1 :
日本@名無史さん:
大和朝廷は邪馬台国から生まれたのか。それとも狗奴国なのか。
九州王権の東遷はあったのか。邪馬台国九州説の運命やいかに。
日本古代史最大のミステリーについて引き続き議論しましょう。
過去スレ・関連スレ等は2-5あたりで。
3 :
日本@名無史さん:04/02/10 22:27
3げっと
4 :
日本@名無史さん:04/02/10 22:53
九州説ってそれほど電波なのかね?
記紀の記事を読んでみれば、九州という地方が
別格な存在だということがわかるはずだが
5 :
日本@名無史さん:04/02/10 23:14
>>4 旧約聖書のノアの方舟だって元ネタはメソポタミアの神話が原典でユダヤのオリジナルじゃないっしょ?
日本の場合は出雲の話もあるし、九州が弥生時代の先進地域だったのは間違い無いわけだし
大和が九州の神話を何らかの形で取り込んでる可能性もあるんでない?
◆前スレであった主な問題提起
・大和朝廷の前身は邪馬台国かそれとも狗奴国か
・邪馬台国は近畿か九州か
・「邪馬台国」「卑弥呼」の読み方は?
・邪馬台国(または九州勢力)の東遷はあったのか
・「倭の五王」は邪馬台国の後継者か
・半島勢力が邪馬台国を作ったのか
・吉備と邪馬台国の関係は?
・邪馬台国は領域国家か都市国家か
などなど
◆関係ありそうな文献
平野邦雄『邪馬台国の原像』学生社、2002
寺沢薫『日本の歴史 王権誕生』講談社、2000
森浩一『語っておきたい古代史』新潮文庫、2001
上田正昭『大和朝廷―古代王権の成立』講談社学術文庫、1995
森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中公新書、1999
白石太一郎『日本の時代史 (1) 倭国誕生』吉川弘文館、2002
白石太一郎『日本史リブレット 古墳とその時代』山川出版社、2001
ほか
>>6 纒向は邪馬台国の都か?
という一番重要なのが抜けてる。
8 :
日本@名無史さん:04/02/10 23:30
畿内説論者は記紀の記事を軽視しすぎる
九州説論者は東遷伝承をどうにかして歴史的事実にしたい
9 :
日本@名無史さん:04/02/10 23:34
畿内説の問題点は
1>三世紀に作られたとされる一連の前方後円墳群の年代測定は正しいのか?
2>銅鐸文化の消滅をどう説明すべきか?
3>記紀・魏志倭人伝との矛盾をどう解決すべきか?
といったあたり?
東遷があったとしても邪馬台国が九州にある必要ないしなあ・・・・
畿内の邪馬台国を九州の別のクニが滅ぼしたとしても古事記的になんら問題ないし。
>>10 日本最古の都市や巨大古墳を建設していた大和勢力を九州が倒すのは国力的に困難。
という見方が強いみたいだが。
むしろ邪馬台国は九州の地方勢力に過ぎず、その地理的な利点を生かして魏と外交関係を結んだが
早晩圧倒的な大和勢力に飲み込まれた、とした方が無理が無い気がする。
12 :
日本@名無史さん:04/02/10 23:39
畿内説の問題点
4>北九州の地名が畿内に大量に移動している事実をどう説明するか
東遷を三世紀より前に起こったとするか、後に起こったとするかでも議論はわかれるな。
因に自分は三世紀より前派。
14 :
日本@名無史さん:04/02/10 23:42
北九州だったら日本に入ってから水路で何十日もかかんないだろ
3世紀より前なら成り立つしね。
まったく史実に無かったことなら書かれる必要も無いんで、何処かの時点では
あったと考えるのが正しいと思う。
銅鐸消滅について、誰か適当な仮説をたててる畿内説論者はいないの?
因に畿内説の自分の考えだが、三世紀に誰か、大規模な宗教改革をやった奴がいたんだと思う。
倭をまとめる原動力として宗教の力に着目し、卑弥呼を共立したり前方後円墳をデザインした奴。
そいつの考えでは畿内の古くからのある種の信仰が邪魔で、宗教改革の一貫としてそれを排除しようとした。
その結果、銅鐸は破棄されたと思うんだが、どうだろ。
その頃の日本は民間に信仰が行き渡るようなレベルには達して無いだろう。
別の政権が「上書きした」と考えるのが自然。
畿内説は邪馬台国が大和政権になったことを肯定してるわけじゃないし。
(まあそういう奴もいるかもしれんが)
桓武天皇が寺院勢力を排除する為平安京遷都をやったような発想なんだが
言いたいことは分るが、そこまで国家が発展してないと宗教勢力が発展しないでそ?
20 :
日本@名無史さん:04/02/11 00:05
247年3月24日 日没頃 九州西方海上 皆既食
古天文学で証明されている。またこの年、卑弥呼が死んでいる。
アマテラスの天の岩戸隠れの神話を「皆既日食+卑弥呼の死」であると考える。
大和朝廷の、つまり、天皇家の祖先なるアマテラスの伝承が、
247年の九州における「事件」を下敷きにしているとすると・・・。
>>19 各村落にはシャーマンがいて、農民は彼等に従って生活している。
新国家の建設を考える奴にとってはそれが面白く無い。
そこで、古い信仰を破壊して回ったってのはどう?
>>16 面白いね。鬼道=五斗米道による宗教改革があったとか。
魏にとって五斗米道は仇敵という人がいるけど、張魯の娘は
曹家に嫁いでいるし、卑弥呼の頃の日本で禁教される
ことはなかったんじゃないか。それで、倭国の国教になった。
前方後円墳という特殊な形状の墓が急速に広まったことも
説明できる。
住民の反感を買う政策をわざわざやるほどバカだったとは考えられんが・・・。
旧勢力を皆殺しにしたというのならわからないでもないですが。
>>23 それだったら九州説論者の好きな「九州勢力東遷説」でも同じ事になる。
それにあらかじめある種の宗教を布教するなど下準備が出来ていた上で実行したとしたら?
25 :
日本@名無史さん:04/02/11 00:12
そこで井沢元彦先生の怨霊信仰説が大炸裂
>>16 あんたが面白いアイデアを教えてくれたから、お礼に
もう一つ、俺の思いつき。
卑弥呼は新宗教五斗米道の九州倭国における教祖だった。
この宗教的権威と新宗教の発信地である魏の後ろ盾により、
いったん倭国は平和を取り戻した。
しかし、卑弥呼が死ぬとまた戦争勃発。戦乱の根元は
台頭する近畿勢力。九州勢力は新しい教祖トヨを御輿に
東進、先遣隊のイワレヒコは大和の占領に成功して秩序
回復。纏向に新都を建設した。したがって、卑弥呼の墓は
九州のどこか、トヨの墓は箸墓。
27 :
孤高の24歳無職:04/02/11 00:42
親魏倭王の金印発見して、邪馬台国の所在地突き止めて
一躍時の人になって、本出してバカ売れして
金持ちになって有名人になってテレビ出演して
あややと知り合いになってせくーすすることできますか?
早くみなさん議論を活発に行って、所在地を突き止めてください。
金印は陵墓のどこかにあるだろうから、少なくとも君が生きてる間は
発掘できないかと。
箸墓を盗掘したいねー
>>27 無理です。金印は某所から掘り出して私が持っています。
アートマンを呼び出して、弥勒になるんです。
31 :
日本@名無史さん:04/02/11 01:14
「三世紀の前方後円墳」の年代測定に問題はないの?
九州説の連中は叩いてるけど。
年代測定法にもよるだろうしな。
年輪法だとすると、陵墓が出来てからその権力が維持されている間ちゃんと
手入れされている可能性もあるだろうから100年〜200年程度は木が生えて
無くても問題無いわけだし。
>>32 そりゃつまり、実際より新しく見積もられる恐れがあるって事?
そういうことよね〜ん
別に年代測定で年代が決まってるわけじゃないし・・・・
36 :
日本@名無史さん:04/02/11 01:28
ことは非常に単純ではないのか?
『邪馬台国』をヤマト国と読めばいいだけではないのか?
古代中国人が、わざわざ『やまたいこく』と読んだとでもいうのだろうか?
賢明な諸君に問いたい。
37 :
孤高の24歳無職:04/02/11 02:55
邪馬台国ではありません。
正確には邪馬壱国、又は邪馬一国です。
邪馬まではヤマと読んでよろしいかと
思いますが、トの部分はどうやっても
当てはまりません。それに地名や語源が
似通ってるからといってそれが同じもの
だとは思いませんね。ただ単に九州に偶然あった
ヤマトと似たような名前の国だった可能性も否定できませんし。
松井秀樹と松井かずおが別人なのと似たようなもので
名前が似てるからといって同一のものと断定はしきれません。
38 :
孤高の24歳無職:04/02/11 03:10
ただ邪馬台国と大和朝廷はなんらかの
関係はあると私は考えます。根拠は
卑弥呼という名前です。これは間違いなく
鈴木や河合といった個人の名前でなく
天皇や親王といった役職のことでしょう。
とすると日巫女とするのが最も妥当な
読み方です。つまり邪馬台国に太陽信仰
があったということです。とすると
もう既出かと思いますが、例の皆既日食ですね。
これが卑弥呼の時代にあったことが科学的に
証明されてますし、天照大神の岩戸隠れとつじつまが
あいまくりです。邪馬台国≒大和朝廷かは
はっきりしませんがなんらかの関係はあるものと
考えざるをえないですね
>>26 つづき
イワレビコが大和制圧後に宮を置いたのは橿原。
あとから大和に入ったトヨは纏向に斎宮を建設した。
新倭国は宗教国家なので纏向の方がどんどん
発達する。今の天理市みたいな状況だ。
友好関係にある魏の技術者の援助を得て、
纏向建設の実際の指揮をしたのはミマカキ。
イワレビコとミマカキは同時代に新秩序の
建設に決定的な役割を果たした。
イワレビコの王統はすぐに断絶。オオキミの位
は宗教都市を司るミマカキに受け継がれ、
いよいよ政治と宗教が一体となったマツリゴトが
纏向を中心に行われることとなる。
その総仕上げが、ミマカキ=ミマキイリビコによる
四道将軍派遣。これは新宗教国家倭国による
十字軍派遣と表現できる。十字軍は各地で反動
勢力を鎮圧。彼らが墨守する古い信仰のシンボル
銅鐸を目の前で粉々にした。
41 :
孤高の24歳無職:04/02/11 11:59
なになに?実は始皇帝の派遣した徐福軍団が
大和朝廷の起源だって??
42 :
日本@名無史さん:04/02/11 13:24
蘇我氏が古代から日本の王権者だったと仮定して
蘇我倉「山田」石川麻呂 「山田」寺
なんとなく邪馬台国=ヤマダイにあたりませんかね・・・
山背大兄も山代=ヤマダイかも
43 :
日本@名無史さん:04/02/11 14:13
今日は建国記念日ということで日本の建国年を検証
1 BC660年・・・問題外とも思えるがあるいは記紀編纂時までは
残されていた倭人国誕生の記録か?
2 AD241年・・・邪馬台国と時期的に重なり妥当とも思えるが
建国者・関連人物ともになお不明
3 AD661年・・・天智の称制期であるが大化の改新と関連して
彼こそが真の日本建国者という説もある
以上の年はいずれも辛酉年に当たり、革命・王朝交代がある年とも
いわれる
九州論者のサイト見て回ったけど、どこも妄想全開だねえ。考古学的に邪馬台ではありえないとはっきり
してる古墳をつかまえて、ここが邪馬台と主張してる。仮にも、連合王国の中枢なんだから、2世紀末から
3世紀後半にかけて連合の首都だったと思われる遺跡がないと話にならない。
そんなもの九州のどこにもないんだよ!
もう探すべき場所も残ってないというのが実状。
九州論者はなぜこの明確な現実から目をそらすのか。著名な九州論者はみんなご高齢だから、もう
今さらしょうがないんだろうが、若い諸君よ、墓場行きが決定的な学説にこだわって人生を浪費するのは
やめておけ。
銅鐸祭って喜んでた連中はいつどこから日本にやってきたんだろ。
刺青彫ってた連中は銅鐸祭ってたのかな。
刺青は何で消えたの? 馬はいつきたの?
46 :
日本@名無史さん:04/02/11 16:12
神武天皇が九州から船で畿内に来たんじゃないの?
>>45 馬については四世紀初頭という説やら五世紀という説やら幅がかなりある。
邪馬台国にもいたが数が少なくて魏の使者の目に触れなかったんだ、という説もアリ。
因にこれは製鉄技術なんかもそうだし、銅鐸や前方後円墳の用途、起源、消滅の理由もイマイチはっきりしない。
事程左様に、古代日本は謎に包まれている。
>>46 考古学的に証明する資料は無い。ただの神話か史実を下敷きにしているかはようとして知れず。
48 :
日本@名無史さん:04/02/11 17:09
>>47 >考古学的に証明する資料は無い。ただの神話か史実を下敷きにしているかはようとして知れず。
それは神功皇后が朝鮮から九州入りしたってことじゃないの?
>>48 巨大な権力が三世紀の畿内で発生し、それが次第に日本全土に影響力を及ぼしはじめる……。
というのが、最近の考古学の見解じゃなかったっけ? 東遷があったとしたらそれ以前だとオレは思うが。
50 :
日本@名無史さん:04/02/11 19:47
山田国・・・
51 :
日本@名無史さん:04/02/11 20:12
山田・・・発音は合ってますか?
結構魅力的な話。伊勢神宮のそばには宇治山田も有るし。
入れ墨はハニワの顔にそれを思わせるものが結構あるし
聖徳太子直前くらいまではやってたんじゃ?
逆賊とされたために「ヤマト」に近い名称だったのが山田に
貶められたなんてのも・・・
53 :
日本@名無史さん:04/02/11 21:15
>>51 宇治山田は大邪馬台(ウ・ジャマダイ)ですか?
オレもそれはありうると思います。というか原型ではないかと。
畿内説支持派は「邪馬台国=当時の日本列島で最大の強国」という錯覚に陥っている。
3世紀巨大権力が畿内にあったことは考古学上確実だが、イコール「邪馬台国」であるとは言えない。
>九州論者のサイト見て回ったけど、どこも妄想全開だねえ。考古学的に邪馬台では
>ありえないとはっきりしてる古墳をつかまえて、ここが邪馬台と主張してる。
>仮にも、連合王国の中枢なんだから、2世紀末から
>3世紀後半にかけて連合の首都だったと思われる遺跡がないと話にならない。
「邪馬台国」が日本列島連合王国の中枢、首都だというのが錯覚だと思う。
漏れは九州邪馬台国と畿内との戦争が「倭国大乱」として
倭人伝に記されたとみている。当時の畿内はすでに九州をはるかにしのぐ
巨大な権力であり、古墳の築造もはじめていた。
(畿内=スサノオ〜オオクニヌシ あるいは 崇神〜仲哀)
しかし邪馬台国が九州でがんばっていたため、中国への朝貢はできなかった。
一方、邪馬台国は畿内に押されていた中小国家だったが、地理的にたまたま朝貢できた。
日本海ルートは?
>>54 というン十年前の認識が考古資料の蓄積によって否定されてしまったから、
九州説は没落してしまったわけなのだな。
弥生時代、九州で止まっていた半島・大陸からのものの流れが、
東へ流れ、畿内中心の分布に移っていくのが
弥生後期後葉から終末・古墳時代初頭頃なんだな。
57 :
日本@名無史さん:04/02/12 01:00
>>55 出雲もまた大和・瀬戸内勢力とは別勢力だったから使えなかった、という論理もあり得るがね。
ただ畿内から魏の年号が刻まれた大量の銅鏡が出てるのは確かで、
これが国産だとしてもやはり大和と大陸とで密接な交流があったのはやはり疑い無い。
とすると、「巨大な墓に女王を葬った」「戸数七万」等の記述から推測される大勢力=大和を邪馬台国と考えた方が自然だと思う。
どうでもいいけど、邪馬台国と狗奴国の抗争は
大陸との交易を独占しようとする畿内・瀬戸内勢力と、日本海ルートから大陸への抜け道を探る近江・東海勢力の紛争と考えた方が
ダイナミックで萌える気がする(笑)
58 :
孤高の24歳無職:04/02/12 01:18
>>54 邪馬台国が中小勢力であり畿内がに大勢力があったとしたら
魏志倭人伝にもなんらかの記述があってもおかしくないと
思いますが。しかしそれらしきものは見当たりません。
京vs平泉ぽいですなl。萌え
>>58 倭人伝「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」
61 :
孤高の24歳無職:04/02/12 01:51
>>60 九州から畿内勢力の大和まで千余里では短すぎます。
それに邪馬台国と敵対する狗奴国については詳しく
書かれてるのに、畿内勢力についての記述はないのも
おかしい。
62 :
日本@名無史さん:04/02/12 01:54
大勢力の国名も知らんのか?
この際、「千余里」とかの距離の部分はほとんど当てにならないんで無視した方がいいだろ。
記述どおりに行ったら海上になってしまう。
畿内勢力こそ「狗奴国」だったと考えます。
ヤマトタケルの神話に、「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」、とあります。
65 :
孤高の24歳無職:04/02/12 02:00
私は54の方と違って、当時の日本の首都は
邪馬台国だと思います。黒歯国といったずいぶん
遠くのほうまで魏志倭人伝には記述されてますし
そうした中で邪馬台国以上の大勢力があれば
魏志倭人伝に詳しく記述されているはずだからです。
おそらく畿内にあった邪馬台国がそのまま
大和朝廷になったのが最も有力な見解ですが
九州勢力の東遷も可能性として捨て切れません。
当時の日本は統一国家にはなってないだろ、いくらなんでも。
「首都」の概念自体無いと思う。
大きく行って西日本だけでも3種類以上の勢力があったはずで、
銅剣・銅矛・銅鐸の分布からも見て取れる。
67 :
孤高の24歳無職:04/02/12 02:13
>>64 たしかに狗奴国が邪馬台国を滅ぼし
大和朝廷になった可能性はありますね。
しかし魏志倭人伝には邪馬台国の南に
狗奴国がありと書かれているので
邪馬台国が九州だとすると狗奴国も
九州ということになり狗奴国が東遷したと
いうことになりますか。まあこうなってくると
方角と距離の問題になり堂堂巡りの
状態が続くだけですが。
>>66 そうか? 五世紀の日本の歴史をみると、大和王権の覇権主義へのこだわりというか、
意地でも日本を統一し、ついでに半島も支配してやろうという意欲が満々なんだが。
3世紀〜4世紀にはその意欲が列島の諸勢力に向かってても変じゃあるまい?
それに、製鉄技術があったかどうか疑わしい古墳時代の日本、
大陸との交易で手に入る鉄塊は今でいう石油みたいなもんだろ。
当時は鉄塊が通貨代わりだったような状況だし。
畿内の勢力がこれを手に入れるにはなんとしても瀬戸内海と北九州は押さえておきたいし、
そういう関係から広大な国家(というよりも交易ネットワーク)を作っておきたいと
思うのはさほど不思議じゃないんでね? 東日本の勢力に対して優位に立つ事もできたと思うし。
69 :
日本@名無史さん:04/02/12 02:25
>>64 > ヤマトタケルの神話に、「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」、とあります。
うそ〜〜ん
>>67 「南」というのはここもやはり「ひむかし」の訳し間違いだと思う。邪馬台が畿内で狗奴国が東海地方あたりでは?
70 :
孤高の24歳無職:04/02/12 02:32
つまり東遷はあった。ただし邪馬台国の時代の前に。
大陸から九州に入ってきた勢力がやがて畿内に入り
やがて邪馬台国→大和朝廷へとなっていったんでしょう。
鉄は通貨代わりにはならない。なぜなら「錆びる」から。
そもそも貨幣経済というのはある程度進歩しないと出現しない。
和同開珎の時代になっても流通はしていない。
後、「鉄」を持っている方が確実に戦闘力は強い。
瀬戸内・北九州あたりを押さえてる勢力でないと、そもそも戦闘で勝てない。
そういう意味で「東征」があったと考えるのは極めて自然ではある。
畿内・東日本に勢力があったとしても、数百年のうちに西国勢力に駆逐されたはず。
(製鉄技術が無かったとすればなおのこと。)
72 :
孤高の24歳無職:04/02/12 02:44
>>69 たしかに方角は曖昧なものだと思います。
ここは単純に投馬国まで水行20日、そこから
邪馬台国まで水行10日と陸行1月かかってる
という記述は間違えようがないですし、
九州内にあるとしたらこんなことはありえませんよね
>>71 『魏志』東夷伝弁辰条に
「国、鉄を出す。韓、ワイ、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」
とある。
それに江戸時代は米本位制、ローマ帝国は塩本位制だ。
製鉄技術のない倭において、武力と生産力の根源たる鉄が経済の基軸になっていても別に不思議では無い。
使わずに貯蓄する後世の通貨とはわけが違う。
それと、大陸との交易品が邪馬台国の時代に畿内まで達していた話は概出。
東遷があったとしてもそれは三世紀以前で、卑弥呼の時代には主導権が九州から畿内にうつっていたと見るのが妥当。
74 :
日本@名無史さん:04/02/12 02:45
>>70 「邪馬台国の時代」っていうと広いかもね。卑弥呼の時代より前に東遷があった。
やはり神武東遷でいいような気がする。卑弥呼は崇神朝くらいの人かな。
75 :
孤高の24歳無職:04/02/12 02:55
邪馬台国の時代は一時的に連合国家を治めるために
女巫女による呪術に頼らざるをえなかったと。
やがて国が安定してきて従来の男王統治体制が
固定化されたんでしょう。
76 :
日本@名無史さん:04/02/12 03:00
大和朝廷の場合も、天つ日継(ひつぎ)がヤバくなりそうなときは巫女的な女親族が称制してたフシがあるもんね。
77 :
日本@名無史さん:04/02/12 03:02
鉄といえば
魏志倭人伝に倭人は鉄のやじりを使うとある。
鉄のやじりは弥生時代の福岡県から171個出土し、
奈良県からは、2個しか出土していない。
そんなわけで、邪馬台国=瀬戸内海・鉄てい交易ネットワーク国家仮説
なんて物を考えてみますた。
>>77 単に見つかって無いだけでね?
つい先日迄例の銅鏡がそうだったし、出雲の一件もあるし。
経済学的見地から言ってありえない、って日本史板で言ってもしょうがないわけだね。
81 :
孤高の24歳無職:04/02/12 03:10
>>77 それは九州地方で戦争が頻繁にあり
畿内方面は比較的治まっていたということでしょう。
つまり狗奴国は熊襲であり、邪馬台国と狗奴国の
戦争とはすなわち、邪馬台国連合九州支部と
狗奴国との戦だったと思われます。
>>80 鉄=通貨代わりが? 交易ネットワーク国家が?
単に
見つかっていない
で通るなら何でもアリだと思うが
>>83 ま、そりゃそうだ。
九州に纏向を上回る大遺跡がある、なんて事も言えちまう(笑)
しかし、鉄に関してはやはり見つかって無いだけだと思うね。
畿内で大量に石器が見つかったり、大陸と交流した形跡がないんであれば違うだろうけど。
ヤマトタケルの神話に、「大和」の二代前の祖先にあたる国は「扶余」、とあります。
86 :
孤高の24歳無職:04/02/12 03:22
まあすべて断定することはできませんけどね。
現代で真実を知る術はタイムマシーンでも発明するか
エドガーケイシー並みの超能力者に聞くか
それくらいですね。
87 :
日本@名無史さん:04/02/12 03:22
仮説を立てること自体は悪いことじゃない。
要は証明するに足る道筋を見つければいいので。
経済学的に苦しいのは確かだが、まったくありえないとも言い切れないし。
64 :943 :04/02/12 01:57
畿内勢力こそ「狗奴国」だったと考えます。
ヤマトタケルの神話に、「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」、とあります。
85 :日本@名無史さん :04/02/12 03:20
ヤマトタケルの神話に、「大和」の二代前の祖先にあたる国は「扶余」、とあります。
ソースは?
>>88 その経済的に苦しいってー理屈がよくわかんないんだけど。
それに、交易ネットワーク国家ってのは別に珍しくないとも思うんだが。
第一に邪馬台国の時代、既に鉄無しでは軍事も経済も成り立たなくなっていて、
第二にこの当時倭は鉄を自給できるだけの技術力はなかったと推測される。
まぁ、この時代の鉄は今でいう石油みたいなもんだな。
んで、鉄の交易を北九州勢力に独占されると非常に厄介なので、
畿内・瀬戸内勢力がABCD包囲網に囲まれた大日本帝国よろしく戦争を始め、九州勢力に勝利。
畿内に何の問題なく鉄が輸入されるシステム=卑弥呼を共立した連合国家を建設し、
それが本格的な連合政権が成立していったっての、そんなにおかしいか?
発送自体が近世的過ぎる。
>>91 「鉄がなければ戦もできんし米も作れん」
「けど九州の奴らぁ足下見て吹っ掛けてきやがって……」
「ムカツク! やっつけて商いの権利、ぶんどってやれ」
「出雲の奴らも誘ったらどうだ? 武器も手に入る」
「それ、いいな。しかし、戦に勝った後、分け前はどうする」
「それは勿論、最も力のある豪族のオレがちゃんと分配する。心配するな」
「ちょっと待てゴルァ!」
(以下数時間もめる)
(皆疲れ果てる)
「そうだ。巫女の卑弥呼ちゃん。彼女を女王にして、みんなで支えるのどうだ?」
「あー、もうそれでいいや。彼女だったら無茶な事言わないし」
(無茶な事を言ってオレらに押し付けるだけの力もないしな)
「神様もついてるし」
「ち、しゃーねーなー」
といったやり取りが畿内・瀬戸内の豪族達の間であったとか、どう?(笑)
面白いことは認めます。(w
94 :
日本@名無史さん:04/02/12 10:51
伊都国の位置ってホントにあそこでいいのか?オレは東に不弥国と書いてある
けど不弥(フ−メ)で今の久留米市あたりの事だと思ってる。すると
その西で「魏略」に5万戸と記された国は今の佐賀市あたりじゃないかと。
さらにここが元の邪馬台国で240年の魏使梯シュンにはここで謁してる
けど、その後南遷し魏には所在を隠したとか・・・?
九州の邪馬台国が狗奴国との戦争の途中で中央政府を畿内に東遷
卑弥呼脂肪の虚を衝いて狗奴国が電撃的に畿内に侵攻して邪馬台国を滅ぼす
(後に出雲武をヌッ頃したのと同じ手)
第2の東遷
後ろ暗いので王位を保ってた銅鐸宗教を破壊し新秩序を建設した。
卑弥呼は神ということにして神の子孫を称す
邪馬台国本国は畿内で邪馬台国連合が九州北部・中国・畿内に成立していた
狗奴国=大和=山人国は四国
狗奴国は最初日向あたりにあったが熊襲に圧迫されて四国に東遷
四国で勢力を蓄えてさらに畿内に東遷し連合の王位を簒奪
妄想仮説〜7世紀〜
・奈良にはア蘇我(アスカ)聖徳法大王が存在。彼はニギハヤヒ、
馬子、入鹿、太子らに分散される。
・ミカシギヒメ(ニギハヤヒ妻)、カシギヤヒメ(推古)、斉名
などに分散された「女王」
・蘇我倉山田石川麻呂、山背大兄に分散された「王子」
・神武に分散されている天智天皇
・中臣氏とは関係ない蘇我氏の裏切り者藤原鎌足。彼はニギハヤヒ、
ヤタガラス、倉山田石川麻呂の一部分でもある。
98 :
日本@名無史さん:04/02/12 14:06
九州・畿内勢力の全面戦争で九州が勝利して東遷だとか、
東征して畿内を滅ぼしたとかは、ほぼありえないと思うが、
九州勢力がだまし討ちで畿内乗っ取りとかはありうる。
仲哀天皇が九州で謎の死を遂げて、その後応神が東遷するあたりの記述とか怪しすぎる。
神武天皇の神話は「九州勢力の東遷」という歴史的事実を
「東征」という一大聖戦にでっち上げた虚構だと思われるが、
その面では、国譲りのエピソードのほうが案外近いのかも。
最初アマテラスは最初は懐柔策を取っていたが、
(最初、畿内勢力に恭順の意を示し)
途中で軍神タケミカヅチを派遣して強引にオオクニヌシの国を横取り。
(途中で反乱か何か起こしてそのまま畿内乗っ取り)
あとの出雲の話とかは梅原猛か井沢元彦流に解釈。
そういや剣山に失われたアークがあるとかいうネタがあった。
ユダヤ10氏族が東遷して半島で扶余を名乗り、やがて渡来するが、
邪馬台国と衝突したので宮崎あたりに放逐される。
その後
>>96のシナリオでどうだろう。
100 :
日本@名無史さん:04/02/12 14:37
記紀の記述から、天皇家が九州から来たことはまちがいないと思う。
でもそれは九州勢力の東征だとかそういう華々しいものではない。
畿内勢力が九州からある豪族を呼んで王にした。このくらいで落ち着くのでは。
あったとしても、天皇家の「畿内+王権の乗っ取り」が精一杯だろう。
問題の「邪馬台国」だけど、最初は畿内かなと思ってたが
2年連続皆既日食があって、しかも2年目の日食の年に卑弥呼が死んでいる、
この2年目の方は九州でしか見れなかった。(→岩戸隠れの神話に投影)
これで漏れ的に九州で確定。ただし「邪馬台国」の東征は考古学的にもありえないと思う。
九州「邪馬台国」の王族がなんらかの形で畿内勢力の王権を握ったと見る。これが天皇家。
101 :
日本@名無史さん:04/02/12 14:39
第3次高地性集落時代イト国の最大版図(広型銅矛、銅戈)は愛媛、高知県までで、ここで吉備、東瀬戸内海
の勢力に阻まれて近畿銅鐸圏が固まっている。このへんで、公孫、帯方、楽浪、馬韓、弁韓が魏の侵攻を受け
イト国もかなり深刻な対中チャンネル(勿論金印が裏目に出る)を失ってくるところにタイミングよく纒向新政権
の卑弥呼が帯方郡に使者を出すんだろう。
四国が絡むと急にオカルトっぽくなるw アークとかソロモン王とか
>>100 当初、初代神武は大和のニギハヤヒの家に婿入りする予定だったが
年長者のナガスネヒコがそれに反対したので、
神武はナガスネヒコとの戦争を決意した
というような記述があったような、なかったような・・・
103 :
日本@名無史さん:04/02/12 14:59
2世紀末倭人1000人が飢饉のため食を求めて新羅に来たといわれる。事実とすれば倭人の海人族が
何らかの事情で収入がなくなり各方面に移動を始め、別の一派が瀬戸内海沿岸を荒らしながら東に
向かうこともありえよう。キビツヒコの鬼退治(桃太郎)はウラという部族との戦いというが、神武による
大和襲撃はあったかもしれないね。
104 :
日本@名無史さん:04/02/12 15:05
記紀が大王の出自を九州だと明記しているのに対しては二通りの説が有る。
@本当に九州出身だった。
A九州出身ということにした方が都合が良かった。
一見ハァッ?と思いそうなA説だが、建国の時期を前倒ししようとした朝廷の思惑と
書記が半島や大陸向けに書かれた対外政策的公文書であると言う事実により
トンデモと切り捨てにくい部分がある。
邪馬台国東遷説の弱点は、発掘結果に対する矛盾と共に
これらに対し有効な反論が無い事なんだわ。
地名の類似も鶏vs卵と同様、どちらが先か断定できないし、こじつけの感も拭えない。
他にも確証は無いが一考の価値ありって説はいくつかあるよ。
半島と北九州の航海ルートが複数あった可能性とか。
魏志倭人伝(と言うより三国志)錯棚説とか。
良かったら知ってる限りで良いなら書くけど・・・どう?
106 :
日本@名無史さん:04/02/12 15:14
神武が日向から連れてきた実子、タギシミミは、第2代天皇選出の殺人ごっこに選ばれ
弟の綏靖に殺され、綏靖がその度胸で第二代天皇に就任する。海賊よりもとひどいやつら
だけど、当時としては大真面目だったんだね。神武の后、イスケヨリヒメなどは卑弥呼
同様のシャーマンであり、后にされているが実際は神武より格が上の地元の司祭者だったん
だろう。結婚は神話作成のための神婚であろう。
107 :
日本@名無史さん:04/02/12 15:28
>>105 ではお言葉に甘えて
「一海を渡る」と表された半島からの航海ルートですが、実は本居宣長の頃
から議論続出でした。
最大の焦点は、対馬から何でまた遠回りの松浦半島に行かねばならんのだって事です。
これに対して戦後になって多く提示されてきた説の中で、面白いのは
季節ごとに航海ルートが変わったのではないかと言う説。
高木彬光の小説でも紹介されてましたが、奴国直行や更には沖ノ島経由等の様々な
ルートがあったと考えた方がより合理的である。
ちなみに魏の使いが本当にマツラ国に上陸したのか、それとも通常よく使われるルートを
単に紹介したに過ぎないのかも実は未確定です。
更に続きます。
これだけだと只のトンデモさんなのですが、ここで編み出された秘策が
いわゆる「錯棚説」です。
陳寿の時代の公文書は文章を書いた木簡を皮ひも等で上下を閉じた形式でしたので
これが一段落ごとに閉じて一まとめに保管していた訳です。
それらが12世紀版のショウコウ本では順番が入れ替わった、また何段落かが
欠損した可能性があると考えた訳ですね。
これって物的証拠は何にも無いのですが、そう考えると倭人伝の記述が
何故これほどまでにあっちこっちに話題を変えながら進行しているのかが
無理なく説明できるんです。更には「以って卑弥呼死す」の「以って」の前に
何らかの段落があった可能性も出てきちゃいます。
勿論倭人伝だけじゃなく三国志全文に渡る検証が必要な訳ですが
こ確か奈文研か京大か同志社あたりでやってた筈なんですが結果出たのかな?
前スレの
>>942 >>946でも書きましたが、国家成立前のいわば部族集団に
過ぎなかった倭国が、どのような過程を経て集権国家へと変貌していったのか。
これが邪馬台国論争の真のポイントなんですね。
現在のところ、文献学的な議論は既に出尽くした感がありますので
発掘結果を踏まえて軌道修正しているって状況ですか。
・・・上司の目を盗んで書いてますので、細かい「てにをは」のミスは見逃してくだされ(w
未発掘の墳墓掘らせろゴルァってことですね
時に、邪馬台国畿内説では出雲を初めとした日本海勢力はどうなってるの?
邪馬台国に服属しているのか、それとも独立勢力なのか。
それと記紀を読んでて誰もが気づくのは
「八百万は解るが、何故同じ事象を表す神が複数いるのか?」って点です。
一例を挙げれば、海神は九州ではワダツミ、又は宗像三姉妹なのに
畿内だと「表、中、底のツツノオ」になりますね。
日本海と瀬戸内の守護範囲の違いって解釈も出来ますが、それよりも
6、7世紀になっても宗教観の統一が完成していなかったって考えた方が
自然でしょ?
このあたりも東遷説のネックです。
そう考えると畿内勢力が台頭した後も、北九州や東海地方に関しては
長きに渡り緩やかな支配を行っていたとした方が整合性は高いでしょう。
>>112 正直まだ断定的なことは言えないって程度です。
ただ例の荒神谷の銅剣や銅鐸の発掘状況から、2世紀頃は提携関係
その後畿内勢力に取り込まれた可能性が高いってのが大方の見方です。
>>111 すんません・・・
いやー、昨夜「邪馬台国=鉄てい交易ネットワーク国家仮説」みたいなのを言ってみたんだけどね。
狗奴国東海説をとり、彼等が大陸への出口を求めて近江方面に進出した結果邪馬台国と衝突した、と妄想するには、
どうしても日本海に独立勢力がないと辻褄があわないのでね(笑)
それと九州論者は柳田康雄の「伊都国を掘る」を読むのも良いかと思うのです。
氏は豊富な副葬品が出土する糸島地方が、2世紀半ばを境に一気に過疎地に
転落する様を、考古学見地に文献を絡めて提示しています。
文化先進地だった北九州が、邪馬台国成立と目される時期に重なって
凋落していくのは大変示唆的ではないかと考えます。
柳田氏は断定はしてませんが「伊都国=邪馬台国の黒幕説」でもあります。
こういった九州説なら議論の価値はあるのですがねぇ。
サイトとか沖縄とか・・・ぶつぶつ
>>115 いえいえ出雲も相当な勢力であり、九州とも畿内とも違う相当な勢力であった
事は間違いないですよ。
ただ戦乱になった証拠が今のところ無いだけで、今後見つかるかもしれない。
出雲に関しては、皆慎重なんです(w
それくらい荒神谷が衝撃的だった訳です。
119 :
日本@名無史さん:04/02/12 16:42
畿内・瀬戸内の邪馬台国、東海・近江の狗奴国、そして出雲を中心とした日本海勢力。
古代日本の三国志。も、萌える……。
それとこれは文献学的見地からですが、ツマ国ってあらゆる意味で特殊なんです。
とにかく官名が他とあまりにかけ離れてる。邪馬台国へのルート上にない筈なのに
紹介されている等。
ツマを出雲と比定するのは先走りの間もあります(吉備も有力)が
独自の勢力と文化圏を維持していた可能性大です。
それに対し逆に狗奴国のほうが、王の名や官名が邪馬台国や伊都国それに奴国なんかと
法則性が一致してるんです。
そのため、邪馬台と狗奴の関係は内戦とか激突などではなく、倭国連合賛成派と反対派
程度のものではないかと考えられています。
本日最後のレス。
それと「親魏倭王」の金印ですが、破棄もしくは返還されてる可能性が高いですよ。
後にトヨタソが晋に朝貢してるでしょ。その際に処分してるはずですし。
万一見つかっても、そこが即邪馬台国どころか全く関係ない場所と
考えた方が賢明です。
それでは、回線切って古墳に埋葬されてきます。
122 :
日本@名無史さん:04/02/12 17:21
>>119 経済&軍事大国が連合した多国籍軍・・・邪馬台国(アメリカ)。
それに只一人反旗を翻す孤高の王・・・狗奴国(イラク)。
権謀術数を駆使して再興を図るかつての名門・・・伊都国(フランス)。
戦乱の中じっと中立を守り続ける謎の超大国・・・投馬国(中国)。
おお!本当に萌えるぞ!
