936 :
日本@名無史さん:04/02/26 07:26
神話は神話でそれなりの意味はあると思うよ
それは、何かの事実をもとにして、劇などで脚色されながら伝えられたと思う
ただ それがどんな具体的事実と関係するか絶対にわからん
妄想を逞しくすれば何でもありになってしまう
例えば
庄内第二段階の
大和南部での大和型庄内式土器の出現と外来系土器の多出
大和型庄内式土器の北部九州特に博多湾沿岸での大量出土
東海系祭祀土器の日本海側での北上
東海系土器の関東東北からの北上
庄内第四段階の
大和での巨大前方後円墳の出現と、対立すると見られる東日本中心の前方後方墳体制の形成
なんてことは神話の記述の中に見られる類型と関係していても不思議じゃない
カムヤマトイワレビコはひょっとして魏の使者の物語りだったりして
なんて言ってもしかたないこと
937 :
日本@名無史さん:04/02/26 08:36
神武を地理的に見ると日向、瀬戸内、紀伊半
島、奈良県山間部であるが、これには四隅突
出型古墳圏、筑紫、京都府、近江、東海(尾
張、三河以東)は含まれない。すると、畿内
銅鐸圏、吉備、九州東部(豊前、豊後、日
向)において統合が成立した時期ということ
になる。この地方の統合ということは卑弥呼
共立の直前のころで、神武記は東海が纒向建
設に参加するよりも前のこととなる。又、神
武記の地域は海人族(住吉、熊野)の存在を
無視しては成立しない。他方、神武記では奈
良県、和歌山県のシャーマンの粛清の話が多
い。又、物部氏は九州から神武より先に大和
に入っていたとしている。すると神武東遷は
物部東遷のコピーであり、実際は物部東遷と
大和・吉備連合の瀬戸内海西部制圧の話なの
かもしれない。
938 :
日本@名無史さん:04/02/26 08:37
,. - ─── - 、
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー'´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ', おじちゃんたち
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l どうしてはたらかないの?
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l |
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l
|l ilト、 n '' ,1l|ィ| |l l |
_ 二,ニ^tュ--ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐'t ハ-、_'ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-'丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬'´ハ` '`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー'一''丶 ヽ ヽ
ト、_ `ーァ'¨不ヽ
| | 「 ̄「 ̄l ̄ト、,イトヒi′
l l. l l ! !└' l |
└ L 」_,|__l_l.__L.l′
| | | |
l l ! !
l l. l l
ト--┤ !--‐1
f‐t央j. ト央ァヘ
| 甘l、 / 甘 |
l ,.-‐ヽ レ'⌒ヽ/
`く.__ ノ ゝ--‐′
939 :
日本@名無史さん:04/02/26 09:01
記紀の編者を批判して申しわけないが、神武
時代の前は播磨、淡路を軸として近畿と吉備
の結びつくイザナミ時代があり、その次が神
武時代、その次にスサノオ・オオクニヌシ時
代があって欠史8代としたほうがいいみたい。
イザナミ時代前に伊都国・奴国地方や縄文時
代の長い歴史があったのであろうが、それは
最早アイヌの伝承などに片鱗を留めるのみな
のではなかろうか。アイヌの水運の神である
狐と伊勢湾地方の台風災害と伊勢神宮、豊川
稲荷などがうまく結びつく。飛騨地方の日抱
神社と伊勢遺跡が符合する。
940 :
日本@名無史さん:04/02/26 09:13
聖武天皇に質問申し上げます。天皇は東国行
幸の後にクニ国の後にクニ京を建都されてお
り、大量の青銅を鋳潰して大仏を建立されま
したが、オオクニヌシを大狗奴主とお考えで
あったのでは???w
941 :
日本@名無史さん:04/02/26 09:17
そんな昔のことはとうに忘れたわ
なんでこう神話をからめると
いきなり電波な奴ばかりでてくるのか
そんなことはとうに忘れたわい
>>915 そうね。だから、東海説は厳しい。
巨大古墳が造営されるパターンは、
1.平和の達成
2.戦争がなくなったため、労働力が余る
3.余剰労働力の有効利用として巨大古墳造営
というのが一般的。3世紀後半にヤマトを中心と
した地域に「始皇帝による中国統一」に匹敵する
ような政治的安定が訪れたのでなければ、巨大
古墳造営はありえない。いつ侵略されるかわから
ないような状況では、のんきにお墓をつくってられ
ないから。その意味でも、3世紀のヤマトには倭人伝
の伝えるものとはまったくことなる政治状況があった
と考えるべき。
>>913 二度の女王共立に参加していない狗奴国が連合
王国の古くからの一員だったとは考えにくい。
>>936 土器のことを勉強できるいい本はありませんか?
