1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2000/11/24(金) 04:25
倭国というのは日本人の国なのですか。
3 :
名無しさん@1周年:2000/11/27(月) 09:00
おぉ、この見出しは良い。日本領なんていうと誤解されやすいからね。
任那は倭国領だったのは確かでしょう。
4 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 10:04
倭国とは「やまと」国ということでよろしいですか?
5 :
名無しさん@1周年:2000/11/27(月) 12:47
誰もが疑いなく 倭=やまと と言えるのは六世紀はじめの
継体天皇以後じゃないですか。
それ以前は 卑弥呼とかヤマタイ国とか諸大王とか いろいろについて
さまざまな説があって いくつかの有力な説もあるけど どうなんでしょう。
ただ 倭が任那と共通文化圏だったのは確かだとおもいます。
6 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 15:39
任那は倭領だったなら 税金はいくら払ってたの。
7 :
日本@名無史さん:2000/11/27(月) 15:52
特産品とかあったの?
8 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:06
はんげ
9 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 02:45
>6
任那調の相当額?
10 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 08:28
奴隷っていうか労役もやっていた(やらされてた)のかなぁ。
属国だったのか同盟国だったのか同胞だったのかで
ずいぶん違うだろうし、どうなんですか。
11 :
:2000/11/29(水) 16:33
そんな大袈裟な体制は無かったんじゃない?
お金も無かったろうし。
集団農場程度だったとか。
ぶつぶつ交換みたいにね。
12 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 22:54
任那がどうとか言う以前に当時の中央王権の
地方支配自体の中で考えるべきだよね。
当時は地方に大王が屯倉をおいて税収などを
徴収するのが一般的な地方支配の方法だった。
公地公民制以前のお話だからね。
13 :
日本@名無史さん:2000/11/29(水) 22:57
べつの言い方をすると大和王権の地方支配の一環として
任那の支配を考えるべきだと思う。
もちろん、任那は倭国の外の領域に位置するものだと
考えられていたのだけれど(倭王武の上表文)
14 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 01:48
日本は韓国領だつたと聞きました。
白村江に敗れた日本は新羅の支配下に入ったと。
15 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 02:05
>14
屈折しまくった電波な鮮人は、歴史を捏造しようとして、
余計にみじめになるだけ。(わらわら
16 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 02:10
>>14 信じれば?それであんたが気分爽快になるのならそれでよし。
17 :
日本@名無史さん:2000/12/01(金) 03:09
18 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 16:11
前のスレッド潰されちゃいましたね。
19 :
日本@名無史さん:2000/12/13(水) 17:40
20 :
日本@名無史さん:2000/12/14(木) 01:05
あげるよん
21 :
日本@名無史さん:2000/12/14(木) 01:45
こっちが本家ですぅ。
ウヨ達と語り合いたい人はもう一つの方へ。
22 :
日本@名無史さん:2000/12/14(木) 12:29
あげ
23 :
日本@名無史さん:2000/12/14(木) 20:04
本家上げ
24 :
日本@名無史さん:2000/12/14(木) 23:07
age
25 :
名無しさん@1周年:2000/12/15(金) 10:18
日本とか カンコックとか言うのは メッ、無しよん。
ここでは任那と倭についての考察なんだからねー。
千年以上も時差呆けモンは 格子つきの病院へ Goしてねぇ。
26 :
名無しさん@1周年:2000/12/15(金) 11:17
ボケモン!!
27 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 14:39
以上、結論。
任那は倭国領だった。
=========終了=========
========END=========
======fine======
28 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 14:41
#######終わってもたな#######
.
29 :
日本@名無史さん:2000/12/15(金) 15:32
再開あげっ。
任那と倭の関係について語り合おう。
30 :
日本@名無史さん:2000/12/16(土) 02:44
なんか、前のスレを無視して勝手に結論出してる人が
いるんで、もうちょい詳しく言うと、
346年に楽浪郡と馬韓をまたぐ位置に百済が出来ます。
続いて356年に辰韓、弁韓、馬韓をまたぐ位置に新羅
が出来ます。
そして369年に進出した倭軍が新羅と戦って勝ち、
旧弁韓、旧馬韓にかけて占領し、任那と名乗ったわけです。
ですから、あくまで武力占領したに過ぎない領土でなのです。
31 :
日本@名無史さん:2000/12/16(土) 02:46
でなのです。→なのです。
32 :
日本@名無史さん:2000/12/16(土) 12:18
あげ
33 :
日本@名無史さん:2000/12/18(月) 10:17
>30
>そして369年に進出した倭軍が新羅と戦って勝ち
新羅軍を破るほどの軍隊を海を渡って送り込むほどの
経済力や軍事力が倭にあったんですか?
なんかイメージわかないけど。
それからナゼ行ったのかも知りたい。
34 :
日本@名無史さん :2000/12/18(月) 12:55
>33
倭国が船で大陸に渡った記録は57年に倭奴国王が使いを
後漢に送ったことでも判るとおり古いです。
あと、倭国が朝鮮半島に元々無かったことは、魏志倭人伝
の里程記述から明かでしょう。
新羅に勝ったのは邪馬台国以降の大和王権が確立される頃
で、充分に軍隊を送ることが可能であると思います。
理由は判りませんが、朝鮮半島に領土をもつことは
対朝鮮、対中国大陸との貿易等に都合が良いのでしょう。
前スレには縄文嵐が吹きまくりで 任那どころじゃないみたい。
36 :
日本@名無史さん:2000/12/23(土) 01:46
あげ
昔から、日本は、朝鮮から文化を輸入してきてるでしょ?
または、中国→朝鮮→日本という風に・・・
秀吉などは、朝鮮から優れた技術者を大勢さらって来たり・・・
それに、古代の日本人は、朝鮮系北方民族と南方民族の混血民族だと聞いてるぞ。
さらに、南北民族を比べた場合、高い文化は、北方民族が持ち、
日本は、古代から、北方系に支配されていたという仮説もあるそうだ。
故に、古代の支配階級は、朝鮮系だったと考えられる訳だ。
最近では、DNA鑑定調査もされてる筈じゃないか?
隣国に敵対心を抱くのは、世界的にもありがちだけどさ。
君の言ってる事よく分からないよ。
38 :
日本@名無史さん:2000/12/24(日) 17:01
君って誰?
39 :
日本@名無史さん:2000/12/25(月) 16:02
>日本は、古代から、北方系に支配されていたという仮説もあるそうだ。
>故に、古代の支配階級は、朝鮮系だったと考えられる訳だ。
仮説は証拠があって事実になっていく。
肯定証拠、否定証拠を比較しないとね。
40 :
日本@名無史さん:2000/12/26(火) 13:24
2002年ワールドサッカーは白村江戦以来の
半島、列島合作国際イベントだムニ。
41 :
日本@名無史さん:2000/12/28(木) 12:23
弥生っていう共通項はあるな。
どっちが支配してたのかおいといても。
親戚ほどでなくても同族意識はあったろう。
42 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 15:47
以上、結論。
任那は倭国領だった。
=========終了=========
43 :
日本@名無史さん:2000/12/29(金) 15:52
再開あげ。
さらに 任那と倭の関係について語り合おう。
44 :
名無しさん:2000/12/29(金) 16:26
中国の文献にも日本のにも書いてあるんだから当然でしょ。
高句麗まで攻めに行ってたしね。
議論の余地無し。
45 :
名無しさん:2000/12/29(金) 19:16
>>33 バカ。
好太王碑にも書いてあるだろ。三国史記にも。
46 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 20:11
改竄碑文ムニダ。
47 :
日本@名無史さん:2000/12/30(土) 21:20
↑却下
以上、結論。
任那は倭国領だった。
=========終了=========
49 :
日本@名無史さん:2001/01/29(月) 14:53
再開あげ。
さらさらに 任那と倭の関係について語り合おう。
もう結論でてんだからいつまでも上げるな!
以上、結論。
任那は倭国領だった。
=========終了========= ?
52 :
日本@名無史さん:2001/01/30(火) 16:54
>>5に賛成。
白村江の戦いまでは日本列島と半島の歴史は
はっきり区別できない。
53 :
日本@名無史さん:2001/02/13(火) 03:28
日本書紀を見ると、任那はミマキイリヒコ(崇神)の名を与えられて
ミマナと名乗るようになったとある。
これを素直に読むかどうかだな、
崇神がミマナ出身であったのか、ミマナを追い出されたのか、
54 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 15:30
あれ?? これ似たようなスレッドなかったか??
55 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 15:35
日朝同祖論が今最大の注目株
56 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 15:48
57 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 15:57
新羅人と倭人の名前がかなり似通っているのが何よりの証拠
倭人が新羅に渡ったとかぬかすデムパもいるが
実際のところは元々一つの民族だったと見るほうが自然。
58 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 16:02
「パカクヒョッコセ」と「オカメヒョットコ」が似てるのか?
59 :
日本@名無史さん:2001/02/19(月) 16:19
良く似てるねえ、やっぱ同祖だな。
60 :
>59:2001/02/19(月) 16:24
新羅人と倭人が同祖なんて逝われて喜ぶのは
カンコックだけ。
61 :
日本@名無史さん:2001/02/20(火) 01:42
>>1にも書いてあるように他国への中傷は禁止ですよん
ところで任那という名前が流通していた時期は
いつからいつくらいまでにしぼられるでしょうか?
62 :
日本@名無史さん:2001/02/20(火) 04:47
同時代資料からは上限はよくわからん。
下限は倭王武の上表文478年までは認めるとしてその後は謎。
日本書紀を認めるとして562年の任那滅亡まで。
それと対外的には「倭国」でも対内的には「やまと」だったりするように
任那と加羅を内外で使いわけたという説もあるようだ(個人的には賛成できないが)
63 :
日本@名無史さん:2001/02/20(火) 04:50
ばーかチョンチョン♪
64 :
日本@名無史さん:2001/02/20(火) 06:23
これから日韓新時代に突入、我々はウリナラだったんだあ!
65 :
日本@名無史さん:2001/02/20(火) 06:49
マンセー! マンセー!(漫才)
66 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 03:13
>>62 倭王武の上表文478年よりまえに任那という使用はないのでしょうか。
あと、任那=加羅を否定する資料とかありますでしょうか。
67 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 06:40
任那は廣開土王碑にでてくるよ。
否定する資料は特にないと思う。
68 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 21:52
いまでいうところの日本の勢力圏が半島にもあったというのは動かしがたいのですね。
69 :
日本@名無史さん:2001/02/21(水) 21:56
>68
しかし、撤退させられた
70 :
日本@名無史さん:2001/02/22(木) 03:02
>69
だから、奪回しなければならない
71 :
日本@名無史さん:2001/02/22(木) 14:40
奪われたのをいまさら奪返そうとは思わないけども、
Japan/Korea双方の人々がそういったかこの事実についてちゃんと認識をするべき。
事実を隠したりうそをついたりするのが双方のためにもっともよくない。
72 :
日本@名無史さん:2001/02/23(金) 00:33
>>53 逆にそこからミマナの名前がつけられたという考えもありませんか
73 :
日本@名無史さん:2001/02/23(金) 22:57
我々の先祖ミマナイリヒコ?
74 :
日本@名無史さん:2001/02/24(土) 23:43
「みまきいりひこ」から任那の地名がおこった。
その逆ではない。
75 :
匿名希望さん:2001/02/25(日) 00:11
そもそも、このすばらしい現代日本と古代の倭は同じ国家なの。
倭が朝鮮半島と関係していたのは事実だと思うけどね。
76 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 00:20
倭と任那は対等でもなかっただろう
倭の古墳が沢山出てきてるのを見ても
任那や百済において倭系権力者が多かったことを裏付ける。
77 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 00:47
>>76 別にそれが倭系が多かった確たる証拠にはならんだろ。
埋葬者がそうならそうだろうけど。
78 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 13:34
もしかしたら、倭と任那と百済は同じ言語圏だったのかな?
79 :
>78:2001/02/25(日) 14:43
そうなんじゃないか?任那と百済は完全に倭の
勢力圏だったからな。
80 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 17:15
>>78 >もしかしたら、倭と任那と百済は同じ言語圏だったのかな?
じゃ何語しゃべってたんだよ? 逝ってよし
81 :
名無しさん:2001/02/25(日) 21:53
今の朝鮮人と古代朝鮮半島にいた人々は同じだろうか。
今の朝鮮人は歴史書がない。
後年満州から下ってきた民族ではないか。
元の民族は皆殺されたか追い出されたのではないか。
82 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 23:09
あげ
83 :
日本@名無史さん:2001/02/25(日) 23:51
>>81 今の朝鮮人は「朝鮮人」というひとつの民族であるが
昔の半島はいろいろな種族にわかれていた。
「古代朝鮮民族」というひとつの種族だったわけではない。
84 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 02:53
高句麗の歴史書だと任那は対馬のこと、
元々は我々の土地だったと主張してる、となにかで読んだ。
どっちもどっちか。
85 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 03:04
>>84 それは「桓檀古記」に代表される一連の檀君文書。
近代になって捏造された偽書で、ダイソウ教っていう民族宗教の教典なんだよ。
日本では佐治芳彦や鹿島昇や田中勝也のオカルトライター3バカトリオが広めた。
知らなかったんなら厨房かドキュン。
知ってていってんなら確信犯の煽りか電波鮮人。
86 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 04:01
古代から
「朝鮮民族」なるものが
存在したとか主張する、
ひがみ鮮人逝ってよし。
(七五調)
87 :
日本@名無史さん:2001/02/26(月) 23:10
朝鮮民族の形成は新羅がつぶれたあとくらいかな
88 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 05:39
>>87 あれ、そんなに引き下げちゃって怒られない?
それとも渤海と新羅が統一して、って話かな?
89 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 16:19
かつて日朝同祖としても現在はまったく異物と思うが?
90 :
日本@名無史さん:2001/02/27(火) 16:32
確かに今の半島人は北方系ということは遺伝子からも明白。
しかし ここでは任那についてですよね。
92 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 13:33
任那はわからないけども、百済は新羅と別民族だったよね。言語も別らしいし。
93 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 14:30
新羅は辰韓人(漢人系)を土台にしつつも高句麗、倭、その他近隣の諸族が混成した新興民族。
百済は馬韓人(先住民)の上に扶余族(北方系)が支配層としてのっかった典型的征服国家。
任那は政治的単位だから東部と西部では文化の様相は異なる。
東部の加羅諸国は文化的にはかなり新羅と似ている。
94 :
日本@名無史さん:2001/02/28(水) 22:32
任那には日本人は定住していたのでしょうか?
95 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 05:00
>>94 ほかのスレッドに出てきたけど「韓子」ってことばがあったくらいだから住んでたでしょ。
新羅に住んでるくらいだから任那にはなおさらいたでしょう。
でも「倭人系任那人」ってことになると思うけど。
96 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 20:21
日本には任那人は定住していたのでしょうか?
97 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 21:37
まさか
98 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 21:42
たぶん東漢氏がそうです。
99 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 22:15
半島での倭人の規模はどれくらいだったんだろう
新羅や百済に強い政治的影響力を及ぼすほどの勢力だったんだろうか
100 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 22:49
101 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 22:54
漢(アヤ)は安羅伽耶ですよ。
102 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 23:21
>>101 漢(アヤ)は呉(クレ)と対比的に使用されており
当時の大陸の北朝と南朝をさしたことは明白。
しかも漢(あや)の語源は漢帝国の出先機関である楽浪郡の
「楽浪」rak-lanからの転訛である。(李炳トウの説)
(アヤは古朝鮮語で「中央の国土」を意味し「中国」の翻訳。その現地語に
中国人が「楽浪」と当て字したものらしい、
このへんまでは韓国の学界でも認められていたと思うがね。)
もし安羅伽耶をこじつけるとするならば、時系列からいって
東漢氏が任那を経由した時に分家を残したところだろう。
東漢氏がその家伝どおりに漢室の子孫かどうかはさておき、
少なくとも楽浪系漢人に起源することは疑いない。
ヒガミ鮮人は漢人系帰化人をすぐ「実は朝鮮系」といいたがる傾向があるが
「実際は漢人系より朝鮮系の方が朝廷では重んじられていたのに
わざわざ出自を隠して大陸系を名乗ることなどありえない」
と中国の学者から突っ込まれる始末。
自分じゃ言えないもんだからこの時とばかり喝采する日本の学者もなんだかなー。
ま、学界なんてそんなもんだ。
103 :
世界@名無史さん:2001/03/01(木) 23:23
任那が倭国領だったかどうかはわからないが
倭国(当時完全に統一されてたかどうかは知らないが)
が任那になんらかの利権を持っていたのは間違い無いと思う。
その任那の維持に当たって百済は重要な同盟国だったのではないかな。
白村江の戦いも、百済の救援って事になってるし。
>倭国が海をわたって軍を送れたか
これは結構簡単だったと思う。
今の日本人に繋がると思われる倭人と言われる人々が
それまでの土着の縄文人と外来の弥生人の混血であるというのは
弥生人と縄文人の身体的差異からも明らかだろう。
弥生人らがどこからきたのか
朝鮮半島経由説 中国沿岸説 突飛なところではブータン発祥説なんてのも
何かで聞いた事があるが
どこから来るにせよ海を渡って来る必要がある。
何より任那のあった時代、東日本方面は後に蝦夷といわれる
人々の勢力圏だったはずだが
朝鮮半島側の方へ進出を図っている事自体
倭国の主要交通手段が海運だった事を物語っている。
104 :
好太王碑文に対する中国人の見解:2001/03/01(木) 23:41
王建群・吉林省文物考古研究所長『好太王碑研究』(吉林人民出版社)で、
8項目に渡って、朝鮮学校・李説を否定する見解を述べています。
1.雙鉤本は、拓本を造るよりも手間が掛かり熟練を要し、素人が短期間に
作ることは非常に難しい。また、書道や金石文に精通していなければ
作成不可能であることからも否定的で、酒匂は通溝の地元の石摺り業から
拓本を手に入れたと考えられる。
2.酒匂雙鉤本は131枚の紙が使われ、漢学者達は順序通りに並べられず、
酒匂を呼んだけれども、本人にもできなかったことから、酒匂が自ら
作ったものではなく、なおさら改竄は不可能であると考えられる。
3.酒匂雙鉤本は、著者の碑文との照合から判断して、碑文の本来の姿に
忠実であるよう努力しており、意識的に改竄されたような痕跡がないと
考えられる。
問題の箇所は、「倭以辛卯年来、渡海破百残、??[新]羅、以為臣民」。
これらの文字は、実際に石碑にそう彫られているもので、改竄されてはいない。
字形、点、画も、石碑にもともと彫られていたものに忠実である。としています。
4.参謀本部の主要メンバーの横井忠直の記述では、甲子の役(日清戦争)の
頃に持ち帰った拓本にも、既に辛卯年の記述があり、その後改竄する必要がない。
5.もし碑文を偽造するなら、酒匂雙鉤本を基にすれば良く、二度も三度も
現場まで行って偽造する必要はない。
6.日本側が、好太王碑を買い取り、日本に持ち帰ろうとしたのは事実であるが、
もしも、「石灰塗布作戦」が事実ならば、持ち帰って衆目に曝すと謀略が
ばれるので、「石灰塗布作戦」を行ったとは考えられない。
7.李説では、石灰が見られない水谷拓本を1930年以降としているが、実際には
水谷拓本にも、そして現在でも石灰が残っており、拓本の時期に錯誤がある。
8.石碑近くに在住した初天富親子や李清太も、日本人が石灰を塗ったとは
見聞きしておらず、敵対国の日本人の集団が人知れず行うのは、当時の清朝が
軟弱であったとしても不可能である。
105 :
新羅と百済は倭の属国だった:2001/03/01(木) 23:43
「倭以辛卯年来、渡海破百残、??[新]羅、以為臣民」
これは好太王碑文の一部分。
「倭は海を渡って百済と新羅を破り、これを属国とした」
106 :
日本@名無史さん:2001/03/01(木) 23:44
>漢(あや)の語源…「楽浪」rak-lanからの転訛である。
似とらん
107 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 00:10
>>105 好太王が「あいつが先にぶったんだもーん!ボクぶちかえしただけだもーん!」と
言ってるわけだ。
108 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 00:17
好太王碑見ると倭がたびたび高句麗領内を侵してるのが判る
百済軍との連合軍が主だったそうだが
とりわけ倭軍は精鋭だったようだ、鉄製の武器防具を多用してたり。
109 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 01:21
>>102 >(アヤは古朝鮮語で「中央の国土」を意味し「中国」の翻訳。その現地語に
×アヤは古朝鮮語で「中央の国土」を意味し
↓
○アラは古朝鮮語で「中央の国土」を意味し
ちなみに
「楽浪rak-lan」→「アラa-la」というのは、
語頭のrが落ちるのは現代韓国語でも李のリがイになるようなもの、
kとnが落ちるのは古朝鮮語が日本語のような「子音+母音」という構造で
子音のみの発音がなかったためかも知れないが、
もともと「アラa-la」という単語に「楽浪」の字を当てたのなら
後々まで原語の「アラa-la」が残り、楽浪系漢人の集落として
「安羅」(加羅諸国のひとつ)という地名が残ったのはあり得ることだろう。
日本語の漢(あや)はアラが訛ったものであるが
東漢氏が「安羅国」との関係を一切伝えず漢人系という伝説しかもたないのは
始祖についての伝説だからであって、安羅は途中経過の話だから省かれたのだろう。
>>106 >>漢(あや)の語源…「楽浪」rak-lanからの転訛である。
>似とらん
そんなもんだよ。転訛ってのはいきなりゲロッとかわることじゃないし
言語ごとに音韻体系もアクセントもイントネーションもちがうんだから
表記だけみて「似とらん」っても、そんなもんだよとしか言えないな。
逆にソックリな単語を並べるのはトンデモ系に多いけどな。
110 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 01:30
>語頭のrが落ちるのは現代韓国語でも李のリがイになるようなもの、
アルタイ諸語・日本語・朝鮮語では、単語の文頭にはラ行が来ないから、
rが抜けることは、言語学的には充分にあり得ることでしょう。
それで思い出したけど、フランス語では、単語の文頭にhの発音が来ないそうで、
HONDAの発音は、何回言っても「オンダ」になってしまう話を聞きました。
111 :
日本@名無史さん:2001/03/02(金) 21:24
>それで思い出したけど、フランス語では、単語の文頭にhの発音が来ないそうで、
イタリア語もそうでしょ?
