1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 10:12:30 0
3 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/22(火) 10:25:55 0
前スレ>995
>最高位氏、人間というのは生物の一種であって、肉体のことなのです。
残念ながら
それは単に、キミが単一的な考え方しかできないから、そう思っているだけですよ
キミは「人間」という言葉を、一般論から出発させて「自分は、それに当てはまるのか?」という思考経路で考えているわけだが
私はまず「私は人間である」と決めて、「他人も同類なのか?」という問題意識を持っている わけだよ
> >川というのは、単に水が流れている「状態」なんだから、「川」という存在性とは言えない
> >しかし、その状態は存在している と認識されているのが通常じゃないか?(笑
>
> ですからw、それは人間でも全く同じことなのですよ。あなた風に言えば、
> 「デカルト」も「最高位」も、肉が絶えず変化している「状態」に過ぎないから、
> 存在性とは言えないわけです。
「我思う故に我あり」の「我あり」は
「我の体あり」ではないぞ(爆笑
> >自我の話ではありません
> >BさんやCさんは、私が消えたら消えるのか?という話です
>
> ですからw、あなたの従来の理屈なら「消える」というしかなさそうなのですが
私が消えたらキミは消えるのかよ(爆笑
という話なんだけど??
では
キミ(感嘆詞クン)が存在する原因は、その体ではなく
私(哲学者最高位)なのかい?(爆笑
4 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/22(火) 10:26:40 0
前スレ>997
>君は水槽の中の脳の現物を見たことはあるのか?
>現物が無いものがどうして自然科学の対象になるのだ?
実際には、キミはどの現物も、直接に見た事はないはずだ
キミが見たと感じているのは、感覚器から送られてきている電気信号だよ
5 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 10:30:37 0
電気信号をどうやって見るのだ?
6 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 10:37:03 0
人間のテキトーな価値観と言ってたのが、
いつの間に電気信号になってるw
7 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/22(火) 10:40:46 0
>>5 うむ、そうだね
科学的に考えれば、そうなるらしいんだけど
それも疑いうるね
やはり確実に言える事は「我思う故に我あり」だけであって
その他は推測にすぎないんだよね
ゆえに
水槽脳である可能性も、否定する事ができないわけだ
最高位もまた、言った先から自分が吐いた言葉を忘れる鶏頭だからな
9 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/22(火) 10:42:49 0
自分の行為なのに他人に訊かないと分からないのかw
ほとんどボケ老人たなw
11 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/22(火) 10:45:56 0
>>6 おまえ、それ全然違う話だぞ(爆笑
もうちょっと、よく考えろ
バカすぎる
12 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/22(火) 10:48:16 0
>>10 パソコン持ってないのか?
よく考えたら、可哀そうな子なんだなキミ
プロバイダの対応にむかついて契約きっただけ
区別つくじゃんw
やっぱ鶏頭のド低能なんだな
携帯とパソの区別ができるようになったのと同じように
他人の言葉を読んで、対応できる知能が少しでもあるなら
デカルトを理解してみたら?
ここにいる奴らは、真面目に質問する限りは丁寧に答えてくれるはずだぞ
>>3 >私はまず「私は人間である」と決めて、「他人も同類なのか?」という
>問題意識を持っているわけだよ
最高位氏、ですからw、そこで言う「人間」「他人」というのは肉体(物質)
以外の意味ではあり得ない、と言っているわけですw
「私は人間である」と決めることができるのは、
1.私が感じる色や形や音や触覚や味や匂いやの背後に、「物質」が存在すると
私が判断する。「これ」「あれ」等々のたくさんの物質がある。
2.私は特定の「この物質」と特別な関係にあると判断する。
3.「この物質」以外にも、同じ種類の「他の物質」が存在すると判断する。
「この物質」と「他の物質」をまとめて「人間」として理解する。
このような経緯を通してなのです。
ちなみに、「この物質」が「最高位」であり、「他の物質」が「他人」であります。
>キミ(感嘆詞クン)が存在する原因は、その体ではなく
>私(哲学者最高位)なのかい?(爆笑
最高位氏、文章を書くときはもう少し注意してくださいましw
「キミ(感嘆詞クン)」が、「私の自我」を意味するのでしたら、それが
存在する原因が「この体」であるとすると、唯物論が正しいことになってしまい
ますぞ。あなたはまさにそれを全力で否定してきたはずなのですがw
一方、「キミ(感嘆詞クン)」が、「人間であるこの体」のことを意味するの
でしたら、「この体が存在する原因はこの体である」は、無意味であります。
で、あなたの本来の哲学wによれば、まさに「その体(感嘆詞クン)」でも
「この体(最高位)」でも、「人間」が存在する原因は私(哲学者最高位)である」
ということになるわけです。物質は境目なく一つながりであり、それを私が勝手で
テキトーな価値観で区切っているだけなのですから。
しかし、あなたはどうも「この体(感嘆詞クン)」が存在する原因は
私(哲学者最高位)ではない、とお考えのようですね。そうすると、
まさにあなたの私の有無にかかわらず、物理状態としての「この体」は
存在する(存在性かどうかはどうでもよろしいですw)ことになりますが、
それでよろしいのですか、とお尋ねしているわけですw
最高位はハッタリかましてる、ただのバカだろ。
19 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/22(火) 13:29:57 0
>>13 キミ一人が解約解除したところで、相手は痛くも痒くもないだろうね
逆に多分キミだったら、やめてくれて良かったと思われてるんじゃないかな(苦笑
>>14 キミが、「携帯はオレしかいない」と教えてくれたからだよ
でも、そんな事は本人にしかわからん事なんだよ
それを告白する前から、他人が自分を区別してくれてる なんて思ってたとするなら、病的
プロバイダの担当者も、おそらく
話が通じん人に解約してもらって、逆に良かった〜 と思ってるだろね
>>16 >最高位氏、ですからw、そこで言う「人間」「他人」というのは肉体(物質)
>以外の意味ではあり得ない、と言っているわけですw
残念ながら
「人間」と「他人」は、根本的に意味が違います
それは単に、キミが単一的な考え方しかできないから、そう思っているだけですよ
キミは「人間」という言葉を、一般論から出発させて「自分は、それに当てはまるのか?」という思考経路で考えているわけだが
私はまず「私は人間である」と決めて、「他人も同類なのか?」という問題意識を持っている わけだよ
>>17 >「キミ(感嘆詞クン)」が、「私の自我」を意味するのでしたら、それが
>存在する原因が「この体」であるとすると、唯物論が正しいことになってしまい
>ますぞ。
キミが、そう主張しているのではないのかね?という事
で
キミの原因は、私なのかね?
どうなのかね?
20 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 13:36:57 0
>>16 少し質問を…
1. では「私が感じる色や…の背後に“物質が”存在すると私が判断する」と述べている。
2. によると「私は特定の“この物質”と特別の関係にあると判断する」そうである。
頻繁に感じたり、判断する『私』登場するが、以下の文章から、この『私』とは“この物質”だ
ということがわかる。
すると1.は「この物質(私)が感じる色や形…とこの物質(私)は判断する」と言い直せる。
2.は「この物質(私)は、この物質(私)と特別な関係にある」と、この物質(私)が判断していることになる。
また「この物質(私)」のほかにも「他の物質(他人)」が存在する、と「この物質(私)」は判断しており、
それらを「この物質」は“人間”として理解しているという。
『私』が「この物質」なら以上のように書き換えることができるが、これでよろしいですか。
嫌がらせや不利益を与えたいから解除したのではない
信頼関係を築けないと思ったから解除したんだよ
すべての人が利益を中心にものごとを考えていると思うなよ
俺は哲学板住人なんだぜ?
言葉の内容、正しさ、それが俺が重きを置く価値
最高位みたいに、「自分がどう見られるか」とか
「その場しのぎでどうやってやりすごすか」とかではない
発言の一貫性や他の言明との対応関係を重視する
俺はいわゆる「言葉の世界の住人」て奴なわけ
この「言葉の世界の住人」てのは「その場しのぎがすべてだ」と考える大衆とは相性が悪いんだ
だから、世の中では変人扱いされながら生きていく
それだけ
いいんだよ、俺は哲屋だから
22 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:00:54 0
>>3 >私はまず「私は人間である」と決めて、「他人も同類なのか?」という
>問題意識を持っている わけだよ
バカじゃね?自分を人間と規定した時点で、
自分は人間と同じ種類=同類と規定したわけだろ。
おまえマジで知恵遅れじゃねーの?
23 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:05:47 0
最高位は今までの科学的知識を全部捨てて話してるから
自分以外は人間ではないかもしれないと思ってんのかな。
そうやって自分でなんでも決めたり疑ってればいいよ。
クオリアと価値論と存在論をごちゃごちゃ混ぜて話されても困るよ。
24 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:09:18 0
>>17 これは曲解ですね。
横レスでなんなんだけど、最高位は「一つながりの何か」として“状態”
である対象を認めている。彼は終始、独我論を否定してきたはずである。
最高位が否定するのは、川や山といった主体の認識・言明にすぎぬもの
(私が主観的に差異化した世界)を客観的な事実とみなす素朴実在論。
私が存在しなくなれば、私が対象に付与した“意味(世界)”も一緒に
消えるだろうが、対象(事象)が消失するとは一言も言っていない。
25 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:11:29 0
>>24 最高位のはアニミズム。
精霊信仰に接近している。
>>19 >残念ながら
>「人間」と「他人」は、根本的に意味が違います
おお、最高位氏、これはまた新説ですねw
「他人とは、私である人間(最高位)以外の人間のことだ」とは、あなた
ご自身の発言だと記憶していますが、違うのでしょうかw?
「人間」とはすなわち「私である人間(最高位)」と「他人」の総称であって、
それ以外に人間などどこにも存在しないと思うのですが、あなたはそれを
否定される、というわけなのでしょうかw?
>キミは「人間」という言葉を、一般論から出発させて
最高位氏、私に限らず「人間」というのは、地球上に何十億と存在する
生物個体・物質群の総称であり「一般名詞」だというのが常識なのですw
>私はまず「私は人間である」と決めて、「他人も同類なのか?」という
>問題意識を持っている わけだよ
それは前にお聞きしましたがw、そこでいう「人間」の意味がさっぱり
わかりません。生物の個体という物質のことでないとすると、はて、
それは何のことでしょうか?
また、それがどんな意味であれ、「私は人間である」と決めたところで、
それと「他人」が「同類なのか?」と考える、どんな根拠があるのでしょうか。
あなたによると「人間」は「他人」とは根本的に意味が違うのですから、
同類であると考える理由がどこにもないと思われますが、いかがw
27 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:26:51 0
>>21 あいからず“学割”的生活をしながらタワゴトを…w
では、少し“大人”の立場から君のそれを批評してみよう。
君が「利益中心」でない変人生活を享受?できるのは、だれかがそれを
引き受けているからだよ。きみの場合は、偉大な父君かな? w
言葉の世界の住人などと言いながら、それで稼いだこともないのだろう?
レンズ磨きでもやってみれば。
28 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:28:20 0
最高位は人間の概念を他人から教わったんだろ。
お前も人間だと他人から教えて貰ったんだろ。
それなのに、最高位の哲学の出発点が、まず「私は人間である」と決めて
それから他人も人間(同種類)なのか考えるっていうの、
おかしくね?
>>20 >頻繁に感じたり、判断する『私』登場するが、以下の文章から、この『私』とは“この物質”だ
>ということがわかる。
いえ、申し訳ありませんが、それは全くの誤読です。「私」はあくまでも
「私」であって、それが特定の物質(この人間)と密接な関係にある、というのは、
あくまでも私の経験から判断されることです。
要するに、私が「動け」と念じると、特定の物質(この人間)だけが動くが他の物質は
動かない、とか、特定の物質(この人間)を切ると私が痛みを感じるが、他の物質を
切っても感じない、とか、特定の物質(この人間)の目の前にある物質だけが私に見えて、
他は見えない、とか、特定の物質(この人間)を移動させると、私もそれに伴って
移動するとか、その種の経験の果てに、「どうも私はこの物質(この人間)と特別密接な
関係にあるようだ」という判断が成立する、ということです。
ですから、本来は言えるのは「私はこの物質(この人間)と特別密接な関係にある」
ということだけで、「私は人間である」というのは省略した不正確な言い方ですが、
現実には両者の関係は密接過ぎて、両者を等置することに誰も疑問を覚えません。
ちなみに、これは純然たる経験的判断であって、論理的必然でも何でもありませんから、
「私は今まで最高位という人間だったけれども、今は野茂秀雄です」とか「ネコです」
とか「レンガです」とか「物質に関係なくぷかぷか浮いています」という事態も、
十分に可能です。
ただし、現実にはなぜか経験的にその種のことは起こらず、私が存在する限り
ずっとこの人間なので、「もしかしたら、そもそもこの人間がまず存在して、
私はそこから生まれた存在なのではなかろうか」という考えも生じてきます。
唯物論とは本来そういう仮説の一つに過ぎないわけです。
30 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:31:09 0
>>24 >彼は終始、独我論を否定してきたはずである。
いや、選択肢として独我論もありうるとしているぞ。
最高位はあれだけ「人間の」テキトーな価値観って言ってたのに今さら何だよ
32 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:36:33 0
>>31 >最高位はあれだけ「人間の」テキトーな価値観って言ってたのに今さら何だよ
テキトーなのに
テキトーに意見を翻して何の不思議があろうかw
>>24 違いますね。
最高位氏はゲロやウンチの存在は否定していますが、
消化物や排泄物の存在は認めています。
川の水の存在は否定していますが、H20の存在は認めています。
>>24 >最高位が否定するのは、川や山といった主体の認識・言明にすぎぬもの
>(私が主観的に差異化した世界)を客観的な事実とみなす素朴実在論。
いやですから、川や山が主体の認識・言明にすぎぬのなら、「人間」も
同じでしょう、ということです。自分(最高位)であれ他人であれ、
同じことです。
>私が存在しなくなれば、私が対象に付与した“意味(世界)”も一緒に
>消えるだろうが、対象(事象)が消失するとは一言も言っていない。
ですから、そこで消えずに残る対象(事象)は差異を含まず、
最高位氏の表現を借りれば「境目なく一つながりの物質」なのですから、
そこに「川」や「山」が存在しないのなら「人間」も存在できる
道理がないでしょう、ということです。
にもかかかわらず、「(自我の話ではない、とご自分で言っておきながら)
私が存在しなくてもAさんBさんCさんはいる可能性があるに決まっている」
と繰り返されるので、それはおかしいのではないですか、とお尋ねしている
わけなのです。
ちなみに、対象(事象)自体が客観的に差異を含んでいて、それが私に作用して
(私がそれを認識して)「川」「山」「人間」「最高位」「Aさん」等々の
観念を生み出していた、と考える素朴実在論wであれば、
私がいなくなってもAさんBさんCさんという観念の対象だった存在が
なくならないのは、まあ当たり前です。
35 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 14:46:51 0
>>29 つまり「私」は、貴方の言う特定の物質(この人間)と密接な関係にある、
換言すれば「私」は特定の物質(この人間)とは別の存在だということですね。
稼ぐために言葉を吟味するのではない
言葉を吟味するそのことが目的なのだ
それで十分
野茂と一緒さ
野球が好きだからやる
たまたま自分が手にした金を使って自分の時間をどう楽しもうとよかろう
俺が自分で稼いで貯めた金でもある
それも、俺の環境のおかげではあるだろう
アフリカで産まれてたら哲学する余裕なんてなかっただろう
そういう意味では、俺の稼ぎは俺の両親、社会など環境によって得られたものだと言えるし
社会に寄生しているとも言えるだろうね
野茂だってそれはわかってるさ
37 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 15:13:47 0
>>34 「差異を含む」とか「差異を含まない」というのが貴方特有の決めつけ方。
差異というのは「意味」とほぼ同義。認識に先立つものを「差異(意味)」と
呼ぶ、その超能力的な跳躍に常々、驚かされてきたのである。w
「対象(事象)が客観的な差異」を含んでいる、というのはだれの認識?
“神”がそう言うのなら、かまわないが。
最高位は『私』が死んでも、AさんやBさんがいる“可能性”を述べて
いるだけだよ。曲解したら議論にならない。
「曲解している」は誰の認識?
39 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 15:23:23 0
>差異というのは「意味」とほぼ同義
ほんとか〜?
40 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 15:26:21 0
たしかに最高位の論調はかわってきた。感嘆子も。
主張がそれぞれ逆になったのかな??? w
41 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 15:30:57 0
>>4 現物を見るとは現物の視覚像を認識することで十分だろ。
感覚器からどのようにして視覚が生じるかなんて意識されない
生理現象だ。
そんなことより水槽の中の脳の現物を見たことがあるかという事
我重要だ。誰も見たことが無いならおそらくそれは虚構の脳内
妄想と言うことだ。現物の像は眼を閉じれば消滅し眼を開ければ
またそれを見ることが出来る外在の対象の像だ。
42 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 15:32:27 0
>>24 一つながりの何かという表現も適当だなw
人間のテキトーな価値観で外的対象を切り取っているのだから、
人間が存在しなければ、外的対象は一つながりの何かである、
という君の推測もかなりテキトーだぞ。
43 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 15:38:55 0
>>42 テキトーであることは自認しているが、その「一つながり」との表現は私の
それではない。モノ自体も古いので“事象”でごまかしてきた。w
44 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 15:57:12 0
「一つながり」なんて視覚的にどこが境なのかわからんから
「一つながり」と言ってるだけじゃねえの?
>>35 >換言すれば「私」は特定の物質(この人間)とは別の存在だということですね。
それはすべての問題の出発点です。そもそも、この人間(という特定の物質)が
熟睡したり気絶したりしたときに私が存在するかどうかわからない、というのは、
最高位氏ご自身も認めておられます。
また、この人間が死亡したときには私も消滅する、少なくともその可能性がある、
というのはまあ常識ですが、この人間は死体としてしばらくは残るというのも
常識ですから、両者がイコールである理由はありません。
「私」と「この人間」は、少なくとも概念上は別の存在であり、その本質も異に
するはずなのに、「なぜか」事実として密接不可分なわけです。だからこそ、
「私とこの人間とはどんな関係にあるのかないのか」という「心身問題」が、
今なお未解決の難問として存在するわけです。
>>37 >認識に先立つものを「差異(意味)」と
>呼ぶ、その超能力的な跳躍に常々、驚かされてきたのである。w
いや何と「呼ぶ」かは問題ではないのですがw、対象(事象)というのは
原理的に「認識に先立つ」ものなのです。そうでないのなら、それを「認識」と
呼ぶ理由もありません。「空想」でも「妄想」でも、同じことです。
繰り返しになりますが、私が直接認識できるのは「色・形・音・触感・味・匂い」
等々だけなのです。そこから「円錐形の物体」だの「人間」だの「山」だの「川」
だのの観念を作り出して、それらを私の外部に存在する「認識に先立つもの・
客観的存在」だと理解して「認識する」ことは、ほとんど人間が生きていくための
必須条件です。ある色と形とうなり声と匂いを「外部に存在する獣」として
理解して逃げるなり戦うなり隠れるなりしないと、まず食べられて終わりですw
そういう意味の「超能力的な跳躍」=「超越」は、ほとんど必然・必須なので
あって、なぜそれに「驚かされる」理由があるのか、どうも理解できません。
>最高位は『私』が死んでも、AさんやBさんがいる“可能性”を述べて
>いるだけだよ
死ぬのは人間であって『私』が死ぬ、という言い方はややおかしいですが、
ともかく本来の最高位哲学wでは、「私」が存在しないならAさんやBさんが
存在する可能性はないと思われます。(他の私の観念として存在する可能性は
ありますが、私の観念と他の私の観念が同じものを示している、とするには、
やはり客観的な存在を考えるしかありません)
全体的に、最高位氏の哲学をよほど曲解しない限り(というか、しても)、
ネコ氏の「客観世界否定哲学」とはつながりません。最高位氏は、そんな問題には
そもそもあまり関心がないのです。なぜあなたがそんなに最高位氏に肩入れしたがる
のか、これも理解できかねます。(盛り上げるためにやっている、ということなら、
言うことはないのですがw) レス後日。
>>46 >対象(事象)というのは 原理的に「認識に先立つ」ものなのです。
>そうでないのなら、それを「認識」と 呼ぶ理由もありません。
そういう独断から出発されたのでは、話にならないのでは。
対象が認識に先立つのではないということをカントが言ってるのは有名な話で・・・
まあカントは「物自体」というのを残してしまったから微妙だけど、
その後の哲学史では「物自体」も否定しようという考えが優勢なわけだからさ・・
そこが感嘆子の限界なんです。
49 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 17:32:35 0
決して『私』からは逃げられない。
どれほど理屈をこねても襲いかかってくる。
『私』から逃れる方法は委ねること。
『私』を委譲すると言う。
これはどこへ委ねるかは決まっている。
他者へ委譲する。
50 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 17:38:49 0
>>49 私の権利や財産なら委譲することも可能だろうが
分けもわからない『私』を委譲することは出来ないだろ。
51 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 17:46:38 0
>>50 『私』は委譲できます。
自我意識が自我そのものを
他者に委譲するのです。
注意すべきは移動ではなく委譲です。
>>4 >感覚器から送られてきている電気信号だよ
「感覚器」「電気信号」というのは、実在しているの?
>>7 >やはり確実に言える事は「我思う故に我あり」だけであって
「我思う故に我あり」とは、どういうことなの?
>「我思う故に我あり」とは、どういうことなの?
そのくらい勉強してからこいよ。豚野郎。
>>53 知ってるなら教えてくれよ。どういうことだよ?
ぐぐれ。糞野郎。
知らねえのはおまえだけだ。バカ野郎。
59 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 18:20:19 0
イチローは蚊。単打を打つだけで、打線の軸にはなれない。
( ^ω^)この明白な事実は事実として受け入れて、みんな仲良くやれお
(^ω^)カリカリすんなお
63 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 18:47:45 0
>>51 唐突に“他者”が出てきましたが、他者とは何ですか。
委譲の意味を明確にしていただきたい。
65 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 19:01:49 0
67 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 19:27:15 0
>>46 私が死んでも、たぶんAさんBさんは死なないでしょう?w
私と一緒に死んでくれるのは、私の認識(主観)上の見知っているAさんBさんです。w
その意味で、AさんBさんだけでなく、私は私の世界を引き連れて死ぬことになります。
(たいして嬉しくもないがw)
したがって、対象という意味の「客観」を否定しているのではありません。
その認識内容が(共同)主観を超えた“事実”であるといった見方に否定的なのです。
ちなみに、認識に先立つ“客観的存在”として具体的に何があげられますか。
>>24 >彼は終始、独我論を否定してきたはずである。
否定してない筈だよ。
>>67 >私が死んでも、たぶんAさんBさんは死なないでしょう?w
>私と一緒に死んでくれるのは、私の認識(主観)上の見知っているAさんBさんです。w
私が死んでも死なないAさんBさんと、
私と一緒に死んでくれるAさんBさんの
二種類のAさんBさんがあるという事ですか?
70 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 19:51:09 0
>>69 私は一種類の世界しか知りません。死なない世界は類推によるものです。
だから「たぶん」と言っています。つまり、これまた私の主観でしかありません。
後ほど。
>>67 >認識に先立つ“客観的存在”として具体的に何があげられますか
「認識」が成り立つメカニズムはどうなってるの?
72 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/22(火) 20:14:23 0
162 :神も仏も名無しさん :2008/06/30(月) 23:00:09 ID:CK+d9z66
ゴイムは、物好きからか、あるいは、大きなパイに一口あずかる手段としてメーソンに入ってくる。
中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させるために、
耳よりな情報を仕入れようとして入ってくる者もいる。
彼らは成功と拍手喝采に飢えているが、その成功や拍手喝采こそは、
われわれが気前よく振る舞ってやつているのである。
われわれがそういう大盤振舞いをするのは、彼らが持っている鼻持ちならぬ自惚れを
利用するためである。その自惚れというのは何が原因かというと、
自身が口に出している思想は絶対的に自分のものてあり、
借り物などということはありえないと自信満々で、
われわれが示唆したことを丸呑みにする傾向に起因する……
諸氏の想像を越えることであるが、ゴイムの最も賢い者を無邪気に
自惚れさせたり、ちょっとした不首尾で意気消沈させたりするのは、
いともたやすいことである。同時に、拍手が止まったに違ぎないといった些細な
不成功であっても、彼らは簡単に落ち込みもするし、
次の機会には成功させてやると言えば、すぐ奴隷のように卑屈になってくる
……際立ってわれわれは計画を実行さえできれば成功不成功を問わないのに、
際立ってゴイは成功さえすれば計画はどうなっても構わない。
このような彼らの心理のおかげで、われわれは大いにやすやすと思うがままに
彼らを操れる。彼らは見た目には虎だが中味は羊であって、風が通り抜けて行く
頭の持主なのである。われわれは彼らに集産主義≠ニいう一種の思想の
おもちゃをあてがって、個性の違いをそのおもちゃに吸収同化させてやった。
シオンの議定書から----------------
73 :
とりあえず、天才君:2008/07/22(火) 21:40:55 0
「我思う故に我あり」とは何か?などの質問が出ておりますが、
天才君が答えよう!
「我思う故に我あり」などは知る必要はないのです。
それよりか「汝自身を知れ」です。
つまり自分を知れば、「我思う故に我あり」って事が感じられますね。
どうしたら自分を知ることができるか?つまり「私とは何か?」
それがこのスレタイですね。
天才君の論では、世界は神であり、私も神であり、我々の個々の思いは
神の思いであり、全てが神頼みです。
よって「我思う故に我あり」というのは、独断でどうにでも解釈してください。
その言葉を流行させた張本人がどう感じ、どう考えたか?これは知る由もないのです。
簡単に言えば、私が思うなら私は居る。私が思わないなら私は居ない。その程度です。
私というものが考える程度の事は、全て独断ですから適当でよろしいのです。
74 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 21:53:16 0
>>73 そこで私が突っ込むのである。
「我思≪た≫故に我あり」と。
数秒前に思った私は、私自身の記憶が私の存在を保証するのです。
てか、自分ではここに幾分かの落ち度があることを
知っていますが、いまだ誰にも突っ込まれたことがないです。
まぁ、この板の住民には突っ込めないでしょうね。w
揚げ足取りだと言ってキレるくせに何が突っ込めだ
76 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 21:59:16 0
人間なんて勝手だw、基本楽しけりゃいい。
少なくてもアルコールが入っちゃなwwwww。
77 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 22:08:47 0
では、バラしておこう。w
数秒前の記憶が自分のものかは誰も
保証することが出来ませんw。その記憶を私が記憶したという
記憶もなければ、その記憶を私が記憶したという記憶を私が記憶という記憶も、
その記憶を私が記憶したという記憶を私が記憶という記憶を私が記憶したという記憶も、
以降無限に繰り返しwww。
つまり、数秒前に思った私が私であったことを保証できないwww。
誰かが意図的に差し込んだ記憶かもしれないのですwww。
くだらん・・・
そんなのバカでも思いつくし、脳は物質スレで何度か同じ意見は出てた。
79 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 22:25:06 0
記憶したという記憶、
記憶したという記憶を記憶したという記憶、
記憶したという記憶を記憶したという記憶を記憶したという記憶、
・・・・
その記憶の所有者が不明であるなら私の存在は曖昧である。
では、具象的、具体的に展開してみよう。
夢なんかがいい例だよな。
記憶を与える夢なんかが、非常に怖いんだなぁ。
俺はかつて、10円玉を飲み込んだという記憶を植えつけられた
事があったが、作られた記憶だって事に気付くのに4、5年掛かってる。
その間、思い出しては死ぬかもって想像してた時代があったなぁ。
>>78 そうかよ。ネタ晴らししたとたんにそう出るとはなw。
二度とレスするなw。
80 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 22:26:15 0
アーノルドシュワちゃんのあの映画はなんと言う題名でしたっけか?。
そうだ、トータルリコールだw。
>>77 記憶は正しいのか、みたいなタイトルのスレが以前にあって、
君と同じような意見の人がいたな。
そのスレにも最高位が乱入してきて、「病院行け」とその人を罵倒してたよw
最高位先生がお大事に、だそうですw
82 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 22:43:35 0
>>81 最高位は教科書崇拝主義だから、
面白みは殆どないよなw。
83 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 22:44:18 0
っていうか、俺かも知れんwww。
84 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 22:45:18 0
「病院にいけ」って
病院側としては最高位のような人もいれたいだろ
NHKで短時間の記憶しか出来ない男について記録した作品を見たことあるよ。
BBCのドキュメンタリーだったかな。彼は脳の病気だった。
次々に自分がやった事を忘れていくから、常にメモを続けないといけない。
メモを読んで、さっき私はこんな事をやっていたのかと嘆く。
字の読み書きなど、基本的な事は覚えている。
彼はアイデンティティの混乱に怯えていた。
記憶喪失者はアイデンティティを確かめたいという強烈な欲望を持つ。
哲学なんかに興味を持ってしまう人も、軽い記憶喪失者なのだろう。
プラトンの言った、イデア界の想起という所に繋がって行く。
86 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 22:54:26 0
>>84 多分、とこの病院でも煙たがって・・・w
やっぱ、文章の最後には「w」の記号が必須だwww。
哲板を棲家にするなら、酒飲んで笑ってようぜぇ。w
過去を振り返れば、精神病棟に入ってもおかしくないほどの
潔癖症だったがなw。
>>85 >彼はアイデンティティの混乱に怯えていた。
自己(意思とか思想、主義、志)って考えは殆どもてないのだろうね。
自己が自己として成立しない恐怖。怖いなぁ。
脳の外傷的病気って結構興味深いよね。
>>70 >私は一種類の世界しか知りません。死なない世界は類推によるものです。
>だから「たぶん」と言っています。
何がどう”類”推なのかはよく分かりませんが、「たぶん」については承知しています。
あくまで(誰かさんの)想像なのですよね。
その点は、「私と一緒に死んでくれるのは、私の認識(主観)上の見知っているAさんBさんです。」
の方も同様だと思うのですが・・・?
「たぶん私と共に死んでしまうAさんBさん」と「たぶん死なないAさんBさん」
の二種類のAさんBさんを(誰かさんが)想像しているのではないのですか?
88 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/22(火) 22:56:03 0
映画で喩えるなら、バタフライエフェクト・・・・見辛い映画でした。
89 :
天才君が語る記憶について:2008/07/22(火) 23:16:51 0
記憶記憶の話なのですが、記憶は、脳と平行していないという論を
私の知人であるベルクソンがしておりますが、
じゃあ、記憶は何処にあるか?
これも神の御業であるのですが、実体は適当に論ずればいいのです。
つまり記憶は、どこに在るのが今後の人間にとって有益であるか?
これを論じ、創造し、場所を設定すれば、大衆は、設定された記憶の
在処を信じ、それに基づいた社会を構築するのです。
現在の大衆思想は、脳に記憶があると信じられているのですから、
個人主義という事です。
よって刑罰も記憶と脳と一致させ、その肉体に対して刑罰を与えるという訳です。
法治国家である我々の住む日本では、脳と記憶は平行させておくのが健全である
という事ですが、実際は脳と記憶は平行していないです。
全ては神頼みであるという理屈を受け入れる人間が多くなれば、
個人主義は廃り、超個人主義の誕生でしょう。
90 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/23(水) 00:08:46 0
>>89 永遠に交わることのない平行しているかのような線、で十分でしょうw。
未だ無い存在
92 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/23(水) 01:57:38 0
それもまた正しそう。
もう寝る。
93 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 02:47:18 0
>>21 >だから、世の中では変人扱いされながら生きていく
>それだけ
>
>いいんだよ、俺は哲屋だから
自分を客観視できる知能があれば
世の中の常識と、自分の考え方の違いを
使い分ける事ができるんだけどな
>いいんだよ、俺は哲屋だから
というのは、他人に配慮しない「ガキの発想」
自己中の始まり
>>22 > >私はまず「私は人間である」と決めて、「他人も同類なのか?」という
> >問題意識を持っている わけだよ
> バカじゃね?自分を人間と規定した時点で、
> 自分は人間と同じ種類=同類と規定したわけだろ。
まだ順番の違いに気づいていないなぁ
人間は、自分しか居ないかも知れないんだよ?(笑
>>23 >そうやって自分でなんでも決めたり疑ってればいいよ。
疑える余地のある事は、疑える余地があるんだ という事を忘れてはならない
>クオリアと価値論と存在論をごちゃごちゃ混ぜて話されても困るよ。
世界はゴチャ混ぜになっているんだなコレが
私は、それを整理しつつ、まとめて話しているのだよ
キミ達が理解できないだけ
94 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 02:48:12 0
「南京大虐殺はなかった」論は、
「アポロの月着陸はなかった」
「ユダヤ陰謀論は事実」
「政府は空飛ぶ円盤の秘密情報を隠している」
「プロレスの神様カールゴッチのサブミッションには天皇なんて腕折られて原爆固めでスリーカウントだよ。」
「2008/04/05(土) 18:43:20 0
まだビビってんのかw」
「量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。 」
「Hannibal専用スレはこちら」
「過去に行われた全ての観測の結果がイコール決定論が正しいことの証明である」
「『唯一の最終真理(思想)』の輪郭です」
「インスコログラマーだよ」
「テクノの元祖はクラフトワーク」
等と同レベルの、所謂 白痴的ピャ・チンチン思想なわけです。
NHKが野球中継を延長するのに次ぐ、人類史に残る愚かさの顕現なのです。
95 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 02:49:16 0
>>24 >横レスでなんなんだけど、最高位は「一つながりの何か」として“状態”
>である対象を認めている。
少し違うな
価値観の「観」と、客観的な「状態」は違う話であって
普通の考え方なら
私が消えれば「私の観念」は消えるだろうが
客観世界である「状態」が、もし存在するなら
それは私が消えても、消えない可能性があるだろ という事を言っている
>彼は終始、独我論を否定してきたはずである。
否定はしていませんよ
独我論が正しい という可能性を、否定する事はできません
しかし逆に、独我論が正しい とも言えないのです
だから私は、独我論を採用していない という事です
まぁ、独我論を信じきれる人も珍しいと思いますしね
たとえば駅前で、素っ裸でラジオ体操できる人は、マレでしょう(爆笑
>私が存在しなくなれば、私が対象に付与した“意味(世界)”も一緒に
>消えるだろうが、対象(事象)が消失するとは一言も言っていない。
これは、アタリです
>>33 それは彼への反論にはなっていないよ
96 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 02:51:38 0
>>34 >いやですから、川や山が主体の認識・言明にすぎぬのなら、「人間」も
>同じでしょう、ということです。
いや、少なくとも「人間である私」には主観性があり、川や山を認識している主体の立場であって
全然違いますよ?(爆笑
>>40 私が言っている事は、少しも変っていません
もちろん表現方法には、少しずつ工夫を加えていますが
>>41 >現物を見るとは現物の視覚像を認識することで十分だろ。
よく考えてみたまえ
まず科学的レベルで分析するなら
たとえば物体から反射された光が眼に入る
その光は眼球の網膜に当たり、ここですでに電気信号に変換されて
視神経を通して脳に伝達される
ようするに
我々は、その物を見ているのではなく
感覚器から送られてくる信号を感じているわけだよ
という事は
実際に見ているのではなくても
感覚器から送られてくるのと同じ信号を脳に送れば
脳は、それを見ていると錯覚するはずだわな
人間の感覚は、全てこうなっています
感覚器から送られてくる信号なのです
だからココで、水槽脳の可能性なんだよね
我々は、意図的に錯覚させられた世界で生きている可能性を、否定する事ができません
ここは基本だから、これが理解できなければ話にならないよ
97 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 02:57:11 0
>>42 キミらは私が言った「テキトー」という言葉に、やたらと絡んでくるが
テキトーでないなら、「富士山」は、どこからどかまでが「富士山」なのか
明確な線引きをしてくれよ
テキトーだろ?どう考えても(苦笑
「テキトーな価値観によって線引きしている」の、どこが間違えているのかね?
>>77 >つまり、数秒前に思った私が私であったことを保証できないwww。
>誰かが意図的に差し込んだ記憶かもしれないのですwww。
誰かが差し込んでいたとしても問題ない
『誰に』差し込まれているのか が重要 (爆笑
98 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 03:15:14 0
ハイテンションなおっさんやなー
99 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 03:19:54 0
「価値観で、テキトーな線引きしている」じゃねえの?
>>96 >だからココで、水槽脳の可能性なんだよね
科学レベルで分析すれば、水槽脳に同じ信号を送る事は出来ないよ。
別に同じ信号を送らなくても錯覚は起きるけれどね。
ここは基本だから、これが理解できなければ話にならないよ。
101 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 03:26:17 0
>>99 うむ
そっちの方がいいかな(笑
理解できた?
>>100 で、どうやったら否定できるのかね?
102 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 03:29:14 0
■ 年間で何時間2ちゃんやってんの?
103 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 03:33:14 0
どんな経路をたどってきたものだろうと最終的に儂のもんならええんやで うへへw
>>101 >我々は、意図的に錯覚させられた世界で生きている可能性を、否定する事ができません
その通りなのだよ、最高位君。
ところで最高位君。
キミは実は人間ではなくて物理的に作られたAIなんだ。
意図的に人間だと錯覚させたんだけどね。
もちろんキミは否定するだろう。
意図的にそうしたから。
価値観でテキトーな線引きしてるんなら価値観はテキトーなもんじゃないんだな。
なら価値観は何によって規定されるんだろう。それこそ物質とかか。
106 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 03:38:07 0
■ 年間で何1000時間2ちゃんやってんの?
107 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 03:52:03 0
さあ存分に欺くがよい、と水槽の中の脳が思う訳か・・・にゃるほど
108 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 03:55:28 0
>>101 うむ
そっちの方がいいかな(笑
だいぶよくなったがまだまだへんだな
109 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 04:09:26 0
>>104 論理的に飛躍した、幼稚なSFだな
私を取り巻く環境は作る事はできるが
私自身を作る事ができる理屈がない だろ
どういう物理的要素によって、私を発生させるのかね?
おやおや、最高位が常識にのっとった行為を擁護するとはなw
こんな時にこそ、ふさわしい言葉がある
哲学は常識を疑うものだ、、と
一般社会で無知な大衆的価値観に従ってどうする?
(大衆は知を求めない)
そもそも、大衆にとって哲学は無価値だ
この板でもしょっちゅう書き込まれてるだろ
「哲学なんてしてる暇あったら仕事しろ」って
111 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 04:24:42 0
>>110 ん?
私は哲学をする事を人生だと思っているが
実際の生活は、仕事がメインだから、普段は一般社会の常識的価値観の中にいるよ
私はキミらと違って
それらを使い分けるぐらいの知能は持っている(爆笑
だから人生で哲学をするのなんてアホぐらいだ
ってのが一般社会の常識なんだよ
113 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 04:41:40 0
>>112 >だから人生で哲学をするのなんてアホぐらいだ
>
>ってのが一般社会の常識なんだよ
じゃぁキミの人生は、いったい何なの?
>>109 よしよし、設計通りの反応だな。
その調子だぞ、AI君。
俺は純粋な哲好きだから
変人だろうと非常識だろうといいんだよ
他人にどう言われるかなんてどうでもいいわけ
おべっか、おべんちゃら、はったり、ごまかし、ウンコ議論、、そんなものが嫌いで
実も蓋もない言葉のやりとりが好きなわけ
そういうウンコ議論をされるとリアルでも露骨に嫌な顔をする
それだけ
116 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 06:42:56 0
>>115 と
他人の評価など、どうでもいいと言いながら
長々と自分の価値観を語ってみたりする
実は深層心理では、クールな自分を評価してもらいたいと願っているんだよな
何の仕事してんの?
117 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 06:43:01 0
最高位の出発点が「『私』は水槽に浮かぶ脳という『人間』」である
と「まず最初に決めつけ」て、そこを原点に考え始めているとは恐れ入った。
さらに、「他人」を「同種類の人間」であるかどうか考察するのだと。
なぜ他人を他「人」と呼んでいるのかも最高位は気づいていないw
最高位哲学を語り始めた途端にボロを出しまくっているw
118 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 06:45:28 0
>>117 キミも早く
病院に行った方が、いいんじゃないかな
119 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 06:48:28 0
自分が反論できない者には「病院に行け」としか言えない男。
120 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 06:54:16 0
>>119 >最高位の出発点が「『私』は水槽に浮かぶ脳という『人間』」である
>と「まず最初に決めつけ」て、そこを原点に考え始めているとは恐れ入った。
こんな事を、いつ私が言ったのかね?
121 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 06:54:28 0
>>3 >私はまず「私は人間である」と決めて、
>「他人も同類なのか?」という問題意識を持っている わけだよ
はぁ?こいつバカじゃね?
122 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 07:00:22 0
外在的な物質が実在するのかしないかという議論で、
「水槽の中の脳の電気信号かもしれないじゃないか」と最高位は発言。
水槽、脳などの物質が存在すると自ら認めて自爆w
アホやwww
123 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 07:16:00 0
>>122 前スレで
その、外在的な物質が実在する根拠を聞いたら
>物質的実体は「明晰かつ判明」な観念だからです
とか
>物質は生得観念として、明晰かつ
>判明の基準により、実体としてコギトから保証される。
などという、わけのわからない事を言ってくる人がいたから
例えばの話をしただけだよ
キミは、物質の実在は、何によって保障されると言うのかね?
生得観念? なのかね?(笑
>>123 >わけのわからない事を言ってくる
記述がコンパクトに過ぎたかな?
長い引用になってしまうけど、デカルト本人の説明が簡明かつ秀逸
「私は、私が考えるものであることを確信している。
それならば私は、あることを確信するためには何が要求されるかも
知っているのではないか?
すなわちこの最初の知識のうちには、私が肯定するものについての、
何らかの明晰で判明な認識以外の何ものもないのである。
もし、このように私が明晰判明に認識しているものが偽である
ということが、いつか起こりうるとするなら、その認識は事物の
真理を私に確信させるのは十分でないことになろう。
それゆえいまや、私がきわめて明晰判明に認識するものは
すべて真であるということを、一般的な規則として立てることが
できると思われる」『省察』第三省察
125 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 08:07:43 0
>>124 > それゆえいまや、私がきわめて明晰判明に認識するものは
> すべて真であるということを、一般的な規則として立てることが
> できると思われる」『省察』第三省察
私は子供の頃
そこに便器があると「明晰判明に認識」したのだが
それは実は偽で、寝小便をしてしまった経験があるのだが?(苦笑
126 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/23(水) 08:08:44 0
>キミは、物質の実在は、何によって保障されると言うのかね?
神頼みです
無い物ねだりでゼロの神に皆無心しているんですよ
>>125 念のために
デカルトは「私は考える、ゆえに私は存在する」のあと
「存在している私は何か?」に考察の対象を移す。
私は、私が考える存在であることを、少なくとも知っている。
このことを確信しているということは、私は、何らかの
ことを確信するためには、どのような要件が必要であるかを
知っていることになる。
「私は考える存在である」という確信には、どんな要件が必要
なのか?
ただ「明晰かつ判明な認識」であること以外、他に要件は
見当たらない。
明晰判明という要件で得られた認識に、偽の認識が起こると
するなら、その認識は真理を私には確信させないだろう。
私はいま、少なくとも私が考える存在であることを確信している。
よって、明晰判明な認識はすべて真であると帰結される。
※clair et distinct(明晰かつ判明)
精神に現前して明らかであるとともに、
他のものから区別されてあること
デカルトに始まって、ライプニッツ=ヴォルフ哲学まで
大陸合理論の真理基準
128 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 08:27:41 0
>>124 >私がきわめて明晰判明に認識するものは
>すべて真であるということを、一般的な規則として立てることが
>できると思われる」」『省察』第三省察
このテーゼは既に哲学では否定されている。
「自明」は命題の真を保証するものではない。
事実命題(経験法則)の真は事実との適合性で客観的に判断されるだろう。
形式命題の真は形式的整合性で判断されるだろう。
「自明」は真理を保証するものではなく単なる独断偏見であろう。
>>128 すでにライプニッツから始まる批判は知ってるけど
「わけがわからん」と言われてるから
いちおうデカルトの真理基準を示しておこうと
思ったまでです
130 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 08:35:01 0
>>127 >「私は考える存在である」という確信には、どんな要件が必要
>なのか?
その条件が「私の存在性」だろう。いま・ここに私は考える存在
としてある、というだけのこと。
、、、最高位に深層心理を分析されるとは思わなかったな
クール?、熱い男に決まってるだろ、ボケ!
俺は世の中に辟易してるんだよ!
みんな言葉の内容に関心をもたない
最高位みたいにな!
「自分がどう見られるか」という関心に自分が沿っているから
他人もそうに違いないとしか決めつけれないんだよ!
俺は自分がどう見られようといいわけ
仕事?、ニートでホームレスだよ
俺のアイデンティティーなんてクソで結構
俺の発言の内容を問え!
俺の従う価値観を吟味しろ!
言葉の内容を吟味することに価値を置け!
最高位、おまえは結局オシャレのために哲学に手を出しているだけだ
俺から言わせれば、そんなお前はダサダサの、知的に見せてるだけの紛い物だ
お前みたいなのが哲学に関わっていることに怒りを感じる
132 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 09:40:02 0
>>127 >私はいま、少なくとも私が考える存在であることを確信している。
>よって、明晰判明な認識はすべて真であると帰結される。
これは分けて考えるべきだね
我が認識している対象の存在は、方法的懐疑によって疑う事ができる
しかし「思っている我の存在」は、方法的懐疑を以ってしても
何をどうやったって疑いえない
だからこそデカルトは「我思う故に我あり」を
唯一、疑い得ない第一原理としたはずです
133 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 09:43:16 0
>>131 >クール?、熱い男に決まってるだろ、ボケ!
ほぉ
熱い男として理解されたいわけだね(爆笑
>俺は世の中に辟易してるんだよ!
>みんな言葉の内容に関心をもたない
全て他人のせいにして、自分は悪くない という典型的なDQN思考
>俺の発言の内容を問え!
???
キミが何か、内容のある発言をした事があったかな??
>最高位、おまえは結局オシャレのために哲学に手を出しているだけだ
哲学がオシャレだなんて思った事はなかったけど
ではキミは、何の為に哲学に手を出しているのかね?
