1 :
前の999 :
2006/01/31(火) 02:08:23
2 :
日本@名無史さん :2006/01/31(火) 02:10:00
3 :
前の999 :2006/01/31(火) 02:53:39
前スレから書いてくださったのを引用 武器基本知識(載ってない得物もまずはググれ) ・太刀(たち)・・・ 日本刀の一種。刀身は一般的に2尺(約60cm)以上。 刃を下向きにして、腰から下げるかたちで佩く。平安期に表れ始め、 鎌倉・南北朝時代に打撃用途の馬上武器として主に用いられた。 足軽集団戦術の進化により衰退。 ・打刀(うちがたな)・・・ 所謂日本刀。徒歩用の武器。刃は上向きにして(例外あり:天神差し)、 抜刀し易いよう普通は帯に差す(帯刀)。合戦では主にサイドアーマー。 武器としての実用性に関しては諸説あるが、凄い武器には違いない。 細かく解説し始めると途方も無くなるので、知りたきゃ各自調べるように。
4 :
前の999 :2006/01/31(火) 02:54:09
・槍(やり)・・・ 歴史が古く、種類も多い刺突武器。穂の形、柄の長さによって名称は色々。 戦場では足軽のメインアーマー。刀と槍ではそもそも武器としての位置づけが 違うので、優劣や要不要を語りたければチラシの裏にどうぞ。 槍を用いた流派には、十文字槍で有名な宝蔵院流などがある。 ・薙刀・長刀(なぎなた)・・・ 刃に柄を付けたもの。槍の先っぽは穂だから槍とは違う。平安期から存在。 女性の武器というイメージは江戸時代から。戦場武器としては優秀だが、 集団密集戦が主流になると、集団運用し易い槍に主武器の座を譲った。 ・長巻(ながまき)・・・ 2m近い大太刀の刀身の一部に握りを付けた武器。メジャーでないが強力。 薙刀に似ているが元は太刀なので、両方の性質を併せ持つ。 大きさ故に重く、合戦では斬撃でなく打撃が主な攻撃法だったらしい。 重いから誰にでも扱える武器ではなく、常に脇役だった可哀想な子。 ・弓矢・鉄砲(ゆみや・てっぽう)・・・ 古来から現代まで戦場の主役。このスレではあまり見かけない子達。 弓は植物素材から打たれる。中世以降は素材を合わせた合成弓も登場。 破魔弓などにみられるよう、昔から宗教的色合いも強い。 鉄砲に関しては各自調べれ。因みに鉄砲の流派は戦国期から存在する。
5 :
前の999 :2006/01/31(火) 02:55:02
小野派一刀流 「切落し」という技があり、攻防を一拍子で同時に行う。これを中心にした攻撃性が高い流派。 繋げての突きが真に恐ろしいと言われる。一対多数で斬り合いも得意らしい。 徳川家の御家流かつ現在の警視庁でも習われている流派。剣術としては最強とも言われる{名人ならば} 剣の技術、戦法として担っている。一刀流の世伝。 柳生新陰流 「無刀取り」で有名。攻勢の一刀流に比べると後の先重視の待ち系統。 護衛などに特化していて、守勢では相当に強い。 また、技がよく練られていて、比較的簡単に一定以上の強さになれる{他流と比べて} 徳川家の御家流。政治の心得としての側面が強い。 290 :日本@名無史さん :2005/11/10(木) 03:04:41 示現流 「蜻蛉の構え」など、普通の剣術と違い、右手を中心とした斬撃が特徴的。 一撃目の剣速がとにかく速い。一撃目を外せだの言われるが、二の太刀もなかなかに恐ろしい。 他の流派のように刀を使っての返しなどが極端に少なく、徹底攻勢。鍔が小さいなどの独特の刀の拵えを持つ。 上級兵士剣法として優れているらしい{戊辰・西南戦争とかで}薩摩の御留流。 自顕流 太刀の流派。示現流が上級武士用だというのに対し、下級武士でも習えるという利点がある。 立ち木稽古など、自主練習をメインとしてできる。歩きながら、走りながらの抜刀、斬撃が恐ろしい。 個人的には示現流ほどの技の巧緻さは無いように思えるが、威力など実戦での利便性ではこちらの方が優れているように思う。 下級兵士の剣法として大変優れているように思える。祖は示現流開祖と関係あり。薩摩の御留流{?}
6 :
前の999 :2006/01/31(火) 02:55:36
北辰一刀流 一刀流系統の一つ。 教授システムと剣術理論が解り易く、簡易であり、普及性が素晴しい。 現代剣道に多くの特徴を持つ。 馬庭念流 念流の世伝。群馬天領の農民剣法。{武士がいないのと自衛のため} 防御を旨とする流派であり、独特の防御法と粘りを持つ。 独特の理法と精神的なもの{気?}を持つ。 勢力圏であった伊香保で北辰一刀流に揉め事を持ち込まれるなどで、小説等で出ている。 現在も群馬で伝わる流派 天然理心流 武蔵の天領での剣法。新撰組で有名。 技の巧緻性などは他流派には劣る故に竹刀試合では弱いとのこと。だが、実戦で威力を発揮する。 極太の木刀を使っての修練など、実戦で必要となる気合や斬るなどの基礎が恐ろしいほど高レベル。 「気組み」という雰囲気や気合などを重視。開祖はこの気組みだけで相手を肉体的に圧倒したという逸話もある。 形は豪快にして力強く、恐ろしいまでの「気」が特徴とも言える。 神道無念流 長州や勤皇派など志士を多く排出したので有名。 柔軟な刀の運用が特徴とも言える。力強さと共に巧緻窮まる流派。 近間、中間での攻防ではこの流派以上のものを私は知らない。
7 :
前の999 :2006/01/31(火) 02:58:32
>>2 いえいえ、前スレからの方々、注意とか必要と思われることに付いて書き込みお願いします。
>991さんのせっかくなので勝手に貼っちゃいました。ご勘弁をm{__}m
8 :
日本@名無史さん :2006/01/31(火) 11:48:51
>>1 乙
俺も立てようとしたんだけど、ホスト規制でダメだったから助かった。
前スレに誘導がなかったけど皆移住は大丈夫かな。
9 :
日本@名無史さん :2006/01/31(火) 12:20:49
早速少々スレ違いな話で済まないが、 「剣豪は戦場でも刀を使ったの?」 「刀は戦場でも実用的だったの?」 等についてスレの統一見解をテンプレ化しないか。 俺一人で書いても良かったんだが、前スレをみると纏まりきってなかったもので。 以下前スレの意見を独断も交えそれとなく纏め。 白兵戦において槍は主、刀は副。槍が折れたら戦場離脱するという話もあるが、 雑兵物語のように刀が実戦で使用されている例も多々見られる。 だから要不要論はお門違いカエレ!(・∀・) 戦場において剣豪が刀一本でバサバサ斬りまくって大功を立てた話は聞かない。 戦国期の剣豪は兵法家的性質が強く、剣術も戦場総合格闘技+兵法的な意味合い。 刀は手入れさえすれば何十人でも斬れる(「戦ふ日本刀」参照)が、 下手に硬い物叩けば当然曲がるし欠けるし折れる。 主に諸流派の発生は戦国期以降であり、大半は鎧甲冑を想定したものではない。
10 :
日本@名無史さん :2006/01/31(火) 12:57:51
>>1 乙です。 感謝。
>>9 ちょっとサンプル1つ作った。こんなんどう?あくまで初心者用だけどw
☆ 初めての剣豪・剣術Q&A ☆ (前スレの改訂版)
Q.【剣豪は戦場でも刀で戦ったの?】
A.剣豪に限らず武芸者は通常、遠間での弓の撃ちあいから始め、次いで槍・薙刀等の
長物や大太刀・陣太刀・棒・打ち刀等の得意武器で攻め込みました。
戦場で太刀、刀で戦った剣豪は足利義輝、柳生五郎右衛門、松本備前守、等がいます。
元亀二年作と言われる塚原ト伝の「ト伝遺訓抄」にも
軍馬・弓・長刀・太刀についての経験談が記載されています。
「弓はただおのが力にまかすべし 手にあまりたる弓な好みそ」
「反りのなき太刀をば深く嫌ふべし 切手の内のまはる故なり」
「今の世は太刀は廃ると言ながら 刀も同じこころなるべし」
「太刀・刀持ちたる敵に小長刀(こなぎなた) しずます時に相打ちとなる。」
「槍の穂のながきにしくはなきぞとて 其の身重きは不覚なるべし」
剣豪はどんな武器でも使ったようです。一芸千芸に通ずでしょうか。
弓を射るのは難しい。コストの高い鉄砲が普及した理由は弓ほど訓練がいらないから。
12 :
日本@名無史さん :2006/01/31(火) 20:14:15
なぜかこの人出そうで出てないなーw 【 二天一流 】:二刀一流、円明流 宮本武藏(新免武蔵玄信)が流祖、父は當理流実手(十手)の宮本無二斎一真 その技は右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用い「五方の形」に技を集約。 「ずー」と攻め「たーん」と斬る。「かつ」と受け「とう」と返す。 大きく円形に二刀を構えて正対して正眼。刀を自然に降ろし正対して下段。 そして二刀上段、左右の脇構え。と他流の二刀剣と比べてもかなり独特。 著作は『五輪書』「独行道」画は「達磨図」「枯木鳴鵙図」 書画・彫刻工芸・詩歌・茶道・囲碁などの芸術面でも一流で文化財として今も残る。 昭和初期に文壇で菊池寛と直木三十五「武蔵が名人か否か」の大論争を開始。 それを聞いた吉川英治が「宮本武蔵」を執筆。以後武蔵のイメージは固定化される(笑)
13 :
日本@名無史さん :2006/01/31(火) 20:18:20
書き忘れたが「お通さん」は実在しない。
14 :
日本@名無史さん :2006/01/31(火) 22:20:49
>>13 実在しなかったなんて・・・ショックwてっきり二天記だかに出てる登場人物かとw
ええと私は、えらく古い話をば
日本最古とされている剣術流派{体系?}「鹿島の太刀」
この「鹿島の太刀」は関東七流{鹿島七流}へと発展し、剣術東の祖となっている。
創始者は、国摩真人{くになずのまひと}とされている。
紀元四四〇年頃の常陸一ノ宮 武甕槌大神を祭っている鹿島神宮の神官。
{詳細は
http://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/engi0010.htm 下の進むを押して読んでいってください}
国摩大鹿島命の末裔であり、五代後の孫が中臣鎌足とされている。
流派の内容としては、この神宮には神器とされる刀剣を扱う技術の「祓太刀」が伝えられていた。
これに虚実一体の真理を導入し、「神妙剣」を編み出し流派としたということである。
「祓太刀」は攻防一体の術と言われ、それを複雑化した「神妙剣」は直刀の理法に沿った究極の剣法と言われている。
{まだ、東北への大和侵攻は無いので湾曲刀は大和には存在していない}
詳しい技の内容は失伝されているので不明ながら、後に塚原卜伝などを排出しているのでそこに理法は伝えられていると考えられている。
技内容に付いては何人かの方が推測を立ててるけど、日本史板らしくなくなるのでカットです。
16 :
日本@名無史さん :2006/02/01(水) 18:17:33
>14 むしろ流派のイメージできる技術論ならいいんじゃない? 前スレで問題になったのは他の住人が理解不能になる様なマニア系技術論(俺も参加してたけどw) あと脳内剣士の荒らし対策のためだから。 小説で出てる程度の技術論で「裏付けが取れる」のなら良いんじゃない? ・・・もちろんマニアックに長くならないくらいにねw >15 サンクス
17 :
日本@名無史さん :2006/02/01(水) 19:16:34
武蔵は大徳寺の沢庵和尚にはほんとにお世話になったのか?
小野派一刀流の多人数との戦い方で 数は多くとも、相手の踏み込む距離(数値があったが忘れた。)は決まっており それを見極めるとか、どこかで見た。
19 :
14 :2006/02/01(水) 21:47:35
>>16 了解です!
ちなみに、考証してるのは、皆武術研究家だったりします。
なので、そのまま紹介すると自分も参加してた>他の住人が理解不能になる様なマニア系技術論
になるので掻い摘んで極々簡単に書くように他のも工夫しますね。
>>14 の内容補足{マニアックだったら言って下さいw}
武術研究家と名乗る三人の方の考証した技内容に付いてまとめて書きますね。
1.直刀であることから、流すように防御して突きで攻撃するような一連の動きではないか。
2.攻防一体ということから体を逃がしながら、刃が引けるように斬ったのではないか。
こんな感じです・・・ってまだ危ないかな?
>>18 笹森宗家の一刀流極意{
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4884581687.html }にあったはず。
他にも一刀流に付いて紹介してるサイトにも有った気がする。
確か「自分が3歩進んで斬る所を、相手を引き込むことで1歩にする」とかだったはず。
上の一刀流極意欲しいけど高くてまだ買えてないから不確かですw
20 :
16 :2006/02/01(水) 22:05:43
あ、ごめん。文章間違えたw 「小説で出てる程度の技術論でも武芸書、スポーツ書籍等で検証できるなら マニアックに長くならないくらいなら良いんじゃない?」 簡単な「技の検証」的な意味。
21 :
16 :2006/02/01(水) 22:38:52
>>19 良いんじゃないっすか。貴重な歴史検証だと思います。
「祓太刀」自体は神流に有るね。古伝そのままかどうかはわからないが
神主のお祓いみたいに構えるとか聞いたことある。
22 :
14 :2006/02/01(水) 22:39:56
>>20 了解です!わざわざ補足していただいてサンクスです。
前スレ初期と比べると、だいぶ素人お断り感は否めないけどね。 むっちゃ皆さん詳しいんだもんなぁ〜・・・ と言いつつ、俺は馬鹿だけど好きだから食らい付いていくよ(`・ω・´)
24 :
日本@名無史さん :2006/02/01(水) 23:57:06
前のスレを知ってて軌道つくらなきゃって雰囲気があって良いよね。
あんまり知らないけどこういうの好き。
前スレで一時期話題になったと思ったんだけど、剣術の発祥ってどうなのかな?
>>14 の説明で関東の剣術の発祥はわかった。
他に大和朝廷が発祥と言う意見もあったよね。そっちはどんなのがあるのかな?
・・・・ここに適わない疑問だったらスルーお願いしますm{__}m
25 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 00:20:19
>>23 掲示板だから素人歓迎。同好者歓迎。 荒らしは排除w
せっかくだから香取・鹿島も適当に作成。記憶違いがあったらゴメンw
【 香取神道流 】[天真正伝香取神道流]:香取流、神刀流
流祖は飯篠長威斎家直。兵法三大源流の一つ
技法は剣術、槍、薙刀、居合、柔、棒、・・・さらに築城術と多彩。
神道と剣の鹿島に比べ槍、棒といった長物を得手とし、密教色が強い。
敵の正面に身を置かず右左に体を飛び交え、剣をくり付け攻め込む。
回転しながら間合いを外し、左手を楯の様に敵にかざす。
争いを嫌い「兵法は平法」と教え、乱世に一主君に仕えなかった。
後の世に与えた技術的、精神的影響は測り知れない。
【 鹿島神流 】:鹿島神陰流、直心影流
鹿島神宮祝部の松本備前守紀政元を初代宗家とする。
松本備前守は塚原卜伝の師で「十文字鎌槍」等の発明者として有名。
秘剣「一之太刀」を開発し法定として上泉伊勢守-奥山休賀斎-
小笠原長治へと相伝された(後に神流・直心影流と分かれる)
鹿嶋の神のおかげとして「神陰流」を名乗る。伊勢守「神」をはばかりて新陰とする。
現代では昭和の武蔵と言われた国井善弥が有名
香取流が速く動的なのに対し袈裟斬りを主体としたシンプルで木訥な剣風である。
また剣・槍・薙刀・杖いずれでも同様の技が使えるため基礎修得が非常に早く
体ごと螺旋攻撃で巻き込む実用派武道である。
香取流は門下でも秘伝を見せないために ただの普通の打ち合いに「技」を隠したとか。
27 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 01:16:03
>>26 口伝は五津之太刀のみ公開されてるね。だからTVや雑誌、ネットでは
五津之太刀ばっかりやってる。マニアとしては他の技も見てみたいのだがw
去年だったかNHKドラマ「蝉しぐれ」に大竹師範が出演して門弟の方々が
実際打ち合っていたね。創作技だったけど香取っぽくて良かった。
28 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 17:45:01
河上彦斎および不知火流って凄かったの? ちなみに、漫画の るろうに剣心のモチーフにもなってるらしい
29 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 17:55:22
>>27 「蝉しぐれ」見なかったwそういうのがあったなら見れば良かったなぁ・・・
そういえば、演舞会とかある時期だから、香取流の演舞あるか探してみよう
>>24 適うと俺は思うので少し書きます。
ちなみに、自分は関東七流で発祥して関西に流れた方を主張してました。
関西での剣術発祥は、関東七流成立してから700年後の平安後期の京八流だとされてます。
この流派は鞍馬山の八人の僧に伝えられたことからこのような名前がついたそうです。
開祖は、京・一条堀川にいた陰陽師、鬼一法眼で、義経記での義経の師匠{?}とされる人物。
ただし、この人物に関しては実在したと考えられる資料があるとのことで、只の作り話ではなさそうとのこと。
この流派の特徴も詳しくは伝わっていないながら、現在の姿の太刀や刀の理法、湾曲刀の理法での剣術だと伝えられている。
また、この流派から出た、武蔵の話で有名な吉岡流と鞍馬流に伝えられているという。
鞍馬流は、明治時代に脚光を浴び、相手の刀を巻き落すなど独自の特徴が注目されたことから現代剣道の中に取り入れられた。
蛇足ながら、警視庁剣道形の中にも鞍馬流の形が採用されている。
30 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 18:14:26
流派の流れがわかり辛くなるのでとりあえず、関東七流の流れ書きます。 これは大きな流れだけであって、開祖が複数の流派から編み出したというのも多々あるのであくまで参考程度に 古墳時代 室町時代 戦国時代 江戸時代 幕末 関東七流ーーーー香取流ーーーー鹿島神流ー新当流 | | | ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー天然理心流 ーーーーーーーーーーーーーー自顕流ー示現流ー | 野太刀流ーーーーーーーーーー野太刀自顕流 注;香取流=天真正伝香取神道流 新当流=別名で卜伝流 自顕流=天真正自顕流
31 :
30 :2006/02/02(木) 18:16:32
訂正 ーーーーーーーーーーーーーー自顕流ー示現流ー | 野太刀流ーーーーーーーーーー野太刀自顕流 野太刀自顕流は示現流と野太刀流の複合から
32 :
30 :2006/02/02(木) 18:20:26
33 :
日本@名無史さん :2006/02/02(木) 20:44:16
警視庁流にあるのは鞍馬流の「変化」だったと思う。 たしか敵の打ち込みを刷り上げながら巻き込む業だったような・・・ 剣道連盟の柴田先生が鞍馬流宗家で、うちの兄弟子が昔、剣道の稽古で柴田先生に よく竹刀を巻落とされたとか言ってたw
34 :
日本@名無史さん :2006/02/03(金) 21:52:22
おお!今の剣道連盟に剣術宗家が所属してるとは。 剣道でも剣術が活かせるんですね。柴田先生の稽古見てみたいです。 そういえば、その柴田先生のように自流は以外でも剣術の活動をしてる方っているんですか?
35 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 01:43:58
>>34 かなりいるね、剣道強いかは別にして・・・おっとっと
詳しくは「宗家 剣道」で検索してくださいw
一昔前の大正・昭和の有名人剣道家なら
国務大臣で青学院長だった『小野派一刀流宗家 笹森順造』代議士。
合気道2代目開祖を継ぐはずだった剣道の鬼『中倉清』(神道無念)
ついでに大東流合気柔術の『武田惣角』(一刀流)
そしてトドメが人間国宝『柳屋小さん』(5代目)だなww
関係ないけどジャズの秋満義孝って伊織派二天一流の秋満紫光の身内だった・・・かな?
幕末明治は当然ながら新陰・一刀・二天一流・天然理心・桃井とかかなり居る
だが・・・現代剣道とは、ちとスタイル違うかもw
戦後の剣道界では『羽賀準一』(神道無念)先生が「最後の剣術使い」と呼ばれ
嫌われていた事を考えても現代剣道界で剣術の技は使えない
・・・っていうか審査を通らない(大笑)
36 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 01:46:01
韓国のコムドが偽物だと、韓国大使にねじ込んでくれ 放っておくと剣道はコムド起源にされてしまうぞ
37 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 02:18:59
↑それは剣道連盟の仕事。韓国大使館より先に剣連にねじ込め
38 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 02:24:59
剣道連盟の力など、たかが知れているぜ。 韓国人を甘く見るなよ。正論は通用しないぜ。 外交問題化しなければ奴らの野望は打ち砕けない。
>>38 スレも違うし理論も滅茶苦茶。マジレスっぽいのでマジレスするが、
剣連の力って一体何の話してんだ。剣連が主張してないのに日本政府がそんなん
言うと思うか。そもそも一国の行政がそんなことを外交問題化出来るわけがない。
んな戯言吐く暇がありゃ、剣連がGAISF加入認可を得られるような
建設的行動を考えろ。こっちはそれに奔走してるってのに、おまえらのような
ネット上で何も勉強せず低質な偽善を喚くだけの輩には心底反吐が出る。
極東迷子かハン板迷子か知らんが、頭悪いのもいい加減にしろ。
何でもすぐ2chやネットの情報だけを鵜呑みにして感情で行動するな。
ネット以外で勉強しろ、本を読め。
あとこのスレの雰囲気を壊さないでくれ。
みんなスマンかった、無視して話題を進めてくれ
40 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 13:43:23
>>39 乙です。次から38は政治板に行っていただきましょうw
>>24 剣術ではないけど奈良・平安を流祖とするのは
諸賞流和術(坂上田村麻呂)があるね。・・・拳法だけど。
現在でも諸賞流は68代目!の宗家が伝承なされてるとか。
あと黒田鉄山の柔術は最澄が始祖だったかな(・・・なんで最澄?)。
大東流合気柔術とかケンカ芸骨法wは 新羅三郎源義光。
ちなみに骨法の堀部師範には大伴古麻呂伝の「直刀の形」が伝承されてていると
永井豪がマンガに書いているっ!!・・・信じるかどうかは貴方次第だw
野太刀自顕流も冷泉帝時代に伴家かどっかから肝付家(薬丸家)への伝承
じゃなかったかな?詳しくは覚えてないwゴメン
関西も武道はかなり盛んだったとは思う。
京都には昔から滝口・北面の武士といった警備隊がいた。
平将門、平清盛、丸目蔵人もそう。
義経記では鬼一法眼が白川の印字を手下にして義経を襲っている。
ただ武士は身分が低かったので貴族社会には記録に残ってないだけだと思うw
貴族では清少納言の旦那が剣の達者で有名。
41 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 17:03:40
スレと関係ない話だけどさ、 日本刀って切るとすぐに曲がったらしいね。 桜田門外ノ変では彦根藩士と水戸脱藩士の闘いの後、折れ曲がった刀が散乱してたし、 生麦事件ではイギリス人を斬った薩摩藩士の刀もたった1回で曲がったし、 明治の大津事件でもロシア皇太子を切った津田の軍刀も曲がった。 日本刀って意外と弱いのでは。
曲がるかどうかは下手糞とかあるんじゃね? 宗則なんかはいっきに七人切り捨てているし。 軍刀は1回しか焼を入れない。日本刀とは違う。
>>42 下手糞は大いに関係あったかもしれないですね。
生麦事件の奈良原喜左衛門は薬丸自顕流の門弟でしたがやはり下手糞だったのかもしれないですね。
ありがとうございました。
でも達人級じゃない限り、実際の混乱した状況で綺麗にバッサリと 都合よくはいかないような気がする。 人斬りの勇名といえば新撰組だけど、彼らのそういう方面の体験とかは 何かの史料にまとまってたりしないのかな。
45 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 23:06:03
>>44 やはり池田屋かな。
たしか事件後鞘に真っ直ぐ刀が納まったのは近藤だけで
近藤いわく「俺のは虎徹だから何ともなかったのだ」とか・・・
江戸初期なら赤穂浪士か。これが後に新撰組戦法のモデルになった。
どちらも事件後数十年後の証言だった気がするが。
刀も粗悪品だとすぐに使い物にならないとか。 ある程度以上でないとちゃんとした日本刀の構造をしてないんだって 酷いのは、農具の鍛冶屋が層にしないでそのまま整形ってのも
47 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 23:33:56
日本刀は「折れず曲がらずよく斬れる」物ではあるが 「折れるし曲がるしイマイチ斬れない」物でもある・・・ ちょっと乱暴な例えだが カミソリや包丁はよく切れるが横方向の捻りにパキパキ折れやすい。 鉈や斧は破壊力はあるが重くて使いづらい。 その相反する「両方の長所」をもたせたのが日本刀。 使い心地がよく、腕と一体化して自在に動かせ、よく斬れた。 これは世界が認めた事実。 ・・・でも『当然限界はある!』(w
48 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 00:05:16
今日、名刀と呼ばれる太刀と日本刀を見てきました。 摸造刀と比べても薄くて非常に驚きました・・・自分のやつの半分くらいかな・・ 姿も綺麗で美術品として置いておいても十分堪能できる。そんなので、人を斬れる{刀身に戦闘したような跡有り。逸話も}とは。 あれは本当に凄い! ちなみに、槍もあったのでよく観察したけど、刀同様薄いし、鋭いし{片方にだけ峰があり} あれなら一緒に展示されてた甲冑も一突きで破れるわ
49 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 13:20:36
226とか昭和維新の頃の「相沢事件」で相沢中佐が永田鉄山に斬りつけたさい たしか「こめかみ、肩を斬りつけ背後から添え手突きで心臓を刺した」のだけど その後「刀が曲がり、なかなか鞘に納まらなかった」と何かで読んだ記がするけど、 調べてみたが刀の状況に関する情報はみつからなかった。 誰か知ってる人いない?
50 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 14:28:13
古い話しだけど、三河物語だかからの出典文で「太刀が大きく曲がり鞘に納まらない」というのがあったよ 徳川勢が大奮戦した後の話らしい。 文章とかの証拠じゃないけど、試し切りを子供に体験させるというのを先生がやって一人以外皆刀を曲げられたとぼやいてた。 それほど良い刀ではなかったらしいけど、現代刀だし、値段もそこそこだし、粗悪品ではないみたいだよ。 先生曰く、振る刃の方向が切断途中で少しでもずれると曲がるとのこと。
51 :
日本@名無史さん :2006/02/05(日) 16:13:14
現代刀・居合刀は老人女子が振りやすいように軽く造ったのも中にはあるので 強度はまちまちだね。剛刀もあればナマクラも多い。刃スジが狂うとすぐ曲がる。 また良く斬れるからといって武器としての耐久力があるとも限らない。打撃格闘もあるからだ。 そういう意味で48のような実戦をくぐった古刀は尊ばれた。 合戦の無い江戸期になると「胴試し何人斬り」とかが保証書みたくなってしまったw
52 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 07:08:05
初めて書き込みまっす。 やっぱ、戦場での刀は槍が何らかの事情で使えなくなったときの為の 「サイドアーム」としての使用だったので、 そんなに曲がるほど使う機会も無かった・・・ という仮説(?)はどうでしようか?
53 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 18:38:04
>52 ようこそ、仲良く研究しましょうw
前スレでもその説は議論になったけど
>>9 氏の説はそれを受けて書かれた物。
基本的に刀剣類は野戦の場合は補助兵器サイドアームになる。
でも実際の合戦絵巻や戦記物には太刀・打刀が頻繁に登場している。
主兵器はやはり弓、鉄砲、長物。ただそれらが機能するのは陣形と間合いが整った場合のみ。
「乱戦」や「城内・狭所」「視界の悪い場所」等では使えなかった可能性がある。
飛び道具や薙刀は同士討ちになるし矢玉はすぐ無くなるからだ。
現代軍でもゲリラ戦時の教訓があったため一応銃剣術は残っているね。
54 :
52 :2006/02/07(火) 00:49:24
>>53 さん
ありがとうございます!!^^
うわー!!
やっちゃいますた><;
成程、サイドアームではあるが、逆に乱戦時ではメインで使用していたと!
すいませんですた・・・m(_;)m
55 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 12:29:49
>>3-4 のテンプレを書いた者だが・・・
今更だが、アームが全部アーマーになってるな・・・
碌に推敲校正せず勢いで書いたから気付かなかった、恥ずかしー('A`)
毎度ネタ振りがスレ違いで申し訳ないんだが、世界にも日本のような
明確な剣術流派体系というのは存在したんだろうか。少し調べてみたが解らなかった。
バーベルの由来は、騎士が教会の釣鐘を持ち上げて鍛錬したということから
来ているとか聞くし、何か武器術に関してもありそうな気はする。
日本剣術と比較対照し特徴や長短を分析するには格好だと思ったんだがなぁ。
日本剣術は技術体系が精緻とは聞くけど、客観的に分析した話は聞かないし。
まぁ得物の違いがあるから簡単にはいかないけどな。
56 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 14:46:30
ヨーロッパの戦闘貴族には盾と剣{ソードブレイカー含む}があるみたい。 大分前だけど、現地の民俗学の教授が演舞してるの放送してた。 感じとしてはスポーツの技術指導に似てたかな。日本の修練方法と違う気がした。 それとフェンシングやレイピアとか素肌剣法も一応技術系統があるよ。 やっぱり、スポーツ的だけど・・・あとは、父から子への伝承{研鑽されないで} 他の国も、日本の武術ほど研鑽されてないが、戦闘技法として親からや部族の戦闘法として伝わったくらいかな。 まあ、私が知ってる範囲だけど{中国は別。ちゃんと技術系統と専門家が作ったので} ちなみに、スポーツや武器からアプローチすると戦闘技術として調べられるよ{本の場合}
57 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 15:12:50
58 :
57 :2006/02/07(火) 15:13:45
59 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 15:50:31
武板で拾った西洋剣術動画
ttp://www.thearma.org/Videos/TPVideos.htm 得物が大きく重いので動きが雑に見えるが「受け返し」「組み討ち」などの
技術自体は基本的に日本武道と変わらないと思う。
フェンシングもNHKのスポーツ教室で見たけど優れた剣技だと思うよ。
相撲とレスリング程度の違いじゃないかなーw
日本と外国の最大の違いは「武人のステータス」かな。
日本では平安以降1000年近く地方武士が支配階級で知識層だった。
知識層が禅のような哲学を取り入れ武道が精神論化、芸術化、体系化する。
必然的に武芸のステータスも上がった。
60 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 16:32:06
>>59 サンクスです!まだ全ては見てないけど、武術的にも結構優れてるんだね。
見てて思ったことは、相手の攻撃を「受け」て返してたってことだね。まあ、演舞は木刀{棒?}だったから武器によっても変るんだろうけど
日本の剣術のような流す動きでなく、受けて止めたり、方向を変えたりするのが多々見受けられた。
受けた印象を解りやすく言うと、日本剣術は日本刀のように刃が欠けると攻撃力が著しく低下するため、
多くの場合に、相手の攻撃を受け止めることは無い。刃が欠けるし、腹で受け止めると刀が折れちゃうから。
そのため、相手の攻撃へ斜めに当てて、軌道を変えたりする。決して直角にはしない。
でも、掲示してくれた西洋のを見てると受け止めたり、直角に当たるようにして攻撃を捌いてるようにみえる。
武器が丈夫でなきゃできない芸当だなぁ・・・って思った。
61 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 16:44:35
>>54 いや、あくまでも推論です。実際の所はわかりませんw
死傷率は鉄砲、弓、槍の方が圧倒的に多いし乱戦時でも弓や槍は使いました。
「戦況や条件によっては刀を使用した」程度の意味っす。
62 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 16:45:37
63 :
62 :2006/02/07(火) 17:00:40
これだと誤解されそうのなので補足 使用武器の大きさ・重さに関わらず{太刀とか槍もあるので} 日本の武術はより速くするために、個人の工夫や鍛錬が重要になる つまり、個人差が大きい 動画にあった西洋のは、武器が重いことも確かにあるんだろうけど、 個人の鍛錬ではなく、技術自体を向上させることで有効にしてるように見えた つまり、個人差が小さく、技術に対しての依存が高い どっちが優れてるとか言ってるのではなく、武術に関する発想が違うように思う
64 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 18:45:35
ちょっと武板っぽくなってるので修正w
>>28 の“河上彦斎および不知火流って凄かったの?”について。
【河上彦斎人物伝】
ttp://comic.freespace.jp/hokko/gensai.htm とか見た限りでは少年時代から剣技は学んでいるようだが詳しくはわからなかった。
我流の居合の一種ではないかと言う説がある。
坂本竜馬が居合で暗殺された説もあるが、不意打ち暗殺剣の部類だろう。
たとえ我流でも具体的に技を練れば強いヤツは強いw
とにかくこの人は頭がいいので技術より戦術に長けていたのではないかな?
65 :
日本@名無史さん :2006/02/08(水) 00:19:48
66 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 01:19:51
前に出たゲームの話で恐縮なんだけど、剣豪2と3に出てくるような剣豪って本当はどうだったのかな? 流派もそうだけど、史実や伝承だとどうなってるのか教えてください。 どうも自分だけで調べててもいまいち信用できないので
67 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 01:55:55
もう少し質問を具体的にして方向性を示してくれないと、 どうだったのかとだけ漠然と聞かれても答え辛い。 過去ログにも貴重な話は多いけど、それでも足りないなら 誰の何について知りたいかぐらいはマナーとして書こう。
68 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 02:15:48
>>67 失礼しました。
例えば、剣豪3に出てきた松林蝙也斎ならば、
家光に午前試合でその技を褒められ、この名前をもらったという伝承がある。
また、脚力がずば抜けていて建物の二階に飛び移って逃げた逸話がある。
ぶっちゃけて言うとゲームの剣豪を出しにして、登場人物に付いて語って欲しいということです。
語ってもらううちに有益情報がかなりありそうなので
>>65 >>66 を見てて。
燕返しって剣術として有効だったのかな?それとも、後世の創作? 既出だったらすみません。
70 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 02:44:37
71 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 13:26:48
>>71 ご親切にありがとうございます。
もしかして松林左馬助の事ですかね?
剣豪のガイドブックには、「仙台藩に仕えた剣士。老齢ながらも江戸の名立たる剣豪を子供扱いした実力者でもある」と書いてありました。
あまり参考にならず尚且つ違っていたらすみません。個人的に江戸の名立たる剣豪とは?子供扱いとは?が気になるので教えてほしいです。
73 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 19:19:48
そうだよ松林蝙也斎は松林左馬助の事。『願立』刀術の流祖。以外と無名なのね・・・(泣 【願立】:夢想願流、願立流 江戸城内において将軍家光の御前で演武を行なったが、そのさい相手の打ち込みを 躱しながら刀を踏み落として飛び上がる「足鐔」の技を披露。その時衣服の裾が 屋根の廂に触れるほど高く舞い上がったので、家光が「蝙蝠のようだ」と賛嘆した 以後「蝙也斎」と名乗る。その時なんと59歳!(w 現在、願立については伝書、書簡等が少し残っている程度で 残念ながら剣術自体は絶えているようだ。 ただ願立の門人に上遠野伊豆という手裏剣(投げ針)の達人がいて それを元に水戸藩士が復活させたのが「根岸流手裏剣術」として今も残っている。 NHK人間講座のテキストにその辺は詳しいw 逸話がかなり多い人なので経歴ぐらいしか書かないがw、どちらかというと戦場や 他流試合なんかで名をあげた剣豪ではなく人々から愛されて名を残したた珍しい剣豪 ではないかな。
74 :
日本@名無史さん :2006/02/09(木) 20:34:12
>>69 鳥取の岩流「虎切」だと「右より振り、左より振り、右より振り返すのが極意」と、あるので
剣術の『切り返し』の事だね。
長尺刀なので脇構からの水平、もしくは連続切り上げかも?
「切り返し」ならば剣道・古流問わず必殺技っすw
つばめ返しの名称自体はわりと後世の作が多い(違ったらスマソ)
ちなみに柔道(笑)の「つばめ返し」は出足払いに対し足で切り返す返し技らしい。
ついでに小次郎関連情報
【福井IT観光案内ふくいドットコム】
ttp://www.fuku-e.com/feature/kojirou/ 「つばめ返し」は江戸中期頃につくられた話で、実際は「虎切剣」と・・・(略
75 :
日本@名無史さん :2006/02/10(金) 01:39:54
武板っぽくなるから詳述は避けるが、足鐔って実用性のほどはちょっと 解せない部分があるよな。刀の腹を蹴飛ばして剣先逸らしたりするならまだしも、 踏み落として飛び上がるのって・・・まぁいいや。 蝙也斎は確か子孫がご存命だったような気がする。書簡や指南書が 伝わってるとか何とか。 仙台の人間でないから知らんけども、「道場小路」という今も残る?地名の 由来としても知られているそうだよ。
剣豪3だと松林左馬助の特異技で相手の刀に乗るのがあった。 あれをやられると必ず無防御の所に攻撃が来るのできつかった。 斬りかかったのをかわされ、その後に乗って押さえてたよ、後に攻撃できないようにって
77 :
日本@名無史さん :2006/02/10(金) 17:42:39
>75 まあ「足鐔」のジャンプについては、確かに付録みたいなものだねw 打ち太刀も門弟だし実用性は怪しい。 武芸として注目するべきは、打ち込みをかわして体が接触できる間合いに入れる 『体捌き・入り身・転身』の技術の部分だろうね。 他流ならそこで「組打ち・斬撃」となるが蝙也斎は「足で刀を踏みつける」 本来ならその時点で終わりだよねw ちなみに蝙也斎は神道夢想流杖術の「夢想権之助」の弟子という説がある。 宮本武蔵のライバル・友人として映画とかに、ちょい役で出てくる人だw 筑波で霞流(神道流)を学び関東で無敵だった・・・と、本人は言ってたらしい。 権之助の杖術奥伝は変幻自在の間積もりと打ち込みをする。 夢想流杖術の形を見る限りでも権之助は体捌きの達人だったのは間違いない。 捌きの達人「植芝」レベルなら足鐔は理論上可能だろう。 ただ上に飛ぼうとしたヤツが他に居なかったということじゃないかなw 蝙也斎らしくて俺は好きだが。
78 :
71 :2006/02/10(金) 23:55:33
結構有名なんですね。それに面白そうな人だ。 こういう小野忠明とか宮本武蔵など有名どころ以外で面白い逸話とかある人って居ます? ゲームからでも良いので良かったら教えてください
皆さん親切にどうもです。富田勢源について知りたいのですが、この人が「名人越後」ですか? また脇差用の剣技で、目が見えなかったというのは本当でしょうか?
80 :
日本@名無史さん :2006/02/11(土) 23:44:24
>>79 富田流の道統はややこしいし技も見た事がないので、できれば避けて通りたかったのだがw
とりあえず知ってる事だけ。
富田勢源の“義理の甥っ子”が「名人越後」重政・・・だと思う
勢源は30歳で失明。完全失明でなく日中ならぼんやり見えたらしい。
出家して中条流の道統は弟に譲るが、その弟の息子が戦死。養子を取った。
その養子が富田重政。
加賀前田家に1万3000石!!で召し抱えられ名人越後とよばれたそーだ。
勢源の門人に鐘巻自斎(外田一刀斎?)がいる。
>>80 なるほど!重政という方のほうでしたか。
鐘巻自斎は佐々木小次郎の師でしたっけ?
「巌流」という小説を読んでいると富田勢源は小太刀だかの達人で小次郎の師として書かれてたんで勢源が名人越後だと思ってました
富田流とはどんな剣術なのでしょう?
82 :
日本@名無史さん :2006/02/12(日) 00:51:59
>>81 蛇足だけど、鐘巻自斎の弟子に一刀流の伊藤一刀斎が居たりする。
http://www.eonet.ne.jp/~tailon/kengou/itouitousai.htm まず、富田流は中条流から分派した流派。中条流に含まれると言えば含まれる。
>>80 が言うようにややこしいんで滅茶苦茶簡単に言うと
中条流の最後の正統宗家から教えを受けた長家が創始した流派。わかんなかったらまた質問して。
剣術としては、大太刀に中太刀を以って圧倒する。{前の方に刀の長さ区分あるのでそれ参照}
噛み砕くと、戦のメインの長尺刀に対して、戦のサブである短めの刀で倒してしまう流派。
また、中太刀と小太刀による二刀流も存在したとのこと。
具体的には大まかに技術論話せるけど、日本史板ということでカットでいいかな?