スペイン、ポルトガルはどうなんだろうね?
112 :
日本@名無史さん:2001/03/04(日) 01:40
>>110 語頭のrは、他の子音にかわったのでしょうか?それともたんに落ちただけ?
113 :
日本@名無史さん:2001/03/05(月) 05:05
110さん、答えてあげないの?
114 :
日本@名無史さん:2001/03/05(月) 07:17
>rが抜けることは、言語学的には充分にあり得ることでしょう。
と書いてあるじゃん
115 :
113:2001/03/05(月) 22:58
>114
あ、そうか。スマソ。
116 :
日本@名無史さん:2001/03/07(水) 01:54
age
117 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 00:44
>>114 それはそうなんだけど、例えばどういう例があるのよ?
118 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 04:05
それは韓国語なんか典型的じゃないか。
[lee,ree,ri,li](李)が[ee,i]になるようなのでしょ。
このネタは、まじめな質問ならば言語学の板にでもスレ立てたらいかが?
119 :
日本@名無史さん:2001/03/09(金) 13:46
ウラル・アルタイ系としてよく一律に云われますが、
確かに日本語はRで始まる言葉は当初より殆ど無かったのであろう、
が、しかし外来語として入った場合は抜けることはなかったのでは
は?
螺でん、蘭、蘭奢待・・ETC
120 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 05:10
でも、もともと[a-la]に近い現地語があって、後から「楽浪」と当てたのなら
もとの現地語が残って不思議ではない。
121 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 13:48
なるほどと云いたいが、かなり無理がありそうだ。
頭のRはそれとして、後ろのRまで変えてしまうのは?
122 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 16:35
楽浪→「アヤ」と読めるんだったら、どんな地名でもこじつけ自由自在だろう。
お気楽なひとたちだ。
123 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 17:14
>>122 古代史など所詮こじつけの歴史ではないのか?
124 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 18:18
>>122 「アヤ」じゃなくて「アラ」
>お気楽なひとたちだ。
李炳寿にいってくれ。そいつの説だから。
125 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 18:21
現代語の発音でいったら似てないの当たり前だろうが。
無知蒙昧な素人は逝ってよし
126 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 18:47
どうしても大和朝廷の勢力範囲が朝鮮半島にまで及んでいたと想像できません。
端的にそこまで広大な領土を大和朝廷が保有していたとする論拠はなんですか?
そもそも碑文なんて言うのは王業を褒め称えるためにことさら破った敵を誇張して
書かれるのが常ですし、公開土王碑文に書いてあることだけを論拠にするのはつら
いでしょう。
また、公開土王碑文の「倭」については「大和朝廷」を指すのではなく、単に「朝
鮮半島南方の勢力」という程度の意味しか読めないはずです。これを「倭=大和朝
廷」と解釈する根拠はなんでしょうか?
あと、日本書紀が国威発揚の視点に立っていることから考るとこれだけを根拠にす
るのもどうかと思います。
127 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 19:10
>という程度の意味しか読めないはずです。
「はず」ってなんだ、「はず」って。
ちゃんと碑文読んでるのか?
128 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 19:19
>>126 古代史など所詮こじつけの歴史ではないのか?
129 :
日本@名無史さん:2001/03/10(土) 20:11
↑カスの論理
>>126 日本の史書にも中国の史書にも朝鮮の史書にも高句麗の碑文にも
同じ事が書いてあるからだよ。
中国や朝鮮の史書は読んだ事ないかね?図書館行って見てみぃ。
131 :
名無しさん:2001/03/10(土) 20:36
古代史は資料を元に研究する学問手法と現代の政治から解釈する
政治解釈手法がある。
政治解釈はご都合主義なのでころころ変わる。
これはなんでもありである。資料は嘘,書いてあくことは出鱈目,
言いたい放題だ。論理以前の問題だ。
だから学問派は政治グループを相手にしてはいけない。
回答が始めから用意されているからだ。
朝鮮人は日本人が古代の朝鮮を支配したことに民族主義的な恐れを
持っている。再支配されるのではないかという不安があるようだ。
また彼らは古代の歴史がないのだ。出自の分からない不名誉な民族で
ある。こうした点から日本の半島の歴史を否定するのに躍起である。
学問派はまともに相手にすべきではない。
133 :
日本@名無史さん:2001/03/11(日) 03:58
>>131 >また彼らは古代の歴史がないのだ。出自の分からない不名誉な民族で
朝鮮人って、実はそう言うことなんだな。
134 :
日本@名無史さん:2001/03/12(月) 06:16
うむ。なかなか素晴らしい名スレだ。
アホサヨクは懇切丁寧に説明してやっても
しばらくたつとまた同じ議論を蒸し返してくる。
それにつきあってやる人々はえらい。
しかしアホサヨは、根気強く嫌がらせをしてるのか、
はたまた本当に底抜けのバカなのか…?
135 :
日本@名無史さん:2001/03/12(月) 07:42
うむ。なかなか素晴らしい名スレだ。
クソウヨクは懇切丁寧に説明してやっても
しばらくたつとまた同じ議論を蒸し返してくる。
それにつきあってやる人々はえらい。
しかしクソウヨクは、根気強く嫌がらせをしてるのか、
はたまた本当に底抜けのバカなのか…?
136 :
日本@名無史さん:2001/03/14(水) 20:47
>>126 公開土王は広開土王(廣開土王)だとおもいますが、
海を越えてきたということは日本の勢力によって攻められたとおもいます。
137 :
日本@名無史さん:2001/03/17(土) 09:06
冷静に歴史上の出来事ととらえれば、
日本が半島へ進出していたというのは事実であろう。
(ただし、それをもって現在どうこうというのは、なしね。)
138 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 06:19
あげ
>136
朝鮮南部から、海を越えて高句麗を攻めるとは、
なんとも都合のいい解釈ですなあ。
140 :
日本@名無史さん:2001/03/18(日) 07:37
海を越えたって、倭国からきたからじゃないの?
「海を越え」という時点で、出発地は朝鮮半島から海を隔てていたと
認識されていた場所だろう。日本列島以外に自然に考えられる場所はある?
(こじ付けならいろいろあり得るが)
142 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 06:46
日本が半島に権益を持っていたのは確実かも
143 :
日本@名無史さん:2001/03/20(火) 10:06
少なくても権益を持っていればこそ
百済に要請された際、援軍を派遣したのでしょう。
144 :
日本@名無史さん:2001/03/22(木) 14:46
九州王朝と百済ってほとんど同族とかんがえてよいのでしょうか?
145 :
世界@名無史さん:2001/03/22(木) 21:34
いいわけないぞ。
九州王朝なんて無いんだから。
146 :
日本@名無史さん:2001/03/24(土) 13:07
147 :
名無しさん:2001/03/25(日) 20:50
問題は日本が古代朝鮮に出兵して現地を支配したのが、大変長かったことだ。
300年近い。明治以降の韓国支配38年など問題にならない。
どんな影響を残したのだろうか。
当時の朝鮮人は辺境の蛮族であり、国や国王とはいっても名前だけで、
未開の部族が離合集散していたのではないか。
文化遺産は何もない。
日本や支邦の古代史や高句麗の碑に記録されているだけである。
148 :
日本@名無史さん:2001/03/25(日) 21:33
支邦ってどこの国?
149 :
日本@名無史さん:2001/03/25(日) 21:42
「那」と「邦」を同じ字だと思っている中学生?
150 :
名無しさん:2001/03/26(月) 00:23
前に文字がないから、ニンナは直轄じゃないとか言ってた人がいたが。。。
369年に百済と通交するわけで、中央政権がなきゃ、そんなことできませんよ。
>>148,
>>149 よくわからんが「支邦」ってのは2ちゃんねる用語で「支那」のことらしいぞ。
既出(きしゅつ)を「がいしゅつ」っていうようなもの…?
152 :
日本@名無史さん:2001/03/26(月) 00:53
ただのばかに見えるが…
それが2ちゃんねる。
支那はIMEに登録されてないから、しょうがないじゃん。
155 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 01:54
このスレ勉強になるのでage
156 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 02:31
マジで「那」と「邦」を同じ字だと思ってるだけだろうな。
2ちゃんねる用語としてオレは認めんぞ(笑)。
157 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 03:08
私のしる限りでは「支那」の使用禁止は、戦後、中国政府がGHQに
働きかけ日本の法務、文部省を通じ、全国通達させたものだ。
とう小平死去後の「朝生テレビ」に出席した中国政府の役人は、
「中国と言う言葉があるのに日本人はわざわざ支那人という差別
用語を造って差別している」と一座を叱った。
この発言には二重の嘘がある。
しかし、居並ぶ中国専門家は黙って反論しなかった。
実に情けない連中だ。
恥晒しのためにテレビに出演しているのか。
国民としての中国人という名称は二十世紀初頭、国名論争の末に生
まれたものだ。
「支那」は唐僧、義浄が仏教経典から訳出した音訳語で、民国以後
も孫文、粱啓超等が「支那」を誇りを持って使っていた。
著名な女性革命烈士、秋瑾は詞のなかで自らを「支那第一女」と誇ら
しげに吟じ、詩人、柳亜子は国共内戦中、毛沢東に詞を送り、孫文と
並べ「支那両列寧」(二人のレーニン)と毛を讚えた。
言葉の語義は歴史と共に変わる。
「支那人」が誇りを失ったのは支那人自らの責任であり、差別された
からではない。
(略)
「産経新聞」平成十二年四月二十三日「斜断機」/黄文雄/より
158 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 04:36
支那が不都合なら,ロシア語のキタイはもっと不都合なはずだが
このことで支那人は文句をいったりはしないだろう.
中ソ間の対立がもっとも激しかった時期ですら
国名問題でもめたという話はきいたことがない.
159 :
日本@名無史さん:2001/03/27(火) 08:17
河北中国人は契丹人、女真人、渤海人、高麗人などの混血らしいから
その代表でキタイ(=契丹人)と呼ぶのはあながち間違いでもない。
160 :
日本@名無史さん:2001/03/28(水) 22:47
高句麗や渤海や契丹や金などの後継となる国って中国なの?
161 :
日本@名無史さん:2001/03/29(木) 05:48
秦(シン)はインドではマハー・ティーナと呼ばれて居た。マハーは大と
言う意味で、マハー・ティーナは大秦と言った意味。支那はティーナの漢
訳で、単なる言葉の逆輸入。インドのティーナがフランスではシナ(chine)
に成り、イギリスではチャイナ(china)に成った。中国はその中華思想に
因って、他国を見下して妙な当て字を付けたが、支那にもその響きはある。
日本人は自国を和(倭)と称しても、卑屈になった気はしないが、今の中国
が日本を倭(和)と称すれば、侮辱された気がするだろう。現実に中国では、
日本を侮辱して言う場合、倭を使って居る。
162 :
日本@名無史さん:2001/03/29(木) 09:56
「黄文雄」って2chでもよく見る名前だけれど何者ですか?
>>160 >高句麗や渤海や契丹や金などの後継となる国って中国なの?
そんなバカな。後継ってどういう意味かによるだろうけど、
満洲では、高句麗→渤海→…→金→清→満洲って感じじゃないの。
蒙古では、契丹→モンゴル。
もっとも中国政府の見解では
中国こそが中国領土内に興亡したすべての諸国の唯一の後継国家
ってことになるんだろうけど。
百済の上層民(王族/貴族/技術を持った者)は日本へ亡命して
完全に日本人と同化しています。ここに書いているほとんどの人が、
百済の血を一部受け継いでいることでしょう。
このように日本人は縄文人と弥生人の混血をベースとしたところに、
最後に半島から百済の人々がやってきて構成されました。
もちろん最後のはごくわずかですが、最後の大量移民で影響があるといえます。
ちなみに、韓国人の祖先は新羅ですので、百済とは民族も言語も異なります。
むしろ、百済は新羅と敵対しており、最後には滅ぼされてしまいました。
日本へ渡れなかった百済の下層民はどうなったかということですが、
そのまま新羅の影響下にはいったと考えられています。
そして民族としては同化していったわけですが、
それでもなお地域的な差別としては現在にまで尾を引いていると言われています。
165 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 14:51
全羅道って百済人なのかな?
166 :
日本@名無史さん:2001/04/01(日) 18:34
しらないけど、たしかに慶州や釜山のほうの人と顔つきはちがうね。
167 :
百済、新羅は300年倭のぱしりだった!:2001/04/01(日) 18:40
「魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述が見られる時期に、
朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を広げたことで一致。
宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代中期〜後期(5〜6世紀)
になると、朝鮮半島南部にいくつも見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。 」
300年以上も倭のぱしりをしていた連中が大和朝廷の始祖で
ある、などということがありえるであろうか?
168 :
日本@名無史さん:2001/04/08(日) 17:43
169 :
日本@名無史さん:2001/04/08(日) 18:16
たしかに全州のひとと慶州のひとが日本人の集団にまじっていたら
まず韓国の人だって顔だけでわかるのは慶州のひとのほうだね。
170 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 02:37
じゃあ、共通の祖先を持つ全羅道のひとたちとだけうまくやっていこう!
171 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 02:59
任那は熊本の水俣を発進基地としたそうな。
そやから、奈良朝の頃は水俣は葦北ともいい、
かなり朝廷に対して発言力をもった人物がおった。
172 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 03:03
百済から来たといわれている蘇我氏は古事記には竹内宿禰の
子孫と書いてあるそうです。竹内宿禰は三韓征伐の時の武将
です。倭の半島南部支配が300年にも及ぶのなら、たくさん
の倭人が半島に住んでいたはずです。
173 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 03:11
なーんだここは在日韓国人の集いの板か。
174 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 03:42
>>そもそも碑文なんて言うのは王業を褒め称えるためにことさら破った敵を誇張して
>>書かれるのが常ですし、公開土王碑文に書いてあることだけを論拠にするのはつら
>>いでしょう。
>>また、公開土王碑文の「倭」については「大和朝廷」を指すのではなく、単に「朝
>>鮮半島南方の勢力」という程度の意味しか読めないはずです。これを「倭=大和朝
>>廷」と解釈する根拠はなんでしょうか?
>
>日本の史書にも中国の史書にも朝鮮の史書にも高句麗の碑文にも
>同じ事が書いてあるからだよ。
>中国や朝鮮の史書は読んだ事ないかね?図書館行って見てみぃ。
こいつこそ三国史記をちゃんと読んでるかどうか疑問。
三国史記では倭が攻めてきたなんて書いてあることはまずない。
攻めてくるのは決まって「倭人」か「倭兵」。
高句麗・百済が攻めてきた場合には「高句麗」「百済」と表記されるのにだ。
ここから見ても新羅が「倭」を国としてではなく地方としてしか見ていないことが
わかる。
これに対し倭国に力がないのに「倭人」「倭兵」が猛威を振るえるわけないという
奴がいるかもしれないが倭寇を思いだして欲しい。倭寇は国を基盤にしているわけ
でもないのに李氏朝鮮に国家規模での脅威を抱かせている。
こういう理由から俺も「大和朝廷=倭」否定説に一票。
175 :
>174:2001/04/15(日) 04:00
三国史記には百済と新羅がそれぞれの王子を倭に人質として
差し出した、と書いてあったはず。日本の近畿地方で生まれた
前方後円墳は特に仁徳天皇陵の場合世界最大面積を誇り、
その規模の大きさから、それを作った集団は部族でなく
国家ととらえるのが正しい。それから日本の古い古墳より
2,300年新しい前方後円墳が旧百済、新羅、任那地域で
多数発見されており、倭が同地域を数百年に渡って支配
したことを裏付けている。
古墳の話、もう前スレで出てるやん。
つうかなあ、ド素人のわしでもおかしいと思うんやけど。
大和に国家が存在してることは反対されてないやんか。
その国家「大和朝廷」が「倭」と同じものであるかないかが問題なんやろ?
177 :
>176:2001/04/15(日) 09:51
墓の形式が継承されてるし、日本の史書、朝鮮、中国の史書でも
連続した国家として扱われているから大和朝廷=倭で間違い
ありません。
その「中国の史書」が
>>174で批判されたんでしょ?
ちゃんとそこの反論するのが先なんと違いますか。
179 :
>174:2001/04/15(日) 12:35
百済、新羅は倭に皇太子を人質に出して、朝献までするという平伏ぶり
だから、やっぱり百済、新羅から見たら立派な国だったんじゃないの?
