2 :
日本@名無史さん:2010/09/16(木) 18:00:05
?
. ∧_∧ +
ニワトリカエセヨー ( ´Д`) +
(つ つ Π
. + ( ヽノ ⊂二⊃ これは乙じゃなくて鶏泥棒の軌跡ニダ
(( し(_)  ̄ ̄フ <`∀´ヽ> rァ 勘違いしないようにするスミダ
/, (つ つ' {
(、__, ( ヽノ <彡}
+ (( レ(_フ,i,i,' +
4 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:51:13
当時の女真と日本を比較して、
李如梅 「倭兵30人で女真1人に敵すべからず」
ということらしい。
7 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:45:36
>>6 >>4に反論できないのですねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
貼り逃げじゃないとは珍しいw
ま、実際には日本軍にボコられてる人間が、何を言ったところで
サッパリ説得力無いな。
日本兵>>>女真兵>>>>>明兵>朝鮮兵
現代的なナショナリズムが存在していなかった時代の日本人をオカズに愛国オナニーにふけるのって滑稽だよね。
/| | ̄ ̄ ̄ ̄| |\
/ | | // | |//\
∧_||// | | ∧_∧.| | //||_∧
(´-ω||// | | <#`Д´ | | ||ω-`)
( .⊃ ||/ / |__∧_∧_| .\ ||⊂ )
⊂_)|/ < > \|(_⊃
|\
>>10 ( O ) /|
| \ u―u' ./ |
∧_∧| | ̄ ̄ ̄ ̄| | ∧_∧
( -ω.| | ∧_∧.| | (ω-` )
( . ⊃.|∩(;; ;; )∩| ⊂ )
(_) __) |_( )| |/( __(_)
( __人_)
12 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 13:42:09
>>12 具体的になんの反論が必要なんだろう?韓国人みたいな思考能力か?
朝鮮人的な妄想力だろうなw
反論というなら、まず
>>12が李如梅の言うところの”倭兵30人<女真兵1人”だったことを
実証してからの話だな。
体躯倭少なれども、敏捷にして、鳥銃をよくす
↑鉄砲足軽のことを指してるんだろうか?
軽装で身軽だし、鉄砲が主兵装だし
ところで、当時の明人って日本人と比べてそんなにデカかったか?
中国の軍が倭刀術(日本式剣術)を採用してたって事は日本人の個の力を認めてたんじゃないか?剣術がものを言うのは乱戦のときなんだから。
中国・朝鮮の倭寇に対する評価は「白兵戦では絶対勝てないので火器で対応するしかない」だからな。
女真>日本>中国・朝鮮かな
17 :
日本@名無史さん:2010/09/27(月) 03:22:32
>>16 なんで女真が日本より強いと言えるのか意味不明
>>14 李如梅が言ったことを真に受けている奴はおまえだけじゃねえの?
ここにいる誰の主張が戦力的に30対1とか言ってるわけ?
日本マンセーがしたいなら日本語を覚えてからいらっしゃいよ。
19 :
14:2010/09/27(月) 10:59:49
>>18 流れを読めないのか?
絶望的な日本語読解力だなw
>>19 君の発言こそ流れも文章もどちらも読めてない者のものだな。
. … .
:____:
:/_ノ ー、\:
:/( ●) (●)。\:
:/:::::: r(__人__) 、::::\:
:| { l/⌒ヽ |:
:\ / / /:
必死過ぎだお
一人同志の戦いとなれば、倭兵三十人をもってしても、満兵一人に敵せざるなり
↑これって一人の女真人がタイマンで倭兵を三十人ぶちのめせるってことか?
それとも一人の女真人が倭兵の三十倍のパワーを持ってるってことか?
わかりづらい表現だなあ
タイマンの勝ち抜き戦なら女真族一人で日本人30人抜き出来るって言いたいんじゃないの?
自分はそんな強い女真族とこれから戦うので、勝ったら思いっきり誉めてください。負けても怒らないで下さい。という裏の意味を込めて。
>>22 修辞句だよ。日本人は満州人より体格が劣って一対一では必ず負ける。
裏を返せば集団統制と武器を(生産して)使いこなす力で勝る。
そんな意味であって30人とかの状況を解釈しても不毛。
加藤清正は女真キラー
女真族は、平原なら日本の武士より圧倒的に強そうだけど
山岳戦や城での防御戦なら武士の方が圧倒的に強そう。
日本人にも中国人にも特殊部隊隊員からニート豚までいるなか
どちらが強いというがごとき無意味さだな。
まあこの情報が本当でも
李如梅がこの時点で女真が日本より弱いなんて言えるわけがない
負けたら日本より弱い相手に負けたということで責任追及
勝っても弱い相手に勝ったとして褒美少なくなる。
あとたった一人の感想に過ぎんしな。
28 :
日本@名無史さん:2010/10/01(金) 00:08:47
29 :
日本@名無史さん:2010/10/01(金) 02:50:39
>>24 体格が劣ってるから一対一では必ず負けるとは決まってない。
圧倒的に体格差があった日露戦争で日本兵の方が
白兵戦強かったから。
30 :
日本@名無史さん:2010/10/01(金) 03:10:54
例の発言のソースだが
数百年も後に書かれた本しか見つからなくて
何の一次史料での発言かわからんのだが
>>29 >圧倒的に体格差があった日露戦争で日本兵の方が
>白兵戦強かったから。
いや、それ全くの妄想だから。ロシアは当時欧米列強の中では群を抜いた白兵戦志向で、
日本兵は当初蹴散らされてたわけよ。後期には太刀打ちできるようになったとも言うけどさ。
ま、2m近い大男が銃剣振りかざして迫ってくれば、160cmもない農家や商家の次男坊、
三男坊はそりゃ怖いわな。徴兵で送り込まれてさしたる調練も受けてないしな。
>>28 それは船を無くして必死な西洋人の指導で建造したわけであるのだが。
帰国できて良かったよね。
船があっても航海術がねぇ…
よく言われてるように豊臣家の滅亡の原因みたいに言われてるけど
この戦争が豊臣家にダメージを与えたようには見えないんだよな。
豊臣家の財政は戦後も余裕があったわけだし、この戦役が不満で徳川家に
大名達が靡いたようにも見えないし。
滅亡した理由は豊臣家の体制上の問題が大きいと思うんだが。
文治派と武断派の対立を決定付けた戦役だし
そういう意味では豊臣家滅亡の遠因の一つと言えるんじゃない?
>>15 大明國しゆこしらへの事面には赤きとろめんを仕り候て裏にはくろかねを二寸四方ほとに切り候て
くさり付候ながき道服のやうに候甲もくろかねを白くみかき候て着候小手もくろかねにて矢も不立候
刀共にて候少もきれず候武具の事候鐵砲玉口三ッ明にて筒三ッを一ッにはり合わせ候一度にも
三度にも自由にはなし申候半弓も朝鮮のよりははりつ能く矢の箙木にて候叉刀は三尺はかりのも
二尺四五寸ものありさきは剣のやうに仕候馬の大きさけしからず候男もけしからず大き候上衆も
けしからずおぢ被入にや日本にてもかはとの働は稀成よし其沙汰候何も武邊つよき唐人かと上衆も
手ををかれ候や
38 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 03:50:55
>>31 体格差より火力差の方が致命的に負けてたけど
勝てたのはやはり白兵戦で日本の方が強かったからだろう。
>>38 馬鹿か? 今も昔も戦争は一対一でするもんじゃねーから。
40 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 05:49:56
>>39 馬鹿はおまえだ。
今も昔も戦争は一対一でするもんじゃねーなら
日本が弱いと言ってる奴ら(オマエか?)はどうなるよ馬鹿。
41 :
39:2010/10/02(土) 05:58:41
>>40 >日本が弱いと言ってる奴ら(オマエか?)はどうなるよ馬鹿。
俺そんなこと言ってねーし。やっぱりどっちも馬鹿じゃね?
一般論で倭兵と満兵を比べて、倭兵は体格に劣り組織戦に強いと言う解釈なら李如梅の発言は理解できるがな。
42 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 06:30:09
どっちが馬鹿なんじゃなくて、女真マンセーのおまえが馬鹿だから。
日本兵とロスケのどっちが白兵戦強いかの流れで
>倭兵と満兵を比べて、倭兵は体格に劣り組織戦に強いと言う解釈なら李如梅の発言は理解できるがな。
女真マンセーって頭大丈夫か自称女真起源の在日。
43 :
39:2010/10/02(土) 07:40:20
>>42 >どっちが馬鹿なんじゃなくて、女真マンセーのおまえが馬鹿だから。
おれ女真マンセーじゃねーし。日本語読めないのか?
やだ…このコたち学問系の板で煽り合い始めてる……(´・ω・`)
まぁ、想像だけで語ってる
>>38は間違いなく馬鹿だなw
「一般にはあまり伝えられていないが、ロシアの銃剣突撃の前に、日本兵がなす術もなく
退却してしまうという光景がしばしば見られたらしい。そのことを報告した外国の観戦武官は、
それに続けて、日本軍も銃剣訓練に精を出した結果、戦争末期にはなんとか白兵戦を戦おうと
するようになったが、やはりロシア兵にはかなわなかったといっている。」
謎解き日本合戦史 日本人はどう戦ってきたか/鈴木眞哉 講談社現代新書 28p
46 :
45:2010/10/02(土) 14:16:27
× 28p
○ 228p
ソースが鈴木眞哉ww
48 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:44:47
ここに来て鈴木の名をミルコとになろうとはw
49 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:48:12
で、例の女真と倭兵の発言の一次史料のソースは?
50 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 18:03:20
50
以下、亀甲船について語るスレ
52 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 19:03:25
以下、
李如梅 「倭兵30人で女真1人に敵すべからず」
について語るスレ
清正「16程、女真の砦・城を落としたんスけど、まあ、日本の一揆みたいなもんスね、奴等は」
54 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 19:50:20
しかし、江戸時代の百姓一揆と違い
当時の国人一揆はバリバリの武闘派で
支配者側がかなり本気出さないと
制圧出来なかったわけで。
それなりに苦労したけど、手に終えない程ではなかった。
って感じじゃないの。
56 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 23:03:20
>>45 鈴木眞哉さんこそ正史だよね
鈴木眞哉さんマンセー
>>45 清正自信の報告では「五、六箇所」じゃなかったっけ?
後世の「清正記」には「十三城を落とした」って書いてあるらしいけど
集団戦法が上手いと言いたかっただけではなかろうか?
アンチ鈴木眞哉が多いようだが、オツムの弱いヤツばっかりなの?
鈴木の観戦武官というソースに対して、
>>38のいう”白兵戦で日本の方が強かったから”という
論拠になる客観的なソースが全く挙がってこないな。
士族出身者で構成された親衛隊っぽい部隊が
突撃してきたロシア軍を白兵戦で逆に圧倒したという話は聞いたことがある
どこの戦闘だったっけ?
普通の兵士同士で白兵戦やったらロシア人には敵わないんじゃない?
デカいし
63 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 23:53:58
>>61 鈴木眞哉さんは偉いです凄いです真実です。
>>61 だってロスケの白兵戦に手を焼いたせいで
それまで軽視してた白兵戦も重視するようになったてのは事実だし
片手持ちのサーベルも両手持ち出来るように柄伸ばしたのもその頃。
65 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 02:20:31
ロシアが日本の白兵戦に手を焼いた事を無視して
白兵戦は日本の方が弱かったというのはどうか。銃剣付きのライフルは槍に近く、体格云々より取り回しや拳銃、手榴弾も含めた総合力が重要だろう
66 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 02:31:31
って、上の方みたらとんでもない事が書いてあるわw
>>45 事実として
ロシアは日本の守りが薄い地点へ、日本側の何倍か多数の兵力で攻撃した事が何度かあったが
その全てで日本側は守備地域を維持しロシア軍を撃退している。
一方ロシア軍は日本に攻勢を受けると陣地を放棄して逃げ出している。
事は単純で日露関係無く、白兵突撃を機関銃と阻止放火で十分削れれば逃げ出さないし
失敗して守備兵より多くの敵が攻めかかれば逃げ出す。
日本側の方が有機的に機関銃や野砲を運用出来たという事だ。
67 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 02:43:16
やたら鈴木眞哉ってのが書いてあるからググッてみたら
古来から日本に白兵戦は無いみたいな説を主張してる奴なんだなw
>>65,66
だーかーらー、白兵戦になる前に銃砲火で阻止すりゃそりゃ白兵戦じゃないだろw
当たり前のことを得々と語る前に、”ロシアが日本の白兵戦に手を焼いた事を無視して”とか
”事実として”とかいうのなら、その”白兵戦”の具体例をあげろって。
69 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:44:00
日本は資源も資金も少なかったから
白兵戦をお家芸としてきたってのが定説で、
それに逆説を唱えて売名したのが鈴木だろ。
やはり司馬史観は強い
ロシアの兵は農奴で白兵戦を嫌ったというフレーズが
完全に日本人にこびりついとるよ
71 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:57:33
>>68 陣地戦の最後は白兵突撃するんじゃないの?
>>69 その定説は間違ってない? 砲火力では日本>ロシアだし
二次大戦で白兵戦を御家芸としてるのは、フランスやドイツの戦訓を取り入れたからだ
>>69 アンチが多いけど、定説へのアンチテーゼとしてみればなかなか興味深い点は色々あるけどな。>鈴木
まぁ、刀は首を掻くときくらいしか使わなかったとかいう主張に至ってはエキセントリックすぎるが、
日本においても古来より遠戦志向であったというの自体は、『騎兵と歩兵の中世史/近藤好和』あたりと
読み合わせてみれば首肯できるところ。
>>70 うむ。参謀本部編『日露戦争』や児島襄の『日露戦争』あたりを読んでても、日本側が必死で奪取した
堡塁がすぐロシア側に逆襲されて奪回されるという例がいくらでもあるからな〜 極め付きが
203高地を占領!と総司令部に報告してすぐにロシア軍に奪還され、ブチ切れた大山が乃木から
指揮権委譲させたというエピソードでしょ。
73 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:55:09
どっちも局地的には勝たり負けたりだから
結局は戦争に勝ったほうが強いと見るのが妥当だな。
74 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 02:27:00
>>72 ロシア側は堡塁の前に鉄条網と機関銃を配備する。 日本側は支援放火で堡塁のロシア兵をある程度排除した後突撃する。
すると生き残った機関銃に撃たれ鉄条網に引っ掛かり、少数が散発的に堡塁に到達する。
そこを後方に控えたロシア兵が纏まった数で堡塁にやってきて、息も絶え絶えな日本兵を排除する。
これを繰り返して、援軍の宛ての無いロシア守備隊をなるべく良いキルレートで減らして降伏させる。という作業だな。
こうなると白兵戦の強弱はあまり問題でな無くなる。
75 :
米軍:2010/10/06(水) 03:15:38
原爆被害国日本おわり
みんな唐入りの話しようぜ
× 唐入り
○ 韓国侵略
たかだか建国60年でしかない国を征服するのは
いくらワシでも無理〜w
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
..|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|;;;;;;;;;;;;;;_;、 '
.|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,、r'〈-‐‐'''"
.'l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,、、ィ:::::::::::'i
.├----------―'''''" ゝ';:::::::::;⊥,
|---.、 ,、-―― ゙;;;r'"ー 、',
',,,,,,,,_ ', ,' ._,,,,,,,,,,__,、 - リ r ノ.ノ l
. l┴'‐' i ; '┴'‐''", ' "´ ; ^r'ノ
. |、, ,ノ.l ' - ,.,.,.、- " / ' -' j
゙、ゝ、l 、 / 't‐"
゙、 L__ 、-ヽ l / .|ラ'it''"i、
. ', _r;ニ;‐、,ゝ.ヽ、,, ., / ,、r',r" `''".\
゙fゝ、 ゙̄フ`'‐、, .,、r' ,r.',r'" / `''''
,,,,、、、、ヽiリ川ゞ、,,,、r'"_,,,,、レ' /|
人リルr‐'  ̄ ,、 -''" |
/ ヾリ'' ._,,,,、-''" |
/  ̄ ̄
超時空太閤 ヒデヨシ
◎唐入り朝鮮陣
〇対明戦
△唐入り
×朝鮮征伐
××超時空韓国侵略
もう普通に朝鮮出兵でいいんじゃね
81 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:31:22
「揮刀如~」
「日本の武士の刀術はまるで神の如しだ。
我々の明兵は武士を見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。
刀術に優れた武士だが刀術だけではなく飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。
弓の扱いも我が弓兵と互角、そのほかあらゆる兵科と比べて不足が見つからない。
本当に日本人は殺戮者だ。その家には刀を持たぬものは無く、
子供の頃から剣術を鍛えられ始め、壮年にいたれば手に負えなくなる。
それゆえ接近戦は日本の武士に一方的に有利で明兵では相手にならない。
日本人を有効的に殺せるのは火器のみである。
であるにも拘らず、多くの鳥銃を擁している場合でも勝てないのは外でもない。
日本人は戦いに臨んで命を忘れるが、我が明兵は戦いに臨んで恐れて逃げるため、
その鉛子は地に堕ち、あるいは薬線が法なく、手震え、目眩み、天を仰いで空しく発射する為である。」
>>81みたいなコピペ厨のメンタリティは韓国人と同じだよなw
83 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 03:30:39
84 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 03:31:38
間違えた
×何か都合の書き込みか?
○何か都合の悪い書き込みか?
>>83 はいはい、日本刀最強だよね。
唐入りの失敗は火縄銃なんかを主兵装にしたことで、全員が日本刀で
戦えば明の征服なんか楽勝だったよね。
86 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 02:31:02
鈴木は彼固有の結論から説き起こしての牽強付会が強すぎて信用できない。
記述に矛盾が多すぎる。
女真と倭兵に対する明国の報告は、自分の戦った相手の強さを誇大視する
古今東西の常套文句だろ。
チャンバラ幻想チャンバラ幻想うるせえけど
客観的に見れば鈴木の方こそ遠戦幻想にとりつかれてるよな
88 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 23:18:55
朝鮮は中国の属国だったんだから
名称は日明戦争でいいよ
89 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 02:31:17
日本には大砲の鋳造技術が無いのが痛すぎた。
それさえあれば、制海権をチョンに握られる事も無く、
遠征は成功していた可能性もほんのちょっとある。
90 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 02:48:30
そもそも歩兵で朝鮮に勝てるわけがねーよ
サッカーだってボロクソに負けてるんだから
グッとこらえて釣られない
>>89 それさえあれば・・・ってモノは世の中にそうそうない。
日本にも原爆さえあればなー
こういう流れを読んでると
文禄、慶長の役って意義が有ったと言わざる得ない
朝鮮兵は中国沿岸の兵隊と同じく倭寇相手にも虐められてたから論外として
こいつ等が余りにも弱過ぎるから、宣教師や海賊から情報収集してた秀吉が勘違いした
世界最強、最精鋭の中国北辺の兵隊相手に五分以上に戦ってたし
部隊が壊滅みたいな、負けらしい負けを経験してないし
主力武将は誰も死なず(海賊大名が一人死んだだけ)
戦後日本に引き揚げてからも関ヶ原で大軍を率いて大暴れしてたんだから
名の有る大名や軍団指揮官が何人も殺されてボコボコに負けてりゃ
まだ、日本の侍が強いか弱いか?って議論が成立しただろうけど
>>94 日本側の大名クラスの武将でも、
中川秀政が戦死しているが?
ニヤニヤ
|∀・).。oO( 戦死ねぇ・・・
中川秀政 ←鷹狩の最中に襲撃を受けて死んだんだよな確か
あと来島さんを忘れちゃイヤ
一応大名クラスだろ
慶長の役の流れがよくわからない。
文禄の役で不足していた食糧が整ったのと和平交渉が決裂ところで、
日本軍は一気に南原城と黄石山城を落として全羅道・忠清道を制圧。
この後、九州勢以外はじょじょに帰国させたわけだけどこの流れがわからない。
帰国させた理由は何?そもそも帰国後、九州勢だけで明軍全軍を相手
に守備をさせていたのはどういうつもりだったの?日本式城への自信なのか?
実際、第一・二次蔚山城の戦いや泗川の戦い、順天城の戦いで九州勢主体で
明軍を破ってはいるが・・・。
wikipediaだと1599年に秀吉がこれら休息組を派遣して決着つけようとしてたが
秀吉が死んだため頓挫したと書いてるが、これが理由?
>>97 鷹狩りもある種の動員だけどな。
戦死といえるかは微妙。暗殺、横死といったほうがよさげ。
秀吉があと10年生きてたら中国東北部までは日本領確定だったな。
むしろ中国地方東部まで韓国領になっていたかも試練。
103 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 01:26:20
未来のビジョン
李三平連れてきた他になんかメリットあったの?
あとは数万人?数十万人だっけ?
半島の人らを連れ帰って奴隷として売りさばいたくらいか
無益な争いだったことは間違いないだろうな
数十万人も輸送できねぇ(笑)
107 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 20:58:28
つーか捕虜の人身売買は戦国期では重要なビジネスだし。
直接、明に攻め込めばよかったと思うのですよ
小説家なんかは信長ならそうしただろうというけど、実際国内を空に近い状態にして部下引き連れて
明入りしてたら今頃年中時代劇でやってる罠
そうか?その割りに日中戦争はあまりドラマ化されてないな。
>>108 スペインが船を貸してくれなかった。
だから朝鮮半島経由を選んだ。
スペインも無敵艦隊が英国侵攻に
成功したら次は明であった可能性
がある。
まあ、井沢元彦からの受け入りだが。
下手したらスペインと日本が激突してたかもね・・・それとも上手く山分けか
>>112 井沢御大には悪いけど、無いんでない→明遠征。
スペインがイングランド上陸を果たせても、今度は陸上を制圧するのに時間がかかるし(てかそれも難しいような)。
仮に英国王を倒せても(これも難しい)、スコットランドだけでなしに、イングランド内でも後のクロムウェルに繋がる、
カルバン派の浸透が16世紀にははじまってるし、そこにカソリックマンセーの一派が入れば、
清教徒革命前倒しになるだけのような(で、オランダの二の舞)。
そして、仮に次があっても、それは泥沼になっているオランダの解決、んで、カリブ海から英仏蘭を排除する方に傾注するでしょ。
その内に戦費がかさんで、史実と同じ時期(1596)に、またバンカロータになりそう。
それプラス、やろうと思えばできるのかも知れんが、明を制圧するだけの兵力載せた帆船の艦隊を、
後世のバルチック艦隊でも苦労した大回航をなして送り込むってのが、物理的にも財政的にも限界超えているような。
115 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 20:03:24
>>115 これはすごい。これが事実なら、慶長の役って完全に日本軍の思惑通りに進んでるじゃん。
逆に三路の戦いで大敗した明・朝鮮軍は秀吉が死ななかったら本当にヤバかったかもな。
>>116 明軍もその状況では積極的攻勢には出れんかったわけだ。
でも、日本も動員体制をずっと続けることはできないから、互いに息切れして講和ってのがオチじゃないかね。
118 :
39:2010/10/17(日) 04:23:18
>>117 秀吉が死なない限り息切れするのは明。
朝鮮は既に明への補給で息切れしていた。
いや日本も息切れ寸前だよ
まだ徳川軍とか戦力を温存してたから、もう少しだけいけた と言ってみる。
まぁ明にまで乗りこむ体力はないだろうけど
>>119 なぜ?余裕で在番体制へ補給。余裕で一定期間の侵攻作戦を実施。余裕で防戦&相互援護。しているが?
朝鮮社会は明軍への補給の為に搾取で縮小崩壊へ向かい、明も財政悪化で傭兵が動員できずに次第に徴兵や屯田を初めて青色吐息。
日本は100年以上内戦やって戦が当たり前の状態だから余裕だろ。
関が原なんか見ても主戦派の多くは朝鮮で戦った連中だし。
>>121 >>122 どうしてそんな都合のいい発想しかできない?
いわゆる文治派と武断派の対立が生まれ、政権に亀裂が走った。
現に西国の力が衰え、東国の力が相対的に増した。諸侯のパワーバランスが崩れた。
日本も戦争負担により社会が不安定化していた。
聞きたいんだけどさ、朝鮮の端っこを占領し続けて、明から何を引き出すつもり?
交易の再開なら既に先の戦役で実現している。
朝鮮領の割譲は、日本軍も諦めてる。
結局、勝利の証に明の皇女が欲しかっただけだろ。そうでも国内に無いと示しがつかないから。
124 :
39:2010/10/17(日) 17:50:43
>>123 権力闘争なんだから秀吉が死ねば文治派と武断派の対立が生まれ、政権に亀裂が走るのは必然。これは出兵と関係なし。
>現に西国の力が衰え、東国の力が相対的に増した。諸侯のパワーバランスが崩れた。
はあ?なにそれ?関ヶ原で戦っていた多くは西国の豊臣大名同士なわけだが?
>朝鮮の端っこを占領し続けて、明から何を引き出すつもり?
別にメリットがあるなんて言っているわけじゃないんだが?
朝鮮の生産がどこも低調な中で、日本からの補給が見込めるだけ日本が断然有利だな。
長引けば明軍は派遣軍を縮小したり遼東へ返すしかないんじゃないか?
実際に防衛ラインを朝鮮から遼東-山東ラインへ引き下げる話は朝廷で建議・議論されているわけだし。
126 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:24:21
明の皇女なんか理由になるわけないだろ
偽物の可能性もあるし
127 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:33:46
領土割譲でも明の皇女の天皇への降嫁でもなく、
最大の目的は「勘合貿易(明への朝貢貿易)」の再開だよ。
日明貿易が不可能だったから、このあとポルトガルやオランダが
中継貿易を担うことになるんだし。
128 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 19:18:11
どう考えても領土割譲が最大の目的だろ
129 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 20:16:08
いや、貿易だよ。
秀吉本人が文禄の役のときに示した講和条件(小西のウソ条件でない方)は、
領土割譲、皇女の降嫁とならんで、はっきり勘合貿易復活を掲げている。
明の征服なんて国内の大名向けのビッグマウスで、ホンネは貿易だろ。
130 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 20:26:30
誰か恐山のイタコに秀吉呼んでもらって聞いてこいよ。
つーか、それは一つに絞らないとダメなんか?
132 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:27:06
>>131 確かにな
”いや、領土割譲だよ。
秀吉本人が文禄の役のときに示した講和条件(小西のウソ条件でない方)は、
勘合貿易復活、皇女の降嫁とならんで、はっきり領土割譲を掲げている。 ”
でもいいよな
133 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:37:35
もうそこが妥協点でいいでしょ
ということでこのスレは
糸冬 了
毎回これを繰り返してだけだな、このスレは
136 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:26:45
貿易が目的なら朝貢すればよかったんじゃ?
冊封貿易と勘合貿易は違う。
>>136 明も財政が厳しいから希にしか朝貢貿易は許されないだろうね。
回数や時期、隻数が制限されては秀吉も受け入れられないだろう。
139 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 07:33:49
秀吉は藤吉郎の時代から、信長の命で堺商人と付き合いがあるんだし、
武将の中では経済に明るい人物だから、対明貿易の必要性は認識していた。
貿易の利益の大きさや、勘合貿易が朝貢形式ってことは認識していた。
のちの家康ですら、対明貿易の再開を希望していたのだから、
現実主義者の秀吉が、義満ですら行った朝貢にためらいなどないだろう。
もし、明が秀吉の満足いくかたちで勘合貿易再開を許したなら、
嬉々として明の皇帝に臣下の礼をとって日本国王に冊封されたはず。
貿易を望んでいる=冊封体制に入るは違うだろ。
そもそも、冊封体制に入りたくて、戦争吹っかける必要なんてどこにも無い。
秀吉が望んでいたのは、家康と同様対等な形での貿易だよ。
142 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 14:18:59
>>三城同時攻撃では、明・朝鮮連合軍が動員した総兵力は11万を超え、
前役・後役を通じて最大規模に達していた。また兵糧や攻城具も十分
に準備してのものであったが、全ての攻撃で敗退した。
これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、
人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたという(『宣祖実録十月十二日条』)
こんな状況で「帰朝之衆」を派遣されたら明・朝鮮連合軍は終わりだろう。
秀吉の死こそ正真正銘の『神風』だな
143 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 17:59:42
秀吉も自分が明の皇帝の臣下って自覚はあったと思うよ。
144 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:17:15
明にとっての脅威「北虜南倭」として、日本と並べて称されていたモンゴルの場合、
その支配者アルタン・ハンは、明から交易を許されると、「順義王」として冊封を受けた。
秀吉も納得のいく条件で交易が許されたなら、同じように冊封を受けたことだろう。
妄想ではない根拠を
146 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:36:42
講和条件に「勘合貿易」の再開を入れてるのが、何よりの根拠。
147 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 22:41:19
ぶたぎりだけど、
明に対する豊臣政権が、宋代における遼丹金蒙みたいになれなかったのはなぜ?
