>>937 >また何より、ここは仏教スレではないので・・・・。
>(もっとも、仏教で用いられる手法は有効だと思うので、
>仰るように(仏教という枠を超えて)両立させてゆくことも可能とは思いますが、
>>933で言いたかったのは、仏教でも哲学でも、「常識を破らずに常識を超えること」
をしようとすれば、現実に対する日常的な見方と、その深層への洞察との二重性が
生じるということ(本当は二重性ではないのかも知れないが、少なくとも常識的な見方
からすれば二重性と見える)。その場合、二重写しに見ることで微妙に変化しはするが
日常的な見方が破られるわけではないということ。
なんでそんなことを言おうとしたかというと、このスレにいる幾人かの人(よく読ん
でいないのでよく分からないw)がそういう二重性を無視しているような気がしたから
でもあるが、直接的には君の、【「ないと見做して生きること、ないと見做した場合の
日常」がどのようなものとなるか、想像はなかなか困難だ。】へのレス。
例えばニーチェによれば、世界は「生成」(これは「変化」という意味ではなく、
変化する事物もない「生成」)であるが、我々は生きるための有用性から、
固定した事物を想定して生きている。ニーチェはこういう生成の固定化を、
「あらゆる有機体の根本誤謬」であると言う。
ここにも二重性があることがすぐ分かる。
「根本誤謬」(常識的・日常的な見方)の真っ只中に生きていながら、
世界の深層(真相)を洞察しているw
哲学とはそういうものではないだろうか…
>そういう西洋哲学(或いは思想)はどんなものがあるんでしょう。歴史的に有名なのは誰?
ハイデガーはその中心概念の幾つかが、「性起」「放下」などの仏教語が
訳語として定着しているぐらいだから、仏教との親近性があると思う。