945 :
日本@名無史さん:04/02/26 14:38
>>944 二度の女王共立に狗奴国が参加していないと魏志倭人伝の何処を見て断言してるの?
卑弥呼共立は恐らく3世紀の初頭か2世紀末で、纒向の建設も多分その頃。
狗奴国と邪馬台国とで紛争が発生したと思われる時期とは半世紀近いズレがある。
卑弥呼の共立には参加した東海勢力が、卑弥呼の晩年には邪馬台国と仲たがいしてても
全く不思議じゃ無いよ。半世紀という時間は。
それから、箸墓古墳はその規模から、造営に数年から十年近くはかかったと見るべき。
卑弥呼が死んでから慌てて作るような性格の物では無いと思われる。
卑弥呼生前の安定期か、壹興共立後の平和が回復した頃に箸墓を作ったと考えるべき。
それと、濃尾+近江って狗奴国の勢力圏はあくまで仮定の一つに過ぎない。
実際にはそこまでの大勢力だったとは思わんよ。
>>897 単純に日本人が考古学好きであちこち穴堀まくってる結果だろ。
極め付けに、中国のより古いあぶみを掘り出したりするし。
こりゃ金印も長らくそうだったな。三角縁神獣鏡はどうだろう。
>>945 >狗奴国と邪馬台国とで紛争が発生したと思われる時期とは半世紀近いズレがある。
半世紀近いズレがある、と魏志倭人伝の何処を見て断言してるの?
>>945 狗奴国が連合王国の元一員とは考えられない理由。
・狗奴国は諸国の王に共立された女王と戦争した。
・邪馬台国を存続の危機に立たせることができるほど強い。
・倭国=連合王国の外交場面に現れない。
・狗奴国を反乱軍とみなす記述がない。
・狗奴国が女王国に属さないのは継続する事実。
そりゃあクニどおしの仲違いはしょっちゅうあっただろう
が、東海と大和(あんたの場合、大和というのは、
西日本全体を支配する超大国だ)が争って、東海が
大和を脅かすぐらい強かったことを示す史料は
何かあるの?