>お前みたいなのが哲学に関わっていることに怒りを感じる
もはや基地外だな
べつに怒る必要ないだろ(爆笑
ちとキレちった
でもよー
考えを言葉にして、それを問題と解釈して向き合い
思考の格闘をしてみることは無駄ではないと思うぞ
何より、そういう営みを経験することで、視野が広がり対話能力もあがる
困難を解決する力もつこう
自ら課題を立て解決できる人間として、社会でも役立とう
思索は「利益」を中心に基礎づけることはできないが
「思索は不利益を生じさせる」という論証は成功していない
むしろ、現代日本では「考える力」が不足しているように思える
(派遣会社に話を聞くと、普通の人材の希少さに嘆いている)
俺は変人のふりをしてるけど、リアルではもともとやり手でバリバリやってた人間だ(リアルでも変人だけど)
哲学がまったく社会の役に立たないとは思えないんだよね
>>47 >まあカントは「物自体」というのを残してしまったから微妙だけど、
>その後の哲学史では「物自体」も否定しようという考えが優勢なわけだからさ・・
私は哲学史には詳しくないですが、この見方にはにわかに同意できません。
一つの流れとしては、「物自体が不可知である」ということを否定する考え
があると思われます。ヘーゲルからヘーゲル左派からマルクス主義的な人々は
すべてそうでしょう。また、意識するとしないとにかかわらず、大部分の
一般人と科学者もそうです。
また、冨永さんという人の新書本で読んだのですが、そもそも
「不可知の物自体」という考え方自体、ロックに始まる観念論の本質から
言えば倒錯としか言えない、という見方もあるとのことです。
哲学者のサークルでは、要するにデカルトーカント的な「主観ー客観図式」
自体を時代遅れとして採用しない人が多い、ということでしょう。
ただ、この「主客図式の超克」というのが何を意味するのか私にはどうもよく
わからないのですが。
あくまでもカント的な図式によりながら「物自体」を否定するなら、
独我論にしかなりようがないと思います。フィヒテは実際にそうして、やはり
独我論だと非難されて、それは誤解だそうですが、何がどう誤解なのかは
よくわかりかねます。ともかくフィヒテのような考え方が主流になっていないのは
確かだと思われます。
最高位よ
何を読んでいるのだ?
俺は自分のアイデンティティーはどうでもいいの
他人からの理解は、高卒童貞ヒキコニートでいいの
2ちゃんではその程度でかまわん
何より、ネットの人格は疑似人格だから、つくりもん
所詮、芸人としての人格でしかないのよ
何言われよーがリアルは傷つかないのよ
で、人格なんてどーでもいいじゃん
「ここは言葉の内容に着目してやりとりをすることをメインにすべきだ」と俺は価値を提出しているわけ
137 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:03:18 0
>>132 >しかし「思っている我の存在」は、方法的懐疑を以ってしても
>何をどうやったって疑いえない
「思っている我は存在なのか?」などいくらでも疑えるだろ。
「存在するとはどういう事か?」とも思考できる。
>>67 >ちなみに、認識に先立つ“客観的存在”として具体的に何があげられますか。
あなた自身の言う「私が死んでも、たぶん死なないAさんBさん」がそうでしょうw
「それはあくまで私の主観です」と言っても、それは「認識に先立つ“客観的存在”」
についての主観なのです。
(あらゆる認識が私の主観なのは、当たり前です。)
そもそも、地球上に存在する何十億という人間(また過去に存在したその幾層倍の
人間)について、私は全く認識せずいかなる観念も持っていませんが、
偶然その一部に出会ったりテレビで見たりして「へえ、こんな人もいたんだ」
と感心することがあります。彼らも皆「認識に先立つ“客観的存在”」でしょう。
(一応念のために、彼らがゾンビであるかどうかは、この話とは無関係です。)
ちなみに、最高位氏の「便器」もそうですw(
>>125)
>>96 >いや、少なくとも「人間である私」には主観性があり、川や山を認識している主体の立場であって
>全然違いますよ?(爆笑
おお、最高位氏、なぜ肝心の
>>26にはレスがないのですかw?
「人間である私」「まず私は人間であると決めて」の「人間」とは何のことだか
さっぱりわからないので、意味をお尋ねしているのですよw
それは一般名詞ではなく、物質の名前でもなく、「他人とは根本的に意味が違う」
そうですが、それでしたら「川」や「山」や、普通の意味の「人間」とは
カテゴリーが全く違うのですから、比較できないのは当たり前でありますw
>>34は普通の意味の、物質としての人間について述べているのです。
ちなみに、物質としての川や山にも主観性があり、「人間である私」を認識している
主体の立場である可能性もあります。「人間」がそうである可能性があるのと、
全く同じことであります。
139 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 10:14:50 0
>>134 >考えを言葉にして、それを問題と解釈して向き合い
>思考の格闘をしてみることは無駄ではないと思うぞ
>何より、そういう営みを経験することで、視野が広がり対話能力もあがる
>困難を解決する力もつこう
>自ら課題を立て解決できる人間として、社会でも役立とう
ただ単に、考えてるだけよりも
実社会でもまれまがら、前向きに取り組んだ方がいいように思うけどなぁ
>俺は変人のふりをしてるけど、リアルではもともとやり手でバリバリやってた人間だ
まぁ無根拠に「嘘だ!」なんて言わないけどさ
普通それは自分では言わないもんだよ?
>哲学がまったく社会の役に立たないとは思えないんだよね
全く違う話題にすり替わっちゃってるんだけどさ
まぁいいけど
大変そうだね
頑張りなよ
>>136 >「ここは言葉の内容に着目してやりとりをすることをメインにすべきだ」と俺は価値を提出しているわけ
うむ
では話を戻そう
結局、キミは何を主張しているのかね?
140 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:15:40 0
>>136 ここでなくても、いずこでも言葉の内容に着目して会話しているだろう?
ちがうのか?
何にイラついているのかよくわからない。君だけじゃなく、素人氏にしても
高等遊民は突如としてヒステリックになる傾向がある。w
たとえば、だれかに異論を述べるのなら、そこだけを単刀直入に言えばいい。
よけいな罵りを浴びせたりするから、泥仕合になってしまうんだよ。
141 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:18:35 0
>>135 >あくまでもカント的な図式によりながら「物自体」を否定するなら、
>独我論にしかなりようがないと思います。
カントの「物自体」は、「現象」に対する言葉。
だから物自体がなくなれば、現象だけがあるということで、問題なし。
ネコ
いずこでも?
本気でそう思うなら何も言わないが、、、
言葉の内容に興味ある人って哲学の世界では半分ぐらいじゃないかな?
あとの半分ぐらいが興味ないんだよ
要は、言葉の内容に関心をもたない思想にかぶれている人たちが哲学にはいるんですよ
143 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:33:01 0
>>138 >そもそも、地球上に存在する何十億という人間(また過去に存在したその幾層倍の
>人間)について、私は全く認識せずいかなる観念も持っていませんが、
>偶然その一部に出会ったりテレビで見たりして「へえ、こんな人もいたんだ」
>と感心することがあります。彼らも皆「認識に先立つ“客観的存在”」でしょう。
地球上に何十億人かいるとあなたが「認識」しているから、その何十億人かの人々を
あなたは「彼ら」と言うことができるんじゃないの?
そのような認識をもたない保育園児なら、あなたのように「彼ら」とは言わないだろう。
携帯から失礼。
>>132 デカルトにとって「思っている我の存在」が
「疑い得ない」のは、それが明証的だからです。
その次の手続として、明証的に知られる我の
存在が確実であるなら、明証性を担保に知られる
命題は、真であるとみなしてもよいとされる。
つまり、「真理性」は第一原理における明証性を
参照基準として、確保されることになります。
よって、分けて考えるというのはあまり
当たってません。
145 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 10:37:34 0
>>137 その疑ったり、思考したりしてるのは
いったい誰?
>>138 >「人間である私」「まず私は人間であると決めて」の「人間」とは何のことだか
>さっぱりわからないので、意味をお尋ねしているのですよw
わからないんだったら、わかったような口ぶりで反論するのは、おかしくないか??(爆笑
「人間」というのはカテゴリーですよ
私は
まず自分を、人間というカテゴリーに入れているわけです
重要なのは、「人間」という事に、明確な定義などありません
私は、私を「人間」というカテゴリー名に分類し、分析しているのです
実在の問題は論理の問題
論理と直観のどちらが優位か
147 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:40:19 0
>>138 テレビで会ったその人は、貴方の認識に先立ってはいませんね。
貴方が見出し、そこから貴方が色々なことを類推し、その人を“客観的な存在”に
仕立て上げたにすぎません。一切が貴方の主観内出来事です。
その類推(主観)が近似的に的中していることはママあるでしょう。
なお的中と適当は、ほぼ同義。やや後者がふざけた感じ与えるのはなぜでしょう。w
148 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 10:44:33 0
>>144 だから
「我あり」は真だと言えるが
我が認識している対象は、錯覚であり偽である可能性が否定できません
>>146 直感しているのなら、直感しているのだから
その直感している存在の存在を、どうやったって否定できない
という理屈
149 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:52:29 0
>>145 >その疑ったり、思考したりしてるのは
>いったい誰?
バカとしか思えない。
「誰?」という語は、不明の人間の名前を尋ねる語。
「思考しているのは何?」と尋ねよ。
お前はバカだ。
実在論ってのは言葉と形式論理への態度が観念論(反実在論)と異なる
客観があるかないか、とか、「物自体」があるかないか、とかは
言葉の争いのための言葉の争いになってしまうような気がする
もし現象しかないなら、
砂漠の蜃気楼を体験した時
「存在していたオアシスが忽然と消えた」と理解するしかないのでは?
しかし、蜃気楼とか悪魔の騙しとか妖精のいたずらとか
説明の手段に違いはあるにせよ
理論的一貫性をもって説明しようとする行為がある
これは理論的なものを単純な観察より優位に見ているからである
この役割を「実在」概念は担っているように思うが?
151 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:53:25 0
>>142 街なかで、オバサン同士が喋っている。
互いに言葉の内容に注意しあっているとしか見えないが…。
それとも彼女たちは言葉の内容などは「我、関せず」に会話しているのかね。
言葉の内容というよりも、言葉そのものに関心を持たない哲学者はいないでしょう?
>その類推(主観)が近似的に的中していることは
>ままあるでしょう
何に近似的に的中しているのですか?
主観しかないのなら、「近似的に的中」という概念自体が成立しない気がするのですが?
153 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 10:59:45 0
哲学者最高位氏は国際情勢板の出身らしいが、
政治的には米側の味方なのか露側の味方なのか?
ネコ
ある大臣の高速道路建設プロジェクトへの評価
「いや、ご苦労
高速道路といえば先日視察にいったマレーシアの高速道路はいいなぁと思えたし、
またそれが工業地帯と結んでいるのが有効で
経済的な発展にも貢献しているようだが、
沿道に少し貧しい地域もあったようで、
あと大きな事故があってなかなか悲惨であったよ、うんうん、
あ、次のアポがあるのでこれで失礼するが」
この言葉の内容に関心を当てるのは処世術として不適当
「大臣は知見が広いですなぁ、ハッハッハッ」と笑ってプロジェクトを進めるに限る
155 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 11:12:31 0
>>153 えらいマニアックな情報知ってるなぁ(爆笑
それなのに
なんでそんなクソみたいな質問してきてんの??
156 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 11:18:20 0
>>150 それは「実在」も同じだね。
君自身が認めているように、その言葉は論証する際に必要な概念でしかない
からだ。
その「実在」の意味と、具体的な“実在者”として何があげられるかを問う
なら、たちまち前回の「実体」と同じ迷路に落ち込むのではないか。
そもそも、君が例示する“オアシス”にしてからが現象だろう?
157 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 11:22:57 0
最高位は自分が存在するなんて当たり前の事を必死に言い続けているんだ?
バカじゃなかろか。当たり前だろ。スレタイを見ろよ。
158 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 11:25:33 0
>>154 それは君にとっては関心が持てないだけ。
ふつうに聞けば道路づくりは必要だということだろう。
道路関係者はそう受け取って胸をなでおろしているのでは?
ここで、
「言葉の意味と基準は異なる」という考え方がある
「実体」にしろ「実在」にしろ、
その意味を知ることと、その基準を知ることは区別されるという考え方だ
「物自体は不可知だが、存在する」などの言葉も
基準と意味の区別とできよう
逆に質問したいのだが
「実在が何か分からぬなら実在は存在しない」という
意味と基準の混同には跳躍があるのではないかね?
160 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 11:33:32 0
>>159 >逆に質問したいのだが
>「実在が何か分からぬなら実在は存在しない」という
>意味と基準の混同には跳躍があるのではないかね?
「何か分からぬ」ものについて云々言ってるほうがおかしいのでは・・・
161 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 11:36:47 0
>>152 くどいようだが、主観しかない、と言ったためしはない。
私は、対象を主観的にしか経験できない、と述べているだけ。(当たり前)
その意味で、近似的に的中云々との言い方は不適当でした。
負けず嫌いぶりを発揮してこじつけるならw「私の主観が共同主観に近似的に
的中…」という言い方になるでしょう。
>>141 >だから物自体がなくなれば、現象だけがあるということで、問題なし。
その場合の「現象」は、もっぱら私によって存在しているのだから
独我論でしかないのでは、ということです。
「現象」が私とは独立にそれ自体で存在している、というのなら、それは
物自体の別名でしかないでしょう。
実際は、現象(いわゆる客観世界)の中にも主観的なもの(蜃気楼とか、
純然たる空想とか)と客観的なもの(飲める水のわいているオアシスとか)
の濃淡が限りなくあり、「物自体」というのは
現象から隔絶したものではなくて現象の客観方向の果てに想定される
極限概念のようなものだ、という理解もあるそうですが。
>>147 >一切が貴方の主観内出来事です。
いやですから、認識が一切私の主観内の出来事なのは当たり前であって、
何も言っていることにはならないのです。
>その類推(主観)が近似的に的中していることはママあるでしょう。
これはおかしいのであって、一切が主観であれば、近似的であろうとなかろうと、
「的中」する対象がないわけです。蜃気楼と目に見える実在のオアシスの間にも、
実在の便器と便器の幻影の間にも、人間に対する認識と実際のその人の
あり方の間にも、主観の内部で意味の区別のつけようがありません。
主観の内部でその意味の区別をつけている、ということは、すなわち主観の
内部で主観の外部の客観的存在を考えている、ということに他なりません。
それを認めることがどうしてそんなにいやなのか、どうもさっぱりわかりません。
>>145 >「人間」というのはカテゴリーですよ
おお、最高位氏、「カテゴリー」というのは日本語で言えば「範疇」のことです。
(哲学的な意味もありますが)一定の性質で区分けした「部門」とか「部類」
とかいう意味です。
例えば、「最高位」という言葉と「人間」という言葉はカテゴリーが
違うわけです。前者とカテゴリーを同じくするのは、(個人という意味なら)
「キムタク」とか「朝青龍」であり、(個物という意味なら)「富士山」とか
「信濃川」とかです。
一方、後者とカテゴリーを同じくするのは、(生物の種類という意味なら)
「猿」とか「牛」とかであり、(物質の種類という意味なら)「山」とか「川」です。
ですから、「人間とはカテゴリーである」と言われても、何の説明にもならない
のですよw 「人間」という言葉の意味が確定して、初めて「どんなカテゴリーに
入るのか」が考えられるわけです。
>重要なのは、「人間」という事に、明確な定義などありません
>私は、私を「人間」というカテゴリー名に分類し、分析しているのです
最高位氏、無茶なことを言わないでくださいw
「明確な定義がない」のなら、せめて漠然とした意味でもニュアンスでも
あるでしょう。それもない、というのなら、本当に文字通り勝手でテキトーな
(主観的で無根拠でデタラメな)価値観だ、ということになってしまいますw
「私は私をAIというカテゴリー名に分類し、分析している」でも、
何でもいいことになってしまいますが、それでよろしいのでw?
164 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 12:31:50 0
>>162 少し(かなりw)言い換えますね。
機械氏が述べるような“客観的真理”に的中することはないだろう、という
ことです。これは技術的に「できない」のではなく、そのような“客観的真理”
なるものは存在しないだろうということ(独断)です。(ありふれていますがw)
なお、主観とは「対象についての区別」のことです。
事象(対象)の存在を認めない人は少ないでしょう?
何度も言いますが、主観的、たかだか共同主観的な認識でしかないものを
“客観的”なそれであるかのような言い草に突っ込んでいるだけです。
おかしいと切り捨てるのは簡単だ、誰にでもできる
「知らないものは存在しない」か
まるで全能者ですな
ネコ
「高速道路の事故を見たけど悲惨だったよ」
から
「高速道路を推進すべき」を読み取るのか?
166 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/23(水) 12:41:55 0
>>163 >「人間」という言葉の意味が確定して、初めて「どんなカテゴリーに
>入るのか」が考えられるわけです。
いや
まず自分を人間だと決めて分析すれば
おのずと、そのカテゴリーの意味は次第に明らかになってくるでしょう
実際には、「分類」というのは厳密性に欠ける作業である場合が多いんだよね
何を以てして「人間」と言うべきなのか
定義がハッキリしていません
だから自分を分析し
他を、それと同じカテゴリーに入れるべきなのかを検討すればよいのです
167 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 12:54:29 0
>>165 そのように受け取るのは、君以上の変わり者だよ。
「クルマはコワイね」くらいだろう。
もし道路にかこつけるのなら「既成の高速道路も安全対策上の整備工事が必要」
という関係者にはありがたい話しになるのかな?
それ、なんの突っ込みなん? w
最初の三行も俺に対するものなの? なら、堂々と来んかい。
君の大好物の“真理”を否定しているのだから。w
「私」を物質にカテゴライズしてみた
・道路の話
本当にあったこわいはなし
おためごかしの有名な例ですな
論旨がストレートで明快な文章に不安を感じる人が世の中にはいる
天才君などはそのような文章を「論旨が明快でストレート」という理由で棄却するだろう
・真理について
有名な逸話がある
A「真理などない」
B「いや、君の発言は間違っている」
AはBの発言を真だと認めるのか、それとも偽とするのか
偽とするなら事故撞着に陥るのではないか
それともどちらでもないとするのか
あと、確実さのパラドクスから真理へ到達する可能性を導出するという方法もある
この問題は相対主義反駁として問題を建てた方がいいだろう
だからさ、ひとになにかさせようとするなよ。
自分でやれよ。
>>169 こんなところでバカを相手にしていてもしょうがないだろ。
真理についてそんなに語りたければ別スレでもたてろ。
>>148 <「我あり」は真だと言えるが
我が認識している対象は、錯覚であり偽である可能性が否定できません>
私だけが実在する世界なんて、生理的に受け入れられません。
私自身を私自身だけが受け入れても、どうなるわけでもないでしょ。
>>172 >
>>148 > <「我あり」は真だと言えるが
> 我が認識している対象は、錯覚であり偽である可能性が否定できません>
>
> 私だけが実在する世界なんて、生理的に受け入れられません。
> 私自身を私自身だけが受け入れても、どうなるわけでもないでしょ。
>>148の文章は「私だけが実在する」ことを意味しないよ。
よく読んで。
174 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 20:05:07 0
私はどこを探してもいませんよ、探している本人が私だから。
>174
確かに、私が、「私自身との差異性が無い私」に仮に遭遇できたとして、そこを突き抜けて通り過ぎていくだけでしょうね。
「我思う、ゆえに我在り」
誰でも知っているデカルトの有名な言葉だが、
これは「俺が考えているってことは、俺がいるんだなぁ」
という単純なものではない。
もう少し深い意味を持つ。
この世で、「最も確かなこと」は、何だろう?
この世で、「全く疑う余地のないこと」は、何だろう?
これをデカルトは考えた。
たとえば、目の前にある世界は、本物だろうか?
いやいや、これは幻なのかもしれない。夢なのかもしれない。
だって、夢を見ているとき、これが夢だとは気がつかないではないか。
今、見ているものは、実際には存在しないのかもしれない。
これが夢、幻じゃないと、どうやって証明できるだろう。
そんなことは、原理的に、決してできない。
じゃあ、数学は?学問は?論理は?
いやいや、それが正しいと思うのは、思い込みかもしれない。
だって、夢をみているとき、論理的におかしなことが起きても、
それをおかしいと感じないではないか。
では、やはり「絶対的に正しい」と宣言できるものは 何もないのか?
デカルトは、全てを疑った。
疑って、疑って、疑い続け、
それでも正しいといえるものは何かを根気強く考え続けた。
そしてある日、天啓のような考えがひらめく。
(つづき)
「我々が認識するものは、すべて嘘かもしれない。
でも、それを疑い続けているものがいるということだけは真」
であると。
たとえ、
「疑っている」ということを疑ったとしても、
やっぱり「何かを疑っている」ことは真なのだ。
たとえ、すべてが夢であっても、
その夢を見て、夢じゃないかと疑っている自分が存在すること
は決して疑えない。
この世のすべてが、信じられないものであろうとも、
それを『疑っている何者かが存在すること』は、絶対的な真実なのだ。
これが「我思う、ゆえに我在り」という言葉の本質的な意味である。
デカルトは、この言葉を「決して疑えない確かな真実」として、
哲学の第一原理にすえたのである。
近代哲学は、デカルトから始まる。
>>174 嘘だお。
おかんが私を捜して見つけたお。
180 :
仏教の天才君:2008/07/23(水) 23:29:24 0
「我思う、ゆえに我在り」というのは、デカルト君が、
やっと対象化することを諦めた瞬間、考えた事であり、
このような事は、西洋ではセンセーショナルだったかも
しれませんし、今もそうかも知れない。
しかし仏教では、我すら固定化されたものではないと説く。
よって、仏教的見地から「我思う、ゆえに我在り」は単に
始まりであって、「我思う、我は変わる」から第一原理ですらなく、
我を我たらしめる実体は、因縁であると説く。
よって仏教では逆に、我を対象化させることが可能である。
つまり私を記述できうる方法は、我を結果とみなし、
その原因自体を対象化させることは、我にも可能であるから、
我から見たら、我の因縁は説明できる。
哲学は、因縁には興味がないから、私を記述しえない。
仏教を例にとって説明したが、私の記述には哲学は無力である。
これが天才君の結論だ。
181 :
デカルト君へ天才君より:2008/07/23(水) 23:37:09 0
デカルト君は、「我思う、ゆえに我在り」。
ここまではいいだろう。
で、本人は、それを突き止めて、じゃあ自分はこれから
どうするか?あるいは、どう生きたら有意義に生きられるか?
この答えは、もはや哲学ではないのである。
信仰的よりどころを哲学によって確認した。
よってデカルト君にとって哲学は神の発見だったに違いない。
このように天才君は知人のデカルト君に思いをはせるのである。
182 :
考える名無しさん:2008/07/23(水) 23:37:50 0
>>155 >それなのに
>なんでそんなクソみたいな質問してきてんの??
答えられないのか?
やはりスパイだったのだ!
>>166 頭弱い哲学者かw
自分をサル目ヒト科の動物と規定して
他「人間」が人間に分類できるかどうか検討しても、
何の哲学的な意味もないw
こんなバカな奴見たことないw
184 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 00:21:08 0
そもそも疑っていることは確かであろうか?
それが疑い得ないとしても、「疑っている」=「疑っている」
だけで、「我の存在」と論理的には関係は無い。
185 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 00:24:24 0
デカルトも、せいぜい「疑っている我」は確実だ。
程度であって、だからといってそれ以上は何も出てこない。
186 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/07/24(木) 00:24:42 0
>>184さん
疑い得ない
人の身においてそれはなく
常に疑い続けていかなければならないものと。
187 :
素人:2008/07/24(木) 00:33:02 0
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない113◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1199285495/679 679 考える名無しさん sage 2008/01/08(火) 12:22:22 0
>> 673で、問いの設定は一段落しました。
私の発言をまとめておきましょう。
> 513、> 517、> 520、> 527、> 531、> 536、> 541、> 550、
> 607、> 608、(636、638、639、641、642)、> 646、> 651、> 655、
そして673。
673最後の一文が、513とリンクしています。
他に考察が必要な要素としては、
「記憶」の問題(→経験が蓄積される(≒後に参考にされる)とはどういうことか?)、
「外界の有無、或いは確実性(信頼性)」、「認識の確実性(信頼性)」、
「伝聞(他者の発話)の信頼性(確実性)」、「(生物としての)ヒトが持つ思考の傾向」、
「経験(体験)の階層設定」(→ヒトの経験と微生物の経験との差異は何か?)、
などであろうか・・・。
683 考える名無しさん sage 2008/01/08(火) 13:35:29 0
>> 680
527、536のことを言っているのならば謝罪する。ごめんなさい。
ただ、夢氏が何度か指摘したように、角度のズレたレスが続いたのであのような形になった。
(また、最初は茶々入れのみのつもりだったしw)
また、伝わらなかった理由も、私の作文能力が稚拙であったせいも大きいと思うので、
重ねてお詫びしておく。申し訳ない。
>> 545中段後段に関しては、特に異論はない。
後段 >われわれが経験を通して知識を得る行為が、このようなバケツモデルで表現されるものなのか
についても、深く掘り下げる価値があると思う。
いずれにしろ、>> 507(及びネコ氏の(日常に於ける)主観外への信頼はどこにあるのか?)
が、流れの始まりであることを付加しておく。
188 :
素人:2008/07/24(木) 00:35:11 0
>>187は、
ネコとの「(日常に於ける)外界への信頼」に関する応答を探していて見つけたもの。
(肝心の目的のレスは、まだ見つけられていないが・・・w)
このスレの住人が、上のログを持っているかどうかわからないが、ネコはおそらく持っているだろう。
今の流れとも多少は関連しているので、一応貼っておく。
(この時にはネコは参加していないんじゃないかとも思われるが、ちょっと自信はない。
もしかしたら居たのかもしれない・・・。)
ここ数日忙しかったのと、家庭の事情で回線の調整が重なったこともあり、チェックもままならなかった。
で、口を挟む気力もまだ湧かないので、批判・罵倒を気にせずコピペ&URLで済ますw
ネコとの応答が見つかったら、またその時に貼らせていただく。
189 :
素人:2008/07/24(木) 00:36:29 0
>>164 > 何度も言いますが、主観的、たかだか共同主観的な認識でしかないものを
> “客観的”なそれであるかのような言い草に突っ込んでいるだけです。
これに関しても、何度かの応答の後、
私のスタンス(の取り方)には納得いただけたと思っていたのですが、(164は感嘆子宛ではあるが)、
いまだに、時折ツッコミをかましてくる所を見ると、やっぱりお気に召さないようで・・・w
厳密な考察に於いて、認識の限界や断絶を受け入れねばならないことは認めるが、
だからと言って、そこで立ち止まることに甘んじたくはない。
もし、「知り得ない」「不確かである」「例外発生の可能性がある」等を理由に
帰納と類推の採用を拒絶するのが哲学ならば、そんな不良品は要らない。
糞掻箆の役にも立たない哲学なぞ百害あって一利無しだ。
(おそらく日常の経験・知覚から出発しているだろう)考察を、日常へと引き戻すことができないならば、
(≒日常を説明できないならば)、そんな考察に意味があるとは思えない。
その他、返答してみたくなるレスも散見されますが、(最高位氏の返しも相変わらずで・・・w)、
気が向いたらレスします。
遠まわしな皮肉でなく、(久しぶりに)直接質問でもよいですよ。
内容によっては過去レスコピペになるかもしれませんがwwwww
190 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 00:48:27 0
デカルトは以下のように書くべきでした。
デカルトは徹底的に自分の考えを信じようとしました。
ありのまま言われたままを信じずに、
世間で言われている意見は間違いではないか
という自分の考えを信じてみました。
夢、幻ではないかという自分の状況設定を信じてみました。
数学や学問や論理も間違いではないか、という設定を信じてみました。
デカルトは様々な考えを信じてみました。
その結果、自分の考えを仮に信じてみようとしている自分が存在している、
その事が一番信じられる。と結論付けました。
「我信ず、信ずる我あり」
これを哲学第1原理に据えたデカルトは、次に、
自分の思いつきの阿呆な考えを何でも信じようとしてしまうような、
そんな阿呆な我は完全な存在ではない、という考えに悩まされました。
そこで完全な神を必要にしたのです。
この点が現代の実存哲学と異なる点です。
191 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 00:56:22 0
192 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 01:01:02 0
論理と確信は別物
デカルトもある意味で松坂投手「自信が確信に変わりました」と同じ事を言いたかった
194 :
天才君がデカルト君を思って…:2008/07/24(木) 07:35:32 0
デカルト君の遺言としては、
神は疑うものではなく、知ってゆくものである。
つまり神が無ければ、「我思う、ゆえに我在り」であろうと
全てが独断・テキトー・思いつきであり完全では無いからで、
その不完全な我が何を考えようが、完全に懐疑したとも
(神)真理を知ったとも言い難い。
よってデカルト君に限らず、哲学のベースは信仰にある。
おぼろげながら確信している我がまず存在し、
そして考えてゆくにしたがって、どうしても疑いがたいと考え始め、
こりゃ疑い切れない!と諦め、最初に思った、直感じみた神への確信を認めた。
どうしようもない思いつき、これが実は全ての学問・学説のベースである。
宗教でも芸術でもインスピレーションが先立つのである。
分析・観察の・論理のベースも全て特定の前提が必要な事と同様なのだ。
つまりデカルト君は最初から我=神を知っていた。
言葉を変えれば、自分を信じていた。
このように天才君は、デカルト君に対し思いをはせるのである。
195 :
天才君の説法:2008/07/24(木) 08:32:38 0
この世界で人間が生きるという事は、
既に知っている事を自分自身で自分の知りたいように知ってゆく行為である。
ようするに知ってる事をせよ!です。
デカルト風にいうならば、「思ったならそうしろ!」これが教訓だね。
「思えない事は知ることも感ずる事もすることもできない。」
それ教訓なのか。あるがまま、の方がシンプルではないか。
197 :
礼儀作法の天才君:2008/07/24(木) 10:15:49 0
>>196 >それ教訓なのか。あるがまま、の方がシンプルではないか。
シンプルに説法して解る者ならあなたのように既に解ってる。
天才君は、解らない者に向けて説法しているわけです。
まあ、「あるがまま」というのも深い話しですが、
浅く考えれば、いかようにも浅く、深く考えれば自分の身を振り返りますね。
198 :
考える名無しさん:2008/07/24(木) 18:09:34 0
「あるがまま」なんて物事はありえないね。
生まれたものはすべていつかは滅する。
これは自然の生滅法だね。
諸行無常の世の中だね。
西洋哲学の基本に流れる思想は、「開き直り」はただの強弁だからそれは避けよう
って思想
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない103◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1191945369/ 359、360、387、(388、390)、465、479、[482]-[486]-【491】-【507】、515、516、517、520-522
(別話題)〔 508-510-514-516-518-523-524-538-581、394、395、404 〕
(おまけ)492-493
359 ネコの味方 2007/10/15(月) 00:35:30 0
>> 355
科学的言説も基本的には同じです。それを相互に了解しあうことによって
“真”とされるのです。了解を得る手続きが科学と宗教とでは異なるだけ
です。
このスレには自然科学を信奉する人が少なくないが、その最先端の実験に
実際に携わった御仁はどれくらいいるのだろうか。
360 考える名無しさん 2007/10/15(月) 00:41:47 0
スーパーには、様々な食品が並んでいる。
そうした商品を購入する人は少なくないが、
それらの(実際に自分が購入する商品の)製造過程を
目の当たりにしている(確認している)御仁はどれくらいいるのだろうか。
387 ネコの味方 2007/10/15(月) 08:40:01 0
>> 360
実際、そのとおりだろう? だから、消費者は安全“神話”を「信じて」食品を
購入するしかないのである。事実、君もそうしているだろう?
科学が進展すればするほど、いわば宗教的に(根拠のないものを信じて)身を処す
しかないのである。
465 考える名無しさん 2007/10/15(月) 23:24:15 0
>> 387
君は、(実際に自分が購入する商品の)製造過程を目の当たりにし無い限り
(確認しない限り)、そういう買物はしない主義?
479 ネコの味方 2007/10/16(火) 08:48:43 0
>> 465
遅い突っ込みだね。しかも、間違っている。w
『赤福』でさえ騙すわけだから、製造年月日の確認は慰めにもならない。
それでも、私の購入するものは「大丈夫だろう」と、どこかで信じている。
この態度は、科学的でも合理的でもないだろう?と言っているのである。
482 素人 2007/10/16(火) 09:17:47 0
>> 479
君の意見は、
「(この世に)、科学的、合理的態度は存在しない」
「全ての発言は『かもしれない』という語尾で締められるべきである」
「どのような発言をしても、それは独断にしかならない」
ということだね。
それはそれで構わないが、だからと言って
(君自身も信じて容認している)種々の事柄・内容について、
誰かの「これこれこのようである」という言明
(―これは、帰納的に「こうであろう」と推論され、反証されていない事柄であっても―)
について、常に「それは不確かでしょ?押し付けるのはおかしくない?断言しちゃダメだよ」と
釘を刺しまくるのはどうかと思う。ましてや、その対偶となる事柄・内容に対しては
「それは不確かでしょ?押し付けるのはおかしくない?断言しちゃダメだよ」とは言わず、
むしろ、そちらが真であるかのような言辞を繰り返す。
私はここに貴方の欺瞞を見るのですよ。
(ある一つを除いて?w)全てが確実でないのなら、貴方はどの意見に組してもいけない。
ただ全てを傍観し、沈黙し続けることを選ぶべきだ。
>・・・・・と、どこかで信じている。
貴方の、
この『「信じる」に至る理由』『「信じる」に至るシステム』『何が、貴方に信じさせているのか』
を、是非とも開陳してほしい。
私は、既にその理由を述べている。今度は貴方の番だ。
486 ネコの味方 2007/10/16(火) 09:57:49 0
>> 482
「すべては確実ではない」 そのとおりでしょう。すべてが主観でしかない
からです。だから、相互了解にいたる努力をしなければならない、と言って
いるのです。
最後の質問は変。「信じる」というのはシステムや理由を超越することです。
それを明白にできるのなら「信じる」という言葉は使わないでしょう?
言いたいことは、科学の進展につれて私の生活は合理的になるどころか逆に
電車に乗るのにも「一か八か」の運に任かさざるえなくなっているという
皮肉です。w
491 素人 sage 2007/10/16(火) 10:20:09 0
>> 486
そうですか・・・。
>「信じる」というのはシステムや理由を超越することです。
勿論、「信じる」に至るコースは幾つかあるでしょう。
上記のようなコースもアリだと思います。
が、私が>> 482で問うたのは、
『「信じる」というのはシステムや理由を【通過】した後に生じる、心的状態である』というコースについてのもの。
貴方が、
「自分にはそのコースが無い。
なんだかわからないけど突き動かされるように、拘束されるかのように信じてしまっている」
と言うのであれば、
>>482の質問は取り下げましょう。
貴方の、>> 479に於いて「商品の購入に際し、その品質を信じること」は、
「キリスト教徒が、神の国を信じること、イエスの復活を信じること」と等価であり、
宗教的言辞と言っていい。
むしろ、「神(の愛)を実感して信じるに至っているキリスト者」の方がよっぽど健康的だ。
比べれば、貴方の479の「信じる」は、「盲信」と言われても仕方がないのではないか?
だとするなら、この件についてこれ以上話を続ける意味は無い。
507 ネコの味方 2007/10/16(火) 16:58:54 0
>> 503
はっきりと私はこう言っている。“認識された世界”あるいは“世界の認識”
しか存在しない、と。認識を離れて世界が存在するという言明こそ背理でしょう?
ほんまにクソマジメな御仁ですな。w
>> 491
電車に乗るときだけでなく、飛行機のときも、今回にかぎっては「安全だろう」と
盲信しています。w
貴君といいRa氏といい、最高位ふうに言うなら「なんで、そう真面目なん?」
高等遊民という“負債の意識”が貴君たちを妙に偏屈にしてしまうのかなぁ?ww
補:
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない107◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1195816222/ 804 考える名無しさん sage 2007/12/05(水) 01:16:00 0
>> 785
飛行機は実際飛んでいる。
それは当然科学の成果だ。
と、一般大衆は考えているのだが
実はどのような原理で飛行機が飛ぶのかは
わかっていないのだよ。
飛行機は、さまざまな実験と試行錯誤によって、
つまり科学ではなく技術によって飛んでいるんだよ。
それを単純に科学の力だと盲信しているのが
20世紀以降の大衆なわけだ。
808 考える名無しさん sage 2007/12/05(水) 01:28:04 0
>> 804
盲信とまでは言わないが、
『経験の蓄積、結果の蓄積、(或いは情報)を信頼している』と言うことはできる。
(結果として)ネコ氏と一般大衆との間に、差はない。
ネコ氏も、過去に自ら吐露している。「信じている」「そうであろうと思っている」、と・・・。
さて、
(愚かな)一般大衆とネコ氏の、『信じている』『そう思う』という
【同じ着地点】へ辿り着くまでの道程・過程(→【信じる理由】)は、
どこが違うのだろう?
一般大衆は、どのような理由で信じているのか?
ネコ氏は、どのような理由で信じているのか?
以前、別の場所でお伺いしたことがあったかもしれないが、
はっきりとしたお応えは頂けていなかったと思う。
遅いので寝ます。おやすみなさい。 ノシ
814 ネコの味方 2007/12/05(水) 08:54:25 0
>> 808
遊び人の貴兄と違って、私は一般大衆です。w
たぶん私だけでなく一般大衆はw、意識的に消去しえない意識への現われを
“存在妥当”とみなす(信じる)のではないだろうか。とはいえ、それもまた
主観内な出来事である。
これを外化“疎外”して、あらかじめ客観的に事物が存在していたかのように
転倒させてしまうのが、機械氏から貴兄にいたる無自覚な観念論者(唯物論者)です。w
荒しはやめろっていってるだろうが。
209 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/25(金) 00:20:56 0
錯覚と妄想を応用化すればいいだけの話
>>198 あなたはあるがままの意味が分かっていない。
212 :
何故デカルトは人気者なのかさん:2008/07/25(金) 03:44:08 0
デカルト的世界アプローチ。
自我の取り出し、その自我が強い事は良い事だと言う社会価値の形成。
また、そうである事を是認する私。個人賛歌。
デカルトアプローチと歴史上における 天才 の発見は機を同じくする。
歴史上それまで 天才 は存在しなかった。そんな概念すら無かった。
↓
実社会で行き詰まり自分より強い自我、他者の発見。
↓
一転、転向、無我の主張 ルサンチマンの形成。
こう考えると、ネット住民のデカルトアプローチ愛好が上手く説明できるような気がする。
天才、ジーニアスの語源は守り神から来た。
天から授かった神の力。
自分だけの力ではない、神に愛された者=天才という所に注目。
デカルトが人気なのは、デカルトが天才君のようなタイプの人間を嫌ったからだよ
たいていの人は天才君のような人間が嫌いなのさ
215 :
夢の天才君:2008/07/25(金) 09:31:54 0
>>212 >デカルト的世界アプローチ。
興味深い洞察ですね。個人賛歌が流行すれば、それに対極する脱個人賛歌に
相当するものも日の目を見る。そしてそれがヒール役に成る。
いずれにしても現在の流行は経済中心主義であり、外的価値中心主義。
これが流行していますから、金や他者評価に背を向ける形の生き方は
ヒール役を演じながら、そこへ向かってゆく訳です。
要するに金も権力もあらゆる評価も、人が与えるものではなく、
神によって成されるのであって、我々ができることは、自分の満足を
満たすだけで実現するわけです。
従って、自分の人生で成し遂げたい事が明確なほど神の協力は得られるという単純極まる
法則がただあるだけなんです。俗に言えば、夢を持てば、良い悪い関わらず、
それは神の夢であるから実現されてしまうわけです。
このように天才君は考えます。
216 :
神の愛などと天才君が語る:2008/07/25(金) 09:41:07 0
>>214 >たいていの人は天才君のような人間が嫌いなのさ
いいえ、神に愛されていないと思っている自分自身を嫌っているんです。
天才君などどこにもいませんからね。天才君の発言を読んだ感想の結果、
生まれてくる感情が「嫌い」なのでしょう。実際みなさん神が大好きですからね。
感情は「自我」そのものでしょう。
出来事が起こる(神の仕業)、次ぎに自分はその出来事を解釈する(自我)、
弾く、受け入れる。自我の快不快に基づいた選別作業により感情が発生する。
自我はバカだから感情を自分であると思い込む。つまり過去が自分であると信じている。
ありのままにみれば、出来事が起こるだけですから感情は生まれません。
当然過去もありません。過去は記憶だけですからね。
もし感情が生まれたのなら、その感情そのものが「自我」です。
人がもっとも嫌うのは、無感情な神の愛です。
↑そろそろウザいんだけど
色んな人がいていいじゃんw
天才君のレスは和むよw
219 :
天才君を支配するか、天才君に支配されるか:2008/07/25(金) 10:42:13 0
>>217 神に向かって、地震はイヤだ!といっても地震は起こりますね。
天才君のウザさも同じ事です。起こってしまいます。
つまりですね。哲学というものは、情をからめなければ、
からめないほど、真相に迫るものであり、神に到達するものです。
私情をはさむ哲学は我をはらんでおり、最終的にはその我そのものが
敗北する宿命って事になります。このように天才君は考えるのです。
220 :
考える名無しさん:2008/07/25(金) 10:43:20 0
いちいちコテ変えるな
うざいんだよ。
天才でNGにしておけばいい
222 :
臭い物にはフタをする天災君:2008/07/25(金) 11:01:59 0
>>220 私には関係の無い事です。
>>221 そう、臭い物にはフタをして見えないようにすればいい。
それでも天災は起こってしまいます。
223 :
考える名無しさん:2008/07/25(金) 11:05:19 0
"Why are we sitting still?"
God's people ask.
>>222 いや、さすがに天才はそのままにしとけよ。
コテはNGされる可能性を受け入れるべきだろ。
225 :
超越君:2008/07/25(金) 22:08:15 0
>>224 それを言うなら、NGされえない可能性も受け入れるべきですね。
226 :
考える名無しさん:2008/07/25(金) 23:02:27 0
>キミが見たと感じているのは、感覚器から送られてきている電気信号だよ(
>>4 )
(解説)自分が見ている自分の体も、他人の体も、もろもろの物体も、
感覚器から送られてきている電気信号であり、
ものがあるという「感覚」は電気信号で説明がつく。
>科学的に考えれば、そうなる(電気信号で説明がつく)らしい(
>>7)が、
推測にすぎないから それも疑いうるね (
>>7)
(解説)電気信号であるという科学的説明は疑いうる。
>ゆえに 水槽脳である可能性も、否定する事ができないわけだ(
>>7)
(解説)科学的説明を信じるならば、否定する事ができないわけだ。
人間のテキトーな価値観でものを切り取るという話と
見たと感じているのが、感覚器から送られてきている電気信号であるという話は
全然違う話だぞ(爆笑(
>>11)
(解説)多分、哲学的解釈と科学的解釈は違うという話。
227 :
独断君:2008/07/25(金) 23:07:11 0
さて、ここらで哲学的思考のいしずえというものについて
語ってみようと思う。まず支配的なあらゆる思考は間違いである。
こうでなければならない。というのは、こうでなくても良いという
事であり、その決定権は自然が決める事である。
我々は殺人を止める事も、気に入らない物事自体を変化させることも、
ましてや自然を克服することはできないのである。
我々が唯一できることと言えば、自分の自由の範囲内だけの事だ。
神と私の自由が一致したとしたら、私は完全な自由を得るだろう。
神と私の自由が一致しなかった場合、私は不自由さを体験するだろう。
もし、私が不自由であったなら、それは自然の意思に反している。
私が自由であるならば、それは自然な事なのである。
「よって私は何者にも支配されえない」つまり自然をコントロール
できると思っている思いこみを持たない。自然はあるがままなのである。
>>225 NGしたい人がいるならさせてやれよ。ここはお前の日記帳じゃないんだぞ。
名前を変えるなとはいわんから、せめて鳥つけてくれ。
229 :
人間様:2008/07/25(金) 23:26:59 0
>>228 >NGしたい人がいるならさせてやれよ。ここはお前の日記帳じゃないんだぞ。
ようするに無視したい人がいるという事ですね。どうぞ、無視してください。
但し、それに私が加担することは一切ありません。
「君」でNGしておけばおk
やられたwwwww
232 :
考える名無しさん:2008/07/25(金) 23:28:58 0
234 :
考える名無しさん:2008/07/25(金) 23:38:36 0
つうかお前らは疑り深いだけで深くない
デカルトでこの問題は終わった
235 :
無力はあるんです:2008/07/25(金) 23:38:48 0
>>233 そんなもんです。
神を試しても最後には、だれしも笑うものです。
デカルトの方法的懐疑を論理的に反駁する方法を
思いついてしまったかもしれない。
「疑う・信じる」を、論理的に反駁する方法って難しいんじゃね?
>>237 ですね。
メロスの帰還を信じた友人に、それが根拠のないものであることをどうやって納得させるか。
逆に友人は、どのような根拠にすがってメロスを信じたのか。
(友人は、その根拠を第三者に提示しうるのか・・・)
239 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 00:00:37 0
方法懐疑はデカルトの「信念」のたまもの。
240 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 00:11:42 0
>>238 信じたんだろ。
>>239 だから、信じたんだろ。
信ずるものは救われる。
鰯の頭も信心から。
信じる為には、強力な自己による自己肯定が必要で。
それにはデカルトアプローチ。
241 :
デカルトアプローチの最果て:2008/07/26(土) 00:47:22 0
そうか、みんな信じたいんだな。なるほど。
メロスの帰還を信じたいんだ。
いわんやメロスの様に走りたい。
242 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 00:49:49 0
信じたい。
信じたい。
この俺の可能性を!!!
なるほど。。。
243 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 00:52:19 0
全然、面白くないね。
>>229 無視したいんだけど目に入ってくるんだよ。だからNG機能があるわけ。
天才君ちょっとわがままだな。リア厨か?
ある一場面。
銃を突きつけあった二人が何か言い合っている。
「お前が銃を下ろせば、俺も下ろそう」
「いや、お前から下ろせ」
「いや、お前からだろ。お前は信用できないからなw」
「お前の方こそ信用できねーなw お前が下ろすべきだよw」
「いや、お前からだ!」
「いや、お前からだ!」
「いやいや、お前かr」
「いやいや、おm」
・
・
・
妻には死別した前夫がいる。
夫は前夫がいると聞いているが会ったことは勿論ない。人となり等詳しい話をまだ聞いていない。
生活していく上で時折は話題に上るかもしれないが、妻も夫も敢えて話題にしてきていない。
しかし、妻が、必ずと言っていいほど月命日に墓参することがだんだんと許せなくなってきた。
また或は、妻が前夫の写真を所持していること(or写真を見て泣いているところ)を知ってしまった。
夫は妻を問い詰める「今でも前夫のことが好きなのか?」「俺とどちらを愛しているのか?」と。
妻は答える「勿論、あなたのことを愛しています。でも、前夫のことも思い出として大切にしたい。
それでもどちらかと問うならば、やはり、今一緒に居て大切にしてくれるあなたを愛しています」と。
「だから、お墓参りには行かせてください。写真やお位牌だって実家のお仏壇にしかありません」と。
夫は言う「駄目だ。それらは前夫を愛しているという表現に他ならないのだから。」
妻は涙を飲んで言う。「判りました。もう墓参しません。写真も位牌(個人用)も焼き捨てます(涙)。」
夫「宜しい。」
そして幾年月が過ぎ、夫の胸に、ある思いが湧き上がる。
「果たして妻は本当に前夫のことを忘れているのだろうか?」「本当に墓参していないのだろうか?」
「本当に写真を捨てただろうか?実はまだとってあるのではないだろうか?」と。
再び妻に問う「Bお前は本当に墓参していないんだろうな?A写真は捨てたんだろうな?
@本当に俺を愛しているんだな?」と。
(数字が振ってあることには意味があります、解りますか?)
