1 :
神も仏も名無しさん :
2013/09/30(月) 01:49:05.91 ID:XrPdcN3o
2 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/09/30(月) 02:30:10.14 ID:EsXrDc+X
お! 仕事が速いw 乙w
3 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 02:38:08.09 ID:XrPdcN3o
>>2 パーピマンさんも乙ですw
しかし輪廻信仰の根は深いものですねえ。
あるかもしれないけど、何故ああも「あるに違いない〜」って信じ込んでいるのか理解できません。
単なる倫理、道徳の問題でしょうか?
私が輪廻して生まれ変われれば、石になりたいですw
あーだ、こーだの渦の中でけちょんけちょんに言われるのは嫌ですw
4 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/09/30(月) 02:52:02.48 ID:EsXrDc+X
>単なる倫理、道徳の問題でしょうか? 多分、違うと思うぞw 死後存続を強く信奉するものの中には、現世の自己における不満、鬱屈 が渦巻き、それを来世で取り返そう、もしくは、悲惨な現状に耐えるための 拠り所としている・・・・こういう心理状態の者も結構いるんじゃねえの?ww >あーだ、こーだの渦の中でけちょんけちょんに言われるのは嫌ですw 修行が足りんwwww 叩き合いこそ2ちゃんの醍醐味wwwww (by てすと )
5 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/30(月) 05:55:18.16 ID:N9uvjSxe
連中はそれでメシ食ってるからだろ?(笑) 真面目に信仰してる奴が、昔の迷信を吹聴する訳が無い。
6 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/30(月) 07:14:42.72 ID:ZHnMEvyd
曹洞宗の奈良先生(駒沢大元総長)は、「無我」は誤訳ではないのか「非我」が正解ではないのか?と、 無我説に疑義を唱えていたそうです。 真宗の三木悟住職も「無我」は誤訳ではないのか「非我」が正解ではないのか!と、 現代仏教塾(youtube)で幾度も繰り返されました。 「無我」は元々「非我」であり、「現象界の心も体もアートマンでない。アナッタン」ということだったそうです。 また初期経典を読むと、釈尊が「自己」を語る説法が多いからです。 「法は自ら見るべきもの、自ら観じるべきもの」、「怠ることなく勤めなさい(誰?)」 「自燈明、法燈明、自己(アートマン)を拠り所とせよ」 外道や異教ではなく、仏教界内部からそのような声が上がっていることは大変素晴らしい吉兆だと存じます。 吉兆と思う理由は、正法の世を末法の世へ変えた因が分かり、それを正せば末法の世を正法の世に還すこともでき、 仏教界最大のロマンでしょうか。 さて輪廻と非我とは両立しますか?が近い将来の議題になるかと思料します。
7 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/30(月) 07:29:33.77 ID:ZHnMEvyd
8 :
ホルスタイン :2013/09/30(月) 08:20:12.06 ID:ABeYqYWL
釈迦さんは、パーリー語経典「ジャータカ」や法華経典などで 過去世の修行時代を語っているよね。 仏と言っても一神教にみる超人的な神仏などを指すのではなく、 もともと森羅万象として「在る」ものを修行によって導き出したものという感じだろうね。
9 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 10:24:44.33 ID:9PZ9OM4P
>>6 前世は一在家 ◆2o6x38TRbE ID:ZHnMEvyd さんへ
> 「無我」は元々「非我」であり …
それ自体の自性で成立しているのではなく
因だけではなく
縁だけでもなく
因と縁の依存によって現れ
因と縁の依存によって滅する
と言う事なので
八聖道分を修習して、我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する
受・想・行を滅させて、無我、無我所を得て、智慧を決定する
自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて
世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
四念処(四念住)の実践によって → 無我、無我所を得て、智慧を決定する
と言う意味だと思います
10 :
1/3 :2013/09/30(月) 10:40:52.31 ID:HfS5BFTw
>>6 >>7 >>9 前スレ72
912 :神も仏も名無しさん:2013/09/30(月) 09:25:30.75 ID:HfS5BFTw
>>886 >「無我」は誤訳ではないのか「非我」が正解ではないのか!と
三木悟住職はアホ。誤訳ではない。
三木は阿弥陀如来をブラフマン同等に捉えたい成り済まし仏教に他ならないのだろうw
「非我」なる表現が他処での有我(自性アートマン実在)を示唆・予定しているなら、事実上の梵我一如論であり、
我に対する執着⇒苦を予定する彼岸なき<毒の論理>←ヤージュニャヴァルキアのアーリア支配・カースト制度維持のための奥深い謀略論だ、
ということが洞察できていないのだ。
もし洞察できているなら悪質な奴だ。
11 :
2/3 :2013/09/30(月) 10:43:33.83 ID:HfS5BFTw
>>6 >>7 >>9 前スレ72
912 :神も仏も名無しさん:2013/09/30(月) 09:25:30.75 ID:HfS5BFTw
>>886 >「無我」は誤訳ではないのか「非我」が正解ではないのか!と
(続)
<無我 &(如)非有我非無我>が正解。
還滅(間接)現実 (1)一切内(検証可)→★一切法無我(有⇔無の無) 一切外(検証不可)→無記
(2)勝義示唆 ★(如)非有我非無我 *四句第4形式の利用。空=中道示唆であって、上記の俗物「非我」論とはまったく真逆。
『弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、★真実として捉えられるものではない★のであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」 』
(中部22 増谷文雄訳)
『★一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができる★のである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。』(相応部22 増谷文雄訳)
一切は<縁起の現実>として、検証によって真実として捉えられ、
一切外は縁起の現実を撥無した検証不能の妄想→無記だと繰り返している。
13 :
3/3 :2013/09/30(月) 10:48:45.84 ID:HfS5BFTw
<『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。>(前スレ72
>>912 中部22)
三木は『十四無記』で如来(タタ―ガタ)をこじつけ解釈云々とか、マハーカッサパ教後裔の大パリニッバーナ経などを引用して、
必死に輪廻転生と死後生を説いているが、愚かである。
https://www.youtube.com/watch?v=gCxx_tJwC80 ★真実として捉えられるものではない★★一切は因縁(縁起)の結ぶがままに有壊するものである★
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
> 色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、われ(アートマン)というものはない
>>9 と
>>12 の続き
五蘊仮和合
我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで
単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ
支配されていると考えるのである
− これに対して −
釈迦はこのような実我観念を批判し
「 我として認められるものはない 」 として
諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
人間生存は無我である五蘊の仮和合したもの
であるから仮りの存在であると説いた
_ _ _
実在ではなく
仮りの存在なので
我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定する事が出来る
と言う意味だと思います
15 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/30(月) 11:05:33.02 ID:ZHnMEvyd
16 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 11:11:10.12 ID:ZHnMEvyd
>>10 >三木悟住職はアホ。誤訳ではない。
そうですか。貴兄から見れば奈良先生(駒沢大元総長)もアホだとラベル貼りになります。
確か本スレでも駒沢大出身者が何人かおられましたが。。
17 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 11:34:05.86 ID:ZHnMEvyd
>>16 >そうですか。貴兄から見れば奈良康明先生(駒沢大元総長)もアホだとラベル貼りになります。
平成三年五月十六日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映より
草柳: 前回一回目は、ちょっとご紹介致しましたように、「自己もまた自己ではない」というお釈迦様の言葉から、
「無我」のことについてお話を伺ったんですが、この「無我」ということの解釈なんですけれども、
文字通り「自分がない」ということではなくて、「自分ではない」、だから別の言葉でいえば、
「無我」という言葉よりも、むしろ「我に非ず」という「非我」という言葉をあてた方がいい。
そういうふうに解釈した方がいい、という話でしたね。
奈良: そうですね。釈尊という方は、大変実践的な教えを説いた方だと思うんですね。
どんなものも、「これが私ですよ」とか、「私のものですよ」と握りしめて、永久に持ち続けていきたいんだ、
と、私どもいつも思うんですが、そんなことはできないんで、
「どんなものも、私ではないんだ。私として掴めるものではないんだ」と。
「非我」ということを説かれましてね。「無我」という言葉は、いろいろ難しいいろんな意味があるんですけれども、
釈尊はそうした意味で、「我執をなくせ」という実践的な教えを説かれた。
その辺が、この前の話の中心的なテーマであったかと思いますですね。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-463.htm 奈良康明先生の「非我」と「我執をなくせ」とは、真宗の三木悟住職と同じ解説ですね。
お二人ともアホだと2ch議論板で断言した人がおられます。
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-463.htm 奈良:
そういうふうにみるべきだと思うんですね
ですから涅槃というのは、何かある一定の時に、パッと何か精神が開けて
確かに一つの直感があって、なるほど、と思うことが当然ありますけれども
むしろ大切なことは、その一瞬にわかったというだけではなくて
それが有ろうと無かろうと、常にいろんなことにぶつかるたんびに
例えば今日のテーマの脈絡で言うならば
無常なるものは無常と見
無我なるものは無我と明らかに受け止める毎日毎日のプロセス
そのプロセスの中に心の安心という涅槃が現成(げんじょう)していく
そういうふうにみるべきだと思うんですね
↑
常住ではないので
『 我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て 』
と言う意味も含まれているかも
19 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 11:59:29.26 ID:HfS5BFTw
>>17 >奈良康明先生の「非我」と「我執をなくせ」とは、真宗の三木悟住職と同じ解説ですね。
かつて奈良康明氏の退職講演を読んだとき、基本姿勢にはまったく賛同するが、
その十二支縁起論の信受姿勢には賛同できないと書いた。
→【仏教議論スレッド64 >>303-
>>305 非我論についても同じだ。
奈良氏の限界だと。
これは今でも代わらない。
20 :
ホルスタイン :2013/09/30(月) 12:05:39.76 ID:HHSMCQrA
>>17 奈良さんの古代仏教史を読めばわかるが「非我ではないか」と、
名言しているよ。
テレビだと相手がいることだし、物議を醸し出す発言は避けたんじゃないのかな?
21 :
三木はアホ :2013/09/30(月) 12:11:02.00 ID:HfS5BFTw
>>17 >しかし「諸法無我」の教えは、だから「私というものはない」という教えではなくて、「私が私が、という我執を離れなさい」という教え。
http://www.youtube.com/watch?v=gbTXF38kJkY ・無我についての上記の三木の浅薄すぎる把握には呆れるしかない。単なるお子様ランチ躾論になっているw
仏道上『我』には三様相がある。(1)日常自我(2)菩提心自己(凡夫)(3)超(真)我(アートマン)
無我で問題になるのは(3)であって、ブッダが(1)(2)を語るのは当然だ。
そして個別検証で一切内無(なし)我(3)を断言した。
そして、ブッダのいう自灯明の自は(2)だ。如理作意(中部15)で縁起の現実(己事究明)を徹見してゆく八正道の凡夫だ。
ブッダも我に触れているという(2)と(3)をハチャメチャ混同する三木には呆れるしまない。
三木は(2)を(3)だというのだからホント馬鹿でしょw 超幼稚な馬鹿アートマン論だ。
・ブッダの悟りについても@対象観察からの離脱であり、A相対思考そのもの放棄だ、というコペルニクス的転換だったということを把握できていない。
Aが無我の真義(方便)=空=中道=(如)時空際断→(如)非有我非無我だ。
三木は<無我 &(如)非有我非無我>を洞察できていない。
還滅(間接)現実 (1)一切内(検証可)→★一切法無我(有⇔無の無) 一切外(検証不可)→無記
(2)勝義示唆 ★(如)非有我非無我 *四句第4形式の利用。空=中道示唆であって、
三木の間接現実オンリーの俗物「非我」論とはまったく真逆。
こーゆーのを見せて迷わせるのは問題だ。
>>18 の続き
奈良:
…
… 「非我である。無我である」と、こういう意味であります …
…
… 「苦なるものは無我である」ということの中間に
「苦なるものは移り変わるものである」という言葉が入っている例が非常に多いんです
ということは、なんのことはない
「無常なるものは苦である。苦なるものは無常である」と言い直しまして
「無常なるもの、無常だからこそ、無我なんだ」というふうに
説明を付け加えている例がたくさんございますのでね
ここのところは、いろいろ解釈しては難しい面があるんですけれども
「無常と苦と無我」というものが、こう論理的に、こういうふうに起こってくるというよりは
「無常」とか、「苦」とか、「無我」という言葉の意味を
一つの関連するものとして受け止めておいた方がわかりいいと、私は思いますですね
23 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 12:32:00.48 ID:8F7ipQX7
?氏は坐禅をやってる? 経典や論書をいくら読んでも三毒は解決しないらしいよ。
24 :
19 :2013/09/30(月) 12:57:22.85 ID:HfS5BFTw
>>16 >貴兄から見れば奈良先生(駒沢大元総長)もアホだとラベル貼りになります。
>>19 の当該部分を抜粋しておく。
『疑問点もある。
(a)「非我」については(同一の趣旨だろうが)賛同できない。
我には@日常自我A菩提心自己B超越我があり、@Aが一切、Bが一切外だ。
無我論で問題になるのはBのアートマンとかプルシャとかいわれるものだ。
一切内の検証では非我(〜ではない)のカタチでBは確認できない。だから、有⇔無の無(なし)の意味で「無我」が当然。
一切外については検証不能ゆえ「無記」(言語可立で語れるが妄想・物語領域)。間接現実では非我論の余地はない。
直接現実は言語不立だから、間接現実での示唆で四句分別第4を使った比喩で<非有我非無我の如し>。
直接現実は時空際断ゆえ直答はありえず、否定的言辞によって示唆する他にないのだ。
ウダーナ8-3、中論 帰敬序、18-11、25-3参照。』(
>>303 )
『(d)十二支縁起は中途半端なインテリ向け待機説法かもしれないが、
無量因無量果の縁起表現として稚拙すぎ、フォーミュラとしても首肯できない。
実存苦という“結果には原因があるから、その結果をなくすには原因を除く”というおそらく最初期の趣旨を把握していればよい。
十二支縁起論は業報輪廻転生論や回向論と同じく経験主義的検証不能な一切外妄想である。
そのまま受信するという松本・奈良氏の態度は中途半端であり、信仰主義であって、(b)は不徹底だと言わざるを得ない。』(
>>305 )
25 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 13:10:20.90 ID:0yq+xnh5
26 :
実存的解釈の重要性 :2013/09/30(月) 13:10:55.57 ID:HfS5BFTw
奈良康明氏は、恣意的・独断的でない学問としての実存的解釈の重要性をも主張される。 以下引用 「しかし、筆者がここで主張したいのは文献学的解釈の範囲内での解釈のことではない。 論理書は別として、テキストの宗教性、思想性が原著者の内的苦悩と体験を語っている要素が多ければ多いだけ、 自己の実存と重ね合わせて真摯にテキストにその真意を問いかけ、答えを得、思索し、同感ないし反発し、 また問い続けるプロセス(hermeneutical circle、解釈学的循環)、ないし、それに類する生きた思索を通しての解釈が、 この種の仏典の真の理解に必要なのではないか。 それこそがテキストの原意を出来うる限り正確に理解するという古典解釈の原則に近づく道であろう。 そして実存的解釈の学問的な方法論としては、現状でいえば、宗教哲学ないし比較思想研究の蓄積と発展がある。 そうした実存的な解釈が学者によって必ずしも一致するものでもなく、この意味では、宗教的古典の解釈は複数でありうる。 恣意的かつ独断的な解釈で学問になるか、との質問は当然予想されるが、恣意的・独断的でない学問としての実存的研究を根底にあって支えるものこそ、 八木誠一博士の言われるように、文献学と歴史学であろう。古代の文献を扱う以上、宗教的古典の実存的解釈、すなわち読者との対話を通しての解釈といえども、 文献学の成果を踏まえなければ出発できない。言語の習熟、良質のテキスト、テキスト著述ないし編纂の目的、著者の経歴と思想、対象とされた人々、当時の思想・文化状況、術語の意味の確定等々、 文献学の成果の上での解釈なのであって、逆に言えば、文献学にはそれ自体の重要な意義と同時に、分野によっては、限界があるということなのである。 さらに言うなら、もし文献学がテキストをそれ自身がおかれた脈絡においてより正しい解釈を求めるものとするのなら、テキストによっては、実存的解釈がかえって文献の資料的理解を助けることも有りうる。 両者は強調すべき接点をもっているのである。」(注) (注) 奈良康明監修「ブッダから道元へ」東京書籍、1992年、19-20頁。 この奈良氏の姿勢こそ「釈尊との対話」なのだろう。 三木の判ったふうな浅薄な近代仏教学批判はお話にならない。
自分がなくなるのが怖い だから永遠に続く「真我」とか魂を妄想する しかし、それ自体が苦しみの元である 素直に、永遠に続く我などない、と直視するのが仏教 真我とかいいたいのなら、素直に大乗が剽窃した大物であるヒンドゥー等にいったほうがいいよ
大物→大元
29 :
サロメ☆ボウディア ◆IImpEahg5A :2013/09/30(月) 13:48:34.10 ID:uLblvfO5
逆ですよ
仏教をある程度学べば 近代主義ではない限り
輪廻は苦の根源)だと理解できると思います
ヒンドゥでは輪廻は恐怖です
だから良い世界へ生まれようとするよりも 今の世界から落ちないように
必死になります
>>4 だからニューエイジやスピ系のような極楽トンボだけですよ
過去や未来の生まれ変わりにワクドキするのはw
30 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 14:00:14.22 ID:LyF6kOzJ
test
31 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 14:07:45.83 ID:LyF6kOzJ
「非我」は、さすがに釈迦の「無我」という断見が誤りであると気付いた上での 苦心の訳だろうが、「我に非ず」ではモロに「有我」を前提とする。 幾ら足掻いても、「己の我を以って無我を説く」という、釈迦の初歩的論理矛盾、 誤りを解消することは不可能。 己の我を精一杯生き、「我を忘れる」ことによってのみ、「無我」は達成される。
32 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 14:36:44.35 ID:R+YCvL4W
>>29 より良い人生に生まれ変われるのなら、輪廻は楽の根源でもある。
インドのカースト制度は、職域維持、それによる社会の安定という機能を
果たしている。カーストを廃止するなどと言ったら、むしろ下位カースト
の人々が大反対するだろう。「今の世界(現世)から落ちない」ことが、
人間にとって最も重要なこと。周囲が騒ぐことではない。
ヒンドゥー思想には、釈迦の精神病理はなく、より健全で高度であるといえる。
>>32 あの、インドじゃ現代でも下位カーストが差別されたり殺される事件が続発してる、というろくでもなさは日本のニュースにも伝わる程度なんだけど
で、下位カーストが仏教の反差別を肯定して集団でヒンドゥーから移るって歴史的な事件もあったり
輪廻を美化したい万歳したのは勝手だが、嘘はよくないぞ
34 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 15:03:21.55 ID:ZHnMEvyd
>>19 >かつて奈良康明氏の退職講演を読んだとき、基本姿勢にはまったく賛同するが、
>その十二支縁起論の信受姿勢には賛同できないと書いた。
三木氏と「非我」が同じ解釈の奈良氏もアホは撤回ですね。
もしかしたら貴兄は駒沢OBですか。。そして三木氏のみアホをシュプレヒコールですか。
35 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 15:06:26.90 ID:ZHnMEvyd
>>31 >「非我」は、さすがに釈迦の「無我」という断見が誤りであると気付いた上での
>苦心の訳だろうが、「我に非ず」ではモロに「有我」を前提とする。
ということで、貴兄も「我に非ず」と輪廻とならば矛盾しないということで賛同ですか。
まあ、輪廻があるか否かは別としてですが。
>>31 >「非我」は、さすがに釈迦の「無我」という断見が誤りであると気付いた上での
>苦心の訳だろうが、「我に非ず」ではモロに「有我」を前提とする。
ということで、貴兄も「我に非ず」と輪廻とならば矛盾しないということで賛同ですか。
まあ、輪廻があるか否かは別としてですが。
36 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 15:35:19.62 ID:ZHnMEvyd
>>25 >(非我と無我に関する中村元氏の解説@より)
> 原始仏教の時代においては、
>「我(アートマン)にあらざるもの」つまり「非我」が主として説かれています。
やはりそうですか。 情報提供を有り難うございます。
「無我」と主に説かれ出した時期と像法、末法の時代とがどう同期するのかご存じの方は宜しくお願いします。
全てのものは私のものではない→非我 私のものといえるものがないのでは何が私なのか→生きて意識していること自体が私である 死ねば生きて意識しているという状態が無くなる→無我 だからスタートが非我でそこから無我の結論に至るのでしょう。 そしてこの無我と輪廻転生は矛盾した概念であり、無我か輪廻転生かどちらかをの概念を変えない限り解決不可能。 解決したとしても、それは当初の輪廻なり無我の概念とは異なるのだから辻褄を合わせただけの無我−輪廻両立論に意味なし。
全てのものは私のものではない→非我→無所有処の概念に連なるのでしょう。
39 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 17:25:23.67 ID:8F7ipQX7
我が有るのか無いのか、霊魂が有るのか無いのか、 そんなことは坐禅をすればわかるのだよ。 そのための坐禅だ。 坐禅もしないで、古文書漁りをしているから答えが出てこない。 体験の裏づけがない議論を戯論という。 いい加減、目を覚まそう。死がすぐ近くまでやってきたぞ。 最悪でも次のことには気がつこうよ。 自分の主張には体験的な根拠がない。本の知識だけじゃ寂しい。 頼むよ (^^)
40 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 17:31:26.86 ID:ZRN5fbvM
>>33 キリスト教とは違って、インドのカースト同士が殺し合い、争い合っている
ことなど、聞いたことがない。カーストがなくなったら、彼等は食えなくなる。
アンベードカルの仏教は、輪廻転生をはじめ、釈迦仏教の非合理的な要素をすべて
排除している。釈迦仏教とは、似て非なるもの。
座禅-瞑想により妄想の世界を見て妄信しそれを体験的な根拠として水源禅師のような主張を始めたら 人間終了です。統合失調症患者の戯言と変わらない。
42 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 17:43:09.29 ID:ZRN5fbvM
>>35 「非我」が輪廻するのだから、我とは無関係だねw。
「釈迦遺伝学」に基づく輪廻転生は、現代の遺伝学によりとっくに廃棄されて
いる。一体、何時の時代の話をしているのか。2500年前と言えば、日本の
縄文時代だぞw。時代錯誤も甚だしい。
≪無我じゃないから「我」はある≫ってか? お前等馬鹿じゃねーの?w
44 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 17:46:36.54 ID:8F7ipQX7
世親の唯識三十頌は、遍計所執自性とか、依他起自性とか、 円成実自性〜真如とかを言い出した二十頌以下に問題がありそうだ。 坐禅の体験を、龍樹の「空」に接ぎ木するための作文に思える。 こういったことは坐禅の体験がないとわからない。
45 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 17:48:57.05 ID:ZRN5fbvM
>>43 「我に非ず」という以上、比較の対象としての「我」がなければおかしいねw。
46 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 17:53:57.62 ID:8F7ipQX7
>>41 釈迦も世親も坐禅の体験から語っている。
ただ、坐禅する者がすべて真であるかと言えばそうではない。
水源もそうだが、逆は必ずしも真ならずだね。
それは同意するよ。
47 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 17:57:30.33 ID:ZRN5fbvM
輪廻転生でいう「業」とは、あくまで己の出生後になされた行為だね。我の 先祖についても同様。従って、遺伝学上の「獲得形質」。 「獲得形質は遺伝しない」。これが現代生物学の定説。 いわゆる「ミーム」は、単なる「情報の伝達」に過ぎない。
48 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 18:03:17.05 ID:8F7ipQX7
>>47 >「獲得形質は遺伝しない」。これが現代生物学の定説。
そんなことはないよ。それでは生物の進化が説明できない。
突然変異だけでは無理がある。
49 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 18:07:43.15 ID:0yq+xnh5
50 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 18:08:25.67 ID:ZHnMEvyd
>>38 >全てのものは私のものではない→非我→無所有処の概念に連なるのでしょう。
無所有処などの禅定→名称と色体からの解脱 (「ブッダと龍樹の論理学」P155)
>>46 >釈迦も世親も坐禅の体験から語っている。
そして奈良先生も曹洞宗(身心脱落の境地で真理を見る)の僧侶ですね。。 (^o^)/
51 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 18:14:04.35 ID:8F7ipQX7
文言非我、文脈無我。
53 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 18:19:21.02 ID:ZHnMEvyd
>>51 >あなたは坐禅してますか?
異教の私は坐禅や瞑想はしておりません。
別の方法で形而上のことを間接的に体験しております。
54 :
ホルスタイン :2013/09/30(月) 18:23:16.36 ID:i7tyXmA2
釈迦は坐禅で悟ったなどと一言も言っていない。 仏典は、「我実成仏以来」と過去に成仏している事を示唆している。
55 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 18:26:40.51 ID:ZHnMEvyd
>>53 神道でも昔から瞑想はしていたそうです。
でも瞑想中(トランス状態)は肉体を持たない他の意識(霊)が憑依し易いので
審神者(さにわ)がそばで見ながら祓っていたと伺っております。
56 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 18:30:21.66 ID:ZHnMEvyd
>>55 坐禅中でも何者かに憑依されて体が勝手に動き出すという現象は起きておりませんでしょうか。
多分、その状態を表す用語があるかと存じます。
57 :
実存的解釈の重要性 :2013/09/30(月) 18:35:19.66 ID:HfS5BFTw
>>34 >三木氏と「非我」が同じ解釈の奈良氏もアホは撤回ですね。
日本語の論旨になっていない。アホすぎる。
<三木批判>再掲
・「非我」なる表現が他処での▼有我(自性アートマン実在)を示唆・予定しているなら、事実上の梵我一如論であり、
我に対する執着⇒苦を予定する彼岸なき<毒の論理>←ヤージュニャヴァルキアのアーリア支配・カースト制度維持のための奥深い謀略論だ、
ということが洞察できていないのだ。
もし洞察できているなら悪質な奴だ。(
>>10 )
・還滅(間接)現実 (1)一切内(検証可)→★一切法無我(有⇔無の無) 一切外(検証不可)→無記
(2)勝義示唆 ★(如)非有我非無我 *四句第4形式の利用。空=中道示唆であって、
▼上記の三木の俗物「非我」論とは まったく真逆。(
>>11 )
・三木は『十四無記』で如来(タタ―ガタ)をこじつけ解釈云々とか、マハーカッサパ教後裔の大パリニッバーナ経などを引用して、
▼必死に輪廻転生と死後生を説いているが、愚かである。(
>>13 )
・浄土真宗の坊主が必死で神智学を説く(爆笑)点については、今まで延々と宝珠を批判したことがそのまま全面的に当てはまる。
★6.人は死んだらどうなるか
http://www.youtube.com/watch?v=JJTdUMsrevA 要するに三木は<成りすまし仏教の広義の心霊主義者=スピリチュアリズム>だ。仏法ではない。
仏法を「現世的なる法」(相応部35-23・70)として説いているか、挙証立証せよ!につきる。
奈良氏は、業報輪廻転生も肯定されないし、混ぜるな!危険を犯した超我予定の浅薄な「非我」論者ではない。
死後生も説かれない。
あまり馬鹿にしないほうがいい。
> ?氏は坐禅をやってる? 順番としては、まず教学を勉強して、そして 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)とか、クンダリニーとかに興味があります _ _ _ ヨーガの実践や宗教の各種修行によって穏やかに活性化し始めると 生涯をかけ各チャクラが徐々に開発されていくこととなる クンダリニー・ヨーガあるいは瞑想などによりクンダリニーが上昇し それによりサハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる サハスラーラを完全開放させることになればその人物は解脱に至るが 今世で解脱できる魂は極一部といわれている 一度クンダリニーが目覚めるとそれを抑圧する行為は 薬物以外による方法であっても死に至るという意見がある一方で 抑圧に半ば成功した事例もあり 覚醒が本格化すると永続的で後戻り不能という意見がある
59 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 19:09:24.88 ID:8F7ipQX7
>>56 そんなことはまったくありません。
>>58 要するに、坐禅をやったことがないわけですね。
それじゃ教学もすすみませんよ。リンゴを見て食べたらリンゴがわかる。
リンゴとは何かを何年も研究してもリンゴはわからない。
見て食べたらすぐにわかる。
61 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 19:21:41.08 ID:8F7ipQX7
>>55 ムハンマドもそうだけど、憑依現象もあるのかもしれない。
大本もそうだし、天理教もその類だしね。
そういった経験はないけど、頭から否定はしない。
シャーマンだよね。
62 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 19:26:01.67 ID:kqnt1lCL
崇教真光組手の、一在家も因果応報から逃れられない。 546 :神も仏も名無しさん:2013/09/30(月) 08:05:22.66 ID:SyY4VVbY アク禁くらって8/29に久々出てきたと思ったら2ちゃん個人情報流出事件で 不安におとしめられ、真光被害者の会では9/10の被害者の書き込みから被害届が 出てることに気付いて9/11以来急にダンマリ決め込みやがって威勢が良かったのは たった10日前後の臆病者wwwwwwwwこの究極のダサダサぶり発揮してるババアは・・・ 勤務先でもチラ見してんのかな?(笑) 547 :神も仏も名無しさん:2013/09/30(月) 19:05:44.25 ID:SyY4VVbY 2013/09/11(水)ババアはココで 07:26:03.97 ID:usdw1gHW、 一在家(源伸)は仏教議論スレで同日 07:25:39.00 ID:43JWC6/a に書き込んでやがるから同一人物じゃねーなあ
63 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 19:29:15.57 ID:8F7ipQX7
>>60 だからさあ、チャクラとかさ、あなたは体験的に何も知らんだろ。
あなたに欠けているのは体験だよ。
>>56 ID:ZHnMEvyd さんへ
> 坐禅中でも何者かに憑依されて体が勝手に動き出すという現象は起きておりませんでしょうか
☆ 幽霊肯定派の場合は ☆
酒などを飲んだ時に
その人に取り憑いている未成仏霊が
表面意識に現れる場合があるので
未成仏霊を成仏させてから
その次の段階で、瞑想とかした方が良い
と言う都市伝説的な噂を聞いた事があります
65 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 19:47:41.61 ID:8F7ipQX7
憑依霊や未成仏霊を見たの? 見もしないでつまんないことを言うな。くだらん。
> だからさあ、チャクラとかさ、あなたは体験的に何も知らんだろ > あなたに欠けているのは体験だよ 順番としては、まず教学を勉強して、そして 私の場合は 落武者の霊を見ると言う体験をして 幽霊肯定派になったので 未成仏霊を成仏させてから その次の段階で 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)とか 止(サマタ瞑想)とか 観(ヴィパッサナー瞑想)とかにも興味があります
>>58 わたしは座禅はしませんがテラワーダの瞑想の講習に出ています
チャクラはどうかな
仏教の瞑想でそこらへんを追及する必要はありますか?
チベット方面でも上座部でもなかなか良い指導者にめぐり合えないような。。。
> 憑依霊や未成仏霊を見たの? 私の場合は 落武者の霊を見ると言う体験をして 幽霊肯定派になりました
> 仏教の瞑想でそこらへんを追及する必要はありますか? 私の場合は 仏教以外の バラモンとか ヒンドゥーとか サーンキヤのヨーガとかにも興味があるので 教学として色々と追及したいところもあります
70 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 20:16:05.94 ID:8F7ipQX7
>>68 だったら坐禅に集中し、自分の体験が本当だったのかを確かめたら。
あなたは古文書をそのまま受け入れ、自分の体験から古文書を取捨選択して
いない。それでは古文書の奴隷に過ぎないだろう。
要するに、あなたには体験が乏しすぎる。
>>69 チャクラの開発は色々大変らしいので充分ご注意ください
よき指導者にめぐり合えますように^^
一週間でスレつぶすなよ
75 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 20:52:09.02 ID:8F7ipQX7
最近、インドで活躍する日本僧侶、ササイ(?)の動画を見た。 アンドールベカル(?)の後継者の地位にいるらしい。 そのササイがインドのアウトカーストを前に、 神はいないと演説したのを見て、え〜と思って心がちょっと痛んだね。 それにこの人は、南無妙法蓮華経とか言っているよ。 この動画で逆に、日本の仏教はこれでいいのかと疑問に思った。
> 自分の体験から古文書を取捨選択して … 私の場合は、自分の体験を土台とし前提として、そして 諸の因縁を、受けるが故に、生死の中を輪転する 如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する − これに対して − 諸の因縁を、受けなければ、是を、涅槃と名づける 如実に、顛倒を知るが故に、則ち、復た、五受陰に因っては、生死を往来しない 無性の、五陰は、復た、相続しないが故に、説いて、涅槃と名づける と言う事なのかも
77 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 21:01:24.89 ID:8F7ipQX7
>76 頭の中の妄想だよね。 坐禅をやらないから適当なことを言って自分を誤魔化せる。 まあ、あなたの人生だから・・・
>>77 あなたは相当坐禅に心酔されているようですが、臨済録の臨済は坐禅しなかった人らしいですね。
黄檗が坐禅の見回りにきたら臨済(修行時代だから正しくは義玄)が居眠りしていた。黄檗が棒で
合図用の木の板を打ち鳴らすとチラと見てそれが師の黄檗であると確認してまた居眠りした。
黄檗は、もう一度板を打ち鳴らしてから、今度は上座に移動した。首座が坐禅に励んでいるのを見て言った。
「下座の若僧があんなにマジメに坐禅に励んでいるというのに、お前はこんなところで妄想にふけりやがって!
いったい何をやっているんだ!」
首座「ジジイ、つまらんことを言うんじゃない、修行の邪魔だ」
黄檗はそれを聞くと、やはり板を打ち鳴らし、出て行った。
後に?山が仰山に尋ねた、
?山:「これはいったい、どういうこと?」
仰山:「ああ、これは2人の勝ちだね。」
臨済院でも王常侍に「ここの僧は坐禅をするか?経を読むか?」と聞かれて、「坐禅もしないし経も読まない」と答え、
「では何をするのか?」との問いに「全て仏にさせるのだ」と答えている。
いかに臨済が形式を排除したかが伝わる一場面だ。他にも形式排除の話がてんこ盛りだから面白いw
79 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 21:48:59.59 ID:ak3uzne1
80 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 21:53:05.35 ID:ak3uzne1
82 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 22:29:40.07 ID:8F7ipQX7
>>78 何のために坐禅をするのか。そこがわからないとダメだよね。
ちなみに自分は半年で終わらせたけど、だから何も知らないでマナ識や
アラヤ識を話していたのではない。← 昨日のことだけどね。
よく知っているから話している。
83 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 22:31:21.76 ID:HfS5BFTw
>>81 ID:yFt3uIc3 さんへ
78 ID:+5REVQVl さんの文言の、どの部分が 「 馬鹿 」 な部分なのか
これからの勉強の為に、具体的に、ご教示、宜しく願います
例えば
「坐禅もしないし経も読まない」 → 「全て仏にさせるのだ」
ここの ↑ ところですか?
85 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 22:41:34.90 ID:ak3uzne1
>>84 横綱が、
「稽古なんて要らないんだよw」「稽古しても意味は無いよw」
と言ったとき、
本当に「稽古不要」と言っているのかどうか、
本当に「一寸たりとも稽古に意味は無い」と言っているのかどうか、
そもそも
「その横綱がその地位へ辿り着くまで、横綱としての力をつけるまでに、
一時間たりとも《稽古をしなかった》」のかどうか、
ってことだよ。
>>86 少なくとも臨済さんは坐禅で大悟したという事にはなっていませんね。
大悟するまでは坐禅もしたでしょうし経も読んだでしょう。
しかし、それでも駄目だった。大愚の一言で忽然大悟した事になっています。
それ以降の臨済は全くの別人となり、天馬空を行くの人となりました〜
師の黄檗がお経を読んでいるのを見て「あなたこそはと信じていましたが、ただの黒豆拾いの人だったんですか」なんて
馬鹿にしているw 夏安居に出て行こうとして、途中でハッと気がついて戻って黄檗の元で夏安居を過ごしていますから
全くの常識はずれではなかった側面もあります。
いずれにせよ、自らの教えにおいて教えの形式に捉われなかった人であった事は推測できます。
88 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:06:19.61 ID:ZHnMEvyd
>>83 ><霊は実在する(キリッ)←だったら証明してみろよwwww>
ヴァチカン公認のエクソシスト達が相手を通常の精神病か、悪魔憑きかを識別する事例を紹介しましょう。
@鋭い観察力により人間が何を考えているか言い当てることができる。
A人間業とは思えないように肉体をくねらせ異様な力を発揮する。
B袋の中に隠した物が何かを言い当てる。
C知らない筈の外国語を理解し、しゃべり出す。
D口から大量の釘などをはき出す。
私自身は坐禅はしませんが、別の方法で上記の@、A、B、Cは幾度か目撃しております。
相手は悪魔というよりも、執着にて憑依した「中有」です。
>>86 ID:yFt3uIc3 さんへ
私の場合は
止(サマタ瞑想)・観(ヴィパッサナー瞑想)の肯定派なので、とりあえず了解しました
だけど、例えば
机先生の場合は、中論の事を正しく理解してなくて
『 心はないのだから止観の必要がない 』
『 輪廻はないのだから輪廻から解脱する為の方法も必要がない 』
という妄言を言ってた人もいたので
教学として中論も正しく理解する、と言う事も必要であると思います
90 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:12:36.47 ID:HfS5BFTw
修証一等だが、ホントこのスレ見てたらレベル落ち過ぎる。 <追体験と再創造>なんて、ほど遠い。
>>87 お前・・ホントにアホだな・・・。
>>86 に於いての問題は、
《稽古無しに横綱の地位(及び実力)が培われたのかどうか》
だ。
92 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:13:40.57 ID:HfS5BFTw
93 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:22:03.85 ID:ZHnMEvyd
>>88 >私自身は坐禅はしませんが、別の方法で上記の@、A、B、Cは幾度か目撃しております。
>相手は悪魔というよりも、執着にて憑依した「中有」です。
英語も話せん主婦がフランス語で話し出したり、別の女性が「ノウマクサンマンダラ」で始まるお経を数分間唱えたり、色々体験しました。
やはり、坐禅や瞑想と同様に体験しないと分からない教えがあります。 プラグマチズム(実践主義)です。
禅宗で坐禅だけで忽然大悟した人なんているのでしょうか? 中にはいるでしょうが、竹に当たった石の音とか、棒で叩かれた痛みとか、語られた一言などが キッカケで大悟する話が多いですよね。 つまり、日常の勤めで経を読んだり坐禅をして悶々としてどうにもならない時に外からの何らかの キッカケで目が開く事が多いですね。 卵の中と外の突き合いで雛が生まれるという話なんでしょうねえ。中で突かない雛は生まれない。 力の弱い雛(凡夫)が中で突くだけでは生まれない(卵が割れない)。中で突いて外から親鳥(キッカケ)が 突いてそのタイミングが合った説きに卵が割れて雛が生まれる〜 坐禅だけ励めば全てよし〜なんて世界観ではありませんねえ。私が言いたかった事はこれだけです。
>>94 >坐禅だけで
その条件はどっから出現したの?w
>>95 ID:8F7ipQX7等の前の話の流れですよw
>>94 で、
>>86 >>91 には触れずにレスを続けるかw
やっぱりお前は在家並に腹黒姑息な奴だわ・・ ( ゚听)、
とりあえず「漸悟、頓悟」ついて、(正統・正当・正答でなくていいからw)
自分なりの考察をしてみ。
話はそれから聞いてやるよw
>>96 w
読んでないし、そんな奴のことなんか知らんがなw
99 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:39:03.68 ID:ZHnMEvyd
>>94 >禅宗で坐禅だけで忽然大悟した人なんているのでしょうか?
>外からの何らかのキッカケで目が開く事が多いですね。
横レスですが、道元は正確には坐禅で大悟したのでしょうか。
隣で坐禅していた僧侶が居眠りをしていて、どやされたのが縁で大悟したと読みました。
>>97 在家並もなにも在家そのものですからねえ。
本心科学一辺倒の唯物だが商売上やむを得ず輪廻転生を売りにしているあなたに
何を言っても無駄でしょう。あなたはあなたの商売に励んでください。
で、 直接因と間接因の議論が始まるわけだなwww
>>100 ああw 在家ってのは、前世は一在家というコテつけてる人物のことだよ。
すまんね、つい、常連間の言葉遣いになっちゃって。
で、 >商売上 というのは心外だなw
奈良さんの「釈尊との対話(NHKブックス)」でも読んでこいよ。
君は、あまりにもステレオタイプに物事を型に嵌め過ぎる。
103 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:44:25.75 ID:ZHnMEvyd
>>97 >やっぱりお前は在家並に腹黒姑息な奴だわ・・ ( ゚听)、
>>100 >在家並もなにも在家そのものですからねえ。
正見されないと、執着にて皆「一在家」に見えますよ。 (^o^)/
ID:8F7ipQX7 さんの場合は 「 坐禅だけ励めば全てよし 」 と主張しているように見えるかも 70 2013/09/30(月) 20:16:05.94 ID:8F7ipQX7 さんの場合は > 坐禅に集中し、自分の体験が本当だったのかを確かめたら > あなたは古文書をそのまま受け入れ、自分の体験から古文書を取捨選択して > それでは古文書の奴隷に過ぎないだろう > 要するに、あなたには体験が乏しすぎる
>>104 あのな・・w
そのレス(
>>70 )でも、 「だけ」 とは読めないだろ・・・。
お前等みんな、どういう日本語感覚してんだよ・・・・ orz
>>105 補
普通の日本語読解力があれば、
「だけ」ではなく、 「○○が大きく足りない」という指摘でしかねーじゃねーか・・・・。
なんか、ものすげー脱力感があるわ・・・。
107 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:50:38.30 ID:ZHnMEvyd
>>106 >なんか、ものすげー脱力感があるわ・・・。
もしかしたら「身心脱落」の境地に近いのかも。。独り言
>>107 てめぇって奴はwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
座布団三枚やるわw
109 :
神も仏も名無しさん :2013/09/30(月) 23:57:41.29 ID:kqnt1lCL
名無し=前世は一在家(真光の現伸)も馬鹿だな
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
253 :神も仏も名無しさん:2013/09/26(木) 22:49:55.04 ID:zxGwEHB5
>>241 >業論⇒AさんとBさんを識別できる属性が必須
>無我⇒上記の属性がすなわち我
業論⇒Aさんのカルマと経験は阿頼耶識に蓄積されてBさんに引き継がれる
無我⇒阿頼耶識は蓄積メディアに過ぎず、思考する主体の知的システムではない
(言い古された譬え話)
Windowsシステムは過去世の95→XP→VISTA→7→8と改良とバグを蓄積しつつ輪廻
しかしWindowsは識別され、MacOSとかUnixとかに識別されることはない
Windowsシステムは質量は零で不可視で「空」
110 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 00:00:10.25 ID:kqnt1lCL
306 :前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/16(月) 22:39:45.22 ID:p86Lf4fV ヒンズー教徒「日本人は牛を食う」 ムスリム「日本人は豚を食う」 欧米人「日本人は鯨を食う」 そして日本人「朝鮮人は犬を食う」 肉食はあまり善いカルマではないように思います。 かく言う私も最近は魚や豆腐ハンバーグが多くなりました。
111 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 00:04:33.18 ID:YwTREt6G
>>109 >名無し=前世は一在家(真光の現伸)も馬鹿だな
誤 真光の現伸
正 真光の源伸
ココは仏教板ですから、貴兄も執着を断って、おっかけは止めた方が宜しいでしょう。
> どういう日本語感覚してんだよ 「 私(ID:9PZ9OM4P)は低脳(程度の低い脳みそ)である 」 と断定しておきます スマソ オン カカカビ サンマエイ ソワカ 屮(_ ._)屮
113 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 00:21:58.10 ID:YwTREt6G
>>112 アホ、低能と呼ばれた方が、「科学常識があって利口だ」と呼ばれるよりも悟りには近いかもね。
> アホ、低能と呼ばれた方が 「 科学常識があって利口だ 」 と呼ばれるよりも悟りには近いかもね ↑ とりあえず 了解 おじゃる オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ 屮(_ ._)屮
115 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 07:37:12.85 ID:YwTREt6G
116 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 07:45:21.78 ID:YwTREt6G
>>115 大日如来は法身で阿弥陀如来は報身で釈迦如来は応身と伺っております。
まあ、世界中の宗教の多くは法身を縁として起こっているとも観ぜられます。
117 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 07:57:02.99 ID:YwTREt6G
>>116 >大日如来は法身で阿弥陀如来は報身で釈迦如来は応身と伺っております。
誤解なきよう補足します。
40年近く前に師から教えられた際には、「ふーん、そうなんだ」という程度でした。
先週、真宗の三木住職の現代仏教塾で同じ講義を見て「やっぱり、そうなんだ」と嬉しく感じた次第です。
118 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 08:48:54.30 ID:sgh/60KX
>>117 >「やっぱり、そうなんだ」
『伝承によるのではなくて、“いま眼のあたり”体得されるこの理法』(Sn.1053)で凡夫に検証・証明してください。
仏法のメルクマールは一切四法印です。
< “一切”行無常 = “一切”法無我 = “一切”皆苦(=煩悩即菩提) > ⇒ 涅槃寂静
一切のみを扱う これ、入口です。
一切とは、(1)眼と色(物体)(2)耳と声(3)鼻と香(4)舌と味(5)身と触(感触)(6)意と法(観念)
以上の六処で検証・証明できるコト・モノをいいます。
<大日如来は法身で阿弥陀如来は報身で釈迦如来は応身>が現生的なる法であること(相応部35-70)を証明してください。
119 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 08:53:41.42 ID:8u7/VH2/
>>118 じゃあつまり、瞑想で体験した事も一切ってことかな?
120 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 09:06:04.25 ID:YwTREt6G
>>119 >じゃあつまり、瞑想で体験した事も一切ってことかな?
釈尊や祖師が体験したと言っても信じないかも知れませんね。
121 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 09:07:27.53 ID:sgh/60KX
>>119 >瞑想で体験した事
その瞑想体験とやらが妄想でないことを証明できますか?
証明できなければ一切とはいえません。
瞑想はあくまで、第三の法門である【般若門】を突破するためも手段です。
仏典、テキスト、議論は以下の基準による<検証性>を満たさなければ『邪世俗』=間接現実の一切外の妄想・戯論・物語として相手にすべきではありません⇒無記。
1 明証性:.現に証せられるもの(現実に今ここで実証できるもの)であり、 *Sn.1053・1066
2. 即時果報認証性:時を隔てずして果報あるもの(時間をかけることなく瞬時に効果の現れるもの)であり、 *同上
3. 客観的再現性:来り見よというべきもの(ここに来て実際に見なさいと言えるもの)であり、 *同上
4. 涅槃合目的性:よく涅槃に導くもの(苦の寂滅・心の平安に導いてくれるもの)であり、 *Sn.737
5. 自力検証性:知者がそれぞれに自ら知るべきもの(仏法は信仰ではない)である。 *Sn.908
(相応部35-70 ウパヴァーナ)
なぜなら、「それは、ありもしないもの(妄想・物語)を語っている一切外の『邪世俗』(シャーンタラクシタ)でしかないからです(相応部 35-23 一切)。
因果撥無の邪説です。
『実世俗』(シャーンタラクシタ)が間接現実「一切」であり、
★縁起の(間接)現実=<因果(時空)関係>を正確に如理作意(中部15)によって徹見することで、
遂に第三の法門である【般若門】を突破し、般若智(無分別智)直覚 による縁起の(直接)現実=<如(時空際断)関係>を現観するに至るのです。
122 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 09:12:24.12 ID:sgh/60KX
>>120 おやおや、あなたは麻原(オウム)を「信じる」のですね?
彼は最終解脱者だと自称していて、特定少数者が「信じて」いた(る)のですが。
123 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 09:16:36.37 ID:UM+ySPWa
言葉の迷宮に迷ってはいかんぞ 仏教とは迷いを捨て智慧をえることじゃ
124 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 09:18:59.33 ID:sgh/60KX
>>120 姑息な腹黒対応は捨てて、問われたことに応えなければならない。
>>57 もスルーしている。
天地創造の最高神だといっている御親元主真光大御神と、伊都能売大国魂大国主之大神は
大日如来とか阿弥陀如来とかとどーゆー関係があるのですか?
妄想ならいくらでも語れます。
125 :
121 :2013/10/01(火) 09:29:15.06 ID:sgh/60KX
>>121 訂正
× 瞑想はあくまで、第三の法門である【般若門】を突破するためも手段です。
〇 瞑想はあくまで、第三の法門である【般若門】を突破するためのひとつの手段です。
126 :
121 :2013/10/01(火) 09:58:58.05 ID:sgh/60KX
やっぱり、トンズラしやがった。 また、ほとぼりが冷めるの待つのかw ご立派なお方で、かないませんなあ。
127 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 10:09:12.22 ID:8u7/VH2/
>>121 じゃあたとえば、瞑想熟達者が何人かで瞑想をして、
同じものを見たとしたら、それは検証可能なわけだから、
一切に含まれるってことでしょうか?
129 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 11:00:13.66 ID:Ralin/4L
その1 ☆釈尊が十二支縁起説を悟ったというのは学問ではない 三枝充悳氏による批判 三枝充悳氏は、10年ほど前から、仏教学における縁起説に関する学者の偏見を指摘しておら れましたが、 その後も、あらたまらないので、あらたな著書で、激しい論調で、学者を批判して おられます。 「仏教学そのものを拒絶している」と。 仏教学を拒絶するような学者 釈尊は、十二支縁起を悟ったのであり、 十二支縁起説のみが仏教だという偏見ある説をとなえ る学者がいるが、 三枝充悳氏は「仏教の思想」で、縁起思想のみで仏教を語る傾向を批判され た。 三枝氏は、最近の著書「縁起の思想」で、特に「十二支縁起説」のみが仏教であるという学 者を厳しく批判する。 「釈尊=ゴータマ・ブッダは菩提樹下において十二支縁起(十二因縁)の理法を さとった、と いうような文は、 たといそれに「ウダーナ」一の一−三という資料が添えられていたとしても、 仏教学者ー仏教学研究者のあいだからは払拭されなければならぬ。 右の記述は、資料論を含む文 献学の無知をみずから告白するものであり、 したがって当初から仏教学そのものを拒絶してい るのであるから。 ただ、学ー研究を離れて、一仏教者として自分はそう信じたいというのであれ ば、どうぞ御随意に、と仏教学は答えるであろう。」
130 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 11:08:39.07 ID:8u7/VH2/
131 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 11:17:03.95 ID:8u7/VH2/
132 :
ルジア :2013/10/01(火) 11:42:00.43 ID:O32kY0Xn
>>121 まず諸概念の説明が少なすぎるので、読めない。学ぶべきところは学べと
投げ出されるわけにもいかないほど、僕は、他にやることがあります。
関心事として、とりあげているはずのその諸概念について、まず、
【明証性】についての、説明をくわしくお願いします。どこかの大量の
文章のリンクをあげられても、やはりこまります。
僕は、【明証性】について、学びたいと思いますが、しかし、今は学びたいとは思っていません。
どうか、詳しく、それなりの説明をお願いいただけないでしょうか?
133 :
121 :2013/10/01(火) 11:44:54.62 ID:sgh/60KX
>>127 >同じものを見たとしたら、それは検証可能なわけだから
ここでの問題は
>>118 >>121 で十分明晰です。10を聴いてやっと1を知るゆとり世代ですか?
仏道=八正道は菩提心凡夫のためにあるのですから、凡夫にとって明晰でなければなりません。
例えばその何人かの瞑想熟達者が霊魂(?氏の落ち武者のような)を見たと言っていることは誰にとって検証可脳なんですか?
で、その場合あなたは?氏の落ち武者幽霊を検証済みとして信じるのですよね?
「(集団)催眠・マインドコントロール」と「瞑想」の区分ができていないのなら危険です。
さらに、極めて高度な瞑想である非想非非想処で『同じものを見る』ということは分別そのものであり、
非想非非想処ではありません。催眠・(自己)マインドコントロールでしかないのです。
彼らは瞑想熟達者ではありません。
禅定はあくまで【般若門】を突破するために、『外相を離れ、内乱れざる』(慧能)に至るためのもので、
何か対象化したものを『見る』ことではありません。
<霊は実在する(キリッ)←だったら証明してみろよwwww>
http://neta-matome.doorblog.jp/archives/24906895.html
134 :
133 :2013/10/01(火) 11:49:53.40 ID:sgh/60KX
× 検証可脳 〇 検証可能
135 :
ルジア :2013/10/01(火) 11:52:29.98 ID:O32kY0Xn
わたしは、最近、人々は大切なことを見失っていることが気になっています。 やっと、こうやって、自分で発言して文章をまとめる作業ができる世の中になった はずなのに、なにか文章を作る作業になれていないのかしらないが、自分のことを 知られたくないのかしらないが、仏教を遊び道具にしている人々ばかりなのが、 気がかりでなりません。 このままいけば、大切なことを見失ってしまい、この世に生まれた喜び というものがなくなり、学ぶことの喜びにも増した仏教という喜びがある ことを忘れてしまうと考えたらば、気が狂いそうになります。 喜びを味わうことができない人々は、この世の最大の汚点である、 ロボット崇拝になるか、ロボット崇拝を広めるのかもしれません。 世での仏法の興りが、始まっていますが、それが見えず喜ばず、 生きて、死んで、終わりなのでしょうか? 核心をつく言葉、それを 出し惜しみして、思いを強めているのならば、その末路は、支配している キリスト教や、ロボット崇拝に陥るのでしょう・・・ 喜びをもてず、反逆し、なんとか抜け道を探ろうとしないこと、 そして、自殺すること、それは命を粗末にするというよりも、根本的に ロボット崇拝に命ができたようなものでして、キリスト教に命ができたような ものでして、そのありようは、もちろん、いけないことなのですよ!
