上宮王家の謎

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1日本@名無史さん
謎1:聖徳太子はなぜ天皇に即位しなかったのか
謎2:山背皇子はなぜ蘇我と戦わず上宮王家は
  滅びたのか
2日本@名無しさん:03/03/09 17:58
2げとずさー
3日本@名無しさん:03/03/09 17:59
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4日本@名無史さん:03/03/09 21:11
謎1
天皇に即位しなかったのでなく、即位できなかったのです。
なぜなら、推古天皇が長生きしすぎたから。
謎2
坊やだったからさ。
5日本@名無史さん:03/03/09 21:12
天武天皇が実は上宮王家出身者だったという説がありますが…。
6一万円札:03/03/09 23:12
>>5
初耳。
ソースを教えてください。
7日本@名無史さん:03/03/09 23:50
>>6
聖徳太子の曾孫の葛城王というのが天智天皇。
母の連れ子であるため葛城皇子となってからも即位にはなかなか到達せず。
8一万円札 :03/03/10 18:47
>>7
意味がよくわかりません。
詳しい説明を希望。
9日本@名無史さん:03/03/10 22:47
聖徳太子自身、実在の人物ではないといわれていますが。
10世直し一揆:03/03/10 22:47
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけのもっともらしさ(偽善)に騙されるな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」(「世間」と言っても、同じA型を中心とした一部の人間の動向に過ぎないのだが・・・)、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙に気位が高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする
(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはた
いてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)  
●後で自分の誤りに気づいても、強引に筋を通し素直に謝れない(切腹するしかない!)●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
11日本@名無史さん:03/03/11 14:36
>>5
天武天皇は天智天皇の正真正銘の弟です。
上宮王家は蘇我入鹿に完全に完全に滅ぼされました。
>>7
聖徳太子の曾孫ではなく、伯父の敏達天皇の曾孫です。
あなたは何を根拠にそういうのか。
>>9
聖徳太子が実在しないわけありません。
12日本@名無史さん:03/03/11 15:17
>11
5と7にたいする答えはそれで文句ないけど、
聖徳太子が実在しないわけないというドグマは何故?
神武天皇が実在しない訳がない、日本書紀にあれほど
詳しく尤もらしく書かれてるから。同じように聞こえる。
別に聖徳太子も神武天皇にあたる人物が存在しなかったと
いうのではないが(どっちかというと存在したろうと思ってる)
まず存在したか否かを 研究して明らかにしていかなければ
ならないくらいあやふやな存在でしょ
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14日本@名無史さん:03/03/11 16:24
>>12
神武天皇はあくまで神話の中の人物であり、実在かどうかは
私にもわからない。聖徳太子はさまざまな歴史書を見る限り
実在したといえる。
15日本@名無史さん:03/03/11 17:59
>14
どんな歴史書よ。 まずどちらも日本書紀が基本文献でしかないよ。
伝暦とか帝説とかも歴史書というの? どっちも同じくらいの確かさだよ。
16日本@名無史さん:03/03/11 18:21
神武って架空の人物でしょ。
>聖徳太子はさまざまな歴史書を見る限り実在したといえる。
「さまざまな」どんなのがあるのか興味しんしんです。
18日本@名無史さん:03/03/12 00:32
聖徳太子が居なかったとすると
上宮王家はどこから涌いて出たんでしょう?
19日本@名無史さん:03/03/12 01:10
>>16
神武のほうが聖徳太子より実在だった可能性が高いと思われ。
(崇神と同一人物かもしれんが、まあ聖徳=馬子という「と」な
説もあるけんどよぉ)
20日本@名無史さん:03/03/12 01:15
>18
日本書紀書いた人の脳内。
21日本@名無史さん:03/03/12 01:17
居たかどうかなんてみんな怪しいね。
聖徳太子も天智も桓武も道真も
22日本@名無史さん:03/03/12 03:45
桓武とか道真の時代は複数の資料が残ってるから、ほぼ間違いなく実在した
といっていいと思われ。 天武以前は怪しいことが大杉。
持統天皇の親父として天智天皇にあたる人物はいただろうが、大化の改新と
いう事件が実際にあったのかとかは、いまの資料では謎というのが妥当。
将来もう少しは明らかになるだろうけど・・・木簡などの発掘に期待。
23日本@名無史さん:03/03/12 04:06
>大化の改新という事件が実際にあったのかとかは、いまの資料では謎というのが妥当。
>将来もう少しは明らかになるだろうけど・・・木簡などの発掘に期待。

もう十分明らかになってる。出土も多い。
大化改新否定論は今となっては70年代の残滓。
24日本@名無史さん:03/03/12 04:18
>>23
ほんと? しらんかった。
ネットで適当なHP紹介してちょ
25日本@名無史さん:03/03/12 14:10
>>19
12代景行天皇までは存在があやしいもんだ。
日本武尊は実在したと思うがな。古事記の海幸彦・山幸彦
の山幸彦がトヨタマ姫と結婚しウガヤフキアヘズノミコト
を生み、その子がカムヤマトイハレビコ、つまり神武天皇だという。
>>22
大化の改新を否定する方が無理だと思うが。
>>23
70年代にそんな議論をしてたんだな。知らんかった。
26一万円札:03/03/13 21:23
用命天皇とその皇后の間に厩戸皇子なる人物がいたのは間違いあるまい。
ただその皇子が、現在我々が聖徳太子が行った事と認知している事を行ったか
は検討の余地があると思う。
27日本@名無史さん:03/03/13 21:34
>>26に同意。
厩戸皇子が実際に即位していた可能性は捨てきれないでいるが、どう思う?
28日本@名無史さん:03/03/13 21:54
>>1
1.本当は即位していたんだよ。
2.蘇我氏=上宮王家、聖徳太子=蘇我馬子だったからさ。

ここを読めばわかるぞ。
 ↓
日ユ同祖論が真実ならば・・・。
http://mentai.2ch.net/min/kako/989/989770047.html
29日本@名無史さん:03/03/14 03:53
>>26
用明天皇の字が違っとるぞ。
>>27
それはまず無いと思うぞ。もし即位してたとすると何天皇に
なったというんだ。
>>28
それはまったくのでたらめというものだ。
30衣笠王:03/03/14 04:18
>>7
@用明天皇-○-高向王-漢王(皇極天皇の子)
A用明天皇-聖徳太子-長谷王-葛城王
B敏達天皇-忍坂彦人大兄皇子-舒明天皇-葛城皇子(天智天皇)
漢王は父が早世
長谷王も早世
葛城皇子は何故かなかなか即位しない(出来ない?)
天智天皇のあと天武天皇の正当化に多くの人々が賛同している
@〜Bのパズルを解けば
答えは漢王=天智天皇
31日本@名無史さん:03/03/15 14:06
>>30
Bが正解。
http://nihonsinwa.tripod.co.jp/kojiki3/kojiki3-32.htm
このページの表の日子人太子の御子を見よ。漢王=出自不明とある。
32衣笠王:03/03/16 10:06
>>31
30の投稿はあくまで、一つの説です。
正史上は、31さんの指摘の通り、Bとなっています。
書記には、漢王は皇極天皇の連れ子、父は用明天皇の孫高向王と明記されており、
その後登場しないため、天武天皇の前身じゃないかとの説もあります。
漢王が、どちらかに変身したとの前提で推測すると、
天智天武の年齢疑惑に焦点を当てると、天武=漢王説になり、
なかなか即位しなかった点や名前に焦点を当てると天智=漢王説になります。
31さんご紹介のHPに登場する漢王は日子人太子の御子となっており、
別人もしくは、間違いと考えられます。
33日本@名無史さん:03/03/16 11:07
うまやどのとよさとみみのみこ
という人が実在したか? が、このスレの命題の一つなんですよね。
ごめんなさい。
ちょっとだけ命題から外れます。
私は随に送られたという書文に載る名前にとても興味があります。
「たりしひこ」
このたりしひこがうまやどのみこと同一人物と言われていますが、私にはぴんときません。名前が違うからです。
どなたか素人でも納得のいく答えをお持ちの方はおられませんか。
34日本@名無史さん:03/03/16 21:14
あのー。私、33なんですけど、上の問いがスレ違いなんで
みなさん沈黙してらっしゃるのでしょうか・・・・・?

すみません。
35日本@名無史さん:03/03/16 21:47
あまり知識ないけど、33さんがいい人そうなので。

阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)という名前は要するに
大王(男)を表す尊称みたいなもので、個人名ではない。
で、この時代の大王は推古(女)だったから、大王と間違われる
ような男と言えば摂政を勤めたとも言われる有力後継者だった
厩戸ではないかと。
こんなところでないの?

あと日本史板は過疎板なんですぐにレスが付かなくても
気にしない方がイイかも。
3633・34:03/03/16 22:07
>>35
回答、ありがとうございます!
その筋でもう少し調べてみたいと思います。わざわざありがとうございました。>>35
37日本@名無史さん:03/03/16 22:29
>>35

>阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)という名前は要するに
>大王(男)を表す尊称みたいなもので、個人名ではない。

そういう説があるのは知っていますが、私は正しいとは思わない。
なぜなら、タラシヒコは個人名として、景行天皇などが名乗っており、
大王(男)を表す尊称として使われた例が記紀にはないからです。

38日本@名無史さん:03/03/16 22:44
景行だけじゃなくて成務もタラシヒコだし、仲哀・神功皇后もタラシ系
だいたいこれは個人名というよりは尊号・謚号の類だろ
7世紀の反映と見るかは異論もあるだろうけどね
3933・34:03/03/16 22:57
え? え? そうなんですか?
わー。どう考えたらいいんだろ? わかんなくなってきた…
文書上での「お約束」的な、いわゆるペンネーム的ネームだったんでしょうか?

>>37・38
丁寧にありがとうございます。
40日本@名無史さん:03/03/17 00:02
横槍失礼
「たりし」と「たらし」では同じなのか?

古語でいうと、その意味は?
41日本@名無史さん:03/03/17 01:53
ヤマトタラシヒコ(孝安)・アメタラシヒコ
オホタラシ(景行)・イカタラシ彦・姫‥‥垂仁子
ワカタラシ(成務)、タラシナカツヒコ(仲哀)、オキナガタラシ(神功)
ワカタラシ姫‥‥雄略子
イカシヒタラシ姫(皇極)、ミズキヨタラシ姫(元正)

42日本@名無史さん:03/03/17 09:44
>>41
いずれにせよ、特定の天皇・皇族の称号(尊称)となっており、天皇一般の称号ではない。
またそういう使用例はない。
43日本@名無史さん:03/03/17 15:53
日本武尊は神話、仁徳天皇は前方後円墳、
雄略天皇は稲荷山古墳出土の剣にワカタケルとあるので
実在したと思うのだが、天皇(日本武尊は天皇じゃないが)
はどこまで実在するのか。
44日本@名無史さん:03/03/17 22:26
>>41
タリシがないね。同義なのかな?
45東夷:03/03/18 01:12
隋書倭国伝の倭人名の記述は、華夷思想における差別的
な当て字でしょ。隋サイドの聞き間違いかも知れないし、
あまり深く考えずにテキトーな漢字を当てはめただけかも
知れないし。“タラシ”とは別の“タリシ”なんて、いな
かったと思うよ。どちらにしても、多利思比孤が厩戸皇子
かどうかは、この文献からは特定できない。
46日本@名無史さん:03/03/18 01:14
【世田谷一家殺人事件で現場に残された指紋が33歳韓国人と一致!】

 東京都世田谷区の宮沢みきおさん=当時(44)=一家4人が
00年12月30日に殺害された事件で、18日発売の月刊誌「新潮45」(新潮社)が、
ソウル在住の韓国人男性(33)の指紋と事件現場に残された実行犯の指紋が
合致したとの記事を掲載する。
 犯人の指紋という決定的証拠がありながら事件の捜査は難航。
2年以上が経過し、事件の風化が指摘される中、
報道をもとに捜査が急展開する可能性もある。
引用元:http://www.sponichi.co.jp/society/kiji/2003/03/17/05.html
前スレ:http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1047904137/l50
  
********  どんどんコピペしてください  ********
47日本@名無史さん:03/03/18 07:37
>>45
ふーん サンクス
48日本@名無史さん:03/03/19 05:38
>>43
>仁徳天皇は前方後円墳、
仁徳陵=大仙は怪しいでつ……
仁徳はいたと思うが
49日本@名無史さん:03/03/21 14:44
>>45
すると、タリシヒコのことを厩戸皇子だと断定している今の通説は、勇み足ってやつ?
おもしろーい!
50東夷:03/03/21 19:45
>>49
厩戸の可能性も、否定できないけど・・・
「使を遣わして朝貢」したのがホントに男王だとすると、
当時の女帝・推古の立場がどうなるのかが謎。
小墾田宮(推古)と斑鳩宮(厩戸)の2宮が並立?していた
時期だけに、いろんな推測が成り立ちます。
51日本@名無史さん:03/03/21 19:52
>>50
「ヒコ」って付くのは男ですよね? この名前は書記には載ってないと思いますが…。
書記に載るほどの高官(大物)ではなかったということでしょうか。
厩戸の抱えていたスタッフの一人、なんてことはないですか?
52日本@名無史さん:03/03/23 03:08
そんなスタッフ(中級役人)が百人もいる後宮(ハーレム)を
持てると思うかい。 
53日本@名無史さん:03/03/23 15:54
ハーレムの話なんぞ誰もしとりゃせんがや。
54日本@名無史さん:03/03/24 03:29
うまやど、やつみみ、とよとみみ、なんてのは後世の創作で
本当は何とかタラシヒコって言う、どこにでもいそうな
皇族の名前だったってこったね。
55日本@名無史さん:03/03/24 04:25
まあ、それもあるかもしれないけど、
惜しいかな、史料を欠く。
56日本@名無史さん:03/03/26 14:40
天智、天武天皇が蘇我氏に近い聖徳天皇の存在を抹殺しようとしたと言う可能性も...
ただ蘇我馬子の業績が多大だったので、聖徳天皇を太子に降格して、その業績にした
ということかも。
57日本@名無史さん:03/03/26 20:21
>>50
その辺の事情も、>>28にリンクしてる過去スレに解答がある。
58日本@名無史さん:03/03/27 22:26
消毒太子
59日本@名無史さん:03/03/29 17:35
聖徳太子って渡来人だったって本当ですか。
60日本@名無史さん:03/03/29 20:20
聖徳太子は実在しません。
61日本@名無史さん:03/03/29 22:15
一万円
62日本@名無史さん:03/03/30 22:18
聖徳太子自身、実在の人物ではないといわれていますが。


63日本@名無史さん:03/04/01 02:17
聖徳太子が居なかったとすると
上宮王家はどこから涌いて出たんでしょう?


64日本@名無史さん:03/04/01 21:37
聖徳太子は実在かもしれないが、
聖徳太子の髭は実在しない、ってどっかで聞いた気がする
65日本@名無史さん:03/04/02 01:04
おれは聞いたことないが、それ面白いね。
66日本@名無史さん:03/04/02 01:07
聖徳太子はいたんじゃない?
それでいいじゃん
67日本@名無史さん:03/04/05 22:24
それでは面白くないよ。
68日本@名無史さん:03/04/06 00:57
聖徳太子がいないってことは
子供たちもいない。妻も。
兄弟は大丈夫かな。
69日本@名無史さん:03/04/08 00:10
聖徳太子って渡来人だったって本当ですか。
70日本@名無史さん:03/04/13 02:47
小林信者?
71日本@名無史さん:03/04/14 03:21
ちゃいます。聖徳太子は帰化人です。
72山崎渉:03/04/17 13:46
(^^)
73日本@名無史さん:03/04/18 23:21
大陸系だけど、もとはゾグド人みたいですな。
74山崎渉:03/04/20 01:53
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
75日本@名無史さん:03/04/26 15:59
ゾグド系という説もあるけど、
坂上田村麻呂と同様にトルコ系で原キリスト教の影響下にあった集団じゃないかな?
76日本@名無史さん:03/05/01 23:00
馬小屋で生まれたとかも?
77日本@名無史さん:03/05/02 17:53
>>76
「馬小屋生まれ」と「10人の話を聞いた」は名前から来た遡行規定だろ
78日本@名無史さん:03/05/02 22:34
厩戸皇子は突厥人だす。
79日本@名無史さん:03/05/13 00:49
>>77
それも蓋然性高そうだが、
それを言い出すと聖徳太子って名前だけで何もしてない架空存在論に行きつく。
80日本@名無史さん:03/05/13 00:55
即位して称徳天皇になりました
81山崎渉:03/05/22 03:27
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
82日本@名無史さん:03/05/25 03:48
だいたい、天皇記くらい自分で持っておけよ
83山崎渉:03/05/28 11:00
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
84日本@名無史さん:03/05/28 17:27
天智、天武天皇が蘇我氏に近い聖徳天皇の存在を抹殺しようとしたと言う可能性も...
85日本@名無史さん:03/06/04 07:54
推古天皇の死後は聖徳太子が後を継ぐのが順当だが、太子は皇太子のまま推古天皇より先に死んでしまっている。
後継者としては、聖徳太子の子供である山背皇子と、敏達天皇の孫である田村皇子の二人が候補者だった。
しかし、推古天皇はそのどちらを後継者にするとも決めぬまま崩御してしまうのである。
86日本@名無史さん:03/06/14 06:01
推古天皇が長生きしたのが敗因だよな
87日本@名無史さん:03/06/14 10:24
そういえば、はじめて上皇になった天皇って誰なんですか?
大鏡のころは上皇や法皇はもう普通に出てきますよね。
皇極(だっけ>)みたいに二度天皇になった人の、天皇でない間は
「上皇」なのかな。
88日本@名無史さん:03/06/14 11:51
太上天皇の最初は持統天皇ということになってるよ。
一般的な説ではね。
89日本@名無史さん:03/06/23 04:16
持統は即位自体が怪しいので問題外
90日本@名無史さん:03/06/26 00:01
>>89 そうなの?
91日本@名無史さん:03/07/06 19:41
持統は、天武天皇の長男を殺害したため、
支持を取りつけられなかったようです。
92山崎 渉:03/07/12 12:27

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
93山崎 渉:03/07/15 11:48

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
94日本@名無史さん:03/07/17 05:08
「使を遣わして朝貢」したのがホントに男王だとすると、
当時の女帝・推古の立場がどうなるのかが謎
95日本@名無史さん:03/07/25 00:38
96日本@名無史さん:03/07/31 17:34
97山崎 渉:03/08/02 01:14
(^^)
98日本@名無史さん:03/08/06 06:50
結果的に逆臣として名を刻んだ蘇我氏の政治・外交上の功績を、
厩戸がやったことにしてしまったのでは?
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
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iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii       》━━━━《       |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ     》 / ̄ ̄\ 《     |iiiiiiii|
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102日本@名無史さん:03/08/09 20:55
聖徳太子って渡来人だったって本当ですか。
103日本@名無史さん:03/08/09 23:24
ちゃいます。聖徳太子は帰化人です。
104日本@名無史さん :03/08/10 01:44
小林信者?
105山崎 渉:03/08/15 13:37
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
106日本@名無史さん:03/08/16 15:44
107日本@名無史さん:03/08/22 12:32
108日本@名無史さん:03/08/29 21:33
109日本@名無史さん:03/08/30 15:04
聖徳太子は実在しません。
110日本@名無史さん:03/09/06 23:01
111日本@名無史さん:03/09/13 16:45
112日本@名無史さん:03/09/25 22:47
113日本@名無史さん:03/10/03 22:52
114日本@名無史さん:03/10/08 05:46
当時のアジア情勢は、三国時代以降の中国の混乱と、統一大国隋・唐の
成立を抜きには考えられないのではないだろうか?

隋はわりあい短命に終わったが、唐の成立は周辺国家にとって、外交上の
大問題であったと言わざるを得ない。隋・唐の柵封に入るか、自主独立を
保つか。言わば、幕末の開国派と攘夷派の権力闘争にも似た状況であった
と考えられる。

聖徳太子の施策は、尊王開国派とでも言える立場である。内に向かっては
天皇の権威を高める施策(十七条憲法や冠位十二階)を行い、対外政策は
隋との対等外交を試みている。日本書紀から抹殺されている第1回の遣隋
使は、日本の律令制度と官僚制度の不備を指摘され、それを必死に取り入
れる過程とも言える。あたかも、明治新政府が内に向かっては天皇の権威
を喧伝し、外に向かっては西洋の文化・制度を積極的に取り入れたように。

物部氏との崇仏論争以前から、日本には対中国積極外交派と、国粋主義との
対立があったのは疑いないであろう。
115日本@名無史さん:03/10/08 06:17
さて、アメノタラシヒコについて考察してみよう。中国側文献は、彼の皇后と
皇太子の存在にまで言及している以上、女帝の存在を理解できなかったという
説は成立し得ないであろう。確かに中国においては、歴代皇帝はすべて男性で
あり、則天武后などの存在は抹殺されている。だがこれは中華思想の核をなす
「正統」の思想が、男系による継承を唯一の形式としていたからであって、
未開の夷国ならば女帝もありうると見なしていた(むしろ未開ゆえに女帝が
成立する)のは、卑弥呼の存在やその他の蛮夷の国の女王を歴代、記してき
たことからも、充分伺える。

では、アマノタラシヒコは聖徳太子なのか? その前に、当時から天武まで
の、日本の対外政策を整理してみよう。
たとえば仏教の受容とは、新し思想の受容である。卑弥呼が行った鬼道とは、
単なるシャーマニズムではなく、実は世俗道教の原形となった五斗米道の事
である。日本の神道の原形は、この五斗米道の教義に似たものであったと
考えられている。

荘子が創始し、それを元に老子の言葉を創作したとも言われる道教は、
本来は今日の世俗道教に見られるような、オカルティックな神仙思想とは
だいぶ様相が違うものである。ただ、その老荘のテキストを拡大解釈して
成立した五斗米道は、多分に現世利益的な宗教であった。崇仏論争とは、
当時は最新の科学であり同時に思想であり宗教でもあり技術でもあった
仏教を受容するかどうかの問題であり、開国して西洋文化を受け入れるか
否かと言う、幕末の国論以上に紛糾した問題であったと言える。
116日本@名無史さん:03/10/08 06:34
蘇我氏は、仏教受容派であり、物部氏は尊皇派とでも言える立場であったのは
聞きが記す通りであったのであろう。ただ、仏教受容派であった聖徳太子は、
成長するにつれて徐々に柵封体制からの独立を意図するようになった様子が
伺える。中国の文物を受け入れつつ、日本の自主独立を志向する。まさに、
幕末日本と似た状況が、この時代にもあったと考えられるのである。


小墾田宮(推古)と斑鳩宮(厩戸)の、2つの政治体制があった可能性を指摘
する学者が存在するのは、ここに由来する。

 蘇我氏=積極外交派・貿易利益派・柵封肯定派
 聖徳太子=消極外交派・貿易軽視派・天皇制確立派

大ざっぱすぎるのは承知の上で、こういう分類が可能である。であるならば、
蘇我入鹿による上宮家滅亡と言うのは、開国派と尊皇派による対立と考えれば、
充分に納得が行くのではないだろうか?