15世紀終わり頃で倭館に永住していた日本人は
男女三千人のぼったと言います。
古代にもこのような拠点があったとしても不思議では
ないと思います。
181 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 18:20
>>174 は三国史記をちゃんと読んでいるか疑問。
倭国の使者の前での倭国王を侮辱したので将軍を派遣して攻めてきたという文脈でも
主語は「倭人は」になっている。
「倭人」だから新羅が「倭」を国としてではなく地方としてしか見ていないなんてことはない。
百済「国」とか高句麗「国」とかが攻めてきたとは書かない。
「倭国」が攻めてきたと書いてなくても当然だろう。
182 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 21:57
183 :
名無しさん脚:2001/04/15(日) 22:29
縄文人はトライ弥生人の奴隷。わかった?東北、北海道、沖縄
南九州の猿ども。特攻隊も奴隷出身の奴らの方が素直にくたばった
そうだぞ。濃い顔の奴は出世できないのは憐れだが、、、
184 :
新井君:2001/04/15(日) 22:40
朝日新聞ニュース
前方後円墳に寄せる韓国の関心は高く、八〇年代後半からこれまでに五基が発掘
された。現在、確実な前方後円墳は九基で、いずれも韓国南西部の全羅南道にある。
このうち光州市の月桂洞1号墳と2号墳は復元整備されている。柳沢一男・宮崎大学
教授は「八、九月にも一基発掘され、韓国国立中央博物館のホームページで成果が
公開されている。調査の継続と公開に敬意を表したい」と述べた。
西谷正・九州大学教授によると、韓国では伝統楽器の長鼓に似ているので「長鼓形
古墳」とか「前方後円形古墳」などとも呼ばれている。九基の規模は、最大で全長
七十七メートル、最小で三十五メートル。日本では中、小型だが、韓国の古墳の中では
比較的大きい。時期は五世紀後半から六世紀前半というのが大方の見方。三世紀後半に
出現する日本の前方後円墳の方が古いことは、韓国の学界でも共通した認識になって
いるという。
185 :
新井君:2001/04/15(日) 22:41
読売新聞ニュース
韓国南部の慶尚南道固城(コソン)郡の松鶴洞1号墳で、
内部を赤色顔料で朱塗りした横穴式石室(六世紀前半)が、
同国の東亜大付属博物館の調査で二日までに確認された。
日本(倭)独特とされた朱塗りの石室が、韓国で確認された
のは初めて。日本の須恵器も出土していることから、日本の
古墳祭祀(さいし)文化の影響とみられる。大陸や朝鮮半島
から文化を一方的に導入しただけではなく、日本も文化を伝
えていたことを示す重要な成果として注目される。
石室は墳丘北側で、長さ約九・八メートル、幅〇・八五〜二
メートル、高さ一・四五〜一・五八メートル。天井や床、壁が
ベンガラ(酸化鉄)とみられる顔料で真っ赤に塗られていた。
朱色は、古代中国で血につながる生命力の象徴や不老長寿願望
を反映したものと考えられていた。朝鮮半島ではこれまで発見さ
れていなかった。
松鶴洞1号墳は一九八三年、韓国の研究者が「前方後円墳」と
紹介し、日本独自とされていた前方後円墳のルーツではないかと
論争になった。
一帯には、日本と交流のあった伽耶(かや)諸国(四世紀初め〜
六世紀半ば)があったとされ、「日本書紀」などでは「任那(みまな)
」と呼ばれる。
沈奉謹・東亜大付属博物館長は「日本に近く、葬送儀礼に倭人がか
かわったとも
186 :
新井君:2001/04/15(日) 22:41
ヒスイ製勾玉が、新羅・百済・任那の旧領で大量に出土(高句麗の旧領では稀)し、
戦前の日本の考古学者は、倭国の勢力範囲を示すモノと素直に解釈していましたが、
これも朝鮮→日本としたがり、それに迎合した厨房なサヨク似非学者もいました。
朝鮮半島には、ヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも、日本の
糸魚川周辺にしか、ヒスイ工房は見つからず、化学組成も調和的で、ぐうの音も出ず。
こう言った科学的研究や、考古学の編年研究の進歩で、徐々に韓国学者のニュアンスは
変わってきたようです。だから、今回のような研究発表となったのでしょう。
でも、電波な韓国の歴史教科書で習っている一般民衆は厨房のままだろうけど。
187 :
新井君:2001/04/15(日) 22:42
魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述が見られる時期に、
朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を広げたことで一致。
宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代中期〜後期(5〜6世紀)
になると、朝鮮半島南部にいくつも見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。
>>181 >百済「国」とか高句麗「国」とかが攻めてきたとは書かない。
>「倭国」が攻めてきたと書いてなくても当然だろう。
>>174が言っているのは“「倭人」と書いていても「倭」と書いていない”ということでは?
「国」がついているかどうかではないでしょう。
189 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 23:13
>>188 俺も174に賛成。
三国史記読んでると「倭人」が攻めてくることはあっても「高句麗人」とか「百済人」
が攻めてきたと書いてあることはない。
そのくせ「倭国」との外交の記述はある。
もし「倭国」が積極的に半島南部で活動していたんならどうして「倭国」が攻めてきた
と書かないのか?これが不思議なんだよね。
「倭=大和朝廷」説の人は違和感ないのかな?
190 :
>189:2001/04/15(日) 23:24
高句麗人、百済人は敵であっても同じ民族だと思ってたんじゃないの?
高句麗人、百済人は自分達とは人間単位では同じだから、国単位で彼我
を区別した、と。逆に倭とは人間単位からして違う存在だから倭人
が攻めてきた、と。
191 :
日本@名無史さん:2001/04/15(日) 23:46
古代においても国家的な国名を指すのであれば、その国名に「国」とい
う文字がつくことはない。
「国」とは、紀元前後の東アジアの文脈では、中国システムにおける都
市を意味していた。であれば、「倭国」とは、「倭」のなかのひとつの
「国(都市)」ということになる。そして「倭人」は「倭」(という地
方)の「人」という意味になる。
これで当時の中国の史書・三国史記の記述からは、当時の中国朝鮮に単
に「倭」という「地方」がある程度の認識しか無かったことを理解いた
だけよう。
結局「倭」という王朝の存在など幻想に過ぎないのだ。
192 :
>191:2001/04/16(月) 00:02
しかし世界最大級の前方後円墳が近畿地方にごろごろあるからねえ。
たとえ周りから国扱いされていなくても、倭は百済や新羅なんぞより
ずっとでかい集団だったのは間違いない。
ただの部族集団倭に大事な皇太子を人質に出したしょぼい百済新羅さげ。
194 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 00:07
裴世清による倭国の報告は、日本書紀の記述と決定的な相違があり、
古来多くの疑問が寄せられているが、これは書紀との照合をもくろむため
の不必要な作業である。そもそも書紀の記述は、八世紀になって日本国
が成立した後、その正統を述べるため都合で他の史書をつなぎ合わせて
創作された。当然ながら、この時代について資料価値は低い。
書紀は細かいエラーもさることながら大きなエラーが多い。なにより、推
古朝の中国使節の目的地が「唐」であることは、書紀編纂者が、八世紀以
前の隋時代すら理解すらできていないことを明白に示している。唯一、「
隋」の表記が書紀に登場するのは高句麗からの報告文のみであって、単
に高句麗関連の資料を引き写したために残っているにすぎない。
書紀にある使者裴世清の訪問の記載も、当時の史書から編集された
め、いかにも編集らしいエラーが残存している。書紀によれば推古一五年
(六〇七)に小野妹子を「大唐」に派遣し、翌年大唐から裴世清が倭国に
訪れ、その同年に帰国したとある。
だが、隋書のメインである煬帝紀を参照すれば明白なように、倭国使者
の隋訪問は百済人らと一緒に入貢した六〇八年であり、裴世清の隋帰国
は六一〇年の倭国の再度の入貢の時期と一致する。
つまり、書紀は『北史』などを参考にしたのだろうが、隋書の帝紀のよう
に史書の根幹を参照しないので、1年のズレといういかにも編集らしいエラ
ーを起こしてた。だが、帝紀を元に理解して初めて、琉球への軍事侵攻を
倭国への威嚇として提示された年代も一貫する。
つまり日本書紀の8世紀前の部分は中国の史書を元に作られているのだから
記述が調和的であって当たり前なのである。
195 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 00:11
考古学は博物学でしかなく、権力を語るべきことば
を持たない。巨大古墳の造営にどれだけの人員が投入されようが、権力を
意味するものとして解釈が正当化されるわけもなく、類型古墳の分布は、
単に形態の配列がシステマティックに想定できるだけだ。こうした知見が
曖昧なかたちで、ナショナリスティックな古代ロマンと結託して滑稽な妄想
を引き起こすのを史学は拒絶したほうがよい。
196 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 00:13
195は192へのレス
197 :
>195:2001/04/16(月) 00:23
現代と違って古代には巨大建造物の建設にたくさんの人手と
時間がかかったわけだから、古代の巨大建造物の裏には大規模
な人間集団がいて、そしてその集団を巨大建造物築造という
一つの目的に向かわせた権力があったとみるのが自然。それに
非常に小さな村集団でも指導者がいるのが普通。
>考古学は博物学でしかなく、権力を語るべきことばを持たない
これは俺にはさっぱりわからないが、それは俺の頭がからっぽなの
ではなくて、この文自体が空っぽだから。
198 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 01:02
>197
書き方が難解すぎたか(笑)?
結局君は考古学の成果(古墳があること)から「古代の巨大建造物の裏に
は大規模な人間集団がいて、そしてその集団を巨大建造物築造という一
つの目的に向かわせた権力があった」という推論を導いているに過ぎないだろ。
俺はその推論を「事実」と誤解して無理に史学的アプローチを歪曲するの
は危険だといいたいんだよ。これならご理解いただけるかな?
ついでにもっと言えば日本と半島南部で前方後円墳が出土したことから
「出土地方を統一的に覆う国家があった」ことを推論する場合、その確率
はより極端に低下する。この推論を違和感無く「事実」的と認識して
しまう奴は同一文化圏には一個の「国」しか無いと無意識的に思いこん
でしまっている奴だろう。
ここに考古学と「ナショナリスティックな古代ロマンと結託して滑稽な
妄想を引き起こしている典型的な例を見て取ることができるだろう。
これでも「俺の頭がからっぽなのではなくて、この文自体が空っぽだか
ら」と言えるかな(笑)?
199 :
素人だけど:2001/04/16(月) 01:16
結局、争点となってるのは、当時の倭国が西日本を統一した国家なのか、
中小の国家群からなる、連合国家だったのか、ってこと ?
後者の立場の場合、任那には倭人の小国があっただけで、大和朝廷の支配下
では無かった、と言いたいんだろうけど… 任那の支配期間って 300 年くらい
あるんでしょ ? 最初は単なる倭人の小国だったとしても、後に大和朝廷の支配
下に下った、って考え方は駄目なの ?
200 :
>198:2001/04/16(月) 01:20
「古代の巨大建造物の裏には大規模な人間集団がいて、そして
その集団を巨大建造物築造という一つの目的に向かわせた権力
があった」
これのどこが推論なんですか?特に古墳なんかは巨石の移動
なんかもあって、少数の人間がちまちま時間をかければ作れる
ようなものじゃないよ。また日々の生計を自らたてなければな
らない人達を自分の生活と関係ない仕事に従事させるには
人々を従わせる権威を持った指導者の命令が必要だろ?それとも
君に言わせればこれも俺の推測か?いずれにせよ、君の見方では
どんな史跡も沈黙だな。からっぽ史観だ。
>>199 それはそれで根拠を要求されるでしょう。
300年間独立した倭人国があったと考えてもいいのだし。
>>200 いや、推論は推論でしょう。まあ合理的な推論ではあろうが。
ただし「権力」の代わりに「宗教的動機」を置くことも可能だし、
1つの集団ではなく部族の同盟であっても成り立つでしょうね。
202 :
>199:2001/04/16(月) 01:34
なにが気に入らないのか知らないが、朝鮮、中国の史書に
「倭」と単一の名称でしか呼ばれていない集団を、実は
九州に別の集団があった、とか変な解釈する奴がいるん
だよね。もし日本国内に「倭」と別の集団があってしかも
その集団が「倭」の支配下に無いのなら、倭とは別の名
を名乗りそうなもんだがね。或るいは他の名称を他国
からつけられそうなもんだ。別に暗黒地域だったわけじゃ
なくて大陸と頻繁に連絡を取り合っていた島なんだから。
203 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 02:29
>199
何を根拠に任那の支配が300年くらい続いたといってるの?
ソースとなったトンデモ本を教えて下さい。
204 :
>203:2001/04/16(月) 07:54
ソースは好太王碑文、三国史記、宗書、日本書紀、魏志倭人伝です。
これらの史書と旧百済、新羅、任那でみつかる日本の畿内地方起源
の前方後円墳、朱塗りの石室、ひすいの勾玉など、我系の出土品の
製造年月の推定から、倭が弥生の昔に300年近く朝鮮半島南部を
制していたことがわかります。
205 :
国語@名無史さん:2001/04/16(月) 09:06
>198
無理に難解な表現をして、
自分の主張を権威づけようとしている。
かなりの悪文。
206 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 12:25
>204
好太王碑文、三国史記、宗書、日本書紀、魏志倭人伝のどこに「任那が300年く
らい続いた」と書いてあるのでしょうか?だいたい任那なんて呼称は日本書紀でし
か使ってないでしょ?
魏志倭人伝の「倭の北限」の記述にしたって「倭」という王朝の北限を指している
とは限らないし。
それと畿内地方期限の前方後円墳が朝鮮で出土したからといってなぜ「倭が朝鮮半
島を制していた」と言い切れるの?論理が飛躍しすぎていてお話にならない。
考古学の成果を絶対視しすぎて史書本来の読み方を無視するドキュソの議論。
207 :
名無しさん@新井キラー:2001/04/16(月) 12:40
>>206 まあ,宋書や隋書にも「任那」の文字は出てきますが,
それは「倭の五王」の上奏文の中で倭王が「六国諸軍事」を称している部分で
使用されたりしている,とかそういうのですよね.
「任那」があったという証拠にはならない.
そういうのを除くと,外国で「任那」の文字が使われている唯一の例が
好太王碑文ということになりましょうか.
おっと.隋書には出てこないね.ウソを書いてしまった.
正史ではないが「通典」には新羅が「任那諸国」を攻めて滅ぼしたという記事がある.
中国史書で,倭王上奏文とは無関係な文脈で出てくる例って,他にあったか?
いつまで話をループさせる気だ?
210 :
>207:2001/04/16(月) 14:01
朝鮮人が書いた三国史記には百済と新羅がそれぞれの皇太子
を倭に人質として差し出した、との記事がある。それから
好太王碑文には倭が海を渡って百済と新羅を臣民とした、
との記事がある。朝鮮半島南部でみつかる日本起源の前方後円墳
やひすいの勾玉などが、これらの史料の信頼性を補強している。
日本語が通じないらしい.
三国史記から「任那」の用例を探してごらん.
あるはずだけれど…君にはムリかな?
212 :
>211:2001/04/16(月) 14:22
百済が「任那の軍事権をおいらに恵んでください」と倭に頼みに
来たことがあったはず。
213 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 18:52
朝鮮側の資料(公開土王碑、三国史記)の中で「任那」と言う呼称が使われている
のはわずか三例で、いずれも「任那=金海加羅」と言う意味で用いられている。
ちなみに「任那=加羅諸国」として用いているのは日本書紀だけ。同様に「任那日
本府」という語も日本書紀にしか出てこない。(朝鮮側史料では存在を伺わせる様
な記述さえ皆無に近い)
しかも日本書紀の該当部分も百済記という資料価値の乏しい偽書を元ネタとしてお
り、朝鮮半島南部に大和朝廷の勢力が及んでいたとする説の史料的裏付けは皆無と
いって良かろう。
これを元にどうやったら「大和朝廷が任那の支配を300年も続けた」という推論が
出てくるのだろうか?教えていただきたいもんである。
214 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 18:54
あと、ここで史料の話をする時は「倭」「倭国」「倭人」「倭兵」とい
う語をきちんと使い分けていただきたい。
これをおろそかにするから209の言うように話がループしてしまうのだ。
215 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 19:51
そういうなら三国史記できちんと使い分けられてることを
先に証明したまえ
216 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 19:53
おっ、とうとうウヨウヨくん達は沈黙か?(藁
217 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:10
ウヨウヨもへったくれもないだろう。
朝鮮側の資料というものをやたら引き合いに出している人間がいるがそれは、
日本の文献や中国のものより信憑性があるのか?
>>216 馬鹿か。
パート1もふくめてもう十分やったろ。
アホサヨクはいつもの堂々巡り作戦しか能がないじゃん。つきあいきれなくなったんだよ。
219 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:26
さて,わたしは,他のひとがしてない話(だけ)をすることにしている人
なので,よくきくように.
大陸側の史書に出てくる「任那」が出てくるといっても,その大部分が
倭の五王の上表文の中に出てくるだけであり,
ようするに半島の勢力を情報源とするような文書での「任那」の例は
非常に少ないのである.
…というような話は,以前のスレッドでは誰も指摘していなかったはずだが
ループってなんのことだね?
220 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:27
>218
というとここではどういう結論になってるんですか?
>215
191がその答えじゃないんですか?
221 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:33
おい、チョン大先生。
三国史記って信憑性があるのか?
222 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:41
>>217 たしかに
>>210は,頼まれもしないのにわざわざ「三国史記には…」なんて
いってるね(藁
しかも,本題(日本側のソース以外に基づく史料で「任那」といってる史料があるか
どうか)からはズレまくっているし(大藁
自分から三国史記ではどうのとかいっておいて,それはないだろう(苦笑)
223 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 20:41
>221
少なくとも隋と唐を混同するような駄目駄目日本書紀よりかははるかに
信憑性は高いんじゃないか?
210は,自分から言い出すくらいだから,さぞかし「三国史記」をちゃんと
読んでいるのだろうと思ったのだが…
まだ「三国史記」の中で「任那」が用いられた箇所が,わかっていない
ようである.
225 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 21:00
三国史記なんて13世紀に出来た捏造パクリ本
今の所、歴史的に価値がある好太王碑文をもって
任那って倭国領に決定。
226 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 21:04
三国史記が信用できないなら,
45,167(コピペ?),175,187(何度も見たことのあるコピペ),204,210(コピペ?)…
などのレスは,すべて根拠がないから,撤回するというのですね?
227 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 21:08
>>226 その通り。撤回でいいんじゃない。三国史記は信用できない。
228 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 21:24
しかし古代人はいいよな。碑文1個で歴史を決められるんだから。
南京事件と偉い違いだ(藁)
229 :
右翼:2001/04/16(月) 22:38
百済と新羅は倭のパシリでした。
230 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 23:01
>魏志倭人伝の「倭の北限」の記述にしたって「倭」という王朝の北限を
>指しているとは限らないし。
頭の悪い屁理屈だな。「倭」と呼ばれる集団が何個もあるわけないだろ。
複数の集団に単一の名前を使ったのでは名前の用を足さない。
231 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 23:11
朝鮮人はこんな感じで楽浪郡の存在も否定しているんだろうな。(藁
都合が悪い史料は「根拠が薄い」で全部無視。(藁
おい、朝鮮人君、「根拠が薄い」では史料を無視してよい理由に
ならんぞ。信用できない根拠を示せよ。
232 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 23:17
>>231 こんな感じって、誰のどの発言に対して言ってんだ。
233 :
日本@名無史さん:2001/04/16(月) 23:31
>231
韓国人はまずナショナリズムありきで史料、史跡は2次的な意味しか
持たないから、彼らと歴史を議論するのは無理でござる。素人だけ
でなく学者の韓国人さえまずナショナリズムありきだから、困った
ものでござる。
234 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 03:07
君たちほんとに寒いね。
>233
スレ全部目を通して書き込んでね。
史料読解の常識からして古代において国家的な国名を指すなら、国名に「国」とい
う文字がつくことはないって言ってるじゃん。 191で。
「倭国」以外に国がつく王朝名って何がある?挙げてみてよ。頼むよ。
>230
「倭」が地域を指していると読むのがそんなに不自然ですかね?
じゃあどうして史書は「倭」と「倭国」と使い分けてるんですか?
この説明を「倭=大和朝廷」説の人間は誰一人として説明してないよ。
文句があるんだったらきちんと説明してみてね。
>231
君もきちんとスレ全体に目を通して書き込んで下さい。
194、207、219、223などで「任那日本府」の存在の根拠とされている諸史料の信憑性の
低さが説明されているでしょ。文句があるならきちんと反論してね。
是非とも隋と唐の区別さえ付いていない日本書紀が信頼に値するという根拠を聞いてみ
たいものです。
>225、227
それじゃあ三国史記の信憑性が低いことの証明をして下さい。
隋と唐を混同しているとか。信憑性が低いならあるはずでしょ。おかしいとこ。
それもせずに信憑性低い低い言われてもねえ。寒いだけだよ。
きちんとした反論待ってるよ。
235 :
>234:2001/04/17(火) 03:19
あんたも十分寒いね。ひすいや前方後円墳等の遺跡から
見た場合どうなんだ?日本列島からの影響力は見え見えだろう?
236 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 03:25
文献とゲンナマはセットじゃないと。
チョーセン人の場合、体質的にどっちか
片方だけだと全く信用できないな。
まあ日本人がわざと半島人を狂わせている側面が
あるから、そう簡単じゃないがな。(藁
237 :
素人だけど:2001/04/17(火) 03:36
>>234 資料の信憑性に疑問、と言っても、
>>194,
>>207 >>219 >>223 って、
一言で言えば中国史書はあてにならん、と言ってるだけだと思うけど。
中国史書の記述内容を全否定してしまったら、何を根拠に論ずるべきなの ?