136 :
133 :2013/10/01(火) 11:58:29.07 ID:sgh/60KX
>>132 >詳しく、それなりの説明をお願いいただけないでしょうか?
お断りします。
あなたも、10を聴いてやっと1を知るゆとり世代ですか?
縁起の現実を徹底的に如理作意するのが仏道です。
→5. 自力検証性:知者がそれぞれに自ら知るべきもの(仏法は信仰ではない)である。
137 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 12:02:14.13 ID:8u7/VH2/
138 :
ルジア :2013/10/01(火) 12:05:27.21 ID:O32kY0Xn
いつの間にか、いろいろな人々が互いに話し合える場が持てなくなった。 それはこの世では、最初から今まで、ずっとそうだったのですが、いつから こんなに、ひもじい思いをして生きているのですかみなさまは? 苦しかったでしょう? 大事なことをなくしてしまい、もしくは最初からない ものであると感じていた人々。 自分の考えが持てないから、仏教を学び取る人々、その末路は、キミたちの 愛すべき、釈迦やもろもろの今までに続く、仏の弟子たち、在家・檀家・居士などの 往く先であり、いまわしき場所、キリスト教・ロボットの世界・・・。 なにがなんでも、すべてを平等にみたり、なにがなんでもすべてを不平等にみたり、 なにがなんでも、勉強をしないなど・・・。このままでは喜びを味わう、 うすきみわるい、人々の量産所になってしまいます、この世は・・・。というか、 もともと最初から今まで、そんな世であったのだから、しかたないのか? あふれだすものが、心の根になっていないじゃないか? それでは、いく先は、もう見えているよ? どうぞ素敵なお花畑か、 お花畑じゃないお花畑か、そんな風な、ことをどうぞ、続けていてください。 この世には、文章を書く才能があるものはいないのか? 生まれ持って、 与えられた言語機能をなぜ生かさないのですか? なぜ、まちがうのですか? なぜ学びが、果報とならないのか、皆さんの場合は・・・。それは果報も 学びもない、キリスト教やロボット崇拝に陥っているからなのです。
139 :
ルジア :2013/10/01(火) 12:16:21.19 ID:O32kY0Xn
>>136 他力本願の方が楽だからです。それに、明証性が僕に必要な概念か
分かりません。それを如理作意するのがいいことであると思っているあなたの
考えは、どうやらわたしの知っている仏法を逸脱している、キリスト教や
ロボット崇拝における刺客みたいに考えられます。もし仮に、如理作意を
ただしく受け取ってもいいのですが、今のわたしにはおぞましいものに思えてしまいます。
わたしは、一のことで十のことが分かるということが、なぜゆとり世代の
人々につながるかを、回答できないですが、それをやることを求められている
のならばするぞー、という考えはでて、言葉を出したいと考えていますが、
どうやら、わたしはあなたが、明証性も、如理作意もりかいしているように
思えないのです。それは、僕は僕の考えに自信があるからでありまして、
考えがどんどん、洗練されているのですが、餌としての言葉をもらっても
食べるほどの、糞犬では僕はありません。じっと我慢して、飢え死にした方が
ましです・・・
140 :
ルジア :2013/10/01(火) 12:32:44.45 ID:O32kY0Xn
172 :ルジア:2013/10/01(火) 12:30:44.50 ID:O32kY0Xn
>>167 なぜなのかと言いますと、阿含宗の根本聖典が阿含経だからです。
阿含というのは、結集の際の経蔵のことなのでしょう。それを根本聖典
としている、単純な理由から、惹かれたのですが、それにも増して、
著作数が多い桐山氏には何かがあると考えるからです。
>>168 桐山氏というのは、考えようによっては、いろいろな人々の
いるこのスレのようなものの材料を作ってくださった方だから、それなりに
、学びという点では、わたしは必要で不可欠であると考えています。
ありがたく、文章を読ませていただいていますが、たしかに、お釈迦様の
を小解脱としたことにはあやまりはないのですが、どんどん肥大化していく
おぞましさの延長線に桐山氏がおられることはたしかでしょうね・・・。
しかしあやまりがないと書いたように、正確なことを言っていることは
たしかであることは、わたしの考えと合致するからであります。
因縁というのを解脱することが、大解脱であるということ、たしかに
それが、仏教に入る、唯一の道であるのではないかと考えています。
かと言って、桐山氏や阿含宗を擁護する気になれません。
やはり、おぞましい宗教を見せられた気がしていますが、それでも・・・。
141 :
133 :2013/10/01(火) 12:33:33.23 ID:sgh/60KX
>>137 >ヴィパッサナー瞑想は仏陀が悟りを開いた瞑想と言われてますよね。
それが事実かどうかは自己確認検証できていません。
禅定は近所の親しい和尚の禅寺(臨済宗)か自宅での早朝坐禅でしか行ったことがありません。
禅定はあくまで【般若門】を突破するために、『外相を離れ、内乱れざる』(慧能)に至るためのもので、
何か対象化したものを『見る』ことではありません。
曰く、『集中力によってヴィッパサナーの瞑想をすることによって、過去世を見ることが出来るようになります。
そういう風に見ることによって、過去においてどんな行動をして、どんな行いをして、
どんなカルマを作ったかというのを知ることが出来るようになるわけです。』
人間は既成概念で見たいものを見えたように思い込むものです。脳内“痘痕も笑窪”症候群自己洗脳です。
上記のようにあらかじめ「過去世」「カルマ」を洗脳しておいてから、それを見ろ!と「瞑想」させることが、
「(集団)催眠・洗脳マインドコントロール」とどう違うのでしょうか?
カルマ観念を植え付けてサリンをまかせることとどうちがうのでしょうか?
>>140 『宗教』ってのは、程度の差(や若干の質の違い)こそあれ、
何かしらおぞましさを持ち合わせているものさ。
143 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 12:48:13.93 ID:8u7/VH2/
>>141 では仮に、釈迦がヴィパッサナー瞑想であらゆるものを観て悟っていた場合、
その釈迦の悟りというものは妄想であったという趣旨で捉えていいわけですね?
過去を振り返るな、未来を追い求めるなと中部経典でいってるんだが・・・
145 :
133 :2013/10/01(火) 12:55:56.70 ID:sgh/60KX
>>143 >その釈迦の悟りというものは妄想であったという趣旨で捉えていいわけですね?
前提条件『ヴィパッサナー瞑想であらゆるものを観て悟っていた場合』をどう検証するのですか?
信仰ではないカタチで経験的に検証・証明してください。
146 :
133 :2013/10/01(火) 13:06:48.01 ID:sgh/60KX
>>143 言っていることが分かりますか?
妄想や仮定の質問には応えるすべを持ちません。
応えることがまさに妄想になるからです。
147 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:06:50.57 ID:8u7/VH2/
148 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:08:27.69 ID:8u7/VH2/
149 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:10:07.38 ID:8u7/VH2/
つまるところ、この五感で感じていること自体が妄想かもしれないわけだから。
宿命通があったのだから〜 神通があったのだから〜 瞑想で悟ったのだから〜 こういう前提丸呑みで結論出して、それが正しいのだ〜という展開は全く説得力のない話。 いずれも、 もしも宿命通があったのなら〜 もしも神通があったのなら〜 もしも瞑想で悟ったのなら〜 と論を展開して、〜という結論になる〜と訂正するべき。 前者の説得力皆無の論の展開では信仰の域を出ない。 信じるものは救われる。だから信じるのだ〜イスラム教やキリスト教と変わりませんねえ。 仏教は宗教にあらず。人間の生きる指針を示したものである。イスラム教徒やキリスト教徒ですら読む価値があるもの。 既成宗教と同列に仏教を捉える姿勢はいかがなものか? 仏教を商売としている人が顧客(信者)獲得の為、誇大広告で客寄せしているのですか?
仮定に仮定の話を重ねて、しかし結局自分好みの結論に賛同が欲しいだけ ありがちすぎて笑えもしない
152 :
133 :2013/10/01(火) 13:13:46.63 ID:sgh/60KX
>>149 >つまるところ、この五感で感じていること自体が妄想かもしれないわけだから。
いいところまできていますね。
莫妄想(まくもうそう)〈無業和尚:伝灯録・無業章〉
153 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:16:44.59 ID:8u7/VH2/
154 :
ルジア :2013/10/01(火) 13:21:25.08 ID:O32kY0Xn
>>150 幽体離脱して、その仮定とやらの当事者に会ったのかな? w
思いを超えないと、思いの同じ穴の狢に閉じこもるだけ。
ありがちなことを、しないことが素晴らしくもなく、
あながちなことを、マネすることが素晴らしくもない。
思いが拡大していくまえに・・・
思いが拡大しても軌道修正する人もいるが。
155 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:22:21.29 ID:pgRsvP6O
>>149 >つまるところ、この五感で感じていること自体が妄想かもしれないわけだから。
人間は、それを「現実(実在)」と呼ぶのだよ。何故なら、五感の知覚に
100%依存しない限り、人間は一瞬も生存できないから。生尊できなければ、
宗教も、その他、人間の如何なる営みも不可能。
君は何時から人間止めたの?www
156 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:25:11.97 ID:a/zQHOs4
>>149 其処までいっちゃえば、相当あれだよ。
試しに指一本落としてみれば、妄想かどうかハッキリするよ。
157 :
ルジア :2013/10/01(火) 13:27:41.73 ID:O32kY0Xn
158 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:27:57.12 ID:pgRsvP6O
一旦、釈迦に嵌ったら、もはや仏教「学」はやれない。「釈迦の正当化」以外 のことは絶対にやれなくなるから、客観性は皆無。学問の生命とは、客観性 である。「釈迦マンセー」は、学問とは言わない。
159 :
Naka :2013/10/01(火) 13:36:26.38 ID:wl6OHdvK
超意訳『般若心経』 訳:Naka とらわれのない眼で観れば 心も体も幻であると分かり 苦しみから救われる あらゆるものが幻にすぎない 幻を実際に存在すると思い込んでいるだけである 幻であるから生じることも消え去ることもない 穢れることも清らかになることもない 増えることも減ることもない 夢の中では実際に体験しているように感じられる しかし目覚めてみれば夢だったと気づく 私たちが考えていることも感じていることも行動していることも それらはすべて幻である 私たちはそもそも存在していないのだ 存在していないのだから病気や死を恐れることはない 努力して何かを得ようとする必要もない このように達観すれば迷いも恐れもなくなり 最高に平穏な心を保つことができる すべては幻にすぎないと達観することが悟りである 呪文『常識を捨て去れ 心を解き放すのだ それができれば幸いである』
160 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:39:00.63 ID:pgRsvP6O
>>156 指まて落さなくても、ほっぺをつねってみるだけでよい。釈迦は、その検証
さえ怠った、従って、釈迦の教えは、すべて彼の妄想。彼の精神病の症状と
しての変性意識に過ぎない。
>>156 相当アレ ってんじゃなくて、
物事、事象の構図として見れば≪そこには『程度の差』しかない≫ってこと。
162 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:49:33.42 ID:pgRsvP6O
>>159 般若心経の100%の誤解。仏教徒を自称するのなら、般若心経くらいは理解せよ。
「空即是色」がすっぽりと抜けているではないか。「色即是空」と「空即是色」とを
「同じ比重で」併置したところが、大乗仏教(釈迦カルトではない)の凄さ。釈迦には
到底思い至れなかったこと。
163 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 13:54:46.02 ID:pgRsvP6O
>>161 「程度の差」などではない。「有無」「生死」の相違は「一義的」「根源的」。
「一義的」に区別しなければ、人類はとっくに消滅していた。釈迦自身も存在
しなかった。
164 :
133 :2013/10/01(火) 13:55:50.32 ID:sgh/60KX
>>160 >釈迦の教えは、すべて彼の妄想
そうですよ。
だから『一切不可得かつ戯論・妄想消滅なるがゆえに、
ブッダは、いかなる教えも、どこにおいても、誰のためにも説かれなかったのです』
(中論25-24)
>彼の精神病の症状としての変性意識に過ぎない。
これもあなたの妄想です。
>ほっぺをつねってみるだけでよい。
キチンと検証できているではないですかw
それを「一切」=縁起の(間接)現実というのです。
>>163 w
もしそうだったら、この世に「見間違い」「聞き違い」「誤解」なんてものは存在しないだろうよw
166 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 14:04:41.52 ID:pgRsvP6O
>>164 少しも検証できていない。人間が生きている現実はただ一つ、直接・間接の
区別などない。それは、無意味な、そして忌むべき「観念の遊戯」に過ぎない。
釈迦の教えは、勘違いと誤りだらけ。それをすべて是正したのが、竜樹の類い稀な
頭脳であった。
167 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 14:07:53.22 ID:pgRsvP6O
>>165 馬鹿ですか。「見間違い」「聞き違い」「誤解」と言えるのは、「正しいもの」
があることが判っているから。
168 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 14:09:30.48 ID:pgRsvP6O
「釈迦マンセー」は学問ではないよ。批判ができて、初めて学問が成立しうる。
>>167 そうじゃねーよw
お前さんの言う通りなら、誰一人として見間違える者など居ない筈だってこと。
だが、見間違える者が居るということは、そこ(「感受、知覚・認識」の際)に
バグを生じ得る、或いは消しきれない曖昧さがある、ってこと。
比較対象としての基準(≒正しさ)が存在するかどうかの話じゃねーよw
170 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 14:18:14.93 ID:YwTREt6G
>>124 私が縁で貴兄の学習が起きたのでしょうか。それとも最初からみ名をご存じでしたか。
前のみ名の神様は仏界では大日如来とか阿弥陀とか呼ばれ、
後のみ名の神様は観世音菩薩と呼ばれていたと師より伺い、後は信心です。
>
>>57 もスルーしている。
特に反論に適切な言葉は無かったので止論としております。
171 :
133 :2013/10/01(火) 14:20:49.78 ID:sgh/60KX
>>166 >少しも検証できていない。人間が生きている現実はただ一つ、直接・間接の区別などない。
そのセリフは、<無限遠点>の実在性という宿題を解いてから言ってください。
縁起の現実は現実そのものであって、『ただ一つ』との分別断定は一元論であって、
<無限遠点>の実在性の証明にかかっています。
これができなければ、あなたのセリフはすべて無効です。
172 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 14:21:09.21 ID:pgRsvP6O
>>169 どんなに健康な人でも、病気になることはあり、どんな製品でも、ごく少数の
不良品は、必ず生じるw。
173 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 14:21:25.28 ID:YwTREt6G
>
>>57 もスルーしている。
>特に反論に適切な言葉は無かったので止論としております。
三木住職と同じ解説をした奈良先生はアホだ、という議題で貴兄と対話を続けても
スレを無駄遣いするだけのアホだと悟りましたので。
174 :
133 :2013/10/01(火) 14:26:01.42 ID:sgh/60KX
>>173 >アホ
『要するに三木は<成りすまし仏教の広義の心霊主義者=スピリチュアリズム>だ。仏法ではない。
★★仏法を「現世的なる法」(相応部35-23・70)として説いているか、挙証立証せよ!につきる。
奈良氏は、業報輪廻転生も肯定されないし、混ぜるな!危険を犯した超我予定の浅薄な「非我」論者ではない。
死後生も説かれない。
あまり馬鹿にしないほうがいい。』(
>>57 )
>>172 w
だから、「程度の問題」だろ?と言ってるの。 相変わらず頭悪いなぁ・・w
176 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 14:31:58.72 ID:pgRsvP6O
>>175 少なくとも、釈迦ほどは、そしてその釈迦マンセーしかできない釈迦カルトほどは、
頭は悪くないw。
>>176 はい。
程度の問題だったことは認めるのねw
隠居はいつもそうだよなw
返答に窮し、自分が間違っていたことを自覚すると
相手の意見を肯定する発言をするかわりに、(時には別件でw)悪態をついて
あたかも自分が正しかったかのように装う・・。
wikiより 妄想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E6%83%B3 妄想(もうそう:delusion)とは、非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。
妄想を持った本人にはその考えが妄想であるとは認識しない(むしろ病識がない)場合が多い。
【五感で感じている事自体妄想か否か?】
五感で感じている事を非合理的かつ訂正不能な思い込みといえるのか?
見て、聞いて(聴いて)、嗅いで、味わって、触って、対象とはそのようなモノと認識する事は合理的である。
この認識は訂正不能か?いや、訂正可能である。繰り返し体験し、当初の感覚と変わってきたならば
その変化過程全てを振り返り、自分の経験した全ての体験を元に当初の感覚を訂正できるから。
つまり、五感で感じている事は妄想であるというのは間違いである、と思う。
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲せることを識らず
179 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:00:56.47 ID:pgRsvP6O
>>171 ><無限遠点>
人間も、他の生物と同様、その種属としての認識能力の範囲内で生存している。
その認識能力の範囲を超えれば、人間が人間ではなくなる。人間に犬の臭覚が
あったら、あらゆる匂いを感じ、人間は狂い死にする。
従って、無限遠点など、人間の生存には無関係(一切外)で、無意味。
中論が、下記のような見事な言葉でちゃんと教えてくれているではないか。
「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる
区別もない」(注:生死の世界とは、現世、世俗世の意味)
「涅槃の限界が、そのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの
区別もない」
及び、それに続く各句。
180 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:10:54.13 ID:pgRsvP6O
>>177 下位次元の宗教とは異なり、最上位次元の生命を基盤として考えれば、「間違い」
という概念はない。下位次元では「間違っている」ように思ええも、最上位次元が
すべて正しいのである。
生命は、生命の機能に過ぎない「正しい」「正しくない」の分別の対象にはなりえないのである。
181 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:24:45.03 ID:pgRsvP6O
>>178 その定義では、「人間の生命の維持との直接の関係」という要素が抜けている。
死者には、妄想もヘチマもないのだから。
この要素を取り入れたのは、生命教が世界初w。
仏教が六処を発見したのは、驚くべきこと。存在を成立させる基盤だから。
但し、「意」は五感からの入力を受けて調整する五感の一部。現代の生理
解剖学の知見そのまま。誤解している仏教者が多い。
ちょっと、指摘しときたいんだけど 大日如来=法身、阿弥陀如来=報身、釈迦如来=応身 て単純な場合分けは危険だからやめとけ 法身てのは、こころも言葉もおよばずと言って、それは対象としてあるものではない。 大日如来について我々が日常理解できる方法ではなされているものは応身だ。絵にかかれているのも応身。 そして、位が高い修行者がある境涯に至り、感得するところの大日如来が報身だ。 ただ、そこにあるものだが、決して感得されえないものが法身だよ こいつは仏にしか分からん。悟らなければ分からないもの。 浄土真宗では凡夫が現益でうるものはアビダッチであって、仏覚ではない。だからこの世で得られる阿弥陀仏の限界が 報身であるというにすぎない。
アビダッチじゃないか 阿惟越致 阿毘跋致 あゆいおっち、か あびばっち だわ 不退転という意味で、見道を出たところにある位
184 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:32:57.02 ID:pgRsvP6O
185 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:40:18.69 ID:pgRsvP6O
「仏教のゲシュタルトの破壊」にSnなど引用するのは矛盾。Snこそ、仏教の ゲシュタルトそのものではないか。 「閉鎖体系内」には、真理は存在しえないのである。
wiki(同上)より 仏教における妄想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E6%83%B3 仏教における妄想は範囲が広く、健常者が日常的に行っていることである。
過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、主観的な価値判断や断定をしたり、
考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。
【五感で感じている事自体妄想か否か?】
健常者が日常に行っていることが妄想である以上、五感で感じている事は妄想である。
つまり結論としては精神医学の視点では妄想ではなく、仏教の視点では妄想ということになる。
仏教の視点では全てが妄想であり、妄想を越えた世界は非現実の理想郷である〜
187 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:48:14.55 ID:pgRsvP6O
>>182 大日如来は、法身を「象徴化」したもの、と考えればよい。
同様に、「久遠の本仏」は、種属としての人間の生命の象徴化である。
第一の解釈 色即是空 ・・・ 色とは空である 空即是色 ・・・ 空とは色のことである 第二の解釈 色即是空 ・・・ 色とは空である 空即是色 ・・・ 空は色になる
189 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:55:15.33 ID:pgRsvP6O
>>186 すべてが妄想なら、人間にとってはその妄想の世界が、生きるべき唯一の現実。
その世界を超えた世界を考えると、人間が人間ではなくなる。それが、「人間に
とって」の妄想。
「色即是空」、されど「空即是色」。物凄い真理である。
>>187 つまり、覚りの本質というものをぬきだして、それはみんな同じということを象徴的に表したと言えるわけだが
それ自体がすでに比喩なんだよ智慧を太陽に例えるのと変わらない。
191 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 17:59:51.76 ID:YwTREt6G
2chでも一応は仏教板なので、八正道(正語)に反すると思われる言葉の 「アホ」、「馬鹿」、「基地外」は使わないように致しましょう。 「仏々祖々、皆元凡夫なり。」(道元禅師)
192 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 18:00:49.57 ID:pgRsvP6O
>>188 「即是」とは、「そのままで・・・である」の意味。変化や生成の意味を
含まない。
またそれが比喩にすぎないのだとすれば、覚りにダイレクトに入るというより ワンクッションいれていて、その業因をもとに仏果へひきいれるというプロセスをとっていることになる。
194 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 18:08:16.24 ID:pgRsvP6O
>>191 >「仏々祖々、皆元凡夫なり。」(道元禅師)
道元さんは、いいこと言ってるね。さすがである。人間を聖者と凡夫に差別
した釈迦とは大違い。
195 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 18:21:58.57 ID:8u7/VH2/
>>194 でもその釈迦の「差別」はカースト制度を否定する思想として逆に素晴らしいものだと思うけどなぁ。
196 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 18:26:06.23 ID:YwTREt6G
>>182 >ただ、そこにあるものだが、決して感得されえないものが法身だよ
>こいつは仏にしか分からん。悟らなければ分からないもの。
おっしゃる通り、無為の法身や報身が分かるのは応身仏でしょう。
197 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 18:27:54.60 ID:3wnz41/R
>>192 そうすると第一の解釈でいいわけですね。
色 → 空
空 → 色
から言えるのは、色 = 空 ということですよね?
空即是色に色即是空以上の意味はないですよね?
だからw 後四蘊を無視するな、っつーの・・w ったく、どいつもこいつも・・・
やくしにょぜでええやん
やくぶか
どの仏が最強かは、どの宗派にとって何を主としているかという宗内の考え方の先後を表すものであって 対外的に、バトルロワイヤルを試みているものではないよ それを勘違いすると、幼稚な階梯論議に堕することになる。
まあ、かつては仏教とは何かを体系的にまとめようと試みた総論的な仏僧もいたにはいたんだが 仏教を受容しおわった鎌倉以後はそういったことが無意味だとわかったのだと思うなぁ だから、今でも仏教にとっての完全な階級付けがわからなくて仏像が多くならぶお寺に行っても なんでここに配置されているかわからなくて混乱する人は多いと思う だが、そういうものは仏教が受容されていった時代背景と人々の心の移り変わりとともに学ばなければならないものであって 思想体系的に見るものではないと理解されなければならないだろうね
203 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 19:17:11.57 ID:pgRsvP6O
>>197 >空即是色に色即是空以上の意味はないですよね?
それでは、単なる同義反復じゃん。全く理解できていないね。般若心経は
そんなチンケなものではないよ。
「色即是空」と「空即是色」とを、「同一の比重で併置した」ところに、巨大な
意味と重みがある、
204 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 19:27:26.81 ID:3wnz41/R
>>203 >「色即是空」と「空即是色」とを、「同一の比重で併置した」
>ところに、巨大な意味と重みがある、
その意味と重みを詳しく
205 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 19:33:04.04 ID:pgRsvP6O
>>199 「受想行識」は、単なる「準用」。「おまけ」である。
「色即是空・空即是色」は、最も優れた「存在論」。「この世界は、単に人間の
目に映じる世界に過ぎないから、本当はないのかもしれない。しかしその世界こそ
が、人間が生存してきた、これからも生存すべき唯一の世界である」。これ以上
優れた存在論はない。西洋哲学でも、最近は、この唯識論が見直されている
そうだ。
大乗仏教は、カントの「物自体」のような妄想は語らない。カントは、「物自体」
を一体どうやって確認したのか。完全な妄想である。ニーチェはカントを、
「陰湿な神学者に過ぎない」と酷評している。
>>205 唯識で心経解釈したら、
「識即是空、空即是識」で、
「“色”? そんなもん駄菓子のオマケやがなw」と言われるぜ?w
つか、ほんっっっっっっと何にも理解してねーのな・・・。
207 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 19:41:32.25 ID:pgRsvP6O
>>206 そんなことないだろ。帰謬論証派では、「識」が「実在」だと、大騒ぎして
いる。
208 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 19:56:09.43 ID:pgRsvP6O
>>206 おまけである「受想行識」を、「色」より先に、又は「色」と同比重で持ってくると
いう倒錯を犯すから、理解ができない。人間が生きることのできる世界は、専ら「色」
即ち「生命の維持に直接の作用を有する物」である。「受想行識」は、生きることにより、
初めて生じる。死者には、受想行識は生じない。
釈迦も、12縁起で、同じ倒錯を犯している。
隠居や紐の人とここの住人との議論って非常にわかりやすい仏教入門ですね^^
>>209 だからw
そうじゃなくて、「唯識で考えるなら」ってこと。
自分で「唯識」の名前を出してきておいて、全く違う話をするんだから・・w
>>205 >最近は、この唯識論が見直されて
>この唯識論が
>【この】唯識論が
言いだしっぺは自分でしょうがw
211 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 20:17:20.09 ID:pgRsvP6O
>>209 ここの自称仏教徒は、何故だか殆どが小乗仏教徒だから、「日本の仏教入門」
には成りえない。日本の仏教は、竜樹の卓越した頭脳を一旦通過した大乗仏教
である。
213 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 20:28:48.20 ID:pgRsvP6O
目の前のビール瓶(その他どんな物質でもよい)の実在の証明を求められて、 「人間の目に見えるから」以外の証明の方法はない。 禅者であり物理学の教授である知人と飲みながら、「先生、このビール瓶の 実在を証明してください」と言ったら、目を白黒していたw。
そのビール瓶が実在すると言って謝るまでその禅者を殴ればよかったのにな
215 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 21:01:03.82 ID:pgRsvP6O
仏教徒やクリスチャン諸君は、どうやって証明する積りか。殴るのか?w
頑固に認めようとしないからだ。殺人犯はそう語ったという
217 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 21:09:28.85 ID:8u7/VH2/
>>209 仏教入門なんだけど、入門のところで「あーだこーだ」と言い合ってて、
入門から先に議論が進まないという・・。
つまり戯論ばかりで、誰も仏教を実践しようとしてないのです。
そこがダメなとこですね。
>>217 電子掲示板で実践できるのは言葉遣いくらいのもんですよw
で、言葉遣いは丁寧だが、理解は無茶苦茶、と・・。
219 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 21:28:48.20 ID:8u7/VH2/
>>218 前に誰かが瞑想しているかとここの人たちに聞いていましたが、
だれ一人として瞑想していなかったという・・。
実践できるのは言葉づかいといいますが、見ていると言葉は丁寧でも内容が、
相手の意見の否定だったり、言葉づかいすら実践できていない人がほとんど。
理解が無茶苦茶なのはどの点が無茶苦茶なのかわかりませんが、
仏教歴3〜4か月なので大目にみてください^^
>>219 まともな人間は水源禅師のような狂人を志向しないというだけ。
八正道の正定を在家流に解釈すれば心を落ちつけて、心が乱れないように〜程度で十分。
毎日、禅寺に通って坐禅組んで何の益がある?
日本にまともな禅寺なんていくつあるというでしょうか?
日本全国〜車で30分以内〜に津々浦々存在する〜なんて状況ではない。
むしろ下手な瞑想に手を出して精神医学的妄想に陥る危険性の方が高い。
その最たる象徴が水源禅師でしょうに。
瞑想至上主義の人は自らの置かれている状況を省みた方が良い。
精神医学的妄想とは自らの妄想を妄想と認識できない、病識がないケースが多いらしいので まさに、三界の狂人は狂せることを知らず〜の状態です。 そんな世界に誰が入りたいと思いますか。
222 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 21:44:27.88 ID:8u7/VH2/
>>220 在家はそこまでのめり込まなくても十分ですかね。
水源禅師のサイトは内容がぶっ飛んでるので面白いです。
まあ知識としてのみもてはやしている人は多そうだよね
知的パズルとしての仏教は超絶面白いが、 生き方としての仏教はめちゃ難しく、 行ずべきものとしての仏教は超絶難易度。
既出だと思うのですが、ヨガの8支則のなかに、 ダラーナ(心を一点に集中させる) ディヤーナ(心を安定させる
>>225 間違って書き込みを押してしまいました
既出だと思うのですが、ヨガの8支則のなかに、
・ダラーナ(心を一点に集中させる)
・ディヤーナ(心を安定させる)
・サマディ(三昧の状態になる)
というものがあります
これはヨガの目的である瞑想状態を表しています
最終的にサマディになることを目指します
サマディは自我が消えて万物と一体になるのです(梵我一如)
禅宗はディヤーナが中国に渡ったときに、ゼンナとなり、ゼン(禅)と
呼ばれるようになったものです
坐禅のことを止観とも言う。 止は精神集中であり、周囲の刺激を遠ざけることで禅定が深まる。 観は自己観察であり、自分の精神の在り様に問題が無いかを点検する。 自分の精神の在り様を点検し、周囲の刺激を遠ざけるだけだから、 宗教書をまったく読まなくても差し支えない。普通の思考力があればいい。 こういうことだから空海や釈迦のように若くても悟れる。 順序はまず観をやり、それが完成したら止をやる。 観は坐ってもいいが、ぼんやりその日一日を反省することも観である。 観の完成は甘露(聖霊)体験にある。
実体が有るのか、実体が無いのか(=空なのか) これこそがヒンズー教と仏教が分かれる究極の違いであり、 これを無視したら両者を分別できない。 実体の有無とは、本質の有無であり、霊魂の有無である。 これは、滅尽定以上の禅定によって明らかにされる。 非想非非想処は悟りに遠く及ばない。 カン違いしている人もいるが、坐禅それ自体は目的にならない。 坐禅は実体の有無を明らかにする道具に過ぎない。 ではその坐禅の答えは? ・・・ 霊魂が存在していた!
229 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 23:15:21.99 ID:YwTREt6G
>>224 >生き方としての仏教はめちゃ難しく、
>行ずべきものとしての仏教は超絶難易度。
本当にそうでしょうか。
衆生済度の為の過去七仏の教えは非常にシンプルです。
法句経「七仏通誡偈」
諸悪莫作 ― もろもろの悪を作すこと莫く
衆善奉行 ― もろもろの善を行い
自浄其意 ― 自ら其の心を浄くす
是諸仏教 ― 是がもろもろの仏の教えなり
以上、万教でも共用できるかと存じます。
230 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 23:19:09.86 ID:YwTREt6G
>>228 >ではその坐禅の答えは? ・・・ 霊魂が存在していた!
それは自身の過去世の記憶を想起できたという意味ですか?
>>230 違います。
自分の中に、霊魂という実体があったということです。
霊魂には意識も感覚もあるけど、記憶はまったくありません。
釈迦は無我を説かなかったと思っています。
スピリチュアリズムは仏教ではありません
233 :
神も仏も名無しさん :2013/10/01(火) 23:39:58.88 ID:YwTREt6G
>>231 >自分の中に、霊魂という実体があったということです。
>霊魂には意識も感覚もあるけど、記憶はまったくありません。
>釈迦は無我を説かなかったと思っています。
自分の所有物も家族も体も心も自分ではない、「非我」という方が仏説として正しいということでしょうか。
しかし、世親菩薩の説かれた阿頼耶識に記憶があるという教えと、貴兄の直接感受された霊魂とは少し違うように思いますが、
どのように分析されましたか。
>>233 非我の方が正しいでしょう。でもそれの真意は有我ですね。
霊魂は球体だが、その球体の表面をアラヤ識が覆っている、
と考えれば矛盾しないと思う。
このアラヤ識(業)を清算することが解脱になります。
>>217 入門から先へ進まないのは、
現代常識での解体・再解釈系や、スピ系やムー系・神秘系、超能力や超人系、或いは高次元存在系etc.etc.が
尽きることなく沸き付き纏ってくるからだよ。
今のこの流れのようにねw
五十歩譲って、再解釈アリとしても、
叩き台としての正統を立てておかねばならない。
(でないと再解釈すら始まらないw そう。横綱が「稽古不要」発言をするに至るまでには稽古が必要なように・・・w)
>>234 正しいスピリチュアルの見方では、霊魂も空だよ
無明があるから、霊魂や肉体も現象している。
237 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 00:12:25.30 ID:mkrRBqRO
>>234 >霊魂は球体だが、その球体の表面をアラヤ識が覆っている、と考えれば矛盾しないと思う。
神智学が、コーザル体をアストラル体が覆っている、と表現し、
古神道系が、真我を霊体が覆っている、と表現しているのと似ておりますね。
兎に角、仏教での検証は自ら坐禅、禅定を行うということが原始仏典でも説かれている正しい道かと思料します。
貴重な体験のご紹介を有り難うございます。
へんなの沸くんだよなぁ 自称瞑想やったヤツって反論されてもへっちゃらだからさ 伝統すら簡単に無視する ここに来るやつらが寺に行っても、自分が気に入ったエピソードを自分に都合よくとらえるばっかりで 所詮、自分が閉じこもってる殻の補強程度にしか考えてないんだもんな なんでもそうだが、ゼロから聞かないと何やってもダメだな。
239 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 00:16:47.41 ID:Pt3G35O1
>>237 無意識を意識したり、語ったりすれば、それはもはや無意識ではない。
仏教による悟りとは、変性意識、つまり、人為的な精神障害に過ぎない。
240 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 00:27:41.86 ID:mkrRBqRO
>>236 >正しいスピリチュアルの見方では、霊魂も空だよ
>無明があるから、霊魂や肉体も現象している。
無明の主体は何ですか? 空ですか。
それならば「三明智」の主体は何ですか? やはり空ですか。
仏の智慧は無為を観じるので、有為から解脱するとのことです。
「感興のことば」26.21
「不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。
作られざるもの(無為)を観じるならば、作られたもの(有為)から解脱する。」
また、菩薩達は衆生済度の為に輪廻を繰り返します。
観世音菩薩や弥勒菩薩は「無明」ですか? 強烈な発願を保持する主体(阿弥陀)は無我ですか?
そこで、「アナッタン」を中国のお坊さんが「無我」と訳したことが縁で像法の世と末法の世が起こったという仮設を立てて検証しております。
出た出たw
似てるから同根論。
尤も
>>237 の場合は、
《“ヒト”という生物の思考の癖に依る》ものだから、似てて当然と言えるけど。
>>240 文言非我、文脈無我。
242 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 00:33:44.23 ID:mkrRBqRO
セブン氏は確か曹洞宗だったと記憶するけど、只管打座の生涯かな。 只パソコンの前に座って打っているのは分かるけど。。 以上、ふと脳裏を駆けた妄想です。
243 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 00:38:08.35 ID:Pt3G35O1
>>242 駒沢大学には、禅学科と仏教学科とがある。後者は専ら小乗仏教、テラワダ。
道元さんの大学でありながら、中論やその系列の道元禅は関係ないとはw。
244 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 00:42:57.11 ID:mkrRBqRO
>>238 >自称瞑想やったヤツって反論されてもへっちゃらだからさ
坐禅のメッカの曹洞宗ほど「自称瞑想やったヤツが多い」筈だから、彼らの観じた内容を集めて分析した研究者も多分いた筈です。
(臨死体験者の内容を集めた著作もあることだし。)
変性意識なのか正しい禅定体験なのかは、駒沢大に論文があっても不思議ではないでしょう。
↑特に駒沢大OBの情報提供を希望します。
>>240 結局あなたは何が言いたいんですかね?
常住なる真我があると、言いたいのですか?
>>244 アホだろw
そういう立場や来歴なら、
変成意識だと見做す考え方自体が発生し難いだろw
外野や反感持ってる人間の方が、そういう発想をし易い筈だ。
つか、 ≪自分で論文検索≫しろ。
何の爲に
>>1 に論文検索サイトが貼ってあると思ってるんだ?
で、ヒットしたら、その著者をぐぐればいい。
この程度のことすらできねーのか? てめえのキャリアなら朝飯前だろが・・。
247 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 00:59:17.37 ID:mkrRBqRO
>>245 >常住なる真我があると、言いたいのですか?
現時点では、常住不変ではない阿頼耶識にカルマと経験が蓄積されて輪廻している、という仮設の検証中です。
尚、常住なる真我があるか否かの議論はその次の段階だと考えております。
よくよく考えますと、「無明を滅する」という言い回しは「無我」っぽくて腑に落ちますが、
「三明智を滅する」という言い回しは可笑しいことが分かります。
更に「一切智という筏を捨てる」という言い回しはもっと変だと分かるでしょう。
「三明智」も「一切智」も主体(我)が無ければ論理矛盾でしょう。
>>233 非我ってことは、我ではない、何かがあるってことになる。
Aを我と認めている時に、それは非我だ、ということになれば、
Aは、我ではない、別のもの、ということになる。
Aが消えない。
Aを我という時に、いやそれは無我だ、というときは、Aそのものが無ということになる。
>>245 >真我があると、言いたい
そうだよ。
このシリーズでは、主要住人として最低3人数えられる。
真光ベースの「源伸(前世は一在家)」
神智学の「宝珠」
グノーシスの「カラスの唄」
更に追加するなら、
心霊体験ベースの「?」
など。
彼らは、細かい部分にズームインすれば差異は出るものの、
骨格として、「本来の、穢れていない、汚された、最終理想形の“自分”がある」
という点で共通している。
だから、互いに庇いあうレスも多い。(重要な差異やスタンスの違いがあっても。)
250 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 01:07:47.74 ID:Pt3G35O1
>>249 違う。
我ではない、我ではない、を重ね、
ついに「我とラベルの貼れるもの」に行き着かない、ということ。
>Aが消えない
なぜ?
諸法は縁起し、「我」は縁起しないもの(という設定w)であるので、
Aもまた所縁のものというだけでしょ? 消える消えないの話じゃないと思うのだが・・。
>Aを我という時に、いやそれは無我だ、というときは、Aそのものが無ということになる
そりゃそうだw 諸法は縁起して空なのだからw
少なくとも「縁起から外れている我」は無い、ということで「無我」の評は正解だろw
>>247 >「三明智」も「一切智」も主体(我)が無ければ論理矛盾でしょう。
これ・・・ うまく表現出来ないけど、三明智に主体となる我は必要ないと思うんだよね。
智というのは、説明的に主体がありそうな説明になってるけど、
たとえば、静まり返った湖面に、夜の月が写っていたとするでしょ。
湖面に我があって、月を写してるわけじゃない。
自然に向こうから写ってくる。
そういう感じじゃないかな〜と思うけど、もっと具体的に意見を言ってくれたら、
別の説明が出来るかもしれない。
>>249 だとしたら、それは仏教じゃないけど、ただ、彼らはすべてが無になる
断滅論だと思ってるんじゃないかな〜
真我を否定する人の意見を。
何も無いんだ、ということだと、それも仏教じゃない。
「わたし」とは誰か?誰も自分「わたし」を説明できない。 お前は誰か?と聞かれて名前を名乗ってもそんなのに意味は無い。 お前は誰か?-お前の本質は何か?この問いに答えられる人間がいるのか? 私には私の真我があるとでも答えるだろうか?ではその真我を見せてくれと言われて、 示せるのか?
>>251 >我ではない、我ではない、を重ね、
>ついに「我とラベルの貼れるもの」に行き着かない、ということ。
同じように全ての対象に対して これは〜ではない とあてはめていけば
空 にたどり着くわけですね
257 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 01:30:23.25 ID:mkrRBqRO
>>253 >これ・・・ うまく表現出来ないけど、三明智に主体となる我は必要ないと思うんだよね。
>そういう感じじゃないかな〜と思うけど、もっと具体的に意見を言ってくれたら、
別の説明が出来るかもしれない。
それではお言葉に甘えまして、
Q.三明智を持つ菩薩達は衆生済度を発願として輪廻します。菩薩には主体(我)は無いですか?
>>250 そんなあなたには、華厳経の一説を送りましょう。
「説法は無尽なる智慧が説いているのであり、 その人が説いているのではない。
有はことごとく無であると明らかに知ってさとりを得るのである。」
「無尽が無尽を説くのである。」
「見ることなくして見ることを説き、 自我なくして衆生を説く。 見ることや
衆生を説いても、 ことごとく有ではない。」
>>254 >ただ、彼らはすべてが無になる >断滅論だと思ってるんじゃないかな〜
まさに、そう。
彼らは、所縁により転じ、明滅するが如き在り様を認めない。
饅頭の外皮は縁起し変化しても、変わらない餡子がある、ってのが彼らの図式さ。
ちょっとご意見うかがいたい 夕されば 野辺の秋風 身に沁みて うづら鳴くなり 深草の里 という情景が心に浮かぶ歌と 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋のゆふぐれ というさっぱりとした無の空間のさびしさをうれう歌と をくらべて、前者を浄土的、後者を禅的だと思う? たしかに浄土はもっぱら観想するものだ(その浄土を見れたという業によって来世の勝縁をえようというのがもともとの思想だからね 日本のそれはかなりそこから発展していると言える。) だが、禅を無と閑散の境地とするのはどうなのだろう。叙情的な理解では納得できるが なんとも違う気がするのだが。
>>259 補
仏教(お釈迦さんの教え)ってのは、
≪諸々の存在(諸法)は、『「餡子無き」「縁起する」外皮』のみである≫
っつーことなんだがね・・。
>>251 >>Aが消えない
> なぜ?
> 諸法は縁起し、「我」は縁起しないもの(という設定w)であるので、
>Aもまた所縁のものというだけでしょ? 消える消えないの話じゃないと思うのだが・・。
ちょっとここのところが分からないんだけど、
Aとは自性のあるものを示してるんでしょ。
つまり、非我といいたい人は、無我であると困るってこと。
Aというものが確かにあって、それは我ではないけれど、自性のある確かな何かだと。
だからAは所縁によるもの、じゃなくて、Aを自性のあるものとして、扱いたいんだと思うんだよね、非我派は。
263 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 01:46:36.36 ID:mkrRBqRO
>>258 >そんなあなたには、華厳経の一説を送りましょう。
>「説法は無尽なる智慧が説いているのであり、 その人が説いているのではない。
> 有はことごとく無であると明らかに知ってさとりを得るのである。」
横レスですが、
「それは人工知能(ソフト)が言っているのであり、コンピュータが言うのでない」
と世俗的表現をした場合に、質量は零の人工知能(ソフト)が主体として存在します。
>>260 前者も寂の歌やんw
どっちも禅で、どちらにも浄土は弱いよ。
前者も、浮かぶ情景が秋模様じゃ浄土的じゃないっしょw
やっぱ浄土は春でなきゃw
>>262 聡明だなw
そう。
>>263 のようにね。
>>257 三明の、いわゆる漏尽通ってのがありますよね?
説明を見ると、 「煩悩をすべてなくし、再び迷いの世界に生まれないと悟ること」 とあります。
菩薩が衆生を救うために、あえて解脱せず(悟りを開かず)、 この世に輪廻する、というのであれば、
これは矛盾することになります。
解脱したにもかかわらず、 あえて転生してくる、それも自分の我の意思というより、
自然に、ってことであれば、 矛盾はなくなると思うんですが、 そうなれば菩薩ではないですよね・・・・
具体的に、そのような菩薩が三明を得ているというのは、どこに書いてあるんですか?
ちなみ禅とはどういうイメージですか?
>>263 ちょっと反論が難しいんですが、
たとえば、旗が風に揺れている、とします。
このとき、旗が自分でゆれている、と、見る人には、旗に我があると感じます。
しかし、実際には、旗には我がなく、風によって揺れている、ということです。
では、その風に我があるのか? というと、そうじゃないです。
風もまた、我無く吹いています。
旗を揺らす風もまた、主体(自性)はありません。
>>266 逆さ富士が映る湖面、巨大船舶が転覆する“しけ”、
109前のスクランブル交差点、真夜中の学校、
葉も落ちきった初冬の墓前、甲子園決勝戦の応援スタンド、
などなど。
269 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 02:03:28.89 ID:mkrRBqRO
>>265 >具体的に、そのような菩薩が三明を得ているというのは、どこに書いてあるんですか?
多くの原始仏典に阿羅漢は三明を得ていると書いてあります。
菩薩の智慧は阿羅漢以下でしょうか?
菩薩のゴータマさんも輪廻しましたが、前世で三明を得ていたと思います。
(参考:長部経典十九経「典尊経」)
さて本日の我は入滅します。
ああ、こっちのがいいか・・・。
>>266 竹影、階を掃って塵動ぜず。月、潭底を穿って水に痕無し。
つまり、静寂ですね、雨の音が降るほどに静寂を増すように とすると、外界からの情報がバックグラウンドとして置き去りにされる 後者の句の方がやはり禅に近いと思われます
わかりにくいかもしれませんが、 見渡せば花も紅葉も で 心に想起されるイメージが3句目で消え去ります その空虚さをそのまま苫屋の生活の侘しさ、ひもじい現実に引き戻す契機にしているという感じでしょうか。 心あらむ 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春の景色を を受けての 津の国の 難波の春は 夢なれや 葦の枯葉に 風わたるなり といった本歌取りの手法も同じく、表象をふっと消してしまう禅的な方法に感じられます
>>269 調べたら、「大阿羅漢」 というのが出てきたんですが、
wikiも見てみると、
>『仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと』
>『arhat(arhan) の原意は「(応供の)資格を有する(者)」という意味で』
>『応供の資格を表す尊称でもあるため、経典には「偉大なる阿羅漢にして仏(如来)」などと言った表現が出現する』
と、ありますね。
阿羅漢を単に修行者の延長線上で受け取っては、いけないような気がします。
お釈迦様が前世で三明を得ていた・・・ というのは、漏尽通も含めて、ということですかね?
その辺はどう書いてあるのでしょう?
お釈迦さまが前世で得た三明というのは、漏尽通も確かに含まれるということでしょうか?
ここは重要な紀がします。
>>273 きちんと本を買って調べられたほうがよいと思います
大乗では上座部の覚りである阿羅漢果をブッダの覚りである仏覚と同格と認めません。
菩薩が覚りをうることができないのに輪廻できるのは歴史的経緯があります。
はじめは伏惑行因説でした。やろうと思えば悟れるんだけど衆生済度のために惑=煩悩をわざと残して輪廻します。
しかし、断惑行因説へ移行していきます。この説では覚りは得ているんだけど、願いによって輪廻するとしています。
願力というやつですね。
>>274 阿羅漢果を調べてみると、
『阿羅漢に到達した境地。この境地に至ると、迷いの世界を流転することなく涅槃(ねはん)に入ることができるとされる。』
と、ありますね。
涅槃に入ることができる・・・ と、かかれてあります。
これとブッダの覚りが、どう違うのでしょう?
276 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 02:44:46.37 ID:Pt3G35O1
釈迦が「己の我を以って無我を説いた」という初歩的論理矛盾、勘違いは、 いくら足掻いても正当化は無理。我とは、当然のことながら、「己の生命」 以外にはありえない。死者には、無我は解けない。 無我に代わる非我は、モロに有我論。 釈迦の無我を、釈迦の勘違いとして排除すれば、すべての問題は容易に解決 する。
>>275 だから、大乗と上座部のちがいです。
上座部には菩薩乗の教えがないということを知らないのですか?
>>277 あなたは大乗の教えを元にして、語っている・・・ ということですね?
であれば、上座部と大乗の言葉の違い、解釈の違いも念頭に置かなければなりません。
つまり、ここをすり合わせないと、対等の話が出来ないということになります。
Wikiにもその程度の違いについては言及してるから見てからきてほしい
280 :
無限遠点 ヒッグス粒子 :2013/10/02(水) 08:10:48.08 ID:HBRC4503
>>179 >無限遠点など、人間の生存には無関係(一切外)で、無意味。
逃げたらダメですよw まさに生存問題です。
無限遠点は人間の経験や観察範囲を超えた検証不能の一切外妄想ではありません。
まさに経験主義的に仮説と検証の「一切」=縁起の現実として人間の経験や観察範囲内であるからこそ、
数学者も物理科学者も必死で追及しているではないですかw
数学的にはカントールパラドックスの問題であり、物理学では大統一理論につながる超弦理論・素粒子論・
電磁力学・不確定性理論・相対性理論などとして「一切」問題になります。
問題は一切を徹見してゆくと、なんと<各方程式からはそろって素粒子は質量がゼロ!→空である>ことを
示唆しているから「科学」者としての苦悩があるという事実です。
で、質量をもたらすヒッグス粒子の仮説と検証が問題になっているのが現状です。
更にヒッグス粒子を構成するの素粒子が問題になり無限遠点の問題となります。
だから、「一切」=縁起の(間接)現実はあくまで仏教的にも<仮設=仮説>でしかないことも数学者も物理学者も自覚しています→中論24-18。
やり直してください。
281 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 08:18:37.95 ID:mkrRBqRO
>>275 >しかし、断惑行因説へ移行していきます。この説では覚りは得ているんだけど、願いによって輪廻するとしています。
> 願力というやつですね。
「願力」ですか。私は仏教の先生より「方便力」と伺いました。
兎に角、菩薩は悟っているけど「願力」または「方便力」で輪廻できるということで宜しいのでは。
更に阿弥陀如来も完全な涅槃に入らずに、無住処涅槃にて衆生済度を展開されているそうです。
(参考:「全訳 チャンドラキールティ 入中論」瓜生津、中沢、P9,P26)
如来の「方便力」または「願力」は桁違いなのでしょう。
他の如来は皆涅槃入りされておられるのか、それとも無住処涅槃なのかは、テキストベースでは知りません。
282 :
無限遠点 ヒッグス粒子 :2013/10/02(水) 08:23:20.42 ID:HBRC4503
(続) 上記の点については金剛般若経30を参照。 ・(a)素粒子は素粒子ではない。これを素粒子と名づける。 一切(無限遠点:素粒子)は空であり、実体はないことを明確にしています。 ・(b)一元論(一合相)は執着を生む反仏法である。 まさにあの時代において驚異的な教典といわざるを得ません。
283 :
無限遠点 ヒッグス粒子 :2013/10/02(水) 08:34:00.99 ID:HBRC4503
>>276 >「己の我を以って無我を説いた」
相変わらずの姑息な繰り返しですねw
これはデカルトの誤謬と同じ論理だとなんども指摘されています。
説いているのは何なのかがまさに道元さんの言う「仏道をならふ=自己をならふ」=己事究明の問題です。
身心脱落せよ!
脱落した身心とは、まさに無限遠点問題→般若門の突破&透過の問題です。
284 :
無限遠点 ヒッグス粒子 :2013/10/02(水) 08:40:18.54 ID:HBRC4503
>>281 >菩薩は悟っているけど「願力」または「方便力」で輪廻できるということで宜しいのでは。
>更に阿弥陀如来も完全な涅槃に入らずに、無住処涅槃にて衆生済度を展開されているそうです。
>(参考:「全訳 チャンドラキールティ 入中論」瓜生津、中沢、P9,P26)
講釈師、見てきたようなウソをいい。
菩提心凡夫の六処にも明解に検証せよ。
それでは検証抜きで妄想を語るチャンドラキールティもカルト詐欺師とまったく変らんぞ。
285 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 08:52:38.75 ID:mkrRBqRO
>>273 >お釈迦様が前世で三明を得ていた・・・ というのは、漏尽通も含めて、ということですかね?
>その辺はどう書いてあるのでしょう?
