【私】を記述してください。【私の存在性】 3

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933考える名無しさん
>>902
>>“確たる客観世界”はあるの?ないの?
>我々は、「あると見做して生きてゆく」ほかに術を持たないのでは?
>「ないと見做して生きること、ないと見做した場合の日常」がどのようなものとなるか、想像はなかなか困難
だ。

>(※私は、唯識思想には詳しくないし距離を置いているので、今の所は触れずにおく※)

日常的で常識的な差別の世界に生きることと、その現実の根源(深層)にある
生成の世界、無差別の世界などを洞察することは、両立するのでは?

>>721に引用した井筒俊彦は次のように書いていた。
【しかし、それよりもっと大事なことは、東洋的哲人の場合、事物間の存在論的無差別性を覚知しても、
そのままそこに坐りこんでしまわずに、またもとの差別の世界に戻ってくるということであります。
つまり、一度はずした枠をまたはめ直して見る、ということです。そうすると、当然、千差万別の事物が
再び現われてくる。外的には以前とまったく同じ事物、しかし内的には微妙に変質した事物として。】

仏教(少なくとも大乗仏教)は、日常的現実を遊離した思想ではない。
「哲学は常識を破らずに常識を超えることだ」と言った哲学者がいたが、
それは哲学だけでなくて、仏教にもそのまま当てはまるだろう。

君のように、“確たる客観世界”を「ないと見做して生きる」って言うより、
根源(深層)的にはそれが無いことを洞察しつつも、我々有限な存在者は
それをあるかのように見做して生きざるを得ないと言えばいいのかな…

存在の深層にある縁起と空を悟った坊さんにとっても
富士山は富士山であるw