単にケチ付けてるだけにしか思えないけど。
逆に、積極的に存在を否定できる資料を挙げた方が有意義じゃない ?
238 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 05:21
>>234 「倭人」と「倭国」を使い分けてるって証明を先にしてみろよ。
>>237 >中国史書の記述内容を全否定してしまったら、何を根拠に論ずるべきなの ?
207は,シナの史書が当てにならないなんていってませんよ.むしろその逆.
シナの史書の中に「任那」が出てくる例は,ほとんど日本側の使者が
「任那」と称しているのがそのまま載っていることを指摘したわけでしょ.
もちろん「通典」の新羅が「任那諸国」を滅ぼしたという記事など例外はあるが,
要するに,シナの史書で「任那」という例は,あるとしても一例か二例しかないということ.
「加羅」が出てくる頻度と較べてもこれは非常に少ない.これが何を意味するかを論じることには
意味があるでしょう.
240 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 06:28
>「倭」が地域を指していると読むのがそんなに不自然ですかね?
>じゃあどうして史書は「倭」と「倭国」と使い分けてるんですか?
>この説明を「倭=大和朝廷」説の人間は誰一人として説明してない
>よ。文句があるんだったらきちんと説明してみてね。
日本、日本国、どちらも使われるがどちらも同じものを指して
いるぞ。短くて使いやすいぶん日本のほうがたくさん使われて
いるが。
倭と倭国が違う対象なら別々の名称が使われて当然だね。なぜなら
倭と倭国は一般に同じものとして扱われるからだ。一般に同じもの
として扱われる二つの名称が、実は別々のものを指している場合、
読み手は簡単に誤解してしまう。人に読ませるために文章書くやつ
が、こんな面倒なことをするわけがない。
よって倭=倭国
241 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 06:33
>シナの史書の中に「任那」が出てくる例は,ほとんど日本側の
>使者が 「任那」と称しているのがそのまま載っていることを
>指摘したわけでしょ.
日本の使者が何故任那をでっちあげる必要があるだろう?しかも
朝鮮の使者も同じく中国に使者を送っているのだから、でっちあげ
てもすぐにばれるじゃないか。
242 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 06:33
>>239 「任那」が、少なくとも5世紀からあった名称であることは確定。
243 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 06:42
>要するに,シナの史書で「任那」という例は,あるとしても
>一例か二例しかないということ.
任那なんてシナからみれば、地のはてのごみのような土地なん
だから、史書に登場する回数が少ないのは当たり前だと思うん
だけどね。何故史書に登場する回数が少ないというだけで、
その言葉の信頼性が落ちるのか説明してくれる?
244 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 11:23
>それじゃあ三国史記の信憑性が低いことの証明をして下さい。
三国史記は捏造書
「三国史記」には広開土王が東明王の12世孫となっているが、広開土王陵碑の記録
とは5世代の差が生じている。碑は高句麗の人々が広開土王の武勲と業績を末永く伝
えるために建立したものであり、そこに刻まれた文字も高句麗の人々が直接残したも
のだ。 それが700年も過ぎた12世紀の人である金富軾が書いた「三国史記」の記
録より信ぴょう性があることはあまりにも当然。
「三国史記」に高句麗初期の5世代王たちが欠落しているのは明らか。
これをもってこの書は歴史を捏造した悪書に他ならない。
これで歴史を語るやつは朝鮮の民族主義者くらいだ。
見たような文体だなあ・・・
246 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 21:25
>240
>日本、日本国、どちらも使われるがどちらも同じものを指して
>いるぞ。短くて使いやすいぶん日本のほうがたくさん使われて
>いるが。
君ねえ・・・
今の語句の用法と当時の用法が同じ度と思わないでくれよ・・・
君のような人にこそ西尾先生の著述をお薦めしたい(爆
>倭と倭国が違う対象なら別々の名称が使われて当然だね。なぜなら
>倭と倭国は一般に同じものとして扱われるからだ。一般に同じもの
>として扱われる二つの名称が、実は別々のものを指している場合、
>読み手は簡単に誤解してしまう。人に読ませるために文章書くやつ
>が、こんな面倒なことをするわけがない。
>よって倭=倭国
だから・・・
倭と倭国を同じものとして扱う根拠を聞いてるんでしょ?
倭と倭国は一般に同じ者として扱われる→ゆえに倭=倭国ってあんた・・・
ちなみにもう一度書くけど古代中国において「国」というのは「都市」と言う意味
です。そして王朝名に「○○国」とつくことはありません。もしあるというなら例
を挙げてみて下さいな。
あきれて気合い入れて反論する記にもならん・・・
247 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 21:31
あと246の付け足しだけど、もし「人に読ませるために文章書く奴」が
読み手に誤解を与えないように文を書くなら「倭」「倭国」「倭人」
「倭兵」などところころと主語を変えたりしますかね?しないでしょ。
ちなみに高句麗の場合主語が「高句麗人」とか「高句麗国」になって
ることなんてまずないよ。
他はそうじゃないのにわざわざ倭の場合だけ主語をかき分けているん
ならそれは意味があると考えるのが常識でしょう。少なくとも「史料」
を検討する場合にはね。
248 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 21:34
>241.242.243
別に「任那」の存在を否定するつもりはありません。
「任那」はあきらかに「金海加羅」の別称として存在しました。
ただ、「任那日本府」の存在を証明する史料的根拠は皆無に近いと言っ
ているだけです。
249 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 21:40
>235
>あんたも十分寒いね。ひすいや前方後円墳等の遺跡から
>見た場合どうなんだ?日本列島からの影響力は見え見えだろう?
朝鮮半島南部と日本列島との文化的交流の存在を否定するつもりはあり
ませんよ。ただ、日本原産のひすいや前方後円墳が朝鮮半島南部から出
てきたからといってどうして「大和朝廷が朝鮮半島南部に勢力を持って
いた」という結論が出てきたと言えるのですか?
それは日本書紀の記述を論拠に予断を持って考古学の成果を意義づけよ
うとしているからに過ぎないでしょ?ちがいますか?
「日本原産のひすいや前方後円墳の朝鮮半島南部から出土」だけをもっ
て合理的に推論できるのはせいぜい「朝鮮半島南部と日本列島との間に
は文化的交流があった」程度のことまでに過ぎませんよ。
250 :
通りすがり@新井退散:2001/04/17(火) 21:45
公開土王碑は墓荒らしから墓を守るため脅しの文句が書いてあるに過ぎ
ず王の偉業をたたえるものでも何でもありません。
251 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 22:32
ついにウヨ某沈黙。
252 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 22:37
>>247 だから、書き分けてるという根拠を示してくんない? 勝手に決め付けてないで。
253 :
日本@名無史さん:2001/04/17(火) 22:44
>252
じゃあなんで「倭」と「倭国」と言うように紛らわしく複数の主語を使ってるの?
他の国の事書くときはそんなことしてないのに?
>250
それならどんな脅し文句が書いてるのか例をあげよ。
公開土王碑が王の業績を称えたものではないなんて、
いくらなんでも勇み足だよ。前々から思ってたが、韓国・北朝鮮では楽浪郡といい、
任那といい、なんで無理にこじつけてなかったことにしようとするんだ。
なんで古代の朝鮮半島だけが特別なんだ?朝鮮半島だって古代に他民族の征服を受けた
ことは充分ありうるではないか。
256 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 00:46
>255
確かに公開土王碑を墓荒らしへの警告文だというのはちょっと(苦笑)。
ちなみに私は別に躍起になって古代の朝鮮半島が他民族の征服を受けた
はずが無いなんて言うつもりはないですよ。
その時代に朝鮮民族なんて存在しないわけですからそんな議論は無意味
です。
私はただろくな史料的な裏付けも示さず朝鮮半島南部が大和朝廷の勢力
圏だったなどという説を通説ぶる方々の良識を問いたいだけです。
一人の歴史好きとしてね。
それにしてもどうしてあの史料と前方後円墳や翡翠の出土だけで東日本
から朝鮮半島南部までを統一的に支配する大和朝廷の存在を導けるんで
しょうか?しかも通説呼ばわり。謎だ・・・
257 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 00:52
ん〜、「倭国」と「倭」の使い分けにこだわっている人は、結局、西日本
一帯を統一した国家としての「倭国」が、(任那日本府が存在したと言われる)
5 世紀の段階には存在して無かった、と考えている、と判断していいの ?
「倭」とか「倭人」は、朝鮮南部から日本列島にまたがる海洋民族一般を
表す言葉で、統一国家「倭国」には直結しない、と考えている、ということ
でいいのかな。
差し出口ながら広開土王碑じゃなかったでしょうか?
259 :
257:2001/04/18(水) 01:02
続き)
んで、今、岩波現代文庫の「天皇と古代王権」(井上光貞 著) を
参照してるんだけど、雄略天皇時代の、大王勢力範囲を示す資料
として稲荷山鉄剣銘文、というのがあるらしい。
この銘文には辛亥年 (471 年) との記載があり、発見されたのが
武蔵国稲荷山古墳なので、当時の大王(おおきみ)勢力が、東国にも
至っていた証拠であり、同種の銘文が肥後国江田船山古墳太刀銘文
からも見つかっており、九州から東国に至る統一国家が当時成立
していた、と分析してるんだけど、どうなんでしょう ?
260 :
>256:2001/04/18(水) 01:08
倭の朝鮮半島南部支配の証拠は遺跡だけでなく史料の中にもいくらでも
見つかるのだがそれは全部無視。朝鮮人と歴史を議論するなど到底不可能。
261 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 01:18
>>253 そんなの本資料が別々ならよくあることだし、政策的な使い分けもありうる。
友好的なときと敵性扱いのときとね。
使い分けられているというなら、その法則性から別主体であると合理的に推論できるか?
できない例証が提上伝にあることは指摘済み。
反論できないだろ?
>>250 そりゃあこれは一種の捨てハンだけど……勝手に使わないで下さい。
ややこしいじゃないですかあ。
263 :
通りすがり:2001/04/18(水) 02:05
>260
いくらでも見つかるって例を挙げてみて下さいな。
264 :
>263:2001/04/18(水) 02:09
過去ログ読め。そして屁理屈でそれらの史料を否定する韓国人の
間抜けさをせいぜい堪能しろ。
そう言って挙げようとしないのであるな。
相手を韓国人とだと言ってる理由にはさらに興味があるぞ(笑)。
266 :
257:2001/04/18(水) 02:58
267 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 04:50
わたしも,257氏のあげた問題には,興味があります.
朝鮮に進出して軍事活動した「倭人」や「倭兵」の主体は,ヤマト王権でもありうるし
ツクシの勢力でもありうるわけです.5世紀におけるヤマト王権とツクシ勢力の間の
政治関係の実態がどんなものだったのという議論を避けては通れないでしょうね.
日本書紀と三国史記は,それぞれ現存しない史料を参考に書かれたものだが
原史料どうしは類似性・共通性のある史料だったと思われるのにもかかわらず,
日本書紀は,三国史記にいう「倭国」「倭人」にあたるものをすべて,直接ヤマト王権
にかかわるものとするような書き方をしているわけですね.ここが問題.
単純に考えると,ヤマトが朝鮮に進出するためには,ヤマトによる「統一国家」の成立
が前提になっていて,少なくともヤマトはツクシを統合してなければならない,という
風に思いこみそうだが,そんな単純なものではないでしょう.
268 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 06:03
だから勝手に結論づけないで
ツクシの勢力でもありうるという根拠を示せよ!
269 :
新井:2001/04/18(水) 09:29
百済、新羅はそれぞれの王子を人質として倭に渡し、倭に朝貢
までしていた倭のパシリ国家です。
新井と名乗る以上はネイティブなアライ語でお願いします(わら
271 :
名無しさん@1周年:2001/04/18(水) 11:33
三国史記地理誌には日本語的と見られる地名がたくさんあります。これは、そう遠くない時代、西暦紀元以後せいぜい五、六世紀に日本人によってつけられたとしか思われないものです。
これらは、現在の朝鮮半島中部西岸にあたります。これは、おそらく倭の五王時代に倭国の勢力がここまで及んでいた名残であると思われます。
272 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 13:27
>264
???
過去ログ見ても書いてなかったけど?
唯一それっぽかったのが倭の北限は朝鮮南部という魏志倭人伝の記述だ
けど「倭=大和朝廷」とする前提がこのスレでは未だ争われている以上
根拠にならないよ。
他にはないの?
273 :
好太王碑文:2001/04/18(水) 13:45
「元年辛卯年(391年)、古くは高句麗に属していた百残と新羅が、
近頃倭に通じて朝貢しなくなった。それは倭がこの年に侵略してきて、
百残・■■・新羅を討ち、その臣民としてしまったからである。」
原文もどっかにあったがどこにあるか忘れた。
274 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 13:48
>271
貴方の見解は日本語的な特性を持った言語圏に勢力が一つしかなかった
ことを前提としないと成り立たないと思われます。
その点の論証をお願いします。
275 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 14:27
>273
それも「倭=大和朝廷」ということを論証しない限り根拠になりませんね。
276 :
>275:2001/04/18(水) 14:37
逝ってることの意味がわからん。何の根拠にならんの?
277 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 14:48
碑文が,王の功業を記念するためのものであり,その目的で誇張表現されている部分が
目に付くのはいうまでもないだろう.
そもそも,百済がもともとは高句麗の「属民」で,それに「朝貢」していたという
ような外交関係が存在したのだろうか? はじめの前提からして,この碑文の記述
を事実通りであると受け止めるのは,はじめから出来ないのである.
「属民・朝貢」「為臣民」「討滅」すべて誇張である.
(実態に即した表現をするならば,これらは「通好」「侵奪民戸」「大敗之」などになろう)
278 :
>277:2001/04/18(水) 15:05
>そもそも,百済がもともとは高句麗の「属民」で,それに「朝貢」
>していたという ような外交関係が存在したのだろうか?
存在したんだろ。そう書いてあるんだから。そうじゃないってんなら
想像で語らず根拠示せ。
279 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 15:16
ないだろうね.
広開土王の即位前には,再三再四にわたって
百済王による高句麗南部(平壌付近)への侵攻が
あったのだから,碑文の言うような
「百残新羅旧是属民由来朝貢」なんて関係では
なかったのは明らかだといえよう.
280 :
>279:2001/04/18(水) 15:32
百済が高句麗を攻めた時期以前に百済と新羅が高句麗の
属民だったのならなんの矛盾もない。それならば
>古くは高句麗に属していた百残と新羅が、
>近頃倭に通じて朝貢しなくなった。
と碑文に書かれたとうりだ。
281 :
257:2001/04/18(水) 15:35
>>272 え〜、私の投稿した記事、
>>259 については、いかが思われます?
これらの古墳から発見された刀剣の銘文から、5世紀には関東から九州に
かけて、大王勢力による統一国家が成立していた可能性は、かなり高いと
思います。
これらの銘文の価値は、従来誇張表現と見られていた雄略天皇の業績が、物的
証拠として裏付けられたことにあり、国内業績に関する記述が正しかったの
なら、任那関連の記述(倭王武の上奏文)の信頼性も高いのではないか、と
再評価されることになった点です。
日本書紀による、任那滅亡は6世紀前半ですから、邪馬台国時代(3世紀)
には朝鮮半島南部に住む倭人は乱立する国家群の一つだったのかもしれません
が、5世紀には大和政権の影響下に入った可能性は高いのでは?
もちろん、可能性の話ですから、断言は出来ませんが、否定派の100%
立証できなければ認めない、みたいな立場は頑なに過ぎると感じます。
282 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 15:37
金さんや朴さんなら
>>280のような読み方をするんだろうけれど
普通に漢文の読める日本人にはその読み方は無理.
つまり
「百残新羅旧是属民由来朝貢」(A)を
>>280のように解釈すると,
「而倭以辛卯…為臣民」(B)との論理関係が意味不明ですっきり読めない.
通例の読み方なら,はじめ(A)のような朝貢関係があったが,
(B)のような事態が発生したために,(A)の外交関係が崩れた,
という解釈になろう.しかし,
>>280のような理解の仕方は
金錫亨や朴時亨なんかの方法と同じで,はじめに結論ありきで
無理な読み方になってしまうのである.
285 :
>283:2001/04/18(水) 17:20
百済は倭の配下に入ったことで倭のバックアップを受けて
それをもとでに高句麗に攻め入ったんだろ。
>>281 みなさんは「100%ない」ではなく、「可能性が低い」「断言する根拠がない」と言っているのだと思いますが。
287 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 18:40
>>285 その理解で日本書紀の「応神紀」を読むと矛盾を感じないかい?
百済が質を送って倭に接近したのは広開土王が南下した時期にあたる.
288 :
あ:2001/04/18(水) 18:42
もちろん,応神紀を読むときは,干支を2運繰り下げるのを忘れずに(笑).
289 :
>287:2001/04/18(水) 20:09
あはは、お前は日本書記は他の史書のぱくりで全く信用できない
と言ったじゃないか。都合の良い部分だけはぱくり史書からでも
抜き出してくるんだな。(藁 これだから韓国人とは議論できない。
290 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 20:10
オレそんなこといってないけれど.
291 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 20:30
>281
その銘文って全く同じ事書いてあるの?
292 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 20:41
289がいってるのは,別人のことだろうな.
もちろん,同じ応神紀でも信用度の高い部分とそうでない部分がある.
分註の形で「百済記にいわく…」などの形で先行史料を引いて記述されていて
かつ,干支が明記されている記事であれば,かなり信用度の高い記述といってよい.
たとえば百済阿花王が質を送り修好を求めたのは丁酉の年であり,それは
阿花王の六年目の年であるわけだが,このような書紀の記事は,三国史記の
干支と王暦にまったく一致するのである.
逆に,干支も書かれておらず,他史料との関連も明らかでない記事は信用度が低い
と考えたほうがよいだろう.