長部経典十九経「典尊経」
・釈尊の前世はマハーゴーヴィンダというバラモンだった
・弟子達に八正道を教えて
・弟子達の何人かは梵天の世界に生まれた
・神通を得たり、涅槃に入る為の教えは説かなかった
この経典を注意して読み返しますと、どこにも「前世で三明を得ていた」とは書かれておりません。
よって前言は撤回します。
また十七経「大善見王経」では、今回で遺体を捨て置くのは七回目であり、八回目は無いとのことです。
(長部経典で確認される釈尊の前世、順不同)
転輪王のマハースダッサナ(大善見王)、ディサンパティ王のバラモン執事のマハーゴーヴィンダ(典尊)、
マハーヴィジタ王の祭式の司祭であったバラモンの宮廷僧(名は不明)
286 :
ゲシュタルト崩壊 :2013/10/02(水) 08:54:22.49 ID:HBRC4503
>>185 >「仏教のゲシュタルトの破壊」にSnなど引用するのは矛盾
あなたは自己否定・超克の何たるか、ブッダの本懐の徹底を自覚できていない。
『想いからの解脱』が仏法のゲシュタルトであり、その仏法のゲシュタルト崩壊(~からの解脱)が涅槃寂静です。
ここまで徹底した自己否定・超克の教えは仏法以外にはありません。
筏の喩えの法門です(金剛般若経6&中部22)。
>「閉鎖体系内」には、真理は存在しえないのである。
逆でしょう。
間接現実一切内という二項相対の「閉鎖体系内」でしか真理は存在できません。
真理とはまさに偽理を相対とする相対論でしかないからです。
287 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 08:56:31.06 ID:mkrRBqRO
>>284 >それでは検証抜きで妄想を語るチャンドラキールティもカルト詐欺師とまったく変らんぞ。
月称菩薩もカルト詐欺師とは。。。
288 :
ゲシュタルト崩壊 :2013/10/02(水) 08:56:34.81 ID:HBRC4503
289 :
ゲシュタルト崩壊 :2013/10/02(水) 08:58:44.45 ID:HBRC4503
>>287 >月称菩薩もカルト詐欺師とは。。。
『検証抜きで妄想を語る』、日本語の論旨は正確に把握しませう
290 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 09:06:52.50 ID:mkrRBqRO
>>282 >一切(無限遠点:素粒子)は空であり、実体はないことを明確にしています。
エネルギー⇔波⇔素粒子と変化するという意味では「空」でしょうが、「無」ではないでしょう。
他例では、作られたもの(有為)の情報は質量はゼロ(零)ですが「無」ではないでしょう。
実体が無くても「無」ではないものは複数存在し、釈尊当時ならば形而上だった領域です。
291 :
ゲシュタルト崩壊 :2013/10/02(水) 09:27:34.87 ID:HBRC4503
>>290 >実体が無くても「無」ではないもの
二項相対思考に捉われていたら、いつまでも解決はありえません。
→『仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり』(道元)
正法眼蔵冒頭からこんな高度な還滅を説く道元とはなんて凄い奴なんだ!
>釈尊当時ならば形而上だった領域です。
経験的に検証可能領域ですから、釈尊当時から一切内です。
現に金剛般若経
>>282 で明快に解かれています。
一切内の検証手段未発達時に、まさに般若智で直覚しているではありませんか。
まさに、一切外と縁起の現実(一切)を混ぜるな!危険です。
このスレは危険ナンセンス知見がばら撒かれています。
292 :
291ゲシュタルト崩壊 :2013/10/02(水) 09:33:51.55 ID:HBRC4503
訂正 △ まさに般若智で直覚しているではありませんか。 〇 まさに<一切が空であること>を般若智で直覚しているではありませんか。 *空という還滅語(方便)は使っていませんが、Sn.1119や中論24-10と同趣旨です。
293 :
? :2013/10/02(水) 10:25:21.47 ID:DuVNlmkE
> 真光ベースの「源伸(前世は一在家)」 > 神智学の「宝珠」 > グノーシスの「カラスの唄」 > 心霊体験ベースの「?」など > 彼らは、細かい部分にズームインすれば差異は出る(重要な差異やスタンスの違いがあっても) 私の場合は 戯論によって 『 魂のようなものが相続している 』 と 『 掴み取ろうとしている心の働きが現れている 』 と言う事だと思います _ _ _ 世俗諦とは、一切の法は、性空だが、而し 世間は、顛倒の故に、虚妄の法を生じ、世間には、是れが、実である − これに対して − 諸の、賢聖は、真に、顛倒の性を知るが故に一切の法は 皆、空で、無生だ!と知り、聖人には、是れが、第一義諦で、実と名づける _ _ _ 如来は、戯論を過ぎるが、而し − これに対して − 人は、戯論を生じて慧眼を破る _ _ _ 衆因縁より、生ずる法を、わたしは、即ち、是れは空だ!と説いた 何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる 是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い 自性が無いが故に、空である 但だ、衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた
294 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 12:53:30.17 ID:mkrRBqRO
>>282 >・(a)素粒子は素粒子ではない。これを素粒子と名づける。
世俗が読んでも、おかしな文章ですね。
仏教(特に日本仏教)なんて邪教信じてるのまだ? 戦時中の醜態みてみろよ、天皇万歳の侵略戦争肯定殺人肯定 戒律守って日本の戦争に協力しなかった、というだけで東南アジアや朝鮮の僧侶をいじめ で、戦後は責任をすべて放置してヘイワーヘイワーの念仏合唱に鞍替え どこに真実がある???
>>280 一切内外を人間が経験可能か、観察可能かで分けるのなら、無限遠点は一切外でしょう。
経験も観察もできません。人間が観察できるのはビッグバンから10の−43乗秒たった後からの世界です。
質量がゼロの物質というものは、あり得ないのです。
だから、ヒッグス粒子や超弦理論が仮説として注目されているのでしょう。
質量ゼロで計算不能に陥らず説明するために。
あたかも学者が研究対象にしているから一切内とでも言いたいようですが、それなら死後の世界も学者は研究しています。
メインストリームではないというだけです。
あなたが以前説明された無限遠点は一切内外の前提を越えた世界であるというのならまだ受け入れられます。しかし、
> まさに経験主義的に仮説と検証の「一切」=縁起の現実として人間の経験や観察範囲内であるからこそ、
>数学者も物理科学者も必死で追及しているではないですかw
この一切内であるする説は受け入れられません。一切外もしくは一切内外の前提を越えたものであるはずです。
297 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 13:44:34.07 ID:klZZYchy
>>283 >>「己の我を以って無我を説いた」
>相変わらずの姑息な繰り返しですねw
>これはデカルトの誤謬と同じ論理だとなんども指摘されています。
素粒子を観測し、議論するのも、すべて人間の生命(我)の機能である。死者には
一切不可能。
デカルトは「関係性」には思い至れなかった。これが彼の誤謬の原因。
> まさに経験主義的に仮説と検証の「一切」=縁起の現実として人間の経験や観察範囲内であるからこそ、 >数学者も物理科学者も必死で追及しているではないですかw 一切外の無限遠点を数学者や物理科学者が研究しているだけ。一切内は既に分かっているから最先端の研究対象とならないだけ。 一切外が説明付く理論が出ても、さらに矛盾が指摘されれば、研究が繰り返される。一切の観察と合致し矛盾が出なくなるまで。 理論の構築と矛盾の指摘はイタチごっこで永遠に続くのですよ。
299 :
ゲシュタルト崩壊 :2013/10/02(水) 16:12:36.91 ID:HBRC4503
>>294 >おかしな文章ですね。
おかしくはありません。
短縮しましたので、敷衍します。
『若是微塵衆実有者 仏則不説微塵衆 所以者何 仏説微塵衆則非微塵衆』(金剛般若経30a)
# 微塵衆(素粒子の集合)が自性・実体であるなら、師は素粒子の集合とは説かれません。
なぜなら、師は素粒子の集合(世俗 分別:仮観)は、素粒子の集合ではない(勝義 無分別:空観)と説かれているからです。
(他所のパターンで補説)『是名微塵衆』
# だからこれを素粒子の集合と名づけるのです(還滅世俗 無分別の分別:中観)。
龍樹中論24-18と同趣旨です。
300 :
1/2混ぜるな!危険 :2013/10/02(水) 16:19:31.02 ID:HBRC4503
>>296 >無限遠点は一切外でしょう。経験も観察もできません。
一切(相応部35-23凡夫の六処で知覚可能)だから考究(菩提心凡夫なら如理作為)してきて、
遂に無限遠点と“存在仮設&言語仮説”せざるをえないのです。
ここでまさに相対科学思考ではいかなる天才も解決不能な縁起のデッド・ロックにぶちあたったのです。
禅でいう関です。無門関第一則『狗子還有仏性也無 州云 無』とおなじです。
ここからは→『身心脱落せよ! 落した身心とは、まさに無限遠点問題→【般若門】の突破&透過の問題です。』(
>>283 )
分別経験観察の【一切門】での如理作意の徹底から、次の無分別般若智(無分別智)直覚の【般若門】へ。縁起の(直接)現実の現観です。
般若門は経験観察という<分別知>をブレークスルーした<無分別智>です。いわばあくまでも一切内の奥の門【般若門】です。
しかし、『一切外』は【一切門】外の<(妄想)分別知>です。妄想の観察です。教義の戯論です。
→『まさに、一切外(縁起の現実撥無)と{一切(縁起の(間接)現実』→縁起の(直接)現実)}を混ぜるな!危険です。』(
>>291 参照)
修行の追行では先ず一切外を追放しなければ修行僧が迷うばかりです。
日本に悟達者が誕生しにくいのは、マハーカッサパ教後裔や魑魅魍魎バケモノ大乗仏教による一切外妄想が
伝承仏教とやらによって大量にばら撒かれている害があるからです。
2:8法則で80%の一切外迷妄教を駆除すれば、悟達への20%だけで多くの悟達者が誕生してゆくはずです。
301 :
2/2混ぜるな!危険 :2013/10/02(水) 16:25:23.68 ID:HBRC4503
>一切外もしくは一切内外の前提を越えたもの 仏法はあなたのような『一切内外の前提を越えた世界』などを妄想する超越主義妄想などではありません。 仏法の還滅メルクマールはあくまでも<“一切”四法印>であり、 <“一切”法無常、“一切”法無我、“一切”皆空> ⇒ 涅槃寂静(仏法ゲシュタルト崩壊)です。 仏法は勝手な妄想世界観の構築などではなく、<菩提心凡夫の実存苦の超克に本懐がある>実践であることを、あなたは忘れています。
302 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 16:28:02.07 ID:HBRC4503
>>297 >すべて人間の生命(我)の機能
生命(という言葉)もDNAの素粒子の集合であり、結局無元遠点の問題に帰着します。
ブレイクスルーしてください。
303 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 16:39:07.31 ID:HBRC4503
>>298 >一切内は既に分かっている
謙虚な科学者でこの傲慢な意見を支持する人は誰もいないでしょう。
ノーベル物理学賞の各受賞者は馬鹿ぞろいのようですねw
>>300 >>300 無分別智により観察を離れたもので無限遠点を理解するから一切内である、というのなら最初の定義を
改めるべきです。人間の経験や観察範囲を超えた検証不能のものを一切外とする〜と定義している以上、
一切内は誰でも経験や観察によって検証できるものでなければなりません。
修行により無分別智の世界に生きる限られた人間にしか検証できないのであれば、それは妄想と区別できない
世界になります。それならそれで構いませんが、
一切内:無分別智により検証可能な世界
一切外:無分別智により検証不可能な世界と改めるべきです。
それが妄想であるか否かは無分別智を備えた人間のみぞ知る。
>>280 素粒子の質量がゼロだったらなんであかんの?
素粒子どうしが結びつくことで質量が生まれると考えればいいじゃない?
そもそも、量子論では物は粒子と波との両方の性質をもつものなんだろ?
粒子として扱うのは一つのフェーズにすぎない。
素粒子レベルになれば質量とてそのように一時的な現象として扱われてもおかしくないのではないかな
306 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 17:28:13.01 ID:UQWg6w7S
>>300 >バケモノ大乗仏教
禅宗は、大乗仏教であって、釈迦カルトではない。
禅者なら、まず、その釈迦に対する執着を離脱せよ。
307 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 17:28:26.79 ID:mkrRBqRO
>>302 >生命(という言葉)もDNAの素粒子の集合であり、結局無元遠点の問題に帰着します。
また、おかしな科学常識ですね。
DNAはたんぱく質の組み合わせ(または情報)であり、素粒子とは直接は無関係でしょう。
因みに電子顕微鏡でDNAは見えますが、素粒子は見えません。
>>305 NHKの番組の説明では、数式の分母がゼロになる→∞で説明不可能になるからとの事です。
超弦理論では最小のものを点ではなく輪ゴムの様なものを想定するので分母がセロにはならない。
ただし10(11)次元が前提。
>>281 仏は仏力であって、菩薩は願力だよ
願力は無を有に変える力をもっているそうだ。
そりゃそうだ。無いことを憂うことから解決の力が生まれるのだからね。
仏力は願力を成就させたところの功徳の発現かな
だが、仏は菩薩の力を借りないと衆生との接点がないと言われるね
まあ、じゃないと釈迦出世の意味も見いだせないことになるから
方便力というのは仏が我々が悟れるように考えるすべての教えという感じではないかな
彼岸に渡るすべての船、小さい乗り物から大きな乗り物まですべて方便だからさ
願力を方便力というのはあまり聞いたことがない
310 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 17:36:02.76 ID:UQWg6w7S
>>302 >生命(という言葉)もDNAの素粒子の集合であり、結局無元遠点の問題に帰着します。
そう考えているのも、人間の生命の機能。
君は、いつ、人間を止めたのかwww。
無限遠点て、要するに物事を観察する上ではじめに設けた条件 あくまで人間が物事を理解するのに役立つから置いた条件上、発生してしまう特異点だろ 本当にその特異点て存在するのか?って誰も疑わないんだな 電位ゼロの無限遠点だってこの世には存在しない。アースだって電位ゼロじゃないよ? あくまでかぎりなくゼロに近いってだけだよ、だからひも理論もその実効性が是認されるんだろう 物理学と数学はまったくちがう。物理学者にとって数学は理想世界の法則であって、それをこの世にどれほどまで 還元できるかは実験によって確かめなければ認められない。よって数学は物理学者にとって道具にすぎないんだよ 中学生あたりがよく分からないまま数学をそのまま物理学であるかのように錯覚しているが、まさか その程度の知性で物理や仏教語ってないよな?まあ、おまえらの知性なんて中学生あたりで止まってそうだけどな
>>308 「数式」という枠組みの中(だけ)での仮説を、随分と尤もらしく言うのなw
仏教という枠組みと数式という枠組みの違いを、愚昧な一般市民の爲に解説してもらえるかな?w
314 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 18:00:38.10 ID:mkrRBqRO
>>309 >だが、仏は菩薩の力を借りないと衆生との接点がないと言われるね
大乗では如来(仏)は再生する代わりに無数の「化身」を現すそうですね。
この場合は菩薩の力を借りなくても宜しいのでしょうか。
因みにブータンにも化身の制度があるようですが化身が100人以上になってしまって、国会でその真偽が問題になっていると伺いました。
日本でも薬師如来の化身は多く、各地にお薬師さまがございます。
>願力を方便力というのはあまり聞いたことがない
方便力という言葉は包括的で範囲が広いことを認識しました。ご教示有難うございます。
315 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 18:03:32.20 ID:WviJNdbA
__ 〆 ⌒ ヽ
| ● | サッ i. ^、,^ i
 ̄ | (6- (III)(III)
c~~⌒ ) ノ⌒ヽ 、 '◇〉 此処で一旦、駒ー斜瑠でぇーす
 ̄| | ,____/ \ \⌒\)
i ゝ_/ i i \ノ`\丿 新スレッドが建ちましたぁ〜♪
ヽ__| ヽ ヽ ノ 坐禅と見性第93章鮟鱇吊るし切り公案無分別っきり
ゝ _\ 二ノ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1380703946/ \. ヽ
) )
/ /
( く
\ ο
 ̄
>>312 枠組み云々ではなく、議論には共通の言葉の定義が必要という事ですよ。
一切内外とは?
人間の経験や観察範囲を超えた検証不能のもの:一切外
人間の経験や観察範囲の内にあり検証可能なもの:一切外
というのと
無分別智により検証不可能な世界:一切外
無分別智により検証可能な世界:一切内
というのでは定義が全然違うでしょ、と言っている。 定義があやふやで議論なんて意味なし。
317 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 18:10:05.51 ID:mkrRBqRO
>>314 >因みにブータンにも化身の制度があるようですが化身が100人以上になってしまって、国会でその真偽が問題になっていると伺いました。
>日本でも薬師如来の化身は多く、各地にお薬師さまがございます。
(化身例)
一畑薬師 多田薬師 奈良薬師 青野薬師 山代薬師 満願寺薬師 勝持寺薬師
甚目寺観音 笠寺観音 石山観音 白子観音
ブータンでの化身は人間で、日本での化身は(入魂?された)仏像で、化身にも色々あるようですね。
この辺りに詳しい方は補足願います。
>>314 化身てのは、仏そのものじゃないよ
たとえば、たぬきが俺にむかって手招きしているのを見た。
その手招きに従って道をすすんでいくとある寺があった。
寺には自分が探し求めていた巻物が・・・。
きっとそのたぬきは仏の化身であったにちがいない。
といった場合、たぬきは仏そのものじゃないでしょ
仏の意をうけて仏に成り代わって現れたものでしょ
ちょうど菩薩はそういう役回りなのだよ、たぬきを菩薩だとは言わんし
人間はあくまで想像するしかないのだけどね
たとえば、還相回向の願というものがあるが、それも衆生済度のために覚りをしない選択をした
菩薩のための願だよ
×一切内外とは? 人間の経験や観察範囲を超えた検証不能のもの:一切外 人間の経験や観察範囲の内にあり検証可能なもの:一切外 ○一切内外とは? 人間の経験や観察範囲を超えた検証不能のもの:一切外 人間の経験や観察範囲の内にあり検証可能なもの:一切内
たとえば、親鸞は法然のことを勢至菩薩の生まれ変わりと見ていたが それは立宗という日本ではじめての試みを行ったために 他宗から数々の非難をあびて、問答をおこなってすべてに答え切ったことによるのだろうけど つまり、弥陀の智慧の相をあらわす脇士である勢至菩薩と見ていたのだろうね 法然を還相の菩薩だと思っていたわけだよ
仏陀でさえ、自分ところの祖国が滅びるのを座してみるしかなかったのに(二度ほど延命はさせたが)。 その事実を認めたくない人間なのかね、わけわからん超能力が仏にはありますとしたいの。
業力は仏にも覆せないよ
佛のあらゆる不思議はすべて業力に逆らわずに行われる
ほかにも念仏は私が称えるものではなく、称えさせていただいていると言われる じゃあ、誰が私に称えさせているのかというと、17願が適用される 17願では諸仏が弥陀の名号を讚歎すると誓われている 上に旗がはためくのは風がふいているという例があったがそのようなものだ。 私が称えるのは諸仏の顕現であると見ていくのだよ 諸仏だけではない、もしかしたら還相回向でこの世にもどってきた先達たちの念力もこもっているのかもしれない。 そりゃそうだ。先達がいなければ教えも残っていないわけで、そうであるならばこうして私が念仏を称えることもない。 こうして、自身の行為の中にあらゆる仏やその眷属のはたらきをみていくことを仏教では 菩薩が仏の意向の媒体となっていると見るわけだよ
言い訳や誤魔化しに力を注ぐより、悟っても超能力なんか得られませんと直視したほうがいいんじゃないの ダライラマも自分が病気の手術受けた話を思いっきりだして、その種の妄想を否定してたぞ と、いうか方向性が違うだけで超能力願望って暴力やカネの力に憧れるのと変らんし
326 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 19:13:35.83 ID:mkrRBqRO
>>318 >仏の意をうけて仏に成り代わって現れたものでしょ
>ちょうど菩薩はそういう役回りなのだよ、たぬきを菩薩だとは言わんし
具体的な解説を有難うございます。
法然聖人が勢至菩薩の生まれ変わりという話は分かりましたが、例えば奈良薬師が薬師如来の化身の菩薩というのは腑に落ちません。
多分、中国のあるお寺の薬師如来像からの入仏式があって、その像(仏様)を日本のお寺に僧侶たちが運んだということかと思います。
また、入仏を含めてこの辺りのことをご教示願います。
>>324 >ほかにも念仏は私が称えるものではなく、称えさせていただいていると言われる
異教でも「生きているのでなく、生かされている」という教えがありますので、感覚的に分かります。
>>326 菩薩はあくまでその者自身が覚りを目指す存在だから
形像、絵像、名号とは異なるだろ
しかし、像とても仏そのものではなく、あくまで衆生との仏縁を結ぶものにすぎないよ
たとえば、仏像にも、作法がある、手の上げ方や、手の印の結び方やらね
だけどそれは後代に起こったもので、それが仏を表したものという前提がなければ
棒キレであり、落書きであり、わけのわからない記号にすぎない。
それを私たちが薬師であると認識するのは、歴史による。はじめにつくった人にとっては、薬師を意味する記号化された意味が
存在したのだろう。だけど時代がくだるにつれ、そのものが薬師の姿であると錯覚するようになる。
こうしたことが起こるのも時代時代の人たちが仏縁深く、人々を教化してきた賜物であろう。
そうした先達への感謝ぬきに仏像だけを仏であると拝むのはある種、仏から遠ざかっている
つまり、輪廻を永遠に生きることであると喜ぶような転倒妄念につながると思うな
>>306 >禅者なら、まず、その釈迦に対する執着を離脱せよ。
そんなの仏教でない
道元さんに執着するの
すべての始まりは釈迦なんだし
329 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 20:10:49.38 ID:UQWg6w7S
>>328 仏教のゲシュタルトの崩壊はどうした?w
醜悪極まりない個人崇拝。
すべては菩薩であった釈尊に端を発するのはまちがいないよ 竜樹は隠された仏典を見つけたり、無著や天親が弥勒からデンパ受信したりしてるけどw そういうのは、仏教の理論の展開と見るしかないだろう
>>316 いや、そういうことじゃなくて。(というか、閻魔の発言なんて、今の話(312)で射程に入れてなかったし・・(^^;))
(ま、仮に言葉の定義をしたとしても)、超紐理論等の内容ってのは、
貴方が批判する宗教的種々の体験の表明・文献とどこが違うの?
ということ。
一般人に理解不能である点は変わりないんじゃね? とw
>>331 宇宙万物の統一理論はまだ未完成ですが、超弦理論は統一理論に近づく為に
物理学者が構築した仮定のひとつです。
宇宙の特異点(ビッグバンやブラックホール)は無限遠点であり、この無限遠点は一切外か一切内か?
と疑問提起があったので、
>>316 の前者を一切内外の定義だとすれば、一切外であると私が言ったの。
>>296 そうしたら、閻魔?というんですか?知りませんが、この方は、てっきりこれまでの書き込みから同じ
>>316 の前者を
一切内外の定義にしていると思っていたんですが、一切内だと言うんです。なぜなら、観察を超えた無分別智により
捉えられるから(
>>316 後者)〜と、それなら一切内外の定義が定まっていませんね〜と言っているわけです。
超弦理論は宇宙万物の統一理論を目指しているので宇宙の特異点(ビッグバンやブラックホール)という無限遠点
を説明できる可能性を持つ理論である〜と言うわけです。
仏教と同じであるとか違っているとか言っているのではないのですよ。
>貴方が批判する宗教的種々の体験の表明・文献とどこが違うの?
どこで私が「違う」と書いたのですか?
だから、特異点そのものじゃないでしょ
>>333 仏教は無限遠点であるか、否か?なんて誰も問題提起していないと思いますが?w
理論の証明にしても、理論から導き出される、その延長物を観測によって確かめることで 証明というか、担保するというにすぎないよ そこが古典物理と現代物理が完全にちがうところだ 現代物理であっても、応用される工学分野であれば、十分証明されたと言えるかもしれんが 宇宙分野となると応用されるものがごく限られたものにすぎないし ある種、現状最有力な理論というにすぎないよ。 もちろん、その分野の真理が仏教的な真理とかなり似ているというのは仏教の先見性の高さ あるいは、観察力の高さに起因するものと言えるかもしれないが そもそもそれらのどっちとも専門とする分野がちがうので、比べること自体愚かとしか思えない 仏教は人間の倫理を見つめるものであって自らも理の中に含める活道理であるし 科学は非生物の理を発見する死道理だ。科学がどんなに進もうと人そのものが進歩することはありえないように 仏教は科学とは交わらないと見るべきじゃないかね。人が成長するのは人自身による努力以外にありえないよ
>>334 無限遠点であるかどうかは数学上の条件でしょ
どうして仏教に無限遠点がないことをそれほど責められないといけないんだ?
337 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 21:24:26.73 ID:UQWg6w7S
科学は、あくまで「現実界」を対象とし、観察、実験により「検証」する点で、 宗教とは異なる。そして常に「批判」の対象となる。 宗教は、1個人の開祖の「観念」を対象とし、対象に対する検証も批判もない。 すべてその「正当化」に向けられる。
>>336 誰が、仏教に無限遠点がないことをそれほど責めているのですか?
私は何も責めていませんよ?
閻魔さんに、一切内外の定義を明確にするべきと言っているだけw
科学の行くつく先は結局宗教なのかな だって無から有が生まれるなんてあり得ん
倫理と俺は使ってるけど、あくまで人倫のことわり、という程度の意味だからな 人も倫もヒトという意味で、人のもつ道理、程度の意味
341 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 21:34:16.19 ID:UQWg6w7S
>>340 >人のもつ道理
それは、各人の、各状況ごとによって千差万別だから、科学(人文科学を含む)の
対象にはなりえない。科学の生命は「確固たる基盤」即ち「客観性」である。
>>338 一切とは人間が感じることができる一切(すべて)だろ
それ以外に一切はありえない。
魂というものがあると感じる人は、一切の外にあると言うが
そんなことはありえないというわけだ。
仏教ではそこで一切を分類分けしていくわけだ。
科学は目の前の現象はある、と仮定した上で成り立っているが
それだって証明しようがないだろ。たとえばデカルトの想像したように
試験管の中の脳が見る夢の可能性だってあるのだから
そうすると、科学が頼むところの再現性だって悪魔のしくんだ罠とも言えるかもしれない。
死んだあと、無ではなく、試験管の中で次の夢へのプログラムが始まるだけなのかもしれない。
誰もその可能性は否定できないわけだよ。
ただ我々はより妥当な判断をして生きているだけだよ。
俺だって科学は嘘だとは思わないよ。現実的だと思う。
だが、真実を見ようと判断するときに、悪魔の証明でものごとを判断するのは不適当なんだよ
ブッダの結論にいたらざるをえないと思う。
344 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 21:39:11.64 ID:UQWg6w7S
>>342 仏陀の結論は、単なる1個人の、検証、批判抜きの観念。確固たる普遍の基盤
などではないから、学問の対象にはなりえない。
>>344 だから、死道理と仏教は交わらないと言ってるだろ
346 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 21:45:40.32 ID:UQWg6w7S
>>343 人間は、その本質である本能から、自他の死を恐れる。また「他我」も、
その人の「我」だから、それを奪えば、その人から全世界を奪うことになる。
「人は皆死を恐れ、暴力に怯える。己が身に引き比べて、殺してはならぬ。
殺さしめえはならぬ。」(法句経)
だからなんなんだよ おまえ殺していいなら今から殺しにいってやるよ
それは嫌だろ?それは科学では観測できねえんだよ おまえ自身はおまえ自身では観測できねえからな、原理的に。
349 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 21:48:47.60 ID:UQWg6w7S
人間の「我」は、永劫の時間と無限の空間の中で、「唯一度きり」のもの。 人が死ねば、死者にとって、この大宇宙でさえも、永遠に失われる。
>永遠に失われる。 誰が証明したの?
351 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 21:51:57.19 ID:UQWg6w7S
>>348 「己の生命」は、己の生命を以って対象化できない、「唯一無二の存在」。
>>342 >一切とは人間が感じることができる一切(すべて)だろ
>それ以外に一切はありえない。
それでは伺いますが、ある特定の修行により得られた境地においては認識できるが、
そのような修行未経験者は認識できないようなもの-例えば宿命通で過去世を見るとか
霊魂を見るとか、これは一切内でしょうか一切外でしょうか?
人間が感じる事ができるというのは、一般健常人が修行の有無に関わらず感じる〜という
意味だとすれば、上記の一例は一切外と言うことになります。
ではビッグバンの場合ではどうでしょうか?前述のように、人間が観察できるのはビッグバンから
10の−43乗秒たった後からの世界です。ビッグバンそのもの、ビッグバン以前は人間が知りえない
世界です。ゆえに一切外というのが正解じゃないでしょうか?
修行により無分別智を備えた人間には無分別智により認識可能である、ゆえに一切内である〜というのでは、
宿命通の過去世の例も一切内といわねば、論理矛盾ですw
>>352 宿命通か
俺はもってないけど想像範囲内で語るなら
通りすがりの子供の何気ない一言で昔、近くにいた知人の言動を思い出すことがあるだろ
まるで、その知人の生まれ変わりのように。
そうすると、その子供を動かしている思想背景も昔の知人と同じようなものかもしれないと
プロファイリングすることもできるし、その子にその人物がどういう経緯をのちにたどったか
を教えて、転ばぬ先の杖にすることもできる
その程度のものかなと思うが。
あと、俺自身、感得した仏教の体験はあるが、それは別に超常現象というものじゃないよ
ふっつーのこと。魂を見たとかそういうものじゃない。一切内のことだよ
あと目が悪くなってから、たまーに見えないものが見えたりすることがあるけど
眼科に言ったら、そうとう目が悪いってよ、飛蚊症のたぐいだろうね
>>353 一切内なら矛盾なしです。
しかし閻魔さんはそれは一切外と言っていますw
しかし、ビッグバンは一切内だと。これは矛盾ではありませんか?つうことですw
>>350 その思いは誰かに引き引き継がれる
証明不可
そう思うことにとって自分を納得させる
親族を亡くした人
生き残された人は供養し仏が喜ぶことをしたい
私カルトでないよ
在家さんでもない
>>354 そういうことなら、あなたを支持する
一切外を出すのはそこに生きる意味を見出したいという欲からだろうね
>>356 いやいや違いますよw
私は、宿命通の例は一切外、ビッグバンも一切外の立場です。
よって私にも矛盾はないのです。
片方を一切外と言い片方を一切内というから矛盾なのです。
えーと・・・。 ビッグバンが一切外て、それ物理あきらめてますね 神がこの世をつくったとか派ですか。 仏教では無始と言って、はじまりをつくらないのですが やはりあなたは仏教徒ではなさそうですね
>>358 神がつくったと言えば、その神は誰から生まれたのか?という無限ループに陥りますw
ビッグバンが一切外なのは、あなたが言ったように人間に観察不能(感じることができない)の世界だからです。
>>360 私には、神と紐の区別がつきません! o(><;)o
いやいや、ビッグバンどころか一分前も人間には観察できませんよ
>>362 観察できないものは=人間がかんじることができない、のではありませんか?
無分別智により感じられれば、OKと言うのならそれでも構いませんよ。
所詮、それは妄想との違いが識別不能という事です。
無分別智を備えた人間だけが認識でき、未修行の一般健常人には認識不能〜ですからね。
>>363 いやいや、じゃあこう言うわ
私が感得したところのものをあなたは分からないでしょう。
ならば、あなたからすれば、私の境地は一切外ですね。
釈尊の神通にしても、あなたからすれば一切外でしょうが
釈尊からすれば一切内でしょう
365 :
神も仏も名無しさん :2013/10/02(水) 22:47:51.67 ID:UQWg6w7S
>>364 また、釈尊かw。
人間界は、徹頭徹尾共同体だから、共同体の不特定多数人のほぼ同一の知覚で
なければ、問題にされない。
知覚異常者、妄想患者、宗教患者の知覚を除外するためである。
人はそれぞれ孤独の時間をもっていると思うけどな それは誰にも共有されないよ その孤独の部分をどう駆動させて、共同体を維持するかってのが大切だと思うのだが
w
>>363 >未修行の一般健常人には認識不能〜ですから
超紐理論は、未学習の一般健常人にも認識可能なのかしらん?
>>367 >超紐理論は、未学習の一般健常人にも認識可能なのかしらん?
そのとおりw
つまり統一見解というものがないと駄目って事です。
その世界にいる人間の殆ど全てが、肯定する必要がある。
肯定派、否定派入り混じりの状態では統一見解等とは言えないでしょう。
物理の世界では相対性理論を否定する人間はいないでしょう。
物理の外にいる普通の人が相対性理論を分かっている必要はないのです。
物理を仏教の世界に置き換えて、宿命通や輪廻転生、霊魂〜などを
仏教界の統一見解として肯定する〜という状態にありますか?って事。
仏教界に宿命通や輪廻転生、霊魂〜などを否定する人間はいませんか?って事ですよ。
仏教界の外にいる人間が分かっている必要はない。
物理も仏教も肯定・否定入り混じりの理論や主張なんて、外の人間は信じませんよ〜って事。
>>368 なんかの修行した人だけが真我を分かるって言いたいんだろうけど
そもそも、そいつは一切内に真我をどうやって見つけたんだよ
五蘊のどこにあるかあげてみせろや
>>369 それは閻魔さんにでも聞いてください。私は未修行の一般健常人なのでw
修行により無分別智を体得している人に聞くべきですね。
>>368 w
予備知識や準備、基礎的経験(学習、習熟)無しに何もわからんのは一緒だろ?っつってんの。
お前も在家並に日本語の通じん奴だなw
そうそう。 横綱と稽古の話はどうなった? 稽古しなくても皆、横綱になれるんだな? 算数・数学を勉強しなくても超紐理論は理解(というより、知覚・認識・実感・体験か?)できるんだな? ノシ
>>367 の >超紐理論は、未学習の一般健常人にも認識可能なのかしらん?が
>>363 の >無分別智を備えた人間だけが認識でき、未修行の一般健常人には認識不能〜ですからね。を
踏まえた問いかけなら、その問いかけ自体が意味なし。なぜなら超弦理論と一切内外の関係について誰も論じていないのだからw
誰も論じていない事について勝手に設問して問いかける頭が想像できません。
一切=自分が認識するすべて
376 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 00:01:20.33 ID:jyhvctJs
>>352 >それでは伺いますが、ある特定の修行により得られた境地においては認識できるが、
そのような修行未経験者は認識できないようなもの-例えば宿命通で過去世を見るとか
霊魂を見るとか、これは一切内でしょうか一切外でしょうか?
修行完成者は宿命通を得られると説かれておりますので、「仏教内では一切内、形而下」でしょう。
もし仏教史上で誰も得られていなければ、「この仏説は嘘だった」または「一人も修行完成者はいなかった」
ことになり、命がけで布教した祖師達も無く、今日のように大勢の人達に仏教は広まらなかったと思料します。
プラグマチズム:物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとする。
377 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 00:03:16.76 ID:7bj47LIp
>>375 共同体では、その不特定多数人の認識としなければ無意味。
>>374 自然科学では、一切内のみを対象とする。一切外のものは、一切内によって検証
されない限り、仮説に止まる。しかし、仮説も一切内による「一応の証明(primafacie
evidence)」が必要。この一応の証明もないものは、単なる妄想。
なお、ビッグバンは、キリスト教の神父が、旧約の創世記に合致させるよう提唱した
と言われる。しかし、ビッグバンもれっきとした「自然現象」。
>>377 では、ある特定の修行により得られた境地においては認識できるが、
そのような修行未経験者は認識できないようなもの-例えば宿命通で過去世を見るとか
霊魂を見るとかのケースは一切外であり、、一切内によって検証されない限り、仮説に止まる。
しかもこの仮説も一切内による「一応の証明(primafacieevidence)」が必要で、
この一応の証明もないものは、単なる妄想。という事でよろしいのでしょうか?
で、この場合の一切内の一応の証明とはどのようなものを指して言っているのでしょうか?
ビッグバンについては、人間が観察できるのはビッグバンから10の−43乗秒たった後からの世界です。
これは、一切内ですか一切外ですか?
>>376 宿命通が確かめられなければ嘘とはならないだろう
嘘をつくはずがないという誠意にのっとって会話は推移していくのだから
それは分かる人がいるのかもしれないが
自分に説かれた話ではないと、一応の了承をして自分に関係のある話題に
関心をむけることになるでしょう
たとえば、教科書でも一度ざっと読みますが、分かるところからとりかかるでしょう。
古文書の解読でも同じです。何度も繰り返される容易に解釈ができると思われる部分
からとりかかります。
そして、釈尊がもっとも言いたいことがわかるならば、宿命通は+αとしての
理解でよいと考えることもできます。歴史的にはそう解釈されてきたと見るべきでしょう。
>>377 客観性は必要ですが、個人の人生観というものは他人に示しても分からないし
根源的な部分まで共有する必要はないものです。
最低限の形というものを宗教が提供しているにすぎません。
たとえば数学はその公理を自由に設定できます。
それはこの世に準用できるかできないかにかかわらず、公理内では無矛盾で真理です。
これは妄想でもありうることです。その人の中では無矛盾で真理ということはありえますから。
よって、仮説とは無矛盾の論理であれば実証を経なくとも真理でありうるものを言えましょう。
仏教は無矛盾な論理体系ではありましょうが、それがこの世に適応できるか
反証が不可能な点で数学以上、物理学未満と言えましょう。
しかし、上でも書いたように、仏教が活道理である以上、それが適切な位置なのです。
たとえば、地上から200mの位置の風の強さは人は見えないが そこに旗をたてれば、その強さを視覚化でき、見ることができる。 それは超能力でもなんでもなく、経験によってそうすることで風の強さを量ることが できると知っているからだ。 修行によって、たとえ宿命通、他人の過去が分かるという智慧を得たとしても たとえばその人の動作や習慣から過去を洞察するという程度の智慧にすぎないだろう なぜなら、その人物にとっての一切は我々の認識できる一切と同じなはずで ちがうのは智慧だけのはずだからね。 禅の修行者が、ふつうの人より多くの心の習慣について知っているというのは 普段、こころの粗い動きしか知っていない常人以上に、修行者はこころの動きに 注意を払っており、こころの癖というものを熟知しているからだろう 禅修行者は一瞬のうちに世界を網羅し尽くすという話があるが それはあたかも死をまじかにした人物が一瞬一瞬をスローに感じるようなもので 心が集中している様を表していおり、また洞察力がすばやい全体認識を可能にさせている というものであろう。 たしかに宿命通をえたと言われた場合、我々がそれを認識する仕方といえば 超常的なものであるが、それは結局突き詰めれば、我々が認識できるものに 還元できなければ、仏にとっての一切は我々のそれとは異なり、それは生物的な差異と よべるほどの落差がないと説明できなくなる。我々が人生の中で蛙や虫になることができない ように、仏になることは不可能であると言っているも同然であろう。しかし、釈尊は人間として 生まれた。ということであれば、宿命通をあたかも超能力であるかのように考えることは ナンセンスというほかないのではなかろうか。
381 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 00:43:27.80 ID:NpEs0uuA
>>380 そういうこと言うと、神通信奉者から「常識に阿諛してる」
と非難されるぞwwwww
382 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 00:43:39.58 ID:7bj47LIp
>>378 >で、この場合の一切内の一応の証明とはどのようなものを指して言っているのでしょうか?
証明の域まで達しなくても、一切内(現実上)からの、何らかの合理的根拠。法律では、
これを「疎明」と呼ぶ。
>ビッグバンについては、人間が観察できるのはビッグバンから10の−43乗秒たった後か>らの世界です。これは、一切内ですか一切外ですか?
一切内の根拠から合理的に推論できれば、一切内である。
例えば、ある数学の理論によって建築した建造物が、一切内の何の原因も無く倒壊した
とすれば、その理論は誤りであったことが証明される。
>>381 それでかまわないよ
以前書いたように、俺は体験至上主義者ではないから
禅を体験しなくとも、禅体験者の智慧を学ぶだけで智慧に達しうると考える
それこそ信方便易行でしょう
384 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 00:52:14.10 ID:NpEs0uuA
一切内⇒ 現に観測、確認可能な事例、もしくは、 「それらを 元に有意な論理構築の帰結として、是非の判断が(少なくとも将来的に)可能と 考えられる事例」・・・・・こんなとこで、いいんじゃねえ?www
>>382 >一切内の根拠から合理的に推論できれば、一切内である。
一切とは、実証性とは関係ない。
一切とは認識のこと。
数学の演算による再現性も論理的な演繹である推論も
一切内の出来事の、ある論理の展開にすぎない
それは観察とはちがうし、実証性でもない。
実証は、実験。この世の出来事として観察されること。
おまえらホント科学かじってんのか? 数学と物理はちがう 数学は単純に数字の世界のできごとで それがいかに無矛盾であろうと、実験によってこの世の真理として適用できるか 見ないとこの世の法則とは言えないんだって。
>>382 なんだかよく分からないんですが、一切外であっても一切内からの検証があり合理的根拠があれば
それは妄想ではなく肯定して構わない〜という事ですか?で、この宿命通の例ではどんな合理的根拠
があるのでしょうか?
ビッグバン〜 >一切内の根拠から合理的に推論できれば一切内である。
一切内の根拠から合理的に推論できないから物理学者が頭をひねっているんですが?
どうしてビッグバンが一切内になるのでしょうか?
388 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 01:02:57.77 ID:7bj47LIp
>>386 たとえ数学であっても、リンゴ1個にもう1個加えて2個にならなければ、
1+1=2は絶対に証明できない。
>>388 数学的には1+1=1もありうるよ
これは0と1の論理回路で使われる数学だけど
我々が生きている次元、たとえばリンゴの個数を数える次元では
そういう数学はあってはならないよな
だから、1+1=2の数学が現実に先立って正しいんじゃなくて
まず現実に1+1=2でないと成り立たない世界があるから正しいと言うべきだね
ググったらふつうに出てきたわ ブール代数ってやつな
AND回路が+ OR回路が*
まあ、ブール代数は単位元をうまく利用した数学だから 2+2=2という数学は多分ないかもなぁ 数学者じゃないので分からんが 自然数Nはつねに前の数字に+1した数という理由で増えていくから その途中の数字である2で、自然数を否定することはできないんじゃないかな
おまえらってアレだろ 道理や数学や学問って他人を支配する、縛るための道具だと思ってない? 優越感を感じるためにそれをうまく使いたいから議論ふっかけてるんじゃね? 自分に課して上達することなんかまるで考えてないよな だからここの仏教入門にしても空虚になっている気がするんだが
>>393 神通は超能力ではない には賛成
でも輪廻や縁起はその外から
つまり神通の域でしか直接確認 体験できない
と思います
今までの議論の流れからすると。。ですが
そうだね、 人間がどれほど努力しようと分からないとしか言い様がないから。 だからそこは信じるとしか言えないわけ。 もちろん、釈尊が当時の人たちを教えるためにあえて利用した教えの部分と 言うことも可能だが、今さらその部分だけを切り離したとすれば 大惨事にもなりかねないデリケートな部分であると思う。 俺は輪廻は信じられないと思っているけど、あっても別段困らないと思う。 だが、もしサンガがなくていいと決定するなら、それに従う。ただそれだけだよ。 肉食妻帯してる真宗坊主どもはサンガとは言えないだろうけどな
縁起は十二支縁起は確かめられると思うけどさ、滅陣定が可能なら 竜樹のいう縁起という原理そのものは推論でしか確かめられないだろうね でも観察できるすべては縁起の正しさを実証しているかな
>>395 デリケートで慎重に扱うべきというのは大賛成ですね
宗教はそれぞれそういった部分があるので
注意深く接するのが礼儀ですね
忘れないようにします^^;
398 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 02:00:18.44 ID:7bj47LIp
>>386 数学といえども、古代人がその生存努力の中で、生存に関連する人、獲物、物
などの「具象物を数える」必要性から発生したものであることを忘れてはならない。
宗教、その他人間のすべての営みは、「生存の手段」として発生したものである。
彼等は、現代の創唱宗教とは異なり、生存の手段を生存の目的とするという
倒錯には陥っていなかった。宗教も、生存のための彼等なりの精一杯の「現実性・
合理性・科学性」の表れであったのである。
399 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 02:10:15.46 ID:7bj47LIp
>>395 >俺は輪廻は信じられないと思っているけど、あっても別段困らないと思う。
そのような中間的な態度が最も問題。輪廻転生概念が、社会にどれほどの
害悪を流し続けているかを考えよ。
現代人は、古代人とは桁違いに知識も知恵も増えているのだから、「何でも
信じればよい」などということはもはや許されない。君は、何のために義務
教育を受けたのか。
宗教の開祖は、あくまで当時の状況における当時の人々に対して説いたもの
であることを忘れてはならない。「彼等が現代に生きていれば、何を説くか」
を考えなければ、全く無意味である。
具体世界と抽象世界 具体世界の需要があって抽象世界がつくられたのは確かだけど つねに抽象世界は具体世界からの要請によってつくられてきたわけじゃない 抽象世界に入り浸っている一人の天才がつくりだすこともあって そこから具体世界に適応されるという逆輸入もある もしそのような遊びのある世界でなかったなら、この世に科学万能の世界は 存在してないよ。だから、生存のためだけに生きるのが正しいとも言えないわけ 一人の狂気が世界を救うこともある。
401 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 02:18:19.42 ID:7bj47LIp
>>400 すぐに、「常に・・・のわけではない」という、極端から極端にしか走れない
で、その中間の無数のニュアンスを理解できないのが、カルトの著しい特徴。
狂人が世界を救うことなどない。だから狂人なのである。
402 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 02:21:23.24 ID:7bj47LIp
>>400 否定する振りをしてそれとなく肯定するのが、カルトの「常套手段」である。
君のほうが極端でしょw
つまり、ビッグバンが一切内であろうが一切外であろうが、 宿命通や輪廻転生が一切内であろうが一切外であろうが、 修行をし無分別智を獲得した者でなければ、捉えられない 世界等は一般人には無用という事ですね。 人間が生きる上で無分別智がなければ、不幸なことである〜 なんて事はないのだから。無分別智は禅家だけの世界観だ。
405 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 02:28:20.93 ID:7bj47LIp
>>403 「開祖が現代に生きていたら何を説くか」を少しは考えてみたことがあるのか。
時代錯誤に陥っているのではないか。義務教育を受けていれば、可能なはずだ。
宗教を語るのなら、現代におけるカルト被害の悲惨さを、少しは勉強されたし。
406 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 03:25:05.38 ID:NpEs0uuA
ある曹洞宗の坊さんのブログより・・・・・・ 「煩悩即菩提」について >「これは普通、次のような解説をされます。大乗仏教の「空」の教えによれば、 すべての存在にはそのものとしての実体はない(無我)のだから、 それは煩悩も菩提も同じくことで、共に空で無我という意味で等しい。 つまり、両方とも「空の現れ」として同じである、というわけです」 ・・・・・それについての批判 >「これは、異なる二つの現象の無条件的同一性の根拠として「空」を設定し、その現れとして「煩悩」「菩提」を考える時点で、 本質/現象の二元的観念論と同然です。つまり、「空」がそれ自体概念化された結果、形而上学的な「実体」の意味で、 解釈の文脈に取り込まれてしまうのです。」 ・・・・・・なるほどね、と納得ww これって、実に多くの者がやっちまうでしょ?ww この坊さんの言いたいことは、 AとBという二つの対象を考察するとき、「その共通属性」として 「空」設定する。 つまり、「どちらも空なんだから等価」とやっちまうわけだw しかし、このように「空」を特定のものの「本質」と捉える視点自体が「空を観念化」しちゃってるわけだw そこに「形而上的実体」を設定しちゃってる。 ある事柄の解説において、「・・・・は空なので・・」とやるには、よほど慎重にやらないとアカンねw 本来、言語化、観念化など「規定化」されることに最もなじまない「空」を知らず知らずのうちに そういうものとして捉えてしまうw 人間は何かを理解しようとするとき、どうしても「言語というツール」に頼ってしまう。 それが誤謬に陥る最大の原因なんだろうがw
407 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 06:47:21.89 ID:eYCUhhF3
>>406 「空」を、中村博士のように「相互依存性、相対性、関係性」とすれば、完全に
「言語化・観念化」できる。これは「もろもろの存在」の構成原理に過ぎない。
最も当たり前のこと。
また「煩悩即菩提」は、中論25:19、25:20そのままではないの。
勝義は、チャンドラキールテイも言うように、世俗から突き込まれた時の
「神秘主義的逃げ口上」に過ぎない。
「世俗的なことにもとづかなければ、第一義は説示し得ない」。換言すれば、
第一義は、世俗的なことから一歩も踏み出せないのである。わざと難しく
することはない。難しくするのは、単に、宗教屋の職域維持のためw。つまり、
「修行しろ、修行しろ」と言っていること。
408 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 07:18:41.82 ID:jyhvctJs
>>376 >もし仏教史上で誰も得られていなければ、「この仏説は嘘だった」または「一人も修行完成者はいなかった」
>ことになり、命がけで布教した祖師達も無く、今日のように大勢の人達に仏教は広まらなかったと思料します。
>>379 >宿命通が確かめられなければ嘘とはならないだろう
>嘘をつくはずがないという誠意にのっとって会話は推移していくのだから
> それは分かる人がいるのかもしれないが
貴兄は一つ重要な点を見落としております。確かに後世であればそうかも知れません。
舎利弗も長部経典の「自歓喜経」に宿命通を記載しております。
舎利弗、目連、数百人の阿羅漢達の一人も宿命通が得られなければ、釈尊の存命中にでも、
「この仏説は嘘だった」または「一人も修行完成者はいなかった」ことになり、
誰も命がけで布教したり、後に結集することもなかった筈です。
実際は大勢の弟子達が修行完成していた筈です。スッタニパータでも輪廻しない完成者達が紹介されております。
同様に日本の仏教の祖師達(親鸞、日蓮、道元、空海、他)の誰一人として宿命通(目的ではなく証)が得られなければ、
「この仏説は嘘だった」または「わしも修行完成はしなかった」ことになり、誰も命がけで布教したりしなかったことでしょう。
以上、「宿命通」は仏教(少なくとも修行僧)において、一切内であり形而下であることの証明とします。
409 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 07:21:34.23 ID:33JVwCIL
釈尊がト卒天経由で下生する前は梵天(神)だった、梵天界にいたという仏説が記載されている原始仏典(長部経典)を参考までに紹介します。 1)長部13経「三明経」 梵天と共生していたので梵天のことはよく知っている。 2)長部17経「大善見経」 前世は王で肉体の死後に梵天界へ赴いた。 3)長部19経「典尊経」 前世は宮廷祭祀バラモンで梵天界へ再生する道を説いた。 尚、ト卒天経由で下生したことは長部14経「大本経」に説かれております。 参考)「原始仏典 長部経典U」中村元監修、春秋社
410 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 07:32:15.45 ID:33JVwCIL
私の夢の一つは地上天国、極楽浄土をこの世に顕現させることにお役に立ちたいということです。 この想いは37年間全く変わっておりません。 飛騨高山か名古屋に陽光文明研究所が開設されて、職員募集がアナウンスされたら、真っ先に応募したいと存じます。
411 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 07:33:54.33 ID:jyhvctJs
>>408 >同様に日本の仏教の祖師達(親鸞、日蓮、道元、空海、他)の誰一人として宿命通(目的ではなく証)が得られなければ、
>「この仏説は嘘だった」または「わしも修行完成はしなかった」ことになり、誰も命がけで布教したりしなかったことでしょう。
宿命通や読心通はあくまで修行完成者の証であり、目的ではなく、必要条件であっても十分条件ではないでしょう。
祖師達(親鸞、日蓮、道元、空海、他)の中で宿命通も得られなかった祖師がいて、それでも弟子達に教えを説いた人がどれだけいたのでしょうか。
悟りへの道は複数ありますが、過去世(輪廻)を直接観じることは分かり易い道でしょう。
プラグマチズム:物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとする。
換言しますと、宿命通が得られたのは、八正道及び正しい禅定等の教えが真理であったということでしょう。
412 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 07:43:42.11 ID:jyhvctJs
>>409 >釈尊がト卒天経由で下生する前は梵天(神)だった、
やや補足しますと、神だったかは分かりませんが、少なくとも梵天界の住人だったという複数の仏説ですね。
まあ菩薩が下生する前の住所としては十分にあり得るかと思料します。
そして菩提樹下で悟った後に釈尊が躊躇した際に、梵天界のお知り合いが現れて初転法輪を励ましたという美しいお話でしょう。
「梵天勧請」と梵天をさげすむ仏教徒達は、釈尊も元梵天界の住人だったことを知らないだけで、責める必要もないかと存じます。
413 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 07:49:44.31 ID:eYCUhhF3
すべての宗教は、マインドコントロール。科学がいかなる宗教の奇跡も到底 及ばない驚異的な発達を遂げた現代において、大昔の宗教など完全に時代錯誤。 カルト宗教に嵌って苦しんでいる人々は、無数にいる。宗教は、精神の麻薬。 麻薬を規制するのに、宗教は何故規制しないのか。「宗教は善」という観念は、 事実上、完全に誤り。 これ以上、宗教の犠牲者を増やすべきではない。宗教は、精神に対する不法行為 以外の何物でもない。 憲法の「信教の無条件自由」は、戦勝国アメリカが、キリスト教布教の目的で 入れたもの。「信教の自由」の抜本的再考慮が急務である。
414 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/10/03(木) 07:51:15.94 ID:jyhvctJs
>>409 私の過去ログを丁寧に蓄積していただいて恐縮ですが、成り済ましは止めていただきたく。
>>410 は明らかにスレ違いですので、以後御控え願います。
>>408 そうかな?