卑弥呼の昔から倭の五王に至るまで、日本の政権は中国にすり寄る事で、
己のバックとしてきた。文化的にも武力的にも、圧倒的な国力の差が存在
する以上、これは致し方のない事実である。だが、三国時代・東晋・五胡
十国・南北朝・隋へと至る中国の混乱の時代に、日本に自主独立への欲求が
徐々に芽生えてきたのが伺える。それが聖徳太子の隋対等外交である。
117日本@名無史さん:03/10/08 07:00
このような目で見れば、大化の改新とはナンだったのか、おぼろげながらも
見えてくるのではないだろうか。

当時の半島は高句麗・新羅・百済の三国が覇を競っていたが、もっとも国力の
弱かった新羅が唐の支援を受け、百済を滅ぼした事に注意するべきである。
白村江の戦いは、唐・新羅連合と日本との戦いである。開国派である蘇我氏
からクーデターで政権を奪取した天智天皇による、百済に肩入れした無謀な
対外戦争である。

そして、壬申の乱とは、このような無謀な対外戦争を選んだ天智からの、
天武による政権奪取である。事実、天武の即位によって新羅との対立は
急速に改善された。崇仏論争から壬申の乱まで、歴史は連続している。
そして、面白い事に権力を奪取した側は中国の皇帝制を手本にして、
天皇による中央集権国家を推し進めている点である。


天皇家はなぜ存続したのか、という問いがある。理由は色々あるだろうが、
私は単純に、滅ぼそうとしたら【祟った】からだと考えている。
時代的な背景を考えれば、同時代人にはもっとも説得力のある意見では
ないだろうか。では、誰が誰を滅ぼそうとして祟られたのか?

私は、聖徳太子を始祖とする上宮天皇家を蘇我氏が滅ぼそうとしたら、
結果的に大化の改新(のモデルになった事件)によって、蘇我宗家が
滅亡した事が、古代人のトラウマになっているのではないかと推測する。
118日本@名無史さん:03/10/08 07:01
聖徳太子こそアマノタラシヒコであり、聖徳天皇とでも言うべき
存在であったが、馬子・推古連合に抹殺された血脈であると考える。
だが、太子の政治思想を受け継ぐ天智らの勢力による権力奪回と、
天武による再奪回、そらに持統勢力による権力闘争の中で、
天皇制の確立と言う部分以外の事跡は抹殺され、不可思議な
歴史書である日本書紀が成立したと、私は考えている。
そういう目でかの歴史書を見れば、また違った見え方がするのでは
ないだろうか。


以上、妄想終わり。
119日本@名無史さん:03/10/13 15:56
120日本@名無史さん:03/11/02 17:06
121日本@名無史さん:03/11/21 22:01
斑鳩っていう地がもんだいなきがするぞ
122日本@名無史さん:03/11/24 21:17
聖徳太子は新羅・百済・隋にとどまらず、
中東・外蒙古・東欧の情勢にも通じていたふしがある。
ネストリウス派の思想や、天文・地理の知識 地球の形状
道教・陰陽道・雑密教
外国人教師から実に多くを学んでいたようだ。

これら外国人教師の「教材」を根拠に、
「聖徳太子は来日した騎馬民族だ」などという珍説をうちたてる
おかしな歴史学者がいるものだから、混乱や誤解が生じる。
作家ならまだしも史学者なら道義的責任をまぬがれない深刻な事態だろう。
123日本@名無史さん:03/12/20 02:02
124日本@名無史さん:03/12/23 11:34
推古朝が対外交渉急進派・蘇我の傀儡だった可能性は否定できないけど、
幕末との比較は無茶。国家という概念が古代とでは違いすぎる。
中国を“外国”として「隣国のライバル」視するようなナショナリズムなど
天武以前の大和政権が持ちうるはずはなく、中華はあくまで宗主として
圧倒的な存在であり、その下の一番弟子の立場を半島と争っていたのがせいぜいのところ。
百済と結んで白村江に敗れたあと、蘇我時代に学んだ律令のシステムを整備して
中華皇帝の擬似ブランドをスタートさせた時点で、ようやくゆるやかな国家意識
(天子は中国でなく畿内にいる、とでもいう)が生まれたと考えるべき。
「対外交渉で新体制の基盤となる律令システムを取り入れた」という
蘇我=推古政権の功績を天武新政権が敗者・逆賊の蘇我から取り上げ、
文献上の身代わりにその功績の受け皿に抜擢されたのが
蘇我に滅ぼされた(敵の敵)上宮王家(の代表的存在・厩戸)だと思う。
史実としての信憑性に欠ける事柄・存在・功績ほど美化・伝説化されやすいのは世界共通。
聖徳太子の英雄伝説には、コレが当てはまる。
125日本@名無史さん:03/12/23 14:38
あと、山背大兄が即位できなかった理由は馬子の死後に「反蘇我勢力」が結集して田村皇子を立てたからだとも言われている。
蝦夷の本音は山背擁立だったが、反蘇我派の勢いに屈服して山背に自重を促したのだといわれている。
126日本@名無史さん:03/12/23 15:00
>>124
ゆるやかな国家意識が生まれたというなら、数多くの都市国家が誕生していた2〜3世紀を念頭に置くべきだと思うが。
あなたのいう国家には、都市国家は入らないのかな?
127124:03/12/23 18:16
>>126
この場合は入らないよ。幕末以降に生まれるべきnation state
(結果はそうならず帝国化)の原型となる国家などとは言えないよ、と言ってるんだし。
それに、小国分立状態における緒勢力がなんで「対中華対等外交」なのよ。
ハナから問題外でしょ? それこそ土下座外交して金印もらってる程度。
せめて中央集権らしきシステムが出来上がってきて、そこから始まるのが
「対中交渉史」だと思うけど、違うかな。
nation国家(とその原型)と、豪族の縄張り(←これが都市国家?)とは
まったく違うものでしょ。
128日本@名無史さん:03/12/24 10:35
>>124
うーん、説得力あるかも。

>>ALL
「聖徳太子=蘇我一族の功績の受け皿」という説は
古代史学界であるていど言われていることなの??
129あぼーん:あぼーん
あぼーん
130日本@名無史さん:04/01/16 05:11
蘇我氏に近い聖徳天皇の存在を抹殺
131日本@名無史さん:04/01/28 14:11
天智、天武天皇が、蘇我氏に近い聖徳天皇の存在を、
歴史ごと抹殺しようとしたと言う可能性がたかい。
132日本@名無史さん:04/01/29 07:07
>>131
可能性って・・・
それだと後世の超人・聖人扱いの説明が立たないだろ。
まだ124のいう「でっちあげは美化される」説のほうがツジツマが合う。
133日本@名無史さん:04/02/08 15:40
134日本@名無史さん:04/02/08 19:06
124の指摘はもっともだけど、とりあえず、漏れは幕末外交と飛鳥奈良外交を重ね合わせるパターンで
妄想続けるわ。まぁ、ヨタ話として読んでもらえりゃあいいんで。


個人的には、「天皇」号、「日本」国号の文献的初出の時期から考えて、おそらくは天智朝に、
いわゆる国家意識(もちろん近代国家概念としてのstatesとはイコールではないが)が具体化
したと考える。

もちろん、国家意識がこの時期に、ある日突然出現した訳もなく、やはり長い時間の中で、
徐々に形成されてきたと考えるのが妥当だろう。自分は、そういう中国に従属しない国家意識を
最初にイデオロギー(と言う概念はないであろうが)として提唱したのが聖徳太子ではなかった
かと妄想している。馬子による積極外交を身近で見聞し、外国の知識を吸収したが故に、また
百済系僧による知識を吸収したが故に、随の覇権主義に対して警戒心を強め、対中国従属ではない
国家建設を夢想したのではなかろうか。

ここで、思考実験として蘇我天皇家が実在し、蘇我の血が濃いにも関わらず、馬子と対立した
蘇我天皇家の皇族がいたと仮定しよう。そう、徳川一族における水戸家のような存在(笑)。
天智/天武の舒明系統が天下を取った後、馬子の業績を全否定し、正統は自分たちにあると
主張するには、どうすべきか? 司馬遷以後の中国の歴史書は「正統」の概念を証明するために
成立した。記録として残された様々な事蹟を網羅しつつ、司馬遷が描こうとしたのは実は
三皇五帝から漢の武帝まで、支配者の正統が途切れる事なく連続していることを証明するために
描かれた。

で、中国文化に対する該博な知識を持っていた天武とそのブレーンが、これをまねて日本書紀を
作った。これは「日本書」+「紀」という意味で、司馬遷の史記と同様に、歴代帝王の「本紀」の
書である、という意味である。自分が妄想するに、天智天武以前は、天皇を輩出できる「王家」は
複数存在したのではなかろうか。そのひとつが蘇我天皇家であり、ひょっとしたら上宮王家は
蘇我家と近い関係にありながらも、天皇輩出の資格を持った独立した王家だったのかもしれない。
135日本@名無史さん:04/02/08 19:32
でだ、仮に天皇を輩出できる王家が、蘇我家、上宮王家、舒明系王家とあったとして、蘇我家に
よる専横と上宮王家滅亡を目の当たりにし、危機感を募らせたた舒明系王家によるクーデターが
大化の改新だと。

まぁ、これは天皇(この時代は正確に言えば大王ね)を輩出できる王家は、やはり元々ひとつしか
なく(おそらくは宗教的権威と強く結びついていた)、ただそれは後世ほど権威や道統が確立された
ものではなく、蘇我家は一応立ててはいたけど、纂奪しようと思えば割り合い簡単に纂奪できる
程度の存在だったと考えるのも、妥当かな。

ただ、天智天武の二代の中で、他を圧する存在になった大王家が、自己の正統の根拠を確立するために
中国の正統の概念のコピー版として、「万世一系」の神話を構築した、と。

で、幕末になぞらえると、水戸家ならびに水戸史学だ。明治政府は水戸史学の流れを受けていたから、
まずは天皇家が常に日本の支配者であったと定義した。これは大義名分上はそうだろうが、
実際に鎌倉以後は「武者の世」であり、尊氏や義満や秀吉や家康が実質上の天下人で支配者だった。
これで考えると、蘇我家は実質支配者だったが、その業績は抹殺され、天智や天武にイデオロギー的
影響を与えたであろう人物=聖徳太子に、業績を移植されたと。

水戸史学の影響のせいで、戦前は南朝が正統とされ、北朝の天皇は抹殺された。ひょっとしたら、
蘇我馬子は、抹殺された北朝の天皇のような存在だったのかもしれないわな。でだ、幕末のイデオロギー
をリードした水戸史学の存在が、水戸史学生みの親である光圀の美化に走ったのは、TBSの番組が
証明している通り(もちろん、水戸烈公よる宣伝の部分も大きい)。

ということで、聖徳太子=水戸光圀 北朝=蘇我家 南朝=天智天武 と。
136日本@名無史さん:04/02/08 19:34
似たようなスレいくつも立てんなよ
137日本@名無史さん:04/02/16 06:21
このスレもうじきファーストアニバーサリーだよ。
138日本@名無史さん:04/02/16 06:59
山の背=京都=秦氏の土地=聖徳太子を支えたのが秦氏と記載
秦氏=景教=キリスト教=馬宿の王子で、我れ蘇る=蘇我=聖徳太子

京都を作るほどの秦氏が、記紀に聖者伝説を挿入したんだよ

139日本@名無史さん:04/03/07 10:12
持統は、天武天皇の長男を殺害したため、
支持を取りつけられなかったようです。
140日本@名無史さん:04/03/11 23:30
なかなか読み応えのある妄想だね。
いや、面白いわ。
141日本@名無史さん:04/03/12 18:04
聖徳太子は「小徳阿輩臺」である。
142日本@名無史さん:04/03/13 03:31
蘇我氏自体がもうひとつの天皇家という説もあったっけ?
上宮王家もその”もうひとつの天皇家”の一門で、それを滅ぼした現天皇家が、
「蘇我氏」という架空の一家を捏造し、上宮王家を滅亡させた罪をなすり付け、
しかも上宮王家自体も現天皇家の家系図に組みこんで、
”もうひとつの天皇家”の存在自体を歴史から抹殺したとかいう話もどこかの小説にあったけど、
実際どうなんだろ。
143日本@名無史さん:04/03/15 23:36
あげていい?
144日本@名無史さん:04/03/16 00:38

もうちょっとまって。
145日本@名無史さん:04/03/17 04:39
もう待てない!
146日本@名無史さん:04/04/04 18:10
147日本@名無史さん:04/04/21 23:16
148日本@名無史さん:04/05/01 22:15
蘇我系だとはどうしてみなされなかったのであろうか?
聖徳太子の両祖母ともに蘇我の娘であり、ばりばりの蘇我系のはず。
149日本@名無史さん:04/05/18 18:51
誰が?

つーか類似スレ立てんなよ・・・・
150日本@名無史さん:04/05/19 03:25
??
本スレってどこにあるの?
151日本@名無史さん:04/05/19 16:07
聖徳太子と飛鳥時代について語りませんか
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1029917483/l50

【栄華】蘇我氏マンセースレッド【4代】
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1051920599/l50
152日本@名無史さん:04/05/19 17:02
さらにこんなの↓もある

聖徳太子が仏教を進行してたのってなんで?
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1030514852/l50
153日本@名無史さん:04/06/06 09:58
聖徳太子はいなかった、というのが、実質を見れば正しいという流れ。
154日本@名無史さん:04/06/06 10:06
    ↑
四天王寺と法隆寺の坊主に言え。
155日本@名無史さん:04/06/06 12:46
聖徳太子とはなんぞや
156日本@名無史さん:04/06/19 21:31
157日本史@名無しさん:04/06/20 00:59
まfだあったのかよ、このスレw

聖徳太子という称号とともに、その事績が豪華に飾られたのは平安時代。何故かというとまた難しい話になるが、
少なくともそ事績とされている項目の一つ一つについては、大半が疑わしいというのが現在の流れ。
どこの国にでも牽強付会で特定の人物の経歴をふくらませることはあるわけだが、イメージ通りに仏教を日本に
定着させたのが一人の手になるわけがない。死んですぐ伝説化が始まったと言うことで、本当の事績との分離が
難しいわけ。・・・ねんだが、死後すぐに伝説になると言うのも、なんか怪しすぎるw

また、憲法の公布も一王子がするわけはないし、勝手に天皇を僭称して超大国・隋に使いを送るわけもない。女
帝だとなめられるからといっても、かつて卑弥呼という女帝がいたことなど中国の知識人なら常識。その他教典
の翻訳も怪しいし、そもそも「うまやどの王子」自身の確定できる事績など皆無に等しい、といったら驚くでしょう
ねw でも、それが学問的に突き詰めた現実。歴史ほどイメージに騙されやすいものはないということです。

で、このスレタイにある上宮法王が厩戸皇子という証明もないから、このスレで聖徳太子の話をするのも厳密に
言えばおかしいと言うことになる。まあロマンでも何でもいいけど、それで銭もうけしてる法隆寺もどうかなーと
思うし、その前に例の蔵開けろよと文句の一つも言いたくなるw
そもそも光背銘の「法興元卅一年」って何ですか?そんな年号ないし。上宮聖徳法王定説にも出てくるけど。
158日本@名無史さん:04/06/20 02:36
二重王朝だった可能性は?
アメノタラシヒコ王朝が、推古の王朝とは別にあった可能性は?
聖徳太子=蘇我馬子で、馬子の事跡を大使に仮託して、
蘇我王朝を抹殺した可能性は?
159日本@名無史さん:04/06/20 02:57
法隆寺など斑鳩の付近に別の王朝が成立できるんですか?
160日本史@名無しさん:04/06/20 14:24
>その前に例の蔵開けろよと文句の一つも言いたくなるw

伏蔵のこと?実はあれも明治に開けられたらしいぞ。

と言うことは、そのときのヤシらは少なくとも色々知ってるということになるが。
161日本@名無史さん:04/07/18 01:10
法隆寺に開かずの蔵があるの?

明治の時に何が発見されたの?
162日本史@名無しさん:04/07/18 07:57
門入って西側に向かうとすぐに、道に縄で囲ったところがある。
パンフレットにも何も書いてないのだが、これこそ法隆寺最大の秘密。

・・・・・なのだが、どうも、明治に開けられたらしい。でも、その内容や詳細は
伝わっていない。
163日本@名無史さん:04/07/27 01:35
不思議な事に聖徳太子の子孫て存在しないよね。
643年に斑鳩宮で一族全員自刃したって絶対に嘘ぽいし…
ここらへんに「日本書紀」の歴史改ざんが隠されている気がするな?
164日本@名無史さん:04/07/27 02:20
>>163
それを言ったら、蘇我入鹿の子孫もいないしな。

天皇家の大規模な内紛があって、負け組は「蘇我氏」と呼ばれるようになったわけ?
165日本@名無史さん:04/07/27 20:11
そのとおり
166日本@名無史さん:04/08/21 21:34
あんた素人?
天智天皇の近江政権は蘇我家が支えているんですが?
167日本@名無史さん:04/08/22 06:04
はぁ?
168日本@名無史さん:04/08/25 20:09
近江朝に仕えていた蘇我の連中は傍系の者で、しかも大海皇子方に寝返っているよ。
169日本@名無史さん:04/08/26 05:41
>>163
べつに不思議じゃないだろ。生き残りがいないケースだってあるさ。
170日本@名無史さん:04/08/26 17:30
中世に源平の末裔や天皇の落胤を称する氏族はわんさかいたが、
不思議なことに聖徳太子の子孫を称する氏族はほとんどいない。
171日本@名無史さん:04/08/26 19:17
子孫はいなくとも、生まれ変わりがいっぱいいるじゃないか(w
172日本@名無史さん:04/09/16 03:06:28
だれよ?
173日本@名無史さん:04/09/22 04:49:43
聖武天皇
聖宝
親鸞
桜町天皇
174日本@名無史さん:04/09/28 13:18:51
>>163
上宮家ではないが聖徳太子の兄弟の子孫ならいるだろ?
弟の殖栗皇子の子供衣縫王は文武の時代まで生きてるし
兄の一族の史実くらい伝えているはず。
175日本@名無史さん:04/10/01 01:24:42
当麻皇子→当麻真人
殖栗皇子→蜷淵真人
来目皇子→登美真人

>>174
衣縫王は続紀に慶雲4年11月卒とあり、殖栗皇子とは世代が離れ過ぎ。
実際には天武11年6月条に卒去記事のある殖栗王の子ではないかな?
176日本@名無史さん:04/10/11 00:58:40
遣唐使の墓誌発見…「魂は故郷へ」と異国の死刻む
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20041010it14.htm

 【西安(中国陝西省)=竹腰雅彦】8世紀初めに日本から中国・唐(618
―907)に渡り、現地で客死した遣唐使随行の留学生の墓誌(734年)が
見つかったと、西北大学(西安市)が10日、発表した。

 中国で古代の日本人の墓誌が見つかったのは初めてで、「日本」の国号が記
された中国最古の例。謎に包まれている遣唐使の実像に迫る貴重な資料として
注目される。

 墓誌は死者の事績を記した墓石で、発見された墓誌は高さ、幅とも約39セ
ンチのほぼ正方形。上に載せられた蓋石(ふたいし)の上面に12文字、本体
には171文字が刻まれていた。

 「姓は井、字は真成。国号は日本。開元22年(734年)正月、急病のた
め36歳で死去。(生前は)学問を修め、官吏として朝廷に仕えた。(死後)
尚衣奉御という官職が贈られた。遺体は異国の土となったが、魂は故郷へ帰
る」などと記されていた。「尚衣奉御」は皇帝の衣服を管理する部署の長のこ
と。当時の玄宗皇帝(在位712―756年)が、その死を悼んだことにも触
れており、調査にあたった西北大の王建新教授は「皇帝とかなり親しい人物だ
ったのではないか」と推測している。
177日本@名無史さん:04/10/11 00:59:16
 「井真成」は中国名(唐名)で、日本側の記録にはないため、該当する人物
は特定されていない。阿倍仲麻呂、吉備真備などが派遣された717年の遣唐使の一員とみられる。