148 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:41:16
貿易だけが望みであそこまで大規模な戦争をするかよ
明らかに領土狙いだろうwww
149 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 08:25:29
勘合貿易は「勘合」を使う貿易であって朝貢貿易ではないよ。
もっと言えば、明と日本の正式な貿易史が「勘合貿易」によってしかないわけで
明側に貿易を求めるのに「貿易の復活」と意識させたほうが明側の抵抗感
をわずかでも削減し、交渉を有利に進ませようという狙いもあったのかもしれない。
それに秀吉が、明の皇帝の臣下になりたがっていたというなら
秀吉が求めた講和七か条のうち
1.明国の皇女を日本の天皇の后とする
3.日・明両国の朝権をもつ大臣が誓詞交換。
4.朝鮮半島の南部を日本領化
5.朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。
7. 朝鮮国王の権臣が累世違却なき誓詞を書く。
は明らかに明帝国の主権を侵害し、
明の皇帝の臣下がとる態度じゃないわな。
150 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 09:09:55
関係ないけど「朝鮮軍陣図屏風」は3隻あるんだね。
1隻が有名な蔚山城に篭る清正軍と包囲する明・朝鮮軍
2隻が毛利秀元らの援軍と明・朝鮮軍との対峙場面
3隻が敗走する明・朝鮮軍とそれを追撃する日本軍の場面
このうち、2隻と3隻の画像はなかなか出回ってなくて見たくても未練。
>>150 図説・戦国合戦図屏風―決定版 (歴史群像シリーズ)
152 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 12:15:57
秀吉自身がいろいろ構想を披露してるじゃまいか
秀次は北京で関白となり、天皇を北京に移し、朝鮮には
宇喜多秀家らに任せ、秀吉自身はニンポーに住む
153 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:38:26
国内向けのビッグマウスと現実的なホンネは区別すべきだろう。
>>153 講和条件も、本音ではどこまで譲れるのか気になる
婚姻は譲れるけど、貿易再開は譲れないとかさ
>>153 なんでアンタが秀吉のホンネを知ってんだよw
153はイタコに御霊秀吉を降臨させて取材したのかもしれん
>>155 あんたは推量って言葉をしらないんだろうね
>>157 あんたも当て推量という言葉を知らないらしい。
>>153 国内にそう言っちゃったらもう退けねーだろーがw
アホすぎ
160 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 13:50:23
161 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 16:35:21
ま、秀吉も自分が明の皇帝の臣下だって自覚はあったと思うよ。
もともと人づきあいの達人でリアリストだしね。
それに、織田時代から堺商人を通して、外交や貿易の知識はあったから、
東アジアでの国際交流における一般常識はわきまえてただろ。
だよな。
秀吉だって、あの時代の堺や博多の商人と交流してるんだから、
ボケ老人のタワゴトみたいな大明征服なんか本気で言ってるわけがない。
>>161 明が秀吉を日本国王にしてやるって言ったのを断ったって、先生が言ってた
博多・堺の商人と付き合いがあった
→ならば東アジアの国際交流の常識をわきまえていたハズ
→だったら明に臣下の礼をとったハズ
推論の上に推論。疑えばそう思える、という程度の話。
推量→×
妄想→○
166 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 18:58:58
chonらしい妄想(願望)
167 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 21:31:28
秀吉が勘合貿易を許された場合のリアクションは、この人物が参考になる。
アルタン・ハーン(俺答汗、1507 - 1582)
モンゴルを支配したハーン(在位:1551 - 1582)。ダヤン・ハーンの孫。
1542年には明遠征での功績により、正統ハーンを補佐する次席ハーンとなる。
これにより、内モンゴルの西半分に遊牧するモンゴル右翼3万戸の最有力指導者となった。
1550年にも明に侵攻し、北京にまで迫った。
1551年には正統ハーン位に推戴され、即位した。
その後も明・モンゴルで積極的な活動を続けて勢力を拡大する。
1570年に明と和平交渉を行ない、1571年に和平条約を締結した(隆慶封貢/隆慶和議)。
このとき、明から順義王に封じられ、一族の者や配下にも明の官職が与えられた。
そして朝貢を許され、その地位に応じて年金が与えられた。
1582年に死去した。76歳。長男がハーン位につき、明から次の順義王と認められた。
秀吉は朝鮮を対馬藩の属国、と思っていた。
江戸時代に薩摩藩と琉球王朝と同じように。
169 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 22:25:05
そこまで阿呆ではない。
中学の資料集に載ってた鼻切りや耳塚で勃起した奴いる?
あれ、武将や兵士だけじゃなくて民間人のも入ってたんだよな?
てことはかわいいお姉さんやようじょの鼻もキムチのように塩漬けされて(ry
どん引き
172 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 10:03:11
そうですね、チェ・ジウさんの鼻がそぎおとされた状態を想像してみましょう。
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、
朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。
千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。
だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、
属国になると誓ってから宗主国が兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。
ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに変化していったかというと、
それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。
韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。
だから三百年もへても立ち直れなかった。
いやがうえにも倭乱のひどさを強調したいという気持ちはわからないでもない。
しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。
もしあるとすれば、もっと恥を知るべきであろう。
戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに再び経済大国になったではないか。
千回も侵略され、すべての侵略者を撃退したという自慢話と、
三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。
韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。
韓国人の反日台湾人の親日 黄文雄 光文社
174 :
170:2010/10/27(水) 11:58:47
>>171,
>>172 普通に勃起するだろw
だって朝鮮の方の脂肪がたっぷりついた豚のような鼻が壺に漬けられて
何万と送られてくるんだぜ?
そりゃあ、生きたまま鼻をそぎおとされたら、かわいそうだし、見てらんないけど、
例えば、おしりダンスのKARAのような子のかわいい鼻が塩漬けにされて送られてきたら
おまえら勃起するだろ?ww
シリコン入りの鼻が好きなのか。
鼻そぎぐらい、戦争では当たり前のことなんだから教科書に載せる必要性は
全く無い。まして戦局になんら影響を与えなかった李舜臣なんぞ載せるなんて論外。
そもそも、それを載せるなら日米戦争の時の米兵による日本兵への耳削ぎも載せろよ。
>>176 正論過ぎて泣いた
李舜臣が英雄として取り上げられて
加藤清正や李如松は名前すら出ないとか
どこの国の教科書だよ
178 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 23:56:27
講談調の豪傑武勇伝ではないのだから、
朝鮮役での清正なんかいちいち教える必要ないだろ。
>>178 だったら戦局に全く影響を与えなかった李舜臣なんて
もっと教える必要ないだろ。
180 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 06:56:08
神器譜(しんきふ)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E5%99%A8%E8%AD%9C/ 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵において、
日本軍の鉄砲に悩まされた中国軍を援助するため、
趙士禎(ちょうしてい)が著した中国の鉄砲解説書。
彼は?密銃(ろみつ)銃(オスマン・トルコの銃)を第一等に推し、
次に西洋銃(ポルトガル銃)をあげており、
?密銃についてもっとも詳しく説明している。
なお本書は、藤井宏(ひろし)の説によれば、
1598年から1603年以降にかけて四度にわたって成立し、
四度目のものが国立公文書館所蔵の五巻本『神器譜』であり、
清水正徳(まさのり)校、1808年(文化5)刊の和刻本は
このほぼ忠実な翻刻本であるとのことである。
朝鮮征伐じゃなくて明征伐じゃないの? 朝鮮はただの通り道
182 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 00:36:14
日本軍に苦しめられた明軍が10数年後に
わずか数万しかいない女真軍に征服されてるんだから
秀吉がもう少し生きてたら遼東半島位までなら
完全支配してただろうよ。
183 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 01:04:07
教科書では「苦戦」のみを強調し、碧蹄館の戦いなど日本軍の勝利は無視。
なぜ明軍が講和したがっているのかわからないような内容になってて、
大河ドラマなどの公共放送では日本軍が戦闘で敗北し敗戦したように扱われてる。
本当にこの国は病んでるわ。
184 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 02:55:39
朝鮮征伐も2度の元寇も日本の大勝利なのにな
元寇はともかく朝鮮の役が大勝利はちょっと違うだろ
途中でやめてんだし
「戦闘」では勝利でも「戦争」は敗北だろ
目的を達成できなかったんだから
勝ちではないのは無論だが、「戦争」の敗北というのは正しいのか?
明・朝鮮軍の戦争目的が、力ずくで日本軍を朝鮮から叩き出す事で
あるのにたいして、その見込みは限りなく薄かった。
それに対して日本軍は、秀吉の死により戦争目的を無くしており一方的
に離脱をしただけ。戦争目的を諦めたというより、戦争目的が消滅した。
そもそも、これを敗北というなら世界中を侵略したモンゴル軍がハーン
の死去とともに、戦闘中に関わらず撤退しクリルタイを催したので
モンゴル軍は世界中で敗退したということになってしまわないか?
仕掛けた方の目的が果たせなければ、それがいかなる理由でも「敗北」
191 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 00:10:23
戦略的撤退は敗北とはいえないな
>>189 その目的が消滅したと188が言っておろうに
>>189 トラファルガーの海戦は、ネルソンが死亡したからイギリスの負けと言いたいのですね
わかります
露梁海戦は李舜臣が死亡したから朝鮮の負け、と。(・∀・)
秀吉が80まで生きていたら明全土を占領できた
300年くらい日本が統治していたら朝鮮人も少しはマシになったかも
5.慶長2(1597年)6月19日〜7月16日
漆川梁海戦
日本軍支配地に侵攻を試みた朝鮮水軍が
機動力に勝る日本水軍に翻弄され、
疲労困憊して退却途中に陸海から挟撃される。
慶尚道南岸の泊地になるような場所は、日本側が前役から城塞を築いて押さえており
例えば水の補給のために上陸した加徳島では加徳城在番の高橋・筑紫の兵に迎撃され朝鮮水軍は400の損害を出したとされる。
兵力は双方とも1万数千程度。
→朝鮮水軍壊滅、日本軍勝利
>>197 つーか、関わりたくない
併合なんて、しなければ良かったんだ
そのまま、滅ぼされていれば、日本がこんなに疲弊する事もなかっただろうに
まぁ、日本が日露戦争に負けていりゃ、今頃半島は完全にロシア人の地で
禍のミンジョクは良くて中央アジア、悪けりゃシベリアで細々と少数民族として
生きているのがせいぜいだったな。
小西行長の暴走がなければ数年とはいえ時間を無駄にすることもなかったろうに
どう考えてもバレる嘘をついて何がしたかったんだか
202 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 21:24:48
やる夫スレ面白かった
>>203 やる夫スレってどこ?
「関ヶ原戦線異状なし」のこと?
205 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 08:05:52
船の絶対数が足りないな
北朝鮮北部から満州にかけては土地が貧しく、現地調達出来ない
かといって釜山から陸路では遠過ぎて輸送出来ない。
従って平壤以北ではそもそも大規模な軍事行動は行えない。
平壤以北に戦線を押し上げるには、遼東を超えて渤海東岸に上陸し、明軍の北朝鮮への交通を遮断して挟撃しないといけない。
九州から釜山間の輸送を維持し北朝鮮での戦線を保ちながら、ソウル辺りから渤海への輸送もやらなきゃならない。
こんな事は不可能。
5.慶長2(1597年)6月19日〜7月16日
漆川梁海戦
日本軍支配地に侵攻を試みた朝鮮水軍が
機動力に勝る日本水軍に翻弄され、
疲労困憊して退却途中に陸海から挟撃される。
慶尚道南岸の泊地になるような場所は、日本側が前役から城塞を築いて押さえており
例えば水の補給のために上陸した加徳島では加徳城在番の高橋・筑紫の兵に迎撃され朝鮮水軍は400の損害を出したとされる。
兵力は双方とも1万数千程度。
→朝鮮水軍壊滅、日本軍勝利
207 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 02:53:09
>>205 伊達家一家ですら洋船作ってローマまで
使節を送り届ける能力あるんだから、他の大名も
本気で洋船作れば余裕だろ
朝鮮征伐の小説
なんか良いのありますか?
209 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 00:03:08
朝鮮に配慮した
友愛に満ちた小説しか知らん。
ということは小説を書くチャンスですな
明軍が油断していた小西行長軍に勝って以来、秀吉が死に日本軍が撤退すまで
5年以上一度も日本軍に勝ててない件。
212 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 05:30:32
あんなに数多く局地戦繰り返したのになw
明と朝鮮弱すぎ。いや日本強すぎ。
213 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 08:33:10
まあ、秀吉は明の皇帝の臣下という自覚はあったけどな。
214 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 08:47:16
明を征服するつもりの秀吉が、明の臣下ですか・・・
215 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 09:04:31
現にアルタン・ハンって実例があるし。
216 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 11:56:50
1570年に明と和平交渉を行ない、1571年に和平条約を締結した(隆慶封貢/隆慶和議)。
このとき、明から順義王に封じられ、一族の者や配下にも明の官職が与えられた。
そして朝貢を許され、その地位に応じて年金が与えられた。
217 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 15:27:47
そればっかだな朝鮮人
218 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 22:18:24
>>208 池宮彰一郎の「島津奔る」の朝鮮征伐の部分が面白かった。
あと司馬遼太郎の短編でも面白いのあった。
219 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 22:46:39
文禄・慶長の役で日本軍の勝率が高いのは日本軍が明軍より
強いからじゃない。
日本軍の実態は諸大名混成軍であり、それぞれ出兵した諸大名
は将兵から軍資金まで持ち出しで出兵している。
だから名護屋城大本営からの命令であっても、勝敗の覚束ない
戦いは避けるようにするが、明軍の将兵は将軍のその取り巻き
の手勢を除き、すべて皇帝の将兵であり北京からの命令は逆らう
ことが出来ない。だから結果的に勝率に開きが出てしまう。
だいたい日本が明に勝利した戦いはその殆どが倭城を守備する日本側
に対し明軍が攻め寄せている攻城戦ばかりだ。
慶長の役に投入された日本軍は14万以上にもなるのに10万ほどしか投入
していない明軍あいてに倭城の守備に徹しているだけでも日本側が明側
をいかに恐れていたがわかる。
朝鮮人は無視ですか
221 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 01:48:39
朝鮮人は日本軍・明軍双方で所謂軍属扱いで
使用していたにすぎない。
222 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 10:13:19
日本軍の方が明軍より強くなきゃあの勝率はないわ
223 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 12:04:05
>>222 よくそういって誤解する奴いるけど、
慶長の役 1年9ヶ月 日本軍投入兵力14万以上 明軍投入兵力10万以上
この状況で朝鮮半島南部に倭城を作って立て篭もり明軍相手に防衛に
徹していた自体で明軍のほうが強い
224 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 13:39:54
文禄2年1月下旬〜3月中旬までの一月半にわたるソウル城での攻防戦において
日本はソウル城に五万五千の兵を集めて守備をかためながら、緒戦の碧蹄館
の戦いでの勝利後も敵を撃退するまでには至らず、逆に食料倉庫を焼かれて
撤退している。
もし純粋な戦闘力で明・朝鮮軍より強いなら、日本側の方が兵力も敵より優勢
だったので(日本軍五万五千に対し明・朝鮮軍四万〜五万)碧蹄館の余勢を駆
ってピョンヤン城まで攻め込んで落城させている。(碧蹄館の戦いは旧暦の
一月二五日、新暦なら三月中旬だ)それが敵を撃退することもできず、そのま
まソウル近郊で小競り合いを続け最後には食料倉庫を焼かれてソウル城は陥落
させられている。とても最強とは思えないね!
小早川隆景より「その兵三千は他の兵一万に匹敵する」とまでいわれた立花家
の家臣天野源右衛門覚書による碧蹄館の戦いについての記述でも立花家の諸将
が明軍について「馬の大きさはけしからず候、男もけしからす大きく候」とそ
の見かけの立派さに驚いているし、戦闘力についても「武辺強き唐人かな」と
皆感嘆したとの記載がある。
日本>明派も日本<明派も自説を裏付ける(過去に何度も提示した)情報をコピペするばかり。
お互い相手の出してきた情報はスルー。
結論は出ない、という結論なのか。
226 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 19:49:04
>>224 14万は緒戦の攻勢時の定数でしかない。
持久戦になった段階で部隊ごとにローテーションさせるし、負傷者は九州に帰されて補充兵が送られて来る。
これは明軍だって同じだろ。 そして前線にいる兵の数を見ると、明側が多い
>>223 慶長の役は半島南部割譲を実力で実現させることが目的だろうが
文禄の役のように明に攻め入るのが目的じゃないから北上する必要もない
拠点構築を進めつつ、襲撃してくる明・朝鮮軍をもれなく撃退していただけ
大体、日本軍14万といったって
その14万を各拠点ごとに分散させて常時守備しなけりゃならなかった
慶長の役の主要な戦闘を見ても、明・朝鮮軍の方が兵力ではるかに勝っていた場合が多い
228 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 21:52:00
半島南部を割譲させるのにどうして朝鮮半島南岸に倭城作って
立て篭もるだけなんだ。
一時は全羅道・忠清道を征服したのにわざわざ沿岸部に撤退して
倭城を築城しながら明軍の来襲を迎え撃つ、占領地を放棄して
撤退する必要ないじゃん
結局明軍相手に野戦で戦うのを恐れたから安全な山岳部に倭城を
作って立て篭もっただけじゃん
>>228 は?
そもそも文禄の役の反省から、慶長の役では拠点・補給線の確保が優先されたんだが。
攻勢かけるのは慶長4年(1599年)以降、拠点構築を完遂してから
名護屋に待機していた後続部隊もぞくぞくと上陸する予定だった
それが行われなかったのは単に秀吉が死んだから。
大体、野戦を恐れてたならなんで蔚山や泗川でわざわざ打って出てるんだよw
もっと勉強しろアホ
230 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 23:06:22
≫229
慶長4年以降に攻勢をかけることについてのソースは?
だいたい文禄の役から慶長の役まで3年半もあり、その
間に築城するチャンスはあった。
また、慶長の役が始まった後も折角、全羅道と忠清道の制圧を
達成したのにそれらを放棄して、わざわざ沿岸部に倭城を築城
している。まして慶長4年春以降ではあまりに悠長すぎる。
日本優勢派は、ちょっとでも日本が不利って書くと噛みつくよな。
日本オタとしか言いようがない。
半島南岸に城つくってへばりついてるだけじゃ、全然補給路の確保にならないね!
一方的に攻められて引きこもってるだけの倭軍弱すぎw
233 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 09:04:22
≫229
だいたい慶長4年以降に攻勢かけるっていうのが嘘くさい
秀吉が死ななければ反転攻勢をかけられたって言いたいだけじゃん
お前って息を吐くように嘘を言うね。
234 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 10:37:36
秀吉が慶長四年以降、帰朝之衆を派遣し攻勢に出る予定だったのは事実だけどね。
「来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。
其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり。 」(慶長三月十三日 立花宛秀吉書状)
また、223のように慶長の役の作戦実行時の兵力10万以上をさも戦役全期間動員していたと勘違いしてる
奴がいるが、作戦終了と築城が済むと主に九州勢以外は予定通り帰朝してるんだよ。
「仕置之城々所柄之儀、各見及多分ニ付而城主を定、則普請等之儀、
為帰朝之衆令割符、丈夫ニ可申付事」(慶長二年二月廿一日 毛利宛)
↑の書状を見ても秀吉が慶長の役の始めから築城が済めば帰朝させようと考えていたことがわかるね。
>>232 >>全然補給路の確保にならないね!
補給路の確保がなってるから「其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり」でしょうに。
>>一方的に攻められて引きこもってるだけの倭軍弱すぎw
守備に専念して明軍を討ち果たし弱らせていくのは秀吉の元からの計画だよ。
「自然大明国之者共、朝鮮之都より五日路も大軍ニ而罷出、於陣取者、各令談合、
無用捨可令注進候、御馬廻まてにて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、
大明国迄可被仰付事、案之内に候間、於由断者、可為越度候事」(慶長二年二月廿一日 毛利宛)
>>230 全羅道・忠清道の制圧の目的は、朝鮮水軍の撃滅と収穫前の一時占領だよ。
作戦の達成後、築城さえすめば主に九州勢以外は撤退する予定だから
収穫が終った広範囲を主に九州勢だけで守るメリットは無いわな。
そもそも、文禄の役の失敗が無意味な土地を無理して守ったために補給が
滞ったことが原因なんだから同じヘマはしない。
235 :
234:2010/11/08(月) 11:00:47
訂正
(慶長三月十三日 立花宛秀吉書状) →(慶長三年三月十三日 立花宛秀吉書状)
236 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 11:17:32
>>234 >補給路の確保がなってるから「其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり」でしょうに。
莫迦な奴だな。壬申倭乱でも沿岸部は物資が足りていた。
足りなかったのは内陸だ。内陸への補給路が確保できなかったんだよ。
なのに内陸での補給路確保しないですでに足りてる沿岸部にばかり在庫ためて一体どうするんだw
こんなざまじゃ仮に翌年攻勢かけても結果は火を見るより明らかだ(笑)
237 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 11:18:14
≫234
立花宗茂、小早川秀包など4人の大名に送った朱印状ね。
それだけでソースになると思ってんの!
彼らが動かせる兵数なんて大したことないし、慶長4年から
大規模な作戦を実行するならもっと多くの大名への朱印状が
ないとたんなる秀吉の負け惜しみ程度の意味にしかならない。
>>236 補給路の意味わかってる?内陸への補給路は、内陸に軍が居ないと成立しないんだけど。
>>237 苦しい言い訳だな。そんなこと言い出したら歴史のほとんどにソースが無い事になるよ。
その論理でいくと、現在残る九州出兵における朱印状の宛先の大名だけが九州出兵したことに
なるよ。それとも、出兵した殆どの大名への朱印状が残ってると思ってるの?
239 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 11:45:47
正常な状態と曖昧模糊な状態が断続的に現れる
「まだらボケ」というのがある。
晩年の秀吉もこの「まだらボケ」だという説がある。
だから秀吉本人の朱印状だからっといって秀吉になにか
壮大な計画があったと考えるのは無理がある。
血を流して支配下においた全羅道と忠清道を放棄して、
わざわざ沿岸部に倭城を築城していることのどこが作戦
とおりなんだよ。
もし秀吉の作戦通りだとすると秀吉も焼きが回ったとしか
いえない。
240 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 11:56:34
文禄の役の失敗や甥の関白秀次との
骨肉の争いによりカリスマ性がなくなった
晩年の秀吉が大本営発表よろしく一生懸命
自分を大きく見せようと撤退を転進と主張
しているようなものだな。その立花宗茂への
朱印状って。
241 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 12:19:40
>>238 本当に莫迦な奴だな。
だから沿岸に張り付いてたって補給路確保の役には全く立たないの。
壬申倭乱敗北の轍を踏まないためには、内陸の補給路確保が必須だった。
つまり補給路を内陸に伸ばしていく必要があった。
しかし丁酉倭乱の賊軍は補給路確保せず、元から補給の足りている沿岸部でブルブル震えてるだけ。
莫迦すぎて泣けてくる。
242 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 12:35:39
≫238
おまえさー
もっと自分の頭で考えろよ。
文禄の役の休戦から慶長の役の開戦まで
3年半あったんだぞ
なぜその間に倭城を構築しなかったんだ。
また開戦後も最初に倭城を構築すればよかったじゃん
それさえもせず、そのまま軍事進攻しながら明・朝鮮
軍の本格的な反攻にあったとあと突然占領地を放棄して
沿岸部の山間に城を構築したんだぞ。
どう考えても明・朝鮮軍を恐れて山間に逃げ出したとしか
考えられない。
慶長3年3月に7万の将兵を帰還させたのも表立っては一時帰還
と言ってるが、実際は蔚山攻防戦後に三城放棄案を主張した大名
が中心なんだし、彼らの圧力に秀吉が押されて苦し紛れにとった
命令に決まってるじゃん。
たちだ。
>>241 頭の良い241に質問するね。
@7万以上が帰朝して在朝軍6万という状況で兵力的劣勢の中、内陸補給路を伸ばすメリットがなぜある
と思っているのか?
Aそもそも、内陸を占領維持するという計画が慶長の役であったとする根拠は?
244 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 13:05:33
>>243 救いようがないほど莫迦だなあ。
@そもそも軍の半分帰して残りの半分に無駄飯くわしてんのが愚かなの。
ほとんど池沼級のおつむだろ。
Aんん?朝鮮の主要都市のほとんどは内陸だが?
それを占領する気はない?賊軍は略奪がしたいだけだったのか?
君は秀吉が倭寇をやろうとしてたと主張したいのかね?
実に大規模な倭寇だ(笑)
>>242 >>なぜその間に倭城を構築しなかったんだ。
西生浦城とその支城、機張城、釜山城、金海城、熊川城、加徳城
などの本城11と支城7の日本式城は講和中に築かれている。
>>軍の本格的な反攻にあったとあと突然占領地を放棄して
詳細希望。
>>244 なんだこいつ、ろくに答えられてないじゃんw
>>んん?朝鮮の主要都市のほとんどは内陸だが?
それを占領する気はない?賊軍は略奪がしたいだけだったのか?
君は秀吉が倭寇をやろうとしてたと主張したいのかね?
実に大規模な倭寇だ(笑)
だから、主要都市占領・維持するメリットを答えろよ(笑)
>>242 >>慶長3年3月に7万の将兵を帰還させたのも表立っては一時帰還
と言ってるが、実際は蔚山攻防戦後に三城放棄案を主張した大名
が中心なんだし、彼らの圧力に秀吉が押されて苦し紛れにとった
命令に決まってるじゃん。
秀吉の帰朝命令1月22日で、三城放棄案の連署が1月26日。
つまり、帰朝命令と放棄案との繋がりは全くない。
248 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 14:41:18
>>245 蔚山倭城を始めとする一連の倭城構築について
聞いているんだが。
じゃあ、全羅道も忠清道も沿岸部だけではなく
内陸部にも兵を駐留させていたのか?
一度占拠したってそこに兵を駐留させなければ
放棄したことになるんだが!
三城放棄案と帰朝命令については時系列については、
私の勘違いだったので謝罪して訂正する。
でもこの時期(春先)に全軍の半数を撤退させる目的
ってお前ならどう考える。
私にはどう考えても現場に漂う厭戦気分に配慮した命令
だと考えるよ。
朝鮮は日本じゃない。
日本が攻めて朝鮮が守る立場だ。
日本が朝鮮で守る立場になったってことは
占領がうまくいってるてことだ
250 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 15:12:43
>>246 莫迦もここに極まれりだな。
まずそんなトンチンカンな問いに答える必要もない。
なぜならその問い@Aとも俺は全く主張していないからだw
トンチンカンなことを言って回答を迫る。
もうほんと莫迦すぎて・・・w
でだ、お前さんのすばらしい頭では他国にわざわざ侵略しても
主要都市を占領するでもなく略奪するのでもなく、城を作って
無駄飯食って時間がたつのを待つわけだな?
あはは、ほんとうに莫迦だなあw
251 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 15:13:29
>>245 あのさー
400年以上前に亡くなったまだらボケの暴君に忠義立て
することないからさー
お前自身の考えを言えよ
秀吉の死に関係なく慶長の役が成功するかどうかを
252 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 15:38:31
>>245 秀吉が慶長3年8月以降も元気ならたぶん武断派の大名に
朱印状で、慶長13年(1608年)くらいに本格的な「明征伐を
行う故、弓矢の準備ゆめゆめ怠りなく候」とか書いて送って
実際は全軍を朝鮮から撤退させていただろうな。
>>248 秀吉は、沿海十余城で守備を固めニ・三年に一度大挙して攻勢に出ては退くを繰り返す
作戦を考えている事を島津義弘・鍋島直茂・小早川秀包宛の書状に認めている。
秀吉が↑の作戦本気で考えていたのなら、その一環かもしれない。
「沿海十余城につきて之を守らしめてニ、三年毎に一回大挙して遼東の境まで
前進せしめんと欲せりなり」(島津宛 秀吉朱印状)
>>252 かもしれないし、そうでないかもしれない。実際秀吉が死んだんだから
秀吉がどういう行動に出るかは本人以外わからんわな。
255 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 15:51:39
>>253 まだらボケの秀吉が言ったことだからどこまで
本気かわからないけど、人も金も自腹の大名達が
どこまで秀吉に従うかわからないな。
各地で謀反がおこり秀吉本人が打ち取られている
可能性が高い。
256 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 16:07:52
>>254 まず間違いないでしょ!
春先に全軍の半数を撤退させるなんて
朝鮮南部を征服する気があるとは思えない。
一部の武断派大名に強がった朱印状を送った
程度じゃ再侵攻の意志があるとは考えられない。
もし本気で再侵攻を考えていたのならまだらボケ
どころかパラノイアが発症しちゃったのかな
>>256 発症してるのはお前だろ。
偉そうに講釈たれた持論が次々と破綻しちゃって
資料を提示されたら「まだらボケだ!」「強がってただけ」
だもんなあ。もうお話にならんわw
壬申倭乱だの賊軍だの学術的にトンチンカンなことわめきだすし
258 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 16:18:40
>>257 お前なに怒ってんの!
私は秀吉の考えを推理しただけじゃん。
べつにお前の悪口をいってないのに
それともお前、秀吉に忠義立てしてるのか?
壬申倭乱なんて言ってるのは「ぼくチョンです」と言ってるようなもんだよなぁ。
260 :
253:2010/11/08(月) 16:21:01
>>258 勘違いしてるようだが、俺は257ではない。
これまでの発言録
・「だいたい慶長4年以降に攻勢かけるっていうのが嘘くさい 秀吉が死ななければ反転攻勢をかけられたって言いたいだけじゃん 」
(秀吉が慶長四年以降の攻勢について諸大名に送っていた朱印状の存在を知らない)
・「半島南岸に城つくってへばりついてるだけじゃ、全然補給路の確保にならないね!」
(補給路に関する根本的な知識さえ持ち合わせていない)
・「大規模な作戦を実行するならもっと多くの大名への朱印状がないとたんなる秀吉の負け惜しみ程度の意味にしかならない」
(一次資料である秀吉からの朱印状についてのコメント)
・「おまえさー もっと自分の頭で考えろよ。 文禄の役の休戦から慶長の役の開戦まで 3年半あったんだぞ なぜその間に倭城を構築しなかったんだ」
(西生浦城とその支城、機張城、釜山城、金海城、熊川城、加徳城 などの本城11と支城7が講和期間中に築かれていることを知らない
・「慶長3年3月に7万の将兵を帰還させたのも表立っては一時帰還 と言ってるが、実際は蔚山攻防戦後に三城放棄案を主張した大名 が中心なんだし、
彼らの圧力に秀吉が押されて苦し紛れにとった 命令に決まってるじゃん」
(秀吉の帰朝命令1月22日で、三城放棄案の連署が1月26日。 帰朝命令と放棄案との繋がりは全くない)
262 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 18:00:07
>>261 お前ってホントガキだな!
せれじゃあ、一個づつ反論するぞ
1番目について、確かに慶長4年以降の攻勢についての諸大名への
朱印状は知らなかったよ!