俺自身真宗の安心をいただいたつもりだが、神通よりすばらしい仏智をいただいたと
思っているよ。神通なんてものよりも自分がほしいものが手にはいることの方が大切だろ
実際、現生十種益なんてものがあるが、そこに神通なんてものは記載されてないよ。
だが、どれもああ、だいたいこういうことかと俺は理解できるよ
後世の人がこの現生十種益を超能力のように評価することになるかもわからんが
俺は、これを超能力だとは思わない。常識の範囲内のことと受け取るね。
舎利弗の宿命通にしても同様のことかなと思う次第。
舎利弗自身、それがどういうものか分かってたので嘘だと思わなかったのだろ。
でも、まあ、俺としては想像するしかないわけで、それが仮に超能力のようなものであったとしても
嘘と証明されないかぎり、あると仮定して信じるのが仏教徒としてのあり方であり
とくに凡夫ははじめは一度相手が言っていることを信じてやってみるぐらいの努力は必要だと思うよ
まあ、何もやってない君らには分からんだろうけどね
>>415 >嘘と証明されないかぎり、あると仮定し ・・・・・・ 分からんだろうけどね
「そのスタンスはブッダの教えではない、
ブッダはそんな非常識なことは説かなかった、
あくまで、“我々の”能力内・知悉範囲内のことしか説いていない」
として、各種伝統仏教を、仏陀の教えから除外すべき、
というのが最近のスレの主流です。
君らの能力内で理解できることだよ、悪意をもっていない限りね。 本気で悟りというかその宗の奥義を把握するつもりで聞くつもりなら理解できるよ そして、理解できるだけでは足らない。証果を得なければならないが それは自分の全身全霊をかけるつもりでやらないと分からないよ 瞑想は特定の技術がいるから、極めることができない人がいるかもわからんが 智慧というのは、気持ちさえあれば誰でもわかる。そういうもんだと俺は思う。 ただ君らにはまずそのやろうという気持ちがないから、無理だろうねと言ってるんだよ でも、それは仏教にかぎらずなんにでも言えることだろ? 信じていると言いはするが、それを求めようとしない 聞きはするけど、聞いたものを思料しようとしない これらを信不具足って言うらしいよ。まさに君らのことじゃないかね 涅槃経でもよんでみなよ
418 :
ルジア :2013/10/03(木) 08:40:03.81 ID:LsY+yIhV
>>415 今の世では、まず安心を得た人など人っ子一人いません。
安易に肝心かなめな一回きりの概念を使って、人々を貶めてはいけません。
寄り添い、みなさんがたについて、真摯に考える中で、やっとこさ、
いたることができるのに、思い煩い、三悪趣に加え、阿修羅道や六欲天の道に
進んでいる、みなさまがたの一人である、あなたが得ることなどできる
わけがないのです。
誰しもが、インターネットをして、たくさんの情報を得て、分かった気になっている
だけであって、肝心な僧侶に帰依する、まなこが完全になくなっているという
ことは、しかたないことですが、肉眼で見ているのではなく、肉眼により
逆に景色に見られている有様ではないでしょうか?
インターネットというのは僧侶への接続の鍵であると考えています。
たいせつな人を蔑ろにして、言い張り、蠕動するありかたは、ミミズ
そのものであります。
みなさまは、このままではさっき申しました、おぞましき五つの境地の
どれかに、苦渋の選択をしないといけなくなると考えています。
それは、明らかに、知っていても知らなくても、みなさんが行く場であり
ますので・・・ みなさんは人であると思っていらっしゃるようだが、
その身今生において、度せずんば、ただの五つのおぞましき境地のどれかに
吸い取られていくでしょう。
みなさまがたはもう大人であることをまず思ってください。
このままいけば、聖域には入ることは出来ず、みなさまは五つの苦渋の選択を
しないといけなくなるでしょう。
>>418 そうですか。私はけっこういると思いますがね
信心というものを難しく考えている人ほど、信心から遠ざかっていると思いますよ。
420 :
ルジア :2013/10/03(木) 08:51:58.97 ID:LsY+yIhV
>>418 正規の僧侶がまず、堕落しているために、正規の中の正規な僧侶が
すべての代役をしないといけないのです。それではその代役とは何かというと、
仏門までへのガイドです。
その御前において、御浄土の荘厳に一つ気づくことができるならば、
扉は開かれますでしょう。
あとは親鸞教学か親鸞一筋か選び取ればよろしいが、しかし一人一人、
仏門にはいれば、好きな学びをしたくなるものです。
仏門において嘘偽りはないのですから、どの学びも正しいのですが、
しかし、わたしは親鸞教学・親鸞一筋いずれか一方を学ぶことが、
この世におられる人々を救う最小のルートであると考えていますよ。
バカっぽいなw そんなしゃっちょこばってるから、そばにあっても気づかないんちゃう? 浄土教てのは一文不知の売女ですら救われる教えだから広めようってなったんだぞ? そんな堅苦しい教学を理解してる知識階級しか救われないんだったら高野山や叡山に こもってりゃよかっただろうが
422 :
ルジア :2013/10/03(木) 09:07:59.41 ID:LsY+yIhV
>>421 荘厳一つ気づきのさえ、畜生、修羅、地獄、餓鬼、六欲天は絶対にできません。
わたしは荘厳52種類すべてを体内に宿し持っているし、奴ら五つのおぞましき
境地にはまったく・・・、奪われてもなんとも思いません。
阿弥陀さんが全部見ていますよ? この世にはおぞいましいものを好み
生きている者たちばかりであるために、たいせつなことが見えないのです。
わたしが、そのこの世における御浄土の荘厳の52種類に気づくために
どれだけ、必死になったと考えますか?
みなさんは、わたしを知ろうとすればするほど分からなくなるのです。
ですが、わたしを知ろうとはせずに、御浄土の荘厳に気づきたい、
そう考えるだけで、気づきの一つは得られるのです。
堅苦しい教学や親鸞著作を学びとり、そこから、みなさんに開くことが
できる仏門が建造できるのではないでしょうか?
あなたは、今の世の中になんでもあるとお思いですか?
何もないですよ。
とりあえず、法然上人の一枚起請文でもよんでからこいよ
424 :
ルジア :2013/10/03(木) 09:13:05.27 ID:LsY+yIhV
>>423 昨日ちょうど読んでいましたけど、それがどうしました?w
なるほど、一文不知か
426 :
1/4 仏道のアイデンティティ :2013/10/03(木) 09:18:44.00 ID:tW0i1Y1+
おやおや、ずいぶん進んでますねえw
朝帰りの眠い頭ですが、一応のコメントを。
>>304 こんな簡単なことに、なぜあなたがここまで必死に絡むのかホントに不思議です。
ここは『仏教』のスレッドなのに、門外漢として実践的な仏道にとって何が大事かが分かっていないのでしょう。
仏道の本懐は世界観の構築ではなく、実存苦の超克です。
ここで言いたいことは以下に尽きます。
『>実体が無くても「無」ではないもの
★二項相対思考に捉われていたら、いつまでも解決はありえません。
→『仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり』(道元)
正法眼蔵冒頭からこんな高度な還滅を説く道元とはなんて凄い奴なんだ! 』(
>>291 )
★仏道は菩提心のある凡夫に向けられた八正道で、しかも信仰宗教ではありませんから、一切とは菩提心凡夫の六処で検証可能なモノ・コトです(相応部35-23)。
ブッダの最初の「一切知者」宣言(相応部6)であり、「一切」四法印です。
【一切門】で相対思考で縁起の間接現実を徹見(如理作為)してゆけば相対思考の限界にぶちあたります。
無限遠点はそのひとつのわかりやすい例です。検証可能ですが、仮設&仮説とせざるをえません。
あとは
>>300 >>291 で【般若門】の透過が問題になります。
― これのどこが問題なのでしょうか?
427 :
ルジア :2013/10/03(木) 09:22:04.19 ID:LsY+yIhV
>>425 真理はダダ漏れするものじゃないのだよ〜
図書館行ってきます、ではまた!
428 :
2/4 図式化 :2013/10/03(木) 09:22:11.00 ID:tW0i1Y1+
>>304 仏道を一応図式化すれば、(詳細な説明はここではとてもできない)
=法門(関)=
およそ、仏道=八正道の法門には(A)<@【菩提心門】→A【一切門】>→(B)<B【般若門】→C【還滅門】>があります。
=機能=
<(A)色:【間接現実】自帰依(灯明・洲)←分別如理作意・大疑団> ― フィードバック ― <菩提心・無分別般若智直覚→法帰依(灯明・洲)【直接現実】:空(B)>
→崩壊 ⇒ 涅槃【還滅(間接)現実】
=二相構造=
(A)縁起の間接(還滅)現実<分別知覚・記憶・判断の二項相対を通す> *世俗←分別相
@一切内 ・時間: 一切行無常(有⇔無の相対無) 空間: 一切法無我(有⇔無の相対無)★←無我(なし)
A一切外 無記
B間接現実一切からの直接現実の隔靴掻痒の“示唆”: 月を差す指
間接否定言辞形式(四句第4:直指肯定不可):不・否・無・非・異・違など
・言語形式 <如く> 非有非無 非無常非恒常 不生不滅、 不一不異 非無我非有我★★←非我(〜でない)
*言語表記では、 <非(不)〇〇非(不)△△>という両端間接否定形式が直接現実を示唆できる限界。
・比喩(〜の如し)、沈黙(唯摩経など)、気合音(喝ァ〜ッ!など)、衝撃、動作(扇を使う、草鞋を頭へ、)、無関係語など
*悟達者の還滅(間接)現実(無分別の分別)
(B)縁起の直接現実<般若智(無分別)智直接智覚による縁起の現(あるがまま)観> *勝義←無分別相 :無矛盾
・〇〇〇〇〇 ⇒ (メタ空) ←あえて空(知・不知も、沈黙・発言も不可:平常(無分別)心是道:あるがまま)
・無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相・無分別の空=中道=時空際断(間接現実の空間・時間の“際”そのものが断た
れている)の如し
429 :
3/4 二相の法門 :2013/10/03(木) 09:25:58.32 ID:tW0i1Y1+
>>304 >無分別智により観察を離れたもので無限遠点を理解するから一切内である、というのなら
これは仏法の勝義と世俗の二相を掴めていないお方が、法門のBとAを混同し破綻した論です。
>人間の経験や観察範囲を超えた検証不能のものを一切外とする〜と定義している以上、
> 一切内は“誰でも”経験や観察によって検>証できるものでなければなりません。
おやおや、仏法の素養のある方なら当然のことを言ったに過ぎませんよ。
あなたは仏道の法門門外漢として、どこまでも二項相対の縁起の相対間接現実(構造(A))でしか考えないのです。
あなたには直接現実の直覚のなんたるか掴めないのです。
ですから特に
>>280 >>282 >>291 >>300 以下の議論はまったく掴めていません、金剛般若経30なんてチンプンカンプンでしょう。
>>290 で丸分かりのように、仏法は実存苦(方便)を問題にもせず、菩提心さえない相対(A)オンリーのお方にはB【般若門】突破は無理です。
仏法はあくまでも菩提心凡夫に向けられたものです。
悟達者(仏法ゲシュタルト解脱)のものでも、あなたのような【菩提心門】の門外漢のものでもありません。
430 :
4/4 般若門 :2013/10/03(木) 09:35:16.76 ID:tW0i1Y1+
>>354 >(宿命通は)一切内なら矛盾なしです。
>しかし閻魔さんはそれは一切外と言っていますw
>しかし、ビッグバンは一切内だと。これは矛盾ではありませんか?つうことですw
矛盾はありません。
・『宿命通』は菩提心凡夫が予断なく経験的に検証できることではありません。
寺和田の『ようにあらかじめ「過去世」「カルマ」を洗脳しておいてから、それを見ろ!と「瞑想」させることが、
「(集団)催眠・洗脳マインドコントロール」とどう違うのでしょうか?
カルマ観念を植え付けてサリンをまかせることとどうちがうのでしょうか?』(
>>141 )
・『ビッグバンは一切内だ』なんてどこでいいましたか?
上記のようにあくまで無限遠点を仮設&仮設として問題にしています。
一切内においては仮説と検証は当然の手法です。
『ここからは→『身心脱落せよ! 落した身心とは、まさに無限遠点問題→B【般若門】の突破&透過の問題です。』(
>>283 )
分別経験観察のA【一切門】での如理作意の徹底から、次の無分別般若智(無分別智)直覚のB【般若門】へ。縁起の(直接)現実の現観です。
般若門は経験観察という<分別知>をブレークスルーした<無分別智>です。いわばあくまでも一切内の奥の門【般若門】です。』
大事なことは、
★二項相対思考に捉われていたら、いつまでも解決はありえません。 →【般若門】を突破することです。
431 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 10:19:46.45 ID:jyhvctJs
>>411 >祖師達(親鸞、日蓮、道元、空海、他)の中で宿命通も得られなかった祖師がいて、それでも弟子達に教えを説いた人がどれだけいたのでしょうか。
>悟りへの道は複数ありますが、過去世(輪廻)を直接観じることは分かり易い道でしょう。
実際は親鸞、法然、日蓮、道元、空海、最澄ら祖師達は「輪廻」に関する説法を書面で残しております。
釈尊と違うのは真筆でも残っているということです。
さて祖師達は宿命通が得られて輪廻を説かれたのか、それとも宿命通は得られずに輪廻を説かれたのかですが、それは各宗派での信でしょう。
因みに明治以降の近代仏教学者は宿命通は得られずに輪廻を否定した、と言っても過言ではないかと存じます。
折角、祖師が厳しい修行証果で得た宿命通で伝えて下さった真理を信じず、現代科学常識にて仏教学者の言の方を信じてしまっている仏教徒が結構いるかも知れませんね。
432 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 10:22:10.22 ID:jyhvctJs
一教不信
個人的体験なんて所詮、脳内妄想にすぎん可能性大 たとえば、重力があることは信じようが信じまいが客観的に計測できる そこが宗教が絶対に科学を超えられない点 よく「科学で立証された」という風な宣伝をオカルト雑誌とかがやるが、これらは科学から外れた擬似科学にすぎないのが基本
435 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 11:03:57.84 ID:NpEs0uuA
宿命通・・・・wwwww これはもう、「仏典の中には、それに関する記述がみられる。それを 信じる信じないは『貴方しだいです。』」・・っていう『信仰』の問題だろうが?ww 釈迦の舌が伸びただの、生まれてすぐ立ち上がって喋っただの・・・・ それを「事実」として信じる者もいるわけだから、それはそれで良しとww ただ、それが「この現実世界で実際に起きた事実であるのか?」を信仰を離れて、その是非を 問うのであれば、それは極めて疑わしい、はっきり言ってしまえば、「有り得ない事象」と いってもいいだろうねw 前世と現世がどのようにリンクしているのか? 過去世の情報がどのように保存されていて また、それらをどのように引き出しているのか?・・・・それについての(検討に値する)仮説 の提示が一切なされなくて、またそれを示唆する(有意な)証拠の提示も一切ないw これでは、それの是非の検証に入る段階にさえも達していないw 隠居が、しょっちゅう言ってるが、ww この現象界の「事実認識」に限って言えば、 数百年前の人間と現代の人間とでは、比べようもないw だから、「宿命通」という現象、能力を昔の人が、「実際にある能力」と認識したのも 無理からぬことで、それをもって昔の人は愚かだ・・・とやるのは、ちっとねwww だが、現代人が「い〜〜や、これは真実です。」と、やるのであれば、 「おめ〜〜〜〜はオカルトマニアか?ww」という謗りを受けるのはしょうがねえなww とりあえず、小学校の理科あたりからやり直せとww
436 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 11:07:58.81 ID:tW0i1Y1+
>>431 >祖師が厳しい修行証果で得た宿命通で伝えて下さった真理を信じず
・『あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、
声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。』(Sn.901)
・『「われは宿命通を知る。われは宿命通を見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。
たとい祖師が見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。
かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。』(Sn.908)
仏教が丸呑み信仰主義ならこんな楽なことはない。
『宿命通』は菩提心凡夫が予断なく経験的に検証できることではありません。
寺和田や一切外心霊主義の妄想の『ようにあらかじめ「過去世」「カルマ」を洗脳しておいてから、それを見ろ!と「瞑想」させることが、
「(集団)催眠・洗脳マインドコントロール」とどう違うのでしょうか?
カルマ観念を植え付けてサリンをまかせることとどうちがうのでしょうか?』(
>>141 )
輪廻転生は未達の菩提心凡夫には検証不能、悟達者には無用ならば、一切を徹見する仏道実践上 存在余地はありません。
輪廻転生は一切外の妄想です。
スーパーカミオカンデでニュートリノが観測される時代だから そろそろ誰か見つけるんじゃね?
名称が似てるからって、重力と重力子をごっちゃにする程度の素養じゃあねえ・・・ もしかして、物が上から下に落ちる現象をみたことがない地球外()の存在の可能性が微レ?w
再現性もないし宗教は。 医学的に確立した治療法をやれば、どこの何人の医者が施そうが患者は治る。 風邪薬とかの恩恵にあずかってない日本人は普通いないよな? だけど宗教行為はそうじゃない。
442 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 11:36:52.30 ID:NpEs0uuA
なんというか、「神秘的な力」によって、治療行為を行うってのは カルト宗教の最大の売りだから、やめるわけにはいかんわなwww それを止めたんじゃあ、商売あがったりだあwww シャクティーパット だの 手かざし だのwwww
443 :
ルジア :2013/10/03(木) 11:40:00.52 ID:LsY+yIhV
>>441 わたしはそれを、「仏門の中に入る」と言います。
たいせつなことは、輪廻転生説を否定した釈迦を否定して、輪廻転生説を
肯定することで、みなさまの立場があらわになり、その代り、仏門も
あらわになるのです。
医学は見世物であるが、宗教は見世物ではないのです。
宗教行為がわからないので、宗教行為がわかりたいがために、仏門に
入るのであります。入りたくないと訝る人たちは、死後、つまり輪廻転生説の
通り、それが適用されるのです。
444 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 11:43:24.13 ID:tW0i1Y1+
>>438 >>441 で、それで実存苦の超克ができるのですか?
貪(むさぼり)・瞋(怒り)・癡(愚かさ)はなくせますか?
それに正面から応えるのが仏法・仏道です。
446 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 12:14:10.48 ID:eYCUhhF3
>>444 苦には常に楽が伴うのだから「差し引きゼロ」。健常者では、楽の割合が
苦より大きいからこそ、人類はここまで生存し、ますます発展を遂げている。
従って、「実存苦」などない。人間は、苦と真正面から対峙し闘うことに、
実は無意識にでも大きな喜びを感じている。生存本能(生命)のなせる業である。
現代では、常に苦を感じているというのは、脳内神経伝達物質の異常による
鬱病という「精神病」。
釈迦を含め、鬱病の患者さんには、現代では精神医学が対応します。
仏教徒とは、この釈迦の鬱病の感染による患者の一大集団。
禅における「覚り」とは、人為的な変性意識。禅病として「祈祷精神病」や
「狐憑き」と同様、精神医学による治療の対象になる。
447 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 12:21:36.35 ID:tW0i1Y1+
448 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 12:29:37.15 ID:0z/PM9q8
>>446 >苦には常に楽が伴うのだから「差し引きゼロ」。健常者では、楽の割合が
>苦より大きいからこそ、人類はここまで生存し、ますます発展を遂げている。
>従って、「実存苦」などない。人間は、苦と真正面から対峙し闘うことに、
>実は無意識にでも大きな喜びを感じている。生存本能(生命)のなせる業である。
詭弁乙。
簡単に苦楽を定義すれば、貧乏人が苦、金持ちが楽
貧乏人は金がなく、何かと不自由、助かる命も助からないことがある。
449 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 12:32:58.96 ID:0z/PM9q8
律法学者とパリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。 人々の前で天の国を閉ざすからだ。 自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。マタイ23.13
450 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 12:44:35.02 ID:eYCUhhF3
>>448 貧乏が苦だから働き、それによって社会に寄与するとともに、己も生き甲斐を感じる。
金持ちが更なる楽を求めて金を使うから、貧乏人が潤う。これが人間社会の基本的構造。
働きもできない貧乏な人の苦を救うのは、現金の供与のみ。「苦の滅」を標榜する仏教は、
金をくれるのかw。くれるどころか更に取るから、苦はますます深まる。宗教には麻薬と
同様、依存性があるから、止めたくても止められない。まさに「苦の連鎖」である。
451 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 12:49:08.53 ID:0z/PM9q8
>>450 詭弁乙
貧富の社会的構造を無視してはいかん。
>>430 >・『ビッグバンは一切内だ』なんてどこでいいましたか?
無限遠点の一例がビッグバンです。そして、あなたは無限遠点は一切内だと何度も言っている。
これは、つまりビッグバン(無限遠点)を一切内だと言っているのに等しいでしょう?
ビッグバンは無限遠点ではない〜と言われるのならご説明を願います。
>>426 >無限遠点はそのひとつのわかりやすい例です。検証可能ですが、仮設&仮説とせざるをえません。
問題はここです。検証とは実際に調べて仮説などを証明する事です。ただ調べるだけで検証なんて言いません。
証明されない仮説で終わるのならそれは検証とは言いません。つまり、無限遠点(ビッグバン)は検証不可能〜
というのが正しい言葉の使い方。言葉の定義があやふやな人間とは会話が成り立たない。
ひとつの言葉をまるで違う意味で両者が使うのでは意味なし〜と何度も言っているのですが?
そして無限遠点(ビッグバン)は検証不可能である以上、あなたの当初の説明では無限遠点(ビッグバン)は
一切外でしょう。
私は、無分別知というものを想像でしか理解できませんが、分析を間に挟まず直接対象を観る〜というような
世界だと思います。このようなものの見方をして、それをすばらしい世界だ〜と言っても言葉を変えれば
分析を挟まない以上、自分勝手な思い込み〜とも言えるわけです。本人は無分別智〜と言っても他から見れば
ただの妄想でしょう-とかなりかねない。これが本当に素晴らしい世界なのか?
脳の特定部位を刺激すると、幽体離脱とか過去世が見えたとする体験と同じようなものを人間は見る てんかん研究の際に偶然発見された つまり過去世が見えるとかは修行の深さとか徳を積むとかじゃなく、不自然な刺激が脳にかかったかどうか ま、昔はそれを事実だと信じちゃってたから。。。
454 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 14:01:07.15 ID:eYCUhhF3
>>451 釈迦は「貧の苦」は説いたのか?貧は、生存に支障をもたらすから、最大の
苦の一つであるはず。
釈迦は、父親が王であり、贅沢三昧の暮らしをしたから、「貧の苦」など
思い至らなかったのだろぅ。所詮は「他人事」。
竜樹は、中論以外の作品で、「何故盗んではいけないか」を「生存」の視点
から説いている。さすが、といわざると得ない。
455 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 14:07:10.59 ID:eYCUhhF3
精神医学的には、仏教の「覚り」は、「狐憑き」と何らの相違もない精神障害 の一類型に過ぎない。狐の代わりに、釈迦が憑いたのであるw。
457 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 14:42:06.78 ID:eYCUhhF3
458 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 16:24:49.04 ID:tW0i1Y1+
>>452 >ビッグバンは無限遠点ではない〜と言われるのならご説明を願います。
>つまりビッグバン(無限遠点)を一切内だと“言っているのに等しい”でしょう?←推測キメツケw
『ビッグバンは一切内だ』とも『ビッグバンは無限遠点ではない』とも、また『無限遠点(ビッグバン)は検証不可能』ともいっていません。
あなたもペンキ屋さんですねえw
だからこその仮説と検証でしょう(
>>430 )。なぜそんなに現在において断定して結論を急がなければならないのですか?
検証可能であってもまだ検証未遂の仮説はいくらでもあります。
理論物理学者を悩ましている各理論方程式からの結論が1/0=0または∞になり、説明不能になってしまう問題もそうです。
でまた仮説として超弦理論がたてられていますが、これも検証未遂です。
例えば目の前の木の机は菩提心凡夫でも六処で知覚できます。だから一切です。
それをどんどん細分化すれば質量ゼロの素粒子に到ります。
超弦的素粒子がいまだ検証未遂の仮説だから、元の机を検証不能の一切外だという人は誰もいません。
だから仏法では机の存在も世俗諦ではあくまで<仮設&仮説>として扱います(中論24-18)。
しかし『宿命通』なるものは菩提心凡夫の六処で知覚できませんから、一切外です。
ポイントは上述したように仏道から見て六処で把握できた「一切」を徹底的に相対如理作意(仮説と検証)していった結果、
★そのような相対思考の限界(関)→【般若門】に気がつくことです。
禅の膨大な公案はすべて【般若門】を突破させるためにあります。
>分析を挟まない以上、自分勝手な思い込み〜とも言えるわけです。
それはあなたが『ここは『仏教』のスレッドなのに、門外漢として実践的な仏道にとって何が大事かが分かっていない』(
>>426 )からです。
海胆を食べたことがない人にいくら説明しても、海胆の味は分からないようなものです。
あなたのように、『自分勝手な思い込み〜』といわれてオワリです。
ここまで懇切に説明しても掴めないのなら、説明が悪いか、既成概念・相対思考を超えられないあなたが愚か(三毒の愚癡)かのどちらかです。
>>450 いや、だからw
それは、苦と(同時に)常に楽があるわけじゃないでしょ?w と。
稀なケースとしてそういう事態もありうるが、「あり得る」というだけで、デフォルトでもそれのみでもない。
それは、物を同じ場所に二つ置けないのとまったく同じなんだが、
そういうとこが超絶テキトームチャクチャだよな、隠居は・・w
>>453 >同じような
同じかどうか、どうやって確かめ得るのでしょう?
AさんBさんが、共に「おなかが痛い」と表明しても、
その内実(たとえば部位、たとえば痛みの度合い等)が同じかどうかは担保されるの?
つか、これってクオリア問題なのかもしらんけどw
461 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 17:02:18.72 ID:eYCUhhF3
>>459 そもそも「苦・楽」は相対概念。一方がなければ、他方はありえない。
しかも、状況に応じて常に変化する(諸行無常)。
苦概念のなかに、楽概念がすでに含まれているというべき。
>>458 突っ込みどころ満載のレスをありがとうございますw
>『ビッグバンは一切内だ』とも『ビッグバンは無限遠点ではない』とも、また『無限遠点(ビッグバン)は検証不可能』ともいっていません。
・『ビッグバンは一切内だ』→無限遠点は一切内とは言っています。
・『ビッグバンは無限遠点ではない』→言っていないのなら、言っているという事(ビッグバン=無限遠点)でよろしいんですね?w
・『無限遠点(ビッグバン)は検証不可能』→言っていないのなら、検証してください。無限遠点を検証してどんな仮説が証明されましたか?
>検証可能であってもまだ検証未遂の仮説はいくらでもあります。
可能か不可能かは現時点でどうであるか?を指してのものではないのでしょうか?
今は不可能(未遂)でも将来可能かもしれなければ「可能」〜なんてものの言い方をする人は頭がおかしいですw
「可能」≠「可能性がある」小学生でも理解している事ですが。
宿命通や輪廻転生や霊魂等についても検証可能であって、まだ検証未遂の仮説〜と言える事になりますねえ。
>超弦的素粒子がいまだ検証未遂の仮説だから、元の机を検証不能の一切外だという人は誰もいません。
逆でしょうw 素粒子の様な超ミクロの世界が無限遠点で一切外だと言っているですが?
誰が元のモノを指して一切外だなんて言っているのでしょうか?
ビッグバンを一切外とは言いましたが、星を見ている人を一切外なんて言ってませんw
他にもありそうですが、まあ、とりあえずこのくらいでw
結局、すべての事案は
「確からしさ」の物差しの上に(都度都度必要に応じて)基準メモリを刻んで、
場面場面、環境環境によって、
そうして峻別していくしかなくて、(だから「程度の問題」でしかないわけで・・)・・。
>>461 お前はホントに馬鹿だな・・。
つか、自分の心の動きや感情を観察したことないだろ。
焦っている時に同時に落ち着いてるのか?
頭痛にさいなまれている時に、同時に頭がすっきり爽やかなのか?
グラスになみなみ水が入っている時、そのグラスになみなみビールが入ってるのか?
そういうことなんだが?
464 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 17:10:22.05 ID:II7+TGXu
>>454 >釈迦は「貧の苦」は説いたのか?
何を言ってるのですか。乞食行が苦ではないとでも。
乞食が楽だったら修行にならない。
もうちょっとで悟れそうなんだが・・・推理小説で言えば、
探偵役が実は真犯人だったみたいな大ポカの連続なんだものなあ。
出直して来い ヽ(^o^)丿
465 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 17:13:54.11 ID:eYCUhhF3
>>463 「焦っている」とは「落ち着いていない」ということ。
「頭痛がする」とは「頭がすっきりしない」ということ。
いずれも、前者には、後者の概念が含まれる。
「去る者は去らず」を理解されたし。
466 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 17:26:40.50 ID:eYCUhhF3
>>464 「貧の苦」は「選択の自由のない苦」、乞食は、己の選択でやってる苦。単なる
趣味、お遊びの苦。苦ではなくて、実は楽しみ。
467 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 17:27:08.00 ID:II7+TGXu
>465 >「焦っている」とは「落ち着いていない」ということ。 >「頭痛がする」とは「頭がすっきりしない」ということ。 >いずれも、前者には、後者の概念が含まれる。 > >「去る者は去らず」を理解されたし。 おいおい、また大ポカ ヽ(^o^)丿
468 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 17:36:26.88 ID:II7+TGXu
ご隠居はお笑い路線を楽しんでいるのか〜 それもいいかもな〜
>>465 wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そういうのでいいのか!www なんでもアリなんだな、「相互依存」ってのは・・。
いやぁ、劣化の一途だな・・・・。 >>隠居
470 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 17:56:06.61 ID:eYCUhhF3
>>469 「相対的であらざるものは、ない。」(中論)
「相対的」とは、換言すれば「相互依存」。「お互いに」作用し合っているから。
釈迦の「一方向的因果関係」とは、似て非なる概念。
>>470 だからw
同時存在し得ないとき、そこには先後が生じている、ということなんだが。
472 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 18:11:50.34 ID:eYCUhhF3
>>471 釈迦の「一方向的因果関係」で考えるから、理解できない。
「諸行無常」なんだろw。
苦に楽が含まれていれば、その切断面は「苦・楽」の相対。即死者にとっての
最後の世界は、一枚の静止画w。
生とは、刹那の生の重なり合いである。
>>472 そうじゃなくてw
頭が痛いという事象が生じているとき、頭が痛くない事象はどこに?
474 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 18:28:54.99 ID:eYCUhhF3
>>437 一旦釈迦に嵌ったら、中論の空はもはや理解できない。
頭が痛いということは、痛くないことがあるから。始終痛いのなら、痛いという
概念は生じない。
「去る者は去らず。」始終去ってる者には、去るという概念は生じない。
去らないことがあるから、又は、去っていない者からみれば、初めて去ると
いう概念が生じる。
すべてが仮設住宅なら、それが常住の住宅。「仮設」と言う概念は、もはや生じない。
>>474 だからwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そういうことじゃなくてw
*(こりゃ、ずっとこの返答の仕方で通すつもりだな・・・w ┐(´ー`)┌)
476 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 18:35:08.54 ID:eYCUhhF3
>>475 文句があれば、竜樹大菩薩に言ってくれw。
> 机は菩提心凡夫でも六処で知覚できます。だから一切です
> それをどんどん細分化すれば質量ゼロの素粒子に到ります
> 超弦的素粒子がいまだ検証未遂の仮説だから、元の机を検証不能の一切外だという人は誰もいません
> だから仏法では机の存在も世俗諦ではあくまで<仮設&仮説>として扱います(中論24-18)
> しかし『宿命通』なるものは菩提心凡夫の六処で知覚できませんから、一切外です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90 電子の大きさ・広がりに関して考慮する数値
古典半径: 2.8179402894×10−15 m
上限半径: 1.0×10−18 m
クォーク第2版(ブルーバックス)による理論値: 1.0×10−32 m
プランク長: 1.6×10−35 m(超弦理論による電子)シュヴァルツシルト半径: 1.3×10−57 m
電子の大きさについては、標準模型では0とされるが
→ 大きさを持つかどうか・内部構造を持つかどうかは判明していない ←
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%9B%B2 電子雲(でんしうん)とは原子において
電子を → 「存在する確率」として示したもの ← である
現代の量子力学では
電子はもはや → 「確定した位置と速度を持つ点」ではなく ← 波動関数であらわされる存在であり
たとえば電子が存在するために起きる干渉などの相互作用は、それに従い確率的に起きる
空間におけるこの確率は、雲のようにぼんやりと分布するものになり、これを電子雲という
478 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 18:47:51.03 ID:II7+TGXu
>476 竜樹もさすがに迷惑とか・・・
>>476 だからw
>去る者は去らず なら、
去るところ(去っているところ)に去らずが無いんだろ?
竜樹は、そう言ってるんだろ?
なんでそれが、
「頭が痛い」ところに「頭が痛くない」ということがあるんだよw
>>458 >>検証可能であってもまだ検証未遂の仮説はいくらでもあります。
・将来検証可能になる事はあるかもしれないが、今現在は検証不可能で検証未遂である。
・個人的には検証可能だと思うけど、めんどくさいから検証は後回しにするよ、だから今現在は検証未遂。
↓
こういうのを「検証可能」に入れて話をするから、あなたの言っている事は意味不明なのですよw
>>435 オカルトマニアだろうがなんだろううが、仏典にそれが残されている限り、
仏教とはそういうものなんだよ。
「仏教の教えは○○だ〜」 という時、それは仏教の視点に立って説明しているわけだから、
あくまで仏典に拠らないといけない。
ある時は仏教で、ある時は一般常識で、っていうのは通用しない。
仏教外からそれを批判する時、「宿命通などはない!」 というならいいけど、
あくまで仏教の教えを説く立場なら、自分に都合のいい取捨選択で、「これはいいが、宿命通はダメ」 な〜んてやったらダメなんだよ。
もし宿命通、前世が嘘というなら、それはもう仏教外だから、仏教そのものを否定する立場に立ったほうがいい。
>>476 竜樹のアレは、
「去っている」ものに「(これから)去る」ということも「(既に)去った」ということもない、
それのみがある、ということと思うが、
それは、「頭が痛んでいる」ときには「(これから)頭が痛む」ということも「(既に)痛んで・・・・・・・
継続事象と一過性の事象を比較はできんな・・・w
つか、この違い(継続か一過性か)も、解らないのかもな・・。
>>483 例の紐無記君には、それが愚かに見えるらしいよ。
485 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 19:33:56.55 ID:eYCUhhF3
>>479 >去るところ(去っているところ)に去らずが無いんだろ?
>竜樹は、そう言ってるんだろ?
さらに一歩進めて、「止まっていることがある(止まっている人から見れば)
去っている」としなければ、「相対性であらざるものはない」と合致しない。
つまり、中論の空は成立しない。
「去っているから去らない」、これから、「止まっているという概念があるか
ら、去るという概念がある」ということ。中論は、面倒だから、そこまで説明し
ていないだけw。
>>485 いやwだからw
面倒とかそういうことじゃなくて、
「同時にはないでしょ?」と言ってるのw
んとに頭悪いな・・・ ┐(´ー`)┌
>>477 と 482 の続き
例えば、仮に
"人間が見知ることが出来る物質とはほとんど反応しない"などともされているものであっても
「 何かが有るはずである 」 と言う意味において、サーンキヤと似てる気がする
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE サーンキヤでは精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である、とし
それに対し物質原理であるプラクリティを第1原因とも呼び
サットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)という、相互に関わる3つの構成要素からなるとし
これら構成要素が平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、とする
しかしプルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる
プラクリティ→理性→自我意識という順序で原理が現れ、自我意識からは思考器官・知覚器官・行為器官が生まれる
知覚器官には耳・皮膚・眼・舌・鼻があり、行為器官には発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官がある
また、自我意識は他方では元素としての(音・触感・色・味・香)を生み
元素は五大の要素(虚空・風・火・水・地)を生む。これらの対象は知覚器官に対応している
プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている
488 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 19:46:53.68 ID:eYCUhhF3
>>487 「これから」などという概念はない。あくまで「同時に」である。「現に行きつ
つある」と、進行形になっているではないか。
489 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 19:48:31.34 ID:jyhvctJs
>>431 >実際は親鸞、法然、日蓮、道元、空海、最澄ら祖師達は「輪廻」に関する説法を書面で残しております。
釈尊と違うのは真筆でも残っているということです。
>折角、祖師が厳しい修行証果で得た宿命通で伝えて下さった真理を信じず、現代科学常識にて仏教学者の言の方を信じてしまっている仏教徒が結構いるかも知れませんね。
それでは、ご参考までに一部紹介致します。
★道元「正法眼蔵」より
善悪の報いには、次のどれかに当てはまる三つの決まりがある。これを「三時」という。
一つには、「順現報受」(じゅんげんほうじゅ) … 現世において報いがある場合。
二つには、「順次生受」(じゅんじしょうじゅ) … 来世において報いがある場合。
三つには、「順後次受」(じゅんごじじゅ) … 第三世において報いがある場合。
他の祖師達も残しておりますことは、各宗派の皆様がよくご存じでしょう。
490 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 19:50:49.22 ID:eYCUhhF3
491 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 19:57:53.80 ID:eYCUhhF3
>>485 >>486 「行きつつある者に、行くという作用が、どうして可能であろうか。行きつつある
者に、行くということが二つあることは、不可能だからである」(中論2:3)。
>>483 そもそもブッダの体験によってバラモン教の枠組みとは別の教えについての認識を受けたのだから
それを否定すると仏教そのものが成立しないでしょう
バラモン教であっても古代の聖哲の修行の結果の認識から生まれた
パーピマンはその体験抜きにして論理で説明しようと試みる
でも私はそれはどうかなぁと思います
493 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 20:06:26.04 ID:eYCUhhF3
>>491 の続き
つまり、「行く」という概念には、「行かない」という相対概念が既に
含まれていることになる。
中論は、一貫した論理体系だから、瑣末な言葉ではなく、常にその中心思想と
合致させて解釈しなければ、解釈を誤る。
一切というのは自分が今認識するすべてだろ? 上にもあげたように、ビッグバンていうのは仮説にすぎないから 本当にビッグバンがあったかは分からない。 でも、現在残っているいろんな事実をひろいあげていくとどうやらあったらしい ということが分かるだけだ。あったらしいというのが一切内だよ でも、それが本当に事実であったかということはおそらく確かめられない 事実であったことを裏付ける現象なりを観測することで、ヨリ事実であったと 確信できるようになるにすぎない。よってビッグバンの真実は一切外だよ 検証できるかできないかで一切は分かれない。 検証できたとすれば、その範囲内で一切内の中の我々の世界に対する知識が より確実であると言えるようになるだけであって、検証できなくとも我々が追ってるのは 数字であったり、地球にとどく光情報のデータであって、その中にしか一切は 存在していないよ
仏教は信仰によって成り立っているものじゃない だが、ある程度信じるという補助輪で進まなければ結果を得られるところまで至れない 要するに方便なわけだが 宿命通はそのへんからすれば、輪廻概念よりさらに重要度が低いものだよ 我々には理解できないが存在する、というのは仏教徒としてのあり方であって 別段他教徒に求めるものじゃない。 その点、霊魂が存在すると主張する人たちと仏教は異なる。 そもそもでなければ、無我も霊魂も同列に無意味な話だ。 我々のように修行が及ばない劣等生は考えても分からないから信じろという話になるからな
496 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 20:22:28.88 ID:eYCUhhF3
>>484 質問をちょっと読み違えた。要するに、人間の認識とは「いまここの、刹那
の生命による」ということ。
>>494-495 つまり、一切内外というのに意味は無い〜という事ですね。
ある事柄を直接認識出来なくても周囲の状況の捉え方(個々人により千差万別)で内になったり外になったり。
検証できた例では、捉え方というファジーなものから確固たるものに変わるだけで一切内外の区別に意味は無い。
輪廻転生や宿命通も一切外と切り捨てるのも捉え方の一側面に過ぎず、別の捉え方で一切内の人もいる。
一切外だから説かず、一切内だから説くという〜というのも阿呆らしい姿勢という事ですね。
一切内外なんて区別とは無関係に人間の生活があるのだから、もっともな事です。
>>497 そこまでは言っていない
霊魂がその人にとっての一切内という話になるとその人の錯誤ということであろうよ
ただ仏教で言うある人にとって自分が認識している枠をはみでていると思えるような
能力は俺は実は一切内のことであると思うよという話だよ
ビッグバンはあったのだろうと予想される、宇宙はドップラー効果から
膨張しつづけていると言えるのだから、昔をそうぞうすれば大きさゼロを想像するのは
当たり前だろ、体積が小さくなれば温度は高くなる宇宙はじまり時点において高熱が
予想される。そうした推論過程の上にビッグバン理論が成り立っている。
その一つ一つの事実は何度も正しさが確かめられているからビッグバンも
おそらく本当だろう。そういう意味において一切内なんだよ
でもビッグバン当時もそうだし、地球が生まれたとき、生物が生まれた過程もすべて
推論でしかない。かなり大雑把な理解なんだよ
だから、真実はじゃあどうかという点では分からないだろ?そこまでの詳細は追いきれない
だから一切外だと言ってるんだよ、その程度のことだよ
>>493 だからw
『>含まれている』って何?wwwwwwwwwwwww
君は、空腹のとき、同時に満腹なのかい?
(う〜ん・・、禅的言辞に入りかけてしまうなw)
>>495 お前は馬鹿か?
>>483 のどこを読んでんだよwwwwww
つか、この紐無記君も、相手の文章をあまり吟味しないタイプみたいだな・・・。
>>500 じゃあ聞きたいのだが、仏教ではなぜ霊魂は存在しないと言えるんだ?
>>498 そうですか?霊魂がある人にとって一切内であれば、その人にとって一切内で、
自分にとっては一切外で話は終わりでしょう。その人の錯誤〜と踏み込んで指摘する事に
何の意味があるのでしょうか?
宿命通などの神通を一切内というあなたに私が「いやそれは一切外だ、あなたの錯誤だ〜」と
踏み込んで指摘する事と同じですよね。そのように見れば一切内外の区別に意味なんて無いでしょう。
あなたは一切内ですか?私は一切外ですね。で終了です。
>>501 霊的な存在(≒色を持たない)、
(たとえば、現代のビルマやタイで、「ピー」や「ナッ」と呼ばれるもの、或いは中国なら鬼霊と呼ばれるもの、
或いは文献内なら「餓鬼(ペータ)」やら「天(ディーヴァ)」と呼ばれる存在等)は容認されてるぜ?w
比丘たちよ、どきなさい。諸霊が会いに来ていますが、あなたたちがそこにいるので彼らは私に会うことができません、
なんて記述が大般涅槃経にあったようなw
そういうのじゃないの?
「霊魂」って何? 仏教の枠組みで言えば(原語で)何に当たるの?
>>502 やっぱ理解してないよなww
一切内とはその人が認識するすべての中のできごとだから
別に錯誤だってありうるよ
たとえば、その人が亀から毛が生えていると思っていても
実はコケが甲羅にくっついているだけってことはあるだろ
その人にとって亀の毛ははじめ一切内のできごとであったんだけど
きちんと認識しなおすことによってそれがまちがいであったと判明した。
一切内での認識は気づきによって更新されうる
宿命通はそういう錯誤ではなくて、たとえば坂井三郎がどこを飛んでいても
自分がどこにいるか分かったというようなもので、その人並みはずれた空間把握力を
たとえば空見力と名付けるとしよう。空見力とは空間を瞬時に見通せる力であると
説明されると、あたかも超能力であるかのように聞こえるが、所詮、誰もがもっている
平衡感覚を数倍に拡大した程度の能力にすぎない。
そういう経験は誰もが少しは経験したことがあるもので、想像しうるものだと言えるわけだ。
だから、宿命通にしても
これは一切内のものではあるが、錯誤ではなく、捉え方のちがいであろうと俺は言っているんだよ。
たとえば組織力と言う漠然とした言葉を、チームワーク(仲間どうしの連携能力)と言ってみたり
シナジー効果(ちがう業種間の力が相乗効果をうむ)と言ってみたりすると見え方がちがってくるだろ
じゃあなんで組織力と言うんだ?というとそういう捉え方の方はわかり易い局面があるからだ。
宿命通にしてもなぜそういう言い方をするのかと言えばそういう利点があるからだろう。
つまり、捉え方として利点があるからであり、錯誤によってそう呼ばれているわけではないのでは
ないか?と俺は思うという話だ。
もちろん、宿命通がそうした捉え方のちがいから起こったものと断定するほどの経験値を
俺はもっていないから、判断の留保として言葉通りに理解するという行為をとるがね
>>503 じゃあ、釈迦には分からなかった体験をしたある人間が霊魂があると言ったら
霊魂はあることになるだろ
無我なのは、あくまですごい体験をした釈迦が証明したからという理由以上のものを
呈示できないんだから
そういうのは無我を信じているだけだろ
>>504 そうですか?
宿命通も霊魂も同じだと思いますけどねえ。
ある人は霊魂を見て信じて実在を信じて疑わない。一切内。
ある人は宿命通を獲得して過去世から来世まで見渡せる。信じて疑わない。一切内。
両者が違う立場で相手を「錯誤」と言い合っても意味がないでしょう。と言うことなんですけど。
亀の甲羅に毛が生えているのかコケが付いているのかは、2人で亀に近づいて甲羅を触って見て
みれば分かる事ですね。問題はありません。
一切内外も立場が違うので見方が違うだけで、「私は一切外、あなたは一切内」で終わりです。
大体、「一切内」とか「一切外」なんて言葉が下らないと思いますよ。認識を指す言葉なら「認識する」
「認識しない」で良いですよね。
>>505 霊魂の話に、何で無我が出て来るんだよw
(或いは、こんなレスはお気に召すかしら?)
>>505 >そういうのは無我を信じているだけだろ
紐を信じるよりマシだと思いますよ?w
つか、貴方こそ紐を信じているだけでしょう?w
509 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 21:54:34.55 ID:jyhvctJs
>>489 続き 祖師達の輪廻に関する説法の一部紹介
★親鸞「教行信証」
悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。
自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし
「正信偈」
生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す
★日蓮「船守弥三郎許御書」
過去に法華経の行者にてわたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあ
われみ給うか。
「四条金吾殿御消息」
日蓮過去に妻子、所領、眷属等の故に身命を捨てし所いく幾そばく許かありけむ
★空海「秘蔵宝鑰」
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず、
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
510 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 22:00:40.98 ID:UlasM/C6
>>507-508 霊魂が有るという話と、無いという話はイーブンということだろね。
無我だったら、無我を体験的に証明したらいいのだが、
できないんだよね (TT)
(或いは、こんなレスはw)
>>505 >無我なのは、あくまですごい体験をした釈迦が・・・・・・
「文言非我、文脈無我」と言うのは、2500年間、我が見出されていないから。
現存文献にも異教との対話や評があるが、(或いは、他教内の文献内の仏教評とか)、
それらから導出されているから(異教への反駁は、長部第1梵網経及び第2沙門果経に尽きてしまうから)。
(或いはポッタパーダ経を含めてもいいw)
>>508 相手を勘違いしてると思うのだが
君がまちがったことを言っているのは変わりないよ
修行者にしか分からないことを認めてしまうなら
ある修行者が霊魂を見たといったとき我々はそれを否定できない
よって、我々は霊魂がないと言えない、立場の低い人種ということになる
えらい人が霊魂はない、無我なんだと言ったから信じているだけの阿呆だ
権威主義か信仰主義か知らんが、それは仏教ではないよ
>>511 だからなんで梵網経が真実と言えるかについては君は何も言えないんだろ?
偉い人がそれを勧めたからか?
詮ずるところ、君の頼みとしているものをたずねれば権威主義か、信仰主義にいたる
お骨には魂は宿ってないと思うが 千鳥ヶ淵には収集したお骨が眠っているね
見れないからコピペでもしてくれ
>>519 自我でも崩壊してんのか?
きちんと答えろよ
>>518 連投規制かかるから無理w
つか、>>1くらい見てきたらどうだ?
だからurlぐらい出してくれよ どうしてたいしたこと書いてないんだからさ
>得体の知れない恐怖に対して、幽霊という名をつける場合とかさ。 本当は夜の闇への恐怖の中には幽霊以外の要素もあるかもしれないのに 幽霊と名付けることで、それ以外の恐怖を捨象する役割を果たしている。 人間はいつごろか夜行性ではなくなり、夜に対して視覚的な困難性をともなうことについて 身の危険を感じ、それは死への連想にもつながった。 それをあえて幽霊と名付けることで恐怖をその中に封じ込め そして、理性的に幽霊などという存在はいないと追求することで夜への恐怖を克服する。 たとえば、夜の闇を克服するための方便として用意された幽霊という概念は 偽物だが、恐怖を克服する道具として役に立っている 子供の頃はよく幽霊におびえたものだが、そういうものを信じやすい年齢 やがて理性が発達してくるだろう年齢というものを考慮してこのようなものが 使われているのかもしれないな 幽霊はいないよ、でも教えとして幽霊を信じることはありうる。 そして恐怖を克服したあと幽霊を信じる必要はない。 俺が方便として信じることが必要というのはそういう意味においてのみだよ 君がもし信じなければいけないと言っているなら、君はまだ何も分かってないのだと思う
525 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 22:31:13.52 ID:eYCUhhF3
>>510 >無我だったら、無我を体験的に証明したらいいのだが、
>できないんだよね (TT)
自分の身体をちょっと抓ってみれば判る。
釈迦は、その検証さえやらなかった。検証全く不十分。
526 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 22:32:09.39 ID:NpEs0uuA
>>483 >あくまで仏教の教えを説く立場なら、自分に都合のいい取捨選択で、「これはいいが、宿命通はダメ」 な〜んてやったらダメなんだよ。
ほ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、なるほどw 取捨選択はいかんとw
それでは@ 釈迦の舌がビロ〜〜ンと伸びた A生まれてすぐ立ち上がって喋った
B空中を飛び回った・・・・・・ これらも、仏典に記述があるから「事実として」
受容しなけば仏教ではないんだww
それらを肯定しなければ仏教徒ではないわけだ?www
>>524 >君がもし信じなければいけないと言っているなら、君はまだ何も分かってないのだと思う
あれ?
「私はこう思う」ってだけじゃなかったの? 相手がどう考えようと(信じようと)、それは別事じゃなかったの?
つか、(レス中の言葉・案件通りでなく、姿勢としての)
>>483 がまったく見えてないのなw
2chで丁寧な言葉遣いする奴ってのは、
大概、裏があったり本音を隠していたりするもんだが、サンプル通りだな・・。 ( ゚听)、
>>526 そうだよ。
今更何言ってんだよwww
529 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 22:35:52.25 ID:NpEs0uuA
すると、中村元なんかは、全く仏教徒ではねえなww 彼は仏典の中の「釈迦の神格化」というのを認めていたからなw さらに言えば、おそらくだが、現在の日本の仏教徒と言われる者たちも @〜Bを事実として受け止める者たちは、総数の一割もいないのと違うか? なるほど、今の日本に仏教徒はほとんどいねえわけだwww
530 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 22:39:16.79 ID:NpEs0uuA
>そうだよ。 >今更何言ってんだよwww ほ〜〜〜〜〜〜、俺が今まで、リアルで接してきた坊主たちのほとんどが それらを「方便」として扱ってきたが、彼らは仏教徒ではないんだwwwww 似非仏教徒かよwwww
大乗のブッダの神格化はそれはそれで意味があるものなんですよ でも、人間ブッダが実際に神だったかといえば誰もが否定するでしょう。 文脈にしたがってその前提を置くというのと信じるというのではちがう 社長は神じゃない、一人の人間だけど、会社の中ではペコペコするだろ そうしないと会社内の節度が乱れるからだ。 別にこころから社長を崇拝してるわけじゃない。 だが、なるべく社長のいいところをみてすごい人だと思おうとするだろ
>>529-530 そうだよ。
つか、日本に仏教があるとか思ってるのは一代くらいのもんだろw
つか、
紐無記君は、まるっきり宝珠の鏡像なんでね・・。ついつい絡んじゃうのさw
533 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 22:43:43.72 ID:NpEs0uuA
ジャータカだったか? うさぎが、火の中に飛び込むやつww あれも真実かい??ww 昔の動物たちは現在と違って、えらく賢かった わけか?wwww
>>532 イタタタタww
インドを夢見る少年だったか
535 :
神も仏も名無しさん :2013/10/03(木) 22:46:08.00 ID:UlasM/C6
>531 >大乗のブッダの神格化はそれはそれで意味があるものなんですよ へ〜 気持ち悪い話だね
オレが信じることが必要だって言うのは方便的な意味においてであって 証果すら信じるレベルだと思っているなら、そりゃ仏教じゃないよ
>>535 例えですから。君らの頭にのっかる形にしたね
538 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 22:48:59.97 ID:NpEs0uuA
>>532 ほ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、日本のは、「仏教」ではないんだwwww
浄土宗、真宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗、真言宗、天台宗・・・・・
全部、仏教ではないわけか?wwwww
仏教を真似た「わけの分からん新興宗教」ってわけだwwww
しかし、その日本の坊主たちは間違いなく、自分らのことを仏教徒と規定していると
思うが、皆、勘違い野郎の新興宗教と言うわけかwww
>>533 さあ?w
ジャータカだったかどうかは忘れたが、
現存する兎からの推測でしかないわけだよな?w
絶対にありえなかった、という証明はできんよな?w
少なくとも、今、議論・・・×、○喧嘩においてw、
スタンスの変更をするつもりはないよ。 こんなの(
>>536 >>534 )相手にマジレスとか、屈辱だわw
>>538 少なくとも、紐無記君はそう考えている筈だよ。 (´∀`)b
そもそも出家者がえた智慧を在家に還元できないなら 仏教の比丘比丘尼ウバイウバソクの関係が意味を失うだろ 誰かが素人に奥義を教えられないから基本しか教えないという武道をたとえにした 話を出していたが 道場に通っていても軽い運動でいいと思っている人間はいるが 救いの道を聞きに来ている在家らに救われないに決まっている教えなんざ説いても 意味ないだろうが。どう見ても金集めのための犠牲者じゃねえか。
パーピマン 仏教もバラモン教=ヒンドゥも宗教であり信仰ですよ? そしてブッダの神格化以前に従来の枠組みに囚われない 輪廻や縁起を有りのままに 観た という前提は無視できませんよ
ありときりぎりすの話も、アリが人語を話していたわけか
544 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 22:56:52.41 ID:NpEs0uuA
つまり、こういうことか? 「仏教徒」って、言うのは「経典に記述のあることは全て真実」として 受容しなければならない・・・・そこに後世の弟子たちの勝手な増稿、 改編、または、方便、比喩等を投射してはならない。・・・勿論、「神格化」 などは絶対に却下・・・・それができないものは「仏教徒」ではない そりゃあ、これなら確かに「日本に仏教徒はいねえわな」www 東南アジアの一部地域だけか? 仏教徒がいるのはww
>>540 違いますよw
「輪廻転生」を仏教の中心思想であると、デカデカと看板出して商売するような輩を
仏教徒ではない〜と言っている。
しかも性質の悪い輩は、自らは科学一辺倒の唯物でありながら、商売道具だからと輪廻転生
を信じている振りをする〜w
なるほど。
この辺が本音でしたか・・・ (;´ー`)y━~~
>>543 >どう見ても金集めのための犠牲者じゃねえか
>>544 何?
シリーズ初期のスタンスに戻れっての?w
>>546 なんでプロデューサーみたいに上から目線で批評してくれてんの?
反対意見があるなら、そう書けよ
549 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 23:04:37.71 ID:NpEs0uuA
>>539 >現存する兎からの推測でしかないわけだよな?w
> 絶対にありえなかった、という証明はできんよな?w
過去の事例について、「確実な証明」などは原理的に不可能。当然のことながら、
現在の知見からの類推だ。 現在、確認できるウザギの生物学的知見より、
過去のウサギが会話する能力を有していたとは考えにくい・・・ということだw
そのように考える方が「蓋然性が高い」からww
「絶対にありえないという証明ができない」⇒「そうである蓋然性が高い」 とはならないことは
言うまでもなかろうが?w
>>549 そ。
で、その蓋然性の高さで 「文言非我、文脈無我」なの。
いや、うさぎが会話能力を有するはずがないってことは証明しようがないわけだが。 ある人が我は君たちには分からんが私は第6蘊を見つけた、そこにある って言ったら、おわる話では?
552 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 23:12:07.99 ID:NpEs0uuA
>>550 そうだぜw
仏典の「記述上」は非我、であるが、内実、その見解は「無我」であると
考えるよw
それとも仏教の用意した論理の中で無矛盾だから無我なんだって理屈か? 非ユークリッド幾何学では平行は交わるかもしれんが 少なくともユークリッド幾何学では交わりませんよって言ってるのと同じか 同語反復、トートロジーであって なんの意味があるのか分からんが
隠居の生命教の次は数式教かよ・・・ orz
555 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 23:34:10.24 ID:NpEs0uuA
まとめておくとなw 「仏典に記述のある全てのことを、私は真実であると考える。」・・・これは いいぞ。 それは「信仰」だから。 『あなたはそうなんですね。』で 終了だ。 だがな、それ以外のスタンスのもの、例えば、仏典の記述に 「全てが釈迦の仏説ではなく、そこには後世の弟子たちの増稿、改変があり、 その過程において釈迦の真意とはかけ離れたものも混入した。さらには、後世の 弟子たちの仏祖への神格化という現象も起こった。比喩、方便等による 記述も当然ある。」」・・・・・このような 見解を有する仏教徒たちを『仏教徒ではない』と規定することは、原理主義者たちの 傲慢さではないのか? 自分らと違うスタンスの者は仏教徒ではないのかよ? 俺が言ってるのは、「何も仏説を自分勝手に、恣意的に解釈し、『これこそが 真の仏教である。』・・・・・やりだすことを支持してるわけではんwwぞ」 それは逆の意味でいかんわw ただな、「仏典の記述を全て真実であると認めないものは仏教徒ではない」・・・ これはどうかと思うがね?ww
反論ができずに揶揄のみか。いつもあんた逃げ腰だよな
>>555 ブッダが輪廻の外から縁起の流れ 輪廻に流される衆生を把握した
は仏教の信仰としておk?
>>556 過去ログ以上のことを言う必要がないからだよw
>>558 そう言ってりゃ過去ログ以上のことが来ても答えなくてすむな
ちなみにここに来なくてもいいんじゃないか?
結局、無我だから無我と言っているにすぎないよ 神はいる、聖書にそう書いてるから、と同じ。 そんなのは仏教じゃないよ、単なる経典崇拝者だよ
561 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/03(木) 23:46:02.83 ID:NpEs0uuA
>>556 オレはそもそも、仏教徒ではないがww
「OKだと思うぞ」 信仰としてはw
佛の視座は、全てを超越し、縁起を把握可能・・・ということになってるのだろう?仏教ではw
ならば、⇒『ブッダが輪廻の外から縁起の流れ 輪廻に流される衆生を把握した 』・・・・こういう
言い回しはOKだと思うがねw
>>561 そう表現してはいるが、あくまで凡夫に即した表現だろ
約仏と約生って見方のちがいが仏教にはあるから。
ちなみに仏教徒でないなら、俺はどう評価してくれてもかまわんよ
563 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 00:02:05.98 ID:DcZVYAFw
っていうか、一体、どうしたんだ? セブンw 元から護教的スタンスをとることは理解できるが、経典の記述マンセー のガチガチの原理主義者じゃなかったろうが?w 何か分からんが、「紐君」? (どれが紐君かもわからんがww) とのやり取りの過程において、あえてそっち方向にシフトした立ち位置で やってるのか? 一代がいないので代打してるとか?www
>>563 >一代がいないので代打
それ以外にどんな理由を捻出できようかw
おやすみ ノシ
俺の言う信じるは、方便があるために、判断の留保と言っていいと思う。 たとえば輪廻にしても、自我という存在をぬきにして語れば 社会をひとつの生き物とも考えられ、それを人の死を超えて生き続ける永続的な存在と捉えることもできる こうした類推から一応、確認はできないが、理路一貫した推論をすることができ そういう縁起の流れもあるのかもしれないと判断を留保することはできる。 まあ、そうした留保ですら、証果の前にはなんの意味もなさないことを前提しなければならないのだが。 しかし、7+WKqgQ5が言う、宿命通を信じるは、あきらかに超能力の是認だろう そこに推論の展開すら認めない。瞑想によって不可思議なことがおこるのだから それを認めろの一点張り。仏教を破壊しているのも同然だろ
〜昭和37年3月25日付「真の道協会」発行の機関誌「聖和」第2面〜 「真の道指導神霊団に捧げる感謝の祈り 施真道場で行う」 昭和23年「真の道」−(前身千鳥会)−が創立されてから、十有余年に亘り、「世の立て替え建て直し」 の大神業を実現するため、高き神々の御旨を享けられ、霊界より降神ユニハ、天杖、神筆、神言葉等々の 方法に依って真の道を、断えず親切に導かれて来た<大峰老仙様>・・・・又当日の祭典はニ宮斎主 顕正導師の主催であり、・・★ヨ宮真光呂斎主 岡田光玉先生★・・・参列者は二十数名であった。 ★「ヨ宮真光呂斎主、岡田光玉先生」★という記述がある。当時、光玉師は「真の道」に所属する傍ら、L・H (ラッキーヘルス)陽光子乃友を主催し、兼任して真の道の「真光呂というセクションの長でした」であり、 みたま調べは真の道「キの宮・中田華風氏」ところでフーチによって行われました。
>>555 真実か否かはまた別問題なんだわ。
信じる、信じないの問題じゃなくて、仏典にそう書いてある。
それが仏教なんだわ。
もしそこに改変や混入があったとしたら、それを論理的に説明出来ないといけない。
論理的説明もなしに、 「輪廻は現実的ではない、 過去世は荒唐無稽だ・・・」 なんて決めてつけてたら、
それこそ自分の都合のいいように、取捨選択してる、恣意的な解釈・・・・ ということになる。
あなたは改変、混入の論理を提示しているのではなく、一方的に、宿命通や過去世の記述を、
改変、混入と決め付けてるわけ。
あなたがそういうのを信じたくないのは自由だけど、それを元に、仏教とはこういうものだ、って言ったら、
それはあなたが、仏教を改変してる・・・ってことに、他ならないよ。
そして何度も言うように、これは信仰以前の問題。
仏典にそう書いてある・・・ それが本当にあろうが、なかろうが、経典に書いてあるということは、
仏教がそういうスタンスである・・・ ということ。
このスタンスを認めるかどうか、であって、信仰云々はまた別の話し。
仏教のスタンスがある・・・ 仏典からしてそういうスタンスだと。
客観的にスタンスを認める・・・ってことは、信じる、信じないの問題じゃない。
Ehipassiko ってなんなの よってらっしゃいみてらっしゃいってこと? 商売か!
解釈は必要だよ、それなくして仏教の論釈はありえないよ 論釈は認めるが、おまえは認めないというのはこれまた権威主義 そりゃ伝統の作法にのっとるのは当たり前だが、まさにその伝統こそが 仏典の解釈の歴史だろが。そうした歴史が認められるのは仏典が言いたいことを 把握しているという師資相承の合意がなされてきたから、あるいはあらゆる文献のとおりに 自分の境涯が説明できるという確認がされたから。 そうした仏典の言わんとしていることが分かる人にとっては解釈が可能になる むしろ、解釈ができないとおかしい。 それすら信じる信じないの問題に落とし込もうとしているのは 道はあっても、得道を認めようとしない聞きぞこないだからだよ
571 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 01:42:41.38 ID:DcZVYAFw
>>568 そりゃあ、「お前の仏教」だろうが、バカタレがwwwwwwwwww
仏典の記述は「全てが真実」だ???
それを信じなければ「仏教徒」ではないだ?????wwww
なら、釈迦ってのは、「生まれてすぐに立ち上がって喋ったスーパーチャイルド」
で「舌が顔を覆うくらい長い生物で」「自由に空を飛び回るスーパーマン」だと
信じとけwwwwwwwww
そして、それが信じられないものは「仏教徒ではない」と勝手にわめいてろ、ボケwwwwww
573 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 01:45:39.66 ID:DcZVYAFw
古代のうさぎは、人間と会話ができたwwwwwwwwwww これが信じられなきゃ仏教徒ではないわけか?wwwwwwwwww アホかwwwwwww
574 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 01:53:10.87 ID:DcZVYAFw
>あなたは改変、混入の論理を提示しているのではなく、一方的に、宿命通や過去世の記述を、 >改変、混入と決め付けてるわけ。 wwwwwwwwwwwww 「釈迦は輪廻業報を説いたか?」・・・・・まさにこれがこのシリーズの 原初のお題であり、数年前に散々、やったんだがwwwwwwww 過去ログ読み直してからこい、バカタレがwwwww
576 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 02:07:20.74 ID:DcZVYAFw
>>568 >仏典にそう書いてある・・・ それが本当にあろうが、なかろうが、経典に書いてあるということは、
> 仏教がそういうスタンスである・・・ ということ。
>このスタンスを認めるかどうか、であって、信仰云々はまた別の話し。
うだうだぬかす前に、まず初めにきっちり答えてもらおうか?
⇒「古代のうさぎは、人間と会話ができた。これが認められないなら
仏教徒ではない。」・・・・・これがお前のいう仏教なんだな?
577 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 06:46:49.64 ID:slu+b7Ua
>>571 >なら、釈迦ってのは、「生まれてすぐに立ち上がって喋ったスーパーチャイルド」
>で「舌が顔を覆うくらい長い生物で」「自由に空を飛び回るスーパーマン」だと
異教の横レスです。
上記の3件は仏典に記載されているので仏説であり、どう解釈するかは仏教徒や各自の自由でしょう。
「生まれてすぐに立ち上がって喋ったスーパーチャイルド」
菩薩は意識を持ったまま出胎するとの仏説も複数あり、喋っても可笑しくないでしょう。
母親の子宮の中で十分にぶつぶつと練習することもできますし。
でも立って歩く方はどうかな?(念力で立ちあがることは可能かも。)
「舌が顔を覆うくらい長い生物で」
長舌は何かの譬えではないでしょうか。
「自由に空を飛び回るスーパーマン」
修験道の役の行者は飛行をし、イエスは水上歩行をしたとの記録があります。
超心理学でも念力現象が多数確認されておりますので、現代科学常識での否定はどうかな。
また心霊科学的に見れば、幽体のみ離脱して自由に空を飛びまわることは目撃されております。
(霊体と違って幽体は可視であり、条件がそろえば写真に写ることもあります。)
以上、
>>568 氏の「信じる、信じないの問題じゃなくて、仏典にそう書いてある。 」スタンスにほぼ同感です。
578 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 06:55:42.74 ID:slu+b7Ua
>>577 続き
「古代のうさぎは、人間と会話ができた。」
修行完成者の読心通の仏説も複数あり、言葉(音波)でなければ、菩薩が輪廻したウサギであれば容易いでしょう。
尚、現代でも動物達とテレパシーで話せる人達が結構いるように思料します。
超音波などの科学技術を使えばイルカとも話せますし、超音波を聴き、赤外線を視る異常能力者が居ても不思議ではないです。
科学者ほどその時代の常識よりも現象を重視します。
いかに信じ難いことであっても、現象があれば、まずモデル化(仮設立て)し、実験方法を考えます。
579 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 07:00:36.40 ID:slu+b7Ua
かく言う私も元科学者であり(3流)、マーケティング(3流)、事業企画(2流)等、退職し再就職、等々と諸行無常です。
>>577 >以上、
>>568 氏の「信じる、信じないの問題じゃなくて、仏典にそう書いてある。 」スタンスにほぼ同感です。
だから、そのようなあり方は、信不具足だよ
分からないけど、判断を留保するというあり方は方便上あるかもわからないが
それは証果とは別の話で、便宜上もちいられているものでないと教えとして意味がない。
仮にもし、肝心なところで、おまえバカなんだからとにかく信じろというのが仏教であったなら
仏教がここまで人々の信頼を勝ち取ることはできなかったし、誰にも尊敬されることはなかっただろう。
そうしたなら、君の言うように、仏典はすばらしい教えが書いてあるはずなんだから、
仏典に書いてあることはとにかく受け入れましょうという殊勝な心がけをする信者もいなかったはずだ。
その肝心な部分をはずして、ただ信仰することを尊いとして、信奉するなら、
仏教は空気だけの宗教になってしまうよ。実際、そういう教祖崇拝の空気に支配されるカルトは見たことがある
そいつが何やっても「え?なんで?」って声をあげることができねえんだよww
「深い御心だから」て言われて終了。あらゆる不満を抑えこめる魔法の言葉だったよ。
たしかに経典にあっても分からない部分はあるかもしれない。たいてい、解釈は終わってるんだけど。
だが、今の自分にとって、分からない部分もあるだろう。それを保留することはかまわないが
肝心の部分に関して、いつまでも判断を留保しているままということはありえない。
そりゃ、一在家仏教徒として改変したり改竄するという大それたことは避けるべきだろうよ
そこまではしないよ。だが、それは大きな信頼の中の、小さな配慮にすぎない。
大きな信頼がゆらぐなら、素直に仏教徒を辞して去るだけだ。それが仏教徒としての矜持だね。
経典に書いてある、それは事実だろうが、 それは鵜呑みにするかどうかの問題でもないし ただ書いてあるから、ただそれだけだと遠くから見る話でもない。 納得できるかどうかを避けるのは仏教徒じゃない。 そういうことかな
582 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 08:10:14.28 ID:1+rl7mGm
>>580 荒唐無稽な部分もある、でも、全体としては信じる、という考えは、おかしい
のではないかな。麻原信仰と、原理的には全く同じ。
そもそも、2000年も前の、それも未検証の文献を、現代人が信じること
自体が荒唐無稽。当時でも、知性と批判力のある人間は、決して信じなかった
はずだ。
開祖信仰は、批判力自体を奪うことを忘れてはならない。一旦全体として信じて
しまえば、批判は、その信仰の範囲内に止まらざるを得ない、つまり批判自体が
不可能になるのが、宗教の心理である。
>>582 具体性がないので、何が言いたいのか分からない
荒唐無稽と思われる部分も、証果をうることで、ひとつの組織の一部として一応の意味が与えられうる
と俺はしている。ただ、仏教はあまりにも範囲が広いから、すべてに意味が与えられうると言い切ることは
俺にはできない、よって断定を避けているというにすぎないよ。
麻原信仰を俺はわからんが、麻原が教える仏教がすべて間違いだったと決め付けるのは俺は危険だと思うな。
すべてを嘘でうめつくすより、ほとんど正しいと思われる部分にほんの少しの悪質さを混ぜた方が
より効率よく人を支配できるものだ。いや、だからこそなかなか否定できないのだろうし。
それに、すべてを悪であると一方的に決め付けるのは
ちょうどアメリカがインディアンや日本を成敗したときの、自分の世界の見方ですべてを見るよう強制させる
考え方にほかならないと思う。つまり、それも一つの宗教だよ。
マニフェストディスティニーという考え方にその宗教的傲慢さが現れている。
戦後日本人がそのアメリカニズムを無批判に受け入れているが
俺は、そのように自覚なく全体性へ溶け込む方が危険だと思う。
だから、全体を信じる=大枠でその教えに了承を与えるということことと批判自体を奪うこととは別だと思うな
むしろ、日本人としてみなが浸かっている思想というものと
自分だけが浸っている仏教思想というものの両方の面で、自己を見つめることができる分、
俺はより思想について敏感でありうると思っているよ。それが幸せかどうか分からないけどさ。
とくに大乗は世俗と友好であろうとする傾向があるせいか、
それが、宗祖を客観的に見つめ直す契機にもなっていると思うし
実際、君よりよっぽどましな宗祖批判ができると思う。
584 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 09:16:34.81 ID:DcZVYAFw
>>580 だから、どっちなんだよ?wwwwwwwwww
ジャータカには、うさぎだけじゃねえぞww キツネ、かわうそ、羊、ヤギ・・・
色んな動物が登場して、人間と会話しているwww
「古代の動物たちは、人間と会話してました。それを信じられなければ仏教ではありません。」
・・・・・・これでいいんだな? 「お前の仏教」はwwwwwwww
きっちり答えろやww それとも、さすがにそこだけは・・・・なんて言うか?www
585 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 09:18:07.63 ID:1+rl7mGm
>>583 君が既に釈迦で洗脳されていることだけは、明らかw。
586 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 09:29:10.80 ID:DcZVYAFw
ちなみに、解説いれていたテラワダのスマさんも、さすがに 「実際に動物たちがしゃべっていました。それは事実です。」なんて ニュアンスではなく、「他の重要な何かしらのをことを伝えるために 話に動物たちを登場させて分かりやすくさせている。」・・・という スタンスと伺えたがねwww そうだとすると、スマさんも「仏教徒」ではないなwwwww 仏典に方便、比喩等はいかんからなあwwwwww 解釈を挟む余地なしwww まさに字義通り受容しなければならないwwwwww ナルホド、 スマさんは似非仏教徒か?wwww おk?????ww
>>585 決定論を否定しきれないのと同じように
誰も自分が洗脳されていないと断言できないと俺は思うね
誰もが疑心から逃れられきれない。
そこにあって何を先とすべきかは自己の存立であると思う
たとえば、君の優越は、おそらく自分が多数派であるという安心感からくるのではないだろうか。
しかし、君自身の独自性がその優越に依存しているだけなら
君はそれに振り回されているだけだと思う。
事実、振り回されていないならば、他人に優越を披露しようと思わないはずだし
>>573 そ。
まさに、そこ。
『仏典中に』、『(或る意味)等価に』、『記されている』AとBに於いて、
Aは受容してBは受容しないというときの理由付け
の問題。「 >このシリーズの原初のお題 」の、真の骨格(構図)さw
589 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 09:50:33.43 ID:DcZVYAFw
>>587 どうした? 論点はずしか?wwwwwww
はっきり答えられんのか?
「はい、「古代の動物たちは話してたの? どうなの?」
それとも、論点外して逃げ回るカス野郎なの??w
先ずは、そこをきっちりこたえろやww
590 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 09:52:36.40 ID:DcZVYAFw
>>588 説明不足w もう少し解説いれんと、何が言いたいのか?はっきりせんw
理由付けなんて、無意識に誰もがしている。 理由付けなく自分が読んでいると思い込んでいるのはけっこうだが もしそんなことが可能ならば、文字すらよめないよ 自然にかえれと言ったルソーの自然て何?てレベルの話だ。 そこに解釈をはさまず読めると言うやつがいたなら、 それは自分の無意識を是認しているだけだ ちょうど熟練の職人が道具を体の一部であるかのように使うのと同じで 自分の意識を働かさずに経典をよんでいるだけ 禅的とは言えるが、そこに意識を働かせば、特定の解釈が発生していることは疑いえないよ それを無視するのは、実世俗を無視するのと同じだろう
あ、
>>588 は
>>574 宛。
&>588補
たとえば、
なぜ「縁起」(定型句等)は受容できて「輪廻」或いは「神通」が受容できないのか?
*隠居なんかは、(釈迦由来の)縁起も輪廻神通も共に却下してるけどw
新興宗教系などは、後者受容の前者無視だったりのこともあるかもしれない。
そうは言いながらも、
この対比に於いては、その峻別基準の設定の仕方・位置は(このシリーズでも散々触れられている如くw)解り易い。
たとえばこれが、
六十二見それぞれについて、これは認む、これは却下、というようなケースならどうか?
或いは修道論の面での種々だったらどうなのか?
その峻別基準取り、『取捨選択基準』は、ジャータカのウサギと同じか否か?
結局、恣意的取捨選択でしかないわけだが、
だからこそ、そこでの、「理解・納得・頷き」が必要だし、
そこが、伝承されてきた教えを追証するということでしょ。
伝統的に「信・戒・定・慧」と言われる意義を、おろそかにしてはいけないと、俺は思ってるよ。
それ理由付けじゃん
あ、一部修正
>>593 ×>この対比に於いては、その峻別基準の設定の仕方・位置は(このシリーズでも散々触れられている如くw)解り易い。
○>この対比に於いては、その峻別基準の設定の仕方・位置は(このシリーズでも散々触れられている如くw)判り易い。
596 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 10:37:01.57 ID:DcZVYAFw
>>593 だから、 ID:5ao+1PhD の言ってることは、そうじゃないだろ?ww
仏典上「記述のあるものは全て真実であると受容」・・・・これが絶対スタンスだろ?
そこに、方便、比喩、解釈、を見てはいけない。
仏典の記述が信じられなければ「仏教を去れ」っていうわけだwww
峻別基準取り・・・なんて認めてねえよww
俺や、(おそらくセブンも)、仏典のある記述については、「それは字義通り受け取るべきではない」
・・・・・方便、または比喩的評言と理解する部分があるだろ?
先ず、その一点さww 後は、「その基準取り」をどうするかであって、それは
全くの別問題さw そのすり合わせを始めたのが、このシリーズの最初だったろうが?
解釈の差異を一切認めず、全てを字義通りに受容せよ、それ以外は認めない
それができなければ仏教ではない・・・・・・これでは、ただのカルト仏教だろ?www
597 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 10:42:58.46 ID:DcZVYAFw
>>592 その前に、お前のスタンスはっきりさせろやww
「古代の動物たちは、人間と会話していました。」
これが信じられなければ、「仏教徒ではない」・・・・これでいいんだよな?
「お前の仏教は」ww
>>596 だから「仏教」という《看板》の問題だったろ?
何をもってして「仏教」とするか。何をもってして仏教徒とするか。
で、件の紐無記君は、一部の懐疑点を挙げて、
「お前ら仏教の看板下ろせ」と言ってるの。
*(勿論、具体的文言としては、
「貴方達のは《仏教》(という宗教)、俺のは《仏陀が本当に説いたこと》(という人生訓・処世訓)。
お前らがどう考えようと、俺には関係ない。ただただ、俺はこう考えるだけ」
と言ってるが、丁寧な言葉遣いの裏で、実に攻撃的だよ。彼はw)
つまり、彼もまた「これ以外認めない」の亜種(というか典型だと思うが・・w)なの。
だから、反省力としてポジショニングし続けなきゃならないw
ま、彼の最近のレスしか見てないだろうから、全体像はなかなかわからんかもしれんが・・。
反省力ww 反対勢力なw
600 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 10:56:13.36 ID:DcZVYAFw
>ま、彼の最近のレスしか見てないだろうから、全体像はなかなかわからんかもしれんが・・。 いや、正直、どれが紐君なのかさえも、よくわからんので見てないww (コテつけてくれると、分かりやすいんだがw) だが、 彼が「ある特定のスタンスを仏教と規定し」『それ以外のスタンスを 仏教と認めていないのであれば』・・・それはもう明らかに「俺の見解とは異なる」ww この「何をもって仏教徒するか?」・・・・・これは難しいと思うが、 (裾野を広げすぎると、トンデモ宗教も仏教になっちまうww) が、しかし、同時に「これこそが仏教。これを認められなければ仏教を去れ」っていうバカも 始末におえんぞw まさに、それこそが宗派抗争の原因でしょ?w
601 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 10:59:17.15 ID:4SJsjsZr
>>462 >>480 おやおやw
やっぱりね、想定内の反応でガッカリでした。
これではマトモな対話は成立しません。
愚かですので、あなたとの無駄話はこれで終了します。
>>597 だから、どこをよんでそう判断したか教えてくれよ
俺はむしろずっと信じるというスタンスを批判しているのだから
>>598 何をもってか、というと仏法僧だよ
仏典とサンガが伝えてきた伝統にのっとり、証果をうる
それ以外に仏教の形を認めたら、仏教は破壊されるよ
当たり前のことだと思うけどね
その程度のことを攻撃というなら、君の信仰が崩れてしまうからそう受け取らざるをえないことになるのでは?
俺が君の信仰を肯定するとしても、あくまで過渡的な状態としてのそれ。
厳しいことを言ってるのかもしれんが、このくらいのことは真宗の聖典類にも書かれている
603 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 11:01:11.17 ID:DcZVYAFw
補足すると、 その紐君が「私はこのように解します。」と言うだけなら、なんら問題は なかろう?w それは個人の解釈の問題であり、個人の信仰にも繋がるデリケートな 部分であって、それを他人がとやかく言うべきではない。 ただ、それに、続いて「そうでないのは仏教ではない」・・・とやりだすのなら話は全く別だww 彼はそこまで踏み込んだのか? そこが問題だと思うんだがw
昨日も書いたが >修行者にしか分からないことを認めてしまうなら ある修行者が霊魂を見たといったとき我々はそれを否定できない よって、我々は霊魂がないと言えない、立場の低い人種ということになる えらい人が霊魂はない、無我なんだと言ったから信じているだけの阿呆だ 権威主義か信仰主義か知らんが、それは仏教ではないよ Q5F2lXkuはこれを否定できないんだろ? だから仏教じゃないって言ってるんだよ
605 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 11:08:14.72 ID:DcZVYAFw
>>602 >だから、どこをよんでそう判断したか教えてくれよ
>俺はむしろずっと信じるというスタンスを批判しているのだから
だから、違うのか、そうなのかはっきりさせろやww
「仏典上の記述は全て真実です。字義通り受け取らねければなりません。
比喩、方便、解釈・・・・・そんな個人の見解などは排除です。
ですから、当然「古代の動物たちも人間と会話していました。 それが
信じられなければ仏教徒ではありません。」・・・・・・
こんなこと言って脳内お花畑のファンタジー仏教徒なら、対話すること自体
無意味でしょ?ww ⇒「だから、先ず、お前のスタンスをはっきりさせろと言ってるの」
わかった?wwww
>>603 自分で判断してw
昔なら過去レス精査して逐語的に提示するとこだがw、最近はそこまでの気力ないよ。
やりとりを辿って(ID突き合わせて)いけば、君ならすぐわかるよ。
キーワード及び要素は
「無記」「超紐理論」「ビッグバン」「商売」「仏陀が本当に言いたかったこと」「宝珠の鏡像」「現代人」「常識」
など。
ノシ
>>604 w ┐(´ー`)┌
だから
>>516
>>605 いや、俺はずっと真反対のことを言ってるわけだが
なんで、そう言っているという話になるのか分からないんだよ
言いがかり受けてるだけなんだからよー
おまえは俺の先祖を殺したの?
いきなり、こう言われれば、ハァ?って思うだろ?
何言ってんだおまえってなるだろ?
だから、そのまま無視してたら、そいつが、態度をはっきりさせろや
おまえは俺の先祖殺してないって言わなきゃ、先祖殺しと訴えるぞと言ってくる
脅迫か?ってなるわな
そういうことか?
それとも俺がおまえに合わさなきゃ気がおさまらないわけか?
>>606 だから、反論もずっと書いてるだろ?
ずっと逃げてるだけだよな┐(´ー`)┌
609 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 11:18:41.59 ID:DcZVYAFw
>>607 あっれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜???????wwww
んじゃ、ジャータカのうさぎは「実際には会話などしていない。あれは、
話を分かりやすくするために登場させたキャラです。」でいいのか?
「実際にウサギが話した」という事実はない・・・・・これでいいのかよ?www
正直、Q5F2lXkuが経典崇拝者だってのは流れから見て否定できないだろうね 第6蘊を発見したって誰かが言ったらこいつには、それを否定する論拠がなくなる ただ信じるしかなくなるんだからさ
>>609 そうだって言ってるだろ
だから、おまえは一体どこを縦読みして会話に加わってるのか
脳みそ覗いてみたいってさっきから言ってるんだが?
きちんと読んでないやつとまともに会話しようなんて思わんだろ
これから話つづけようと思うなら、どこをよんでそう思ったか上げろって言ってるんだよ
613 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 11:32:44.14 ID:DcZVYAFw
>>611 は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜????????wwwww
ここにきて、方向転換かよ、クソやろうがwwwwwwww
>オカルトマニアだろうがなんだろううが、仏典にそれが残されている限り、
>仏教とはそういうものなんだよ。
これはお前の発言ではなかったのか???wwww
ウサギが話したと仏典に残されている限り、それを信じなければいけないんでしょ?www
それを比喩としていいのかよ?wwwwwwwwwww
ならば、宿命通も比喩としていいわけだwwwwwww
Aを比喩として良い、Bはダメ・・・ならば、それは単なる基準取りの問題にしか
過ぎない。 仏典に記述がある・・・・だけでは、それが真実であることは
何ら担保されないwwwwwwwwwwwww アホか? こいつはwwww
614 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 11:38:51.00 ID:DcZVYAFw
どうしようみねえな、この二枚舌野郎はwwwwwww 「宿命通は仏典に記述があるから、オカルトだろうが何だろうがOK. しかし、「ウサギが話したは(仏典に記述があっても)事実ではない」 結局、自分が信じたいことだけ真実って言ってるのと変わりねえじゃんww バカか??wwwwwwwww
>>612 畜生、よんできてやったぞ
ただし、リンクつかったので、質問箱のほうが場所が分からなかったよ
要するに、薬物と区別できないから、信じるしかないという見方だろ?
なんつーか、問題の立て方が根本的にちがうんだよなぁ
前から思ってたが、君は瞑想主義者だよなぁ?
俺は、そうした体験至上主義ではないよ。前にも言ったかもわからんが。
俺はあくまで三法印を立っていれば問題なしと見る。
とりわけその中で重要なのが無我で
それは、客観的に見れば誰もが行き着く事実であると思う
だが、生物である以上、自我を認めなければ生きていけなくて
それにどう折り合いをつけるかが仏教であると考えている。
よって薬物って話題がでることがそもそもナンセンスだね、俺の立場だと。
>>613 >ここにきて、方向転換かよ、クソやろうがwwwwwwww
だから、なぜそう思えたか、おまえのその自分に都合よく現実を改変できる能力に
さっきから感嘆してるんだよ、俺は。
どこらへんでそう思えたか、そう思うに至った俺の文章を上げてくれないか?と言ってるんだ。
さっきから。
617 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 11:46:40.63 ID:DcZVYAFw
>>616 上げてるだろうが? 日本語読めないの?ww
>>617 すまん、
>オカルトマニアだろうがなんだろううが、仏典にそれが残されている限り、
>仏教とはそういうものなんだよ。
これ俺じゃねえよ
この日の俺のIDはね、えーとID:IkGotmm3とD:2uVDiRwMかな?
基本、俺はIDを自分で変えられないから、1レスごとにIDが変わることはないと思うよ?
janeつかってるから自分て書かれてるし(かかれないこともあるんだな、これが)
言ってくれれば教えてあげるよ
>>615 どこ読んでんだよwww
しょうがないw
質問箱分はちょっとずつ貼ってやるよ。
その前に一言極論を付しておけば、
子供が「おなかが痛い」とはどういうことか、「うれしい」とはどういうことか、
等を学習してゆくのと全く同じだということ。
>>614 さすがに横から口挟んどくとw、たぶん、他の誰かのレスと混同してる。
彼自身の立場は、一貫して 「現代常識仏教」 だよ。
現代科学の知見や人間の生物的能力上不自然なものは排除。
で、批判相手の意見(紹介)として、件の内容をレスしたことはあるかもしれないが、
それでも、『それらは「仏教として」おかしいだろ?』という文脈でのものだったと思うよ。
(だから、今、ワシとこんな会話になってるわけで・・・w)
620 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 11:56:01.98 ID:DcZVYAFw
>>618 何〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜?????
>>483 はお前じゃないの?????????
これは俺の勘違いだwwww すまんwww
では、 俺の発言のうち、ID:5ao+1PhD 宛と思われるものは削除だwwww
>>619 おなかが痛いやうれしいと何がいっしょだって?
下の方へ
ちがうね、俺は伝統宗教を現代的に解釈するとどう言えるかって話だよ
それによって自己を修養することは可能なのだが
何がどうやって彼を駆動させているのかというその状況を現代的な視点で
描き直すことで、より広い理解が可能だと思うからね。
俺なりの布教方法だよ
622 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 12:05:21.61 ID:slu+b7Ua
>>614 >「宿命通は仏典に記述があるから、オカルトだろうが何だろうがOK.
>しかし、「ウサギが話したは(仏典に記述があっても)事実ではない」
宿命通と一緒に読心通が原始仏典に記載されております。所謂、テレパシーです。
菩薩の生まれ変わりのウサギであれば、テレパシーで人間とも話せます。
畜生に転生したのであれば、狐、狸、蛇でも同様でしょう。
スッタニパータでもバラモンの弟子達が釈尊とテレパシーで問答したシーンは有名ですね。
まあ原始仏典との比較でも説明が難しいのは、むしろ「広長舌」でしょうね。
流石にこれは何かの譬えではないかと思料します。
以上、横レスです。
623 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 12:08:46.03 ID:DcZVYAFw
>>621 いや〜〜〜〜〜マジで勘違いしてたわwww すまんw
お宅のことを
>>568 の ID:5bTVrk1Y の馬鹿と同一人物と思い込んでたわww
今、確認したw
>>623 (今の流れに於いては、とりたてて必要な評ではないがw)
彼が、一代と全く同じスタンスのとり方だってのは一応了解できてる?
>>483 とか。
>>623 ふむ、それも俺じゃない
俺はむしろその書き込みをQ5F2lXkuのものだと思ってたよ
ただ、俺は輪廻にしても、それを教えの中の意味ある一組織として扱うべきだというのは
そいつに同意見だな。だが、検証不可能なら、その部分の真偽は分からないと言うべきだし
輪廻が成り立つ論理を推論した上で、信じる(判断の留保)という立場であるべきだと思う
今日のレスもそう書いてあると思う
626 :
1/7 :2013/10/04(金) 12:14:43.62 ID:Q5F2lXku
☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート25 619 神も仏も名無しさん 2010/02/24(水) 12:12:11 ID:uykfh0HG さて、それでは質問だ。 >だからこそ修行によって認識を正しくし目覚めた聖者である師によらなければならないわけ・・ 縁起一代はこのように、判断基準を「聖者」に求めるわけだが、「聖者」自身が 「正しく目覚めていなかった」可能性はやはり排除できない。 つまり、そこは真の聖者か?否か?の判断は個々に委ねられるわけで、 外部検証不能につき、あくまでも、そこは「聖者」であると『信じる』しか ないわけだ。 ここに仏教は独我論を超えられるか?という問題が常について 回ることになる。 『仏教が独我論で何が悪いか?』 という見解もあろう。 (俺はどっちかというと、その意見だが) 「利他」は、とりあえず、おいておくとすると、仏教の根幹は、あくまでも 『個』の解脱を目指すものだろ?(犀の角のように) 他宗教的な表現をすると「個人の魂の救済」を目指すものだ。 ならばだ、今、精神病院に一人の患者がいたとする。この者は、「自己を神と思い 神の愛を施すために、人間界におりてきている」とまさに一片の疑いも無く、 信じきっている。周りの者は彼を精神異常者扱いするが、彼にとってみれば 一切の悩み、苦は存在しない。日々、愛に満ちているわけだ。 さて、いわゆる「聖者」と言われる者と、この精神病院の彼との差異は、あるのか? どちらも「真理を了解している」と思い「一切の疑義、悩み、苦などは存在しない」 この両者は全く等価に思えるが?(勿論、周りの評価、認識などは問題外だ。 あくまでも、彼らの側においての話である) この差異を明確にするものは何か?
627 :
2/7 :2013/10/04(金) 12:15:55.68 ID:Q5F2lXku
631 試論 sage 2010/02/24(水) 21:17:23 ID:nljj85Mw
>>619 少し擁護してみよう。 たとえば、
「お腹が張っている」という表現は、日常よく見られるものだが、
なぜ、この言語表現と実際の自分の体感とが適切なペアとなり得るのだろうか。
(冷暖自知という言葉もあり、また、頭痛歯痛、喜び悲しみ、怒り憎しみ等、
種々(真には)言語表現不可能な、個別の経験(体感・感受)は多くある。
それらもまた同様ではあるが)、当然、『学習』によるしかない。
何が必要か。(何が学習されるのか。)
・《多くの使用例から導かれる、「張る」という言葉の指し示す事態(様子・感受共に含)の把握》
・《どのような時に「張っている」と表現されるのかという場面の把握》
・《意味が限定されることがあるなら、それはどのような時かという把握》
・《自身の経験の観察分析、把握》
・《自身の経験(状態)と「張る」「張っている」という表現が指し示す状態との突合せ・重ね合わせ》
などを経て、
≪『この体感が、「お腹が張っている」ということなのだ』と気付く、知る、理解する。≫
上で触れたように、痛みや感情も同様だ。
(また、特に子供の学びはこうしたものだ。→だから、周囲の大人の言動は重要なのだが・・。)
【ある言語表現の学習】と【語義の学習】と【自身の(経験の)観察】と【情報の集積整理】とによって、
個々別々の〈純〉内的な体験が、「追体験した」「同じ体験をした」「伝え聞いたものと同じだ」と判断される。
で、宗教的な体験(この場合で言えば「悟り」や「涅槃」)もまた、同様な構図の上にあるとは見れないだろうか。
だから、「師の言葉」や「文献(テキスト)」、「語義の理解」、
「自身の心や身体の観察、把握、分析」、「行(心身の調整及びその方法、或いは節制(律))」、
等が重要なのだ、と・・・。
(縁起馬鹿はココ〈教授する者の資質と学習される内容の重要性〉を言っているのではないか? と・・。)
このプロセスが適切に為されれば、独我論を超え、個の経験が伝承可能となるのだ、と・・・。
>>626 まずはコピペありがとう。
帰謬論証派的な回答だね
俺は、空の証明という点では背理法という方法のみが有効であると思うが
つまり、智慧の面では隠者であっても問題なしと見るが
慈悲の面までカバーして見るならば、精神病であってはならないという力学が働かなければならないと
見る。
そもそも精神病の定義であるが、それは現実社会に支障をきたさない程度の精神状態から
逸脱することであると考える。どんな考えをもっていようと、世俗の考えを理解し
必要の際は空気をよんで、世俗に合わすことができるなら、問題は起こらないから。
そして、智慧は別に慈悲的である必要はないのだが、つまり、わざわざやさしい顔をする必要はないが
なぜ慈悲が智慧を兼備していなければいけないかというと
智慧=無我であると思うが、無我であるならば、他人に合わせる余裕があってしかるべきだと思うから。
わたくしごころ、利己心すら放棄できるのが無我ということであろう
凡夫には煩悩を排除しきることは無理であるが
少なくとも、今の私というものが必ずしも確固として存在してるわけではないと確信しているならば
それに凝り固まることに愚かしさを感じるくらいの心のゆとりはもっていると思う。(冷静ならば)。
よって、智慧を得ている人は、慈悲をも許容していると見る。
629 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 12:29:31.66 ID:DcZVYAFw
>>624 そうw 一代のようなスタンスをとるなら、ジャータカのうさぎも
肯定しなければならないし、「全ての経典」もテルマとして支持しなければ
ならなくなるw そこまでの覚悟があるなら、それは「信仰」としてOk
かもしれんがねww
ただ、一代も日蓮系はNGだった・・・そこに、「解釈」が、はいるだろ?w
また、「全ての経典」をOKしていたわけではなく、「偽経」かどうかは
「覚者がそれによって出るか?どうか」という極めて曖昧な基準を設けて
いたがねw まあ、その不徹底さも、オレは返って長所として見ていたんだがww
>>625 >ただ、俺は輪廻にしても、それを教えの中の意味ある一組織として扱うべきだというのは
各記述に対してどのような意味を見出すかは、「次段階」の話さw
先ず、仏典の記述には、字義通りに受け取るべきではなく、比喩、
方便、そのたのノイズも混入していることを認めるか?どうかw
それが出来て初めて、それぞれの記述の吟味に移れるww
ウサギの話は面白いですねえ。 あと、摩耶夫人の右脇から釈迦が生まれた〜とかもありますねえw
書き込みまち?
まあ、ゆっくり待ちます。お昼です。
633 :
3/7 :2013/10/04(金) 12:47:59.69 ID:Q5F2lXku
632 神も仏も名無しさん sage 2010/02/24(水) 21:39:19 ID:nljj85Mw >> 619 故に、>精神病棟のその患者の体感と主張は、 >> 631内の(重要な)幾つかを欠いて成立しているので、却下が可能である、と・・・。 (※これは、子供の「(言語)学習」「情操教育」でも同じだろ?w) (※尤も、当人にそれを気付かせ、理解させるには、 その人に「周囲の状況を見、理解する能力(或いは受け入れる余裕・冷静さ・謙虚さ・従順さ)」が必要だが・・。 ただ、631のアレンジ形により、周囲の人間が判断を下すことは可能だと思われる。)
634 :
4/7 :2013/10/04(金) 12:48:57.16 ID:Q5F2lXku
637 神も仏も名無しさん 2010/02/25(木) 01:21:57 ID:6AfwREN4 >> 631 言いたいことは、わかるが、やはり根本的な問題解決とは ならないと思うぞ、セブン。 >、「師の言葉」や「文献(テキスト)」、「語義の理解」、 「自身の心や身体の観察、把握、分析」、「行(心身の調整及びその方法、或いは節制(律))」、 これらのことは、「真の悟り」の蓋然性を高めるもの(すなわち単なる自己の錯覚の可能性の減少) だとは思うが、逆に言えば、それだけの働きしか有しない。 例えば、「若いうちから仏門に入り、師について学び、 上記の事柄を全てクリアーしている僧が、ある日、突然、精神に異常をきたし、 『ついに自分は悟りを得た。』と言い出したとする。」 彼自身は、「自己が悟った」ということに対して、微塵の疑いも無い。 それは彼にとって完全なる確信であった。 自己の内面観察、確認において、一片の疑いも無く、自分は過去の聖者の追体験を なした と確信している。 さて、彼は『本物の』聖者なのか? この問いに対してはYESともNOとも言えるのではないか? 「彼自身は自己を聖者と認識している」そして、その他のチェック項目もクリアー している。解脱が、あくまでも外部検証不能な内的事象であるなら、「自己申告」 をもって、決する以外にはない。ならば、自己を聖者と信じて一片の疑いもない 彼は聖者だろう? しかし、すると当然のことながら、次の疑問が出てくる。 「自分を聖者(解脱者)と信じているものは、全て聖者か?」 この疑問に対して「いや、そんなことはない。自分が聖者と信じている者が 聖者であるなんてわけない。」と反論するものは、「聖者と精神異常者の明確な 線引き基準」を提示する必要がある。
635 :
5/7 :2013/10/04(金) 12:50:35.54 ID:Q5F2lXku
638 神も仏も名無しさん 2010/02/25(木) 01:23:02 ID:6AfwREN4 さて、縁起一代が言っていた「本物の」聖者と「ニセモノの」聖者、 これの区別は? 例えば、自己が悟ってないことを自覚した上で「聖者」であると言っている者、 これはわかりやすい。明らかなニセモノで単なる「うそつき」に過ぎない。 やっかいなのは、先にあげた「自己を聖者であると信じて疑わない者」だ。 この者たちを「何をもって、本物とニセモノに分類するか?」 彼らの中には、先にセブンがあげた数々の項目を自己の観察にあてはめ、その上で 自己を聖者と判断した「精神異常者」がいるかもしれない。 以下は俺の見解だが、決して仏教徒の目標とする「聖者」を揶揄するものではないことを 初めに断っておく。 「聖者」と「精神異常者」に差異は存在しない。これが俺の推測だ。 (この場合の「精神異常者」というのは、隠居がよく使う否定的意味合いを含んだ ものとは違う) 「自己が全ての真理を了解したと確信し、自己から全ての苦、疑義、不安、悩み、等を 消去しきった『精神異常者』と聖者に何の差異があるのか?」 時と場所を得ず、社会不適応と判断された者が「精神異常者」とされ、 時と場所を得たものが「聖者」と敬われる。逆に言えば「聖者」と呼称されるにふさわしい 者が精神病院の中にもいるわけだ。(実際には、社会生活への適、不適が彼のいる場所を 決定することになるであろうが) 通常の認識からの飛躍を「解脱」とするのであれば、『正しく狂えた者』が 解脱者ではないのか? そのとき、たまたま、社会適応性を同時に消失してしまったために病院でくらすこととなった。 (勿論、覚者にとっては、それも問題ないことかもしれんが)
精神病患者と聖者を分けるのは、周りの人間ですよ。 木の下でボロを着て、乞食していた人間が、1週間居続けて、周りの人間が 「木の下に聖者がいる〜」と認めて集まってくる。それ以降彼は聖者になる。 街角で、「この世の真理とはこのようなものですよ」と教えを説いていた人間が 周りの人間により「あそこに精神病患者がいる」と通報されたら、それ以降精神病患者となる。 両者を分けているのは周りの人間の見方だけ。仮に両者が同一人物でも、場合により聖者となったり 精神病患者となったりする。
637 :
6/7 :2013/10/04(金) 13:26:42.11 ID:Q5F2lXku
639 神も仏も名無しさん 2010/02/25(木) 01:24:06 ID:6AfwREN4 縁起一代は「三昧において縁起、因果」を観ることにより、悟るというな? では、長らく仏門にいた者が瞑想において、「自分は悟った」とおもったとき、 彼は「本当に悟ったのか?」 「悟ったと錯覚したのか?」 この差異は判別不能なはずだ。 俺はこの「本当に」あるいは「本物の」ということが、意味があるのか?ということ が疑問なのだがな。 「自己が全ての真理を了解したと確信し、全ての苦を滅したのならば、」たとえ 他者からの判断がどう見ても 「精神異常者」であろうとも「聖者」なのでは? 「自己の精神を適切に破壊し得た狂人」が、聖者であるように思えるのだがね。 まあ、「聖者」というものに一つの理想的なイメージを確固として有している 仏教徒たちからは、全く同意を得ないだろうが。 やはり俺には「苦を滅した精神異常者」と「聖者」の差異がわからないのだが。
638 :
7/7 :2013/10/04(金) 13:27:44.85 ID:Q5F2lXku
656 神も仏も名無しさん sage 2010/02/25(木) 10:48:24 ID:5A1aEEg3 >> 637-639 そこで、 「戒」や「律」であり、 「未信者に信を生ぜしめ、已信者に信を増大せしめ」と言われる部分であり、 「仏の十号」「サンガの九徳」「法の六徳」と言われる部分であったりするんだと思うよ。 (つまり、内と外から輪郭を定めてゆくような・・。 外の輪を狭め内の輪を広げ、薄皮の円をそこに顕現させるように・・・。「◎」) 《蓋然性の高さを高めるということにしかならない》という指摘は御尤もだ。 637-639は内的経験の外部検証不可能性を言うものだが、 貴方自身が半分了承してくれるように、631は「当人に於ける確認」の為の要素だ。 が、632で補足したように、それを検証する方法が無いでもない。 それが上記であり、伝承されてきた各種教えであったりする。 勿論、もとより『完全検証』とはならない。だが、その「確からしさ」「精度」を極限まで高めることは可能だろう。 (*この「極限」は、レトリックとしての表現なw) 蛇足ながら、私は、内的経験の外部検証は不可能だと思っている。 が、上に述べたように、その確定をより高い精度で実現させることは可能だと考えるし、 その為の言葉やノウハウ(方法)こそが、釈尊が45年間示された教えであろうかと思う。 で、現在で言えば、「テキスト(仏典)の読み」「律存続の意義」「先達の指導」が重要なんだろう。 657 神も仏も名無しさん sage 2010/02/25(木) 10:54:58 ID:5A1aEEg3 勿論、在世当時は、釈尊(及び初期弟子達)の姿(言行・身口意そのもの)が そのまま「証」であり「事例」(「基準」)であったろうと思う。
仏教で言う「信」は、単なる右向け右じゃない。
「なぜ右なのか」「右を向いたからといってどうなのか(向かなかったらどうなのか)」
「右を向く方法は」
といった部分を(追体験或いは相似体験として)自ら頷いていくことだよ。
「戒・定・慧」は「信・戒・定・慧」であり、また「信・戒・定・慧・信」となる。
今仮に、慧を「気付き」としてみれば、
この「信・戒・定・気付き・信」を、(その質や程度も種々あろうが)
幾度となく繰り返していくのが、(或いはマトリョーシカのように大きな「信・戒・定・慧・信」の中に連鎖しているのが)
学び・歩みであろうしね。
で、その積み重ねの果てに「信・戒・定・慧(悟り)・信」となるだろう、と・・。
その意味でも
>>516 、と。
以上。 ノシ
640 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 14:47:10.01 ID:1+rl7mGm
>>636 >精神病患者と聖者を分けるのは、周りの人間ですよ。
当たり前のことだ。しかし、精神病は感染するから(「感応精神病」)、被感染
者は、己も精神病者となり、相手が精神病であることが認められなくなってしまう。
これが釈迦と釈迦カルトとの実態である。
精神病とは、自他に害悪を及ぼすから、病気なのである。精神病者には病識がないのが
最大の問題。強制治療しかないが、そえには手がかかり過ぎるのが現状。
641 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 15:20:04.76 ID:DcZVYAFw
うわ〜〜〜〜〜懐かしいwwwwwww 三年半前のオレの書き込みかいwww あの頃は、名無しだったww
642 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 15:22:03.93 ID:1+rl7mGm
釈迦カルトがすべて精神病者であることは決定。セブン氏が極めて重症。オウムさえ 部分的に肯定している。特効薬は中論だが、彼は中論の空さえ理解していない。というか、 理解はもはや不可能。彼も、釈迦の痛ましい犠牲者の一人。 精神病は、自他に害悪を及ぼすから「病気」であることを、忘れてはならない。
643 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 15:27:13.96 ID:4SJsjsZr
>>637 >縁起一代は「三昧において縁起、因果」を観ることにより、悟るというな?
