謎の稗田阿礼?
阿礼。あれ〜って古事記は平安時代後期にできたもので、
これが何で日本書紀に先行したものとされるようになったのか
明治政府=東大史学会の捏造なんだけど
まあ、謎としておきましょうかw
700年ごろに太安万侶と稗田阿礼によって編纂されたので?
稗田阿礼は藤原不比等ではの説があるが・・
黒幕が藤原氏であれば「怨霊」を恐れ触れないようにしてるのはわかる感じがする。
何故か藤原氏が法隆寺に数多くの奉納してること。
法隆寺の夢殿にある聖徳太子を表す救世観音の光背の事と長く封印してた意味が
よくわからない。
太子を避けようとする藤原氏?またその藤原氏も謎。
太子は藤原氏の秘密を知ってるからこそ封印しようとしてるのか?
太子は仏教に深く関心をもってましたが、信仰をもつ者が怨霊になるのはおかしい。
謎が謎。
あまり細かいことを追求すると、すべて「謎」になって思考停止してしまうだろう。
大雑把にわかってることだけ把握してみよう。
人類学の埴原和郎東大教授によれば、7世紀の列島人口は540万人で、90%が渡来人だった。
10%は原住民。縄文時代からいた人たちだね。
この縄文人も元をたどればシベリア方面から入って来てる。
宝来聰はじめ東大研究グループによるDNA調査では
現在の日本人の5%が縄文系で、面白いことにコーカソイド系が20%近くいる。
これは他のアジア地域では見られないとか。
ま、現在の日本人なんて雑種なのだ。どこの国でも雑種だけど。
で、これから倭でなく日本でいきますて、不比等が粟田真人をシナに派遣するのが702年。
当時、唐の皇帝高宗が死んで妻の則天武后が周と国号を変えてたのだが、8年も留められて了承する。
日本人というのは列島に代々いて天皇が統治してる国であるてな「日本書紀」が完成したのが720年。
この神話に現在の日本人が呪縛されてるのは明治の薩長政府にもよるんだが。
え、藤原氏の出自とか天皇家の出自を探るとか意味あるの。
日本人は文献を読む知性は優れているにしても、自分の意見を述べる知性がない。
と、明治以降来日した外国人がよく言うことです。
蘇我氏は渡来系の帰化人で聖徳太子もその血を引く。
渡来系でも中国か北方民族、朝鮮系でも新羅、百済、高句麗かによって人相や性質が違うと思う。
(名前からしてどこだろう?)
物部氏はカンでたぶん縄文人の血を引いているのだろう。
秦河勝の秦氏はたぶんペルシャ人。
藤原氏(中臣氏)はよくわからなくて鎌足以前の系図がないらしい。
東関東の鹿島で鉄の採掘をしてたとか(中央では発言力をもつ)中央で神事を司ってたとか
何故かはっきりしてないのが謎です。
>>956 物部氏と曽我氏の対立から大化の改新までの間に興味があります。
聖徳太子が後半に政治から身を引いていったことと法隆寺の謎。
なぜ曽我氏が滅ぼされたか?
裏で見え隠れする藤原氏。
なぜか興味を持ちます。
>>958さまへ。
>>956です。
隋書倭国伝を読むと、聖徳太子なんているのかいなあと疑問になる、フツウ。
倭王は阿毎多利思比孤、妻は云々とあって、隋の答礼使節が派遣されて確認してる。
日本書紀によると当時推古という女帝で摂政が聖徳太子と言う。
隋書がウソを書く理由はなかろう。日本書紀もこの件について述べてるのだが、
核心に触れる記述は避け、いたって冷淡である。日本書紀は隋書を参照文献にしてるため、万世一系という
イデオロギーを貫く都合上、ちょいと触れてみましたてな扱いだね。
ここから分かるのは、書紀を編纂した王朝とは別な王朝があって、隋と交渉したのは
その別な王朝ですね。それが書紀で言うところの蘇我氏でしょう。
そうだとすると蘇我氏は物部氏と代々縁戚関係にあるのだが、仏教導入をめぐって
両氏が対立して云々という書紀の記述もいかがなものかと思う。
ま、謎を追求してくださいませ。
>>959さん
阿毎多利思比孤妻は男性の天皇の一般的名称を言ってるらしい。
煬帝は天皇の名前を聞いてるのに女帝であることを隠すためにこう言ったらしくて、
一回目の遣隋使のことは「日本書紀」に記載がないらしいが「隋書」には記録があって
女帝を隠すため文がおかしくなり煬帝に「大いに義理なし」と言われ大恥をかいたらしい。
ま〜日本書紀に書けなかったのだろう。
2回目の小野妹子の時も女帝であることを隠したが、あの有名な「日出づる処の天子、書を日没む処の天子に致る」
ですが、もしこれが「日出づる処の天子へ書を日没む処の天子から致る」としたら煬帝も機嫌を
悪くしなかったと思うけど、翻訳・通訳が間違ったかもしれない。
つづきです。
この時代(607年)に遣隋使を派遣したのは意味があると思う。
隋国が北の突厥へ遠征して平定し又高句麗戦にそなえて遠征の準備を始めていて
これら脅威が日本では今の沖縄まで大きく及んでいたので使節を送る必要はあった。
しかし煬帝を怒らすような国書を持って行くことは考えられず、今思ったがどこかで
すりかえられたのではないだろうか?遣隋使には百済や高句麗の使節も同行してたらしく
この2国も怪しいが、もしや太子と同年代らしい小野妹子が・・謎です。
日出づる処というのは、なにもこれから発展していくというような意味はない。
隋から見て我が国は東の方にあたりますからというフクミで言ったまででへりくだっている。
皇帝が怒ったのは、あたかも両者を対等とみなすようなスタンスに対して。
中国は皇帝が中心にあり、周囲の国々は朝貢するものであり、これを蔑ろにするとは何事かと。
以上は小学生時代に先生から教わったことなんですけどね。
なんか自分で勝手に謎をこしらえて核心を問うこと問わない。
単にアタマが悪いのか、工作員wか。
もうこのスレに来ることはありません。さようなら。
それぐらい知ってるよ〜スレ主じゃないから来る来ないは自由。
日は東から昇って西に沈むからあたりまえだねw
ただ当時日本には高句麗から太子の師であり外交官である慧慈がきていたから
隋の情勢は知ってたであろう太子や曽我氏がなぜ対等な文を送ったんだろう?
でも煬帝は逆に裴世清を小野妹子とともに日本に遣わしたが、これは戦略的要素があって
高句麗侵攻をひかえ日本に仏教文化を進呈するからけっして高句麗の味方にならないように
って約束をとりつけようとしたのだろう。また日本の国情を知るためスパイ的な目的も
もっていただろうけど、こちらもしたたかでいずれ日本侵攻もありうると考え大和朝廷が
あたかも九州にあるように裴世清に見せてそう思わした。
もしこのシナリオを考えて遣隋使を派遣したなら太子は天才といえる。
964 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 16:36:19
あれほど倭国を弁護する日本書紀が、
隋に対して対等外交を要求したとは書いていない。
「日出ずる・・・」の一文は、日本の官僚が何も考えずに
つい東の国の天子から西の国の天子へ、と書いたのを、
隋の皇帝が見逃さずに、とがめただけのような気がする。
わざわざ日本から海を渡って皇帝のご機嫌伺いに行っているのだから、
形式は朝貢だったと思われる。
皇帝は、大国の威厳で、朝貢国からの貢物よりも立派な品々を
朝貢国に使わすのが慣わしであったし、
朝貢外交は、むしろ朝貢する側にメリットが大きかったのだが。
あの文は煬帝に対しての予言の言葉かもしれない。
太子は父である用明帝が即位したとき彼に「あなたの命は短いので前帝(敏達帝)
の葬儀をやめて政務につとめなさい」といったらしい。
太子は幼少の頃から未来の出来事が「見える・わかる」予知能力みたいなものが
あったかもしれない。
煬帝が執拗に大規模な高句麗遠征(侵攻)を行いことごとく失敗してそれが国力の
低下を招き弱体化して滅んでいくことを予知して「高句麗遠征をやめないと国が亡びますよ」と
伝えたかったかもしれない。
966 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 00:36:33
聖徳太子は自殺です。
しかも第三夫人と一緒に死にました。
この夫人はご存知のように平民出身です。
病死なわけがない。明日死ぬと言って夫人を誘ったのですから。
ハワイからみれば、日本は「日が没する処」ですよねえw
ハワイからみれば、日本は「日没する処」ですよねえ
サンフランシスコからみれば、ハワイも日が没する処ですw
969 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:01:14
ニューヨークからみればサンフランシスコは(ry
970 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:35:45
>966
心中なら一緒に死ぬだろw
翌日、太子が死んでくれる保障なんかない。
妃の膳夫人だって、太子がほかの女と一緒に心中したのなら、
そんな憎い男のために、
太子のために死後、天寿国繍帳なんか作らんだろ。
例の国書の一件ね。
朝貢する側が天子と名乗ることが問題なんだよ。隋にとっては。
天子と名乗れるのは隋の皇帝しかいないのだから。
朝貢のメリットとはべつなこと。
方角にこだわるのは現在日本人だけ。
受験戦争以外戦争体験してないからなあ、がんばれよ。
膳部妃は別名芹摘姫という伝承があって、芹を摘んでるところを太子によって
見初められたらしい。
どうも彼女を特に愛していたみたいで法隆寺にある釈迦三尊像は中央に太子、左右にある像が
間人皇后と膳部妃を現していて太子の思いか願いがそこにあるのだろう。
膳部氏というのは代々皇室に仕える今でいう料理長みたいな身分だったらしいです。
太子を現す法隆寺の救世観音の後頭部には深く杭が打ち込んである・・
誰かが太子の「魂」?を封じるため頭に釘を刺してるのだろう。
謎であり怖ろしい・・
974 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 01:54:54
「阿毎多利思比孤は男性の天皇の一般的名称を言ってるらしい」という説が
ありますが、新唐書には、初めて歴代天皇(大王)の名前がズラーッと並べて
あって、その中に、(ア)メノタリシヒコとは、用明天皇のことだと特定され
ています。中国側が勝手にそう決めたとは思えません。日本側の使節がそう
言ったのでしょう。しかし、隋使が日本に来たときには、用明はすでに死ん
でいたはずです。日本の使節が、でまかせを言ったのか。あるいは、580年
代の用明在位時代から600年過ぎまで、誰か別の「大王」が日本にいたので
しょうか。
倭王の名前として姓はアマ、字はタリシヒコ、号はオオキミと名のった。これは固有名詞ではないらしくてアマタリシヒコは漢字にすると単なる「天皇」らしいです。
「らしいです」では他人に説得力ないだろ?
キミの願望のようなものしか伝わってこないねえ。
古代にしろ現代にしろ傍証をそえて事象を述べる習慣をつけようね。
その傍証が真偽かどうかを検討するのが各人の知性の試されるところとなる。
一応〜梅原猛の「聖徳太子」に書いてあったんで、「らしい」が妥当。
978 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 22:31:23
>>972 >膳部氏というのは代々皇室に仕える今でいう料理長
それ、かなり違います。膳部氏は、自分の娘を太子の妻にして、あわよくば
天皇の親戚になろうとした人。それも物部のようなハッキリしたアピールは
示していませんが、どちらかといえば「神道擁護派」。ふつうに地方豪族です。
>膳部妃は別名芹摘姫という伝承があって、芹を摘んでるところを太子によって
見初められたらしい。
もはや根拠なし。しかも本当にソレが、ホキキミノ郎女かどうかは微妙です。
村娘と太子のつかの間の恋という説もある。
>ふつうに地方豪族です
阿倍氏族だから、中央豪族だろ。
阿倍氏=膳部氏?ま〜もともと斑鳩の豪族だが地元でもあり皇居内で料理のことも授かってたのだろう
大彦命を祖先に持つ同族という意味だろう
この時期には阿倍と膳部は同じではない
膳臣と膳部は同じだろうね。武内宿禰は…また別か。みな孝元天皇から出てるんだね。
983 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:51:31
984 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 17:00:50
>>975 アマタリシヒコ 漢字にすると「天足彦」
>>980 斑鳩の地と膳氏の関係性はないのでは?斑鳩は山部氏の地だったような。
阿毎多利思比孤〜
986 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 23:19:13
>960「これ大いに義理なし」
と言ったのは、煬帝の親父、文帝です。原典読もうね。
>966この夫人はご存知のように平民出身です。
善大郎女は平民出身ではありません。善氏は天武朝には高橋という名と、朝臣(八色の姓)を賜っています。
この時点では、真人(皇族)に次ぐ高位の氏族です。
>977
梅原猛さんは、言うことをころころ変えます。ご自身で、10年前の論文が正しい率は30%と言っておられます(三輪山の話だったかな)。
あまりよっかかると倒れます。でもー、
>975は普通に言われています。
>980
昔はマツリゴトの後で宴会をしました。そのコーディネーターだからかなりの重職。半島への使節も出しているし、
外国使節の応接もしている。後、伊勢神宮への使節を定職とした。
原典読もうね。
ゴメン。文帝だね。>梅原猛さんは、言うことをころころ変えます。ご自信で、10年前の論文が正しい率は30%と言っておられます。
「大いに義理なし」WW
988 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:05:07
792 :大兄であっても即位できない皇子もいたし、敏達や崇峻みたいに弟王が即位した例もある
皇位継承が兄弟間で行なわれていたのが基本だったようではあるが...
兄弟相続は、欽明息子兄弟までの22世代まででは、仁徳・允恭・市辺押磐・
継体・欽明の各息子兄弟の5例にすぎず率で言えば23%であり
基本であったとはとても言えない。
、
>皇位継承が兄弟間で行なわれていたのが基本
この手の話は、神武〜応神の直系継承を疑うところから議論が
出発してるのだから、「率で言えば23%」とかいうのはナンセンス。
991 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:28:51
>>972 >どうも彼女を特に愛していたみたいで法隆寺にある釈迦三尊像は中央に太子、
左右にある像が間人皇后と膳部妃を現していて太子の思いか願いがそこにあるの
だろう
そんな説、初めて聞いた。でもなんでそんなに、熱いの?
結局「〜だろう(思いっきり仮説)」で締めくくってるくせに?
992 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 13:10:25
>991
現在聖徳太子の墓とされている叡福寺の玄室は三廟式といわれ、太子と間人皇后と、
膳大郎女の3人が祭られていると言われています。明治以前には、誰でも入れたそうで、
3個の棺が配置されているという記録が残っています。
993 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 16:15:54
>>992 ご親切に。でも申し訳ないのですが、それは知ってます。
>>972さんは、法隆寺の釈迦三尊像って言ってるでしょ?
それが初耳だって言いたかったんだけど?
梅
楳
>>993 金堂の釈迦三尊像の両脇にある小さな像のことで、光背には銘文が書いてあってそこにそれらしきことが書いてあるらしいです。
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