でもさ、おれが知りたかったのは慶長2年2月21日に第二次朝鮮出兵
命令を発した際の慶長4年以降の攻勢について書かれた書状だ。
慶長の役が秀吉の想定内に進んでいる証拠としては慶長2年当時の
書状じゃないと意味ないからな
慶長3年以降に一部の大名へ送った書状だけじゃ秀吉の言い訳にしか
聞こえない。
263 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 18:04:33
二番目はおれが主張したことじゃないのでパスな
三番目は一番目と同じ
四番目は蔚山倭城など新たに築城している倭城のことについて
いったんだ。
五番目はすでに間違いを認めて謝罪している。
264 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 05:00:29
>>219 明軍は30万投入してるだろ
その後5万前後の女真に敗れてシナ全域征服された
265 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 09:01:25
>>262 君が言い訳にしか聞こえなくっても事実は、慶長3年代は蔚山城の戦いで
明・朝鮮軍を撃破しているし、その後は目立った動きもなく言い訳する
ような状況でもないんだけど。
まず、言い訳(何の言い訳か知らんが)するのに当の実行者たちにホラを
吹く必要性がない。なぜなら、実行者は軍備を整えねばならないからな。
秀吉が渡海するとホラを吹くのとはわけが違う。
さらに大名たちに帰国させた時期と来年の攻勢に関する書状が同時期である事
などから関連した動きと見れなくも無い。
↑で示したソースは信用できないんだが。
島津だけで三万人以上殺してるのに、戦争全体での明の傷亡(死傷)が三万て(笑)
>>267 そもそもソースがwikipediaっていうのもアレだな…。
269 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 11:56:20
≫266
じゃあ聞くが、なぜ秀吉は慶長4年以降の攻勢について
慶長2年の第二次出兵の際に説明しなかったんだ。
普通、戦争を行う前に戦略の全体像を提示しておくぞ。
また、当初目標だった全羅道と忠清道をせっかく血を流して
占領したのに内陸部に兵を駐留させもせずを放置したまま
沿岸部にある山間の城に立てこもり明・朝鮮軍を迎え撃つ
のもとても当初からの計画とは考えられない。
その上、翌年始めには派遣軍の半数を撤兵させている。
お前が提示したのはこの状況で一部の大名に送った書状だろ
これじゃあ、言い訳としかとれないよ。
古来より「綸言汗の如し」というように権力者が一度主張した
ことは軽々しくひるがえせない。
ただでさえ、大明征服を主張してはじめた文禄の役がぶざまな失敗
に終わったうえに、苦し紛れの言い訳として朝鮮南部の占領を主張
して再度はじめた慶長の役も失敗しそうな状況で言い訳でも言わなきゃ
権威が保てないじゃん。
だいたい朝鮮半島南部を占領したところで恒久的に維持できるのかよ
大陸に領地を得たいのならせめて長白山(白頭山)以南全域を手に入
れないと領土防衛はおぼつかない。
秀吉は韓国で敗死したらしい。
未来の安全保障の為に、滅亡させてくれればよかったのにな。
秀吉は大阪城で温い布団の中で妻子家臣に見守られながら大往生を決め込んだのさ
悪くない人生だった、と思いながらね
273 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 17:07:45
≫269
>>また、当初目標だった全羅道と忠清道をせっかく血を流して
占領したのに内陸部に兵を駐留させもせずを放置したまま
沿岸部にある山間の城に立てこもり明・朝鮮軍を迎え撃つ
のもとても当初からの計画とは考えられない。
「全羅道を悉く成敗し、さらに忠清道にも出撃すべきこと」「これを達成した後は守備担当の武将を定め、
帰国予定の武将を中心として築城すること」・・・(慶長二年二月二十一日付朱印状『浅野家文書』等)
はい、どう見ても「当初からの計画」です。本当にありがとうございましたw
>>お前が提示したのはこの状況で一部の大名に送った書状だろ
これじゃあ、言い訳としかとれないよ。
そもそも「天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を明の関白に就け、北京周辺に100カ国を与える」
なんていう秀吉の有名な構想だって、天正20年(1592年)5月18日付秀次宛朱印状、
つまり秀次個人に宛てた書状が根拠となっている。
お前の言う「一部の大名に送った書状」はいつ、誰が、誰に、どのような目的で送ったのか
はっきりしていて、しかも複数の書状に同じ内容を確認することができる一次資料。
お前がいくら「こんなの言い訳だ!」(笑)「まだらボケだ!」(笑)と駄々をこねようが、
世間一般では「慶長四年以降に大攻勢をかける予定だった」と解釈するのがより妥当で、自然な考え方なんだよw
274 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 17:31:37
ま、秀吉も自分が明の皇帝の臣下だって自覚はあったと思うよ。
もともと人づきあいの達人でリアリストだしね。
それに、織田時代から堺商人を通して、外交や貿易の知識はあったから、
東アジアでの国際交流における一般常識はわきまえてただろ。
秀吉は藤吉郎の時代から、信長の命で堺商人と付き合いがあるんだし、
武将の中では経済に明るい人物だから、対明貿易の必要性は認識していた。
貿易の利益の大きさや、勘合貿易が朝貢形式ってことは認識していた。
のちの家康ですら、対明貿易の再開を希望していたのだから、
現実主義者の秀吉が、義満ですら行った朝貢にためらいなどないだろう。
もし、明が秀吉の満足いくかたちで勘合貿易再開を許したなら、
嬉々として明の皇帝に臣下の礼をとって日本国王に冊封されたはず。
またお馴染みのコピペか…
276 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 18:40:25
でも、核心をついてるというか、正論ではある。
流石に自分を明の臣下だとは思ってなかっただろう。
形式的に相手を立てれば実利が得られる、くらいに考えていただけだろう。実際に勘合貿易なんてそんなモンだし。
むしろ堺の商人から「実際に臣下になる必要はない。そういう形式をとるだけですよ」と教えられていただろう。自分より格下の家康にだって頭を下げる人だし。それで儲かるなら、ま、いっか。って感じだろう。
「勘合貿易(朝貢貿易)はダメだけど、臣下には(封王は)してやるぞ」
とか言ったのか
秀吉を怒らせるには効果的だな
国を傾けるくらいの代償は払ったけれども、朱家の男もカッコイイと思う
279 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 09:18:27
>>273 お前さーいくら追いつめられたからって
自分の出す資料ぐらいしっかり吟味しろよ!
お前の出した『浅野家文書』では
「これを達成した後は守備担当の武将を定め、
帰国予定の武将を中心として築城すること」
と新たに築城することが書かれているジャン
>>261でお前が偉そうに講釈した
(西生浦城とその支城、機張城、釜山城、金海城、
熊川城、加徳城 などの本城11と支城7が講和期間中
に築かれていることを知らない)
と矛盾するじゃねえか
お前の資料だけでは不十分だったのでおれもその時に
島津家出された資料を抜粋するよ
『一右動相済む上を以て、仕置の城々所柄の儀各々見及び、
多分に付て城主を定め、即ち普請等の儀、帰朝の衆をして、
割符せしめ丈夫に申し付くべき事。』
このうち下線部分を読み解くと仕置(統治)の平山城を普請
しろとの命令だとわかる。
つまりお前が偉そうに講釈した沿岸部に構築した防衛用の山城
ではなく、内陸部を新たに占領して統治用の平山城を構築しろ
とのことだ。
280 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 09:27:29
>>273 でも実際はどうだったか!
味方の血を流して占領した内陸部
に統治用の平山城を構築する暇もなく
明軍の襲来を恐れた日本軍は元いた
沿岸部に退却し、防衛用の山城に立て籠
った。
つまり当初の計画は頓挫したわけだ!
蔚山倭城などをあらたに構築したのは
それまでの山城では日本兵全員を収容
しきれなかったからだろう。
また、慶長3年正月に半数の兵を撤兵させた
のも目的を果たしたからではなく、すでに約束
してあったためしぶしぶ撤兵させたのだろう。
それだけ晩年の秀吉の権威は揺らいでたのだ。
>>279 >>お前が偉そうに講釈した
(西生浦城とその支城、機張城、釜山城、金海城、
熊川城、加徳城 などの本城11と支城7が講和期間中
に築かれていることを知らない)
と矛盾するじゃねえか
一体どこが矛盾するんだ?
蔚山城も順天城も慶長の役勃発後に築城されてるんだが
>>つまりお前が偉そうに講釈した沿岸部に構築した防衛用の山城
ではなく、内陸部を新たに占領して統治用の平山城を構築しろ
とのことだ。
その「下線部分」のどこをどう読み解けばそうなるんだ?
内陸に山城でなく平山城を作れなんて一体どの部分に書いてある?
上陸してからまず沿岸部に拠点を固めるのは、兵糧の現地調達計画が破綻して
補給の大半を本国からの輸送に頼っていた日本軍としては当然の措置だろ
攻勢を来春以降と定めたのも、朝鮮半島の厳しい冬の到来から考えて
年内の漢城攻略を断念したためといわれている
それとも、極寒の冬を補給もままならない状態の内陸で過ごすべきだったか?
それじゃ文禄の役の二の舞だろ
282 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 10:53:48
>>281 お前が提示した「浅野家文書で秀吉が厳命した
帰国予定の武将を中心として築城すること」
の築城対象って蔚山倭城以下の沿岸部の山城
のことを指しているというのか?
すぐ隣の西生浦倭城は和平交渉中に築城して
いるのに。
全羅道と忠清道を武力占領した後に仕置の城
(大坂城のような平山城)を建設して占領政策
を進めるつもりじゃなかったのか??
もともと占領していた沿岸部に戻って山城を3城
作るだけなら和平交渉中にできなかったのか???
↑
なんだこいつ?
教えを請いたいんならそれなりの態度というものがあるだろうが。
ほんと日本は民度が低くなったなあ。
つ 日本語話者が、全て日本の公教育を受けているとは限らない件
285 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 15:43:16
>>283 ふーん ごまかすんだ。
話をすりかえるんだ。
反論できないから話をごまかすんだ
間違えを認められないから話をすりかえるんだ
おまえって恥知らずだな!
思えば秀吉もおまえと同じ間違えが認められない
恥知らずだ。
だから大ぼらを吹いてはじめた文禄の役(大陸出兵)が
失敗しているのも認められず、慶長の役を始めたんだ。
お前が提示した朱印状など、戦争がうまくいかず、対面が保てない
から立花宗茂らに対し言い訳を書簡にして送ったに過ぎない。
その証拠にお前が提示した『浅野家文書』にも開戦の際(慶長2年
2月21日)には慶長4年以降に朝鮮南部4道の本格的な攻略を行う旨
の命令はない。
だいたい慶長4年以降に本格的な侵攻を行うつもりなら慶長4年
以降に明・朝鮮と開戦すればいいじゃん
>>282 ワロタwどう読んだら平山城築けと読めるんだw
作戦終了後、築きだしたのは蔚山城とか数城じゃんw
それに何も始めて城を築き出したわけでもなく、既存の防御体制にたかだか数城付け加えた
だけ。で、君はそれを予定通りの行動ではないから慶長の役は予定通りではないだってw
素晴らしい思考回路持ってるw
講和中に築いてきた防御体制のたかだか補強だろw
もう一回言っとくよ。初めて防御体制を築き始めたわけではなく、既存の防御体制に
城を数城付け加えて補強しただけw
288 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 17:49:29
バカの壁だなこれは
289 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 17:55:52
>>280 兵糧がなくなったんだよ
漢城を撤退して晋州城を総攻撃し、沿岸に恒久的拠点を築いて明と領土交渉を行う事になった
これが決裂して慶長役になる
>>285 結局お前は
>>234 >>253 で資料を提示されてもかたくなに「そんなの言い訳に過ぎない!」とわめき続けるばかり。
詭弁を繰り返して明らかに無理のある持論を絶対に曲げようとしない。
真面目に聞くが、お前は学ぶ気があるのか?
頭が固いってレベルじゃねえぞ。キチガイなのか?
291 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 18:07:34
半島縦ラインの繋ぎの城は唐入り戦略だが
海沿い横ラインの仕置きの城は朝鮮南部獲得戦略
慶長役は日本の朝鮮領を認めさせる為に攻撃した
292 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:07:34
それはそうと、
秀吉も自分が明の皇帝の臣下だって自覚はあったと思うよ。
マジで。
しつこいなあ
294 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:43:08
大坂城で明使と会見したとき、明帝から下賜された冠服を秀吉が着用したのは、
秀吉にも理性と常識=「自分が明の皇帝の臣下だって自覚」があったから。
しかも、当時の冠服も冊書(秀吉を日本国王に封ずる勅書)も現存している。
朝鮮で戦って勝っても、まともじゃない土地と住人。
そんなもん手に入れても、悲惨な領地経営になるしな。
戦場で明を破って、明の将を次々に戦死させてるから
戦いそのものは日本の勝ちと言えるよな。
でも領土維持は無理と言うか、武将がしたくなかったんだろうよ。
価値が無いから。
>>294 アホか。
秀吉は、明の武将が次々に死んでるし明が負けたと思って
明皇帝を譲ってきたと思ったんだよ。
で、そうじゃないと怒って、もう一度出兵したわけだろ。
で、もう一度の時に秀吉は亡くなって
明は、日本に勝つことは無理だったが、秀吉の死で助かったと
記録に書いてるんだ。
ググッタら、簡単に出ることだが
「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
数十万の兵を失い、兵糧も無くなり
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、
関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった
これって、明史って書に実際に書いてるのかね?
298 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 23:10:32
秀吉が激怒したのは、肝心の貿易再開を認められなかったからだろ。
秀吉自身が名護屋城で示した講和条件は、
明の皇女の降嫁、朝鮮南部の割譲、勘合貿易(朝貢貿易)の再開などが主眼。
しかし、小西行長が降伏と朝貢許可の願いに改め、双方を偽るかたちで交渉した。
明側は、これを認めるかどうかで紛糾したが、結局、冊封のみ認めることになり、
大坂に秀吉冊封の使節を派遣してきたというわけ。
秀吉が激怒したのは、貿易の実利を期待したのに、国王という虚名しか得られず、
肝心の朝貢(貿易)再開を認められなかったからだ。
299 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 23:16:51
バカの壁+国籍の壁もあるようだな
次元が違う
300 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 23:21:08
>>298 秀吉が激怒したのは明使節が朝鮮の日本城塞完全破却と軍勢撤退を要求したからのようだ
ソースは秀吉の軍令と大陸侵攻
301 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 02:09:36
秀吉が明の皇帝の臣下だったと連呼する心理は
万年シナの属国だった朝鮮人が日本を同じレベルに
落とさなくてはプライドが許さないのだろう
せめて足利義満にしとけばいいのにね
秀吉はさすがに無理があるだろ
303 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 19:09:56
秀吉なんてただのゴミだしw
304 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 19:24:13
305 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 21:55:23
秀吉が信長並に多数の子供を作れていれば・・・・
信長の子供並の息子が何人もいたらどうなんの?
豊臣家分裂?
>>302 まぁ、義満は天皇に取って代わろうとする意図があったから、
あえて日本国王に封ぜられたとする見方もあるみたいね。
文禄の役では、当初相手の余りの弱さに調子に乗って進み過ぎちゃって反省。
その反省から、慶長の役じゃ秀吉得意の漸次的な侵攻方法に切り替えたってのが妥当だろうね
あと秀吉が10年生きてたらどうなってたろうね。
僅かでも部下を失いたくない、やる気の無い前線の将兵と
幾ら中華最強の精鋭と言っても守勢に回った日本軍には
手も足も出ない明兵。完全に膠着しそう。
そもそも秀吉が死んで日本軍の退却、明軍総出の追撃戦でも
退却する日本軍に襲いかかったまではいいが、いいように叩きのめされ
逃げる相手にすら、滅茶苦茶に打ち負かされて、複数の指揮官を殺されてボコられた歴史的事実を鑑みると
明兵朝鮮兵が、ここで主張してる奴の言うように強かったとは思えん。
因みに戦国時代の事例とこれと似た例って何処かある?
有力大名同士の戦でお国の諸事情で撤退した相手に
追撃したまではいいが、殿の軍に指揮官もろとも多くの将兵が虐殺されたって例
(擬態の退却で相手を誘いこんで一網打尽って孔明的な奴じゃなくて、ガチ撤退で)
>>309 関が原で最上義明が直江兼ね続に銃殺されてる。
311 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 13:09:30
>>308 何とか徳川家も大陸へ送り込めれば打開できると思う。
312 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 11:31:02
>>309 日本軍が明軍より戦闘力で上の証拠でもあるの?
文禄の役ではわずか5万に満たない明軍の来襲に
あって朝鮮半島全域に展開していた日本軍は半島
南岸部まで追い詰められたし(特に漢城の戦いでは
太閤秀吉やその右腕の黒田如水から日本一の賢者と
称えられた小早川隆景や戦国最強の勇将立花宗茂も
参加しており、5万5千の兵力がありながら5万1千の
明・朝鮮軍により 奪われている)
また慶長の役でも改めて14万以上の大軍 で攻め寄せながら
南岸部の倭城に立て篭もって迫りくる 明・朝鮮軍を撃退する
のが精一杯だ。(結局漢城は取り返せなかった)
313 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 11:33:05
≫311
大坂夏の陣での家康の醜態を考えると
意外と討ち取られるんじゃないか?
家康がまともに統率できる兵力は8000(長久手)程度。
それ以上は能力の限界を超えている。
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、
朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。
千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。
だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、
属国になると誓ってから宗主国が兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。
ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに変化していったかというと、
それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。
韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。
だから三百年もへても立ち直れなかった。
いやがうえにも倭乱のひどさを強調したいという気持ちはわからないでもない。
しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。
もしあるとすれば、もっと恥を知るべきであろう。
戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに再び経済大国になったではないか。
千回も侵略され、すべての侵略者を撃退したという自慢話と、
三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。
韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。
韓国人の反日台湾人の親日 黄文雄 光文社
>>316 直接指揮なら伝達手段の問題で誰も同じ数しか指揮できんだろ
>>312 碧蹄館の戦いは漢城をめぐる篭城戦ではない。郊外で主力が激突した野戦。
だから「漢城の戦い」なる戦闘も存在しない。寝ぼけてんのか?
日本軍の漢城撤退の理由も碧蹄館で敗れたからではなく、戦前膠着により日明双方が講和に傾いたため。
碧蹄館の戦いに投入された小早川や立花勢が精強だと言うなら、相手の李如松は明代を代表する名将だし、
彼の率いる「李家軍」もモンゴルや女真討伐に多大な戦功を上げていた精鋭軍団だぞ
慶長の役に関してはさんざん既出のように沿岸部の城郭構築が優先目標であり
特別劣勢を強いられていたわけでもない
>>312 「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
って、明が自分で書いてるんじゃないか。
数十万失って、勝算が無いと。
それに倭城って、一つも落されたことが無い。
日本の死者は、凍死などばかりだったそうだな。
つまり、明が何十万も援軍を送り込んできても
倭城を作って前進していけば日本も凍死などが少なくて済むわけだな。
320 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:13:17
≫318
漢城退却
3月。漢城に立て籠もる秀吉軍に一大事が起こります。
明軍の経略(←参謀の意味)・宋応昌(そうおうしょう)が、
漢城郊外の龍山にあった兵糧貯蔵庫を襲撃して焼き払うという
戦果を挙げました。この兵糧庫には、漢城駐留軍約5万人の
二か月分の兵糧:1万4000石が貯蔵されていたため、
漢城駐留軍は明軍と講和することを余儀なくされました。
321 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:27:51
>>320 日本戦史朝鮮役に書いてあるが龍山以前に兵糧事情で撤退を協議してるんだよ
撤退時米に余裕もあった
322 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:37:19
龍山攻撃は一五九三年三月十三日(この日日明同暦)なんだよ
三月三日付けの朝鮮在陣武将の連署状や吉見家朝鮮陣日記二月二十七日を確認してもらいたい
323 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:41:01
≫319
お前なー倭城って山城だぞ。
山城なんて古今東西、力攻め
では簡単には落城しない。
南北朝動乱期における鎌倉幕府の千早城攻め
戦国時代でも武田信玄の箕輪攻め、上杉謙信
の臼井城攻め、毛利元就の山吹城攻め
これらも力攻めでは落城させられなかった。
324 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:44:17
≫321
じゃあ、なんで日本軍は漢陽城から撤退したんだ。
仮にも朝鮮国の首都だぞ
明軍・朝鮮軍相手に勝算があるなら撤退しない。
325 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:49:16
朝鮮側は倭城の特徴を
海岸線や河川に隣接した山頂部に立地
瓦葺建物多様
技巧的縄張り
石垣の多用
と認識していたようだ
326 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:50:06
327 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:54:54
倭城に関しては
豊臣の城・徳川の城‐戦争・政治と城郭
朝鮮の役と日朝城郭史の研究
韓国の倭城と壬辰倭乱
などを参考にしてる
>>320 それって副総兵の査大受の配下から少数の決死隊を選抜して
倉を焼き打ちした、ってだけの事件だろw
>>323 で、一方の日本軍は朝鮮の山城を多数陥落させてるわけですが・・・
「山城だからだ!」(笑)なんて倭城を攻め落とせなかった言い訳にもならないよねw
>>324 その頃もうとっくに和平交渉に入ってるだろ。勝算云々とか、馬鹿か?
329 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:03:26
漢城は補給出来ないので撤退したが晋州城を総攻撃し海岸線に陣地を作って居座った
明軍は日本軍の晋州城攻撃に手出しはせず傍観した
確か九万三千ぐらいいたから明軍来たら死んでるだろな
330 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:21:32
>>328 200年間平和だった朝鮮の山城と120年も戦乱だった日本の
山城を同等に比べるのかよ。
和平交渉って?
日本は明国を征服するつもりじゃなかったのか?
朝鮮半島の南部を征服することが目的だったのか?
>>330 >>200年間平和だった朝鮮の山城と120年も戦乱だった日本の
山城を同等に比べるのかよ。
「山城なんて古今東西、力攻めでは簡単には落城しない」んでしょ?違うの?w
>>日本は明国を征服するつもりじゃなかったのか?
朝鮮半島の南部を征服することが目的だったのか?
唐入りという目的自体は最後まで変わらなかっただろ。
それが実現可能かどうかは別としてw
332 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:31:44
>>330 講和交渉すら知らんとはあんた無知過ぎるよ
最低限山川の日本史リブレット秀吉の朝鮮侵略(税別800円)ぐらいの基礎は持ってくれ
これが恐らく一番安い
朝鮮役の概要すら知らんのだろ
333 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:36:21
文禄役は唐入りだが慶長役は半島南部領有を認めさせる為の出兵だろう
お聞きしたいのだが
朝鮮の役 旧参謀本部:を買いたいんだけど、戦前のと戦後に出たやつは
内容変わらない?心配なのだが…
まあ、さすがに秀吉が最後まで明征服の野望を抱いていたというのは
推測の域を出ないのかな
336 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:44:03
俺が持ってるのは村田書店がS53年に覆刊した日本戦史朝鮮役だな
特に問題ないと思うが
337 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:45:13
徳間なら別物だ
日本は、本拠地から海を渡る必要があるからな。
何をするにも。
あまり遠くまで行くより、倭城を築きつつ、
野戦で敵将を討ち取っていく方が得だろうな。
とにかく、日本側は日本人都市のような拠点が
陸に必要だったのは確か。
海は補給物資が、敵の襲撃だけでなく
嵐や台風が続くとかすると補給路が途絶える。
陸に安心できる拠点が必要だわな。
339 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:53:19
>>332 なにお前、馬鹿なこと言ってるの。
和平交渉について知らないわけないだろ。
おれが言いたいのは、仮道入明すなわち
朝鮮の道を借りて明国に攻め込む予定だった
日本軍が肝心の明国に攻め込めないまま和平
交渉を行っている状況にお前がなんの疑問も
抱かないことを皮肉っているんだ。
日本軍が明軍より強いならなんでそのまま
北上して平壌を取替えさないんだ。
それが和平交渉に入ったからって漢陽を明け渡して
いる自体、勝算がなかったからだろ。
340 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:57:46
>>339 すまんがテレパシー使いじゃないから書かないと分からんよ
ただのバカかと思った
341 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 00:04:22
平壌には五万で来たから小西隊には支えられない
碧蹄館の後李如松は平壌まで引いたが日本軍も幸州山城で攻撃に失敗したり
兵糧は乏しく消耗も激しく平壌まで行くような情勢ではない
兵糧不足で漢城すら支えられなくなった
342 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 00:15:32
流れを掴んでたら講和交渉に疑問は持たないと思うがな
明軍も日本軍もそれぞれの事情で戦意は少なくなってる
近世日本国民史朝鮮役中巻を今読んでるが
>>337 まじで…徳間が駄目なら買えない売ってない
344 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 00:28:15
>>343 村田版は古本屋で一万五千ぐらいであると思うが
参謀本部編日本戦史朝鮮役は一応ネットでタダで読めるはずだがな
国会図書館のサイトだったか
345 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 00:51:50
しかし漢陽って何なんだ
朝鮮役ではソウルは漢城、京城、都城、國都、都という呼称は見るが漢陽というのは見ないような
何度も書いてるから間違いではなく漢陽なんだろう
碧蹄館の合戦を江陽合戦と呼ぶなんてのはあるが教えて欲しいものだ
>>344 税金払う価値が少しはあるなと思うな、あれを見ると
347 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 00:55:24
これだけ倭軍に徹底的にボコボコにされて敵将もろくに討ち取れない状態で
しかも明軍、朝鮮軍は指揮官がボロボロ殺されるオマケ付き
連中の指揮官は三国志演技よろしく、馬上単身敵陣に乗り込んでたのかねw
>>339 前線は全くやる気なしだからだろ。
中華最強の連中が出張ってきて、こっちも損害が出るって話になったら進軍なんかしなくなる。
戦国大名は僅かでも自国の兵を失うのを嫌ったんだよ。
みんな軍監、戦目付相手に死ぬ死ぬ詐欺やって壊滅ですアピールに必死だった。
そんな彼等は関ヶ原じゃ何事も無かったかのように大暴れするんだけど
348 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 01:00:48
漢陽はググッたら自己解決出来たようだがよくこんなの知って使ってるな
一応勉強になったわ
349 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 02:27:49
明、朝鮮軍は後半のグダグダが酷いからね
築城中の城に5倍の兵力に襲いかかり、強襲に成功し備蓄の無い状態で籠城戦持ち込み
強襲により築城中で有ると言え籠城の要である外廓を易々と突破したのに
それから攻略が出来ず、結局援軍に追い立てられ万単位殺される。
四国、中国地方の大名は帰国し、在番は九州大名のみとなり手薄になった所を
明軍、朝鮮軍の総力を挙げ西、中央、東と3カ所を
各所3倍以上の兵力で攻略すると言う文禄慶長の役史上最大の同時大攻勢も全て失敗し
中央では島津相手には、5倍以上の兵力で襲いかかりながら、籠城所か野戦で完敗し大虐殺され
西では水陸両方から5万超の大軍で攻め上げても籠城中の1万5千の小西隊相手に大敗
唯一被害が少なかったのはビビって大攻勢に出れなかった蔚山城攻略の東部隊だけ
その後、講和を結ぶも約束を破り襲いかかったが
自軍の半分程兵力の正規海軍で無い連中に
明軍水軍副総督、朝鮮水軍総督が返り討ちにあう始末
そりゃ、万里を超えて騎馬民族を征服してた中華最強の最精鋭部隊が
援軍のコアだから強いんだろうけど
文禄慶長の役で戦った明軍歴戦の勇将である麻貴(回教徒で西方騎馬民族を支配、監督してた)や
李如松(万里を超えて蒙古、満州を支配してた、 碧蹄館で大敗)は
島津に泗川でボコられた董一元とともにボハイの乱でも活躍したし
楊鎬(最初の蔚山城攻めで大敗を喫した)、李如柏、劉綎はサルフの戦いでも各々大軍を率いてるし
劉綎は陳璘(順天で小西に凹られたコンビ)とともに楊応龍の乱でも活躍してる
彼等は中華大陸を狭しと駆け回り、まさしく中華の最強部隊、最高の指揮官達だったと言える
けど侍相手にしてどの程度強かったか?となると強弁出来る実績がないのが実情。
せめて黒田とか福島とか軍団長の一人や二人
大名の9〜10人殺せてたら議論の余地のあっただろうけど
351 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 10:46:49
ま、秀吉に明の皇帝の臣下だったという自覚があったのはまちがいないけどな。
粘着君しつこい。
君の説に反論が出ている様なので、それを論破しようと頑張るなら良いのだが、反論をスルーして同じ主張を繰り返すのはやめたまえ。
大体、仮に秀吉に臣下の自覚とかいうのがあったところで
「だから何?」って感じなんだけどな
∧ ∧
ハァッ… ハァ… / ヽ / ヽ
: / >_/;,; ヽ
// ;;# ,;.;::. ヽ :::\ : ひ、秀吉は明の皇帝の臣下で
: / -==、 ' 、==- ..:::::丶 壬辰倭乱はウリナラの大勝利だった・・・ニダ
/ "" _┃_ "" * .:::.:\ :
:\ #;;:.. l/ニニ| .:::::::/ ::::::/
ヽ.;;;//;;.;`ー‐' # .,..;;#:::ノ
>;;;;::.. .....;,.;-
: / \
355 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 20:38:32
356 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 23:05:29
この話題になると反発する連中が多いけど、
当時の東アジアは千年以上も中国を中心とした国際秩序だったわけで、
南朝の懐良親王(征西府良懐)も義満以降の足利将軍も山口の大内氏も、
みんな明に臣下の礼を取って外交や貿易をやってたんだが。
堺や博多の商人にとっても、そういう国際関係は常識だった。
もちろん臣下といっても、形式的、便宜的なものであって、
現代の価値観でムキになって否定するようなことじゃないのに。
秀吉の講和条件に「明の帝の皇女の降嫁(おそらく天皇に)」と、
「勘合貿易(勘合符を使った朝貢貿易)の再開」の二項目があったことは、
秀吉の理性的判断の中にどういう意識があったかを示してると思う。
357 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 23:38:56
>>356 秀吉は東アジアの秩序に疎い
朝鮮出兵も国内戦の延長だ
明と朝鮮の関係や明朝鮮について詳しかったら外交でも戦争でもこんな失敗はしていない
堺出身、婿が対馬の宗氏、クリスチャンの小西行長は比較的外交通だった
まず講和ありきで日中双方の現実的妥協点を探り結局失敗
行長の交渉結果は秀吉の飲めるものではなかった
もう一人の先鋒加藤清正も外交を行った
こちらは秀吉の条件に忠実で妥協はしない
これはこれで外交にならない
明や朝鮮から清正は警戒された
現代の仙谷前原に多少通じるかもしれない
358 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:13:22
一、秀吉の外征は、国内統一戦争遂行の延長線上に敢行された領土拡大を目的としたものであった
すなわち政治的には外国王をも日本の大名と同一視して自己の支配下におこうとするものであり、
経済的には貿易の利益を得ることにより政権の基礎を固めようとするものであった
二、従って、そこには東アジアの国際社会における伝統的慣習への顧慮がまったくなく、
明・朝鮮・満州の相互関係やヨーロッパ船の動き、あるいは朝鮮人の民族意識に対する認識もうすく、
国際的知識に関する無知と独善を露呈した
三、秀吉の外征は、結果からみれば、東アジアの国際秩序に対する挑戦であり、
かつて足利義持が国際秩序の存在を認めたうえで明との通交を拒否したのとは性格を異にする
四、戦争に反対する和平グループの行動が外交折衝による表面上の弥蓬策に終始したため、
外征の阻止に何らの役割をも果たすことができなかった
以下略
中世対外関係史
だからどーだというんだ?
他人の見解を引用するだけで
自分の意見のない知恵足らず?
360 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:21:52
朝鮮役関連の本はいろいろ持っているので様々な意見を読んでるが、
東アジア云々は
>>358を主に参考にしている
徳富や北島や中野の本で小西行長と沈惟敬の会談や北京の会談、講和決裂記事を今読んでた所だな
だから考えは色々混ざるがとりあえず大ざっぱな基本として
>>358を紹介しておいた
361 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:36:37
田中健夫の中世対外関係史は秀吉だけ書いてるのではなく
中世の東アジアの冊封や通商関係の流れを把握しやすい
秀吉後の家康の外交まで一応押さえられる
東アジアの国際秩序という話題なら的外れでもないと思うよ
それで秀吉はそういう秩序は無視しているという事だな
日本・明ばかり語られて朝鮮の空気っぷりが半端ないな。朝鮮人は李舜臣しか活躍してないの?
363 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 21:40:40
>秀吉の講和条件に「明の帝の皇女の降嫁(おそらく天皇に)」と、
>「勘合貿易(勘合符を使った朝貢貿易)の再開」の二項目があったことは、
>秀吉の理性的判断の中にどういう意識があったかを示してると思う。
日本が優勢だった時点で、名護屋で秀吉が示した講和条件にこの二項目があるのは、
秀吉といえども、東アジアの国際秩序を無視できなかった証拠ではないのか?
明の皇女の降嫁というのは、明らかに中華王朝から異民族の王への「和蛮公主」だろ?