ここで、なぜ短い刀の流派が小次郎の長い刀の流派を産むかって話が出てくる。
これは剣術の特徴で、長刀を相手に技の練習をするには、長刀の技量を積まなければならない。
よって、長刀、大太刀の技も開発される。
つまり、大太刀の剣術とそれを破る中太刀・小太刀の剣術だと言うことになる。
・・・・・・ってこれで解る?質問してくれれば、そこに答えるから。
親切すぎて泣けてくるな・・・
84 :
日本@名無史さん :2006/02/12(日) 01:24:25
あ、忘れてた・・・・ >81 「富田 越後守 重政」だから「名人越後」なんじゃないかなー?たぶん。 住んでたのは越前・加賀だしw
85 :
82 :2006/02/12(日) 01:33:24
技術論無しで剣術のあらましを説明するのはこれが限界w 後は、本当に質問に答える程度じゃないと武板へ行けと言われちゃうし。 ちなみに、中条流は不戦を説いてる当時としては珍しい流派。 その心法を「平法」というそうだ。「兵法の語源か?」とか一部で言われてたが・・・w
86 :
日本@名無史さん :2006/02/12(日) 02:00:21
【中条流】:中条流平法・中条家伝 兵法三大源流の一つ。 まだ剣術流派というものが確定していない鎌倉時代、幕府評定衆の 中条家ではすでに独自の家伝兵法を伝えていた。 足利期の中条兵庫長秀は念大和尚慈音に「念流」奥義を学び 『中条流平法』を完成させる。将軍足利義満の師範。 「戦い好むは道に非ず」として『平法』の字を唱え。 水平(―)真っ向(|)左右袈裟(\ /)斬りに“平”の字を当てる 本来中条流は総合武術であったが「刀は身を守る物、人を倒す物ではない」 として小太刀の技を高めた。 中条家は「後成敗式目」制定の評定衆十一人のひとりで尾張守護職を 代々勤めていたが織田・松平の隆盛により三河の中条家は滅亡する。 道統は斯波氏を通じ越前に伝わり冨田家へ、中条流6代目が富田勢源 8代目が富田越後守重政 *** 乙です! 補足ヨロw
87 :
日本@名無史さん :2006/02/12(日) 14:48:24
>>86 乙です。流派の流れとしてほぼ完璧だと思います。
>>82 の話を受けてなんですが、もう少しだけ掘り下げさせてもらいますね。
剣術の特徴ってことなので。
富田流{別名で戸田・当田流}は、多くの武術が重要視しなかった副武器を奥義とした始祖的流派である。
これは、江戸期から見られる平時を想定した素肌剣法と異なり、戦の最中で鎧武者を相手に副武器で立ち向かうのを想定されている。
つまり、戦の中で中・小太刀を用いて大太刀の鎧武者を倒すことを可能とする実戦剣術だということである。
このことの凄さは、「打刀は戦場ではほとんど役に立っていない」という話を踏まえて考えてもらえば解ると思う。
蛇足としては、この流れである一刀流を始め、いくつもの流派に影響を与え、小太刀{中太刀は打刀に吸収?}技術が研究され、
大太刀はじめ、槍、薙刀、一部で飛び道具に対する武器として日本武術の中で最も完成された武器術と称されている。
この流派以後の流派では、多少の違いはあれ、ほとんどが奥伝や秘伝に小太刀術が加えられている。
訂正・過筆お願いします。
88 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 23:30:47
89 :
日本@名無史さん :2006/02/14(火) 12:28:10
やはり疑問なのは小太刀の実戦性だが、合戦で使用するのは槍合わせを突破する際の
組討技法ではないのかな?左手が使えるし。
前回もここで技術論が延々続いてしまったわけだがw
竹内流の小具足腰周とかでも一尺程度の脇差(小具足)を使うが、こっちは組討ち目的だよね。
どちらかというと竹内流小具足は居合に近いかな。
富田勢源や戸田一刀斎は剣術として使用している。富田流技法は残ってないのかな?
資料的価値はやや怪しいがw技法としては結構面白い「富田流の概論」
ttp://www.ichigeki.co.jp/o_style/20030822.html
90 :
日本@名無史さん :2006/02/15(水) 16:57:03
富田流の小太刀はどういうのか知らないけど、
小野派一刀流の小太刀の形は鎧武者相手でも十分対応できると思うよ。
介者剣法の基本戦術の鎧の薄い部分への攻撃や鎧の間への攻撃のようだから。
もちろん、そういう重装備はなかなか相手にしないから技数は少ないけどね。
あと、
>>89 の資料から見て、富田流の突きが小野派一刀流の突きなら十分軽装の鎧を突き破れるよ。
槍の突き方と同じで刀なのに貫通力が凄いんだって。また、この突きのある流派は反りの浅い刀を使うとのこと。
流派ごとに使う刀の特徴が異なることも考慮すると面白いかも
91 :
日本@名無史さん :2006/02/15(水) 19:07:01
小太刀は剣術の付録にポチポチ有る程度でなかなか小太刀専門の流派って見れないよね。 余談だが、知り合いの先生が子供に古流の「小太刀片手突き」を教えていたら、防具の上から 打ち込ませたさいに、まともに喰らって吹っ飛ばされたと言ってたw ちなみに技は「相手の打ち込みに対してカウンターで突く」もので、突いた時、刀から腕、肩の ラインが一直線になる。いわば「体当たり」系の「迎え突き」かな。 結構小太刀の突きの破壊力もバカにはできないのは確かだが。
92 :
日本@名無史さん :2006/02/16(木) 02:04:33
富田流の小太刀で本で言われてる特徴は、「終始相手を攻め続ける」とのこと。
具体的な内容は不明だけど、同じような特徴で後継とされる小野派一刀流の小太刀形は
打ちの部分を突きに変えると、ほぼ全部
>>91 の言う「体当たり」系の「迎え突き」になるよ。
また、打刀の形でもほとんどカウンターで体重が乗せられる体運びになってるから
中太刀でも十分鎧兵に対抗できたのかも
93 :
日本@名無史さん :2006/02/16(木) 22:17:25
戸田越後守は富田越後では無いと言う説があります 富田勢源越前浄教村(現福井県足羽村)富田治部左衛門景家の長子 五郎左衛門景家ののち勢源と改名眼病(白内症のような症状)の為 弟 治部左衛門景政に家督を譲る 景政の娘婿が「名人越後」越後守重政である(寛永二年没) 重政長子の下野守重家が家督を継ぐが24歳で病死次男重康が継いで 「越後守重泰」になる 30台で中風を病んで「中風越後」と呼ばれた (寛永20年没) 以下続
94 :
日本@名無史さん :2006/02/16(木) 22:29:57
で>87での戸田〜 ですが良く富田越後と混同されますが 戸田越後守清玄(とだえちごのかみせいげん) 通称新八郎綱義 疋田豊五郎門下で新陰流(文禄元年)印可加賀前田家に 5百石で召抱えられる(寛永15年)75歳で没 大阪の役後徳川家の新陰流台頭の影響から召抱? 『越前人物史』『武術流祖録』『本朝武芸小伝』 『皇国武術英明録』他
95 :
日本@名無史さん :2006/02/17(金) 19:04:21
>94 レスサンクス。なるほど戸田清玄の方は新陰系と言う事になるのかな? う〜ん・・・予想はしていたがやはり出てきたか『戸田清玄』wこの人いったい何者? 小太刀の名人で槍の名手らしいが。剣豪「とだせいげん」が二人居て、 加賀前田家に同時期に「とだえちご」が二人居ると言う事なのかな?・・・こりゃややこしい。 さらにここに小田原の『戸田一刀斎』が加わって混同されるw 石舟斎の師匠で一刀流の流祖らしいけど・・・?
96 :
日本@名無史さん :2006/02/17(金) 23:15:34
97 :
日本@名無史さん :2006/02/17(金) 23:23:23
ギアイってそんな凄い人だったんだw
98 :
日本@名無史さん :2006/02/17(金) 23:27:16
柳生石舟斎って、やたらチンポ出したがるよな
99 :
日本@名無史さん :2006/02/17(金) 23:35:08
中条流の伝系資料に下のようなのもある。
中段に系図的にまとまってるので見やすいかも。下段には陰流のもある。
http://park1.aeonnet.ne.jp/~yari-iai/denkei.htm これによると槍術名人の戸田清玄=中条流の富田勢源とのこと
また、富田越後守は重政であって勢源とは違うらしい。
蛇足ながら、石舟斎の新陰流は上泉からの伝承なので他の師は新陰流に関係ない。
ここまでややこしくなって来るとは・・・
なんか、蛇足に書いたの当たり前なんだけど、自分がわかんなくなってきたので書いておきます。
できたら、こういう当たり前のことも確認の意味で残してもらえると嬉しい。
100 :
日本@名無史さん :2006/02/17(金) 23:48:00
101 :
日本@名無史さん :2006/02/17(金) 23:56:00
くだらない豆知識を披露してるぜ。
102 :
日本@名無史さん :2006/02/18(土) 00:53:11
へえー佐分利流とか気楽流も戸田流系統なのか
>>94 の説なら新陰系となるがどうなんだろう? 個人的には中条流が残ってて欲しいが。
話がそれるが、いわゆる職業的な剣豪・剣客ではないが名前の通った人で、 じつは技量があった人…というのは居るだろうか? いや、吉良上野介が中条流の目録を持っていたのを思い出したんで、その繋がりで。
最初に日本刀を作らせたのは平将門だという説があるそうです。 信憑性はいかほどでしょうか?
あんまり高くないと思います。逸話の多い将門公のことだから。ただ、 「全身が鉄で出来ていた」など、時代が早いからか、逸話というより神話伝説のような 代物もありますが、これは製鉄技術や鉱山開発に熱心だったということから来たらしい。 坂東に中央の進んだ技術を持ち込み、発展させたのは確かでしょう。 お話の説も、その辺りから来たものかもしれませんね。
106 :
日本@名無史さん :2006/02/19(日) 01:31:31
平将門の“天慶の乱”あたりから刀剣に『反り』が付くようになって現代の日本刀と ほぼ同じスタイルになったという事ではないかな? 平将門ら板東武者は騎馬戦が得意で馬を馳せながら太刀で斬りつけた。 そのため反りのある湾曲刀(湾刀)が使いやすく衝撃も少なかった。 平安時代の枕草子より昔のお話。
107 :
日本@名無史さん :2006/02/19(日) 01:39:04
>>103 前スレでも出たけど藩主クラスは剣豪に直接指導受けてるからやる気とヒマのある人は
かなりの腕前になる様だ。家康だって海道一の弓取りと言われていた。
上泉、塚原、柳生は元々国持ちの城主。
幕末の志士も免許クラスが多いし井伊直弼なんて剣の流祖だったりするw。
福沢諭吉は立身新流(居合)を滴塾時代から晩年まで続けていた事が自伝に書いてあるし
その腕前は各界で証言されている。
ウソかホントか平戸藩主の松浦静山(心形刀流)は天保9年頃、昌平橋のあたりで夜な夜な
刀狩りをやっていたという噂があったらしい。当時79歳 ・・・ほんまかいなw
余談だが静山は、かの海賊「鎮西松浦党」の旗頭の血統だが松浦亜弥とはもちろん何の関係もない。
ついでに能の金春流「金春七郎氏勝」は石舟斎から新陰流、宝蔵院からは槍術の印可を受けた。
・・・あと有名なのは合気道の由美かおるとか新陰流のタモリかw
杉様が先だろう
109 :
日本@名無史さん :2006/02/19(日) 03:09:57
杉良は養神館だっけ? 江ッ戸の黒豹〜♪
110 :
日本@名無史さん :2006/02/19(日) 13:42:41
>>105 蕨手刀の反り+当時の直刀の鎬造り=いわゆる日本刀。じゃね
大名・城主だと多そうだね確かに。塚原卜伝から一の太刀を授かった北畠具教とか。 ちょっとネームバリュー落ちるけど家康の捨て子こと、松平忠輝も相当らしい。 伊東一刀斎の直弟子で、免許を貰ってるくらいだから。 …その割りに大阪の陣じゃあ不名誉な行為(敵前逃亡とも)を 咎められて「お預かり」にされたりしてるけど。 有名人は、あと…針すなお。たしか合気道7段だったはず。
>>107 Wikipediaにタモリは福岡藩伝柳生新影流居合道って書いてあるんだけど
つまり制剛流だけやってたってこと?
113 :
日本@名無史さん :2006/02/20(月) 00:40:08
柳生会(尾張伝)では「柳生制剛流抜刀」を名乗ってるね。
ttp://www.interq.or.jp/sun/shibata/yagyu-official/rekisi.html を読む限りでは制剛流は尾張藩のみの伝承の様だ。
達人と呼ばれた先代厳長宗家が復活させたっぽい気がするが・・・いや、憶測はよそうw
とりあえず福岡の柳生流検索してみた 九州は影流の本場だしw
石舟斎の高弟で萩藩指南役だった「大野松右衛門」が「柳生」姓を拝受され、
『柳生松右衛門家信』と名乗り九州山陰地方に「柳生新影流」を伝えた様だ。
福岡藩には二代目 柳生松右衛門より伝わる。
石舟斎直伝のようだ。 よって柳生制剛流の可能性は薄い。
ざっと道場の記事を見た限りでは居合は有ったり無かったりなのでやはり後付っ
ぽいかな? ・・・いや、憶測はよそうw
タモリの歴史読本の記事では「同じ福岡新陰でも道場によって『形』が違っていた」とある。
補足トリビアで、ちなみに2段だそうな。
そーいや萩藩の高杉晋作や桂小五郎ももとは新影流だったな。
長竹刀の大石進、、明治最強の剣道家松崎浪四郎(加藤田新影)も新影流だが
こっちの道統はちと不明。
114 :
日本@名無史さん :2006/02/20(月) 01:49:24
西洋の剣術見てみたけど結構動きが激しいっていうか大降りだね。 剣の重さを巧く利用して流暢な動きが面白い。
流派にわければ、天然義援流
116 :
日本@名無史さん :2006/02/20(月) 12:45:46
同じヨーロッパでも、国や時代によっても剣術の種類は違うだろうね。 北欧、地中海、トルコ、ロシアのコサックそれぞれ違うと思う。 でかい剣は威力があるから楯のガードごと吹っ飛ばせるから当時の戦術では便利だったの かも知れない。(示現流だなw) 山地湿地ゲリラ戦の多い小柄な日本人では重い楯や大剣は戦場では使いこなせなかったかもね。 テコの原理が使え、杖になる槍、薙刀の方が行軍には便利。 そのため携帯しやすい打刀が標準装備となったのではないかなー? 砲兵出身のナポレオンはフェンシングを取り入れたと何かで聞いたが、やはり携帯しやすいからで はないだろうか?
盾ごと若しくは全身鎧の上からだとアックスフレイルハルバードとかの鈍器系が主役だろ。 軽いから刀、じゃないと思う。 ツーハンデッドソード程じゃないけど、古刀は長いよ。 刀は戦国時代に、狭い場所で振り回すために短くなってる。 携帯なら、西洋にも片手剣はある。近代に短いのも出て(バスタードソード)る。 ツーハンデッドソード(大剣の事)ってどゆ利用価値があったんだ。 西洋でも長物・鈍器つき長物>大剣じゃなかったかと思うんだが、近間だと今度は鈍器の出番だろ。 対全身鎧だと、大剣の入り込む余地が見当たらないと思うんだけど・・・。 俺のイメージは「傭兵の武器」だが。 何というか、沢山武器を持てない・持ちたくないから それなりに切れてそれなりに衝撃の与えられる物を、みたいな。
っつーか、スレ違いだね、すまん。
>>113 >復活させた
公式の流史を見る限り、
復活させたとしたら先代宗家厳長じゃなくて先々代宗家厳周じゃないのか?
2月22日、竹島の日 『嫌韓流2』ついに発売! 45万部のベストセラー『嫌韓流』をまだ読んでないやつは、今のうちに買って読んでおこう
>>117 まあ、日本史板だしね…w
俺のイメージは「シンボル」かな。実用じゃなく、製鉄技術や権力関係の象徴、
武器の形をした旗印みたいなもので。何年か前に明治大学の
「処刑と拷問の文化」みたいな題の展示を見に行ったんだけど、そこに
斬首刑で使う両刃の大剣があった。裁判所か、死刑執行人がもっていたらしい。
世襲の死刑執行人がこれでもって首を落とすんだが、的が動くので斬れたもんじゃない。
おまけに鋳物だから曲がるわこぼれるわ、だめにした剣は自前で買わなきゃいけないわで、
たいへんだったらしい。実用性はないけど、象徴としては求められたんだろう。
戻す。
伊東一刀斎が戦ったという、唐人剣法というのは何なんだろう?
そもそもなぜ戦うことに?格ゲーじゃあるまいし。
122 :
日本@名無史さん :2006/02/20(月) 22:24:08
打刀の戦場での話はちょくちょく出てくるけど、主武器ではないようだよ。
また、太刀や野太刀とか日本でも西洋以上に長い刀が流派として存在する。
で、やっぱりというか、大振りでは使わないね。
>>121 武術交流や見世物的な要素もあるからじゃない?
唐人剣法だと珍しいから、強ければお抱えも夢じゃないって感じで。
十手術のチンゲンピ{漢字忘れたw}だかが柳生と御前試合しろって家光に言われて
宗矩が柳生の剣は見世物ではないとか言って断った逸話もあるし。
123 :
日本@名無史さん :2006/02/20(月) 23:16:05
ディスカバリーチャンネルで「武器ランキング」やってて日本刀が10位に入ってたwww 西洋の剣がランキングされない中唯一の刀剣として「日本刀」がランクインしてたのは嬉しかったww 侍の例みたいなので「7人の侍」と「用心棒」が紹介されていたのもよかったwディスやっぱおもすれww でもやっぱ西洋の剣に比べると扱いが断然難しいらしい。 剣術も独特で先手必勝とは行かず、相手を牽制する事が最も重要だと紹介されていた。
>>113 漏れ、そこの道場に通ってたよ
愛洲陰流の型が残ってるってのをアピールしてたな、うちの道場だと
陰流は上級者だけ習うんだけども、フライングで構えだけ先に教えてもらった
ちなみにうちの通ってた道場では、
わかりやすくする為に「居合」を名乗ってると説明してた
125 :
日本@名無史さん :2006/02/20(月) 23:39:17
あっちの剣は、戦の前に剣の先端数十センチを研いで刃をつける。 上手く「斬る」事なんて出来っこないという前提の下での武器なんだろう。 切れ味より剛性なんじゃないか。 剣術もあんまり無かったんじゃないかな、と思っている。
127 :
日本@名無史さん :2006/02/20(月) 23:51:23
日本の大型武器について私見をちょっと 弁慶の7つ道具ではないがカケヤ(掛矢、木製ハンマー)とか金太郎の使った鉞(マサカリ) は武器の他に城攻め、防護柵突破の道具としても使用できた。 赤穂浪士討ち入りの時も、掛矢、大槌で裏門を打ち破っているので、戦場でも 持ち込まれそのまま武器として使用されていた可能性はある・・・たぶん。 鈍器ぶん殴り系の剣豪には「鬼真壁」暗夜軒(霞流)がいる。 暗夜軒は長さ3メートル鉄芯鉄鋲を打ち込んだ赤樫の六角棒で人馬もろとも薙ぎ倒したらしい。
一丈か三丈の杖を振り回していたらしいね
129 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 00:08:00
130 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 01:43:28
>>117 両手剣といえばドイツ傭兵ランツクネヒトの剣ツヴァイヘンデルが最も名高いな。
その所為で「両手剣=傭兵の武器」な図式が出来たわけだが。
2mを超えるツヴァイヘンデルは日本で言えば斬馬刀みたいなもんらしく、
重量で叩き伏せるもんだったようだよ。例によって詳述は避けるけど。
確かに重量から言っても、振り回しゃ甲冑といえ何処に当たっても痛手だわな。
鉄骨柱で鉄板殴りつけるのをイメージすれば解り易い。だから使いこなせりゃ凄く強い。
向こうさんの傭兵は扱う武器が少なく大味っぽい印象があるけど、
日本と同じく槍の集団運用が多かったようだ。まぁ昔からファランクスとかあるし。
だから
>>121 の言う意味もあったのだろうと思う。実用性がないと断じるわけじゃないが。
>>121 その展多分俺も行った。欧州の中世刑吏史とか一時調べてた時があったから、
剣豪スレだがついつい語りたくなっちまうw
131 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 02:38:17
俺も行ったよ拷問展 ギロチンが普及する前の西洋ってのは同じ死刑でも できるだけ苦しませて殺すって考えなのね 頭を万力で締め上げて破壊するとか 話は変わるけど10年ぶりに全日本古武道演武大会行ったら 宗家が交代してるのが多かった 円心流の据物斬りは前宗家のはすごかったけど今度のは全然 苗字の違うおっさんだったから実力継承のはずだけど 男子の後継者がいなくて娘さんが新宗家ってのもあったなあ こういうの後代に伝えていくの大変だね
交代って言うと、尾張柳生はそろそろ交代じゃないか。
>>130 戦国時代初期にも、力自慢を特別に雇ってでかい太刀を持たせていた。
134 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 19:23:12
>>129 うん、そう
柳生松右衛門から有地家に連なる道統で、有地新影流とも言うらしい
>薩摩影之流
…うーん
構えの似てる格好の写真が何枚かあるけど、
動きが見えないのでなんとも言えない
137 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 01:31:16
>136 レスdくす。 いーねー石舟斎伝の新陰か。土佐で竜馬とかが学んだ小栗流の流祖小栗正信とかも石舟斎門人だし 草創期の新陰には興味がある。タモリの記事では居合がメインだったみたいだけど剣術は残っているの? 薩摩影・・・形は香取と直心影っぽいし足は神流に近い気もするが。影流は見た事がないしw 神陰・影流系統なのは確かだと思うのだが ・・・いや、憶測はよそうw
138 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 11:30:57
>>138 日本語表現を理解してから書き込もう
憶測になる直前で止めてるんだから他者から見ると話を進め易い
妄言をもっともらしく言ってる奴にそう言ってやってくれ
それと、ここのスレは他のと雰囲気違うのも理解しとけ
140 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 12:07:25
すみません。
俺はあんたが時々つける 「・・・いや、憶測はよそうw」 がちと気になった。 そのフレーズ付けると裏側に何か小馬鹿にした笑みを隠しているように見えなくもないかと。 ・・・これは、俺が武板はゲーム板やらと比べてずっと意味のある話をしていると思っているからそう思うんだがな。
142 :
139 :2006/02/22(水) 14:11:20
とりあえず言っとくと、俺は138じゃないから。他の書き込み要員。 俺も武板の住人兼任だけど、武板だと皆あんな感じだから、気に成らなくなってた。 それにけっこう誠意ある言い回しだと思ってたのだが・・・・ とりあえず、俺も知らずに不快にさせてるかもしれんから気をつけてみるよ。
144 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 16:10:57
剣士と拳銃で戦わせたい。
145 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 16:14:36
伊藤一刀斎とか16〜17世紀初頭にはいろんな剣豪いるけど何で銃で勝負 する奴いなかったんだろ暗殺なら銃で十分なのに、あと無理なエピソード 多すぎる、あと「子連れ狼」とかでもい つも敵側はマヌケな不注意でやられている。いい加減にしろって思う。
146 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 16:46:50
>>145 考え方の違いだろ。
有利不利の問題じゃなくて武士として刀に懸ける物は銃なんてものを邪道にさせるほど
のものだったんじゃまいか。
それに絶対勝つことが流儀だとは限らない。相打ちを根底に持つ流派もあったほど。
あと当時の銃の性能等考えると、リスクを背負っても静かに確実に暗殺を行うなら熟練した
者がやるのが一番じゃないかな?
147 :
137 :2006/02/22(水) 17:54:14
>>141 すまん141、俺ずっとこの調子で書いてきたモンで気になったらなら申し訳ない。
君も武板住人ならわかると思うが、あれ以上ネットソースのネタで語ると逆に混乱するし、ヘタすると荒れる
>>1 にも書いてあるがここは日本史板なので現代の流派・派閥争いは持ち込まない事がルール。
リンク先と流祖名が判れば、後は自分で調べて補足、反論なり提示して専門的な事は
武板で討論すればいいと思ったので「妄想寸止め」にした。
あの程度の言い回しなら冗談か妄想程度で済ませるかなーと思ったのだが、ちょっとふざけすぎた様だ。
以後気を付けます!失敬。
148 :
141 :2006/02/22(水) 20:37:55
そ、そんな事言われたらこっちも出てこなきゃなんなくなるじゃ・・・。 実は「やっべ、まずった」とか思って潜ろうとしてた。そういえばここ日本史板だっけ。 馴れ合いうざいと言われそうだが、ここは出なきゃなるまい。 あんたが何気無く書いていたって言うのは数レス読めばわかると思うよ。実際わかっていた。変えるこたない。 本来、そんな細かい事気にするべきじゃないんだよな。 ローカルルール違反気味なのはこっちのようだ。恐縮せんでくれ。 一寸動揺したのを婉曲に書いたんだ。嫌味だった。ごめんよ。 大成しねえな、俺。 以上、心の弱い阿呆なチラシの裏。
149 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 21:21:14
なんか、ここのスレの住人良い感じだね。
他のだと言いっ放しや罵りあいとかざらなのに、個人的にこのまま伸びて欲しいなぁ
>>145 銃は確か藩の装備だけで一般には出回ってないはずだよ。
特に、江戸時代にはそういう武器の流出とか防ぐように管理が徹底してたはず
加えて、銃の流派も藩に管理されてるから、剣術みたいにおいそれと決闘もできなかったんだと思うよ。
150 :
137 :2006/02/22(水) 22:06:48
dクス141さすが武道家だね。いさぎいい、馴れ合い歓迎。どんどん語ろうよw >145 伊賀同心の平山行蔵は道場の看板に「他流試合勝手次第。飛び道具他矢玉にても苦しからず」 と書いて有ったらしい。玄関には鉄砲数十丁も架かっていたとか・・・いいのかなー?w ちなみに拳銃と勝負した武芸者に合気道の御開祖「植芝盛平」がいる。この人は銃弾を避けられた(w
>>145 火縄銃について調べてみれば判ると思うけど、
当時の銃の有効射程なんてどれほど頑張ったところで百数十m、
かつ精度を求められるとなると更に射程は短くなる。当然サイレンサーなんか
あるわけないし、集団運用の釣瓶撃ちによる面攻撃なら強いが、
点の攻防には滅法弱かった。リロードだって時間かかるしね。
でもたしか当時雑賀衆辺りには精鋭スナイパー集団がいたそうで、
信長を狙撃したけど失敗し捕らえられ処刑されたりしたなんて逸話もあるとか。
どこまでが本当かは解らないが。
まぁ兎も角、銃弾も避ける植芝翁クラスさえ仕留められる(不謹慎か・・・)
個人携行可能な銃は、第二次大戦を待たなくてはならないわけで。
と書いたのは良いが、植芝翁なら短機関銃程度じゃ
飄々と避けてしまいそうな気もする。この人ミラクルすぎるからな・・・
慎まい印象の日本武道の神髄を積極的に魅せていった人だけに、
一層柔や合気のミステリアスさを強くした感じ。
普通の人間じゃあんなこと出来んわなぁ。
島津の武士は芥筒みたいな短筒を腰にさしていた。 近距離じゃないと使えないけど。 芥筒は散弾で、脅かし専用。
馬上筒なんてのもあるね。 石綿にくるんで携帯する、短銃身の火縄。 やっぱり使いどころの難しい武器だとは思うけど。 そういや、クロスボウって日本にはなかったのかな? 技術的にはそんなに難しいものでもないだろうし、あれば便利だったと思うんだけど。
そういえば弓術と戦った剣豪というのも聞いた事ないな。 武器の役割が違いすぎるから、当然といえば当然なのかもしれないが。 数十メートルも離れてれば、四方竹弓くらいじゃ軽く叩き落とされそう。
江戸初期は結構、銃は民間で所有していたらしいよ。 とある藩では、藩所有の銃よりも、民間(猟師含む)が所有している 火縄の方が数が多かったらしい。 だから、生類憐れみの令にて殺生禁止⇒銃取り上げ、になったとか。
>>152 芥筒じゃなく芥砲ね。
持ってるだけでいつ爆発するとも知れない自他共に危険な武器・・・。
島津の腰差筒は捨て奸と共に有名だね。
伊達の騎馬鉄砲にしてもそうだけど、銃は主に威嚇と面攻撃用途であり、
決して細かな芸当が出来たわけじゃなかった。
時代は少々下ってからになるが、西洋では決闘に銃が用いられてたよな。
精度の悪さから半ばロシアンルーレット的なルールになっていたようだが、
日本ではこうも刀信仰から抜けきらなかったのは何でだろう?
明治維新からようやく濫觴は見え始めるが、それでもやっぱり要人暗殺のような
重要事は刀であったりするわけで。
157 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 17:40:15
日本武士の場合「トドメを刺す」という行為の方が重要だったのかも。 要人暗殺では桜田門外で井伊直弼は実は合図に撃った銃弾に当たり駕籠の中で既に致命傷を負っていた。 その後浪士達は、わざわざ首を刎ねて引き上げるところを背後から斬られていたりするw 拳銃の弾は38口径でも鉛筆の先っちょぐらいの大きさなので。 10m以上離れると当たってるのかどうかも良くわからない時がある。 また、威力が有りすぎて貫通してもいけない時もある。暗殺は普通小口径の至近距離ピンポイントで 行うケースが多い。リンカーン、ロス疑惑の時が確かそうだった。 その距離なら刀でも威力はあまり変わらないかも。
158 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 17:46:04
勝手な思案だけど、刀が一番身近で怪しまれなかったからじゃないかと 江戸時代の刀は武士のシンボル的に存在し続けてたし。 携帯にも楽だしね。 そんなことがあって、明治政府で廃刀令出したんじゃないかな?
159 :
日本@名無史さん :2006/02/23(木) 18:21:28
第一大戦の頃まで欧州でも「剣は賢者の武器、銃は愚者の武器」と呼ばれ 剣が信頼されていたんだよ。もちろん騎士道の伝統が大きかったと思う。 第一次大戦の教訓で陸軍から騎兵が無くなり、歩兵の集団突撃も無くなってから、 欧州の騎士道の伝統も急速に廃れたけどね。
>>156 鉄砲が流行った理由が
弓より訓練が簡単で、発砲のさいの煙も重要な要素。
>>158 幕末も槍や鉄砲もっていたら
幕府に即しょっ引かれるから剣術が発達したもんな。
161 :
sage :2006/02/24(金) 00:13:12
>155 実際は猟銃なんかは中期以降でも所持しておりました 親の実家は武家作りだったのでなぎなたと手槍 銃がかかっていたそうです なにせ明治初期くらいまでは地方では熊や猪なんかがでますから これを取り締まると毎月のように役人が山狩りをしなくて はならなくなりますので実質的には銃狩は無意味だったとか あくまで「必要以上に持つな」という意味らしいです
162 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 00:20:19
黒船来航の時に世田谷の村の住民が刀銃槍を持ちよって自警団を結成したとかで処罰を受けています。 幕末期には刀銃の管理統制は実質なかったのでは。
163 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 00:27:19
>>162 管理統制があったから罰せられたんだろうが、この馬鹿!
>>163 もう少しちゃんと文章読めよ・・・
このところ銃の話題続きで、それはそれで面白いんだが
剣術チックな話題が出てこないな。1レスごとに濃ゆい議論が交わされてきたから、
そうそう語って面白そうな新ネタも無くなってきちゃったかな。
165 :
日本@名無史さん :2006/02/24(金) 00:55:12
>162 高島秋帆の例もあるし、武器を持って徒党を組んだ事が処罰対象だったのかもね。 幕府も混乱して規制緩和と弾圧を極端に繰り返していた感じ。 >164 じゃ時代を変えて幕末〜昭和の剣術でも語る?今まで流祖論が多かったからね。 別に武器術も嫌いではないがw
166 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 12:58:19
167 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 19:42:21
タイ捨流ってキックボクシングかムエタイみたいに蹴りも入るやつ? 剣術には全くの素人ですが、居合いの大会の写真を本で見ました。畳なんかを一刀両断してる写真があったのですが、あれは真剣を使っているのでしょうか。
168 :
93 :2006/02/25(土) 19:43:40
>154 天流(天道流)斉藤伝鬼坊 はどうですか?霞流との対決の時矢斬の術で数度落とした後 一斉射撃で絶命したとか 性格が悪かったと『本朝武芸小伝』や伝奇ではいわれていますが 道場開いた場所は霞流の本拠地でしたし囲まれた時に弟子を逃がしています また天覧の誉れを受けた人なので実際はどうだったのかは興味がありますね 園部師範の薙刀で天流拝見しましたが鋭かったのを覚えています
169 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 21:07:14
>167 居合は基本的に真剣。初心者とか無精者は模擬刀を使用。 普通は巻藁がわりに畳表のゴザ部分を丸めて水に何日か漬けて置いたのを斬るんだけど 畳を丸ごと1枚は普通の刀では難しい。 繊維が絡み合って固めているので、よほど頑丈な造りの刀でないと刀の方が破壊されかねない。 巻藁1本斬れる腕があれば十分致命傷になると言われてはいる。 東郷重位は碁盤と畳をまとめて斬ったみたいだけどw
皆さんの近隣に歴史に隠れたor埋もれた流儀はありますか? うちの近隣には明治に途絶えたが慈玄流と言うのがあったそうな。 こういったマイナー流儀を掘り起こし 地域との関連や様々な流派との関わりに注目してみては如何か?
公園で練習してたら通りがかったお年寄りが「不破流」の宗家だと名乗り、「うちのと似てる」と言われたことがある。 調べたら明治期の新興流派ながら不破何某が自分の学んだ4つの流派を合わせて編み出した流派であることがわかった。
172 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 23:31:28
>171 うわっいーね!晩年の斉藤一と山本忠次青年の出会いのエピソードを思い出したよ。 斉藤一ならこの後ぶら下げた空き缶をステッキでぶち抜いて見せるのだがw
173 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 23:40:21
慈玄流って検索したら館林藩と言う事になってるけど、以前雑誌で秩父か山梨の方 に有るとか書いてあったような・・・? 違うかも知れないけど。
174 :
YAP? :2006/02/26(日) 12:04:45
今日、始めてこの板を見つけて大急ぎで全部目を通したのだが、昔から気にかかっている 謎の剣客「戸田清玄」の話が出ていたが、確か、綿谷雪氏によると初代と二代の二人がおり、 初代は上泉伊勢守信綱の四天王(他は、穴沢浄賢、疋田、柳生だったかな?)の一人で当然 その直門、二代目は疋田文五郎の直門とされている。 戸田越後守綱義だが、どうも、この二代目戸田清玄のことなのか、私はそう思うのだが、 どうもはっきりしない。 もう一人、福島家に仕えた達人戸田六左衛門というのもいるが、これとの異同もはっきり しない。 まあ、鐘巻自斎(外他道家と称した?)の弟で師家の「富田」を称することを許されたが、 兄弟が遠慮して、同じ「とだ」の読みで字を変えて、「外他」「戸田」を称したのだろう。 いずれにしろ、「絹川流」「気楽流」系統の流祖のあたりで疋田文五郎(「景忠」とか「景兼」 とかではなく)「興正」?の弟子としての「戸田」が出てくるのだが、だれか整理してくれ〜! それで思い出したが、戸田清元、清眼、清喜とかあちこちの流派の伝系で似た名前の「戸田」 がでてくるのだが、大体は疋田との関連がありそうだ。 熊本細川家の「四天流」とかの伝系あたりも面白そうだが。
175 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 12:53:48
剣術では脇差しなど短い刀を主に使った剣技や流派ってないのでしょうか、少し気になったので
176 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 13:14:28
>>169 ありがとうございます。
真剣を扱うには免許‥?がいるんですよね? 居合を嗜む方の刀は自分で所有しているのでしょうか。
あと、模造刀は斬れるのでしょうか。
こういう流派の整理とか異同とかの話は、日本史っぽくて好きだ。
…といって手を貸せるわけでもないんですけどねw。
>>175 いっぱいあります。メジャーなところで富田流・中条流、馬庭念流なんかもそうでしょうか?
>>176 真剣を持つには登録するだけでよかったと思う
猟銃みたいに免許や資格が必要なもんじゃなかったはず
漏れの通ってた道場では、試斬の稽古のときは自前の刀を使う人もいたし、
宗家が保管してる練習用の軍刀まがいのオンボロ刀を使う人もいた
漏れはたいていオンボロ刀の方を使ってたが、
一度師範の刀(200万↑)を借りて使ってみたんだ
そしたら巻き藁が空を切るみたくすんなり真っ二つになるすごい切れ味で愕然とした
やっぱりいい刀は違うんだということを実感したよ…
ちなみに模造刀(正しくは模擬刀)は切れないよ
刃をつけることも基本的に出来ない代物
180 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 14:19:18
>>174 やはり新陰系の「戸田清玄」と中条流系の「富田勢源」という剣豪が2人いた
と言う事なのだろうか??
柳生石舟斎の師匠の「戸田一刀斎」は疋田の弟子で、
小太刀の名手の「外他一刀斎」は勢源の弟子と言う事なのかな????
181 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 15:31:44
>>178 >>179 ありがとうございます。
自分は剣道もやったことがないのですが、日本刀は美しいなあと思います。しかし200万‥高価ですね‥
182 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 21:27:15
軍刀もピンキリなので研ぎあげて拵えを変えると見間違える物も有る様だ。もちろんピンキリね(藁 「研ぎ」は一寸○万円かかるのでそっちのほうが高くつくw 現代新作刀、中古刀でも安いのは50万円前後。買えなくはないぞ・・・ふっふっふ
183 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 21:51:06
うううう ふっふっふされてしまった
186 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 18:46:48
親戚に研ぎ師が居るけど事実上開店休業。 一族に何振りかある日本刀も祖先が見たら泣くような扱い。
187 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 20:00:51
177 富田、中条、馬庭念流がそうだと は知りませんでした。短刀の剣術 に興味があったので調べてみます ありがとうございましたm(_ _)m
188 :
日本@名無史さん :2006/02/27(月) 23:12:42
>187 馬庭念流は、たしか総合武術で「短刀・小太刀」のみの流派ではないよ。 剣術にはどの流派にも小太刀の技が普通5本くらいは付録で付いている。 現代剣道にも小太刀の形が3本あるし二刀使いもいる。 柔術なら「竹内流」の小具足(短刀術)が有名・・・剣術とはちと違うけどねw もし富田流・中条流の道統に興味があるならこの剣豪スレの79以降でも延々と語られているよw
189 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 07:30:25
190 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 08:34:02
居合を嗜んでおられる方は、何歳位から始められたんでしょうか。始めるのに年齢や経験は関係ありますか?
191 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 12:44:36
>>187 短刀術だけの流派というのは、明治前期までの流派が載っている本には無かったよ。
剣術流派の基本は総合武術か、総合刀術みたい。
最近はDVDとかで各流派の形や説明とか出てるからそれを見るのが早いかも。
本だとやってないとわかんないのが多いし・・・って映像もやってないときついけどw
ちなみに、5000円くらいとかが相場のようなので上記に上げてもらった流派を探してみるといいかも
加えて、小野派一刀流の小太刀も面白かったよ{特徴だけなら本も出てるし}
193 :
日本@名無史さん :2006/02/28(火) 20:13:12
そうだね、我流で最初からは無理っぽいね。最低限総合的な「形武道」を1〜2流派は 身につけていないと・・・ 逆に達人は伝書や形を見ただけで技を復元できるけどね。実際伝書、形から復元の流派は相当数ある。 現存する有名流派も結構失伝と再生を繰り返している。天然理心流もそうだったかな?
194 :
日本@名無史さん :2006/03/01(水) 05:22:40
日本における体系的な剣術の起こりっていつでしょうか?
>>194 >>14 にある「鹿島の太刀」が記録上では一番古いかな。
西で起こってる京八流とか大分後だし。
その辺は二桁台である程度話になってるよ
196 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 05:50:50
「鹿島の太刀」が記録上では一番古いとは言っても、 具体的に現存する流派では何だろ? 鹿島新当流は、「鹿島の太刀」をベースに塚原卜伝が創始したものだし、 鹿島神流は、国井家代々でかなり改変してるでしょ?念流を加えたり・・・ やはり流儀から言えば、香取神道流が一番古いのではないかと・・・
198 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 19:33:59
188 ほかの流派にも小太刀はあるとは知らなかったです、太刀ばかりだと勝手に思い込んでいました(^。^;) 192 剣術のDVDが出てるとは思いませんでした、見てみたいですね。ちょっと高いですが( ̄○ ̄;) お二人とも度々ありがとうございましたm(_ _)m
199 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 17:46:54
まあ、武芸自体は記紀神話の時代からあるにはあるw 一撃で斬り殺したり、素早く蹴ったり、当て身一発で倒したり、葦を折る様に投げたり出来た様だ。 平家や太平記の様な軍記見てもかなり高度な武術を使ってる感じだけど流派名は出ない。 鎌倉期に念流の「念大和尚慈音」が居るがこの人は念流以前に鎌倉、鞍馬等で武芸を学び 18歳までに3流派学んでいたらしいがもちろん流派名はいずれも不明。 ○○流と名乗り他流試合の数を競うのはずーっと後の室町末期。 それ以前の『試合』とは奉納試合や御前試合みたいな神事や上覧 つまり村相撲、大名相撲みたいな物だったと思う。 鹿島神人塚原ト伝が「武者修行」を称し鹿島武芸を各地豪族に広め、 その地の戦場で実際に戦い活躍した。 その宣伝が大成功し他者がそれに倣った。 ○○流と名乗る事で仕官の道となれたのがこの頃だったと言う事だろう。
そのへんになると、事実かどうかとかじゃなく、何のメタファーなのかってほうが大事そうだね… 当麻蹴速の相撲とか、その類か。 目先をかえていわゆる「剣術」の分化したのはいつごろだろう? たとえば卜伝や一刀斎のころ…室町終盤ごろ〜江戸初期くらいの時代だと、 刀槍弓馬水練、具足の着付けに鋳掛…という、兵法・軍学のいち科目という イメージが強いように思う。卜伝や一刀斎は兵法者であって、武芸者ではない。 楠流を称した由比正雪も軍学者で、その道場も武道場ではない。 集団としての戦術がスポイルされていく過程で、個人的な修練と教育的な徳目として 成立していったのが、いわゆる剣術…なんじゃないだろうか。 でも、さてどの段階でそうなったのかというのがわからない。
>>173 遅レスになってъ( ゚ー^)スマソです
当方山梨の片田舎です(山梨自体が日本の片田舎とか言わないでねw)
祖父から伝え聞いた話を一つ・・・。
慈玄流の名人橘田太右衛門が免許皆伝を許されたときの逸話
「太右衛門の師は弟子達の中から流儀の後を継ぐ人物を見出そうと
思案を凝らした。
廃寺に?(ここら辺失念)夜になると何かが出るという噂を近隣に流し
弟子達にその正体を一人ずつ見に行かせたという。
無論その「何か」の正体は太右衛門の師であった
暗闇の中で時には弟子に襲い掛かり、時には物音で脅して追い立てたり
あるいはまったく姿を見せずに立ち去らせたりしていたらしい。
「何か」の正体が判らぬままいよいよ最後の弟子太右衛門の番がやってきた!
長文駄文なので打ち切り
202 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 15:06:56
まあ、あまり「剣術」のみの流派成立時期については今まで出た通りだろうね。 ただ剣技自体は当然剣が生まれた時代から有るのが普通だろう。ただし軍人相手 剣のみで生活できるようになるのは鎌倉以降だろうね。 初期はたぶん口伝、実技のみで「コーチと選手」みたいな感じだったんじゃないかな? 現代で言うなら自衛隊で働いてた人はたくさん居るけど格闘徽章もってる人はごく一部。 当然軍関係は一般には広まらない。一般記録にも残らない。 ついでだが楠流軍学の由比正雪は江戸一番の武芸者だった。堤宝山流の宗家で鹿島神流 の剣客でもある。本朝武芸百首に出てくる宇治常悦とかいうのはホントは由比正雪の事。 甲州軍学の小幡勘兵衛は一刀流小野忠明の直弟子。
203 :
日本@名無史さん :2006/03/04(土) 15:09:36
>201 当然続くんだよな?w
>>201 続きはどうなったの?
かなり気に成るので続きお願いします。
こんなところで止めるとは曲者じゃのう
206 :
201 :2006/03/04(土) 22:24:47
続きですm(_ _)m 姿を隠しながら師は廃寺に飄々とやってきた太右衛門を見やると 「こやつも駄目か・・・」と言って件の手で襲い掛かったが 太右衛門は悉くをかわしきり 「為るほど見切ったり、しかし某には討てませぬ」(ここも曖昧)と言って 廃寺から抜け出し立ち去ったと言う。 後日太右衛門は師に件の出来事と「何か」の正体を伝え免許皆伝となった。 こんな感じの話だったのですが塚原ト伝が息子たちに跡を継がせるという 逸話に趣が似ている感じです。 不意打ちを喰らい後れを取る未熟者、怯えて逃げ出す小心者、 師と見破れず斬りかかる不心得者、隠れている師を見出せぬ不利目者など 様々な篩いにかけ太右衛門を後継として選んだと言うことらしいです。 因みに話の出元について 祖父は家が貧しかったので奉公に出され、その奉公先が 数代に亘って慈玄流の師範家だったとある村名主の家だったと言う事が 最近調べたら判ったので多少祖父の脚色はあろうとも ちょっとした言い伝えだったんだな〜と思いましたw
>>206 おお、おかげでちゃんと眠れそうです{^^}
208 :
YAP? :2006/03/05(日) 17:47:35
180氏へ質問。 柳生石舟斎の「師」の戸田一刀斎というのは、信頼性のある史料に 載っているものですか? 「神取新十郎」というのは、「香取」家の出身であり、多分 池田家の師範となった(確か「東新陰流」を称した)香取和泉の一族 でしょうが、この香取和泉も、疋田文五郎の門下です。 また、鐘巻自斎が「富田流」系だとして、戸田清玄との兄弟関係の 信頼性についてはどのように考えておられますか? さらに、「巌流」の佐々木小次郎をやその伝系を、新陰流なのか、 中条流/富田流系のどちらとお考えですか? 「虎切り」はともかく、俗説の秘太刀「燕返し」は、これを 「燕回(廻)」と書くと、「猿回(廻)」と音通し、新陰流表の 猿飛(燕飛)の形とも重なりそうだし・・・。
209 :
180っす! :2006/03/06(月) 13:52:26
>>208 戸田一刀斎が石舟斎の師匠というのはwikiネタですから資料的価値は
ありません。適当で御無礼w
「神取新十郎」は香取家という事ですが神官の香取家の事っすかね?
「木村助九郎兵法聞書」(岩波文庫「兵法家伝書」補注)では
『宗厳、手字種利剣の習は九字護身法の・・・略・・・又、
新当流之元来、シュジシュリケン、真の太刀と申所を御工夫・・・略』
・・・と、石舟斎が新当流の剣士より「手字手裏剣」と「真の太刀(間の太刀?)」
の極意を学んだと記載され、また柳生流の「九箇」も神道流が前提となってる
事を考えても新陰は神道流の発展形なのは確かだと思いますよ。
・・・まあ、それも推測ですがねw
この木村助九郎兵法聞書の「木村助九郎」も小太刀の名手だったそうです。
ちなみに助九郎は紀州徳川家指南で運籌流の初祖ですが映画や時代劇では
いつも十兵衛の引き立て役として犠牲者となる気の毒な剣豪ですw
「巌流・富田流・柳生流」の関係については全く判りませんね。技を見た事もないしw
堤宝山流の説明文には
ttp://www1.ocn.ne.jp/~masaki-o/thesis1.html#1-2-1 『寶山流は中條流の末流で、表は、燕飛、燕廻、・・・以上十一手で・・・』
と、有るので名前では確かにどっちもかぶってますね。
210 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 17:05:56
参考になるかわからんが、即出の厳流について資料を掲示してるサイト
http://homepage3.nifty.com/ganryu/ 柳生新陰流についてちょっと補足しておきます。
まず、剣術一般において、師や流派をいくつも兼任するのは比較的一般的だったとのこと
そして、太平もあり趣味人{失礼な言い方だけど当て嵌まるのが無かったので}は同士で交流を持つようになったとこと。
また、技を磨くには他流派の刺激が必要ということで各流派ともに技の吸収がなされたとのこと。
この性質は江戸柳生ではそれほどではなかったようですが、尾張柳生では活発だったようです。
例で言えば、尾張での新陰流二刀剣は宮本武蔵から円明流二刀剣を兵庫介が伝えられ発達させたとのこと。
また、二刀破りの秘術も伝承されている。
他にもこの兵庫介は霊峰和尚を介して、その叔父の小野忠明と交流を持っていた形跡もある。
この忠明は十兵衛を指南していたという記録もある{十兵衛は兵庫介と親密らしい?}
以上は田中普門著 「古流剣術概論」と「古流剣術」の新陰流の考察から
また、柳生は「後の流派」と称されるそうなのですが、相手の攻撃に合わせて技を派生する物が多いとのこと。
これは上泉伊勢守が香取神流を修練していた影響では無いかとも言われてます。
陰流は神道流系ではないが、新陰流は神道流を汲んでいるとのこと{系統では一応異なる}
蛇足としては、柳生の秘伝技も「小転」と言われる小太刀術があります。
これは陰流の松本{杉本}備前守から新陰流の上泉伊勢守へ、そして石舟斎へと伝わったそうです。
現在は、転会の宗主 渡辺忠成氏{
http://www.shinkageryu.com/index_main.html }に伝わってるとのことです。
{↑尾張柳生流世伝とは異なる柳生新陰流の一流派}
211 :
210 :2006/03/06(月) 17:15:25
212 :
日本@名無史さん :2006/03/06(月) 23:59:34
>>201 よっしゃ!見つけたぞ「慈玄流 橘田太右衛門」
出典は今や武板では電波雑誌として名高い秘伝1992年冬季号だがw
201の話は「東八代郡誌」に、ほぼ近い形で実際掲載されている様だ。
他にも道場破り相手に空中に飛び上がった話や(足鐔か?w)
雨の中、鉄扇一本で全く濡れずに出歩いていたとか地元の人の証言が書いてある。
明治13年没、93才だそうな。
>>212 蔵書から紐解いていただいたようで忝い^^;
東八代郡誌なら地元の図書館にあるはずなので休日に行って見て来ます。
因みに祖父が奉公に出された「とある村名主」のその家には
まだ師範家を務めていた当時の道場らしき物が残っていました。
>>209 柳生会(柳生新陰流兵法)の講道で使われている資料に、「伝位の順 小転」ってあるよ。
215 :
YAP? :2006/03/08(水) 15:28:31
>>209 「神取新十郎」が、香取家の一族であることは、例の綿谷雪氏の本に 書かれていました。 香取家の項には、詳しい香取一族の系譜も乗っていました。 私は中学生時代に読んだ週刊新潮連載の五味康祐『柳生武芸帳』の 登場人物の「山田浮月斉」が実在の人物であることを知ってから、 新陰流や疋田門下について興味を持って調べ始めたので、武芸としての 陰流、新陰流についてはさっぱりわかりません。 しかし、流祖の名前を誤記するような流派の伝承が、余り正確とは思えない ・・・。 「松本」を「杉本」とするのはいくらなんでも誤伝としかいえないでしょう。
216 :
214 :2006/03/08(水) 21:14:28
217 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 23:00:16
え?「山田浮月斉」って実在したんだ、すごっ!良かったら情報下さい。 みなもと太郎が「子連れ狼の裏柳生は尾張浦柳生(浦蓮也)がモデルだろう」とか書いてた から浮月斉も誰かをもじったのかと思ってたw まあ「杉本備前」に関しては、まだマシな方だと思うけどw 直心新影がメジャー だったから問題になっちゃったんだろうね。
218 :
日本@名無史さん :2006/03/08(水) 23:10:23
>210、214 ・・・「柳生会」「転会」の派閥に関しては、ここ(日本史板)ではあまり触れない方が・・・
219 :
210 :2006/03/08(水) 23:50:18
>>218 了解です。
これ以上は日本史板らしくなくなりそうだから・・・って建前で止めておきます。
どっちみちこれ以上は私は触れられたくないので安心してください。
220 :
214 :2006/03/09(木) 01:29:17
ほいさ、承知っす。
221 :
YAP? :2006/03/09(木) 18:57:59
217氏へ 山田浮月斉は、疋田文五郎の高弟で、肥前唐津の寺澤家の電撃流の開祖中江新八と並び称された達人ですが、もう一つ形跡がはっきりしません。 尾張柳生家の記録にでてくる疋田陰流の道統三代目を継承した「山田宗江斎雪カン(火間)」(勝興)と同一人物であろうとされていますが、 そうすると疋田文五郎の直門ではなく、その後継者疋田伝兵衛(尉)(宗保斎、景吉/能?)の門下であるとも考えられますが、或いは疋田 文五郎直門で、伝兵衛のあと、疋田派新陰流の総帥になったのかもしれません。私はそうだろうと推測していますが。 更に山田浮月斉が、肥前唐津藩寺澤家に仕官していたか否かも問題です。 同藩には、先程書いた「電撃流」の中江新八(中井新八とか、中川新八路とも、ただし近江の「中江氏」の出身だと 思われるので中江新八がただしいでしょう)の一門が名を成していましたし、更に藩主の寺澤家の一門で、宮本武蔵も対決を 避けたともいわれるやはり疋田門下の達人で安芸浅野家に仕官した「寺沢半平」という達人も居り、そのような小藩に、 有名な剣客が多すぎるという漢字もします。 ちまみに、五味康祐氏の『柳生武芸帳〉には、寺沢はちらりと名が出ますが、中江の方は、全く出てきません。 浮月斉と宗江斎が同一人だったとすれば、尾張柳生の記録は無視できません。 柳生兵庫助利厳(伊予守長厳)は、疋田文五郎の直門でもあるからです。 疋田門下には、外様大名というか、豊臣系大名に仕官」したものが多いのが特徴です。 肥後細川家の上野新陰流の上野左右馬之助(『肥後武道史』によれば、細川家の剣法師範家では、上野新陰流が第一とされ、 二天一流よりも上位でした) 黒田家の菅和泉(黒田二十四騎の一人で、朝鮮でトラを斬り殺した) 安芸浅野家の寺沢半平 肥前唐津寺澤家の中江新八 福島家の戸田六左衛門 加賀前田家の戸田越後守綱義(六左衛門との異同は不明) 阿波蜂須賀家の猪多流槍術の猪多佐織重能(疋田伝兵衛門下か?) といったところです。 勿論他にも、後の真蔭流や、大島流槍術の系譜につながる剣客もいますが。
222 :
YAP? :2006/03/09(木) 19:06:27
追加 「疋田陰流」の名称は、山田浮月斉〜宗江斎からはじまったもので、否来た文五朗は 「疋田陰流」を称していなかったという説があり、私はそれは正しいのだろうと思います。 おそらく疋田文五郎は「新陰流」を称していただけでしょう。 あ、それと池田家に仕官した「東新陰流」の香取和泉の名前もうっかり書き忘れました。
223 :
217っす! :2006/03/09(木) 23:26:01
おぉ! YAP?殿、大変な資料をありがとうございます。 気軽に情報下さいなんて言ってしまって申し訳ない。 なるほど例の加賀前田家「戸田越後守」がここに位置する訳ですな。後は・・・ほとんど 知らない剣客がずらりと・・・(汗 個人的には浅野家の寺沢半平が気になりますね。検索してみますた。 「日本武術神妙記」によると 寺沢半平は唐津藩主寺沢志摩守広高の甥で浅野但馬守長晟の弓頭で千石の禄。 剣術の達人で、他流試合では二刀剣士を素手で投げ飛ばし、怒った相手が手裏剣に 短刀を投げつけて来たが半平はそれを左手で捕まえてしまったとか。 唐津は元々水軍で有名な上松浦党波多氏の本拠地でした。 ひょっとしたらそこには影流の剣士が居た・・・かも 唐津藩主寺沢広正・広高の父子は秀吉がまだ織田家臣であったころから仕えていた秀吉側近 唐津藩は表向き12万石であったが実質20万石前後だったと言われている。 2代藩主寺沢堅高の代に島原の乱が勃発。乱の終結後、責を問われ天草領四万石を収公、 寺沢家は断絶、改易となったとか。
224 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 00:00:25
↑失敬。寺沢半平の件ちょっと間違い。 二刀使いが勢い込んで打ってかかる処を半平は入れ違いて手取りにし、横に投げ倒して、 「これはやわらじゃ」といって大きに笑った、その後相手が手裏剣に 短刀を投げつけて来たが半平はそれを左手で捕まえ「右手の竹刀で」相手を打つた。 ・・・とあるので素手ではなく竹刀持ちでした。 他にも半平はヒマな時友人と打ち合をして、相手には長い竹を持たせ 半平は扇で戦ったが危いことはなかったとか。
225 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 04:18:06
久々に覗くので大分前のことについて
>>96 の唯心一刀流について書くね
唯心と言い始めたのは俊定から。
目録によると流祖は鐘捲外他通宗(鐘捲自斎なんだろうね)、
次が伊東一刀斎影久(かげの字が小野派と違う)
それから、俊直、俊重、俊定・・・
唯心一刀流太刀の巻には、一刀斎は鐘捲外他通宗の弟子だから外他流を名乗ったと書いてあるよ
あとね、おいらの持ってる外他流目録又は一刀流古傳目録(図書館の人に写して貰った奴)
には表に天狗所ってあるんだけど
なんか新陰流に同じ名前無かったっけ?
226 :
日本@名無史さん :2006/03/11(土) 04:48:36
↑伊東じゃなくて伊藤でした。訂正します
229 :
YAP? :2006/03/12(日) 12:26:00
柳生兵庫助が、加藤清正に仕えたことは良く知られていますが、一般にそれは祖父の 柳生石舟斎の推挙と考えられていますが、或いは、疋田文五郎の「直門」であったことが その有力な理由かも知れません。 黒田家の本来の重臣だったトラ殺しの菅和泉を除き、福島正則に仕官した戸田六左衛門、 池田家(おかやまだったと思いますが)の香取和泉(兵右衛門忠宗)、浅野家の寺沢半平、 寺沢家の中江新八など、おそらく関白豊臣秀次の兵法師範だった疋田文五郎との関係がありそうに 思えるからです。 中江新八などは、同じく秀次の兵法師範だった「富田流三名家」の一人長谷川宗喜の門下だった ことも知られています。 菅和泉のトラ殺しの太刀は、戦前国宝指定を受けていたそうですが、空襲で失われたそうです。
230 :
日本@名無史さん :2006/03/12(日) 19:45:15
>>225-229 やはり・・・ややこしくなってきましたのうw
疋田が外様系になってしまったのは時代のせいでしょうな。当時は豊臣の天下っすから。
家康は「徳川の臣」として柳生を選んだ。(小野は秀忠以降)
あと、疋田門人の戸田と香取なんだけど、以前話題に出たwikiネタの「戸田一刀斎」
これからは推測なんだけど
石舟斎の師匠がホントに「戸田一刀」なる者だとしたら、それは上泉来訪のさい
柳生の庄に残った疋田門人だったのではないだろうか?あるいはそれ以前にその門人と
コネクションが有り上泉の柳生来訪がかなった・・・
いくら石舟斎が機内一の使い手でも自主トレで新陰マスターしたとは思えないしw
木村助九郎聞書にある石舟斎が「十字手裏剣」と「間の太刀」の極意を学んだという
『新当流の剣士』もあるいはこの疋田一門の戸田、香取家縁の者だったかも・・・
・・・と妄想はやまない(笑)
231 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 21:15:49
とりあえず、>>91-
>>100 に富田流からの戸田一刀斎の話が出てるので参考に
結構突っ込んで話が出てるよ。
ちなみに、石舟斎の師匠の一刀斎は伊藤一刀斎説・鉢巻自斎説というのがあるよ。
交流時期も京付近でというのがあるので結構有力
232 :
日本@名無史さん :2006/03/13(月) 23:20:39
柳剛流は幸手で足を払うくらいしかわかりません。 また、二階堂流について興味がありますがよくわかりません。 誰か詳しい方教えて下さい。
233 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 00:23:54
とりあえず、柳剛流についてネットだとこれくらいかな。
http://www5.inforyoma.or.jp/~appli/monogatari/kenjutu.htm http://tokyo.cool.ne.jp/jiyubei/ken/ryugou.html どれも、脛切りが有名だというくらいだね。とりあえず、手元にある本に出てる概略だけ書くね。
多摩三大流派の一つ。江戸四大流派に次ぐ人気の流派
道場は神田お玉池{北辰一刀流の玄武館の近く}
武州葛飾郡惣新田村字九郎新田生まれの岡田惣右衛門奇良{1765-1826}が創始。
彼は心形刀流と三和無敵流を修めた末に実戦色が非常に強い当流を興す。
この流派の特徴は、脛切り以外にも、薙ぎ切りと突きがある。
もっと言えば、三和無敵流に伝わる薙刀の技を剣術に取り入れたという特徴である。
{薙刀道には脛切り・薙ぎ切りが基本としてある}
ちょっと技術論になるが、脛切り以外の二つを説明すると
薙ぎ切りは他の流派よりも遠心力を利用し、甲冑などで武装した相手にも多大なダメージを与えるようにされている。
また、突きも武装した相手を想定したもので分派の岡田十内は刀の切っ先を両刃にして威力を上げていたとか。
また、指導システムを当時の流派では革新的であった北辰一刀流と同じく
「切紙」「目録」「免許」の三段階にするなど指導システムの近代化が図られている。
また、脛当てを加えた防具で打ち合うシステムながら実戦でも変らず強いという珍しい流派
{私見ながら、北辰一刀流との交流が激しいことが一因と考えられる}
当時の時代風潮に非常にあった先進的かつ実戦的な流派だったようだよ。
235 :
232 :2006/03/15(水) 00:42:54
>>233 ありがとうございます。
しかし、鎌倉時代の太刀なんざ振りまわすには難しいと思いますが、どんな扱い方をしたのやら?
>232 初めて書き込む者です。 太刀での剣術のことについてですが、以前、何かのテレビで見た事があります。 戦国時代くらいまでは、「沈なる身」という今とは全く違う剣術体系だったようです。 越を思いっきり落とし、前屈みになって、刀を双手に握った状態で思いっきり前方に突き出した、 独特な基本姿勢でした。 打ち刀が本格的に普及してから発展した、とどこかで聞いた事があります。
237 :
236 :2006/03/15(水) 09:02:00
最後の一行、間違えた。 「今も残っている剣術は打ち刀が本格的に普及してから発展した」のマチガイ。
甲冑+“太刀をはいて”居合や剣術をする、流派として有名なのは 美作から播磨にかけて伝わった今枝流と支流の初実剣利方一流。 太刀のメリットの一つは、短刀と違いしゃがまなくても、倒れてる相手に 簡単にとどめを刺すことが出来る。 坐の部では、正座ではなく古式の則って片膝立てて座る。 立ち居合は、太刀をはいてるので(刃が下向き)反りに合わせて、下からすくい上げるように 切り上げるのが特徴。 一番リアルなのは、とどめを刺す部分で、寝ている敵の鎧を、 自分の太刀の切っ先でめくり上げてから、突き刺すところ。
239 :
日本@名無史さん :2006/03/16(木) 00:34:04
まあ古流では脛切り・足斬りは結構普通にある。 ただ問題は『相打ち』の場合、頭と手と足ではダメージが違うと言う事かw 236の「沈なる身」とは甲冑を着けた場合つっ立った状態より甲冑の隙間が少ないから じゃないかな? 古流では甲冑介者剣術と防具無しの素肌剣術を別個に併伝している流派も有る。
240 :
日本@名無史さん :2006/03/16(木) 00:45:46
>>236 吉野(南北)朝期の刀は帽子(切先)が大きく、重ねが薄い。
そして、あまり反りが強くない。
だとしたらどんな剣術だったのか?
>>238 >切っ先でめくり上げてから、突き刺すところ
その場合帽子の先が欠ける可能性大だけど、猪首だから納得するような・・・
だったら一枚帽子がいいよね。
上記の吉野(南北)朝期の刀場合どうなんでしょうか?
猪首は切っ先が欠けたのを直した状態だから、 結構、突き刺したりしてるんだろうな。 古刀の束刀なんかは、切っ先だけ焼きが戻ったのが結構あって、 たき火で火箸の代わりにしてたそうだ。
242 :
日本@名無史さん :2006/03/17(金) 21:23:39
>241 用語解説おねがいします。初心者でスマソ。
243 :
日本@名無史さん :2006/03/17(金) 22:43:11
漫画の話からで恐縮なんだけど、子連れ狼の敵役に念流使いが幾人も出てくる。 江戸時代の念流ってどれくらい普及してたのかな? 一刀流とか陰流なら多そうだけど、江戸時代の念流は馬庭念流くらいしか思いつかなくてw
244 :
日本@名無史さん :2006/03/18(土) 01:46:53
一刀流とか新陰流は武士のブランド品として広まった部分もある。 実際に関東で修行者人口が多く実戦的だったのは馬庭念流の方だろうな。 詳細は分からないが樋口家の馬庭念流は代官御用を勤めていたらしい。 江戸でも念流は南北町奉行所や火附盗賊改め番所の捕り物の指導にあたり その専用道場もあったとか。 馬庭念流の剣客として有名なのは赤穂浪士の「堀部安兵衛」 江戸小石川の堀内源左衛門正春道場(念流系)の師範代であり高田馬場の決闘で有名。
245 :
日本@名無史さん :2006/03/18(土) 01:57:05
>>234 なぜ各道場に頭山満の額が飾ってあるのか不思議だったので調べてみた。
玄洋社と武道の関わりに関しては
ttp://cgi.kuretakekai.com/rekishi.htm によると
>「沖縄県設置(琉球処分)」を巡って日清両国の対立。それに対して
>血気盛んな向陽社(後の玄洋社)では「討清義勇軍」の募集を行い
>大層武道熱が盛んになったと記録され・・・
・・・と、ある。
板垣退助に従い自由民権活動をしてた頭山が右傾化していくのも
近隣某大国の外圧がきっかけだったのは面白いw
朝鮮の「金玉均」が清国からの独立を目指したクーデター甲申事変から
日清戦争。孫文の武装蜂起と日本亡命。日露戦争をへて
玄洋社は「満州義軍」として馬賊ゲリラ部隊を組織する事となる・・・
辛亥革命後、袁世凱に追われた孫文を頭山は日本に匿う、
その時護衛に付けたのが「玄洋社の豹、人斬り天風」と呼ばれていた軍事探偵
あの『 中村天風 』だったのだっ!
>>242 どの単語の意味を知りたいの?
全部説明すんのは面倒だから、知りたいのだけ言ってくれ。
247 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 02:42:38
>>246 手間かけさせてすまない、「猪首=猪首切先」「古刀の束刀=室町末の粗悪刀」
なのは分かったのだが。
『切っ先だけ焼きが戻ったのが結構あって、たき火で火箸の代わりにした』
の意味が知りたい
248 :
YAP? :2006/03/19(日) 12:40:57
231氏へ その91〜100前後の所も含めて全部読んだ上で、何か新事実が無いかと 思って、書き込んだのですが・・・。 どうも、綿谷雪(戸伏太兵)氏の本異常の史料は中々出てこないようです。 230氏へ 柳生石舟斉の師匠と伝えられる「神取新十郎」が、香取一族で、池田家に 仕えた疋田文五郎門下の「東新陰流」の香取和泉守(兵右衛門忠宗だったと思う) とも同じ一族だったとするのは確か綿谷氏の説です。 香取一族は、「忠」を通字としているようです。 しかし、柳生宗巌は、上泉伊勢守の門下になる前に、神道流/新当流や、中条流/ 富田流を学んだとされていることから、香取神十郎が、疋田についてきて野牛が その弟子ニなった可能性は無いでしょう。 確か、綿谷氏の香取派の流系でも、和泉守忠宗之一〜二世代前だったように覚えて います(阪神淡路大震災の時に、本が散逸していまだに探し出せない)。 いずれにせよ疋田文五郎は、上泉門下の長老であり、神後伊豆と並び、柳生や丸目蔵人 よりも格上でしょう。柳生は、徳川将軍家兵法師範家となったため、「新陰流正統」 〜「嫡流」と後に見做されるようになったのでしょう。 実際に、足利将軍家(確か13代義輝)には神後伊豆が、織田信長の嫡子信忠や、関白 豊臣秀次には、疋田が教えてたとされます。
>>247 それは多分『野営で火を起こした時、焼けた薪を返したり食べ物を刺して焼いたりと、バーベキューの掴む奴(でかいピンセットみたいなの)みたく刀を扱っていた』
『そんな風に刀を熱い火に当てたから、折角焼き入れした刀が再度熱され、もろくなってってしまった』
『刀は焼きの後の冷却で固くなるから、熱しっぱなしで鞘に戻すと、冷却の意味が無くなる(焼きが戻る)』
って意味かと。
スマン、本人じゃないから詳しくは分からんm(_ _)m
250 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 21:29:10
>249 おっ!ありがとう分かり易い! なーるほど、確かにそんな事ありそうだw
251 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 21:40:38
>YAP?殿 疋田は豊臣に近かったから徳川から距離を置かれたのかな? 丸目蔵人は人吉に帰ってからチョンボして隠棲しちゃったからいくら強くても論外だけど。 家康は水戸徳川頼房に命じて、鹿島の伝書を焼き捨てさせ配下に治めたという話なので、 徳川にとっては鹿島系の新陰流自体が邪魔な存在に映っていたのかも知れませんね。 鹿島は江戸に近く、武田家に近しい存在でした。 新陰直系は関西伝の柳生という事で無難に納めたのでしょう。 ちなみに家康自身は三河奥山系の新陰流だったようですw
初めてここに書き込みます
>>241 猪首切先は元からそのような形の切先なので
折れたから猪首はちと間違え
もうひとつ、焼きは火箸利用ごときで簡単には焼き戻りをしないので、それはまた別の理由かと
253 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 03:03:36
>252 dキュウ また寄って下さい。 よかったら前レスにある刀剣の強度について(百人斬りは可能か?とか刃の薄さについてとか) コメントがあったらお願いすます。
254 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 10:29:09
>>252 火箸がどんくらい熱くなるのか知らないけど、200度超えるようなら焼きは戻ると思う。
ただ400、500度を超えないならそこまで軟化しないとも思う。
焼きが戻るって、マルテンサイトじゃなくなるってこと?
256 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 12:50:49
いろいろ難しいんだね・・・ 切れ味だけならともかく刀剣は打撃に対する強度もある程度必要だからなー。 束刀のナマクラだとなおさらなのかな?
257 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 14:54:15
遅ればせながら
>>244 お答えありがとうです。念流ってずっと有名だったんですね。
馬庭念流は地元とも武術ファンくらいしか周囲の人は知らなかったのでかなりマイナーなのかと
有名だったなら敵役として出てきても知ってる人の間では違和感ないですね
258 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 15:12:22
刀剣の焼きについての話だけど、数打ちの粗悪品は火に入れると弱くなるとのこと。 数打ちは刀身の層がほとんどないんですぐに芯まで浸食されるとのこと 特に温度の低い火にだと構成中の鉄が酸化してしまったり、含まれている炭素が二酸化炭素になって飛んでしまうとのこと。 結果、鉄の劣化と鋼部分の純度が高まって硬くもろくなるんだとか。 強火ならば鉄部分も変化するから逆に酸化などはしないんだって。 この話は、昔に鍛冶屋で聞いたもの。専門用語とか無かったから詳しく知りたかったら鋼関係で調べると良いかも。
259 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 17:32:40
>>255 そんな感じかと
>>258 火に掛ければ名刀でも粗悪刀でも駄目でしょ。
で普通、鋼は火に掛ければ硬さが低下し軟化するかわりに衝撃には強くなる。
というのが一般的な見解では?脆くはならんと思う・・・
鍛冶屋さんの意見を無視したくは無いけどね。
ただ言っておくと、世の中には高性能+耐熱性大なんてな最高の物質なんかないとおもうけど。
鉄および刀が脆いわけじゃない。
261 :
日本@名無史さん :2006/03/20(月) 22:17:13
一部でそれがわかってないようなので。確認の意味で刀の構造の基本事項2つ書きます。
刃物板でないので、ごくごく簡単に書くので、細かな違いは大目に見てください。
まず一つ目、多重構造であるということ。
創造としてはパイ生地を思い浮かべて見るのがわかりやすいかも。
あの生地の重なりに対応して刀身は層を成している。
このために、品質の良い刀、しっかりした多重構造を持った刀は、
錆びても研げば下の無傷の層が地に出てその切れさえを復活させることができる。
日本史板で有名所の逸話では、司馬遼太郎の燃えよ剣に出てくる土方歳三の刀探しの談とかかな。
これは話半分だけど、実際の古刀の修復を見れば出鱈目でないのがわかるよ。
2つ目、刀は複種の鉄で作られているということ
正宗以降についてしか明確な所を私は知らないのだが、衝撃に強い軟鉄を鋼で包む事で硬くて衝撃に強い刃の構造にしてる。
また、それ以前の刀についても戦場での刀の歪みを鞘に入れておくとある程度直ったなどから似たような構造をしてるのが伺える。
・・・・具体的な説明もできるが工学的な知識が無いと厳しいし、板違いになるので省略。
蛇足 数打の刀は構成する層が少なく、研ぎ直しはほとんどの物ができない。
故に、さびが中央まで侵食し易く、火に当てる等したら早々に駄目になる。
>>258 おそらく反対に覚えてるのでは?
>>259 が言うとおり、炭素が抜けた場合は軟鉄になるので柔らかくなってしまう。
また、抜けるためには高温であることが必要{化学変化的にも}
恐らくだがその鍛冶屋の方が言った説明は、低温による鉄の酸化と煤等からの炭素付与によって鋼が硬鉄に変わり硬くなるというのでは?
硬鉄ならば、説明のとおり、硬いゆえに衝撃に脆くなるので。
262 :
261 :2006/03/20(月) 22:27:24
ついでながら、
>>260 へ
>>252 の言う通り、焼き戻りは確かに低温ではしないかと。
ただ、薪火でも用いられる薪によって温度が変わるのでたき火が低温といっても温度の幅が出てしまう。
特に
>>258 が言う鍛冶屋の低温などは専門家の感覚なので一般的には結構な高温だったりする。
また、火に当てられる時間、肉などを刺した場合は、肉によって影響を受ける場合が考えられるので
単なる焼き戻りとは考えにくいかと。まあ、刺した物などが触媒として作用する可能性もあるので否定はできないが
264 :
259 :2006/03/21(火) 05:33:44
>>261 えーと、焼入れした鋼は炭素が抜けるよりもっと低温で軟化するよ。
つかそれが焼き戻し。
相当のスレ違いを覚悟で結論を述べる。
さっきついでに調べたところ、焼入れした鋼(刀に使うくらいの炭素0.6%含有な)をどんどん高温で焼き戻ししてくと・・・
温度(℃)| 常温〜100 → 150 → 250〜300 → 400 ・・・ → 723℃
硬さ(HRC)| 65 60 50 40 ・・・ → 18?(焼入れの意味なし)
くらいみたい。数値は大体なw
硬さの単位とかは知らなくてもいいから、数値の比較で分かってください。
あと脱炭は900℃とかの高温にならないと起きないと思うので、C自体が中々抜けないのは確か。
>>261 は炭素の量による硬さの変化と、組織による硬さの変化をごっちゃにしてるんじゃまいか?
HRC40というと、居合い練習用の高級模擬刀(亜鉛合金)と同じなんで。 上の表を参考にすると、タバコの火でも軟化する。 鍛冶押しするときは、熱い湯につけてハンマで形を整えてから研ぐくらいだから、 刃の組織の軟化は早くから起きると見ていい。
266 :
日本@名無史さん :2006/03/21(火) 16:29:33
>>265 HRC40はチタン合金よりちょい硬いくらい。
亜鉛合金ってHv=HB=120程度じゃなかった?HRCなら・・・計測できない(つまり0)
硬さ比較の表見つけたんで、参考に。
http://www.toolnavi.com/jisho/ji2.htm 二行目以降は禿同。
だから火に掛けるのは言語道断ですねw
ただ、上の表はその温度で「完全に焼き戻した」時の硬さだと思うから、
例えばタバコの火が400℃でもイキナリ硬さ40まで低下するわけではないと思います。
267 :
日本@名無史さん :2006/03/24(金) 18:25:59
>>247 です。皆さんありがとう。
一口に刀剣の耐熱性と言ってもいろいろ難しいのね。参考にさせていただきます。
>>267 いろいろなんてない。しったかぶって炭素量とか言い出したやつがバカなだけ。
>>268 スレタイを三唱したあと空気読んで欲しいかな
>>257 でも千葉周作が乗り込んできてあっという間に駆逐されちゃった。
すくなくとも道場じゃ全然強くなかったようだね。
271 :
97 :2006/03/26(日) 10:53:43
>257 しかし国井善弥の鹿島神流に現代ですら影響を与えている流派ですよ 由緒もあるし 構えは神流もにています ただ重心が後か前かなど当然違いますけれど 国井氏が剣豪かどうかもありますしと御名だすと荒れるかもしれませんが スレタイにもどって次の剣豪をお願いします↓
272 :
日本@名無史さん :2006/03/26(日) 11:43:56
>257 伊香保でも駆逐されたと言うほどでもなかったのでは?戦争になる前に代官の命令で手打ちになったはず。 でも道場試合はあまり強くはなかったかもね。 たぶん念流の稽古教授法は天然理心流のように地方の格村々へ泊まりがけで 出稽古を付けていくやり方だったのではないかな。 つまり門人のほとんどはプロ剣士ではなく農民だからね、プロの道場剣士千葉には絶対かなわないw 当時の千葉にとって地方のスポンサー獲得は江戸で道場を経営するための重要戦略だった。 またそれだけの実力も千葉にはあった。 その無理なスポンサー獲得が騒動の原因だったのではないだろうか。 個人的には念流は「あの土地柄w」で地域の治安を守り江戸にまで進出していた事を考えても 実戦ではかなり使える流派だった・・・と思う。
ちょっとだけ天領の民衆についてだけ書きます。先祖が天領民だったので。 天領には周知の通り、生え抜きの武士というのが存在しません。 なので、天領民は他の地域の民と違う意識を持ってます。 御幣ありで言うならば、自分達は武士と同じようなもの。 将軍直轄なのだから普通の武士よりは格上である・・・・かなり誇張するとこんな感じです。 なので、天領の念流も農民兵法といっても下手な武士より熱心に行われてます。 違いをあげれば、相手を殺して勝つのではなく、負けない、完全に守れるのを目指していたって所ですね。
274 :
日本@名無史さん :2006/03/27(月) 21:47:45
馬庭念流の他、立身流、示現流など土着系と一刀流・新陰流系統の数流派を本で調べてみた。
確かに土地柄は大きいようだ。特に道場剣法、撃剣{剣道みたいな打ち合い}が登場してからは。
名人や開祖は別として、それぞれ実践主義と技巧主義に分かれてしまったようだよ
>>272 伊香保のは争いになる前に千葉一門が出て行くことで解決したとか。
逃げ出したという話と代官が間に入ってという二つの話がとりあえずあったよ。
次の話題だけど、関西方面中心の流派や剣豪はどうだろうか?
275 :
日本@名無史さん :2006/03/28(火) 19:49:11
武芸の土地柄も面白いね。適当に思いつくだけでも 一刀流や林崎流、ト伝流をそのままの形で残した東北。 富田勢源、斉藤弥九郎、小次郎といった人材を輩出した北陸。 中条流、奥山新陰流と有名戦国武将を多数輩出した三河。 上泉、馬庭、なぜか総理大臣と有名ヤクザの多い上州。 そして驚異の武道大国九州 w
九州に関しては、近代現代でも武術武道大国だもんな。 剣道なんて九州がもっとも盛んだし、福岡なんかでは、 早い段階から古流の柔術の道場で、同時に柔道も稽古していた。
天領は百姓でもヤットウやるくらいだから、層が厚いんだろう
278 :
日本@名無史さん :2006/03/29(水) 18:19:57
多摩の百姓とか?
279 :
日本@名無史さん :2006/03/30(木) 13:16:19
上州の領民もね。 まあ、博打の地域だからヤクザさんとか多いってのもあるだろうね。 つまり、実戦以外で武術なんて使わないって地域。そんなら道場だけの技巧よりも実戦力をって そういえば、馬庭念流は気を重視するとあった。もちろん、気功とかとは違うごく当たり前の気。 天然理心流も気組みを重視するらしいが、天領以外の剣術だとこういうのを重視してるのってあるのかな? 特に九州武術とか実戦向けだから。 備考としては、同じ実戦派でも小野派一刀流は気を重視し過ぎないようにとしているらしい。 もちろん、無視したり軽視はしたないけど。
280 :
日本@名無史さん :2006/03/30(木) 13:38:53
日本にたいした文化はない. 百済が日本に伝えた文化だ. 文化交流??............. 勘違いしないでください. 一方的な開拓です. 武士も百済祈願, 剣道も韓半島祈願, 寿司も中国祈願, 着物百済祈願, 日本刀も韓半島祈願, 日本に文化があるわけがあるか!!! 日本文化は韓国祈願だ!!! 日本人は日帝殖民統治時代を忘れたか? 韓国の記憶はお爺さんお婆さんから聞いた日帝侵略の記憶を覚えている... 日帝植民地支配は、世界史上例のない悪辣な統治だった....
281 :
日本@名無史さん :2006/03/30(木) 13:58:22
>>280 中国でそういうこと言ってみな。無知蒙昧と馬鹿にされるよ。
それと自分の国の大学で否定してることを堂々というのはどうかと思うし。
そもそも朝鮮刀の作りと日本刀の作りの差異は知ってる?
しかも、日本刀は一部の技術が伝播して今の形になってる。
それより前に同種の構造を持った刀がどうして半島に存在する?
加えて、中国との武術交流、共の発展は両国とも伝承者諸々が認めてる。
それを横から自国の技術?
日本人だけじゃないくて、中国人、半島の知識人もそういうのに激怒してるのちゃんとわかってる?
日本侵攻について近代史板いきな。自国の政略と当時の事に関する西欧からの記録とか載ってるから
祈願
284 :
日本@名無史さん :2006/03/30(木) 20:52:57
>>282 に賛同
ってことで、
>>279 についてだけどどうなんだろう?
示現流の猿叫とかは気合とかで重視されてた気がしたんだけど今いちわかんないw
285 :
日本@名無史さん :2006/03/30(木) 23:59:45
江戸の剣客が示現流の猿叫を聞いてたら気分が悪くなってしまったとか
僕は唯心系の一刀流ばかり追ってるんで、よくわからんけど、 一刀祭先生口伝書では威勢を重要視してたのが見受けられるけど・・・。 だけど、伝承者がいないから実際はわかんないんだ。すまん、ただの独り言
287 :
日本@名無史さん :2006/03/31(金) 13:25:26
288 :
日本@名無史さん :2006/03/32(土) 00:31:27
age
よく読んだら声のこととは書いてなかった・・・すまん 期待持たせて、ごめん
290 :
日本@名無史さん :2006/03/32(土) 13:17:35
>>289 気合=声ではないので違う形もありだよ。
無声の気合とか言うのもあるくらいだし。
元々、剣術は声を出して行うことは少ないんだって。息が切れた瞬間攻撃できなくなるから。
ちょっと気合の例になるかわかんないけど、
示現流の東郷重位は気合で障子の枝木{?}を折ったという逸話があるんだって。
他にも天然理心流の二代目だかまでは、気組術で相手の相手を金縛りにできたとか。
まあ、伝承としては途絶えてるようなので技法なのか、只の逸話なのかわかんないけど
気合についていくつかあったみたいだよ
291 :
日本@名無史さん :2006/03/32(土) 13:43:22
気当てで鳥を落としたとか言うのは、その天然理心流の二代目だったっけ? 昔の剣道の先生が空手家に剣道で相手をしたらしいのだが気合いかけただけで相手は 驚いて動けなくなったそうだ。 数人試したが全員同じ反応だったとか。
292 :
日本@名無史さん :2006/03/32(土) 13:52:45
合気道で同じような技があるね。 合気道とかそれぞれに分化する前は剣道家と言っても総合的にできたようだね。 蛇足だけど、もう亡くなられて10年以上経つけど、自分の先生が使えて掛けてもらった。 一、ニ秒だけと短いものだったけどその間に確実に撃たれるw かかった感じとしては身体が意識と切り離される感じだったよ。 ちなみに、1秒以下なら高段者の方で使う人が結構いる。 ただ、同時に外し方というのがあってそれを知ってる同士だと威力が半減するんだとか
>>290 東郷重位の話は津本陽の本に書いてあったけど、気合術とは別で
窓の格子に木刀を差し込んでほとんど振ることもなくたたき折ったという話ですよ。
最近出た津本陽の小説にもたしかあったな。天狗剣法だっけ?法神流の話。
295 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 14:59:02
法神流か。上州でじっさい広まってたのは馬庭念流より法神流なのかな。 たしか宗家が絶えたのに生き残った流派とか聞いたが・・・? 剣道10段位持田盛二の親父が法神流の師範だったそうだね。 なんでも、天真一刀流の寺田五郎右衛門(高崎藩)が研究していたのが 法神流の伝書「梅華集」だったとか。
296 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 21:02:59
「禅と弓」で有名な阿波研三が尊敬した梅路見鸞も馬庭念流なんだよ。 弓で有名だけれども剣術や居合も相当なもので、梅路和尚が竹を切った ら、しばらく時間がたってから竹がぽとりと落ちたという漫画みたいな 話が伝わっている。 なんでも、宗家から免許の試験を受けた時、一回目は緊張してうまく 動けず頭を打たれたが、二回目の時は師匠の袖を払って見事に免状をも らったとか。
297 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 21:44:39
東郷さんもいいなぁー上泉さんもいい。
298 :
日本@名無史さん :2006/04/04(火) 23:21:33
話を戻して悪いが日本の「気」の思想についてちと考えた。 現在は気功とかで変なイメージが付いちゃったけど「気」自体は老荘思想からある。 武道とか禅の伝書にも「気」は普通に書いてある。 仏典が漢訳される時道家思想の用語が訳語にあてられたためだそうな。 道教の「気」はタオイズムとか言うヤツか。 「道」を根本とする思想が黄巾党とか仏教と交わり教団化する。 そっから「道・気・神」の神仙道とか適当にバリエーションが増えてしまうw 現在の気功とかがこれだろうか?その辺は中国的な愉快な怪しさに溢れている(w 道教ではいつの間にか老子は神になってしまったが 日本では老荘猛孔はあくまで哲学であり、陰陽道は民間信仰となる。 その辺で日本人との「気」の認識にギャップが出たのではないのかにゃ? 「子、怪力乱神を語らず」と言った所かw
299 :
日本@名無史さん :2006/04/05(水) 03:55:50
>>298 面白いし、説得力のある考え方だね!