 墓誌の具体的な発見日時は明らかにされていないが、記述内容から、西安中心部から東に10キロほどのさ
ん水付近に埋設されたと考えられる(さんすいの「さん」は、サンズイに産)。

 ◆「遣唐使船」の著書もある東野治之・奈良大学教授(日本古代史)の話「中国で亡くなった遣唐使の随員
は少なくなかったと思われるが、それを初めて考古学的に裏付けた点で極めて重要。遣唐使が中国で、どのよ
うな待遇を受けていたかを知る上でも非常に興味深い」

 ◆遣唐使=630年の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を最初として、唐に派遣された使節。894年に
菅原道真の建議によって廃止されるまで、20回の任命があり、うち16回が実際に渡航した。唐の先進的な
文化がもたらされ、律令国家の確立に大きな役割を果たした。派遣された主な人物に、山上憶良(やまのうえ
のおくら)、空海、最澄らがいる。
178日本@名無史さん:04/10/11 01:23:38
鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)の話 遣唐使の役割、目的などは文献では分かっていたが、
同時代の生の史料が見つかったのは初めてで、日中交流史、日本の古代文化史を具体的に想像でき
る第一級の史料だ。(「井」という中国姓は)現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とした渡来系の「井上忌
寸(いみき)」という一族ではないか。一族の中でも特に優秀で、コネもあったのだろう。死後に贈られた、
皇帝の衣服を管理する役職「尚衣奉御」は従五品上に相当するが、ほぼ同じ年齢で、ともに唐に派遣さ
れた阿倍仲麻呂は同じころ、従五品下に昇格しており、「もう一人の阿倍仲麻呂」ともいえるだろう。
179日本@名無史さん:04/10/12 11:44:27
『三代実録』元慶三年(八七九)十二月十五日条に見える
井上伊美吉真雄の先祖の一族であろう。
180日本@名無史さん:04/10/12 13:17:06
井上忌寸麻呂という同世代の人が『続日本紀』によると
天平十五年(七四三)五月五日に外従五位下、
天平十七年(七四五)九月四日に紀伊守になっている。
181日本@名無史さん:04/10/13 07:34:01
【遣唐使】中国・西安で墓誌発見
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1097563684/
182日本@名無史さん:04/11/06 22:16:40
183日本@名無史さん:04/11/20 00:19:20
近縁スレ連結工事
【暗殺?】天智と天武【兄弟?】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1045471651/l50
欽明天皇と周辺環境
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083350482/l50
【栄華】蘇我氏マンセースレッド【4代】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1051920599/l50
有間皇子を弔うスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1025431037/l50
スーパー  中 大 兄 皇 子  ヒーロー
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1073766541/l50
日本書紀はどこからが史実なんでしょう?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/988620461/l50
百済人=和人説を檢證してみるスレッド
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1084094986/l50
上宮王家の謎
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1047200156/l50
【奈良時代の★女★政治家達】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1076250016/l50
聖徳太子と飛鳥時代について語りませんか
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1029917483/l50
壬申の乱の謎
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1033233848/l50
184日本@名無史さん:04/11/26 09:05:21
>>135
>> 仮に天皇を輩出できる王家が、蘇我家、上宮王家、舒明系王家とあったとして、

もし、蘇我家がそのような家柄として、
過去に王位についたのは誰と誰になるのかしら。

馬子より前ってどうでしょ?
185日本@名無史さん:04/11/30 00:56:18
>>134
妄想返し
継体・安閑・宣化・押坂彦人・舒明(息長氏)
欽明・敏逹・用明・崇峻・推古(葛城氏)
息長系宣化の三皇女が葛城系欽明に嫁ぎ、葛城系敏逹の三皇女(二人の母は蘇我系皇女)が息長系押坂彦人に嫁ぐ。

妄想バージョン2
継体・安閑・宣化・押坂彦人・舒明(息長氏)
欽明・敏逹・崇峻・天智?(××氏)
用明・推古・天武(蘇我氏)
1・××の欽明が大王になり息長の宣化三皇女を后妃に。
2・××(父)・息長(母)の敏逹が大王になり、蘇我(推古)・息長(広姫)を后妃に。
3・蘇我の用明が大王になる。息長の押坂彦人に蘇我(母)系を含む敏逹三皇女を嫁がす。
4・蘇我氏が××(父)・蘇我(母)の崇峻を擁立。
5・蘇我氏が推古を擁立。押坂彦人も即位しニ朝並立=多利思北孤。
6・息長の舒明で合一、蘇我氏が后になり古人大兄が皇太子。
186日本@名無史さん:04/12/16 01:13:54
多利思北孤か多利思比孤かしらんけど、ほんとに日本の王なの?
187日本@名無史さん:04/12/17 14:45:25
日本という国号は当時はまだないし、
王権も列島全域に波及していたわけではないけど。

畿内王権の王族にタラシヒコ、タラシヒメという名が多く見られるから、
タラシヒコ=多利思比孤ととらえれば、
畿内の王族(♂)ということになるね。
188日本@名無史さん:04/12/20 03:02:08
そこで、♂なら推古女帝の立場は?
・・・といふところへルウプするわけだね。
189日本@名無史さん:05/01/02 17:47:29
しねえよ
190日本@名無史さん:05/01/10 00:23:30
>>80
ネタにマジレス
あやかり系の後○○天皇以外で同音てのは珍しい
濁ってるのを入れても平城天皇と今上(平成)天皇ぐらいじゃかろか
称徳天皇の時代までには「聖徳太子」という存在はいなかった?
称徳天皇の後に同音の聖徳太子を創作てのは不敬になる?
191日本@名無史さん:05/01/11 13:37:33
しゃうとくたいし
しょうとくてんわう
192日本@名無史さん:05/01/22 00:29:33
保守
193日本@名無史さん:05/02/05 23:18:40
ゴダイゴ天皇みたいに、アーティスト名からぱくったのまでいるからなあ。
194日本@名無史さん:05/02/07 02:45:02
マジレスすると、
ゴダイゴ(←Go Die Go)と後醍醐天皇は関係ない。
195日本@名無史さん:05/02/07 17:55:35
結局毎回史実が書きかえられるから総合で判断か。

イルカを殺っちゃったんで蘇我の功績は書けないし残せない罠(ワラ
で天智天武が厩戸の血筋っぽいから先祖をたてまつりあげ改竄。
次に上書きしたのも鎌足系不比等だし

てことでFA?
196日本@名無史さん:05/02/07 18:44:38
この王家って百済と縁が深いときいた
197日本@名無史さん:05/02/08 00:30:00
>>195
ハァ?天智も天武も厩戸の血筋ではないのだがな?
198日本@名無史さん:05/02/08 01:42:27
>>197
よく嫁  直系ではないということだよ
199日本@名無史さん:05/02/08 03:56:56
つまり大寅寅之助が明治天皇だったのは大背兄と
入鹿が実は入れ替わっていたという事を知っていた
明治政府=薩長が孝明天皇暗殺から前例にまなん
でいたのではという意味だ
200日本@名無史さん:05/02/23 13:13:07
>>199は無視するにしても、

厩戸の子孫(多重女系もあり)って存続してないのか?
201日本@名無史さん:05/02/23 21:00:40
>>200
日本書紀の記述を信用するなら厩戸の子孫は女系も含めて完全に絶滅
上宮王家は生存者全員が自殺したから子孫は居ない
シラ(ギ)・クタラ・タラ・・・
シタラ・カツラ(ギ)・・・

タリ-シ-ヒコorヒメ
203日本@名無史さん:05/03/16 03:57:12
いっぱいいたはずなのに、女系も含めて完全に絶滅って、相当ひどい。

かなり強い恨みでも持たれていたのでしょうか?
204日本@名無史さん:05/03/16 04:56:24
山背大兄王は蘇我系皇族であり、軽王や中大兄皇子にとって
皇位継承の有力なライバルだったから一族ごと滅ぼしました
205日本@名無史さん:05/03/16 09:14:27
そこで上宮王家なんて無かった説ですよ
206日本@名無史さん:2005/03/31(木) 01:39:01
んなこたない
207日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:20:20
ネタは多いけど謎はないだろ。
208日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:35:20
山背大兄王の子、弟、妹、甥・姪
その全てが斑鳩宮に住んでいた理由が分からない
そして一族が全員で集団自殺したのも不可解
209日本@名無史さん:2005/04/23(土) 19:55:03
上宮王家には、封印された歴史がありそうね
210日本@名無史さん:2005/04/23(土) 22:10:55
大家族制だから
211日本@名無史さん:2005/04/24(日) 02:50:53
>>208
だから暗殺でそ
212日本@名無史さん:2005/04/24(日) 22:41:00
暗殺なら暗殺と書けばいいじゃない
それとも孝徳が連座してるからマズい?
213日本@名無史さん:2005/04/24(日) 22:42:46
孝徳が聖徳太子を暗殺???なにをいってるんだ?
214日本@名無史さん:2005/04/24(日) 23:19:33
215日本@名無史さん:2005/04/24(日) 23:29:49
>>213
孝徳天皇が関与したのは上宮王家皆殺しの方です
216日本@名無史さん:2005/05/13(金) 17:33:25
傍系の孝徳にとっては、邪魔だったしな。
217日本@名無史さん:2005/05/25(水) 13:36:05
>>141
>聖徳太子は「小徳阿輩臺」である。

「聖徳」とは、厩戸皇子の贈り名です。
「小徳」とは、冠位十二階の第二位の冠位名である。
「皇太子」と「小徳」じゃ位が違いすぎです。
したがって、「聖徳太子」と「小徳阿輩臺」は、まったくの別人。

218日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:34:24
「小徳阿輩臺」って2説あったよな
大河内直糠手 or 粟田臣細目
219日本@名無史さん:2005/05/26(木) 17:58:14
上宮高校には、蘇我先生という英語の先生がいたよ。
220日本@名無史さん:2005/05/30(月) 12:55:10
age
221日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:58:16
聖徳太子が、四国に左遷されていたとき、温泉でのんびりしてたよね
222日本史@名無しさん:2005/06/14(火) 07:35:32
それも嘘。証拠は何もない。法興六年って何?

これを最初に言い出した学者?の責任も重たいな。
223日本史@名無しさん:2005/06/14(火) 07:43:28
阿毎多利思比孤が「法王大王」であり、聖徳太子は大王ではない。

伊予には(ハタ)地名が多く、「秦王国」は豊後・伊予だろうと推測される。
仏教の聖地として後の世まで大和にも政治・文化的影響力を残したことからも、
当時のこの地域が仏教王国であったことが推測される。
224日本@名無史さん:2005/06/19(日) 22:04:39
もまえがいってることも無根拠な妄想にはかわりない。
225日本史@名無しさん:2005/06/23(木) 21:17:53
>224

とりあえず何か形のある反論しろや。カスが。
226日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:16:50
反論ていうのはな。まともな議論に対してしかできないんだよ。
無根拠な妄想ならべたような論にもなってない代物に
「反論」なんてできるかっつのw
227日本@名無史さん:2005/06/27(月) 00:30:13
うおー
228日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:39:04
誰か】軍事板難民キャンプ75【飯作って】
http://aa5.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1118754680/


411 名前:海の人 ◆STEELmK8LQ 投稿日:2005/07/03(日) 09:51:16 ?#
 高松塚古墳の経年劣化放置にしろ、聖徳太子などという架空の存在を意固地になって
主張する態度といい、なんつうか・・・おまいら藤村新一と五十歩百歩やんけ。

 などと日曜の朝から、新日曜美術館で、歴史の教科書なんかに掲載されてる頼朝像が
縦に読んでも斜めに読んでも画風と言いモデルと言い頼朝じゃねーだろ、という突っ込みに
どこだかの考古学博物館の副館長が「そんなことはハナっからあり得ませんよ」なんて
感情的な(かつ根拠レスな)研究者らしからぬ断言をするのをみながらおもターリ。

 おまいらみたいのは「専門家」の面汚しだから、全員クビくくって逝ね。
 専門家でいたいなら、松本清張「断碑」を百回書き取りしてこい。
229日本@名無史さん:2005/07/25(月) 01:07:25
保守兼テスト
            , -'"´  ̄`丶、_
           ,.∩         `ヽ
         〃∪'´ ̄`二二人\  ヽ
         | ツ´ ̄ ̄ ̄ ̄´ ヾ ヽ. ',
         |ハ ,ニ、   ,. - 、 | | | l |
         | ハ ィハ     ,二ヽ. | | | | | 同じ板にコピペするとそのままだけど、
         | | | じ'   |トJ〉  /)} l | 違う板にコピペすると鬼のような怖い顔
         | ハ  、'_,   ̄,, 厶イ川| に変わる摩訶不思議な佳子様コピペ。
         l l /\    .. イV\川 |
         ,' l l ,イ `l ̄´ /   /ヽl l
         l | l ハ  `メ、    〃  ヽヽ、__ノ
         l  ∨ └‐イ「ト--ァ'´     ハヽ__ノ
         ヽ/  }  l」」 /     / }`ー
          〈_n| 八   / /     /ノ
          〈二二人 c /\/ / , イ
           /  /厂 /\__>< {_
           /  / /  /ハ \\ ト--- 、
          _/  //  /  ハ  \\     \
   , -‐ ''"´ /  /  / ̄\ `丶、   \ \  ヽ
  /  '´ ̄ ̄ / /  / \    \  \    ヽ \ ハ
  |    , -,--'  /    \    ヽ   \   ヽ  ∨
  ヽ、  //   /       ヽ   ____..--- 、  ハ
      ̄〈| | /   ´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ /         ̄`ヽ}
      しーヘ            {__{__.... 、      / |
          ` ー─── ''"´        `ヽ、  | /
                             ` ┴′
230日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:42:38
231日本@名無史さん:2005/08/23(火) 02:06:25
ウホウホ
232A's:2005/08/27(土) 16:56:22
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの皮肉っぽさ(偽悪のポーズ)に騙されろ!!)
●とにかく、危険を察知するのが早く、どんな場合も助かって生き残る。
●他人にあまり関心がなく、マイペース。しかし、気配りは忘れない。
●常に劣等感が強く、自分を卑下しがちだが、実は相当の知力、根性の持ち主である。
●ものすごく繊細で曲がったことが大嫌いの倫理観を持つ。しかし、現実的で無用な争いは避ける。
●権力、強者には常に反骨心を持つが、搦め手から攻める術を知っている。
●他人の長所を見つけて誉めて、いい気にさせるのがうまい。
●基本的に最悪の事態を考えて準備怠りなく、すこしでもそれよりいいと喜ぶプラス思考。
●なんでも一人でしようとするが、必ず理解者協力者を作り、共同作業に持ち込む。
●異質な、見慣れない物事人々に興味と理解があり、溶け込むのが上手。
●いじめを見ると黙っていられない正義感、一緒にいじめられてしまうが、不屈の根性で打ち勝つ。
●人のうわさをするのが大嫌い。なるべくいいところを話題にしようとするが、冷静に分析して話す。
●人の目を気にしない。しかし、目立ちすぎは避ける。
●感情も考えも伝える能力に長けている。しかし、B型人間の圧倒的感情論に引くことも。
●冷静に人と交り、一時の感情や集団心理に流されない。
●他人を冷徹に判断し、信じられる人とは信じあおうとするが、信じられない人は早く見抜いて距離を置く。
●必死の努力はするが、楽しむ時にはメいっぱい楽しむ切り替えのうまさ。  
●誤りに気がつけば、すぐ訂正し、人の意見にも耳を傾ける。
●男は、女性的な感性に理解を示し、女性と良好な関係が築ける。
233日本@名無史さん:2005/08/27(土) 17:01:08
 タラシヒコのタラシ=タルス=タルク=チュルクで、突厥。
234日本@名無史さん:2005/09/13(火) 23:59:58
は?
235日本@名無史さん:2005/10/05(水) 18:22:01
へんなの
236日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:11:57
そうやな
237日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:02:39
落ちるよ!
238日本@名無史さん:2005/11/18(金) 08:11:01
アマテラスヒコだよ
239日本@名無史さん:2005/11/20(日) 23:32:52
上宮王家と滅びた蘇我はほぼ同義。
240日本@名無史さん:2005/11/28(月) 02:03:59
>>239
上宮王家は蘇我本宗家系皇族集団だったからね
それを失い剥き出しの権力となった蘇我本宗家は
意外に脆かった

まあ権威を失った権力とは得てしてそういう傾向にある
241日本@名無史さん:2005/12/03(土) 21:12:43
242日本@名無史さん:2005/12/15(木) 13:23:40
山背がでばらなければ・・・
243日本@名無史さん:2005/12/16(金) 21:17:08
むしろ山背大兄王を天皇にしなかった、蘇我蝦夷の判断ミスを
そこを敏達系皇統に突け込まれて、結局、上宮王家、蘇我宗家
蘇我倉山田家が相次いで滅亡したのだと思われ
244日本@名無史さん:2005/12/16(金) 21:28:10
用明天皇の母は蘇我稲目の娘
間人皇后の母も蘇我稲目の娘
厩戸皇子は蘇我稲目の外孫で馬子の娘婿
山背大兄王の母は蘇我馬子の娘
どう考えても蘇我宗家にとっては田村皇子より
山背大兄王が即位した方が得だったはず
245日本@名無史さん:2005/12/17(土) 01:28:00
>>244
血縁の近いほど丸く収まるなら
歴史上に兄弟同士の争いも親子同士の戦いもないだろうよw
246日本@名無史さん:2005/12/17(土) 01:29:10
山背大兄と蘇我家は明らかに対立関係にあって
もはや関係修復が不可能なレベルだったんだろう。
247日本@名無史さん:2005/12/17(土) 02:44:05
日本書紀も上宮王家と蘇我宗家の対立が記述されたのは
皇極紀(入鹿が宗家の事実上の総帥になってから)だけで
それ以前には両家が対立していたと言う記述はない

それどころか山背大兄は叔父の蝦夷を頼りにして、何度も蝦夷の
助力を求めているところからも、この二人が対立関係にあったとは
思えない

したがって蝦夷は母が蘇我馬子の娘(刀自古)である山背大兄王より
母が敏達の皇女(糖手姫皇女)である、田村皇子の方が高貴と考えて
田村を天皇に押したと思われる

また蝦夷は田村皇子を天皇に押したが、上宮王家自体にに敵意を
感じている訳ではないから、上宮王家が滅んだ時に、入鹿の行為に
激怒して「悪逆を行った、お前の命も危ないものだ」と述べたと
日本書紀に記述されているから、蝦夷の思考の中には、上宮王家を
滅亡させる意志は毛頭なかったと言えます
248日本@名無史さん:2005/12/17(土) 02:55:41
山背大兄は聖徳太子に似ず自分勝手な人間だったから
群臣との協議を忘れない「和を以って貴し」を貫く蘇我蝦夷が
山背大兄を支持しないのも当然。
249日本@名無史さん:2005/12/17(土) 02:58:27
>>248追記
山背大兄は墓もどこだか分からん人だから
まったく慕われていなかったのは確実か…
250日本@名無史さん:2005/12/17(土) 04:02:54
確かに山背大兄王は自分が蝦夷の甥という血縁関係で
自分の即位を支持してもらおうと必死だった事は確か
しかし蝦夷の側にも上宮王家を滅ぼす意志はなかった
それどころか上宮王家の滅亡は蘇我宗家を危うくする事を
蝦夷は悟っていたから入鹿の行為に激怒した
251日本@名無史さん:2005/12/17(土) 04:16:47
山背大兄王が全く慕われなかったという事はあり得ない
田村皇子と皇位継承を争った時に、山背大兄を支持した豪族には
巨勢氏、紀氏、佐伯氏(大伴氏の一族)が居た事からも分かる

それに上宮王家滅亡の記述は、日本書紀の記述は脚色がかなり
あったろうけど、山背大兄の慈悲深き心と一族滅亡が、実に荘厳に
記述されている

(「略)子弟妃妾ともども自決した。おりから大空に五色の幡や絹笠が
現れ、さまざまな雅楽と共に空に照り輝き寺(法隆寺)の上に垂れかかった。」

このような記述は、天智天皇や天武天皇の死亡時の記述にはない
252日本@名無史さん:2005/12/17(土) 07:39:12
その場に居なかった摩理勢が上宮王家派なので許勢臣大麻呂、
紀臣塩手、佐伯連東人の三人はある意味摩理勢派でもある。
摩理勢滅亡後その姿を見せない三人は同時に失脚したとみていい。

摩理勢にとって上宮王家とは反蘇我宗家としての旗印でしかない、
泊瀬王亡くなった後「誰を頼りにすればいいんじゃ〜」の言葉から
あくまで対立する姿勢を崩さない摩理勢を上宮王家を大事と考える
蝦夷が殺害決意し実行するわけだ。

しかし山背大兄を天皇に選ぶことは推古の遺言に違えることになり
蝦夷としてもありえない、また敵対勢力の首魁摩理勢滅亡後の
上宮王家は敵対者でもありえない。むしろ敏達系の皇族を軽んじる
ところがあった、高貴とも思っていなかった。山背大兄より
田村は天皇として扱いやすい存在、ただそれだけ。
253日本@名無史さん:2005/12/17(土) 08:53:20
蝦夷に上宮王家を潰す意図がなかった事は、入鹿の行動に
激怒した点から見て間違いない
そして蝦夷の危惧通りに蘇我宗家もまた、上宮王家滅亡から
僅か2年で滅亡した