そして、最大の眼目として「勘合貿易」の再開を挙げているのは、やはり秀吉といえども、
朝貢形式での対明貿易を自明のものと理解していたということ。
勘合貿易っていうのは、勘合符を用いた朝貢貿易(日本が明に入貢する形式)だからね。
大坂城での明使との会見で、明帝から下賜された冠服を嬉々として着用してたというのも、
やはり秀吉も足利義満やアルタン・ハンのように、外交儀礼上は明へ臣従した証拠だろう。
364 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:12:18
懐良親王と書いてるがこの人が何やったか調べる必要があるだろな
足利義満、日本国王の冊封を受けた時は第一人者ではあったが征夷大将軍も太政大臣も退いた隠居状態で受けている
公式にはフリーのオッサンの立場
365 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:37:23
懐良親王の面白いところは、明の使者に高飛車に威勢のいい啖呵をきってはみたものの、
結局、臣礼をとって日本国王に冊封されたってとこだな。
義満がフリーのオッサンと言うなら、秀吉も関白を退いた隠居状態の太閤だ。
太閤秀吉が太政大臣のままだったと言うなら、義満だって公式には准三后の地位だった。
義満は「日本准三宮源道義」として朝貢し、日本国王に冊封されている。
366 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:02:22
こんなに強い(笑)日本の戦績
白村江の戦い
【新羅○―●倭】
日本征伐
【高麗・元○―●倭】
壬申倭乱
【李朝・明○―●倭】
下関戦争
【英仏蘭米○―●長州】
英薩戦争
【イギリス○―●薩摩】
甲午戦争
【清○―●日帝】
露日戦争
【ロシア○―●日帝】
抗日戦争
【中国○―●日帝】
独立戦争
【韓国○―●日帝】
米日戦争
【米○―●日帝】
秀吉は降嫁という表現は使ってない。むしろ戦国大名の感覚で人質として明皇帝の姫を天皇家の嫁に要求したんじゃないか。
東アジアの国際常識を知った上で明への公式な外交文書に「天皇」なんて表現使うのは中華文明に対する挑発か対等な立場の表明に思えるが。
368 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:19:07
懐良親王の長文書いたら電源が消えてワロタ
秀吉も身軽な立場になってからやってたかな
長文が消えて調べる気力が出ん
369 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:36:08
准三后の称号を用いたのは義満が征夷大将軍でも太政大臣でもない事を明示し、道義は義満の法名とでも言うかね
>>366 朝鮮では日清戦争や日露戦争が日本の敗北だったと教えているのかw
あと朝鮮が日本と戦争してたなんて驚きの新事実だな。是非学会で発表してくれw
このすれ見て思ったのが
朝鮮を擁護してるのはコリアンで理解できるが
明を擁護してるのは誰だ?
今の中国人は、民族衣装も清からのもので
国も清を継いでるんだよな。
明を滅ぼしたのは清だし、中国人が明を庇う利益は無いはず。
だれが明を必死で庇うのだろうか?
日本を貶すのが大好きな日本人なんてなんぼなんでも居ると思うが。
なんだかな〜、もう日本史だけじゃなく世界史も必修にしろよ、って感じだが。
和議条件七ヶ条
@明皇帝の姫を天皇の嫁にする
A日明両国において勘合が断絶しているので、これを改める
B日明和平のために両国の重臣が修好の誓詞をかわす
C日本が兵を出し朝鮮を鎮め百姓をいたわったのに朝鮮に逆意があたことを責めたが明に免じて北四道と漢城をかえす
D朝鮮王子と重臣を人質としておくれ
E清正が生け捕った朝鮮二王子はかえす
F朝鮮国王の重臣に今後日本に背かないという誓詞をださせる
皇帝と対等な称号の天皇を使ったり、明の属国の領土をぶんどった上でその属国の王族の人質を堂々と要求し、日本に背かせるな、とまで要求している。
秀吉は中華秩序ってモンを理解してないだろ。
375 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:08:49
明の皇女を天皇の嫁にするってことは、当時の国際常識では「降嫁」だし、
「勘合」貿易復活が朝貢貿易の復活ということも常識。
だから、秀吉はその常識をわきまえてなかったんだろ。人質とって貿易したかっんだろ。
明の勅使に報告した条目
@日本は神国で秀吉は日輪の子。
A明に請われたので海賊を取り締まったのに謝辞を示さないのは日本を小国と侮っている。故に明征服の兵を起こした。
B朝鮮は日本と明の会談を斡旋すると約束したが実行しなかったので出兵した
C明は朝鮮の急難を救おうとし利を失ったが、当然である
どう考えも子分にして下さいって態度じゃない。「お前が無礼だから征服しようとした。お前が半島で利を失ったのは当然だろう」とハッキリ主張しとる。臣下の自覚など微塵も感じられないのだが?
国王や将軍や関白に皇族の女を嫁がせるなら「降嫁」だろう。だが、明の帝の娘を日本の帝に嫁がせるのは「降嫁」とは言わん。大名の娘を他所の大名に嫁がせるのと変わらん。
少なくとも日本側はそう思っていただろう。
とにかく、半島南部に日本人だけが住む要塞のような
拠点を持つことが必要だったろうな。
379 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:07:46
秀吉は、なぜ明に臣従する気になったのだろう?
秀吉はスペイン、欧州のアジア侵略を見据えて先手を打った
そして、明の皇女の天皇への降嫁(当時の国際関係では当然明が上位)を実現し、
自らは明の皇帝から「日本国王」に冊封されて、明の臣下になるつもりだったのに、
明からは肝心の朝貢(勘合符を用いた貿易)を認められず、ブチ切れたわけだ。
明兵は弱兵だから戦闘は楽勝。
秀吉はそういう話を海外の事情通から聞いていたに違いない。
確かに朝鮮出兵全部を見渡しても、小競り合いみたいな戦いはともかく、
まともな戦ではほとんど日本軍の勝利。
でも、途中から戦略目標を見失った思われる。失敗と言えば失敗か。
いやもっと長期的にみれば大陸半島に領地を持たないほうが良かったのか。
>379
妄想のごり押しは止めなさい(笑)
・天皇という呼称の使用(華夷秩序の世界では中華以外の国が「帝」「皇」「勅」等を使用するのは絶対にタブーである)
・秀吉は明確に明征服の出兵であった事を明勅使に伝えている
秀吉が明に臣従する気なんてある訳ないだろ(笑)
支那・朝鮮から見て明皇帝が最上位の人物でも日本人とっては日本の天子様の方が尊いに決まってるだろ。
懐良親王は足利幕府に対抗するためにシナに媚びたのだろうよ
なんか秀吉は臣下の自覚があったとか連呼してる奴って
「嘘でも百回言えば本当になる」を実践しようとしてるのかな
384 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 13:56:43
アルタン・ハーンみたいな例もあるから、「臣下」といっても便宜的・儀礼的なもので、
実態のない名前だけのものだろ。
>>379 朝貢貿易、勘合貿易、互市貿易はそれぞれ別物
秀吉は勘合貿易を求めたが、明側は朝貢貿易なら認めてやっても良いと返答した。
386 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:40:34
後期倭寇の場合、頭目(親分)自体が中国人だ。
王直なんか五島や平戸に拠点を置いてたようだが、中国人主体の海賊集団に
日本の港や離島が占拠されてたと考えられなくもない。
平戸の松浦氏や五島の宇久氏なんかも、王直の子分だったんじゃないのか?
海賊集団の大ボスだった王直は自ら「徽王」と称していたそうだが、
平戸の松浦氏などの肥前沿海部の武士や博多商人なんかも、王直の臣下になって、
官位とかもらってたかもしれんな。
387 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 17:45:16
>>385 勘合貿易は、勘合符を用いた朝貢貿易だよ。
義満以降の足利氏も山口の大内氏も、みんな「日本国王」名義で朝貢する形式で、
貿易してたんだよ。
山口の大内氏は偽造の日本国王印まで持ってた(現在は毛利家の子孫の博物館が所蔵)。
秀吉が明の臣下になるつもりが毛頭無い事は明白だ。
「中華に対する神国」
「皇帝に対する天皇」
「戦争の主目的は明征服」
「落ち度は明・朝鮮にある」
明との対等な立場(少くなくとも中華秩序の外側にいる事)を強調して、明の非を責める主張をする事は面子を何よりも重んじる中華帝国には到底受け入れられないものである。秀吉は中華秩序ってものを理解していたのか?勘合貿易をどう認識していたのだろうか?
389 :
日本@名無史さん:2010/11/20(土) 23:22:16
そのわりには、大坂城で明の講和使節(実は冊封使)を出迎えたとき、
明の帝から下賜された日本国王の冠服を嬉々として着用していたようだが。
しかも、冊封の詔書をきちんと保存している。
(詔書の現物がいまも京都の禅寺に残ってる)
390 :
日本@名無史さん:2010/11/21(日) 02:48:52
日本の南北朝時代の頃でさえ北畠親房の神皇正統記のように
シナの度々変るような王朝なんか日本の天皇家より下と見る
思想があったのだから、それから200年後の日本の戦国時代の
武士達はシナ王朝なんか見下してるだろ。
しかも欧州の技術力に触れた当時の武士なら尚更シナは
大したことないと軽んじるはず。
小西行長・沈惟敬ら戦争終結を画策。
偽りの明講和使節を秀吉に接見させる。
秀吉、明が降伏したと思い講和条件七ヶ条を示しす。
小西・沈は明の神宗皇帝にも偽りの日本講和使節を会見させ和議を成立させる。
明、冊封使を日本へ派遣。大坂城で秀吉に接見し明皇帝の国書と金印と冠服を渡す。
秀吉は先の使節に示した七ヶ条が受け入れられ、降伏の証として貢物が献上されたと思いすこぶる上機嫌であった。
翌日、使節をもてなす祝宴が開かれた。上機嫌な秀吉は貢物の冠服着用して出席した。
家康・利家など重役が居並ぶなか宴もたけなわの時、側近の外交僧・承兌に明の国書を読ませた。文中の「爾を封じて日本国王となす」の語るを聞き激怒。
承兌は行長から「太閤殿の気に入らなそうな箇所は飛ばしてほしい」と依頼されていたが、それを拒否して直読した。
秀吉は再び出兵を命じる。
小西、沈惟敬は日明双方を騙し両国から褒美をせしめた詐欺グループ
>386
海賊が官位を与えるとか有り得ない話だから。そういうのは帝(朝廷)の仕事。
王直と松浦氏はビジネスパートナー。
394 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 22:54:30
>>386 確か山田長政も偽倭寇を退治して名を上げたんだっけ
連中って500年前から日本人名乗るのが好きだったんだなぁって感慨深い
「ワタシは強い強い倭人アルよ〜日本刀恐いアルよ〜アチョーアチョー」
って言って中国沿岸、東南アジアを荒らしてた訳だ。今と何一つ変わらんなーって思う
そもそも、あの弱卒の江南の連中が侍に敵う訳ないだろ
あの秀吉やイスパニアの宣教師達に侍なら明なんて楽に征服出来ると勘違いさせてしまった程弱い連中だぞ
松浦党って言えば、戦国時代は日和見でろくに活躍してない海賊だけど
朝鮮では騎馬精鋭部隊を散々に打ち破ってる武将だし
日本の侍のコスプレして中国の沿岸を荒らし回ってた海賊が日本で何を出来るんだよ
松浦党の客将か、日本では分別を弁えた大人しい商人がいい所。
395 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 08:59:12
そうかねえ。
平戸や五島が「中国人マフィア」の海賊集団の根拠地だったってことは、
松浦氏などの在地武士もマフィアの配下になって、従属してたってことだろ。
東シナ海の制海権や民間交易だって、この中国人マフィアが握ってたわけで、
カタギの日本の船だって略奪されたり、上納金取られてたんじゃないの?
日本人としては、素直に認めたくはないけどさ。
松浦隆信が王直を平戸に招いたの。
地元活性化のために大企業を誘致した様なものだよ。
見事に松浦氏は莫大な富と最新兵器たる鉄砲を手に入れた。
>>395 平戸を根拠地=平戸の諸勢力を従属にはならんだろ
特に平戸の領主の松浦党はあの頃は竜造寺氏か少弐氏の配下だから
>>396 大企業と言うか特別な仕事の出来る暴力団兼運送会社みたいなもんだと思うけど
博多や堺の豪商みたいに権威も武力もお互い信任出来る交易相手先も無い田舎の大名は
交易も中国南部での略奪も土地勘のある王直を雇い入れて命令するしか無かったんだと思う。
だいたい当時の倭寇に中国というものに対しての帰属意識なぞ在るはずもない
倭寇は倭寇でしょ
後期倭寇は中国人、朝鮮人主体だけどな〜
で?
朝鮮や明の湾岸を襲っていた真倭が1〜3割だった事がどうやって
>>395に繋がるの?
401 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 20:33:55
まて、倭寇って九州沿岸から直接中国沿岸地方に出撃していたの?
ということは、秀吉軍も技術的には中国沿岸に直接上陸できたってこと?
倭寇スレになってもうた
明側の認識としては「倭寇が親玉引き連れて襲って来やがった」というもんだったから江南の防備も固めてたんだろうし
倭寇の検証は結構重要だとおもうよ
404 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:36:30
チョッパリは死ね 以上
生きる!
過去は過去として現実見ないと何処かの国みたいになりますよ(´・ω・`)
勝手に妄想膨らませてる人が、倭寇は中国ギャングの物って言ってるだけじゃん
前期倭寇=ほとんど日本人
後期倭寇=だいたい中国人
朝鮮征伐の話から見事に話題をそらせたニダ
■■■日本軍と明軍の主要な戦闘■■■
1.文禄1(1592年)7月16日
祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲
→小西行長の配下一万によって撃退 日本軍勝利
※八月、乾福山にて小西行長(沈惟敬と)休戦協定、平壌にて正式な講和使を待つ
2.文禄2(1593年)1月6日
李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃
→正式な講和使を待っていた小西行長とその配下一万五千は寝耳に水。
明軍は平壌城を奪還
3.文禄2(1593年)1月26日
碧蹄館の戦い
李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。
体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍四万と激突
→日本軍の勝利 (李如松は戦意喪失し辞職願まで出している)
※3月頃より再度講和に向けての調整が始まり講和条件等が吟味される
4.文禄2(1593年)6月21日〜29日
第二次晋州城攻防戦
明将劉テイ指揮下四万(資料不正確にて議論保留)が普州城の救援に向かったとの報を受け、
立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃
→日本軍が撃退に成功
※嫌戦気分のまん延した明は講和に傾く。秀吉、部隊を段階的に帰還させる。
が、約束の講和条件が満たされていないことを知り再侵攻。
講和条件の齟齬の責任は仲介の朝鮮にあり(事実かどうかは別議として)とされ、朝鮮征伐の色合いの濃い派兵となる。
5.慶長2(1597年)6月19日〜7月16日
漆川梁海戦
→朝鮮水軍壊滅、日本軍勝利
6.慶長2年(1597年)8月12日〜15日
明・朝鮮連合軍が守る南原城を日本軍が襲撃
→陥落 日本軍勝利
7.慶長2(1597年)8月16日〜8月18日
明・朝鮮連合軍が守る黄石山城を日本軍が襲撃
→陥落 日本軍勝利
8.慶長2(1597年)9月7日
稷山の戦い
稷山で解生率いる明軍先遣隊明軍2千(援軍2千)と黒田長政率いる日本軍5千の部隊が遭遇戦
→一進一退の攻防の末、明軍は戦意を喪失。
日本側に援軍2万5千が現れたのを機に撤退 日本軍勝利
9.慶長2(1597年)12月22日〜慶長3(1598年)1月4日
蔚山城の戦い
楊鎬、麻貴率いる明軍四万四千と、朝鮮軍一万二千の連合軍が完成前の蔚山城を襲撃
→加藤清正を指揮官とする篭城側一万が防戦、
その後日本軍一万二千が駆けつけ連合軍を大破
日本軍は敗走する連合軍を30里に渡って激しく追撃し、壊滅的な打撃を与えた
日本軍勝利
412 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 21:20:42
413 :
日本@名無史さん:2010/11/26(金) 03:29:34
日本の一里が約4`で中国の一里は400bだっけか
>>410 4はなかったよ。それと5は明軍との戦闘ではないぞ
黄石山城を守っていたのは朝鮮軍のみで、
明軍はいなかったらしいぞ
テレビで中国人が「中華思想なんてモノ存在しない!日本人の学者が勝手に作った概念だ!」って怒ってた。
418 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 12:23:56
碧蹄館の戦い
明軍の兵力は4万もいないぞ。
せいぜい1万2千〜2万の間だ。
その理屈では日本軍も上限2万だが。
420 :
日本@名無史さん:2010/11/28(日) 23:28:32
碧蹄館はほぼ同数の兵力で日本の勝ち
平壌(明軍勝利)や南原城(日本軍勝利)は兵力差からすると、両軍とも順当勝ちってところか
421 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 00:59:05
>>420 後半になると
野戦でも籠城戦でも寡兵の倭兵相手にフルボッコになるけどね
422 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 01:11:19
つか、碧蹄館は集まった諸将にとって、初めての外国軍相手の大規模な戦いで、しかも騎馬軍相手だったんだよな?
未知の相手に勝てるなんて、日本側諸将の精鋭ぶりがわかる戦いだね
平壌から引いてきてた小西隊からある程度の情報は仕入れてたと思うよ
今までの弱い朝鮮兵とは質が違うってさ
それに連中は端から明軍を舐めてかかってた節が有るから
いっちょ暴れてやろうぐらいの感覚しか無かったと思う。
騎馬に乗っての突撃なんて応仁の乱で廃れた戦い方だから
平和ボケし古典的な戦いしか出来ない連中、恐れるに足らずと言った感じ
ニヤニヤ
|∀・).。oO( 想像だけで得々と語ってるな。
天下無双の武田騎馬軍団を鉄砲の3段打ちで全滅させた織豊軍団からしてみれば、
明の騎馬隊などおそるるに足らなかったということか。
426 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 16:45:09
≫419
ソースは?
>>426 その程度mo
判らない子はこなくていいからw
428 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 18:13:50
>>427 ふーん お前の脳内ソースなわけだ
そりゃ話をはぐらかすわけだ。
429 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 19:48:39
先鋒同士でやり合ったんだから総兵力よりは少なくて当然
>>428は基本数字さえ押さえていないのがバレバレだな。
そういえば碧蹄館と言えば、本隊からは宇喜多勢の戸川達安が
戦闘参加したという話もあるけど真偽のほどはどうなんだろ?
『日本戦史 朝鮮役』の補伝に載ってるけれど、出所が『戸川記』なので、
あるいはご先祖様顕彰目的での誇張という線もあるんでないかな〜と。
抜け駆けの状況説明はけっこー苦しい言い訳のような感じがする。
>>431 もしかしたらそうかもしれないね。
考えてみれば日本軍本隊の中から戦闘に参加したのって
宇喜多秀家の別働隊(戸川勢)だけなんだよな
戸川達安は何人くらいの兵力を率いてたんだろう
433 :
431:2010/11/29(月) 23:40:56
そうなんですよねぇ。
さらに加えれば、宇喜多は最後尾の第八陣なので、その前にいる奉行衆が持久策を唱えて
戦意が高くなかったとしても、さすがに総大将の手勢が脇をすり抜けていきゃ一悶着おこるんでは
なかろうかと。
といって、戦闘終盤間際に到着したであろう宇喜多勢が、日本軍が展開している丘陵地を
大迂回して前方に出ようとすれば、果たして戦闘に間に合ったのだろうかという疑問が。
>戸川達安は何人くらいの兵力を率いてたんだろう
戸川達安の兵数を直接人記してるものは見たことがないけど、達安の知行が25600石と
いうことなので、宇喜多秀家が57万4,000石で碧蹄館当時の人員が8000人ということなら
按分で直属357人、寄子がそれなりにいたとしてもせいぜいで1000人内外ってとこじゃ
ないかなぁ。
434 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 04:29:56
>>425 甲陽軍鑑にも騎馬隊なる物の存在は書かれてないしね
それを否定的に論ずる箇所はあれど
鎌倉、室町と存在した騎馬隊なる概念は戦国の世では時代遅れの戦い方となってた。
文禄の役は田舎大名達の限界だった日本には大陸程の焦土戦術って無かったから
当座の食料を確保して後は、現地で調達すればいいやって程度の認識。
当時、日本軍の侵攻してない平安道すら焦土戦略の影響で飢餓状態になってる。
慶長の役はその反省を踏まえて、補給線重視のジワジワ脇をしめて進軍する方法に転換
初撃で勢い余ってまたソウルを近辺まで侵攻しちゃうけど、当初の予定通り放棄してる。
436 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 13:15:03
≫435
慶長の役の目的は朝鮮半島の南部4道を占領することだろ?
ソウル近辺まで侵攻したってことは南部4道を征服したんじゃないのか?
だったらそれらを占領統治すればいいだけじゃないか
わざわざ放棄して沿岸部に撤退する理由がない。
侵攻と征服は別だろ
438 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 22:50:12
439 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 23:04:19
≫437
≫補給線重視のジワジワ脇をしめて進軍する方法に転換≪
したんじゃないのか?
>>436 >だったらそれらを占領統治すればいいだけじゃないか
>わざわざ放棄して沿岸部に撤退する理由がない。
これこそ文禄の役の反省が生きてる。
慶長の役もあの勢いだったらまた、平壌まで占領出来そうな感じだったけど
補給線最重視で南部地域に恒久支配の城を築いて、そこを拠点にして
出城を築城しつつ徐々に北上する戦略。
で、大攻勢の前に四国中国勢を帰国させて鋭気を養わせてる間に
明朝鮮連合軍の大攻勢があったけど、九州勢のみしか居ない各戦場で
少数の日本軍相手に明朝鮮連合軍は全ての場所で敗北してしまう
>>439 は?冬の到来を前に補給線が延びきらないよう、一旦沿岸に撤収したんだろう
あのまま勢いに任せて深入りしすぎちゃったら文禄の役の二の舞だろうが
なんでこんな初歩的なことまで俺が説明しなきゃならないんだ?
人に聞く前にちっとは勉強しろ、アホ
北条攻めと同じ形。支城を無視して一気に小田原を包囲するのも可能だったけど
態々支城をシラミ潰しor包囲して後顧の憂いを無くしつつ小田原包囲網をひいてる
その規模もスケールも文禄、慶長の役を軽く上回る総兵力22万の大規模かつ
連日金ばら撒きの豪奢な宴会付きの大判振る舞いだけど
443 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 23:45:45
>>441 は?お前ばかか
>補給線重視のジワジワ脇をしめて進軍する方法に転換
したんだろ
>冬の到来を前に補給線が延びきらないよう、一旦沿岸に撤収したんだろう
って、毎年、冬がくるたびに沿岸に撤収するのかよ
444 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 12:08:54
まじで
>>441は馬鹿だな。
春が来ても夏が来ても海岸で引きこもってブルブルしてたというのに。
初歩的な歴史くらい勉強しろどアホ。
>>443 だって、朝鮮は大軍を維持できるだけの余剰食糧を生産できないじゃん?
明軍だって日本軍だって、持ち込んだ食糧のある短期間(三ヶ月ぐらい)が現実的な進退の作戦可能期間。
朝鮮軍に至っては大軍の形成自体に失敗している。
>>444 1598年も日本軍は奥地まで侵攻作戦を行っていたわけだが?歴史を知らんのか?
448 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 13:05:07
>>445 お前、見苦しすぎ!
李氏朝鮮の人口は500万以上
南部4道だけでも300万位は生活してる。
たかが15万程度の軍勢の食糧くらい調達可能だ。
だいたい、秀吉は慶長の役を開始しる際、全羅道
の皆殺しを命令しているくらいだから現地人を
慰撫する気なんてないだろ。
>>448 戦争後半の朝鮮軍の規模を考えて見りゃわかるだろ?
同時動員で一万行くか行かないか。一正面で数千が最大。
>>448 >秀吉は慶長の役を開始しる際、全羅道
>の皆殺しを命令している
へ?してないよ、そんな命令。
451 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 16:59:51
>>446 侵攻作戦?
100やそこらでこそこそ略奪に出かけるのが侵攻作戦なのか?w
なんてイタいやつだw
>>444 このスレで日本軍による沿岸部の拠点確保の優先についてはさんざん既出
慶長四年以降の大規模攻勢の予定についてもさんざん既出なわけだが
過去レスも読まないのか、字を読むこと自体できないのか
それともアレか、お前は拠点と補給線の確保もしないうちに
ただ、勢いに任せて奥地までバンザイ突撃するべきだったと言いたいのか?
まあ、お前みたいなド低能が指揮官だったら日本軍は全滅だったろうなw
453 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:50:44
拠点確保したとして、次段階の作戦はどうするの?
朝鮮が荒野で、大規模な現地調達が不可能なのは変わらんでしょ?
息をするように嘘をつくミンジョクが紛れ込んでいるwww
>>453 朝鮮軍は形成にすら失敗しているし、明軍も同様だから安心しろ。
戦力の維持・増強なら日本から補給のある日本軍が一番まし。
456 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 21:16:22
>>452 すげえ馬鹿。
沿岸部の確保など文禄の役のころからできているわけだが。
沿岸部の補給も問題なかったわけだが。
問題なく確保できてるとこに城つくって一年無駄飯食って一体なにがしたいの?
相手が降伏してくれるように神頼みでもしてたのか?
457 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 21:45:30
>>456 明、朝鮮軍を誘引したかったんじゃないの?
実際、三路に分かれて攻撃してきたのをいずれも大破できてるし。
沿岸部すら補給困難だったのね
さすが李舜臣将軍様
>>456 最終的には三十万近い大軍を送り込む予定だったんだから
膨大な量の兵糧弾薬、兵員を出入りさせるため城塞がより多く必要になるのは当たり前
名護屋城に徳川や前田ら東国勢が陣を構えて待機してたの知ってるか?知らねえだろうなあw
はて?
東国勢とやらは壬申倭乱のころから名護屋でたむろしてたはずだが・・・。
ただいるだけだったけどw
一体いつになったら出陣したんだろうねw
文禄の役では当初の計画(朝鮮人を統治して年貢を納めさせる)が破綻しちゃったんだから
慢性的な兵糧不足に悩まされていて大軍を送り込むどころじゃなかっただろ
だから慶長の役では半島沿岸部を力技で確保して
大量の兵糧を日本から運び込まなければならなかった
まあ、慶長四年以降に大軍勢を送り込んだとしても
戦況はますます泥沼化してろくなことにはならなかっただろうけどね
そういう意味では秀吉の死は幸運だったな
というか「壬申倭乱」なんて
間抜けな単語使ってる時点でなあw
やっぱり朝鮮人かw
464 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 22:50:06
>>452 お前馬鹿だろ!
慶長2年6月から始まった大規模上陸以降
9月までに目的の南部4道は一応占領して
いる。
それをわざわざ放棄して沿岸部に撤退してるんだ。
明・朝鮮軍の本格的な反抗を恐れて逃れたと考える
のが一番自然だ。
>慶長四年以降の大規模攻勢の予定
についても慶長二年の時点で主張していない時点で
どの程度計画されたものだか。
>>464 日本軍の行動を見てみると、
まず朝鮮水軍を殲滅、上陸して東西の要衝である南原・黄石山の両城を攻略
ついで稷山において南下する明軍を撃破、全州の明軍は逃亡、日本軍が無血入城
明・朝鮮軍は恐慌状態に陥り、慌てて防衛線を漢江まで後退させた
(賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。 安危、成敗, 決於江上,
而但令 崔遠 守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。・・・宣祖実録)
これで当面の脅威となる抵抗勢力はひとまず瓦解させたので
日本軍は反転して拠点の確保に集中。
別に何の不思議も無い、かなり自然な流れだと思うが
逆にこんな連戦連勝の勝ち戦の状況で
「明・朝鮮軍の本格的な反抗を恐れて逃れた」
なんて考えちゃう思考回路が不思議w
467 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 23:24:34
>>465 >>466 >これで当面の脅威となる抵抗勢力はひとまず瓦解させたので
蔚山倭城を明・朝鮮軍5万以上に攻められてるじゃん
とりあえず三ヶ月以上の間は何の妨害も受けず築城に精を出せたじゃん
しかも逆に明の大軍撃滅してるし
469 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 23:47:37
>とりあえず三ヶ月以上の間は何の妨害も受けず築城に精を出せたじゃん
って沿岸部の城だろ
470 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 23:50:55
日本軍が大敗させられてないのに、「恐れて逃げた」だの「沿岸に籠っていたから劣勢」だのいう人って何?
常に前進して、占領し続けないと負けてる気持ちになる人なの?
471 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 00:00:58
>沿岸部の城だろ
過去レスを百回読み直せ
472 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 00:21:03
>日本軍が大敗させられてないのに
じゃあなんで占領地を放棄して沿岸部に撤退したんだ。
≫471
ほー、慶長二年中に内陸部に倭城を築城してたのか?
だったら具体的に提示しろ
>じゃあなんで占領地を放棄して沿岸部に撤退したんだ。
いや、既出というか、ちょっと前のレスに理由が書いてあるだろ
というか実際、日本軍が大敗させられた戦闘なんてあの期間中にはないぞ
>ほー、慶長二年中に内陸部に倭城を築城してたのか?
>だったら具体的に提示しろ
誰が「慶長二年中に内陸部に倭城を築城してた」なんて言ったんだ?
教えてくれよ。見えないものが見えてるのか?
大体沿岸部の拠点を強化していくのに内陸部に城を築城って馬鹿じゃねえの
マジで頭は大丈夫か?ちょっと心配になってきたぞ
474 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 00:42:17
>とりあえず三ヶ月以上の間は何の妨害も受けず築城に精を出せたじゃん
>>って沿岸部の城だろ
>過去レスを百回読み直せ
>>ほー、慶長二年中に内陸部に倭城を築城してたのか?
>教えてくれよ。見えないものが見えてるのか?
475 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 00:49:04
>沿岸部の確保など文禄の役のころからできているわけだが。
>沿岸部の補給も問題なかったわけだが。
>問題なく確保できてるとこに城つくって一年無駄飯食って一体なにがしたいの?
>相手が降伏してくれるように神頼みでもしてたのか?
476 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 00:51:14
大敗させられていない=進退自由、つまり、その後の行動が撤退だろうが占領だろうが追撃だろうが、日本軍は選択の自由があるってこと。
すなわち、どの行動を選択しても、それは日本軍の計画通りだったってこと。
言い換えれば日本軍の予定されていた戦略の内だったってことだ。
↑
ほんと馬鹿だな。倭軍に選択の自由などないよ。
壬申倭乱でも補給路ズタボロにされた挙句前線部隊は孤立を恐れて
半島南端まで逃亡しただろ。
丁酉倭乱もそれと同じ轍を踏むのが明白だったから速攻で半島南端まで
逃亡して引きこもってたんだよ。
一体これのどこに選択の自由があるんだよw
ああ、全滅か引きこもりかの選択の自由はあるのかw
本来他王朝の征服なんて数十年〜百年近くかかるのが普通だから
征服計画の最初期でしかなかったはずの文禄慶長をもって
単純に勝ったの負けたのと言うのはどうなんだろうねと俺などは思うのだが。
479 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:21:44
征服期間なんてピンキリだし、なにをもって文禄慶長が最初期だったとするのか全くわけわからんね。
少なくとも日本が完全に敗北し、以後手も足も出なくなったことは歴史が証明しているわけだが。
480 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:51:03
韓国併合
481 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 11:51:20
>>476 お前さー、見苦しいぞー
いい加減間違えを認めろ!