とりあえず、一般の認識はわからないけど、武道をやってると気については自然と概念的に身につくもの。
幻想とか神秘性無しに実感として感じるもの。
なので、武道をやってる人からそうでない人に伝えたりする時に御幣が出たのかもw
しかも、武術の信仰的な権威付けとか行われたから、
その時にあなたが示してくれたようなのが混ざっちゃって今に至ってるのかもね
300 :
日本@名無史さん :2006/04/05(水) 04:12:10
宮本武蔵 vs 柳生 十兵衛 見たい試合
司馬遼太郎の小説で読んだ話なので史実か知らないが 武蔵が名古屋に来たとき、向こうから柳生宗矩が歩いてきた。 一見して互いに誰だか認識していたが、気づかないふりをして 二人とも脇道に入ってしまったという。
>>301 宗矩じゃなくて兵庫でしょ。
司馬遼太郎の創作では無いが、当時からある”伝説”であり
事実かどうかはわからん。
仮に出会ってたとすれば、武蔵の方はものすごい容貌だったらしいから
兵庫の方は一発で気付いたかもしれないね。
303 :
日本@名無史さん :2006/04/05(水) 14:01:53
あながち、後世の創作ってだけでもないかも。 現代でも武芸の心得がある人間や腕に自信のある奴は ちょっとした身のこなしや顔つきで判ることがあるもんな。
304 :
日本@名無史さん :2006/04/05(水) 15:22:01
うる覚えだけど宮本武蔵の将軍家指南役への推薦か御前試合への参加を促したのが 柳生兵庫介じゃなかったっけ? で、宗矩が剣理が治世者に適わないというので強引に棄却させたとか。 宗矩に会わないで、小野忠常とか小野家に会ってたら結果が変わってたかもね まあ、そこまで家光に対して発言力は無かっただろうけど
武蔵が強かったことには異存はないが、 奴の流派が優れていたかどうかはまた別問題だと思う。 家康が疋田を評した様に、 指南役に必要なのは強い剣豪ではなく将の剣、 則ち自ら敵を倒すのではなく援護がくるまで凌ぐ剣を教授できる人って事ではないか。
どうも武蔵って今はもちろん当時としてもタレント性が強すぎる気がして実力がなかった はずはないけど言われてるほどではなかったんじゃないかと思ってしまう。 司馬史観に毒されすぎかな?
司馬史観の武蔵=剣の天才だが自尊心が強すぎ、しかもその剣理は本人以外使いこなせないものであった
タレント性といえば、司馬の「宮本武蔵」に出てくる夢想権之助は 「天下一兵法家 夢想権之助」とか書いたド派手な着物をきて歩く 人物に描かれていたw で、「当時の剣術家は自分を売り込むためにこうするのが普通」 とか書いてあったんだけど、本当なんでしょうか・・・
>>308 >ド派手な着物をきて歩く
それを武家ではこう言うんだよ、風流ってw
戦国、特に桃山期は華美な兜や旗指物が流行った、それもこれも自分をアピールするため。
当時の成り上がりの兵法家がそういう奇抜なファッションをしていても不思議はないと思う。
310 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 00:09:03
個人的経験では二天一流五方之形は他流派の二刀と比較しても良くできているし使いやすい。 どんな流派でもそうだが理解できない人に「形」は使えない。
311 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 00:19:30
武蔵と二天一流で前に気になる文章読んだんだけど、 二天一流は武蔵が開祖ではないという話があった。 伝承者の一人とかであくまでも一宗家だって。 確か、当時の宗家だかが「勘違いされていて困る」とか書いてたやつ ネット上か立ち読みで読んだはずなんだけど、知ってる人居る? 今調べて見た限りでは、武蔵が開祖のように書かれてるのがほとんどかなw
親父の無二斎かな? 吉岡に勝ったってのはホントは武蔵じゃなくて無二斎なんだよね。 武蔵は憲法と稽古試合しただけ。
新撰組の沖田総司の三段突きのやり方♂えて
突いて引いて突いて引いて突く。これだけですよ。 但し、天然理心流は平突きね。
315 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 22:05:13
>>312 しかも勝ったという記録は自伝のみw
吉岡が憲法染めに専念したのは時代として昔のままの稽古姿勢の剣術で
食べていけなかっただけという話があるしね。
316 :
日本@名無史さん :2006/04/07(金) 18:52:03
>313 沖田の三段突きに関しては諸説有る。 「突く引く突くを一気に行う早業」あるいは「喉、胸、腹を上下に突き分ける技法」 だったと言われている。 また、斉藤一に新撰組の三段突のやり方を伝授されたという剣道家に 猫の忠次郎こと山本忠次郎がいる。(あくまで伝説だが・・・) 忠次郎がまだ書生の頃、空缶を吊して神道無念流の切返しの稽古をしていた時 通りかかった老人(斉藤一らしい?)と剣術談義となった。 老人はぶら下げた空缶をステッキで一瞬にぶち抜いてみせた。 空缶は静止し丸く穿った穴があいていたと言う。 老人が言うには「突きは初太刀をかわされてさらに踏み込んで二の突き三の突きで決める。 突く時よりも突いた後の方が難しい」 「刀を寝かせ突く事により喉を逸れても刃が敵の首筋を撫でる」と、言ったとか。 まあ、このエピソードはこのスレでも何度か出ているし、マンガの「六三四の剣」でも ちょいとだけ書かれているぞいw
確か堂本昭彦の本にもあったからその筋では有名な話なんだろう。 しかし吊るした缶に穴開けるなんて弾丸並みの勢いが必要なんだが。
318 :
日本@名無史さん :2006/04/07(金) 21:12:17
>>317 ぶら下ってるのに穴を空けるだけならそんなに難しくないよ。
まあ、ステッキとか先が大きいのはかなり修練いるけど、模造刀でだったら剣道経験者でできる。
実際に試したけど穴は空けられてよ。
ただ、当たった後に深く刺さって抜けないか、缶が後方へ飛んでしまうw
そこを停止させたままで「抜く」というのがここの凄い所!
古流の名人中でもよほど突きがうまくないとできない
319 :
日本@名無史さん :2006/04/07(金) 22:56:40
三段突きは『気で突く』をいれて考えるんじゃなかったっけ? 今残ってるのは、そんなようなこと言ってるのをどこかで読んだ気がする
320 :
日本@名無史さん :2006/04/07(金) 23:39:35
>317 おっ、さすがだね堂本昭彦本だよ。オタクも有信館系? 個人的経験で言えば空缶とか軽く動く物を突き抜くコツは踏み込みと姿勢と当たる瞬間の 捻りこみぢゃないかな? ・・・いや、さすがに空缶はやった事は無いけどさw
>>318 経験からどの程度の剣道修練者ならできるっぽい?
何段くらいとか何大会入賞レベルとかではぐらかしながらでOKなので。
322 :
日本@名無史さん :2006/04/08(土) 00:59:05
>>318 自分はとりあえず、2段でできた。まあ、模造刀手に入れたのがそれくらいだったから。
経験としては5年くらいでできるかと思う。
まあ、中学の部活だけだときついけど、高校で続ければできるレベル。
剣道の体と動きがある程度できたらできるから、難易度はそんなに高くないよ。
もちろん、穴空けるって所までの話だよね?
323 :
日本@名無史さん :2006/04/08(土) 01:03:07
ごめん、訂正
>>318 →
>>321 ね。自分に言ってもねw
ちなみに、スピードはほどほどで体重乗せるのと切っ先に力を当たる瞬間に篭める事。
いわゆる「手の内」という基本がある程度できると穴を空けられる。
経験者は一回やってみると意外と簡単にできるので驚くよ!
>>320 いや、俺は無所属。というか本職は中華系。
堂本昭彦のは歴史的資料としても貴重な上に読み物としても面白いね。
有信館が一番面白かったけど高野佐三郎や幕末明治期の剣豪の話を集めたやつも
面白かった。
325 :
321 :2006/04/08(土) 13:06:37
>>322 レスアリガd
ガキの頃にアルミ缶だったけど石を投げて穴を開ける遊びが流行った
石の形にも依るけど上手くやると石が貫通して中に入るんだ。
(缶は1m位ふっ飛ぶけどw
スチールの缶は流石に表面が少し凹む程度だったけど
これも上手くいくと少しだけど穴が開く
獲物と技量が合わされば結構いけるものなんだろうね。
326 :
日本@名無史さん :2006/04/08(土) 14:07:52
>324 しかしなかなか渋いラインナップを読み込んでおられるようだ、さすがだね。 戦前までの剣道界はいろいろな流派でバラエティーに富んでたから動きも技も思想も 何でもアリで、とにかく多彩だった。 小野派の高野も独特の切り返しや足捌きをしていた様だ。 現代剣道が古流剣道を忘れ去り、他国流の武道家が近代剣道史を先入観無く勉強しているとは 悲しいかなこれが今の日本武道界の現状でもあるんだよな〜。
虎眼流って実在しますか?
328 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 12:32:36
山口先生の著書を読む限りでは、虎眼流は指が6本ないと伝承不可能なので 失伝してしまったのではないでしょうか?
329 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 13:41:40
千葉周作・・「上を打つと見せかけて、下を打つ。打ち込まないふりして打ち込む!かように剣術とは畜生道以下の道である!」・・・
SSS 上泉伊勢守 塚原卜伝 飯篠長威斎 董海川 楊露禅 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― SS 李書文 佐川幸義 武田惣角 梅路見鸞 伊藤一刀斎 松林左馬助 王郷斎 植芝盛平 林崎甚助 男谷精一郎 黒田正郡 郭雲深 孫禄堂 針ヶ谷夕雲 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― S 宮本武蔵 千葉周作 阿波研造 瀬戸敏雄 王樹金 中村日出夫 E.ヒョードル 塩田剛三 肥田春充 上原清吉 三宅栄堂 桃井春蔵 東郷重位 柳生石舟斎 井上鑑昭 関口氏業 竹内久盛 馬賢達 仏生寺弥作 加藤有慶 黒田泰治 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― AAA 宇城憲治 青木宏之 高松寿嗣 比嘉清徳 山岡鉄舟 光岡英稔 江上茂 三船久蔵 蔡龍雲 双葉山 國井善弥 本部朝基 柳龍拳 木村政彦 山下泰裕 前田光世 澤井健一 柳川昌弘 中山博道 藤平光一 ヒクソン・グレイシー ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― AA 西郷四郎 沖田総司 若木竹丸 岡本正剛 倉本成春 蘇東成 桜公路一顱 黒田鉄山 初見良昭 岩間統正 島田道男 高野佐三郎 望月稔 糸洲安恒 大山倍達 芦原英幸 数見肇 古賀稔彦 伊藤昇 E.ホースト V.ワァシリエヴ ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― A アンディ・フグ 松井章圭 富樫宜資 竜明宏 平田鼎 乙藤市蔵 杉野嘉男 横山雅始 黄飛鴻 奥山龍峰(初代) 坪井香譲 二宮城光 B.ユキーデ 金澤弘和 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― B 高岡英夫 鳥居隆篤 太田光信 時津賢児 新垣清 田中光四郎 ブルース・リー C 嘉納治五郎 須藤百治 日野晃 島田明徳 山本哲 S.セガール ジェット・リー D 宗道臣 南郷継正 澤山宗海 池田秀幸 藤岡弘、島津兼治 崔泓熙 広木道心 E 甲野善紀 佐藤金兵衛 堀辺正史 河野智聖 山田英司 西野皓三 程聖龍 F 元龍貴 松田隆智 青木嘉教 長野峻也 龍飛雲 平上信行 小佐野淳 毛利元貞 G 柔道初段程度の武道経験者 H 現代日本の一般的な成人男性(武道未経験)
ランキングは荒れる元
こういうの見るたびにゲームのキャラかなんかと一緒にすんなと思う。 なんであれ強さを求めて取り組む実践者ならこういった行いがどれだけ先人を貶める行為であるかわかるはず。 数年前ある武道雑誌のライターが大気拳の沢井健一と日本拳法創始者の澤山勝が戦う(そういう事実はない)話を 小説にして出版して関係者に顰蹙を買ったことを思い出す。 宮本武蔵とかならまだしも直接教わった人間もまだ存命なのに勝手にキャラ扱いするのはデリカシーに欠けると思う。
333 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 21:24:23
とりあえず、ここは最強とか比較するとこじゃないので
>>1 に則ってスルーということで。
調べれば調べるほどそういう対比が馬鹿らしく思えてる方がほとんどだと思うので
そのまま流派の話を続けましょう
ランキング見ても実際のこと所かほとんど知らないようですし
334 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 21:28:27
>>328 >虎眼流は指が6本ないと伝承不可能なので
この辺に興味があるのでもう少し詳しく知ってる方お願いします
330の荒らしコピペは武板で散々既出だから気にしない方がいい。
336 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 22:19:56
337 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 05:39:51
>334 >>虎眼流は指が6本ないと伝承不可能なので フィクションだろうけどそんな下りはない。 『師匠の指が六本』と『すごい技術で伝承者選びに難がある』を短絡してんだと思います。
338 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 05:44:35
339 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 12:43:11
原作では ・開祖の岩本虎眼は慶長の末から寛永の初めに濃尾一帯で知られた達人 ・剣技絶妙で晩年は門弟千人を越えた。 ・岩本虎眼他中心人物の死によってほぼ一代で絶えた。
340 :
日本@名無史さん :2006/04/12(水) 00:31:25
新事実が出ない様なら虎眼流はフィクションだったと言う結論でいーのかな?
341 :
日本@名無史さん :2006/04/12(水) 00:41:15
剣術関係の本で数冊調べたけど載ってなかったw
ちょっと前なら飛天御剣流は実在しますか?というのが多かった。 もちろん武芸流派辞典にも載ってない。 336の間合いを盗む技というのは「八寸の延ベカネ」の話が元ネタだろうな。
シグルイは技術描写はデタラメだけど強さへの執念とかメンツを保つために形振り構わないところ とか武術家の暗部を迫力のある画で見せるということにかけては近年稀に見る傑作だと思う。
345 :
YAP? :2006/04/12(水) 16:19:49
南条範夫氏だったかの寛永御前試合か南下の小説で、虎眼流がでてきたように 思うが記憶違いかな?
>345 それを漫画化したのが「シグルイ」
348 :
日本@名無史さん :2006/04/13(木) 01:51:45
まあ、漫画としては面白いけど、ぶっちゃけこの技なら剣道の片手横面の方が速いし強いと思う。 左右からの攻撃、足捌きの間合いの変化と体捌きの遠心力が加わるからね実際の所。 それでも「何かある」と思わせるのは作家さんの技量が生み出した説得力なんだろうな。
351 :
日本@名無史さん :2006/04/13(木) 21:52:08
>>350 いや・・・こんな情報もあるが・・・
16 :世界@名無史さん :2006/04/13(木) 18:43:06 0
シンガポール空手家の続報 文春より
テレビはデタラメ. 旅の目的は80%が観光で20%が人探し
東京の銀座に二泊し、青森では恐山に観光に行った
(父の知人に)会えたらいいなとしか答えていない、「ソーマ」とも「秘伝書」とも言っていない
白神に入ったのも、メンバーの一人が山が好きだったから 山に入る前に酒盛りをしている
>>305 亀レスで申し訳ないが、
>家康が疋田を評した様に
これは、後世の創作だ。(ちなみに兵庫と宗冬の試合も創作だ)
疋田はすでに摂政関白豊臣秀吉の剣術指南役だったので、
格下の一大名の徳川への派遣はあり得なかった。
上泉伊勢の信頼度も、当然、親族の疋田の方が上。
>>352 創作だたのですかへー
不思議だったんですよね石舟斎のもとへいくまえに皆伝受けている疋田が柳生より低く言われていたことが
江戸と尾張柳生は敵対ではありませんでした
事実江戸柳生家蔵の文書で尾張から人を派遣して指南したとか逆に江戸から出稽古にいったとか
そういったものがのこっています
>ちなみに兵庫と宗冬の試合も創作だ
なのでこれは納得できました
岩明均の漫画で疋田が木刀持った石舟斎に撓で圧勝してたけど 実際に戦ったの?
>>354 バガボンドでもボコボコにされとったな。
後々の流れ考えればそれが自然なんだけどね
357 :
日本@名無史さん :2006/04/14(金) 23:35:45
石舟斎相手に実際無刀取りを行ったのは疋田の方ではなかったか?
358 :
日本@名無史さん :2006/04/14(金) 23:50:00
疋田が行ったというのは俺は知らないや。話詳しく知ってたら教えて。 俺が知ってる疋田との話は、勇んで木刀で挑む石舟斎に「失礼ながら・・・」と 声を掛け、打った後に注意をしながら立ち会ったというもの 三度だか連続で立会い、どれも言葉が終わる前に打たれていたという話。 無刀取りは正統を次ぐ上での課題とかで、石舟斎が完成{他の門人達のは未完成だったのを}させ それで皆伝と新陰流の正統を受けたとか。 そのときには疋田はすでに秀吉に召しだされてたとかで新陰流系統の新流派の開祖って位置づけだったはずだよ。 とりあえず、剣術関係の本と柳生についてまとめた本だとここまでしか書いてなかった。
359 :
YAP? :2006/04/15(土) 18:17:49
前にも書いたが、疋田から印可を受けた石舟斎の孫でその後継者 とされた尾張柳生の始祖兵庫助利厳は、最初加藤清正に仕官したが (確か3千石だったかな?)「柳生伊予守長厳」と称していた。 石舟斉が、兵庫助を疋田に預けたのは、新蔭流一門で最長老の疋田の お墨付きで加藤家に仕官させることと同時に、柳生新陰流の政党後継者 としての認知を、新蔭流同門中に得るためだったのだろう。 無刀取りは柳生以外にも多くの流派にあったように思うが、いわゆる「真剣 白刃取り」ではなく、狭い道(捷径)で相手の振り上げた太刀の手元に 飛び込んで、太刀を持つ腕の「肘」を打つというもののように思う。 この天については、実践社の語教示を請う。
沖田総司の剣術てどんな感じなの♂えて
361 :
日本@名無史さん :2006/04/15(土) 20:40:52
斎藤一の流派は何なんですか? 風雲新選組って言うゲームでは小野派一刀流と書かれていたり、 我流とかかれてたりで。。。どうかこの厨に教えてくだされ きになってて。
362 :
日本@名無史さん :2006/04/15(土) 20:43:37
鬼一法眼
363 :
日本@名無史さん :2006/04/15(土) 20:47:37
>>362 私へのレスですよね?初めて聞いた名称なんで私なのかどうかもわからないくらいです。厨ですみません。レスありがとうごさいます!
365 :
日本@名無史さん :2006/04/15(土) 20:54:26
えっ?あ、そうですか。だれか、お願いします。
367 :
日本@名無史さん :2006/04/15(土) 21:10:42
激しく、ありがとうございます
>>361 参考程度だけど、斉藤一はいろいろな流派を渡り歩いてるということで
区分としては難しいらしいよ。
京都土産でもらったカップには小野派一刀流とあり、
他の人からもらったタペストリーには示現流とあったりw
>>361 奥さんの話だと、「主人はただの一刀流と申してました」とか言ってたとかなんとか。
いかにも面倒臭がってそれで済ましそうな感じはするな。 ああいう修羅場で腕磨いた人は流派とか鼻で哂ってそうな気がする
371 :
日本@名無史さん :2006/04/15(土) 23:15:40
斉藤一は山口一刀流の説がある。辻月丹が学び後に無外流と呼ばれる流派。
(現在ある無外流居合は斉藤一の剣術とはたぶん別物かな?)
ttp://www6.ocn.ne.jp/~kotaro/page253.html ただ、斉藤一の剣術については山口一刀流だけでは無いようだ。
>>316 でも書いたが
山本忠次郎が斉藤一に空缶相手に三段突きを教えてもらった時の忠次郎の師匠の
中山博道(神道無念流宗家)も郷里で山口流を学んでいるが三段突きは初見だった様だ。
斉藤が新撰組や他流の戦術を取り入れたのは間違いないだろう。
中山博道の道場「有信館」の門弟で、昭和5年の展覧試合にて優勝し 昭和の剣豪と謳われた山本忠次郎によると、山本が明治42、3年の頃、 河原で突きの稽古をしていたとき、たまたま近くに住んでいた藤田五郎が 突きの手本を見せてくれた、という。 つるした空き缶を木刀で突くのだが、踏み込んで双手で突いた後も缶は 静止している。しかし、その表面には穿ったような剣先の貫いた痕が残っていた。 しかも突いたあと一瞬のうちに構えは中段に戻っていた。 藤田老人によると 「『突き』は突くときよりも突いた後が難しい」 「突きは初太刀でうまくいくことは少ない。初太刀をかわされてさらに踏み込んで 二の突き。またかわされて三の突きで決める」 「刀は横に寝かせる。これにより喉を逸れても刃が敵の首筋を撫でる。」 「突きは突くだけの業ではない。上段に構えた相手の小手を切り落とそうなどと しなくてもよい。これを突いて、左手の自由を奪い、それからゆっくり倒せばよい。」 「竹刀の試合では一本にはならないのは知っている。今の剣術はわたしたちの やった剣術とは違うものです。」 どっかのコピペ
373 :
日本@名無史さん :2006/04/16(日) 00:19:34
374 :
180っす! :2006/04/16(日) 00:52:06
>>359 う〜ん無刀取りっすか・・・ ネット公開はちょっとw
でもYAP?氏には戸田流の資料面でお世話になったので自流の解釈でよければ
参考程度にご協力しましょう。
柳生の無刀位は演武でしか観た事ないけど359の文章のみから推測すると
「狭い道で振上げた太刀の手元に飛込み太刀を持つ腕の肘を打つ」ですな。
この文章を3つの技法に分解します。(捷径の意味が少し気になるけど)
「狭い道・振上た手元に飛込む・腕の肘を打」と、なります。
『狭い道』
これは体の身幅での位置取りと仮定してみます。自己と敵との正対するライン+身幅。
つまり体捌きはこのぎりぎりの範囲内で行うという意味ではないっしょうか?
『振上た手元に飛込む』
これはそのまんまですなw 敵が我を斬るためには絶対踏み込んできます。
そこをカウンターで飛び込むっ!(言うのは簡単だなーw)
問題はその間合いを「見きる」事。「眼付(めつけ)」に各流派口伝があります。
『腕の肘を打つ』
肘を押さえる事によって敵を不動にします。これは合気道あたりを参照してくさい。
・・・まぁ、あくまで短文からの適当解釈っすけど間違ってたらスマソw
375 :
YAP? :2006/04/16(日) 12:18:59
180/359氏へ、 ご解説有難うございます。 私は、実戦は全く駄目で、100戦100敗であろうという自信は 十分にあります。 そこで、経験者のご意見を聞きたかったのです。 「捷径」とは、手持ちの古〜い『広辞苑』では、「ちかみち、 はやみち」とのっていますが、わたしも、貴殿の解釈のように 「狭い道」で相手に切りかけられたときか、或いは、逃げられ ないような状況で追い詰められた時(新陰流一門は基本的に 無用な闘争は避けるように教えているように感じます)に、 止むを得ず「無刀取り」を行うという物だと教えているのだと 思います。 尚、白川静氏『字通』によれば、「捷径」には、「近道」の 意味の他、「不正な道」の意味があるそうですが、禅宗の 徒や、京近辺の教養人出なければ、「不正な道」の意味をも 理解してこの語彙を使用したか否かはわかりません。 「口伝」というと、苦い思い出があります。 古書店で武術の秘伝書が売られており、2万円という結構な 値段だったのですが思い切って買い込んだのですが、なんと 中身は、太刀の名前の列挙のみで、具体的なことは全て 「口伝」と記載されていました。 十年以上前の話ですが、確か神道流のものだったと覚えています。
376 :
180っす! :2006/04/16(日) 15:18:16
>375 そうっすね、伝書って言ってもただの業の名前の目録だったりしますね。 俺も業名のみの巻物1本持ってます・・・しかも他流派w 有名な宝山寺の「新陰流兵法目録事」も石舟斎から金春に与えられたのは 絵目録のみで、解説文が加えられたのは100年以上後の話のようですな。 『捷径』の解釈っすけど 意味が「近道」だとしたら「最短距離、最速に無駄なく手元へ飛び込む」 意味が「不正な道」だとしたら「裏をかく、意表を突く」になるかもしれませんね。 なんかコロコロ変わるなーw・・・適当でスマソw あと374の『狭い道』の解釈はちと説明不足でした。 『狭い道』とは「ギリギリの間合い」を意味します。 たとえ広い場所でも避けすぎるとせっかく詰めた間合いが開いてしまいます。 これではこちらの攻撃が届かないのです。 いくら体捌きが上手くてもあまり敵との距離が開いてしまうと刀の間合いに なってしまい素手対刀では勝負になりまへん。 敵を十分に打ち込ませないと素手の間合いに入れない事が無刀の命題であります。 「敵の攻め太刀をギリギリ一足に外しつつ一足に飛び込む攻防」 それを『狭い道』と解釈してみました。 ・・・もちろん確証はありませんがねw 駄文にて御免候。
377 :
93 :2006/04/19(水) 00:09:58
>>374 戸田清玄のところではお世話になりました
新陰流兵法柳生流ですが当代様のドイツ講演で無刀取三種なるものが
初公開されたと聞き及んでいます
伝聞のさらに伝聞なので正確性には欠けるかと思いますが
事実なら捕り方の手順違いだとは思いますが 参考までに
当代ちゃうぞ、三月に継承式があった。
380 :
93 :2006/04/19(水) 23:21:35
>>379 あ もう継承されたのですか!
まだ器が軽いようなk・・・・
381 :
日本@名無史さん :2006/04/21(金) 18:57:58
>>377 180っす!たびたびスマソ。
93氏情報dです。たしか延春氏は15年ぐらい前TV番組で無刀取の形を演武していた
気がしますっす。番組名は「極める」だったと思います。
記憶では当時公開された無刀取の業は1種類のみでした。
ビデオ録画がどこかに有ったと思うのですが・・・もし勘違いなら失敬。
「無刀取・奪刀術」自体は剣術・柔術・合気道を含め多数流派にあります。
当流では「機を見て手元に飛込み押さえる(または当てる)」業の総称と考えています。
そこに『目付、体捌き、間合い』等の口伝が各派それぞれの工夫が口伝とされます。
ただ・・・「無刀位」というと別な意味になっちゃう可能性がありますなw
『位取り』とか総合技術論になってしまいます。
『捷径』の解釈については、やはり全文、その流派独自の伝承、全体の技法が分からないと
苦しいっすね。
オイラはあくまで他流派としての解釈ですので柳生の口伝については、ちとお手上げですけどw
383 :
YAP? :2006/04/23(日) 12:46:42
93氏へ 御教示有難うございます。 尾張柳生家についてお詳しいようですが、柳生兵庫のもう一人の 師とされる穴沢某(棒庵?浄賢??)について御存じであれば、 御教示お願いします。 新陰流四天王と(綿谷雪氏ら)される疋田・戸田・穴沢の内、穴沢も 謎の人物ですが、本当に大阪城で戦死したとされる穴沢(主殿助盛秀 だったと思う)と同一人なのか、また、疋田文五郎にも、大阪城内で 死亡したとの説があるようなので、気にかかるのです。
384 :
日本@名無史さん :2006/04/23(日) 13:30:10
クムドは韓国起源です。 歴史板住人なら、正しい歴史認識を持ちましょう。
そうだな。クムドは確かに韓国起源だ。 剣道を表面だけコピーして劣化したものがクムドだもんな。 韓国の物って、そんなんばっかりや。
386 :
日本@名無史さん :2006/04/23(日) 17:36:15
>>383 とりあえず検索w ・・・これかな?
【 穴沢浄見 】:新当流、穴沢流、薩摩神人流、(薙刀・長太刀・棒)
穴沢主殿助盛秀、穴沢浄見秀俊とも。流祖は飯篠長威齋。
豊臣秀頼の槍法師範。扇流しの構が有名。
穴沢流の柳生関連では宝蔵院胤栄、柳生松右衛門(西国伝)、金春七郎(能の家元)
阿部棒庵(阿多捧庵・棒庵入道)がいる。
棒庵入道が慶長14年(1609)に柳生兵庫助利厳に神道流を相伝とか。
穴沢盛秀は大坂冬の陣「鴫野の合戦」で上杉景勝軍と戦い討死。
「上杉の将直江山城守が兵士、折下外記と渡り合う、折下は直槍、穴沢は薙刀であった。
穴沢は薙刀のそりにかけて、折下の直槍をはね、飛び入ってこれを斬った、
だが折下は肩を切られながら槍を捨てて引組む処を折下の従者が折重なって来て
終に穴沢は討たれてしまった。(武将感状記)
「穴澤主殿助を討たるは上杉の家臣坂井采女なれ共直江が家来折下外記其長刀を貰ひ
穴澤を討たりとて土井利勝に抱られたり」(明良洪範)
非常にくだらない質問でスイマセンが 昔小説で東郷の弟子で若くして示現流を極めた篠原十内という人の話を読んだんですが 篠原十内って人は実在したんですか?誰か知ってる方いませんか…創作っぽいとは思うんですが
388 :
日本@名無史さん :2006/04/24(月) 22:27:55
>>388 この人です!読んだ本と死に方とか一緒です。ありがとう
篠原十内で調べたら読んだ小説の紹介が、出たので名前あってると思ってました
実在したんですねぇ〜確か小説じゃ許婚の家から、帰る途中襲撃されたってなってました
一刀流槍術について何か知っていることが有ればお聞きしたいのですが、 どなたかよろしくお願いします
392 :
93 :2006/04/25(火) 18:28:35
>>383 >本当に大阪城で戦死したとされる穴沢(主殿助盛秀 だったと思う)と同一人なのか
>>386 氏の説が一般的ですね。
柳生兵庫助利厳の師匠は阿多捧庵であって穴沢ではないです。
穴沢主殿助は新当流の槍長刀の名手で飯篠長威齋の4代後の飯篠山城守盛綱(守綱)の弟子
とされていますね。
大阪の陣での死亡が一般的に言われていますけれど
もう一つ説があって関が原の西軍として死亡したとも・・・
昭和の名人厳長氏の本は現在でも手に入りやすいので
新陰流(柳生家史観)については参考になるかも
文献
『本朝武芸者小伝』
『正伝新陰流』 柳生 厳長 著
島津書房 ISBN 4-88218-012-X C-CODE 0075
疋田豊五郎は大阪城ですね
1605年9月30日 享年69
道系は嫡子宗保斎勝重から山田宗好斎勝興へは疋田派新陰流として
山田浮月斎は疋田陰流として受け継がれていますね
あと新陰流でマイナーな人としては松田織部助清栄がいますね
同じ大和の柳生と仲たがいして宗厳の門弟に討たれています
松永弾正忠の家臣だったので反筒井派だったのです
柳生は松永に領地減らされたんで筒井派だったと。
自領を守るために対立して最後に徳川に近づいた柳生に討たれたわけですね。
393 :
93 :2006/04/25(火) 18:48:48
>>390 一刀流槍術ですか中条流は総合武術でしたからその流れでしょうか?
一刀流自体は「ソモソモ当流刀術ヲ一刀流トナヅケタル所以ノモノハ元祖伊藤一刀斎ノ名ヲモッテ云フヲアラズ万物一刀ヨリ万化シテ
一刀ニオサマリ一刀ニオコル理カラナリ」
ということなので基本は刀術のようですね
小野派の組太刀としては表、目録では拝見したことはございません
ので私も興味がありますね。
凄い場違い臭い質問だけど 高柳又四郎に関する詳しい資料って無いですか? 調べても全然それらしいものが出てこない・・・。みんな時代小説から来たような信憑性がいまいちなのが多い。 千葉周作が記してるように性格が悪かったから嫌われてたのかな・・・。
>>393 自分は細々と唯心一刀流を調べてます。
調べた資料(っていっても活字版)には、
自斎→一刀斎→古藤田勘解由左衛門俊直の順で『一刀流刀槍の奥義を極む』とあり、
伝書(図書館蔵)として、一刀流槍目録並序、一刀流槍極意目録、指南許状とあるのですが、
それ(現物)以外の資料が見つからないので、お尋ねした次第です。
>>394 三羽烏 相手に触れさせない 後の先をとるカウンター
音無しの剣 千葉が褒める
これぐらいしかわからないorz
397 :
YAP? :2006/04/26(水) 18:03:12
386氏、93氏、御教示有難うございます。 確かに柳生兵庫助の棒術の氏は阿多棒庵とされているのですが、棒庵が実は 穴沢主殿助のことだと書いたものを、読んだ覚えがあり、疑問に思っていました。 私の個人的な印象では、兵庫助は、大叔父?の柳生松吟庵に学んでもよかったのでは ないかと思いますが。 槍の又兵衛の槍術の師に穴沢と大野(柳生)松右衛門家信の名が挙がっているのは 意外でした。 疋田陰流に槍術があることは、猪多流槍術や大島流槍術が疋田文五郎の末流に 位置することからもわかりますが、柳生流の槍術も盛んだったのですね。 あと、山田浮月斉と山田宗好斉は同一人ではないかとの説がありますが・・・?
398 :
日本@名無史さん :2006/04/29(土) 00:26:21
【高柳又四郎】:戸田流高柳派、中西派一刀流 げっ!また戸田流か。どっちだろう?w 小説では親父が小太刀富田流だったが・・・ 『いかなる相手も自分の竹刀に触らす事なく2寸3寸も離れて敵の出頭、起こり頭を打ち、突く、 決して間合いに寄せつけず、向こうが一歩出ようとする瞬間に一足踏み込む。 他の人とは違い、よく間合いを知り抜いているので、他流などには一度も負けたことがない』 けれども、突きなどが多く惡いとこ勝ちなので、だれもこの人と稽古することを好まなかつた、 また初心者にもこの調子だったのであまり弟子が育たなかったため名人技も この人1代で終わったとか。(千葉周作 剣法秘訣、他。) かなり遠間だね・・・この距離では普通に打ちこんでも届かないか返し技をされる。 相手が「間」を詰めようとする瞬間に一歩踏み込み打ち、突く。 間合いを知り抜いているからこそできる「出ばな技」だね。 他に松浦静山老人に「悪剣」と罵倒されたとか(あくまで伝説だが)。あまり良い評判では無いようだ。 小説「大菩薩峠」のモデル。「音無の構」(一刀流霞中段の構の説有り?)で有名 ・・・な、わりには資料が無いw
>>396 ありがとうございます。
やはりそのくらいしか見つからないですよね
>>398 ありがとうございます。
性格が悪いというか人間不信ぎみで蒸発しちゃったというのは事実っぽいですね。
そこに女性問題が絡んでるとかは後の創作のようですが
400 :
93 :2006/04/30(日) 08:33:49
>>397 疋田には詳しくないので
ただ出身地が同じらしいので同族なのかもしれませんけれど
山田浮月斉から疋田陰流を称したわけですけれど同一人物とするのならば晩年となるのでしょうか
>>398 戸田越後守の戸田流ですけれど嗣子戸田又吉郎から新藤雲斎(無敵流)-渡辺杢衛門-渡辺兵右衛門(気楽流)→現代
ほ一応つづいていますね
401 :
日本@名無史さん :2006/05/02(火) 09:17:20
最近剣術などに興味を持ち始めたのですが、 完全な我流で斬新な戦い方をした人物はいますか? 例えば、架空の人物の丹下左善は片目だか片腕だかを失ってから独自の個性的な戦い方を編み出したと 何かで読んだことがあって、そういう戦い方にすごく魅力を感じるんです。 できれば実在した人物を教えていただけると幸いです。
>>401 我流だったら、左手に盾、右手に刀。役割分担しる。
これ最強。
403 :
日本@名無史さん :2006/05/02(火) 09:49:27
天然理心流こそ至上最強の剣法
404 :
日本@名無史さん :2006/05/02(火) 12:50:49
>>401 我流の有名剣豪だったら河上彦斎と野口一成(たぶん我流?)かな。
河上彦斎はこのスレで既出なので省略。
野口一成は黒田長政の普請奉行で「黒田二十四騎」の一人。
野口の使った戦術はまさしく402のそれw
実戦では剣術流派の強弱はあまり関係ない。強いヤツはより強く、普通の凡人はそれなりにw
405 :
401 :2006/05/02(火) 18:41:19
レスありがとうございます。
>>402 確かに盾もったほうが絶対勝ちそうですよね。
そういった例を知らないのであまり魅力というか実感が沸かないですが
実際にそういうことをした人物がいたら非常にみてみたいものです。
でも盾と剣と鎧を装備した騎士もよいですが刀1本に全てをかける侍はやっぱりかっこいいですね。
>>404 野口一成という人物調べてみましたが、かっこいいですね。
相手の攻撃を片手で受け止めるってとこ最高ですw
あと、めったなことでは人を殺傷しない、普段はみねうちなどですませるみたいな剣客はいたのでしょうか?
406 :
日本@名無史さん :2006/05/02(火) 21:34:54
そうさのうー戦わずして制するのは技というより「実力差が大きければ」流派を問わず 不可能ではないけどね。後は人格かなw このスレで既出な剣豪では松林蝙也とか橘田太右衛門かな?戦国の人では上泉信綱とかも良いね。 敵を傷つけず制する武道はどっちかというと捕り手術の部類だわな、 合気道、棒術、杖術。あるいは鉄扇、十手術のような物。いわゆる柔術系が多いかな。 剣法で敵を傷つけず制するので有名なのは馬庭念流だな。 敵の太刀を繰り付けて動きを封じる「そくい付け」ちゅう技が有り、実際に国井善弥(神流) という昭和の剣豪が多数の真剣勝負で相手を全く傷つけずして勝っている。 戦国期では新陰流なんかも指を狙ったり最低限の攻撃で敵を封じる理法があるようだ。
そこで無住心剣流ですよ
>>406 新陰流の三学の水車の構えだっけ?は
元々、そのまま下から(甲冑つけてるとあまり自由が利かないので、持ち上げて振り回したりするよりもやりやすい)
振り出せば、斬り込んで来る相手の指にヒットする物だったって聞いたけど。
>>407 その無住心剣術ですが具体的に稽古がどのように行われていたか資料はどの程度残っているのでしょうか?
藤沢周平氏の小説に空鈍流が「八双の構えからの打ち込みの遅速にすべてをかける」
と書かれていましたが、そのような資料が実在するのでしょうか。それとも藤沢氏の創作なのでしょうか?