入鹿暗殺後、蝦夷が屋敷に篭った時に、阿部氏、巨勢氏、紀氏、大伴氏
と言った、大和の有力豪族で、蘇我宗家に味方をする豪族は居なかった

もしこの時、蝦夷の側に山背大兄王と上宮王家が味方に付けば
大和最大の豪族である蘇我宗家が、これほど一方的に追い詰められる事は
なかったであろう

蘇我入鹿が山背大兄王を殺害した事は、葛城皇子と中臣鎌足を
利することになっただけである
254日本@名無史さん:2005/12/30(金) 21:12:33
アメ・タリシヒコということは、
天皇家の姓は“アメ”(天?)だったということ?
255日本@名無史さん:2006/01/02(月) 18:10:50
256日本@名無史さん:2006/01/02(月) 18:22:02
アメ族というからには、海を渡ってきた、ヤマトの土着とは異なる氏族と思われる
257日本@名無史さん:2006/01/11(水) 09:56:12
その時点では海人族の単独外交だったのかもね
258日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:14:34
謎3:聖徳太子は14人の子だくさん
259日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:40:25
聖徳太子は、九州婦朝の王だって事で確定してたんではないの?
260日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:48:44
聖徳太子なんかいなかったって事で確定したんじゃないの?
261日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:49:54
>>259
どこで確定したの?
262日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:51:16
後に聖徳太子と呼ばれるようになった厩戸皇子は存在した
263山口県人:2006/01/12(木) 23:28:26
ほっほ〜 そういうもんかの。うむうむ
264日本@名無史さん:2006/01/15(日) 14:48:58
>>254
厳密に言うと、律令制導入前夜のこの時期、まだ“天皇家”は存在しないんだけどね。
7世紀後半に畿内王権が日本になり、ほぼ同時に王は天皇になった。
律令制が確立していく過程で「氏名(うじな)・姓を天皇が与える」かたちができて、
天皇は自らの姓を喪失したと思われる。
喪失した姓は“天(あま・あめ)”か“倭”ではないか、と言われているね。そこらへんの事情は、
岩波書店刊の日本の社会史第6巻「社会的諸集団」内の“古代社会における「ウヂ」”(吉田孝 著)に詳しい。

もちろん、天皇記・国記にはその姓が記されていただろうね。
265日本@名無史さん:2006/01/16(月) 01:47:28
入鹿邸跡から何か出てきたらいいな
近いし、探しにいってみようかな
266日本@名無史さん:2006/01/17(火) 17:08:46
>>264
>王は天皇になった。
王じゃなくて大王でしょ?
267日本@名無史さん:2006/01/24(火) 23:09:51
>>264
逆なんじゃね?
古い時代ほど姓のない人物が多いじゃない
大王家が覇権を確立するなかでまわりの氏族に姓を与えて氏姓制度ができてきた
268日本@名無史さん:2006/01/26(木) 01:14:45
大王に姓はなかった。
天とか倭は対外的なもの
269日本@名無史さん:2006/01/26(木) 08:29:37
>268
正解
270日本@名無史さん:2006/02/03(金) 02:04:05
>>267-269
正解
271日本@名無史さん:2006/02/04(土) 23:18:02
白髪部王とか葛城王など聖徳太子の子孫は、山背大兄王がなくなる前に死んでしまったのだろうか
生きていれば皇位継承にからむ存在なはずだが
272日本@名無史さん:2006/02/05(日) 12:18:48
山背大兄王は存在しなかった。
単に蘇我氏を大悪党に仕立て上げるために創作された架空の人物でした。
273日本@名無史さん:2006/02/10(金) 13:01:06
maintenance
274日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:13:55
>>271
厩戸皇子系全て、山背大兄王とともに自害されたのでは?
蘇我入鹿は厩戸皇子の権威を一掃したかったんだろう。
厩戸皇子と蘇我馬子(あるいは蝦夷)が共同参画した数々
の政策について、入鹿の代あたりになると「だけどさぁ、
それは厩戸皇子あってこその素晴らしいマツリゴトなのさ」
と他の豪族がホザけるような状況に一時期なってたんじゃ
なかろうか。
「このままでは蘇我一族の権威が落ちる。俺様も仕切りに
くくなる。」という危機感が、強引政策、そして孤立化へ
の引き金になった、といえるし、厩戸皇子系の王族の排除
の原因となった。
こう解釈すると、「山背大兄王が蘇我入鹿にせめられ、自
害なされました。」の記述をもって、白髪部王・葛城王も
ともに、蘇我軍が邸を取り巻き、その圧力によって自害さ
れたと読み取れる。
275日本@名無史さん:2006/02/13(月) 00:09:02
だとしたら蘇我入鹿は父親である蝦夷の言う通りの大馬鹿モノだな
上宮王家とは言わば蘇我系皇族集団、その上宮王家が滅びれば
蘇我系皇族は古人大兄皇子だけになるからな

葛城皇子と中臣鎌足にとって、これほど都合が良い事はない罠
自らの手を汚さずとも、皇位継承の最大のライバルだった山背大兄王が
消えてくれた訳だからな
276日本@名無史さん:2006/02/13(月) 00:26:29
だとすると上宮王家は刀自古娘の子供だけではなく、白髪部王や長谷部王など異母兄弟も含めた巨大な皇族集団だったと考えられる。
壬生や私部を合わせるとその勢力自体あなどれなくなるし、敏達系皇族も蘇我本宗もその経済力を恐れ、あるいは狙っていたのかも
277日本@名無史さん:2006/02/13(月) 00:50:08
>>271
聖徳太子の子や孫は上宮王家滅亡の時に全て自害したと
上宮聖徳法王帝説や上宮聖徳太子伝補闕記に記述されているから
橘女王(尾張皇子の娘で推古天皇の孫)が産んだ白髪部王や手嶋女王も
その時に一緒に自害した可能性が高い
278日本@名無史さん:2006/02/13(月) 00:57:33
>>276
斑鳩宮と法隆寺を保有していたのだから
上宮王家は財力に恵まれていたと考えられる
もし貧乏皇族だったら、斑鳩宮や法隆寺を
維持していくのは無理だったと思われ
279日本@名無史さん:2006/02/13(月) 10:28:23
身分だけで言えば橘女王の方が蘇我刀自古より上だし
父親同士も尾張皇子の方が蘇我馬子より上だけど
実際の実力は馬子の方が上だから、橘女王が産んだ
白髪部王ではなく、刀自古が産んだ山背大兄王が
厩戸皇子の後継者として上宮王家の総帥になったと思われ

聖徳太子関連の史料でも、白髪部王ではなく山背大兄王が
厩戸皇子の後継者として扱われている
280日本@名無史さん:2006/02/19(日) 06:35:21
中1の時の歴史のテストで、聖徳太子の「し」の字がどうしても思い出せませんでした。
テストの後、教科書で確認したときの脱力感はいまでも忘れられません。
281日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:30:12
maintenance
282日本@名無史さん:2006/03/15(水) 21:07:55
斑鳩宮に異母関係の兄弟とその妃が一緒に住んでいたというのは
当時としてはかなり珍しいことだったのだろう
283日本@名無史さん:2006/03/15(水) 22:36:31
異母兄弟・姉妹は一緒に住まないと言うが普通だね

だから斑鳩宮に聖徳太子の子や孫が一緒に住んでいたと言うのは
かなり異例な状態と言って良い

そして斑鳩宮に厩戸皇子の子や孫が全て一緒に住んでいたから
その全員が自殺した事で、厩戸皇子の血を受け継いだ者は全滅した

したがって厩戸皇子の子孫は存在しない
284日本@名無史さん:2006/03/15(水) 23:10:40
同母兄弟・姉妹でも成人すれば一緒に住まない
それなのに上宮王家は全員が斑鳩宮に住んでいた

斑鳩宮と斑鳩寺(法隆寺)を所持していた上宮王家は
天皇家や蘇我宗家に劣らない財力を有し、それを分割せず
上宮王家として一括管理し、その上宮王家の頂点に
立っていたのが山背大兄王

それが可能だったのは、山背大兄王と春米女王の婚姻
この二人は異母兄妹の関係であり、また夫婦でもあった
285日本@名無史さん:2006/03/16(木) 08:53:00
上宮王家ちゅうのは蘇我宗家のことだよ
286日本@名無史さん:2006/03/17(金) 07:58:10
はぁ?とんでもデンパでも受信したんですかw
上宮王家とは、厩戸皇子の子や孫たちの皇族集団を指す用語です
287日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:07:14
そういう説があるのさ
しらべてごらん
288日本@名無史さん:2006/03/17(金) 19:42:29
そんなくだらない説は調べる気も起きない
史料に基づかない珍説やデンパ説など問題外で
歴史学の対象外だわな

日本書紀より成立が古い「上宮聖徳法王帝説」が
上宮王家=厩戸皇子の子や孫達という根拠

上宮聖徳法王帝説より古い史料で、上宮王家=蘇我宗家と
記述している史料があれば、その史料の名を提示してもらいたい
まあ無理だろうけどw
289日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:18:11
>>284
さらに山背の秦一族が動けばとてつもない経済力を動員できた可能性がある
波乱の芽を摘む入鹿の判断は正しかったといえようが、
謀略を用いず自ら前面に出てしまったことで、敏達系の思う壺にはまった
290日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:51:55
蘇我系は皇極朝において3系統に分裂していたと思われる

1、蘇我宗家(蘇我入鹿は馬子の孫)
2、蘇我倉家(倉山田石川麻呂は馬子の孫)
3、上宮王家(山背大兄王は馬子の孫)

この3家は、最初に上宮王家が滅び、次ぎに蘇我宗家が滅び
最後に、蘇我倉家の石川麻呂とその子や孫が、葛城皇子に
謀叛の疑いを掛けられて山田寺で自殺

これで用明皇統に連なる皇族および蘇我氏は、事実上その影響力を失い
実権は完全に敏達系皇統に連なる皇族および、中臣氏(藤原氏)が握った
291日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:45:22
最初に滅んだのは蘇我境部家

蘇我倉赤兄が近江朝まで影響力を残しましたが
292日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:12:32
蘇我赤兄は・・・
まあ娘を天智と天武の両者に嫁がせて
それなりに頑張ってはいたが
中臣(藤原)鎌足が生きていた間は
鎌足に及ばず、鎌足の死後、左大臣に
任じられたものの、壬申の乱で敗北し
解任・流刑の上、その没年も不詳
293日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:23:58
蘇我家蹉跌の始まりは、推古天皇の意向に沿う形で蘇我蝦夷が
田村王の即位を支持した事だな

ここで推古の意向に反してでも、馬子の孫である山背大兄王を
即位させていれば、蘇我宗家と上宮王家の滅亡はなかったと思われる

蝦夷の父である馬子が推古天皇の皇太子に
押坂彦人大兄皇子(田村王の父)ではなく
厩戸皇子(山背大兄王の父)を
立太子させたのと比べると弱気だわな

指摘されている蘇我境部家は、山背大兄王即位支持
蘇我倉家は中立、したがって蘇我宗家が上宮王家の
山背大兄王即位で動けば、蘇我系諸家が対立する事は
無かったと思われる
294日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:48:33
何の所伝によっているのか不勉強で申し訳ないが、
蝦夷は田村王に娘を入れているという説があるようだ
男子誕生を期待して田村支持に回った可能性もあるな
295日本@名無史さん:2006/03/18(土) 14:23:30
>蝦夷は田村王に娘を入れている
手杯娘かね? 一代要記や帝王編年記に見える。
296日本@名無史さん:2006/03/18(土) 14:26:22
wikiから転載
> 日本書紀が記す以上の皇子女の他、帝王編年記・本朝皇胤紹運録などに
> 布敷皇女(母は法提郎女)・押坂錦向皇女(母は粟田臣鈴子の女・香櫛娘)
> ・箭田皇女(母は蘇我蝦夷の女・手杯娘)の名を伝えるが、所拠不明である。
297日本@名無史さん:2006/03/18(土) 16:19:35
蝦夷は天皇の外祖父になる事を目指して
娘婿である田村王の即位を支持したのか?
しかし皇女しか誕生せずにその当てが外れた
その時点で敏達系皇統とは縁を切るべきだった

山背大兄王(用明系皇統)と古人大兄皇子(敏達系皇統)は
両者とも馬子の外孫で蝦夷にとっては甥だから、血縁的には差がない

そして敏達系皇統に連なる古人大兄に拘るより、用明皇統に連なる
山背大兄王を即位させる事が、蘇我宗家にとってベストの選択だった
298日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:56:25
この時代は天皇の外祖父が存命していることは珍しかったわけで
天皇の外戚になるためには皇位継承権のある皇子すべてに女子を入れないと確実にならない

しかも天皇になる頃には立派な成人なので、崇峻のように反目してしまうこともある
299日本@名無史さん:2006/03/19(日) 20:44:29
山背大兄王は日本書紀を読む限りでは、叔父である蘇我蝦夷と
対立する気が全然なかったように思われる

間違っても崇峻天皇と蘇我馬子みたいな険悪な関係になるとは
思えないから、蝦夷は山背大兄を即位させるべきだった
300日本@名無史さん:2006/03/19(日) 22:51:50
上宮王家と息長系王家、境部家と本宗家(さらには倉家)、
個々の対立と政局の流れが山背王と蝦夷を分かったのであろう
301日本@名無史さん:2006/03/20(月) 13:08:10
蘇我境部家は上宮王家派
蘇我倉家は中立
蘇我宗家が上宮王家につけば
敏達系皇統ではなく用明系皇統が
皇位を独占出来たはず

しかし現実に皇位を独占したのは
敏達系皇統であり、用明系皇統は
上宮王家の滅亡と共に皇位継承の
チャンスを失った
302日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:48:12
上宮王家は斑鳩宮に移ってから、中央から次第に孤立しつつあったのでは?
舒明即位前紀には群臣の離反を恐れ、皇嗣をひとりで決められない
弱気な蝦夷の姿が描かれている。
303日本@名無史さん:2006/03/21(火) 00:30:35
上宮王家は孤立していない。法隆寺資財帳を見る限り、斑鳩宮の
経済基盤は推古(額田部など)や蘇我氏に依存している面がある。

当時、皇嗣は大夫の合議によって決定されていた。
蝦夷と言えども、一人で決められないのは当然。
304日本@名無史さん:2006/03/21(火) 11:58:51
田村王支持、大伴氏、采女氏、中臣氏、高向氏、難波氏
山背大兄王支持、許勢(巨勢)氏、佐伯氏、紀氏、蘇我境部摩理勢(境部家)
中立、蘇我倉麻呂(倉家)

阿倍麻呂は、蘇我蝦夷の意向通り

これを見ると上宮王家が孤立しているとは思えない
許勢氏(巨勢氏)、佐伯氏、紀氏と言った名門氏族は
山背大兄の即位を支持しているし、蘇我氏境部家も山背大兄支持

蘇我倉麻呂(倉家)や阿倍麻呂は、蝦夷の決定には従うから
蝦夷が山背大兄王即位と決意すれば、それで決まったはず

この時の蝦夷の判断ミスが、敏達系皇統の皇位独占を許し
蘇我境部家、上宮王家、蘇我宗家、蘇我倉家の滅亡へと
繋がったと思われる
305日本@名無史さん:2006/03/21(火) 12:28:03
同族高向氏や蘇我の「忠犬」大伴氏だって蝦夷がこうと決めれば
したがっていたはず。なぜ「判断ミス」なのか? そこまで蝦夷はアフォな政治家だったのか?
田村王を推した理由が見つからないが
306日本@名無史さん:2006/03/21(火) 13:08:00
息長を恐れたから
307日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:07:10
やはりそうか。上宮王家滅亡も、乙巳のクーデターも、壬申の乱も
すべてウラで糸を引いていたのは息長だったのか!
息長足日広額天皇の擁立に蘇我氏といえども逆らえなかった
308日本@名無史さん:2006/03/22(水) 00:29:26
ソースきぼん
309日本@名無史さん:2006/03/22(水) 10:54:17
>>305
箭田皇女の母は蘇我蝦夷の娘である手杯娘である可能性があるらしい
そこで蝦夷は将来天皇の外祖父になる事を狙って、甥の山背大兄王ではなく
娘婿の田村王の即位を望んだとも言われている

しかし宝女王(皇后、舒明の孫)や田眼皇女(妃、敏達皇女)が、田村王に嫁して
いたから、例え手杯娘が皇子を産んでも、天皇家の嫡子になれたとは
思えない

山背大兄王も母は皇族ではなく馬子の娘である刀自古郎女だったが
しかし山背大兄王は、橘女王の子である白髪部王を押さえて上宮王家の
嫡子として自他ともに認められていた

しかし天皇家において、もし手杯娘が皇子を産んだとしても
皇后所生の葛城皇子や大海人皇子を差し置いて嫡子となるのは
無理であったと思われる
もし蝦夷が天皇の外祖父になりたくて、田村王の即位を決めたのなら
それは読みが甘いとしか言い様がない
310日本@名無史さん:2006/03/22(水) 11:02:23
息長氏にそれ程の力があったとは思えない
やはり中臣氏の力が働いていたように思われる
左・右大臣や御史大夫(後の大納言)と言った
議政官に、大化の改心以降も、息長氏からは誰も任官していない
それに引き換え中臣氏は、内臣(内大臣)に中臣鎌足、右大臣に
中臣金が任官している
311日本@名無史さん:2006/03/22(水) 14:45:28
>>309
この当時は大兄制だから、嫡子という概念はないでしょう
312日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:01:56
>>311
当時も嫡子という概念は存在していたと思われる
何故ならば用明天皇の長子は田目皇子(母は蘇我石寸名)

しかし用明天皇の嫡子は間人皇后所生の第一皇子である
厩戸皇子

しかもどの史料にも、厩戸大兄皇子という記述はないから
厩戸皇子が大兄だったと言う史実は確認出来ない
313日本@名無史さん:2006/03/22(水) 22:43:56
用明天皇の長子は当麻皇子。次子が厩戸皇子。
当麻皇子は生母が葛城直氏だから、皇位継承第一位は用明の子では厩戸皇子になる。
まあ、先帝が死ぬまで皇位は動かないし、兄弟相承もある時代。
崇峻みたいに12番目の子にまわってくることもあるし
嫡子というのがあっても、皇位はある意味、時の運だな
314日本@名無史さん:2006/03/22(水) 22:45:16
>>313
お前が出世しないのは時の運ではなく実力だ。
315日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:38:26
>>313
上宮聖徳法王帝説によると田目王は、聖王(厩戸皇子)の
庶兄と記述されているから、田目皇子は厩戸皇子より年上

上宮聖徳法王帝説は、日本書紀編纂以前に著述された聖徳太子の
伝記だから、その史料価値は日本書紀より高いと言うのが古代史の通説

したがって、厩戸皇子は田目皇子より年下
それに間人皇后も、用明天皇の死後に義理の息子で甥でもある
田目皇子と再婚して、佐富女王を産んでいるが、自分の息子より
若い相手と再婚したとは思えない

用明天皇と田目皇子は親子、つまり間人皇后は親と子の両方の
子供を産んだ事になる(俗に言う逆親子丼)

推古天皇が政治に生きた女性だとしたら、母違いの妹である間人皇后は
性の業に己を燃焼し尽くした女性だと言える
316日本@名無史さん:2006/03/25(土) 12:59:17
大兄は単なる皇族内の長老ぐらいの意味じゃねーか?
後からまとめた史料で読むから何人もいるけど
同時期には一人しかいなかったんじゃないかと。
317日本@名無史さん:2006/03/25(土) 17:10:11
山背大兄王は推古天皇にお前は
まだ若くて未熟だと言われてたけど大兄だぞ

それに対して田村皇子(田村王)は大兄と記述されてない
皇族内の長老が大兄と呼ばれるのなら、山背大兄王ではなく
田村大兄皇子(田村大兄王)と呼ばれるべきだろう

したがって大兄に、皇族内の長老という意味はないと思われる
あと日本書紀の田村皇子という記述は明らかに文飾
田村皇子は押坂彦人大兄皇子の長子で、敏達天皇の孫だから
本来は皇子ではなく王である
318日本@名無史さん:2006/03/26(日) 00:38:29
大兄は必ず名前の一部としてしか表記されない。
「大兄になった」とか「大兄に任じられた」などという記述は一つもない。
皇太子に先行する形態としての「大兄制」を唱える学者もいるが
制度と呼べるほどのものではないと思うな。
319日本@名無史さん:2006/03/26(日) 01:45:12
大兄は名前の一部ではないだろう
中大兄皇子の本名は葛城皇子だからな
大兄とはやはり有力皇族の為の用語だろう
320日本@名無史さん:2006/03/26(日) 02:30:47
では山背大兄王はいつ「大兄」になり、
大兄になったにもかかわらず大兄でない田村王が即位したのか?
厩戸皇子は「皇太子」にもかかわらず大兄と一度もよばれなかったのか?
「大兄」の持つことばの意味に、われわれが必要以上にとらわれすぎてはいないか?
321日本@名無史さん:2006/03/27(月) 21:30:05
押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子で、広姫皇后所生の第一皇子)
山背大兄王(聖徳太子の長子で、上宮王家の総帥、蘇我馬子の外孫)
古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子で、蘇我馬子の外孫)
中大兄皇子(敏達天皇の皇子で、宝皇后所生の第一皇子)

上記から見て、大兄と呼ばれた皇族は有力皇族であったと思われる
322316:2006/03/27(月) 23:22:19
>>317
おいおいおい、おまえのいってることは矛盾してないか?
本来は王なのに書紀の文飾で皇子になってるというのはいいとしよう。
それなら大兄だって、生涯にわたって大兄だったわけではないのに
一時期そう称された記録を無頓着に原史料に使ったために
機械的に大兄と書かれてるだけかも知れないじゃないか。

>>318-321には特に反論はない。大枠で賛成すらできるかも。
>>320は質問なげかけてるだけなので賛成も反論もない。
323日本@名無史さん:2006/03/28(火) 01:20:49
>>318
大兄から大王に即位出来たのは中大兄王子だけだから
大兄が王太子の先行形態というのは確かに疑問ありだな

しかし大兄と呼ばれた皇族が王后所生の第一王子か
(押坂彦人大兄王子と中大兄王子)

または蘇我馬子の外孫である事から
(山背大兄王と古人大兄王子)

有力王族に対する名称だったと思われる

極論を言えば、大兄と呼ばれる王族とは
王后所生の第一王子か、蘇我氏の外孫の中の
年長者に限られていたのかも知れない

この説の弱点は、糠田部王后の第一王子の竹田王子や
間人王后の第一王子の厩戸王子が、大兄と記述されてないこと
324日本@名無史さん:2006/03/28(火) 21:24:50
>この説の弱点は、糠田部王后の第一王子の竹田王子や
>間人王后の第一王子の厩戸王子が、大兄と記述されてないこと

だから第一王子がどうのとか蘇我がどうのとか
有力かどうかとかは関係ないんだよ。

その時々の年長の皇族が一時的に称されただけだろう。
325日本@名無史さん:2006/03/29(水) 20:05:05
敏達〜元明までの大王(天皇)に関して言えば、母は王(皇)族か蘇我氏

敏達:母は王族
用明:母は蘇我氏
崇峻:母は蘇我氏
推古:母は蘇我氏
舒明:母は王族
皇極(斉明):母は王族
孝徳:母は王族
天智:母は王族
天武:母は王族
持統:母は蘇我氏
文武:母は王族
元明:母は蘇我氏
文武:母は王族

そして大兄と呼ばれた王族もまた(押坂彦人大兄王子〜中大兄王子)
王族か蘇我氏を母に持つ者だけ

押坂彦人大兄王子:母は王族
山背大兄王:母は蘇我氏
古人大兄王子:母は蘇我氏
中大兄王子:母は蘇我氏

したがって、大兄はその時々の年長王族への敬称ではなく
大王位(皇位)を継承する資格を持つ王族への敬称だと思われる
326日本@名無史さん:2006/03/29(水) 22:25:36
>>325
中大兄王子:母は蘇我氏×
中大兄王子:母は王族○
327日本@名無史さん:2006/03/29(水) 22:30:19
>>325
その天皇の一覧の中に
大兄とついてない天皇がやたらいるのはどういうわけだ?

やはり大兄は単純にその時に生きてる中で最年長の意味だろう。
328日本@名無史さん:2006/03/30(木) 03:42:54
>やはり大兄は単純にその時に生きてる中で最年長の意味だろう。

軽王も大兄だったの?
329日本@名無史さん:2006/03/30(木) 12:20:34
>>328
軽皇子は大兄ではない
単純に年長者を大兄と言うなら、古人大兄や中大兄より年長の
皇族は居た

例えば皇極・斉明天皇の皇子である漢皇子は、中大兄皇子より
年上だが大兄ではない
330日本@名無史さん:2006/03/30(木) 12:23:19
山背大兄王が死んだ後、軽皇子が大兄と呼ばれず
古人皇子が大兄と呼ばれているから

>単純にその時に生きてる中で最年長の意味だろう

と言う解釈は完全に破綻している
331日本@名無史さん:2006/03/30(木) 12:28:56
やはり大兄は皇位継承権がある皇族に対する敬称だと思われる
しかし様々な要因で、押坂彦人大兄皇子、山背大兄王、古人大兄皇子の
3人は即位出来なかったと思われる

そして中大兄皇子だけが即位出来て天智天皇になった
332日本@名無史さん:2006/03/30(木) 13:14:03
>やはり大兄は皇位継承権がある皇族に対する敬称だと思われる

この意見に賛成。ただしそれは同母関係の長子に限られていたのであろう
これなら大兄以外の皇族が即位していることも説明はつく
333日本@名無史さん:2006/03/30(木) 21:23:18
じゃなんで天皇なのに「大兄」がついてない人物がやたらいるんだ?
継承権云々だって破綻してるじゃんよ。
334日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:18:38
継承権のある皇族は大兄以外にもいっぱいいたのさ
大兄はあくまで敬称で、即位を約束された地位ではない
それは舒明即位前紀の記述が物語っている
335日本@名無史さん:2006/03/31(金) 15:51:30
血統で言えば、田村王の方が山背大兄より上だった

田村王:父は押坂彦人大兄皇子(敏達皇子)、母は糠手姫皇女(敏達皇女)
山背大兄王:父は厩戸皇子(用明皇子)、母は蘇我刀自古(馬子の娘)

両親とも皇族だった田村王に対して、蘇我腹の山背大兄王が
対抗馬足り得たのは、山背が大兄だったからだと思われる
336日本@名無史さん:2006/03/31(金) 16:00:37
血統もだが当時でも学問に秀でるとか人格の優劣差が
判断基準のひとつになったと思われる。
それらが議論に抜け落ちてるしわからない部分でもある
337日本@名無史さん:2006/03/31(金) 21:08:39
彦人、厩戸、竹田を押し退けて、大兄でもない蘇我腹の五男坊泊瀬部皇子が即位するんだからな
そりぁ血統以外の政治的要素はあっただろう
338日本@名無史さん:2006/03/31(金) 23:58:47
崇峻天皇は馬子によっては厩戸皇子が成長するまでの中継ぎだろう
まあ馬子の誤算は崇仏派の用明天皇が余りにも早く死んだこと

そこで用明の嫡子である厩戸皇子が成人するまでは
馬子としては崇峻に皇位を預けたような気持ちだったが
崇峻が自分がお飾りの天皇である事に不満を感じたのか
金村失脚以来落ち目だった大伴氏辺りと組んで馬子に
逆らってきたから、あっさりと崇峻を弑逆した

ここで馬子は厩戸皇子の即位を目指したと思われるが
しかし額田部皇后としては、我子の竹田皇子を即位させたいから
厩戸と竹田がバッティングして、その結果は額田部の即位と
厩戸の立太子という結果になったと思われる

額田部としては自分が天皇になった事で、竹田即位の目を残し
馬子としては、厩戸を皇太子にした事で厩戸即位の既定路線が
実現した

つまり推古天皇と厩戸皇太子と言う路線は、額田部と馬子の妥協の
産物だったと思われる
339日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:16:12
額田部もまさかこんなに自分が長生きするとはおもわなかったろう。
厩戸、竹田、さらには馬子にまで先立たれてしまったんだから。
340日本@名無史さん:2006/04/06(木) 17:08:00
「大兄とは何か」の答えは>>334-337を読む限りだと、
少なくとも「皇位継承権者」説には反証だらけなので
その意味ではないことはわかる。
しかし「年長者」説への反証は>>334-337内にはない。
341日本@名無史さん:2006/04/06(木) 21:54:12
皇極朝のときの大派皇子はそうとうな年長者だったと思われ
342日本@名無史さん:2006/04/07(金) 00:48:55
舒明紀には大派「王」と記されるので、世代からすれば、敏達天皇の孫の「大俣王」の
可能性も否めない。 おそらく、何れの原史料にも「大俣王」とあったため、編者自身既に
「大派皇子」と「大俣王」の区別を付けがたく、この態度が表記の揺れを生んだのだろう。
343日本@名無史さん:2006/04/07(金) 01:43:37
ほほぅ
344日本@名無史さん:2006/04/07(金) 11:06:45
漢皇子は中大兄皇子の同母の兄なのに、漢大兄皇子とは呼ばれていない
345日本@名無史さん:2006/04/07(金) 11:22:16
押坂彦人大兄皇子(敏達天皇と広姫皇后の第一皇子)
山背大兄王(聖徳太子の長子)
古人大兄皇子(舒明天皇の長子)
中大兄皇子(舒明天皇と宝皇后の第一皇子)

この四人の大兄を見てみると、単なる年長者ではなく
大兄とは、やはり有力皇族に対する敬称であったと思われる

用明天皇と間人皇后の第一皇子である厩戸皇子や
敏達天皇と額田部皇后の第一皇子である竹田皇子が
大兄と呼ばれなかったのは、押坂彦人大兄皇子が居たから
だと思われる

押坂彦人大兄皇子の長子である田村皇子(舒明天皇)が
大兄と呼ばれなかったのは、厩戸皇太子の長子である山背大兄王が
先に大兄と敬称された為だと思われる

少なくとも、崇峻朝から斉明朝までの間に、大兄はたった4人しか
居なかったのだから、単なる長老皇族への敬称だとは思えない

崇峻天皇
推古天皇
舒明天皇
皇極天皇
孝徳天皇
斉明天皇(皇極の重祚)

天皇は、六朝五人に対して大兄は四人、大兄の方が天皇よりも希少
346日本@名無史さん:2006/04/07(金) 14:26:54
彦人以降古人まで誰も即位できず
葛城皇子も斉明崩御後もかなりの間即位できなかった

用明天皇が呪いでもかけたのか?
347日本@名無史さん:2006/04/07(金) 14:37:22
箭田珠勝大兄皇子の呪いです
348日本@名無史さん:2006/04/07(金) 20:44:28
>箭田珠勝大兄皇子

欽明天皇と石姫皇后の第一皇子で、この人が欽明十三年に
死亡しなければ、敏達天皇ではなく、箭田珠勝大兄皇子が当然
皇位を継承していたろうな

石姫皇后所生の第一皇子である箭田珠勝大兄皇子の死亡で
第ニ皇子である渟倉太珠敷皇子が欽明十五年に立太子して
その後即位し漢風諡号は敏達

大兄と呼ばれた皇族が殆ど即位出来なかったのは
確かに箭田珠勝大兄皇子の呪いなのかも知れない…
349日本@名無史さん:2006/04/09(日) 21:14:22
>>344
なぜ葛城皇子が「中大兄」と呼ばれたのか
実は不思議にずっと思っていた
なぜなら「古人」「中」は対応関係にある言葉と思っていたから
しかしこれだと大市、葛城、大海人の順になり、
大兄でない大海人が入るのはしっくりこない

で、あなたのレスを見てひらめいたのが、漢皇子の存在だ
彼は同母関係にありながら、男帝の子ではない特殊な存在で
大兄にはなれず、
葛城は、漢と大海人の間であって同母中の長兄ではないが
舒明と皇后との長男だから大兄と呼ばれ「中大兄」となったと

素人の大胆な想像だがどうだろう

350日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:46:23
大兄と呼ばれる前に夭折した皇子もいたんじゃないか?
351日本@名無史さん:2006/04/11(火) 11:05:09
用明天皇と間人皇后の第一皇子である厩戸皇子や
敏達天皇と額田部皇后の第一皇子である竹田皇子が
大兄と呼ばれなかったのは、彼らが天皇の長子であっても
皇族の一族の中では押坂彦人大兄皇子という年長者が
すでに居たから。

押坂彦人大兄皇子の長子である田村皇子(舒明天皇)が
大兄と呼ばれなかったのは、田村皇子が押坂彦人大兄皇子の長子
ではあっても、厩戸皇太子の長子である山背大兄王の方が
皇族の一族の中では年長者であって先に大兄と敬称された為。

つまり大兄というのは皇族の年長者の意味と解して問題ない。
352日本@名無史さん:2006/04/11(火) 12:14:46
>>351
古人大兄や中大兄はどう説明するのです?
353日本@名無史さん:2006/04/11(火) 14:12:08
うむ、古人大市皇子よりは軽王の方が年長者だったと思われる
354日本@名無史さん:2006/04/11(火) 19:14:27
>>352
中大兄は「次男」を「仲」と称するがごとく、「第二の大兄」の意味。

>>353
ソースは?
355352:2006/04/11(火) 21:38:20
>>354
>中大兄は「次男」を「仲」と称するがごとく、「第二の大兄」の意味。
いや、だからなんで二人目(二番目)の大兄が存在したのかと。
当時の中大兄はおそらく20台前半くらいで、かなり若いですよね。


356日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:44:22
>>354
353じゃないが、神皇正統記に載せる年齢が信用
出来れば、軽は田村よりやや若いくらいかと思う。
~~~~~~~~~~
357日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:38:18
まあ天武没年問題はおいとくとすれば
田村王と軽王を神皇正統記基準で比較して
古人よりは年長者と
358日本@名無史さん:2006/04/12(水) 11:13:40
>>355
そういやなんで、葛城皇子は中大兄皇子となるのでしょう。葛城大兄皇子じゃなくて。
359日本@名無史さん:2006/04/12(水) 15:54:30
小林敏男「古代女帝の時代」(校倉書房)の説によると
大兄は結果的に年長者が多くなったり
結果的に皇位継承有力者に本人がなるというだけで
本来は政治に参画して天皇(または最高執政者)を補佐する
「輔政者」ということらしい。
もともと天皇の兄弟・伯父叔父・甥などが輔政者となる傾向があり
それを継体朝において明確に立てたのが句大兄皇子(安閑)で
これが大兄制の始まり。
360日本@名無史さん:2006/04/12(水) 16:03:40
>>355,>>358
その当時すでに古人大兄皇子がいたんだけど
蘇我滅亡で蘇我系の古人大兄は失脚状態に。
一方、蘇我誅滅の功で葛城皇子が実権を握った
(か、少なくとも有力な地位に上った)。
古人大兄は失脚しただけで罪もないのに殺すわけにはいかないから
そのまま放置。よって大兄の座が空かない。
そこで葛城皇子は中大兄(第2の大兄)と称された。

しかしこの大化改新で「大兄」制自体が形骸化してしまったので
「中大兄」は葛城皇子の個人的な称号か別名のようになってしまい
これ以後「大兄」は自然消滅して「皇太子制」に移行。
361日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:52:03
厳密な意味においては、孝徳天皇(軽王)が
古人大兄皇子より年上という史料はない

孝徳は597年生まれとされているけど
これは生物学的にあり得ない

孝徳は、舒明天皇の弟の、茅渟王の子だから
舒明の甥に当るが、伯父の舒明(田村王)が593年生まれ

したがって伯父と甥の年齢差が4歳というのは無理だろう

昔の日本史辞典では、孝徳天皇の生年を597年としていたけど
最近の日本史辞典では、孝徳天皇の生年は不詳になっている

生年が不詳なのは天武天皇だけではない、孝徳天皇の生年も
実は不詳
362日本@名無史さん:2006/04/13(木) 23:23:18
それをいえば舒明天皇の生年も?マークがついていることが多い
天武天皇までは各天皇の年令にエビデンスがはっきりしてるわけではない
363日本@名無史さん:2006/04/14(金) 04:49:12
>生物学的にあり得ない
>伯父と甥の年齢差が4歳というのは無理だろう

その論拠はないだろう。例えば、葛野王と施基親王は
ほぼ同齢だし、葛井親王は甥の阿保親王より8歳も下。

古代史では生没年不詳の人物も多いから、生物学的に
云々されても、説得力を持たないことがある。 とは言え、
高安王が天武の曾孫だろうが、小野永見が毛野の子だ
ろうがお構いなしな博士論文には、流石に(´・ω・`)した。
364日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:27:22
系図研究の底の浅さだな

>舒明天皇の弟の、茅渟王
これを是とすると、舒明の母・糠手姫が
100数歳以上生きてる計算になるがな。
こっちの方が生物学的に?じゃないの。
365日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:56:50
本朝皇胤紹運録という中世の史料によると
舒明天皇(田村王)と、宝女王(皇極・斉明)&軽(孝徳天皇)の
父である茅渟王は異母兄弟

舒明の母は指摘とおり、糠手姫皇女(敏達皇女)だけど
茅渟王の母は、大俣王の娘あるいは漢王の娘と記述されている

そして大俣王の父である、難波皇子は敏達天皇の皇子で
田村王の父である押坂彦人大兄皇子とは母違いの弟にあたる

また漢王(皇子)の父である高向王は、用明天皇の孫

茅渟王の母が大俣王の娘か?漢王の娘か?一体どちらなのか
不明の状態
366日本@名無史さん:2006/04/15(土) 01:34:51
茅渟王の母は、漢王の「妹」の大俣(女)王。
中世の紹運録じゃなくて、古事記を読みなさい。

>日子人太子(中略)
>娶漢王之妹、大俣王、生御子、
>智奴王。
>次妹桑田王。【二柱】・・・

もちろん、漢王と漢皇子(母が斉明天皇)、大俣
女王と大俣王(父が難波皇子)はそれぞれ別人。
367日本@名無史さん:2006/04/15(土) 09:37:49
古事記はなぁ・・・
推古天皇の没年齢を37歳と記述しているトンデモ史料だから
基本的に俺は信用していない

日本書紀は推古天皇の没年齢を75歳と記述
本朝皇胤紹運録は73歳と記述

それと比べると古事記の没年齢37歳記述は論外w
368日本@名無史さん:2006/04/15(土) 09:56:29
わぁ、俺の勘違いだった・・・
37歳というのは没年齢ではなく治世が37歳ってことなのね
古事記をトンデモ史料と決めつけた事は撤回します
369日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:10:33
( ゚Д゚)ポカーン
370日本@名無史さん:2006/04/15(土) 19:50:50
記紀は数少ない貴重な史料ではあるが
為政者の歴史書だ
疑ってかかる気持ちが大事だよな
371日本@名無史さん:2006/04/15(土) 23:38:41
書紀のなかではなぜか粛正にあった人物で内面の記述に差がある。

叛意のあったとされる人物
有間皇子、穴穂部皇子、
叛意のなかったとされる人物
山背大兄王、蘇我倉山田石川麻呂、
不明
古人大兄皇子、蘇我入鹿
372日本@名無史さん :2006/04/16(日) 00:12:40
蘇我氏は、百済一辺倒の外交を展開していた。
実際、600年頃の任那出兵も主導している。

ただ、秦氏や吉士氏を窓口としている対新羅外交も展開されていた。
新羅から、「くじゃく」を贈られているくらいだ。
戦後にも、新羅から使者が数度派遣されている。
推古天皇時代に、蘇我氏の百済外交と張り合っていた権力者がいたと考えられる。
それが聖徳太子だろう。聖徳太子は実在した。
373日本@名無史さん:2006/04/16(日) 09:32:31
厩戸皇子は高句麗のスパイ
374日本@名無史さん:2006/05/12(金) 13:32:48
>>372
キリストなんかと同じで、色んな伝説や事例を寄せ集められた人物象が聖徳太子だろう。
そういう権力者はおそらく居ただろうけど、それが厩戸皇子で有ったってのは
ただの妄想。
聖徳太子の人物像にそういった業績が取り入れられても居ないから、
2つの意味で、意味の無い考察。
375日本@名無史さん:2006/05/14(日) 11:51:59
実在した厩戸皇子に、色々な伝説が後付けされたんだろう
厩戸皇子自体を架空というのは、史料的に見て無理あり杉

神武天皇、倭健命(日本武尊)、神功皇后等は架空の人物だけど
後に聖徳太子と呼ばれるようになった厩戸皇子は、諸史料の
記述から実在した人物である
376日本@名無史さん:2006/05/20(土) 18:31:18
どこまでが真実?
377日本@名無史さん:2006/05/21(日) 10:21:14
日本書紀より古い史料である、上宮聖徳法王帝説の記述は
基本的には史実だと思われる
378日本@名無史さん:2006/05/22(月) 00:06:00
>>377
書物の名称からして、著者の目に(仏教などの面から)バイアス掛かってる感じがしますが。
”基本的に史実”とまでは断言できないのでは。
379日本@名無史さん:2006/05/22(月) 17:25:14
確かに「上宮聖徳法王帝説」と言う書名は、かなり派手ではあるが
その成立時期は、日本書紀の編纂時期より古く、日本で最初と言える
個人の伝記である

そしてまた、聖徳太子研究における代表的史料の一つでもある
380日本@名無史さん:2006/05/22(月) 17:38:54
「上宮聖徳法王帝説」は、7世紀(601〜700)という
聖徳太子(574〜622)が生存していた頃の史料に
基づいて編纂されたモノである。

仏教的なバイアスは否定出来ないが、聖徳太子と同時代性の
史料に基づいていると言う、史料価値の高さを誇っている

従って、上宮聖徳法王帝説の記述は、基本的に史実だと言える。
381日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:05:56
蘇我善徳=聖徳太子では?
382日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:53:16
は?
383日本@名無史さん:2006/05/23(火) 02:08:37
>>381
それはあり得ない

山背(山代)大兄王は厩戸皇子と蘇我刀自古の子供だからこそ
大兄王なのである

山背(山代)が、蘇我善徳と蘇我刀自古の子供なら、皇族ではないから
大兄王という名乗りは許されないので、蘇我山背(山代)となる

しかし蘇我山背(山代)という人物は歴史上、存在しない
従って、蘇我善徳と厩戸皇子(聖徳太子)は別人である
384日本@名無史さん:2006/05/23(火) 02:28:27
それと確か、蘇我善徳は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)の
関係者であって、厩戸皇子(聖徳太子)が建立した斑鳩寺(法隆寺)とは
関係が無い人物

蘇我善徳が、斑鳩寺(法隆寺)と関係が無い以上、斑鳩寺を建立した
聖徳太子とは、蘇我善徳ではなく厩戸皇子である

つまり結論は、
聖徳太子=厩戸皇子○
聖徳太子=蘇我善徳×
となる
385日本@名無史さん:2006/05/23(火) 04:58:48
聖徳太子虚構説ってのがあるんだよ
藤原不比等らが創作した架空の存在という
近場ではWikipediaにちょっと出ている。
おれは虚構説とここで言われているような
史実の両面から聖徳太子を見ている。
386日本@名無史さん:2006/05/23(火) 11:00:18
聖徳太子(厩戸皇子)には、建立した斑鳩寺(若草伽藍)と
居住していた斑鳩宮があるから虚構説は成り立たない

もし聖徳太子(厩戸皇子)が虚構の存在なら、斑鳩寺を建立し
斑鳩宮を築いた人物とは一体誰なのでしょうか?

また、聖徳太子(厩戸皇子)が虚構の存在なら、山代大兄王を
初めとする聖徳太子の子供達の父親は、一体誰なのでしょうか?

・斑鳩寺(若草伽藍)
・斑鳩宮
・上宮聖徳法王帝説
・天寿国繍帳図
・上宮王家(太子の子と孫達)

上記が、聖徳太子(厩戸皇子)の実在を明確に証明している
387日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:47:33
聖徳太子虚構説は完全なるヨタ話。
388日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:14:11
んだんだ
389日本@名無史さん:2006/05/24(水) 06:33:32
滅亡した蘇我の象徴が聖徳太子
390日本@名無史さん:2006/05/24(水) 10:41:43
上宮王家は、皇族の中で最も蘇我氏の血を受け継いだ王家
したがって、上宮王家は蘇我氏の権威の象徴と言える

蘇我氏の権力の象徴は蘇我宗家
蘇我氏の権威の象徴が上宮王家
391日本@名無史さん:2006/05/24(水) 14:27:01
現実主義的な蝦夷は、超俗的権威より世俗的権威を選んだ
そして上宮王家は皇位から見離された
392日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:26:46
上宮王家と言う権威を失い、剥き出しの権力となった蘇我宗家は
上宮王家滅亡から僅か2年で滅亡した

これは正に自業自得であり、馬子と比べて、蝦夷・入鹿親子の
無能ぶりを端的に示している
393日本@名無史さん:2006/05/24(水) 17:35:47
蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害しようが、崇峻天皇を弑逆しようが
蘇我宗家はビクともしなかった

それは馬子が聖徳太子(厩戸皇子)と言う玉を握っていたおかげ

その玉である聖徳太子の子・孫たち(上宮王家)を砕いた
蝦夷・入鹿親子は、自らの愚行の2年後に滅亡

古人大兄皇子では、玉にはならないのに、それが玉となると
勘違いした、蝦夷・入鹿親子は大馬鹿者w
394日本@名無史さん:2006/05/25(木) 11:00:06
正史の立場からしか考えないのは間違いだ。
政権中枢が蘇我から藤原に入れ替わった時期にあたるわけだから
蘇我が悪く描かれるのはしかたがない
聖人太子が多くの事跡を成したように言わるが
実際には中枢に居たブレーンが仕事をしたはずだ。
蘇我と太子は2重構造だ
395日本@名無史さん:2006/05/25(木) 11:40:37
天智が今の皇統に繋がらなければ
蘇我氏の評価も高かったはず
396日本@名無史さん:2006/05/25(木) 11:55:08
天武は天智の死後クーデターを起こしたわけだが
妻の持統が天智の娘だったことが正史と皇統に
藤原系の傾きを生じた原因だと思っている。
天武系は現天皇家の祭祀の対象になっていないと
きくがこれにも何かあると感じている
397日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:32:11
>>394
しかし蘇我馬子が崇峻天皇を弑逆しても蘇我宗家が磐石だった事と
蘇我入鹿が上宮王家を滅亡させた2年後に蘇我宗家自体が滅亡した
のは史実である

つまり、蘇我宗家にとっての重要度は聖徳太子(上宮王家)>崇峻天皇である

したがって、蘇我宗家にとって大切な上宮王家を滅ぼした入鹿は
祖父の馬子と比較して愚か者と断定出来る
398日本@名無史さん:2006/05/25(木) 18:34:30
>>396
現在の天皇家は天武の皇統とは血統的に断絶してるから
祭祀の対象にならないのは当然の事でわ
399日本@名無史さん:2006/05/26(金) 00:54:58
>>397
NHKでやってたが入鹿が上宮王家を襲撃させたのは天智の母、
皇極天皇の命だったと、そしてそれに加担していたのが後の天皇
孝徳じゃないかとかね。
入鹿も極悪人じゃなかったと思うがね
400日本@名無史さん:2006/05/26(金) 01:05:15
>>398
他人だから祀らないというわけかw
天皇のスタイルと権威をここまで高めたのは天武の業績
万世一系の皇統というならひっくるめて祭祀の対象にすべきだと思うが
血統的に断絶というが天智と天武は兄弟ということになっている
実は違うんじゃないかという説もある
われわれとは異なる特殊な家系だから想像しかねる部分もあるな
401399:2006/05/26(金) 01:13:32
>>399
訂正

入鹿が上宮王家を襲撃させたのは
じゃなく
入鹿が上宮王家を襲撃したのは

あるいは
入鹿に上宮王家を襲撃させたのは
です
402日本@名無史さん:2006/05/26(金) 10:35:10
蝦夷邸は「上の宮門」"うえのみかど"と呼ばれていた。
蝦夷邸は消失、上宮王家の斑鳩宮も消失
奇妙な一致
403日本@名無史さん:2006/05/26(金) 15:22:16
斑鳩宮は斑鳩にあった

現在の法隆寺の、夢殿が建てられてる
周辺が、焼失した斑鳩宮の所在地

それに対して蝦夷邸があったのは飛鳥
斑鳩と飛鳥、所在地が全然違いますね
404日本@名無史さん:2006/05/27(土) 16:07:22
乙巳の変の異常さを考えると、蝦夷が自らの家に火を放ったとみるより
襲撃されたのではないかと考えるほうが自然だ。
馬子と太子が編纂した天皇記、国記が同時に焼けたとすることで
次の為政者は都合のよい史書を記述するのが容易になった
405日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:23:47
我宗家の滅亡は、山代大兄王を天皇に即位させなかったと言う
蘇我蝦夷の愚かな判断がもたらした当然の結果

山代大兄王が天皇に即位していれば、軽皇子や葛城皇子などは
皇統に全く縁のない皇族となり、とても蘇我宗家を滅亡させる事など
出来なかったと言える

崇峻天皇を弑逆し、額田部皇女(皇后)を天皇に、厩戸皇子を
皇太子にする事で、蘇我宗家をも磐石にした馬子と比較すると
蝦夷の政治的センスの無さが際立つ
406日本@名無史さん :2006/05/28(日) 18:55:58
>>405
山背王兄王が即位しても軽皇子や葛城皇子が皇統に
全く縁がなくなるなってことはなかったはずだ。
縁と皇位が遠くなるにしても直近の天皇が近親者であるし
さかのぼれば欽明天皇に繋がる。一夫多妻だからな
継体などは応神の五世孫なんていう遠縁だ。
407日本@名無史さん:2006/05/28(日) 19:49:21
山代大兄王が即位させ、皇后に舂米女王、皇太子を難波王にすれば
敏達系皇族(軽や葛城)が皇位に就く可能性はなくなったと言える

馬子は崇峻を弑逆した後、額田部皇后を天皇に即位させ、厩戸皇子を
皇太子にする事で、押坂彦人大兄皇子(舒明の父、天智・天武の祖父)が
皇位に就く可能性を完全に封じた

同じ事を蝦夷も出来るチャンスがあったのに、それをしなかった蝦夷は
政治家としては馬子の足元にも及ばない人物
408日本@名無史さん:2006/05/28(日) 20:00:40
仏教に余り熱心ではなかった敏達天皇の嫡子である押坂彦人大兄皇子を
排除し、崇仏派だった用明天皇の嫡子である厩戸皇子を、皇太子として
押し立てる事が馬子の基本戦略だった

しかし蝦夷は馬子が排除した、押坂彦人大兄皇子の長子である田村皇子を
即位させ、厩戸皇子の長子である山代大兄王を退けたという馬子とは
正反対の事を行った事が、結局は蘇我宗家の滅亡へと繋がったのである
409日本@名無史さん:2006/05/29(月) 12:32:48
ここまで蘇我をコケにするとは。。藤原系の方ですか?
鎌足は百済の帰化人と言う説があるのをご存知ですか?
高野新笠を母にもつ桓武が天皇になれたのも藤原の陰謀
桓武はかなりの書物を焚書したというし。。
というオレも藤原の血が流れている。。かもしれないw
410日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:24:50
電波を真に受けてどうする。
411日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:30:23
はぁ、上宮王家のスレで、山代大兄王を即位させなかった
蘇我蝦夷を批判し、上宮王家を滅亡させた入鹿を批判すると
電波扱いなるのですかw

それと俺はアンチ蘇我氏ではありません
蘇我稲目と蘇我馬子は高く評価していますし
用明系皇統(蘇我系皇族集団)の支持者です

むしろ蘇我宗家滅亡の原因を作り出した、蝦夷・入鹿親子を
擁護する人の方が、親蘇我氏を装った、親敏達系皇統+親藤原氏だと
認識しております
412日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:37:20
変な論拠だ

藤原は歴史をねじ曲げた
だから好かん
413日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:21:54
俺も藤原氏は嫌いだけどな
馬鹿な入鹿を唆した軽皇子の黒幕は鎌足だろうからな
入鹿は馬鹿だから、軽皇子なんぞと共に上宮王家を滅ぼし
2年後には自分が滅ぼされて、そのあと軽皇子が天皇に即位し
鎌足は内臣に任官した
414日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:29:24
蝦夷が山代大兄王を即位させていれば、用明系皇族が皇統の
本流となり敏達系皇族は傍流になったろうから、軽、葛城
鎌足なんぞは、歴史の表舞台には立てなかった罠
415日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:38:03
因みに中臣氏(後の藤原氏)は、物部守屋と組んで排仏派だった
(まあ中臣氏は神祇系を司る氏族だから当然だが)

また山代大兄王の即位に反対した、4氏族の中にも中臣氏は入っていた
(他の3氏族は、大伴氏、采女氏、難波氏)

*山代大兄王即位を支持したのは、許勢氏、佐伯氏、紀氏の3氏族

つまり中臣氏は、崇仏派および上宮王家の宿敵と言う訳だ
416日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:45:40
訂正

田村皇子即位派は、大伴氏、高向氏、采女氏、中臣氏、難波氏の5氏族
山代大兄王即位派は、許勢氏、佐伯氏、紀氏の3氏族

蘇我氏は、蘇我宗家がやや田村派、蘇我境部家が山代派、蘇我倉家は中立と
分裂状態

阿倍氏は蘇我宗家の意向に従い、それ以外の氏族の動向は不明
417日本@名無史さん:2006/05/30(火) 01:46:56
>>282-284
へぇ〜当時の社会制度上ありえなかったことをしていたわけですか。
創作があったとするほうが真実な気もしますが。

>>303
>>282-284によると他者に依存するまでもなく経済基盤は潤沢だったようですぜ。

>>304
高向氏って用明系の王子(宝女王の前夫高向王)を養育してたよね。

>>366
漢王って何者?
418日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:30:07
聖徳太子や上宮王家が架空の存在なら

斑鳩宮を築いたのは誰ですか?
斑鳩寺を建立したのは誰ですか?
斑鳩寺の本尊である、釈迦三尊像は、誰が作らせたのですか?
天寿国繍帳は、誰の為に作らせたモノですか?

聖徳太子や上宮王家には、その実在を示す物的な証拠があるから
架空説は成り立ちませんよ
419日本@名無史さん:2006/05/30(火) 21:06:03
厩戸皇子は実在ですが、聖徳太子は宗教上の伝説の人物ですよ。
厩戸皇子がどういう政治的な役割を担っていたかは実際の所良く解ってませんし、
これからも解明される事は無いでしょう。
つまり、聖徳太子に関しては誰が何を言っても言った者勝ち。
420日本@名無史さん:2006/05/31(水) 01:20:12
この人(>>340)は>>327-330を無視して、それでも本人は議論してるつもりなのかな。
この人(>>386)も厩戸に各種伝承を仮託させたのが太子じゃないかって議論の流れに、わざと太子(厩戸)なんて書いてミスリードしてる。
この人(>>418)も典型的なミスリード。

>>403
ん?
>>402の論旨が上宮=地名だってんならその反論もアリだが
飛鳥にあった蝦夷邸は上の宮門(うえのみかど)と呼ばれてて、それと連携していた上宮王家は斑鳩に宮(邸宅)があった。
でも双方滅亡しましたとさってことだろ?
421日本@名無史さん:2006/06/01(木) 00:21:57
>>417
>上宮王家は全員が斑鳩宮に住んでいた
誤解を生む表現。実際には斑鳩宮近くの
飽波宮・中宮・岡本宮にも分住していた。
422日本@名無史さん:2006/06/01(木) 18:01:38
厩戸皇子=聖徳太子
厩戸皇子以外の人物を聖徳太子とする史料はない
423日本@名無史さん:2006/06/01(木) 18:16:58
ただ厩戸皇子(王子)のことは、聖徳太子と呼ぶより、上宮聖徳法王と
呼んだ方が良いかもね

厩戸皇子(王子)の、伝記の題名は「上宮聖徳法王帝説」だからね

一般に聖徳太子と呼ばれているのは、日本書紀に
厩戸皇子が推古天皇の皇太子に、立太子したと記述されて
いるからであろう

しかし厳密に言えば、推古朝において天皇や皇太子という用語が
用いられたかどうかは不明だし

だから正確には、厩戸王子=上宮聖徳法王かな
424日本@名無史さん:2006/06/01(木) 21:23:47
額田部大王(神祇面担当)
厩戸法王(仏教面+政治面担当)
大臣蘇我馬子(政治面担当)
のトロイカ体制
425日本@名無史さん:2006/06/01(木) 21:50:16
うむ
426日本@名無史さん:2006/06/02(金) 15:36:24
蘇我善徳
ttp://homepage2.nifty.com/tokyufubai/a/soga.htm

筋の通った矛盾の少ない説だ
427日本@名無史さん:2006/06/02(金) 17:38:29
はぁ?単なる電波に過ぎませんがw

簡単に言ってしまえば、厩戸法王の業績を
蘇我善徳に剽窃した与太話しに杉ない

蘇我善徳に関しては、元興寺縁起の記述通り
馬子の息子で、元興寺(法興寺・飛鳥寺)の責任者

それとその電波が、山代大兄王にかなりの敵対心が
ある事が分かって面白かったw
428日本@名無史さん:2006/06/02(金) 17:48:51
誰も史書でしか論じられないというところが問題なんだな
正史は主流になった者の視点から書かれ改竄されている
危険は当然ある。
複数ある数少ない書物の中の矛盾点から実際はこうでは
無いかと論じるのはロマンとしては楽しい。

それと山背を山代と書くのは山代側から書くおまいくらい
ではないか?
429日本@名無史さん:2006/06/02(金) 17:57:46
蘇我蝦夷・入鹿親子に肩入れする連中は、基本的に山代大兄王が大嫌い

蝦夷が山代大兄王を退けて田村王を大王にしたのは正しかった
入鹿が上宮王家を滅ぼしたのは正しかった

その上、この二つの出来事が、蘇我宗家を滅亡させる原因になった事に
ついては否定し、あくまでも正しい行動だったと強弁する連中
430日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:05:39
日本書紀より古い史料である、上宮聖徳法王帝説では
山代大兄王と記述されている

したがって、正確には山背大兄王ではなく山代大兄王である

名前は正確を期したいので、日本書紀の山背大兄王は使わず
山代大兄王と記述する事にしている
431日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:03:42
厩戸王が有力王族であった事は、斑鳩寺(法隆寺)を建立した事で
証明可能

それとも電波くんの脳内では、斑鳩寺(法隆寺)を建立したのも
蘇我善徳と言う事になっているのかなw
432日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:26:08
>>430
補足

「上宮聖徳法王帝説」の編纂は、平安初期と言われているが
編纂された史料自体は、7世紀(601〜700)のモノであり
厩戸王(574〜622)や山代大兄王(?〜643)と同時代の史料である
433日本@名無史さん:2006/06/03(土) 00:17:14
当時は百済滅亡の危機の状況にあったのである
百済王族、貴族がなんらかの形で我が国に関わっていると考えられる
天智天皇が危険を冒してまで肩入れしていることからもわかる。
百済系にしてみれば蘇我も、上宮王家も邪魔者であったに違いない
434日本@名無史さん:2006/06/03(土) 00:54:38
上宮記には「山尻王」と書いてあるわけだが
435日本@名無史さん:2006/06/03(土) 08:17:47
上宮記より、上宮聖徳法王帝説の方が史料価値が高い
436日本@名無史さん:2006/06/03(土) 08:43:27
まず、上宮記の引用元である「聖徳太子平氏伝雑勘文」が
どれだけ正確な史料なのか不明

その上、国語学者である沖森卓也氏の研究によると、万葉仮名表記では
「止」の方が「等」より古い音系(古音系)に属すると述べている

厩戸王と菩岐々美郎女の間で生まれた女王の一人に関して
法王帝説では、波“止”利女王と記述し、雑勘文を引用した
上宮記には、波“等”利女王と記述されている

つまり、万葉仮名の古音系表記で記述している帝説の方が
雑勘文を引用した上宮記より、古い時代の史料によって編纂された事が
分かる

したがって、帝説の山代大兄王という表記が正しく、雑勘文を引用した
上宮記の山尻王という記述は誤りである
437日本@名無史さん:2006/06/03(土) 08:57:13
山代大兄王(上宮聖徳法王帝説、上宮聖徳太子伝補闕記)
山背大兄王(日本書紀、本朝皇胤紹運録など)
山尻王(「聖徳太子平氏伝雑勘文」引用上宮記)
438日本@名無史さん:2006/06/03(土) 15:58:46
訂正

まず、上宮記の引用元である「聖徳太子平氏伝雑勘文」が
どれだけ正確な史料なのか不明×

まず、「聖徳太子平氏伝雑勘文」の引用元である上宮記が
どれだけ正確な史料なのか不明○
439日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:08:46
やましろ国は、古く山代と呼ばれ、山背国となり、後に山城国となった

つまり日本書紀の山背大兄王と、法王帝説の山代大兄王という
記述の差は、その元となった史料の古さの違いから来るものであろう

法王帝説の方が、日本書紀が利用した史料より、古い史料によって
編纂された事実が、山代大兄王と山背大兄王との記述の違いから
浮び上がってくるのである
440日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:21:07
必死だなw

普通の現代人は山背と書く

神格化、聖人化されたされた人についての書物がいかに
いかがわしいかということがわからんようだな。
日本書紀も神代から連なるように書いていることで歴史書
としての風格をかなり欠いてしまっている。
441日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:24:00
必死なのは、蝦夷&入鹿贔屓の電波くんの方でしょうw

まぁ厩戸王&山代大兄王親子と比べると、蝦夷&入鹿親子は最低だから
厩戸王や山代大兄王の名望を、少しでも貶めたくなる気持ちは分かるがね

蝦夷は凡庸な人物で、入鹿は軽王、葛城王、鎌足に嵌められた大馬鹿者

この最低親子の為に、稲目&馬子親子が築き上げた蘇我系王族と
蘇我氏の共存共栄は崩れ去った

この親子の行動が、蘇我境部家滅亡させ、蘇我倉山田家離反させ
最終的には蘇我宗家滅亡へと言う、蘇我氏にとって最悪の結果を招いた

また用明(蘇我)系王族である上宮王家の絶滅させた為に、
大王位は完全に敏達(非蘇我)系王族に独占されてしまった

結局、蝦夷&入鹿の大馬鹿親子の愚かな行動の為に
稲目&馬子親子が営々として築き上げた全てが砕け散った
442日本@名無史さん:2006/06/04(日) 00:20:13
結局、蘇我氏滅亡の原因は、蝦夷が蘇我系の山代大兄王ではなく
非蘇我系の田村王を大王に即位させてしまったことにある

馬子は大臣として、橘豊日大王、泊瀬部大王、額田部大王と3人の
大王即位に関与しているが、この3人の共通点は、蘇我稲目の娘で
馬子の姉妹を母に持つ点である

つまり馬子は蘇我腹の王族を大王にする事を、大王即位の理念としていた
そして額田部大王没後は、蘇我刀自古を母に持つ山代大兄王を
蘇我腹の王族として大王に即位させる事が、馬子の理念を引き継ぐ事であった

しかし愚かにも蝦夷は、馬子の理念を理解していなかったのか、非蘇我腹である
田村王を大王として即位させてしまった
父である馬子の大王即位の理念を理解できない。凡庸な蝦夷が蘇我宗家の
代表となった事が、既に645年の蘇我宗家滅亡を暗示していたと言えよう
443日本@名無史さん:2006/06/04(日) 07:45:48
藤原君、同じことを何度も書くなよ
正史そのままじゃないか、誰でも知っている
444日本@名無史さん:2006/06/04(日) 09:07:34
藤原氏の前身である中臣氏こそ、蘇我氏と上宮王家の最大の敵
それに気づかずに滅んで言った蝦夷・入鹿親子の無能ぶりには
呆れ果てる

中臣勝海(物部守屋と共に排仏を主張)
中臣弥気(山代大兄王即位に反対し、田村王即位を支持)
中臣塩屋枚夫(上宮王家絶滅謀議に参加)
445日本@名無史さん:2006/06/04(日) 09:09:12
大山誠一の恣意的な史料操作は、
446日本@名無史さん:2006/06/04(日) 09:20:51
大山誠一の恣意的な史料操作は、長屋王の生年・没年齢論の頃から
変ってないが、それにますます拍車が掛かったわな

特に天寿国繍帳を作らさせたのは光明皇后という解釈には
思わず吹き出してしまった

日本書紀に登場してないとの理由で、位奈部橘(女)王を架空の
人物と決めつけたのには呆れたよ
柿本人麻呂も続日本紀に登場していないが、大山誠一の論法だと
これまた架空の人物になってしまう
447日本@名無史さん:2006/06/04(日) 09:37:47
柿本人麻呂は続日本紀だけでなく、日本書紀にも記述が無かったわな
これでは大山理論だと、人麻呂は誰かが作り出した架空の歌人に
なってしまうわな
448日本@名無史さん:2006/06/04(日) 21:13:08
聖徳太子っていうのは吉四六とかと同じ世界の人の名前だろ。
実在の一休宗純の話をする時に、テレビの一休さんの話をそのまま功績として
引用する奴は居ない。
「聖徳太子(厩戸皇子)」みたいな書き方をする奴は、釣師か知障だな。
449日本@名無史さん:2006/06/05(月) 01:49:08
正史を語るだけなら"。。謎"なんてスレにしないよな
それなら教科書読んでればいい
正史の立場からしか語れない人のことを藤原君て
呼んでもいいよね。不比等くんがいいかな?
450日本@名無史さん:2006/06/05(月) 02:45:04
俺は所謂正史(日本書紀)より、上宮聖徳法王帝説を支持する立場だよ

だから厩戸王の没年日も、書紀より帝説の記述を信用している
また、書紀には記述がない位奈部橘女王も、実在をしていると
確信している(天寿国繍帳が実在の証拠)

つまり上宮王家に関する記述は帝説>書紀という見解さ

それが理解出来たかい、藤原(中臣)電波くんw
451日本@名無史さん:2006/06/05(月) 02:49:37
上宮聖徳法王帝説のどこが謎か述べよ
452日本@名無史さん:2006/06/05(月) 02:56:36
聖徳太子を作り出したのは、大山電波説の藤原不比等ではなく
斑鳩寺を建立した厩戸王の遺徳を偲ぶ、斑鳩寺の僧侶達と言うのが
俺の見解だわな

なお、上宮聖徳法王帝説を編纂するに当って、使用された法隆寺系史料が
日本書紀成立以降に捏造されたと言う大山電波説は、仏教伝来に関して
538年とする点で、帝説と元興寺縁起が一致している点からあり得ない

また帝説の漢字表記は、明らかに書紀の漢字表記より古い表記だから
帝説編纂に用いられた史料は、書紀編纂に用いられた史料より古い
453日本@名無史さん:2006/06/05(月) 03:14:51
>>451
・編纂時期が、完全に確定されていない(平安初期〜中期か?)
・基本的には厩戸王の伝記ではあるが、その構造自体が非常に
 錯綜して統一性を欠き、単純に厩戸王の伝記とは言い難い側面が
 ある(厩戸王や上宮王家に直接関係のない記述も多い)
454日本@名無史さん:2006/06/05(月) 03:35:28
>>453
451です。
フォローありがとうございます。
支持力説するにはイマイチ信頼性に欠けるってことかな。

この国の黎明期の真実が知りたい。
455日本@名無史さん:2006/06/05(月) 03:38:18
>>451
上宮聖徳法王帝説の最大の謎は、元興寺縁起と共に
欽明大王の治天下(治世)を41年とし、安閑・宣化朝を
認めていない点

したがって、安閑・宣化朝を認めている書紀とは紀年が大きく異なる
なぜ帝説や元興寺縁起が、安閑・宣化朝の存在を否定しているのか不明
456日本@名無史さん:2006/06/05(月) 03:45:21
この書紀と帝説・元興寺縁起との食い違いから、安閑・宣化朝と
欽明朝のニ朝並立説や、九州王朝説などが提唱されている
457日本@名無史さん:2006/06/05(月) 14:34:15
入鹿が襲ったにしても、上宮王家に支持が集まらず
逆に群臣たちが襲撃にしたがったその大義名分はなんだったのか?
書紀にはなにも書かれていない。
458日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:17:30
・氏族の多くが敏達系王族を、用明系王族より正統と考えていたか?
・田村大王および宝大王の治天下の時代に、上宮王家の支持層が
 切り崩されたか?(許勢(巨勢)氏の離反)

459日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:20:19
・蘇我入鹿
・蘇我蝦夷
・軽王
・巨勢徳陀古
・大伴馬養
・中臣塩屋枚夫

上宮王家滅亡を謀議した6人のうち、中臣氏と大伴氏は
山代大兄王の即位にも反対した、筋金入りの反上宮王家派
460日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:29:12
入鹿暗殺後、蘇我宗家に味方する有力氏族は無く蝦夷は
屋敷を焼いて自害し

蘇我倉山田家も右大臣石川麻呂が謀叛の疑いが掛けられ
倉山田家に味方する有力氏族はなく、石川麻呂親は自害

上宮王家、蘇我宗家、蘇我倉山田家と相次いで滅亡し
蘇我氏は弱体化した

恐るべしは中臣(藤原)鎌足
各個撃破で、飛鳥最大の氏族である蘇我氏を弱体化させた
461日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:58:52
秦造や膳臣が動かなかったのは謎だな
462日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:57:36
軽王が滅亡謀議に参加してるって事は、姉の宝大王も了承しての
ことだろう
大王が了承しているのなら、膳氏や秦氏も表立って上宮王家側に
付くのは難しいだろう

本当に上宮王家を滅ぼしたかったのは、敏達系王族と中臣氏
蘇我宗家は古人大兄王の即位を出汁にされた

しかし宝大王にとって、本当に大事なのは軽王や息子の葛城王

宝が古人大兄に大王位を譲るとは思えないから、蝦夷や入鹿が
上宮王家が滅べば、古人大兄を大王に即位させられると考えて
いたのなら、余りにも思慮が足りなかったと言う事だ
463日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:20:41
鎌足は百済王子の扶余豊璋と同一人物だという説がある。
これが本当なら外戚という方法により倭国王家の乗っ取りが
徐々に行われていったのである、
だから史書改竄を行う必要があった。
464日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:28:35
日本書紀は反蘇我史観で記述されているが、用明+蘇我系王族である
上宮王家をもっとも危険視していたのは、敏達系王族と中臣氏だろう

梅原氏の仮説とおり、上宮王家滅亡の主犯は敏達系王族と
中臣(後の藤原)氏であり、蘇我宗家は古人大兄王の大王即位を
出汁に、敏達系王族や中臣鎌足(藤原鎌足)に利用されて
しまったのであろう

そして、日本書紀では上宮王家を滅亡させた主犯は、蘇我宗家と
捏造されてしまった訳だ
465日本@名無史さん:2006/06/06(火) 00:20:48
軽皇子(軽王)の権力がどれくらいだったか(皇位継承の有資格者だったか)で
話が変わってくるのでは。

葛城皇子は当時の慣例からするとちょっと即位するには若すぎないですか?
それなら皇極が退位すれば古人大兄皇子が自動的に即位出来る可能性が高い。
軽皇子がライバルになれる立場ならそうはならないでしょうけど。

そういや当時の王と皇子って厳密な区分あるんですかね?
天皇の子供ではないから王、だけど姉が皇妃・天皇になったんで皇子に格上げって感じ?
466日本@名無史さん:2006/06/06(火) 09:16:28
敏達系王族の中で、唯一蘇我馬子の外孫だった古人大兄王
しかし、その血筋ゆえに敏達系王族の中では孤立した存在

皇極大王としては、実の子である葛城王が大王に即位出来る
年齢に達する間は、自分が即位し続けるか、あるいは同父母
弟である軽王に、中継ぎとして大王位を譲るというオプションがあった
467日本@名無史さん:2006/06/06(火) 09:34:44
>>465
当時、皇子という用語は公式には使われていなかった
天皇や皇子という用語が公式に採用されたのは
おそらく天武朝になってからであろう

だから、それ以前は、大王の子や孫は王と呼ばれていた
但し、皇という表記自体は、推古朝当時から非公式には
使われていたらしい

*推古朝時代の金石文や銘文等に皇という表記がある

そして、王族の中の有力者から大王が選ばれ
臣系氏族の中の有力者から大臣が選ばれ
連系氏族の中の有力者から大連が選ばれた
但し、大連は物部守屋戦死以降、選ばれる事は無くなった
468日本@名無史さん:2006/06/06(火) 12:48:17
>>466
生前譲位をオプションとして持っていたかどうかは不明
譲位は宝姫大王が初例と考えるのが通説だから
もっとも大陸帰りの連中が譲位という考えを吹き込んでいた可能性もある
469日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:10:46
そういえば山背王をさしおいて宝姫が即位したことについての
議論はほとんどみたことがないな。蝦夷の愚昧さは田村を即位させたことでなく
宝姫を皇位につけたことのほうが重くないか?
470日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:57:59
宝の即位は、時期大王を古人、
山背、中大兄のいずれにするかでもめて
結局決まらなかったからだろうと聞いた。
つまり、蝦夷には他の豪族を抑えて
自分が推す大王候補(古人)を即位させるだけの
力がもうなかったんだよね。
471日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:55:21
もうなかったというか、蝦夷にしてみればその三人の中ならば
誰が天皇になっても抑えながらやっていけるという自信があったんじゃないかな。
だから、廷臣たちの好きなようにさせて勢力図をみたり、
時々一方に肩入れして反応みたり、いろいろしてたんじゃないか?
472日本@名無史さん:2006/06/18(日) 19:27:55
蝦夷・入鹿親子に、そんな余裕があったら
上宮王家を滅ぼす愚行は犯さないだろう

山代大兄王と上宮王家が存在する限り
古人大兄王の大王即位はおぼつかないと
軽王や中臣鎌足に煽られて、上宮王家を
滅ぼしてしまったと言うのが事の真相だろう

その結果、蘇我倉山田家に離反されて
蘇我宗家も、上宮王家滅亡の2年後に滅亡した
473日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:21:35
上宮高校はその名残か?
474日本@名無史さん:2006/06/30(金) 01:09:55
太子にも校舎が有るから連想するね、やっぱり。
475日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:53:32
そうなんだ?
476日本@名無史さん:2006/07/08(土) 18:29:06
もし20で即位しても30年近く在位することになるからその間ポストの
持ち回りができんからだろう。ある程度聖徳太子に年齢重ねさせて今から即位
させても寿命であと十年ちょっとの在位かなというタイミングで譲位して
死んだら次って具合にどんどんまわしていくつもりだったんでないか?
477日本@名無史さん:2006/07/09(日) 19:11:31
>>473-435
大阪の有力私学、上宮高校の本校は、馬宿王子ゆかりの「四天王寺」がある
大阪市天王寺区にあります。
478日本@名無史さん:2006/07/12(水) 22:00:19
山背が人民のため戦わないと言ったというのは
書紀編者の創作
479日本@名無史さん:2006/07/19(水) 04:09:16
上宮
480日本@名無史さん:2006/07/19(水) 05:33:22
法隆寺金堂 釈迦三尊像 台座裏隠し書き
「相見兮陵面楽識心陵了時者」

「御陵の正面を互いに見なさい。仏教による識心によって願うのは
この仏ができたことでなく、供養すべき御陵が完成したときだ。
そういうことを願う者は、御陵へ行き、御陵の正面を見なさい」

「しかし、わたしたちは最新式のこんな金ぴかの仏像より、御陵
(おそらく聖徳太子の墓)の正面を拝みたい。(墓前祭祀)
そのとき、心は安らぐだろう」
481日本@名無史さん:2006/07/20(木) 22:05:48
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。

半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。

脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。

私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。

あれには本当にびっくりした。
482日本@名無史さん:2006/07/25(火) 06:39:58
>>463
それ根拠のある話?
日本の偉人を根拠も無く半島人認定するデンパ説は山程あるよ。
483日本@名無史さん:2006/07/26(水) 18:54:00
根拠というほどではないが。
@百済王子が亡命してきたあたりで急に登場する。
 ⇒百済王子の記述はなくなる。
A白村江の戦前後?の鎌足の記述がない。
 ⇒百済王子は百済復興のため遠征軍に参加している記述がある。

とかだったと思う。かすかな記憶だから間違ってるかも。
484日本@名無史さん:2006/07/26(水) 23:31:24
ほかに同時期に大職冠を与えられたのがこの二人であること
485日本@名無史さん:2006/07/27(木) 08:49:29
当時の百済王は倭人だったと
486日本@名無史さん:2006/07/27(木) 17:40:56
当時の百済王族は言語が民衆と異なっていたというが。。
487衣笠宮:2006/07/30(日) 06:51:27
>>344 :漢皇子は中大兄皇子の同母の兄なのに、漢大兄皇子とは呼ばれていない

その理由は、漢皇子は本来、天皇の子じゃないから。(父親がただの王だから)
大兄とは、天皇と配偶者の間に生まれた兄弟のなかでの長男の名乗りと思われ、
漢皇子の場合は、父親は王であり名乗る権利がないのでは。
たまたま父親が早死し、母親が舒明天皇と再婚しその後、天皇となったので、
皇子を名乗っているが父親が早死しなければ、王のままであった筈。
母親が天皇になったことによる待遇向上は、せいぜい皇子と名乗ることを
許される程度でなかったのではないか?
漢皇子が中大兄皇子に化けた可能性はあるが、基本ルールでは、上記の通り
であるのでは....

それよりも、山背大兄王が、天皇の子じゃないのに大兄を名乗っているのは何故?
他の大兄は、箭田珠勝大兄、大兄(用明)、忍坂彦人大兄、古人大兄、中大兄とすべて
天皇の子であるが。父親が皇太子の時点で大兄を名乗る風習だったのかな。
結局、大兄の名乗りは4世代ぐらいで消えてしまうのだが....
488日本@名無史さん:2006/07/30(日) 13:50:36
大海人はスメイロド
489日本@名無史さん:2006/07/31(月) 05:18:02
大兄の定義を再考察すれ
490日本@名無史さん:2006/07/31(月) 18:25:57
大きな兄さん
491日本@名無史さん:2006/07/31(月) 23:21:44
なにが
492日本@名無史さん:2006/07/31(月) 23:30:16
>>487
当時の王族の身分としては皇子・王という区別はついてない(後世の人がつけた)んじゃない?
壬申の乱スレで孝徳天皇は軽王なのか軽皇子なのかって質問からそう回答されたけど。

ついでに大兄と名乗ってない有力王族(天皇候補)の厩戸皇子や竹田皇子は?
493日本@名無史さん:2006/08/06(日) 02:37:48
>>274-275
葛城王と葛城皇子って同時代人?
葛城さんすげーな。
494衣笠宮:2006/08/09(水) 22:02:43
>>487 当時の王族の身分としては皇子・王という区別はついてない(後世の人がつけた)んじゃない?
壬申の乱スレで孝徳天皇は軽王なのか軽皇子なのかって質問からそう回答されたけど。

孝徳天皇=軽王についてのその回答は不適切と思いますよ。
孝徳天皇は幸運により天皇になったが、茅渟王の子だから軽王を名乗ってた時期が
あっても当然です。
天皇の子が皇子(親王)、皇子(親王)の子が王と呼ばれるのが通常だと思います。
例外として、一世源氏が多出した時期や世襲親王家等もありますが、
9割以上の確立でそうだと思います。
上記以外の例外:9〜13代天皇の子でたまに王を名乗っているケースあり
  日子坐王、櫛角別王、彦人之大兄王、和謌奴氣王など

>>ついでに大兄と名乗ってない有力王族(天皇候補)の厩戸皇子や竹田皇子は?

厩戸皇子や竹田皇子が大兄を名乗っていないのは、元来、天皇になる可能性が
低かったからでは?
厩戸皇子の父用明天皇は、即位2年後薨去してるし元々嫡系じゃないし
竹田皇子には異母兄の忍坂彦人大兄皇子(敏逹天皇の最初の皇后の子)がいるし...
495日本@名無史さん:2006/08/13(日) 10:31:47
う〜む・・・・
496日本@名無史さん:2006/08/14(月) 23:22:39
>>494
天皇の子が皇子(親王)、皇子(親王)の子が王と呼ばれるのが通常だと思います。
それは、後世(律令制)の話ですから。
皇子(オウジ?)と王(オウ?)という制度(身分差)が当時から存在していたとは断言できないのでは?

>厩戸皇子や竹田皇子が大兄を名乗っていないのは、元来、天皇になる可能性が
>低かったからでは?
>厩戸皇子の父用明天皇は、即位2年後薨去してるし元々嫡系じゃないし
>竹田皇子には異母兄の忍坂彦人大兄皇子(敏逹天皇の最初の皇后の子)がいるし...
推古天皇治世の後半、おそらく竹田皇子や忍坂彦人大兄皇子は厩戸皇子より早く亡くなっていると思いますけど
それでも厩戸皇子は大兄になれなかったとお考えですか?
とすると、摂政とか政権の有力者というのも史実ではなく伝説の類?
497衣笠宮:2006/08/15(火) 17:40:52
>>496
聖徳太子の父用明天皇は、太子が13歳のとき亡くなっている。
そのときは聖徳太子はまだ太子になっていない。
当時の風習として父親が死んだのちに大兄を名乗ったりすることは
ないのでは?⇒あくまで勝手な推測です。



498日本@名無史さん:2006/08/16(水) 12:51:57
箭田珠勝大兄皇子は何歳で大兄になったの?
499日本@名無史さん:2006/08/16(水) 21:52:12
>>497
>当時の風習として父親が死んだのちに大兄を名乗ったりすることは
>ないのでは?⇒あくまで勝手な推測です。
そういう論理でいったら、親父が大兄になれなかったのに、なぜ山背”大兄”なのかというのが矛盾しますけど。

あと、葛城皇子(中大兄皇子)は、親父が生きてた頃から大兄でしたっけ?
大兄と称した時期までは明確じゃないのでは?
まあ、母親が天皇ってのも同じ立場と言えるかも知れないですけど。

500日本@名無史さん:2006/08/17(木) 10:23:28
 京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、
歴代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになってい
ます。と言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、
聖徳太子の祟りを恐れて慰めるための行事だと分かります。 
 聖徳太子の正体は用命天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になりま
す。
 根拠
「日本書紀」によると、用命2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用命天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると特定できます。
なぜ、聖徳天皇の業績が残らなかったのか。聖徳天皇を暗殺した事実を隠
蔽するためなのです。645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)
は、三韓の使者の挨拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)
と中臣鎌足(新羅の武王)によって殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られ
てしまったのです。
大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてしまいました。
中大兄皇子は祖国復興のために、日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。
501日本@名無史さん:2006/08/17(木) 10:26:13
 神皇正統記(抜粋)
 継体天皇は、応神天皇の子孫という事になっているが(日本書記では)、
皇位を奪われた正統な天皇の血筋を受けた天皇で、その正統性を証明す
る古文書が「真清探桃証」なのです。しかし、この文書は孤立無援の文