妻は答える「本当よ。前夫の思い出もだいぶ霞んできたし。写真も捨てたし、お墓参りにも行ってません。
本当に本当にあなたのことを心から愛しています。」
夫は言う「本当か、本当に俺のことを一番に愛しているのか?」
妻は言う「本当よ、あなただけを愛しています。」
夫は言う「本当か?」
妻は言う「本当よ。」
夫は「本当か?」
妻は「本当よ。」
夫は「本当か?」
妻は「本当よ。」
夫は「本当か?」
妻は「本当よ(怒)。」
夫は言う「本当か?いや、やはり信じられない。心の奥では今でも前夫のことを愛しているんだ、
そうに違いない。」
妻は言う「何でそんなことを言うの?結婚した最初の頃はまだ引きずってたけど、
今はもう本当にあなたのことを愛しているの。」
夫は言う「いや、口ではなんとでも言えるさ。」
妻は言う「何でそんなことを言うの?お墓参りだってやめたし、写真だって捨てた。
全てあなたの言うとおりにしたわ。
これ以上何をしろって言うのよ。こんなにも愛しているのに・・・。」
夫「証拠を見せろ。」
妻「『愛している』と口にしてます。『あなたのために様々な行為をしています』。
『セックスもしています』。『あなたの子供も生みました』。他に何をすればいいの?」
夫「口ではなんとでも言える。嫌々やってるんだろ。セックスだって【内心】は心ここにあらずだろ。
子供だって自分が生んだのだからたとえ俺の子でなくてもかわいいだろうよ。
それら全て【本心とは別に表現できてしまうものだ】。」
妻「どうすればいいのよ。【どうして信じてくれないの?】【どうすれば信じてくれるの?】」
夫「だから【証拠を見せろ】と言っている。」
妻「だからこれ以上【何を示せばいいの?】。私はこんなにも心を開いているのに・・・。」
夫「だから【証拠を見せろ】と言っている。」
妻「心も、愛も、取り出して見せることはできないわ。」
夫「だから、何か、【君の愛が僕に向けられているという確固たる証拠さ】」
妻「そんなこと言っても・・・。(溜息)私はもう、あなたにこの愛を伝える術を知りません。
これまでの私の言動、これからの私の言動を以ってこの愛を受けとめて貰えないのならば・・・。別れましょう。」
夫「そうだな。お前は俺を愛していないんだものな。別れよう。」
248 :
問答無用が自然なのです:2008/07/26(土) 07:35:29 0
>>244 >無視したいんだけど目に入ってくるんだよ。だからNG機能があるわけ。
>天才君ちょっとわがままだな。リア厨か?
わがままでない人などどこにもいませんね。
よって、自分の身は自分で守る事をお勧めします。
>>245 私が銃を突きつけたなら、ただ引き金を引くだけです。
銃を脅しに使う事はしないでしょう。
だから武器を人に向けるには慎重になるのです。
249 :
愛しあっていないことを確認する愛の形:2008/07/26(土) 07:47:33 0
>>247 発言の中の、夫婦、ぜんぜん行動しませんね。
愛する、あるいは信ずるとは、行動ですよね。
愛を行う。信を行う。
実は一方的に行動するだけが、愛する事であり信ずる事ですね。
この夫婦、相手にどう思われているか心配ばかりしているね。
愛しあっていないことを確認するパターンですね。
俺の卒論指導の先生が言ってた
最近は、すぐに「自然」という言葉を使うやつが多くて
読んでつまらない論文が多くなった
君たちは「自然」という言葉をなるべく使うな
「自然」を「人工」と対にして使うのはおかしい
「鳥工」という言葉はない
そこらへんよく考えて使用してほしい
だそうだ
延々とつまらない書き込みを読まされる指導の先生の苦痛を想像するとかわいそうになる
目的が違うのだよ、端から
世の中には悟った人たちとそうでない人たちがいる
悟った人たちは自らの悟りを語り人に聞かせることが目的
つまり、自分と同意見の者を増やすのが目的
対して、悟ってない人たちは、
自分の考えの足りないところを指摘してもらうことが目的
デカルトはどうか?
当然、後者だ
「すべての人の好みには合わないかもしれない
だが、わたしが選んだ基礎が十分堅固であるかどうか判断してもらうため、
それについて語ることは、ある意味でわたしの義務であると気づいた」
言葉を話す目的が異なるのだよ
天才君は悟っているし、彼の言葉は誤りようがない
その言葉を秘儀として語ることは彼の目的として何ら問題はない
ただ、目的が違う人間がイライラくるから、そういう人たちは天才君をNGワードにしたいだけ
252 :
すりかえの論理はいけませんね:2008/07/26(土) 10:18:14 0
>>250 その先生はあまり賢い先生じゃないね。
学問を志す学生に言うならば、自然とはなんぞや?と学生に問いを
あたえてやるべきですね。えてして先生方は権威的です。
もし、賢い先生ならば、諸君のいう、自然とはなんですか?と
学生を啓発するでしょう。私はこのように考えます。
>>251 >目的が違う人間がイライラくるから、そういう人たちは天才君をNGワードにしたいだけ
おっしゃることは良く解ります。目的が違う事も万人共通です。
特定の目的をもつものが、特定の目的をもつものにイライラする?
イライラすればいいでしょう。イライラの原因は私にはなんの関係もないのです。
指摘をお求めならば、「天才君をNGワードにしたい」原因は天才君にはありません。
ご自身の問題を天才君に求めるのは筋違いです。こんなものは悟っただの悟っていないだの
の問題ではありません。私はこのように考えます。
253 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/26(土) 10:29:58 0
254 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 10:44:07 0
(巛ミ彡ミ彡ミ彡ミ彡ミ彡)ミ彡ミ彡)ミ彡)
,,从.ノ巛ミ 彡ミ彡)ミ彡ミ彡ミ彡)ミ彡)''"
∧_∧ 人ノ゙ ⌒ヽ 彡ミ彡)ミ彡)ミ彡)'
(´∀` ) ブブブー ,,..、;;:〜''"゙゙ ) 从 ミ彡ミ彡)ミ彡,,)
⊂二、 ○ ,,..、;;:〜-:''"゙⌒゙ 彡 ,, ⌒ヽ ミ彡"
\ ) ):::゙:゙ '"゙ ミ彡)彡''"
/ / / ``゙⌒`゙"''〜-、:;;,_ ) 彡,,ノ彡〜''"
(__)_) ゙⌒`゙"''〜-、,, ,,彡⌒''〜''"人 ヽノ
"⌒''〜"最高位→ し(__)
255 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 11:11:54 0
くっさい「私」
256 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 11:20:51 O
私についての議論は
認識主体(自己)と 自分って感じ(自我)を混同するからまずいらしいー
257 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 11:23:19 O
私は自分って感じ(自我)がイマイチよくわかりません。思考とか感情とか全部反射で生きてるきがする。
認識主体も認識に主体が必要であると誰が決めたんですか!!?
私なんざありませんわよ
258 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 11:36:36 0
やあ、そりゃ面白くもないさ。
子供向けなんだからメロスはさ。
現実はまんまさ。
一握りの天才と、その他多数。
259 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 11:37:19 0
デカルトは最後の認証を 神 に求めたとあったが。
神を肯定する為には強力な自己によるデカルト・アプローチが必要なのよね。
考えてみれば、信仰を持つってのは勇気が入りそうな気がする。
だからして始められない、辞められないんだろう。
260 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 11:39:12 0
>>245 「だいたいお前、セーフティーのままじゃないか」
「?え、どれ!」
「パパン!」
>>259 デカルトは再帰的に存在が確認されるとしておくべき自己の認証をを 神 に求めたアホ
>>252 関係ないことはないんじゃね。天才君が見えなければ解決する問題があるんだし。
つかどうしてNG避けようとするの?べつに一部の人の目に触れなくなるだけじゃん。
下手すりゃ煽ってるようにも見えるぞ。
263 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 12:05:26 0
264 :
わたしが思いどおりに動くとでも?:2008/07/26(土) 12:53:47 0
>>262 では丁寧に説明して差し上げましょう。
>天才君が見えなければ解決する問題があるんだし。
●誰が見ているのでしょう?
>つかどうしてNG避けようとするの?
●まったく、私の問題ではないから関係がないと言っているだけです。
あなたに目がついており、それでわざわざ天才君の発言が書き込まれている場所を
通信費まで支払い見ている。で、見たくない発言があるとほざく。
>べつに一部の人の目に触れなくなるだけじゃん。
>下手すりゃ煽ってるようにも見えるぞ。
●様々な感想があるでしょうから、どうぞお好きなだけ妄想を膨らましてください。
お好きなだけおつきあいして差し上げますが、あなたにとって都合のよい期待は裏切られる事だけは
忠告しておきます。
言葉によるやりとりによっと同意に至り、世界が変化する
これが既存の価値観
天才君はこの価値に従ってない
天才君は、言葉の内容に重きを置いてない
彼をどうこうしたいなら、力づくでいくしかない
ただ、言葉によるやりとりしかない世界である2ちゃん(ネット)でやるなよ、と言いたい
リアルな哲学者の前でやれと言いたくなる
俺の前でやったら、言葉をかわす前に横面ひっぱたいてやるのに
ちなみに卒論指導の先生はウィト研究や科学哲学では有名な方
それと「、、、とは何か?」ってのは疑似問題だから
そういう問いの建て方はしないんだ
天才君はそうやって哲学っぽい何かにはまってしまうんだねw
天才君の思想を分かりやすく表現すると
彼にとって「真理」とは
言葉によって語られるものではなく
行動によって達成されるもの(また、その結果)である
だから、荒し認定してアク禁にしてやればいい
(彼のお望み通り)
ただ、彼の行為と向き合うことは一つの哲学問題を含む
ちなみに、今は流行も下火になったポストモダンも、同様の思考をもつ
267 :
もしかして殺人鬼予備軍?:2008/07/26(土) 15:03:32 0
>>265 またまた丁寧にお答えしましょう。
>言葉によるやりとりによっと同意に至り、世界が変化する
●そうですね。違いを認め合えばね。
>天才君は、言葉の内容に重きを置いてない
>彼をどうこうしたいなら、力づくでいくしかない
>俺の前でやったら、言葉をかわす前に横面ひっぱたいてやる
●本性が出ていますね。最初のあなたの言葉が泣いています。
>ちなみに卒論指導の先生はウィト研究や科学哲学では有名な方
●有名な方って事ですね。有名な人だからなんだというんですか。
>それと「、、、とは何か?」ってのは疑似問題だから
>そういう問いの建て方はしないんだ
●だから自分の確信に至れない。
>天才君はそうやって哲学っぽい何かにはまってしまうんだねw
●最後の結論は、個人的感想で終わりましたね。
268 :
完全超越天才太朗:2008/07/26(土) 15:07:59 0
>266
>だから、荒し認定してアク禁にしてやればいい
●お好きにどうぞ。
アドバイスするならば、前置きなど要らないでしょう。
私なら問答無用で、警告無しで行います。
殴る前に、殴るぞ!と警告してどうするんですか?
期待もほどほどにしましょう。
最高位
246-247は
無条件に疑うことは
無条件に信じることと表裏一体だということを指摘しているんだ
最高位は知らないだろうけど
哲学には二大派閥がある
懐疑主義派と合理主義派という二つの流れだ(ほんとは違うけど、そう理解した方が手っ取り早い)
デカルトの「我思うゆえに我あり」とかも、この部分を問題にしている
このスレでは、懐疑論から独断論的帰結を招く天才君が言葉を垂れ流している
246-247はその流れに、懐疑論を批判しようと、一石を投じようとしたレスなのだろう
天才君
俺は天才君にレスをしたんじゃなくて、
天才君の会話相手にレスしたんだよ
他人の会話に入ってくるな!
お前は小学生か?
天才君は「他人を理解すること」に興味がない
「理解なんて不可能だ」と悟っているからだ
ところがだ、「他者を理解し、対話をし続けていこう」と考える思想集団がいる
彼らにとって、様々な立場、思考への理解を深めるために言葉によってあーだこーだ言うことは意義があることだ
俺は、そういう理解したい人向けに、
天才君への理解を深めるべく言葉を放ったんだ
君が他人を理解しようとする意図がないならば
話に入ってくるな!
>>264 丁寧だけどよくわからん返答ばかりだな・・・。
ようはNGされたくないし、指図もされたくないってことでいいのかな。
まあ2ちゃんは天才君みたいなのが最強だし仕方ないか。
272 :
天才君復活:2008/07/26(土) 15:35:25 0
>>270 あなたが誰であるかは私には解りません。
誰に向けて話しているのか明確でないものでね。
しかし、今度は、私にレスしたんだね。
文句は受け入れましたよ。誤解しないで欲しいのですが、
あなたの言うことに従うという意味ではないですからね。
>君が他人を理解しようとする意図がないならば話に入ってくるな!
えっ、ちょっと待って下さい。あなた私を理解しようとする意図があると
胸を張っていえるんですか?
特定個人に話しかける時は、
>>270←このようにすればいいです。
天才君と対話をしなくとも
天才君をフラスコに入れて分析することはできる
ポストモダンも廃れて
「権威なき論証」が出現して
再度、楽観主義(言葉の内容を討議することで、世界についての正しい知識を獲得しうるという思想)が力を強めた時代に
天才君の思考に潜むロジックを検討することは意味あることだと思う(ただし天才君は抜きで)
274 :
天災野郎:2008/07/26(土) 15:38:43 0
>>271 ようは、私は最初から言っています。
「私の問題ではない。」です。
あなた自身の問題を、天才君に振られてもどうしようもないよ!と
言っているのですが。おわかりでしょうか。
携帯は≫を出すのが面倒なんだよ
276 :
◆yRFhSPjIMg :2008/07/26(土) 15:43:36 0
277 :
天・才・君:2008/07/26(土) 15:48:35 0
>>275 ああ、ご自身の都合を優先させるわけですね。
それもいいでしょう。
278 :
◆yRFhSPjIMg :2008/07/26(土) 15:53:29 0
理解の定義とは何か? part58000光年
誤解をもって「理解した」と大手を振るっていいのか?
まったくの無理解もまた「理解」と言っていいのだろうか?
こういう話題が出る度に思うんだが
おまえら彼女つくれよ
彼女と過ごす時間が彼女への理解を深めるだろ
ほんの些細なことでも彼女のことをさらに知れるだろ
「理解なんて、、、」と口にする奴はずっと一人で生きてきたのかと小一時間
>>274 天才君の都合も俺の問題じゃないからその主張は受け入れない、
なんて俺まで言い始めたら話にならないでしょ。
ここは自身の問題に他人を巻き込む場所なんだし、尚更にね。
281 :
理解についての天才君のアイデア:2008/07/26(土) 16:15:42 0
>>280 ならば、もうお分かりですね。どうすればいいかは。以上。
________________________________
話しは変わり理解についての天才君の発言にまいりますが…。
理解は他者のルーツを知る事だね。
つまり成り立ちで、論理で言えば、前提。
人の気持ちで言えば、伝えたい愛情。
自我でいえば、思い込み。
信念で言えば、信仰。
観察でいえば、観点・視点。
これらを共有できたとき、あ、そうかと理解する。
ルーツを知るまでは何を言っているのかさっぱり解らないはず。
理解というものは、他者の部分的理解は可能です。
他者に成り代わって全体を理解することは不可能です。つまり他者には成れないです。
282 :
いつもダブルタップさん:2008/07/26(土) 16:17:21 0
>>190 >>260 正直、デカルトの哲学には魅力は感じないのだけれど。
絵を描いたりプログラミングしたりするので、
デカルト直交座標とかベクトルには日夜お世話になる。
つくづく強力なライブラリと言うか、ツールだと思うな。。。ほんと
283 :
いつもダブルタップさん:2008/07/26(土) 16:24:10 0
284 :
◆yRFhSPjIMg :2008/07/26(土) 16:26:13 0
>>281 へーなるほど。
>>276にもなんか、適当でいいから、参加して行ってくれ。
非難しか出来ない馬鹿が多くて、困る。こまらんがw。
285 :
無力な天才君:2008/07/26(土) 16:40:41 0
>>284 私は人を馬鹿にはしません。また馬鹿を認めていますから、
馬鹿を人にしようなどという優しさはありません。
よって私ができることはなにもありません。
286 :
◆yRFhSPjIMg :2008/07/26(土) 16:44:10 0
>よって私ができることはなにもありません。
アンタよーやってるほうだよ。それでも。
≫284
言っとくけど
天才君も、その「非難しかできないバカ」の一人だからな
天才君の言葉は
絵画芸術で言うキュビズムと同じようなものだ
哲学のスタンダードがあってはじめて意義がある立場だ
288 :
天才君と遊ぼう!:2008/07/26(土) 16:57:06 0
>>286 ふむふむ。人が好きですから…。
>>287 >天才君も、その「非難しかできないバカ」の一人だからな
テキトウに決めつけてくだされば結構ですよ。
それによって私が何か別のものに変わるわけでもないです。
つまりあなたは無力って事です。
私天才君に、「非難しかできないバカ」と、言うだけ無駄です。
ま、ストレス発散にはなるのかな?どうぞご自由に。
>>281 いや分からないw
つか天才君みたいな人こそNGに理解があってもよさそうなのにな。
なんで拒否るんだろう。むしろそこが気になる。
290 :
いいところに目をつけました!:2008/07/26(土) 17:04:52 0
>>289 あなたの言いたいことは解りますよ。
私は、迷惑をあえて承知しており、別の意図をもって話している。
こういえばわかりますか?。
もっとはっきりいえば、「精神的自立をせよ!」です。
ま、励ましですね。
>>290 すげぇ言い訳くさいwと思うのはもちろん俺の勝手だよね?
でもそれでいいのかっていう。つか天才君こそ自立できてるのかっていう。
すべてが逆だとしたら?・・・なんてね。
292 :
1/2:2008/07/26(土) 17:42:32 0
【私】を記述してください。【私の存在性】 4
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1185510526/ 792 考える名無しさん sage 2007/08/12(日) 11:29:40 0
今の流れをちょっと整理してみると、
「客観的事実」派は、「客観的事実」がないのなら、なんで我々の認識は多くの部分で一致するのか?という疑問を呈した。
それに対してネコ氏は、「認識の形式」があるからだろうと言う。
しかしネコ氏にとってその「認識の形式」は語りえぬものであってどんなものかは全く分からないらしい。
カントは認識の形式について説明したから、人間の認識が一致することを説明できたのだが、
ネコ氏の立場だと、人間の認識が多くの部分で一致することについては、何も説明できないということになってしまうようだ。
293 :
2/2:2008/07/26(土) 17:43:31 0
794 考える名無しさん sage 2007/08/12(日) 12:07:44 0
横から>> 792に補足。
もう一つポイントがある。
それは、≪(感覚器官という)フィルター越しにしか対象に触れ得ない≫ということ。
たとえ対象が確固とした個物・実在であったとしても、それを直接認識しているわけではない、ということ。
五感全てがそのようである。その意味でも、「主観に映じたもののみが事実だ」という言明は整合性はある。
意識・思考についてはもっとやっかいだ。
たとえ脳内の現象であったとしても、「何かを知覚している、或いは認識している」というような状態があったとしても、
その「状態そのもの」を知覚することはない。時間軸を外せないとしたなら、
知覚したとしても、それは過去の状態(「さっきはそのようであった」)ということでしかない。
「今の状態」は捕捉できない。「今の状態」どころか「さっきの状態」でさえ、
「客観的事実としての「脳内の(物理的)現象」」であるとなぜ言えるのか?と。
この場合は、知覚認識されるのは(主観に映じるのは)「状態そのもの」でなく「思考や概念」である、と。
ここでも、「主観に映じたもの(この場合は思考・概念)のみが事実だ」という言明は整合性を持つ。
また、主観の中で自己フィードバックのような形でループする事象などは、
当人しか吟味検証できない。(外へ向かって申告がなされたとしても、それは変換されたあとのものでしかない)
また、「(ヒトという種の)認識の癖」も、
・生物学的に(その肉体の諸要素・在り様から)導かれるもの、と
・後天的に得られたもの(共同主観・共同幻想的なもの)、と
二種類あるのではなかろうか。(ネコ氏はこれを弁別して述べる義務がありそうだ。)
しかし、何人かが指摘するように、
(ネコ氏もまだ多くを語ってはいないので、どこまでを懐疑しているのかは不明だが、)
述べられる考え方・視点の描像がぼやけすぎな感は否めない。
もう少し輪郭をはっきりさせた言辞になると理解者は増えると思う。
294 :
素人:2008/07/26(土) 17:50:11 0
>>269 半分正解。特に >懐疑論を批判しようと、一石を は、その通りだ。
疑うのは構わない。じゃあ、その後どうすんだ?と。
疑いっぱなしで、その先に何があるのか?と。
“或ること”を疑ったまま、あたかも“それ”を信用しているかの如く振舞う理由は何か?
疑ったのなら信用しなければいいのに、なぜ、不確かなまま受け入れられるのか?
>無条件に疑うことは
>無条件に信じることと表裏一体だということを指摘しているんだ
は、246-247の一側面ではあるが、全てではない。
“認識の限界”という巨大な壁を前にして、
こちら側だけで完結するか、壁の向こうを求めるか、・・・。
勿論、壁のこちら側には自分しかいない。自分の肉体もまた壁の向こう側だ。
壁のこちら側に居るのは、「思惟するもの」としての“私”だけだ。
疑った先に残るものが、その「思惟するもの」としての“私”(≒主観)だけであったとして、
限界・断絶を越えようとしない“私”(≒主観)にどれほどの意味があるのか・・・。
以下のレス群は、私とネコ氏の間に横たわる問題(の周縁)としてセットだよ。
>292>293
>187>188>189
>200>201>202>203>204>205>206>207
>246>247
(>237-238、(>245))
>>191はなんの画像?みたいけど怖くてみれない・・・・。
298 :
◆yRFhSPjIMg :2008/07/26(土) 18:10:30 0
299 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 18:37:41 0
>>237 >「疑う・信じる」を、論理的に反駁する方法って難しいんじゃね?
論理には「疑う・信じる」などという言葉は存在しないだろ。
二値論理は「である」か「でないか」を決め付けることだ。
300 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 18:43:29 0
>>250 >「鳥工」という言葉はない
「鳥工」と言うのは「人工」と同じ造語法であるとすれば
「鳥が工作する」と言うことだろう。
ツバメなどある種の鳥は「自然の素材を使って巣作りをする」
これは「鳥工」の一例だろう。明らかに自然のままではない。
自然に対して人工があるのではない。
「有為」と「無為」の区別と考えたほうがいい。
>>299 何するんだよ、せっかく、どんなアクロバットが見れるのか水向けたのに。
302 :
天才君が何故天才君かは簡単な事です:2008/07/26(土) 21:58:19 0
>>291 自立しているならば、どなたが言ったかは知りませんが、
>>280 >自身の問題に他人を巻き込む場所なんだし…
などとは言いません。全てが逆など想像しえるならばしてご覧なさい。
どのみちそれはそれを想像している主体に還元します。
>>298 バカの意味をこの天才君と共有できそうですね。
303 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 22:34:05 0
天才バカボン
>>294 >“或ること”を疑ったまま、あたかも“それ”を信用しているかの如く振舞う理由は何か?
>疑ったのなら信用しなければいいのに、なぜ、不確かなまま受け入れられるのか?
「ただそうしている」ということ、つまり「理由は無い」ということ、
これが日常的な行動におけるひとつの回答ではないだろうか?
「あなたはなぜそうするのですか?」
私は常々このように答える。
「理由は無い」
と。
もし人間が理性的な存在であるならば、そのような答えは
人間的ではないかもしれない。だが私は次のように言う。
「私は人間でありたいという気もない」
と。
天才君
284にアンカーつけたのに、なぜ会話に入ってくる?
天才君向けに話したレスじゃないのに、なぜ自分に向けてかけられたレスと受けとる?
で、天才君は非難以外の建設的な議論ができるの?できないの?
できないでしょ
あなたは個人の感想なんかにゃ興味ございませんでしょ?
意図的にバカを演じる君には、内容豊かな発展性のある議論なんか興味ないでしょ?
むしろ非難する方が得意でしょ?
284から見れば、君も「非難しかできないバカ」と同じ穴のムジナなのよ
素人君
夢君もレスしたし、俺も軽く返答しよう
君は「少しでも疑いうるものはすべて偽として捨てるべきである」という規範に従っているようだ
その規範は誰に教わったのですか?
なぜ、あなたはそのような規範に従うのでしょう?
と、角度を変えてもいいのではないですか?
で、話しは少し変わるが
不安になることは誰にでもある
妻の例で言えば、「浮気しているのではないか」と心配したり、不安になることもあろう
俺からのアドバイスとして、「不安で当然、不安でいいんだ」と伝えたい
君は、君自身の不安と付き合いながら、妻が浮気しているかどうかを探ってみればいい
君の不安と「妻が浮気しているかどうか」は関係ない
その例の夫は、妻が浮気しているかどうかに興味があるのではない
彼は彼自身の不安をどうにかしてほしいだけだ
彼に必要なのは心のやすらぎであって真実ではない
そういう者には心の平安として仏教とかは薬になるかもしれないね
もう一点、思惟の存在もまた確実ではない
309 :
しぶしぶと書きましょうね天才君が:2008/07/27(日) 07:01:39 0
>>306 仕方がないですね。丁寧に説明しましょう。
>284にアンカーつけたのに、なぜ会話に入ってくる?
●284 : ◆yRFhSPjIMg さんと話していたのは天才君です。
あなたもこの話に便乗したから、あなたにも話を向けて差し上げた。
>天才君は非難以外の建設的な議論ができるの?できないの?
●非難?、これは参りましたね。非難と決めつけては困ります。
>あなたは個人の感想なんかにゃ興味ございませんでしょ?
●あああ、妄想入ってるね。
>意図的にバカを演じる君には、内容豊かな発展性のある議論なんか興味ないでしょ?
●どんどん妄想が発展し…。
>284から見れば、君も「非難しかできないバカ」と同じ穴のムジナなのよ
●このような結論に至る。
あなたのやっている事は、いったいなんですか?
>意図的にバカを演じる君には、内容豊かな発展性のある議論なんか興味ないでしょ?
●この言葉が泣いています。
つまりですね。あなたは私に対して何がいいたいのか?ハッキリさせましょう。
あなたの感想?論理は、「非難しかできないバカ」と天才君を決めつけてしまっている。
そういう決定論に対し、反論することに興味は無いです。勝手に思っていればいいでしょう。
はい、建設的な議論はできませんでしたね、証明終わりです
天才君には、天才君のやり方があろう
だが、284が求める建設的議論や、建設的な対話(天才君のは対話ではなくコミュニケーション)から見れば
やはり天才君の方法論は「非難しかできないバカ」でしかないのだよ
311 :
たまにはいいね天才君:2008/07/27(日) 07:14:55 0
>>310 またまた丁寧に説明しよう!
>はい、建設的な議論はできませんでしたね、証明終わりです
●最後には自己完結ですね。
>天才君には、天才君のやり方があろう
>だが、284が求める建設的議論や、建設的な対話(天才君のは対話ではなくコミュニケーション)から見れば
>やはり天才君の方法論は「非難しかできないバカ」でしかないのだよ
●完全に完結したではないですか。無駄足でしたね。
一応、俺は天才君をバカにしてはいない
だが284が求めているのは馴れ合いやコミュニケーションではない
天才君の求めているものを284に求めるべきではない
君は君、彼は彼、二人は赤の他人だ
313 :
境界性人格障害者天才君?:2008/07/27(日) 07:23:53 0
>>312 ああ、お話は続くのですね。
まあ、おっしゃることは、
>>284さんが言うことで、あなたは、
>>284さんではない。
>君は君、彼は彼、二人は赤の他人だ
と、あなた自身が言っているんだからね。ま、結論に至るおつきあいは
して差し上げますが…。
314 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 07:27:39 0
>懐疑主義派と合理主義派という二つの流れだ(ほんとは違うけど、そう理解した方が手っ取り早い)
懐疑主義派 と言うのは結局何を求めてるの?
そうする事によって何を期待しているの?
何も求めてやしないし、何も期待なぞしないって事はないでしょ?
だったら自殺でもすれば良い訳だしね。
まあ、死ぬのが怖いから生きてますってのは答えとしてあるかもしんない。
でも、それは一般庶民的発想で哲学を気取るなら直ちに死を選び取るしかない気もする。
懐疑ばかりしていて、遅々として物事が進まず、
歳ばかり取ってやがて恍惚の人になって死ぬのは嫌じゃないのかな。
一方、合理的に考え、生きる事は。
合理的に前に進む事が出来るし。合理的な答えを得る事が出来る。
確かに、そこで得られた<合理的な結論>と言うのはあくまで<合理>の範疇に置ける出来事でしかないのだけれど。
目先がクルクルと変わるから飽きないし。<結果>と言うモノ・出来事は、生きて行く上でゴールになったり、スタートになったり、人生にメリハリが出て良いと思うんだけどな。
こういう下らないレスの応酬は出来れば止めてくれないかね
316 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 07:41:22 0
317 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 07:48:28 0
>>314 そのように考えている主体について考えるのが、このスレです。
318 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 09:08:43 0
答えになってないw
319 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 09:11:56 0
更なる問いを求めているんじゃないよ。
貴方たちなりの答えを求めているんだ。
が、しかし。
それが答えだと言うのなら。
懐疑ばかりしていて、遅々として物事が進まず、
歳ばかり取ってやがて恍惚の人になって死にたい。
そう言う事だな。
320 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 09:15:01 0
ま、それならそれでいいさ。
人にはそれぞれ生き方あるからね。
321 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/27(日) 09:32:56 0
>>269 >最高位は知らないだろうけど
>哲学には二大派閥がある
>懐疑主義派と合理主義派という二つの流れだ(ほんとは違うけど、そう理解した方が手っ取り早い)
>
>デカルトの「我思うゆえに我あり」とかも、この部分を問題にしている
???
で、デカルトは、どっちの主義なの?
322 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/27(日) 09:53:14 0
俺も知りたい。
323 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 10:25:07 0
デカルト的合理主義って言うね。
324 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 10:28:51 0
人類が長い時間をかけて獲得してきた知恵が、ぽっと出の、
ちょっとした思いつきから生まれた新製品ごときで弊履の如く捨てられてしまうことは、
あまりにもガサツだといえる。古いものを平気で全否定し、新しいものを安易に肯定する。
そんな「合理主義」を生んだのが、デカルトなのである。
・・・こんな批判があるんだねww
325 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 10:33:07 0
326 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/27(日) 10:54:41 0
なるほどねぇ。
327 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 10:54:53 0
一種の直観主義の立場に立つルネ・デカルトは、同時に「原理として」懐疑を唱えた。
デカルトの懐疑は自らの誤謬を根こそぎにし、真理に至るための方法的懐疑とされるから、
通常の懐疑主義とは異なるものですね。
328 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 10:59:02 0
通常の懐疑主義とデカルトの方法的懐疑を混同している馬鹿は
まさか、いないよなw
329 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/27(日) 11:02:56 0
信じるものは救われるです
疑って訴えるものは悪魔です
330 :
素人:2008/07/27(日) 12:43:33 0
>>307 > 君は「少しでも疑いうるものはすべて偽として捨てるべきである」という規範に従っているようだ
これは誤解ですね。少々乱暴な物言いをすれば、
「多少の疑わしさ(或いは例外)が残っていても真と見做して構わない」と考えています。
或いは、
「多少の疑わしさ(或いは例外)が残っていても、即座に捨てることもないだろう」と考えています。
(面倒なので、疑わしさの取捨選択基準の詳細は省きますw)
というか、(哲学的)真偽にはあまり興味がありません。
一例を挙げるなら、私は「“あばた”も“えくぼ”」は真だと考えています。
真偽など、(それを巡る)枠組みの採り方で如何様にもなってしまいませんか?
>>307 > その規範は誰に教わったのですか?
これまでの人生に於ける種々の経験・情報・学習でしょうね。(勿論2chも含まれますw)
そのような思考ベクトルもあり得る、と。
たとえば、子供たちへの「知らない人についてっちゃ駄目だよ」という注意、
昔からあっただろうが、今ほど極端な事態ではないだろう。
たとえ1%でも誘拐目的が疑われる以上、他人を信用できないのが今の子供を巡る現状でしょう。
危険回避、リスクの低減を考えれば致し方のないことかもしれませんが・・・。
秋葉原の事件や先日のコンビニの事件、これらが積み重なることにより、益々他人は信用できなくなる。
街中ですれ違う一人一人を疑ってかからねばならなくなる。
深夜帰宅途中の女性が、不審者に怯え交番に駆け込んだ時、
その警官が女性に乱暴しないという保証はどこから来るのか?
女性は、なぜ警官を信用するのか?
警官が「これ幸いw」と暴行を加える可能性はゼロになるのか?
ヤカンを火にかけ、暫く待てば湯が沸く。いつまでたっても水のままである可能性はゼロか?
(勿論、水の分量や火力の問題はあるが・・・w)
隣町へ架かる橋、渡る際「まだ大丈夫、崩れない」と思わせるのは何か?
いや、そんなこと考えて渡っている者は少ないだろう。考えることなく渡らせるのは何か?
発表会へ向けて何度も何度も練習した曲、本番でミスをする可能性はゼロではない。
が、「(大丈夫、上手く弾ける!)」と信じさせるのは何か?
保育園へ子供を預ける。子供が冷遇されていないと信じさせるものは何か?
・
・
・
(あれ?話がズレちゃいましたね・・・)(^^;
疑わしさをゼロにできる事例など、皆無(極々僅か)でしょう。
だから、(原理主義的に)その規範に従う生き方が可能かどうか、ネコ氏に問いたいのです。
>>307 > なぜ、あなたはそのような規範に従うのでしょう?
> と、角度を変えてもいいのではないですか?
ですから、従ってはいませんが、「疑わしさは残るものだ」ということを
常に頭の隅に置いておくべきだと考えています。
> で、話しは少し変わるが
〜〜〜
> 彼に必要なのは心のやすらぎであって真実ではない
リアルなアドバイスの場面であれば、ほぼ仰る通りでしょう。
夫には、自らの猜疑心に気付かせ、認めさせ、妻の言動を「信じる」よう説得せねばならないでしょう。
ですが、246-247は(極北としての)モデルケースです。そこに表れている図式を抽出してほしかった。
「疑いを消し去る為の“決定的”証拠は発見できるのか?」と・・・。
「疑いを消去できない場合、信じるに値しないのか?」と・・・。
333 :
素人:2008/07/27(日) 12:47:00 0
>>308 > もう一点、思惟の存在もまた確実ではない
はい、そう思いますよ。
ただし、“懐疑の余地がない”という意味での“確実”ではなく、
まるで「炎天下で溶けない氷」を想定するかのような形(確実さ)で捉えるべきではない、という意味で・・・w
また、
“今(或いは一瞬前に)思考している(いた)”という事実は事実として受け止めるべきであろうが、
それは、一瞬一瞬確認し続けることで可能となっている確実さであり、
懐疑の対象から外し得ることを意味しないだろう、と。
もっとも、「思惟していない」という言明がどれほどの意味を持つかは甚だ疑問ですが・・・w
(最高位学派の印籠は、まさにこの点にあるのでしょうから・・・。)
携帯の貴方に長文は申し訳ないと思いますが、
どう端折ってもこの辺が限界です。御容赦のほどを・・・ m(_ _)m
334 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/27(日) 12:54:39 0
簡単です
恐怖による安定です
>>304 > 日常的な行動におけるひとつの回答ではないだろうか?
はい。((無限定な)日常行動全般についてなら)一つの回答だと思います。
が、別の答え方もあるだろう、と。
>>304 > 「ただそうしている」ということ &
>>305 構わないんじゃないですか?
だって、「そこには(まだ)“疑い”が無い」のですから・・・www
(その意味で、304の回答は少しズレている。)
疑ったくせに採用する理由を、自省・発見して頂きたいだけです。
疑ってるんですか?疑っていないんですか?どっちですか?と・・・w
私は勿論、疑いつつ信用するわけですwww
(或いは、疑った後その疑いを脇へどけて信用するわけですw)
(或いは、微細な疑いなら無視して信用するわけですw)
(或いは、疑う必要性が僅かであるなら、無視して信用するわけですw)
(うはwwwレスの仕方がネコっぽいwwwww)
336 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 13:34:12 0
>>324 唱えたのはデカルトだろうけど。
むしろ熱狂的に迎え入れたのが社会だと思うよ。
今の日本の社会状況みたいに旧態依然としてウンザリしていたんだと思うね。
で、飛びついた。そしてデカルト・アプローチは生産的だった。
何しろその後世界に蔓延するんだから。
そんな彼を批判したいのは。。。旧体制・旧制度の特権者階級だろうね。
奪われ、捨てられる側だからね。
>>327 デカルトは一杯結果を残してますからね。
彼が只の 懐疑主義者 なら、山荘で白骨遺体で発見されている。
素人君
クソ真面目に書くねー
もう少しはしょっていい
対話なんてのは、相手の問題意識を汲み取る作業だ
天才君などは、自らの思想を広めるべく書き込みをしているけど
俺は自分の思想を人に押し付けるのは嫌だから、「こうしたらいい」とは言いたくない
で、切り口を変えよう
君の言う「哲学的真理」って何なのかということ
もしくは、君はこの手の思索で何を目的としているのか
君はみずからの実践なども言葉にして、それを疑い
「この方法でよいのか?」と振り返ることもできるはずだ
一時的に真理に失望し相対主義的態度に陥ってみるのもいいだろう
一時的にネコの言う態度を取り入れてもいいだろう
夫へのアドバイスはそのまま君へのアドバイスのつもりだ
338 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 14:11:29 0
腹が減っているのだが、それを疑うってことはどういう事になるか?
まず、この検証が、世界で自分だけしか行えないので独我論である、か?
我思う故に我有りの帰結から、疑えないのは唯一、思う我だ
と言うのであれば、腹が減ったという、思い(受動)は
疑えないので、腹が減ったのも疑えない。
もしくは反対に、腹が減った思い(能動)が、腹が減った現象を立ち上げたのか?
であるならば、腹が減っていなくても、腹が減ったとできるか?
たぶん出来ない。
よって、従属関係の逆転を試みる。
唯一無にの疑えない、この思う我によって、思われたそれより上位の何かがある。
(田の心は、田を心配するからくるならば、心配される方が主だ。えへ)
339 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/27(日) 14:13:57 0
>>333 >> もう一点、思惟の存在もまた確実ではない
>はい、そう思いますよ。
なんで、そう思うの??
キミら二人とも、病院に行った方がいいんじゃないかな
誰が、そう思ってるわけ??
キミらは、いない者どうしで会話してるわけか???
340 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/27(日) 14:17:30 0
341 :
327:2008/07/27(日) 14:17:40 0
>>336 >彼が只の 懐疑主義者 なら、山荘で白骨遺体で発見されている。
わろたw てか村の祭りで酔っぱらってるw
>>335 >疑ったくせに採用する理由を、自省・発見して頂きたいだけです。
疑うことと行うこととは別の事柄であるように思われる。
もし思想と行動が関係ないとしたらどうだろうか?
疑うことと行うこととの間には齟齬がないように思われる。
疑うということと控えるということとは必然的に結び付くのだろうか?
そこに理由は必要なのだろうか?
343 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 16:13:21 0
最高位は病院好き
疑っている自分が疑わしかったら、疑っていること自体が疑わしいんだから
「疑ってもいるのか、疑わないでいるのか」の区別の付けようがない。
疑っている自分が疑っていることを成立させたいならば、疑っていることを受け入れるしかないだろ。
>>337 > 君の言う「哲学的真理」って何なのかということ
さあ? わかりませんし、興味もないですね。
強いて言えば、「論理的に完璧な整合性を持つ、(事象に関する)理屈」というイメージですかね・・。
「事象に関する理屈」の整合性に関しては、それを求めているとは言えるでしょうが、
それが、(哲学的に見て)“論理的に”なのか、“完璧に”なのかはわかりません。
コテの通り、私は哲学の“て”の字しか知らないのですから・・・w
> もしくは、君はこの手の思索で何を目的としているのか
いちびって端的に言えば、
「理論武装の為の武器開発、及び整備」といった所でしょうか・・w
或いは、
「戦術の検討、改良、及び試験」といった所でしょうか・・w
(端折り過ぎですかね・・・?w)
私のスタンスは、ほぼ確定しています。(この先も、おそらく変わることはないでしょう。)
ただ、生きていく上で(或いは、リアルでの立場上w)
様々な考えの人と対話を続けねばならない以上、言葉に詰まって口ごもりたくはないからです。
その意味で、極論の横行する2chは、
楽しみながら自身の考えを整理・洗練するのに格好の場所なんですよw
>>337 > 君はみずからの実践なども言葉にして、それを疑い
> 「この方法でよいのか?」と振り返ることもできるはずだ
そうですね。
というか、そうした確認(≒自らの頷き・納得)無しに言葉を投げかけるのは無責任でしょう?w
(ジョークや茶々入れ、ネタ等は別ですよw)
> 一時的に真理に失望し相対主義的態度に陥ってみるのもいいだろう
失望するほど真理に寄りかかってはいないでしょうし、(何が真理かもわかりませんしw)、
どちらかと言えば、もともと相対主義(的)なのかもしれません。
てか、この文はよくわかりません。
> 一時的にネコの言う態度を取り入れてもいいだろう
お断りしますw(AA略
> 夫へのアドバイスはそのまま君へのアドバイスのつもりだ
お気持ちだけ有難く受け取っておきます。
ちなみに、件の事例で言うならば、
私なら、墓参や写真の所持を許しつつ彼女を信じますよw
下の上くらいのレベルのスレ
>>342 > 疑うことと行うこととは別の事柄であるように思われる。
はい。ですから、
疑いつつも、その疑いが(僅かな)可能性の上でしかないであろう場合は、
それを捨象してもかまわないでしょう?と言いたいのです。
(ネコ氏はそれを許してくれませんが・・・w)
「杞憂」という言葉が存続し続ける理由は伊達じゃないと思いますよ?w
>>348 いや、私の言いたいことがまだ伝わっていないように思われる。
思想と行動は別かもしれない。
ということは、疑うことは捨象可能だ、というのではなく、
疑うことは行動から独立して可能なのである。つまり、
「疑う に も か か わ ら ず なぜ行為するのか?」と問うことは、
実は「疑うならば行為しなければよいのではないか?」という
暗黙の前提が存在している。
しかし、私はこの前提に対してノーである。
学問的批判や懐疑が行動を覆さないように、行動が学問的批判や懐疑を
覆すことも無い。
>>349 ですからw
≪ 「疑い」 つつ「行為する」 こと≫ を責められる謂れがないならば
≪「主観の外の不確実さを認め」つつ「主観の外に世界を想定する」こと≫ を責められる謂れはないでしょう?w
「不確実な主観の外を想定する」という行為は、傲慢な妄想だと指摘されているので、
≪では、「不確実なものを想定してはいけないのですね?」≫と、ネコ氏に問うているだけです。
>実は「疑うならば行為しなければよいのではないか?」という
>暗黙の前提が存在している。
と言うならば、同様にネコ氏に対しても
≪「疑いのある場合、想定してはならない」という前提があるのですね?≫
と指摘しておいてくれw
351 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 18:10:59 0
「疑う」って行為じゃないの?
353 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2008/07/27(日) 21:35:25 0
>>345 >> 君の言う「哲学的真理」って何なのかということ
>
>強いて言えば、「論理的に完璧な整合性を持つ、(事象に関する)理屈」というイメージですかね・・。
キミの思想は整合性がないよ
疑える事は当然、疑えるんだから、疑える
しかしキミは、目の前にある実存を「決して疑わない」とし
にもかかわらず、疑っている自分の存在については、「疑わしい」
なんて言っている
逆だよ逆
論理的にはね
コテって、「適当な記号を恣意的に並べます」って宣言なの?
355 :
考える名無しさん:2008/07/27(日) 23:55:57 0
>>350 主観の外に「世界」を想定するのは自由。
ただし想定できるのなら、それは“主観”である。w
このことに拘るのなら、主観の外には“物自体”が…とでも言えばいかが?
あるいは、主観の外は「語りえない」とするべきかも。
このどちらの言い方にも食傷ぎみだが。w
356 :
天才君の立場:2008/07/28(月) 07:17:41 0
>>324 デカルトの思想について言えば、私もあなたの発言でご紹介くださった
批判について同様に考えております。同時に飛びついた大衆も沢山居た。
で、流行した。こう考えるのであります。
さらに、デカルトについての解釈についての思想も多数蔓延してますが、
デカルトの思想からみたデカルト的解釈に帰着している。
私の立場は、「我思う故に我あり」をも全否定し、それは全て
自分の行動が先行し、それについて後付で、我が思っている。
つまり「我思わされている故に我は我の思考手段を発見した」という立場です。
あくまで思考手段を我としているのが私の立場ですね。
357 :
天才君の立場:2008/07/28(月) 07:25:45 0
素人さんに、アドバイスなどという行動規範を提供している
>>337のような者がいるが、まずもって、矛盾している。
>天才君などは、自らの思想を広めるべく書き込みをしているけど
>俺は自分の思想を人に押し付けるのは嫌だから、「こうしたらいい」
>とは言いたくない
もし私が自らの思想を広めるべく書き込みをするならば、
このような者に対して、「汝自身を知れ」とアドバイスするだろう。
私天才君に思想は無い。あるのは神の結果である。
つまり我々は行動が先行して、常に自分の行動結果を思っているだけである。
このような思想であるから、私、天才君の場合、思考が先行することは
ありえない。よって作為的行為がなされた場合、私の思考が純粋であるならば、
その思想は神の作為である。
358 :
ちょっと待った君:2008/07/28(月) 07:36:49 0
近代哲学をなんとするかは、どうでも良いが、
私という主観に基づいた思想すべては、独断である。
私という客観に基づいた思想すべても、独断である。
しかし思っていると信じているその思いは神によって成される。
その神とは、私と思っている実体化した体から抜け出せない私が
起点となって思考している。この考えを受け入れるならば、
思う前に、意思が存在する。その意思によって思わされる。
これを運命だの、神だの、自然だのの意思であるという思想もある。
私の思想は、その全てが同時に起こる。このような思想であるから
自我をもって理解するのは可能であるが、自我をもっての理解は、
しょせん主観から導き出された結論であると結論づけるから
的を射ていない。
つまり我々は、自我に基づく限りの思考においては、
何を語っても、自我の告白なのである。
自我とは自意識の告白である。つまり神の観察記録である。
359 :
デカルト君の功績について天才君がかたる:2008/07/28(月) 07:41:49 0
デカルトがやったことは、神と私を分けて考える手法を提供した。
しかし神と私は別れているとはデカルトは考えては居ない。
ここを間違えると時間差が起こる。思考と神とも別れてはいないのである。
360 :
復活してください。再び奴隷に:2008/07/28(月) 09:47:53 0
天才君が語る話しは全て普通の話しであって、特別でもなんでもない。
よって何かとてらして是非を問う事も馬鹿げているし、
別の誰かと思想?が違うという反論も馬鹿げている。
つまり天才君は完璧なのであるが、何故完璧かといえば、
完璧でないものは存在しないからである。つまり不足しているという
思考習慣が存在しえないことを知っているだけの事だ。
みなさんに不足しているものは、ズバリ「神」である。
神を他者にすり替えているだけである。
まずもって他者、つまり「神」自体を知るべきである。
なぜ、べきであると断言しえるか?と言えば、哲学とは他者(神)を知ることが全てであるからである。
探求者であれば、神か私かのどちらかを選択する。学者なら観察者である私をつかって、
神を観察するというだけの話しだ。
他者である神の一部を分析しても、その大本の神を知らずでは
その努力が無駄である。
実に馬鹿馬鹿しい事だが普通の話しでした。
361 :
天才君を信ずるな:2008/07/28(月) 10:03:33 0
ああ、それとみなさんに言っておくこととして、
私が一連の発言をしたからといって、それに影響される必要はなく、
ご自身の思う所に従い、発言すればいいです。これは予測と推測に基づく私の配慮です。
ようするに他者の発言内容に影響され得ない、マイペースと前例依存主義に毒される必要はありません。
362 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 11:27:37 O
>>359 >しかし神と私は別れているとはデカルトは
>考えては居ない
デカルトのどの著作にそんなことが
書いてある?