123 :
日本@名無史さん:04/02/12 19:08
金印は、権威だけの物なのか?
公文書に押したのだろうか。
朝貢文書には押したんだろうな、きっと。
>>123 公文書もクソも、当時日本に文字はない。
125 :
日本@名無史さん:04/02/12 19:12
古代の日本列島は単一の国家ではなく、いくつかの王朝が並立してたと知ってますか?
時代を経るごとに畿内の王朝に併合されていったのですが。
出雲王朝、九州王朝、東北王朝等です。
これらは本来独自の国号を持っていたのですが、畿内の王朝によってそれらの国号は
抹殺されており、今は地名でしか分かりません。
これらの王朝で一番最後まで残っていたのは東北の王朝であり、それを裏付けるように平安時代の
日本の地図では北の方は空白になっています。
そこは「別の国」だったのです。
126 :
日本@名無史さん:04/02/12 19:32
>>124 祐筆役がいれば大丈夫。
一、右筆役を中国側が倭国側に派遣していた。司馬曹達みたいな人。
二、右筆役を郡使、ないしは勅使がそのつど帯同してきた。
三、右筆役を倭人が自前で雇った。
どれかでしょ。
中国皇帝に上表するには文書が必要だから、
そのつど、金印は封泥に使われたと思うよ。
少なくとも、親魏倭王印の場合、正始元年の倭王因使上表答謝恩詔と、
正始四年に掖邪狗等が率善中朗笑になったとき、それから
最後の掖邪狗等二十人が臺に至ったとき、この3回は使ってるだろ。
127 :
日本@名無史さん:04/02/12 19:33
>>125 王朝並立と言うと、戦国時代の群雄割拠のイメージが伝わりますね。
そんな均質なものかな。
九州と出雲は鉄文明、近畿は青銅文明、関東は狩猟採集文明、東北は石器時代
だったかも知れませんよ。
支配者がいれば王国と呼べない事も無いが、言葉や信仰および生産手段などの文化基盤がまるで違う、
各々の地域が存在したという事かもしれない。
神代文字
>>127 東海あたり迄はしっかり鉄器文明だバカモノ。
信仰はともかく、稲作文化は日本の西半分以上には弥生時代のかなり早い段階で
浸透しとるし。
なに電波飛ばしてるんだよ。
現在では縄文稲作農耕があったというのが定説だよね。日本
最古のプラントオパールは6000年ぐらい前なはずだし。
もっとも陸稲だし主食なわけないから稲作文化とは
呼べんが・・・。
少なくとも縄文時代中期〜後期にはイモ・雑穀などの
栽培が行われていた可能性があり、スムーズに
稲作文化を受け入れる下地があったと思われるよ。
・伊都国…佐賀市近辺
・不弥国…久留米市
・投馬国…サツマ 延喜式で大宰府まで12日 魏志で水行20日
・邪馬台国…宮崎市近辺 水行10日球磨川を遡り国見山地を
越え陸行1月
・狗奴国…大隅半島〜都城 狗古智卑狗=神武天皇
神武天皇は熊襲だったのか
134 :
日本@名無史さん:04/02/13 00:14
畿内説はこの記述をどう解釈してるの?
「女王国の東、海を渡りて、千余里、また國あり、みな倭種」
琵琶湖
136 :
日本@名無史さん:04/02/13 00:16
>>130 水田稲作の始まりも紀元前1000年頃まで遡るらしいしね。
千年以上の時間をかけてゆっくりと確実に稲作は東方へ浸透し、
自然環境的に稲作拡大の限界が来てから古墳時代は始まってたんだからねぇ。
137 :
日本@名無史さん:04/02/13 00:24
>>135 琵琶湖の水運は重要だからねェ。
と、三世紀はどうだったのかな。若狭湾-琵琶湖-淀川-瀬戸内海
というルートはこの時代から栄えてたんだろうか?
138 :
日本@名無史さん:04/02/13 00:29
トヨが266年の晋への使いを送った後、
以降100年にわたって中国の王朝に使いを送らなかったのは
なぜなのかなぁ。。。
>>138 異民族が中国大陸にドドッと押し寄せて、
日本なんぞにかかわり合ってる余裕が中国になくなったからだろ。
>>134 巻向では山陰北陸系の土器も相当数出てるし、
おれは既に琵琶湖の北まで女王の統べる『倭国』の中だと考える。
東海系もざくざく出てるし、東海でもない。
ってことで、海を渡ったむこうのよくわからん倭種の国ってのは関東だと思うね。
>>138 記録に残らなかっただけだと思うけど。290年ごろまでは。
それ以後は中国側が倭人にかまってる場合じゃなかったからね。
畿内説だとクナ国は九州王朝になるの?
144 :
日本@名無史さん:04/02/13 00:56
考古学もドッと進展してくれんかな。
荒神谷のような発見がたまに無いと面白みがない。
ついでに、もし邪馬台国と狗奴国が大規模に戦ったとしたら、主戦場は近江周辺だと思う。
これはオレの勝手な解釈だけど、近江の戦略的な重要度、古墳の分布の境界があのあたりだから、
あのあたりを調査してみたら面白いと思うけど……。
>>143 おれはそれはうそだと思ってる。
巻向もまん中にメクリ1号墳という前方後方型墳墓があるし、
すぐ北には、下池山もある。
京都の芝ヶ原も前方後方墳だ。
兵庫で三角縁がざくざく出てきた西求女塚も前方後方墳なら、
三角縁と特殊器台が同時に出たと注目された備前車塚も前方後方墳。
もしも、方形と円形とでいさかいがあったのだとしたら、
その境界あたりで防御性が高くなるとかありそうなもんだが、
そういう話は寡聞にして聞かない。
147 :
日本@名無史さん:04/02/13 01:20
>>137 そのへんは三尾とか余沼の勢力だっけ?息長も?
>>146 東海勢力と畿内勢力とで深刻な抗争があったとはオレも思わない。
基本的に畿内と東海とは有効的で、
比較的平和のうちに東海は大和王権に取り込まれて行ったと思う。
ただ、邪馬台国連合とがっぷり四つで渡り合える勢力となると、やはり東海しか考えられない。
一時的にせよ畿内と東海で何らかの紛争が起こり、
東海の力を警戒した畿内・邪馬台国が先手をうって魏の権威を借りたとは考えられんだろうか?
もし東海勢力は近江まで伸びていたし、日本海ルートから大量の鉄を入手できる立場にあった。
もしこれが本気で畿内と事を構えたらとんでもない事になりかねない。
というわけで邪馬台国は様々な外交チャンネルから全面戦争になる前に狗奴国を押さえ込み、事なきをえる……といった事が
三世紀の半ばから終わりにかけてあったんだと思うけど。
>>148 >邪馬台国連合とがっぷり四つで渡り合える勢力となると
がっぷり四つというのが誤認識だと思う。
どこにもそんなことは書いてない。
戦わずにすますために、あるいは、戦いを最小限に納めるために
支援を仰ぐということもある。
それに、
>>143の図はちょっと妙だ。三世紀前半に九州にあんなに前方後円墳があるとは思えない。
その下の前方後方墳も吉野ヶ里か赤坂のヤツじゃないか?あれ三世紀後半だろ。
箸墓を250年ぐらいに持ってくるなら前半でもいいが、
もしそうなら、前半に上がるヤツはもっとあるぞ。
他にも年代認識が間違ってるヤツがあるんじゃないか?
三世紀前半というか、布留より前の状況はといえば、
吉備ではまだ特殊器台の祭祀が継続している。
山陰はまだ四隅突出墓の祭祀が継続してる。
前方後方墳にだけ、対立の構造を持ち込むのは片手落ちだ。
おれは、卑弥呼共立あたりの状況というのは、
こういう異文化の国・連合が大同団結したものが初期の大和王権だと思ってる。
その中に、前方後方墳の文化の国があってもいい。
特殊器台のくに、四隅突出墓のくにも許容されているのだから。
>>149 出雲・日本海勢力は、それはそれで独立した強力な勢力だったと思うがなぁ。
三世紀前半の日本の状況は、邪馬台国が瀬戸内海を押さえて相当優位な立場を固めた。
しかし東海や日本海にも別の独立勢力があって相当の力を持っており、各々が対立したり和平したり、
時折国境紛争を起こしたりする微妙な外交関係の上に成り立ってたと思うんだが。
大和王権成立の過程も段階的で、まず3世紀の初めに瀬戸内、3世紀の後半から4世紀にかけて東海、
最後に出雲、といった案配で。
日本が本格的に統合されるのは、やはり四世紀になってからじゃないかなぁ。
卑弥呼共立があったとしたら動機が必要だわな。
この当時、「現在の日本の国土が統一されなければならない」なんつー価値観はないわけで。
何のために共立したのか?
が疑問。
半島に巨大な勢力があってそれに対抗する為、とか東夷に対抗する為とかさ。
>>151 該出だが鉄でね?
当時自給できんかった鉄の入手ルートを瀬戸内の一番奥にある大和が確保するには、
瀬戸内の諸勢力を連合させる必要があったんじゃねーかと。
大和からの鉄の出土は少ないし、相当困ってたみたいだからねー。
それで、瀬戸内・北九州の豪族をなんとか説き伏せたり脅したりしてまとめあげ、
なんとか連合国家、というより交易ネットワークを作ったんじゃないかと。
逆に鉄の入手ルートと関係ない東海や、瀬戸内海とは別ルートの日本海を支配する出雲を
大和王権は後回しにして、邪馬台国の時代以後に取り込んでいったんじゃねーかってのがオレの考えだが。
>>150 巻向遺跡が作られはじめる段階で、すでに東海、吉備、山陰・北陸系の土器が相当数出ていて、
巻向建設にこれらの地域が大きな関与をしたことがわかっている。
その理由はさておき、巻向に新都を作る段階で吉備〜東海に至る範囲が連合したというのは
もう事実だといっていい。
問題は、吉備とか東海とかいってもそれが一枚岩ではなかった可能性があること。
東海系土器は巻向の外来性土器の中で一番多く出土しているから、
東海(少なくともその一部)が大和の王権に組み込まれていたことは間違いがない。
だから東海にクナ国をもってくるためには、東海の中に線引きをしなければならないわけだが、
それはどこだろう?
漏れには見当たらん。
>>151 >卑弥呼共立があったとしたら動機が必要だわな。
争いをおさめるため。
倭地内部の混乱をおさめ、鉄器素材を含めた半島大陸の文物を安定して入手することが目的だろうな。
誰かを代表に立てて交易ルートを確立し、それを倭国内で平等に分配する。
それが当初のもくろみだったと思う。
>>153 邪馬台国建国時点では東海勢力と畿内勢力は協力したんだと思う。
なにせ、瀬戸内海ないし日本海の情勢が悪くなると困る。
北九州や出雲の豪族にふっかけられたらたまらん、って点では東海も畿内も利害は一致する筈だからね。
鉄が少ない分を人の数に物をいわせて邪馬台国を作ったんだと思う。
ただ、いざ邪馬台国が出来てしまうと大和が主導権を握ってしまい、
東海は冷遇され「話が違うじゃないか!」となる。
それで紛争が起こった……と考えれば、違和感はなかろ?
>>154 それは考えられる。
が、東海系土器は庄内を通して外来性土器では最も多い。
巻向に限らず、もうちょっと北の天理市域には、東海系を多数出土する区域もある。
それでは、これを説明できない。
東海のどこか一部が・・・・、なら話はわかる。
いずれにしても、前方後方墳の分布にクナ国を見るのは反対。
ま、漏れも「どーせなら日本が西と東に別れて争ってた方がダイナミックで楽しいもんね」
と思って狗奴国東海説を支持してるだけだけどね。
157 :
日本@名無史さん:04/02/13 05:13
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART3
1 :日本@名無史さん :04/0x/x xx:xx
邪馬台国とはすなわち初期大和朝廷か?
纒向は邪馬台国の都か? 箸墓は卑弥呼orトヨの墓なのか?
狗奴国は東海か、それとも南九州か?
東の倭種? 銅鐸? なにそれ。
風前の灯火、最早電波扱いの九州説の命運や如何に!
過去スレ・関連スレ等は2-5あたりで。
---------------------------------------------------
次スレはこれで行こう
158 :
日本@名無史さん:04/02/13 05:17
気が早いなw
159 :
日本@名無史さん:04/02/13 05:55
魏志倭人伝の写本中では<邪馬壹国>と書かれているが、
これは伝写の誤りで「邪馬臺国」が正しいとされている
魏志倭人伝の写本における表記が邪馬臺国(邪馬台国)と言う表記であった場合、
これは当時の中国大陸で使われていたとされる発音では
「ヤマト(国)」と読めることを指摘する説もある。
160 :
日本@名無史さん:04/02/13 05:57
畿内説は魏志倭人伝の方角表記が
間違っていると考える研究者(主に京都大学系)に多く見られ、
北九州説は距離表記が
間違っていると考える研究者(主に東京大学系)に多い
東京大学は電波系なんでつね
京大最強
狗奴国四国説
162 :
日本@名無史さん:04/02/13 06:55
四国は邪馬台国に隣接していない。邪馬台国が魏に軍事援助を求めるほどの戦闘能力の
裏づけとなる農業生産力があるような耕地はない。
>>162 よって狗奴国は濃尾・近江の豪族連合だ!
と、なるわけ?
164 :
日本@名無史さん:04/02/13 07:24
クガチヒコにあるクガは京都、北陸の意味がある。この方角の山背国南端には久仁郷があった。
クニとクヌが似ている。ヒミキコという言葉には太陽観察とか、聞得大君のキコエを想起さすシャ
ーマンの意素があるようで卑弥呼とのもとよりの対立とは前方後方墳の祭祀に固執したものと
すれば、吉備系である卑弥呼ファミリーに対立する前方湖円墳、四隅突出墳地域(特に魏の
攻撃を受けた三韓経由、呉との関係がありえる)とすると話があってくる。
165 :
日本@名無史さん:04/02/13 07:28
すなわち、
>>163 図星。
最終的には伊勢地方から遠江に土器や苗字の動きがあり、京都府下
大江山近辺ではクガミミ、ヒキメが大和に征伐される。これが最終決着だろう。
166 :
日本@名無史さん:04/02/13 07:33
もともと不和であったというが、纒向建設当初、同地からは倭国全域の土器が
出土するが、佐賀(イト国、伊万里焼が有名」)、静岡(登呂遺跡が有名)のもの
だけがないというデータがある。この辺にもともとの意味があるのではと勘ぐって
いるんだけどね。
167 :
日本@名無史さん:04/02/13 07:42
また、もともとという言葉には獅子身中の虫の感があるが、多分これは吉備と非常に
関係の深い出雲が背後にあったのではないかと思う。卑弥呼がいくら警護を固めても
謀殺されるリスクはしょっていたと見なくてはならない。よく、日食の話が出るが、卑弥呼の
しに際し、出雲の銅剣大量埋蔵の荒神谷で強烈に火を燃やした痕跡があるという。
謀略があったのかも。
168 :
日本@名無史さん:04/02/13 07:47
後日、崇神は出雲に対して宝が見たいという。その宝の正体とは?なぜ出雲は中央政府に隠れ
大量の金属資源を備蓄していたのか。その背後にイト国があるのではないのか。なぜ神話では
高天原からの使いが出雲に着いたとき、出雲の神は九州に出張していたのか。談合があったの
と違うか。
169 :
日本@名無史さん:04/02/13 07:51
多分九州のイト国では日向-高知経由邪馬台国を襲撃する計画が練られていたのではないか。
出雲の神はひょっとして韓国や呉の代表も交えた魏・邪馬台国に対する共同作戦会議を開いていたの
と違うか。
170 :
日本@名無史さん:04/02/13 13:38
>なぜ神話では
>高天原からの使いが出雲に着いたとき、出雲の神は九州に出張していたのか。
畿内勢力が九州を滅ぼそうとしていた事実の反映からでしょう。
あるいは九州征討軍がすでに九州を滅ぼしてそこに駐屯していた、と。
そして九州で何らかの謀略があり、畿内の王(仲哀)は殺され、
そのまま九州発祥のある一族が畿内政権の後継者を僭称して、
畿内まで逆に乗っ取ってしまった。
その事実を戦争に仕立て上げたのが神武東征神話、
その事実に天皇家の正統性を絡ませたのが国譲り。
東遷というモチーフは物部氏独自にもあり、
ニギハヤヒも「高天原から降臨」したとあるから
東遷した部族はおそらく天皇家だけではないはず。
171 :
日本@名無史さん:04/02/13 13:48
そのちょっと後で日向にオサホ、メサホという巨大な古墳ができるのはなぜなんでしょう?
172 :
日本@名無史さん:04/02/13 13:50
>>168 宗主国を失ったイト国、帯方、楽浪から攻められる馬韓、一方、吉備主動の邪馬台国は卑弥呼を
担ぎ魏と固く結束しており、彼らが逃げ込んだのが出雲であったのでは。そして、スサノオとは実は
オオクニヌシより世代の新しい出雲西部から入ってきた新しい勢力の作った非常に古い半島南部と
イト国時代の倭国の神話を集大成したものではないのか。だから、クサナギの剣、ヤマタノオロチ
などの鉄の匂いのする(鉄は弁辰)ものが多く、銅鐸文化とは異質の感じがする。
173 :
日本@名無史さん:04/02/13 13:56
>>164 当初邪馬台国の筆頭株主、尾張及びその宗教的パートナー、加茂氏は卑弥呼と
対立、京都府南部を中心に狗奴国を建国するも、邪馬台国との闘争で次第に
京都、北陸、東海に後退していったのではなかろうか。しかしこの一族はその後
オキナガ、継体の時代のまたぞろ巻き返しに出る。
174 :
前日の131:04/02/13 14:04
神武と狗奴国男王とスサノオは同一人物
・神武は熊野からヤマト入り 狗奴国は球磨・曽於
スサノオは「神祖熊野大神」
・神武以前の天孫稜はいずれも鹿児島・宮崎に存在
・スサノオのアマテラス殺しと狗奴国男王のヒミコ殺しと
神武の天照(ニギハヤヒ)一族攻撃。神武はニギハヤヒの
「娘」に婿入り
・スサノオは「牛頭天王」 神武にも角あり異説
・スサノオ主神の津島神社は「日本総社」
「スサノオノミコトはすなわち皇国の本主なり ゆえに
日本の総社と崇め給いしなり」
ちなみにオレは九州王朝説じゃないよ。崇神か応神期に
強大な近畿大和に「婿入り」東遷があったと思う説。
175 :
日本@名無史さん:04/02/13 14:11
>>173 オオクニヌシとは大狗奴主命ではないのか。かれらは自分たちこそ
この国の本来の主であり、卑弥呼は魏の傀儡政権であるとして戦ったので
は。オーマイゴッド!!!
176 :
日本@名無史さん:04/02/13 15:14
>>160 東大が九州説というのも、もう昔話になりつつある。
今だに強く九州を主張してるのは、80歳のご高齢のお方とか、偽書である「東日流外三郡誌」を
まっとうな史書であると信じてたお方とか、歴史好きの心理学者とか、「吉野ヶ里から邪馬台が見える」
などとマスコミを煽ったプロパガンダ歴史家とか、まあ、そういった人たちです。
まじめに考察してる九州派の人もいて、まだ可能性ゼロではないけど、おおむね邪馬台東遷などという
考古学上ありえない主張をしてる電波系ですねえ。
177 :
日本@名無史さん:04/02/13 15:57
いやぁ、邪馬台国関連も「邪馬台国はどこですか?partX」の頃は電波ゆんゆんで
読むに耐えないものが殆どだったんだが、このスレは興味深いな。
各人の説を検証&切磋琢磨させたら、相当なモノが出来上がる予感あり。
178 :
日本@名無史さん:04/02/13 17:03
纒向が邪馬台国だったかどうかは未確定だとしても
そこから吉備の祭器が多数出土している事実は無視できない。
東海どころか関東、上越の土器まで確認されているし。
加えてお隣の唐古・鍵や泉州の池上・曽根が同時期に緩やかな衰退を始めているのも
非常に示唆的だ。
更にこの頃から但馬(兵庫)や山城(京都)に有力な勢力が台頭し始めるってのもね。
まさに一口に畿内勢力というのも憚られるほどの広範囲だ。
これほどの交易圏を有する勢力は恐らく本邦初のものだったのだろうな。
この連合経済圏を維持させるには相当な求心力が必要なのだが
精神的な接着剤がいわゆる鬼道だったとして、物理的な流通網の整備が
どのように整備されていったのかを語れる人をキボンヌ。
これを上手く説明できれば、邪馬台国問題はぐっと進展するのだが。
オレは上で九州・東遷説と便宜上書きましたが、単に王家の
血のルーツが南九州にある、程度の意味しか考えてませんよ。
東征なんて馬鹿げた話しだし、邪馬台国が九州であっても
当時の日本の最大勢力は畿内大和だと思ってるし同様な国家群は
出雲、吉備、越、尾張(東海)などにほぼ同時かやや遅れて
成立したと思っています。
個人的には九州の神武系に対して畿内の王朝は崇神系として
書かれてるか?などと妄想しています。
180 :
日本@名無史さん:04/02/13 17:14
3世紀の時点での出雲と大和・吉備の関係が気になる。
出雲があの当時大勢力だったのは疑いないと思うが、邪馬台国との関係はどうだったんだろう?
前に「佐賀の土器が纒向から出ない」って話が出てたけど、これは邪馬台国連合が
大陸との航路を筑紫の豪族から奪った結果、敗戦国のこのあたりが纒向政界から外された結果だと思う。
北九州の遺跡もこの時期過疎化が進んでるらしいし。
邪馬台国が畿内に都を持ち吉備の勢力が中心となっていたとすると、
大陸との航路は瀬戸内海経由、対馬海峡を超えるルートだと推測されるけど、当然そのラインに出雲はない。
つまり邪馬台国連合は出雲抜きでも成立しえるわけだ。
出雲は大和とは文化的に差異が大きいし、記紀の事や出雲大社の一件もある。
邪馬台国当時はかなり独立性が強かったんじゃないかと見るけど、どんなもんかね?
上の続きだが、もし吉備・畿内・東海の勢力と筑紫との対決を倭国大乱としたら
キャスティングボードを握っていたのは出雲だと思う。
出雲から日本海ルートで鉄製武具が大和や東海に流れていなければ、鉄の武器を多量に持つ
北九州の勢力に後の邪馬台国連合もそう簡単には勝てなかったと思う。
纒向では山陰の土器も出てるけど、それはその関係ではなかろうか。
記紀に出雲に関する記述が多いのは、この時期に出雲の神話が畿内に入り込んでかなり幅を利かせた
結果だ……と勝手に推測してみる。
ただ、邪馬台国は建国当初の理念や目論見が
時代が下るに従って大きくなっていったと思う。
地理的に見て東海は吉備や畿内の勢力にキンタマにぎられているような状況だったし、
北部九州さえ押さえてしまえば出雲抜きでも邪馬台国は成立しうる。
と、いうわけで、西の勢力にふっかけられる東海はこれに反発して邪馬台国連合から離脱
畿内・吉備等との対立を深め(これが狗奴国と邪馬台国の対立)
出雲は次第に邪馬台国連合の中で疎外され、
元々文化的には独自の物があって経済的にも自立していたので
邪馬台国連合、則ち後の大和朝廷と次第に疎遠になっていったんではなかろうか。
>>178 平和の報酬じゃなかろうかね。
東方の勢力が大陸からの鉄を安定して入手する為作り上げたシステムを邪馬台国連合とするなら
邪馬台国連合の主な機能は治安の回復と紛争の調停だった筈。
この機能が大陸との交易以外にも広く転用された結果、日本国内でも活発な人や物の流れが
促進されたんじゃなかろうかと。
こんな事語ってると、邪馬台国って凄く偉大な試みだったよーな気がしてくるなぁ(笑)
184 :
日本@名無史さん:04/02/13 21:26
水稲用耕地の供給能力が近畿で爆発的に上昇し、平安時代まで続き、
鎌倉時代からは関東の供給能力が増え始める。土地が人、鉄器を引き付ける。
弥生末からは鉄器時代に入って行く。鉄のおかげで木工が発達、神社、仏閣、
住居ができ精神的な豊かさが生じ、そのうちに紙を使う時代となる。そして歴史が始まる。
185 :
日本@名無史さん:04/02/13 22:59
漏れは、出雲という勢力の実在自体にかなり懐疑的です。
少なくとも畿内、吉備、筑紫と比肩しうる勢力ではありえなかったと思います。
大和と書いてヤマト、と特別な読み方をするのと同様、
出雲と書いてイズモというのも特別な読み方だと思ってます。
もともとイズモまたはツモまたはツマ(投馬国?)
ぐらいな読み方の名前の地域が山陰地方にあって、
そこに「雲が出る=アマテラスの姿を隠す」という
縁起の悪い字を大和朝廷が当てたのではないかと・・・。
大和は、逆らった連中にネーミング付けるのは、得意だよね。
八雲立つとかの歌は関係ないのかな
188 :
日本@名無史さん:04/02/13 23:14
>>185 しかし出雲は地政学的にはかなり有利な位置にあるし、自分は大勢力があったと思う。
日本海ルートの交易の量は瀬戸内に勝るとも劣らないし、
瀬戸内の盟主を大和とするなら、日本海の盟主に出雲がいても面白いんじゃないかと。
大陸とも近いし、先進文化を接収するのに北九州につぐ絶好の位置だからね。
出雲大社の空中神殿の一件もあるわけだし。
189 :
日本@名無史さん:04/02/13 23:17
>地理的に見て東海は吉備や畿内の勢力にキンタマにぎられているような状況だった
海洋系の氏族の支援があったかも知れない。
太平洋側を、関東→東海→紀伊半島→四国→九州南部→南西諸島→大陸というルートは無かったのか?
と言うか、海からの支援を受けつつ、東海の勢力が東へ伸びて行った様に思う。
ちゃちゃ入れてすまん。
オレはそんな見方でも調べて見るよ、と言いたかっただけ。
>>189 東海勢力は近江に勢力を伸ばしているから、
もし東海勢力が邪馬台国連合を離脱して自立の道を模索するなら近江から
日本海へ抜けるルートを選択したと思う。
もしこの当時、出雲を初めとする日本海勢力が邪馬台国と一線をかくしていたら
狗奴国が日本海勢力と連係する事に成功すれば勝算が出てくる……と思うけど、どうかな。
191 :
日本@名無史さん:04/02/14 04:28
ふと思ったけど、記紀の記述って大和朝廷に反抗的だった勢力に妙に手厚くない?
出雲もそうだし、磐井の乱を起こした九州についてもそんな気配を感じる。
192 :
日本@名無史さん:04/02/14 05:17
それは怨霊を(ry
193 :
日本@名無史さん:04/02/14 07:22
半島→出雲は対馬海流もあってわりと簡単そうだけど、逆はどうなんだろ。
結構キツイ気がするがどんなもんかね?
194 :
日本@名無史さん:04/02/14 07:30
何故東遷があったのか
邪馬台国が九州から畿内に移動する意味は
・倭国大乱で負けた邪馬台国が「負けたから」東に逃れた
・東アジア国際社会でに九州より機内のほうが対外的に安全だと考えた
このどちらかだと思う。
東遷なんか無いから理由もいらないんだけどね。
196 :
日本@名無史さん:04/02/14 08:00
考古学的には九州への近畿土器の移動という事実しかないし、倭国大乱というのは中国文献に出てくる
言葉で現実とは無関係。しかし、何らかの移動を考えると中国の青銅加工技術を持つ集団が近畿に到達
したような青銅器の変化が起こっているので後漢末に中国の政情不安の影響でそうした集団が移動した
ということはありえるのでは。
197 :
日本@名無史さん:04/02/14 08:17
東遷を大袈裟に難しい事と考えてる人がいるようだけど
記録に残ってる後漢の時代の中国での人の動きのダイナミックさを考えると
・例えば程普なんか遥か北方で生まれて呉に仕えたりしてるし
別に難しい大変な事とは思えないんだけどね
政権に必要と感じたならば可能な事だと思うよ
>>197 個人の移動と、政権中枢の移動をごっちゃにしてはいけない。
個人が脱北して韓国に亡命するのはよくあることだが、
それと、ジョンイルが首都をソウルに移転することと同一視するわけにはいかない。
199 :
日本@名無史さん:04/02/14 11:03
>>185 今現在、最大級の弥生遺跡は出雲圏に属していたとみられる
鳥取県大山近郊の妻木晩田遺跡だよ。
まだ全体の1/10くらいしか発掘調査は進んでないけど
それでも住居跡だけで800軒以上見つかってるよ。
ド田舎だし、何でこんなクニが存在したのかよくわからんような
場所です。
昔から畿内は豊かで王城の地だった
西のはずれのニニギくんたちはそれがうらやましかったので
だまくらかして王座を手に入れた
201 :
日本@名無史さん:04/02/14 11:34
奈良は王室セレブ御用達の高級霊園だったってのは?
奈良って寒いしあまり王都にふさわしいとも思えんけど…。
エジプトの王家の谷みたいに葬送氏族(土師氏)が
いたくらいなんじゃないの?
後世の地名でも「乃楽」「寧楽」「諾楽」なんて当て字
されてるし…。
202 :
日本@名無史さん:04/02/14 11:51
>>195 東遷と言うモチーフが何度も記紀に登場する理由がわかりませんが。
203 :
日本@名無史さん:04/02/14 12:58
大王の后の一人がが宮崎出身者で、数代宮崎系
豪族が后を出し続け、外戚として実権を持った。
最終的に大王の血統が宮崎系と言えるものとなったので、
神話の中に自分たちの出自を盛り込んだ。その際、東征という
華々しいものがたりに仕立て上げた。
若しくは宮崎出身の神武タン、第4皇女あたりの単なる養子。欠史8代かけて
実力者にのし上げる。崇神天皇で花開く。ご先祖さん単なる養子つーのは
いまいちなので、すごい戦いの物語でっちあげ。
204 :
日本@名無史さん:04/02/14 13:01
国家統治のための神道の聖書としての面からすれば神の天下った
高千穂から東遷することは重要。何度も繰り返し強調しなくてはなら
ないことではないかと思う。
205 :
日本@名無史さん:04/02/14 13:05
南九州からは久米、筑紫方面からは物部など主として戦闘要員が
大勢大和に入っている。そういう部族の伝承が取り入れられたこと
はありえる。
206 :
日本@名無史さん:04/02/14 14:02
高千穂に天下る必要なし。
葛城山でいいじゃんか。
207 :
日本@名無史さん:04/02/14 14:06
あの時代ほんとに畿内の人口が一番多かったのか??そこも疑問
仮に畿内の人口が多かったにしても、後進地域が先進地域を征服できるなんて世界史的にも無いと思うが
どちらにしろ初期政権の支配地域はほぼ畿内だけだろう九州全体と畿内全体が戦争して
畿内が優勢になるのは後の時代を待たないと無理だよ
>>176 >「吉野ヶ里から邪馬台が見える」
といった御仁は歴史家というより考古学者ですな。
奈文研時代に邪馬台国を議論しようってことになって、
九州説がいないと困るってンで、
お前やれ、と言われてそれ以来九州説だそうな。
確か本人がどこかで書いてた。
209 :
日本@名無史さん:04/02/14 14:13
>>198 似たような時代
董卓は都洛陽を捨てて本拠地の西涼に近い長安への遷都してます
洛陽と長安の距離を考えると>政権中枢の移動は難しくないよ
>>209 九州から畿内までもともと一つの国だったらね。
その理屈なら、洛陽と長安の距離を考えると
ジョンイル君は簡単にソウルに遷都できるはずだけど、
現実は違う。
211 :
日本@名無史さん:04/02/14 14:41
>九州から畿内までもともと一つの国だったらね。
九州論者も畿内論者もそれは否定するよ
>ジョンイル君は簡単にソウルに遷都できるはずだけど
ジョンイル=畿内=後進地域 と考えれば
中原から落ち延びた先進部族がジョンイルを叩き出して居座ると考えれ
212 :
日本@名無史さん:04/02/14 14:53
地形の険しい島国で、東遷ルートは自国の領域ではない
(潜在的に敵国)のにどこで補給しながら九州から
畿内へ政権中枢が移動するというんだ。
ありうるなら、何代もかけて東遷ルートを征服するか
あるいは協力をとりつけて行くしかないと思うが。
213 :
日本@名無史さん:04/02/14 14:58
あの時代
鉄製武器を装備した2〜3千人規模の軍があれば
日本列島を制圧東進するのは可能だとおもう
相手が小国に分かれてて青銅製武器ならね
214 :
日本@名無史さん:04/02/14 15:07
邪馬台国の権威に服して東遷に協力するか制圧され奴隷となるか
連合して戦うか、諸部族にとって選択肢は3つ
情報(先進技術や海外情勢)を握っていたのは九州邪馬台国
情報(先進技術や海外情勢)を握っていたのは九州のクニだったであろう
ことは確実だけど、それが邪馬台国である必然性はない。
>>213 >日本列島を制圧東進するのは可能だとおもう
思うのはかってだけど、裏づけがないと信仰だよ。
217 :
日本@名無史さん:04/02/14 15:20
>>213 2〜3千人運ぶのにどれくらいの船団が必要だと思ってんの。
漕ぎ手を戦闘員にいれても40人も乗れりゃいいほうだから
50隻(しかも遣唐使船並)以上の大船団になっちまうぞ。
陸路を行くのは海路以上に困難だろ。
オレも邪馬台国九州派だけど、この時代に東遷はないと思うし、
あっても後世の応神とかじゃないの。
弥生末期の九州はショボいという事実
219 :
日本@名無史さん:04/02/14 15:22
当時畿内が邪馬台国の力(情報・技術)を知らないほど後れていたならば簡単に制圧される
知っていたから、あるものは平伏しあるものは戦った
軍事力で畿内中枢を潰すのは何世代もの時間を必要とはしない
最終制圧地域が畿内だったのは海の道(瀬戸内海)があったため
それより東が支配地域となるのは後世
畿内が仮に九州まで一つの国だったとしたら
東海関東方面の支配が遅れるのは不自然、遥か九州まで支配しておきながら
すぐ近く(中京東海地方)に夷、この場合中枢として畿内は東により過ぎ
東夷の為に軍事力移動と考えると後の世と歴史が繋がる
220 :
日本@名無史さん:04/02/14 15:29
外海を航海するわけではないからそれほど大きな船は必要ない
普段漁労で使う小船でいい
小船で瀬戸内海を補給・連絡・支援に使えば普通に陸路だけより戦略戦闘は易い
>>219 九州の土器ってほとんど九州からでてないし、九州の武器も瀬戸内以東ではほとんど出土しない。
こういう事実を積み上げて、倭国乱が仮にあったとしても離れた国同士が戦ったということはもう否定されてしまっている。
それに、戦闘の痕跡というのは非常に希薄で、高地性集落からある種の緊張状態が想定されるとはいっても、
実際に戦闘が行われたかどうかは疑問視されてきている。
征服されたはずの吉備や四国北岸でも独自の祭祀は続いていて九州が関与した形跡はない。
東遷説、だめポ。
222 :
日本@名無史さん:04/02/14 15:39
戦闘の形跡が希薄なら戦闘する前から権威に服した部族が多かったんじゃないかな
東遷の目的は殲滅戦争じゃない、権威に服し協力(後に弱い支配)すれば
その地の神信仰・族長の支配権は存続される
223 :
日本@名無史さん:04/02/14 15:43
元々あの時代
関門海峡を支配し封鎖するだけで以東の国は情報や技術が遅れる
224 :
日本@名無史さん:04/02/14 15:50
>>220 瀬戸内が小船で押し渡れるような穏やかな海だと思ってるのか?