あははは。そりゃ、新井くん(本名・李)とは議論できないよね。
294 :
こまったものでござる:2001/04/18(水) 20:55
>292
新井くんはまずナショナリズムありきで史料、史跡は2次的な意味しか
持たないから、彼と歴史を議論するのは無理でござる。
295 :
新井:2001/04/18(水) 21:21
俺の得意の煽り
「百済、新羅は倭に王子を人質として差し出し、朝献までしていた
倭のパシリであります」
296 :
>292:2001/04/18(水) 21:25
>>244 で三国史記は捏造書と逝ってるやつがいるぞ。反論してくれ。
>>295 いけません。
1がいっているように(いってなくても当たり前だが)
「引用でコピペをする時はその理由とコピペであることを書きましょう。」
を守りましょう。
また、新井を名乗る以上は、ネイティブなアライ語でやってください。
ほんとうにお願いしますよ。
298 :
>292:2001/04/18(水) 21:31
>分註の形で「百済記にいわく…」などの形で先行史料を引いて
>記述されていて かつ,干支が明記されている記事であれば,
百済記は現存しないのになんで「百済記にいわく・・・」がついてる
だけで信用するんだ?どっかの馬鹿は「日本書記は百済記のぱくり
だから信用できない」なんて書いてるし。
299 :
>298:2001/04/18(水) 21:34
別の所で「でたらめ史書」と断じておきながら、自分に都合の
良い所(韓国のナショナリズムを保つ所)は積極的に利用する
のが、韓国流歴史解釈です。
301 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 21:54
新井くん流のナショナリズムと韓国流ナショナリズムって
まるで鏡像のように、同じ精神構造で成り立ってると
思うのだが。
302 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 22:08
「秀吉は家康に母を人質として差し出し、妹までも嫁に出した
家康のパシリであります」
303 :
>302:2001/04/18(水) 22:11
家康の側からも人質だしてるぞ。
304 :
日本@名無史さん:2001/04/18(水) 22:15
信長は妹を浅井長政に差し出した浅井のパシリです。
新井くん流にいうなら、井上光貞も直木孝次郎も山尾幸久も「韓国流歴史解釈」の人だって
ことになっちゃうね(W
新井くん流にいうなら、井上光貞も直木孝次郎も山尾幸久も「韓国流歴史解釈」の人だって
ことになっちゃうよね(W
307 :
>304:2001/04/18(水) 22:27
戦国時代の人質と新羅、百済が倭に差し出した人質とはニュアンスが
かなり違うべ。力関係で言えば信長>>>長政だが、長政が他の
大名とくっつくと信長は困るので、わざわざ人質をやって「俺って
信用できるぜ」なんてアピールして見味方につけた。倭と百済、新羅
の間にはそんな「じゃんけんぽん」の関係なんてないよ。
308 :
日本@名無史さん:2001/04/19(木) 00:54
妹を家茂に差し出した孝明天皇は徳川のパシリです。
309 :
>308:2001/04/19(木) 04:28
それって人質とはちゃうんじゃない?だいたいなんで徳川が天皇から人質とらな
あかんの?仲良くやってたのに。
310 :
日本@名無史さん:2001/04/19(木) 09:15
>>309 世間から人質と思われない人質こそ、
最も効果ある人質なのだ。
311 :
>308:2001/04/19(木) 11:54
ぶぁかかお前。これは政略結婚っていうんだ。人質じゃない。
そもそも大名みたいな自前の軍隊を天皇は持ってなかったぞ。
312 :
日本@名無史さん:2001/04/19(木) 16:03
313 :
257:2001/04/19(木) 22:50
>>286 主観の問題ですが、可能性、という観点なら、私は倭国領だった可能性の方が
高いと思ってるんですが…。
反対派は、資料の信憑性が低い、と主張するだけで、倭国領でなかった「証拠」
の紹介はしてませんし…。
314 :
日本@名無史さん:2001/04/20(金) 15:44
>>257に関連する質問ですが、稲荷山古墳の雄略天皇の名前「獲加多支鹵」が、何故
宋書等では武になってしまっているのでしょうか。倭の五王以前は「帥升」とか
「卑彌呼」とか「壹與」であり、また、随書以降は、隋へ派遣した倭王の名前を
「阿毎多利思北孤」と記していますし、新唐書では天皇の名前を日本書紀の通りに
記しています。讃、珍、斎、興、武のネーミングだけがちょっと異質に感じます。
何故宋書では「獲加多支鹵」でなく「武」なのだろうか?
315 :
提供:名無しさん:2001/04/20(金) 16:13
久しぶりにここを読んだけど
通りすがりさんの言ってるのは「為にする議論」ですね。
歴史を考えるとき大切なのはさまざまな資料を客観的かつ公平に
取り扱うことで、自説にとって都合のよい部分は過大評価したり
都合の悪い部分は過小評価する論法ではだれも納得させられないと思いますが。
316 :
日本@名無史さん:2001/04/20(金) 21:02
倭の五王の名は、
本名と無関係に、外交のもつその時々の政治的意味や国書の内容から
便宜的につけたんだろう。
記紀の誰に比定するのかというてんは、まだ流動的で通説は検討の余地があると思う。
317 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 20:12
畿内の王朝が過去から続いていると考えれば、永遠の謎となるでしょう。
318 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 20:15
続いてないと考えたって謎だよ。
へんな珍説ですべて解決なんて思ってるのは脳タリンだけ。
319 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 22:20
応神王朝が仲哀までの古王朝とは,かなり異質な性格を持っていることは誰でも
記紀を普通に読んでいて感じられる点であるので,これはある種の謎なんですね.
昔から,この時代の歴史を考えてきた人々は,この謎と向き合ってきたわけです.
たとえば,津田左右吉は,仲哀までは「説話的色彩」が強く「事実らしからぬ
不合理」な点が多いから実在しない虚構の天皇だとした.神功皇后の新羅征伐や
応神のツクシ生誕説話も作り話だとしている.
わたしは,性急な結論の出し方には同意できませんが,津田の記紀批判じたいは
妥当だと思います.どのように古代史を考えるにせよ,記紀には作為的に書かれて
いる部分があることは今日では常識なのであって,歴史を史料から再構成しよう
と試みる者は,そのような文献批判を基礎とした基本姿勢をもつべきであろう.
320 :
日本@名無史さん:2001/04/21(土) 22:42
>>257=259氏が参照されているという井上光貞の本では,応神の時代をどのように
考えているのか言及してないのでしょうか?
応神がツクシからヤマトに進出した王である(…という見解を今でも井上氏が
とっているかどうかはしりませんが)かどうかは,ともかくとしても
ヤマトとツクシがどのような政治関係だったかが,やはり重要な点だと思います.
それと,朝鮮との積極的なかかわりが顕著に生じたのも,やはり応神朝だと思うんですね.
雄略の頃になると,かなり泥沼というか苦戦というか,倭の勢力が後退しつつ
あった時期かもしれません.武の上表文の文面にも半島進出が思うようにいかない
焦燥感が見え隠れしていますね.
321 :
Henton:2001/04/22(日) 01:18
>武の上表文の文面にも半島進出が思うようにいかない
焦燥感が見え隠れしていますね.
どのあたりにですか?
322 :
Henton:2001/04/22(日) 01:23
>>320 >武の上表文の文面にも半島進出が思うようにいかない
焦燥感が見え隠れしていますね.
単なる思い込みでしょ?
思い込み=古代史みたいな時代はそろそろ終わって欲しいですな。
>>それと,朝鮮との積極的なかかわりが顕著に生じたのも,
やはり応神朝だと思うんですね.
考古学的に証拠でもあるんでしょうか?
323 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 01:37
>>322 思い込み=古代史みたいな代表者と違うか?あんた。
324 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 07:05
325 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 07:29
やはり思いこみだ、哀願と云うより楽浪、帯方を失った中国に
かわって地域の安定を計っている自負を感ずる。
326 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 08:09
自負?(失笑)..宋の援助が要するに欲しいという文面にしか読めませんよ.
倭王自身の情勢認識にしても,表文にいう「しかるに句麗無道にして」が,
すべてを物語っているというべきでしょう.
同時期に百済王も北魏に上表文を送っているのですが,似たような文面ですよ.
百済の方がより事態が深刻だっただけに,これは倭王以上に口を極めて高句麗を
ののしっています.「豺狼」とか「醜類漸盛」とかね.
327 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 09:48
あんたも思い込みだよ。
南朝が現実的に援助するわけないことは当事者は承知のはずだ。
328 :
日本@名無史さん:2001/04/22(日) 20:43
>326
それが貴方の思いこみ。
329 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 07:08
>326
そうそうあんたは思いこみが強い。
思い込みでない意見ってやつを書いて欲しいもんだが。
331 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 21:26
中国史書は文面上、卑弥呼の時代の倭と五王の時代の倭とはつながっている
と読み取れる。実際は不明だが、少なくとも外交問題に関しては
五王は卑弥呼の政策の継承者だったと考えられる。
倭国は卑弥呼の時代に魏から「黄ドウ[巾童]」をもらってる。
黄ドウ[巾童]ってのは錦の御旗のようなもので当時の国際社会では重い権威があったし
倭国にも「中国の官軍」という正統意識があったものと思われる。
高句麗が慕容燕に大敗して長年の国策だった満州平原進出をあきらめ、
半島へ南下したことで南韓の利権をめぐって倭国と対立関係に入ったのだが、
倭国としては楽浪郡(=中国)は同盟相手であって、自分は官軍であり
本来たおすべき北の五胡との戦いをあきらめ、反対に
楽浪郡をほろぼした高句麗は謀叛の賊軍という名分なのであろう。
魏から晋そして南朝は禅譲でつながった正統王朝であり、
倭国側の正統意識としては、魏に認められた存在だから南朝も認めざるをえないはずだし
実際認めてくれないと困る。そして実際に、南韓のうち百済を除く地域の軍事権は認めた。
だから百済や高句麗は現実問題として南北両朝と交信したが、
倭国にとっては南朝との連帯はアイデンティティーの問題だったから
断固として北朝とは交通しなかった。
しかしこれを倭国外交の勝利とはみれない。百済地域が除かれたのは
倭国としては、かなり納得いかないことだったにちがいない。
332 :
日本@名無史さん:2001/04/23(月) 22:00
理路整然その通りです。
この時点では、倭国側に確かな歴史認識があった。
333 :
日本@名無史さん:2001/04/24(火) 17:41
334 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 00:55
まんこ
335 :
日本@名無史さん:2001/04/25(水) 01:03
マンコ・カパック
336 :
331の続き:2001/04/26(木) 05:41
ただ、百済における軍事指揮権が除かれてしまったのは、深い意味があったわけではなく
たんに百済の方が朝貢開始時期が早かったため、年功序列的に
百済王の方が倭王より上位の将軍号をもっていたからにすぎない。
今後、倭王の百済王に対する優位を、朝貢を重ねていく中でアピールしていければ、
倭国側の逆転も夢ではなかったし、実際に倭国ではその程度の見通しはあったろう。
ところが折りあしく、南朝は北朝に山東半島を奪われてしまい、
当時の北朝に妨害されない重要な交通が断絶してしまった。
倭の五王の遣使が途絶えたのは倭国に理由があったのではなく大陸側の事情によるのである。
337 :
日本@名無史さん:2001/04/27(金) 00:48
まんこ
時々書きこんでる者だが。(最近では336)
アゲてくれるってことはスレの趣旨か直前のカキコのどちらかを支持してくれてるのだろ?
まんこさん、アゲてくれてありがとう。ただのageよりはましかも知れませんね。
339 :
日本@名無史さん:2001/05/02(水) 12:07
百済と倭の関係がますます難しくも興味あるものに感じられてきました
340 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 19:03
宮崎市定が、百済三書に表れる国書の文体を分析して、面白い結論を出してるね。
百済は、少なくても国書の文面だけについていうならば、
初期には倭国の友好国ではあったがけっして属国だったわけではなく。
ただし、高句麗に攻められ首都が陥落して南遷してからは、国書の文体が明らかに属国のそれにかわっている。
だからこの時以来、弱体化した百済が倭国にたよって高句麗に対抗するため、心ならずも倭国に屈して
臣下の礼をとり属国となったのではないか、と。
一面的なもののみかたで、これで倭国百済関係国交史をまとめるわけにもいかないが、まあ参考までに。
341 :
日本@名無史さん:2001/05/08(火) 19:06
ためしあげ
342 :
日本@名無史さん:2001/05/09(水) 04:23
教科書問題あげ
343 :
世界@名無史さん:2001/05/09(水) 12:32
>340
何と言う本または論文ですか
ご教示ください
>>343 ごめん。忘れた。記憶で書いてるからね。でも書店で入手した本だし(文庫じゃない)
今は宮崎市定の全集もあるんだから検索してそれっぽいタイトルを探し出すのは可能じゃないかな?
345 :
日本@名無史さん:2001/05/20(日) 02:46
百済の土地がどんどん南遷していったのと日本の影響は関係ありますか?
346 :
日本@名無史さん:2001/05/20(日) 03:27
任那は日本領。
魏志韓伝にも「東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す」とある。
朝鮮半島南端部が倭国領なのは自明。
347 :
日本@名無史さん:2001/05/21(月) 16:29
>>345 百済の南遷は、日本の影響じゃなくて高句麗の影響。
>>346 そういえば井上秀雄の「古代朝鮮」(NHKブックス)の地図でも
半島の南辺(慶尚南道と全羅南道の南沿岸部)は三韓とは別に倭になってたな。
348 :
日本@名無史さん:2001/05/23(水) 03:57
>>347 でも日本が熊川の地を提供しなかったら滅亡しただけで南遷できなかったわけだから、日本も関係あるといえる
349 :
日本@名無史さん:2001/05/23(水) 04:16
井上秀雄って楽浪郡にかんしてはやや韓国よりで、アリャリャと思うけど
倭にかんしては譲らないとこあるね。
もっとも日本列島の倭国以外にあちこち倭があるっていう前提だけど。
350 :
日本@名無史さん:2001/05/23(水) 06:26
稲荷山鉄刀の年代ぐぐっと新しく引き下げたりと
そうとうアリャリャな学者だが・・
351 :
日本@名無史さん:2001/05/27(日) 01:25
稲荷山鉄刀の年代って確定してないの?
352 :
日本@名無史さん:2001/05/27(日) 01:29
なんか地層に火山灰がかかってるとか、ないとかって話だったっけ?
353 :
名無しさん@1周年:2001/05/27(日) 01:57
354 :
名無しさんの花園:2001/05/28(月) 21:16
告知
荒らし防止のため、これからは以下の規制をこの板全体にかけたいと思います。
つきましては、ご異議のある方は取り急ぎ、「日本史版 風紀委員会」まで
ご意見をお聞かせください。
<規制案>
proxy規制、ID表示、連続投稿禁止規制、連続スレッド立ち上げ禁止規制
<規制の趣旨>
アラシ行為の撲滅(スレ立てアラシ、スレ上げアラシなどの予防措置)
<異議の受付>
五月三十一日まで・風紀委員会へどうぞ
<規制の実施時期>
管理人に依頼し、できるかぎり早期の実施を予定。
日本史版 風紀委員会
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=990956059
356 :
日本@名無史さん:2001/05/30(水) 01:27
井上秀雄の説って何年なの?
357 :
日本@名無史さん:2001/06/04(月) 07:08
417年
358 :
名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 07:53
井上秀雄はちょんの電波説に迎合するヴァカ
359 :
世界@名無しさん:2001/06/05(火) 00:01
チョンの電波とウヨの電波を除いた無理のない推定
大和政権=3世紀には既に畿内にありました。九州王朝説は電波
金海加羅=大和政権の直轄地
加羅諸国=倭人系豪族の連合、大和政権に従属、後に臣従
倭人=ほぼ日本人
倭国=倭人系の都市国家、一概に大和政権をさすとは言えない
倭=大和政権
百済=フヨ系の国家、後に大和朝廷に従属
強調したいのは大和民族ってゲルマン民族と同じで基本的には部族国家なんだよね。
それで隋唐(ローマ)の影響を受けて中央集権国家を作るも結局破綻して
封建制を作る所も同じ。このスレで争ってる時代というのは丁度、大和政権の中央集権化
の進行過程であるわけ。三韓の争いは異民族の争いだったのだけれども、
それと倭人同士の争いというのを同じ事情で見るのは拙いと思う。
やはり、倭という名前で記されている人々というのは半島にいた人たちも含めて
おなじ民族だったんだと思う。一部の朝鮮学者が言っている
倭=南朝鮮以南の諸民族の総称
って言うのは無理がありすぎる。
同じ民族と考える方が考古学的発見と照らし合わせても
無理のない意見だろ。
というか民族や部族ってのは暮らし方の違いって気もするけど?
海辺と山と平野で住む環境が違えば風習や信仰が違っても不思議はない訳だし
ただ、交流が多ければ男女が知り合って子供も出来る訳で、
そんな事を繰り返していけば、必然的に統合もされてくんじゃないのかな?
逆に元は1つだったものがちょっとした対立で二つに分断されてしまうなんてのは
現代でもいくらでもある話だしね
結局、最終的には大和朝廷が統一したのは間違いないんだけど
その過程がイマイチハッキリしないって話に尽きるわけで。
他の国からみて傘下に入るのに魅力的で有利な点でも有ったんだろうか?
何かの技術を独占してたとか、たとえば傭兵を一手に引き受けてたとか。
>ただ、交流が多ければ男女が知り合って子供も出来る訳で、
>そんな事を繰り返していけば、必然的に統合もされてくんじゃないのかな?
そんな必然性はない。子供はどちらかの共同体に属するだけ。
>>361 勿論そうでないと困るでしょ?まあ村八分の中から英雄が出てくるって話も多いけど
なんにしても両親から受け継ぐ物ってのは少なからず有る訳で
だからこそ代を経るにつれ共通意識が高まってきてもおかしくないんでないの?
というか大和朝廷なんてのはそれの固まりなのでは?
なにがいいたいのか、よくわからないが?
神話の成立(統合)過程についての推測かな?
やっぱり民族と信仰って切り離せなそうだし。
でも当時の人たちって、実際にも日本中を
駆けめぐってたりしてる気がするんだけど
気のせいだろうか?
365 :
日本@名無史さん:2001/06/07(木) 16:32
井上秀雄は、かならずしもチョンべったりの学者じゃないよ。
向こうからみたら日本寄りとみなされそうなことも逝ってるし。
366 :
日本@名無史さん:2001/06/13(水) 16:28
あげ
367 :
名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 22:04
倭国領の任那
368 :
日本@名無史さん:2001/06/18(月) 08:59
新しい歴史教科書をつくる会が主導した中学校歴史(扶桑社発行)が、アジア諸国の反発を招いている。韓国政府は国際儀礼上異例という強硬さで25項目の修正要求を行った。古代史の論点「任那日本府」を軸に、韓国の指摘する「歴史わい曲」を考えてみたい。
「任那日本府説」は戦前、韓国併合を正当化する歴史的論拠の一つだった。朝鮮半島南部の任那に大和朝廷の政治・軍事的機関が置かれ、4世紀後半から6世紀中ごろまでの約200年間、朝鮮半島にもつ領土を支配する拠点だったという内容だからだ。日本書紀の記述を真実と見るこの節は戦後も生き延びた。「562年、任那滅亡」と、教科書で学んだ人は多いのではないだろうか。
しかし、ここ30年で研究は急速に進んだ。早稲田大の李成市教授(東アジア古代史)に聞いた。
まず、任那の定義が変わった。
かつては百済、新羅と並ぶ一国のように扱われr、朝鮮半島南部一帯を指す地名だったが、この見解は否定されている。一国に統合されることがなかった地域のため、今は「加耶(加羅ともいう)諸国」という総称で呼ばれている。任那とは、その中の有力な一つの国「金官加那国」の別名と考えるのが学会のほぼ共通認識という。
「任那を加那諸国の総称として使うのは日本書紀固有の用法」と李教授は話す。任那という用語自体、この問題を論じる場合以外にはほとんど使われなくなった。
とすると、「任那日本府」とは何なのか。研究者が注目するのは、日本書紀の欽明天皇15年(554年)の条に出てくる「安羅に在る諸倭臣」の語だ。540年代、加那諸国の一つ、案羅国が百済、新羅から圧迫され、倭に来援を求めた。これを受けて派遣され、駐在した倭の臣下の一団が日本府の実態ではないか、というのである。決して短期滞在ではなく、現地女性との間で子供が生まれている。兵力も伴っている。しかし、それも562年までの数十年間ほどのことで、朝鮮半島南部支配の拠点というイメージからは遠い。この時以外にも、倭が朝鮮半島情勢に武力介入したケースは少なくない。しかし、いずれも支配や拠点という表現とは実態が違うようなのだ。
そのことは考古学的にも裏付けられている。1991年〜94年、安羅の都(現・咸安郡)の中心に近い山城が派靴されたのはその一例だ。ほぼ540年から561年までに作られたことが確かな新羅の木簡。築城も新羅式だった。諸倭臣の滞在と同時期に、日本書紀の記述以上に新羅の力が及んでいたことが明らかになった。一方、こっれに対抗できる倭系の立派な遺物や遺跡は見付かっていない。倭が支配者にふさわしい強大な力を振るった形跡はどうしても見当たらない。
「つくる会教科書」で問題とされたのは、「4世紀後半、大和朝廷は海を渡って出兵・・・・・・任那(加羅)という地点に拠点を築いたと考えられる」という表現だ。韓国政府は「旧説そのもの」として「韓日50余年の研究の結果、認められない説」と批判した。
日本府の理解に研究者間せの差はある。ただ、「かつての任那の統治機関とみる見方はさすがに影をひそめた」(日本の歴史03大王から天皇へ」=熊谷公男・東北学院大学教授)とは言えるのではないか。
毎日新聞朝刊平成13年6月17日深読み日本史
------------------------------------
これどうなの?
