>>466 言わんとすることは解りますよ。
≪対象とは、認識されることによって対象たりうる≫と。≪認識されるから、それは対象である≫と。
(そうすると貴方はネコ氏と同じ立場ということになりますが・・。)
哲学的用語としてはそうでなければならないのかもしれません。
別の言い方をすれば、(所謂一般的意味での)外界(≒認識の外)は存在しない(或いは不可知である)、と。
或いは、上の流れを受ければ、≪映じているものそのものそれだけが対象である≫と。
影絵の例でいけば、『障子に映った影』が『対象』であり、
その元となった『手』は、あるかないか・どのようであるか等全てに於いて不可知であり、不問に付されるべきものである、と。
『障子に映った影』のみで考えるべきだ、と。
ただ、そのような厳密な幅で定義をしてしまうと何も言えなくなってしまうので、
対象という言葉の指し示す対象の範囲を広げて(何だwこの言い方はwww)、
未だ(直接的に)知り得ていないモノも、(将来「認識の対象たりうる可能性を含むモノ」として)仮設して
“対象”と括っています。その意味でいけば、認識の内にも外にも「対象」はあるとする立場でしょう。
(尤も、話題の俎上に挙げられる際は既に「対象」たり得ているわけですが・・・w)
或いは、≪認識のもととなる(きっかけとなる)何ものかが、主観の外にある≫とする立場でしょう。
『障子に映った影』に焦点を当てた時・それを考察した時(思考の中心とした時)は、その“影”が対象であり、
その元となった『手』に焦点を当てた時・それを考察した時(思考の中心とした時)は、その『手』が対象となります。
(この時、「結局考察してるんだから、どちらも意識内のことだから(認識されている対象だから)認識の外は無い」
とすることも可能です。
ただ、私は個人的に、この方向性を避けたいと思っていますが・・w)
それは、ネコ氏が嫌う言い方をすれば、
≪外界を想定(設定)する立場、外界はあるだろうと類推する立場≫
ということになります。