戦争は勝っても負けても多くの
将兵が血を流すんだ。
わざわざ味方の血を流して手に入れた
征服地をゲームじゃあるまいし
>その後の行動が撤退だろうが占領だろうが追撃だろうが、
>日本軍は選択の自由があるってこと。
って馬鹿すぎるだろ。
そこまで強弁するんだったらソースをだせよ。
ここはいちおう学問板なんだ。
お前の妄想なんかに付き合っちゃいられない。
朝鮮兵は弱かったんでないの?
明の炸裂弾に武士は悩まされたと聞く。
へえ、敵軍を撃滅しておいて引き揚げることを朝鮮では「逃亡」っていうのかw
どちらかというと、逃亡したのはビビって漢江まで防衛線を後退させた明・朝鮮軍の方なんじゃないの?
朝鮮王朝は日本軍の反転を「罠ではないか」と疑い恐れてさえいたようだがw
(今無故忽爲退遁。 萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術,・・・宣祖実録)
それから
×倭軍 ○日本軍
×壬申倭乱 ○文禄の役
×丁酉倭乱 ○慶長の役
学問板なんだから正しい用語を使えw
少なくとも”壬申倭乱”とか言っている奴はニセモノ朝鮮人の煽り屋であるわけで。
そうじゃなけりゃ只の無学者。
485 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 23:38:56
>>448 >秀吉は慶長の役を開始しる際、全羅道
>の皆殺しを命令している
真剣に、何処でこんな情報を仕入れたか知りたい
ひょっとして韓国じゃ事実になってるの?
朝鮮で兵糧の調達が難しいのは文禄の役で痛い程身に染みてるから
南4道に300万人居ようが、食糧の供給地としては期待してないと思う
焦土戦術で日本軍の侵攻してない土地ですら飢餓状態になったって話なんだから
慶長の役じゃ最初から国内の備蓄米で対応沿岸に支城を築き内陸にジワジワと
出城を築きつつ、数年かけて4道を奪う焦土戦術を取られた時の日本軍の支配限界地域は
4道までだと戦目付の情報を聞いて秀吉が判断したんだと思う。
その後、南4道を本格的に内政を行い、治安の安定や有る程度の調達が可能になった段階で
北に進軍しようかってぐらいでさ。
幾ら中華最強の精鋭と言えども、侍の相手じゃない事は文禄の役でも
後の慶長の役でも証明されてることだから、戦自体は心配はしてない。
後は心配は兵站だけ。
>>485 >>448は無学だが、秀吉は慶長の役に際して全羅道の一揆ばら撫で斬りという命は出してるよ。
ま、現地の将はそんなことには従っとらんが。
487 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 23:53:46
だから文禄ではやらなかった鼻取りやってんだけどね
>>435 平安道で清野策を採ったというのは聞いたことがないが。
ってか清野策は慶長の役でしょ。
文禄の役での平安道の荒廃は、単に朝鮮政府の苛斂誅求と
明軍の略奪によるものだと思われ。
>>487 役後も切り取られて鼻のない人間が多く見られたという史料を引き合いに、
いかにも鼻切りは日本軍の残虐行為みたいに語られてる場合が多いけど、
むしろ鼻だけ取って命までは取らなかったと考えるべきなんじゃね? と
思うのであった。(・∀・)
490 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 04:29:55
まあ何言おうが負けてるんだから、負け惜しみにしか聞こえない
日本は戦争弱い(笑)
侍の頭はみっともないし、日本軍の兵器ってダサいよね
倭軍敗走(プ
構ってチャンか。友達いないんだろうなぁ。
493 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 08:49:43
友達いるやつが2ちゃんなんかやってるわけないだろw
チョッパリ
495 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 08:50:44
知ってるか?秀吉の護衛に巨漢朝鮮人が付いていたんだぜ。
ソースはGOEMON
497 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 22:50:43
>>476 >その後の行動が撤退だろうが占領だろうが追撃だろうが、
>日本軍は選択の自由があるってこと
>すなわち、どの行動を選択しても、それは日本軍の計画通りだったってこと。
>言い換えれば日本軍の予定されていた戦略の内だったってことだ。
そろそろこの件について裏付けとなる資料を出せ!!
暇な釣り師だな
499 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 05:11:35
秀吉の唐入りは本人が死んで中止になったが、代わりに満州族が唐入りして清朝を作ったな。
トンビに油揚げを盗られたようなものだったな。日本が満州へ接近したので満州族がトコロテン式にシナへ押し出されたようにも見える。
500 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 08:18:53
500get!
501 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 14:27:53
満州族は朝鮮役当時、日本のことどう思ってたんだろうね。
それこそ、交渉次第では仮道してくれ(先鋒になってくれ)たんだろうか
502 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 14:43:41
実際
ヌルハチが明軍に参戦打診したって聞いたことあるな
503 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 15:09:16
ぬるはちが参戦してたらニッポンは今頃中国領
ヌルハチにそこまでの力はねえよ
疑心暗鬼で明が史実より消極的になりそうだ
山がちな朝鮮で満州兵が大局を左右できるとは思えんし
Yahoo!掲示板の豊臣秀吉と徳川家康というトピックをみるべし。色々おもいろいぞ。
507 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 03:28:04
倭軍とか言う奴は朝鮮学校で嘘の歴史を教えられたんだろうな
508 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 09:40:24
小早川隆景より「その兵三千は他の兵一万に匹敵する」とまでいわれた
立花家の家臣天野源右衛門覚書による碧蹄館の戦いについての記述でも
立花家の諸将が明軍について「馬の大きさはけしからず候、男もけしから
す大きく候」とその見かけの立派さに驚いているし、戦闘力についても
「武辺強き唐人かな」と皆感嘆したとの記載がある。
>>508 だから何?
立花勢が精鋭って言うなら
相手になった明軍の方も精鋭無比の李家軍、遼東鉄騎だぞ
まあ、結局立花勢に負けちゃったけどね
>>416 中華思想、華夷序列を強調し
日本は中国の属国なんだって主張する本が
最近発売される日本史の本に多くなってるよね
文禄・慶長の役で西国大名は疲弊し豊臣政権は弱体化し、徳川家が台頭した。結果、江戸幕府へと繋がった。
と書いてる教科書や本があるけど、具体的に文禄・慶長の役で豊臣政権の「何が」弱体化して
徳川家が文禄・慶長の役のおかげで「どう」台頭したんだ?まったく説得力のある説明を聞いたことがない。
関ヶ原で活躍したのは西国大名だし、関ヶ原で徳川主力は全然活躍できてなかった。
文禄・慶長の役で豊臣家の財政が苦しくなったようにも見えない。文禄・慶長の役の影響を過大評価しすぎじゃないか?
文禄・慶長の役で
加藤清正、福島正則、黒田長政ら武断派と
石田三成、小西行長、大谷吉継ら文治派の対立が
取り返しの付かないほど深刻化してしまった
その対立をうまく利用し家康が台頭していく
って感じかな
513 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 23:48:37
家康が豊臣政権の筆頭として、朝鮮役の論行功賞を積極的に推進したからじゃないの?
徳川の子孫が朝鮮出兵で国が疲弊したから鎖国したって言ってたぞ
徳川の子孫は別に歴史学者じゃないからな
516 :
日本@名無史さん:2010/12/11(土) 11:34:22
>>508 ボロ勝ちしてもなお相手を褒める侍と
ボロ負けしておきながら相手を弱い弱いと罵る大陸人
>>509 現実には文禄慶長と参戦した明の諸将は中華オールスターに近いからね
万暦の三征、サルフの戦いと四川の奥地から、西域の果て、
女真族の領内と文禄、慶長で明軍を率いた彼等は他の地でも明軍の主力として活躍してる。
それでも朝鮮の各所で日本軍に負け続けになってる訳だけど
逆にあれだけ負け続けて置きながら
>>508みたいなお世辞を本気に出来る心の強さが羨ましいわ
殺される可能性が極めて低い弱卒の朝鮮兵と比べたら、武辺強き唐人は恐ろしいって意味でしょ
>>511 財政に全く影響が無かったとは思わないけど関ヶ原って最前線は武断派と文治派の争いなんだよね。
朝鮮の役が豊臣家に最も悪い影響を及ぼしたのは財政問題よりも武断派と文治派の確執だなよ
文禄、慶長と大軍で参戦して宇喜多騒動で家臣団が分裂してなお
関ヶ原で活躍をした宇喜多家なんてのもあるし。
当時、文禄には参戦したけど、慶長時には尾張清州の大名で不参戦だった
福島正則なんて宇喜多勢に壊滅寸前まで追い込まれてるし
518 :
日本@名無史さん:2010/12/11(土) 13:12:35
>>511 >文禄・慶長の役で西国大名は疲弊し豊臣政権は弱体化し、徳川家が台頭した。結果、江戸幕府へと繋がった。
反省史観による捏造
この戦争を反省の材料にするためには、色々悪影響があったことにしたいんだろ。
豊臣政権が秀吉死後も莫大な資金を蓄えていてことは確か。
家康が秀頼に方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建をさせたりして出費させようとしたのは有名な話。
それでも大坂の役で豊臣家は資金力にものをいわせて10万の浪人を雇い入れることもができた。
519 :
日本@名無史さん:2010/12/11(土) 13:19:48
反省史観を打倒せよ
520 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 01:29:22
今度はおまえらの鼻そいでやるから覚悟しておけ
521 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 05:37:14
朝鮮征伐って言葉だと、朝鮮側に何か落ち度があったように聞こえるな
522 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 07:58:38
だからいまは壬申丁酉倭乱というのが一般的になっているわけだが
なってない、なってない。乱じゃなくて役だし。
>>521 安心しろ、韓国の教科書だと元寇は「元の日本征伐」になってるから。
秀吉軍の最大の敵は冬の寒さ、朝鮮北部の気温は北海道なみ、これでみんな
やられてしまった。
ナポレオンのロシア遠征とよく似ている。
526 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 17:25:47
>>524 元冦は日本側にも使者を切るなど落ち度があったろ。
朝鮮側にそれと同等のことはあったか?
>>526 現状を認識出来ていない秀吉はともかく、宗氏はじめ外交にあたった担当者は「明に使節を送るための道を貸してくれるだけでいい」
と現実的な交渉を行ったが、朝鮮は「隣国に過ぎない日本の都合を、君である明より優先することはできない」と儒教論理を振りかざして
相手にせず。なんとか秀吉を誤魔化そうとしていた外交担当者の努力は水の泡になり、朝鮮征伐が始まった。
使者を切ったのは弘安の役の前であって、文永の役の時は国交を拒絶しただけ。それが開戦に価する「落ち度」だっていうなら、
朝鮮征伐前の朝鮮の態度だって十分開戦に価する落ち度だろ。ダブルスタンダードはやめろ。
つか、「征伐」ってのは攻め込む方の認識で決めるものなのさ。日本から見れば太閤の権威を認めない愚かで失礼な朝鮮を征伐して
あげよう、元から見ればおろかな島国を征伐して身の程を知らしめてやろう、朝鮮から見れば倭寇の根拠地の対馬を征伐してやろう。
やられる方に落ち度があるかどうかなんて関係ないのさ、本来。やる側が当時どう考えていたか、だけ。
で、教科書を書くものが「やる側」か「やられる側」のどちらに属しているかで決めればいい。
日本の教科書に「朝鮮王は倭寇を懲らしめるために対馬を征伐しました」なんて書かないだろ?
「倭寇を口実に対馬を侵略してきた朝鮮軍は、卑怯卑劣な不意打ちで無辜の民衆を傷つけましたが、対馬軍の反撃に合いもろくも
潰走しました」ってぐらいだろ、書くとしても。
528 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 21:40:57
>>517 >逆にあれだけ負け続けて置きながら
>>508みたいなお世辞を本気に出来る心の
>強さが羨ましいわ 殺される可能性が極めて低い弱卒の朝鮮兵と比べたら、
>武辺強き唐人は恐ろしいって意味でしょ
現に「碧蹄館の戦い」直前には主戦論を主張していた小早川隆景も
「碧蹄館の戦い」直後には「勲功第一」の立花宗茂が追撃を主張した
のにその意見を抑えて漢陽籠城を唱え全軍撤退してるだから実際に
「武辺強き唐人」だったんだろう。
>>528 お前何言ってんだ?小早川隆景がいつ「漢陽籠城」なんて唱えた?
目標通り明軍を撃破敗走させてるのに「籠城」する必要なんてないだろ
530 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 22:44:06
ろくな軍備もない朝鮮に自分の力を過信した日本に勝算はなかったが秀吉が死んだので帰国した。
その後、二百数十年鎖国したのである。
531 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:04:02
>>529 もういいよ、お前の妄想なんて!
明国征服を目指して始めた戦争なんだぞ!
当面の明軍を撃破したからって安心して
漢陽に戻って来たっていうのかよ!
その上、それから2ヶ月半後にはその漢陽からも
撤退してる。
>>531 はあ?妄想はお前だろ。
小早川隆景が「漢陽籠城」を唱えたっていうソースは?どの文献に書いてあるの?
あと碧蹄館の戦いにおける日明両軍の戦略目標を勉強し直してこい
明を征服できなかったから明軍より弱いよねなんてのは小学生のガキ以下の理屈だぞ
533 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 23:26:59
>>532 もういいよ、お前の妄想は!
>あと碧蹄館の戦いにおける日明両軍の戦略目標を勉強し直してこい
当面の目標は明・朝鮮軍を倒して、平壌を奪還することだろ。
碧蹄館の戦いなんて所詮は平壌奪還の為の局地戦に過ぎない。
>>533 またもや新説が飛び出したな
そうか、碧蹄館の戦いにおける戦略目標は平壌の奪還だったのかあ(棒)w
535 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 00:42:11
≫534
おいおい、話をすり返るな。
碧蹄館の戦いなんて目的のための手段だろ!
だったら漢陽に戻った後、小早川隆景はどうするつもりだったんだ。
明軍に明け渡す為に2ヶ月半かけて準備でもしてたのか?
>>528←この馬鹿が天野源右衛門覚書をテメーの愚かな妄想で
>>508みたいなお世辞を本気に出来る心の強さが羨ましいわ <<
天野源右衛門が誰を相手にお世辞をいったんだよ!(笑)
>>528←こんなマヌケな書き込みをするこの馬鹿ついて反論しただけ
なんだが。
>>527 >日本の教科書に「朝鮮王は倭寇を懲らしめるために対馬を征伐しました」なんて書かないだろ?
んー、揚げ足を取る訳じゃないが、自虐史観的流れからは実際そう書きそうで怖いな。
今の教科書は、朝鮮絡みの記述は漢字表記にかなではなくいちいち朝鮮語読みのルビを
振ってみたりと酷いモンらしいから。(ex. ”百済”は”くだら”ではなく”ペクチェ”)
537 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 01:51:47
韓国に配慮しすぎな歴史教科書には抗議しないといけませんね
538 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 03:47:53
武士はほんとに弱いよね(笑)
>>526 この馬鹿何言ってんだ?使者が切られるのは文永の役後だぞ?
さんざん対馬や壱岐で日本人虐殺しておいて、偵察目的も兼ねた
使者を切る事の日本のどこに落ち度があるんだよ。
540 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 14:39:52
↑
人殺しを肯定する野蛮な倭人w
>>535 へえ、「目的のための手段」ねえw
いいかい、碧蹄館の戦いの時、日本軍の「目的」は「とにかく明軍の勢いを止める」こと
「襲来する明軍の総勢三十万」なんていう風説が流れてて
漢城に集まった日本軍諸将の間で一時は漢城放棄論まで検討されてる
大体、あの時点で朝鮮の統治に失敗して兵糧もまともに調達できない、補給線は延びきり
極寒の冬が来て飢えと寒さと疫病によってどんどん兵士が死んでいく
当初の予定は破綻、戦略としては完全に詰んでた
そういう状況だから、日本軍には「平壌を奪還する」なんて野心は残ってない
542 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 07:46:21
何だかんだ言って
李氏朝鮮の暗黒政治は続くんだよな
その間に恨の文化が培養されたのかなと
543 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 09:13:08
>>541 碧蹄館の戦いの時における日本側の逃げ腰については
お前の言うとおり、当時の日本側の絶望的な状況が関係
しているかもしれないけど慶長の役ではどうだ。
戦略目標である南部4道のほとんどを占領したのに明軍の本格的な
反攻を前に占領地のほとんどを放棄して撤退してる。
冬の到来を前にソウル進攻を諦めるのはわかるけど、わざわざ手に入れ
た戦略目標南部4道さえも放棄して沿岸部の倭城に立て籠もるのは明ら
かに明軍を恐れていたからじゃないのか?
これらを総合するとやっぱり日本側は「武辺強き唐人」を恐れていたん
だろう。
>>543 こいつ笑えるな。碧蹄館の戦いは平壌奪回が目的だったと妄想書いて論破されりゃあ
話を慶長の役に摩り替えてやんの。
その強い強い明軍は日本軍が沿岸部に引き上げるのを黙って見ていたわけね。
どっちが恐れてんだか。なんで追撃しなかったんだ?
それと秀吉は慶長の役勃発前の慶長二年二月二十一日に
一 赤国不残、悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成ふと可相動事
一 右動相済上を以、仕置之城々所柄之儀、各見及多分ニ付而城主を定、則普請等之儀、
為帰朝之衆令割符、丈夫ニ可申付事
と全羅道と忠清道での作戦が済めば日本式城郭の普請し在番を除いて帰朝させると
戦略目標を定めている。実際に慶長の役の日本軍の動きはそれとは異同しない。
全羅道と忠清道が済むと沿岸部に築いていた防御網を普請し、さらに強固にした上で
7万の将兵が撤退してるな。どうして明軍を恐れて云々なんて馬鹿な発想が出てくるんだか。
545 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 11:37:29
>>544 >一 右動相済上を以、仕置之城々所柄之儀、各見及多分ニ付而城主を定、則普請等之儀、
為帰朝之衆令割符、丈夫ニ可申付事
仕置之城っていうのは占領統治のための城だろ。
だったらすでに所有している沿岸部の城のことじゃなく新たに占領する
南部4道の城のことだろ。
>>545 まーたまた「仕置之城とは内陸の平城のことだ!沿岸の山城ではない!」(笑)
なんてわけのわからないことを言い出すつもりか?本当に学ばない奴だな。鳥頭か?w
547 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 16:57:09
>>546 お前さー、負けず嫌いなのはわかるけど
いつまでもテメーの願望を書いてんじゃねー
みっともない!
いくら秀吉がボケたとはいえ、文禄元年(1592年)には
占領済みの南朝鮮沿岸部に慶長2年(1597年)の再侵攻に
際して仕置き(統治)の城の築城命令を出すかよ。
事実ほとんどの城が慶長の役の前に作られている。
http://www.castle7.org/wajou1.htm
548 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 19:23:57
なんで昔の戦争の事で朝鮮人にねちねち責められなきゃ
いけないんだ?
本当に朝鮮人て気色悪い連中だな
>>547 いや、新たに8城も築かれてるじゃんw
普通に考えればこの8城が秀吉の命じた「仕置之城」ってことになるよな
逆に、お前の言う「仕置之城は内陸の平城」なんて珍説の方がただの願望だろ。
なんの根拠もないんだからw
あと「秀吉はまだらボケ」なんてのもただの願望だな、こっちも根拠ないしw
妄言おつかれです
お前ら日本猿は頭も悪くて、体も惰弱のクズしかいねえんだから。こんな無謀な戦争負けて当然
次はお前らの鼻と耳が無くなるから覚悟しておけ
551 :
日本@名無史さん:2010/12/15(水) 07:29:50
>>544 そうなんだよね沿岸に完成された倭城に籠ってれば
九州勢だけで朝鮮、明程度の大軍は防げるって自信が有ったんだと思う
そりゃ態々、築城するぐらいだから
「(中国沿岸や朝鮮よりも)武辺強き唐人」なんだろうけどさ
第一回目の蔚山倭城の籠城戦も、もし相手が名将と言わないまでも並みの戦国大名なら
攻略されて加藤清正以下捕縛されてる可能性が高い
それ以前に並みの戦国大名が相手なら守備側も普請中の城なんて放棄して撤退してただろう
弱い朝鮮、明の連中なら兵糧もない普請中の城でも防げるって奢りがあの籠城戦に繋がったんだと思う
>>550 その頭の悪い惰弱な猿にボコられた朝鮮人ってなんなの?猿以下?
論破されりゃあ捨て台詞を吐いて逃亡、ご立派ですなあw
>>551 蔚山城を攻めた麻貴って結構有名な人らしいよ。李成梁と並び称された軍務提督だったとか
サルフの戦いでも明軍の総司令官を務めてるし
フロイスの「日本史」とか読む限り、日本軍も明軍については手強い大敵だと思っていた印象がある
めちゃくちゃ弱い朝鮮軍を撃滅してきて油断していたところで
いきなりアジアの超大国の精鋭軍団を相手にしたわけだから驚くのも無理はないな
まあ長袖の国と侮っていて完敗してんだもんな
完敗って第二次平壌城の戦いのことか?
フロイスの「日本史」では第一次平壌城の戦いのあと日本軍は明軍への認識を改めたとある
このとき日本軍に撃退された祖承訓は対北虜戦に活躍した武将で
「三千の兵で十万の女真を破った」と豪語していた
その軍勢は朝鮮軍など比較にならないほど精強だった
第二次の方は明軍側がを五十日間の停戦協定を破っていきなり攻めてきたから大敗したのであって
別に明軍を侮っていたからじゃないだろ
556 :
日本@名無史さん:2010/12/16(木) 04:24:23
>>555 >第一次平壌城の戦い
これからして日本軍は相手を舐め切った戦い方してなかったっけ?
手間暇かかる籠城をするでもなく、城門を広げて
そこで城内に雪崩込んできた騎馬隊を城内で殲滅させてたって話だったような
守備側が常識外れの力技もいい所。
守ってたのは小西隊だし松浦氏とか五島氏とかが居たから
「あの弱い明兵だったら余裕っすよw」って話になって
実際に戦ったけど予想外に強くて相手を殲滅させたけど「武辺強き唐人」って話になる
557 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:12:32
秀吉公が長生きして政権が安定してたら
300年早く朝鮮傀儡化、満州傀儡化してただろうな。
それに付随してシナ沿岸部は西洋列強が支配する前に
日本が磐石の支配下してたな。
そうなったら明とヌルハチの同盟あるで
同盟するには明と女真族の問題を解決しないと
560 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 19:59:38
朝鮮人殲滅の役
>>556 フロイスによればそのとき
明軍が城内に侵入するのを日本軍は気づいてなかったとのこと
本当はどうなのか知らないけど
小回りの利かない騎兵が狭い城内に突入して、
しかも雨で地面はぬかるんでいたというから
結局あれがベストな戦い方だったのではと思う
>>561 守れば勝ちの籠城戦なんだから
普通に城門を閉めて城内から正射が
正しい籠城法だと思うよ
563 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 01:47:19
>>562 なんで?
相手が弱いなら、機動力を封じられる城内で、速戦即決できるでしょ
フロイスに資料価値はないよ
実際、こいつ朝鮮に行ってないしな
565 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 05:40:04
【中国】「コストを抑えるため、髪の毛から醤油を製造」「汚い水入れて醤油作る」…暴露で波紋
労働者によれば、「以前働いていた河北省のある工場では、カラメル色の水に塩やアミノ酸、
汚い水を入れて醤油を作っていた。アミノ酸を生産する場所には髪の毛や動物の毛がたくさん
保管されており、恐ろしくて気持ちが悪かった」と述べた。
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1292849015/l50 知らないうちに、こうした食品が日本にも輸入されているんじゃないかと思うと・・・
他の食品に加工されていたら、わからないからね。
アレルギーの人が増えた原因も、こうしたところにあるのかも?
566 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 06:38:48
>>553 麻貴ってイスラム教徒の回族出身でボハイの乱でも総大将で
援軍に来た李如松と共に蒙古軍と将軍ボハイを討伐してるし
慶長の役の後には遼東総兵も勤めてるし当時の明の中じゃ指折りの名将だったと思う
>>563 だから相手を舐め切ってたんだよ持久戦なんてする必要もないってさ
相手が弱卒だろうが騎馬兵だろうがなんだろうが、籠城の利を生かさない時点でさ
万里を超えて女真族を組敷いてた明精鋭部隊の副総兵の猛将祖承訓も
南方の族程度に日本軍を舐め切ってただろうし、だから開けっ放しの城門に向かって突撃した。
相手を強さを見誤り舐めた同士が、お互い舐めた戦術を取り
ぶつかり合って数に勝る日本側が圧勝したってお話。
この戦の結果、両軍ともに認識を改める訳だけど
>>566 朝鮮の城は日本の城と違って邑城で、しかも祖承訓来襲時は小西勢他の主力部隊は留守で
守備兵力は数百程度の寡兵であって、当然城壁全周を守りきれるわけがないという状況だが。
前提となる基礎的知識に欠けてるだろ。
そりゃ朝鮮の城は全て城郭都市だろうけど
実際に小西勢が数百程度ってのは知らなかったよ
よく明兵三千と朝鮮兵二千を数百の寡兵で潰走させる事が出来たと感心する
平壌の守兵に数百しか割かないって状況も
やっぱり、相手を舐め切ってると言う結論は変わらんと思うけど
李炯錫という韓国人が書いた「壬申戦乱史」上・中・下巻を図書館で借りたんだが凄い内容だな。
数十人同士の小競り合いに至るまで「朝鮮軍が勝利した戦闘」として一々載せてあるし
負け戦にしても朝鮮軍側の奮戦、日本軍側の被害(誇張表現が甚だ多い)ばかりが
しつこく強調されていて、あたかも朝鮮軍が勝利した戦闘であるかのような錯覚を覚えてしまう
で、戦闘描写になると朝鮮の将兵がたちまちサイヤ人並みの大活躍をおっぱじめる
単騎敵陣に斬り込んで瞬く間に十数の首級を上げたり(武将クラスは一人で日本兵十人以上ぶっ殺すのが普通)
弓を取るや否や一瞬で十人の日本兵を射殺したり、一人で数十人の日本兵を谷底へ蹴落としたり
敵兵の首根っこを掴んで風車のようにぶんぶん振り回した挙句、遠くへ放り投げて別の敵兵にぶつけたり
思ったんだが、向こうの記録ってこんなんばっかりなんだろうか?
それともこういう描写は全部李炯錫の創作?
>>568 あの時点での明の奇襲は想定外だし、中和等の繋ぎの城の築城に人数を割いている状況だから
平壌が手薄だったのもやむをえんだろ。
むしろ日本軍は総指揮官不在の合議制の態勢でありながら、明の参戦以降碧蹄館までは
かなり上手く対処していると思うが。
ま、当時の状況をわきまえない肥ゲー的な戦略ウンチクはもういいよ。(笑)
>>569 『壬申戦乱史』はそんな酷いのか〜 オレも前々から読んでみたいと思ってはいるけど
あんな高いモンを買うつもりはもとよりないし、地方在住なんでそんなもんが置いてある
図書館なんぞないし。
問題なのはそれを資料として引いている書籍がかなりあったりすることだけど、やはり
位置づけは『朝鮮独立運動の血史』あたりと似たようなものなのかね〜
おっと『壬辰戦乱史』だな。
^^^
>>570 上・中巻は朝鮮軍スーパーヒーロー列伝だけど、資料編である下巻は読む価値あるよ。
日・明・朝三カ国の部隊配置とか大名の陣立ての構成とかかなり詳細に載ってる。
明軍の参加武将とその一人一人が率いた兵力まで全部載ってたのににはびっくりした
ただ、著者の自民族に対する異常なまでの自尊心や
秀吉ら日本人に対する怨念・怨嗟の情は凄まじいから読むには注意が必要
現に俺はかなり気分が悪くなった
>>572 thx
下巻だけ安くバラ売り・・・しとらんだろうなぁ。揃いで4万前後の値付けみたいなので
ちょっと手が出ない。
しかし本編がその調子だと資料編も一見ソレらしく見えて実はデタラメってことは
ないのかな。族譜とか、でっち上げが得意で真偽は二の次のミンジョク性らしいし。
第一次平壌城攻城戦って
敵が来るなんて考えもしない弛緩しきった日本側留守役の数百名の守備兵
一方、騎馬隊主体の部隊により奇襲に成功した五千の大軍
少数の為、籠城もままならない守備兵。仕方なく城内で戦う事に。
騎馬隊は猛然と平壌城内に突入、そこで数百の守備兵と交戦状態
結果
城内での五千の騎馬隊が数百の守備兵が交戦後、良いように負かされ
逃げ出す所を小西本体に襲われ壊滅状態になり遁走
逃げ出すって選択肢は無かったのかな
幾ら相手が弱いからって10倍の敵を城内におびき寄せて叩こうなんて随分と無謀
>>574が指揮官だったら日本軍守備隊全滅だろ。w 拠点を放棄して逃げ出した歩兵の小部隊が、
敵騎兵の追撃を受け開平地で包囲殲滅されるというパターンだな。
それに比べ、史実の敵騎兵を城内に引き込んで機動力を奪い、自軍兵力を集中して一気に
火力粉砕した小野木重勝の手並みは見事。
576 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 16:04:58
で、
>>574 の戦いは壬申戦乱史ではどう書かれてるの?
>>576 明軍三千、朝鮮軍三千が平壌に向かう
明軍は突入したが、城門は開け放たれており城壁上にも敵兵の姿は見えなかった
駆け足で市街を進んでいると民家に隠れていた日本兵が一斉射撃を浴びせてきた
狭い城内では馬が邪魔になり思うように戦えず、遊撃将軍の史儒、載朝弁は奮戦したが射殺された
浮き足立ったところに鬼や獅子の面を被った数百人の日本兵が襲い掛かり明軍は大混乱
ぬかるみにはまって逃げ遅れた無数の明兵が殺された
さらに小西行長が追撃し、明軍三千人の中で無事帰還できた兵は数十人に過ぎなかった
「壬辰戦乱史」の第一次平壌城戦闘に関する記述はこんな感じ
参考資料として「乱中雑録」「宣祖実録」「両朝平攘録」「明史」など明・朝鮮側の文献多数を挙げてる
578 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 01:33:40
ちょっと待て、平壌って大都市だろ?
それなのに数百の軍勢しか置かなかったのか?
それじゃ、明軍の奇襲云々の前に、治安維持や朝鮮民衆からの攻撃に対処できないだろ。
そもそも本当に平壌を占領していたのか?
それとも明軍と小西行長との間の“実在しない“戦闘だったのか?