書で、他のすべての文書はこれを否定しているものばかりなのです。
 444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子ですが、安康天皇の弟(嘘)の雄略
天皇が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に
魔の手が伸びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせよう
と出発した。すでに、追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一
宮へ逃れた。すると、弟の弘計王に子が生まれ、根尾で養育してもらう
ことになった。しばらくして、雄略天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏
した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の男子は絶える)は市辺押磐皇
子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億計王が皇太子になる事
が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無くなるので、先に
弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾にいた男
大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木を
植えたのが淡墨桜として残りました。
 継体天皇の孫用明天皇は欽明天皇の皇太子で、用明天皇の皇太子が聖
徳太子なのです。聖徳天皇(聖徳太子)は大化の改新で中大兄皇子(百
済王の子豊璋)らに暗殺され、日本は朝鮮人に支配される事になった。
 大阪府太子町の叡福寺は「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子の墓が石柱
で2重に結界が結ばれている。この寺は聖徳太子の怨霊封じの寺です。
羽曳野市の「中の太子」と呼ばれる野中寺の弥勒半跏像には、天智6年
に「中宮天皇」の病気平癒を願い、作ったとあります。境内の墓には鬼
追(怨霊)という姓が刻んである。この寺は高市皇太子の怨霊封じの寺
です。八尾市の大聖勝軍寺には「縁起絵巻」があって、聖徳太子などが
毒殺されたという姿が描かれていた。この寺は長屋親王の怨霊封じの寺
です。これら三太子はそれぞれ天皇になって、長屋親王は毒殺されたと
分かります。
502日本@名無史さん:2006/08/17(木) 11:09:03
サクラは、寿命は短いよ。
503日本@名無史さん:2006/08/18(金) 03:02:56
>真清探当証

これ、古史古伝の類だろうが
504日本@名無史さん:2006/08/18(金) 11:57:33
 戦争責任は人類すべての人間にあるのです
 野生の動物の世界は弱肉強食の悪法がはびこり、戦争状態である。たとえ、
百獣の王ライオンであっても、その子はハイエナに食われる。人間の世界も物
欲によって争闘し、最後には殺し合いとなる。これは人間の欲望に限りがない
からであり、ぜいたくを享楽しているためである。肉食は食欲のぜいたくの極
みであり、これを得るためには家畜を殺し、弱者を犠牲にしなければならない。
動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。これでは、人間の霊性は獣と
何ら変わることがなく、自分の子供がハイエナに食われても文句が言えない。
 人間の横暴によってすべての生物が地獄の苦しみにあえいでいる。先の大戦
の犠牲者はこうした人間の行為の償いであり、神からの啓示である。だから、
戦争責任は人間が自らの行為を反省することなく、物欲を発揮してぜいたくを
むさぼっている、人間一人一人にあるのです。
 偽科学が常識を盲信させる
 非ユダヤ人において、科学の盲目的信仰が功を奏しているようである。学校
の教科書で教えられる事がすべて正しいと信じる。こういった人々にとっては
権威ある学会が言うことのみが正しく絶対なのである。
 ユダヤ議定書(第2議定書)
 非ユダヤ人は歴史を基礎とする観察を怠り、専ら理論上の旧弊に囚われて、
その結果に対する批判的工作を忘却している。我々は新聞雑誌を利用してこの
科学理論を盲目的に信用させる。非ユダヤ人の知識階級は自己の知識を誇りと
して、科学から得た知識でものを考えようとする。その知識を論理的に吟味も
せず、その知識なるものが、人間を我々の目的の実現に向けて、教育するため
に作られた事に気がつかないのである。悪魔の世界制覇に向けて。我々の主張
を根拠なきものと思ってはいけない。我々の仕組んだところのダーウィン、マ
ルクスの教説の成功に注意なさるがよろしい。これらの教説は非ユダヤ人の心
に破壊的作用を及ぼした。ダーウィンの進化論は常識となっている。チンパン
ジーは何時になったら人間となるのか。急には進化できないから、その中間の
形態のものが存在しなくてはならない。
505日本@名無史さん:2006/08/19(土) 15:58:13
 天皇家はフリーメーソンだった
 狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。右左で阿吽の形になってい
る。
 古代のイスラエルは北王国ヨセフと南王国ユダの二つに分裂していて、ヨセ
フ王国の紋章が一角獣(ユニコーン)であり、ユダ王国の紋章が獅子である。皇
室に伝わる紋章には右に獅子が、左に一角獣(ユニコーン)が描かれ、中央には
12匹の獅子が描かれている。これはイスレエル12支族を表している。
 ヨセフ王国の10支族が中央アジアに移った。彼らは肌の色が白いことから
白狄族と呼ばれ、ヘブライ文明の高い技術力で騎馬軍団を組織して中国を制覇
し、秦帝国を築いた。秦帝国滅亡後、北魏を建国した。後に朝鮮に移って百済
王家にとって代わった。
 百済王子豊璋と新羅王武王が三韓の挨拶の時に聖徳天皇を殺害し、中大兄皇
子(百済王子豊璋)は一時難波へ逃れ、聖徳太子の子高市皇太子と孫長屋親王を
殺害して、草壁皇子にすり替わったのである。その前は中大兄皇子に化けてい
て、大化の改新の後ずっと、天皇に成れなかったのは聖徳太子の子が天皇に成
ったためで、推古、皇極天皇などの女帝は虚構で、その後に天智天皇となり、
自分の子を文武天皇にしたのある。こうして、日本はフリーメーソンの陰謀に
よって乗っ取られたのです。
506日本@名無史さん:2006/08/23(水) 00:05:17
王だけ摩り替わればそれでいいような説は無理もほどほどにせい。
家来の反乱も何もなかったということは摩り替わりがなかったということ。
皇族の系図を張り替えてる連中にも当てはまるが、家来の歴史も日本史の
一部なんだから、もっと総合的に考察しなくては。
村単位レベルの王ならありうるかも知れんが、飛鳥の朝廷だぞ?
507日本@名無史さん:2006/08/24(木) 14:44:26
>>506
 当然百済王子豊璋と新羅王武王は軍隊を率いて侵略しに来た事ぐらい当たり前であ
る。だから、祖国の百済がその隙に高句麗軍によって滅ぼさせらされた。新羅が後に
高句麗を裏切ったのは前から百済とは同盟を結んでいたからである。新羅は百済と八
百長の戦争をしていたのです。
 この時代の日本は平和国家で城壁など無く、侵略者から見れば隙だらけなのである
。聖徳太子の17条の憲法にも和の精神が唄われている。法隆寺の玉虫の厨子には捨
身図が描かれており、インドの王子が飢えた虎の親子のために崖から身を投げて虎の
食料になろうとしている絵図です。聖徳太子は無抵抗主義者なのです。
508日本@名無史さん:2006/08/24(木) 23:45:06
>>506
だから、そういうことを聞いてるんじゃなくて、蘇我や中臣はどうしたんだ?
ってこと。全然、質問に答えていない。
509日本@名無史さん:2006/08/25(金) 12:46:14
 >>508
 蘇我氏は先祖に高麗と呼ばれる人がいることから、渡来人(朝鮮人)である。
蘇我氏の悪名が広まったために藤原と改名した。中臣鎌足は後に藤原と改めて
日本の政治を牛耳った。長屋親王を無実の罪で殺したため藤原4兄弟が疫病で
死んだ。藤原氏は怨霊を恐れて法隆寺に祈願し、布施をほどこしている。
 聖徳太子は蘇我の血筋を受けている事になっているが、日本の高貴な天皇家
が朝鮮人を妻にする訳がない。。壬申の乱で中大兄皇子(豊璋)の大友皇子を殺
害した大海人皇子は竹田皇子が本名で、聖徳天皇の仇を取ったのである。
 当然百済王子豊璋と新羅王武王は軍隊を率いて侵略しに来た事ぐらい当たり
前である。だから、祖国の百済がその隙に唐軍によって滅ぼさせらされた。新
羅が後に唐を裏切ったのは前から百済とは同盟を結んでいたからである。新羅
は百済と八百長の戦争をしていたのです。
 皇太子となる者の名前は押坂彦人大兄皇子と言うように、大兄の前に4字の
漢字が付く筈である。中大兄皇子と言うような下手な命名は朝鮮人が付けたか
らである。中大兄皇子は白村江の戦いに敗れた後、九州各地に防兵堤を築いて
唐を恐れている。初めから、小国の日本が唐・新羅連合軍に勝てる筈がない。
こんな無理をした動機は祖国復興しか有り得ない。
 この時代の日本は平和国家で城壁など無く、侵略者から見れば隙だらけなの
である。聖徳太子の憲法17条にも和の精神が唄われている。法隆寺の玉虫の
厨子には捨身図が描かれており、インドの王子が飢えた虎の親子のために崖か
ら身を投げて虎の食料になろうとしている絵図です。聖徳太子は無抵抗主義者
なのです。
510日本@名無史さん:2006/08/25(金) 14:17:26
電波ゆんゆん
511日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:21:22
日本書紀に隠されていた暗号
 なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
 日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると敏達天皇が亡くなればその皇太子が天皇になる
から、用明天皇の存在が消えてしまうのである。敏達天皇と広姫皇后の皇太子
押坂彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、用明天皇と広子の長男も麻呂
古皇子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じであると言う事は入れ替わった
と言う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇子(朝鮮人)に入れ替わったの
である。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡くなったのか分からない。ま
るで聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子で、皇位
継承第1候補者で天皇になっていた。このことを隠すための嘘の女帝が推古天
皇である。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に卑しめて、天皇になれなかっ
たとするための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮人を妻とする筈がない。


512日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:24:10
朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
 日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
 大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。
 二人は天武天皇の血筋ではない。
 天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
 文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。


513日本@名無史さん:2006/08/31(木) 13:20:17
 資本主義経済は悪魔の偽りの経済だ
 資本主義経済は弱者の犠牲の上に成り立つ経済であり、ちょうど江戸時代、
武士が百姓を奴隷にして重い年貢を取り立てて、百姓の生き血をすすっていた
事と同じである。その時は生き血をすすられて犠牲になる者が大勢いたから、
経済がなりたった。今のようにぜいたくになって、犠牲になる者が農家しかい
ない状態では経済が成り立つ訳がない。それが今の不況の原因である。勝ち組
が負け組の生き血をすすっているのだ。悪魔の吸血鬼アメリカに国益を絞り取
られ、国が破産しているのにそれを借金で誤魔化している。最後には国に、金
と資産をかすめとられ、円が大暴落して、日本は物を輸入することが出来なく
なって、食料危機となり大パニックとなる。後は戦争を待つのみ。
 2・26事件はその悪魔の資本主義経済が原因で起こった
 昭和11年2月26日、青年将校率いる決起部隊が政府要人を殺害する事件
が起きた。首謀者は暗黒裁判によって裁かれ銃殺刑に処せられた。
 当時の日本は世界大恐慌の影響で経済が沈滞し、関東大震災によって発生し
た大量の不良手形が原因で銀行、企業が相次いで倒産し、民衆は金に困窮して
生活苦にあえいでいた。農村はアメリカ向け輸出生糸の暴落とそれに連動して
米価が暴落し、東北地方はそれに輪をかけて凶作にみまわれて飢餓に苦しみ、
娘の身売りなどで命の糸をつないでいた。
 民衆が塗炭の苦しみにあえいでいる原因は、政権維持にしか眼中にない政党
と、これに結託し民衆の膏血を絞る財閥と、これを擁護して圧迫する官僚と腐
敗する軍部にあり、これらの特権階級が搾取しているからである。したがって
、疲弊した農民を救うためには、税金の免除と米価の安定を図る必要がある。
その障害となる特権階級の奸賊を倒し、国民を愛する天皇の考えが行き届く国
家に建て替えようと青年将校が決起した。しかし、昭和天皇は朝鮮人で偽天皇
だから、奸賊と同類で、彼らの尊い意志を無視して抹殺した。
 彼らが頼りにした真崎大将はソ連の工作員で、満州侵略に反対していた皇道
派の軍人を抹殺するために、青年将校をそそのかし、実行させたのである。天
皇を中心とした統制派の軍部の陰謀である。
514日本@名無史さん:2006/09/01(金) 06:26:26
なんでこう聖徳太子〜蘇我〜壬申の乱あたりは電波ヲタばっかり湧いて出るのかねー
515日本@名無史さん:2006/09/02(土) 12:48:36
 長屋親王は天皇になっていた
 天皇は中国語読みではてんのうだが、日本語読みではあめのすめらきと読む。
天孫降臨説から天を前につけているが、皇の一字で天の下を治める尊と言う意
味である。また、王は1国を治める君主である。皇子は天皇の嫡流の子で親王
はその孫である。王子は嫡流外の子を指す。
 昭和63年から長屋親王邸の木簡の発掘調査が行われた。邸宅は5.7ha
の広さで、不比等邸に匹敵する。
 宅地東辺に掘られた溝から大量の木簡が発見された。
 長屋親王宮大贄鮑十編
 これは長屋親王に献上された干しアワビに付けられた荷札で、大贄とは天皇
の食物を表す。長屋親王は皇太子になる前に、天皇の代理を務めていた?献上
する者が親王と尊称し、大贄と書いた。
 吉備内親王大命以符 婢筥入女進出
 吉備内親王の命令で端女の筥入女を呼び出す。大命とは天皇の命令を表す。
これは長屋天皇の死後、その室である吉備内親王が天皇の代理を務めていた?
 長屋親王御命符
 長屋親王の命令書に御命が使われており、これも天皇の命令を表す。
 長屋皇宮俵一石舂人夫
 長屋天皇の宮で人夫が米一石搗く。
 後皇子 後皇子命宮
 後天皇の子 後天皇の子の宮殿
 芳野幸行用貫簣
 天皇の芳野御幸(外遊)用荷物
 長屋親王邸の木簡が千年以上の間保存出来た理由は、粘土によって密閉され
て、空気と水から遮断されていたからです。溝に廃棄後すぐに、粘土で埋めら
れたと考えられる。すると、この木簡を後世に残そうとした意図が読み取れる。
 以上のことから推論すると、長屋親王が前皇(聖徳天皇)の孫で後皇(高市天
皇)の死後、長屋親王が天皇の代理を務めたのは祖父、父が相次いで殺された
からである。後に天皇になったが藤原氏の陰謀によって毒殺された。その室吉
備内親王が天皇の代理を務めていたが、長屋天皇一族すべてが殺された。その
事実を後世に残そうとして、家臣が木簡を土に埋めて隠したのである。
516日本@名無史さん:2006/09/02(土) 13:59:35

インド人が朝鮮経由でアメリカに移民したら朝鮮人か??

在日朝鮮人がアメリカに移民したら元日本人か??

もう少し頭使おうよ!!
517日本@名無史さん:2006/09/02(土) 16:36:26
>>514
古墳時代は、「記紀」の記述そのものが電波明白。
奈良時代は、「続日本紀」の信憑性が高く、他史料も多くクロスチェックが可能。
対して飛鳥時代は、他史料が乏しく専門家でも史料批判に苦労する。
「日本書紀」1冊あれば君も歴史家!てとこじゃない?
518日本@名無史さん:2006/09/02(土) 19:57:57
上宮法王=聖徳太子

という前提からして既に間違ってるけどね。

上宮、中宮、下宮なんて全国至る所にある。例の釈迦三尊像光背銘から取ってる
んだが、おまいら全文読んだことあるのか?

・法王=天皇・王 それ以外の例を出してくれ。厩戸が即位したなんてどこにも書いてないし。
・上宮で死んだ  厩戸は斑鳩宮で死んだ。「なんとなく関係ありそう」ってのは学問ではない。
・法興元三十一年 こんな年号は記紀にはない。また、こんな長期に渡り続くのもおかしい。少な
         くとも崇峻天皇暗殺時に変わってなければ。そもそもはっきり年号として確認
         できるのは「大宝」から。
・622年2月22日没 「太子の没年は619年2月5日」(日本書紀)
・推古天皇が登場しない 飛鳥仏というなら、在位中の推古の名前が何故出てこないのか。
・薬師仏との違い 銘文も仏像自体の相貌や様式も、同時期の物とは思えない。そもそもこれらが
         焼失を免れたという学者の説明はどれも肯首できる説は皆無。
519日本@名無史さん:2006/09/03(日) 13:09:33
>>514は電波信者の典型的な症例
520日本@名無史さん:2006/09/04(月) 01:56:06
上宮聖徳法王帝説
521日本@名無史さん:2006/09/07(木) 23:24:03
聖徳太子の話は神話板か宗教板でやってくれ
522日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:43:06
 聖徳太子の謎
 蘇我馬子の専横によって、蘇我稲目の娘の子が用明天皇になり、次に崇俊天
皇になった。崇俊天皇が暗殺されて、蘇我氏の血筋の男子が絶えた状態になっ
た。当然聖徳太子が天皇になれば良いのに、用明天皇の妹が推古天皇になった。
なぜ、太子は天皇になれなかったのか。摂政を務めるなら天皇になれば良い。
 この後押坂彦人大兄皇子の子が舒明天皇になり、其皇后が皇極天皇になった。
皇極天皇在位中に蘇我入鹿が専横の罪で中大兄皇子に暗殺された。彦人皇太子
は蘇我氏の血筋ではない。なぜ、天皇の血筋が本筋に戻ったのか。どうして、
本筋に戻った事が蘇我入鹿の専横となるのか。皇極天皇は後に斉明天皇になる。
この辺りの皇位継承はおかし過ぎて話しにならない。時の彦人皇太子がいつ亡
くなったのか分からないのもおかしい。
 聖徳太子は仏教を普及させた事になっているが、神道の奥義書、先代旧事本
紀大成経を撰述している。この中に予言書の未然本紀がある。神仏論争時代に
この両立は難しい。
 太子の正妃は莵道貝蛸皇女であるが、太子が病となり、妃の膳大郎女が看病
して二人が同時に亡くなった。太子の死亡年が621年と翌年の2説ある。太子
を妻でなく妾が看病し、二人が同時に死亡し、その年が2説ある。こんな話は
不自然であり、2説あるのは捏造の疑いがある。
 「上宮聖徳法王帝説」に、聖徳太子と山背大兄王が親子でないと言う人がいる
ようだが、それは良くない事だとある。そのように言論統制するのは本当の事
が広まると困るからである。書記は太子の子が山背大兄王だと言っていない。
 729年に長屋王が死亡し、737年藤原不比等の4子が疫病で死亡した翌年から
藤原氏が法隆寺の食封を再開し、夢殿を建立した。これらの行為は長屋王の怨
霊封じであり、長屋王が太子の孫だと分かると、法隆寺が太子一族の怨霊封じ
の祈祷をした事が分かる。
 隋書に、600年倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤(天足彦)で天下を支える
男(天皇)となる。この時は推古天皇で男の天皇は聖徳太子以外は考えられない。
523日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:46:17
 法隆寺の謎
 聖徳太子は607年に法隆寺を父用明天皇の為に薬師如来像を本尊として建てた。
 しかし、623年に太子の菩提を願って遺族が造った釈迦如来像と鎌倉時代の阿
弥陀如来像が同じ金堂に三具並んでおり、中央の釈迦如来像が本尊だと分かる。
薬師如来像は釈迦如来像に比べて鋳造技術が進歩した物であり、前者の方が後
作となり、製造年が逆転する。法隆寺の本尊が2具あるのはおかしい。
 書記に670年に法隆寺が焼失したとある。しかし、「法隆寺縁起幵記資財帳」
には再建されたと言う記載が無く、建物の尺度が大化の改新以前の高麗尺で後
の唐尺でないから、再建説は成り立たない。様式も雲形斗?など飛鳥時代の物
である。西院伽藍内を掘ったが焼土は無かった。
 すると、若草伽藍説が出てきたが、再建するなら同じ場所に建てる筈で、法
隆寺の南に面する向きと若草伽藍では、ずれている。区画の時代が違うのだ。
 609年に造られた飛鳥寺の丈六如来像の大衣は、右肩から前を覆って後ろへ
回して左腕前膊にかけているから襟が2重である。しかし、法隆寺の釈迦如来
像は襟が1重で最後は左肩の背面に垂れている。作者は両方とも止利で、前作
が正しく着用し後の物が着用法が分からないのは理解に苦しむ。釈迦如来像は
溶銅が拙く鋳造し直した跡がある。
 このように文化が衰退したのは侵略されたからであり、大化の改新を境とし
て飛鳥から天平へと移り、唐様式になったのも侵略が原因である。
 書記が670年に法隆寺が焼失したと記した目的は、唐文化によって再建した
事にしないと飛鳥文化の技術の高さを否定出来ないからだ。
 やはり、聖徳天皇は大化の改新時に暗殺されて、それを隠蔽する為に622年
に病死したと言う嘘を後世に残す為に釈迦如来像が造られ、薬師如来像は聖徳
太子の様な聖者が仏教を勧めたと言う方便で仏教を普及しようとした。其像が
あった寺が太子の崇りで焼失したから法隆寺に移したのである。
524日本@名無史さん:2006/09/16(土) 21:24:13
そんな奇怪な説のコピペ張るなよ
525日本@名無史さん:2006/09/17(日) 17:19:41
アメリカの正体を見破れ
 米国はドルを湯水のように印刷しても、各国がドルを買い支えてくれる。日
本は円高になると輸出不振となるため日銀がドル買いをする。この資金は外資
の餌食となる。
 米国の外資が不良債権で6兆円を注いだ新生銀行を10億円で買い叩いた。
旧長銀の負債は免除された。
 1985年プラザ合意によって円高不況になり、1987年景気を良くする為に公定
歩合を引き下げた。インフレ傾向になった為、公定歩合を引き上げ、不動産融
資総量規制を行うと、1990年バブル崩壊が起きたとある。しかし、これは計画
的に起こされたのである。米国のソロモン・ブラザーズ証券等が事前に売り逃
げして、巨万の利益を上げた。これらの外資が日本政府とくるんで意図的に株
価操作を行った。デリバティブ(株の先物取引)を利用して株価が下がる方に投機
したのです。バブル崩壊はアメリカが仕組んだ株と土地のいかさま博打である。
 米国は日本製品を、ダンピング関税、スーパー301条、いわれのない損害賠償
等で締め出した。米国はいんちき国家である。
 米国はユダヤ悪魔教徒の秘密結社(フリーメーソン)が支配する国家で、軍産
複合体は戦争によって成り立ち、資本経済は戦争後の復興事業で不況を脱して
来た。
 アメリカは真珠湾攻撃の騙し討ちや9・11テロ(自作自演)等で戦争の口実を得
て、軍事大国になり、核の威嚇外交で国を支えている。
 オーム真理教の村井秀夫が右翼に刺された時に「ユダにやられた」と言ったの
はフリーメーソンの意味。ユダヤを敵視して様に見せていたのは、高等戦術で
ある双頭作戦で、戦争は相手が無いと出来ない。自由主義も共産主義もフリー
メーソンが作ったもの。
 郵政民営化は郵便貯金等を外資に貢ぐ為のもの。
 ジェイコム株上場の株価誤入力事件は、新生銀行からの転職者が行った陰謀
で、外資が暴利を得た。10分間で大量のデーターの中から誤入力を見つけて買
い付ける事は難しい。
 堀江貴文が行ったニッポン放送買収資金は、リーマン証券から受けたもので、
逮捕によるライブドアの株価下落等によって、外資は不当な利益を得た。
526日本@名無史さん:2006/09/18(月) 09:05:48
 ファチマ第3の予言
 貴方たちは、私の忠告を妄想だと言って無視したり、自分の知識を誇って、
無知だとあざ笑って、自尊心を満足させましたね。それで、改心の機会を失い
ました。
 麻原の死刑が確定したように、貴方たちの死刑も確定しました。原爆の超高
熱で焼かれるのです。どこへ逃げても、天変地異によって、マグマと津波の生
けにえになる。たとえ、あの世へ逃げても、地獄の極熱の業火で、魂まで焼き
尽くされる。悪業の報いを受けるのである。そうしなければ、犠牲になった動
物たちの魂を救えないし、宇宙が破滅する。
 聖母マリア像が血の涙を流している。神が貴方たちを哀れんで、救えない苦
しみの血涙を流しているのです。
527日本@名無史さん:2006/09/21(木) 18:57:24
上宮って「うわつみや」「かむつみや」どっち?

なんで「上宮」っていうの?
528日本@名無史さん:2006/09/21(木) 19:17:39
「じょうぐう」でしょ
529日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:21:49
少なくとも、オリジナルは「じょうぐう」ではないでしょ
530日本@名無史さん:2006/09/22(金) 16:43:42
かみつみや じゃなかった?
531日本@名無史さん:2006/09/27(水) 20:57:43
上宮高校
532日本@名無史さん:2006/09/30(土) 16:49:32
上宮太子高校
533日本@名無史さん
上宮の建物は面白いよ