また、小船に10人だと今度は200艘以上になるぞ。
海路でもっとも重要なモノは水の補給だが、元々ぎりぎりの
そんな小船に大量の水が積めるか?
>>222 >その地の神信仰・族長の支配権は存続される
ようわからんが、てことは、要は制服じゃなくて、征服でもなくて、諸部族(諸国)の協力を得て、
新たに連合を作って畿内で王になったと?
それ立派な畿内説ポ。柳田・寺沢なんかの畿内説はこれぽ。
226 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:03
瀬戸内海を小船で行き来できないならば松浦や隼人あたりの漁業は成り立たない
征服軍が全て船に乗らないといけない理由もない
東遷にあたって
軍2〜3千人。小船100艘、馬50匹
北九州の多くを支配していたならばこれくらいは用意できる
邪馬台国連合の
瀬戸内海支配権の確立で東遷の後は交通通商が活発になったであろう
227 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:11
これは自分の説だが
東遷?(東夷)は一大卒のような組織で複数回行われた
畿内は東夷の為の出先機関がほんの一時的に置かれた
そして海外情勢から今の大和地方に中枢(大王)が移動した
228 :
孤高の24歳無職:04/02/14 16:16
単純に九州勢力の東遷が3世紀以前にあり、
大和朝廷を中心とした連合国家ができていた。
おそらく倭国大乱とは九州勢力が東遷するときに
畿内、中国勢力と大規模な戦争があったことをいってるんだと思う。
邪馬台国が歴史の表舞台にでてくる3世紀にはすでに
大和朝廷を中心とした連合国家体制ができていたが
中々国がひとつにまとまらず国を治めるために女巫女を
立てた。4世紀には、国がひとつにまとまってきて
女巫女をたて呪術に頼る意味もなくなったから廃止して
従来の男王統治になったと。そして再び日本が歴史に
でてくるころには天皇を中心とした中央集権体制が
だいぶ確立していた。こんなとこだと思いますが。
229 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:19
任那の鉄、漁労民族の操船航海術、馬、先進の稲作技術、最新の情報、チョンとの通商による蓄積
大陸からの権威付け
これだけそろえば漏れでも蛮族を黙らせ服させることを試みるよ
230 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:28
大和地方に当時としては巨大国家連合ができる裏付けは
比較的大きな農業生産性(大阪平野)
世界史的に見て農地に適した平野が多いだけで覇者とはなれない
むしろ先進情報を握られ低い生産性を示していたならば
先進地域にとって美味しそうな狩場
231 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:34
これは自分の説だが
邪馬台国の中心がなかなか発見できないのは
遷都癖と言うべきか小さな中枢が神輿に乗った状態に近いので
中枢(大王)九州内部をコロコロ移動してたとも考えられる
そして遷都癖は大和に移っても変わらす
平安京まで都は度々変わる
232 :
孤高の24歳無職:04/02/14 16:42
>231
いくらなんでも7万戸という集落群と
卑弥呼の墓は当時では最大のものだったはずだし
考古学上の遺跡なりななり残っているものだと
思いますが。吉野ヶ里ですら残ってましたしね。
233 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:45
スレ違いかもしれんが1つ
宗像大社の伝承にはこんなのがあるそうだよ
住吉三神は宗像三神の子
宇佐八幡は宗像三神の孫
宗像三神(1人は大国主の妻タギリ姫)
↓
住吉三神(八幡=応神の母は神功)
↓
宇佐八幡(応神)
234 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:49
東遷は三世紀以後にはありえない。土器の移動うんぬんを理解できていない奴が多すぎんか?
人が大挙して移動した場合、移動して来た人々は移動先でも地元と同じ土器を製作する。
何千人なんて単位の人間が移動すれば当然そうした事が起こる筈だ。
邪馬台国の首都の最有力候補地である纒向遺跡からは
吉備、東海、北陸、山陰とあらゆる場所の土器が出土している。
これらの土器は様々な出身地の人々が纒向に結集して
各々自分の地元の土器を作っていた為と思われる。
纒向は政治都市なので、土器を作ったのはせいぜい大名屋敷(?)の使用人あたりだ。
あるいは箸墓古墳あたりを建設する為駆り集められた労働者か。
ともかくもし九州から大集団が畿内へ移動したとすれば、
畿内からある時期を境に大量の九州製土器が出土する筈だ。しかしそうした事はない。
この事から、九州から多数の人間が畿内へ移動した事はない、と断定できる。
九州勢力が大兵力をもって畿内を征服する、といった種類の東遷はなかったのが結論だ。
100歩譲って九州から天皇家へ入り婿があって、そいつが話を誇張した、位だろう。
土器作る集団を連れてくる必要ないでしょう。
軍隊だけ連れてくりゃいいのであって。
236 :
日本@名無史さん:04/02/14 16:59
都合がいいときだけ
ある者は魏志倭人伝を嘘と言ったり、ある者はそこに書いてある数字を絶対根拠に他説を否定する
7万ひとりの男が伝聞で書き記した7万という数字は魏に舐められないように自国を過大に表現し他と思う
誰も裏付けできないな
関東平野か関西平野か九州全部合わせた位か西日本全体か?しか7万戸て不可能な数字だと思うよ
纒向を邪馬台国の都に比定した場合、
邪馬台国連合の中心勢力は吉備・畿内・東海といった東方の諸豪族だ。
一方この時期北九州では遺跡がかなりショボくなりつつある。
邪馬台国時代、九州は征服した側ではなくされた側なのだ。
なんらかの理由で巨大な同盟を組んだ東の勢力に、九州は圧殺されたと考えられる。
238 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:02
中枢(大王)とそれに伴う軍隊で東遷
九州の庶民の女子供を強制的に大量に連れてくる必要はない
>>235 あの時代土器は生活必需品で、今みたいに一ケ所で大量に作ってもないし、兵士でも作れたのが普通。
>>236 纒向の箸墓古墳をどう考えられますか?(笑)
おおお! 九州説の電波さん達、まだ生き残ってたのか!w
241 :
孤高の24歳無職:04/02/14 17:06
>234
九州勢力が兵力をもって畿内に移動というより
倭国大乱の際に勝利した九州勢力が、連合国家の長になり
連合国家の中心を肥沃な畿内の土地に置いたということでは
ないでしょうか?九州勢力は大陸からの影響を受けやすい
ですし武器等で他より勝っていたと思いますしね。
倭国大乱に勝利したと思いますよ。
242 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:09
でもその理由だと遺跡がショボくなったのは
東の勢力による北九州の民の大量虐殺か強制連行?
無理だと思うけど
普通に東遷で政治経済の中心が畿内に移動したから寂れたのでは?
243 :
孤高の24歳無職:04/02/14 17:13
伊都国に一大卒を置いたりして九州統治や
大陸との折衝にあたらせ、中心部である畿内は
西日本の連合国家をまとめるために動いてたと
思いますよ。中心部が九州の山奥にあっては本州勢力の
統治が難しくなりますからね。畿内に中心部を
置いたほうが都合がいいでしょ
>>241 だから、九州が勝ったんならなんで邪馬台国の時代以降大和に巨大古墳が出現し
一方九州の遺跡はしょぼくなって行くんだよ。
纒向から東海の土器が大量に出たり祭器関係が吉備のものなんだよ。
敗者の信仰が連合政権の信仰の中心になるなんておかしいとはおもわんのか?
そもそもなんで、纒向からは北九州の土器はあんま出ないんだ。
よって、大和の邪馬台国連合で主導権を握ったのは吉備や東海の東の勢力だと
推測されるんだよ。
245 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:17
大王と時の政治中枢部が所在を九州から畿内に移したのは
畿内が肥沃である
東夷征伐のため九州では遠すぎる
激変する国際情勢のためより安全な奥地
この3つが理由だと思う
武器がどうのとか言うが、
この当時鉄器の輸送ルートは半島→出雲→日本海→丹後・若狭→近江→東海・畿内
という日本海ルートだってあった。邪馬台国の時代はかなり盛況をはくしていた。
それに九州勢力がいかに先進的だろうと、
吉備・畿内・東海が連合したら流石に数で圧倒される筈だ。何がなんでも九州を勝たせたい理由がわからん。
247 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:22
>>243 日本列島全体の地図を見れば畿内は中心部に見えるが
東アジア全体の地図で見れば畿内は辺鄙で不便で離れている
248 :
孤高の24歳無職:04/02/14 17:24
>244
しかし東海吉備の東の勢力が邪馬台国連合で
主導権を握ったとしても大和朝廷の起源は
九州からだったと思いますが。古事記の記述と
照らしあわしてもこう考えるのが妥当です。
おそらく貴方の主張も加味すれば大和朝廷成立したときは
九州勢力が中心で主導してましたがやがて東海吉備勢力が
力を増してきて連合国家の実権が九州勢力から
東海吉備勢力のほうへ移ったと見るしかないですが。
もう一つ言い忘れてた。
もし邪馬台国ないし大和王権の中新勢力が九州であれば、
磐井の乱を始め九州勢力はやたらと大和朝廷に反抗的なんだ?
もし自分らが中心ならもっと静かでいいだろ。江戸時代の譜代大名みたく。
やはり九州は敗者だったんだよ。
出雲もそうだが、大和朝廷にはしつこく抵抗した勢力への記紀の記述が
異様に肥大化するという奇妙な風習がある。
>>288 記紀なんか話半分によんどけ。なんか考古学的発見があってから信用しろ。
まだいるんですなあ、「鉄器さえあれば無敵の軍団だ!」とか思ってる人が。
鉄の民・ヒッタイトの武器が青銅器製だったこともご存知ないんでしょうなあ。
九州古代の栄光は2世紀まで。3世紀のショボい九州が畿内に遠征征服
なんてとうていありえない。なんの物証もないし。
252 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:28
連合したとして吉備と東海地方を同列に扱うのはどうかな
それと
>数で圧倒される筈だ
戦争は数では勝てないよ
言ってることを総合すると
「東の連合が同盟して邪馬台国を抹殺し北九州で遺跡が出なくなるほどジェノサイトがあった」
ということかな
>>252 いや、東の連合が同盟して九州を軍事・外交の両面で圧倒し(実際に大規模な戦乱があったかは態度保留)
北九州にあった大陸との交易利権を奪い、これが北九州の三世紀の衰退へと繋がった。
というのがオレの考え。
254 :
孤高の24歳無職:04/02/14 17:32
>249
九州とひとくくりにしてますが
あくまでも九州の1勢力が大和朝廷の
起源だと思ってるわけで、九州全部ではないです。
同じ九州でも狗奴国等の流れをくんでる国も
あるでしょうし九州勢力が大和朝廷に
反抗的でもなんら不自然ではありません
255 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:35
>磐井の乱を始め九州勢力はやたらと大和朝廷に反抗的なんだ?
それだけ力を持っていたからだと思うよ
卑弥呼の時代から九州内で普通に反乱が多かったんじゃないか?
だから卑弥呼を擁立したわけで
>>254 だからそうまでして九州にこだわるなっての。
記紀の記述を全て事実だと決めてかかると真実が見えなくなるぞ。
257 :
孤高の24歳無職:04/02/14 17:39
>>256 たしかにそのとおりですが
記紀もすべてが空想でたらめというわけでは
ないと私は考えます。なんらかの
事実をもとに多少誇張して書かれているのだと
考えます。
258 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:43
記紀の記述もそうだけど
世界史見てたらこう考えるのが自然な歴史の流れ
ある程度、記紀の記述は裏付けできてる記述だと思う
記紀に反発し歴史文明の流れに反発し何があってもこうじゃないといけない!
と考えると矛盾が生じるよ、説明できないし
漏れも「絶対に畿内じゃないといけない」という縛りがあったら苦しいと思う
もうそうなればディベート術の世界だよ
当時は馬に乗れれば最強。
朝鮮からきた騎馬軍団に日本は征服され、
捕虜の女に産ませた子供達が大和朝廷を創りましたとさ。
めでたし、めでたし。
>>255 そもそも土地が山がちで統一国家の建設が困難な日本列島に
何故倭人は焦って統一国家を作ったか、そのあたりを少し考察してみようよ。
各氏族が各々独立して小競り合いを繰り返していたら、鉄を自給できんかった当時の日本
交易ルートが再三遮断されて経済がなりたたんから、統一国家を作ったんでしょ。
初期の大和朝廷の任務は諸豪族の紛争の調停と大陸との外交の窓口だった筈。
んで、そんな組織を強く欲するのはより東の豪族達だったと思う。
纒向から多量の東海土器がでるのは、大陸から遠い東海の人々が如何に初期大和朝廷に期待し、
より協力したかの裏返しだったとオレは思っているのだが。
九州勢力による統一国家の建設の場合、こうした動機が見えてこないわけ。
そしてその事を、考古学的資料も裏付けてるわけだし。
261 :
日本@名無史さん:04/02/14 17:48
>7万戸・・・
>記述を全て事実だと決めてかかると真実が見えなくなるぞ・・・
少し記紀から離れたほうがいいと思う
東の連合さん
263 :
孤高の24歳無職:04/02/14 17:52
まあ3世紀の中心はすでに畿内だったというのは賛成です。
それが元々畿内にあったものかどうかは定かでは
ありませんけどね。魏志倭人伝の記述と、当時中国人が
思い描いていた日本の地理を書いた地図から判断しても
畿内が中心だったと思います。あとは考古学上の遺跡や
記紀の記述から推測するしかないですよ。たしかな
史料は残ってませんしね。ただシュリーマンのトロヤ遺跡の
例でもわかるように神話や記紀を軽視するのはどうかと
思いますが。唯一残されている史料だし吟味の余地はあると
考えますね。
記紀の記述を完全に作り話と考えるのは確かにあやまりだろう。
なんらかの、元になる史実があったと考えるのが自然だ。
しかし考古学的に立証できん事には完全に信用する事も難しい。
東遷の事は、何か考古学的な発見がある迄語ってもまぁ、無駄だろうな。
今の所東遷を裏づける資料は何一つ、ない。
考古学的裏付けのないまま伝説や記紀を信じるのは科学ではなく信仰だ。
266 :
日本@名無史さん:04/02/14 18:01
当時最重要な交易ルートは
朝鮮南部ー北九州地方ー瀬戸内海ー畿内
統一政権にとってここを抑え確保が何より重要課題
次に重要なルートが山陰だったと思う
同盟したという東の豪族(東海地方以東はエミシ)は征夷大将軍に制圧されるけど
イワイは何故?反乱?
畿内勢力が夷と同盟して九州を制圧したとして
そのあとは東の人は夷と呼ばれる異民族的扱いは何故?
>>261 そうだなぁ。
箸墓の建設年代が三世紀の中〜後期である事が立証されれば、戸数七万も信用できる、かな。
記紀や魏志倭人伝はそう見るべき物だと思う。裏づけがないまま信じるべきではない。
268 :
孤高の24歳無職:04/02/14 18:04
東遷といっても邪馬台国の3世紀より
だいぶ前に行われたと思いますけどね。
神武天皇の紀元前600年ころというのは
誇張でしょうが1世紀〜2世紀くらいに
すでに行われていたのでは?
>>266 東海までは東夷じゃねーだろ。
征夷大将軍が現れる前の壬申の乱の時天武天皇が挙兵したのが美濃だっての知ってるか?
>>268 お前、何の裏づけもなく好き勝手に憶測で喋るのやめないと一生就職できんぞw
271 :
日本@名無史さん:04/02/14 18:20
当時、人的資源以外に畿内より東に期待するものは無い
272 :
孤高の24歳無職:04/02/14 18:20
>270
前にも言いましたが、卑弥呼の時代、皆既日食があったのは
科学的にも証明されている事実です。天照大神とは
太陽の関連してる神でしょう。すなわちその当時
太陽信仰があったんでしょう。よって卑弥呼は日巫女と
解するのが妥当であり、記紀の記述もまんざら
でたらめではないと思いますが。
>>272 そういうのを裏付けのない憶測って言うんだよ。
記紀には多く真実がかかれてると思うが、裏付けもないまま信用するのは信仰だ。
274 :
孤高の24歳無職:04/02/14 18:27
>>273 わかりました。とりあえず古代史語る前に
私は就職すべくがんばれという結論でおしまいにします
275 :
日本@名無史さん:04/02/14 18:33
>>274 おもろかったバイバイ
>>273 自分は憶測で「東の連合」とか「東海の民が期待して」とか言ってる癖に
まだ彼は科学的根拠を元に記述の一部を主張している
纒向遺跡の外来土器は
約半数の49%が東海系の土器で、北陸系と山陰系が17%、河内系が10%
吉備系7%、関東系5%、近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、紀伊系1%
となっている。九州は……少ないみたい。
>>275 纒向遺跡の外来土器を根拠に「東の連合」を主張してますが、いけませんか?
278 :
日本@名無史さん:04/02/14 19:16
>>277 土器など東海地方の職人に作らせただけかもしれませんよ。
あなたも考古学を信仰しすぎですね
あなたは非科学に浸りすぎですね
邪馬台国は7万戸ってなってます。これって、ほんとうに人口のことなんですか?
戸って?ひょっとしたら倉庫のお米の数量とは関係ないのでしょうか?
倭人伝の一大国のとこは家になってて、戸じゃないし...平野や河川がないと米は収穫少ないだろうし、
米の収穫量あたりなら、筑紫平野あたりはかなり見込みがありそう。
隋書倭国伝には、阿蘇山の記述もあるし...紀には景行天皇、仲哀天皇、神功皇后、
応神天皇と、関連を感じるけど...?でも、隋書の阿蘇山...いきなり阿蘇山...?
山はやっぱ、阿蘇山かぁ!
>>276 巻向には九州の土器はほとんどないね。
今のところ、かけらが一つか二つある程度。それも九州かな?ってかんじみたい。
破片じゃしょうがないけどね。
だけど、大阪までは九州の土器は来てる。
つまり、九州人は河内で足留め、都・巻向がある大和には入れなかった。
だから九州勢力って外様扱いだと思うんだよね。
その方が特に大率を置いてにらみを効かせた理由もわかるってもんだ。
282 :
日本@名無史さん:04/02/14 20:09
ぷ。おまいらまだしらないの?
邪馬台国は練馬にあるんだよ!
283 :
日本@名無史さん:04/02/14 20:18
ぷ。おまえらまだしらないの?
邪馬台国は奄美大島の海底にあるんだよ
284 :
日本@名無史さん:04/02/14 21:49
248年に皆既日食が起こって(100%正確)
しかも九州でしか見れなくて
しかも卑弥呼がその年に死んでいる
アマテラスの岩戸隠れの記事にもぴったりあう
この衝撃に比べると奈良の遺跡とか古墳なんかねぇw
年代測定法自体怪しいし。
と電波飛ばしてみました。
285 :
日本@名無史さん:04/02/14 22:03
大和朝廷は大和地方で自然発生し周辺と一致団結して九州まで占領
こうしておかないと嫌なんだろ
電波そのものだよ
286 :
日本@名無史さん:04/02/14 22:19
土器がたん出ればそこには多くに人が生活していた証拠だからー
倭人伝に7万戸とあるから土器が沢山あったのは邪馬台国である証拠ってことかな?
俺は普通に考えて皆248年に既日食が見れた場所が邪馬台国の一部と断定できると思う
287 :
日本@名無史さん:04/02/14 22:30
九州でしか皆既日食は見られなかったの?
288 :
日本@名無史さん:04/02/14 23:30
>>284 かんじんな間違いがあります。一年ずれてます。正確には
247年に九州
248年に能登半島〜日本海沿岸〜東北(この年、卑弥呼が没?
卑弥呼の死と結びつける説(日食を防げなかった責任をとらされて殺された等)
にとって一応、一年くらいなら許容範囲内だとは思います。
畿内や吉備ではどちらの日食も見られなかったとのことです。
289 :
日本@名無史さん:04/02/15 00:13
九州でも日本海でも皆既日食はかまわないんじゃないの?
当時は全部邪馬台国連合のひとつだし、邪馬台国内で
みられなくても周辺の国で見られてそれで卑弥呼の
連合国を束ねる力は失墜したと考えればいいと思う。
290 :
日本@名無史さん:04/02/15 00:20
>>202 何度もって?神武と応神だけだよね?
>>208 なんで「九州説がいないと困る」んだろうねw
291 :
日本@名無史さん:04/02/15 00:49
このスレの右翼率は80%ほどであり、
邪馬台国が純粋な日本人の政権であると
唱える人々でつ
292 :
日本@名無史さん:04/02/15 01:11
右翼左翼関係ねーw
293 :
日本@名無史さん:04/02/15 01:13
畿内説論者は記紀を軽視しがちなのでサヨかも
294 :
日本@名無史さん:04/02/15 01:31
漏れは畿内説支持者ですが、記紀を重視してます
295 :
日本@名無史さん:04/02/15 01:33
漏れは世界史の方が好きです
296 :
日本@名無史さん:04/02/15 01:33
>>294 本当? 特に重視しているところを教えて&東遷伝承はどう見ます?
297 :
孤高の24歳無職:04/02/15 01:38
漏れは大学受験は世界史でうけ
学部は経済学部ですが日本史が
一番好きです
>>290 何かについて議論しようってときに、ある主張に対して反対する人がいないと困るでしょ。
議論て、やっぱり反対する人がいるから、精緻化・深化していくわけで、
勉強して反対する役をやってくれってことじゃない。
別に他に有力な説があれば九州でなくてもよかったのかもしれないけど、
現実には、畿内か九州かっていう選択だっただろうから。
>>296 あ、専門家じゃないので詳しくはないです。
神武東遷については考え中ですが、やはり崇神(卑弥呼の時代)から9代前くらいに大和盆地に入ったのを正確に伝えてるんじゃないかなあと思います。
もちろん神武東遷伝承の中には後世に付加された伝承もありますが、筑紫地方の剣・鏡・玉の文化が大和の古墳文化に連続していることなどから神武東遷はあったと思います。
東征軍が日向国から出発したとするのは、景行・応神・仁徳天皇に出仕した日向出身の妃たちの氏族の影響が考えられるが、本来は「筑紫の日向(ひむか)」だろうね(日本書紀一書には、天孫降臨の地も日向国ではなく筑紫の日向と記してるね)。
>>298 検索しても前見たのは見つからなかったけど、
似たようなことが書いてあるやつが引っかかった。
『といっても、はじめは確固たる理論があったわけではない。
所内で邪馬台国についての論争をすることとなり、九州出身の高島さんが『邪馬台国九州説』を担当。
当時、有力な畿内説が世に出されたばかりで、その影響力が高まっていたこともあり、
高島さんの発言は49 対1という大差で否定された。』
www.tjsaga.co.jp/p/sagaman/sagaman07.htm
301 :
日本@名無史さん:04/02/15 02:10
302 :
日本@名無史さん:04/02/15 02:12
漏れは東遷は、元になった出来事はあったにせよ多分にフィクションだと思う。
根拠は記紀の出雲の扱い。
大和朝廷には伝統的に、敗者・比征服者・かつての強敵に対して手厚く遇する妙な風習があったんだと思う。
あるいは懐柔策か。
ともかく
「いやねぇ、九州さん今でこそ私らと貴方達はいがみ合ってますが、実は祖先は同じなんですよ
いや、初代天皇も実は九州の出でして……」
というか、まぁそういった事があった気がする。
実際は纒向の土器の出土率からも判るとうり、
九州は被征服者であり大和政界からは排除されていたとするのが妥当だと感じる。
そうすれば磐井の乱や、邪馬台国建国の動機なんかもスッキリ理解できるし。
303 :
日本@名無史さん:04/02/15 02:20
>>294 畿内説って意味、勘違いしてない?
その見方は邪馬台国東遷説だよ。邪馬台国九州説の一派(?)。
簡単に言うと邪馬台国畿内説というのは
魏志倭人伝にかかれている「女王国」を
はじめから畿内にあったと考える説です。
>>303 「一世紀ごろ九州の一部勢力が東遷し、そいつらが二百年後、邪馬台国を作った」
というのなら立派な畿内説じゃね?
あっ、そうかそうか。早とちりしちゃった。ごめんね
>>304 そうです、そのつもりです。
「邪馬台国」として記録された時には大和盆地に宮があったと思うので…。
307 :
孤高の24歳無職:04/02/15 02:37
邪馬台国ではなく邪馬壱国が正確には正しいと
昔、古田なんとかという人の本を読んだとき
知りましたが、仮に邪馬台国という名称のほうが
正しいとしたら、卑弥呼のあと女王の座についたのは
台与(とよ)ですので、邪馬台というのは「やまと」
と読めるのではないでしょうか?
308 :
日本@名無史さん:04/02/15 02:40
魏志倭人伝の写本中では<邪馬壹国>と書かれているが、
これは伝写の誤りで「邪馬臺国」が正しいとされている
魏志倭人伝の写本における表記が邪馬臺国(邪馬台国)と言う表記であった場合、
これは当時の中国大陸で使われていたとされる発音では
「ヤマト(国)」と読めることを指摘する説もある。
309 :
日本@名無史さん:04/02/15 02:41
>>307 「邪馬台」はどう考えてもヤマトと読みます。始めに読んだ人が馬鹿だったんだろうけど、伝統的にそう読まなくてもね…w
310 :
日本@名無史さん:04/02/15 02:43
そりゃキミ、歴史学界では弟子は師匠格の教(ry
ところで、纒向の初期大和政界からは九州勢力は排除されていた
って事でFA?
312 :
日本@名無史さん:04/02/15 03:01
九州勢力って?崇神紀とかには全くいない?
313 :
日本@名無史さん:04/02/15 03:06
畿内説→「邪馬台が畿内発祥→卑弥呼時代→大和朝廷へ」(畿内邪馬台+発展)
「邪馬台が畿内発祥→卑弥呼時代→別勢力に滅ぼされる」(畿内邪馬台+滅亡)
「プレ邪馬台国が九州発祥→畿内東遷→卑弥呼時代→大和朝廷へ」(東遷邪馬台+発展)
「プレ邪馬台国が九州発祥→畿内東遷→卑弥呼時代→別勢力に滅ぼされる」(東遷邪馬台+滅亡)
九州説→「邪馬台が九州発祥→卑弥呼時代→畿内古墳勢力を制して東遷→大和朝廷へ」(九州邪馬台+東遷+発展)
「邪馬台が九州発祥→卑弥呼時代→畿内古墳勢力を制して東遷→別勢力に滅ぼされる」(九州邪馬台+東遷+滅亡)
「邪馬台が九州発祥→卑弥呼時代→別勢力に滅ぼされる」(九州邪馬台+滅亡)
314 :
孤高の24歳無職:04/02/15 03:08
九州勢力が排除されていたかどうかなど推測
でしか語れませんね。話は変わりますが
邪馬台国が畿内だとすると、伊都国から投馬国そして邪馬台国へは
日本海ルートでいったか、それとも瀬戸内ルートで
いったのかどっちでしょうかね?私は投馬国の
規模から推察して出雲あたりかなと仮定しているので
日本海ルートなのかなと思いますが。
315 :
日本@名無史さん:04/02/15 03:10
>>314 投馬国は吉備あたりかもしれないよ?そうすると瀬戸内ルート。
316 :
日本@名無史さん:04/02/15 03:12
>>314 だめだだめだ。おまえは全然わかってない。
317 :
孤高の24歳無職:04/02/15 03:14
しかし疑問のはいくらその当時中国人が
日本を南に長い島だと思っていても
舟で明らかに東へいっているのに気づかない
はずがないと思うのですが。しかし倭人伝には
とにかく南へいっていると書かれているのが
解せませんね。考えられるのが魏の使者は
伊都国までしかきておらずあとは伝聞で聞いたことを
当時の魏の日本に対する常識と照らしあわせて
書いたというくらいですが、それにしても解せない
318 :
孤高の24歳無職:04/02/15 03:21
>>315 なるほど。そうかもしれません
>>316 素人なのでよくわかってないのは
勘弁してください。とりあえず
水行で何十日も移動している記述から
陸地での長距離移動はその当時困難だったために
舟を使ったと考えられるので、邪馬台国が
九州から遠い畿内にあったという
裏づけになると思いますが。
>>312 纒向からは九州の土器が殆ど出ない→だから纒向政界からは九州は排除されてたんじゃね?
→そんなん東海の職人に作らせてたんだろ→河内からは九州の土器が出る
という流れだから、仮に纒向が邪馬台国の都なら九州勢力は排除されてたんじゃないかと。
むしろ北九州に女王国の直轄地が置かれていたらしい事が魏志倭人伝から読み取れるから、
九州勢力はどっちかっていうと「敵国条項」があるような(笑)存在だったんじゃねーかと。
320 :
孤高の24歳無職:04/02/15 03:25
女王国の東、海を渡ること千余里の彼方に、また国がある。
いずれも倭種の国である。また、その南に、侏儒国がある。
人の身長は三、四尺にすぎない。この国は女王国から四千余里も離れている。
また裸国・黒歯国があり、侏儒国の東南に在って、船で一年もかかって到着する。
倭の地に出かけてみると、遠く離れた海中の洲島に在り、あるいは海で隔てられ、
あるいは陸続きになっていて、島々を巡って行くと、五千余里ほどにもなる。
あとここに書かれている国がどこだが定かではないですね。
特に舟で1年もかけて到着する黒歯国とかいったいどこのことやら、、
その当時の造船技術で舟で1年も移動できたのかも疑問ですね
遠く隔てられていると書かれているので途中の物資の
補給も困難だっただろうし。
九州から近畿に移動した成功者
@神武
A応神
B欽明
C天武
322 :
日本@名無史さん:04/02/15 03:34
畿内で大和朝廷が自然発生して九州征伐したとしてもなんで関東は放置なの?
324 :
日本@名無史さん:04/02/15 05:31
オレの考える邪馬台国の建国の経緯なんだが……。
1>大陸との交易を牛耳る九州勢力と、それにふっかけられ不満の募る倭の諸勢力。
2>九州を除く倭の諸勢力が大規模な同盟を結成する事に成功。九州勢力はたいした抵抗も出来ず屈服。
3>同盟は大和に集い、戦後処理に関する会議を行う。倭の諸氏族は対立を忘れ、日本海・瀬戸内両航路の安全確保を約束。
諸勢力の紛争の調停を行い対大陸外交の窓口となる新国家の建設が決定される。
4>同盟最大の豪族の王を頂点とした新国家がスタート。しかし新国家のリーダーの政策に不満を持つ豪族が多数出る。
諸勢力の利害の対立から新国家・邪馬台国は空中分解の危機に立たされる。
5>実質的な政治力のない、しかし宗教的権威はあって人々が服属するにたる人物=卑弥呼の共立という妥協案が考え出される。
象徴としての最高権力者を緩衝剤とする事で諸勢力の均衡が回復。邪馬台国は安定期に入る。
なんてのはどう?
>>323 当時関東は未開の地。それに対して九州は先進地域で経済的にも発展している。
また鉄を自給できなかった当時、大陸から鉄を買い付けるにはどうしても九州を押さえる必要があった。
古墳時代には戦争も農業も鉄抜きでは成立しない時代。
九州は最優先で押さえるべき戦略的に最も重要な場所だった。といったところでない?
>>324 「こうあってほしい」
という願いが込められた夢物語だね、ファンタジー♪
>>326 仮説たてる位別によかろ。
比定するなら何か資料でも出せばよかろ?
>>325 逆に考えれば
当時、九州北部海域を抑える強力な連合国家(クニの集まり)が存在したら
以東では戦争も農業も成立しないということだね
2>九州を除く倭の諸勢力が大規模な同盟を結成する事に成功。九州勢力はたいした抵抗も出来ず屈服。
これは何を根拠とした仮説かな?
「無理でもこうありたい!九州屈服させたい」という情念を感じるだけ、「仮説」というより「願い」
>>328 根拠は考古学的なデータ。
纒向遺跡から九州の土器があまり出ない。
そこから、大和の政界において九州勢力が排除されていた可能性が高いと思われる事。
次に、2世紀迄隆盛を誇っていた北九州の遺跡が三世紀以降衰退する事。交易の利権が何者かに奪われたと推定できる。
そして磐井の乱など、九州製力は常に大和朝廷に対して反抗的だった事。
というのでは、『仮説』にはなりませんかな?
330 :
日本@名無史さん:04/02/15 06:16
じゃあ俺も「願い」
卑弥呼の宮殿跡は意表をついて大宰府天満宮の地層の下にあると思う
331 :
日本@名無史さん:04/02/15 06:22
纒向遺跡は東遷した最初期の集落九州の軍人と畿内の征服された原住民で形成された
332 :
日本@名無史さん:04/02/15 06:24
突如現れた纒向遺跡も衰退してます
九州南部は卑弥呼以前から反抗的だよ
>>332 四世紀以降ね。中心が河内へ移ってくから。
>>331 纒向建設に九州勢力が関与した証拠は全くありませーん。
335 :
日本@名無史さん:04/02/15 06:33
俺は纒向遺跡に初期大王がいたこと
ここが大和朝廷の中心(都のようなもの)だったこと
こうは思ってる
けど成立は東遷の結果だと考える
>>332 磐井は北九州じゃない。
そもそも新羅と繋がって大和朝廷に反抗するような奴らだぜ?
すまん
北九州じゃない→南九州じゃない
ね
>>332 てーか、狗奴国の位置も特定できんのに
なんで卑弥呼以前から南九州が反抗的だとわかるんだよ。
339 :
日本@名無史さん:04/02/15 06:45
磐井も大和朝廷とって悪い奴だね
北九州抑えられるだけでも致命傷なのにさらに新羅と結ぶなんて極悪人だね
さて、この乱を抑える為にどのくらいの軍勢・船舶・糧食・期間がかかったんだろう?
数世代かかったかな?