なにこの馬鹿? ゆとりなの?
580 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 07:30:54
明に援軍求めてる時点で朝鮮の負け
祖承訓もこの大敗を恥じたのか
「朝鮮野郎が裏切ったから負けたアル!」っていい訳してたよね
582 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 05:58:27
>>578 朝鮮民衆からの攻撃は一部地域を除き無かった
朝鮮半島はほぼ制圧済みであり、各部隊はバラバラに掃討戦をしていた
>>569を書いた者だが
「すなわち戦闘状況の叙述においては、原文にこだわらず、些か想定を試みた部分もありますが、
この点にかんする限りは考証を本位とする純粋史学者の是認なきことを十分承知しながらも、
敢えてこれに順ならざることに致しました。と申しますのは、引証文献の多くが戦記物ではないので、
肝心な兵馬倥偬の実況を極めて簡単にかたづけているのですが、それをそのまま採り入れては
現代感覚を汲む戦史にはなりかねるからです」
「のみならず、原文で「敗死」と記された場合と雖も、徒に武器を擁しつつ、
おめおめと首を差し延べて兇刃を待ったのではありますまい、
必ずや必死の抵抗あるべきが戦闘の実態であるとの見解の下に、
且つは後来を奨め戒めたいという願いを蔵しながら、敢えて禿筆を揮ったことを諒せられたいのです」
↑よくよく読んでみたら、上巻の序文でこんな記述を発見した。迂闊だった・・・
つまり「壬辰戦乱史」における戦闘描写は、李炯錫が資料文献をもとに小説風に書いた作り話
朝鮮人が誰も彼も無双乱舞している記述は戦史を盛り上げるための筆の滑りだったということか
結果だけを簡潔に記している「日本戦史 朝鮮役」を見習ってほしいもんだ
現代の小瀬甫庵かよ
585 :
日本@名無史さん:2010/12/29(水) 19:13:28
586 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 16:07:03
SAPIOが識者50人に実施した最強のタフネゴシエーターは誰か、というアンケートで3位に選ばれた豊臣秀吉。
秀吉には壮大な野望があったと評論家、西尾幹二氏は指摘する。
秀吉が中国すなわち大唐国を制圧する企てを公言したのは関白になった直後の天正13年(1585年)で、
攻略の目標は朝鮮を越えて明に据えられていた。
しかし文禄元年(1592年)、日本軍が釜山に上陸し、二十日あまりで漢城(現在のソウル)を占領したときに
関白となっていた秀次にあてた書状によると、彼の壮大な世界征服計画はさらに一段と拡大していた。
北京に後陽成天皇を移す。都の周辺の国々10か国を進上する。
秀吉自らはまず北京に入り、
その後寧波に居を定める。諸侯に天竺(インド)を自由に征服させる。
この構想は中華帝国に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に
一大帝国を築きあげようとするものであって、秀吉が北京にいる天皇をも自らは超えて、
皇帝の位置につき、地球の半分を総攬すべき統括者になろうというようなこのうえもなく大きな企てであった。
これはすなわち、中華中心の華夷秩序をも弊履のごとく捨て去ってしまう
日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者として立ち現われた点が注目されなくてはならない。
これを誇大妄想として笑うのは簡単である。
結果の失敗から、計画の評価を決めれば、すべては余りに無惨であった。
しかし彼は病死したのであって、敗北したのでは必ずしもない。
秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ2世と同じ意識において世界地図を眺めていた、
日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として
立ち振る舞おうとしていたということが重要なのである。
http://www.news-postseven.com/archives/20101228_8720.html
朝鮮に戻るより日本に残るほうが良いと決断した本人の意思も明記しろよ。
590 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 20:15:47
捕らえた薩摩藩かどっかが、影で脅して帰れなかったんだろ。
それとも、当時の連行朝鮮人に自由意思があったと証明できるのか?
591 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 20:21:39
この番組で司会のロンブーの出っ歯が
「朝鮮半島でやり放題やったくせにボロ負けだろ」って
言ってたのチャンネルを見たらTBS系だったので笑ったw
592 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 20:40:43
593 :
日本@名無史さん:2011/01/02(日) 20:54:52
>>590 影でと言ってる時点でソースなしのでたらめ言ってると
自分で証明してるじゃねーか馬鹿www
597 :
日本@名無史さん:2011/01/03(月) 17:01:13
>>594 病傷兵を大分本土に帰したんじゃね?
じゃないと数万人が半島で逃亡してる事になる
ルイスフロイス曰く、文禄の役での日本の未帰還兵は5万人ほどらしい。
ただし未帰還兵の大半は餓死、凍死、投降(降倭)、傷病死で、
戦死した日本兵はあまりいなかったらしい。
>>590 連行朝鮮人の機関事業は江戸時代に行われてるよ。
だけど朝鮮では陶工は奴婢身分で大半は帰りたがらなかったらしい。
日本では士分を与えられた者も多かったという。
ちなみに明に連行された日本兵の捕虜は処刑され、
朝鮮に投降した日本兵は一部は寝返って召抱えられ、残りは奴婢にされたらしい。
日本軍引き上げから十年後に捕虜引き出して
凌遅刑にしてるよ。
>>592 動員数20万って多過ぎやしない?
入替含めての延べ人数?
602 :
日本@名無史さん:2011/01/04(火) 16:42:10
>>601 当時の日本の人口が1600万人なので、単純に考えて最大160万人までは
動員できた計算になる。
名護屋城の予備兵力も入れると30万いた。それでも半分くらい。
江戸時代初期には改易の嵐とリストラで浪人が50万人いた。
604 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 03:57:31
>>602 10%も動員出来ないよ。
精々2%〜多少無理をすれば3%
国民皆兵にして18〜40歳までの全ての健康な男性と、一部女性まで動員しないと10%は無理。
人口=石高と仮定して
80万石なら16000人〜224000人
200万石なら40000人〜60000人
1600万人居るなら32万〜48万人
勿論平均すると、一年立てば年寄りは引退し若者が編入されるから、一世代分延べ動員数は増える。
606 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 15:15:03
>>603 >>604 つーことは160万人は無理としても40万人くらいまでは動員できたわけか・・・・。
女性についても工業労働者として雇ったらある程度使えただろうし、
秀吉が金で外人傭兵雇ってたらもっと集められたかもな。
そう考えると、秀吉が北条早雲や宇喜多秀家みたいに80歳代まで健康だったら、
明のほうが先に国力使い果たして滅亡が早まってたな。
>>606 兵站の問題があるから侵攻兵力には制限がある。
昔も今も北朝鮮から満州は土地が貧しく、明治時代のソウルの写真を見ても酷さはわかるがあれ以下で
食糧を輸送しないと大軍で侵攻は出来ない。
日本は釜山から陸送、明は山東から北朝鮮へ海輸では38度線以北での展開能力に勝ち目が無い
明も数字の上でなら50万を超える兵力があったそうだが、四川の兵を平壤へ送るには大量の米と何ヵ月もの時間がかかるので難しい
608 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 18:15:58
ソウル占領と同時に仁川に海上輸送すればいいだけだろ
609 :
日本@名無史さん:2011/01/05(水) 21:58:57
明征服だが、満州族にできて、なぜ大和民族にできなかった?
勘違いしてる奴多いけど
女真族単独で明を滅ぼしたとはとても言えないよ
李自成の乱とか勉強してね
朝鮮軍側は城の防御度に頼ってなんとか闘える程度で
上陸してくる敵を野戦で撃退できる能力は無い。
さらに半島には島も多い
海路で南岸を伝って西岸に行くことは可能だった。
当時の日本の実力からみて
釜山からの兵站限界ラインが平壌当たりだったことから考えても
別のラインを作ることは必須だったが
そんな頭脳を持った人間が存在しなかった。
結局は当時の日本人の発想の貧困さが失敗の原因
当時の貧しい朝鮮にどんなラインを構築しようが結果は同じ
日本国内の延長線上で朝鮮国内を捉えたのが日本の失敗
613 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 11:44:12
611・612の書くように海路にラインを求めなかったのが日本敗戦の真因
そもそも弾火薬の補給が不足すると大軍相手に戦線維持し続けられないって点を見過ごしてる人間が多い
朝鮮国王が首都を捨てて明を呼びながら北上したのは結果的に最良の方策、日本はこれにハマった
|∀・).。oO( まだまだ冬休みダナ
やれやれ、朝鮮系のスレには書き込みたくないんだがな…
朝鮮が貧しかったってのはただの言い訳でしかない。
小田原征伐、九州征伐でも兵站に問題があった。
上記よりさらに広く長期の戦争でもつわけがないのは明らか。
よって北京まで行くには別の兵站線を模索する必要があったというのは正解。
あと、秀吉が生きてたらってのは不正解。
616 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:59:45
やれやれ、朝鮮系のスレには書き込みたくないんだがな…
九州征伐、小田原征伐では兵站に大きな問題は無かった。
朝鮮の貧しい道路事情は日本人の想像を絶した。朝鮮の官吏はそんなことに公金を投じない。
又、人民への教育にも公金を投じないので、大多数は文字や絵地図も読めない。
人夫を雇っても契約を守る概念が存在しない。状況に応じて乞食にでも盗賊にでも強盗にでもなれる。
実質現地徴用ができない。当時の日本国内ではありえない状況。
朝鮮国内の少数の官吏の卑しさ、大多数の人民のみすぼらしさは日本のみならず、日本統治以前に朝鮮を訪れた欧米人の日記に詳しい。
↓このあと「ネトウヨ」という朝鮮人のみが好む言葉を多様するレスが続きますが↑を認めないのは朝鮮人のみですので相手にする価値はありません。スルー推奨。
>>611 >そんな頭脳を持った人間が存在しなかった。
>結局は当時の日本人の発想の貧困さが失敗の原因
お前はアホか。そんなことは同時代のどこの人間にも不可能なこと。
15世紀に脳内で汽船を走らせ、電信で本国と通信でもしてろ。
朝鮮が貧しかったのではなく
朝鮮みたいに百姓に至るまですべての官民が敵に回るという戦いを
日本の武士たちが経験したことなかったのが大きいんだろうな
日本じゃ手に入れた領地の百姓がみんな田畑を捨てて逃げ出すなんて考えられないこと
>>616 いや、九州征伐・小田原征伐で兵站に問題がなかったって、なにそれ?
九州で兵糧不足が大問題になったり、小田原であれ以上長引いたら豊臣の方が継戦能力切れてたとか常識だろ?
>>618は民族学校出なのだなぁ、とオモタ。(・∀・)
韓国国定教科書にみられる歴史認識
ttp://members.tripod.com/textbook_korea/5_2.html#5_2_4_1 >倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。
>わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした
>精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。
実際には小早川隆景の言から、在漢城の日本勢の1/4程度は朝鮮人が占めていたと思われるし、
隆景は朝鮮人は臆病だと言い切ってるな。
>>620 >九州で兵糧不足が大問題になったり、小田原であれ以上長引いたら豊臣の方が継戦能力切れてたとか常識だろ?
それ何ていう仮想戦記?(・∀・)
622 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 04:31:35
伊達政宗とか、朝鮮役に参加させてみたかったよね。
他に参加させてみたい戦国武将っている?
>>620 数年前に死んだ母方の祖父も言ってたなぁ
(北支→満州→中国南方+台湾→東南アジア→方輪になって国内で傷病中に終戦)
朝鮮人は口は大きく、勇ましいのにイザ戦場に出るとまるで女みたいでビックリしたって
祖父は戦前のよしみか、朝鮮人の知人(在日は皆無)は多い方だと思うけどさ
>>621 いや、妄想だけで「九州・小田原で兵站は万全だった!」なんて語ってないで、先行研究を見てみろよ。
九州は限界ギリギリで駐屯を最後に切り上げたし、小田原も内陸侵攻部隊が飢えて略奪に走っている。
どうも、近代になっても秀吉の大風呂敷に巻かれたままの奴が多いってことなのかなあ?
プロパガンダ耐性が弱杉だっちゅーの。。
627 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 10:22:31
当然必要な九州小田原の知識もないのに韓国嫌いってだけで書いちゃうから
陸輸限界海輸可能なんて常識なんだが
ちなみに
>>611の岸を伝って海上輸送を行うことはできる
酷使様は過大評価したいんだか過小評価したいんだか分らんな
>>627 はいはい明治の海運会社ならデキタカモネ。
明も朝鮮も出来ないし同時代の西洋でも回漕補給だけで大軍の維持は無理。
朝鮮役で朝鮮海軍による海上輸送妨害はほとんど意味がなかった。
にもかかわらず、前線に物資が届かなかったのは?
1.そもそも現地での物資調達を前提にしていたので、準備した物資が足りなかった。
2.現地の道路事情が劣悪、運搬手段を調達できないなどのため陸送が滞った。
どっちが大きな理由だったん?
>>629 最初1.のつもりでやったけど駄目で、本土から輸送しようとしたが2.で駄目
というより、当時の輸送能力では長距離の陸送輸送は不可能
朝鮮半島西岸を経由した漢城への海路輸送は想定すらされていない
まぁ、全羅道確保出来ていないから当然だけど
朝鮮が服属済みという前提と、国内の論理が海外でそのまま通じると
認識していた段階で、どう転んでも失敗するのは間違いない
631 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 12:14:34
勝手に侵略してきたくせに7年越しで追い出された言い訳について
やれ、朝鮮半島が貧しく食糧が確保できなかったとか
やれ、道路事情が劣悪だったので食糧輸送ができなかったとか
侵略先に責任を転嫁するなんてネトウヨってホントに恥知らずだね!
朝鮮は、倭人の土地だったのは確実だから
侵略ではなく、奪還だと思うんだよなあ。
633 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 12:57:18
だから、屯田すれば良かったんだって。
食料の問題だけだろ?
純軍事的にはむしろ勝ちっぱなしなんだから。
>>631 侵略したい時に侵略した。
侵略したくなくなったので帰国した。
思った通り行動して何が悪い?
>>624 誰が「九州・小田原で兵站は万全だった!」と語っているんだ?(・∀・)
定説に反する例外事例を針小棒大に取り上げてソレが全てであったように語ることこそが
プロパガンダ耐性が弱杉だっちゅーの。
>>635 だからその定説ってなにさ?
先行研究から導き出されている状況は
>>619が言っている通りなんだけど?
小田原・九州で兵站に関する苦情があるのは確かだが
それが全軍崩壊に繋がるような物だったのかってのは慎重な判断が必要だな
秀吉が兵站を作って支給する体制で戦をすることによって
兵站に関する他家への連絡が増えたが故の現象なのかもしれないし
>>637 苦情じゃなくて補給不全を明確にした論文群だよ。
単に知らないだけだから、太閤ハンのプロパガンダに乗せられてるんじゃねえの?
少なくとも九州役では豊臣が全軍の補給を差配する体制には、なっていないよ。
各家が自前で本国、あるいは上方などで調達した物資を輸送している。
だからこそ、豊臣秀長が物資が補給してる連中に高値で売りつけて顰蹙買ったり、
根拠地が近くて余裕のある毛利輝元がみんなに物資を貸したり(結局返済しなくていいよとした)
って逸話が残ってるわけで。
640 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 16:32:21
苦情じゃなくて補給不全を明確にした論文群だよ。
そんなこともネトウヨは知らないんだよなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
先行研究は膨大すぎて一々あげられないほどあるのにね。
あんまりにも多すぎて論文名を書く気にもなれないよ。
酷使様は妄想と現実の区別もつかないのは笑っちゃうよね、だから僕は朝鮮スレに、
こんああたりまえのことを書かかなければいけないから、あんまり書きたくないんだよ。
僕が常識といえばそれに付属する論文があるのはあたりまえだろ。
酷使様には常識をわきまえてほしいんだけど、あいつらは頭悪すぎて妄想を現実だと
いいはるからやんなっちゃうwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>僕が常識といえばそれに付属する論文があるのはあたりまえだろ。
いやお前のことなんか誰も知らんし
>>640 「近世初期の日本の兵站・輜重隊の整備とその限界 ―ヨーロッパとの比較から―」
「日本の軍事革命」 久保田正志
643 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 18:03:07
>>624 まあ知らない人は知らんだろうから
ともあれ、20万近い軍を動かしていながら、内陸侵攻部隊は略奪に走る例もあったというのは
16〜17世紀の軍隊としては世界的に見ても稀な事じゃないか?
幅が狭い島国だという事もあるだろうが
644 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 18:13:42
誰か心優しい人。頭の悪いオイラに分かるように↑を解説してくれんか。
複数の事実誤認があって文意が全く読み取れんよオイラには…
>>627 >>628 論争に決着をつけてやろう
実際中継点の確保さえできれば海上だけで可能だった。
あれだけの軍を短期間で釜山まで運んでるのは同時代見ても世界的に誇るべき日本の力。
問題は中継点の防衛だが朝鮮軍を過大評価すれば無理となるが・・・
朝鮮軍に防衛拠点を落とすことなんてまず無理だな
論争って、九州・小田原で兵站が破綻したとか朝鮮馬鹿が妄想で寝言書いているだけじゃねぃか
マジレスしとくと最短距離の海輸だから本国との連絡線が維持できたのであって、海上輸送の範囲を広げた場合は無理だったろう
朝鮮人は無能でも中国人が見逃すはずない。
>あれだけの軍を短期間で釜山まで運んでるのは同時代見ても世界的に誇るべき日本の力
誇るべきはそれを可能にし、且つ破綻させなかった日本の吏僚
物資の輸送だけなら馬鹿な米軍でもできる。
647 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 18:41:47
>海上輸送の範囲を広げた場合は無理だったろう
>無理だったろう
>ろう
はいはい妄想は母国でどうぞ
慶長の役では普州まで普通に成功していた
649 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 18:54:59
1.聞かれてもないのに「俺は日本人だけど・・・・」等と前置きをする。
2.在日が時々使う「同じ日本人として…」。日本人にはそもそもそういう同族意識は無い。
3.全体の傾向の話をしてる所に個別の特例を突然持ち出す。 (例:「日本人だってレイプする」)
4.レスの書き出しに妙に「私」が多い。客観的、大局的に物事を見る事が出来無い。
5.気に入らないスレ(・・・・例えば朝鮮叩きスレ)の住人をステレオタイプ (例:ネトウヨ)で一括り。
6.煽りには反応。マジレスはスルー。
7.誰も在日とは言わないうちから「気に入らなきゃ何でも在日扱いかよ!!」等とキレる。
8.在日認定された理由が「左翼的な発言をしたから」だと思っている。
9.いっぱいいっぱいになってくると文末に「w」が付き始める。
10.「落ちる」と最初に言ってから本当に落ちるまでがやけに長い。自分を制御出来無い。
11.「酷使様」「ネトウヨ」という言葉が大好きだが、それしか言えない。
12.「AはBだ」と言われるとその反論を示さず「CだってDじゃん」と関係無い話をする。
13.在日の敗北宣言は「謝罪」ではなく、突然の脈略の無い「人格攻撃」。
14.「常識」「普通は」という言葉が大好き。ただしその根拠は無い。
>>642 初出は
久保田正志 「豊臣政権下での兵站整備とその限界--西欧との比較から」(『軍事史学42(2)』2006年9月)
ですよね。
>648
妄想と言われたから妄想と言い返せばそれですむという精神構造が理解できない。
意味不明な事を書いているのは全部君のレスか?
>九州・小田原
つまり、軍記を史料として数多く用い、その中に記された数字を収集して統計的な分析を加えるという行為に何の疑問も持たない
久保田正志という人物一人が言っていることを信じて昨日から馬鹿げたことを書き続けていたわけね……相手するだけ無駄だったてことか。
>>651 いや、軍記を否定したら合戦なんて何も分からなくなるが
現地調達てのは大事だぜ。
今みたいに鉄道もトラックもねんだ。ましてや海の向こうだぜ。
ナポレオン軍もロシアの焦土作戦の前に飢え死にした。
朝鮮はもともと焦土みたいなもんだからある意味守りは堅い。
というか仮に制圧できたとしても領国経営不可能だろう。
朝鮮総督府と一緒で本国からの支援の方が多すぎて赤字。
>>651 >つまり、軍記を史料として数多く用い
はあ?先行研究を読んでから言えよ。
>>646 あー、お前、石田三成スレとかで暴れてる、豊臣政権は完全無欠じゃないとヤダって理屈も何も通じない奴か?
それならなんとなく分かる。
こいつ、他人が説明しても全然聞こうとしないで、自分に有利なことだけ採用しようとするんだよ。
>>651 久保田の著作の他にも
一次史料でフロイス『日本史』とか
書籍がいいなら藤田達生『日本近世国家成立史の研究』2001年とか、
元になった論文「豊臣政権と天皇制--九州国分から聚楽行幸へ」1995年とか
脳内妄想はいいからとにかく嫁。
>656
サンクス。でも、色付きは読む気がしないんだよね。
秀吉神話をくつがえす (講談社現代新書) [新書]
藤田 達生 (著)
「神話」に隠された秀吉の暗い実像に迫る!日本史最大のヒーロー、豊臣秀吉の実像は、暗い策謀家だった!数々の「秀吉神話」を覆し、その奥に隠れた素顔を暴いて戦国時代の常識に挑む意欲作!
フロイスの『日本史』なら全巻所有しているから直に確認できる。
兵站が破綻したという記述はどこにあるのか教えてもらえると助かる。
>>657 一般書籍を持ち出して何が言いたいのか分からないが、
妄想を垂れ流す前にとにかく関係学術論文を読んでみろ。
ん?
必要なら読むさw
同時に掲示したフロイスに確かにそういう記述があると確認できればね。
去年か一昨年か忘れたが近代史板の朝鮮系スレでコテを使っている奴が
実在する論文名や書籍名を挙げて書いていないことを書いていると言い張られ
うんざりした経験があるからね。
藤田達生からは大山や小和田と同じ臭いがするから気が進まんだけ。
>>659 妄想優先で調査する気なんて全くないならかつて君が馬鹿にしていた朝鮮人と同様w
聞き苦しいソースは無視して、クレクレと自分の望む情報を乞食しているのが証拠w
フロイス云云は嘘でしたということね了解した
は?フロイスが嘘?
当時フロイスの日本史以上のソースってあるか?
アホか。
663 :
日本@名無史さん:2011/01/08(土) 23:06:23
>>623 そういや、現在の北の将軍様も日頃の大言壮語とは裏腹に、先だっての米韓演習中は
F22が怖くてずっと地下に隠れっぱなしだったらしいなぁ、っと
御祖父さんのような時代の証言者が全て居なくなれば、人類史上最悪の日帝植民地支配に
全ての朝鮮人が敢然と抵抗したウリミンジョク、という誇らしい”史実”が日韓間の正しい歴史認識に
なるのかねぇ。
>>661 フロイス『日本史』から見つける能力が不足していたのか?
フロイス『日本史』を確認する能力が不足していたのか?
初めからフロイス『日本史』を確認するつもりがなかったのか?
どのレベルであっても妄想で結論を出している時点で
朝 鮮 人 並 み 。
歴史学で争うならいいが歴史妄想で競ってもねえ?
2chでよく見かける光景
俺様は何事かを知っているぜ(キリィ
(颯爽と登場したつもり)
↓
数度の遣り取りを経てようやくソースを明かす
↓
その本なら持っている何処に書いてあるのかと聞かれる
↓
俺様のみが握っている極秘情報を何故乞食にくれてやらないといけないのかと突然罵り逃亡する
↓
嘘とハッタリが通用しなかった昨夜の怒りが抑えられず目覚めても未だ煽る←new
>>667 フロイス、藤田、久保田から5ソースが提示されているが…
日本人なのに朝鮮人みたいに一つも当たってないとは情けない限り。
ええっ!どこを探せばいいのか分からない?自分の質問を読めば
九州小田原関係だと分かるハズなんだが…
669 :
日本@名無史さん:2011/01/09(日) 20:03:47
柳成竜『懲録』(朴鐘鳴・訳 平凡社)
・日が暮れ、賊(日本軍)は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、白刃をきらめかせて
大声をあげて突進して来た。光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、
みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。
・翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら
突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。
・まだ川に身を投じていなかった者には、賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。
(金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった。
・わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、
仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように
斬り倒し、死者は数しれなかった。
・水際を行ったり来たりしている者は、あるいは一、二名、あるいは三、四名ずつ、
大剣を肩にしていて、それに日光が反射してきらきらと電のように閃いていた。
・このとき(李如松)提督が率いていたのは、みな北方の騎兵で、火器を持たず、
ただ切れ味の鈍い短剣を持っているだけであった。(一方)賊は、歩兵であって、
その刀剣は、みな三、四尺の、切れ味無比のものであったから、これと
衝突激闘しても、(長刀)を左右に振り回して切りつけられ、人も馬もみな倒れ、
敢えてその鋒先に立ち向かう者もいなかった。
・倭兵は、城外にあって二重、三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、
やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が
明るく、脱出できた者は何人もいなかった。
話題逸らしは止めにして、九州と小田原で豊臣の補給が破綻しかけていたという常識について知らない奴が・・・
どんな検証をするか否か。朝鮮人並なのかに注視したい。
671 :
日本@名無史さん:2011/01/09(日) 21:14:03
平高望が898年上総介として関東に下向
して土着したことにより武士が誕生してから
700年。
源頼朝が関東に武士の政権を創ってからでも
400年。
応仁の乱の開始による戦国時代が始まってから
120年。
豊臣政権下の日本の武士はその誕生以来、歴史上
最も充実していた。
その武士を率いて朝鮮半島に攻め入ったのに、自ら
渡海するでもなく、対岸の名護屋城から命令を出し、
7年越しの遠征で13万〜14万もの戦死者(行方不明者含む)
を出し、何も得られず、撤退した。
こんな醜態を晒したのは秀吉のいい加減な戦争指導
に責任があるのに秀吉の戦争指導を批判するでもなく
失敗の原因を朝鮮半島の貧しい土地と道路の未整備に
転化するあたりは、ネトウヨって本当に恥じ知らだな。
武士厨のネトウヨって実に馬鹿だな!
>>671 >7年越しの遠征で13万〜14万もの戦死者(行方不明者含む)
>を出し、何も得られず、撤退した。
が信じられないんだけど、死者と行方不明の割合ってどんなもんかね?
日本側は大名の戦死は来島氏だけだし、将兵の戦死自体は相当少ないだろうけど
病死、凍死、餓死は相当するにのぼったと思う
ただ、宇喜多家も黒田家も関ヶ原じゃ主体として戦ってるし
文禄慶長合わせて、27万人動員してるから半分が死ぬなんて状態になったら
戦線が維持出来んだろうって思うけど。
どうせ戦目付相手に死ぬ死ぬ詐欺でも働いてたんじゃないの?
674 :
日本@名無史さん:2011/01/09(日) 22:41:12
>>672 戦線が維持できなくなったから明との講和交渉に入ったんだろ。
一時は全羅道を除く、朝鮮半島の殆どまで広がっていた
日本の勢力が休戦中は日本海側の沿岸部のみになったわけだから。
てかどこから日本軍の戦士が13万だの14万なんて数字出てくるの?
日本軍の未帰還兵は文禄の役で5万。
文禄の役の反省から慶長の役では長期戦に備えて兵站拠点を築いてた。
半島南部に築城して兵站を蓄えてから攻勢を開始する予定だった。
その時点で秀吉が死亡。その時半島に残ってたのは6万くらいだから、
未帰還兵の合計は最悪でも人足含めて7,8万だよ。
むしろ前線が維持できなくなったのは明軍の方。
日本軍が攻勢に出る前から三方向で攻勢に出て全て敗北。
極めつけは島津の追撃で全滅に近い損害受けてる。
日本軍の戦死者はあまりいない。13万も14万も戦死してたら全滅だよ。
大体地上戦では負けらしい負けは無いのに何時そんなに死ぬのかと。
>>675 ん、多くても両役通して7万程度ってのが妥当なところだろうね。中野等も文禄分について
正規の帰還数からの推計で未帰還6万超、内戦没は5万強として、フロイスの日本史にある
文禄5万という数字は妥当だろうとしてるな。
死者の大半は戦死じゃなく病死、凍死、餓死でしょ。
677 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 00:06:37
13万14万という数字はどの資料に出てる数字?>671
13万14万という数字が「常識」なんだろうさw
慶長の役で戦ってたのって殆ど九州勢だけなんだよね。
毛利や小早川や宇喜多は築城手伝った後一時帰国してそのまま終結。
その割には九州勢は関ヶ原じゃ加藤も小西も黒田も主力張ってるから
朝鮮でそれ程大きな損害を受けた形跡は見られない。
どうせ攻勢に向けて一時的に引き上げてた中国勢分を全部
戦死にカウントしてたんだろ。ソースの乏しい朝鮮人だからw
681 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 01:36:08
13万〜14万もの戦死者がいるという常識を先行研究群から見つける能力が不足していたのか?
13万〜14万もの戦死者がいるという常識を先行研究群から確認する能力が不足していたのか?
初めから13万〜14万もの戦死者がいるという常識を先行研究群から確認するつもりがなかったのか?
どのレベルであっても妄想で結論を出している時点で
朝 鮮 人 並 み 。
682 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 01:38:19
妄想優先で調査する気なんて全くないならかつて酷使様が馬鹿にしていた朝鮮人と同様w
聞き苦しいソースは無視して、クレクレと自分の望む情報を乞食しているのが証拠w
九州で兵糧不足が大問題になったり、補給不全を明確にした論文群・先行研究・関係学術論文は大量に存在し定説であり常識だとする根拠。
久保田
史料批判という研究者が持つべき資質にかけている結論ありきの誘導が得意技。
藤田
秀吉に責任を負わせられる事柄であれば針小棒大にして否定できる印象操作が得意技。
フロイス
当時フロイスの日本史以上のソースが存在していないと信じている素人が名前を出しただけで本当に
「九州で兵糧不足が大問題になったり、補給不全を明確にしている」記述があるのか不明。
>>681 もうやめておけ。ミジメになるだけだから。
以後ソース出さない限り相手にしない。
685 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 06:44:23
中国人の書いたwikiなど無視。
政治宣伝が目的なんだから。
常識なら資料要求されたら簡単に出せるはずなんだけどね
687 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 18:39:54
乞食 朝 鮮 人 乙wwwwwwwwwww
俺は日本人だから、もう相手にしないよwwwwwwwwwwwwwwwww
688 :
日本@名無史さん:2011/01/10(月) 18:43:31
>>620 しばらく見ないうちに朝鮮人認定されちゃってるなw
言い方が悪かったかもしれん
要は、朝鮮の統治に失敗して年貢を徴収できなくなった時点で
日本軍の当初の戦略は破綻してしまったということを言いたかった
>>688 >>第二次平壌城の戦いでも小西勢が1万2千も損失してるし
いや、それ渡海した時点から平壌敗退後までの損失の合計だから。
第二次平壌城の戦いにおける日本軍の戦死者は1600名程度。
>>碧蹄館も3〜4万の日本軍と、1万の明軍が戦い日本側にも大損害が出たうえでの痛み分け
明軍1万のソースは?碧蹄館の明軍は2万余じゃなかったか?