>狗奴国は諸国の王に共立された女王と戦争した。
卑弥呼は日本各地の豪族に共立された存在に過ぎない。
後の時代に、自分達に都合のいい天皇をでっち上げた武士達や、
織田家の遺児を都合のいいように利用して内紛に明け暮れた秀吉その他の行動を考えれば、
名目上の最高権力者などどうとでも無った可能性は小さく無い。
>邪馬台国を存続の危機に立たせることができるほど強い。
よって、狗奴国東海説というのが浮上して来る。
畿内大和をおびやかせる程の勢力の比定地は、広大な平野を持ち畿内大和を直撃できる
東海の他は考え難い。
>倭国=連合王国の外交場面に現れない
東海は大陸にあまりにも遠く、海外との交流を行うには畿内勢力と結びつく必要がある。
東海と大和が決裂した場合、東海には大陸への出口を失う。狗奴国が外交場面に現れないのは当然の事だ。
>狗奴国を反乱軍とみなす記述がない
>狗奴国が女王国に属さないのは継続する事実
東海には大和とは毛色の違う前方後方墳が多数存在する。
この事から邪馬台国連合と狗奴国は一定の距離があったと考えられる。
ただ、前方後方墳は大和にも存在するから、元来前方後円墳勢力と前方後方墳
勢力は対立する関係にあったとは思えない。
両者はある種の同盟関係にあり、卑弥呼の晩年はそれが一時的に崩れたのではないか。
元より和せず、は、両者の間に当初より一線があった事を意味しているのではないだろうか。
>>934 淫らという概念は、民族差が大きく、また同じ民族でも時代によって大きく違います。
記紀に書かれた、国産みのまぐあい、天岩戸のストリップ、天孫降臨のウズメの誘惑など、
記紀編纂時の道徳観念では、「淫ら」ではなかったと考えるべきです。
九州にはウズメとサルタヒコの神楽が伝わっていて、セックスをテーマにしています。今の価値観では
淫らかもしれませんが、古代には、セックスは淫らな行為ではなかったのです。
魏志の記述の「淫らではない」という一文は、「魏の価値観で淫らではない」と解釈すべきです。
魏時代の価値観については、私は知識がありません。
なにが淫らで、なにが淫らでないかは、もっと詳しい人に聞いてください。
長文で失礼しました。
951 :
日本@名無史さん:04/02/27 01:19
銅鐸と被差別部落が関係あるってホント?
高速インターとの関連性よりはよほど低い。
953 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:06
狗奴国=東海説は電波の類だと思う。畿内説論者が整合性を取るための。
考古学的にそのような大規模な戦乱の痕跡は無い。
少なくとも「狗奴国」「倭国大乱」を矮小化して解釈するしかない。
まあそれ言っちゃうと南を東の間違いとする解釈も強(ry
954 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:23
「隋書倭国伝」によると、聖徳太子の時代、隋の使者の裴世清が
北九州から瀬戸内海を通って大和に向かったとき
竹斯(筑紫)国より以東は、皆倭に属する。
とある。裴世清は大和に行くのだから、筑紫(福岡県)以東が
倭国であるのは当たり前のことだ。
なぜ、わかりきったことを書いたのか。
中国の史書は前代の史書を踏まえて書かれることになっている。「隋書」の著者は
「魏志は、倭の東にある国は倭に属さないと言っていたが、今は属するようになった」
と解説しているのではないか。
955 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:28
俺が真実を語ろう。
まずはっきさせたい、邪馬台国は畿内にあった。
いわゆる弥生文化というやつだ。
卑弥呼の死後、混乱期を経てイヨが後継者になったわけだけだが、それも長くは続かなかった。
結局、豪族が武力で統一した。これを仮に畿内国としよう。
それと時を同じくして急速に勢力を拡大してきたのが、九州を本拠地とする渡来人勢力「倭」だ。
畿内国はその中枢に倭の有力氏族(いわゆる蘇我氏だね)を取り入れることで権力の地盤を固め西日本を支配し、ついに大和朝廷が誕生したのだ。
縄文文化の狗奴国は大陸文化との融合を好まず、彼らと争ったが破れじょじょに東北地方に追われた。
ちなみに狗奴国があったのは関東平野。
>>953 倭国大乱の時期に瀬戸内湾岸で高地性集落が一気に増えている。
東海にも高地性集落が多数。
これらは一時非常に強い軍事的緊張が広範囲に走った事を意味するが、
戦闘の形跡がないのは概ね外交戦で決着がついた事を裏付けているんじゃないかな?
