さて・・。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/877 > >>
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/874 > だから・・・・ 仏教学で言うところの、「輪廻の主体となる我は無い」 ってのは、
> 無我説から導き出したんだろ? 現・代・人 が。
それは、言い回しの形式がそうであるだけで、
内容は、現存仏典から導かれてるのさ。
(
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1372288226/869 >「輪廻前と輪廻後の存在との間に、継続性や連続性、或いは共通性が無い」
>ということが、事例(エピソード)として描写され )
そして重要なことは、この言い回しが誤っていて否定すべきであるというなら、
それは対として輪廻には主体がある、ということしかないということだ。
極の中観派の如く、或いは貴方のように輪廻自体を問題視しない立場なれば、
主体の有無自体が徒労なわけだろ?
主体を想定した方が良い枠組みならそれでいけばいい。
(キ教やイ教には、輪廻に限らず絶対的に必要だろうし。つか、それらには輪廻思想自体が無いか・・w)
主体無しの方が良い枠組みなら、それでいけばいい。(それこそ、現代常識での信教の自由だろ?)
社会的に有害なことに繋がらなければ、どちらを採っても構わない。
> 「縁起を踏まえろ」 ってのは、輪廻の主体となる我を想定すれば、それは常住の我を認めることになる・・・・
> 常住のものがあるかどうか、縁起を踏まえて考えろ・・・ってことだろ?
>輪廻の主体となる我を想定すれば なんて新たな条件つけるなw
輪廻の主体となる我を想定するもなにも、
輪廻に限らず、縁起ベースで「あらゆる場面での主体不要論」となってるのが仏教なわけで。
輪廻に固執して主体の有無に躍起になってるわけではないのよw
> 死後に人の我を認める = 常住の我を認める っていう、浅はかな発想なんだよ。
死後だろうが存命中だろうが、「我」は見出せないってのが軸だから。