あと明軍の敗退で戦闘が終結してるのに「痛み分け」って何だ?
>>順天城の戦いも蔚山城の戦いも日本側の方が被害甚大
両戦闘とも日本軍の勝利に終わっているわけだが
順天城の戦いで日本軍の方が被害甚大だったなんて聞いたこともない
蔚山城の戦いについて言えば、明軍の死者2万と「明史」に書いてあるぞ
さすがに誇張かもしれんが、日本側も戦後に一万を越える明朝軍の遺棄死体を確認してる
日本軍の被害それより多かったという資料があるなら是非教えてくれ
>689
>日本じゃ手に入れた領地の百姓がみんな田畑を捨てて逃げ出すなんて考えられないこと
日本の学会じゃ手に入れた領地の百姓が田畑を捨てて逃げ出すことが戦国時代には大問題だったってのが
この十年相次いで指摘されているじゃないか。
日本に帰ってきたのは十年ぶりかw
>>690 >>688に聞いても仕方ないだろ? 韓国版のウィキペディアにこう書いてあるよwww、って教えてくれてるだけなんだから。
お前さんが直接韓国Wikipeに突撃してくればいい。
酷使様は正確で完璧な韓国Wikipeは気に入らないんだとよw
聞き苦しいソースは無視して、クレクレと自分の望む情報を乞食するのがネトウヨ。
>>690 ウィキ先の文禄慶長の役を編集してるシナチョンに聞いてくれ
連中は自分の知ってる限り、社会学も国際経済学もオナニー史観だから史学も似たようなもんでしょ
あれじゃ自然科学の分野で業績を残すのは大変だと思う。
だってお利口で、何やらしても結論ありきだから。
>いや、それ渡海した時点から平壌敗退後までの損失の合計だから。
>第二次平壌城の戦いにおける日本軍の戦死者は1600名程度。
確かし小西勢は文禄の役で最も消耗が激しかったし、万単位死んでたのかもしれんが
よくもまぁ宇土城20万石の領主が文禄の役で万単位で兵を失って
慶長で1万名、関ヶ原で5千名とどうやって動員したのか気になる
>>691 日本の場合は同じ民族同士の内戦だから、中国のような城壁都市もないし(小田原城とかは別にして)
敵地の民衆を皆殺しにするようなことも無く、支配者が変わろうが民衆は無関心
と言う風に漠然と考えてたが違うのか。一般の書籍しか読んでないから学会云々は知らんかったわ
しかし朝鮮人認定を受けるのがこうも不愉快だったとはなw
>>688 今に始まった事じゃないがイカれてんなチョン。
そんな大勝利してるんだったら何時までも恨み節抜かすなよw
日本に置き換えると元寇で全滅した中朝に未だに文句言って
戦果過大宣伝してるようなもんか?およそまともな学者のいる国じゃねー。
698 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 01:34:03
文禄慶長の役ってのは、
7年も戦闘して常に秀吉軍の側に主導権があったようにしか見えない。
秀吉軍の動向に明、朝鮮側が反応した、というのが一貫した流れ。
結果的に明征服、朝鮮領土割譲はならなかったけれども、
「武威を三国に知らしめた」
と秀吉側が主張するのもうなずける。
699 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 01:43:29
妄想乙
700 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 11:51:52
>691
どこの学会か詳しく
離散するような経営する大名じゃあっという間に国人らが敵に付くんで、どこも気を使ってたという資料しか出てこないんだが
701 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 12:34:14
>>685 お前さー、もうちょっと勉強してから書けよ!
中国語のWikiって行っても書いてるのは台湾人
じゃないか(主に台湾人が使用する繁体字で書か
れている)
703 :
日本@名無史さん:2011/01/11(火) 18:20:54
秀吉が死んだあとも鄭成功が台湾支配して明の復興を企てていたな。
台湾の大陸反攻には歴史があるな。
成功しなかったのか・・・残念
だ・か・ら朝鮮系のスレには書き込みたくないんだよな。
>いや、妄想だけで「九州・小田原で兵站は万全だった!」なんて語ってないで、先行研究を見てみろよ。
いもしない仮想敵を造りだして嘘を「定説」「常識」と言い張る。
調べれば直に分かる事なのに嘘と明らかにされるまで嘘を言い続ければよいという子供の理屈を押し通す。
近代史板で広島弁を使うコテのような奴が必ず出てくるがこういう幼稚な精神性は何に起因するのだろうか。
>久保田正志『日本の軍事革命』
九州役で書かれているのは、既に指摘のある『川角太閤記』の一文。
久保田は現代の軍隊と比較して補給体制が整っていないのではないかと推測しているだけ。
ところで、秀次や吉政はこの戦役に参加していたんだろうか?寡聞にして俺は聞いたことが無い。
小田原役。
補給物資の事前集積・海輸体制は従来の定説通り。
東山道にて、中世軍隊が行ってきた通常の補給体制で戦役に参加していることを指摘しているのみ。
>藤田達生「九州国分」
メモって無いから該当書かどうかはしらんが、フロイスの引用として「七月に長雨等の影響で補給が滞った」ことが書かれている。
藤田自身フロイスの記述は誇張が多いこともきちんと指摘している。
秀吉を叩けば、青木やNHKから声をかけてもらえるんじゃないかと下心が見透かせる奴が正確には何を書いているのか
これ以上調べる必然性が認められない。
>九州と小田原で豊臣の補給が破綻しかけていたという常識
こんなことを書いている人物は一人もいないというのが結論
で、>700
(>618を例外として)素人と一読して直に分かるレスでコノスレで話かけてくるのは「朝鮮人」「妄想」という言葉に過剰反応し、
嘘を「定説」「常識」と言い張る幼稚な奴しかいないのだが、君がソノ基地外ではないことをどうすれば俺に判読できるのだろうか?
>618からの質問であれば答えるのが礼儀だが、基地外の宣言したルールでは説明責任を負う必要を発言者に求める行為は「乞食」であるらしい。
>離散するような経営する大名じゃあっという間に国人らが敵に付くんで、どこも気を使ってたという資料しか出てこないんだが
発想が逆。
離散するような経営する大名じゃあっという間に耕作者らが四散するから、気を使うようになっていった。
何故周囲の大名より税率の低い大名がいると思う?Liquidityとかの経済概念が当時の全ての大名には「常識」だったとでも言い張るのかい?
webで拾い集めた塵知識しか持っていない子供が「どこの学会」とタメ口で意味の無い無駄な質問を発して背伸びしたり、
実在する論文や書籍に自らの願望が書いてあると珍妙な「定説」「常識」を言いあったり、数年後の日本史板には御子様がさぞ蔓延ることだろうね。
中国語版wikiの碧蹄館の戦いにある「日本軍の戦死者8000人以上」についてなんだけど、
http://ido.thethirdmedia.com/article/frame.aspx?turl=http%3a//ido.3mt.com.cn/article/200804/show942647c30p1.ibod&rurl =&title=%u660E%u4E07%u5386%u5E74%u7684%u671D%u9C9C%u6218%u4E89%u4E4B%u78A7%u8E44%u9986%u4E4B%u6218%20%u8F6C%u8D34_%u6
C88%u6559%u6388%u8BED%u51FA%u60CA%u4EBA%20%u671D%u9C9C%u6218%u4E89%u662F***%u6700%u5927%u7684%u8D25%u7B14%uFF1F%20---%20ido.3mt.com.cn
↑この中華サイトを見る限り「按照日本富士见书房出版之野史《樱花记事》」という本のp272~273がソースらしい
なんでも碧蹄館の戦い後に補充された日本軍の新兵の数が6000人以上いるから、戦死者は8000人以上だという推定だそうな。
さすがにこのサイトの中国人も8000人はありえないと指摘してる
で、中国語版wikiには「中国側の史書には明軍の戦死者2500人と書いてある」と
書いてあるけどこの史書とはどの文献なんだろう?
俺の知る限り「明史」にも「宣祖実録」にもそのような記述はなかったと思うが
上のほうにある随分昔に韓国人の書いた本と同様、
彼らの主張に根拠などないよ。
都合の良い推測を史実のように書いているだけ。
論述のレベルが低いのだから仕方ない。
南京事件の死者数と同じ。
ヘキテイカンの両軍の動員数、損害については、
1)正確なところはわからない
のが前提。
2)動員は日本側5万、明側4万
というのが信頼できそうな、可能性としての推論。
これは漢城にいた日本側の人数と、動員した明側の人数。
3)実際に野戦に参加した人数は上記人数の内数。
4)戦死者については不明だが、明側のほうが甚大であり、かつ、
明側が以後、戦意を喪失するレベルであった。
としか言いようがない。
5)結果として確実なのは、この会戦で勝利したのが日本側
以上のことしか言いようがない。
歴史の検証はそれで十分。
3)うち、野戦に実際に参加した人数は
「朝鮮半島史が日帝や親日派により不当に矮小化された」と信じられている為、
「植民地史観から歴史を回復(復元)する」という主張が非常に受け入れられやすく、
正統派の歴史学者が偽史や起源説に異議を唱えにくい状況になってしまっている。
水野俊平
711 :
日本@名無史さん:2011/01/13(木) 11:37:40
両軍の動員数については補充兵を勘定しないとわけ分からん事になるだろ
それと兵員の半数は兵站部隊に割かれるから、前線部隊に対して倍すれば下限は出るんじゃね?
>>710 以外と感傷的な世界なんですね。
もっとドライな世界かと思ってましたよ。
小西行長ってすごいな。
たった2カ月程度で、ソウルと平壌占領してるじゃん。
ってか、秀吉軍って、朝鮮半島のほとんどを占領してるじゃん。
>>705 で、全部読んで論旨から九州・小田原の補給状況を理解したのか?
好き嫌いするほど史料批判が出来ているとも思えんコメントだったね。
輸送補給の否定材料はなにも出てこなかったわけで・・・
>>710 韓国じゃ反日と言う公共良識に伴う行為は
例え嘘であっても批判されるべきでないという風潮があるから
だから一般庶民やマスコミだけじゃなくて教授連中もひどい出来。
反日=エコや人権、男女平等、自由恋愛、親孝行と同等の価値観
反日でないと言うことは一種の不道徳なタブー破りなる。
30年ほど前の日本の平和憲法を奉る連中、
80年前の皇国史観に心酔してる教授方と一緒。
あの国は日本と同様、いや、それ以上に、
本質的な欲望を抑圧されている。
日本においてはマスメディアが萎縮した歴史観、
つまり、反日思想を垂れ流す。
あの国においては、民族の底流に流れる歴史体験、
つまり、「日本帝国主義支配下時代」の記憶の歪曲。
先年、「親日派追放」法なるものが成立したかの国のほうが、
一日の長はあるが…。
こんな状況では、まともな文禄慶長の役の分析などできない。
2chレベルがむしろ、本音を言っているのではないかと、
愚考wwwwwww
"一日の長"の用法間違ってるとオモ(´・ω・`)
719 :
日本@名無史さん:2011/01/18(火) 04:48:49
日本兵>>>超えられない壁>>>女真兵>>明兵>>超えられない壁>朝鮮兵
いい加減、歴史教科書に「李舜臣」とかいう戦局に関係のない人物の削除と
戦局の分岐点である文禄の役の「碧蹄館の戦い」・慶長の役の「三路の戦い」
ぐらい載せれないもんかねえ。
割と高学歴な奴でも「朝鮮出兵は李舜臣に補給を断たれて敗退した」なんて
まじめな顔でいう奴がいるからホント困る。
>>720 帝国海軍がマハンの理論を説明するのに便利だから担ぎだしたんだっけか。
その割に、輸送船護衛を軽視して無駄な犠牲を出してたような気がするけどな。
722 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 09:11:27
小西行長が朝鮮人の生娘にキリスト教伝えて洗礼受けさせてたって本当?
723 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 01:52:11
>>722 ジュリアおたぁの話か
あれは美談だよな。
>>712 広開土王碑の件だってそうだけど。決着が付くまでは随分強引な理論展開をしてたしさ。
だから嘘やハッタリ、大声で自己主張の通用しない自然科学の分野じゃメッキが剥れる
自国の経済政策や国際的知名度に直接影響を及ぼさない
商売に係わらない分野の学問なんだから『正しい』より『気持ちいい』の方が優先されるでしょ。
こんなの韓国だけじゃなくて世界中の殆どの国がそうだけど
725 :
日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:01:52
オナニー史観度合は
かの国は別格だろ
>>723 家康の側室になるって話を断るって本当に凄い話なんだけどね(事実なら)。
女城主も何人もいたし、浮気亭主を薙刀で追いかけまわしたり
当時は女性の地位は大陸に比べたら何だかんだで高かったと思う。
敵方の娘が時の支配者の要求を無視して島流し→大阪→長崎で済むってのはさ
権力者のメンツ丸潰れだよ普通は。
727 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:18:04
幸州山城の戦い
Wikipediaのハングル版見てお茶吹いたw
加藤清正 、長岡忠興 、も参加
藤堂高虎 、九鬼嘉隆 、脇坂安治の船手衆まで参加
で
日本軍3万人参加したうち
実に2万4千人死傷だそうだw
無事生還者6000人www
それは俺でもコーヒー吹いちゃうな
幸州山城の戦いって朝鮮軍は2300人くらいだろ
それで2万4千人死傷させたとかどこのサイヤ人だよ
>幸州山城の戦い
あれって、実際は苦戦しながらも日本側は砦を打ち破り、
中に入って兵糧を略奪したのだろ。
半ばそれが目的だった。
感状も贈られている。
目的達成後引き上げると、再び朝鮮人が戻ってきて、
勝った勝ったと万歳しただけ。
総じて、文禄慶長の役の戦況全般は、
支那事変に似ているな。
ヨーロッパの馬上鎧は、もし落馬すれば重くて起き上がれない
アステカ帝国は500人に満たないコンキスタドールに負けて滅んだ
アヘン戦争以前の清朝は豊かだったが、ヨーロッパ諸国の収奪により貧しくなった
日露戦争で日本は個々の戦闘では負け続きだったが多数の兵力を注込んでで勝利した
ヒトラードイツにより、ユダヤ人600万人が絶滅収容所で殺された
この手の間違った定説は紛いなりにも納得させるだけの物があるが
>>727 には無い様に思う。何故訂正されないのだろうか
732 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:22:25
朝鮮征伐勝利万歳!!
734 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 09:17:18
古今東西隣国との戦争なんて
よくあること
ビルマ人なんてアユタヤ朝を滅ぼして
シャム人虐殺してるし
735 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 12:43:49
黄文雄さんの著書読むと
朝鮮人てイかれてるな
736 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 14:48:59
>>732 蔚山の戦いに関わらず他の項や経済、文化とかも
日本語翻訳して読むと正直面白い
これは朝鮮人を知るための貴重な資料になる
737 :
日本@名無史さん:2011/01/29(土) 21:55:09
合計したら約12万人だぞww
740 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 08:21:35
バカ秀吉(^o^)
>>737 それらしく見せる為に、数字を挙げるの好きだよねえ、彼ら。
白髪三千丈と言うか、コリアに限らず中華文化圏の特徴。
ただ妄想数字を上げるのはいいけど、整合性を考えないから、
とんでもない事になる。
>>737のような捏造をしないと
朝鮮軍が倭軍を撃退して勝利するファンタジーが成立しなくなるからな
実のところ日本のりょーしんてきけんきゅーしゃ先生も
あっちみたいに見え透いた捏造数字は上げてなくても
やってることはよく似たもの。
百年続いた戦国の直後で、日本人がどうのは置いといて、平和な国の兵士より弱い訳がない。朝鮮よりは強い
女真より弱いと言うなら可能性大
鉄砲持ってても主力じゃ無いだろうし、
まだ騎馬民族が強いんじゃなかろうか
そうだな?
文禄の役の立花隊の鉄砲が全軍の27%だったよな確か
槍と同じか、ちょっと少ないくらい?
746 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 22:54:08
| ̄ ̄| 超 時 空 太 閤 ---、 | ̄~.|
;''''.|  ̄ ̄|''| ̄ ̄ ̄ロロ| ̄ ̄ ̄ ̄|''|___|.| |''''.;
.; | ___| .,ニニニニニニ、ニニニニl .| i----┐| .| ;
.; .| | |__ _|.| | 論__|/ | .;
; .|  ̄ ̄| / | .ニニニニl .| | ̄ ̄´ ./ ;
'''''''ヽ______|''''∠___/'''''''|_____.|''|______/'''''''''''
| ̄'-! ̄|| ̄|| ̄ ̄ヽ| ̄ニコヽ"Y"// ̄ ̄ヽ( ̄ニコ| ̄'-! ̄|.| ̄|
|_i-i_||_|.|  ̄ .ノ.| ー┤ .|_| ヽ_ ̄ _/ i-ー .).|_i-i_|.|_|.
. ̄ ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ ̄
哀 号 ・ お ぼ え て い ま す ニ カ
747 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 04:06:29
400年も前の事を未だに恨んでて復興出来ないなら
さっさと亡国した方がよろしい
748 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 05:40:04
今、中野等読んでるが、結局韓国に気を使った言い回しが多いのな
>>743 欧州でも騎馬による突撃は時代遅れになってたはず
鉄砲が普及してから戦国時代の騎馬武者も降りて戦ってたし
騎馬が再び脚光を浴びるのは鉄砲の技術革新と大量運用が可能になってから
けど、清国もムガールもオスマントルコも全盛の時代だから
やっぱり女真族は強かっただろうね。
騎馬民族って騎馬突撃したの?騎射がメインじゃないの?
女真が清を制覇したのも勝ったり負けたりのあげく
30年くらいかけての事業だったからなあ。
軍事力オンリーで明を征服したとはいいがたい。
わずか数百万の少数民族がアメーバのように
支那大陸に浸透したというイメージ。
「武功夜話」を偽書とかいう学者も信用できないな。
あれには文禄の役のかなり迫真的な描写がある。
偽書では書けない。
幸州山城の戦いとか言われているのも、
後世の朝鮮視点に立った今の学者の呼び方で、
あの本では(たしか)「川下の戦い」と書かれている。
その言い方自体「史料」的価値がある。
手元に本がないので曖昧だが、
そこでは、(たしか)
「手追い討ち死に4000人、討ち取る首級4000。本役で最大の犠牲なり」
なんてなかったっけ?
日本側も相当な手負いを得たのは事実だろう。
753 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 20:46:05
>>751 どの異民族政権もそんなもんじゃないの?
数年で制覇した国なんてないでしょ。
漢城占領以降は事実上、明との戦争だろ
756 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 03:45:23
明も朝鮮も余裕で倒せる雑魚敵だったけど
日本の政情が乱れたから、お国に帰ったら
負け犬明朝が吠えてるのが今の歴史観だな。
757 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 01:16:59
758 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 13:45:07
冬はキムチチゲがいいですね。体が芯からあったまります。
ところで、日本人は16世紀くらいまで唐辛子を知りませんでした。
豊臣秀吉(プンシンスギル)が朝鮮侵略して略奪した品物の中に
唐辛子があって、それで初めて知ったのです。
冬
と
豊
唐
? (´・ω・`)
このスレを盛り上げようとなさっているのですね
>>749 >鉄砲が普及してから戦国時代の騎馬武者も降りて戦ってたし
鈴木眞哉のオッサンか・・・。
在野史家の説がなんで此処まで広まったのかと疑問だったけど、
マンガが広めたと知った時は愕然となり、笑えねえぞ、アレをと思った。
762 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:25:33
名称より中身の捏造具合のほうが問題
764 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 13:48:41
>>756 ネトウヨも現実を見ろよ
秀吉が死ぬ前からすでに
ジリ貧じゃねえか
根拠なし
766 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 19:15:05
>>737 これって小西隊とか加藤隊って消滅通り越してマイナスになってない?
連中も書いてるうちに筆が乗ってきて抑えが利かなくなったのかなw
767 :
日本@名無史さん:2011/02/19(土) 21:46:02.36
この後日本が関ヶ原の戦いやっちゃって韓国のネトウヨ涙目
日本は直後に国内で元気一杯に権力闘争してるからな、武力衝突込みで
おまけにその時点で秀吉の遺産があまりにも莫大に残ってた。
石松丸秀勝なり秀次なりが存命でまともに政権を受け継いで遺産使い尽くしても構わない覚悟で
出兵を継続してたら、女真族や李自成以前に日本軍が北京を制圧してた可能性さえ低くない。
770 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 15:10:16.98
彼ら的には憎い秀吉と西国の大名達が朝鮮で徹底的に疲弊してて余力もろくに無く、
家康や東国の朝鮮に出てない大名達に蹂躙されるって世界が理想だったろうけど。
現実には関が原も前線は西軍も東軍も朝鮮出兵組だし
豊臣家も聚楽第、方広寺と出費に次ぐ出費の連続だからね。
自分の領国も荒らされる通常の合戦よりは負担は少なかったかもね。
771 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 15:57:46.18
大坂夏の陣で豊臣家が滅んだときに家康はかなりの金を
豊臣から巻き上げており、豊臣は最後まで
かなりの金を持っていたんじゃなかった?
意外に豊臣は検約家で金をためこみ、生まれながらの殿さまで晩年になるまで
側室を増やす一方だった家康のほうが金使い荒かったりして。
関ヶ原でも大阪の役でも秀頼が大阪城から一歩も動いていないのに対して
家康は秀忠と一緒に大軍率いて何度も東国と大阪を行ったり来たり。
秀吉の側室、っつーか手をつけたのは300人に上るとも言われてるが。(・∀・)
俺の2倍以上か
>>772 秀吉が城に住まわせて養ってた側室は少数だろ。
秀吉は戦の際にも籠城戦になると城から側室を呼んでいたが
家康は勿論城にも側室はいたが戦では女の現地調達が基本だったらしい。
秀忠のために気を利かせて現地調達の女を侍らせたが
秀忠が手をつけなかったので息子の糞真面目ぶりを笑っている。
家康はかなりの好色。
その相手はプロが大半だろ?
家康の側室は記録があるだけで正室2人側室16人か。
778 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 18:29:33.20
河内源氏
779 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 03:54:52.72
780 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 15:26:21.47
>>774 家康って身持ちのしっかりした女以外とセックスってしてるの?
健康オタクだし梅毒を恐れて遊女とは決して遊ばなかったって聞くけど
まぁ晩年は後家キラーからロリコンに華麗に転身したし
性病を恐れるあまりに処女厨だった可能性はあるけど
781 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 18:43:04.09
>>780 秀忠に戦中女を斡旋した話が事実だとすると家康は商売女を相手にしてたっぽいな。
60過ぎても相変わらず後家好きだったし。
家康の一番最後の側室と言われるお六だけは家康が最初の男だったらしい。
50歳以上年下の側室だけどね。
一番最初の正室築山殿と一番最後の側室お六だけが処女だった。
その割に家康は築山殿を大事にしてないよね。
補給が出来ないのが敗因だったのだ
日本は劣等国と知れ
47 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2010/11/07(日) 12:56:20 ID:???
九州役も小田原役も朝鮮役も作戦発起点までは秀吉が輸送。
そこから先の前線までは各大名の責任で輸送。
朝鮮役の場合釜山までは秀吉が輸送した。
そこから先の前線までの輸送が不可能だった。
これが日本軍の限界で内陸部に繋ぎの城を築いた文禄戦略は補給で崩壊し
以後は水路で補給可能な半島南岸に拠点を築いて貼り付く事になる。
785 :
日本@名無史さん:2011/03/09(水) 18:34:12.40
まあ、秀吉も明の皇帝の臣下って自覚はあったけどね。
散々論破されてたのにまたかいな。粘着質なやっちゃ。
787 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 18:18:59.00
講和条件の勘合貿易再開、明の皇女の降嫁をスルーする輩が多いな。
勘合貿易とは、足利義満で有名なように冊封されて行う「朝貢貿易」だし、
皇女の降嫁は、いわゆる「和蛮公主」に相当するものだろう。
788 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 18:59:58.79
でも、明は身の程知らずにもその条件を蹴った挙げ句負けたんだろ?
秀吉自身が明使節に対して
「目的は明の征服」と明言しているにも関わらず
「臣下の自覚があった」とはこれいかに
結局、最後は王号をもらって、貿易で手を打った順義王アルタン・ハンの例もある。
アルタン・ハンには臣下の自覚があったの?
>>784 完全に同意
島津義弘の乗船が潮に流されて後落したり樺山久高も船を座礁させてにげてる日本
ただ潮に流されての遭遇時の混乱が最後まで続いたのを”海戦”と言い張ってるだけwww
>>784 文禄の役っていつ負けたの?
文禄の役で兵を引いたのは講和待ちのためだし
慶長の役は秀吉が死んだからでしょ
慶長の役は明、朝鮮総出の3箇所同時大攻勢が九州勢しか居ない筈の日本軍相手に
3箇所で全て失敗してたし
目的を何一つ得られなかったので敗北
明・朝鮮の目的は秀吉の死まで持ちこたえることだったんだな。
初耳。
日本の目的なんだが
明・朝鮮の目的は軍事力で日本軍を半島から排除する事で
あって、現にそれを実行に移そうとして三路の戦いで失敗してるわけだ。
決して、「秀吉の死まで持ちこたえる」のが目的でないことからして
明・朝鮮の目的は失敗であり、勝利と言えるものではない。
秀吉の死に明人・朝鮮人が絡んでいるのなら勝利と言ってもいいが。
>>798 明・朝鮮の目的は日本を半島から排除すること
他力本願でもこれは達成
さて日本の目的は何かかなったかな?
無事な帰還などとは言うなよ
二次大戦はイギリスの敗北
>>800 >>明・朝鮮の目的は日本を半島から排除すること
他力本願でもこれは達成
排除とはおしのけてそこからなくすことをいうのであって、日本軍が朝鮮半島から
撤退したのはおしのけられての結果ではない。よって排除に達成したとは言いがたい。
>>さて日本の目的は何かかなったかな?
無事な帰還などとは言うなよ
日本軍の目的が不達成に終ったことは誰も否定してない。だからと言って明・朝鮮側が
達成したとは思わないが。
>>801 文禄・慶長の役のように戦争の指導者が自然死して戦争が終結した場面なんかあったか?
訂正
文禄・慶長の役のように戦争の指導者が自然死して戦争が終結した場面なんかあったか?
↓
慶長の役のように戦争の指導者が自然死して戦争が終結した場面なんかあったか?
>>801ではないが、第2次世界大戦の結果として、植民地を失い、世界経済の支配者としての
地位も失ったことを指して、「敗北」と言われるのではないかな。
英国は第2次世界大戦で何一つとして得ていない。
>>804 少なくとも明・朝鮮の反抗が駐留軍に厭戦気分を蔓延させたのは事実であり、
その意味でも彼等の活動が撤退した理由と言える
>>少なくとも明・朝鮮の反抗が駐留軍に厭戦気分を蔓延させた
慶長3年の1月の蔚山城での戦闘以来、9カ月近く戦闘が起こって
いない状況でどうやって「明・朝鮮の反抗が駐留軍に厭戦気分を蔓延させる」
ようなことになるのかな。で、明・朝鮮の反抗で厭戦気分が広がった具体例は?
>>で、明・朝鮮の反抗で厭戦気分が広がった具体例は?
戦線縮小を在朝鮮諸将が提案した
>>811 三城放棄案を読んだことないでしょ?三城放棄案は蔚山城などが突出しているため
援軍を出しにくいことなど、実際に蔚山城で日本軍の援軍到着が10日以上かかっていること
をうけて出された提案であって、日本軍の士気が低くて縮小しようなんて文言は一つもない。
それと三城放棄案直前に秀吉から在朝鮮将兵およそ7万の将兵を本土で休養させる
命令が届いたことなど、在朝鮮の日本軍の戦力が半減する時期でもあり守りにくい三城を
放棄し、少ない兵力を有効に機能させ守備力を強化しようという思惑もあったのだろう。
日本は目的を何一つ達成できなかった
これを敗北と言わずになんという
ま、まがりなりにも日本軍を追い出し、明軍の駐留も免れた
李氏朝鮮大勝利!でいいんじゃね?
その後、黄金にまみれた地上の楽園を創出したんだし。(・∀・)
秀吉は大地震に被災したときに戦争止めようとか思わなかったのだろうか
逆になぜ止めようと思う必要があるんだ?
震災と戦争は関係ないし。
>>815 明・朝鮮の目的である日本軍の排除にことごとく大敗して
失敗した明・朝鮮のどこに目的の達成をみることができるんだよ
820 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 03:30:39.75
今回の災害は日本への天罰なの?
未開人にありがちな発想だとは思う
823 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 12:16:21.20
今回の災害は日本への天罰なの?
824 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 12:18:51.94
石原慎太郎って確か過激な発言だけで成り上がった芸人だろ?
エロ小説家じゃなかったか?
>>808 形はどうあれ英国は戦勝国だよ
アジアの諸国民が自立するという大東亜共栄圏の理想を実現し
戦後20年後には世界第2の経済大国になった日本国は世界大戦の戦勝国か?って話になるし
明は形はどうであれ、日本軍の攻勢を凌いだんだから勝ったと主張してもいいと思う
戦の内容は英雄譚にならないように悲惨なものばかりだけど
この戦争で一番利益を得たのは日本だろう。
あるいは女真族。日本の作り出した軍事的空白のお陰で統一できたし。
>>814 未完成の蔚山倭城ならともかく、翌年の攻勢も空振りに終わっているところを見ると、
担当の負荷が高いのは別として三城を維持は妥当という本国の秀吉の判断の方が
正しかったんじゃないか?
>>829 兵站のことも考えないと。輸送コストが莫大だっただろうし。
>>830 兵站のことを言えば海路で補給が可能だった日本側より、
明側の方が朝鮮官民を動員できたとはいえ、負荷は大きいだろ。
>>832 三路の戦い当時の話をしてるのに、海上輸送経路のどこに
義民っつーか義兵が発生すると言うんだ?
無知過ぎだろw
834 :
日本@名無史さん:2011/03/19(土) 21:21:10.36
李舜臣将軍は義民将だろ
ウリナラ唯一の英雄なんだからちゃんと勉強しろよw
宿題が難しくて解けずやらなかった学生が、災害により休校になったからといって
宿題を達成したとはいえない。
だといって宿題を出した教師も生徒に宿題をさせることに成功したとはいえない。
戦争をなんでも白と黒に分けようとするのもどうかもと思うがね。
朝鮮が雑魚過ぎて話になんねえw
キムチを使った簡単で美味しい料理のレシピを教えろ
>>841 御飯の上に乗せて食べる。
すると白米の味がしなくなる。
つまり、古米の臭さをキムチ臭さで誤魔化す。
<丶`∀´> 乗せてからスプーンでぐちゃぐちゃにかき回して食べるのが正しい食事の作法ニダ
豚キムチと刻んだ沢庵をご飯に混ぜ込むキムタクご飯。これ以上の物はない。
さぁ、この話はおしまいだ。
亀甲船って、どうやって帆を操縦したんだろうね。
甲板を覆う天蓋の上で帆を操らないといけない。しかし天蓋はなだらかなアーチで足場は平らじゃないし、びっしりとスパイクも仕込んでいる。もしそこで転けたらスパイクに刺さって死ぬよね。
帆なんて飾りです
偉い人にはそれがわからんのですよ
この時代の朝鮮水軍が東アジアで一番先進的であったことは間違いないだろうな。
日本も明も軍船に大砲を装備してなかったからね。
有名な鉄甲船は大筒二門と多数の大鉄砲を装備してたんじゃなかったか?
それと、明や朝鮮レベルの大砲じゃ海戦でそれほど有利とは言えないだろ?
海戦で砲撃で切り込みを凌駕したのは、スペイン無敵艦隊を粉砕した英国海軍だが、
これは新開発の長距離砲とそれを活かす戦術を全艦隊に徹底した上でのこと。
海上で目測で散発的に撃つ大砲なんてほとんど当たるわけがない。
日本は信長が鉄甲船に積ませた一例のみ。朝鮮の役の時には無かった。日本水軍は朝鮮水軍の体当りや大砲に結構やられたろ。
明は水軍自体無かったから東アジアで一番だったのは朝鮮水軍。
亀甲船の詳細は不明だからなんともいえんが
どう見ても沿岸しか航行できない船だからな
日本に例え信長の鉄甲船があったとしても玄界灘を越えられないだろう
まぁ朝鮮水軍にしても、名護屋-釜山の海上輸送路を一貫して断てず
撤退する日本軍の追撃に失敗してるんだからあまり大きな事は言えないわな
>>850 現地で築城してるくらいだから、現地で鉄甲船つくるくらい造作もないはず。
でもつくっていない。
要するに鉄甲船ごときでは韓国海軍には手も足も出ないということ。
鉄甲船は高い板金技術が必要で簡単に造れる船じゃない。しかも鈍足で特定の条件下じゃないと運用できない。朝鮮の役に投入する必要性がなかった。
あと海軍じゃなくて水軍な。
てか、この時代の砲は、既に西欧の方が進んでいるでしょ。
だからこそ、袁崇煥はポルトガル製の大砲(紅夷砲)をマカオから取り寄せたわけで。
大体、韓国人(朝鮮/韓国籍)が妄想している、この時代の朝鮮の大砲ってどんなものを想定しているんかね。
亀船の大砲や亀船の船体構造の推測なんて、国宝274号事件のアレが今でもまかり通っているんでしょ?
朝鮮の軍船に積んでいた大砲は陸で使われていたものよりも小さいものであったが炸裂弾も使用された。鉄砲しか装備しておらず、また造りの華奢な和船に対しては十分に効果を発揮した。
西洋とは比べるべくもないが東アジアでは最強であった。
>>854 炸裂弾? いつの時代の話かわかってるか?
そんなもん、ナポレオン戦争の時代にもできてねーよ。
日本で言うと幕末の前になってやっと登場するレベル。
>>855 日本なら島原の乱後に、オランダから臼砲と榴弾を導入しているが
>>854 和船の構造が華奢って、竜骨がない和船は華奢って勘違いをまだ信じてる奴がいるのか?
西洋船の竜骨や中国のジャンクの井桁部材は無いが、貼り合わされた底板自体が強度部材になってる、
いわばモノコックボディ。
江戸時代に和船の遭難が多発したのは、帆の数が制限されたことや、荷物の積載量を重視しすぎたため
であって、船体が華奢というのは関係ない。
そもそも、江戸時代初期には東南アジアと普通に和船で交易してたんだぜ?華奢な船で東シナ海まで
乗り出せるワケがない。
船と大砲の関係だが、西洋の帆船が舷側に大量の砲を装備してるのは何故かわかってるか?
ああやって下手な鉄砲数撃ちゃ当たる状態にして接近しないと当たらないからだ。
朝鮮の船の1隻数門しか無い大砲なんて当たったら運が悪いレベル。
信長の鉄甲船の大砲も射角が狭いし、虚仮威しにしかならないと思う。
朱印船は竜骨や隔壁あるよ。ジャンクとガレオンと和船の良いとこ取りだから。
ただ朝鮮の役の時に使われた関船・安宅船には竜骨はなく、朝鮮の軍船の体当りで沈められた。構造や大きさに日朝の船に大差はなかったが使用した木材が朝鮮が松を日本が杉を使っていたので素材の強度で負けた。
860 :
855:2011/03/26(土) 21:02:08.59
>>856 悪い、本気で知らないんだが、ナポレオン戦争の頃の海戦も炸裂弾とか使えないから、
大航海時代さながらに普通の鉄の玉とか葡萄玉とか鎖玉とかで同航砲戦してるよね?
炸裂弾があるんならなんで使わないの?
>>860 ああ、海戦では使っていないね
危ないから
陸上砲撃用にボムケッチという船はあったけど
>855
朝鮮はモンゴル軍のてつはうや村上水軍の炮烙火矢と同種の弾(陶器等の中に火薬と鉄片を仕込んだもの)を大砲で撃ち出しす事ができた様である。震天雷という。
こういう兵器を炸裂弾と言うのだと思ったのだが、違っていたのなら榴弾と表現すべきかな。軍オタではないのでよく解らん。
863 :
855:2011/03/26(土) 22:03:17.20
ああ、扱いが難しいのか。
着火は導火線使う時限発火かな? 揺れる船上で微妙な調整するのは確かにつらかろうね。
そいじゃあ、>>854の言うように、西洋の海事大国でも実現できてなかった、
海上戦闘における炸裂弾の使用を朝鮮海軍は実現していた、ってのも事実なのかしら?
投げ焙烙みたいなものを大砲で撃ち出す、ってだけなら当時の技術レベルでも不可能ではないような
気がしてきた。当時の大砲って筒に入るものなら何でも撃てるし。チーズとか。
幕末に幕府がオランダから存在だけ教えられた炸裂弾を独自研究で完成させた話が頭にあったんで、
陸上用としても存在しない、って思ってたよ。
>>863 低圧の臼砲なら可能という話なので、朝鮮の大砲がそういうものなら可能だと思う
ちなみ不安定なのは導火線だけでなく、中空にする必要がある砲弾自体も問題で、
島原の乱後に日本へ導入された臼砲と榴弾も、何度も暴発事故を発生させている
朝鮮水軍が東アジア一優秀という割には日本水軍が完勝した巨済島海戦に匹敵する
ような勝利を一度も挙られなかったのはなぜ?閑山島海戦や鳴梁海戦にしたって巨済島海戦
に比べれば小規模で、日本水軍が壊滅したわけでもないし。
>>859 体当たりって、どこぞの大河ドラマもどきの受け売りかい?
すくなくとも朝鮮水軍が体当たり戦術を使用したなんて記録ないはずだぞ。
大砲→そんなもん当たるか
体当り→そんな記述ない
日本水軍はなんで沈みまくったんだんだろうね。勝手に沈む仕様になってたの?
>>867 カンシャク大爆発のようだが、沈みまくったというのは朝鮮のいわゆる大本営発表からな。
ちなみに体当たりの記述が皆無ってのは事実だろ。あれは”撞破”という記述を
後世になって”体当たり”と誤解釈したのが広まっただけで、撞破ってのは攻城戦でも
定型的に使われている用語。
いや普通に疑問に思ったんだよ。
ところで撞破ってどういう意味?調べたけど解らんの。
”撞破”は文字通り”つきやぶる”で、朝鮮役関係だと陸戦では
火砲関連の記事であるケースが多いと思う。
だから海戦だと、火砲でなんらかの被害を与えれば”撞破”、という
程度の意味だろうと思われ。で、朝鮮の砲は基本は火箭なので
火災が発生すれば”焚滅”。
李舜臣の報告では、賊船ン百隻”撞破焚滅”というのが定型句。
詳しいね。勉強になったよ。
>>867 朝鮮側の記述を信用すると日本水軍は2,3回消滅してるwww
873 :
日本@名無史さん:2011/03/29(火) 00:12:44.60
実際消滅してんじゃないの
韓国は自軍の戦績を誇張しすぎ。
海を渡った大名、ほぼ全員帰国しちゃってるじゃん。
これはいくら言い訳してもキツい事実。
加藤清正の首くらいは獲っておかないと
朝鮮役で日本水軍が消滅した事実はないな。巨済島海戦で朝鮮水軍が消滅したのは事実だがw
誇張表現は大陸の文化。
まあ、昭和初期の日本もドップリその誇張表現に浸って
思いっきり負けましたがw
877 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 19:47:49.07
小西行長は凄いな北京の近くまで攻めこんでたのかよ
そんで補給不足で朝鮮まで退却しようとした所を3倍以上の明軍に包囲されたが
それを破って朝鮮まで退却したんだよな凄いな商人あがりのくせに
ま、今日はエイプリルフールだしな。
879 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 21:05:43.29
>>878 覚えたての日本語で対日工作の仕事いくらで受けているの?
あぁ、素なのかw ま、まだ春休みだしな。
秀吉ぃ…何してんだよ…
これがその時代のみんなの正直な気持ちかな?
882 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 22:12:46.03
>>881 だいたい当時は自分の地元が国であとは他国みたいなもんだから
国内での戦争も対外戦争もそんなに区別がないだろう
一部の人らをのぞけば国内での戦争の延長みたいな感覚でないの?
足軽なんかは給料が安く戦場手当や敵の首をとっての報奨金が頼りだったらしいし
従軍すれば米も一日に2合(小さな茶碗で6杯分位)支給されるし、下っ端からすれば
戦争があってなんぼのもんだからな
>>882 長期間に渡って動員状態が続いていたから、かなり国内全般で負担があった
884 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 23:06:57.06
当時の米2合って、どんくらい?
今の御飯4合くらいかな?
少ないよね…
>>882 一日の支給が米2合なんて、そこら中から略奪・徴発して
補わないとないとやっていけないレベルだぞ。
旧軍で1日6合、宮沢賢治も玄米4合とゆーておるな。
2合でどうやって生きてくんだよ・・・
あとは飯もオマンコも乱取り
いつものノリで攻めに行ったら
焦土戦術なんて日本の常識外の戦略を取られて大苦戦。
何にも知らなかった文禄の役では兵站が維持出来なかった。
>>874 どう強弁したってこれに尽きるよなぁ
死んだ大名が瀬戸内の海賊上がりの小大名の来島一人だけだから(石高も2万石に満たない)
朝鮮側の記述通りに読むと加藤清正軍だけで3万人以上死んでる
>>881 当時は大多数の連中が新たな領土を欲しくでウズウズしてたんじゃねーの?
ハッキリ言って、1590年〜1600年までは当時の日本にとっては
外に攻め込むだけで自分の領土は荒らされず、民に対する略奪や虐殺の無い100年ぶりの平和な時代だよ。
下層民は戦争が無けりゃ生きていけないシステムになってたし
江戸幕府もどうせなら、台湾やフィリピンに30〜40万のあぶれた浪人達を送り込めば良かったのに
もしくは北海道や樺太の開拓をさせるとかさ、政権を安定的n維持するのは棄民政策は必要。
889 :
【東電 78.3 %】 :2011/04/09(土) 17:17:08.94
なるへそ
890 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 23:44:02.03
台湾に30万も棄民して自立して海賊にでもなられたらどうするつもりなんだろう。
>>890 もともと日本も東アジアも海賊だらけの地域
瀬戸内や九州西部の海賊が台湾にも支店を持ちましたって感覚でしょ。
まともに制御しきれる連中ばかりでも無かったし。
それにイギリスのアメリカに対する植民地統治もこの流れだし
国内に居て不穏分子になるより
どこぞに果てで海賊するなり、好き勝手してた方が日本のため
秀吉に子供が沢山居たらなあ。
後継者が幼いからせめてもと膨大な黄金を溜め込んでいたが、
これを戦費に充てていたら勝てたんじゃね?
傭兵雇うとか南蛮船を傭船するとか。
息子達を政権の要所に配置して基盤固めておけば家康を大陸に送りつけて日本最強の野戦軍団がどれほど強いのか、
明に(場合によっては女真族にも)思い知らせてやれたかも試練。
>>892 いや、最初の文禄の役のときには秀頼は生まれてないから。
鶴松が死に、甥で成人している豊臣秀次を跡取りにしてたときに起こしてるから。
>>893 沢山生まれてるなら羽柴を名乗る前に既に子供が何人か生まれてるだろ。
早ければ長男次男あたりは既に毛利攻めで初陣を済ませてると思う。
>>894 信長存命中の秀吉って長らく一武将だろ
武将なんてほとんどが一夫一妻だから他の武将たちもそれほど子だくさんではないよ
秀吉は天下取って側室大勢抱えてからも子ができなかったけど
徳川家康だって今川従属中は一夫一妻で子の数も多くない
御三家の祖もいずれも関ヶ原の後の出生
>>895 それにしたって秀吉が子供が出来やすい体質だったら1560年代に寧々に2、3人産ませることはできたろうし、
長浜城主になったあたりで側室を持ちはじめてるから、本能寺の変の段階で5人ほどは健在な子供がいたと思う。
秀吉に息子が大勢いたら大勢いたで秀吉死後徳川があっちこっちに肩入れして挑発して
織田信長の息子たちみたいに殺し合いになって政権奪われそうだ
898 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 23:42:54.16
加藤清正が女真族もボコボコにしてるから
当時の日本は野戦最強だったと思う。
899 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 15:04:54.07
>>897 それが悩みどころなんだよな。
前田利家や小早川隆景があと10年長生きしていれば・・・・
901 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 07:58:05.07
しかし日本って
400年頃に二万の軍勢で半島まで侵攻してんだな。
スゴい国だな。
ヨンさま土王にボコられて引き上げたらしい。
>>901 あの頃の半島(三韓)は日本と高句麗の衛星国
そりゃ韓国程度の土地に3つも国があれば弱くなる。
つーか、そもそも新羅の王様からして
4代目以降から10数代の間は日本人一族だから。
織田の上層部は忙し過ぎて子作りの暇なし。柴田や他を見よ。
むしろ主家から養子を貰ってないといつ滅ぼされるか。
忙しいってより梅毒じゃない?
家康は水銀を薬として使ってたらしいな。
梅毒だったのだろうか・・??
907 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 09:48:45.64
≫898
文禄の役での朝鮮の位置付けは「仮道入明」
すなわち明国までの通り道だろ。
1592年4月から1593年1月の明軍の本格介入まで
朝鮮でなにをしてたの?(笑)
朝鮮義兵が山や山城に立て篭もっただけの脅威
にもならない存在ならさっさと秀吉も渡海して
30万の大軍で明国へ攻め込めばよかったじゃん(笑)
確かに、秀吉が早期に大陸に渡って直接指揮をとっていたら、秀次が後継者から外される事もなかったね。
問題は秀次の後継者が優秀であるかどうかだな。
909 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 06:38:25.45
元はいやしき民家に出て神に祭らる人は誰 ホーコウサンドエライ御威徳
朝鮮八道せめ立てられて唐土が怖がる人は誰 ホーコウサンドエライ御威徳
この民族の虚言癖すごいわ
【対馬問題】 李承晩元大統領「対馬を返還せよ」日本に数十回要求〜米国で見つかったその根拠とは★3[05/10]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1305111471/l50 翌年の1949年1月8日、年頭記者会見でイ大統領はもう一度対馬返還問題を強力に提起する。
イ大統領は会見で「対日賠償問題は壬辰倭乱の時から起算しなければならない」として「対馬は
別個に扱わなければならないだろう」と発言した。彼は続けて「対馬が私たちの島ということは今
更言うまでもなく350年前、日本人たちがその島に侵入し、島民たちは民兵として日本人と戦った」
として「その歴史的証拠は島民たちがこれを記念するために対馬のあちこちに建設した石碑を日
本人たちが東京博物館に持って行って置いたことでも充分に知ることが出来るだろう」と説明した。
イ大統領は「この石碑も見てくるつもりだ。1870年代に対馬を不法に飲み込んだ日本はポツダム
宣言で不法に所有した領土を返還するといったので、私たちに戻さなければならない」と付け加え
た。これだけではなかった。
イ大統領はこの年12月31日、大統領年末記者会見で繰り返し「対馬は私たちの失地を回復する
ことだ。対馬問題は対日強化会の席上で解決できるし、日本人がいくら主張しても歴史は覆らな
いだろう」と強力に対馬領有権を主張した。このようなイ大統領の要求は略奪文化財返還問題と
ともに韓日会談交渉とかみ合わさりながら60余回も続いていることが明らかになった。
912 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 10:49:22.21
なぜ蔚山城の戦いの前に築城責任者の毛利秀元は撤退したんだろ?
教えてエロイ人
913 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 23:50:52.05
>>912 築城普請の担当も守備する倭城の担当も命令に従った結果。
917 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 17:20:57.69
>>907 仮道入明は小西のプロバガンダだよ。意味は、明に朝貢するために道を通らせてね。
秀吉の命令は征明嚮導。
弊社発行の『市販本 新しい歴史教科書』巻末年表3に、「1952秀吉が朝鮮侵略を始める」とありますが、「1952秀吉が朝鮮出兵を始める」の誤りです。
昨年4月に文科省に提出した検定申請本では、「1952秀吉が朝鮮出兵を始める」となっており、この事実はすでに公表されております。
各地の教育委員会で進められている採択のための教科書見本でも、もちろん同じ内容となっております。
市販本印刷の段階で生じたミスによるもので、読者の皆様にお詫びして訂正させていただきます。
平成23年5月16日 株式会社 自由社
ttp://www.jiyuusha.jp/ >「1952秀吉が朝鮮侵略を始める」とありますが、「1952秀吉が朝鮮出兵を始める」
いや、「誤り」直ってなくね?
920 :
日本@名無史さん:2011/06/23(木) 15:11:16.15
元の年表でもそうなってるの?
やっぱ、「新しい歴史教科書に作る会」(=バカ)につける薬はないな(w
>>919が何を言ってるのかサッパリ判らないんだが、
ゆとりの読解力だと、”侵略”と”出兵”は同義って事?
>>923 君はゆとりを馬鹿にするお年寄りだから、1952年頃も生きていたのかもしれない
朝鮮戦争のニュースの中で関白様の御出兵とか聞いてたんだろう
あぁ、了解。すっかり見落としてたわ。
すまんかった。
というか一ヶ月以上立つのにまだ直ってないのか…。
928 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 15:30:52.92
征伐とか言うのは幕末の長州征伐みたいに
自国の配下の反乱や謀反、または賊軍を鎮めるための出兵を指す言葉だろう
あくまで国際戦争だから征伐は優越感に浸ってるおかしい言葉だと思う
しかも初期は連戦連勝だったものの、結局負けて帰っている戦争を征伐と呼べるか?
朝鮮側の史料がいろんな理由で誇張されていることも事実だが…
中国サイズの国が朝鮮を討ったのならともかく、
日本と朝鮮の戦争は戦争っしょ
>>928 三国の頃からずっと朝鮮は日本の藩属国として格下に見てたもの。
中国は対等だったけどね。
>>928 >>しかも初期は連戦連勝だったものの、結局負けて帰っている戦争を征伐と呼べるか?
これなんて戦争?文禄・慶長の役のことを言ってるのではなさそうだけど。
931 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:46:56.78
1598年9月から10月、明と朝鮮軍は順天・泗川・蔚山を攻めて全敗し、人心恟懼(恐々)となる。
資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然?潰, 人心恟懼, 荷擔而立。『宣祖実録十月十二日条』
戦争終結時、明と朝鮮には勝算が無かった。秀吉が死ぬに到って戦争が終結した
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』
唐入りなんだから明との戦争を朝鮮半島でしただけだろ
>>938 まぁ、実質そうなんだけど、史学者には左傾や朝鮮シンパが多いから
”朝鮮侵略”ということにしたい訳だな。
さらに現政権では仙谷なんか、公私混同で朝鮮べったりだし。日韓図書協定も
実のところ謝罪談話を出した菅は全く関心はなくて、仙谷のごり押しでしょ。
元寇の事を向こうも日本征伐ってやってんだから
朝鮮征伐で問題なし。
そこのところの筋を通さないからおかしくなる。
名称に関しては「日明戦争」か、あるいは当時の呼び名「唐入り」が
一番しっくりくるなぁ。
明への道案内を命令したら断ったんで征伐するってスタンスだろ。
誰だよウィキペディアに沙也可とか書いた工作員は。
どっからどうみてもネタだろうに。
938 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 17:02:03.70
>>929 >三国の頃からずっと朝鮮は日本の藩属国として格下に見てたもの。
>中国は対等だったけどね。
いったいどのパラレルワールドだと日本と中国が対等なんだよ?(笑)
>>938 そんなに無知自慢せんでも。w
まぁ、無教養でも聖徳太子の国書の話ぐらいは聞いたことがあるだろ。
隋は返書で日本を外臣扱いせず対等国としての礼を取り、以降、日本は
册封体制から離脱した訳だ。
その後は中国側の理屈で形式上朝貢国の礼を取らされることはあっても、
日本側のスタンスとしては册封体制外の隣対国であり、中国は対等国と
いうのは一貫している。
中華からみて日本は「王化の外」だったのかな
だとすると「むしろ褒め言葉ととっておこう」だな
941 :
日本@名無史さん:2011/07/02(土) 23:38:20.58
>>939 お前って単なる馬鹿か、基地外ネトウヨなんだね(笑)
なるほど隋王朝に関しては有る程度わかるが、
唐王朝や明王朝に対してはどうなんだ。
遣唐使や遣明使を一方的に派遣しているのに対等なわけ
ないじゃん(笑)
対等なら唐や明も定期的に日本に使者を派遣している。
だいたい、当時の東アジアに対等な国家間の交流なんてない。
漢王朝や宋王朝でさえ、匈奴や遼・金相手には格下扱いを
受けてるのに。
アカの手先のおフェラ豚には理解出来ないだろうが。
中国の歴代王朝は北方民族に対して毎年膨大な贈り物をする土下座外交をしていても、
格式の上では自分が上だという形式を維持している。
一方、日本の場合は使者を派遣していても、天皇などの日本の役人が官位を受ける形は
取っていなかった。これは中国側から見れば「日本は冊封体制に入っていない野蛮国」と
いうスタンスだが、日本側から見れば日本の皇位は中国の権威となんら関係ないので
中国皇帝と天皇は同格である、ということになる。
コレを崩したのは足利義満だな。天皇の臣下で有ると同時に、中国皇帝に任じられた
日本国王の地位を受け入れたので形式的におかしなことになった。
943 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 01:21:03.08
お前本当に馬鹿だな(笑)
日本側の事情なんてどうでもいいんだよ。(笑)
東アジアの秩序の中心に中国があり、その中国が
どのように対応しているかが重要なんだ。
日本側が天皇を自称しようとそんなの中国はもちろん
他の国も認めてないじゃん(笑)
それに当の日本自身平安時代中期以降(宋王朝成立以降)
天皇とは称さず御門や主上と称している。
これなんかも漢族の宋王朝に遠慮したんだろ。
(ご存知のように唐王朝は漢族の王朝ではない。
大和朝廷の頃から日本は近くにある北朝の異民族王朝
ではなく南朝の漢族王朝に朝貢していた)
>942=943には、内臣・外臣・客臣・不臣の客・絶域の朝貢国・絶域の対国といった
册封体制における国の関係についての基礎知識が全くないことがバレバレだな。
945 :
944:2011/07/03(日) 17:50:12.85
おっとアンカー間違えた。(汗
× >942=943
○ >941=943
946 :
日本@名無史さん:2011/07/03(日) 21:47:56.78
>>944 お前って本当の馬鹿なんだな(笑)
または基地外ネトウヨか(笑)
聖徳太子以来歴代の中国王朝が日本を対等に
扱った事例を歴代王朝ごとに提示しろ(笑)
それが出せなければ単なる『野郎自大』にすぎないね(笑)
そもそも、天朝だの天子だの朝貢だの全部中華王朝が決めたことなんだから
こっちがあちらさんの価値観に合わせてあげる必要なんて毛頭ないんだよ
アヘン戦争の頃「イギリスという蛮族の酋長は女である」なんて言ってた国だからな
まぁ、なんだ。自分の主張の何が馬鹿にされているのか
一切省みることをせず、ひたすら相手を罵倒しつつ、
声を大にして同じ事を繰り返してわめき続ければ勝ち、
ってのは朝鮮の声闘の流れなのかね(笑)。
>>939 華夷秩序に対等国なんて、ねえ。それでは中華じゃないから。
おかしな歴史感だな。
ところで、隋の返書って小野妹子が「紛失した」んだろ?
なんで内容がわかるんだ?
>>950 日本書紀も読んだことがないのか。
推古紀には小野妹子が紛失したとするのは授かった”書”としか書かれておらず、
これは訓令書であったろうという見方がされており、返書(国書)は隋使斐世清が
自ら読み上げている。
撤退=敗退
と解釈していた人がいましたとさ。
本人の行為についても同論理を当てはめていいのかな?
>>934 今の日本のスタンスが馬鹿すぎて話にならないんだよ
日本が進行とかって書けば怒り狂う癖に
朝鮮が日本を征伐とかって書いてるのを目を細めて喜ぶ
ネトウヨはネットの中だけだけど、連中なまじコネ持ってて
公共を使って大嘘吐いてるから話にならない
秀吉の朝鮮出兵についても、公共の電波のなかでまともに議論されてことって
この何十年一度もないだろう
954 :
日本@名無史さん:2011/07/19(火) 14:11:43.67
>>943 認めなくても認めても、つつがなく今日まで天皇として存在し続けている
それこそ中国の言い分など、どうでもよいことになるよw
955 :
日本@名無史さん:2011/07/19(火) 21:06:00.97
何で朝鮮人は朝鮮征伐に拘るの?
格下の日本に侵略されたのがコンプレックスになってるの?
日本人だって元寇にこだわるじゃん
韓国はその後の李朝の停滞を壬辰倭乱のせいにしてるけど
元寇は日本の輝かしい歴史の一幕に過ぎない
958 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 16:00:56.58
元寇の事で本気でモンゴル人にいちゃもん付ける日本人はいないよ
日本人が元寇を根に持ってると思ってたの?
元を先導した高麗は当時の日本人に恨みを買って
そのまま前期倭寇に繋がるってのはある程度事実だろうけど
960 :
:2011/07/20(水) 21:37:31.03
高麗も元には逆らえないだろうし恨まないと思う。
別に恨んでいないなんて言える程の根拠はないだろ
壱岐対馬での虐殺や高麗兵捕虜の扱いをみるに禍根が残ったのは明らかだし
ところで日本も戦前、モンゴルのハンに元寇を謝罪させたという話は事実なのか?
その話は初めて聞いたぞ!
964 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 18:05:31.01
なんだ、日本も結構えげつないんだね。
965 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 07:46:10.34
商いねぇ
いい加減語り尽くしただろ
966 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 16:50:19.33
どうみても秀吉が勝ってるのに、負けた負けたって吹聴するやつが何故かいる不思議。
勝っていたが最終的に撤退した(ほぼ負け)だろ
勝っているというのは戦略的転進ぐらいの詭弁
日本が勝手に撤退したのであって、撤退に追い込まれたのではない。
勝って撤退する例などいくらでもあるわけだが?
戦争目的を何一つ達成出来ていないのだが
970 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 19:53:46.09
だから負けじゃないだろ。戦う理由が無くなったから九州に後退しただけ。
戦いの結末が勝ち負けの2択しかないと思ってる人?
あなたの母国が戦闘で負け続けだったとはいえ、捏造は良くない
こちらから仕掛けて戦争目的を達成できなかったのなら
負けたと考えています
972 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 23:52:15.83
>>971 戦う理由=戦争目的
何度も言わせないで。
目的が消滅したんだから勝ち負けはない。
強いて言えば停戦したというだけ。
日中戦争と同じようなもんかな?
日本は中国に負けたわけじゃないけど、
結局は戦線を放棄することになった
モンゴルはヨーロッパをボコって勝手に撤退したけど誰もモンゴルが負けたとは思わないよなあ。
でも秀吉様の朝鮮征伐は義のない戦争だったよね。
>>972 戦争目的が無用のものになったのは秀吉の死が理由で、
死の前に戦争目的を達成できなかったから負けであろう
977 :
日本@名無史さん:2011/07/24(日) 15:13:40.67
なんか色々書いてるけど、どうしても負けたことにしたい願望だけが見え見えだから。
強弁して、それが通ればしめたものぐらいに思ってるんだろうけど。
当初の目的:唐入り→唐土には寸土も入れず。満州にピンポンダッシュをした程度
次計画:朝鮮征伐→半島南部に張り付き徹底した迎撃態勢。進撃して来た明軍を何度か撃退したが秀吉の死で撤退
>>977 自国の事については点数は辛い位で丁度良い
>>976 全く意味不明だが、日本の撤退は秀吉の死によるもので、
明朝鮮は秀吉の死以前に日本撃退という戦争目的を達成できなかったから、
明朝鮮の敗北だね。
途中で終了した戦争
なので勝敗は無し
>>980 攻めてきたのは日本なので、明朝鮮は撃退出来れば良い
撃退できなかったんだから明朝鮮の負けだね。
>>983 じゃあ、朝鮮から日本軍がいなくなれば明朝鮮の勝ち
985 :
日本@名無史さん:2011/07/24(日) 21:11:23.04
986 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 00:12:51.43
>>984 朝鮮から日本軍をいなくさせられなかったんだから明朝鮮の負け
989 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 02:09:13.56
>>943 >日本側の事情なんてどうでもいいんだよ。(笑)
>東アジアの秩序の中心に中国があり、その中国が
>どのように対応しているかが重要なんだ。
それは中国が勝手に言ってるだけで事実と違う
事実は漢からして初めは匈奴の属国だったんだし唐だって征服王朝だし
モンゴルは言わずもがなだが
要するに中国は支配されたり支配から脱したりが繰り返されたのが真実
990 :
君が代:2011/07/25(月) 02:15:17.34
中国=中華の国。
別に特定の民族国家じゃないよね。
でも中国だ。
>>991 積極的に攻めた日本の責任回避とは笑わせる
責任()笑
994 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 14:37:42.03
そういや歴史上朝鮮って、日本を攻めてないよね。
博多とか欲しくなかったのかな
なんでもかんでも領有化しないと気が済まないのは近現代国家の悪癖
996 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 14:54:51.85
>>994 元寇・対馬に攻め込んだことあるけど
あっさりボコられて涙目撤退
結局引き分けってことでいいのではないだろうか。
998 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 17:00:18.95
>>997 いい加減にしろ。言葉を変えれば押し通せるものじゃないんだ。
勝ってもいない、どちらかの負けが決まった訳でもない、もちろん戦闘に行き詰まったから引き分けた訳でもない。
秀吉の死で停戦になっただけ。
>>998 いい加減にするのはそっち
こちらから仕掛けて、何の目的も果たせず退くのを
敗北と認めずして何とする
はあ?
秀吉が死んで目的がなくなったから勝手に帰った。
ただそれだけだが?
目的がなくなったのに居座れとかトチ狂ったこと考えてんじゃないだろうな?
一方明朝鮮は自領を侵略されても日本が勝手にお帰りになるまで何も出来ず。
無様。まさに敗戦国。
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