「どうなの?」って前にスレ読めや。
ループするじゃんよ。
長くて読む気おきないので簡単に教えて
>>370 ひがみ鮮人にからまれて面倒に巻き込まれたくない日本の学者が
言葉をもてあそんで「朝三暮四」みたいなこといって誤魔化してるってことだよ。
372 :
日本@名無史さん:2001/06/21(木) 00:43
ちゃんと説明して
373 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 19:38
強大な〜age
374 :
日本@名無史さん:2001/06/23(土) 21:54
>371
どうやって読んだらそんな要約になるんだよ(藁
少なくとも現在の日本の学会で朝鮮南部に大和政権の恒久的直轄領があったなんて
言ってるまともな学者は見あたらないよ。
375 :
日本@名無史さん:2001/06/25(月) 04:55
適当なことばっかり意ってえ
376 :
日本@名無史さん:2001/06/26(火) 02:31
>>374 そう。だからなんの問題もないはずなのに、チョンどもがわけのわからない難癖つけてる。
377 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 00:36
>376
そうじゃねえだろ。
作る会の教科書が「朝鮮南部に大和政権の恒久的直轄領があった」みたいなこと
書いてるのがおかしいって主張だろ。その主張自体は間違ってないよ。
内政干渉という点では問題かもしれんが、かつてこの説で韓国併合を正当化された
ことを考えると反発したくなる感情は理解できなくもないな。
378 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 14:13
つーか、そもそも書いてあるの?「つくる会」の教科書に、「恒久的直轄領」ってさ。
379 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:00
>378
作る会の教科書の「4世紀後半、大和朝廷は海を渡って出兵・・・・・・任那(加羅
)という地点に拠点を築いたと考えられる」って記述のことでしょ。
確かに通常の中学生が読めば大和朝廷の根拠地があったみたいに読むでしょうなあ。
380 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:17
事実としては任那はあった。
現時点での政治的歴史学では任那はなかったことになってる。
それでいいだろ。
381 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:20
NHKみとるか?
382 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:21
おお、韓国の学者が日本の影響を認めているぞ
383 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:22
前方後円墳、石棺の形態
384 :
名無しさん:2001/06/27(水) 21:24
この学者大丈夫かな?
385 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:24
あれだけ大きな前方後円墳の存在は、
全羅南道地方が日本領だった証拠ではないか?
386 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:27
国境意識が希薄だった。
なるほどね。
387 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:29
酒船石遺跡すごいね
388 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 21:31
すごい
石と水の都復活きぼーん
389 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 22:31
>>384 >>385 だから「亡命者」だなんて言って逃げてたでしょう? しかし「亡命者」
が故国の埴輪で飾り立てた巨大古墳を造れるわけが無い。国境意識が希
薄ならばワザワザ日本式古墳を造るというのも不自然だ。「日本領」と
いうのは兎も角として、倭国の勢力下にあったことは明確だよ。
武寧王陵の棺が日本産の「高野槇」で、鏡が副葬されていたのも極めて
暗示的だ。日本書紀をもっと素直に読んで歴史の歪曲を正すべきだろう
な。
390 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 22:33
なるほど。
半島に日本の領土があったのは間違いないようですね。
391 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 22:59
かって韓国で前方後円墳らしいものが発見された時は、波夫先生なんか
は征服王朝説が立証されると思って随分張り切っていたが、逆に日本起
源のものであることがハッキリしてガッカリしていたな。
韓国南西部に倭国の勢力圏があったのなら、より近い南東部(任那加羅)
に倭国の勢力が及んでいたと考えるのが自然だろう。倭国領とは言えな
いまでもこの辺りの小国に対する宗主権があったことは明らかだ。
韓国学者は「三国史記」を読んでないんだろうか?
392 :
日本@名無史さん:2001/06/27(水) 23:11
「三国史記」には、新羅建国当時の倭人の影響や、高句麗南下に際して
新羅から王子を差し出したこと、その王子が部下の犠牲で脱出したこと
がはっきり書いてある。百済から度々王子が入質していていたことも、
伯父が王位を簒奪した時に泣いて帰国を願ったことも明記している。
善し悪しは別にして、もう良い加減に歴史の真実は直視すべきだろう。
394 :
実習生さん:2001/06/30(土) 12:17
すいませんが 無知を承知で質問させてください。
30代の理系人間ですが 確かに当時中学校で習った歴史では
任那・百済連合軍VS新羅・唐連合軍VS高句麗の争いがあって
任那は日本の傀儡政権で 最終的に新羅が勝ち残って後の国は
滅んだと習いました。
高校では日本史を選択しなかったので その後はわかりませんが
この教科書の記載は一体いつごろ変更になったのでしょうか?
また その経緯は?
395 :
日本@名無史さん:2001/06/30(土) 13:04
>任那・百済連合軍VS新羅・唐連合軍VS高句麗の争いがあって
>任那は日本の傀儡政権で 最終的に新羅が勝ち残って
なんか順番がばらばらですがそれ以外ではだいたいそのとおりでいいんじゃないですか。
でも傀儡政権ってのは日本書紀の記述に照らしてもぜんぜんちがうと思うけど。
そんなこといってるのはウヨにもいないよ。
396 :
394:2001/06/30(土) 16:31
なんせ昭和50年代前半の話ですんで。
私は 韓国からの抗議で(少なくとも征韓論の根拠になってたようですし)
事の真偽はさておき教科書を書き換えたのだと 1人で勝手に納得してました。
ここのスレ読むと 任那とは半島南端の小国の集合体で文化的に
日本の影響下にあった地域とされているようですね。
ただ 現在の政治常識から判断すると単に文化的に影響下にあった
というだけで 国が傾くぐらいの大軍を派遣する(ハクスキノエ)というのは
はなはだ疑問符なのですが・・・。
まあ あくまで素人の疑問だと思って下さいまし。
397 :
日本@名無史さん:2001/06/30(土) 16:47
任那と北九州の倭が、東進してヤマト朝廷を
作るほうが自然だと思うが、、、
398 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 04:04
http://www.asahi.com/national/update/0702/003.html 今春の検定に合格した中学歴史教科書への韓国、中国の修正要求について検討していた文部科学省は、今週中にも結論を
出す方向で調整に入った。古代朝鮮史の部分などは学界の通説と異なると認めるが、要求の多くを占める近現代部分の大半
は「歴史解釈、表現上の問題」と判断することになりそうだ。首相官邸や外務省と調整の上、早ければ8日に予定される与
党3党幹事長の両国訪問の前にも公表する見込みだ。
文科省は5月、両国から扶桑社版の教科書を中心にした修正要求を受け、古代朝鮮史の専門学者らの意見を聞くなど学問
的に要求内容を検討した。
韓国は、扶桑社版が朝鮮半島南部に大和朝廷が築いたと記述した拠点(任那日本府)の存在は研究上認められないとした
ほか、同社の高句麗、新羅、百済の3国関係の記述に誤りがあると指摘していた。文科省側は、こうした古代朝鮮史に関す
る部分は指摘の通り、学界の通説と異なると判断する見込みだ。
だが、近現代部分の韓国併合や植民地政策などのほとんどは、解釈や表現上の問題だと判断しそうだ。韓国の修正要求3
5項目、中国の同8項目の多くはこれに含まれる。
文科省は、事実関係の誤りについては教科書会社に知らせ、自主的な訂正を待つ方針だ。文科相が自主訂正を勧告する制
度もある。ただ、一度合格した教科書を文科省として修正させることはできず、慰安婦など記述が欠けているという指摘に
ついても、加筆は求められないという姿勢だ。
一方、韓国、中国とも日本政府としての修正などの措置を求めており、文科省の結論に反発も予想される。
「任那日本府は誤りと文部省は結論した」と朝日は書いてます。
399 :
日本@名無史さん:2001/07/02(月) 09:03
400 :
394:2001/07/03(火) 19:25
399読んできたよ。任那=朝鮮半島の倭国領(倭国の規定については
諸説あり)でいいわけね。しかし白村江の戦いで勝ったのは新羅
なのに何で韓国人は任那の存在自体を否定したいのかな?
朝鮮半島で日本人の先祖と韓国人の先祖の戦争があって結果的に
韓国人の先祖が勝ったというのは別に不名誉というわけじゃ
ないだろうに。この部分よくわからん。
401 :
【^▲^】ヤマト@管直入squid1.marushin.media.kyoto-u.ac.jp:2001/07/04(水) 02:25
「朝鮮にかつて日本の領土があった」ということが
日韓併合の一つの理由にされたので、今でも嫌がってるらしいです。
でもいくらイヤでも事実は変えられないわな。歴史を歪曲捏造しちゃいかんよ。
403 :
日本@名無史さん:2001/07/04(水) 21:20
>>400 加羅諸国は倭国の属国であって、倭国領じゃないよ。
属国か、自国の領地かって差は大きいはずだが、韓国人はどっちも認めないんだろうな
404 :
日本@名無史さん:2001/07/06(金) 23:00
韓国の人は、なにを根拠として認めようとしないのでしょうか?
405 :
日本@名無史さん:2001/07/07(土) 22:44
根拠なんてないだろ。アイデンティティーなんだからさ。
恋愛に理由がいらないのと同じだよ。
あるいは在日や部落を差別する関西人に
差別する理由がないのと同じ。
406 :
日本@名無史さん:2001/07/08(日) 01:15
>>403 倭国は加羅の属国です。古事記をよめば明白です。
407 :
日本@名無史さん:2001/07/08(日) 01:19
406=鮮人
さすがに嘘をつくのはいけません
主張するなら該当個所を引用してごらん
>>406 「古事記をよめば」じゃなくて「桓檀古記をよめば」だろ。
つっても桓檀古記がなんだかわからないのか。どこまでも救われない奴・・・
409 :
日本@名無史さん:2001/07/10(火) 09:36
半島を統一した新羅の王の父である金春秋は日本で過ごしてたね
410 :
日本@名無史さん:2001/07/10(火) 10:22
うん。倭国や唐にエンコーをお願いして回ってたんだよ。
書紀じゃあ入質って書いてるけど、まあ小国の二股外交だね。
411 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 23:20
んで、春秋ちゃんの求めていた援助交際はうまくいったん??
412 :
日本@名無史さん:2001/07/11(水) 23:43
>>411 倭国は、もう百済チャンて色っぽいお嬢ちゃんがいたので袖にしたの。
そこで、唐って言うおっかないオッチャンにエンコーしてもらったん
だけどね。
そのため1400年たった未でも唐一家に頭が上がんないの。可哀想でしょ。
413 :
日本@名無史さん:2001/07/26(木) 04:21
あげ
414 :
日本@名無史さん:2001/07/27(金) 14:30
あげ
415 :
日本@名無史さん:2001/08/01(水) 16:36
>>412 百済からの亡命では、娘とか女性の方々も多勢来られたのでしょうか?
それとも独身者とか、あるいは軍事に出てそのまま一人で?
416 :
日本@名無史さん:2001/08/01(水) 19:25
>>408 「桓檀古記」は朝鮮の古史古伝ですよね。
とうの韓国での評価はいかがなんです。成立したのはいつごろ?
417 :
日本@名無史さん:2001/08/01(水) 20:14
>>415 百済からの亡命者といっても、サイゴン陥落の時のようなもので王侯貴族は、
家族共々倭国の実務官僚としてむかえられた。
しかし兵士とか下級役人なんかは、ボートピープルのような形で入って来て
未開地の開墾や築城なんかに使われたんだ。まあざっと見て7:3で男が多
かったね。(・・と見てきたようなことを、ヌケヌケと言う!)
418 :
416:2001/08/01(水) 20:31
419 :
日本@名無史さん:2001/08/01(水) 20:31
成立は1960年代だよ。
日本の古史古伝よりずっと新しい。
檀奇古史、揆園史話も同じ頃の成立。
420 :
416:2001/08/01(水) 20:38
421 :
日本@名無史さん:2001/08/04(土) 13:54
422 :
日本@名無史さん:2001/08/04(土) 14:31
民族の歴史はその民族の神話の創生である、という
前提に立つならば、必ずしも正確さ・事実のみが
求められるべきでないのはむしろ当然ではないか。
民族を団結させ、強める歴史記述は良い歴史記述、
それを弱める歴史記述は悪い歴史記述、である、という
考えは、学者以外の人間にとっては一概に誤っている
とはいえないのではないか。
423 :
日本@名無史さん :2001/08/04(土) 14:58
べつに反対じゃないけど。
>民族を団結させ、強める歴史記述は良い歴史記述
これはよく権力者に利用されるね。昔の日本にかぎらず。
424 :
日本@名無史さん:2001/08/06(月) 00:04
つまり民族とはきわめて近代的かつ政治的な概念であって
戦前からある「朝鮮民族史学」ってのは
現代政治上の問題であって歴史学の範疇には入ってないってこと(w
425 :
日本@名無史さん:2001/08/06(月) 02:22
「倭の五王」の1人武王(≒雄略天皇)は478年、宋に使者を送り
「使持節、都督 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」
と自称しています。
これは倭王が南朝鮮の有力な王族出身であり、徐々に辺境(日本列島)に
追いやられ、封じ込められていったということでしょう。
本スレにて指摘あるとおり、ミマキイリヒコ(崇神天皇)のミマキは「ミマ城」であり、
「ミマナ」(ナは国土、本土の意)出身である証左です。
426 :
日本@名無史さん:2001/08/07(火) 01:04
>>425 >これは倭王が南朝鮮の有力な王族出身であり、徐々に辺境(日本列島)に
>追いやられ、封じ込められていったということでしょう。
そんな解釈がどこからでてくるのか大いに疑問。
「渡って海北を平らぐること九十五国」とありこれが朝鮮半島の諸国だというのが通説。
だから倭王が日本の勢力であることは明白です。
>ミマキイリヒコ(崇神天皇)のミマキは「ミマ城」であり、
>「ミマナ」(ナは国土、本土の意)出身である証左です。
ミマキの語釈についてはいろんな説が出てますが、
その説はあまり有力視されてるようにみえませんねえ。
ミ(御)+マキ(真木=立竿祭天儀式の竿。世界樹の象徴)だろう。
427 :
日本@名無史さん:2001/08/07(火) 09:24
>>425 おいおい。辺境に追いやられ、封じ込められたものにどうして宋が、
「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」なんて百済を
除く南韓の軍事支配権を認めるんだい? これは自称じゃねえだろが!
(百済は百済王として認知されてたため除外されたが、もとよりこの様な広範な
支配権とは縁がない存在だ)
「ミマキイリヒコ」の「ミマキ」が「任那」なら、「イクメイリ」「ヤサカイリ」
「トヨキイリ」「トヨスキイリ」「ヌナキイリ」「イニシキイリ」「イオキイリ」
「イサチイリ」「イナセイリ」「フタジイリ」。。。は一体どこになんだ?
江上さんは、古代命名方を根本的に誤解してんだよ!
その他426の言うとおりだ。全羅南道の前方後円墳の存在が何を意味してるかも
明らかだろが。もういい加減に歴史の実像を直視しろや!
428 :
日本@名無史さん:2001/08/20(月) 20:55
.
429 :
日本@名無史さん:01/08/29 12:05 ID:UnygjymE
そうすると倭国の勢力圏は半島のかなりの地域に広がっていたと考えられるわけですね
430 :
日本@名無史さん:01/08/29 12:20 ID:ROmEKh9Y
そ〜ですね〜いわゆる一つの常識じゃあ〜ないでしょうか〜
431 :
日本@名無史さん:01/09/03 18:51 ID:pIHf5uRg
なんか今習ってる世界史の参考書で読んだんだけど任那と加羅っていっしょなん?
432 :
日本@名無史さん:01/09/04 12:28 ID:PEqu/mIQ
韓国系史料には「任那」という名称は、ほとんど記録されていませんが、僅かな
記録ではすべて「任那加羅」という表現になっていたと思います。
しかし、このことは「任那と加羅」が一緒ということを意味している訳ではあり
ません。(いっしょってどういう意味なの?)
もし機会があれば、先生に「任那」はなぜ「ミマナ」って読まれているのか聞い
てご覧なさい。
433 :
ハングル板から:01/09/07 21:41
435 :
日本@名無史さん:01/09/07 22:59
古田武彦の「倭人伝を徹底して読む」(朝日文庫)を読め。任那は大和朝廷が誕生する
より以前から倭人領だったことが内外の文献を駆使して証明されている。
436 :
日本@名無史さん:01/09/08 23:56
日本と任那の関係は、11世紀から12世紀のイギリス王国とノルマンディー公国の
関係と同じ。
437 :
日本@名無史さん:01/09/09 00:30
古田武彦って、唯我独尊なとこあるからなあ。
438 :
日本@名無史さん:01/09/09 01:24
>>436 何の根拠もないこといって、自分が虚しくならない?
439 :
日本@名無史さん:01/09/09 10:46
島国と、島国が大陸側に持ってた飛び地ってだけじゃないの?
440 :
日本@名無史さん:01/09/09 15:13
>>437 >>439 「韓国は東西は海をもって限りとなし、南、倭と境を接する。」とか、
「辰韓、そのトクロ国(?たぶん)、倭と国境を接す。」とかいう感じの
中国等の文献に基づいていた。
441 :
日本@名無史さん:01/09/09 17:25
「魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述が見られる時期に、
朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を広げたことで一致。
宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代中期〜後期(5〜6世紀)
になると、朝鮮半島南部にいくつも見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。
と言うわけで、全く問題ないのである。」
ねー、ねー、魏志倭人伝自体の信頼性ってどうよ?
公正中立に間違いない事実が書いてあるんだろーか?
アメ氏発祥の地です
アメ氏は1〜2世紀の間に
任那→北九州へと移住し
2〜3世紀の間に、南九州へと移動しました
これらの記憶を総称して神話の「アメフリ」「アメクダリ」
という言葉ができたのです
444 :
日本@名無史さん:01/09/10 01:28
百済と新羅は倭のぱしり国家でした。
445 :
日本@名無史さん:01/09/10 02:34
難しい・・・・
446 :
日本@名無史さん:01/09/11 14:17
>>443 アメ氏だあ〜?
気でも来るってんの可??
447 :
日本@名無史さん:01/09/15 09:24
>>442 公正中立ではあるだろうけど、『間違いない事実が書いてある』とは限らない。
魏志倭人伝に限らず、三国志のあちこちで裴注の段階で既に疑問が出されている。
断っとくけど、これは三国志がデタラメだといってるわけじゃなく、
どこまでが史実か、史料の限界はどこかを見極めるのは文献史の宿命。
448 :
日本@名無史さん:01/09/15 14:12
>>439 似ているがまったく違う。
ノルマンディ−公ウィリアムがイギリスを征服した。
そのノルマンディー公も元を辿れば、フランス北辺を
征服した北欧系民族(つまりバイキングだね)
ノルマン公国とイギリス王国の例を持ち出すと、
流れてきた騎馬民族が任那に国をつくり、
そのまま日本に攻め込んだとする
江上説そのものになってしまう。
唐突だけど、素人の質問。
なんで「魏志倭人伝」で、「魏志倭伝」じゃないの?
「魏志韓伝」なのに??
正確に言うと魏書東夷伝倭人条が正式名称。
だから通称魏志倭人伝。
後者はそれぞれ弁韓条、辰韓条、馬韓条の
三韓で記載されているため。
もし韓人でひとつの勢力とみなされていたら、
東夷伝韓人条だったかもしれないし、
通称魏志韓人伝と日本では言っていたかもしれない。
じゃぁ、倭人は倭の勢力圏全体、倭は倭人の本国、ぐらいのイメージでいい?
専門ではないが一応書き込んでおく。
一般的に、魏志倭人伝の時代の感覚では、倭は朝鮮半島から
海を渡ったところにある島々とみなしたと考えられている。
帯方郡などと陸続きで隣接していた三韓と異なり、
当時の王朝にとっては倭の地理、実態はよくわからなかった。
済州島が倭とみなされていた可能性はないので、おそらく
対馬対岸の韓国南部にやってくる人々が属する文化圏を
倭とみなしたと取れる(証明するのは魏志倭人伝しかないので難しいが)。
このような感覚は、のちの中国王朝が、現在の華南から海を渡ったところに
ある島々(つまり、台湾、沖縄)を「琉球」と総称したのと同じだと
思えばいい。これは大航海時代の西洋人がヨーロッパから東をインドと
みなしたの同じ感覚だろう。もし三韓と同様に、倭も数個の対等な勢力が
それぞれ歴代中国王朝と密接な関係を有していたなら、単に倭人ではなく、
○○倭、■■倭と称していたかもしれない(あくまでも推測だが)。
つまり、倭の勢力はいくつかに分かれていたということはわかったが、
具体的にはわからなかったので三韓のような個別の勢力圏で呼ばず、
倭人と総称したのではないか?
要するに対馬をはじめとする海の向こうの島々に居住する人々が持つ
文化圏を倭といい、その文化圏に属する人々を倭人と見なしたに
すぎないとみるべきで、当の倭人に「国境」や「民族」という意識が
あったかどうかさえわからないのに、倭の勢力圏全体、倭の本国と
考えるのは禁物。
453 :
日本@名無史さん:01/09/22 13:57
半島の南部ははやはり日本領なのではないかな
454 :
日本@名無史さん:01/09/29 00:26
いわゆる古来からの固有の領土ってやつですな
455 :
日本@名無史さん:01/10/07 07:14
別の地域にいた初見の倭人っていうのが我々の先祖なのかも
452のようなマトモな書き込みのあとに
すかさず453とか454のようなトボケタ奴が出てくるのが
2ちゃんらしいといえば2ちゃんらしいね
457 :
日本@名無史さん:01/10/14 01:34
倭っていうのの一部(とはいえ大半)が日本となったとおもえばいいのではないかい?
458 :
日本@名無史さん:01/10/14 20:38
agoipsdlzyujh oi5ae@ps;rtyjns[::;::
459 :
日本@名無史さん:01/10/15 21:38
今回の小泉訪韓で、歴史共同研究が進むらしいけど、
この「みまな」につて、日本と韓国では全く意見が違うので、
この、歴史共同研究?会?ってすぐ終わりになると思われ。
461 :
日本@名無史さん:01/10/16 14:01
韓国側の主張=「ミマナ???なんだそれ?そんなのあるわけない」
日本側の主張=「当時、日本の出先機関ミマナがあったのは事実」
?????????????????????????????
462 :
日本@名無史さん:01/10/17 01:16
純粋に歴史を追求するか、それとも国民感情や政治動向に配慮するかで
研究会がどこまでもつか決まるだろうね。
前者なら物別れですぐ消滅するか、デンパな学者の巣窟になる可能性があるし、
後者なら政治の道具として永遠に存続するだろう。
でもはっきりいって古代は棚上げにするんじゃない?
韓国の主張する歴史を補強するどころか最近不利になる出土品が多いし。
おそらく近代以降に限るだろうね。
463 :
日本@名無史さん:01/10/17 01:42
ひととおり、読んだが、任那がねえっていう論拠が、
13世紀にできた三国史記にのってないってだけだよね。
こんなの相手にする必要あるのかねえ?
464 :
日本@名無史さん:01/10/17 06:39
452だって少しおかしいぞ。
魏書東夷伝では7種族の東夷のうち種族を代表するような王がいるのは
高句麗、夫余、倭の3種族だけで、「○○倭、■■倭」と称さなかったのは
そのような分裂情況がなかったからだろう。(狗奴国は1国だけの反乱勢力)
あと、後代の正史がすべて「倭国伝」とするように、内容は事実上「倭国条」なのに
なぜ「倭人条」になっているのか、だけど、これは陳寿が漢書地理志の
「楽浪海中倭人ありうんぬん」から冒頭を作文したことを強調する意図があったと思われ。
465 :
日本@名無史さん:01/10/18 21:00
466 :
日本@名無史さん:01/10/18 22:22
>>461 任那加羅という地名は、広開土王碑文や三国遺事に記述されてるから、その存在を
疑う人はいない筈です。韓国で否定されているのは「任那」ではなく「任那日本府」
でしょう?
467 :
日本@名無史さん:01/10/26 07:18
歴史を歪曲するな!
468 :
日本@名無史さん:01/10/26 08:12
>>466 いちよう理屈はそのとおりなんだけど、
韓国では任那日本府はいんちきだという理由で“なぜか”「任那」という言葉もつかわないよ。
「加羅」もやや使いたがらない。「伽耶」といいたがるね。
ドキュンぽいけど各自の自由だから・・・
469 :
日本@名無史さん:01/10/26 09:13
>>468 三国史記に「伽耶」だと載ってるから仕方ないだろう。
470 :
日本@名無史さん:01/10/26 13:34
じゃ日本書紀に任那だと載ってるのも仕方ないね(w
471 :
日本@名無史さん:01/10/26 13:57
まあ韓国で否定しているのは「任那日本府が半島南部を支配した」だし。
472 :
日本@名無史さん:01/10/26 14:52
「倭・倭人」が存在したのは、疑いようのない歴史的事実だが、「日本・日本
人」としては、こう呼ばれるのは不愉快だ。しかしコリアンはしばしば「倭奴」
とワザワザ「奴」付きの蔑称で呼んでいる。
「支那・満州」が存在したことは歴史的事実だが、日本でこう呼べばチャイナ
から厳重な抗議を受ける。
日本がソウルを「京城」と呼べばコリアから厳重抗議を受けるだろうが、チャ
イナは平気で「漢城・漢陽」と呼んでる。
まあイロイロあるってことだね(藁
473 :
日本@名無史さん:01/10/26 18:30
どっちにしても「任那(加羅)」っていう地名があったことは、韓国系
史料でも確認されているんだから「加羅・加良・伽耶」のうち、どの表
記と組み合わせて使おうが「任那(加羅)」の存在自体を否定すること
にはならない。
任那(加羅)に書紀がいうような「任那日本府」と言う日本(倭国)の
半島南部統治機構があったかどうかは、充分な決め手がなく未決着とい
うところだろう。しかしこの地域が倭国の極めて強い影響下にあったこ
とは、まず間違いないところだろう。(韓国では否定的だろうが)
ところで問題の一つは、日本では何故に「任那」を「ニンナ」ではなく
「ミマナ」と称していたかだろう。(おそらく和語だろうけれど)
これについてはどうなの?
474 :
日本@名無史さん:01/10/28 03:04
ミマナというのは古韓の地名で漢字は後から当て字したもの。
魏志韓伝に「弁辰“弥烏邪馬”国」があり、これは「弥烏馬邪国」の誤りという説もある。
(今の慶尚北道高霊)
ミマナが「主浦」の意で今の釜山という井上秀雄の説は、
このスレの前の方だったか、別の類似スレで誰かに否定されてた。
475 :
名無しさん@1周年:01/10/28 03:32
朝鮮正史「三国史記」でも、倭国の軍事的強大さには数多く言及してるからな
好太王碑文の時代に、百済が皇太子を新羅が王子を倭国に人質に出したと明記しているし
それどころか、新羅の第四代・脱解尼師今に至っては、倭国の東北千里の多婆那国(丹波説が有力)生まれと
明記している位で、今の朝鮮人が狂っているだけだな
476 :
日本@名無史さん:01/10/28 09:02
>>474 「ミマナ」あるいは「ミウマヤ」と言う原音の地名があったとして、その音にどう
して「任那」と言う漢字が当てられたの? 「任」に「ミマ」「ミゥマ」って音はな
いと思うんだけど?
477 :
日本@名無史さん:01/10/28 13:29
nim→mimは音韻転化でよくある例です。
478 :
日本@名無史さん:01/10/28 13:36
>>474 飛込みレスで申訳ないが、百済(くだら)、新羅(しらぎ)への解釈も
してみてほしいな。
479 :
日本@名無史さん:01/10/28 13:41
>>478 少し以前だけど、類似スレがたくさんあって、その話「はげしくがいしゅつ」だったような・・・
>>477 なるほど音韻転化ね。。。ってことは3世紀には「ミウマヤ」って地名が
あって「弥烏馬邪」と写音表記され、後に「弥烏邪馬」と誤写された。
この「ミウマヤ=ミマヤ」は後に音韻転化して「ニンヤ→ニンナ」となり、
「任那」と写音表記された。。。しかし倭国では古称の「ミマヤ」が「ミマナ」
に音韻転化して「任那」を「ミマナ」と称した。。。ってことなの?
かなりシンドイと思うんだけれども。。。。。マアイイヤ(W
481 :
日本@名無史さん:01/10/28 14:10
いや。
任那nimnaがminanaと音韻転化するのはわりと自然であるってだけ。
弥烏邪馬との関係は知らない。
482 :
日本@名無史さん:01/10/28 15:16
>>480 そうじゃない。
「弥烏邪馬」が仮りに誤写だったとしても、
もとの形が「弥烏馬邪」か「烏弥馬邪」か「弥馬邪烏」か
あるいは「烏」が衍字で「弥馬邪」か、なんだかわからんよ。
でも頭音が「弥」なら[m−]でしょ。
これが1回[n−]になってまた[m−]になったとは考えにくい。
だからもともとm音のつもりで「任」の字を使ったか、
同じ韓国内でもm音のまま発音してた地域とn音に訛った地域があって、
後者で「任那」の当て字が行われ、前者の発音が日本に入ってきた、
とでも考えるしかない。
もっとも、魏志韓伝の「弥烏邪馬」を誤写とせず、任那とは無関係な地名とすれば
また別の理屈が考えられる。
483 :
日本@名無史さん:01/10/29 20:24
このスレ、パート2ってあるけど、長いこと酷似スレと並存してたから
のべでいうと事実上4本目みたいなもんなんだよな。
っつーわけで、あらゆる話題について語り尽くしちゃった感がある。
そろそろ終了かもナ
484 :
日本@名無史さん:01/10/30 00:44
洋泉社の逆転の日本史だったと思うけど、
任那は、鉄器の生産地で、当時、半島及び日本から
買い付けにいっていたらしい。
でも、任那滅亡とともに鉄器文化は半島から忽然と消えたそうで、
おそらく日本に移民してきたと考えていいようだ。
つまり今の朝鮮人と任那は別の民族といえるね。
それと任那=加羅は、小国家群であったらしい。
あと、日本って言葉の使用時期から考えると、
任那日本府という名称は後から付けたもので、
当時は別の呼びかただったらしいね。
>>484の移民ってのは、任那の人々が鉄器文化と共にってことで、
つまり鉄器文化は、半島からなくなって日本で栄えたわけ。
なら少なくとも任那は倭の保護下にあったと考えてもいいよね。
486 :
日本@名無史さん:01/10/30 13:42
>>484 >任那日本府という名称は後から付けたもので、当時は別の呼びかただったらしいね。
禿しくがいしゅつです
487 :
日本@名無史さん:01/10/30 15:40
>それと任那=加羅は、小国家群であったらしい。
それも禿しくがいしゅつ。つーか常識。つーかスレ読んでくれよ
488 :
日本@名無史さん:01/11/07 13:12
日本の影響地域、ていうのが正しい。
489 :
日本@名無史さん:01/11/09 10:10
任那の東半分は加羅諸国。
この国々はカンキという世襲の在地首長がいたから倭国領ではなく倭国の属国。
任那の西半分は後に百済に割譲された四県二郡の地。
ここは国司(みこともち。倭国の官僚)が派遣されていたから倭国の直轄地。
490 :
日本@名無史さん:01/11/09 23:05
491 :
日本@名無史さん:01/11/13 06:40
聖徳太子のドラマでも「任那」は一度も発音されませんでした
492 :
日本@名無史さん:01/11/13 08:16
日本書紀に出てくる
「任那国司吉備国司・・・」の記述が気になります。
吉備国司が任那国司を兼任していたと解釈されていますが、どうでしょうか?
493 :
日本@名無史さん:01/11/13 13:25
495 :
日本@名無史さん:01/11/13 17:45
原文はありませんでしたがこんな感じの内容です
2.日本書紀に「吉備と稚媛」について、次のような記述がある。
上道国造の田狭は、自分の妻である稚媛の自慢をした
化粧をしなくても、こまやかに、さわやかにして、もろもろの好(かお)
備わ れり。あからかに、にこやかにして、くさぐさの相(かたち)足れり」
田狭の言 葉を聞いた雄略天皇は、田狭を任那国司として派遣し、その留守に
稚媛を宮中に 召し出し、妻とした。
稚媛は、田狭との間に、兄君(えのきみ)と弟君(おとぎみ)をつくり
雄略天皇に奪われた後、磐城皇子と星川皇子が生まれた。
そのことを知った任地の田狭は、新羅と組んで謀反を起こした。
討伐に、田狭の子供の弟君が派遣されたが、百済で自分の妻である
樟媛に殺害 され、田狭も行方不明となった。
その16年後、皇位継承をめぐり、皇太子白髪皇子に対抗し、クーデターを計 画し失敗、稚媛、兄君、星川皇子などが、焼き殺された。
そのクーデターに、上道臣が関連したとして、「山部」を奪われた。
その後、急速に吉備の国は衰退していった。
--------------------------------------------------------------------------------
年 表
457年 日本 雄略天皇即位 太歳丁酉
460年 倭王 興 即位(宋書)
462年 倭王 興 が宋に遣使、宋の孝武帝に朝貢(宋書)
463年(雄略 7年) 百済から漢手人部、衣縫部らの献上
463年 下道臣前津屋の反乱 下道氏高梁川西に転地
463年 上道臣田狭の反乱 新羅と結ぶ
470年(雄略14年)漢媛、兄媛、弟媛 渡来
471年(雄略15年)秦氏 渡来
471年 「辛亥の年大王の宮で鉄剣を作らせた。」埼玉県行田市「稲荷山古墳」から鉄剣出土
475年 百済王 高句麗との戦で戦死 王子の文周南方へ
478年 倭王 武 の上表文(宋書)
479年 日本 雄略天皇崩御
479年(雄略23年)天皇後継をめぐって、「星川皇子の変」
稚媛、星川皇子、上道国造兄君などの反乱
480年 日本 清寧天皇即位 太歳庚申(庚申480年)
--------------------------------------------------------------------------------
5世紀後半の記述が正しいとすれば、両宮山とは、大和に対抗し、巨大古墳を 作り、表向き祭れない田狭と息子の弟君の両君主を、上道臣の威信を懸けて、祭 り、両宮と称したとも思われる。
それ以後、「星川皇子の変」の後、吉備の衰退が激しく、巨大古墳は、出現し なくなってしまう。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/wakahime.htm
なーんだ。
その話なら知ってるヨ
「吉備国司と任那国司を兼任してる」なんて話じゃぜんぜんないじゃん。
なにかと思ったぜ。
がいしゅつなら申し訳ないが加羅とか新羅とかの「羅」ってどういう意味
ですか?
498 :
日本@名無史さん:01/11/14 03:31
任那から来た人たちがうまく大和朝廷をのっとたか、あるいは大和朝廷そのものだったか、のどちらか。
世界史のフランスのノルマンディー地方の人々が、イギリスにわたってノルマン朝を始めたのと同じパターンがあったと思えば良い。
当時の半島と列島の文化の格差を考えれば、任那地方から来た人が圧倒的に少なかったとしても、これは可能。
当時の倭人がわざわざ玄界灘を渡って朝鮮へ進出したと考えるよりも、力学的にもこう考えた方が自然。
また乗っ取りが、行き過ぎだとしても合体、つまり任那地方の支配権を持つ人たちが九州の有力者を介して、大和朝廷と関係(婚姻、従属関係)を持って、それで大和朝廷が支配権を主張するようになったと考えてもいいかもしれない。
とにかく大和朝廷から任那ではなく、任那から大和朝廷が基本だと思う。
499 :
日本@名無史さん:01/11/14 03:33
>>497 不明です。よくいわれるのは「〜の地」の意味という説だが、ほんとかどうか・・・
500 :
日本@名無史さん:01/11/14 03:39
>>498 朝鮮や中国の史書に全くそういう言及がないことの説明がつかないんじゃ?
501 :
日本@名無史さん:01/11/14 03:48
498は定期的に出現するコピペだろ。しかも内容は具体的根拠不明の電波。
502 :
日本@名無史さん:01/11/14 04:07
>498
逆だよ。文化程度高いから国力高いとは限らない。むしろ逆!
ノルマンも所詮バイキングだろ!蛮族!蛮族の方が武力は上。
伽羅で前方後円墳確認されてんだから、倭の勢力圏てのは間違いない。
実際、任那地方を足がかり百済と一緒に新羅攻めてんだから。
文化が高けりゃ国力強いという幻想はいい加減捨てなさい。
任那の問題は日本の資料に書かれているのに、中国や朝鮮の資料に書かれていないのだから問題だと思う。
だからそちらのことは考えず、日本の資料の裏読みで仮説を立ててみました。
任那は、もともと海岸部にあるというその地形からもわかるように、海上交易を中心とした商業国。
5C以前のこの地域の交通事情を考えれば、山を隔てた同じ半島の他部族よりも日本方面との交流のほうが容易である。
したがって、日本との交流は古くからあり、さらに文化格差を考えれば任那のほうがイニシアティブを取っていたはず。
そういった中で、史書を残すような政治色の強い周辺が侵入してきた。
後の百済のような亡命も考えても良いと思う。
白村江前夜も斉明の強烈なパーソナリティーがあったにしても、ことの発端は半島の社会情勢であり、半島から列島への流れである。
この政治力学の流れは中世に入るまでは不変だと思う。
そんな中で、任那日本府というのは不自然なのである。
世の中には、歴史に依存して権威をつくりたがったり、それに頼る人たちがいる一方で、そうでない人たちもいる。
後者(経済重視の人たちは歴史に頼らないし、歴史を書く人も基本的には経済従事者の実態を把握するのは苦手)
を研究するのに、書かれた資料の細かい箇所を論じているだけというのはナンセンスだと思う。
504 :
日本@名無史さん:01/11/14 04:37
ナンセンスなのはあなた
505 :
日本@名無史さん:01/11/14 04:38
>そういった中で、史書を残すような政治色の強い周辺が侵入してきた。
具体的に、どういう奴がどこから?
506 :
日本@名無史さん:01/11/14 04:52
・任那を拠点とし日本列島に勢力を伸ばした?勢力が経済従事者だったかどうか
・歴史に依存して権威を作りたがる人とそうでない人がいるというのは事実かどうか
・経済従事者が歴史に頼らないというのは本当か
・(当時の)歴史家が経済従事者の実態を把握するのが苦手というのは本当か
・書かれた資料(史料)の「細かい箇所」とは何のことか
・国際情勢と国内の動きとの関わりはどの程度影響し合うものなのか
検討(検証)すべきことが多すぎて、目が回りそう。
501や504の批判の仕方は、批判の礼儀を知らない。
たとえナンセンスな内容であってもどこがどうナンセンスなのか主張するのが礼儀。
そうでないと議論は発展しない。
要するに意見の違う人間を排斥するだけで、知識はあるかもしれないが閉じられた狭い世界の人間といっておきたい。
505への答え。百済、新羅、高句麗。
508 :
日本@名無史さん:01/11/14 04:54
>知識はあるかもしれないが閉じられた狭い世界の人間といっておきたい。
そりゃそうだよ。そこまでは納得するけど知識がなければそれ以前の問題だろ
509 :
日本@名無史さん:01/11/14 04:55
議論が発展しないのは、得てして一方がバカな場合
>505への答え。百済、新羅、高句麗。
百済や新羅や高句麗が任那に侵入してきたのはよく知られた事実で、
あなたの説をなんら説明も補強もしてないと思うが???
具体的に、ときんたんですが。
511 :
日本@名無史さん:01/11/16 02:11
>>489 属国といえば加羅だけじゃなく新羅、百済も同じ。
だから直轄地は四県二郡の地だけ。
512 :
日本@名無史さん:01/11/16 02:20
大和朝廷が外来政権だったとして、それをどうして隠す必要があったのか、
またその隠蔽に朝鮮や中国の史書がわざわざ付き合っているのかについて、
真っ当な説明って聞いたことがない
513 :
類似スレ集:01/11/17 22:51
514 :
日本@名無史さん:01/11/17 22:53
「ローマ文化王国 新羅」って・・・・
絶句・・・しかないですね。
ウリナラ野郎ってこんなものをマジで信じているんですか?
515 :
日本@名無史さん:01/11/17 23:10
新羅ネタの発信元は日本の美術史家だったと思う
>>514,
>>515 あの。
せっかくスレのリンクならべてあるんですから
それぞれの該当スレでやってもらえませんか。たのむよ、もう。
↑ご同情申し上げます。
518 :
日本@名無史さん:01/11/23 01:54
新羅国(いまの韓国の先祖)が百済国を滅ぼして、
倭国(いまの日本)が百済を救うための白村江の戦いで唐(鮮卑族系)に
破れてしまったため、百済の王族・貴族・技術者・人民たち数十万人は
倭国へと移住を行ないました。
そして、百済をほぼ合併吸収する形となった倭は、日本国と名称変更をしました。
519 :
日本@名無史さん:01/11/29 14:08
韓国(=新羅)はいまでも日本(=倭・百済連合)をごちゃごちゃ批判するね!
かなりうんざり
520 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:00
もうこのテーマでは話題がないのか・・・
521 :
日本@名無史さん:01/12/03 22:11
それでは、
豊田有恒の「五王の末裔」という騎馬民族説のSF小説がありましたが、
どう思います?
522 :
日本@名無史さん:01/12/09 02:05
我々日本人はすべて五王の末裔である。
みんなで仲よくしようではないか。
523 :
日本@名無史さん:01/12/09 02:05
アズマがウザイと思っていたら、追放運動に参加してね
524 :
日本@名無史さん:01/12/10 01:10
>>524 すいません、よく覚えていませんが、むちゃくちゃ面白かったことだけ
覚えています。半島の有力豪族の息子が動乱で追われて日本にやって来て、
大和朝廷を作るんじゃなかったかな?
豊田有恒は、この手の歴史SF小説をいっぱい書いています。
多くは絶版になっていますが、ブックオフあたりで探せばあるかも?
無責任で申し訳ない。2chのSFスレに歴史SFのスレあります。
結構ていねいに教えてくれます。
526 :
日本@名無史さん:01/12/11 06:42
豊田有恒は一時期古代史にはまってて、素人談義をよくかましてたよ。
それで、はじめはウザくてしかたなかったんだけど、
取材旅行しているうちに例によってウリナラマンセーにあきれかえって
韓国朝鮮批判とかやるようになってきて騎馬民族説から覚めたようだね。
その後は聖徳太子とか天武天皇とかに関心が移った。
一応素人だから、彼の聖徳太子論や天武天皇論は専門家からみれば問題だらけだろうけど
騎馬民族説にはまってた頃の電波垂れ流しに比べればものすごい成長といえる。
>>524 訂正します。「倭王の末裔」でした。
押入の中からほこりかぶった本を見つけました。角川文庫です。
今日少し読み直してみました。
南朝鮮にやってきた扶余系の騎馬民族が農耕民族の韓族を支配し
やがて海を渡るというものです。
528 :
日本@名無史さん:01/12/15 23:05
扶余系の騎馬民族っていうけど、扶余系って騎馬民族なの?
529 :
日本@名無史さん:01/12/17 07:44
530 :
日本@名無史さん:01/12/22 00:37
百済の支配層は扶余系とみてよいの?
531 :
日本@名無史さん:01/12/23 05:27
百済はけっこう歴史が長いので、時代によるよ。
王家の扶餘氏はもちろん夫餘系なんだけど、
初期の頃は、真氏(=姐奴氏)など土着系(=先住民系)の貴族もいたし、
国氏など漢人系の貴族もいた。
でも後期になるほど、餘氏(扶餘氏)がふえて、貴族層に占める割合はほとんど
王家からの分家になってしまったようだ。
532 :
日本@名無史さん:01/12/28 19:05
餘氏と天皇家の関係についてなんでもいいのでおしえてください
533 :
日本@名無史さん:02/01/03 06:34
先住民系の貴族がいたってことは、日本でもそういうのあったんだろか??
>>532 「餘氏と天皇家」の関係は、「百済王家と天皇家」の関係とだいたい同じ。
>>533 日本の場合は、諸蕃(帰化人系)以外はぜんぶ先住民。
age
>>535 知ってる範囲でなんでも答えてやるから、あげるなよ!
いいか、さげろ。電波が寄ってくるだろが。ヴァカが。
537 :
日本@名無史さん:02/01/07 18:25
日本の学会の主流は韓国の主張をみとめてるんだろ。
つーか日本の学会でも任那日本府説は否定されてたんじゃないのか?
扶桑社の歴史教科書の古代史部分は韓国の要求どおりに文部省によって修正されてるし。
538 :
日本@名無史さん:02/01/14 10:51
任那日本府の否定はされていない
機関かどうかの違い
539 :
日本@名無しさん:02/01/14 20:46
age
540 :
日本@名無史さん:02/01/14 20:55
>>538 日本という国号の成立が7世紀だから、「任那日本府」という名称の公的組織あるいは機関があったことは否定できるだろう。
『日本書紀』は、過去の「倭」を「日本」と書き換えている可能性があるので、「任那倭府」のような名称であったかも知れない。
あるいはそういう名称でなくても、大和朝廷の何らかの機関が任那にあった可能性は否定できない。
541 :
日本@名無史さん:02/01/21 12:20
なんかループしてるね。面白いからいいけど。
542 :
日本@名無史さん:02/01/21 13:46
倭は、軍事援助の一環として512年に任那を百済に譲渡してして
いることから考えて、単なる領事館ではなかったでしょうねぇ
上海租界やグアンタナモ米軍基地みたいなものかなぁ・・・
#そのときの収賄疑惑で大伴金村が大連から失脚
#以後政柄は蘇我・物部氏へ
日本領PART1-746
ミトコンドリア遺伝子は母系遺伝するから、男系については全く分からないぞ。
モンゴルの男性などが、土着の女と交尾しまくっても、その影響は見えないって事。
日本領PART2-91
ミトコンドリア遺伝子の変異のパターンから二百九十三人は十八の集まり(群)に分けられた。
うち韓国人と中国人が多数を占める七つの群に五○%もの本土日本人が入ったのに対し、
アイヌ民族と沖縄住民はそれぞれ二○%以下しか入らなかった。
同助教授は、この大陸系の特色を持つ七群に入る五集団の割合から、ミトコンドリア遺伝子が
どれだけ渡来によってもたらされたかを試算。その結果、本土日本人のミトコンドリア遺伝子の
約六五%は大陸由来、残る約三五%は縄文由来となった。弥生時代以後約九百年続いた渡来が
現代の日本人の遺伝子構成に大きく影響していることが示された。
上記から導き出されること。それは・・・
大陸から日本列島に大量のギャルが押し寄せてきた! ということ!!!!
544 :
日本@名無史さん:02/01/21 20:36
>>542 任那を百済に譲渡って、実体はどんな感じだったんでしょう?
綺麗事なだけに興味がある。現実はグチャグチャだろうね。
545 :
日本@名無史さん:02/01/21 21:51
百済は高句麗に敗れて南遷し、弱体化していた。
一方任那は日本府の役人が官僚化して私服をこやすばかり。
だから高句麗と新羅にはさまれてる「百済・倭国」としては
たよりになる外壁としての百済を強化しつつ、
日本府のリストラもできて一石二鳥だった(とその時は大伴金村は思った)。
でも加羅諸国としてはただでさえ新羅と百済の両側から圧迫されてるのに
百済がさらに強大になるのは大反対。しかもそんな前例を作ったら
加羅や新羅が「おれにもくれ」と言い出しかねない。
だから安閑(当時まだ皇子)は反対派だった。
継体と物部荒鹿火は金村の理解者だったと思われるが
欽明の代になり物部氏も物部尾輿に代替わりすると蘇我稲目とともに金村を弾劾し、
任那滅亡の原因を作ったとして大伴金村は失脚。
543
ワラタ
548 :
日本@名無史さん:02/01/23 14:10
>>545 無理がないか?
当時官僚って存在してるか怪しい。
549 :
日本@名無史さん:02/01/23 14:18
ええーっ?。
任那って天皇家の発祥の地にして先祖代々の墓所だって言うのが定説じゃないの?。
ほら、あの辺じゃあ、一族の発祥の地をものすごく大切にするじゃん。
任那恢復をいつまでも名目上は国是とし続けたのも、経済的・政治的には意味なくても、
敬神崇祖のマツリゴトのためには仕方なかったという意味でしょ?。
550 :
日本@名無史さん:02/01/24 22:45
何故任那と言う地域が存在するかだが、
当時大和朝廷は、領土拡大政策をとっており、
南は九州南部や琉球を朝貢させ、東は蝦夷征伐。
そして朝鮮半島にも手を伸ばしていたと思われる。
その拠点が任那であったが、そこの原住民は他の地域と
異なり、騎馬民族として文明も進み軍隊も強かったという事。
数百年戦ううちに、百済とは同盟となり、文化の伝授が行われたと推察するが。
551 :
日本@名無史さん:02/01/24 22:59
第14代仲哀天皇は心優しい性格だったため、お后でいらした神功皇后の
言いなりになっていらした。皇后は巫女であり、占いをして政策や討伐計画を
立てていたらしい。ちょうどそのころ、天皇は、またも朝廷に手向かったクマソ
の討伐をしようとしていたが、神のお告げを聞いた皇后はそれに反対、突如朝鮮に攻め込むよう天皇に
訴えになった。しかし天皇はそれを好まず、皇后の訴えを却下。天皇はくしくも神に
逆らった形となってしまい、病に倒れ、崩御されたらしい。
552 :
日本@名無史さん:02/01/24 23:14
稲作の成功=人口拡大=領土不足は数百年で起きうるから、
邪馬台国や大和朝廷も領土拡大政策を重視していても不思議ではない。
553 :
日本@名無史さん:02/01/25 00:35
記紀は舎人親王の作り話。竹内文書等を参考にすべし。
554 :
日本@名無史さん:02/01/29 00:51
アフォ
倭人go! 倭人go! 倭人go!
以上、go-go-go の叫びでした。
556 :
日本@名無史さん:02/02/11 02:41
舎人親王と同時代人はみんな受け入れたのでは?
557 :
日本@名無史さん:02/02/11 05:22
人口拡大で領土不足で領土拡大ってか
なにテレビゲームみたいなこと言ってんだよ
狗邪韓国の昔からあそこは倭なの
その後身金官国に官家があったの。目的は鉄。
失ったころには日本でも製鉄できるようになったから別にいいんだよ by金村
558 :
日本@名無史さん:02/02/17 02:03
縄文土器が半島南部でだけ発見されるというのも呼応するね
559 :
日本@名無史さん:02/02/22 06:58
>>557 領土拡大に直結しなくても余剰人口の輸出=移民の奨励ぐらいはありうる。
ただ、はじめからその意図で半島進出があったとは思えないが。
つーか、金村としては、任那のうち百済に与えた分からの貢ぎは
引き続いて百済の負担分に加えればいいと考えていたのだろう。
現に、後に新羅が任那を併合した後も、しばらくは新羅が任那からの貢納を代行していた。
560 :
日本@名無史さん:02/02/22 10:25
倭国のほうが任那領だったとか
562 :
日本@名無史さん:02/02/23 03:42
563 :
日本@名無史さん:02/02/23 21:48
564 :
日本@名無史さん:02/02/28 19:09
任那王室についてはどうよ?
565 :
日本@名無史さん:02/02/28 19:19
天皇は一族含めて処刑して根絶やし。
天皇家の血統を10代遡って抹殺した上で、
徳川ゆかりの将軍をアズマの棟梁としていただき、
アズマの地に、東日本で生活する諸族による国家連邦をうちたてる。
これこそ、我らアズマ人の理想とする国家像だろ。
天皇家は一族皆殺しが後腐れがなくて一番だね(藁
>>564 「どうよ」だけじゃわからん。具体的に質問して。
>>565 露骨に頭わるそうな奴だな。お前にふさわしいアズマスレがいくつもあるだろ。
このスレ最初から読んでみろ。お前がくるようなスレじゃねえんだよ
567 :
日本@名無史さん:02/03/05 20:21
まず、任那には王室ってあったの?
あるいは王でなくても代々統治をする家系。
任那全体に君臨するような王はいない。
【任那東部】
加羅諸国にはそれぞれ国ごとに旱岐(かんき)という世襲(?)首長がいて、
こいつらが強いて王といえば王のようなもの。
でも一時的にせよ外交上、国際的に正式に「王」と
認められたことがあったのは伴跛国(=大加羅)だけ。
金官加羅(=駕洛国)も、伴跛国(=大加羅)と同格だったので
倭韓諸国の間では王号を公認されていた可能性はないでもない。
(勝手に自称した王とか後世の人間が王と記述したものは除く)
【任那西部】
百済に割譲された、慕韓の四県二郡には在地首長は存在しない。
569 :
日本@名無史さん:02/03/10 23:58
.
570 :
日本@名無史さん:02/03/18 00:49
加羅こそが倭の王の本拠地で、列島のほうが被支配地、という説をよく
見かけるんだけど、それだと
加羅の最初の王・金首露王の子孫を自任する新羅の宰相金ユ信
がいて、王族に食い込んでるのに、新羅がその記録を残さなかった理由が
分からない。堂々と倭を領有する権利を主張できるだろうに。
任那が日本の領土なんていうのは韓国にコンプレックスを持った右翼の妄想だ。
つまり韓国に対するコンプレックスの裏返しだ。
それより俺たち日本人はそういうつまらない愛国心から歴史を歪める事を止めて
史実を直視する勇気を持つことが必要だと思う。
572 :
日本@名無史さん:02/03/18 01:45
正確には「倭の任那に対する強い影響力の行使の可能性の一切の否定」こそが、
戦後日本人の敗戦コンプレックスから来たものでしょ。
571はリアルタイムで歴史歪曲の実行中なのですか?
573 :
日本@名無史さん:02/03/18 03:06
高句麗・新羅連合 対 倭・加羅・百済連合という図式がある。
軍事的には、この対立の枠組みの中で、
倭が軍事的支援をしているし、加羅弱体後は倭の将軍が進出している。
通称的には、加羅諸国=半島唯一の鉄器文化国。
半島各地及び日本列島から鉄器を買いに来ていた。
弱体して滅亡の後、鉄器文化とともに日本へ。
だから鉄器文化が半島に残っていないらしい。
なお任那日本府は、少なくとも商館や大使館的な存在としてはあったし、
加羅弱体後は、倭の傘下に入って軍事的支援を受けているから、
つまり倭と加羅の関係が軍事的には、同盟→主従になっているから
行政府としての機能があってもおかしくはない。
以上、逆転の日本史 洋泉社。
574 :
日本@名無史さん:02/03/19 23:00
一番古いスレあげ
575 :
日本@名無史さん:02/03/24 13:15
>>573が最新学説。漏れも禿げしく同意。
つーかほぼその説に沿った形で卒論も書いたっす。
576 :
日本@名無史さん:02/03/25 05:36
>573
しかし時代にもよるのでは?
新羅の初代王〜4代目まで宰相は倭人だし、その第四代王も倭人。
つまり4代目の時は王も宰相も倭人だったわけで、これはどうみても親倭国家と
解して間違いないと思う。
577 :
日本@名無史さん:02/03/25 22:55
任那が韓国の領土なんていうのは隣国の恐ろしい洗脳教育の結果だ。
つまり日本に対するコンプレックスの裏返しだ。
俺たち日本人はそういうつまらない隣国が歴史を歪める事を止めるよう
経済援助をしない勇気を持つことが必要だと思う。
アジア金融危機を誰のおかげで乗り切れたかわかってんのかい(w
578 :
日本@名無史さん:02/03/25 23:19
579 :
日本@名無史さん:02/03/25 23:32
580 :
日本@名無史さん:02/03/25 23:32
日本は、
朝鮮半島での領土・権益を守るために、
中国に朝貢して権威付けしてもらってたからな。
しかし、隣国の学者って恥を知らない人種なのかな?
581 :
日本@名無史さん:02/03/26 18:55
>>578 2番目のURLの地図と説明は、狗邪韓国の位置と説明がおかしいのが玉に傷。
狗邪韓国=現在の慶尚南道の金海.忠武付近にあったとされる。
朝鮮の歴史書「三国史記」では、「金官国」と記されている。又、「加邪国」とも
記されており、「狗邪」に通ずる。魏志韓国伝にある「弁辰」(弁韓)の記載では、
12国の中に「弁辰狗邪国」とあり、この「弁辰狗邪国」が「狗邪韓国」と見做される。
「弁辰狗邪国」は、慶尚南道.北道の境に「伽耶山」(標高1430〓)という山があり、
その山の南から海岸に至る一帯が伽耶地方のことを指しており、この領域が「
弁辰狗邪国」即ち「狗邪韓国」と推定される。「三国遺事」では、「駕洛国」、
「日本書紀」では「加羅」.「かや」と記されている国が相当するものと思われる。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/yamataikoku/kaisetu1.htm 魏志倭人伝は、魏志韓国伝のようになぜ倭国伝ではないのかについては、邪馬台国
が倭国ではなく、倭国が邪馬台国の支配下に入っていたと考えれば説明が付く。
後漢書東夷伝は、奴国について「倭国の極南界(最南端)なり」と記している。
誤記とされるが、そのまま受け取るべき。奴国は博多付近にあり、魏志倭人伝では、
女王国に属する国として登場する。旧唐書倭国伝 「倭国は古の倭奴国なり」、
宋書日本伝 「日本国はもとの倭奴国である」 は、奴国がもともと倭国の盟主だった
ことを意味し、倭国はその後、邪馬台国に併合されたのだと思う。
邪馬台国=大和朝廷であり、倭国を名乗った朝廷は日本に国号を変更。
三国史記新羅本紀 「文武王十年(670)、倭国、あらためて日本と号する。自ら言う。
日出る処に近い、以て名とする」
江上波夫が騎馬民族説の論拠としている旧唐書日本伝 「日本国は倭国の別種なり。其の国
日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰う、倭国自ら其の名の雅ならざる
を悪み、改めて日本と為すと。或いは曰う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」という
記述は、そのあたりの史実による中国側の理解の混乱がもたらしたのだろう。
582 :
統一しよう:02/03/26 19:04
狗邪韓国のテリトリーが伽耶地方(半島南部)と大分県宇佐地方の両方にあった
事を認めないから邪馬台国の場所がわからなくなる
>>581 まちがってるよ、あんた。
「弁辰狗邪国」=「狗邪韓国」=「駕洛国」ってのは「金官加羅」のことであって
加羅地方(伽耶地方)=加羅諸国(伽耶諸国)全体の総称ではない。
581は他もまちがってるけどスレちがいなので無視。582は電波。
>>583 その説明は
>>581のURLからめんどくさいのでコピペしたんだけど、
よく読んでみたら内容的に矛盾していた。もともとそう書いてある。
(「弁辰狗邪国」は、慶尚南道 〜 相当するものと思われる。)は削除。
ところで、他にまちがってるところとは?
>>584 いや、教えない。スレちがいの議論になるからな。
やりたきゃ邪馬台国スレとか、ほかにいろいろあるでしょ。
586 :
日本@名無史さん:02/04/12 22:04
いまでいうところの光州はどちらになるのでしょうか?
587 :
日本@名無史さん:02/04/18 13:15
光州は馬韓(慕韓)、いわゆる四県二郡の地にふくまれる。
588 :
日本@名無史さん:02/04/21 02:40
光州の古名は「武珍」、宋書にでてくる「面中」
589 :
日本@名無史さん:02/04/21 02:45
洛東江沿いで倭系の遺物は出土してるんですか?
590 :
日本@名無史さん:02/04/21 03:07
omaeranoyouna kuzu ha minagoroshida!! hahahahahahaha
↑omaeraha honmonono chosenjin no otokodomo wo minagoroshinisita atoni isuwatta mongoljin no kodane daro!!
592 :
日本@名無史さん:02/04/30 17:57
>>589 光州から金海にかけてくらいではないでしょうか?
593 :
日本@名無史さん:02/05/06 03:29
金海と釜山のどっちが倭系なのかてのは以前からもめてるようだが‥
594 :
日本@名無史さん:02/05/06 04:09
なにそれ?どっちも似たようなもんじゃ?
595 :
日本@名無史さん:
金海と釜山ってほとんど同じ場所だろ???