上海事件」のくだりを要約すると、以下の通り。

「その内に事件は上海に飛火した。近衛は不拡大方針を主張していたが、私は上海に飛火
 した以上、拡大防止は困難と思った。

 当時、上海のわが陸軍兵力は甚だ手薄であった。ソ連を恐れて兵力を上海に割くことを
 嫌っていたのだ。湯浅内大臣から聞いた所によると、石原は当初陸軍が上海に2個師団
 しか出さぬのは政府が止めたからだと言ったそうだが、その実、石原が止めていたのだ
 そうだ。2個師の兵力では上海は悲惨な目に遭うと思ったので、私は盛んに兵力の増加
 を督促したが、石原はやはりソ連を恐れて満足な兵力を送らない」

多少、現代語風味に直しています。
308イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/01(火) 23:34:43 ID:WVa/UdBC
自身が接することのできる限られた情報の中で、昭和天皇が的確な判断を
下していることに驚きます。いや「正常な判断」と評すべきでしょう。

たまに昭和天皇は「トンチンカン」なことを言いますが、正確な情報が
入らなかっただけで、軍事的な判断能力は相当あったと思います。

そして、ここでもカンジは「嘘を付いた」「自分の命令を実行しない」など
昭和天皇の印象を最悪なものとしています。

これでは「師団長の裁可」を貰えなくても仕方がないかもしれません。いわんや、
どこかの火葬戦記のように「首相になる」のは夢のまた夢ですw。大命降下は
絶対に降りないでしょう。
309イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/01(火) 23:48:36 ID:WVa/UdBC
>>304 珍しいところでは、田中静壹大将が生長の家の信者

軍人の宗教関係で『最強』なのが、東久邇宮稔彦王です。

東久邇宮は「終戦時の首相」としての方が圧倒的に有名ですが、陸軍軍人
としても第2師団長、第4師団長、航空本部長、支那事変では第2軍司令官で
華北に駐留、太平洋戦争では防衛軍総司令官などを歴任します。

戦後はGHQによって皇籍離脱を余儀なくされますが、その後が凄過ぎます。

最初は、新宿の闇市に食料品店を開きますが失敗。喫茶店に転業しますが
これも失敗。宮家所蔵の骨董品を売りに出しますが、またしても上手く行きません。

最後には、自ら教祖となって『ひがしくに教』なる新興宗教を起こしますが、
東京都の許可が下りませんでしたw。晩年も戸籍を女性に乗っ取られたりなど、話題には
事欠きませんでしたが、1990年に102歳で没。まだ、それほど昔ではありませんね。
310名無し三等兵:2005/11/01(火) 23:59:16 ID:???
>>308
>そして、ここでもカンジは「嘘を付いた」「自分の命令を実行しない」など
>昭和天皇の印象を最悪なものとしています。

昭和天皇は、大陸政策と大陸利権をどのように解釈していたのでしょうか?
どう考えても政治介入しているのではないかと思われるのですが。
311イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 00:12:50 ID:bFdrGGIu
>>302
>>永田暗殺の影響が、「統制派」と「長州閥」の呉越同舟に影響を与えていたことはないのでしょうか?

昔のヒデキを思えば信じがたいことです。ヒデキも大人になって丸くなったのかしらん?w

永田鉄山と小畑敏四郎、そしてヒデキの3人が「一夕会」の会合に出席した時の
ことです。スレの少し前に出てきました土橋勇逸中佐が、以下のような質問をします。

●長州などを苛めるのは時代錯誤ではないか?
●中学出身者を敬遠することは不合理ではないか?

このとき、ヒデキは激怒して「恨み骨髄に徹する長州人は真っ平ごめん!」と
叫んだと言います。これ程までにヒデキの長州に対する憎悪は激しいのです。

敬愛する永田が「皇道派」に殺されたとあっては、どれほど憎んでも憎み足りない
長州閥と手を握ることも「已む無し」とヒデキは納得したのでしょう。
312イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 00:24:08 ID:bFdrGGIu
>>311 の補足。

この会合の時は、永田がヒデキを「まあまあ」となだめ、土橋にこう答えます。

「君の意見はもっともだが、今は過渡期として止むを得ない事情がある。しばらく時日を
 貸せ。中学出身者を好まないのは、彼等には堅い操守がなく豹変するから危険である」

永田だけでは無いでしょうが、幼年学校出身者の「中学出身者」に対する見方が
表れていて、大変興味深いです。

更に話は脱線しますが、ヒデキが永田を敬愛すること「腐女子のネタ」にでも
使えそうなぐらいです。真面目な話、「相沢事件」による永田の死後、遺族の
面倒をずっと見てきたのはヒデキです。それはヒデキ自身が戦犯で逮捕される
まで続きました。

ヒデキの援助が無くなった後、永田の遺族は貧困のどん底に叩き落されます。
313名無し三等兵:2005/11/02(水) 00:29:33 ID:???
>>311
「皇道派」に対抗する目的での永田と長州閥の関係は特になかったのでしょうか?
314名無し三等兵:2005/11/02(水) 00:38:32 ID:???
>>306
陸軍も陸軍省や参謀本部と地方の師団とでは不景気の感じ方も違うだろう。
経済政策になると、「皇道派」や「統制派」だけで分けられるということもない。

>>312
東条家とは天地の差があるがそれでもご不満のようだ。
315イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 00:45:38 ID:bFdrGGIu
永田鉄山×ヒデキ(ヘタレ受け)…は置いといて(爆藁)、

>>310 >>昭和天皇は、大陸政策と大陸利権をどのように解釈していたのでしょうか?
>>どう考えても政治介入しているのではないかと思われるのですが。

同じく『昭和天皇独白録』にこうあります。

「これは満州は田舎であるから事件が起こっても大した事はないが、天津北京で
起こると必ず英米の干渉が非道くなり、彼我衝突の恐れがあると思ったからである」 

日支の対立が深まり、現実に支那事変が起こる直前、昭和天皇は杉山元陸軍大臣を
呼んで、蒋介石と妥協させようとしています。

誤解を恐れず極論を言えば、昭和天皇は「英米と激突さえしなければ、大陸に進出する
のも構わない」と考えていたと思います。しかし多くの場合、必然的に英米と衝突します。
「関内(万里の長城以南)」がまさしくデッド・ラインだったでしょう。
316名無し三等兵:2005/11/02(水) 00:53:41 ID:???
>>315
満州事変前なら、満洲から撤収か国民党か張軍閥と妥協しても権益が認められないと列強との経済での自由競争になるか、
石原曰くの米英との戦争を覚悟してということにしかならんでしょうね。
31732:2005/11/02(水) 01:02:05 ID:???
>>308
イナゾウ中佐、いつもご苦労様です。

海軍の実力を一時的に過大評価していた以外、
日中戦争・太平洋戦争期を通じて、陛下はいつも立派な判断をみせた軍事指導者と思います。
もっとも海軍は、軍令部が自らの実力を認識できない奇怪組織ですが。

当時の日本をみていますと、
最上層部がどんなに立派で下級将校・下士官・兵がどんなに勇戦しても、
中間のシステムがすべて破壊してしまいますね。

>>315
上海の居留民保護、陸戦隊、在華紡の防衛を考えると、陸軍部隊の派遣は必然だったような気がします。
天皇はその道理を指摘したわけで。

石原の構想は理論的には正しくても、政治的に不可能というのが多いような。
318イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 01:39:05 ID:bFdrGGIu
>>313 >>「皇道派」に対抗する目的での永田と長州閥の関係は特になかったのでしょうか?

林銑十郎(石川県)陸軍大臣を「操れば事足りた」のでは? もともと林は皇道派の真崎
甚三郎に近いと見られていましたが、いつの間にか統制派に鞍替えしてしまった男です。 

林陸相は、統制派のリーダーである永田軍務局長に一辺倒となり、真崎教育総監を
辞めさせて軍事参議官にしています(閑院宮参謀総長の同意を取り付けて)。

あくまで主役は永田なのです。そして石原莞爾は、林陸相を評してこう言っています。

「林大将なら猫にも虎にもなれる。(自分なら)自由自在にすることができる」と。

林は首相時代も「ロボット宰相」「なにもせんじゅうろう内閣」だのサッパリです。

満州事変の際の「朝鮮越境」も、強硬派の神田正種参謀の進言によるものですから、
人に言われないと決断できない人間なのでしょう。
319イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 02:02:54 ID:bFdrGGIu
>>317 >>当時の日本をみていますと、
>>最上層部がどんなに立派で下級将校・下士官・兵がどんなに
>>勇戦しても、中間のシステムがすべて破壊してしまいますね。

こちらこそ、どうもでございます。結局、佐官級が一番ダメだったのかもしれませんね(泣)。

より正確には、少将クラスから高級佐官あたりが、自分のやりたい放題で
統制もクソもなく無茶苦茶です。例えば、北部仏印進駐の大混乱などは
筆舌に尽くし難いものがありますw。

>>石原の構想は理論的には正しくても、政治的に不可能というのが多いような。

全く同感です。例えば、支那事変の初期でも、支那の権益をすべて放棄して
満州まで引き下がれと真面目に言っています。その背景には、そこまでやれば
蒋介石は「満州国を認めるだろう」という甘さがありますし、であるからこそ
第二次上海事変で陸軍の出兵に反対していた訳です。
320名無し三等兵:2005/11/02(水) 02:25:16 ID:???
>>317
>上海の居留民保護、陸戦隊、在華紡の防衛を考えると、陸軍部隊の派遣は必然だったような気がします。
>天皇はその道理を指摘したわけで。

その理屈だと満州事変も必然になるのでは。
中国で権益を有しているのは他の列強もあったのですが、日本と列強の権益の違いが中国人を刺激したという
ことはないのでしょうか?
政治的に不可能という理由で真珠湾攻撃ですから、どこで狂ったのか修正するべきだったのかと。
>>318
永田が死んだ後にどのような手打ちをしたのか、満洲は長州の三スケが経済を押さえています。
321名無し三等兵:2005/11/02(水) 02:35:33 ID:???
>>317-319
昭和天皇の執政時代から考えると、大陸政策と大陸利権に関しては大陸進出派でしょう。
中国は押せば引っ込むと考えていたのは変わらないのでは。

日本の都合が悪くなった時点で中国との和平をするにも、これまでの経緯から中国側の信頼を失っているだけでなく、。
支那事変の解決に関して、日英間でも中国の貨幣政策で揉めていたわけですから、日本側の望む解決策は英米の権益と
衝突していたのでは。

蒋介石を援助する英米と対立することを考えると、結果的には石原が現実的だったのでは。
軍事力だけで中国と英米を屈服させるような解決というのは不可能なのでは。
322名無し三等兵:2005/11/02(水) 08:03:50 ID:XT/ieuep
長州閥なんてものは、陸軍に於いてはとっくに壊滅してる。
手打ちもへったくれもない。
大体東條と寺内の仲は知る人ぞ知るだろ。
32332:2005/11/02(水) 13:20:40 ID:???
>>320
両方とも事変開始直前にはもう引きかえせないところまできていたと思います。
戦争を回避したければ、そのもっと前に、どこかで舵を切っていないといけなかった。

その意味で、佐藤尚武外務大臣の政策を評価する立場に賛成です。

>>322
例の芙蓉から出た巨大東條伝など読むと、ヒデキと寺内元帥はすごく仲が悪いみたいですが、
どうなんでしょうか。
324イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 22:23:06 ID:dYGXNNe4
>>314
>>東条家とは天地の差があるがそれでもご不満のようだ。

ヒデキの子供は石を投げられたり薪で殴られたりしていますからね、それは
比べ物にはなりませんよ。学校では、クラスメートが自分の首に手を当てて
机から飛び降り「東条、絞首刑!」、などと本人の目の前でやっています。

しかし、永田の遺族も相当厳しいです。1949年11月20日号の『サンデー毎日』には

「令嬢からかつぎ屋へ 故永田鉄山中将の愛児、まつ子さん」という記事が載っています。

以下、その記事を要約すると以下の通り。
325イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 22:33:52 ID:dYGXNNe4
「いっそ戦火に焼けてしまった方が良かったかもしれないと思われるあばら家に、
 永田松子さんを訪ねたとき、彼女は不在だった。
 
 その家は、省線赤羽駅から徒歩で約10分ぐらいの北区袋町という下町の路地の
 一隅にある極めて小さな、6畳と3畳の2室きりの、それも古ぼけた家だった。
 人の顔がやっと見分けが付くくらいの、薄暗い電灯が1つポツンと天井から下がって
 煙ですすけた真っ黒な部屋を照らしている
 
 ヘリの切れた畳、破れた襖、薄っぺらな汚れた布団が、部屋の一隅にうず高く積んで
 ある。その2室に2世帯、人数にして5人の人が住まっている。ここに永田松子さんは
 いまその薄幸な身を寄せているのである」

以下、「あばら家にみやび言葉」「父の死、兄の没落」「少女時代の追想」「色あせた
結婚写真」「米の買出しで留置」「民生委員の救いの手」といった調子で続きます。
326名無し三等兵:2005/11/02(水) 22:38:07 ID:???
>>322
長州閥は陸軍だけに根を張っていたわけでもないだろう。
手打ちだからどんな話のつけかたをしたのかということになるのかな。
永田が死んだ後、その辺りがどうなっていたのか。

>>324
東条の息子は某重工社長で娘も一流企業のOGだからね。
かつぎ屋とはえらい違いだ。
327名無し三等兵:2005/11/02(水) 22:39:57 ID:???
三スケにえらくこだわってるようだが、そもそも松岡にしても岸にしても、
長州人だからあの地位に就いたという訳ではない。岸の満洲行きは一種の左遷だし。

陸軍における長州人は、菅野尚一、津野一輔、松木直亮の三人で長州の三奸とか、
津野一輔、林二輔、安田郷輔で長州の三スケなんて陰口が大正年間にはあったようだが、
昭和に入ってからは、松木が名誉進級で大将になったくらいで、パッとしない。
ただ津野に関しては、宇垣が自分の後継者にと、畑英太郎と共に育んでいたが、
不思議な事に二人とも現職のまま病死して、宇垣の構想は崩れた。

寺内以降を見ても、飯田祥二郎とか桜井省三とか上村幹男とか、大戦中の軍司令官を
何人か輩出はしてるが、例えば飯田を例にとっても、ビルマ攻略の軍司令官でありながら
その後の扱いは酷いものだ。本間や山下に隠れてるが。
逆に東條の腹心の加藤泊次郎も長州らしいから、東條が長州に対してどう思ってたか
一概には決め付けられないが、既に派閥の体を為してないのは確か。
東條も、長州というだけで片っ端から敵視する必要は最早感じてなかったんじゃないか。
ただ寺内の首相就任にはしっかり反対したがね。
もう少し時代を下ると、西村敏雄なんて人もいる。この人は地幼、中幼、陸士、陸大を
すべて首席で通した秀才で、一時期田中義一の養子になってた人物だが、義一が
現役を退いた後に、実家に戻ってる。理由は知らないけどね。



東條は非常に情の篤い人だからね。ただ同時に好き嫌いも激しいけど。
永田の位牌を自分の家の仏壇に置いて拝んでたそうだ。この二人の結びつきの
強さは余人が割って入れるものではないな。
328イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 22:56:40 ID:dYGXNNe4
あら? 書いていたら「没落のギャップ」は確かに激しいですが、ヒデキと
比べたらそんなに大した事はないように思えてきました(核藁)。戦後の
一般家庭や戦災孤児と比べれば「標準」か、もしくは恵まれている方かも
しれません。

ただ、あの「永田鉄山の娘」と考えると実情以上に悲惨に感じられますw。

>>324 の補足をすると「ヒデキの子供」には当然、あの東條由布子氏を
含みます。敗戦後は『弁解をせず、沈黙を是』を家訓としてきた東條家が
昨今急に発言するようになったのには、切っ掛けがあります。

それは、このスレにも何回か取り上げた『昭和天皇独白録』の公開で
1991年のことです。東條由布子氏の活動には様々な異論があることでしょうが、
取り合えず発言の機会が生まれたのは良かったことではないかと思います。
329名無し三等兵:2005/11/02(水) 23:05:05 ID:???
>>327
満州事変前なら三菱を筆頭に日本の財閥による投資が行われていたが、満州国になると鮎川の日産コンツェルン
が幅をきかせているから、長州閥云々するのはそうおかしな事でもないだろう。

大陸が絡むと阿片もそうだが、陸軍の機密費よりもはるかに巨額の金が動くようになるからね。
総督府や満州国は一種の治外法権になっていたのでは。今でいうところの特殊法人のように。
330名無し三等兵:2005/11/02(水) 23:14:16 ID:???
>>328
東條由布子さんの活動によって、A級戦犯に押しつけて蓋をした戦争責任を問い直す切っ掛けになることを
期待するものです。
戦争責任を問い直すというより、なぜ対米戦争に踏みきらざるをえなくになったのかになるのかな。
331イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 23:16:56 ID:dYGXNNe4
>>東条の息子は某重工社長で娘も一流企業のOGだからね。
>>かつぎ屋とはえらい違いだ。

次男の東条輝雄(てるお)氏ですね。今年90歳でご存命のはずです。
1937年に三菱重工業に入社してゼロ戦の開発に関わっています。

戦後は、1959年に官民合同の「日本航空機製造」の取締役設計部長に出向し
初の国産旅客機「YS11」の設計を行なっています。

戦後、何の努力もなく取り立てて貰った訳ではありませんよ。念のため。
332イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 23:29:15 ID:dYGXNNe4
このスレについては全部把握していますが、長州閥については>>327 氏が
一番きれいにまとめられていると思います。

阿片については、冀東政権と関東軍も深く関与していました。一説には
麻薬入りのキャンディーや煙草を売っていたとか。

今も昔も、手っ取り早くお金を集めるには麻薬が一番のようです。もちろん
特務機関の資金源になっています。
333イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/02(水) 23:55:49 ID:dYGXNNe4
>>320
>>中国で権益を有しているのは他の列強もあったのですが、日本と列強の権益の違いが中国人を刺激したという
>>ことはないのでしょうか?

それは1927年に起きた『第一次南京事件』における幣原喜重郎外相の「平和外交」が
ヘタレだったからです。 日本側がまったく愚かな「無抵抗主義」を取ったのとは対照的に

長江に停泊する英米の砲艦は、1927年3月24日午後3時半から約2時間、南京市外に向かって
無警告で200発の砲弾を撃ち込みます。この砲撃で「土人軍民」と米、英、仏、伊、日の
外人を含めた死傷者は合計2000人に達しました。

ちなみにこの時の日本海軍の駆逐艦は、米英の駆逐艦が砲撃を開始すると、錨を巻き上げ
長江上流に退避しています。もちろん日本人居留民は見殺しです。もちろん、それ以前に
駆逐艦から領事館警備のために人員を派遣したりもしていますが、とりあえずは割愛。
要望があれば、「第一次南京事件」は詳述します。
334名無し三等兵:2005/11/02(水) 23:56:51 ID:???
>>326 >>331
社長は某自動車で,OLも孫娘の方じゃあ?娘さんもOLなさっていたの?

>>332
長州閥は藩閥政治からのもので,陸軍だけでなく政財官にそうとう影響を与えていたので,その関係でしょうね.
阿片は中国国内で栽培に適した地帯というのもあり,中国国外から持ち込まれる阿片がどこからきていたかというのも.
335名無し三等兵:2005/11/02(水) 23:58:16 ID:LhtxEB/h
アヘンに関しては週刊新潮で連載されてた里見甫に関する本が単行本化されたね。
陸軍でいうと岡田芳政とかが深く関ってた。


どうも当時の派閥というものを勘違いしてるね。今の自民党みたいにちゃんと代表がいて
名簿があるような派閥ではないんだよ。
仮に東條と岸が握手をしたとしても、それが統制派と長州閥との手打ちにはならない。
だいたい統制派の実態というのは、特に永田の死後は、極めてあやふやなもので、
例えば、谷垣大臣の爺様は、永田の委嘱で東京帝大に通った、正真正銘の統制派だが、
東條は彼を非常に嫌っており、梅工作後は二度と中央に戻れなかった。
東條の人脈を敢えて表現するなら、それは統制派というより、関東軍時代培った満洲閥とでも
言うべきかな。ちなみに武藤章も、東條派と言われることが多いが、実際は永田直系で、
東條の子分ではなかった。組閣の際に、岸と星野を入れ替える事を東條に強く直言した
ことが影響して、放り出されたと、武藤のブレーンだった人が書いてる。
336イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 00:09:41 ID:n4tWWS7R
>>333 の続き。

『第一次南京事件』より以前――。

蒋介石は、主に「英国を国民革命の敵」として民衆の敵愾心を煽り、同時に
思想統一を図ってきました。

それが「第一次南京事件」を転機として、標的が日本に移ります。何故か?

南京事件直前にも、長江上流の四川省「万県」で英国艦隊の士官と水兵が土人に
殺される事件が起こりますが、このときも英国は砲艦を万県全面に並べ立て
3700発の砲弾を撃ち込み、万県市街を「木っ端微塵」に粉砕しています。

日本人の考え方であれば、無抵抗だった日本人よりも、南京などに大砲撃を
加えた英国に復讐しようと思いますが、そこは「土人」のメンタリティです。
337名無し三等兵:2005/11/03(木) 00:17:44 ID:???
>>335
皇道派との権力闘争だけでなく、永田暗殺以降の大陸政策がどう変わったかでしょう。
関東軍時代に培った満洲閥というなら、なおさらでは。

大陸関係は密貿易に麻薬と莫大な資金が流れていたわけですから、支那からの撤兵というのは北支であっても致命的ですよ。
338イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 00:22:06 ID:n4tWWS7R
うっかり英国に手を出すと、酷い目に合わされ大損する――。

それよりも無抵抗だった日本人を叩く方が得だと、蒋介石は排英運動を
排日運動に急転換するのです。

南京事件で大損害を与えた英米に対しては、反英・反米運動が起こらず、
逆に猛烈な排日・抗日運動が勃発した理由は上記によるものです。

強い人間はさて置き、弱い人間から徹底的に搾り取ろうとする――、
そんな「土人メンタリティ」を、英米協調派で名高い上品な幣原外相には
見抜けなかったのかもしれません。

『徹底的な制裁と報復こそが、平和への第一歩』なのです。特に土人に対しては、です。
後年の「対支一撃論」もこのようは背景から生まれている可能性が高いでしょう。
339名無し三等兵:2005/11/03(木) 00:22:47 ID:???
>>336
土民のメンタリティと言うか、支那の現地勢力が良からぬ事を考えた時、
対処可能なのが日本しかなかったと言う点が大きいかと。
大陸に一個師団を派遣するのに、日本なら1週間で送れるが、他の列強ならば1ヶ月以上は
掛かると言われているし。北支事変の時も、連合軍の中核は日本だったわけだし。
だから、国民党は日本を国際的に孤立させ、日本を徹底的に虐めたりして来ている。
日本さえ大陸から追っ払えば、後の列強はどうにでも料理できると考えたのだろう。
340名無し三等兵:2005/11/03(木) 00:25:45 ID:???
>>333
列強は中国に入植しようとしていたわけではなく、土地の所有権争いでは日本人が突出して租界とは違うところで
目立っていたのでは。

>>336
英国の協力で中国の幣制改革にのりだすわけですから、日本と中英では対立する構図になりますよ。
米国も中英側の立場で日米通商航海条約を破棄して対日圧力をかけるわけですから、どうにもなりません。
341名無し三等兵:2005/11/03(木) 00:29:08 ID:TiQZmiDH
中華人民共和国が正統な政府なら、西原借款を返して!
342名無し三等兵:2005/11/03(木) 00:31:11 ID:???
>>341
西原借款は貸した相手が悪すぎ。バックマージンでもとっていたのかと疑うくらい。
343名無し三等兵:2005/11/03(木) 00:41:47 ID:pD8D5fwu
日本はなまじ支那に近いだけに、色んな人間が渡っては、贔屓の人間をつくって癒着する。
最後までこれ。結局上下一貫した対支政策は最後までなかった。
支那事変にしたってそう。あっちでは重慶作戦だって気張ってるのに、こっちでは
密かに国府の将領と握手してる。
344イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 00:56:24 ID:n4tWWS7R
>>340
>>列強は中国に入植しようとしていたわけではなく、土地の所有権争いでは日本人が突出して租界とは違うところで
>>目立っていたのでは。

満州への日本人移民(入植)と、「関内(万里の長城以南)」の租界が
ごちゃ混ぜになっていませんか?

それも1931年に満州事変が起きてからの話です。自分が述べたのは、1927年の
第一次南京事件の前後のことです。

>>日本さえ大陸から追っ払えば、後の列強はどうにでも料理できると考えたのだろう。

英米を舐め過ぎです。
345名無し三等兵:2005/11/03(木) 01:15:01 ID:???
>>344
21カ条条約から土地の所有権・賃借権の要求で中国側を刺激している。
346イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 01:15:56 ID:n4tWWS7R
影佐禎昭の名前が出てきましたから、そろそろ汪兆銘の南京政府に取り掛かろうと
思っていましたが(話が長くなるので気が進まなかったのですが…)、
止めました。

蒋介石『北伐』(1926年)まで話を戻します。ですが、明日仕事(泣)なので本日は失礼します。

あと、「名無し」でチラホラ書き込んでいるのは俄将軍ですよね?
347イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 01:44:12 ID:n4tWWS7R
いかん、少し空回りしてきた……w。

>>21カ条条約から土地の所有権・賃借権の要求で中国側を刺激している。

それは認めます。失念していました。明日まとめて21ヶ条も補足します。

>>日本はなまじ支那に近いだけに、色んな人間が渡っては、贔屓の人間をつくって癒着する。
>>最後までこれ。結局上下一貫した対支政策は最後までなかった。

同意。
348名無し三等兵:2005/11/03(木) 02:13:06 ID:3ns8QuTd
小泉はアメリカの糞食い便壷男だから
アジアで好き勝手できるんだろうねwwwww
ちょwwwwwwwwwwwwwwうはwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
349名無し三等兵:2005/11/03(木) 02:43:15 ID:???
すいません。質問なんですが、
支那事変発生から拡大するまでの流れを把握しやすい
良い書籍を知っていたら教えていただけませんか?
350名無し三等兵:2005/11/03(木) 04:56:39 ID:pr7xB27i
「漢」字
351名無し三等兵:2005/11/03(木) 09:08:16 ID:???
>>349
寺平忠輔「盧溝橋事件」
今井武夫「支那事変の回想」
今岡豊「石原莞爾の悲劇」
井本熊男「作戦日誌で綴る支那事変」
352名無し三等兵:2005/11/03(木) 09:49:08 ID:gmEnawqt
あの兵力あの戦備で英米から支援を受けたシナ軍を打ち負かしたのはすごい
353349:2005/11/03(木) 11:24:57 ID:???
>>351
ありがとうございます。
今岡豊 石原莞爾の悲劇 が地元の図書館にあるようなので
まずはそこから読んでみたいと思います。
354名無し三等兵:2005/11/03(木) 15:08:53 ID:BKtUdf2E
>349
肥沼茂「盧溝橋事件 嘘と真実」

著者は事件当時現場にいたわけではないが、1940年に盧溝橋周辺の西宛兵営に
在営、北支方面軍司令部直轄部隊命令受領員として勤務。42年に半年ほど汪精
衛新政府軍に派遣され、指導官に任ぜられた。戦後、日中友好協会代表団員と
なる。盧溝橋事件研究40年以上。

著者の視点は、中国政府の公式見解である日本の謀略説とも、日本で権威があ
るされている、秦、江口教授のいう説とも、右翼の言う共産党員の謀略とも違
い、当時の日本軍に対して極めて批判的である。しかし左翼的な意見というわ
けでもない。かなり専門的な書なので、事件の概要を予め知っておかないと不
向き。
35532:2005/11/03(木) 16:12:27 ID:???
>>349
みなさん、いろいろあげておられるようなので、ちょっと角度を変えて。
外交史、政治史の研究として臼井勝美教授の『日中戦争』(中公新書)を紹介いたします。
日中関係外交史に関して、最高の碩学とされる人物による基本書です。

ほかにも戸部良一さんの名著も支那派がよくわかっていいですよ。
356イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 18:56:54 ID:Mpw0fSiI
>>349
>>175 で「ボロクソ」に述べましたが、

>>例えば、いま自分の手元に『分かりやすい日中戦争』(三野正洋著・光人社
>>・1998年刊)があります。本体価格は2000円です。

ようやく最後まで(我慢して)読み終わりまして、>>175 の時よりは評価が
アップしました。1500〜1600円の価値はあるのではないかと。

やはり章立てが「昭和十七年(1941年)」などと年代別に時系列を追っているので
格段に分かりやすいのが1つ。あと図で「日本軍の占領地域」というのがありまして
日本軍がなぜか福建に一度も進出していないというのが一目瞭然に分かるなど、
痒いところに手が届く資料が何点かあったのが2つ。

そして「大陸打通作戦」について比較的詳細に述べているが好印象でした。また、
海上の戦いということで支那側の海上戦力にも触れているの良かったです。
357イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 19:00:59 ID:Mpw0fSiI
でもベースの評価は、あくまで>>175 のままですから、あしからず。

それにしても、この著者はいつものことですが、日本軍が大嫌いなようで
愛が感じられません。日本軍に「AFV」などの単語を用いるのは違和感を
感じますw。
35832:2005/11/03(木) 19:07:32 ID:???
>>357
三野さんは「陸軍」が嫌いなのかと。

それはそうとイナゾウ中佐にいつものお礼で情報です。

竹橋の国立近代美術館に、畑・岡村最高司令官の肖像画が展示されていました。
もし都合が付くときがおありなら、一見の価値があります。
ただ、展示がすぐ入れかわるので注意が必要です。
私は「提督の最後」を見に行ったのに、「アッツ玉砕」が展示されていた。
359イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 19:13:50 ID:???
>>358

いつもありがとうでございます。
360俄将軍:2005/11/03(木) 21:34:57 ID:???
>>364
他のスレッドもそうですが、ある時は「俄将軍」、そしてまたある時は、「名
無し三等兵」ということで。
361イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 21:48:33 ID:I6tnzkUI
では >>347 で述べた通り、「対華21ヶ条要求」(1915年)まで話を戻します。

言うまでも無いことですが、第一次世界大戦で日本は日英同盟に基づきドイツに
宣戦布告しました(1914年8月23日)。

ドイツ東洋艦隊の根拠地・山東省「膠州湾」の青島要塞を攻略するべく、日本は
久留米第18師団(神尾光臣中将)と第二艦隊(加藤定吉中将)を送り込み、
11月7日にその目的を達しました。

ちなみにその時の損害は以下の通り。

●日本側:戦死711人(海軍295人)、戦傷1592人(海軍26人)
●ドイツ:戦死210人、戦傷150人

日本海軍の戦死者の大多数は、軽巡洋艦「高千穂」(伊東祐保艦長)が膠州湾外で
ドイツ駆逐艦の魚雷を喰らって沈没、艦長以下、271人の戦死が占めます。
362349:2005/11/03(木) 22:02:15 ID:???
>>354
丁寧にありがとうございます。
日中戦争に関する知識はあまり無いので
入門書的な内容の本を読んだあと読んでみよう思います。

>>355
ありがとうございます。
検索して調べてみたら両方とも良い本のようですが、
アマゾンのレビューを読んでみたら戸部氏の日本陸軍と中国が
自分が求めている本に近いようなのでそちらから読んでみようと思います。

>>356
紹介ありがとうございます。
格段に分かりやすいという点は惹かれるのですが
>>175の評価を読む限りではすいませんが読むのは後々になりそうです。
363イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 22:05:07 ID:I6tnzkUI
青島の占領後、当然のごとく日本は陸軍の守備隊を、また海軍は膠州湾に
「要港部(軍港につぐ海上警備の重要基地)」を置きます。

これに対して支那側は、図々しいことに『膠州湾の返還』と「日本軍の撤退」を
要求して紛争が起こります。

これが『対華21ヶ条要求』の発端です。

当時の日本は大隈重信内閣で、外相は加藤高明です。ちなみに加藤は
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の女婿で、このとき英国大使から外相に
なったばかりの時期に当たります。

そして加藤外相が『膠州湾返還』の条件として支那側に突きつけたのが、
21ヶ条要求なのです(1915年1月18日)。

これを一言で評価するならば、『英国仕込みの恫喝外交』に尽きます。
364名無し三等兵:2005/11/03(木) 22:07:25 ID:???
戸部教授の「日本陸軍と中国」は良書。簡単に手に入るのもいい。
ただ支那事変に関しては同じ著者の「ピースフィーラー」の方がいい。
もし図書館に有るなら絶対借。
365イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 22:35:49 ID:I6tnzkUI
もちろん欧州大戦で、列強が極東アジアをかえりみる余力がなかった間隙を
ついたものです。その目的は3つです。

●ドイツが支那に保有していた利権・権益をそのまま継承すること
●日本が日露戦争で得た南満州の権益の保有期間は有限だった、これを解決すること
●袁世凱が帝政問題で難しい立場に追いこまれていたのに付けこむこと

以下、対華21ヶ条要求を簡潔にまとめると次の通り。
366イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 22:57:18 ID:I6tnzkUI
第1号――山東省に関する件

(1)中国は、ドイツが山東省に保有していた権益の処分に関して、日独間に
   成立する協定のすべてを承認すること。
(2)山東省における一部の連絡鉄道敷設権を日本に許可すること。

第2号――南満州および東部内蒙古に関する件

(1)旅順・大連租借期限ならびに南満州・安奉両鉄道に関する特権を
   いずれもさらに「99ヵ年」ずつ延長すること。
(2)南満州や東部内蒙古において、日本人が諸工業や耕作のために、土地の
   賃借権または所有権を得ること。
(3)同じく日本人が諸鉱山の採掘権を得ること。
(4)他国人に鉄道敷設権を与えたり、また他国人より鉄道敷設権のための
   資金を仰ぐ際には、あらかじめ日本の同意を必要とすること。
367イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 23:07:53 ID:I6tnzkUI
(5)政治・財政・軍事の顧問教官を要請する際には、日本の優先権を認めること。

第3号――漢治萍公司に関する件
(1)中国の大製鉄会社である漢治萍公司を、日本の指導下にある合弁会社とすること。

第4号――中国沿岸の港湾および島嶼を、諸外国に譲与したり貸与したり
     しないこと。

第5号――希望条項
(1)中国政府の政治・財政・軍事の顧問に日本人を傭聘すること。
(2)中国内地にある日本の病院・寺院・学校の土地所有権を認めること。
(3)必要に応じ中国の地方の警察を日華合弁とするか、または日本人を
   顧問に置くこと
(4)中国軍隊の一定量の兵器を日本から供給するか、または日華合弁の
   兵器廠を建設し、日本から技師の派遣や材料の供給を受けること。

おおまかな条項は以上です。
368イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 23:21:53 ID:I6tnzkUI
特に「無理難題」だったのが第5号の『希望条項』です。

中華民国の袁世凱大総統は「この要求は、中国を朝鮮化するものだ」として
激怒します。

第5号に漏れがあったので、補足しつつもう少し具体的にまとめるとこうです。

●武昌―九江―南昌間、南昌―杭州間、南昌―潮州間の鉄道敷設件を認めること。
●福建省の鉄道、鉱山、港湾に外貨を入れるときは日本を優先する。
●中央政府の政治・軍事・経済面に日本人顧問を採用し、重要地区の警察を
 日華共同管理とする。また警察官庁に日本人を採用すること。
●日本製兵器を大量に買い入れ、日華共同経営の兵器廠を設立すること。
●中国内の日本人土地所有権と布教権を認めること。
369イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 23:37:19 ID:I6tnzkUI
連投が続きましたので一旦切りますが、1つだけ指摘おきます。

上記のように「超強硬外交」を初期に貫いたのは、大隈内閣の
加藤高明外相です。英国大使上がり、というのが興味深いと言えます。

そのいわば反動として、若槻内閣の幣原喜重郎外相の「平和外交路線
(軟弱外交)」が生まれる訳ですが、奇しくも幣原は加藤の義弟に
当たります(幣原夫人が三菱の岩崎久弥の妹:加藤については記述)

加藤高明のやり方に対して、何か思うところがあったのかもしれません。

そして幣原外交の反動として「強硬派路線」の田中義一内閣(外相兼務)が
誕生する訳ですから、当時の支那外交は「極端から極端に振れる」何とも
具合の悪いものです。
370イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/03(木) 23:57:41 ID:I6tnzkUI
ちなみに加藤高明外相は「元老の反発」を恐れて、第5号を隠していました。

結局はバレましたが、やはり加藤は上等の人物とはとても言えないでしょう。

英国流の恫喝外交にどっぷり浸かりすぎていた、と言えるかもしれません。

また、第一次大戦を語る上で決して忘れてはならないのが、米国のウィルソン大統領が
提唱した「民族自決」の原則です。

土人(支那以外も含む)に自決もクソもないものだと思いますが、世界史に与えた
影響は甚大なものです。加藤が身に付けた英国流の恫喝外交も、もはや「周回遅れ・
時代遅れ」のものとなっていたのかもしれません。
371名無し三等兵:2005/11/04(金) 11:55:23 ID:???
よく言われることだが、日本外交には国家としての方針が無い
個人・派閥レベルで勝手にやっているってのは戦前からのことだったんだね。
個人的な人脈で外交するのはチャイナスクールも同じこと、外務省はかわんないなあ
372名無し三等兵:2005/11/04(金) 18:45:07 ID:???
牧野、吉田らは米駐日大使グルーに『振り子』理論というのを説いて
グルーも結構信じてたね。
日本の対外姿勢は振り子のように強硬派と穏健派で行ったり来たりするってやつ。
37332:2005/11/04(金) 18:58:30 ID:???
>>372
グルー自体がアメリカ本国の意志決定に対する影響力を失っていましたからねえ。
これはイギリス駐日大使クレイギーも同様で。
この二人は日米関係の破綻は避けられると信じていたわけで、
日米戦にアメリカ、イギリス両国の責任を問う意見は、この二人に発端があるともいえます。

ただ、グルーは戦争末期に「親日派」であるにもかかわらず国務次官となり、
中央でアメリカ外交を掌握して、
日本に対する講和条件の緩和のために独裁的に権力を行使することになります。
その意味では、日本は運がよかったともいえるでしょう。
374イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 00:19:08 ID:P1OY49mr
>>370 の続き。

南無阿弥陀仏と念仏のように『民族自決』を唱えれば、すべて革命でチャラにできる
と思うなよ、というのが正直なところです。

日本が「不平等条約の改正」を土人のような暴力に頼らず、段階的な法手続きを踏んだことは、
もっと誇るべきことです。

>>ただ、グルーは戦争末期に「親日派」であるにもかかわらず国務次官となり、

「大陸打通作戦」で国民党軍が大敗を喫したからです。日本との戦争が長引けば
長引くほど、国民党の力は弱まり、共産党の勢力が強まるとルーズベルトは危惧しました。

本来であれば、親日派のグルーが極東問題局長を経て国務次官(1944年12月)になるなど、
蒋介石が断固として反対するところですが、そんな文句を言える状況では無かったのです。
375イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 00:50:56 ID:P1OY49mr
>>ちなみに加藤高明外相は「元老の反発」を恐れて、第5号を隠していました。

結局、加藤外相は、中国問題に造詣が深い元老・松方正義に呼び出しを喰らいまして、

「第5号で支那側と決裂したら、外相はどうする気か?」と詰問を受けます。加藤外相は

「武力行使も辞しません。『三ヶ月以内』に支那は完全に征服できます」

と恐るべき暴言を吐きます。これに対して元老・松方は、

「君は支那を知らなさ過ぎる。仮に武力を行使しても、三年かかっても征服できる
 とは言い切れない。3ヶ月で征服できるとは無責任にもほどがある」

と一喝し、これまたどこかで聞いたような、昭和天皇と杉山陸軍大臣の先取りのような
問答が繰り広げられます。
376イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 01:10:14 ID:P1OY49mr
また元老・山県有朋も、

「交渉紛糾の責任は外相にある。外相自ら交渉して解決せよ」と激怒します。

追い詰められた加藤外相は「最後通牒(拒否すれば戦争)」を出し、解決を急ぎます。
これも英国流といえば、それに当たるでしょう。

大隈内閣はなんと閣議で「最後通牒」を承認しますが、さすがに元老との合同会議で
「第5号」は問題が多いとして削除され、御前会議を経て正式決定されました。

「元老のブレーキ」がこの時代はまだ機能していたと言うべきです。

最終的に1915年5月9日午後6時を回答期限として、支那側に最後通牒が出され、
袁世凱は屈服しました。しかし山東問題などは、パリ講和会議(1919年)や
ワシントン会議(1921年)にまで持ち越されます。
377イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 01:27:23 ID:P1OY49mr
ここで注目すべきは、最後通牒の際には「第5号が削除されている」ことです。

また最終的に、支那側へ最初に要求した21ヶ条の内、その後の交渉で消滅した
ものが14ヶ条、解決2ヶ条で、存続したものは僅かに5ヶ条に過ぎません。
支那側が承認したものをまとめると、以下の通り。

●旅順、大連、南満、安奉鉄道の租借期限(24ヵ年)を99ヵ年と改め、旅大鉄道
 は1997年、南満鉄道は2002年、安奉鉄道は2007年に満期とする。

●日本人の鉱山採掘権、土地所有権、賃借権、居住往来権は南満に限定する。

●漢冶萍煤鉄公司(大冶鉄山、萍郷炭田の採掘会社で、八幡製鉄所に鉄鉱石、石炭を
 供給する関係上、日本資本が入っていた)は、日本以外から資本は入れない。

●全港湾と諸島を他国に割譲しないのは、大総統命令で声明済み。
378イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 01:41:16 ID:P1OY49mr
たったこれだけにも関わらず、支那側が「21ヵ条すべてを呑まされた」かの
ように全世界へ誤伝されていることは、日本の「宣伝戦」がいかに下手糞だったかを
証明しています。

そして最後通牒が出された5月7日と、受諾した5月9日が土人共の
「国恥記念日」となっているのは皆さんのご存知の通りです。

また特筆すべきは、南満に居住往来権が認められたことです。つまり日本人が
南満州で自由に住んだり、職業を営んだりする権利が法的に認められたのです。

しかし、まだこの頃は、日本人の移民先といえばアメリカが主流です。
1924年の「排日移民法」の成立により、日本人移民が禁止されたのちこそ
満州は「日本の生命線」へと徐々に変貌していくのです。
379イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 01:50:04 ID:P1OY49mr
連投が続きましたので、今日は一旦ここで切ります。

最後に『昭和天皇独白録』の最初の項目、「大東亜戦争の遠因」を引用して終わります。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。
 日本の主張した人種平等案は列国の容認するところとならず、黄白の差別感は依然
 残存し、加(カリフォルニア)州移民拒否のごときは、日本国民を憤慨させるに
 充分なものである。また青島還付を強いられたことまた然りである。

 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、これを抑えることは
 容易な業ではない」

やはり、昭和天皇は偉大な存在なのです。
380イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 01:53:53 ID:???
>>日本の対外姿勢は振り子のように強硬派と穏健派で行ったり来たりするってやつ。

油断していると、小泉「超強硬」路線のあとは、反動で「土下座外交」路線が
復活するかもしれませんよw。
381名無し三等兵:2005/11/05(土) 10:12:51 ID:???
第三師団も上陸戦で全滅しかけているわけだが…スルーか?
382名無し三等兵:2005/11/05(土) 11:26:39 ID:???
日中戦争の一方の当事者である中国側を土人と切り捨てるあたりがイナゾウの限界点だろう。
383名無し三等兵:2005/11/05(土) 11:51:39 ID:???
中国側と一括りにしているが、まともに統一された国家じゃないぞあそこは
384名無し三等兵:2005/11/05(土) 12:12:03 ID:???
>>381
上海戦は勝ったのがおかしいので、普通にやれば膠着するか負ける。
士気でせいぜいのところ互角、装備はむこうが優良、
しかも中国軍は予定した戦場で充分に構築された陣地に入って準備している。
兵力はむこうが上だろうし。
あれで勝ったのは神業に近いところがあるな。日独指揮官の差なんだろうけれど。
385名無し三等兵:2005/11/05(土) 12:16:14 ID:???
>>383
まともに統一されてない国家故に複雑であるが、複雑である故に重要である。
故に中国側の係わりを研究せねばまともな分析にはならない。
386名無し三等兵:2005/11/05(土) 12:22:56 ID:???
>>384
国民党軍側は重厚な要塞線を構築し、その正面で日本軍と決戦し撃破をもくろむ。
しかし、杭州湾から上陸し、要塞線を側面から襲った追加日本軍部隊のために崩壊。
そもそも国民党軍側の戦略が、時軍に都合の良いケースを前提にした時点で勝負は決してた。
日本軍はそんな罠に引っかかるほど馬鹿ではない。
387だつお:2005/11/05(土) 13:19:29 ID:AQit+jv5
ヒトラーが政権を握ったナチスドイツでは、その卓越した兵器技術
にモノを言わせて中国への大量輸出を行い、それで経済再建にあたった。
日本は資源も無ければ金も技術も無い、ないない尽くしの小国とみなされた。

支那事変はそのようなドイツ側の日本観を根底から覆し、日独同盟に至った。
ドイツ兵器ドイツ訓練を施したはずの国民党軍が大敗したからだ。
388名無し三等兵:2005/11/05(土) 13:32:33 ID:???
>>386
多点突破、その後に側面に上陸して戦火拡大、平行進撃による敵主力殲滅という、
歩兵戦略のお手本のような戦闘を日本軍が展開した作戦だったと思ったのですが。

このような場合は、敗者を批判するより、攻勢側を褒めたほうがいいと思うのです。
389名無し三等兵:2005/11/05(土) 13:56:19 ID:???
>>388
国民党軍はドイツ軍将校からWW1当時の塹壕戦を学び、日本軍はWW1から塹壕戦の攻略を学ぶ。
国民党軍側は新しい戦術の研究を怠り、日本軍側は当たり前に研究を行った。
私としては、日本軍は当然の事をしたまでで、国民党軍がおろかであったと思うが?
390名無し三等兵:2005/11/05(土) 16:56:05 ID:???
迂回することができる規模の塹壕では、WW1の塹壕戦を学んだとはいえないだろうに。
WW1における西部戦線の十重二十重の塹壕は容易に突破できるものではないよ。
391名無し三等兵:2005/11/05(土) 17:03:57 ID:???
>>390
日本軍は迂回などしていない。
上海派遣軍は敵塹壕の前で長期間熾烈な戦いを強いられた。
第十軍が杭州湾から上陸し敵主力の後側面を脅かす形になり、国民党軍は撤退を迫れ総崩れ。
392名無し三等兵:2005/11/05(土) 17:10:23 ID:???
迂回ではなく小部隊ごとの浸透突破で、ドイツの戦訓を生かした当時最新の陸上戦術じゃなかったっけ
393名無し三等兵:2005/11/05(土) 17:45:52 ID:???
>>391
WW1の西部戦線で上陸作戦するようなもので、塹壕じたいをどうこうしようというものではないよ。
WW1で日本軍の想像を超える火力を投入しても、塹壕を突破することができなかったのだから。

>>392
十重二十重になっていたWW1の西部戦線を突破できたのかということに。
全ての塹壕がWW1の西部戦線の規模で構築されるものではないけどね。
394名無し三等兵:2005/11/05(土) 18:07:37 ID:???
日本軍は上海正面で本格的に攻勢に出て塹壕戦を展開する国民党軍をジワジワと後退させている。
これは少部隊浸透戦術を用いた成果と思われるが、損害もかなりの数に昇ったし、勝負が決したとも言えない。
やはり上海での戦勝の決定的な要因は、第十軍の杭州湾上陸による国民党軍の総退却と言えよう。
395名無し三等兵:2005/11/05(土) 18:31:13 ID:???
>>383
はじめて中国が反日抗日まとまったと考えると、日本は何やっていたのということにしかならんわけだが。
396イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 23:02:42 ID:UUYNnt3Z
本来なら「第一次上海事変」(スレの中ほどで少し既述)から詳しくやるべきですが、
仕方がありません。『第二次上海事変』(1937年8月)にワープします。この辺は臨機応変に
やりますが、また一段落が付いたら >>379 の続きとして『5.4運動』から再開します。

>>381
>>第三師団も上陸戦で全滅しかけているわけだが…スルーか?

個別の戦闘を詳しくやっていると、気が遠くなるので割愛していました。
お望みでしたら簡単にですが触れておきましょう。

1937年8月14日、名古屋第3師団(藤田進中将)に動員令が下ります。翌8月15日に
上海派遣軍司令部(松井石根大将)が新設されますが、第3師団の他に動員されたのは
善通寺第11師団(山室宗武中将)、北支派遣の宇都宮第14師団(土肥原賢二中将)です。

第3師団・第11師団の先遣部隊は、第3艦隊(長谷川清中将)の艦艇に分乗して多度津と
熱田を出航、8月23日払暁に敵前上陸を行ないました。
397イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 23:24:16 ID:UUYNnt3Z
さて、第3師団が8月23日払暁に「強行上陸」したのが、呉淞の鉄道桟橋付近です。

この第3師団の呉淞の戦いを一言で表現するならば、ノルマンディー上陸作戦時の
『日本版:オマハビーチ』です。

とは言っても、上陸地点はオマハのような砂浜のビーチではなく「岸壁」です。

上陸した第3師団は、兵士が岸壁をよじ登る側から、支那側のトーチカ陣地から
機関銃で掃射され、薙ぎ倒されていきます。岸壁の上は死屍累々で、足の踏み場も
ありませんでした。

この第3師団の苦戦を救うべく、第11師団より徳島歩兵第43連隊長・浅間義雄大佐
指揮の「浅間支隊」が投入されます。前回の「第一次上海事変」(1932年)で呉淞に
第9師団が上陸したのは2月でしたので、気温的にはまだマシだったのですが、今回は
真夏の8月です。当然のごとく、恐ろしいことが…w
398イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/05(土) 23:45:14 ID:UUYNnt3Z
「浅間支隊」が呉淞に上陸したとき、岸壁は第3師団の日本兵の死体で埋め尽くされていました。
どの死体も真夏の気温に当てられたため、腐敗が極端に進んで腹内のガスで膨れ上がり、
顔から目も飛び出し、全身に無数のウジとハエがたかった凄惨な光景だったそうです。

戦闘の顛末ですが、最後には海軍の来援も受けられ、8月31日にようやく呉淞鎮を攻略しました。

さて、この悪戦の原因は何だったのでしょうか?

一説には、「火器に頼らずもっぱら銃剣によるべし」という戦闘方法の通達が出たため
個々の兵士に支給されたのは「小銃弾200発」と「日露戦争時の骨董品の手榴弾6個」
でした。しかも手榴弾は暴発事故が頻発し、兵士は怖がって捨ててしまったそうですw。

呉淞攻略後も補給がほとんど届かず、支那側陣地に1発も撃たずに塹壕を掘って近づき、
至近距離から銃剣で突撃するという『無理攻め』もいいところの、被害続出の戦法を
続けざるを得ませんでした。

こうして第3師団と第11師団(川沙鎮付近に上陸)は全滅寸前の危機に追い込まれるのです。
399名無し三等兵:2005/11/05(土) 23:49:49 ID:lTpKkxtY
歩兵第三十四聯隊長田上八郎大佐の夫人は、聯隊のあまりの損害の大きさに
いたたまれず自決した。その11年後、第三十六師団長だった田上中将も、
ホーランジアで刑死。
400イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 00:01:29 ID:UUYNnt3Z
さらに追い討ちを掛けるように「食糧事情も最悪」でした。兵士たちが
背負っていた食料は「日露戦争時の牛の缶詰」などで、これなどは中身が
溶けてしまっていて、とても食べられなかったそうです。

また一週間分の食料を食べ尽くしても、補給はまだ届かず、付近の畑や支那側の
「土人兵」が所持していた食料を奪い、最後には木の根や葉っぱも食べて飢えを
しのがざるを得ませんでした(2、3週間後には細々と補給が始まったらしいw)。

さらに真夏ですので、多数の戦病死者を出しました。コレラ、腸チフス、マラリア
などが流行し、先に挙げた「徳島第43連隊(浅間支隊)」ですと120名ほどが
戦病で亡くなっています。

そして第43連隊の全体の死者は、第3大隊長・藤本直基少佐以下、半数近くの
1282名に達しています。
401イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 00:23:53 ID:5J1DXmg2
また話が前後しますが、「第一次上海事変」の際は、中南支に派兵する計画が当時
なかったために、上海周辺の『兵要地誌』がありませんでした(!)。

そのために第9師団の上田謙吉中将(騎兵科:支那駐屯軍司令官を務め、大陸事情に詳しい)
が選ばれたのでしょうが、「南船北馬」の言葉がある通り、北支と南支ではまったく
地形が異なります。上海周辺に網の目のように繋がった「クリーク(人口運河)」に
阻まれ、騎兵や砲の移動がままなりません。そこに無理攻めを強行したため大損害を蒙りました。

今回の「第二次上海事変」では『兵要地誌』はありましたが、そこには『上海付近の地形は
野砲以上の大砲が使用できない』と誤記されていたため(!)、重砲は準備していませんでした。
これが非常な苦戦の原因となったのです。

呉淞鎮が攻略された8月31日、蒋介石は第15集団軍総司令・陳誠指揮の4個師を増援に送り
込みます。ここに上海派遣軍そのものが全滅の危機に陥るのです。松井軍司令官は同8月31日、
杉山陸軍大臣と閑院宮参謀総長宛に3個師団の増援を要請します。しかし、
第一部長の石原莞爾は、これを却下します。
402イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 00:44:26 ID:5J1DXmg2
これは、1937年8月21日に『中ソ相互不可侵条約』が結ばれ、ソ連が支那側に与えた3億ドルの
借款協定により、航空機140機余りと戦車、大砲、弾薬などを大量に供給し始めたからです。

このため石原莞爾は「対ソ戦準備のため上海に回す兵力がない。ソ連が侵攻すれば
満州が危ない」として増援を拒否した訳です。

これはこれで理屈は通るのですが、上海特別陸戦隊2500名、陸軍の2個師団、
日本人居留民1万人を見殺しにする『極悪』な判断です。

>>307 で昭和天皇が
>>「2個師の兵力では上海は悲惨な目に遭うと思ったので、私は盛んに兵力の増加を
  督促したが、石原はやはりソ連を恐れて満足な兵力を送らない」

と述べていますが、いかに正常な判断だったかが分かるでしょう。結局、9月6日に伏見宮
軍令部総長が「陸軍増派」の意見を天皇に具申し、閑院宮参謀総長もこれに同調したため、
参謀本部は大幅な増援を決断します。裏では米内光政・海軍大臣が動いていたのでしょう。
403イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 01:00:13 ID:5J1DXmg2
その後の展開は皆さん方の仰る通りだと思います。

おそらく同じ方だと思いますが(違っていたらスマソ)、>>386 >>389 >>391
>>394 さんのご意見が的確ではないかと。

第10軍の杭州湾上陸の詳細については、長くなったのでまた機会を改めます。

最後に申し上げますと、参謀本部第2部(情報)はそれまで、支那の政治経済、
外交、人脈の調査にばかり力を注ぎ、肝心要の軍事情報の収拾については疎かに
なっていました(先ほどの『兵要地誌』は典型例です)。

そのために第一部(作戦)は、上海周辺の土人軍の軍事施設の細部や兵力の推移が
まったく分からないがために、惨憺たる大損害を受ける羽目に陥りました。
第2部の責任は重いと言えます。
404名無し三等兵:2005/11/06(日) 01:07:14 ID:???
>>402
正常な判断というのは、石原の判断のことですか?
結果、全て煙とかしたわけですが。
405イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 01:17:20 ID:5J1DXmg2
ギエーッ! やっぱり突っ込みが来たましたか。直後に読み直してマズイと
思いましたw。

>>402
>>と述べていますが、いかに正常な判断だったかが分かるでしょう。

は、石原莞爾を指しているのではなく「昭和天皇の判断が正常」という意味です。
カンジであれば、

「いかに異常な判断だったかが分かるでしょう」になりますw。
406名無し三等兵:2005/11/06(日) 01:20:12 ID:???
>>403
支那での軍事作戦は下策ですよ。それが上海ですから処置なしです。
ソ連に備えながら、ABCD包囲網を自ら作り出したようなものです。
407名無し三等兵:2005/11/06(日) 01:25:17 ID:???
「第二次上海事変」じたいが異常事態。
日本にかこつけて蒋介石が上海に手を出したとしても、列強の日本支持がなされず義和団の頃とは
状況が変わっている。
408名無し三等兵:2005/11/06(日) 01:32:55 ID:???
人種差別撤廃を訴えながら中国人は土人あつかいって無茶苦茶じゃないか?
409イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 02:30:42 ID:S+7D3bxp
>>406 >>支那での軍事作戦は下策ですよ。
 
そ れ を 言 っ た ら 、 こ の ス レ 自 体 が 終 了 に な り ま す w

>>407 >>列強の日本支持がなされず義和団の頃とは状況が変わっている。

その辺の推移はスレの中程でやります(そんな先の話でもありません。次が5.4運動だから)。

>>382 >>日中戦争の一方の当事者である中国側を土人と切り捨てるあたりがイナゾウの限界点だろう。
>>408 >>人種差別撤廃を訴えながら中国人は土人あつかいって無茶苦茶じゃないか?

>>379 で「人種差別撤廃」に触れたのは昭和天皇です。自分ではありません。

どこかのスレで既述しましたが、「土人」とは『近代国民のレベルに達していない』という
意味です。そして支那人は達していません。
410イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 02:44:16 ID:S+7D3bxp
そして「近代国民」とは何かと言えば、端的には「法律を守る」という事です。

これには「悪法といえども、法は法」を含みます。ソクラテスの言ですが。
そして支那は「条約」を守ったためしがありません。

で、そこの貴方。

日本が条約を守らなかった例を一生懸命探そうとするのでしょうが、
自分が言いたかったのは「いわば程度問題」です。日本が協定を無視した
例など腐るほどあるでしょう。しかし、支那側はそれ以前の問題です。

まあ、アレです。自分が「土人」を連発するのは「設定」であり「仕様」です。
支那人を本当に土人と侮っているのなら、これだけ手間暇をかけて分析など
していませんよ? 将来の敵を知るために行なっている訳です。

それでも常に「ブラックホークダウン」が頭にチラついていますがねw。
411だつお:2005/11/06(日) 05:30:07 ID:O6c8hnCn
>また一九三五〜三六年のドイツの武器輸出総額のうち、
>実に五七・五パーセント(二千万ライヒスマルク)
>が中国に向けられていたのである。
> これに対し日本はその一パーセントにも満たない十七万
>七千ライヒスマルクであった。

同盟国とされるドイツでさえも、実態はこうであった。
あくまで中国人がドイツ製は日本製より確実に優秀と言い張るのなら、
ドイツ製兵器で皇軍と戦争して一度でも勝てたかどうかを考えるべき。

あるいは中国人の頭の悪さは、そのような兵器性能で覆る
ものではないほどに絶望的で、中国人を同じ人間として
扱おうという発想自体が無理なのかもしれない。

やはり中国人という生き物は、ドブネズミ並の生活環境と
ドブネズミ並の大量餓死が最もふさわしいのだといえよう。
412名無し三等兵:2005/11/06(日) 09:39:22 ID:???
>>410
そもそも当時の中国と日本を単純に比較して条約うんぬんを述べるのが間違い。
日本はアメリカと比較的有利な条約を結びその他列強ともこれに準じる条約を結べた。
これはアメリカが東アジア地域に軍事的、経済的拠点を持たない不利な立場だから出来たことである。
一方中国は当時の清政府がイギリスとのアヘン戦における敗北が植民地化のスタートであった。
そのため、列強から多くの土地を割譲され、日本よりはるかに不平等かつ苛烈な条約を呑まされた。
これを約束事だから黙って従うのは、軍事力と言う力関係が圧倒的に不利な場合だけだろう。
所詮、武力を背景とした約束事なのだから、中国側の武力を背景とする撤回も十分ありだろう。

イナゾウの限界点は中国を土人と切り捨てる当たりにある。
それは、このように中国側の置かれた状況と日本の置かれた状況の違いもよくわかってない事からもわかる。
昨夜、パソコンの電源を落として寝床に付いたら「パッと目が覚めた」のですよ。

そうしたら、あなた。自分の枕元に「緑髪の少女」が立っているではありませんか(!)
姿をよく見ると、両手に笏を持っています。

そう。『東方花映塚』のラスボス、四季映姫・ヤマザナドゥ様です。なりは幼い少女ですが、
地獄の閻魔様という設定です。名前が長過ぎるので、通称『山田』と呼ばれています。自分は
それではあんまりだと思うで、「嬢」を付けて『山田嬢』と尊称しています。

さて、四季様(本人の前で山田嬢とは言えない)が現れて何事かと思えば、いつもの如く
お説教が始まりました。どうも自分の歴史認識について問題があるそうです。

「イナゾウ中佐。そう、あなたは少し歴史の時間の流れをあいまいにし過ぎる。
 近現代の年号をすべて「西暦」にして、歴史をとらえ直すこと。
 これが今の貴方が積める善行よ」
414名無し三等兵:2005/11/06(日) 11:15:50 ID:???
>>412
 きつい条約を結ばれても武力を背景とした条約改正を行っていない国がありますのでそれは
どうかと思われます。
 日本の不平等条約は最終的には、国力の伸張に合わせた軍事力の背景もありますが、一部
でありすべてではなく、日本が条約(あるいは同じルールを守るでも可)プレーヤーでまある事
を認識した結果、以前からの努力が実り、改正に成功したと判断しております。

 さて「軍事が一部?何を言っているんだゴルァ」との所に異論があると思われます。ですが「軍事
戦略はあくまでも国家戦略の一部である」との常識があります。もっともこれについては日本も
あまりえらい事を言えないのでありますが。
 話は戻りますがあくまで軍事は国家が持つ戦略上の手札です。他には外交や経済やら条約
など細分化してしまうとキリがありませんが。通常はこれらの手札を複数活用し、相手の譲歩
を引き出すものです。当然の事ながら手札の使用は少ないほど良いのですが。
 ここで「中国側の武力を背景とする撤回」を見てみますが、手札を軍事しか使用していないよ
うに見えます。実際は表に出ない所で使っているのかもしれないか、あるいは使えないのかも
知れませんが。ともかく軍事のみをよりどころとして自国の意を通そうとしているように見えます。
 このような行動をとる国家は北朝鮮のような独裁国家によく見られます。彼らとって権力の源
泉であり、まともに使える手札は軍事しかありません。さて、このような国は条約などを結んでも
、独裁者の胸先三寸で破られる事がよくあります。これに対しては国際社会ではなかなか信用
を与えてくれません。約束を破る事が多い国家だと、どうしても信用がおけない訳ですから。
 結果、交渉は中国の軍事力カードを無効化する為に相手も軍事力を背景とし、中国の条約を
無視する傾向の為に、相手の交渉内容もきつくなります。そのような状況あるいはそう見なされ
てしまうと改正も困難になります。

 結論として、当時の中国は独裁国家、あるいは独裁国家に極めて類似した傾向を持つものと
判断されます。そのような状況では各種条約もきついものにならざるを得ず、自業自得と言えます。
>>413 の続き。

四季様のご神託に「へへーっ」と、足元の床に額を擦り付けて平伏していますと、
ふとムラムラと好奇心が沸いてきました。誘惑には勝てず、ちらと四季様の御足と
「前方直上の中身」を見上げましたら、

『地獄行き』 

と、チャラララララララララララ♪ いつものBGMが流れ始めました。そう、
四季様のテーマソング、『六十年目の東方裁判』ですw。ああ、きれいなお顔の頬に
青い血管が浮き出ています。そんな笑顔が怖いですよ、四季様。

『Lv4 審判:ラストジャッジメント』の全方位弾と左右のレーザーを避けたまでは
いいですが、その後に来る「紫色の極太レーザー」につかまり、この悪しき世界から
消滅するところで目が覚めましたw。
416414:2005/11/06(日) 11:37:19 ID:???
 414への反論としては「中国側のスタート位置の劣悪さ(アヘン戦争を基点とした不平等状態)
があり、そのような状態では軍事力に訴えても否定できない」というものが予想されます。ですが
私はそれを否定いたします。

 国家戦略には感情を入れてはいけないという基本的なものがあります。確かに当時の中国
の状況は同情すべき所があります。ですが、上記の基本を考えますと不利な状況を理由にして
軍事に訴えるような浪花節な感覚を持ち込むのはやってはいけない事になります。
 何せ、感情をいれてしまった結果、我々は帝国と国富と国民を大量を失った国を知っています
ので。

 あと、現代の独裁国家論を大昔に適用するのはおかしいとの意見があると思われます。
 これについてですが「現代の尺度で過去を見る」というやってはいけない事に抵触するのでは
ないかとの疑惑を私自身が抱きました。ですが、独裁国家の行動には今も昔も似たような所が
あり、ならばこの考えは「現代の尺度」ではなく「基本原理」に近いのではないかと考え、適用い
たしました。
417414:2005/11/06(日) 11:38:11 ID:???
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM 様へ。

書き込みに割り込んでしまい、申し訳ありませんでした。
418名無し三等兵:2005/11/06(日) 11:46:42 ID:???
>>417
いや、この場合イナゾウ中佐の妄想がスレに合っていないと思うぞな
419名無し三等兵:2005/11/06(日) 11:47:49 ID:???
>>414
>きつい条約を結ばれても武力を背景とした条約改正を行っていない国がありますのでそれは
>どうかと思われます。

武力を背景とした条約改正をするだけの力が無かったのが正解。
条約改正は正々堂々と政治的にすべきだという観念がイナゾウの限界点だろう。
この世から消滅する今際のきわに、

「四季様―――! 最初、歴史認識に問題があると仰っていましたが、自分が『土人』を
 連発するから来られたのではなかったのですかっ―――――!」

と最後に残った、あらん限りの力で声を振り絞りますと、四季様は

「イナゾウ中佐。『土人』は事実だからいいのですよ。それより私が >>413
 貴方に忠告したこと。その意味をよく考えてくださいね。宿題を果たせたなら
 地獄から来世に生まれ変わらせてあげましょう。それが貴方が地獄でできる
 唯一の善行だと知りなさい」

と仰いました。

さて、四季様は何が言いたかったのでしょうか? 続きは少し出かけてから、
夕方にでも考えて書きます(核藁)。
421名無し三等兵:2005/11/06(日) 11:53:56 ID:???
>>419
国際社会は平等でもなければ公正でもない、弱肉強食なんだよ。
欧米諸国に同等のプレイヤーと認識させるには、ルールを守らなければならない。

条約改正は正々堂々でも、軍事力を背景にでもかまわないが
少なくとも軍事力を背景にすれば、その時点でルールが変わる。

中国側が土人と評されるのは、軍事力を使っておきながらルールが変わったことを理解しないORできないことにあるだろう。
>>414

お気になさらずに。すべては確率と可能性の問題です。これも運命なのですw。
でも、ちとショック…orz/
423名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:04:46 ID:???
>>421
当時の中国は列強に国土を侵食され、不平等な条約をむすばされてる状態。
このため中国に必要なのは同等のプレイヤーと認められる事ではない。
必要なのは自国の利権の奪還である。
>>そして「近代国民」とは何かと言えば、端的には「法律を守る」という事です。

>>410 でこう述べましたが、上記の進行を眺めさせていただいておりますと、

「契約の遵守」

と言い換えた方が正確だと思いました。そうなるとキリスト教の摂理にまで
触れないといけなくなりますが(神との契約の遵守)、宗教にまで話を広げると
収拾が付かなくなりそうですw。止めておきましょう。
425名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:12:40 ID:???
いくら列強の国々でも、武力恫喝の結果による不平等条約等に「契約の遵守」を本心から適用できるとは思ってないだろ?
「契約の遵守」を武力的に適用させるというのが、列強の姿勢ではないだろうか?
426イナゾウ中佐@悪質な閑話休題 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 12:18:29 ID:NercUb1a
日本はともかくとして、欧米列強あたりだと、

「じゃあ、戦争をやってでも契約を結ばなければいいじゃないか」

と軽くスルーされそうな悪寒w。先に「悪法といえども法は法」と引用しましたが、
「相手が悪神といえども、契約は契約」ということになりますかね。

日本もこういった感覚が完全に理解できていたとは、とても思えません。
見よう見まねで同じことを繰り返そうとしていたのでしょう。

今度こそ出かけますw。
427名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:22:53 ID:???
>>423

どの国も、”自国の正当な権利”を奪還するために侵略戦争したりするんだが?
その論理を認めると世界は滅茶苦茶になるので、戦争ばっかりしていたヨーロッパではその手の主張よりも
国際社会のルールといったものを優先することにした。

それが理解できないから土人と言われる。
428名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:27:27 ID:???
>>426
戦争によって契約を結ばされたのだから、武力的に覆すってことだろ、中国側の考えは。
けどなあぁ、いまいち観念論的な話で具体的じゃないな、この話は、スレを見た限りは。
このスレ的には、
●辛亥革命以降の中国の列強諸国追い出し政策。
●日本の大陸政策。
●列強諸国の動き。
以上三つを網羅しないときっちりと語れない。
板的には軍事中心にならなければいけないが、一つの戦争を語るには政治的な部分も重要となるか。
429名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:28:56 ID:???
>>424
契約関係の話については、山本七平がかなり書いているね。
中国人には、根本的に契約が存在しないのでは無いかと思う。
親戚関係に基づく相互扶助とか、個々の人間関係は存在しても、絶対的な存在を前提にした契約って概念が理解できなそう。

どんな契約や条約も、対等の相手がいなければ成立しない
西洋では絶対的な創造神つー存在があって、その下の人間同士では優劣があっても相対的だから契約は成り立つが
中華皇帝相手に、どんな契約も簡単に反故にされるだろうし。
430414:2005/11/06(日) 12:31:26 ID:???
>>423
 中国の最終目標を自国の利権の奪還とするのは私も同じです。ですが、その方法には
意見の相違があるようです。
 利権等の奪還には外国勢力を追い出すのが早く、その方法を推測すると、1.交渉 2.経済3.軍事 
の3つの方法があります。

 まず最初に消えるのは3.軍事になります。確かにある意味てっとり早いのですが、まず押し返せる
かどうか怪しい。もし押し返して奪還に成功したとしても後始末が非常に困難になる事が予想されます。
必然的に国内戦争になりますので国内が荒れます。荒れては経済に悪影響を及ぼし、国力衰退です。
 さらに追い出した相手が追い出されたままかどうかが怪しい。1つの勢力のみを追い出し、その他の
勢力が傍観してくれる。あるいはそうしむけるように工作ができるのならば問題はありません。ですが、
明日はわが身と各勢力が考えてしまうと、各勢力が共同歩調ををとった侵攻を招く可能性があります。
各勢力の戦費問題が発生しますが、それは戦勝後の利権(おそらくさらに過酷になります)の回収で
釣りがくるとの考えがありますので問題は無いと考えます。よって軍事力による奪還は下策と考えます。
ただ、交渉テーブルにつかせるためならば条件つきで良いと思われます。ただし、IRA方式をとってし
まうと、また大変な事態を招く可能性がありますが。

 次に経済による追い出しがあります。これは成功する可能性があるのではないかと思われます。で
すがこれを行うには、商品の品質を上げる・価格を安くするのどちらかあるいは両方が必要で、欧米
勢力の商品との競合に勝てるものを生産できるかが勝負になります。
 そういった商品を生産するには必然的に資本が入り、販売するには流通経路を開拓する必要があり
ます。よって「民族資本?」が鍵になります。ただし、外国勢力がその商品について圧力をかけてきた
場合はどうなるかわかりませんが。
431名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:31:30 ID:???
>>427
中国の場合は、自国内の侵略された部分を奪還だからその前提とは違う。

ヨーロッパで戦争の結果ルールが生まれるなら中国でも戦争の結果ルールが生まれるのではないか?
432名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:34:05 ID:???
>>431
ヨーロッパは戦争を続けても統一されなかった、だからルールが生まれる
中国は統一されてきた、だからルールが生まれなかった。

だって中華皇帝が絶対なんだもん、中華思想に国際ルールが生まれる可能性なんて無い。
433名無し三等兵:2005/11/06(日) 12:36:16 ID:???
>>430
結局軍事による奪還には、奪還できるだけの力があるかどうかが重要となる。
経済による奪還は中国の場合、経済的な搾取が目的の不平等条約を結ばされてる点がネックになる。
434414:2005/11/06(日) 12:39:56 ID:???
430の続き

 最後に交渉になりますが、これもいくらかは使えるのではないかと考えます。
 中国には欧米や日本の各勢力が入っています。彼らはある程度の共同歩調を取る事
はありますが、完全に連帯しているわけではありません。そこで、各種利権や、協力する
見返りなど、各国の反目や思惑の間隙をついてすこしずつゆっくりと奪還していくというも
のがあります。
 ただし、これには交渉相手として(ある程度)認められる事。戦略的視野が広く、老獪な
政治家・外交官が必要。の2つが必要です。ですが「策士、策におぼれる」との格言の状況
になる可能性も否定できません。

 最終的に、中国が「自分の手札と体力をどのぐらいまで把握しているか」が重要であり、
それを勘案すると郡司による直接奪回はやってはいけない事になります。
435名無し三等兵:2005/11/06(日) 14:09:25 ID:???
>>434
近場の日本が軍事力を強化しだすと、欧米の列強が警戒。
中国側はこれを上手く利用してたと思うが?
436名無し三等兵:2005/11/06(日) 18:23:50 ID:???
軍事力で押しつけた不平等条約の改定に、軍事力を用いるのは選択肢としては何の問題もないでしょう。
自力救済で勝てば官軍という自信があるのならばなおさらですよ。

アヘン戦争が認められるのなら、基本的にはなんでもありですよ。そこにあるのは勝つか負けるかだけです。
437名無し三等兵:2005/11/06(日) 19:08:50 ID:???
軍事力で押しつけ「られた」不平等条約の改定に、軍事力を用いるのは
四季様(山田嬢)から「宿題の合格」をもらって、特別に地獄から現世に戻してもらった
自分がやって来ましたよ? 高貴な少女に説教して頂くのは、もう堪えられません。

事の顛末は、>>413 >>415 >>420 を参照のこと。

さて、四季様の宿題をもう一度振り返りますと、以下の通り。

>>「イナゾウ中佐。そう、あなたは少し歴史の時間の流れをあいまいにし過ぎる。
>> 近現代の年号をすべて『西暦』にして、歴史をとらえ直すこと。
>> これが今の貴方が積める善行よ」

ここまで全て壮大で悪質な「前フリ」だった訳ですが、四季様の言いたかった事はつまり、
文字通り「明治・大正・昭和」を西暦で把握できるようにしなさい、ということです。
ここからは真面目に行きます。

支那事変・太平洋戦争に限らず、私たちが「近現代史」を学ぶうえで障害になるのが
いわば『年号』の壁です。

例えば、「大正4年に対華21ヵ条要求があった」「明治19年に清国海軍の『定遠』
『鎮遠』が長崎に来襲した(長崎事件)」「昭和10年に梅津・何応欽協定が結ばれた」
などなど。

あなたは、「上記の年号」をすぐに「西暦へ直す」ことが出来ますか?

答えは順番に、「1915年」「1886年」「1935年」です。

自分は「即答」できます。簡単なコツがあるのですが、後半で説明します。
440名無し三等兵:2005/11/06(日) 21:12:18 ID:???
昭和の場合は25を足せばいいね。
441名無し三等兵:2005/11/06(日) 21:21:43 ID:???
ユダヤ人迫害から逃れるために亡命するユダヤ人は土人なのかいな
私達はもちろん、書籍なり資料を読んで歴史を学ぶ訳ですが、それらの本の
年代の既述は、たいてい

昭和**年、大正**年、明治**年といった『年号』表記です。

最近の新しめの本なら西暦の場合もあるでしょう。親切な本なら要所、要所で
西暦と年号を「併記」してくれているでしょう。しかし、少し古めの本や絶版など
神保町で入手するような古書は、ほぼ間違いなく「年号表記」になっています。

そして「何を当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、西暦では一本の
歴史の線で流れを把握できますが、年号ですと最低でも「明治・大正・昭和」と
3本の線でバラバラに分断されてしまうのです。そして『理解』もです。

結果、多くの人が「日ごろ慣れている年号」ということで、何となく分かった気になって、
本来の勉強量よりも、歴史の流れの理解を浅くしてしまっています。
四季様の仰るように「あいまい」にしているのです。
>>442 の続き。 簡単な『自己診断チェック』をしましょう。

●「明治44年生まれのお爺さんは、西暦に直すと何年生まれ? そして何歳?」
●「大正10年生まれのお婆さんは、西暦に直すと何年生まれ? そして何歳?」
●「昭和20年生まれのお父さんは、西暦に直すと何年生まれ? そして何歳?」
 
●明治元年を「大政奉還」のあった1867年と勘違いしている馬鹿はいないか?
●大正16年なんてありませんよ? 明治46年もありませんよ?
●大正元年と明治の末年、昭和元年と大正の末年は、同じ西暦年ですよ?

もっとストレートに、
●明治は何年まで? 明治末年と大正元年は、西暦だと何年?
●大正は何年まで? 大正末年と昭和元年は、西暦だと何年?

もっと馬鹿にした「チェック項目」を最後に挙げると、
●昭和は何年まで? 昭和末年と平成元年は、西暦だと何年?
答えをズラズラ挙げていきますと、

●明治44年=西暦1911年=94歳 ●大正10年=1921年=84歳
●昭和20年=西暦1945年=60歳

●明治元年は1868年

●明治は45年まで、明治末年・大正元年は1912年
●大正は15年まで、大正末年・昭和元年は1926年

●昭和は64年まで 昭和末年・平成元年は1989年

全部が「腑に落ちなかった方」は、この「閑話休題」を最初から最後まで
読むことをお勧めします。
そして、『年号を西暦に変換する』簡単なコツですが、>>440 が一部述べているように、

●昭和の場合は、『プラス25年』(昭和3年=1928年、昭和9年=1934年)
●大正の場合は、『プラス11年』(大正2年=1913年、大正12年=1923年)
●明治の場合は、『プラス67年』(明治25年=1892年、明治35年=1902年)

です。しかし、これを頭で分かっていても意味がありません。「年号」が出てきたら
片っ端からページの余白に西暦に書き直すトレーニングを積むことをお勧めします。
そうすれば自分のように、年号を見ただけで西暦を即答できるようになるでしょう。

もちろん「本が汚れるのが嫌だ」という人もいるでしょうが、とりあえず「騙された」と
思ってやってみて下さい。新しい歴史の流れの発見が必ずあります。そして今まで
勿体無い読み方をしていたと、しばらく考え込むでしょう。

特に「個人の伝記」やエッセイに近いものは、ほとんど「年号表記」です。これを
西暦に直して読んでいくだけでも、新鮮な驚きがあるはずです。
例えば、山県有朋が「大正11年」に亡くなったと聞くと、「ふ〜ん」で終わりそうですが、

「1922年」に亡くなったと聞くと、「存外に長生きしたのだな」と意外に思うはずです。

また、ヒデキの父親の「東条英教中将」が予備役に追い込まれたのが「明治40年」ですが、
西暦の「1907年」と聞くと、また違った感想が生まれてくるはずです。

他にも薩閥の参謀総長・川上操六が亡くなったのが、明治32年=1899年などなど。
これを応用しますと、以下のような事も出来ます。一般に知られている通り、

『明治生まれの軍人に限り、生まれ年と陸士期が一致します』から、例えば

橋本欣五郎は陸士32期ですから、明治32年生まれ。
磯部浅一は 陸士38期ですから、明治38年生まれ となります。

もちろん一致しない例もありますが、ほとんどの場合1年違いです。

そして例のコツを併用しますと、例えば2.26事件の「磯辺浅一」は
明治38年生まれですから、西暦に直すと1905年生まれ。

もし磯部が太平洋戦争終結まで生き残っていたとしたら、40歳になるはずと
簡単に計算できることになります。
448イナゾウ中佐@悪質な閑話休題 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/06(日) 22:58:10 ID:IUjBC5t0
最後に、四季様(山田嬢)の『ご神託』を「再度かみ締めて」終わりにしたいと思います。

>>「イナゾウ中佐。そう、あなたは少し歴史の時間の流れをあいまいにし過ぎる。
>> 近現代の年号をすべて『西暦』にして、歴史をとらえ直すこと。
>> これが今の貴方が積める善行よ」

やはり、四季様は偉大な存在なのです。

その偉大さは、西行寺幽々子様や八意永琳様に、勝るとも劣りません。
449名無し三等兵:2005/11/06(日) 23:28:04 ID:???
>>410
「悪法といえども、法は法」

現在の独憲法では、悪法は悪法という反省にたったものになっている。
450名無し三等兵:2005/11/07(月) 00:35:11 ID:???
>>449
それは例としては適切でないと思います。

参照されたドイツにおける抵抗権の規程はきわめて狭く解釈されています。
そのために、多くの反ナチの闘士に対する判決が撤回されないなど、
深刻な批判と非難を生んでいます。

ドイツ連邦共和国が戦闘的民主主義を旨とする国であり、
一部の政治運動は抑圧することを認めていることも想起される必要があります。
ドイツの「反省」については、よりシビアに観察する必要があるでしょう。
451名無し三等兵:2005/11/07(月) 01:33:40 ID:???
>>450
法律を制定さえすれば、どのような法律でも法として通用するものではないということでしょう。
現在のドイツ憲法はそこを意識しているのでは。一部の政治運動の抑圧もそこにあるわけですから。
ワイマール憲法の反省は、国会での小政党の乱立にも配慮したものになっているはずです。

憲法問題はどこの国も歴史的経緯があるわけですから、その国の歴史で何が問題になったかが憲法問題にあらわれている
のは当然ですよ。
各国の憲法を比較するにも、各国の歴史的な経緯を抜きにして論ずることはできないのですから。
452名無し三等兵:2005/11/07(月) 01:50:10 ID:???
ドイツだけではなく、ナチス党員やシンパの罪というのは欧州各国でウヤムヤになっているからねえ。
ナチス党員の罪を裁いてしまうと国家として機能しなくなる。過去は水に流そうというやつだから。
ソ連との対立という冷戦構造が前提でもあるんだけどね。
453名無し三等兵:2005/11/07(月) 06:42:19 ID:???
ナチスの罪を厳格に捌こうとすると
ドイツ法曹界の9割、各警察のすべてを何らかの処分にしなければならない
アイヒマンだって、亡命しなければ有耶無耶のままに釈放され、公職に就いていただろう。

隣国のナチスシンパについては言うまでもない。
454名無し三等兵:2005/11/07(月) 11:44:26 ID:???
ナチスドイツの時代に合法であれば基本的に罪なし。
平和や人道に対する罪などは、それでは戦犯にならない国家指導者の為に設けられた後付の理屈ですよ。
455イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/07(月) 22:21:17 ID:mPCzZUhA
以前にも述べた通り、「対華21ヵ条要求」の結末から再開します。>>379 の続きです。

そもそも「対華21ヵ条要求」は、第一次大戦で日本が「ドイツ東洋艦隊」の根拠地である
山東省・膠州湾の青島要塞を占領したのが契機ですから、その最終的な処遇の如何は
『パリ講和会議』(1919年1月)のテーブルの上に置かれます。

日本政府の首席全権は、西園寺公望。副使は牧野伸顕です。
対する支那側の首席全権は、外交総長の陸徴祥です。

日支間の問題の焦点は『山東問題』(膠州湾を含む)に絞られます。支那側の主張は

「膠州湾は、中国側が無条件で『連合国』から返還を受ける権利がある」

これに対して、日本側の反論はこうです。

「支那側は日本と交渉の上、膠州湾の返還を受けるのが筋である」
456イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/07(月) 22:47:04 ID:mPCzZUhA
日本側は、合わせて「山東省の旧ドイツ権益の譲渡」と「ドイツ領南洋諸島の割譲」
を主張します。ここで1つコメントすると、支那側が

>>「膠州湾は、中国側が無条件で『連合国』から返還を受ける権利がある」

と、わざわざ『連合国』と指定しているところが、小知恵を働かせているというか、
「苦肉の策」と言えるでしょう。当然、日本を連合国の中で孤立させる狙いです。

しかし、「英・仏・伊」は日本を支持します。日本の中国進出を警戒する米国のみが
強く反対しますが、結局、支那側の主張は敗れて『山東問題』(膠州湾を含む)は、
日支両国で処遇すべしと議決されます。

この辺は分かりやすいですね。支那に既得権がある欧州各国は、なるべく波が立たないように
日本側の主張を認めますし、日本の競争相手(中国市場)である米国は猛烈に反対します。

しかし、いずれにせよ「膠州湾をタダで返してもらおう」というのは虫の良過ぎる話です。
457イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/07(月) 23:11:32 ID:mPCzZUhA
支那側は、この議決に抗議してヴェルサイユ条約の調印を拒否し、
本国に引き揚げます。

そして『山東問題』は約3年後の『ワシントン会議』(1921年)に
持ち越されることになるのですが、後ほど詳述します。

ここでは「パリ講和会議」の余波として北京・天安門広場で勃発した
「5.4運動」について先に触れます。
1919年5月4日の日曜日、「対華21ヵ条要求」の最後通牒を受けた5月7日
『国恥記念日』の3日前のことです。

「5.4運動」は誇大に美化されて語られることが多いですが、実態は北京の学生の暴動です。
主力は北京大学の学生で、労働者や農民はとくに参加していません。この辺りも最近の支那の
暴動と気脈を通じる部分があります。

そして同じく「官製のデモ部隊」です。
458イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/07(月) 23:30:33 ID:mPCzZUhA
大学受験で「世界史」を取った人は今更だと思いますが、念のため補足しておきます。

北京大学は、1916年に「進歩的自由主義者」と言われた蔡元培が学長となってから
中国での「新思想・新運動」の策源地となりました。

蔡学長は、陳独秀を文科科長に任命し、その陳は李大サ、周作人、胡適など
「新思想」の教授を続けて採用します。

この辺りは、ロクでもない人間が「芋ヅル式」に集まってきたと評するべきでしょうw。

ちなみに李大サは、北京大学の図書館長を兼務し、若き日の毛沢東(当時25歳)を
助手にしています。そして1918年に李が北京大学内で組織した「マルクス主義研究会」には、
多くの北京学生が参加し、反封権・反帝国主義の革命運動を繰り広げます。

また、ワシントン会議が開かれた1921年には、陳独秀と李大サが「中国共産党」を
立ち上げました。
459イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/07(月) 23:32:22 ID:???
うーむ、自分の学生の頃が懐かしい…w 今でも「立て看板」とかはあるのでしょうか?
460名無し三等兵:2005/11/08(火) 00:49:36 ID:???
うちの大学は一応、大学当局の横暴を許すな!などの看板はありますが毎年減退の一途を辿ってますね。
都の西北も今や思想に関心を示さない人間ばかりです。私もその一人ですが…
461名無し三等兵:2005/11/08(火) 17:07:52 ID:???
日本の第一次世界大戦参戦は日英同盟によるもので1914年8月15日ドイツに最後通牒を勧告した。
最後通牒の具体的な内容は、

1、日本及びシナ海洋方面よりドイツ国艦艇の即時に退去すること。能はざるものは直ちに
  その武装を解除すること。
2、ドイツ帝国政府は膠州湾租借地全部をシナ国に還附するの目的をもって1914年9月15日
  を限り無条件にて日本帝国官憲に交付すること。
日本帝国政府の勧告に対して1914年8月23日正午までに無条件に応諾の旨ドイツ帝国政府
よりの回答を受領せざるに於いては帝国政府はその必要と認める行動をとるべきことを声明す。

である。
つまり日本側は「膠州湾租借地全部をシナ国に還附」を名目として対独戦争に参戦している。

中国側が膠州湾租借地の返還を求めるのはこれが根拠である。
462名無し三等兵:2005/11/08(火) 17:48:26 ID:???
第一次世界大戦も中国国内での戦争だけに被害は中国と中国人が被った。
で、そこら辺はスルー。日本軍の評判はあまりよくなかった。

まあ戦争して評判がいいわけはないんだが、
色々むしりとろうとしていたのでなおさらだった。
463名無し三等兵:2005/11/08(火) 19:32:03 ID:???
ふー、やっとこのスレのレスをここまで読みおわった。良スレですねWW
イナゾウ中佐の深い見識には恐れ入るばかりです。
様々の書籍に拠る、との事ですが情報の咀嚼と発現の仕方が、素晴らしくわかりやすいです。
私のような無知な素人でも楽しく読めました。スレの後半も楽しみです!頑張って下さい。
464名無し三等兵:2005/11/08(火) 21:52:46 ID:ptvUy8kq
正直言って初めてマトモに日中戦争を勉強した。
歴史教科書では専らスルーな時代だったしな〜
中佐殿、続きを楽しみにしております。
465名無し三等兵:2005/11/08(火) 21:54:42 ID:KklecHOK
466だつお:2005/11/08(火) 22:55:38 ID:DRljq3E6
中国、人民網 8-20-05
「フライングタイガース」元兵士、南京で戦友を追悼

抗日戦争で中国を支援した米国の義勇兵航空隊「フライングタイガーズ
(飛虎隊)」の元兵士と家族の 20 人が 19 日午前、南京航空烈士公墓
を訪れ、日本軍と戦って空に散った戦闘機パイロットに哀悼の意を捧げた。
 同公墓には、中国を支援するため日本軍と戦って亡くなった米義勇兵
パイロット 2,186 人の名前が刻まれている。

「フライングタイガース」は、米陸軍航空部隊を退役していたクレア・リー・
シェンノート(中国名 : 陳納徳)元大佐らが 1941 年 8 月に結成した。 
隊名はエンブレムの「フライングタイガー」にちなんでいる。

南京航空烈士公墓の抗日航空烈士記念碑は 1995 年 8 月に完成した。
高さ 15 メートルのメーン記念碑と 30 の英烈碑群で構成されている。 
英烈碑は中国語、ロシア語、英語の 3 言語の文字で記され、上海での
抗日戦争(上海事変)から 1945 年 9 月までの間に犠牲となった
約 3 千人のパイロットの名を刻んでいる。 うち 870 人が中国、
236 人が旧ソ連、2,186 人が米国、2 人が韓国の出身。

http://www2.ocn.ne.jp/~ricky.mv/private_room/temp/talks_tk_rh2.html
相手側から見た 15 年戦争
467名無し三等兵:2005/11/08(火) 23:05:43 ID:???
>>466
英雄の少ない国は大変でつね(w
468イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/08(火) 23:35:38 ID:N3pEWxeS
>>461
>>つまり日本側は「膠州湾租借地全部をシナ国に還附」を名目として対独戦争に参戦している。
>>中国側が膠州湾租借地の返還を求めるのはこれが根拠である。

それは見落としておりました。ちょっとフォローというか、日本側の言い訳が思いつきませんねw。
名目はともあれ、実力で占拠してしまった方が「勝ち」ということでしょうね。

後ほど詳述しますが、最後には「膠州湾」を支那側に返還しておりますので(もちろん、バーターでw)
勘弁してくらさい。

>>460
自分が大学に入った当初は、「立てカンバン」と「自治会のマイク演説」、そして
「県人会」の余りの多さに驚いたものです。いま思うと「県人会」が充実していたのは、
昔の地方閥のなごりだったと気付きます。ところで、学祭はもう復活しましたか?
469イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/09(水) 00:03:03 ID:LJOo2Old
>>463 >>464
どうもでございます。後半も引き続き、マイペースで進行したいと考えております。
スレの「容量オーバー」で最後の1000まで行かない可能性がありますがw

>>「フライングタイガース」元兵士、南京で戦友を追悼

「フライング・タイガース」はスレの後半か最後の方で詳述します。一言だけ先に
述べると、シェンノートの経歴の最初の方は、映画『ラストサムライ』に似ています。
トム・クルーズ演じるオールグレンですね。「本当に一部分だけ」ですが。

すなわち、日支関係の悪化に伴い、支那政府は「空軍建設」のために米人顧問を求めます。
シェンノート大尉は「年俸1万2千ドル」でこれに応募し、1937年に米空軍を退役して
南京に赴きます。

ちなみにオールグレンも「大尉」です。偶然の一致でしょうが、映画の原型がシェンノートにあった
と強弁すれば、できないこともありません。その場合は、タイトルが『ラスト土人』になりますw。
470イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/09(水) 00:29:19 ID:LJOo2Old
そして、ここでも「宋美齢の影」が散らつきます。

当時、宋美齢は「航空委員会事務総長」です。(蒋介石は国民政府軍事委員長)

シェンノートは宋美齢に取り入り、中国空軍の顧問として重用されるのです。

例えば、第二次上海事変では中国空軍の指揮を取り、大枚1万ドルのボーナスを
手にしています。そして日本軍の南京占領後は、国民政府について漢口、重慶へと
落ち延びていきます。

宋美齢は「西安事件」「トラウトマン工作」など、いたるところに登場し、『昭和天皇独白録』にも

「それから南京陥落後、独逸大使仲介の和平工作が行なわれたが、幣原から聞くところによると、
 この時の日本案なるものは宋美齢が握りつぶして、蒋介石の手には届いていなかったらしい」

と名前が挙がります。
471イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/09(水) 00:41:06 ID:LJOo2Old
もちろん、この時期(1937年)の外相は広田弘毅ですから、宋美齢のことを
過剰に報告した可能性もあります。

その場合、昭和天皇に対する「意図的なミスリーディング(誤導)」に当たりますが、
ありていに表現すれば「単なる言い訳の口実」です。

とにかく不気味な存在の宋美齢ですが、日本史の人物に喩えるとピッタリの
人物が見つかりません。比較的近いのは、北条政子ぐらいでしょうか。

宋美齢の生年には諸説がありますが、最も若い説(1902年生まれ)を採用するなら
1937年の時点で何と35歳です。
472イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/09(水) 01:12:46 ID:???
一瞬、「田中眞紀子」が頭に浮かんだのですが、幾らなんでも宋美齢に失礼ですw

話を『5.4運動』(1919年)に戻しますと、自分は>>457

>>そして同じく「官製のデモ部隊」です。

と述べました。これを別の角度から表現すると「支那内部における権力闘争」であり
「足の引きずり合い」にあたります。

すなわち、当時の中華民国の国家元首・第4代総統「徐世昌」と、国務総理(首相)の
「段祺瑞」との関係が悪化したためです。

徐世昌は、パリ講和会議(山東問題の解決)に失敗したため、大総統の地位がグラ
つき始めます。そのため徐は学生の暴動を煽り、段とその腹心であった曹汝霖(財政・
交通両部総長:日本留学生出身)に講和会議失敗の責任を押し付け、暴動という物理的な
暴力によって打倒しようとしたのです。
473イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/09(水) 02:04:32 ID:LJOo2Old
支那の『近現代史』を調べていますと、民衆の暴動を煽って政敵を物理的な暴力で
打倒・排除しようという「同じパターン」が繰り返されていることに、最初は驚き
そして次第にウンザリしてきますw。

義和団事件(1900年)も広義のそれに当てはまるでしょう。そして「5.4運動」です。
近い時代では、文化大革命が典型的でしょう。今年の反日暴動もその亜流かもしれません。
数え上げれば限りなく出てくると思います。

「民衆を煽って政敵を打倒する」のは、永田鉄山が3月事件で書いたクーデター計画にも

「東京の日比谷公会堂で開催するフィリピンのボクシング大会に集まった観衆を利用して
 行動隊を編制し、社会民衆党の亀井貫一郎らが率いる労働組合員を加えて、帝国議会
 議事堂を包囲する」

といったものがありますが、日本ではこの程度ではないでしょうか。永田は小説のつもりで
手慰みに書いたと後に言い訳しますが、「さもありなん」といったレベルの内容ですw。
474イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/09(水) 02:13:23 ID:???
ちなみに袁世凱は1916年の6月に死去しています。
475名無し三等兵:2005/11/09(水) 03:35:07 ID:???
すごいねイナゾウ中佐 すごく勉強になる
476名無し三等兵:2005/11/09(水) 09:20:53 ID:???
なんかこのスレでイナゾウ中佐に対する評価が、雑談コテからかなり評価アップした
とりあえず階級コテの原則、「厨度と階級は比例する」の珍しい例外になる。
477名無し三等兵:2005/11/09(水) 18:43:09 ID:???
>>473
つまり、中国民衆の人心が政権に大きな影響を与えると言うわけだ。
いたって民主的な人民の政治に対するコミットの仕方だ。
当然日本政府は大陸政策として中国人民の人心を強く意識していた。
しかし、事あるごとに反発される政策を取り排日貨運動が盛り上がる事になる。
結果、満州の利権を確保するのに武力的に中国から切り離すしかないと陸軍若手将校が考え出す。
そして、満州事変を決行することになる。
それで事態が解決するわけは無く、結局満州国境付近で中国側と衝突し、シナ事変に発展。
その延長に対米戦争、敗戦、占領がある事を忘れてはならない。

どこら辺が間違いの始まりだったのかな?
478名無し三等兵:2005/11/09(水) 20:57:30 ID:d1ZJwNY8
>>473
> 「東京の日比谷公会堂で開催するフィリピンのボクシング大会に集まった観衆を利用して
>  行動隊を編制し、社会民衆党の亀井貫一郎らが率いる労働組合員を加えて、帝国議会
>  議事堂を包囲する」

このボクシング大会は清水行之助が、子分の山中という早稲田の人間に金を渡して
開催させることになってた。金は徳川義親侯爵が出してた。
479名無し三等兵:2005/11/09(水) 22:32:58 ID:???
>結果、満州の利権を確保するのに武力的に中国から切り離すしかないと陸軍若手将校が考え出す。

中国からの切り離しは考えただろうが、陸軍の若手将校だけではないだろう。
480名無し三等兵:2005/11/09(水) 23:19:14 ID:???
>>479
だけとは書いてないだろ。
あくまでも陸軍若手将校が中心となったという意味でしか書いてない。
もっとよく読んで、中身のあるレスをしろ。
481名無し三等兵:2005/11/09(水) 23:45:37 ID:???
>>468
学祭は3年ほど前から復活し、今年も11/5,6の両日に開催されました。
革○の資金源として中止されてから10年ほど中止されていたのですね。
新しい学生会館も建ち、彼らの居場所は確実に減らされてきています。
482イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/09(水) 23:56:48 ID:???
>>なんかこのスレでイナゾウ中佐に対する評価が、雑談コテからかなり評価アップした

自分って、今まで「雑談コテ」だったのね……orz
  
>>つまり、中国民衆の人心が政権に大きな影響を与えると言うわけだ。
>>いたって民主的な人民の政治に対するコミットの仕方だ。

為政者にとっては、自らの政治的責任を回避しつつ、政敵を(物理的に)打倒できる
『一石二鳥』の手法と評すべきでしょう。民衆は、都合のいいように踊らされている
気がしますがね。
483イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 00:15:50 ID:???
支那の暴動を調べていて気付くのは、『都合のいいところで官憲が止めに入る』ことです。

「第一次南京事件(1927年3月24日)」などは、その典型です。北伐で南京に入城してきた
『南軍』(蒋介石率いる国民革命軍)の兵士が、日本領事館に乱入します(午前7時半)。

最初は50人ほどでしたが、続いて別の二百数十人が雪崩れ込み、約3時間に渡って略奪の
限りを尽くします。

途中から数百人の支那群集が加わり、領事館にいた日本人は阿鼻叫喚の地獄に晒されます。
もちろん詳述もできますが、とりあえず割愛しておきます。

1点のみ特筆すると、後年の桜会・根本博少佐(南京駐在陸軍武官)も領事館内におりまして、
銃の台尻で殴られ、銃剣で胸と尻を刺されて重傷を負っていることでしょう。

言語に絶する暴虐がひと通り済んだ午前10時半、ようやく南軍の将校が現れて、暴徒を鎮圧し
領事であった森岡正平に陳謝し「遺憾の意」を表しました。
484名無し三等兵:2005/11/10(木) 00:16:47 ID:???
>>482
為政者が政治的に力をつけるには多くの支持を必要とする。
これは昔も今も、独裁も民主主義も同じだ。
中国本土で力をつけるには、民衆の支持を得るのは常套手段。
日本側も人民を見方につけるようにすれば良かったのだし、それを望んだのはたしか。
そもそも排日貨が人民の中にあるのだからそれを利用するのは当然。
イナゾウはそんな当たり前の政治的駆け引きも知らないのか?

戦争の一方の当事者を土民としか認識できないからまともに判断できない。
イナゾウの限界点を越えている事を十分自覚すべきだ。
485名無し三等兵:2005/11/10(木) 00:24:01 ID:???
>>483
中国が権利回復に目覚め、人民が排日排貨を支持している。
なので、官憲と人民の利害は一致しているのだから当然の結果。
もっとも官側からすればほっとくわけにはいかず、適当なところで止めさせる。
そして、日本側に適当な謝罪をするというのは当時の情勢からしておかしくない。

まともに考えればそれだけ中国では排日が激化していると考えるだろう。
官側が何も知らない民衆を扇動して暴動を起させると考えるはうがちすぎ。
486名無し三等兵:2005/11/10(木) 00:29:42 ID:???
>>483
それだすなら、南軍の暴動が発生した直後、米英の艦艇は即座に発砲し対処をしたが、日本軍艦
艇及び陸上兵員は何もしなかった事を出すべきだ。
何もヘタレで手出しをしなかったのではなく政府の方針として止められてた事も。
そしてこの件が問題になり、以後の中国での居留民保護に武力を使うようになった点も。
一つのターニングポイントやね。
487イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 00:31:20 ID:QRoENVN1
この将校は、第2軍の国民党代表兼第6師政治部主任・蕭頸と名乗りました(長い!)。

その説明によると「暴虐を働いたのは、第2軍と第6軍の不良分子で遺憾に堪えない」
ということでしたが、この将校は部下の兵士に略奪させておいて、後で形式的に鎮圧に
出てきた節があります。途中から加わった「土人の群集」は、見て見ぬ振りでしょう。

英国領事館の場合は、もっと露骨です。

下関近く儀鳳門内の英国領事館では、港務長と医師が射殺され、英海軍の大尉も
両足を撃たれ重傷を負わされます。ジャイルス領事に至っては、左足を撃たれて
今まさに『斬首』されようとしたところへ、

『間一髪』、南軍の将校が現れて制止し一命を取りとめています。

すぐ横で「出てくるタイミング」を見計らっていたと評するべきでしょう。好意的に
解釈するのであれば、「それはやり過ぎ!」と慌てて止めに入ったのかもしれませんw。
488イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 00:38:37 ID:QRoENVN1
>>486 >>333で既述しています。

>それは1927年に起きた『第一次南京事件』における幣原喜重郎外相の「平和外交」が
>ヘタレだったからです。 日本側がまったく愚かな「無抵抗主義」を取ったのとは対照的に

>長江に停泊する英米の砲艦は、1927年3月24日午後3時半から約2時間、南京市外に向かって
>無警告で200発の砲弾を撃ち込みます。この砲撃で「土人軍民」と米、英、仏、伊、日の
>外人を含めた死傷者は合計2000人に達しました。

>ちなみにこの時の日本海軍の駆逐艦は、米英の駆逐艦が砲撃を開始すると、錨を巻き上げ
>長江上流に退避しています。もちろん日本人居留民は見殺しです。もちろん、それ以前に
>駆逐艦から領事館警備のために人員を派遣したりもしていますが、とりあえずは割愛。
>要望があれば、「第一次南京事件」は詳述します。
489名無し三等兵:2005/11/10(木) 00:46:32 ID:???
責任を痛感し自決を図った荒木大尉の事もかかんとね。
490イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 00:51:25 ID:QRoENVN1
>>そしてこの件が問題になり、以後の中国での居留民保護に武力を使うようになった点も。
>>一つのターニングポイントやね。

そして田中義一首相の「強硬外交」へと転換していく訳です。幣原喜重郎外相の軟弱外交に
比べれば、いたって「正常」だと思いますがね。

1927年7月12日の「第一次山東出兵」、1928年1月7日の「第二次山東出兵」は
蒋介石(南軍)の北伐に伴う「日本人居留民の保護」が第一の目的です。

その念頭には「第一次南京事件」の惨劇が常にあります。
491イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 00:55:31 ID:???
>>484
>>戦争の一方の当事者を土民としか認識できないからまともに判断できない。
>>イナゾウの限界点を越えている事を十分自覚すべきだ。

土民ではくなくて、土人です!
492名無し三等兵:2005/11/10(木) 00:59:32 ID:???
保護という名目であるが、主権国家の国土に軍隊を派遣するなどは暴挙言える。
そのため益々中国では排日貨運動が高まり、ますます武力による居留民、権益保護が必要になる。
リスクの高い中国進出を行ったのだから、リスクがあるのは当然。
そのリスクを回避する方法がさらにリスクを高める事になる。
このあたりから、満州事変、日中戦争、対米開戦、敗戦、占領の道がひかれ出したのだろう。
正しくターニングポイント。
493名無し三等兵:2005/11/10(木) 01:01:58 ID:???
日中戦争を調べだすと、太平洋戦争がおまけのように思える。
494イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 01:11:40 ID:QRoENVN1
>>489
>>責任を痛感し自決を図った荒木大尉の事もかかんとね。

「5.4運動」が途中なのですが、今週末は法事で実家に帰って書き込めませんので、
先に片付けてしまいましょう。

さて、荒木亀雄大尉は、駆逐艦「桧」の分隊長です。

当時、南京城外にある「下関」付近の長江には、日本海軍の第24駆逐隊(司令・
吉田健介中佐)の駆逐艦「桧」「桃」「浜風」が投錨していました。

蒋介石の北伐の手が南京に近付くにつれ、危険を感じた吉田中佐は「日本領事館警備」
のために、荒木大尉以下3名を先遣隊として南京城内に送り込みます。
495イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 01:30:30 ID:QRoENVN1
その時の荒木大尉は、トラック2台に38式小銃と拳銃、弾薬を積んで
南京城内に向かいますが、運悪く途中の儀鳳門で北軍守備隊(河北、山東軍)の
検閲に引っかかり、銃と弾薬を押収されてしまいます(3月22日)。

ここでいう『北軍』とは、中支・北支の軍閥をしたがえた満州王・張作霖が、蒋介石の
北伐阻止のために「安国軍」(7個軍団)を組織し、自ら総司令官となったものです。
ちなみに張作霖は同時に、中華民国の大元帥と元首を同時に名乗っています
(北京紫禁城に大元帥府を設置・1927年6月28日)

荒木大尉が先遣隊として出発したのが3月22日ですが、翌23日には「ヘタレ北軍」は
南軍の接近に伴い、南京城を放棄し長江を渡って北岸へ逃げ出します。これには
コメントする言葉が見つかりませんw。

そして「運命の3月24日」を迎えます。夜明け前から南軍の第2軍(魯滌平)、第6軍
(程潜)が南京に入城しますが、事前に北軍が逃げ出して戦闘が無かったにも関わらず、
一方的に大暴動が勃発したのです。
496イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 01:49:17 ID:QRoENVN1
日本領事館は正門を閉めて、内側に土嚢を積み、機銃1挺を据えて警備していました。

警備の人員は、荒木大尉以下海軍陸戦隊の10人と、領事館警察の木村署長以下の数名です。

>>333 で述べた通り、領事の森岡正平は「幣原平和外交」の指示に則り、『無抵抗主義』を
掲げます。森岡は、荒木大尉に南軍の土人を刺激しないように、土嚢と機銃の撤去を求め
正門を平常と同じように開かせます。

さらに信じがたいことに森岡は、荒木大尉以下、海軍陸戦隊の兵員全員に対して武器を捨て
軍帽と階級章を取り、軍装まで脱ぐように要求します(!)。

さすがの荒木大尉も「これでは捕虜同然ではないか!」と激怒しますが、当時の領事館には
日本人居留民100名余りが避難しておりましたので、その安全を第一と考えて、悔し涙を
流しながら森岡領事の指示に従いました。

結果は、最悪を通り越した「悪夢そのもの」です。
497俄将軍:2005/11/10(木) 02:01:45 ID:???
>>293
ABCD包囲網というのは、大陸問題の延長で、米国、英国、中国と対立する
だけでなく、オランダも、貿易では米国、石油では英国、華僑とは東インド
会社時代からのつきあいもあり、本国がドイツに占領されていても、日本
に屈服はしないでしょう。

米国も、自国で産出しない資源があり、英国領、オランダ領の植民地から輸入
する必要があるのであれば、日本との対立は必然ということになるのか、な
どと。
498俄将軍:2005/11/10(木) 02:05:55 ID:???
>>497
中国国内から産出される、希少金属が抜けておりました。
499イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 02:10:52 ID:QRoENVN1
ちなみに森岡領事は指示するだけ指示したら、左足の?疽が痛むので
自室に篭ってしまいましたw。以下、ドキュメント方式に追っていきます。

午前7時半、南軍の土人兵(5、60人)が領事館に乱入してきます。

それを制止しようとした木村署長が、左腕を小銃で撃たれ、血まみれに倒れた
ところを腕時計から所持品すべてを奪い去られます。

その直後、別の南軍の土人兵2百数十名が雪崩れ込んできました。土人たちは
「日本帝国主義打倒!」「英国帝国主義打倒!」「中国とソ連は一家!」などと叫び、
約3時間にわたって領事館事務室を破壊し、手当たり次第に金品を略奪して、用意した
トラック、馬車、人力車に積み込んでいきました。

そこへ更に土人の民衆・数百人が襲来して、今度こそ破局を迎えます。
家具類、布団、カーテン、床板まで剥ぎ取り、トイレの便器からゴミ箱、空き瓶に至るまで
強奪していきます。「蝗(いなご)」でもここまでやらないでしょう。餓鬼そのものです。
500名無し三等兵:2005/11/10(木) 02:18:42 ID:???
>>497
基本的に欧米の支那利権を尊重する限り、日本が大陸で多少派手に暴れても
欧米はとやかと言わない。精々、苦言を呈する程度。と、言うか現地勢力が
良からぬ事を考えた時、対処可能なのが日本しかないというのが現実。
北支事変も支那事変もまさにそう言う構図だった。この辺を見越していたから、
昭和帝も初期の武力行使には賛同していた。

一番の問題は日本がトラウマン工作に失敗し、仏印進駐と言う「場外乱闘」をかました事。
501イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 02:24:10 ID:QRoENVN1
土人兵と民衆はさらに荒れ狂い、日本人は領事館員、警備部隊、居留民の区別なく
全員が衣服を剥ぎ取られ、パンツまで取られます(!)。

もちろん、財布・腕時計・指輪・メガネ・靴・ベルトに至るまで、所持品すべてを
奪われて、文字通り「丸裸」にされました。荒木大尉も当然、この中にいます。

最も残酷な目に遭ったのは、言うまでもなく日本人女性達で、下着からストッキング、
足袋まで脱がされて全裸にされた後は、言語に絶する土人たちの集団レイプを受けました。

居留民の半数に当たる50人ほどいた日本人の子供達も同様で、すべて全裸にされ玩具まで
奪われます。当然、レイプを受けた子供もいたでしょう。

そして森岡領事の部屋にも乱入し、痛む左足を小銃の台尻で殴り付けられて、上記と同様の
略奪を受けました。

午前10時半に南軍将校が現れて、暴徒を鎮圧したのは既に述べた通りです。
502イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 02:36:52 ID:QRoENVN1
南京領事館で無抵抗のまま土人の暴行を受けた荒木亀雄大尉は、
余りの被害の惨状と屈辱自責の念に駆られ、

3月29日に割腹自殺を図ったとか、ピストル自殺したなどと伝えられますが
詳細は不明です。

森岡領事の愚かさには「国賊」と罵りたいぐらいですが、土人相手に
『無抵抗主義』を取ることがいかに愚かなことかが痛感できる一事です。
口を酸っぱくしても言い足りないですが、

制裁と報復の徹底こそ、平和への第一歩なのです。

そして英米砲艦は、南京市街へ徹底的に『報復砲撃』しています。

米国も領事館員と在留米人を、金陵大学(米人経営)に避難させていますが
そこも襲われ、ウィリアム副学長が射殺されています。
503俄将軍:2005/11/10(木) 02:38:27 ID:???
>>500
戦争は軍事力だけで行うものではないので、英中による法幣を米国が支
援していたことに、米英の真意が込められているのではなかろうか、
などと思うわけですが。

日本の軍事力に、米英が直接対抗するわけではないが、間接的に、日本
を屈服させようとしていただけで、トラウトマン工作を日本側が蹴飛
ばしたところに、軍事力による南京攻略を過信したということにな
るのか、などと。
504俄将軍:2005/11/10(木) 02:45:56 ID:???
>>503
1939年7月の日英東京会談にあわせて、米国は日米通商航海条約の
破棄で、英国側を支援していたわけですから。

日本の軍事力が、中国に権益を有していた列強と、米国から、脅威と見
なされたのは、何故か、ということになるのか。
505イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 02:50:55 ID:QRoENVN1
結論を述べますと、1927年1月に漢口と九江の「英国租界」が北伐途中の
『南軍』によって接収されています。もちろん武力を背景としたものです。

英国は、上海に1万6千人の陸兵を駐屯させていましたが(軍艦は40隻)、
漢口・九江にまでは手が回らなかったようです。

英米両国は、日本に対して『共同出兵』を提案してきましたが、幣原外相はそれを
拒否しています。土人に媚を売った結果があの始末と考えると、何ともやり切れません。

これこそ「幣原平和(軟弱)外交」の大失敗で、第一次南京事件の惨状を招き、
後の反動として「超強硬外交」を生み出す契機となるのです。

もしここで共同出兵に応じていれば、英米を巻き込むことができ、史実のように
日本だけが矢面に立つことは避けられていたでしょう。

もちろん日露戦争時の日英同盟のように、英米の狙いは「日本に火中の栗を拾わせる」
ことです。しかし、日本とてバーターで英米から多くの条件を引き出せたはずです。
50632:2005/11/10(木) 03:13:21 ID:???
>>482
いつもありがとうございます。

>>485
戸部先生の「日本陸軍と中国」だと、132頁で「南京事件に事前の計画があったかはともかく、
なにがしかの扇動が作用していたことは疑いもない」となっています。
共産党陰謀説もあるみたいですね。
ちなみに、この事件が衝撃なのは、日本が排外暴動の対象とされた「はじめて」の事件だったことで、
(反英暴動はあったわけで)、
だから排日が激化しているとは、まだ、なかなか認識できないのではないでしょうか。

>>502
このときの問題は、それまで国民党と蒋介石を支持してきた日本陸軍における、
中国ナショナリズム肯定派(というか国民党同志)の認識を揺さぶったことにもありますね。

驚くべきことに、松井石根、佐々木到一(ともに日中戦争初期の現地軍主役・強硬派)は、
孫先生の同志・援助者として、このときはまだ親友の蒋介石を信頼しています。
けれど、やがて済南事件がおこり、日中の相互不信はだんだんと修復不能に陥るわけで。
507イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 03:16:12 ID:QRoENVN1
>>481
>>学祭は3年ほど前から復活し、今年も11/5,6の両日に開催されました。
>>革○の資金源として中止されてから10年ほど中止されていたのですね。
>>新しい学生会館も建ち、彼らの居場所は確実に減らされてきています。

それは喜ばしい限りですね。というか、学祭はつい先日の話ですか。
きっとビラ撒きも減っているのでしょう。

481さんと異なり、自分の母校は別次元の『レイプ大学』ですが、在籍期間中は運悪く
一度も学祭がありませんでしたので、とても羨ましいです。三田祭や日本女子大の
学園祭には行っていましたが、冷やかしは冷やかしに過ぎません。

二度と下らない理由で中止にならないように願っています。
508イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 03:31:00 ID:QRoENVN1
>>478 >>このボクシング大会は清水行之助が、子分の山中という早稲田の人間に金を渡して
    >>開催させることになってた。金は徳川義親侯爵が出してた。

徳川義親(よしちか)は、面白い人物ですね。多分に興味をそそられます。
自分は、こういう理性と狂気(失礼!)が錯綜している人物が大好きです。
余裕があれば、どこかで簡単に人物像をまとめます。

そして3月事件には、今のお金で10億円ほどの資金を提供しているそうです。
こういう「資金の裏付け」が分かると、手慰みと書いた小説も一気に実現性が
増してくるから不思議です。まあ、ぼったくられただけかもしれませんがw。

ただ橋本欣五郎については、他の「革命を売り物」にした輩とは異なり
金にはこだわりませんでした。むしろ同志のために私財を投げ打っています。
A級戦犯になった時は、懐中に100円しか持っていなかったとか。
509名無し三等兵:2005/11/10(木) 20:02:20 ID:gUsN3pIO
>第一次南京事件
大正二年、第二革命のどさくさにまぎれて、南京で日本人殺害事件が起り、日本世論が
沸騰し、事件への対応を巡って阿部守太郎外務政務次官が刺殺されるという出来事が
ありました。ので、昭和二年の南京事件は、敢えていうなら”第二次”でしょう。
尤も普通は頭に何もつけませんが。

それから、根本は二階から飛び降りて気絶してますね。まあそれによって、済南事件の
佐々木到一のような縄目の恥辱を受けることは免れましたが。
根本がその後、桜会に入り、錦旗革命に反対して今村に密告した事は以前書きました。
また相沢三郎が永田を刺殺した直後に、彼は陸軍省の廊下で相沢と会ってるんですが、
そのとき気圧されたのか何なのか、相沢と握手をしてるんです。相沢がこのことを裁判で
しきりに持ち出し、”永田の腹心の根本ですら自分のやったことを認めている”とやるもんだから、
さすがの根本も随分困ったようです。

>>508
徳川候は、三月事件のために用意した50万円を、戦後、そっくり日本社会党に献金しました。
510イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 23:30:30 ID:apbBiX/z
>>458 の続きです。「5.4運動」(1919年)がいつまでたっても終わらず宙ぶらりん……。

さて5月4日ですが、天安門広場に学生の集団がやってきます。学生たちのリーダーは
北京大学教授・李大サ(中国共産党の創始者)の門下生です。

彼らは「敗北」を意味する白旗を掲げ、パリ講和会議の失敗(主に山東問題)の責任者
として、曹汝霖(財政・交通両部総長)ら日本留学生出身の外交官、政治家の処罰を
要求しながらデモ行進を行ないます。

各国公使館に抗議文を突きつけたデモ隊は、曹汝霖を血祭りに上げるべく、北京・趙家楼にある
曹の自宅を襲います。暴徒と化した学生たちは投石を始め、その1つが曹の父親の介護を
していた女中を直撃して重傷を負わせます。

邸宅には曹自身と、帰国中の駐日公使・章宗祥(日本留学生出身)がいましたが、正門を
叩き壊した暴徒が「曹を殺せ!」と内部に乱入し、略奪とガソリンを撒いて放火を始めます。
章宗祥は後門から逃げますが、暴徒の学生たちに包囲され、袋叩きに合い昏倒しました。
511イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/10(木) 23:50:48 ID:apbBiX/z
そこへ章宗祥を救うべく「颯爽」と現れた日本人のヒーローいました。

章の友人である中江丑吉(うしきち)です。彼は、高知出身の思想家で
『東洋のルソー』と呼ばれた中江兆民の長男です。

章宗祥は日本留学時、麹町の中江家に出入りして、丑吉とは兄弟同然の仲だったのです。

丑吉は、東京帝国大学法科を卒業後、北京で中国古代政治思想史を研究中でした。

彼は、血まみれになって倒れた章宗祥を両手で抱き上げ、邸宅の後門にあった油塩店に
素早く運んで章を隠してもらいます。

そして後を追ってきた学生の暴徒たちに向かって、丑吉は中国語でこう叫びました。

「章は俺の友人だ! お前ら殴りたかったら、この俺を殴れ!」と。
512イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 00:08:41 ID:rhtAf7Kc
まるで小説や映画の世界です。

日本人であれば、敵ながらあっぱれと意気に感じて、罵倒を浴びせられる
程度で済んだかもしれません。

しかし残念ながら、相手は土人の学生です。暴徒は中江を包囲して鉄棒で全身を乱打します。

警官隊がおっとり刀で駆けつける頃には、首謀者はすべて逃げ去っていました。
その後、章宗祥も中江丑吉も一命は辛くも取りとめたことが救いと言えば救いです。

学生のデモ隊に発見されず無事に助かった曹汝霖は、この事件を機に
政界を引退します。そして旧知の吉田茂から歓迎を受け、鎌倉に移り住みました。

5.4運動は、上記のように単なる学生の暴動です。5.4運動の2年後には李大サの
中国共産党が誕生しましたから、中国革命の原点のように美化されますが、実態はこの
程度のものです。そして、徐世昌と段祺瑞の権力闘争であったことは既に述べました。
513イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 00:25:31 ID:rhtAf7Kc
少し思考トレーニングをしてみましょうか。
靖国参拝問題で反対を続ける加藤を追い掛け回していたところ、突然
見知らぬ中国人が現れ、日本語でこう叫びます。

「加藤は俺の友人だ! お前ら殴りたかったら、この俺を殴れ!」と。

あなたはこの中国人を鉄棒で乱打しますか?

いかんな。この設定では少し弱いですね。下記ではいかがでしょうか。

日本人拉致問題で軟弱外交を繰り広げる田中を追い掛け回していたところ、突然
見知らぬ北朝鮮人が現れ、日本語でこう叫びます。

「田中は俺の友人だ! お前ら殴りたかったら、この俺を殴れ!」と。

あなたはこの北朝鮮人を鉄棒で乱打しますか?w
514イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 00:32:37 ID:???
前者はともかく、後者は殴っているかもしれませんw。
515イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 01:10:46 ID:rhtAf7Kc
>>509
>>昭和二年の南京事件は、敢えていうなら”第二次”でしょう。 尤も普通は頭に何もつけませんが。

そうすると、1937年の南京事件は『第三次』になる訳ですね。もう一般の人は
「何がなんだか」の話だと思いますw。

相沢事件に関しては、永田斬殺直後に、2.26事件の磯部浅一も陸軍省を偵察に訪れています。
陸軍省の軍人たちが右往左往し、周章狼狽しているのを見て

「省部くみし易し。いま同志2、3人で突入すれば、陸軍省は占拠できるのだが、俺一人でも
 相当なことができるぞ!」

と空恐ろしい自信を深めていますw。

南京領事館といい、相沢中佐とのバッタリ遭遇といい、根本中佐もよほど運が悪いですね。
相沢の裁判の証言によっては、2.26事件直後の『寺内粛軍』の対象にされかねませんw。
516名無し三等兵:2005/11/11(金) 01:31:20 ID:1o6LBAN6
日本軍に中国軍の存在を通報しただけで戦後処刑された人の名前誰だっけ?
確か高橋某だった気がするんだけど。
517イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 01:34:50 ID:rhtAf7Kc
あ、相沢事件のときは既に「根本大佐」でした。

しかし、新聞班長から1936年3月に「歩37連隊長」に飛ばされていますので、
やはり相沢中佐の『呪い』かもしれませんw

ちなみに相沢三郎が処刑されたのは、1936年7月3日です。

永田鉄山が軍務局長室で斬殺されたのは、山本五十六が海軍次官室で右翼に
刺殺されるのと同じぐらい、日本の進路に影響を与えています。

>>506
>>けれど、やがて済南事件がおこり、日中の相互不信はだんだんと修復不能に陥るわけで。

済南事件もいずれ触れます。しかしその直前に、日本で蒋介石と田中義一首相が秘密会談を
やっていますから、そちらを先に詳述することになるでしょう。
518名無し三等兵:2005/11/11(金) 01:46:25 ID:???
イナゾウがこのスレで頑張ってるのはわかるが、変なイデオロギーにさらされてて中国人が絡むと電波を発しだす。
そのため前の方はそれなりに説得力があったが、最近は電波とそれ以外の区別をつけるが難しい。
まあ、こんな事をレスしてもイナゾウは電波を発するのだろうが。
限界点というレスがあったが、電波発生の境界線が正しい。
日本軍の内部だけを語って欲しいものだ。
それなら大いに為になりそうだ。
519イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 02:22:44 ID:rhtAf7Kc
>>506 >>共産党陰謀説もあるみたいですね。

第一次南京事件(1927年)については、蒋介石が以下の声明を発表しています。
蒋介石は当時、南京攻略の督戦のために軍艦「楚同」に乗り、南京の60キロ
あまり南の長江筋にいました。

「南京事件は、南軍と外国軍を戦わせて国民政府を潰し、中国を共産化せんとする
 ソ連のスターリンの指令で行なわれたコミンテルンと中国共産党の謀略である。

 彼らは北軍の敗残兵や浮浪者に、南軍の捕虜から剥ぎ取った軍服を着せて、南軍の
 暴動に見せかけた。それに利用されたのが共産分子の第6軍政治部主任・林祖涵と
 第2軍政治部主任・李富春である。南軍総指揮の程潜も、江蘇省の地盤欲しさに協力した」

しかし、蒋介石の声明は信用なりません。南軍は、北軍が逃げた後で南京に入城していますから
北軍の敗残兵がそれほど多く残っているはずがありません。目撃した日本人新聞記者の証言によれば、
単純に南軍・第6軍の仕業と考えていいでしょう。
520イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 02:28:16 ID:rhtAf7Kc
別に共産党を擁護している訳では全くなく、中国共産党も

「南京事件は、日・英・米・帝国主義の軍艦が、南京を砲撃したことから
 突発した。そして、北軍が略奪暴行した」

と怪力電波を発していますから、同様に問題外です。
521イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/11(金) 02:43:17 ID:???
週末は法事で実家に帰るので、いろいろ書き溜めてしまいました。
連投が続いてスマソ。

まあ、仕事がてんこ盛りなので「日帰りとんぼ帰り」になるでしょうがw。
新幹線、間に合うのか…?(藁)
522名無し三等兵:2005/11/11(金) 22:32:01 ID:Jt16oPH1
>>515
つなぎに相沢事件の余談を少し

事件直前、局長室には、新見英夫東京憲兵隊長と山田長三郎兵務課長がいた。
山田大佐は軍事課長に用があって、相沢中佐と入れ違うように部屋を出、事件当時は
隣の軍事課長室に居たがのだが、助けに飛び込まなかったということで、局長を見捨てたと
陰口を叩かれた。さらに事件の10数日後の、兵務課長から兵本附にという人事が、彼に
追い討ちをかけた。しかし山田大佐は一切言い訳をせず、永田の五十日祭が終わると、
古式に則って腹を切った。

一方新見大佐の方は、相沢に飛びついて止めようとしたが、剛勇相沢に軽く振りほどかれ
失神。その後、慌てて軍事課課員室に飛び込み「局長室が大事だ」と叫んだが、当時室に
いた武藤以下課員は皆、これを「火事だ」と聞き間違え、吉田喜八郎少佐などは、咄嗟に
硯の水入れを持って、局長室に走ったそうだ。
523名無し三等兵:2005/11/11(金) 23:21:29 ID:???
 南京事件直後の3月28日、参謀本部松井石根第二部長は、事件対策を持って幣原外相を訪れた。
革命当事者が今にして反省自覚無ければ、帝国もまた、従来の隠忍を破り、列国とともに進んで
自衛手段に出るのやむなきに至るべしを予告し、南京事件については、蒋介石ら南方派中の穏健
分子を擁護し、その責任の所存を同派中の過激分子すなわち共産派に帰する趣旨で、英米諸国と
蒋介石の間を調和斡旋するとともに、穏健分子に所望の援助を与えると言うものであった。
 さらに宇垣陸相も4月7日、若槻首相に対し、中国の革命運動が満州まで、波及してくるのは時間の
問題であり、このような本格的反帝運動の対策としては、第一、列強官の対支協調をさらに緊密にす
ること、第二、列強の協調により共産派を包囲する政策をとること、第三、長江上流及び南方の共産
派の抑圧駆除は、主として南北両派の穏健分子に軍資金と武器とを列国共同して供給、その衝にあ
たらせること、の三点をあげて建策した。
(戦史叢書 大本営陸軍部<1>より)
当時の日本軍部には、反共を目的に蒋介石南軍、日本を含む列国との融和を図る気運があったようだ。
南京事件は共産党による陰謀という説があるが、日本の中国介入の目的の一つである反共政策にとっ
ては好都合であるのは確かである。
524名無し三等兵:2005/11/11(金) 23:32:39 ID:???
訂正
>日本の中国介入の目的の一つである反共政策
日本の中国介入の名目の一つである反共政策
52532:2005/11/12(土) 00:16:49 ID:???
>>522
みんなで、この超良スレの留守番をしましょう。しかし、本当にお詳しいですね。

>>523
結局、中国に穏健派の政治体制が確立して、
中国が日本と協調しながら利権を回収して独立を固めるのが、
日本の支那専門家(国民党同志)にとって最良のシナリオだったと思います。
多分日中両国民にとっても、これが一番よかったでしょう。
だからこそ日本の国民党シンパは、相当なことがあっても国民党支持を変えなかったわけで。

こうした理想・理念を追って、国民党と日本の共通利害を強調する一派にとって、
共産党陰謀説はたしかに都合のいい説だったように思います。

問題はなぜに日中両国民にとって有利な、この路線が失速したかということでしょうか。
526名無し三等兵:2005/11/12(土) 02:23:27 ID:???
>>525
>問題はなぜに日中両国民にとって有利な、この路線が失速したかということでしょうか。
列強諸国にとっては有利かもしれないが、中国にとっては列強諸国が中国利権をむさぼり続ける口実となる。
辛亥革命は列強諸国の排除という国民的世論が背景にありもっとも強い潮流。
日本を含む列強諸国は様々な政策をうつが、結局大きな潮流を変える事は無理なはなし。

簡単に言えば国民党革命勢力の第一の敵は列強諸国で、第二の敵が共産勢力であった。
527名無し三等兵:2005/11/12(土) 22:50:14 ID:r6kv+Pvd
>>511
>中江丑吉

満洲事変の首謀者の一人で、石原莞爾の股肱であった今田新太郎は中江に兄事しており、
二人の間の書簡は残っています。
日本によってつくられた臨時政府の王克敏は、当時天津に隠棲していた曹汝霖を誘いました。
しかし中江は、出馬すべからずと曹を説得。これがため、曹は王の勧めを固辞し続けました。
その結果、曹はアメリカで天寿を全うすることができました。
528イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/12(土) 23:57:46 ID:???
>>522 >>しかし山田大佐は一切言い訳をせず、永田の五十日祭が終わると、古式に則って腹を切った。

そうですね。一番、気の毒なのは山田長三郎大佐ですね。これこそ『青天の霹靂』でしょう。
山田大佐は、1936年10月4日、自宅で切腹しているのが見つかります。憲兵隊が調べたところ、
「不徳の致すところ」と書かれた遺書が見つかったそうです。合掌w。

『相沢事件』(1936年8月12日)の直接の契機は、林銑十郎陸相が真崎甚三郎教育総監を
更迭したことに因ります。

しかし、『嵐と闘ふ哲将荒木』(橘川学)によれば、林陸相が「8月異動の原案」を
真崎に見せて問い詰められたとき、

「じつは今度の案(真崎更迭)は、南次郎大将と永田軍務局長その他の幕僚たちの主張で、
 まったく自分の考えではない……」 

と、自分に都合の良い『言い逃れ』をしています。ここに永田の運命は極まりました。
529イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 00:22:54 ID:???
相沢事件後、林陸相は『永田を殺したのは、この俺だ』と言って辞任しますが、
一般的には(永田を守れなかった)責任を感じて、という理解だと思います。
しかし >>528 が事実なら、永田を殺したのは『直接的』に林陸相だったと言えます。

もちろん、永田の周辺も危機感をつのらせ、橋本虎之助・陸軍次官を始めとして
永田の外遊を計画していました。山本五十六は連合艦隊司令長官になって刺客から
避難できましたが、永田は間に合わず、明暗を分けることになります。

ちなみに相沢中佐のエピソードを紹介すると、以下の通り。(『私の昭和史』)

「相沢中佐が真崎教育総監の更迭を知ったのは、7月16日の中国新聞の夕刊だった。一家だんらんの
 夕食のとき、何気なく開いた夕刊に、それが掲載されていた。もう中佐は食事が喉を通らなくなった」
 
>>一方新見大佐の方は、相沢に飛びついて止めようとしたが、剛勇相沢に軽く振りほどかれ失神。

相沢中佐は剣道4段です。これこそ『キチガイに刃物』と評すべきでしょうw。
530イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 00:57:37 ID:iXtOS07Y
もともと林銑十郎と真崎甚三郎は、「親友」と言ってよい間柄です。

林が『予備役待ち』のポストである東京湾要塞司令官から、陸大校長に返り咲く
ことができたのは、真崎の助命嘆願のおかげです(1927年3月)。

また、真崎が第8師団長(弘前)から、帝国陸軍の頭号師団である第1師団長(東京)に
栄転する際には、林はこの借りを返すべく、並々ならぬ尽力をしています(1929年7月)。

この2人の関係が壊れるのは、林が永田鉄山の手腕を見込んで、第1旅団長から
軍務局長に抜擢してからです。

真崎が第1師団長をしていた当時、永田は第3連隊長でした(ヒデキは第1連隊長)。
この頃はまだ、統制派・皇道派の対立はありませんでしたから、真崎は永田とヒデキの
才を可愛がり、ぜひ自分に取り込みたいと考えていました。

永田とヒデキが、真崎の自宅をしばしば訪問していたという事実もあります。
53132:2005/11/13(日) 01:10:29 ID:???
>>530
第1師団長時代のマサキが現場指揮官としてのヒデキに驚嘆していたのは有名ですね。
マサキ曰く「東條連隊長は日本一の連隊長だよ」

このころ、ヒデキは人情味あふれながら規律ある統帥を実現して、
兵を慈しみながら、しかも鍛えあげて、無茶苦茶に兵に慕われていたとか。
532イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 01:16:00 ID:iXtOS07Y
しかし、永田は真崎のもとを離れます。当然のごとく真崎は激怒しました。そして
あろうことか、永田は統制派の首領として自分の皇道派と激しく対立さえします。

「可愛さ余って憎さ百倍」とは、まさにこの事でしょう。

林が永田を抜擢したその時に「2人の親友関係」は壊れた訳で、

げに『男の嫉妬』とは恐ろしいものです。

また、林銑十郎のことを「満州事変時の越境将軍」として英雄視、または豪傑視
しがちですが、まったくのミスディレクション(誤導)です。
越境出兵時も、これが中央で追認されるまでは、心配で心配で食事も喉を通らない有様でした。

「ロボット」という評価も分かり難いでしょう。林は「本当に気の弱い」人間だったのです。
そして気が弱いゆえに、永田に「真崎更迭の責任」を被せてしまったのでしょう。
533名無し三等兵:2005/11/13(日) 03:27:19 ID:???
真崎甚三郎
陸軍大将。荒木貞夫陸相らと陸軍皇統派を形成し、統制派と対立した。
二・二六事件では「反乱幇助の罪」で軍法会議にかけられたが無罪。
A級戦犯容疑者になったが、訴追されなかった。

真崎は、太平洋戦争開戦の計画についてなにも知らなかったと答えた後、「とりわけ私は
米国に対し、尊敬と親愛の情を抱いています。というのは私の先生(中学の英語教師)は
アメリカ人でしたし、私が米国に滞在した時、たいへん親切にもてなしを受けたからです。
私は今、日本みずから、天皇の力をもってさえ実現できなかったことが、米国の力をもっ
て達成されたことを実感できます」と賛辞を述べた。

陸軍を支配した人物として、東条以下、武藤章、橋本欣五郎、らをつぎつぎと告発。
満州事変後に真崎が参謀次長になった時については、戦闘拡大をしたにもかかわらず、
戦火はすでに沈静していたと述べ、32年の上海事変での出兵については、中国軍に
八路軍がいたからだとでたらめを語った。
満州事変の反対者で、中国本土に拡大することを反対していたと弁明した。

尋問調書

真崎の取調べ中の態度は、ニ・ニ六事件で収監された時と同じく卑屈きまわりない
ものだったよう。
尋問官の一人、ロビンソンは迎合的な態度に幻惑され被告除外を主張。
534名無し三等兵:2005/11/13(日) 11:18:50 ID:???
余談ながら。
NHKの『歴史への招待』で放送された話ですが、新見大佐は眼に疾患があったそうです。
常人より視野が狭く、ほとんど真正面しか見えなかったとか(「逆立ちしたほうが物が良く見える」
とこぼしていた、と未亡人の証言)。
そのため新見大佐には永田局長しか見えず、相沢中佐に気づくのが遅れたという話でした。
535名無し三等兵:2005/11/13(日) 20:10:23 ID:1HxmBmRp
相沢中佐の悲劇は、政治性の欠片もない性格にも関らず、人事だなんだとのめりこんで
しまったところでしょう。隊附に専念してれば、支那事変で武名を挙げれたかもしれないのに。
林銑十郎も、日露戦争では一戸兵衛の副官として個人感状まで貰った勇士なんですが、
上に立たせるととんでもない後入斎だったわけで。
東條にしても、平時の聯隊長としては模範的存在でしたが、戦時宰相としては、聯隊長時代の
美点がすべて欠点になってしまいました。
ただ適材適所と言うは易しですが、人間の真価なんて簡単にわかるものではないですからね。

永田鉄山の長所はなんといっても懐の深さでしょう。ケンカ到一といわれた佐々木到一ですら
永田に親炙してます。これは東條には全く欠けている所です。
しかし永田とて完璧超人ではありませんから、殺されずに長生きしてれば、ぼろの一つや
二つ出したでしょうし、結局破局を防ぎとめることは出来なかったと思います。

相沢事件で弁護人を務めた満井佐吉中佐も、三井財閥を相手に大喧嘩をしたりと、
ユニークな人物です。腹が立つと蕁麻疹が出るというくらい感情の激しい人だったそう
ですが、学校では成績上位でした。彼は元々は永田とかなり親しかったんですが、
いつの間にか反永田となっていました。
536イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 21:45:10 ID:djAnLQYD
相沢中佐については、『2.26事件』スレでかなり詳しくやりましたので、
その時のものを少し変えて再録すると、以下の通り。
――――――――――――――――――――――――
相沢三郎中佐と永田事件は「そのあまりの特殊性」により単独で語られがちですが、
2.26事件を起こした青年将校たちと密接に絡んでいます。

結論から言えば、相沢中佐は『青年将校の追っかけ』なのです。それも熱烈な。

事件当時、相沢中佐は47歳(22期卒)。間違っても「青年」とは呼べない年齢ですが、
一回り以上も年下の、憂国に燃える青年将校たちに心酔し切っていました。

相沢中佐がもっとも尊敬していたのが、大岸頼好大尉(36期卒)で14期も離れています。
しかも大岸は青年将校の中でも指導者格ですから、いわゆる青年将校は更に年下で親子ほど違うと
言ってもいいでしょう。相沢中佐は、大岸のことを「大岸先生」と呼んで崇拝していました。
537名無し三等兵:2005/11/13(日) 21:47:24 ID:0iz0oD9E
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/asia/1129104699/
ココに困ったサンがおります
538イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 21:51:33 ID:djAnLQYD
東京の青年将校から呼び出しがあれば、相沢中佐は勤務中でも駐屯地から抜け出して上京し、
当時から『無断上京』が問題になっていました。相沢が中耳炎の治療を拒否して周囲を困らせて
いたときも、「大岸先生」の説得により受け入れたといいます。

永田事件を起こした前日深夜、相沢中佐は明治神宮で青年将校の急進派である
栗原安秀中尉と密会していますから、おそらくは煽られたのでしょう。

相沢中佐は、統制派から見ればまさしく狂人ですが、皇道派からは「至誠の人」と呼ばれています。
ちなみに栗原中尉は、何事も「俺はやる」が口癖で『ヤルヤルの栗原』が渾名です。
また大変な美形だったようです。

相沢中佐はその昔、宴会の帰りに酔っ払って池に落ち、中耳炎にかかった事があります。

症状が落ち着いたある晴れた朝、相沢中佐は散歩に出かけますが、運悪く突然の雷雨に遭い
ずぶ濡れになって帰宅します。その後、高熱を発して即入院。中耳炎の症状が酷く悪化した
にも関わらず、本格的な治療を拒んだのは既に記述。
539イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 22:09:37 ID:djAnLQYD
中耳炎の症状は重くなると『脳に影響が出る』と言われていましたから、
永田事件後に統制派の面々が相沢中佐を「狂人」呼ばわりした理由に、
この中耳炎の罹病があります。

かの「ヒトラー伍長」も毒ガスで目を患ったのが、その後の狂人に結びついた
(視神経の損傷が脳に悪影響を及ぼした)という話がありますが、相沢中佐も
「その亜流」と呼べるのかもしれませんw。もちろん何の根拠もありませんが。

相沢中佐の青年将校に対する感情は「崇拝」であり「信者」ですね。

あるいは「自分も若い頃こうであればよかったのに……」という幻想を
追っていたのかもしれません。
――――――――――――――――
いまパッと連想したのですが、甲子園に行けなかった「おっちゃん」が高校球児や
自分より遥かに年下のプロ野球選手の『追っかけ・熱烈ファン』をしている
姿が目に浮かびましたw。
540イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 23:29:55 ID:djAnLQYD
>>535
>>相沢中佐の悲劇は、政治性の欠片もない性格にも関らず、人事だなんだとのめりこんで
>>しまったところでしょう。隊附に専念してれば、支那事変で武名を挙げれたかもしれないのに。

その辺りは『連隊付中佐』の悲哀かもしれません。(歩41連隊付)

相沢中佐は陸士22期(47歳)。当然のことながら陸大を出ていません。
ご存知の通り、陸大卒か否かで、その後の昇進には天地ほどの差が生じます。

陸大を出た同期を挙げてみると(1935年8月12日当時)、

●鈴木貞一(千葉):大佐=内閣調査員  
●鈴木率道(広島):大佐=参謀本部作戦課長
●安達二十三(石川):大佐=関東軍鉄道線区司令官
●牟田口廉也(佐賀):大佐=参謀本部庶務課長 
●村上啓作(栃木):大佐=兵務課長(10月より)
541イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/13(日) 23:52:57 ID:djAnLQYD
ついでに23期・24期までを見てみると、

【23期】
●坂西一良(鳥取):大佐=陸軍省調査班長 ●神田正種(愛知):大佐=参本課長
●橋本欣五郎(福岡):大佐=野重二連隊長 ●石本寅三(兵庫):大佐=関東軍参謀
●根本 博(福島):大佐=新聞班長

【24期】
●野田謙吾(熊本):中佐=軍務局員(1935年10月より大佐)
●土橋勇逸(佐賀):中佐=軍務局員(1935年10月より大佐)
●河辺虎四郎(富山):中佐=関東軍参謀(1935年10月より大佐)
●柴山兼四郎(茨城):中佐=支那公使館付き(1936年3月より大佐)

一期下はおろか、二期下の後輩にまで「相沢事件」が起こった1935年中に
ほぼ階級が抜かれます。
542イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 00:29:23 ID:2gQ3yWUf
このままいけば、相沢中佐は早晩「予備役」に編入されるのが自分でも
予想できていたでしょう。良くて「お情け大佐」です。しかし、問題行動が
目立っていましたので、中佐で予備役の可能性が高いと思われます。

「これじゃあ、やってられねえよ」

という心情があったかもしれません。結果は『現実逃避』というか、
「現実を打破してくれる」かもしれない青年将校の昭和維新に熱を出す訳です。

>>隊附に専念してれば、支那事変で武名を挙げれたかもしれないのに。

その可能性は大いにあります。もちろん一発戦死だってありえますが。
とにかく部隊の数が不足してきますから、相沢中佐も大佐に進級して
三桁ナンバーの連隊長ぐらいには出世できていたかもしれません。

「待てば海路の日和あり」だったと言うか「人間万事、塞翁が馬」と言うべきか。
543イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 00:42:51 ID:???
え? お前も中佐を名乗ってるけど、何やってんだって?

そうですね。参謀本部第二部支那課員という『設定』にでもしておきましょうか。

いやはや「傍流」もいいところですね。陸大の成績がよほど良くなかった
のでしょう。

「陸大は出たけれど」という言葉が似合いますw。

>>541 で柴山兼四郎中佐(支那公使館付き)の大佐進級が他に挙げた
人間より遅れているのに注意。
544イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 00:58:45 ID:2gQ3yWUf
>>535
>>適材適所と言うは易しですが、人間の真価なんて簡単にわかるものではないですからね。

「平時の講評はこれを取り消す」

この一言に尽きます。知らない人のために補足すると、日露戦争で戦功を上げた
「花の梅沢旅団」こと梅沢道治少将に送られた言葉です。

梅沢(大佐)は近衛第4連隊長のとき、長谷川好道・近衛師団長(後の参謀総長・大将)から
「役に立たぬ老大佐」として叱り飛ばされ嫌われ、最後には名誉進級での少将を
最後にクビとなり、予備役に編入された経緯があります。

日露戦争後、長谷川大将は梅沢少将に手紙を出し、自分の不明を詫びました。
その一節に「平時の講評は〜」があるのです。

ちなみに荒木貞夫は中尉として、この梅沢旅団の副官を務めています。
545イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 20:47:58 ID:dLmR/E8C
>>535
>>しかし永田とて完璧超人ではありませんから、殺されずに長生きしてれば、ぼろの一つや
>>二つ出したでしょうし、結局破局を防ぎとめることは出来なかったと思います。

自分は「永田信者」ですが、その点は同意です。結局、誰が生きていても支那事変の拡大、
ひいては太平洋戦争を未然に防ぐことは不可能だったと思います。

例えば、石原莞爾が2.26事件で射殺されていたら――史実であれば、

反乱軍の栗原中尉が石原莞爾に拳銃を突きつけ、
「大佐殿は昭和維新をどう考えられますか?」と詰め寄ったところ、
「俺のは軍備を充実すれば、それが昭和維新ということだ!」言い返します。

禅問答のような石原の答えに、栗原が真意を掴みかねて、磯部浅一の方を振り返ると
磯辺は石原の射殺を制止しました。
546イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 21:05:50 ID:dLmR/E8C
もしここで、石原莞爾が栗原中尉に射殺されていたら――

永田鉄山のそれと同じく、後世の「石原信者」は必ず、

「石原莞爾が生きていれば、満州以外には兵を進出させない戦略だったから
 支那事変は起こらなかっただろう。そして東条上等兵を必ずや追い抜き、
 参謀総長か陸軍大臣の座へ先に就いただろう。あのような形の太平洋戦争も
 未然に防いだに違いない」と。

しかし史実の石原莞爾は、少将となって「作戦部長」という要職に就き、短いながらも
『石原時代』という絶頂期にありながら、支那事変の拡大は止められませんでした。

また陸軍大臣どころか、第16師団長で予備役に追い込まれます(1941年3月)。本来なら
舞鶴要塞司令官でクビになるところを、『たまたま』板垣征四郎が近衛内閣で陸軍大臣に
なったがために、師団長に返り咲くことができたのです。
547イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 21:21:04 ID:dLmR/E8C
たとえ、永田鉄山が生き延びたとしても、石原莞爾と大差は無かったでしょう。

ヒデキも陸軍大臣になる頃は、往時の永田に近いぐらいの権力を振るっていましたが、
歴史はご存知の通りです。むしろ史実のヒデキに近いコースを永田も辿ったかもしれません。

それでもなお、ヒデキとカンジ、2人よりは「マシな道程」を永田は選択したと思います。
永田は「通常人」として出し得る最善のカードと可能性であって、永田でダメなら皇族・もしくは
昭和天皇が積極的(自発的)にイニシアチブを取ってもらうしか道がありませんw。
548名無し三等兵:2005/11/14(月) 21:32:29 ID:CrlXDg9B
>>544
豊邊新作中将も、平時にはぼんくらで全く役に立たず、クビにするかという話も出たくらいです。
ところが日清戦争の緒戦で素晴らしい働きを見せ、「騎兵が豊邊か、豊邊が騎兵か」といわれる
くらい評判を挙げました。
彼はその後、日露戦争でも沈旦堡を守り抜き、勇将ぶりを発揮しましたね。

荒木の外に、古荘幹郎も花の梅沢旅団の副官でした。彼も陸大を首席で卒業し、将来を
嘱望されてましたが、少将の頃脳溢血をやってからは、もうひとつパッとしないです。
第一次近衛内閣の杉山陸相更迭工作の時とき、前線にいる板垣を呼ぶのは、
参謀次長の多田に頼むのが一番いいと考えた風見章が、それとなく多田に後任陸相の
件を持ち出したところ、多田は、杉山の更迭には賛成も、後任に板垣というのにはあまり
乗り気ではなく、「順序から行って古荘が適任である」と言ってたそうです。それを聞いた
近衛たちは多田に頼むのを諦め、同盟通信の岩永裕吉を介して、板垣を招聘しました。
549イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 22:26:24 ID:7wugbkQR
板垣の他に、梅津美治郎中将(陸軍次官)も名前が挙がっていましたね。

むしろ陸軍部内では梅津を推す声の方が大きかったのですが、近衛文麿が
梅津を嫌っていたのです。

「彼は赤(共産主義者)ではないのか?」と疑っていました。

もちろん梅津はアカなどではありません。近衛にとっては「統制派=アカ」に
見えて仕方がなかったのです。近衛が皇道派を好んだ理由がここにあります。

梅津は地味な性格で「裏方役」に徹し、彼の笑顔を見た新聞記者は皆無でした。

近衛の周辺には「朝飯会」に見られるように、「猟官運動」をする政治家・軍人が
絶えませんでしたが、当然のことながら、梅津はそんな会に顔を出しません。
貴族体質の近衛にとっては、なおさら気に入らなかったでしょう。
550イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/14(月) 22:34:43 ID:7wugbkQR
ちなみにこの時、板垣征四郎(中将)は第5師団長(広島)として、
北支那方面軍の第2軍に所属していました。

板垣を掴まえたのが1938年4月30日頃で、ちょうど徐州作戦の最中です。
>>56 >>永田鉄山こそは「右手に東条英機、左手に石原莞爾」と両手で使えた
   >>可能性のある人物です。
>>60 >>ヒデキと石原が協力できたら、永田は寝ていても陸軍最強の布陣ですなあ。

と、スレの最初の方でやっていましたが、この機会に補足します。

実際にあり得ない話ではなく、ヒデキとカンジの仲が『修復不可能』なまでに
破綻したのは、「直属の上司・部下」関係になってからです(1937年9月28日)。

すなわち、関東軍参謀長(ヒデキ)と関東軍参謀副長(カンジ)の間柄です。

カンジが参謀副長として自分の部下になることを聞いたヒデキは、表向きには
「得がたい副長を貰った」と歓迎する態度を示しています。

おそらくは「この俺が教育してやる」、あるいは「部下として手なずける」自信が
この頃はあったのでしょう。実際にはぬか喜びもいいところでしたが。
55232:2005/11/14(月) 23:10:05 ID:???
>>551
ごくろうさまです。

第16師団長としての石原に、ヒデキはおそろしく気をつかっていたといわれます。
最後の、ヒデキ、カンジ会談を含めて、
ヒデキには、なんとかこの逸材を登用したいという希望があったのではないかと思います。

カンジは、ヒデキのことを

「東条は頭が悪い」「女房の意見に左右される」「上等兵の値打ちも無い」

などと放言しています。また、ヒデキとの思想的な対立について聞かれると、

「なるほど、俺には思想らしきものがある。しかし東条には何も無い。思想のあるものと
 思想の無いものが思想的に対立するはずがないだろう」

と痛烈に皮肉っています。ヒデキは「喧嘩東条」の定評どおり、カンカンに激怒しました。

ご存知の通り、カンジは自ら一方的に身を引くのですが、その背景には健康上の問題もあります。
カンジはもともと「病弱」でしたが、ヒデキは「健康そのもの」です。カンジの場合、頭が回っても
身体と気力が付いていかないのです。この辺は、自分たちが学ぶべき所でもあります。

最後は「健康な奴」が勝つw。体を壊して辞めていく人を見ると、つくづく思います。
554名無し三等兵:2005/11/14(月) 23:18:07 ID:CrlXDg9B
石原の関東軍転任は、杉山梅津に追いやられたというのが一般的ですが、厳密に言うなら
この人事は、参本に居辛くなった石原が自ら多田に転任を訴え、気の毒に思った多田が
人事局長の阿南に頼み込んで関東軍参謀副長の職を貰ってやったというものです。
このとき阿南は、石原を東條の下にやることを心配して反対したのですが、多田のたっての
頼みに押し切られたと言われています。

>>552
戦争が切羽詰ってからはともかく、その段階で東條にそんな気はありません。
浅原事件を見ればわかります。
逆に言えば、ヒデキとカンジを『直属関係』にさえしなければ、史実のように
2人の間が破綻することは無かったと思うのです。

かつて『バーデンバーデンの三羽烏』の一翼、岡村寧次は、人事局補任課長から
関東軍参謀副長に異動となって東京を去る時にこう言いました(1932年)。

相手は、荒木貞夫陸軍大臣と真崎甚三郎参謀次長です。

「私は補任課長としてこれだけは申し上げる。永田も小畑も近く少将に進級する予定だが、
 その進級後の職を、どうか同じ役所に置くことだけは絶対に止めてほしい。同じ山に、
 性格の異なった虎を放つようなものである。危険この上ない」

しかし荒木と真崎は、永田を第二部長(情報)、小畑を第三部長(運輸通信)として
同じ山に2匹の虎を放ちます。そして2人の関係は「対ソ予防戦論」を巡る権力闘争で
破綻しました。
55632:2005/11/14(月) 23:49:34 ID:???
>>554
たしかに浅原事件を見るとそのようにも思いますが、
私のソースは西浦さんの回想(厚い方)なので、これもかなり信憑性のあるものかと。
55732:2005/11/14(月) 23:52:27 ID:???
>>556
ああ、不正確な記述をしてしまった。
ヒデキがカンジにおそろしく気をつかっていた、と、西浦さんは証言しているだけで、
あとは、私の所感なのでソースはありません。
ただ、気に入らないひとには敵対するヒデキとしては、異様な行動なので。

スレ汚し、スマソ。
永田と小畑は、同じ「参謀本部」という枠内だけでも破綻しましたが、

ヒデキとカンジは上司・部下の関係ですw 爆弾を火に放り込むようなものです。 

「これを考えたバカチンは誰だ?」と思ったら、多田さんでしたか。こればかりは
阿南人事局長の心配の方が正しいですね。

杉山・梅津に追いやられた説を取ると、単にカンジの影響力をヒデキの元で封殺する
狙いが一目瞭然で分かりやすいのですが。

それにしても、もっと良い「飛ばし場所」は無かったのでしょうか?

カンジと喧嘩をした武藤章(作戦課長)も、中支那方面軍参謀副長に飛ばされますから
バランス的に関東軍ということなのでしょう。また、支那戦線の拡大に反対していた
カンジを支那方面軍へ配置する訳にいかなかったのも分かります。
559名無し三等兵:2005/11/15(火) 00:00:00 ID:???
しかしどいつもこいつもやりたい放題だな
人事は重要だが、人事で異動される側もすこしは好き嫌い以外で仕事しろつーの
……と言いたくなるほど、陸軍の人事行政は無様だな、海軍も似たり寄ったりだけど。

ヤッパ陸士陸大エーリト教育って、完全な失敗だったのかしらん
まともな人材が育たない。
それでも、カンジを「ヒデキの部下」に配置したら不味いだろう、というのは
読めなかったのでしょうか? まだ2人の仲が決定的に破綻していなかったと
してもです。

日本陸軍の勿体無いことは、永田鉄山(斬殺)も、小畑敏四郎(予備役)も、
石原莞爾(予備役)も、『天才級の人材』を内部の権力闘争や人事で
自ら殺してしまっていることです。永田の場合は、文字通りですがw。

残ったのは、秀才級のヒデキや岡村寧次です。

カンジの第一部長からの転出先(ほとぼりの冷まし先)ですが、関東軍でなければ、
朝鮮軍か台湾軍か、急にポストが用意できなければ、地方の旅団長でも良かったはずです。
(ひどい左遷になりますが……)

結果論ですが、カンジの関東軍参謀副長は「最悪の人事」でした。多田さんらしくもないですね。
561名無し三等兵:2005/11/15(火) 00:19:09 ID:/rFaCRmn
関東軍は石原の故郷ですからね。以下は石原の前任の笠原幸雄の話

石原部長は、自身の意に反して事態が推移し、事変が上海に飛び火するなど、いよいよ
拡大し、つらい立場に立たされることとなった。そこで作戦部長をやめさせて欲しいとの
気持ちになっていたと思われる。そこで笠原をドイツにやって、その後任に石原をやろうという
話になったのだろう。私は関東軍参謀副長在職僅か二ヶ月足らずで、参本附となった。
後に阿南さんは私に、「着任浅い笠原と石原を交代させることに私は大反対で
あったが、新任の多田次長の要求で、不同意ながら、その要求に従った。石原は従来の
関係上、関東軍参謀副長を適任と思うという主張であった。今にして考えれば、有為の石原を
東條参謀長の下、不遇の地位に追い込んだ結果となった」と述懐された。
当時、石原自身が留まりたいと思えば残り得ただろう。しかし、本人が参謀本部を出たがった。
多田さんと石原さんは、同じ仙台幼年学校の先輩後輩の関係で、関東軍で一緒に勤務された
こともあり、非常に親しく気が合っていた。多田次長が進んで石原部長を出したということでは
ない。多田次長とは私も親しかった。多田さんが陸大の学生のとき、私の勤務する騎兵第十三聯隊
に隊付されて以来の仲であって、多田さんが北支那方面軍司令官に転補されたとき、私を
参謀長にと所望されたことがあった。
562名無し三等兵:2005/11/15(火) 00:30:10 ID:/rFaCRmn
ついでに稲田正純の話

それで参謀本部の次長が変わりまして多田駿というのが来たのですけれども、これは石原莞爾
が引っ張ってきたのです。これは昔から仲が良かったですし、親しい先輩で、満洲事変を
やったあと、満洲国軍の最高顧問に行った人ですけれども、これは優等生ではありませんが
支那関係をずっとやっておりまして、坂西利八郎の下で、段祺瑞の山西軍を作ったときのスタッフで
あれだとか土肥原であるとか、坂西の学生なんですが、人柄はとてもいいのです。
坂西の親戚ということもあり、私も親しくしてもらっていました。
多田駿にしても「支那事変なんてもってのほかだ、なんとかやめたい」と思っていたし、
そういう思考は石原莞爾とよく似ているのです。石原莞爾を手放すということをとてもいやがって、
泣く泣く手放したわけです。それは、周囲の関係上石原莞爾一人おって押さえておっても
どうにもならない。そのために全体の空気が筋が通らない。それが一番の原因でしょうね。
軍務局長の後宮淳と喧嘩両成敗みたいになって、両方やめさせられたわけです。
しかし、それはなにも後宮さんのおつきあいでやめたのではなくて、結局石原莞爾の戦争
指導が行き詰って、なんとか打開しなければいけないことになって、彼自身身を退いたのですね。
自分が「おる」と言えば決してやめることはなかったのです。次長は極力引き止めたのです
けれどもね。
>>多田さんと石原さんは、同じ仙台幼年学校の先輩後輩の関係で、関東軍で一緒に勤務された

そうでした。失念していました。

>>多田さんが北支那方面軍司令官に転補されたとき、私を参謀長にと所望されたことがあった。

多田さんは、やはり人格者ですね。ずっと気にしていたのでしょう。
564名無し三等兵:2005/11/15(火) 01:35:12 ID:???
莞爾は我が強く気に食わない奴に使われる立場になると俄然反抗的となる。
東條の下に莞爾を放り込むなんてどう考えてもまずいだろ。
>>555 で岡村寧次が、永田鉄山と小畑敏四郎を指して

「どうか同じ役所に置くことだけは絶対に止めてほしい。同じ山に
 性格の異なった虎を放つようなものである。危険この上ない」

と述べたように、ヒデキとカンジも同じ役所に置いてはならなかったのです。

ここからは自分の想像ですが、永田鉄山が生きていれば遠からず陸軍大臣となり
全軍を掌握したでしょう。とするならば、

ヒデキを陸軍省に置き「次官」として自分の補佐をさせ、カンジを参謀本部に置き
「作戦部長」あるいは「参謀次長」として辣腕を振るわせたでしょう。

もちろんヒデキには憲兵的な役割もさせ、永田自身の「盾」として陸軍の綱紀粛正を
行なわせます。そして参謀総長に閑院宮を立て、カンジを参謀次長とするならば、
ヒデキの陸軍次官とも「釣り合い」が取れます。
こうすれば『軍政家』としてのヒデキと『戦略家』としてのカンジが
上手く棲み分け出来ますし、2人の摩擦も最小限に抑えられるでしょう。

繰り返しますが、ヒデキは永田の言うことなら「100%」聞きますし、対ソ戦重視
という点では永田とカンジは考え方が近いのです。

また、永田は「相沢事件」が起こる1ヵ月ほど前に、林銑十郎陸相に同行して朝満旅行を
行なっていますが、その時の永田の感想は以下の通り。

●満州国における関東軍の内面指導は誤りである。これは独立国である満州国への内政干渉にあたる。
●朝鮮は自治の方向へ持って行き、暫時「独立の道」に向けた方が日本にとって得策である。

などと、カンジに比較的近い事を述べています。ああ、>>529 で永田の外遊が間に合わなかったと
書いてますが、この朝満旅行がそれに当たるかもしれません。しかし、永田が相沢事件で殺されたのが
1935年8月12日、『8月大異動』の原案を林陸相が真崎教育総監に見せたのが7月11日で、これも
ちょうど一ヵ月前にあたります。永田の朝満旅行が、この前なのか後なのかは不明です。
567名無し三等兵:2005/11/15(火) 23:08:25 ID:/rFaCRmn
好き嫌いが異常に激しく、人を許せない性質の東條は憲兵を握らせてはいけない人間
ナンバーワンです。

阿部内閣組閣時、陸相を誰にするかの選考で、四名候補が挙がった。
西尾寿造、多田駿、磯谷廉介、東條英機。次官だった山脇正隆によると、
西尾は支那派遣軍総司令官の引当てであるし、若手に反対が多いので却下。
磯谷は能力的に問題はないが、ノモンハン事件の当事者であるのでこれも却下。
東條は若手に人気はあるが、人事に対する意見があまりに偏っており、国内に対する
評判もあるので、皆反対。
多田は東條と反対に普遍的であるが、周囲の人選が良ければ公平な人事を行い得る
だろうということで、多田に決定し、飯沼人事局長が牡丹江に飛んだ。
しかし、その後、天皇が直々に、陸相は畑か梅津以外は認めないと仰ったことから、
侍従武官長の畑俊六が陸相となった。

軍務課長として阿部内閣誕生に奔走し、宮中の不興を買った有末精三によると、
平沼の桂冠が決定的となり、陸軍省で後継首班について協議してるとき、山脇から次の
陸相は誰が良いかと聞かれ、一同東條と答えた。しかしその後、阿部への大命降下が
決まった後、再び山脇と会うと、「よかったなあ。新大臣候補も(阿部と)親しい間柄だし。
飯沼が満洲へ向かったよ」と言う。そこで「新京(関東軍司令部)ですか」と聞くと、
牡丹江(第三軍司令部)とのこと。
その後板垣と会うと、彼も「ヨカッタ、ヨカッタ、新大臣候補も同じ兵科(砲兵)で親しい間柄
だしなあ」と言う。
そこで軍務課長室に帰って、防衛課長の渡辺富士雄大佐に、次の陸相が多田中将に
決まったことを伝えると、渡辺大佐は血相を変えて「これでは血を見ますよ」と叫んだ。
次官、次長時代の東條と多田の確執の激しさを指して、渡辺はそう警告したのだが、
イタリアにいた有末には何のことか分からなかった。
568イナゾウ中佐@悪質な閑話休題 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/15(火) 23:17:44 ID:lleR5I4J
唯一心配なのは、永田がカンジを構いすぎると、ヒデキが嫉妬を爆発させて
反旗を翻すことですw。

いわば『大奥』に近いものがありますが、これを防ぐためにヒデキを永田のお膝元に
置いている訳です。カンジを暴走させない調整役は、ヒデキの様子を見ながら
上手く永田にやってもらいましょうw。

これで「永田・ヒデキ・カンジ」の陸軍最強の布陣が完成しました。
まあ、いいです。ヒデキに憲兵を握らせるかどうかは、この際
置いておきましょう。

「特攻隊長」「鉄砲玉」というか「人からの恨まれ役」は、ヒデキに
やらせた方が適任ですし、似合っています。

相手に向かって絶叫するヒデキを、「まあまあ」と落ち着かせる永田。
どちらに転んでも永田は相手から恨まれませんし、傷がつきません。

刑事の「脅し役」と「宥め役」ではありませんが、交渉事には2人の
コンビが最適でしょうw。
570イナゾウ中佐@悪質な閑話休題 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/15(火) 23:50:11 ID:lleR5I4J
>>589 の具体例は、>>311 >>312 を参照のこと。念のため一部を再録すると、以下の通り。

>このとき、ヒデキは激怒して「恨み骨髄に徹する長州人は真っ平ごめん!」と
>叫んだと言います。これ程までにヒデキの長州に対する憎悪は激しいのです。

>この会合の時は、永田がヒデキを「まあまあ」となだめ、土橋にこう答えます。

>「君の意見はもっともだが、今は過渡期として止むを得ない事情がある。しばらく時日を
> 貸せ。中学出身者を好まないのは、彼等には堅い操守がなく豹変するから危険である」

ヒデキが相手をビビらせておいて、最終的に永田が適当なところで話をまとめるのです。
もちろん「ヒデキの暴走」が甚だしい場合もありますがw。
571名無し三等兵:2005/11/16(水) 00:27:48 ID:???
それにしても戦前の陸軍がここまでごちゃごちゃしていたとは…。
欧州情勢なんかよりよっぽど複雑怪奇に見えます。
572名無し三等兵:2005/11/16(水) 02:52:19 ID:???
陸軍省や参謀本部のエリートと師団配属の将校などでも確執はあったが、
クーデターで政治的発言力を封じ込められた形にもなった。

本来は皇道派や統制派は陸軍内部の藩閥打倒の動きから生まれたもので、
統制派や皇道派という名称が先入観を生じさせているのかもしれない。
573だつお:2005/11/16(水) 11:58:02 ID:+DJ/Ig9l
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2003&d=1228&f=general_1228_001.shtml
中国:「民間」台頭で憲法改正にも私有財産保護

聞いたか。私有財産を否定して建国されたはずの中華人民共和国が、
こともあろうに私有財産を尊重する憲法を作るだとよ。

笑わせるじゃねぇか。

国民党は全人民から唾棄され、共産党にとって代わられた。
だがそれならそれで、中華人民共和国建国の意義はどうしたのか。

結局、チンピラゴロツキに建国理念なぞ最初からありはしなかった。
それはチンピラゴロツキが沢山湧いてきて、チンピラゴロツキ同士の
熾烈な生存競争の果てに、大爆発を起こしただけのことだ。
574名無し三等兵:2005/11/16(水) 12:53:44 ID:???
>>573
これでチンピラゴロツキな共産中国と日本が米国に比較されるになりました。
575だつお:2005/11/16(水) 21:12:36 ID:+DJ/Ig9l
チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ
チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ
チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ
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チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ
チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ

チンピラゴロツキでない中国人なんて存在するのか?
576名無し三等兵:2005/11/16(水) 21:17:45 ID:???
ゴキブリの性格なんてよくわかんないから、皆チンピラゴロツキでいいよ
577名無し三等兵:2005/11/16(水) 23:07:45 ID:???
中国は共産主義から脱却する方向を最近かなり模索している雰囲気があるからね。
党の名前も変わるかもしれない。

ただ資本主義の発展に民主主義は不可欠なんだよね。民間資本のための法整備というのは
一党独裁ではなかなか行き届かない面も多いと思うし。まあ、ぼちぼちその流れに沿っている
みたいなので、焦る必要もないのだけど。
578イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/16(水) 23:12:05 ID:deoDgYVf
>>559
>>ヤッパ陸士陸大エーリト教育って、完全な失敗だったのかしらん
>>まともな人材が育たない。

終戦処理内閣の首相となった東久邇宮稔彦王(陸軍大将)と統制派の逸材・今村均(大将)が
残した『陸大教育』についての既述があります。要約すると以下の通り。

まずは、東久邇宮の日記から(1944年12月31日、当時・防衛総司令官)。

「年末に当たり、私は次のような所感を記す。わが陸軍大学教育の欠陥は、陸軍統帥部の
 弱点となっている。

 すなわち、小兵力の戦力で小利口に小策をもてあそぶこと多く、才子的な気の利いた
 人々が、陸軍大学校で優秀な成績を得て、やがて中央部の重要な地位を占めるように
 なったから、大本営の用兵には、大所高所から広く全般を達観し、果敢に全陸軍を
 運用する大戦略的な着眼が全くない」
579名無し三等兵:2005/11/16(水) 23:24:02 ID:???
なんだか今の日本の官僚にも全く当て嵌まるような…
580名無し三等兵:2005/11/16(水) 23:27:38 ID:???
幼年教育駄目ぽ説もあるけどな。
実際、コレやってたの日本とドイツくらいだし。

その結果、莞爾や辻ーんみたいに心底『軍事』や『作戦』しか見れない奴が生まれた。
莞爾なんか総力戦とか言っている割には、外交や経済に関する見識が皆無。
ドイツでは第一次大戦でこの手の連中が国を滅ぼした。ルーデンドルフみたいな奴とか。
581イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/16(水) 23:28:50 ID:deoDgYVf
続いて今村均。出典は、今村が戦後に記した『私記・一軍人六十年の哀歓』より。
かなり長いですよ。
――――――――――――――――――
第3の過誤は(陸大の)教官の選任が、その一部ではあったが、適当を欠いたことだ。

むろん、大部分は知能・人格の高い者が選ばれていたが、歴代幾人かの豪傑肌の気取り屋で
ちょっと他の部分では使いにくい者(例えば、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎、陸軍省
新聞班員・満井佐吉、漢口駐在武官・長勇など)を陸大に敬遠するような人事が行なわれ、
これらの教官は、幕僚には欠いてはならない司令部と軍隊との精神的連携に必要な礼儀とか
疎漏のない緻密な計画とかを軽視して「大功は細僅を顧みず」式の放漫な気分を発揮した。

そして遺憾なことに血気旺んな青年学生は、ややもすれば、このような少数教官に引きつけられる
傾きが見られた。かような陸大教育を卒業したもので「中央三官衙の幕僚」を充足せしめた結果、
もちろん一部の者であったが、海外軍司令部幕僚と気脈を通じ、不覊の策動を試みて、軍と国家を
煩わし、いわゆる「中堅幕僚の専行」とか「下克上」とかの非難を世に叫ばしめるようなことにした。
582名無し三等兵:2005/11/16(水) 23:32:09 ID:LyKnCT6L
中国最新鋭の戦車!これはすごい!!
http://006.gamushara.net/asia/data/417614028.jpg
583イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/16(水) 23:45:01 ID:deoDgYVf
思いついた事をズラズラと書きますと、以下の通り。

海軍と比べて「全人格教育」を行なっていない。陸軍人がそうした素養を
身に付けようとすると、永田鉄山や武藤章のように、独学自習しなければ
ならない。そうしないと、ひたすら『作戦』ばかり学んでいることに。

結局、育つのは『戦略家』ではなく『作戦家』ばかりです。

永田は無類の読書家で、毎月の俸給の半分は、丸善への書籍代で消えています。永田の次に
丸善への支払いが多い軍人は、2.26事件で殺された渡辺錠太郎です。海軍の及川古志郎と
どちらが多いかは分かりませんがw。

そして作戦家ばかりですと、全体の統帥まで考えずに、目先の手柄が欲しくて南京進撃(1937年)や
大混乱を引き起こした北部仏印進駐(1940年)といった独断専行を繰り返すことになります。
584名無し三等兵:2005/11/16(水) 23:50:48 ID:???
陸大の教育が、大隊長を養成する教育であり、大隊レベルの戦術に優れた将校が良い成績を取り
将来の将官になるってのはよく指摘されていると思う。

結局メッケル少佐が悪いのや!! と思うのは間違いでしょうか
585イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 00:03:40 ID:deoDgYVf
意外と知られていませんが、武藤章も幼少の頃から「相当な読書家」です。

武藤が、良い意味でも悪い意味でも、『政治的軍人』として辣腕を振るう事ができたのは
陸大時代に「政治・経済・文化」の書物を読んでいた教養からです。このお陰で、他省庁の
官僚との交渉もスムーズに出来たのです。ちなみに少年の頃は、文学青年だったとか。

スガモ・プリズンで書かれた、武藤の手記にはこうあります。

「私の少青年時代の文学・思想・哲学などの耽読癖は、今では読書の内容が
 違ってきたが、なお持ちこされている。私が軍人として、その後いろいろな
 仕事に従ったが、常に非常識に陥らずに一応の条理を立てた良識を持ちうるのは、
 少し自惚れかも知れぬが、このためだと思っている」

軍人の中には、あまりに知識が偏っているため(作戦オンリー)、文官との会話が
成立しない人間もいたのです。ヒデキも少し怪しいでしょうw。
586イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 00:24:22 ID:niKdqnxe
>>584
>>陸大の教育が、大隊長を養成する教育であり、

非常に分かりやすい表現ですね。『陸大=大隊長:養成機関』

小畑敏四郎は、永田鉄山が軍務局長になってからは、陸大校長として
ひたすら作戦研究に己の全精魂を打ち込みます。

しかし「作戦の鬼」と異名を取った小畑ですが、所詮は『作戦』止まり
だったのかもしれません。

>>結局メッケル少佐が悪いのや!! と思うのは間違いでしょうか

メッケル少佐の時代から進歩がない日本が悪いと思いますw。
587名無し三等兵:2005/11/17(木) 00:34:10 ID:???
大戦期に重要な役職を占めた連中が、師団長なり連隊長の頃の評判は良くても、
昇進して現場を離れると人が変わったように基地外化するのはその為か…
ヒデキやカンジも現場にいる頃はけっこう評判は良かったし。
588イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 00:52:12 ID:niKdqnxe
結局、

「今ならゴールが奪える!」

という時に、蹴るのを我慢できないのが「作戦家」です。

少し言葉を置き換えてみまして、

「今なら占領できる!」「今なら撃沈できる!」「今なら奇襲できる!」「今なら手柄が立てられる!」

としたらどうでしょうか?

たとえ「今なら勝てる!」という時でも、全体の統帥や戦略を考えたら、涙を呑んで我慢しなければ
ならない時はありますよね。
589イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 01:02:18 ID:???
>>大所高所から広く全般を達観し、果敢に全陸軍を運用する大戦略的な着眼が全くない

将官や幕僚ばかりだったのが、帝国陸軍の実態かもしれませんw。

ただ一言だけ弁護すると、

「いま攻めなければ敵兵力が増強されて、部下の流す血が増えるばかり」

と焦燥して独断専行を行なった面があったかもしれません。

部下思いの指揮官こそ、この思いは強かったのではないでしょうか。

少し好意的に見過ぎですかねw。
590名無し三等兵:2005/11/17(木) 04:07:03 ID:???
体育会系というかガテン系というか。<陸軍
591名無し三等兵:2005/11/17(木) 20:43:12 ID:gCLg7ImO
あまりにもスレタイと異なる話で心苦しいですが

陸大は大隊長養成機関ではなく参謀養成機関です。私はそれはそれでよかったと思います。
問題は、陸大が他の実施学校にはるかに超越した存在となり、その卒業生が極端に
重用された人事制度にあったと思います。
メッケル流の弊風に関しては、総研所長などを務めた飯村穣中将が著書で指摘しておられます。
曰く、白を黒と言いくるめる議論達者な者が、意思強固なりと評価されると。
陸大もその点を改善する努力はしてます。専攻学生の設立がそれです。
機密日露戦史として今に残る谷寿夫大佐の日露戦史の講義は、この専攻学生の一期生に
対して為されたものです。しかしこの制度は、満州事変の翌年にはなくなりました。
また中少尉の頃、陸大に入り損ねた人たちを対象にした専科学生も専攻学生の廃止と
入れ替わりに設立されましたが、これも正規の卒業生と較べると継子扱いでした。
硫黄島の栗林中将などは、自身が陸大恩賜だったこともあり、専科が馬鹿に見えて
しょうがなかったらしく、ある専科の参謀など「閣下は我々を馬鹿にしてる」と憤慨してたそうです。

攻撃第一主義の陸軍に見敵必滅の海軍。そこに戦争指導の観念はありません。
具体的な戦争終結案も待たずに戦争に突入したのも無理は無いです。

それから、辻のような百万人に一人の特異な人間を持ち出して陸軍を語るのは不適当です。
後世から陸軍を見ると、人材は十分にいます。しかしそれらを十分に使いきれたとは
言えません。それは硬直した人事制度のせいでもありますし、偏狭な小人が人事権を
握っていたせいでもあります。
592名無し三等兵:2005/11/17(木) 21:12:26 ID:???
>陸大は大隊長養成機関ではなく参謀養成機関です。私はそれはそれでよかったと思います。

そうかな? ひたすら戦術の勉強ばかりしていたわけで
幅広い視野をもったジェネラリストである参謀の養成の役には立たないと思うが
”作戦参謀”と”大隊長”養成機関とでも言えば、陸大の現実に合うと思う。
593名無し三等兵:2005/11/17(木) 21:42:46 ID:gCLg7ImO
戦術単位として大隊を例としてあげておられるのか、大隊(長)そのものに拘っておられるのか
図りかねますが、前者なら私も同意見です。陸大が力を入れたのは、戦史、戦術、参謀要務であり、
その教育法は、想定法でした。基本的には図上ですが、第三学年には戦史旅行、
参謀演習旅行がありました。そのほか、自分と違う兵科の隊付もありました。これに関しては
石原莞爾が砲兵聯隊に隊付したときの面白い逸話が残っていますね。

それから少将のときにも、中将候補をあつめた演習旅行がありました。これでいい成績を
残し、要職に抜擢された例としては、桑木崇明中将が挙げられます。しかし彼は、
典型的な学者型だったみたいで、参本第一部長に抜擢されたものの1年持たず解任されてます。
594名無し三等兵:2005/11/17(木) 21:54:09 ID:???
辻正信とか花谷正とか、百万人に一人の人間を輩出する陸軍大学は、
すごい教育機関かもしれないな(笑)。

まあ陸大行かなくても相沢中佐の例もありますし、
全人格教育という点では幼年学校に問題があったのではないでしょうかね。
自我形成期に、閉鎖的な職業軍人の価値観浸けにされるわけでして。

もっとも、考えてみると昭和初年の青年将校、とりわけ中学から士官学校
に入った人たちは、大正文化の洗礼を受けているのですね。
595名無し三等兵:2005/11/17(木) 22:09:56 ID:gCLg7ImO
幼年学校の弊害としては、幼年学校卒同士で固まり、他を排斥する傾向が強かった
ことと、体が出来上がってないときに過重な運動をさせることで体を壊す子が多かった
ことがあげられます。しかしこれらは、地方幼年学校設立以降、つまり陸士15期以降の
話です。大正9年に制度が改正され、従来の地幼がただの幼年学校、中幼が陸士予科と
なりましたが、一度出来上がった弊風は最後まで無くならなかったようです。
596名無し三等兵:2005/11/17(木) 22:16:38 ID:???
>>593
戦術単位としての大隊長が、一番戦術家を必要とするからね
連隊長や師団長となると戦略をも考える必要があるし、小・中隊長だと戦術よりも戦闘に集中しなければ
ならないから。

師団長が目先の戦闘とか奇襲とかばかりやっていては失格だ
日本陸軍は悲しいことに、大戦略・戦略に優れた軍人の教育を怠る弊害があった
日本軍を評価する言に、高級将校になればなるほど無能になると言ったのはジューコフ元帥かな。
597名無し三等兵:2005/11/17(木) 22:22:18 ID:/34zBwgT
日本軍の将校が南京虐殺の責任を問われて死刑の判決

 谷寿夫(ひさお)・元中将・第6師団長
「機密日露戦史」の著者として知られる兵学者。

第6師団は南京城南方からの攻撃を受け持ち、城内一番乗りを果たしたが、
主に入城後の城内掃討戦における、虐殺・強姦等について責任を問われた。
いわば南京虐殺事件の主犯としてスケープゴートにされ、1947.3.
12日死刑判決が下され、4.26日執行される)。
1947.3.12日死刑判決が下され、後刻執行される

1946.12.31日の起訴状を見ると、谷は1937.12.13日から
21日に至る不法殺人122件、被害者数334名、強姦例43名などに対す
る責任を追及されている。
法廷は、400名以上の被害者・目撃者を出して証言させたが、多くは第6師団
が城外の雨花台を経て南京城南側の中華門に突入、城内掃蕩戦に入った段階で起
きたものとされた。

谷中将自身は、第6師団の関与を否定し、「南近大虐殺は中華門付近においては、
絶対に無かりしことを天地神明に誓い断言す」と抗弁している。
「被告の聞知するところにては、南京大虐殺は、中島部隊(第16師団)の属せる
南京攻略軍の主力方面の出来事」と述べ、「南京大虐殺」の存在自体は認めている
(南京事件 秦郁彦 中公新書 p48)。
598名無し三等兵:2005/11/17(木) 22:28:12 ID:???
599名無し三等兵:2005/11/17(木) 22:55:03 ID:gCLg7ImO
仮に優れた戦略家がいたとしても、それを遂行するには強力なリーダーが不可欠です。
しかし日本の機構は強力なリーダーが存在し得るようにはなってませんでした。
統合参謀本部とは言いません。せめて大正年間のうちに戦時大本営条例だけでも改正して、
陸海軍統一の幕僚長を設置しておけば・・・
今の憲法問題にしてもそうですど、尻に火が着かんとわからんのは、困ったものですな。
日本人だけの特性ではないとは思いますが。
600イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 23:06:04 ID:Ki6Wpr37
>>580 >>幼年教育駄目ぽ説もあるけどな。

外国語教育もあるかもしれません。ちなみに幼年学校では「ドイツ語」「フランス語」「ロシア語」
3ヵ国語からの選択です。士官学校からは、これに「英語」「中国語」の2つが加わります。

当然、中学校出身者は「英語」「中国語」を選択する事が多かったです。他の3ヵ国語では
幼年学校出に対して、明らかに不利ですからね。前者なら、同じスタートラインに立てますから
ハンデがありません。

肩身が狭い中学出身者に「英語閥」が集まるので、余計に陸軍の中で英米を軽んずる
風潮が強くなったのかもしれません。

これを解決するには、幼年学校も5ヵ国語からの選択制すれば良かったのですが、
あまり必要性が感じられなかったのでしょう。実現することはありませんでした。

上記でも分るとおり、いわゆる「支那通」には中学出身者が多かったのも事実です。
601名無し三等兵:2005/11/17(木) 23:13:07 ID:???
参謀本部作戦畑の連中が幼年学校閥で固められていたのも有名でしょ
国家の中枢部の連中が、学閥だのなんだの女性的な思考しているのは悲しいねえ
602イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 23:22:53 ID:Ki6Wpr37
それにしても、>>581 の『今村均の文章』は読み辛いと思います。
まず一文が長い。歯切れが悪い。読みやすい文章というのは、そのまま
『演説の原稿』に使えるものです。いわゆる「声に出して読みたい日本語」ですね。

兵頭軍師が「母国語の徹底的なトレーニング」こそ、国力の増強につながると
喝破されていますが、意外と当たっているのかもしれません。

著作『パールハーバーの真実』の後書きでは、南雲忠一中将の玉砕を伝える
電文を取り上げています。

本来なら、「must(〜しなければならない)」の用法で使わなければならない
『すべからく』を、南雲の電文では「all(すべて)」の意味合いで使っているのです。
正しくは、「すべからく〜すべし」です。

軍人の「文章力」も、偏った教育のせいで疎かになっていたのかもしれません。
南雲さんは海軍ですが、ヒデキの『東條英機宣誓供述書』も相当読み辛いですw。
603イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 23:42:32 ID:Ki6Wpr37
総じて軍人の文章というのは、読む人のことを考えない、独りよがりの
ものが多いと思うのは自分だけでしょうか? もちろん、その例外にあたる
「美文・名文」の類は幾らでも挙げられますが。

例えば、太田実少将の「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別のご高配を
賜らんことを」は有名ですし、

栗林忠道中将の「戦局最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は
真に鬼神を哭かしむるものあり」の後段は、本のコピーにぜひ使いたい美文です。

また、磯部浅一の「余は云わん。全日本の窮乏国民は神に祈れ。而して自ら神たれ
神となりて天命を受けよ。天命を奉じて暴徒と化せ。武器は暴動なり殺人なり放火なり」
はデマゴーグの最たる名文です。

自分がいちばん好きなものは、ヒデキの時世の句
「われ往くも またこの土地に帰りこむ 国に報ゆることの足らねば」ですね。
604名無し三等兵:2005/11/17(木) 23:44:08 ID:???
そういえば将官の方の日記の類を読んでいると
誤字が思いのほか多いのに驚きますね。
私は海軍の方に興味があるので
山本五十六大将の書簡や宇垣纏中将の戦藻録などはその最たるものかと思います。
605イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 23:50:10 ID:Ki6Wpr37
ところで今日、書店で12月の「文庫新刊一覧表」を眺めていたら、
兵頭軍師の『パールハーバーの真実』が月初に文庫化されるみたいですね。
今秋の新刊に引き続いてPHPのようです。

これで軍師も年が越せますね。神よ軍師に仕事を与えよw。
606通りすがり:2005/11/17(木) 23:52:15 ID:???
ヒデキの辞世に泣いた。名文ノートに加えときます。
607イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/17(木) 23:53:47 ID:Ki6Wpr37
>>604

まあ、『昭和天皇独白録』にも誤字はありますけどね。まとめたのは
外交官出身の寺崎英成ですが。

誤字脱字より、文体がおかしい(読み辛い)方が致命的ですw。
608イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/18(金) 00:09:50 ID:tDkTFNXn
>>575
>>チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ チンピラゴロツキ

自分も支那人を『土人』『土人軍』『土人兵』と三段活用し、電波を飛ばしているなどと
時折お叱りを受けていますが、最近このスレでお勧めの図書にのぼった『日本陸軍と中国』
(戸部良一著)を読んでビックリしました。これは名著ですね。大当たりです。
自分の「シード(タネ本)」に認定されましたw。

おそらく、このスレでも引用なり要約なりで多用させて頂くことになるでしょう。
紹介してくださった方、まことにありがとうございます。自分もバーターとして
推薦図書を後ほど挙げたいと思います。

何が凄いって今日読んでいて、「支那通」軍人の佐々木到一による支那兵評が凄すぎますw。
抜粋・要約すると以下の通り。
609イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/18(金) 00:18:38 ID:tDkTFNXn
●支那の兵は、社会の落伍者を集めたものである。

●こうまで堕落し切った乞食、悪漢、博徒、すりの群れを軍隊の名によって
 呼ぶことは、余りにもったいない気がする。

●私欲を軍紀に代えて、辛うじて団結と統制を維持する戦争苦力(クーリー)の烏合集団。

●戦陣の間に身命を賭せしめるものは、軍紀ではない。一にも銭、二にも銭である。

●掠奪、強姦は支那軍とは不可分の関係にある。

●支那軍は、改造されねばならぬ。支那国家のためにも、人民のためにも、軍隊それ自体
 のためにも、改造されねばならぬ。野獣の集団から人類の集団に変わらねばならぬ。
 私利私欲の集団から、国家にまで改造されねばならぬ。

もっと凄いのが次ですw。
610イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/18(金) 00:29:22 ID:tDkTFNXn
>>609 の続き。以下は、凄すぎますw。
――――――――――――――――――
現状をもってすれば、支那の将来は亡国あるのみである。腐敗せるものは
軍閥に止まらず、支那の全社会にわたり滔々として皆腐敗しておるのである。

支那統一は不可能であるか? しかり近く統一を予期することはできない。

ただ望むところは、支那人の腐敗である。腐敗作用はこれを促進すべし。
腐敗の促進と共に浄化作用は有効となる。

腐れ! 蛆虫の湧くまで腐れ!

支那の運命は、腐敗の極点にまで達すべきものである。臭気紛々たる腐敗の裡より、
何者か現れざれば支那は滅亡のみ。
61132:2005/11/18(金) 00:33:04 ID:???
>>608
佐々木到一少将の回想はたまに古本屋で見ますが、
戸部さんが引用していなかったところを含めてものすごいです。
機会があれば入手されることをおすすめします。
孫文への共感と私淑を含めて痛々しいほどです。

しかし、中山服を発明したのは、本当に佐々木だったのだろうか?

364さんが紹介している2冊に加えて、「逆説の軍隊」も本スレの話題にかなり関連します。
月報が村上兵衛氏と戸部良一氏の対談で、
本スレでくわしい方が書いておられた幼年学校の教育にふれています。

ただ、村上氏の当時の教育は、生徒をきわめて大切にした、合理的なものとのことで、
ほかの幼年学校卒業者の所感と似ていますね。

それが大戦突入とともに変化してしまったとのことで、595、602のような事情は、
どうも時期、学校によってかなりの差があったようです。
612イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/18(金) 00:59:12 ID:tDkTFNXn
>>野獣の集団から人類の集団に変わらねばならぬ。

これがツボに来ました。「チンピラゴロツキ」「土人」の蔑称が
『屁』のように思えてきます。人間扱いしていませんからねw。

>>610 を読んでいると、あまりの激情に圧倒されます。佐々木少将は別格としても、
戦前の軍人の「感情の激しさ」には、驚かされることがしばしばです。

自分などは『クール』を自称して、単なる「無気力・無感動・怠惰」な性格ですから
嫌味でも何でもなく、本気で戦前の人間の「感情量」を羨ましいと思います。

路上やプラットホーム、電車内で「うんこ座り」している現代人と比べると、
同じ日本人とはとても思えませんw。
613イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/18(金) 01:08:24 ID:???
>>591
>>曰く、白を黒と言いくるめる議論達者な者が、意思強固なりと評価されると。

もうダメぽ…w。それは、戦場や任務で最後まで諦めないのとは全然違いますよね。

>>硫黄島の栗林中将などは、自身が陸大恩賜だったこともあり、専科が馬鹿に見えて
>>しょうがなかったらしく、

あれですかね? 東大を出ている人は、早稲田・慶応が馬鹿に見えてしょうがいない、
みたいなものでしょうかw
614名無し三等兵:2005/11/18(金) 08:11:31 ID:???
>>610
しかし、それやって、中共の軍隊を呼び込んだわけで
本望なんですかね。その人は。
615名無し三等兵:2005/11/18(金) 20:54:33 ID:Ux1Jev4c
やっと本筋に戻ったね

佐々木は筆まめな人で、現役時代から支那に関する著作を発表してます。
私は戦後出た「ある軍人の自伝」しか持ってないけですが、これは橋川文三が解説を書いてます。
南京虐殺の責任者でもあり、昭和30年に撫順で死にました。

村上兵衛さんは先年惜しくも亡くなられましたが、元祖支那通の一人柴五郎大将の伝記
「守城の人」や、武藤信義元帥からご自身まで連なる軍人一族を描いた「桜と剣」等の著作が
あります。「桜と剣」は、ご自身の幼年学校、陸士時代のことがかなり詳しく書かれており、
武窓生活とはどういうものだったかの参考になります。

武藤元帥は村上さんのお母さんの叔父さんにあたり、佐賀出身の大物で、宇都宮太郎の
後継者。真崎や荒木の親玉でしたが、派閥臭、政治性の薄い人でした。元帥は現職のまま
新京で亡くなり、その遺骸は副官の辰巳栄一(佐賀出身)に付き添われて帰国しました。
それを東京駅で迎えた牟田口廉也中佐は、目を真っ赤にして「大黒柱を失った陸軍は
これから割れてうるさくなるぞ」と、辰巳少佐に言ったそうです。この予言は的中しました。

ちなみの佐賀グループで武藤元帥に次ぐ大物は村岡長太郎中将でしたが、彼は張作霖
爆殺事件で予備役に入れられました。この事件について佐々木は前述の本で、
「予の献策に基づいて、河本大佐が画策し、在北京歩兵隊副官下永憲次大尉が列車編制
の詳細を密電し、在奉天独立守備隊中隊長東宮鉄男大尉が電気点火器のキイを叩いた
のである」と書いています。
616イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/19(土) 00:04:05 ID:6vw5aybQ
この世の中は「ギブ・アンド・テイク」です。 >>608 で述べたように、
推薦図書を挙げさせていただきます。自分の『シード』(種本)の1つですw。

『新版 昭和陸軍派閥抗争史 101人の政治的軍人』(今西英造著・伝統と現代社刊)

『日本陸軍と中国』が神話の時代の「支那通」を分かりやすく解説しているように、本書は
帝国陸軍の派閥の「最初期」を追った良本です。

それこそ『最初の陸軍大将』近衛都督・西郷隆盛(薩摩)から話が始まっています。

奥付が1983年3月(定価1600円)ですから、とっくの昔に絶版でしょう。
古書にはとんと疎いので「入手難易度」はどの程度かは分かりませんが、ちなみに
自分は文華堂で以前入手しました。

そうですね。そろそろスレの趣旨に戻りますか。少し前に帝国陸軍の話の方が為になるとの
書き込みがありましたので、しばらく脱線しておりましたw。
617イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/19(土) 00:51:54 ID:6vw5aybQ
武藤信義大将(佐賀)は、宇垣一成(長州)と上原勇作(薩摩)による
『代理戦争』の当事者ですね。相手は、金谷範三(大分)でしたが。

アメリカとソ連の「代理戦争」と考えてもらえばいいでしょうw。

すなわち1930年に、参謀総長の鈴木荘六大将が65歳で定年退職するにあたり、
後任の参謀総長を、武藤信義教育総監と金谷範三大将(軍事参議官)が争った訳です。

本人たちが争ったというよりも、むしろ裏で手を引く宇垣(→金谷)と上原(→武藤)が
自分たちの影響力を保持するために暗闘を繰り広げたのです。

金谷は佐賀出身ですが、長州閥に忠誠を尽くしていたお陰で抜擢されることになりました。
武藤は大分出身ですが、上原元帥(薩摩)が長州閥に対抗するためにパトロンとなっていました。

結果は、宇垣がバックに付く金谷範三が勝利して、参謀総長に就任するのですが、書いていて
自分でも訳が分からなくなりますw。とりあえず、『佐賀と大分は敵対関係』と覚えておきましょうw。
618イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/19(土) 01:48:13 ID:RydtG1BN
>>この事件について佐々木は前述の本で、「予の献策に基づいて、河本大佐が画策し、

佐々木は、張作霖率いる「北軍」が、蒋介石の国民党軍(南軍)に敗れると予測し、
「(その)機会に一挙作霖を屠って、世を学良一派の似非新人的雷同分子にゆずらしめ、
 しかる後彼の腕をねじ上げて、一気呵成に満州問題を解決せんことを勧告した」

と語っています。佐々木は、たびたび河本大作大佐に書簡を送り、特別の暗号を組んだ
密電が南京と旅順の間を往復していたと主張しますが、真相は闇の中です。

この満州某重大事件は、偽装が本当に『お粗末』なもので、日本は国際的な非難を浴びる
ことになりますが、詳細は後述します。結果だけ聞くと、馬鹿らしくなります。工作した
本人たちは必死だったのでしょうがw。

佐賀の村岡長太郎中将(関東軍司令官)ですが、事件の発案者は彼ではないのでしょうかね。
当時の田中義一内閣の海軍大臣・岡田啓介は、「河本は最初反対したが、のちに自分が全責任を
負って決行した」と指摘しています。もちろん、関東軍参謀長の斉藤恒少将も一枚噛んでいます。
619イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/19(土) 02:04:33 ID:RydtG1BN
『張作霖爆殺事件(満州某重大事件:1928年)』の真相について、

張作霖の軍事顧問だった「町野武馬大佐」は、1961年に国立国会図書館が
録音した述懐のなかで、次のように話しています。

この録音は『30年間は非公開』の条件のもとで行なわれたもので、1991年6月1日に
ようやく公開されました。町野自身は、1968年に92歳で亡くなっています。町野曰く、

「張作霖が欧米に接近し、日本に冷たくなったので殺したという関東軍首脳の説はウソだ。
 
 張作霖は欧米だけでなく、日本も嫌いだ。けれども、わが国を本当に攻め得るものは
 日本だけだ。だから日本とは手を握らにゃならないのだ、とよく言っていた。

 関東軍首脳は、張を殺さないと満州は天下泰平になり、日本では軍縮が激しくなる。
 軍人が階級を昇りぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。
 そして張作霖を殺した。それは『斉藤恒(関東軍参謀長)の案』なんだ」と答えています。
620イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/19(土) 02:52:59 ID:RydtG1BN
「近現代史」を調べていても、誰が本当のことを言っているのか、戸惑うことがしきりです。

例えば、このスレでも詳述しましたが、『第二次南京事件(1927年)』(←第一次と既述
していましたが、第二次に直します)を1つ取っても、

「強姦はあった」と書いている新聞記者の本もあれば、「それに近い身体検査はあったが
話に尾ひれが付いただけだ」とする大学教授の本もあります。

当然、どちらかが本当で、どちらかが嘘あるいは間違っている訳ですが、現場にいなかった
自分達には真相を知る術がありません。もちろん、当時の人間とて同じだったでしょう。

かなり昔のドラマ『Xファイル』は良いことを言っています。

『TRUST NO ONE』=誰も信じるな。 同時にこうも言っています。

『THE TRUTH IS OUT THERE』=真実はそこにある。 たまにモルダー捜査官を思い出しますw。
621名無し三等兵:2005/11/19(土) 03:51:38 ID:???

 強姦 に 近い 身体検査 。。。 ハァハェァ
622名無し三等兵:2005/11/19(土) 07:26:18 ID:???
>>621
女性にしかない穴まで捜索したってことかな?
>強姦に近い身体検査
それとも裸にした(が挿入は無し)とか
623名無し三等兵:2005/11/19(土) 15:45:04 ID:???
あれだろ。日本占領後に米軍がやったやつ。
性病検査とか何とか言って。
624名無し三等兵:2005/11/19(土) 15:50:48 ID:???
…という風に、ここだけでも見解がバラバラですな。
625イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/19(土) 22:09:22 ID:uxiwFaBI
新聞記者の既述を抜粋すると、以下の通り(>>620)。

「暴兵と暴徒はなおも荒れ狂い、日本人は領事館員、居留民の別なく、全員衣服を
 はぎ取られ、パンツまで取られた。そして財布、腕時計、指輪から眼鏡まで所持品
 全部を奪われて、文字どおり丸裸にされた。

 とくにひどい目に遭ったのは日本人女性であった。足袋やストッキングから下着まで
 はぎ取られた。そして、全裸の女性たちは言語に絶する集団レイプの被害に遭わされた。
 50人にあまった日本人の子供たちも、すべて裸体にされて着衣から靴や玩具まで奪われた」

>>女性にしかない穴まで捜索したってことかな?

「オラッ! この穴に金品を入れて隠してんだろッ? 奥まで広げて見せてみろよッ!
 待てコラ、まだ終わってねーぞ。後ろの穴ぼこが済んでねーだろがッ!」

こんな感じですかね?w 
626イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/19(土) 22:55:34 ID:uxiwFaBI
>>614
>>しかし、それやって、中共の軍隊を呼び込んだわけで

中共軍は早晩、蒋介石によって始末されると帝国陸軍は判断した訳で、その存在を
重視していませんでした。これは佐々木中将に限ったことではありません。むしろ
佐々木中将は、海の物とも山の物とも知れない「勃興期の国民党」に注目していた
稀有な存在です。

帝国陸軍の第一の仮想的は、あくまでソ連赤軍であり、第二は蒋介石率いる
国民党の最精鋭「中央正規軍」です。中共軍などは、アウトオブ眼中でした。

支那通の軍人は数多くいますが、共産軍の諜報専従者のような存在はいません。

唯一、中村常雄(済南生まれ・青島中学校卒業)という特務機関員が、河南・陝西・綏遠・
チャハル・など中国7省を股にかけた諜報専従員で、「中共軍研究の最高権威」だった
そうです。当然、士官学校での正規の軍人ではありません。いわんや陸大も出ていませんw。
627名無し三等兵:2005/11/19(土) 22:58:19 ID:2yJgL1WV
佐々木が聞いた南京事件の噂
「領事が神経痛のため、病臥中をかばう夫人を良人の前で裸体にし、薪炭庫に連行して
二十七人が輪姦したとか。三十数名の婦女は少女にいたるまで陵辱せられ、げんにわが
駆逐艦に収容せられて治療を受けたものが十数名もいる。根本少佐が臀部を銃剣で突かれ
官邸の二階から庭上に飛び降りた。警察署長が射撃されて瀕死の重傷を負うた。
抵抗を禁じられた水兵が切歯扼腕してこの惨状に目を被うていなければならなかった、等々」

根本少佐の件と署長が撃たれたのは本当ですが、他は尾鰭がついてるんじゃないかと
思います。今の日本人ならともかく当時の日本男児が、いくら命令を受けてたとはいえ、
目の前で茲までのことが起きて黙ってるとは思えませんし、根本少佐もその後、順調に
出世してますし。
しかしこの後起った済南事件では、掛け値なし?の虐殺が起ってます。佐々木自身、
手違いから南軍に捕まりボコボコにされて、すっかり支那に絶望してます。

>>619
一口に支那通といっても、軍閥顧問と関東軍参謀や公館附武官とは犬猿の仲でした。
「臭いと思った町野は塘沽で下車、律義者の儀我だけは共に遭難して辛うじて命を助かってる」
これは張作霖爆殺事件に関する佐々木の著述。佐々木は特に、この軍閥顧問を毛嫌い
してました。
628名無し三等兵:2005/11/19(土) 23:02:33 ID:???
>>626
その蒋介石軍を重慶に追い込んで共産軍に生き延びる道を与えた帝国陸軍もなんだかなぁ。
629名無し三等兵:2005/11/19(土) 23:06:18 ID:???
>>626
>帝国陸軍の第一の仮想的は、あくまでソ連赤軍であり、第二は蒋介石率いる
>国民党の最精鋭「中央正規軍」です。中共軍などは、アウトオブ眼中でした。

当時の世界中の共産主義政党はソ連のコミンテルに属す下部機関だから中共とソ連はもろ同胞だが?
無論、日本共産党も当時はコミンテルの下部組織だから酷い弾圧を受けた。
630名無し三等兵:2005/11/19(土) 23:51:28 ID:2yJgL1WV
済南事件は昭和3年5月、第二次山東出兵によって惹き起こされました。
まず賀耀祖の第四十軍と日本の第六師団が3日に軽く激突。
革命軍との調停を頼まれた佐々木は一旦断りますが、そばにいた酒井隆少佐
(後中将、死刑)が「そんなら僕が行きましょう」と言って自動車に足をかけたので、
(これはあぶない、酒井を殺しては俺の武士道が立たぬ)と思い、「よし、俺が行く」と
支那の一少佐を連れて自動車に乗りました。ところが総司令部に着く前に、楊虎城の
部隊に止められ、日本人ということがばれると、縛り上げられボコボコにされてしまいます。
一緒にいた支那の副官が「この人は総司令の貴賓だ」と叫んでも、その広東語は暴兵達には
理解できませんでした。結局顔見知りの軍長に助けられますが、かなりの怪我を負って
しまいます。

佐々木が災難にあってる一方で、13人の居留民が虐殺されるという事件が起ります。
虐殺された居留民は、政府の引き揚げ命令を無視した、モヒ、ヘロインの密売人関係であり、
虐殺は土民の手によってなされた節が多かったのですが、その殺害方法のあまりの酷さに
我が軍民は激昂し、5月8日遂に本格的な武力衝突が起るのです。

以下は佐々木が実際に見た遺体の様子
「手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、
婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼残りの白足袋姿で日本婦人たることがわかったような始末である」

しかし蒋介石は、この衝突をうまく利用し、北伐を続行しました。後に佐々木が南京で
熊式輝に会ったとき、「済南事件のお蔭で北伐が完成したではないか」と言うと、
熊は二言なくそれを肯定したとか。これは、元来支那の軍隊は、一旦都会に入ると腰を落ち着けて
しまい、中々動かないのですが、この度は日本軍がうまい具合に追い立ててくれたので、
行軍がスムーズにいったという意味なのです。
631イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 00:11:08 ID:VHhxH/mN
>>今の日本人ならともかく当時の日本男児が、いくら命令を受けてたとはいえ、
>>目の前で茲までのことが起きて黙ってるとは思えませんし、

南京領事館にいた警備は、荒木大尉以下10人の陸戦隊と領事館警察の数名です。

日本人居留民が約100人いましたが、男女の割合は不明です。半分以上が
子供でしたので、大人の『日本男児』は20〜30人程度でしょう。

そこに南軍の武装兵が最初に50〜60人、続いて二百数十人、とどめに土人の群集が数百人
乱入してきました。数百人というのが曖昧ですが、仮に200人程度としておきましょう。

合計500人程度にはなる訳で、真っ先に『文字通り』丸裸にされたことを考えると、
日本男児といえども抵抗は難しいのではないでしょうか。仮に反抗しても大勢に半殺しにされて
縛り上げられるのがオチかと。実際にそうだったかもしれませんがw。

自分の事務所に500人ぐらい土人が襲ってきたらどうするか、想像してみましょう。
632名無し三等兵:2005/11/20(日) 00:21:53 ID:???
>>630
>まず賀耀祖の第四十軍と日本の第六師団が3日に軽く激突。

日本軍は済南に5月2日に第六師団の六個大隊を派遣している。
南軍の蒋介石総司令は師団長に治安維持は自らあたるので防備の撤廃を要請するが受け入れられず。
そして、両軍は近くに相接して宿営し、三日に小部隊での戦闘があり、市街戦へとエスカレートする。
居留民が惨殺されたのは衝突が始まった三日のことである。

>しかし蒋介石は、この衝突をうまく利用し、北伐を続行しました。

蒋介石の北伐は優勢な兵力で順調に進んでおり、済南事件が始まる前に北方軍は押されていると思うのだが?
どちらかと言うと、済南で日本軍との戦闘を避けて4万軍を北伐に進めたと思うのだが?
どう利用したのか教えて欲しい。
633イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 00:25:10 ID:VHhxH/mN
ちなみに『南京事件警備記録』の記述は、要約すると以下の通り。

「婦女子に対しては、幾度となく忍ぶべからざる「身体検査」を強要し
 まさに陵辱に及ばんとしたる者さえあり、あるいは男子を罵詈乱打するなど
 暴行言語に堪えず、居合わせたる官民はいずれも極力婦女子の安全に努めたり。

 しかれども支那兵の暴力は停止するところなく、自動車庫よりガソリンを持ち出し
 当館に放火し一同を焼き殺さんと放言する至りたるを以って、在留官民一同は本館
 裏空き地に集まり何れも死を覚悟す」

こちらでは陵辱はなかったとあります。しかし疑い始めれば、警備記録に
「婦女子は陵辱されていました」と正直に書けるはずがないとも邪推できますw。
634名無し三等兵:2005/11/20(日) 00:30:56 ID:???
済南事件では居留民保護の目的で派兵をされたが、相手は一応は独立国である。
そのため、このような派兵は南京事件の反省による日本政府の方針といえども無茶な話である。
結局、この事件を契機に日中両国民の感情的対立が益々悪化したのは言うまでも無い。

とまあ、日中戦争に至る過程での日中間の感情的関係は事あるごとに悪い方向に向かっている。
635名無し三等兵:2005/11/20(日) 00:40:49 ID:fBdFsEka
>>632
> 蒋介石の北伐は優勢な兵力で順調に進んでおり、済南事件が始まる前に北方軍は押されていると思うのだが?
> どちらかと言うと、済南で日本軍との戦闘を避けて4万軍を北伐に進めたと思うのだが?
> どう利用したのか教えて欲しい。

>>630
>これは、元来支那の軍隊は、一旦都会に入ると腰を落ち着けて
> しまい、中々動かないのですが、この度は日本軍がうまい具合に追い立ててくれたので、
> 行軍がスムーズにいったという意味なのです。
636イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 00:47:08 ID:VHhxH/mN
>>630

佐々木到一中佐は、革命軍総司令部に許可をもらって、蒋介石率いる
『南軍に従軍している』ことを指摘して置かないと誤解を招きます。

当然、北伐軍が日本と衝突した際の「連絡役」を期待されたものです。
佐々木にとっては、「北伐軍の実態」をこの目で確認したかったのでしょう。

>>以下は佐々木が実際に見た遺体の様子

外務省の「居留民殺害状況」を補足すると、以下の通り。

「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木の挿込みたるもの、顔面上部を
 切落したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり全身腐乱
 し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの二」などなどw。
637イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 01:18:04 ID:VHhxH/mN
あとアレだぜ。
済南事件の顛末は、蒋介石が『下着姿』で逃げ出す羽目になったことを
書かないと「片手落ち」もいいところです。

この時の『第二次山東出兵』の主力は、熊本第6師団(福田彦助中将)です。

済南城内の警備は、第11旅団(斎藤瀏少将)<第六師団所属>が責任者でしたが、
事件勃発後、青島にいた第6師団の第36旅団も援軍に駆けつけます。

結局、南軍10万は袋叩きにされ、蒋介石総司令は警備部隊が第6師団に
武装解除されたため、軍服を着用する暇もなく「白い下着姿」のまま
済南の南西17キロにある党家荘に逃げ出します。

そこで馮玉祥に出会い全軍の指揮を任せ、やっとの思いで南京に逃げ帰ります。
>>597 が少し触れていますが、蒋介石が第6師団に深い恨みを抱くのは、
この済南事件がきっかけなのです。
638名無し三等兵:2005/11/20(日) 01:22:57 ID:???
>>635
南軍の商埠地区からの撤退合意は4日午前中である。
ただし、第六師団による本格的な南軍の済南付近からの掃討は八日から開始。
これは5日に発見された邦人惨殺に対する軍民の憤りから強硬な態度で挑む事を政府、参謀が決定したから。
しかし、南軍の主力は5日夜に済南から黄河を渡河し北伐を続けた後なので大きな交戦を行ってない。
また、蒋介石は北伐の途中であるため日本軍との衝突は極力回避している。

日本軍が追い立ててと言う話は、挨拶での軽い冗談ではないか?
639イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 03:07:10 ID:iJlhqPl1
>>629
>>当時の世界中の共産主義政党はソ連のコミンテルに属す下部機関だから中共とソ連はもろ同胞だが?
>>無論、日本共産党も当時はコミンテルの下部組織だから酷い弾圧を受けた。

そのコミンテルンの下部組織とやらは、どのぐらい強力な軍事力を持っていたのですかね?

満州事変後のわずかな期間ですが、日支関係が好転した時期があります。1934〜1935年辺りです。
蒋介石が『安内攘外』(外敵に立ち向かうために、まず国内を安定させる)のスローガンを唱え、
「共産党の殲滅」を優先させるよう政策転換したためです。

同時に汪兆銘との合作も実現し、支那は満州国の存在を不問にしたまま、日本との関係改善に
動き始めます。

これを受けて日本も、広田外相が「日華親善」を呼びかけ、1934年に満州国と支那を結ぶ鉄道運行、
郵便、通商を扱う実務協定が締結されました。支那側も排日運動を取り締まり始め、1935年には
日本が「在華公使館」を「大使館」に格上げすることで関係改善はピークを迎えます。
640イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 03:27:15 ID:iJlhqPl1
ちょうど同じ時期の1935年10月20日、毛沢東率いる中国共産党は『長征』を終えて、
陝西省北部の僻地、「呉起」に命からがら辿り着きます。

10万の兵力で江西省の瑞金を出発したのが、僅か7、8千人にまで激減していました。
毛沢東はすぐ東側の「保安」という集落の洞窟にこもりますが、すべての物資が欠乏し
部隊の日常生活すら維持できなくなりますw。

このとき、陝西省の省都・西安には国民党軍の「西北掃匪司令部」(張学良・楊虎城)が、
黄河を挟んだ東の山西省には、山西綏遠主任の「閻錫山軍」が中共軍を包囲しています。

そして何より、南側には「共産軍包囲専門部隊」として蒋介石の子飼いである胡宗南
(第一戦区司令長官)が53個師の大兵力をもって控えていたのです。

中共軍はm文字通り「風前の灯」の状態で、一発逆転の西安事件さえ起こらなければ
もう1年か2年もあれば駆逐殲滅されていたでしょう。
641名無し三等兵:2005/11/20(日) 03:37:52 ID:???
しかし…西安事件って蒋介石にとってそんなに痛手だったんですかね?
日本と泥沼戦するより中共を先につぶす方が、どう考えても楽だったように思えますが。
642イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 03:42:39 ID:iJlhqPl1
当時の「中共軍」などというものは、名目上はコミンテルンの下部組織
だったかもしれませんが、単なる地方のゲリラ組織、どう過大評価しても
従来からあった『軍閥』のワン・オブ・ゼムとしか認識されていなかった
でしょう。

ちなみに1927年4月、中国共産党のアジトが北京のソ連公使館内の兵倉に
あることを張作霖の参謀長だった楊宇霆は察知します。

そこでソ連公使館を軍隊で包囲し、表門を叩き破って押し入り、共産党員や
そのシンパ60人余りを捕らえ、その内の首謀者20人を軍法会議にかけて銃殺します。

その中には、中国共産党の創始者・李大サも含まれています。

当時の張作霖は、蒋介石の北伐を阻止すべく『安国軍』を組織して
総司令官に就任していました。そして北京の紫禁城内に元帥府を
置いていたのです。
643名無し三等兵:2005/11/20(日) 03:42:56 ID:???
>>639
>そのコミンテルンの下部組織とやらは、どのぐらい強力な軍事力を持っていたのですかね?

歴史的にみると蒋介石が全力を注ぐと限りなく弱体する。
しかし、日本軍だけが相手なら勢力を着実に伸ばすぐらいの実力。
ついでに中国戦勝後、数年で蒋介石を台湾に追い落とすぐらいの実力。
日本が連合軍に占領されてる時に朝鮮戦争が起きたが、あの時中共軍が参戦したなんて信じられん。
単純に軍事力だけでは計れないものがあるみたいだから研究して発表よろしく。

>満州事変後のわずかな期間ですが、日支関係が好転した時期があります・・・

中国っていつの時代でも自国の利害と対外関係が直結してるのだな。
見習わねば。
644名無し三等兵:2005/11/20(日) 06:43:22 ID:jvw76C1G
ソ連参戦で逃げ出した関東軍の膨大な武器をソ連が中国共産党に横流ししてから
急に中国共産党は強くなったんだろ

日本撤退後になぜアメリカが中国に共産党政権が誕生するのを黙って見ていたのか
一番良く分からない

645名無し三等兵:2005/11/20(日) 09:14:52 ID:???
>>644
逃げずに日ソ戦やってましたけど?
646イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 11:03:48 ID:L4NYrktD
>>634 >>済南事件では居留民保護の目的で派兵をされたが、相手は一応は独立国である。

まあ、アレです。現代に例えるなら、北朝鮮が韓国に南下してきたとき
「居留民保護」のために自衛隊を出すのか?という話と同じです。

あなたの言い様だと、韓国政府が認めない限り、港か領海外になるのか知りませんが、
「邦人が自力で脱出してくる」のを外で待機していないとダメですね。

当然、日本国政府は「韓国政府は、外国人保護に最大限の努力を払うべきである」と
声明を発するでしょうが、自分はチョンがまったく信用なりませんw。

そして無知な国民は「自衛隊をなぜ救出に出さないのか!」と騒ぐでしょう。
恥知らずなマスコミは、これに確信犯で追随するでしょう。

在韓米軍が完全に撤退すると、やはりマズイでしょう。日本はアメリカの尻馬に
乗って自衛隊を出す可能性が高いですし、国内外的にも一番無難な形です。
647イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 11:07:15 ID:L4NYrktD
あと、当時の支那は「北軍」と「南軍」が激突する内乱状態だったことを忘れずに。

蒋介石が「治安の維持」は南軍に任せてほしい、と言ったところで
信用できるはずがありません。先だってイギリスの漢口・九江の租界は
武力で回収されています。
648名無し三等兵:2005/11/20(日) 11:38:20 ID:???
>>644 米国は対華援助の相当額が蒋介石と夫人の宋美齢によって着服され、米国内に還流している事実をFBIが確認してから蒋介石政権を見捨てる決断をした。
この資金は、主に米国議会へのロビー活動に使用されていたが、その最大の成果は宋美齢の愛人にして共和党のホープたるニクソンを代弁者として議会に送り込むのに成功した事だった。

その後、中共はほぼ独力(ソ連すらロクな援助をしていない)で政権を奪取したが、国外を知らない田舎のインテリたる毛沢東と、広く国外の情勢を知る周恩来との間で、ソ連圏入りするか 米英ソとの等距離外交を目指すかで意見の対立が発生している。
結果は毛沢東の暴走による新疆/満州のソ植民地化を招いてしまったが、中国全土でのソ連の特権的地位を許す事だけは周恩来が阻止する事に成功した。

しかし、ソ連の代理人たる金日成の引き起こした朝鮮戦争により、米国は中国と対決する局面を迎える。

中国の送った義勇軍(中国は見返りとして新疆/満州をソ連から取り戻すのに成功した)により、米国は苦境に立たされるが、中朝国境を越えての軍事行動を自制させた。
この米国政府の方針に業を煮やしたマッカーサー元帥による満州への核攻撃+侵攻による臨時政府樹立(実際の立案に当ったのは旧軍出身の顧問達)計画が、米国政府へ漏れたために元帥は解任されるに到る。
649名無し三等兵:2005/11/20(日) 11:56:12 ID:???
>>643 瑞金ソヴィエト政府への討伐戦で、国民党軍が中共に大して優勢だったのは中共側の戦術ミスに理由があった。

この時、中共はコミンテルンの顧問だったドイツ人のオットー ブラウン(中国名:李徳)の直接指揮下にあり、WW1の野戦と同様な障害物と機銃陣地による防衛作戦だった。

しかし、備蓄弾薬(しかも大半はリサイクルした手製実包だった)の少なさから たちまち苦境に陥り、中共側は瑞金の放棄を決断し大長征(山間部を抜けて西南を経由して華北へ脱出)へ出発し、その途上で信頼を失ったコミンテルンの指揮否定と毛沢東の指導権が確立される。
650名無し三等兵:2005/11/20(日) 12:19:23 ID:???
>>644 華北に辿り付いた中共はボロボロの状態で、装備の大部分を失っており徒手空拳の集団に過ぎなかった。

蒋介石はこれを簡単に片付けられると考えていたが、日本軍の華北侵略という新しい要素が加わったために 督戦に赴いた西安で最も信頼していた(同時に最も日本を憎んでいた)張学良の裏切りに遭い 中共との一時休戦を余儀なくされる。

これで息を吹き返した中共は、自給自足の農業生産により地歩を固め、地主の抹殺と資産の分配によって貧農の支持を集めた。

日本軍の進撃により、間もなく華北一帯から国府軍は一掃されてしまう。
しかし、都市と鉄道/自動車道路しか制圧しきれなかった日本軍は、中共の勢力範囲である広大な後背地を抑える事は出来なかったた。

この後背地で中共は活発に活動し、貧農だけでなく愛国的な資産階級の支持をも集め、徴税を行い 独自の通貨を流通させ政体として機能し始める。

中共支配地域は孤立していたが、匪賊や緑林の徒と呼ばれた冒険商人達により上海からの物資が流入し、常に糧秣調達に困難を伴った日本軍現地部隊の行っていた阿片/兵器取引により日本軍の装備を入手して行った。

日本の降伏に伴い、日本軍の装備が中共の手に渡る事を恐れた蒋介石は、日本軍将兵の安全な帰還の保障と引換えに日本軍装備を独占し、満州を占領したソ連軍からも日本軍装備の大部分を受け取っている。

この後、中共は一時的に国府軍の攻勢で各地を放棄するが、国府軍部隊内に浸透して丸ごと寝返られせる方法で兵力と装備(日本/米国)を入手し、満州を手始めに全土を制圧して行く。
651:2005/11/20(日) 20:15:40 ID:o4271rm2
對不起...看到各位這麼熱烈的討論 使得我也想跟各位討論
其實本人對於中日戰爭也小有研究 這場中日雙方的戰爭 其實是很複雜的
並不是像我們表面上看到的那些數字
本人從高中時代就對於 中國抗日戰爭{日中戰爭} 以及國共戰爭有著高度的興趣
而要了解這一切的前因後果 就要從1927年國民政府統一開始理解
我沒有像中共那種的國家狂熱 我只是盡量陳述我所得到的資料
我的史觀雖然是比較偏向中華民國
但是這並不表示我{完全支持}中華民國所作的事
因為{史}是人寫的 我會盡量保持{中道}去看待史實

excuse me, when I see you are disscuss {Sino-Japanese War2}.
It let me want to set forth my think to you.
In fact, I also studied {Sino-Japanese war2}
This war is very complex.It is not simple like we see the sum outwardly.
When I was a senior high school student,
I was interested in studying {Sino-Japanese war2} and
If you want to know the ins and outs.
I have a propose that you should the history about 1927 the nation in China
I am not a China Communist . I will declare what I read.
Besides,even though I am a Chinese[in Taiwan] .But I am not support the goverment order complete.
Becouse the history is write by people.We must check it anytime.

At last my major is [Chinese]. if you read the broken English.
Please forgive me.
You can read Japaneae I will try to know what you write.{I hate English, ha ha}



652朝日新聞の記事は他新聞と比べて一番まともではないだろうか? :2005/11/20(日) 20:21:12 ID:qf3rhMFP
朝日新聞の記事は他新聞と比べて一番まともではないだろうか?
日本が右傾化しないように社説で繰り返し述べている。
はき違えた愛国心を煽るようなマスコミを信じてはいけない。
売れさえすればいいという軽薄な商魂の論説ばかりが、
国を危うくするのは太平洋戦争で懲りたであろう。
機会ある毎に日本の過去の過ちに対する反省を促し、
関係諸国との友好を深めようとしているのが朝日新聞である。
なまじ知った歴史の一部で全てがわかった顔をすると恥をかくだけだ。
のうのうと生きていられるのは平和憲法のおかげであることは間違いない。
できもしない自主防衛を唱えていては過去の過ちを繰り返すだけである。
不利なことがわかっていながら、国民を煽って戦争に突入し、
買い物も切符が無ければ買えもしないような生活をさせながら、
運用される資金はすべて軍事行動向け。
動力になるべき燃料もなく、資源も無い日本が何の大義もない戦争を
推し進めるのは狂気の沙汰としか言い様が無い。
戦争がカッコイイと感ずる若者が増える愚かさと怖さを理解出来ない大人達、
教育現場でアジア諸国の悪口を垂れる勘違い右翼教師ども
駄目な者はダメだと言う勇気を持たないと軍事に走る日本国民。
後悔しても遅いのだ。 もう一度恐怖の進軍ラッパが聞きたいのか!!




653名無し三等兵:2005/11/20(日) 20:22:21 ID:???
>>610 “何者か現れざれば支那は滅亡のみ”

そして顕れたのが“永遠的紅太陽”たる毛沢東だったと...

毛沢東は仏典に学び、心身合一の鍛練による求道を目指した青年だった。
それが突然、中国型共産主義の具現者となって歴史に登場してくるのだから面白い。
654名無し三等兵:2005/11/20(日) 20:26:01 ID:???
>>644
日本政府はポツダム宣言を受諾し軍の武装解除において、一般的には破壊する兵器をそのまま連合軍側に渡した。
これは、天皇制護持と言う微妙な問題があり、できるだけ連合軍側に好印象を与える為の鈴木内閣の政治判断である。
しかし、この兵器が大量に中国共産党勢力にわたってしまい、共産軍に力をつけさせる事となった。

>>646
有事の際の外地居留民の保護はどこの国でも微妙な問題である。
居留民の安全、国家の威信、相手国との関係、自国・相手国国民の世論等複雑なものである。
済南事件の際には日本軍が居留民保護の為に、中国主権の侵害を行ったのは確か。
しかし、市街地からの南軍の排除により居留民の保護を行ったまでは中国から見ても無理な話では無い。
もっとも保護を自軍で行うと通達した蒋介石の面子を破った点においては問題が多少残るかも知れないが。
だが、南軍排除後の邦人への暴虐があったのだから結果的には日本側に利があるだろう。
問題はその後の日本側の行動である。
邦人殺害に対して日本側世論、威信の為に報復的に南軍に対して広範囲な追撃を行った。
そのため、国民党、中国国民に対して更なる対日不信感を抱かせる結果となった。
結果的に微妙な問題に対する対処をやりすぎ、まずい局面を招いたと言えるだろう。

君の例え話を例にすると、ソウルの邦人保護の為に自衛隊が出兵。
ソウルの治安回復後、報復的に北朝鮮軍か韓国軍を掃討目的で追撃したのが済南事件である。

イナゾウは研究熱心だが、近隣諸国民が絡むと電波を発する。
実にもったいない事だ。
もっとクールに出来ないものだろうか?
655名無し三等兵:2005/11/20(日) 20:31:47 ID:???
>>651 国民党と共産党の間にあったのは何か? それは“天命”の移管である。

国民党は蒋介石が1927年に起した上海クーデターで天命を失い、その後22年間かけて崩壊して行った。

一方で共産党は度々全滅の危機に瀕しながら その度に復活し、最終的に天下を取った。
656名無し三等兵:2005/11/20(日) 20:38:12 ID:???
>>654 >>650を見れ
中共は日本軍の武装解除によって装備を拡充出来た訳ではない。
それ以前から日本軍の支配が及ばない“占領地”で組織を拡充した中共は、国府軍に内部から浸透して切り崩してしまった。

戦略とは武を用いる事無く相手を服従させる事にその真髄がある。
装備を入手しただけでは勝てないが、日本人には未だにその事が良く分かっていないようだw
657名無し三等兵:2005/11/20(日) 20:47:07 ID:???
済南事件では黄郛が失脚。
後の梅津何応欽協定も、結局知日派の大物何応欽を北平から追い出しただけ。
幣原みたいなのもダメだが、無闇に強腰に出るだけが能じゃないですね。

梅何協定を実質的に推し進めた酒井隆大佐は戦後処刑されました。
香港攻略の第二十三軍司令官を務めた後予備役に入り、格別虐殺事件に縁は無いのにも
関らずこの重刑。交渉時の態度が何応欽のプライドを痛く傷つけたと言われてるますが
もう一つ、酒井中将は予備役入り後、北京に舞い戻り、対支工作に従事しており、
特に中国共産党と近接を計っていたことが、中共嫌いの何を刺激したという説もあります。
658名無し三等兵:2005/11/20(日) 20:54:05 ID:???
>>656
誰かの回想録に書いてたのだが、詳細か私の記憶がいい加減だったようだ。
しかし、日本軍が破壊せずに連合軍に渡した武器が回りまわって共産党軍に渡ったのは>>650でも確かなようだ。

戦略うんぬんの話だが、中国の圧倒的多数を占める農民を味方につけた共産党が最後に勝ったのは当然だろう。

659:2005/11/20(日) 21:20:32 ID:LWqtCMPp
我先回應一下658的意見好??
At first,may I answer the article 658 ?
請給我一點時間翻譯
Please give me some time to translate
660イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 21:26:55 ID:???
おお! >>648 >>649 >>650 氏 (同一人物でいいんですよね?)がゲキ詳しい、
かつ分かりやすい! 何も付け加えることはございませんが、自分もチマチマ回答すると
以下の通り。

>>643 >歴史的にみると蒋介石が全力を注ぐと限りなく弱体する。
>しかし、日本軍だけが相手なら勢力を着実に伸ばすぐらいの実力。

単純ですが「ゲリラ組織を潰せる」のは国内人の勢力だけ、外国人(軍)では無理という
ことです。アメリカも最近のイラク戦争に限らず、ベトナムなど散々苦労していますね。

>あの時中共軍が参戦したなんて信じられん。

ゴミ処理する良い機会でもあった訳です。帰順した国民党軍の残党や旧来の軍閥勢力に対して
「忠誠心を確かめる」と称して最前線に送り込み、米軍という「シュレッダー」に次々と
かけていったのです。一石二鳥w。
661名無し三等兵:2005/11/20(日) 21:28:25 ID:???
↑中共は日本軍の兵器を多用した事で有名だが、決してベストの評価を与えていた訳ではない。
唯一、中古の三八式歩兵銃は華北に移った中共兵士達が最初に手にした銃でもあり、愛着を抱く老八路も多かったようだが...
これすら朝鮮戦争期には第一線から外され、ソ連製のSKSにとって替わられている。
(国府軍から鹵獲した米国製兵器が投入されているにも拘わらず、だw)

国民党も、当初は清朝(異民族王朝)からの民族解放という目標の延長線上で、貧農の絶望的生活を改善しようとする方向性も存在した。
孫文の後継者でありながら蒋介石に天下を横取りされ、後に日本に協力し漢奸となった汪精衛は、日本帰りのマルクスボーイでもあり国民党左派を代表する人物だった。
662名無し三等兵:2005/11/20(日) 21:32:44 ID:???
唯是誰? 台湾打来了??
663イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 21:46:58 ID:p2HxxqFH
>>644 >>日本撤退後になぜアメリカが中国に共産党政権が誕生するのを黙って
>>見ていたのか一番良く分からない

大陸打通作戦における国民党の「あまりの不甲斐なさ」に米国はついに見限っています。
そして「中国の将来は共産党にかかっている」という意見が政権内に台頭してきます。

『一号作戦』はアメリカの目を中国共産党に向ける大きなきっかけとなり、
中共党に計り知れないプラスの影響を与えました。

つまりですね。ものすご―――――く、ザクッと話すとですね、アメリカの
「在華米軍司令官」兼「蒋介石付の参謀長」だったスティルウェルは、米式装備の
『新軍』の編制を強力に推し進めていた訳です。その計画は60個師団に及びます。

蒋介石からすれば、自分の影響力が及ばない陸軍部隊が次々と出来上がるのが
怖くて仕方がない訳です。支那では昔も今も、自前の軍隊を持たない政治家は
一人前と見なされません。
664イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 21:57:17 ID:p2HxxqFH
>>663 の続き。

自分の影響力が及ばない陸軍部隊を生み出そうとするスティルウェル路線に
対抗して、蒋介石はシェンノート(第14航空隊司令官)を重用し、

『日本軍は空軍力を強化することで打ち破れる』

とするトンデモ路線を打ち出す訳ですw。蒋介石の強い要請に、ルーズベルとは折れ
莫大な費用と労力をかけて「ヒマラヤ山脈」を越えて空路で運び込まれる軍事物資も
シェンノートに優先権が与えられました。

これに対してスティルウェルは、「今は陸軍部隊の建て直しこそ優先されるのだ。
空軍基地を造ったところで、日本の地上部隊が襲ってきたらどうする?」と正論を
吐きますが認められません。そして悪夢は現実のものとなりました。
665名無し三等兵:2005/11/20(日) 22:00:34 ID:???
>>652
「戦教駄後」とはどういう意味かいな ?
666軍事評論家:2005/11/20(日) 22:07:08 ID:RAPzQASA
日中戦争で敗れた三つの大要因

・ビルマ方面の援蒋ルートを破壊出来なかった事
・第三南雲艦隊の援助が無かったこと
・戦術が電撃戦でなく局地戦だったため中国の広大な地の利の中、膨大な抵抗を受けたため。
667名無し三等兵:2005/11/20(日) 22:08:23 ID:IQQVfcMW
文学板 司馬スレで今村均大将が「右翼」よばわりされてるよ。 http://c-au.2ch.net/test/-/book/1044197706/i
668イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 22:09:40 ID:p2HxxqFH
大陸打通作戦が始まると、湯恩伯と蒋鼎文が率いる40万の軍勢は
日本の北支那方面軍によって蹴散らされます。

この表現も正確ではなく、ロクに戦いもせず逃げ出したというのが正しいです。
シェンノートの第14航空隊の偵察機が、地上で戦闘が起こらないことを
いぶかしがる報告を行なっています。

結果、天文学的なコストと人的資源を注ぎ込んで建設された在支空軍基地は
帝国陸軍の地上部隊によって占領・荒らされ、スティルウェルはもちろん
米国上層部も「それみたことか、いわんこっちゃない」とマジ切れしますw。

まあ、「打通作戦」は最後の方でやります。このスレで終わるか絶望的に
なってきましたが。スイマセン、1つの「スレの容量」というのは
どれぐらいでしょうか? そろそろ怪しくなってきた気が…w。
669:2005/11/20(日) 22:10:22 ID:LWqtCMPp
今天中共能奪取政權 主要的{外國助力}有三個
其一是蘇聯:
蘇聯利用第二次大戰美國給予的支援約200億美元
[中國{中華民國}在整場二次大戰才有五億美元]英國為300億美元
把它從亡國的邊救上來 但是蘇聯自帝俄時代
就從未放棄奪取它南方的不凍港 所以各位都看到了{中國的大連 旅順}
而且蘇聯一直不放棄用{第三國際}來赤化各國
不知道?們知不知道{中蘇友好同盟條約}1945年簽訂
它讓蘇聯的部隊有充足的時間訓練中共的軍隊
對中共奪取政權有極大?助 待續

Today People's Republic of China can be tenable.
It have 3{foreign help}
the first is USSR.
USSR make use of the support from USA.
About 200 hundred million US dollars.
[Republic of China in this war just get 5hundred million dollars]
Great Britain get 300 hunderd million dollars .
It help USSR,and let it can not to be fall.
But from Russo to USSR.This country always find the ice-free port.
So you can see they want the port in China {大連 旅順}
They never give up to use communism to conquer the would.
Do you know the treaty of{中[中華民國]蘇友好同盟條約}which sign in 1945.
This treaty make Chinese Communist to be strong.{because the military of USSR stay in China }
670:2005/11/20(日) 22:13:24 ID:LWqtCMPp
我是中華民國的國民
I am from Republic of China
671軍事評論家:2005/11/20(日) 22:17:39 ID:RAPzQASA
>>668
確かに日本軍は中国に比べ強かったがアメリカの莫大な援助を絶つための援蒋ルートの破壊が出来なければ敗北は確実だよ。
また燃料が充分でない日本軍は航空戦力の援助の元、中国の最重要都市を占領する必要がある
672軍事評論家:2005/11/20(日) 22:21:10 ID:RAPzQASA
ナチスの様にパリを二周間で攻略出来る機動力が日中戦争では1番重要なんです
673イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 22:24:57 ID:p2HxxqFH
>>651
すいません。東方じゃなかった当方、英語も中国語もチンプンカンプンですw。

さすがに英語なら「バクーッと」仰りたいことが分かりますが、細部は無理です。
そして自分には、英語を翻訳して返す時間がまったくありません。ですので、
申し訳ありませんが、以後もスルーさせていただきます。

ああ、ベッキーみたいに即座に英語でレスできたら、どんなにカッコイイことでしょうw。

おっと、ベッキーといっても「レベッカ宮本」嬢のことではありませんよ?
『第一次大戦』の別宮翁のことですよ? 

それにしても、『ぱにぽに』のアニメの気合の入りようといったら何とした
ことでしょう! あそこまで高品質とは思いもよらず。DVDも買おうと思いますが
案外高いですね…(爆藁)。
674名無し三等兵:2005/11/20(日) 22:26:47 ID:???
>>670
I have a question.
Do you know Lt.Gen Nemoto,Hiroshi (根本博中将) ?
Some people said Nemoto helped 蒋介石, and contributed to defend 金門島
from the communists' attack.
Is this real ?
675:2005/11/20(日) 22:45:25 ID:LWqtCMPp
其二是美國:
美國在第二次大戰當中 依據史料 對於中國的援助是最多的
但是 它同時也干預不少中國的?政
魏コ邁的{Wedemeyer Reports}有明顯的説明
同樣的 在國共内戰當中 以史迪威 馬歇爾的左派親中共人士一直在暗中?助中共
造成中國政府軍士氣低落 最後大敗於三大戰役之中{東北(中國東北)戰役1947 徐(徐州)蚌(蚌阜)戰役[淮海戰役]1948
以及平(北京)津(天津)戰役1949}

the second :USA
In accordance with history. Usa help the most weapons to China.
For the other side ,this country also interfere the interior of China.
You can read {Wedemeyer Reports}to know the true.
In 1945~1949 史迪威 馬歇爾help Chinese Communist in the dark .
They make Republic of China to lose three battle
676イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 22:49:06 ID:???
>>654
桜上水すずめ嬢が、自分の弁護のために駆けつけてくれましたよ。
要約すると、以下の通り。

「あなた、以前にもイナゾウ中佐のことを『それがイナゾウの限界だ』などと
 非難されていた方でございますですわね! 限界、限界などと軽くおっしゃい
 ますが、その限界とやらの先をあなたが示してくれないと、説得力ゼロのことで
 ございますですわ! プンプン、ちゅちゅ〜ん!」

だそうですw。
677イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 22:59:13 ID:???
>>652
>>朝日新聞の記事は他新聞と比べて一番まともではないだろうか?

正気ですか? 頼むから戦前の朝日新聞を読んでから、書き込んでください。
確信犯でやってるのでしょうがw。
678名無し三等兵:2005/11/20(日) 23:01:56 ID:???
>>677
あんちゃん、縦読みだよ
679:2005/11/20(日) 23:03:16 ID:LWqtCMPp
回答670
是的 根本博中将在金門島?助中華民國軍打退中共
我記得好像是軍事顧問?
那場戰役叫做古寧頭戰役
此次戰役國{中華民國}軍共計殉國犧牲一千二百六十七人,
受傷一千九百八十二人,十二兵團占九成
共軍被俘達五千一百七十五人,其餘悉數作戰陣亡
我以前讀到那篇戰役以後我對日本人有改觀
answer 670
Lt.Gen Nemoto,Hiroshi helped Republic of China to defend 金門島
That battle in Taiwan said 古寧頭戰役
This bettle Republic of China dead1267 casualties1982
Chinese Communist catch 5175 others all dead.
When I read that battle,I change my think about Japan
680イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/20(日) 23:07:32 ID:???
>>あんちゃん、縦読みだよ

やっちまったよw。討堕支膿……orz.
681:2005/11/20(日) 23:11:54 ID:LWqtCMPp
其實 我們大都會愛自己的國家
但是我們不要變成狂熱的愛國主義者{像中共}
我是抱持著這種心態去讀史書的

In fact,Most of people love their country .
But Ishould not to be a mad patriotism.{Chinese Communist}
I always remrnber this to read history .
682名無し三等兵:2005/11/20(日) 23:57:00 ID:???
>>660
>単純ですが・・・
結局人心を掌握できるかどうかって事ですな。

>ゴミ処理する良い機会でもあった訳です・・・
中国共産党が中国国民から支持を得ることが出来たのは、共産主義が支持されたからではない。
地主制を廃止し、圧倒的多数である農民の人心を掌握できたからである。
中国の国是にも等しい地主制から解放されることで、毛沢東は国民から絶大な支持を得ることが出来た。
後の毛沢東の様々な政治的失敗にもかかわらず死んでも毛沢東が支持される理由である。
朝鮮戦争介入時の中国は解放直後で毛沢東への支持がピークであった時期。
だから、近代的な装備も防寒具も無いにも係わらず高い士気で人海戦術を遂行できた。
今の人民解放軍には近代装備がいくらあっても真似は出来ないだろう。
ゴミ処理の側面もあっただろうが、大勢の士気の高い毛沢東支持者が参戦している。
ま、旧日本軍みたいな連中だ。
683イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 00:02:52 ID:hsR0z38w
>>641
>>しかし…西安事件って蒋介石にとってそんなに痛手だったんですかね?
>>日本と泥沼戦するより中共を先につぶす方が、どう考えても楽だったように思えますが。

細かいことを書き始めるとまた長いので、バクーッとしか答えしか出来ませんが。

西安事件は『事実上のクーデター』です。歴史の教科書では「蒋介石が張学良に
逮捕監禁されて意志を変えた」ぐらいにしか書かれていませんが、事件当日にいた
蒋介石の側近はみな殺されています。簡単にドキュメントすると、以下の通り。

1936年12月12日午前5時、まず楊虎城軍(陝西綏遠主任)が蜂起して、蒋介石のいる
華清池に向かいます。その途中、憲兵第3団長(連隊長)蒋孝先の乗用車を発見し、
蒋を射殺します。

そして、西安城内で国民政府の憲兵隊と警察を急襲し、武装解除のうえ射殺しました。
あげく民家の略奪も始まります。
684イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 00:16:57 ID:hsR0z38w
一方、華清池を先に襲った張学良軍はというと、まず蒋介石の護衛兵を射殺します。

そして陳誠(四川省辺区掃匪総司令)、蒋作賓(国民政府内政部長)らを監禁、
邵元冲(国民党中央委員)が射殺されます。

蒋介石本人は、華清池の宿舎の窓を開けて脱出、裏山の崖をよじ登って逃げます。
しかし追跡した反乱部隊に、岩の間に隠れているところを発見され、
ついに捕えられたのです。

済南事件など、窮地でもしぶとく逃げおおせる事の多い蒋介石ですが
このときは無理でした。事件の顛末は、以前に少し書いています。

>>203
>>宋美齢は周囲の反対を押し切り、1936年12月22日、空軍機で西安に乗り込み
>>周恩来と張学良と会見。共産党との合作を受け入れて蒋介石の救出に成功します。
>>やはり、宋美齢は只者ではないのです。
685名無し三等兵:2005/11/21(月) 00:20:24 ID:???
>>682
>ま、旧日本軍みたいな連中だ。

なぜそこで旧日本軍が引き合いに出てくるのか意味不明。
686名無し三等兵:2005/11/21(月) 00:28:26 ID:???
>>685
日本軍の最大の特徴はその士気の高さなので引き合いに出したのだが?
687イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 00:28:35 ID:hsR0z38w
もちろん、この西安事件(裏で周恩来が画策した)で一気呵成に国共合作が
進んだ訳でありません。むしろ途中で頓挫したと言った方がいいでしょう。

1937年2月10日、中国共産党は南京の国民党に向けて

「これまでの内戦を停止し、抗日民族統一戦線をつくろうではないか。そうすれば
 我が党は国民政府転覆の武装暴動をやめて、紅軍を国民革命軍と改称して、
 国民政府の指導を受ける」

との申し入れを打電します。これに対して国民党は、共産党の申し入れは『投降』だと
する基本認識を示して、中共が提出した建議案にも明確な回答を出しませんでした。

このように中共党が望む「第二次国共合作」は容易に実現しませんでしたが、7月の
盧溝橋事件の勃発で急変することになります。仕掛けたのは、劉少奇です。この功績によって
劉は周恩来を飛び越して、中共のナンバー2の座に付くのです。こういうのを
「とんびが油揚げをさらう」と言いますw。
688:2005/11/21(月) 00:32:33 ID:rl/BnNSu
時間也不早了..各位日本的朋友?安
因為大學的課程很重 所以我大概?個週末會來這裡兩三天
希望能再跟各位交換意見...如果有人會中文的話
不知道到時候可以?助我翻譯??
我雖然?史不錯..可是我畢竟是中文系的..英文也不太好...
祝各位有個美好的明天

It is time to sleep. Good night everyone in Japan.
Because the courses in my university sre very heavy.
I will go tohere three days a week.
I really hope we can exchange our opinion ..
For other side, if someone who knows Chinese..
..could you help me to translate?
Because my major is [Chinese]....I always get broken English.
Have a good day.
689イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 00:40:41 ID:hsR0z38w
>>日本と泥沼戦するより中共を先につぶす方が、どう考えても楽だったように思えますが。

蒋介石の「気の迷い」だったのでしょう。いっそ西安事件で、毛沢東の念願どおりに
殺されてくれた方が「日本にとって良かった」と思います。

国共合作はならず、何応欽が『反乱軍討伐総司令』として、共産軍もろとも
反乱部隊を蹴散らしたあと、もとの軍閥割拠の時代に戻ったのではないかと思います。

少し前で、1934年と1935年に「日支間の関係改善」が進んだと書きましたが
それはあくまで外交面であり、同時に「梅津・何応欽協定(1935年)」
「土肥原・秦徳純協定(1935年)」などトラブルが続いていましたから、
蒋介石もだいぶトサカにきていたのかもしれません。
690イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 00:49:24 ID:hsR0z38w
>>日本と泥沼戦するより中共を先につぶす方が、どう考えても楽だったように思えますが。

これは全く貴官の言うとおりで、

盧溝橋事件直後の1937年8月12日、国民政府軍事委員会は、中国共産党軍を正式に国軍に
編入する命令を出しますが、この共産軍はどの程度の規模だと思いますか?

たったの「5万5千人余り」です。

北支の中共軍4万5千人は、国民革命軍「第八路軍」(総指揮・朱徳、副総指揮
・周恩来)は3個師に改編されて、山西省の第2戦区司令長官・閻錫山の指揮下に
入ります。

また、揚子江以南の中共軍の残存部隊1万人余は、新編「第四軍」(軍長・葉挺、
副軍長・頂英)に改編されて、第3戦区司令官・顧祝同に指揮下に入ります。
691:2005/11/21(月) 00:52:19 ID:rl/BnNSu
最後附上我的參考資料
At last I will bring my reference material
呉相湘{第二次中日戰爭史} 梁敬諄{開羅會議}
?仁宇{從大歴史讀?介石日記}?永敬{抗戰史論}
黎東方{細説抗戰} 鄭浪平{不朽的光榮_第二次中日戰爭史}
692イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 01:01:01 ID:hsR0z38w
繰り返しますが、中共軍は「たったの5万5千人余り」です。

疑えば「出し惜しみ」をしているだけとも取れますが、この場合は
自分を高く売るために、むしろ「過剰な数字」を出しているのでは
ないでしょうか?

たった、4個師。

その後の支那事変で「二桁台」の個師数がザラに出てくることを考えると、
何と微々たる数字でしょう。

「この程度ならいつでも潰せる」と無理やり自分を納得させたことが
蒋介石の命取りになった訳です。

「水に落ちた犬は叩け」はいつの世でも鉄則なのです。もって他山の石とすべし。
693イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 01:32:51 ID:???
>>682
>>地主制を廃止し、圧倒的多数である農民の人心を掌握できたからである。
>>中国の国是にも等しい地主制から解放されることで、毛沢東は国民から絶大な支持を得ることが出来た。
>>後の毛沢東の様々な政治的失敗にもかかわらず死んでも毛沢東が支持される理由である。

その点は同意ですね。
694名無し三等兵:2005/11/21(月) 01:34:36 ID:ntJvMPXD
古書店まで出向き適書を選別する労もなく、なにより基本料で面白いお話を拝聴できる
とは結構な時代となったものです。
最近は海外からのレスまでありw「唯氏」も勉強の上>>273 の如き強者になられるよう!。
イナゾウ中佐も借りにも在NWの大出身であれば英語を駆使して彼を善導されんことを!。
695名無し三等兵:2005/11/21(月) 02:37:03 ID:???
>>651 >>657 >>669 >>670 >>675 >>679 >>681 >>688 >>691
唯先生,wan安!
大學上課ma煩,但是nin gei有意思的li史意見,也介紹參考資料
大好了!謝謝先生!!
再見nin!
(wan,nin的地點是不表記台灣漢zi,不好意思.)


唯氏の意見もなかなか興味深いものが多かった 
文章を見ると歴史学専攻らしい事実に即した記述なのがわかる
なお最後の紹介していただいた参考文献の中で

?仁宇{從大歴史讀?介石日記}となっている本は邦訳が出ている
黄仁宇「蒋介石―マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記」(東方書店1997)

国民政府軍の将校から戦後アメリカに脱出、大学で歴史学を専攻して歴史学者となった
異色の研究者である黄仁宇氏が、自らの従軍経験を踏まえて蒋介石日記を分析した書で
ある。黄自身の将校としての体験があるために、後世の人物では描き得ない優れた国共内
戦史、日中戦争史となっている
国民政府軍の人員枯渇について「人間の屑まで動因した」と表現して他の研究者の批判を
うけた逸話、ガソリン枯渇で坂道をノンクラッチで走ることを強いられ事故が多発したこと、な
ぜ国民政府初期の不安定が発生したのか、重慶撤退に至る過程など読み応え満載の研究
書であるといえる
日中戦争を分析する上でぜひ一読する価値のある本ではないかと思う
696名無し三等兵:2005/11/21(月) 02:43:31 ID:???
>>695
>国民政府軍の将校から戦後アメリカに脱出
この「戦後」とは第二次国共内戦の敗北と、国民政府の
台湾遷都後のことです
697だつお:2005/11/21(月) 10:41:58 ID:Tkrh+E5G
>中国の国是にも等しい地主制から解放されることで、
>毛沢東は国民から絶大な支持を得ることが出来た。

日本の農地改革とは違い、共産党が土地を没収して、
「人民公社」という名で奴隷化しただけだろ。

生産責任制で土地の使用権を人民に分配したのはケ小平以降。
地主から土地を取り上げても使用権を人民に分配しない限り、
「土地改革」にはならん。

日本の場合は十五年戦争期に殆ど達成していたというのに。
698名無し三等兵:2005/11/21(月) 14:20:33 ID:G9lrb2bL
>>697
軍閥や地域のボス、匪賊の類が専横を振るうよりははるかにましだったということだろ
文革でミソつけるが、そこまでは少なくともまともになったという認識(それまでがあまりにも人類未満だった)て゜はないか?
699だつお:2005/11/21(月) 15:32:52 ID:Tkrh+E5G
>軍閥や地域のボス、匪賊の類が専横を振るうよりは

太平天国だって軍閥や地主から土地を取り上げて人民に配分する
土地改革をやったつもりでいたが、仲間割れで空中分解してるぞ。
地主から土地を奪っても、チンピラゴロツキ同士の土地配分争い
に決着がつかないのではどうにもならなかったのだ。

土地改革には理念ではなくて、信頼できる国の政府が必要。
つまりは小林よしのりの言う「公」の概念だな。
700名無し三等兵:2005/11/21(月) 15:51:06 ID:+jRMYyBh
 山東出兵のことが>>654で出ていたが、仮に日本の対応が100点満点でも
やはり中国は悪辣に日本のことを宣伝していただろう。

 例えば南京事件で各国領事館を南軍の兵が襲ったが、それに対して
追い払う意味合いをもって米英砲艦が50分間の艦砲射撃を領事館周辺
に行ったことに対して

「米英両国は無差別砲撃を行って2000人もの中国人民を殺傷した」

としている(実際は20人に天誅が下っただけ。ちなみに現在の中国の
教科書も同じ内容)。
 
 インセクト級砲艦の15cm砲で決まった範囲に一時間未満砲撃を行った
だけなら普通に考えたら千単位もの打撃を与えることは出来ない。

 が、蒋介石らはなりふりかまわず、「我々は悪くない。相手が100%
悪い」としている。結局中国大陸では道理は通用しないので、中国と
トラブルが起きたらどんなにこちらが正しい応対をしても相手を悪く言った
方が勝ちで、信じるのは道理や正義ではなくて力だけなんだろう。
701:2005/11/21(月) 18:33:54 ID:/FCvXlaP
今天我所要發表的 是有關於在第二次中日戰爭當中 由國民黨或者是中共主導的?
Today I will publish a article. It is about that who lead the China in {Sino- Japanese war2}KMT or CCP?
這是一個非常政治化的問題,也是抗日戰爭史至今無法顯出真相的主要理由之一。
It is a big question about political conviction.It is a key-link that many people can not understand the true in{Sino-Japanese war2}
根據史的事實是,無論是國民黨、中共以及全體的中國人民,都有參加這場中日的戰爭,
但是以戰場的表現而言,國民黨是當時領導政府的政黨,當然是負起領導全局戰爭的主要史責任,而中共則是以游?戰方式與日軍作戰。
According to the true in the history. no matter what KMT CCP and all people in China are join this war.
But in accordance with expression in the battlefield. KMT is the party which lead the goverment.Certainly,it must to be in charge of this war{Sino-Japanese war2}
CCP just fight by using guerrilla warfare.
中日雙方是從七七之後,才進入全面戰爭的階段,雙方這場全面與持續的史大決戰,總共進行了八年一個月三天
China and Japan began to fight from 盧溝橋事變.This {history battle} procceed 8 years 1 month and 3 days
兩軍雙方總共進行過二十二次的會戰(雙方動員兵力在十萬人以上)
The two parties fight 22 battles {both sides have over 100 thousand military in war}
一千一百十七次以上的戰鬥(雙方兵力在一萬人以上)
over 1117 combats {both sides have over 10 thousand military in war}
702:2005/11/21(月) 18:34:35 ID:/FCvXlaP
以及三萬八千九百三十一次的小型接戰
and 38931 experience fight.
?們可以看一下中國大陸的資料 幾乎都只有再誇大{百團大戰} 以及{平型關戰役}
Now you can see the history data in Communist China.They just said that 百團大戰 1940 and 平型關戰役
百團大戰只是一系列游?戰的統計總數,個別的作戰規模,連戰鬥都算不上。
百團大戰 just compile a series of guerrilla warfare fight
平型關作戰只是太原會戰中的一個戰役,共軍也在這場戰役中,只擔任敵後游?五分之一的責任,成功的伏?一個日本的補給運輸隊而已
兩場作戰加起來,日軍的死亡人數只有三千人不到
平型關just a experience fight in battle of 太原會戰.
in this two fight, I can see the history data about Japan army dead body will not over 3000.
在這場戰爭中,中國{中華民國}軍方傷亡了三百六十萬人,日軍傷亡了一百一十萬人,
中國平民死亡了三千五百萬人,中國人民的財損失估計,超過六千億美元.
In this war {Sino-Japanese war2} China goverment dead and casualties 3600000.
Japan goverment dead and casualties 1100000.
People in China dead 35000000 .
703:2005/11/21(月) 18:35:33 ID:/FCvXlaP
最後日本在中國戰區共有一百二十萬部隊向中國投降,六十萬的關東軍向蘇聯投降.
At last there are 1200000 army are surrender to China. there are 600000 army are surrender to USSR.
大家請注意 當第二次世界大戰結束時 日軍有向中共投降??
Attion please, when WW2 end Japan will surrender to Communist China?
一九六四年,毛澤東接見日本社會黨議員佐佐木更三代等人的名言:中共『感謝日軍侵華,能讓中共提前執政』。
In 1964, Mao Zedong said [CCP think to Sino-Japanese war2, it made CCP can take the goverment in China}
所以中共一直説它{抗日}? ?們相信??
Now ,Communist China say {CCP lead China in Sino-Japanese war2}.Do you believe it?
最後附上我的參考資料
At last I will bring my reference material

鄭浪平{不朽的光榮_第二次中日戰爭史}

704名無し三等兵:2005/11/21(月) 19:59:29 ID:???
>>683
>西安事件は『事実上のクーデター』です。
とは言っても満州事変でも共産党殲滅を優先していた蒋介石が、西安から解放された
後も、手の平を返そうとすれば出来たものを国共合作体制を維持した事は、蒋介石
自身が日本の侵略をそれ以上に脅威と考えていたと言うことか、あるいは蒋介石の
周囲にもそういう意見が無視できない勢いを持つに至っていたということだろう。
クーデターと言うよりは方針転換のきっかけでしか無いと思う。
705674:2005/11/21(月) 20:00:59 ID:3O2PiXLB
>>679
Thenks a lot, 唯san

>>703
And I want to ask you one more question.
Do you know Major General Motoizumi,Kaoru(元泉馨少将) ?
Is he known in Taiwan ?
He stayed 太原 after Aug 1945 , and fought against communists with 閻錫山.
He was appointed Lt.General of 中華民国.
He committed suicide during the battle of 16 Jul 1948,
and was promoted to General(上将).
706名無し三等兵:2005/11/21(月) 20:06:06 ID:ViNMv/PQ
この戦争で日本が学んだこと

特定アジアに関わると日本に災厄が降りかかる。
大陸国家思想(ランドパワー)は日本を滅ぼすこと。
この反省のもとに、戦後特定アジアと断絶し、日本は
海洋国家(シーパワー)として繁栄への道を進んだ。

ちなみに岸信介の人生唯一の「思想転向」も
大陸国家派→海洋国家派だ。

707名無し三等兵:2005/11/21(月) 20:08:48 ID:???
日本が大陸に手を出すと火傷するのは
白村江からの歴史を見ればわかるはずだが……

ちなみに中国人が海外に目を向けて海軍力を整備しても
国内のゴタゴタで駄目になるのがパターン
708名無し三等兵:2005/11/21(月) 20:15:00 ID:???
>>682 朝鮮戦争では毛沢東の息子も戦死しているが、勿論 人海戦術に参加していた訳ではない。

人海戦術に動員されたのは旧国府軍兵士や匪賊あがりの兵士達。

中共の精鋭部隊は黒ずくめの衣装で、消音SMGを持ち米軍に夜襲をかけるのを常としていた。
その後、戦線が38度線近辺で膠着すると、人海戦術よりも夜襲や心理戦へ移行した。
709名無し三等兵:2005/11/21(月) 20:27:45 ID:ViNMv/PQ
>>707
元はそれで滅びたしね。
710名無し三等兵:2005/11/21(月) 21:42:03 ID:???
イングランドも大陸領絡みで百年戦争やってるから、
大陸国家と対峙する海洋国家の宿命なのかもしれない。
711:2005/11/21(月) 21:44:59 ID:F3fxn9xG
回答705
Answer 705
我也有聽過 在剿共戰爭{解放戰爭,第二次國共戰爭}1945~1949當中 有不少原來是日本軍的軍人有?助國{中華民國}軍打共軍
Yes, I also heard this Japan military personnel. In 剿共戰爭{解放戰爭,第二次國共戰爭}1945~1949
there are many Japan military personnel help Repubic of China to fight , China Communist Party.
相較於根本博...他最後死在中共軍手中
He was dead in China Communist army.
在剿共戰爭{解放戰爭,第二次國共戰爭}1945~1949中 有不少原來是日軍的軍官都有加入國{中華民國}軍或共軍
There are many Japan military personnel join this war[剿共戰爭{解放戰爭,第二次國共戰爭}]

712:2005/11/21(月) 22:03:10 ID:F3fxn9xG
在第二次大戰以後 因為共黨有變強的情況所以有些第二次世界大戰的參戰國
會想利用原本是軸心國的部隊和共軍對抗
After WW2,because Communist was strong more and more. So many Alliance country
wantted to uae the Axis surrender army to fight Communist
像温斯頓.邱吉爾就想武裝投降的コ軍和蘇俄對抗
Like Winston Churchill wanted to use the surrender Germany army to fight USSR.
713名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:06:21 ID:???
1945以降の国共内戦を「解放戰爭,第二次國共戰爭」と呼んでいるのは面白い
いったい誰から何を解放する戦争だったのだろう?

その後の大躍進・文化大革命では、大量の中国人が現世の苦しみから解放されたようだが。
714名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:10:17 ID:???
>>697
だつおの歴史は大雑把だな。
人民公社は、朝鮮戦争当時にはないぞ。
715イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 22:10:23 ID:bVbJhh75
>>695 >>黄仁宇「蒋介石―マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記」(東方書店1997)

「太平洋戦争研究会」がよく引用している本ですね。例えば、自分の手元にこの会が編集・
出版している『図説 日中戦争』(森山康平著)がありますが、冒頭の盧溝橋事件から
この本が引用されています。少し「孫引き」すると、以下の通り。

「倭寇はすでに盧溝橋で戦いを挑んできた。彼は我の準備の完了せざるときに乗じて
 我を屈服せしめんとするのか? 或いは宋哲元に難を為し華北を独立せしめんとする
 のか? 倭はすでに戦いを挑んできた。応戦の決心をするときか?」

            ―――――盧溝橋事件の翌日1937年7月8日の蒋介石日記より

太平洋戦争研究会の著作はかなり左の傾向が強いので、この『蒋介石』が多用されているのは
知ってはいても、今まで敬遠しておりました。今度、買って読んでみます。
と思ったら、新刊で4410円ですか……割と高いですねw。次の給料日か冬のボーナスが
入ったらにします。まだ、未読の本が溜まっていますし(藁)。
716名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:16:04 ID:???
>黄仁宇「蒋介石―マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記」

アマゾンでは新品が1冊、中古が1冊らしいから早めに買わないと無くなると思われ
717名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:17:58 ID:???
>>700
辛亥革命は列強の排除だから事件が起きればどうしたって中国側の不満はつのる。
しかし、済南事件は解決まで1年以上かかっているが、南京事件における米英砲撃はそうではない。
どちらにしろ文句は出るが、中国で利権を得るには出来るだけ少ないほうが賢い。
多くの文句がでる政策を行った日本側の対応は、ばかだった。
718:2005/11/21(月) 22:19:01 ID:F3fxn9xG
很遺憾...在中國的歴史上 一向有所謂的{成者為王 敗者為寇}的觀點.
It is regret that in China history which have a concept {winner is the king }


719イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 22:20:51 ID:bVbJhh75
ちょっとちょっと。
異人さんが来てからスレの消費が、いきなり急速になってきましたよ?w

1000に到達する前に容量オーバー確定の『サドンデス(突然死)スレ』
ですから、次スレもお付き合い頂ける奇特な方は、適宜保存して置いてくらさい。
前スレからも、かなり引用してくることになると思います。

スレを「全部読む」→「名前を付けて保存」でデスクトップに保存できます。
ちなみに自分は念のため毎日更新していますw。
720名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:22:49 ID:???
>>708
>人海戦術に動員されたのは旧国府軍兵士や匪賊あがりの兵士達。

彼等の緒戦での果敢なる士気の源泉はなんだ?
それに、そんな危なっかしい連中を緒戦で投入する危険性を共産党側はどう考えたのだ?
721名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:24:56 ID:???
>>719
主役の座を奪われるぞ。
頑張れ。
722イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 22:27:39 ID:bVbJhh75
>>716
>>アマゾンでは新品が1冊、中古が1冊らしいから早めに買わないと無くなると思われ

ちょっとちょっと。
それで自分が慌ててアマゾンで買ったら、思い切り「身元が特定される」と思われw。

ご助言いただいてまことに有難いのですが、紀伊国屋かジュンクの新刊書店で
購入したいと思います。
723名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:31:47 ID:???
>>720
おまえ、あまいよ。
中共治下なんて、女子供人質にとられているようなもんだ。
自由のあった日本人だって従容として戦場で死に赴いた。
生に執着する中国人が唯々諾々と死の命令に従ったのは、
我々日本人の想像を超えたくらいの強制力があったということだ。
724イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 22:50:39 ID:bVbJhh75
>>717 >>しかし、済南事件は解決まで1年以上かかっているが、

一応、済南事件の「後始末」を補足すると以下の通り。

北京駐在の芳沢謙吉公使と、国民政府外交部長の王正延による南京での
外交交渉に舞台は移されます。約1年後の1929年3月28日に妥結調印され、

「軍事行動の責任は双方とも咎めない。調印日から2ヵ月以内に日本は
 山東から撤兵する。双方の損害は合同調査委員会を設けて調査する」

などと損害賠償請求も棚上げになりましたから、当時の日本としては
紳士的というか、珍しく大甘な妥結となりました。

しかし、支那側はこの結果を「中国の一方的な譲歩である」と国内に宣伝して、
「国恥を雪げ」と抗日運動を激化させます。一方、日本国内も第一次南京事件に
続いての残虐事件として、「暴支膺懲」の声がのっぴきならないものになります。
725:2005/11/21(月) 22:53:04 ID:F3fxn9xG
在剿共戰爭{解放戰爭,第二次國共戰爭}1945~1949當中 國{中華民國}軍一開始打的很好
In 在剿共戰爭{解放戰爭,第二次國共戰爭}1945~1949 .
At first the Republic of China had good fights to Communist China
可是從1947年 馬歇爾{Marshall George}來調停以後 就停止了對中華民國政府的支援
But from 1947 Marshall George stop the support to Republic of China.
而在這時候 共軍反而得到了蘇聯的支援 中國東北 日本關東軍的武器
At this time China Communist army got the help in USSR. {and the weapons from 日本關東軍}
再加上共軍喜歡鼓動學生 工人 農民暴動
And Communist China like to rouse studients workers farmers to riots.
所以造成國{中華民國}軍士氣低落 最後退來台灣
It made morale of Republic of China down, at last withdraw troops to Taiwan.
中共從來沒有?領過台灣
Communist China had never capture Taiwan.

726名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:53:22 ID:???
>>723
おまい、だめだよ。
解放当時の毛沢東に対する絶大な支持が背景にある事をしらんのだろ。
毛沢東に忠誠を誓う大勢の人民を投入したほうが、忠誠心が危なっかしい連中を投入するより確実だろ。
しかも、人数的に圧倒的に多いんだから安いものだ。

強制力つったって、自分の命の方が大事だろ?
ちっとは考えてみろよ。
727名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:54:29 ID:???
つまり中国の対日政策は一貫して
「国内をコントロールするための手段」でしかないということか
非常に分かり易い、そして戦前から現代まで一貫している。
728イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 22:54:41 ID:???
>>721 >>主役の座を奪われるぞ。頑張れ。

ご声援?は有難いのですが、どうせ深夜の時間帯しか書き込めない身の上です。
今まで通りくマイペースで行きますよ。継続は力なり。
729名無し三等兵:2005/11/21(月) 22:56:56 ID:???
>>726

中国人が「毛沢東に対する絶大な支持」なんて持つわけないだろ
彼らは自分と、運命共同体である血族しか信用しない。
他人に対する絶対的な信仰なんて、中国人には存在しない。
730名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:06:28 ID:???
>>727
>そして戦前から現代まで一貫している。

戦前どころか、AC世紀あたりからでないか?

>>729
バカだね、農地解放政策による、農民の支持があったからこそジリ貧の共産軍があっという間に
国民党を台湾に追い落とした。
あくまでも毛沢東に対する支持で、共産主義に対する支持ではないが。
毛沢東が政治的に失脚したが、文革で巻き返したのも人民の絶大な支持のおかげ。
ま、人民にとっては、毛沢東がいる限り地主がよみがえることは無いと言う打算かもしれないが。

731名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:09:55 ID:???
732731:2005/11/21(月) 23:13:08 ID:???
すまん、途中で書き込んでしまった。

>>730
毛沢東に対する絶対的な支持ではなく
国府軍よりも、共産党の方がマシだからという、相対的な支持ではないかと思う
中国の農民は常に戦乱においてはよりマシな方の支持をする。
共産党を毛沢東に変えても同じだろう。
733名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:18:05 ID:???
人海戦術の主体となった旧国府軍兵士や匪賊とて
もともと思想があってそれらの母体に属していたわけじゃなくて
「銭」だけの問題だったのではと推測しますが。

そう考えると「銭」を渡せば誰にでも従ってくれる頭の弱い連中の存在は
人海戦術を採った中共にとって好都合だったんじゃないでしょうか
734名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:19:39 ID:???
>>733
中国の歴史を見ると、戦乱の時代兵士になるのは
「食えないから」という、なんとも身も蓋もない理由が多いが
735良スレ傍観者:2005/11/21(月) 23:28:02 ID:???
とりあえずこのスレでは不適当な発言では?
>>723
>おまえ、あまいよ。
>>726
>おまい、だめだよ。
>>730
>バカだね
等々
第三者より指摘されるまでもなくお気づきとは思いますが
書き込む前に相手を害さないための推敲を願います。
例え相手に煽られても努々それにのらないように。
どちらが先の問題ではないのですから。
736名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:28:13 ID:???
>>732
正しくそのとおり。
地主制を維持する国民党より、地主制撤廃の共産党の方が相対的にはるかにましなので支持された。
なので、人民とっては共産党でも毛沢東でもケ小平でもパンダでも良いんだよ。

>>733
銭もろうて死地に赴くとは連中は気合の入った傭兵か?
737名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:29:13 ID:???
>>735
煽られたら煽り返せが信条ってのありじゃないか?
73832:2005/11/21(月) 23:34:55 ID:???
>>737
せっかくの超良スレだし、イナゾウ中佐はもとより、名無しさんにも恐ろしく知識のあるひとがいるし、
そういった人が地味なテーマをくわしく調べて紹介してくださっているわけで。
だから、ここではどうか全員のために、過激な発言は避けるようご配慮ください、ということかと。
739イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 23:35:46 ID:bVbJhh75
>>657
>>済南事件では黄郛が失脚。

そうですね。>>724 でも挙げましたが、知日派の黄郛・外交部長が失脚して
「欧米派」の王正廷がその後任となりました。王は英米と、特にアメリカと
結んで排日政策を強化しはじめますから、非常に厄介なことになります。

支那とのトラブルが続くごとに、知日派が櫛の歯を引くように失脚していきます。
まあ、当然といえば当然ですがw。

ちなみに王正廷は『田中上奏文』が問題になる頃も外交部長を続けています。
(1930年2月当時)
740名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:36:47 ID:???
>>738
なるほど、軍板的にはそれが良いのだろう。
今後注意します。
74132:2005/11/21(月) 23:37:47 ID:???
>>740
ご理解ありがとうございます。
742名無し三等兵:2005/11/21(月) 23:40:58 ID:tXe0KLGB
>>717

 陸戦の場合は一端戦端が開けば掴み合いの喧嘩のようなものだから収めるのが
難しいでしょう。砲撃、空爆なら途中で好きに止めることが出来るでしょうが。

 かと言って何もせずにやられっぱなしで反撃しないわけにもいかない。

 そうなると挑発してきた南軍に対して日本軍は攻撃をしないといけなくて、
現実的には相手の脅威が消えるまで戦闘を続行するより仕方ない。だからこそ
当地にいた欧米の領事館員らは「日本の行動は正当だった」と評したのでしょ
う。

>どちらにしろ文句は出るが、中国で利権を得るには出来るだけ少ないほうが
>賢い。 多くの文句がでる政策を行った日本側の対応は、ばかだった。

 多分、中国の死者の桁が一つ少なかろうが日本が譲歩しなければ結果は同じで
しょう。
 当時の中国は諸外国とトラブルを起こして、それに対して相手が交渉のために
テーブルについてきたらついでに(本当はこれが目的で)他のことも交渉する
のが常套手段ですから、日本が中国に譲歩しない限りは何度でも同様のことが
起きますし、日本を声高に非難してそれを圧力にします。

 他に方法があるなら ばか とも言えますが、起こるべくして起きた、他に
選択肢が無い上で起きたなら ばか ではなくてこれは運命だったのでしょう。
743イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/21(月) 23:51:19 ID:???
>>32様 憎まれ役を買っていただきスマソ。ベリーサンクス。

>>名無しさんにも恐ろしく知識のあるひとがいるし、

まったく同感。コテを名乗るのにも勇気が入ります。ある意味、恥知らずでないと
やってられませんw。
744名無し三等兵:2005/11/22(火) 00:02:51 ID:???
>>742
南軍の挑発が契機で戦闘は始まったが、日本軍は居留民地区の南軍を排除し、その後停戦合意を得ている。
>>638>>654でも述べてるが、日本側は居留民保護の戦闘の後に報復的追撃を行っている。
南軍は北伐優先なので日中の本格的に衝突にはならなかったが、日本軍は必要以上に軍を進めた。

辛亥革命以降の中国国内の列強排除感情が渦巻いているのが当時の中国の状況。
その中で必要以上な軍事行動を起こし、対日感情を大きく悪化させたのだから愚かな政策と言えるだろう。
もっと妥当な方法もあったのに、必要以上に対日感情を悪化させたからばか。

745名無し三等兵:2005/11/22(火) 00:22:36 ID:???
>>736
かの国の「雇われ兵」はいわゆる「傭兵」とはまた概念が違うんだよね
もっと頭の悪い、銭次第でころころ動く野盗の群れというイメージ。
つーか、親分を変えただけの匪賊の集まりというのが正しいのかもしれない。
746名無し三等兵:2005/11/22(火) 00:23:28 ID:???
もっとも、この済南での必要以上の進軍は南京事件の反省に基づく政府、軍部の積極姿勢の表れである。
積極姿勢の最初の事件なのだから頑張ったとも言えないくも無いが、日中間の関係悪化を即したのは間違いない。
ところで、済南事件後の邦人保護の日本側方針、特にどこまで軍を介入させるかについてご存じない?
>イナゾウ氏
747名無し三等兵:2005/11/22(火) 00:32:32 ID:???
>>745
私の手元にある「陸戦史研究普及会編:米海兵隊の中共軍重囲の突破」というタイムリーな文献によると、
人民解放軍の最も精強と呼ばれた第九軍集団が中共軍介入の初期に投入されている。
また、中共軍の士気の旺盛さには米海兵隊でさえ恐ろしさを感じたとかかれいる。
第一波が米軍の優勢な火力、航空支援で倒れても、屍を乗り越え第二派、第三派が続くのだから怖いわな。

どうも、朝鮮戦争に投入された中共軍は国民党残党やらその辺のごろつきだけでは無いようだ。
というか、残党、ごろつきが投入されたってのは、どの様なソースによるのだろう?
748名無し三等兵:2005/11/22(火) 00:35:49 ID:???
つーか文明国相手の外交と、非文明国相手の外交を上手く使い分けれなかったいかんのだ。
幣原外交は欧米相手には結果が出せたが、支那相手だと全然駄目ポ。
逆に、田中外交は武力を用いるのはいいけど、日本単独で突っ走りすぎ。
手を汚す時は仲良く共犯ってのが、欧米の基本なのに…

両方のバランスが取れた外交が使えないと、先進国の外交足りえない。
まぁ、昭和初期の頃まで、軍は陸海とも政治出兵を何かと嫌う傾向があったから、
使いたい時に使えない事が結構あるからな…
749イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 00:46:36 ID:???
>>746
>>ところで、済南事件後の邦人保護の日本側方針、特にどこまで軍を介入させるかについてご存じない?

正直、分かりません。ただ、類似のケースから推測はできるかもしれません。

第二次南京事件(1927年)の場合、その後も長江沿岸地域で「排日行動」が続いたため、
蘇州・鎮江・杭州・蕪湖・九江・南昌・漢口・長沙・常徳・宜昌・沙市・重慶・成都・萬県など、
上海をのぞく各都市から、日本人居留民が続々と引き揚げています。

その数は3000人余りです。もちろん現地に築いてきた生活基盤を捨てて、
いわば着の身着のままの状態で日本に帰ってくる訳ですから、支那に対する
国内世論も相当悪化したと思います。
750:2005/11/22(火) 00:47:17 ID:5f3R9EY6
各位日本的朋友們 可不可以也介紹一些有關日本出版有關{中日戰爭}的書籍??
Every good friends in Japan, would you introduce some books about {Sino-Japanese war2}in Japan?
我雖然從高中開始 就有讀一些資料 但是這些書 多半是台灣或是中國大陸出版的
When I was a junior high school student. I had read some history book.
But mostly of books were published by Republic of China or Communist China.
學校圖書館的資料又比較舊
The data in school library are past.
我有時候會到台北天母的紀伊國屋書店去看看
Sometimes I will go to 紀伊國屋書店 in Taipei.
請?們介紹一些書給我?
Please introduce some books which published by Japan.
不過如果是介紹像小林善紀那種書的話...
But if you introduce some books which write like 小林よしのり....
我也看了不少...不過史的可信度比較低
I also read someone....but it is not to be believe.......
像{戰爭論}{靖國論}{台灣論}我都有看過.....但是作為史的可信度不高
751イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 01:01:33 ID:???
生命の安全を守るだけなら、日本人居留民を引き揚げさせる以上のことはない訳です。
しかし言うまでもなく、これでは支那側の『思う壺』ですね。

そして、いきなり盧溝橋事件後(1937年)に話が飛んで恐縮ですが、ここでも当然
抗日運動が激化し、日本人の引き揚げが急速に始まります。

外務省は1937年7月28日、長江上流の重慶・宜昌・沙市・長沙・武漢・九江・蕪湖・
大冶・南京・鎮江の日本人居留民、2万9230人に引き揚げ勧告を出します。
いやはや「第二次南京事件」後とは桁が違います。

当時、中国沿岸の日本権益と居留民保護は、海軍の第3艦隊(長谷川清中将)が
担当していました。上記の都市からは、日本海軍の艦艇で8月上旬までに上海に
避難させられます。

しかし、上海に残った計3万人、青島の2万人の居留民は『現地保護』の方針が
取られます。もちろん青島は済南の最寄の港になります。
752名無し三等兵:2005/11/22(火) 01:01:34 ID:???
>>749
わかりませんか。
こちらの方でも調べて見ます。

それにしても、居留民の保護の為に軍が出兵し、さらに居留民を危険に追いやるというのはなんとも皮肉な話だ。
753イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 01:15:37 ID:???
当然、海軍の第3艦隊だけでは手に余りますから、米内光政海軍大臣は
1937年8月7日、杉山元陸軍大臣に対して「上海・青島」の日本人居留民
保護のため、陸軍の出兵を閣議で決定するように要請します。

この時は近衛内閣ですね。

しかし既に陸軍は、北支と内蒙古の作戦だけで重荷になっていましたから、
戦線が中支に拡大するのを恐れて、杉山は米内の提案を閣議に出さずに
握りつぶします。

この点は評価が難しいです。「このチキン野郎!」と罵りたいのは山々ですが、
この段階で戦線を「北支に止めたい」と陸軍が判断していたことも評価できる
からです。

そして8月9日に「大山事件」が上海で起き、情勢がどんどん怪しくなってきますw。
754イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 01:28:23 ID:???
このため長谷川中将は、佐世保に待機していた海軍部隊を上海に呼び寄せ、
上海の居留民も出来るかぎり内地に送還させ、8月中旬までには
約1万人にまで減らします。また、南支の居留民1万2千人も8月中に
引き揚げが終了しました。

米内海相は、8月9日の閣議で重ねて杉山陸相に陸軍の上海出兵を要請し、
杉山も折れたため閣議決定がなされます。

しかし、杉山が陸軍の出兵を渋った背景には当然、役者がいます。当時、
参謀本部作戦部長だった石原莞爾です。カンジは、

「陸軍の派兵は『青島以外』の北支だけに止め、上海・青島の居留民保護は
 海軍が担当するべきである」

と居留民を事実上見捨てる、どう好意的に解釈しても「あとは野となれ、山となれ」的な
鬼のようなことを強く主張し、梅津参謀次長もこれに同意します。
755名無し三等兵:2005/11/22(火) 01:37:36 ID:???
>>750
唯先生.Nin好!
>介紹一些有關日本出版有關{中日戰爭}的書籍??
我的看過guan連史料和圖shu不多.不好意思

防衛庁防衛研究所戦史室編纂 「戦史叢書」(朝雲新聞社)
日中戰爭的基本史料之一.

[日中戦争の諸相}
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinsei/0309.htm
zhe個ULR是有關{中日戰爭}的書籍目lu
ttp://www.toyo-bunko.or.jp/cgi-bin/MCT.cgi?n=12.2&db=J
別的有關ULR
http://66.102.7.104/search?q=cache:yHjjQWiCWFcJ:www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2004_09/bookreview_kato.pdf+%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%80%E7%A0%94%E7%A9%B6&hl=ja

電網上史料
ttp://www.jacar.go.jp/
可能看當代的有guan戰爭政府文shu
NACSIS Webcat 檢yue日本学術研究論文,圖shu
ttp://webcat.nii.ac.jp/
有意意思的個人的HomePage
ttp://homepage1.nifty.com/SENSHI/index.htm

私自身は日中戦争について現在勉強中で唯氏にお教えできるほどの知識はございません
もし可能でしたら諸賢の皆様にも、これは必見というような日本における日中戦争関連の書籍を紹
介していただけましたら幸いです。出すぎた真似でしたら申し訳ございません
756イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 01:48:09 ID:v6/V3G9w
しかしこれでは、8月9日に陸軍の出兵を閣議決定した杉山陸相の責任問題に
なりますので、しぶしぶ最低限の上海出兵(2個師団)を8月13日の閣議で
再決定します。

そのころ時すでに遅く、国民党中央軍3万人と雑軍2万人の計5万人余と
日本海軍の上海特別陸戦隊2500人が戦闘を開始します。午前10時30分、
共同租界の広東路に陣地を構えた支那軍が先制攻撃をしかけてきました。

結局、済南事件以後は、日本人居留民の人数が「ケタ違い」に増えてきますから、
いざとなったら、まとめて引き揚げさせるしか方法がなかったのではないでしょうか?
半端な出兵数では、とても守りきれません。

米内海相が上海出兵を強く要請したことは、一般的には彼の功績にミソ(クソ)を付けた
ように言われることが多いですが、自分には米内の悲鳴が聞こえてくる気がします。
常識的に考えて、居留民を見捨てるカンジの方が鬼だと思いますw。正確には、海軍に
責任を押し付けたと言うべきですが。
757イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 01:56:32 ID:v6/V3G9w
仮にカンジの主張する通り、陸軍を一兵たりとも上海に出さなかったと想像すると、
背筋が寒くなります。

上陸2500人と日本人居留民1万人は全滅でしょう。あるいは捕虜にされた方が
その後が面倒になったかもしれません。

まあ、8月9日に杉山が折れて閣議決定していなくても、8月13日以後に
緊急で派兵は決定されていたでしょうが、数日の遅れが死命を分けていた
可能性はあるでしょう。
758名無し三等兵:2005/11/22(火) 02:14:00 ID:???
>>756
イナゾウ中佐殿が指摘された日中戦争の全面化と米内光政とのかかわりに
ついては考察した書籍としては

相澤 淳『海軍の選択 再考真珠湾への道』中公叢書 中央公論新社

がございます。これは従来の海軍善玉史観を批判し、日中戦争からアメリカと
の開戦にいたる過程での海軍の関与の決定性を論じた興味深い書です

759イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 02:30:23 ID:???
>>757
>>上陸2500人と日本人居留民1万人は全滅でしょう。あるいは捕虜にされた方が
>>その後が面倒になったかもしれません。

ちょっと言い過ぎました。おそらく戦闘中も民間人の引き揚げは強行される
でしょうから、特別陸戦隊の全滅だけで済むかもしれません。あるいは
日本版ダンケルクになったでしょう。

支那人相手に屈辱以外の何物でもありませんw。

これで日本の上海権益はすべて無と帰す訳ですが、他の列強諸国の権益が
どうなったかは興味が湧きます。
760名無し三等兵:2005/11/22(火) 07:36:08 ID:???
↑日本人居留民と一概に言っても、商社員〜大陸浪人〜食い詰め貧民まで多種多様だった。

日本政府が死守しようとしていたのは、下位2種の住民が勝手に住み着いて租界化していた虹口地区(中国政府はスラム認定していたw)であり、居留民保護はその口実に過ぎなかった。

勿論、商社員達は英米租界に居住しており、租界理事会と英米陸戦隊に保護されていたので、最初から危険などなかった。
761名無し三等兵:2005/11/22(火) 07:42:26 ID:???
>>619
>関東軍首脳は、張を殺さないと満州は天下泰平になり、日本では軍縮が激しくなる。
> 軍人が階級を昇りぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。
> そして張作霖を殺した。それは『斉藤恒(関東軍参謀長)の案』なんだ」と答えています。

これが本当だとすると、関東軍を規律粛正する
組織を持たなかったことが日本の失敗だと言うことになりますね。

このせいで数千万死んでる。
762名無し三等兵:2005/11/22(火) 11:13:37 ID:???
>>760
つまりさっさと見捨てるべきだったと。

>勿論、商社員達は英米租界に居住しており、租界理事会と英米陸戦隊に保護されていたので、最初から危険などなかった。

それって全体のどのくらいっすかね?

>>761
当時の「関東軍首脳」って誰でしたっけ?
763名無し三等兵:2005/11/22(火) 12:34:19 ID:???
>>762
憲兵隊っていちおう関東軍にもいたんですよね。
機能しなかったのか。
764名無し三等兵:2005/11/22(火) 13:15:12 ID:TLqRTLY3
>>744

 追撃に対して見解が分かれますね。確かに>>744さんのような効果を
及ぼした面もあるでしょうが、ただ南京事件において米英が艦砲射撃を
したことにくらべ日本が何もしなかったことに対して軽侮されるように
なったという経緯があります。

 そうなると追撃は危険を取り除く(火事で言えば消火したが念のために
水をかける)、軽侮されないために武威を示すという意味もあります。
ただ、その結果は宣伝されて逆効果になったということでしょう。

結局:日本が動く⇒恨まれてトラブルの種が出来る(史実)
   日本が動かない⇒軽侮されたりしてやっぱりトラブルの種が出来
   る(南京事件後の経緯)

ということでしょう。

 が、それを防ぐには小手先の動きではなくて、根本的に日本が満州も
含めて撤退しないといけなかったでしょう。日本で言えば幕末の攘夷思想
のような感じが当時の中国の状況ですから、そこまで譲歩して初めてトラ
ブルの種が消えるわけで、それは現実にはどうしようもない状況ですから
やはり日本が馬鹿かというよりも、遅かれ早かれの運命だった と言える
のではないでしょうか。
765名無し三等兵:2005/11/22(火) 14:58:29 ID:???
>>763
憲兵って張作霖爆殺とかの工作を取り締まれる権限を持ってましたっけ?
766:2005/11/22(火) 19:26:54 ID:4v5ayb6Q
今天 我將會把在中日戰爭的22場戰役標示出來
Today,I will try to indicate the 22battles in Sino-Japanese war2
不過我如果知道日本的説法
But if I know what Japanese said it
我也會試著標示出來
I will try to indicate it
如果有錯 請?指正
If I write the wrong words,please make a comment to it.
一.太原會戰 {中國山西省}
時間:民國二十六{1937}年九月十日~十一月七日
參戰人數:日本軍二十萬 中國軍二十八萬
傷亡:日本軍二萬 中國軍十二萬
參考資料 reference material: 史政局{抗日戰史}

二 淞滬會戰 {中國上海} [第二次上海事變]
時間:民國二十六{1937}年八月十三日~十一月十三日
參戰人數:日本軍七個師團 兩個旅團 中國軍七十五萬人
傷亡:日本軍五千人 中國軍十八萬人
參考資料 reference material: 史政局{抗日戰史} 伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇}

三徐州會戰
時間:民國二十七{1938}年二月十二日~五月十九日
參戰人數:日本軍五個師團 中國軍四十五萬
傷亡:日本軍一萬一千六百二十九人 中國軍no data

767:2005/11/22(火) 19:48:08 ID:MUV5pMfp
四 武漢會戰[武漢會戰]
時間:民國二十七年{1938}六月三日~十月二十六日
參戰人數:日本軍十二個師團 中國軍一百零一個師
傷亡:日本軍二十萬 中國軍二十四萬三千八百人
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史} 伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇}

五 南昌會戰
時間:民國二十八年{1939}三月十七日~二十八日
參戰人數:日本軍兩個師團 中國軍十三個軍
傷亡:日本軍一萬三千人 中國軍十萬六千人
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}
伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇} 陳誠{抗戰經過概要}
六 隨棗會戰
時間:民國二十八年{1939}年四月三十日~五月二十三日
參戰人數:日本軍三個師團 一個旅團 中國軍二十四萬
傷亡:日本軍兩萬一千人 中國軍三萬人
參考資料 reference material: 史政局{抗日戰史} 伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇}

七 第一次長沙會戰 [?湘作戰]
時間:民國二十八年{1939}年九月十四日~十月十九日
參戰人數:日本軍三個師團 兩個支隊 中國軍十八萬六千人
傷亡:日本軍一萬三千人 中國軍兩萬五千人
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}
伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇} 陳誠{抗戰經過概要}
768少佐:2005/11/22(火) 19:53:14 ID:u1Hb9Ycs
当時の中国軍と言うと、何か槍だけで戦ってたようなイメージがあるが、
そんなことはない。
戦闘機、爆撃機、戦車、大砲、迫撃砲、機関銃、ライフル、手榴弾、拳銃、
地雷、ブービートラップとおよその武器は中国側にもあった。
ちゃんとした野戦陣地や地下壕も中国にはあったのである。
769少佐:2005/11/22(火) 19:58:18 ID:u1Hb9Ycs
日本軍は国民党軍と戦うだけではなく、共産ゲリラや米英の支援部隊
とも中国で戦ったのである。
マスタングやスピリットファイアも中国の空に投入されてたそうだ。
そこで勝って進撃してた日本軍はまさに38小銃と偉大なる人間力の
力の結集がそこにあったとしか言いようがない。
770名無し三等兵:2005/11/22(火) 20:06:10 ID:???
>>762 当時の大商社は今より数も少ないので、英米租界にいた商社員は日本人居留民全体の1%にも満たない。
つまり100%近い虹口住民は日本からの棄民であり、例のイラク三馬鹿程度の社会的価値しかなかった。
当時の日本は、そういった棄民の運命に対して通常は ほとんど無関心だった。
771名無し三等兵:2005/11/22(火) 20:06:45 ID:???
>>769 少佐が“マスタリング”と書くのに10万ドンw
772:2005/11/22(火) 20:14:33 ID:MUV5pMfp
八 桂南會戰
時間:民國二十八年{1939}十一月十五日~民國二十九年十一月十七日{1939/11/15~1940/11/17}
參戰人數:日本軍兩個師團 兩個旅團 中國軍十五萬人
傷亡:日本軍八千人 中國軍六萬四千人
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史} 伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇}

九 棗宜會戰
時間:民國二十九年五月十一日~六月二十一日{1940/5/11~1940/6/21}
參戰人數:日本軍七個師團 兩個旅團 中國軍五十四個師
傷亡:日本軍三萬五千人 中國軍 no data
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}
伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇} 陳誠{抗戰經過概要}

十 豫南會戰
時間:民國三十年一月二十四日~二月十三日{1941/1/24~1941/2/13}
參戰人數:日本軍三個師團 一個旅團 三個坦克聯隊 一個騎兵聯隊
中國軍二十七個師
傷亡:日本軍九千人 中國軍九千人
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}






773\(^■^ ラ 【卍】1938年2月20日の演説より:2005/11/22(火) 20:25:20 ID:???
【卍】 ≦予 ̄>
  G\(^■^ ラ
   \ <!>+\ ここから日本と我々の関係が生ずる。
余は、日本を傷つけることによってヨーロッパの世界に奉仕していると
信ずる政治家たちに同意することはできない。
余は、東亞において日本人が敗北すれば、
それは決してヨーロッパまたはアメリカに何ら有益ではなく、
ひとりボルシェヴィキ・ソヴィエト・ロシアに利するに過ぎぬであろうと信じている。
余は、支那をボルシェヴィキの攻撃に抵抗し得るほど
精神的または物質的に強力だとは考えない。
しかし余は、日本の最大の勝利ですらも、ボルシェヴィキの勝利に比すると、
世界の文化と一般的平和にとって、危険は無限に少ないと信じている。

  ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ
G\(^∀^ G\(^∀^ G\(^∀^ ク
 \¶:¶±\¶:¶±\¶:¶±\

774:2005/11/22(火) 20:28:45 ID:JaHm5+8q
十一 上高會戰
時間:民國三十年三月十五日~四月三日{1941/3/15~1941/4/3}
參戰人數:日本軍兩個師團 一個旅團 中國軍十一個師
傷亡:日本軍一萬五千人 中國軍二萬人

十二 晉{中國山西}南會戰
時間:民國三十年五月七日~五月二十七日{1941/5/7~1941/5/27}
參戰人數:日本軍五個師團 四個旅團 中國軍十九個師
傷亡:日本軍二萬人 中國軍 no data
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}
伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇}

十三 第二次長沙會戰[第一次長沙作戰]
時間:民國三十年九月七日~十月十九日{1941/9/7~1941/10/19}
參戰人數:日本軍七個師團 一個旅團 中國軍三十萬人
傷亡:日本軍四萬一千人 中國軍五萬九千人
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}
伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇} 何應欽{八年抗戰之經過}
775674:2005/11/22(火) 20:29:15 ID:541TaEJb
776少佐:2005/11/22(火) 20:40:26 ID:u1Hb9Ycs
旧日本軍の中国における進撃と勝利の数々はまさに人間力の偉大なる
勝利であったとしか言いようがない。
徒歩と馬でよくあれだけやったもんである。
777少佐:2005/11/22(火) 20:41:56 ID:u1Hb9Ycs
38小銃とクソ長い銃剣にしても、中国戦線に関しては適した
武器だったのではないかと思う。
南部拳銃や日本刀も然りだ。
778:2005/11/22(火) 21:08:13 ID:MUV5pMfp
十四 第三次長沙會戰[第二次長沙作戰]
時間:民國三十年十二月十九日~民國三十一年一月二十五日{1941/12/19~1942/1/25}
參戰人數:日本軍十七萬四千人 中國軍二十六萬八千人
傷亡:日本軍四萬六千人 中國軍三萬一千人

十五 浙{浙江}?{江西}會戰
時間:民國三十一年五月十五日~八月十九日{1942/5/15~1942/8/19}
參戰人數:日本軍十八萬人 中國軍二十六萬人
傷亡:日本軍六千人 中國軍no data
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}
伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇} 何應欽{八年抗戰之經過}
{日軍在中國各方面之作戰紀?}

十六 鄂西會戰
時間:民國三十二年五月五日~六月十七日{1943/5/51943/6/17}
參戰人數:日本軍六個師團 一個旅團 中國軍三十六個師
傷亡:日軍二萬五千人 中國軍三萬九千人
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史} 何應欽{八年抗戰之經過}

十七 常コ會戰
時間:民國三十二年十一月二日~十二月十三日{1943/11/2~1943/12/13}
參戰人數:日本軍三十五個大隊 中國軍四十二個師
傷亡:日本軍四千二百人 中國軍no data
779:2005/11/22(火) 21:38:57 ID:4v5ayb6Q
以下三場戰役都是記日本軍{一號作戰1944]的内容 中華民國將戰史分為三期
The following three battles ware all to take down い号作戦1944 the history of Republic of China would cut it to three parts.
十八豫{河南}中會戰 [い号作戦之一]
時間:民國三十三年四月十七日~六月十一日{1944/4/17~1944/6/11}
參戰人數:日本軍十一個師團 中國軍五十九個歩兵師四個騎兵師
傷亡:日本軍三千一百七十人 中國軍兩萬人
十九長{長沙}衡{衡陽}會戰 [い号作戦之二]
時間:民國三十三年五月二十五日~八月八日{1944/5/25~1944/8/8}
參戰人數:日本軍十個師團 中國軍四十七個師
傷亡:日本軍六萬六千人 中國軍九萬人
二十桂{桂林}柳{柳州}{中國廣西省}會戰 [い号作戦之三]
時間:民國三十三年九月八日~十二月十二日{1944/9/8~1944/12/12}
參戰人數:日本軍七個師團 兩個旅團 中國軍四十一個師
傷亡:日本軍no data 中國軍no data
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史}
伊藤正コ{帝國陸軍的最後 進攻篇} 何應欽{八年抗戰之經過}
{日軍在中國各方面之作戰紀?}魏汝霖{抗日戰史}
服部卓四郎{大東亞戰爭全史}
780名無し三等兵:2005/11/22(火) 21:41:57 ID:???
「最後の殿様―徳川義親自伝」より

ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で
大殺戮を行なった。
殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかというようなもの
ではない。
今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時
ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。
しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、
藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。
その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の
大群が怒涛のように逃げていく。
そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。
中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。
そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。
中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに
兵士はちゅうちょして撃たなかった。
それで長中佐は激怒して、

「人を殺すのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。
おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。
長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという。
(「最後の殿様」P170〜P173)
781:2005/11/22(火) 22:07:20 ID:JaHm5+8q
二十一 豫{河南省}西鄂{廣西省}北會戰
時間:民國三十四年三月二十二日~四月十八日{1945/3/22~1945/4/18}
參戰人數:日本軍六個師團 一個坦克師團 一個旅團 中國軍十四萬八千人
傷亡:日本軍一萬五千人 中國軍no data
參考資料 reference material:史政局{抗日戰史} 魏汝霖{抗日戰史}
二十二 湘{中國湖南省}西會戰
時間:民國三十四年四月九日~六月三日{1945/4/9~1945/6/3}
參戰人數:日本軍三個師團 一個旅團 一個聯隊 中國軍 十九個師
傷亡: 日軍六千五百人 中國軍一萬三千人

以上是中華民國劃分的二十二場會戰{雙方部隊超過十萬人}
Over and above are the 22 battles {both sides have over 100 thousand military in war}
which cut by Republic of China goverment.
如果有錯 請指正
If I write the wrong words,please make a comment to it,thank you.
782名無し三等兵:2005/11/22(火) 22:10:02 ID:???
>>780
そのネタはあまたある専門スレでやってくれ。
ここは他の話に特化したスレなんで。
783名無し三等兵:2005/11/22(火) 22:18:54 ID:541TaEJb
>>780
藤田ってのは多分藤田勇ですね。
十月事件に金出してた。
毎日新聞(東京日日、大阪毎日とは別)の社長。

長勇ってのは一種のキチガイだからなあ。或はホントにそんなことしたかも知れんし
虚言かも知れん。
しかしその藤田の話だけで”数万人”を殺した証明にはならんでしょう。
まあこの話は荒れるしキリがないので、782さんのおっしゃるとおり、ここではやらないのが
吉でしょう。
784:2005/11/22(火) 22:20:49 ID:4v5ayb6Q
謝謝? 674 還有 名無し三等兵 我會去買來看的
Thank you, 674 and {solder who have no name }
I will to see the data which you introduce.
Thank you very much.
785名無し三等兵:2005/11/22(火) 22:39:14 ID:???
長勇って、銀座で抜刀パフォーマンスしてたアホでしょ
クーデター起こそうとしたけど怖くなってリーク(つうか料亭で酒飲んで計画を高吟)して逃げたアホ
なんであんなのが軍参謀長までなれたのか非常に疑問に思う。
786イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 23:16:11 ID:???
>>756 >>結局、済南事件以後は、日本人居留民の人数が「ケタ違い」に増えてきますから、

すいません。昨日の晩に上記のように書きましたが、よくよく調べてみましたら
増えたのは、ほとんど満州の人口でしたw。討駄支膿……orz.

お詫びついでに「支那における在留日本人人口」をまとめると、以下の通り。

          満州     華北     華中     華南      合計
1890年                                 864
1895年            64    606      0     901 
1900年    611   1121   1286    201    3640
1905年  11295   3307   5258    638   21200
1910年  76333   3771   9594      *   93173 
1915年 101586   6735  13978    778  124428
1920年 160062  34638  18682   1224  216386
1925年 187988  23233  22767   1246  236770
1930年 228784  24669  27159   1384  283870
1935年 492604  28006  26390   1347  549752
787イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/22(火) 23:39:31 ID:???
実際に書き込むと、なかなか上手く位置が合いませんねw。さて「総合計」の
数が合わないのは、香港、マカオなど、その他の地域を含むからです。

特筆する点は、やはり満州です。とくに満州事変後の人口の伸びが尋常ではありません。
「500万人移民計画」など打ち上げられていましたから別格の存在です。

この表を見た瞬間、お気づきの方もいるでしょうが、おそらく関東軍などの
「駐留日本兵」も数にカウントしています。出典には「在留人口」としか
明記していませんでしたが、そう捉えるのが自然です。

でないと、第一次世界大戦があった1915年〜1920年の間に、華北の人口が急増して
いる説明が付きません。1925年以降は、満州を除いて微増傾向というところでしょうか。

また、華南の人口が少ないことが目立ちます。広東は、中国国民党の本拠地だった
場所ですが、気候があまり良くありません(とにかく暑い)。日本人居留民も少なく
国民党が当初、佐々木到一以外の注目を集めなったのは無理ないことかもしれません。
788名無し三等兵:2005/11/23(水) 00:07:45 ID:dilV7lvb
西安事変への対応でいつも石原と比較される磯谷廉介は、舅が青木宣純である関係から
やや南方通です。彼は河本とは親友で、陸相にも擬されたことがありますが、ノモンハン事件
の責を負って予備となりました。辻政信とは格別の結びつきで、戦後になって辻の悪行が
次々露見しても、その信頼は終生変わらなかったようです。
789イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 00:19:19 ID:KMja37x/
>>762
>>当時の「関東軍首脳」って誰でしたっけ?

アンサーするついでに「満州某重大事件」の処分(1929年7月1日)を要約すると、以下の通り。

関東軍司令官、中将・村岡長太郎は予備役編入。関東軍高級参謀、大佐・河本大作は停職。

東京湾要塞司令官、中将・斎藤恒(事件当時の関東軍参謀長)、および独立守備隊司令官、
少将・水町竹三を、8月1日付で待命休職。同月31日付で予備役編入

以上です。河本大作大佐は、1930年に予備役編入です。

ここで注目すべきは、あくまで陸軍省を通じた『行政処分』であったことです。
当初、昭和天皇に対して事件の責任者を「軍法会議」にかけると明言していた
田中義一首相が、天皇の逆鱗に触れ、内閣総辞職に追い込まれたのは周知の事実です。
田中は直後の1929年9月29日、狭心症で亡くなります。一時は自殺説さえ流れました。
790イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 00:30:00 ID:KMja37x/
>>西安事変への対応でいつも石原と比較される磯谷廉介は、舅が青木宣純である関係から
>>やや南方通です。

そうですね。磯谷廉介は、佐々木到一の前任の「広東駐在武官」ですから
南方通であることに間違いありません。

何にせよ、支那通の中でも、主流はあくまで北京や上海のポストであって
南支の広東などは、あぶれ者が行く場所でした。
791イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 00:48:33 ID:KMja37x/
>>789 の補足を少しすると、

「東京湾要塞司令官」は予備役一歩手前のポストですから、斎藤は既に
首に縄を括りつけられていたのが、処分で「足元の床が抜けた」だけです。

また河本大作は、関東軍に赴任して来たとき、あまりの排日行為の酷さに
ショックを受けたと言います。

支那人の排日行為は日本側にも責任がある、と主張する町野武馬や松井七夫
(松井石根の弟)といった張作霖の軍閥顧問を「寄生虫」や「ダニ」と非難
していたそうですw。
792名無し三等兵:2005/11/23(水) 01:03:32 ID:7nM3L6oF
支那の知識人や上流階級には軍人蔑視の思想があると岡本綺堂がいっておる。
793イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 01:17:22 ID:KMja37x/
>>783
>>長勇ってのは一種のキチガイだからなあ。或はホントにそんなことしたかも知れんし
>>虚言かも知れん。

「いかにもやりそう」という話は、都合よく責任を押しつけるものが多いですから
注意が必要ですね。

例えば「第一次上海事変」などです。

板垣征四郎(関東軍高級参謀)が、満州事変の国際的非難をかわすために
田中隆吉少佐(上海駐在武官補佐官)を呼び出し、2万円の機密費を与えた上で
上海で暴動を起こさせたというものです。

田中隆吉は川島芳子とともに、支那人のチンピラゴロツキを雇い、日蓮宗の僧侶を襲わせて
上海事変を起こす工作を行なったと語られますが、話が出来すぎていると思います。
794イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 01:32:55 ID:KMja37x/
もちろん、田中隆吉のような『糞虫』をかばう訳ではありません。
こいつは日本人ではなく「支那の土人だった」と考えるのが自然なゴミ屑ですが、
なぜもっと早く予備役にしなかったのか、不思議で仕方がありません。

それはさて置き、支那側の発表や川島芳子の漢奸裁判、田中手記などは全く
信用なりませんし、当時の上海の治安状況を考えると、上海事変を日本の
責任にするための宣伝工作だったと考えるべきです。
795名無し三等兵:2005/11/23(水) 01:49:32 ID:???
長勇 桜会のメンバーでクーデター十月事件の筆頭実行メンバー(未遂)
そして沖縄戦の参謀長 ですでに死亡している

戦後のプロパガンダとして恨みを背負う人物として仕立てるにはもってこい
796イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 01:59:39 ID:KMja37x/
さて長勇(ちょう・いさむ)ですが、彼を一言で称するならこうです。

「日本陸軍史上、限りなくヤクザに近い軍人」

上官だろうと噛み付き殴り飛ばす、しかし部下の面倒見は良く人望はあったと言います。
政治的な動きが目立ちますが、橋本欣五郎以外の誰にも頭を下げたことがないとか。

そして長勇と言えば、イコールで「沖縄戦の参謀長」ですが、1945年6月23日に
摩文仁の丘で、牛島満中将と割腹自決する際には、

「閣下は極楽、私は地獄。これでは行き先が違ってご案内できませんな」と語り、
周囲を和ませました。

自決時、中島満は軍装でしたが、長は背中に『義勇奉公 忠則尽命』と墨書きした
異形のワイシャツ姿でした。牛島から脱出を命じられた八原高級参謀に、
「八原、後学のために余の最後を見よ」と静かに語りかけたといいます。
797名無し三等兵:2005/11/23(水) 09:21:56 ID:???
長勇は一種の精神障害者だったと思われる。
社会的な倫理より自己の欲求が勝ってしまうが、その欲求実現のための努力が並外れたタイプだった。
南京では軍司令部に捕虜の処遇を伺ってくる電話に“やっちまえ”と勝手に指示して廻り、沖縄戦では便衣兵戦術を命じ、とロクな事をやらなかった...
798名無し三等兵:2005/11/23(水) 11:41:25 ID:???
>>797
ソース。
799名無し三等兵:2005/11/23(水) 12:20:59 ID:???
やっちまえ
http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/nanking.3.html

沖縄での便衣兵戦術については陥落後の司令部に長勇による指令文書が残っていたとされる。
800名無し三等兵:2005/11/23(水) 13:03:33 ID:???
やっちまうほかに手はあったのか?
801名無し三等兵:2005/11/23(水) 14:06:03 ID:???
日中戦争時の日本軍は捕虜収容の準備を全くしていなかった。
この時点で戦時国際法に即して捕虜を遇する意思がなかった事を示している。

しかし、日本の現地軍将校は士官学校において捕虜に対する処遇を教育されており、これに従って軍司令部の電話で“やっちまえ”と勝手にわめいていた長勇のけしかけに対して「絶対に応じない」と抵抗した将校もいた。

なかでも悲劇的だったのは、1937年12月15日に幕府山砲台で投降した14,000名の捕虜の処遇に困った山田支隊のケースで、載せられるケースだったためか偕行社の書籍にも掲載されている。

山田支隊の山田旅団長と両角連隊長は、旅団副官を軍司令部に派遣して軍による捕虜収容を建言するが容れられず、逆に軍司令部で「捕虜を速やかに処理せよ」と命じられてしまう。
これを嫌がり、独断で捕虜を解放しようとしたが、捕虜が“殺される”と勘違いして暴動を起し、結局 1000名近くを軽機でまとめて殺す羽目にもなってしまった...
802名無し三等兵:2005/11/23(水) 15:38:14 ID:???
>日本の現地軍将校は士官学校において捕虜に対する処遇を教育されており

独断で捕虜を逃がせば重罰って軍規に載ってる。
利敵行為になるそうだ。
当たり前だが。
何のための包囲戦なるぞ。

つうか、逃がしたという日本軍側の証言ってあんの?
803長勇:2005/11/23(水) 16:17:25 ID:???
くだらん論争はよそでやれ
ここでこれ以上ウヨサヨ論争やる奴は、俺が鉄拳制裁してやるからな
覚悟しやがれ
804名無し三等兵:2005/11/23(水) 18:14:50 ID:???
捕虜取り扱いねえ…。でも戦争じゃないんだよな、シナ事変って。
805名無し三等兵:2005/11/23(水) 19:08:12 ID:gRb4yBKe
 上海から南京攻略戦の時の傾向としては捕虜については数が少なければ処刑で、
数が多ければ解放。藤原彰が引用している資料では処刑の所だけがクローズアップ
されているが、藤原彰がカットしている部分では「解放するのも構わない」とし
ている。つまり現地で臨機応変に対処しろということ。

>>801

 幕府山は栗原証言でスケッチがあったが、あれは戦後に毎日新聞が聞いた際に
書いたもの(新聞では「当時入院中にスケッチ」とあったが)。

 幕府山では捕虜を受け入れた歩兵連隊は定数3800に対して2200まで
減衰しており、また初日に実際に移送を行なった第一大隊は150弱まで減少し
た人員で移送を行なっている。
 そこで移送中に暴動が起きたたが、日本は少尉以下数人が死んでいる
(負傷も入れるともっとなる)。移送だから重機関銃は追随できず、突発的な
暴動のために日本にも死者が出ている。
 100人弱の兵数での一万五千人の移送中に起きた、突発的な暴動に
対する軽機関銃と歩兵銃の乱射による暴動制圧では効果がたかが知れている
ので偕行社などの資料は幕府山で死んだ中国兵は数百〜千人としている。
 しかし戦後は死んだ数が少ない、一万以上だと偕行社を責め、計画的な
処刑だと暴動を否定するが、日本にも被害が出た手際の悪さ、殲滅するには
少なすぎる日本兵の人数を考えれば計画的大量虐殺は少しでも軍事常識が
あればあり得ないと分かるだろう。

 
806名無し三等兵:2005/11/23(水) 19:17:08 ID:???

37年の南京事件の問題については南京専門スレで書いて、
このスレでは、南京について書きこみたがる奴は放置して、
知識を日中戦争にかかわる他の問題について披露してくれ。

ここは南京にこだわらずに日中戦争全般を扱う良スレなので、
37年の南京事件の問題は回避したいのだ。
807名無し三等兵:2005/11/23(水) 19:27:10 ID:???
>>806

 了解。済まん。
808イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 19:28:16 ID:???
南京虐殺の有無はともかく「長勇の人物論」については、このまま終わると
あまりに「尻切れトンボ」というか、後味が悪いので少し脱線します。

>>785 >>クーデター起こそうとしたけど怖くなってリーク(つうか料亭で酒飲んで
>>計画を高吟)して逃げたアホ

十月事件(1931年)の舞台、「料亭・金竜亭」での模様は、戦後に行なわれた
馬奈木敬信へのインタビューが詳しいです。

馬奈木(中将)は、長勇の竹馬の友で、福岡の修猶館(中学校)以来、熊本幼年学校、陸軍士官
学校とずっと一緒でした。連隊の所属から長が久留米、馬奈木が熊本と分かれますが、馬奈木が
陸軍大学校の再審試験のために満州から上京したときは、長の自宅で朝晩を厄介になっています。

馬奈木は、参謀本部第二部(情報)に長く所属し、ドイツなど欧州を中心に駐在武官を
歴任します。事件の前には、親友の長から「桜会」に入会はともかく、九段の偕行社で
行なわれる会合に一度出席してみないか?と誘われたこともあり、二人の親交は続きます。
809名無し三等兵:2005/11/23(水) 19:35:56 ID:???
>>807
ありがとう。
810イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 19:51:00 ID:???
長の親友である馬奈木へのインタビューは、いわば『身内論』の最たるものです。
しかし、荒木中将とともに「金竜亭」に同行して、生の現場を目撃している人物
ですから、貴重な証言であることに違いありません。

十月事件の顛末を要約すると、以下の通り。話の視点は馬奈木のものです。

本当なら、支那に赴任しているはずの長から手紙が来た。このごろ第二部ロシア班で
仕事をしているのは、藤塚少佐ひとりだけ。他は不在。たまに会うと、みな目は
血走っており、長君は東京に戻って某所に隠れていると、耳打ちしてくる者もいた。

10月20日昼ごろ、使者が現れて手紙を渡される。長君が築地の「金竜亭」で自分に会いたい
とのこと。もともと長君とは竹馬の友である。何と言っても、私には打ち明けやすいもの
だから、電話を避けて書面で私を驚かしたようである。

「いつ帰ってきたのか?」との問題から始まり、「あまりガタガタしては駄目だぞ」と
しばらく話して参謀本部に戻った。
811イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:04:24 ID:???
長君は「侠客」じみた派手好みだから、3週間も地下生活を強いられて人寂しくなり、
親友の自分に会いたい気持ちが押さえ切れなかったようである。

しかし「知らぬが仏」は本人や自分ばかりで、既に憲兵は、橋本中佐や危険視されている
将校の動向を逐一調査、上層部に報告し、長君の居所も突き止められていたようである。

長君に会った直ぐの夕方、第一課から呼び出しを受けた。そこには荒木中将や今村均大佐
などが協議している真っ最中で、荒木中将は開口一番、

「馬奈木よ、おれを長勇のもとに案内せよ」 と。

最初は知らぬ存ぜぬを通したが、どうしても許されない。やむなく長君に右の旨
電話をすると、彼は言下に拒絶した。荒木中将は、私を促して車上の人となり、
10数分後には金竜亭の前に車は横付けされた。
812イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:14:12 ID:Ai2l/ROi
荒木中将が「金竜亭」に着いたとき、長君は酒を飲んでいた。自動車の停まる音を
聞いた彼は、浴衣の上に羽織を引っかけ袴を結びながら、2階から飛ぶように降り、
玄関に平伏した。

それが荒木中将の気に入ったらしい。「酔っ払っていても上官を迎える礼を知っている」と
笑われ、お褒めの言葉を私たちに漏らされた。

直ぐ2階に上がり、酒肴を準備させつつ、荒木中将は長君に対して

「お前はいつ帰っていたのか? 帰ってきたら顔ぐらい出せよ」

と、きわめて物静かに語り、詰問するようなところはない。自分で長君に酌をしながら、
頃合になると「ちょっと話があるからお前ら下がれ」と女たちを退けた。そして――、
813イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:23:54 ID:Ai2l/ROi
(荒)「長、お前なにか考えているそうじゃないか」

(長)「何も別に考えておりません」

(荒)「なにはともあれ、いま考えていることをやめよ」

(長)「それはできない、やります」

(荒)「どうしてか?」

(長)「それは私一人のことではない。私には相棒として、橋本欽五郎中佐や
    その他の面々がいる。橋本氏がうんと言わなければ、私はやめる訳にはいかん」

(荒)「それじゃ、橋本がやめると言ったらやめるか?」

(長)「それならやめます」 と答えます。
814イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:36:18 ID:Ai2l/ROi
「橋本中佐をすぐに呼べ」ということになり、1時間後に橋本は現れた。荒木中将は、

「長君はきみの言うことなら聞くとのことだが、きみの計画をしていることを
 やめてもらいたい」 と圧力をかけます。

橋本中佐も「事ここに至っては万事休す」と結論を出して終幕となり、荒木中将は
引き揚げた。その折に橋本中佐は将軍に対して、

「今後の満州事変の処理を完遂しますか?」と念を押した。荒木中将は
「その職に就けば必ず世論に応えたい」と言明した。

そのあと「金竜亭」に憲兵下士官2名が現れたが、橋本中佐は「大木分隊長
(少佐)みずから出張せよ」と追い返した。橋本は「荒木のやつはひどいことを
しやがる。人をこれだけにしておいて、俺たちを憲兵に捕まえさせるとは…」と
怒ったが、大木憲兵少佐が来てなだめ、保護の名の下に東京憲兵隊長難波大佐の
官舎に移ったのが、夜中の1時か2時である。
815イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:55:08 ID:Ai2l/ROi
上記の会話が事実だとすると、「荒木貞夫の人たらし」の上手さが目立ちます。

「十月事件」が終幕したのが20日(深夜)です。二十畳敷ぐらいの大座敷に
通された3人に、翌朝から鯛の塩焼きなど二の膳付きの待遇であったので、
橋本は機嫌を直しました。橋本中佐は、難波大佐にこう言ったといいます。

「貴様も志士を迎える方法を知っておった。それでは飲んでやろう」

翌21日夕方には、「東京にいては煩いからしばらく田舎で静養せよ、
善後策はわれわれが行なう」との方針が出されます。

参謀本部第二部の将校がほとんどで、これに「桜会」のメンバーを加えた
同志が軟禁隔離されます。比較的、年齢や階級差の少ないペアを作ることとなり、

橋本欽五郎中佐と根本博中佐が千葉の稲毛に、長雄と馬奈木が市川市真間に、
影佐少佐と和知少佐、小原・田中両大尉、野田注意などが宇都宮と横浜に隔離されました。
816だつお:2005/11/23(水) 21:00:53 ID:zwlqSjOv
>バカだね、農地解放政策による、農民の支持があったからこそ
>ジリ貧の共産軍があっという間に国民党を台湾に追い落とした。

 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、
ケ小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思
っていませんよ」と切り出した。あっけにとられた一行を前にしたケ小平
の説明はこうだった。
 「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、
長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、
人数も2万人に減って、全滅寸前でした。ところが日中戦争が始まり、
われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押され
ていく。袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、
日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時
には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」

http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm
日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党−ケ小平語録
817名無し三等兵:2005/11/23(水) 21:04:32 ID:???
ドイちゅ を仲介役にして
わへいすればよかったのに・・・

兵力は満州へ集結・・・
ソ連は脅威になったろうし
ドイちゅ にも多少の利益はあつたはず
818だつお:2005/11/23(水) 21:09:07 ID:zwlqSjOv
>地主制を維持する国民党より、地主制撤廃の共産党の
>方が相対的にはるかにましなので支持された。

いったんは地主制撤廃で土地を人民に配分しても、
すぐにチンピラゴロツキ同士の土地配分争いになった。
この辺の事情は太平天国の乱とそっくり。

結局のところ、土地は共産党が没収し人民公社化するしかなかった。
819イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 21:11:25 ID:Ai2l/ROi
これにより参謀本部ロシア班は全滅し、まったく仕事にならなくなりますw。

橋本中佐などが「軟禁先でドンチャン騒ぎ」という話は、>>815 に拠るものでしょう。
もちろん 815 の様子ですと、稲毛の隔離先でも騒いでいたでしょうがw。

最終的に十月事件の関係者は、参謀総長の金谷範三から処罰を受けますが、もっとも重い
橋本中佐と長勇少佐が「重謹慎1ヵ月」です。

処罰を言い渡されるときは普通、「今後は堅く慎みます」「誓って再びいたしません」など
決まり文句を述べるものですが、長勇の場合、

「ありがたく頂戴いたします」 とやって、さらに加罰を喰らうことになりますw。

橋本中佐は、2.26事件後に予備役編入となります。長勇と橋本欽五郎は、
血盟の仲とも刎頚の契りの間とも自称し、一心同体以上の関係にありました。
820イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 21:19:49 ID:???
腐女子のネタで「橋本欽五郎×長勇」は十二分に可能でしょう。もう既にあるかも
しれません。このカプリングの場合、もちろん「攻め受け逆転」もOKです(核藁)。

話は先に戻りますが、別に南京虐殺問題に触れること自体は構わないと思いますよ。
一旦、論争に火が付くと余裕で100ぐらいレスが進んで、話が分断されるのが困りますが。

>>805 は分かりやすくて非常にためになりました。
821だつお:2005/11/23(水) 21:35:22 ID:zwlqSjOv
土地改革ってのはよー、単に地主を殺して土地を配分することじゃないぞ。

政府主導で公共事業を進めることで新しい産業を興していくことで、
労働生産性を高めて小作人の地主離れを促進させることだ。

昭和維新では工作機械・自動車・飛行機産業が官僚主導の護送船団方式
で進められ、小作人・労働者の地主離れ・財閥離れが進んだ。
822名無し三等兵:2005/11/23(水) 21:39:36 ID:dilV7lvb
そもそも十月事件は池田純久と田中清が今村均に密告したことで露見しました。
今村は建川美次に橋本たちを抑えるように頼み、建川は橋本と会談。
橋本は建川に”やめることに致します”と約束し、やれやれ一件落着と皆喜んでいると、
再び今村のところに、桜会の根本博、影佐禎昭、藤塚止戈夫が現れ、「橋本中佐が
断念したというのは虚言なり」と訴えたのです。これを受けて陸軍省に省部の主だった
人々が集まり、善後策を協議した結果、荒木中将が行って説得するのが良いということに
決定しました。それが>>811です。

その後、金竜亭から戻ってきた荒木は、「彼等は止めるとはいわないが、実行を4日延ばす
というので引き揚げてきた」と報告。それを聞いて即時拘束を主張する人々に対し荒木は、
「4日あるのだからその間に説得すればいい」と、拘束に反対します。そうこうするうちに
三度今村大佐のところに全く知らない人物の名刺が届けられました。裏を見ると、
「さきほど荒木中将に申した4日の日延べは虚言なり。明朝実行に変わりなし」と書いてあります。
これをうけて遂に橋本以下の拘束が決定しました。それが>>814の憲兵派遣です。
823名無し三等兵:2005/11/23(水) 21:52:16 ID:???
>>820

 有り難う御座います。

ですが話をぶった切るリスクのあるレスをして済みません。
824名無し三等兵:2005/11/23(水) 21:59:43 ID:???
>>805 偕行社の資料では、下記の様に推移したとある。

1. 12/15 山田支隊は幕府山砲台で投降した14,000名のうち非戦闘員を除く8,000名を捕虜として受け入れた

2. 山田支隊は捕虜を幕府山砲台建物内に拘留/監視したが、国府軍の残存食料で自炊をさせていた

3. 山田旅団長は、残存食料での捕虜の長期扶養は困難なので軍司令部に方針伺いを立てたが「捕虜はとらぬ方針」と(おそらく長勇中佐から)返答され、自分達で処理する羽目となった

4. 同日夜、炊事中に発生した火事の混乱に乗じ、捕虜の半数が逃亡した

5. 12/16 山田旅団長は旅団副官を軍司令部に派遣し、軍による捕虜収容を建言するが容れられず、調査に来た憲兵将校にも多数の捕虜を処理する事の困難を説くが、軍司令部の返答は「捕虜を速やかに処理せよ」だった
(憲兵将校の捕虜収容状況視察とは、即ち山田支隊が捕虜逃亡を防げなかった事が“陸軍刑法/第10章 俘虜ニ関スル罪/第91条 俘虜ヲ逃走セシメタル者ハ十年以下ノ懲役ニ処ス”に該当するかどうかの調査だった事は明白である)

6. 捕虜処分を回避したい山田旅団長と両角連隊長は、揚子江中洲/北岸への捕虜放逐を決めた

7. 捕虜を河岸に引率したところ、船が無い事を見てとった捕虜達が殺されると勘違いして騒ぎはじめた

8. 数発の銃声がきっかけとなって捕虜の暴動が発生し、栗原伍長が機銃を掃射し捕虜1000名近くが死亡した

9. この時、日本軍将校1名が軍刀を奪われ死亡、他に6人の日本軍兵士も死亡した。

となる。山田/両角の両氏は軍司令部に抗命してでも、捕虜を釈放して その命を救おうとしたが結果的に1,000名の捕虜と7名の日本軍将兵が死亡した。
同時に、ここから判明するのは 軍司令部から捕虜処分=殺害指示が出されていた事である。
825名無し三等兵:2005/11/23(水) 22:05:24 ID:???
↑根本的な疑問だが船もないのにどうやって捕虜を揚子江中洲/北岸への放逐するつもりだったのか?という点。

山田/両角の両氏は、結局 軍司令部の命令に従って捕虜を殺害するつもりだったが、捕虜が抵抗して不慮の損害を受けたため、このような形で口裏合わせをしたと考える方が辻褄が合う。
826名無し三等兵:2005/11/23(水) 22:31:13 ID:???
>>824
 レスしていいものかどうか迷うが、日中戦争の時の機関銃に関連つけて。

南京攻略戦前後の時に日本軍にあったと思われる機関銃(保式、鹵獲品は割愛)は、

重機関銃が3年式機関銃(銃本体だけで25,6キロ)、92式重機関銃
(銃本体28キロ、三脚入れて55キロ)
軽機関銃が11年式軽機関銃(脚付き10キロ、5発クリップによって30発)、
最新型で96式(1936年)軽機関銃(脚付き9キロ、30連)。

 重機本体は足をつけて二人かかりで運ぶので(弾薬手は別)捕虜の移送には
使えない。
 だとすると普通に軽機関銃になるが、11年式軽機は5発クリップ積み重ね
の給弾機構が実用的で無いタイプであるし、終戦まで11年式が使われているこ
とや最新型の96式が彼らのあったか疑問。また軽機は弾をすぐに使ってしまう
ので、捕虜集団の護送のために日本兵は点在していた(そのため個別に制圧射撃
を行なっていた日本兵に被害が出ている。少尉は腹に軍刀を刺されて死んでいた
のが鎮圧後に発見された)のも考えて暴動鎮圧の最初すぐに弾が無くなったと
考えられる。
 移送に当った大隊が100名程度ということを考えると殺害指示が出たという
ことは考えられない。
 また栗原氏ら機銃手が根性入れて射撃しても移送中の際の暴動勃発を考えて
機銃手一人当り10人殺したら御の字だろう。
827名無し三等兵:2005/11/23(水) 22:57:55 ID:???
>>826 軽機については、以前別スレでも詳解した事があるが、日本軍は国産の出来損ない11年式ではなく鹵獲品のチェコ製ZB26軽機を多用(というよりそれしか使える軽機がなかったw)していた。

鹵獲品のZB26軽機が日本軍でいかに大量に存在していたかは、各種の従軍兵士手記に必ずといって良いほど鹵獲したZB26軽機についての記述がある事からも推察されるが、具体的な数は判明していない。

しかし、南京城陥落直後の戦利品発表では、重軽機関銃3,200丁 銃砲弾各種合計460万発が鹵獲されたと発表されている事と、上海→南京の国府軍が装備を放棄して行く壊走状態だった事を考えると、数千丁のZ26機銃を日本軍は有していたと考えて良いだろう。

軽機は密集した集団に向けて発射されれば、驚異的な殺傷力を発揮する。
100名もの日本兵と数丁のZB26軽機があれば1,000名程度の丸腰の捕虜を始末するのは極めて簡単な事でしかない。
828イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 23:05:05 ID:ny4P8FeJ
>>822 >>その後、金竜亭から戻ってきた荒木は、「彼等は止めるとはいわないが、実行を
>>4日延ばすというので引き揚げてきた」と報告。

スイマセン。肝心なところが抜けていましたね、説明サンクス。

馬奈木少佐の場合、十月事件が起きた1931年7月まで、ドイツ大使館付武官補佐官
(1929年〜)として欧州に滞在していましたから、当時まったく自分の周りが
掴めていなかったと思います。

「え? 大川周明って誰?」と、長の紹介で初めて存在を知ったぐらいですからねw。

馬奈木本人も、第二部のあまりの変わり様(1926年〜1929年:参本部員)に面食らっていました。

結果的に「上記のインタビュー」は間の抜けたものと言わざるを得ませんかね。
または故意に粉飾しているとも言えますw。本人インタビューの常ですが、聞き手も
読み手もミスディレクション(誤導)されないように勉強が必要です。
829名無し三等兵:2005/11/23(水) 23:23:57 ID:???
>>827
 ZB26は性能が良いが装弾数20発。引き金を引いて20発撃ったら再度装填
しないといけない。突発状況での連続射撃と弾薬補給、銃身加熱などを考えると
各兵が散開していた状況で数丁の機関銃で密集した群を撃っても、全弾命中、
1発1殺というのは難しいからそんなには殺せない。

 また幕府山の移送は南京が陥落して日が浅いので、新たな鹵獲品が行き渡って
使えるようになれたかも疑問。

 また100名程度の護送兵の大分は歩兵銃だが、歩兵銃は5発クリップの
ボルトアクション。仲間は散開していて周りは中国兵だらけという状況を想像
して欲しい。
 引き金を引いて1発ごとにボルトアクションをして、5発ごとに再装弾。
しかも撃って当てて殺さなければならない。
 だからその後死にそこなったのを銃剣で刺し殺しまくったという状況でも
偕行社などが数百名から最大千名くらいとしたのは護送部隊などの規模を
考えると妥当じゃないかな
830イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 23:27:51 ID:ny4P8FeJ
このスレでは『軍閥』の話で大きく脱線することが多いですが、日中戦争・
支那事変を語るうえで「不可避」のことですので、どうぞご容赦ください。

上記の十月事件も、同年9月18日に起きた「満州事変」に大きく関わっています。

満州事変に橋本欽五郎中佐が大きく関わっていたことは、板垣征四郎高級参謀との
秘密電報のやり取りからも明らかです。

満州事変が招いた事態にひよらず、事変の目的を完遂できる内閣が必要だという決心で
橋本中佐は現政権の転覆を狙ったのです。

それは >>814
>>その折に橋本中佐は将軍に対して、「今後の満州事変の処理を完遂しますか?」と
>>念を押した。荒木中将は「その職に就けば必ず世論に応えたい」と言明した。

と念押ししたことからも窺えます。
831名無し三等兵:2005/11/24(木) 00:52:04 ID:???
>>829 偕行社も1,000名程度の捕虜を殺害、という点をはっきり記しているので、この部分にはあまり余地はないだろう。

ZB26軽機は、米国のBARなどと違って抱えて移動しながらの射撃は想定されていない構造になっている。
抱え撃ちも不可能ではないが、火傷覚悟で銃身下のガスチューブを掴む必要があり、基本的には二脚を広げて地面に据えて撃つ物である。

偕行社の聞き取った内容では、捕虜が騒ぎ出したのは捕虜が河原に到着してから。
捕虜は密集し混乱した状態にあり、河へ飛び込む以外には日本兵に向かってくるしか逃げる途はない。
ここで軽機を使用したという事を併せると、軽機を使用するには理想的な環境だったと言えるだろう。
密集した群集に高貫通力の小銃/軽機弾を使用すれば、一発で数人を貫通してしまう。
(日中戦争での捕虜を用いた試し撃ちではZB26軽機やモ式小銃より低威力の三八式/11年式用の6.5mm小銃弾でさえ六人を貫通した)

尚、ZB26軽機は日本人が実践に即して高評価を与えた敵方銃器のひとつ(後には米国製トミーガンやガランドといった鹵獲品にも日本軍は高評価を与えておりガランドに到っては7.7mm弾への改造や国産化を目指している)だった。
華北/華中ではZB26軽機と7.92mm弾薬の製造工場を丸ごと接収しているが、接収後にも製造を続け中国大陸で展開した日本軍各部隊へ中国製ZB26軽機がそのまま支給されていた事実もある。

鹵獲後に“我方最新鋭軽機”として即時使用(扱いは11年式より格段に楽だった)した結果、使用環境について日本側にも詳細な情報が残っているが、それらを総合すると、

1.軽機にとって重要な銃身交換は300発程度の連射がタイミング
2.交換銃身1本が常時ペアで運用(これは11年式でも同じ)
3.弾薬箱(20〜30発x10マガジン)と交換銃身は弾薬手が運搬
4.マガジン交換時間は3秒程度、銃身交換も10秒程度で、誰でも簡単に出来る

であり、1,000人の捕虜を殺傷するには3丁程度のZB26軽機で充分だった事がわかる。
これらの状況から、元々小器用な日本兵がZB26軽機の取扱に不慣れだったなどとは考えられない。
832名無し三等兵:2005/11/24(木) 05:28:31 ID:???
>>830
>このスレでは『軍閥』の話で大きく脱線することが多いですが、日中戦争・
>支那事変を語るうえで「不可避」のことですので、どうぞご容赦ください。

日中戦争における現地日本軍の対中態度でこの軍閥は極めて重要である。

満州を独立させたために関東軍は国境線で直接ソ連軍と対峙することとなった。
ソ連側兵力は極東ソ連軍の増強とシベリア鉄道の整備による有事における欧露からの部隊輸送力の増加で日本
側とソ連側の兵力差が決定的となり、日本側兵力はソ連側の半分、1/3以下へと低下する。
正面のソ連軍に対する劣勢は、背面であり内蒙、北支へは謀略による日本側への引き込み工作を生んだ。
これにより、関東軍は北支において現地軍閥を国民党から分断、独立させ独自の自治政府擁立に動く。
しかし、辛亥革命以降の中国の強力な民族統一エネルギーに真っ向から対立する事となる。
これは、日本側の中国に対する認識が、軍閥が跋扈する古い時代のものであった点が大きい。
対ソ戦略の背面である北支に親日軍閥を政権を作り緩衝地域とする日本現地軍の戦略はそもそも無理があった。
833名無し三等兵:2005/11/24(木) 06:23:44 ID:???
満州国建国まで否定しますか。
834名無し三等兵:2005/11/24(木) 07:35:33 ID:???
↑満州建国が全ての構造を歪めてしまった。
満州での利権/潜在開発余地は大日本帝國の国運と釣り合うような存在ではなかった。
835名無し三等兵:2005/11/24(木) 11:56:07 ID:5w47l11V
>>831

 確かに1000人程度でしょうね。

 しかしながら移送の最中、散開したままの状態のために日本兵に被害が
出ています(「少尉がやられた」として護送兵の間に警戒が走り、それから
ほどなくして暴動が起きていることより)。

 この少尉の他に他にも日本兵は死んでおり、それより軽機を据付で撃て
るように軽機の展開の終わった状況ではないでしょう。一弾貫通数殺の
話も、並べて構えた理想的な状況では十分に有り得ると思います。

 ですが、状況的には数千、人によっては一万以上という捕虜の群れです
ので、近距離の捕虜には致命部にあてることが出来ても、距離が遠ければ
角度によって貫通後には地面、あるいは捕虜の頭を掠めて飛んでいきます。

 この時はたまたまゲートルで捕縛されていたためと、逃げるのが目的
だったために捕虜の動きが鈍かったのでしょうが、状況としては日本兵の
方が逆に殲滅されてもおかしくなかったでしょう。
 機関銃での殺戮も想像してもらえば分かっていただけるかと思いますが、
捕虜の群れが数百単位で自分の方に走って突進してくるとします。20発
の連続射撃の後に、空のマガジンを取り外して新しいマガジンをつけて、
レバーを引いてという動作をしなければ再度発射は出来ません。人間が
全速力で走れば数百メートルはほんの数分で突破できます。

 機関銃による大量虐殺の一例としてはフランス戦でSSがMG34を
2丁使って英軍捕虜を100人弱殺しています(生き残りは拳銃で殺した)。
後送されるものと大人しくして油断した捕虜を殺すのにも2丁は用意して
います。

 ちなみにZBは「チェッコ機銃」ということが本当に評判が良かった
ようですね。だからコピーとして96式、99式が出来たのでしょうが。
836少佐:2005/11/24(木) 12:13:16 ID:YxBQifkB
もし旧日本軍がバンザイ突撃だけのアホ集団だったら、南京も攻め落とせてないだろう。
旧日本軍は38小銃による狙撃だけでなく、情報戦、航空攻撃、砲撃、迫撃砲、機関銃、手榴弾、
銃剣、日本刀、拳銃、素手とあらゆる人間力を総動員して中国軍と戦い重慶まで迫ったのだ!
その凄まじい人間力をどうして太平洋戦線の敗北だけで全否定できようか!
837名無し三等兵:2005/11/24(木) 12:49:03 ID:???
>>835
なんか随分統制のとれた捕虜達だな。
機銃に立ち向かって突進するほど連中の士気が高ければ上海でも負けなかっただろ。
838名無し三等兵:2005/11/24(木) 15:50:23 ID:???
>>834
満州取られてもいいなら日露戦争も必要ない。
朝鮮の国境でひたすら守ればよかっただけ。
839名無し三等兵:2005/11/24(木) 16:18:04 ID:???
 虐殺場所と言われた場所では、三方を河に囲まれた場所。そうなると
逃げるには日本兵の突進しないといけない。それに100人程度の
護送兵で機銃が数丁程度なら、捕虜が数千から一万以上なので
機関銃や日本兵はスカスカの配置状態になる。仮に日本兵の展開が終
わったとしても。
 それに統制が取れていれば数百の殺到が波状になってくるので日本兵は
武器を奪われて逆に殲滅されている。
840名無し三等兵:2005/11/24(木) 17:14:21 ID:???
>>838
朝鮮も要らない。世界3位の海軍で日本海を固めていれば本土防衛は果たせる。
841名無し三等兵:2005/11/24(木) 17:19:21 ID:???
>>840
日本が鎖国してるなら良いけど、現実には無理。

「大海運・海軍国の防衛戦は交易相手の港の後ろ側にある。(英国の諺)」

少なくとも西欧流の近代的価値観を共にする国家が、半島南部に存在してないと
大陸と貿易も出来ない。
842名無し三等兵:2005/11/24(木) 17:53:46 ID:???
「南京大虐殺はあった!or なかった!」
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1126776150/

南京に特化したネタはこちらでお願いします。
843名無し三等兵:2005/11/24(木) 18:07:40 ID:???
>>841
別に半島南部経由でなければ貿易が出来ないわけじゃあるまい。
上海に租界は確保してるんだから、そこから対共産党戦を支援などして
国民党と関係を深めれば良い。
84432:2005/11/24(木) 18:58:53 ID:???
>>840
>>841
>>843

島帝国論という有力な政策論が明治時代に政府内部でありました。
それができなかったのは、大陸防衛を義務づける日英同盟との関係。
そして、利権を持ってしまうと撤退が難しくなる歴史の常です。
ただ、日中戦争の前史としても、このスレで扱うには古すぎるかも。
845名無し三等兵:2005/11/24(木) 19:11:00 ID:???
>>835 概ね同意。ただ、実際の状況は日本兵に河原に誘導された時点で軽機の展開/射撃準備は整っていた(本当に逃がすつもりだったかどうかはさておき)と思われる。

でなければ、騙されたと感じて日本兵に向かって突進してくる4,000人もの怒れる捕虜達を制圧できるとも思えない。

ZB26機銃は以前アフガンで実物に触れるチャンスがあったが、さすがチェコ製で良い工作精度で作られている上に、部品どうしの接触面が最低限度なので大陸のような悪環境で泥や砂にまみれても使用可能なように設計されていた。

大日本帝國も満州事変でZB26機銃を鹵獲してから96式でコピーを試みているが、三八式/11年式に使用する6.5mmx50SR弾が自動火器向けの構造ではなかったために、御得意の弱装弾仕様で切り抜けている...
846名無し三等兵:2005/11/24(木) 19:12:35 ID:???
尚、日中戦争で主に使用された小銃/軽機弾に限って見れば、日本軍内での6.5mmx50SR弾から7.7mmx57弾への換装期に当ったという特殊条件も、日本軍の弾薬使用への心理的制約を外す一因となっていた。
実際、この4年後の本換装期の満州では、6.5mmx50SR弾を軽機訓練用に“どんどん使え”という指示が出されたほどだったが、実際には消費し切れず38式歩兵銃とセットで現地匪賊との阿片取引等の代価として使用された。
尚、国共合作当時の中共軍/八路軍は、38式歩兵銃/6.5mmx50SR弾を事実上の制式小銃としており、AKほどではないにしろ世界中で高く評価されいたといえるだろう。

明治30年に日本陸海軍の制式小銃弾となった6.5mmx50SR弾は、優れた低進性(フラットな弾道特性)から日露戦争〜第一次世界大戦(ロシアへの軍事援助として送られた)期には高い評価を受けていたが、
その後の技術革新に伴う戦術変化に対応できない事が判明し、1931年の満州事変後に7.7mmx57弾への換装が決定された。
847名無し三等兵:2005/11/24(木) 19:13:04 ID:???
熱河作戦とか北支工作の話教えて欲しいんだけど
誰か語ってくれないかな
848名無し三等兵
<続き>
6.5mmx50SR弾の欠点とされた部分は、下記のような点だった。

1. 薬莢のデザインが自動火器が一般化する以前のもので、自動火器に使用すると薬莢側面が破け易かった
2. 1.と同じく、薬莢のデザインがSR(セミリム)型だったため、自動火器を設計する上で弾倉のデザインに制約を受けた
3. 航空機の発達に伴い、曳光弾を使用する対空機銃の運用が必須となったが、当時の技術では6.5mm弾の曳光弾が製作出来なかった
4. 西欧諸国で採用されている銃弾に比べて貧弱な威力、というイメージ(実際には大差なかった)があった。

上記1.2.3.の欠点は、多少の改良を加えれば改善/打開可能な欠点だったが、日本軍の西欧コンプレックスから生じていた4.が主な要因となり、太平洋戦争開戦直前の小銃/軽機弾という大失策が実行されてしまう。
その後、対米開戦迄に小銃/軽機弾の6.5mmx50SR弾から7.7mmx57弾への換装は完了せず、二重体系の弾薬補充という困難を自ら背負う羽目となった。

尚、1930年代の米国では自動小銃の試作が最終段階に入っていたが、強力過ぎる7.62mmx63(30-06)弾を低威力/低反動の7mm(276ピーターセン)弾に換装する計画も同時進行していた。
日本とは逆の方向を志向していた訳だが、世界戦争への米国の参戦が近いと考えていたマッカーサー大将(当時)により弾薬換装計画は中止させられている。

その後、米国は超大国への歩みのなかで世界中で戦い続けるが、7.62mmx63(30-06)弾が7.62mmx51(308 NATO)弾にマイナーチェンジされたのは、朝鮮戦争が終了した1954年以降の事で、7mm(276ピーターセン)弾への換装が中止されてから実に20年も後の事だった。
(その10年後に米国は泥沼の越南へ介入を始めるが、越南の戦場に7.62mmx51(308 NATO)弾は適さず、あっという間に5.56mmx45弾へ換装されてしまい、現在に到っている。兵器の宿命とはこうしたものである)