340 :
日本@名無史さん:04/02/15 06:48
征伐命令が出て普通に征伐されてるね
そうかんがえると東遷も技術的には難しい事ではない
341 :
日本@名無史さん:04/02/15 06:52
邪馬台国の権威に服して東遷に協力するか制圧され奴隷となるか
連合して戦うか、諸部族にとって選択肢は3つ
情報(先進技術や海外情勢)を握っていたのは九州邪馬台国
纒向遺跡に卑弥呼がいたと仮定して
卑弥呼以前に九州から纒向に東遷してきた
結論「プレ邪馬台国が九州発祥→畿内東遷→卑弥呼時代→大和朝廷へ」(東遷邪馬台+発展)
>>335 捏造事件以来、考古学者の発表を手放しで信用できない。
345 :
日本@名無史さん:04/02/15 09:03
伊都国が魏との外交関係を維持できなくなる何らかの理由、
たとえば、前漢、馬韓とのつながり、から倭国全域への鏡等の
青銅製品の供給に障害が入り、今の吉野家のようなもの、
その危機感が新政権樹立に拍車をかけたとは考えられないか。
346 :
日本@名無史さん:04/02/15 09:27
当時の広域文化圏、銅剣、銅矛、銅鐸圏の境界に青銅器の埋納が
顕著であることから、これは当方の文化圏が九州文化圏の前漢による
冊封を警戒し、緊張が高まったことによるものとする仮説があるが、こうした
境界線の名残は古墳時代まで続く。古墳時代になると九州の独自性がなくなり
近畿の土器、古墳形態への影響が強くなる。こうしたことは人の流れよりは
時の流れ、すなわち、流行の流れとみるのがむしろ正しいのではなかろうか。
347 :
日本@名無史さん:04/02/15 09:36
弥生時代1000年の長きに渉り、倭国とは、対外的には九州沖縄の
東シナ海沿岸であり、その東には何もなくそれは中国の沿岸に沿って
南北に伸びるものでしかなく、その北部地方においては伊都国、ナ国
等の王中の王のような存在が成立していた。日本にはこれしかなかっ
たんだ。ところが、後漢末の中国の動乱によってこれを維持する
国際体制が崩れた。
348 :
日本@名無史さん:04/02/15 09:40
水田農業を拡大するには耕地を広げることしかない。
東に東にと進むしかない。そのためには鉄器、青銅器、
土木技術が不可欠だがその供給が止まり、驚愕したのは
東進を続けていた近畿地方の集落群であった。
349 :
日本@名無史さん:04/02/15 09:46
伊都国の金印は効力を失った。新たに魏と国交を始めるにはなんらかの
新体制を作らなくてはならない。そのためには半島南部とは従来あまり縁
がなかったというか、名前が知れていなかった邪馬台国が選ばれた。
ヤマトというのは日本中にゴロゴロあるのでごまかしが利く。これは敵が
何かいっても何とでもいえるからではないのか。
350 :
日本@名無史さん:04/02/15 11:26
邪馬台国以前の奈良県南部は地名、神名等が相当違っていたかもしれない。
三輪山は三諸山と呼ばれ、一説では纒向川は簸川だといわれる。三輪山周辺
には出雲の名称を持つ地名が多い。又、スサノオを出雲独自の神様と見るのは
不自然であり、記紀の神話の通りアマテラスと対になる神格であり、前の世代の
イザナギ、イザナミを踏襲するものとすべきであろう。スサノオは高天原を追放され、
僻地、島根県に下る。
この間の事情は下記URLが参考になる。↓
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f12/suwa110.htm しかし、どうもアマテラスとは弥生稲作の権化であり、スサノオには縄文以来の
伝統や新しい金属文化等異質なものを否定的なものとして押し付けてある感じ
がする。イザナギ、イザナミもそうであったがこれらの神話はなんかの異質の
文化が融合する際に生まれるのかもしれない。
351 :
日本@名無史さん:04/02/15 15:24
>>320 >>特に舟で1年もかけて到着する黒歯国とかいったいどこのことやら、、
>>その当時の造船技術で舟で1年も移動できたのかも疑問ですね
侏儒国・裸国・黒歯国なんてのは太平洋上の小部族かもねw
南方系の海人族の航海技術は想像以上にすごかったと思うぜ。
352 :
日本@名無史さん:04/02/15 15:49
プレ邪馬台国なりプレ大和朝廷が九州から来たのなら
纒向から九州の土器が出ないのはおかしいつってるの。
河内迄は来てるのに纒向から出ないのは、纒向の手前で九州人は止められていたと考えるべき。
三世紀になって北九州の遺跡が衰退するのも示唆的だ。利権が何者かに奪われたと見るべき。
邪馬台国の時代、九州は敗北者だったんだよ。征服者なんぞでは決してない。
よって、邪馬台国が東遷の結果生じた国家である等とは考えられない。
邪馬台国=大和朝廷は大和で発生し、周辺諸勢力と結びついて強大化したと考えるべきと思う。
記紀の東遷の実体は、
邪馬台国の時代日向に聖地か何かあってそこで巫女をやってた卑弥呼一族を、
宗教的権威として利用しようと初期大和朝廷が迎え入れた、
あたりが妥当でない? 大勢力の東遷はないとオレは思う。
航海術で思い出したけど、当時の航海技術はどの位か判る人いる?
対馬海峡をやっとこ渡れる位? 日本海沿岸ならわりと何処からでも半島に行ける位?
それとも東シナ海を突っ切って呉と連絡がとれる位?
関東放置の理由は簡単、当時そんな鄙びた所を征服するメリットがなかったから。
江戸時代まで北海道が放置されていたのと同じこと。
後の遣隋使の時代よりも当時の航海技術はレベルが低かっただろうから、対馬海峡をなんとか渡れるレベルだろうね。
ただ、対馬海峡から日本海廻りで寄航しながらいけば日本海ルートは成立する。
なにも関門海峡を経由する必要は無い。
>>356 遣唐使は東シナ海を横断する無茶な航路をとってたからヤバかったんだと思うけど。
古代、大和は日本国内や朝鮮半島に船で大軍を送り込んでるし、それなりの航海技術はあった気がするが。
出雲あたりからなら直接朝鮮半島にたどり着けんかったかな。どーだろ。
いや、出雲の勢力圏が山口県北部あたりまで及んでいれば海岸伝いで行けるから。
少なくとも半島に行くのは問題ない。
直接、中国に到達するルートは安全というレベルではないだろう。
少なくとも多量の軍隊の移送は無理。
中国から日本への逆ルートはわからない。
高天原は中国大陸かなあ、という気もする。
>>358 弥生人の故郷は揚子江流域の中国大陸らしいからね。その可能性はあると思う。
日本の船の歴史って外洋航海には見るべき物がないんだけど、
大量輸送に関してはびっくりさせられる事が多くない? 江戸時代なんかもそうだ。
室町末期は瀬戸内海や琵琶湖湖上の多量移送はできてたようだけど、あくまでも
国外に出れる仕様じゃないしな。
(九鬼の装甲艦隊は出ようと思えば出れたかもしれない。実績が無いが。)
後の江戸時代は船舶の進歩自体を縛ってるんで発展しようが無い。
まあ、その話は関係ないんで割愛するとして
以前このスレであった「鉄交易ルート仮説」についてちょっと疑問点を挙げておく。
鉄を輸入したかったのはいい。しかし、日本から輸出できるものが無い。
日本にあったのは生活必需品レベルのものだけで当時の日本では金銀の産出も無い。
(はるか後になって東北で金が出て朝廷に献上されている)
原料を輸入して加工輸出するという現代日本のお家芸も当時の日本の技術レベルでは成立しない。
ように思われる。
意味のない日食の話にこだわってるのがいるなあ。
考古学的に九州説がありえなくなったから今度は天文学か。
アマテラス神話ってのは南方系。天岩戸神話もそのルーツは、中国南部、東南アジア。
3世紀の日食見てつくった話じゃないっつーの!
天皇一族のルーツが北方系と決め付けるのもイタイ。日本神話の基盤は南方系で、
そこに北方系がちょこっとのっかてる。文化として取り入れただけなのか、新たな支配
民族が入ってきたのか、断定できるものは何もない。
ただはっきりしてるのは、皇室が今なお鹿児島を特別視してるってこと。今の若い世代は
鹿児島に陵墓があることさえ知らないけどね。おれは天皇一族は、中国南部→九州南部→
九州東部→畿内と入ってきた民族の一派だと思う。邪馬台以前の古代史が解明される
ことは永遠になさそうだがなあ。
>>360 やはり米を売るしかなかろう。
あとは絹と生口(奴隷)。これは魏に献上された事が魏志倭人伝の記述から判る。
重要な輸出品だったのではあるまいか。
>>361 黒潮に乗ってやって来た南方の海洋民族が天皇家の祖先と?
北九州の勢力が東遷したって話よりは説得力があって面白い。
記紀との整合性もあるし。
米は質量に比して価値が低すぎる。生口も同様。それだけの多量移送自体が無理だろう。
輸出・輸入という貿易自体がある程度の経済発展を前提として成立するものであって、
当時の民間レベルでそんなことは出来ない。
国家レベルでのやり取りでも遣隋使の時代ですらあの程度の頻度でしか派遣出来ていない
わけで、はるか後世の日明貿易を見ても現代の我々が考える「貿易」というのとは隔世
の感がある。
>>364 五世紀以降倭は朝鮮半島で度々大規模な軍事行動をおこしている。
それに十数隻の大型船が船団を組んで航海する様子を描いた落書き(?)も発見されている。
こうした事から、大量輸送は意外と当時もできていたんではないかと思うが。
>361
そんなもんぼかすなよ、なぜ中国がある特定地域に拘るのか。
それを貿易レベルで実践するのか?
国力が低下するようにしか思えないが。
3世紀レベルでその規模の船団を作り、難破する可能性を孕みつつ、多量の米や生口の送るの?
そもそも米も生口も中国には多量にあるよ。
ありゃ日本に贈るべきものが無かったから送っただけ、受け取る方も断るわけにも行かないだろうしな。
大体米を国家権力者が貰ってどうするというのだ?鉄の方が重要度は高い。交換に応じる理由が無い。
朝貢というなら話は別だが、朝貢の場合は貿易と言える量まで達しないよ。
台湾には、アマテラスは秦始皇帝の三女という言い伝えがある
そうだよ。徐福が連れて行ったとか。
それと倭人は殷・周時代には貨幣代わりの貝を輸出していたと
記録にあるそうです。それは沖縄近辺でしか採れない貝だそう
です。もっとも漢の時代にはもう銅銭が普及してたそうだから
あまり関係ないけど・・・。
>>367 当時の鉄の生産地は任那だ。朝鮮半島南部。
朝鮮は日本に比べて土地が痩せていて、国土も狭い。稲作には向かない土地だ。
そこへ大量の米を持って来られれば、現地の豪族や鍛冶屋としては有り難いだろ。
中国との外交はその延長であってメインではない。それに、朝鮮半島は日本からは近い。
たいしたリスクなく交易が可能だったと見るが?
ならその貿易ルートが後世に全く残ってない理由がわからないよ。
その後の日本が古代に鎖国政策を取ったわけではないんだから、貿易ルート自体は残るだろう、普通。
鉄が日本で精錬できるようになったから日本側に輸入の理由がなくなったとかか?
371 :
日本@名無史さん:04/02/15 17:50
三韓は倭人が利権握ってたって電波飛ばしてる研究者もいるじゃん。
倭人半島会社?みたいなの。それなら交易というより単なる物流と
いっていいんじゃないの?
大体魏志以前から漢本国や高句麗、扶余などと係わりをもっていた
と書かれている倭人の活動圏をそんなに小さくみることないんじゃ
ないの。
天文学も神話も交易ルートもなんでもかんでも
自説の為に否定してる人がいる、畿内説の立場から見てても見苦しいぞ
畿内説はおまえの妄想説じゃないんだけどな
>>370 韓国南岸からは倭の品が多く出土している。前方後円墳まである。
それと、朝鮮半島に近い北九州、出雲から多量の鉄器が出土している。
以上の事から当時朝鮮と日本とで活発な取り引きや往来があった事は間違いないと思う。
おりゃ別に自説があるわけじゃないし、交易ルート説だけに文句言ってるだけだけどな。
交易ルート説はかなり苦しいよ。
仮説として面白いとは思うけど、リアリティが無さ過ぎる。
複数の人間に突っ込まれてるんだよ、君の説は。
俺個人は神話重視派。
375 :
孤高の24歳無職:04/02/15 18:17
徐福がつれていった始皇帝の3女が
天照だというのは面白いね。
その当時中国の技術や米の生産技術を
教えたりすれば崇められただろうし
それで倭国内で地位を得て神格化していったと
考えれなくもない。徐福の墓も和歌山あたりに
あるらしいし畿内が栄えたのは徐福が
中国の技術をもちこんだおかげかもしれないな
>天岩戸神話もそのルーツは、中国南部、東南アジア。
元になった神話出してみ。
>>370 一つの考えとして、
出雲大社の空中神殿を作った資金は何処から来たんだろう……というのじゃダメかな。
最近発見された高さ48メートルの平安〜鎌倉頃の神殿遺跡なんだけど。
なんでも最大動員時で1000人の人手が必要だったとかいう。
朝鮮半島から日本海を渡るルートがかなり長い時代盛況をはくしていた事の証明にはならないだろうか。
神話重視派とか言っといて
さらに上記のいいかげんな発言、元になった神話も未だ示せず。
>378
それはおれじゃないっつーのに。
>>378 あんたも複数の人間を混同していい加減な事いってるなw
381 :
日本@名無史さん:04/02/15 18:26
>その当時中国の技術や米の生産技術を
>教えたりすれば崇められただろうし
>それで倭国内で地位を得て神格化していったと
日本が、西洋からの技術顧問やお雇い外国人を、神格化したりしたか?
和魂洋材の精神ですよ、良い物は取り入れて自分の物にする。
まあ、東遷に関して言えば
絶対に不可欠なものは、馬と鉄だと思うよ。
384 :
孤高の24歳無職:04/02/15 18:32
>>381 それは時代の違いでしょう。
紀元前の日本など国という概念は
なかったでしょうし、ただ単に生活を
より豊かにしてくれる力のある人が
偉いという世の中だったでしょう。
今より神とかへの信仰も強かったでしょうしね。
明治のころの富国強兵と同一視して
考えるのはどうかと思います。時代背景が
違いすぎますしね。
この件に関しては >384 に同意。
>>383 何故?
遺跡の無理な解釈位しか説明してないよ、九州人は排除とか(w
あとは妄想じゃん
>>386 その無理な解釈を否定する材料を何も提示できない奴がでかい事いうなよ(笑)
なんか誰がどの話をしてるのか見えなくなってきたよ(w
IDも出ね絵師。
じゃあ無理な解釈と認めてるわけね、それなら納得。
>>386 自分は元となった神話を示せとか言ってるクセに
俺は
>>361でこう言っている人がいるから
>意味のない日食の話にこだわってるのがいるなあ。
>考古学的に九州説がありえなくなったから今度は天文学か。
>アマテラス神話ってのは南方系。天岩戸神話もそのルーツは、中国南部、東南アジア。
言い切るんならそのルーツを示せと言っているんだがな
>>361は消えたのかな。
今ごろ必死にクグッってるのかな?
393 :
孤高の24歳無職:04/02/15 18:45
少なくとも卑弥呼の時代までは馬は日本にはなかったと
思います。倭人伝を読んでも街道は獣道のようだと
書かれていますし、邪馬台国へも水路を使って行ってますし
なにより倭人伝にはっきりと馬はいないと書かれています。
394 :
日本@名無史さん:04/02/15 18:47
九州王権の東遷はあったのか?このスレッドの本題だね
答え・・・・・あった 文句ある?
けど東遷説の人って神話の解釈論ばっかで考古学的な根拠を示す人いないよね。
ま、そんなもん無いからしかたいんだがw
俺は391じゃないけど
天岩戸神話は東南アジアや中国の苗族の神話に類似性が見られるのは一般常識だと思うが。
苗族の場合はこうだ。
「昔、10個の太陽が出現し暑くてたまらないので9個まで射落としたが、最後の太陽は
山に隠れ暗黒になってしまいました。
賢人たちが相談し、いろいろな動物に命じて太陽を呼び返えさせようとしましたが成功
しません。最後に雄鶏が大声で鳴いたら、太陽が東の山から出てきました。
そこで天地が明るくなり、雄鶏は王冠を貰った。」
ただ、これは「日食」を経験していれば発生するであろう神話だし、必ずしも
「天岩戸神話がここから派生した」と言えるものではないと思う。
398 :
日本@名無史さん:04/02/15 18:53
倭人伝に馬がいないと書かれていることを信用するとして
日本列島に一匹も馬がいない状態、馬を見たことさえない状態
これならばなおさら馬が重要になってくる。
最小の馬(数頭)で神扱いじゃないか?
アステカが馬に乗った人間を見て恐れおののいた
そして少数のスペイン人によって崩壊した、アステカに似てないか?
普通国名は変えないでしょう。
別の国が大和になったとは思えない。
400 :
日本@名無史さん:04/02/15 18:55
オレ的には朝鮮の影響を受けた北九州勢力の東遷よりも、
黒潮に沿って南九州に漂着した人々が更に黒潮に乗って畿内に達した。
彼等が後の邪馬台国の元となった……とする方が、無理なく納得できる。
神武東征神話の出発点は筑紫ではなく日向なんだしね。
>398
あれは「白い人が神の使いとしてやってくる」という神話があったのでそれにうまく乗っかっただけ。
インドネシアで「北方から黄色い人がやってきて我々を解放し実り頃に帰っていく」神話に日本人が
はまったのと同じ。
403 :
孤高の24歳無職:04/02/15 18:58
>>394 卑弥呼の時代より前に九州の最大勢力が最終的に東遷して畿内に
都を置いたというのは賛成ですが、記紀のように
いきなり九州から畿内に王が入ったとは思いませんね。
戦国時代をみてもわかるように周辺諸国を平定しなければ
京の都には上れないように、西から東へ徐々に勢力を拡大していって
最終的に畿内に都を置いたということでしょう。
鉄砲持ったマゼランを、東南アジアの原住民がぶっ殺した事もあるしね
405 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:03
>>402 神武東征神話の軍事的裏付けはやはり馬と鉄
いくら南九州の隼人が剽悍でも
被征服地域と同じレベルの技術力しか持たないなら、南方系だけで東征なんかできない。
馬と鉄が裏づけとして、それがどの程度の戦闘力なのかは日本国内ではわからないんではないか?
鉄砲がその実力を当初理解されなかったように。
そんなら国外の鉄と馬を持った勢力が日本に攻めてくる方が自然な感じがする。
407 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:08
>>371 >>魏志以前から漢本国や高句麗、扶余などと係わりをもっていたと書かれている倭人
そういう記録あるの!?
409 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:11
>西から東へ徐々に
むしろ電撃戦と言えるほど早かったのではないかと。
全てを支配するのではなくて
瀬戸内海沿岸を懐柔しあるいは征伐、今の大阪平野にたどり着けばよかったのだから
必要なのは「瀬戸内海交通の安全とフロンティア(畿内平野の一部)」これだけ
邪馬台国が北九州から東遷するってシナリオは考古学的には大和発生説に劣る。
一方文献的には南九州の民が黒潮に乗って畿内に入ったと考えるのにも劣る。
411 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:15
>鉄砲がその実力を当初理解されなかったように
戦国時代の鉄砲なら理解されまくってるじゃん
いやいや、騎馬民族説はまったく支持しないけどね。
それよりもリアリティが無いぜ、ってことさね。
413 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:18
大和で自然発生?
信長みたいな奴がいきなり畿内平野で天下取るゾ〜みたいな感じ?
>>413 てゆーか纒向の発掘状況を見ると、日本各地の豪族が大和に集い、
新国家の都を建設する事で合意して大和朝廷はスタートした、みたいな感じかなぁ。
415 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:26
>>414 新国家の都を建設する事で合意して大和朝廷はスタートした
で都ができたら新国家?近代的ですね(藁
そーなんだよ、どうも近代的思考で考える奴が大杉。
時代背景考えろっつーの。
417 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:28
朝鮮の影響を極力否定したい派・・・畿内説
説じゃなくて右翼思想なんだよね、こいつら
>>417 だって大和からは九州の影響を思わせる物が殆ど出ないじゃーん。
419 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:33
>>418 なんでか教えてやろうか
九州もまた被征服地域なんだからだよ
420 :
孤高の24歳無職:04/02/15 19:39
みなさん、地政学上のファクターを軽視しすぎですね
なぜ江戸幕府が鎖国したのか。そして薩摩長州が
幕府を上回る力をもつに到ったか考えてみてください。
常に日本は大陸からの影響を強く受けるほうが力が強いのです。
邪馬台国の時代、すでに西日本に連合国家体制ができていたと
考えられるので、畿内勢力が畿内〜九州に渡って統治するだけの
武力があったか、それとも九州勢力が徐々に畿内にまで
勢力圏を広げたか。歴史を鑑みるに明らかに後者だと私は考えますが。
それは俺もそう思う。でも土器やら銅鐸の問題が説明できない。
422 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:47
外から影響の受けにくいニューギニアみたいな島で大和朝廷ができるか?
原住民が人数を頼んで外敵を排除していったら
今ごろ日本は樺太みたいな地域に鳴っていたと思う。
423 :
孤高の24歳無職:04/02/15 19:51
>>421 蘇我氏や物部氏のように朝廷内の派閥抗争で
九州勢力が負けたと考えるしかないですね
想像でしかないですが。邪馬台国の時代までの
王は卑弥呼や台与をみてもわかるように
世襲制ではなく合議制だったように思われますしね。
あとは土器は九州以外の職人に作らせていたとか
そのくらいしか思い浮かびません
424 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:57
土器やら銅鐸が示すようにプレ大和朝廷と言うより文化圏のような物は畿内にあった
でも残念だけど東遷で大和朝廷が始まったんだな
プレ大和朝廷(文化圏)も原型は大陸の影響と血と情報の流入。
原住民だけでは何も始まらない。
425 :
孤高の24歳無職:04/02/15 20:07
>>424 なるほど。土器や銅鐸が邪馬台国以前に作られたものだと
したら、原住民による文化圏の遺物ですね
大陸からの影響が無かった時代の話をしてもしょうがないんじゃない?
>>427 平清盛がなんで神戸に宮を作ったか知ってるか?
貿易利権の話をしてるんだろうけどさ、
> 420が言いたいのはそういうことじゃないんじゃね?
軍事力に影響を与えるエポックな情報は常に外来でやってくる
と言うことがいいたいように思える。
古代なら鉄であり馬であり、薩長ならイギリスとの関係であると。
(さすがに薩長の時代で西の方が有利とかいうのはどうかと思うが)
清盛の時代にそんな軍事上の技術革新は起こってないだろ?
東国の兵力の方が明らかに多くしかも技術格差はほとんど無い。
あなたの言ってるのは単なる揚げ足取りじゃないの?という気がします。
430 :
日本@名無史さん:04/02/15 20:29
昔、自分の所属している地域が他勢力に影響を受けた事(戦で負けた事も含む)
が納得いかないで、歴史を歪曲解釈するなんて
畿 内 説 は 朝 鮮 人 的 思 考
431 :
孤高の24歳無職:04/02/15 20:30
>>426 それとこれと話が違います。
平氏は平氏にあらずんば人にあらずと
いったように横暴な政治をしてたのや
清盛の死や頼朝を生かしておいたことや
軍事的天才の義経の出現などが重なり
敗れたのです。
432 :
孤高の24歳無職:04/02/15 20:33
>>429 そうです。軍事力に与える影響や後ろ盾の
事を言いたかったのです。
だけど纒向からは九州の影響は見られんわけでしょ?
それなのに九州が初期大和朝廷の中心になったと考えるのは無理があり過ぎる。
434 :
日本@名無史さん:04/02/15 20:40
基本に戻れ
「倭地は温暖、冬夏生菜が食せる。皆はだし」
現在より寒く、小氷期であったと考えられる時代の奈良でこれは
ねーだろ。今でもひどく寒いのに。
九州、というかそれも南としか考えられんよ。
それともう一つ。大陸との交流は出雲の縄張りである日本海からでもできる。
出雲から大量の鉄器も見つかってる。
邪馬台国の時代は関門を通る瀬戸内航路は廃れてて日本海航路の方が発展している。
九州・関門を押さえれば大陸の情報を独占できるという事は無い。
436 :
孤高の24歳無職:04/02/15 20:52
>>433 畿内の原住民が九州〜畿内までを征服し
連合国家を作ったと考えるほうが
無理があります。
>>434 中国、朝鮮の使者はそもそも九州までしか
きてなかったように思われますしね。
でも九州も奈良とたいして変わらないくらい
寒いと思いますが。現代人の感覚ですけどね。
>>435 ですから記紀でもわかるように出雲と
大和政権との間に大規模な戦があったのでしょう。
>>436 畿内には大陸の情報を入手するルートが日本海と瀬戸内の二系統あった。
纒向から出土する外来土器で東海についで二番目に多かったのは山陰のだ。
畿内勢力は出雲経由で多くの大陸の文物を入手していた事が推測できる。
それに畿内の開発はが進みその力を飛躍的に向上させている。
農業生産力を基盤とした畿内の力は決して侮れない物だった筈だ。
九州勢力の東遷を受け入れずとも畿内に連合政権は作れたと思うが?
>437
畿内勢力の出雲併呑は歴史的に見ると後じゃないか?
日本海側が空いてるってのは確かだが。
439 :
日本@名無史さん:04/02/15 21:10
奈良は聖地で各勢力はそこに墓を作りにきただけ
だから前方後円墳などという寄せ集めの様式が突如生まれた
「オレが死んだら奈良に埋葬してくれ…」
かくして奈良は死者の都となりました
だから普段そこに住んでいたのは葬儀屋みたいな葬送氏族
だけなんだよ〜
偽誌倭人でんねん
>>438 纒向時代には畿内と出雲とで同盟があったんじゃないかな。
ただ古墳時代は長いし、どこかで決裂があんたんじゃないか。
例えば、大和が瀬戸内を押さえて出雲を必要としない統治システムを確立してから
用済の出雲を潰した、とか。
441 :
孤高の24歳無職:04/02/15 21:30
いずれにせよ、九州のほうがわざわざ出雲経由で畿内に
いくよりはるかに地理的に朝鮮、中国からの影響は受けやすい。
それに出雲から朝鮮まで補給なしに日本海渡れるほどの後悔術が
あったのかも疑問だ
>>441 山口迄は出雲の縄張りだからそこから渡れば、という話が今日出てたな。
それに、二〜三世紀頃は瀬戸内よりも日本海の方が栄えていたというデータもある。
よって、出雲・日本海勢力の存在は軽視できないと思うんだけど。
443 :
日本@名無史さん:04/02/15 21:38
九州は玄界灘、東シナ海と周防灘、瀬戸内、太平洋との2つの地域に大別できるが、
後者は東日本にまで続く縄文時代からの統一性が前者ほどには破られておらず、
この北西と南東の対立はずっと続くものである。又太平洋岸、裏日本では後者の方との
つながりは非常に長く延びているものであり、前者の玄界灘の初期弥生遺跡にも既に
東北の代表者が参加している。縄文時代から他の日本列島と一体を維持している地方
である日向から東方への移動は別に戦闘的になるようなものではなかったのではないか。
弥生初期の高知の居徳遺跡の戦闘は大陸金属文化の直接的影響によるもので
例外的なものと思う。吉野ヶ里から始まる倭国乱の戦闘はユビキタスな現象であって、
ユーラシア草原で騎馬民族が見せたり、西部劇に出てくるようなかっこいいものは
神武とか桃太郎のような童話の世界にしかなかったのではないだろうか。
444 :
孤高の24歳無職:04/02/15 22:09
では結論は中国側の影響を受けていた
九州勢力がムー大陸側の影響を受けていた
畿内勢力に敗れたということでよろしいのですか?
445 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:20
山險しく深林多く、道路禽鹿の徑の如し。 ・・・山海に濱(そ)ひて居り、草木茂盛して、行くに前人を見ず。
こんなところで隊列を組んで進軍できるわけがない。インパールじゃあるまいし。
一つ疑問がある。仮に邪馬台国が纒向であれば、
日本海ルートなら若狭から琵琶湖までちょびっと歩けば後は全て船で行ける。
瀬戸内ルートなら(纒向まで運河も掘られてたし)水行だけで到達できる。
この時代の道路事情を考えたら、全てを水行だけで移動してもよさそうだと思うが。
まぁ、九州でもこりゃ同じなんだけどね。
447 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:30
>>444 ムー大陸側ってどういうこと?海人族のこと?
ネタに混じれ酢すなよ
449 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:51
纒向纒向とこだわる畿内説を見てると
吉野ヶ里吉野ヶ里と繰り返していた九州説を思い出す。
450 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:53
漏れは纏向遺跡のことはぜんぜん知らないけど、記紀を読んでずっと纏向には何かあるなと思ってた
>>449 吉野ヶ里と違って、纒向は年代があってるけどな
452 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:55
吉野ヶ里っていつ頃の遺跡なの?
453 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:57
>>446 南のかた「投馬國」に至るに水行すること二十日。 官曰く「彌彌」、副曰く「彌彌那利」。
五萬餘戸可り。 南のかた「邪馬壹國」、女王之都する所に至るに、水行すること十日と
「陸行すること一月」。 最終点の「陸行すること一月」が問われているのだと思う。投馬国までは
邪馬台国の同盟国、吉備の支配が及んでいたのかなー。投馬を鞆(広島県東部)と見て。
454 :
日本@名無史さん:04/02/15 23:00
官曰く「いよいよ」、副曰く「いよいよなり」。でいいの?
投馬國の五万戸って相当なもんだよね。
畿内説としては吉備か出雲が比定地になるのかな。
日本海からどこかに上陸してあとは全部陸行だと陸行一月も通じるけど……。
近江を東海の狗奴国が押さえてて琵琶湖→淀川ルートが使えなかった、と言ってみる。
魏誌のころ、魏が倭に求めたことはなんだったのでしょう。
中国大陸にあっては出来ない事。海の反対側に倭国があって、はさみうち
的に思う、ただただ良国として親善を求める...私なら、危ない国をはさみうちで
けん制したいと思います。海の外にあってそこから見張ってもらいたい。
それじゃ、倭国は何が得意かな、と考えると、航海術!今の人が思うより
当時はめちゃめちゃ他国に優れて航海術が優れていた...
なんで、ったら、昔から航海して、倭に来た技術の蓄積があるから、その真髄を
持ってたのが北部九州の人。魏も大和もその技術が欲しい。(あとでは、航海術も騎馬装備も
手に入れる。)でも、250年頃なら、その技術は北部九州にあって、一大率をもって
(アメリカのCIA)みたく技の漏洩等々防いだかな。北部九州の人達は日本の他国の人たちに対して
へへん、鼻たーかだかだったかも。(だからのちのち悪さばかり)
当時の魏がなんも判らないバカ国のはずないもんねー。当然、畿内の大和も欲しがる...
457 :
日本@名無史さん:04/02/15 23:36
纏向遺跡の発生メカニズムとあの場所である必然性が知りたいね
過去スレで諸豪族の話し合いであそこを都と決めたと言っていたがそれはないだろ
それとも信長みたいな奴がたまたま纏向遺跡に湧いたとでも?
日本にだけ独立した航海術が発達してる可能性はほぼ0。
>>457 纒向がなんらかの明確な意図を持ってあそこに建設されたのは間違い無い。
それに多分、日本の相当広範な勢力がその建設に参加している。
どうしてそうなったかは判らんけど。
460 :
日本@名無史さん:04/02/15 23:56
畿内が九州を征服したにしても九州が畿内に東遷したとしても、
大船団で軍隊が移動する必要があるよね? 当時の道路事情考えたら。
後々の朝鮮での軍事行動や袴狭遺跡の船団の落書きなどから考えると、
当時船によるかなりの大量輸送が可能だった気がするんだが、そのへんはどうだろう。
462 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:12
俺は纒向発生原理はっきり推理するけど
東遷で威伏させた周辺豪族の力を殺ぐ意味と威信を示す意味があったと思う。
巨大古墳は九州から来たいわば新参者の支配者が威信を示すためにどうしても巨大でなければならなかった
畿内説だと今まで豪族がお互いなあなあでやってきていきなり古墳群を作るのは不可能だし意味を見出せない
463 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:15
○| ̄|_ =3 プッ
プ
465 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:18
古墳の巨大化こそ九州からきた大王が畿内支配のための必要な措置だった
いわば家康が江戸城を外様大名に作らせたり
信長が荘厳な安土城を作り威信を示すようなもの
466 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:18
軽蔑の意味を込めた放屁
467 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:19
○| ̄|_ =3 プッ(再
469 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:20
>>462 それだと纒向に九州の土器が出ない理由が説明できない。
畿内か吉備か、それは判らないけど誰か強力な力を持った王が出現し、
そいつが半ば力づくで周辺の豪族を従わせ(同盟を組み)、交易利権を九州から奪った。
纒向はそいつが作ったんだと思うけど。
471 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:20
放屁してる奴、異論があるなら反論すればいいのに
>>465 強力な王が現れて、そいつが自分の権威を示す為に纒向を作ったという考えは同意。
確かに利にかなっている。それが九州である必要はないが。
473 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:23
邪馬台国は九州にあった説が有力だが、
俺は奈良大和説を推す。
理由はない。
474 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:23
> 纏向遺跡最大の特徴は、 出土した土器のうち約三割が大和以外の外来の土器である点です。 それら外来の土器は南九州から南関東にいたる日本列島各地のものであり、 中でも東海地方の土器が最も多く、 朝鮮半島の韓式土器も出土しています。
また吉備地方に起源を持つ「弧紋」という紋様を施した木製品や、 鶏形の埴輪や木製品など、 祭祀に関係すると思われる遺物が多く出土しています。 これは纏向遺跡が物資の集散地であった証拠です。 このような遺跡は全国でも纏向遺跡だけです。
475 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:24
九州説は学界的には既に異端ですよ。
>>473 心配するな。九州説はもう死にかけている。
>強力な力を持った王が出現し
強力な力を持った王が出現するために何か革新的技術など裏付けが必要
いきなり「畿内の片隅に天才が現れた(信長?)」とするより
九州系のすでに力を持った大王が圧倒的技術と大陸系の新戦術で
東遷してきたと考えるほうが普通に考えられる。
479 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:28
ととひももそひめタン♥
>>478 九州で強力な王権が発達し、畿内では発達しない考える合理的な理由はない。
>480
おれは478ではないけど
九州なら地理的に技術・戦術を一部のクニが独占的に入手して他を制圧する事が出来る。
畿内だと技術力格差が生まれにくいのでは。
伝播経路が遠すぎる。日本海経由だとすると、出雲の方が先に畿内まで制圧できてしまう。
482 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:34
○| ̄|_ =3 ブリッ
>>480 むしろ九州内ではドングリの背比べで強力な王権は無理だった(邪馬台国卑弥呼)と推察する
九州の豪族も文明の遅れている畿内にいけば周辺との差は歴然、そこが強力な王権の素地
484 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:36
○| ̄|_ =3 プー(嘲笑
さっきから放屁荒しがいるけど畿内説の末路ってかんじだな
そうとう悔しいが反論できないと見た
>>481 畿内への大陸系技術の輸入ルートは関門海峡から瀬戸内海へ、のみでは無い。
日本海を通って畿内に達するルートがかなり発展していた事が判っている。
九州による大陸技術の独占はありえない。
>483
そこで東征ってことですか。
>486
出雲勢力の存在はどうする?
489 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:42
九州王朝東遷説なんて神武東遷厨の脳内小説。
>>483 1世紀に東遷があったとするなら必ずしも反対はしない。
しかし二世紀末以降(纒向建設以後)に東遷があったとは考えられない。
491 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:44
プレ邪馬台国が九州(筑紫?)のほうにあったというのは賛成だな。近似している地名も多いらしいし、移動があってもおかしくない
>>486 日本海ルートでは出雲でワンクッションおかないといけない
つか、北九州と出雲で独占してたんだと思う。
北九州系と出雲系が戦争になれば試合になるが
畿内の土着ではムリムリ
>>488 纒向から出土する外来土器で東海についで数が多いのが日本海系。
初期大和朝廷内で出雲の存在は大きな物だったんじゃなかろうか。
ひょっとしたら九州勢力を破る時、出雲の役割は極めて大きかったかも知れない。
出雲は大量の鉄を持っていた事が判っているし。
494 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:45
C=_| ̄|○
495 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:45
>>490 纏向は崇神朝くらいだから、先祖は東遷してきてたんじゃない?
496 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:46
>>493 東海や出雲から献上された物じゃないの?
497 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:49
権力が移動したことを示す痕跡が瀬戸内・山陽道には何一つ残っていない。
東遷説は嘘っぱち。
○| ̄|_ =3
498 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:50
天孫降臨は九州っぽいよね
>>496 そうだとしても、河内まで来ている九州の土器が纒向に入って来ないのはおかしい。
3世紀以降九州の遺跡は衰退している。
1世紀ごろに東遷があったとしてもあくまでも九州の一部勢力で、
3世紀には九州の本体勢力は初期大和朝廷に屈服させられ纒向政界から排除されていた物と推測される。
500 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:51
○| ̄|_ =3 プゲラッチョ
>>497 おまえ
○| ̄|_ =3←これやめたら明確な説明してやってもいいけどな
低脳みたいだから以降も放置するわ
ともかく東遷説は考古学的な裏付けがなさ過ぎる。
勝手な理屈だなw
>>503 ほー。じゃあどんな考古学的な裏付けがあるんだ?
505 :
孤高の24歳無職:04/02/16 00:55
卑弥呼の時代より少し前の
1世紀に九州の奴国が漢の光武帝に
朝貢し金印をもらっています。
これはつまり九州内で国同士の戦があったので
後ろ盾がほしかったからだと推察されます。
しかしこの時期畿内方面は中国の文献に
朝貢した記述はみられません。つまり1世紀においては
九州のほうが畿内より先進的だったと思われるのです。
そして卑弥呼の時代の3世紀になり畿内大和政権が
魏に朝貢してるところから察すると、3世紀以前に
力のあった九州勢力が本州に勢力を拡大した結果
畿内に東遷したと私は考えるのです。
>502
あるわけない。劇画レベルのお話だ。
507 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:55
>3世紀以降九州の遺跡は衰退している。
>1世紀ごろに東遷があったとしてもあくまでも九州の一部勢力で、
>3世紀には九州の本体勢力は初期大和朝廷に屈服させられ纒向政界から排除されていた物と推測される。
それ九州説
おおかたこれに近い経緯だったと思う。
510 :
日本@名無史さん:04/02/16 00:57
>>504 503は501の悪態を諭したものです。
>九州の本体勢力は初期大和朝廷に屈服させられ
土器が少なくなったのはジェノサイトがあったわけではなく
九州豪族の本拠地が暫時畿内の大和王権の地に移動していった結果。
屈服というより九州の人は近畿大和朝廷中核構成員そのもの
それまでの畿内原住民は生口として魏に送られたんじゃないかな(w
514 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:03
畿内説
1「邪馬台が畿内発祥→卑弥呼→大和朝廷」(畿内邪馬台+発展)
2「邪馬台が畿内発祥→卑弥呼→別勢力に滅ぼされる」(畿内邪馬台+滅亡)
3「プレ邪馬台が九州発祥→東遷→卑弥呼→大和朝廷」(東遷邪馬台+発展)
4「プレ邪馬台が九州発祥→東遷→卑弥呼→別勢力に滅ぼされる」(東遷邪馬台+滅亡)
九州説
5「邪馬台が九州発祥→卑弥呼→東遷→大和朝廷」(九州邪馬台+東遷+発展)
6「邪馬台が九州発祥→卑弥呼→東遷→別勢力に滅ぼされる」(九州邪馬台+東遷+滅亡)
7「邪馬台が九州発祥→卑弥呼→別勢力に滅ぼされる」(九州邪馬台+滅亡)
>>513 だから「河内まで来てる九州系土器が、何故纒向に入ってないのか」を説明しろよ。
畿内説の4あたりが一番よさげな気がする漏れ。
或いは2。
いずれにしても邪馬台国→大和朝廷はないように思う。
517 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:08
畿内の原住民は山陰に送られて大量殺戮。
その地を「出雲」(=天照を隠す)と命名して、出雲大社を作った。
同時に、原住民が使っていた銅鐸と銅剣を大量に廃棄。
>>516 前方後円墳=箸墓を作った纒向の政権が邪馬台国だとしたら
邪馬台国→大和朝廷は結構あるんじゃないか?
オレは1か3を支持。
519 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:09
○| ̄|_ =3
やめられんw
>>514 このスレッドの放屁君を代表とする畿内説は
それの1と2(邪馬台が畿内発祥)じゃないと納得しない子供右翼
荒しと揚げ足取りに必死になっているのが解る
もうそろそろ選択肢から1と2を消してもいいんじゃないかな
521 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:11
名前までつけてもらった・・・
>>520 ついでに5、6、7もいらんな。
九州説なんてもう死んでる。
523 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:12
九州説なんてシロートですよ。
524 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:12
ID制導入しろよ。アホ畿内説の人間をあぶりだしてほしい。
要は、記紀の神話(東遷伝承、九州重視の伝承)を後世の捏造、
100%嘘っぱちだと信じたいんだろ。マルキシズム的だね。
525 :
孤高の24歳無職:04/02/16 01:13
邪馬台国と大和朝廷は別物ではないと思いますが。
普通に邪馬台は「やまたい」と読まず「やまと」と
読めば済むだけの話であって、無理やり「たい」と
読むことはないでしょう
526 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:13
だって捏造だんべw
527 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:13
包皮くんよりは九州説のほうがマシw
邪馬台国は女王系なんで、これが畿内の大王家に入って何世代かの婚姻関係
の後に吸収されたと思ってるんだけど。
(なんか古事記あたりの文献を混ぜた意見ですが)
そういう意味では邪馬台国は大和朝廷の一方の土台ではあるけど、最終的に
男系相続になっていることからすると吸収合併に近かったのではないかと思う。
ただなー、女王が婚姻してしまうとその聖性が失われてしまうわけで
それだとすると1代で吸収合併の方がつじつまは合うんだが。
529 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:14
>>524 オレは畿内説だが記紀の記述は信用してるよ。
東遷神話の元ネタは中国大陸南部から日向に流れ着いた人々が、
更に黒潮に乗って畿内に到達したエピソードだと思っている。
九州説の人よりずーっと記紀に忠実さw
531 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:15
たった五分で
1〜7の説のうち
3と4だけにしぼられました(w
533 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:16
女を差し出すってのは、負けたってこと。当然その前振りとして対立・抗争がある。
九州の卑弥呼が遠路はるばる大和まで来るわけねえだろ。
卑弥呼も畿内人、邪馬台国も畿内なの!
534 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:17
前スレと比べて異様にレスが早い
そもそも、あっちこっちの勢力を鳩合して新しい国を作ったわけだから、
畿内発祥とか九州発祥とかいう切り口が無意味だな。
畿内勢力だけでもできないし、九州だけでもできない。
正常人は1だ罠
537 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:19
○| ̄|_ =3
腹具合がおかしいぞw
538 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:19
>>528 女王といっても巫女王だよ。
大和朝廷でも皇位継承がやばくなったときに皇族の女性が称制したりしたよね。
>>534 Live2chの実況モードでちょうどいいくらいになってきたw
539 :
テンプレート、ここからはじめよう:04/02/16 01:20
畿内説
1「プレ邪馬台が九州発祥→東遷→卑弥呼→大和朝廷」(東遷邪馬台+発展)
2「プレ邪馬台が九州発祥→東遷→卑弥呼→別勢力に滅ぼされる」(東遷邪馬台+滅亡)
九州説
3「邪馬台が九州発祥→卑弥呼→東遷→大和朝廷」(九州邪馬台+東遷+発展)
4「邪馬台が九州発祥→卑弥呼→東遷→別勢力に滅ぼされる」(九州邪馬台+東遷+滅亡)
5「邪馬台が九州発祥→卑弥呼→別勢力に滅ぼされる」(九州邪馬台+滅亡)
>>531 4はないだろ。邪馬台国が纒向・箸墓を作ったのなら邪馬台国=大和朝廷。
ありえるのは1か3だ。
少なくとも5,6人参加してるよね、このスレ。。。
確かに誰が誰かわからんので、各々の意見がよくわからん。
トリップってどやってつけるんだっけ。
542 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:22
21世紀になっても東遷を信じてるやつがいるから不思議だ。
>539
東遷を前提にするのはおかしいだろ?
東遷説の奴らに一言。
「証拠を出せ!」
545 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:23
○| ̄|_ =3 ブリブリッ
すっきりしたわい
本気で議論するヤツの気が試練。余裕を持てや。
547 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:25
>>541 トリップは「名前#○○○(任意の暗証)」かな
>>544 東遷説ってプレ邪馬台国の東遷も含むの?
548 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:25
_,.-‐‐‐‐--、___,,,,_
/ 、 `'ヽ、
/ , / / , ヽ \
,.' / // / // / i l ヽ ヽ
/〃/| | l / /,/ l l | l `、
// / _,l-H、/| / l l /l_/l || l l
// | |_,!ュ=ト' | | | l'/´l/ト、ll l l
//)_/イ-'。oi' l { |l/,;=!;,、_ ト、l l l
>>545クンさ、かっこわるいよなんとなく
〈 / / / )、辷シ ハ-'。oi、l` l | i l
∧i レ ハ  ̄ r 、ゞニトルド| l |l l
ヽ l ! | ト、ゝ , , ` ̄'7 ! |l |l |l |
ハト ` \ 'ヽ ' ' / l || || |l !
ノノ| l\ \ ` _,/ /l /i lト、 ll !
/ ノl/ノリ\ )__,,. -‐ ''" //イ| l| | ト、ヽヾ丶、
´ 〃/ノ//|l i> /_| 〃/ || || !| i \ーニヽ
ー=彡/〃 ___/ / \ ノ/-|| ||/ |l ト、\`ー-ニ二
/ _,.r'ヽ' /ヽ \/ /l |l ヾヽ\`ー`゙''ー-、
l ハ/ \ / > /[ ]\ /ヾ、 / ハ
j / \ \__ノ/ / ハヽ \ / < / l
// \ O> /〉 | i | | l ヽ | \ / /\
/ / `ー-一/ l | | | / / / ヽ
|/ ○ / / l | | / / i i
>>547 どうだろう……。プレ邪馬台国東遷説には何か考古学的な根拠はあるの?
自分は3世紀以後の東遷はないと思ってるんだが、それ以前はあまり考えてなくて。
2「邪馬台が畿内発祥→卑弥呼→別勢力に滅ぼされる」(畿内邪馬台+滅亡)
4「プレ邪馬台が九州発祥→東遷→卑弥呼→別勢力に滅ぼされる」(東遷邪馬台+滅亡)
九州説は論外として、俺は上のどっちかを支持。
女王のクニが男系相続になるのはどう考えても変。
邪馬台国が滅ぼされたというよりは吸収合併派だけど直接の母体とはなってないと思う。
とりあえず他の奴の意見と混同されてたたかれるのはいやなので漏れはトリップつける。
真実は一つだな
552 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:31
>>543 邪馬台国畿内発生派はの発言は放屁AAだろ,もうグウの根もでないんじゃん
・豪族が集まって話し合いで都を作り国家を建設した、とか
・九州人を排除した、とか
・東海の民は期待した、とか
子供っぽいんだよね
553 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:31
大和で死んだから大和に墓がある。簡単なことだw
554 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:32
>女王のクニが男系相続になるのはどう考えても変。
もともと邪馬台国は男系だよ
>552
そりゃ一部の誰かだけの意見。
「東征あり」の根拠は無いよ。
AAの奴以外でも幾つも指摘が出てる。その意見自体はそれなりに納得できるよ。
俺は東遷についてはグレーだと思ってるので、2の意見は残す。
556 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:35
しかし東遷説は妄想だからな、やはりクソだな。
>>550 大和朝廷でも度々女帝がたってるし、邪馬台国と大和朝廷は強い繋がりを感じる。
箸墓が本当に崇神天皇の時代の巫女の墓かは判らないけど、記紀の頃にそう比定したのは
当時の大和朝廷の人々にとって強力なカリスマor権力を持つ女性がいる事はさほど違和感は
ない事だったんじゃないかな。
558 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:37
存外放屁クンの言うとおりなのかも知れない。
559 :
東遷邪馬台+発展:04/02/16 01:37
女王の話は東南アジアに広く分布している
561 :
○| ̄|_ =3:04/02/16 01:40
オレのおかげで議論に活気が出てきた。感謝しろよ。じゃあな、また。
_,.-‐‐‐‐--、___,,,,_
/ 、 `'ヽ、
/ , / / , ヽ \
,.' / // / // / i l ヽ ヽ
/〃/| | l / /,/ l l | l `、
// / _,l-H、/| / l l /l_/l || l l
// | |_,!ュ=ト' | | | l'/´l/ト、ll l l
//)_/イ-'。oi' l { |l/,;=!;,、_ ト、l l l バイバイ
〈 / / / )、辷シ ハ-'。oi、l` l | i l
∧i レ ハ  ̄ r 、ゞニトルド| l |l l
ヽ l ! | ト、ゝ , , ` ̄'7 ! |l |l |l |
ハト ` \ 'ヽ ' ' / l || || |l !
ノノ| l\ \ ` _,/ /l /i lト、 ll !
/ ノl/ノリ\ )__,,. -‐ ''" //イ| l| | ト、ヽヾ丶、
´ 〃/ノ//|l i> /_| 〃/ || || !| i \ーニヽ
ー=彡/〃 ___/ / \ ノ/-|| ||/ |l ト、\`ー-ニ二
/ _,.r'ヽ' /ヽ \/ /l |l ヾヽ\`ー`゙''ー-、
l ハ/ \ / > /[ ]\ /ヾ、 / ハ
j / \ \__ノ/ / ハヽ \ / < / l
// \ O> /〉 | i | | l ヽ | \ / /\
/ / `ー-一/ l | | | / / / ヽ
|/ ○ / / l | | / / i i
563 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:43
つか、ファイナルアンサー
・大和に巨大権力が発生したの東遷の結果
・纏向遺跡の王系は九州系
・卑弥呼が九州にいたか畿内にいたかはグレー
今のところの結論のまとめ
クンニ好き?
>557
祭祀者としての女帝の存在は大和朝廷には見られないように思うんだが・・・・
何というか仕組みが違うような気がする。
557氏の意見も多分に主観的な感じだけど、俺のも主観的な判断で。
ちょっと議論が弱くなってきたな。
このあたり詳しい人いないの?
566 :
孤高の24歳無職:04/02/16 01:44
九州地方は銅剣文化で、畿内は銅鐸文化。
しかし記紀には銅剣文化のことしか書かれていません。
つまり銅鐸文化は征服された側の祭器だったと思われます。
あと九州勢力が東遷したとされる証拠として、称徳女帝が
道教に皇位を与えようとした際、最高神格である天照を
祭った伊勢神宮ではなく、宇佐神宮のほうに神託をあおぎに
いっています。これは大和朝廷の始祖が九州(宇佐)だったことを
示しているのではないでしょうか?
>>563 結局纒向の土器についてはなにも反論できないわけな(笑)
仕切ってるつもりのタコが一匹いるみたいだなww
>>568 しかもそいつ、電波系九州説だから始末が悪いなw
禿同
結局おかしいのは >563 ってことなのか?
そうだ
>>565 主観的でスマン。
んー、でもどうだろうねぇ。「巫女」という存在自体は大和朝廷にも継承されているし。
前方後円墳の件もある。
やはり、自分は大和朝廷と邪馬台国に強い連続性を感じずにはいられない。
574 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:52
纒向の土器はそこに住む庶民が畿内の人だったということだろ
九州以外の各地の土器の出土は各地から駆り出された庶民の生活跡
その庶民が古墳を作ったんだろう、強制的にね(土器の使用者は半分奴隷かな?)
わざわざ貴族が九州からきて奴隷と一緒に汗流して古墳作ることは無いだろう
>>574 だから、河内では九州の土器が出るんだってw
河内で九州の土器が出て纒向で出ないのは、
意図的に九州人が纒向から排除されていたとしか考えられない。
576 :
日本@名無史さん:04/02/16 01:56
これから出土するかも知れんのう。
俺も土器分布についてはどうかと思う。
軍事政権なんだから一部だけが移動すればいい話であって、しかも当時のレベルなら
制圧するのにそれほど強大な軍隊が要るとは思えん。
つまり、仮に東征があったとしても庶民が使ってる土器分布には影響を与えないと思う。
銅鐸・銅矛・銅剣分布は権力に密着してるだろうから移動するかもしれないが。
>>577 祭器関係は吉備が多いんじゃなかったっけ?
だから纒向政権で主導権を握っていたのは吉備勢力だ、なんて話を聞いた事がある。
現地を見れば?
580 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:01
>>578 まあ自然に湧いた大和土着勢力ではないのは確かだな
581 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:04
巻向
582 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:05
桜井
583 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:07
山の辺の道をよく歩いたものだ。奈良市内から桜井までだと一日コースだ。
まぁ確かに、土器はともかく九州勢力が纒向の中心なら祭器関係が出ないのはおかしいな。
585 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:11
九州排除厨必死だなw
今、畿内説は死んだ。
>>584 あれがおかしいこれがおかしい
あれを説明しろこれの証拠を示せ
じゃなくて自分なりの説を言ってみ
君もしかして
東海の民は期待しているとかと言ってた人?
588 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:20
しかし邪馬台の時代は三国志の関羽やら孔明やら曹操やらの時代と
かぶるわけで、中国史は一兵卒の伝記もできるくらい事細かにわかる
のに、なんつーか邪馬台・大和は、大まかな事もなんもわかんねえし
国がどこにあるかもわかんねえわ、主要人物もわかんねえわで
正直歴史的に有名なのは、許楮(曹操のボディーガード)>>>>>>>邪馬台の男王
字もねえ田舎なんだからしょうがない(w
さすがに眠くなってきました・・・(−−
先史時代の記録が残ってる方がおかしいんだ、実際は。
591 :
孤高の24歳無職:04/02/16 02:28
ググってみたけど、倭国大乱の解釈が凄いなァ。
見る所見る所全部違う。
>>591 中華思想がなくたって、他国より自国の事を沢山記録するわい。
594 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:41
ところで、おまぃらはどっかの教授か講師なんかなのかな
専門的すぎる
595 :
孤高の24歳無職:04/02/16 02:43
>>594 私もそれは聞きたかったですw
みなさん詳しすぎる。普通の会社員とかだとは思えない。
ちなみに私はHNどおりの男ですが正確には
近畿のフリーター確定のぎりぎりまだ大学生の男です。
文学部ではなく経済学部ですがw
596 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:46
俺なんか理学部の数学科卒業の
数学教師のタマゴだよ(実話)
597 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:47
漏れは国語のほうだし
嫌、十分会社員レベルじゃね??
俺は会社員だし。そもそも理系だし。
なのでそろそろ寝る(w
学生(経済学部)ッス
>>595 なんだかあんたが他人とは思えなくなって来たよ
オレも就職がきまらねェ24歳だ(泣)
601 :
孤高の24歳無職:04/02/16 02:55
>>600 はるか昔のことに思いをはせるより
目前の未来についてお互いもっと
考えたほうがよさそうですねw
602 :
日本@名無史さん:04/02/16 02:56
\ │ / 稚内
/ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 札幌旭川
─( ゚ ∀ ゚ )< 邪馬台国はここだ 函館十勝根室
\_/ \_________
/ │ \ 青森
秋田岩手
山形宮城
新潟福島
富山群馬栃木
島根鳥取兵京都福井石川長山( ゚ ∀ ゚ )茨城
長佐邪福岡 山口広島岡山庫大奈滋賀岐阜野梨東京千葉
崎賀馬大分 阪良三重愛知静岡神奈川
台宮崎 愛媛香川 和歌山
鹿児島 高知徳島
沖縄 ∩ ∧ ∧ ∩/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ∧ ∧ ∩ \( ゚∀゚)< みんなみんなみんな!
だいすき〜〜〜! >( ゚∀゚ )/ | / \__________
________/ | 〈 | |
/ /\_」 / /\」
 ̄ / /
おれはてっきり教授や研究者が匿名性なのをいいことに
2ちゃん語を駆使しながら語ってるのかと思たよ。
この程度のことはみんな趣味の一部レベルで対応できるってことだろ。
漏れの良く行く板一覧
ニュー速+
物理
化学 ←専攻
情報システム ←本職
シュミレート
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文学
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世界史
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楽器・作曲
不倫・浮気
過激な恋愛
ピュアAU
自作PC
DTM
それが普通のレベルじゃないのか、と思うんだが。
どうりで素人くさい議論ばっかりだったんだなw
藻前ら自説を主張するのはかまわないが
もう少し腰の低い文体で書けよw
, -ー:'':'':''::'':~:~:~:`:'':ー: 、,_
., -'~ : : : : : : : : : : : : : : : :`ヽ,ー-、_
/: . . : : : : . : : : : : : : : `、ー-`=、
./: : : : : . :,;/l: : : : : : : : : . . : : : : :.l `-、
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.l:/: : : : //i' ll:lil:.ll: l '、: : : ; : : : : : : : . : :l ヽ l
l:.l :l : l:i'l:l l _, 'i:,l'i:ll,:,l,、_i:、:i,:、: :l, : : : : : : :l ` /l
i,;l,:.l: l:.l_l-''~__, '、l.'i,'i,'、、_'';-:,'、: `、: : :l : : . :.i', i': l
'i,'li,l:l,l' l,;=i';'`i, ` `' '`i;':';=;、`,'、:'、: :.l/-,:./l `i ,l: : l
` 'i,i'i、ヽ 'i_';;ノ .'i_';;_ノ,> `ヽ: :l' .}' .l :.l ./l : :l
'、li, , , , , , , , , , , , , l: l`, / lー''~: :l : l
l: l '、 ,,l: l-l} l: : : : l :/
>>1クン。やっぱりやめましょう
l.l:l'、 、...,_ h.:l: l .l .l : : l:l:.i ' こんなこと・・・・ね。
l'l:ll ヽ、 ~ ,. l '.l: l l _,,,,l: :.///
.l.li.l '-`l'-、,,__,,. - '~ l,-l:.l-l'~:.l: l: /./'
'i,l,l, _,、~-'l ., .,!' l:/`'ー'-,、,'、'_
,, -,-l,l'''~ ./l ./ / // / / / `'ヽ
,-''~ l i, l` l、,,,__,-'_,/ '/ .//./ i,
/ l i, l, .l----、、~/ , -'// .l
. / l、 `、'i, l7''''''''''/ _, -'_,-'_,-' l
/ l ヽ、'-,' -、l ./. -,ニ~-''~, -'~/ .l
608 :
日本@名無史さん:04/02/16 07:54
○| ̄|_ =3 プゲラッチョ
609 :
日本@名無史さん:04/02/16 07:55
○| ̄|_ =3 快食快便
超スーパースペシャル素人のプゲラに言われる筋合いは無い。
611 :
日本@名無史さん:04/02/16 10:17
出雲神と出雲を安易に結びつける馬鹿はちっとは出雲国
風土記でも読め。出雲神が実は初期大和王権に征服された
大和土着の神々で、出雲とは無関係ってのは多くの
風土記研究者が指摘してるんだよ。
それと、学習マンガみたいなレベルで東征・東遷論議
するな。せめて現代語訳でいいから記紀と倭人伝ぐらいは
読んでから来い。
んなこと言ってる奴、昨日いたか?
途中からしか参加してないからしらんけど。
「出雲神が実は初期大和王権に征服された大和土着の神々で、出雲とは無関係」だとしても
東征・東遷論議になんら影響ないじゃん。
プゲラは何が言いたいわけ?
古文書の正当性なら風土記だけが正しいとか眠たいこと言うんじゃなかろうね?w
どっちにしても関係ないわけだが。
えらくスレが伸びてるんで覗いて見たら・・・
良スレだったのになんでこんな展開になっちゃったのか。
纒向における土器分布を前提に置くってのは、もう仮説でも何でもなくて
あらゆる説の基本なんです。
それが(どのような形であれ)説明できなければ、説として成り立たない程のね。
東遷説が自然淘汰されたのは、この一点をどうしても矛盾無く説明できなかった為であり
別に無視された訳でも、ましてや弾圧された訳でも決して無いのです。
反対に「これならどうよ!」ってウルトラCが提示されたならば、学説として復帰できる
と云う意味でも有ります。
リニューアルされた学説がより真実に近づいた例なんて、幾らでも有るのですから。
>614
あなたはプゲラと違ってまともそうなので聞きますけれども
「纒向における土器分布を前提に置く」としても、東遷が
被支配者階級の移動を伴わなければ別に問題ないのでは?
古代史研究の一般論ではなくて、別にこの内容で問題無い
ように思えるのだけど。
あの水野センセの「三王朝交代説」なんかも80年代半ばだと完全なトンデモ扱い
でしたが、90年代後半から徐々に明らかになってきた纒向遺跡の状況から見て
「何故これほどの宗教&物流施設を、記紀は無視せざるを得なかったのかを
説明できる可能性を秘めている」と再評価され始めています。
勿論そのまま持ってくることは到底不可能ですが。
そういった意味での「新」東遷説やら「新」九州説ってのを提示してみて欲しいです。
>>615 まともかどうかは判りませんが。
「被支配者階級の移動を伴わない」征服が実際に行われたケースは
確かに世界史を紐解いても、いくつか見られます。
(代表的なのがカエサルのエジプト侵攻)
しかしそれを実際に行うには、莫大な移動戦力と何よりも強大且つ磐石の
経済基盤、つまり莫大な財産が必要になるわけです。
それだけの経済基盤が果たして当時の北九州勢力に有ったのならば
その直後に(北九州の)遺跡が衰退するとは考えにくいのです。
ただ、纒向建設に向けて九州勢力が完全に排除されていたと考えるのはまだ早計です。
と言いますのは、現時点の発掘状況からの発言ですが
纒向の特殊性とは土器のみならず、使用されている土木技術の高度さにあります。
現代風に言うと「各国の最先端技術を結集した万国博覧会的なハイテク都市」といった所でしょうか。
この建設にあたり、渡来系のテクノロジーを有力な支配武器としていた九州勢力が
無関係とは考え難い為、結論未だ出ずといった現状です。
>107
理にかなった説明ありがとうございました。
もうひとつ、文献「被支配者階級の移動を伴わない」征服を参考にするならば日本古代史独特の征服術である
「国譲り」がスムーズに行われた。つまり神話の如く先発隊のニニギが
機内を平定した後に九州王がおっとり刀で駆けつけたって事が皮肉じゃなく「本当に成り立つのなら」
これもいわゆるひとつの「被支配者階級の移動を伴わない」征服とも言えますが・・・。
蛇足ついでに・・・。
僕の知る限りでは最近の畿内説論者は文献学的には
倭人伝の旅程記事についてはかつての九州論者であった榎氏の
「伊都国を中心とした放射説」を採用し「魏使は邪馬台国には到着していない」との
解釈を取っている筈です。
それと三角縁神獣鏡も「卑弥呼の鏡とは考えていない。あれは国内での権力誇示用の
国産鏡である。」との立場が、ごく一部のイタイ畿内論者を除いては通説です。
それは伊都国までしか正使は来てなくて、邪馬台国の代表側がそこまで出向いたということですか?
>>622 いえ、伊都国が(倭国連合における)外交の重役を担っていたと言う説です。
この魏への朝貢の時点で、伊都国と邪馬台国のどちらに優位性があったかは
また議論の分かれるところですが。
邪馬台国と伊都国では戸数でいうと比較にならないですが、外交上の拠点というのは
何となくわかります。
伊都国は「魏略」逸文では5万戸と記述されております
ありゃ?
ソースがうそかな。
末盧国から東南へ500里を陸行して伊都国に到着。帯方郡使が往来して常に駐まる所で、人口は1、000余戸。
伊都国から東南へ100里で奴国に至る。人口は20、000余戸。
東行して100里で不弥国に至る。人口は1、000余戸。
南へ水行20日で投馬国に至る。人口は推定50、000余戸。
南へ水行10日・陸行1月で、女王の都の邪馬台国に至る。人口は推定70、000余戸。
627 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:20
税金泥棒イラネ
>>626 それはいわゆる魏志倭人伝の記事で、
>>625が言ってるのは
そのネタ本と伝えられる「魏略」逸文です。
しかしそれにしても3世紀の倭国にそれだけの戸数が在ったとは
考えにくいんですがね。
仮に邪馬台国を近畿に想定して、西日本全域の人口(四国を除く)
を表示したものだとしても
同じ魏志の西域伝に登場するオスマントルコやインドに匹敵するなんて
実際有り得ない話です。
629 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:23
こいつ専門の学者だろ
606 :日本@名無史さん :04/02/16 05:56
どうりで素人くさい議論ばっかりだったんだなw
藻前ら自説を主張するのはかまわないが
もう少し腰の低い文体で書けよw
藻前ら自説を主張するのはかまわないが
もう少し腰の低い文体で書けよw
藻前ら自説を主張するのはかまわないが
もう少し腰の低い文体で書けよw
藻前ら自説を主張するのはかまわないが
もう少し腰の低い文体で書けよw
何様のつもりでしょうか?
630 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:34
>>107見たいな奴みてると
「吉野ヶ里」に邪馬台国の幻影をみていた
九州説論者を思い出すのはなぜだろう?
>>628 古墳時代〜飛鳥時代の日本の推定人口って
300万〜400万人だったっけ?
ありゃ?オイラの事かな?
>>629 ちなみに606とは別人だよ。その時間は爆睡してた(w
文体を出来るだけ丁寧にしてるのは、何も喧嘩や論破が目的じゃないからで
それは2ちゃんであろうが無かろうが、いわんや仮想空間であろうが現実であろうが
全く関係ないとオイラは思うのです。
633 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:44
誰も107=606だなんて言ってない
606はたぶんアホ畿内説の放屁クンだw
634 :
孤高の24歳無職:04/02/16 15:46
皆既日食と卑弥呼と天照大神には関係ありと
見るべきでしょうか?邪馬台国が九州にあり
のちに東遷して大和朝廷になると仮定すれば
関係がありそうですが、東遷が3世紀以前なら
なんか関係なさそうに思えてきました。。
以前ここで皆既日食が記紀の天照の神話に
反映されていると何度か言いましたが、
井沢本に洗脳されていたみたいですw
逝ってきます
>>107 つまりまとめると
1>九州の支配層のみが東遷して纒向を建設した可能性は極めて低い。しかしゼロではない。
2>東遷が誤りならば九州勢力の纒向での地位は低かったと考えられる。しかし完全に排除されていたとは断定できない。
3>魏志倭人伝の記述のおかしさは魏の正使が大和まで行っていない事から生じた。
ということかな?
636 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:50
>>634 247年、248年の2年連続の皆既日食は
それなりに意味をもっていると思います。
九州でしか見られなかったというのが気にかかりますが・・・。
>>634 オレは天の岩戸伝説は南アジア起源って話を支持してみたい。
江南から日向を通って和歌山あたりに達する黒潮の流れが
どーしても東征神話とかぶって見えて仕方が無い。証拠はないけど。
638 :
孤高の24歳無職:04/02/16 15:55
>>636 卑弥呼≒天照 と仮定してしまうと東遷があったとしても
邪馬台国以後になってしまいます。神武天皇は天照の
数代後の人ですしね。東遷が3世紀以前にあったとしたら
天照と卑弥呼など関係ないでしょう。しかし247年248年に
皆既日食が起こっていますし、卑弥呼は日巫女と読むのが
妥当っぽいですし、まんざら皆既日食も関係ないとは
いえなくなります。このへんがよくわからなくなってきました。
3世紀以前にあった皆既日食を天照の神話に反映して
3世紀の卑弥呼の時代まで太陽信仰が継承されたと
みるべきなんでしょうか?
639 :
孤高の24歳無職:04/02/16 15:59
>>637 なるほど。そうかもしれませんね。
結局卑弥呼の時代に起こった皆既日食は
記紀などに反映されてないし、偶然
卑弥呼の時代にあっただけでなにも
歴史に影響は与えてないとみるのが
正しいのかな
吉野ヶ里とはだいぶ違いますよ。
あの時は殆どの九州論者も「違う!」って言ってました(w
それと前にも書きましたが、纒向に限らずとも現在の発掘状況や
文献資料全てをひっくるめて無理なく説明できるのが、今のところ
邪馬台国=畿内勢力説であって、他に矛盾無く説明できる説が在るなら
別にそれで良いんです。はじめに畿内説ありでは無いのです。
ですので1世紀あたりに征伐ではなく、武力を伴わない人口と文化の移動が
九州から近畿に向けてあったってのはのは、ごく自然に考えられる事でしょう。
ただ、同じ様に近畿から東海、東海から近畿経由で出雲、吉備、九州へと
動いていっただけの事です。
だからこそ基本的な宗教観(銅製品による偶像崇拝)の一致や同一言語による
緊密な小文化単位、すなわち部族が成立したのですから。
>>635 3がおかしいよな。正始元年の魏使梯シュンは倭王に拝仮
してるもの。考えられるのは倭王が別人、てとこだけど
倭の女王として魏に遣使して「親魏倭王」に叙任されて
んだから倭王はヒミコ以外を意味しないもんな。
因に
>>107氏は何故倭が早期に統一されなきゃいけなかったか、
邪馬台国連合のような物が何故成立したか。
そのあたりはどう思ってるの?
>>635 1,2についてはまとめられたとおりです。
3はそれもありますが、複数の情報(しかも後漢から晋までの期間だと
言うことくらいしか出所が掴めない様なひどく曖昧な)を採択せざるを得なかった
陳寿の苦悩と思い込み(列島は南北に長い島だと考えられていた等)
なども考慮したいです。
>>642 正直言って判りません。断定できない部分が多すぎるのです。
ただ、仮説としては稲作が定着した近畿地方が先進地の九州と人的資源を
有する東海上越との架け橋となり、ほぼ半世紀ほどかけて人口密集地となっていった過程において
いくつかの支配者グループが発生したのではないかと思います。
そのうちのひとつが例えば警察的な役割を持ち、また一つが技術指導を行ったりしているうちに
権力層としての擦り寄りが起こり、経済圏としての体を成したのではないでしょうか。
それが老舗の北九州が外交問題で衰退するに至って、初めて
畿内&九州の瀬戸内ネットワークを中心とした原始国家へと成長していったのかと
思います。
その際、宗教観や文化圏は九州発祥のものがベースになっている可能性大です。
>>644 後の軍事担当・物部氏なんかの原形もその頃作られてそうだね。
結論は、魏の南進政策に外交資源を断たれた九州勢力と
経済的には上回りながらも先進文化輸入の窓口を持たなかった畿内及び東海。
この二つがお互いの利害一致によって合併したものが倭国連合。
現地合弁会社が邪馬台国。更に合併には参加しなかったがコングロマリットの一員となったのが投馬国で
グループ代表選出の際、共立に最後まで異を唱えたのが狗奴国ではないかと。
難升米・都市牛利ってなにげに銀印青綬なんてもらってるじゃん。
銀印青綬って普通は蛮王クラスじゃないの?
それと魏志の「居所は宮室・楼観・城柵を厳かに設け〜」
どうも吉野ヶ里は最初から論外だが纏向でも記述からしたら
少し寂しいなぁ。なんせ相手は尊大な中国人だし。
それと神武東征を持ち出すとこの辺には兄磯城・弟磯城が
居たことになっちゃうんだよなぁ。
648 :
孤高の24歳無職:04/02/16 16:40
>>646 すんなりと畿内と九州が話し合いで合併するなど
想像できませんね。問題となるのは誰が連合の王に
なるかということです。互いに自分たちが王にふさわしいと
いうでしょうし、皆が納得いく王選びなどありえません
>>646 自分としてはやはり、意図的に纒向から九州が排除されていた気がしてならない。
土木技術者は呼び込んだかも知れないけど(前方後円墳にも九州的要素あるし)
それ以外はどうだったのだろう、と。九州遺跡の衰退の事もあるし。
自分としては後漢の動揺で九州の外交的優位が崩れ、
そこを人的資源に勝る畿内等の勢力に付け込まれ、
外交・交易の利権を奪われてしまうような事が起きたような気がする。
650 :
日本@名無史さん:04/02/16 16:43
>>648 その話し合いの場で、九州勢力の代表が
謀略つかって畿内の乗っ取りを図り、成功したんでしょう。
それが抽象的に「東遷」ということになったのでは。
>>645 そう考えると物部氏や大伴氏なんかの支配地域も軍事と密接な関係にある事が
説明できるでしょ。
地域内警察と言うか親衛隊的存在の三輪の物部氏や、侵攻部隊としての
泉州の大伴氏が初期大和政権で重要な位置にありましたし。
土木、特に治水事業にその能力を発揮した秦氏や和邇氏、そして蘇我氏が
内政に大きく関わっていくのもこの流れが根底にあるように思うのです。
652 :
日本@名無史さん:04/02/16 16:48
畿内と九州の話しあいといえばどうしても国譲りを思い出すんだがな
そうすると
>>650みたいに九州代表が美味いトコせしめた、と考えるしか・・・
653 :
孤高の24歳無職:04/02/16 16:52
>>650 うーん。想像でしかないですね。
謀略で奪った畿内の民が、九州勢力に
心服するとは思えませんしね
>>848 すんなりといったとは思いませんよ。
ただ、それしか残された道は無かった。特に九州勢力にしてみれば滅亡の危機なんです。
条件面でかなりの譲歩を受け入れざるを得なかったはずです。
ただ、
>>650氏の説は面白い。
それが、邪馬台国建国後すぐに起こったのではなく、じっと機会を伺っていたか或いは
まさに何十年もかけて血統の乗っ取りを目論んだ可能性は十分にあります。
このあたりのややこしい駆け引きが記紀に反映されているのかも知れません。
>>652 九州と畿内の話し合いで九州が優位に立ったのなら三世紀の九州の衰退を説明できないよ。
他の地域は順当に発展しているのに。
纒向には九州の支配層だけしか入って無いにしても、他の地域からは万遍なく土器が流入しているし、
九州のだけ出ないのはやはりちょっと不自然だ。纒向は運河まで作られた物流の拠点でもあったわけだし。
逆に畿内から九州方面への土器の移動も見受けられる。
とすると、邪馬台国で主導権を握ったのは九州では無かったと考えるのが自然だと思う。
よって、東遷というエピソードは邪馬台国建国前後におこった事では無く、
もっと古い時代の何らかの出来事を(技能集団の九州から畿内への移動とか)
反映した物だと思う。
問題はこの時期に戦乱の跡が無いって事なんですよね。
どっかに大規模戦乱の跡やら破壊された遺跡が見つかったら話は早いんですが。
それが無いために謀略や融合や合議といった無血開城を想定せざるを得ないのですよ。
実はこの問題こそが、畿内、九州説に関わらず邪馬台国問題の最大のネックなのです。
658 :
孤高の24歳無職:04/02/16 17:02
>>657 具体的にどの時代のことをいってるんですか?2世紀あたりですか?
>>658 二〜三世紀の遺跡からは吉野ヶ里のような激しい戦いの痕跡をなかなか見つけられない。
660 :
孤高の24歳無職:04/02/16 17:05
>>659 その時期は、倭人伝にいう
倭国大乱の時期と重なりませんか?
>>658 魏志倭人伝にある倭国大乱や邪馬台国と狗奴国の戦争の痕跡が、実は考古学的には殆ど発見できない。
出雲よろしく見つからないだけかもしれないけど、とにかく今の所は何も見当たらないんだ。
>>660 655氏説明感謝です。
倭国大乱は文献史学的から、かつては群雄割拠的なカオス状態だと考えられてきましたが
戦後、特に70年代後半頃からその割に大規模戦乱の跡が見られないとの指摘が井上光貞氏や
直木孝次郎氏などから相次いで提出されたのです。
そして現在に至るまで戦乱痕跡を持つ2〜3世紀の遺構は発見されていません。
恐らく倭国大乱とは、非統合状態を指したものではないかとの見解が一般的です。
>>652 国譲りは大和にある出雲神とのことを二重写しにしていると
考えられます。理由は
@国を譲るのは大国主と大物主(ニギハヤヒ)で古来同一人物と
伝えられる
A出雲においては大国主の子事代主が国譲りの立役者
大和では事代主の異母兄加茂大神(アジシキタカヒコネ)が
神武東征に協力 さらに大物主の子タカクラジも神武に協力
B反抗した大国主の子武御名方トミビコノミコトは敗走
大和の大物主の義兄トミノナガスネヒコは大物主に殺されるが
東北に逃れた説もあり
Cニギハヤヒ・大物主は真のアマテラスとみなされるが、神武は
彼の娘に「婿入り」
大国主の娘に下照姫・高照姫…アマテラス?神話では
アメノワカヒコの妻
>>663 >畿内・吉備・筑紫等の瀬戸内諸勢力の間で冷戦状態があったのではないか
それ十分考えられます。しかも同一民族内で。
つまりは3世紀において統一可能となる下地としての
文化圏やインフラ整備が集落同士を接点に展開していった可能性もありそうです。
666 :
日本@名無史さん:04/02/16 20:06
神武東征は、4Cの応神のことだと思っていたのですが。
継体以降、応神は急速に神格化されていったのだろう。自分たちの
直接の先祖として。丁度、吉宗が家康を権現様として崇めたように。
宇佐八幡は欽明の時だっけ?
とりあえず、どうして東征を大袈裟な歴史的事実に比定したがる人がおおいの?
考古学的には何も証拠はないわけだし、何か見つかるまで忘れてたら?
668 :
孤高の24歳無職:04/02/16 20:13
>>666 神武と応神は違う人でしょ。
誰かがいってた3王朝交代説が正しいと思いますが。
宗像三神(大国主の妻)
|
住吉三神(神功皇后)
|
宇佐八幡(応神)
これが正しければ天皇系図は書き直す必要があります
670 :
日本@名無史さん:04/02/16 20:35
>>667 応神紀に書かれている、皇位継承争いの記述も
否定される訳ですか?
私は対半島政策
671 :
日本@名無史さん:04/02/16 20:52
>>667 応神紀に書かれている皇位継承争いの記述も
否定される訳ですか…
私自身は、応神は、対半島政策に強硬的な九州豪族
に担がれて、大王位を簒奪したのでは、と考えているのですが。
プッ
673 :
日本@名無史さん:04/02/16 21:26
>>667 >とりあえず、どうして東征を大袈裟な歴史的事実に比定したがる人がおおいの?
>考古学的には何も証拠はないわけだし、何か見つかるまで忘れてたら?
このスレの大半が素人だから、「古代ロマン」とか言って
記紀の記述をなんとか歴史的事実にもっていきたいんだろ。
そりゃ九州勢力が東に向かって新天地を切り開くべく進攻、
と考えたほうがロマンはあるけどさ。
一方、大事なはずの考古学的な証拠を地味なものと考えて軽視する。
このスレはひどいよ。議論は幼稚だし。経済学部卒業とか
数学専攻とかそんな奴が、趣味レベルで語ってるんだから。
674 :
日本@名無史さん:04/02/16 21:27
漏れは>107氏 説結構タメになったけどね。
自説を曲げない人はいるもんだ。
つうか今帰ってきたら >107 がえらくまともな意見だったのでROMってた。
ちょっと整理してみるのでまだROM。
でも趣味レベルで話をするのは、それはそれで良いんじゃないの。
ここは学会ではないので。(w
論破されりゃさすがに引くでしょ。
677 :
日本@名無史さん:04/02/16 21:37
107さんの意見は悪くないが
いささか説明が学術的に過ぎるというか
なんというか。。。
あと、邪馬台国とか古代史の話題では
確実な「論破した、された」ということはありえないと思う
だからこそいろんな人が意見できるわけで
ごもっとも
ブリッ
680 :
日本@名無史さん:04/02/16 21:46
アマテラスは持統天皇だろ?
言ってることが矛盾してりゃ確実に論破されるだろうが。
記紀や魏志倭人伝の記述と考古学的な資料を合わせて考察するのが本来のスタイルでしょ?
邪馬台国論議は供述の二転三転する幼児を証言台に立たせて裁判やるようなもんだ。
そんな状況で真実に近付くには物証を積み上げて証言の何が正しくて何をどう解釈すべきか検討するしか無い。
記紀や魏志倭人伝の解釈論では一歩も前へは進めない。
このスレの東遷説の奴らは物証を積み上げる作業を完璧に放棄してる。それじゃダメだ。
683 :
孤高の24歳無職:04/02/16 21:58
すいません経済学部のド素人でw
たしかに昔、本を何冊か読んでかじった程度で
わかったようなこと言ってました。
どんどん論破してください
684 :
日本@名無史さん:04/02/16 22:46
京大法学部の者でつが
やっぱし古代は人口密度的に言って九州>畿内>山陰じゃないですか
それが奈良時代に入ると畿内>九州>山陰となる
単純に言って人口が多いところのほうが主な政権国家があると仮定しれば
自然と東遷説も見えてくるんじゃないんでしょうか
>>684 おいおい、3世紀の大和に日本最大の都市があったのは、これはほぼ確実な事だぜ?
その発想はおかしいと思う。
686 :
日本@名無史さん:04/02/16 22:58
>>682 物証を積み上げる作業…ですか。確かに耳が痛い指摘です。
ところで、あなたは記紀の記述が、どのあたりから信憑性のあるものと
考えられているのですか?
687 :
日本@名無史さん:04/02/16 22:59
京大は犯罪者の巣窟
688 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:05
3世紀の大和に日本最大の都市があったとしても
その都市を有する国が邪馬台国であるとは限らない。
689 :
孤高の24歳無職:04/02/16 23:06
神大経済学部会計士挫折組みのものでつか
畿内から九州へと勢力を拡大していくより
九州から畿内へ勢力が拡大していくほうが
地政学上からみても理に適ってると思うのですが。
無理に出雲経由とか仮定して大陸との接触を
論ずるより、九州のほうが大陸に近いし、
古代においては先進的だったと思われます。
>>688 無論そう。
邪馬台国九州説を取るとして、狗奴国を纒向の初期大和朝廷に比定する解釈もあり得る。
纒向の外来土器で九州のそれが極めて少ないという話が出てたけど、
それは九州邪馬台国と畿内の狗奴国とが対立状態にあったため、という解釈も有り得る。
強大化した狗奴国=初期大和朝廷に圧迫され、必死で大陸に救援を求めた、という事も考えられなくはない。
けど、大陸系の文物が三世紀以降畿内でも沢山出るから、この解釈も難しいんだけどねw
>>689 邪馬台国の時代、畿内や吉備の開発が凄く進んでる。
だから魏志倭人伝にあるような七万戸近い膨大な人的資源を抱えた国家が
畿内にあったかもしれない。
その人的資源に物を言わせて九州側が圧殺された可能性も、あるんじゃない?
692 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:15
纒向は九州以外の主要な地域からの土器が出土している
畿内王権が九州以外のすべての地域を支配していたと考えたとき、
これが邪馬台国だの大和朝廷のもとになっただのという以前に、俺はむしろ、
オホクニヌシの時代に最大領土を得たと記述されている
国譲り直前の「葦原の中つ国」をイメージしてしまうんだが。
神話より考古学的証拠が重要なのはわかってるけどさ。
纒向を邪馬台国の都と仮定すると、その場合九州の地位は低い、
いわば「敵国条項」のある敗戦国のような状態だったとするのが妥当だと思う。
根拠は
1>三世紀、九州の遺跡が衰退する。
2>纒向から九州の土器が出ず、意図的に九州が中央政界から排除されていたと推測される。
3>魏志倭人伝に
「女王國より北(畿内説では西)の地方は、特別に一大率を置いて、諸国を検察させている。
諸国では、これを畏れている。
常に伊都国(女王国に臣従する福岡県糸島郡にあった国)にいて統率している」
との記述があり、北部九州の豪族は女王国本国から監視される立場にあった事が読み取れる。
です。
694 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:32
なのに神話などの伝承では九州に重きをおくような書き方がされている。
天皇家のしきたり、宇佐神宮の謎、くりかえし出てくる東遷伝承、国譲り、
・・・・???
(ちなみに漏れは九州=邪馬台国、畿内=狗奴国説です。
695 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:41
九州の宇佐神宮なら、天皇家はずっと重視してたよ。
国家の大事の時や、天皇の即位時などいつも使いが行っていた。
(いちばん有名なのは道鏡事件だけど)
大国主命や崇徳上皇のような怨霊信仰的な扱いとはまた違う。
とても天皇家が、九州以外の出身だったとは思えない。
>>694 むろん、日本の発展はまず九州から始まったのは間違い無い事で、
畿内に先進的な国家の出現を促す人や文化の移動があった可能性は高いと思います。
しかしそれは恐らく一世紀ごろの出来事で、自分はそれが東征神話になったのだと解釈してます。
三世紀には畿内の大和朝廷の優位はほぼ固まってたんじゃないでしょうか。
>>694>>695 出雲大社に対する破格の待遇はどう解釈します?
自分は大和朝廷には敗者・かつての強敵を厚く遇し、自らの神話に何らかの形で
取り込んでしまう奇妙な風習があったんだと思ってますが。
その事も九州の特別な扱いと関連してるんじゃ無いでしょうか。
>>695 ああ、怨霊信仰とはちがうって書いてますね(汗)
699 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:49
宇佐神宮も怨霊?比売大神は誰?玉依姫かなあ、宗像三女神かなあ
>>697 >出雲大社に対する破格の待遇はどう解釈します?
近畿王朝が九州王朝を亡ぼす迄、近畿王朝は出雲を支配したことがないから。
701 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:53
大和朝廷がいかにオオクニヌシを厚く遇しているといっても
出雲大社の中の配置、奇妙な風習(四拍手)、「出雲」という不吉な地名、など、
「こいつらは、大和朝廷に反逆していた悪い奴らなんだぞ」
ということが我々にも暗示されていますが、九州にはそれがほとんどない。
九州が仮に出雲と同じ存在だったとしても、
大和朝廷が、九州に神話の中核を明け渡すでしょうか?
まだ「四国」(=死国)のほうが九州よりも縁起が悪いっすw
いずれにせよ三世紀の段階で九州が畿内・大和に政治的・経済的に圧倒されていた事は
状況証拠から見て間違い無く、神話の内容からではこの時代の倭の政治状況を推測する事は
極めて困難だと思います。特に東遷は三世紀からかなり遠い時代の出来事だったと考えるべきだと
思いますね。
703 :
日本@名無史さん:04/02/16 23:59
東遷ということを全く無視する人は畿内説にもあまりいないでしょう。
考古学的証拠と文献との整合性から次の2が妥当かと・・・。
(邪馬台国が大和朝廷に発展したとすると)
畿内説
1「邪馬台が畿内発祥→卑弥呼→大和朝廷」(畿内邪馬台)
2「プレ邪馬台が九州発祥→東遷→卑弥呼→大和朝廷」(東遷邪馬台)
九州説
3「邪馬台が九州発祥→卑弥呼→東遷→大和朝廷」(九州邪馬台+東遷)
704 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:02
アホか
>>703 2の可能性が一番高いでしょうね。
ただ東遷の時期はかなり早く、しかも九州の主流派が移動したというよりも
九州での戦いに破れた勢力が追われるように畿内方面へ脱出し、
畿内の広大な平野を基盤に故国よりも強大な国家を作り、
三世紀では九州の主流派勢力を完全に逆転していた、とするのが一番無理のない考え方だと思います。
706 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:13
敗残の身では無理だ。九州より田舎の畿内に移動してきて、九州を圧倒することなど出来ない
707 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:14
>>701 九州は出雲とは違うだろうね。ホントの天皇家の聖地という気がするから。
ただ宇佐神宮も出雲大社とおなじ四拍手があるんだよなぁ・・・
九州王権の東遷はなかった。
>>706 イギリスとアメリカじゃないけど、新天地に移動した勢力が故国を上回る国を作る例はままあります。
それに一世紀の段階では畿内に鉄の武器は殆ど皆無だったでしょう。
少数の神武一行(?)も容易に畿内を支配できたんじゃないでしょうか?
それに、世界的に見て民族の移動は敗者が敵に追われる格好で開始するのが普通です。
710 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:17
>>708 でも記紀神話には九州が重要な聖地であり、かつ東遷伝承もある。
そういう方面にも折り合いもつけていかなければならないと思われますが?
711 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:20
だから、東遷てぇのは後日九州を圧倒するようになってから美化した言い回しで、
実際は亡命政権、それ以前の落ち武者だったわけだ。
712 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:21
高校時代宇佐説の日本史の先生がいたんだけど宇佐には魏志倭人伝の記述に一致する大きさの
前方後円墳があるって言っててそこに親魏倭王の金印があるに違いないって言ってた
けど可能性ありますか?
713 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:22
高校時代宇佐説の日本史の先生がいたんだけど宇佐には魏志倭人伝の記述に一致する大きさの
前方後円墳があるって言っててそこに親魏倭王の金印があるに違いないって言ってた
けど可能性ありますか?
ありゃ、九州説の人たち逃げちゃった?
715 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:32
>>711 亡命政権、落ち武者的な移動でも東遷でしょう。
その、ある種「賭けの一策」が成功したからこそ
大和朝廷にとって一大叙事詩に成し得るわけで。
後日九州を圧倒するようになってからの美化というのは
「神武東征戦争」にあたるでしょうね。
>>712 魏志倭人伝にかかれている卑弥呼の墓は円墳って書いてあったような気が。
716 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:34
詩であって事実ではない
>>715 卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩
という記述があるだけです。
むしろ現在畿内説では纒向の前方後円墳群の何れかに卑弥呼が眠っていると考えてるようです。
718 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:40
>>711 なんかそればっかりだけど、九州と大和の地名の類似はどう説明する?
九州での権力闘争に敗れた一派が、当時は後進地域であった東方へ追いやられた。
その後どういうモーメントで九州のご本家を凌駕するようになったか、俺にはわからん。
ただ、自分たちが日本国の中心になったとき、「いやー、かつては九州を追い出され
ましてね、その屈辱を胸に今日まで頑張ってきたわけでして・・」ではヒーローに
なれない。自分たちがかつての敗残者の子孫であってはならない。九州から移動したことを
正当化しなければならない。それが東遷説だ。
>>718 落ち武者達がつけたんじゃないんですか? 知らないけどw
721 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:44
○| ̄|_ =3 ププッ
722 :
日本@名無史さん:04/02/17 00:45
クソだなw
>>719 過去レスで
「九州内ではどの勢力もドングリの背比べで、強大な王権は中々成立しなかった。
一方九州から東遷した連中は(仮に敗残者でも)大量の鉄と大陸型の戦術を持つ突出した存在で、
畿内の原住民を圧倒して九州では考えられない強力な王権を作りえた」
なんて説が出てました。あと、畿内の広大さや潜在力も大きかったでしょうけどね。
>>723 なるほど、そうでしたか。通りすがりなもので、失礼しました。
725 :
日本@名無史さん:04/02/17 01:10
神武を一世紀頃の人間とする説でまとまったっぽいけど、それが結論でいいの?
726 :
孤高の24歳無職:04/02/17 01:30
>725
過去レスでもいいましたが1世紀の57年くらいに
奴国が後漢の光武帝に朝貢しています。この時点で
のちの邪馬台国連合の一部の奴国が朝貢してるので
統一国家がない戦乱の時期だったでしょう。そして
卑弥呼の時代から遡ること7,80年前に男王を
中心とした統一国家ができあがっていることが倭人伝から
うかがえるので1世紀後半から2世紀前半にかけて
神武東遷なり統一国家ができあがる動きがあったと
私は推測します。
727 :
日本@名無史さん:04/02/17 01:41
728 :
日本@名無史さん:04/02/17 01:48
>>727 うーん、まぁ木偏一つで古墳の年代が百年繰り上がるから、そのあたりはなんとも……。
>>726 奴国は九州の豪族連合の盟主で、九州の諸豪族を代表して朝貢したとする説もあります。
また
(女王)国も元々は男子を王にしていた。治世七、八十年で倭国に戦乱が起き、
互いに攻め合い何年にもなった。そこで、一人の女子を(各国の王が)擁立して王位につけた。
の間に纒向建設・九州遺跡の衰退等の重大な現象が起こっていて、
ここに書かれている程単純な経過で物事が推移したとはちと思えないです。
九州の神社という神社、片っぱしから掘りゃなんかでてくるかもな。
まあできるわけねーけどよw
それとオレは九州のいわゆるクニは今の都市部と重なる位置に
存在したと思ってる。だから佐賀市郊外の吉野ヶ里なんてちんけな
田舎のクニだと思う。
731 :
日本@名無史さん:04/02/17 13:55
ってか邪馬台国って架空なんでしょ?
>730
大宰府天満宮の地下が怪しい。
宇佐八幡は瀬戸内監督監視機関、後にここから畿内征伐へ。
伊都国は外交出張機関。
そして大宰府天満宮の地下に卑弥呼宮殿は眠っている。
734 :
日本@名無史さん:04/02/17 15:59
当時の最大の財産は土地だったんだろう。ところが九州よりも東瀬戸内海、近畿、東海の方に
土地があった。九州は大陸の青銅器の輸入という商業で栄えたが、鉄器時代になると山陰の
台頭が目覚しくなりお株を奪われた。後漢の冊封国というのが裏目に出てきたんじゃないか。
九州はいくら掘り返そうが宮内庁は何にも言わないが、近畿は天皇陵だらけでおまけに住宅が密集
している。それなのに九州は掘っても良いトコ吉野ヶ里。
宮内庁職員になればそのへんの秘密がわかるかも。
736 :
日本@名無史さん:04/02/17 18:29
しかし、背振り山脈の東、筑後川が日田に向かう辺りは非常に奈良県南部と地形が似ている。
奈良県南部に新都を建設するに当たっては九州の人間も含め多くの人々の意見が入っている
のではないか。青銅器、特に、銅鐸や鏡は吉野ヶ里から近畿に入った可能性があるのではないか。
737 :
日本@名無史さん:04/02/17 18:45
>>734 当時の最大の財産は人間(労働力)だと思いますが。
畿内、東海、関東の人的資源に、九州の先進国家群は圧倒
されてしまったのだろう。
あと、吉野杉。瀬戸内海水運を制するには、杉のような、船材に適する
真っ直ぐ伸びた木材が重要であった。
そう考えれば、ミマキ(真木=杉)イリヒコっていうのは
意味深な名前である。紀でいうところ、崇神って、
初めて船を造った大王だっけ?
大神神社は古来より「杉の御社」って呼ばれていたし。
正直、読んでなかったので(カキコ大杉)、今ごろ107氏へ
>>120 >ツマ国ってあらゆる意味で特殊なんです。
>とにかく官名が他とあまりにかけ離れてる。
って・・・・伊都国なんかもかけ離れてますけど・・・・邪馬台も。
距離的にも離れてるンだし、ノー・プロブレムでしょ。
>>617 >その直後に(北九州の)遺跡が衰退するとは考えにくいのです。
これは違うな。
三雲とか、那珂とか、庄内期に属する巨大遺跡群は健在だよ。
(誰かが言いふらしてるらしくて、この誤解はなかなかなくならない。)
でも、ここは海の玄関口だから、栄えて当然。
過疎化したとか、衰退したとかいうわけじゃない。
貧素なのは首長墓。(平原副葬品を除く。墓そのものは平原も貧素。)
ただし、海から離れると、遺跡そのものが貧素。
>>618 >この建設にあたり、渡来系のテクノロジーを有力な支配武器としていた九州勢力が
>無関係とは考え難い為、
どうして?
唐古の環濠は誰が掘ったのかな?
池上曽根の大型建物“神殿”は誰が建てたのかな?
西谷3号とか楯築とかの巨大な墓は、いったい誰が作ったのかな?
>>621 >僕の知る限りでは最近の畿内説論者は文献学的には
>倭人伝の旅程記事についてはかつての九州論者であった榎氏の
>「伊都国を中心とした放射説」を採用し
僕の知るかぎりそんな話は聞いたことがないわけだが。
どこで、誰が言ってるの?
>>628 >そのネタ本と伝えられる「魏略」逸文です。
魏略は万余戸。伊都国が五万なんてものは寡聞にして聞かない。
>同じ魏志の西域伝に登場するオスマントルコやインドに匹敵するなんて
>実際有り得ない話です。
馬韓十万余戸、辰韓・弁辰四五萬戸、
夫餘戸八萬、高句麗戸三万、カイ戸二万
別に不思議はなさそうだが。
倭国29国を九州に納めるなら不思議だけど。
中国により近い東夷伝の数を疑うよりは、
はるかに離れた西域の戸数を疑う方が普通では?
もっとも、西域の話は知らないんで、
東夷に比べて数が少ないと本当にまずいのかどうか、
僕には分からないんだけどね。
だいたい魏のときにオスマン・トルコなんて存在してないし…
>>640 >ですので1世紀あたりに征伐ではなく、武力を伴わない人口と文化の移動が
>九州から近畿に向けてあったってのはのは、ごく自然に考えられる事でしょう。
どうして?
1世紀に銅鉾文化が畿内まで広がったとか、
一世紀に甕棺墓が畿内で爆発的増加をみせるとか、
1世紀には畿内様式に混じって高三潴式が多数出土するようになるとか、
そのほかの1世紀頃の九州の文化が東に広まった、
っていう話はあまり(正確には皆無)聞かないけど。
『ごく自然に考えられる』と言うなら、
遠賀川式の伝搬のような明確な痕跡がほすいね。
全く話が見えないんだが、いつの間に畿内発祥と
九州発祥の二者択一になってしまったわけ?
最近は倭国乱をへて、全く新しい国を作ったというのが主流だと思うのだが。
だから、どこが発祥でもない。
しいていうなら、各地の要素を統合する形で
2世紀末から3世期初頭ぐらいに畿内で発祥し、
やがて王権が強化されて大和朝廷に至る。
でも、その実体は全く解明されていないから、
都が畿内纏向(あるいはそのやや北側)にあるのは事実としても、
畿内勢力が音頭を取ったのかもしれないし、
逆に、軒を貸して母屋を取られた状態かもしれない。
吉備が盟主かもしれないし、東海かもしれない。
ひょっとしたら出雲かもしれないし、万が一、九州であるかもしれない。
わかんないものはしょうがないね。
>>741 色々つっこまれてしまいましたが
>万が一、九州であるかもしれない。
これはないと思います。
邪馬台国の都が纒向で間違いないとしたら、そこでの土器の出土状況や「一大卒」の記述から、
邪馬台国連合には筑紫諸国に対する敵国条項らしき物があったような気がするのですが。
よって「倭国大乱」の最中、
筑紫から大和へ交易利権や外交権が移動する何らかの出来事があったように思えます。
まぁ、筑紫VSその他の倭国、なんて戦があったとは思いませんけどw
743 :
日本@名無史さん:04/02/17 19:47
フル遺跡はどうなんですかね?
>>741 >都が畿内纏向(あるいはそのやや北側)にあるのは事実としても、
弥生時代〜古墳時代の日本の推定人口…200万〜300万人
各地域にどれほどの人口を当てはめるか?
745 :
日本@名無史さん:04/02/17 21:09
そりゃ農耕可能地域にほとんどが分布してるだろう。
747 :
日本@名無史さん:04/02/17 21:26
古墳時代に540万人というのをググったら出た。
これが本当なら邪馬台国七万戸もハッタリじゃない?
>>742 あれ?
>>118 >柳田氏は断定はしてませんが「伊都国=邪馬台国の黒幕説」でもあります。
>こういった九州説なら議論の価値はあるのですがねぇ。
>>614 >反対に「これならどうよ!」ってウルトラCが提示されたならば、学説として復帰できる
>と云う意味でも有ります。
>リニューアルされた学説がより真実に近づいた例なんて、幾らでも有るのですから。
↑から↓
>>616 >そういった意味での「新」東遷説やら「新」九州説ってのを提示してみて欲しいです。
は撤回ですか・・・・・・・・
大和の王権の成立に九州が主導的役割を果たし立ってのは柳田やら寺沢なんかの考えなんだけど・・・・
ま、僕としては九州の関与は薄いと思ってるからいいんだけど。
>>743 >フル遺跡はどうなんですかね?
ちょっと北過ぎますね。
庄内式の濃密分布域からはずれてますから。
あ、ひょっとして、117氏とオレ、混同されてる?
753 :
日本@名無史さん:04/02/17 22:14
邪馬台国の頃って日本で人口爆発が起きていた時代だっけ?
なんかそのあたりを根拠に「渡来人百万人説」とかあるらしいけど。
そこで騎馬民族征服説ですよ
755 :
日本@名無史さん:04/02/18 00:14
>>754 結局日本語と韓国語が違い過ぎるってんで、倭人が勝手に増えた説が有力だけどね。
邪馬台国の頃は食料事情はまぁまぁよかったのかね。
騎馬民族征服説ってなんで否定されたの?
757 :
孤高の24歳無職:04/02/18 00:31
騎馬民族っていったいどこの民族ですか?
あと大人数で馬も乗せて日本にこれるだけの
航海技術も騎馬民族があったのですか?
758 :
日本@名無史さん:04/02/18 01:02
>>757 騎馬民族征服説は否定されてるので何処とも。
まぁ、高句麗なんかを支配してた民族って事に一応なってたよ。
因に騎馬軍団の破壊力は凄まじくて、運用次第では僅か何十・何百って単位の騎兵で
数千数万の歩兵を撃ち破る事もできるとされている。
騎馬民族説ではそのあたりを根拠に、大人数が渡海する必要はなかったとしていた。
なお、実際の所日本で馬の飼育が始まったのは朝鮮半島に倭が進出した時代、
例の高句麗の広大王と戦ってその騎馬軍団の圧倒的な破壊力にビビり、
大慌てで乗馬を始め、ズボンをはく等騎馬民族の風習も大幅に取り入れたらしい。
このあたりの経過は黒船来航やその後の攘夷戦の後の日本人と反応がそっくりで笑えるw
汗の部隊もまさに一騎当千だったようだからな。そこからの連想か。
ちなみに汗国の脅威に晒されつづけたロシア(その時点ではロシア公国は無いが)は
騎馬民族の風習を大いに取りいれ、辮髪にしてみたり、足が短くて寸胴がかっこいいと
されたりそりゃもう大騒ぎだったそうな。
このあたりの経過は洋の東西を問わず笑えるw
広大王って誰だよ。広開土王ッス
>>760 映画ロード・オブ・ザ・リングもそのあたりを踏まえてるらしくて、
ローハンの騎馬部隊が鬼のようにオークの軍勢を轢き殺してたね(笑)
馬がなかった倭国に馬が居ることじたい騎馬民族征服説の傍証!
764 :
日本@名無史さん:04/02/18 01:42
単純に、当時の食料事情が想像以上に良くて、餓死者があまり出なくて
人口がドンドン増えてただけじゃねぇ?
魏志倭人伝にも
>人の寿命長く、百年、或いは八、九十年である
とあるし。
(まぁこれはオーバーだが、人々が長生きだ、と言わんとしたとして)
当時の人々の栄養状態が判る人骨とか出てないの?
広開土王との戦いの「後に」騎馬戦術を取り入れたってのは
具体的な根拠あるのかい?
>>764 じゃ男が少なくて女ばかりだったって記述はどう説明する?
>>766 魏志倭人伝は単に一夫多妻について言及してるだけだ。
後漢書は魏志倭人伝の記述を誤解して女ばっかりと書いたんじゃね?
一夫多妻なんて他の異民族にも中国にも珍しくなかったんじゃネーノ?
わざわざ特筆されているのは人口の性別比率がおかしかったから。
769 :
日本@名無史さん:04/02/18 13:35
>>738-740氏への回答です。
>投馬国
これは放射説に立脚した考え方でして、邪馬台国への行程上にないのに官名や
戸数が書かれるなど別格扱いになっている点です。官もミミやミミナリ等独自性が
見受けられますし、少なくともヒナモリを副に置いていた国々よりは格上かと。
>(北九州の)遺跡が衰退
言葉足らずでした。より正確に書くべきでした。そちらの主張のほうが正確かつ判り易いです。
>唐古の環濠は?池上曽根の大型建物“神殿”は?
>西谷3号とか楯築とかの巨大な墓は、いったい誰が作ったのかな?
もちろん古くからの畿内部族でしょう。農耕及び土木建築技術は北九州経由のみではなく
参院、越前、北陸ルートも考慮に入れねばなりませんし。
ただ、纒向から土器が出ていないというだけの理由で、九州勢力の関与が全く無かったと
断定して良いものか?との観点からの意見です。
続きます。
続きです。769は漏れでつ・・・
>「伊都国を中心とした放射説」を採用
いわゆる魏使が伊都国までしか行っていないという解釈です。
柳田、寺沢ラインの主張ですね。
>魏略は万余戸。
すみません、そのとおりです。勘違いしていました。
>同じ魏志の西域伝に・・・
オスマントルコは大間違い!ほんとボケボケでした。重ね重ね申し訳ない。
しかし韓伝も含めて、正確な戸数記事が書けるほどの実地探索技術があったとは
いくら大陸が最先進国といえども、考えにくいですよ。やっぱり。
ここは伝聞推定プラス陰陽五行説による数字合わせ程度に考えておいたほうが良いのでは。
>>740に関しては、文化移動に言及したものではなく、単なる人の移動です。
神武天皇じゃないけど「ここより善い場所がある」とばかりに家族単位で移動していった
結果が近畿の人口増加に拍車をかけたのではないかとの観点からです。
まとめながら思ったのだが、オイラどうも寺沢説にかなり近いつーかほとんど一緒だな(w
東征も東遷もなくていいじゃん
あったのは日向皇子の単身に近い「婿入り」
あるいは畿内大和が「親魏倭王」の血筋を象徴的に迎え、
名実ともにヤマト倭国王権を確立
773 :
日本@名無史さん:04/02/18 15:12
九州で1000年も自分の農地を一所懸命に耕して守ってきたものがそれを捨てて東遷し
近畿で農地を奪い取るというよりは、渡来人が九州に上陸したが土地の提供を拒絶され
東遷し、近畿地方で第2-3次産業(宗教、軍事、建築、冶金、窯業)の分野に吸収されて
いったと考えるのがすっきりするんだけどなー。渡来人ではない弥生下の進まない南九州
の倭人もこうした流れに乗って相当移動したことはいえそうだけど、伊都国、奴国などの
旧王国の体制派の人は東遷しなくても既得権力の維持はできたのと違うか。
774 :
日本@名無史さん:04/02/18 15:17
北部九州の青銅利器祭器が四国南西に多いのは東遷何でものではなく四国南西が
九州北部の属国のような地位にあったからなのではないのか。九州南部は手ごわいが
四国南西部は案外と素直に九州北部の管理下に入ったのでは。
さっき寺沢薫の王権誕生を読み返して気づいたのですが
>>143や
>>663で引用されている地図は、この本からのコピーだったんですね。
しかし寺沢説にも大きな弱点があるんですよね。
纒向や箸墓の築造を3世紀初頭に持っていく為の根拠である庄内式と布留0式土器の年代比定が
定説と言えるほど確固たるモノではないという点で。
これをどこまで補強できるかが課題でしょう。
反対に纒向が邪馬台国となったのは実は3世紀末頃で
それまで卑弥呼は吉備やら唐古辺りに待機していたって考えた方が
すっきりはするんですけどね。
まあ本当に確証が何一つ無い、殆ど妄想に近いものですが。
>>773 >>774 ほぼ同意ですが、渡来人が取り込まれたのを近畿に限定する必要は無いのでは?
ただ北九州の代々の王たちが近畿の開拓と経営支配にあまり積極的でなかった事が
結果的には畿内ひいては東海、関東、上信越地方に巨大マーケットの形成を許したのだと考えられます。
僕は2世紀初頭に列島に出現した経済共同体がいわゆる倭国連合の正体だと考えているのですが。
邪馬台国は当初その物流ネットワーク基地を目的として新設されたのでしょう。
ところが経済的にも、更には自警団として発足したはずの警察力さえも、他の地域を遥かに上回ることになった。
それは地理的有利も大きな要因のひとつですし、宗教施設(恐らくは技術開発機関でもあり軍事中枢でもあった)を有していたことが決め手となったのでは?
しかしこの畿内勢力が他の地域を軍事征伐して勢力拡大したとは考えていないのです。
あくまで強大な発言力を有するようになったといった感じで、それが証拠に初期型前方後円墳は
他の勢力の空白地帯から発祥し、時間をかけて伝播しています。(
>>143の地図参照の事)
要するに軍事侵略はこの頃には無かったと思われます。
それ故、邪馬台国は決して連合国家と呼べるものでも、ましてや倭国の君主でも無かったと考えます。
畿内勢力が中央集権国家と変貌するのは、早くとも4世紀中頃、もしかするともっと遅かったかも知れません。
そのような経済共同体が出現する文化や物流の母体が北九州発祥と言うのはほぼ間違いないと思いますが
実際に発生の要因になったのは
@先に述べたような人口増加による市場拡大
A経済利害の一致による治安安定
B同一民族(少なくとも同一言語)故の比較的高速な文明伝播
これらをベースに
C大陸、特に半島情勢の劇的な変化。
が引き鉄になったのではないかと・・・
かなり推論も混じってますが、一応の整合性はあるのではないでしょうか。
>>769 >>唐古の環濠は?池上曽根の大型建物“神殿”は?
>>西谷3号とか楯築とかの巨大な墓は、いったい誰が作ったのかな?
>もちろん古くからの畿内部族でしょう。
西谷3号とか楯築とかの巨大な墓は、いったいどこにあるんでしょうね?
ようするに、いいたかったのは、畿内に限らず、九州に限らず、
西日本各地は大がかりな土木工事をおこなう事が
可能な状態にあったということですよ。
九州の関与など必ずしも必要ではなかった。
>>769 >ただ、纒向から土器が出ていないというだけの理由で、九州勢力の関与が全く無かったと
>断定して良いものか?
さて、元のカキコを見てみましょう。
>>618 >この建設にあたり、渡来系のテクノロジーを有力な支配武器としていた九州勢力が
>無関係とは考え難い為、
ここでは“無関係とは考えがたい”ですね。
これは、『九州が関与していたはずである』という積極的な主張です。
>>769と
>>618の主張には雲泥の差がありますネ。
>>618は撤回ということでよいですね?