410 :
YAP? :2006/05/03(水) 11:30:09
黒田二十四騎を持ち出すなら、私の贔屓の、疋田文五郎の 門下(当理流の宮本無二之助の門下でもある)例の「虎」を 斬り殺した菅和泉(六之助)をお忘れなく。 同じ二十四騎には、虎を突き殺した人もいたが・・・。
>>409 流祖針谷夕雲(はりがやせきうん)は上野国針谷の人
七十余歳にて寛文二(1662)年に没っすと伝う
初め江戸に出で小笠原玄信斎と言う者に新陰流を学び師伝悉くを受ける
禅学に深く得る所ありて師玄信斎と立会い
「烈火の 竹を破に似たり」との勝ちを収め新陰流を捨て
以後、大悟した一法を用いる
禅学の師より金剛経の「応無所而生其心」から無住心剣術と評され
流名とする。
奥旨「相抜け」を得たもの四人、特に秀でた者は小田切一雲(片桐空鈍)
この小田切一雲が記した「剣法夕雲先生相伝」には
「自己の禅味より得た所の一法につづめて一生の受用とす
流と言うべき様もなければ名もなし」とある。
撃剣叢談巻の四 空鈍流の項にその芸習の記載有りなので参考されたし
甲野善紀氏の著書がこの流儀については特に参考になるかと
「剣の精神誌 無住心剣術の系譜と思想」
412 :
409 :2006/05/03(水) 15:19:13
夕雲流の系譜にある剣術に肥後の雲弘流と薩摩の天真流があるから、 その辺も調べれば稽古の様子はわかると思いますよ。
414 :
93 :2006/05/03(水) 19:05:44
音をほとんど立てず気配も殺し剣筋が読めなかったあれが雲弘流でしたでしょうか 藩主護衛の剣だとのことでしたけれども先々の先をとるのもむずかしそうでしたね
剣の精神誌は甲野氏の著作の中で一番読み応えがあったな。
夕雲よりは白井亨の方が好き というか無住心剣術ってイメージトレーニングの方が主みたいだよね 当時から身体訓練では竹刀の軽いので痛くないように当てっこするくらいみたいで 素振りも眉間まで上げて降ろすだけとか
白井亨が短い竹刀を使ってたのって無住心剣術の影響だよね 剣豪コピペでは小太刀で戸田流だった高柳又四郎の影響とか書かれてたけど間違いだよね
418 :
日本@名無史さん :2006/05/04(木) 09:08:54
無住心剣の稽古は、相対してただ振り上げてゆっくり下ろすだけ。 相手の剣を受けたり、避けてもだめ。当然、初心者は相打ちばかりだが、 ひたすら相打ちの稽古を続けていると、なぜかそのうち自分の剣ばかりが 届いて、敵の剣は届かなくなると言う。 赤子がヨチヨチ歩いて、剣をただ持ち上げて振り下ろすかのような剣術 なので、他流がはたから見るとあざ笑うこともあるが、笑う者も、我が流 の上位の者の前に立つとただ打たれるだけ。だから笑われても気にしては いけないとある。 よっぽど変わった流派なんだろう。この流派については甲野さんの本に ほとんど書いてます。剣の精神史には、無住心剣のこの伝書はどこそこの 図書館にあって閲覧可能とかまで書いてある。
甲野さんの本からのイメージだと太極拳みたいなゆっくりしたイメージだけど 昔の雲弘流の稽古などは仕太刀打太刀双方小走りに走りかかってストーンと 袋しないを打ち合うようなものらしいよ、現在だと小野派一刀流がやっているような。 どこの流儀でもそうだと思うけど遅かったら使い物にはならないからね。 無住心剣術も、合気道みたいにゆっくりやる稽古もあれば上達によっては 速くしていったと思う。
雲弘流では「相討合体」を極意として説いていて、ひたすら相討ちの稽古を 続けて相抜けに至る、とされてる。 本身の槍と立ち会った剣士は腹を 貫かれたまま前進して相手の頭かちわって果てた、という逸話もある。 そういう捨て身の剣術だから、細川家では護衛として重宝していたらしい。
421 :
YAP? :2006/05/04(木) 15:03:44
復刻版(S49、5/1発行)の『肥後武道史』(S15、8/15発行、 熊本県体育協会編修)を昔古本屋で購入して、もっていますが、その後編 第十章が雲弘流を取り扱っています。 ただし、その章の著者は、雲弘流を学んだわけではないが、その伝書類、 『随順抄』『三教録』『天真独露』などを読んだことと、筆者が無住心剣流 の研究者ということらしいのですが、それによると、弘流を学んだ井鳥 巨雲が、小田切一雲に無住心剣流を学んで「雲弘流」を開いた(仙台藩に仕官) こと、その稽古は、 双方離れて対し、それより双方とも面に向かって偉い気勢を以って打込む。 これが充分でなければ右左に切り返す或は腹を突く又離れては同様に面に向かって 打込みをなすといふ具合にこれを繰り返すのである。所謂身を捨てて相撃の 修行をなすので、懸引もなければ殊更な工夫もない。(以下略) というもので、先に諸兄が書き込まれたことと同じです。また、別名「天真流」と 言い、享保9年巨雲の息井鳥景雲が細川家に仕官し、宝暦4(5?)年から、剣術 師範となったとされています。
422 :
93 :2006/05/04(木) 22:03:50
無住心剣には型がもともとなかったらしいですからね 『初心者がむやみやたらと刀を振り回した状態の一瞬に夢想剣の極地を越えることがある』 『生半可な剣術こそが夢想の道を遠くする』 なんて難しすぎますよね
423 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 16:52:14
たしか夕雲流はゆっくり刀を引き上げ稲妻のように打ち込むんじゃなかったかな?
夕雲は免許も新陰流で出していたとか聞いた気がするが・・・ちょっと未確認だけどね。
>>419-421 を読んだ限りでは同じ新陰流系である運籌流(うんちゅうりゅう)宗家平山行蔵の
講武実用流(心抜流・真貫流)が近い技法の感じがする。
真貫流はタイ捨流から出た流儀で稽古内容はひたすら実戦重視。運籌流は柳生新陰流の匿名らしい。
稽古内容は『小太刀を持たせ、笊をかぶり座布団を背負って防具にして、
相手に打たせるままにに打たせつつ一瞬をとらえ飛び込み突きをいれて死命を制する』んだとか。
また
>>409 のように、この流儀はすべて八双から切り落とすのが基本という。
>流儀の本意、戦場に向ひ、潔く打死をする精神を取立る演習ゆへ
>打ちつうたれつして、聊の當りはずれを吟味する比較とは、其相違せること天地あり。
>人々、誡めて自悟すべし。いづくんぞ階梯によらずして、堂に上り、楼を挙るの人あらんや。
と、ある通りヘタな駆け引きを戒め「地」あっての剣の高みを悟らせたのではないかな?
平たく言えば「技を封印した新陰流」、あとに残るのは剣と気合いのみ・・・といった所かw
この小笠原玄信斎や運籌流平山の嫡流が幕末の剣豪男谷精一郎や榊原健吉の直心影流となるね。
男谷も駆け引きの技を使わない人だったようだ。
424 :
93 :2006/05/05(金) 18:02:06
夕雲は小笠原玄信斎の真新陰流の免許と居合柔術だったかと ですので型の数的にはもともと柳生疋田よりは少ないはずですね 気勢・心で制するのはここからもわからなくはないです 直新陰流で法定の型になるものが参学園の太刀ですから 基本は同じだと思いますけれど(思い込みやもしれません)
425 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 18:29:27
>この流儀はすべて八双から切り落とすのが基本 あ、失敬。↑これは真貫流(タイ捨流)の太刀筋の方。運籌流は不明。
426 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 19:24:01
>424 そうっすね。延べカネは参学円の応用ではないかと言う説もありますな。 法定に「丸橋」とかいう名前が見受けられるのでたぶん「転まろばし」の事でしょう。 でも・・・柳生も直心影も実際見た事は無いけどねw 個人的な見解では新陰は「いかに神道流を倒すか」に重点を置かれている印象を受けますね。 応じ返し技の多さもそのせいでしょう。 ・・・たぶん。 武術というのは「勝つ方法」ばかり探求すると逆に弱くなっちゃうんですよね。 そういう稽古してる人は弱い者には楽に勝っちゃうし、真の強者にはそんな稽古内容では勝てない。 『生半可な剣術こそが夢想の道を遠くする』 とはその事ではないでしょうか? その課題をクリアさせるためには、その人の持ってる「技」と「思想」を一度捨てさせます。 文字通り身も心も捨ててその人の「地金」の部分から鍛え直すワケですな。 まぁ、実戦で使える業なんて数種類程度であとは応用でしょうからね。 膨大な新陰流体系の再編期。夕雲や神谷はちょうどそういう時期の人だったのでは?
427 :
93 :2006/05/05(金) 21:09:34
直新陰は剣道連盟傘下でしているかたもおられるので全国でできるかもしれません 本州でしたら新陰兵法柳生流は大きい都市には道場があります・・・が尾張から独立したところだけではなく 伝書復刻とか偽証的な道場もありますので・・・・・ 演武会などで見られたほうがいいかもです
428 :
日本@名無史さん :2006/05/06(土) 22:53:27
幕末の剣豪男谷精一郎を倒した加藤田平八郎。この人の流派、加藤田新陰流 は無住心剣から生まれた流派です。
↑へぇー
430 :
日本@名無史さん :2006/05/06(土) 23:02:50
柳生心眼流ってご存知の方、居られますか?
超有名だと思うけど?
432 :
93 :2006/05/06(土) 23:27:38
有名ですね 現在は派がおおくてスレ荒れる元ですけれど
その加藤田平八郎に白井亨が勝ってるとか聞いたんだけど出典どこか知りませんか? ちなみに白井亨も無住心剣術を研究してたとのこと
434 :
YAP? :2006/05/07(日) 13:55:03
運チュウ流というのは確か、紀州に仕えた柳生新陰流の木村助九郎が 開祖ではなかったですか? ただ、伊東紀伊守の始めた建孝流が、管槍・薙刀等が主で、 江戸時代中期の木村久甫が、柳生流を取り入れたとのことですから、 あるいは、木村助九郎の運チュウ流の「流名」を、柳生流剣法を 建孝流系の諸技(管槍、直槍、十文字槍、薙刀術)に併せた 時に、「借用」して流名が変わったのではないのかとも思うのですが・・・。 勿論、正規に木村久甫が、柳生流系運チュウ流の伝承を受けた可能性もあると 思いますが。
435 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 17:17:12
>434
運籌流っスか、確かに流祖は柳生十ベエの脇役で登場する紀州柳生流の
木村助九郎矩泰だそうです。流名は柳生宗矩が名付けたのだとか。
柳生は新陰を名乗るのを憚るさい運籌流を名乗らせたのではないかと↓にありますな。
【運籌流・忠孝真貫流・講武実用流】
ttp://www.bokuden.or.jp/~bunbkan/page163.html ・・・で、平山子龍は真貫流九代目の山田茂兵衛に学ぶのですが、この山田が平山に似て頑固者でw
「将軍家治が江戸城の櫓から火事見物していた事に対し将軍に意見書を提出したため謹慎となった」そうで
そのさい真貫流から運籌流三世を名乗ったらしいのです・・・ が、
どうも、この山田茂兵衛とは直心影流流祖の山田一風斎の事らしいのですな。
調べてみたら山田平左衛門光徳(一風斎、防具剣道の発明者)も運籌流三世でした。
なんてこったい!今まで気づかなかったぜw これって同一人物っすかね?
だとしたら真貫流=運籌流=直心影流と神陰で繋がりますな。
もちろん、人違いの可能性もあるっ!w
436 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 17:53:43
>433 『加藤田日記』加藤田平八郎著 久留米郷土研究会出典。 一生のうち988人と試合したと言うので、いろんな人と戦っている。 例えば千葉周作の道場にいったら、まず弟子同士が戦い、次に周作と平八郎が戦うこととなった。 しかし、周作はさすがにこいつと戦ったらやばいと思ったのか、 大石進が使った5尺8寸の竹刀を持ち出して来た。そのため、平八郎の弟子が 二人またたくまに足を払われて負ける。 その時点で平八郎はぶちきれた「卑怯ではないか、そんな竹刀を使うなど、 それが竹刀だから使えるが真剣だったら重くて使えるはずが無い。そちらが そのつもりならこちらにも考えがある。その竹刀を貸していただこう。こちら もそれで戦う。その代わり、足を折られるぐらいの覚悟はしていただきたい」 と凄んだら、周作は「では我が流の竹刀を使いましょう」と提案。平八郎は 「自分の竹刀は、自分の流派、技に適するように作っている。お手前も同様だろう。 だとすると、お手前の竹刀を使えば我が流は不利ではないか」と反論。 その後、竹刀について色々議論するが、結局、戦わないでおきましょうということで 結論がついた。
>>436 ありがとうございます
そこらへん詳しく読むにはどうしたらいいんでしょうか。
何か良い本があればご教授おねがいいたします
周作は「では我が流の竹刀を使いましょう」と提案。 ・ 平八郎は「自分の竹刀は、自分の流派、技に適するように作っている。お手前も同様だろう。 だとすると、お手前の竹刀を使えば我が流は不利ではないか」と反論。 ・ ・ その後、竹刀について色々議論するが、結局、戦わないでおきましょうということで 結論がついた。 ・・・シャバイ。シャバイよ。不謹慎と云われるかもしれんがビーバップ思い出した。
439 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 20:48:47
千葉も最初から薙刀で戦えば勝てたかも。 がんばれ竜馬w でも当時すでに加藤田や千葉は大石を知っていた事になるね。大石は柳川で無敗。さらに 久留米で40戦して無敗だったとか何かで読んだけど加藤田一門とは戦っていないのかな?
440 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 21:01:22
白井亨の戦歴が知りたい 誰か詳細希望
441 :
日本@名無史さん :2006/05/08(月) 14:05:38
寺田氏や白井氏の剣先から炎が出る、とか輪がでるとかいうのはどういう意味合いなんでしょう? 気功や心法・あるいは心構えみたいなものの一種なんでしょうか?
気剣体に一致による応変さと速さと威力を兼ね備えた総合的な圧力が 受け取り方によって炎なり輪なりに見えるんだろうと解釈している。
寺田の竹光で岩を割るのは可能なの?
可能です
445 :
日本@名無史さん :2006/05/08(月) 16:30:54
>>441 火が出るような攻めという表現があるから炎はそことの対比かも
輪が出るは竹刀の突き抜けるような衝撃を受けたときにそんな感じするな・・・
構えの状態から瞬間的に攻撃が来て、衝撃が突き抜けるってことを体感表現でしたんだと思うよ。
具体的には、構えからノーモーションで攻撃。これを徹底的に鍛錬したのを表現・賛美した表現かと
剣術の「気」は「気功」とは異なるので中国拳法とかのそれと混同しない方がいいよ。
そういえば確かに上手い人のノーモーションの突きって 一瞬で剣先が爆発して拡大するような感じするね。
剣術における「気」は気持ちの気まんま?
気迫の気でも良いと思う。
気組み
気望
451 :
日本@名無史さん :2006/05/08(月) 23:35:26
「気」は中国のタオイズムと「仏教思想の翻訳に道家思想を使った」ため、 それぞれ微妙に違う意味で日本に輸入されたと考えられる。 流派によって解釈は異なるが剣術では基本的には「気合」の気、空気の気。 当方の流儀では気は発するもの(動く物)と解釈している。気発、心気、察気とか。 そして相手の発する気に応じるのが合気の気。 また気は性(しょう)、心、理の変化でもあり同根でもある・・・だったかな?w そのへんは禅書に書いてあると思う。 武道では「気」は数字の「0ゼロ」と同じで『存在しないけど有ると仮定すると便利』 なので便宜上使用している、が、当然「気」なんてもの俺は今まで見た事もないw 以前神社で奉納演武を見物してたさい居合を見ていた見物のオバハンが「あれは 気で相手を制するのよね」とか話かけてきたので、「立合なら気剣だけど居業で発気は 鞘走り以降だよ」と、つい剣理の言葉を言ってしまいポカンとされた事がある。 部外者に「気」の解釈を説明するのはむつかしい(w
へえー
ある古武術の師範は鎖鎌などの振り物で先端が真っ直ぐ飛ぶのも気が真っ直ぐ伸びているからだ と説明してた。もう何でもアリ。
雑念を消して心気を凝らす…とかいわれてもわからないw まだ正中線を守りあるいは崩す中墨、とかの技法のほうが…
455 :
日本@名無史さん :2006/05/09(火) 01:30:57
武術の「気」ってみんな勝手にそう呼んでるだけだからなぁ そもそもが「気」としか説明しようがない概念だしね。 流派も説明聞いてもわからないし、体験して修練してやっと理解できるもんだしね そういえば、馬庭念流の「気」は一刀流系統の「気」とは異なるとか体験した人が言ってたよ。
>>454 >正中線を守りあるいは崩す
これでは双方血だるまになりませんか?
なぜなら急所は中心とは限らないわけで・・・・・。
457 :
日本@名無史さん :2006/05/09(火) 12:55:36
>456 454が言ってるのは正しい剣理だよ。気でうんぬんより確実で絶対な剣理。というか基本。 というか極意w 「相打ち」なら正中線を攻めてるヤツが勝つ。「崩し」は正中線を保てない方が負ける。 または位取りは正中線で決まるといっていい。
具体的な技術論は荒れるから武板で適当なスレ見つけてはどうか?
結論として少なくとも正中線守れない奴はすぐ死ぬってのが剣術の原則だからなあ。 まあそうゆうことで、もういいんじゃね。
素人質問で悪いが、正中線とはなんでしょう。 ググってもいまいちピンとこない。
461 :
日本@名無史さん :2006/05/09(火) 17:47:10
間違ってたらスマンが
正中線は、例えば構えたときにできる自分の中の芯。
正眼なら客観的にも分かり易く、文字どうり体の真ん中にある(イメージできる?)線。
剣術やってれば必ずこれを感じれるし、相手のも分かる。
ゆえに素人の人にはそれが無いので隙だらけ(に見えるし実際そう)。
で、
>>457 のいう崩しは、相手の線を崩し、隙を生じさせる。(ある意味素人化させる)
柔道を授業で囓った程度にはやったことがあるんだが、
正中線崩しは、柔道の体勢崩し→投げの体勢崩しみたいなものか。
まあ、なんとなくわかったような気がする。
ありがとう
>>461
一刀流の剣理は日本語特有wの情緒的な部分を消化してみればすっきりしていてわかりやすいね 小野忠明は一刀流は何かと問われて「百舌が獲物を喰らうような剣」と答えたそうだが
464 :
日本@名無史さん :2006/05/09(火) 21:50:22
そだね。ト伝や宮本武蔵も兵法を石工や大工仕事とかに例えているしw 情緒的な表現しているのは伝書とか由来書とかのごく一部であって、実際の口伝部分は 純粋技術だったりするしね。
「百舌が獲物を喰らうような剣」 足で踏みつけておいて止めを差す、みたいなw
まぁ霊活さってのは何においても大事だけどね
467 :
日本@名無史さん :2006/05/09(火) 22:51:40
>>465 まっしぐらに攻撃して仕留めるって意味だと思うよ。
鷹とかみたいに用意周到に狙い定めたりってしないで、ただ真直ぐって
小野派一刀流の資料見ると柳生新陰流と正反対に徹底的に攻め抜いてて強いって感じだし
468 :
日本@名無史さん :2006/05/10(水) 14:45:20
唐突にすみません。どなたかにお伺いしたいのですが、「蜻蛉の構え」の画像をご存じある方は居ませんか?
示現流のHPでもいったら?
470 :
日本@名無史さん :2006/05/10(水) 21:47:02
↑へえー、、勉強になりました
うぁ天眞正自源流はだいsちゃだめだ 示現流の祖先といいつつ構えは薬丸自顕流な・・・
473 :
日本@名無史さん :2006/05/10(水) 23:58:58
色々あるんですねぇ。。
474 :
sage :2006/05/11(木) 00:02:17
475 :
日本@名無史さん :2006/05/11(木) 00:12:51
示現流東郷財団という所の示現流兵法についてのサイト
http://www.jigen-ryu.com/index_start.html ここの動画で打ち込む寸前にしている姿が一応は蜻蛉の構えになってるかと。
文献や絵にあるように右手主体で、子どもが右手で棒を持った形なので。
蛇足としては薬丸自顕流の蜻蛉の構えっぽいのは左手が主体で持たれてるという特徴がある。
簡単な見分け方としてその辺を見てみるのもいいかも
476 :
日本@名無史さん :2006/05/11(木) 13:16:58
477 :
日本@名無史さん :2006/05/11(木) 13:47:38
>>476 同じ流れの中でも、示現流は特異だから
示現流の蜻蛉の構えとして「載せちゃダメ」って意味じゃないかな?
>>475 が言うように異なる構えになっちゃうから
478 :
日本@名無史さん :2006/05/12(金) 12:50:50
いや、武板の示現流スレとか読むと現在の薬丸流では門派争いがあるようだ。 天眞正自源流も東郷示現流や薬丸(野太刀自顕)流とはまた別道統を主張しているみたい。 しかし、いつもの事とはいえ ・・・荒れてるw まぁこのスレでは参考資料程度にとどめておくのが無難でしょ。
479 :
日本@名無史さん :2006/05/12(金) 20:00:16
新当流というのはどういう術や理念を持った流派なんでしょ? 足利義輝とか、北畠具教とか今川氏真とか織田信忠とか、結構身分の高い人が習得したみたいなんですが このうち義輝・具教・信忠はそれぞれ最後の時、太刀を振るって大暴れしたという話が(信憑性はともかく)あるんですが やっぱり戦国の気風を持った実践的なものなんでしょうか?
480 :
日本@名無史さん :2006/05/12(金) 20:58:19
>>478 >現在の薬丸流では門派争いがあるようだ。
自顕流から示現流に名前を変えたのは、勝手に流派を立てて分かれていくのを防止するためだったっけ?
>>481 そうらしいんだけど、この話はおかしいんだよな・・
武芸の世界は基本的に完全相伝制であって、印可状もらったら独立して勝手に
弟子取るのが普通。 限定的に師範免許を出して宗家が影響力を保持できる
体制のほうが少ない。 示現流は野太刀自顕流が出てくる以前に薩摩藩内部で
流派が乱立しているし、強制力があったとは思えないんだが・・・
そもそも「宗家」という呼称自体が、戦後日本古武道協会が設立された際に
言い出したもので、戦前の古武道振興会では各流とも「〜流師範」という呼称
が一般的だった。 世間的には茶道の影響で宗家>師範と思われているから、
そうしたんだろう。
483 :
93 :2006/05/13(土) 22:51:23
YAP?氏
>>392 の補足です
慶長二年(1597)『唯受一人灌頂印可免許』を阿多捧庵は受けているそうです
484 :
日本@名無史さん :2006/05/14(日) 02:45:37
どう?って言われても なんだよそれ?
486 :
YAP? :2006/05/14(日) 13:24:01
93(483)さん 阿多棒庵が『唯受一人灌頂印可免許』〈を}受けたとすれば、 「誰から」ですか? それとも阿多棒庵が、柳生兵庫助に『唯受一人灌頂印可免許』を 与えたのですか?
487 :
93 :2006/05/14(日) 18:16:15
穴沢浄見→阿多捧庵(1597年8月印可)→柳生兵庫助(1609年9月免許)ですね 言葉足りませんでした
ところで槍薙刀術では樫原流の「樫原五郎左衛門」がいますがこの人の師 穴沢雪斎とは浄見入道のことなんでしょうかね?
樫原流/本心鏡智流は鈎槍の術派なので新当流とつながらないので謎です
佐分利からの派生でしたら富田牛生からですし宝蔵院でしたら十文字槍ですし ご存知のかたご教授ねがいます
>>484 槍にしては短めなので杖か半棒ですかね?刃受けるだけで流さないのですね としか
488 :
日本@名無史さん :2006/05/14(日) 19:55:42
>>481 ほんとだよ。薬丸の宗家はとても大変らしいよ。だからそこら中で研究会や同好会が乱立して、
井谷なんかがあんなデタラメ本出せることにもなったらしいよ。
東郷はまだちゃんと締め付けているから、示現流の同好会は無いでしょ。
研究会や同好会って・・・ まさか書籍とかビデオorDVDとかで見ただけの奴らがやってるの?
剣術が本当の意味で主力の業だったのは幕末でしょ 街中で戦うわけだから、鉄砲や槍は持ち出せない、勢い刀 戦国時代だと『葉隠』にも「兵法なんて習う必要ない、度胸据えて踏み込んで斬れるかどうかだ」みたいな事がかかれているし 実際、一部の達人を除けば防具で身を固めた相手を刀でどうにかするのは難しそう
492 :
日本@名無史さん :2006/05/15(月) 02:30:17
>>487 鍵槍っスか、基本的には鎌槍の技法で応用できると思いますよ(←適当w)
鎌槍は一説では鹿島神陰流の松本備前が発明者だと言われてますな。神道流系です。
いつもの薩摩影之流サイトw から抜粋。
【本心鏡智流】(鍵槍)
祖は江州甲賀の人で梅田杢之丞治忠。寛文年間、幕府に仕え、百挺組頭になった。
木川友之助正信に樫原流を学び、工夫を加えて一流を開創した。 子の梅田九左衛門
治繁が元禄9年(1696年)、薩摩藩に召し抱えられた。
天真正−飯篠長威入道−飯篠若狭守盛近−飯篠若狭守盛信−飯篠山城守盛綱−穴沢雪斎入道
−樫原五郎左衛門尉俊重−木川友之助正信
ttp://www.aa.alpha-net.ne.jp/ja6xwv/sub2.html また、金春八郎宛ての宝蔵院胤栄の伝書では
天真正(簡取大明神)−飯篠長威入道−飯篠若狭守−山倉播摩守−大西木春見−興福寺宝蔵院胤栄
となり宝蔵院も神道流系を示唆してますな。
あと尾張柳生の槍術には十文字槍もあったようですな。
>>391 氏の紹介してるサイトでは
【柳生清厳 (新左衛門・ 任去斎) 】兵庫助利厳の嫡男。
藩主徳川義直の小姓、三百石。しかし病を得て致仕し自宅療養。数年後に島原の乱が起こるが
清厳はこれを最後のご奉公と思いさだめ、湯治を名目にして島原に旅立ち幕軍 松倉右近の軍に属し奮闘。
清厳は十文字槍を振るって奮戦し、槍が傷むとこれを刀に替えて戦うが銃弾を受け戦死。享年24歳。
最後の戦闘に先立って清厳は、槍持ちの小者に遺書と遺髪、そして激しい戦闘で
朽ちたようになった十文字槍を父母に宛ててに託し自分の決断と無断で家を出たことを詫びたとか。
【宝蔵院流高田派槍術 「槍術夜話」】
http://chutokukai.hp.infoseek.co.jp/yawa.htm
493 :
日本@名無史さん :2006/05/15(月) 02:55:55
薩摩影之流は強いの?
494 :
日本@名無史さん :2006/05/15(月) 03:10:49
>薩摩影之流は強いの? 知らん。ただ存在自体が面白いのでwここでは前スレから、なぜかお気に入りとなっている(藁 HPを見た限りでは直心影と西国伝柳生のチャンポンっぽい希ガス。 たぶん古いスタイルの新影流では?
495 :
日本@名無史さん :2006/05/15(月) 19:23:21
>>487 あ、いけねぇw肝心な事書き忘れてた。(もう知ってるかもしれないけど一応)
薩摩伝鏡智流と宝山寺の新當流長太刀の伝書と比較してみると・・・
【本心鏡智流】 天真正−飯篠長威入道−飯篠若狭守盛近−飯篠若狭守盛信−飯篠山城守盛綱−穴沢雪斎入道
【新當流長太刀】天真正−飯篠長威 −飯篠若狭守 −飯篠若狭守 −飯篠山城守 −穴沢浄見
ほぼ一致しますな。雪斎と浄見は同一人物もしくは同世代の親族では?
・・・しっかし93氏は槍に詳しいっすね。ひょっとして管系の人っスか?
496 :
日本@名無史さん :2006/05/15(月) 20:58:20
はじめてカキコします。 自分が気になるのは剣豪の「体格」です。 宮本武蔵なんかは特段ガタイが良かった(180cm以上)なんて聞きますが 他の剣豪たちもそうだったのでしょうか。
497 :
93 :2006/05/15(月) 21:03:50
>>492 ご教授ありがとうございます
まずまず同一人物とかんがえられますね 雪斎入道と浄見
とすると穴沢浄見の門下はわり多かったというわけで
その術理の開発者としていろいろな流派に名前が出ていてもおかしくは無いですね
>・・・しっかし93氏は槍に詳しいっすね。ひょっとして管系の人っスか?
ノーコメントで まずまずどの伝系かはバレバレかもしれませんが
スレ違いかもしれんが、みんな今の天然理心流をどう思う?
499 :
日本@名無史さん :2006/05/15(月) 22:27:21
>>496 千葉周作は178ぐらいらしい。当時としては巨人だろうな。山岡鉄舟は188
「剣は筋骨より理合」とかいうけど 実際には力が第一だよなー でもって力持ちが理合持ったら圧倒的
中山博道は貧弱な体格を死にかけるぐらいの猛稽古で克服したらしいけどな。 武田惣角もすんごいチビだったらしいし。
502 :
日本@名無史さん :2006/05/16(火) 00:28:40
チビの場合虚勢張るし虚言癖もあるからな・・・事実かどうか怪しい。
503 :
日本@名無史さん :2006/05/16(火) 00:52:35
>501 中山博道は猛稽古で結核まで克服したとか・・・スゴ 堤宝山流の由井正雪とか一羽流の岩間小熊、国井善弥、永倉新八も小さいとか聞いたけど・・・そうなの? 現代剣道なら栄花直樹とか小柄な方だね。 柔術は小男多いね。竹内流祖から始まり関口柔心。講道館の加納治五郎、西郷四郎 合気道開祖植芝盛高。あと、コンデコマとエリオ・グレーシー(笑)
少なくとも優れた弟子が多く出ている中山博道、武田惣角についてはその実力は疑いようがないな。盛平翁も。 最近じゃ塩田剛三さんとかも小柄だったけどその実力に疑問をはさむ余地はない。 自分の経験から言っても格闘技的な比べかたで杓子定規に見るのでなければ体格や多少の肉体的ハンデは 克服できると思う。古流空手のある師範は「空手の技はかえって身長がないほうが掛けやすい」とまで言ってるし。 物理的には重心をより低く取れることをあるレベルから有効に活かせるようになるんだと思う。 でもこれ体術の話だな。
一番最初の剣豪は誰になるの?
一生の大部分を捧げた達人ならともかく 一般レベルだと技より得物に工夫して力任せに集団攻撃させたほうがいいからね どんどん長大化していった戦国時代の長柄なんてその典型
>>505 剣術の起こりは、イザナギイザナミの夫婦げんかの時、手に手に、草木を持ち
殴り合った状況を天照大神が洗練し、天孫降臨時に地に広めたと
新陰流の伝書に書かれてる。www
歴史に出てくる人で最初に体系だった剣術を編み出したのは、
鹿島の国摩真人(くになずのまひと)で、流派は、鹿島払いの太刀
508 :
日本@名無史さん :2006/05/16(火) 16:03:25
ちょww夫婦喧嘩が日本が誇る剣術の原型かwww
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あ 三 こ 天 し い い い 本 乎 扶 知 王 神 皇 枝 楊 始 諾 に 尺 れ 神 か ざ ざ ざ 朝 読 学 桑 幾 従 以 太 対 則 伊 尊 み の を 以 う な な な の み 者 六 千 人 伝 神 之 伊 弉 伊 だ 剣 伝 て し み ぎ み 兵 下 努 十 万 王 地 此 然 弉 諾 弉 り を 受 地 て の の の 法 し 力 州 以 伝 神 道 後 冉 尊 冉 に 以 す 神 後 み み み と 々 豈 三 受 々 大 至 尊 取 尊 発 て る に `こ こ こ い 々 虚 尺 之 々 興 天 以 草 資 せ 扶 者 伝 天 と と と つ 発 剣 者 以 天 照 竹 葉 ん 桑 幾 へ 照 竹 草 `は 撥 不 伝 や 六 千 `皇 枝 葉 と ` 乱 人 °十 万 地 太 を 楊 つ い 学 州 と 神 神 も を ぎ ざ 者 を 云 以 `っ 取 は な 努 撥 ふ て こ て り じ ぎ 力 乱 こ 人 の こ た め の 々 す と 王 道 れ ま て み 々 る を に `に う よ こ に 知 伝 お 対 と り と `ら へ ほ す き ` ず `い °し °人 に は 王 興 ` よ る り `
そんなムリクリ縦にせんでも('A`)
ズレ直し入門 ・半角スペースが2個以上連続すると1個になる。 ・行頭の半角スペースは省略される。 ・プロポーショナルフォントだから、ひらがなの幅がバラバラ ただ並べるだけでは揃わない。 あ 三 こ 天 し い い い 本 乎 扶 知 王 神 皇 枝 楊 始 諾 に 尺 れ 神 か ざ ざ ざ 朝 読 学 桑 幾 従 以 太 対 則 伊 尊 み の を 以 う な な な の み 者 六 千 人 伝 神 之 伊 弉 伊 だ 剣 伝 て し み ぎ み 兵 下 努 十 万 王 地 此 然 弉 諾 弉 り を 受 地 て の の の 法 し 力 州 以 伝 神 道 後 冉 尊 冉 に 以 す 神 後 み み み と 々 豈 三 受 々 大 至 尊 取 尊 発 て る に ` こ こ こ い 々 虚 尺 之 々 興 天 以 草 資 せ 扶 者 伝 天 と と と つ 発 剣 者 以 天 照 竹 葉 ん 桑 幾 へ 照 竹 草 ` は 撥 不 伝 や 六 千 ` 皇 枝 葉 と ` 乱 人 °十 万 地 太 を 楊 つ い 学 州 と 神 神 も を ぎ ざ 者 を 云 以 ` っ 取 は な 努 撥 ふ て こ て り じ ぎ 力 乱 こ 人 の こ た め の 々 す と 王 道 れ ま て み 々 る を に ` に う よ こ に 知 伝 お 対 と り と ` ら へ ほ す き ` ず ` い ° し °人 に は 王 興 ` よ る り `
まだズレてたな。こうか? 乎 扶 知 王 神 皇 枝 楊 始 諾 学 桑 幾 従 以 太 対 則 伊 尊 者 六 千 人 伝 神 之 伊 弉 伊 努 十 万 王 地 此 然 弉 諾 弉 力 州 以 伝 神 道 後 冉 尊 冉 々 豈 三 受 々 大 至 尊 取 尊 々 虚 尺 之 々 興 天 以 草 資 発 剣 者 以 天 照 竹 葉 撥 不 伝 乱 人
514 :
日本@名無史さん :2006/05/17(水) 17:22:53
おお、綺麗だ が、これが何だってんだwww
なんにでもコツはあるということで終了
んー・・・ なんだかんだでけっこう面白かったぞw
質問なんですが、竹刀と薙刀で試合をすると、剣道の技にはない脛打ちでやられることが多いと聞きます。 また明治初期の激剣興行の試合でも同様のことがあったと何かで読みました。 さらに遡ると柳剛流という脛打ちありの流派が一時期猛威を振るったとあります。 脛打ちが有効ならなぜ剣道では取り入れられなかったのでしょうか?(ついでに袈裟切りも) 対策が簡単に立てられるかでしょうか。
518 :
93 :2006/05/18(木) 23:15:32
>>517 要約するとなぜ現代剣道では脛切りや袈裟切りをしないのですか? だね
スレ違いだと思います
武板の方がいいね過去ログにもテンプレにも乗っているから この時期対策でね
剣道連盟hpにもヒントがあるよ
もともとありました。
戦前剣道は 軍刀操法につながるので国威発揚をかねて(主に陸軍主導で小学校でも)教えられていましたので
GHQにより禁止されました
で スポーツ化するという条件で存続を許されたので面小手胴の上半身ダトツに限ってルールを簡単にしたうえ
防具のない肩首部分へのダトツを禁止したわけです(≒袈裟切)鎖骨おれやすいですから学校の授業で骨折たくないですよね?
脛切りや袈裟切りを残していたら 剣道そのものがありません
なお関東や中国地方の一部で行われている『剣道協会』の剣道はそれを不服として戦前剣道の形に近いものを
復元して行われています(自分が竹刀おとしても相手を投げて締め上げたら有効がとれるらしいです)
けれども競技人口が少ないため実物は見たことがありませんので詳細はしりません(興味もない)
ひとつには脛を斬るために身を屈めなきゃならず、そうすると急所中の急所・頭を敵の剣尖に晒すことになる 基本的に盾も持たず両手持ちの剣がそのまま防御の役も果たす日本剣術としてはあまり誉められた行為じゃないんでしょう 実戦装備で戦うことを考えれば脛当てを双方装備していると仮定されるためあまり意味がないとか 裏篭手ならともかく、裏脛を斬るのは大変そうだw
>>519 剣道は素肌剣法に特化してるので、
実戦装備(完全具足)で戦うことを考えれば、現代の剣道の型からして不適当。
鎧は重くバランスの悪い代物なので、転倒しやすい。
もちろん転倒すると実戦ではそれだけで不利。
腰を落とし、重心を低くして体勢を安定させつつ、鎧の隙間を狙われないように構えるのが適当。
まあ、要するに何が言いたいのかと言えば、
剣道において実戦装備云々を語るのは無粋。
\_◎ _| | \ 鎧だとこんな構えだっけか
真剣では、剣道のような抜き胴はできない(らしい)。 人間は平素でも着物を着ているので、刀で胴を薙いで致命傷を与えることは案外難しい。 そのうえ、踏み込んだ瞬間に敵の刃が頭上から打ち落とされる危険があるとなると、 なかなかそんなギャンブルはできない(らしい)。 同じ理由で脛打ちも実戦では自分が危険だからあまりやらない。 というか恐くてできない。 乱戦になるほど真っ向切り下ろしか袈裟掛けしかできなくなる(らしい)。 抜き打ちに切り上げるくらいでは?
実戦想定しちゃうとチン的、背中、首、引き斬り、脇ツボ、内股、肘、指、足首・・・ 防具付けてない急所の方が多いからなぁ〜w 技術論で悪いが剣道の訓練目的としては [面打ち]躰の中心を打ち込む。敵の間合いに飛び込む訓練。 (メンを打たれるちゅう事は剣先が甘い。死ぬ気で飛び込むべしっ!) [籠手打ち]最も近い間合いを打ち込む。業の「起こり」を押さえる訓練。 (コテを打たれるちゅう事は手元が固い、手の構えの位置が悪い。) [胴打ち]左手の活き死にを打ち込む。手元の浮きを戒める訓練。 (ドウを打たれるちゅう事は脇が甘い、攻めに弱い) [突き]正中を攻め込む。「構え」の崩し、崩れの訓練。 (突かれるちゅう事は剣先が弱い、間合いが悪い。死ぬ気で突けっ!) まぁ、剣術とは剣で敵と戦う訓練。剣道とは剣で自他を学ぶ訓練。 進む方向が違うが目標は同じ、理解できれば結果は一緒。 道歌に曰く『分けいずる 麓の道は多いれど 同じ高嶺の月を観るかも』だな。 業と体を「捨てる事を学ぶ」が現代剣道の方向性だよ。 ・・・たぶんね(笑)
抜き胴はするな、一応。 ただ自分から突っ込んでってはしない、自殺行為。 真っ向も自分から突っ込んではしないかな。 一刀目が袈裟の確率はかなり高い。 個人的な意見だけどな
人生最初の試合で胴を取って一本勝ちした俺は天才剣士
>>525 俺も俺もw
初の試合で相手の面に対し胴を抜いた、完璧だった。
まじカッコいい俺と自負した。
体育の授業中だがな。
刀が折れたら体当たり。体当たりで駄目なら掴みかかる。それでも駄目なら噛み付く そういう戦場の剣こそ実は一番厄介
>>520 本気で実戦うんぬん言ったら、
1. 銃器
2. 弓
3. 石を投げつける
って話になるからなぁ。剣術やら体術やらと無関係になる。
普通に考えて片手で短い刀振り回す方が強いんじゃないの? 剣道のルールだと片手打ちは有効打にならないとかあるから駄目だろうけど (落とすときに片手を添えれば大丈夫かな?) 両手持ちなら重量は別にして単純に長い刀の方が圧倒的に有利だよね というか大石進に白井亨が勝ってるのは、理由が白井が片手持ちだったからだとしか考えられない
>>527 戦場じゃなくても刀折られたら即懐に飛び込むしかない。
んで柔術に以降。 できればいいね、みたいな。
>>528 それは戦術、戦略の話。
鎧着てても剣術使うときは少ないながらあるので、そんときのこと話してんじゃないかな。
531 :
日本@名無史さん :2006/05/19(金) 04:26:37
>529 片手で短かったら間合いの理を得られないんじゃないの?早抜きには向いてるけど。 片手両手関係なく、完璧に使えてる範疇でなら間合いが広い、長い方が有利。
>>529 片手打ちは剣道、剣術でもふつうにやってるYO。つーか大石進は他道場でもチョコチョコ負けてるしw
あと
>>1 にあるけど白井亨研究談義は良いと思うが根拠のない技術論と最強論は禁止なので、
試合の勝ち負けだけで判断しない方がいいと思うぞ。
>>527 刀が折れたら真っ先に逃げ出して、距離をとって石を投げつける(笑)
幕末の実際の斬りあいで名を馳せたのは示現流とか天然理心流 どっちかといえば気合とか必死の覚悟とかを重視する流派 実戦だと剣の技巧者を原始的な使い手が容易く殺す 結局は運だろうけど、運を呼ぶのはやはり平素からの実力特に気力の養成だろうね
幕末みたいな時代に一人前の技巧者を一人育て上げるより そっちの方が効率が良いのでは?
核兵器だろ、やっぱ
537 :
日本@名無史さん :2006/05/19(金) 15:15:44
皆様流派に相当詳しいようですのでお聞きしたいのですが、 上で語られている剣術流派で現存しているものってどれくらいあるのでしょうか? 自分はそろそろ杉並の北辰一刀流、玄武館に行ってみようと思うのですが。 他にも現存する道場ってご存知あればお教えください。
538 :
日本@名無史さん :2006/05/19(金) 15:22:28
素直に武板のほうがいいと思う
いや片手剣の方が片手が空くのだから 体のバランスが取りやすくて、結果的に動きのキレも出の速さも有利なんじゃないの? 白井亨の話は最強論じゃなくて攻略法を見つける前に勝ってるって見方でしょ あと上の剣の精神誌で書いてるように、無住心剣術なんかも脇差ししか使わないとかあるし 無住が相手の動きに機敏に反応する型がない剣術って考えからも 片手剣の方が動きが制限されないって考え方は当てはまると思う 佐々木只三郎とか小太刀使いが強いのとかもこれじゃないかな? あと河上彦斎もだっけ?
リーチと破壊力は劣るのは言うまでもないけど 戦う上では片手持ちが有利だよね 示現流とかみたいに実戦で一撃必殺で短時間で勝負つけるなら 両手持ちでパワー必要だけど
片手持ちなら体を半身にできる 敵に対する投影面積が小さくなると、当然攻撃を受ける確率が減る 相手が剣のみ使ってくるとは限らない実戦前提だとそっちのほうが
>>537 ホントはスレ違いだが剣道サイトにあった杉並道場の記事を一応出しとく。
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~ichini/bbs4/739467297754349.html 入門を考えるなら詳しくは武板で聞いた方がいい。
北辰なら剣道スレでも訊けると思うけど杉並の道場は剣道連盟には所属していない様だから
詳しい答えが返ってくるかはわからない。
ただ、あくまでネットの噂話だから参考意見程度。結論は道場を観て自分で出そう。
以前は武板にも剣術スレとか剣豪スレ有ったんだけど今は各流派分散してるかな
示現流スレ・新陰流スレ・二天一流スレ・神道無念・直神影・天然理心・香取・鹿島・
柳生心眼・大東流・夢想流杖・棒術・槍術・居合・・・他がある。
>>532 公式の大会では片手打ちと二刀流禁止みたいなのは普通にあるよ
>543 そりゃ昇段審査や審判が××の大会の話じゃない?馬場や戸田は普通に二刀でしょ。 今時の剣道事情は知らないけどさ。 戦前は天覧試合でも二刀剣士は普通に出ていたし最近の8段審査にも二刀が出てるはず。 あと町道場の稽古は何でもアリだよ。俺も二刀使うし足もかけるし関節も極めるよw 剣道界は広い。審査も大会も出ずに稽古が全ての連中や、古流の技を封印して大会出ている 連中も相当数いる事をお忘れ無く。
古流技とかやってる奴を出されて開き直られても困る
あと戦前の話とか
実戦実戦うざいヤツには石を投げつけろ!
一応言っておきますと。 剣で打つのに、片手と両手とどっちが良いかとか、突きと切り(打ち)はどっちが良いかは もう答え出ません。 永遠に続きます。
実際にやって負けても納得しないわけだねw
ここは学術歴史板で剣術スレ。異見があるなら文献か実見した証拠で反論すべき。 それともこのまま片手剣術の技術論に行きたいのか?
五輪書によると片手で剣を使うのは鍛錬のためみたいなかき方だな
もともと古代から片手っしょ。馬上では鑓も片手。 諸手がメインになるのは室町期に徒戦が主流になってからでは? 武蔵の鍛錬は片手で剣を使うために二刀で稽古するではなかったっけ?
553 :
93 :2006/05/20(土) 19:32:56
>>550 同意
>>1 日本史板であることを忘れない{武板のような技術論のみはダメ}
です
見識の高い方が多いようですので老婆心になりますけれども
流派違えば技術論に振られても一般論にしかなりませんし逆に内容が薄くなりますよ
拳骨和尚こと物外不遷坊は槍をつかった近藤勇に勝ったとなにかで聞きました
あまり逸話を知らないのでご存知の方詳しくお願いします
津本陽の拳豪伝で読めば?
拳骨和尚 武田物外のエピソードだけならWikiの方が詳しかったかも。
かなり充実してると思いますよ。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%89%A9%E5%A4%96 元ネタは『物外和尚逸傳』 高田道見 明治37年仏教館発行 だそうな。
「二百貫目ある釣り鐘を玉の浦に持ち出し洗ふことを楽しむ」「米俵16俵を一肩で担いだ」
一貫4kg(3.75キロ)米俵1俵60kg?前後と仮定すると800kg以上を担ぎ歩いてた事に
なりますな・・・?
ついでに不遷流(武田流)柔術について有名な人物は
4代目田邉又右衛門(大日本武徳会柔術形制定委員)明治時代に講道館柔道を寝技で苦しめた。
腕ひしぎ逆十字が得意技
三宅多留次(タロー・三宅) 1903年「全国武術選手権大会」では講道館代表をも倒し優勝柔道日本一に
タルジ・ミヤケはフランスでは「仏柔術界の祖」の一人と言われ海外のプロレスとかにも影響を与えたとか。
556 :
YAP? :2006/05/21(日) 17:24:23
「鹿島神蔭流」という流名は何時ごろから存在したのでしょうか? 松本備前守は、「鹿島神流」というのは、わからないでもないが、 「しんかげ」流という名称は、その次代に存在し得なかったように 思えるのですが。 これは「陰流」自体の起源問題にもかかわりそうですが。 「陰流」が通説どおり愛洲移香の創始とするならば、疋田系の 諸伝書に従って、新陰流の伝系を考えるのが正しいでしょうし、 もし、愛洲以前に「陰流」が存在し、愛洲移香が「新陰流」を称した とする考えが正しいのなら、上泉伊勢守は、「流祖」ではないという ことになります。
>556 ・・・すごい難問っスね。たぶん答えは出ないでしょうけどw 柳生厳長先生ですら「疋田系が直心影と軌を一にして流祖伊勢守以前に 愛洲移香、松本備前を流祖とするのは不可解」と書いてますな。 「鹿島神蔭流」の通説のポイントを要約すると。 「陰流か影流か?」「陰流と源家兵法?」「愛洲氏とは何か?」「奥山休賀とは何者か?」 「鹿島兵法と紀州水軍畠山氏の関係」「徳川の鹿島武芸者弾圧はあったのか?」 ではないでしょうか? そもそも「陰か影か?」に関しても柳生厳長氏の著作と直心影流石垣氏の著作では 解釈が180度違いますしねー・・・ 直心影の山田次朗吉「日本剣道史」で陰流については 『陰流とは古くよりある日本剣術の名称で陰とは陰密の意を含んで秘術を表現した 唱へである。故に愛洲惟孝は「あいすかげの流」と命名し、神陰、新陰、などの 名称が起こったらしい。 信綱甲州早鴨村を領していたより早鴨流(隼鴨)をあいす流とよんでいた。 早鴨は秋沙て和名「アイサ」あいすは音便の稱呼』と、ちと強引に定義しています。 うーむ。あくまで鹿島神伝としたい直心影と愛洲陰伝としたい西国上泉門下の違いが なんとなく出てる気がしますな〜w 個人的には鹿島神伝と愛洲陰伝両流伝承者の伊勢守が同一もしくは複数の流派を地域によって 使い分けた可能性もあるのではないかとも思うけど・・・ まぁ推測っすけどね〜w
補足しますと松本備前は「神流」で「鹿島神蔭流」は通称ではないかとも言われてますな。 直心影野見派の究理之巻(切紙の事らしい)には 『第一 鹿島神流之元祖杉本備前守・・・之故称之曰神陰流』と神流と神陰流で併記されとるっすね。 あと上泉伊勢守の伝系と愛洲移香・鹿島兵法の関連っスけど、 「上毛剣術史」(諸田政治:著)より上泉家年表を抜粋コピペしますた。 享徳 2年 1453 ・ 一色源五郎義秀(信綱の曽祖父)京師より来たり、義秀は中条流,念流、京流兵法の達人なりと伝う。 応仁 2年 1468 ・ (信綱の祖父)上泉時秀 十五歳。主水佐と称す。飯篠長威斎に入門。口碑に鹿島修行という。 1474 ・ 上泉時秀 二十一歳。兵法諸流の刀術修行成る。従五位下、伊勢守(初代) 文明16年 1484 ・ 漂泊の兵法者愛州惟香斎第一回?来泉、陰流の刀術を上泉時秀に伝える。 以来数次に亘り上泉城を訪れたという。惟香斎時に三十歳。上泉文書には三好日向とあり。 明応 9年 1500 ・ (信綱の父)義綱十八歳、父時秀の添書を持ち、松本備前守政信(33)へ入門、鹿島神道流刀術修行。 永正 4年 1507 ・ 愛州惟香斎奥羽地方遊歴の途次来泉上泉義綱に陰流兵法を伝う。 永正 5年 1508 ・ 次男源五郎秀綱出生(信綱初名)。 永正 17年 1520 ・ 信綱十三歳、父、祖父の添書を持ち松本備前守に入門、政勝(政信)その偉材ぶりに一驚すという。 太永 4年 1524 ・ 信綱十七歳、天真世伝神道流の奥源を受ける。 享禄 3年 1530 ・ 愛州惟香斎来泉、信綱の剣技に驚嘆、陰流を伝える。 享禄 4年 1531 ・ 信綱二十四歳、陰流奥源を受ける。 惟香斎より陰流の伝書、秘巻、太刀一腰及び、占術書、愛州薬方等の一切を信綱に相伝す。 この年の春、愛州惟香斎漂然と上泉城を旅立つ、この時七十六歳。其の後沓として消息不明。 ・・・まあ、早い話が神流、陰流どちらも達人だった様で、、、 −以下略。
伊勢守がスゴイのは、やはり、若くして 香取神道流、鹿島神流、愛洲陰流、念流をマスターしたことだろうね。 軍学や忍術でも有名だし。
愛州惟香斎の先祖?とか師匠とか言われている猿神前は念流の念阿弥の高弟ではないか・・・とか。 さすがに念流まで絡むと、ちとキツイかw 伊勢守は上泉流軍配(軍法)=小笠原流(氏隆流軍学)の大家でもあったようだ。 愛州薬方のような薬学については一時失伝し上方で再度伝承を受けたとか。 こういう医学、占術、軍配、忍術等は香取流とかでも相伝していたらしい。当時としては普通なのか? そういうのまでひっくるめて天下一だったのかもね。 ただ、上泉伊勢守の一族は必ずしも新陰流ではなかった。 上泉主水正憲元の家系は会津一刀流。内膳尉令倶が玉心流組討伝。孫次郎が無楽流居合(民禰流)とか なんでだろ?無楽流は主家長野無楽斎が師匠だからわからないでもないが?
極端な話上泉伊勢守自身は 何流を名乗っても問題がないということですし 柳生流も実際対鹿島香取を想定した型がメインですからね
だれか三段突きやってみて、、
伊勢守に限らず戦国期の剣豪は一族あげてそれぞれ一流の師匠について稽古して いたんだろうな。そのなかには飛び抜けたヤツも出てくる。 この時期の剣豪は小豪族が多い。
会津一刀流は、愛洲陰流の変名で、一刀流とは関係なかったりする。 柳生兵庫は、上泉孫四郎(尾張系)に猿飛を習ったと有りますから、 孫次郎や孫四郎は、普通に新影流の使い手でもあったのでしょうね。 大森流も柳生や上泉を祖にしてます。 面白いのは、愛洲陰流と疋田陰流はほとんど同じ目録で、 後に、九州北部、岩国などでは、愛洲陰流の流名で稽古されてたこと。
>孫次郎や孫四郎は、普通に新影流の使い手でもあったのでしょうね。 なるほど、居合師範の孫次郎も新陰流の剣をしっかりやってたわけですね。 成立期から考えて、たぶん居合は柔術や外物みたいに剣とは別伝、併伝だったと思います。 江戸期の尾張柳生の制剛流居合とか無外流剣術の自鏡流居合のように後から取り入れられた物 ではないでしょうか? 大森流居合(現、無雙直伝英信流)は新陰流大森六郎左衛門が田宮流長谷川派を基に 作ったらしいので技法自体は田宮流となります。 新陰の剣士がまとめ上げたので新陰流を道統としたのだと思います。 民弥流居合流祖の上泉孫次郎も新しいスタイルの兵法として 新陰流と林崎流居合の併伝を任されたのかもしれないですね。 もしくは長野家の兵法の弘流のためか。
566 :
YAP? :2006/05/24(水) 17:39:48
「愛洲新陰流」というのがあったが、その伝系は、どうも疋田流そのもののようでした。 疋田系統は、だいたい、松本備前守を無視して、 鵜戸大権現ー愛洲移香ー小七郎ー上泉伊勢守ー疋田文五郎ー諸高弟 という形でほぼ統一されているように思う。 松本(或は思いっきり怪しい杉本)備前守を、愛洲移香〜小七郎と 並べて、上泉伊勢守の師とするのは、大体奥山休賀斉が、神影流正統 二世を継いだとする直心影流系統特有のように思うのですが、 正直なところ、疋田と神後伊豆が双璧であり、奥平孫次郎も柳生石舟斉も 確かに「印可」は受けたでしょうが、「二世」などというものではなかった と思います。 「一国一人印可」という場合の「一国」は、「大和国」「摂津国」「武蔵国」 といったレヴェルの「一国」であって、「日本国全体」の場合は、「六十余州」 とか「天下」という表現の方がふさわしいように思います。
567 :
93 :2006/05/24(水) 23:25:39
>>566 師には悪いのですけれど大筋同意ですね
>>正直なところ、疋田と神後伊豆が双璧であり、奥平孫次郎も柳生石舟斉も
確かに「印可」は受けたでしょうが、「二世」などというものではなかったと思います。
丸目蔵人佐を入れて三羽烏ですかね? 新陰タイ捨流ですけれど
>>554 いわゆる剣豪小説ですか?剣豪小説はあまり好みではないので・・・・
型で戦う人なんていないよ と
>>555 氏サンクスですご尽力感謝
たしかに九州地域の影流は疋田系が多数のようです。大石神影流とか。 上泉門人と言う意味では筆頭は疋田でしょうね。 ただ、疋田が新陰二世なのかは、やや疑問ですね。何か正当宗家の確証があれば 無条件で納得ですが。
また新陰流の正統宗家とか荒れる話して上泉伊勢守を貶めていることに 気付かない香具師等がいるよ…。 武板の新陰スレに逝け
上泉伊勢守をおとしめたくないなら小説板か漫画板に行くのを勧める。 また、現行会派の正統宗家論は当事者がいる武板でやればいい。 どんな立派な剣豪であれ人斬りの悪人であれ歴史のデータとして公平に扱うのが学術板だろう。 荒らす必要もないが特定流祖を神格化する必要もなし。 疑問があるならどんどんぶつけるべきだろう。
>>566 疋田系は、九州で広まったせいか
愛洲の前に鵜戸権現を置きますよね。
一方、愛洲陰流目録(秘伝書の方だったか?うろ覚えスマン)では、
摩利支尊天から系譜が続きます。
『日向の鵜戸明神の岩窟に篭もり刀術の妙を得』 ・・・と、これは念流の伝記ですがw そそりますね鵜戸明神。兵法の成立に、いったいどんな関わりが有ったのでしょうか?。 それに対し江戸で弘流した小笠原源信の道統は杉本備前守を流祖とし鹿島神伝を主張し また愛州元香斎小七郎は常陸源氏佐竹に使え、あえて地元常陸の真弓山に祈誓し 猿飛陰流を名乗ります。 ・・・ここが面白いw 天文年間に伊勢守上洛のさい奥山休賀斎・小笠原源信斎そして小田原の北条氏康、綱成が入門 伊勢守は北条綱成の娘を後妻として娶り、後に小田原北条家兵法師範となる有綱・行綱をもうける。 また息子の秀胤と孫の泰綱も北条家に使えており晩年の関わりはかなり深いので 奥山、小笠原源信斎との関連は無視できないのでは? それと、柳生が印可後に伝授されたという影目録の意味も気になりますね。
573 :
569 :2006/05/27(土) 16:38:42
>>570 >特定流祖を神格化する必要もなし。
俺は神格化などしてませんが?
議論する前に武術の観念と言うか通念として
印信許可(これを訳して印可と言う)を得たと言うことは
独立独歩を許されたと言うことなので実力が
既に師である上泉と同等(もしくは以上)であることを意味する。
上泉から印可を受けたからにはは出藍の誉を受けて
流派を卒業したと言う事になる訳で、一例として多く人口に膾炙している
柳生新陰流という呼び方から考えると柳生さんの伝える新陰流ではあるが、
新陰流柳生派とイコールではない点が重要。
江戸に時が移り徳川将軍家の指南役に柳生が選ばれると
他の流派もこぞって自流の権威付けに上泉を持ち出したに過ぎない、
その逆説的な効果で将軍家指南役の柳生が正統なのだと言う誤った認識が
広まってしまったと思う。
翻って言えば印信許可を得た弟子の流派はすべからく正統なのではあるが
宗家に関して言えば香取神道流ように「上泉の」新陰流にも宗家があれば
歴史上にその事蹟が残るはずだがそれがないという事は
「上泉の」新陰流に宗家はないという事。
自らも陰流から新陰流へと名を変えておりまた名利を捨ててまで廻国修行に
後半生を費やした上泉の行動から考えると流派の振興ではなくて
剣術の発展をこそ考え誰が自分の継承者と言うことは考えていなかったろう
574 :
570 :2006/05/27(土) 23:25:07
なるほど一理ある。 宗家以外でも皆伝を受けた師範なら免状を発行している場合があるからな。 せっかく良い意見が有るんだから新陰スレと言わず、ぜひここでも語ってくれ。
575 :
YAP? :2006/05/28(日) 15:09:24
570氏の違憲に全面的に賛同する。 上泉伊勢守は、「陰流」に工夫を加えた 「新陰流」の弘布こそを、第一に考えていたのだろう。 疋田や神後のような古い弟子は、長野家滅亡の時に、 その師の思いを良く理解して、行動し、疋田は京以西に 新陰流に使命感を感じていたのではないか? それに対し、「主持ち」の者(流派弘布のため兵法市販に なった場合は別として)や、土豪として家名存続・家領確保 を目指していたものは自ずから、立場が異なったと思われる。 このグループが、丸目、柳生といった所だろう。 奥平(奥山)休賀斎、小笠原源信斎の行動は、謎だが、基本的に そこそこの豪族の「一族」であるという立場の反映で、疋田・神後 と、柳生らの中間的立場にあったのだろう。 尚、愛洲元香斎(小七郎惟修)と、佐竹家に仕えた愛洲小七郎宗通の 関係については、親子だろうが、同一人では無いと私は思う。 宗通の光栄の佐竹藩士平沢家が、陰流を伝えていないのは、その一証 となると思うが。
秋田平沢家は一応、平沢通有(陰流なら8代目なのか?)まで兵法家が続いていた模様。 「平沢家伝記」を書いたのもこの通有だそうです。 中でも江戸初期の平沢常長(小七郎の孫)は秋田移封の混乱期に活躍した剣の達者で 具足で武装した反乱藩士に対し平服のまま太刀向かいこれを仕留めたとか。
577 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 11:24:34
徳川吉宗と徳川宗治の真剣勝負 やはり吉宗の勝ちだったな。 ただし宗治は腹に入れていた印籠に刀が当たって一命はとりとめた。 この勝負は公式な記録には残されていない。
578 :
YAP? :2006/05/30(火) 12:25:56
新陰流をひろめるためには、他流試合も必要であり、特に負けたほうが勝った方の 弟子になるという契約(条件)をした上で、公開試合をするといったことも、 結構行われたのだろう。 もし、公開でなければ、地元の一門が敗北でメシの食い上げに成るのをおそれ、 「闇討ち」というのは、当然だからだ。 従って、地元の大名・土豪の前での午前試合とか、或いは高札を立てての公開 試合が行われ、疋田が、勝ちまくったことが、西国や近畿の新陰流の勢力拡大に 役立ったことは間違いない。 勿論、足利将軍の兵法師範(義輝と神後伊豆)とか、関白の兵法師範(秀次と疋田)、 織田信忠と疋田、あるいは、天皇の前での上覧試合と官職補任(スポンサーがつけば、可能だろう) とか、いろいろ広告宣伝が行われたことはあきらかだ。 私は、明らかに他流出身者が、新蔭流の系譜に入っていたりするのは、公開試合で負けての 「弟子入り」の約定に従った結果ではないかと疑っている。 問題の戸田清玄も、そのケースだったのではないか?
当時は一人一流の限定ではなく、複数の流派複数の師につくことも珍しくなかったんじゃないかね 江戸期でさえ、例えば講談で有名になった荒木又衛門は中条流・陰流・新陰流の三派を学んでいた
580 :
YAP? :2006/05/30(火) 14:19:59
勿論、複数の流派を学ぶこともそうだが、伝承者が、 どの流派の伝承者を名乗ったかということも、 重要な要素のように思う。
まあ・・・名乗ったのはその当時一番メジャーな流名でしょうね。仕事ですからw 江戸期では寺田宗有なんかが無敵流の秘奥受け免許とったけど、藩命で一刀流を 取り直しさせられたという例も有るし やっぱ武芸はブランドだねw
すげーこんなとこまで来るのかよ・・・
584 :
日本@名無史さん :2006/06/02(金) 02:18:23
飯篠家直と上泉信綱の戦に飽いて剣の道に没頭する人生は、どことなく被るものがある。
飯篠家は地方の一郷士としての道を選べたけど信綱は流浪の一族と家来を喰わせなきゃ ならなかったろうからね。 門人の仕官先を尋ね歩き、敵に頭を下げ、パトロンとなる豪族に取り入って上洛をする。 その途中残された家族は次々と戦場で討ち死にしていくわけだ。 信綱の弘流は想像以上に苦しい旅だったと思うよ。 ところで上泉の家系は現在どうなったんだ? 上杉公方→長野家→後北条→上杉・・・ で、良いのかな?
名が広く知られ、多くの門人を抱えているからこそ行く先々で歓待されたと記憶しているが。 頭下げて廻る流浪の旅というイメージはないな。
上泉門人一行は引く手あまただったろうけど他の一族はどうだろう? 秀胤とか、信玄に向かって弓引いたワケでしょ。
589 :
YAP? :2006/06/04(日) 15:12:36
ところで、どなたか、疋田文五郎が、細川家に献上したとか言う『回国記』 を読んだことのある人は、いませんか? 細川家の「永青文庫」に保存されていたように思うのですが。
590 :
93 :2006/06/05(月) 21:08:21
>>588 上泉主水は上杉にいましたね(義弟 あるいは 子といわれています)
伊達との戦いで戦死してるとのことですね
廻国記なら細川藤孝公に提出された物ですよね興味ありますね。 素人なので詳しくわかりませんが細川文書なら数種出版されているようなので 意外とどこかの図書館や学校に有るかも。
名人に二代なし、というけど戦国期は良い弟子筋が多数輩出したんだな 殺伐とした気風が土壌になったのかもしれんけど…
現代人が学ぶより実際わかりやすかったんじゃないかな? 我々現代人は形や文献から推測しなければ使えない技もあるけど 当時の門人は流祖本人から直接使用法を聞いてそのまま実戦へ出向いたわけだし。 また、技の数も現在よりずっと少くて単純だったと思う。
重い具足つけてたから複雑な技なんて使えない、という一面もあっただろうな 普通の果し合いでも鎖帷子くらいは平気で着込んでたんじゃない? 柳生利厳らが立ち方を工夫するのは江戸時代だし
時代も立場も全然違うけど、清水の次郎長一家も急な決闘の時は 店で大皿借りて体に縛りつけ防具代わりにしたそうだ。
596 :
日本@名無史さん :2006/06/09(金) 16:04:59
わかりやすい、というのは重要な要素かもしれんね 組太刀で重要な動きを覚えさせ、禅や道歌みたいなものまで使って心構えを叩き込む 後は本人の素養次第で工夫するも良し、見たいな
>>594 荒木保知も鍵屋の辻の決闘では鎖帷子を身に着けてたそうだ。
>>596 卜伝流の一の太刀についても「一つの位、一つの太刀、一の太刀」しか解からないことから
技が三つしかない説と、心構えを説いた説があるね。
598 :
日本@名無史さん :2006/06/09(金) 17:06:56
兵法家伝書読んでるけど、ピンとこないな。
兵法家伝書や五輪書なんて剣豪自らが公開解説した貴重な「伝書」だから内容はすごいと思うよ。 実戦の駆け引きや技のコツ、さらには心法の解説まであるw 当時の解説書としてはかなり親切丁寧な部類ではないだろーか。 ただ、内容を理解するには、その流派の形や技が判らないとイメージしづらいかも。
上泉信綱が「転」を説いて、江戸初期の柳生宗矩とか宮本武蔵も「剣禅一如」とか「空」を語ったが この辺りはいくら分かりやすく説かれても実践できなければ何の意味もないわけで・・・
>>601 何言ってんだ?理想(目標)を掲げて最終的に
それを実践する為に心鍛錬身することの手引として書を記したんじゃないか
読んで身体能力まで備わると思っているのか?
そもそも戦国期はいくさ場で生き抜いた者達が
時には師を求め時には弟子を集めていた訳で
師も弟子も実体験に基づいて流派・流儀を習得・発展させていった。
必然的にある程度の素養の高いものが寄り集まったことが大きいだろう。
↑おまえなかなかできるな、、
なんでそこで噛み付くのかわかんない
605 :
602 :2006/06/10(土) 22:00:50
m(。・ε・。)mスイマソ-ン
そもそも〜以下の文は
>>592 へのレスね
アンカー忘れちゃったの
まあ、普通に現代剣道とかでも使われてる言葉も書かれているし、剣のレベルが上がれば 意味が初めてわかる部分もあるし。決して使えない書物ではないよ。 また兵法家伝書や五輪書で同じような意味を違う解釈で捉えていたり、同じだったりw 比較すると面白い。 「觀見の目付」とか「けんの先、たいの先」とか「拍子」とかね。 兵法家伝書は口伝や禅語が多く読みづらいから五輪書の方がとっつきやすいかも。 そのへんはよくよく吟味すべき候事だね。
607 :
日本@名無史さん :2006/06/16(金) 23:04:19
>>606 >>剣のレベルが上がれば 意味が初めてわかる部分もあるし
ってほとんどそうじゃね??字面だけ分かっても体感として分かるのはずーーーーーーと後だし。長くやっていてもこんなんばっかだぞ。
>字面だけ分かっても体感として分かるのはずーーーーーーと後 武道に限らずスポーツ全般そうでしょ。基礎訓練と理論と実践のひたすら繰り返し。 ・・・でしょ? 必要ない人もいるかも知れないが、兵法書は長い修行の道の地図のような物。 理論を読み続けるのは苦しいが必要な事だと思う。 でも、まあ人それぞれかなw
だな
610 :
日本@名無史さん :2006/06/20(火) 13:22:03
止まってる様なのでこの期に質問 新免無二斎についての資料というのは残っているの? 十手術の祖の一つという話と御前試合で吉岡拳法から二本取ったという話は読んだことあるけど。
新免無二か・・・平田無二という記述もあるな。 実手(十手)の名人じゃったというから拳法体術系の人だったのかも? 手裏剣も使ったようだ。武蔵も手裏剣の名人だよね。 武蔵は新免無二之介の姉の子(甥っ子)で、田原家から養子に入ったとか。 (新免も田原も赤松氏族) 新免家は主君宇喜多家没後黒田家の家臣となる。 武蔵が厳流島の後、黒田家で師範をやっていた無二の元へ逃げ込んだという説もあるね。
612 :
93 :2006/06/20(火) 22:05:45
>>611 あー田原伊織の絵馬系図からの説でしたっけ?
播磨高砂田原家次男 伊織のやつ
で藤原源信 ・・・・いつもおもうんだけれど赤松は 村上源氏13皇子末を自称してるのに
なんで藤原なんでしょうか
614 :
93 :2006/06/21(水) 23:56:42
自主練からもどりました
おお
>>613 氏どうもです
これは初めて知りました
615 :
93 :2006/06/22(木) 00:15:01
追伸 橘氏族ではないのですけれども 小寺に属した赤松氏族は 丸に橘紋が多いそうです
宮本無ニ助藤原一真(平尾太郎右衛門):實手当理流(じってとうりりゅう)の流祖?
将軍足利義昭から「日下無双兵術者」の称号を得たそうな。
實手術(十手術)、剣術、小太刀、手裏剣術等を伝える総合武術であったとか
当理流
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E7%90%86%E6%B5%81 >赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信である。彼は二天と号し・・・二刀兵法の元祖であった。
>父、新免は無二と号し、十手の家をなした。武蔵はその家業を受け・・・
>十手の有利性は一刀のそれに倍すること・・・二刀をもって十手の真理とするとしても
>その長所に違背することはない。ゆえに、十手の家を改めて、二刀の家としたのである。
>武蔵は・・・真剣を飛ばし、あるいは木剣を投げて・・・・まるで強力な弩百発百中・・・・略
--以上「小倉碑文」抜粋。
ttp://www.geocities.jp/themusasi/ref/t012.html これによるとオヤジ無二の当理流十手術が武蔵二天一流(円明流)の原型という事になる。
ちなみに「カムイ伝」に出てくる武蔵の弟子青木鉄人の圓明流實手術によると
トンデモなく複雑な構造のカラクリ十手を使った十手二刀の絵図が残っているw
(なぬっ?カムイ伝を知らない!全く、今時の若いモンは!)
銭形平次の十手と違い、手持ちの十文字槍みたいな感じかな・・・何と表現すればいいのやらw
↑おおっ、それだ! ・・・え?一角流??
二天一流って武蔵以後に剣豪と呼べるほどの達人を輩出したの? 学ぶ人口が少ないからかもしれないけど、例えば江戸期や幕末に勇名を馳せた使い手の中に一人もいないっぽ…
江戸期は二天一流に限らずかなりの流派が、ある意味衰退したといっていい。 たしか綱吉あたりから寛政年間あたりまで治安のため、ほとんど他流試合的な事は表だって できなかったか、あるいはやらなかった希ガス。 幕末の頃になると防具が整備され、さらに総人口の80%を超えると言われている農民、 町民、郷士層が再び武芸を始める。 だから「江戸初期=介者剣術」→「幕末=道場竹刀剣術」みたいな感じかな?
一角流まろほしよりも構造の単純な組み立て式十手か、組み立てじゃない 十手だったんじゃなかったか>圓明流實手術
623 :
YAP? :2006/06/24(土) 20:13:57
円明流と二天一流(或いは二刀一流)がはたして、同一流派なのかという問題もありますね。 武蔵の素性については、その家系を伝えている養子宮本伊織家の伝承が基本的に正しいでしょう。 つまり、細川家の「永青文庫」に収録されている「沼田家文書」(門司城代沼田勘解由)にある 武蔵を小次郎の門弟の襲撃から守るため、養父の新免無二之助藤原一真ら新免衆(新免伊賀守宗貫の家臣団) のいる黒田家に舟で護送したと言う権も含めて「同時代史料」ですから。 基本的には、『真説・宮本武蔵』(原田夢果史)の採る説がもっとも信頼性が高いでしょう。
624 :
日本@名無史さん :2006/06/25(日) 17:57:22
>>623 >武蔵の素性については、その家系を伝えている養子宮本伊織家の伝承が基本的に正しい
根拠なし。
>細川家の「永青文庫」に収録されている「沼田家文書」にある
武蔵を小次郎の門弟の襲撃から守るため、養父の新免無二之助藤原一真ら新免衆
のいる黒田家に舟で護送した
間違い。
>「同時代史料」ですから
???
江戸末期の史料がなぜ同時代?
>基本的には、『真説・宮本武蔵』の採る説がもっとも信頼性が高いでしょう
最近の研究書を読んだことがないんですか?
イチャモンつけるだけは反論とは言わない 具体的に
>624 そうなの?ちと検索してみた。できれば次からはソースも提示してくれるとありがたいのだが。 「沼田家記」から適当に抜粋。 >石井三之丞と申す馬乗に鉄砲之共ども御附被成、道を致警護、無別条豊後へ送届、武蔵を無二斎と申者に相渡申候 んー馬と舟の違いぐらいか?まあ、これも後世の編纂らしいが詳細は不明。 あと伊織の伝承に根拠が無いとしたら泊神社棟札も否定されてしまうのだろうか? もし詳細を知っているなら情報希望。 円明流については青木鉄人斎が「圓明流家譜」とかいうのを書いてるらしいどす。
>「沼田家記」・・・これも後世の編纂らしいが詳細は不明。 あ、失礼。 編集時に手を加えられたか、原本が口伝だったのかは不明と言う意味。
628 :
日本@名無史さん :2006/06/26(月) 01:27:46
沼田家記が記述しているのは、豊後の無二斎の元へ武蔵を送り届けたということ。 史料からわかるのはそれだけ。 新免衆や福岡の黒田家へなどとの記述はどこにもない。 黒田家に送り届けるのに何故豊後に送るのだろう? 新免無二なる人物は、関ヶ原前後に黒田家家臣であった記述はあるが、巌流島の決闘の頃には 豊後の木下延俊の元に無二なる兵法者が出入りしていた記述が延俊の日記に記載されている。
629 :
日本@名無史さん :2006/06/26(月) 01:55:24
武蔵が伊織の叔父であるという記述の初見は天正10年生誕説と共に、江戸末期の伊織の子孫が作成した系図。 泊神社棟札に書かれているのは、武蔵が天正年間に秋月で亡くなった新免某の養子となり、さらに伊織が武蔵の養子になったということ。 武蔵の出自が田原家であるとはどこにも書いていない。 また、手向山の碑文には、父が新免無二と書かれているだけ。 さらに、新免無二なる者が、天正以後も生存していた事実は黒田家の記録などから、間違いない。 すると、武蔵の出自の田原家説が泊神社棟札に書いてないだけでなく、泊神社棟札は武蔵に関しては、誤った記述をしているということになる。
ああ、なるほどね〜 泊神社棟札では確かに武蔵と田原家については
直接触れられてはいないね。
「泊神社棟札の解説」
ttp://www.geocities.jp/themusasi/ref/t01.html 小倉宮本家系図と泊神社棟札では系図が違う様だ。
しかし新免武蔵が藤原姓で宮本伊織は源姓なのね。
>無二なる兵法者が出入りしていた記述が延俊の日記に記載されている。
調べてみた。豊後日出藩主木下延俊の慶長日記というやつなのかな?
慶長十八年には無二之助が延俊公相手に兵法を遣ったらすぃね。
藩主の稽古相手とは結構エラかったのか無二は? んで小次郎との決闘が慶長十七年。
武蔵が豊後へ逃がれたのは細川家(豊前)の松井興長が豊後杵築城の城代だったらしいので
そっちのコネなのかな?
問題は、なぜそこで無二が保護者として出てきてその後どこへ行ったかだな。
まあ、そっから先は空想になるねw
631 :
日本@名無史さん :2006/06/29(木) 22:36:44
琉球の櫂は棒術の応用、武蔵の木刀は今でも保存されてるけど櫂から削り出したってだけで 形は普通の長い木刀だね。 面白いけどたまたまだろうね。
633 :
日本@名無史さん :2006/06/29(木) 22:58:47
>>631 役人がもつ十手(御用)の提灯 岡っ引だな!
今で言う警察官。
634 :
日本@名無史さん :2006/06/29(木) 23:03:46
警察官 =警棒・拳銃・手錠 岡っ引 =十手・ 刀 ・縄 亀甲縛り
サイは琉球でも役人の持つ武器だったはず。 刀より棒を絡め取ることを前提にしたので鉤の幅がひろい。 もとは農耕器具のフォークとも西洋のサーベルとも言われている。
米国の警官はトンファも使うぞw 薩摩の植民地だったせいか琉球古武道は日用品で戦う武器が多いな。 トンファとか棍とか鎌、たぶんヌンチャクもそうだろ。 本部流では箒や櫂も使ってた希ガス 知り合いの極真系は武器術がやりたくて糸東流に鞍替えした。サイ術見たがカコイかったぞ。
サイと十手はあくまで別系統に思う
武蔵の父無二斎の使っていたという十手は
十文字槍の先の部分だけっぽいのらしいけど
江戸期に時代劇に見られるような形のものが一般的になったが
十手には平時巡回に持ち歩く用と捕り物出動用の二種類あり
捕り物出動用は小太刀の中でも大脇差と同じ位の長さだった事から考えても
小太刀の代用で犯罪者を殺さず捕らえる目的のためだろう。
>>631 さらに遡るとやはり中国の鉄尺という武器が源流だとか
638 :
日本@名無史さん :2006/07/01(土) 19:14:51
ついこないだ上泉伊勢守の墓参りに行ったのだが、そこにたっている碑によると、 先祖は源氏であると書かれていた。なのに同じ碑に伊勢守の名前として書かれて いるのは上泉伊勢守藤原信綱?????。 源氏? 藤原?
紛う事なき藤原氏です 先祖は田原を領地とした藤原秀郷、又の名を俵籐太秀郷という人。 俵(田原と同じ読み)籐(藤原の藤)太(長男をあらわす太郎)+秀郷(名前)
余談だけど、蒲生氏郷も秀郷だっけ
あまり詳しくは知らないが上泉家の大胡氏は、藤原姓足利氏である足利成行の子孫だそうだ。 だが源姓足利とは関係ないらしい。 成行の藤原姓足利氏は滅亡。その後足利尊氏のような源姓足利が勢力を伸ばしたとか。 このへんが資料的に混乱しているのかも・・・? 間違ってたらごめんw詳しい人補足ヨロ。
奥州藤原とか西行法師も秀郷の家系じゃな 西行が平泉に向かう途中鎌倉で源頼朝に会い弓馬の話で夜を明かした。 この作法をもって現在も鶴岡八幡宮の流鏑馬神事が行われておるそうな。 そして奥州藤原は、そのすぐ後頼朝に滅ぼされてしまった。 思いっきり余談じゃな。とっぺんぱらりのぷうっ
643 :
日本@名無史さん :2006/07/06(木) 20:15:18
今生きてる人の中で一番強い人って誰?(剣道で)
>>643 ごめんスレ (´∀`( ´∀`) チガイだから
回線切って首吊ってね♪
現役選手なら日本史板より武道板で聞いた方が確実だろうね。 おじさんは宮崎正裕までしか知らないw
最強論争は武道板ではご法度だ
647 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 00:18:32
ごめんなさい
質問しただけだから、べつに悪くは無いんじゃない。
まあどんなスレであろうと
一応
>>1 ぐらいは読んでもらいたい
うん1は良いルールだよね。 でも悪質な書き込みでもないならあまり厳しく排他的にしないで、いろいろ議論できる環境 の方が良いのではないかと思うのだが。だめかなあ。 深くもあり浅くもあり歴史オタと武オタと映画、ゲーム厨が共存できる楽しいスレが理想だと思うよw
651 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 13:13:46
相手は真剣でしかも米軍の教官クラス、こちらは木刀、しかも相手に傷一つ負わせず勝てなんていう無茶苦茶な状況でそれを成した国井善弥以降の剣士にはあまり興味が湧かないなぁ
>>650 だったら自分でスレ立てろ
お前みたいな厨はうざい
653 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 17:24:48
タイ捨流
>>651 剣道復活の為にがんばった人だっけ?
がんばると言うか鼻歌まじりにでも出来る試合だったらしいがw
655 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 12:15:12
>>654 剣道復興に大いに貢献をはたした。
でも口が悪くて、現代剣道なんてぞうきんダンス、俺の流派最強みたいなこと
吹聴したので、剣道界からは黙殺。
>>651 最強論禁止なら試合の例を出して流派の優越を語るのも禁止では?
國井先生も最初は剣道家になりたかったんだが家伝の兵法を継ぐために念流に入門した。
・・・まあ、國井先生のばやいボロクソに罵倒したのは剣道に限ったことではない。
あまり「マスコミ武道家」の言うことを真に受けないほうが良いよ。
剣豪の没年不詳が多いのは、老境になって「勝てる!」と見込んだ血気盛んな輩の挑戦から逃げる為に山籠もりしたかららしいな。 山で怯えて暮らす剣豪萌え。
老いには勝てないよ・・・。 十度やって十度勝てる相手としか戦うな・・・
ト伝とかの老境山籠もりは伝説だろうね。まがりなりにも殿様だからw 武蔵とかは執筆活動かな? 諸岡一羽は晩年寝たきりだったし富田清玄は半盲で隠居してたしね。 飯篠長威とか石舟斎はけっこう平穏に老後を過ごしていたのではないかな。
660 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 14:07:37
国井氏がGHQ教官と剣道復活をかけて戦った時は50代。相手は30代 日々を修練に費やす達人なら老いても強いんじゃない? 実際、老人になっても筋トレの効果はあるって旧来のイメージ覆す科学的実証が行われててアンチエイジングで注目されてるし
石舟斎は息子が木刀で拳砕いたり、政治的なモノに息子が巻き込まれたり、 田んぼを隠しているのがバレたりと・・・まぁ・・・。
662 :
YAP? :2006/07/09(日) 14:38:40
ADSLの呼称で、6/25以降、インターネットに接続できなかったので 浦島太郎状況だが、幸いこのスレは短く、全部追えた。(騎馬民族説などもう 新しくなっていた)。 で、大分前の話題にもどる事になるが、宮本武蔵の件だが、宮本武蔵の「家 」を相続したのが、小倉藩筆頭家老家で藩主小笠原家から養子も入った「宮本 伊織家」であることは誰も依存がないだろう。 その伊織家の家系伝承を無視することは困難だ、 勿論、伊織と武蔵が「血縁」にあることを「主張」したいため「偽装」した 可能性はないとは言えないが。 とはいっても、宮本伊織家以外に、伊織の三人の兄弟の子孫も医家などとして 存続しており、その全てを巻き込んでの偽系図というのは、無理でしょう。
>>660 30代より強い50代なんて剣道にもざらに居るもんな。世界王者の栄花直樹とかは小兵だったし。
>>662 問題は伊織伝と言われる小倉宮本家系図と泊神社棟札の相違点でしょうね。
江戸時代、戦国時代の50と比べるのは酷ではないだろうか…
665 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 17:02:37
>>660 筋肉領は増加するけど体力はどうにもならんらしいよ・・・長期戦になればなるほど不利。。。視力は落ちるし反射神経も。。。
剣豪と言われた人達は身長180cm前後で80才ぐらいまで生きていた人が多数いるからな。 現代人と比べても遜色ないと思うよ。 たしか江戸期に比べると戦国期のほうが栄養状態も良く大柄だったはず。 江戸期が特別栄養状態が悪かったのでは?
江戸時代には相撲取りで2メートルごえがいたらしい
ペリー来航のさい活躍したな。相撲取り。
ここみたく真面目なのではなく、 剣豪等の最強説を語る空想バカの房スレはどこですか? あるのなら導いてくれませんか?
馬鹿なスレでも自分で立てる奴の方がまだマシということか
昔格付け板にあった。でも今調べたらもう落ちてた。
675 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 00:28:09
伝書の漢文が読みたいのだが、読めない。 どういう勉強すればよいの?
676 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 09:18:24
>675 うー、漏れも知りたい。つーか伝書なら師匠から口伝を受けとるじゃろうがw 古文解読の専門書読んで独学か、地元の歴史クラブあたりに入会するか、 あと、教員や学芸員にも堪能な人もいるね。 ・・・つーか、そっち系のスレで聞いた方が確実かもw
でもなんだかんだ言ってもやってなんぼの世界だから技の名前とか結構平気で間違えたまま伝えてたりするよな。 神道夢想流杖術に「一刀」と書く型があるんだけど発音はなぜか「いちりき」。 偉い先生が間違えて伝えて周りがつっこめずにそのまま伝わったとかだったら笑える。
それはある。時々マジで誤字なのかそれとも暗号なのか考えてしまう事があるw ダジャレのセンスも必要。
680 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 01:09:24
そーいや宮本武蔵の変な気合いに「へったい」というのがある。「絶対」という意味だったか?
教えて 鳥取池田藩の正式名称忘れたが(井の中の蛙流)と呼ばれてたのは 何流?どんな流れ?荒木又衛門は関係無いと思うけど
>>681 宇江佐真理「深尾くれない」を読むとよろし
戦国時代なら宮本武蔵最強 幕末時代なら沖田総司と言いたい所だが永倉新八と言う説 以上、スレ禁を連発しましたんでよろしく!(● ̄(エ) ̄●)ノ
685 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 22:02:20
ご苦労であった。 宮本武蔵を戦国時代に分類するべきなのかどうかが・・・ いや、なんでもない。
どうも宮本武蔵って史実を見ると生前からタレント性が強すぎて言われるほど実力があった のかどうか疑問に思えるんだがな。尾ひれのつき易い人物だったんじゃないかと。
すくなくとも、お前よりは強い。
伊藤一刀斎の名は小野派系統じゃ景久だけど唯心系統じゃ影久なんだわさ。 どっちでもいいといえば良いけど。
689 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 03:04:21
一刀流とか二天一流って最初は五点と二刀勢法の5種類の刀法しか無かったと言うが ホンマじゃろうか?
690 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 15:26:45
宮本武蔵って小野忠明・忠常とは会ったこととかなかったかな? 柳生の兵庫助との抗議や細川の殿様なら伝があっただろうに 小野家ならそれほど格式だのを言って拘らなかったらしいからさ
691 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 16:48:21
格式に拘らなかったというか・・・ 小野一家は少し狼藉が過ぎたかも。 もう少し思慮ぶかければ、もっと名を上げていたのに。
天然理心流はあきまへんか 真剣よりも重い木刀で稽古してたとか...あんま詳しくないけどたぶんつおい
新撰組が強かったのは毎日不逞浪士と斬り合いした上に怯んだら味方に斬られるという 極限状態があったからだよ。流派はあんまり関係ないと思う。
なるほどなっとく
695 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 23:03:27
ふむふむ
じゃ誰が一番つおいん
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。 半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。 両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。 もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。 脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、 店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、 脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。 店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。 高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。 そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。 私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、 店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。 あれには本当にびっくりした。 中学校の同窓会に行こうとしたら 「中学の時のクラスメートや先生に、愛知のキチガイ脳糞古川だなんて、わかったらどうする。 みっともない。 愛知のキチガイ脳糞古川の身で、同窓会なんかに行くな!」 と怒られた。 「同窓会くらい、いいだろう」と反論したら 「親の言うことが聞けないのか!」と玄関先から、家の中に 押し倒された。 脳糞古川だと、同窓会にも行けないのか?
のうのう、全日本剣道連盟が出してる『鈴鹿家文書解説(一)〜(四)』の 内容しってたら教えてくれんか? 何巻には何流が載ってるって言うのを教えて欲しいんだ。
702 :
日本@名無史さん :2006/07/31(月) 17:02:42
ほう、こんな資料があったのか。1冊1600円なら安いかも。ただページ数が書いてない。 検索して解ったのはこれだけだった。詳しくわからんが、たぶんもっといろいろあるだろう。 (一)「直心影流」(二)「馬庭念流」「平常無敵流」「貴直流」「柿沼一刀流」 (三)「中條流」(四)「直心影流」「中條流」 全剣連に直接問い合わせてミソ。もちろん結果報告ヨロw
おっ、サンキュです。どうやって調べたの?それすらわかんなかったズラ この資料の他の『剣術関係古文書解説』は 陰流、新陰流、新当流、富田流、一刀流、田宮流、他があって120ページくらい。 この鈴鹿家文書って旧武徳会が所蔵収集していた伝書類で、 全剣連が(フィルムコピー?を)所蔵してるっぽい。 平安神宮の鈴鹿文庫ってとこに今も本物があるらしい(国書総目録調べ)けど、 問い合わせても返事がこなかった。 電話だと失礼かと思ってメールにしたのが不味かったみたい。 電凸は失礼なので手紙かメール・・・報告はいつになるやらw
704 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 00:57:50
>703 いや普通にGoogle検索でんがな。手紙やメールよりFAXはどうだろ。 ひょっとしたら大手武道館なんかに寄贈されてるかもしれんから今度の合宿の時にでも もし有ったらチェックしとくよ。 『剣術関係古文書解説』は読んだの?
705 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 01:24:53
自分の調べてる流派が載ってる(二)のほうだけ手元にあるんだわいな。 (一)の方は目次だけ・・・全剣連にどういう流派が載ってるの聞いたら送ってくれた。 (かなり前だったので鈴鹿家文書のほうまで目が行ってなかった)
706 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 02:26:42
斎藤一は小野派だけど、これのキツツキから牙突は生まれたの?
ちょ、牙突てw釣り乙。
708 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 12:37:16
斎藤は小野じゃなくて山口一刀流じゃね? ・・・あ、釣られてしまった。
太子流だろ
斎藤は無外流だす
711 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 20:01:26
無外流=山口流ざんしょ。
そなんですか知らんかた
小兵衛も無外流だったはず
斉藤一はいろんな記録あるよ。 有名な説だと小野派一刀流、無外流、示現流出身というのまである。 それだけ、いろいろな流派を渡り歩いた人のようだよ。 もちろん、寄宿していた天然理心流の影響もあるだろうし
715 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 16:07:44
天然理心流と無外流はどっちが強いんですか(´・ω・`)
716 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 17:01:17
強さは人による。
試合の勝ち負けは流派の差ではなく、その人の勝負強さの差。
山岡鉄舟は「流派の違いは流祖の手癖の違い」と喝破している。
それにどんな名人でも負け話の1つや2つ有るから強弱の話はしても意味がないよ。
どんなに資料を突きつめても水掛け論になるだけだし・・・
だから強弱の話は荒れるので、このスレでは
>>1 で禁止されているのだ。
聞く時は純粋に天然理心流か無外流の剣風や歴史を尋ねましょう。
717 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 17:25:55
ほーい ではお尋ねします 柳生新陰流、佐々木厳流、二天一流、宝蔵院流 天然理心流、北辰一刀流、神道無念流、鏡心明智流、無外流 の剣風や歴史が知りたいです お願いします(´・ω・`)
絞れ
720 :
(´・ω・`) :2006/08/02(水) 21:35:27
うーんしぼってこれくらいなんですが ググってもわからないからここにきたのにバカだなもう 2ちゃんネラーは何かと言うとすぐテンプレだのググレだの だめだなまったく
佐々木巌流って佐々木小次郎の? 失伝してるだろ・・・多分。 鏡心明智流も。 他はググれば出てくると思うぞ。 先の二つはここより日本史の剣術スレで聞けばいいんじゃね。 俺っていい子だよな。褒めて。
>>720 だめな2ちゃんねらーに聞いてるようじゃ・・・
だめな2ちゃんねらー>>>>>永遠の夏休み>>>
>>720
うぽーん
では口直しに・・・「推参!」と「見参!」の違いについて教えてくれ。 「推参!」は位の高い連中が言いそうな気がする。するだけだが。
なんだそんな事も知らないのか じゃ教えてあげるよ 見参ていうのは針の山の事だよ それから推参ていうのは魚類の産物の事だよ わかった
見参は目上の人に合うことなどを言う 推参は相手の所におしかけるような感じだよ、とマジレス って剣術の話でも何でもね〜辞書引け辞書!
727 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 22:35:48
でわ、たまたま資料があった鏡心明智流を。 【鏡新明智流 桃井春蔵】:士学館 江戸三大道場の一つ。門人には勤王の志士武市半平、岡田以蔵。 新選組隊士の上田馬之助(プロレスラーではないっ!)。警視庁撃剣師範逸見宗助(立身流)がいる。 鏡新明智流は「人に勝つ事を知らずといえども、人に負けざる事を悟り得たる」 勝てなくても負けない剣風を専らとし、時代にさきがけ他流試合を積極的に受け入れた。 四代目桃井春蔵の剣風は悠揚重厚。その姿は道場の中でもひときわ美しく眼を引き 春蔵を知る全国の剣士は日本一の位取。『位の桃井』と絶賛したという。 お江戸アサリ河岸に有った士学館の夏のイベントにスイカ割りがあった。 西瓜を川に投げ入れ門人達が真剣で水上のスイカを斬った、が、意外と斬りづらかったとか。
728 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 22:38:20
実話かどうか不明だが、幕末動乱の中、桃井春蔵の人となりを語る幾つかの伝説がある。 春蔵ら士学館門人一行が市ヶ谷田町通りで、見回り中の新徴組隊士一行に出会った。 新徴組隊士は「片寄れ(道からどけ)」と居丈高に命じる、春蔵は静かに従ってよけたが 「それでは足りぬ」とさらに無理強いをした。 春蔵に対する無礼に士学館門人が怒り見廻隊を罵った、見廻隊士は「おのれ暴言」と抜刀してしまった。 あわや一触即発の危機に春蔵は新徴組隊士の刀の群れをかき分け、 隊長らしき馬上の武士に、すたすたと近づき武士の袴をつかんで馬から引きずり降ろし言った。 「我らが道を譲ったのはご存じのはず。その私どもをお斬りなさるのか? 私は公儀与力桃井春蔵という者。そのような理不尽は許さぬ!いかに!」 と一喝され、しかも相手が桃井春蔵と知った見廻隊士は平謝りに謝ったとか。 慶応3年、桃井春蔵は遊撃隊頭取並として徳川慶喜上洛に従い上京するも朝廷に弓引くを嫌い 大坂へ逃れ府兵隊(浪花隊。後の警察)師範となる。 明治3年大坂羽曳野市の「誉田八幡宮」宮司となり天皇陵の警護として勤王の志士の一生を終える。 村人の教育にあたり剣や読み書きを教え、 槍で米俵を持ち上げた話などがのこっているそうな。 (終)
730 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 10:05:59
鏡心明智流の伝書が見たかったら武道大系か武道全集の剣術にあったはず。 図書館で探してみたら
731 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 13:40:24
733 :
日本@名無史さん :2006/08/11(金) 20:57:07
ついでだからもう一つ書いとこう。 【神道無念流 斎藤弥九郎】:練兵館 江戸三大道場の一つ。門人に、長州の桂小五郎、高杉晋作、井上馨、伊藤博文、大村益次郎。 水戸の芹沢鴨、伊東甲子太郎、新見錦そして仏生寺弥助、渡邊昇らがいる。 斎藤弥九郎は、もともと武士ではない。北陸越中富山の百姓に生まれ、油屋、薬屋の小僧となり奉公しながら 村の神主から国学を学ぶ。そして15才の少年弥九郎は「儒者」となるために江戸へと旅立った。 江戸の旗本能勢家の下男として住み込み労役しながら寝る間も惜しんで学問に励む。 熱心な奉公が認められ18才で神道無念流岡田十松の撃剣館へ入門。 同門には藤田東湖、江川英龍、渡辺崋山、らがいた。 さらに兵学は平山子龍、清水赤城。馬術は品川吾作。そして西洋砲術は、かの高島秋帆に学ぶ。 撃剣館時代の同門に伊豆韮沢代官江川太郎左衛門英龍がいる。弥九郎は友人である江川の手足となって働く。 高島平における実弾演習の砲術方。伊豆の反射炉の工事監督。品川台場の測量、監督。などなど。 これらの歴史的事業を弥九郎に連れだって、つぶさに見聞した人物こそ後の明治政府を作る男 「練兵館史上唯一の師範代」桂小五郎である。
734 :
日本@名無史さん :2006/08/11(金) 21:10:27
神道無念流は「略打(軽く打つ)」を認めず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃のみを一本とする。 また、近間の攻防に優れ、左右に体を開いて打ち込む切り返しと猛烈な打撃に体当たり。 「力の斎藤」「技の斎藤」と呼ばれた。 《練兵館塾中懸令》 >朝6時起床、8時までに素読。昼前に稽古。午後は夜8時まで出張稽古。 >出稽古の無い者は習字、兵学、砲術を学ぶ事。 さらには弥九郎は晩年、薬店の経営や茶畑の開墾にあたる。 ・・・こりゃ剣道場というより軍事学校だな。 斎藤弥九郎の人となりを語るエピソードがある。 若き日の弥九郎の額には拳骨でできたアザがあった。 深夜ひたすら学問、武道に励み、眠気をこらえるために額に押し当ててガマンしたためだという。 明治元年。大阪造幣局権判事となった弥九郎は造幣寮が火災のさいに、猛火の中に飛び込み 顔面に大火傷を負いつつ重要書類を運び出す。その後生野銀山開発に乗り出すも、火傷の傷は深く 明治4年に死去。享年74。(終)
735 :
日本@名無史さん :2006/08/11(金) 23:24:27
「力の斉藤」は技や位は他が上でも実力なら斉藤(無念流)という意味。(島田虎之助) 天然理珍流が好きな剛(筋)力という意味では無い。
736 :
日本@名無史さん :2006/08/12(土) 11:39:25
737 :
日本@名無史さん :2006/08/12(土) 14:04:17
「人間の生命のひらくときは三千大千世界に満ち、つづむるときは方寸のうちにあり、 人間の生まれいづるときは、一代の威勢があふれ出る。 生まれたる赤子は万事を知らざるゆえに、貴人高家をも恐れずして足蹴にするであろう。 またいかなる名剣といえども、足にあたれば踏み折らんとする。 その心は言葉にいわれざる広大な心じゃ。この心で打てば刀をとって打てざるものはない。 生まれいづるところははや死のはじめにて、死すれば大界はわが心のままである。 これが兵法第一の心得であろう。」 善吉書記
738 :
日本@名無史さん :2006/08/13(日) 01:08:59
赤心か、天真正だな。
739 :
日本@名無史さん :2006/08/13(日) 01:24:00
五輪の書 天然二刀流
桃井春蔵って、とってもピンク色だよな。
青年誌のエロマンガの主人公みたいだよなw
742 :
日本@名無史さん :2006/08/16(水) 21:13:41
江戸大道場広まりは、たしか直心影流長沼道場が防具稽古を始めてから(1710年頃?)。 後に中西流も防具稽古を始め、千葉周作の頃には「打ち込み」と言う言葉がメインになっている。 初代桃井直由が道場を開いたのが1773年「貧乏人でも不器用者でも教え導く」を 公言し他流試合を奨励。 だが当時門弟2000人の長沼道場は強く、桃井はたびたび負けた。 ちなみに千葉周作誕生が1794年。弥九郎は1798年。 士学館が本当に強くなるのは四代目桃井春蔵直正が養子になってから。
743 :
日本@名無史さん :2006/08/18(金) 20:32:40
>>716 山岡鉄舟、そんなこと言ってましたっけ(笑)?
出典は何ですか?
744 :
日本@名無史さん :2006/08/18(金) 23:11:37
>>743 宮本武蔵も有構無構と言ってるから鉄舟に限らず普遍的な意味なのでは?
745 :
日本@名無史さん :2006/08/19(土) 18:37:15
「流派の違いは流祖の手癖の違い」ということと有構無構は全然意味が違うと思うよ。
746 :
日本@名無史さん :2006/08/19(土) 18:52:39
401 名前:マンセー名無しさん 投稿日:2006/08/05(土) 02:53:55 v8sCvxIP 現在の柔道の源流は喜納治五郎が学んでいた起倒流柔術だが、 この起倒流柔術は柳生新陰流と縁が深い。 始祖の茨木専斎は柳生宗矩の元で柳生新陰流を習っていた言わば十兵衛の兄弟弟子であり、 自ら編み出した起倒流の名前を沢庵和尚につけてもらったという話が、柳生十兵衛の著書「月之抄」に載っている。 同じく柳生新陰流の分派であり、坂本竜馬が土佐で学んだ小栗流も剣術と柔術の両方を使う流派であることから、 柳生新陰流自体が柔術を重視していたことがわかる。 修羅の刻の中で陸奥に対して十兵衛・竜馬ともに剣で戦っていたが、 素手で戦ってもそこそこいけたと思われる。
747 :
日本@名無史さん :2006/08/19(土) 18:53:46
399 名前:マンセー名無しさん 投稿日:2006/08/05(土) 02:30:38 v8sCvxIP
>>398 さらに言うと、菅原氏の先祖は当麻蹴速と相撲をとったことで有名な野見宿禰。
彼らが祭っていた神は軍神兵主神であり、その正体は黄帝と戦った蚩尤。
柳生の里から少し下って桜井市に行くと穴師坐兵主神社というこの神様を祭った神社がある。
柳生新陰流には柔術の技術もあり、奥義である無刀取りはそれが進化したもの。
古代の相撲取り野見宿禰を柳生の先祖としても伝奇的には問題ないだろう。
748 :
93 :2006/08/19(土) 19:48:36
おひさしぶりです 7年ほど前ですか 師範から「鏡心明智流居合」は師範がいると・・・ただもう高齢で後継がいないとかうかがいましたねえ 直心影流とおなじく神道無念流は現代剣道の併伝でしておられるところがあるはずですね
749 :
日本@名無史さん :2006/08/20(日) 00:32:55
>>743 鉄舟は知らないが出典はたぶん剣術秘伝独修行だろうな。
>流儀はいろいろあって、構えなども各々異なっている。
>上段を専門とする流派あり、青眼を重要視する流派もあり、入り身を第一とする流派もある。
>これは皆元祖の得意業の残ったもので、実は元祖の‘癖’であり、その元祖の癖を流儀と名付けているのである。
鉄舟は猫の妙術とかを極意と言ってた人だから読んでても不思議はないが、しかし夕雲とか
禅にかぶれると似たような事言う。まあ、臨済さん自体が「殺仏殺祖」だからシユハリでリだねw
750 :
日本@名無史さん :2006/08/20(日) 10:09:06
>>746 漏れの通ってた新陰流(傍流だが)だと、
良移心倒流柔術が併伝されてたな
752 :
日本@名無史さん :2006/08/20(日) 19:59:43
>>748 乙です。10年くらい前までは高齢の剣道家なら流派を聞くと答えられたのですが・・・
桃井流も1名おられました。
神道無念流なら剣道協会がそうですね。中倉清が最近まで生きてたし、まだ流派としての命脈は
保っている方でしょうか
北辰も道場単位かな・・・
個性的な流派が教育の名の下に消えていくのは残念です。
753 :
日本@名無史さん :2006/08/20(日) 21:02:24
新陰流の柔術というと小栗流和術と心眼? 気楽流は・・・竹内?
無刀取りも剣術と言うより柔術の技では?
755 :
日本@名無史さん :2006/08/22(火) 20:31:22
江戸時代の柔術の身体捌きは剣術を元にしているので、剣術と柔術を簡単に区別 することはできませんよ。無刀取りも柳生新陰流を極めることによって初めて修 得できる技と言ってもおかしくありませんから。
756 :
日本@名無史さん :2006/08/23(水) 03:45:48
ども180っす。再び柳生さんの無刀取について勝手に考証w 柔術の奪刀術に比べると無刀取りの理念は剣術の延長にあると思われまっすね。 奪刀のための技術というより五観一見の習いのための想定と思います。 兵法家伝書の無刀之巻には 『無刀は人の刀を取る芸にあらず(略)取る事を初めより本意とはせざる也 よくつもりを心得んが為なり』と、有りますな。 つまり三尺のつもりとか五寸一尺の外しとかに言う「敵が我を打っても我には当らぬつもり」 の延長に無刀の間つもり目付があるんじゃないっすかね? 捷径(九箇?)との関わりは・・・ まだわからん(笑)
757 :
日本@名無史さん :2006/08/23(水) 04:01:13
無刀取りとかは流派の演技でしょ
これは剣術やってる人の意見を聞かないとトンデモになりかねない
759 :
日本@名無史さん :2006/08/23(水) 04:22:47
無手立合、奪刀術なら普通に剣術、柔術とか合気道にもあるし、演技とも言い切れない鴨。 まあ、実際に使えれば武術。使えなければ芸能ではあるがw
柳生一族は菅原氏の出。 菅原氏と言えば日本で最初に相撲をとった野見宿禰の子孫。 柳生一族は徒手格闘が本分の一族だったのだ!
761 :
日本@名無史さん :2006/08/23(水) 12:53:50
おおっ!なるほど!! ・・・いや待て。上泉武蔵は藤原だぞ。
762 :
日本@名無史さん :2006/08/23(水) 20:37:16
藤原の上泉に陰流を学んで剣術を取り込んだんだろ。
>>762 ・・・・石舟斎は新当流で有名でしたと・・・
764 :
日本@名無史さん :2006/08/24(木) 00:18:30
神道流には忍術や柔もある!
新当流も他人から習ったもので、柳生のお家流じゃないじゃん。
766 :
日本@名無史さん :2006/08/24(木) 01:37:54
新陰流の九箇、手字種裏剣、マの太刀、は新当流伝来では?
767 :
日本@名無史さん :2006/08/29(火) 20:28:46
768 :
日本@名無史さん :2006/08/29(火) 23:27:15
斉藤一って名前は障害者っぽいよな 塙保己一とかさ、最後に一が付くのはメクラと相場が決まっていた 座頭市とかさ これって新説じゃない?
769 :
93 :2006/09/04(月) 22:07:28
さてでは男谷信友でも 講武所師範なわけですけれども 幕末最大の道場って行ったらここですよねえ 記録で門弟二万人上らしいですし かならず三本中二本とって相手にゆずる・・・そういう風になれたらいいなあっという手本です
770 :
93 :2006/09/04(月) 22:11:52
座頭市って一じゃないじゃないですか 小野派4代目 小野次郎右衛門忠一は? 盲目どころか中西忠太(中西派の祖)の師匠ですよ? しかも幕府指南役800石
>769 そうですね江戸三大道場で先んずる事50年。最も早く成立したのが桃井流なんですが、 調べるほど当時の長沼直心影流の大きさが眼に付きますね。 ただ、男谷や小吉はもともと心貫流(タイ捨系)平山行蔵の門人だった様だすが まぁ、この道場は何と言うか・・・w
772 :
93 :2006/09/05(火) 00:15:58
ふふふ 太平の世の中に刀槍集めて 閉門されてますものねえ でもまあ時代の変換機に過去の亡霊が現れることもよくあることですし 門人は一流な人が多いですし 時代が呼ばれたのでしょうねえ
富田勢源って盲人になってから御前試合やって勝ったって シグルイに書いてあったけどマジ?
たしか座頭市みたいに全盲では無いよ、昼間ならぼんやり見えたらしい。 夜は手探りで歩いていたとか。
>>775 氏
それ後半私かもしれません
申し訳ないです
>775 同じ武板、日本史板の住人なら、セコい粘着はやめときな。武門の恥だぜ。 小野宗家が鉄舟に相伝したんだから仕方ないじゃないか。 一刀流スレの議論は一刀流スレで決着付けるべし!
おいらの研究対象は一刀流の亜流だぜ。資料すくねぇんだ、これが。 HPつくったけど見にこねぇんだ誰も。アヒャ!サラスキサラサラネーケド なかなか資料って見つかんないねー・・・
そうだな、中には溝口派や天真、山口、会津のようにどこまで一刀流の範囲なのか?
>>779 以前古藤田唯心一刀流とか一刀流槍術などを聞いておられた方ですかしら?
www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyoued/kiyoued-13-2/image/kiyoued-13-2-051to068.pdf
こんなのがあるんですねえ 山形大学もさるものです
小田原にはいってみたいものです ういろう家とか
>>781 いやん。何でバレたのぉ?
山形大学のは日本武道大系及び全集に載ってるのをつかってるんだわ。
おいらのページはそれとは違った資料(活字ってか写真無い)も参考にしてる。
中身は一緒だけど。
山形大学の論文で古伝云々は不明と書いてあるけど、その流派が何流かも判る。多分
ほぼ同年代の資料だから。
でも、ホント資料探すの大変。
お、こりゃー面白いっスね。想像以上に合理的な流祖っすね。 しかし一刀流に捧心や流水月の教えが有るのは驚きでした。 陰の構えを上段の構えとあっさり定義しているのは御愛嬌としてw さすが学者さん 良く構成されていますな。 後は779が流派名さらすのを待つだけだ・・・藁
>>781 おっと、小田原のとこ言うの忘れてた。
小田原市立図書館藤田西湖文庫に所蔵されている『唯心一刀流口伝書』のこと
を指しているんですね。まだ未見なんですよね…遠いよ。
>>783 ああ、それは鐘巻自斎の五天(古藤田派ではそう記してある)のことが書いてある
伝書には『天地 陰陽』と書いてあって紹介された記述と一致するんだ。
当たり前っちゃ当たり前だけど。だから、まぁ、そうなんだろうなというだけ。
表題にも「一刀流古伝目録」に書かれてるから。多分なぁとか思ってる
>784 ありゃ?スマソ、それは陰の構え=上段の構えという意味のレスかな? それとも五点限定の意味なのかな?せっかくだから教えておくれっ! 一刀流の陰の構えも香取流みたいに鍔が口の横あたりに構える使い方だった気がしたがどうだろ? ちなみに手元にある直心影流極意伝開だと陰之構は「上段・八相・逆八相・円快(猿廻かな?)」で 上に上り詰めた気が没するを意味するそうな。 ほいで、陽之構が「精眼・下段・斜(車か?)」と定義してあった。 ・・・しかし藤田西湖とは、まさかあのお方?
>>785 あ、ごめん。そういう意味じゃなかったんだけど
>後は・・・
を受けてのつもりだったけど、今読み返すと構えのことを答えているみたいだorz
上記資料では割愛されているけど、八相の記述もあるからその辺りで混同しているっぽい。
どうも記述とか読むと資料で言う八相が(今で言う)上段で、陰が(今で言う)八相の希ガス
伝承者がいないから良く分からんところだけど
研究者さん、ご意見プリ〜ず
>藤田西湖
おそらく、あの。・・・にんにん。
むむっ陸軍中野学校特別講師藤田西湖宗家じゃなっ!にんにん。 八相は各派まちまちだからな、甲冑の形状や打撃位置ごとに違いが出るらしい。 剣道形の八相の構えの位置を決めるさい一刀流と新陰流でもめて 「じゃぁ〜中間の位置で決めちゃいましょう」と妥協案が出たらしい。 これが現在の一般的な八相構え。
でもまあ多数の流派の八相は素肌剣術で鍔が顔の横、右手がアゴ〜耳構えのあたり。 現代の剣道形に近い。 介者剣術では甲冑が邪魔なので大きく高い位取りや担いだ形になる場合が多い。 それは左肘の使う位置によると思われる。 もちろん例外もあるがね。 上段構の「上に上り詰めた太陽が没する」と言う表現は確か金翅鳥剣にも似た表現が有った希ガス
昔みたのでよくは覚えていないのですけれど
武徳会での剣道制定のときに 中段=右八相 青眼≠中段 上段=水車 のような型を要望した流派があったとか
軍部や一刀流系からの指摘で精眼≧中段みたくなったとか
とするのなら
>>786 のように混同があった可能性はありますね
スマソ、「水車」とはどんな構えです?
>>790 小太刀(脇差みたいなの)もってるとして
半身で片手で振り上げた状態 左手腰
水車がまわるみたいに → ( → )に切り下げるのです
追伸 流派によって少し呼び方変わるかも
そういえば桃井流の雷刀も片手上段だったとか。 成立時期や道統、道具の違いで別名があったのかもしれないですね。
796 :
日本@名無史さん :2006/09/22(金) 06:09:52
保守
797 :
日本@名無史さん :2006/09/22(金) 11:24:07
正直「流派」なるものは単なる金稼ぎだよ 最強も糞もない 経営努力をした上手い流派の典型が柳生一門だな
まぁ、そういう見方を日本史板でするなら 江戸期の北辰一刀流の隆盛は経営が巧かったからだとか言ってくれたほうが板にはあってる
前に大学の後輩(そいつは弓道部の部長だった)にタダでチケットありますから って誘われてさ、武道館でやっていた日本古武道演舞大会?(正式名称覚えてない) に行ったのだが正直何だこりゃ?って感じでした。 何十もの古流が出てきて演舞をやっていくんだけどさ、何だかもう失笑しか出ない ようなおっそい動きなんだよね。 正直とろいオッサン達がノソノソ動いてるようにしか見えなかった。 このスレに出てくる有名な流派がたくさん出てたけど、ほとんどがただの リハビリ運動みたいにのろく感じたんだけど、本当に使えるの? 剣道の有段者の動きの方が早いし鋭く見えるのは俺だけ? 竹刀でも木刀でも試合したら瞬殺されそうな弱そうな人しか古流剣術には いないのかな? 後輩は俺がずっと柔道やってるいるので武道に興味があるだろうと思って 誘ってくれたんだけどさ、途中で眠くなってウトウトしてたらいきなり ドカ〜〜ンってすごい音がしてびっくりしたよ。 種子島流なんとかって言う流派が鉄砲撃ってたよ。 インパクトあったのはそれぐらいだったな。
800 :
日本@名無史さん :2006/09/22(金) 14:26:22
種子島流ワロスw 銃は別に流派いらねーだろ
鉄砲術はれっきとした武芸なのだが
砲術には「城崩し」みたいな威力や射程距離の凄まじいヤツも有ったしロケット形の「棒火矢」とか 国友の空気銃とかも有った。当時の「火縄銃」は世界トップレベルだったと思うよ。 当時のまま現存する貴重な武芸なので、できればぜひ後世に残して欲しい。 799>剣道の有段者の動きの方が早いし鋭く見えるのは俺だけ? 確かにそうだが表の形は遅く確実に使う人も多い。(ダメ武道家も確かに居るけどねw) だが、剣道の最高段位レベルになると、のそのそ打ち込んでくる爺さんが居るが・・・強かったぞ。 グレーシーだって最初は「馬乗りになってただ殴るだけのテクニックを知らないケンカ技」と、 専門家達に笑われていた、見ただけでは実際わからんよ。
>>802 何でこんなよぼよぼの爺さんに勝てないんだって思うんだよな。あれ
剣豪とはズレてしまうかもですけれど >>銃砲術 銃砲の術の場合は 撃った後の力や反動の逃し方 射撃の時の命中率をあげる訓練などもふくみます なので現代のガンカタでしたか銃の使い方にも通じるものがのこっていると聞いておりますね >>剣術の早い遅い 現代剣道 国体で優勝候補にもあげられております警視庁は小野派一刀流を 愛知県警は柳生流を剣道以外にそれぞれされているそうですけれども 私の未熟な経験からになりますけれど遅いのは難しいですね 走るのは普通にできますけれど走る格好(体の角度など)のまま徐々にゆっくりにしていくと最後には体が・・・^^;; あと柔道とのことでしたので 柔道メダリストの山下現コーチは体が動かなくなってくると 形練習を延々して感覚を取り戻されておられたそうですね 形もそう馬鹿にしたものではないのかもしれません YAP? 氏やら唯心のお方の意見もお伺いしたいところです
唯心のって俺のことだと思うけど俺
>>803 なのよね。
言いたかったのは(言わんかったけど)、結局早い遅いはそれ程重要じゃなくて
間(つまりタイミング)こそが重要。そりゃ動き自体が早いに越したこたないだろうけど。
一刀流系全てにある基本技、『切り落とし』は当にこれだと思うよ。
>>799 も柔道やってると崩しと間の大事さは分かるでしょ。
アレと同じだと思えば少しは納得してくれるんじゃないかな?
砲術は知らんけど、田付流砲術ってのが大垣藩にはあって
今でもたまにバンバン撃ってる。
806 :
日本@名無史さん :2006/09/23(土) 00:31:05
バガボンドでもあったな ジジィの胤栄の槍がまったく見えない武蔵
>805 まぎらわしいのでチミは今度から「唯心の人」とHN入れとく様にw まあ、達人が遅い動きで対応出来る理由は幾つか有ると思うけど @ 相手の拍子、呼吸、タイミングを読むのが上手い。 A 遅く見えるだけで実は速い(無駄な予備動作が少ない故に動作がシンプルで遅く見える) B あらかじめ微妙に「仕掛け」ておいて誘い、動かしておいて後の先で打つ。 C 間合いに余裕がある。 ↑具体例を挙げると@は完全に動きを読まれたバヤイ。 AはK-1やボクシングのチャンピオンクラスも傍目にはゆっくり打ち込んでる様に見えるし トップランナーも一見余裕のある走りをする。 Bは千葉周作が書いている。柳生派で言う活人剣かな? Cは敵が打ち込めない絶妙なポジションに居るので相手は身動きがとれない。 こんなもんか?
>>805 あーやっぱり大垣方面ゆかりの方かな 古藤田の仕官先が岐阜だったかしら?などと
>>807 一歩の移動距離が長いというのは流派によってはあるかもしれません
薬丸さんの演武だと5mくらいを走ってされてますけれど歩数が少なく感じました 気のせいだったのかな?
809 :
日本@名無史さん :2006/09/23(土) 22:11:45
その武道館でやっていた日本古武道演舞大会には どこの流派が出ていたんでしょうか? わかる限りで結構ですから、教えてもらえますか?
810 :
YAP? :2006/09/24(日) 00:16:22
93氏や、唯心のお方と違って、私は武道はまったくだめなので、その関係の本をよんだぐらいのもの ですから、聞かれても困るのですが・・・。 まあ、本職の医師としての経験・知識も含めると、「位」というか、「気合」というのか、精神的に 相手より優位に立てば、少々の体力差や敏捷性のハンデは克服可能でしょう。 「心の一方」とまでは行かなくても、精神身体相関を何らかの形で利用して いるのでしょう。 最近の悩科学では、「幽体離脱」を起こす場所とか、ほぼ脳の特定箇所が、 同定されているので、PETなどで何か、従来超能力的だとされた事象を 説明できるかもしれません。
検索せい!・・・ と言いたい所だが「演舞」じゃあ無理ぽw 「古武道演武」で検索してみそ、あちこちでやってるよ。探せば動画もあるし。
精神身体相関を利用した武術については高橋華王氏の著作で一部発表されていますね。 精神というより知覚の研究っぽい感じだけど。 位や気合で敵の動きを封じ、相手より優位に立つというのは柳生の言う殺人刀とか 現代剣道の三殺法などがあてはまると思います。 特に現代剣道形の三本目や六本目前半は「位詰」に押して行き、相手が退がりながら もがいている形が見事に表現されていますね。
>>808 確かに岐阜に住んでますけど趣味で調べてるだけのオタクです。
今の古藤田家は岐阜にはないそうです。
剣術はしてないそうです。←2方面からの証言あり
空襲で書物も焼けたそうです。
高橋華王といえばコスプレ 拳打の威力を拳大の物質を突きの速度で投げてぶつけて生まれるエネルギーと 解析してたの見て萎えまくった 十拳殺(だっけ?)とかはマンガのネタとしては面白かったけど
>>813 唯心一刀流といえば薙刀術もあったそうですけれど
>>今の古藤田家は岐阜にはないそうです
これはつらいですね形名目録・伝書もないとすると
形の名前もわかりませんね 小田原行かれるか誰かにコピーしていただくとかしかないですかねえ
形の名前だけでもわかり槍長刀術を含めて
笹森先生のように現存流派からの復元をなしとげらるることを祈念いたします
現在の小野派の直元長刀は津軽系のものですし
形名のみは分かるんですよ。 古藤田家はなくともその門人の伝書は岐阜に残ってるので。 そこから見つけ出したのが一刀流槍術の話なんですよ。薙刀術は初めて聞きました。 まだまだ知らんことがテンコ盛りです。 茨城県の笠間市に昭和55年頃まで支派が残ってたらしいんですけど…現在はとりあえず残ってなさそうです 茨城県の剣道連盟に問い合わせてはないけど。
閑話休題
>>1 によく見たら武板のような技術論のみはダメ
でしたので
>>771 平山行蔵が閉門したことは知っておりましたけれど実際どの辺まで教授していたのでしょうか
剣柔槍兵法くらいは聞き及んでいますけれど卜占とか築城とかまでしてたんですかね・・?
ご存知のお方お願いします
まあ、あまり武板住人を締め出すのは良くないでしょう。やはり伝承者あってこその武芸ですから。
「
>>1 根拠のない技術論は禁止{根拠があるならOK}」なので技術の検証なら良いのでは?
あまり専門的になりすぎない程度で(笑
そのかわり現行会派のイザコザや罵詈雑言を持ち込むヤツに対しては容赦はしませんがね・・・ ふっふっふw
伊賀同心平山子龍行蔵っスかー イイっすねw 手元の資料によると 「・・・細い寒竹の垣根の道を行くと玄関がある。垣の内は梅林で玄関の脇には芭蕉が茂り 軒から蔦かづらが垂れ下がっている。 玄関に入ると槍が数本、鉄砲が10丁。稽古場には八尺の刀、九尺の木刀。六尺の竹刀、 さらに数種類の槍が数十本と木馬や武器。 そして道場の式台には『他流試合勝手次第 飛び道具その他矢玉にても苦しからず』の懸額w 居間には槍が数十本、具足櫃X2、負い荷X1、そして刀架には六尺の刀と馬鹿でかい短刀。 押入の板戸には野辺のドクロが描かれていた・・・ しつこいけどここは居間ですw さらに次の稽古場には大筒X3、四百匁の抱え筒X2、三十匁筒x5、鉄砲、大槍、薙刀・・・以下略」 (士森四郎「江戸日記」・勝小吉「平子龍先生遺事」) ちなみに小吉が書き残した平山は老人になっても七貫三百目の大まさかりを片手で振ったとか。
【平山行蔵(子竜、兵原)】 :忠孝真貫流、講武実用流 服部半蔵の手下平山清左衛門の子孫、伊賀組同心。 剣術は心抜流、柔術・居合は渋川流、兵学は長沼流、砲術は武衛流・井上貫流 平山の1日は朝四時起床。七尺五寸の棒振り五百回、立木打百回。刃渡り四尺の居合抜きを四百本、 さらに槍をしごき、弓、鉄砲、馬術の稽古を終えてそれからやっと「朝メシ」となったとか(w 忠孝真貫流(心抜流・真貫流・信抜流)は、タイ捨流剣術を元に兵学を加えたもの。 その稽古内容は @頭に笊をかぶり、相手に打たせるままにに打たせ、敵が太刀を振る一瞬をとらえて飛び込み突く。 A座布団を背負い小太刀を下げて屈み、その背を打たせながら一気に相手の懐に飛び込む。 この流儀には居合に古刀七本、新刀十本、合わせて十七本。すべて八双から切り落とすのが基本という また、実戦では「五尺有余ノ木刀ニテ遣フ」とある。 『當流の剣術短刀を用ることは、格別に気勢を引立んとの仕懸けなり。 短刀を取りてためいらいゆとりあれば、乍ちに敗をとること踵をめぐらすべからず。 因て敵の撃刺をかまわず、この五體を以て敵の心胸を突て背後にぬけとほる心にて蹈込ざれば 敵の體にとどかざるなり。勝手次第を敵に働かせて、われは思ひ込みし所を只一刀に打ちすうること也』 (忠孝真貫流規則) 「右と見せて左を打ち」のような騙し打ちの「芸の巧拙」を廃し、一念をもって敵心胆を貫く。 この『水のような純一無雑』『ぬけとほる心(透徹)』こそ平山の真の剣風だったようでござる。 ただのムチャなオヤジではありません(藁
ありがとうございます >>玄関に入ると槍が数本、鉄砲が10丁。稽古場には八尺の刀、九尺の木刀。六尺の竹刀、 さらに数種類の槍が数十本と木馬や武器 すみません 槍でも刀でもいいので一振ください 高いんです なんて思いました^^ >>右と見せて左を打ち」のような騙し打ちの「芸の巧拙」を廃し、一念をもって敵心胆を貫く まさに男谷派直心影流の特徴にちかいですね タイ捨流のように鍔迫り合い→(刃こぼれ回避)鎬で滑らせて→面→引き小手→(踏み出し)胴→(相手後ろ抜けて)袈裟 のように豪快な新陰流?って思っておりましたけれど違うようですね
んー まあ、実戦での必死三昧を想定すると自顕流やト伝のような「一つ太刀」に 行き着くのでは無いでしょうかね? 「死を省みず、ただ一太刀に命を懸ける」それが『透徹』だと思います。 まあ、でも戦闘技法自体は形以外に教えていたとは思いますよ。 例えば二天一流はもともと現在の「二刀勢法」5本のみだったと言われていますが五輪書には 「しつこう」とか大刀勢法の注釈が有るので、たぶん形以外に多数の補助技法が有ったのではと思います。 神道流の一ノ太刀についても同じでしょう。 ・・・いや、確証は無いッスけどねw まあ、元の玉は大きい方がさらに多くの玉へと砕けるというものですしw
おおっ。香取流っすね!たしか十数年くらい前のTV番組の映像ですな。 昔、これを見ながら五津太刀をてきとーに研究していますたw 懐かしい。 直元流とは初めて聞きますた、九尺とはしかし長い、七尺でも結構重いのにw VTR中で津軽伝らしき事を言っているので笹森先生が林崎流とかと一緒に 伝えているのでしょうかね?そういえば竜馬の北辰千葉の長刀はどこの系統?
外他一刀流の伝書が一刀流兵法史考に載ってたと思うんだけど(今手元にない) 確かにアレは古藤田の流れを汲んでいるのに間違いない。 たしか中津藩の奴だったような気が。 島田虎之助は藩校で一刀流を習ったらしいけど、可能性はあるかも
↓これかっ?唯心の人っ! 知ってるかもしれんが一応書いとくでござる、にんにん。
ここのサイトによると→[幕末英傑録]
ttp://www.bakusin.com/eiketu/ 中津藩(進脩館)では外他流−外他市兵衛俊勝/和田弥太郎/鈴木力兵衛
他に戸田一刀流 ・神当流・東軍流があり。
萩藩笹尾道場の「諸国武術御修行者姓名録」には
『豊前中津家中 外他一刀流堀太郎太夫門人 嶋田虎之介』との記載があるとか。
俺が言えるのは中津藩の外他一刀流はたしかに唯心系だといえるってことまで。 ただ、技名がだいぶ変更されていたと思う
dキュウ 唯心の人。 お礼に気が向いたら笠間史でも調べとくよ。いつになるかはわからんけどw
宝蔵院ってどんな流派なの?
槍の流派だな。
知り合いの宝蔵院の道場は素槍だけだったが鎌、十文字、素鑓があったとおも。
参考までに神道流の槍(7尺余かな?)の動画なら
>>823 に有るだよ。
あ、すまそ。↑鎌とは鎌槍のことね、こんなヤツ→Ψ。薙ぎ鎌ではございません。 槍の穂先のサイド部分にヒコーキの羽みたいな刃がついてて、それによってイロイロ 攻防に厚みが出るワケですな。 宝蔵院道歌に「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」とあるそうな。
>>832 悪いねw
俺が今笠間の唯心一刀流で知りたいのは明治28年以降のことと、昭和53年以降のことなのだ
妙に具体的なのは、茨城には超すげぇ研究者が居るからその人の本読むとほとんど系譜が分かる。明治までは。
花押まで載ってる・・・すごすぎです!!
あとは古文書かな。もちろん現存が一番だけど・・・難しいからなぁ
アンカー付け間違えた。ごめん
なるほど、それならたしかに現代剣道史になるかな? まあ、笠間藩は示現流とかあったから面白そうなのでいずれ調べたい予定。 でもまあ難しい罠。 幕末に有名だった地元剣客の記録を見つたので現地調査してみたことがあったが 空振りだった。運もあるか。
838 :
日本@名無史さん :2006/10/22(日) 01:30:11
>>808 >一歩の移動距離が長いというのは流派によってはあるかもしれません
薬丸は実見したこと無いですが、たしかに歩幅の大きい流儀もありますね。
例えば居合がそうですな。
突っ立った状態から居合腰で踏込み抜きつけるという一拍子一挙動で3m以上
踏み込む事ができます。
839 :
名無しさん :2006/10/22(日) 03:36:19
俺は剣についてはまったくのトウシロだが興味があることが一つある。 それは西洋のフェンシングと日本の剣術と勝負したらどちらが強いのか って事だ。 俺の目に悔しいが剣術の方がスピードで負けているように見えるのだが
>>839 それって、弓と槍どっちが強いの?みたいなのと同じ質問だぞ
武板に該当スレあったろ 俺はどうでもいいが 問いの立て方が大雑把過ぎて意味ないとしか思えん
842 :
日本@名無史さん :2006/10/22(日) 08:52:00
>>839 結局は本人の強さと相手の研究の差に尽きる なんていうヒネリのない答えになるようです
あ 鳥入力忘れてました 日本剣士vs西洋剣士 第2戦目の前スレ 和洋中剣術総合スレ はいいスレッドでしたね さて唯心の人がHPを公開するのはいつになるのでしょうか ふふ
845 :
日本@名無史さん :2006/10/23(月) 01:38:29
>843 まあ、極真会大山総裁も他流試合の際は似たような事言ってますから、 そー言う事なんでしょうなw フェンシングのテク自体は剣術と似たようなモンですし。 個人的に観た感じでは突きのさい鍔自体が「三角」の頂点となる所が彼の流儀の工夫 だと思いますね。 93氏せっかくだから宝蔵院や十文字槍に関するコメントも下さいよ〜
846 :
日本@名無史さん :2006/10/23(月) 03:54:59
金沢藩の剣豪と言えば誰がいる?
847 :
日本@名無史さん :2006/10/23(月) 05:10:38
「試合」ならフェンシングのほうが強そうだな でも殺し合いなら確実に剣道 フェンシングの一突きじゃ殺せないな
848 :
九郎散人 :2006/10/23(月) 17:44:38
金沢の剣豪って言ったら、そりゃまーさんざんに既出だが小太刀富田流だわ。 あと剣道の神様「西の内藤、東の中山」と言われた神道無念流の中山博道。 (中山は他にも夢想流杖術、大森流居合で三範士位だった) だが、特筆すべき剣豪は深甚流祖の草深甚四郎だな。 新田義貞の臣「畑時能」6世の子孫で信長に仕えたという説がある。 甚四郎は一向宗金沢御坊支配の時代に鹿島武芸の頂点塚原ト伝相手に勝負し、 「剣では負けたが槍では勝った」の試合で有名。 深甚流は幕末まで藩校経武館で伝授されていたそうな。
>>845 >>93氏せっかくだから宝蔵院や十文字槍に関するコメントも下さいよ〜
失礼お声がかかるとは思いませんなんだ
宝蔵院流ですか
穴沢流薙刀のところでもありましたけれど胤栄と穴沢は試合したとか
あとは高田派を拝見しましたけれど繰り出→巻き落→引ききりや石突というのは十文字槍ならではかと
ただなんというか繰り出せる薙刀のような気もしたので新当流長刀なんかの影響だろうかなあ?と
http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/ 疑問といえば『本朝軍器考』に石舟斎と相談し之を考案する(意訳) となってますので十文字槍は伊勢守の廻国時より前にできたんですかね?
石舟斎と胤栄は友人でしたし
その辺がよくわかりませんので詳しい方よろしくお願いします
>>844 おれのHPは検索では引っかからないらしい。
引っかかるようになったら、すぐ見つかるよ。そのままのタイトルだし
851 :
日本@名無史さん :2006/10/24(火) 20:47:24
さいとうやくろうは金沢か?
852 :
日本@名無史さん :2006/10/24(火) 21:50:06
>849
これなんかいかがでござんしょうか?
[奈良女子大学 寶山寺貴電子画像集]
ttp://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y01/heihousyo/ その中に「寳蔵院胤栄自筆傅書」が有ります(ついでに穴沢浄見の新當流長太刀もありまつ)
そこを読むとなんとなく十文字鑓之儀?とか書いてあるように ・・・うあぁ読めませんっつ!!
「十文字」とは十字形の槍の意味かそれとも十字手裏見の十字なのか?
誰か簡単に訳してくだちい。
まあ、それはともかく問題は最後の系図が
「簡取大明神-飯篠長威入道-飯篠若狭-山倉播磨-大西木春見-興福寺宝蔵院胤榮-竹田金春7郎」
つまり香取流になってますな・・・ あれ?松本備前守と上泉伊勢守はいずこ?
>850 さらすべし。
>851 富山県氷見市仏生寺村脇之谷内で生誕とか。
853 :
日本@名無史さん :2006/10/24(火) 22:35:07
鎖鎌って武器として扱えるものですか?
使えるよ。宮本武蔵が宍戸某なる鎖鎌の武芸者と戦っているが、脇差し投げつけて ようやく辛勝しているくらい手強い。 上級者はピンポイントで分銅を打ち込める。 実験した事は無いが、鎖と鉄棒の破壊力は同等と言われているので 分銅チェーンだけでも結構な脅威だと思う。 また種類も多彩で鎌をひっくり返してグリップ部分の棒を小太刀のように使う 流派もあるし二刀鎌とかもあるw
鎖って昔は製造の難しい貴重品だったんじゃないのかね? 鎌は身近にあるからわかるけど。 沖縄のスルヂンや石黒流の縄剣みたいに縄とかなら荒く扱って切れたって綯えばいいようなもんだけど。
あの鎌はどういう状況下で使うものなんですか? 分銅による攻撃を避けられ、接近されたときに使うんですか? 鎖と分銅は脅威的でも鎌そのものは攻撃にも防御にも向いてなさそう… もし敵が太刀なら接近されれば一貫の終わりなんですかね?
戦国時代に作られたんじゃなかった? 草刈をしているように偽装できる武器として。 鎖鎌の扱いはとても難しく、下手をすると 自分が分銅にあたるので初心者にはオススメできない。
でもなんだかんだ言って鎌を用いる古流はかなり多く残ってる。 刀より生活に密着した道具だしね。 使い方見ると刃の背の部分で受けながら密着して動きを止めて極めるような感じが多い。 使える人は使えるんじゃない?
でもなんで宍戸梅軒はそれほどの腕がありながら野盗集団の頭なんかしてたのかな… 武蔵と闘ったって事で名は知られてるが、真に志があり、武士道を貫いていればそれなりに歴史に名を残せたんじゃね?
戦国末期〜江戸初期に武士道w
861 :
日本@名無史さん :2006/10/25(水) 16:08:10
もう少し早く生まれていたら彼の人生は違ったのかもね
うーん、まあその辺が変な話だが、足軽が鉄砲、投石で仕留めても「さすが達人」と 持ち上げられないようなもんかもね。 弓、刀、槍、薙刀以外の外物は下人の武器程度に思われていたんじゃないかな? まあ、鎖鎌名人なんて当時その程度の扱いだったのかもしれない。
鉄砲が下人ってことはない。馬に乗れる位の武士も使っていたわけだし。 達人と呼ばれるには、大将とかに目をつけられるとか 色々と運がいる気がする。
>>856 チェーン自体をうまく使って相手の刃をかわしたりする。
演武では、カマの方を絶えずうごかして相手を威圧して、
隙をついて分銅を投げてた。
あと、以外とよく敵の刃に絡まってる。
間合いがやりと同じくらいだから刀はやりにくいだろうな。
数の減らない手裏剣とも言えるし。
>>863 馬上でつかえる、強く握り締めると発砲する鉄砲もあったし
島津なんかは、刀と一緒に銃も差していたみたいだね
>>853 氏
現在ですと天流に鎖鎌の技法がありますね
ただ鎖は鎌の刃の部分(( ←の部分に巻き付けてありましたね
鎌を振りまわりつつ鎖を伸ばしたり 長さを調節したあと 遠心力で鎌→分銅の時間差で襲ってみたり
というふうな使い方をしていました
>>864 氏
同じ流派を拝見しのかもしれませんね
話をぶった切って悪いですが、榊原鍵吉の兜割って可能なんですか? 実際にやったとあるんだからできるっちゃできるんだと思うんですが…
カチ割るというより、ど真ん中に切れ込みを入れたら成功。 それが「兜割り」。
兜割なら天眞正自源流の河端師範という人が現代刀で桃山時代の兜に
4寸斬り込んだとか。TVで放送されたそうだ。
詳しくは
>>795 を・・・ 読まなくていいw
>>869 兜割りが一般的だとしたら兜の役割果たしてませんし
剣豪伝説で逸話として割ったというものがあるのは「やはり剣豪だから」割れたという話でしょう
往時だと武具もきちんと作ってありますので刀 技術 気力 体力が揃った方(=剣豪)っていうことじゃないですかね?
まあ現代の刀は硬いですが(その分割ともろい(刃物板 日本刀スレより)) そのTVを見てみたいものですね
TVなんで話半分かもしれませんけれど
>>862 かの宮本武蔵を投石で仕留めた農民も、後世に名を残してないな。
873 :
日本@名無史さん :2006/11/02(木) 01:19:21
鉄砲とか鎌といった得物の「位」の上下は判断がむつかしい。 確かに鉄砲は各武者持ち筒を持っていたりするし家康も稲富流の達者だった。 大名家の砲術師範は厚遇されてもいた。 だが鉄砲や鎖鎌が「位」の高い武器であったかどうかはやはり疑問。 例えば天保年間作の『尾府御家中武芸はしり廻』では 一、鎌術の事。 「土民の器と賤しめども、鎌術は神速にして異変を働く心得なくては敵にとりて・・・」 一、三つ道具の事。 「突く棒、刺又モジリ、組鑓の術は尤も武術にあらず。関所堅め軽率の業なり」 一、砲術の事。 「蛮渡の器として古法故実を言う者無く、ただ卑賤の器として実用を弁えたる 人の少なき残念なり」 なんつーか、、、武器としての有効性は認めつつも、やはり裏芸的な感覚はいなめない。 これが当時の一般武芸者の感覚ではないだろうか? 「いざ戦場で不覚をとらぬために心得として学んでおくが・・・」てな感じかな。 まあ、もう少し古い時代だと評価は違うかも知れないが。
武士の象徴として太刀を特別扱いしたかったってだけでないの?
875 :
日本@名無史さん :2006/11/02(木) 12:54:32
>874 んー その辺の精神性は難しいね。弓は武家の調度。槍は武家の道具とも言うね。 例えば武家は古来「弓矢の家」と言って地方の軍事と祭祀を執り行うという いうなれば領主の証みたいなもんか(古代の話だが) 戦場では「一番槍」「槍は戦場の誉れ」とも言し・・・
876 :
日本@名無史さん :2006/11/02(木) 17:09:53
すまそ875補足。 武士の象徴として太刀を特別扱いしたか?についてはYESだと思う。 だが記紀神話には鉾や弓が神聖な器具として出てくるから太刀だけが特別かどうかは判らない。
戦国期の戦場では刀はサブウェポンだったってのはもはや常識でしょ? 江戸期に入ってからからだよね刀がその機能以上に重要視され始めたのは。
878 :
日本@名無史さん :2006/11/02(木) 23:17:53
879 :
日本@名無史さん :2006/11/03(金) 00:49:37
サブウェポンwww
880 :
安藤某 :2006/11/03(金) 01:16:27
ツブテじゃなぁ 竹内流の三代目も「闇夜のツブテは避けられない」って言ってるからカナリ有効ですよ(*^-^)b 刀を上位に置くのは、神武が一体とされていた頃の矛と太刀に依ると思います 矛はその後廃れ、より汎用性の高い太刀が残りました また、合戦では馬上の主に手柄を立てさせるのが郎党達の務めで馬を薙ぎ、敵を効率良く蹴散らす武器を持ちましたが 主たる武士は、正々堂々とした武器が相応しかったんです
881 :
日本@名無史さん :2006/11/05(日) 02:06:01
まあ命がけの戦場では実用品以外は身につけてはいないはずだよな。 将軍義輝や柳生兄弟が戦場で刀剣のみで敵を斬り倒しているし、強い奴はマジで強かったようだ 弓矢もやはり神話に始まり魔を払う神具で、一騎打ちでも使う正々堂々とした武器 でもある。現在でも弓馬の小笠原流は名門だわな。 弓執りは「弓箭は武備の長」と言い、鑓は「槍先の功名」と言う。 まあ、それぞれ好きずきかw
882 :
日本@名無史さん :2006/11/10(金) 11:17:08
散々既出だが 上泉伊勢守も塚原卜伝も戦場では槍を主要武器にしていた事実 殺害が目的なら刀剣よりも槍、槍よりも飛び道具がリスクが少なくて良いわな
883 :
日本@名無史さん :2006/11/10(金) 11:32:39
現代ならいざ知らず、近代以前では飛び道具だけで敵陣地から敵軍を敗走させるのは難しい。 刀を身につけても槍は持てるし武器のスペアは有った方がいい。 戦場以外含めて刀は汎用性高いから古今東西で発達している。 要は武器はケースバイケース。
>>883 武芸18般って
1弓術 2馬術 3水練 4槍術 5剣術 6抜刀術 7短刀術 8十手術 9手裏剣(鉄見)術 10含針法 11なぎなた術(略)
でしたっけね(諸説あり)
弓馬刀槍は必須だったはず・・・
885 :
安藤某 :2006/11/11(土) 02:31:39
>>884 さん
武芸十八般とは、武術についてあらゆる分野とか、多方面に通づると謂う意味です
武士としての素養は物心がついた頃より鍛える必要がありますが、中でも弓は大人になってからでは躰が作れません
また、基本となる型を変化させ複数の武器を遣いこなせることで柔軟な対応力を持たせた訳です
886 :
日本@名無史さん :2006/11/11(土) 06:05:43
12月4日新撰組ファンならみる【燃えよ剣】 原作:司馬竜太郎(時代劇ちゃんねる)でやるぜ!
水滸伝に兵器十八般としてまとめられたのが最初で日本に伝わり武芸十八般となる
ttp://wushunet.at.infoseek.co.jp/column/column_t.htm#column [水滸伝] 矛 鎚 弓 弩 銃 鞭 簡 剣 鏈 撾(ナゲホコ) 斧 鉞 戈 戟 牌 棒 鎗 扠
[日本一般] 弓 馬 槍 剣 水泳 抜刀 短刀 十手 手裏剣 捕手 柔 棒 鎖鎌 錑(もじり)
忍(隠形) 含針 薙刀 砲
[平山行蔵武藝十八般略説] 木弓 馬 槍 飛槌鎖鎌 眉尖刀(小薙刀)野太刀
居合 銃 弩(大弓)李満弓(鯨半弓・駕篭弓) 剣術 青竜刀(大薙刀) 戟(十文字鎌鎗)
鉋(佐分利槍) 鎗 棍 鉄鞭 拳
んー 見た事も無い兵器がたくさんあるな。青竜刀が大薙刀なのは的を得ていると言うべきか?
はたまたご愛きょうと言うべきかw
砲はともかく短刀、居合、鎌などは日本風かな?
中国はわけわかんないくらいやたらと武器の種類が豊富だから十八ぐらいすぐに そろうけど十八と言う数字だけ持ってきて日本でムリに当てはめようとするから おかしなことになるんじゃないの?
話がズレたついでに、少し古式砲術も書いておこうか 火縄銃というのは命中精度に関しては当時世界トップレベル、意外と良いと言われている。 ヨーロッパ式管打銃、燧石(ヒウチ)銃は弾幕を張るには良いが、反動が大きく精密射撃には 向かなかったらしい。 火縄銃は火点を火薬の入った薬池にそっと近づけるのみで発射が可能だからだ。 最初の国産火縄銃は根来寺杉之坊惣門主『津田監物算長(杉ノ坊算長)』 楠氏に通じる津田城主であり、根来寺杉ノ坊の長(院主)だと言われる。 津田監物は自ら種ヶ島に渡って鉄砲と火薬の製法を習い、 それを根来寺門前西坂本に住む芝辻清右衛門(堺鉄砲鍛治の始祖)に 製作させたのが最初で、これが後の『津田流砲術』になる。 根来の僧兵の総数が約二万人。中には雑賀の土橋氏(泉識坊)がいた。 明国海賊船の南蛮人により鉄砲が伝えられたのが1543年。 津田監物が阿瑠賀放至(アルカーブス?=鉄砲)を紀州に持ち帰った1544年。 事実上の日本砲術の始祖と言えるかな。 その子に自由流津田自由斎がいる。
X最初の国産火縄銃は → ○最初の国産火縄銃制作者は
製作者なら八板金兵衛清定じゃね 本土で大量生産ラインに乗せたのは監物だが
892 :
日本@名無史さん :2006/11/16(木) 10:09:43
小学から高校まで剣道をしていたのですが、剣ってその日の体調なんかもかなり影響 ありますね。 県ではいつもベスト8以内だったのですが、 初戦がとにかく体が動かないです。緊張するなと思っても、体が動かない。 二回戦目からは別の体のようにスムーズに動くのにね。 昔の御前試合なんて大変だったでしょうね。 ベスト8くらいからは、その日の体調が大きく関わってきます。 剣道では上段、二刀流はよくいましたけど、八そうなんていませんでした。 あれは剣道では役に立たないのかな? 八そうは間合いをわからなくさせる為にしていたらしですけど。 ところで流派ですが、例えば一刀流、無外流、新影流など、どこがどう違うのでしょうか? 新影流ってどういう形なのでしょうかね? 示現流くらいなら知っていますけど。。。でも鹿児島の人は八そうの構えしてなかったなー よく時代劇では、簡単にばっさばっさと斬っているけれども、あれ酷いですよね。 あれだけ剣をあわせたら、きっと刃がぼろぼろになるでしょうし、 下から上に剣が出るなんてありえないと思うのですが。。。
流派によって「八相」の使用法はいろいろあるので一概には言えないが甲冑を着用 したさいに上段に振りかぶる事ができないので使われたと言うのが一般論だね。 だが時代や戦場、武具の形状、具足の有無によって同じ「八双」でも構えや太刀筋は変わる。 必ずしも上から斬り降ろすとは限らないしコテ・メン・ドウを打つとは決まっていない。 また長物相手に構えた時に急所をどれだけ隠せるかと言う事も重要。 一度戦場に出たつもりで上段、晴眼、八相、で構えたまま野山を上下左右に走り廻って 実験してみてはいかがだろうか?
895 :
日本@名無史さん :2006/11/16(木) 20:53:43
>>892 さん
剣道のルールでは八相構は生かせないからですよ
胴からの斬り下ろし、返して裏小手は操法としてはともかく、得点にはなりませんよね
また、八相に対して脇構えで低く対するのも膝を薙ぐことが許されない以上剣道ではポピュラーではなかったですよね
ですから、薙刀に対峙するとき低く八相に構えることの理合が理解されないのは何とも残念でなりません
甲冑は斬り下ろしの時、横や下方向に隙間ができる。 横薙ぎに振り回したり袈裟に斬ったりするなら八相や車の方がイイかも。
ごぶさたしております どうもプロパイダ禁止を定期的にうけているらしく
つぎ書き込めるのはいつになるやら^^;
>>892 九州剣道は八相のかわりに上段を多用する選手が多かったと記憶しております
新陰流系列は基本的に転(カウンター後の先)とそのための最短移動が特徴です
剣道ではまったく推奨されないので一本はとりにくいでしょう
たとえば相手の面を横一文字でうけて腹を蹴りそのまま切り下げる なんてのは新陰系列では有りです
一刀流は中心をとる攻防と自分の有利な位置を先に確保する技術が核ですかね
武板ならもっと詳しい方がおられるでしょう
898 :
日本@名無史さん :2006/11/18(土) 03:24:44
892です。みなさんありがとうございました。 八相のことがよくわかりました。たしかに走りやすいですね。 新影流というのはカウンター系なんですか。。。面白い。 じゃ柳生十兵衛三厳もそのような。でも刃がぼろぼろになりませんか? 1人、2人しか切れなかったとか。。。 荒木又左衛門の決闘も、誇張されていますけど、実際には2人くらいしか切っていないらしいですよね。 今の剣道は一刀流に近いのでしょうかね。 最近亀戸天神に行きました。ここって塚原ト伝などの剣豪が、決闘前にお参りしていたんですよね。 宮本武蔵なんかも江戸に寄ったときは、亀戸の宿に泊まったと聞いていますが、 亀戸は剣を使うものの聖地かなんかですかね? 僕のふるさとには、片山伯耆守久安という剣豪がいましたよ。
899 :
日本@名無史さん :2006/11/18(土) 09:35:46
>>898 さん
>>895 です
走り易いとの話がでましたが、抜刀して駈けるときは刃を外側に向けて刀を肩に掛けました
介者(鎧や具足をつけた剣法)では八相とより脇構えが一般的です
疲れないし、鎧の隙が少ないからでしょうね
ところで、伯耆流は地元に残ってるんでしょうか
京都には相伝者がおられますが、稽古はされてないようですよ
>>898 まともに打ち合ったら曲がるし折れるし刃はぼろぼろになるだろうね。
槍だって折れるし、矢は尽きる、大雨が降ったら鉄砲は使えない。これはどんな武器も一緒だ。
柳生宗矩七人斬りとか東軍流川崎鑰之助、神道流の平井八郎兵衛が多人数相手に
斬り合いやってるから達人なら最小限の消耗で戦えるのかもしれない。
まあ、戦場で刀剣1本で身を守れただけでも十分すごい事だが。
現代剣道は直心影流、桃井流、一刀流中西、新陰流、無外流、神道無念流などが吸収分離
しながら形成された物をGHQにより解体させられ戦後武徳会門人により再結成された物。
武徳会は北辰の内藤先生の門弟が多かったので北辰色が強くなってしまった。
901 :
日本@名無史さん :2006/11/18(土) 15:56:51
戦前の剣道なら、村上もとかの『龍』が詳しいよ ボクは、京都第一中学の後身の高校に通ったんだけど、武専出身の国語や体育の先生が何人かおられ、授業の合間に学校生活を伺うことができました
今週の「功名が辻」で、 緊縛されてる三成に一豊が羽織を掛けてやるシーンが あるけど、あれって柳生宗矩の逸話だよね。 実は密かに特別出演してくれるんじゃ ないかと思ってたけど、見事にエピソードだけパクられてたw 残念。
903 :
日本@名無史さん :2006/11/18(土) 22:29:06
新陰流をしている者ですが相手の太刀を受け止めたりはしません。 相手の刀と自分の刀がぶつかる瞬間に力がぶつかり合う事ないよう流し捌くみたいな感じです。そして相手を活かすだけ活かして勝ちをえます。
>>903 失礼
>>自分の刀がぶつかる瞬間に力がぶつかり合う事ないよう流し捌くみたいな感じです
言いあらわしにくかったものでフォローサンクスです
>>900 東軍流川崎鑰之助
この人ってどんな感じなんですかね?僧侶に剣術教わったなんて話しかしらないので
東軍流って赤穂浪士の大石の流派でしたっけ?
>>905 逆抜きの太刀スゲー!あの速さで良く耳切らないな
908 :
日本@名無史さん :2006/11/19(日) 21:09:12
>905 すごい・・・ 家宝にさせていただきまつ
909 :
日本@名無史さん :2006/11/20(月) 02:23:42
>>901 です
太刀に限らず、長物は逆抜きに抜きますよ
居合で三尺の技物を抜く時には返しが入ります
立ち会いとかは、なかなか機会がないかもしれませんがね
三尺の居合は、圓心流の田中先生が得意とされてますから、演武会なんかでお話しを伺えればどうですか
910 :
日本@名無史さん :2006/11/20(月) 06:35:03
羽織を掛けてやったのは黒田。 嫌がった黒田を説得したのが宗矩だったとおも。
912 :
日本@名無史さん :2006/11/20(月) 18:54:20
>>909 言ってる事がメチャクチャ
三尺くらいなら技術の有る人は持手、打刀にかかわらず普通に抜ける
田中ふもん・・・orz
現行会派の話は禁止だぜ。鉄ちゃんとか甲野とかもやめてくれよな。
鉄っちゃんは、れっきとした古流剣術家じゃないのか?w
>>905 これ、どうやると保存できるんですかね?
FLVなら開けるソフトは持っているんですが、Temporary Internet Filesには見あたらないような?
915 :
日本@名無史さん :2006/11/21(火) 01:52:18
>>912 さん
三尺くらいっつて言うけど…簡単じゃないよ、大道で客寄せに抜いてた輩は戦前には亡くなってるしね
圓心流は古流ですよ…竹内流の影響は濃く、『乱れ』から入るのが特徴です
>>913 さん
鉄っちゃん、って黒田鉄山先生のことをいってるなら
黒ちゃんが正しい業界の呼び方ですよ
でも、平上さんや島津先生なら洒落になってもぺーぺーが言っても様にならないよ
加来耕三・・・ 何時代でもOKの大河便乗作家ねw
917 :
日本@名無史さん :2006/11/21(火) 05:36:55
>>915 勉強不足、三尺くらい使ってるヤツ多いし普通に抜き打てる。
918 :
日本@名無史さん :2006/11/21(火) 08:05:01
確かに三尺程度なら抜刀にそれほどの苦労はない。 ただ身長に比例して手足も現代人より短かった当時の人間には多少の難があったかも。
919 :
日本@名無史さん :2006/11/22(水) 15:06:16
ちょっと話が逸れるんですが、 「技の千葉」と千葉周作が称されることになった逸話についてご存知の方いらっしゃいますか? 昔本で読んだ覚えがあるんですが、手元の物やネットで調べても見つからなかったので。
920 :
日本@名無史さん :2006/11/22(水) 17:25:43
たしか「技の千葉」は幕末明治の剣客達が栄次郎の事を言ってたんじゃなかったかな? 千葉の小天狗と言われた人だ。 「剣は千葉 技の斎藤、位の桃井」 「技は千葉、力の斎藤、位の桃井」とか、人によっていろいろある。 俺の持ってる資料では安政2年に松崎浪四郎が「千葉氏の技は天下一品。 桃井氏の技前、位は他に類無し。斎藤氏は技量抜群」と岡藩中川公に言ったとか。
そいつはあまり信用出来そうもないな・・・・w
922 :
日本@名無史さん :2006/11/23(木) 00:36:06
>>921 「そいつはあまり信用出来そうもない」とする根拠を明示せよ。
>>922 ・天下一品
・他に類無し
・技量抜群
大して変わらないじゃんwって事じゃあ
人によっていろいろある。とか言ってるし
925 :
日本@名無史さん :2006/11/23(木) 10:30:46
>>923 これだけヒントが出てるのだから日本史板住人なら自分でも調べてみては?
既出の事でもあるしね。
安政二年に豊後岡藩主中川修理太夫江戸屋敷にて松崎浪四郎が「千葉氏の技」
「桃井氏の位」と既に評している。
話相手が殿様で公式の場だから「天下一品、他に類無し」と無難な麗句で言ったんだろう。
ただ、当時既に三大道場の世間での評判を受けての質疑だったようだ。
問題は「力の斎藤」だが悪口の意味もあったので憚ったのかもしれないし、あるいは
松崎にはそう見えなかったのかもしれない。
「力の斎藤」諸説いろいろ
・神道無念流は略打(軽く打つ)を取らず、「真を打つ」渾身の一撃のみを一本としたので力の斎藤
・三十畳敷きの寄宿所に門弟がひしめき、乱暴者も多かったので力の斎藤
・斎藤弥九郎は学者くずれでもあり、江川のような権力者にも近しかったので力の斎藤
まあ、実際竹刀を交えれば判るが神道無念流は確かにパワフルな剣風だよ。
「剣は千葉」「技は千葉」とも言うが、松崎の場合は栄次郎の事を言ったようだ。
千葉も斎藤も複数世代複数名だからな。
926 :
日本@名無史さん :2006/11/23(木) 13:51:14
評価する人も複数世代複数名だしな
>>923 ああ 評価自体ね。玉虫色だよね。
そうじゃなくて、「そういわれていた」という話の典拠は何かという筋だから。
>>905 居合いをやっている人が誰か知らないけど、ひょっとして、この位置まで切り下げることができるんじゃないかな?
929 :
日本@名無史さん :2006/11/24(金) 08:33:13
演武は大竹師範でしょ。NHKドラマ版の蝉しぐれにこの人達出演しているよ。 斬り下ろしは現代剣道や居合に比べるとやや低いね。 まあ巻藁なんか斬ると打突点より流れるから、実際こんな感じになるんじゃね?
目当ての古文書が売りに出されているのを見つけたがお金が無いので困った
932 :
日本@名無史さん :2006/11/25(土) 16:26:43
たしかにうらやましい。 漏れも40の手習いで習字教室通ってるが、まだ読めン罠。 全文ひらがなのはずなのに「な(那)」とか「は(者)」とか「か(可)」が漢字で崩されていて 時々先生も首をひねっていたりする(藁
>>931-932 今はわかりやすい古文書解読入門書が多数出版されてるから
その中から選んで繰り返し熟読すれば独習でも十分上達できる。
934 :
919 :2006/11/25(土) 21:06:55
>>920 >>925 お答えありがとうございます!
自分でもその辺りの資料を探してみますね。大変助かりました
読めるってほど読めないぞ 日本漢文のルールに従って訳してるだけだから それも教科書見ながらさ
936 :
日本@名無史さん :2006/11/25(土) 22:06:36
>>928 さん
巻藁は固定されているし、当たりの衝撃をムシロやゴザで受け止めるから、巻藁の方で斬れてくれるんですよ
手の内と躰で斬る感覚を捉えないと…逃げる人体に斬りつけるんだからね
だから、据物の初伝では三尺位の太い竹を立て、その上に太さ一寸半くらいの竹を載せ…下の竹が倒れないように斬る稽古をするんですよ
でも、そんな風に稽古を重ねた方でさえ、斬り損じはあるんです
黒田師範だってビデオ撮りで二本の刀を欠けたり、曲げたりされてるんですよ
絶対なんて言う人の方が慢心かもね
937 :
日本@名無史さん :2006/11/26(日) 19:10:36
おっしゃる通り黒田師範は慢心していたと思います。 マスコミ剣豪の実力なんてそんなもんでしょ。
938 :
日本@名無史さん :2006/11/26(日) 22:20:46
さぁ?日本史に関係ないことだから分かんないねぇ そういうのは武道板に行くのを薦めりゃいいんじゃね?
940 :
日本@名無史さん :2006/11/28(火) 13:11:30
柳生心眼流の羽州帯刀を「おびとう」って読むのは合ってるの? 一般的には「たてわき」だけど。
>>940 「雅楽頭」を「がらくがしら」と読んで呆れられた旗本といい勝負ではあるね。
943 :
日本@名無史さん :2006/11/29(水) 09:50:02
柳生心眼流の人いる?
ここは幕末最強剣客〜みたく荒れなくていいですね
実際伊庭八と男谷、浪士組どれが最強かなど言葉遊びにしかなりません
>>943 武板 心眼流スレは毎回荒れてスレ落ちします されているのなら道場主に聞かれるのが本筋ですし
されていないのならメールででも質問されればよろしいかと
高橋泥舟の流派ってまだあるんですかねえ・・・?鬼鉄関連でふと思ったことです
泥舟って講武所とかで対外試合したことがあるんですかねえ?鬼鉄とちがって全然逸話をシリマセン
幕末最強剣客〜 832はやりすぎたかな?一応問題提起の意図ありの意見ですけれどね 最強とはいってないんですよねー実は タイムマシンがあったのなら講武所の一週間を撮影して帰って着たいものです
946 :
日本@名無史さん :2006/12/05(火) 23:01:09
岩国の小次郎の銅像って変わった構えしてるけどこれ何ていうの? 八相なんだけど右手が逆手。
947 :
日本@名無史さん :2006/12/05(火) 23:17:04
あれは、「冗談の構え」っていうらしいよ。 柳生石臭斎が編み出した秘剣らしい
948 :
日本@名無史さん :2006/12/06(水) 03:35:33
柳生新陰流も富田流も神道流も全て基は中条流でしたっけ? 武蔵って二天一流の前って何流なんだろう?我流?
949 :
日本@名無史さん :2006/12/06(水) 12:50:58
>>945 いや、あそこは荒れるのが日常ですし意外と落ちませんから大丈夫ですよw
そういえば幕末最強剣客スレも一時期甲野、黒田信者に荒らされてたな・・・
>948
中条流が基になってるのは富田流と一刀流。
中条流は小太刀等が新当流などにも外物(他流派の技)として取り入れられたらしいが
当時念流が既に関東に伝わっていたはずだから、影響を与えたとしたら
たぶん小太刀のみではないだろうか
二天一流の前の流派については既出ですぜダンナ。
福岡って新陰流じゃなくて新影流なんだな 愛洲影流継承とか謳ってるけどあれ失伝したんじゃなかったか?
951 :
日本@名無史さん :2006/12/07(木) 18:52:48
九州、特に疋田系は影流名乗ってるのが多い希ガス、大石影流もそうだったかな? 影流は上泉伝の流派ならなんらかの形で継承しているだろう 柳生派の伝書も影の字を消して陰に書き改めた跡があるそうだが
952 :
日本@名無史さん :2006/12/07(木) 18:56:26
あ、スマソ。 福岡というのは柳生松右衛門伝だったか・・・
953 :
日本@名無史さん :2006/12/07(木) 20:31:11
新蔭流自体は、鹿島神道流・新当流のエスプリ満載だし 神道系の刀術の基本技を合理的に指導しているから応用が利くんです 因みに、合気剣も見る人が見れば鹿島の剣に忠実なんだそうですよ
954 :
日本@名無史さん :2006/12/07(木) 21:45:19
丸目長恵の剣術とかも確か新陰流でしたよね?たしか新陰タイ捨流とかだったような。ちなみに佐々木小次郎の燕返しって富田流にも出てくるのですが小次郎は何処かで燕返しを習ったんですか?
>>954 浅学でスマソ
富田流に燕返しってあるんだ?伝書を気にして探したこと無かったから知らないや
どこかに載ってる?
956 :
日本@名無史さん :2006/12/08(金) 15:31:54
>>919 先日杉並の北辰一刀流・玄武館に行ってきました。
技の千葉というのはあの組太刀を見れば分かる気がします。
一刀流の極意がうまく混合されていると思います。
とても合理的ですね、五行の組太刀は。
小さな動きで大きな力を制し、正確に仕留めるという
印象を受けました。6代目館長先生をはじめ、門下の方々も
とても親切に案内してくれました。来年くらいから始めようと思います。
>>905 この映像中にあった、剣を鞘に収める時に、柄を右手で叩くのは何故?
>956 それは良い事ですな、ぜひ入門して続けて下さい。 ところで五行の組太刀とは五行ノ形の事だろうか? たしか中西派の高野佐三郎範士が剣道形の原型として昭和の頭に創案されたと聞いたが 北辰のはまた別なのかな? 高野の五行は太刀形五本と東京高師版小太刀形三本で構成される 剣道形との最大の違いは礼法で打太刀が双方の刀を2本まとめて持ち歩く事か >957 ふつう居合には納刀前に「血振り」という動作が入る場合が多い。 血が付いたままだと鞘中で刀身が錆びるから刀をブン回したり拭ったりした後 鞘に納めた。その動作を省略したのが血振るいの形と言われている。
959 :
957 :2006/12/08(金) 22:03:59
あれって何回もやると目釘がすぐダメになりそうな気がするんだけどどうなんだろ?
うちの流派だと、技の終わりに正眼に構えなおして、 左手→柄頭を押し出してから鯉口を握る 右手→押し出した柄頭の反動を利用して血を振るう で、納刀するのが血振りの方法だったな
>>960 日本刀は知らんけど、ナタとかのはそうそう簡単に傷むようなものではないし、
木のシャフトのピッケルでも、柄の木が駄目になるのが先だったりする。
みんな都会住まい? 興味があるんだけど、家は田舎だからどの流派の道場もないよ。
皆さんにお尋ねしたいのですが、孤刀影裡(ことえり)流っていう流派をご存知ですか? 以前テレビ番組でその名を知り、ググッたりして調べてみたんですけど、詳しい事が分かりません。 分かったのは、幕末〜明治期に野瀬庄五郎という人物が創始し、西南戦争でも威力を発揮した抜刀術(?)である事。 後に黒澤明監督の『椿三十郎』の主人公が使う剣術のモデルにもなった…という事ぐらい。 今でも継承されているんでしょうか? また、この流派について詳しく書かれた書籍などがあったら教えて頂きたいんですが。 どなたか宜しくお願いします。
966 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 14:08:45
>>958 そうですね、五行ノ形ってやつですね。
あれは小西館長が考案されたものなのかよく存じませんが、
あの5本に北辰一刀流の全てが凝縮されているとのことです。
小西館長は3・4代目宗家の直弟子だったこともあって
若干31歳で宗家になられて今では御年87歳です。
とても礼法に厳しく、最初は注意されることばかりですが
憧れだった一刀流派なので稽古も面白いですよ。
967 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 16:06:39
>>957 さん
>>958 さんに補足
合戦でやむを得ず汚れたママの刀を納刀する時に、形式だけ血振いしてしてるんですが、印を切ってケガレを払ってると教わったんですが…竹内流の師範から
足場の悪い戦場では、抜身の刀を持ってウロウロしてると、自傷事故や刀身の破損の原因になるから、血糊で汚れててもとりあえず納刀するんです
どうせ帰宅したら、拵えをバラしてキレイにするし、刀身だって研ぎ直すんですからね
>>967 流派によってはそういう宗教的な観点も付け加えてるのかね?
うちの流派では傘についた水を振り払うイメージで振れ、と教えられた
そうすると血糊を振り払いやすいとか何とか
969 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 18:54:24
血糊は傘についた水のように簡単に振り払えないと思うが・・・・
970 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 20:16:50
北辰一刀流の奥伝の形中(座り)では斬った後の刀は袴のひざ部分で拭っていました。
当流派には血を払う動作はない
972 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 20:24:55
天然疑心流
>>963 古流は新影流と英信流くらいしか無い
熊本や鹿児島は結構残ってるのに福岡は…
>>967 何もしないで収めるよりはるかに良いという実利もあるのでは?
>>969 「減らす」のが悪いはずはないでしょう。
975
976
977
978
こらこら残り少ないのに無駄に使うな
それよりオマエら血振りもろくに知らないのか?
ここは学術板だ、脳内はいらん、実験あるのみ。
実際に模擬刀に水でも付けて血糊が取れるかどうか振って見ろ。
>>967 そんなことしたら自分が怪我するし、いざという時抜けなくなるぞ
981 :
日本@名無史さん :2006/12/10(日) 03:13:13
>>981 太刀は右肩に担いで(やや刃先を外に向ける)進軍あるいは後退するように なんていうのが
『武道初心集』だったか『初心心得』だったかにあったと記憶してます
平時と合戦時では多少ルールが違うのかもしれません
93氏乙です。 「武道初心集」ですか、初めて見ました。 作者の大道寺友山は「小畑景憲、北条氏長に随い山鹿高祐に学んで・・・」とありますな 山鹿高祐は赤穂浪士や吉田松陰でおなじみの山鹿素行でしょうから 小畑景憲はたぶん山鹿素行の師匠で甲陽軍鑑の作者小幡景憲の事でしょう(・・・たぶん) そうそうたる顔ぶれですな。
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