>では、長らく仏門にいた者が瞑想において、「自分は悟った」とおもったとき、
>彼は「本当に悟ったのか?」 「悟ったと錯覚したのか?」
そのような想定自体が迷妄ナンセンス(仏道のセンスがない)である。
そのような<悟り>一発主義・<悟り>万能主義・<悟り>神秘主義との誤解が、仏道を歪ませ弱体化させハードルをむやみに高くし、
一切外に魑魅魍魎を蔓延跋扈させてきたのが伝承と称する「仏教」の現状なのだ。
「悟りは悟りではない。これを悟りと名づける。」
仏道とは徹底した八正道実践であり
八正道実践の『修証一等』において<悟り>それ自体はありえない。
★万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく“さとりなく”、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。((現成公案 冒頭)
修をはなれて証はなく、証をはなれて修もない。証とは修である。
ゆえに悟りそれ自体は迷妄である。苦の滅尽そのものもありえない。
仏法の本懐が実存苦の超克(四諦)実践機能にあるならば、
本懐から逆算して機能的に
娑婆においていかなる事態にも、<第二矢を受けず:相応部36-6><二念を継がず:白隠>で、
慶安に過せるか、だけが問われうる。
脩証一等=二相の相即的実践である。
644 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 15:27:17.91 ID:1+rl7mGm
>>641 君も若干感染したようだ。精神病者と接触し続けたら、必ずこうなる。
反カルト活動に従事する弁護士たちの多くが、すでに感染したことは事実。
精神科医は、患者からの感染(逆転移)を極度に警戒する。君は、警戒が
足りなかったようだ。
>>643 あなたは無限遠点を検証してみせて、はじめて説く事が出来るw
でなければ、ただのハッタり爺という事です。
646 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 16:02:45.56 ID:DcZVYAFw
>君も若干感染したようだ。精神病者と接触し続けたら、必ずこうなる。 うわ〜〜〜〜〜〜、大変だww アホ隠居に、精神病認定されてしまったwww
647 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 16:03:08.49 ID:4SJsjsZr
>>647 未了を済みとはw
不可能なものは不可能。
ハッタリで意味不明な事をもっともなように説く事は罪だと思いませんか?
649 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 17:03:02.03 ID:BQd2DEal
>>466 >「貧の苦」は「選択の自由のない苦」、乞食は、己の選択でやってる苦。
>単なる趣味、お遊びの苦。苦ではなくて、実は楽しみ。
また適当な語呂合わせかw
出家時に財産を処分してしまうから、出家したら選択の自由はなくなるぞ。
隠居には出家の経験がないのに、よく言うわ (−−〆)
650 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 17:18:16.65 ID:BQd2DEal
>>640 >精神病とは、自他に害悪を及ぼすから、病気なのである。
ヤクザや薬物中毒者は精神病?
>精神病者には病識がないのが最大の問題。
隠居は精神病を体験して確かめたのかよw
>強制治療しかないが、そえには手がかかり過ぎるのが現状。
ナチスの優性治療を肯定してるの?
651 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 17:30:01.56 ID:BQd2DEal
霊魂の有無に関する話題への感想だが、 どっちの主張もその根拠に関しては不明、似たもの同士だろう。 しかし霊魂が有るという方に説得力があったよ。
652 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 18:30:14.50 ID:slu+b7Ua
>>636 >精神病患者と聖者を分けるのは、周りの人間ですよ。
そうですね。ある意味同感ですが、理由は異なります。
通常、聖者は明るいオーラをまとい、精神病患者は暗いオーラをまとうからです。
肌の色が白いとか黒いとかではなく、顔の周りの20cm当たりの「気」ならば
注意すれば見れる人も多いかと存じます。
まして釈尊やイエスのような聖者の場合は強烈なオーラを発しますので衆生でも見えるかと思います。
この話は神智学、超心理学の皆さんならばよくご存じでしょうし、仏典にもオーラが別名で説かれている筈です。
御光とか光輪とかです。。
空海は天皇の面前でオーラを金色に可視化したという記録も残っておりますね。
私もこれまであったことのある宗教者数名に明るいオーラを観じたことがあります。
色は見えませんが顔の周りが白っぽい光というか「気」のようなもので包まれており、
すぐ目の前に立っておられるのにずっと遠くにおられるような不思議な感覚でした。
逆にその何十倍も暗いオーラの人達を電車の中や街角で見かけました。
どこか体が悪いのか、それとも何か危険が迫っているのか、追跡できないので分かりませんが。
以上、?氏の落武者の霊を視たという体験ほど強烈ではないですが、直接知覚の体験にて。
この話は信じていただかなくて結構ですが、皆さんも一度相手の顔の周囲を注意深く見て下さい。
653 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 18:31:07.82 ID:9KMbgHoH
>>649 「自己の選択による財産処分」即ち「貧乏ごっこ」。本当の貧者には、処分できる
財産は無い。
>>650 薬物中毒は、精神医学の守備範囲。ヤクザは、司法の守備範囲。いずれも、自他を
害する恐れには、違いはない。
体験したら、宗教と同様病識が無くなるから、「病識の無いこと」は判らない。
ナチスのやたことは、「病気治療」ではない。
654 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 18:42:36.79 ID:9KMbgHoH
>>646 患者からの感染(逆転移)に対する厳重な警戒が必要ということ。
著名な反カルト評論家が、カルトと接触を続けるうちに180度変化してしまったね。
私は、この目で確認済み。
いささかでも伝統宗教を肯定すれば、その危険は常に存在する。伝統宗教も原理的には、
カルトと何らの相違も無い。単に、反社会性の「程度の差」である。宗教は、本来的に
反社会的。
現代常識を基準とする、ってことは、
>>654 と同じ(―いや、紙一重としとくかw―)なんだよね・・・w
656 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 19:00:24.08 ID:9KMbgHoH
>>655 病識を失った人に言われてもw。
中論は、「世間の一切の慣習」を無条件の前提とし、それに反することを何度も
戒めている。疑問が生じたら、常に世俗に戻ること。真理は、世俗(生活者)の
生存努力の中に「のみ」存する。
「世俗的なことによらなければ、第一義は説示できない」。即ち、第一義は、世俗的な
こと(生存努力)から、一歩も踏み出してはならないのである。
中論は、「宗教」という精神病に対する特効薬。しかし、いかに優れた薬剤でも、
極度の重症に対しては、容易には効かない。前レスで、釈迦カルトが、中論の中心思想
を表わすその1:1を、全く逆の意味に訳しているのには驚いた。
657 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 19:06:10.32 ID:BQd2DEal
>>656 あなただあれ? 隠居の変化身かよおお〜? (^^)
658 :
隠居は神であり分身ができるw :2013/10/04(金) 19:17:57.64 ID:/5K+h3mJ
隠居は神であーーる、 ゆえに、分身し放題、なんでもできる、 隠居神の脳内の判定、判断はすべて真実となる
659 :
隠居は神であり分身ができるw :2013/10/04(金) 19:25:48.51 ID:/5K+h3mJ
われら秘密結社「いんきょなるみたい」は世界中のイエス、釈迦信者を拉致し、 秘密の精神病院送りしているのである、 我らの精神病判定は国際的に認められ活動がゆるされているのであああああーーーる。
>>655 続き
自分読み、自分解釈、(&伝統読み破棄)ってのは、
>>656 と同じ(―いや、紙一重としとくかw―)なんだよね・・・w
中村元さんの大乗仏教の興起についての記述には、 「小乗仏教諸派は、たとえ変容されていたとしても、歴史的人物としてのゴータマの 直接の教示に近い聖典を伝えて、伝統的な教理をほぼ忠実に保存している。これに反して 大乗仏教徒は全然あらたに経典を創作した。そこに現れる釈尊は、歴史的人物というより むしろ理想的存在として描かれている。」とある。 >自分読み、自分解釈、(&伝統読み破棄)←大乗仏教は全てこれに該当しますねw
662 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 21:09:13.07 ID:9KMbgHoH
>>661 それを「宗教の『進歩』」というのだよ。
宗教も科学も、同じく「人間の営み」。「進歩皆無な営み」では無意味。
そもそも、知識も知恵も、現代とは格段に劣る当時の人々に対する教えを、
現代に持ち込んで何の意味がある?基地外沙汰だ。御釈迦さんも迷惑している
だろうw。
「釈迦が、この現代に生きていたら何を教えるか」を、常に考えることが必要。
>釈迦が、この現代に生きていたら何を教えるか 仏教では救済できんイスラムに改宗するか
>>パーピ 新人には、ちゃんと基礎研修しとけよw
666 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 22:25:21.81 ID:DcZVYAFw
>>665 wwwwwwwwwwwww
なんで、オレが?ww
対、 大乗非仏説なら、やっぱり一代が最適だけどなあw
あ! こういう時こそ、彼の登場でしょ?w ほら、一代の信頼厚い彼w
かわすのが上手いやつww
667 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 22:32:51.40 ID:DcZVYAFw
オレとしては、本音を言うと、「通底することは、否定せんまでも、」 やっぱり密教と真宗には正直、違和感を覚えるぞw セブンはどうよ? 実際のところ、護摩焚き、各種の技法、また 阿弥陀、西方浄土の設定など、「そこまで行っていいかい?」ってな 感じもたんかい??w
668 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/04(金) 22:36:32.49 ID:DcZVYAFw
妻帯OKもねw 釈迦がみたら何て言うか? ダニヤとのやり取りみたら、ちいとなww
ピーマン あなた禅宗がすきなの?
>>596 まず、うさぎがしゃべるということと、輪廻、過去世という問題を、一緒にしてはいけない。
輪廻というのは仏教の根幹に関わる教えで、それはあらゆる経典に書かれてあるから、仏教のスタンスはそういうものであると、
みないといけない。
無明があるから、我が起こる。 我への執着があるから、三世を輪廻する。
だからそこから抜け出さないといけない。 それが解脱というわけ。
輪廻というのは、仏教の根幹に関わる、重要なファクターなんだよ。
で、そのものが重要なファクターになってるものを、比喩と見るわけにはいかない。
今ここで言ってる 「比喩と見るわけにはいかない」 というのは、
一般的に、本当に輪廻や過去世があるということを認めろ・・・ ということじゃなくて、
すくなくとも、仏教のスタンスがそうである、ということ。
で、ジャータカの物語というのはどういうのかというと、まず、うさぎがしゃべる・・というのは、
仏教のスタンスを決める重要なファクターじゃない。
仏典に、 「舎利子よ、うさぎとカワウソはしゃべるのだ、 人間だけがしゃべるものと思ってはいけない」 と、
あきらかに教義として書かれてあるのなら、それも重要なファクターといえるけど、
少なくともジャータカの物語は、 「我(色)の捉われをすべて投げ出さねば、本当の智慧、楽は得られない」 ということが言いたいわけで、
主要なファクターでないということと、その話の裏に仏教の重要なスタンスがあるということで、
「比喩」 と見ることも出来る。
とりあえず読んだよ
>>634 俺は別段、聖者である、つまり宗教的に高位に位置する立場へ上昇したという
優越感はいらないと思う。逆に聖者を捨てることが聖者であると思う。
言ってもわからないかもしれないが
以前書いたものと同じ。
ある者におまえは大事な存在なんだと伝えたいとする。
しかし、その人物はそうだとは思えないんだよ
なんらかのプロセスを経るから自分は大事な存在なんだと思いたがるから。
良い事をしたり、努力をしたり、節制をしたり、我慢したり、精神を集中させたりしてね
だが、俺はそんなことしなくてもおまえは大事な存在なんだと言いたい
たとえ、どんな惨めな思いをしても、最低なことを犯したとしてもね
とすると、その大事な存在だと言うのは相手の努力うんぬんと無関係なことであると分かる。
つまり、その人物が自分が何をやっても意味がないと気づかないと
そいつは俺の言いたいことに気づかないというわけなんだよ
これはキリスト教の予定説の言い分に近いと思う。
実際、真宗はキリスト教に近いとは以前から指摘されている。詳しいことは知らないけど。
たとえば、仮に俺が誰かにおまえは大事な存在じゃないと言われたとしても
俺はそうだよ、大事な存在ではないと言える。なぜなら俺が大事な存在であることは
俺自身、俺が大事な存在であるかどうかを計らわない、ということと同義であるから。
そうした諦めからはじめて、大事な存在であるかどうかが決められると言える。
自身がもっとも大事なものを得たいと思うなら、その大事なもの自身を捨てなければならない
ということでもあると思う。また、そこから順境は感謝、逆境は反省という姿勢がでてくる
また、これを無我で説明するなら、生物が生活する上で絶対手放せないものである
自我、これを否定することが無我ではなかろうか。
つまり、我を諦めるという姿勢から、苦から解放されるという論理になるのだと思う。
この救いの原理とよべるものは仏教学者も昔から客観的解説しようと試みているから
本でも参考にするといい。
>>596 しかし、実際に比喩かどうかは仏陀じゃないと分からないので、ただそういう物語があるとして、
そのまま読めばいいわけ。
仏教においてうさぎがしゃべるかどうかは問題ではなく、色の世界の捉われを放つことが重要なんだから、
その部分が読み取れればいいわけ。
否定も肯定もなしに、字義通り読む・・・とは、そのことが実際にあったかどうか・・・ ということとは関係なく、
仏教のスタンスをそこに見る・・・ ということなの。
で、輪廻や過去世は仏教の教義として重要なファクターとして、存在していて、「ウサギがしゃべる」 ということは、重要なファクターじゃない。
片方は比喩として見ることは出来ないが、片方は比喩として見ることが出来るということ。(別に比喩であろうが、なかろうが、
仏教のスタンスに影響を与えない、重要ではない) 一般的な証明というより、仏教において・・という意味で。
この二つを同列に扱ってることが、まず間違ってる。
>>671 のつづき
これは歎異抄の親鸞の言葉にも現れていると思う
法然上人の仰せが嘘で、実は地獄にいくことになるのかどうか、私には知らないがかまわない。
なぜなら、私は地獄より行き場のないものなのだから、だまされたとしても損するものではない。
それに法然上人が正しいから信じているのではない。
弥陀の言葉をたとえそれが嘘であっても受け入れているからこそ信じているのだ
だから、その弥陀の言葉をそのまま伝えている法然上人が嘘であっても関係ない。
ただ、法然上人の言葉を信じて念仏申し上げるだけであるという内容になっていると思う。
>>672 仏典を読むにおいて、何が重要で何が重要でないかの判断は個々人により様々で100人100様。
「私の判断が正しくあなたの判断は間違い〜」なんて誰も言えない。
輪廻や過去世に重点を置く人間もいれば、縁起や無我に重点を置く人間もいる。
伝統重視で仏典を読む人間もいれば、歴史人物仏陀を想像しながら読む人間もいる。
ただ単に立ち居地が違うだけ。
そういう意味では、自分読み、自分解釈、(&伝統読み破棄)大いに結構という事ですw
675 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 00:17:13.44 ID:jY10SrBm
>>670 >仏典に、 「舎利子よ、うさぎとカワウソはしゃべるのだ、 人間だけがしゃべるものと思ってはいけない」 と、
>あきらかに教義として書かれてあるのなら、それも重要なファクターといえるけど、
長部経典に「舎利弗よ、菩薩は読心通がある」と説かれ、他の仏説では人間以外の動物にも転生するとあります。
動物に転生した菩薩が「読心通」で人間と話しても、なんらテキストベース上では論理矛盾はございません。
現代でも人間臭い飼い犬は多いですので、犬か人間の何れかに「読心通」があれば会話は可能でしょう。
676 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 00:23:32.98 ID:RpSbzhPb
>>672 wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
もう言ってること変えてやがる、このバカはwwwwwwwwwwwwww
なら、「仏典に書いてある」じゃなくて、その記述の内容がどうかという吟味じゃねえかw
「仏典に記述がある」は、「それだけでは何ら真実性は担保されなくて、その記述の内容が
問題なんだろうが」wwwwwwwwww
業報輪廻は、倫理適要請から仏典の中に混入した・・・・・・こういう見解もあるんだよ、バカタレがwwww
「輪廻業法をその教説の根幹として説いたのか?」・・・
これこそが、この最初のシリーズで、それこそ何スレも使って討論されてきて、
今だに未決の事項なんだよww
それを何も知らんと、横レス入れてきて、何の論証もせずに、「それが仏教の根幹です」
だと????
過去ログ一から読み直してから、書き込みせえ、バカタレがwwww 消えろ、カスw
677 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 00:29:51.24 ID:jY10SrBm
>>675 仏教板でも現代の科学常識で神通を否定する人が多いようですね。
でも釈尊もイエスも何らかの神通にて衆生(人々)を救った後に法を説いたと私は考えております。
だいたい、どこの誰かも分からない小汚い修行僧がえらそーに説教しても誰が聞きますか?←これが常識です。
原始仏典から見る限り、釈尊が神通の中で多用されたのは宿命通ではなくて、まず読心通かと推測します。
現代の超心理学でもテレパシーの研究は行われております。
対機説法において、まず相手の心を読んで驚かせた後に、宿命通でカルマをもとに法を説き分けたのであれば十分に布教が可能です。
更に強烈なオーラ(後光)が可視化しておりましたら、関心を持った人々がよってくるでしょう。
675さんは坊さんですか 長部経典て高いし 全巻読み理解するのにのに膨大な時間がかかりそう
679 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 00:34:46.80 ID:RpSbzhPb
ID:5bTVrk1Y のバカは、勝手に輪廻業法を「重要ファクター」と認定し、それは 真実であるとする。 その反面、ジャータカは「重要ファクター」ではないから 比喩wwww 自分の恣意的な解釈でもって、「・・・は重要」「・・・は重要でない」と やってるだけのことも理解できてないwww アホかwwwww とりあえず、「仏典に記述がある」・・・・・これだけでは、何らその 真実性は担保されないことは確認できたなwwww なら、後は「釈迦が輪廻業法をその教説の根幹として積極的に説いた。」・・・・ はいこれを実証してくれwwwww 、未だ専門家たちが集まって、実証できないことがらだwwww がんばれよwww とりあえず、和辻の見解の反証ぐらいからやってくれやwwww
680 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 00:36:25.46 ID:RpSbzhPb
>675さんは坊さんですか 違うよwww 真光っていうカルト宗教の信者だよwww
681 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 00:40:14.01 ID:jY10SrBm
>>678 >675さんは坊さんですか
>長部経典て高いし
>全巻読み理解するのにのに膨大な時間がかかりそう
高校生までは仏教徒で、それ以降は異教です。
春秋社の「長部経典」中村元監修は3冊で2万円ほどですが、とても分かり易いので高いと思ったことはございません。
2回ほど通読しましたが、34の経典のどこに何が書かれているか、誰に説いた経典なのかの分類を主に行っております。
読み方は伝統的でなく自己流なので、本仏教板でセブン氏からしばしばご注意を頂戴しております。
682 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 00:48:17.89 ID:jY10SrBm
>>680 自分の恣意的な解釈でもって、「カルト」だと言ってるだけのことも理解できてないかも。
その他称「カルト」の私でも下記を指摘しております。
・原始仏典の多数の経典で釈尊、舎利弗は「輪廻」を説かれております。
・日本の各宗派の祖師達も「輪廻」を説かれており、釈尊と違って真筆で残しております。
・それなのに近代仏教学者の言に惑わされて「輪廻」を科学常識で否定する仏教徒が増えてきております。
683 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 00:50:35.67 ID:jY10SrBm
>>682 >・日本の各宗派の祖師達も「輪廻」を説かれており、釈尊と違って真筆で残しております。
★親鸞「教行信証」
悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。
自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし
「正信偈」
生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す
★日蓮「船守弥三郎許御書」
過去に法華経の行者にてわたらせ給へるが今末法にふなもりの弥三郎と生れかわりて日蓮をあ
われみ給うか。
「四条金吾殿御消息」
日蓮過去に妻子、所領、眷属等の故に身命を捨てし所いく幾そばく許かありけむ
或は山にすて、海にすて、或は河、或はいそ等、路のほとりか。
然れども法華経のゆへ、題目の難にあらざれば、捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず。
★道元「正法眼蔵」
善悪の報いには、次のどれかに当てはまる三つの決まりがある。これを三時という。
一つには、「順現報受」(じゅんげんほうじゅ) … 現世において報いがある場合。
二つには、「順次生受」(じゅんじしょうじゅ) … 来世において報いがある場合。
三つには、「順後次受」(じゅんごじじゅ) … 第三世において報いがある場合。
★空海「秘蔵宝鑰」
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず、
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
ピーマン なるほど カルトの理論武装か 光さんの優秀な頭のいい幹部候補生 オウムもそうだけど優秀な人がなんでだろう 既成仏教の限界か 今の僧侶は危機をもたないと 変なのが増殖するよ
685 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 00:51:40.69 ID:RpSbzhPb
>自分の恣意的な解釈でもって、「カルト」だと言ってるだけのことも理解できてないかも。 あっれ〜〜〜〜〜〜????? ま光ってカルトじゃなかったの???? 日本に存在する代表的カルト宗教の一つだと思ってたんだけどww
>>667 ま、一代を前にしては言いづらいとこだがw、無意味とは言わんけど、
大きな意味を見出せる行為とはあまり思わんかな・・(^^;
ただ浄土に関しては、効果絶大とは思う。(ナンマイダの連呼も含めてね)
逆に、もし、法華経の内容をきちんと押さえられるなら、日蓮系でもOKだw
(ま、実際に法華経の内容との連絡ができてるかどうかは知らんがw)
>>668 そこを、
原理主義的に全否定するのも“見識”の一つではあるけれど、
郷に入っては郷に従う、或いは、時・土地・時代に合わせた最適化というのも、
同様に一つの見識だ。
そして、どちらも、誤りとして切り捨てるのは短絡だ。
ただ、以前
仏教 議論スレッド その4
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/104-105 (もとは 日本の坊主が戒律を守らないのはなぜ? のどこかだったと思うが)
に記したように、「縁起」や「節制・抑制、制御」といった面に目を向けるなら、
やはり、日本では仏教は消失していると言わざるを得ないと思うよ。
>>674 >「私の判断が正しくあなたの判断は間違い〜」なんて誰も言えない
少なくとも、輪廻においては仏教の重要な教えであることは、間違いないでしょ。
解釈の問題なんてもんじゃない。
あとは、なんらかの比喩か、改変、混入があったか、ということなんだけど、
比喩というならば、なんらの裏の意味があるわけで、輪廻、過去世というのはストレートな言い方で、
比喩とは思えないし、そのような説明は聞いたことがない。
また、ジャータカでも、過去世という前提の下に話されていて、輪廻思想ありきで話が展開されている。
輪廻があるという前提が、根底に見えるわけ。
だから輪廻というのは、ストレートな意味そのもので、そこに別の解釈があるとすれば、
それは個人的な独特な解釈ということで、特異なものになる。
仏教的な輪廻は輪廻であって、その中でのさまざまな解釈は可能かもしれないけど、
そこから解釈が飛躍したものは、その人独自の解釈と言った方がいいかもしれない。
688 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 00:58:26.04 ID:jY10SrBm
>>682 >・それなのに近代仏教学者の言に惑わされて「輪廻」を科学常識で否定する仏教徒が増えてきております。
本スレを見ますと、仏教徒以外が近代仏教学者の言を利用して「輪廻」を科学常識で否定し仏教徒に布教するケースも多いようです。
「生命教」、「野菜教」、等々です。 教団の名称は空ですのですぐに消えます。
>>675 その説だと、もう一つ・・・ 菩薩が動物に転生した・・という話が経典に見出されないと、
論理的に整合性が薄いような気がします。
菩薩が動物に転生した・・・という文章は、実際経典にあるのでしょうか・・・?
>>684 キツイね・・w
ただ、優秀で頭がいいからこそ、
現代常識、現代科学の知見をベースにした説示に誘引されてしまうのさ。
そこを横取りできるだけの(優秀で頭のいい者を勧誘し得るだけの)理屈を、
伝統各宗派が用意できてないのも事実だしね・・。
が、
だからといって、(つか、であるからこそ)、
現代常識の方へ引き寄せるアプローチ(≒原典批判研究・文献研究)、或いは解釈学
及び修行・学びが最善で、古代からの伝承ママの受容は滑稽だとする判断もまた、拙速なんだけどね・・。
>>687 >少なくとも、輪廻においては仏教の重要な教えであることは、間違いないでしょ。
輪廻に注目する前に、仏教に注目すればどうでしょうかねえ。
つまり、輪廻においては〜ではなく仏教においては〜と見てみるのも一つでしょう。
仏教において、輪廻第一の人もいれば、縁起第一の人もいて空観第一の人もいる。
立ち居地は様々って事です。
ちなみに私は超常現象を見た事ありません。手かざしの被害者は知人でいます。
UFOも見た事なければ、幽霊も見たことなく、不思議な体験は全くしたことがないです。
しかし、そのような世界もあるかも〜と頭の片隅で思っている程度です。
超常現象未経験の人間はこのような世界が絶対にあるに違いない〜なんて信じないのですよ。
修行を積んで神通を得よう〜なんて全く動機付けになりません。
>>691 そうじゃなくてw
『輪廻からの解脱』
が主要事項だということ。
693 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 01:09:18.13 ID:jY10SrBm
>>685 その噂の因はフランスのカルト法草案に添付の宗教団体リストの中に他の日本の有名教団達と名前が載ったからでしょう。
その後に正式発効されたカルト法では教団リストは削除されました。
そして、フランスでもパリを中心に順調に手をかざす人達が増えているのが実情ですね。
貴兄にしては珍しくあまり自身でチェックしないで発言されていたということでしょう。
694 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 01:10:57.02 ID:RpSbzhPb
>>686 難しいよな?www
俺としても、疑問を持ちつつも全否定する気にもなれんところがあるww
確かに、「妻帯して子供をつくり、家庭をもって、執着しないで生きられますか?」
と、やられたら返答に窮するところがあると思う。( 実際、一代もそこが自分の
泣き所と自覚してるみたいなところがあったW)
でもなあ、檀家をもって世俗に溶け込み、様々な信徒の悩みに答えてあげてる
ような坊さんもいるわけで、そういう坊さん見ると、それはそれでOKで
お釈迦さんも笑って見てくれるようにも感じるww
・・・・・やっぱり、あれかね?w 結局は、坊主個人個人の「心根」に
帰着させるしかないとww
護摩だきそのものに「御利益」はなくとも、それを行じる坊主が一心不乱に
他者の幸を祈って行うのであれば、それなりの意味はある・・・
こんな感じに捉えるのが仏教的か?wwwww
>>692 だから、「主要事項」でも「重要」でも何でも構いませんが、そんなものは個々人、人それぞれ。
仏教は山ですよ。山の登り道は360度色んな方角があるのです。
この道だけが登り道〜なんて言っても別の登り道から登る人もいるのです。
この道だけが登り道〜なんて宣言する事自体意味が無いという事です。
>>676 だからね・・・・、何も比喩、解釈、方便、改変、編入などが全くない・・・、といってるわけじゃないわけ。
もしそういうのがあれば、論理的にある程度のことが説明出来ないといけない。
で、あなたは、輪廻が嘘だ・・・というなら、仏教の教えに引き継がれている、輪廻という考え方を、
論理的に否定しないといけないんだよ。
ところがあなたは、「そんなもん、常識的にありえねーだろ、比喩や改変に決まってる」 って、
論理的な説明もないまま、そう決め付けてるわけ。
仏教において、経典において、それがそのまま書かれてるってことは、
しかも一部の経典だけじゃなくて、仏教全体にその教えが貫かれてるってことは、
まずそれが、仏教のスタンスと見るわけであって、それが違うというなら、きちんと整合性のとれる論理を、
提示しないといけない。
ただ、常識的に考えられないから・・じゃ、そこを出発点として、経典に書かれてあることを無視するなら、
話にならない。
あなたの考え方は、すべてそういう感じなの。
無常の意味も常識的に判断していて、「死ねば消滅するから無常だ、生きてる間は確かに肉体が存在する」 という風に、
断見と常見の入り混じった考え方をしていたり、すべて、仏教を元にした解釈ではなく、一般常識に一生懸命仏教を、
照らし合わせようとしてるわけ。
完全に恣意的解釈になっちゃってるわけよ。
697 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 01:19:01.51 ID:jY10SrBm
>>689 >菩薩が動物に転生した・・・という文章は、実際経典にあるのでしょうか・・・?
・ジャータカに釈尊(菩薩以下)が前世で動物に転生した話があります。
・菩薩が輪廻を繰り返す仏説は色々とあります。
菩薩が動物に転生したことは無いとは言えない、というレベルです。
>>679 また安易な解釈をしてるな・・・・
ジャータカが重要なファクターではないと、誰が言った?
ジャータカの、「うさぎがしゃべったり、かわうそがしゃべったりすること」 を、重要なファクターじゃないと言ったんだよ。
で、ジャータカの重要なファクターは、「肉体などの現象世界に捉われていては、本当の智慧や楽はありませよ、
そういう肉体も含めて、色の世界の捉われを、すべて投げ出さないと、本当の智慧、楽は手に入りませんよ、」 って教えが、
仏教でもっとも重要なファクターなんだよ。
なんでそういう重要な部分と、うさぎがしゃべった、しゃべらないなどの、枝葉のことを並べることが出来るか。
あなたはジャータカのうさぎがしゃべったということが、仏教の重要なファクターだ、って言ってるのも、
同然なんだよ。
そんなバカなことがあるわけないだろ。
経典に書いてあるか・・・?
「三世から離脱するのに、動物との会話が非常に重要である」 って。
>>694 密教は仏教の発展系だと思うけど。。。
仏教は啓示や契約の宗教ではないから 創意工夫で(変化させる余地はあるわけでしょ
もちろん仏陀の教えの最低限の基準はあるわけだけど
パーピマンは密教ダメ?
>>696 貴方は、パーピみたいな(ヨーロッパ劇作に於けるピエロみたいなw)人物にレスするよりも、
>>695 >>691 のような人たちにこそ、しつこくレスするべきと思いますよ?w
ちなみに、
>>675 は、真光ベースのオリジナル新興宗教ですよw
>>689
701 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 01:26:12.52 ID:jY10SrBm
>>695 >仏教は山ですよ。山の登り道は360度色んな方角があるのです。
>この道だけが登り道〜なんて言っても別の登り道から登る人もいるのです。
同感ですね。
「真理の峰」に向かう登山ルートは色々とある筈です。
八正道、坐禅道、念仏道、科学道、医学道、芸術道、等々です。
>>701 てめえの場合、そもそもの“山”自体が違うんだよw
アメリカの山に登りながら、ヨーロッパの山に登る者と同じです宣言をしても
滑稽なだけだ。
703 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 01:38:29.46 ID:jY10SrBm
>>700 >ちなみに、
>>675 は、真光ベースのオリジナル新興宗教ですよw
>>689 長部経典とジャータカという二つの仏教テキストベースからの考察であり、
それ以外の教義は加えておりませんが。。なぜ、貴兄にはそう観じられるのですか。
>>703 ああ、すまんね。
確かに、675には真光臭はないなw
先入観って怖いねw 貴方のレスは、反仏教的なものが多いんで、
とりあえず危険視する癖がついちゃっててwwwww
705 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 01:54:34.52 ID:RpSbzhPb
>>696 wwwwwwwwwwwwwww
はいはい、先ず最初に断っておくが、「仏教」という語彙がどの当たりまでを
射程に置くか・・・という問題があるので、(例えば、オウムは? 創価は?
幸福の科学は? 日蓮宗は?)・・・・・『釈迦の教説』 ということに限定していくぞw
つまり、「釈迦はその教説において積極的にそれを説いたのか?」wwww
そして、オレがやった論証はの骨子は、
@輪廻業法論は、無我との論理的整合性がとれてない(これは和辻を始め
多くの学者が主張する点で今だに反証はできてない)
A 最古層文献に輪廻業法を表す語彙が全く登場せず、輪廻を積極的に説いた記述も皆無
(年代的に後発の古層文献に至ると頻発するw)
B経典には、釈迦が神秘的事項を排除し、現に確認可能な事項を最優先して重視する
極めて「客観性を重視するスタンスの持ち主」であることを示す記述が多く見られる。
以上の@ABより、
古層文献以降に見られる「輪廻業論」に関する記述は、
T 倫理的要請から生じた方便
U ヒンドゥーの混入 (これは輪廻以外にもヒンドゥーの神々の参入にも見られる)
V 他宗に対抗するための宗祖の神格化に一貫
W 経典編集者の見解、願望
などにより生じた後世の弟子たちの見解の反映である。
これは、釈迦が輪廻業報に言及したことがないことを示すのではなく、実際は釈迦も
対機説法において相手に何事かを理解させようと、それらを自己の説法で利用したこと
まで排除するものではない。 当然、そのようなこともあったろう。
が、上記の確認可能な事項により、
「釈迦はその教説において(その根幹部分として)積極的にそれを説いたのか? は極めて疑問である」
・・・・と、こういう結論だww ちなみに、これに対する反証は未だ出来てねえぞww
やってみてくれw
以上は、何スレにも渡る討論をざっくりとまとめたものw 詳しくは過去ログ参照ww
(断っておくが、いわゆる伝統仏教が歴史的に輪廻説をとってきた事云々は、ここでは論点となって
いない。 あくまでも釈迦が、どのようなスタンスだったのか?・・・ということだ)
>>691 確かにその人が、自分なりの仏教を見出すということは、意味がありますよね。
ただ、仏教というのはこういう教えだと、世間に公表するなら、
自分なりの解釈じゃ困るわけです。
解釈もいいけど、仏典と照らし合わせて、整合性を持たないといけない。
輪廻とは信じなくても、禅やら、あるいは空の思想、縁起の思想を追求していってもいいし、
自分なりに、輪廻はないな〜 って思うのも自由です。
ただ、「仏教というのは、輪廻などありません」 という見解を言うなら、
それは個人的な見解を超えたものになります。
707 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 02:01:31.61 ID:RpSbzhPb
>>698 だから、その「重要なファクター」ってのは
「お前がそう思うからだろうが?wwwwww」
仏教において、輪廻業報を重要に思わない者も
いるわけだww 実際、宝珠が電凸して各宗派に確認した際、
「輪廻などない」と言い切った宗派も二三あったわなww
お前はそれらを「仏教でないと切り捨ててるの」www
>>697 個人的にはジャータカは比喩だと思いますが、
真実は分かりません。
否定も肯定もしないで、ただ、そこで語られてる本意を見ればいいと思います。
「うさぎがしゃべった」かどうかは、仏教的にそれほど重要な意味は持たないと思います。
仮にそういう問題があったとしたら、「そういう現象世界への捉われを超えてゆけ・・」 というのが、
仏教の教えだと思います。
ただ、常識的判断で否定、肯定、というのは良くないと思いますね。
解脱者にしか分からないことがあるわけで、これは非常識だから無い・・・ということよりも、
否定、肯定の枠を離れて、仏教の全体をそのまま受け取ればいいと思います。
709 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 02:10:34.38 ID:vCiS2MM9
>>696 >一般常識に一生懸命仏教を、照らし合わせようとしてるわけ。
>完全に恣意的解釈になっちゃってるわけよ。
何を言ってるのか。一般常識とは、人間がその生存努力の中で、長い長い時間
をかけて築き上げた共生のための叡智。人間の一挙手一投足は一般常識に支配
されている。一般常識から極端にかけ離れた人間を、世の中では狂人と呼ぶ。
大昔の1個人である開祖の何の根拠も無い「恣意的発言」を無条件に盲信し、
オウムのように繰り返すことこそ、恣意的の極致ではないか。
だからこそ中論は、「世間の一切の慣習」を無条件の前提とし、それに反する
ことを何度も戒めているのである。
>>700 パピーマンさんに反論するのが、一番面白いんですよね・・・
>>707 やっぱり、
>>706 >仏教というのはこういう教えだと、世間に公表するなら、自分なりの解釈じゃ困る
これに尽きると思うよ・・。(一代もココを言っていた筈だ。)
>>709 『 >一般常識 』なんて、≪時代、地域、文化、政治状況経済状況等で
すぐに変動するやんw
712 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 02:15:33.50 ID:RpSbzhPb
>「うさぎがしゃべった」かどうかは、仏教的にそれほど重要な意味は持たないと思います。 wwwwwwwwwwwwwww 「三世に跨る輪廻業報が仏教的にそれほど重要な意味をもたない」と 考えてる仏教徒もいるんだがwww いわゆる「禅的視座」は、そのような輪廻など二の次だろうがww
713 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 02:16:46.93 ID:jY10SrBm
>>704 >先入観って怖いねw 貴方のレスは、反仏教的なものが多いんで、
>とりあえず危険視する癖がついちゃっててwwwww
真に率直なレスを有難うございました。
これまでは、私自身も「反伝統仏教」的なレスが多いと思い込んでおりました。
しかし最近、各宗派の祖師達の輪廻に関する説法を調べまして、それが間違いであることが分かりました。
そこで「反近代仏教学」または「反科学常識仏教」というスタンスに変化しております。
>>710 なら、仕方ないw
他人様の至高の楽しみ(・時間)を奪う権利は誰にも無いわな・・w
>>713 あのな・・・(^^;
“あの一代”が、伝統から外れてる、と批判してたのに、まだそんなことを言うか・・・w
しかし、 今は、(日本だけでなく)苦難の時代かもな・・・w テキストに寄り添えば、「前時代的、現代科学の成果が知られていなかっただけ」 「方便の盲信」 と言われ、 現代常識・科学物理知見に寄り添えば、隠居のような極(暗黒サイド)へ落ち込んでゆく・・・。 書かれていることと無関係に、勝手な【意訳】が罷り通る・・。 なんだかね・・・。
717 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 02:26:31.80 ID:vCiS2MM9
>>711 >『 >一般常識 』なんて、≪時代、地域、文化、政治状況経済状況等で
>すぐに変動するやんw
肝腎の人間の生存努力においては、それほど変わるものではない。時代や地域
を超えた、人間としての一般常識を考えてみるとよい。
宗教者であっても、共同体における一挙手一投足は、一般常識によって支配
されている。
釈迦も、布施を貰うために説教した訳だが、彼の行動が一般常識から著しく
逸脱していれば、狂人扱いにされ、布施も貰えなかったであろう。布施が
なければ、釈迦は存在し得ず、仏教も無かった。
718 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 02:34:23.50 ID:vCiS2MM9
在家氏は、長部経典という原始仏典を読んで、日本で最も危険と言われる 超カルト信者となった。 原始仏典が、カルトの源泉であることを、如実に証明している。聖書も同様 である。他の宗教でも、聖書の影響があると「例外なく」カルト化している のが実情である。
719 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 02:39:08.34 ID:RpSbzhPb
>>716 宗教は、今現在、そしてこれから、自分たちに求められているものは
何なのかをもう一度よく考えて見る必要があると思うぞw
伝統、伝統と縛られていてもしょうがないでしょ?
伝統があるということは同時に時代的ギャップもあるわけで、それを
如何に克服していくのか? がこれからの宗教の課題の一つでしょ?
天動説に固執してたんじゃいかんでしょ? っとwwww
宗教は、その真実性を科学的裏付けにもとめるのではなく
(それをしようとするから、トンデモ、オカルト宗教になるww)
それぞれの担当エリアの違いを認識するべきだと思うがねww
それが分からんバカが、「・・・・・は真実の現象です」
「・・・・・は本当に効果があります。」
「・・・・は〜の霊障が原因です。」とやりだすww
>>716 でも仏教の伝統的な宗派はカルト化することがない
キリスト教のプロテスタントはその弊害が大きいです
721 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 02:46:55.08 ID:RpSbzhPb
>でも仏教の伝統的な宗派はカルト化することがない そうとばかりも言い切れねえんだw 「立川流」ってのもあるw これをカルトとするかどうかには異論もあろうがww
722 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 02:51:12.25 ID:vCiS2MM9
>>716 時代も全く異なる大昔の1個人の言葉に、それほどの重要性を感じることの
ほうが、「現代人」としては、「暗黒の極致」ではないか。
中村博士は、「涅槃」という言葉を「安らぎ」と訳している。これも「暗黒」か?w
「自灯明・法灯明」を、一代氏は「専ら悟った人のための教え」などと言ったが、
「悟った人」なら、そんなことは、釈迦に教えられなくても、とっくに悟って
いたのではw。いや、「悟った人」とは、修行しろ、修行しろによって「変性意識」
に陥った人のことだから、却って知らなかったのかも知れないw。
>>721 立川流は後期密教とか何とか
少なくとも仏教の場合はカルトが生まれても新興宗教の教団という形態なのでわかりやすいですね
724 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 02:55:08.72 ID:vCiS2MM9
道元さんは「悟ったと思う者は、悟っていない」と言ったと思うが、さしずめ 釈迦が、「悟っていない者」の典型w。
725 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 03:06:21.90 ID:vCiS2MM9
>>720 >でも仏教の伝統的な宗派はカルト化することがない
>キリスト教のプロテスタントはその弊害が大きいです
セブン氏が深く信じているテラワダは、本国でもカルト視されている。
確かに、プロテスタントからは、破壊的カルトを含む無数のカルトが発生し、
現在も発生し続けているが、カトリックから発生したカルトは、(ダヴィンチ
コードに出てくる例のカルトを除いては)聞いたことがない。最初にプロテすタン
に嵌り、現在ではカトリックを自称するサロメは、この理由を宗教心理学的に
分析・解明・指摘して欲しい。
726 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 03:48:52.06 ID:vCiS2MM9
伝統宗教は、カルトを本質的に批判することはできない。開祖・教祖の盲信 という原理的には、両者は全く同一だから、批判すれば、すべて自分に跳ね返って くるからである。結局は、「社会が悪い」というありきたりの言葉で終わって いる。 現在では、伝統宗教は、カルトという言葉を、社会的に批判された宗教から己を 区別し、己を防衛するために使用している。
727 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 04:11:42.92 ID:lKdKpfsr
皆さん、大変ご無沙汰しています。
とても楽しそうに議論が進められているようで何よりです。
最近になって投稿規制がようやく解除されました。
呆れるばかりですが、なんと丸一年もやられていました。
誰か特定の者のために掛けられる規制で一緒に被害を被るとはなんとも理不尽・・・。
>>707 明確に否定したのは一ヶ所で(「そんなものはない」と電話でキッパリと否定された)、
日本三大禅の一つで中国禅の色彩濃い「黄檗宗」の総本山です。
あとは、意図的に避けようとしたのか悉く無視されました。
真摯な対応で肯定の紙面を届けたのは浄土宗のみでした。
728 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 04:16:11.16 ID:lKdKpfsr
密教の立場 密教というのは“大乗徒たちのバラモン化”ともいわれ非難される向きもありますが(他の大乗諸派から)、正しくは“バラモン呪法を大乗 修行の一形態として利用すべく導入したもの”です。 大乗というのは、その発生の根源的本質そのものが世俗と在家に主眼を置くものであったので、阿弥陀帰依といった他力本願の派生も含めて、 在家の人間によっても容易に修行可能な体系ということが重要なコンセプトだったのです。ところが、こうした大乗発展の歴史の経過にとも なって次第に大きな疑念とジレンマを抱えることになった。こんなに安易で簡略化した行為(修行)で本当に成仏できるのか? つまり、あのゴータマのような偉大な存在である仏陀に成れるのか?と・・・。 そこで、歴史上のゴータマは特別視しつつも、原点回帰の視点から本格的な修行体系の導入に踏み切る流れが起こった。ただし、上座部の 修行そのものに戻るのでは意味がないので(大乗は彼らに反旗を掲げたグループだったから)、そこで彼らが目をつけたのが、古代バラモンの 叡智を導入し利用することだった。これを三密加持という形態として修行に導入したのです。 人間の行為である身口意の三業(人の業を創る行為は身体の動作・発する言葉・想いの三つから成る)をホトケに合わせていく三密加持の修 行として、身密としての印相(原意はバラモン・ヨーガのムドラー)、口密としての聖なる言葉「真言陀羅尼」(本来はバラモンのサンスクリッ ト語)の読誦、意密としての観想観念(仏の姿や性質働きをリアルに視覚化する)を同時に修することによってホトケとの合一を目指すものとした。 こうして、拝火教およびバラモン呪法の護摩(神々への祈願法であるホーマ)などの呪法によって悩める衆生の救済を願う修行も含めて加持と して構築された(これが加持祈祷)。 尚、密教修行における原点回帰の本来的意図は、あの両部曼荼羅(密教の本当の本尊はこの曼荼羅)の構成に秘めた三十七菩提分法(ゴータマ 本来の全修行体系のこと)によって示されています。
ちなみに、俺は味わいとして真宗の現代的解釈を行っているわけで これを教化のために利用しようなんてこれっぽっちも思ってないぞ? なぜなら、俺は現代的な理解を試みているだけであって、 俺の言う通りに理解すれば、真宗の信心が簡単に取れるということを意図しているわけではないから。 俺だって、伝統的な宗教の言葉に従って、真宗の教えが俺に求めてきたままに理解を進めてきたので あって、教えられるたびに俺流に解釈しなおして真宗を分析した上で安心をうけとったわけではない。 俺の書き込みを見てもらえば分かるが、俺が解釈によって理解できるとしているのはあくまで証果を得たあとであって その途中においてはたとえ不承不承であっても、判断の留保という形でそのまま真宗の教えを甘んじて受けてきたよ。 宗教は生きていると思うから、その証果をえたいと思っているならば、伝統的な方法に従って学ぶのが一番だと 俺は思う。教えは絵にかいた餅ではなく、食べる餅なのだから、解釈だけあってもなんの意味もない。 だから教えを世俗に合わせて改変するなら、サンガが決定すべきであって一在家にすぎない俺が 口を出すべきことではないよ。ただ俺は個人的な味わいとして、その証果を嘆じているだけだよ。 俺は真宗がキリスト教と似ているところがあるかもしれないからって、総合宗教なんてものをつくるのは ナンセンスだと思う。
ただ、その味わいの中であっても看過できないと思われるものはある。 たとえば特定の体験をしなければ悟ったといえないとかはそうだ。これは真宗でもよくある話だ。 一日中誰の目にも分かるほど絶望するような苦しみを通り抜けなければ信心とは言えない、とか。 「信心歓喜」と経に書いてあるのだが、何時何分に喜びが起こったか分かるほど明確な宗教体験である、とか。 また、真宗とは信心を重要視するが、これはキリスト教的な信仰だとか、盲信という意味ではない。 凡夫は煩悩まみれだから、信じる心も弥陀が用意してくれていると言われる、うまく言えないが、 受け取るというようなものだ。よって、安易に宗教を信じることと定義することも容易く肯定できない。 他宗から見れば、不満をもつところなのかもしれんが、俺がムキになったのは、それが真宗にかぎらず 証果とは何か、その宗派の肝とは何かを問うとき、必ず身内でいざこざが起きる重要な点だと思うから。 それを防ぐための最低限の施策を俺も考えさせられたことがあって、 上が仏教にとっても適応できるだろうという気持ちから、批判させてもらった。
731 :
業報輪廻転生論は現生手になる法ではない :2013/10/05(土) 08:57:05.31 ID:4ABDRwbi
仏道実践的なポイントは、業報輪廻転生論が菩提心凡夫にとって「現生的なる法」(相応部35-70)といえるのかにある。 1.現に証せられるもの(現実に今ここで実証できるもの)であり、 2.時を隔てずして果報あるもの(時間をかけることなく瞬時に効果の現れるもの)であり、 3.来り見よというべきもの(ここに来て実際に見なさいと言えるもの)であり、 4.よく涅槃に導くもの(苦の寂滅・心の平安に導いてくれるもの)であり、 5.知者がそれぞれに自ら知るべきもの(勝れた知者が、自分で知ることのできるもの)なのです。 <相応部 35-70『ウパヴァーナ(優波婆那)』> 業報輪廻転生論は、菩提心凡夫にとって 1.現実に今ここで実証できるものではなく 2.瞬時に効果が現れるものではなく 3.ここで実際に見られるものではなく 4.妄信することで転生忌避の我執を生むことで苦を増大させ 5.菩提心凡夫が自知できるものではない なぜなら、業報輪廻転生論は一切外の妄想・宗教物語でしかないからだ。
732 :
業報輪廻転生論は現生手になる法ではない :2013/10/05(土) 08:59:06.90 ID:4ABDRwbi
訂正 × 業報輪廻転生論は現生手になる法ではない 〇 業報輪廻転生論は現生的なる法ではない
733 :
業報輪廻転生論は現生手になる法ではない :2013/10/05(土) 09:15:28.23 ID:4ABDRwbi
>>727 >明確に否定したのは一ヶ所で(「そんなものはない」と電話でキッパリと否定された)、
>日本三大禅の一つで中国禅の色彩濃い「黄檗宗」の総本山です。
「そんなものはない」は下記の道元さんと同趣旨
曰く『★★仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。』((現成公案 冒頭)
# もともと仏道は有無の相対論に捉われないのだから、
即生即滅、即迷即悟、即心即仏、(即無即有)と還滅できる。#
もっともアキメクラには深解は<無理>。
734 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 10:26:24.68 ID:jY10SrBm
>>733 業報輪廻転生論は現生手になる法ではない
>道元曰く『★★仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。』((現成公案 冒頭)
# もともと仏道は有無の相対論に捉われないのだから、
即生即滅、即迷即悟、即心即仏、(即無即有)と還滅できる。#
道元曰く「正法眼蔵」十二巻本第八
善悪の報いには、次のどれかに当てはまる三つの決まりがある。これを三時という。
一つには、「順現報受」… 現世において報いがある場合。
二つには、「順次生受」… 来世において報いがある場合。
三つには、「順後次受」… 第三世において報いがある場合。
仏祖の道を修習するには、其の最初よりこの三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり。但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
当に知るべし。
以降は邪見に堕ちないよう、道元禅師「正法眼蔵」の教えも「当に知るべし」にて考察願います。
> いわゆる伝統仏教が歴史的に輪廻説をとってきた事云々は、ここでは論点となっていない
> あくまでも釈迦が、どのようなスタンスだったのか? … ということだ
般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為に
(それ自体の自性と言う妄執の念に、とらわれて)
善行に励み、永遠ばかりを探して、凝り固まり
ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を
観察することがうまくない人達の為に練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… この吐いて吸う大きな長い息を十数え
何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
一切の有情には仏性があるといわれる
なぜなら、縁起によって空から生まれた無我なる現象
それこそが仏なのだ。解脱すれば仏だという
しかし 『 解脱すれば仏だ 』 という事に
気づくまでは、気づくことは難しい
736 :
業報輪廻転生論は現生的なる法ではない :2013/10/05(土) 10:28:36.33 ID:4ABDRwbi
>>728 >本尊はこの曼荼羅
『曼荼羅』なるものは(不二一元論を背景とした)間接現実「一切外」の<空見>(中論13-8)に他ならない。
間接現実分別一切外と直接現実を混同し、混ぜるな!危険を犯したのが「果分可説」である。
龍樹は云う、
『(1)他(人)によって知られるのではなく、
(2)寂静であって、
(3)戯論によって戯論されることなく、
(4)無分別であり、
(5)種々の意味を持たない、──これが勝義の相である。』 (中論18-9))
ブッダの悟りとは、分別対象化を離れ、相対思考そのものの不立だから、悟りそのものがありえない。
要する(特に4・5)に悟り=仏は対象化できない。
対象化がありえないのに、対象化してしまった如来像思想(密教)は、当初から破綻してしまっている。
真言密教のように『不完全に見られた空性(空に自性をみる自性空)は知恵の鈍い者どもを害する。
あたかも、不完全に捕えられた蛇、あるいは未完成な咒術の如くである』(龍樹 中論24-11)
『それ故に、<「一切は空である」(*Sn.1119)という>その法が、知恵の鈍い者どもによって間違って
了解されることを慮って、その教えを説示しようとするブッダの心は押し止められた。』(同上24-12)
737 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 10:30:04.08 ID:jY10SrBm
>>734 仏祖の道を修習するには、其の最初よりこの三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり。但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
当に知るべし。
さすが道元禅師、ただ坐る前に、大切な注意書きをされてますね。
セブン氏らは遠い昔にこの教えは習っておられるかと推察致します。
738 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 10:45:13.21 ID:jY10SrBm
>>737 明治以降の文明開化にて、西洋の科学技術を導入するのにやっきになり、
次第に科学常識にて仏祖が説かれた「三時の業報の理」を否定し、その結果、本来目的の衆生済度どころか
衆生を邪見に堕とし、かつ悪道に堕として長時の苦を受くる縁を作った者たちのカルマは如何に?!
早く気付きし者より、これ以上悪いカルマを積まないことでしょう。
739 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 10:50:27.75 ID:IoIvimlp
10/3 中村うさぎさん、ブログで自身の臨死体験を書く 2回も臨死体験したあたしに言わせればね、死ぬって事は、コンピューターや モニターの電源を切るのと同じ。消した途端にブラックアウト。残念でしたー 「大きな光が迎えにきた!とか、川の向こうのお花畑で死んだおばあちゃんが 『帰れ!』って言ったとか、いろいろ言うけど、あれ全部ウソよ」 と自身の体験を基に“断言”している。
740 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 10:52:03.41 ID:jY10SrBm
>>738 >衆生を邪見に堕とし、かつ悪道に堕として長時の苦を受くる縁を作った者たちのカルマは如何に?!
本スレでの対話を通しまして、今朝やっと一代氏(オイラ氏)がマジで戦っていた巨大カルマが悟れた感があります。
この巨大カルマに比べれば、常見派と揶揄されている若干名(在、宝、カ)もちっぽけな存在に過ぎないかと存じます。
741 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 10:59:40.41 ID:IoIvimlp
うさぎさんの体験のうち 2回も臨死体験したあたしに言わせればね、死ぬって事は、コンピューターや モニターの電源を切るのと同じ。消した途端にブラックアウト。残念でしたー の部分は【滅尽定】に入る瞬間と同じ。 大きな光とか川の向こうのお花畑などは【魔境】になる。 親鸞や川面凡児が体験した仏もこれ。
742 :
業報輪廻転生論は現生的なる法ではない :2013/10/05(土) 11:05:42.13 ID:4ABDRwbi
>>734 >善悪の報いには、次のどれかに当てはまる三つの決まりがある。これを三時という。
>仏祖の道を修習するには、其の最初よりこの三時の業報の理を効い験らむるなり
悟りは無分別の直覚であって、分別・対象化できない。(
>>736 参照)
仏法のゲシュタルトにつき道元は、正法眼蔵 冒頭でいきなり仏道の極意を開示する。
『諸法の仏法なる時節、すなはち
(1)迷悟あり、修業あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。*←間接現実:分別
(2)万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく“さとりなく”、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。*←直接現実:無分別
(3)仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。*←還滅(間接)現実:無分別の分別
しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。』(現成公案 冒頭)
上記を深解しないから(1)に留まり、「三時業」なるものに迷妄する。
道元の三時業論は未達凡夫への叱咤にほかならない。
【一切法門】道を修習することにより、
三時の業報の理(間接現実(1))を効い験らむること=如理作意を追考し透過できれば、
分別「三時業」が迷妄であることを自覚し【般若法門】の関にまだ達しうるのだ。
「三時の業報」{分別(1)}は、「三時の業報」ではない{無分別(2)}。これを「三時の業報」と名づける{無分別の分別(3)}。
ここまで体得できうるのである。
『前後ありといへども、前後際断せり』(現成公案)に「三時業」などありうるわけがない。
他は<有時>の章参照。
743 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 11:07:46.54 ID:jY10SrBm
>>739 >「大きな光が迎えにきた!とか、川の向こうのお花畑で死んだおばあちゃんが
『帰れ!』って言ったとか、いろいろ言うけど、あれ全部ウソよ」
中間生(あの世)から帰還した人達の証言では、トンネル、川、門、故人と再会等々と様々です。
私の母方の祖母も人事不省から生還しましたが、「暗い中を落ちていく感じだった」と話しておりました。
御紹介の中村さんと少し似ておりますね。
また、18種類もの学位を持つロス教授は、10年以上も視力のない患者達が臨死体験中に
見舞いに来てくれた人々の洋服、ネクタイ、宝石の色や形まで正確に描写することを確認しております。
以上、「生きがいの創造」飯田史彦、PHP文庫からの一部紹介にて、スレ違いなので止めます。
744 :
? :2013/10/05(土) 11:11:59.17 ID:xDvg3GqN
> (在、宝、カ)
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk ID:lKdKpfsr さんの場合は
『 輪廻から解脱する事が出来る場合もある 』 と言ってたような気がする( ← 常見ではない )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%A6%8B 常見(じょうけん)
「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅であるとする見解のこと
反対語は断見(だんけん)
釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで
この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張したものである
「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む
人の一生・人生はこの世の一回限りであるが
死後もこの世界においてアートマンという固定の実体が不滅で永続するものであると肯定する見解をいう
『長部』では「我と世界は常住である。死後山頂の如く不動で石柱の如く固定したものである」などと述べている
常見の反対語は、断見といい、この世は有限で永遠のものではないという見方であるが
仏教では中道や無記を説き、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした
なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から
対立する見解とは違う次元で、如来我すなわち仏性の常住を説くようになった
745 :
業報輪廻転生論は現生的なる法ではない :2013/10/05(土) 11:12:55.60 ID:4ABDRwbi
746 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 11:14:43.90 ID:IoIvimlp
うさぎさんはギラン・バレー症候群が疑われ入院、 9/15に心肺停止と呼吸停止で救急蘇生、その後3日間意識不明 この病気は国内に2千人以上。故大原麗子、故安岡力也もそう。 もともとウィルスや細菌感染で形成された「自己抗体」が運動神経を傷害 両手両足に力が入らなくなる、感覚の鈍りや、歩行困難などの症状があり 重症の場合は呼吸も不可。難病に指定されている。
747 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 11:18:41.44 ID:RpSbzhPb
よく、道元は輪廻を肯定していたと言うアホがいるが、そんな 単純な話じゃねえぞ、道元についてはww よく根拠として出される十二巻本にしても、道元の晩年のもので 道元の思想自体に変遷があったのか? あったとしたら、それは どのようなものであったか? をまず、検証していかなければならないw (これは若干の学者が取り組んでると思うが、まだ定説というものは 確立されてないと思うが?w) 自己の死の間近に迫ったことを悟り、輪廻へと意識が傾くこととなった・・・ 晩年の老いの結果と見る向きもあるw 実際、道元の思想の変遷を見ていくと、その中心は天台本覚への疑義、 坐禅専修の重要性、仏道修行の心構え、などであり、「輪廻業報」は 仏道への修行推奨を説くおりに触れられることはあっても、重要教義として 語られること、自己の見解の重要骨子として語られることは全くない。w 随聞記などをみるとよくわかるが、少なくとも道元は、「輪廻転生」を 自己の教義の根幹に据えることはなかった思われるw その点は、釈迦の近似系だと考えるがねww
748 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 11:22:43.19 ID:jY10SrBm
>>744 >> (在、宝、カ)
本スレの住人の中には、落武者の霊を視たと証言する?氏も加えて(在、宝、カ、?) と言う方もおられます。
最近の宝珠氏も私も、「カルマや経験を蓄積しつつ輪廻する阿頼耶識は常住不変でない有為法」という水野先生の
仏教要語の解説を主に引用しておりますので、本来の「常見」ではないかと存じます。
749 :
業報輪廻転生論は現生的なる法ではない :2013/10/05(土) 11:25:22.74 ID:4ABDRwbi
750 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 11:31:39.16 ID:RpSbzhPb
>私の母方の祖母も人事不省から生還しましたが、「暗い中を落ちていく感じだった」と話しておりました。 >御紹介の中村さんと少し似ておりますね。 ま光キチガイの姑息なところは、自己の見解に対する否定意見をいつも 捻じ曲げ、利用できそうなところだけを抜き出し、さも自己の見解と同一見解の 如き誤謬を誘うww アインシュタインの時もそうww 正反対の見解を自己の見解の肯定見解かのように捻じ曲げるwwww そういうところが人間的にカスだと何度、言われようとも改めないwww オカルト宗教に頭やられたバカは、言っても無駄かwww
751 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 11:32:32.68 ID:jY10SrBm
>>747 パピーマン氏
>よく根拠として出される十二巻本にしても、道元の晩年のもので道元の思想自体に変遷があったのか?
とても面白いロジックですね。
道元の若年の思想、中年の思想、晩年の思想があって、どれが彼の本当の思想か? 学者が検証中ですか。
もし道元が悟ったとして、彼の晩年の思想が悟りと異なっていたら、覚者が凡夫に戻ったということですよ。
同様に釈尊が悟ったとして、彼の晩年の思想が悟りと異なっていたら、覚者が凡夫に戻ったということですよ。
752 :
? :2013/10/05(土) 11:40:32.50 ID:xDvg3GqN
753 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 11:50:15.73 ID:jY10SrBm
>>751 >道元の若年の思想、中年の思想、晩年の思想があって、どれが彼の本当の思想か? 学者が検証中ですか。
>もし道元が悟ったとして、彼の晩年の思想が悟りと異なっていたら、覚者が凡夫に戻ったということですよ。
二十代で「身心脱落」の境地に達した道元禅師。
三十代で「正法眼蔵」を書かれた道元禅師。←「三時業」を説かれたのは晩年??
五十代で没した道元禅師。
曹洞宗の方は横レスでもコメントをいただければ幸甚に存じます。
754 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 11:53:08.47 ID:RpSbzhPb
>もし道元が悟ったとして、彼の晩年の思想が悟りと異なっていたら、覚者が凡夫に戻ったということですよ。 ちっとは考えてもの言えよ、馬鹿wwww お前は勝手に、「彼の晩年の思想が悟りと異なっていたら 」・・・・こんな 付帯条件をつけて、そして勝手に結論を下しているww 覚者が凡夫にもどる????? いったい、どうやったらそんなことが起きるんだ? 凡夫にもどったってのなら、始めから悟ってなかったんだろうがw
755 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 11:58:21.51 ID:RpSbzhPb
曹洞宗関係者ではないがw はいよwww 【道元禅師と三時業】 12巻本に収録されていることから、道元禅師が「三時業」に見るような、因果論に行き着いたのは比較的晩年ではないかという見解がある。 確かに道元禅師の説法を収録した『永平広録』では、最晩年に「三時業」への言及が見える。
756 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 11:59:54.17 ID:RpSbzhPb
キチガイかまってる時間がないのでw オチww
757 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 12:00:37.38 ID:IoIvimlp
たいがいの人は輪廻転生と言われてもピンと来ないだろうね。 そんなものは学習して知るぐらいなもの。 それよりも、今現在の不幸を苦しみ、そこから抜け出すことを探し 求めるのではないか。釈迦も同じで、輪廻がどうこうじゃなく 29歳までの人生が苦しかったから出家したんだろう。 輪廻に仏教を縛りつける主張には、それを差別の根拠にしたいとか、 経典がメシの種だから否定できないとかの下心があるね。 もともと人種差別を正当化したリグ・ヴェーダーが起源じゃない。
全ては個々人が何を選択するかの問題ですね。 ・仏教かキリスト教かイスラム教か無宗教か〜 ・仏教なら上座部か大乗か、出家か在家か〜 ・輪廻を中心に置くのか、縁起を中心に置くのか、空観を中心に置くのか〜 人間には選択の自由という曲げられない権利がある。自由なんですよ。 輪廻を中心に置いたとしたなら、その教えの要は輪廻からの解脱でしょう。 どのようにすれば輪廻から解脱できるのか?宿命通は必須条件なのか? 業の解消のために人間は日々どのように暮らさねばならないのか? このような事をもっと語って欲しいですね。 単に輪廻はあるだのないだの言う議論は見ていてツマランですよ。
759 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 12:42:49.51 ID:IoIvimlp
輪廻こそは無記 知りもしないし、体験できそうにもない 輪廻とか神通力とか超能力とかを語ることが邪見じゃないかな。 こんな話に耽るのは時間のムダだと思う。
760 :
時学0001 :2013/10/05(土) 12:54:59.59 ID:t3puEhIG
猿の内分泌腺は人間の王腺の中を通り、王腺からまた逸出していく。 その際に化合した分子が元素表どのパターンでも適応される。 軸Aにおいて軸Bは「不明イメージ」であるが、 軸Bにおいて軸Aは「既知イメージ」である。 必存在内子は「父神イメージ」を想年期から、逸年期にかけて、熟成 させ父神を形成する。父なる神は原型と言われ、元型107煩悩の 煩悩宇宙論の除外・例外とされる。 存在内子は存在耳明により熟年期に父なる神の存在と会う。 これを子の特権という。 非存在耳明は内分泌子の影響化にあるため、猿の記憶が人間の記憶の大部分を締める。 わたしは存在耳明を子に与える気はなく子は子の成長にあわせて、異質分子化を促進させる、 D(データ)保存を考えている。 世界内分子としての子はとりあえず、人格化作用が促進されることが大切であり、イデオロギーとしての 革命児化されることをわたしは望むのであります。 名分子は体内に縮小されて、一細胞として機態してしまうが、世界内分子の成功例は 体内分子の影響受け、神化するのであります。
761 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 13:07:03.89 ID:lKdKpfsr
>>744 >>748 補足説明に感謝です。
-----私の理解では、
ゴータマの説いた「常見」否定とは、
死後に存続する意識そのものがそのまま常住不変のアートマン(我)である、とする間違った見解のことです。
ゴータマは、この一切における現象界にはアートマンとして知覚されるものは何処にもないとして、
それらはアートマンではない、という非我を説いた。
では、アートマンそのものは無いのか?という問いについてはというと、ゴータマは沈黙して無記の姿勢を採った、のだと。
ただし、「非我」はアートマン存在を前提とした態度ともいえるものなので、
明確に示すことはなかったが、アートマンが存在している可能性はあるということになるのです。
もちろん、仏典にアートマン存在を是認する記述はまったく確認できないので、
仏道の歩みとしてはアートマン存在を無視することは一向に構わないと私は思います。
ただ可能性が残される以上は、アートマン存在を説きこれを追及する手法や道のことを見下して批難する何ものもないということ。
そして、このことが大切なのですけれど。
仏教においては人間の死後に、つまり、肉体の崩壊後にも存続する(アートマンではない)何かしらの意識(体)について認めていたものと思われるということです。
このことは「断見」(人間は死んだら終わり。肉体が崩壊して、それ以外に存続する意識存在なるものは何処にもない、とする間違った見解のこと。
仏教ではこれを最も良くない考え方であるとして「邪見」として厳しく戒めている)から脱するためにも、とても重要なポイントでしょう。
762 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 13:08:59.61 ID:lKdKpfsr
参考情報としては-----
とても私のレベルでは勉強不足で、まだ十分に確認できていませんけれど、
このスレの参加者であれば仏典からの確認ができる方が何人もいることでしょう。
『ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、
そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。』
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/reincarnation3.html (龍樹と輪廻転生 石飛道子)
とあり、
その他にも、
長阿含/第四経『遊行経』には「魂神」として、雑阿含経『跋迦梨経』および増壱阿含/第四十一経には「識神」として説かれているとのこと。
また中村 元氏(『原始仏教の思想』中村元選集[決定版]第15巻 春秋社p.652)によれば、
DN.23の『パーヤーシ・スッタンタ』と長阿含/第七経の『弊宿経』においては、
積極的に輪廻の主体を想定する思想が仏教徒の主張として表明されているとのこと。
これらについて確認できた方は、
是非、このスレ上でその内容をご紹介下さい。
以上、宜しくお願いします。
763 :
時学0001 :2013/10/05(土) 13:09:00.38 ID:t3puEhIG
>>759 時という題目について学んだことがありますか?時宗つまり踊念仏。あれが何を言っているのか分かりますか?
たいせつなことは、もちろん、学び取ることですが、学び取ることよりも、能動的に学びをすることの方がたいせつであります。
受動的に学びをしていく中での、たいせつなことはありますが、それよりも能動的な学びをしている人々の方が偉大で
謙虚であります。つまり、時の学ですね。わたしは時学と名称付けていますが、時の単位を年というのを知っていますか?あれは
裏を返すと、時という授業の単位を取るという風に読み替えることはできませんか?そうなのです、浄土真宗大谷派の教師資格を
取る身分のわたしではありますが、なにを教えるためにとるのかわかりませんでした。でも、最近分かってきました、やはり教師ならば
教えないといけないということです。ところで、わたしは何を教えれるでしょうか?それはさきほど申しました、受動的な学問と、
さらには能動的な学問なのです。具体的にいうと、神の存在証明というのは、神に存在証明することであるとわたしは思っています。
そうでなければ、この世界の法則が分かっていないことになり、この世界でまた暮らし始めることを繰り返さないといけないのです。
具体的に言うならば、神の実験材料にされるレベルであるということです。神はすべてを見ていますから、もちろんあなたのことも
見ているでしゅう。あなたは、自分は今まで何をしてきたのだろうと反省してきたことはありましたか?それによって自分なりに
何かを書き記したことはありましたか。ないならば、あなたは神の実験材料にされるレベルであると言われてもどうすることもできない
かもしれないのです。そういう点では、神に存在証明をするわたしに、催促するという手もあるかもしれませんね。しかしわたしは
とてつもなくガードが固いのです。ですから、あなたにも、あなた以外のみなさんにも、容易く受動的学問は開示されません。しかし
それは魅惑的で、とてもいままでの猿種族のわれわれモンキーを縛り付けていました。それを解放するのも学問、わたしでさえ学問は
日常茶飯事なのですから。そう、たいせつなことは学びを深めること。そこから目に見えているものあるということです。これは確かな
情報です。
輪廻の詳細解説はイランのですよw 輪廻からの解脱について語ってください。
765 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 13:21:17.55 ID:lKdKpfsr
>>758 ご尤もです。
ただ、このスレの参加者は輪廻否定者が多数を占めているので、
そんな在るのかないのかもわからん、
いや、そもそもある筈のない事柄についてそんな詳細に扱ったところで
まったくの無意味/無価値だと罵倒されて終わりということ。
>>765 輪廻の詳細解説や死後の世界の詳細解説はまったくの無意味/無価値だと
罵倒されて終わりかもしれませんが、輪廻からの解脱〜については誰も罵倒しないでしょう。
767 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 13:37:53.93 ID:IoIvimlp
三法印と十無記(十四無記)とは同時に成立しないと思うが、 みなさんはこの点どう考えますか。 諸行無常 ・・・ 世界は常住か無常か 諸法無我 ・・・ 霊魂は有るのか否か 涅槃寂静 ・・・ 死後は存在するのか否か
768 :
時学0001 :2013/10/05(土) 13:41:52.20 ID:t3puEhIG
>>761 わたしは難解な文章にも草を刈って、茨の道を分け入るスタンスがたいせつであるとかんがえています。わたしがそのような
スタンスでいるわけは、時ということに深く考えさせられるからであります。というのも時というのは唯識学でも少なからず指摘されて
いる仏教の射程内のことがらであります。それはいいとして、わたしはまずあなたのアートマンの考えを読み込む前に自分のアートマンの
考えについて話しますね?わたしは、我(=アートマン)といわれるものは、弥勒であると考えています。それも成道後の弥勒仏のことであると
この薄学めが考えています。それではあなたの文章に目を通させていただきましょう。
目を通しましたが、ようはするに、常見と断見の話であったようですね。わたしは常見というのは、どのようなものなのか、断見とはどのようなものなのかを
まったく白痴な状態ですので、繰り返し申しますが、わたしはアートマンは弥勒仏のことであるという考えに実際到達したのですが、これを意見とするとあなたは
どのようなことを話してくださいますか?
769 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 13:50:01.06 ID:IoIvimlp
>>766 有るか無いかもわからない輪廻を語ること自体が邪見ですね。
悟りも解脱も、苦の滅にあるのではないでしょうか。
苦労不足だから宗教書をかじり、輪廻だとか神通力の虜になる。
それをこういう所で盛んに書き込む。
自分が害毒なのに気づかない。
さて・・・w
>>767 に、何パターンのレス(回答)がつくかな・・・?w
暫し静観w
( - _-)
( つ旦0
と__)__)
771 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 13:56:39.82 ID:IoIvimlp
そういえば、ブタから輪廻したノスというバカがいたな。 畜生道を歩み、またブタに戻りたいんだろう。
772 :
時学0001 :2013/10/05(土) 14:03:02.24 ID:t3puEhIG
>>767 あなたは軸Aというつまり三法印と、軸Bというつまり十無記について成立するか成立しないかで戸惑っているようであるが、それについて
わたしは助言出来る限りしたいと考えます。わたしも常日頃、世界の常住については考えていました。というのもそういう風な
考えが分かるからです。これは軸Bからみた、軸Aということです。しかしわたしにとって、軸Aからみると軸Bは全くわかりません。なにせ学びを
していないので、不明なのです。あなたは軸Aということも軸Bということも想定されているから、両方について見える。しかし、それでは、
既知の状態から脱出しかねます。一旦において既知するして、未知を探る方法をとっているようですが・・・とこのようにしてわたしは
いつもこの段階でとまります。あなたの発言の一つを考えて、自分なりに計算して、その後は努力でしょう?その努力をする勇気がないので、
あなたの発言は以前のわたしならば、すっ飛ばしていたでしょう。しかし今日のわたしは今までのわたしとは違う気がするのです。ですから、
答えられる気がするのです。この未知なあなたのことを、わたしは既知の面から語るのではなくて、わたし自身も不明(=未知)なる軸Bという
ものがあるので、その軸Bでもなく軸Aと軸Bの成立云々でもなく、まったく他方面から、書きたいと考えています。それによって、みんなの思いが
晴れることを願って・・・(その問題に関してだけの話)
これは諸行無常ということ、諸法無我ということ、涅槃寂静ということ、
この三つを説き明かせば、とりあえず、その成立云々もわたしの、もやもやも
取れる気がするのです。しかしながら、わたしは涅槃については、もう以前にその
意味について、ある定義をしています。それだから、残りの二つについてだけで
我慢してほしいです。
無常というのは、浄土に通ずる風(ルン)であると考えます。
無我というのは、我(アートマン)つまり、我(=アートマン)といわれるものは、弥勒であると
わたしは考えていますので、それに該当しない者たちの力または浄土であると
考えています。つまり、無常は無我と関係している面もあるが、関係していない面もある
ということです。結論です。こういう考え方はまちがっているでしょうか?あなたの意見をお聞かせください。
773 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 14:39:12.22 ID:jY10SrBm
>>754 パピーマン氏
>お前は勝手に、「彼の晩年の思想が悟りと異なっていたら 」・・・・こんな付帯条件をつけて、そして勝手に結論を下しているww
>覚者が凡夫にもどる?????
>>755 パピーマン氏
>12巻本に収録されていることから、道元禅師が「三時業」に見るような、因果論に行き着いたのは比較的晩年ではないかという見解がある。
覚者が凡夫にもどることはないし、その覚者が晩年に因果論に行き着いた、とパピーマンさん自身で正解を言っておりますね。 (^o^)/
774 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 15:50:43.95 ID:RpSbzhPb
>>773 wwww アホか?ww
まず、「道元が悟っていたか否か?」 はオレには判別不能wwよって
以下は、「悟っていたとしたら」との仮定の話だがw
道元は若いうちに悟った。因果(輪廻)に行き着いたのは晩年。⇒ならば、
「悟りに因果(輪廻)なんて関係ねえじゃんww そんなのなくても悟れるじゃんww」
はい、これ最重要ねwww
さらに、この「行き着いた」という表現だが、これは何も「それが真理である」と
覚ったなんて意味じゃねえぞww 覚ったのが若いうちなら、当然、その時点で
「因果(輪廻)」の是非なんて分ったはずだわなw なんせ「覚った」んだからw
ならば、何故、晩年においてそのようなことに言及したのか?w
一つの推測として
⇒「死期の近いことをさとった道元が、 修行僧への励まし、しっかり修行を怠らずに
継続する動機づけ 等を目して説いたことは十分、考えられるなw」
「仏道の修行は大変で苦しいものだが、決して投げ出さず継続するように。
今、その修行の果がならずとも、来世においてそれは成るかもしれない。
現在の修行は決して無駄になることはない。」・・・・ってな具合でねwwww
もし、道元が「輪廻業報論」を自己の教説の核心部分、絶対に外せない部分
であると考えたなら、繰り返し説いたはずだわなw 自己で著作する位、
自己の教説を伝えることに熱心だったんだからw
しかし、弟子たちとのやり取り見ても、全くそのような気配は見られんwwww
道元にとっては、「輪廻業報」なんて、それくらいの扱いだったんだよww
775 :
業報輪廻転生論は現生的なる法ではない :2013/10/05(土) 15:59:23.93 ID:4ABDRwbi
>>773 >覚者が凡夫にもどることはないし、その覚者が晩年に因果論に行き着いた、とパピーマンさん自身で正解を言っておりますね。 (^o^)/
アホ
ホントに姑息な我田引水の浅薄外道だ。
人間観察がなさ過ぎる。
道元禅師も人間であって、外道が妄想するような神ではない。
晩年にいたっての道元禅師の切ない心情を想い測れないようでは豚にも劣る。
壮年駿馬も、老いては並馬のような迷いも有りうる。
道元禅師も<筏>のひとつ。
我々は駿馬の嘶(いなな)きを聴けばいいのである。
776 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 16:22:17.64 ID:RpSbzhPb
>>727 >最近になって投稿規制がようやく解除されました。
>呆れるばかりですが、なんと丸一年もやられていました。
これはあれだなw 「前世の悪業の結果」ってやつだなwwwwwwwww
>明確に否定したのは一ヶ所で(「そんなものはない」と電話でキッパリと否定された)、
>日本三大禅の一つで中国禅の色彩濃い「黄檗宗」の総本山です。
>あとは、意図的に避けようとしたのか悉く無視されました。
>真摯な対応で肯定の紙面を届けたのは浄土宗のみでした。
黄檗宗だったっけw 殆どは、「回答保留」かw
まあ、そうだろうなw 現在の日本の坊主たちで、心底、それを信じてる奴が
一体何人いるか?ww しかし、今まで歴史的にそれを肯定してきた経緯もあるし、さて
困ったなw それには触れたくないなw というのが本音かww
んで、お前、まだ毎日、不動の真言唱えてるんか?ww
777 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 16:47:01.99 ID:JK9knDsH
778 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 16:57:18.67 ID:IoIvimlp
ギラン・バレー症候群・・・うさぎさんの疑われてる病気 もともとウィルスや細菌感染で形成された「自己抗体」が運動神経を傷害 両手両足に力が入らなくなる、感覚の鈍りや、歩行困難などの症状があり 重症の場合は呼吸も不可。難病に指定されている。 この病気はある意味、坐禅を強制されているようなことかも。 神経麻痺によって意識への刺激が無くなる 〜 意識への刺激が無くなる点は、坐禅の禅定と同じような気がする。 滅尽定への入りを自分なりに表現すれば、 燈っていた電燈が瞬時にバチンと切れるような感じ。徐々にではない。 その後の記憶はまったくない。
>>778 私も何回も全身麻酔の手術を受けましたが、全くうさぎさんの感想と同じですね。
臨死体験と全身麻酔の違いだけで、印象は同じです。
静脈注射で麻酔が入ってくると切れ目が分からず何にも無い状態になります。瞬時に
パチンではありません。すーっとという感じです。呼ばれて麻酔から醒めたら手術は
終わっている〜という事ですね。
麻酔と死ぬのとでは違うのだろうとは思いますが、何にも無くなる〜という事では近いもの
があるのではないかと思います。
死の恐怖の大部分はこの「自分が無くなる恐怖」だと思います。しかし、無くなれば恐れている
主体が無いのですからまさに無です。
誰かが言っていましたが、死こそ人生最後の大きな楽しみ〜まさに名言だと思いますw
780 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 17:22:42.42 ID:IoIvimlp
>>770 大乗経典は三法印、上座部経典が十無記ですね。
無記から、無常・無我・寂静へと変化したわけだが、
これは進歩したのか退歩したのか微妙。退歩した印象が濃厚。
@ 仏説だと思えるもの
A 仏説かどうか疑わしいもの
B 明らかに仏説ではないと思えるもの
この辺の仕分けをするだけでも、議論のテーマはつきないのでは?
議論のルールは、体証・理証・文証ですね。
この方が業報有輪廻転生より、よっぽど有意義だと思う。
>>772 ノス君よ、大乗だけでは謎々が解けないぞ。
他力ではなく自力だ。そうしないと自分の力にならないよ。
781 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 17:30:52.06 ID:IoIvimlp
>>779 自分も全身麻酔は二回やった。確かにスーという感じですね。
でも滅尽定とは違う。バチンと消える。瞬時に入る。
それでも主体はありますよ。
うさぎさんの体験は滅尽定の方だろうと思う。
>>781 意識が無く主体はるというのが分かりません。
×意識が無く主体はるというのが分かりません。 ○意識が無く主体はあるというのが分かりません。
784 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 17:40:38.12 ID:IoIvimlp
あ〜ごめん、781の「それでも主体はありますよ」は、 微妙な内容を全部カットしてます。誤解されそうな表現でした orz
785 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 17:47:48.54 ID:IoIvimlp
>>783 全身麻酔の場合は、深い深い熟睡なんですかね? まだわからない。
滅尽定は、身体から霊魂が抜ける、脱魂現象だと思う。
いずれにしても主体(霊魂)はあります。
>>785 私は全身麻酔時ですら主体はないと思っているのですが?
主体=意識でしょ?
意識以外の主体って何ですか?魂に意識があるのですか?
無意識の魂に主体があるとは思えません。
>>705 まず・・・
>@輪廻業法論は、無我との論理的整合性がとれてない
というのは、「死んだら我がなくなる・・・ その上で何らかのものがあれば、それは常住である。」 という、
「死んだら我がなくなる」 という、一般常識的な設定に、間違いがあるわけ。
一般常識的には、死後の世界というのは荒唐無稽として、否定したいがために、
「死んでも我がなくならない」 という設定が出来ない。
そこで拙速的に、「死後に我があるなら、それは常住だ、」 という風に決め付けてる。
そしてそれを元に、「それは無我と論理的矛盾が生じる・・・」 と結論付けてる。
最初の設定が一方的だから、後の結論も一方的になる。
>A
最古層の文献は、ほんのわずかしかない。
例えば、釈迦の語ったすべての教えを100とするならば、わずか1%を捉えて、そこに輪廻の記述がないから、
輪廻の教えを説かなかった・・・ とするのは、早計すぎる。
例えば、Aさんと1時間話したとき、家族の話がほとんど出なかったからといって、
Aさんに家族はいない・・・と、決め付けてるようなもん。
1年間話した内容を、後にまとめたら、家族の話も必ず出てくるだろ。
もし1年間話しても、家族の話題が出なかったら、Aさんに家族がいない可能性があると、いえるかもしれない。
古層の文献で輪廻の話が続出するというのは、まさに、残りの99%が出てきたと捉えることも出来る。
このように、わずかな最古層の文献に、輪廻の記述がないからといって、後に出てきたものを改変の、
一方的に断定することは出来ない。
>>705 ちなみに、最古層の文献に、まったくそれらしい記述が無いとはいえない。
例えば、
> かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。
と、ここに来世という言葉が出てくる。
この場合、否定的に・・・とか、積極的に説かなかった・・・というのは、
輪廻や過去世なども、超えるべき対象ということで、積極的に説かなかったとしても、ただちに否定されるものじゃない。
ちなみにもう一つ、
>かれらはすべて、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり、瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて、前世に宿善を植えた人々であった。
ここにも 「前世」 という言葉が出てくる。
最古層の文献に、「前世、来世」 という概念が・・・ しかもそれは単なる概念じゃなくて、
それを前提とした話しがあるってこと。
もし、最古層の文献が一番正しくて、それ以降が改変だというなら、龍樹を始めとする大乗仏教も、
ほんものの仏教ではない、ということになる。
そこで矛盾が起こるのは、それ以降の仏教を継承しながら、その仏教を行いつつ、輪廻を否定している人がいるってこと。
もし、輪廻を否定して改変のない仏教を求めるならば、継承された仏教を捨てて、最古層の文献にのみ従わなければならない。
のに、そうしていないってことは、結局、輪廻を否定したい現実主義者が、日本人の、自分の生活に根付いてる仏教を否定するわけにはいかない・・・・
しかし、輪廻を認めるわけにはいかない・・・・ その苦肉の策が、「改変された」 という設定なんだよ。
輪廻の話をしている龍樹を祖として設定している宗派の継承者が、輪廻を否定する・・・っていうのは、祖を否定する・・・ってことにも等しくて、
それならば、その宗派をやめればいい。
そして、わずかな最古層の文献を元にした、本当の仏教と信じるものを、立ち上げたらいい。
しかしそれは、前のたとえでいうと、釈迦の語った1%にすぎないわけ。
他の輪廻も含めた99%は、不明・・・ってことになる。
都合のいい部分だけを継承して、 自らの現時主義に合わせた部分だけを継承するって、
まさしくそれは、現代における改変だよね。
>>705 787の、「死んでも我がなくならない」 ・・・というのは、
常住的な意味ではなくて、現象世界(色)の我としての存在のこと。
無明の滅によって滅びる「我」、 一定の状態を保たず、変化しながら輪廻する「我」のことを言っている。
もう私は仏陀が輪廻を説いたか説かなかったかというような論争に興味が無くなった。 輪廻は個人的には無いと思うが100歩譲ってあったとしよう。で仏陀は輪廻からの解脱を説いたんじゃないの? 輪廻があるのかないのかの議論より輪廻解脱の議論の方が数百倍有意義。 輪廻あるなし論争に意味は無い。時間の無駄w
791 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 18:13:55.49 ID:IoIvimlp
>>786 全身麻酔でも無事に生還するのだから、
主体は存続していたのであり、無に似ているけど無ではない。
脱魂して意識を失うのは、意識の本籍が霊魂だから。
滅尽定の最初から意識が霊魂と共に動かないのは、
生き物は意識と身体が別々に働くように設計されているからかも。
意識と身体は別物であり、その証拠は睡眠でも明らかです。
意識が無くても、身体はある程度生きていられる。
魂魄、魂と魄はそれを教えている。滅尽定の身体は魄で生きている。
魄というのは無意識です。
>>791 意識=霊魂=主体だが、体が眠っている(死んだ後)時は働かない〜
しかし、働かない主体(意識、霊魂)って意味があるのでしょうかねえ。
793 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 18:28:45.33 ID:4ABDRwbi
>>790 >輪廻があるのかないのかの議論より輪廻解脱の議論の方が数百倍有意義。
>輪廻あるなし論争に意味は無い。
「業報」「輪廻」「転生」それぞれが@有ることの証明があってはじめて、
『輪廻解脱の議論』が成り立つ。
Aないことの証明がある場合
Bある・ないに関わらない場合
『輪廻解脱の議論』は成り立たない。
@は書いた経典があるということと、それが伝承というだけで、事実として検証されたことはない。
書いた経典があるだけ、伝承というだけで信じるのは<信仰>でしかないから議論は無意味。
従って、客観的な証明が成立されるまで業報輪廻転生論はカットしておくのが当然だ。
業報輪廻転生があろうがなかろうが、実存苦はあるのだから、その克服だけを考えればいいのである。
世界観の構築は仏教ではない。
794 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 18:34:50.16 ID:IoIvimlp
>>792 >意識=霊魂=主体だが、体が眠っている(死んだ後)時は働かない〜
>しかし、働かない主体(意識、霊魂)って意味があるのでしょうかねえ。
霊魂が地上で生きるためには重要な意味があると思うな。
それは地上で働くように作られている。
>>793 あなたが「検証」と書くと、無限遠点を思い出してしまうんだけど?w
輪廻なんてあってもなくても良いという人間は多いでしょう。
ひょっとしたらあるかも〜くらいの人間もいるわけです。
で、仮にあったとすればで、輪廻解脱の議論は有意義です。
あるなし論より輪廻解脱論の方が数千倍有意義w
でも、たしかに世界が無常と断定できないのだとしたら、諸行無常と矛盾する気がするな 諸行とは、個々の形象を形成している形成力と判断しうるので、ものが常なる変化をしているという意味だろうね 一方、世界というのは器世間ということであろう、その器自体は常に変わっているとは言えるのだから 無常であろうことは言えるはずだが、ここで問題しているのは、おそらく 器がいつか器としての役割をなさなくなるかどうかではないかね、つまり縁起を構成している何かが なくなるということがありうるかどうか、きっと諸行無常からはそれは判断できない問題なのだろう。
>>796 死んだ人を思い起こす人がいなくなったら本当に死んだ事になる〜というのがあるね。
つまり、そういう事なんじゃないの?縁起という点で見れば。
また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏法僧ありといはん、これを信正と名づく。 因果なく、三宝の性異なりと言ひて、もろもろの邪語、富蘭那等を信ずる、これを信邪と名づく。 この人、仏法僧宝を信ずといへども、三宝同一の性相を信ぜず。因果を信ずといへども得者を信ぜず。 このゆゑに名づけて信不具足とす 少なくとも、因果業報を撥無するのは仏教徒ではないよ
>>798 だから信じる信じないは個々人の選択の自由。
輪廻があると仮定して、輪廻解脱を論ずるのに、信じていないものは語るべからず〜
というのですか?
仏教徒であろうがなかろうが、そんなものはどーでも良いw
800 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 19:35:03.35 ID:IoIvimlp
>>795 >で、仮にあったとすればで、輪廻解脱の議論は有意義です。
>あるなし論より輪廻解脱論の方が数千倍有意義w
輪廻解脱など輪廻がなければ無意味でしょう。
世の中には、輪廻に興味がない人がいっぱいいるでしょうに。
何で輪廻解脱を議論をする必要があるのですか。
意味がわからん。
>>800 輪廻があるとして、あると仮定して〜と何度も言ってますが?
仏典にあるのだから〜は受け入れて、仏典に輪廻詳細解説〜というのもあったとして
(私はそこまで知らない)それが重要なのか、輪廻からの解脱が重要なのか?
普通は後者でしょう。
だったら、あるとかないとか論争するより、輪廻解脱について語ったほうが有意義でしょう。
したがって〈因果応報〉といわれるように,それはわれわれの行為を倫理的に規定する教説である。 自己の原因としての業がなんの結果ももたらさないと考え,いかなる道徳的行為をも否定する見解 を〈因果撥無の邪見〉とよび,そのような見解をいだく人を,けっして悟りを得る能力のない 〈断善根〉の人とよんで強く非難する
>>802 で、あなたに伺いますが業の深い私はどうすればその業を減らせますか?
具体的に教えてください。
804 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 19:49:11.79 ID:jY10SrBm
>>774 パーピマン氏
>⇒「死期の近いことをさとった道元が、 修行僧への励まし、しっかり修行を怠らずに
継続する動機づけ 等を目して説いたことは十分、考えられるなw」
>>775 業報輪廻転生論は現生的なる法ではない氏
>晩年にいたっての道元禅師の切ない心情を想い測れないようでは豚にも劣る。
壮年駿馬も、老いては並馬のような迷いも有りうる。
(道元禅師)
仏祖の道を修習するには、其の最初よりこの三時の業報の理を効い験らむるなり、
爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり。但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
当に知るべし。
↑この強烈な説法が修行僧への励まし?、老いた迷い?、「当に知るべし!!!」
805 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 19:51:01.00 ID:IoIvimlp
>>800 おいおい、仮定なら何でもいくらでも話せるだろう。
まずは事実らしきものを優先しよう。
事実とは思えない輪廻など、最後の最後に後回しでいい。
輪廻があると信じる人ほど カルトにはまりやすい 在さんみたいに と思うが 私には全くかんけーないわ どうでもええ
>事実とは思えない輪廻など、最後の最後に後回しでいい。 後回しもなにも輪廻で止まって進んでいないように思えるのですが?w
808 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 19:56:27.62 ID:IoIvimlp
>>802 俺は因果撥無は仏教では断善根とか信不具足とか一闡提とか言われて非難されているという
事実をあげただけだよ、その解決方法までうけつけてない
あと、寛容と放縦はちがうと思う。
規則を守っている者に規則を破る自由度を与えることと、規則そのものを廃棄することはちがうよ
そういう文脈が分からない者は危険だね
部屋を自由に使っていいよって言葉の加減を知らない若者とか、そうだよね
810 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:01:01.83 ID:IoIvimlp
>>807 輪廻がなければ、その先には進めないということ。
家の中に入らずに、家の中を議論しても無意味だってことかな。
そんなに難しい話じゃないと思うけど。
>>809 何が言いたいのか分かりませんが、結論としては、輪廻転生を信じないものは
非難されるという事実がある、輪廻転生からの解脱については、知ってても
教えてあげない。(あるいは、知らないから教えられない)
これじゃ、まったく意味なしですねえw
そんなもの信じても、知っている人からは解脱について教えてもらえずでは
誰も、益々信じなくなると思いますよw
812 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 20:05:36.72 ID:lKdKpfsr
>>810 「輪廻がなければ」ではそのとおりでしょうが、私は輪廻が仮にあるとして〜
で輪廻解脱を語り合いましょうと提起しているw
輪廻解脱は仏典に書いてあるでしょう?読んだ事ありませんか?
>>811 別に輪廻までは言ってないよw
業というのは、決定論から仏教を区別する重要なファクターだし
その責任をもたせる業報論は倫理的に当然要請される
だから、因果を撥無するものは仏教徒ではないと非難されるんだよ
寝坊したけど、責任とりませんじゃ話にならないだろ、少なくとも撥無は許されない
交通事故にあって来れませんでしたは、同情的に許されるということはあるかもわからんが
815 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:10:28.33 ID:IoIvimlp
>>813 おいおい、仮定なら何でもいくらでも話せるだろう。
まずは事実らしきものを優先しよう。
事実とは思えない輪廻など、最後の最後に後回しでいい。
816 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:10:32.92 ID:jY10SrBm
>>807 >後回しもなにも輪廻で止まって進んでいないように思えるのですが?w
確かに議論が「輪廻」で輪廻しており、解脱できておりませんね。
(議論ネタ1)
・無我と輪廻とは論理矛盾する
・非我と輪廻とは必ずしも論理矛盾しない
・「アナッタン」を非我と訳さずに無我と訳したから混乱が拡大した
(議論ネタ2)
・縁起とは相依相関ではない
・世俗諦では縁起とは因果の法である(時間・運動を含む)
・勝義諦も世俗によらなければならない
誤解@(アナッタン=無我)、誤解A(縁起=相依相関)、と仮設して対話しております。
勿論、隠教と近代仏教学では、縁起=相依相関=無我、だとは認識しております。
以上、一休さんで、議論の整理、整理。
817 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:16:18.39 ID:IoIvimlp
輪廻の記憶がないのに、 いくら輪廻を議論しても話は決着しないだろう? こんな簡単なことがなぜわからない。
>>814 ああ、失礼しました。
因果応報と業報輪廻って重なるんですよね。
つい、間違えました。
しかし
>>798 の因果業報って初めて聞きましたが、この言葉はあるのですか?
819 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 20:17:38.86 ID:lKdKpfsr
>>768 はい、この私の個人的見解としては、
ニルヴァーナ(涅槃)の境地に到達した者がアートマン(我)に目覚めた者なので、
つまり、如来仏とはアートマンを見出した者です。
従って、成道後の弥勒仏とはアートマンそのものに到達した者です。
尚、ウパニシャッドにおける教えと実践はそのアプローチの違いにしか過ぎない。
ただ、ゴータマ当時のバラモンたちには成就者はなく、
アートマンではないものをアートマンであると誤認する者ばかりだった。
そう思っています。
おや宝珠さんが出現 毎日真言となえて なんか効果ありますか 宝くじが当たったとか なんで自分の体をいじめるの こころなかばにして修行中に亡くなる人は大勢いたらしいよ
821 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:22:34.37 ID:jY10SrBm
>>819 宝珠氏
>アートマンではないものをアートマンであると誤認する者ばかりだった。
そう思っています。
だから「それらは全てアートマンでない(アナッタン、非我)」との仏説ですね。
823 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:31:50.92 ID:jY10SrBm
>>816 >確かに議論が「輪廻」で輪廻しており、解脱できておりませんね。
いくつか前の世(スレ)に他称「一代」氏がおられましたが、その方は
「七輪廻見」(輪廻を否定する仏教学者への反駁)を説いて解脱されました。
それ以外の住人はほとんど現板に再生しております。
再生した理由はセブン氏が自己分析されてましたが、私も心当たりがあります。
824 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:46:00.91 ID:IoIvimlp
輪廻からの解脱とは、輪廻があってこその解脱だよね。 その輪廻がないとしたら話にならない。 輪廻がなくても仮定してというが、そんな話はムダ話のタワ言だね。 火星人や金星人の話をするのと同じじゃないか。 輪廻の記憶があるなら別だが、あなたには無いんだよね。 あなたはそれどころか、全身麻酔で無を体験したとカン違いしている。 輪廻からの解脱では、問題の設定が根本的に間違ってる。
>>824 勘違いもなにも無は無ですよ。
全身麻酔は間が無くなります。まさに無です。
夢を全く見ない睡眠状態のようなものです。
死と同じではないでしょうが、近いものではなかろうか?と言っているのですよ。
輪廻からの解脱は、輪廻なしに語れますよ。
輪廻があると仮定すれば良いだけです。
よいことをすれば報われるってのは人が当然のぞむものなんだよね たとえば世の中で正しいと思われている人って必ずしもその報いを受けていると言えないよね? だったら、正しいことしなくてもいいじゃん、てことになりかねない。 これでは社会が混乱するし、正しいとはどういう意味であるのか分からない。 だから、人は自分の行いがどうして報われないのかと問わざるをえない 古今東西でこれに論理的に無矛盾に答えられるのは二つしかないそうだ。 一つが仏教というかヒンドゥー教由来の思想で業報輪廻説。 その世だけみると報われ方に過不足があるように見えるが、輪廻を繰り返した長い視点からみると 過不足なく決算されると見る。 もう一つが因果律を否定する見方。我々の行いに結果をもたらすかどうかは 神のまったく自由な意思によって決められるのであって、人間にはいかんともしがたく どうすることもできない、という見方ね。だからこの思想を信奉する人たちは神に完全に従おうとする。 彼らに道徳などない。神との契約だから守っているにすぎない。 主と従僕、マスタスレイプの関係だね、どちらが倫理的にすぐれているかは俺には分からん。 ただ、科学は因果律をみる。つまり科学はつねに神から解放へベクトルが向いているのだが 人間が絶対検証できない死後に関しては科学とても神(=理解不能の象徴存在)を置くしかないということであろう。 日本人はどちらかと言えば、倫理前神後である分、神前倫理後のキリスト教よりは科学的なのかもしれないな 科学的の使い方が正しいのかわからんがw
だから、神を信奉する人たちがアメリカインディアンを皆殺しにしたりしたけど あれも神が命じたからであって、彼らからすれば非難されることではないんだよね
828 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 20:58:15.49 ID:IoIvimlp
>>825 それはないなあ。何から解脱するの?
輪廻が明確にならなければ、輪廻からの解脱など話せないよ。
>>826 数学者の秋山さんが言ってますよ。
「努力は報われず、正義は滅びる、されど挑戦の日々」
この姿勢こそが大事なのでは?
良い事したら良い報い、悪い事したら悪い報い〜
そんな固定的なものを世の中と想像する事自体精神的幼稚。
一行でまとめてくれ
833 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 21:06:12.17 ID:IoIvimlp
>>826-827 >だから、人は自分の行いがどうして報われないのかと問わざるをえない
>古今東西でこれに論理的に無矛盾に答えられるのは二つしかないそうだ。
> 一つが仏教というかヒンドゥー教由来の思想で業報輪廻説。・・・
>もう一つが因果律を否定する見方。我々の行いに結果をもたらすかどうかは
>神のまったく自由な意思によって決められるのであって、・・・
この二つしかないというのは、あなたの考えですか。
それともどこかの大哲学者ですか。
>>833 少なくとも俺には、他に無矛盾な論理体系をすぐには思い浮かばないなあ
何かある?
835 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 21:13:09.64 ID:IoIvimlp
>>834 なーんだ、826はあなたの考えか。
だったら二つしかないなどと大げさに言わない方がいい。
別に俺の考えということでいいがw それならそれで、他にあるという反例をあげてほしい 別に俺は二つしかないとは断定していない あればあったで認めるよ
報われる、報われないに矛盾があるかないかなんて想定する事自体ナンセンス。 報われなくても良いと思って何らかの行動を起こすから物事が動く。 報酬を期待して動くのは日本では「卑しい」というのです。
一切知者さんとしてはなんらかの答えを用意したほうがいいと思ったのかもしれないが 俺ならやっぱり輪廻のほうが社会的に許容されうる考え方だと思うね
>>837 期待してやるのはいけないが、事実として報われないなら
誰もがその”正しい”ことをしなくなるだろ
戦場で敵に愛をとく味方兵士は誰もいないが、それは報われないからじゃないか?
事実として報われない人間は山ほどいる。 で、「もう正しいことはや〜めた」ってなるか?
努力がたりなかった=輪廻論的、運が悪かった=神論的 が大概だと思うけどな 俺は努力したというやつは、もう正しいことやめるんじゃね?
全然違う。だったら秋山さんの様な数学者は生まれない。
それか不正が行われたと見て、社会悪を排除する運動をおこすとかw 完全に詰みゲーなやつは、死んで来世で幸せになろうと思うやつもいるだろ
この辺が病巣。 根本的に間違っている。 報われない行動を起こせ。
捨て台詞どうも^^
>>815 「仏教」「仏陀の教え」という枠組みの中で議論するつもりなら、そうはいきません。
仏教ではない、新たな宗教として議論するなら、それもアリでしょうけど・・w
>事実として報われない人間は山ほどいる 靖国にいっぱいいるよ さて近いうちお参りいくか 御霊がいるらしいから
やっぱり・・・・・
無駄にスレが進んでやがる・・w ┐(´ー`)┌
思った通りだけどガックリだなw
>>767 の書き方(≒問い方)自体が滅茶苦茶だということを指摘する人間が居ないとは・・・。
一代なら、真っ先に、その3行の(対比の)おかしさを指摘するだろうに・・・。 orz
では、仕切りなおしで、以降輪廻解脱についてお願いします。 輪廻詳細解説、死後の世界詳細解説、輪廻あるだろ、ないだろ〜論は排除でお願いします。
850 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 22:41:45.53 ID:lKdKpfsr
>>820 到底、
そういうことをいう人には理解できないでしょうね・・・。
ただし私は、チベット・ネパール・ブータンなどに見られるような
一生涯をただ五体投地で巡礼するだけの人生を過ごして死んでいく人々の氾濫などは、
諸仏が望み喜ばれる世界(状態)であるとしては見なしてはいませんが。
確かにそれも立派な修行であり、
無意味、無価値な人生とはいいませんけれどね。
>>821 はい、その通りです。
そして、更にいうと、
私の採る個人的な見解では、仏教で説かれる過去七仏とはウパニシャッドの教えを授けた太古のリシたち(七聖賢)のこと。
しかし、やがてその教えも廃れて成就者の排出もなくなり、教えを誤解するバラモン司祭や行者しかいなくなった時代にゴータマが出現した。
このゴータマが見事に成就を果たして、その教えが仏教と呼ばれるものとなった(当時のバラモンの見解の間違いを正した)、と。
851 :
1/2道元禅の崩壊 序曲 :2013/10/05(土) 22:43:44.34 ID:4ABDRwbi
>>735 >善悪の報いには、次のどれかに当てはまる三つの決まりがある。これを三時という。
>一つには、「順現報受」… 現世において報いがある場合。
>二つには、「順次生受」… 来世において報いがある場合。
>三つには、「順後次受」… 第三世において報いがある場合。
>>804 >↑この強烈な説法が修行僧への励まし?、老いた迷い?、「当に知るべし!!!」
人間を洞察できない浅薄外道の表相反応には呆れる。
晩年に於ける道元の「三時業」の論理はどう考えても小乗アビダルマからのパクリだ。浅薄外道がそれに脊髄反射しているだけだw
これ、晩年の迷いの道元禅師が、アビダルマ(小乗)の論書である「大毘婆沙論」からの引き写しだと言うことに注意。
かつて論破したはずの小乗「大毘婆沙論」に依拠して無理にも『三時業』を説かなければならない背景には、
ただ坐禅にうちこむことが最高の修行である=★<只管打坐スタイルが、じつは「因果撥無」ではないかとの根本的疑念>★があるからだ。
★『無門関』第二則百丈野狐の「不落因果」「不昧因果」の問題である。
これについては机禅師や大滝秀治が語ってきた。
本来、道元において打坐は修証一等の仏行であり、
修業を因としてその果報として証を得るもの(修因証果)ではなかったはずだ。
因円果満だ。修業と果報に因果が入る余地はない。只管打坐は善悪業を離れ、善悪思惟を離れていたはずだった。
ゆえに道元は修行僧たちを励ます。
『しかあれば、参学の雲水、かならず勤学なるべし、容易にせしは不是なり、勤学なりしは仏祖なり。
おほよそ心不可得とは、画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽するをいふ。』(道元 正法眼蔵 心不可得より)
852 :
2/2道元禅の崩壊 序曲 :2013/10/05(土) 22:44:37.09 ID:4ABDRwbi
(続) しかし、ブッダも出来の悪い弟子に手を焼かれたように(中部107)、 道元にも『在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり』(『正法眼蔵随聞記』)。 ▼“坐れば仏、善も悪もない”というアホ弟子のアホ悟りの邪見が続出したのだ。 完全な因果撥無である。これでは仏法そのものが崩壊してしまう。 だから道元は曲げて<三時業>をアホども書かねばならなかったのだ。 道元禅師の失望・落胆、導師としての切なさ、慙愧の至りは察して余りある。 「仏法参学には第一因果を明らむる也」(深信因果)との苦渋の宣言のなかに、 二十年以上仏法の何たるか、坐禅のなんたるかを説き尽くしてきた道元禅の真髄が、 崩壊してゆくのを見とどけざるを得ない、 まさに一切業無常のブッダの法だったのである。 我々は壮年の道元という駿馬の嘶きだけを聴けばいいのである。
>>850 私はあなたに伺いたい。
あなたがかつて、人が1万年生きるとか、水の中でも暮らせるとか、空も飛べるとか、
食事をせずとも空気中のエネルギー摂取で生きられるとかの持論は今でも変わりませんか?
854 :
2/2道元禅の崩壊 序曲 :2013/10/05(土) 23:14:05.76 ID:4ABDRwbi
>>848 >
>>767 の書き方(≒問い方)自体が滅茶苦茶だということを指摘する人間が居ないとは・・・。
あのですねえw
回答は既に出ているんですから(⇒
>>428 )、
このスレから何を汲むかはそのお方の力量の問題でしょう。
『=二相構造=
(A)縁起の間接(還滅)現実<分別知覚・記憶・判断の二項相対を通す> *世俗←分別相
@一切内 ・時間: 一切行無常(有⇔無の相対無) 空間: 一切法無我(有⇔無の相対無)★←無我(なし)
A一切外 無記
B間接現実一切からの直接現実の隔靴掻痒の“示唆”: 月を差す指
間接否定言辞形式(四句第4:直指肯定不可):不・否・無・非・異・違など
・言語形式 <如く> 非有非無 非無常非恒常 不生不滅、 不一不異 非無我非有我★★←非我(〜でない)
*言語表記では、 <非(不)〇〇非(不)△△>という両端間接否定形式が直接現実を示唆できる限界。
・比喩(〜の如し)、沈黙(唯摩経など)、気合音(喝ァ〜ッ!など)、衝撃、動作(扇を使う、草鞋を頭へ、)、無関係語など
*悟達者の還滅(間接)現実(無分別の分別)
(B)縁起の直接現実<般若智(無分別)智直接智覚による縁起の現(あるがまま)観> *勝義←無分別相 :無矛盾
・〇〇〇〇〇 ⇒ (メタ空) ←あえて空(知・不知も、沈黙・発言も不可:平常(無分別)心是道:あるがまま)
・無意味・無価値・無矛盾・無実体・無相・無分別の空=中道=時空際断(間接現実の空間・時間の“際”そのものが断た
れている)の如し 』(
>>428 )
ペンキ屋一代さんには異論があるでしょうが、
あのお方も<混ぜるな!危険>を平気で犯す方ですからねえ。
アタシとは仏法の根底観で水と油ですねえw
>>854 私は無分別知の世界は想像でしか理解できません〜と前にも言ったはずですが。
そんな世界は独りよがりに陥りやすい世界だとは思います。
無分別智を水戸黄門の印籠のように出せば、皆ハハ〜って服従するとでも思っているのでしょうか?w
あなたは、無限遠点の検証なしに認められませんよ。
自分で言った事です。発言撤回なしに認めるわけにはいきません。
私の中では只のハッタリ爺ですw
856 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 23:35:16.78 ID:4ABDRwbi
>>855 おやおや、ま〜〜〜だ女の尻の温もりに執着していたのですかw
これでもまだ気がついていないとは、やはり愚者です。
愚者は相手にしません。
以降、絡み禁止。
以上
聖者の仮面をかぶったハッタリ爺にもご用心w
858 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/05(土) 23:40:33.22 ID:lKdKpfsr
>>853 はい、確信しています。
寸分足りとも疑うことなくね。
通常、彼ら不死の覚者たちというのは世俗の毒煙に塗れた外界から遮断した世界におり、
肉体やエーテル体で生存している覚者方の場合には、ヒマラヤとかカルパティア山脈などに潜んでいます。
ヨーガ技法の熟練者であれば、殆ど無呼吸状態でも死ぬことはないし、意識的に心臓だって停止状態にできることは常識ですからね。
今でもヒマラヤ山中で修行しているヨーギ(行者)なら、一切の火を使用することなく雪の中を過ごし、
瞑想中には逆に自身から高熱を発散して周囲の雪をも溶かします。だから寒くもない。
大気中のプラーナを摂取することで食事も不要となることは、実在した聖者の実際の記録からも明らかです。
大衆はプラーナの摂取法を知らず、これを行うこともできないために生命エネルギーの摂取を食事から採っているのです。
その食べ物というのも、元を辿れば太陽から放出されたプラーナを植物が光合成の際に取り込んでいるものを間接的に体内に取り込んでいるに過ぎない。
まっ、その気ならばいくらでも詳しく話せますが、このスレ上では遠慮して100分の一も語っていないのです。
859 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 23:43:43.94 ID:RpSbzhPb
>>804 は〜〜〜〜〜〜?? 何が言いたいんだ?
「三事業」ってのは、ざっくり言えば「積んだ業は必ずいつかは、我が身に
降りかかる。それが良くても、悪くてもね」っていうことだがww
それは、一般衆生に対しては倫理的教訓となるが、修業中の仏僧に対してであれば
生活全てが修行なんだから、「修行がんばれよ。良かれ悪しかれ、今の君たちが
積んだ業は必ずいつか、その果を現す。」・・・・・っていう、励ましととることに
何の疑問が???www
>>858 で、その驚異的な境地というのは、生きとし生けるもの全てに必須な条件でしょうか?
つまり、そのような驚異的な境地はこの世の生きとし生けるもの全てに実践可能か否か?
その驚異的な境地を得る事こそ生きとし生けるもの全ての安穏に繋がるのでしょうか?
861 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/05(土) 23:58:09.66 ID:RpSbzhPb
>>787 あのねww 悪いが何の反論にもなってないんだよw
おそらく、君は「反論になってないことすら理解できなんだと思う。」
もしかして、お前は少し前にオレと「無我と業論の論理矛盾」で絡んだやつかな?
言ってることが全く同じで、こちらの論旨を全く理解できてないところが
同一人物のように思えるんだがww
正直、一から基礎説明をする気にはなれないww もう飽きたwww
せめて、「無我と業論の論理矛盾」というテーマの論点くらいは抑えてきてくれw
とりあえず、和辻と木村の論争あたりから読んでみたら?w
最古層文献の話にしても、並川の主張の趣旨を理解してからにしてくれw
また、ここで一から説明するのは辛すぎるww
オレが挙げたBの釈迦の人物像のプロファイリング・・・・・に関しても
もういいやw 興味があったら、経典調べてww
医療行為の禁止や占い禁止や、バラモンのやってた火の供養の禁止とか
・・・・あと、油は水に沈まねえとかいう話もあったがwwww
ww 以上ですww
また1000逝く前に容量オーバーだな・・。
ここは理解できるけど、ここは理解できない的理解はまだまだな気がするけどね
864 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 00:05:11.09 ID:RpSbzhPb
ありゃ〜〜〜〜〜ww すげ〜速度だなww これだと、950くらいで終了か?w 宝珠、次、立てれるか?ww
まだ書ける
866 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 00:23:57.64 ID:0SysEshS
>>860 「はい」でもあり、また「いいえ」でもある。
それらの驚異的な状態は、
自己の苦悩からの解放および他者に対する慈しみの奉仕行為の果てに、
その最終的な結果として自然と得られる境地です(また、その途中過程においては段階的な達成と成就とがあるのも事実)。
もちろん、万人誰にでもトライすることそのものは可能ですが、
けれども人により、その個人によっては着手できるレベルと達成段階は様々ということ。
ただいずれにせよ、最終的なゴールには何生涯もの時間を要することは必須。
ゴータマもあの釈迦族の王子としての生を受けた一つの生涯だけでの達成ではないということ。
ジャータカが示そうとする過去世物語(ゴータマ輪廻の過去世と菩薩行)の本当の意図はそこにあるのです。
あまり狂信的にならない冷静さも必要です。
今生だけでも解脱成仏できるなどと煽られて、無我夢中で修行に没頭した狂気がオウム信徒の姿なのです。
だから、何生涯も要するという事実を冷静に受け止めてから挑むことが重要なのです。
>>864 ホイ!!!
仏教議論スレッド74
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1380986425/l50
(1)世有常(この世は永遠か) (2)世無有常(この世は永遠でないか) (3)世有底(この世は有限か) (4)世無底(この世は無限か) (5)命即是身(魂と身体は同じか) (6)命異身異(魂と身体は別物か) (7)如来終(如来は死後存在しないか) (8)如来不終(如来は死後存在するか) (9)如来終不終(如来は死後存在し、かつ存在しないのか) (10)如来亦非終非不終(如来は死後存在せず、かつしないでもないか) 置いときますね
>今生だけでも解脱成仏できるなどと煽られて、無我夢中で修行に没頭した狂気がオウム信徒の姿なのです。 明日から本気だすとか言われても・・・ あなたは『四馬の譬喩』 をどう捉えますか?
869 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/06(日) 00:45:20.16 ID:0SysEshS
>>861 >最古層文献の話にしても、並川の主張の趣旨を理解してからにしてくれw
これはどういうことかね?
パピーマンの主張は、並川と同じ・・・ってことかね?
だとしたら、並川は、
「来世、再生という言葉はあるけれど、用例数も少なく、パターンもごく限られ、ほとんどが否定的表現によって説かれている、
だから、現世に力点が置かれていて、ブッダは輪廻に否定的であった・・・」
こういうことかね?
だとしたら、この並川の考え方はおかしいわ。
最古層の来世とか、輪廻を思わせる記述を見るとき、 「来世、前世」 というのは
超えるべき対象として、扱われているのであって、その存在が否定されているわけではない。
前提として、来世、前世という設定がありながら、それを超えていけ・・・・ ということ。
つまり、解脱の視点から見て、「否定的な存在」 であって、そういう意味では、
凡夫の「色」の世界も、「否定的な存在」 なわけ。
それを並川という人は、「解脱の視点からみた、否定的な書き方」 を、 「凡夫の視点から見ても、輪廻の否定」 と錯覚したんだろ。
そことのところを議論しないで、ただ一方的に並川の主張を理解してから来いとは、
どういうことだ?
並川の意見が絶対じゃないぞ。
で、無我との論理矛盾で、あなたが一方的に、「こちらの論旨を全く理解できてない」 というのは、
こっち言ってることを理解してないことの、裏返しなんだよ。
あなたの言いたいことは全部分かってるわけ。
その上で、それに対する反論をしてる。
だけど、あなたはその反論を理解できないわけ。
だから一方的に、「向こうがこっちの考えを理解出来てない」 と、錯覚するわけ。
よくこういうのがある。
レベルの低い人が、レベルの高い人の意見を聞いても、それが何だか分からない・・・
だから、その人は相手が自分の言ってることを理解出来ないで、ちんぷんかんぷんなことを言ってると思うわけ。
自分よりも高い視点でものを見てる人の意見・・・、自分の目線を越える高さは、自分では理解出来ないわけ。
そしてその意見を、まるで自分の足元に置いてしまうような真似をするわけ。
そして低いものが高いものをバカにする・・・・ あなたはよくこういうことをやってんだよ。
>>870 つまり、私は低次元で語っても理解できないだろう〜と併せてレベルの低い話をするという事ですね。
分かります。そういう事もあろうと思います。
で、
>>866 手段としては瞑想ですか?瞑想により驚異的な状態に到達できたのですか?
その瞑想は普通の瞑想と違いがありますか?
あなたはたまたま今世だけで到達できたと〜
他の人間は今世だけは無理かもしれないだろうが来世も含めて頑張ってくれ〜という事ですか。
873 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/06(日) 01:04:49.20 ID:0SysEshS
>>868 確かに、「今生でこのままの身で仏陀にも成れる」と聞くと、
それが励みとなって勇気づけられ、行に没頭できる人が増えるのかもしれませんが、
所詮、それは事実ではなく不可能なこと(「四双八輩」の段階的境地による明白)。
また、下手をすれば周囲の見えない狂信性に拍車をかけます。
逆に、「来世もある」というと、
修行の在り方が怠惰になると見なす向きもありますが・・・。
これは要するに、
事実を直視して淡々として歩むことが大切ということではないでしょうか?
>>861 ちなみに最古層の文献って、スッタニパータ全般・・・ってことでもいいのかね?
4章と5章に限ってない?
だとしたら、
>実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。
この文章をどう捉えるのかね・・・?
もう一つ、
>かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。
ここで言うところの 「あの世」 とは、一体なんなのかね?
ブッダが 「あの世」 と 「輪廻」 に否定的ならば、「あの世に去る」 という言い方はしないはずだろ?
「あの世に去る」 主体とは何なのかね・・・?
もし 「無我と矛盾する」 というなら、「あの世に去る」 という言い方も、
また矛盾することになるよね。
ブッダの最古層の文献でそういう論理矛盾をやってるって、おかしな話だよね?
875 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 01:32:39.95 ID:pFQzaYax
>>871 >「来世、再生という言葉はあるけれど、用例数も少なく、パターンもごく限られ、ほとんどが否定的表現によって説かれている、
>だから、現世に力点が置かれていて、ブッダは輪廻に否定的であった・・・」
お前ねえw、 これもしかして書評なんかの抜粋じゃねえの?ww
以前にも、その書評だけ読んで、ポイントのずれた批判してたやつがいたけどw
「ゴータマ、ブッダ考」読んだ?
そして、最古層にはサンサーラという語彙のしようなし、さらには「業についての
記述も皆無」・・・・それらは、全て古層以降に登場、年代と共に語られるようになるw
さらに(古層だけど)マーガーンディヤの問いに対する
釈迦の回答は?w
こういうところ、ちゃんと読みましたか?w
>そして低いものが高いものをバカにする・・・・ あなたはよくこういうことをやってんだよ。
wwwwwwwwwwwwはいはい、もういいよww
オレはとりあえず、ここの住人たちと絡むからw
ここの古参住人たちは、見解も異なり、殆どの場合、叩き合いだが、少なくとも
お互いの言ってることの趣旨だけは理解してるww
話が全く噛み合わない・・・・・ということはないww
お前は、お前のレベルにあう「高い人」ってのと、対話してくださいwwwwwwwww
876 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/06(日) 01:37:29.59 ID:0SysEshS
>>872 確かに瞑想は中心ですが、
無害と奉仕(利他)行の実践が不可欠でしょう。
瞑想であれば何でもいいです。簡単なものから始めればいい。
もちろん、中には優れて効果的なものもあるのは事実です。
私も実践している神智学系の瞑想の一つは、完成した覚者方による遠隔操作によって実践者のチャクラを安全、
且つ、最も効果的にエネルギーを伝導して活性化するものです(人により慣れれば、エネルギーの流入の感覚はハッキリと知覚できます)。
また、ヨガナンダ指導のクリヤ・ヨーガの瞑想呼吸ならば、
今生でも心臓を止めて仮死状態にまでもっていくニルヴィカルパ・サマーディにまで達することも十分に可能です。
>あなたはたまたま今世だけで到達できたと〜
>他の人間は今世だけは無理かもしれないだろうが来世も含めて頑張ってくれ〜という事ですか。
いえ、完全なゴールには何生涯も必要なことです。
たった一生涯だけでは不可能です。逆に言えば、ここに万人成仏の可能性が示されている、と。
877 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 01:52:54.46 ID:J+O5opiB
878 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 02:00:23.68 ID:J+O5opiB
>>850 >ただし私は、チベット・ネパール・ブータンなどに見られるような
>一生涯をただ五体投地で巡礼するだけの人生を過ごして死んでいく人々の氾濫
外部者から見れば、君の言ってることも、それと全く同じ、または以上なのだがw。
一体どこが違うのかね?
879 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 02:00:51.72 ID:pFQzaYax
最後にひとつだけ言っておくと >ブッダが 「あの世」 と 「輪廻」 に否定的ならば、「あの世に去る」 という言い方はしないはずだろ? wwwwwwwwww 父親が、子供に嘘をつくなと教えるとき 「嘘なんかついてると閻魔様に舌を抜かれるぞ!」と言いました。 さて、この父親は「閻魔の存在を信じていたから、そのように言及したのでしょうか?ww 会話の中に、ある存在、ある現象が登場したら、その発言者は、それが真実であると信じてる ことになるのでしょうか?wwww こいつの主張はいつもこの程度wwww 絡む気も失せるわwwww
>>875 ポイントがズレているというなら、そこのところを説明してみ?
おそらく、まともな説明は出来ないだろ。
前もそうだったよな。
まともな反論出来ないと、すぐあれを読んでみ、これを読んでみ、って来るけど、
それはもう逃げてるだけだよ。
この部分
> サンサーラという語彙のしようなし、さらには「業についての 記述も皆無
これが最終的な逃げね。
輪廻という言葉がない・・・と。
輪廻に主体がない・・・ というときと、死後に赴く主体がない・・・ ということと、
同じことだよね?
で、「あの世に去っていく{かれら}」が、いるわけだ。
「死後に苦しみを受ける {修行僧}」が、いるわけだ。
で多分、あなたは「主体」というところを、「常住の・・・」 という意味で、
だから、「無我」 と論理矛盾するんだ、 というところをこちらが理解していない、といいたいんだろ、多分。
で、言っておくが、「修行僧」や「かれら」は・・・ もしこの人たちが解脱すれば、
「修行僧」も、「かれら」も、あなたのいうところの、「(常住の)主体」 ではないわけだ。
つまりこの人たちは、解脱できないからこそ、「あの世」や「死後」に赴くわけで・・・・
それをスッタニパータは言ってるわけで、そもそも「常住の主体があれば、無我と論理矛盾を引き起こす」 ←ここまではいいんだわ。
その後、 「だから、ブッダは輪廻を(存在そのものを)否定した」 ←ここが間違いなんだわ。
主体(常住の存在)を認めれば、それは無我と矛盾する。
それはアホでも分かる。
この部分をあなたは、こちらが理解出来ていない、と、勝手に思い込んでるわけ。
ず〜っと言い続けてることは、「輪廻する何者かを、常住とみなす」 その設定が間違ってるといってるわけ。
あなたが自己中心の思い込みの世界に引き込むのはいいけど、傍からみていて、
「この人は愚かだな〜」 と思うよ。
881 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 02:07:11.47 ID:J+O5opiB
>>879 バラモン教の洗脳から離脱し得ていなかった釈迦は、「信じていた」から
言ったのかも知れんぞw。
宗教洗脳からの離脱は、決してそれほど容易ではない。
中村博士は、釈迦には独創性は皆無だった、と言っている。
882 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 02:12:57.55 ID:pFQzaYax
その輪廻する基体に、「それは常住でない」「それは変化する」「それは空である」 ・・・・・冠つければOKという単純思考なんとかしたら?wwwwwww 「業を引き受ける限り、それが一体一に対応する個識別性を有する基体」であることが 必須なのwww それが全く理解できてないのww ちなみに、今日、登場した宝珠ってのは、その論理矛盾を解消するために、 「真我」設定して、それを輪廻の基体としているわけw そして、釈迦は「無我を説いたのではなく、非我を説いたのであり、その実、 基体設定を認知していた」・・・・・こういう論旨なのw これこれで論理的整合性はとれてるわけwww ・・・・・・・ただし、それは仏教ではないwwwwwwwwwww
>>879 本当に反論が低レベルすぎる。
あなたのいい分だと、「輪廻に主体」 があっちゃ、
絶対にマズいわけだよ。
だから、最古層の文献に、「輪廻」という言葉がないんだと、言い張るんだろ?
それだけブッダは輪廻に関することを避けていた・・・・ つまり、人々にありもしない輪廻の話なんか、
したくなかったわけだよ、あなたのいい分だと。
で、輪廻思想はブッダ以前のインドに当然あったわけだから、輪廻をしらないってことはない。
「あの世」 という言い回しも、当然知ってたわけだよ。
で、もし、今まであった輪廻思想を否定したいんなら、人々がそこに捉われるのを徹底的に否定したいんであれば、
たとえ例え話でも、「あの世」 という言い方は、避けるだろ。 当然として。
「無我」 を最大の教えとして主張するなら、常住性を主体とする輪廻や、それに類する言葉を、
絶対的に避けるんだよ。
ではなぜ避けない・・・・?
それは、無我との論理矛盾もない、「輪廻するものもまた無我なる色の存在」 に他ならないからだよ。
もしこれに絡む気も失せるというなら、それはこちらの問題ではなく、
あなたがあまりにもこちらの意見を理解出来ないため、疲れて絡む気も失せたってことだろ。
人のせいにしちゃいけない。
884 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 02:25:11.93 ID:pFQzaYax
>で、もし、今まであった輪廻思想を否定したいんなら、人々がそこに捉われるのを徹底的に否定したいんであれば、 >たとえ例え話でも、「あの世」 という言い方は、避けるだろ。 当然として。 wwwwwwwwwwww もう、何をかいわんやwww 釈迦が輪廻を「否定したい」に変わってるww 誰が、いつ、釈迦は 「輪廻 を否定したがってる」なんて言った?www オレが、言ってるのは、釈迦は輪廻業報を「積極的に説いたのではない」と思われる・・・・だぞww 方便、比喩として言及することはあったろう とも書いたはずだが?www その、ひとの見解を「勝手に脳内変換する癖」・・・・・今までも度々あったがwwww 止めてくれる?wwwwwwwwwwww
>>882 だから何度も言ってるだろうに・・・・
人が現在に生きている上においても、一時間前と今の自分は、「同じ」 とも、「同じじゃない」 とも、
言えないんだよ、仏教的には。
諸行無常ってこと。
ではそれは一体なんなのか・・・ この世で「私がある」 と思ってるのは、一体何なのか・・・ っていうと、
それは、
> 一体一に対応する個識別性を有する基体」
ではないわけ。
仏教的には、だよ。
だからいつも言ってるのは、「一体一に対応する個識別性を有する基体」 っていうのは、
仏教的な考え方じゃなくて、凡夫の一般常識的な設定だから、 それを輪廻に当てはめてはならない
・・・・ってことなの。
あるときは仏教的な視野で、ある時は凡夫的な視野で・・・・ ってやると、おかしくなるでしょ?
もし一般常識的に輪廻を否定したいんなら、それは仏教外からやるべきであって、
「仏教とは〜」 という立場でやるべきじゃない、と言ってるわけ。
あなたはここのところを理解も出来ずに、こちらを一方的に理解していない、と、
決め付けてるわけ。
886 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 02:28:26.32 ID:pFQzaYax
>「無我」 を最大の教えとして主張するなら、常住性を主体とする輪廻や、それに類する言葉を、 >絶対的に避けるんだよ。 ・・・・と、決め付けておりますwwww 「対機説法」という言葉も知らんのか? こいつはwwwww
887 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 02:29:37.40 ID:J+O5opiB
>>885 「仏教」「釈迦」だけは、常住なのか。言ってることが矛盾しすぎ。
888 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 02:31:19.50 ID:pFQzaYax
>だからいつも言ってるのは、「一体一に対応する個識別性を有する基体」 っていうのは、 >仏教的な考え方じゃなくて、・・・・・ 「一体一に対応する個識別性を有する基体」 でなければ、「悪因悪果」が成立しないんですけどwww (やはり、今まで登場した中で最高クラスのばかだwww)
>>884 いや、ここいう否定とは、方便、比喩まで含めた否定・・・ということじゃなくて、
方便や比喩じゃない、ストレートな意味の輪廻の否定・・・ということだよ。
だから無我を仏教の最大の、絶対の教えとするならば、そういう「方便、比喩」 も、
矛盾してる・・・ってことだよ。
無我が絶対的な教えならば、たとえ方便や比喩でも、(常住主体のある)「輪廻やそれに類する言葉」を、使わないってこと。
無我を説いてるのに、常住主体を認める「輪廻」や「あの世」を例え話に使うって、おかしいだろ?
もし仮に、なんらかの例え話に使用することが出来るとすれば、それはブッダの「無我」と
論理矛盾しないから出来るんだよ。
890 :
? :2013/10/06(日) 02:40:32.87 ID:mdueuhdS
>>886 だからぁ・・・・、対機説法でも、常住の主体が輪廻する話は出来ないだろ、・・・って言ってんの。
>>887 「仏教」「釈迦」だけは常住とは、どこからそう感じたのでしょう?
892 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/06(日) 02:48:05.66 ID:0SysEshS
>>882 「真我」とは、ウパニシャッドの説くアートマン(我)と同義です。
従って、それは輪廻の主体ではありません(その誤解を犯したのが、当時のバラモンたちでした)。
輪廻の主体は、「魂」(ジーヴァ)です。
これは恒常永遠のものではなく、これも輪廻する間における仮の自己に過ぎず、縁起している存在です。
水野氏はこれについて「阿頼耶識」を上げましたが、それは所詮は大乗的アプローチですから、
それで私は今回、原始経典における輪廻主体(もしくは死後の意識存在)ということで、
>>762 にその情報を提供したのです。
ゴータマは、
アートマンとは異なるが死後も存続する意識存在について明確に述べたのだ、と。
輪廻主体の魂は有為なのですから、これは常住ではないので誤解の無きようお願いします。
893 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 02:48:48.00 ID:pFQzaYax
>無我を説いてるのに、常住主体を認める「輪廻」や「あの世」を例え話に使うって、おかしいだろ? ぜ〜〜〜〜んぜん、おかしくないww 相手に「重要な何か」を伝えるためであるなら、「そのような語彙を ツールとして使用しても全くおかしくないが?w」 そもそも、「言葉」などは筏ww 相手が、大切な何かを分かるのであれば、「この語彙は使用禁止」なんて 枠組みを設けるかよwwww お前は、何でも自己中の思い込みから発言しすぎww
894 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 02:51:12.52 ID:pFQzaYax
>輪廻の主体は、「魂」(ジーヴァ)です。 おろ? 呼び名を変えたか?w 以後は、「魂」か?w
895 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 02:55:28.29 ID:J+O5opiB
>>891 >「仏教」「釈迦」だけは常住とは、どこからそう感じたのでしょう?
では両者を「現代人の視点」から自由に解釈・批判しても問題ないということ
だな。なにしろ「諸行無常」なのだからw。
896 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/06(日) 03:03:45.10 ID:0SysEshS
>>894 いえ、一度も変えたことはないですよぉ。
究極の自己がアートマンで「真我」であり、
輪廻主体が「魂」(ジーヴァ)で、これは恒常ではなく輪廻の終焉と共に消滅します。
生前のパーソナリティが死後も一定の期間、存続するのが「霊」(心霊)です。
たとえば日本で通常「霊魂」という場合には、この輪廻主体と心霊とがごった煮で述べられているのです。
それは日本人にとっては、輪廻が明確に認識理解されていなかったからです(違いがわかっていない)。
それぞれの違いが分からない(ココ重要)と、
私のいってることは理解できないのです。
897 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/06(日) 03:05:32.08 ID:0SysEshS
追記: ついでにいうと、「真我」は輪廻しません。
898 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 03:06:08.02 ID:pFQzaYax
>>896 wwwwwwwwww
「霊」と「魂」と「真我」の三つあるわけか????
んっとに、ややこしいな、神智学ってのはwwwww
>>888 あなたの言ってることは全部分かってるわけ。
あなたの心が見え透くようだよ。
ただ、あなたが理解出来るように話すのが難しい。 非常に困難。
で、あなたは、「一体一に対応する個識別性を有する基体」 があるはずだと、結論付けてるわけだよね。
そして 「そのような基体が輪廻に存在するならば、それは常住だ」 と、決めてかかってるわけ。
確かにあなたの言うような基体が存在するなら、それは「常住」 ということになるでしょう。
しかしその場合、この世の人間にもそのような基体があるわけだから、この世においても、常住の基体を設定しちゃうことになっちゃうの。
そこをあなたは、「DNA」 といったり、「記憶」 といったり、その動かない確かなものを、必死に例を出してたわけ。
で、「記憶」 というのはいいんだけど、それをA→Aをつなげる確かな存在・・・と設定したら、
それは常住であり、仏教的ではない・・ということになるの。
つまり設定が間違ってるのよ。
前世から今世に生まれ変わった人は、確かに記憶を持ってるだろ・・・
持ってなきゃAがAに生まれ変わったとはいえない。
だが、その記憶の部分を、ある一定の変わらないもの、常住とするのはおかしい、ってことを言ってるの。
(ここでいう記憶というのは、Aさんの記録というニュアンスで、実際に思い出すことが出来る・・・ってことじゃなくて)
で、この世において、{一体一に対応する個識別性を有する基体} という常住の主体を設定してる人が仏教において
それを求めるってことは、それはナンセンスだ、と言いたいわけ。
ここのところは今までのやり取りを見ていると、あなたに理解する能力がないと見るね。
多分、こっちの言いたいことが分からないだろ。
ここが非常に疲れるところ。
900 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 03:14:22.00 ID:pFQzaYax
>>899 もう、いいよwwwww
「お前の」仏教では、「一体一に対応する個識別性を有する基体」はないんだよね?
でも「個識別性はなくても」 悪因悪果はあるんでしょ?wwww
Aさんの悪行が、Bさんに降りかからないで、ちゃんとAさんに現れるように
祈っておこうねwwwww (宝くじで一等とるより難しいだろうがwwwwww)
901 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 03:17:38.75 ID:pFQzaYax
>Aさんの記録というニュアンスで・・・・ しっかり、自分で「Aさんの」と言ってるwww ちゃんと「個を識別するもの」設定してやがるwwwwwwww
902 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 03:20:40.59 ID:pFQzaYax
は〜〜〜〜〜い、先生、質問で〜〜〜〜〜すwwww この「Aさんの記録」というのは、どこかで変わったりすることが あるんですか?ww 途中で、Bさんの記録に変わったりすることは あるんですか?w それとも、ず〜〜〜〜〜〜と「Aさんの」なんですか?ww
903 :
宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk :2013/10/06(日) 03:21:34.94 ID:0SysEshS
>>898 曖昧さをなくし、
明確さと具体性を提供する姿勢が神智学ですから。
詳細はまだまだ膨大で深いですよ。
もし、難しくて混乱するだけだという場合には、
ゴータマのように「いいから、黙って腕立て伏せ千回していなさい」、
そうすればその分の筋力がつくから・・・という指導になるでしょうね。
けれど、仏教でも本当は同じですよ。
「真我」については無機(語らず沈黙)としましたが、
輪廻主体としての「魂神」や「識神」については教えた(後の「阿頼耶識」)。
また、輪廻主体とは異なる生前の心霊としての餓鬼存在なども説いたのです。
>>900 >>901 そこに捉われることはもちろん分かっていたし、
だからこそ、「その記憶の部分を、ある一定の変わらないもの、常住とするのはおかしい」 とか、
「仏教的には」 という言い回しを使ってるわけ。
何度言っても分からない。
「記録」 という言い方は、あなたが 「前世の記憶が今世に引き継がれる」 つまり・・・ 「今生きている人が前世の記憶を思い出せる」 という風に捉えられるから、
なんらかの 「記録」 という言い方をしたわけ。
で、名称で捉えると、そのものが他との関係性を抜け出して、個別の、固体のように・・・つまり、常住であるかのような存在に見られてしまうけど、
実はその「記録」というのも、「常住じゃないんだよ、無常なんだよ」 と、いってるわけ。
それが一時間前の自分と、今の自分のたとえ話になってるわけ。
「個を識別するものを設定した」・・・んじゃなくて、「一度個を識別するものを設定して、それを無常として、常住の存在ではないと、否定」 しているの。
ここのところは何度説明しても分からないよね・・・
そもそもこの世に常住的な存在を設定するってことが、もう仏教から外れていると、
認識したほうがいい。
>>902 その、「ず〜〜〜〜〜〜と「Aさんの」なんですか?ww 」 ってところがね、
もう常住とか、無常とか、空とか、自性とか、そういう意味を理解出来てないってことの現われだと思うね。
その 「ず〜〜〜〜〜〜〜と」 っていうのは、「変化しないで」 ってことでしょ?
つまり、常住として扱いたいわけだよ。
で、そういうことをこちらは言っていない、って、何度も言ってるわけだよ。
こっちの言い分を、まるで理解してないわけ。
906 :
? :2013/10/06(日) 03:57:36.07 ID:mdueuhdS
>>903 宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk ID:0SysEshS さんへ
我、我所を滅する因縁の故に、無我、無我所を得て、智慧を決定して
そして
究極の自己がアートマンで「真我」であり
涅槃(ねはん) − 滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅
↑ こんな感じですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE サーンキヤの場合は
プルシャは
プラクリティから様々な原理の展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない、とする
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識(ゆいしき)の場合は
世親は「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論」等を著した
「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
言い表すことのできない → (仮設としての)実体がある ← とした
…
… それは、世間を超越した認識であり
煩悩障(自己に対する執着)
所知障(外界のものに対する執着)の
二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し
それを得たものは解脱身であり
仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
907 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 04:21:01.46 ID:pFQzaYax
>実はその「記録」というのも、「常住じゃないんだよ、無常なんだよ」 と、いってるわけ。 ・・・と、また冠つければOkかいwwwwwww >で、そういうことをこちらは言っていない、って、何度も言ってるわけだよ。 だから、どっちなんだよ?wwwwwwwww ずっと、「Aさんの」、なの? それとも、とちゅうで 「Bさんの」に 変わったりするの??? お前、絶対そこ、答えないじゃんwwwww ただ、「常住じゃない、無常だ」 と言い続けてるだけwwwww アホかwwwwwwwwww
908 :
? :2013/10/06(日) 05:03:59.91 ID:mdueuhdS
909 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 05:04:33.97 ID:pFQzaYax
オレが言ってることは、誰にでも分かる非常に単純なことwww 「この人は、Aさんの生まれ変わりなんです。Bさんの生まれ変わりではなくて Aさんの生まれ変わりなんです。」・・・・こう言えるためには、そう言えるだけの 何かがあるわけだw そう言える何かを、どう呼ぼうが構わないのww 「Aさんの記録」と呼ぼうが、「魂」でも「霊」でもなんでもいいわけww オレが聞いてるのは、たった一つw ⇒この「Aさんの記録」ってのは、生まれかわりを続ける間、(例えば、仏教では 解脱するまで続くそうで、さらにそれは無限とも言える時間らしいから、一億回 生まれ変わったとしようか?w) その一億回生まれ変わる途中で、それが「Bさんの記録」になったりすることはあるの? ってことww 例えば、5千万人目で、「Aさんの記録」だったものが「Bさんの記録」 になったりすることあるの? それとも、一億人目まで、ずっと「Aさんの記録」のまま なの? ってことww はい、もう「それは常住じゃないです。 とか、 無常なんです。」 なんて、余計な 説明いらねえから、 ⇒ に答えてみwwww 答えられる?wwwwwww
910 :
? :2013/10/06(日) 06:04:39.15 ID:mdueuhdS
911 :
? :2013/10/06(日) 06:12:21.69 ID:mdueuhdS
912 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 06:57:52.96 ID:7NP9cXor
>>909 横レスだが、釈迦は、その「己の我を以って無我を説く」という初歩的論理ミスで、
AさんBさんという「我」を否定しているのだから、その時点で「我の転生」という
概念は消滅している。無我である以上、何処まで行ってもAさんBさんという「我」は
ない。従って「輪廻」「転生」そして「無常」の概念も消滅したいる。「無我」なのに、
「我が変化する(無常)」とか「我の記憶」という概念も生じない。釈迦の勘違いは、
いくら足掻いても。もはや正当化は不可能である。
913 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 08:34:51.22 ID:RAY58Vvm
>>892 >輪廻の主体は、「魂」(ジーヴァ)です。
その存在を六処によって証明してください。
914 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 08:41:44.55 ID:RAY58Vvm
>>912 >「己の我を以って無我を説く」
・己の我:世俗的自己(仮設)
・「我」:超我
何十度も説明を受けても誤りを繰り返す認知証なら病院へ行くこと。
>>909 よく分からんのだけど、Aさんが生まれ変わってA’さんになって、A’さんが生まれ変わってA’’さんになって・・・・
A、A’、A’’、・・・が共通してもっている「X」というものがあるとする。
Xは二人以上が同時にもつことはできない。
また、Xには寿命があって、生まれ変わり100回でなくなる。
そうした場合、輪廻転生と無我は同居できるんじゃないの?
916 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 09:03:16.03 ID:RAY58Vvm
挙証不能の妄想問答がほとんど。
妄想でも論理的に無矛盾だと思うんだが 俺は業報論はあくまで倫理的要請に応えるものであって、正確でなくともいいと思う よってかならずしも自業自得である必要はない また、輪廻転生についても、かならず1人の生まれ変わりが1人である必要はないと思うがね
まあ、おれの印象としては パーピマンの二大論拠 @最古層に輪廻業報は書かれていない A輪廻と無我は論理的になりたたない は二つとも崩れているように見えるけど
ところで仏典でよく比喩に 太鼓をたたくと毒が消えるってエピソードがでてくるけど、あれなんなの?
>>905 >その 「ず〜〜〜〜〜〜〜と」 っていうのは、「変化しないで」 ってことでしょ?
>つまり、常住として扱いたい
そうじゃなくて、
「業果の受け手が定まらない」ということ。
業と果の連関が、行為者と果報の受け手との間が絶たれてしまう、ということ。
(中観的に言えば、行為者も受者も、行為も果報も無いのだろうけど・・w)
行為と果報との連関、連続性が担保される必要がある、ということ。
また、
宿命通によって過去生を想起するとしても、(それは、結果を辿っているだけとも言えるが)、
遡及し得る連関、連続性が要請される、ということ。
これを、一般的思想・思考は「魂」「霊魂」「霊」といったものに担わせる。
オカルトやスピ系では種々言い方はあろうが、それは名称が色々なだけであって、
構図は変わらない。そして、仏教に於いても、「識」(或いは jIva )がそれを担うことがある。
(それでも、常住かどうかの前に、まず、識蘊を除く他四蘊の和合が解けた後、
【三世に跨る形で】識のみが【継続する】のはなぜか?という問いが残ってしまう)
それは既に「我」的ではないか?
よしんば、新たに(滅しては)生じを繰り返すとしても、
前回・過去生じたものと今回・未来に生じるであろうものとが繋がれていなければ、
業と果が結ばれない。
922 :
神も仏も名無しさん :2013/10/06(日) 09:44:58.27 ID:RAY58Vvm
>>917 >妄想でも論理的に無矛盾だと思うんだが
仏法では妄想は相手にしない。
「莫妄想!」(無業和尚)
論理的に無矛盾の妄想を形而上学とか夢とか物語とかイリュージョンとかいったりする。
楽しい逃避だろうが、妄想だから真理・真実ではない。
業(行為:因),報(結果:果)を挙証できない「転生」に妄想で当てはめるからなんでもありの妄想三昧になる。
因果関係は厳然とした世俗的事実だが、その善悪評価は人間の妄想我執によるご都合主義だ。
事実と価値を混同するから勝手な(宗教的)妄想が生まれる。
>>921 問題は業なんだよね
業は生物が自分の運命を変えられるという決定論から逃れるために存在しているもの
たとえば津波に襲われたとき、逃げるという行為を取ったから助かるという結果をうる、といった場合も
業論の発生しうる状況なわけだけど、なぜ逃げたのか?と言えば、生物の保存欲求なんだよね
つまり、守るべきものという考えぬきに業というものは存在しえないと思う。
だけど、守るべきものというものがクセモノ。人間社会においてこれはたいてい自我をもつ生物個体なんだよね
だから、たとえある人物が自己犠牲精神を発揮して、自分の命とひきかえに村落の存続をなしとげたとしても
その人物からすれば業は報いられていると言えるんだけど、残された社会からすれば自我を前提として営まれているから
代替としてその人物の子孫が報いられるべきだといった発想へとつながっていく。
結果として、人間社会においては、自業自得のベクトルが強烈に働いていかざるをえないんだよね
他にも一人殺した死刑囚と百人殺した死刑囚も、同じ罰では不当というベクトルが働く。
よって、業は、つくった人物に帰属させようとする力、量がちがうから受ける量もちがうとする力が働く、つまり帰属化、定量化されていくわけ。
ところが無我は自我を前提とした社会をそもそも否定して、自己保身に汲々とする社会傾向を批判していくわけだから、
業の枠組みも本来否定されなければならない。もちろん無我の極致においては否定されるものなんだけど
実際の社会は、無我の方向に対して常に過渡的にならざるをえないわけだから、両方の性質をもたざるをえなくなる
それを無矛盾に説明した論理体系が唯識というべきだろうね
>>921 補
また、変化してもいいし、滅しまた生じてもいい。
(現に、宝・在版はそのようなものとして「変化するから(或いは一旦滅すから)」、
我ではない。無常であり、縁起している。どこも仏教と(三法印)と抵触しない、と。
そして、涅槃を見る、縁起しないもの・不滅のもの・目指すべき理想形として真我なるものがあり、
寧ろ、それこそをお釈迦さんは説いた、としている。涅槃とはまさにその真我である、と。)
問題は、変化の連続性。
長野の竈で火を焚いたら、長野の、その竈に、灰が生じなければならない。
決して、鹿児島の竈に灰が生じることはない。
三世に跨る場合と、日々の自己同一性との違いはここにある。
925 :
死にとむない :2013/10/06(日) 10:00:49.66 ID:RAY58Vvm
仏法の還滅法は、 無常(恒常不変なものはない)、縁起(ものは恒常自存していない)、空(恒常不変の実体はない)、 解脱(ものは恒常不変ではないからこそ苦からの解放が可能となる)、 一切法は無我である。 「身は死ねども魂は死なぬというは大いなる誤りなり」 「一切のもの,一たび,むなしくならずということなし。むなしくなるを本分のところへかへるといふ也」(『一休骸骨』) 一休の言う本分のところとは縁起の直接現実である。 縁起の直接現実は、対象化・相対思考撥無の中道(むなしく)だから、 本分のところも、かへるも、なにも、ことばがない。 それでも「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。』(現成公案 冒頭) だから一休も「死にとむない」(世阿弥 問聴) やはり一休は素晴らしい。
926 :
シモン・エピファネス ◆/bVPRrlaFM :2013/10/06(日) 10:28:26.33 ID:u0kRgfij
>>915 それはグノーシスの説く輪廻転生の教え。
最初の人間アダムに注がれたプネウマ(霊)が、人口増加つまり肉体の増殖と共に拡散していく。
聖火リレーがスタートしたらしい。 決して消えることなく継がれてきた炎だ。 それは、古の火と同じ火だ。 しかしながら、 火として「同じ」ということと、前の個別性継承して「同じ」ということとでは若干の差異がある。 次の走者(国)へ渡された火は、前(さき)の火と同か異か? 古人の言う通り、前後は際断されてあり、即今只今なれば、 (仏の視座に於いて)、こんな問いが無意味なのは当然としても・・・。
>>924 真我は必要ないと思うけどねえw
長野の窯で火を焚いたら長野の窯で灰ができるのも、一例であって自業自得の証明になっていない。
反例をあげるとすれば、南米の地震で三陸で津波が起こるのがそうではないか。
だが、それはまったく因果の結果起こっているのであって、とばっちりでもなんでもない。
たとえば、ある人物が外国の要人を助けて死んでしまったとする。その人物は天涯孤独で一人の親族もいなかった。
そこでその外国人がその人物の国に恩返しをした場合、報いはその人物とはまったく無関係なところに向かっている。
だが、その人物をつくりだした国というものを想定するなら、国という主体が報いられていると言える。
よって、実際は、業の報いられ方は自業自得であるとはかぎらないが、なら自分の業がかならず報いられるとはかぎらないから
捕まらないかぎり悪いことをして遊んでやれという考えの人間が起こったら、社会が混乱するのも確かだ。
よって自業自得は倫理的な要請であって、自然法則ではない。真実は無我。
>>928 >一例であって自業自得の証明になっていない
あったりめーじゃねーかw
何言ってんだよw
また、自業自得の証明のつもりなんか、これっぽっちもねーわ。
南米の地震と三陸の津波は、今日と明日の自分の違いが一年後の自分の違いになったのと同じで、
今の流れの例としては、ポイントがずれちゃうんだよ。
竈の例に戻せば、
右の竈(南米)で火を焚けば(地震が起きれば)、左の竈(三陸)の湯が温まる(津波が起きる)、
というようなもので、そのような法(理(ことわり))はアリなのw
>>929 つまり、譬喩だよね
ひゆってのは相手に理解を促すために存在するのであって
証明のためにあるわけじゃないよ
つまり、何度くりかえしても、正しさを証明することにはならない。
>>909 分かりやすく言うとね、あなたは「輪廻の主体たる常住なる我」 という設定と比較するために、
「一体一に対応する個識別性を有する基体」 という、この世における常住の、A→Aへと継承する、
「我」 を設定してるわけ。
そして、このような「我」が輪廻の主体としてあったら、それは死んでも残るものだから、常住であることになって、
ブッダの無我と矛盾するだろ・・・? と主張してるわけ。
これをもっと簡単に、分かりやすく言うと・・・・、
「この世の有我と同じように、輪廻の主体が有我ならば、ブッダの無我とは論理矛盾する・・・」 と言ってるわけ。
つまり・・・、あなたは「輪廻の主体が常住であったなら」 という、「常住」 なものに対して、
それを比較するために、この世のA→Aへと継承する、確固としたものを例示したわけ。
そして、こちらがその常住性を否定すればするほど・・・・、DNAは常住ではない、記憶は常住ではない、といえば言うほど、
確固とした常住なる存在を、より強固に、主張するわけになったわけ。
それが、「一体一に対応する個識別性を有する基体」 ということなの。
で、あなたは「死後に存在するアートマンというものを、仏教は否定している」 という大きな命題があるから、
「我」 というのは 「死後の存在」 というイメージで、捉えちゃってるわけ。
ところが、ブッダの「無我」は、 「諸法無我」 なわけ。
輪廻はおろか、この世ですらそうなんだよ。
あなたは・・・、この世に一生懸命常住なる存在を設定して、「輪廻の主体に我があっては、ブッダの無我と論理矛盾する・・・」 といいながら、
この世におけるブッダの無我を、破壊していたんだよ。
932 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 12:06:43.79 ID:pFQzaYax
>>931 wwwwwwwwwwwwwwwww もうそんな、手前勝手な妄想はいいっていったでしょ?ww
>>909 に答えられないんだったら、もう終了ねww はい、おしまいww
後は、 >セブン よろしくw
セブンに相手してもらいんさいw 彼のほうが、俺なんかよりずっと低脳くんの相手するの
慣れてるからww (在家相手にきたえているwww)
>>921 >識のみが【継続する】のはなぜか?という問いが残ってしまう)
> それは既に「我」的ではないか?
こことのところの話は、「雲」に喩えたと思うんですけど、
例えば 「識」 なる存在が、その人を継承させる担保だとしても、それはある一定のものではないとすれば、
それは常住ではない・・・、ということになるでしょ?
仮に 「識」なる存在があるとしても、その 「ある」 ということは、
人間の認識が勝手に設定しているもので、名称をつけることによって、無常の関係性から分離し、
固体のような扱われてしまう・・・・、そうすると、常住としての位置づけになっちゃうわけ。
だから、「識」 という時には、それが常住の固体であるかのような位置づけにならないように、
気をつけないといけない。
で、世俗的には 「識」 という名称をつけているが、後に、「五蘊皆空」として、否定されるわけ。
輪廻において、「ず〜〜〜〜〜〜〜っと」 継承されるもの・・、それが 「一定の変わらぬもの」 であると・・・、
「識」「一体一に対応する個識別性を有する基体」 という名称によって、「変わらぬ何か・・」 という設定をしちゃってるわけ。
それが自性というものだと、気づいてない。
つまり、最初の設定が間違っているということ。
ある者が、別の場所に、ある者として継承されたとき、そこにそれを継承させる「担保」を設定したならば、
そしてそれを後に非常住として、その常住性を否定しなければ、それは常住のものとしての扱いになります。
それは輪廻の主体だろうが、この世であろうが、関係ない。
A→Aへとこの世の時間的な移動であろうと、そうなります。
で、では、担保となるものは無いのか・・・? ってなると、世俗的にはそうではなくて、
「記録」というか、そういう一時的な仮の存在を設定するわけです。
凡夫の視点から見れば、それは「我」 です。
解脱の視点から見れば、それは「空」 です。
思うに、凡夫の視点での「連続性の担保」 を、そのまま輪廻に適用しようとするから、
話がこんがらがるんだと思います。
934 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/10/06(日) 12:17:44.49 ID:pFQzaYax
あ! そうそう、 >「無我」 を最大の教えとして主張するなら、常住性を主体とする輪廻や、それに類する言葉を、 >絶対的に避けるんだよ。 この珍説はもう引っ込めちゃうの??ww これは、大笑いできて楽しかったんで、出来ればこれからも言い続けて欲しいんだけどwwwww
>>921 ここらへんの説明は難しいんですが、「あるにはあるが、それは空だ」 ということです。
連続的に、ず〜〜〜〜っと続くから常住ではないか? という問いに対しては、
解脱によってそれらは滅せられるから、また、継承している間に一定の変化しない存在ではないから、
無常である・・・・、というわけです。
「業果の受け手を定める何か」 があったとしても、それは常住ではない、・・・といいたいのです。
でもし、本当に 「その存在を証明しろ」、 ・・というなら、それは一般常識的な証明を要求してるのであって、
仏教外のものになります。
>>934 その部分だけを抜き取ったら、意味が分からなくなるよ。
全体の意味を読まなきゃ。
>>889 >(常住主体のある)「輪廻やそれに類する言葉」を、使わないってこと。
って、書いてあるでしょ。
もしブッダが無我を主張するなら、『我があるとするような』「輪廻」を、たとえ比喩でも説かないってこと。
つまり逆を言えば、「無我たる輪廻」であるからこそ、それを説けるってこと。
>>909 ちょっと時間がないから簡単に説明するけど、
1000人目のAさんの記録と、5000人目のAさんの記録は、「同一のものであるとはいない」 ・・・ってこと。
その間にあらたな経験とか、後退とか、そういうものが付加されたり、
ある感情の記録が、別の感情の記録に変わったり、一瞬たりとも同一のものではないと、いえないということ。
938 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :
2013/10/06(日) 12:48:38.54 ID:pFQzaYax あ! 引っ込めないんだww こっちなら絡もうかな?ww 笑えるしwwww んじゃねw、 「ガッチガチの唯物論者の物理学者がいたとするわなw 勿論、彼は幽霊、地獄、天国など一切、信じていない。それどころか、 そういうものが実際にあると主張するやからを「アホですか?」とまで、 思ってるw 」 さて、彼の幼稚園児の息子が、しょっちゅう嘘をついて困らせる。このままでは 将来も危ぶまれると考えた彼は、自分の幼い時の体験を思い出した。 自分も幼い時に、父親から嘘をつくことを叱られ、その時 「嘘をつくと閻魔様に舌をぬかれるぞ!!」と言われ、恐ろしくなって 一片に嘘をつくことをやめてしまった。w その体験を思いだし、彼は、この際、この方法が最も有効であると考え、 同じことを息子に言った。 ・・・・・・・さてと、上記のようなことは、起こりえないのかな?wwww 彼は、地獄など一切、信じていないが、『この際、そういう方便を使うことが 息子に嘘をつくという行為をやめさせるのに最も有効である』と考えて、それに 言及したわけだwww 上記のような事例は、起こらない・・・・というのであればそれで終了さw お前が世間の実際というものをまるで理解できない馬鹿だということで、エンドww 起こると言うのであれば・・・・・・ これまた おかしなことになるなwww 「釈迦が、輪廻業報論を信じてなくとも、それが有効であると考えて説法に使用する」 こともありえてしまうからなwwww