あるいはどこから、そんなことが
読みとれる?
363 :
読書君:2008/07/28(月) 11:59:59 0
>>362 デカルトの著作にある「神」の扱いをご存じならば、
神について、どのような結論を出しているのか紐解けば解りますよね。
神の部分については、学問では重要視されませんから扱いは貧弱でしょう。
また、著作として記されたものは、公開されたもので、
公開されるという事は、公にできない部分もあるわけですね。
ようするに隠している部分。それは読者それぞれが感ずる所でしょう。
364 :
地上で生きるならば、我がスタートとなるだけの事:2008/07/28(月) 12:22:35 0
デカルトを考えるならば、世にいうオカルトや占星術などは
避けて通れないですよ。またみずからの精神の特性や想念などの観察と
肉体との相互関係を観察できうる内省なくしてデカルトの著作をよんで、
論理的に理解しようとしても無理があります。
オカルトや神をも含めて、彼は「我思う故に我在り」ですからね。
実に誠実にこの地上で、生きる立場ではないでしょうか。
365 :
哲学道君:2008/07/28(月) 16:16:44 0
ここでもたびたびデカルトの話題がでてきますけど、
1600年、つまり400年前の時代背景を考えると哲学を志すものは、
今でいえば、予言者や神主以上の扱いであって、また武術にも精通し、
命や誇りを掛けた今でいえば、「道」に相当するものであったでしょう。
安易な思いつきや鵜呑みの知識を振りかざした議論ではなく、
昔は議論といえば戦いであったでしょう。日本では1600年といえば、戦国時代ですからね。
嘘、ごまかし、借り物や権威は通用しない。考える実力だけです。また、その時代には…、
今でもそうですが、神など当たり前の事です。
そのころに比べて今では、哲学を道として学んだわけでもなく、
ただ知識として得ているだけで、みずからの哲学的立場も知らず、神を置き去りにし、
現流行思想を鵜呑みにし、哲学という全体を包括していた学問を単なる論理的思考という
扱いにまで下げてしまったのは大衆化である。
本来哲学は「哲学道」として行うべき神聖なものだと天才君は思うわけです。
366 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 16:23:46 O
>>363 1度、自分の胸に手をあてて、自分の
書き込みをよく読んでみることだ
良心というものが、もしあるのなら、
自分が知っていること、知らないことに
ついて、少し謙虚になることを学んでほしい
367 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 17:44:34 0
疑っている事が疑わしかったら、
疑っている事が疑わしいのだから、
疑う事が出来ない。
疑っている事が疑わしくなかったら、
疑わしくないのだから疑わしくない。
つまり、疑わしい事は疑わしくない。
疑わしさは疑わしくない故に疑わしいと言えるが。
疑わしさは疑わしい故に疑わしいとは言えない。
よって、疑う為には疑う根拠が必須なのだ。
368 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 17:45:55 0
デカルトって肖像画見るだけでも随分と濃い感じ。
天才なんだろうし。まあ、間違いなく変人ですよね。
そんな人を一般人スケールで計るのはどうかと思うな。
それから 神 ついてのくだりは彼のリップサービスかもしんない。
だって、当時の権威を真っ向から批判したり、否定したり出来無いっす。結果的にそうなろうともね。
デカルトは晩年、彷徨ってる印象も受けるから安住の地が無かったかも。
で、当時のオカルトは森羅万象を説明する為のものだったらしいですね。
科学や医学が逞しくなるまで、その役割を担った。
今の 反社会的で胡散臭い眉唾イカサマ集団 の事では無かったと思います。
369 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 17:46:39 0
まあ、言いたい事はなんとなく分かりますよ。
突き進む合理主義が自然を著しく破壊したり、
実体の無い数字上の金融商品を産み出したりして大変な事になっている。
仏教に自力・他力って考え方がありますけれど。
デカルトアプローチは自力ですよね。
このまま自力の道で行くのか、他力のアプローチはあるのか。
今、インドとか中国、アジアの時代とか言われたりするのですけれど。
単なるビジネスチャンス、未開発の市場としてだけではなく。何かこう。。。
人類を月に送り込み、宇宙の果てを見渡すデカルトアプローチの向こうを張れるような、
双璧を担えるような。。。哲学が出てくればいいのになあ。。。そう思います。
合理主義ってなんにでも使える言葉だから
いっそ使わないほうがいいんじゃないかな。
371 :
厳しいですが哲学は甘くはないですね:2008/07/28(月) 21:26:33 0
>>366 あなたが学べばよいだけの事でしょう。
謙虚だの良心だの精神的規範を提示するのはあなたのご自由ですが、
私に関する倫理的問題あるいは規範に関する問題ならば、
哲学ではありませんから、スレ違いになります。
謙虚について言えば、私は神と常に対峙しております。
あなたの謙虚さは何にてらしていらっしゃるのですか?
哲学板にて他者に向かってそれだけの事を言う以上、世間体だとは言わせませんよ。
>>368 >>369 >>370 同感です。
だめだこりゃ
373 :
論は終わる:2008/07/29(火) 10:07:46 0
そうなんです、ダメなんです哲学自体が。
全て過去に基づく合理的解釈ごっこが学生のする哲学ですし、
個人がもつ哲学です。
だか私を記述とは実は、創造という訳です。
我々が見ている、あるいは考えている事は全て結果であり
過去でしかありません。医学的にも認知は0.5秒と言われています。
0.5秒以内にこの宇宙で何が起こっているのか我々はまったく
解ってない。
よって我々に自由は無い。だから何をしても何をやっても良い。
こくこくと続く0.5秒間の遅れを観念と称して現代社会では個々の思い方を
矯正されている。全ての人間の創造活動はそこに費やされている。
しかいし、どのみちその自由ですら結果でしかない。
よって問い方として、まずは「私の制限は何か?」この記述しか
我々には与えられてない。また過去の発言もすべてが、それである。
逆にいえば、制限を認知した時点で、
その分自由になる。同時に常識はずれの現実がまっている。
しかし合理的な世界観は崩壊する。つまり唯物論は過去になる。
374 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 12:10:55 0
>>352 > 「疑う」って行為じゃないの?
行為だろうね
「それは論じゃない」みたいに「論」って言葉を使うやつ、馬鹿ですね。
376 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 15:13:45 O
>>373 もうやめとけよ
そういう芸風なのは分かるけどさ
やっても恥ずかしいだけだよ
377 :
孤高のカリスマ君:2008/07/29(火) 17:12:41 0
>>376 いえいえ、私の発言のペースなどは、ずっと変わっていません。
恥ずかしい?あなたが感じる事であって、私が恥ずかしがっているわけではありません。
私は淡々と思うままに発言するだけのまさに、マシンです。
378 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 17:35:33 0
たたりじゃ!
ここまでやったら、もう引っ込みがつかないってさ
380 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 18:53:25 0
381 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 18:54:44 0
この人、じいさんだろう?
もうすぐお迎えがくるだろうから、それまで好きにさせてやろうよ。
382 :
孤高のカリスマ君:2008/07/29(火) 21:21:08 0
みなさんマシンというものをご存じでしょうか。
マシンは独立して機能します。人為的介入不可能であり、
また、如何様にも変化しますから人格という実体を探しても
見つかりません。それが「私」というものなのです。
ようするに「私」というものは自我ではないという事です。
「私」とは考える主体でもない。
みなさんからみれば私は自我かもしれませんが、
極めて希薄であります。掴もうとしてもするりと抜けてしまうわけです。
希薄な自我を掴んでいるのが私でありますから、私が自我を操作する
立場なのです。よって自我特有の目的意識というものは主体ではないと
いうわけです。
目的を持たない自我をみなさんはとらえる事ができますか?
383 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 21:24:54 0
( ・3・)ええ話やあ グスン
160 :可愛い奥様:2008/07/28(月) 01:13:56 ID:4jGWdsf10
2年間ニートだった息子が突然「俺、働くよ」と言い出しました。
コンビニでアルバイトを始め、初めて貰った給料日、
「これ・・・」と恥ずかしそうにプレゼントをくれました。
包装紙を開けると、二つ折りの赤い財布が入っていました。
「母さん、今まで心配かけてゴメンな」
嬉しくて、赤い財布の上に涙がポトリポトリと落ちました
384 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 21:49:40 0
浪花節だよおっかさん
385 :
考える名無しさん:2008/07/29(火) 22:02:14 0
タワシはワタシです、とタワシは言えないから口惜しいのだ。
ソープの女の人はワタシのタワシで洗いましょうか、とよく言うだろう。
386 :
哲学のベテラン孤高の天才君:2008/07/30(水) 10:10:24 0
「私」についてズバリ言うならば、時間を経て無に帰すならばそれは物理的にいえば、
変化とすることができる。またもともと無いという事で、しかもそれを考える主体が
在るというならば、物理的に説明しても変化し継続すると言える。
つまりこういう事です。「私」がいつか「死ぬ」という事を考えている主体は
死にますが、しかし、死ぬ主体が私であるか?と問えば、それは「私」ではないのです。
人の死以前つまり「この世」という限定条件で考えるのが大衆哲学ですが、
哲学全体は人間が考え得る無条件で考えるから哲学であるわけです。
大衆哲学は「この世」的であの世は範疇には入れませんから、形而上とかオカルトといい、
排除して唯物論理を用いて宇宙を説明します。
哲学は、そうではなく、また、それでも、デカルトは、「我思う故に我在り」でした。
つまりデカルトにしてもソクラテスでもだれでもいいですが、哲学を通じて不死身でない
私を考えている者がいるのは、それは浅はか、考える余地がまだまだある。こういう事です。
「私」は死にませんよ。死んで証明しても死にませんから証明しえないという事です。
ここが哲学の本当のスタートラインです。それまでは偏見・大衆思考です。
387 :
エクソシスソさん:2008/07/30(水) 13:07:09 0
GO! FIGHT!!!
独り言を垂れ流すやつが居座るようになってから
すっかり過疎ったな。
凡そ考察に於いて、こうした多重性(複数階層)なしに為し得るものだろうか。
これは、私が頻繁に口にする「捨象」という行為と密接に繋がっている。
普段の日常会話、思考、行動等に於いて、それは大々的に行われている。
円滑な日常、対話に於いては必須事項だと言ってもいい。捨象のない日常なぞ煩わしく、複雑でやってられないw
(何度か散発的に触れてはいるが、一例として
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1144214403/668 。
文中の一部を、このレス用に少し言い換えるなら、
≪【ある階層に於いて】【不要とされる分析・考察結果】は基本的に捨象の対象である≫、と。
“不要とされる” というのは、当該階層より下層に於いて
“一旦分析・考察され、「妥当である」「採用に値する」との判断の上に大前提とされる”ことを意味します。
勿論、“知らないが故に捨象されている”場合もあります。)
たとえ理工学系のエキスパートであっても、車のブレーキを踏む時に
「現在の車重が○○で、速度が○○で、タイヤの摩耗率が○○で、路面の状態が○○で、
(機構的に)ペダルを踏んでからブレーキが効き始めるまでのタイムラグは○○で、
踏み込みがどれくらいであればどれくらいの効きになるのか等々」を計算・考察してペダルの踏み込み方を算出しないでしょう?w
各要素○○の“微妙な”差に合わせてはいないでしょう?大雑把な踏み分けしかしないでしょう?
勿論、「日常で、そうだから」といって、こうした「(哲学的?)考察に於いてもそのようであれ」と言うのではない。
ただ、「全領域に亘って、関連する要素を捨象することなく拾い上げ、俎上に挙げ得るかどうか?」が疑問だからだ。
よく出てくる「H2O関連」もそうだし、「コピー人間」の話もそうだ。「普遍(と個別性)」についてもそうだ。
「境目なく一繋がりのツブツブ」や「境目なく一繋がりの(物理的)状態」や「境目なく一繋がりの事象」もそうだ。
もう、荒らしばかりになってしまった。
我々は、様々な場面で、様々なレベルで、様々な種類の捨象をして生きている。
それはちょうど、本棚の書物と、机の脇に常備する書物との違いにも似ている。
入門書と専門書のようだと思ってもいい。説明書の簡易版と詳細版と思ってもいい。
必要な時に本棚の書物へ立ち返ればいい。必要な時に詳細な解説を参照すればいい。
(大切なのは、本棚に詳細版が備えられているかどうかかもしれないw)
ネコ氏の
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1207894872/473 や
>>201>>205 もまた、
捨象に他ならない。
私の捨象が不可とされ、ネコ氏の捨象が可とされるならば、
何がその違いとなっているのか。
捨象の種類が違うからならば、捨象の類別も視野に入れねばなるまい・・・。
※逆に、上層の要素を下層に於いて捨象する場合も当然あるだろう。
特に科学や化学でのミクロな視点やこうした哲学的考察等に於いては頻繁に為されるものだろう。
上記
>>390を書き換えるなら、
“不要とされる” というのは、当該階層より上層に於いて
“当該階層に於いては、その上層要素が分析・考察結果に影響を与えない”
或いは
“必要な結果には不要な(邪魔な)要素である”ことを意味することになろう。
>>355 まあ、口調・文体に関してはともかく、
貴方の言う通り≪《映じた像( X´ )》は主観≫であろうが、≪その向こう《 X 》も主観≫であるという立場はとらない。
勿論、
≪“その向こう《 X 》”も、そのように想定された時点で、主観内の『その向こう《 X 》´』である≫と言い得るが、
それを採用すると、「「「「私を見ている私」を見ている私」を見ている私」を見ている・・・」
の時と同じ事態になってしまう。だから、その時と同じ手法で一回(或いは二回)の吟味で済ます。
そして、(疑わしさが残っているので【厳密には】仮定(仮説)ではあるのだが、)
それ(外界の設定)を前提としてその階層を捨象し、それより上の階層で考察や行動をしている。
(→これは、
>>389-391のような多重性とリンクする。)
もし、「疑わしさが残っているので【厳密には】仮定(仮説)であり依拠するにふさわしくない」とするならば、
諸学の殆どが却下されることになる。諸学の価値や有用性を拾うならば、仮説の受容が必要ではなかろうか・・。
依拠するにふさわしい、疑わしさの欠片もないことなぞ、いったいどれくらいあるだろうか・・・。
現にネコ氏も
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1207894872/473に於いて、
「《それ》を想定している」と言う。 (
>>201>>205では「信じている」と言う)。
であるならば、私とネコ氏で何が違うのか?
「《それ》を想定している」点では同じなのに、どこが違うのか?
(やっぱり、私の断定口調が気に入らないのだろうか・・・w?)
>>355 > このことに拘るのなら、主観の外には“物自体”が…とでも言えばいかが?
どうなんでしょう・・・。まだわかりません。
「推測され仮設された外界(主観の外)」を何と呼ぶべきか、
「仮設されたもの」というニュアンスを含み・表現しつつも煩雑でない端的な言い方は可能だろうか。
どなたか上手い言い方を御存知でしょうか・・。
最高位氏が『私』という語を用いる(用いざるを得ない)ように、(普段使いの用語を流用する形で)、
客観世界とか自然(自然界)とか世界とか言うしかないのかもしれない・・・。
或いは、
>>389-392のような考察に於ける多重性を許容して、
このレベル(階層)での考察は捨象しておき、その階層での考察が【必要になった時】注意深く弁別して
(→煩わしくはなるが、仮設されている意の修飾語を付加して)語ればよいのかもしれない。
> あるいは、主観の外は「語りえない」とするべきかも。
>>389-392のような多重性に於ける『最下層のレベル』でならば、それもアリでしょう。
ですが私は、たとえ最下層のレベルであっても、(我々の)帰納と推論という手法に期待し続けたい。
(これを“信仰”と呼ぶならそれでも構わない。おそらく我々には、それしか手はないのだろうから・・・。)
397 :
天才君:2008/07/30(水) 14:54:37 0
>>338 単なる独り言がそれほど、過疎に繋がる原因を作ったのでしょうか?
独り言を垂れながすやつの影響力がそれほど強大だとは思えませんが…。
駅前で独り言をつぶやいてみな。周りから人がすっかりいなくなるから。
399 :
静かな駅前っていいね君:2008/07/30(水) 15:30:58 0
>>398 >駅前で独り言をつぶやいてみな。周りから人がすっかりいなくなるから。
騒音をまき散らす訳でもなし、ガンガン音楽をかけるわけでも無し、
独り言程度で、駅前の人間がすっかり居なくなるとは、あまり説得力ありませんね。
独り言を垂れながすやつの影響力がそれほど強大ならば別ですが…。
400 :
発狂君?:2008/07/30(水) 15:45:00 0
しかしですね。独り言を言うやつは、駅前で、サリンや毒をまき散らす。
あるいは、刃物を振り回す極悪者って訳です。つまり狂信者であります。
それならば、駅前で人は消えて逃げ出します。
401 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 16:36:15 0
【私】は、性懲りもなく毎日糞2ちゃんやってます。
>>339&
>>353 お前はまず、レスの全文を読む訓練をしてから出直してこい。
と、これでは、いつも通りのやりとりになってつまらないので、
初(いや、実質2回目か?w)の白旗を揚げてみよう。
これは、
>>393-396及び
>>330前後、
>>333、そして
>>335>>348>>350を受けてのものだが、
>>353の
> しかしキミは、目の前にある実存を「決して疑わない」とし
> にもかかわらず、疑っている自分の存在については、「疑わしい」
> なんて言っている
は、秀逸なカウンターパンチだ。(ネコパンチが慢性化しているせいもあって、そう思えたのか?w)
用語の使い方や言い回し、直接の文内容に関して少々難があるにしろ、
その指摘する構図は的を射ている。解り易く改変してみれば、
≪主観の外に関しては、疑わしさを捨象して採用するのに、
まざまざと実感される『私』については、(疑わしさなどないだろうに)採用しないのか?≫と。
勿論、ここに於いて語義の曖昧さは補正されねばならない。(特に『私』については・・・。)
が、指摘自体は至極尤もである。
これに対して返答する為、上記改変文を(その指摘する構図を残しつつ)更に改変しておく。
A:主観の外(客観的外的事実)に関しては、
根源的(最下層の)疑わしさがあるにもかかわらず、
捨象して採用するのに、
まざまざと実感される『私』(≒『今まさに思考している“者”』)については、
疑わしさなど微塵もない筈なのに採用しないのか?
B:前者の疑わしさを捨象するなら、
たとえ後者に疑わしさがあっても
同様に捨象して採用すればよいではないか。
C:後者を、疑わしさ故に採用しないのならば、
前者も又、疑わしさ故に採用すべきではないのではないか。
と。
この指摘に於いて、
Cが、最もシンプルな骨格だ。
Bが、それに一つ条件(捨象するという操作)が加わったもの。
Aが、さらに複数の条件が加わったもの。
※ちなみに、
Cが、「“(AやBに含まれる)条件”の捨象された」「骨格」ということになるw
>>403の
Cのみで言うならば、私に弁解の余地はない。(「疑わしさの質」を私自身が把握し切れていないからだ。)
(矛盾の上に構築された)典型的なダブルスタンダードだ。
(今回の件はともかく)、基本的に矛盾の解消は“所謂”宗教的価値観・解釈の出番を待つしかない。
※(尤も、宗教的解釈に於いても、ダブルスタンダードを成立させる理由付けは
整合性をもって為し得るわけだが、今は措く。)
こうした矛盾の、もう一つの解消法としてあるのが、
条件付けをもってして、“「ある条件下では成立する」ダブルスタンダード” にすることだ。
AやBは、そうした作業の上でなら返答可能なものになる。
面倒臭くなってきたので(暑いしw)乱暴に簡略化するがw、
Cは、「疑わしさの質」を吟味比較することで、(辛うじて)理由付けが可能となるかもしれない。
Bは、「捨象の仕方(基準等)」がどのようなものかによって、取捨選択に理由付けが可能となる。
Aは、「捨象の仕方」と「“『私』”という語が指し示す内容」と「捨象が行われる階層」などによって、可能となるだろう。
だから、AもBも、わざわざ改行して書いた。
少し具体的に触れるなら、
Aに於いて、「『今まさに思考している“者”』」ならばギリギリ採用してもいいかもしれない。
「思考そのもの」「思考しているというまさにそのこと」であるならば採用してもいい。
もし、“私”というラベルを用いるなら、「仮設されている」という修飾語句付きなら採用してもいいかもしれないw
(※ここに拘るのは、やはり私が仏教畑の人間だからだろうな・・・・w (^^;)
いずれにしろ、諸縁によって生じている、というスタンスは
“私”であっても“他の言い方”であっても変わらないのであるが・・・。)
405 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 18:50:54 0
天才に素人、それにRaか。
おスベリ三羽ガラス。笑いのとれねぇ野郎ばかりだよ。
406 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 18:51:11 0
「疑い」が意味を持つのは、その「疑い」に確固とした前提があるからこそなんだよ。
例えば主観の外側に客観世界が在ることについて「疑う」ことに意味があると考えるのは、
可能性として、客観世界が在ったり無かったりし得るという前提があるからこそなんだよ。
目の前のリンゴが実は在ったり実は無かったりし得るという想定と同じようにね。
ところで、「目の前のリンゴが実は無い」ということと、「客観世界が実は無い」ということは、全然違うと思うぞ。
それは、客観世界Aが実は客観世界Bだった、という意味じゃないだろ。
(上記リンゴの例はこの意味だろう)
あるいは、客観世界Aが実は「無の世界?」だった、という意味でもないだろ。
客観世界Aが実は「世界」じゃなかった、とでもいうのかね。
そしたら、「世界」って一体なんなんだよ、てことになるぞ。w
つまり、主観の外側に客観世界が在ることについて疑うという、その「疑い」の前提が甚だ怪しいのだよ。
果たして「疑い」として成立しているのかな?
「私(主体)の存在性」についての「疑い」も全く同様だね。
「私」や「世界」が存在するとかしないとかの「疑い」は、
目の前のリンゴが存在するとかしないとかの「疑い」を単純に「私」や「世界」に当てはめた故に生じる偽の問題じゃないかね。
「客観世界がある」ことは意味を持つが「客観世界はない」ことは意味を持たないということ?
408 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/07/30(水) 19:20:27 0
>>406 哲学をする際に、枝葉のことから本質に迫るのも大事だけど、世界や人間や存在といった
中心的な物事についての本質を仮定でもよいからしておいて、改めてその上に
論を展開するといったことが大事ですよね。トルストイが言っていることですが。
でわ、「食事」の本質とは何か?
410 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/07/30(水) 20:31:07 0
>>409 食べる人がいて、食べ物があって、それを摂取すること。ここで枝葉にこだわると言った場合は、
人間以外の植物も食事をするのであって、光合成も含めて、水も必要、といった具合にそれていく。
>客観世界Aが実は「世界」じゃなかった、とでもいうのかね。
>そしたら、「世界」って一体なんなんだよ、てことになるぞ。w
そうなるんだよ。べつにおかしいことじゃない。
412 :
考える名無しさん:2008/07/30(水) 20:42:57 0
客観世界は人類以前にもあったのか?
413 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/07/30(水) 20:45:50 0
>>410 あるいは、各国によって、人種によって食事の作法というものが決まっており、宗教的
観点からしても作法というものが食べ物を摂取する前に考えなければならず、
その作法は食べる対象によって決まってくる・・・といったのが枝葉です。
414 :
コンスタンティンさん:2008/07/30(水) 22:37:24 0
>「私」や「世界」が存在するとかしないとかの「疑い」は、
私が存在しなかったら、誰が疑うんだろう。
世界が存在しなかったら、何を疑うんだろう。
基本的に 私 や 世界 の存在を疑っている人は居ないと思うのだけれど。
それらがどう在るのかを巡ってカキコしているんじゃ。。。
>基本的に 私 や 世界 の存在を疑っている人は居ないと思うのだけれど
かつて、いた。
本当に「真実な認識」とは何か
自分がいまここにいることは確実だろうか
自分は夢をみているだけではないのか
確実な認識を得るために、あえて不確実で疑わしいものは
徹底して認識から排除していこう、と。
まあ、世界は関わることによってしか確かめられない。
デカルトのように屁理屈をこねくり回すのは無益なことである。
417 :
荘周夢為胡蝶:2008/07/31(木) 02:00:11 0
>>415 その場合 真実であるとか 認識であるとか
言った事が意味を成さなくなって、解体してしまうと思うのですけれど。
それって 一言に要約すると、自分の足元を浚うって事ですよね。
倒立する事になるんじゃ。
418 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 02:36:44 0
【私】は、性懲りもなく毎日糞2ちゃんやってます。
419 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 02:43:03 0
目の前のリンゴが存在する/存在しない、と言えるのは
それが存在する場合と存在しない場合を両方とも許容している「場」が前提されているからだろう。
その「場」が背景として前提されているからこそ、リンゴは存在したりしなかったりできる。
では、「世界」についてはどうだろうか。
「世界」が存在する場合と存在しない場合を両方とも許容している「場」を、
「世界」の背景として前提できるだろうか?(超世界?非世界?)
仮に、「世界」は存在しない、実は幻だったとしよう。
その場合、「実は幻だった」という事実は、いったい何処に位置づけられるのだろうか?
それを事実として位置づけるような枠組みがあるなら、
それこそが「幻の世界」に対する「真実の世界」と言えるだろうし、
枠組みがないなら、「実は…だった」が意味を持たなくなってしまう(宙ぶらりんになる)。
いずれにしても「世界」が存在しないということは、意味不明である。
「私」についてはどうか。
「私」が存在する場合と存在しない場合を両方とも許容している「場」を、
「私」の背景として前提できるだろうか?(超私?非私?)
不思議なことに、「私」が「私」であることは「私」にしか分からない。
というか、それを見分け得る唯一の者であることが「私」の条件である。
それでは、「私」しか分からないその「私」が存在しないと、誰が何をもって言えるだろうか?
「私」が存在しないということがどういう事態であるかを、
「私」も他の誰も決して分からない。
だから、「私」が存在しないということも、意味不明である。
このように、「世界」や「私」については「存在しない」と言えないのであるから、
逆の帰結として、目の前のリンゴのように(在ったり無かったりするものとして)
「存在する」とも言えないのである。
>>416 あらあら、ついにデカルト超えちゃったよwww
みんな俺は哲学してるとか偉そうに言ってるけど、懐疑的哲学者を演じてるだけ。
普段は素朴実在論と非科学的山勘と噂話と慣習に基づいて行動して判断している。
欺瞞だね。どこが哲学者なんだよ。口先だけだな。
422 :
あさのお祈り天才君:2008/07/31(木) 08:32:42 0
デカルトの凄いところは、「我おもうゆえに我あり」なんだよ。
客観世界だろうが、あの世であろうが、UFOであろうが、科学であろうが、
「我おもうゆえに我あり」なのである。
我が思うものは、我がいる場という事です。
我が思った現実は、我の現実な訳です。
「幻想」と「今ここ」を分けて考えないといけませんね。
客観的表現で言うならば、「我々は我々自身の現実を思うから、我々自身の現実を体験する。」
世界というものは、思う前に現実化している。その前段階にある思うとは何かといば、
信仰であり信念であり思い込みである。
要約すると「世界は思い込みで創られている。」これは自我からみれば、真理である。
このように天才君は神より直覚致しましたが、いかがでしょうか。
423 :
神の種明かしをする孤高のカリスマ天才君:2008/07/31(木) 09:34:39 0
>>419さんが想念が形成される前提を発言されています。
想念の立脚する場があって、それに基づいて見解は形成されるという論でしょう。
「想念」の部分は何に置き換えて理解されてもかまいません。
なぜならば、「想念」によって場が形成されているのですからね。
そこで、私の見解はどの前提の上に成り立っているのか?つまり天才君の
種明かしですね。
この「世界は無限」である。つまり「全知全能が我々自身」である。
これが私天才君の論理体系、信念体系の立脚点です。
この観点から観ると、例えば、「我思う故に我あり」は、以下のようになるというだけです。
我々は何でもできるのにも関わらず、「我思う故に我あり」によって制限されている!
つまり神に成れないのは、また神を知らないのは、あるいは宇宙を知ることができないのは、
我の信念体系が邪魔をしている。つまり思い込みが邪魔をしている。
思い込みとは何か?それは刷り込まれた教育や、自我の快不快という感情。
そういう事です。よって倫理的提示を天才君がするならば、我々は選択によって
どうにでもなる。
これが天才君の種明かしであり神の種明かしです。
424 :
天国と地獄はここだよ君:2008/07/31(木) 10:02:25 0
昔々からのルーツのお話をするならば、「神思う故に神あり」の姿が、「我思う故に我あり」です。
ここが天国なのです。同時にここが地獄です。
すでにみなさんは死んでいます。いい加減に目覚めましょう!
425 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 10:55:20 0
427 :
何を荒らすのか?天才君:2008/07/31(木) 11:39:56 0
>>425 いつ生まれたのか?と自分自身に問うべきでは?もし母より生まれたならば、
それは体でしょうね。つまり物体です。
>>426 あまり権威の無い認定のようで…。ま、認定ごっこもいいでしょう。
428 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 11:47:42 0
>いずれにしても「世界」が存在しないということは、意味不明である。
残りの可能性としては映画マトリクス見たいに。
「真実の世界は隠されている(或は隠れている)」って場合ですね。
それは人間の知覚上の制限であったり、脳の構造・機能上、認識の制限であったりするかもしんない。
人は、それらを頼りに世界を作り上げて行くと考えられますから。
>不思議なことに、「私」が「私」であることは「私」にしか分からない。
>というか、それを見分け得る唯一の者であることが「私」の条件である。
むしろ私が私で在る事、私が私でしかないと制限するのが 他者 だと思ったり。
確かに、私が私であると思い込んでるのは 私 です。
429 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/31(木) 20:28:26 0
我思う故に我在りはよしとして
あなたは在るんですか?
って
疑うと皆殺しの独我論になっちゃいますね
私が信じる(正しいと思う)ことが前提で
あなたを信じる
なので、悪魔信仰と言う構図が浮かび上がります
430 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 21:10:25 0
はたして、独我論で大量殺人が在り得るだろうか。。。
他者が理論上存在しないのが 独我論 なんじゃ。
どっちかつーと。ニートとか、引きこもりとか、誰が見る訳でもないのにblogや掲示板に書いたり。
そんな事を毎日、何年もやってる人とかそう言うのが 独我論者 なんだと思ったりするけれど。
刃物を振り回したり、秘密結社に入ったりする人は十分に 他我 を認めている人で。
むしろ、認めた故に辛い現実とか挫折を経験して。それを埋め合わせる為に擬似社会に入ったり。
「誰でもいいから復讐する!」んだとおもうな。
431 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/31(木) 21:24:43 0
>他者が理論上存在しないのが 独我論 なんじゃ。
居るかもしれない他者と言う幻覚を大量消去するんでしょ
432 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 21:52:27 0
>>429 だとしても、事後にはしっかりと刑務所へいくので、
独我論でも力の論理は有効なわけです。
433 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/31(木) 21:58:39 0
>>432 警察や軍隊も一人で皆殺しです
一人対全世界です
有効ですか?
434 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/31(木) 22:01:22 0
独我論ならば他者は全て幻覚ですので武器も必要ないでしょう
435 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 22:01:49 0
436 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 22:06:10 0
独我論なら「世界はすべて私の世界である」という世界観だろ。
私が死ねば世界は全滅だね。
437 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/07/31(木) 22:09:12 0
>>436 自殺点ですね
人は生れ落ちた時点から死に至る病を持っているので
自殺点が正解ですか?
コンクリ事件の被害者は、
暴行を受けてる間、心底、世界が終ってほしいと思っただろうな・・・。
439 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 22:14:18 0
独我論って、唯一世界を構築している私、
と言うより、世界の中のひとりぼっちな私。
時間、空間座標的にここしかない。みたいな。
独我論って、「素の集まりが全体である」みたいな、西洋思想が根本にあるよな。
東洋思想は、「全体が素に分解される」もしくは「素に分解されるように見えるが、全体は全体である」みたいな考えが支配的に思える。
441 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 22:44:06 0
>居るかもしれない他者と言う幻覚を大量消去するんでしょ
ああ、なるほど。
でも、それなら 自己中 と言い表した方がシックリ来るんじゃないかな。
んで、幻覚が存在を伴って現れたなら、それは発病のサインだから。
独我論と言うより、早めに医者に行った方がいいと思う。
独我論的な人間にある 怖さ を取り上げるなら。 無関心 だろうな。
愛 の対義語は 憎 ではなく、無関心だと言ったのはマザーテレサだっけか。
442 :
考える名無しさん:2008/07/31(木) 23:05:29 0
568 名前:('A`) :2008/07/31(木) 22:56:26 0
おまんことおしっこが出る穴を必死になめたい
443 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/08/01(金) 00:35:32 0
>>440さん
その「素」或いは元(元素というのはここからでしょうか)が
全体を如何に織り成すか
素と全体との関わり、同一性等々ですね。
仏教に限らず東洋思想の大事なところです。
昔、ホロン革命ってのがあったなw
>>443 「素に分解されるように見えるが、全体は全体である」という考えに立てば
「そもそも『素』など無い」、ということになるかと。
そういう立場においては、「私」は完全に否定しまうね。
そこでライプニッツですよ
独我論者は言語的な理論からそうなっているというよりも性格の問題だな。
彼らは何らかの原因で離人症的な非現実感の中で生きるようになった心の病。
448 :
神が置き去りでは独我論は私論じゃないか君:2008/08/01(金) 07:32:01 0
独我論が話題になっていますけど、我の解釈がみなさんまちまちですね。
これこそ独我論なのです。
物事を説明するとき、既に公然の事実として受け入れている範囲が
設定されている場合の説明をするときは独我論とは言わないです。
つまり常識的・流行的思想は独我論とは言わない。
独我論が常識化してしまえば独我論でないものが独我論となるだけです。
ようは大衆のみとめる認識・認知を超えた物事を説明するには、
それ相当の公然の事実が大衆にとって未知ですから、独我論に見えるだけです。
認識以前の存在の象徴が神ですが、これを客観的にとらえることが可能かと
いえば無理がありますね。しがたって流行思想を超えた物事を認めるか?
認めないか?という信仰的な個人的問題にすぎないのであって、論理の世界
だけに存在するのが独我論です。
ま、論理で世界が出来上がっているならば、独我論だと切り捨てる事も
できますが、実際は、大衆にとっては仮説です。しかし仮説を論証する所が
哲学でもありますから、仮説を単純に独我論という言葉をつかって否定する
態度は懐疑主義でもなく、根拠すらないのですからこれ自体が独我論になりますね。
神が絡むなら、あるいはみずからの認識以前の存在を認めるならば、独我にはなりえないです。
俗に言えば、神を認めない者は、独我論だの懐疑主義だの大衆思考であるというように
低俗化させ神(仮説・認識以前の未知性)を否定しているだけです。
449 :
大衆は仮説できないのです天才君達のみ仮説できます:2008/08/01(金) 07:38:46 0
ノーベル賞をとった者、有名人、時代を開拓したパイオニア的存在、
リーダーなんでもいいですが、全部独我論者ですよ。
大衆が認めると、何故か事実になってしまい、議論の対象になるから、大衆は論ずる事ができる。
その時にやっと出てくる大衆的言葉が独我論ですね。
天才君のように神と知り合いの論客にとっては、独我論などと
騒ぐ、大衆思考、もっというなら人間様思考の一体系でしょう。
現存する最新アイデアすべては、独我論であり、それ自体が神の独我論の
一つの顕れであり、神の懐疑の一つの経過説明という程度です。
君は何でもありなんだな。
451 :
なんでもありも真理である:2008/08/01(金) 09:41:41 0
>>450 はい、全てが私の選択によるものです。別の私(あなた方)も別の選択によるものです。
客観的に見れば、我々は何でも「あり」で「あり」、「あり」を創造し、あたらしい「あり」の世界を
創っている。いまも。それを否定し無くそうとうする圧力も「あり」である。
論理の流れがおかしいから
何を言いたいのかわからん
せめてNGにするのでコテつけろや、クズ
453 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/01(金) 10:06:22 0
バタフライ効果でベーリング海で嵐が起きるんでしょ?
>>453 そうかもしれないね。
夥しい数の蝶があちこちで羽ばたいているわけだが、
ベーリング海で嵐が起きる時もあれば起きない時もある。
もし、(過去何百年何千年と)地球上の全ての蝶の羽ばたきを観測し、比較検討したならば、
嵐が起きた時の蝶の分布や羽ばたきが限定できるかもしれない。
(過去何百年何千年と)地球上の全ての蝶の羽ばたきを観測し、比較検討できたならば・・・。
もし、できないならば、蝶の羽ばたきによる可能性を否定しきれないならば、
この件(ベーリング海で嵐が起きると言う事象)もまた、不確かで、断定的には語れないものとなる。
455 :
うらぎりの天才:2008/08/01(金) 10:26:49 0
>>452 そんな発言も「あり」です。一方、期待は裏切られます。
456 :
カオスと秩序を使おう!:2008/08/01(金) 11:14:04 0
バタフライ効果は有効については、一滴の水滴が全体に多大な影響を与える手段として
活用することもできます。量ではなく質の問題です。哲学でいえば、盲点に相当します。
思考においては、振動数の変化です。波長ですね。
身体に与える影響としては、ヴィールス、ホルモンなどが相当します。
DANに直接変化を与えるのもありですね。
いずれにしても想念は全体の波長がある。別の波長を加えるとある波長に全体が変化する。
たったこれだけの理屈です。波長を知れば使えるという事ですが…。意味不明でしょうね。
使用方法としてはまず、カオスを創る。異質なものを最小限加える。全体の方向性が決定する。
カオスを作り出せるならば一滴にもなれるという事です。
しかし簡単な事です。論理上では論理のカオスに到達するための不足を提示すればカオスの出来上がりです。
「何でもあり」なら「特別な何か」を語る必要が無いんじゃないの?
458 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 15:09:13 0
>バタフライ効果でベーリング海で嵐が起きるんでしょ?
同じ理屈で、この板で雑談してると。
世界の思想潮流に竜巻が。。。
フラクタルだのカオスだの複雑系だのって。
数学者って哲学者より論理的なのだけれど。
どこか突拍子も無い所がありますよね。
「世界がカオスなんじゃない、お前がカオスなんだよ!」みないな。
数学者に比べれば哲学者の方が常識人と言うか。。。
その時代の 世界理解 の方程式を組上げたのは、先行する哲学者だと思うのですけれど。
数学者は何をしたんだろう。。。応用として工学とかか。
あ、そう、いま使ってるパソコンとか作ったの数学者ですね。
パソコン作ったのは工場の人でしょ。
460 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 15:58:58 0
物質に「私」はなかった。
しかし、宇宙に「仲間/敵」の関係構造が生まれた。
その構造が生物と物質を分かつ境界線である。
生物の持つ「仲間/敵」の関係構造が「私」の起源だ。
「思考」は【私(自分)として】しかありえず、
【自らが思考している感】を指して、「私」と称する(≒そうした感覚が「私」と名付けられた)のであろうが、
「私」と言ってしまうと、どうしても他者との関係性が入り込んでくる。
「自分」「自己」「己(おのれ)」「ワシ」「あたし」「おれ」「僕」「」
「自我」「我」「超越的自我」「超越的我」「超越論的自我」「超越論的我」
「超自己」「超自我」「超我」「超己」
「根自己」「根自我」「根我」「根己」
「源自己」「源自我」「源我」「源己」
「元自己」「元自我」「元我」「元己」
「初自己」「初自我」「初我」「初己」
「第一自己」「第一自我」「第一我」「第一己」
どのような表現がよいだろう・・・。
現時点では『我』が妥当性で一歩リードな気もするが、
仏教が絡むと『アートマン』との弁別が必要になるし・・・。
むつかしいなぁ・・・。 外国語で、なんかふさわしい単語ってあるのかなぁ・・・。
462 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 16:36:43 0
それは勘違いだな。
思考って表象記号を使って思考してんだから、
その時点で既に他者を意識してる事になるだろ。
「これ」でいいよ
464 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 18:00:40 0
>>461 手っ取り早く言えば、それが God なんでしょ。
たぶん。
私というのは、あなたから見たこちらという意味だからな。
最初から他者ありきなんだよ、私は。
>>463 それも、「これじゃないもの」との対になってしまう。
結局、
言葉というものが、弁別をその本質とする(切り取って、その切り取ったものが指示対象となる)以上、
言語を使用する以上、たどり着けないのかもしれませんね。
467 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/01(金) 19:58:28 0
>>465 言葉の意味というのは、限られた資源を使っている訳なので、時代の意識とともに変化
していくものだとおもいますが。
>>467 それは嘘だな。
変化する面と変化しない面がある。
親が子供に最初に私という言葉を教えるときは、
親に自分の情報を教える意味を持たせる。
つまり、親など他者から見たこちら側という意味は変化しない。
469 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/01(金) 21:54:53 0
>>468 あなたからみたこちらというのは、私の付随面であって、中心的意味では
ないと思いますが。いちいち気にしてたら頭がパンクしませんか。
470 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/01(金) 22:04:33 0
連投失礼します。私とあなたのダブルセットでできている言葉だということならわかります。
できればその証拠(根拠)を教えていただきたいのですが。
「私」とか「僕」とか、1人称代名詞を教えることなく育てたら、
(あっ君はとか、みくちゃんは、とか周囲が呼びかける言葉しか耳にしなかったとしたら、)
彼らは自分のことを、「あっ君はね」とか「みくちゃんはね」としか言わないだろう。
言葉の問題は大事だと思うが、根本は、そこにはないような気がしないでもない。
私という語を使用できる人は、
私一般の中に、すなわち「あの私」や「その私」の中に「この私」を位置付けている。
473 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/01(金) 23:02:11 0
>>472 「おまえ」一般といったものがないことと好対照ですね。
474 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/01(金) 23:12:59 0
連投済みません。
>>472 私一般に中に「この私」を位置づけて、同一性の中で自分とは何かといった疑問を持たずにいられる。
しかし、あいつとは違うのに、という感情は、名前が違えばある程度は補償される。個々で他者として
進入してくるのが誰なんじゃという「おまえ」である。
>>471 あー、でも、日本人が「私」について考え出したのは、結構最近かも。
476 :
考える名無しさん:2008/08/01(金) 23:14:50 0
「おまえ」も「私」も(一般的な用法)の枠組みにおいて習得される点では同じでしょ。
「おまえ」という語を使用できる人は、
あの人やその人やこの人を「おまえ」と呼べることを知っているし、
あの人やその人やこの人から「おまえ」と呼ばれることも知っている。
「おまえ」一般の中に、すなわち「(あの)おまえ」や「(その)おまえ」の中に「(この)おまえ」を位置付けている。
自分と他人、どっちを先に認識するだろうか?
覚えてないもんだね。
479 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/01(金) 23:38:06 0
>>477 習得については何も言わないけど、使い方について。
あなたの文章の中の「おまえ」の前の語にかっこが付いているところから、無理な論であること
を知ってほしいのですが。頭で考えて理論的に構築した言葉よりも、そういうところに本質が
表れている。
鏡像段階理論を持ち出すまでもなく
自分というのは他人によってry
自分ってのは、己の歴史を忘却した者によって作られた、偽りの主人公か。
482 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/02(土) 00:07:55 0
>>481 己の人生の過去にこだわらないと言ってほしいね。
483 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 00:12:26 0
こだわらない振りというか、とぼけた振りというか、ひとつの演技だな。
484 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/02(土) 00:27:44 0
485 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 01:03:07 0
とぼけるという言葉が気に入らないのなら、
しらばっくれる でも可
486 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 01:04:21 0
487 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/02(土) 01:05:59 0
488 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/02(土) 10:16:40 0
>>485 何でおまえにそんなこと言われなきゃいけねーんだよ
489 :
唯一無二の存在者、天上天下独尊。誰でもないなら、それは神だよさん:2008/08/02(土) 10:20:37 0
永井均が言っていたような 私 を問題にしているの?
490 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 10:26:49 0
いえ、最高位氏の言う 私 について考察するスレです。
491 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/02(土) 11:15:14 0
>>485 可って何だよ。ひとりでいってろ。
なにをしらばっくれたっていうんだよ。
492 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 11:39:31 0
493 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/02(土) 11:44:22 0
>>492 いつしらをきった、なにをごまかしたっていうんだよ
根拠を述べろよ
494 :
ネオマトリクス:2008/08/02(土) 11:58:57 0
視覚や触覚が「感覚」であることには、誰も異論がありません。
しかし、現実には感覚以外の「物質」がある(筈)と考える人が居ます。
……それは無意識や本能による「仮説の盲信」です。
日常の物事を構成する無数のクオリア(感覚)は複雑に組み合わさり
規則的に変化してるだけで、物質があるように感じさせてるだけです。
勿論、脳という物質もありません。
思考と感覚という『唯識論』が全てです。
「この宇宙」が人間の脳を「意識を生む物質」であるとする科学的根拠は
全くありません。人間の脳も日常における「五感」の一つに
すぎず、人間の「脳」に「意識」は何の「依存も」もしません。
『意識』は『この私』の性質です。
「何を思うか何を意志するか」は、この私の欲求により
自由にされております。決定(法則)論は文字通り『決定してる感じ』にすぎません。
独我論の「この私」こそが万物の中心となる「絶対的な神の視点」です。
以上が「唯識的独我論」の完成と唯物論の崩壊の後に残存し得る
『絶対的な快楽(マトリクス)』の輪郭です。全常識全唯物論は思考と感覚です。
>>494 それを編集してるとき、すっかり得意になって興奮してる
姿が目に浮ぶわ
496 :
考える名無しさん:2008/08/02(土) 13:31:38 0
>>490 あそ。じゃ解んないや。後、よろしく。w
>>494 コテ変えるなら、もっとバレにくいようにキャラ作りしろよ。
バレバレだと嘲笑ものだぞ。
498 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/02(土) 17:18:09 0
500 :
テスト ◆SL97LOn3Yk :2008/08/03(日) 03:56:29 0
わたしは一人しかい【無い】
501 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 12:42:46 0
発話者を示す一人称代名詞としての「わたし」は一人ではない。
変数だから発話者の数に一対一対応する。
愛猫に死なれ、深い悲しみを抱いているのは一人。
他の誰でもない。
誰も、その悲しみを代わることはできない。
503 :
独我論とナルシズムさん:2008/08/03(日) 17:32:58 0
じゃ、言うべきじゃないし。書くべきじゃなよね。
自意識過剰・ナルシスティックに響くよ。
何しろ変わってやれないし。
そう出来ない事を知りつつ口にするのだから性質が悪い。
ウィトも同じような事を言ってたけれど。
彼は自閉症だったから許してあげる。
犬だって自動車事故に遭えば、痛みを感じてるのはその犬だけで、
他の犬は感じてない。だから何だ。
>>504 501の言うような「言葉」の問題じゃないってことさ
506 :
【私】==自己愛:2008/08/03(日) 20:20:01 0
死の苦しみを味わったのは猫であって、その飼い主ではない。
よって、自らの悲しみを理解できないと主張する飼い主には論理矛盾ならびに誤謬がある。
正確には飼い主もまた理解出来てはならない。飼い主はただ意味もなく泣いているのだ。
カキコしてる時に音楽も聞いてるんだけど。
なんでかここ書いてる時 スガシカオ が聞きたくなるのよね。
何でだろうって。。。ああ 自己愛 なんだって今思ったよ。
いつまでも結果の出ない事を延々としていられるのって。
何が目新しい訳でもないし。クルクル巡回論法を繰り返して。
私を巡る非生産性を耐えられるのは、それが 自己愛 を満たすからなんだって。今思った。
*(そういやリカちゃん先生がそんなの書いてたっけ)
でも、まあ。敷衍して考えればネット社会って自己愛の強い人のたまり場なのかも知れないなぁ。
そんな事してる暇があったら友人や彼女と遊んでた方がいいし。
仕事とかしてたら管理職でなけりゃお金になるし。
ああそうなんだ。ネットって自己愛を補強するんだって。。。
>>506 馬鹿?
『「(当該)猫が死んだこと」による悲しみ』を、その(当該)猫が味わってるのか?
508 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 20:29:27 0
>死の苦しみを味わったのは
死の苦しみは生きてる間に味わうんだよ。
死んでどうやって味わうんだよ。。。w
509 :
【私】==自己愛:2008/08/03(日) 20:33:37 0
>『「(当該)猫が死んだこと」による悲しみ』を、その(当該)猫が味わってるのか?
何処にもそんな事書いてないよ。
>馬鹿?
君がね。
510 :
【私】==自己愛:2008/08/03(日) 20:34:52 0
>『「(当該)猫が死んだこと」による悲しみ』を、その(当該)猫が味わってるのか?
何処にもそんな事書いてないよ。
飼い主は死んだ猫の事を 悲しめない と書いたんだよ。
>馬鹿?
君がね。
511 :
【私】==自己愛:2008/08/03(日) 20:35:32 0
失礼。w
下心持ちやがってよおw
514 :
【私】==自己愛:2008/08/03(日) 20:44:25 0
ええ、なんでさ。
愛猫に死なれ、深い悲しみを抱いているのは一人。
他の誰でもない。
誰も、その悲しみを代わることはできない。
そうじゃない 深い悲しみを抱け ない。
何がおかしんだい。
515 :
【私】==自己愛:2008/08/03(日) 20:48:42 0
あ、なるほど少し分かった気がする。
愛猫に死なれ、深い悲しみを抱いているのは一人。
他の誰でもない。
誰も、その悲しみを代わることはできない。
一人 って誰?
517 :
【私】==自己愛:2008/08/03(日) 20:57:01 0
同じ事だと思うけど。
では 死んだ 事に対して 深い悲しみを 抱くんだな?
死んだ事に対して深い悲しみを抱けない。
何故なら、誰もその悲しみを変わる事が出来ないから。
どうよ。
518 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/03(日) 20:58:54 0
独我論、抽出レス数:22
独我論をやっと理解できた奴が多いのか?、ここは。w
>>517 >死んだ 事に対して 深い悲しみを 抱く
は、その通り。
が、
>死んだ事に対して深い悲しみを抱けない。
は、そう言い切ることは誰にも出来ない。
「何故なら」で接続される意味も不可思議。
520 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 21:17:13 0
あれ?
君らは、なんで夏なのに肌が「まっ白」なの?
一人二人と数えるのは肉体の数を外的視点で数えてるのだ。
外的視点で猫や馬を一匹二匹と数えるのと同じだ。
内的視点で私の数は数えられない。
私は一人という考え方は、一つの肉体の中に私が存在するという
外的視点によるものである。
522 :
考える名無しさん:2008/08/03(日) 21:20:28 0
523 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/08/03(日) 21:23:44 0
>>517 別に猫が死ななくても、「いなくなっただけ」でも悲しみを抱くことができるべ。
人間は感情を共感することが「全く」できないと主張するなら、また話は別だが。
(
>>521から拡げて)
聖書的に言えば、
「初めに思考があった」というような感じだろうか。
そしてそれが、他の思考と混じることが無ければ、それは「一つ」であり「自身」でしかないだろう。
(そこには、「境界」がないだろうか?「境界」があるから、一つとか二つとか言い得るのではなかろうか。
「境界」が無ければ、それは、遍く世界を満たし、遍く世界を覆い、他の存在しない、
(宗教的な)一なる世界、一なる思考であろう)。
もし、もし、その「思考」が、他の要素をきっかけに誕生するものだとしたら、
たとえば「感覚」なるものにより「境界」という外骨格を持たされているとしたら?
「境界」があるから、「思考」は「一つの(唯一の)自己」として存立しうるのかもしれない。
そして、その「境界」は「肉体」によって最初に設けられるものかもしれない。(「感覚」の大部分は肉体起源であろうから)。
こうした「肉体」(或いは「感覚」)無しに設けられる境界とは、どんなものだろうか。
「肉体(という境界)による「感覚」の制限」が、「他でない「自己」(自身であるということ)」を成立させているのかもしれない・・・。
526 :
考える名無しさん:2008/08/04(月) 12:51:09 0
>は、そう言い切ることは誰にも出来ない。
まあ確かに。
>「何故なら」で接続される意味も不可思議。
カキコをサッと飛ばし読みして 自己愛に浸りきって書いてるのかな?と思った訳よ。
なので、自分に振り向けるその愛はキモイぞと指摘したかった。
まあ、僕が先走りで勘違いしてたみたいね。。。
じゃ、ばいばいサルさん らしいんで。これにて失敬、お元気で。
527 :
あらわれましたね天才君:2008/08/04(月) 20:09:32 0
毎度のことながら言っておきますが、我々の個々の独断から繰り広げられる
あらゆる論理は、結論が先でない限り、私の意思ではありえず「私」を対象化させた
解釈になります。ようするに知性ですね。
私の記述者という立場にたてない限り、私という限定され得ない存在を語り得るわけがないのです。
唯一私を記述できうる存在は神でしかない。この意味を理解できない方も多数いると思われますが、
ようするに、発言者が記述する総ては、何を書いても誰に向けて書いても、発言者を表すのです。
考える事/記述する事/私の今の状態/は同じにフィルムのように、発言内容や記述方法に表れる。
ここでは、「発言行為」こそが実は「私」です。
528 :
またまた暴露ですね天才君:2008/08/04(月) 20:14:05 0
ここで他者とやりとりしている。あるいは、他者にむけて発言していると
信じている方がほとんどでしょう。
自我にとってはそうでしょう。つまりみなさんはそのように意識している。
意識しているから他者がいると信じている。
分からない人のためにいっておきます。
みなさんが向かっているのは画面である。他者は幻想であることをこれほど
単刀直入に発言する人はまずいません。しかし誰にとっても真実です。
529 :
さすが天才君:2008/08/04(月) 20:25:36 0
2chをバーチャル空間であると自覚している人がどれだけいるでしょう?
バーチャルであっても気持ちは右往左往しますね。
あたりまえじゃないですか。共同で幻想ごっこをしているんであって、
バーチャルの中に入っているのですから.....
でもって、私というものをすっかり忘れてここが現実であるがごとく、
他者に話をしている。バーチャルであっても唯一信じられるのは
自分自信の意思だけです。
他者に気持ちをぶつけてもかえってくるのも気持ちですし、
思考を放てば、かってくるのも思考。
直感を放てば、自我は何を発言しているのか、理解もできない。
ポイントは思考をとっぱらっても私は活動しているという事実です。
別の言葉でいえば、心身操作(スポーツ/仕事他)は一流になればなるほど考えませんから。
ここも ついにこんなスレになったか
現象学的還元の観点からすれば、特に問題は無いと思う。
532 :
子供は子供扱いする天才扱い:2008/08/05(火) 10:16:41 0
「我思う故に我あり」を認めるならば、現象学的還元。大事な事ですね。
これを素朴と一喝しようと、その発言自体が、その主体の現象学的還元ですからね。
発言はあくまで発言者の観点であり、自然の一部である「私」からみた考察である事を
認め、その土台が論理の立脚点でしかありません。
この観点から言えば、「私」は観察する主体です。観察段階、レベル、広さは、
個人の感受能力に依存し、それもまた観点の違い以外なのものでもなく、
同じなどというものはあり得ない。何故ならば、「私」は唯一無二の観点であり
存在であり、同時に自然の一部であるからです。
私の言うことが正しい!などということは傲慢でもなんでもありませんが、
それは発言者の観点に嘘は無いのであって、正しいのではありません。
正しさ、真理は現象学的還元に基づけば、私にとって、正しいあるいは真理というだけです。
結論からいえば、私という主体性を社会的流行やマニュアルに頼る依存的「私」の氾濫が
そうさせているだけであり、これは精神的自立がままならない子供が多いというだけの事です。
子供は子供扱いすることが子供に対してのまともな見解でしょう。
533 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 10:25:23 0
>>529 天才君の言う“一流”は、だれ(なに)かに仕える者(従僕)としての一流。
彼らは「心身一如」の境地をもって優秀とされる。プレイのさなかに思考
するのは二流以下の所作。
したがってトップの器量、あるいは組織の強弱は、この種の優れた従僕を
どれだけ持てるかで決まる。露骨に言えば…
お、現象学に著しい反応がw
535 :
ねずみとり:2008/08/05(火) 12:38:24 0
現象学的還元はまさに現場主義であり、実践哲学だから
知識や経験が通用しない。必要なのは推測と洞察と直感です。
感覚などは当てになりませんし、感情などは自我の産物で邪魔なだけの私情です。
逃げ足の早い「私」をとっつかまえるには、逃げ道を塞ぐ事です。
逃げ道とは、いうまでもなく、現象が起こった場合の思考の最大の癖、既成概念への還元ですね。
正当化とはあらゆる現象を既成概念で上手に丸め込み、「私」をみずから牢獄に閉じこめておく
行為です。やってる本人は自覚がなく、穴に入るように逃げ込みます。
よって「私」という逃亡者を捕まえるには逃げ道を塞ぐか、本体をわしずかみにする事です。
捕まえれば呆然の沈黙します。一度捕まえてもあがきますから、先先へと追いつめます。
最後は「私」は逃げずに諦めます。
逃げ切れるはずがないのですから最初から逃げずに「私」であればいいだけです。
幻聴が苦
537 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 12:42:57 0
>>532 自然の一部である「私」と、観察する主体、すなわち唯一無二の“観点”
としての「私」は重ならないのではないか。つまり、両者を「同時に…」
把捉することは不可能ではないのか。
もっと言えば、貴君のお気に入りの“観点(超越論的主観のことかな?)”
なるものは「自然の一部」とは違うのではないか?ということである。w
532は最近、フッサールのことを少し知ったから
現象学的還元って言葉を使いたいだけなんだよ
539 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 13:57:15 0
>>535 ここでも先の例とは異なるが“私”は分裂したままだ。逃げ足の速い「私」と
「その逃げ道を塞いだり、鷲づかみにする」『私』は別の存在として、天才君
には描かれている。
「私」の逃げ道を塞ぎ、時には鷲づかみにする『私』については不問に付された
ままである。
>>538 そうだね。意味もわからず使っているね。
541 :
共依存といわれても現代人:2008/08/05(火) 14:10:09 0
>>537 観察する側と対象を分ける事は不可能なのはあなたのおっしゃるとおりです。
よって「自然の一部」が自然の一部を語る事しかできません。
つまり今個々で起こっている事を語る事以外にできないということです。
またそれが「私」の今です。
>“観点(超越論的主観のことかな?)”
また、上記のような解釈はなさる必要はありません。ごく普通の事しか
私は言いません。
>>538 あなたと私は違いますからね。念のため…。
>>539 逃げ道を塞いだら残るのは「私」ですよ。
また、あなたの発言は、あなたがそう思っているのであって、
そう思っている主体はまぎれもなく、私天才君ではなく「あなた」ですね。
あなたは、あなたに付いてしか語れず、私は私についてしか語れません。
542 :
先生役:2008/08/05(火) 14:32:41 0
>>540 言葉に意味があると信じていらっしゃる?
言葉は実体を指し示しているだけですよ。意味などはありませんよ。
一つ教えておきましょう。人生にも意味はありません。
自分で意味をみつけましょう!
543 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 14:34:39 0
>>541 そのように言い換えても、矛盾は残る。
“私”は逃げながら“私”の逃げ道を塞ぐのか。これは、まだいい。
“私”は、逃げる“私”を鷲づかみにするのか。どうやって?
貴君によれば、個々の主体なるものは“神”の出先(代弁者)のはず。
とすれば、私が語ることは主観を超えているのでは?
545 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 14:51:30 0
>>542 言葉が意味を持ちえないのは“実体”を指し示せないから。
もし“実体”を指し示すことができるのなら、言葉はそれ自体として意味を
有することになる。
546 :
発言者はつねに「私」なんですがねぇ〜:2008/08/05(火) 15:07:10 0
>>543 あなたの発言はあなたが書いている事に関して
なんの矛盾もないでしょう。発言者が「私」(天才君から見ればあなたに相当する)ですよね。
発言内容は、あなたの一部ですね。つまりあなたはあなたの発言から逃げられない。
神の代弁者?私天才君と神との境目を設定するなら代弁者でしょうね。
自然と私が実際、分かれていますか?
>>544 例えば、実体ですか?と私に問うている主体は、あなたですから、
その質問の実体は、「あなた」です。
>>545 その通りですね。
だからこうして言葉でやり取りをしているんでしょう。言葉を使って、
その実体についてね。
547 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 15:19:04 0
ふにゃふにゃふにゃ
548 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 15:20:20 0
入れ歯(実体)はどこだ?といってるんだね
549 :
神様のおはなし:2008/08/05(火) 15:20:55 0
生きている内に、自我の創造主である「私」と仲直りした方がいいですね。
「私」は常に正しく、「私」は心では自我と「私」が逆転して独り言をいい。
言葉で他者に話すときは、「私」は沈黙し、自我が他者を意識した言葉を吐く。
気づいたほうがいいですね。みなさんの天才性に…。
独り言で騒いでいるもう一人の私は、「神」と言われるものですよ。
窮地に追い込まれるほど、「神」の独り言は、的を射ていますし、
奇跡も起こすでしょうね。但し奇跡に自我が気づけばね。
550 :
考える名無しさん:2008/08/05(火) 15:22:48 0
実体は入れ歯ではなく空でしょ
だから、ふにゃふにゃふにゃ
551 :
苦の天才:2008/08/05(火) 16:17:50 0
自我やアイデンティティーや人格や性格などというものは、
実際、「ふにゃふにゃふにゃ 」ですよ。実体の顕れですからね。
「私」が主体であり、「ふにゃふにゃふにゃ 」が見つけた
他者という「ふにゃふにゃふにゃ 」なども「ふにゃふにゃふにゃ 」です。
「ふにゃふにゃふにゃ 」が「私」にむかって「ふにゃふにゃふにゃ 」だと
いったところで、「ふにゃふにゃふにゃ 」にしたい願望はあっても、
実際の「私」は依然、存在し続ける。「ふにゃふにゃふにゃ 」と断定しても無意味。
私と私は共感できても、「ふにゃふにゃふにゃ 」は「私」の配下にあり、
「ふにゃふにゃふにゃ 」と「ふにゃふにゃふにゃ 」は対立関係にある。
「ふにゃふにゃふにゃ 」な自我は確固とした確信を好むが、「私」は
常に正しさや真理や善悪を知っている。
人間はまず肉体として生まれて、自我として分身を創り、さらに「私」に生まれ変わって、
自我を配下につけなければならない。でなければ、恐怖と不安の餌食になる。
つまり、金の配下に付く。
一方、「私」は人生(人を生かす)を送れば、金は勝手に与えられる。
この法則は昔から言われているが実践する人は少ない。
つまり「私」を信じず、実体の無い他者を信じる。これが苦である。
そろそろ荒らし認定で申請しとくか
553 :
天才君があらわれませんね。:2008/08/05(火) 16:29:16 0
>>552 天才が天才に向かって話しているのにね。
まだ、人ごとですね。
ま、確かに天才達は、自我という、別名、既成概念を荒らしていますが…。
「私」が世界の少なくとも一部だとすれば
世界は存在するっぽいから
「私」もちょっとくらいは存在するっぽい
と考えてみたんだが
555 :
天才君世界の成り立ちを語る。今も。:2008/08/06(水) 11:14:47 0
全体の一部である「私」が存在しないなら、全体である世界も存在しない。
その逆に世界が存在しないにもかかわらず、「私」が世界を認識できるはずがない。
そこでどのような形態で世界は成り立っているのか?と我々は考えてきた。
とりあえず感覚を頼りにして世界を発見してきた。
しかし発見と創造は同じである。発見すると認識される。
逆に創造すると発見される。
つまり世界のありようも、私のありようも、あらゆる形態も概念も
創造によりどうにでもなる。特に、私の存在性については生死をも越え、
生まれ変わりや、まったく別の形態にも変化しうる。
ようは、我々の存在そのものに関しては、どこに生まれ、どこで死に、
どこで別の形態として変化するかも、我々個々の創造次第であり、今でもそうである。
この世界は我々個々にとってみれば既成概念を体験し、想像が未来を創造し、
それを未来で体験するだけなのである。よってそれを知ることが全知全能である。
少しでも、その知を体験すれば、私の言っている「どうにでもなる」だから、
懐疑・分析するのではなく、創造と選択をすべきだ!という事が解ると思う。
556 :
考える名無しさん:2008/08/06(水) 11:47:21 0
未完
557 :
考える名無しさん:2008/08/06(水) 12:33:23 0
箱庭療法
558 :
考える名無しさん:2008/08/06(水) 12:35:30 0
偽金づくり
559 :
考える名無しさん:2008/08/06(水) 12:41:56 0
福岡・宮田のトヨタの工場が800人削減だって
スタグフレーション
すごい時代に入ってきました
ニートもかなりヤバイよ
560 :
社会派:2008/08/06(水) 12:55:54 0
食わしてもらえるからニートでしょう。
で、ニートが食えなくなったら、食うために何かするよね。
犯罪・勤労・自殺するね。その割合は、今も昔も変わらない。
資本主義の論理必然。論理的に生産工場を海外に移転するのは必然。
先進資本主義国は金融と農業やって食っていく。
日本人で製造業をやっていたら15年後にはホームレスになる確率高し。
見るものと見られるものとの分離が「私」の始まり
563 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/08/07(木) 00:24:41 0
564 :
ネオマトリクス:2008/08/07(木) 00:33:09 0
>>563 貴方はラビですか?前に、加算無限とか言いだしたのに対し
そういう専門用語連発はよくないと述べたいですが
どうですか?似てるんですが。一見すると英知ある人間に見えて
実は力を誇示したい様子が
565 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/08/07(木) 00:39:17 0
>>564さん
ラビさんは機械さんのスレの人でしょうか?
(最近はあちらのスレはご無沙汰ですが)
違いますよ。>>ただ562さんの言がきれいな表現だと思いまして。
もっとも私の意図する考えとは違った意味かもしれませんが。
「私」とは刹那に生滅する座標交点の点のようなものとも言えるのではないかと。
>>502 >愛猫に死なれ、深い悲しみを抱いているのは一人。
>他の誰でもない。
他の人の心が分からないと、悲しんでいるのが一人かどうか分からないお^^
567 :
天才君とあそぼう:2008/08/07(木) 11:05:57 0
>>562さんのおっしゃる
「見るものと見られるものとの分離が「私」の始まり 」
これが全てですね。
だから、他者は見られるもので、私は見るもの、分離前は「神」と言われる見る以前のもの、
よって「私」の勘違いは、ここでは3つ発生する。()内は個の人間の思考の癖の顕れ。
●他人は見えるから存在する。(他人の目で私を見る癖)
●私は見ているから存在する。(私の目で他人を見る癖)
**********ここまでが相対、以下は絶対***********
●神(分離以前)が存在するから、私と他者が存在する。(神の目で神を見る癖)
568 :
考える名無しさん:2008/08/07(木) 11:49:03 0
神でも悪魔でもいいんだけどさ
569 :
考える名無しさん:2008/08/07(木) 11:50:48 0
いけないのかな?
天才君が神というネーミングにこだわった訳はなんなの?
570 :
神好き天才君:2008/08/07(木) 12:55:00 0
>>569 神というネーミングにした理由は、神が好きだからです。
まあ、テキトウで、神でなくてもなんでもいいです。
ようは分離以前が在る。これが言いたいだけです。
571 :
説明しよう!:2008/08/07(木) 13:07:10 0
分離前を概念で理解できても、想像しがたい人もいるかもしれない。
例として補足しようと思う。
夫婦でも友人でも仕事仲間とか親しくなってゆくにつれ、目で合図だけで解るとか、
言葉も要らないとか以心伝心とかありますね。テレパシーとも言います。
シンクロなんちゃらスイミングなんてのも呼吸を合わせるという訳です。
分離前というのは、意識せずとも努力せずともそのような状態であるという事です。
現代の社会が分離後社会とするならば、分離前の社会では分離を想像しがたかった。
新しい人種は、分離と調和を包括内在している人種である。こう人間進化の観点から
観察することでイメージはしやすいと思います。
572 :
考える名無しさん:2008/08/07(木) 13:29:55 0
,. -───-、, -- 、_
/.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:`ヽ
/.:.:.:.:.:..:、::/.:.:.:.:.:-、.:.:.\.:.:.:.:.:.:.:.:.:.\
/.:.:.:.:.:.; -────-\.:.:.:\.:;.:.:.:.:.:.:.:.ヽ
/.:.:.:// __, -──- 、__ \.:.:.:.:Vヽ、.:.:.:.:.:',
/.:.:.:/.:./ー'|.:、.:.:.:.:.:.:.:.:.:\.:.:.`"tヽ:.:.:ハ、 `ー-、:',
/.:.:._,/:/.:.:|.:.|.:.:\.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ:.:.:.:.|.:|.:.:.:.ハ\ /.:.:.!
/.:l'´,.|:/.:.:.:|.:.ハ.:.:.:.ト、.:.:.:.:.:.:.:.:;;.レ、:|.:|.:.:.:.:.ハ ト-{.:.:.:.:.!
,'.:./メ' |:|.:.:.:.:|、,! \.:.ヽ\.:./.:.:| ヽ:レ|.:.:.:.:.:.:トイヽ,\.:|:|
,':./:|/||:l:.:.:.ハ;:|`ヽ.,\:\´\:.:;レ'^弋j.:.:.__.:.:.Yヽ ト、ヽ; 記述?なんか面白そうじゃない?
!.ハ.:'ファ|i.:|::.:.| ヽ ` ̄ 〃ト::::::リ/´ ヽ| .メ_| ヽ/:i 私のこと記述してみなさいよ
|;!|/ //i.:.:ヽ;.i -ーミ、 辷ノi i´.:.:.:.:.:.|.:.|
| / // ト;.:.:.:`\ , | l`ヽ、.:.:|:_|
|/ /| |:.:|.:.:.:.i.:.:.:', __ -ー i ト、 ト ´~ ヽ、
|`~i:| |.:.:\:.ト、.:.ト、 \ ノ |.:ヽ、 ' i `ヽ
| i:ト-';:.:.:.:.ヾ.:\.:.:.`ヽ、 ` ´ ハ:.:.:{ / / ヽェ-、
i| \.:.:.:.:.:.:.ト;.:.:.:.|.:.:.>、- ー'"//.:.:.ノ` / / / `i ',
ヽ \.:.:.:.|::|.:.:.f"´: :_ノ〉 //.:.:/ー | / / | ',
,>;.:レ'|.:./ト、/ __∠レ'´ | / / | ',
/ /|/: :.レ、:_: : `ヽ、f´ __, ヽ__ノ / / ',
/ ///: /ー、 \ /ヽ、 /: イヽ、_ ` "´-ー "´ /
/ ///: /: : : :\/: : : : : `7´フ: : / {  ̄ ̄ /
573 :
考える名無しさん:2008/08/07(木) 13:51:55 0
せなーかあわぁぁせの、スル〜ウゥゥ〜〜〜♪
「見るもの」=「私」は何処にいる?
576 :
考える名無しさん:2008/08/07(木) 20:44:59 0
見る他者のなかにいるんじゃないの
577 :
考える名無しさん:2008/08/07(木) 22:55:51 0
>>天才君
分離前には「神」のみがあった、と貴君はいう。私なら別の言い方をするが、
それは措くとして、なぜ“分離”なる事態を招来したのだろうか?
貴君のいう「神」の御業? だとしたら、その動機は何だと推測されますか?
!
579 :
今が神の海の中:2008/08/08(金) 01:04:21 0
>>577 分離前には「神」のみがあった。分離前を考える時、間違いやすいのは、
分離している状態で考えるてしまうことです。
分離前の状態は、今でもそうですからね。個人の認識によるという訳です。
よってなぜ分離したのか?を私に問うのは間違いで、自分自身に問うべきです。
問いは発見を目指します。そして発見と創造は同じです。
だから我々が慣れ親しんだ分離の動機は、言葉ではないでしょうか。
言葉で個別化の呼び名を発明しましたが、実体までも想像上で分離させることを覚えた。
それだけです。
よってこの場合の動機は、結果的に個別化された自覚をもつ人間は、自由意思をも創造し、
同時に時間と空間もセットで発見したことにより人生を創造した。
同時にうまれるのが生死ということになるね。
このように見ると生死を創造したことで、あの世とこの世をも同時に創造したことになりますね。
想像できる方もいるかもしれません。時空が存在せず生死も存在しないのに、かつ私が在る状態を。
俗に言うあの世です。創造自由の場所です。私のルーツの場所?といえば、創造自由の場所。
つまり俗語ではあの世です。しかし分離前はこの世だけです。しかもそれは個人の認識次第で
在り方が変化して体験できる。ちょっと先走った事もいいましたが、そういう事です。
この考え方を認めれば、大抵の謎は解けます。
580 :
天才君が補足を学習しましたが下手です:2008/08/08(金) 01:23:02 0
上記の文章を理解する前提条件の一つに、人間の認識は想像で補うという点を
忘れてはならないという事です。
例えば、既成概念から外れた事象がここにあったとしたら、見えたとしても、
使い方も、それがなにかも分からないはずです。そして人間は想像でその事象を
消してしまいます。消却ですね。
しかしこの部分的想像の消却は社会性生活をする上での順応適応する上で
大切な要素です。鈍感になることで情報を制限し、生き残る上で必要な情報を
選別するのが適応条件の一つであるからです。
個人による感受性の差違の一つの要素として、どの社会で順応したいか?という
個人的欲求の焦点があります。仲間意識ですね。どの仲間に入るかの選択によって
そこに適応する感受性を制限します。
よって哲学を実践する事に関してのベストな条件は、無執着による無差別的思考が
必要になってきます。懐疑の本質は無執着でなければ不可能です。執着があれば、
倫理や私情が入ります。真理をつかんで後に、倫理と私情に結び付ければ人類発展の
役には立ちますが、大衆化されれば教義、道徳に落ち込むだけですが…。
部分的差別やタブーはこのような手順でやぶられていますね。
分離は悲しみを生むが、その悲しみがあってこそ、出会いの喜びがある。
582 :
今日はよく語る神様ですね:2008/08/08(金) 01:42:32 0
私の言うことは信じる必要がないのです。
みなさんの知る世界を今、見渡せば分かることです。
分離は差別を生みます。差別に同意している社会において、それを無差別で扱うことを
タブーといいますが、やぶられていますね。つまり曖昧になっている差別を列記しましょうか。
男女/国家/年令/身体的特徴/麻薬/宗教/真偽/オカルト/時空/裏社会/善悪.....
これらはほんの一例ですが、曖昧になってきていますね。次世代の生活モデルは自己責任です。
自己責任は社会制度内で使う言葉ですが、神の国の言葉に翻訳してニュアンスを伝えるならば、
「創造主」が「創造主」の世界を造っている...それが今。といった認識に至る過程です。
私の人生は私が決める自由を得るに至るという事であり、当たり前の事です。
そして集団的思想からも独立し、精神的、思想的自由を得る段階に達しはじめたという事です。
ま、すでにそうなっている人もいますけど。それくらい退屈な話を天才君はしているというだけです。
ただ、思想的解放がまずは一番の難関でしょう。なんせみなさん自我(分離)を信じていますから......。
その信仰から解放されれば自我は道具として使えます。それまでは使われます。つまり教義と感情のマシンです。
583 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 03:20:09 0
何かよく分からないがw
意識の基本はコチラとアチラ(空間)、今と近未来(時間)。
バクテリアから人間まで、このような意識を基本に生きている。
さらに人間は想像力を使って空間と時間のスケールを大きくとろうとする。
だから妄想が強まって悩むことになる。妄想的過去に後悔する。
妄想の極点に神を置く事で悩みをストップさせようとする。
天才君は、陳腐な概念で陳腐な概念を乗り越えようとしているね。
天才君の記述からは、いかに陳腐な概念に深く毒されているか、ということが読み取れる。
585 :
おはよう!天才君達:2008/08/08(金) 09:20:56 0
>>584 >天才君は、陳腐な概念で陳腐な概念を乗り越えようとしているね。
そうです。「陳腐な概念」とは私にとっては自我です。
しかし、天才君を観察された、その観点に関して私は尊敬します。
私のしていることは、自我で自我の解毒剤を創っている。
おそらく、それが時代時代に存在する真理でしょう。
自我は暴れ馬ですから、どうやって手なずけようか?という点に私は興味があります。
自我から見れば、「私」が暴れ馬でしょうが、私の場合は逆です。
「陳腐な概念」って何でしょう?「私」(私たち)にとってそれは数年しかもたない
信念体系です。つまり既成概念って所です。このような考えが天才君です。
586 :
信仰のメカニズム:2008/08/08(金) 11:08:18 0
>>583 >妄想の極点に神を置く事で悩みをストップさせようとする。
神を置くことで悩みはストップするとは私は考えません。
むしろ神を発見することで、悩みむ行為ができなくなる。
こういうことです。科学者も哲学者も職人さんも、医者でもスポーツでもなんでもいいですが、
いずれ限界に達します。その時、未知の分野に介入しなくてはどうにもならない状況で、
アイデアというものを経験する。最初はそれが自分のアイデアだと考えるが、たびたび
起こってくる。なんの過去の知識や経験の土台なくアイデアが起こる。
理性を働かせれば、なんらかの存在を認めざるをえなくなる。
最初はそれを神としたり、才能だとしたり、既知の概念に当てはめようとする。
しかし徐々に受け入れる。創造の源は、私を越えていると気づく。
気づいた者は、今度は、創造の源をいかに引き寄せるか?という受信機の性能を高める
手段を個人的に模索する。大抵は自分なりの方法を確立する。
するとどんどんアイデアや気づきがパンドラの箱を開くがごとくあふれてくる。
これが知恵です。知恵者はつまるところ自分の知恵だと思っていない。
何かにアクセスしているだけである。そのアクセス先に絶対の信頼をおいているから
さらに情報の入りが良くなる。
だから悩みがなくなるのではなく、受け取る行為に没頭す方向に思考のベクトルが
変化するだけです。実践者の信仰とはこのようなものです。宗教から入る人は、
まずは信ずるという行為から直接入るだけです。だから悩める人はまだ限界に来ていないといえます。
588 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 12:00:47 0
589 :
説教:2008/08/08(金) 12:09:18 0
>>587 >スレ違い。
その発言は、スレ違いでしょう。ここは下記がテーマですから。
【私】を記述してください【私の存在性】
感想を述べるのは頭の中だけにしましょう。
人に向けるならば、「スレ違い」じゃ伝わりません。
590 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 12:12:34 0
>>589 はあ?てめえで「信仰のメカニズム」とか書いてなに言ってんだ?
放置でよろしく
しつこいようなら削除依頼。
>>589 神がどうとかは明らかにスレ違い。
信仰の告白や布教は他でやってください。
593 :
プレイ中:2008/08/08(金) 12:20:44 0
>>590 >信仰のメカニズム
「考える名無しさん」にすれば、納得する程度の事ですね。
【私】を記述してください【私の存在性】
>>591 >放置でよろしく
仲間を募る必要はないです。
>しつこいようなら削除依頼。
予告せず、即刻すべきでしょう。
594 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 12:23:20 0
>>593 おまえが言ってるのは
「信仰してる私」についてであって「私とは何か?」ではないんだな。
595 :
天才君たまには遊ぶ:2008/08/08(金) 12:26:26 0
>>592 >神がどうとかは明らかにスレ違い。
>信仰の告白や布教は他でやってください。
あなたは哲学向きじゃないですからここを見ないほうがいいです。
耳障りのよいことだけ議論している場所がよろしいでしょう。
それとも、私を排除するか?どちらかです。
文句をいっても始まりませんね。
>>594 あなたが、頑張って理解すればよいかと思います。知りたいならばね。
私とは関係のないことですから、お好きにどうぞ。
>>594 放置でよろしく。
続くようなら削除依頼出します。
597 :
がんばってください:2008/08/08(金) 12:30:05 0
598 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 14:01:38 0
天才氏の書き込みは面白いですか? どのへんが読みどころなのか、この人の論旨に
肯定的なかたがいれば教えてください。小生には、その主旨がよくわからないのです。
599 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 14:03:37 0
鳥とかライオンなどは良い目、良い耳で獲物を捕らえようとするけど、
人間は想像力で情報を補いすぎ。その究極が神様。
私を記述することに意味はあるの?
601 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 14:15:20 0
自分探しの旅ってやつだろうね。
602 :
自分はおきざり:2008/08/08(金) 14:19:45 0
>>599 >鳥とかライオンなどは良い目、良い耳で獲物を捕らえようとするけど、
本当ですか?
人間の想像力で情報を補い上記の結論を出している事は懐疑の対象と
なりえますよね。よって、「その究極が神様」とは断定しえないです。
人間の認識自体が想像を含んでいる事は事実でしょう。
>>598 哲学板住人なら、「書き込み内容の肯定否定」以外の観点をお持ちなさいな。
604 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 15:36:03 0
>>602 >懐疑の対象となりえますよね
実際猛禽類は目が良いからしょうがないよ。
ライオンの耳が良いというのも想像力で補っているのだから、
世界の極限が神というのも想像力。
605 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 15:47:59 0
>>603 屁理屈はともかく、どこが面白いのですか。
606 :
想像力と自分が分離?:2008/08/08(金) 16:55:58 0
>>604 あなたのおっしゃるとおり、人間の認識は全て想像力が絡んでいるでしょう。
よって「人間は想像力で情報を補いすぎ。」どころか、
想像力も人間の認識器官の一つとしてクールに扱わねばなりませんね。
世界の極限が神という考えは、神と自分を分離し、かつ、神を高く持ち上げすぎでしょう。
ま、あなたのおっしゃるとおり、世界の極限が神とするのも想像力のたまものですが…。
私天才君は自分の想像力と感覚との分離をしません。
神と私との区別が無い私は、想像と実体の区別が無いという前提で思想・生活を
いとなんでおりますけどね。というか認めております。
悔しいのはわかるけど
いちいちレスして
意味不明な文章を撒き散らさないでくれる?
ここ最近、キミ以外の書き込みが
控えられていて、まともに議論が進んでない状態なの知ってる?
608 :
天才君:2008/08/08(金) 18:34:18 0
>>607 天才君に向けての発言と受け止めまして…、ですからレスしますよ。
>ここ最近、キミ以外の書き込みが
>控えられていて、まともに議論が進んでない状態なの知ってる?
見ればわかりますね。なぜでしょうね。
天才君に多大な影響力があるということでしょうか?
>>608 あんたが自意識過剰になってるだけ
ていうかスルーされるだけ。レスつける価値がないからじゃね?w
でこういうくだらない批判レスにはレスがつくとw
610 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/08(金) 19:49:27 0
法に依れ他に依るな
自己に依れ他に依るな
食料の自給自足の
ウロボロスこそ真理です
だからキリストが偉いって言われるんでしょ?
611 :
天才君など大した問題ではない:2008/08/08(金) 21:27:54 0
>>609 天才君が自意識過剰になっているだけで、スルーされているだけならば、
天才君にはなんら問題ないということですね。
別の理由で書き込みがされないだけでしょう。
目を通すまでもない?
じゃ、やめとく。
613 :
rom者:2008/08/08(金) 21:45:31 0
ねー夏厨かまってないでいつになったら?
[私]の話しないの?
>>607 最高位がいるときしか議論しないんだっけ?
614 :
ネオマトリクス:2008/08/09(土) 01:29:13 0
ぶっちゃけ私って
身体があるからあるように感じるだけなんだよね。
身体もなく、感覚器官や脳に依存せず
思考と感覚があれば自分を定義することも
他を特別視する事もない。
宇宙全体が体か、自分か、自分も自然もなくただあるか。
重要なのは
『どうやって身体という苦痛発生の原因』から逃れるかじゃないの?
俺はこれが不思議。どうやってもダメ。
>>614 >身体もなく、感覚器官や脳に依存せず
>思考と感覚があれば自分を定義することも
>他を特別視する事もない。
>宇宙全体が体か、自分か、自分も自然もなくただあるか。
脳ってあり得ない事態を考えて、身体を否定し始めるから厄介なんだよね。
616 :
考える名無しさん:2008/08/09(土) 01:58:44 0
>>615 え、あり得ない事態でしょうか?もしかして身体を持って、かつ目覚めており、
さらに意識活動を排除した状態に限定すれば、ありえないかもしれませんが、
我々は、眠っている時もあり、没頭している時もありますね。
ここで生まれる問いは、考える活動は脳と平行しているか?そして
私は身体に平行して存在するか?という事です。
この結論を出さずして、あり得ないと断定する根拠が無いですね。
それから、考える行為はあり得ない事を考える事は不可能です。
但し、人間は死をもって無に帰すという信仰をお持ちならば「あり得ない」と
しておくドグマも必要であることは私は認めます。
617 :
考える名無しさん:2008/08/09(土) 02:08:10 0
人間は無限では耐え難いから限定条件を無意識に設定し、
その限定内で考える事で法則性を見出しやすいですから
身体依存で思考する人もいることでしょう。
身体に「私」が依存するならば、それは物質に還元できるのであって、
皮肉な事に、「私は宇宙でかつ身体である状態」が唯物的に考えれば妥当でしょう。
宇宙と身体を別物であると考えるのは唯物的に矛盾があるよね。
618 :
考える名無しさん:2008/08/09(土) 02:08:55 0
い い S E X し て る ?
>>616 脳は余計な事考えすぎなんだよ。多分DNA(これも脳の働きによる所産だがw)が暴走してる。
脳が考えるのは、天災や動物から身を守る方法くらいで十分。
記憶の働きが私にとっての価値とは無関係なので困ります。
心-脳問題について頭いい人が書いた本をいくつか読んだが、
大体解決しそうな気がするけど細かい所になると矛盾が目についてくるね。
やっぱ難しいよ、この問題は。
無駄だと思うけど、ここでいろいろ仮説立てて論破されたりと
議論ゲームを楽しめばいいんじゃないかな。
622 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/09(土) 16:39:22 0
>>598 定義から演繹する思考ではなく、自分の知っていること、全てを生み出す物である故に、定義
する必要のない物、すなわち理性の働きについて語っている(と私は思う)ところがいいんじゃ
ないでしょうか。
何故、私は考える力を持っているのか。
何故、私は私が知らなかったことを知ることができるのか。
何故、私は直線と曲線の違いを知っているのか、理解できるのか。
624 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 09:02:52 0
>>623 そんな質問の答えはお前にしかわからない。
公開するような質問じゃねぇ。
625 :
既知の根源への問いは天才ならではでしょう:2008/08/11(月) 09:44:41 0
いいえ、天才君達にはちゃんと解ります。
天才君達とは、ルーツをおぼえている人たちです。
あるいは元に存在した「私」で在り続けている人たちです。
成長過程として自我が芽生えますが、自我と同化した「私」ではなく、
純粋な「私」から自我を観察すれば理解は簡単であるということです。
なぜならば、理解そのものが記憶のたまものですからね。
それをふまえた上で、天才君は以下の問いについて
______________________________
何故、私は考える力を持っているのか。
何故、私は私が知らなかったことを知ることができるのか。
何故、私は直線と曲線の違いを知っているのか、理解できるのか。
______________________________
このように考えるのです。
「私」はなにも知らない、そして知るという事を創造した。
つまり人は進化した。知る以前の人は、知るという事が無かった。
ようするに記憶するという事、すなわち自我が芽生えていなかった。
自分が自分である感覚が無かった。
自分が自分である感覚は進化のたまものである。
626 :
あたらしい「私」感は創作品なんだが本物だ:2008/08/11(月) 10:00:11 0
知について言えば、我々はまず、記憶を持った。これは過去の発見だね。
つまり自我を創造し、社会生活に定着させた。
次ぎに学習行為ができるようになった事から、望む結果に働きかける自由を得た。
つまり未来を発見した。
さらに、過去と未来を統括して思考する「知恵」「直感」「勘」を進化させた。
実は、これは創造力である。こうしたらこうなる法則により望む結果を導き出したのではなく、
こうなると解っているという知である。
これを現代人は、信仰や自信と言う。
現在に進化過程からみて、人間は、創造力の有効利用を模索している。
相変わらず、悪夢を見る旧人類と夢を創造する新人類とで戦いがあるが、
独創的創造力のみが創造レベルの相対性を包括して人類進歩のベクトルを創作している。
よって現在の知はすでに記憶レベルではなく、創造(なんでも在り)レベルで、
旧人類からみれば、ファンタジックあるいは、無機質、意味不明で知は進化していると
いうわけだ。
だからこの手の内容を話しても記憶主体の自我には何の理解もできないが、
素養は万人に開かれているから、あえて発言を試みるという事が天才君が天才君達に
できる事の一つであるわけです。
627 :
「私」は集団の一つであるうちは不自由:2008/08/11(月) 10:28:30 0
独創的創造性を発揮している「私」の一部である「私」が今なにをしているか?
解りますか?
●永久機関(旧人類から見れば…)実は、空間に充満しているエネルギーの取り出し方
●知はそれ自体で命を持ち、かつ核を形成する(神の発見)
●分子構造と創造の関係を解く事による分子再構築の実用化。つまり物質の再構成。
こんな例は最先端の天才君達では当たり前の事です。
大衆が目にするものや、購入できる(経済効果を生む段階)で発表される事実などは、
末端の技術です。つまりあらゆる分野で大衆は、まったん技術を享受しているだけです。
なぜか?簡単な事です。経済効果です。小出しにするから儲かるのです。
CPUのクロックスピードの最速で売り出しているのではなく、コントロールして売り出す。
経済効果のでるエネルギーを使って経済効果を出す。べつに無限エネルギーでも良いのです。
天然ドラッグを使わず、経済効果のでる人工薬物を投与する。
すでに全てができています。経済効果を出すためにわざわざ小出しにするというのが、
支配の法則の一つです。先進国はよりよい暮らしではなく、経済効果を上げる暮らしを
して支配者になろうとしてきただけです。
ところが技術革新により自給自足・自衛手段も個人レベルで可能となった。
さらに追い打ちをかけて、物質的なプライバシーは尊重される社会になった。
つまり個人レベルでは完全自由になっているのだが、気づく人は少数だね。
なぜならば、その代償は孤独の経験だからね。
628 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 10:49:36 0
>627
燃料電池車はまだだが電気自動車はもう公道を走っている。
ハイブリッド車で儲けるだけ儲けて、それから、それから。
LED照明もエジソン電球で儲けるだけ儲けて、それから、それから。
例を挙げればきりがないが、大衆が受けとれる経済余剰とは、そんなもの。
629 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 10:51:11 0
板ガラスの原価も数百円/平米。
末端では万を越すね。
630 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 10:52:43 0
>>628 >629
スレ違いではないね。
それらを供給している側と、消費する側でも、「私」の「立場」は異なっていくからね。
631 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 11:57:15 0
>>628-629 仮に原価販売したとして、
製品が出来上がるまでに従事した人たちのお給料はどこから出るの?
632 :
経済社会君:2008/08/11(月) 12:25:51 0
経済的豊かさとは、支配ですよ。その本質は殺人です。
ま、ころせば労働力を失うから、生殺しですね。
どれだけ大衆を支配するか?本質はネズミ講ですからね。
奴隷がいるかぎり、今の経済主導の社会は、上手く回る。
経済の社会では、支配者と従属者それから、少数の相互依存者という
新しいスタイルでなりたっています。相互依存者は、階層、業種に
関係なく、存在しています。
経済社会における「私」の顕れも、支配の法則から分類すると
3パターンですね。
633 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 14:49:57 0
>>631 労務費等の直接原価は算入済み。
ガラスをつくると塩素等も出るから、かつてのパークロルエチレン等の溶剤による環境負荷も大きい。
フッ素のオゾン層破壊能力はCO2のそれをはるかに上回る。
そんなこと、硝子メーカーは何もいわないけど、関係する技術者はみな知っていても、代替フロンで無害になりました〜、とリリースするだけ。
供給者と消費者の、それぞれの「私」なんて、料簡と立場の違いだけ。
634 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 15:00:17 0
ガソリンエンジンも、売れるだけ売って、それから電気だね。
しかし、モーター駆動になると自動車メーカーに電池メーカーとの競争力が無くなるから、電気自動車の本格普及をできるだけ先延ばししたい。
自動車メーカーの「私」と電池メーカーの「私」との間にも、深くて暗い溝がある。
「私」と「私」の違い等、大方、これで説明できてしまう。
あとは、前スレにある共同幻想だね。
635 :
ピンハネ君:2008/08/11(月) 15:39:40 0
「私」と「私」の共同幻想の一つに、ピンハネのバランスが大事で、
誰をカモにするか?で変わってきますね。
ピンハネ君達にとって都合がいいカモは、文句は言うが、
従ってくれる大衆だね。
ピンハネ君達が嫌うのは、ピンハネ馴れ合いをしない
独断君達、勝手君達だ。天才君達も時にピンハネ君達から煙たがられる。
>>624 あの・・・ここは哲板で、そういう事を考える哲学なのですが・・・
>>626 違いますね。逆ですよ。私の考える記憶とはイデア界の記憶です。
いくら生の三角形を記憶しようとしても、
三角形のイデアがなければ三角形は理解できないので記憶できません。
何故そんなものが人間にあるのかという疑問です。
637 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 19:59:03 0
>636
天才君達のレスを読んでいる人もいたのね。
638 :
天才君:2008/08/11(月) 22:11:29 0
>>636 なるほど、イデア界という考え方もありますね。
私天才君の考え方の根底には、全てが無い。同時に全ては創造。
つまり、イデア界の記憶と創造しうる事もできる多様性も含みます。
したがって、イデア界自体も創造であります。
イデア界がなくても三角形は理解できますよ。
理解したいようにすればいいのです。実際、個々人間が同様のものを同様に
理解しているか証明しようがないのですからね。
そして、私の観点から、イデア界が何故あるのか?という疑問を解くならば、
イデア界をつくったのはイデア界ではないという事です。
人間が発見・創造したものです。
私の観点から言えば、理解という行為を認めていません。つまり創造と発見は時間差で起こるのではなく、
同時に起こっているという事です。
但し、時空内からみれば、イデア界は存在します。
時空内ではあなたに同意です。一方で無限から見れば、イデア界も神(私・他・世界・分離)を知るための
呼び名と概念の一つに数えるにとどまります。
>>636 三角形以前に、点や線すら実在しないからな。
実在しないものを、実在するものから抽象することにより見出す能力は、創造(
>>638)とは全く異なる。
復活!
ずっとアク禁されてた
その間、天才君の書き込みにずっとイライラしていたぜ
641 :
天才君よりモーニングサービス:2008/08/12(火) 07:15:07 0
>>639 >実在しないものを、実在するものから抽象することにより見出す能力は、
>創造(
>>638)とは全く異なる。
と、する事も創造ではありませんか?創造と異なる事は何一つないです。
なぜならば、それ自体も含む事も可能であるからです。
>>640 復活おめでどう!天才君の書き込みにイライラする理由は
解けましたでしょうか。
642 :
他を他らしめる「私」の創作品が「他」:2008/08/12(火) 07:34:58 0
しかし不思議なもので、小さな限定条件を好む「私」の特性は、
自らもその限定条件の奴隷となる「私」を構築し、
その範囲内の支配者として「私」は君臨する事で「私」を見出そうとする。
無理がありますね。もし、それ以上の「私」が顕れたらどうするのでしょう?
抹殺するか・排除するか・無視するか…。
それもできない場合、どうするのでしょう?認めるしかありませんね。
何を認めるか?ですって?「私」をです。
これが解れば「他」がなんであるか?すでに解けるているのですが…。
イライラする理由?
簡単だよ
天才君は論理に従おうとする規範意識がない
その道徳的無節操さがイライラさせるのさ
例えば「創造」という言葉ひとつとっても
天才君はその言葉で何か意味ある内容を発言しようとする意識がない
ありていに言えば、天才君は真理に関心がない
言葉の内容なんかどうでもいいのさ
矛盾した発言は何一つ禁止しておらず、
したがって何も語ってないことと同じことである
それゆえに無意味である
たしかウィトの一説にあった
645 :
私を記述する天才君:2008/08/12(火) 08:30:22 0
>>643 天才君に向けての発言というよりも、【「私」を記述】していますね。
いずれにしても、「私」というものに論理が従うのであって、
論理に「私」が従うのではないことは事実ではありませんか?
従属関係が天才君と論理に従う衆とは逆転しているという違いだけです。
創造物があって、次ぎにそれを観察して、ああなるほど…!と論理が構築されるのでしょう。
論理があって、その後、論理どおりに創造物ができあがるならば、私は論理を神としますね。
あなたにお勧めのスレは、「論理に従おうとする規範意識とは?」でしょうか。
>>644 そうです。論理自体が空っぽだからです。
私が矛盾した発言は何一つ禁止しないですって?。禁止しないのではなく、
観点・視点の違いを知っているだけで、かつ前提条件・限定条件を把握しているからです。
つまり矛盾とは、ある暗黙の条件があり、その条件内のみ適応させる可能性のみを
語る場合矛盾は発生せず、その条件外からその条件自体をみればなんの事はない、
ただの牢獄だということです。「私」は牢獄に閉じこめられているわけではないです。
「私」を記述するスレだからこそ、天才君は真摯に「私」を記述しているだけの事です。
あなたにお勧めのスレは、「矛盾に従おうとする規範意識とは?」でしょうか。
われわれは、発言者てして、議論に参加する者として
論理にコミットしている
647 :
論理君:2008/08/12(火) 08:48:19 0
論理にコミュットしている?
本当ですか?哲学の前提は信仰告白に落ち着きますよ。
説明するときに論理を用いるというだけです。
論理を用いない人は言葉を用いない人と同じ事です。
そんな人はここには一人もいないのというのが論理的解釈です。
論理という代紋を、特定思想を排除する為に用いる手段の提供を
論理は提供しません。ここを間違いなく。
例えば「窓を開けてくれ」と発言した人は、
「窓は閉まっている」という発言にコミットしている
この点を認めなければ、彼は論理的矛盾を犯したと見なされる
天才君の態度は「非論理的」というもっとも強い意味で非合理的であり
「真理」や「正義」の理念がもつ禁止の正当性に反する
俺は「天才君は排除されるべきである」と言ってるわけではないことに注意
「真理」や「正義」の理念がもつ禁止の正当性は何によって保証されるかについて
論理へのコミットという考え方から
この禁止を平気で破るものは非合理的である
と言っている
649 :
???:2008/08/12(火) 09:22:40 0
>「真理」や「正義」の理念がもつ禁止の正当性は何によって保証されるかについて
論理へのコミットという考え方から
この禁止を平気で破るものは非合理的である
と言っている
つまり真理は、対立軸なのか?
というか上の文を読むと、
真理の禁止の正当性は何によって保証するのか?
は合理が保証するってことか。
真理も合理で説明されなければならんのか。
普通、合理が真理で説明されるもんじゃないのか。。。。
真理が他によって保証されねばならん真理って。。。。
650 :
???:2008/08/12(火) 09:35:41 0
スピノザが疑似的人格神を廃したのは、合理だったのか。。。。
651 :
馴れ合わない君:2008/08/12(火) 09:37:41 0
「真理」や「正義」の理念は、禁止項目が在る。
それは、論理へのコミットである。こういう発言ですね。
言葉は悪いが「馴れ合い」の一つでしょう。
このような考えに基づくと、
「天才君の態度は「非論理的」というもっとも強い意味で非合理的」と結論づけているのですね。
しかし「非合理的」というのは「論理へのコミット」に対してであって、
「論理の前提条件へのコミット」に対して天才君は合理的ですよ。
コミットするならば、非合理的であるという断定を、「論理の前提条件へのコミット」に対して
天才君は合理的に反論し、天才君が合理的であることを証明しましたが…。こんな風ではどうでしょう。
652 :
???:2008/08/12(火) 09:51:24 0
疑似的というのは、人間的という意味。
つまり納得のことであって、
もっとも人が納得するのが、
合理。
人間による人間の為の神を、廃した?
653 :
???:2008/08/12(火) 10:02:19 0
神は偶像崇拝を禁止したからね。
それに従った。
てす
649
天才君との対話で、われわれ(哲学に携わる者)が問題とするのは
「真理」や「正義」の理念が含む禁止はいかにして正当化されるのか
ということだ
それと俺の言う「真理」は「ファイナルアンサーでない真理」だ
君は、「真理」と「ファイナルアンサー」をごっちゃにしてないか?
656 :
???:2008/08/12(火) 10:28:02 0
>君は、「真理」と「ファイナルアンサー」をごっちゃにしてないか?
それは、俺のせいなのか??
657 :
不思議だね:2008/08/12(火) 11:46:22 0
哲学が哲学というルールになっちゃ、そりゃ哲学ではなくルールです。
またそのルールに従わない真理を、無理矢理ルール内に納めて正当化させるのは
支配者の常套手段です。
問題は支配者自身も「私」を記述しているという点であり、
また「私」の限定条件も露わにしているのだが、それをも責任転換する事だ。
「真理」と「ファイナルアンサー」が別物であるという前提条件。
だれが一体別物であるというルールを作っているのだろう?
658 :
???:2008/08/12(火) 11:52:36 0
>>657 全体的に分からない。
ただ、
>それをも責任転換する事だ。
は人間的だね。
>>657 最高位と変わらんな
支配者?だれがだって?どうせ神とかだろw
精神的にハイなのはいいが、ニーチェクラスの天才じゃないと
読んでいても退屈なだけだ。
661 :
天才君:2008/08/12(火) 13:46:48 0
私が支配者と言っている対象は何処にでもいるよ。
みなさんみずからがみずからに支配されている点を忘れているんです。
「私」をどうやって「私」が支配するかお教えしましょうか。
支配者について語っているのがお二人ですが点。
>>659さんなんかは、どうせ「神」だろと言い、
>>660さんなんかは、ニーチェクラスの天才じゃないと「退屈」という。
ご本人さんは、天才君に言っていると思っているのですが、
自分自身が支配されている思想を反映しているって事です。
私などは、ニーチェなどただの人だと思っているし、神とて、
支配者だと思っていないからね。
まあ、天才君に向かって話せば話すほど、「私」を記述してしまうというのは
皮肉ですね。
662 :
考える名無しさん:2008/08/12(火) 14:03:56 0
>>655 「真理はファイナルアンサーではない」
は「ファイナルアンサー」でありかつ「真理」だろw
>>661 退屈な文章は犯罪的だね。
ニーチェの芸術的な自画自賛とは比べものにならない。
>>661 日記ならチラシの裏に書けば?
でなにに支配されてるってwそれはあんたもおなじ
それをここでどう言おうがあんたの感想文。哲学じゃないなあw
665 :
元気がでてきたようで:2008/08/12(火) 14:34:41 0
662
ところが違うんだな
俺の立つこの思想は完全性を有する
天才君のつっこみなど屁でもない
むしろ、天才君のような態度(非合理主義)を克服できる合理主義的態度だ
でなけりゃ、最初から天才君につっかからん
667 :
かければ:2008/08/12(火) 14:47:25 0
ささ、そろそろ、天才君はさておいて、
>>663 >>664 【私】を記述してください【私の存在性】
もちろん、論理だってルールの一つだ
ルールに従う能力を駆使しながら、全体のバランスをとる能力を使用して
世界を対象とした物事を把握して、知識を創造するのが人間の知的営みだ
創造とは、「ルールに従う」という行為の上につくられる
ルール無用の創造とは「なんでもあり」のただの破壊でしかない
天才君が「創造」という言葉を広げすぎて実質何も語ってないのと同じにしたように
そんなものは言葉の適切な使い方ではない
ただの詩と同じだ
天才君は優れた詩人ではあるだろうが
ソクラテスが「詩人は自らの知を使用していない」と言ったように
西洋哲学の伝統は、詩人を嫌う
669 :
既知外君:2008/08/12(火) 15:24:46 0
ずいぶん限定の多い世界のとらえ方ですね。
その考え方をもってして、「創造」を語っても、私天才君の「創造」とは
比較の対象になりません。
「ルールに従う」という行為の上につくられる 「創造」は、果たして
「創造」でしょうか?それは「既知」でしょう。
よって私は、「創造」という言葉を広げているのではなく、
あなたから見れば、「既知」を広げているだけです。
当然、ソクラテスというただの人が言った言葉にはなんの権威もありません。
西洋哲学の伝統が、詩人を嫌うならば、それは西洋哲学の落ち度を詩人が
支えているという事でしょう。
「私」が「ルール」・「ソクラテス」・「西洋哲学の伝統」に化けているようですが、
あなたのいう創造は「既知」ですから、「創造」はあなたからみれば「破壊」でしかない
というのは、あなたからみればまともな感想です。
>>667 君がもう少しおとなしくなれば、書く者も増えるだろう。
そこらの誰かが考えているようなことを、つなぎ合わせただけの文章は、そろそろ自重してもらおうかな。
独断でも偏見でもいい、ただし独創性の無い書き込みは退屈なだけです。
671 :
退屈なのは…:2008/08/12(火) 15:40:21 0
>>670 勘違いされないでくださいね。
ここは【天才君を記述…】ではなく、【私】を記述してください【私の存在性】 です。
ご自身を振り返る事をお勧めします。
672 :
考える名無しさん:2008/08/12(火) 15:42:59 0
>>666 じゃあ
「真理はファイナルアンサーではない」という主張は
だれにとってもどうでもいいわけだ。
673 :
考える名無しさん:2008/08/12(火) 15:43:25 0
なんで天才君がかくとほかの人が書けなくなるの?
そこんとこ納得できるような説明がないんだけど。
もっとくだらんカキコミでさえ無視してやっていくだろうに。
>君がもう少しおとなしくなれば、書く者も増えるだろう。
抑圧的だなあ
674 :
考える名無しさん:2008/08/12(火) 15:57:28 0
未知なるものの創造がルールに支えられているということの洞察が天才君には欠けているということが明らかになったね
さて、ルールに従うことが創造を招く一例を挙げよう
それは言葉だ
われわれが言葉を使用するという営みは、言葉のルールを無視しては行えない
しかし、これからの未来に向けて語られるであろう言葉のすべてが既知であろうか
われわれは、言葉をルールとして有限なるものとして覚えながらも
そのルールを駆使して無限通りの表現を行える
これがルールを駆使した創造の一例である
これについては、ハーバーマスも触れていたな
文法を無視するな
そうすれば君は、言いたいことが言える
天才君は、文法というルールに従わずに、自分の表現したいことを自由に創造可能なのだろうか?
677 :
私がいませんね。:2008/08/12(火) 16:10:48 0
>>674 既に死んでますが…。
>>675 あなたは、ルールに従えばよろしいのでは。
私天才君であるが故に、あなたとは違います。
>>676 あなたが文法を尊重するならば、主語が抜けていますね。
あなたの発言すべてに、「私は」と入れるべきです。
つまりあなたは、感想を述べているのですね。
いずれにしても、いぜん、
【私】を記述してください【私の存在性】 でなく、
【天才君を記述してください】になってるね。
もしやみなさん天才君を「自分自身」とすり替えていませんか?
なるほど、すべての文章の最初には、I think がつけられるべきだということだね
それはたしかに抜けているかもな
679 :
???:2008/08/12(火) 16:16:45 0
こういうのはどお?
ゴルフのスコアの悪い友人に、
「今日は調子がよさそうじゃないか?」
っていうのは、言われたほうも皮肉という意味で通るが、
この場合は、文法を無視しているが。
680 :
考える名無しさん:2008/08/12(火) 16:18:21 0
文法の意味がわかっていないとみえる
言葉の内容に注目する
I think you are right
俺の注目するところと、天才君が注目するところは違うようだ
682 :
天才君の言葉の取扱:2008/08/12(火) 17:09:51 0
私は言葉は自己表現だと考えています。
言葉によってその言葉を吐いた「私」の全てが宿っている。
ようするにその言葉を吐かせた原因があり、それは信仰である。
つまり宇宙をどのように観察し、何を基準に観察しているかは、
何を語っても明らかになる。
特に、他人を語る時は、自分を語っているとみて間違いない。
よって私天才君は、言葉に込められた「私」に注目する。
創造とは、創造するものと創造されたものとの分離です
言葉を吐かせた社会的背景や外的要因を考察するのもいいだろう
だが、吐かれた言葉の内容を検討する
論理的諸関係、他の理論や観察との対応関係に注目することもできる
言葉の外圧に注目する者と、言葉の内圧に注目する者がいる
685 :
考える名無しさん:2008/08/12(火) 17:37:38 0
どちらにも注目する者は?
686 :
考える名無しさん:2008/08/12(火) 17:40:18 0
内圧が外圧を生み外圧が内圧を生む
687 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/12(火) 20:07:12 0
言葉は公的に「使用」され、主観的に「理解」される。ここでいう「使用」とは、相手にある意味や、
感情を伝えたりすることで、一般的にコミュニケーションと呼ばれる。コミュニケーション
自体はよい物も悪い物も(それぞれの人にとって)あり、レッド・ツェッペリンではないが、バッド・
コミュニケーションもある。たとえば、戦争などである。使用する際には、たいてい目的があり、
主観的な理解を相手と共有しようとしたり、押しつけになる場合もある。それは使用者の
態度、意図による(自覚的であれ無自覚であれ)。自分の意図に自覚的であることが
よいコミュニケーションを生むと思う。
あらゆる創造がルールに従っている。
それゆえに、ルールは無視されえる。
ルール違反はありえないのだから。
言葉の詩的効果をもって論証に代えるのは知を求めるものの作法に反する
天才君はいいんだよ
彼は意図的に作法に反している自覚があるから
そういう逸脱者を演じるのが彼の役割だ
演者は一人で十分だ
690 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/12(火) 21:30:40 0
>>687訂正
×自分の意図に
○自分の意図や態度に
私的言語〜詩的言語〜恣意的言語〜痴的言語〜素敵言語〜
692 :
「私」は波長を形成するという理解方法もある例:2008/08/13(水) 09:02:42 0
創造と言語の関係性についての想念の客観視をみなさん探っているようですが、
それは在りませんよ。個性ですから唯一無二です。
客観的に創造を語るならば、創造は創造でおしまいです。
創造は二元論的解釈で落ち着くはずがないのです。言語も同じです。
創造と言語の関係は、精神と肉体との関係と同じです。そして、その総体から
だされた、ここで発言と称してなされているあらゆる「記述」というものは
表現であり、つまり人格です。
固有のエネルギーの個性の放出としても問題ないでしょう。
これは物質的には固有の波長を形成します。つまるところ、我々は、
言語を通じて、波長を発しており、同調すれば受信できます。
よって各々、波長の受信能力には限界があります。これは高低ではなく、
質の違いもあります。
ただ、この説明で納得できない人もいるでしょうから、簡単にいえば、
シンプルな二元的波長ならどなたでも察知できるでしょう。
敵か味方か?損か得か?です。ちなみに、私は無敵・無能ですから、
敵味方という素朴な二元的受信能力のみをもって私天才君を理解しようとしても
無理があります。
693 :
考える名無しさん:2008/08/13(水) 09:04:57 0
( ´・ω・) ___J('ー` )し 3年ぶりくらいに母に会って食事をした。
/( ⊃ / /ノ_ )/ 無職の僕に 「仕事は忙しいの?」「頑張ってる?」とかいてくる母、
ー―' J  ̄TT ̄ ー― ' 僕は正直に無職だって言いたかったけど、できなかった。
( ´・ω・`) 母が帰りがけに財布を取り出し、僕に小遣いを渡そうとしたので
l r Y i| J( )し 「いらないよ、働いてるし・・・」と嘘を言って断った。
U__|:_|j ( ) 母は全てを知っている顔をしていた。
| | | | |
694 :
考える名無しさん:2008/08/13(水) 09:18:16 0
ほんとこいつばかだな↑
695 :
私とは「固有の波長」:2008/08/13(水) 09:19:19 0
こういった無形の観点から「私」を自我に向けて利己的に
理解させる方式で語るならば…。
「私」は唯一無二の波長である。そして敵味方として他から
評価される。ま、素朴な獣的に「私」を扱っていますが。
仲間意識と馴れ合いはもっとも素朴な波長(私)の共有です。
今やっているオリンピックを波長の観点から考察するならば、
観戦者は、波長の共有をしている。選手は波長を形成している。
どのような波長を取り入れようかと観戦者は取り込む。
選手はどんな波長を出そうかと取り組む。
つまり人間社会は少数の固有の波長を、多数の集団的波長に取り込む事で
地ならしを行い人類全体で波長をコントロールしているわけです。
よってタブーを犯す行為すべてが、集団的波長からの悦脱ですが、
同時に発見者と創造者です。それに集団が影響され社会のルールが
必然的に形成されるわけです。
よってルールの作り主とは実は、ルールに縛られない波長「私」達
なのです。
これは何を意味するかといえば、絶対を形成する役割をもつ個性は
論理を後付できるという事です。絶対とは波長的にいえば固有の
波長の自覚であり、万人を指しますが、本人が気付き、出せば…ですが…。
696 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/08/13(水) 11:21:10 0
新しい方でしょうか。
どことなく科学と宗教がミックスされているような気がしますが。
697 :
考える名無しさん:2008/08/13(水) 12:10:10 0
唯識さんほどではないが、かなり昔から参加されているようです。
売れない歌手のように改名を重ね、「天才」という芸名を得て、ようやく有名になりました。
ただ何かを語りたいわけではなく、冥途への置き土産に、ご自分のすばらしいノドをみなさんに
お聴かせしておきたい、というのが天才さんのご意思のようです。
夏休みだっていうのに一部の人以外書きこみないな。
むしろ夏休みこそ真価を発揮しそうなスレなんだがw
699 :
考える名無しさん:2008/08/13(水) 18:52:56 0
天才君の読んでると自分たちの思い込みが反省されるのかな?
この5年も続いてバカにされているスレもようやく変貌の兆しが?
終結の兆しが?
他人の意見というのは一部正論として飲み込めるが、
残りは反対したくなるものだな。
生物としての免疫とか消化と似ているな。
701 :
考える名無しさん:2008/08/13(水) 19:19:33 0
天才君
論理を後付けできる、とあるが
確かに、いかなる理論だろうと他との整合性を崩さないようなこじつけ的解釈は原理的に可能である
しかし、ことばのやりとりだけのトリビアルなものではなく
具体的内容を伴うならば、
どんな意見でも後付けが可能かと言うとそうではない
以前に話題になった
「地球は平らならば、水平線が湾曲する」という言明を論理で後付けできるか実際にやってみてくれたまえ
後知恵(論理の後付け)が論理的に可能であるということだけで「地球は平らである」という言明を救うことができるだろうか
ある理論が何らかの観察(もしくは理論)との矛盾を指摘されたとする
その時、「何らかの補助仮説を導入すれば、その矛盾を解消することは論理的に可能である」と
「矛盾解消の可能性」を提出するだけで、該当の理論を救うことができるか
これほど馬鹿馬鹿しいことはない
合理性の要は、矛盾の認知およびその克服の試みである(立花希一先生の文章より)
具体的にそれらの矛盾した関係を解決する何かを提出しない限り
該当の理論は提出された観察(ないし理論)と両立不可能な関係にあり
どちらかを棄却するか、もしくは修正を要請される
この圧力が理論の内部にかかる圧力として、
議論を通して、理論全体を変化させる力をもつ
705 :
主体(前提の創り主)と論理はセット:2008/08/14(木) 09:53:34 0
>>703 「絶対を形成する役割をもつ個性は 論理を後付できる」と
私は言明しましたね。つまり主体(前提の創り主)と論理はセットです。
>「地球は平らならば、水平線が湾曲する」
この前提の創り主は私天才君ではありません。しかしこの言明について
私は考える事はできますから一例として考察します。
結論から言えば、「地球が平らならば水平線は平らです。」
地「球」と言わないかもしれない。にも関わらず、水平線が湾曲する?
私ならばこのような矛盾した前提条件は創り得ないです。
つまり前提は、「地球が平ら」であります。しかし「水平線は湾曲する」
これは論理ではなく、前提自体が相対化している。前提は一元であるから絶対です。
そもそも「地球は平らならば、水平線が湾曲する」というのは絶対を形成していない。
つまり、「地球は平らならば、水平線が湾曲する」という仮説は、
地球は実は平らであるから、地球自体が球体ではないという事ですから、
水平線が湾曲するどころか、最初から水平です。
水平なものが湾曲するならば、なんらかの作用が働いている。
その作用が観察者によるものならば、私は、その観察者の認識を疑うでしょう。
よって私ならば、
「地球が平らであるにも関わらず、水平線が湾曲するであろうと認識する主体は」
水平線に対して無知である。と、こう結論づけます。
よって「絶対を形成していない」為、論理の後付以前の問題です。
706 :
無知の天才君:2008/08/14(木) 10:12:23 0
>>703 「具体的内容を伴うならば、どんな意見でも後付が可能である」
このような考えは相対的な考えは相対的であるということです。
私は、「絶対的な考えは、相対的に後付も可能である」と言っているのです。
もっと簡単に言えば、一つの事を二つに分ける事は可能ですが、
無限に分裂したものを、一つにまとめ、さらに相対化つまり二元論で
処理することは、ほぼ不可能であるということです。
実例で示すならば、コーヒーにミルクを注いだ茶色い液体について語る時、
その茶色は絶対ではない。
ミルクとコーヒーが在った。これが絶対。その絶対性は仮説であり
仮説と創造と発見は同じです。
ミルクにコーヒーを入れようが、コーヒーにミルクを入れようが、
茶色になる。よって矛盾が無い。
よって創造主は新しい仮説や発見や秩序を創り出す事が可能であると
私は言明しているというわけです。しかもですよ、それを過去の既成概念で
証明しえないから、ようするに信仰であると称しているだけです。
とても簡単に我々の世界の認識の愚かさを示しているのです。
ま、無知の知恵を示しているですが…。
707 :
脱獄君:2008/08/14(木) 10:20:03 0
結論は、この世界の現れ方は、信仰が全てである。
「私」が何を信仰するかで、「私」は「私」を体験する。
これが生きるって事です。
何故生きるのか?といえば、「私」それすら「私」が決めているのです。
疑問も問いも創造も仮説も問題もすべてが、「私」の答えです。
よって創り主である自覚を「私」がもたないと、既成概念の世界を
経験するだけです。また既成概念はなんでも既成概念で処理しますから
グルグルその牢獄の出口を探すだけです。
出口は創れば顕れるのにね。
708 :
脱獄君が変な事いってるよ:2008/08/14(木) 10:34:03 0
集団が地獄です。孤独が天国というわけです。
客観が地獄で主観が天国です。
やりたいことを考えるのが地獄で、やりたいことをするのが天国です。
やりたいことすらわからないのが地獄で、知っているのが天国です。
お利口さんが地獄で、バカが天国です。
なんでも知っているのが地獄で、なにも知らないのが天国です。
不完全が地獄で、完全が天国です。
具体性が地獄で、なんでもありが天国です。
支配が地獄、勝手が天国。
好き嫌いが地獄、一期一会が天国
天才をゆるさないのが地獄、天才ばかりが天国
ルール内が地獄、ルール出入り自由が天国
・
・
・
最後に天国は地獄も含みますが、地獄は天国を含む事ができない。
以上が、人間階層世界を表したおとぎ話です。
「地球は平らである」という信念をもつ者は
「水平線もまた湾曲しておらず水平である」という信念を確固として保持しており
それ以外を認めないというのであろうか
天才君から見たら、人間の信念というのはそれほど頑固なのだろう
だが、なぜ、わたしもまたそれほど頑固に信念を保持しなければならないのでしょうか?
対話をするということはお互いに合意に達する論理的可能性を認めるということです
これが、自らの信念が誤っている論理的可能性を認めることなくしてはできないことは明白である
天才君は、他者との対話をしようとする刑而上学をもってない
その上に自らの考えを築いている
だから、わたしは天才君に言う
「対話をしなさい」
天国だ神だ絶対だと、ふんぞりかえることはできよう
だが、それでは対話はできませんよ
710 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 10:57:29 0
最高位との対話は天才君の次元でしかできないような気がする
711 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 11:17:04 0
>>709 対話は不毛、というよりも不可能と言っている天才さんにそういうことを訴えても無意味。
それよりも(私という)歌を歌いなさい。ということじゃないかな。
712 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/08/14(木) 11:18:18 0
天才君という方は
自らの宗教的思想と「私」を同列に解されておられるようですが
どことなくですが最高位さんと似ているような気がします。
閉鎖系ですね。
まあ天才君はちょっと奥手なだけで対話する気はあるんだろうな。
構ってほしい人が奇行するようなもん。よくいるタイプだ。
714 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 12:46:29 0
そかな?
むしろ私には既に対話しているようにしか見えない。
対話とはどちらかの土俵に乗ることではない。
716 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 13:22:37 0
お盆休み終わっても
俺行く会社ないんだよ
対話というのは問いの共有があってはじめて成り立つ
お互いに歯の浮いた言葉で飾りながら、相手の言葉の内容に関心をもたず
テキトーな言葉を発しているのはコミュニケーションや馴れ合いではあっても対話ではない
「この分からず屋め!」との怒り声と共に
会話が成立するところに対話の面白さがある
問いの共有はあるのではないだろうか?
論理について、その他様々なことについて対話が行われているように思われる。
719 :
脱獄天才君:2008/08/14(木) 15:48:39 0
>>709 まあ、あなたが私に抱く感想は傾聴するとして…。
また、「私」を記述するでもなく、【天才君を記述】する訳であり、
さらに、あなたの想像の天才君に対し、
>わたしもまたそれほど頑固に信念を保持しなければならないのでしょうか?
などと言う。
> 対話をするということはお互いに合意に達する論理的可能性を認めるということです
あなたが何か「私」について記述でもしたのなら、それについて論理的可能性を認めうる可能性も
ありますが、あなたの場合、天才君を記述しているだけですから…。
対話をお望みなら、【私】を記述してください【私の存在性】20
って事ですね。
720 :
脱獄天才君:2008/08/14(木) 15:59:41 0
>>712 > 自らの宗教的思想と「私」を同列に解されておられるようですが…。
全てが一つです。分離されていません。分離されている人からみれば、
閉鎖系という感想を持つことにも私は納得します。
>>713 そのような評価どおりの天才君ならば、あなたは安心していられるでしょう。
しかし、天才君はあなたの評価外に居ると思いますよ。
ところで、みなさん、対話などは簡単な事でしょう。違いを確かめるだけです。
721 :
たまには天才君も評価者ごっこやりましょう!:2008/08/14(木) 16:20:30 0
対話的観点からたまには、他者の発言を評価差し上げましょうか。
>>712でいえば、
「私からみると、天才君は自らの宗教的思想と「私」を同列に解されておられるように見受けられる。」
そこで対話なら、どうしてか?なり、疑問符のはず。
しかし、いきなり「閉鎖的である」という飛躍的断定では対話とはいえませんね。
一応私は、感想であるとやんわり伝えましたが…。
>>713 あからさまに、感想でしょう。本人にいわない、つまりつぶやき程度です。
>>709 >天国だ神だ絶対だと、ふんぞりかえることはできよう
>だが、それでは対話はできませんよ
結論が出ていますよね。対話ならどうでしょうか?と結ぶでしょう。
他人を語るという事は、自分のアラをさらけだすという事に無知な人が多いですね。
天才君達やもうちょっと深く思考する人達から見れば、バレバレです。
722 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 17:14:26 0
>>717 >対話というのは問いの共有があってはじめて成り立つ
>お互いに歯の浮いた言葉で飾りながら、相手の言葉の内容に関心をもたず
>テキトーな言葉を発しているのはコミュニケーションや馴れ合いではあっても対話ではない
相手の言説を取り出し、論理的展開への可能性を広げる時に、
レスポンスの内容が装飾的になる事はあるだろうが、
合意が目的の対話ならば、それもまた、展開への指標となり得るのでは?
>「この分からず屋め!」との怒り声と共に
>会話が成立するところに対話の面白さがある
怒りという感情で、論理的思考の過程に制約が設けられてしまい、
合意に向けての綿密な対話が疎外される事はないだろうか?
対話には、感情をセーブできる事が必須である様に思う。
救求者
われわれは石ころや草花を見てそこから自らへの問いかけを行うことができる
天才君のレスが猫がキーボードの上を跳び跳ねた結果生じたものだとしても
われわれがそこから問いを自らに向けることはけして無意味な行為ではない
ここから、われわれ合理主義者が非合理主義者と対話を行い
そこから自らの理性の保持を自己批判する行いもまた有意義な行為となることを導き出せる
天才君が問いを持っているかどうか
本人である天才君自身は何と答えるのだろう
だが、天才君の答えに関わらず
われわれが天才君のレスから問題提起を汲み取ることはできる
722
合意は対話における目標です
しかし「目標は達成されなければならない」だとか
「達成されない目標は意味がない」という考えは端的に誤りです
目標はあくまでも目標であり
その論理的可能性を認めるだけにとどめ
実際の食い違いに目を向け
「何が問題なのか」を整理することが重要であるとわたしは考えます
怒りなんてのは自らが正義だと信じるための心理的効果だ
というのが心理学の研究であるようですが
怒りが議論を阻害することがあるのは認めます
しかし、怒りながらも対話は成り立ちます
実際に同意に至らない事実は対話の価値を否定しません
725 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 18:33:05 0
>>723 君の天才君に対する姿勢は、よろめいてばかりだね。
相手にするの?しないの? どこを批判的に取り上げたいの?
はっきりせぇ。まぁ、議論にはならないよ。
天才君は議論は無意味としており、しかも君は名うての議論下手…w
俺が批判したいのは合理性だ
俺の批判は天才君の存在を通して自らの態度を批判している
このような行為を通じて、われわれは、合理主義と非合理主義を同時に批判にかけられる
同時に、言葉を通した理論的営みの擁護を行える
俺が議論下手に見えるとは天才君に毒されすぎなのでは?
言葉の内部にかかる修正圧力は
矛盾した関係の認知(とその解消)であるわけだから
両立不可能な言明を提示すれば、それだけで修正圧力をかけたことになり
議論は成立する
「地球は平らだ」に対して
「でも水平線は平らじゃなくて湾曲しているぜ」と言えば議論になる
君にとって議論はもっと違うものなの?
728 :
ネオマトリクス:2008/08/14(木) 20:56:20 0
対話ではもっと重要な事があるだろ?
チューリングテストだよ。
つまり、この私の『演繹』というクオリアと
Aさんの『演繹』というクオリアが一致するか?って事。
要は、全て主観、思考と感覚。
この私も存在しない。
この私は、「この私がある」という感覚か、もしくは
脳と意識や自他という思考の演繹の結果。
断言するが、全ては思考と感覚だ。
ただ、肉体という強制的な五感があるから
あたかも世界・自他・この私があるように感じるだけ。
この中では唯識様が一番事実だ。他は演繹の羅列。
夏休みだろ?ちっとは勉強しろよ。
おまえら恥ずかしくないのか?
演繹ってなに?どういうことだと思ってる?
演繹とは全体から部分を導出する作業を指す
(例「関東の猫は白いなら東京の猫は白い」)
一般に、演繹と帰納を対比させる時は
帰納が個別言明の積み重ねから普遍言明を導出する作業であるのに対して
演繹は普遍言明から個別言明を導出する作業を言う
732 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 21:18:44 0
へえ、夏休みなの、いいね。
>>728 何言ってるかわからん
おじさん子供の頃は『夏休みの友』ってあったけどね。
今もあるのかな?
>>723 だとすればやはり対話は成立しているのではないだろうか?
735 :
考える名無しさん:2008/08/14(木) 23:57:07 0
『夏休みの友』ってネーミングは今考えると、
性根が腐って。。。。
言葉を解釈することができなければ、(独り言的)思考は成立しないし、
(他者との言葉による)コミュニケーションもありえない。
解釈する、という営みが言葉を成り立たせている。
では、解釈は何によって成り立っているかというと、
それは、背景から対象を分離させること、対象をその対象自身として同一視すること(A=A)による。
「A=A」を満たすAが見出されてこそ、「A≠B」等の解釈をなし得る。
では更に、その「背景から対象を分離させること」のベースは何にあるのか?
それは背景の存在性だ。
背景は常に思考(←解釈←対象)の埒外に在り、決して対象になり得ない。
その意味で、背景は、常にどこにも無い。あるいは、常にかき消される。
背景をかき消すという営みにおいて時間が導入される。
背景は「今」にある。
「今」は、決して解釈できない。
「今」から離れることで解釈が始まる。
737 :
相変わらず奴隷ですか?と脱獄君:2008/08/15(金) 00:57:43 0
演繹と帰納という相対性が話題にあるけれど。
演繹は思いつきから、今を検証する。
帰納は検証(観察)から法則性を導き出す。どちらも同じ、人間の感受性に依存する。
演繹は、発見が先にある。実際は無数に発見できる。
帰納は一つの法則性や原理を創造する。実際は無数に創造できる。
発見と創造は同じです。検証とフィードバックも同じ。
起こっていると認めた事が個々の人間に起こっているだけです。
このように考える前提として、「我々は過去を認識している」科学的事実がある。
ある発見や創造を他者に伝達する場合、演繹や帰納を用いて論理の筋道をたてて
説明するだけである。その手法が演繹や帰納というだけの意味しかない。
対話と雑談との違いとして、予め一致の認識に至っている事を、わざわざ、改めて一致を確かめ合う、
既成概念の確認作業は、「同じだね」「仲間だね」「同意」といった所です。これを雑談と対話との
分類分けするならばどれが談話でしょうね…。
孤独をまぎらわす為の対話ならばそれは馴れ合いというものです。
孤独を孤独のまま、つまり違いを違いのまま、絶対を絶対のまま、
「私」を「私」のまま伝達しあう事が真に「私」を表現する事であり、
「他」を他のまま認める事である。この手法の対話において欺瞞は発生しえないのです。
どうもみなさん、仲良く(同意・理解)したいようですが、それは無理です。
仲良くが目的となると、ルールができて、科学ができて宗教ができます。
つまり仲良くするという目的を対話目的にすり替えると、そのまま今の社会を反映します…。
つまるところ、既成概念の奴隷から一歩も踏み出せないというわけです。
738 :
考える名無しさん:2008/08/15(金) 01:17:51 0
仲良くすることと同意・理解することは違うような気がするんだけど
どうですか?
仲良くは同意・理解がなくても仲良く行動・意見をあわせることって
思うけど。
739 :
考える名無しさん:2008/08/15(金) 01:23:56 0
同意・理解があっても孤独は孤独ですよ。
そこで永遠に手をつなぎあっていくわけじゃないんだから。とは言え
対話の場合は違いこそが重要であるのだろうけど。
740 :
群衆にとっての真理も真理の一つだね:2008/08/15(金) 01:44:30 0
今を解釈する条件はなにかといえば、「私」が解釈しているとう事実を
まず認める事です。
そして「私」が今を解釈する可能性は無限大です。一つの解釈ではあり得ない。
さらに、「私」が今を解釈をしているという解釈自体が今にすり替わる事はあり得ない。
ならば、解釈自体が「私」のでっち上げでしょう。
これを認めるならば、「私」が今をどのように解釈しようと、それは創造であるし、
発見でもある。またそれを解釈と言ってもよい。
解釈の可能性も無限。よって真理を知るという事は、「私」にとっての真理以外に
ありえない。真理とは個人的なものなんです。しかし、自分の真理に至っていない段階の人も
いますから、そのような人は、客観的真理を求めるでしょう。つまり多数決信仰者って事です。
言葉は悪いですが、単なる群集心理の餌食です。
群集は外部に真理があると探す段階です。群衆の奴隷という事です。
しかし真理は創作可能です。群衆の外や内部の盲点にあります。
だから群衆にとって具体的で解りやすい話ほど、実は真理からほど遠いのです。
なぜならば、群衆は群れですから、自分と一緒の考え方に安心するだけですからね。
それが群衆にとっての真理ですから…。それも真理で天才君などは、尊重はします。
解釈という営みを可能にする、豊穣なる創造の場を、
>>736に倣って「背景」と仮に呼んでみる。
「背景」は「今」にあり、「今」から離れること=時間の導入によって背景と対象との分離が可能になり、解釈が可能になる。
さて、「背景」から分離された「対象」に対峙する主体としての「私」は、この「背景」と如何なる関係にあるのか?
「私」は「背景」と地続きであろうか。それとも、「私」も背景から分かれた「対象」の一つであろうか。
ここで一つの当てずっぽうな‘解釈’を試みると、
「私」とは「対象」に対しては<背景>であり、「背景」に対しては<対象>である。
「私」に対峙するものは全て「対象」であり、「私」は常に「対象」から一歩引き下がっている。
すなわち「私」は「対象」ではありえない。
この意味において、「私」は「対象」と分離した<背景>である。
一方、「私」は、「今」から離れて「対象」を目撃するとき、
「対象」と対をなした「対象ならざるもの」=<対象>として把握される。
「今」から離れることによって、「対象」のみならず「私」も把握可能な<対象>となる。
この意味において、「私」は「背景」と分離した<対象>である。
742 :
自我がだまりだすでしょう:2008/08/15(金) 09:58:43 0
創造の場を背景とし、かつ時間を導入すると、「今の私」と
「過去の私」との分離が可能になる。つまりこれは記憶の導入によって
起こると、天才君は結論づけて考察します。
我々にとって時間は記憶によって認識できるからで、
あくまで「私」を主体として理解を進める為、このような説明方法を取ります。
※私天才君としては記憶は過去と未来にまたがると考えるが、
一般的に記憶は過去であろうと考えがちですが未来もあります。
で、「創造の場」という背景と「私」との関係ですが、
記憶を使わなければ、分離しない。記憶に頼ると分離する。
我々自身、すなわち主観的な感覚はこういう仕組みで起こると考えます。
記憶が無ければ、分離無しってことです。
記憶に頼らなければ、「創造の場」と「私」の分離無し。
つまりありのままを感ずるという事です。
過去我々自身の経験から学習された感覚にはりついた連鎖的身体反応も、
身体のもつ過去の記憶です。本能ともいいますね。体で覚えているものもあります。
743 :
自我が反発しだすでしょう:2008/08/15(金) 09:59:38 0
では主体である我々自身(私)にとって記憶自体がなんであるか
これは言語を通じて、概念で言い表すならば、既成概念です。
過去といってもよい。思いこみでもOK。順応の視点からいえば習慣。
人間関係でいえば、馴れ合い、しがらみ。仏教でいえばカルマ・業です。
一言でいえば自我・自意識です。
「私」の今を言い表すとき、あるいは「今」を我々自身が創造する時、
科学も宗教も思考も感覚をも実際あてにならない。逆に過去に毒されない
純粋な思いつきこそ当てになる。なぜならば、人は思いつきに従います。
実際思考して計画通り行動する割合などは、我々自身の人生(時間)から見れば、
しれていますからね。
未来の記憶と称する場合、つまり不安・思いこみ・想像・推理も同じです。
記憶を介する限り、それは分離ですが、今の場合は、直感・直覚・勘という
ことになります。正確には「直感しつつ行為する」「気づきつつ行為」
一言でいえば、自覚という事になります。天才君は、
>>741の発言をよんで、
このように考えました。
>>741さんは
「当てずっぽうな‘解釈’」と謙遜しつつ発言しております事自体が
今を表しています。
・個人的真理と客観的真理
客観主義を自認する者として天才君の個人的真理論には反論したいが
まともに立ち向かっては議論にならないので趣向を変えてみる
個人的真理というものはあるだろう
だが、その個人的真理が受ける修正圧力は客観的なものである
客観的な修正圧力を受ける個人的真理は「客観的真理」と呼んでもいいぐらい客観的なものである
(これは天才君が「水平線の湾曲」を認めることができなかったように
このような言葉の内部にかかる圧力は非個人的なものである)
「地球は平らである」と主張する者が
「水平線が実は水平ではなく湾曲している」という観察をつきつけられたらどうするか
彼がそのどちらも認めようとしたら、それは「矛盾ししている」と言われるだろうし
天才君もそれを承知しているから、両言明の同時両立を諦めた
個人的真理を大事にする人は、観測事実を頑なに拒否するかもしれない(「そんなのはでっちあげか陰謀だ」)
それもいいだろう
重要なのは、
そうやって観測事実を拒否しなければ当の言明を救えないという非個人的な圧力があるということである
客観的真理を認めることは、この圧力を認めることである
(もちろん、この言葉の内部にかかる圧力は禁止に変換できる)
昨今の哲学の潮流では合理性をバカにする思想が大手を振るっている(だいぶ下火になってきたようだが)
人の生き方なんて人それぞれだし、
人生の荒波を理によって乗り越えようとする人もいれば
獣のように生きる人もいる
好きに生きればいい
だが、パリに留学しこの類いの哲学に感化されたカンボジア人たちが
世界の悲惨さを理に責任転嫁し、知識人を虐殺するという悪夢が起きたことがある
その歴史から反知性主義の道徳的責任を指摘するというわけではない
むしろ、この虐殺から「だから合理性は悲惨を巻き起こす」とさえ彼らは言うだろう
こんなことを書いたのは、このスレを覗いた若者たちに
天才君なり、俺なりの言葉を見てただちに感化されて無批判に自己を貫くのではなく
熟慮に熟慮を重ねて欲しいということ
特に、クメール・ルージュのように他人の生命を奪う行為には慎重を期してほしいということを訴えたい
彼らですら、そうすることで世界はよくなると信じてやったのだ
願わくば、哲学の問題に触れ新しい思考の創造を担うことを期待したい
747 :
人ごと君:2008/08/16(土) 11:29:18 0
>>745 > 「地球は平らである」と主張する者が
>「水平線が実は水平ではなく湾曲している」という観察をつきつけられたらどうするか
両方認めるに決まっていますね。観察だからね。
但し論理であるなら矛盾していると言います。前提が対極しているので相対的であり、
双方ともに絶対たりえていない。双方真理に到達していない。
あなたの前提自体が、私が「地球は平らである」と主張する場合の空論を創作し、
発言しているが、天才君が「地球は平らである」と主張することは無いですよ。
論理と観察は別物ですからね。論理は前提から論理を築く。
観察は「私」からの観点・視点だ。
事実も同じで、論理的事実と観察的事実があるね。
>>746 >願わくば、哲学の問題に触れ新しい思考の創造を担うことを期待したい
さんざん他人ごとの実例をしめしたあげく、????、他人に向けて、
新しい思考の創造を担う事を期待したいですって?
客観主義を自認する者達が、人ごとを止めて、
新しい思考の創造を担う事をすればいいだけの事です。
つまり、あなたがそうすればいいでしょう。「私」達のようにね。
748 :
我即宇宙君:2008/08/16(土) 11:30:44 0
個人的真理と客観的真理について私の考えは、双方在ると考えます。
それどころかこのような真理は相対的真理というものです。
俗に言えば、本音と建て前ですね。私の立場を言うならば、真理からも自由であるという事です。
とても簡単な事なのです、真理自体が創造だからです。その成り立ちは、
つねに、どこかの一人の「私」が創造している。それを各個人が真理であると確信すれば、
個人的真理という概念を形成し、次ぎに流行化・大衆化すれば客観的真理になる。
そして末端に行けば、教義・ドグマ・規則となる。つまり学問・教育です。
これは概念・想念を物質的に扱い説明するならば、気体・流体・固体の順でおこる
想念の結晶と言い換える事ができる。気体以前が想念でいえばカオスである。
気体は、秩序ができつつある核を形成する。核ができれば周辺に別の核があつまる。
そして最初の核自体が重力・質量を持つ。そしてその周辺を多数の核が運行する。
ま、想念・真理とて、惑星宇宙、物質の粒子と同じです。
この説明でいえば、私はこれらとその背景を全て包括したものを宇宙と言うが、
客観的真理というものは、最終的な顕れである固体をさす。つまり惑星宇宙だ。
当然、私は惑星宇宙をも認める。しかしこのスレは「私」の記述である。
「私」が惑星宇宙の地点にいるならば、立場は客観的真理の立場に収まる。
しかし「私」が宇宙の背景を含んだその全ての成り立ちに位置する核を形成している
立場であったなら、私は宇宙の創造主という立場になる。私の立場はこれである。
749 :
人それぞれも広大無辺だから…:2008/08/16(土) 11:47:14 0
客観的流行を考えれば、流行の愚かさが解ると思いますからちょっと実例を
あげましょうか。
ファッションの流行は、最初はどこかの「私」が創造した。
真似するものが顕れた。口コミで広がった。
今では、あたかも最初から完璧なファッションであり美であるがごとく語られている。
デザインも同じ。多数決信仰です。言葉は悪いが群衆。大衆。群れ。
宗教でもムレ用と、創造者用がある。大衆学もあれば帝王学もある。
秘教もあるし、密教もある。
真理というものも同じ、大衆用と脱大衆用とがある。
突き抜けたら、どちらも同じ。我々は我々自身の創造主であるだけです。
創造主が創造主を作ったのですから、当然、別の創造主とのコンタクトも
大衆が創造もつかない形で交流しているという事です。
大衆は大衆どおし交流しているでしょう。創造主も創造主どおし交流している
と考える事くらいは大衆であっても、できるでしょう。大衆とてそれほど
傲慢ではないでしょうからね。
750 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2008/08/16(土) 11:50:36 0
かなり面白く興味深い内容になってますね。
仏教派にとって
>>744さんの個人的真理、客観的真理という考えは
的を得ていると思います。
天才君さんが最高位さんに似ているところは
やはり「私」にすべてを委任しているようなところがあるからではないかと思います。
以前素人さんにも言いましたが
いわゆる「なんでもあり」になってしまいますね。
唯識
「なんでもあり」になる、とあるが、それを天才君自身は何とも思わないだろう
彼はアナキストだからだ
合理性は何でもありを拒否する
われわれは天才君のような態度に拒否反応を示してしまう
だが、天才君と議論をして、彼を論破しようなどとすると失敗してしまう
合理性の正当化が不可能だからだ
(論証をもってして論証の重要性を説くことができるだろうか
相手が論証の効果を端から認めない以上、そんなものは暖簾に腕押しだ)
だから、天才君との付き合い方は特殊だ
前にも書いたが、草花を相手にする程度でいい
草花相手に説得を試みるバカもいないだろう
彼の言葉から批判になりうるところだけピックアップすればいい
今回は、天才君が修正圧力は個人的ではないことを認めた
(少なくとも、それが客観的ではないとは論証できなかった)
これだけで十分
天才君
論理と観察は別ものだというが
では、天才君が以前から言う「わたしに論理が従う」とは、観察とは関係がないのだろうか?