>>770 >>「伊都国を中心とした放射説」を採用
>いわゆる魏使が伊都国までしか行っていないという解釈です。
魏使が伊都国に留まったとする説と、
行程記事を放射状に読む所謂『放射説』、
を=で結ぶわけにはいかんでしょ。
>>770 >しかし韓伝も含めて、正確な戸数記事が書けるほどの実地探索技術があったとは
>いくら大陸が最先進国といえども、考えにくいですよ。やっぱり。
すぐとなりで、毋丘儉やら王キやらが句麗王宮を追い回して
実際に現地踏査した東夷の伝が信用できないなら、
はるかかなたの伝聞情報のみの西域伝が信用ならんのは当然。
>>628 >実際有り得ない話です。
何てことがいえるはずがないでしょ。東夷伝と西域伝の人口(戸数)の比較自体無意味になっちゃう。
むしろ、公孫淵を倒し楽浪・帯方の2郡をおさめた後は、東夷諸国はこの2郡の管轄下に入っているわけで、
支配を円滑にするために詳細な人口調査がおこなわれていても全く不思議がない。
特に、馬韓などは反乱で太守が戦死する羽目になり、ようやく鎮圧したなんて事件がおきているわけですから、
その後の管理を考えたら、綿密な調査がなされていない方が不思議。
証拠はといわれても困るけど、僕は状況から考えて韓伝をはじめとした東夷伝の数字は相当信憑性があるとおもふ。
倭人伝は知らんけど。
>>770 >「ここより善い場所がある」とばかりに家族単位で移動していった
という程度のことはいつの時代でもあることで、ことさら1世紀に限定する必要がない。
あえて1世紀と時期を限定する以上は、それなりの痕跡なり裏付けがないとね。
>>775 >箸墓の築造を3世紀初頭に持っていく為の
オイオイ・・・・・
>>777 >僕は2世紀初頭に列島に出現した経済共同体がいわゆる倭国連合の正体だと考えているのですが。
2世紀初頭って・・・・
>時間をかけて伝播しています。(
>>143の地図参照の事)
って、あの地図から時間的推移がわかるわけないのに・・・・
だんだん電波がかってきたなぁ・・・・
しばらく様子を見よう・・・・・・
>>777-780 まず訂正から。
>2世紀初頭って・・・・
3世紀初頭の間違いです。ちなみに
>>117でも伊都国の衰退を2世紀半ばと書いていますが同様に3世紀半ばのミスでした。
仰る通り電波ですね、これじゃあ(大汗)お詫びして訂正します。
それと『九州が関与していたはずである』と考えてはいますが、ご指摘の通り証拠はありません。
ただ、纒向出土の土器分布状況は把握しています。それと土木技術の普及もその通りだと思います。
しかしくまで無関係とは断定しがたいなという推論ですので
>>618の撤回ではないです。
希望的観測に近い推論に過ぎないのは、重々承知していますが。
東夷伝の戸数記事については、勉強になりました。
当時の半島史を再度検討したうえで再構築します。
それと「まとめてから書け!」と自己突っ込みを入れたくなるくらい、文章が下手ですね、オイラ。
一般論のつもりが、自分で1世紀とか年代を限定してしまったら、そりゃ突っ込まれますわ。
この点も深く反省。
ただついでに教えてもらいたいのですが、778氏はどういった説を採っているのか知りたくもあります。
カキコから察すると「確かなことはまだ言えない。断定するには材料不足。」と返されそうですが。
>>781 >3世紀初頭の間違いです。
ありゃ?間違いですか。
そのあとで
>そのような経済共同体が出現する文化や物流の母体が北九州発祥と言うのはほぼ間違いない
と書いてるんで、
>>640(既に訂正済み)も踏まえて、
1世紀に九州から畿内への人口の大量移動があり、
それにより『北九州発祥』の『経済共同体』が2世紀初頭に出現した
という説かとおもた。
失礼。
>>781 >希望的観測に近い推論に過ぎないのは、重々承知していますが。
>>618に付いてはそのようなものと了解しました。
でも、希望的観測に『ほぼ間違いない』とか、書かないでほしいなぁ・・
上の『経済共同体・・・』もそうでしょ?
『あり得ない』とか、『考えがたい』とか書いてあるから、つい反応しちゃう。
それが徹頭徹尾出鱈目なら放置できるけど、他がまともだから・・・
>>782 >778氏はどういった説を採っているのか知りたくもあります。
>>741。
で、さらに踏み込んだ部分は、なぜか、
>>742で693氏が代弁してくれてまつ。
たくさんカキコする人はコテハンとは言わんから、
せめて番号ハンにして読みやすくしてくれんかな
107さんみたいに
>>785 思想的に凝り固まった香具師が揚げ足取りに躍起になるからこのままでよい
レスごとに真実を見よ
788 :
日本@名無史さん:04/02/19 16:04
>>758 >例の高句麗の広大王と戦ってその騎馬軍団の圧倒的な破壊力にビビり、
>大慌てで乗馬を始め、ズボンをはく等騎馬民族の風習も大幅に取り入れたらしい。
倭が4世紀末に広開土王の騎馬軍団と戦って「圧倒的な破壊力にビビり」、
慌てて騎馬戦術を取り入れたというのは納得できるが、その前がわからない。
というのは、発掘によれば伽耶、とくに金官加羅には4世紀初頭にはすでに
騎馬軍団が存在した。
倭の半島進出は4世紀中葉とされるが、そのころの倭はどうやって騎馬軍団を
持つ伽耶を服属させたのだろうか。
789 :
日本@名無史さん:04/02/19 16:16
学問に思想を持ち込んだら終わり。
790 :
日本@名無史さん:04/02/19 16:44
だから、倭にしろ加羅にしろ、騎馬戦術を取り入れたのは
広開土王との戦いとは関係なく、それ以前のことだったわけだろ。
792 :
日本@名無史さん:04/02/20 00:17
fg
793 :
日本@名無史さん:04/02/20 07:58
古墳建設には大量の労働力、それを支える衣食住供給のインフラ鉄などの金属器などが
必要だから古墳は当時の民力を表すバロメーターととらえるべきで、文献学上の情報は
これを補完する資料とすべきと思う。奈良県、大阪湾の陸地化が始まり大量の農地が出現
して日本各地から労働力が集中したものと考えたい。
794 :
日本@名無史さん:04/02/20 08:02
マンパワーの供給元としては南九州と東日本の両方があったのではなかろうか。このうち
九州は銅剣、銅矛時代からの尚武の傾向が強く兵力に多くが回り、その結果が物部、久米
などという部族名となったのではと考える。
795 :
日本@名無史さん:04/02/20 09:31
>>791 倭は4世紀初頭にはすでに騎馬戦術を持っていて、それが海を渡って
伽耶を服属させたという、逆騎馬民族説かな?
宮内庁が西都原古墳群の女狭穂・男狭穂両古墳の
レーダー探査を許可
797 :
日本@名無史さん:04/02/20 10:37
女狭穂・男狭穂の被葬者は誰か?諸県君牛/髪長媛???
これを機会に全国の陵墓・陵墓参考地の調査が進まんかな
799 :
日本@名無史さん:04/02/20 11:23
一応現皇室の直系初代天皇とも言える継体天皇陵が記紀の不備から指定漏れとなり甚だしい
盗掘を受ける一方で、九州の女狭穂・男狭穂の被葬者は不明のままに国費を投じて保護する
といった事態は、皇室が学者一族であるにかかわらず、官僚機構が宗教に毒されているという
奇体なことであるということに世論がなびく、というか常識となるのでこれに同調したということかね。
800 :
日本@名無史さん:04/02/20 11:34
近畿地方の6世紀以前の古墳は近畿の豪族が持ち回りで就任した倭国の大王の墳墓であり、
大王陵と読んでもよいが、決して、現代的な意味での天皇陵ではないということを明確にし、
天皇家の歴史も正確で、明確なものとし、天皇陵以外のものについては、宮内庁の管理の
下に発掘を許可してもよいと思う。宮内庁を取り巻く環境には前向きなところがないよね。
天皇制の先々を思うとこれでよいのかという不安が残る。
>>800 天皇陵でないものを、なぜ宮内庁の管理下におくのかね?
天皇陵でないもの、疑われるものすべて科学的に調査シル。
明確に天皇陵と判明したもののみ、宮内庁の管理下に徹底的に調査シル。
802 :
日本@名無史さん:04/02/20 17:18
たった10日で800っすか。
スレの消費ペース早いねぇー。
>>801 なんにしても、宮内庁は科学的な組織じゃないわな。
しかし宗教的な信念みたいなもんがあるとも思えん。
官僚的な惰性・慣例主義のみで運用されてるとしか思えない。
世界で、古代史の研究がこういう形で介入受ける国あるのかね?
803 :
日本@名無史さん:04/02/20 17:20
チョットきびしすぎるんじゃえーのか。
804 :
日本@名無史さん:04/02/20 17:24
所詮、現世とは関係はない。だが、jないんもなくて、カラオケだけで、それでいいのか。
そういえば、箸墓のあたりから馬具が見つかったって話はどうなったの?
ハヤト系に近い西都もなぜ?宮内庁。
807 :
日本@名無史さん:04/02/20 17:42
そんは国、あるとしたらジョンイル国と違うか。
808 :
日本@名無史さん:04/02/20 18:14
>宮内庁が西都原古墳群の女狭穂・男狭穂両古墳のレーダー探査を許可
どうせこの先ポンポンとは許可してくれねーだろうから
このさいメサホ・オサホ古墳から「スバラシイ」結果出ないかな
まあ、あんまり変なの出ると、アメリカは嘉手納で荷作り始めるぞ。オイ
810 :
日本@名無史さん:04/02/20 21:28
一つ疑問。
3世紀の大和の遺跡からは大量の鉄は出てこんのでしょ?
一方で、その造営には膨大な鉄の道具が必要と言われる箸墓古墳なんてのが出てくる。
結局、3世紀の大和に大量の鉄はあったの? なかったの?
近畿圏の勢力が大きくなって,やがて九州まで支配
ここで困ったのが,中国との関係。
なんせそれまで修好関係がなかった。
正当な後継者を装おう必要がある。
というわけで,九州勢力が東遷したとするお話を捏造した。
ついでに,ヤマトも僭称した。
ってのはどう?
まーなんだ,「なんとか説」なんてのは所詮このレベルの思いつき
>>811 頑迷だね
畿内じゃないと発狂しそうだな
徳川幕府も鎌倉幕府もアメリカ合衆国もついでに畿内にしとけよ
813 :
日本@名無史さん:04/02/20 23:34
誰か、古代倭の航海術について詳しいサイト知らない?
どーもそのあたりが判らないから、古代倭の状況が判らないんだけど。
>>810 畿内に鉄無し任那九州出雲からの輸入オンリー
畿内は発展性が高い広大な農作物製造地とそれに伴う人的(奴隷的)資源
畿内で大和朝廷が発祥したとする可能性は
稲作の流入で爆発的に人口が増えたと思う。その人口爆発時に何かあったのかも知れぬ
それ位しかないので可能性は無し。
>頑迷だね
>畿内じゃないと発狂しそうだな
おやおや,かなり混線してるね。それはそれで面白いけどね。
そりはそうと
邪馬台国が畿内だったら,修好関係があったわけだし,僭称する必要もない。
>>816 奴国は福岡にあり、日本の勢力としては最初に中国王朝と接触、
金印をゲットするという大戦果を上げている。
一方畿内勢力は3世紀から4世紀以降伸長して九州から大陸との外交権を奪ってる。
とすると、初期の大和朝廷で九州から外交権を奪って間もない頃は
大陸との交渉は全くの初心者だったとなる。
初期大和朝廷にとって、奴国の「大戦果」は、できれば引き継ぎたい遺産だった筈。
んで、「自分達は九州勢力の後継勢力ですよー」と僭称するべく東遷なんて話をでっち上げたと。
こう、
>>811氏はいいたんでない?
818 :
日本@名無史さん:04/02/21 01:48
レスどうもです。
もっとも,811=816なんです。
811のカキコは,畿内勢力が邪馬台国を僭称した。という意味。
つまり,邪馬台国は畿内じゃないことが前提
そんなところに,812がレスつけたので,816を書いた。というわけです。
>>693への反論?
九州勢とかひとくくりにしてもね
畿内勢力は九州勢排除とか恨みでもあるのか
排除するって難しくないかな
大和朝廷は邪馬台国を僭称して東遷はでっち上げで九州人だけ排除か、苦しいね。
820 :
日本@名無史さん:04/02/21 09:40
魏志倭人伝の邪馬台国が畿内でないと読み取れるなら、偽書倭人伝ということになるが
これが九州説の主旨であるのか?
821 :
日本@名無史さん:04/02/22 13:49
「東遷という伝承をいかにして無視するか」
「九州をいかにして関係ないものにするか」
という至上命題がおありな人がおられるようです
そういう人たちは
・東遷だの天孫降臨だの記紀の記述なんか考慮するのは「学問的立場」として相応しくない
・だからこそ九州という記紀神話の舞台を、実際の歴史と何とかして切り離したい・・・
学問の以前に思想があったらそれは学問じゃない。
そういう人達に限って「崇神からは史実」とか「応神から」
なんて勝手な解釈するんだよな
823 :
日本@名無史さん:04/02/22 14:35
>>821 しかたねーじゃん、考古学的には何もわからねーんだから。
実証したくばシュリーマンよろしく掘るべし。
んじゃなきゃ「単なる日向からの婿入りを、天皇氏のプロパガンダの為大袈裟に描いた」
とかいう解釈でもよくなっちまう。
むろん、奴国の外交的成果を乗っ取る為、
大和が九州の後継勢力であるとでっち上げ、筑紫から嫁の一人も貰った、とかいう解釈もありだ。
考古学的に何か理論を構築できん限り、伝承なんて幾らでも都合よく解釈できるよ。
発掘成果とセットにして考えんと記紀も魏志倭人伝も読めないと思う。
倭国大乱が実は単なる権力者同士の政争に過ぎず、大規模な戦乱ではなかったって「解釈」も、
発掘成果から出て来た物なんだし。
825 :
日本@名無史さん:04/02/22 15:11
卑弥呼の時代に纒向に古墳が出現するんだが、これを九州に出現したというようにどうやって
説明したらいいんだ?九州説って読んだことはないんだが、何か根拠があるんかねー。
伊都国、奴国、後漢が終わって、何もなくなって、そのあとに纒向が来るんで二都物語じゃないんだよ。
826 :
日本@名無史さん:04/02/22 21:32
九州に何もタッチしない畿内説論者はサヨ。
827 :
日本@名無史さん:04/02/22 22:18
3〜4世紀ごろの初期の大和朝廷ってどんな組織だったの?
そのへんが判らない。
誰かが信長よろしく武力で全土を統合したとも思えないし、
日本全土の豪族が連合政権を作る事で合意しなきゃいけない理由がどもわからん。
828 :
日本@名無史さん:04/02/23 07:22
出雲=邪馬台国説はどう?
邪馬台国のオロチ→ヤマタノオロチ
卑弥呼=オロチ
素戔鳴=狗奴国王卑弥弓呼
829 :
日本@名無史さん:04/02/23 09:50
出雲は銅鐸・銅剣両方出る。銅鐸は近畿(九州、吉野ヶ里辺りにもあるけど)がほとんど。
銅剣は九州が俄然多い。出雲はこの点で近畿と九州の真ん中。出雲に銅鐸の文化を持ち込んだ
のは九州かと思っていたんだけど、ヤマト三輪山の周囲に出雲の地名が多い。出雲は中部、関東
との関連が多い。
ヤマタノオロチというのは大和の大蛇(三輪山)とすると出雲が大和を征服したということになり、
出雲は狗奴国ということになる。出雲のような僻地に強国のできるわけがなく狗奴国、出雲というのは
出雲神社などがある丹後地方のことかなとも思う。その征服というのは纒向などのできる前のこと
ではないのか。海部と尾張は先祖が共通というからこれらが纒向建設に参加したとすれば東海式
土器の出土の多いのがわかる。そして孝昭辺りで播磨、吉備の侵入がありモモソヒメ、卑弥呼となる
んじゃないかと思うが。
830 :
日本@名無史さん:04/02/23 10:04
東アジア全般のシャーマン制度は熊の嫁になる姉とそのことによって狩猟の成功を約される
弟のペアが首長となるというのが基本であるが、アマテラスとスサノオもこの類型の一つで
スサノオは外来の神ではなくあくまでもアマテラスの弟として存在するのが本来の姿では
ないかと思う。この神話体系は弥生以前の時代のことであり、その後様々な話が加わり変形
していったものであろう。
831 :
日本@名無史さん:04/02/23 10:51
伊都国奴国は弥生1000年の間、出島、特区であり、縄文の末裔に包囲されていた。
そのそも、最初に水稲農業が伝来した頃、東北の縄文中心地から視察にきて、雀居
に入植している縄文グループがいる。出島、特区の内部まで縄文人の監視は及んで
いたんだ。これが九州が終始日本の出島として見られていた証拠であり、そこに首都が
できない理由だと思っている。日本人をなめたらあかんぜ。
>>831 九州も朝鮮半島も近畿からは同じように見ていたと言うことか。
要するに我が地元こそ邪馬台国ってこった
834 :
日本@名無史さん:04/02/23 16:19
>>823が代弁してくれた通り、邪馬台国問題に記紀を絡めるのは時期早々だよ。
かと言って今後一切無視して良いという意味ではない。
発掘結果と記紀が一致する例もあるし、そうでないものもある。
ただ、文献的にも考古学的にも北九州説なんてのは、非常に考えにくいのだが
835 :
日本@名無史さん:04/02/23 17:52
北九州=邪馬台国 畿内=狗奴国
スサノオ=卑弥弓呼=崇神天皇=畿内の王
ヤマタノオロチ退治の神話は狗奴国の成立の歴史の反映
狗奴国は九州の邪馬台国を滅ぼした(滅ぼしかかった)が、
邪馬台国のある王族が、起死回生の畿内政権の乗っ取りを図り、成功した。
狗奴国の王族を山陰地方へ流し殺害、その地を出雲と名づけた。
836 :
日本@名無史さん:04/02/23 20:17
畿内は1世紀には銅鐸文化圏だった。
それが3世紀には銅鏡文化圏に変わっていますよね。
大和王権に発展する過程で
自然に祭祀が変わるものなのだろうか?
私は畿内が何者かに宗教的に支配されたものだと考えるんですが、
この事は神武東征を示唆しているとは言えませんか?
このスレを読んでいると
2世紀のいわゆる倭国大乱期を
とても過小評価しているように見えるんですが、
私には日本の原型が形作られた
大変革の時代だったのではないかと
思えます。
倭国乱を過大評価するのもどうかとw
839 :
日本@名無史さん:04/02/23 22:41
>>837 しかたねぇじゃん。何処掘っても矢じりの刺さった骨とか首のない遺体が発見されないんだから。
むしろこの時代は吉野ヶ里みたいな大規模な軍事設備を持つ村落は消えて行く時代だし。
よって倭国大乱=戦乱、でないのは今や定説……。
840 :
日本@名無史さん:04/02/23 22:48
時にエミシどよむ、大王兵をあげてこれを撃つ
崇神の時代の、東海・関東の反乱、或いは各地で頻発した謀反の話しではないの?
倭国大乱って。
841 :
日本@名無史さん:04/02/23 22:50
ま た 話 が や や こ し く な っ て き た
842 :
日本@名無史さん:04/02/23 22:51
>>836 銅鐸の問題は心無い学者たちによって無視されています。
>>840 いやぁ、後から訪問した人が、デッチアゲました。
俺は大乱を勝ち抜いた日本の王だって。
大乱期の高地性集落を見ても
やはりこの時期に何らかの軍事的緊張があったんじゃ
そう考えないと
銅鐸が何故破棄されたのかの説明がつかないですね。
>>839 まだ、海洋民(海賊)が農耕民集落を襲うという形で「戦乱」は続いていたと思うよ。
邪馬台国みたいなのは、圧倒的な生産力で海洋民を服従させるような力(軍事力を含む)があったんだ。
玄海灘諸国は、その力に依存した元海洋民国家。狗奴国は服従しなかった海洋民国家と。(妄想)
846 :
日本@名無史さん:04/02/24 00:43
>>836 844
銅鐸は一村が政治単位だったころ祭祀用具じゃないかな。
豊作を願ったり、村が敵に襲われない様に願ったり、天変地異とか疫病とか・・・。
やがて村の垣根を崩して村々を束ね、政治的にも宗教的にももっと大きい単位に併合されて行く。
で、村の祭祀が要らなくなった、国(大王、首長)が代表して祭祀を行うからだ。
それと、こうも考えられる。
豊作は農業技術の進歩(灌漑や開墾)で補われる、国に統合されれば村同士の戦争はなくなる、
つまり国の恩恵により、ちっぽけな村の祭りは放棄されるようになったと。
847 :
日本@名無史さん:04/02/24 00:50
>>846 根拠はないんだけど
2世紀の末から3世紀の初頭に、大和に凄い頭のキレる英雄がいたような気がする。
古代エジプトのイムヘテプみたいな奴。
この時期卑弥呼の共立やら前方後円墳の建設開始やらがあり、
倭国統一の「象徴」があれこれ一度に出現してる。どーも天才がいた気がすんだよね。
銅鐸破棄もそいつが押し進めた宗教改革の一貫だったんではなかろうか。
ま、妄想だけどね。
>>846 今でも村々に氏神がいて祭っているよね。
村の祭祀がいらなくなるとは考えられないんだけど。
849 :
日本@名無史さん:04/02/24 01:08
>>848 強力な国家を建設しようという王にとって各村落ごとに形成された政治単位は邪魔だった筈。
「今度大和川から纒向に運河を作るから人夫を10人出すように」
とか命令を出しても、
「いや、うちの村のシャーマンの占いで、工事に行くと事故で死人が出るって予言されまして」
とか言われたらたまったもんじゃない。
この時代のマツリゴトは文字道理祭り事だった。各村々でマツリゴトが行われていたら新たな国家は作れない。
よって、村ごとのマツリゴトの象徴であった銅鐸を破棄するよう命令が発せられる事となる。
といった展開なら考えてもいいんじゃない?
この時代では、のちの倭寇のような強力な海洋組織はありえなかったと
どこかにあったと覚えてるんですが、どうなんでしょう?
つまり日本勢が半島南部等に進出するような活動は難しいと…。
>>850 どうなんだろう。自分にはそのへんはよう判らん。
ただ日本海を渡る大船団を描いた落書きなんかも発見されてるし、
強い海洋勢力がいても面白いと思うけど。
>>845 狗奴国かはわからんけど、沿岸の海賊組織や海洋国家が半島南部くらいなら
侵してしまうイメージあるんですけどね。
ま、ようするに織田信長の比叡山焼き討ちみたいな事があったんでないかって事なんだけどね。
銅鐸の祭りは禁止されたのか、自ら止めたのか。
国としては
>>849の言う様に止めさせたかったろうね、
その代償に、灌漑や開墾を指揮して農耕を振興してやる、
争いを調停したり外敵から保護してやる、
そんな目に物見せる様な事でもしないと古い信仰は捨てないだろう。
この森には神様が居るから開墾しない、村人かそう拒めば、
地鎮祭の様な事をして土地の神を鎮め、彼らの気も安める、
そうしておいて開墾し収穫し、その物量の恵みを見せて
「ほら、こっちの方が良かったろう」と言って心服させるという手順。
>>848 >村の祭祀がいらなくなるとは考えられないんだけど
銅鐸を遺棄する代わりに、別の物を配ったんじゃないかな、鏡とか古墳築造とか。
それと、祭政一致の時代には、村の中で形骸的な信仰として残ることはあり得なかった、
許されなかったんじゃないかな。現代人の様には実生活と切り離せない。
>>854 なるほど。そこで三角縁神獣鏡の国産と配付が出てくるわけか。
三角縁神獣鏡は元々中国の鏡だし、外交権を握っていた邪馬台国政府にとって
この新しい祭器は自由に意義付けができる、
村ごとのマツリゴトから国家によるマツリゴトに社会を誘導する為の
都合のいい小道具だったかもしれんね。
面白い考え方かもしれない。
ところで、古墳時代の人口増加はやっぱ、巨大権力の発生と鉄器の普及によって
(前方後円墳建設に代表される)大規模な土木工事が可能になった事が
大きく絡んでるのかね?
銅鐸祭祀が終わったのは、たんに銅鐸圏の問題ではなく
銅矛・銅戈・銅剣祭祀の終焉と同時。
銅矛・銅戈・銅鐸は、素材である青銅が同一地から供給されている上、
発生→巨大化→終焉がほぼ同時に一斉におこっている。
つまりすでに統一権力の下にあった可能性が高い。
857 :
日本@名無史さん:04/02/24 09:07
後の河内王朝、倭の五王時代は鉄器と大阪湾の耕地拡大(奈良盆地にプラスして)が農業生産力に寄与して
余剰労働力が生まれ、特に農閑期の余剰労働力とそれの有効利用の必要が出たものであろうが、初期纒向
や佐紀盾波時代にもこういう好景気時代があったが、その間には国際的又は国内的飢饉や国際情勢の不安定化
による海外出兵、内乱的なものがあったという風に読みたいけど。
858 :
日本@名無史さん:04/02/24 09:47
倭国乱、高地性集落、環濠集落の背後にあるのは水田耕作の集約性の高まり、水源、水利を巡る利害の先鋭化、
統合による合理化と生産性の向上、こうしたものが先進地ある筑後川、遠賀川近辺から始まり、あたかも、伝播する
如く、ちょうど、流入してきた青銅祭器の流れも絡み合って全国的に展開したものだと思う。高地性集落とは後の天守閣
であり、防衛もあるが、農地の紛争を管理するという目的もあったのではないか。農地統合による合理化(シャーマン、モノノフ
のリストラ)、農地の拡大、鉄器の普及でもって古墳時代の基礎ができてきたがその序曲が倭国乱時代であったのでは。
>>836,
>>856 銅剣・銅矛・銅鐸文化圏は既知なれど、
銅鏡文化圏なる用語は未知。
単に広まっていた範囲を言う?
なら、文化は何? 祭祀???
860 :
日本@名無史さん:04/02/24 12:21
>>859 文脈の流れとしては銅鏡文化圏ってのはたぶん銅剣・銅矛・銅鐸文化以後の事を指すんじゃないか。
実際そう言い切るにはかなり苦しいのは同意だが。
それと
>>856は別人じゃないの?
それは
>>849の補強であり、仮説としては立派なものだと思う。
邪馬台国=初期大和朝廷だとして、記紀には銅鏡を
地方豪族に下賜していたなんて記述ないぞ
862 :
まとめてみた:04/02/24 13:44
考古学的成果を踏まえた上での文献利用の提唱(
>>682より)
記紀や魏志倭人伝の記述と考古学的な資料を合わせて考察するのが本来のスタイルでしょ?
邪馬台国論議は供述の二転三転する幼児を証言台に立たせて裁判やるようなもんだ。
そんな状況で真実に近付くには物証を積み上げて証言の何が正しくて何をどう解釈すべきか検討するしか無い。
記紀や魏志倭人伝の解釈論では一歩も前へは進めない。
考古学的事実(
>>474より)
> 纏向遺跡最大の特徴は、 出土した土器のうち約三割が大和以外の外来の土器である点です。 それら外来の土器は南九州から南関東にいたる日本列島各地のものであり、 中でも東海地方の土器が最も多く、 朝鮮半島の韓式土器も出土しています。
また吉備地方に起源を持つ「弧紋」という紋様を施した木製品や、 鶏形の埴輪や木製品など、 祭祀に関係すると思われる遺物が多く出土しています。 これは纏向遺跡が物資の集散地であった証拠です。 このような遺跡は全国でも纏向遺跡だけです。
863 :
まとめてみた2:04/02/24 14:00
邪馬台国=経済共同体発展説(コテハン107氏より一部抜粋)
ただ、仮説としては稲作が定着した近畿地方が先進地の九州と人的資源を
有する東海上越との架け橋となり、ほぼ半世紀ほどかけて人口密集地となっていった過程において
いくつかの支配者グループが発生したのではないかと思います。
そのうちのひとつが例えば警察的な役割を持ち、また一つが技術指導を行ったりしているうちに
権力層としての擦り寄りが起こり、経済圏としての体を成したのではないでしょうか。
それが老舗の北九州が外交問題で衰退するに至って、初めて
畿内&九州の瀬戸内ネットワークを中心とした原始国家へと成長していったのかと
思います。
(詳しくは
>>644 >>646 >>657参照。107氏は畿内邪馬台国建設に九州勢力が関係しているとの立場)
864 :
まとめてみた3:04/02/24 14:01
107氏への反論
>>738-740参照。同じく畿内成立説だが北九州排除説。その主張は
纒向を邪馬台国の都と仮定すると、その場合九州の地位は低い、
いわば「敵国条項」のある敗戦国のような状態だったとするのが妥当だと思う。
根拠は
1>三世紀、九州の遺跡が衰退する。
2>纒向から九州の土器が出ず、意図的に九州が中央政界から排除されていたと推測される。
3>魏志倭人伝に
「女王國より北(畿内説では西)の地方は、特別に一大率を置いて、諸国を検察させている。
諸国では、これを畏れている。
常に伊都国(女王国に臣従する福岡県糸島郡にあった国)にいて統率している」
との記述があり、北部九州の豪族は女王国本国から監視される立場にあった事が読み取れる。
(
>>693より)また補強として(
>>741 >>742)より
しいていうなら、各地の要素を統合する形で
2世紀末から3世期初頭ぐらいに畿内で発祥し、
やがて王権が強化されて大和朝廷に至る。
でも、その実体は全く解明されていないから、
都が畿内纏向(あるいはそのやや北側)にあるのは事実としても、
畿内勢力が音頭を取ったのかもしれないし、
逆に、軒を貸して母屋を取られた状態かもしれない。
吉備が盟主かもしれないし、東海かもしれない。
ひょっとしたら出雲かもしれないし、万が一、九州であるかもしれない。
865 :
まとめてみた4:04/02/24 14:08
銅鐸消滅の理由(仮説)
やがて村の垣根を崩して村々を束ね、政治的にも宗教的にももっと大きい単位に併合されて行く。
で、村の祭祀が要らなくなった、国(大王、首長)が代表して祭祀を行うからだ。
それと、こうも考えられる。
豊作は農業技術の進歩(灌漑や開墾)で補われる、国に統合されれば村同士の戦争はなくなる、
つまり国の恩恵により、ちっぽけな村の祭りは放棄されるようになったと。
(
>>846より)
補強としては(
>>849 >>854 >>855)特に854の以下の部分
その代償に、灌漑や開墾を指揮して農耕を振興してやる、
争いを調停したり外敵から保護してやる、
そんな目に物見せる様な事でもしないと古い信仰は捨てないだろう。
この森には神様が居るから開墾しない、村人かそう拒めば、
地鎮祭の様な事をして土地の神を鎮め、彼らの気も安める、
そうしておいて開墾し収穫し、その物量の恵みを見せて
「ほら、こっちの方が良かったろう」と言って心服させるという手順。
866 :
まとめてみた4:04/02/24 14:13
考古学的事実の補足(
>>657)
問題はこの時期に戦乱の跡が無いって事なんですよね。
どっかに大規模戦乱の跡やら破壊された遺跡が見つかったら話は早いんですが。
それが無いために謀略や融合や合議といった無血開城を想定せざるを得ないのですよ。
実はこの問題こそが、畿内、九州説に関わらず邪馬台国問題の最大のネックなのです。
867 :
日本@名無史さん:04/02/24 14:52
>>865 銅鐸が一部の小さな村だけで使われてたにしては数が多すぎないかな?
一部じゃなくて多くの村で使われてたとするなら統合されても銅鐸を使
いつづけるのが普通な気がする。
だいたいいくら日本人が宗教にのめりこまないといってもあるとき突然
銅鐸やめますっていうのはちょっと考えにくいんじゃないかな。
868 :
日本@名無史さん:04/02/24 15:20
>>861 じゃ逆かな。
地方で祭っていた神を鏡に遷して大王のもとに奉献させた。
「お前達の神は、責任を持って国が祭っていく、逝って良し!」てな具合に、
祭祀権を取り上げたと言うか、大王みずからの祭りに昇格させたと言うか。
出雲国造が唱える祝詞に、「皇御孫(すめみま)の命の静まり坐さむ大倭國と申して、己が命の和魂(にぎたま)を
八咫鏡に取り付けて、・・・・大三輪の神奈備に坐せ」とあります。
>>868 の補足
己が命 とはオオナムチの命(大国主命)です。
自分の分霊を、三輪山に祭ったという事ですね。
>>867 >銅鐸やめます
その代償が当時の先端テクノロジー(土木事業など)の恩恵だと考えてみては?
これはどこの国や文化でもそうですが、宗教観に劇的な変革をもたらす時って
医療や建築土木といった直接生活を豊かに
少なくともより安全に生活できる技術を伴った集団に飲み込まれた場合がほとんどです。
つまり宗教の伝播には技術力の裏打ちが必要不可欠なんです。
この場合はやはりより多くの収穫が可能になる農耕技術と防衛力
(854氏が優れた指摘をしているように)を保障されたってのが大きな理由だと思います。
ちなみにオイラ、741氏の説に修正中なので・・・
>>854氏や
>>868氏に感心したのは
それっていわゆる『国譲り』の正体なんじゃないか?
と思ったからです。
相手の宗教を根絶やしという方法を取らず、中央にまとめて祭り上げることによって一致協力させる手法。
シャーマニズムとは違う人工的な八百万の神々を創造、つーか取り込んでいく文化。
前方後円墳が、あちこちの様式を統合して作られているのと同様にね。
だんだん、大和朝廷マンセースレになってきたなw
>>871 本当なら実に日本らしい玉虫色の解決法だな。
1つの神を主張するために血を流さない国風はここからか。
>>864 > 2>纒向から九州の土器が出ず、
このスレで度々こう主張されていたので刷り込まれましたが、
『「纒向」「九州」「土器」』をキーにヤッホーすると、
次がこだまします。2>は真?
纒向(まきむく)遺跡
... 87次調査では、纒向石塚古墳の築造が3世紀前半頃であり、日本最古の前方後円墳であることも確認されている。 纒向遺跡は ... また、南関東から北部九州に至るまでの各地から持ち込まれた大量の搬入土器が発見 ...
>>874 そのあとにこう書いてあるだろ。
>搬入土器の出身地を調べてみると、約半数の49%が東海系の土器で、
>北陸系と山陰系が17%、河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、
>近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、
>紀伊系1%となる(『纒向』桜井市教育委員会1980による)。
1%以下なんだよ。それも限りなく0に近い。
>>874 搬入土器の出身地を調べてみると、約半数の49%が東海系の土器で、
北陸系と山陰系が17%、河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、
近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、紀伊系1%となる
がソース。あと過去ログに、「九州の土器らしきカケラが一片だけ」との発言もあり。
(´-`).。oO(・・・・・こんなこともあるんだ・・・・・)
瀬戸内で高地性集落が多数見つかってるから、
ここを舞台に九州と吉備や畿内とで深刻な軍事的緊張があったのは間違いないと思う。
その後の展開を考えると、おそらく吉備・畿内が勝って九州は負けたとも思える。
ただ、実際に戦闘のあった形跡はないのよね。そこが難しい所。どう解釈すべきか。
879 :
日本@名無史さん:04/02/24 18:50
大陸からもたらされる新技術と鉄器を手にした勢力が大和に成立
↓
彼等の指導により周辺の農村の生産力が飛躍的に向上
↓
民や地方豪族の支持、そして増大した余剰生産力・労働力が一層王権を強化。
↓
強大な王権と鉄器・大陸渡来の新技術により大規模土木事業が可能になる。
巨大前方後円墳の建設や計画的な治水・開墾事業が開始。
↓
生産力は更に増大。人口も増え巨大古墳建設等もあって一層王権の権威が補強される。
↓
味をしめた大和では積極的に渡来人を受け入れ、朝鮮半島への直接侵攻も考え出される。
↓
更に新たな新技術がやって来る。
といった好循環から、平和のうちに大和朝廷は出来上がっていったのだろうか?
880 :
日本@名無史さん:04/02/24 19:31
>>879 大陸渡来のグループが多数いた場合、やがては領土最終分割戦争になるよな。
それに、新政権に従属したであろう人々、そんなにレベル低いとも思えない。
銅鐸にしたって、1mを越える大きさで厚さ数mmなんて、すごい青銅鋳造技術だ。
881 :
日本@名無史さん:04/02/24 20:19
>>880 怨霊が恐かったか何か知らないが、
初期大和朝廷の連中ってなるだけ戦争だけは避けてるような感じがするんだよね。
ヤマトタケル神話もそうだし最近の「倭国大乱」解釈もそうだけど、
戦争はやらず騙し討ちや陰謀や話し合いでもめ事の決着つける風潮が
大和朝廷は強かった気がする。
よって、激しい内輪もめはあったと思うけど実際の戦争はやらなかったんじゃないかと思う。
狗奴国問題も多分そういう路線で解決していったんじゃないかな。
882 :
日本@名無史さん:04/02/24 21:51
戦った形跡がないっていうけどきゅうしゅうあたりではやじり理が刺さった死体や
首のない死体が亀棺に入ってるのが見つかったと聞いてるが時代が違うのかな。
あと農業生産力が上がったっていうのはだいたいいつごろのこと?
>>882 それ吉野ヶ里。邪馬台国とは時代が違う。
弥生時代も初期や中期は戦乱が激しいんだけど、後期になるとだいぶ静かになる。
>>880 新技術がはいってこなくて、既存技術が職人のおかげで発達する
↓
新技術到来
↓
新技術マンセー! のあおりをくらって職人技が廃れる
885 :
日本@名無史さん:04/02/25 00:58
私はどうしても鏡が気になる、
なぜなら今でも私たちは鏡を拝んでいるんだから。
技術が向上して自然に王権ができたとは思えない。
こういうときには必ずエポックメイキングな人物が現れるものだ。
どこからともなく現れ、
鏡の神秘性を利用して国をまとめ上げた人物、
彼こそがカムヤモトイワレヒコその人であると、
妄想したい。
886 :
日本@名無史さん:04/02/25 01:07
>>885 安土時代→江戸時代初期しかり
幕末→明治しかり
日本で何か社会的な変化がある時は、必ずなんらかの技術革新があり、
その事が引き金となって生産力と人口の爆発的増加を引き起こしている。
確かに織田信長や大久保利通は重要な人物だが、
その背後にあった技術的・社会的な変化も見すごせない。
記紀の記述からは中々偉大なる風雲児を特定できないから、考古学的成果からある程度推測できる
社会的・技術的変化を見てこの時代の真相にアプローチするやり方は、結構利に叶ってると思うな。
887 :
日本@名無史さん:04/02/25 01:08
○| ̄|_ =3
888 :
日本@名無史さん:04/02/25 01:30
>>886 記紀じゃ神武天皇をおもいっきり偉大なる風雲児として記述しているんですが、
>>888 いや、創作か真実かハッキリせんからさ、記紀だと。
890 :
日本@名無史さん:04/02/25 01:46
>>886 古墳時代前期は、集落遺跡数も激減していて、
著しい人口減少期と思われます。
891 :
日本@名無史さん:04/02/25 02:04
うー、ググっても3世紀前後の人口に関するページがねぇ。
どこも魏志倭人伝の戸数の解釈論ばっかだし。
892 :
日本@名無史さん:04/02/25 02:48
弥生時代後期60万だった人口が古墳時代には540万になった、とか。
邪馬台国の頃既に200万人口がいた、とか、いや460万だ、とか。
諸説入り乱れてて頭がこんがらがってマス。
今一番ポピュラーな説を誰か教えてくれー
1000万は軽くいたろうな
894 :
日本@名無史さん:04/02/25 07:42
725年の奈良時代の人口が451万2千200人
800年の平安初期の人口が550万6千200人
900年の平安後期の人口が664万1千400人
1050年の平安後期の人口が683万6千900人
だから古墳時代の人口は多分250万〜300万くらいだったと思いまつ
895 :
日本@名無史さん:04/02/25 08:19
残っている戸籍から割り出した奈良時代の人口が600万から700万だったはずだな。
これはずいぶん昔から言われているはず。
896 :
日本@名無史さん:04/02/25 08:23
三国史の半島との戸数比較から見てもすでに倭国は大国だな。
あんま関係ねーけど、旧石期時代の遺跡なんか中国1000余り、
朝鮮100余りに較べて日本は20000超あるもんな
898 :
日本@名無史さん:04/02/25 10:08
なぜ弥生西日本は日本の主流派になりえたのか?
稲の生育に適した土地では、人口が増加しやすい。
玄米と魚を主食とする地域は、小さな土地でも多くの人間を養える。
これに対して、小麦と家畜を主食とする地域は、広い面積がないと多くの人間を養えない。
単位面積あたりの食料生産高を考えれば、西日本は河北や半島よりも人口が増加しやすい。
900 :
日本@名無史さん:04/02/25 15:03
2世紀末から4世紀初頭にかけての人口の増減の傾向が知りたい。
107氏の銅鐸消滅説を裏付けるには、
この時期に畿内で人口がかなりの速度で増加してなきゃいけないんだけど。
>>899 東アジアの歴史って、極論すれば黄河流域で発生した文明が次第に周辺へ浸透し、
数千年かけて潜在力に勝る稲作地域(日本列島や揚子江流域)が黄河流域を
追い抜いていった歴史とも言えるかもねw
902 :
日本@名無史さん:04/02/25 16:35
単に九州で変な病気が流行って国ごと東に移動しただけだったりしてな
>>902 そういう説もあるみたいだな。
ただそれだと、九州からの土器の移動がない事を説明できないんだけど。
904 :
日本@名無史さん:04/02/25 17:08
>>903 じゃ、台風だな。土器が全部吹き飛ばされたw
905 :
日本@名無史さん:04/02/25 17:38
大和には産業スパイが多い。筑紫の技術を盗まれたらイケン。持ち出しはならん。
ただし、大和のものを貰ったり、買ったりするのはヨカ。w
906 :
日本@名無史さん:04/02/25 18:52
結局、古墳時代の人口は判らんわけ?
>>902 阿蘇山が噴火した。
このネタはまんが化までされてる……。
>>907 んじゃ、そのうちオレも近畿に引っ越すかなw
土器は、被支配者から支配者に献上するのが一般的
だったのではないか。この仮説に立つと次のように
言える。
東海系の土器が多いのは、纏向における東海系の存在の
大きさを示しているのではなく、むしろ反対に、大和と東海の
「支配−被支配」の関係が、他の地域よりも峻厳だったため、
よそより多くの土器を献上しなければならなかったことを表す。
あるいは、大和で使役に従事している人の数が他より多かっ
たとも考えられる。
前方後方墳が東海以東に多い理由も、この峻厳な支配関係に
あると思う。大和によって「格下」あるいは「旧敵国」扱いされて
いたために、前方後円墳というもっとも格式の高い墓制が許され
なかったのだ。
一方、九州勢力は支配階級なので土器職人を連れてきて
自前で作る必要もなければ、九州の土器をわざわざもって
くる必要もなかった。つまり、搬入土器の少ない地域が、
支配者の出身地域に、多い地域が被支配地域にあたる。
どちらにしても、東海系の土器がたくさん出るという時点で、
狗奴国を東海に持ってくる説は終わっている。邪馬台国
大和説にたつ人たちは、狗奴国について合理的な説明を
して欲しい。
狗奴国東海説と邪馬台国大和説がかならずセットってわけじゃないだろ
へんなフレームアップはやめれ
>>909 >土器は、被支配者から支配者に献上するのが一般的だったのではないか。
出てる土器は煮炊きとか保存とか、日々の生活に使う土器だよ。
>この仮説に立つと
立てないので終わり。
>>910 必ずセットなんて言ってないよ。でも、寺沢氏他
東海だって言っている人は多いでしょ?他にいい
場所があれば、あんたがそれを論じればいい。
913 :
日本@名無史さん:04/02/25 19:24
>>909 まず、畿内・邪馬台国の中での九州の地位は、3世紀の九州の王墓の質素化と
魏志倭人伝の一大卒記述から、かなり低かった事が想像できる。
畿内の邪馬台国において九州の地位が高かったとはどうしても思えない。
次に狗奴国東海説だが、自分は狗奴国と邪馬台国の対立は邪馬台国連合内部の分裂と内紛だと思っている。
元々小王国の連合政権に過ぎない邪馬台国に内紛が起きないと考える方が不自然。
狗奴国は邪馬台国成立当初は邪馬台国の主要なメンバーの一国であり、
4世紀以後は比較的平和的に大和朝廷に復帰したと思われるが、卑弥呼の晩年(3世紀中ごろ)には
何らかの対立が大和等の勢力との間で生じ、一時的に紛争状態に陥ったのではないかと思える。
信長の死後、彼の重臣達は内紛を繰り返した。明治維新の10年後、西南戦争が起こった。
昨日の味方が今日も味方であり続ける保証は何処にもない。
東海説といっても
静岡県方面という説と、愛知県の方にみる説と
愛知+滋賀くらいに広めにいう説と、三つくらいあるね。
>>914 濃尾・近江が狗奴国の勢力圏だったら、
大和にとっては中々スリリングな事態だったろうねw
地理的な障害もなく都を直撃されるし、日本海勢力とも結びつく恐れがあるし。
916 :
日本@名無史さん:04/02/25 19:57
大和朝廷とは、前方後円墳に象徴される高度で大規模な土木技術を実行しうる技能集団で、
その事が銅鐸消滅に繋がったってって説は面白い気がする。
大和の神々(ひょっとしたら大和の歴史的な人物)が住む高天原が
稲作が行われ機が織られる生産性の高い世界とされてるのと、なんか関連性がある気がするなぁ。
稲作の増産をやるには開墾・灌漑・干拓と大規模な土木事業が欠かせないし、
古墳を作れるというその事が、
大和が倭国を統治する上での強力な説得力になっていった、とか妄想してみたい気がする。
墓が小さいから、後進的と考えて良いのだろうか?
卑弥呼の時代、中国では巨大な墓は作られず、簡素な墓が主流となっている。
卑弥呼の時代以後、中国の影響を受けたのなら、むしろ墓は中国風に小さくなっていく傾向があるのでは?
大墳墓=大勢力の構図は、必ずしもあてはまらないのでは?
小さい墳墓でも、大勢力の権力者の可能性がある。
>>917 例えば、エジプトでは最初巨大ピラミッドが作られてたけど、
後の時代には王家の谷に神殿を作るようになっていった。
確かに大きい事はよい事だ、という発想は先進地では廃れる物かもしれない。
しかしそういう奴らは中身にこだわり始める。ツタンカーメン王の墓なんか凄まじいもんだ。
これはおおむね日本も同じで、五世紀迄はひたすら古墳を巨大化させるけど、それ以後は中身にこだわり始める。
ところが、3世紀の九州の墓はその中身がしょぼくなっていってるんだよ。
そこから、政治・経済の中心が九州から大和へ移動した事が読み取れるわけさ。
919 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:39
マキムクから各地の土器が出土しているのは、ヤマトに服属した地方豪族が
郎党を引き連れて、大王に出仕していたからだと思います。九州の土器が余り
出ないのは、九州がヤマトと緊張関係にあったからではなく、
@地理的に遠方であったこと
A九州は同盟国であり、いまだ服属関係にはなっていなかったから
のいずれかになるのではないでしょうか?
もしくは九州豪族は一大率に出仕していたとか。鎌倉武士の京都大番役みたいな
感じで。
920 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:49
当時の邪馬台国が倭国の盟主の座に収まったのは、
やはりその圧倒的な軍事力なんだと思う。
ちょうど、山口組のブランド力と一緒で、地方豪族が服従してまで
邪馬台国に期待したのは、抗争の抑止力や抗争が起きた場合の調整能力
なんだろう。
山菱=銅鏡なのか
ちと、速すぎる、君らは候か?人の意見、考え、気持ちを鑑みていない。
大和の人の考えなら熟考なしには難しい。
922 :
日本@名無史さん:04/02/25 22:16
筑紫は筑後川方面で農業生産力が高まり、東方はるか彼方の諸国よりも重心を筑前から筑後に移し、
後の磐井につながる、すなわち、当時の関東、東北地方同様中央の干渉を嫌っていたのではなかろうか。
個人的には箸墓建造がちょっと謎。
あれ程の巨大古墳を突如として作るのはきっと前代未聞の巨大プロジェクトだったろう。
それが3世紀になって何故突然可能になったのだろう。
あれほど精密な鍵穴方の古墳を作るには半端じゃない数学的知識と土木技術が必要だった筈。
まぁ渡来人が一枚噛んでるのは間違いないだろうけど、どうもそこが判らない。
それと同時に、どこから膨大な労働力をかき集めたんだろうって疑問も残る。
なんら生産に寄与しない人間を数千人、数年に渡って養わなきゃいけないわけでもあるし。
そのあたりに、邪馬台国=大和朝廷成立のキーが隠されているよーな……。
そこへ107氏なんかの銅鐸消滅の解釈も絡めて、
箸墓を作った勢力は元々は治水や開墾を指導する存在で、
大陸からの技術者の受け入れも積極的に進める連中だったんじゃないだろうかと、
そう思えるんだけど。
んで、そいつらがその土木建築技術を転用する形で作ったのが箸墓なんじゃないかなー。
つまり、大陸渡来の技術者と大和の豪族が結合して大和朝廷を作っていったんじゃないか、
とか思うんだけどねェ。どんなもんだろう。
>>922 大和朝廷と邪馬台国は別の国で、邪馬台国は九州王朝になったって説?
文献なんぞはほんの少し皆が知ってる。そこをなんと言っても新しい事は
判りにくい。考古学者より、言語学者あたりの出番なのだけど...
想像力をいくら言ってもいいのです。でも、誤魔化しが出来ないとこに
話はある。ちょっと言えば魏の船は難破しない船、後の元の船は難破する船
倭の船は3世紀からどうなのかね、魏の船に勝てるのかな!
926 :
日本@名無史さん:04/02/25 22:45
つーか、筑紫には伊都国王、奴国王クラスの筑紫地方全域に勢力を持つ存在はいたのだろうが、
近畿地方で起きたような倭国全域の統治者的な存在は起こらなかった。中小企業どまりで大企業
クラスに成長するものはなかった。又、九州は全体として関東や東北のようなもので、中央政権など
意に介さない向きが多かった。
箸墓古墳、内情が判ったのですかね。あの手の古墳はなにも内情は知られない。
宮内庁がばかったのでしょうか。せいぜい知れても倍墳、そとごおりの造りくらい。
言い過ぎ、ならば、うそ...なんだねぇ。たいがいにしろよね。張ったりは良くないね。
928 :
日本@名無史さん:04/02/26 00:06
魏志倭人伝と記紀の記述の最大の相違。
『その風俗は淫ならず』
記紀を読む限り、魏志倭人伝のこの記述は明らかにおかしい
929 :
日本@名無史さん:04/02/26 00:09
あげ
930 :
日本@名無史さん:04/02/26 01:29
>>919 同盟国説は違うと思うけど(九州の出土物がしょぼくなる理由を説明できない)
一大卒出仕説は面白いかもしれない。あそこは邪馬台国における戦略上の
最重要拠点であったろうし。
伊都国の発掘で、何か裏付けるようなもんでも出てる?
931 :
日本@名無史さん:04/02/26 01:40
>>919 天智の時の防人みたいな感じですか。
あの時は和夷ニギエビスを徴発してますが。
932 :
日本@名無史さん:04/02/26 01:53
三角縁神獣鏡を国産としたら、『景初四年』という高度なミスが気になる。
これ、かなり高度な知識を持った技術者が魏本国から渡来してた事を意味しないかな。
前方後円墳が唐突に出現したように見えるのも気になる。
933 :
日本@名無史さん:04/02/26 01:53
>>933 じゃあ、正史にああも露骨な描写を盛り沢山にしたのは何だよw
国産み神話とか天の岩戸とかどれもこれもひでーぜ?
神話は神話の世界だから非常識が通用するのであって
それがそのまま当時の一般庶民の生態を反映しているなどと思うのは
学問としては18〜19世紀のレベル。
936 :
日本@名無史さん:04/02/26 07:26
神話は神話でそれなりの意味はあると思うよ
それは、何かの事実をもとにして、劇などで脚色されながら伝えられたと思う
ただ それがどんな具体的事実と関係するか絶対にわからん
妄想を逞しくすれば何でもありになってしまう
例えば
庄内第二段階の
大和南部での大和型庄内式土器の出現と外来系土器の多出
大和型庄内式土器の北部九州特に博多湾沿岸での大量出土
東海系祭祀土器の日本海側での北上
東海系土器の関東東北からの北上
庄内第四段階の
大和での巨大前方後円墳の出現と、対立すると見られる東日本中心の前方後方墳体制の形成
なんてことは神話の記述の中に見られる類型と関係していても不思議じゃない
カムヤマトイワレビコはひょっとして魏の使者の物語りだったりして
なんて言ってもしかたないこと
937 :
日本@名無史さん:04/02/26 08:36
神武を地理的に見ると日向、瀬戸内、紀伊半
島、奈良県山間部であるが、これには四隅突
出型古墳圏、筑紫、京都府、近江、東海(尾
張、三河以東)は含まれない。すると、畿内
銅鐸圏、吉備、九州東部(豊前、豊後、日
向)において統合が成立した時期ということ
になる。この地方の統合ということは卑弥呼
共立の直前のころで、神武記は東海が纒向建
設に参加するよりも前のこととなる。又、神
武記の地域は海人族(住吉、熊野)の存在を
無視しては成立しない。他方、神武記では奈
良県、和歌山県のシャーマンの粛清の話が多
い。又、物部氏は九州から神武より先に大和
に入っていたとしている。すると神武東遷は
物部東遷のコピーであり、実際は物部東遷と
大和・吉備連合の瀬戸内海西部制圧の話なの
かもしれない。
938 :
日本@名無史さん:04/02/26 08:37
,. - ─── - 、
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー'´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ', おじちゃんたち
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l どうしてはたらかないの?
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l |
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l
|l ilト、 n '' ,1l|ィ| |l l |
_ 二,ニ^tュ--ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐'t ハ-、_'ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-'丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬'´ハ` '`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー'一''丶 ヽ ヽ
ト、_ `ーァ'¨不ヽ
| | 「 ̄「 ̄l ̄ト、,イトヒi′
l l. l l ! !└' l |
└ L 」_,|__l_l.__L.l′
| | | |
l l ! !
l l. l l
ト--┤ !--‐1
f‐t央j. ト央ァヘ
| 甘l、 / 甘 |
l ,.-‐ヽ レ'⌒ヽ/
`く.__ ノ ゝ--‐′
939 :
日本@名無史さん:04/02/26 09:01
記紀の編者を批判して申しわけないが、神武
時代の前は播磨、淡路を軸として近畿と吉備
の結びつくイザナミ時代があり、その次が神
武時代、その次にスサノオ・オオクニヌシ時
代があって欠史8代としたほうがいいみたい。
イザナミ時代前に伊都国・奴国地方や縄文時
代の長い歴史があったのであろうが、それは
最早アイヌの伝承などに片鱗を留めるのみな
のではなかろうか。アイヌの水運の神である
狐と伊勢湾地方の台風災害と伊勢神宮、豊川
稲荷などがうまく結びつく。飛騨地方の日抱
神社と伊勢遺跡が符合する。
940 :
日本@名無史さん:04/02/26 09:13
聖武天皇に質問申し上げます。天皇は東国行
幸の後にクニ国の後にクニ京を建都されてお
り、大量の青銅を鋳潰して大仏を建立されま
したが、オオクニヌシを大狗奴主とお考えで
あったのでは???w
941 :
日本@名無史さん:04/02/26 09:17
そんな昔のことはとうに忘れたわ
なんでこう神話をからめると
いきなり電波な奴ばかりでてくるのか
そんなことはとうに忘れたわい
>>915 そうね。だから、東海説は厳しい。
巨大古墳が造営されるパターンは、
1.平和の達成
2.戦争がなくなったため、労働力が余る
3.余剰労働力の有効利用として巨大古墳造営
というのが一般的。3世紀後半にヤマトを中心と
した地域に「始皇帝による中国統一」に匹敵する
ような政治的安定が訪れたのでなければ、巨大
古墳造営はありえない。いつ侵略されるかわから
ないような状況では、のんきにお墓をつくってられ
ないから。その意味でも、3世紀のヤマトには倭人伝
の伝えるものとはまったくことなる政治状況があった
と考えるべき。
>>913 二度の女王共立に参加していない狗奴国が連合
王国の古くからの一員だったとは考えにくい。
>>936 土器のことを勉強できるいい本はありませんか?
945 :
日本@名無史さん:04/02/26 14:38
>>944 二度の女王共立に狗奴国が参加していないと魏志倭人伝の何処を見て断言してるの?
卑弥呼共立は恐らく3世紀の初頭か2世紀末で、纒向の建設も多分その頃。
狗奴国と邪馬台国とで紛争が発生したと思われる時期とは半世紀近いズレがある。
卑弥呼の共立には参加した東海勢力が、卑弥呼の晩年には邪馬台国と仲たがいしてても
全く不思議じゃ無いよ。半世紀という時間は。
それから、箸墓古墳はその規模から、造営に数年から十年近くはかかったと見るべき。
卑弥呼が死んでから慌てて作るような性格の物では無いと思われる。
卑弥呼生前の安定期か、壹興共立後の平和が回復した頃に箸墓を作ったと考えるべき。
それと、濃尾+近江って狗奴国の勢力圏はあくまで仮定の一つに過ぎない。
実際にはそこまでの大勢力だったとは思わんよ。
>>897 単純に日本人が考古学好きであちこち穴堀まくってる結果だろ。
極め付けに、中国のより古いあぶみを掘り出したりするし。
こりゃ金印も長らくそうだったな。三角縁神獣鏡はどうだろう。
>>945 >狗奴国と邪馬台国とで紛争が発生したと思われる時期とは半世紀近いズレがある。
半世紀近いズレがある、と魏志倭人伝の何処を見て断言してるの?
>>945 狗奴国が連合王国の元一員とは考えられない理由。
・狗奴国は諸国の王に共立された女王と戦争した。
・邪馬台国を存続の危機に立たせることができるほど強い。
・倭国=連合王国の外交場面に現れない。
・狗奴国を反乱軍とみなす記述がない。
・狗奴国が女王国に属さないのは継続する事実。
そりゃあクニどおしの仲違いはしょっちゅうあっただろう
が、東海と大和(あんたの場合、大和というのは、
西日本全体を支配する超大国だ)が争って、東海が
大和を脅かすぐらい強かったことを示す史料は
何かあるの?
>狗奴国は諸国の王に共立された女王と戦争した。
卑弥呼は日本各地の豪族に共立された存在に過ぎない。
後の時代に、自分達に都合のいい天皇をでっち上げた武士達や、
織田家の遺児を都合のいいように利用して内紛に明け暮れた秀吉その他の行動を考えれば、
名目上の最高権力者などどうとでも無った可能性は小さく無い。
>邪馬台国を存続の危機に立たせることができるほど強い。
よって、狗奴国東海説というのが浮上して来る。
畿内大和をおびやかせる程の勢力の比定地は、広大な平野を持ち畿内大和を直撃できる
東海の他は考え難い。
>倭国=連合王国の外交場面に現れない
東海は大陸にあまりにも遠く、海外との交流を行うには畿内勢力と結びつく必要がある。
東海と大和が決裂した場合、東海には大陸への出口を失う。狗奴国が外交場面に現れないのは当然の事だ。
>狗奴国を反乱軍とみなす記述がない
>狗奴国が女王国に属さないのは継続する事実
東海には大和とは毛色の違う前方後方墳が多数存在する。
この事から邪馬台国連合と狗奴国は一定の距離があったと考えられる。
ただ、前方後方墳は大和にも存在するから、元来前方後円墳勢力と前方後方墳
勢力は対立する関係にあったとは思えない。
両者はある種の同盟関係にあり、卑弥呼の晩年はそれが一時的に崩れたのではないか。
元より和せず、は、両者の間に当初より一線があった事を意味しているのではないだろうか。
>>934 淫らという概念は、民族差が大きく、また同じ民族でも時代によって大きく違います。
記紀に書かれた、国産みのまぐあい、天岩戸のストリップ、天孫降臨のウズメの誘惑など、
記紀編纂時の道徳観念では、「淫ら」ではなかったと考えるべきです。
九州にはウズメとサルタヒコの神楽が伝わっていて、セックスをテーマにしています。今の価値観では
淫らかもしれませんが、古代には、セックスは淫らな行為ではなかったのです。
魏志の記述の「淫らではない」という一文は、「魏の価値観で淫らではない」と解釈すべきです。
魏時代の価値観については、私は知識がありません。
なにが淫らで、なにが淫らでないかは、もっと詳しい人に聞いてください。
長文で失礼しました。
951 :
日本@名無史さん:04/02/27 01:19
銅鐸と被差別部落が関係あるってホント?
高速インターとの関連性よりはよほど低い。
953 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:06
狗奴国=東海説は電波の類だと思う。畿内説論者が整合性を取るための。
考古学的にそのような大規模な戦乱の痕跡は無い。
少なくとも「狗奴国」「倭国大乱」を矮小化して解釈するしかない。
まあそれ言っちゃうと南を東の間違いとする解釈も強(ry
954 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:23
「隋書倭国伝」によると、聖徳太子の時代、隋の使者の裴世清が
北九州から瀬戸内海を通って大和に向かったとき
竹斯(筑紫)国より以東は、皆倭に属する。
とある。裴世清は大和に行くのだから、筑紫(福岡県)以東が
倭国であるのは当たり前のことだ。
なぜ、わかりきったことを書いたのか。
中国の史書は前代の史書を踏まえて書かれることになっている。「隋書」の著者は
「魏志は、倭の東にある国は倭に属さないと言っていたが、今は属するようになった」
と解説しているのではないか。
955 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:28
俺が真実を語ろう。
まずはっきさせたい、邪馬台国は畿内にあった。
いわゆる弥生文化というやつだ。
卑弥呼の死後、混乱期を経てイヨが後継者になったわけだけだが、それも長くは続かなかった。
結局、豪族が武力で統一した。これを仮に畿内国としよう。
それと時を同じくして急速に勢力を拡大してきたのが、九州を本拠地とする渡来人勢力「倭」だ。
畿内国はその中枢に倭の有力氏族(いわゆる蘇我氏だね)を取り入れることで権力の地盤を固め西日本を支配し、ついに大和朝廷が誕生したのだ。
縄文文化の狗奴国は大陸文化との融合を好まず、彼らと争ったが破れじょじょに東北地方に追われた。
ちなみに狗奴国があったのは関東平野。
>>953 倭国大乱の時期に瀬戸内湾岸で高地性集落が一気に増えている。
東海にも高地性集落が多数。
これらは一時非常に強い軍事的緊張が広範囲に走った事を意味するが、
戦闘の形跡がないのは概ね外交戦で決着がついた事を裏付けているんじゃないかな?
邪馬台国が魏に救援を求めたのも、その外交戦の一貫って事で。
>>954 それ言ったら、「大和とは邪馬台国の事である」という決定的な記述が……。
957 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:33
倭は半島系、弥生は大陸系、縄文は日本古来種
958 :
日本@名無史さん:04/02/27 03:49
邪馬台国=九州の一豪族 狗奴国=畿内勢力
狗奴国は西日本一帯の覇権を手中にし、
銅鐸による祭祀、豪華な古墳の建設にも着手する一方、
いよいよ九州にその侵略の手を伸ばそうとしていた。
危機を感じた邪馬台国は窮余の一策で、中国魏王朝に救援を要請。
と同時に、鉄の力を背景に徹底抗戦を決意。邪馬台国は臨戦体制に入った。
3世紀の九州にめぼしい古墳などが少なく、しかし鉄器の発掘が多いのはこのためである。
邪馬台国が畿内にあったとすると
・狗奴国なる対邪馬台国の勢力がそもそも存在し得たか
・わざわざ中国に救援を求める必要があったのか
・銅鐸の問題
・日本神話の圧倒的な九州重視、東遷伝承、オオクニヌシの伝承が全く説明できない
・魏志倭人伝にも解釈不明の記述がいくつか存在する
959 :
日本@名無史さん:04/02/27 04:39
電波を飛ばして申し訳ないが・・・
原始人→→→縄文人→→→弥生人→→→倭人
↑ ↑ ↑
アトランティスの末裔 秦氏(徐福) 北方系騎馬民族(大和朝廷)
(古代イスラエル民族失われた10支族→琉球・アイヌ)
※琉球・アイヌ・アメリカインディアン・東洋系ユダヤ人が遺伝子的に近いということは証明されている
>>958 それだとなぜ銅鐸は破棄されたのに前方後円墳は継承されたか説明できない。
畿内から九州への土器の移動はあっても、
九州から畿内への土器の移動がない事の説明も難しい。
大陸の品の畿内への流入増加・石器の消滅の説明もやはり困難に思える。
>狗奴国なる対邪馬台国の勢力がそもそも存在し得たか
東海地域になら十分可能性はあると思える。
濃尾の潜在力の大きさは壬申の乱でこの地が大海人皇子の拠点となった事からも判る。
この時勝ったのは言う迄もなく大海人皇子。
>わざわざ中国に救援を求める必要があったのか
大規模な戦乱の痕跡がない事や3世紀後期の前方後方墳から畿内系の品が出土する事から、
戦乱は平和的(外交的)解決を見たと思われるが、
その手段として魏の御墨付きを得る事はかなり効果的な一手だったと思える。
外交手段の一貫として魏に救援を求めたのではないか。
>日本神話の圧倒的な九州重視、東遷伝承、オオクニヌシの伝承が全く説明できない
記紀なんて解釈しようと思えば幾らでも解釈できる。
奴国の外交的成果を乗っ取るため九州の後継勢力を僭称したとかw
残念だが、考古学的な裏付けがとれなければ記紀の記述をどう解釈すればいいか見えてこない。
>魏志倭人伝にも解釈不明の記述がいくつか存在する
これは九州説にしたところで同じ事。
伊都国より先にはいってないんだから
遠方の事は伝聞だろ
普通に考えて伊都国の周辺が邪馬台国
敵対国狗奴国も熊本とか南の地方の豪族
ちいさい話さ
今の町単位がクニだということを忘れてないか?
そろそろ次スレを立てますか?
なんか希望があったらお願いします。
>>958 小説のネタとしては面白いけど、惜しいかな、実証を欠く。
>銅鐸による祭祀、豪華な古墳の建設にも着手する一方、
古墳の築造と銅鐸の祭祀は重なりませんよ。
そもそも、銅鐸祭祀は共同体全体という集団の祭祀で、古墳は首長という個人の祭祀。
各地に首長層が出現し、集団祭祀から個人祭祀への移行するのに伴って銅鐸は姿を消していく。
>鉄の力を背景に徹底抗戦を決意。邪馬台国は臨戦体制に入った。
九州には高地性集落もほとんどないし、戦闘の痕跡はおろか、緊張状態になった痕跡すらない。
つまり、“倭国乱”の痕跡が九州には全くない。
一方、後期後葉の緊張状態を示唆する最後の段階の高地性集落の出現は、近畿に留まらず、東海より東まで広がっている。
だから、考古資料から見るかぎり、“倭国乱”を九州内部におさめるのは全くの無筋で、
魏志に書かれた“倭国乱“の後に成立した邪馬台を都とする国というのは、
日本の西半分ぐらいをその版図としていると考えるのが、今のところもっともらしい。
九州説をとるにしろ、畿内説をとるにしろ、この点は外せないんじゃないかな?
平野邦雄の本を読んでも、また、高島某が書いていることを見てもわかるように、
九州説というのは、その根本的な所ではこの『“西日本一帯に広がる国”が三世紀の段階では考えがたい』、という所から出発してる。
かつてはそれでよかったんだけれども、今となっては、この高地性集落の広がりや、土器の移動の実体などが明らかとなってきて、最初の
『“西日本一帯に広がる国”が三世紀の段階では考えがたい』
ていう前提が完全に崩れてしまった。だから今、九州説は非常に苦しいことになっている。
少なくとも、倭国29国を九州内におさめるタイプの九州説は終わった。
ごめん、944でやっちゃった俺が言うのも何だが、
古墳は作ったときから古いわけじゃないから、
「墳墓の造営」とかにしたほうがよいように思う。
“畿内”・・・・後に『畿内』と呼ばれる地域
と一緒で、
“古墳”・・・・後に、あるいは現在、『古墳』と呼ばれている墳墓
ってのは、暗黙の了解事項でないの?
意味が通じればいいってことで、瑣末なことは止めま庄屋。
966 :
日本@名無史さん:04/02/27 16:24
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART3
1 :日本@名無史さん :04/0x/x xx:xx
邪馬台とはすなわちヤマトの事?
纒向は邪馬台国の都、箸墓は卑弥呼の墓なのか?
3世紀日本列島の状況とは如何なるものか。西日本に統一政権はあったか?
倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ?
風前の灯火、最早電波扱い(?)九州説の命運や如何に!
967 :
日本@名無史さん:04/02/27 17:02
>>966 九州説を電波という言葉でくくるのはやめたほうがいいと思われ。
968 :
日本@名無史さん:04/02/27 17:07
畿内説が九州説を電波と考えるのは
九州説論者が魏志倭人伝の限界を記紀で補おうとしてるからだろう。
969 :
日本@名無史さん:04/02/27 17:30
>>966 あんまり九州説をデムパ扱いするのはどうかと(w
>>960 と
>>963 に論破されてはいるが
>>958の
>邪馬台国=九州の一豪族 狗奴国=畿内勢力
なんかはまだ九州説としてはまともな方だと思う。東遷説なんかよりずっと。
ただ
>>958はその後大和朝廷を造ったのがどっちの勢力なのか、それとその根拠を書かないといけない。
邪馬台国が勝ったのならば、その九州の一豪族がどうやって西日本に中央政権を後に築く事が出来たのか。
狗奴国が勝者ならば、何故その末裔がヤマトを名乗ったのか等々。
これらを記紀から推測するのは容易ではない。ガイシュツの通りどこまでが本当でどこからが嘘なのかが確定されていないためだ。つまり
1、作成に当たっての決定的な資料不足
2、矛盾するいくつものエピソードからの選択
3、捏造の指示
これらの問題があるため、考古実績をベースにしないと語れないのだ、記紀は。
せっかくの良スレなのだから、今までどおりあまり自説にこだわらずに仮説を提出しあうスレになればいいのじゃないか。
あまり極端な煽りは、よけいにデムパを呼ぶと思われ。
狗奴国四国説
日向の大和国は一応邪馬台国連合に敵対してはいなかったが、
邪馬台国連合に敵対する四国の狗奴国にひよっていたため
奴国に一大卒を置かれて監視されていた。
倭国大乱で狗奴国が畿内の邪馬台国を滅ぼし(最初の東遷)、
続いて大和国が陰謀で政権を奪取(神武東遷)。
>せっかくの良スレなのだから、今までどおりあまり自説にこだわらずに仮説を提出しあうスレになればいいのじゃないか。
禿道
972 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:15
PART3たてられねェ。
誰か代わりによろしくー
973 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:22
>せっかくの良スレなのだから
各々が勝手なことを言い合ってるのじゃなく、互いに参考にし合って構築しているという2chらしくないスレだもんな。
しかも少しずつではあるが見解が洗練されていく様が見て取れるし。
漏れは古代史ド素人なんで、なんとなく九州説みたいな程度だったのだが、かなり興味深く読んだよ。
考古学ってかなりの部分で核心に迫ってたんだな、知らなかったよ。
974 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:39
975 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:40
↑ 間違えた。
新スレたてました
977 :
日本@名無史さん:04/02/27 19:57
徳島の人間から見ると渦彦や鳴海が鳴門と関係がないのが変だ。鳴門にはホケノ山と出土物の
同レベルの荻原1号墳がある。讃岐は孝霊帝、高知は物部十市と関係が深い。
>>949 ちょっと遅くなって申し訳ないが、補足させてもらうと、
倭人伝の中に国はたくさん出てくるが、王がいるのは
倭国と狗奴国だけ。あとは全部「官」でしょ?言うまで
もなく魏は倭国とよしみを通じている。にもかかわらず
倭国と狗奴国を対等の関係においている。
また、この二人の王は「素より和せず」だから、もともと
仲が悪い。もし狗奴国が卑弥呼共立に参加していたと
したら、「素より和せず」という表現はおかしい。
ということで、倭人伝を読む限り、狗奴国がもと倭国=
邪馬台国連合の一部であり、一時的に仲違いしただけ、
という解釈は難しい。
979 :
日本@名無史さん:04/02/28 08:04
東海は纒向建設に参加しているからね。しかし東海には前方後円墳がなく、逆に
前方後方墳だけであるし、東海の土器が遠江方面にに移動するときがある。
この辺から東海が狗奴国くさい。しかし、一時的仲たがいではなく、そもそも共立に
参加しなかった。・・・なんだか諏訪の大神の記述にそんなのがあった。
980 :
日本@名無史さん:04/02/28 08:38
○| ̄|_ =3 プッ
982 :
日本@名無史さん:04/02/28 09:26
○| ̄|_ =3 プッ
いい加減やめれ、初心者ども
983 :
日本@名無史さん:04/02/28 12:10
近くの博物館で、土浦市上高津貝塚の図録を見た。
水系別に分立していた北関東の土器圏に、オリジナルに近い東海系のS字(口縁)甕や
パレス壷が少量入ってくる。
そして東京湾岸の台付甕がなだれ込んで、地元の土器組成が崩壊、ついで在地のC字
(口縁)に畿内の庄内甕・布留甕のくの字(口縁)の傾向をしめす甕が現れ、さらに、
小型器台などが入り、一気に地元の土器構造が淘汰される。そして、方形周溝墓すら受容
しなかった地域に、前方後方墳が構築される。と見た。
東海系の侵入は大規模で大平洋側と日本海の双方から東北中部に達する。いわばドミノ
倒しの要領で各地の土器を巻き込んで北上する。
弥生は、前期も含め、いわばゆっくり乗っかかってくる変化なのに、こいつは乗っかか
ってこなごなにしてしまう。氷を入れたコップに熱い鉄の玉を入れる。氷は次々と融けて
行く。やがて水になる。別のジュースが入れられ混ぜ合わされて、再び固まってゆく。
そんな感じを受けた。
例えば、とても大規模な力によって破局的事態がなく統合が進む。一種の軍事侵略以外
には考えられない。
個人的には対大陸戦略として、半島は庄内(河内・吉備)、北は東海という大戦略があっ
たのではないかと思う。
<<944
各地の埋文センターにいやと言うほど本があります。
>>981 王の名があるのは倭国と狗奴国だけと読み替えてくれw
伊都国は「世々王あるも、皆女王国に統属す」と
軽い扱いだ。
一方、狗奴国は、
「倭女王卑弥呼」、「狗奴国男王卑弥弓呼」と二人を
対応させた表現で並べている。
985 :
日本@名無史さん: