1 :神も仏も名無しさん:2009/05/30(土) 15:56:55 ID:BqBqdtvt
---論題---
無霊魂論としての仏教
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar2.pdf 前シリーズ、【最終】仏陀は転生(再生誕)を説いた!?【決着】に続き、
今回は、無我の問題について議論します。
仏教は無我を説くことでバラモン教との違いを明確化したといわれています。
しかし、仏陀は本当に「アートマンは無い」と説いたのでしょうか?
「それら(五蘊)はアートマンではない」(非我)としか説いていない、とも云われており、
中には、「仏陀はアートマンを説いていた」という意見も・・。
再び、当スレではこの仏教の根底を覆しかねない大問題について討論します。
*仏陀の教説として最も信頼性が高いとされる原始仏典からの引用と解説は特に歓迎します。
(投稿「750-800」を目安に善意の方どなたか次スレを立てて下さいm(__)m)
2 :
神も仏も名無しさん :2009/06/15(月) 23:27:20 ID:Ba3CZ18S
≡つ=つ≡つ ∧_∧ =つ ( ・ω・) ≡つ (っ ≡ =つ ババババ / ) ≡つ ( / ̄∪ =つ ≡つ ≡つ=つ≡つ =つ
4 :
宝珠愚者 :2009/06/16(火) 06:36:25 ID:LUPT4EVa
5 :
一在家 :2009/06/16(火) 09:22:49 ID:d9b4W27m
肉体の命。 魂の命。 輪廻の主体のアートマンは魂の命。 脳神経は肉体の命と一緒に生死する。
6 :
神も仏も名無しさん :2009/06/16(火) 09:45:13 ID:z+gXKvZN
>5 >肉体の命。魂の命。 魂(精神、即ち感情と理性)は肉体から発するから、矛盾語法。釈迦の 戒めに反している。 人類史上、人間が完全に死んだか、死んでいないかが問題になったのは、 キリスト教とライフスペースという超カルト。死後の生命(魂)などを 考えるのは、あくまで生者の、自己の死への恐れからである。死者には もはや関係ないこと。
7 :
一在家 :2009/06/16(火) 10:25:38 ID:d9b4W27m
>魂(精神、即ち感情と理性)は肉体から発するから、矛盾語法。釈迦の >戒めに反している。 その同じ釈尊が肉体を去った者(肉体的には死者?)が再び母胎に宿ると スッタニパータで度々説かれたとの記載があります。 前スレでは、他の経典からも同様の内容が多数紹介されております。
8 :
旧7 :2009/06/16(火) 20:18:20 ID:i24dMNjH
釈迦はこれが真理だこれが真実だと教義を皆に押し付けていたのではない、釈迦は様々な 論法を駆使して説教をしたが、それは個人個人に対するもので、全ての説教を纏めようとすると 矛盾が多い説教だった。だから釈迦は教義を書き残さなかった、代わりに悟った人たちをこの世に 残した。 だから探すなら経典の言葉ではなく釈迦から悟りを受け継いできた「人」を探すべきだ。
10 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/16(火) 20:46:34 ID:cU13KvaY
(^。^)上げてみたり♪
11 :
神も仏も名無しさん :2009/06/16(火) 20:50:53 ID:+FlX0EKN
>>9 現実問題として不可能だと思うが
1 まずホントに「悟った」と言う状態があるのか?
2 次に「悟ったひと」がいるのか?
3 さらに、どのようにしてその人と接触をもつか
4 その人が真に悟った人であることをどのように確認するか
ちょっと考えただけでもこのような困難がある
12 :
一在家 :2009/06/16(火) 20:51:15 ID:J4AIt5wK
>>989 >その『「無記」としたこと、その行為自体』が、方便だったってことでしょ?w
>いきなり真実を告げたらみんなビックリしちゃうから、
全く同感です。
あなたと見解が一致したのは非常に珍しいです。
その真実とやらが言葉で言いえたとしても、誰もビックリしないし聞き手になんの変化も起こさない。
14 :
一在家 :2009/06/16(火) 21:13:19 ID:d9b4W27m
>>996 霊波線というものがあり、親子のアートマン同士は特に太く
つながっている。
子にピンチが訪れた時に母親は虫の知らせで気付く。
他人でも夫婦や師弟でつながる場合も多い。
キリスト教でも師匠が拷問で死んだ瞬間に、弟子が感じたという
話も聞きます。
子が善行を積んだ場合は、親の善行にカウントされて、カルマも
少しずつ浄化されていく。
釈尊の弟子で施しを行なって、亡くなった親を救ったという説法が
ありましたね。
まあ、そういう話もあるということで。。。
15 :
神も仏も名無しさん :2009/06/16(火) 21:18:12 ID:EK0nQpgh
>>8 旧7は斜に構えているだけでなく、嫌味なやつだなw
16 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/16(火) 21:24:34 ID:cU13KvaY
>14 ウラバーナ経はメイドインチャイナだ。 また勿論、隷把線など一部の共同幻想として以外存在しない。(笑)
17 :
ナンダ?の孫 :2009/06/16(火) 21:28:15 ID:d9b4W27m
釈尊はバラモンの弟子達が「死後の世界」を質問した時は無記を通した。 釈尊は比丘たちが「死後の世界」を質問した時は、そのようなことに 固執するなと説いた。 釈尊はサーリープッタのベスト3の常住論の認識は正しいと保証した。 そして釈尊の横にいた秘書のアーナンダは混乱して一番悟りが遅れた。 四悉檀や三乗の教えを駆使した釈尊の説法の真意をトレースするには 誰に説いたのか、その時周囲に誰がいたのかをまず把握しておくことが 肝要かと存じます。
18 :
暁 :2009/06/16(火) 23:03:37 ID:D+3H/4CN
前スレ
>>994 「私の生命観」というお題で述べよってことだが、
承狂氏と同じく、そんなものを語るのはおこがましい
と考えてますよ。
まあ、答えろてことだから、敢えて書くと
戯論によって戯論されるものではないもの。
すなわち言語表現やなんかを超越しているもの。
つまり、相依、相関により仮に成り立つもの 。
要するに「縁起」「無自性」。
他のものにより知られない、分別を離れているもの。
戯論が寂滅して幸いである縁起でしょうかね。
19 :
宝珠愚者 :2009/06/16(火) 23:13:58 ID:LUPT4EVa
---お知らせ---
http://houjugusya.web.fc2.com/loop1.htm 『大般涅槃経』に記された「正法」の見分け方--リンク追加終了
-----------------------
>>8 あれは旧7さんの実話じゃないの?
他人のコピペかい!(しかも実話かどうかも疑わしい・・)
もしや、旧7さんはこの体験がキッカケで仏道に?だったのかな、
などと感慨深くなっていたというのに・・・。あなたはなんつぅことを!!!
或いはテレ隠しで、本当は旧7さんの実話なんでしょう??
もし、イタズラなら
その性格の悪さはトンデモないな(笑)
つか、このコピペは異常に有名だから、 性格云々というより、しらないフリしてんなよ、という気が逆にする。
21 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 06:22:19 ID:S+F5o1Am
前スレの>994 さて♪生意気な名無しに質問します♪(笑) 生命云々言うなら、さぞや立派な定義をお持ちなのでしょう。 ならば、クラゲは個体としての魂なのか、種としての魂なのか教えてくれないか? クラゲの生態はググれよ♪(笑) さらに、多細胞生命体は細胞の集合であるから、髪や皮膚でも細胞から成り立っている訳だが、 魂だかアートマンだかは、全ての細胞に宿らなきゃおかしいだろ?(笑) 一人に付き一個なら、クローンを作れば増えるのか? そもそも、魂だけの存在が可能なら、肉体に寄生する意味はあるまい?(笑) (^。^)十全に答えたまえ♪(笑)
22 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 07:03:01 ID:qeDbSenQ
23 :
一在家 :2009/06/17(水) 08:58:08 ID:BbbvGsbZ
>>21 >そもそも、魂だけの存在が可能なら、肉体に寄生する意味はあるまい?(笑)
解説はスレ違いなので省略しますが、一人の肉体には本霊(アートマン?)、
副霊(欲心、エッセネ派の説く闇の箇所)、守護霊、指導霊、そして複数の
憑依霊(新約での悪霊)がかかっております。
よって「魂だけの存在が可能」が正解だと思います。
憑依も「縁起」だと思いますが、それぞれの霊が肉体にかかる理由は様々です。
日蓮の天照大神への敬神は有名ですが、実は守護霊についても釈尊の教えに
あると前置きして「同名天」について(たぶん真筆で)詳しく説かれております。
(出典:そうか発行「日蓮大聖人ご遺文集」)
24 :
一在家 :2009/06/17(水) 09:04:44 ID:BbbvGsbZ
私がよく日蓮や法華経を引用しますのは、不勉強の為、 他の大乗経典を読んでいないからです。 空海や親鸞も尊敬しております。 誤解なきよう。 なお当家は元々法然の浄土宗で幼児の頃から南無阿弥陀仏 でした。 またコーランは一読し、マホメットも尊敬しております。
25 :
ニセ本尊 :2009/06/17(水) 10:29:58 ID:0vF1GAxa
>14 父親が死んだとき、私にも確かに分かった。 前の日、「父が入院したから、明日、お見舞いに来て」と母から電話があった。 その時は、別に危篤状態では無かった。 だから母も、父親を入院させると、入院の準備のために一旦帰宅し9時に行くというので、わたしも9時に着くよう家をでた。 病院に向かう途中、信号待ちをしていると、車中には誰もいないのに突然胸をトンと突かれたのである。 「あ!親父が死んだ」 危篤だとは思っていなかったが、すぐに分かった。 取り合えず、その時の時刻だけメモして病院にむかった。 病院について確認すると、父の死亡時刻とメモの時刻が一致したのである。 結果的には、父の死に目に会えなかったということになるのだろうが、父から会いに来たのだから、臨終に立ち会え無かったことは気にしないことにした。
>>18 暁氏
生命観とか死生観は別に「おこがましい」ものではない。
特にこのスレは、まさにそれを話すのが目的だからなおさらである。
さて、生命を縁起・無自性によって語り、生命が空から落ちてくると言うなら、
残念ながらそれは不滅・不生の縁起ではないと言わざるを得ない。
日々多くの人が、火葬場で焼却され、病院で誕生しているではないか。
不滅・不生ではなく、その逆の滅であり生である。
>>21 承狂氏
クラゲのことはクラゲに聞いてください。
同じように細胞のことは細胞に、クローン人間については、
クローン人間が誕生した時、そのクローン人間に聞いてください。
自分に魂があるのかないのかということだけで手一杯ですよ。
下から目線の、へりくだった承狂氏に任せる。
>そもそも、魂だけの存在が可能なら、肉体に寄生する意味はあるまい?(笑)
★それが創造ではないですか? この世は生命(魂)の入れ物なのです。
28 :
一在家 :2009/06/17(水) 12:19:27 ID:FCpl65IL
>>27 >クローン人間が誕生した時、そのクローン人間に聞いてください。
横レスですが、アートマンのクローンはまだできません。
ですから肉体のクローンに別のアートマンが母胎を経由して宿ります。
肉体的特徴は一致するのに、知能指数や性格が異なるクローン人間に
なりますから、すぐに分ります。
一卵性双生児で同じ環境で育った双子が、肉体的特徴は一致するのに、
知能指数や性格が異なるから、容易に類推できます。
29 :
一在家 :2009/06/17(水) 12:29:01 ID:FCpl65IL
>>25 ニセ本尊氏、ご自身の体験でしょうか。
そうであれば、貴重な霊的神秘体験をされたことと存じます。
肉体を離れた魂は家族や知人に会いに行きますが、話しかけても
誰も返事がなく、その時に自分が死んだことを悟ります。
(強い信念の唯物論者は例外)
1日以内にうまく肉体に入れば蘇生しますので、臓器移植には
基本的には反対です。
49日頃になると守護霊と先祖霊が迎えに来ますので、着いて
いけば、またいつか母胎に宿ります。
しかし執着が強すぎたり、死の瞬間に強い衝撃があった場合は
着いていけずに、。。。。
>>28 クローン人間は興味深いけど、
それを実際に作ろうとする思いには悪魔的な暗さを感じますね。
31 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 12:40:17 ID:EPDS8WZ4
たましいが抜けたようになっても人は死なないからたましいなんか無用だよね。
縁起主義者の誤解は、生命と肉体が縁起しているという認識にある。 生命があるから肉体があり、生命がなければ肉体もない、 という縁起の関係が存在しているのだろうか? 生命がなくなった肉体は消えてしまうのか? 肉体は死んでも消えないで、それ単独で存在するではないか。 肉体が単独で存在するわけだから、生命と肉体は縁起していないのだ。 であれば生命も単独に存在する。
33 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 13:02:53 ID:S+F5o1Am
>23 (^。^;)意味が判らなかったみたいですね。 一人に魂が複数あるとしても、細胞一つづつに魂が無いなら、 何を拠り所としてその魂は宿るのか? また、如何に肉体に繋がれ得るか? 生命体の適応化の歴史で、いつ、魂なんてものが宿りえたのか? マトモに考えれば、いかに幼稚で生命を馬鹿にした話か判る筈だがな。 >27 法灯明を捨てて、迷信を受け入れるのは仏教とは言いませんよ。 お釈迦さんは弟子に無記とされた。 つまり、修行上不要って事じゃねぇの? (^。^)勿論、俺も仏教の傍流に過ぎんがな。(笑)
34 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 13:05:21 ID:S+F5o1Am
(^。^)仕事おち。 肉体と魂が無関係なら、肉体に宿る必要は無い訳だが♪(笑)
35 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 13:13:18 ID:SqxzXuEu
肉体のないアートマンと肉体に宿ったアートマンとの違いを考えた。 前者は神や聖霊や天使と同じ。 後者は物質界を感じ、物質界に作用し、やがて物質界にて創造するかも。 後者は神の似姿から、一段と成長、進歩するかな。 人の成長を見て、喜ぶのは誰?
>>34 まったく無関係というわけでもないですね。
生命と肉体の関係は、生命は肉体の必要条件、ということでは?
しかし十分条件になってないですね。
図解してください。
生命があれば肉体があり・・・正しい、生命は肉体の必要条件
生命がなければ肉体もない・・・正しくない(例、死体)
肉体があれば生命があり・・・正しくない(例、死体)
肉体がなければ生命もない・・・正しくない(例、肉体のない魂)
37 :
一在家 :2009/06/17(水) 13:46:24 ID:BbbvGsbZ
>>33 >一人に魂が複数あるとしても、細胞一つづつに魂が無いなら、
>何を拠り所としてその魂は宿るのか?
細胞と魂とは1対1の対応ではないと考えます。
脳細胞と魂とも対応関係がないことは、前スレで説明済みだと
認識してましたが、私の説明が不親切だったようです。
重症のてんかん患者が脳の半分を取り除く「半球切除」をしても
人間らしい精神生活を継続しているのが一つ目の証拠です。
心停止し、脳停止し、それでも数時間後に蘇生して、人間らしい
精神生活を送っている人々の事例が二つ目の証拠です。
肉体細胞の成長の過程のある時期に、聖書にあるように神の似姿の
魂(神の子、アートマン)が創造され、意図的に合体がなされたという
モデルであれば説明はつくと思います。
あの世(釈尊はト卒天)から魂は目的を持って母胎の中の肉体に宿り、
生まれて数年経つとすっかりと忘れてしまう、の繰り返しです。
38 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 14:46:18 ID:jBUSEVZN
>>37 >重症のてんかん患者が脳の半分を取り除く「半球切除」をしても
>人間らしい精神生活を継続しているのが一つ目の証拠です。
>心停止し、脳停止し、それでも数時間後に蘇生して、人間らしい
>精神生活を送っている人々の事例が二つ目の証拠です。
そんな稀有な例を持ち出して一般化するのは、科学者とは言えない。再現可能
性・普遍性が、科学の生命。
そのてんかん患者の場合、切除された脳の部分に対応する機能は、当然停止する。
脳停止者の場合、脳死の診断に誤りがあった可能性はないのかね。
アルツハイマー病では、脳細胞の一部が減少しただけで、患者の精神状態は
一変する。
「神の似姿」とは、文字通り「姿(外観)」が似ているということ。キリスト教で
は、この言葉を、「神と対峙し得る資格」などとこじつけている。ひどいのになる
と、神の似姿とは、イエス一人などと解釈する。キリスト教では、人間が神や
イエスと同じになると、その「営業」が成り立たないからである。
ちなみに、聖書の英訳では、「神はご自分にかたどって人を創造された」の
「人」は、「すべての人(human beings)」と「複数」になっている。イエス
一人ではないことは明らか。素朴な古代人が書いた言葉は、持って回った解釈
ではなく、素朴に解釈することが必要だろう。
39 :
一在家 :2009/06/17(水) 15:44:33 ID:38+2NYJY
>>38 >ちなみに、聖書の英訳では、「神はご自分にかたどって人を創造された」の
>「人」は、「すべての人(human beings)」と「複数」になっている。イエス
>一人ではないことは明らか。
貴重な情報を有難うございます。 またデータベースにストックしておきます。
「イエス=神自身=神の独り子」としたのはヨハネの福音書の作者
(自称「イエスに(最も)愛された弟子」)でして、他の三福音書では
「イエス=神の預言者、メシア」です。
この福音書によるマインドコントロールが殆どのクリスチャンにかかっておりますが
中国の坊主達のマイコンも日本の仏教徒にかけられており、五十歩百歩が実相です。
仏教徒の方は釈尊の対機説法を理解し次第にマイコンが外れてきているように見受け
ますが、クリスチャンはますますヨハネの福音書を信じようとする傾向があります。
40 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 15:45:53 ID:rOJzm95T
>>28 一卵性双生児の例に言及してたが、後天的獲得形質がことなるのは当然だ。
なぜ、それの説明にアートマンを持ち出す必要があるのかね?
お前さんは、どうもアートマンの実在を前提とし、その視点から全てを理解しようとする傾向があるが、
他の合理的説明が可能な事例に霊やらアートマンを持ち出すのは止めることだ
41 :
一在家 :2009/06/17(水) 15:52:32 ID:38+2NYJY
参考:「ユダの福音書」ナショナルジオグラフィック ある日、パンに感謝の祈りをささげている弟子達を見て、イエス様は 笑われました。弟子達の祈るこの世の最高神よりも至高の神をイエスは 知っているからとのこと。 弟子達は腹を立て、怒りだし、心の中でイエスをののしりました。 イエス様曰く、「あなた方の神が内にいて、腹を立てさせたのだ。 あなたがたの内にいる完全なる人を取り出して、私の眼前に立たせなさい。」と。 「ユダの福音書」は当然異端とされて廃棄されますが、私が興味を持ちましたのは、 「あなたがたの内にいる完全なる人」というイエスの説法です。 本スレで対話を尽くしております、顕在意識の奥にいるアートマンと似ておりますので。 同じ真理を別の表現で説いた可能性もあります。
42 :
一在家 :2009/06/17(水) 16:10:33 ID:38+2NYJY
>>40 >一卵性双生児の例に言及してたが、後天的獲得形質がことなるのは当然だ。
>なぜ、それの説明にアートマンを持ち出す必要があるのかね?
>お前さんは、どうもアートマンの実在を前提とし、その視点から全てを理解しようとする傾向があるが、
>他の合理的説明が可能な事例に霊やらアートマンを持ち出すのは止めることだ
原始仏典で釈尊が度々母胎に宿って生まれ変わるアートマンを説いているのに
そのようなことは無いと決め付けるのも仏教徒でなければ分ります。
さて、一卵性双生児の後天的獲得形質ですが、なぜ外見的な特徴は見分けがつかない
のに、同じ生活環境で精神的、知能的な特徴には相違点が大きいのか、疑ったことは
ないのですか。
まあ、それがあなたのスタンスであれば止めなさいとは申しません。
私は度々(数百回?)人にかかった霊と話したことがありますので、現在の
スタンスに立っております。ただそれだけです。
43 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 16:28:49 ID:rOJzm95T
>>42 同じ生活環境?
たとえ一卵性双生児であろうと、全く同じ体験を継続していくことなどあり得ない。
個々の体験の相違が個体差を生み出すというのが一般的な認識であり、その矛盾性が問題となったことはない。
44 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 16:43:12 ID:rOJzm95T
と言うか、お宅は科学者らしいが本気で一卵性双生児の個体差を個々の霊の相違に帰結させるわけ? とても科学者とは思えない思考なんだがね。 お宅の論でいくと、殺人事件の加害者も悪霊とかに憑依されたのが原因であると言う論も十分な妥当性をもつことになるな。 広島で起きた幼女殺害の南米系外国人が「悪魔に命令されてやった」と言っていたが、この主張も十分検討に値するわけだ
45 :
一在家 :2009/06/17(水) 16:48:36 ID:FCpl65IL
さて、一卵性双生児の後天的獲得形質ですが、なぜ外見的な特徴は見分けがつかない のに、同じ生活環境で精神的、知能的な特徴には相違点が大きいのか、疑ったことは ないのですか? 顔の細胞はソックリ。親友でも見分けがつかない。 手足の細胞もソックリ。親友でも見分けがつかない。 内臓の細胞もソックリ。親友でも見分けがつかない。 脳の細胞は違うと思いますか? 自己=脳神経と定義すると、自己もソックリ。親友でも見分けがつかない。 後天的獲得形質で他の細胞に差異が出ないのに、脳細胞だけ差異が出るという ロジックは疑わしいですね。 まして同じ親のもとで、同じ家に済み、同じ料理を食べ、同じ風呂に入り、 同じ学校に通い。後天的環境の差も他人と比べてほとんど無いようですが。 この板に医師がおられましたが、一卵性双生児の知能指数も性格もソックリだ という意見があればアップして下さい。
46 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 17:02:45 ID:rOJzm95T
ちょっとまて、いくら一卵性双生児だからと言って外形的な特質が完全に一致などあり得ないことは、 誰でも知ってる。例えば、ホクロの位置とか。 あるいは、さらに厳密にその一卵性双生児の足の細胞数まで一致してるなどと言う生物学者いるなら完全なキチガイ。 わかるね?一卵性双生児といえども別個体なの。 それに、見分けがつかない? 親なら完全に見分けがつくし、俺自身、現在まで10組以上の一卵性双生児に接してきたが、一月もたてば簡単に識別可能であった。
47 :
ニセ本尊 :2009/06/17(水) 17:08:08 ID:0vF1GAxa
>29 自分の体験です。 コピペではありません。 私はどちらかと言えば縁起主義者のつもりですが、魂のようなものは実在するのかもしれないと思います。
48 :
一在家 :2009/06/17(水) 17:13:25 ID:FCpl65IL
>>46 >俺自身、現在まで10組以上の一卵性双生児に接してきたが、一月もたてば
>簡単に識別可能であった。
1)ほくろの位置で識別しましたか?
2)音声の違いで識別しましたか?
3)しゃべった時の反応や表情で識別しましたか?
3)であれば、性格(精神面)や知性が異なるからでしょう。
よーく、思い出してみて下さい。
私の場合は視覚的にはまったく見分けがつかなかったですね。
ただし、一人は私のことを知っており、もう一人は知らないので、
目の表情や反応でやっと分ったことを覚えております。
49 :
λ.... :2009/06/17(水) 17:33:07 ID:D7p0rp7d
>>42 そりゃ、ユダの福音書はグノーシス系ですから
アートマン=ロゴスを説いてますぉw
そこで言われる最高神と至高神というのはまた六道輪廻の世界創造神と
ブラフマンの関係に当たるんだろうなぅw
50 :
旧7 :2009/06/17(水) 17:38:55 ID:edwx+oea
>>48 ほんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっとに馬鹿なんだな。
哲板の最高位の方がなんぼかマシに見えるw
お前、救いようがねーよ・・・。
51 :
一在家 :2009/06/17(水) 17:52:17 ID:38+2NYJY
>>50 >ほんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっとに馬鹿なんだな。
>哲板の最高位の方がなんぼかマシに見えるw
そういう旧7氏にも仏性(神性)がありますから、いつか悟られるでしょう。
52 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 18:03:23 ID:rOJzm95T
さて、なんか論点がぼけてきたので整理するが、お宅の主張は「一卵性双生児は外形的な特質が全く一致しているのに、その知性、及び精神的特性に差異が見られるのは 個々の霊の相違に起因する」と、まぁこういうものだ。 そこで俺は「まず、第一にたとえ一卵性双生児と言えども外形的な特質の完全な一致などありえず、お宅の主張は初めから成り立ちませんよ。」とこういうものだな。 つまり、お宅の主張の正当性を担保するにはまず、この「外形的な特質の完全な一致」これが、真実でなければならないが、こんなこと主張するのは、 お宅しかいないと思うぞ。お宅が見分けがつかないと言うのは単に識別能力が低いからだと思うがね
53 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 18:24:45 ID:rOJzm95T
と言うか、一卵性双生児の外形的な特質が完全に一致しているなどと主張する奴、初めて見たんだが 例えば、全身のホクロの位置まで完全に一致している一卵性双生児など現実に存在しているのか? 聞いたこともないが。
54 :
一在家 :2009/06/17(水) 18:38:12 ID:FCpl65IL
>>42 一在家
>外見的な特徴は見分けがつかない
>>45 一在家
>顔の細胞はソックリ。親友でも見分けがつかない。
>>46 >いくら一卵性双生児だからと言って外形的な特質が完全に一致などあり得ないことは
>>52 >お宅の主張は「一卵性双生児は外形的な特質が全く一致しているのに、
Q.一在家さんは完全一致とか全く一致と言いましたか?
A.いいえ、一在家さんは言っておりません。
Q.
>>46 、
>>52 さんは完全一致とか全く一致と言いましたか?
A.はい、自身で言ってます。それを一在家さんが言ったと思い込んでます。
まあ、思い込みは誰にでもございます。
55 :
一在家 :2009/06/17(水) 18:44:47 ID:FCpl65IL
こうやって対話しているのは我々の顕在意識です。 釈尊の弟子達は苦行を止めて、八正道の実践と正しい瞑想により 潜在意識の奥のアートマンを見つけたことと推測します。 禅の聖人の中にはそういう境地を言葉に残した方々がおられるのでは ないかと存じます。
56 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 18:51:59 ID:rOJzm95T
>>54 ちょっとまて、論点ずらしか?
お前の
>>45 の論旨は「外形的な特質が一致してあるにもかかわらず、精神的特性に差異が見られるのは霊によるものである」
こういうものだな?
なら、外形的な特質の相違を認めてしまえば、初めからお前の主張は崩壊するのが理解できないのか?
表現形式の違いを取り上げ、いわゆる揚げ足とりと言うやつだか、そのようなことで論点をずらそうとするのは最低だと思うが?
57 :
一在家 :2009/06/17(水) 19:14:40 ID:38+2NYJY
>>56 >論旨は「外形的な特質が一致してあるにもかかわらず、精神的特性に差異が
>見られるのは霊によるものである」
>こういうものだな?
>なら、外形的な特質の相違を認めてしまえば、初めからお前の主張は崩壊する
>のが理解できないのか?
30歩譲りまして、論旨はそれで良いですよ。
そこであなたは「外形的な特質の相違」として、「ほくろの位置」が違うという事例を
提示された訳です。
精神的特性の差異が「ほくろの位置」の違いの範囲内であればあなたが正しいでしょう。
例えば、双生児の一人はペプシコーラが好きで、もう一人はコカコーラが好きという差
ですか。
でも、ほくろの位置が違う双生児の一人が演歌好きで着物を好み、もう一人はロック好き
でパンツが好きだという差異があれば、異なったアートマンが二人に宿っておるという
可能性があるというのが論旨です。
クローン人間を作っても知能指数と性格はコピーできないというのが元のモデルです。
今の科学では証明はできませんが、アートマン(魂)は無いとも証明できません。
58 :
一在家 :2009/06/17(水) 19:17:44 ID:38+2NYJY
手の細胞も、目の細胞も、脳の細胞(神経)も同じという方々に 対して、アートマンや輪廻を説くとしたら、釈尊ならば無記だったかも。
59 :
旧7 :2009/06/17(水) 19:29:01 ID:edwx+oea
ついでに、カラスや宝珠にも聞いておこうか?w
・「外形的な特質の完全な一致」、及び「成育環境の完全な一致」はあり得る。
・そして、その時の差異を導いているのは、
「魂」(或いは「霊」、或いは「霊魂」、或いは「魂魄」、或いは「霊体」、
或いは「ソウル」、或いは「スピリット」、或いは「精霊」、
或いは「エネルギー」、或いは「息」、或いは「風」、
或いは「ジーヴァ」、或いは「アートマン」、或いは「生命」、etc.etc.etc.)である。
この2点を肯うかどうかをねw
(二人とも、一在家の発言を、擁護し、援護し、賛同するレスが殆どなわけだが・・・w)
カラスや宝珠は、
>>54 みたいなレスでも褒めるんだろうな・・・w
;´ー`)y━~~
で、
>>57 では、ほくろの位置と性格の差異を結びつけている。
≪ほくろの事例は、「外形的差異が存在する」≫ことの例であり、≪内面性との結び付きを示す事例ではない≫。
で、
>>58 のようなレスをするwww
58(及び45)は、「外形的な特質の完全な一致」のことを述べているとしか読めないと思うが?
ちなみに、アートマン等との関連なので、「外形的特質とは、肉体的特質」と読み換えても差支えないだろう。
(
>>46 >足の細胞数まで一致してるなど という補足も踏まえつつ。)
60 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 19:39:15 ID:aC4zbntE
>>49 :λ 氏
>そりゃ、ユダの福音書はグノーシス系ですから
>アートマン=ロゴスを説いてますぉw
★ ロゴスは宇宙の本質ブラフマンではないですか。
神ではなく、かといってアートマンでもないような位置にある。
>そこで言われる最高神と至高神というのはまた六道輪廻の世界創造神と
>ブラフマンの関係に当たるんだろうなぅw
★ グノーシスの最高神(or至高神)は、聖書の創造神の上に仮に構築されたもの。
またバラモン教には絶対の創造神という観念が希薄であり、
それに似たものとしてブラフマン(宇宙真理)が設定されている。
六道輪廻はブラフマン(宇宙真理)として認識されるのではないでしょうか。
61 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 19:46:30 ID:rOJzm95T
>>57 お前、自分のレス読み返してみておかしいとおもわないの?
「コーラに対する嗜好は問題ないが、音楽や衣服に対する嗜好が異なれば、それは霊の影響によるものである可能性がある?」
ここまでくると、もう「お前はそう信じている」と言うレベルの話で何ら客観的普遍性などなかろう?
62 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 19:55:42 ID:aC4zbntE
>>31 >たましいが抜けたようになっても人は死なないからたましいなんか無用だよね。
★ 魂が抜けたようになるとは、具体的にどんな精神状態ですか。
死のうとは思わないけど、かといって生きる意志もないような状態ですか。
たしかに<魂の抜け殻>という表現はあるよね。
63 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 19:57:20 ID:rOJzm95T
このスレのアートマン肯定論者は 本気で一卵性双生児の精神的特性の差異を後天的な個々の体験に因を求めず それぞれの霊の違いによるものであり、また、その事が霊の存在を示唆する有力な証拠の一つである などと考えてるわけか?
64 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 20:04:28 ID:rzjhWHMB
このスレの本家(?)『原始佛教』には なぜ書き込みがないのですか。
65 :
旧7 :2009/06/17(水) 20:06:07 ID:edwx+oea
たとえば、バラモン教においては、地上での無意味な生存というのが あります。つまり釈迦が悟りを求め、正しさを求めた理由かもしれません。 バラモンの転生輪廻はまさに無意味で無目的で苦であったわけです。 ゆえに過去の因縁だとか、カルマとかいわれたりで、 どうすることもできなかった。そこで、当時は苦行が悟りの道だったのであります。 しかし、釈迦は苦行では悟れないことを悟ったわけであります。 つまり釈迦の発見とはこの世は仮の世であり、この世は魂修行の場である、 という発見であり、そしてあの世こそが本当の世界であるということなのです。 これが中道の道であるのです。
もう仏陀の話関係なくなってきてるじゃん 魂あるって人、確かめようのない論拠をつくって魂があると説明できる無謬の論理体系をつくることは 可能だと思います。さらに、その論拠を私は見たのだ、実証されている!と言えば、 誰もこれを確かめようがないし、否定もできないです。だから認めざるをえません。 悪魔の証明で言われるように、あると証明できなければ、ないと判断するのが常識的ですが これはあくまで常識的な判断の方法であって、証明がされているわけではありませんから ない、と断定することはできないのですよ。 ここまでは私は宗教に対して認めています。宗教は科学がもたない有効性をもっていると思います。 問題はその論理体系を自己満足のために悪用したり、人を不幸にしたりすることです。
68 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 20:46:17 ID:rzjhWHMB
69 :
旧7 :2009/06/17(水) 20:47:25 ID:edwx+oea
野次ってばかりも何なんで、一応御依頼に応えておくか・・・。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1244362051/925-926 >「五蘊は我ではない。我にあらず、わが本体でもない」というときの、「我」とは何んなのか?
「何んなのか」も何もw 我々が使う「自己」という語義の範囲でも通用するのでは?と言っているのです。
「五蘊は自己ではない。自己にあらず、自己の本質でもない」。 ・・・意味通ってないか?w
もう一つ言い変えようか。
「五蘊は俺ではない。俺にあらず、俺の本当の姿(在り様)でもない」。 ・・・意味通ってないか?w
※敢えて《本体》という言い方は避けてみたw (ま、別に使ってもよかったけどね。)
70 :
1/3 旧7 :2009/06/17(水) 21:02:31 ID:edwx+oea
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1244362051/925-926 > 『比丘たちよ、
> 色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
> 無我であるから、これはわが所有(もの)にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。
> そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
> 比丘たちよ、
> 受(感覚)は・・・想(表象)は・・・行(意志)は・・・識(意識)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
> 無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。
> そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。』
色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから「自己」として見れないのである。
「自己」として見れないのであるから、これは「自己の所有(もの)」にあらず、「自己」にあらず、また、「自己の本質、本性」でもない。
そのように正しき智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、
受(感覚)は・・・想(表象)は・・・行(意志)は・・・識(意識)は無常である。
無常であるから苦である。苦であるから「自己」として見れないのである。
「自己」として見れないのであるから、これは「自己の所有(もの)」にあらず、「自己」にあらず、また、「自己の本質、本性」でもない。
そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。』
71 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 21:03:32 ID:EPDS8WZ4
五薀が自己や私でないなら、自己や私は何からできてるのかな?
72 :
2/3 旧7 :2009/06/17(水) 21:06:02 ID:edwx+oea
※勿論、この試みでは、「自己」の語義として、
『変わらず、継続して意識され、そして、常にある、と感じられる(知られる)《【自分としての】【感覚】》、
《思考の主体》として設置される、およそ一切の思考・言動の主体となるべき「自己」(self , cogito)』
という語義が、既に学習されていることが前提となっていて、
「五蘊(の一々)は、そのような「自己」と見做せない」という読みを可能にしている。
※この時、“五蘊の総体”(→接触を縁とし、根境識の和合の上に生じている或る在り様)を、
(上記のような「自己」よりももう一つ下位の)「社会的人格的主体としての自己」
(宝珠氏は「パーソナリティ、ペルソナ」と表していたかもしれないが)と見做せるかどうか、
(→attanの語義の一種として許容するかどうか)は、また別問題となる。
※そしてまた、何を(≒どのような在り様のものを)「アートマン」とするのか、も別問題となる。
まあ、伝統的には、この一節は「アートマンと五蘊の関係について述べられている」と見るべきであろうが・・。
だから、
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1240593431/57-58での記述の差異が 、
注意すべき部分として浮かんでも来る。
※仏典に於ける「アートマン」は、
≪外堀から(≒文脈により)埋められ、攻められ、語義(≒【それが、どのようなものなのか】)が絞り込まれている≫
という現実を直視する必要もあるのでは?
73 :
3/3 旧7 :2009/06/17(水) 21:08:52 ID:edwx+oea
> 無我であるから、これはわが所有(もの)にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。 > そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。 で、これがその相応部のパーリ文か・・・。(連声のほどき方が合ってるかどうかは知らんw) SAvatthi-nidAnaM. ‘‘RUpaM, bhikkhave, aniccaM. Yad aniccaM taM dukkhaM; yaM dukkhaM tad anattA; 【yad anattA taM 】‘《【na etaM mama】, 【na eso aham asmi】, 【na me eso attA】》’ti 【evam】【etaM yathAbhUtaM 】【samma-paJJAya】 【daTThabbaM】. VedanA aniccA… sannA aniccA… saNkhArA aniccA… viJJANaM aniccaA. Yad aniccaM taM dukkhaM; yaM dukkhaM tad anattA; yad anattA taM ‘na etaM mama, na eso aham asmi, na me eso attA’ti evam etaM yathAbhUtaM samma-paJJAya daTThabbaM’’. 面倒なので【 】部分だけ。 『【(そのように)、無我であるところのもの(それ(taM))は】、《【“これ(etaM(色))が私のものである”ということでない】、 【“これが私である(としてある)”ということでない】【“これが私の“アッタン”である”ということでない】》と、 【このように】【このことが、如実に(あるがままに)】【正しい知恵によって(に於いて)】【見られるべき】です。』 ざっとこんな感じか・・・。 おや?上の引用訳文とは少し印象が違うな・・・。訳し方がまずかったか?直訳過ぎかw てか、近所の単語を拾い読みしてみたんだが、 この46の前半だけでなく前後の43〜48も重要なんじゃね? すごく46と関係してるんじゃね? 46の前半だけのピックアップはまずくね? 相応部の和訳に触れられる環境にないんで、大筋すら掴めてないんだが(全部訳すのもタルイしw)、 だれか、43〜48の概略の判る人居る?
74 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 21:10:46 ID:S+F5o1Am
>36 (^。^;)判らんヤツだな。(笑) 生命の定義が出来るならしてみって事だ。 専門家さえ、死体の生体の差を規定出来て無いんだぞ?(笑) 肉体と死体を分けてるが、死は何時からだ? 脳死か?心停止か?複合か?細胞全ての壊死か?
75 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 21:13:14 ID:S+F5o1Am
(^。^;)>37に関しては最早返すレスは見当たらんな。(笑) 一生やってろ。(笑)
76 :
一在家 :2009/06/17(水) 21:13:51 ID:BbbvGsbZ
>>61 >ここまでくると、もう「お前はそう信じている」と言うレベルの話で何ら客観的
>普遍性などなかろう?
私はそう信じている(そうモデル化している)と回答済みですよ。
>>57 一在家
>クローン人間を作っても知能指数と性格はコピーできないというのが元のモデルです。
>今の科学では証明はできませんが、アートマン(魂)は無いとも証明できません。
>>59 旧7氏
>・「外形的な特質の完全な一致」、及び「成育環境の完全な一致」はあり得る。
>・そして、その時の差異を導いているのは、
> 「魂」(或いは「霊」、或いは「霊魂」、或いは「魂魄」、或いは「霊体」、
そして、この方も我々の対話をよく認識されていると思います。
>>67 >ここまでは私は宗教に対して認めています。宗教は科学がもたない有効性を
>もっていると思います。
>問題はその論理体系を自己満足のために悪用したり、人を不幸にしたりすることです。
77 :
一在家 :2009/06/17(水) 21:30:01 ID:BbbvGsbZ
>>59 大人になるまで同じ環境で育った一卵性双生児の事例にて一部変更致します。
・「外形的な特質の98%の一致」、及び「成育環境の90%以上の一致」はあり得る。
・そして、その時の差異を導いているのは、「霊魂」或いは「アートマン」である。
肉体とは別に「霊魂」或いは「アートマン」が存在すれば、第一条件は成り立ちます。
「霊魂」或いは「アートマン」が無いと仮定すると、小さな差異であれば、10%の
生育環境の差で説明ができるでしょう。
しかし、一卵性双生児で知能指数が30以上異なると(一人が100でもう一人が150)
思考能力や知能を脳神経モデルで説明することは難しいと考えるのが常識的でしょう。
クローン人間の場合でも同様に推論できます。
50歳以下の方なら分ると思いますが、綾波レイAと綾波レイBは知能も性格も異なるかも。
>>59 ライプニッツ、モナド論なるものを展開した霊魂肯定論者だが、
ロバのビュリダンという話がある。
まったく同じ二つの飼い葉桶の間に立って、どちらを食べようか迷っている間に餓死するという話。
ライプニッツはこの世に同じ者は一つとしてないと言った。
79 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 21:57:10 ID:rOJzm95T
>>76 自己の説が何ら客観的普遍性を有しない個人の信仰の範疇にとどまるものにすぎないという自覚があるならば、初めからそのように語ればよい、
あたかも、それが普遍的な現象であるかのように語るからおかしなことになる。これからは「ボクはそう信じているんです」
この一文をつけることだ。
さらに、アートマンの不存在を実証できないことから、アートマンの実在が帰結されるわけではないので勘違いしないように。
アートマンに限らず、未知の存在は無条件において、その不存在は立証不可能。
しかし、そこから「だから実在するかも」とはならない
80 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 22:02:28 ID:S+F5o1Am
>79 (^。^)全くその通りだが、彼にはオッカムは理解出来ないだろう。(笑) 腐れヤソ病だからな♪(笑)
81 :
宝珠愚者 :2009/06/17(水) 22:04:18 ID:0JR7/7QM
>>59 >ついでに、カラスや宝珠にも聞いておこうか?w
では、私ならの見解です。
クローン人間(外見が完璧に一致?)という不自然なケース
(クローンにも魂は磁力的に引き込まれる)を除いて、
外見が完全に一致するという双子はどこにも存在しないでしょうね。
その外見(肉体)の違いも内在の魂が別存在(積んできた経験が異なる)だから生じるのですよ。
つまり、外見も異なるし、そして内的性格も異なる。
>>69-73 自ら返答を頂いたのでこちらの催促の手間が省けました。
しかし、ご自分でそのような解説を記述していて変だとは思わないのですか?
まっ、
>>71 の疑問は率直なものですよ。
では、その経文は何を言おうとしてるわけです?
自己とは何?仏教が目指す自己とはどんな自己です?
結局、五蘊ではない自己の確立を目指していることになるわけではないの?
つまり、無常ではない苦のない自己だと!その無常でない自己とは何んなのか?
>>79 まったくですな。
科学に対抗意識をもって相手を駆逐したい気持ちで我を失っているように感じてしまいます。
たいていの人が議論にならないんですよね。
それで最後に、かわいそうな人ですね、地獄に堕ちますよと捨て台詞というか呪いをかけて
去っていくからもう、こっちも二度と議論するかって具合になって。。
83 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 22:19:10 ID:7yHis45R
84 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 22:21:04 ID:gBACeLqj
>>74 承狂氏
>(^。^;)判らんヤツだな。(笑)
★ 生命と肉体が、縁起でもなく、無関係でもないことを教えてあげたのに。
論理的な漏れがないように集合に基づいた立証だよ。有り難がれ。
>生命の定義が出来るならしてみって事だ。
★ 生命とは、神であり、神によって創造された魂(アートマン)である。
>専門家さえ、死体の生体の差を規定出来て無いんだぞ?(笑)
>肉体と死体を分けてるが、死は何時からだ?
>脳死か?心停止か?複合か?細胞全ての壊死か?
★ 肉体の死は外見で判断する。この世の死は社会的なもの。
自分の思いを表現できなければ、表現できる者たちの判断に依らざるを得ない。
霊的に言えば、魂(アートマン)が肉体から完全に離れたとき。
生死の関係や、生死の分別基準がわからなくても、
魂(アートマン)が存在することがわかっただけで十分ではないですか。
空海は生死の関係や生死の分別基準などを追求していましたか?
魂(アートマン)を見ること自体が大変なのです。
これを見ることが<悟り>だと思う。
85 :
宝珠愚者 :2009/06/17(水) 22:22:52 ID:0JR7/7QM
86 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 22:29:56 ID:rOJzm95T
さて、一卵性双生児の話もけりが着いたみたいであるし、ここで一つお題を提示してかまわんかな? アートマン肯定論者諸君 簡単な思考実験だ 「将来医療技術の進歩により脳移植が可能になったとしよう。そこでAさんの脳とBさんの脳を入れ替えたら、Aさんの霊魂とやらはどっちにあるのかな?Aさんの脳が移植されたBさんの身体のほうかい?」 その理由も付して見解を述べてくれないかな?
87 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 22:34:19 ID:GGtJ9ZLj
他人さまに説法ぶちかます前に、経典全部よんでこいおん。 仏教は唯物論じゃないおん。
アートマンが存在しないことを実証できない・・・空論者・唯物論者 アートマンが存在することを実証できない・・・アートマン論者 ここまでは五分五分ではないですか? そしてこの先を教えているのが<悟り>だろうと思う。 アートマンが存在しないなら修行しても無意味。 空は悟りではない。こんなものは永遠に悟れない絵に描いたモチ。 空とは空き箱の中身を言う。いくら探しても見つからない。
89 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 22:36:50 ID:S+F5o1Am
>84 (^。^;)君がイカな信仰をしようとどうでもイイが、 不変な魂なんて妄執を「悟り」と言うのは止めてくれ。(笑) それは仏教の目指す、諸行無常諸法無我の境地とは全く異なるものだ。 >生命とは云々 (^。^;)先ず、国語からやり直してくれ。(笑)
>>88 仏教はアートマンなどないと体で知ること、自覚し、そのような執着から離れることが目的だよ。
他人に証明することが目的ではないよ
91 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/17(水) 22:44:07 ID:S+F5o1Am
>88 不滅で輪廻する魂の無い証明なら、龍樹の中論にある。 (^。^)ググれ♪(笑) 自我は仮に設けられたものに過ぎず、縁起を観、中道を行ずるを以て安心を得る。 曰く空相に住す也と。 (^。^)ノシ おち
生命という仮に和合してできた存在を固定的存在であると認識(執着)してしまう無知(無明)が 人を苦しみの世界に留まらせる。仏教はそういう教えです。
あんまりさ、おたがいの揚げ足を取るなよ。 読んでいてつまらない。というかスルーしている。 それから相変わらず、バカ呼ばわりしている餓鬼がいるが、 仏教スレなのに釈尊の八正道を忘れたのか。 細かいことに拘るより、そこから学んだほうがいい。
ものわかりが悪いからだろ
>>91 承狂氏
自分の見解に拘っている態度は<空>とは言えないな。
真言に縁があるなら、
生命と肉体が縁起していることを語ってみたらいい。
それが縁起ではないことに気づくだろう。
空海に近づいてほしい。 ← 上から目線だね(^^)
見解を曲げることが空じゃないよ むしろ、自分というものを仮設して、その自分を軸にものごとを構築していくことが 空に相反する態度だよ。自分のため、という態度がでてくるから。
>>94 相手に左右されてるのだから、そいつはやっぱし六道輪廻の餓鬼だな
そら、徳の高い人間とは胃炎罠。 だが、対機説法ということばがある。 君見たいのを説得するにはいい手前だと思うよ、個人的にね
99 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 23:20:26 ID:EPDS8WZ4
アートマンが有るか無いかなんてどうでもいい形而上学の問題だろ。苦しみを無くすことにも、飯の種にもならない。
100 :
神も仏も名無しさん :2009/06/17(水) 23:26:21 ID:rOJzm95T
>>88 「ここまでは五分五分ではないですか?」
全くちがう。
存在証明と不存在証明の非対称性くらいは理解しよう
101 :
旧7 :2009/06/17(水) 23:27:37 ID:edwx+oea
>>81 おいおいw 本格的に混乱してきたか?www
>自己とは何?
それを皆で考えるのがこのスレだろ?w
また、その文で言うその日本語での「自己」は、仏典に於ける何に当たるんだい?
「attan」かい? 「aham」かい? 「citta」かい? 「manas」かい? 「cetanA」かい? 「jIva」かい?
仏典(術語)を少し離れてもいい。 「五蘊とは別個の存在」かい? 「五蘊の総体(根境識の仮和合によるもの)」かい?
また逆に、我々が通常使用する際の「自己」「自分」「自身」「自分自身」等は、仏典中で、
どのような術語で、どのように述べられているんだい?
>仏教が目指す自己とはどんな自己です?
君がこんな言い方をするとはな・・・。これは禅の言い方だぞw(父母未生以前本来の面目でも探してんのか?w)
結果として《本来の、あるべき自己を求める形(行為)》にはなるのだろうが、
仏教が目指すのは「安楽」「安心(あんじん)」、つまり「涅槃」じゃなかったかな?w
>結局、五蘊ではない自己の確立を目指していることになるわけではないの?
そうだろう?w だって、「五蘊(の一々)は自己ではない」と言ってるんだから・・・w
>無常ではない苦のない自己だと!
無常でない、苦のない自己などありえない、というのが仏教だと思っていたが・・・。違うのか?w
>その無常でない自己とは何んなのか?
おそらく、ここで「アートマン」と言いたいのでしょうが、無常でない「自己」など無いんじゃないでしょうかね・・・。
「涅槃(nibbAna)」と同義の形で、(→「涅槃」の解説をする形で)、
≪アートマンに気付くことが涅槃である。或いはアートマンが涅槃である。或いはアートマンとして存在することが涅槃である。≫
等々という「明確な文言」が、或いは「文意」が仏典中から探せますか?
>変だとは思わないのですか?
全く思わないね。
いまね法華経を読み始めている。あきれた、とんでもない小説だね。 ほんの少し読んだだけだけど・・・この経は不思議と眠くなる → 読み進めない ひと山当てようという山師が群がる経典であることがわかってきた。 法華経は凡人が神通力を得てスーパースターになるという話である。 これが魅力になっている小説でもある。山師はここに目をつけるのだろう。 個人的にはまったく魅力を感じない。→ ただ眠くなる。 法華経には絶対なる神が登場しないところが味噌。人間が神になるのである。 まるでオームだね。こんな経典に基づく大乗は大丈夫かなと改めて疑問に思った。
103 :
暁 :2009/06/17(水) 23:56:13 ID:YCYaZSlP
>>26 あのね。あなたは「空」という原理を想定しちゃいかんよ。
「空」から生命が落ちてくるとはなんぞな(笑)
有無への執見はやめなさいよ。そういうのが戯論なんだよ。
「空」とは有無を超越し、中道と同義。対立を打ち切る立場だよ。
あんたはアートマンで金儲けしたいの?(笑)
>>100 冷静に考えてみよう。
アートマンがあると考えたほうがいいのか、ないと考えたほうがいいのか。
アートマンがあったほうがいいよね。それは永遠である。
ではなぜ君はアートマンに反対しているのか。
この世に執着しているからだ。命が終わればすべて終わると考えているからだ。
来世ではなく、この世でいい思いがしたいと考えているからだ。
この思い込みがアートマンを拒絶する考えにつながる。
それは君の肉の思いである。悲しいかな、目先に翻弄されている。← 上から目線
105 :
暁 :2009/06/18(木) 00:19:19 ID:EGwhCxod
アートマンが有るとする人は何か勘違いしてないかい? 無自生であるとする人の「無」はそのような「無」ではないよ。 拒絶しているなど偏見も甚だしいな(笑)
106 :
旧7 :2009/06/18(木) 00:24:14 ID:yp5vNji+
>>104 この世では我慢して、来世でいい思いをすべきなんですねwwwwwwwwww
わかります! o(><;)o
>>104 むしろアートマンがあるほうが執着になるんだよ。
断見も否定はするが、あなたはあなただし。
結構真実をいうと怖いんだよ。
現にあなたもまったく整理できていない。
自分につごうのいいことを言い聞かせているだけ。
108 :
旧7 :2009/06/18(木) 00:33:31 ID:yp5vNji+
つまらんツッコミをしてしまった。 寝る。 ノシ
仏典では、アートマンとか梵我一如の境地を否定しているわけではないよ。 そこが最終地点(悟り、涅槃の境地)とはしていない。 無色界禅定でいたれる境地を、他宗教ではアートマンに至ったとか、梵我一如 とか表現しているけど、単純に「そんなもんない」とは言ってない。
110 :
暁 :2009/06/18(木) 00:36:38 ID:EGwhCxod
だから無いでは… もういいや あたしも寝ようノシ
111 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 00:40:49 ID:KWiDQtQ2
>>104 アートマンがある方が良いか、ない方が良い
などと言う価値論の話ではなく、純粋な論理証明の話だったのだが。
まぁ、ちょっと付き合うと
「死後存続」 これは、ほとんどの人間がもつ願望だろう。
誰でも「死んだら終わり」より、死後も継続する自己を望むだろう。
しかし、それはあくまでも「願望」であることを認識しなくてはならない。
その「願望」に引きずられて、何ら確証のない霊魂を
仮設し、死後も継続する自己を夢見て来世に希望を託す。
その結果、今世の生を希薄にする。そのような自己欺瞞に嫌悪を感じるだけだ。
俺のことを評して、この世に執着していると言っていたが、
俺から見れば、お宅らの方が来世に執着し、永遠の自己に
執着していると思えるがね
112 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 00:45:21 ID:KWiDQtQ2
わかるとは思うが、俺は
>>100 だ。 ID が変わっていたので念のため
113 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 00:54:33 ID:9PqYUgE0
>>104 >来世ではなく、この世でいい思いがしたいと考えているからだ。
こういう論法は、とにかく不毛だと思う。
隠居のクリスチャン陰謀論みたいなもの。
114 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 01:46:01 ID:7nDEz9QK
仏教徒って、生への執着まみれだな。この世の生だけでなく、あの世の生に まで執着しているw。煩悩の極致。見苦しい限り。 このスレをいくら読んでも、仏教とは何かがさっぱりわからない。盲人共が 象をなでてる感じ。難しい教典の中で迷ってしまっている。まず概説書から 始めたらどうかね。
批判するのは誰でもできる。
116 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 02:21:32 ID:7nDEz9QK
>>102 >法華経には絶対なる神が登場しないところが味噌。人間が神になるのである。
キリスト教とは全く異なり、それが仏教の類い稀な偉大さであることが理解で
きないのなら、仏教を語る資格はない。オウムは、キリスト教やヒンドゥー
教に影響され、「人間を超越した神」を認めたからこそ、殺戮行為を行うこと
が出来たのではないか。
117 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 04:56:05 ID:Ge0J2RBB
この世だけでなく、あの世まで、自我に執着する人が出てきた。 お釈迦さんはこの世とあの世をともに捨てれば、彼岸に到ると言ってます。 自己とは何かを追究したのがハンニャ経だろ。
118 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 05:05:54 ID:Ge0J2RBB
死後存続は霊魂不滅のことだろ。それも形而上学の問題だろ。お釈迦さんはそれも無用だから無記が正解だろ。
119 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 05:23:28 ID:Ge0J2RBB
仏教では人は仏に成れるが人が神に成れるなんて言わない。死んだら神様に成れるのは日本神道だろ。神が人に化けるのはヒンドゥ教だよね。ブッダはビシュヌの化身だろ。
論理的な思考ができる、理性のある人なのは認める。 だが 自説ぶちかます前に経典読めよめおんw
121 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2009/06/18(木) 06:47:28 ID:WGF8WWs9
>95 縁起するからシンクイを以て呪が成り立つんだが。(笑) 或いは、 五蘊は互いに縁起している。でもいいが。(笑) (^。^)まぁ、ホッケなんかつついてないで、中論読め♪(笑)
122 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 07:00:16 ID:Ge0J2RBB
経典は彼岸までの方便としての筏だと経典に言う。彼岸過ぎたら経典は捨ててよい。
124 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 09:16:00 ID:qwAxuSFp
125 :
一在家 :2009/06/18(木) 10:20:53 ID:Lsi4W2i5
>>102 >いまね法華経を読み始めている。あきれた、とんでもない小説だね。
>法華経は凡人が神通力を得てスーパースターになるという話である。
確かに釈迦語録というよりも、当時のベストセラー小説という印象には
同感です。でも、大乗経典の中では設立が古く、作者が原始仏典を
よく理解して執筆しているようにも感じます。
「方便品第二」では、これまで「常住不変のものは無い」と声聞、縁覚に
説いてこられた釈尊が一転して、菩薩には真実を告げると前置きします。
更に「実は世界も仏(神)も実相は常住不滅である」と 説き、弥勒菩薩ら
高弟でも愕然とした次第です。(如来寿量品第十六)
同じく「方便品第二」の中でも、
釈尊は、「すべての人は仏になりうるという最高の真実を悟っている。
(中略)とはいえ、最高の真理をそのまま説けば、無智の人は混乱し、
思い惑い、まっすぐ受け入れることができない。」と舎利弗に説きます。
126 :
一在家 :2009/06/18(木) 10:21:49 ID:Lsi4W2i5
さて、ここまでですと、法華経は当時のベストセラー小説で終わりますが、 原始仏典でも最古層のスッタニパータにも同様の説法が見られ検証されます。 ・悟りを得ずに肉体を離れた人は、再び母胎に宿る ・人や神だけでなく、肉体を持たないアートマン(山の精霊、夜叉)達との対話 ・バラモンの弟子が心で質問すると、読心通で回答する釈尊 まあ、法華経の作者がスッタニパータやディーガニカーヤを熟知しており 菩薩対象の説法として記載したのであれば、矛盾もなく筋も通ります。 勿論、凡夫、声聞、縁覚対象の説法ならば、「無常」や「四諦」までで十分だったと 思います。 菩薩対象の説法「世界と仏は常住」や「人は皆仏」は混乱を招くからです。
129 :
一在家 :2009/06/18(木) 10:25:22 ID:Lsi4W2i5
私も法華経とスッタニパータやディーガニカーヤとが非常によく一致するとは 申しておりません。 「如来神通力品」に記載の神通力は、一つもディーガニカーヤに記載の六神通とは 一致していないからです。
130 :
一在家 :2009/06/18(木) 12:11:53 ID:lGhLdEO9
>>125 >同じく「方便品第二」の中でも、
>釈尊は、「すべての人は仏になりうる」という最高の真実を悟っている。
法華経でも、今世でなれるとは記載されていませんね。
スッタニパータでも何人もの人が悟りを得て、再び母胎に宿ることはないと
記載されています。
何回も何回も輪廻、再生を繰り返して、阿羅漢レベルに到達した人は
再生が終わる=母胎に再び宿らない、という意味だと解釈します。
アートマンが今世限りであれば、六道輪廻が今世のみならば、年老いて悟りを
得ても、あまり有難みもないと凡夫は考えると思います。
131 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 12:12:40 ID:lGhLdEO9
原始仏教の梵天(神)は複数登場し、悟りを得た人も梵天界へ往くと 記載されております。 逆に梵天界の住人の中には、元人間も多数いるということになります。 キリスト教の唯一絶対神と原始仏典の梵天とは違うようですが、 エッセネ派ユダヤ教では複数の神の子ら(神に近い存在)が登場しますので 梵天達と近い存在かも知れませんが、私の憶測の範囲です。
132 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 13:33:22 ID:ZORnALqn
>>89 >>91 承狂氏
中論や般若心経については、前スレなどで語っているので繰り返さない。
縁起や空についての理解が異なるようですね。
ここしばらくは般若湯にホッケで楽しみたいと思っている。
>>103 >>105 暁氏
やはり縁起や空についての理解が異なるようですね。
それからネットだけなら、空もアートマンも金儲けとは無縁でしょう。
133 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 13:34:17 ID:+3Pbkwyq
確かに法華経の記載はその通りだな。 晩年の釈尊はこれまでの教えは方便だったと宣言。 それと原始仏典とが一致したらサンドイッチだな。 他の経典に固執するのはいかがか。
134 :
旧7 :2009/06/18(木) 15:46:35 ID:yp5vNji+
>>122 おしえ(経)も論(解説)も彼岸まで、ってかw
巧いなw
135 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 17:11:31 ID:ipbWvtZS
とんちんかんな旧7は基本的にスルー
136 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 17:25:16 ID:+3Pbkwyq
最後に菩薩に説いた教えは、衆生にはそんなの関係ない。 分からんから、ナンセンス。
137 :
一在家 :2009/06/18(木) 18:25:32 ID:Lsi4W2i5
>>136 >最後に菩薩に説いた教えは、衆生にはそんなの関係ない。
>分からんから、ナンセンス。
そうですね、2500年前の衆生には分らないでしょう。
でも、現代であれば輪廻を繰り返して分るアートマンも再生して
きていると思いますよ。
138 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 18:29:45 ID:+3Pbkwyq
そうかな? お宅がいうほど人間は変わっておらんww
139 :
このスレを初めて見る方に :2009/06/18(木) 18:37:27 ID:7ShY8LNJ
ここは芸術家が芸術家について語る雑談スレです。 間違っても宗教の話だとは思わないでください。
140 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 19:00:10 ID:+3Pbkwyq
常住ならどうやって苦から逃げられる? 俺がいつか仏になる? ありえんw
大ゴミをあじわいなさい
仏教は唯物論というか、唯名論に近いかもな 心を識として対象化しているから かといって、心も固定的存在とはみない
143 :
一在家 :2009/06/18(木) 21:06:51 ID:17zhrEI+
>>139 >ここは芸術家が芸術家について語る雑談スレです。
芸術家=アート・マン ですか。洒落てますね。
144 :
旧7 :2009/06/18(木) 21:18:04 ID:yp5vNji+
神がデザインしたアートが人間です
146 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 21:45:10 ID:F+KoUJPD
白い衣、髪、髭を伸ばし、恐ろしい眼力…etc。超越した力で、彼「存在」に呼ばれた人はいる?
147 :
宝珠愚者 :2009/06/18(木) 22:01:16 ID:oiV/Y6Ad
>>86 >アートマン肯定論者諸君
>簡単な思考実験だ
移植後の状況(症状)については、正直いって「ワカラン」としかいいようがありません。ただ魂その
ものが移動することは、まず考え難いことだと私は思います。魂は頭脳に連結しているわけではない。
PCでいうと、ソフト(脳)を入れ替えても、ハードウェアとしてのSOTEC-VL7200Aというモデルの性
能が変化するわけではなく不変でしょう。たぶん、ソフト(脳)を入れ替えると誤動作でいろいろと障害
が出るでしょうね・・。
魂と肉体との連結(実際にはエーテル複体との連結)は、頭頂部センターのサハスラーラ・チャクラ
と胸部センターのアナハタ・チャクラ(ハートセンター)の2ヶ所であり、アナハタに錨を降ろして繋がっ
てる“生命の糸”は「ストラトマ」と呼ばれています。これが途切れることが「死」の開始です。サハスラ
ーラとの連結は「アンタカラーナ」と呼ばれ、こちらは霊性の道における修養と瞑想を通して連結の糸
を確実に太くしていく過程です。 ---私の神智学的理解より
148 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 22:02:28 ID:Ge0J2RBB
唯名論と言えば、名ばかり管理職を思い出すね。名前ばかりで管理職としての実態がない存在だね。仏教では一切の物事即ち法には実体がない空なる存在と見なすから、確かに唯名論でしょうね。
149 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 22:25:10 ID:Ge0J2RBB
仏教では創造神を立てないから矛盾がない。創造神が神に似せて人を作ったなどと言う教義では、どうして神はこんなに不完全な失敗作品として人を作ったのか説明つかないね。
誰が(なにが)神をつくったのかも説明つかない。
151 :
宝珠愚者 :2009/06/18(木) 22:31:05 ID:oiV/Y6Ad
スレ4/971 >ダライラマが海外において、キリスト教やヒンドゥー教の影響を受けたことも考えられる。 一神教への憎悪に憑依されてる〜有得んw >チベット仏教では、争いが多い。仏教徒が政治運動やったり、デモ行進やったり、 >暴行を働くのは誠に異常。チベット問題で、ヒステリックな反応を示さず、 >法句経の「己が身に引き比べて」の章句を引用するに止めた日本の仏教界は、 >仏教としてのあるべき姿を示したといえよう。 日本だって、チベットのような侵略を受けて、 拷問と殺戮が繰り広げられ、文化の抹殺が図られようなどされたら、 きっと同じように暴動も起きるし、恐らく政治運動/デモ行進する僧侶も出るでしょう・・・。 まだ、チベット族のほうが仏教精神が大衆にまで浸透してるだけいいと見るべきです。 日本の一般人などに仏教精神なんかない。 日本は仏教国とはいわれるが・・仏教精神は浸透してない(理解もされてない)。
152 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 23:17:29 ID:nUN1FkuQ
>>151 怨みに対して怨みで報いないのが、仏教精神。
チベットの僧侶たちを制圧する中国の兵士が、「彼らは基地外」と言っていた。
この中国兵の気持ちは、痛いほどよく判る。
宗教者は、外部者からは「基地外」としか思えないことを、自覚すべきである。
基地外とは、現実との接触を失った者たち。
ガンジーの無抵抗主義も、結局は宗教対立をさらに悪化させ、わが子の暗殺の
原因となった。ガンジーがヒンドゥー教徒であり、また、英国留学中にキリス
ト教の影響を受けたことが原因だと考えられる。
153 :
神も仏も名無しさん :2009/06/18(木) 23:32:12 ID:nUN1FkuQ
ガンジーは、インドの最下層賎民を「神の子」と呼ぼうとした。しかし彼らは、 「何故、ちゃんと、最下層賎民と呼ばないのか」と怒ったそうだ。ここにも、 ガンジーのキリスト教的偽善性が現われている。
>>152 仏教徒として抗議しているわけじゃないと思うよ
チベット人として抗議してるんだろ
ダライラマ法王は暴力には反対だし、デモしか許してないと思うよ。
実際、チベット蜂起って名目はかなりさくらを混ぜて煽られた人を武装鎮圧する
かなり手の込んだやらせだったと言われているよ。
個人的に法王猊下は反対だろうが、チベット人は団結して立ち上がるべきだと思う。
平和とは譲歩ではないのだから。
155 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 00:34:57 ID:z/z1Vw1O
以前に追加用に紹介したブログ(
>>19 )では、日本の大乗教徒が
戦争を炊きつけたことも書いてありましたね。
他人のせいにしてしまえば簡単だし気も休まるかと思いますが。
ところで他人が迫害され殺されまでする状況を放置することは不殺生戒に触れないんでしょうか。
>>152 >外部者からは「基地外」としか思えないことを、自覚すべきである。
まさに中国がそうです。自分達の問題を棚上げして非があると思えない中国兵がそうです。
表面しか見ず、背後を軽視し、正論や理想論を振りかざして、サンドバッグに仕立て上げる論法がそうです。
156 :
「胎」とは「根源, 縁」 :2009/06/19(金) 00:38:03 ID:6b7u0K5a
>>42 >母胎に宿って生まれ
『大毘婆沙論』では、誤った思考である非理作意(ayoniso manasikAra)が
無明の原因とされます。
そして、その反対の正しい思考が如理作意(yoniso manasikAra)です。
これは文字通りには「胎から(yoniso)意を作ること(manasikAra)」を意味しますが、
この「yoniso(胎から)」とは「Adiso(初めから、根源から)」ということです。
また、縁(pratyaya)とは、字義通りには「返って行く(戻る, さかのぼる)もの」という
ことですが、「根源から」とは、この縁(原因)をたどって、という意味になります。
つまり、(苦の生起する)起源・原因を観ずる、という縁起観を行うことが、
無明を明に転ずる道である、というわけです。
157 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 00:45:24 ID:z/z1Vw1O
こういう時に限って「なんで君らは抵抗するんだいw教えに殉じないんだいww」という使い分けをするのもアリなんでしょう。 言論の自由を奪われ、個人や民族の誇りも持てない状況でも 子を残せれば生命の本分は果たせてるだろ、と それ以上を求めているだけなのに、 そのまま耐え忍んでろ、と言うのでしょうか。 可能性は高いでしょう。 どれほど恐ろしい状況か、数秒思いを巡らすだけで感じられるでしょうが、 負けた気分になりたくないために、押し通すことすら有りえるでしょう。
158 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 00:52:46 ID:z/z1Vw1O
・抵抗してたら→人を狂わせこのように血を流し合う状況を生んでいる ・無抵抗なら→人から本来あるべき防衛本能すら奪ってしまっている こんなもんでしょう。
160 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 02:42:02 ID:pLH2J4eg
先ほど、テレビの高校講座「情報」をみて、「色即是空・空即是色」が理解 できた。 目の前に、一枚の花の絵がある。これを標本化して多数の画素に分割すれば、 その絵は、異なった画素の関係的集合に過ぎない。即ち、花の絵は「空」であ る。画素を無限に増加させれば(標本化の範囲を無限に小さくすれば)、画素 自体の大きさは、限りなく「ゼロ」に近づく。しかし、人間の目でその画素の 関係的集合体を見れば、「花の絵」が実在すると思ってしまう。 御釈迦さんは、アナログ、デジタルの原理の発見者でもあるわけだ。
161 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 02:49:22 ID:pLH2J4eg
即ち、「色」とは、アナログの世界、「空」とは、ディジタルの世界、 と考えればよい。そして、人間は、アナログの世界に生きているのである。
162 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 03:09:27 ID:6XMx9v08
「アートマンは、あるか、ないか」、即ち、アートマンを有無判断の 対象として考えれば、上記のアナログ・デジタルの原理を免れることは できない。すなわち、アナログ的には存在するが、デジタル的には無で ある。 有無判断の対象にしなければ、有無を論じることは、初めから無意味で ある、
常住の存在としてのアートマンは存在しないといったじゃないか
誰が?
165 :
一在家 :2009/06/19(金) 07:57:50 ID:Z+labwrX
>>145 >神がデザインしたアートが人間です
35年以上前に、私の師もあなたと同じ事を言ってました、神は「大芸術家」だと。
神の子(仏性を宿す子)人を造って、地球(または3次元界)をキャンバスに
地上の天国(極楽浄土)の絵を描いていると。
この世界を子供達に任せた以上は親はあれこれと直接は干渉できないようですが、
人心が乱れた国や時代には預言者、聖者達を下ろして人類教化をしてきたと
推察できます。
166 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 08:14:37 ID:NVOGAxP6
仏性とは仏に成る可能性ということで、仏の本性・本質が仏性ではない。 仏の本性・本質は仏の自性ということで仏教ではそれは空であると言う。
167 :
一在家 :2009/06/19(金) 08:18:11 ID:zOi2VJQN
死海文書(エッセネ派ユダヤ教)の宗規要覧より、 「二つの道があり、光の道と闇の道、善の道と闇の道がある。(中略) どの人間にも光の部分と闇の部分がある。たとえ光の子らの一人で あっても、誰もが罪人なのである」 異端としてアタナシウスらに廃棄されたトマスの福音書より、 イエスが弟子達に言った、 「もしも彼らがあなた方に、「あなた方はどこから来たのか」と言う ならば、「私たちは光から来た、光が自ら生じた場所から。そこで 光は彼らの像(似姿)において現れ出た。」と言いなさい。」と。 旧約「神は言葉なりき」で、言葉は波動、バイブレーション。 光もまた波動。素粒子も粒子と波の性質を併せ持つ。 段々と神仏や創造の実相に近付いていけそうですが、次回再生できたら その時の科学では解き明かされているかと存じます。
168 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 08:44:48 ID:NVOGAxP6
言葉で表される物事はすべて名前ばかりで実体がない空なる存在である。 このように実体がない物事は常に縁により離合集散して、変化する、無常 なる物事として現象する。 常住不変の物事はいつの世にもどこにも現象する可能性が無い。 これが唯名論としての仏教哲学であろう。
169 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 08:58:27 ID:NVOGAxP6
>>127 >彼岸に達してから言えってこと。
経典を読めといったから経典の言葉を紹介したまでだ。
経典は彼岸に達した人の言葉ではないのか?
170 :
偽本尊 :2009/06/19(金) 09:22:33 ID:SPDYrzLE
>160 画素を無限に増加させることは不可能。 従って「無限に増加させれば」という例えは意味が無い。 それに空はデジタルでは無い。 もうひとつ、色即是空の例えとしては分かるが、空即是色の説明にはなっていない。
171 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 09:57:22 ID:dvv/UmRX
>>170 アナログの世界の画素は無限なはず。これをデジタルで無限にサンプリ
ングすれば、個々の画素のサイズは、限りなくゼロ(無)に近づく。
デジタルの世界では、特定数の画素の関係的集合体(空)に過ぎなくて
も、人間が見れば「花の絵」(色)である。これが「空即是色」。
172 :
一在家 :2009/06/19(金) 10:00:41 ID:vKctvxdF
「色即是空」ですか。 私は全ての物体を電子顕微鏡で拡大して見れば、分子の周りを 電子が飛んでる真「空」の世界と似ていると思います。 逆にこの真空の世界には素粒子(波)が存在して、それらが 集まれば物質「色」になるということで「空即是色」かなと。 釈尊の時代では、電子顕微鏡は存在しなかったので、 可視領域の存在(色)は不可視領域(空)の物質で構成されて おり、分解されたらまた見えなくなるという悟りだったのでは と推察しております。
空を理解 ≠ 空を悟る
空を理解した気分になる = 慢心
175 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 10:24:11 ID:dvv/UmRX
>>173 理解できなければ、悟りはない。「悟った」という「気分」に過ぎない。
>>174 ならば、宗教者、修行者は、すべて「慢心」。
176 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 10:26:06 ID:NVOGAxP6
>>171 >アナログの世界の画素は無限なはず。
光量子論によれば光(画素)も光粒子から構成されるから、
画素は無限小にはできない。すなわち世界はアナログ(連続)
では無くデジタル(離散)で構成される。
♪とかくこの世は計算さ!数と数との絡み合い!
数は基本的にデジタルであろう。ひとつひとつ数えられるのだから。
仏教に科学をもちだすなって。収集つかなくなるから 宗教と科学を融合させることほど見苦しいことはない
178 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 10:38:58 ID:dvv/UmRX
>>167 わざわざキリスト教など持ち出す必要はない。仏教は、はるかに自己完結。
「光」は、人間の狂気を招く原因だからよくない。原初の創造は「闇」で
ある。
「言葉は神であった」はヨハネ福音書の言葉。しかし、この言葉は誤り。
言葉は、徹頭徹尾、人間の発明。言葉を「ロゴス」とすれば、それは
ギリシャ哲学の概念の猿真似。ロゴスがイエスなどと解するのは、キリ
スト教におけるナザレ村の若者の「神格化」の目的のため。とんでもない
話。
179 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 10:45:03 ID:dvv/UmRX
>>177 >宗教と科学を融合させることほど見苦しいことはない
そんなことはない。宗教も科学も、同じく「人間」の営み。截然と区別
できる訳がない。古代人における宗教の発生は、その生存のための「手段」。
現代の科学の代替品。古代人なりの精一杯の「現実性、合理性、科学性」の
表れであった。古代人は、生存の「手段」としての宗教を、その「目的」と
するという倒錯には陥っていなかった。
>>179 宗教は信仰の対象だが、科学は信仰じゃない。
アナログデジタルのたとえはおもしろいが
仏教思想は画素を立てたり立てなかったりまちまち。
くしゃ論では原子論は排斥されている。
181 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 10:55:38 ID:NVOGAxP6
>>172 >私は全ての物体を電子顕微鏡で拡大して見れば、分子の周りを
>電子が飛んでる真「空」の世界と似ていると思います。
電子顕微鏡は電子を使って対象物を見る機械である。
当然電子で電子を見ることはできない。
眼がその眼自身を見ることができないのと同じだ。
電子は心眼(脳)で推量するものだ。
電子が飛んでる世界なら真空では ない。
真空とは電子も飛んでいない世界だ。
182 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 10:57:04 ID:YAMpAIFf
>>179 言いたいことは、わからんでもないが
宗教を現代科学の知見を用いて、
その妥当性を担保しようとするのは、やはり間違い。
>>172 の書き込み見てもわかるように、間違った見解を広めるだけ。
183 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 10:58:35 ID:dvv/UmRX
「色即是空・空即是色」は、「物(世界)が存在するとは、どういうこ とか」についての、究極の存在論。いわば、唯物論の基礎である。その 原理は、アナログ・デジタルの原理にも明らかなように、現代でも完全 に通用する普遍の真理。有効な反論・反証ができる現代の西洋哲学者・ 科学者は、「皆無」である。
>眼がその眼自身を見ることができないのと同じだ。 正確にはちがう。 電子顕微鏡の分解能は電子の波長より小さくはならないから、それより小さいものは見れない。 もし、電子より小さな極性粒子が見つかれば、我々は見ることが可能。
185 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 11:02:48 ID:NVOGAxP6
>>177 仏教は科学と対立しない思想・哲学だろ。
キリスト教原理主義のように進化論を否定することは無い。
仏教では天動説から地動説へのコペルニクス展開も問題なく
受け入れられた。
量子論の不確定性原理などますます仏教思想に近くなっている。
186 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 11:04:39 ID:dvv/UmRX
>>182 現実(科学)の揺さぶりに耐えられないような宗教の「真理」は、そもそも、
「真理」とはいえない。単なる「妄想」に過ぎない。
>>177 そうかもしれない。
だが、そんなことは仏教とは直接関係のないこと。
その証拠に、導くためには、神も肯定する。
梵天勧請はまさにそれ
>>186 なら仏教はすでに耐えられてない
須弥山世界観は幕末に論破された
189 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 11:19:01 ID:dvv/UmRX
>>187 >梵天勧請はまさにそれ
それは、バラモン教との過渡期の話に過ぎない。
人間を超越した神などを否定したことが、一神教に比較して、仏教の
類い稀な偉大さであることを理解するのが、仏教理解の第一歩。
そのお陰で、仏教は、2500年間、殆ど人を殺すことがなかったので
ある。数億人、数十億人の人命を理由なく奪い、現在でも奪い続ける、
一神教の惨状と比較されたし。
190 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 11:19:20 ID:YAMpAIFf
>>185 仏教の中には科学とは、到底、相容れない超常的な信仰に類する経説があるのも事実。
このスレを見てもわかる様に、それらの経説に執着するものが自己の信仰を補強するために科学を引き合い
に出すのが問題
191 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 11:26:11 ID:dvv/UmRX
>>190 >仏教の中には科学とは、到底、相容れない超常的な信仰に類する経説
>があるのも事実。
それらの経説は、現代では否定すればよいだけのこと。勿論、似非科学
も否定しなければならない。似非科学は「科学」ではないのだから。
>>186 宗教は人間の心理面に働きかけて、動物から引き継いできた部分の「本能」と魂の部分の「仏性」
を分ける知恵なんだよ。だから宗教を科学と合致させようとする論理自体がそもそもナンセンスなんだ。
193 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 11:39:50 ID:NVOGAxP6
>>190 そうだね。
神通力などを比喩やわかりやすくするための物語だと理解せずに
それが現実にある超常現象だと思うのは夢・現・幻の分別がつかない
無分別な者というしかないね。
194 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 12:18:00 ID:YAMpAIFf
と まぁ、俺や
>>191 や
>>193 が、このように書くと
カラスあたりが、目の色変えて
「この偽仏教徒めが!!」
などと喚き散らしそうだな
>>194 目の色なんか変えねぇよ。
おれは君らのような人に大しては無記を通す。
いっても無駄だからだ。
宗教上の形而上の話は、あくまで自分自身で知るしかないものだ。
他人が証明できるものではない。
ゆえに、猜疑心の強い相手には、あえて無記を通す。
その人がこちら側の人でありながら、猜疑心が強く、そういう相手を
今こちら側の道に導こうとするなら、尚のこと、形而上のテーマは、あえて
無記を通す。なぜなら、そのような相手に、形而上のことを語れば
かえって、我々に信をおかず、その道から遠く離れるから。
それに、神通力などの能力は、さして重要ではない。そんなものはおまけみたいな
ものだから。
197 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 12:53:19 ID:YAMpAIFf
>>195 お〜 今までとは、全く違ったスタンス。
さすがに、長いこと喚き散らしたかいあって、少しは
進歩したのかな?
単なる、一過性のポーズでなければ良いが
>>172 現代に釈迦がいたらどう思うだろう。
電子顕微鏡がないと分子、原子が見えないのかというにちがいない。
ようやく科学の力で釈迦の悟りにちかづきつつあるのだ。
俺と、一在家氏との決定的な違い。 俺は永遠不滅の魂の話などしていない。 一在家氏など、多くの宗教家が犯す誤謬の代表格が 我々の魂こそが、永遠不滅の魂などとほざくものだ。我々の自我意識は 死ねば消えてなくなる幻。死んでも、我々の今の意識が残るというものは無い。 では何が輪廻の主体となるのか?それはおまえの行いと結果という 業である。業が伝わったのが魂というならそれはそれで差し支えないだろう。 魂とは、鬼が伝わったものだから。だがそれは一在家氏の主張する アートマンではない。それらも行いと結果という二項からなり、それ一本では存在し得ない 主体性(アートマン)の無い、無自性な、空なのだ。そしてそれは あくまでこの現象世界があればこそ存続できるものであり、この現象世界(宇宙)が、 消滅すれば消えて無くなる定めのものだ。つまり、永遠不滅のものではない。 生まれたものは、いずれ滅びるのが定め。それはこの宇宙とて同じこと。 輪廻する主体、行いと結果という業を伝える魂とて、この現象世界と運命を共にし、 この現象世界が消滅すれば、共に滅びる定めのものだ。ゆえに永遠不滅でもなければ 縁起から離れた自立自存のものでもない。俺の話は、生まれた事もなければ、 滅びることも無い、元から在る存在。縁起を含め、全ての根源となる、 その存在の話をしている。永遠不滅の魂の話などしていない。むしろイエスの教え は、業を滅ぼすこと、つまり魂を滅ぼすことの先に、永遠の命はあると解き明かす。 輪廻の主体は、行いと結果という業だ。この業(魂)こそがアートマンだというのは、ゴータマの 時代のバラモン達もしていた。もっとも当時のバラモンも、一在家氏も、ひいてはオウムの 麻原も、魂とは今の我々の自我意識であり、この意識は死んで今の肉体が滅んでも 永遠不滅に存続し、この魂こそが真我であると、そしてこの魂こそが 輪廻の主体だというとんでもないものだが。魂は真我と違う。この話は前シリーズから何度も、 何度も、何度もしてきた。なのにいまだ俺の話は、真我、アートマンとは永遠不滅の魂だとのたまう連中と 一緒にされるのは不本意だ。俺はそんなに難しい話をした覚えは無い。専門用語も使わないで 誰にでもわかる簡単な文章で話してきたつもりだ。君らの無理解にははなはだ恐れ入る。
>>197 俺は今まで超能力の話などしたことねぇよバ〜カ。
しかし2chは程度の低い者ほど上から目線で話すから始末に悪い。
2chは集まりが悪すぎる。ここで真理を話すということは、まさに豚に真珠だ。
201 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 13:09:31 ID:YAMpAIFf
あら?あら? お前の書き込み、まともに読んだことなかったが、 以前からそんなこと言ってたの? 宝珠や一在家をまっこう批判じゃん。 んで、超能力も否定か。
202 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 13:27:51 ID:NVOGAxP6
>>199 >では何が輪廻の主体となるのか?それはおまえの行いと結果という
>業である。
ほう。自業自得ではなく自業他得の業報か?
業の一人歩きかよ?
完璧なクローンで、同じ環境で育てたとする。 ここで、この二人に何か問題が起こり、解決策は二人とも同じものになるのかは やってみないとわからない。唯一ついえるのはこの二人は同じ魂ではない。 別の人なのだ。なぜなら相対世界で生まれた二人は、たとえ生物学的に同じ生物 だとしても、人格は別だからである。どんなに似通った性格していようが、 二人が対面したとき、二人は別の人だと認識するし、二人は別人格なのだ。 真我とは大海原と喩える。そして肉の自我とは、その大海原から生まれた波。 それぞれの波は、別個のように見えて、本質は、その大海原であり、波が静まれば 元の大海原へと戻る。波は業が強まれば、さらに高ぶり静まることは無いだろう。 そして波は、他の波と干渉し、新たな波を生み出す。 仏教の言う苦とは本来、自分の思い通りにならないという意だと聞く。人は大変な財産を持って 生まれてくる。だがその財産はいずれ使い果たし、落ちぶれていく。 少し利口な人は、因果応報に気づき、徳という財産を積み上げ、良き報いを得ようとする だろう。だが、その徳という財産も使い果たせば、ほれ、この通りだ。人はどんなに徳を積もうとも 最後には落ちぶれ、苦しみが待っている。人はこの現象世界に生きる限り、負の業 を必ず積み上げる。人はその負の業を一タラントたりとも清算しなければ、そこには帰れない。
そこは主人が自分のぶどう園に労働者を雇うために夜明けと同時に出かけるようなものである。 彼は最初に会った労働者達と今日一日、一デナリの約束をして彼らを雇った。そして昼頃に 会った労働者達とも今日一日、一デナリの約束で雇った。そして最後に夕刻に会った 労働者達にも、今日一日一デナリの約束で雇った。 そしてその日の終わるころ、主人は労働者達に約束の一デナリを払った。 そこで最初に雇われた労働者達が口々に不平不満を言った。なぜ我々のほうが長く働いているのに 後から来た者と賃金が一緒なのか?そこで主人は言った。私があなた方に約束したのは一デナリである、 それは後から来た者達も同じ約束である。あなたは自分の銀貨をもらっていきなさい。 私は後から来た者達にも同じように払ってやりたいのだ。私の持ち物を私がしたいようにするのは 当たり前ではないか。このように後の者は先になり、先の者は後になるだろう。 この後、真理が明かされ、それを受け入れる者達が支配する社会が来る。 その時代の恩恵に預かる者は幸いである。古くからいる者はその時代に負の業の清算を 果たし、新しい者は、生まれ持った大変な財産をそのまま引き継ぐ。こうして後の者は 先になり、先の者は後になるだろう。
>>202 俺は自業自得の話をしてるんだが。
お前はくだらない。別に俺の話を受け入れてくれなくてけっこう。
受け入れてくれとも、頼んでもいない。
>>201 否定もしていない。
おまえは無記の意味すら理解していない。
俺の話を何も理解していない。
>お前の書き込み、まともに読んだことなかったが、
ちゅうかお前の話のほうがまともに読んでいない人多いと思うよ。
207 :
一在家 :2009/06/19(金) 13:39:31 ID:zOi2VJQN
>>199 カラス氏へ
>俺は永遠不滅の魂の話などしていない。
私も魂は永遠不滅だとは思っていません。誕生があれば消滅もあります。二つ前ほどの本スレで表明済みです。
ただし、肉体の寿命のように100年位で尽きるものではないと思います。色々な事例より数万年は寿命がありそうです。
>では何が輪廻の主体となるのか?それはおまえの行いと結果という業である。
私も因果応報、自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならないと思います。
不幸現象が続く人の憑依霊と対話しますと、その人の前世か先祖が原因を積んでいるという事例を多数知っているからです。
>あくまでこの現象世界があればこそ存続できるものであり、この現象世界(宇宙)が、
>消滅すれば消えて無くなる定めのものだ。つまり、永遠不滅のものではない。
五感で感じられるこの現象世界だけでなく、霊や神(梵天)の世界も含めて魂は存在し行き来します。
>輪廻の主体だというとんでもないものだが。魂は真我と違う。
真我は神の似姿として人が誕生する際に、神から頂いた一部(光の箇所)だと考えております。
>アートマンとは永遠不滅の魂だとのたまう連中と一緒にされるのは不本意だ。
以上、カラス氏とのスタンス(見解)の相違を述べましたので、一緒にされないように。>各位
>誰にでもわかる簡単な文章で話してきたつもりだ。君らの無理解にははなはだ恐れ入る。
まあ、見解のベースが異なるので、釈尊を見習い根気よく対話をしながら、お互いを理解しましょう。
208 :
一在家 :2009/06/19(金) 13:58:27 ID:vKctvxdF
>>203 >なぜなら相対世界で生まれた二人は、たとえ生物学的に同じ生物
>だとしても、人格は別だからである。
この板でも肉体の死後も存続する魂を、認める人と認めない人がおられます。
認めない人にとっては、生物学的に同じ生物であれば、脳神経も同じで、
人格も同じだと考えるでしょう。
一卵性双生児の喩え話は、生物学的に極似であれば、脳神経も極似で、
人格も極似だというモデルの反証にありました。
実際の世界におきまして、同じ環境で大人まで育った一卵性双生児の実例は
多数存在しますので、肉体的な極似と比較して、性格や知能指数も極似かと
いう問いかけを行ないました。
魂を認めない人の大半にも、知り合いに一卵性双生児がいて、ホクロの
位置で見分けないといけないほど似ていても、性格や好みや表情や学歴が
異なることを思い出して、自ら回答を見つけたことと存じます。
まあ、性格や好みや表情や学歴まで極似の一卵性双生児もいるでしょうが、
宝くじに当たるくらいの確率でしょうか。
そして一卵性双生児の事例からクローン人間の場合もある程度は類推できるでしょう
とお伝えした次第です。
209 :
一在家 :2009/06/19(金) 14:15:46 ID:Z+labwrX
科学者とは五感に感じられる世界のみを研究の対象としていると 考えておられる方々がこの板でも多いようです。 今では小学生でも知っている、原子や電子も五感では感じられませんが 科学者達は研究対象としてきました。 遺伝子、ヒトゲノムも同様に五感では把握できませんが、科学者達は 研究対象としてきました。 科学者はまず現象を五感で感じます。そしてその現象を引き起こす原因 と因果関係とを仮説(モデル)化します。 次の時代の別の科学者が過去の仮説(モデル)を実験にて確認し、モデル の正しさ、誤りを証明します。この繰り返しで科学は進歩。 事例としてはテレパシーや透視能力は五感では把握できないから、科学者は まったく見向きもしないと思いますか? 自身の信頼のできる人かその紹介者でそのような能力者がいれば、科学者は 頭から否定はせずに、まず仮説(モデル)化します。 立場上で研究はしないとしても。 自身の信頼のできる人かその紹介者で霊と話す人がいれば、科学者は 頭から否定はせずに、まず仮説(モデル)化します。 かのエジソンも晩年に霊界ラジオを開発しておりました。 また宗教の開祖達の多くや聖者は五感では把握できない現象を自ら体験します。 宗教者と科学者は五感では把握できない現象を頭から否定はしないという 点では似ていると思います。 唯物論者や哲学者とはスタンスが違います。
210 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 14:33:08 ID:NVOGAxP6
>>209 >科学者とは五感に感じられる世界のみを研究の対象としていると
自然科学にもいろいろあるけど物理学では五感に感じられる世界は
その研究対象ではないだろ。色形・声・臭・味・触感などいずれも
物理学の対象ではない。物理学は物・波動・エネルギーなど物理量
を対象とするものだ。物理量は計測し数値化することで把握される。
五感とは何の関係も無い。
>>176 ひとつひとつ数えられない数がほとんどだよ。
212 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 15:06:05 ID:vIJu5pTB
「仏典における無記」例の一覧表を作る必要があるようだ。
>>209 天才は直観で分かるんだよ。世界が。
まずはインスピレーションありきだよ。
214 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 15:42:09 ID:SWAWUYCy
>>192 >動物から引き継いできた部分の「本能」と魂の部分の「仏性」
人間も動物の一種に過ぎないのですがw。動物分類を参照されたし。
かの猛獣のライオンでさえも、家族や子供たちには優しいし、人間とは異なり、
生存のためではなく、架空の神のために殺しあったりしない。その意味で、宗
教者は、文字通り「犬畜生にも劣る存在」。
しかも八正道とは実は五官をつかって、悟りを得る方法でもある。 五官により悟りはえられる。へんに超能力にたよるのはおかしいのだ。
>>214 > 人間も動物の一種に過ぎないのですがw。
だから動物から「本能」を引き継いでいて、その弊害を煩悩とと称したんだ、それらから開放するために
「本能」と「仏性」を分ける必要があり、その「仏性」の発見と「仏性」が指し示す道に従って
生きることを可能にさせようとするのが宗教なんだよ。
217 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 15:57:24 ID:SWAWUYCy
>>210 >物理学は物・波動・エネルギーなど物理量
>を対象とするものだ。物理量は計測し数値化することで把握される。
>とは何の関係も無い。
五感で知覚できる世界とは、現実界・実在界のことです。物理学や他の自然科学
は、その五感で知覚できる世界を対象とします。そして、必要な場合には観測
装置を使用して、五感の知覚により観察、検証、計測、数値化します。
間違っても、空想の産物である神や霊は対象にしませんw。
218 :
偽本尊 :2009/06/19(金) 16:05:57 ID:SPDYrzLE
>215 五感の感覚を止滅したところに涅槃があります。 でも涅槃は覚りではないよね。
219 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 16:06:04 ID:SWAWUYCy
>>216 人間以外の動物には、「煩悩」などあるのでしょうかw。
動物たちも、いや動物たちこそ、十全に生きていますが。
仏性も、生存本能に基づく共同体形成維持本能から生じたものです。さも
なければ、仏性は、どこから生じたものですか。
家族に優しくし、お互いに助け合う他の動物たちには、仏性はないのですか。
仏性でなければ、それは何ですか。
220 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 16:10:57 ID:SWAWUYCy
>>218 「悟り」とは何か、きちんと定義してくれ。自分でも具体的意味の判らない
言葉を、人前で口走ってはならない。言葉とは、他者に対する意味伝達の
道具である。
>>219 > 人間以外の動物には、「煩悩」などあるのでしょうかw。
もちろん動物にも煩悩はある、そして人間同様に仏性もある。
222 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 16:40:18 ID:YAMpAIFf
>>208 ちょっとまて!
「認めない人にとっては、生物学的に同じ生物であれば、脳神経も極似で
人格も同じだと考えるでしょう。」
こんなこと言った奴、いたか?過去ログ見直してみろ。
俺が言ったことは
「たとえ一卵性双生児であっても、その個体差及び精神的特性の相違は当然である。その相違の起因は個々の後天的体験の相違によるものであり
個々の霊の違いを原因と考えるべき必然性などない。」
つまり、衣服や音楽の好みが違っていることの説明に霊を持ち出す必要などないて言うこと。
わかった?
223 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 16:53:44 ID:NVOGAxP6
>>213 >天才は直観で分かるんだよ。世界が。
>まずはインスピレーションありきだよ。
直観(インスピレーション)は五感による五識を統合して意により判断した
意識だね。五識の経験のない処に直観は生まれない。
224 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 17:01:17 ID:NVOGAxP6
>>217 >間違っても、空想の産物である神や霊は対象にしませんw。
空想の産物である神や霊は対象としないが、空想の理論的抽象存在である
素粒子やエネルギーなどを対象とする理論物理学はある。
M理論や超ひも理論などはまだ実証されていない空論だね。
225 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 17:07:18 ID:vIJu5pTB
仏性ってなに?動物にもあるってどういうこと?
226 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 17:10:24 ID:YAMpAIFf
>>209 さらに、この書き込みの趣旨はよくわからんが、
科学に言及してるのでレスを付けると
科学は何ごとも頭から否定してかかることはない。
どんなにバカバカしい論文に対しても、その発表の場を与えている。
しかし、当然のことであるが詳細に検証すべきものか否かの判断は行う。
検証に価する有意なデータまたは仮説等が提示されれば、当然検証する。
しかし、いわゆる超常現象、疑似科学の分野ではそのようなものは、ほとんどなく、普遍的な法則、現象と認知されたものは皆無である。
227 :
旧7 :2009/06/19(金) 18:41:40 ID:+rp9bO5f
いやぁ・・・w おめでたい流れになっとるなぁ・・・。 (; ̄∀ ̄) 一旦お花畑化したスレは、なかなか元に戻らんぞw
228 :
一在家 :2009/06/19(金) 18:52:41 ID:zOi2VJQN
>>40 >>222 さて、一卵性双生児の後天的獲得形質ですが、なぜ外見的な特徴は見分けがつかない
のに、同じ生活環境で精神的、知能的な特徴には相違点が大きいのか、疑ったことは
ないのですか。
と私が回答したら、知り合いに10人の双子がいるが、見分けがつくという回答があり
ましたので、私も「無記」を通して、本テーマは輪廻を停止しております。
229 :
一在家 :2009/06/19(金) 18:59:28 ID:zOi2VJQN
>>226 >しかし、いわゆる超常現象、疑似科学の分野ではそのようなものは、
>ほとんどなく、普遍的な法則、現象と認知されたものは皆無である。
本件も事例を紹介済みです。
あなたが分野違いで知らないのは当然でしょうが、IEEE(世界最大の電気電子情報学会)
の機関紙にはESP関連の論文が掲載され、米国では博士号も取得した人達がおります。
ともに全国大会の予稿ではなく、一流の学者、研究者による査読があります。
大きな図書館でIEEEの専門誌を調べれば見つかりますよ。
230 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 19:03:48 ID:YAMpAIFf
>>228 無記を通すのであれば、わざわざ
>>208 で
誤った書き込みを繰り返す必要はない。
ただ、沈黙してればよろしい。
一卵性双生児の件も電子顕微鏡の件も どうもお前は自己の主張に普遍性を持たせるため
科学に言及する癖があるが結果として誤った認識を広めることにしか繋がってないので控えるべきである
231 :
一在家 元IEEE :2009/06/19(金) 19:15:46 ID:zOi2VJQN
>あなたが分野違いで知らないのは当然でしょうが、IEEE(世界最大の電気電子情報学会) >の機関紙にはESP関連の論文が掲載され、米国では博士号も取得した人達がおります。 いくら私が繰り返し伝えましても、疑う人々も多いかと思います。 そこで、検索ワード「Extra-sensory perception IEEE」にてグーグルで検索すれば、 6千件以上はヒットしますから、英語の文献ばかりですが、欧米のレベルを悟れることと思います。
232 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 19:16:56 ID:YAMpAIFf
>>229 ほ〜 それは凄い。
それで、その分野は現在、自然科学すなわち物理、化学、生物学等などのように認知されているのかな?
その分野の研究でノーベル賞を受賞した学者を俺は知らないのだが、無知なのかね?
テレパシーなら、差し詰め物理か脳生理学あたりか?
>>223 人間の五官能力を超えているということです。
脳からは出てきません。すでに霊界にあるわけです。
まず結論ありきなのです。あとは検証するということです。
234 :
旧7 :2009/06/19(金) 19:24:46 ID:+rp9bO5f
>>233 単純なことなんだが、
(タブララサという言い方はあまりしたくないが、そのような)
《一切の情報が未入力な時》、その時そこに
《「直観」的な各種諸々(ま、何でもいいがw)》ってあり得るのかな? (´・ω・`)
235 :
一在家 元IEEE :2009/06/19(金) 19:25:21 ID:zOi2VJQN
更に、検索ワード「Parapsychology IEEE」にてグーグルで検索すれば、6千件近くはヒットします。 IEEEの論文そのものも読めますので、英語力に少し自身のある仏教徒は一読しては如何でしょうか。
>>225 なんていうか・・・動物が生まれながらに備わってる先天的な本能と、生まれた後から学習する後天的な知識・知性とは
全く別次元の価値観というか質というか・・・そんな感じかな?本能や知識が一瞬途絶えたときそこに在るのが仏性とでも
言ったら良いのか・・・
237 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 19:30:37 ID:SWAWUYCy
>>235 まともな科学者なら、問題にしない論文ばかりである。マスコミやノー
ベル賞関連で話題になったことが、一度でもあるかね。
238 :
一在家 :2009/06/19(金) 19:31:45 ID:zOi2VJQN
しかし、原始仏典の中に釈尊が行なったと記載されている「読心通」を自称仏教徒が 頭から否定し、IEEEの科学者達が真面目に大学や国家プロジェクトの予算を使って 研究しているのが実相ですね。 どちらが釈尊の弟子だか分らない、これが末法の世だと悟れば宜しいのでしょうか。
239 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 19:33:57 ID:YAMpAIFf
ひとつ言っておくが、この手の超能力関係の研究は 米国自身も公的にその研究を行なっていた歴史がある。勿論、軍事転用目的だがね。(現在は成果なしということで、中止) ロシア、中国については現在の事情は知らないが。 いいか?要は、それらの研究により、普遍的な法則、現象が認知されたかどうかと言うこと。 テレパシー、念力、テレポート、千里眼 これらが、実証されたのかい?
240 :
一在家 :2009/06/19(金) 19:35:41 ID:zOi2VJQN
>まともな科学者なら、問題にしない論文ばかりである。 あなたは論文を読んで分るのですね、凄いじゃないですか。 一応、有名大学の工学・理学博士号を取得している人も多いですよ。 今にノーベル賞を受賞するかも知れませんね。
超能力が欲しかったら釈迦を悟りからさんざん遠回りさせたヨーガその他超能力者に弟子入りすれば良いよ。
242 :
一在家 :2009/06/19(金) 20:09:22 ID:zOi2VJQN
米国では研究機関が減り、バージニア大とアリゾナ大に研究室が残っており ますね。 まあ、日本の大学には講座は無いでしょう。 欧州は英国がリーダーシップを取って、エジンバラ大、リバプール大で 研究が継続しております。 超能力があるか無いかの検証は済み、より深く超常現象を解明する方向に 研究の視点は移っているそうです。(Wikiより)
243 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 20:12:19 ID:YAMpAIFf
あのなあ、その手の研究をしている博士号取得者などは、世界に数えきれないほどいるの。 日本にも沢山いる。 要はそれらの人達が、「その研究により」 何かしらの評価をうけ、権威ある賞を受賞したことがあるのかい? と言うこと。 すなわち、世界的に自然科学の分野で認知されたのかい?
244 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 20:23:32 ID:YAMpAIFf
>>242 ちょっとまてよ、それは英国で「超能力が実証された」と言うことか?
それが真実なら世界的大ニュースのはずだぞ。
245 :
一在家 :2009/06/19(金) 20:42:00 ID:vKctvxdF
>超能力があるか無いかの検証は済み、より深く超常現象を解明する方向に >研究の視点は移っているそうです。(Wikiより) The Parapsychological Association states that an increasing number of parapsychologists are moving beyond proof-oriented research, because they believe experimental success has already been established, and instead looking at more detailed factors to better understand the phenomena. 私の訳が良くなかったようですが、英国の超能力研究者は増えており、 彼らは超能力があるか無いかの検証は済んだと信じており、 超常現象の解明に研究視点が移行してる、ってとこですか。 まあ、仏陀はアートマンを説いたか否かの議論は終わっており、 涅槃に至る道への解明に自称仏教関係者の関心は移行してる、 って板に似ておりますか。
246 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 20:47:48 ID:YAMpAIFf
>>245 原文を見ても「彼らがそのように信じている」と言う記述しか見当たらないが?
>>234 むしろそうした五官情報にたよるよりもそれを超越して、魂で感じとるというか
実在界の理念をつかみとるということです。
仏教でも空というものを創造、天地創造ととらえると、創造の本質が見えてくる
ということです。つまり本来はこの世に何一つなかったのです。
そういう意味で仏教は科学なのです。
248 :
旧7 :2009/06/19(金) 21:17:27 ID:+rp9bO5f
>>247 だからw
「一切の情報が未入力な状態でも、
《その後、外部へ表出可能な、具体的内容のある何事かを感受し、(記憶として?)保持できる」
と、こういう意見だと受け止めて宜しいか?
249 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 21:33:45 ID:NVOGAxP6
>>233 >すでに霊界にあるわけです。
その霊界はすでに身体の中にあるのか?
で、それを意(心)以外の何が何によって観じるのだ?
身体は意識が無くても無意識で行為できるが、直観は
身体行為ではないよね。
>>238 読心通は相互交流に於ける自内証であるが故に、一般に敷衍する場合の危険性は常に大きいものです。
頭から否定するのは正しくないとは思いますが、それを安全な方策として考える立場は有り得ると考えられます。
正法、像法、末法の時代を問わず、それは一貫して同じではないでしょうか。
251 :
偽本尊 :2009/06/19(金) 22:17:12 ID:SPDYrzLE
>220 ん? 五感によって得られるのは覚りではないよという話だが、なぜ「悟り」を定義する必要があるのかな? まあ、いいか。 定義: 覚りとは、四諦を証ること。 正直、覚りと悟りの違いは知らない。
252 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 22:22:17 ID:lpJKG10N
>>240 それらの「科学者」が、キリスト教を初めとする宗教の信者ではないかを、まず
確認する必要がある。宗教の信者であれば、自分の宗教の正当化のためには、
なりふり構わず、何でもありである。殉教者は、自分の宗教のためには、命さ
え捨てた。
253 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 22:55:46 ID:zRpitvGn
学者達は世間知らずみたいだ。世間はオカルト、超上現象やらが大好きで、利己的な、何かを求める風潮が常にある。宗教には、奇跡的、超越的何かが?あったが、一部の連中が、秘密を独占していると考えている。
254 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 23:17:12 ID:zYVrZNxi
こうしてイルミナティとかの陰謀論が生まれていくわけだ。
255 :
旧7 :2009/06/19(金) 23:35:46 ID:+rp9bO5f
奇跡・奇蹟や超常現象は、出し惜しみされねばなりません。 間違っても、大量に、頻繁に出回ってはなりません。 何となれば、価値が下がってしまうからです。 それらの現象の存在意義、現れ出でた意味が薄れるからです。 ≪貴重なもの・コト、重要な徴、最も大切にされねばならない領域の事象であることの証≫とならないからです。 それらは、 貴重で、稀であり、インパクトを持って人々に知られねばなりません。 そのように人々に受け止められることによって初めて、 それらの現象の(現れ出た)意義が明確になるのです。 そのことにより、人々に対し、“気付き”と“警め”と、そして(正しき、世の真の姿への)“誘い”足り得るのです。 なんてなw ┼─┨ ┼─┨ , ,_ ┷━┫ 酒⊂(д` ) ┃ ==============⊂ \ ━━┛ || || と .) ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒ ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒⌒~⌒~⌒⌒~⌒~⌒~⌒~⌒~⌒~⌒
>>248 すくなくとも万有引力はいつできたか、わかるか?
わかるよね。きみでも。
257 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 23:41:15 ID:lpJKG10N
>>251 >覚りとは、四諦を証ること。
それはまさに、現代の医学が常時行っている方法論w。
259 :
旧7 :2009/06/19(金) 23:59:40 ID:+rp9bO5f
260 :
旧7 :2009/06/20(土) 00:10:31 ID:6/eTlXLu
>>256 自分でも上手く言えてないってのは判るんだが、
別の、(最適かどうかはわからんが、近似的)喩えをするならば、
≪揚げ物をしてる時の、あの、ふつふつふつふつという音、
あの音だけで、“美味しさが想像できたり”“食欲が刺激されたり”“期待感が膨らんだり”≫
することがあるわけだが、(必ず、絶対、とは言わない)、まっさらな状態の者が揚げ物の上がる音を耳にして、
そこに「美味しさとか味覚や食欲に関連したこと」を想起することがあるだろうか?ということだ。
「直観」で何を言いたいのか知らんが、≪一般的、辞書的理解での≫直観として話しているんだが、違うのか?
いずれにしろ、そうした「直観」がどのようなものであろうと、
≪既得の情報の関与無しに、それは生じるのか?≫
ということだ。
う〜ん・・w まだ、うまく言えてないな・・・orz
261 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 00:32:11 ID:9f/UzzbT
殉教者は、何を求め信じたのか?十字軍やテンプル騎士団の異常さは何?…原始キリスト者達「エッセネ派」ヨハネ。釈迦と通ずるマハー「超越」に目覚めたのではないか?慈悲、愛とは許す心?観自在菩薩行とは、行ずれば、意識は超越し時空を越える事じゃないだろうか。
262 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 07:13:42 ID:uTmjIxY/
悟りは知識ではなく体験である。 この現実をいくら研究しても悟りにはならない。 悟りたいなら、外界ではなく、心の世界を探さなければならない。 悟りを科学(素粒子など)に見つけようとする傾向は、 一部の僧侶がそういった妄説を公然と垂れ流していることにも原因がある。 同じように、一部の科学者の知ったかぶりにも原因がある。 こういった傾向が生まれてくる背景には、 悟りの困難さばかりでなく、悟りを膨大な経典、複雑な教義に隠してしまった 僧侶たちの無能・退廃がひそんでいる。
大乗は自利だけでなく利他の重要性を強調している。 しかし小乗と同じ出家主義であり、信者の布施に頼って成り立っている。 そしてこの構図は、自利そのものであり、利他を説く立場にないことを示している。 仏教はもともと、経典・教義に矛盾を内包し、混乱したもののように思われる。 仏・法・僧に帰依しろと言う。しかし僧に帰依しろとは妙に不遜である。 自分を信じ、自分の教えに従え・・・うぬぼれもいい加減にしろ。 悟っているならまだしも、悟ってもいない。 これはきっと、思い上がった僧侶の与太話にちがいない。
264 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 07:43:36 ID:aCANfua9
>>262 悟りは本来は修行の入り口だね。
悟りが仏教の目標と間違って思ってる人が多いんだろうね。
釈迦で言えば菩提樹の元で悟ってからおよそ50年間が
修行の時期で入滅してはじめて修行完成者と呼ばれた。
♪もろもろの出来事は過ぎ行く。怠ることなく修行しなさい。
僧侶たちは、悟ろうとして出家し、修行する。 ここのどこに利他がある。自分の悟りだけが目的だろう。 それなのに信者たちに対しては利他を説く。そして布施を促す。 その布施で僧侶たちは生活する。 僧侶たちは働かないで、多くの経典を読み、複雑な教義を勉強する。 信者たちにすれば、うらやましい限りである。 信者たちだって悟りたいのだ。 しかし生活のために働かざるを得ないから働いている。 働いていれば本などなかなか読めない。 その上、僧侶から利他を説かれ、布施を要求される。何か変だね。 僧侶たちこそ、<利他>を説くなら、その<利他>を行え!
266 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 07:53:21 ID:aCANfua9
>>263 >しかし僧に帰依しろとは妙に不遜である。
何回言われても聞く耳を持たないロバなんだろうね。
僧とはサンガの翻訳で僧呂(出家修行者)だけでなく
在家信者も含んだ仏教信者の集い(仲間)のことだ。
仏教信者の仲間に入るんだから仏と法と僧に帰依する
のは当たり前だろ。自分の気に入らないならサンガに
入らなくてもいいよという仏教の寛容の精神の表れだろう。
「縁なき衆生は度し難し」ともいう。
仏教に興味が無ければ仏教で悟れないことは当たり前だから。
大乗を称しながら<利他>を行えないなら、小乗とどこが違うのか? 小乗は最初から悟りという自利を目指している。 大乗は信者に<利他>を要求し、自分は悟りという自利を目指している。 大乗は二枚舌を使っている。この問題は重要である。 難解な経典や教義は、信者をだますための道具なのかもしれない。 そうであるなら大乗は、小乗が退化した代物である。
大乗はもともと、象牙の塔に閉じこもった小乗に対する批判であり、 在家信者たちの運動としてスタートしたという。 これが大乗の初心である。 しかし日本の大乗は、この初心を見事に忘れているのではないか。 妻帯肉食をする僧侶は、もはや僧侶とは呼べない俗人である。 宗教としての使命を終えた寺や僧侶は葬祭業者として解体し、 在家信者たちを新たな仏教の担い手にするべき時期が来ていると思う。 それで仏教が滅びるなら、それまでの宗教ということだろう。
269 :
偽本尊 :2009/06/20(土) 08:21:43 ID:V0HGw3Sz
>257 方法論? 四諦の内の八正道なら方法論と無理矢理呼べなくもないですが、四諦は「真理」であって「論」ではありません。 しかし、わざわざ「証る」という用語を吟味して追加したのですが、そこは無視されてしまったのですか? >262さんが、悟りとは体験だと述べていますが、証という字は体験という程の意味です。 また悟りは「気付き」でもあります。 四諦が釈迦の覚りであると自ら証ることが、すなわち「覚り」です。
270 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 08:33:45 ID:aCANfua9
>>258 >そもそも直観がわかっていない。
わかったよ、話の通じない訳が。
そもそもインスピレーションを「直観」としてるところから
間違いだ。インスピレーションなら「霊感」と翻訳するのが
正しい。だから霊界なんて出てくるわけだ。
俺は霊魂は認めない主義だから霊界も認めない。
「直観」は数学で直観主義などがあるように、意識的な推論によらない
潜在意識的な考え・論理の「ひらめき」みたいなものだ。
茂木さんの「あは」体験も直観のことだろ。
英語では[intution]にあたるのが「直観」で直覚的知識ともいう。
霊感を信じるのは自由だけど布教はしないで欲しい。
言葉で布教できないのが霊感ではないか?
まして霊感商法で人を騙すなんてもってのほかだろ。
271 :
偽本尊 :2009/06/20(土) 08:37:53 ID:V0HGw3Sz
>263 僧というのは、個人ではなくて、サンガのことね。 君の話を聞いていると、創価学会に洗脳されている学会員のように見える。
僧侶たちより、世間の俗人のほうに悟りのチャンスがある。 なぜなら僧侶は自利でこり固まるのに対し、 世間の俗人は理不尽にも僧侶から<利他>を要求されるからである。 <利他>とは悟っていなければ行えない業である。 難解複雑なことを勉強している僧侶より、 唯物主義者のほうに悟りのチャンスがあるだろう。 なぜなら僧侶は難解複雑なことに頭を翻弄されて混乱し、 相手を混乱させるために大げさな理屈をこねるのに対し、 唯物主義者は素朴で単純明快だからである。 悟りはむしろ単純明快さにある。
273 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 08:49:38 ID:RjIZ5T1T
>象牙の塔に閉じこもった小乗に対する批判であり、 普通なら原点回帰するはずが、なぜか経典捏造。 もともと伝えられた仏説では「大乗」できなかった点では 「象牙の塔」の僧たちとは何ら変わるところがないと言える。
四法印、四諦八正道については、 釈迦の悟りを推測させる手がかりになるものとして注目している。 少し書けば、釈迦はなぜ<苦>にこだわっているのか? このこだわり方は、イエスの「貧しい者は幸いである」を思い出させる。 ふたりとも、幸せな者は悟れないという主張をしている。 修行とは、<苦>を人工的に作り出す作業である。
275 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 09:07:45 ID:aCANfua9
>>265 すでにあなたは知っているのかも知れないが、ヒンドゥの
人生四住期説は参考になるだろ。
いわゆる、人生を学生期、家住期、林住期、遊行期の4期に分け
その時々を精一杯努めるという人生観だね。
しっかり社会的責任を果たしてから出家し林に住みご隠居となって
精神修行につとめ、悟ったらそれを広宣流布(おお、法華経用語!)
するため遊行するという。
釈迦もヒンドゥー育ちだから慣習としてこの四住期説には従っているね。
無師独悟でもかまわないだろ。
独覚・縁覚は声聞より評価が高いのではないか?
>>273 小乗(自利・出家主義) → 大乗(出家主義採用・自利+利他?)
これが仏教の大きな流れであり、今は初期経典の研究成果によって、
大乗が小乗で洗い直されている過程ではないかと思う。
経典の捏造に関しては推測するに、
それまでの経典に精通しない在家の運動だったこと、
および時代的に、イエスの影響があるのではないかということ。
277 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 09:19:28 ID:aCANfua9
>>274 >四法印、四諦八正道については、
>釈迦の悟りを推測させる手がかりになるものとして注目している。
まったく、同感というか、仏教はそれに尽きるのではないかとさえ思う。
>少し書けば、釈迦はなぜ<苦>にこだわっているのか?
こだわりではなく釈迦にとって<苦>は切実な人生の問題であったのだろう。
だから四諦に気づいたときが悟りとなったのだろう。
>修行とは、<苦>を人工的に作り出す作業である。
そもそも<苦>のように人生の問題に気がついていない人は
悟ることもないし修行も無いだろ。ただ生きてるだけの人生だろ。
278 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 09:58:06 ID:uTmjIxY/
ついでだから四諦の<集>についても書いておこう。 これは心の執着を指している。この執着があるから苦である、と言っている。 だから100%、心の問題であり、この現実の話ではない。 この執着を解消することが悟りの前提になっている。 そのための道具として哲学(空観)や心理学(唯識)があるのだ。 心から執着がなくなればそれでいい。 この現実を空にしたり、幻にする必要はまったくない。 そんなことを真実だと思うことは困難だし、それは単なる妄想である。
問題は、悟り・解脱・涅槃を意味する<滅>だろうか。 心の執着が空あるいは幻だと理解できても、 これは理解しただけであり、知識の領域であり、まだ悟りではない。 体験が不足している。そしてその体験が説明されていない。 そのため、さまざまなことが語られ、紛糾している。 四諦は苦・集・滅・道である。滅は解脱(悟り)、では道とは何か? 道は八正道を言うらしいが、解脱しているのになぜ八正道が必要なのか。 だれがこの順番の四諦を言い出したのだろうか? 語呂がよかったからだろうか。 苦 → 集 → 滅 ・・・この順番は理解できる。 しかし、滅 → 道 ・・・この順番は変だ。 では、滅 ← 道 なのか。 普通、八正道は苦を滅するための方法であると説明されている。 しかし解脱してないなら、どうして八正道が行えるだろうか。行えない。 それに苦を滅するために、空観と唯識があったのではないか。
280 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 10:37:59 ID:aCANfua9
>>276 >経典の捏造に関しては推測するに、
経典の捏造とはいわゆる大乗非仏説=大乗経典は釈迦の説法ではない、
ということかな?それならアゴン経典も同じで非仏説というほかない。
この掲示板のようにどこのだれが述べたかは問題ではなく、なにが述べら
れているのかで判断すればよいだろ。
釈迦の説法ではなくても仏(ブッダ)すなわち「覚った人」の言葉なら
仏説でよいだろ。
その「覚った人(仏)」になる成道のための教えが仏教だろ。
覚ったかどうかは自覚だから自分が一番よくわかるはずだ。
281 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 10:42:16 ID:aCANfua9
>>278 >>279 仏教の世界観は「唯識」であることをご存じないかな?
現実も識のうちの世界じゃよ。
いままで<道>に関して誤解されてきたように思う。 苦 → 集 → 滅 ・・・ これは知識(想念)のレベルである。 滅 ← 道 ・・・ これが体験のレベルである。 このふたつを眺めれば、なぜ滅に体験が抜けているかが理解できるだろう。 つまり八正道は、悟る<前>の、生活上の実践的な心がけを教えている。 簡単に言えば、ひたすら正しくあれ、ということにつきる。 この正しさこそ、神の前に訴えるヨブの正しさである。
283 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 10:58:20 ID:aCANfua9
>>279 >しかし解脱してないなら、どうして八正道が行えるだろうか。行えない。
しかし、解脱したのならどうして八正道を行う必要があるのだろ?
八正道は彼岸(ニルバーナ)にいたる道であり、それは輪廻からの解脱である。
解脱したのにさらにどこへ行こうというのか?どこにも行けない。ただ、現実に
還ってくるだけ。これを輪廻は涅槃に異ならずと理解せよ。
>それに苦を滅するために、空観と唯識があったのではないか。
空観も唯識も世界観であって苦を滅する道は八正道や六ハラミツだろ。
修行や修道のことだね。
284 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 11:01:32 ID:RjIZ5T1T
>>280 >それならアゴン経典も同じで非仏説というほかない。
後から不純物が入り込んだ、と一から創作された、は違う。
糞味噌を一緒にするべきではない。
>釈迦の説法ではなくても仏(ブッダ)すなわち「覚った人」の言葉なら
当時悟った人の教説・説法、というスタイルなら問題はなかった。
しかし釈迦の口を借り、在世中の弟子を登場させたりして
ロケーションを偽わるまでした。覚者が不妄語戒をおかすなどありえない。
285 :
偽本尊 :2009/06/20(土) 11:06:19 ID:V0HGw3Sz
>279 難しく考え過ぎですね。 スッタニパータに依れば、第三、大いなる章の12、2種の観察として説かれています。 『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』これが第一の観察法である。 『これは苦しみの消滅である。これは苦しみの消滅に至る道である』これが第二の観察法である。 従って悟った人間は必然的に八正道を歩む。苦しみから逃れるために。
286 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 11:58:32 ID:YK4ZUuUh
>>276 『なお明治以前の中国や日本の仏教では、小乗仏教の中に部派仏教だけでなく、部
派以前の原始仏教をも含めていたが、小乗といわれるべきものは形式的な部派仏教
だけであって、原始仏教や根本仏教といわれる初期の仏教は小乗とすべきではない』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』春秋社刊p22)
>>279 どうも難しく考え過ぎのようです。
それは“「滅」するに到る「道」を説く・・というだけのことです。
『転法輪経における四諦に関する経説の部分を掲げるならば、次のごとくである。
「この八つの部分から成る聖なる道(八支聖道)こそ〔理想達成の方法であるということ
が〕、苦の滅にいたる道に関する神聖な真理(苦滅道聖諦)である。」』(同p192-193)
>>280 >どこのだれが述べたかは問題ではなく、
>なにが述べられているのかで判断すればよいだろ。
内容的にも区別されるべきであるから、線引きがされているということでしょう。
『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含
経典』、特に相応部などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることが
ほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献
学者はいない。』(Wiki)
287 :
一在家 :2009/06/20(土) 12:06:16 ID:fI87eNF0
>>246 >原文を見ても「彼らがそのように信じている」と言う記述しか見当たらないが?
(原文)they believe experimental success has already been established,
その通りです。超心理学者達は実証実験が成功したと確信したのです。
この板でも、宝珠氏や私や他の方が原始仏典や法華経や他の経典から、
「仏陀がアートマンを説いた」という記載の経典を紹介しておりますが、
それを確信した人達は次の段階に入りますし、同意しない人達はそのような
経典は後世の追加だとか、解釈の仕方が間違っているとか、言っております。
この板の住人も英国の超心理学者達も、仏教と超心理学という乗る舟は異なり
ますが、真理を追究しているという点では共通していると認識しております。
釈尊が「方便品」で説かれたように、一つの真理に至る方法は多数あるという
ことでしょう。 皆様の仏性(神性)に合掌
288 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 12:06:42 ID:aCANfua9
>>285 そうですね。
それが仏教学の定説ですね。
289 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 12:12:40 ID:aCANfua9
心理学でさえ今は科学と認められないのに超心理学ならなおさら科学から 離れている。 心理学・超心理学は自分の思い込みだけで反証可能性のない非科学的 形而上学にすぎない。
290 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 12:24:07 ID:aCANfua9
>>286 >『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含
>経典』、特に相応部などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることが
>ほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献
>学者はいない。』(Wiki)
文献学ならやはりその文献のつくられた時代とその文献の中の記載事項に齟齬があれば
その記述は後世の付加や増広と解釈するだろ。
大乗経典もアゴン経典も元は口述伝承で文書化された時期は大して変わらない
のではないか?なにしろインドでは書かれた「歴史」を重視しないし時間感覚もあまり
ない文化だから歴史的に大乗・小乗を区別するのはあまり意味が無い。
それより経典の書かれた内容の解釈によったほうが確実だろう。
記述された概念に時代的な整合性が取れなければそれは偽書となる。
歴史文書の考察でも同じ方法をとる。
291 :
一在家 :2009/06/20(土) 12:31:23 ID:fI87eNF0
>>285 偽本尊氏
SPの該当箇所は縁起による観察ですね。
苦 → 集 → 滅 という知識レベルの話です。悟りの体験がない。
頭でわかっても、その通りに行動できないのが人間の性です。
知識レベルの理解では八正道を実践できないでしょう。
293 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 12:39:07 ID:7BUoo0gg
五戒すら守らない「覚者」が、「方便」を持ち出してくるのなら 悟り以前に人として終わってる。
偽本尊氏 宝珠愚者氏 四諦・八正道は、ウィキによれば相応部経典にあるようですね。 八正道を問題にするのは、これが実践の課題として語られるからです。 八正道に取り組むべき時期を、 悟る<前>にするのか、悟った<後>にするのかでは、 天地の違いがあり、解脱か輪廻かの違いがあるように思う。 苦・集・滅 には体験が欠けている。知識レベルの理解に過ぎない。 しかし悟りは体験であり、悟り体験の前提が八正道である。 知識レベルと体験レベルが合わさって悟りになる。 苦・集・滅・道はこういった内容を含意しているのではないかと思う。
295 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 13:02:01 ID:YK4ZUuUh
>>290 >それより経典の書かれた内容の解釈によったほうが確実だろう。
それもあるから線引きがなされているのでしょう。まっ、そのような見解はあなたの自由
ですが・・あなたを支持する仏教研究の文献学者は、まずいないでしょう。
A(原始経典中)にも後世の附加があるからといって、別にB(大乗経典)でもいいんだ、
ということにはならない。史実上のゴータマの教説について知りたいのであれば、A
に拠らずしては意味がない。
それは、A中における後代の附加を見つけ出して排除する作業があればいいのであり、
わざわざゴッタ煮鍋のB中から掘り出そうなどいう学者はいない。本来、Bの思想もAの元
となった原始仏教が存在して初めて出現したのであって、わざわざゴータマの思想をBか
ら掘り出そうとしたり、BもAと同列扱いなどする意味は見当たらない。
296 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 13:02:31 ID:aCANfua9
>>292 >知識レベルの理解では八正道を実践できないでしょう。
たしかに八正道を実践するのは一生の修行であり修道であり
それを完成したときがマハーパリニッバーナでしょうね。
297 :
旧7 :2009/06/20(土) 13:07:46 ID:6/eTlXLu
>>294 では、一つ尋ねてみたい。
(文中の言い方を踏襲するならば)、
悟った後のブッダに、八正道は有りや無しや?
大般涅槃経は言う。(簡単にし過ぎかもしれんがw)
「八正道のあるところに、阿羅漢がいるであろう」 と。
298 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 13:11:59 ID:aCANfua9
>>295 このIT時代でどんな情報もすぐググれば手にいる時代になぜ
小乗・大乗などというラベルにこだわるのだろう。
情報は中身で勝負だよ。どんな情報でもそれを解釈するのは自分
しかない。
♪自己こそ自分の主、・・・自灯明だろ。
299 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 13:15:47 ID:7BUoo0gg
>>298 >このIT時代でどんな情報もすぐググれば手にいる時代になぜ
同時にメディアリテラシーも強く求められる時代になった。
>小乗・大乗などというラベルにこだわるのだろう。
もともと貼り付けたのは大乗側だが。
>ラベルにこだわるのだろう。
ラベルだけでなく、ラベルを貼られたものの内容を問題としている。
300 :
一在家 :2009/06/20(土) 13:16:12 ID:/kqi2uQP
横レスですが、 涅槃に至った存在は意識して八正道を実践する必要もないと思います。 四諦も同様に途中の過程、涅槃への入門編でしょうか。
301 :
旧7 :2009/06/20(土) 13:16:26 ID:6/eTlXLu
(「中道」もそうだが)、様々に行について述べられる時、
その多くが、「道(magga、paTipadA)」と言われることに、
もっと重みを感じてもよいのではないか・・・。
>>294 他
302 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 13:19:31 ID:YK4ZUuUh
>>294 >悟る<前>にするのか、悟った<後>にするのかでは、
>天地の違いがあり、解脱か輪廻かの違いがあるように思う。
解脱(悟った)後というのは誤解であると思います。解脱した存在がそれ(八正道)を具
現している(具現できる)のは当たり前です。だから解脱者というのです。
これは「滅」する為の方法論的な話として述べているということ。「苦」生の現状把握→
「集」原因の説明→「滅」目指すべき境地の説明→「道」滅に到る方法論の説明、と。ただ
それだけのことですよ。
四諦というのは、これは端的に“平易に”述べたものに過ぎない。
303 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 13:27:04 ID:aCANfua9
>>300 >涅槃に至った存在は意識して八正道を実践する必要もないと思います。
だから、涅槃に至った存在は輪廻の世界の存在に対して八正道を説く
のだろ。それが修行者の修行だろ。そして修行完成者にいたる。
それがマハーパリニバーナだと大パリにバーナ経に言う。
304 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 13:33:33 ID:YK4ZUuUh
>>298 “中身が違う”から区別されているのです。
>>299 ほぼ同意!
>>153 それは、ガンジーが彼らに最下層賎民としてどんな仕打ちを受けていようとも、自己の
本質は神であり、自分らも同じ神の子であるという尊厳と喜びを以って、 どんな困難にも
負けないで強く生きて欲しい、という切なる願いからの言葉です。
しかし、自分たちにはそんなものを考えることもすらできない、というほどの酷い状況の
中で悔しさと嫉みの感情を抱いていた。それが反発意識となって、つい思わず出てしまっ
た言葉だった、ということでしょう。
どーして、そんなことも分らないのか不思議でなりません?歪んでますよ!心の素直さ
が全く感じられない・・(涙)
305 :
旧7 :2009/06/20(土) 13:38:29 ID:6/eTlXLu
>>304 そーじゃないだろw
私は、その怒りの言葉は、
「なぜ、【実態を直接に表した】言葉を使わないのか?
それは、【実態を隠す、見え難くする】ことに繋がらないのか?
そのことにより、【現状が是認され】、【改善の道が狭まる、閉ざされる】ことにならないのか?」
という意味だと理解していたが、違ったのか? (´・ω・`)
306 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 13:42:32 ID:aCANfua9
>>301 道といえば道程、プロセス・・・。
プロセス哲学は後回しにして先ずは道程から・・・
♪僕の前に 道はない
♪僕の後に 道は出来る
♪ああ自然よ 父よ(ああ神仏よ)
♪僕を一人立ちさせた 広大な父(神仏)よ
♪僕から目を離さないで 守ることをせよ
♪常に父(神仏)の気魄を僕に充たせよ
♪この遠い道程のため
♪この遠い道程のため
で、この道程は明日は無いかも知れない、と心得よ。
いま・ここがわが人生だ。
307 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 13:44:28 ID:aCANfua9
プロセス哲学よりプロセス神学のほうが解りやすいかな?
308 :
旧7 :2009/06/20(土) 13:48:54 ID:6/eTlXLu
>>306 いや、そういう感じじゃなくて、
「歩み続ける」「今まさに歩んでいる」、そのことが重要なんじゃない?
と言ってるわけだが・・。
歩んでいるから、そこが“道”なんじゃないの? と。
止まっていたら、そこは“道”じゃないんじゃないの? と。
309 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 13:51:33 ID:YK4ZUuUh
>>305 〜同じことですよ。
内在の本質は神であるという真理を知り、そのことに喜びを見出して現状の困難に打
ち勝とうとするのは基本的な話です。これは、内在の本質が神ならば、現状困難な不条
理(差別社会など)はどうでもいい、という意味ではありません。
>「なぜ、【実態を直接に表した】言葉を使わないのか?
> それは、【実態を隠す、見え難くする】ことに繋がらないのか?
> そのことにより、【現状が是認され】、【改善の道が狭まる、閉ざされる】ことにならない
>のか?」
怒りをぶつけた彼らの感情は、まさにこの通りだったのでしょうね。しかし、これは何も
ガンジーを悪者にするような話などではありませんよ。
全ての人々が神の子としての尊厳が具現できるような社会を構築、創造していくことが
目指すべき私たちの社会改革だということでしょう。
310 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 13:55:28 ID:7BUoo0gg
いやあ君らは「神の子」だよ、でもアウトカーストを維持してね。 むしろ「第五のカースト」ってのもオツじゃないか。 カースト制度をやめさせようとか考えるのはやめてね。 せっかくだから「死に到る断食」で牽制もしておこう。 これは偽善だ。
311 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 14:01:38 ID:YK4ZUuUh
ちなみに、 旧7さんに聞いてみよう♪ 大学で仏教講義を受けているということは、 これは自ら望んで選択した課程だったのでしょう? つまり、あなたは僧侶になることを目指したの?それとも今、プロの僧侶なのですか? 特定の宗派を支持するのですか? それは以前に誰かが指摘した・・あなたは禅の坊さん、ということになるのかな? 不都合であれば、答えなくても結構ですがw
312 :
旧7 :2009/06/20(土) 14:04:59 ID:6/eTlXLu
>>309 >〜同じことですよ。
同じじゃねーよw
お前の言い分は、「本来は“神の子”なんだから、そのように呼ぶべきだ」と、【これしか】言ってない。
>尊厳が具現できるような社会を構築、創造していくことが目指すべき私たちの社会改革だと
こんなこと言ってないじゃねーかw
寧ろ、「今は我慢しなさい。いつか報われるから。(何千年後か知らんけどw)」という虚しい慰めにしか聞こえんぞw
(
>>304 >最下層賎民としてどんな仕打ちを受けていようとも
>尊厳と喜びを以って、 どんな困難にも負けないで )
そして、“神の子”という語の使用は、【最下層であること(という実状)から視線を外す】、
卑怯で臆病な態度ではないか?為政者に都合の良い言葉ではないのか?
という抗議だろ? “神の子”という呼称の素晴らしさは別として、
その呼称を用いることが引き起こす事態を警戒した言葉だろ。
で、ガンジーは、そのリスクに気付いていたのかどうかは、問われてもいいと思うんだぜ。
313 :
旧7 :2009/06/20(土) 14:06:14 ID:6/eTlXLu
314 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 14:07:03 ID:7BUoo0gg
実態が伴わないならどんな綺麗な言葉だろうが糞ほどの価値もない。 生き地獄に縛り付けていたカースト撤廃を否定して、分離独立選挙も認めず「神の子」? ムスリムのは認めたあたり、政治的判断もあるんだろうな。 分離選挙に反対して断食で死ぬぞ。死なせたら不可触民の立場はひどくなるし、 輪廻説を否定しているとはいえ、釈迦の教えを守ろうとする心を持つアンベードカルには効果的だろうな。 まったく、よく考えたもんだと思う。
315 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 14:11:40 ID:7BUoo0gg
不殺生戒と慈悲を重んじる仏教徒に自死をちらちかせるとは大した奴だよ。この「マハトマ」は。 最近の教科書では「偉人」が持つこういう一面も教えてるのかな?
316 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 14:13:48 ID:YK4ZUuUh
>>312 これは、「ヤケクソになって欲しくない」ということガンジーの想いということでしょう。
何も、現状(社会制度の諸悪)を無視、放置するなどという話ではありません。
インドの独立を取り戻したいとする彼の勇敢な行動からみても、それは明らかですよ。
317 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 14:16:32 ID:7BUoo0gg
世界的に信徒がいるクリスチャンやムスリムよりは制度内でも御しやすいだろうしね。
318 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 14:43:03 ID:7BUoo0gg
「ヤケクソになられては困る。」というのはあるだろうね。だから自死の脅迫で自粛させる。
もし闘争路線にさせたら厄介。さらにイギリスに利用でもされたらマズい。
ttp://teruterulog.jugem.jp/?eid=573 >しかし、ガンジーはイスラム教徒の分離独立選挙は認めながら、“不可触民”の分離独立選挙は最後まで認めず、
>“死の断食”をつづけた。ヒンズー社会、メディアの激しい攻撃に晒されながら、アンベードカルも彼の“脅迫”に耐えつづけた。
> このままでは“死んでしまう”というところまでいって、アンベードカルは遂に分離独立選挙の夢を諦め、ガンジーの脅迫に屈した。
>
>「第一章 この国の本当の主人公は誰か」P28
>最悪の悪ふざけとしての“神の子”
>
> 最近ではガンジーが現れ、我々をハリジャン(神の子)と名づけてくれました。
>最悪の悪ふざけとして私たちはもちろん拒否しています。我々が“神の子”なら、
>ブラーミンは何と呼んだらいいのか、“悪魔の子”とでも呼ぶべきなのか、
>とハリジャンの呼称に反対したアンベードカル博士 は議会で皮肉りました。
>
>「第三章 インド史上最大の謎を解明する」P98
>
>コメント:「その人が何を語ったではなく、何をしたかが重要なのだ」という誰かの言葉が脳裏をよぎります。
319 :
旧7 :2009/06/20(土) 14:47:28 ID:6/eTlXLu
>>316 >「ヤケクソになって欲しくない」という
この想いは理解できる。
そうした一筋の光として、荒野の如き心中に咲く一輪の花として、提示されたものかもしれない。
また、彼が >無視、放置 していたと言ってるのではない。
“神の子”という呼称を使用することに対して発せられた、
そのことがもたらすかもしれない事態、これを恐れた反発の言葉だったのではないか?
【理想(論)のみ】で【「リスク」が無視されてないか?】と疑義を挟んだだけだ。(もし、リスクこそが狙いだったとしたら最悪だが・・・w)
それと、貴方のレスの、【反発者の言葉を、「ガンジーの真意の無理解」】と
一刀両断するかのような姿勢に疑問を感じたので横入りしたまで。これで退散します。
320 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 14:55:13 ID:OYgY2TBD
問題は、ガンジーが、最下層賎民だけを、ことさらに「神の子」と呼ぼうと したことだよ。これは、イエスの、「貧しい人は幸いである」の偽善、人間 差別、選民意識と同類である。裏返せば、「豊かな者は、幸せではない」と いう、差別、非難、排斥に連なる。 ガンジーは、なぜ、「すべての人は神の子である」という基盤から出発しな かったのか。アーベンドカルがガンジーを嫌う理由が、よく理解できる。 仏教の、「一切衆生悉有仏性」とは対極的。 弱者や被差別者をことさらに「美化」するのは、差別の裏返しであることに 気付かなければならない。
321 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 14:55:39 ID:7BUoo0gg
ガンジーが善意一色の人間で無いことは(本人にすればダリット達にやった真似ですら ヒンドゥーの教えから踏み外してほしくないという「善意」かもしれないが) 頭の隅にでも入れておくべきだと思う。
322 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 15:01:10 ID:7BUoo0gg
>ガンジーは、なぜ、「すべての人は神の子である」という基盤から出発しな >かったのか。 どこから出発しようが扱いが伴わないなら無意味。 やってたらやってたでアンベードカルは「クシャトリアやヴァイシャとだけでやってろウゼェ」と返してただろう。
323 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 15:15:45 ID:OYgY2TBD
イエスも、自分を信じさせるというエゴの目的のために、弱者の弱み に付け込み、「猫なで声」で弱者に擦り寄った。その結果は、弱者の 生をさらに弱化させ、そのルサンチマンと選民意識だけを強化すると いう、不健全さと弊害と混乱だけである。弱者の不平不満をことさら に掻き立て、自分が理想とする観念にすぎない「神の国」を実現させ る目的の、現代のサヨク革命家と同じ。 その基本は、「あるがままのすべての人間に対する愛の欠如」である。
324 :
偽本尊 :2009/06/20(土) 15:22:47 ID:V0HGw3Sz
>294 八正道に取り組む時期は、今ですよ。 覚りに至る道が八正道であり、覚り終わったあとも歩む道が八正道です。 前か後かなどは、仏陀に、こだわるなと言われそうですね。
325 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 15:56:31 ID:YK4ZUuUh
>>319 了解!m(__)m
>>320 あなたは何故、そうも屈曲しているのか?
全然、違いますよ。「すべての人は神の子である」という想いから、最下層賎民に自暴
自棄になって欲しくないということでしょう。もっとも蔑まれている人たちを励ましたい、と
いう率直な意図からです。
ガンジーが直接的にカースト廃止へと趣かなかったのは、そこに人生四住期説
>>275 の理想をダブらせていたからでしょう!本来これは人生の理想的流れを示すものでした
が、それが後に社会的な生まれに基く差別制度として権力側に利用されたのです。
転生スレ6/275-276
http://mimizun.com/log/2ch/psy/gimpo.2ch.net/psy/kako/1232/12321/1232162229.dat ガンジーがカースト廃止に直接あたれなかったのは、彼のヒンドゥー教徒としての限界
性だったのでしょう。つまり、聖域に踏み込むタブーという奴でした。
しかし、ガンジーはカーストが人間差別に使われている現状を直視するようになり、晩
年においては、反省してカースト制度の廃止を訴えてました。
326 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 16:00:49 ID:aCANfua9
>>308 >歩んでいるから、そこが“道”なんじゃないの? と。
>止まっていたら、そこは“道”じゃないんじゃないの? と。
歩んでいても止まっていてもそれは行動・行為であり「道中」であることに
かわりは無い。
あ、そうか。
世の中には2種の人がいる。
先人の道を歩く人と自分の道を開く人とだ。
先人の道を歩く人はマニュアル人間で教えが無ければ一歩も
踏み出せない人だろ。経典にこだわるのもこの仲間だね。
マニュアルどおりの応対でちょっと茶々入れると対応できない
マクドの接客が典型例だだね。
わが道を作り歩く人は創造人間であり無師独悟の独覚・縁覚だね。
これがまえに引用した道程でいう道だろ。
327 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 16:15:09 ID:YK4ZUuUh
>>325 訂正。
リンクは、カーストとは本来、自己の適正にあった分野での社会貢献を意図したものだった
ということです。人生四住期というのは訂正しておきます。
328 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 16:42:46 ID:aCANfua9
>>324 >覚りに至る道が八正道であり、覚り終わったあとも歩む道が八正道です。
四諦・八正道を覚るのであって涅槃に至る道が八正道だろ。
仏教では悟りと涅槃はやはり分けているのではないか?
ゴータマ・ブッダ入滅の後、釈迦の四聖地として、生誕地カピラバストゥ、
悟りを開いたブダガヤー、教えを始めたサルナート(鹿野苑)、入滅した
クシナガラが釈迦の遺言で決められている。
ゴータマ・ブッダは悟りを開いてから涅槃(成仏)に至るまで49日とか言うじゃない。
そして涅槃後も遊行を続け80歳でマハーパリニッバーナ(大般涅槃)となった。
329 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 16:46:52 ID:V+vUpQ0L
>>287 一在家よ、それが結論か?
今回の始まりは俺が
>>226 で
「超常現象、疑似科学の分野で普遍的な法則、現象と認知されたものは皆無である。」
このように述べたことに対して お前が
>>229 で反論的なレスを付けたことが発端であるが
『超心理学者たちが』そのように『信じている』
この結論のどこに普遍的な法則、現象が認められるのかな?
あくまでも、それを信じる一部の者たちの「信仰」にすぎないと思うが?
ガンジーの思想の背景にバクティがあることが、余り知られていないようだ。 ガンジー自身が、自分の奥さんや息子に対してした仕打ちについても 余り知られていないようだ。
>>318 ガンジーの話は参考になった。・・・聖者も完全ではなかった。
> 仏教では悟りと涅槃はやはり分けているのではないか? アラカンの悟りを開いた場合でも、仏の悟りまで道が遠いという話はある。 有余涅槃を得たあとでも無余涅槃までのみちのりはある。 しかし、アラカンである以上はニルヴァーナを知っている。 原始経典を読む限りはそういえると思う。
333 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 17:21:26 ID:fqDx7gYc
カーストの歴史的起源の曖昧さから、そこにより穏当な解釈をはめ込んでおきたい気持ちは痛いほどわかる。
334 :
偽本尊 :2009/06/20(土) 17:47:14 ID:V0HGw3Sz
>328 先程引用した2種の観察では、次のようにかかれています。 このように二種の観察法を正しく観察して、怠らず、 つとめ励んで、専心している修行僧にとって 二つの果報のうち何れか一つが期待される。 即ち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りが あるなら、この迷いの生存に戻らないこと。 この場合のさとりannaは、さとりを得て解脱に達することだそうです。
偽本尊氏、宝珠愚者氏、在家氏などの四諦・八正道
>>324 偽本尊氏は、縁起の空を「正」として八正道を把握している。
そして八正道は、解脱の前後に関係なく行うべきものだとする。
この場合は、解脱後であれば、より正しく行えるということなのだろう。
苦 → 集 → 滅 → 道 ・・・そのままの並びである
>>302 宝珠愚者氏は、八正道を空から独立させ、八正道を解脱の方法とする。
であるから当然、八正道は解脱によって具現できるはずとする。
苦は結果であり、集は原因であり、道は原因を解決する方法である。
苦 → 集 → 道 → 滅 ・・・(滅・道)が(道・滅)になる
>>300 在家氏は四諦を悟りへの入門と位置づける。空は無関係のようである。
そして八正道は解脱すれば意識しなくても行えると言う。
無意識で行えるが、身につくにはまだまだ先が長いということか。
苦 → 集 → 道 → 滅 ・・・ 宝珠愚者氏と同じか
336 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 18:12:38 ID:YK4ZUuUh
>>328 「悟り」という言葉が解脱と同意としてもよく使われていますが、
しかし、厳密にはやはり別物と解するべきでしょう。
私は通常、悟りという言葉は誤解を招くものなので使用しません。
「悟り」も、
本来はゴータマが解脱に到った意識の変化を示すものだったのでしょうが、
後には使われ方が変化しました。つまり、経典中の弟子が「悟った」などとよく使われるそれは、
その時その時における当人の理解や心理的なわだかまりが氷解したことを示すものであって、
それが直接的に解脱における段階のいずれかを示すもの、というわけではないということ。
仏教の目指す境地はニルヴァーナ(涅槃)であり、そこに到達した者を“解脱した”という。
(「悟った」という表現は使用しないほうが良いでしょう)
>>330 >>331 ガンジーの業績と偉大さがなくなるわけではありませんが、
いわゆる「聖者」にも段階(レベル)というものがある・・。
>>335 つまり、「苦の滅に到る道が八正道」---転法輪経より
>>286
337 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 18:16:03 ID:V+vUpQ0L
カーストねぇ、以下は俺の個人的見解なんだが 俺がいわゆる「業報思想の信奉者」たちの思想のうち、最も気に入らないのがそこなんだがな。 彼らは「最下層民」に生まれついた理由を前世の業であると説明するわな? 果たして、最下層民たちはそのような説明に喜んで納得するのか? 歴史的な経緯により、上位層民が所々の事情によりそのように設定しただけであり、本来的に差異はなく、前世の業などは関係なし。 このような説明のほうが良いと思うがね。 また、重度の障害を持って生まれついた者にも、それは前世の業が原因などと言うが 遺伝子の異常または、その他生理学的な要因により、 そのような結果になってしまったと説明するほうが、本人も家族も納得するのではないかね? やはり、「前世の業である」 と言う説明を望むか?
338 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 18:25:25 ID:V+vUpQ0L
確か、日本においても被差別部落民に対して「お前達が、そのような境遇に生まれついたのは前世の業 が原因である」とか説明してた仏教徒の資料がアップされてたので 読んだ記憶があるが、そのような認識もかなり 問題があると思うがな。
SP3.12によれば、苦・集・滅・道の<集>は、縁起として把握され、 <集>は、執着という原因だけでなく、それを解消する方法を内容にしている。 ところで縁起・空は実体がないことだから、ここで把握された「正」は相対的であり、 実体がない。つまり相対的な主観的な「正」でしかない。 まだ絶対的な「正」が見つかっていないのである。 そしてこれを見つけるプロセスが八正道である。 ここでは絶対的な「正」を体験的に見つけることが課題になっている。 これらを踏まえた流れ図は次のようになる。 苦 → 集(空観・唯識) + 道(八正道) → 滅
SPって何? ステートオブプレゼンス?
341 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 18:37:02 ID:YK4ZUuUh
>>337 基本的理解としては、過去世の原因なくしてはそのような生まれにはならない。カースト
がなければ、また別の似た果報を受けるでしょうし、過去世の原因がなければ、そのよう
な遺伝的障害を貰うような母胎には宿ることがない。これが生れについての“縁起の理法”。
これが仏教者としての回答です--これを否定する人は仏教者ではない。
『けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそ
れを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。』
(スッタニパータ666)
『比丘たちよ、この身は汝たちのものではない。また他のものでもない。比丘たちよ、こ
れは過去世の業によって造られたものであり、過去世の業によって考えられたものであ
り、また過去世の業によって感受せられたものであると知るがよい。比丘たちよ、だから、
わたしの教えを聞いた聖なる弟子たるものは、縁起の理法をよくよく思念するがよいので
ある。
それは、これあるがゆえにこれがあり、これ生ずるがゆえにこれが生ずるのであり、こ
れなきがゆえにこれがないのであり、これ滅するがゆえにこれが滅するのである。すなわ
ち、無明によって行があり、行によって識があり、・・・かくのごときが、このすべての苦の
集積の生起である。また、無明を余すところなく滅することによって行の滅があり、行の
滅によって識の滅があり、・・・かくのごときが、このすべての苦の集積の滅尽である。』
(サンユッタニカーヤ12-37/我がものにあらず)
SP ・・・ スッタニパータの略
343 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 18:38:39 ID:YK4ZUuUh
『心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、けがれなく、やわらかで、たくみで、確 立し不動になったときに、多くの人々の死と生を知ることに心を向けた。すなわち、わたし は清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれるのを見た。すなわち、 卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という多くの人々がそれぞ れの行為に従っているのを見た。 じつにこれらの人々は身体で悪い行為をし、ことばで悪い行為をし、心で悪い行為をし、 多くの聖者を非難し、よこしまな見解をもち、よこしまな見解にもとづいて行為をする。か れらは身体が壊れ死んだ後、悪い所、苦しい所、地獄に生まれる。また、他のこれらの人 々は身体で善い行為をし、ことばで善い行為をし、心で善い行為をし、多くの聖者を非難 せず、正しい見解をもち、正しい見解にもとづいて行為をする。かれらは身体が壊れ死ん だ後、善い所、天界に生まれると。 わたしは、このように清浄で超自然的な天眼によって、多くの人々が死にまた生まれる のを見た。すなわち、卑しい人と高貴な人、美しい人と醜い人、幸福な人と不幸な人という 多くの人々がそれぞれの行為に従っているのを見た。バーラドゥヴァージャよ、これが夜 の中間の部分において得られた第二の明知である。 ここに無明が滅び明知が生じたのである。暗闇は消滅して光明が生じたのである。それ はつとめ励み、努力している人に現れるのである。』 (マッジマ・ニカーヤ100/サンガーラヴァ経)
344 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 18:49:32 ID:V+vUpQ0L
なるほどね 重度の障害を持って生まれ子を抱え、苦しんでいる家族にむかい 「この子が、このように生まれついたのも、この子本人または親などが、それに対応すり悪業を積んだ 結果である。」 このように断じるのが仏教徒と言うわけか。 ならば、仏教と言うのはひどく酷い宗教であると感じるのは俺だけか?
自分が重度の障害 → 自分に責任があると考え、状況を変える努力をする。人や環境のせいにしてふてくされたりしない。 他人が重度の障害 → 自分に責任があると考え、状況を変える努力をする。その人の悪行のせいにして蔑んだりしない。
偽本尊氏の指摘したSP3.12は、 誤謬に落ち込んでいる縁起・空論者が覚醒するためのいい薬になるだろう。 空は悟りでもなく目的でもない。空観は心の執着を解消するための道具であり、 心の世界の話である。この現実を空や幻にしたら妄想である。
宝珠愚者氏が指摘した、「苦の滅に到る道が八正道」---転法輪経より
>>286 および
>>343 の内容も八正道の理解に重要だろうと思う。
この考え方は縁起・空とは明らかにちがう。
ただし天眼とか転生とかの話は八正道の理解に不要だろうと思う。
348 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 19:31:12 ID:YK4ZUuUh
>>344 どの経を引っ張りだそうとも同じこと(私の提示した経は明確で分りやすい)。これが認
められず、これをゴータマの妄想であり、こんな教えはとても仏陀であるとはいえない、な
どいう人は、どうぞ仏教から離れて下さい!
「可哀想」などという言葉は全くの的外れです。これ(この理法)が理解される(理解して
仏道に入る)までは業報に拠る苦しみは繰り返されるのです。そのことを教え、そこからの
解脱を説くのが仏教。可哀想どころか、それが結果的には大いなる絶対的な救いとなる
のです(救いという言葉は嫌いですが、敢えて使いました)。
過去世の報いによる転生(悲惨な生まれ)というものがあるのかどうか?それを在り得
ないとして批難する人は仏教者ではない。ゴータマは大いなる超常的な天眼で以ってその
ことを見通した上で語っているのです。それを凡夫の浅はかな見解や無知な唯物論で批
判する人は仏教を信奉する必要はない。
>>348 釈迦はある人には転生があると語り、ある人には転生は無いと語った。
350 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 19:52:12 ID:6k9OtDWd
>>344 レイプとかでも同じだな。たとえ論者にとって事実でも言い方というものがある。
とはいえ
>>345 もまた極論すぎる気がする。
>>349 >ある人には転生は無いと語った。
無記じゃなくて、「無い」と言ったの?ソースきぼんぬ(死語)
351 :
旧7 :2009/06/20(土) 19:53:02 ID:6/eTlXLu
>>348 だからw
どの記述は「ゴータマの真意そのもの」であり、どの記述は「脚色」であるかの判断基準は何か?
と・・・以前も聞いたかな?w
>>349 一在家風に四悉檀で言えば、
無いと語った相手はレベルの低い弟子であり、あると語った相手はレベルの高い相手だったんでしょうw
よく知らんけどwwwww
352 :
偽本尊 :2009/06/20(土) 19:53:29 ID:V0HGw3Sz
>341 釈迦は、 「生まれを問うな、行いを問え」 といったのは有名な話で、 カーストを認める人は、仏教徒ではない。 スッタニパータの666の来世は、あの世のことで地獄に落ちますよと警告しているだけです。 生まれ代わりで貧乏になるような話は、初期の仏教にはありません。
353 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 19:57:19 ID:aCANfua9
>>349 それが第一結集での問題点だったのだろうね。
だから、法とは何かと考えざるを得なかった。
それによってアビダルマの考究がすすんだ。
第二結集ではサンガによる戒律の違いが目立った。
それを統一することができるカリスマ的人物ももはや
サンガにいなかったので部派仏教に分かれることになった。
日本のどっかの政党と同じだ。
釈迦はある人には前世があるという前提で話をした方が有効であると思った場合に、 前世があることを肯定して説法をしている。人によって前世を肯定する説法は毒になる こともあり、そこは良く見極めて説法をした。 釈迦は教義を作り伝えようと努力したのではなく、悟りの可能性のある人たちに、その求めに応じ、 人に応じて説法をした。ぶっちゃけ釈迦に教義など無く、教義は下らないものだと思っていた。 だから「仏教の教義」という言葉はジョークに聞こえる、釈迦は教義など定めてもいないし残しても居ない、 故に釈迦はなんの書物も書いていないし、聴衆にメモをとることも禁じた。 釈迦は教義を残したのではなく、悟った人たちを残していったのだ。
355 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 20:17:29 ID:YK4ZUuUh
輪廻転生を表面的に捉えている人ばかりですね。 ミリンダ経を読まれてはいかがですか?
357 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 20:24:24 ID:V+vUpQ0L
>>348 なんか、お前の見解が唯一正しい仏教の見解であり、それを受け入れられないなら、仏教を去れと言うわけか?
勿論、俺はお前の言うような「仏教徒」では、ないので仏教を名乗ろうが、あるいは、そうでなかろうがどちらでも
良いことなんだがね。
仏教に携わっている人たちの中には、お前と違った見解の持ち主もいるのでは?
それらの人達に対して「仏教を離れろ」と如何なる権利があってお前は喚くのかな?
それから、俺はこの件に関しては、初めから「心情論」として、語っている。
そのような説明が当事者たちにとって妥当か否かだ。
業報思想が仏教と言う枠組みを飛び出して、普遍性を有する客観的現象であるか?などは、論じるまでもないからな。
> 私も、「転生はない」と説いたという経文の提示を強く希望します。 > それが真実ならば大変な問題です。 その通りこの矛盾は大問題だ、一番釈迦の近くに居て一番長く釈迦の説法を間近で聞いていた アーナンダにその大問題が起こっていた。アーナンダは多くのことを聞きすぎて矛盾する言葉や 論理をどう理解していいのか処理に困っていた。そして弟子達の中でも悟りが一番最後になってしまった。 学者悟りがたしとはこのことだろうな。
359 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 20:34:03 ID:aCANfua9
>>350 >無記じゃなくて、「無い」と言ったの?ソースきぼんぬ(死語)
このころこの経ばかり引用しているが・・・。
あるひとが死後どのような境涯に赴くかは<法の鏡>という法門
を修すれば解るとブッダがアーナンダに教えている。
ソースは大パリニッバーナ経第二章六ナーディカ村にて、にある。
ソースかけるのは面倒だから各自参照して欲しい。
(ブッダ最後の旅 岩波文庫など)
ところで、ついでに面白い教えを見つけた。
アーナンダよ。これこそ<法の鏡>という名の法門であって、それを
具現したならば、立派な弟子は、もし望むならば、みずから自分の運命を
はっきりと見究めることができるであろう。
<わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も
消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の
流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。
わたしは必ずさとりを究める者である>と。
もちろん六道輪廻の説明だね。そしてそれは今生きてるこの世での自分の
心象世界であるとあきらかにわかる説明だね。
鎌倉時代の日本の僧である日蓮も六道輪廻はこのように理解していた。
日蓮文集に誰か在家への信書として書いていたような記憶がある。
日蓮は娑婆即寂光土とも言っている。
360 :
旧7 :2009/06/20(土) 20:48:05 ID:6/eTlXLu
>>355 相変わらずですなw
そういうこと(―具体的に“業報”が或いは“輪廻”が説かれているかどうか―)を言ってるんじゃなくて、
≪或る記述が、脚色か否かをどうやって判断しているんですか?≫ということだ。
幾つか例も出てたろ? 梵天勧請とか三十二相とか、五百回千回などという数字関連etc.etc.
貴方は、それらのうちの幾つかは、誇張・神格化・修辞・心理描写の表現等等としていたように記憶しますが?
361 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 21:03:47 ID:eA2/2Uzr
>>331 >ガンジーの話は参考になった。・・・聖者も完全ではなかった。
「有名人崇拝」「ブランド崇拝」に常に伴う陥穽ですよ。釈迦やイエス崇拝
についても例外ではない。
「個人崇拝」ではなく、その教説から、現代にも通用するものだけを取捨選択
する知性と批判力が必要。「有名人」だからといって、みそもくそも有難がる
のでは、それは単なる「盲信」「偶像崇拝」に過ぎず、むしろ、相手に対する
「侮辱」です。相手は、あくまで、特定の状況下において、特定の人々に対し
て発言したに過ぎないのだからです。
自己批判できない人間が何を言っても無駄。
363 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 21:08:15 ID:eA2/2Uzr
>>362 釈迦もイエスも、「自己批判」は一切出来なかったw。
無能なところが一緒で嬉しいのか?
365 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 21:13:29 ID:AP1/UrjI
親鸞くらいかな?自己批判して悟ったのは
366 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 21:14:56 ID:aCANfua9
今日の朝日新聞朝刊「ひと」欄に佐々井秀嶺さんが掲載されていた。 アンベードカルのインド仏教復興運動を引き継いでインド国に帰化した 人だね。インド仏教徒は被差別カースト出身が多い。ヒンドゥー教から 仏教への改宗は差別との闘いである。 「インド仏教がいかに貧しい人の救済に役立っているか」 「日本仏教が活性化する手がかりになれば」 日本の現況の感想は? 「街に人が減り、活力が無い。義理人情と助け合いが薄れ、 貧しい人は暮らしていけない国になってきたのではないですか」 俺なんかの同世代よりちょっと先輩だけどおおむね賛同できる。 「
367 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 21:35:14 ID:YK4ZUuUh
>>360 >相変わらずですなw
はぃ、その通り!
それは道理に適っているかどうか?ですよ。
ある人々は、生まれ変わりなどは在り得ない。証明も確認もできないという。今生の生
れの悲劇を過去世に求めるなどとは酷い教えだと批難する。
しかし、私はそれが縁起であり、原因と結果の法則であり、行為は結果として自己に帰
ってくるものであり、従って、人は死ねば終わりではなく、生前の行為の果報を受けるべく
来世に転生してその報いを受けるという。それが宇宙の背後に在る平等の法則であり、
善行善果を保証するものであり、最終的にニルヴァーナに到る道理だと説く。
ある人々は、ゴータマの前に梵天が出現して、あれこれと語ったなどという。
しかし、この私はゴータマが法を説くことを辞めようかと憂慮していたときに起きたこの
エピソードは、「法を理解できる者も必ずいる筈であるが、私が説かないことでその者は
その機会を得られない」と自分自身が思い直したことによる自己意識の変化のことであ
り、我々、凡夫の観点から見てこの有難いゴータマの心理の変化を梵天という表現で良
きものとして讃えているものだということ。つまり、これはゴータマの心理描写(葛藤)を書
いた文学的表現であったと説く。加えて私はいう、人に話しかけてくる梵天といった人格
神なるものは存在しない。
368 :
宝珠愚者 :2009/06/20(土) 21:36:22 ID:YK4ZUuUh
ある人々は、三十二相という聖者(解脱者)の徴が在るものと信じる。 しかし、この私は「舌」の話などは、説法(流暢で巧みな説明)の素晴らしさを象徴した ものであり、またその他についてなどは、大凡、大聖者は見た目ですらも凡人などとは 異なる驚異の姿をしているんだという、驚異と畏怖を植えつけようと神格化を図る意図 で仏典に導入されたものだと説く。 ある人々は、仏典中の五百回千回などという数字関連を文字通りに信じる。 しかし、この私はそれらは誇張しようとしたものであったり、象徴的なものであったりす るのであり、記載の数値通りに受けるべきではないと説く。 それは皆さんが仏典と比較して、私のこれら個々の見解をどう見るのか?ということで すよ。最終的には各自が自分で判断することです。あとは自分の体験によって、その真 実性(正否)が確認されるということ。 ---これ以外に、どのような言い様があります?
>>368 > この「必要な能力」とは何か?というのはなかなか言い難いことです。ただいえることは、仏道修
> 行の過程における取得達成の段階としては、自己意識のコントロール(制御)の能力が求められる。
> その成果として必然的に付随するのが神通であり、これは達成度の一つの尺度としても見なされる
> ものです。これが六大神通の話であると思う。
自己意識を制御すると、どうして神通が付随するのですか?
無批判に「付随するものである」と定義されているように見えるのですが?
あと、前スレで逆に質問しますといったまま 返答させておいてスルーなのはどうにかなりませんか。
371 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 22:10:36 ID:V+vUpQ0L
以下は横レスだから、論点ずれてたら無視してくれ
旧7 さんの言ってることの趣旨は「仏典の記述に対してこれは釈迦の真意、これは脚色または方便と判断する基準は何か?」
こういうことだろ?しかし
>>367 >>368 を見ても全くその判断基準は示されてないな。
「私はこのように考える」としか述べられておらず、そのように考えるべき必然性と言うものが提示されていない。
これでは、いくら仏典にこのような記述があると述べても全く無意味で
その記述が「このような理由により釈迦の真意と考えられる」
と説明する必要性があるわけだろ?
その判断基準を問うているわけだから、各人がそれぞれ、その是非を判断しろと言うのならば
「こういう記述がある」などと言う単なる、記述紹介は意味を失うのでは?
まぁ、外から眺めた一個人の感想だ
372 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 22:22:11 ID:V+vUpQ0L
つまり、自説の論拠として仏典の記述を引用するのであれば、「何故それが釈迦の真意と考えられるのか」 と言う判断基準まで示さなければ、引用することに意味はない こういうこと
373 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 23:01:12 ID:euGoNIde
>>367 >ってくるものであり、従って、人は死ねば終わりではなく、生前の行為の果報
>を受けるべく来世に転生してその報いを受けるという。それが宇宙の背後に在
>る平等の法則であり、善行善果を保証するものであり、最終的にニルヴァーナ
>に到る道理だと説く。
生前に「良いことも悪いこともした人間(すべての人間がそうであろう)」の
来世はどうなるかにつての疑問に答えられなければ、「輪廻転生肯定論」は、
一切成立し得ない。巨悪をなした人間は、もはや救われる可能性は皆無だから、
善をなす意欲は失われるという「巨悪」を招く。
そもそも、「輪廻転生」で「脅迫」する行為そのものが、巨悪ではないか。
善とは、自由意志でなすべきもの。輪廻転生の脅迫によって自由意志を奪われて
なす善は、もはや善とはいえない。
374 :
旧7 :2009/06/20(土) 23:07:10 ID:6/eTlXLu
>>367 >それは道理に適っているかどうか?ですよ。
その「道理」が曲者なんですよw
その道理が、その枠組みを超えて通用すると言えるのかどうか?
キリスト教ならキリスト教、イスラムならイスラム、ユダヤならユダヤ、仏教なら仏教、
それぞれが依拠する道理があろう。それら道理が、それぞれの枠組みを超えて普遍的に通用するかどうか・・。
私は、この点について貴方ほど楽観視できない。『宗教的大統一理論』なぞ、夢物語でしかないと考えている。
(この辺も、基本的スタンスの違いになってるんだろうな・・・w)
もし、「仏教という枠内での道理」と言うならば、
梵天勧請も、まぎれもなく梵天が依頼しにきたと受け止めねばならないし、
三十二相も、全て、シッダッタに実際に備わっていたと受け止めねばならない。
この形式をもってして、貴方方は、三世に跨る業報に懐疑的な者に外道のレッテルを貼って来たんじゃなかったですか?
で、以下は結局、
『《「貴方にとって」「こうであるべきと理想化される」仏教》に合致するかどうか』
でしかないですね・・・。
なんだw 貴方が批判する人々と同じ姿勢じゃないですかwww
私には違いが見えませんなw
外野のほうが冷静でいられるようだ・・・w 謝。m(_ _)m
>>371
>>361 >「有名人崇拝」「ブランド崇拝」に常に伴う陥穽ですよ。釈迦やイエス崇拝
>についても例外ではない。
かってガンジー自叙伝を読んだことがある。自叙伝だから自分に都合悪いことは書かない。
ガンジーはそれだけの知識だったので「神の子」発言は新鮮だった。
376 :
神も仏も名無しさん :2009/06/20(土) 23:19:01 ID:euGoNIde
>>375 自叙伝と同様、宗教の教典も、都合の悪い事は絶対に書かない。商品の宣伝広
告と同様である。無批判に信じるものではない。
教典の嘘と誤りを見破る、現代人としての知性と批判力に支えられた眼力が必要。
一切皆苦、苦集滅道の<苦> 生きているのが<苦>であると感じるのは不幸な人々である。 幸せな人々は<楽>を感じて神に感謝しているだろう。 しかし世尊は<苦>を悟りの条件にしている。 不幸な人こそ悟れるのだと言っているようなものである。 イエスも「貧しい者は幸いだ」と似たようなことを言っている。 その共通性はともかく、<苦>を感じている人が悟りに近く、 <楽>を感じている人の方が悟りに遠いという教えは、 不幸な境涯のほうが魂の救済に関しては幸せであるという話になる。 あの世があったり輪廻転生があったりするなら、 この世の価値観は正反対ぐらいにひっくり返るのである。 単純にこの世の基準で善因善果・悪因悪果と考えることはできない。
唯物主義の観点から、宗教を徹底的に批判するのはありえるでしょう。 しかし縁起・空で宗教を批判するのは話をややこしくする。 宗教を批判するなら唯物主義に徹底したほうがいい。
379 :
マイヤー マイヤー ◆JDl1K5oLuM :2009/06/20(土) 23:59:48 ID:P0F8Ix7P
唯物主義のよさは、この現実を土台にし、ものごとの本質を探究することにある。 唯物主義と言いながら、その実、神の世界まで展望している。 これに対して、現実を空にしてしまう縁起・空論者は、 それ自体が信仰のようなものであり、なかなか目が覚めることがない。 この現実が空であるはずがないのにね(^^) そういう妄想がかれらの癒しになっているから絶対に手放さない。
>>377 > その共通性はともかく、<苦>を感じている人が悟りに近く、
> <楽>を感じている人の方が悟りに遠いという教えは、
> 不幸な境涯のほうが魂の救済に関しては幸せであるという話になる。
というか、苦しいという現実を見ようとしないのが苦しみの始まりって話が
何かの仏典に書いてあったような。
苦しみは苦しみとして受け止めるしかないのに、苦しくないと思おうとしたり
人のせいにしたり、環境のせいにしたりして、まっすぐ苦しみとして受け止めない。
その歪みがその人の運命を歪めていく。
つまり苦しみを避ければ避けるほど苦しい未来が待っている。
>>378 ややこしいのが嫌いかどうかと、現実がややこしいかどうかは関係がない。
唯物主義に徹底した方がいいとかいうけど、
過度に単純化して単純な結論を導いたからといって、その結論になんか意味あるのかと。
383 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 00:16:29 ID:jx5mJWZk
>>369-370 は〜ぃ、ごめんなさい!m(__)m
(忘れていたわけではなく、返答についてズーと思案していました・・)
あなたからのご意見、ご指摘はなかなか返答が難しいです。困ったな・・w
「自己意識を制御すると神通が付随する」については、仏典ではこう述べています。
『サーリブッタよ、この五百の比丘たちのうち、六十人の比丘たちはすでに三明をえた
者であり、六十人の比丘たちはすでに六通をえた者であり、さらに六十人の比丘たちは
倶解脱をえた者であり、その他の者は慧解脱をえた者である。』
(サンユッタ・ニカーヤ8-6)
これは以前のコピペですが、《「三明」(宿命智・天眼智・漏尽智)を得た者、「六通」(神
足通・他心通・天耳通を加えた六神通の幾つか)を得た者、「戒・定・慧」の三学修行にお
ける「倶解脱」を得た者、「慧解脱」を得た者とあり、これはつまり、修行の段階に応じた
達成のことを示しているのです。500人の比丘の内、120人が何らかの神通力を有してい
たことになります。》
ということで、「戒」によって心身が調整され、呼吸と精神を鎮めて「定」に入って統一し、
「慧」(八正道の正見、正思惟、正精進)で仏教の智慧が身につくようになるということは、
即ち、自己意識の制御(コントロール)が完成したというこであり、その結果として「倶解脱
/慧解脱」を得た者だといっている。これは阿羅漢ということになるので、必然的に阿羅漢
の能力としての六神通は当然のものとして説かれます。精神のコントロールによって神通
力が発揮できるようになることについては仏典の随所で説かれています。
384 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 00:17:40 ID:jx5mJWZk
『また、比丘は心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、さまざまな超能力(神通)に心 を傾け、心を向けます。比丘は、さまざまな超能力を体験します。すなわち、一から多にな り、また多から一になります。あるいは姿を現したり隠したり、塀や城壁や山の向こう側へ 障害もなく、まるで空中を行くように通り抜け、あるいはあたかも水中でするように大地に も潜ったり浮かび出たり、また、地上を行くように、水の上も(水面を)割ることなく歩み、ま た、羽のある鳥のように空中も足を組んで飛び歩き、また、かくも偉大な力を持ち、かくも 輝かしい威光を備えた月と太陽に手で触ったり撫でたりし、果ては(人が到達すべき最高 の世界である)梵天の世界にさえ、肉体を持ったままで到達します。』 (ディーガ・ニカーヤ第2/出家の功徳) ただ残念ながら、そのメカニズムについてまでは、仏典には詳細な解説はないように思 います(私の知る狭き範囲では)。もし、そこまであなたが求められるのならば、各種ヨーガ 経典に拠る以外ないのではないでしょうか? ダンマパダ282,372でも、「心が統一され」(Yoga)と述べられているように、仏教の瞑想は 古代ヨーガに起源があると見るべきです。『ヨーガ・スートラ』の成立には仏教徒が関わって いた可能性もあると見なされるほどで、初期仏教(原始仏教)の影響から瑜伽行唯識派の 発展のキッカケすらもヨーガ・スートラには見ることができるともいわれています。 人体(正確には肉体ではありませんが)には7つのチャクラというエネルギーセンターが在 る。このチャクラの活性化が神通力の発揮に密接に関係するのですが、これらのチャクラ は意識の使い方、つまり意識の浄化と制御のあり方によって目覚めるのです。ただ、神通力 目的のチャクラ開発、つまり、それを意図するだけの行法は大変な危険性と破壊を伴うから、 あまり関心を挽き付けるようなことは憂慮されるのです。 ヨーガ経典からは、チャクラとナディー(気道)、イダー管とピンガラ管とスシュムナー気道、 シャクティーとクンダリニー(サーペント・パワー)、5気(プラーナ、サマーナ、アパーナ、ウダ ーナ、ヴィアーナ)のコントロールについてなどの知識を得ます。
>>381 苦は主観的なものであり、実体がないと言うのが世尊の教え。
苦を感じないなら、それはそれでいいのではないですか。
同じ境遇でも感じ方には個人差がある。
386 :
偽本尊 :2009/06/21(日) 00:28:31 ID:d0oE2L76
>377 <苦>の意味を誤解しているようですね。 「思う通りにはならない」という程の意味です。 不幸という意味ではありません。
>>382 >>381 に書いたけど、信仰者同士の争いはまず解決不能である。
唯物主義は現実に基づく考え方であり、妄想を極力排除するだけである。
妄想を排除すればそれだけ単純化するわけであり、
話をむりやり単純化するわけではない。
388 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 00:36:51 ID:OA2HZk+2
>>386 >「思う通りにはならない」という程の意味です。
「思うとおりにならない」のが人生。それを自覚するだけで、苦はなく
なる。だから「思うとおりになった時」に、「喜び」を感じる。
何でも「思うとおりになる」と思っているのは、未成熟な駄々っ子。
釈迦は、そんな人生の真実も悟れなかったのかね。
>>386 <苦>には即物的な響きがあり、その<苦>をどう感じるかが不幸でしょうか。
たしかに言葉の使い方は微妙に違いますね。
390 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 00:45:09 ID:5nYIhZhe
*
391 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 00:45:33 ID:OA2HZk+2
>>389 「生・老・病・死」は、即物的そのもの。
>>388 世尊は、修行という人工的な<苦>を作り、自分を極限まで追い詰める。
しかしそればかりでは悟れないことに気づいた。
スジャータの慈悲で悟ったのかな?
>>391 世尊は唯物主義から神の世界を展望した可能性がありますね。
イエスとは微妙に感触がちがう。
394 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 00:59:29 ID:jx5mJWZk
>>374 どの伝統的諸宗教も時代の年月を経過した歪みが付随していおり、実際とは異なる迷
信や誤解や誇張や神格化がされています。
仏典の記述であるから、仏教徒は全てそのまま認めるべきという話ではありません。こ
れはキリスト教徒は、聖書の記述をそのまま全て信奉すべきというものでもない。私は、
文字通りに一句一句そのまま受け取る原理主義には反対します。内容についてはよく吟
味すべきであり、そのためにこうして討論してるわけですよ(あなたとも・・)。
>『宗教的大統一理論』なぞ、夢物語でしかないと考えている。
どの伝統的世界宗教も変色を免れていません。誤解や迷信を排除していくことで、統
一的な共通項の真理が見出される筈です。「三世に跨る業報」ということでいうと、聖書
にもそれは説かれているのですが、キリスト教としての教義から都合が悪いということで、
553年の第五次汎宗教会議によってドグマから排除されたのです。たぶん、業報(行為
による結果/報い)と生まれ変わりを説かない宗教はどこにもないと思います。
これを否定などしては全ての理論が崩壊するのです。
395 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 01:08:57 ID:OA2HZk+2
釈迦の時代は、医学がなかったから、生老病死の苦は、「心の切り替え」 で軽減する以外には、方法がなかった。医学が驚異的な発達を遂げた 現代では、それらの身体的な苦(それから発生する精神的な苦も含めて)、 医学が解決する。従って、仏教による苦の除去は、現代ではもはや不要な 概念。 なお、純粋に精神的な苦は、専ら「自己中心主義」から生じる。我を 去って、身近な他者に心を移すことにより、苦は権限・除去される。 人間が、本質的に共同体的存在であるからである。釈迦は、このことに は、思い至れなかった。 釈迦は、苦行(修行)の愚かさを悟ったはずだが、現代の仏教者で、まだ 修行などやっている者がいるのは、何故かね。そもそも、自分から進んで やる修行など、趣味みたいなものだから、修行の意味は無い。本当の苦行は、 強制的にならされるものでなければ無意味である。最大の修行は、「人生」 という「大修行」であるはず。
396 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 01:12:10 ID:5nYIhZhe
397 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 01:13:17 ID:OA2HZk+2
>>394 >これを否定などしては全ての理論が崩壊するのです。
良い行為と悪い行為の両方をやった人間についてはどうなのかの答えができない
以上、既に崩壊しているw。
世尊は生まれてじきに母親を亡くしている。 スジャータの乳粥に、もしかしたら母親の愛を感じたのかもしれない。 仏教の慈悲がどこからやってきたかが疑問なのだが、 案外、こんなところに起源があるのかもしれない。 かりにそうだとすれば、慈悲とは母親の愛情のようなものだろう。オチ
>>395 だいたい同意しますね。
特に修行に関して、おっしゃるように人生そのものが修行だと思います。
400 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 01:24:03 ID:5nYIhZhe
>>394 宝珠さん、『梵網経』パユットー『仏法』水野弘元『要語』ダライラマ、石飛道子などの本は読みましたか?
>それと、真言氏が推奨された水野著『要語』は、
>皮肉にも一在家さんが指摘する霊魂肯定を述べています。
> 『外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、人格の主体としての
>業(ごう)を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生
>不滅ではなく、輪廻の主体として業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。唯識
>法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。』
>(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』春秋社刊149p)
これは恒常な魂ではありませんよ。「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かない」と明言してるでしょ。
そして「輪廻の主体として業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である」というのは、無常な縁起する連続のことです。
これをパーリ・ニカーヤでは識などと呼び、後代では自相続と呼んだりします。
現在の我々が無常でありながら、同一性をもって連続すると仮設されることと同じです。
誤解しないでください。
401 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 01:34:09 ID:OA2HZk+2
輪廻転生論は、現代には通用しない誤りに過ぎないが、しかし、仏教が、 「信仰」ではなく、「現世における『行為』」を問題にしたことは、現 代において巨大な意味を有する。バラモン教でもそうだとすれば、偉大な 「東洋の叡智」である。「信仰義認」などを唱えるキリスト教には、その 片鱗さえ見出しえない思想である。
402 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 01:38:34 ID:fZVWJyD9
人間のお肉を構成する物質も数年で全部入れ替わると言うが 「霊魂」も同じノリなんだな。不動でなければ永遠でもない。 肉体と分ける必要も無いのかもしれない。分けるとしても 脛毛と腋毛くらいの区別だろう。
>>401 輪廻転生に関しては時代的なものがあったのだろうと思う。
いまでさえ信仰に関しては熱くなり一歩も譲らない。
世尊の時代は殺し合いである。こういう時代の中で、
輪廻転生を否定することはきわめて困難だったろうと思う。
自分の考えを述べるためには譲歩せざるを得ない。
世尊の場合は唯物的な視線がありそうですね。
パウロの信仰義認は洗脳用語でしょう。今度こそ本当にオチ
404 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 03:15:01 ID:FH6e1OhO
>>380 >唯物主義と言いながら、その実、神の世界まで展望している。
キリスト教的に見ても、神が創造したのは、肉体としての人間、具象としての
自然です。人間が、自然状態を離れ、神のようになり、善悪の観念を作り挙げる
ことは、「原罪」として禁止している。
新着90とか見ると読む気失せるよね
406 :
一在家 :2009/06/21(日) 08:01:40 ID:IdRi4Car
【脳移植のモデル】 将来、脳移植した場合の魂(アートマン)と体との関係は どうなるかとの問いがありましたので私見を述べます。 人間は魂(スーパーコンピュータ)、脳(無線LAN)、 体(ロボット)から成るとモデル化します。 Aさんの体Aが機能しなくなり、Bさんの脳Bが脳停止した場合、 Aさんの脳AをBさんの体に移植しますと、以後はBさんの体Bは 魂Aと脳Aが動かすことになります。 これが一つ目の回答です。
407 :
一在家 :2009/06/21(日) 08:03:06 ID:IdRi4Car
問題は脳停止したBさんの魂Bです。そのまま霊界(あの世)へ 行けばよいのですが、自分の体Bを他の魂Aが使用するのを見て 脳Aへの接続をトライします。 元々無線LAN(脳)は同時に複数のコンピュータ(魂)と接続 可能ですので、うまく脳Aに接続できれば自分の体Bを動かすことも できます。 以上により、一人の脳Aと体Bを二人の魂AとBとが動かすことが できるようになります。 これが二つ目の回答です。 私も度々体験しておりますが、憑依霊が浮霊すると本人の意識は ハッキリしておりますが、体が勝手に動き、勝手にしゃべり出し ます。誰かのスーパーコンピュータが私の脳にアクセスしてきた と考えれば一応説明できます。
昨日、悟りが涅槃じゃないだの大乗小乗がなんだの言ってた人たちはなんなの? 煽りっぽかったけど
409 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 08:43:11 ID:HxyQaXuj
>>376 >宗教の教典も、都合の悪い事は絶対に書かない
ところが、仏教の経典はそうでもない。
釈迦が説法を失敗したことや修行僧の釈迦に対する悪口など
都合の悪いことも書かれている。
仏教の経典は聖書ではない。
410 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 08:49:34 ID:5nYIhZhe
>>406 ですから釈尊はアートマンを説いていません。
水野先生の仰る魂というのは、無常な識の連続です。
およそ、後代の中有説でいうところの自相続と同じことです。
縁起して連続する無常な現象を、倒錯して同一性を持って見られるだけのことです。
今のあなたや私が同一性を持って見られる、呼ばれるけど、実は縁起する無常で無我なものと
説くのが釈尊です。
411 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 08:59:11 ID:5nYIhZhe
412 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:03:47 ID:RVPUwxdW
>>410 一つ聞くが「識」とは何かね?
出来るだけ具体的に解説頼む
413 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:12:13 ID:5nYIhZhe
>>412 「かね」というあなたは、常識・生命教の人ですか?
別の方なら答えますが、常識・生命教の人なら、話ても無駄なのでスル〜いたします。
414 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:20:30 ID:RVPUwxdW
>>413 別に現代の常識を仏教にしたいなどとは全く思ってないが、死後存続を否定する立場ではあるな。
まぁ、自説を受け入れる者とだけ対話を試みると言うのが
お宅の仏教徒としてのスタンスなら、こちらから尋ねることは止めよう。
415 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:23:09 ID:UjkbJn0l
「死後存続を否定する立場」が仏教だとしなければ無問題だろ。 ID:5nYIhZheがイラついてるのはそうした説を仏教だとしてしまう捻じ込み行為。
416 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:24:28 ID:HxyQaXuj
>>406 ロボットなら魂なんかいらない。
魂を持ったロボットなんか無いよ。
417 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:25:48 ID:UjkbJn0l
418 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:28:34 ID:HxyQaXuj
死後存続など説かないのが仏教だろ。 そうであるならアートマンなんか要らない。 アンアートマン(無我)だけで説明できる。 輪廻転生もこの世の自分の心の中の心象世界 だとすれば仏典の記述と矛盾することは無い。
419 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:30:22 ID:RVPUwxdW
>>407 少し設定に誤解があったようだが、俺としてはBさんの脳を移植されたAさんの身体も同様に、
稼動、すなわち移植後、二人とも生きていると言う仮定の上での
話だったのだが。すなわち、移植後の各人にはどちらの魂がつくのか? がポイントなのだがな
420 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:37:03 ID:HxyQaXuj
>>419 魂はもともと空=0としての存在だからどっちがついても同じだろ。
個性は身体が保つ。
421 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:44:58 ID:RVPUwxdW
>>420 すまん、よく意味がわからん。
そもそも、魂すなわち霊の存在自体を否定してしまっているのか(そうすると思考実験が根底から成立しなくなるが)
あるいは、魂は身体に拘束され脳に付いて共に移動することはないと言っているのか
どちらなんだろうか?
422 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 09:52:37 ID:HxyQaXuj
>>421 魂(霊)は存在してもその実体はなく空なる存在だということ。
0は数ではあるけど個数としてはその内容が「ない」ということ。
身体の個物性は身体の属性だろう。霊魂で識別はできない。
だからヒンドゥーのウパニシャッドでは「梵我一如」という
ブラフマン(普遍)もアートマン(個我)もその本質は同じ
という考え方が出てきた。
423 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:07:09 ID:5nYIhZhe
>>415 ども! イラついていませんよ。(^^)
ただ、常識・生命教さんの言説が、無根拠な自説の強弁なので話しても無駄だと思うだけです。
>>418 いや、説きますね。ただ心も現れも縁起・空であり実体やアートマンはないとします。
>>422 は、縁起説に近い考えかたですが、どこか実体感、実在論が潜んでいるように思います。
424 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:14:04 ID:RVPUwxdW
>>422 解説には礼を言うが残念ながら俺には理解不能だ。
霊を仮設する説は、その真偽は別にしてあり得るだろう。
また、霊などないと否定するのも当然ありだ。(俺の立場だが、これは思考実験なので)
霊はたとえあるとしても空だから、 とのことだが
「これは霊の存在の肯定論者にむけた思考実験で彼らは霊の属性を
どのように考えているのか?」を問うたものなんだ。
その辺を理解してもらいたい
425 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:18:53 ID:Aic+M8Ms
>>407 >私も度々体験しておりますが、憑依霊が浮霊すると本人の意識は
>ハッキリしておりますが、体が勝手に動き、勝手にしゃべり出し
>ます。誰かのスーパーコンピュータが私の脳にアクセスしてきた
>と考えれば一応説明できます。
それは、考想反響、考想吹入、考想奪取、考想伝播、させられ体験などという、
あきらかな統合失調症の症状。至急、精神科による診断と治療を受けるべき。
426 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:22:14 ID:RVPUwxdW
>>423 ちょっとまて。
「常識生命教が、無根拠な自説の強弁」
これは俺への批判と受けとるが
それなら、述べてもらおうか?
俺の今までの書き込みでどれが「無根拠な強弁」なんだ?
>>407 とてもよい着眼だが、
記憶
人格
魂
などについて整理したらもっと良い考察になると思いますよ。
せっかくコンピュータの喩えを思いついたのだから、コンピュータにおいて情報はどう処理されるのかについても考察してみては?
一つ質問。バックアップを取らずに破壊されたコンピュータのデータはどこに行きますか?
428 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:32:37 ID:Aic+M8Ms
>>423 >常識・生命教さんの言説が、無根拠な自説の強弁
「常識・生命論」は、人間のすべての営みの根源としての生命と、それに
基づき、気も遠くなるような長い年月をかけて人間が築き上げた、共生
の知恵としての常識という、「最大の根拠」がある。常識・生命論に反論
できないような宗教論こそ、無根拠で、人間界においては無意味・無価値
な代物。単に、「独りよがりの妄想」に過ぎない。
429 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:34:26 ID:JxDTTJk8
仏教以前の考え方だから、十分にあり得る。
430 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:35:22 ID:5nYIhZhe
>>426 え、名無しなので特定できませんが。生命こそが真実で、生きることが全て、それが仏教という説です。
これは明らかに仏教ではありません。生は無明であり、生きるようとして殺し合い排斥しあうものが自然状態でしょう。
そのような自然な状態が、一切苦であると認識し、その苦の原因を知り、涅槃こそがその解決であると信じ、涅槃へ至る道を歩むのが仏教であるからです。
「かね」という口調が彼の特徴の一つなので、誤認だったかもしれません。
その場合は、不快な思いを与えてしまったことをお詫び申し上げます。
431 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:41:23 ID:5nYIhZhe
>>428 あ、この人です。反論され何度も論破されているのに名無しなので性懲りもなく書き続ける。
生命・常識教と仏教は違うので他所でやってくださいと何度いっても書き続ける人です。
おそらく、キリスト教系宗教で苦労した経験があり、その反動で宗教を否定し、
常識こそが全ての人が信じるべきもので、そこから一歩でもはみ出すことを許さないのでしょう。
仏教は常識も尊重しますが、常識は夢幻のようなもので苦の源泉と考えるものです。
432 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:43:24 ID:HxyQaXuj
>>424 >「これは霊の存在の肯定論者にむけた思考実験で彼らは霊の属性を
>どのように考えているのか?」を問うたものなんだ。
そうだね。
それに対する私の答えが「霊は実体ではない」ということなんだが。
その霊の存在の肯定論者は霊の属性は何といってるのだろう?
霊の属性は「常・一・主・宰」だというのかな?
名無しだったらまちがえられても仕方ない。自分が悪い。 それが嫌なら、コテをつけるか、文章にクセをつけるかなどで工夫する。
常識と生命は宗教の土台でしょう。 これに反するような考え方は世間から受け入れられない。
435 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 10:51:46 ID:Aic+M8Ms
>>431 >苦の源泉
仏教は、「楽の源泉」はどこに忘れてきたのかねw。
「苦楽は、相補的関係にある」ことは、基本的な原理だろうが。
436 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 10:54:16 ID:jx5mJWZk
>>400-410 お久でした-真言さん^^
寂しかったですよぉ〜てかっ時折、何度か投稿してたでしょ?w
>「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かない」と明言してるでしょ。
確かにそう書いてあります。しかし、「人格の主体としての業(ごう)を保持している霊魂
は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。」とも明言。どうも・・この辺の説
明表現が混乱を招きやすくしているようです。
まっ、真言さんの説明は分りました。どうも可笑しな解説文だな?(伝統仏教の理解は
霊魂を認めない筈)とは思い、アレ?って感じでしたから・・。
ただ、いわせて頂きますと、「輪廻の主体として業や経験に従って常に変化しつつ連続
する有為法」との解説のある存在が、実は私も、そして恐らくカラスさんも主張するアート
マンです。アートマンとて永久の常住ではなく、輪廻が終了するまでの媒体という見解なの
です。この点においては、私はバラモン経典の主張とは異なることになる。更にいうと、私
としては、アートマンが輪廻の間だけの媒体であるのか?ニルヴァーナに到達した後にも
存続を続ける意識なのかには、さほど重点は置いていないのです。ニルヴァーナ後にア
ートマンは消滅するかどうかは、そのときに任せておけばいいことです。
重要なのことは、人は死後も意識が継続し、幾生涯もの経験を蓄積しており、それらを
何れは想起できるということ。そして、ニルヴァーナ後に意識が消滅してしまうわけではな
く、無常なる世界から解脱した意識としてニルヴァーナ境地に“常住”することになるという
ことにあります。
もし、これすらも否定するのであれば(つまり、それが伝統仏教の正しい理解だするなら)、
やはり、この私とは見解が異なる、ということになりますね。
437 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 10:55:47 ID:jx5mJWZk
>ですから釈尊はアートマンを説いていません。 そうかも知れません。 >今のあなたや私が同一性を持って見られる、呼ばれるけど、 >実は縁起する無常で無我なものと説くのが釈尊です。 これは、もちろん納得しています。 >宝珠さん、 >『梵網経』パユットー『仏法』水野弘元『要語』ダライラマ、 >石飛道子などの本は読みましたか? ごめんなさい!m(__)m 水野弘元『要語』は、必要に応じて辞書代わりにパラパラ開いています。 ですが、他はまだです・・。体調を崩してからは、 読書は厳しくなってきたのです(集中力が続かない)。 真言さんが見守っていた、ということになれば・・ では、些細な事柄にはレスを控えたいと思います(読書に入るようにして)。 パユットー『仏法』が気に入ったので、こちらから。
>>411 >>431 自分の立場を断見・常見でない中道としているようですが、
ではその縁起・空の対象領域に何を想定しているのでしょうか。
この現実そのもの? それとも愛憎や善悪などの概念や命題?
個人的には後者だと思っていますがどちらでしょうか?
439 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:02:12 ID:Aic+M8Ms
>>437 石飛さんを、「天才」などといって絶賛してたのは、君ではなかったの
かねw。
440 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 11:11:28 ID:jx5mJWZk
>>439 それは真言氏でしょ!
わたしは氏から良著の推薦を受けてこれを購入したのです。
あ〜またツマラン、レスをつけてしまった(涙)
441 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:11:46 ID:5nYIhZhe
>>436 どもです。いえ、一回も書いてません。規制です。2ヶ月書けませんでした。
恐らく直ぐまた規制されると思います。
伝統仏教と言っても現代日本の伝統仏教は、ほぼ各自が勝手に解釈してる状態ですから、
断見、常見、縁起中道それぞれさまざまです。特に縁起中道を理解されている方は少ないと思います。
輪廻の主体をアートマンとは仏教では言わないでしょう。少なくとも私は知りません。
何故か、アートマンというのは実体・実在論・本質主義に基づく反縁起思想だからです。
輪廻する主体として何か実体・基盤・本質となるものをアートマンと呼ぶからです。
縁起という見方は、何か基体が実在するというこの実在論・本質主義こそが無明の根源と考えます。
例えば、原因があって結果があると言います。こういう日常の言い方、言い慣わしはありです。
ですが、原因の本質や実在が何かとか、実体的原因があってそれらが集まって結果が起こるという考え方は縁起ではありません。
ただし、部派仏教ではこのような実体論的縁起を説きます。誤りです。
これを理解するのはかなり難しいことです。なぜなら、我々が実体的見方に馴染んでいるからです。
まず、それを壊さないと正しい見方、正見は得られません。
442 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:16:27 ID:RVPUwxdW
>>431 誤認については了解。ただし、俺個人としては、この常識生命教と言われる人の述べることも十分、妥当性を有する見解であり、問答無用で
切ってすてるようなものではないと思うが。
まぁ、仏教と言う視点に立つと違う見方があるのだろし、お宅とのこれまでの経緯も知らないので
これ以上のコメントは差し控える
>>433 一応、俺は個人の識別には、気をくばりIDまたは話の内容、流れ等にて判別不能と思われるときは、レス番表示などで個別認識できるようにしてきたがね
443 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:18:56 ID:5nYIhZhe
>>438 どうもです。現実というと何か実体がある、実在すると考えてしまうので、問題ですが、
我々が知覚・体験することを現実と呼ぶなら、それでも結構です。
ただ、仏教では我々が知覚・体験することを現実を、生滅する性質と捉えています。
無常、無我、空、縁起と言っても同じことです。
要するに縁起によって認識される一瞬が、生じ滅するということです。
つまり、現象は認識であり、認識の連続で妄想して実体視するが、
それは無常、無我、空、縁起なんだということです。
>>441 真言氏
もう少し具体的にお願いします。
縁起と言うとき、何が縁起しているのですか?
この現実そのものに縁起を見るのですか・
445 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:22:46 ID:Aic+M8Ms
>>441 >何故か、アートマンというのは実体・実在論・本質主義に基づく反縁起思想
>だからです。
すべて、仏教の中心思想だが、それを認識・思考しているあなた自身は、何と
呼びますか。アートマンでなければ、何ですか。
446 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:25:23 ID:UjkbJn0l
生命・常識教だけなら「あっ、そう」 仏教もそうだということにしようとするから反論された。 ただそれだけのこと。 隠居は論の内容というよりも、 行動パターンが原因でウザがられている。
447 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:25:38 ID:5nYIhZhe
>>442 どうもありがとうございます。確認の仕方が性急だったと反省いたします。
生命教の方は、既になんども論破されているので無意味なのです。
立論の根拠が、ほとんど誤解に基づいていて、それを一々反証しました。
過去ログにあきらかです。
まあ、自分自身も名無しなのであまり彼を非難できませんが、
このスレは文献に基づいて釈説の是非を論ずるものですから、
スレ違いなので他所でやっていただきたいものです。
448 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 11:33:44 ID:jx5mJWZk
>>441 >どもです。いえ、一回も書いてません。規制です。2ヶ月書けませんでした。
>恐らく直ぐまた規制されると思います。
ですかぁ〜随分と似た感じの投稿をする人がいるものですね!
僅か数回だけでしたが・・。了解!!
実は私もまだ規制中であり、PCからはダメなのです。サーバーに苦情を申し入れまし
たが、2CH側が規制を解除しません。それで私はPCで書き上げた文章を携帯に飛ばし、
コピペで携帯から投稿を続けているのです。これにより取り合えず、問題なく投稿ができ
ています。この大規模な投稿規制が解除されれば、本当はまだまだ投稿したい人がい
る筈です。
以下のご説明は納得します。が・・しかし、ゴータマはアートマンを説かなかったが、「存
在否定はしなかった」のではありませんか?経文からはそのように受け取れます。これま
で私が提示してきた経文はその典型です(ログを参照のこと)。
>>443 真言氏
話の内容に揺れがあってよくわかりません。
結局、この現実そのものが縁起しているということでしょうか?
この現実は空であり、一瞬一瞬に生滅して連続していると。
450 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:37:10 ID:Aic+M8Ms
>>447 「常識・生命」は、論破の対象にはならない。論破した(と思っている)
ほうが、論破されたということ。
釈迦も、常識・生命に基づいて説いたはず。そうでなければ、単なる
「妄想患者」。釈迦を、そんなアホ扱いしてはならない。
451 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:38:54 ID:5nYIhZhe
>>444 その何が縁起するのかという問い、その思考様式が実在論・本質主義なのです。
縁起は、「これがあるとき、これがあり。これがないとき、これがない」というもので、
相対的な認識論なのです。なにかそれ自体で存在するのではなく、
さまざまな縁によって認識されるということです。
譬喩として例えば、音の連続がバッハのフーガだと認識されるのは、
音が一定のメロディとリズムで連続したからです。そしてバッハのフーガだと
かつて習慣として認識したことがあるからです。
今、モニター上に見ているドットの集合が文として認識できるのも同じです。
日本語の言い慣わしに馴染んでいて、文として縁起しているのです。
でなければ、ただの無意味な模様でしょう。
そして、縁起説は音もドットも実体ではありません。
それは量子論に実体がないことに比せられるでしょう。
もちろん、量子論も実在論的可能性があるなら、その解釈を採用せよといわれているそうですが、
それは人間がいかに実在論が好きか、それに執着しているかを示す好例だと思います。
452 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:42:08 ID:Aic+M8Ms
>>443 「関係性」という言葉が出てきませんね。現在の仏教哲学では、その言葉を
使っているはずだが。「縁起(関係性)」と表現している。
453 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:42:33 ID:UjkbJn0l
>>450 「論破された」にかかっているのは「生命教の方」で
これまでの話の流れ、文脈からして「仏陀が唯物論者だ」等の
言説を論破したことを指しているのは明らかなんだが……
加えて「はず」といいつつ根拠は示さず、単に願望を投影するに留まる。
いや、なんだ。人間同士のコミュニケーションというものの限界を思い知らされる一幕だな。
454 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:42:50 ID:RVPUwxdW
>>447 なるほどね、お宅の
>>441 の書き込みを見ると お宅が言う所の「識」が、ぼんやりとだが、輪郭を見せてきたような気がする。
しかし、
>>444 さんが言うように「縁起」? この概念が、よくわからんね。
おそらく、相関関係を意味するものだと思うが、その場合の現象の因となるものが不明確だ
455 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 11:45:26 ID:jx5mJWZk
---真言さんへ これまで私が提示してきた数々の経文。 つまり、私の主張する常住論を補強する根拠となるものですが。 お忙しいとは思いますが、それらについて目を通してご意見が貰えると嬉しく思います。
>>451 真言氏
>>444 >その何が縁起するのかという問い、その思考様式が実在論・本質主義なのです。
>縁起は、「これがあるとき、これがあり。これがないとき、これがない」というもので、
>相対的な認識論なのです。なにかそれ自体で存在するのではなく、
>さまざまな縁によって認識されるということです。
「これ 」と関係する「これ」とは何かを聞いています。
もともとの対象がなければ、話にならず、縁起自体が成立しないでしょう。
しつこいようだけど、きわめて重要なことなので再度尋ねます。
この現実に縁起を見るのか、それとも識の中だけに縁起をみるのか、
どちらでしょうか?
457 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:51:30 ID:Aic+M8Ms
>>451 それは、既に、前レスで、常識・生命論の立場から、アナログ・デジタルの原
理に関連して述べたこと。
「関係性」という言葉を使うと、何か都合の悪い事でもあるのかね。
458 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 11:53:48 ID:5nYIhZhe
>>448 縁起をある程度理解できれば同じようなことをいうのではないでしょうか?
いうまでもなく私は完全に理解できたとは思ってません。そう言えるのはブッダのみですから。
アートマンの存在は否定しなかった。中村・津田・宮元説ですね。
私はそうは思いません。縁起であれば、アートマンはありえないからです。
三昧状態をアートマンと勘違いしているのがアートマン説であるというのが『梵網経』です。
それにパユットー師も明言されてます。水野先生、ダライラマ猊下、石飛先生もです。
つまり、テーラワーダでもチベット仏教でもアートマンを認めないのです。
かつての日本仏教も同じです。そして文献学者のなかで最も権威のある水野先生もそうです。
私が最も優れた文献学者だと思っている石飛先生もです。最新刊の『龍樹と語れ!』は圧巻です。
http://www.amazon.co.jp/龍樹と 、語れ-―『方便心論』の言語戦略-石飛-道子/dp/4804612858/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1245552652&sr=1-2
もうこの方は、天才というより、菩薩ですね。感動しました。
459 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:03:40 ID:5nYIhZhe
>>454 >>456 ただの認識であるというのが現在の私の理解です。
>この現実に縁起を見るのか、それとも識の中だけに縁起をみるのか、
>どちらでしょうか?
「現実に縁起を見る」とは、何か外界に実在があってそれが縁起するというなら違います。
「識の中だけに縁起をみる」とは、意識だけが実在して、そのなかの認識が縁起というなら、これも違います。
何か実体があるから、縁起するのではなく。諸行が流動する不定無常な流れを、
過去の行為によって限定された認識法と、シキタリや言い慣わしという言語制度、言語ゲームなどに
そって認識されたものが、記号づけられて「これ」「これ」と認識されるだけだということです。
だから空なので、色即是空もそういった意味です。
460 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:05:25 ID:Aic+M8Ms
>>458 >もうこの方は、天才というより、菩薩ですね。感動しました。
今度は、石飛先生が「菩薩」ですか。その個人崇拝がよくない。個人崇拝
では「学問」にはならない。
「縁起」という言葉は誤解をまねく。単なる経時的、直線的な因果関係
という印象を与える。同時的・空間的な縁起もあり得る。そして、因果
は、その中間の「縁」によって影響される。仏教哲学がいうように、「縁起
(関係性)」という表現にすべきであろう。
461 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:10:48 ID:Aic+M8Ms
>>453 >人間同士のコミュニケーションというものの限界を思い知らされる
>一幕だな。
「人間同士」ではなく、「宗教者と非宗教者」でしょう。
「生命」という「すべての人間に共通する唯一の普遍の基盤」に立てば、
コミューニケーションの障害などありません。
462 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:12:41 ID:UjkbJn0l
何がかみ合ってなかったかのすら理解していない……確かにこれは放置するほかない。
>>459 真言氏
氏の縁起が識の中の話であることは理解できました。
その識が実在していては空にならないから識は実在ではない、
これも理解できました。
ではその識の中で縁起している「これ」と「これ」は何でしょうか?
それからこの現実そのものは実在してますよね。
>>462 ご隠居の話は奥深いからじっくり味わったほうがいい。
465 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:23:21 ID:Aic+M8Ms
>>463 >氏の縁起が識の中の話であることは理解できました。
真言氏は、そんなことは言っていない。
466 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:24:26 ID:5nYIhZhe
>>462 フォロー、ありがとうございます。
彼の場合は、信仰なんですよね。それはそれで否定するつもりはありません。
あなたの仰る通り生命教と仏教は違います。と言ってきました。
これは彼の仏教理解がいかに誤解であるかがほとんどです。
それすら認められず、同じことを繰り返すのみなので、悪いんですが、スル〜しか手はないというのが、私の限界です。
467 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:26:28 ID:Aic+M8Ms
>>463 「縁起」などという言葉を使うから、そのような誤解が生じる。
「関係性」と言えば、一発で解決すること。
アートマンがあるか無いかという二択で考えるからもめるんじゃないのかな。 見方の違いだと思うけど。
>>465 まさかと思うけど、この現実を空と見ているのですかね?
470 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:35:08 ID:Aic+M8Ms
>>469 「空」とは、「何もない」という意味ではないよ。現実が、関係的集合体
だから、自性はない、ということ。前レスの、「アナログ・デジタルの
原理」を参照されたし。
471 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:36:24 ID:5nYIhZhe
>>463 例えば、今見ているこの「文字」が、あなたに「文字」と認識されますね。
それは「文字」と認識されたものであり、「文字」と言い習わされてきたもので、
現代日本人なら凡そ共通の理解を持っていると信じるものです。
では、この「文字」は何でしょうか? この問いが本質を問うもので間違いなのです。
本質などない、認識だけが用法、習慣にしたがってあるだけです。
譬喩として、西洋は本質を追究してきました。物・現象には還元できる実体・本質があるという信仰です。
その結果、原子が発見され周期表でしたか、考案されこれを埋め尽くせば本質が解明されたと思った。
ところが、原子も構成要素があることが発見され現在では還元不可能であることが証明されたようです。
これと同じです、分析しなければ世間的に通用しているものは認識できるけど、
分析すれば本質や実体などないということです。
>>467 犬と猫は空である、ゆえに犬と猫は同じである、という理解ですか?
縁起にうとい、ご隠居と同じレベルではないでしょうよ。
>>471 真言氏
話をそらさないでください。
「これ」「これ」は、識の中のいったい何と何かという問いです。
それともこの現実が縁起しているという話なのですか?
どうもはっきりしなくて理解しにくいです。
現実 → 認識 という流れの全体を語っているのでしょうか?
474 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 12:48:25 ID:Aic+M8Ms
>>472 関係性には、「同じ」とか「同じでない」という概念は、本来的にない。
しかし、関係性によって、結果的には異なった個物(と見える物)を
生じさせる力は何か。それは、今後追求すべき課題だと思う。
>>474 真言氏の縁起・空は、ご隠居の色即是空・空即是色と同じかもですね。
色を現実としその現実を空とする。意外な共通点ですね(^^)
この現実を空とし幻とするのは、常識に反しているし<現実的>ではない。 そいった見方は基本的に無意味である。必要ないし妄想である。 世尊が問題にしたのは心の執着。この執着が解消すればそれでいい。 愛と憎、善と悪は縁起しているから空である、と理解して執着から離れる。 犬や猫が空であると主張しても何の役にも立たない。
縁起の理解は仏教の基本である。 しかしその理解を誤ってしまうのはどうしてだろう? 逆説だが、経典を信じ、経典を熱心に研究しているからかもしれない。 わたしの場合は経典をまったく読まないで縁起も唯識も理解した。 簡単な解説書程度の、弁証法と心理学である。
478 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 13:35:10 ID:jx5mJWZk
>>478 宝珠氏
前のほうで、悟りではなく解脱にしようと書いていたが、
解脱は輪廻が前提になった言葉なので、悟りのほうがベターでしょう。
480 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:10:46 ID:rKP1eHO0
>>464 いやいや、相手が何を問題としているかを読み解こうとせず
とりあえずアンカーつければ良しとする姿勢を批判しているだけですよ。
どんな本人にとってどんな貴重な知見だろうが出し方によっては相手を不快にさせるものです。
ポテトを注文したのに美味いからと勝手に空揚げを押し付けてるような
もんですよ。彼の行動というのは。
>唯一の普遍の基盤」に立てば、
ってのも、お前が俺と同じ基盤に立ってないのが悪いんだ、という意味でしかありませんし。
彼が自分の姿勢を省みることがないのはこれまでのスレでも明らかです。
普通の唯物論者や無神論者ならここまで忌み嫌われてはいませんよ。
481 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:13:12 ID:rKP1eHO0
みみずんは開くのにちょっと時間がかかる(こちらが光回線じゃないからかもしれないが)ので 紹介したい部分をメモ帳でまとめて自灯明ページのようにリンクを貼るのはどうだろう。
482 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:17:19 ID:5nYIhZhe
>>473 >話をそらさないでください。
>「これ」「これ」は、識の中のいったい何と何かという問いです。
>それともこの現実が縁起しているという話なのですか?
いえ、私は精一杯、誠実に答えているつもりです。
たぶん、あなたの実在論的前提が理解を妨げていると思います。
>どうもはっきりしなくて理解しにくいです。
>現実 → 認識 という流れの全体を語っているのでしょうか?
そうではなく認識だけが現実でなにも実在などしないということです。
>475
>真言氏の縁起・空は、ご隠居の色即是空・空即是色と同じかもですね。
>色を現実としその現実を空とする。意外な共通点ですね(^^)
彼の立場は、ただの現状肯定でしょう。私のは現実が幻であるという仏教の伝統的立場です。
この違いが分からないなら、空や縁起などの認識や存在に関わることは何も分かってないと
自覚すべきだと思います。
483 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:18:09 ID:5nYIhZhe
>476 >この現実を空とし幻とするのは、常識に反しているし<現実的>ではない。 >そいった見方は基本的に無意味である。必要ないし妄想である。 このあなたの発想が正しく実在論的思い込みです。 仏教とは全く相容れません。仏教は世間仮虚という立場で一貫してます。 どの時代のどの地域の仏教でも同じです。現代日本とインドの仏教ぐらいが例外でしょう。 >世尊が問題にしたのは心の執着。この執着が解消すればそれでいい。 >愛と憎、善と悪は縁起しているから空である、と理解して執着から離れる。 >犬や猫が空であると主張しても何の役にも立たない。 つまり、観念・概念が空だが物質は空ではないということですね。 まあ、そういう理解も方便としてはありかもしれませんが、 仏教でそのような見解を採ったものは現代日本の通俗書以外に私は知りません。 文献学者でも、そのような説を採る人がいたような気がしますがただの誤解です。 >477 >縁起の理解は仏教の基本である。 >しかしその理解を誤ってしまうのはどうしてだろう? >逆説だが、経典を信じ、経典を熱心に研究しているからかもしれない。 なぜ、自分が誤解してるとは思わないのでしょうか? 仏教は見えるもの、感じるもの、思うこと全て幻と説きます。 縁起こそまさにその原理です。それが分かってない。 あなたの理解は、アビダルマ的縁起にも達していません。 >わたしの場合は経典をまったく読まないで縁起も唯識も理解した。 >簡単な解説書程度の、弁証法と心理学である。 解説書が、あなたの常識にあった内容だったから信じられたというだけではないでしょうか。
484 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:21:44 ID:rKP1eHO0
誰かが変な勘繰りをしているみたいだが、「関係性」を使わない理由というのは、単に使う必要が無いからじゃないの。 意味のちょっとしたズレや他の面々がする理解の微妙な違いが、誤解を生むかもしれないしな。
485 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:31:44 ID:5nYIhZhe
>750 > しかし、ブッダは、自己が存在しないなどとは1度も語ったことはありません。ブッダは、五蘊(心身)のい > ずれも自己ではない(非我)とか、みずからの実存にまつわるすべての事象は自己ではない(諸法非我)と > は語りましたが、五蘊は無我であるとか諸法は無我であるとは説きませんでした。』 > (『大法輪』第76巻第4号/特集-輪廻転生を考える(P78)『ブッダの輪廻観』宮元啓一著) その通りです。釈尊は論争を避けたので、アートマンが無いとは言わないのです。 「私はそれがアートマンとは言わない」と仰います。これについては石飛先生の本に明解です。 > 『例えばブッダの根本教説のひとつとされる「無我」の教えについていえば、それは無主体とか無霊魂とい > うことではなかった。無我の「我」とはウパニシャッドの哲学に説く絶対原理であるアートマンのことである。』 > (インド思想史/早島鏡正・高嶋直道・原実・前田専学著-東京大学出版会刊) これは36頁ですね。宝珠さんの主張とは逆に釈尊はアートマンはないと言っていると早島先生は書いています。 ですが、これは上の宮元説が正しいです。より石飛説が正しく、結論だけいえば早島説と石飛説は同じことになります。
486 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:39:39 ID:5nYIhZhe
>751 :宝珠愚者:2009/04/20(月) 09:31:07 ID:dAMWKtcI > 『仏教は無我説を立てることで有名であるが、その思想内容は歴史的にかなりな変遷がある。それにと > もない「諸法無我」の解釈にも変化がみられる。 > 無我説の始まりは、最古層の経典の執着するな、わがものという観念をすてよという教えにある。初期 > の無我説は、「我は存在しない」ことを説くのではない。倫理主体としての真の我の確立は、むしろ積極 > 的に求められていた。 この場合のアートマンは、言葉遣い、習わし、しきたりとしての「私」ということです。 世俗的言語使用として「私」と使います。世間の言い方通りです。 「猫がいる」とか「天気がいい」とかと同じことです。 > 「常に思念をたもち、自己に関する誤った見解を捨てて、世界を空なるものとして観よ。そうすれば、死を > 超越したものとなるであろう。このように世界を考察するものは、死神には見えない。」(Sn.1119.) これは自己、アートマンが実体を持ったものという実在論的見解を捨てて、縁起・空と観よという意味でしょう。 > 無我説はこのように、我(自己)ではないものを我(自己)であると思いこだわることをやめよ、という教 > えから始まる。当初の「諸法無我」は、無執着の立場から、「すべての事物は我(自己)ではない」と説か > れたものである。したがって、無我(我がない)説というよりは非我(我ではない)説であった。 > 原始仏典のうち成立が遅いとされる散文では、人間を構成する五つのものの集り(五蘊)ひとつひとつ > について「これはわがものではない」「私ではない」「私のアートマン(我)ではない」と知るべきことが説か > れる。この表現形式は、ウパニシャッドのアートマン思想と密接にかかわることが指摘されている。』 > (インド思想史略説/第2節 原始仏教の教理) あ、この早島説は、石飛説に近いです。ですが、石飛説の方が圧倒的な説得力を持っています。
487 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:42:52 ID:5nYIhZhe
>>484 そうです。縁起には深い意味が込められていて、とても関係性という一面的な意味では表せないからです。
仏教は縁起であるというのは紛れもない真実です。
ただ、縁起をどこまで理解できるか、体得できるかにかかっていると言ってもいいでしょう。
縁起という思想が理解できれば、ほとんどのアポリア、ディレンマは解決できると思います。
>>482 >>483 真言氏
ていねいなレス、ありがとうございます。
ただ、わたしの聞きたかったことが聞けなかったという感想です。
「これ」「これ」を明確にしないなら縁起になりません。
縁起のない空は、空とは呼べないでしょう。
この現実を実在とするのか、空や幻と理解するのかは、
個人の自由にするとしましょう。しかし空と言うからには、
そこに縁起がなくてはならないと思いませんか。
前のほうのレスで縁起の説明をしてくれましたよね。
それでは「これ」「これ」とは何かと質問しているのです。
たとえば何と何というような話を期待していたのですが。
489 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:52:00 ID:5nYIhZhe
>752 省略 > 自分の思い通りにならないようなものを「アートマン」と呼ぶことはできない、という趣旨である。 > すなわち、釈尊がアートマンを否定する論法は、「一切とは何か」を規定し、「そのいずれもがアートマン > ではあり得ない」というもので、「アートマンは存在しない」と主張したのではない。この違いが重要である > のは、当時のインド哲学・宗教一般ではアートマンの存在は自明なこととされていたので、それに対して単 > 純に「存在せず」と主張することは、形而上学論争になってしまうからだと思われる。 一切に例外はありませんよ。一切以外がアートマンというのはないです。 形而上学論争と言ってもいいですよ。釈尊は縁起・空の形而上学的前提であり、 アートマン論者が、実在論の形而上学的前提にたっているのです。 それなので、釈尊が認める一切のなかにアートマンはなく、釈尊は何かが究極の実在であるアートマンとは説かなかった。 アートマンはないというと形而上学論争になるからです。 > 釈尊が無用な形而上学論争を禁止し、それに対する回答を拒止した(無記)ことは、「毒矢の譬喩」から > も知られる。釈尊の否定は、あくまでも形而下(経験できる範囲)の世界におけるものであって、それを超 > える事柄は全く問題にしなかった。』 だから、上のようになるのです。そして『梵網経』にアートマンの立場を取る外道を、ただの凡夫より 高く見てますが、それでは解脱・涅槃をもたらさないとして明言しているでしょう。
490 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 14:57:24 ID:5nYIhZhe
>>488 「これ」は、認識するもの全てです。
変数、変項 x と呼んでもいいでしょう。
例えば、猫でも犬でも、痛い、気持ちいい、美しい、気持ち悪いでも、
認識できることすべてです。それらが所謂妄想とどう区別されるかは、言い慣わし通りの
働きを持つかどうかで決められます。そうでなければただの言葉だけのものと言われます。
そしてアートマンなどは正に言葉だけのものと後代の仏教では論証されます。
491 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:00:59 ID:5nYIhZhe
>754 :宝珠愚者:2009/04/20(月) 09:43:11 ID:ziIfmML+ > 『考えることを排斥している。そうして修行者はまず『わがもの』という観念を捨てねばならぬという。した > がって無我説とはこのような意味における我執を排斥しているのである。 > 以上、古い詩句の中において『わがもの』あるいは『アートマン』の観念について論及している諸句を検討 > したのであるが、それらの所説は、古ウパニシャッド及びジャイナ教において説くところと大体において共通 > である。 > 初期仏教における我に関する見解は以上のごとくであった。したがってわれわれはこれを無我説と呼ぶ > ことを躊躇する。『無我』という語は誤解をひき起し易い。初期の仏教においては決して『アートマンが存在 > しない』とは説いていない。むしろウパニシャッドなどの思想と多分に密接な連関を有するのである。 > 自己を愛し、自己を実現すべきことを説いているにもかかわらず、その自己(アートマン)がいかなるもの > であるか、ということについて、形而上学的にいかなる説明も与えていないのである。この事実は、インドに > おける他の哲学学派と、いちじるしい対照を示している。---中略--- > 最初期の仏教が多く、『わがもの』という所有観念を捨てるべきことを教え、アートマンに関しては、アー > トマンを愛し、護り、アートマンを実現すべきことを強調するのに対して、散文の部分においては、むしろわ > れわれが対象的に把捉し得る何ものもアートマンではない、ということを強調する。ところで散文の部分で > 強調されている思想を受けて、後世になると遂に『アートマンは存在しない』という意味の無我説が確立す > るに至った。』(中村元著『自我と無我』平楽寺書店刊) 同じことです。言葉としてのアートマンは指示する表現として用いるが、 本質・実在という意味のアートマンは認めないという意味です。
492 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:06:41 ID:5nYIhZhe
>755 :宝珠愚者:2009/04/20(月) 09:47:48 ID:ziIfmML+ > 『初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、アートマンを積極的に承認している。 > ・・・更にアートマンならざるものをアートマンと解することが排斥られているのであるから、アートマンをア > ートマンと見なすことは、正しいことなのではないだろうか。聖典自身は明らかにこの立場を認めており、 > 原始仏教においては自己を自己として追求することが正しい実践目標として示されている。すなわち真実 > の自己を求むべきことを勧めているのである。 > ---かりに『無我説』と呼ぶにしても、それは決して『アートマンが存在しない』と主張したのではない。 > ただ客観的実体的あるいは機能的なアートマン観に反対したのである。 アートマンを積極的に承認するのは、日常用法です。たしかにアートマンが存在しないとは言わないが、 それは形而上学論争を避けるためです。「私の説では言わない」というのは要するに仏教ではアートマンを認めないということです。 存在しないというように一般論としていうなら、形而上学論争になるからです。
493 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:12:12 ID:5nYIhZhe
>756 :宝珠愚者:2009/04/20(月) 09:48:57 ID:ziIfmML+ > ところで《自己を(アートマン)を尋ね求める》ということは、実はジャイナ教においても説くところであり、 > 表現の文句まで一致している。のみならず歴史的に遡って追求すると、このような思想は、少なくとも表現 > の文句の表面に関する限りは、ウパニシャッドにおいて「アートマンが探求せらるべきなり」と説かれている > のと全く軌を一にしている。「このブラフマンの都(身体)の内ある小さい蓮華の形をなす一住居----その > 内部に小さな空処がある。その内にあるもの(アートマン)、それを尋ね求むべし。実にそれを知ろうと欲す > べし。」(チャーンドーギア・ウパニシャッド[.1.1) > ウパニシャッドにおけるこのような表現を原始仏教は継承したのである。そして原始仏教においては、「自 > 己を知る人」が尊重されているのである。 確かに苦行者文学と呼ばれるジャイナ、仏教、ウパニシャッド、叙事詩などに共通するフレーズ、表現、文が あるのは確かです。ですが、それは単に言い慣わし、伝承句を用いたという意味で本質・実体という意味の アートマンを仏教が肯定したという意味ではないでしょう。以下の用例は中村先生も自己と訳しているように 日常用法としての自分・私を指す言葉でしょう。それを用いるのは何度もいいました。 > 「自己の利を知って常に自己に専念せよ。たとえいかに大事であろうとも、自己ならざる他のものの利の > 故に、自己の利を捨て去ってはならぬ。」(ダンマパダ:166) > こういう表現は、古ウパニシャッドにおけるアートマン論と著しく類似している。---中略--- > 原始仏教では自己を愛することを教えている。アートマンは愛しきものである。ある小さな神が > 《子に等しい愛しいものはない。》といったのに対して、釈尊は「自己(アートマン)に等しい愛しい > ものはない。」(アングッタラ・ニカーヤ:U.21)と答えた。これは明らかに古ウパニシャッドにおいて哲人 > ヤージニャヴァルキヤが・・・などと説いた教えにちょうど対応するものである。』 > (中村 元著『原始仏教-その思想と生活』NHKブックス刊)
釈迦はヒンズー教のお坊さんだったし、回りにはヒンズー教徒が沢山居て、釈迦にゾロゾロと金魚の糞みたいに 付いて来たヒンズー教徒の出家者が多く居た。だから釈迦はヒンズー教の教義の一部であるアートマンの文脈で 説法をする機会がどうしても増えてくる。もしヒンズー教以外の信者が多く居る地域で説法をしたら、別の文脈で 説法をする機会が増えていただろう。
>>490 真言氏
この現実を<幻>として理解し、縁起・空を語っているのですか。
しかしこの現実を<幻>として理解することが世間から支持されるのか?
意味があるのか? 必要なのか? 病的な妄想ではないのか?
いまどき、そんなことを説いていたら見捨てられるのではないのか?
夢のように生き、現実感がなくなるのではないか? などなど。
いろいろな疑問が湧いてきます。しかし氏との違いが理解できたので、
このくらいで終わりにしましょう。
仏教理解の基本なので、しつこく聞いてしまい、大変失礼しました。
496 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:30:14 ID:5nYIhZhe
>>478 >188 :宝珠愚者:2009/05/19(火) 03:42:39 ID:tB4c1R9b
> その常住論はゴータマの説いた教えであるとしています。『世尊が常住論について教えを説かれた
> やり方は最高のものです』(春秋社刊/自歓喜経)、『正しく考える修行者・バラモンは、精神を統一した
> 状態で』(同)といういい方をしており、これは“正しい修行者”の意味合いとして(外道の区別なく)広く
> ゴータマが好んで使う言い回しです。
> 従って、外道たちの説くところの常住論(その間違った見解)は、という意味合いには取れません。
> 『アートマン(個我)と世界は、常住であり、なにものも生み出さず、不動であり、石柱のように固定し
> ていて、かの生けるものたちは生死流転し、輪廻しているけれども、まさに常住不変に存在している』
> (同)といっています。
『梵網経』もそうですが間違ったとは明言しません。これは論争を避けるためでしょう。
ですが、解脱・涅槃をもたらさないと明言されています。
497 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:31:17 ID:5nYIhZhe
>189 :宝珠愚者:2009/05/19(火) 03:44:06 ID:tB4c1R9b
> 何故ならば、私は平河出版社刊『現代語訳「阿含経典」』(神塚淑子訳)での『自歓喜経』も読んでみ
> たからです(これは真言氏によって推奨されたもの)。こちら漢訳経典からの和訳では、全くニュアンス
> は異なっていたからでした。
> つまり、その常住論というのは外道の説く内容のことであり、それについてのゴータマの解説は正し
> いという意味に取れるからです。少なくとも、そのように受け取れる訳文だろうと思いました。ただし、
> 全体的な文章としてはあまりにぎこちなく、非常に違和感があり、これは明らかに可笑しなものです。
>
> こちらでは、『常法とは(三通りあって)、沙門婆羅門たちがさまざまな手だてを用いて心の静かな状
> 態に入り』(平河出版社刊/自歓喜経)とあります。そして、『世の中の婆羅門たちには如来と並ぶこと
> ができる者はおりません』(同)と結びます。
> ただ、非常に文章的にはぶっきら棒です。『如来の説かれた教えには、さらにまたすぐれたものがあ
> ります。それは常法を説かれたことです』で始まり、常法(常住論)の内容説明のあとに続けて、『この
> 如来の教えはこの上なくすぐれています』(同)と結んでいます。
> 文章的にはそのまま受け取れば、その常法(常住論)を説いたのはゴータマだとになってしまいます。
釈尊が説かれたのは明らかでしょう。『梵網経』に残っている通りです。
しかしそれは以下のように解脱・涅槃をもたらさないものなのです。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/15.html
498 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:35:33 ID:5nYIhZhe
>>495 >この現実を<幻>として理解し、縁起・空を語っているのですか。
そうです。
>しかしこの現実を<幻>として理解することが世間から支持されるのか?
量子論などの物理学者の一部は支持されているようですが。
>意味があるのか? 必要なのか? 病的な妄想ではないのか?
非常に有意味で、必要で、妄想ではありません。
>いまどき、そんなことを説いていたら見捨てられるのではないのか?
まあ、適当に常識に合わせますよもちろん、世間話としては。
ですが、仏教ということになれば、そこは譲れません。
>夢のように生き、現実感がなくなるのではないか? などなど。
それが苦を無くす、少なくとも軽減することになります。
どういたしまして。
499 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:37:36 ID:5nYIhZhe
>224 :宝珠愚者:2009/05/19(火) 20:31:19 ID:tB4c1R9b
>
>>188-189 追記:
> 『現代語訳「阿含経典」』の『自歓喜経』は、明らかに外道が説く常住論についてゴータマが説いた
> ことは素晴らしいというものです。そして、とても重要な部分(記述)がありました。
>
> 『この人は明けても暮れても無知なまま、「世界は永遠に存在する、これこそが真実であり、他は
> いつわりだ」と説く』(平河出版社刊/自歓喜経)といい、それが常法だといっています。尚、その世界
> とは、成劫と敗劫を繰り返す世界のことです。
そうです。そしてこれが解脱・涅槃をもたらさない見解としているでしょう。
宝珠さんが、この『自歓喜経』と『梵網経』をよく読んで常住論が最高の仏説として説かれていないことを
確認していただけることを願っております。その点こそがこのスレの主題ですから。
ということで、とりあえずこのくらいでいかがでしょうか?
『自歓喜経』と『梵網経』をよく読んでみてください。
500 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 15:49:18 ID:Aic+M8Ms
>>482 >私のは現実が幻であるという仏教の伝統的立場です。
>この違いが分からないなら、空や縁起などの認識や存在に関わることは何も
>分かってないと自覚すべきだと思います。
岩波仏教辞典の解釈とも180度違いますね。辞典の執筆者も「何も分って
いなかった」のですか。あなただけが分っているというお立場ですか。
釈迦は、現実は一切考慮しない「夢想者」「妄想患者」だったのですか。
四苦は、すべて身体という現実界の苦しみです。
釈迦にとって、すべてが幻なら、わざわざ「この『世界』を空と観ぜよ」などと
いう必要はないし、「色即是空・空即是色」も意味をなしません。「空即是空」
だけでよいはずです。
501 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 16:21:39 ID:Aic+M8Ms
>>482 釈迦の身体も幻で、彼は幻の口で教えを説いたのですか。幻の口からの言葉
では、弟子たちにも伝わらなかったはずです。彼は、幻の飯を食っていたの
ですか。幻の飯なら、生きられないはずです。幻の食物なら、彼の食中毒も
なく、肉体が死ぬこともなかったはずです。
あなたが列挙された文献(すべて小乗系)には、「釈迦は、すべてを幻と見た」
などと書かれているのですか。
釈迦を「夢遊病者」に仕立て上げるのは、釈迦に対する侮辱ですよ。
502 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 16:29:52 ID:Aic+M8Ms
>>498 >量子論などの物理学者の一部は支持されているようですが。
量子論でも、粒子の実在を認めるからこそ、その位置や運動の不確実性
を論じることが可能になるるのですよ。粒子が幻なら、どうやってその
「位置」や「運動」を論じることができるのですか。
まあ、アートマンを否定するための「政策的発言」かも知れないが、
あまり極端な発言はよくない。釈迦は「中道」を教えました。
503 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 16:47:37 ID:Aic+M8Ms
>>471 >では、この「文字」は何でしょうか? この問いが本質を問うもので間違い
>なのです。本質などない、認識だけが用法、習慣にしたがってあるだけです。
文字や言葉が「空」であることくらいは分っています。しかし、人間は、生存
に必要な具象物を指示・区別して、共同体の成員同士でそれを伝達するために、
それらの言葉や文字を発明したのですよ。
すべて幻なら、あなたのその書き込みも幻で、無意味・無駄ですね。無意味・
無駄な書き込みはすべきではない。2chの貴重なスペースの無駄です。
あなたは、霞を食って生き、幻の女を抱いて子供を作れるのですか。
504 :
一在家 :2009/06/21(日) 16:49:07 ID:isX/7Jzf
法華経「如来寿量品十六」より、 釈尊曰く、「すべてのものは、生まれ、かつ死に、必ず変化する ものでありますが(無常の意)、それはただ現象の上だけの ことであって、如来の眼をもってすべてのものごとの実相を 見れば、すべては消え去ることもなく、現れることもありません。 (中略)また、ものごとが常住するもののように考えるのも迷い でありますが、現象面だけを見て、常住のものがないと考えるのも 浅い見方です。」 真言氏からの見解をいただければ幸いです。
505 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 16:59:15 ID:Aic+M8Ms
>>498 >それが苦を無くす、少なくとも軽減することになります。
肉体もその苦も幻なら、「無くす」「軽減する」という言葉は矛盾ですね。
初めから無いもの(幻)を、「無くしたり」「軽減したり」することは出来
ません。
506 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 17:08:38 ID:5nYIhZhe
>>504 一在家さん、その前に『自歓喜経』と四悉ダンについて常恒論は誤解だったことは、
認めていただけますか?
同じ縁起・空にしても、 現実に基づくご隠居のほうがよっぽど健全に思えてきました。 それからご隠居の空の理解は仏教界の多数派のようですね。
それぞれが自分の世界を持ち、おたがいに重なることもあれば、重ならないこともある。 主として重ならない部分で会話が成立するのだけど、 おたがいに自分の世界を一歩も譲らない。まあお互い様ですかね。 時間をかけ、ゆっくり発酵させないと変わらないかも。 ながーい目が必要 (‐‐‐▽‐‐‐);
509 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 17:38:50 ID:RVPUwxdW
ちょっと聞きたいのだが、
>>505 が、ご隠居と呼ばれてる人で
>>506 が真言と言う人なのかな?
たとえば真言氏と在家氏はアートマンで100%対立する。 しかし科学の最先端に空を見ることでは一致する。 ご隠居と真言氏はこの現実を空であるとする点で一致する。 しかしご隠居はこの現実を認め、真言氏は幻として否定し認めない。 みんなそれぞれのワールドを持っている。
511 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 17:48:46 ID:5nYIhZhe
>>507 彼のような理解なら、仏教は必要ないでしょう。
行も必要なく、出家する必要もなく教えもなにもいらない。
常識に合わせて食って寝て、適当に他人と妥協して老いて死んでいくだけではないでしょうか?
それがいいなら、それでも結構、人の生き方ですから、ただし仏教とは全く違うものです。
仏教を否定するなら、それも結構。仏教を変に自説の権威付けとして説くのは止めてくださいというだけです。
これも何度言っても聞き入れてもらえません。
ここはコミュニケートする場ではなく、文献によって真偽を論ずる場でしょう。
岩波仏教辞典なんかに基づいて発言されても困るんですが、
その上、彼の岩波仏教辞典の読みがまた酷いものですから、
自灯明についてちゃんと自洲が原義と書いてあるのに、そこは無視。
しかも、何度指摘しても同じことを繰り返すだけですよ。(^^)
513 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 17:54:28 ID:5nYIhZhe
>>510 量子論はあくまで譬喩です。量子論によって仏教の真実が実証されたなんてことは言いません。
ただし、量子論の説明、記述に縁起の存在論・認識論は非常にヒントになると思います。
いずれにしろ、パルメニデス以来の存在論では量子論は記述できないで苦しんでいたり、
現代論理学も存在論で苦しんでいたりしますが、縁起を導入すれば解決できることがあると思います。
514 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 17:55:31 ID:5nYIhZhe
>>512 すいません。分かりにくくてあってます。
>>511 ではSP3.12をどう理解したらいいのでしょうか?
世尊の言葉を否定しますか?
516 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 17:58:24 ID:RVPUwxdW
>>512 逆か?
すると505 のひとが真言さんで 506のひとが ご隠居さんね
517 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 18:04:58 ID:5nYIhZhe
>>515 SP とはスッタニパータですか? 普通は Sn. と略しますが。
なんの異論もありませんが? まさに「一切は虚妄である」というのは
幻であるということに他ならないでしょう。
どのように解釈されているのでしょうか? とりあえず、行の時間なので、失礼します。
518 :
一在家 :2009/06/21(日) 18:08:34 ID:ucMa7r+Q
釈尊が三つの常住論を解説し、その中では三番目が最高だと保証されたという記載を私は見つけました。 またサーリープッタには第一義で説かれたであろうは私の推測です。 そして無常を説いた釈尊が、仏の眼からは常住だと説かれた、法華経の方便品を私は見つけました。 以上を認めます。真言様
519 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 18:15:21 ID:2BfJQECq
>>511 >ただし仏教とは全く違うものです。
あなたが「解釈」する仏教とは何ですか。さっぱり見えてこないがw。
>文献によって真偽を論ずる場でしょう。
その文献自体の真偽は、あなたはどうやって確認しましたか。
>岩波仏教辞典なんかに基づいて発言されても困るんですが
あなたは、何に基づいて発言しているのですか。やはり他者の著書ではあり
ませんか。
>彼の岩波仏教辞典の読みがまた酷いものですから
あなた(真言氏)の言っていることが、辞典とは180度違っていることは
認めますか。
>自灯明についてちゃんと自洲が原義と書いてあるのに
原義が「島」であることくらいは知っているが、それが発言にどんな関係が
ありましたか。
520 :
一在家 :2009/06/21(日) 18:19:51 ID:ucMa7r+Q
梵網経は五百人の弟子に対して説かれたました。 第二義か第三義の可能性はないでしょうか? 無記ではなく、当時の62の見解は感受だから、捕われるなと。
521 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 18:23:55 ID:RVPUwxdW
しかし、こうやって見てみると同じ仏教徒たちの間にも認識の違いはすさまじいな。 アートマンの是非と言うまさに、教義の根幹に関わる問題においても、見解の対立は解消されていないらしい。 そこで、一つ部外者からの質問なんだが、 真言と言う人? は徹底的なアートマンの否定派みたいだが、この見解が現在の仏教(日本限定と言うわけではなく、全ての宗派において) 主流と言うか定説化してるのかい?
>>260 たとえば、彼岸を求めて修行しているはずのお坊さんが、「鐘声七條」
の公案にあるように、「鐘の音をきいて、袈裟を着てお堂にいく」とあり
ますが、まさにこの広い世界であっても彼岸ではなく、遠く響く鐘の音も
此岸なわけです。
この否定こそが悟りであり、そこから絶対的な世界が出てくるのが、
「空」なのです。もちろん五官では空はわからないわけですが、
「ある」というのが仏教であり、その空を伝える理由があったわけです。
>>270 そうした五識による自我の形成を認めたうえで、
インスピレーションや直観・霊感の存在を言っているわけで、
こっちとしても否定しているわけではなく、ようは、「宇宙の法則の発見」
などの創造行為は実は霊的作用ではないかということなのです。
この世に数式化したときには確かに唯物的科学として
とらえることができるのですが、ただしまだ科学は進化途中でして、
霊界までとらえていないということです。
よって、そうした世界観で仏教をとらえてはいけないのではないで
しょうか。つまり人間創造も霊的作用があったわけで、すべての生物も
霊的作用が働き物質化したのであり、死んだら、霊的な本質は
あの世へ行くのであります。これが色即是空、空即是色なのです。
よって、五蘊の仮和合の人間を無我、アナートマンとしたのも
死んだら人は魂(アートマン)になるが、さらに人間存在は、アートマン
の奥にある霊的作用まで言及しているのであります。
524 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 18:34:13 ID:2BfJQECq
>>513 >量子論の説明、記述に縁起の存在論・認識論は非常にヒントになると
>思います。
量子力学と仏教の縁起(関係性)との関係は、私も最初から言ってるこ
とだが、あなたのような「幻論」では、ちっともヒントにはならないと
いうことです。量子力学は、「幻」ではありません。
525 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 19:00:46 ID:jx5mJWZk
では-すみません、真言さん! これらの経文についてご意見お願いします。 『悪い行いをする人にとっては、世間に秘密の場所というものは存在しない。人よ。真 実であるか虚偽であるかを、汝のアートマンが知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊 いアートマンを汝は軽視している。---自己のうちに悪があるのに自分らのために隠そう とする汝は---。』 (アグッタラニカーヤT,p.149G.) 『これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、 没することなき解脱の境地である。』(ウダーナヴァルガ26-29) 『生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(クニ)におも むく。そこに至れば、憂えることがない。(ダンマパダ225) 訳注:不死の境地---accutam tha^nam.直訳すれば「没することのない所」。accutan ti sassatam tha^nan ti akuppattha^nam dhuvattha^nam.(Comm.vol.V,p.321.)けっきょく ニルヴァーナのことであるが、「常住の場所」「常恒の場所」と解していることに注意。』 (中村 元訳) 『生じないもの、生成しないもの、つくられないもの、形成されないものがある。もしも生 じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがないならば、生じたも の、生成したもの、つくられたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、離れ ることはないであろう。 生じないもの、生成しないもの、作られないもの、形成されないものがあるからこそ、生 じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、(そのような状況から)脱し、 離れることがあるのである。』 (ウダーナ8-3/不生不滅)
526 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 19:10:03 ID:jx5mJWZk
物質現象界の一切、すべてが幻にすぎない。 ヒンドゥーはマーヤーと呼び、仏教は縁起/空といった。これ常識です! もちろんこれが真理であり、全く驚くにも値いしない。 現代社会の人間にこそ、知られるべき必要である仏教の根幹部分です。
527 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 19:13:04 ID:vvFYRtNX
宝珠氏は、アートマンを認め、縁起を知らない。 これに対して真言氏はアートマンを認めない。縁起・空の立場にいる。 いろいろの立場が入り乱れている。
528 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 19:21:33 ID:jx5mJWZk
この世が幻なら、釈迦はなぜ縁起を説いたのか? 縁起など無用の話ではないか!
530 :
宝珠愚者 :2009/06/21(日) 19:25:26 ID:jx5mJWZk
>>529 「幻」の根拠を説いたものが仏教の縁起です。ヒンドゥーはそれを神の力と説いた。そういうこと。
531 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 19:25:31 ID:HxyQaXuj
>この世が幻なら、釈迦はなぜ縁起を説いたのか? この世が幻のようなことと認められず苦しむ人たちが 多かったからだろ。 すべて覚ったひとだけなら釈迦は説教しないだろ。
532 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 19:27:15 ID:HxyQaXuj
一切法のなかにアートマンの居場所は無い。
534 :
旧7 :2009/06/21(日) 19:40:04 ID:y6P97XAf
興味深いページを見つけた。
ttp://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/jiga.html 『 〜 最初の問いはそういう意味ではない。
後に文例をあげるが、具体的な両者の用いられ方を仔細に検討すれば、
「私」(「僕」「俺」... といったシチュエーションによる使い分けはここでは無視する)
という言葉で日本人が指しているモノと、 "ich" という言葉でドイツ人が指しているモノとの間には、
時として明確なズレが生じることがある。
「指しているモノ」とは、心理学的・哲学的な用語を使えば、つまり「自我」ということになる。
言葉によってその国民の考え方のクセが規定されるから、
ここにはドイツ人と日本人の自我観が素朴なかたちで表れているといえるであろう。』
だってさ。
さて・・・、古代インド語と日本語の間ではどうなんでしょうかね・・・w
(´ー`)y━~~
535 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 19:51:48 ID:HxyQaXuj
>>534 ドイツ語のichは知らないけど、日本語の「私」は一人称代名詞として
発話者を指示するだけではないか?
たとえば、食堂に行ってめにゅーを見て
「何にする?」
「私はラーメンだ。」
これが普通の日本語の「私」の使い方だと思う。
537 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 20:16:03 ID:lHXfsMHl
>>536 「一切」とは、「それ以外にはない」という意味。言語とは、他者とのコミュ
ーニケーションのための「共有の手段」。「独り言」は、言語ではない。
538 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 20:21:30 ID:lHXfsMHl
真言氏は、修行中の若いお坊さんではないのだろか。悟った高僧なら、 もっとマシな見解が出てくるのではないか。
539 :
旧7 :2009/06/21(日) 20:21:45 ID:y6P97XAf
>>535 そう。
単に(会話上の)「私」、自称する際の「私」なら問題はない。
パーリなら「 aham 」が対応する。これだけでいい。
問題は、(ドイツ人がどうなのかは知らんが(―ドイツ人のパーリ研究者も多いから重要かもしれんが・・・w―))、
日本語で、所謂『自己』と表現される時、(日本語内でも語義の幅はあろうが)、
それに対応する古代インド語は何か。
そして、対応する語が発見されたとして、そのニュアンスの違いに重要な部分がないだろうか?ということ。
(ちょうどURL先の論文でのドイツ人と日本人の《『自己』の指示対象・指示範囲》のように)。
訳出、解釈に於いて、
≪ 「 attan(Atman) 」は、「自己」と訳しては(解しては)ならず、必ず「アートマン」と訳さねば(解さねば)ならない≫のか? と。
≪代名詞でなく、『固有名詞としての「アートマン」』と見なければならない≫のか? と。
≪代名詞的用法は、発展拡大されたものであり、仏典を読む際は原意(soulやcore的な存在)として読むべき≫なのか? と。
540 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 20:39:36 ID:lHXfsMHl
>>539 言語(言葉)とは、あくまでそれが実際に使用される場においてのみ、
意味が確定されるもの。現代人がいくら古代語を調べてみても、それが
使われた時代においては、かなり、いや全く違った意味だったかも知れ
ない。そのため、古代語の解釈には、常に大きな制限が付きまとう。
現代における仏教を論じているのだから、現在解釈されている意味に
止めるのが妥当であろう。それ以外には、方法が無い。
>>537 一切法は五位七十五法における無為法と有為法をさしている。
それ以外はないという意味ではない。
542 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 20:58:42 ID:kEZwiYuK
字面からの新解釈というわけか。 一切+法→「全部、つまり法と呼ばれる全てのもののことだ」 attan(Atman)→「これはまんまアートマンだ」 並べてみると似ている気がする。
543 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:06:53 ID:HxyQaXuj
>>541 >一切法は五位七十五法における無為法と有為法をさしている。
>それ以外はないという意味ではない。
そうだね。アビダルマなら五位七十五法、唯識なら五位百法が
一切だろう。
五蘊「色・受・想・行・識」のすべてだね。
だから、その五蘊と相互作用しないような物事はあろうが無かろうが
あっしにゃ一切関係ございません。
544 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:11:10 ID:vvFYRtNX
>>542 一切法だから完全な法であるなどと思ったら大間違い。
不完全な人間が作った、人間存在の不完全な分類表にすぎない。
545 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:17:02 ID:vvFYRtNX
一切法に抜けている領域・・・夢と魔境・・・マナ識とアラヤ識
546 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:18:56 ID:lHXfsMHl
>>545 そんなものは、釈迦にも仏教にも関係ないのでは。
547 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:20:00 ID:m/Welqft
真言様、おかえりなさいませ。
>>525 ニルヴァーナは、生・老死支を含む十二支の滅なのだから、不生不滅は当然です。
>>528 >アートマンも縁起で生じている。
であれば、アートマンは「不死」ではなく「つくられたもの」です。
>>532 仰る通りです。
『相応部』35.23に拠れば、十二処が“一切”であり、即ち、縁已生法が一切です。
そして、それ以外の一切(例えば五蘊と我が一切)を説くならば、
ありもしないものを説いていると明言しています。
そして『相応部』22.59などに拠れば、五蘊即ち一切は“三世”に我ではない、のですから。
548 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:20:41 ID:vvFYRtNX
>>545 関係する。だから唯識があり、仏性やアートマンが語られている。
549 :
旧7 :2009/06/21(日) 21:23:45 ID:y6P97XAf
Dhp.277 sabbe saNkhArA aniccA. Dhp.278 sabbe saNkhArA dukkhA. Dhp.279 sabbe dhammA anattA.
550 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:32:39 ID:5nYIhZhe
>>519 >あなたが「解釈」する仏教とは何ですか。さっぱり見えてこないがw。
私の解釈する仏教は、文字通り覚者の教えです。何から覚めたかというと世間の虚妄から覚めた。
その覚めることによって、苦である輪廻から解脱して涅槃されたのが覚者である釈尊です。
その教えは、縁起を根本とします。縁起とは「これあるとき、これあり、これなきとき、これなし」です。
「これあるとき、これあり」は虚妄のありかた輪廻を説く場合にも用います。
「これなきとき、これなし」は虚妄が止滅する真実・涅槃を説く場合にも用います。
四諦の苦集が、集があるとき苦があるとなり、苦の原因が集となり虚妄のありかたを説いています。
四諦の滅道が、道があるとき滅があるとなり、滅の原因が道となり涅槃への道を説いています。
そして道は、聞思修、戒定慧によって実践されます。
聞は、教えを聞くことです。本を読むことでは達成できません。これは例えば『正法眼蔵』「四禅比丘」などに象徴的です。
思は、聞いた教えをよく分析検討して考え、納得することです。
修は、教えを実行し身口意に馴染ませ体得することです。
戒は、悪いことをせず善いことを行い、意識の散乱を防ぐことが目的です。
定は、禅定・三昧で要するに精神集中です。
慧は、その精神集中状態、三昧中に縁起・空を観じることなどで、実体観を壊し、無我・空を体得することで出る智慧です。
この智慧によって解脱し、涅槃に至ります。
アートマンがあるという立場では、縁起・無我・空を体得できないので、
このスレタイが重要になるのです。
551 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:33:56 ID:5nYIhZhe
>その文献自体の真偽は、あなたはどうやって確認しましたか。
文献学による批判と伝承です。
>あなたは、何に基づいて発言しているのですか。やはり他者の著書ではあり
>ませんか。
同上です。辞書を鵜呑みにすることと、文献学によって多角的に批判検討を経ていること、
伝統的諸師から伝授を受けていることは大きな違いがあると思いますが違いますか?
>あなた(真言氏)の言っていることが、辞典とは180度違っていることは
>認めますか。
いえ。彼が辞典のどの記述を言っているか分からないからなんとも言えません。
なぜなら岩波仏教辞典は、様々な見解を持った仏教学者が、それぞれの項目を書いたもので、
内容的に統一性がなく色々矛盾があるからです。
織田仏教辞典や仏教学辞典が、比較的穏健で統一された内容を持っていると思います。
そもそも辞典というのは、初心者が指針とすべきもので完全な規範になるものではありません。
>原義が「島」であることくらいは知っているが、それが発言にどんな関係が
>ありましたか。
彼が自灯明を上げる場合は、必ず教えは自分が時代に合ったように解釈すべきであるという意味の
典拠としてあげています。
http://houjugusya.web.fc2.com/loop1.htm リンク先のように全くの誤読付会であることは明らかでしょう。
これが何度も問題になるのが理解不可能です。
552 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:41:05 ID:5nYIhZhe
>>520 つまり、『梵網経』は方便説ということですか?
『梵網経』は、あなたが依用した四悉ダンの典拠である『大智度論』でも重要な典拠になってます。
方便説ということはないでしょう。
>>521 テーラワーダとチベットでは定説ですね。日本仏教でも明治以前は、ほぼ共通認識だと思います。
日本仏教は現在、混迷してますから。
>>524 そうですか。それはたぶん形而上学的前提の違いでしょう。
現代人は、無意識に実在論的前提を持っているので、それはどうぞご自由に。
>>550 真言氏
違いますね。どこが違うかを指摘し、説明するのはおっくうになりました。
日にちをかけてゆっくりやりましょう。
554 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 21:55:12 ID:5nYIhZhe
>>525 アグッタラニカーヤT,p.149G.は他人は知らなくても自分は知っているということでは問題ないと思います。
それ以下は涅槃ですね。アートマンとは言いません。
石飛先生の『龍樹と語れ!』226頁以下で『方便心論』に基づいて以下のような無我論証がなされています。
自己以下の自己とはアートマンです。
〔主張 自己はない〕
仮定 もし自己があるとするならば、無常であるか、または、恒常であるかどちらかである
証明 もし無常であるならば、もろもろの出来事と同じく断滅してしまうものである
もし恒常であるならば、まさしく涅槃そのものである
説明のために、この他に何がいるというのか。〔「自己」は不要である〕
〔結論 それ故に、自己はない〕
明解だと思いませんか?
>>554 真言氏
証明の中にアートマンがいるのに結論でカットされている。
ゆえにこの論証は誤りである。涅槃体験が悟りである。
真言氏は、瞑想時、魔境体験はないのですか?
557 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:03:35 ID:BLWEMq7Y
あんたら、オウムが翻訳した仏典読んでみな。 明解だよ。 釈迦は絶対の真理を説いたんだよ。
558 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:03:46 ID:5nYIhZhe
>>526 マーヤー説は、ヴェーダーンタのガウダパーダが仏教から導入しアートマンを据えて
実在論的に再解釈したものと言われます。シャンカラが仏教色を薄めたと言われます。
これについて仏教側から非難があります。縁起ではないということです。
例えば『中観荘厳論』で批判されています。
私も縁起を理解しなかった頃は、マーヤー説と縁起説の違いが分かりませんでした。
今は、はっきりと違うと断言できます。理由は上、直前ではなくちょっと前に宝珠さんに述べた通りです。
559 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:09:24 ID:a/SkPb+/
オートマトン
560 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:10:23 ID:5nYIhZhe
>>529 幻のような現象の因果関係や、我々の認識、存在が縁起に基づいていること、
縁起によって三昧状態で観法を行うことで無我・空が悟れることなどが挙げられます。
>>531 そうです。いい答えですね。ありがとうございます。
>>532 そうです。そうです。まさにその通り。そして一切法以外はありえない。
>>536 ないない。あるというなら、典拠を示してください。
>>538 どうもすいません。これが精一杯です。
561 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:12:43 ID:5nYIhZhe
>>547 ありがとうございます。様はやめてください。つまらない野郎です。
仰る通りです。なにも付け加えることはありません。
562 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:15:09 ID:RVPUwxdW
>>552 のレスを読むとアートマン肯定派と言うのは、明治以降の日本仏教の一部という、
非常に限られた仏教徒達の間でのみ、信じられている特殊な例なわけだろ?
何がその論拠となっているのか、知らんが
アートマンを肯定する有力な資料の提示は今まであったのかい?
宝珠や在家が、いくつか提示してるみたいだが?
563 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:17:09 ID:5nYIhZhe
>>553 誤りを指摘していただけると嬉しいです。
>>555 それは涅槃とアートマンが同一だということですか?
それはないでしょう。
>>556 魔境ですか? あるといえばあるしないといえばないでしょうか?
564 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:20:42 ID:5nYIhZhe
>>557 いや、そういったアートマン見解だったことがオウムの誤りの主要な原因です。
縁起・空・無我を理解できなかったことです。
もう一つは、師を持たなかったこと、師を持たないから禅定体験を悟りを勘違いしてしまった。
まさに「四禅比丘」そのものです。
最後にサマヤの破壊があります。これが狂った原因だと思います。
565 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:26:32 ID:5nYIhZhe
>>562 真言宗の大日如来、アートマン解釈が先ず挙げられます。
チベットでは誤解とされる解釈です。チョナンの他空説もそうですが。
次に如来蔵が挙げられます。ですが、如来蔵も空です。
実相論の誤解が挙げられます。
最後に本覚論の誤解ですね。以上がおもなものだと思われます。
ですが、明治以降の仏教でもう一つの問題は断見や現状肯定説があります。
これはもっとも避けるべき誤解と思われます。
566 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:33:53 ID:lHXfsMHl
>>550 お坊さんがそんな説教をしても、一般人にはちんぷんかんぷん。少しも心を
打たない。日本の現代人も、世界の人々も、仏教にはそっぽを向くでしょう。
せいぜい、分った積りになったオウムが発生するだけ。
あなたにとっては、「世間は虚妄」なのですか。その根拠は?あなたも世間の
一人であり、世間によって生かされているのですよ。
もっと、人間性の洞察に基づく、生活に即した説教を心がけるべきでしょう。
あなたは、コテの通り、真言宗の方ですか。若しそうなら、あなたの見解は、
真言宗の代表的見解と考えてもよろしいか。
石飛先生にさかんに感心しておられるが、石飛先生は、女性の仏教学者ですか。
岩波仏教辞典の多数の執筆者の中には見当たらないが。
テーラーワダやチベット仏教に言及されるが、日本の大乗仏教については、どの
ような長所を認められるのか。
567 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:38:27 ID:RVPUwxdW
>>565 よくわからんが、それはいわゆる伝統仏教の中にも根強いアートマン肯定思想があり、その論拠も否定派は払拭しきれず、
未だ両論ともその是非の結論はでていない
こういうことか?
568 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 22:57:13 ID:5nYIhZhe
>>566 真言宗の代表的見解を述べているつもりはありません。
日本仏教の長所といえば弘法大師と本覚思想、禅文化でしょうか?
私がテーラワーダとチベットを挙げたのは小乗と大乗の両方で共通して認められるということを
示したかったからです。
石飛先生はそうです、女性の学者です。岩波仏教辞典が一流の学者が執筆していると思ったら大間違いだと思いますよ。
>>567 いえ、ただアートマン説の根拠とされるものを思いつくまま列挙しただけです。
569 :
旧7 :2009/06/21(日) 22:59:27 ID:y6P97XAf
>>562 Dhp.160 attA hi attano nAtho , kho hi nAtho paro siyA.
DN.16.35 tasmAt iha Ananda, attadIpA viharatha attasaraNA anaJJasaraNA,
もし、「 attan 」を「アートマン」とのみ読む(解す)のであるなら、
上記は明らかに『アートマンを肯定的に拠り所とすべきである』という文意となる。
>>567 漢訳中にも、「無我」でなく「非我」、「無常」でなく「非常」、と訳されているものは多い。(検索してみるとよくわかる)
が、(南伝北伝問わず)各種註釈による解釈・解説は、圧倒的に『無我』『アートマンは無い』というスタンスでなされている。
著名な漢訳経典の多くが「無我」を採用していることも影響しているだろう。
だから、主流・定説であるとは言える。しかし、それは、あくまでもメインストリームとしての歴史的解釈に過ぎず、
「アートマン」という語の定義次第では、(消去法で残るような形で)準肯定される可能性は消えていない。
或いは、「自己」の指示対象を換骨奪胎して捉えることもできる。
禅宗が、(意図的ではなく、結果的にではあろうが)、その手法でもって「己事究明」を成立させている。
しかしおそらく、宝珠氏やカラス氏の言う「アートマン」は、そのように換骨奪胎されたものであってはならないのだろう・・・。
570 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 23:01:59 ID:lHXfsMHl
>>568 >真言宗の代表的見解を述べているつもりはありません。
あなたが真言宗なら、ご自分の勝手な解釈ではなく、真言宗の代表的見
解を教えてください。
571 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 23:08:11 ID:5nYIhZhe
572 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 23:13:01 ID:lHXfsMHl
>>571 あなたも、自灯明を実行されているのですね?法灯明は、どうしました?w
573 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 23:16:11 ID:lHXfsMHl
>>571 真言宗なのに、自宗について語らないとは、あなたは一体どこの宗派?
オウムの関係者ですか。
574 :
旧7 :2009/06/21(日) 23:41:26 ID:y6P97XAf
>>573 縁あって真言宗の領域に身を置き、周囲との関係性から、そこを離れるわけにもいかないが、
自身の仏教理解としては「上座部」及び「中観」的なところを柱としている、
という事情かもしれないじゃん。別に追及することでもないと思うが?
(尤も、「そうした仏教理解」と「“伝統的”真言宗の教義」との間で、
どこに整合性が見られ、どこにズレがあるのか、は、ちょっと興味あるけどw
が、あまり突くと藪蛇なんで、この辺で・・・w)
特に2chは、(私の2ch評価でもあるが)、
≪「誰が言ったか」でなく「何が言われたか」が重要≫だと思ってるし。
おやすみ ノシ
575 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 00:04:38 ID:RVPUwxdW
>>569 解説 乙
上記二つの資料はダンマとディーガニカーヤだよね。
二つとも原始仏典と言われる比較的、釈迦の経説を忠実に伝えているのではないかと考えられている資料だろ?
俺はパーリはさっぱりだから、各語をどのように解すべきかわからんが
上記の様に解すなら、確かに、肯定論の有力な論拠となりそうだね。
しかし、メインが否定になっているのなら、当然それを上回る否定的資料があるのだろう。
「アートマン」の定義次第〜以下の論旨は残念ながら俺の現在の知識では理解不能だ
576 :
一在家 :2009/06/22(月) 00:12:27 ID:Buk4zcMo
真言殿、梵網経は方便ではないとのご見解をありがとうございます。 同じ長部経典の中にも、五百人前後の弟子に説いた経が多数あります。 三明まで至った弟子は晩年でも二桁程度で、第一義で説いたらかえって混乱させるのではと思量します。 第一義は菩薩向け、第四義は凡夫向けと、釈尊の対機説法は工夫されていたと存じます。
577 :
一在家 :2009/06/22(月) 00:24:19 ID:Buk4zcMo
仏教のメインストリームは北伝で、シナの坊さんの洗脳が有り得ます。 中村元氏はパーリはサンスクリットと同じ位古いとのこと。出処は後日アップします。 北伝と南伝とを読み比べると洗脳箇所候補が明確になります。
578 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 00:25:55 ID:rWpYBGJu
いい加減やめろよ!おまえだよ!お前!!わかんねーのか?!馬鹿ちょん!
579 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 00:32:11 ID:YOOc0TCl
真言宗の理解を書いてたところでそこに噛み付いてたろう。 「あなたは自宗の立場から一歩も出ることができないのかね」などと言ってな。
580 :
一在家 :2009/06/22(月) 00:34:49 ID:Buk4zcMo
エホバに会ったモーゼは炎のような光の中から声を聞いたそうです。 もし大日如来に遭遇したら同じような体験になるかと思います。 私は空海が天皇の御前にて全身から光を放ったという話は十分有り得ることだと存じます。
↓それを裏付ける、諸国の霊能ネタ貼り付け開始 まさかね。
582 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 01:08:16 ID:9SNv8kfC
全ての現象を空じ空じ空じ、しかし空じきれない現象が唯一あった。彼からは、光が泉の様に溢れ出していた。超越した存在。
>>580 > エホバに会ったモーゼは炎のような光の中から声を聞いたそうです。
>
> もし大日如来に遭遇したら同じような体験になるかと思います。
>
> 私は空海が天皇の御前にて全身から光を放ったという話は十分有り得ることだと存じます。
それ全てを疑うのが本当の宗教です。
584 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 08:15:39 ID:FvlQ3Jcs
>>517 真言氏
>SP とはスッタニパータですか? 普通は Sn. と略しますが。
★ まったくの素人なので大目にみてやってください。
>なんの異論もありませんが? まさに「一切は虚妄である」というのは
>幻であるということに他ならないでしょう。
★ その言葉を探したのですが、残念ながら中村訳には見当たりません。
SP3・12 二種の観察は、<識>の話であり、現実の話ではないようです。
現実を幻にする話ではありません。
ここに語られている話は縁起であり、心の執着を解決する方法でしょう。
執着は、現実を幻にしなくても、空観によって解決できる可能性があるのです。
さらに言えば、これは苦集滅道の集に当たる部分であり、
集には苦の原因と、苦の解決法(空観)が含意されていると思われます。
585 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 08:31:24 ID:sx3gJY1Q
>>554 >〔主張 自己はない〕
後にニカーヤ・サーンキャ学派が「主張 自己は無いのではない」
を論証していただろ。
自己は肯定的には語れない、はインド哲学の常識だからね。
仏教は無我を主張したから他の哲学・思想派はそれを否定する、
すなわち、自己を肯定する論証に苦労した。
これらは、たしか、石飛さんの本のなかに書いてあったことだと
記憶している。
586 :
宝珠愚者 :2009/06/22(月) 09:20:06 ID:cDg9i+aA
---真言さんへ
〜どうも、無知蒙昧にてスンマセン^^
『最初期の仏教が多く、「わがもの」という所有観念を捨てるべきことを教え、アートマン
に関しては、アートマンを愛し、護り、アートマンを実現すべきことを強調するのに対して、
散文の部分においては、むしろわれわれが対象的に把捉し得る何ものもアートマンでは
ない、ということを強調する。ところで散文の部分で強調されている思想を受けて、後世
になると遂に「アートマンは存在しない」という意味の無我説が確立するに至った。』
(中村元著『自我と無我』平楽寺書店刊)
中村氏の意見によれば、「アートマンは存在しない」という解釈は後世になってからとな
っています。実際、「アートマンは存在しない」と述べた経文は見当たらないようです。その
意図が形而上問題の議論を避けたいがためであったによ、「アートマンは存在しない」と
いう見解がゴータマの真意だった、とすることにはどうも疑問を感じます。
>>525 >アグッタラニカーヤT,p.149G.は他人は知らなくても自分は知っている
>ということでは問題ないと思います。
『悪い行いをする人にとっては、世間に秘密の場所というものは存在しない。人よ。真
実であるか虚偽であるかを、汝のアートマンが知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊
いアートマンを汝は軽視している。---自己のうちに悪があるのに自分らのために隠そう
とする汝は---。』(アグッタラニカーヤT,p.149G.)
587 :
宝珠愚者 :2009/06/22(月) 09:21:56 ID:cDg9i+aA
この経を、ただそのように平たく読んでしまっては意味がなくなると私は思います。これ は“悪しき行為を成して、更にそれを隠したがっている自己”と、もう一つの全てを知って いる“尊いアートマン”の二つの自己について述べています。これを勝手に、一つのただ いつも自覚している自己に過ぎないとしてしまうのはどうなのでしょうか?? >それ以下は涅槃ですね。アートマンとは言いません。 そうですね!涅槃でいいです。別にアートマンでなくても問題ありません。この私が問 題にしたいのは、ニルヴァーナは「恒常」「常住の世界」だということです。以前、真言さ んはこれを否定したものと思いましたが・・現在は如何ですか?認めますか? 重要なことは、ニルヴァーナまでも「無常」で「空」で「縁起」してるなどと思い違いしてい る仏教者が多いことです。この誤解は、「一切」が基本的には凡夫が住んでいるこの現 象世界のことを示しているものであるのに、“一切には例外がない”と見なしてしまうから です。もちろん、ただの凡夫には例外は起こらない。しかし、仏法によってそこから解脱 することが可能となって、初めて例外となる世界にて常住するのです。 『これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、 没することなき解脱の境地である。』(ウダーナヴァルガ26-29) これは、もちろんニルヴァーナを説いた経文ですが、ここで注目すべきは「一切の相が 滅びてなくなろうとも、没することがないのが解脱の境地」なのだと謳っていることです。 つまり、滅びる一切とは森羅万象の流転変滅する現象世界です。“解脱の境地”とはこ の一切外にあります。その理解が重要だと思います。
588 :
宝珠愚者 :2009/06/22(月) 09:23:16 ID:cDg9i+aA
つまり、私がこのスレで明らかにしたい1番目とは、ニルヴァーナは「恒常」「常住の世界」 であるということなのです。そして、ゴータマは「アートマンは存在しない」とは述べていない ということにあります。 アートマンが存在するかどうかは、その次の2番目としたいというのが私の本意です。ア ートマン否定派の見解は一切は縁起で成り立つのが仏教であるから、恒常のアートマン は否定されるというものです。しかし、元々アートマンはその一切外の存在であったらどう なりますか?ヒンドゥーの説くマーヤー(幻)の一切とはこの現象世界のことです。アートマ ンはマーヤー外にあります。 真言さんは別物といいましたが、一切は無常/空でもニルヴァーナが恒常であれば、そ れはヒンドゥーのマーヤーとアートマンの関係は、ただアプローチが違うだけで同じ状態を 示そうとしたものである可能性が在ることにはなりませんか?ヒンドゥーはマーヤーの理由 を神の力と説明した。仏教はただ至高神という概念を建てなかったので、現象の在り方そ のものを示して縁起として教えた。 もう一つの考え方としては、ヒンドゥーはアートマンを恒常の存在と定義しましたが、これ をゴータマは、「アートマンも縁起する存在である」と見なした可能性についてです。アート マンを縁起に含めると死と共に崩壊してしまうとみている人がいると思いますけれども、ア ートマン存在は肉体/五蘊とは異なり、その流転変滅の時間的なスパーンが永い。 因みに神智学の理解によれば、アートマンは最終的にはモナッド(真我)に吸収されます (即ち、輪廻/転生の終了です)。 以上、ただの個人的な意見でした。
589 :
一在家 :2009/06/22(月) 09:42:48 ID:vScBRUaM
伝統的な仏典の読み方を全く知らない一在家が、文献比較を行いました。 北伝の長阿含に無く南伝の長部経典にあるのは、神通力、梵天や神々や精霊 との詳細な対話内容です。 次にスッタニパータを鏡としてそれらの差異箇所を照らしますと、長部経典に 整合性が見られます。 更に大乗の中では古い法華経を鏡として照らしますと、神通力、常住論、 アートマン(仏性)が浮かび上がって参ります。 以上のプロセスを通して、私は中国の坊さん達のマインドコントロール(洗脳) 箇所をリストアップしております。
590 :
一在家 :2009/06/22(月) 09:44:23 ID:vScBRUaM
また同じ長部経典に含まれる経典同士でも文献比較をしております。 いつの時期に、誰に説いたのか、その時に同席者は誰か、を鏡として照らしますと サーリプッタと秘書(アーナンダ)に説いた経典と、比丘500人に説いた経典 と、バラモンやその弟子に説いた経典と、ある富豪にといた経典とは明確に区別して おります。 第一義〜第四義の対機説法の分類仮説立てになりますが、本来は一在家でなく 専門家が為すべき作業だとは認識しております。 しかし、専門家ほど伝統的な仏典解釈に固執して解脱は難しいであろうとは 推測致しますが。
591 :
一在家 :2009/06/22(月) 09:50:37 ID:vScBRUaM
霊界は極楽も地獄も常住します。仏の眼にはよく見えることでしょう。 ただし、魂の悟りが変化すれば自身の姿も周りの世界も一変すると 先人達の研究成果より伺っております。 そういう意味ではあの世も「縁起」しますね。 相は無常の常住の存在ってとこですか、法華経では。
592 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 09:52:20 ID:IrYvVDOM
ID:lHXfsMHlのヒステリーが見苦しい。 相手をするのは、本人の病を悪化させる原因になる。 以後スル〜推奨。
594 :
宝珠愚者 :2009/06/22(月) 09:58:48 ID:cDg9i+aA
595 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 10:00:10 ID:7WbAP3Nn
ニルバーナは無為法だから不変でしょう。でもニルバーナもむが。
釈迦は涅槃に関して全く解説していない、涅槃のことについて質問されると釈迦は深く沈黙してしまった
597 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 10:10:27 ID:zngAMkxs
598 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 10:20:26 ID:zngAMkxs
>>574 どもです。真言宗について語らないのは主に二つ理由があります。
まず、真言宗の代表的見解という問いが問題です。
真っ当な人なら、こんな宗派を代表する見解を問われて即答できるわけはありません。
第二に真言宗は密教なので、その見解を語るにはサマヤの問題が発生するからです。
密教を不特定多数の人に発信するのはサマヤを破る行為以外のなにものでもありません。
>≪「誰が言ったか」でなく「何が言われたか」が重要≫だと思ってるし。
ですよね。だから名無しがいいと思うんです。真言氏などと呼ばれるのはちょっと困るんです。
ああいった難詰もでてくるし。(^^)
599 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 10:23:12 ID:zngAMkxs
>>584 >★ その言葉を探したのですが、残念ながら中村訳には見当たりません。
9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
600 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 10:37:49 ID:zngAMkxs
>>584 >SP3・12 二種の観察は、<識>の話であり、現実の話ではないようです。
>現実を幻にする話ではありません。
すいません。独自の略号を使うのは誤解のもとですよ。略号は表記法が、あるていど決まってます。
『スッタニパータ』は偈頌番号で指示するのが常套なので3番と12番だと思いました。
三章12節というように書くか中村訳156頁以下と書いてくれれば分かりました
通常の略号では Sn.724ff. と表記するのが慣習です。
>ここに語られている話は縁起であり、心の執着を解決する方法でしょう。
>執着は、現実を幻にしなくても、空観によって解決できる可能性があるのです。
全くの誤解です。縁起観にしろ空観にしろ三昧という精神集中状態で行う必要があります。
三昧状態で三章12節のような縁起観を行っても唯の推論であり悟りや解脱には直接の効果はありません。
だから三昧を深める必要があるのです。根拠は長部経典のほとんどが禅定の後に縁起観を置いていることや、
律の大品で釈尊が悟る時、第四禅定に入った状態で縁起観を修めていることが直接の根拠です。
間接的にはテーラワーダ、チベット、シナ、日本の主要な伝統が三昧・止の前提での観を説いていることです。
>さらに言えば、これは苦集滅道の集に当たる部分であり、
>集には苦の原因と、苦の解決法(空観)が含意されていると思われます。
凡夫の日常的な意識で論理的に三章12節に説かれているような四諦を知的に理解して悟れますか?
それはあなた自身が直ぐ分かることだと思います。
601 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 11:20:18 ID:zngAMkxs
>>585 その通りです。ある形而上学をことにする体系では認められないということです。
ですが、仏教内では完全な論証といえるでしょう。
602 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 11:27:25 ID:zngAMkxs
>>586 この点も石飛先生の『龍樹と語れ!』225以下に明解です。前述の馬場さんの諸論文も合わせて読んでみてください。
>>587 常住論とは違うと思います。根拠は『梵網経』と『龍樹と語れ!』148以下です。
ここが重要です。なぜ、オウムが縁起を理解しなかったか、
いろいろな常住論が解脱に至らないと釈尊が明言されるかをお考えください。
私がここで発言する意味があるとしたら、宝珠さんがその違いに気づいてくださることだけです。
>>598 サンマやってあるときという意味ですよね
また、智慧ともつかわれたり、一という意味でも使われる多義語と記憶します。
仮時とか、一念三千とかとも関係あるのかしら
禅でも、ある人と面と向かってても、会っていないし
鐘の声を聞いたとき、それは生まれたときから聞こえていた音であるとか言いますよね。
ヒントなど教えてくれるとうれしいです。
604 :
一在家 :2009/06/22(月) 12:22:29 ID:/mFtfs0a
>一在家さんはパーリが原典で漢訳はパーリを訳したものと考えているようですが、 >違います。パーリは上座部の経典、漢訳アーガマは法蔵部、有部など異なる部派の経典が >それぞれ訳されて四アーガマ揃ったものです。原典が違うのです。 はい、違いを認識しております。 >その前に一在家さんは水野先生の『要語』と平川彰『インド仏教史』を読んだ方がいいでしょう。 はい、水野先生の『要語』は読みました。 平川先生の『インド仏教史』はまだ入手もしておりません。後日、入手します。 質問者が多い中、丁寧なご回答を有難うございます。>真言殿
>>600 >すいません。独自の略号を使うのは誤解のもとですよ。
★ 失礼しました。今回は誤解ないように二種の観察を書き添えました。
教えてもらった表記法は今後の引用で利用したいと思います。
仏典に関してはまったくの素人なので、大目に見てやってください。
>全くの誤解です。縁起観にしろ空観にしろ三昧という精神集中状態で行う必要があります。
★ これはどうでしょうか? 瞑想中に縁起や空を観じていたら瞑想が深まりません。
その瞑想は言葉の世界、つまり意識レベルであり、いつまでも言葉は滅しないでしょう。
>根拠は長部経典のほとんどが禅定の後に縁起観を置いている・・・・
★ これは経証であり、十分な根拠とは言えません。理証が必要です。
>凡夫の日常的な意識で論理的に三章12節に説かれているような四諦を知的に理解して悟れますか?
>それはあなた自身が直ぐ分かることだと思います。
★ 理解するのが最初でしょう。世尊は悟りが「期待される」と説き、悟れるとは言っていない。
この章の最後近くに、六十人の修行僧が解脱したと書かれています。
真言氏と言われるのが嫌なら、何かコテをつけたらどうでしょうか?
宝珠氏が真言さんと繰り返し書いているので真言というイメージが固定しています。
コテがあると見つけやすく、読みやすいのは確かですね。
>>599 >蛇の章にある、「世間における一切のものは虚妄である」
★ 真言氏はこの言葉を誤解しているように思いました。
ここに書かれている「一切のもの」とは、現実そのものを指しているのではなく、
意識に映じているものを言っています。それは前後の文章を読めば明らかです。
怒り、愛執、妄執、驕執・・・・・煩悩、妄執などの間にある句です。
蛇が脱皮する喩えがどうして使われているのでしょうか?
脱皮した後の<蛇>は虚妄ではないでしょう。
<抜け殻>が煩悩やら妄執やらであり、それが虚妄なのではないですか。
607 :
一在家 :2009/06/22(月) 12:50:05 ID:/mFtfs0a
>>597 >四悉檀の第一義悉檀は以下のように空による戯論の寂滅で
>一在家さんが執着している常住論ではありません。
法華経で菩薩に説かれたという「仏の眼より世界は常住」は第一義悉檀では
ありませんという、貴殿の見解を受理しました。
608 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 13:05:16 ID:7WbAP3Nn
常住なんてつまらないことにどうしてこだわるんだろ。 無常は生きてるそのこと、こんな安らぎはない。
609 :
一在家 :2009/06/22(月) 13:05:39 ID:/mFtfs0a
「方便品第二」では、これまで「常住不変のものは無い」と声聞、縁覚に 説いてこられた釈尊が一転して、菩薩には真実を告げると前置きします。 更に「実は世界も仏(神)も実相は常住不滅である」と 説き、弥勒菩薩ら 高弟でも愕然とした次第です。(如来寿量品第十六) 法華経だとそれ以前の説法の「無常」、「空」は第一義ではないとなり、 石飛先生『龍樹と語れ!』とも矛盾を生じますか。 この板では法華経はベストセラー小説だったので、整合を図る必要はない との見解が多いようですが、そのスタンスであればそうかも知れません。 またサーリプッタが外道の説いた常住論の理解が正しいと釈尊に保証されて 歓喜されたというのも不自然に思います。
610 :
一在家 :2009/06/22(月) 13:27:53 ID:/mFtfs0a
>宝珠殿 「自歓喜経」では、サーリプッタは釈尊の説法への理解を順番に表明し 最後に釈尊から理解が正しいと保証されて歓喜します。 今手許に文献が無くて(確か貴殿はコピー済みだと伺い)申し訳ございませんが 釈尊が説かれたという3つの常住論(またはその解説)の前の二つの説法と 後ろの二つの説法は何だったかアップしていただきたく。 それらの前後の計4つの説法の重要性を用いて、常住論の説法の位置付けを推論 致したく。 この前後のコンテクストを重視する手法は、この板で旧7氏より学びました。
611 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 14:12:50 ID:Buk4zcMo
)608 常住論よりも第一義がなんだったにこだわってるようだが。
612 :
一在家 :2009/06/22(月) 14:28:20 ID:/mFtfs0a
>611 無常が常識の北伝仏教に疑問を持ちましたね。 確かに顕在意識で感受される世界は無常でしょう。
613 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 15:21:43 ID:8GMnJV4u
>>598 >どもです。真言宗について語らないのは主に二つ理由があります。
>まず、真言宗の代表的見解という問いが問題です。
>真っ当な人なら、こんな宗派を代表する見解を問われて即答できるわけはありません。
>第二に真言宗は密教なので、その見解を語るにはサマヤの問題が発生するからです。
>密教を不特定多数の人に発信するのはサマヤを破る行為以外のなにものでもありません。
あなたは、さかんに見解を語られるが、それは真言宗のものではなく、あなた独自の
見解、即ち、あなたの「自灯明」であると解してもよろしいか。あなたが、法灯明に
優先する自灯明を、スレまで立てて非難されたこととは矛盾しますね。
614 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 15:22:47 ID:sx3gJY1Q
>>612 >確かに顕在意識で感受される世界は無常でしょう。
潜在であろうと顕在であろうと意識されればそれは意識に
変わりない。
無意識はどのようにしても感受されない。
もちろん無意識に身体は反応するけどね。
無意識は身体の内であり心(意識)の外だね。
心にとって神秘体験なんてものは無い。
ただ、無意識の身体行為があるだけ。
615 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 15:35:01 ID:8GMnJV4u
>>577 >仏教のメインストリームは北伝で、シナの坊さんの洗脳が有り得ます。
外部者から見れば、小乗による洗脳のほうがはるかに大きいと思えるが(オウ
ムやここの住民の圧倒的多数も小乗)、小乗による洗脳部分と原因も明らかに
してくださいね。
616 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 15:39:53 ID:8GMnJV4u
>>614 同意。無意識を意識すれば、それはもはや無意識ではない。従って、
無意識を語ることは無意味。ここに、フロイト先生のジレンマがある。
617 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 15:57:49 ID:sx3gJY1Q
>>601 >ですが、仏教内では完全な論証といえるでしょう。
いや、仏教内でも「自己はない」という命題は立てられない。
もちろん「自己はある」ともいえない。
「自己(アートマン)」は認識できないからあるとも無いともいえない。
もちろん私も仏教でアートマンとしての自己は必要ないことは認めている。
その代わり、現世以外の輪廻転生も成り立たない。
現世での輪廻転生は単なる心変わりだというのが私の解釈です。
これに近い考え方は釈迦がアーナンダに言っていたような記憶がある。
618 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 15:59:01 ID:GeBDddX6
>この誤解は、「一切」が基本的には凡夫が住んでいるこの現象世界のことを示しているものであるのに、“一切には例外がない”と見なしてしまうからです。 正しく“教証を無視して”「ありもしないもの」を説いている。 説かれていなくても恣意的に解釈するならば、教証は無意味になると以前にも言ったはず。 更に、対論者が同様の態度をとったとき批判する権利はない。 >この私が問題にしたいのは、ニルヴァーナは「恒常」「常住の世界」だということです。 『中部』72=『雑阿含』962を参考にすれば、薪に縁って火が起り、薪が尽きて火が滅するとき、 この火は何処の「世界」に有り、そしてどのように「常住」なのですか? ちなみに、これは「一切」と関連する問題です。
619 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 16:02:59 ID:sx3gJY1Q
>>616 >ここに、フロイト先生のジレンマがある。
フロイトは潜在意識とか前意識とか抑圧された意識とか
と無意識は分けていたような記憶がある。
もちろん無意識以外は意識しようとすれば意識できる
事柄でただ意識にあげることがなかっただけの状態だろう。
620 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 16:06:25 ID:8GMnJV4u
>>617 同意。自己を以って自己を知ることはできない。観察主体と観察対象
とが同一だから、初めから観察は成立せず、ナンセンスで不可能。
輪廻転生も、勿論虚妄。そもそも、輪廻転生で「脅迫」すること自体
が、最大の「悪事」であるからである。悪を以って善を説くことなど、
できる訳がなかろう。
621 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 16:18:26 ID:sx3gJY1Q
>>591 >相は無常の常住の存在ってとこ
「無常の常住」ってどういう状態だ?
「飛んでる矢はとまっている」というゼノンのパクリか?
622 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 16:28:47 ID:sx3gJY1Q
>>615 >(オウムやここの住民の圧倒的多数も小乗)
オウムや真言などは密教だろ。密教はヒンドゥー教化した仏教だね。
インドでは仏教はヒンドゥー教と習合して合併してしまった。
ゴータマ・ブッダもビシュヌの化身といわれる。
ヨーガや瞑想を取り入れてるのは仏教のヒンドクー化だね。
大乗でも如来蔵をとくのはもはや仏教ではないという批判がある。
623 :
一在家 :2009/06/22(月) 16:36:50 ID:vScBRUaM
>>615 あなたのおっしゃる通りです。
>仏教のメインストリームは北伝で、シナの坊さんの洗脳が有り得ます。
北伝は小乗も大乗も平等にシナの坊さんの洗脳が有り得ます。
長阿含では六神通が三明に減り、長部経典でなされた詳細な説明すら
全てカットされております。
龍樹、鳩摩羅什以降の誰がカットしたのでしょうか?
キリスト教では、ヨハネの福音書の作者、エイレナイオス、アタナシウスが
「イエス=神自身」という洗脳をかけているように認識しております。
中国の坊さんの正体をご存じの方はご紹介いただきたく。
624 :
一在家 :2009/06/22(月) 16:43:06 ID:vScBRUaM
>中国の坊さんの正体をご存じの方はご紹介いただきたく。 ・彼は当時の仏教界では指導者で皆から尊敬されていた ・六神通は不都合だからカットした ・「再び母胎に宿る」という輪廻の表現も不都合だからカットした ・「無常」と「空」をメインにしたかった まあ、そのような中国の坊さん候補をご存じの方は彼に灯明を あててみて下さい。
625 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 16:54:33 ID:sx3gJY1Q
>>589 >更に大乗の中では古い法華経を鏡として照らしますと、神通力、常住論、
>アートマン(仏性)が浮かび上がって参ります。
法華経のどこにアートマン(仏性)なんて書いてある。
仏(ブッダ)とアートマンは何の関係も無いだろ。
物性が物の性質なら、仏性は仏の性質、属性ではないか?
で、それは空だというのが法華経だろ。
「諸法実相は空」が法華経の立場だろ。
俺は仏性は仏になる可能性、仏の種子だね。
あれ、これも法華経にあったかな?
626 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 17:34:23 ID:sx3gJY1Q
>>596 >釈迦は涅槃に関して全く解説していない、涅槃のことについて質問されると釈迦は深く沈黙してしまった
これはどこから仕入れた知識だ?
涅槃(ニルバーナ)についての説明なら仏典にいくらでもあるだろ。
たとえば、「ダンマパダ第二十六章 ニルヴァーナ」など読んでごらん。
24 そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用も
なく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくし
はよく知っている。
25 来ることも無く、行くことも無く、生じることも無く、没することも無い。
住してとどまることも無く、依拠することも無い。−それが苦しみの終滅で
あると説かれる。
26 水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところーそこには白い光も輝かず、
暗黒も存在しない。
(中略)
29 これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びて
なくなり、没することなき解脱の境地である。
>>626 素晴らしい。まさにそれこそ解脱であり、涅槃ですね。
>>554 >石飛先生の『龍樹と語れ!』226頁以下で『方便心論』に基づいて以下のような無我論証がなされています。
>自己以下の自己とはアートマンです。
>〔主張 自己はない〕
>仮定 もし自己があるとするならば、無常であるか、または、恒常であるかどちらかである
>証明 もし無常であるならば、もろもろの出来事と同じく断滅してしまうものである
> もし恒常であるならば、まさしく涅槃そのものである
> 説明のために、この他に何がいるというのか。〔「自己」は不要である〕
>〔結論 それ故に、自己はない〕
★ この論証は誤り。聡明で涅槃を認めているのに結論でカットしている。
仏教で涅槃が語られるのは、世尊が涅槃を体験したからではないのか。
涅槃を認めないのであれば、仏教の体系から涅槃という言葉を消去すべきだろう。
世尊の悟りは涅槃体験であり、アートマン体験である。
(論証ではアートマンは涅槃そのものだと言っている・・・ほぼ正しい)
629 :
旧7 :2009/06/22(月) 18:24:02 ID:TLlt3hg2
だからぁw
誰かコレ↓に明快に答えろよ!
>>101 >「涅槃(nibbAna)」と同義の形で、(→「涅槃」の解説をする形で)、
>≪アートマンに気付くことが涅槃である。或いはアートマンが涅槃である。或いはアートマンとして存在することが涅槃である。≫
>等々という「明確な文言」が、或いは「文意」が仏典中から探せますか?
ったく、どいつもこいつもどいつもこいつもどいつもこいつも・・・・・・!
>>550 >私の解釈する仏教は、文字通り覚者の教えです。何から覚めたかというと世間の虚妄から覚めた。
>その覚めることによって、苦である輪廻から解脱して涅槃されたのが覚者である釈尊です。
★ 真言氏自身、人間は生きているうちに解脱できることを認めている。
そしてそれは涅槃体験であるとも認識している。
発言を首尾一貫するなら、石飛氏の論証の不備にも気づくべきではないのか。
・・・釈尊は「解脱して涅槃された覚者である」
631 :
旧7 :2009/06/22(月) 18:39:58 ID:TLlt3hg2
632 :
一在家 :2009/06/22(月) 18:40:56 ID:/mFtfs0a
>>625 >「諸法実相は空」が法華経の立場だろ。
法華経でも、これまで「常住不変のものは無い」と説いてこられた
釈尊が一転して、「実は世界も仏(神)も実相は常住不滅である」と
説き、弥勒菩薩ら高弟でも愕然とした次第です。(如来寿量品第十六)
少なくとも仏は常住ですが、仏も「空」でしょうか。
「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり
仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり
此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり迹門十四品には未だ之を説かず
法華経の内に於ても時機未熟の故なるか。」
>>550 >その教えは、縁起を根本とします。
>縁起とは「これあるとき、これあり、これなきとき、これなし」です。
★ 真言氏の縁起の理解はまったくの誤りである。
言っていることは正しいのだけど、それを誤って理解している。
氏は「これ」「これ」と語るが、その二つを具体的に語ることができない。
挙句の果てに、現実は幻であり、現実が幻なのは縁起が原理になっているなどと、
奇妙なことを言い出している。空と幻は異なった概念である。
634 :
一在家 :2009/06/22(月) 19:16:21 ID:vScBRUaM
>>631 >お前、真光は卒業したのか?
>流石に痺れが切れてきた・・。
よく我慢して下さりました。>旧7氏
お蔭様でフィルタがかからずに伝えることができました。
何回か前世の板で紹介しましたが私は真光の組み手(信者の意味に近い)
であり、原始仏教や原始キリスト教を独学で勉強している最中です。
教団代表ではありませんし、幹部でもありませんので、私の書き込みは
そういうスタンスだとご理解いただきたく。>各位
肉体を去った後の魂(アートマン)の事例は多数体験しておりますので
脳停止で意識も無くなるというご意見には賛同できないのでした。
636 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 19:23:17 ID:uyABb8pN
>>633 同意。「これ」「あれ」とは「代名詞」。基本的には、「現実界の具象物」を
指示する言葉。そこで、すでに「現実界」が前提になっている。
「幻」に向って「これ」「あれ」などと指示してみても、それも幻だから、
無意味である。
「これ」「あれ」は代名詞だから、相互に交換が可能である。従って、「あれ
あるとき、これあり」ともいえる。即ち「相互縁起」である。また、どのよう
な名詞(具象物)でも代入することができる。森羅万象のすべてを表わせる。
従って、縁起とは、「万物の相互依存性。関係性」の意味となる。万物は、
このようにして「関係性の塊」だから、「自性」はない。即ち「空」なのである。
>>550 >「これあるとき、これあり」は虚妄のありかた輪廻を説く場合にも用います。
>「これなきとき、これなし」は虚妄が止滅する真実・涅槃を説く場合にも用います。
>四諦の苦集が、集があるとき苦があるとなり、苦の原因が集となり虚妄のありかたを説いています。
>四諦の滅道が、道があるとき滅があるとなり、滅の原因が道となり涅槃への道を説いています。
★ ここの部分は真言氏の混乱が見られて興味深い。
通常、苦は生老病死であり、集は執着が苦の原因であると理解されている。
この執着を滅することで涅槃の境地に到るのが仏教である。
さてその方法として説かれている八正道は「正しい」を連発している。
このギャップに気づかないなら永遠に悟れないだろう。
八正道の「正」は縁起の「正」ではない。
真言氏は縁起の「正」だと思っているから、真言氏にはもともと八正道は不要である。
しかし縁起の「正」は相対的なものであり空である。
では縁起・空はどこに位置するのかという問題意識が生まれるはずである。
これがまともな思考ではないか。
638 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 19:32:39 ID:uyABb8pN
>>634 >私は真光の組み手
やっぱり、前レスでも言ったとおり、大本系のカルトだったのだな。
大本は西洋かぶれの出口王仁三郎が、浅薄にもキリスト教の影響を
受けて発生した、日本のカルトの源泉。ほとんどのカルトが、大本から
発生している。
在家氏の原始仏教への傾倒から、原始仏教とキリスト教との親和性も
証明している。
639 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 19:37:55 ID:sx3gJY1Q
>>632 >少なくとも仏は常住ですが、仏も「空」でしょうか。
当然、仏も空だね。何か問題あるの?
そういえば円空仏なんてのもあったかな?www
>>636 ご隠居のほうが真言氏より縁起・空の思想に近いと思う。
真言氏のように、この現実を世間虚仮といって幻にしたら、
縁起・空を誤解しているばかりでなく、この現実から生気がまったく失われ、
まるで絵に描いたような味気ない風景になるだろう。
641 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 19:45:54 ID:sx3gJY1Q
>>628 >(論証ではアートマンは涅槃そのものだと言っている・・・ほぼ正しい)
そんなばなな!
論証では自己が常住だとするならばそれは無為法だから無為法の涅槃と
同じになるだろ。しかし、涅槃は無我だから非自己である。よって
自己と非自己が同じことになるという論理矛盾に陥る。
よって論理矛盾する自己は存在することが不可能だ。
これが「自己はない」という証明の完成だね。
わかった?
龍樹の帰謬論証そのものだね。
642 :
旧7 :2009/06/22(月) 19:50:01 ID:TLlt3hg2
さて・・・。 また混ぜっ返してみようかw 日本語には「肝を冷やす」という言い方がある。 どうだろう。日本語を学ぶ外国人は、これが譬喩であることも同時に学ばねばならない。 これは、決して「肝臓が(或いは昔ながらに言う“きも”)が、実際に冷やされる」ことではない。 【肝が冷やされるような、それほど強烈な衝撃・恐ろしさ・驚き・不安等に襲われた】ことを意味するわけだ。 日本の文化の中で成育してきたなら、誰も、これを「【文字通り、字句通り】肝が冷えた」とは解さない。 【心理描写の一つ】と理解する。 (それとも、その時、実際に肝の温度は下がっているんだろうか・・・w) でだ。 ≪仏典の中には、この手の表現の仕方は無い≫、と断言できる猛者は誰か居るかな・・・? とw
643 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2009/06/22(月) 19:57:55 ID:IOHHX4Xj
>642 (^。^)そりゃぁ無いだろ♪ 五臓六腑はシナからだろ?(笑)
>>550 >そして道は、聞思修、戒定慧によって実践されます。
>聞は、教えを聞くことです。本を読むことでは達成できません。これは例えば『正法眼蔵』「四禅比丘」などに象徴的です。
>思は、聞いた教えをよく分析検討して考え、納得することです。
>修は、教えを実行し身口意に馴染ませ体得することです。
>戒は、悪いことをせず善いことを行い、意識の散乱を防ぐことが目的です。
>定は、禅定・三昧で要するに精神集中です。
>慧は、その精神集中状態、三昧中に縁起・空を観じることなどで、実体観を壊し、無我・空を体得することで出る智慧です。
>この智慧によって解脱し、涅槃に至ります。
★ 細かなことを言われても、日々生きるために働いている人々にはできない。
大乗は自利・利他というけど、利他の精神はどこに読み取ったら言いのか。
利他の精神はどこに位置づけられ、どんな実践をしているのだろうか。
信者の布施で生きているのに、自利であり自分のことばかりだ。
645 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 20:04:50 ID:guSbCPPc
真ひかりって、もしかして あの、街中とかで、よくやってる、手をかざして 魂を浄めますとか言ってるやつ? 在家って、あれの信者なの?
>>645 あとムー大陸とかレムリアとアトランティスとかを信じている。
ぐぐると大陸間のSFみたいな戦争話も語られていることもわかる。
ムー大陸以外の二つは神智学でも信じられている。
647 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 20:10:27 ID:uyABb8pN
>>645 その通りです。あるカルト問題の専門家(精神医学者)は、「最も危険
なカルト」だと言っている。出口王仁三郎の「大本」の系統です。
「手かざしで病気を直す」のは、聖書の猿真似です。
>>641 涅槃は無我だから非自己である、という主張はどこから出てきた?
論証にはなかったはずだけど。
それから一切法は一切ではないということを理解した?
夢・魔境・・・マナ識・アラヤ識が一切法から抜け落ちている。
>>550 >そして道は、聞思修、戒定慧によって実践されます。
★ やっぱし真言氏の道には八正道が消えていた!
縁起・空・幻では八正道の「正」が理解できない。そこで八正道に触れない。
>聞は、教えを聞くことです。本を読むことでは達成できません。
★ これは師匠を探し、師匠に手ほどきをうけよ、ということか。
しかし真言氏の場合は、師匠についても余り効果がなかったようですね。
>慧は、その精神集中状態、三昧中に縁起・空を観じることなどで、
>実体観を壊し、無我・空を体得することで出る智慧です。
>この智慧によって解脱し、涅槃に至ります。
★ この部分はまったくの誤りです。初心者は無視してください。
こじれているので、誤りを指摘するのがおっくうに感じる。スルーします。
>アートマンがあるという立場では、縁起・無我・空を体得できない・・・
★ これもまったく誤った主張です。
真言氏はまだ修行中の若いお坊さんなのでしょうか。そんな感じですね。
魔境体験など、したことはないでしょう?
650 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 20:51:04 ID:sx3gJY1Q
>>648 >それから一切法は一切ではないということを理解した?
そうだね。
一切法は「すべての法=諸法(もろもろの法)」であり、一切は単に「すべて」
ということだからね。
ところでこの「法」というのはどういうことかわかってるのかな?
たぶんわからないか誤解したままで言ってるね。だから・・・
>夢・魔境・・・マナ識・アラヤ識が一切法から抜け落ちている。
なんて間抜けなことを言う。
まず、マナ識・アラヤ識は唯識の五位百法では有為法の心王に分類されてる。
アビダルマでは心王の中を分類してないから分類すれば心王とするだろう。
夢・魔境はなぜ「法」でないか?他の基本法の組み合わせで示せるからだろ。
「法」は概念を構成するための基本要素すなわち物質の原子に相当する物事だ。
個人=五蘊「色・受・想・行・識」の五個の要素が『法』になる。一切法は
これを展開したのに過ぎない。
ただ、概念展開するには「オッカムのかみそり」という約束がある。
必要最小限の展開にとどめるということだね。
>>650 法は言葉で把握された領域である。つまり意識のレベルだね。
したがってマナ識・アラヤ識という領域は分類の対象外にならざるを得ない。
意識されてない無意識をどうやって分類するのか? できないだろ。
652 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 21:20:16 ID:sx3gJY1Q
>>651 >したがってマナ識・アラヤ識という領域は分類の対象外にならざるを得ない。
いや、マナ識は現在で言う自我意識=「俺は俺だ」と俺が思ってる、ということだから
誰でも意識できる。無意識ではない。
アラヤ識は記憶のことだからこれも誰でも記憶喪失にならない限り意識できる。
これも無意識ではない。
よってすべて認識の対象でありそれによって名前が与えらる。「唯識」に間違いは無い。
653 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 21:26:59 ID:pzlz9ioQ
ID:KEW5PRLzの混乱ぶりはどうだ・・・。 隠居よりひどい。
654 :
一在家 :2009/06/22(月) 21:37:50 ID:/mFtfs0a
>>645-647 皆さんの書き込みを読みまして、旧7氏のぎりぎりの我慢に感謝した
次第です。
655 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 21:45:29 ID:guSbCPPc
神智学徒に真ひかりか このスレでアートマンを肯定している仏教徒っているの?
656 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 21:45:37 ID:sx3gJY1Q
>>629 >「涅槃(nibbAna)」と同義の形で、(→「涅槃」の解説をする形で)、
>≪アートマンに気付くことが涅槃である。或いはアートマンが涅槃である。或いはアートマンとして存在することが涅槃である。≫
>等々という「明確な文言」が、或いは「文意」が仏典中から探せますか?
そんなばなな!
>>641 によって仏教では「自己は無い」ことが論証された。
だから、仏典からそんな文言拾い出すのは「兎に角」「空中の華」や
「亀の毛」をさがすようなものだろ。
俺はやらない。www
658 :
一在家 :2009/06/22(月) 22:31:50 ID:vScBRUaM
>>657 >仏教徒では、いないな。
末法の世ではなく、正法が説かれていた時代はどうだったのでしょうか。
原始仏典で度々説かれていた「再び母胎に宿る存在」は何だったのでしょうか。
659 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 22:43:57 ID:zngAMkxs
>>658 アートマンと言う仏教徒はいなかったでしょうね。
少なくともそういう文献は発見されていないようです。
そして、そのような教えを伝える伝統も見あたりません。
それに、インドの他宗教はアートマンをないとする仏教を批判しています。
一在家さんの態度は立派ですが、自分の信仰を仏教に投影するのはやめていただきたいと思います。
仏教を学ぶには、まずそのアートマン信仰を捨てないと無理だと思いますよん。
660 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 22:48:44 ID:zngAMkxs
>>617 いえいえ、仏教では「ない」と言えるんです。
なぜなら、「生じる性質のものは、滅するもの」だからです。
この存在論、あるいは形而上学的前提に立つなら「ない」は発言可能なんです。
「ある」だけしか論証できない西洋の存在論とは違うのです。
661 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 22:53:41 ID:zngAMkxs
662 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 22:58:22 ID:6jEx075u
>>550 >そして道は、聞思修、戒定慧によって実践されます。
★ これは実に傑作。四諦から八正道を消してしまった!
真言氏に限らず、いまの仏教界はこういった状況にあるのだろうと推測した。
理由は簡単である。縁起・空からは絶対的な「正」が導けないからだ。
ここからつぎのようなことが言える。
もともとの仏教は、縁起・空だけでなく、八正道という別の教義が存在した。
しかしそれが、いつのまにやら忘れられてしまったのだ。
なまぐさ坊主には煙ったい教えなのかもしれない。
663 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 23:00:12 ID:zngAMkxs
>>605 >>全くの誤解です。縁起観にしろ空観にしろ三昧という精神集中状態で行う必要があります。
>★ これはどうでしょうか? 瞑想中に縁起や空を観じていたら瞑想が深まりません。
>その瞑想は言葉の世界、つまり意識レベルであり、いつまでも言葉は滅しないでしょう。
誤解です。その考え方ですと無色界の三昧を悟りと勘違いするパターンです。
『梵網経』で外道が三昧体験と推論で、その境地を勘違いしていると明言されているでしょう。
解脱・涅槃に至らないと。
>>それはあなた自身が直ぐ分かることだと思います。
>★ 理解するのが最初でしょう。世尊は悟りが「期待される」と説き、悟れるとは言っていない。
>この章の最後近くに、六十人の修行僧が解脱したと書かれています。
それは修行僧が、三昧の境地に達していたのだと思います。
あなたは読んで解脱しましたか?
664 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 23:05:32 ID:GeBDddX6
『相応部』1.3.5(中村訳p40)
〔尊師いわく、――〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
『わたしが語る』と言っても良いでしょう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』といってもよいでしょう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。」
以上に拠り、釈尊が、我や我所について言説するならば、それは「言語表現だけのもの」です。
>>618 補足。
「火」は、ニルヴァーナ(吹き消すこと、吹き消されている状態)絡みです。煩悩の「火」を吹き消すことがニルヴァーナなのですから(『要語』p153参照)。
606 :神も仏も名無しさん:2009/06/22(月) 12:46:09 ID:7BMkYQVC
>>599 >蛇の章にある、「世間における一切のものは虚妄である」
★ 真言氏はこの言葉を誤解しているように思いました。
ここに書かれている「一切のもの」とは、現実そのものを指しているのではなく、
意識に映じているものを言っています。それは前後の文章を読めば明らかです。
怒り、愛執、妄執、驕執・・・・・煩悩、妄執などの間にある句です。
蛇が脱皮する喩えがどうして使われているのでしょうか?
脱皮した後の<蛇>は虚妄ではないでしょう。
<抜け殻>が煩悩やら妄執やらであり、それが虚妄なのではないですか。
仏陀がしかぶった
667 :
神も仏も名無しさん :2009/06/22(月) 23:08:53 ID:zngAMkxs
>>661 失礼しました。同じ方ですね。
>>606 >★ 真言氏はこの言葉を誤解しているように思いました。
>ここに書かれている「一切のもの」とは、現実そのものを指しているのではなく、
>意識に映じているものを言っています。それは前後の文章を読めば明らかです。
>怒り、愛執、妄執、驕執・・・・・煩悩、妄執などの間にある句です。
意識に映るものが現実ですよ。それが縁起です。外界に固定の実在があったら縁起でもなんでもありません。
だから、一切は虚妄なんです。つまり幻なんです。仏教は一貫して現れを幻とみます。
釈尊の一切が何を示すかは、もう何度も出てきていて明らかでしょう。
あなたのようには読めません。
668 :
旧7 :2009/06/22(月) 23:13:23 ID:TLlt3hg2
>>662 >★ これは実に傑作。四諦から八正道を消してしまった!
馬鹿か?
八正道を一つ一つ挙げてみ?w
ついでに、水野要語のp.187も見ておけw
>>662 > 理由は簡単である。縁起・空からは絶対的な「正」が導けないからだ。
根拠なく断定。
> ここからつぎのようなことが言える。
根拠のないことを「前提」に格上げして先に進む。
> もともとの仏教は、縁起・空だけでなく、八正道という別の教義が存在した。
> しかしそれが、いつのまにやら忘れられてしまったのだ。
最早ファンタジー♪
> なまぐさ坊主には煙ったい教えなのかもしれない。
ここでは既にファンタジーが「前提」になっている。
伝統宗教のネタの再利用は新興宗教の十八番じゃない。 有名税みたいなもんだ。
672 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 00:08:29 ID:UzFiUj9R
>>671 伝統宗教自体が、充分にカルト。キリスト教ほどのカルトがほかにあるかね。
原始仏教も同様だな。このスレが証明している。
大乗もさして改善されていないことは
>>635 が証明している。
674 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 00:46:04 ID:v9J7p4MF
なら、もう結論としていいんじゃないか? アートマンを肯定する「仏教徒」はいないんだから、 少なくとも、仏教においてはアートマンなどは認めない。 神智学徒と真ひかりさんは自己の信仰に説得力を持たせるため、仏教の経説の 援護を求めているみたいだがな。 縁起、空観など仏教の根幹思想にテーマを移しては?
第一義やら第三義だからどうのという話は残ってたな。 終わってたっけ?
676 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 01:08:37 ID:GbRa0SDh
>>672 現在の日本で、小乗(原始仏教)をやってる仏教の宗派は、オウム以外には
どこですか。
677 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 08:06:51 ID:RnIi1x81
>>634 >脳停止で意識も無くなるというご意見には賛同できないのでした。
脳停止というのがどういう定義なのかわからないが、いわゆる植物
人間状態では意識は無いなんて人は誰もいない。
意識不明だというだけ。無意識の身体動作はしている。
もちろん死亡した人にも意識があるという人もいないだろ。
霊魂や永遠の命などの形而上学概念を信じるのとは別のことだね。
678 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 08:40:43 ID:BHl7pYx/
脊髄反射で嫌みを書いても意味はないよ。隠居。
679 :
一在家 :2009/06/23(火) 08:40:51 ID:9xvbrxB2
>>659 大変、丁寧なコメントを有難うございます。
「真光」だ、「神智」だ、「真言」だと名称で決め付けられる
方がこの板でも散見されますが、それぞれその団体の代表者
でもなく、ただ視点は異なるであろうということは分ります。
また自称仏教徒の各位が、釈尊の教えを正しく伝え、正しく
聞き、正しく理解して、正しく実践すれば、現代は末法でも
像法でもなく、正法の世かと存じます。
また法華経の方便品ですが、真理は一つだが相手の機根に応じて
複数に説き分けてきたという釈尊の説法の記載も参考になります。
「真光」では「神は光なり」の教えのもとに手かざしをしますし、
手かざしにより浮いてきた憑依霊から言葉や指文字でメッセージを
受けることが毎日のように各地の道場で起こっております。
(なお、街頭で立ったまま手をかざすのは別の団体です。)
「魂」は仏教ではアートマンかなと認識しておりますが、生成と
消滅はあることを聞いておりますので、肉体とは寿命が著しく
異なりますが「不滅」だとの発言はこの板でしておりません。
680 :
暁 :2009/06/23(火) 08:42:03 ID:TWJXb61d
そういや昔、退職金すべて真光さんにお布施した公務員の おっさんに手翳ししてもらったことあるよ。 行きつけの喫茶店で「頭痛い」てマスターに言ってたら 隣に居たそのおっさんが得意顔でやってくれた。 治ったかって? 勿論治ったよ。 バファリン飲んだけどな。
681 :
一在家 :2009/06/23(火) 08:45:23 ID:9xvbrxB2
>>677 脳停止ではなく、正確には死亡判断に利用される「脳死」の
ことです。
私の説明が不十分で、色々と考察いただきまして恐縮です。
日本でも小児で23例でしたか、脳死から生き返っております。
最近の数年間でです。
この板で医師の方がおられますが、よくご存じかと推察します。
682 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 09:03:25 ID:RnIi1x81
>>636 >従って、縁起とは、「万物の相互依存性。関係性」の意味となる。万物は、
>このようにして「関係性の塊」だから、「自性」はない。即ち「空」なのである。
縁起の理法は物理学の法則ではない。だからその対象は「万物」ではなく「一切法」
だね。「法」の中には「無明」のような心理概念も含まれる。
縁起として知られる12支縁起の各支項目を見ても「万物の関係性」なんかじゃない
ことは明白だろ。
ちなみに言うまでも無く12支縁起は
・無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死
およびその逆観である。どこに物があるか?せいぜい名色の色だけだろ。
縁起は万法の相互依存性だね。わざわざ関係性という必要はない。
関係というのはあいまいな言葉だから。
三角関係も有れば不倫関係もある。www
683 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 09:03:39 ID:BHl7pYx/
手垢のついた「失われた大陸」を信じているなら レッテルを貼られるのはある意味避けられないことだ。 キリスト教徒でも地球の年齢が6000年などと 言えば理性を働かせてながらやりとりしているのか怪しく見える。
684 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 09:09:14 ID:RnIi1x81
>>681 >日本でも小児で23例でしたか、脳死から生き返っております。
>最近の数年間でです。
生き返ってるなら脳死じゃないですよ。
脳死は生き返らない。
脳死の判定が難しいことは確かだね。
脳死の間違った判定はそのまま「死」に結びつくからね。
685 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 09:30:37 ID:9vlidEZK
>>610 一在家さん-すみません m(__)m
コピーしたのは冒頭部分の「サーリプッタの表明」、
そして議論に上げられた「常住論」の部分、
締めくくり部分の「ブッダの応答」と「ウダーイとブッダ」だけです。
長部の『自歓喜経』が取り上げている話題は、常住論の他としては、
三十七菩提分法、十二処、入胎、読心術、四段階の瞑想などがあります。
真言氏からは、パーリ五部経典から漢訳されたのが漢訳四阿含というわけではない、
という説明がありましたが、実際、長部経典(パーリ和訳)の『自歓喜経』(サンパサー
ニーヤ)と漢訳長阿含経とでは全く違っていました。漢訳側は真言氏のいわれる通りに、
常住論とは外道の説く話のことでした。しかし、長部経典の側はどう読んでもゴータマが
正しい常住論を説いたことになっていました。一在家さんの指摘の通り、少なくとも受け
手側の理解としては・・。
果たして、どちら側が歪曲してしまった経なのでしょうかね??
686 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 09:33:17 ID:9vlidEZK
>>661 横レスで失礼します。
これは、ニルヴァーナ以外(含めず)の一切です。
「世間における一切のものは虚妄である」ということで、
これは一切とはいっても“世間における”ものという限定付です。
ところで、やはり・・
実際、「真言」氏との呼称は私が始めたものではありませんが、
とにかく、あまり宜しくないようですね。申し訳ありません。
しかし、伝統仏教の教えに詳しい方として、
皆さんからの質問が集中的に多く寄せられることも当然と思います。
できれば便宜をはかって、やはり何か、
コテハンを使われると会話が(互いに)スムーズになると思います。
687 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 09:36:19 ID:9vlidEZK
>>626 >たとえば、「ダンマパダ第二十六章 ニルヴァーナ」など読んでごらん。
「ウダーナヴァルガ」(感興のことば)の間違いかと思います。
>>674 >神智学徒と真ひかりさんは自己の信仰に説得力を持たせるため、
>仏教の経説の援護を求めているみたいだがな。
正直いって、
この私は何も困ってなどはいません(仏典の権威など必要としていない)。
ただ仏教界(広義の意味で)はこのままでいいのか?
と、疑問を提示してるのですよ!
688 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 09:45:11 ID:9vlidEZK
>>618 >正しく“教証を無視して”「ありもしないもの」を説いている。
>説かれていなくても恣意的に解釈するならば、
>教証は無意味になると以前にも言ったはず。
>更に、対論者が同様の態度をとったとき批判する権利はない。
〜文意を理解するならば、
「没することなき」(ウダーナヴァルガ26-29)といっているのですから、当然、これは恒常
であり、ホトケとはそこに常住する存在だということになるでしょう。それが仏陀(解脱者)と
いうものです。「最上の究極であり、無上の静けさの境地」といってるのです。
「一切の相が滅びても没することがない」というのですから、これは無常なる世界の一切
外のことですよ。中村氏なんかは、ちゃんとそう解しているではありませんか!ニルヴァー
ナとは「不死の境地」であり、「没することのない所」と同義であり、「常住の場所」「常恒の場
所」の世界のことであると。
私個人なんかの妄想ではありませんね。
『生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(クニ)におも
むく。そこに至れば、憂えることがない。(ダンマパダ225)
訳注:不死の境地---accutam tha^nam.直訳すれば「没することのない所」。accutan
ti sassatam tha^nan ti akuppattha^nam dhuvattha^nam.(Comm.vol.V,p.321.)けっきょく
ニルヴァーナのことであるが、「常住の場所」「常恒の場所」と解していることに注意。』
(中村 元訳)
689 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 09:46:07 ID:9vlidEZK
>この火は何処の「世界」に有り、そしてどのように「常住」なのですか?
>ちなみに、これは「一切」と関連する問題です。
物質現象の「火」と比較されても困ります。
ニルヴァーナはそこ(物質界の制約)から解脱した世界です。
>>664 >煩悩の「火」を吹き消すことがニルヴァーナなのですから(『要語』p153参照)。
これは「火」(物理現象)を使った喩えに過ぎません。
690 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 09:55:04 ID:9vlidEZK
私はおそらく・・仏教界(伝統仏教)は、 トラウマ的に「常住」「常住」という表現にアレルギーになっているのではないかと推測します。 「アートマン」というのも拒絶されており、つまり、タブー視されているということかと。
691 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 09:59:07 ID:dW4Kb8xE
>>685 >常住論とは外道の説く話のことでした。しかし、長部経典の側はどう読んでもゴータマが
>正しい常住論を説いたことになっていました。一在家さんの指摘の通り、少なくとも受け
>手側の理解としては・・。
いえ、同じことです。『梵網経』で釈尊が説かれた常住論の類型を正しく説いたこと、
それを『自歓喜経』でサーリプッタ長老が再説した。それを釈尊がサーリプッタ長老は、
正しく私の説いた常住論を説いたということで、もちろん仏教者は常住論などとりません。
そのことは『自歓喜経』と『梵網経』を合わせて読めば明らかです。
それは
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/15.html にあるように
>『自歓喜経』アッタカター
>この第三の常住論とは、[シャーリプトラ]長老は[三昧で]得た力で三つの常住論について述べた。
>世尊はさらに推論も把握して『梵網経』で四つと仰った。さらにそれら[常住論]を超えた[縁起]
>詳細な論は『梵網経』で、説かれた論理のように述べられた。
でも支持され、漢訳の原典では誤解ないように外道と明示した伝承を伝えているということです。
問題は、なにか常住な実体があるはずだとする読み手側の前提にあるだけです。
そんなものは、なく縁起だけであるとするのが仏教の伝統です。
692 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 10:03:01 ID:dW4Kb8xE
>>688 ウダーナヴァルガ26-29は、時間があるときにきっちりと註釈や、
類似表現を検討してみます。今はちょっと十分検討する時間がとれないので保留しときます。
693 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 10:19:44 ID:9vlidEZK
>>691 であれば、確かに話としては整合性はありますが・・。
>漢訳の原典では誤解ないように外道と明示した伝承を伝えているということです。
では、パーリ経側は製作者がミスったということでしょうかね。
或いは、単に訳者に拠る誤訳ということになります。
(訳者名--出し難くなりましたw)
仮にもしも、読み手(私や一在家さん)の問題でしかないのだとするならば、
この経はあまりに誤解を招く文章です(改訂を希望します)。
>>692 すみませんが、宜しくお願いします。
694 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 10:20:27 ID:dW4Kb8xE
>>690 トラウマではなく常住やアートマンという見解では解脱できないということです。
それがハッキリと『梵網経』に説かれています。
何故、解脱できないかというとただの精神集中状態を常住やアートマンとするだけだからです。
解脱には集中状態での縁起観などによる無我・空の智慧が必要であるとするのが仏教だからです。
釈尊はさまざまな精神集中状態、現象が消えて微細な意識活動も消えていく状態を経験し、
それを欲界、色界、無色界に分類しました。
精神集中状態が高いのは無色界ですが、そこでは意識活動もほとんどないため縁起観などができません。
だから、縁起観に適切な精神集中状態は第四禅定と言われるのです。
現象がほとんど消失し、意識の働きもあって縁起観が可能だからです。
だから、長部経典や大品などさまざまな経典で釈尊は第四禅定で縁起を観じて悟ったと言うのです。
そして釈尊も教えとして待機説法としての導入の後で、必ず戒・定の後に縁起を説かれているでしょう。
そしてサーリプッタ長老が縁起法頌を聞いただけで悟ったというのも、精神集中状態が修行されていたからです。
そのような集中状態でなく散乱した状態で縁起を聞いても、そんなことは分かってるぐらいにしか思わないでしょう。
アーナンダ長老が釈尊に縁起は深いと言われますが、私には単純なことに思えますといって、
釈尊がそう言ってはならないとたしなめられたことにもそれが現れています。
縁起の深い門に入ってきてください。ずっと招いているのですが、どうも嫌われいるようですね。(^^)
もともと釈迦はものの見方をいっているのであって、 常見・つまり魂というものが単純に輪廻しているのでなく、 縁起している、因縁によっている、ゆえに空であるという ことではないでしょうか。当然断見、死んだら終わりというのも 空からみても間違いであり、幽霊になったら分かるのであります。
696 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 10:29:29 ID:kqF1ormS
>>682 それは、初期仏教、部派仏教での、手垢の付いた古い縁起説。現代人に
とっては、ちっともピンと来ない。大乗仏教における仏教哲学の最新の
進歩もフォローしてください。
現代に通用しない、「化石の仏教」など、いくら追求しても、無意味・
無価値。時間の浪費です。
新興宗教はできそこないばかりじゃないか。 アホ草。
698 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 10:36:04 ID:dW4Kb8xE
>>693 誤訳ではありません。パーリの編集の問題でもありません。
そういう伝承なのです。教えというのは読むものではなく本来、聞くものですから。
伝承に手を入れることはあり得ません。
教えの時に補足して誤解を解くのです。
読むという行為は、結構、訓練しないと正確に読めないものです。
長年、 読むということを続けてきて分かったのは、読めてないということが分かるというのが重要だということ。
結構、読めてないのが分からないというのは自分ではなかなか気がつかないものです。
699 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 10:39:22 ID:9vlidEZK
>>690 訂正
×トラウマ的に「常住」「常住」
○トラウマ的に「常恒」「常住」
>>694 >ずっと招いているのですが、どうも嫌われいるようですね。(^^)
無知だからですよ-すみません!
自分の浅学な仏教理解では、なかなか思うように答弁できないのですが・・。
あっ、真言さん。
いやいや・・あなたのことは好きです ☆彡
いつも勉強になっています。心から敬意に値いします m(__)m
700 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 10:41:46 ID:dW4Kb8xE
>>695 >もともと釈迦はものの見方をいっているのであって、
縁起とは認識論であって実在論ではないという意味なら、そういうことだと思います。
>常見・つまり魂というものが単純に輪廻しているのでなく、
>縁起している、因縁によっている、ゆえに空であるという
>ことではないでしょうか。当然断見、死んだら終わりというのも
>空からみても間違いであり、幽霊になったら分かるのであります。
そうです。ただ幽霊になったら分かるのではなく、縁起を受け入れるなら、
死んだら終わりという考えは受け入れられないはずです。
なぜなら、縁起は解脱するまで断たれない、中断することがないからです。
原因には結果があり、現在の行為は必ず結果として縁起するからです。
701 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 10:48:04 ID:kqF1ormS
>>697 >新興宗教はできそこないばかりじゃないか
新興宗教にできそこないが多いのは、「できそこないの伝統宗教」を
ひたすら真似てるからですよ。
702 :
一在家 :2009/06/23(火) 10:48:16 ID:9xvbrxB2
>>685 宝珠氏
>コピーしたのは冒頭部分の「サーリプッタの表明」、
>そして議論に上げられた「常住論」の部分、
早速のご回答を有難うございました。
あの経典は貴兄が手許に置かれたら、大層役立つことと思料しておりました。
また、週末に実家で長部経典にて、常住論の前後のコンテクストを調べて
おきます。
703 :
一在家 :2009/06/23(火) 10:50:47 ID:9xvbrxB2
>>691 無ハンドルですが、真言氏?
>いえ、同じことです。『梵網経』で釈尊が説かれた常住論の類型を正しく説いたこと、
>それを『自歓喜経』でサーリプッタ長老が再説した。それを釈尊がサーリプッタ長老は、
>正しく私の説いた常住論を説いたということで、もちろん仏教者は常住論などとりません。
失礼ですが貴兄は長部経典の『梵網経』を読まれましたか?
ディーガニカーヤの『梵網経』で説かれた常住論は3つではなく、6つか、
もっと数が多いですよ。
更にそれらと、『自歓喜経』で説かれた常住論とはあまり一致しておりません。
因って、『梵網経』で釈尊が説かれた常住論と『自歓喜経』で説かれた3つの常住論と、
釈尊がベスト1と保証された常住論との違いを、また週末に調べておきます。
あくまで文献研究のスタンスにて。
704 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 11:07:23 ID:9vlidEZK
>>694 >アーナンダ長老が釈尊に縁起は深いと言われますが、私には単純なことに思えますといって、
>釈尊がそう言ってはならないとたしなめられたことにもそれが現れています。
私も書物を読む程度でイイと思っていましたが・・
そのことですね!この指摘はw
>だから、縁起観に適切な精神集中状態は第四禅定と言われるのです。
>現象がほとんど消失し、意識の働きもあって縁起観が可能だからです。
定に入って縁起観をしなければならない、というのは?
つまり、これは要するにそのときに何かが起こるということですか?
例えば、宿命智通のような体験によって全ての縁起を知る(体感する)と?
「ディーガ・ニカーヤ2:93〜94/出家の功徳」のようなことです。
『(93)また、心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は過去の生存の境涯を想起する
知(宿住通)に、心を傾け、心を向けます。彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。すな
わち、ひとつの生涯、二つ、三つ、四つ、五つ、十、二十、三十、四十、五十、百、千、一万の生涯
を想起します。そしてそれは幾多の生成の宇宙期(成劫)、幾多の壊滅の宇宙期(壊劫)、幾多の
生成・壊滅を含む宇宙期を(通して)想起します。「あのときの生存において、自分の名まえはこう
であった。家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、こんな幸福や不幸を体験し、これこれの
年齢まで生きた。そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、そこでも同じように、自分
はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、これこれの幸福や不幸を体験し、こ
れこれの年齢まで生きた。そしてその世から今のこの世に生まれ変わってきたのだ」というように、
具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します・・・。』
705 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 11:13:21 ID:dW4Kb8xE
>>703 >
>失礼ですが貴兄は長部経典の『梵網経』を読まれましたか?
>ディーガニカーヤの『梵網経』で説かれた常住論は3つではなく、6つか、
>もっと数が多いですよ。
>更にそれらと、『自歓喜経』で説かれた常住論とはあまり一致しておりません。
もちろんです。なんども読みましたよ。パーリ、漢、蔵も見ました。
基本形は禅定による三パターンと推論による一つの四パターンです。
この四パターンが組み合わせとによって、以下のように説かれるだけです。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html > 1.四常住論(我と世界が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論)
> 2.四つの一部常住論(我と世界の一部が常住であるという三つの禅定体験と一つの推論)
> 3.四有限無限論(世界が有限無限であるという三つの禅定体験と一つの推論)
ですから、四つというアッタカターになにも問題はありません。
706 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 11:21:55 ID:dW4Kb8xE
>>704 神通好きですね。縁起観で行うのは「これあればこれあり、これなくばこれなし」です。
具体的にいうと十二縁起です。これで生起と消滅を観じるのです。
特に「これなくばこれなし」の方が消滅で、こちらが解脱の道であり、
戯論寂滅の道で、無我・空を悟るということだというのが私の理解です。
神通は、精神集中状態で出てくるので、そのような体験を悟りと勘違いするなというのが、
『梵網経』の主要な教えだと考えています。
それから経典論書で、天界が説かれるのも同じことで、三昧中にそのような体験しても
悟りではないからという地図、道しるべの役割だというのが伝統説です。
ちゃんと意味があるんです。
707 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 11:56:38 ID:P9mWHLyq
★ 再び空海の「谷響きを惜しまず 明星来影す」 ご隠居はこれを大自然に対する感動であると皮相的に評していた。 しかし真言氏は、この大自然を<幻>と解し、大自然を消そうと考えている。 両者を比較したとき、意外にも、ご隠居の健全さが明らかになった。 空海は悟りを得た後、広々とした空と海を眺めて空海を名乗ったという。 しかし自分の宗派の末に、この現実を空だとか幻だとか言っている連中がいたら 悲しまないだろうか。いったい空海が語った瞑想体験をどう理解するのか?
708 :
一在家 :2009/06/23(火) 12:00:55 ID:9xvbrxB2
>>706 >神通は、精神集中状態で出てくるので、そのような体験を悟りと勘違いするなというのが、
>『梵網経』の主要な教えだと考えています。
四禅定までいく修行完成者は神通を得る。
神通は悟りとは関係ない。
修行完成者の結果に過ぎない。修行の目的ではない。
ということで原始仏典には神通に関する記載がある点でのみは一致しております。
★ 真言氏の縁起・空が<幻>であることは理解できた。 つぎは四諦の道が何なのかだ。ふつうは道を八正道としていると思うが、 氏によれば縁起・空が道になるという。こういう解釈が仏教界の常識なのだろうか。 そうだとすれば八正道はどこに消えたのか?
★ 四諦の道が縁起・空なら、八正道の「正しさ」は空になる。 空とは実体がないことだから、八生道が実体のない教えになる。 この意味がわからないのだろうか。 四諦を無意味なものとし、仏教を無意味なものにすることである。
★ 聞・思・修・戒・定・慧・・・これらも空である 真言氏はもともと縁起・空を悟りとしている。 最終的には、実体のない空に到るわけであり、その他の一切は空である。 これによって氏はこの現実を<幻>として理解する。 であれば、聞・・・・慧は、空である。
712 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 12:50:54 ID:RnIi1x81
>>687 >「ウダーナヴァルガ」(感興のことば)の間違いかと思います。
その通りです。間違えてごめんなさい。>ALL
引用部分には間違いないです。念のため。
これ以外にもニルバーナに言及した経典なんて腐るほどあるね。
★ 一切法は一切ではない・・・これをなかなか理解できない人がいる 一切を語る人は五位七十五法をイメージしているのだろうと思う。 しかしこの法の、有為法・無為法から抜けおちた領域がある。 夢・魔境・・・マナ識・アラヤ識が抜け落ちている。 さらにもうひとつ、肝心要の<生命>が抜け落ちている。 五位七十五法は、言葉で表現できる意識の領域を対象にしている。 従って、意識できない無意識(マナ識・アラヤ識など)は対象にならない。 そして抜け落ちた領域にアートマンがいる。
★ 仏教は誤った仏教観によって衰退していく これこそが仏教だと誤解し、誤った仏教観を語っている場合がある。 これは主としてその人の思い込みに基づく。 つぎに誤った経典や教義などによって、誤った仏教観を語っている場合がある。 これは経典や教義を見直し、洗い直しをする必要がある。 お寺関係の人たちは、お寺の利益が優先して真理をゆがめる傾向がある。 そのために、誤った仏教観を持ち、排他的な姿勢に陥りやすい。 どれもこれも仏教を衰退させる因縁になるものである。 仏教を愛するなら、謙虚に、正しい仏教観を求めるべきだろう。
715 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 13:14:02 ID:RnIi1x81
>>690 >「アートマン」というのも拒絶されており、つまり、タブー視されているということかと。
アートマンがタブーではないでしょう。アートマンは諸行無常と論理的整合性が無いから
仏教では認められないのでしょう。
もうひとつはアートマンが経験できる存在ではなく形而上の言葉に過ぎないから
四句分別でも判別しようが無いということでしょう。
どうしてもアートマンとは何かを語るとしたら「それはあるでもなく、無いでもなく、
ありかつ無いのはもっと変だし、あり勝無いのでもないともいえない」というしかないだろ。
語りえぬことは沈黙するのが正しい態度だと思うよ。いわゆる「無記」を護ることだね。
★ 縁起・空は、目を開いて、本を読んで理解するものである。 上のほうに、第四禅定で縁起観をする、という話があった。 繰り返すけど、これは100%誤りだ。考え事をするなら目を開いてやれ。 静かに考えるならいいけど、瞑想して考えるなど時間のムダだ。 予言しておくけど、第四禅定で縁起観をするような人は決して悟れません。
717 :
一在家 :2009/06/23(火) 13:25:30 ID:x+jDdZ6q
神通は修行の成果であり、目的ではないことでは一致しております。 長部経典の他の経でも、修行完成者の神通と魔術との見分け方を説かれて おります。 でも、三明智は対機説法では便利だっただろうなと推察します。 バラモンと会った瞬間に心の状態を読み、過去世を読み、苦しみの原因を読み、 相手の機根に応じた方便を使って法を説かれたであろう釈尊がイメージされます。 まあ、読心通だけでも便利ですが、相手の憎しみ、恨み、不平不満、怒り、強欲、 も全て受けてしまいますので、凡人では発狂するかと存じます。
718 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 13:26:25 ID:RnIi1x81
>>696 >現代に通用しない、「化石の仏教」など、いくら追求しても、無意味・
>無価値。時間の浪費です。
化石から何を読み取るかは現在の読む人の力量・才能だね。
古典も読めない人が何で現代思想が読めるのかな?
孔子も言ってるだろ。「ふるきを尋ねて新しきを知る」とね。
これは現在でも有効な智慧だね。
719 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 13:33:06 ID:RnIi1x81
>>701 >新興宗教にできそこないが多いのは、「できそこないの伝統宗教」を
>ひたすら真似てるからですよ。
そうじゃないでしょ。
新興宗教にできそこないばかり集まるからでしょう。
720 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 13:47:50 ID:RnIi1x81
721 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 13:58:06 ID:kqF1ormS
>>718 >孔子も言ってるだろ。「ふるきを尋ねて新しきを知る」とね。
少なくとも、このスレの仏教者は、専ら「ふるきを尋ねる」だけで、「新しき
を知る」努力をしているとは、全く思えないね。
>>719 > 新興宗教にできそこないばかり集まるからでしょう。
新興宗教をつぶさに見てみると、すべて伝統宗教のテクニックの寄せ集めと
真似だけで、それを超えようとする(新しきを知る)思索や努力は全く見当
たらない。伝統宗教による基本的洗脳から、少しも離脱できてないということ。
722 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 14:21:22 ID:6z5g4fLQ
このスレの住人は頭良いな まぁ良くわからないが知人が事故に会った時 魂?が抜け出て上から自分の肉体を眺めてたって 必死に肉体に戻ろうとしたら戻れたって言ってたから 魂ってあるんじゃないのかな
723 :
一在家 :2009/06/23(火) 14:32:49 ID:x+jDdZ6q
>>722 >魂?が抜け出て上から自分の肉体を眺めてたって
>必死に肉体に戻ろうとしたら戻れたって言ってたから
>魂ってあるんじゃないのかな
幽体離脱の体験の書き込みを有難うございます。
私も似たような事例を沢山知っておりますが、大乗仏教ではなく、
原始仏典ならば解明できるかと思っております。
このスレですと、事故が縁にて幽体離脱が起こったことになり、
自分の姿を見た縁にて肉体に戻ることが起きたことになりますか。
もし唯物論者や仏教哲学者であれば、そんな筈はないと思う縁にて
肉体に戻らず死亡することが起こったかも。
所謂、縁起でしょう。
724 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 14:34:18 ID:kqF1ormS
>>722 それは、事故による肉体の損傷の結果生じた「幻覚」。重態になると、肉体
が生理的に変化するから、そのような「幻覚」が生じる。これを医学では、
「譫妄状態(delirium)」と呼ぶ。狂気の一種である。
若くして癌で亡くなった知人の牧師も、臨終の間際に、「赤い旗を持った
友達が沢山きている」などと、訳のわからんことを言ってたそうだ(奥さん
の話)。すべて、重態時の、身体の生理的変化で説明できること。
725 :
一在家 :2009/06/23(火) 16:25:19 ID:9xvbrxB2
>>724 >それは、事故による肉体の損傷の結果生じた「幻覚」。重態になると、肉体
>が生理的に変化するから、そのような「幻覚」が生じる。これを医学では、
>「譫妄状態(delirium)」と呼ぶ。狂気の一種である。
釈尊は苦行を終え弟子達に囲まれ、肉体的にも元気な時に、山に棲む精霊や
夜叉や神々とも対話されてます。
苦行中でもなく、肉体の損傷も無いのに「譫妄状態(delirium)」でしょうか?
小児脳死判定後の脳死否定症例数は、およそ 240例(2009年1月31日現在)。
脳死から復活した子ども達が、アートマンのヒントを教えてくれます。
http://www6.plala.or.jp/brainx/recovery3_15.htm 脳停止からも生き返る人達、脳の半分を摘出しても精神生活に支障のない人達、
魂(アートマン)の正体を突き止める好機が近付いておりますね。
貴兄は医療関係者のようですが、釈尊も「譫妄状態(delirium)」と診断されますか。
726 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 16:49:48 ID:v9J7p4MF
>>725 だから、いい加減にその癖をやめろ。
お前は、しょっちゅう手かざしとかで、
悪霊払いとかしてるんだろうが、そういうのは、
お前の信じてるオカルト宗教内だけの話にしとけ。
一般的な普遍性有する現象の話としては、語るべきではないと何度言ったらわかるのかね? お前は。
727 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 16:55:53 ID:v9J7p4MF
>>716 そうなのか?
俺としては、
>>694 の解説は結構、説得力があるように思えてしまったのだが。
まぁ、外部者の感想だが。
>>727 ★ 真言氏は縁起・空の話をしている。これを瞑想して体得したいらしい。
しかし空はカラッポの箱の中身を言う。実体がない。
真言氏にも言っておくけど、実体感を崩し、こんなものを体得したら、
まず病院送りだと思うよ。現実感を喪失した精神病があったよね。
僧侶が悟れない理由が何となくわかってきた。
かれらは経典を信じるあまり、病的な袋小路に入り込んでいる。
>>724 ★ この慎重さは貴重ですね。考え直させるきっかけになる。
730 :
一在家 :2009/06/23(火) 17:21:38 ID:D9z5O+fp
>>726 脳死からの蘇生の事例が複数あり、
脳半球切除から日常生活へ復帰の事例も複数あり、
原始仏典では目には見えない霊達と釈尊との対話の記述があり、
それでも幽体離脱を「譫妄状態(delirium)」だと断言できるのかと
医療関係者に質問しただけですよ。
あなたが魂の存在を否定されるのは、あなたの自由ですが。
731 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 17:26:54 ID:v9J7p4MF
>>728 そうなのか?なら、縁起 空はどのように体得または理解(これらの表現が適切かどうかはわからんが)
するのか?瞑想では不可能なのか?
または、初めから体得、理解不能なものか?
>>720 ★ ロバの耳はお互い様ですね。
それはともかく、コテがないと話が理解しにくいということもあり、ついスルーしてしまう。
それからややこしいことを言っているときとか、意味不明な場合とか、眠いときなど。
わたしも名無しなので偉そうなことはいえないけど。
でもすでに答えている。生命はどこに分類されるのか?
意識されない無意識は、マナ識とアラヤ識は有為法なのか、無為法なのか?
あなたは心王とか言っているけど、わからないでしょう?
733 :
一在家 :2009/06/23(火) 17:43:58 ID:9xvbrxB2
>>730 続き
私は医療関係者の家庭で育ちました。
現代の西洋医学が病名の分類に長けていることはよく知っております。
また、症状別の薬の主作用が効かない率のデータも持っております。
(主作用が効かなければ、副作用のみを受理しますね。)
塩基の個人差で主作用が効かない率%は次の病名に関する薬です。
Asthma, Cancer, Depression, Diabetes, Duodenal U,
Hyperlipidemia, Hypertension, Migraine, OA/RA, Schizophrenia
尚、データの出典はゲノム創薬の研究者の論文です。
知人が精神科医なので、同じく病名の分類に長けていることも
よく知っております。
>>731 ★ 空を体得することは不可能。しかし縁起を理解することは可能だ。
縁起は言葉で説かれるのだから、言葉で理解することができる。
縁起とはプロセスだから理解できる。
しかし空は、プロセスではなくて、ある瞬間的なイメージである。
空を体得することは不可能である。体得したら病気。
空は悟りではない。悟りはもっと先にある。縁起を理解すればいい。
箱を開けるのが縁起。開けた瞬間が空。
735 :
旧7 :2009/06/23(火) 18:08:06 ID:CB8fi60p
>>685 談話室でのやりとりは読んだのか?
読んだ上で、まだ状況が見えてないのか?
736 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 18:18:22 ID:G+jQbbPI
>>730 >脳死からの蘇生の事例が複数あり、
若しそんなことがあれば、「臓器移植法」など制定できるはずがない
ではありませんか。それは、脳死ではなかった、脳死の診断が誤って
いた、ということです。
>脳半球切除から日常生活へ復帰の事例も複数あり、
切除部分の機能は失われています。脳幹部分を切除すれば、必ず死にます。
>原始仏典では目には見えない霊達と釈尊との対話の記述があり、
あなたは、科学者でありながら、医学がなかった大昔の「御伽噺」を
信じるのですか。
>それでも幽体離脱を「譫妄状態(delirium)」だと断言できるのかと
>療関係者に質問しただけですよ。
幽体離脱など、医学の教科書のどこにもありません。精神病の症状としての
「幻覚」「妄想」です。
>あなたが魂の存在を否定されるのは、あなたの自由ですが。
魂、即ち精神(理性と感情)は、肉体から生じます。それは、肉体(生
命)を維持するための「道具」に過ぎません。
737 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 18:21:59 ID:G+jQbbPI
>>736 の続き
手かざしでは、病気は治りません。「治ったような感じ」がしても、検
査すれば、必ず悪化しています。勿論、身体には自然治癒力があります。
あなたが科学者なら、手かざしと治癒との間の因果関係(自然治癒の否定)
を証明しなければなりません。
手かざしで病気が治るなどと信じ込ませた結果、医学による診断と治療が
遅れ、悪化したり、最悪の状態に到った場合(身近にも、多くの実例があり
ます)、どう責任を取る積りですか。必ず訴えられますよ。長い長い年
月にわたる医学者たちの努力を、一体どう考えているのですか。少し前
までは死に到る病であった多数のの病気が治療可能になり、無数の人々
の生命が救われている事実は、目に入らないのですか。
数千年間、何の進歩も無い宗教に比べて、医学は、殆ど月単位で進歩して
いるのです。
釈迦やイエスが現在生きていたら、手かざしなどで病気を治療すると思い
ますか。必ず最新医学を利用するでしょう。彼らは、「当時の」社会の
最先端を行く「改革者」であったことを、忘れているのではありませんか。
「病気治し」を説く宗教の教祖でも、自分が病気になると、直ちに病院
に駆け込み、最新医学による治療を受けているのが実情です。教祖自身は、
宗教では病気は治らないことをよく知っているからです。
★ 待機説法と言うが、このスレでなぜアートマンを自由に語ることができるのか? この理由を考えたほうがいいのかもしれない。 このスレでもわかるように、それぞれが自分の世界を持っていて、一歩も譲らない。 なかには、言葉で可能なことは何でもやって、相手を落としいれ、やっつけようとする人もいる。 しかしネットだから、意見の違いは殺し合いに発展することはない。 世尊の時代はどうだったのだろう? 警察も法律もない時代、顔と顔を向き合わせて論じ合うわけだ。 利害が絡むから、意見の違いは殺し合いに発展する。 世尊が、アートマンがあるともないとも言うことができない、無記、 という時の気持ちが痛いほどよくわかるのだが。
739 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 18:32:53 ID:9vlidEZK
>>735 ごめんなさい!
では、目を通します m(__)m
>>724 >それは、事故による肉体の損傷の結果生じた「幻覚」。重態になると、肉体
>が生理的に変化するから、そのような「幻覚」が生じる。これを医学では、
>「譫妄状態(delirium)」と呼ぶ。狂気の一種である。
違います。
幽体離脱には第三者による目撃証言が多々あります。
知る筈がないのに目撃者の証言内容は、
その時間帯における被験者の服装なり状態なりと合致しています。
神智学的理解によれば、
正確にはアートマン(魂)ではなく、アストラル体(情緒体/感情体)のことです。
憑依現象/心霊・・すべてアストラル体です。
>釈尊は苦行を終え弟子達に囲まれ、肉体的にも元気な時に、山に棲む精霊や
>夜叉や神々とも対話されてます。
>>725 主として、いろんなアストラル界の住人たち(中有状態の意識体でしょう。
740 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 18:35:13 ID:RnIi1x81
>>732 >生命はどこに分類されるのか?
これも前に書いたと思うが有為法の命根でしょうね。寿命の命だね。
>意識されない無意識は、マナ識とアラヤ識は有為法なのか、無為法なのか?
有為法の心王でしょうね。ただし唯識の五位百法でしかマナ識・アラヤ識を立てない。
アビダルマでは意識のうちじゃないかな?
741 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 18:45:18 ID:G+jQbbPI
>>738 及びその他の方たちへ
「ブッダは徹底的な経験論者でしたから、経験的に知ることのできない
事象を出発点とするいわゆる形而上学的な議論をよしとしませんでした。
ヤージュニアヴァルキヤ以来、自己は認識主体であるが故に認識対象たり
えない、つまり経験的に知りえない存在だということは、学識あるインド
人には常識だったのです。ですから、ブッダは経験的に知ることのできない
自己を主題とした議論を展開しなかったのです。」(宮元啓一氏の文より)
皆さんも、「学識ある古代インド人」程度のレベルには、早く到達して
欲しいものです。
742 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 18:47:15 ID:RnIi1x81
743 :
一在家 :2009/06/23(火) 18:50:50 ID:9xvbrxB2
>>694 >何故、解脱できないかというとただの精神集中状態を常住やアートマンと
>するだけだからです。
私は深い瞑想の経験もなく素朴な質問ですが、精神集中状態を空や縁起と
しても、解脱はできないと思いますが如何でしょうか?
「無我」の境地ですが、スポーツ、芸術、科学でも無我夢中の状態にいる時は
感受も一変した別の境地にいるかと存じます。
744 :
旧7 :2009/06/23(火) 18:53:49 ID:CB8fi60p
話は変わるが、
>>688 に、宝珠氏の(そしておそらくカラス氏に於いても)混乱の一端が見える。
ここで宝珠氏は、涅槃について語る際、(688以外でも、涅槃やアートマンについて語る際の傾向として)、
・《恒常なる【存在】の存在する【所】》 ← >当然、これは恒常であり、ホトケとは【そこ】に常住する存在だと
・《【境地】》 ← >無上の静けさの境地」といって / >ニルヴァーナとは「不死の境地」であり
・《無常なる【この世界の外】、そういう【世界】》 ← >これは無常なる世界の一切外のことですよ。
← >の場所」の世界のことであると。
・《【場所】》 ← >「没することのない所」と同義であり、「常住の場所」「常恒の場所」の世界のことであると。
と表現している。
自身で(
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1244362051/277 )
(ここでいう) >世界とは意識状態のこと であると述べるように、境地という語も使われているが、
大意としては、【具体的な場所・世界】が想定されているように見える。
カラス氏はイチャモンをつけていたが、以前、涅槃の同義語を列挙した。(ある程度の仕訳を加えて・・。)
(
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1244362051/314 )
あれは、元は片山さんの板書だ。彼が、自分の作業(≒仕事)の中で見出した涅槃の同義語だ。
勿論あの中にも、【場所】を意味する語は含まれている。
だが、重要なのは、
それらで、≪『真に、空間的な、具体的な、“場所”』が言われているわけではない≫であろうということだ。
宝珠氏も、自身で >意識の状態 と述べるように、【境地】であるという側面を理解しているだろうとは思う。
だが、その言辞の殆どが、≪(具体的な)実在の場所≫として捉えられているように見えるのだ。
(だから、真言氏がツッコむんじゃないか?)
確かに、「解脱」と言われれば、「脱け出る」のだから「脱け出した“先”」が想定されてしまう。
「帰依処」「洲(島)」と言われれば、具体的な「安らげる場所」が想定されてもしまうだろう。
しかし、「涅槃」とは、「仏教」とは、はたしてそのような視点のものだろうか・・・?
>>740 ★ マナ識もアラヤ識も生命も、有為法にしてしまうのは、
根拠のない決めつけにすぎない。生命の場合は特にそうだと思う。
五位七十五法は人間存在(生命)の分類表である。
生命がこの表の中に入るわけがない。全体が部分に入ったら論理矛盾でしょう。
古い昔の分類表だから、不完全だと思ったほうがまともかも。
746 :
一在家 :2009/06/23(火) 19:07:44 ID:9xvbrxB2
>>741 >「ブッダは徹底的な経験論者でしたから、経験的に知ることのできない
>事象を出発点とするいわゆる形而上学的な議論をよしとしませんでした。
ブッダは経験論者であって、極自然に読心通を使えるとしたら、読心通もまた
ブッダとその周りの修行完成者達にとっては形而上学的のことだったのでしょうか?
イエスとその弟子達もまた癒しの力を日常使っておられますが、彼らにとって
癒しの力は形而上学的のことだったのでしょうか?
まあ、当時のことは分りませんが、文献的に存在することを頭から否定することも
できないのではと思います。
747 :
宝珠愚者 :2009/06/23(火) 19:20:45 ID:9vlidEZK
>>744 当然、場所の移動のことではなく、
意識の状態の変化/意識レベルの昇化のことです。
どこか違う処が在るということではありません。
今、この自分の中に“総てがある”ということ。
五蘊意識→ニルヴァーナ意識
表層(顕在)→深層(潜在)→集合的無意識、
アストラル意識→メンタル意識→魂意識(マナス/ブッディ/アートマ/モナッド)
意識の焦点の移行です。
そのためには修行/経験が必要だと。
748 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 19:20:48 ID:G+jQbbPI
>>764 ブッダも、2500年目の「時代の子」です。「時代の相違」を考慮
しないのでは、お話になりません。
ブッダは、「当時の状況」における「当時の人々」に対して語ったもの
であることを、片時も忘れてはなりません。
あなたは、科学者として、2500前の科学文献を、そのまま使う
お積りですか。
749 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 19:30:48 ID:nkKzcXy0
>>688 >ウダーナヴァルガ27.26-29 ダンマパダ225
>>547 で回答済み。
>中村氏なんかは、ちゃんとそう解しているではありませんか
正に「解している」に過ぎない。
それに対して私は、貴方の如きを「ありもしないもの」を説くことを明確に退ける
「教証」を挙げています。
ニルヴァーナが「一切(縁已生法)外」の「常住な場所」だと明確に説く「教証」を挙げて下さい。
それとも「ありもしないもの」を説き続けますか?
ところで、貴方の如くに中村氏の解釈が教証の代わりになるというならば、
対論者が同様に、有識者の解釈を教証の代わりにしたとき、それを批判する権利は無い。
>物質現象の「火」と比較されても困ります。ニルヴァーナはそこ(物質界の制約)から解脱した世界です。
>これは「火」(物理現象)を使った喩えに過ぎません。
『中部』72と『要語』p153-154は確認しましたか?
それから、
>>547 の「であれば、アートマンは「不死」ではなく「つくられたもの」です」
への回答はどうしたのですか?
750 :
一在家 :2009/06/23(火) 19:59:51 ID:9xvbrxB2
>>747 宝珠氏 縁のある各位
>当然、場所の移動のことではなく、
>意識の状態の変化/意識レベルの昇化のことです。
私どもの教義の中にも、霊相浄化、霊層昇華したのちに「到霊眼」
という境地があると伺っております。
手許に解説が無いので詳しくは申せませんが、一切の法や真理が見える
境地のようです。
751 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 20:46:42 ID:v9J7p4MF
また、宝珠や在家などのオカルト信者が「幽体離脱」を普遍的な現象であるかのように語ってるが やめろ。そういうのは、お前らの信じるオカルト宗教内だけの話にしておけ。 そこで、本題であるが「縁起、空」 これを出来るだけ 分かりやすく解説できる御仁は おられないかな?
752 :
暁 :2009/06/23(火) 21:24:24 ID:TWJXb61d
手翳しの後に薬飲めば治る場合があるよ (笑)
753 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 21:48:23 ID:KoUa3hy/
>>733 >塩基の個人差で主作用が効かない率%は次の病名に関する薬です。
>Asthma, Cancer, Depression, Diabetes, Duodenal U,
>Hyperlipidemia, Hypertension, Migraine, OA/RA, Schizophrenia
薬剤の効果に「個人差」があることは、医学の常識です。その場合、医師は、
組成の異なる他の薬剤に変更します。新薬の開発時における、「二重盲検法」
による効果の判定も、効果があった症例の割合の「有意度」によって行います。
「手かざし」の効果については、厳密な「二重盲検法」による効果の判定は
行いましたかw。
病気治療は、人間の生命に関わることですから、安易な「嘘」で無知な人を
騙すことは、「医師法違反」「薬事法違反」「詐欺罪」等の犯罪となります。
754 :
一在家 :2009/06/23(火) 21:58:50 ID:9xvbrxB2
>>739 宝珠氏
>神智学的理解によれば、
>正確にはアートマン(魂)ではなく、アストラル体(情緒体/感情体)のことです。
>憑依現象/心霊・・すべてアストラル体です。
私どもも主魂、副霊、霊体、幽体、そして肉体と伺っております。
貴兄のおっしゃる通りで、魂と幽体とは異なりますが、このスレでは
住人が混乱しますので方便として「魂(アートマン)」という言葉を
使用しております。
アストラル体はエクトプラズマに近く写真にうつる時もありますし。
さて憑依現象もアストラル体だというご見解には異論がありますが
スレ違いなので止めておきましょう。
スッタニパータでは、釈尊は肉体を持たない精霊達とも対話されて
おられます。
パーリ経典ですから幸いにも残っておりますが、北伝のシナ経典ならば
中国の坊さん達に空・縁起には不要とカットされていたことと推察します。
755 :
一在家 :2009/06/23(火) 22:05:40 ID:9xvbrxB2
>>724 >それは、事故による肉体の損傷の結果生じた「幻覚」。重態になると、肉体
>が生理的に変化するから、そのような「幻覚」が生じる。これを医学では、
>「譫妄状態(delirium)」と呼ぶ。狂気の一種である。
すぐに分類をして「名称」をつけて終わる医療関係者が多いという主旨
で書き込みしたのですが、どうして「手かざし」批判になるのですか。
あなたがこの板の住人でなく、かの板から来られたのであれば了解ですが。
756 :
旧7 :2009/06/23(火) 22:05:51 ID:CB8fi60p
757 :
暁 :2009/06/23(火) 22:28:11 ID:TWJXb61d
>>754 オカ板でやりなよ
ざっと流れ見てるだけだが明らかに気持ちが悪い
758 :
神も仏も名無しさん :2009/06/23(火) 22:31:52 ID:v9J7p4MF
759 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 00:05:27 ID:Oh0yRe23
最も現実的、経験的、実証的(ニーチェ)であるはずの仏教が、何故これほど オカルト化するのか。 キリスト教の影響が最大の原因だと思うが、仏典に「書いてある」ことをその まま事実・真実だと信じ込むことも原因だと思う。そうだとすれば、仏教全体 にも責任がある。 原始仏典の一部に「ヒント」を得て、膨大な大乗仏教の体系を築き上げた先人 の叡智を思い起こすべきである。 釈迦の偉大さは、やはりこの「空」の「ヒント」により、大乗仏教の巨大な体 系の確立を可能にしたことにあるのではないか。仏教の「相対性の原理」は、 専ら「絶対」「実体」のみに固執する他の如何なる宗教・思想にも見出せない 「永遠・普遍の真理」であろう。現代のすべての科学も思想も、この「関係性」 の方向に向っている。キリスト教の神学者でさえも、キリスト教が今後向うべき 方向は、「仏教の空の思想」だと言っている。
大乗仏典やその信者は仏典を事実・真実とはしていなかったのか。へー。 実際に創作した人達にとっては、自覚されていたことかもしれないが。 何世代か口承を経た後とか、筆録された段階ではどうだろね。
時代に合わせて自由に教義変えていいよー、と書いてある大乗仏典ってあるの?大乗の 「相対性」とやらは仏教を絶対とせず、それ以外の宗教・思想にも平等に価値を認めるって意味なの? 自分側に組み込むのに適した人達とは思えないんだけど。
762 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 00:50:41 ID:Oh0yRe23
>>760 竜樹など、釈迦など吹っ飛ぶほどの大哲学。一応、釈迦には挨拶はしているがw。
763 :
baka :2009/06/24(水) 01:43:09 ID:dx6vr96/
無常だから、無常も無常だ だからこの世は常住だ 証明終
てゆーか、この世も終了だな。それだとw
765 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 02:03:51 ID:wzsTe5ky
>>761 大乗は、それぞれの宗派が、それぞれの教義を持っている。
「相対性を説く」宗教だから、押し付けたり、他の宗教思想を排斥したりしたら
ら、矛盾してしまいますね。宗教とは、あくまで「説く」ものです。
だから、仏教は、絶対を求めるキリスト教とは異なり、2500年間、ほとんど
人を殺すことがなかったのです。
766 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 02:15:35 ID:wzsTe5ky
>>763 無常だが、常住、常住だが無常。これが、仏教の極意。
そこんところを理解しなければ、仏教は理解できない。
>>765 つまりキリスト教を排斥するのは仏教ではないということか。
それは大地の怒りだ
769 :
宝珠愚者 :2009/06/24(水) 08:30:41 ID:KoI8yT0W
>>749 >ニルヴァーナが「一切(縁已生法)外」の「常住な場所」だと明確に説く
>「教証」を挙げて下さい。それとも「ありもしないもの」を説き続けますか?
これは、ただ単に理解の問題なのでは?(つまり、すでに説かれている)。『要語』がお
好きなようなので、ではこれを使ってみます。とにかく、「一切」とか「諸行」が示す範囲とは
どれか?という認識の問題(違い)だろうと思います。
例えば、「一切皆苦/一切行苦」といったら、これはニルヴァーナを含みますか?当然、
含みませんね?苦の滅道が仏道なのですから、ニルヴァーナとは苦の無い境地です。で
あるから「安穏」であると。
『一切行苦とは、一切皆苦、諸行皆苦ともいう。五蘊・十二処・十八界などの一切の現象
法が苦であるということである。原始経典の現象法は無常であるから苦であるとされてい
るのはそれである。』(p167)
『われわれにとっての世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教
では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。』(p127)
「苦」とは現象界のことであり、現象界が無常であり、これを仏教では一切といっています。
770 :
宝珠愚者 :2009/06/24(水) 08:33:24 ID:KoI8yT0W
『諸行とは生滅変化する一切の現象法を指し、有為と同義である。すべての現象は一瞬 の停止もなく、無常にして生滅変化するというのが諸行無常である。』(p158) 『理論的には「無常であるが故に苦なり」とか「無常であるが故に無我なり」とかいわれる ように、苦や無我の理由として無常が説かれた。』(p158-159) ということで、つまり無常であるのは現象界(限定意)のことです。諸行とは現象界の一切 なのであり、無我であるのは無常(現象界)においてなのです。従って、これらの一切外にお いてはこの法則(性質)は適応されません。つまり、現象界外では無常ではなく、無我でもな い。当然、これがニルヴァーナの性質に他ならないのです。 >ところで、貴方の如くに中村氏の解釈が教証の代わりになるというならば、 >対論者が同様に、有識者の解釈を教証の代わりにしたとき、それを批判する権利は無い。 別に中村氏に限らずとも、このように仏教用語をごく当たり前に理解すればそれで済むこと でしょう。これらは、私がこのスレの始まりからズーと一貫して主張してきたことなのです。ニ ルヴァーナは無我でなく、無常/空ではない(つまり、永久不滅である)と。 >『中部』72と『要語』p153-154は確認しましたか? 見ましたが、『要語』p153-154で私に何をいいたいのかは判りませんでした。よければ、直 接あなたから解説して下さい!では、『中部』72で私が感じたことはというと・・。
771 :
宝珠愚者 :2009/06/24(水) 08:35:21 ID:KoI8yT0W
「世界は常住である」という断定意は、現象界の無常の性質を無視したものとなり、また「世
界は無常である」という断定意は、逆にニルヴァーナを無視したものになる。「霊魂と身体は
同一である」か「別であるか」についても、どちらも厳密には正確さを欠くことになるから明言し
なかったということなのでしょう。もしも、本当に「無い」のであれば、質疑そのものがナンセン
スに過ぎませんから、それは「無い!」とハッキリ明言して終了したでしょう(であれば、混乱も
誤解も生じなかった)。けれどもこれは無いのではなくて、正しく理解されないと見なしたから
明言を避けたのでしょう。それと、在るのか無いのか?ということよりも、重要なことは縁起の
性質の理解である、とゴータマはこの経の教えで示したいのだと思います。
>それから、
>>547 の「であれば、アートマンは「不死」ではなく「つくられたもの」です」
>への回答はどうしたのですか?
私の理解によれば、「アートマンも縁起で生じている」といういい方も十分に可能なのであり
(ヒンドゥー経典にはない概念)、これは縁あって人類が「人」となった(進化の過程で)瞬間か
ら生じたものであり、人が解脱するまでの間、存続し続けます。縁起とはいっても、各生涯毎
における肉体死では無くならない。解脱において転生の必要がなくなると、その役目を終えて
モナッド(真我)へと吸収されます。つまり、アートマン存在としては消滅するのです。
すみませんが、これは仏教徒には知られていない事柄であり、当然、仏典にもそのことを示
す記述はないと思います。
772 :
宝珠愚者 :2009/06/24(水) 08:39:38 ID:KoI8yT0W
しかしながら、縁起するアートマン的な理解については『要語』にも見られます。 『人格の主体として業を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めて いる。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続す る有為法である。唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。』(p164) 不滅ではないけれども、業を保持して三世を通じて存在する有為法だと。これが、私が主張 するアートマンで構いません。つまり、現象界を流転/転生を繰り返す主体がアートマンであり、 ニルヴァーナはこれらを更に超越しているのであると。 すべて「一切」や「諸行」の示す範囲についての理解の違いです。これがズレている内は、私 とは折り合えないでしょう。それだけです。
なんだか、場蚊が多いな。 無常が先んじてあるのだ。 アートマンがあっても、無常のうちだ。 無常も無常であり、常住も無常だ。 結局、無常説が最強なんだよ。 くっくっく。
774 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 08:58:38 ID:SJ79NnFw
>>745 >五位七十五法は人間存在(生命)の分類表である。
人間存在(生命)はあなたの恣意定義でしょう。
五位七十五法に従うなら人(人間)は五蘊(色・受・想・行・識)から
成るとしている。生命は人間の一部にしか過ぎない。
現代の生物学でも生命は生物の機能としている。
機能が全体なんてことは無い。
生物あっての機能だしその機能の基本が生命だからね。
五位七十五法を理解できてないだけでしょう。
775 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:03:16 ID:SJ79NnFw
>>746 >まあ、当時のことは分りませんが、文献的に存在することを頭から否定することも
>できないのではと思います。
文献にあるからそれはすべて「事実」だと理解するならおめでたい人としか
言いようが無い。幼児っぽいのかな?母胎に執着してるしな。
>>771 >「世界は常住である」という断定意は、現象界の無常の性質を無視したものとなり、また「世
界は無常である」という断定意は、逆にニルヴァーナを無視したものになる。
ならないんだよ。
世界が法によっていることは自明だ。つまり、無常だ。
「世界は無常であるも無常だ」これが涅槃だ。
言っておることは単純な上に、従来の考えを完全に覆しておる。
従来のアートマン観は、人間にとってまったく無意味なんだよ。
それが釈尊の説だ。
くっくっく。
>>746 >まあ、当時のことは分りませんが、文献的に存在することを頭から否定することも
できないのではと思います。
言葉の意味など、100年前と今ですら異なる。
古い文献に書いてあることの微妙なニュアンスなど、分かるわけもないのだ。
せいぜい、阿呆な言語学者が言ったことを鵜呑みにするのが関の山だ。
「文献的に存在することを頭から肯定する」のが場蚊なんだよ。
そもそも釈尊入滅から数百年は文献などないだろうが。
くっくっく。
778 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:14:32 ID:SJ79NnFw
>>761 >自分側に組み込むのに適した人達とは思えないんだけど。
仏教では「諸法無我」すなわち自分の主張が無いからどんな
思想・習俗とも習合できるだろ。きわめて寛容な心があるのが仏教だから。
これが一神教との徹底的なちがいだね。インドではヒンドゥー教は仏教を
習合したし、中国では道教と仏教が習合した。日本では神仏習合だから神道
と仏教が習合して日本教になっている。
ちなみにインドにイスラム教が侵攻したときインドはヒンドゥーのインドと
イスラムのパキスタンに分裂するしかなかった。これはイスラム教が
ヒンドゥー教を排除したのでありヒンドゥー教がイスラムを容認できなかった
のではない。
>>771 > 私の理解によれば、「アートマンも縁起で生じている」といういい方も十分に可能なのであり
>・・・・・・・
>モナッド(真我)へと吸収されます。つまり、アートマン存在としては消滅するのです。
だから、釈尊はそう言う考え方が「無駄無駄無駄」と言ったわけだ。
場蚊ではないか。
くっくっく。
780 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:20:29 ID:oYICnsGL
人々が初期仏典に戻ることを魔のわざと称するのは排斥と言えますね。
781 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:22:17 ID:SJ79NnFw
>>766 >無常だが、常住、常住だが無常。これが、仏教の極意。
バカか?
有為法は無常、無為法は常住としっかり分別されている。
しかし一切法は無我であり空である。
有為法も無為法も無我・空であることは同じだね。
無分別が仏教なのではない。
ゴミも分別しなければ捨てられない。
782 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:30:55 ID:oYICnsGL
取り込むとは言っても、釈迦の教えを悪魔・悪人を 惑わすためにビシュヌ神が化身して説いたという まさに冒涜モノの後付け設定。 大乗での大自在天(シバ神)の扱いもこれまた酷い。仏のエピソードを 介して相手方の宗教を教義の中で屈服させようという欲求をぶちまけているようだ。
783 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:31:27 ID:SJ79NnFw
>>767 >つまりキリスト教を排斥するのは仏教ではないということか
そうだね。
仏教はキリスト教を排斥しない。阿弥陀経などキリスト教とおなじ
思想だろ。
キリスト教は仏教を排斥する。仏教だけでなくキリスト教以外のすべてを
排斥するだろ。
だからイスラムとの間で宗教戦争をやってきたし日本の国家神道も許せなかった。
784 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:44:51 ID:SJ79NnFw
>>770 >無我であるのは無常(現象界)においてなのです。
これは完全な誤解だね。
これなら「諸法無我」とはいえなくなってしまうだろ。
有為法も無為法も無我であることは同じだろ。
無為法にも我(アートマン)の居場所は無い。
てゆうか、我(アートマン)なんか無くても何も困ることは無い。
なぜ、アートマンに執着するのかな?
785 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 09:54:38 ID:oYICnsGL
ビルマでイスラム系少数民族が差別されているのを軍事政権のせいにしたり 江戸・明治時代に反キリスト教活動したのを時代のせいとするなら キリスト教(徒)にも同じ基準をもってのぞむべきだろう。
>>780 初期仏典と言われるものが、初期に記述されたとは限らんのだよ。
現存する最古の仏典はなんだか知っておるのか?
くっくっく。
>>781 お前、ヴァカか。
無為法が常住であっても「無為」なのだからそもそも「無常」なんだよ。
「無為法常住」は「無常常住」と同じだ。
くっくっく。
>>784 アートマンの存在がない=非我であれば、それがそのまま無常であっての「無我」なのだ。
アートマンの基盤を無意味化したのが釈尊なわけだ。
くっくっく。
787 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 10:13:53 ID:oYICnsGL
スッタニパータじゃないの?
788 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 10:18:08 ID:SJ79NnFw
>>786 無常は常住あっての無常だ。
これが相依ってあるという縁起だね。
無常だけがあるのではない。
常住だけがあるのではない。
無常と常住がおなじというなら無分別だ。
無常にも常住にも本質・自性はない。
だからすべては空とみよというのが仏教だろ。
無分別が仏教なのではない。
789 :
宝珠愚者 :2009/06/24(水) 10:20:41 ID:KoI8yT0W
>>784 『この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。』(p160)
『それが存在するか否かは不明であり、無記であるとして、これを問題にすることを禁
じた。』(p160-161)
諸法無我の諸法とは「諸行」と同じく、現象界における一切のことです。仏教が説く「一
切」とは、我々凡夫が住むこの世界のことであり、それに限られる。
> 『われわれにとっての世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を
>
>仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。』
>
>(p127)
>>769 従って、無我とは現象界における性質に限定されます。一切(現象界)外については、
「無い」と説いたのではなくて、単に無記です。
> 『諸行とは生滅変化する一切の現象法を指し、有為と同義である。すべての現象は一瞬
>の停止もなく、無常にして生滅変化するというのが諸行無常である。』(p158)
> 『理論的には「無常であるが故に苦なり」とか「無常であるが故に無我なり」とかいわれる
>ように、苦や無我の理由として無常が説かれた。』(p158-159)
>>770 >てゆうか、我(アートマン)なんか無くても何も困ることは無い。
>なぜ、アートマンに執着するのかな?
業報輪廻を認めて、ニルヴァーナが常住/常恒であること。即ち、解脱とは永久不滅の意識状態であることが判るならば、アートマンの有無についてはいいでしょう。
790 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 10:24:16 ID:oYICnsGL
初期仏典や原始仏典と言われてはいても 実際に書物の形て編纂されるまでには釈迦没後から時間差がある、ということことをさしてるのか 大乗仏典と同じくらい成立が新しいものがあることか。
791 :
一在家 :2009/06/24(水) 10:40:42 ID:weGooZzr
>>771 本スレタイへの私の認識を一度整理してみました。
文献(スッタニパータ、長部経典)記載という視点では、繰り返し
母胎に宿り(再生)、カルマを蓄積する存在が説かれております。
それをアートマン(魂?)と呼び、常住不滅ではなく縁起します。
また法華経の説く仏性が宿る存在もこれと推測します。
五感で感受できる現象界は無常ですが、感受できない世界の中でも
涅槃は常住です。
仏も無常という意見も若干ありますが、法、真理まで無常という意見は
ないようです。
以上、宝珠氏の見解に近いようです。
792 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 10:41:11 ID:SJ79NnFw
>>789 >無我とは現象界における性質に限定されます。
無常な有為法が無我であるのは我なら常住だから、無常なら無我
ということだね。だから我があるとすれば無為法にしかない。
そかし無為法の涅槃は我を滅しつくした境地だから我はそこには無い。
どこに我のすみかはあるのだ?
>一切(現象界)外については、「無い」と説いたのではなくて、単に無記です。
一切を有為法だけに限定しするのはどこで得た知識だ?
アビダルマ(上座部)でも唯識(大乗)でも無為法を立てている。
有為だけでは法は完成しない。有為があれば無為もある。
有無と空・不空をごっちゃにしてるのではないか?
>>788 >無常は常住あっての無常だ。
では、常住なるものを提示してみろ。
ほれ、どうするんだよ。
くっくっく。
>>789 アートマンが無記なんだろうが。
ならば、無我でよいではないか。
くっくっく。
>>790 両方だ。
書物は書かれていくうちに意味が異なるようになる。
それは時代において言葉の意味が異なっていくからだ。
初期仏典と言われるものでも、その写本が古いわけではないんだよ。
くっくっく。
>>791 >また法華経の説く仏性が宿る存在もこれと推測します。
それはお前の推測であって、法華経の知ったことではないな。
涅槃が常住である以上、現世での涅槃はないと言うことになるわけだ。
それは釈尊の説を間違って解釈しておると言うことだな。
法や真理が無常ではない。
無常が法であり、真理なのだ。
くっくっく。
ひまだな。 くっくっく。
796 :
宝珠愚者 :2009/06/24(水) 10:57:13 ID:KoI8yT0W
>>792 >どこに我のすみかはあるのだ?
ゴータマは説かずに無記の態度で示した。
(実在では)無いのは五蘊の自己(自覚できる私)であり、アートマンが無いなどとはいっていません。
ただ、バラモン教の説くアートマン(解説)に同意できなかったのでしょう。
>一切を有為法だけに限定しするのはどこで得た知識だ?
>アビダルマ(上座部)でも唯識(大乗)でも無為法を立てている。
無為法がない、という話ではありません。
単に、「諸行」「諸法」「一切」についての理解についての話です。
これらは現象界における一切です(限定意)。
>>769-772 >>789 を繰り返し読めば十分かと思います。
これ以上の説明が必要とは思えません・・。
これが解からない仏教徒だらけであるという事実に、この私は愕然とするのです。
たぶん、仏教の知らない人に話せば素直にすぐ分るでしょうね。
仏教徒らは難しい書物の読み過ぎに、思考がガチガチに硬直してるのです。
それでこんな単純なことが解からないのです。
>>796 >ただ、バラモン教の説くアートマン(解説)に同意できなかったのでしょう。
アートマンは否定していない。
アートマンの基盤を破壊したんだよ。
つまり、単なる非我ではなく、諸法無我なわけだ。
一切は無常だ。
その中でアートマンなど無意味なのだ。
くっくっく。
>>796 >これが解からない仏教徒だらけであるという事実に、この私は愕然とするのです。
というか、お前の言っておる程度のことは、仏教徒なら常識的に越えておるのだ。
蟻の足は六本だが、それが何故だか分からない生物学者だらけだとか言っておるのと同じなんだよ。
つまり、お前が単純な読み物に頭を毒されておるわけだ。
問題提起にもならんな。
くっくっく。
はげてない人から髪の毛一本ぬいたところではげにはならない。 また、n本ぬいた状態ではげでないとき、n+1本ぬいた状態になってもやはりはげではない。 よって数学的帰納法によりはげでない人から何本毛をぬいてもはげではない。 しかし、髪の毛は有限なので、抜き続ければ必ずはげになるはずで これは事実に反している。ゆえに、この世にはげてない人は存在しない。 はげの人に一本植毛してもやはりはげである。 また、n本植毛した状態ではげであるとき、n+1本植毛した状態になってもやはりはげである。 よって、数学的帰納法によりはげである人に何本植毛してもはげである。 しかし、髪の毛を植え続ければ有限の広さをもつ頭皮は毛で覆われ、はげではなくなるはずで これは事実に反している。ゆえに、この世にはげである人は存在しない。 はげと思うも迷い、ふさふさと思うも迷い 「はげ」という概念は虚妄なのである。 よってこれを誇り亦恐れることも迷いなのである。 かつらなどもってのほかである。こころせよ。
800 :
一在家 :2009/06/24(水) 11:11:10 ID:w+KEbwGr
>794 >涅槃が常住である以上、現世での涅槃はないと言うことになるわけだ。 >それは釈尊の説を間違って解釈しておると言うことだな。 現世で生きながら、常住の涅槃を感じた、悟ったという意味ではいかが ですか?
>>800 >現世で生きながら、常住の涅槃を感じた、悟ったという意味ではいかが
>ですか?
その常住の涅槃を感じた脳は無常なわけだ。
で、その脳が常住の涅槃に居続けるとすれば、もはや既知外だろうが。
一切現世が無常である以上、その中での常住は無常なんだよ。
くっくっく。
>>741 >「ブッダは徹底的な経験論者でしたから、経験的に知ることのできない
>事象を出発点とするいわゆる形而上学的な議論をよしとしませんでした。
>ヤージュニアヴァルキヤ以来、自己は認識主体であるが故に認識対象たり
>えない、つまり経験的に知りえない存在だということは、学識あるインド
>人には常識だったのです。ですから、ブッダは経験的に知ることのできない
>自己を主題とした議論を展開しなかったのです。」(宮元啓一氏の文より)
ブッダが経験主義者であったこと・・・そうだっただろうと推測します。
自己が自己を知ることはできない・・・これについてはどうでしょうか?
世尊が偉大なのは、自己が自己を知ったという経験にあると思っています。
不可能を可能にする、これが悟りであり、悟りの難しさです。
>>774 >現代の生物学でも生命は生物の機能としている。
>機能が全体なんてことは無い。
これについてはすでにどこかで話している。
切断された手足からは生命の機能が消え、生命が失われてしまう。
>生物あっての機能だしその機能の基本が生命だからね。
生物は生命があるから生物である。生命 → 生物 という順序である。
物質 → 生命 という唯物論では生命の説明ができない。
>>802 デカルトが自己を証明しておるぞ。
そもそも、自己がなくては、修行も成り立たんな。
釈尊の遺言を思い出せ、たわけ。
くっくっく。
>>803 今時、機能か、構造かなどと言う下らん議論をしておるのか?
機能も、構造もともに概念だ。
事物あっても概念なんだよ。
そして、現在はその上位概念としての「システム」があるだろうが。
くっくっく。
805 :
一在家 :2009/06/24(水) 12:01:36 ID:weGooZzr
>>804 素朴な質問ですが、
絶対を超えるというハンドルは矛盾してませんか?
まあハンドルは幻みたいなものですが。
>>805 絶対を超えたらどうなる?
通常、儂は「超絶」と呼ばれておるがな。
くっくっく。
存在できないんじゃないか。 知らんけど。
くっくっく。
現象界では超絶だが、いやなんでもない
ん? どうした? ごまめの歯ぎしり大会か? くっくっく。
ようこそここへ
812 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 12:56:35 ID:H7EOsk7S
>>802 >世尊が偉大なのは、自己が自己を知ったという経験にあると思っています。
>不可能を可能にする、これが悟りであり、悟りの難しさです。
「 自己は認識主体であるが故に認識対象たりえない」。これが「法」である。
釈尊が「自己が自己を知った」と思ったとすれば、それは彼の「主観」に過ぎず、
「知った」ことではない。釈尊は「法」に反しているから、「悟り」でも何でも
ない。単なる無意味な「自分探し」である。
釈尊は、「自己を知った」などというアホなことは言っていないと思う。
813 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 13:10:48 ID:H7EOsk7S
「無記」とは、単に「わからない」「どちらでもよい」ということではなく、 明白な「禁止」である。「無益で、法に適合せず、涅槃に導かない」と、 はっきり言い切っているのだから。
>>812 悟という漢字の意味は<わが心>ではなかったですか。
世尊が<悟り>を語ることは、「自己を知った」というメッセージなのです。
そして単に知っただけではなく、それを周囲に説くべきだと思わせるような
ものが<悟り>にあるのだろうと思います。たとえば苦からの解放など。
世尊の発言は当時の時代状況を想像して理解すべきだろうと思う。 法も警察もなく、自分の身は自分で守る時代だった。 そういう社会でどう発言するかは相当に制約があったろう。 まして支配的な勢力(バラモン教など)に対する批判である。 世尊がサンガを維持できたのは、クシャトリア(武士階級)出身だったこと、 有力な勢力(クシャトリア、ヴァイシャ)を味方にできたことなどによる。 また待機説法はこうした時代状況のなかでは当然の方法にすぎない。 無記などもこういった文脈で理解すべきだろう。
816 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 13:27:19 ID:H7EOsk7S
>>814 「苦」は、五蘊の一つであり、五蘊は、自己そのものではなく、自己の
「機能」に過ぎない。「自己(生命、アートマン)の機能」は知ることが
出来るが、「自己そのもの」は知ることは出来ない。知ること自体が、
自己の「機能」だからである。
「自己を知った」などというのは、ミーハーの浅薄な「自分探し」に過
ぎない。どこまで行っても、「主観」を免れない。
定規は、自分で自分の長さは測れない。
817 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 13:34:14 ID:H7EOsk7S
>>781 >>無常だが、常住、常住だが無常。これが、仏教の極意。
>バカか?
>有為法は無常、無為法は常住としっかり分別されている。
有為法、無為法の区別自体が、すでに「有為法」である。従って、それによる
区別は、意味をなさない。
>>816 かりにそうなら、世尊は縁起と道徳を説いた普通の人になるでしょう。
しかいソクラテスも「汝自身を知れ」と語り、
古今東西の賢者たちの教えるところは一致しているではないですか。
自己が自己を知ることはできない、などと教えた賢者はひとりもいません。
>>812 > 「 自己は認識主体であるが故に認識対象たりえない」。これが「法」である。
違うな。
釈尊は「一切は無常である」と言う「法」を言ったんだよ。
釈尊が「自灯明」と言った時点で、認識対象足り得るのだ。
くっくっく。
820 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 13:46:04 ID:H7EOsk7S
>>763 >無常だから、無常も無常だ
>だからこの世は常住だ
しかし、その常住も無常だ、その無常も常住だ、という応酬が無限に繰り返される。
それが、「無常にして常住、常住にして無常」の意味である。
般若心経に、すべては尽くされているのではないか。
>>820 > それが、「無常にして常住、常住にして無常」の意味である。
>
> 般若心経に、すべては尽くされているのではないか。
だから、無常でいいんだよ。
逆立ちしても無常から常住が生まれるわけも無いのだ。
さらに無常を含んだ常住などもありえんな。
くっくっく。
822 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 13:52:47 ID:H7EOsk7S
>>818 >しかいソクラテスも「汝自身を知れ」と語り
それが、ソクラテスの誤りであるばかりでなく、西洋観念論哲学の誤謬
の源泉。
人間界における真理は、圧倒的多数の「普通の人」の中に宿る。一握り
の「有名人」の中ではない。
用語上の混乱があるようですね。 一切と諸法、有為法と無為法、無常と常住など。 諸行無常・・・諸行は有為法 諸法無我・・・諸法は一切 一切法・・・有為法(無常・無自性) 無為法(常住・自性)
>>822 > それが、ソクラテスの誤りであるばかりでなく、西洋観念論哲学の誤謬
> の源泉。
おまえごとき珍脳が、西洋観念論哲学の誤謬 とか言っても、西洋哲学はビクともせんがな。
場蚊ではないか。
くっくっく
>>823 で、無為法とはなんだ?
具体的に示してみろ。
出来なければ、却下だ。
くっくっく。
>>822 > 人間界における真理は、圧倒的多数の「普通の人」の中に宿る。一握り
> の「有名人」の中ではない。
ところで「真理」とは何だ?
定義しろ。
くっくっく。
826 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 13:59:54 ID:H7EOsk7S
>>823 それらの区別的概念・用語を作り出したのも、諸行の一つ(有為法)だ
から、区別自体が無意味ということになる。
827 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 14:03:51 ID:H7EOsk7S
>>825 「真理」とは、「世界のすべての人間と事物に適用できること」。
簡単じゃんw。
828 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 14:10:24 ID:H7EOsk7S
>>824 西洋観念論哲学は、既にとっくに崩壊しているのだがw。
>>827 >
>>825 >
> 「真理」とは、「世界のすべての人間と事物に適用できること」。
>
> 簡単じゃんw。
ちがうなー。
それでは「全称命題の証明」で不可能だろうが。
くっくっく。
<無為法> 常住・自性 虚空無為・・・ものの存在する場、虚空 択滅無為・・・智慧による煩悩の消滅、<涅槃> 非択滅無為・・・現象とならなかった存在 虚空はブラフマンのようなものかもしれない。 非択滅は問題外として、択滅無為(涅槃)がありえるのかどうか? 智慧も煩悩も有為法、それが消滅しても択滅無為(涅槃)ではなく、 虚空無為の可能性がありますね。よくわからない。 しかし択滅無為の涅槃があるなら、単に涅槃を意味するのではなく、 アートマンを含めているような印象も受けますね。
五位七十五法と三法印は、もともと別々に展開したのではないか。 歴史的な成立は、五位七十五法 → 三法印 ではないのか。 そう理解すれば、諸法無我だから、無為法には我がないと決めつけなくてもいい。 後づけだから、三法印の定義から、法を厳格に解釈する必要はない。 たとえばバラモン教徒なら、無為法にブラフマンとアートマンを見ることができる。 仏教徒にしても、常住の涅槃が存在しないのでは、単なる虚無主義になってしまう。 三法印を柔軟に解釈すれば、無為法に涅槃を見ることができる。
832 :
一在家 :2009/06/24(水) 15:05:43 ID:weGooZzr
>>821 ハンドルが「超絶」から「絶対」になり、また「超絶」に
戻りましたが、輪廻ですか?
面白いので観察してます。
また、「超絶」または「絶対」の場合は、凡夫相手に
「くっくっく」と笑いますか?。
不自然なので観察してます。
833 :
一在家 :2009/06/24(水) 15:25:52 ID:AtNaBXfj
>>825 >ところで「真理」とは何だ?
横レスですが、「掟」かな。
ルール(法則)の集合体。
例、因果応報、縁起
五位七十五法は有部のつくったもんだろ おまえら何やってんだ
>>829 人間に不可能だろうが、それが真理というものです。
三法印(四法印)を五位七十五法と切り離してしまうと、 三法印が大乗の単なる主張だったのではないかとも思えてくる。 八宗の祖・竜樹は<三法印を否定しない>が<小乗のもの>とする。 そして空信仰の大乗はのちに<一実相印>を説くようになる。 諸法無我は、有為法・無為法からアートマンを追放するために、 大乗がもくろんだスローガンだった可能性がある。 そう理解すれば、三法印と五位七十五法の混乱がすっきり解決する。
>三法印と五位七十五法の混乱 どのへんが?
縁起・空論者は、諸法無我だから、五位七十五法にアートマンはいないという。 かれらは空こそが最高のものであると信じている。すなわち人生は空である。 しかし後づけ三法印と五位七十五法を切り離してしまえば、 浄土信仰者は、無為法の中に涅槃を見ることができる。 バラモン教徒は、無為法にブラフマンを見ることができる。 アートマン信者は、無為法に涅槃とアートマンを見ることができる。
>>837 →
>>838 大乗は諸法無我と言って有為法からも無為法からも我(アートマン)を追放し、
そのかわりに一実相印(空)を説く。
なんと好都合なスローガンを考え出したものだ。
しかも諸法無我は小乗の立場であるとする。大乗は頭がいい。
>しかし後づけ三法印と五位七十五法を切り離してしまえば、 浄土信仰者は、無為法の中に涅槃を見ることができる。 バラモン教徒は、無為法にブラフマンを見ることができる。 アートマン信者は、無為法に涅槃とアートマンを見ることができる。 という夢を見るのは勝手だが バラモン教徒はブラフマンを無為法だと思ってないよ しかも、仏教でブラフマンはブラフマー梵天として神の元締めと理解されてます。
>>830 > しかし択滅無為の涅槃があるなら、単に涅槃を意味するのではなく、
> アートマンを含めているような印象も受けますね。
釈尊の遺言を言ってみろ。
くっくっく。
>>832 専用ブラウザだからな。
くっくっくは、儂に潰されたヤツのためなんだよ。
くっくっく。
>>833 掟では、集団によって真理が変わってしまうではないか。
駄目だな。
>>835 人間に不可能であれば、それが真理だとなぜわかるんだ?
場蚊ではないか。
くっくっく。
>>839 じぶん、三宝淫は小乗のものだと言ってたやん
なんで小乗は無為法にアート万を認めていたみたいなことになっとん?
>>838 佛法では無為法に無常を見るんだよ。
くっくっく。
>>839 後から出れば、皆頭がよく見えるのだ。
しかし、釈尊の教えに反することは無い。
>人間に不可能であれば、それが真理だとなぜわかるんだ? >場蚊ではないか。 だから宗教は信じるもんなんだよ 真理だと信じるもの。 科学も暫定的な真理にすぎん。 君は、真理とは何か聞いてきたのではないのかね
>>842 居士付けだから仕方ないわけだ。
くっくっく。
同じようなことは四諦にもある。小乗は四諦の道を八正道とする。 ところが空に偏った大乗は道を縁起・空にしてしまう。 悟りに関しては次のような区別ができる。 1 大乗の悟り ・・・ 理解レベル 苦 → 集(原因) → 滅(空) ← 道(縁起) 2 小乗の悟り ・・・ 体験レベル 苦 → 集(原因) → 滅(?) ← 道(八正道) 3 明星の悟り ・・・ 瞑想レベル 世尊、空海の境地
>>844 暫定的なものを真理とは言わんのだ、たわけ。
それは方便だろうが。
おまえの言っておるのは真理ではないと言うだけのことだ。
何が真理であるかなど、法句経を読めば明白だ。
くっくっく。
>>846 凡夫のお前が悟りを分類してなにか意味があるのか?
微塵子が文学を分類するが如しだな。
くっくっく。
苦じゅう滅道はそれぞれ果因を配したものです
850 :
一在家 :2009/06/24(水) 16:45:26 ID:weGooZzr
>>841 >釈尊の遺言を言ってみろ。
横レスです。
「自己に頼れ、自己を灯明とせよ。」
また真理は「法則の集合体」。
例、因果応報、万有引力
自己=アートマン、ですか?
>>847 >暫定的なものを真理とは言わんのだ、たわけ。
そうかもしれん。
だが、現在の人間の知恵でそうとしか思えずまた反証もされ得ないものは
真理とよばざるを得まいが。
852 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 16:52:42 ID:SJ79NnFw
>>803 >切断された手足からは生命の機能が消え、生命が失われてしまう。
いや、現代の生物学では生命の最小単位は「細胞」だね。
だから、脳死による臓器移植もできるのだろ。
いつ、人が完全に死ぬのか判別するには「九相詩絵巻」を見るとよい
と解剖学の養老先生が推奨していた。
現代人には死体の腐敗していく様子すら隠されてしまっているとね。
>物質 → 生命 という唯物論では生命の説明ができない。
そりゃ、はじめから間違ったことを説明することはしないほうがいいね。
物質の中には生物も非生物もあるのだから。
生命を先にしたら非生物が説明できない。
853 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 17:05:20 ID:SJ79NnFw
>>815 >そういう社会でどう発言するかは相当に制約があったろう。
>まして支配的な勢力(バラモン教など)に対する批判である。
いや、バラモン教は思想の自由は保障していた。
ていうか、ヒンドゥー(バラモン)教は哲学・思想には寛容で
どんな思想でも自由だったんだろ。だから六師外道なんて自由思想家
が活躍できたんだろ。
ゴータマも入滅前は七番目の自由思想家だったんだろ。
>>850 自己=アートマンと釈尊が言っておるのか?
くっくっく。
>>851 > だが、現在の人間の知恵でそうとしか思えずまた反証もされ得ないものは
> 真理とよばざるを得まいが。
では、具体的な真理を言ってみろ。
くっくっく。
アートマンぐらいじぶんでしらべろや 回路に電池を印可すると電流が流れる
856 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 18:05:00 ID:6NAOQ/33
縁起だ、空だと言って、空ばっかり追いかけていると、頭がおかしくなるよ 空はカラッポだから、いくら追っかけても何も見つからない
857 :
宝珠愚者 :2009/06/24(水) 18:35:47 ID:KoI8yT0W
858 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 19:24:47 ID:SJ79NnFw
苦ッ苦ッ苦 法ッ法ッ法
859 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 20:37:07 ID:SJ79NnFw
>>796 >単に、「諸行」「諸法」「一切」についての理解についての話です。
>これらは現象界における一切です(限定意)。
ダンマパダ第二十章 道の以下をどう解釈するのだ?
277 「一切の形成されたものは無常である」・・・
278 「一切の形成されたものは苦しみである」・・・
279 「一切の事物は我ならざるものである」・・・
もちろん、一切の事物とは一切の「ダルマ=法」のことだよね。
ここでなぜ一切の形成されたものと一切の事物とを区別しなければならないんだ?
860 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 20:49:04 ID:SJ79NnFw
>>799 髪の毛を一本抜いても一本再生する人は禿ではない。
輪廻転生するようなものだ。
髪の毛を一本抜いても再生しない人はやがてはげとなる。
これが輪廻からの解脱、涅槃という。だからそれが坊主頭のいわれだ。
861 :
暁 :2009/06/24(水) 21:10:29 ID:1qWFc/Fd
>>856 まるでお手本のような「空見」がいてワロタ
862 :
旧7 :2009/06/24(水) 21:12:55 ID:z1oYzErm
>>549 277偈・・・一切行・・・無常・・・(有為法) →「涅槃」は無常ではない。
278偈・・・一切行・・・. 苦 .・・・(有為法) →「涅槃」は苦ではない。
279偈・・・一切法・・・無我・・・(無為法を含) →「涅槃」の位置付けはココ。「涅槃」もまた無我(非我)である。
.非我
863 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 21:41:11 ID:nzhyhepK
そうだね。仏教は無我だよね。
864 :
旧7 :2009/06/24(水) 22:27:26 ID:z1oYzErm
なんだ。誰もいないのか・・・。 (´・ω・`)
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1244362051/180 「解脱」が、通常の原語でなく[pradAna](原意としては「得られたところのもの」?)
から訳されている点も興味深いが、
[padam](“pad”? パーリの「pada」?)を「境地」としている点も興味深い。
訳文(或いは語順)の重要性、影響力が(そして恣意性が?)垣間見れる一例か・・・?w
もし、[pradAna]が、(梵行の結果)得られた所のもの(安楽、境地)だとしたなら、
それが[a-cyutam]ということは、「【(一度)得たならば】失われることがない」という意味になるか?
或いは「不退転」等。(→初めから「あり」、「継続(≒常住)する」ものではない?)
《得られ、達成された所の“pad(境地?)”は、失われることはない》と・・。
実にこれが、最上の究極であり、(この)静けさの(静けさという)“padam”は無上である。/
一切の相の滅という、(この)得られた所のものである“padam”は、失われることのないものである。
と・・・、やっぱ無理だw 訳せんw (格変化の相互対応は、この方が良さ気にも思えるが・・・)
865 :
旧7 :2009/06/24(水) 22:38:01 ID:z1oYzErm
>>747 はい。 重要な発言ですね。
もし、 >意識の状態の変化 であるならば、
その時「色」は(或いは五蘊は)どうなっているのでしょう。
イシパタナに於いて、五比丘の眼根と和合した、色境としてのゴータマの身体(色)は如何なるものだったのでしょう。
やはり、この時点では完全なる悟り・涅槃ではなかった?80歳の入滅でもって初めて解脱が完了した、と?
五比丘と議論した時、ゴータマは未だ涅槃を見ていなかった、と?
端的に言うならば、《五蘊を離れて「意識状態の変化」云々などと言えるのか?》と。
だから、沙門果経77〜88節なのです。
この《85・86節をどう評価するか》は、
《各自の、仏教に対するスタンスの取り方、立ち位置の取り方》にとって重要なものとなります。
(だから、ちなみに、入滅は「涅槃」でなく「般涅槃」なのですw)
>>569 >Dhp.160 attA hi attano nAtho , kho hi nAtho paro siyA.
>もし、「 attan 」を「アートマン」とのみ読む(解す)のであるなら、
>上記は明らかに『アートマンを肯定的に拠り所とすべきである』という文意となる。
アートマンこそアートマンの主である。
これだと<アートマン甲は、アートマン乙の主である>と
二つのアートマンが想定されてしまいます。
『ダンマパダ』のアッタンは、ウパニシャッド的な
常"一"主宰のアートマンではないようですね。
ちなみに中村元訳では
自己こそ自分の主である。
867 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 22:46:37 ID:2ygnWKso
原始仏教(小乗仏教)では、専ら「自分の」解脱が目的なのか。それでは、 オナニーと何ら変わるところはない。オナニーすれば、何回でも涅槃に入れ ますw。 社会にとっては、くその役にも立たない、無意味で有害な行為に過ぎない。
868 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:03:15 ID:1KlhsiuI
>>859 279 「一切の事物は我ならざるものである」諸法非我
我(アートマン)がないと言っているのではなく、
我とは分類の対象になるような存在ではない、ということか。
言い換えれば、現象ではないということか。
成道と涅槃の違いもわからんのか? 場蚊が多いな。 くっくっく。
870 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:09:17 ID:2ygnWKso
>>869 >成道と涅槃の違いもわからんのか?
いずれも、専ら「自分のため」だから、オナニーであることは同じ。
少なくとも、「精神的オナニー」という「卑しい行為」であることには
違いはない。
反論あるかね。
無為法の非択滅無為 現象となるべき縁がないために現象となりえなかった存在 これは問題外と切り捨てたが、もしかしてこれがアートマン?
872 :
旧7 :2009/06/24(水) 23:15:33 ID:z1oYzErm
>>869 決定論スレは無くなったのか?飽きたのか?w
873 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:16:01 ID:2ygnWKso
>>871 アートマンの意味さえ判らないまま、アートマンを論じているのかねw。
無為法の推測仮説 虚空 ・・・ブラフマン 択滅 ・・・涅槃 非択滅・・・アートマン
877 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:21:46 ID:2ygnWKso
>>875 原始仏教(小乗仏教)のオナニーのどこから、「利他」が出てくるのかねw。
「自利」だけは、大いにあるがw。
リンク先読んだ?話はそれから。
879 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:28:25 ID:nzhyhepK
成道ではなく、成仏だよね。道は歩く所だろ。
880 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:32:44 ID:2ygnWKso
>>878 読んだが、このスレの佛教屋の話は、すべて「精神的オナニー」の話題ばかり
だね。それがどうやって「利他」に繋がるかの話は、全く出てこない。
882 :
旧7 :2009/06/24(水) 23:37:34 ID:z1oYzErm
>>879 「道」→『成すべき事柄、為されるべき行い』。
それが、「成された、成就した、完遂した、成し遂げられた」から《成道》なんだよw
883 :
ixtlan :2009/06/24(水) 23:38:22 ID:jxs5eYP9
>304 >それは、ガンジーが彼らに最下層賎民としてどんな仕打ちを受けていようとも、自己の 本質は神であり、自分らも同じ神の子であるという尊厳と喜びを以って、 どんな困難にも 負けないで強く生きて欲しい、という切なる願いからの言葉です。 ガンジーが不可触賤民の間で不人気だったのは、彼がその差別を 「神の子」と呼ぶことで温存してしまったからという説明があります。 精神的に持ち上げても、実際には彼らのためには何にもしなかった。 だから、仏教を掲げて闘争するアンベドカルが出てきたと。 (『アジアの聖と賤』沖浦和光、野間宏)
タイトルに脊髄反射しちゃったからって後から埋め合わせなんてしなくていいんだよ。隠居。
885 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:43:13 ID:2ygnWKso
>>881 アートマンとは何かは、「利他」とは関係ないと思うが。
そもそも、「『自分』の輪廻転生を免れるための修行・解脱」は、エゴ
と煩悩の極致であり、「利他」とは対極にあるもの。
佛教スレなのに、「外国の佛教」である原始仏教(小乗佛教)信者ばかり
が群がっていることの不思議。
いまの仏教は、信徒に利他(布施)を要求し、僧侶は自利に徹している。 この状態を改善しないと仏教は衰退するだろう。
>>885 >アートマンとは何かは、「利他」とは関係ないと思うが。
スレ違いを散々捻じ込んできた隠居が今更それを言うわけ?都合よすぎだね。
>そもそも、
そもそも突っ込んだのは「専ら」の部分なんだけど。他者のために行うことを説き、
それを重要なこととしている。以上。
888 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:52:33 ID:2ygnWKso
>>886 僧侶も職業だから、報酬を受けるのは当然。さもなければ、自分や家族
が生きてゆけない。
それよりも、このスレのような、原始仏教(小乗仏教)の「精神的オナニー」
を禁止することが先決。
889 :
神も仏も名無しさん :2009/06/24(水) 23:59:32 ID:2ygnWKso
>>887 >他者のために行うことを説き、それを重要なこととしている。以上。
専ら「自己満足」の話題だけで、「他者」という言葉など出てこないが。
「オナニー」は、他者とは関係ない。
>>889 揚げ足取りのつもりなの?単語が出てない?はぁ……
他者との関わりが話題になってるんだけど。
「自利」や「利他」の定義を俺様解釈で拡大しちゃったら
大乗も巻き添えくっちゃうよ?
891 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 00:09:57 ID:ArfREFu5
>>890 日本では、恐らくはオウムしか公式には信仰していない原始仏教(小乗仏教)
ばかりしか出てこないのは、不可思議。
ここは、隠れオウムのスレか。
>>891 オウムの内容は、原始仏教ではないよ。
看板は原始仏教といってるが、信仰内容は真我独存への回帰。
麻原彰晃への絶対的な信仰と服従。
釈尊の教え、という意味での原始仏教とは全く違う。
>>891 アンカーつけるなら、せめてアンカーをつけることに意味を持たせてくれ。
そのレスなんて、アンカーをつける必要性の無い述懐&レッテル貼りじゃん。
日本で公式に釈尊仏教(原始仏教)を標榜しているのは 宗教団体としては日本テーラワーダ仏教協会、それから パーリ聖典を研究する仏教学者、その読者である在家仏教徒。
895 :
旧7 :2009/06/25(木) 00:16:43 ID:df57FCrB
>>891 「(後期)大乗仏教」及び「近代日本仏教」が、
≪『抽象的エッセンス』さえ有していれば良い。仏教である。≫
というスタンスを選択した弊害は無視ですかwww
896 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 00:16:44 ID:ArfREFu5
>>892 オウムの信者は「原始仏教徒」を自認している。そんなこと言ったら、
信者が怒るぞ。
このスレの人々も、原始仏教こそが釈迦の教えであると信じ込んでいる
ではないか。
>>896 怒っても、怒らなくても、違うもんは違うんだからしゃーないべ。
>原始仏教こそが釈迦の教えであると信じ込んでいるではないか。
んじゃ、なにが釈尊の教えだと?
898 :
暁 :2009/06/25(木) 00:19:48 ID:HfpMv/jB
空見が引き起こした殺人集団がオウム その思想そのまんまの人がちらほら見受けられる のは確かだね 空をからっぽだと執見するとこなんてカルトそのもの
キリスト教こそが釈迦の教えだとでもいうのか。 釈迦の教えのことを仏教という名前で呼んでるんだが、そんなこと 言われたら言語によるコミュニケーションが成立しないじゃんかw
サリン事件などの犯罪を犯した時点でのオウム集団の信仰は 真我の信仰にもとづいており、それが殺しても大丈夫という論拠に なっていた。 ウパニシャッドにみられるような信仰に基づく。 その後、世間の仏教者たちから教義の矛盾を指摘され、教団内部で 空の解釈などを独自にすすめていったという経緯がある。
三法印(四法印)と五位七十五法の流れを推測する 1 世尊がダンマパダで諸行無常・一切皆苦・諸法非我に触れている。 2 そのときは、五位七十五法は未成立であり、不十分であった。 3 したがって、世尊の話を、きっちり法にあてはめる必要はない。 4 その後、有部のもとで五位七十五法が体系化される。 5 世尊の話はこの時、法と関連するように整理されたかもしれない。 6 諸法非我 → 諸法無我に言い換えられる。 7 大乗によって諸法無我がアートマン否定に利用される。 8 諸法無我 → 諸法のどこにも我はない、という洗脳が成立する。 ダンマパダの道を紹介してくれた方に感謝したい。 ここに四諦、八正道も出てきますね。
902 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 00:25:02 ID:ArfREFu5
私は、10年以上前から、「原始仏教は、開祖と原始仏典盲信のカルト」 と喝破していたが、どうやら、その通りのようだな。
原始仏教を標榜しておきながら、空の定義すら知らなかった というのがオウム真理教の実情なんだ。
まぁ、空は龍樹以降とする見方が一般的かもしれんが。
>>902 仏教研究において、文献学の観点から原始仏教に迫ろうとする
努力がずっと続いてきたわけだが、それも否定するのか?
906 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 00:27:59 ID:ArfREFu5
>>902 喝破などと、全員を十羽一からげに考えるのも、単純思考だと思うぞ。
>>902 それから、あなたの言う「カルト」の定義は何だ?
仮に釈迦の教えそのものが再現できたとして、それ自体が「カルト」なのだ
という主張か?
>>898 これのことか? 流れを読まないで何か勘違いしているようだが。
861 :暁:2009/06/24(水) 21:10:29 ID:1qWFc/Fd
>>856 まるでお手本のような「空見」がいてワロタ
>>902 再現できていないといっておきながら、
再現すらできていないものを、どうやってカルトかカルトじゃないか
判断しているのだ?
その判断基準は現実の証拠に基づいているのか?
それともあなたの脳内にしかないのか?
わたしはあなたの思考を喝破したぞw
>>906 大乗の一大哲学も加えてやってください。
913 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 00:34:20 ID:ArfREFu5
>>905 >仏教研究において、文献学の観点から原始仏教に迫ろうとする
>努力がずっと続いてきたわけだが、それも否定するのか?
その努力がオウムを生んだ。中村博士には、重大な責任があると思う。
何故あんなに、原始仏教の本を書きまくったのか。それによって生じる
弊害に、何故歯止めをかけなかったのか。
オウム信者は、だれひとり中村元博士の訳書なんて読んでませんw
>>914 まともな仏教書の一冊でも読んでいたら、真我独存こそが
最終的な修行の到達地点、などという信仰も、教祖への
盲従も生まれるはずがないだろ。
てか、あなた仏教書の一冊でも読んだことあるの?
知らないなら黙っててくれないか?
916 :
暁 :2009/06/25(木) 00:40:58 ID:HfpMv/jB
>>910 何か勘違いして失礼なこと言ったならすみません
917 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 00:47:42 ID:ArfREFu5
オウムの信者たちも、生来的には純粋で善良な人間ばかり。宗教を 信じたばかりに、100%の善意で人を殺し、自らも、死刑台の登らな ければならない。彼らを慈しみ育ててきたご両親の苦しみと悲しみは、 想像を絶する。 処刑されるべきは、中村氏を初めとする、原始仏教(小乗仏教)を賛美 する、同系の宗教学者、宗教者である。信者たちは、これらの人々の洗脳 の結果によるものだから、無罪とするのが筋である。自由意志を奪われて いたのだから。 麻原も、原始仏教やヒンドゥー教、チベット仏教、キリスト教の「犠牲者」 にすぎない。彼も、宗教にさえ嵌らなければ、腕利きの鍼灸師として、社会 に貢献していたであろう。 オウム以後も、まだ原始仏教、ヒンドゥー教、チベット仏教、キリスト教の 持ち上げている者が存在するのは、異常極まりない。 このスレから見ると、第二、第三のオウムが出現するのは、必然的である。
三法印(四法印)と五位七十五法の流れを推測する
>>901 の訂正をしたい
5 法はこの時、世尊の話に合わせて整理されたかもしれない。
6 諸法非我 → <大乗によって>諸法無我に言い換えられる。
6の理由・・・有部は我ありだから、諸法<無我>と言うはずがない。
919 :
旧7 :2009/06/25(木) 00:50:16 ID:df57FCrB
おかしな新興宗教団体が世の中からなくなったためしなんてないよ。 オウムもそのひとつに過ぎん。 創価学会の人は犬作の人間革命が仏教だと思ってるし、幸福の科学の 人は、大川バカボンが仏陀の生まれ変わりだと思ってる。
反論も無く「処刑されるべきは」…… 真夜中だからって飛ばしすぎだろ常考
今日(正確には昨日になるが)もいろいろ収穫があった。 他人の話はとにかく聞いて見るものですね。 みんなに啓発されて仏教理解が一挙に進んだような気がする。 ご隠居、邪魔してすみませんでした。オチ
923 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 01:01:58 ID:ArfREFu5
>>814 >オウム信者は、だれひとり中村元博士の訳書なんて読んでませんw
このスレの連中と同様、中村氏の本にかじりついていたはずだ。オウム
事件に深く関与した宗教学者から直接聞いた話では、私が中村氏の話を
持ち出すと、顔をしかめて、「中村氏の影響が大きい」と吐き捨てるよ
うに言っていた。
チベット仏教に嵌った「宗教学者」中沢新一も、「オウムの精神的指導者」
として厳しく批判されている。
924 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 01:06:53 ID:ArfREFu5
>>922 >みんなに啓発されて仏教理解が一挙に進んだような気がする。
原始仏教による洗脳が深まった、ということに過ぎないだろw。大乗仏教
の話は、殆ど出ていないが。
>>923 あなたの場合、人から聞いた話による推測でしょう。
わたしの発言は、自分で確かめた事実なんです。
オウム信者が読んでいるのは、麻原彰晃の説法集です。
そして、一部の幹部信者が、中村元の著作から都合の良い
部分だけ抜き出し、麻原教の正当化に利用しているのです。
オウムがやっているのは、麻原教であって、「仏教」という
ブランド、あるいは「中村元」というブランドだけを正当化と
権威付けのために使っているのです。
中身はまったく違うのです。
この違いの大きさを知ってください。
926 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 01:15:18 ID:ArfREFu5
>>925 >そして、一部の幹部信者が、中村元の著作から都合の良い
>部分だけ抜き出し、麻原教の正当化に利用しているのです。
そのスレの住民たちと、全く同じではないかw。
キリスト教、神知学、真光の「正当化」に利用している者たちもいるで
はないか。
オウムの反省など皆無。第二、第三のオウムの発生源になることは、必然
的。
>>926 どうでもいいけど、おまえ自分の間違いを少しは反省しろよw
928 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 01:22:54 ID:ArfREFu5
>>927 キリスト教の影響が、すべてのカルトの原因となるという「予言」は、
すべて的中した。
929 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 02:12:53 ID:M90S+dt1
>>895 >「(後期)大乗仏教」及び「近代日本仏教」が、
≪『抽象的エッセンス』さえ有していれば良い。仏教である。≫
>というスタンスを選択した弊害は無視ですかwww
それは、弊害というより、むしろ長所。「時代の変化に適応して」「自分の頭」
で考えているから。
時代も異なる大昔の開祖の言葉の一字一句(それも開祖の言葉・真意であること
の保証は皆無)をありがたがり、盲信することこそ、最大の弊害ではありませ
んか。現代における宗教・宗派同士の殺し合い、争いは、すべてそこから発生
しているという事実から、目を逸らさないでください。
930 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 07:02:00 ID:RTfqk2Mt
>>867 >社会にとっては、くその役にも立たない、無意味で有害な行為に過ぎない。
そんなこと無いだろ。
不殺生戒(アヒンサー)が完全に守られれば世の中から戦争や殺人は無くなる。
不妄語戒が完全に守られれば世の中から詐欺は消える。
不盗戒が完全に守られれば世の中から窃盗はなくなる。
ほんの三つの戒を各自が守るだけでどんなに住み易い社会になることか!!!
社会は一人ひとりの人と人の間つまり人間から構成されてるものだ。
♪人は石垣、人は城
♪情けは人のためならず
>>926 つ鏡
自分のことを棚上げするのは毎度のことだな。
>>929 >「時代の変化に適応して」「自分の頭」で考えて
時代の変化に合わせて自分の頭で考えでアレンジして
世情に迎合し戦争煽動した過去が日本の大乗仏教にはある。
>>930 かつての戦争では一殺多生という理屈を推し進めて
不殺生戒(アヒンサー)を蔑ろにしてたね。
932 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 08:14:17 ID:RTfqk2Mt
>>892 >オウムの内容は、原始仏教ではないよ。
そうだよね。
人殺しをするなら仏教とはいえない。
不殺生戒は無条件・無限定の誰でも守るべき戒だろ。
933 :
一在家 :2009/06/25(木) 08:22:41 ID:IvCEgc4X
>>901 >6 諸法非我 → 諸法無我に言い換えられる。
>7 大乗によって諸法無我がアートマン否定に利用される。
>8 諸法無我 → 諸法のどこにも我はない、という洗脳が成立する。
原始仏典では繰り返し「再び母胎に宿る存在」が説かれていたのに
日本の仏教徒の多くが魂、再生を信じないのかという命題の参考に
なります。
やはり7,8の主犯はは中国の坊さん達ですか? 龍樹まで遡りますか?
貴兄の私見でも結構です。
無我が正しいのか、非我が正しいのか・・・と言うことの決着は、それらを主張している佛法者の行いで決定されるのだ。 それが宗教と言うものなんだよ。 仏陀も行いがあってこその仏陀なのだ。 くっくっく。
>>870 >少なくとも、「精神的オナニー」という「卑しい行為」であることには
>違いはない。
>
>反論あるかね。
では、それを証明しろ。
くっくっく。
936 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 08:45:31 ID:E+mUTJi9
>>867 >>875 >>888 >原始仏教(小乗仏教)では
ですから、
原始仏教という場合はゴータマの教えをそのまま実践している原初形態のサンガです。
それを小乗などと見下すことは、仏教そのものが成り立たず蔑ろにする行為です。
>>286 小乗は原始仏教ではなく、〜以降の上座部以下-部派のグループです。
>>885 >佛教スレなのに、「外国の佛教」である原始仏教(小乗佛教)信者ばかり
>が群がっていることの不思議。
悪ふざけですか??
ゴータマその人が外国の方です。
日本の仏教は、何処の誰かもわからない人たちが勝手に偽造した経典が、
更に漢訳にてシナ化(古代中国で着色)されたものであり、
天台智 の誤った教相判尺(五時八教説)を元に体系化されたものが
そのまま導入された世界です。勝手な創作は仏教とはいわない!
『しかし、今日では、経典の成立した年代がある程度特定され、大乗経典などは、
釈迦の直説ではなく後代によって成立したことが周知の事実であることから、大乗
非仏説の根拠として批判されている。したがって五時八教説(後述)は完全なもの
ではない、あるいは正しくないと一般的に否定されつつある。』(Wiki)
>>891 いい加減にして下さい!
史実上のゴータマが何を語り、どのように生きたか?
を知るには原始仏典に拠らざる得ないのです。それができないのであれば、
もう出てって下さい!大乗各宗の信仰は今も在るのですから
どうぞそちらでお好きにして下さい。
937 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 08:49:16 ID:E+mUTJi9
939 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 08:55:28 ID:E+mUTJi9
一切とは現象界のことです。人間においては五蘊であり、ゴータマは「五蘊はアートマ
ン(自己)ではない」といった。かといって、アートマンが何であるかは示すことができない
から「無記」としたのです。
『比丘たちよ、私は「一切」について話そうと思う。よく聞くがよい。「一切」とは、いった
い何であろうか?それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻に臭うも
の、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に触れられるもの、心(意)と心に触れられる
もの、のことである。これが「一切」と呼ばれるものなのだ。誰かがこの「一切」を否定し、
これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、(空虚な)言葉だけに終わ
らざるを得ないであろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れて
しまうかも知れない。それは何故であろうか。何故ならば、彼の主張が彼の知識(知覚)
領域を越えているからである。』(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
>>831 >仏教徒にしても、常住の涅槃が存在しないのでは、単なる虚無主義になってしまう。
>
まったく同感ですね!
涅槃に到るには仏道という機縁(縁起)が必要でしょうが、
しかし一度、涅槃に到達した存在は二度と転落することは在り得ないのです。
であるから、求めるべき価値があるのであり、
涅槃こそが仏教の目指す唯一にして究極の境地なのです。
これを「常住/常恒」といい、現代言葉で普通にいい表すと“永久不滅の境地”ということ。
>>936 >天台智 の誤った教相判尺(五時八教説)を元に体系化されたものが
>そのまま導入された世界です。勝手な創作は仏教とはいわない!
儂もチギの言っておることが正しいとは思わんよ。
しかし、あまねく佛法は皆佛法であるのだ。
ほれ、法句経の「真理の定義」を言ってみろ。
くっくっく。
>>939 >しかし一度、涅槃に到達した存在は二度と転落することは在り得ないのです。
涅槃に到達すればな。
その道のりは一つではない。
それは釈尊の遺言で明らかだ。
くっくっく。
942 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 09:07:11 ID:RTfqk2Mt
>>939 >これを「常住/常恒」といい、現代言葉で普通にいい表すと“永久不滅の境地”ということ。
ブッダは涅槃(ニルヴァーナ)をそのように説明していないではないか?
「常住・常恒」ではなく「不生不滅」だろ。生滅法の否定だから当然
「不生不滅」となる。
ウダーナヴァルガのニルヴァーナの説明を忘れたのか?
943 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 09:13:01 ID:RTfqk2Mt
彼岸に到達したら彼岸に永住しないで此岸に戻ってきなさい、 というのが大乗の教えであり釈迦の遊行の実践であろう。 ♪往きよいよい、帰りはこわい ♪怖いながらも、とうりゃんせ、とうりゃんせ
944 :
一在家 :2009/06/25(木) 09:13:08 ID:IvCEgc4X
>>942 >生滅法の否定だから当然「不生不滅」となる。
涅槃に入った修行完成者は、
再び母胎に宿らない(誕生しない)から、死も無い、ということですか。
945 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 09:15:11 ID:RTfqk2Mt
>>944 涅槃は「不死不生」でもあるね。だから、輪廻からの解脱だ。
946 :
暁 :2009/06/25(木) 09:23:41 ID:HfpMv/jB
「空即ニルヴァーナ」だろう。 俺達の生活を離れた彼岸にニルヴァーナという境地が 存在するのではない。 我々凡夫は迷い苦しみ生きている。そこにニルヴァーナ の境地が有るとか、そのようなものに達したよいなと憧 れたりね。 しかしそんな境地はどこにも存在しないし、それが有る や憧れるということ自体が迷いなのだろう。 したがって一切は無縛無解である。 「束縛と解脱とがある」と思うのは束縛であり、 「束縛もなく解脱もない」と思うときに解脱がある。
947 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 09:33:22 ID:E+mUTJi9
>>901 >>918 >6 諸法非我 → <大乗によって>諸法無我に言い換えられる。
> 理由・・・有部は我ありだから、諸法<無我>と言うはずがない。
>7 大乗によって諸法無我がアートマン否定に利用される。
>8 諸法無我 → 諸法のどこにも我はない、という洗脳が成立する。
本来、ただの「非我」(それら五蘊はアートマンではない)であったものが、後代になっ
て「無我」(アートマンは存在しない)へと改変されたと中村氏はいっており、また『インド
思想史』でも意味が変化したと述べられています。
『したがってわれわれはこれを無我説と呼ぶことを躊躇する。「無我」という語は誤解
をひき起し易い。初期の仏教においては決して「アートマンが存在しない」とは説いてい
ない。むしろウパニシャッドなどの思想と多分に密接な連関を有するのである。--略--
ところで散文の部分で強調されている思想を受けて、後世になると遂に「アートマンは
存在しない」という意味の無我説が確立するに至った。』
(中村元著『自我と無我』平楽寺書店刊)
『仏教は無我説を立てることで有名であるが、その思想内容は歴史的にかなりな変
遷がある。それにともない「諸法無我」の解釈にも変化がみられる。』
(インド思想史略説/第2節-原始仏教の教理)
本当に、仏教界は「アートマンは存在しない」「我はない」。たとえ「ニルヴァーナにおい
ても我はない」でいいのですか?テーラワーダとチベットも共通の伝統であり、水野氏や
石飛氏も説くから・・で、本当に正解ですか(ゴータマはそのように説いたということ)?
948 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 09:38:26 ID:E+mUTJi9
>>859 >もちろん、一切の事物とは一切の「ダルマ=法」のことだよね。
>ここでなぜ一切の形成されたものと一切の事物とを区別しなければならないんだ?
>
違うと思います。
何故、「形成されたもの」と「事物」とに言い換えているのかは分りませんが、
「事物」とは、つまり“形成されたもの”であって、それは“現象世界における一切”です。
>>862 277-278は同意しますが、279は一切法(有為/無為の双方含む)ではないと思います。
「一切の事物」といっているのですから、これは現象界の事物です。
「そこには我はない」「それらは我ではない」ということです。
従って、「涅槃」は無我ではないと。私の立場としては“真我の実現”ということになります。
ただ、ゴータマは遂にそれを明言しなかった・・。
>>865 私は、それを解説できるようなレベルにはありません。ただいえることは、解脱者という
ものは五蘊の制御(または制御する能力)を達成しています。しかしながら、肉体を保有
しているという意味での最小限の物質的制約はあるという意味が「有余涅槃」でしょう。意
識としてはニルヴァーナを得ていますが、肉体は現象界に留まっている状態です。従って、
そういう意味における完全100%のニルヴァーナ状態は肉体を放棄して達成します(無余
涅槃)。ただし重要なことは、転生している現世において解脱を得る必要があるということ
です。そのために我々は転生してくるのですから。
949 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 09:40:48 ID:E+mUTJi9
>端的に言うならば、《五蘊を離れて「意識状態の変化」云々などと言えるのか?》と。
>
>だから、沙門果経77〜88節なのです。この《85・86節をどう評価するか》は、
>
>《各自の、仏教に対するスタンスの取り方、立ち位置の取り方》にとって重要なものとなります。
85-86は、単にそういうこともできるという話でしょう。この肉体(ただの有機物)を動かし
ているのは意識ですよ。意識が肉体という衣を着ているようなものであり、衣の外にも別の
意識体を出現させることだって(達成者には)可能ということです。これは、ヨーガスートラ
でも殆ど同じです。
>>866 >二つのアートマンが想定されてしまいます。
つまり、自己の二重性質です。
低我としてのアートマン(自己)と高我/大我としてのアートマン(自己)であり、
これが仏教の理想とする自己の姿です。
『二つの自己-----最初期の仏教においては、二種の異なった自己を想定していたこと
がわかる。 一方は悪徳煩悩の基体としての自己であり、凡夫の日常生活のうちに認めら
れる。--略--これに反して他方は理想として実現さるべき自己であり、その真実の状態は
聖者が具現しているものである。簡単にいえば、小我と大我、と呼んでもよいであろう。た
だその両者は相即しているものなのである。』
(中村 元著『原始仏教-その思想と生活』NHKブックス刊)
950 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 09:47:33 ID:RTfqk2Mt
>>946 >「空即ニルヴァーナ」だろう。
言わんとすることに反対するわけではないが・・・。
「空即是涅槃」とか「空即是色」という表現は簡潔ではあるが
誤解しやすい表現だね。無我と非我でもめるようなものだ。
きちんと「空という観点から見れば涅槃も輪廻もまったく異なる
処は無い」くらいの表現のほうがよいではないか?
龍樹も中論でそのように論述してなかったっけ?
951 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 09:59:38 ID:RTfqk2Mt
>>947 >本当に、仏教界は「アートマンは存在しない」「我はない」。たとえ「ニルヴァーナにおい
>ても我はない」でいいのですか?テーラワーダとチベットも共通の伝統であり、水野氏や
>石飛氏も説くから・・で、本当に正解ですか(ゴータマはそのように説いたということ)?
水野氏は何といってるか知らないが、石飛氏は論理的に言って「我は無い」とはいえない、
なぜなら論理矛盾だから、という立場だったと記憶してる。
ウパニシャッドの昔から「我」は主語として立てられない、というのがインド
哲学の常識だから。それで釈迦は「これは我でない」「あれは我でない」と
「我」を述語をとした述語論理を採用した是は現代の形式論理学から見ても
まったく正しい対応方法でしょうね。
厳密な論理に支えられた数学の証明も「一階述語論理」をもってされることは
ゲーデルが証明してる。そして数学は不完全だともね。
952 :
暁 :2009/06/25(木) 10:07:40 ID:HfpMv/jB
>>950 そうだね、輪廻とニルヴァーナとは我々の立場の如何に
帰するものであり、それ自体何ら差別あるものでないと
するのが中観派の考えだね。
また、「中論」帰敬序で「八不、戯論の寂滅、めでたさ」
が縁起に関していわれているが、これらは元来ニルヴァーナ
に関して当然いわれるべきことであるとも。
さて、仕事だノシ
953 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 10:14:25 ID:RTfqk2Mt
>>948 >「事物」とは、つまり“形成されたもの”であって、それは“現象世界における一切”です。
「事物」がダルマ(法)であることを認めないなら文献考証も何も無いでしょ。
ただ、自分の恣意で都合のよい解釈をするということに過ぎない。
法には有為法もあれば無為法も有る。正法もあれば邪悪法も有る。
ソクラテスでさえ「悪法も法なり」と言って毒杯を仰いだね。
「一切」は「すべて」以外の意味は無いだろ。
一切法といえば有為法・無為法のすべてであることは当然だ。
サンユッタニカーヤの「一切」を引用してたけど、そろそろ勝手な
「一切」の解釈やめたらどうだ?頭いたくなってないか?www
954 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 10:17:51 ID:RTfqk2Mt
>>952 そのとおりですね。
中論で俺の昔の名前(コテ)を思い出した。
お仕事ご苦労サンです。
>>933 在家氏
わたしはまったくの素人ですので想像、推測ですが、
上座部のなかでも有我や無我などの意見対立があったようです。
無我を積極的に採用したのは、空を説く般若経典群だろうと思います。
空思想の完成者・竜樹は、こういった背景をもとに<諸法無我>を語り、
三法印を修行者(小乗)のためのものとし、
修行完成者は一実法印<空>であると説いたのではないでしょうか。
「形成されたもの」と「一切の事物」 ダンマパダの「形成されたもの」は縁起の対象になる「もの」です。 従って有為法に限られ、さらに縁起が成立する「もの」に限られます。 「一切の事物」は、縁起に関係なく、すべての領域に渡る、 認識の対象となりうる事物(現象)を指しているのだと思います。
957 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 10:49:26 ID:E+mUTJi9
>>946 ニルヴァーナが「空」なら無価値ですね。
まさに-からっぽ!!!です
>>942 「不生不滅」とは本来は、
「縁起しているものは、自性として生じたり滅したりしているのではない」ということでしょう。
ま〜いいです。ニルヴァーナとは二度と母胎に宿らないことであり、
また不滅の意識なのですから。
>>951 ならば、いいのですが・・
(そうであれば同意します)
このスレでは、ゴータマは「アートマンそのものが存在しない」と説いた、
という意見が主流(多数意見)であり、それが「無我」の教えであると。
従って、ニルヴァーナというのも無我なんだそうです。
石飛氏も、「自己はない」と結論したと。
>>554
958 :
宝珠愚者 :2009/06/25(木) 10:50:44 ID:E+mUTJi9
>>953 『「無自性」
(岩波仏教辞典「無自性」の項より)
固有の本質(自性)をもたないこと。すべての事物は、他のさまざまな事物や構成要素
に依存しており、それゆえ固有の本質を欠いているという意味。龍樹は『中論』において
「自性は他に関係せず、作られない」と定義づけ、これにより、自性を欠いていることを意
味する空と無自性は同義であるという。この定義によれば、他に関係するものはすべて
無自性であり、それゆえにまた、他の事物に縁って生起することをさす縁起は、必然的
に空=無自性を含意するという。』
だそうですよ。
「事物」が見えましたか?
>「一切」は「すべて」以外の意味は無いだろ。
では、あなたの理解する「一切皆苦/一切行苦」とは、
ニルヴァーナも苦の世界ということなのですね。
>>769
959 :
旧7 :2009/06/25(木) 11:00:00 ID:v3lNXjY4
>>866 >二つのアートマンが想定されてしまいます。
そうでもないし、
>>949 >低我としてのアートマン(自己)と高我/大我としてのアートマン(自己)であり、
このように考える必要もない。
≪同じ「自己」が、その在り方を変えた≫と見るだけで十分だ。
『自分自身が、自分自身の言動を誘(いざな)うべきである』
(→他者からアレコレ言われ、或いは影響され、或いは強制されて言動がなされるのでなく、
自ら考え、判断し、分別し、適切なベクトルで言動を為す。)
この意味での前者と後者の「自己」で何の不都合がある?
(※これが“正しい読み”というのでなく、可能な読み方の一つとしてある、ということ。)
また、次のように見ることもできる。
よく「自分に勝つことが大事」などと言われたりする。
(ここでの“勝つ”は“克つ”が使われたりもするが・・・。)
たとえば「ついつい怠けてしまう時、これではいけない!」「自分に勝たねば!」と思ったとする。
この時、「怠けている時・怠けそうな時・くじけそうな時」というのは、
まさしく【現に、今、まさしく“怠けている”自己】である。だから、この瞬間について言うならば、
≪【その自分】が負けることで、理想とされる【怠けない自己・怠けていない自己】が現れる≫、
≪【その自分】が負けることで、理想とされる【怠けない自己・怠けていない自己】へと変じる≫。
当然、『常に一つの様相・在り方でしかありえない』のだから、「二つの自己がある」ことにはならない。
この質的な差異を『低我/高我』としても良いが、全く別物である必要はない。
そこに質的な変化(・向上)があればそれでいい。
そのような質的差異を含む、(時間的先後を考慮に加えた)、二種の「自己」と見做しても文意は通る。
これは、固有名詞の「アートマン」と読んでも全く同じ。二つのアートマンを想定する必要はない。
(※これが“正しい読み”というのでなく、可能な読み方の一つとしてある、ということ。)
縁起・空には増上慢という落とし穴が待ち受けている。 縁起・空の理解は必要なのだが、それが悟りだと思う縁起・空論者は、 傲慢・尊大・高ぶりなどの増上慢にやられる。 このスレを観察していても、そういった傾向が読み取れそうだ。 かれらの誤った態度は、この世は空である、という考えから生じている。 増上慢は、縁起・空は単なる道具でしかないのに、 それを最高の境地にしてしまう<転倒>から生じている。
961 :
一在家 :2009/06/25(木) 11:24:45 ID:pzvgrrbO
>>955 >わたしはまったくの素人ですので想像、推測ですが、
私も素人で、自称在家元仏教徒ですね。
伝統的な経典の読み方を知りませんので、その分読み方の束縛もなく、
童心のごとく経典を読んでおります。
>無我を積極的に採用したのは、空を説く般若経典群だろうと思います。
>空思想の完成者・竜樹は、こういった背景をもとに<諸法無我>を語り、
貴兄の推測通りだと、「非我=無我」洗脳をかけたのは中国坊さん達でなく、
もっと大物だったことになりますね。
まあ、正統派キリスト教でも、「イエス=神自身」洗脳をかけた3人は皆超有名人
ですからあり得ます。
私見ですが、自称キリストに最も愛された弟子、エイレナイオス、アタナシウス。
でも、後二人には弾圧と分裂からクリスチャン達を守るという慈悲を感じます。
962 :
旧7 :2009/06/25(木) 11:24:59 ID:v3lNXjY4
>>958 (
>>948 )
>>862 は、片山一良の見解だよ。そして、伝統上座部の見解でもある。
「一切法」と言われた時、そこには、「意に於ける対象としての法」も含まれる。
だから、「色」(モノ・物)だけじゃない。
「まさに変化しつつある現象」も(その「変化しつつある」ということも)法だ。
「概念」や「想い・感情」も法だ。(アビダルマ的だと批判もされるが、五蘊十二処十八界は伊達じゃないぞw)
そして、「涅槃」もまた、「自ら見られ、知られるもの」であるから、
(また「無為法(asaNkhata)」として)この意味での「一切法」の中に含まれるのだ。
>>549 の原文を、よく目を凝らして見ることだ。
何が無常と言われ、何が苦と言われ、何が無我と言われているのか。
そして、“「中村訳に於ける恣意性」と距離をとる姿勢”を少しは養った方がいい。
963 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 11:38:54 ID:RTfqk2Mt
>>957 >石飛氏も、「自己はない」と結論したと。
>>554 >>554 は石飛氏が引用している「方便心論」のなかの龍樹の
証明だね。だから中論と同じ結論だ。ただ、「方便心論」がホントに
龍樹の著作かは「?」という意見も有る。
証明法を見る限りは龍樹で言いと思うがね。
でも、この命題は間違いだね。
「自己はある」「自己はない」どちらも命題として立てられない。
「自己はある」は何も意味しない無意味な命題だし、「自己はない」
は自己矛盾した命題だから。
こういうとき釈迦は例の言い方をする。
「あるのでもないし、無いのでもないし、ありかつ無いのでもないし、
ありかつ無いのでもないともいえない」
要は何を言っても無駄だ、黙ってるに限るということ。
これが形而上の命題には釈迦は無記だったということだろ。
修行もしねえやつが、仏典を読んであれこれ言っても 意味ねえっつうの。
965 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 11:59:22 ID:RTfqk2Mt
>>959 >≪同じ「自己」が、その在り方を変えた≫と見るだけで十分だ。
いや、あり方が変わるならもはやインド哲学でいうアートマン(自己)ではない。
アートマンは「個我」として普遍・不変の実体だから。
あり方が変えられるのは釈迦のいう「五蘊としての自己」しかないだろう。
966 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 12:35:02 ID:Jm2QGy7Z
釈迦も「人間」である。「色の黒いインド人のおっさん」であり、当時の自由 思想家のうちの一人に過ぎない。 「人間」だから、誤りも、勘違いも、思索の不十分さもあるのが当然でえは ないか。 「釈迦が言ったのだから正しい」という「思い込み」自体が、誤りの根源である ことを、自覚しなければならない。 なお、「自分から好んでやる修行」は、精神的自慰以外の何物でもない。趣味・ 娯楽の一種で、社会には、くその役にもたっていないことを忘れてはならない。 意に反する苦行を耐えてこそ、はじめて「修行」といえる。
967 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 12:44:21 ID:RTfqk2Mt
>>958 >「事物」が見えましたか?
事物(法)からなぜ無自性を引いたんだ?
一切法空を認めてるからだろ。
事物は言葉として見えると龍樹もいってるだろ。
>ニルヴァーナも苦の世界ということなの
どこからこんな結論を演繹したんだ。
論理力まったくゼロだね。
968 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 12:46:31 ID:RTfqk2Mt
>>964 説法も修行のうちだろ。
「そもさん?」
「せっぱ!」
>>961 >自称キリストに最も
「最も」とは言ってない。
これ前も書いたね。主要な日本語訳とキングジェームズ訳にも無かった事も示した。
翻訳の誤りか、著者の勘違いを疑ってもいいレベルだぞ。
>>966 ああ?お前はどうなんだ?
こんな時間になんで2chに書き込んでるんだ。
世間一般は今は額に汗して働いている時間なんだよ。さぼんな。
俺は今日は夜勤だから、自宅待機。
弾圧から守るならローマの宗教に迎合すればいいし(三位一体と言わず+オリュンポス十二一体とかやりゃあいい)
分裂を防ぐために必要なのは何を正しいとするかをはっきりすることであり、新しいネタを混入すればさらなる分裂の種となる。
「この理由では」的外れと言える。
※当時そのような考え方が既に浸透していたことを示唆するが、このこと自体はイエス本人がどう考えていたかとは別。
とりあえず続きはこちらで
【神話】ツァイトガイスト Zeitgeist【陰謀】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1237543151/l50
ホント、素人のクソカルトだわ。 仏陀が過去に何を言ったかなんて、気にするのは ただ、利用しようとしてる虎の威を借る糞狐だけ。 ごじゃごじゃいわずに働けよ。
973 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 13:51:57 ID:2t+HtOB7
増上慢を作り出す縁起・空 → 空を説く大乗の性格でもある 縁起・空論者は、空を最高の境地であると思い込んでいる。 ・・・自分こそは最高の境地に到達した覚者であると自負している。 いったんこの世界を空と見なし、その後に、自分の自由に意味づけをする。 ・・・これでは<神>のような立場になっていないか。 空の中には、かれらを押さえ込む論理がまったくない。 ・・・すべては空だから、知らず知らずのうちに唯我独尊になる。
>>973 黙ってろ。クソカルト。
空なんか大乗の最高境地じゃねえんだよ。
このド素人が。
975 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 14:09:34 ID:9MHTa1Z2
>>873 「縁起・空」とは、「万物の関係性」の原理だから、「境地」も「神」
も「増上慢」もない。
「一切」に通用する「永遠・普遍の真理」である。
この「関係性」の自覚から、万物への慈悲や精神の安定と平安が生まれる。
これを「悟り」「解脱」「涅槃」と呼ぶ。
サイコーのきょうちとかサイテーのきょうちとか お前らの生活に何の関わりがあるってんだ? いつまでも夢見てんなよ。いい年した大人が。
977 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 14:10:40 ID:x23GfQsK
>966 釈迦は、いわゆるインド人ではなく、肌は黒く無かったと思われる。 仏典によれば、金色というから白人でもなく黄色人種かもね。
978 :
一在家 :2009/06/25(木) 15:29:23 ID:IvCEgc4X
>>977 >釈迦は、いわゆるインド人ではなく、肌は黒く無かったと思われる。
>仏典によれば、金色というから白人でもなく黄色人種かもね。
オーラ(アウル)は通常は見えないが、聖者達の場合はオーラが強烈で
可視化したと思われます。
根拠は仏教でもキリスト教でも聖者達の頭の周りに後光が指しております。
シャカ族は太陽族の末裔で、黄色人種であれば筋も通りますね。
黄色が後光で輝いたら「金色」に見えることは幼稚園児でも分ります。
>>975 風吹けば桶屋が儲かる、という関係性はすでに論破されている。
あまりにもゆるゆるすぎて、もはや縁起とは呼べない。
縁起とはコインの裏表のような、きりっと引き締まった関係を言う。
>>947 宝珠愚者氏
中村先生の「自我と無我」の話は参考になりました。ありがとう。
981 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 17:09:45 ID:bPnh/qIi
>>979 「諸法は空・縁起」である。
「空の思想」は、大乗が発展させたものだから、小乗では何も判らん。
982 :
一在家 :2009/06/25(木) 17:14:01 ID:IvCEgc4X
>>975 >「縁起・空」とは、「万物の関係性」の原理だから、「境地」も「神」
>も「増上慢」もない
横レスで済みません。
「神」と「アートマン」、「アートマン」と「アートマン」との関係性も
縁起ですかね。
「地球」と「りんご」、「人」と「人」との間にも万有引力(真理の一つ)が
働くことのアナロジーです。
>>981 諸法とはアビダルマの五位七十五法のことでしょうか?
これが縁起・空であることの根拠は何。
前もって言っておくけど、
そう言われてきたからそうなんだ、では答えになっていないですよ。
984 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 17:27:36 ID:bPnh/qIi
>>982 釈迦は、「神」や「アートマン」など、人間がいくら考えても無意味な
ものは、「無記」として、考えることを禁じる。「無益で、法に適合せず、
涅槃に導かない」からである。
「諸法は空・縁起」だから、若しそれらがあると仮定すれば、関係性の
原理が適用される。即ち、「神」も「アートマン」も、関係性の集合だ
から、自性はない。
どうも、このスレの住人は、一切とか、五位七十五法だとかに、 こだわりすぎているような気がしてきている。 五位七十五法がまちがった分類表という可能性はないのか? これは十分に考えられるのであり、有為法と無為法と縁起・空の関係を 洗い直す必要があるように思うのだがどうだろう?
986 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 17:33:53 ID:bPnh/qIi
>>983 「<法>は多義を含むが、<諸法>とされた場合は、すべての存在要素、
またあらゆる存在、事物を意味する。」(岩波佛教辞典)
>>986 その定義からすれば、仏教では<諸法とは五位七十五法>ということになる。
問題なのは、その五位七十五法が正しいのかどうか、ということである。
正しくなければ、「諸法は縁起・空」と言っても虚しい話だろう。
988 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 17:49:25 ID:bPnh/qIi
ここの住民は、仏教用語を使う場合は、まず岩波佛教辞典で、その意味 を充分に確認してくれ。基本的な用語の理解、従って、佛教そのものの 理解が、著しく欠けているようだ。
989 :
一在家 :2009/06/25(木) 17:52:58 ID:IvCEgc4X
>>984 >釈迦は、「神」や「アートマン」など、人間がいくら考えても無意味な
>ものは、「無記」として、考えることを禁じる。
その釈迦はスッタニパータ、ディーガニカーヤの中で、「神」、「精霊」と
読心通で対話したという記載が多数あります。
貴兄の立場では、これらの原始仏典(エビデンス)は「不都合な真実」かと
存じますが。
ただし、原始仏典の中にも「無記」はあります。
バラモンの弟子達が形而学上の質問をした時だったと記憶します。
まあ、同じ質問をサーリプッタがしたら、別の回答になったことと推察します。
ダンマパダの<道>によれば、 世尊は「一切の形成されたもの」と「一切の事物」を区別している。 「一切の形成されたもの」とは縁起・空を意味している。 「一切の事物」とは、これとは違った視点でとらえられている。 この違いはいったい何だろうか。 五位七十五法の有為法・無為法では説明できないように感じている。 世尊は、縁起・空と、事物を区別している。
>>965 そうか。そうだね。不変でないといけないね。
とするとやはり、(959を第2・第3の読みとし、第1の読みは)言い回しの綾として
『自分が自分を統御すべきである』、『アートマンがアートマンを統御すべきである』。
≪他によってその言動(身口意の行為)が導かれるのでなく、自らによってその言動は導かれねばならない≫
とでも読むか・・・。 (※所謂「自由」の原義のような形で・・・。)
(けど考えてみると、これって、自明過ぎるほど自明な事柄だな・・・w 自分)
これなら、「アートマン」のままでも大丈夫じゃね?
「自己」の、「アートマン」の、『「自律」性』(或いは「実存性」)を述べていると見れば・・。
(てか、959の前段でその言い方をした私が悪いのだなw
その引用文は後段について言えることであり、前段は今回のレスとほぼ同内容か・・・。 すまん。)
992 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 18:00:12 ID:bPnh/qIi
>>989 だから、原始仏典は、バラモン教から佛教への過渡期の産物で、不完全
であり、「佛教」の理解にはあまり役に立たない。
初期大乗仏教の確立と完成には、「八宗の祖」としての、竜樹の大哲学
を待たなければならない。
993 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 18:09:09 ID:bPnh/qIi
>>991 「アートマン」を以って、「アートマン」を理解することは出来ない。
これは、「バラモン教時代の学識のあるインド人にさえ、常識」。
理解できるのは、アートマンから発生するその「機能」としての「五蘊」
のみである。
あげ
995 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 18:14:40 ID:rLN2y2DO
あと5
996 :
一在家 :2009/06/25(木) 18:14:58 ID:pzvgrrbO
>>992 >だから、原始仏典は、バラモン教から佛教への過渡期の産物で、不完全
>であり、「佛教」の理解にはあまり役に立たない。
「Q文書」よりも完成度の高い「ヨハネの福音書」の価値が高いという
主張と似ているように思います。
大乗仏教の開祖は「龍樹」だというご発言ですか。
素人の私にも、仏教哲学の創始者が誰だか分って参りました。
哲学化して、脳ばかり酷使しておりますと、悟りからは離れていくように
直感します。
IQ200位の人達が皆仏教をしたら、皆解脱できるかも知れませんね。
仏教を学ぶ者は洗脳されていることに無防備ではなかろうか。 諸法非我→諸法無我は、空と連動した大乗の洗脳だろう。 これと同じようなことが、五位七十五法にあるのではないかという疑問である。 簡単に言えば有為法と無為法の区別である。その基準は何か。
998 :
神も仏も名無しさん :2009/06/25(木) 18:16:32 ID:rLN2y2DO
998
999 :
旧7 :2009/06/25(木) 18:17:20 ID:df57FCrB
>>997 有為・・・saNkhata
無為・・・asaNkhata
五位七十五法は、ほんとうに正しいのか。 正しくなければ、一切とか、有為法・無為法と言っても無意味である。
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