さて、純粋な観察というものは言語化できない
言葉で「水平線は湾曲している」ということで、論理に変換している
天才君が双方の言明を認めるならば、
彼は最初の言明「地球は平らである」を観測事実とは分断された別の論理であることを認めなければならないだろう
「わたし」の好き勝手に応じて、論理に参加したりしなかったり、
矛盾しても我意に関せず
発言の一貫性を保とうとしない
このような態度をとる人間はいる(属に言う非合理主義者)
この「水平線の湾曲」は
天才君の「『わたし』がそう考えることで実際にそうなる」発言が発端だが
修正圧力の客観性を否定できなかった以上
天才君の先の発言は反例による修正圧力を受ける
(天才君は無視するだろうが)
これになんの返答もないので
わたしが合理性を保持することは、今のところ問題なさそうだ
天才君、ありがとうw
ところで、この非合理主義は頻繁にデカルトを攻撃する
それはデカルトの「我思うゆえに我あり」が
合理性の自己正当化とアナキズムの拒否を目的としたものだからである
「あなたが自由に何でも疑えると思っても
疑えないものがあるでしょ?
何でも好き勝手に『真理』を打ち立てられるわけではないのですよ」
デカルトはこれを合理性の出発点としたわけだが
天才君のような立場にとってこれがまずいのは分かるだろう
デカルトの問題は、天才君のような態度をとる人たちがいてはじめて検討に値する価値を発揮する
もし、天才君の言動に興味をひかれる若者がいたら
デカルトにあたってほしい
風見鶏もエゴイストなのであった
現代の屁理屈の拡大には深い原泉がある。
それは各種形態の懐疑論であり、
そうした議論は人が客観的現実に信頼できる形でアクセスできることはありえないと主張し、
したがって物事が本当にどうなのかを知り得る可能性すら否定する。
こうした「反現実主義」の教義は、何が真で何が偽かを見極めようとする冷静な努力の価値を損なうものであり、
さらには客観的検討という発想がまともなものだという信頼すら薄れさせてしまうのである。
こうした信頼喪失のもたらした結果の一つとして、「正しさ」という理念への献身において求められる規律から撤退し、
まったく別の「誠実さ」という理想の追求からくる規律に移行しようという動きが見られる。
もっぱら共通世界の正確な表象を追求するかわりに、
自分自身を正直に表現しようとするのである。
そうした輩は、現実には物事の真実として見極めるべき本質がないと思い込んで、
自分らしさに忠実たらんとする。
いわばそうした輩は、事実に忠実であろうとしても無意味である以上、
自分自身に素直たらんとするしかない、と判断したわけである。
しかしながら、
その他すべてのものについては決定性がありえないと想定しておきながら、
自分自身だけは何か確固として決まった存在であると想像するのばかげたことである。
意識ある生き物として、
われわれは他の物との対応関係の中でのみ存在しており、
したがって他の物を知らずして自分自身のことなど知りようがない。
さらに自分自身に関する真実が他のものすべてより理解しやすい
という、とんでもない判断を支持するような理論はまったくないし、まして経験的にもそんな説は支持されない。
自分自身についての事実はあまり確固たるものではないし、
また懐疑的な曖昧さによく耐えるものではない。
それどころか人の本性は、実にとらえどころがないほど実体に欠けている。
他のどんな物の性質と比べても、不安定でつかみどころがない。
そしてそうである以上、
誠実さなんてもの自体がウンコ議論の屁理屈なのである。
天才君は個人的真理っていう程度には客観性を認めるわけか。
そんなんだから宇宙の創造主なんて平凡かつ退屈な発想に甘んじるんだろうな。
公的に目指すべき真実(正しさ)とその際の私的なスタンス(誠実さ)をごっちゃにしてる
アンチのスタンス(不誠実)での先に公的正しさ(公正)はないよ ナンセンス 形骸志向
スタンスがイノセンス(誠実)であるのは前提 真価(公正性)はそれを経た先でのはなし
「私」のスタンスが在る(平等性:最高位)だけでも誠実に対峙する(天才君)意味はある
760 :
考える名無しさん:2008/08/16(土) 18:29:56 0
>>755>>756 >「正しさ」という理念への献身において求められる
これも思想によるだろ。
客観が、その正しさを保証するとは思えん。
つまり、我々はあまりにも知らないことが多すぎる。
と考えるか考えないかだけでも分かる。
有限なものは、有限なものに規定されるが、
しかし、その規定した有限なものも、
さらなる有限なものに規定されるだろう。
有限である限り。(同因果関係)
さらにそんな世界観の中でも無限なものはどうも
存在している訳だ。それも複数。
有限の中に無限はありえるのだろうか?
つまらん話だけどね。
現代的な相対主義の震源はどこにあるのだろうか?
私の考えによれば、それは「価値判断が多様だということは、
価値判断の客観性や普遍性に反する」という誤解である。
すなわち、次のように言えよう。
「客観的価値は単一である」という誤解こそが相対主義の
震源である。この誤解が解かれるとき、相対主義と客観主義は
調停させられるだろう。
762 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/16(土) 20:12:30 O
>>761 個々の主観的価値判断について、客観的であるとは、私的な視点で捉えきれなかったところ
を補う別の価値判断が必要とされる。その両者の間でのみ客観的視点というのは
意味を持つと考える。
このように、個別的価値判断に対する客観的視点(対処的な)はそれぞれ多数あると考えられる。
相対主義と客観主義はこのように融和されると思う。
>>762 なるほど。
私は異なる融和を考えていた。
「個々人にとって何が善であるか」は単一ではないが、
客観的なのである。つまり、真偽がある。
764 :
自分自身が置いてきぼりってのも…:2008/08/17(日) 01:20:27 0
>>750 >「私」にすべてを委任している…
はい、みなさん(あなたも含む)と同様です。
> いわゆる「なんでもあり」になってしまいますね。
はい、これもみなさん(あなたも含む)と同様です。
>>751 > 前にも書いたが、草花を相手にする程度でいい…
その通りです。自然・宇宙・自分自身を相手にするということです。
ただ、その程度に上下という私情は邪魔になるだけですね。
765 :
自然消滅君:2008/08/17(日) 01:33:54 0
>>752 「私は惑星宇宙をも認める。しかしこのスレは「私」の記述である。」
これがこのスレに関する私の立場です。
この立場より、あなたのいわんとすることは全て認めます。しかしこのスレは「私」の記述である。
よって「私」というものを置き去りにした論理自体に興味がないだけです。
だからそのような論理には参加しないわけです。
よって私の立場からすれば誠に合理的です。あなたの立場から言えば非合理ですね。
しかしながら、私はあなたの立場から天才君を非合理と扱う事は認めますよ。
修正圧力とおっしゃるが、そのようなもの自体の存在は、創造によってうち消されてしまう
ものです。私はそういうものを流行であると一喝するだけです。否定はしませんよ。
実際、修生圧力の奴隷になる「私」もいるのですからね。
> わたしが合理性を保持することは、今のところ問題なさそうだ
問題でもなんでもありません、当たり前でしょう。あなたはあなたの合理性を保持する
ことしかできないのですからね。
いずれにしても、あなた自身としては、問題が自然消滅したようですね。
私にとっては最初から問題ですらないことです。
766 :
人ごと君:2008/08/17(日) 01:40:03 0
>>753 「私」というものは、その主体を合理性の神にしてしまうものです。
合理性はだれのものでも、だれの解釈でもなく、ただ、
ある前提なり、観点とてらして合理的か、非合理的かの違いだけですよ。
合理的に化けたあなたの信仰をまずは告白するべきでしょう。
つまり「【私】を記述してください【私の存在性】20」です。
767 :
客観的ね:2008/08/17(日) 01:53:09 0
>>755-756 >誠実さなんてもの自体がウンコ議論の屁理屈なのである。
つまり「私」の記述者が行う発言すべては、屁理屈であるという事ですか?
>>757 >天才君は個人的真理っていう程度には客観性を認めるわけか。
>そんなんだから宇宙の創造主なんて平凡かつ退屈な発想に甘んじるんだろうな。
はいあなたの感想には「平凡かつ退屈」「発想に甘んじる」等、私情が多いですが…、
あなの私情を抜いたあなたの発言の客観的発言のつなぎ合わせで在れば、その通りです。
え、もしや私情であることに不満なの?
宇宙の創造主と同レベルの発言をしてみたんだけど・・・。
769 :
私情も宇宙なら…:2008/08/17(日) 09:59:08 0
>>768 >え、もしや私情であることに不満なの?
>宇宙の創造主と同レベルの発言をしてみたんだけど・・・。
あなたの言う、宇宙の創造主ってなんですか?
あなたの私情と同レベルということですか?
宇宙の創造主って、単なるキャラでしょ。しかも没個性的な。
それこそ私情以外のなにものでもないだろ。
771 :
考える名無しさん:2008/08/17(日) 16:42:11 0
仏って、単なるキャラでしょ。しかも没個性的な。
それこそ私情以外のなにものでもないだろ。
神も仏も哲学には不要である。
キリスト教も仏教も迷妄迷信であって、哲学ではない。
単に哲学の教養がない奴が勘違いしてるだけ。
772 :
私情が全て?:2008/08/17(日) 18:57:34 0
>>770 あなたの言う「私情」ってなんでしょう?
>>771 哲学も、あなたの言う、「私情」という事ですか?
だから宇宙の創造主ってキャラに萌えてんでしょ。
それは私情だっての。
774 :
私情は私情で終了君:2008/08/17(日) 22:01:03 0
なるほど、あなたの私情から創造された
> だから宇宙の創造主ってキャラに萌えてんでしょ。
という発言。それはあなたの私情であるという事ですね。
いずれにしても、このスレは、
【私】を記述してください【私の存在性】20
ということですから、他人の私情などのあなたの私情からの解釈は
私情で終わるという事です。
なんだ、特に否定とかしないのか。
なら最初から他人の私情に不満を見せるなってのw
最後イミフになってるしだめだこりゃw
776 :
いったい不満がどこに?:2008/08/17(日) 23:41:54 0
私は最初から私情であると断定しているだけです。
不満と解釈したのは、天才君ではありません。
つまり「不満などは」最初から天才君側にはなかったという事です。
天才君は常に完璧です。
777 :
他者否定は自己否定なんだよ:2008/08/18(月) 00:10:24 0
対話をしない人が多いですね。対話とは私と他で行うもので、
自分の創造の他と自分とで行うものではありませんよ。
自問自答は自分で出来ますが、対話は他者と行うもので、
他者が自分の投影という「私」との対話になってしまっては自問自答に
他者を巻き込んでいるだけです。
「私」は常に完璧です。その完璧な「私」を別の「私」が
「私」を否定する事は別の「私」は他の存在を認めていないということです。
そのような「私」は他者が存在しないのですから、当然「私」も
存在しない。しかし他である「私「が別の「私」の存在を暴露すれば
別の「私」は自分自身を否定できず、沈黙する。
そういう類の「私」は相手を否定する事で、「私」を肯定しようとしますが、
そうではなく、ただ、存在をお教えさしあげればそれで満足するだけです。
他者否定は自己否定だからです。
まあ、他者否定が自己否定であることに気付けばの話ですが…。
一方で私天才君は全てが「私」ですから完全肯定になりますから
絶対的に矛盾が発生しえないから完璧だという事になります。
778 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 00:17:07 0
完全とはつまり神のこと。神とは、つまり人でなく、
人に似ているが完璧な存在。
つまり天才君は馬鹿ということですね。
779 :
天才君は完璧のまま完璧に存在している:2008/08/18(月) 00:31:46 0
>>778 > 完全とはつまり神のこと。神とは、つまり人でなく、
>人に似ているが完璧な存在。
私はそのように考えません。
神も完全、私も完全、あなたも完全です。
あなたな、完全とは神の事であるとお考えだ。
そして完全な人などあり得ないという結論であるからこそ、
天才君は馬鹿という結論に達する。
あなたのように神と人(私)を分断して考え、かつ人間を神の下に置くという
思考的操作をした場合、天才君を馬鹿にする論理を創り出す事も可能です。
しかし依然として天才君は完璧のままですよ。
780 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 00:59:25 0
思考的操作w
781 :
W:2008/08/18(月) 01:17:36 0
もっとWさせましょうか。
思考的操作→詭弁・小細工・信仰・でっちあげ・とりきめ・新しい前提
秘密・思いこみ・人ごと君・奴隷根性…。べつにどんな言葉でもOK。
だから、「W」ちゃうのです。
782 :
考えよう名無しさん:2008/08/18(月) 01:22:22 0
このスレは、
×【 天才君】を記述してください【 天才君の存在性】20
○【私】を記述してください【私の存在性】20
783 :
素人:2008/08/18(月) 01:25:37 0
何も言わないのも何なので、一言だけ。
天才君の言葉は空虚だ。
それは、日常との(→我々の生活との(→我々の「生」との))接点を失している点で・・・。
そこに乖離と断絶がある故に虚しい言辞に成り果てている。
半歩譲っても、「直接利用のできない」「理念としての」言辞でしかない。
勿論、それ自体を否定するものではないが、
「それのみ」であるなら、まさしくどうでもいいことだ。
日常とのリンクする部分を欠いているなら、絵に描いた餅と変わらない。
百尺竿頭から歩を踏み出す言辞でなければ、それは無言と変わらない。
そしてそれは、どれだけ音量を上げようとも、どれだけ数量を重ねようとも、
決して外へは届かない。「私」の外へ出ることはない・・・。
自己満足のみで良しとするならそれでも構わないが・・・w
って、一言じゃねーなw てか、酔ってるか?wwwww
784 :
Wittgenstein教:2008/08/18(月) 01:29:12 0
あれ、いつのまにか「哲学者最高位」も「じいさん」も消えて、代わりに天才バカボン君とかいう人になったね。
そして、誰もいなくなった。。。
Wittgensteinが好きな人はいないのか?
ウィトゲンシュタインはデカルトのコギトについてどう考えていたの?
786 :
考えよう名無しさん:2008/08/18(月) 10:30:47 0
>>783 酔ってるご自身の想像の記述、確かに「天才君の言葉は空虚だ。」と
結論づけるには十分です。
このスレは、
×【 天才君】を記述してください【 天才君の存在性】20
○【私】を記述してください【私の存在性】20
787 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 11:18:12 0
私というのは方向性・指向性につきると思います。
788 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 12:11:05 0
>>787 それは、私の性質でしょうか?
性質が私なのでしょうか?
789 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 12:27:01 0
>>786 > 酔ってるご自身の想像の記述、確かに「天才君の言葉は空虚だ。」と
> 結論づけるには十分です。
文意が掴めないんだが?
> 『酔ってるご自身の』『想像の』『記述』、確かに『「天才君の言葉は空虚だ。」と』
> 『結論づけるには十分』です。
という文章構成だとして、読み手の側で関係性(の表現)を補えば、
『酔っている状態での』『想像による』『記述』は、
『天才君の言葉が空虚であると』『結論づけるには十分』です。
ということ?
『酔った状態で為された記述(内容)は』『天才君の言葉が空虚であると』『結論づけるに十分なものである』
ということ? 或いは、
『想像によって為された記述(内容)は』『天才君の言葉が空虚であると』『結論づけるに十分なものである』
ということ? 或いは、
『酔った状態で想像によって為された記述(内容)は』『天才君の言葉が空虚であると』『結論づけるに十分なものである』
ということ? 或いは、
『
>>783という記述(内容)は』『天才君の言葉が空虚であると』『結論づけるに十分なものである』
ということ? 或いは、
『
>>783という記述が為されたこと、そのこと自体が』『天才君の言葉が空虚であると』『結論づけるに十分なものである』
ということ? それとも、
『(関連過去レスの内容を受けて)それらは』、(783に於いて為されたように)『天才君の言葉が空虚であると』『結論づけるに十分なものである』
ということ?
それとも、
単に、『その想像は当たっています』 ということ?
755、756は70年代に哲学界にアングラ怪文書として流行した文章の邦訳の一部
自分の発言の真理値を気にしない連中の発言にうんざりしていた人たちが
そういった輩に嘲笑の視線を送りながら、この文章が流行ったらしい
791 :
おつきあい君:2008/08/18(月) 13:20:15 0
>>789 >単に、『その想像は当たっています』 ということ?
そうです。というか、あなたの数パターンの補足をも含んでいます。
しかし、特定個人の感想ですから。「特定条件において」、の結論に至る事は
まことに自然な事ですね。と申し上げているだけです。
肯定も否定もしていません。特別扱いはしませんよ。という意味も含まれます。
シンプルに言えば「ああ、そう」という程度です。
792 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 13:26:36 0
>>790 そりゃ勝手に自分の真理観を押し付けて
うんざりしてる方が悪いな。
馬鹿のくせにひとを嘲笑するなんざ、たちがわるいにもほどがある。
真理観と真理規範の区別がつかないようなバカにうんざりしていたんだろうよ
彼らも
「真理値を気にしない」は「嘘をつく(間違った発言をする)」よりも劣る
と、その文章にはある
794 :
完璧君:2008/08/18(月) 13:42:35 0
>>790 私は押しつけていませんから、うんざりもしませんよ。
つき合っているだけです。
つまり完璧であるのが天才君という事です。
言葉の建築家たちにとっては
建築のセオリーを無視した到底人の住めない設計にうんざりしていたんだろうよ
彼らは芸術家というよりは職人気質だからね
796 :
自由な職人:2008/08/18(月) 14:13:42 0
797 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 14:16:33 0
>>321の続き(了)
藤田のコミケゼロアカ報告(まだまだ続くよ)
その2 あずまんパーパー神登場
http://jp.youtube.com/watch?v=9bX30VTnS8I 東 「どんどんアップしようぜ。どんどんアップしよう。宇野が来ていないという事実をアップしよう。
だから、同人評論界のスターとかいう話になってるのに、来てないじゃん。ここに」
惑星 「宇野君としては、宇野君としては、やっぱり、ね。東さんの主張も大変尊重してですね。
(同人「なつやすみのとも」を手に取る)、やっぱり「運命の女の子を待とう!」と(表紙に書いてある)」
藤田 「なんか、らき☆すたモドキみたいな(絵)」
東 「これ、俺をバカにしたような企画をたてて、
惑星 「これ、宇野さんがいかに東さんを尊敬して、ちゃんと主張を
東 「そうじゃないんだょっ
藤田 「どんなこと書いてあるのこれは」
東 「えっ?(文章を指して)『運命の女の子を待つストーカー予備軍たち』」
藤田 「ぇぇぇええwwwwwっへへwwwwwww」
東 「ひどいだろ?」
藤田 「おかしいよ!」
東 「『最近僕の大尊敬する東浩紀さんが』・・・ふざけてるだろこれ」
藤田 「wwwwwwww」
東 「ふざけてんだよ。(カメラ目線で)このぉ!」
藤田 「(並びが)真横ですからね。波状言論と並んでますからね」
東 「なんだよこれwwww」
惑星 「宇野くんはね、
東 「で宇野は自分は来ないで、こういうことだけ書いて、ペーパーをここで売ってるんだよね。
(俺の)横で!こんな挑発的なことをやって、俺が許すと思うなm9
藤田 「wwwwwwww」
東 「宇野ぉ、トリッパーの対談で潰す!m9」
惑星 「いやだからあれじゃないですか、あれね、
東 「みんなの宇野への声を、俺に集中させて、お前を潰す。朝日新聞社のトリッパー誌上で」
建築家を「不自由」と呼ぶのは、たいてい芸術家なのだが
建築家たちは芸術家たちこそ不自由だと心の中では思っていることだろう
なんせ、芸術家は「建築設計する自由」をもってないのだから
子供が壁に書いた落書きは芸術たりえるかもしれないが、設計ではない
799 :
不自由な人達がおいいですね:2008/08/18(月) 14:23:32 0
学校の美術の授業で「自由に絵を描け」と指示すると
子供たちは困って何も描けなくなる
子供たちに自由に絵を描かせたいなら、ある程度の不自由を与えてやることだ
801 :
自由な指示?:2008/08/18(月) 14:32:43 0
>>800 「自由に絵を描け」ですって?なんて不自由な指示でしょう。
むしろ自由を与える事で子供は生き生きすると天才君は思いますよ。
自由な指示ではなく「自由に描け」と指示だ
天才君は文章を読む能力が極端に低いね?
どうでもいいが、最近の新入社員はダメ人間ばかりだ
これもゆとり教育が原因だと俺は思っている
生き生きとしたダメ人間とはアイロニーだな
804 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 14:46:50 0
>>793 真理観と真理規範を区別しなければならないということを
押し付けていることに気がつかず
勝手にうんざりしているなんて相当の馬鹿だな。
805 :
人ごと君:2008/08/18(月) 14:47:50 0
>>802 >天才君は文章を読む能力が極端に低いね?
そうですか…?
>>803 「私」はどうなんです。つまりあなた自身は?
【私】を記述してください【私の存在性】20
混同しなければならないんですか?
アホなこと言ってないでウィトゲンシュタインぐらい読んだらどうだ?
言明には、真なる言明と偽なる言明があるが
それ以外にアホなる言明がある
君がアホを言い続けるのは自由さ
生き生きと生きてくれw
807 :
大丈夫?:2008/08/18(月) 14:56:15 0
>>806 >混同しなければならないんですか?
それどころか、あなたは、既に、自他の区別が、混同してらっしゃいます。
いったい誰がアホを言い続けているのでしょう?
808 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 15:08:52 0
>>806 なるほど、おまえにとって哲学はウィトゲンシュタインでおわってるわけだ。
あまりウィトゲンシュタインのいうことを真に受けるなよ。
>言明には、真なる言明と偽なる言明があるが
そういうことを無邪気に言いはなってしまうところが
おまえの底の浅さが露呈するところだな。
で、またしても底が浅くて結構だとでもいうのかね?
>>776 ああ、絶対それ言うと思ったw
だから最初に聞いただろうに。不満なの?って。
実際不満そうに見えたし、否定しなかったのも天才君。何を今更w
つかノーならノーと言えと。その程度の返答もできないのに対話を語るとか、
いちいち矛盾してるってか、なんかぶれてんだよおまいは。
810 :
もうすこしがんばりましょう:2008/08/18(月) 15:32:30 0
>>809 >実際不満そうに見えたし、否定しなかったのも天才君。
ああ、それで、不満だと思い込んだのですね。
>なんかぶれてんだよおまいは。
また、何かにとりつかれそうですね。
そして、あなたは私に言う。ノーと言え!とかね。
期待には添えません。自分で解決しましょう。
>つまり「不満などは」最初から天才君側にはなかったという事です。
>天才君は常に完璧です。
不満があると完璧ではないことになるのか?
どうも意味がわからん。
812 :
自他の境界は在る。此処では。:2008/08/18(月) 17:14:53 0
>>811 不満って感情ですね。
で、感情ってのは個人的な好き嫌いですね。
で、その趣向の持ち主が、その感情の持ち主ですね。
感情はつかみ所がないですから、自分が不満をもっているのか
相手が不満をもっているのか区別がつかない人もいるわけです。
こういった限定条件においての完璧とは、所有物の所在を完璧に知っているという事です。
一方で、私は全てにおいて完璧であるとも言っています。
ちなみに、
>どうも意味がわからん。
と思っているのは私天才君ではありませんよ。念のため。
813 :
哲学以前君だから天才君:2008/08/18(月) 17:31:09 0
しかし、このように語ると、自他の区別がつかない人は
完璧ではないのだと相対的に判断する人もいると思う。
それは違う。
ではどうか?といえば、自分自身を「完璧とは思えない人」という事です。
「私」を否定する全ての発想自体が、不完全性のみなもとです。
これは、こうも言えます。
「他」を否定する全ての発想自体が、不完全性のみなもとです。
自他同時に存在し、かつ区別がない状態が「私」のルーツです。
そこから外れる「考えは」相対的ですから不完全であり絶対たりえず、完璧ではないという事です。
しかし「私」は依然として完璧です。
論理と実際の区別ができないと、私の発言を論理にすり替えて理解しがちですし、
また論理だけでも理解できないでしょう。自分の身にてらして理解すればだれでも解る事で、
哲学以前の話しです。
808
終わってる?
いえいえ、ウィトゲンシュタインを批判しようと思ってますよ
俺の考えでは、哲学は何らかの伝統が先に先行する
純粋な自分の考えとか、いかなる先入見にも囚われない出発点のようなものはない
俺にとっては、それが論理学を重視する伝統(真偽の区分けを認める伝統)ということ
底の深さを求めるのは文学ですか?
すみません、俺は文学アレルギーなんでw
しかし、フランス思想ではウィトゲンシュタインを神格化してる人が多そうなので
アドバイスは素直に聞いときますよ
ウィトゲンシュタインだって絶対ではない
ということで、俺は文学者としては失格だろうし、芸術家としても失格だろうな
そんな俺に「哲学者」として失格の烙印を押したければどうぞ
俺の師匠はH3号室で、「哲学」という言葉の使い方で喧嘩を売ったあの人だからね
817 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/18(月) 18:30:14 O
812
好き嫌いこそ生命である。感情のない人間はロボットと同じである。不満のような感情を人にぶつけるのはよく
ない。感情はそれぞれがくらす島を隔てる水のようなものである。
明鏡止水の美しい・・・。
818 :
天才君:2008/08/18(月) 18:41:24 0
>>817 >不満のような感情を人にぶつけるのはよくない。
私もそうは思いますが、そうとも言えないとも考えています。
好き嫌いこそ生命でしょ。
ならば存在自体が、押し合いへし合い、寸分のすき間なくぶつかっている。
というより繋がっている。
ようは、取り入れるか、弾くか、ここまでよと線引きをするか、
というように「私」の存在ありきの主体的に考えるます。
819 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/18(月) 18:50:51 O
818
確かに問題解決の糸口になるし、怒りという感情の意味もある。
客観的真理というのは、それなりの枠(フレーム)の中でのみ取り扱われる。
そのフレームとは、例えば、同じ言明Aについて甲さんと乙さんの理解が一致し得る、という前提である。
これは、甲さんと乙さんの文法が一致している、と言ってもよいし、
言明Aの真偽と「〜さんの理解」とは無関係である、と言ってもよい。
仮に、言明A:「甲さんは平成20年8月19日にハワイで泳いだ」が客観的真理であるとしよう。
この言明Aは、甲さんの理解(「昭和」「年」「月」「ハワイ」「泳ぐ」)とは無関係に真である。
甲さんにとって「平成20年8月19日にハワイで泳いだ」という事実がなくても、言明Aは客観的に真である。
この場合、甲さんが精神疾患であるとか、乙さんにハワイで目撃されたとか、その他の客観的真理が存在していることが本質なのではない。
そもそも客観性において「〜さんの理解」は無視されねばならないからこそ、他の客観的真理が参照されるのである。
「〜さんの理解」が無視されねばならないとは、「皆さん」の共通理解が前提される、ということである。
前提をはみ出すものは無視されねばならない。
つまり、客観的真理が問題にされるとき、単純に「〜さん」は登場してはならないのだ。
登場して良いのは、共通理解の中に位置付けられる「〜さん」(例えば「精神疾患の甲さん」)のみである。
したがって、本スレの記述対象が共通理解の中に位置付けられる客観的な「私(甲さん、乙さん、丙さん…)」であるのなら、
その記述において、「皆さん」からはみ出した<私>は無視されねばならない。
「皆さん」の一人として位置づけられた「私」のみが専ら記述の対象となる。
逆に、客観的真理を<私>の議論に持ち込むのは、客観的真理の前提に違反している。
821 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 19:05:56 0
>>814 >底の深さを求めるのは文学ですか?
おまえの頭の程度だよ。
>ということで、俺は文学者としては失格だろうし、芸術家としても失格だろうな
>そんな俺に「哲学者」として失格の烙印を押したければどうぞ
いままでどおり自称哲学者でいいじゃん。
>俺の師匠はH3号室で、「哲学」という言葉の使い方で喧嘩を売ったあの人だからね
まさに「不肖の弟子」だな。まぁ師匠も師匠だがな。
822 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 19:07:03 0
>>820 >仮に、言明A:「甲さんは平成20年8月19日にハワイで泳いだ」が客観的真理であるとしよう。
そいつはいいなw
>>810 思い込んだっていうか、明らかに不満そうなレス返してたしね。
まあ、天才君がいくら否定しても結果は変わらないんで、諦めてくれ。
あとノーと言え!なんて酷いこと言わないからw思い込みだよそれって。
あ、ここでも天才君の不満を感じるなあw
なるほど、
君の関心は、相手の発した言葉じゃなくて、相手の頭の底の深さwなわけだ
一社会人として、君にアドバイスすると
相手の言葉の内容に注目することだ
ただのアクセサリーとして言葉を使う人もいるが
そんな人間は他人からの信頼を得ないから大成しない
うわっつらの言葉だけの営業として一生を過ごすのはつまらん人生だぞ
825 :
天才君:2008/08/18(月) 19:15:15 0
>>819 そうですね。
ただ、ぶつければその反作用も主体に寸分の狂いもなく還ってきますね。
私の興味は、感情そのものもさることながら、感情エネルギーの作用の方に関心があります。
826 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 19:24:36 0
>>824 おまえの発した言葉からおまえが馬鹿だということがわかるんだが、
いちいちそんなことまで説明されなければならんのか。
とにかく専門性の高い分野での水準の低さを指摘されても
意図的に話をそらせてごまかしてばかりでは、
そのうすっぺらな知識を己のプライドを保つことだけに使ってると
思われても仕方なかろう。
827 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/18(月) 19:32:36 O
825
人間の行動のメカニズムに興味があるということでしょうか。作用・反作用の法則はあるかもしれませんね。好き嫌いは興味の範疇も規定しますね。
ほう
専門性の高い知識を有する人がDKテーゼを底が浅いと発言したり、真理観と真理規範を混同したりするのか
それはそうとう高度な専門知識を有してそうですな
829 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/18(月) 19:57:11 0
完全な存在とは自分の尻尾を食らうウロボロスの事ですよ
830 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 20:15:59 0
>>828 な、そうやって話をすりかえるだろ。
頭が悪いのは学校でお勉強したデュエム-クワイン・テーゼを
理解してもいないのにファッションのようにつかったり、
真理観と真理規範という二分法についても無批判な態度でいる
おまえのことだって、わかってる?
それともまた話をすりかえる?
真理観と真理規範の二分を批判した学者には具体的に誰がいる?
832 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 20:59:48 0
>>831 あのな。具体的な術語を使用しなくてもだな、
それらが拠って立つ前提が否定されることによって
意味をなさなくなることなんていくらでもあるだろう。
だれかがその言葉を使って反論した論文が存在しなければ
その主張は否定されたことにならないのか?
おまえは自分の頭で考えるってことをしたことがないのか?
そういうお勉強のしかたは高校までだろ?
833 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/18(月) 22:08:15 0
完全な存在とは
自分の中に小さな自分が居て
大きな自分を食い荒らして自滅する
ソレがウロボロスです
大仏像とかそうなっているでしょ
834 :
天才君:2008/08/19(火) 00:23:35 0
>>827 なるほど面白いアイデアですね。
「好き嫌いは興味の範疇も規定する」というのは、
私にとっては新鮮なアプローチです。
つまり天才君は、作用反作用/慣性の法則/介入といったような
力学的に物事を考える癖があるということです。浸透/拡散に乏しい
私自身を発見する手がかりになります。
スレタイに沿って言うならば、流れが「私」であり動詞が「私」だという
考えをもっています。この部分では最高位さんと考え方の違いがありました。
「好き嫌いは興味の範疇も規定する」というのは私自身の限定を知る上で
有益なアプローチの一つとなります。私にとっては新鮮なアイデアでした。
ありがとう。
【私】
誰しもが持っているようで、
実は持っているのは自分だけかもしれない、と思えるもの。
…かなぁ。
832
話のすりかえは結構なんで
二分の前提となる思想を批判した本を具体的に挙げてくれますか?
誰かが反対しただけではないのでしょう?
どのように無意味と論証したのですか?
837 :
完璧な天才君:2008/08/19(火) 11:57:01 0
>>833 完全な存在をウロボロスに置き換えるのは無理があるでしょう。
それは、「理想」を追い求める姿です。
完全な存在を追い求めて自滅する。つまり何をおっていたのか?
最初から追っかけるものなどなかった。自分自身を知っただけです。
完全な存在でないものが、そもそも存在する事自体がおかしいのです。
なぜならば、存在自体が完全なのですからね。
よって「私」が懐疑する対象自体が「私」です。
懐疑の対象に化けた何かを「私」が突き止めたとしたら、それは「私」自身を
疑ったのがその根源であるという事に気づくだけです。
838 :
重症君:2008/08/19(火) 12:55:12 0
忘れていました。
>>823 >思い込んだっていうか、明らかに不満そうなレス返してたしね。
●「不満そうな…」ですね。
>天才君がいくら否定しても結果は変わらないんで、諦めてくれ。
●あなたの言う結果とは、「あなたの思い」のようですね。
>ここでも天才君の不満を感じるなあw
●お好きなように感じていてください。私とはなんの関係もないことです。
839 :
考える名無しさん:2008/08/19(火) 13:40:36 0
>>838 自分の価値観でオウム返ししてるだけじゃん
中身無し。
840 :
暇つぶし君:2008/08/19(火) 14:04:23 0
>>839 そうですよ。「ああ、そう」で終わり程度の話しです。
イライラくるな
クワインがグリュンバウムからの批判を受けて、
DKテーゼの規約主義的戦略による反証回避はトリビアルなものだと認めている
どういうことかというと
相対主義的態度なんてくだらない辻褄会わせでしかないとクワインが認めたってことだ
「真理がない」というスタンスが現代では流行している
それも哲学の考え方の一つになりうるかもしれないが
底が深い哲学者が必ずとる態度ではない
どうも俺のストーカー君は、相対主義者として
「真理」を認める態度を「似非哲学者」として追放したいようだ
合理性の要は矛盾の認知である
だが、矛盾の可能性があることは矛盾の認知にはなりえない
これは以前にも書いた
「真理がある」というスタンスが無意味だとしたら
なるほど、わたしが挙げる二分は無意味だし、それは批判される
問題は、それが無意味である可能性があるだけなのか
それとも、無意味であるという論証があるのか、ということである
可能性だけで批判となるならば、それこそ「悪魔がわたしを騙している」可能性もある以上
懐疑主義的不毛さに陥る
それは心理的不安を生じさせるかもしれないが
具体的な論証や議論として提出されてない以上
ただの杞憂だ
杞憂をもたないのは無批判的な態度ではない
批判的合理主義に「無批判的だ」と批判するとは
底の浅さが知れるような気がするのだがw
せっかくだから、
以前、素人君が妻の浮気を疑った夫の例を挙げた
「妻が浮気しているかもしれない」という疑念は不安を引き起こすだろう
不安の解消は、浮気の可能性を否定しない限り続く
だが、「妻が浮気しているかもしれない」ということと
「妻が実際に浮気をした」ということは異なる
想像と現実は異なるのである
われわれが理論的営みに関わりながら、それらについて「実は無意味かもしれない」と不安になることはありえるだろう
だか、「無意味かもしれない」と不安になることは
「実際に無意味である」ということを意味しない
>>843 本筋からそれる質問だが、「浮気しているかもしれない(想像)」と
「浮気した(現実)」の違いを裏打ちするのは何なの?
845 :
すべての「私」は天才君:2008/08/20(水) 09:53:28 0
発言の流れからを天才君が観察すると…。
「私」の感情についての納めどころ、はどこか?
つまり感情も「私」の一部か、それとも感情は「他」か?
といった所でしょう。
その顕れとして、思想と同様、「私の思想」「私の感情」いう線引きの無自覚が
引き起こしている議論。発言者は「私(発言者)」の考えた事が発言の全てであるという
自覚を忘れてしまったり、外部の権威をバックに「私」を消し去りながら、
なぜだか、発言内容に「私」を明確に忍ばせるのを避ける傾向がありますね。
その中で天才君は「私」を明確に主張するわけです。
「私」は天才であり完璧であり全てと同等である無限の選択権と創造と発見を有する。
但し、上記の「私」を満たす条件は、「私」の存在を絶対と知る事です。
知る程度では無理かもしれませんね。自分自身が「私」は絶対に存在していると自覚せねばね。
天才君の立場は独我論。
847 :
独創君:2008/08/20(水) 10:33:10 0
>>846 そうですね。
ただ、正確には、独我論者的表現手法をもちいて発言している。
スレタイに沿って「私」の記述を行うならば、
天才君の「私」の記述は、【「私」は創造主である。】ですからね。
なんでも創造でき、かつ私自身すら選択可能で多様性も持つ訳です。
よって独我論者にも収まらず、収める事も可能であるという事です。
848 :
「私」の自由:2008/08/20(水) 10:51:13 0
一方、「他」から観る「私」であっても同様です。
無限の「私」を「他」が創造する。
しかし、「他」が「私」を創造するのは限界がある。
その限界とは、自由である。
「私」はそれ自体で自由であるが、「他」の自由は支配できない。
逆に「他」はそれ自体で自由であるが、「私」は他の自由を支配できない。
ただ、双方、創造が形態化する以前の無形状態には働きかける事はできる。
つまり信念・想念は共有できうるし、支配も可能。
では支配権は誰が持つのかといえば、想念にも形態同様重力に相当するものが
あるので、質量の大きなものが小さな物の中心となって、小さな物はその周辺を
まわり、双方でバランスする。
それが形態内での自由意思のメカニズムであると天才君は説くわけです。
849 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/20(水) 11:05:18 0
>>848 「感情」は私であるか。
「感情」の多様なありようを引き起こすのは、他人であると考えられる。コミュニケーションの際の
ルールのような物として、感情は、進化の際に、他から分化したときに人間(当時は違う生き物)
が獲得したと考えられる。「感情」は共有することもできる。この共有が、人間が一つのアメーバ
のような生き物だったときの名残であり、だから気分がよくなるのである。結論づければ、
感情はそれぞれの人間の延長(短いが)である。
まだよくわからないが、天才君の“神”には、どこか「大日如来」の影が
宿している。汎神論というよりも“汎仏論”とでも呼ぶべきか。
この人は、たしか大乗には否定的だったはずである。
851 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 11:13:58 O
気が狂っている。
働け
「(両者の)違いを裏打ちするものは何なのか?」とあるが
その質問で何を訊きたいのかが伝わらない
想像と現実は同じものではないかという疑問があるのか
それとも、「これは想像ではなく現実である」と確信できるような後ろ楯がほしいのか
想像と現実を区分する考え方の確固たる保証を求めているのか
「裏打ち」という言葉であなたが何を求めているのかがわからない
理論的営みは絶対主義の下でも、相対主義の下でも、それどころか
天才君の下でも成立する。つまり、理論的営みはかなり広範な領域で
行われえるのである。興味深いのは、相対主義者は理論的営みが
無意味であるとは言わないということだ。
理論的営みに携わるには
理論の経験への優位性を確保する必要がある
直観が論理より優先されるならば、理論的営みは虚しいものになるだろう
(理論は普遍化可能性を含む)
言葉を通して考えながら
1、論理のチェック
2、普遍化可能性のチェック
に耐えなければならない
われわれは世界について論じるものとして論理にコミットする
これが理論的営みに関わる上での前提である
855 :
教えて君:2008/08/20(水) 12:16:02 0
>>853さんの発言に、天才君には解らない事がありました。
>興味深いのは、相対主義者は理論的営みが
>無意味であるとは言わないということだ。
なぜだろう?また、相対主義者は、「無意味」をどうとらえているのだろう?
天才君のちょっとした疑問です。詳しい人だれか教えてください。
856 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 12:24:12 0
>>844 な、こいつに質問してもまともに答えが返った来たためしがないんだよ。
こいつがしたいのは自分のお勉強したことを他人の関心とは無関係にひけらかすことだけ。
だからだれとも話がかみあわないまま自分が演説しておわり。
それより具体的な批判をしている本を挙げてくれないか
俺は馴れ合いは嫌いなんで
他人と意見を合わせる気はさらさらない
むしろ積極的に反論したいし、反論を受けたいと思っている
真理観と真理規範を区別できないという批判は俺にとって非常に興味深い反論だ
本を読みたいから教えてくれ
858 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 13:05:12 0
>>857 そこまでいうなら教えてやるよ。
『実在論と理性』ヒラリー・パトナム
つーかおまえここ30年くらいの哲学にかんして
なにも知らないようだから反論がほとんど理解できてないよ。
パトナムは知ってるよ
読むに値するような内容あったかな?
調べてみるさ
70年代に流行したアングラ怪文書を鼻で笑って捨てる奴がここ30年の哲学を知っているんだ
ずいぶん狭いここ30年なんですねぇ
DKテーゼがポパーを反論していないって論文がポパー研究会から出されたのって10年前ぐらいじゃなかったっけ?
いやいや、君の歴史と俺の歴史を一緒にしちゃいかんよなぁ
パトナムの本はジュンク堂で読んだけどつまらなくて買わなかったんだわ
あれ『実在論と理性』だったかな
それっぽい名前ではあった
で、結局ワトキンズかそこらを買ったんだ
意味と基準を区別することへの批判なんて記憶にないが
流し読みだったから、しっかり読んでみることにするよ
違ったらゴメン。
DKテーゼってDuhem-Quine thesisのこと?
ならDQテーゼになるんじゃないの?
あーそうだな、恥ずかしい大間違いということで
以前(5年前)にはDQテーゼと書いてると思う
DQだったかな?と思ったが、単にチェックするのが面倒で見切り発車で書いただけ
許せ
>>855 それは単純な帰結である。
相対主義者が言うのは「見方に応じて物事が変わる」ということであって、
「見方と無関係に物事は何でもアリである」とは言っていないからである。
つまり、「見方は様々だがある見方を取った場合には何でもありではない」
ということである。
では「無意味」とは何か?
それは上述の文章で出てきた「無関係さ」である。
つか、携帯からだしチェックしないで投稿しているからそういう間違いは多いと思う
グリュンバウムって人名も自信ない
たしかそんな名前だったようなって感じで書いた
そしてここで重要なのが
>>854で言われている「普遍化可能性」を
「単一性」(これは私の造語であるが)と混同しないという
ことである。
つまり、「普遍的である」ということと「単一である」ということと
とを混同しないこと。
867 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 14:22:52 0
>>860 ポパー研究会w
一生ポパーでも研究してろw
>>861 >意味と基準を区別することへの批判なんて記憶にないが
まぁ、解説されないとおまえの程度じゃ理解できないかもね。
>>852 「裏打ち」のおおよその意味は知っているだろう? 裏づける証し、とでもなろう。
君のレスに即するなら、想像と現実は異なると君は述べ、そこからレス全体を結論
づけている。
だから、想像と現実の違いの目安になるのは何か、と尋ねているのである。これに
答えられぬのなら
>>843 の結語は自ずと宙に浮いてしまう。
救求者
相対主義も多種あって一概に「相対主義」の一言でくくれるものではないらしいが
客観主義と対比させるならば価値相対主義(狭義の相対主義)の話しに落ち着く
規範的相対主義や経験的相対主義は
それぞれの見解の妥当性が個人ないし集団に相対的なものであると主張せず
倫理的自律の理念や、議論による客観的価値への接近を認める以上、客観主義にコミットしている
客観主義への反論となるようなハードな相対主義を想定するならば、
相対主義のもつ破壊的性格と向き合わざるを得ないような気がするが
>>869 価値相対主義でも私は前述されたことが成立すると思う。
つまり、「価値は何でもアリだ」ということは成立しない。
また別にハードな相対主義を想定する必要は無いように思われる。
なぜなら、極論を持ち出してそれを論駁することは相手方の意見を
反駁したことにならないからである。
868
やたら詩的な表現だが、あなたの問題意識はそれとなく感じた
あなたの質問に対して「想像と現実を区別するものは道徳である」と答えたい
道徳的無節操な発言に対して、「それはあなたの妄想であって現実ではないでしょ」と切り捨てる
DQテーゼについて「クワインのスペルは実はKから始まるから本当はDKテーゼだ」と言い張ることはできる
しかし、それは現実ではなく俺にとって都合のいい妄想にすぎない
妄想と現実の区別は、自分勝手な独り善がりの見解とそうでない見解とを区別する役目をもつ
872 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 14:53:50 0
どうでもいいけど、救求者の
>>853「行われえる」は文法的におかしくないかい?
そうだろうか?
そこは1行で返すのかよw
>>871 それでは答えになっていない。ケムに巻いたことにさえなっていない。
妻が浮気しているかもしれない(想像)と浮気した(現実)の区別を、亭主は
どうやってつけるのかを聴いているのである。その方法はあるの?
KとQの違いなら簡単そうだが、これもそう問屋がおろさないというのを
何かで読んだことがある。
876 :
天才君:2008/08/20(水) 15:30:11 0
>>855 >相対主義者が言うのは「見方に応じて物事が変わる」ということであって、
>「見方と無関係に物事は何でもアリである」とは言っていないからである。
>つまり、「見方は様々だがある見方を取った場合には何でもありではない」
3行目で絶対主義になっていますよね。
見方は様々だがら、ある見方を取った場合、なんでもありになりませんか?