邪馬台国が魏に救援を求めたのも、その外交戦の一貫って事で。
>>954 それ言ったら、「大和とは邪馬台国の事である」という決定的な記述が……。
957 :
日本@名無史さん:04/02/27 02:33
倭は半島系、弥生は大陸系、縄文は日本古来種
958 :
日本@名無史さん:04/02/27 03:49
邪馬台国=九州の一豪族 狗奴国=畿内勢力
狗奴国は西日本一帯の覇権を手中にし、
銅鐸による祭祀、豪華な古墳の建設にも着手する一方、
いよいよ九州にその侵略の手を伸ばそうとしていた。
危機を感じた邪馬台国は窮余の一策で、中国魏王朝に救援を要請。
と同時に、鉄の力を背景に徹底抗戦を決意。邪馬台国は臨戦体制に入った。
3世紀の九州にめぼしい古墳などが少なく、しかし鉄器の発掘が多いのはこのためである。
邪馬台国が畿内にあったとすると
・狗奴国なる対邪馬台国の勢力がそもそも存在し得たか
・わざわざ中国に救援を求める必要があったのか
・銅鐸の問題
・日本神話の圧倒的な九州重視、東遷伝承、オオクニヌシの伝承が全く説明できない
・魏志倭人伝にも解釈不明の記述がいくつか存在する
959 :
日本@名無史さん:04/02/27 04:39
電波を飛ばして申し訳ないが・・・
原始人→→→縄文人→→→弥生人→→→倭人
↑ ↑ ↑
アトランティスの末裔 秦氏(徐福) 北方系騎馬民族(大和朝廷)
(古代イスラエル民族失われた10支族→琉球・アイヌ)
※琉球・アイヌ・アメリカインディアン・東洋系ユダヤ人が遺伝子的に近いということは証明されている
>>958 それだとなぜ銅鐸は破棄されたのに前方後円墳は継承されたか説明できない。
畿内から九州への土器の移動はあっても、
九州から畿内への土器の移動がない事の説明も難しい。
大陸の品の畿内への流入増加・石器の消滅の説明もやはり困難に思える。
>狗奴国なる対邪馬台国の勢力がそもそも存在し得たか
東海地域になら十分可能性はあると思える。
濃尾の潜在力の大きさは壬申の乱でこの地が大海人皇子の拠点となった事からも判る。
この時勝ったのは言う迄もなく大海人皇子。
>わざわざ中国に救援を求める必要があったのか
大規模な戦乱の痕跡がない事や3世紀後期の前方後方墳から畿内系の品が出土する事から、
戦乱は平和的(外交的)解決を見たと思われるが、
その手段として魏の御墨付きを得る事はかなり効果的な一手だったと思える。
外交手段の一貫として魏に救援を求めたのではないか。
>日本神話の圧倒的な九州重視、東遷伝承、オオクニヌシの伝承が全く説明できない
記紀なんて解釈しようと思えば幾らでも解釈できる。
奴国の外交的成果を乗っ取るため九州の後継勢力を僭称したとかw
残念だが、考古学的な裏付けがとれなければ記紀の記述をどう解釈すればいいか見えてこない。
>魏志倭人伝にも解釈不明の記述がいくつか存在する
これは九州説にしたところで同じ事。
伊都国より先にはいってないんだから
遠方の事は伝聞だろ
普通に考えて伊都国の周辺が邪馬台国
敵対国狗奴国も熊本とか南の地方の豪族
ちいさい話さ
今の町単位がクニだということを忘れてないか?
そろそろ次スレを立てますか?
なんか希望があったらお願いします。
>>958 小説のネタとしては面白いけど、惜しいかな、実証を欠く。
>銅鐸による祭祀、豪華な古墳の建設にも着手する一方、
古墳の築造と銅鐸の祭祀は重なりませんよ。
そもそも、銅鐸祭祀は共同体全体という集団の祭祀で、古墳は首長という個人の祭祀。
各地に首長層が出現し、集団祭祀から個人祭祀への移行するのに伴って銅鐸は姿を消していく。
>鉄の力を背景に徹底抗戦を決意。邪馬台国は臨戦体制に入った。
九州には高地性集落もほとんどないし、戦闘の痕跡はおろか、緊張状態になった痕跡すらない。
つまり、“倭国乱”の痕跡が九州には全くない。
一方、後期後葉の緊張状態を示唆する最後の段階の高地性集落の出現は、近畿に留まらず、東海より東まで広がっている。
だから、考古資料から見るかぎり、“倭国乱”を九州内部におさめるのは全くの無筋で、
魏志に書かれた“倭国乱“の後に成立した邪馬台を都とする国というのは、
日本の西半分ぐらいをその版図としていると考えるのが、今のところもっともらしい。
九州説をとるにしろ、畿内説をとるにしろ、この点は外せないんじゃないかな?