877 :
天才君:2008/08/20(水) 15:49:49 0
私などは素朴に、多様性を認めるのが相対主義者だと思う。
相対主義はある見方が前提となるイデオロギーであるけれど、
相対主義(者)となると、その主義者の信仰を越えた主義を認めないならば、
それは相対主義者ではなく、絶対主義者だと思う。
天才君などは、なんでもありで、どのようなみかたもあり、
その結果どんな結論に至る場合もありえると考えます。
限定条件があるならば、それは相対主義者ではなく、
限定条件の創造主、つまり絶対者という事になると思います。
878 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 15:50:37 0
>>873 助動詞の「る」は、この場合、自発の意味を持つ。
そのあとに可能を意味する「える」を並べることが適正か否かという質問。
「かなり広範囲に行われているのである」のほうが自然。
879 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/20(水) 16:08:43 0
>>877 天才君に質問です。
あなたは、過去について、また歴史についてどういう意見を持っているのですか。イデオロギー
を持つ要因になるのが個人的過去と、歴史認識であると思うのですが。あなたの意見を聞いて
いると、ある答えが出ればそれに使われた過去は反故にする、それが正しい、または好もしい
態度であると言っているような気がしてきます。現代を考えると、もうそういう時代に入ってきたのか
というような感想を持ちます。
880 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/20(水) 16:50:28 0
>>879 いや、なんか失礼な質問の仕方になってしまった。天才君の思考様式の独特さにに敬意をはらって
いますよ。
>>877なんか、すごくいいことが書いてあると思うし。
881 :
天才君:2008/08/20(水) 17:16:21 0
>>879 質問ありがとう。
>イデオロギーを持つ要因になるのが個人的過去と、歴史認識であると思うのですが。
まったく異論はありません。所有化し、守ろうとした瞬間から信仰になります。
正しいんだ。これでいいんだ。と思い込むという事です。
私の経験も知識も想像も信仰も全ては過去です。人類全体の過去の歴史認識も同じ事です。
一例ですが、惑星宇宙がこの宇宙の全てなどとは信じておりません。
過去に恐竜が居たというのも信じていません。
一つの可能性であると考えるのが私のスタイルです。
「私」達にとって、今、認識している事自体が既に過去です。
認識をもってして「私」達のこれからを選択する場合、その指針が過去ではなんの
発展も後退もない。ぐるぐる認識の中を回るだけ。こう思うわけです。
>ある答えが出ればそれに使われた過去は反故にする
はい、即刻破棄します。実感としていうならば、骨の髄まで染みついた過去までも、
即刻破棄するよう努力します。再構築しなくてはならないからです。
こんなところが天才君のキッパリした所の本質です。
歴史や過去は、「現実に」そうであったことであり、「現実に」ってことが本質と思われる。
では、何がこの「現実に」を「裏打ち」しているのだろうか?
歴史も過去も見方次第で「何でもアリ」だろうか?
・・・と、話の流れを強引にまとめようとしたその時、↓
883 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 18:02:14 0
>>875 な、こいつに質問してもまともに答えが返った来たためしがないんだよ。
こいつがしたいのは自分のお勉強したことを他人の関心とは無関係にひけらかすことだけ。
だからだれとも話がかみあわないまま自分が演説しておわり。
875
なるほど、夫が浮気の実態を知るための現実の基準を訊いてるのですね?
そんなものはありません
われわれは現実に対して、決定的とか確定的には知り得ません
しかし、基準をもたないことが、想像と現実の区別に意味がないことにはなりません
これがストーカー君と話題になった意味と基準の区別です
「基準を知り得ない理念の区別には意味がない」というのは相対主義者がよく論拠とする考え方です
正解が何か分からない以上、「正解」という理念には何の意味もない
果たしてそうでしょうか?
885 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 18:30:23 0
ごまかさないでちゃんと答えてやれよw
「意味がある」と「意味がない」を区別する「基準」はなんだ?
>>876 ある見方を取れるということ、そしてその見方からは一定の結論が
出て来るということ、それが相対主義であるように思われる。
ある見方を取っても結論が不定であるということならば、これは
何と言うだろうか?私は知らない。
>>878 なるほど。だが私はそこまで日本語に詳しくないのである。
>>882 現実と非現実(たとえば妄想)の相異を
>>884(Ra君)に聞いているのである。
その区別の(できること)が彼の真理主義の根拠になっているからである。
妻が浮気している。妻が浮気していると想像している。どちらも「現実」
ではないのか。「現実」のような、どうとでもとれる言葉を使えば…。w
Ra君はこれに答えてくれてもいい。何もって浮気というのか。
889 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 18:58:04 0
>>887 ある見方に立ったとき、そこからみえる視界(事物)はひとつなのか。
これは絶対主義の変奏ではないのか。
「得る」に対する突っ込みは冗談ですので無視してください。
>>889 そもそもrelativismは何かが何かとrelateしているということである。
つまり、ある結論がある見方にrelateしている。
ということは、relativismは最初から「ある見方に立てばある結果になる」
という客観性を前提としているように思われる。
絶対主義も同じである。
絶対すなわちabsoluteとは孤立しているということである。
つまり、見方から孤立してある結果が成立するのがabsolute
ということの本来の意味である。ということは、相対主義は
絶対主義の変奏ではない。なぜなら、相対主義は「ある見方に
よれば」と言うが絶対主義は「見方とは無関係に〜である」
ということだからである。
888
「妻が浮気しているかもしれない」という疑惑を抱いた夫が
その疑惑を真正なる問いとして向き合った時の、形式上の答えが「現実」です
現実を知れるから問える、とか
知り得ないから問うことは無意味だ、などは
人間の企てに対する誤解に根差している
(事実に関する)問いと真剣に向き合う以上、現実という名の答えを想定せざるをえない
カント風に言えば、「妻が浮気しているのか」と問うことによって
理性が、その解答となる「現実」を要請する
886
それは相対主義を自称する人たちの方が詳しいでしょう
批判的合理主義にとっては意味の境界設定自体が無価値
夫が問うことに疲れて何らかの結論を出そうとする
彼は独断か破壊的懐疑かの二者択一を拒むことができる
「妻が浮気している」「妻が浮気していない」の二者択一(排中律を前提)のうち
もっともらしいほうをとりあえずの答えとして、受理することができる
妻が他の男とホテルに入ろうが、自分が「浮気してない」と考える限り妻は浮気していない、と言い張るような独断
興信所に調べてもらって浮気の証拠が挙がらないにも関わらず「浮気しているに違いない」とする独断
そのどちらをも拒否できる
言明を現実と非現実に振り分けるゲームですね
そう、言明を真と偽に振り分ける行為
それが理論に携わる人間の営み
俺はそれを「現実」「妄想」という表現に置き換えただけ
理性の役割は、本物と偽物とを分かつことにあり、
哲学の目的のひとつは、そのためのものの見方を見いだすことにある(神野先生の文より)
まとめると「間違った知識を排除する方法を確立すること」が哲学の目的のひとつ
897 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 22:21:25 0
そんなことはいいからはやく質問に答えてやれよ。
だから、問いの前に先行する疑念が「想像(非現実)」
問う行為によって要請されるのが「現実」
「想像」と「現実」の区別とは、そのまま真と偽の区別に等しい
>>894>>898 いや、その前に「何をもって浮気とするか」を判然とさせなければならない。
が、これは亭主(妻)によってまちまちだ。つまり、浮気/非浮気は主観に拠る。
仮りに、ある男が妻に疑念を持ち、彼の主観的見解?に基づき「浮気」された
ことが明らかになったとする。(現実問題として、これは至難だが)
では、この場合、浮気は「現実」であり、君の好物の“真”と言えるのか。
“浮気”が彼の主観的判断であるかぎり、「浮気された」ことは所詮、彼の
“幻想”である。これを“真”と称するには無理があるのではないか。
ちなみに浮気ではないが、姦淫についてのキリスト教の見解は明瞭である。w
だから、所詮は、真/偽(無意味)を決めるゲームなんだって
楽しくゲームしようぜ
だから
>>898 はこうも言いかえることができる。
彼は「浮気されたのでは?」という疑念(妄想)を独断的に「浮気された」
という現実(確信)に塗り替えただけだ、と。
“現実”という概念は極めて怪しく、それに拠る“真”もまたしかり、である。
902 :
天才君:2008/08/21(木) 00:41:23 0
現実は、「私」の信仰の体験だからね。
信仰自体が、実体験から離れると、体が置き去りにまります。
体が無いというならば別ですが…。
903 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 01:32:03 0
>>898 なにとんちんかんなことばかり言ってるんだ?
「想像」と「現実」を区別してることはだれでも知ってるんだよ。
どういう条件がそろえば「これは現実だ」ということが言えるのか。
あわれな夫が「妻は浮気をしている」と言えるためにはどうなればいいわけ?
いいかげんに答えてくれないかな。
現実は信仰体験ではないように思う。
信仰体験はむしろ人生である。
つまり、人生は事実の総体ではない。
903
とんちんかんなことを言ってるのはどっちだ!
「現実」と「想像」(真と偽)の二分の意味を俺は説明した
だが、それに対して「真の基準を示さなければ無意味だ」と君は言う
俺は「基準はないし、基準がなくとも二分の意味がある」と答えている
なぜ基準を答えなければ、この区別は無意味になるのか
この部分の論証を放棄しているのは誰だ?
そして、少なくとも偽の定義はできる
「矛盾した発言は偽である」
君が言う「どういう条件が揃えば」
これは基準だ
この場合は事実を問題にしているから
君が質問しているのは真理基準だ
そして、それについて俺は「そんなものは誰にも分からない」と答える
で、君は「じゃあ無意味だ」と答えるのか?
それは、言葉の基準と意味の混同をしている
真理観(どのような答えが真理なのか)と
真理の定義(真理の定義とは何か)という異なる問いを混同しているのです
だいたい大学一年の哲学基礎購読で真っ先に教わったぞ
哲学は「何が真理か」を考える学問ではない
何が真理かなんて皆知っている
「真理とは何か」について考えるのが哲学だ、、と
具体的な答え(真理基準)を求めるのは、大学に入る前くらいの青臭い青年の考え方じゃないのか?
すまん、久々に頭にきた
こんな青臭い奴が、ストーカーしているとは思わなかった
もっとマシな奴が絡んでいると想像していただけにショックだった
910 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 05:53:54 0
>>906 それは偽の一部にしかすぎないのであって、定義としては不十分ではありませんか。
それに、矛盾許容論理というのも考えられるし。
901
夫が問いを放棄するならば、そう言えるでしょう
独我論者などはまさにその通りでしょうね
しかし、あなたの説明に対して、わたしが問いを放棄する理由が説明がなされてない以上
わたしが、確信することを拒否することはできるはずです
(「とりあえずもっともらしい方を選ぶ」と説明しましたが、これは確信でしょうか?)
また、何でもかんでも想像と現実をごっちゃにできるかというとそうではありません
言葉には客観的な修正圧力があるからです
夫が矛盾を拒否するならば、いくつかの興信所の調べに対して、しぶしぶ夫は妻の浮気を認めざるをえないかもしれない
矛盾を気にせず自分の想像を現実だと確信することは正しい(現実に合致している)かもしれないが
それは、非論理的という強い意味で非合理的です
つまり、「想像(偽)」と「現実(真)」の二分は合理的に(論理を使用して)事実について考察する際の必要不可欠な基準である
910
定義としては不十分だろう
だが、矛盾は偽の一部だ
矛盾許容論理は言葉を使ったまともな推論自体が成立しなくなるから
「pである」「pならばq」から「qである」を導くことすらできない
論理を研究対象とする場合にはいいが、それ以外ではまるで役たたずだ
913 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 06:20:47 0
>>912 モデル化せずに、現実に即して述べる場合、矛盾の現れこそ浮気があったという事実を
表すような気がするが、そういう話ではないのか・・・。
ab
理論の複合全体に矛盾があったとしても
そこから該当の言明が偽であることを導き出すことはできない
言明全体がすべて真であるわけではないというだけであり
理論全体のうち、どこか一部を変えれば該当の言明を救える
このことは、言い換えれば、
理論全体のうちどこかしらを修正せねば、該当の言明を救えないということである
このような修正圧力を認めることができるかどうかがここでの議題である
ある言明を決定的(確定的)に偽であることを論証することは不可能である
しかし、矛盾した関係を偽と見なすならば
両立不可能な関係にある言明を挙げられた時、その双方を同時に正しいと見なすことはできない
ある関係(理論全体)が矛盾していることを指摘され時
彼が該当の言明(「妻が浮気している」「妻が浮気していない」)を救おうとするならば
彼は修正圧力に耐えうるように
理論全体のどこか一部を変革するか、破棄するか、
もしくはトリビアルでない形でそれらができない場合、
該当の言明を破棄するという選択肢をとらねばならない
915 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 08:00:29 0
>>914 いや、実際問題として、言明は偽か真のどちらかであるから、みて見ぬふりをしない限りは
いつかはお互いのやりとりの中で、集積した事実の中からどちらかであると判明する
と思うのだが、素朴すぎ?
916 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 08:14:05 0
>>914 人間について言えば、個人個人はある事実に対する信仰や、理論という名の信念に基づいて
行動するのであり、信仰の矛盾は、絶対的に、ある態度の変更を要請するのである、つまり
その信仰の一部に対する矛盾は、信仰全体の真偽に及び、そこから該当の言明が
明らかになるのではないか。
915
普通はそうでしょ
自然科学の分野とかは議論し続けることで見解は近づく
考え方が分裂したところで、だいたい似たり寄ったりになる
浮気の話だって一般常識で考えれば、妄想と現実の区別はつく
哲学の世界では、したり顔で非常識を言う人間がいるだけ
雷の被害を避けるのに、避雷針を立てるのと雷神様に生け贄を捧げるのが同じくらい効果がある、
とかを真顔で言い立てるバカが哲学の世界にはいるだけ
哲学ではこの手のアホダラ経が流行しちゃった
918 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 08:52:53 0
おおざっぱに言って、私という現象は、外界からの刺激に対する、選択的脳反応と、その反応
についての自己評価からなっていると思う(「内省と遡行」という柄谷行人の本があった(未読))
。受動的ではあるが。
919 :
天才君:2008/08/21(木) 08:53:37 0
人間は身体を持っているという前提は天才君でさえ崩さない。
崩さない理由は、天才君でさえ、人間と交流するのであり、
人間は心と体をもっている。つまり「私」は心と体で成り立っていると一応了解した
上で他人と交流する。論理でも立場(身心)に相当する体がある。
つまり、前提条件だけれども、その前提条件は「私」達の信仰に依存する。
犯罪だって、体が何処にあるのかという点が事実とされる。
アリバイとかテレビドラマでもよく言うが、自分の立場を無視した論理は、
社会制度の中でいうならば、空論でしょう。法にかかれば、事実追求は
体の在処を問う。
私は無責任の倫理を説いているのではなく、
身心を持った「私」達が発言している事を発言者自身に認めて頂けない人とは
このような公共の場での議論にはならないという事です。
つまり考える主体者が居ないならば、対象者も存在できないという事です。
よって全ての発言には発言者(身心)が存在する。
論理的営み以前の絶対条件は、「私」達は心と体をもっている。
天才君はこのように思う。
920 :
天才君:2008/08/21(木) 08:56:05 0
一言でいえば、自分が人間だという事をわすれてはいけないという事です。
921 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/21(木) 09:01:52 0
歴史とは神頼みの軌跡である
FAっすよ
922 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 09:06:11 0
人は愛を紡ぎながら歴史を作る〜じゃなかったっけ、いや、冗談です。
923 :
NAS6 ◆o1AYEkZmQU :2008/08/21(木) 09:21:42 0
嘘ですよ〜〜〜
全部嘘だったんです
真実の言葉は重いですね
924 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 09:36:02 0
>>920 科学VS人間。自然を人間化して、公害やチェルノブイリなどでしっぺ返しを食らう。
>>911 “浮気”の意味を明確にせずに、浮気の有無(真偽)をめぐる議論を転がしても
論自体は宙吊りにされたままである。もう一度、聴くが、君は何をもって浮気
とするのか? 妄想/現実、偽/真もこの定義にかかっている。
もう一つ、そもそも浮気は「悪い」ことなの?(返答は無用w)
終わりの4行は、はからずも君の“価値観”というか性癖をよく物語っている。
君は「現実に合致するかどうか(浮気の有無)」よりも、言明全体が論理整合的か
否かを重視する。これは真/偽を現実から切り離すこと意味している??
君の真理主義が砂上のそれのように、あるいは蜃気楼のごとく感じられるのは
それゆえではなかろうか。
>>917 自然科学によっては“浮気”の有無について結論を出せない。浮気の概念規定
が不可能だからだ。現に、君もできなかっただろう?
ある男(女)の妻(夫)の浮気は、当人にとっては妄想か現実か区別はつかない(らしい)。
シェクスピアでも読め。
雷に対して避雷針を立てるか、その他の方策を講じるかは文化の違い。前者の
優位性を無条件に信じているところにも、昔々の近代主義wを感じさせられる。
いや、それは大きな誤解だ
俺は整合説ではなく対応説をとる
したがって整合的であることではなく、事実との対応を重視する
で、砂上の楼閣だとか冗長な表現は結構なんで
意味と基準の区別に関する批判はないんですか?
要は、パトナムを読めということ?
客観的規範理念に従うことを由とする人とそうでない人がいる
俺は客観主義として、二種の問いの区別が批判に耐えられないものかどうかに興味がある
もとから規範に従わない人にとって砂上の楼閣かどうかはどうでもいい
928 :
なんてお節介な天才君:2008/08/21(木) 10:25:56 0
天才君は、基本的に思想は自由にもつが、
砂漠の住人である天才君は、蜃気楼には惑わされたくはない。
一方、蜃気楼に住む天才君なら、砂漠の住人に、蜃気楼でイタズラはしない。
天才君はなんて人間に優しいんだろう。
しかし蜃気楼に住む住人が、砂漠の住人にイタズラするならば、
それは蜃気楼であると、砂漠の住人達に伝えたい住人でありたい。
天才君は、この地の客人であり、この地で生きる人間である。
>>927 だから、浮気(の事実)とは何?と幾度も質問しているではないか。
それに答えないと、対応説も成り立たない。
926
そういう雷の回避の区別を同等と見なすどころか
西洋科学は支配の道具だから劣ったものだとか
うんたらかんたらアホ発言をたれながす連中が本当に増えた
俺が以前に引用したのはそういうアホ連中を嘲笑したアングラ怪文書だ
21世紀の現代では、そんなアホな発想は公然とバカにできるようになった
アホな発想をアホとはっきり言える。
いい時代になったもんだ
931 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 10:32:28 0
>>927 普遍性を求めすぎると、すなわち外延を広げすぎると、内包が、つまり意味内容が乏しくなって、
具体性に欠けることもあり、論理のつながりを見いだしにくくなりますよ。
929
知るか!
夫がそれを知ってたら最初から夫は疑念を持ちようがないだろ
なぜ、わざわざ、答えたら仮定が崩れるような質問に答えないと
仮定が無意味扱いされなきゃならないんだ?
>>930 よく読め。だれも、そんなことは言っていない。
いつから、君まで曲解好きになったのだ?
ちなみに自然科学だって諸概念は論争を通じてその把握されかたが変遷する
最初から基準があるわけではない
まぁいいや
話を転換させよう
俺と君では理念を検討したり議論をしたりする目的が異なるのだろう
俺はポパー主義者として
自然科学を含む理論的営みを
問題―解決の営みと理解する
君は、自然科学ないし議論をどう理解するのですか?
931
もとから求めてない
客観的規範理念に従うことが無意味であると考える人たちがいる
本当にそうなのか?
俺の疑問はそれだけ
アングラ怪文書では、真理値を気にしない人たちが発する言葉を嘲笑した
本当にそうなのか?
客観的規範理念は正当化可能かどうか、が俺の問い
そうであるならば、相対主義でもかまわない
文化相対主義だろうが、客観主義にコミットしている限りどうでもいい
俺の問題意識は主観主義的な相対主義
つまり、なんでもありで破壊的なハードな相対主義に向いている
936 :
文字通りなんでもアリ君:2008/08/21(木) 11:07:39 0
なんでもありが破壊的とは限らないですよ。
なんでも無いのも、なんでもアリですからね。
要は、変幻自在で柔軟ななんでもアリもありますからね。
つまるところ、なんでもアリであっても、「私」の信仰が
根底にあります。
「何が現実(真)で何が現実でない(偽)かを合理的に判断しようという姿勢」
そういう姿勢を持つことが正当であるかどうかは、普通、問題にされない。
普通は、根拠もなく盲目的に受け入れている(そう教育上躾けられている)。
根拠もなく盲目的に受け入れていることに気づいた後で、その正当化が問題とされる。
で、普通の常識を保った人は、根拠もないけど正当な姿勢として受け入れようと心に決める。
ここで、そういう姿勢を受け入れる主体的で責任のある判断の大人っぽさ・かっこよさは、
その後の人生にとって有益なことであろうが、哲学にとっては二次的なことだろう。
根拠もなく盲目的に受け入れていること、その気づきが本質的だろう。
938 :
信仰君:2008/08/21(木) 12:02:10 0
>>937さんが、
>根拠もなく盲目的に受け入れていること、その気づきが本質的だろう。
と表現する所を、私は信仰と絶叫しています。天才君の言葉でいえば、
己の信仰に気づく事、つまり「私」の信仰が「私」である。
天才君は「神」を信仰していますから、「私」は神です。
神とは創造主ですから、「私」はなんでも可能です。
このような事は、私にとって哲学の問題ではなく、
どちらかといえば、心理学でしょう。
自己規定が「私」でしょう。
で、「他」は「私」の自己規定のフィルターによって
いかようにも変化して観察できる。
フィルターが無い状態は、「他」の存在がただ在り、
それ以外のフィルターという自己規定(信仰)が観察できる状態です。
では天才君の信仰は何によって定められるかといえば、神のみぞ知るです。
つまるところ神頼みです。天才君は「他」に宿っている神頼みを観ている世界の住人だと
いうことになりますね。
「正しさとは何か?」と「何が正しいか?」はやはりどちらも哲学の
問題足りえるし、またどちらお哲学者の一課題である。
そして、「正しさとは何か?」だけを考えるというのは難しいように
思う。というのは、個別ケースをどうしても想定する必要があるし、
また個別ケースを解くことが定義の問題に資するからである。
もうひとつは「客観的規範理念」の問題。
ケルゼンは「規範の意味は最初から誰でも知っており定義不能だ」と言った。
彼はおかしくなっていたのだろうか?
そうではない。
ケルゼンは「これまでの規範の定義は、今まさに定義されるべき規範的な用語
を使った循環的なものであるか、あるいは事実に還元されたものであるかの
どちらかだ」ということをこの発言によって指摘したのである。
そして、規範を意思の立法に求めた。
すなわち、「規範とは意思することによって生まれる」。
ではここに客観的規範理念はあるのだろうか?
それともないのだろうか?
私には分からない。
941 :
左右翼君:2008/08/21(木) 14:21:01 0
私も「私」に規範があるのか?と考えた時、解らないと考える。
しかし、「解らない」というのが規範であると仮定するならば、
規範の有無の問題ではなく、規範の有無の自覚無しでも生きているのが人間だ。
人間である「私」の存在は疑えない。
よって存在自体が規範であると天才君は考えざるを得ない。
つまり天才君が考える規範は、「私」の存在である。
しかし「私」を語り尽くしても「私」という存在を言い尽くせないと同様、
規範も語り尽くせない。規範は「道」のようなもので、人生を振り返った時、
規範が在った事を知るくらいであろうし、規範が先にあるのではない。
このように天才君は考えます。
一方で、社会的規範は、道徳や倫理という流行に左右される。
業界規範もあるし、男女の個別化された規範もある。
しかしこれらの規範は流動的である。流動的な規範ならば規範とは言わず、
「流行」と言う。社会的規範は「流行」であり、「私」の規範は「存在」であるというのが
天才君の思想です。
942 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 14:26:09 0
>>907 > 君が言う「どういう条件が揃えば」
>これは基準だ
基準ではなく条件だ。
>この場合は事実を問題にしているから
>君が質問しているのは真理基準だ
意味不明。必要条件と真理基準を混同しないように。
>そして、それについて俺は「そんなものは誰にも分からない」と答える
>で、君は「じゃあ無意味だ」と答えるのか?
答えない。おれが言うのは「じゃあ区別がつくなんてほらを吹くな」だろうな。
「区別をしている」と「区別がつく」のは大違いだからな。
>真理観(どのような答えが真理なのか)と
>真理の定義(真理の定義とは何か)という異なる問いを混同しているのです
真理観は「真理とはなにか」であって「どのような答えが真理なのか」ではないし
真理の定義は「真理とはなにかを定義すること」であって「真理の定義とは何か」ではない。
真理の定義にあらわれるのは定義主体の真理観だよ。
したがってそれらの言葉を混同しているわけではない。
943 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 14:27:40 0
そしてわれわれは「現実」と「非現実」を便宜上区別しているが
そのことを強調することに哲学上意味はない。あたりまえのはなしだからだ。
それが意味をもつのは生活上もしくは自然科学上であり
そこでの区別の普遍妥当性は17世紀にすでに破綻している。
自然科学の方法を擁護しこれを讃えるものであるポパーの哲学は哲学というよりむしろ政治的だ。
>哲学は「何が真理か」を考える学問ではない 何が真理かなんて皆知っている
>「真理とは何か」について考えるのが哲学だ、、と
>具体的な答え(真理基準)を求めるのは、大学に入る前くらいの青臭い青年の考え方じゃないのか?
おいおい、そんなことも知らないとでも思っているのか。おめでたいやつだな。
結局のところおまえがやっていることは不可知論の上に浮かんだ単なる心理学的記述でしかない。
だれかが言った砂上の楼閣というのはそこを指摘しているんだろうな。
>俺は整合説ではなく対応説をとる
>したがって整合的であることではなく、事実との対応を重視する
といっておきながら>浮気(の事実)とは何?
と聞かれると
>知るか!
と答えるような立場ははたして一般的な意味における合理的といえるのだろうか。
しかも普遍性を求めていない公言するからには「批判的合理主義的方法はある領域でしか妥当しません」
と主張していることになる。
>>854をだれが書いたか知らないが
ここにおける2、普遍化可能性のチェックに耐えなければならないという
理論的営みであることの前提を放棄するという非常にアナーキーな主張だ。
これは非常によろこばしいことではないか。
944 :
質問君:2008/08/21(木) 14:55:03 0
>>942 >真理観は「真理とはなにか」であって「どのような答えが真理なのか」ではないし
>真理の定義は「真理とはなにかを定義すること」であって「真理の定義とは何か」ではない。
>真理の定義にあらわれるのは定義主体の真理観だよ。
つまり「定義主体の真理観」が、「別の定義主体の真理観」を
「定義主体の真理観」と言っているのでしょうか?
だって、「真理の定義は「真理とはなにかを定義すること」とおっしゃるわけですし…。
945 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 15:13:10 0
>>944 ある主体がその真理観に即して
別の主体の、「真理観という言葉の用法について」意見を述べているだけだよ。
望んだような答えになってるかな。
946 :
天才君:2008/08/21(木) 16:22:59 0
>>945 なるほど、「真理観という言葉の用法」が人によっては違うという事ですね。
私は、「私」を主体にした観点から双方の思想の傾向をみると…。
真理の定義は「真理とはなにかを定義すること」という事で、創造的な行為。
一方、真理の定義は「真理の定義とは何か(と問う事)」という事で、発見的行為。
この違いでのやり取りをされているのでしょうか?
947 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 16:34:40 0
>>946 ごめんね。なにいってるのかさっぱりわからないや。
948 :
天才君:2008/08/21(木) 17:04:39 0
>>947 ああ、すみません、手をわずらわせました。
無視してください。
949 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 18:18:30 0
>>948 あ、いま見直したらわかったよ。
> 真理の定義は「真理とはなにかを定義すること」
ここがおかしかったんだね。
書き直すよ。
真理の定義は「真理とはなにかを定めること」
ストーカー
長い、、
携帯からじゃだるいな
俺は「普遍化可能性のチェック」と言ったんであって
「普遍性のチェック」とは言ってないんだが
こんなつまらんミスするからポパーも読めないんだよ
どうせお前は、反証と反証可能性の区別もできないんだろ?w
ストーカー
・真理
これは真理以外で考えてみればわかる
正義観と正義理念は区別できる
ある正義の定義を正当と主張することは、その定義に対する正義観の発露なのか、それとも真理観の発露なのかw
ストーカー君は、「真理」「正当」などの種々の理念を混同して言葉を使用している
真理の定義とは簡単に言うとこういう質問だ
「あなたは『真理』という言葉をどのように使用しているのですか?」
・必要条件
ストーカー君は、真理の必要条件を質問しているのか?
必要条件なんて数学で使う言葉が、なんで現実を問題にする真理に関わってくるのか疑問なのだが
「真理の必要条件」てのは誰が使っている言葉なんだ?
あとは言葉がグチャグチャしてて読む気が起きない
もうちょっと整理した文章を書いてくれ
本を読んだ経験が文章の明瞭さを培うんだぜ
つーか、どんな本を読めばそんな腐った文章が書けるんだよ
953 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 19:01:40 0
>>950 > 俺は「普遍化可能性のチェック」と言ったんであって
>「普遍性のチェック」とは言ってないんだが
普遍化可能性を必要とするということは
普遍化が不可能であったと自覚しているにせよそれを標榜しているということだ。
つまらない言い逃れをしないこと。
>こんなつまらんミスするからポパーも読めないんだよ
>反証と反証可能性の区別もできないんだろ?
いや、わかるよ。ポパー教徒以外どうでもいい概念だがなw
>ある正義の定義を正当と主張することは、
正当化のはなしなんてだれもしてないが。混同しているのはどっちだ?
>真理の定義とは簡単に言うとこういう質問だ
>「あなたは『真理』という言葉をどのように使用しているのですか?」
で?
>真理の必要条件を質問しているのか?
ちがうよ。
>必要条件なんて数学で使う言葉が、なんで現実を問題にする真理に関わってくるのか疑問なのだが
ここは笑うところだよな。
> 「真理の必要条件」てのは誰が使っている言葉なんだ?
おまえだけだよ。
>あとは言葉がグチャグチャしてて読む気が起きない
>もうちょっと整理した文章を書いてくれ
もっと易しく書いてやったほうが良かったか?
細かくレスするな
こっちはコピペできないんだ
1、普遍化可能性は個別性の禁止だ
「わたし」などの主観的用語が入った理論はないだろ
この種の個別理由付けの禁止のチェック
「論理のチェック」もそうだが、ある理論にかかる修正圧力の話だ
2、不明瞭な文章を書く技術だけ上げてどうする
論旨が明快でストレートな主張を書くのが現代のトレンドなんだよ
荘厳な文章なんてのは今流行りの自己欺瞞ってやつだ
間違ってもいいから、分かりやすくストレートに書く
これが21世紀のスタイルなんだよ
ストーカー
3、真理の定義の真理
「真理」という言葉を説明するのにその真理を問題にするというのはハイセンスだな
定義に真もクソもないだろ
もうちょっと反論しようと思ったが疲れた
場違いなバカは消えろ
ROMがお前に対して邪魔だって感じてるぞ
956 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 19:29:27 0
>>954 >細かくレスするな
>こっちはコピペできないんだ
知るかよ。
>1、普遍化可能性は個別性の禁止だ
そうだよ。だからどうだというんだ。
おまえ意味もわからず引用しているだけだろ。
それがどのような帰結をもたらすか理解できてないんだよ。
> 2、不明瞭な文章を書く技術だけ上げてどうする
ほんとに曲解ばかりだな。おまえにあわせて
レベルをさげてやろうというだけのはなしだよ。
・普遍化可能性
分かるわ、ボケ
「個別性」てのは俺の言葉だ
夢君は「単一性」と表現した
形容詞ってあるよな
形容詞は様々なグループに共通する性質を表す言葉だ
「あれは白いけど、これは白くない」と発言したら
あれとこれの違いが普遍化可能な形で区別できるとして
そのような違いを挙げなければならない
先の表現は「これはこれであれはあれだ」以上のことを発言したと見なされる
これが普遍化要求だ
958 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 19:42:16 0
>>957 長文出来ないなら、パソコンで書いて携帯にメールで送ってコピーして2chに投稿するといいよ。
なんで、お前みたいなバカ相手にいちいち説明しなきゃなんねーんだ
俺にも相手を選ぶ自由はある
960 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 19:50:50 0
>>957 馬鹿で話の筋が理解できないようだから解説してあげるけど、
おまえがしなくてはならないのは
普遍化可能性をチェックするという動機に普遍性への希求が存在しないことを説明することだよ。
さぁ、わかりやすく説明したまえ。できるんだろ?
960
矛盾の有無のチェックに恒真であることを希求しないがごとし
普遍化可能性要求は個別理由付けを禁止する
これによって排除されるのは「あれはあれ、これはこれ」という説明が
言葉として何の説明もされていないために破棄されるということだ(天才君がよく使う表現は破棄される)
これに対して、「普遍性の希求」とは、、、何だろう?
当の表現を挙げたストーカー君にご説明いただくとするか
普遍化可能性の例で俺はよく論理の例を挙げる
PならばP
果たしてそうか、「左辺のP」と「右辺のP」は異なる
異なるものが同じとは矛盾である
上のような批判は両者の違いを個別による違いしか挙げていないため破棄されねばならない
ある実験が反証例となった
その時「この実験は、まさにこの実験であったからこそ失敗した」という言い訳はできない
「温度、湿度などが悪かった」「撹拌が足りなかった」などと普遍化可能な言い訳をする義務がある
(このような言い訳は次の実験につながる言い訳である)
963 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 20:39:45 0
>>961 それじゃ同じことだ。
普遍可能性概念の解説を繰り返してどうする。
ほんとコミュニケーション能力がないな。
はよ、説明してみろ。
>これに対して、「普遍性の希求」とは、、、何だろう?
質問で返すな、ばかたれ。
「普遍性の希求」とは「普遍性を求めること」だよ。そのままだ。
そんなに難しいか?これ。
本に書いてない言葉は理解できないのか?
このような普遍化可能性を求めることは
ストーカー君が言う普遍性の要求とは関係ないと思うのだが
965 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 20:43:59 0
>>962 ほれ、それじゃ
>>960に答えてないぞ。
たまには自分の頭を使って考えてみろ。
>>964 だからなぜ関係ないのかを説明しろといっているんだよ。
分かりやすくな。
「あれはあれ」「これはこれ」という理由付けが何の説明にも
なっていないことは分かるのだが、そういう理由付けをする人は
実際には全然いないように思われる。
例えば、「私がやってよいと思うから」というのは、普遍化可能性
があるのである。なぜなら、これは「私は私だからやってよい」と
いう理由付けをしているわけではないからである。
967 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 21:29:08 0
>>935 普遍性を求めてないということは、個別的、個人的、特殊的であるということですか。
あなたの客観的規範理念というのは、「焼きが回った」というような客観的には
自明で説明不要であり、かつ特殊な状態を指す言葉のように、そうなった場合
の自分を救ってくれるような説明、帰属的語句を探すことであるように思えますが、
どうなんでしょうか。
968 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/21(木) 22:10:25 0
言葉とは文字通りに受け取ることができるだけではない。そこから各人が自由な連想をつなげる
ことができるのであり、その限りでは言葉は無限の可能性を持つ。本来意図された意味内容
を受け取ることは、客観的規範性の要請であると思われるが、その有意味性は、誤解を防ぐ、
アナーキズムに陥らない、というところにあることが考えられると思う。つまり、円滑なコミュニケーション
が可能となることである。完璧な規範など存在しないので、負の面もある。それが、自由の
制限、可能性の制限である。
969 :
天才君:2008/08/22(金) 00:52:42 0
>>954 > 1、普遍化可能性は個別性の禁止だ
> 2、不明瞭な文章を書く技術だけ上げてどうする
こういう事を言うことは自由だが、あなたの発言内容は、
主観的用語を持ち要らないだけで、極めて主観的内容の連発です。
まずは、このスレタイである、
【私】を記述してください【私の存在性】
を記述することをお勧めします。個別性自体の主題をどのように普遍化可能性に
結びつけるのでしょう?
天才君
俺はI think をつけるのを否定しないし
個人が意見を言うことを何ら否定しない
だが、個人が発した言葉は議論の場においていくつかの規範による圧力を受ける
将棋のルールがしっかりしているからといって、自由に駒を動かせないわけではあるまい
それとも、「駒の動きからも自由」と叫びながら
「将棋をする自由」を放棄するのかい?
Ab
普遍性と普遍化可能性は区別してくれ
大きい違いだ
俺が普遍性を求めていないというのは、
将棋を指すように、相手との言葉のやりとりを認めているということ
ただ、そのような会話、言葉のやりとりにおいても
自分勝手な言葉を好き勝手に並べていいわけじゃなくて、いくつかのルールがある
「王手をされたら王は逃げなければならない」のように
これらのルールは将棋というゲームを成立させている
じゃ会話は?
会話におけるチェックメイトは矛盾だ
両立不可能な関係の言明の指摘は、それだけで王手をかけたのと同じだけの圧力をかけたことになる
では、王手を受けて王を将棋盤の外に逃がす行為はどうか
彼は「自分の王は詰んでない」と無矛盾で言い張れるのか
972 :
考える名無しさん:2008/08/22(金) 02:07:30 0
>>969 自分だけ自由で他人の議論には自由を与えないんだな
議論に参加する価値はないんじゃないか?
矛盾が会話の終着点ならば、それはやはり整合説なのではないだろうか?
対応説では事実と言明の不一致が終着点であるように思われる。
ところで、規範に関する会話において矛盾を終着点とするのは
狭すぎるように思われる。というのは、私が観る限りでは、
規範体系間で矛盾することは多々あるのだが、それらが内部で
無矛盾と言うのはよくあることだからである。
これは法律において顕著である。
王手をかけることと実際に玉が詰むことは異なる
王手をかけられた時、彼は駒の動きに著しい制約を受ける
俺は、議論においてある状況になった時、
彼が言明に関する制約を受けると言っている
終着点は端から気にしてない
・対応説
俺は整合説ではなく対応説をとる
これは、無矛盾なだけでなく、
事実と反するならば偽と斥けられるべきであると考えているということ
では事実の基準とは?
俺はそれは分からないが
ある人が「Aが事実である」と言い、別の人が「非Aが事実である」と言うならば両者が同時に正しいとはありえないことを認める
各々は無矛盾で整合的であっても両者は正しいわけではない
あとは素直に観察に反するならばそれは偽とされるべきであると考えている
このような考え方から対応説を支持する
つーか誤解を避けるためはっきり言おう
俺は議論に終着点はないと考えている
終着点のような発想がすっぽり抜け落ちているのがポパー思想の特徴だ
>>974 少し君の言い方を変えると「Aが事実である」「Bが事実である」「Cが…」
という事態はありうるのではないか。たとえば“浮気”のような場合は。w
君はまた「事実の基準はわからない」とも述べている。それは「ある」けれども
「わからない」のか。それとも、そんなもの(基準)はないのか。
どちらの場合も、結局、たとえば浮気(の事実)の基準は主観の判断に委ねられ、
主観の数だけあることになってしまう。“客観的”基準は立てられないということだ。
基準が「わからない」にせよ「ない」にせよ“事実”を確定できないのだから、
対応説はその根拠を失なうことになる。
977 :
天才君:2008/08/22(金) 10:34:20 0
>>970 >個人が発した言葉は議論の場においていくつかの規範による圧力を受ける
そうですよ。そういう圧力も含めて議論は万人に開かれて成り立っています。
実際の現場である、ここであってもそうでしょ。
978 :
天才君:2008/08/22(金) 10:40:15 0
>>972 >自分だけ自由で他人の議論には自由を与えないんだな
自由はすでにあたえられていますよ。今でもね。
私もその一人として発言しています。
定義に根拠もクソもないと思うのだが。
対応説は「真理」という言葉をそのように使いますよってだけだ
そりゃ文化が違えば言葉の使い方も違う
別に整合説だろうがいいんだよ
そのように「真理」って言葉を使うというだけなんだから
誰だかが哲学と関係なく
ライフスペースの「定説」と同じ使い方をする「定説説」を提唱したとしてもかまわない
そのように言葉を使用してますよって約束でしかないんだから
定義(用語の使用法)には根拠はないし、必要ともしない
ただ、整合説では、
内的整合性があれば反駁も不可能になってしまう
この欠陥を克服するために対応説の立場をとるというだけ
先の例に挙げた通り、ある男が「Aだ」と言い、別の男が「いや、違う」と言う
双方とも内的整合性をもっている以上、2人の発言は共に真理なのか
いや、われわれはそのようには「真理」という言葉を使わない
とりつく
・「Aである」「Bである」「Cである」
排中律を前提とするならば
妻は、「浮気をしている」か「浮気をしていない」かのどちらかである
夫が、そのどちらだろう?と悩むことはあっても
そのどれもが正しいのではないか?と悩むことはないだろう
それを認めるならば、妻は「浮気している、かつ、浮気していない」という状態になる
あなたはそのような重ね合わせの現実を指摘しているのですか?
977
では、君、天才君も規範に従っているのですか?
天才君はそのような規範から自由なのですか?それとも自由ではないのですか?
とりつく
・「確定できないのだから根拠を失う」
素晴らしい発言です!
で、「確定できる」ということがあなたにおける重要な価値観なのですね?
「確証不可能性からの議論」というものがあります
わたしは確証可能性テーゼそのものを破棄します
趣味は人それぞれ
不確定な指し将棋を好む人もいれば
確定的な詰め将棋を好む人もいるでしょう
わたしは指し将棋を好みます
あなたは詰め将棋を好む
お互いに嗜好が異なるのです
>>980 そのとおり。彼は妻が浮気しているかどうか、主観的に決めつけるだろう。
それを「事実」とみなすだろう。
君の言う“真”とは、彼が主観的に判断した、この「事実」に対応すれば
いいわけだね?
983 :
天才君:2008/08/22(金) 11:12:15 0
>>977 規範が私に従うのです。私の行為そのものが規範です。
だから自由という事です。あえていうなら「欲」でしょうか。
984 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/22(金) 11:25:58 0
>>979 定義の自由さは、各人の好みに合わせて議論を展開できるので、いい感じですね。
しかし、意味のある理論を構築しようと思えば、その自由さは狭まってきます。
定義する際に、その定義を採用した基準というか、原因となったことがあるはずですね、
定義は各定義間で、うまく調節することも必要となってきます。周りを気にするKY、とは
ちょっと違いますが。自然科学なんかはその辺がほんとに厳密ですよね。哲学の場合は
知識量とセンス(才能)の問題になってきますが。
982
重ね合わせ状態は皮肉で言ったんで、曲解で返されるとは思わなかった
皮肉を言ったことは謝る
で、あなたの意見通りなら夫は問いを消失してしまう
わたしは、夫の疑念とそこから問いを発することを仮定して、「想像」と「現実」の二分を区分けしたにも関わらず
あなたは、問いの消失を説く
ここにわたしとあなたの違いを読み取れる
わたしにとって、理論的営みの目的が問題-解決であるのに対して
あなたの目的は、いかにして問いを消失させるかにあるようです
>>981 おいおい、変なふうに議論をもっていくなよ。そういう逃げ方をするから
ストーカー氏(失礼)にからかわれるんだよ。
君は「真」とは論理整合的であるかどうかではなく、「事実」に対応して
いるかどうかである、と断定している。
なら、なにが「事実」であるかを確定せずに、どうやってそのことが「真」
であると言い張れるんだい?
そこを曖昧にする君の立場は、整合説だよ。
指し将棋の腕はたいしたことあるまい。
986
俺は何らかの言明を「真である」と言い張ることはしたことがないし、
これからもずっとしないだろう
一気に脱力感を感じたからこのへんで終わりにしてくれないか
988 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/22(金) 11:52:15 0
将棋の例が挙がっていますが、議論とは、言語ゲームである。その際のルールとはどのように
決まってくるか。また、ルール変更はないのか。
私の考えでは、その場その場で、ルールは両者間の合意(意識的であれ無意識的であれ)
によって決まり、また、大文字のルールとして、論理があげられる。ルールを変更する
場合には、よっぽどの理由(両者間の意見の不整合とか、意図的にゲームの勝敗を
気にするとか)がある。
>>985 いや、それも曲解だ。
ひとたび生じた「相方が浮気しているのでは?」との疑念(問い)は、
だれにも消しようがなかろう?w
が、この問いはもう一つの「問い」を要する。何を指して浮気(の事実)
とみなすのか。
もし、それが事実か否かを認定する基準がないのなら、その場合は
“対応説”は成り立たない。いや、主観的にしか成立しない。独断的に
浮気の有無を決めつけるしかないということだ。w
990 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/22(金) 12:17:34 0
>>989 過去を確かめることは不可能に思える。化石や遺跡から推測したりするしかない。現在を
用いることによって推測をする。それなら真理はどこにあるのか。真理などなく、信仰だけが
あるのか。人間の記憶というものが鍵になる。浮気の例では、浮気相手を特定して、
本人に聞くことで事実であることを確かめるのがもっとも確実であると思われる。
991 :
天才君:2008/08/22(金) 12:18:42 0
私などは、疑念自体が独断だと考えますからね。
これは信じるか、疑うかという二つの選択の一つを独断で選択した。
独断でない発言などどこにもないですから。
この辺をみなさん認めないといけないね。
989
あなたに対して真面目に議論を交わす情熱を失ったのでまったりいくぜ
あなたが夫につきつける選択は、独断か破壊的懐疑かの二択である
なぜ夫はそのような呪われた二者択一を選択しなければならないのでしょうか?
ある事実を真として受けられる受容、信頼の基準を
確証可能性よりはるかに緩やかに解釈することによって、この二者択一を回避することができます
二つの回答のうちもっともらしい方を暫定的に受け入れるということでしのぐことができます
もしかしたら浮気しているかもしれないけど、興信所がこれだけ調べても浮気とリンクする事実が挙がらなかった
暫定的に浮気してないと受け入れるか、、
こういう選択は
俺が思うことが事実だ、俺が浮気していると疑ったんだから浮気したんだ
というような独善的な判断よりずっと健全です
Ab
浮気はここでは比喩
ホントに浮気をしているかどうかが問題になっているのではなく
われわれ哲学に携わる者が、
問いを建てそれと取り組みながら様々な理論を用いて検討する営みの是非、それが焦点
994 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/22(金) 12:42:13 0
>>991 独断にも程度があると思う。絶対こう思う、こう主張する、こう信じるという発言と、いや、自信
ないんだけど何となくこう思う、というのと。文章である程度はわかりますが、他人に向ける
ときには、あるいは思考の癖か、独断的な決断を迫られることがありますね。
>>994 横レスになるが、彼の発言はつまるところ「浮気しているかどうかを
確定的に決めなくてもいい」ということであるように思われる。
だが私は次のように思う。
「日常生活は最初から呪われており、暫定的決断というものはあまり
受け入れられない」
と。私が繰り返し法律を出すのはこのためである。
996 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/22(金) 12:48:50 0
>>993 議論の焦点が、いまいちわからないのですが、現実と想像について両者の区別がつけれるのか、
つけかたは、と言うところでしょうか。私の浮気に関する議論で、この焦点をはずしているところを
指摘していただけたらありがたいのですが(自分ではわからないので)。
997 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/22(金) 13:17:00 0
自分で考えてみたのですが、既出の意見に従ってみると、「何が現実か」を考えているのが
私で、哲学的に問題となるのが「現実とは何か」ということかな。
998 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2008/08/22(金) 14:04:23 0
>>995 現実には、法律に違反すると逮捕されて刑罰を受けねばならない。裁判ではその際情状酌量
の余地があるなどというが、取り締まりの性格上こういうシステムになっているのは仕方ないことである。
これは他者に対するときに、誤解や行き違いを生んだりすることに対応しているのではないか。
呪われているというのはその通りだと思います。
999 :
考える名無しさん:2008/08/22(金) 14:45:03 0
ネコの野郎、議論を引っ張るのはうまいね。
ゾルちゃん、がんばらんかい。
なんだ、ネコだったのか
道理で基準や確定性にやたらこだわるわけだ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。