平野邦雄の本を読んでも、また、高島某が書いていることを見てもわかるように、
九州説というのは、その根本的な所ではこの『“西日本一帯に広がる国”が三世紀の段階では考えがたい』、という所から出発してる。
かつてはそれでよかったんだけれども、今となっては、この高地性集落の広がりや、土器の移動の実体などが明らかとなってきて、最初の
『“西日本一帯に広がる国”が三世紀の段階では考えがたい』
ていう前提が完全に崩れてしまった。だから今、九州説は非常に苦しいことになっている。
少なくとも、倭国29国を九州内におさめるタイプの九州説は終わった。
ごめん、944でやっちゃった俺が言うのも何だが、
古墳は作ったときから古いわけじゃないから、
「墳墓の造営」とかにしたほうがよいように思う。
“畿内”・・・・後に『畿内』と呼ばれる地域
と一緒で、
“古墳”・・・・後に、あるいは現在、『古墳』と呼ばれている墳墓
ってのは、暗黙の了解事項でないの?
意味が通じればいいってことで、瑣末なことは止めま庄屋。
966 :
日本@名無史さん:04/02/27 16:24
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART3
1 :日本@名無史さん :04/0x/x xx:xx
邪馬台とはすなわちヤマトの事?
纒向は邪馬台国の都、箸墓は卑弥呼の墓なのか?
3世紀日本列島の状況とは如何なるものか。西日本に統一政権はあったか?
倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ?
風前の灯火、最早電波扱い(?)九州説の命運や如何に!
967 :
日本@名無史さん:04/02/27 17:02
>>966 九州説を電波という言葉でくくるのはやめたほうがいいと思われ。
968 :
日本@名無史さん:04/02/27 17:07
畿内説が九州説を電波と考えるのは
九州説論者が魏志倭人伝の限界を記紀で補おうとしてるからだろう。
969 :
日本@名無史さん:04/02/27 17:30
>>966 あんまり九州説をデムパ扱いするのはどうかと(w
>>960 と
>>963 に論破されてはいるが
>>958の
>邪馬台国=九州の一豪族 狗奴国=畿内勢力
なんかはまだ九州説としてはまともな方だと思う。東遷説なんかよりずっと。
ただ
>>958はその後大和朝廷を造ったのがどっちの勢力なのか、それとその根拠を書かないといけない。
邪馬台国が勝ったのならば、その九州の一豪族がどうやって西日本に中央政権を後に築く事が出来たのか。
狗奴国が勝者ならば、何故その末裔がヤマトを名乗ったのか等々。
これらを記紀から推測するのは容易ではない。ガイシュツの通りどこまでが本当でどこからが嘘なのかが確定されていないためだ。つまり
1、作成に当たっての決定的な資料不足
2、矛盾するいくつものエピソードからの選択
3、捏造の指示
これらの問題があるため、考古実績をベースにしないと語れないのだ、記紀は。
せっかくの良スレなのだから、今までどおりあまり自説にこだわらずに仮説を提出しあうスレになればいいのじゃないか。
あまり極端な煽りは、よけいにデムパを呼ぶと思われ。
狗奴国四国説
日向の大和国は一応邪馬台国連合に敵対してはいなかったが、
邪馬台国連合に敵対する四国の狗奴国にひよっていたため
奴国に一大卒を置かれて監視されていた。
倭国大乱で狗奴国が畿内の邪馬台国を滅ぼし(最初の東遷)、
続いて大和国が陰謀で政権を奪取(神武東遷)。
>せっかくの良スレなのだから、今までどおりあまり自説にこだわらずに仮説を提出しあうスレになればいいのじゃないか。
禿道
972 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:15
PART3たてられねェ。
誰か代わりによろしくー
973 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:22
>せっかくの良スレなのだから
各々が勝手なことを言い合ってるのじゃなく、互いに参考にし合って構築しているという2chらしくないスレだもんな。
しかも少しずつではあるが見解が洗練されていく様が見て取れるし。
漏れは古代史ド素人なんで、なんとなく九州説みたいな程度だったのだが、かなり興味深く読んだよ。
考古学ってかなりの部分で核心に迫ってたんだな、知らなかったよ。
974 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:39
975 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:40
↑ 間違えた。
新スレたてました
977 :
日本@名無史さん:04/02/27 19:57
徳島の人間から見ると渦彦や鳴海が鳴門と関係がないのが変だ。鳴門にはホケノ山と出土物の
同レベルの荻原1号墳がある。讃岐は孝霊帝、高知は物部十市と関係が深い。
>>949 ちょっと遅くなって申し訳ないが、補足させてもらうと、
倭人伝の中に国はたくさん出てくるが、王がいるのは
倭国と狗奴国だけ。あとは全部「官」でしょ?言うまで
もなく魏は倭国とよしみを通じている。にもかかわらず
倭国と狗奴国を対等の関係においている。
また、この二人の王は「素より和せず」だから、もともと
仲が悪い。もし狗奴国が卑弥呼共立に参加していたと
したら、「素より和せず」という表現はおかしい。
ということで、倭人伝を読む限り、狗奴国がもと倭国=
邪馬台国連合の一部であり、一時的に仲違いしただけ、
という解釈は難しい。
979 :
日本@名無史さん:04/02/28 08:04
東海は纒向建設に参加しているからね。しかし東海には前方後円墳がなく、逆に
前方後方墳だけであるし、東海の土器が遠江方面にに移動するときがある。
この辺から東海が狗奴国くさい。しかし、一時的仲たがいではなく、そもそも共立に
参加しなかった。・・・なんだか諏訪の大神の記述にそんなのがあった。
980 :
日本@名無史さん:04/02/28 08:38
○| ̄|_ =3 プッ
982 :
日本@名無史さん:04/02/28 09:26
○| ̄|_ =3 プッ
いい加減やめれ、初心者ども
983 :
日本@名無史さん:04/02/28 12:10
近くの博物館で、土浦市上高津貝塚の図録を見た。
水系別に分立していた北関東の土器圏に、オリジナルに近い東海系のS字(口縁)甕や
パレス壷が少量入ってくる。
そして東京湾岸の台付甕がなだれ込んで、地元の土器組成が崩壊、ついで在地のC字
(口縁)に畿内の庄内甕・布留甕のくの字(口縁)の傾向をしめす甕が現れ、さらに、
小型器台などが入り、一気に地元の土器構造が淘汰される。そして、方形周溝墓すら受容
しなかった地域に、前方後方墳が構築される。と見た。
東海系の侵入は大規模で大平洋側と日本海の双方から東北中部に達する。いわばドミノ
倒しの要領で各地の土器を巻き込んで北上する。
弥生は、前期も含め、いわばゆっくり乗っかかってくる変化なのに、こいつは乗っかか
ってこなごなにしてしまう。氷を入れたコップに熱い鉄の玉を入れる。氷は次々と融けて
行く。やがて水になる。別のジュースが入れられ混ぜ合わされて、再び固まってゆく。
そんな感じを受けた。
例えば、とても大規模な力によって破局的事態がなく統合が進む。一種の軍事侵略以外
には考えられない。
個人的には対大陸戦略として、半島は庄内(河内・吉備)、北は東海という大戦略があっ
たのではないかと思う。
<<944
各地の埋文センターにいやと言うほど本があります。
>>981 王の名があるのは倭国と狗奴国だけと読み替えてくれw
伊都国は「世々王あるも、皆女王国に統属す」と
軽い扱いだ。
一方、狗奴国は、
「倭女王卑弥呼」、「狗奴国男王卑弥弓呼」と二人を
対応させた表現で並べている。
985 :
日本@名無史さん: