1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:02/11/04 12:20
2GET
3 :
日本@名無史さん:02/11/04 15:09
4 :
日本@名無史さん:02/11/04 15:21
9 :
日本@名無史さん:02/11/04 16:57
明日は晴れますか?
10 :
日本@名無史さん:02/11/04 17:08
学生運動ってどんなかんじだったんですか?
なんで熱くなれるのか分かりません
11 :
日本@名無史さん:02/11/04 17:21
>>10 今、北朝鮮と軍事同盟を結ぶと言ったら猛反対の運動が起きるよね。
そんな雰囲気で、反米・反安保の雰囲気があった。
アメリカはベトナム戦争もしてたし、世界帝国主義の牙城という
感じだったからね。
アメリカでもフランスでも学生運動が盛んだったからね。
その影響もあった。
中国の文化大革命とかも情報不足でいい面が伝えらてれたし。
岸内閣打倒。
日本帝国主義打倒。
安保粉砕。
ベトナムに平和を。
大学民主化。
東大解体。
学費値上げ阻止。
反帝国主義・反スターリン主義
なんて感じかなぁ。
貧乏学生多くて、レジャーも少なかったし、
当時の大学生は、今より、エリート階層で政治談議が盛んだったからね。
レスありがとうございます
やっと分かりました!!
13 :
日本@名無史さん:02/11/04 17:36
前スレの続き
957 名前:日本@名無史さん :02/11/04 11:50
940です
「尊卑分脈」なら図書館に走るまでもなく所有しております
道長の項に「道長公伝」というのが書いてありますが、ちょっと見た感じでは
彼の官歴ばかりのようですが
うpしてもいいのですが、1200字くらいありそうで、躊躇しています
959 名前:日本@名無史さん :02/11/04 17:25
>>957 官歴に、どこどこの女とできていたとか、書かないでしょう。
他の資料の方がいいと思われます。
14 :
日本@名無史さん:02/11/04 19:35
道長と紫式部のデキテタ説は、テレビのでっちあげではないにせよ
「定説」とは程遠いもののようです。国史大辞典(吉川弘文館)の
紫式部の項に今井源衛さんが書いておられますので、参考まで
むらさきしきぶ 紫式部 (略)古来
紫式部を「道長妾」とする伝承があり今日も
それに従う説があるが、筆者は従えない。こ
の説は『紫式部日記』に、寛弘六年夏の夜中
に式部の局の戸を叩いた男との間に交わされ
た「くひな」の歌があり、のちに『新勅撰和
歌集』でその男を道長としたことによる。し
かし、中世にはほかにも紫式部は「西宮高明
親王妾」とする説もあり、この種の記事が人
人に好まれた形跡がある。また当時の記録や
家集、道長の健康状態などから推して、「道長
妾」の可能性は考えにくい。(以下略)
15 :
日本@名無史さん:02/11/04 20:17
>1
スレ立てご苦労さま。
ただできれば”質問”とか”Q&A”とかをスレタイに入れて欲しかった…。
16 :
日本@名無史さん:02/11/04 21:28
日韓条約の締結時に、日本は韓国に対して
総額3億ドルの賠償金(協力金)を支払い、その結果、日韓請求権協
定第2条で、「両締約国は、両締約国およびその国民(法
人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその
国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日に
サンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4
条に規定されるものを含めて、完全かつ最終的に解決され
たこととなることを確認する。」とされました。したがって、戦争徴用の問題(いわゆる従軍慰安婦も含む)は、国際法的には韓国政府が対処すべき問題でなのです。
以上
17 :
日本@名無史さん:02/11/04 22:22
>>17 前スレの「尊卑分脈」に根拠ありさんは、
>>941 さんですよ
941 :日本@名無史さん :02/11/03 09:42
>>940 調べてみますが、私は研究者でない上、手持ちの平安時代の本が50冊くらいあって、
その何処に出てたか探しますので、ちょいと時間をくださいな。
夜までには載せておきます。
942 :941 :02/11/03 10:23
出典は、「尊卑文脈」のようです。
ですが私は原文は読めないので、ご自分でお読みになってくださいなー。
19 :
日本@名無史さん:02/11/05 13:03
前スレ941さんは、研究者ではないと御謙遜ですが
平安物を50冊お持ちとのことなので、ぜひ御高論を
うけたまわりたいもんです
再臨きぼーーん
20 :
日本@名無史さん:02/11/05 19:04
最近の日本史板は、何で幕末の話題で荒れてるんですか?
21 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:38
会津・薩摩・長州の強烈な信者が、それぞれ自己主張をしています。
なぜか、韓国朝鮮への差別者が加わります。
22 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:49
古文・漢文板から来ました。940でも941でもないけど、
確か尊卑文脈の紫式部の肩書き(?)に「道長妾」ってあるはず。
でも、尊卑文脈は室町時代に書かれたものだから論拠とするにはかなり弱い。
ただ、室町時代当時には紫式部=道長愛人が定説だったとは言えると思う。
それが現在も定説かどうかは別の話だけど。
23 :
日本@名無史さん:02/11/05 22:51
皇帝になりたいんですが、
24 :
日本@名無史さん:02/11/05 23:53
>>22 やはり同時代史料でないというのが弱点ですね
テレビ放送は見てませんが、もし「定説だ」と言ったのだとしたら
やはりマスコミの奢り、思い上がりでしょう
25 :
日本@名無史さん:02/11/06 13:09
前スレより下にあるので、上げておきます。
26 :
日本@名無史さん:02/11/06 15:56
「ええじゃないか」のお札や小判はどうして降ってきたのですか?
図説を見ると破魔矢も降ってきており、空からの落下物であれば非常に危険です。
踊ってる場合じゃないと思うのですが。おまえら、早く逃げろと。
27 :
日本@名無史さん:02/11/06 16:44
薩長の工作活動だったとの説もありますね。
あるいは、世直し願望の民衆的表現との説もあります。
両方あるんじゃないかな。
28 :
日本@名無史さん:02/11/06 18:50
>>26 あの当時の事件を報ずる図は写実性よりインパクトとわかりやすさを優先するので
無心におどっているところにお金や破魔矢が振ってきたわけでもないでしょう。
それに絵を描いている人も大抵、聞き書きしているだけでしょうし。
漫画や新聞の挿絵みたいなものですよ。
29 :
日本@名無史さん:02/11/06 20:12
紫式部の件、おもしろい話だと思うけど、根拠が「尊卑文脈」じゃなあ…。
よく知られてるように俗説の宝庫で、信憑性に欠ける資料だ。
単に中世の人間が過去の有名人のカップリングを創作して楽しんだって事
だと思うのが自然かね。
30 :
日本@名無史さん:02/11/06 21:11
“妾”って、めかけとか愛人の意味?
腰元、女中など、「身分の高い人の身辺の世話をする女」って言う意味もあるけど。
以下の人物、事件を扱ったオススメの歴史小説(伝奇でも可)を教えていただきたいのですが。
聖徳太子
大化の改新
平城京及び東大寺の設立
平安遷都と桓武天皇
坂上田村マロとアルテイ
平将門
紫式部
吉備津彦(桃太郎)及び坂田金時
よろしくおながいします
32 :
日本@名無史さん:02/11/06 22:23
>>30 昔の
「身分の高い人の身辺の世話をする女」ってのは性的処理もしていたというのは常識です。
特に武士身分ではね。
33 :
日本@名無史さん:02/11/06 22:54
>30
「身分の高い人の身辺の世話をする女」って意味ではないと思う。
式部は道長のお付き女房じゃなくて、道長の娘の女房兼家庭教師だから。
34 :
日本@名無史さん:02/11/06 22:59
>>32 道長は武士じゃねぇぞ。
>>33 それが「尊卑文脈」の用例から帰納できるかどうかってことなんだけど。
「尊卑文脈」では、妾って書いてあったら、全部お手付き?
何か意図が上手く伝わらなかったみたいだから補足します。
まず、偉そうに書いておいて悪いけど「尊卑文脈」が手元にないので
妾の用法はどちらの意味が多いかは確認できない。
でも、確認できなくても、この例では以下のように言える。
紫式部=道長妾=道長の身辺の世話をする女、と仮定すると、
史実では紫式部は中宮彰子の女房なので、この仮定は史実と一致しない。
よって、この仮定は誤りである。
改めて書くと、論法が苦しいようにも見えるな、自分。
36 :
日本@名無史さん:02/11/09 22:42
age
37 :
日本@名無史さん:02/11/10 10:35
明治維新後の大名配置一覧みたいなのありますか?
38 :
日本@名無史さん:02/11/10 10:45
蒲池ってなによ?
39 :
日本@名無史さん:02/11/10 11:24
>>37 維新後の大名配置?
ん〜。幕末と一緒じゃないのか?
廃藩置県までに変更があったかって事かな。
自信はないが、幕末の大名配置図でいいんじゃないのかな。
>39
たとえば会津藩は斗南3万石になりましたし。
戊辰後の大名配置です。
見てみたいんですけどどなたか知りませんか?
41 :
日本@名無史さん:02/11/10 12:40
42 :
日本@名無史さん:02/11/10 16:52
金(銀)本位制ってありますよね。貨幣の価値を金(銀)で表すってやつ。これを突き詰めて考えてくと金ってなに?って考えにたどり着いてしまいます。
何て言うかうまくいえないんだけど…。金の価値ってなんですかって言うか。そもそも人はなんで金に価値を認めるのかって言うか。
43 :
日本@名無史さん:02/11/10 18:03
>>42 なぜ金の価値を認めているかといえば他人が認めているからってのが主因です。
今の紙幣についても同じですけど。
それと、金という物質が化学反応性に乏しく不変で社会的に希少であったというのも一因です。
44 :
日本@名無史さん:02/11/11 14:54
>>42 物々交換から、貨幣的流通性を持ち始めたのが穀物や布です。
重くない・腐らない・普遍性があるとの理由で、金属が貨幣として使用され始め
ました。
なかでも、金・銀・銅は、限られた数量しか産出しないので、
交換商品として便利です。
また、供給が少ないと言う点から、そのもの自体の価値も高いです。
金がそこら辺におちている状態でしたら、価値は出ないでしょう。
金に、ある種の「貴重性」を集団が認めたとき、その集団内で価値が出ます。
46 :
日本@名無史さん:02/11/14 13:45
age
47 :
日本@名無史さん:02/11/15 09:43
ageとこう!
48 :
日本@名無史さん:02/11/16 00:16
49 :
日本@名無史さん:02/11/17 11:57
自由主義史観の人たち(西尾・渡部・西部など)って、
学会や歴史学の世界でどう評価されているんですか?
50 :
日本@名無史さん:02/11/17 11:59
異端、あるいは素人
51 :
■忠臣蔵クイズ:02/11/17 11:59
64.83.45.34.eth34-slash-29-ric.cavtel.net:80
52 :
日本@名無史さん:02/11/18 12:32
53 :
日本@名無史さん:02/11/18 22:52
age
54 :
日本@名無史さん:02/11/20 00:37
55 :
日本@名無史さん:02/11/20 09:36
56 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:29
保守
>>55 読み物として読むのはオモシロイでつ。
嫌いじゃないでつ。全く評価されてませんが…。
少なくとも自虐史観しか教えない教員よりはマシかと。
内親王があんまり結婚しないで未婚の場合が多かったのは
臣下に降嫁した場合、そこの家にハクがつくからそれを危惧して?
59 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:12
「町衆」の定義はなんでしょうか?
また読み方は、「まちしゅう」それとも「ちょうしゅう」なのでしょうか?
>>59 江戸の町では、「まちしゅう」だあね、ほがはしらね。
>>57 悪いが自分は読み物としても面白くなかった。
最後に行くほど年寄りの愚痴だらけ。
62 :
日本@名無史さん:02/11/27 13:33
>>59 戦国期の京都では、「ちょうしゅう」で、カッコ書きで「まちしゅう」となってま
した。パソコンだと「まちしゅう」で一発変換ですね。
「町衆と呼ばれる裕福な商工業者たちが町の地域ごとに自治の仕組みを作った」
と、あります。
>>60 62
早速のスレ、ありがとうございました。
62さん、出典は何でしょうか?
64 :
日本@名無史さん:02/11/27 16:03
まちしゅう 【町衆】
-------------------------
〔「まちしゅ」「ちょうしゅう」とも〕
(1)室町時代、京都などの都市で自治的な共同体を組織・運営した人々。
酒屋・土倉をはじめとする商工・金融業者のほか、その地域に居住する
公家や武家の被官も含まれていた。
中世後期の民衆文化の担い手の中心となった。
(2)近世、村の衆(しゆう)などに対し、都市の住民をさす。
65 :
日本@名無史さん:02/11/27 16:47
>>63 :59さん
出典ですか・・・。
恥ずかしいな・・・。
新編「歴史」(東京書籍)です。
知ってる人は、笑うと思う。恥ずw。
66 :
日本@名無史さん:02/11/27 16:50
すばらしい
67 :
日本@名無史さん:02/11/27 23:13
ageとくか。
68 :
日本@名無史さん:02/11/27 23:33
近代史を勉強するのに良い大学は何処と思われますか?
テーマにもよるでしょうけど総合的に
大学スレあるんですけど廃れてますので
69 :
日本@名無史さん:02/11/28 00:34
70 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:27
>>68 著作物から自分の尊敬できる教授を探して、行くのがいいのでは。
法政大学の大原歴史研究所とかは優れているが、一般の学生が
ホイホイ入れるわけでもない。
71 :
日本@名無史さん:02/11/28 12:37
72 :
日本@名無史さん:02/11/29 12:47
保守age
73 :
日本@名無史さん:02/11/30 16:41
国立の方がゼミの人数少ないから先生にじっくり襲われるよ。
教われるよ。
現地調査したい時なんかは、地域の国立大なんていいんじやない。
1 研究したいことがある。
2 学びたい教授がいる。
3 国費を存分に使って研究したい。
4 図書館が充実している。
それぞれの目的で違うな。
東大がベストかというと、そうでもない。自由に研究させてくれなかったりと・・・。
立命館とか天理なんてどうだい。
75 :
日本@名無史さん:02/11/30 20:22
近代史が充実した大学か。
漏れは私立だがゼミは16人前後だった。
国立は何人くらいなのかな?
法政・立命館・国立大学ってあたりはどうだい。
76 :
日本@名無史さん:02/12/01 21:03
保守age
77 :
日本@名無史さん:02/12/01 22:55
松尾芭蕉の「奥の細道」を辿って旅行したいと思っているんですが、
カバンに入れても邪魔にならないで便利な旅情報が載っている本は
ありませんか?
ちょっとスレ違いかもしれませんがよろしくお願いします。
>>77 「奥の細道」関係のを探すなら古典板とか文学板とかで聞いた方がいいかも。
旅行そのものを扱うなら旅行の板。(てあったっけ?)
史跡情報なら、山川出版社から出てる『○○県の歴史散歩』という本が有名
でやす。小さいし。
>78
ありがとうございます。旅行板では無視されてしまったんで、今度は
古典板か文学板で訊いてみます。
81 :
日本@名無史さん:02/12/01 23:19
赤穂浪士は逆ギレでテロリストなのに、なんで賛美されてるの?
83 :
日本@名無史さん:02/12/01 23:25
>>81 主君の出来が悪くともその死後まで仕えたから。というのは武士の言い分。
盛り立て伝えたのは町民で反幕府、反武士思想があるからさ。
幕府は何度も忠臣蔵の興行を取りしまっている。
84 :
日本@名無史さん:02/12/02 13:24
>>83 庶民は足利尊氏の物語として、赤穂浪士を演じ続けたんでしたっけ。
85 :
日本@名無史さん:02/12/02 13:28
吉良=高師直。
>82
ちょうど自分がこのスレ開いた時には79氏が入ってませんでした。
ありがとうございます。参考にしてみます。
87 :
日本@名無史さん:02/12/04 14:21
浅野は誰ですか?
88 :
日本@名無史さん:02/12/04 14:34
>>87 塩治高貞。出雲守護。高師直に美人の奥さんにちょっかいを出されたので
有名(太平記にも出てくる)。
89 :
日本@名無史さん:02/12/04 16:14
>88
塩治高貞がモデルだけど、劇中では正しくは塩治判官だよね。
90 :
日本@名無史さん:02/12/04 16:46
というか「判官」は官職から来る呼び名。高貞は左衛門尉か何か
だったんだと思いますが。
91 :
日本@名無史さん:02/12/04 17:43
竹田出雲「仮名手本忠臣蔵」
高武蔵守師直
塩冶判官高定
>>90 左衛門尉も判官と呼んで差し支えありません。
93 :
日本@名無史さん:02/12/04 18:34
昔、リア小のとき、「遅かりし由良之助か」という忠臣蔵にちなんだ
言葉を聞いて、何で「内蔵助」じゃないんだろうとか思ったことが
あった。その頃にはまだ「仮名手本」なんていうものは知らなかった
あの頃ってか。
>>92 いや、高貞自身「判官」と呼ばれていたから、左衛門尉あたりの官職を
得ていたはずだよ、というつもりで書いたのだが。
ふつー判官つったら検非違使判官なんだが。
>>94 官職は得てないでしょう。
佐々木判官(導誉)同様自称と思われます。
97 :
日本@名無史さん:02/12/04 19:06
>>96 佐々木道誉は正和三年正式に左衛門尉に任官してると思いますが。
98 :
日本@名無史さん:02/12/06 10:34
ほんとにくだらない質問ですみませんが、いくら調べてもどうも分かりません。
江戸時代とかに見られるいわゆる「蔵」は、いったいいつ頃に発明されたものなんでしょうか。
どなたか詳しい方のご教授をお願いいたします。
土蔵造り
木骨土壁の耐火建築構造の一つ。
壁厚は20〜25cm程。
壁土で覆われているのは外部のみ、内部は基部が露出している。
開口部は観音扉、土塗りの引き戸、鉄扉などで塞がれ防火的である。
土蔵は鎌倉時代初期に現れ、元来は物を格納する蔵であった。
近世になって店舗や座敷としても利用されることとなった。
100 :
日本@名無史さん:02/12/06 10:49
100げっとしてもよかですか?
101 :
日本@名無史さん:02/12/06 11:01
>>98 倉なら弥生時代に高床式倉庫。それが神社建築に発展。
大きな校倉なら正倉院など奈良時代以降。
藤原頼長の倉の壁は板に石灰の塗屋造。
壁の厚い塗りごめ式土蔵の存在が明らかになるのは、鎌倉時代の絵巻物。
南北朝から室町にかけて、土倉が都市に生まれるのは、土倉の存在を示す。
土倉の出現により、倉と納屋の区別ができる。防火的で堅固なのが倉。
土蔵は保温上も優れている。
江戸時代には、普及・規模の拡大・質の向上が著しい。
102 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:09
ageとくか。
103 :
日本@名無史さん:02/12/07 20:27
「平安の王朝貴族」っていうと、天皇も含まれるのでしょうか?
104 :
日本@名無史さん:02/12/08 13:00
○○天皇の王朝&貴族の意味なら含まれ、
○○天皇の王朝「の」貴族の意味なら含まれないのではないでしょうか。
一般的には、含まれない場合の方が多いと思います。
105 :
日本@名無史さん:02/12/09 13:27
ageeeeeeeeeeeeeee!
106 :
日本@名無史さん:02/12/09 20:48
五世紀くらいまでの日本史に関して、入門書として適した書籍を教えてください。
奇抜な推理や衝撃の新事実などではなく、現在の学会のスタンダードを紹介しているようなのが
あると嬉しいのですが.………
107 :
日本@名無史さん:02/12/09 20:56
講談社や集英社から出ている通史でいいんでは?
108 :
日本@名無史さん:02/12/11 13:06
>>106 古い本だと、現在は否定されている学説が出てたりするので、新しめのほうが
いいのでは。
個人的お薦めは、
>>107さんの言っている講談社の「日本の歴史」シリーズ。
5世紀までなら、
0巻「日本とは何か」
1巻「縄文の生活史・改訂版」→旧渡来人少数説だが
2巻「王権誕生(弥生〜古墳)」→邪馬台国畿内説だが
3巻「大王から天皇へ(古墳〜飛鳥)」→天皇は天武から説
8巻「古代天皇制を考える」→左右入り乱れているが
かな。
0巻は日本史全体だけど面白いとの声多し。
1巻は来年の3月までは700円安い。図書館でそろえているところもあるよ。
109 :
日本@名無史さん:02/12/11 17:26
110 :
日本@名無史さん:02/12/11 22:03
「竹崎季長絵詞」を現代語訳できる方いませんか???
111 :
日本@名無史さん:02/12/12 12:24
>>110 >蒙古襲来絵詞は絵十一や絵十五にみられるように現在の形に調巻されるにあた
>って作為がなされているが、また、調巻にあたっての作為だけでなく、調巻の
>頃と思われるが、絵においても作為的な描き込みがおこなわれている。
>絵七は文永の役で竹崎季長が鳥飼潟で蒙古兵と戦っている蒙古襲来絵詞の随一
>の見せ場として大変有名な場面であり、特にこの場面に描かれた三人の蒙古兵
>はこれを本来の絵として、これについて種々論じられているが、竹崎季長と
>対時している三人の蒙古兵は蒙古襲来絵詞の本来の絵ではなく、後世の描き込
>みであることを明らかにした。竹崎季長の周辺に描かれている矢、槍も後世の
>描き込みである。
>また、絵二十一に竹崎季長が生の松原の肥後国守護代安達盛宗の仮屋形で安達
>盛宗の引付に付く場面で、竹崎季長の傍に控えている二引両の直垂を着た竹崎
>季長の従者らしい人物が描かれている。この人物は鎌倉時代の若党風に描かれ
>ているが、鎌倉時代の風俗とは全く似て非なる風俗であり、江戸時代の描き込
>みであることを明らかにした。これも多分に絵七の蒙古兵の描き込みをしたと
>同じ人物が描き加えたものであろう。
>また、絵十六で竹崎季長が弘安の役の御厨の海上合戦でたかまさの船に懇願し
>て乗せてもらい、蒙古の軍船を襲っている場面で詞十二に蒙古の軍船に乗り移
>るために少しでも身軽るくするために背負っていた征矢を捨てたとあるにもか
>かわらず、絵十六には竹崎季長の背に矢が描かれている。これについて桜井清香
>氏は絵師が間違えて描いたと誤解されている。しかし、これは桜井清香氏が考
>えられたように絵師が間違えたというようなことではなく、後世の描き込みであり、
>蒙古襲来絵詞の本来の絵にはなかったものである。
>蒙古襲来絵詞には以上のような後世の描き込みや改竄がかなりおこなわれている
>ことを明らかにした
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/sato/head.htm
112 :
日本@名無史さん:02/12/12 12:25
>>110(続き)
こんな本があったよ。
「中世政治社会思想・上」(岩波書店)
石井 進,石母田 正,笠松 宏至,勝俣 鎮夫,佐藤 進一 校注
■体裁=A5判・上製・函入・648頁■本体 5,400円■2001年12月5日■ISBN4-00-003753-6 C3321
>武家の最初の成文法典である「御成敗式目」や「建武式目」をはじめとして,
>「塵芥集」「結城氏新法度」など代表的な武家家法6篇,北条重時家訓,
>毛利元就書状など5篇,小早川弘景置文など13通,隅田一族や松浦党の一揆契状17通,
>ほか「竹崎季長絵詞」を収め,懇切な注釈と解説を加える.
>日本思想大系本の新装版化.
113 :
日本@名無史さん:02/12/12 21:42
ageeeeeeeeeeeee!
114 :
日本@名無史さん:02/12/15 20:24
日中戦争初期の時系列が詳しくわかる本てありませんか?
115 :
日本@名無史さん:02/12/17 17:43
116 :
日本@名無史さん:02/12/18 12:36
117 :
日本@名無史さん :02/12/18 13:17
織田信雄の読みは、のぶお、のぶかつ、
どちらでしょうか
118 :
日本@名無史さん:02/12/18 14:50
>>117 家臣に与えた「雄」は「かつ」とよむので、
「かつ」でしょう。
ちなみに大石良雄は「よしたか」らしい。
>>118 有り難うございました。
権威があるといわれる吉川弘文館の『国史大辞典』には、「おだのぶお」とあるのですが、
この前に読んだ本に、のぶかつ、と読み仮名が振られていたので不思議に思いました。
『国史大辞典』は間違いだと言うことになるのでしょうか。
120 :
日本@名無史さん:02/12/18 18:50
>119
厳密にはいろいろと問題があると思いますが、
間違いと言うべきでしょう。
足利義材から一字貰った、
北畠材親は、変な読み方だと思いますが、
ほぼ確実に「きちか」らしいので。
同様の考え方とすれば、「のぶお」なら
土方雄久も「おひさ」と読むべきなので。
121 :
日本@名無史さん:02/12/18 20:19
>>117 そもそも、当時の人々は本名を呼ぶ機会が余りないと思います。
朝廷などどうしても呼ばなくてはならない場所では、名前は音讀みにするそうですし。
当然、読みぐせなどもありますしね。
122 :
日本@名無史さん:02/12/18 20:23
武将(特に戦国時代)の和歌、漢詩について調べたいと思っているんですが、詳しい参考文献、論文等
を教えてください。
川田順『戦国時代和歌』和歌文学論集で二つくらいしかわかりませんでした、、。
123 :
日本@名無史さん:02/12/18 20:32
>>122 この分野は、文学者から研究が多いと思いますが、歴史研究者のなかでは、
米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』の大著があります。
一度、ご覧になると頗る有益となるでしょう。
>>122 追記です
文学者の研究書では、
井上宗雄先生の『中世歌壇史の研究 室町後期』があります。
こちらの本も、大著です。大きな図書館などに所蔵されていると思います。
>>120 当時の人間は字を受け継ぐときに、読みまではこだわってなかった、という説もあるが。
たとえば大塔宮護良親王が「もりよし」と読むらしいが、それだと兄の義良親王は「よしよし」になってしまう。
>>123-124 助かりました!確か和歌文学論集に掲載されている論文の一つも井上先生
の論文でした。
ご親切にどうも有り難うございました。
127 :
日本@名無史さん:02/12/19 00:12
>>125 護良が「もりよし」と読む場合は義良は「のりよし」です。
128 :
日本@名無史さん:02/12/19 00:22
公事方御定書
129 :
日本@名無史さん:02/12/19 04:23
お馬鹿な質問ですみません!小学生の息子に(ちょうど江戸時代の文化を勉強
しています)朱子学と儒学はどう違うの?と聞かれ答えられませんでした(泣)
平たくいうとどう違うか教えていただけませんでしょうか
130 :
日本@名無史さん:02/12/19 11:15
>>127 むかし「良」が「なが」だと思われていた場合も
義良は「のりなが」でした。
でも香淳皇后は良子で「ながこ」ですね。
131 :
日本@名無史さん:02/12/19 11:41
朱子学は儒学の一派です。儒学の中でも身分の上下を重視する。
で、小学生ならいいんじゃないですか。
中学生の模擬試験で、「綱吉の重んじた学問は」の答えは、
「朱子学」でも「儒学」でも両方ともマルになります。
すんません、調べてもわからないもので。
源平藤橘の氏長者は、源が徳川、藤原と橘が近衛、すると平は誰なんでしょうか。
133 :
日本@名無史さん:02/12/19 12:42
基本的に本来の氏長者は、家が伝えるものではなく、個人が就任するものです。
134 :
日本@名無史さん:02/12/19 12:47
すみません、一級資料、二級資料・・・ってどういうことでしょうか?
一次資料、二次資料もよくわかりません(同じことですか?)
135 :
ともチャン:02/12/19 17:54
>>129 神道と国家神道の関係とみるとわかりやすい。
日本の古俗であった神道は、江戸時代を経てやがて国家神道という
過大にナショナリズムを含んだイデオロギーになるが、
儒教と朱子学の関係も全く同じといっていい。
かつては社会の体裁を調えるための教えであったものが、
結晶化するようにして、観念と理屈のカタマリとなる。
それが朱子学。そして同様に国家神道。
儒教(神道)になくて朱子学(国家神道)にあるもののひとつが「尊皇攘夷」。
136 :
日本@名無史さん:02/12/19 18:05
>>132 平氏長者というのは寡聞にして聞いたことがないのですが、平氏流の
西洞院・平松・長谷・交野・石井のなかで最高の位階を持つもの
と考えるのが妥当と思われ
137 :
akuY ◆c0IRE/HCS. :02/12/19 21:24
>>134 「一級」と「一次」の違いはどう呼ぶかという単に単位づけの解釈の仕方の違いだと思います。
よく言われる一次史料(一次資料)ですが、これは
・ある出来事(例えば本能寺の変とか)が起こった時に、またはその直後に見聞した内容を
・可能な限り中立の立場の人間が記述された
(例えば宣教師が信長など利害の絡む相手ではなく本国に報告するために書いた)
(例えば信長に厚遇されていた訳でもない公家が自分の日記に書いた)
史料(資料)を指します。間接的な見聞よりは直接的な体験の方が望ましいですし、
その出来事との利害関係が薄ければ薄いほど望ましいです。
では一次(一級)「ではない」史料(資料)とは何かという事になると、
例えば下記のものは史料的価値が落ちる書物として該当します。
・軍記物(誇張が入ったり嘘の数字が入ったりなどする)
・言行録、逸話集(極端な美化が入る)
・物語(虚構や主観が入る)
・何でもそうですが、例えば安土桃山期の出来事を江戸期や明治以降など
数十年や.百数十年も後に事実関係をよく確認せず書いたもの全般
史学はあいまいな学問ですから、特に中世以前についてはある出来事に対して
都合良く一次史料が転がっていたりする事はまれです。
質の高い史料をできるだけ数をそろえて、限りなく真実に近いであろう史実をこつこつと類推する地味な作業です。
138 :
日本@名無史さん:02/12/19 21:59
>>130 その皇后「良子」を「ながこ」と読んでいたので
当時はそちらの読み方で読まれることが多く
なったときいたことがあるんだが、これって
デマ?
139 :
日本@名無史さん:02/12/19 22:28
「ながこ」の物証はどんな資料があるんですか?
140 :
日本@名無史さん:02/12/19 23:53
141 :
日本@名無史さん:02/12/19 23:56
良子を”ながこ”と読むことに関しての物証?事実で十分じゃないの?
142 :
日本@名無史さん:02/12/20 00:22
143 :
日本@名無史さん:02/12/20 03:42
>131&ともちゃんさん
さっそくのお返事ありがとうでした
てことは、朱子学でも儒学でも○もらえたはずなのかなぁ・・?
問題は以下のとおりです
☆・・略・・古い日本人の心を研究しようとする学問や・・・略・・
設問)1 このような新しい学問をなんといいますか
2 30年余りもかけて「古事記」を研究し、「古事記伝」を著して
この学問を大成した、右の写真の人物を答えなさい
の設問1で朱子学と書いてバツをもらってきました
144 :
日本@名無史さん:02/12/20 04:01
明治天皇が髪や着る物を「洋装」にしたのって、何年頃でしょう?
何かに「天皇が髷を落としたのは明治6年」って書いてあったように思うのですが
記憶が曖昧なうえ、多分その本は研究書とかじゃない雑誌だったので。
>>143 設問1の答えが「儒学」?
設問2の答えは「本居宣長」なので、設問1の答えは「国学」だと思う。
朱子学や儒学はほとんど本家の支那で発展したものなので、
「古い日本人の心を研究しようとする学問」という言い方はそぐわない。
「新しい」といっているし。「朱子学」は宋代の学で「新し」くはない。
146 :
日本@名無史さん:02/12/20 12:19
>>142 君は無知すぎる。
それともネタ?
140に対するレスが特に。
147 :
日本@名無史さん:02/12/20 12:26
うちのおばちゃんは昭和19年生まれで
良子と書いて「ながこ」さんだよ。
じいちゃんとばあちゃんは不敬罪とかにならなかったのかね?
148 :
日本@名無史さん:02/12/20 12:48
>>143 131ですが。
お父さん、それの答えは「国学」です。
徳川綱吉の奨励した学問は?の答えが儒学か朱子学です。
失礼ですが、子どもの教科書か参考書を予習してから、お教えになられることを
おすすめします。
>>144 :日本@名無史さん :02/12/20 04:01
>明治天皇が髪や着る物を「洋装」にしたのって、何年頃でしょう?
下のウヨサイトだと、明治6年ころですね。
http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/06.htm >陛下の正式な御尊影は明治5年に撮られた束帯すがた・直衣すがたと、
>翌6年の洋装の軍服すがただけでした。
ちなみに、明治帝は洋服に軍服、はては牛乳や牛肉の食事アピール(日本人の
体格を向上させようとの宣伝役)と、いいように使われたようで・・・。
149 :
日本@名無史さん:02/12/20 13:46
>>146 無知かどうかではなく、「信者でないか、盲信的信者であるか」だろ。
>148さん、どうもありがとうございます。
そのサイトの記事は肖像の話なので、実際の毎日の生活や公式行事では
どうだったかわかりませんですね…
明治5年の束帯姿の写真も見たことありますが、髷があるのか無いのか
よくわからないし…
他にも文献等ご存じの方がおられましたら、よろしくお願いします。
151 :
日本@名無史さん:02/12/20 17:30
>>149 >「信者でないか、盲信的信者であるか」だろ。
あんた意味わかんないよ。
それと>昭和天皇ってイタコか何かですか。
との関係を教えてよ。(できるならね)
>>137のakuY ◆c0IRE/HCSさん
丁寧なご説明、ありがとうございました。
大変勉強になりました。
恥かきついでに、史料と資料にも違いがあるのかどうか
どなたか教えていただけないでしょうか。
153 :
日本@名無史さん:02/12/20 22:03
>>152 yahoo辞書(新辞林から)より
【史料】
歴史を認識する素材。文献・遺物・口頭伝承など
【資料】
もととなる材料。特に,研究のためのデータ。
たとえば、事典や、読み物的なものや、その他参考にできるものは何でも
「資料」にはなるが、「史料」にはならない。
「史料」は「資料」の中に含むこともあるが、「資料」が「史料」と
なるとは限らない。
154 :
日本@名無史さん:02/12/21 00:51
>145・148さんへ
143です
きゃ〜〜恥かしい!!答えは国学だったのですね(≧∇≦)
思い込みって怖いですねあ(それも親子揃って)・・
朱子学は宋代の学問なのですね_〆ヾ( ̄(エ) ̄
アホな親子に丁寧に答えてくださって、ありがとうです
少し本でも読んでお勉強してみます
次は、もちっとまともな質問ができるように、がんばりまっす!
ちなみに、日曜日のテストは日清・日露戦争と条約改正でぇす
155 :
日本@名無史さん:02/12/21 05:17
足利義晴と本願寺の関係についての著作・論文について、
何かご存知の方いらっしゃいますでしょうか?
157 :
日本@名無史さん:02/12/21 12:59
158 :
日本@名無史さん:02/12/21 13:16
>>152 おいおい、>>137はまったくとんちんかんな説明だぞ。
史料批判という言葉も知ってるとも思えないし。
少なくとも史学を専攻してるとは考えられない。
一次史料の条件として
>可能な限り中立の立場の人間が記述された
なんて言ってるが、書翰は一次史料じゃないわけ?
一次と二次の違いは、
後世の者の判断が「書面に」介在しているか否か、編纂物か否かで判断します。
史学科の1年生の授業の一番はじめにやることです。
史料と資料を同一にしている点から見ても、
尋常な研究活動(卒論を含む)が出来るとは到底思えません。
「史学があいまいな学問である」としているが、あいまいなのは137です。
159 :
akuY ◆c0IRE/HCS. :02/12/21 20:55
>>158 史料批判→知ってます
史学を専攻してるとは考えられない→してました
後世の者の判断が「書面に」介在しているか否か、編纂物か否かで判断します。
史学科の1年生の授業の一番はじめにやることです。 →その通りです。
史料と資料を同一にしている点から見ても、
尋常な研究活動(卒論を含む)が出来るとは到底思えません。→?、あなたの主観にお任せします。
ここは質問スレですよ?あなたが135あたりに立派な説明を書いてればいいのではないですか?。
>>159 正直言って、俺も
>>158と同じような感想を持ったぞ。
少なくとも、最後の「史学があいまい」という言葉は、ちょっと腹が立つ人もいると思う。
「あいまい」で「地味な作業」だったら、やっても意味無いじゃんって。
>>158も、マッタリ行こうよ。しょせん2ちゃんなんだからさ。
161 :
日本@名無史さん:02/12/21 21:53
>>139 「皇統譜」を見ればよい。皇族の戸籍だね。
天皇と皇后は<大統譜>,皇族は<皇族譜>に,父母,生年月日時と場所,命名年月日などが記されています。
正本が宮内庁書陵部,副本が法務省で管理されています。
一般人が見れるかどうかはわからんが。
162 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:08
153ですが、一次史料等について
書いた人とは別です。
ついでに史料と資料を同一視している
つもりはないのですが、、、
163 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:13
153は誰が見ても同一視してないでしょ。
心配しなくて良いのでは?
>>137は 史料と資料、区別できてないと思われ。
164 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:20
>>158 漏れもいちおう史学科卒の人間だが、自分で手を汚さず
他人の書きこみに対して
>はまったくとんちんかんな説明だぞ。
という誹謗はなかろう。匿名をいいことするな
人間としての節度を持て
166 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:29
でも、「節度を持て」というのは正論だと思う。
167 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:32
史学科卒の164さんにきちんと説明してもらいましょう。
137と158、どっちの説明が正しいんですか?
どっちも間違ってるの?
この際、先の人々の形容詞の類、言葉の尾ひれは目を瞑りましょう。
168 :
日本@名無史さん:02/12/22 00:14
>>167 当方史学科卒で164ではないが、
>>158が合ってると思う。
158は
>>137のあげた条件中
>可能な限り中立の立場の人間が記述された
につっこんでたが、同意。
137は何故かそのつっこみにコメントしてないけど、
それに関する部分がなければ、よかったと思う。
>>157 お答え頂きましてありがとうございます。
同時期に畿内に存在した政治勢力として
何らかの関係があったと思ったのですが・・・。
やはり実質的な力を持たなかった義晴には
本願寺も感心を示さなかったということなのでしょうか。
170 :
日本@名無史さん:02/12/22 00:37
現代では全く魅力のない舞台を演じている歌舞伎や能役者達は何であんなに高飛車なんですか?
昔はただの男芸者だったのにあんな奴ら有りたがっている連中を見ていると
馬鹿じゃないかと思います。
171 :
日本@名無史さん:02/12/22 03:08
江戸時代の税制について教えてください。
農民はよく「四公六民」とかいう言い方で一般に知られた税制が適用されていたと
思いますが、商人・職人・漁師(猟師)なんかはどうなっていたんですか?
一口では説明しづらいと思いますので、その辺詳しい書籍を教えていただくだけで
も結構です。お詳しい方、何卒宜しくお願いします。
172 :
日本@名無史さん:02/12/22 03:17
>>170 男芸者の前に「河原者」だろう。人間の範囲に入らな(以下略
173 :
akuY ◆c0IRE/HCS. :02/12/22 04:36
>>168 私の最初のカキコに誤解を招く部分があってとてもすいません。
最初の投稿で私が書きたかった事は、
>>137氏の疑問の中で一級、二級という表現が見られたから
編纂されたもの、孫引きされたものは史料的価値が落ちるので別に考えて
欲しいと言いたかったのです。私の文章の主眼はそこです。資料と史料の違いも理解してします。
それと
>>153氏が
>>162氏と違う人であろう事は文面から分かります。
みなさんへ
こちらもつい感情的になってしまってあんなカキコをしてしまいましたが、
今後ともよしなにお願いします。質問スレ盛り上げていきましょう。
175 :
日本@名無史さん:02/12/22 11:37
『武功夜話』について、お聞きしたいのです
最近、この書の偽書説が出されていますが、本当に偽書なのでしょうか
このスレでも話題となった、一次史料としてはほど遠いとは思いますが、
この書の記事の中には、信じられる記事も含まれている、とする研究者もいますが、
この武功夜話の記事全てを偽書として考えて良いのでしょうか。
個人的には、この書を利用しないことが、ベストな選択だと思いますが
一番のネックは、武功夜話の原本を実際に、じっくりと見た人が、
皆無に近いと言うことだと思うのですが。
原本に対して、いわゆる書誌学的な見地にに立った研究が必要だと思うのですが。
>原本に対して、いわゆる書誌学的な見地にに立った研究が必要だと思うのですが。
一般論としてはそのとおりだが、何が言いたい?
その「いわゆる書誌学的な見地に立った研究」が進むまで信用しろとでも?
ある程度ボリュームのある文献が全て「信じられない記事」で埋め尽くされるわけではない。
だから「全て信じられないわけではない」というのは使えるという根拠にはならない。
武功夜話のように「この時代では有り得ない」という記事が多ければ史料としては使えない
きちんと史料批判をして「ここは使える」ということがはっきりすれば使えるだろう。
それだけの話だ。
177 :
日本@名無史さん:02/12/22 16:43
>>171 商人に対しては冥加金ですね。検索してみてください。
日雇い職人は無税かもしれません。
漁民は、網本にこき使われ、網本が石高換算ではらってたと予測します。
山林は村共同体所有でしたから、山の民の村は、村請で石高換算し払って
たと考えられます。山は漁と木材と炭焼きなどで割とゆとりがあったのでは。
琵琶法師って特定の誰か一人なんですか?
今まで複数の琵琶持ったお坊さんが日本全国に散らばって広めていたと思っていた。
179 :
日本@名無史さん:02/12/22 20:44
誰か唯物史観についてくだいて説明して貰えませんか?
辞書引いてみたんだけど、いまいちピンとこなくて。
みなさま、一次、二次史料、及び史料、資料の違いについて
教えていただき、ほんとうにありがとうございました。
181 :
日本@名無史さん:02/12/22 20:57
>>178 多数いたと思います。
>>179 誤解を恐れずに、超単純化すると、
歴史は下部構造といわれる生産力が、上部構造といわれる生産関係を
規定すると言うこと。
つまり、生産力が高まると、貴族制を封建制に変え、
さらに高まり、封建制を資本主義に変えた。
下部構造(経済)が、上部構造(政治階級)を変えて行くとの歴史観。
賛成派と反対派も大なり小なり意識せずにはおれないほどの影響力を
持つマルクス主義思想の一つ。
182 :
日本@名無史さん:02/12/22 21:07
>>179 実質的に唯物史観というものは?
唯物的か唯心的かでしょう。唯物論と唯心論で検索してみてください。
>>181 え?盲目の琵琶法師って一人じゃないの?
盲目の琵琶法師ってそんなにたくさんいるもんじゃないだろうし。
小島法師は一人だよね?
184 :
日本@名無史さん:02/12/23 14:31
>>183 盲目の人たちが生業を立てるのに、幾つか道がありましたが、芸の立つ人や
記憶力の良い人は、琵琶法師になったようです。
琵琶法師が盲目になるのではなく、盲目の人が職能集団として琵琶法師集団を
形成していました。
太平記著者かもとの小島法師ですか?それはペンネームと思われます。
>>182 唯物史観とは史的唯物論。マルクスの歴史発展法則についての質問ではと思います。
185 :
日本@名無史さん:02/12/23 16:51
>>153 確認したい事があるのですが、
>事典や、読み物的なものや、その他参考にできるものは何でも
>「資料」にはなるが、「史料」にはならない。
とされていますが、これは当然今の「事典や、読み物的なものや、その他参考にできるもの」
という意味ですよね。対象時代に書かれた「事典や、読み物的なものや、その他参考にできるもの」
であれば、「史料」になりますよね。
さらにある事についての後世の捉え方まで確認しようとする場合は対象時代より後のものも十分「史料」
になりますよね。
要は、研究時の諸データが「資料」であり、その中で現代(この基準は微妙ですが…)以前に
残されたものが「史料」と捉えればよいのかと思うのですが如何でしょうか。
(ただし、近代歴史学成立後の諸研究を「史料」とするのは不自然にも思えますが)
念のために付記すると、私はこれまで書き込みされたどの方でもありません。
186 :
日本@名無史さん:02/12/23 17:14
>>185 >近代歴史学成立後の諸研究を「史料」とするのは不自然にも思えますが
近代史は「史料」を使わないで研究するんですか?
もう少し、自分の考えをまとめてから書き込みなさることをお奨めいたします。
187 :
日本@名無史さん:02/12/23 19:24
>>186 私の文章のつたなさのため、文意をうまく伝えられなかった事をまずお詫びします。
例を用いて、説明したいと思います。
私は歴史学の起源に明るくないのですが、例えば、新井白石の業績(例えば『読史余論』)は
ある種の「歴史研究」と評する事もできるかと思います。そこでもし、白石の業績を用い、
近世のある事件について現代の我々が調べる場合、白石のそれは「史料」になると思います。
しかし、近代歴史学成立後の研究、例えば津田左右吉の業績を用い、現代の我々がなにか
例えば、古事記について調べる場合、津田のそれを「史料」とは呼べないだろうと思ったのです。
(むしろ、「先行研究」とでも呼ぶのでしょうか)
前文最終段落は
研究時に用いる諸データが「資料」、その「資料」の中で現代以前に作られたものが「史料」
とでもすればよかったでしょうか。
これでお分かりいただけるでしょうか。
188 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:57
> 新井白石の業績(例えば『読史余論』)は
> ある種の「歴史研究」と評する事もできるかと思います。そこでもし、白石の業績を用い、
> 近世のある事件について現代の我々が調べる場合、白石のそれは「史料」になると思います。
これは、白石の研究を「先行研究」として扱っていることになるはず。
白石の著作を「史料」として扱うことになるのは、新井白石を史学史の上で扱うとか、
思想史の中に位置づけるとか、そういう場面において。
189 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:36
>>188 ご教示ありがとうございます。
近世のものですら「先行研究」として扱うのであれば、
近代歴史学の業績はいうまでもなく、「史料」ではなく「先行研究」ですね。
>>185の括弧内の一文は蛇足であったようです。
(私の近世の「先行研究」に対する誤認から生じた文でした。)
ところで、私が
>>185や
>>187で述べた「資料」「史料」観の方はよろしいのでしょうか。
手数をおかけしておりますが、回答して頂けると幸いです。
190 :
日本@名無史さん:02/12/23 22:52
明治期〜戦前の結婚はどのように行われたのでしょうか。
今お見合いについて調べているんですが、ぐぐったら
恋愛結婚が明治期に多くなったとか、見合いも行わず親が決めたとか色々出てきて、
じゃあお見合いの時は当事者の意思が反映されたのかとか、
恋愛結婚が存在し得たのかとか混乱してきて
わけわかんなくなっています。
新郎、新婦、親、見合いや家制度などの関わりについてご存じでしたら教えて下さい。
できたらなるべく詳しくお願いします。
ちょっと聞いてくださいよ。僕の友人が今日、こんな事を言ったんですよ。
「昨日、グーグルで検索してたらさぁ・・・・」
ヴァカだと思いませんか?「Google」の事を『グーグル』とか言ってるんですよ!
だから言ってやりましたよ。それは『ゴーグル』って読むんだよ、と。
そのときのあいつの顔といったら・・・・もう最高でしたよ!
第一、「Google」が『グーグル』だったら「goo」だって『グー』になっちゃうじゃないですか。
普通に読んだら『ゴー』に決まってるのにヴァカですね。本当に。
しかもそれだけにとどまらず、「YAHOO」を『ヤフー』とか言っちゃってるのにはもう絶交しようと思いましたよ!
『ヤッホー』って読む以外に何か読み方があるのか?って感じですね。
それでも意見を曲げずに『グーグル』『ヤフー』とか言い続けてます。
そんなことじゃ社会に出て大恥かくぞ、と言ってその友人と別れました。つくづくヴァカですよね。
192 :
日本@名無史さん:02/12/24 12:55
>>190 詳しくはないが、親が決めた見合いと、本人納得の見合いと、自由恋愛の
3種類あったと思われ。結婚式に始めて顔を見たという話しも多いし、
好きに名手結婚したとの話も多い。
現代よりは、親の決めた見合いは多かったもよう。
193 :
日本@名無史さん:02/12/24 15:13
うちの子の小学校の先生は「ヤホー」と言ってます。子どもに「ヤフー」だよと
言っても信じてもらえません。
小学校の先生は偉大です・・・。
194 :
日本@名無史さん:02/12/25 00:21
>>190 ちょっと質問の幅が広いような…
家制度も身分などによっていろいろ。庶民には関係ない話もありそうです。
とりあえず、恋愛結婚という概念は明治以降のものと思われますが
勝手にくっついた結婚(同棲)なら江戸以前にも多くあったらしい。
見合い的なものも江戸以前からあったようですが、戦前のような
両家が一堂に会して、あとはお若い方お二人で…みたいな形式が出てきたのは
明治以降ではあるようです。が、それも様々。
こういう情報がまとまっているものは浅学にして知らないのですが
実際にその時代に生きた人の評伝や年譜、日記などにあたるとよいのでは?
195 :
日本@名無史さん:02/12/25 00:41
>>189 史料=歴史を認識する素材という基準だと、ちょっと違うかも。
188氏の新井白石の話を借用すると
たとえばとある歴史的事柄について調べるときに、新井白石が研究して
出した業績を先行研究として、あくまで、とある事柄を探る際の歴史学
上の成果のうちの一つとして利用するのであれば「資料」かと。
例えば、新井白石その人について知るときや、江戸時代の歴史観を見る
なんていう場合には、白石が歴史について書いた著作(『読史余論等)
は、白石その人物や江戸時代の歴史観を知るための直接必要な材料とな
るよね。これが「史料」。
ということになるかと…
177さん、ありがとうございます。
197 :
日本@名無史さん:02/12/25 10:30
>>195 ご丁寧にありがとうございます。
>>195さんの例示から考えを進めまして、
「先行研究」も「資料」であれば、時間で区分できないとの理解にいたりました。
そもそも
>>153さんの「資料⊃史料」という指摘でおおよそ納得したのですが、
>事典や、読み物的なものや、その他参考にできるものは何でも
>「資料」にはなるが、「史料」にはならない。
の部分のみ
>>185で述べたような違和感を覚え、質問いたしました。
(この点に付いてはまだ若干疑問も残ってはいるのですが…)
皆様の御説等をまとめますと、
史料=歴史認識の素材(文献・遺物・遺跡・図像・口頭伝承など)
資料=研究のための材料(先行研究を含む)
先行研究=ある事柄を探る際の歴史学上の成果
という事でしょうか。
たくさんのご教示ありがとうございました。
199 :
日本@名無史さん:02/12/25 18:53
153さんが引用してくれた辞書の説明も正確に言えば間違いだべ。
200 :
日本@名無史さん:02/12/25 18:59
>>198-199 いやはや、これまた新しいご指摘ありがとうございます。
歴史学について無知な私としては正直途惑っております。
何かこうしたものの参考になる書物やサイトがあれば紹介願います。
又、史学科で歴史学を修めた方にとっては基本のようですので、
そうした方のお知恵を拝借できればとも思います。
ただ、気になる点があり私見を述べさせていただきます。
まず、私が
>>197で引用した「史料」は
>>5の(テンプレというのでしょうか)
国語辞典の検索結果とほぼ同文です。
その上で、ですが、
>>197さんの
>史料は紙に書かれたものだけ。
というのは若干異論がございます。
少し前の文献史学全盛期ならいざ知らず、
近年の考古学における発展はめざましく、
「木簡」史料は古代史の一級史料とも言うべきものではないでしょうか。
また、私は「歴史学」の範疇を性格に理解しておりませんが、
美術・建築史の観点からいえば、図像や城郭等も史料と呼べるのではないでしょうか。
更には文字をもたないアイヌ文化を研究するにはユーカラといった口頭伝承も
有力な史料となりえると思います。
以上の観点から私は>「史料」は
>>197の通りの解釈でよいかと思います。
また、
>>199さんのご指摘は大変興味深いのですが「間違いだ」というだけで
反証も、ご自身の意見も述べられていないので、なんとも判断しかねます。
すみません
>>201の
2段落目の「
>>197さん」は「
>>198さん」、
4段落目は「範疇を性格に」は「範疇を正確に」、
6段落目の>「史料」の>は不要
でした。
あまり、くどくど質問ばかりするのも気が引けますので、
もうそろそろ切り上げようとは思ってるのですが…
>>203 補足。
もちろん歴史学にも文字無し資料もあります。建築物とか。
>>203 迅速なレス感謝いたします。
この表が一般的な観念なんでしょうか。
2chでソースは?と聞くのも怒られそうですが、
載せてあるサイトのアドレスも教えていただけると嬉しいです。
また、気になる点がありまして手元の書物を見て見ますと、
「木簡史料は、(略)基本史料の一つである。」
(『日本の歴史C天平の時代』栄原永遠男)
「木簡・漆紙文書・墨書土器といった生の史料(一次史料)」
(『日本の歴史C平城京と木簡の世紀』渡辺晃宏)
といった用法が見られますので、とりあえず木簡に関しては「史料」
ではと思います。
>>205 203は俺が大学で教わったやつだよ。
ノートの走り書きって感じでメモしてあるだけなので、正確かどうかは不明。
ちゃんと板書を写しとくんだったなあ。
208 :
日本@名無史さん:02/12/25 21:30
応仁の乱とか禁門の変とかの「乱」や「変」ってどういう定義でその名称がついているんですか?
209 :
日本@名無史さん:02/12/25 21:39
今年も奴等が帰ってきたわけですが・・・
どこかに時空警察スレはありませんか?
世界史板にも行ったけどありませぬ。
210 :
日本@名無史さん:02/12/25 21:40
211 :
日本@名無史さん :02/12/25 21:43
>>208 なんか、大きな戦乱を「乱」、小さなクーデターを「変」というとか聞いたことある。
あと「大乱」「一乱」というと、応仁の乱だけをさす、とも
「役」とかの解説もご存知の方、お願いします
>>211 ソースが高校レベルの参考書なので、盲信は危険ですが
「乱」…朝廷や幕府などの正規の政府に対し叛乱を企てたものを指す場合が多い。
「変」…クーデタのようなもので天皇や有力貴族、有力武士がそれによって退位させられたり、
失脚した時に用いられ、乱よりは小規模な戦闘、或いは無血クーデタに近い状況で政局が大きく変わったもの。
「役」…規模が大きく、国家間の戦争や豪族間の私闘のように、どちらが政府軍で、どちらが反乱軍という区分が難しい。
ただし、そもそも厳密な使い分けの規則はない。
だそうです。
じゃあ、前九年の役や後三年の役って蝦夷に配慮してるのかな?
でも、シャクシャインの乱は?
214 :
日本@名無史さん:02/12/25 22:05
>>205 ただ、ぐぐってみると「歴史資料」の略称を史料としてるところもあるし
結構あいまいかもね?歴史学の人達の間では慣例?なのか、文字資料を
「史料」考古遺物などを「資料」とする認識が一般的なような気もする。
私もそうだったんだけど。
でも、日本史関係の事典等を見ても、
>>153のような文で出てくるよ。
歴史を探究する際に用いられるさまざまな材料の総称(『日本史広辞典』山川)とか。
歴史資料の略称で史料、なんて話も聞いたことがあったようなないような。
岩波の日本通史にも、民俗資料論、絵画史料論、なんてのが載ってるし。
あら?重なったな
>ぐぐってみると「歴史資料」の略称を史料としてるところもあるし
これ、前に見たことがあったんだけど、めんどくさくて未確認。
よって
>歴史資料の略称で史料、なんて話も聞いたことがあったようなないような。
と変えたつもりでした。失礼。
>>213 自信はないが、前九年や後三年は蝦夷への配慮でなくて、
中央から見たときに豪族の私闘レベルでしか認識されていなかったのでは…
あ、
>>203さらに補足。
メモで、「拓本・・・金石文を史料化する方法」って書いてあった。
これで、ますます文字が書かれた紙=史料って印象が強くなった。
>>214さんの言うように、文字資料を「史料」とする慣習が強くあると思われ。
更に言うならば俺が教わったのは、紙じゃないと「史料」じゃない、と。
>>217 だけど、その認識を改める方向になってるということじゃない?
歴史の事典でさえも「史料」を文字資料と限定してないし、
「民俗史料」「絵画史料」は当然の如く文字資料を指してはいない。
>>214 大変勉強になります。
私自身示唆を受け「歴史資料」で検索して、「歴史資料」→「史料」という記述も見つけました。
(これが語源かもしれませんね)
しかし、文字資料が「史料」、その他考古遺物等が「資料」というのが伝統的な考え方なのでしょう。
そして類推するに文献史学全盛期には
>>217さんのおっしゃるように
紙でかかれたものが「史料」であり、やがて、「史料」の範囲が拡大していったのではないでしょうか。
203の表、結構役に立つな。
古文書と古記録の違いっつーか定義つーか、初めて知った。
221 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:19
ところで、イワシ好きのために夫に「イワシのような下魚なんか食べるな」
と言われたときに、
「日の本はいははれ給ういはしみづ 参らぬ人はあらじとぞ思ふ」
と詠んだのは紫式部?和泉式部?
紫式部と言っている人もいれば、和泉式部だといっている人もいるし...
正解をキボンヌ。
ていうか
佐藤進一の古文書学入門の第1章第1節さえ読んだことのないヤシばかりなんだな。
ここのレベルが知れようもの。
「われわれが歴史事実を認識し、歴史知識を構成するには必ずそのよりどころとなる素材
がなければならない。この素材を史料という。史料にはどんなものがあるかというと、大
きくわけて精神的遺物と物体的遺物とがある。前者には言語・風俗・習慣・伝承・思想な
どがあり、後者には遺蹟・器物などの狭義の遺物と、文字・文章の記載そのものに史料と
しての価値の認められるもの、すなわち文献とが含まれる」
古代と中世を題材にしているので読む機会が無い人だっているだろうし、中には採用しない教授も居るでしょう。
内容もレベルが高すぎて2ちゃんねらーが強制される程のものでもないでしょう。
224 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:35
というわけで203の表はかなり古い認識に基づくものであるか
佐藤進一への反論説、つーことになるか?
>>222 これはありがとうごさいます。
手元にあるにはあったのですが、こんなところに書いてあるとは…
ただ、気になるのは佐藤先生は「史料」という表現をお使いですが
「資料」という表現は使ってていませんよね。
「史料」と「資料」を入れ替えると
>>203の表とも大差ない気もするので、
両者を区別して用いてない、なんていうのは言いすぎですかね…
226 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:52
強制されるほどのものでもないって?誰が強制しとる?
だいたい事典(日本史の事典にもあるんよ)等々の記述だって
佐藤進一と同じ様なこと書いてあるし、絵画史料というような
呼び方もそれを前提にした呼び方。なのに他人に反対(反論で
はない)レスつけてるだけのヤシに書いてんだよ。
ちなみに自分は授業で使われてなかったが読んだぞ。古文書学の
基礎文献だと聞いたしな。これ読んどらんのは時代等々事情もあ
るしかまわんと思うけど、読んでないことは威張れることじゃな
いと思うぞ。少なくとも古文書について語ったヤシは。
>>226 > 佐藤進一の古文書学入門の第1章第1節さえ読んだことのないヤシばかりなんだな。
> ここのレベルが知れようもの。
という表現にについ過剰に反応してしまいました、すいません。荒らす気は無いので。
228 :
日本@名無史さん:02/12/25 23:59
>>225 >「史料」と「資料」を入れ替えると
それはちょっと恣意的じゃない?
>歴史事実を認識し、歴史知識を構成するには必ず
>そのよりどころとなる素材がなければならない。
>この素材を史料という
この前提条件が異なるというような場合でないと…
もしかして、学閥とかあるのかね?資料or史料
230 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:15
みんな落ち着け。相談に来る子供が怖がるような論争は冬休み明けにしろ。
>>230 ほんとすいません。反省しつつ寝ます。また今後ともよろしくです。
232 :
日本@名無史さん:02/12/26 00:16
>>227 そりゃこっちも悪かった。いややはり2ちゃんだからね。
と、そんなこと書いたが
実は、史料という意味をもっとせばめた場合もあるとは思ってる。
慣習で、史料=文字資料。資料=考古遺物等、という区別は
資料館などの実務業務では、こういう意味合いでわけてる場合
が多いと思うんだよね。それは資料館等で扱う(収集・展示する)
資料は全て辞典でいえば「史料」になるから、もっと細かい区分
や種別が必要になるからだと思うんだけど。
このへんは詳しくないのでいい加減。
でも歴史学の教授で「資料」「史料」の区別が違うのはわからん…
実務上での意味を重視する人と、あくまで「学」としての意味を
重視する人で違うのかもねん。
いや、論争とはこういうもんだと子供にわからせる為に…
235 :
日本@名無史さん:02/12/26 15:00
>>213 :日本@名無史さん :02/12/25 22:01
>じゃあ、前九年の役や後三年の役って蝦夷に配慮してるのかな?
>でも、シャクシャインの乱は?
近年は、シャクシャインの抵抗と、教科書などには書かれています。
太平天国とセポイも乱が消えて、戦いや抵抗になっています。
236 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:10
>>221 紫式部でした。いわしの刺身や寿司はおいしいよね。
美人才女の紫式部
も内緒でイワシを食べていたと言うことは、よく知られているお話です。
なんと言っても美味しくて、スタミナがつくしおまけに細胞の老化を防いで
若さを保つてくれる事を良く知っていたようです。
内緒で食べていたという当時の風習を考えるとイワシの素晴らしさは知ってい
るが、高貴な方が食べるものでないという考え方のようでもあったようで、
おかしなお話です。
イワシを食べて夫に咎められ
「日の本にはやらせ給ふいわし水 まいらぬ人はあらじとぞ思ふ」
と彼女は和歌で切りかえしたことは有名な話しです。
http://www.japanfoodnews.co.jp/professor/020914iwashi.htm
237 :
日本@名無史さん:02/12/26 17:15
「和泉式部が」という同じ文もいっぱい見かけるんだけど、
社団法人いわし食用協会って信用できるの?
238 :
日本@名無史さん:02/12/26 21:48
>>237 いわし協会は知らないが、検索で「いわし 和泉式部」だと17件ヒットで、
該当文はちょっと見当たらない。
「いわし 紫式部」だと114件ヒットで、いわしを食べてたって該当文が
ずらっと出てくるから、紫式部の方が信頼できるか、有力と思う。
239 :
日本@名無史さん:02/12/27 20:20
いわしage
240 :
日本@名無史さん:02/12/28 05:07
坂上田村麻呂の軍隊は、京都から数万人も連れていってまた数万人が帰ってきた
のでしょうか?家康軍のように大将が進むにつれて現地の兵士が参加していった
のでしょうか?兵糧などの兵站は現地徴用でしょうか?
田村麻呂以前の古代の戦争(神武、広開土王、白村江、壬申)の動員についても
知りたいです。よくそんなことできたなぁと。
241 :
日本@名無史さん:02/12/28 12:12
>>240 >坂上田村麻呂
「『往還の間,従者限りなし。人馬給し難く,累路費え多し』と田村麻呂の没時の
伝にも見えるように,大規模な遠征は多くの問題を残し,805年の徳政の論争
によって,平安京造営とともに征夷が中止された」
と事典にありましたから、現地調達や、関東集結軍もいたでしょうが、
この文からは、少なくはない人数を引き連れて言った様子が予測されます。
兵糧は最初は個人もちで、後に現地調達と予測されます。
>神武
神話ですので、わかりません。伝承を信じるなら、各地の豪族と融和したり
連合したり戦闘したりして、少しずつ進んで行ったのでは。年月かけてますからね。
>広開土王
倭(日本西部と半島南部の伽耶の連合体と思われ)と百済らの連合軍ですかね。
大和軍勢・九州軍勢と、伽耶軍勢、場合によっては若狭軍勢が出てるように思えます。
>白村江
九州から水軍が出たんじゃないかな。百済とともに、完敗してます。
海上は火の海。たった2日で完敗でした。
>壬申の乱
大友側は大友氏ら近江の少数の豪族、大海人(天武)側は最初は少数でしたが
最終的には尾張・美濃・三河・甲斐までも引き連れて勝利しています。
これは天武が大海人時代から天智と政治を行っており、人的ネットワーク
と人望があったことと思われます。
242 :
日本@名無史さん:02/12/28 12:15
>>1さん
私は障碍歴約40年の男です。前からこのホームペイジを見ていて不思議に思い
また、憤りをおぼえていた者です。
この掲示板では、feelさん、前の大野氏いずれも障害者としての正当な権利や意
見の主張をしたに過ぎず、それを受け入れないばかりか他の主張も、健常者に媚
び諂い、同じ障害者を援護するどころか、貶めている傾向がある。
過去と現在の障碍者を取り巻く扱いは明らかに不当であり、差別であった事は
火を見るより明らかな事実であってそれを改善するという正義の革命は
今以上に性急に行わねばならない障害者の権利は、これを健常者が無条件で
受け入れねばならず、それに異論を唱えるものはすべて差別主義者であると言
わざるを得ない。
あらゆる物事、結婚、就職、就学などに障碍を理由にして断わられる事はあっ
てはならない
もしそれらを行った場合、その個人または団体に対し、刑事または民事で訴え
られるような法律の整備こそが最優先で、また、障碍者差別をなくす唯一の方
法であると確信しています。
障碍、健常のお互いの理解などは不可能です
健常である事は暴君であり、障碍を得ている者は市民であり、強者と弱者、お
互いにお互いの心など酌みようがないのはあたりまえと言えばあたりまえであり
仕方のないことである。
小生も40代にして、いまだに独身なのは障碍のせいではなく障碍を差別視する
世の中の風潮や、世の中の女性の悪しき思想のせいであることは言うまでもなく、
今まで何人もの女性に自分の偽りのない愛を告白して来たが、みな障碍を理由に
断わられてきたという、あからさまな差別を受けてきたのである。
真のバリアフリーや真に差別をなくすという事は健常者と障碍者が話し合い行う
ものではなく、障害者の要求と要望をすべて健常者と社会が受け入れるべき
なのである、現在のような差別発言や、差別発言を行う者への援護の書き込みは
厳に慎まれたい。
障害者特別性交特権の早期実現を!
243 :
日本@名無史さん:02/12/28 21:33
>>240 241ですが、訂正追加です。
>坂上田村麻呂以前からの戦い
786(延暦5)年に、東日本の諸国に武器・食糧を準備させ、2年後の春には
東海・東山・板東諸国の兵士5万2800余人を翌年3月までに多賀城に集結
するように命令が出てます。
そして、名高い789(延暦8)年の戦いで政府軍はアテルイの蝦夷軍に大敗する。
790年に東日本の諸国に武器や食料を準備させ、東海道は駿河国より東、東山
道は信濃国より東の諸国に革の鎧2000領を3ヵ年で用意しおわるよう綿密かつ長期
的に準備作業している。10万の大軍を動員し、実戦指揮官は副将軍の田村麻呂。
4回目は4万の軍で801年、田村麻呂が征夷大将軍。アテルイ降伏。
ネタ本は「蝦夷の古代史」工藤雅樹、平凡社新書、2001年、です。
244 :
日本@名無史さん:02/12/29 02:49
>243 ありがとうございます。
軍隊の動員、徴用のしかたは古代から中世近世にかけてどのように変化していったのでしょうか?
245 :
日本@名無史さん:02/12/29 12:16
古代は上記のような様子。あと、各地の城柵に常備軍を置き始めている。
平安後期は、陸奥や出羽の鎮守府の地位は、京都軍事貴族の憧れだったそうな。
貿易のうまみもあるしね。地元に勢力部下を作れるし。
平安後期は、京都が東北攻めの力量を失い、前9年・後3年とかは源氏と東国武士と
現地勢力に頼った。源氏が東国で圧倒的カリスマ性をもったのは、この頼義・義家
親子との汗と血をともに流したと言う事実の重み。義家は晩年、一族の内紛に悩んだが。
それを参考にして頼朝は本家本流争いにうるさく、義経を許さなかった。
で、頼朝は奥州藤原を滅ぼし、東北は北条御家人地となる。俗に関東・東北100年戦争だね。
鎌倉期は、将軍が御家人を招集する。御家人は一族郎党を率いて参陣する。
室町期は、守護大名が軍事動員権を持ち始め、幕府が守護に命令。
戦国期は、各地の戦国大名が各重臣に指示(合議の上)。重臣は一族郎党を
率いて参加。
信長・秀吉は、一族郎党に関係なく、機動的常備軍を作ろうとした。
秀吉の兵農分離で、武力層は、各大名の城下町へ。村と切れる。
江戸時代は、幕府が各大名に指示して動員(途中まで絶対命令、第二次長州戦
の頃になると言い訳で断る大名も)。あと、直属の旗本・御家人。俗に旗本6万騎。
明治に徴兵制で近代国民国家軍(実態はエリート指揮官と突撃農民軍)。
戦後は応募制の自衛隊。応募制のほうが強い気がする(CP戦だからね)。
この手の通史ってあまりなさそうだね。各時代をやっつけていくしかないかな?
誰か日本の軍制のまとめてある本があったら教えてあげてください。
246 :
日本@名無史さん:02/12/29 20:00
冬休みage!
247 :
日本@名無史さん:02/12/29 20:37
千利休の弟子について聞きたいのですが
弟子の序列は利休七哲>織田有楽>他の直弟子でOK?
248 :
日本@名無史さん:02/12/29 21:13
赤穂浪士の話が、実は浅野のようなDQNボスを持ったの運の尽きで、藩士がテロリストにならざるを得なかったという解釈がある。
忠魂の壮烈な物語でやっぱり吉良こそがDQNだったのか、はたまた・・・
結局どうなの?
249 :
日本@名無史さん:02/12/29 21:14
250 :
日本@名無史さん:02/12/30 00:11
学者としての良心から自分の名を出すことをこばんだため,解体新書には前野良沢の名は無いらしいんですけど
学者としての良心って何ですか?名前を出すのは学者としてなぜ、いけないんですか?
251 :
日本@名無史さん:02/12/30 00:16
252 :
日本@名無史さん:02/12/30 02:33
>245 ありがとうございます。
律令制で整備しようとした軍団は結局整うことなく終わったと考えてよいのでしょうか?
軍団制の以前は各地域の勢力、氏がもつ領民で(いいのかな)、これは軍団制以後の健児、
また中世の軍隊統制(地域の長が地域民を徴兵する)と類似すると考えてよいのでしょうか?
253 :
日本@名無史さん:02/12/30 13:45
>>248 浅野がきれたからイケンデショ。吉良の意地悪もあったかもしれんが。
>>250 確か、杉田玄白がペンネームで出版してますよね。
幕府のお咎めを配慮してとのことらしいです。
前野もそうではないのかな?
まだ、幕府の正式医学は漢方で、死体解剖は禁止されてましたから。
部落史関係の本によると、解剖の当日、予定の穢多身分の人が病気でこられず、
年配の父親が解剖したそうです。日記には「年の割には颯爽とし」と評価しており、
差別的な感情を持っていた感じはしません。
南千住の回向院に解体新書のレリーフと、近くに首切り地蔵と言うミニ大仏みたい
のがあります。刑場の霊をねぎらうためですね。お近くなら、見学して当時の
雰囲気を味わうのもいいかと。南千住駅のすぐ近くです。
回向院にはネズミ小僧と、吉田松陰以下長州志士数名の墓もあります。
254 :
日本@名無史さん:02/12/30 14:08
>>252 律令制の兵制は一応はそろい実践もされましたが、実情的に無理があっ
たため、長持ちはしませんでした。
例えば防人は、後には九州だけから徴集となり、さらに北九州と隠岐と
対馬になり、最後は対馬だけになってます。中国式を社会基盤が伴って
ないのに無理に日本に導入した歪みが出たと思われます。
大和国家の未成熟段階では、各豪族が私民を有し蘇我氏や大伴氏が自分の
軍団を持っていました。
成熟してくると、氏と姓で、軍事担当や財政担当を分担しました。
いわゆる氏姓制度ですね。ただ、この段階でも私兵は有していたと思います。
各豪族は武闘グループを有し、いざと言う時は、これを核として私民を
動員したと予想されます。健児より小規模と思います。
中世戦国大名の動員は、各地の有力在地武力家の一族郎党の動員ですから
国人層でなかった農民は、兵糧米徴収などされましたが、農業をしてたも
のと思われます。
255 :
日本@名無史さん:02/12/30 17:00
律令制は中国ではよく実情にあって機能したのでしょうか?
そのとき、日本と中国で農村社会の構造にどのような違いがあったのでしょうか。
一族郎党の動員、国人層の動員ということは、農村人口に対する動員可能数はかなり少な
いと考えてよいでしょうか。一般に、時代が下り農業生産力の向上に伴って、農村地域から
(例えば1000人に対して)動員できる兵員数は増えていったとしてよいでしょうか。
256 :
日本@名無史さん:02/12/31 01:27
高木 俊輔 ・渡辺 浩一編著
日本近世史料学研究―史料空間への旅立ち
この本を編集された
高木俊輔氏と渡辺浩一氏のくわしい経歴と今は何をしているか教えてください
高木氏って勘違いかもしれませんが昔明治大学で教授か講師してたと思いますが・・
記憶があいまいでつ・・
よろしくおねがいします。
257 :
日本@名無史さん:02/12/31 11:21
>>255 中国のほうが実情にあっていたようです。社会生産力の違いかな。
そもそも、中国社会の現状を見て、発生したのが律令制ですから。
ただし、唐も後半には、乱れてきているようです。観念的なのかもしれません。
中国でも郷村のようなものが発達したそうですが、詳しくありません。
農民からの動員は、あまり多くなかったと考えられます。
ある意味では、重要な食糧生産のライフラインですから。
ただ、次男三男が足軽化することはあったようです。
生産力の向上もそうですが、余剰人口の増加も関係あるのでは。
258 :
日本@名無史さん:02/12/31 11:45
>>256 ◎高木 俊輔<立正大学大学院・史学科>
・専攻分野
明治維新史 民衆生活史研究
・研究テーマ
@明治維新期の志士に関する研究
A豪農および地方名望家の存在形態とその学問受容に関する研究
B農民生活史研究、とくに農民日記および日記史料を通して
C史料学および記録史料研究
・担当科目
1.日本史特講(2)
2.(博)研究指導
259 :
日本@名無史さん:02/12/31 11:46
◎渡辺 浩一(わたなべ こういち) <国文学研究史料館助教授>
専門分野 日本近世史
研究内容 都市の社会構造
最近の研究テーマ 近世都市の社会集団の研究
研究業績 −著書・単著−
・近世日本の都市と民衆−住民結合と序列意識−,350頁,(吉川弘文館,東京)(平11)
−著書・共著共編−
・城下町仙台における町共同体と町役人序列, 22(233-254)(渡辺信夫編:
『近世の生活秩序と社会』, 河出書房新社, 東京)(平7)
・近世都市の史料管理儀礼と由緒, 31(265-295)(吉田伸之・久留島浩編:
『近世の社会集団−由緒と言説−』, 山川出版, 東京)(平7)
・近世都市高山における「町方」文書の保管構造,31(195-225)
(『日本近世史料学研究』北海道大学図書刊行会,札幌)(平12)
−学術論文−
・在町.,岩波講座日本通史12.近世2:22(347-368)(平6)
・*近世城下町における町と仲間.,年報都市史研究2:11(26-36)(平6)
・近世都市における宝蔵と文書「管理」.,史料館研究紀要28:32(119-150)(平9)
−総説・解説・評論等−
・在方町の都市構造を探る.,『新視点日本の歴史』5,6(166-171)(平5)
・日本近世史料学研究の現状と課題,10(1-11),(『日本近世史料学研究』
北海道大学図書刊行会,札幌)(平12)
・史料空間論への旅立ち,5(521-525)(同上)
・首都論と都市政策.(51-55),(『日本史研究』477)(平成14)
−学術講演・学術特別講演−
−学術講演・国際的、全国的規模のシンポジウム−
受賞歴
所属学会 東北史学会,歴史学研究会,都市史研究会,建築史学会,
宮城歴史科学研究会,東京歴史科学研究会,日本史研究会,交通史研究会,
比較都市史研究会,関東近世史研究会
260 :
日本@名無史さん:03/01/01 12:57
新年アゲ\(^O^)/
>>258-259 どんな方法で調べたんですか? ネット?
高木さんは草莽研究の本があるのに、何で高木さんだけ簡略?
>>261 googleで「(日本)近世史 渡辺浩一」で検索した。高木さんのは、大学の教員
紹介のサイトだった。もっと、粘れば出てくるかもよ。姓と名前に空欄空けちゃ
ダメね\(^O^)/ネバレー。
263 :
日本@名無史さん:03/01/02 11:01
1940年ごろの、日本軍の中国からの実現しなかった「撤退案」について知りたい
のですが、教えてください。
264 :
日本@名無史さん:03/01/02 11:07
吉備国造は旧国名でいうと備前中後・美作の四国を治め、
毛野国造は上下野の二国、
火国造は肥前後の二国を。
一方で出雲国造の版図は、ただでさえ狭いあの出雲一国だったのでしょうか?
265 :
日本@名無史さん:03/01/02 11:38
>>264 律令制下の出雲国は,出雲地域国家を継承したが,中央から来任する国司
とは別に出雲国造が任じられて,出雲大社・熊野神社をはじめ国内諸社の
祭祀に当たりつづけた。
この点,出雲国の特殊性を物語っている。出雲国には意宇,島根,秋鹿,
楯縫,出雲,神門,飯石,仁多,大原の9郡がおかれ,10世紀前半までに
意宇郡東部を割いた能義郡が加わった。
出雲国に来任した国司で最初に確認できるのは708年(和銅1)の忌部子首
(いんべのこおびと)である。
と、あった。ちょっと特殊地域だからね。一国だったでないのかな?
266 :
日本@名無史さん:03/01/02 15:24
>>263 コピペだが
↓
781 :日本@名無史さん :03/01/02 11:48
>780
40年11月13日の御前会議で決定した「支那事変処理要綱」のことか?
これは完全撤退案ではなく、長期戦移行を認めるとともに、占領地域を縮小、
在中兵力の縮小して国民の負担を軽減するという意味を持っていた。だが、
之に対して軍、特に現地部隊から強い抵抗があった。会議席上、近衛首相が
「占領地は相当整理されるべき」に対し、杉山総長「急激な態勢の変化は
敗戦感を起さしめ、内外に影響がでる」と反対。撤兵は実現できなかった。
267 :
日本@名無史さん:03/01/02 20:02
治安維持法について、門外漢にも分かるよう
解説したHPあったら教えていただけませんか?
検索してもあまりに膨大で……
268 :
日本@名無史さん:03/01/02 23:42
非村抜刀斎は実在の人物なんですか?
269 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:37
すみません
忠臣蔵とか永代蔵の蔵ってどーゆー意味ですか?
というか、どういう経緯で物語の意味になるんでしょうか?
前言撤回。物語の意味はないよう。内蔵助の蔵か?
271 :
日本@名無史さん:03/01/03 13:08
272 :
日本@名無史さん:03/01/03 13:22
源義家によって「七代のちに生まれ変わって天下をとらん」とされていた足利家時。
彼は何故自殺をしたのでしょうか?
天下なら、すでに義親流の六代目の頼朝が将軍になっていたからそれでよしとは思わなかったのでしょうか?
そして彼もまた「三代のちに天下を」と遺しますが、結局将軍になったのは二代後の尊氏。
とことん報われていないような……。
274 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:38
275 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:40
>273
その話自体が逸話。
真実の理由は他にもとめるべし。
276 :
日本@名無史さん:03/01/03 17:26
267
>>272 治安維持法について、分かりやすくも詳細なページ教えていただいて
本当に感謝です! がんばります。
277 :
日本@名無史さん:03/01/03 19:28
>>273 説話では京都公家好きになった家時に重臣が秘密の「7代後に〜」の文書を見せ、
その晩に自殺と言われますが、こういう文書って家督相続や元服の時に見せると思うが。
↓で、これが真相だとの説があります。
http://www9.big.or.jp/~hiroshi1/kamakuran.htm >更に二代後の足利家時は、美作国所領を高野山と争い敗訴、義氏以来の所領を
>失ってしまう。
>その後家時は、頼朝より始まった源氏の鎌倉政権が、平氏である北条家に専横
>されている事に絶望し、自害したと伝えられる。
>後世足利一族の今川了俊が「難太平記」で語るには、このとき家時が、「足利
>が天下を取る」と宣言した置き文を子孫に託し、これを見た孫の尊氏と直義が
>天下取りを志したという事である。が、とっても嘘くさい。
>ただ、こういう見方はできるかも知れない。
>足利歴代当主は全て北条氏を母に持っているのだが、家時と尊氏&直義のみは
>側室上杉氏から生まれている。北条の血の薄い当主同士(しかも母方は同じ上杉氏)、
>世代を超えて通じるものがあったのかも。
>母の実家が違えば、裏切りも心理的にやりやすい筈ではないか。
>家時の不審死の真相は、北条子飼の武将平頼綱と安達泰盛が対立、
>敗戦した安達氏が滅亡した霜月騒動(1285)に連座したのではないか、
>との説がある。
平頼綱は平氏? 既出か
279 :
日本@名無史さん:03/01/04 12:59
平氏かもしれんが、北条得宗家の身内人。
↓
鎌倉後期の武士。左衛門尉。得宗御内人(とくそうみうちびと)。
執権北条時宗の時代に安達(あだち)泰盛と幕政を二分したが,1285年(弘安8)の
弘安合戦(霜月騒動)により御家人(ごけにん)勢力を代表する泰盛を滅ぼした後は,
若年の執権貞時を擁して幕政を専断した。しかし,93年4月22日,貞時は討手を
経師ヶ谷の頼綱邸にさし向け,頼綱,次男飯沼助宗をはじめとする一族は滅びた。
280 :
日本@名無史さん:03/01/04 13:41
>>278 源平藤橘のどれと言われたら、平氏は確かだろうね。
>>279 得宗の御内人だどうだはだれも聞いてないのだが???(w
壇の浦以後、平氏は居心地は悪かったんじゃないのかな?
それとも血は平氏流でも政治的に頼朝方についていればいいわけか。
282 :
日本@名無史さん:03/01/04 23:08
1515年に蛎崎光広が蝦夷反乱征伐をしているが
彼の家系と当時の地位をおしえて下さい。
283 :
日本@名無史さん:03/01/04 23:21
>>281 すいません、北条一門も平氏だということを忘れてないすか?
安達や三浦やら、みんなそうですが。なんか、まずいっすか。
283をふまえて、
北条氏は血統は平氏だけど政治的に源氏方につくという生き方ができたわけですね、
それについては頼朝や当時の人はどう考えていたんでしょう?
285 :
日本@名無史さん:03/01/04 23:42
関東における頼朝支持基盤というのは大半が平姓の武家だったと思いますが。
それがいやなら頼朝は無抵抗のまま殺される以外の選択肢はなかったと思います。
選択の余地はないのでは。どう思っていたかは本人しかわからないと思います。
鎌倉御家人たちの間で矛盾は感じられていなかったわけですね
287 :
日本@名無史さん:03/01/05 01:51
ほんとにくだらないことで恐縮なんですけど、
歴代総理大臣の覚え方で、
「むすんでひらいて」にあわせて、♪いくろのやまはてんかのけんまついまつい・・・
ってやつを最後までわかる方いらっしゃいませんか?ぜひ教えてください。
もしもしかめよの節で、殷周秦漢三国晋♪って歌うのは聞いたことがあるけどね〜
実際の「源平の戦い」は保元・平治の乱で終わり、
のちの頼朝が統一するまでの戦いは「平氏本家対その他大勢(源氏+坂東平氏+藤原氏+……)という見かたが出来るそうです。
290 :
日本@名無史さん:03/01/05 10:41
>>282 蠣崎氏
中世の北海道渡島(おしま)半島の和人の豪族。江戸時代の松前藩主松前氏の祖。
もと下北半島田名部(たなぶ)の蠣崎(現,川内町)におり,15世紀の中ころに渡道
したものという。若狭国守護武田氏の一族というが,陸奥国南部氏の一族という説もある。
15世紀の道南には館主(たてぬし)といわれる小豪族が割拠しており,それぞれ
小河川の河口に館を築いて,アイヌ人と和人との交易を支配していた。
蠣崎氏もそのひとりで,上之国(かみのくに)の花沢館主であった。
1457年(長禄1)のコシャマインの戦にはじまる道南の戦国争乱の中で,
しだいに道南の統一者としての地位を固め,1514年(永正11)居を大館(松前)に移し,
93年(文禄2)豊臣秀吉から商船に対する独占的課税権を公認された。
99年(慶長4)苗字を松前と改め,ついで1604年徳川家康から秀吉のときとほぼ
同様の権利を認められ,北海道唯一の大名として幕末に至った。
中世の蠣崎氏については,《新羅之記録》など江戸時代の編纂物以外によるべき
史料がなく,不確かなところが多い。(大石 直正)
291 :
日本@名無史さん:03/01/05 12:50
>>289 伊勢平氏を平氏本家とは聞き捨てならぬ!!!!(w
292 :
日本@名無史さん:03/01/05 12:55
平氏の方ですか?w
え〜前から疑問に思ってたんですが、柳生一族、特に柳生但馬守宗矩って
小説、映画等でえらいイメージ悪いんですがw、本当にあーゆー権謀術数の人
だったんでしょうか?
柳生が起こした実際にあった事件、もしくは悪役としての柳生のイメージを
決定付けた作品なんかを教えてもらいたいんです。
どうかよろしくお願いします。
>291
確かに「平氏本家」という言い方は誤解を招きますね。
これはすみませんでした。
瓶子の首を折りますのでお許しをば。
295 :
日本@名無史さん:03/01/05 22:53
ちょうどNHKで宮本武蔵をやっていたときの
漏れと先輩の会話なんですが、
ちなみに漏れは、歴史は中学くらいから放棄するほど苦手です。
漏れ「宮本武蔵って戦国末期の人ですよね?小説なんかでは有名ですけど、
歴史で名前あんまり出て来ないですよね。そんなに剣術に秀でてたんだったら、
50年早く生まれてたら歴史に名前が残ったんじゃないですかねえ」
先輩「それは違う。剣術なんかが重要視されたのは○○(人名失念、将軍かな?)以降の話で
それまでは剣術なんかに秀でてても有名になれなかった。」
漏れ「そうなんですか?でもほら、剣術だけじゃなくて、なんて言うんですか?
戦術?軍師みたいな。そんな感じで、武将として有名になったんじゃないですかね」
先輩「それでも無理」
これ、どうなんですかね。
それだと、秀吉とかはどうなるんですか?
どなたか実際のとこをご教授お願いします。
296 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:10
>>295 所詮たらればの仮定の話だからなんともいえんけど
武蔵と秀吉を同じに見るのはとっても変。
剣道の名人と戦争の名人を較べてるんだよ。
○○が誰を指すのか分かりませんが、
〜関ヶ原、〜大坂の陣あたりまで求められていた人材は
槍先の武功に長けた武者よりも戦場で部隊を進退させる事に長けた高級士官です。
298 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:12
秀吉の場合、戦人と同時に政治家としても有名なわけだけど。
299 :
ネオ麦茶R:03/01/05 23:32
ところで明治時代のいつから苗字・名前の2つだけになって通称・幼名が無くなったんレスカ?
それと東郷平八郎は実良が名前なのに通称の平八郎で呼ばれるのは何故レスカ?
宜しくお願い致します。
300 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:37
>>299 明治5年だったかに法令が出て以降と思ったけど忘れた。
名字と氏、通称と幼名と実名をそれぞれ一つに決めなければならなくなった。
戸籍に登録するときにどっちにするかを選んだだけのこと。
すいません。書き方が悪かったです。
秀吉と武蔵を同列に並べてるわけじゃないんです。
結局、先輩の口調が
「いかなる能力があろうとも、それなりの家の出でない限り
表舞台に名前が出てくることはありえない」みたいな口調だったので、
「?」と思った次第です。
302 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:54
>>301 そういうことなら、そうだろうけど…
ただ、295のやりとりを読む限り、先輩が
「いかなる能力があろうとも、それなりの家の出でない限り
表舞台に名前が出てくることはありえない」
と言ってるようには全く読めない。
303 :
日本@名無史さん:03/01/06 09:25
日本で、律令制が正しく機能していた時期などあったのでしょうか?
制定と同時に地方豪族、のちに藤原氏の干渉を受けまくっていたような感じがあるのですが。
304 :
日本@名無史さん:03/01/06 11:40
305 :
日本@名無史さん:03/01/06 11:50
>>303 >大和政権以来の中央有力豪族層は五位以上の上級官人を世襲的に再生産
>しうる貴族階級としての地位を維持しつづけたのであり,そこに位階制
>に基礎づけられた律令官僚制の本質が存在した。
最初からダメボという感じですかね。
701年の大宝律令で一応の完成といわれるが、723年には、もう三世一身の
法ができてるしね。墾田永年は743年か。奈良時代にはもう変質してますね。
まだ、発展途上の日本の生産力・社会構造が、中国の律令制に追いていけなかった
とは、よく言われてるけどね。
>>301 おいおい、秀吉はそれなりの家の出じゃないぞ。
307 :
日本@名無史さん:03/01/07 20:58
>日本の生産力・社会構造
が中国とどのように違っていたのか説明してくれる人いませんか?
魏晋から隋唐にかけての均田制も、安史の乱後に両税法がとられて
大土地所有が展開されていきますよね
309 :
日本@名無史さん:03/01/08 00:28
日付変わってしまいましたが七草粥についてお聞きします。
元々旧正月の頃、野原で摘んだ若草を用いたそうですが、
新暦に切り替わった明治から、温室栽培が一般に普及する現代までの間、
この風習があった地方は新暦の1月7日に七草粥を食せていたのでしょうか?
質問です
平泉澄って言う歴史家は学界ではどういう評価ですか?
311 :
日本@名無史さん:03/01/08 01:21
>311
レスありがとうございます。早速書き込んで来ました。
313 :
日本@名無史さん:03/01/08 11:15
>>307 :日本@名無史さん :03/01/07 20:58
>>日本の生産力・社会構造
>が中国とどのように違っていたのか説明してくれる人いませんか?
租調庸雑役兵役に耐えられるほど農民の生産力が発達してなかった。
中央集権の形だが、旧豪族が私有地を離さなかった。
などでは、ないでしょうか。
>>308 :日本@名無史さん :03/01/07 21:04
>魏晋から隋唐にかけての均田制も、安史の乱後に両税法がとられて
>大土地所有が展開されていきますよね
それを考えると、隋唐でも始めはよかったが、私有地制への流れは
歴史の必然かもしれませんね。ただ、特に初期の唐の盛力を支えたのが律令制
という面もあるのでは。
314 :
日本@名無史さん:03/01/08 11:21
>>310 >平泉澄
根っからの皇国史観学者とも言われたり、迎合主義者と言われたり。
敗戦直後、公職追放を意識して、「追放はいやじゃ自分から去る」と言って、
リヤカーに本を積んで研究室を出て行った逸話は有名。
潔いと言うより、無責任な学者だった印象を受けるがな。
>>300 激しく感謝感謝。有り難う御座います。
重ね重ね申し訳有りませんが、名字と氏はどう違うんですか?
>313 律令制=中央集権(皇帝主権、天皇主権)でしょ
公地公民自体がムリのある体制、というか強い力で抑えてないと維持できない体制なのでは?
律令制以前と律令崩壊後の豪族割拠と豪族土地私有が本来の(ムリの少ない)状態で、全土地と
全個人を中央が掌握するというのは大きなエネルギーが必要で息切れしてしまうのでは?
317 :
日本@名無史さん:03/01/09 10:48
>>315 過去にも同様な内容がたくさんあるし、検索すればすぐわかると思いますが、
時代によって定義は違うので、ここでは簡単にいうと
例えば徳川家康は
苗字は徳川
氏は源
となります。
318 :
日本@名無史さん:03/01/09 11:40
>>316 そうですね。実際には、日本には一度も律令は根付いてなかったのでしょうかね。
天皇権力が、そこまでいってなかったというか、もともと連合政権だったからですかね。
319 :
日本@名無史さん:03/01/09 12:53
江戸時代の幕府の貿易相手なのですが、イギリスは致命的な損失を出して、
オランダと競合せずに去ったと聞きましたが。
その、原因は何だったのでしょうか。教えてください。
320 :
日本@名無史さん:03/01/09 18:14
突然、割りこんでごめんなさい。
別のスレで、「シュシムトウ」という言葉を見かけたんですけど、
これってどんな意味なんですか?
321 :
日本@名無史さん:03/01/09 19:15
>>320 「シムシュトウ」なら分かるが(w
前後関係くらい書け
322 :
日本@名無史さん:03/01/09 20:04
323 :
日本@名無史さん:03/01/09 20:29
>>322 それなら、そのスレで御本人に聞きなさい(w
本人の記憶違いということもある
ああ、分かった
あれよ、市長になって町を作るゲーム
>>323 スレタイがスレタイだけに、顔を潰すことになりませんか?
>>324 あはは、それならわかります。(^_^)
326 :
日本@名無史さん:03/01/10 11:07
327 :
日本@名無史さん:03/01/10 12:33
「シュムシュ(占守)島」のことだよ。きっと。一発変換できないもん。
単語登録しとけば出るけどねw。
すみません、首吊りAAありませんか?
昔の恥をさらされて鬱なんですけど。
330 :
日本@名無史さん:03/01/10 19:33
331 :
日本@名無史さん:03/01/10 19:34
>>321 >>327 ありがとうございます。
地図帳と辞書で確認したら、「しゅむしゅ」でも「しむしゅ」でもいいみたいですね。
ここ2〜3日もやもやしてたものがすっきり解消しました。
漢字で見ると一目瞭然。漢字とカナで受ける印象ってこれほど違うものなんですね。(@_@)
>>328-329 「おろおろ・・・」
333 :
日本@名無史さん:03/01/11 12:53
>>330 ありがとうございました。
こんなのもありました。
>単純にイギリスよりもオランダやポルトガルのほうが東アジアの貿易拠点を
>もっていたために仕入れたい商品が思うように日本に持ち込めた。
>また東アジアの貿易に詳しい人間が平戸の商館員にいなかった。
>唯一の頼みの綱である三浦按針はオランダ商館と兼務していたので対立していた。
>それでもイギリス側は按針と契約して日本向けの商品を仕入れさせようと試みる
>も航海の失敗が相次ぎ、按針も出向先でマラリアをもらい、そのまま死没。
>その2年後オランダに勝てないまま撤退。
航海の失敗ってなんでしょうかね。
すみませんが、私の機械だとアドレスに入れないんで、
アドレスをコピーして、張ってくれるとは入れるんですが。。。
335 :
日本@名無史さん:03/01/11 13:26
栄養失調になったのは事実のようですね。ただ、その後、食べてるようです。
このサイトでは、朝日の偽造としてますが、
息子が肯定と否定の両方してると紹介しています。
>尊法精神に乗っ取りヤミ物資を拒絶し栄養失調に陥ったのは事実であるが、
>静養のために帰郷したのちはヤミと知りつつ米やイモを食べ養生している。
>上記文を読めば、判事の文としては実に青くさい。国民を餓死から救いたい
>と言いつつ法の改正なりを訴える訳でなし、後半は同僚に妻への愚痴。
>果たして死に望む者がこのような文を書くのだろうか?。高潔な判事と
>して伝説にもなった山口判事であるが、食料管理法を食料統制法と誤記
>していることから朝日新聞によるねつ造の可能性が高い。
>昭和63年、遺児の山口良臣が雑誌「諸君!」にて山口伝説を否定する
>文を寄稿。毎日新聞編纂の「昭和史全記録」では「諸君!」の寄稿につ
>いて短い紹介をしている。
>しかし・・昭和59年に発行された「歴史と人物」6月号(中央公論社)
>において同氏は肯定的な文章を書いている。このわずか4年間に生じた
>彼の心境の変化とは何だったのだろうか?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/yamaguchi.html
336 :
日本@名無史さん:03/01/11 13:55
妻の証言だと死んでるね。どうなんだろう。
栄養失調になったのは確実だね。
>昭和二十一年のある時、彼は夫人にこう言いました。
>おまえと子供たちのために闇の食糧を求めるのはかまはないが、
>自分には配給物資以外のものは食べさせないでくれ。
>夫人によれば、それ以後法に触れずに手に入った食糧である実家から
>の差し入れのうち、特に米の大半は子供たちに食べさせ、
>判事と自分には塩水以外に口にするものが無かった日々もあったと、
>後で語っていました。自己の信念を守り抜いた末に、
>判事は遂に壮烈な餓死を遂げましたが、
>昭和二十二年十月十一日のことでした。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwhy1010/hp-3-1.htm 読売にも載ったようだね、朝日がどうのとは言えないね。
>ネットで検索した結果、讀賣新聞記事により詳しい情報があった。それによれば、
>・山口判事の死因は栄養失調から肺結核にかかったためらしい。
>・長男の良臣さんは。「父は、悪法であることを世に知らしめようと
>いう気はなかったと思う。むしろ、個人的な生き方、倫理のようなものによる
>行動だったはずだ」と語っておられる。
http://www.wafu.ne.jp/~hasep/_1/10/11.htm
337 :
日本@名無史さん:03/01/11 16:30
日本では馬車が普及した時代はあったのですか?
江戸時代は軍馬としての馬の保有数が制限されていた、などが考えられ
ますが、その他の時代でも民間レベルの交通手段として馬車が用いられて
いなかったような印象を受けます。
平安時代は牛車がありましたが(これも謎)。
(^^)
>>337 日本は高温多湿のため馬が育てにくく、西国では合戦の際互いの馬を攻撃してはならないという取り決めがあったほど高価なものであった。
道が整っていて、比較的平坦な京都では温帯でも育つ牛が貴族の乗用に使われていた(東南アジアなどでは今でも牛車が使われている)。
が、これも牛乳や牛肉を食用にしないようになって価値が下落し、飼育頭数が減ったことなどから、やがて輸送用には用いられなくなった。
街道が整備され、牛馬の飼育頭数の増えてきた江戸時代になると、今度は幕府の法令により工業開発が制限されてしまったため、馬車・牛車用の有効な車具を作ることができなくなり、輸送はもっぱら水運に頼ることになった。
維新以後、日本は世界有数の鉄道大国・自動車大国になったが、これは古代以来の車輪コンプレックスが原因なのかもしれない・・・。
340 :
日本@名無史さん:03/01/12 01:22
>>339 へー。そうなんだ。おもしろい。ソースきぼんぬ。
特に「西國では〜」のソース。
近代でも牛車は使われます。
飛行機の輸送とか。(比較的手に入れやすい本だと『日本軍小失敗の研究』なんかにも書いてある。)
たった今うちの親父と激しく口論になったんですが、
親父曰く「真珠湾には零戦で体当たり攻撃した」だそうです。
自分の記憶では真珠湾への攻撃は航空爆撃で
神風特攻隊はもっとあとだと思うのですが…。
ほんとのところどうなんですか?
342 :
日本@名無史さん:03/01/12 01:35
なわきゃねーだろ!
343 :
日本@名無史さん:03/01/12 01:36
夜中に糞くだらねぇ口論すんなっつーの! うんうんって言っとけ!
オヤジを大切にな
344 :
日本@名無史さん:03/01/12 01:39
>>341 神風特攻隊でないのは確かだ。
個人的に体当たりして戦死したやつはいたかもしれんが
345 :
お答えありがとうございます。:03/01/12 01:54
何でこんな事になったかと言うと、北鮮関係のニュースを見ていたら
日本人と朝鮮人は思考がそっくりだとか
昔の日本は特攻するような気違いだったから
北鮮も何するか分からない。とか言われてムカついてたんですが
真珠湾に零戦で特攻したんだ。新聞にも載っていた。
と言われてそれは違うだろうと。やっぱ違いますよねぇ。
346 :
日本@名無史さん:03/01/12 02:37
岩佐中佐(当時大尉)率いる特殊潜航艇部隊は特攻的だが。
かろうじて自尊心を保てる相手が自分の息子か・・・( ´・ω・`)
348 :
日本@名無史さん:03/01/12 16:59
9軍神ですか。一人捕虜になったけど、ふせられてたとか・・・。
349 :
日本@名無史さん:03/01/12 17:05
>>340 ソースじゃないけど、西国の馬は小さいよね。
東国の馬は大きくて強い。将門軍団持ち出すまでもなく、
東国・あとからは東北も、は日本の馬の生産地だったね。
今も、岩手や北海道に名馬が多い。
350 :
日本@名無史さん:03/01/12 18:13
律令時代から、馬は東日本の産物だったようです。
関東の地名で、牧場の「遊馬(あすま)」とその世話をした役所の「舎人(とねり)」
というのがあります。
西日本は武士と言うより武芸者と言う感じ。親が死ぬと葬式してから出陣。
東国武士は、親の死体を踏み越えて戦うと、何かの古文にありましたね。
東だと、馬でも狙い放題、かつ手段を選らばない感じだったような。
351 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:25
神社の分社を造るにはどのような手続きが必要だったのでしょうか?
352 :
日本@名無史さん:03/01/12 19:48
>>350 >西日本は武士と言うより武芸者と言う感じ。親が死ぬと葬式してから出陣。
>東国武士は、親の死体を踏み越えて戦うと、何かの古文にありましたね。
>
網野さんの『東と西の語る日本の歴史』あたりにでてくる話ですね。
史料は、『平家物語』巻五「富士川の事」の一節です。なお、川合康
『源平合戦の虚像を剥ぐ』によれば、これには、平家がこの富士川の
合戦で、水鳥の羽音に驚いて逃げる(これは史実)へつなぐ(敗北を
予感させる)ための脚色がみられるとのことです。
あと、江戸時代の京都や江戸では、荷物運送用に牛車が使われてま
す(『日本の近世』6<情報と交通>p38以下)。
353 :
日本@名無史さん:03/01/12 20:20
>>349 阿蘇とか、西日本にも馬の産地はあります。
それと北海道の馬産は近代に入ってからでは?
一応、初心者スレなんだから、
>>352のように出典をいつでも準備できるようなことを書き込みましょう。
354 :
日本@名無史さん:03/01/12 20:31
>>345 零戦ではなく潜行艇での特攻はあったと聞いたことがあるような。
飛行機に関しては、被弾して体当たりしちゃった零戦なんかを
新聞でさもかっこよく「特攻」とか書いて美談にしたとかいう
こともあるかもしれないよ。
355 :
日本@名無史さん:03/01/13 01:40
>345
確か、特攻攻撃の始まりはレイテかルソンだったはず。
休み明けに学校に行った時に資料借りてくるので、
ソースはもうちょっと待って下さい。
356 :
日本@名無史さん:03/01/13 09:34
特攻はレイテが始まり
大西龍治郎が考案
357 :
日本@名無史さん:03/01/13 14:07
「九軍神は語らず−真珠湾特攻の虚実−」
著者:牛島秀彦 出版:光人社
という本があるようだが内容は知らない。
特攻を狙ったわけではなくとも、そういうふうにまつりあげられて
新聞に載ったり、てことはあったんじゃないの?だから、345「新
聞に載ってた」まで、全く否定できるかはちょっと疑問。
>>357 それは特殊潜航艇甲標的のことだな、特別攻撃隊であっても
いわゆる後の特攻とは意味が違う。
359 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:43
>>358 >昭和17年3月6日、海軍省と大本営が対米開戦のときに真珠湾攻撃に参加した
>特殊潜航艇の九軍神のことを発表。
新聞発表は真珠湾から3ヵ月後だね。軍神として発表してる。
ちなみに、「海ゆかば」がラジオニュースで流された初出だそうです。
360 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:47
>>353 阿蘇も放牧してますね。ただ東の馬のほうが、立派なのは事実では。
北海道は近代ですね。失礼しましたm(_)m。
>>352さん、フォローをありがとうございます。
361 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:57
>>351 明治以前は、実力者・権力者が発案・実現したようです。
明治以後は権力に操作され、田舎の氏神も系列化されたようです。
戦後は、神社本庁の許認可ではないでしょうか。以下、事典より。
>明治時代になって,政府は神梢官を再興し,官国幣社の号を復し,
>府県社,郷社,村社などの社格を定め,その崇敬と維持を道徳の基本
>として,国民に強要した。他方,私人がその邸内などに勧請設置した
>分社や小祠の類はこれを神社とは認めず,一般公衆が自由に参詣しうる
>ことを神社の要件の一つと定め,また神社は必ず府県の社寺課に備えら
>れた神社明細帳に登録されるべきものとした。
>第2次大戦の後,神社はすべて国家もしくは自治体のいっさいの保護援助
>をも受けることを止められ,仏教の寺院やキリスト教の教会などと同じく
>一つの宗教団体として取り扱われるようになった。現在のところ全国の
>多くの神社を統合した神社本庁という組織が一つの宗教法人となって
?活動しており,少数の神社がそれに加わらず別の宗教法人となっている。
362 :
日本@名無史さん:03/01/15 13:46
age
363 :
日本@名無史さん:03/01/15 15:04
「名将言行録」に、書かれてある事は、どの程度まで信用できるのでしょうか?
364 :
日本@名無史さん:03/01/15 15:32
>363
漠然とした質問なので、「ある程度」のとしか答えられない。
まじめに答えると、
逸話集なので、現在の小説と同様と考えましょう。
>>364 あ、どうも。
現在の小説と同様という事は、これをもって歴史を語る事はできない
と言う事ですね。
まあ、話の種にはなるという風に理解しておきます。
遅レスですみません。ありがとうございました。
367 :
日本@名無史さん:03/01/15 21:05
戦国時代の剣術の流派について質問いたします。
徳川家康は、柳生宗厳に入門して柳生新陰流の兵法を伝授され、
これ以後、柳生氏は徳川将軍家の剣術指南役になります。
↑家康の場合は、よく知られていますが、たとえば織田信長は何流の剣術なのでしょうか。
また、他の戦国大名の場合はどうでしょうか。
つまらない質問ですみませんが宜しくお願い致します。
(^^)
369 :
日本@名無史さん:03/01/16 09:03
山崎渉のスクリプトをやってる馬鹿をアクセス禁止にしてください。
沈んでたスレを引き揚げて、現行のスレを沈めちまいやがった
370 :
日本@名無史さん:03/01/16 11:43
>>367 質問以前に知識が不足しています。
大名家に剣術指南なるものができたのは江戸時代です。
戦国時代は、基本的に剣術そのものは確立していません。
剣術の流派に興味のあったのは一部の大名だけです。
>>370 >剣術の流派に興味のあったのは一部の大名だけです。
↑ その一部の大名についいてお教え下さい。
372 :
日本@名無史さん:03/01/16 11:53
>>371 江戸徳川とは少し意味が違うけど、足利義輝ぐらいじゃないかな?
373 :
日本@名無史さん:03/01/16 14:04
>>367 戦国時代、剣術そのものに興味のあった大名クラスは
足利義輝、徳川家康、北畠具教くらいでしょう。
370さんによれば、
剣術の流派は確立してないようでが、
では、信長や秀吉などの戦国武将は誰から剣術を教わるのでしょうか。
将軍義輝が、上泉信綱から剣術を教えられたと云われていますが、
そのような史料があるのでしょうか。
375 :
日本@名無史さん:03/01/16 15:00
376 :
日本@名無史さん:03/01/17 12:41
秀吉は「いわゆる剣術」はできないんじゃないか?
>>367 そもそも大名クラスが剣術やるのって奇特なことだろ。
んで、そんな奇特な徳川家には柳生だけが有名だが、他に小野一刀流という剣術師範もあった。
あと細川幽斎も誰かから教えてもらってたと思う<<まあ、これは資格マニアみたいなもんだな
気になったんでググッたら幽斎の師匠は朴伝らしい。
んで、以下のようなものを見つけたのでコピペ。
東郷重位(とうごう しげかた) 1561〜1643 ☆
島津氏家臣で通称藤兵衛、長門守のち肥前守を称す。
薩摩坊泊地頭で剣術薩摩示現流(初期は日天真正自顕流)の開祖。
義久・家久に仕え、 薩摩藩および家久の剣術指南役になった剣豪武将。
富田重政(とだ しげまさ) 1554〜1625 ☆
前田利家家臣。富田流剣術の達人で「名人越後」の異名を持つ加賀藩の剣術指南役。
利家・利長・利常三代に仕え、武将としても優れた人物で、剣豪武将としては破格の13500石に封ぜられた。
富田勢源(とだ せいげん) 1523〜 ?
越前の中条流剣豪。眼疾のため家督を弟の景政に譲り、富田流を創始した小太刀の名人。
美濃に立ち寄った際、当時の国主斎藤義龍の剣術師範・梅津某との立ち会いが知られている。
宝蔵院胤栄(ほうぞういん いんえい) 1521〜1607
僧名覚禅坊の奈良興福寺塔頭(たっちゅう)・宝蔵院院主で、
十文字鎌槍を独自に考案したと伝えられる宝蔵院流槍術の開祖。
俗称は伊勢伊賀守。刀術もひとかどのもので、友である柳生宗厳とともに上泉信綱に師事した。
門下に「笹の才蔵」の異名をとる可児才蔵吉長らがいる。
疋田景兼(ひきた かげかね) 1527〜1605
通称文(豊)五郎、号は小伯(虎伯とも)。晩年には栖雲斎(せいうんさい)を名乗る。
上泉信綱の甥(異説あり)にあたり、当時畿内随一と評判だった柳生宗厳と三度立ち会い全て勝ったと伝えられる。
後に豊臣秀次の剣術師範を経て豊前中津細川家のち肥前唐津寺沢家に仕えたという。
吉田重勝(よしだ しげかつ) 生没年不詳
通称六右衛門、道号は雪荷(せっか)。弓術雪荷派吉田流の達人で、その門下には蒲生氏郷、
羽柴秀長、豊臣秀次、宇喜多秀家、細川幽斎ら錚々たる顔ぶれが見られる。
379 :
日本@名無史さん:03/01/17 14:52
私、アマチュアの小説書きで、現在某新人賞向けの文章を書いております。
縄文時代の話を書いているのですが、もしよろしければお知恵を拝借させて下さい。
【質問】関東圏の縄文時代(後期)の家族について
縄文時代のは郡婚(多夫多妻)との説がありますが、父権と母権ではどちらが強かったのでしょうか?
また、近親婚はあったのでしょうか?
もしあった場合、一つの住居に「兄、弟、そして二人に共通の一人の妻」と言う状況は有り得たでしょうか?
>>379 以下素人の素朴な疑問
縄文は母系社会ときいたことがあるんですが、だとすると
>一つの住居に「兄、弟、そして二人に共通の一人の妻」
こういう父系社会的なシチュエーションってないんじゃないかと思うのです。
民族学的な一般論ですが、郡婚社会って夫婦同居しない場合が多いのではないでしょうか。
ずいぶん時代が下りますが、庶民の間でも夫婦が同居するような婚姻形態は
室町くらいからと宮田常一かなんかも書いていた気がします。
婚姻とか家とか、そういう概念自体が現在とは根本的にちがうように思われ、
そういうものを小説で書く試みは大変そうですが、がんばってください。
宮田常一>宮本常一 ですね・・失礼
>380さん
早速レスを頂きましてありがとうございます。
丁寧な内容にうれしい限りです。
資料を漁るに従って「〇〇説」やら「××説」が出て来て混乱してしまいます。
いい文章が書ける様に頑張ります。
383 :
日本@名無史さん:03/01/17 16:10
>>379>>380 >一つの住居に「兄、弟、そして二人に共通の一人の妻」
日本ではありませんが、現在でもこういう習慣を持つ民族はいます。
兄弟4人いれば必ず妻は一人を共有します。
384 :
日本@名無史さん:03/01/17 17:16
天一坊の首魁と言われた山内伊賀亮ですが、どんね経歴の人物なんでしょう。
どこかの宮家に仕えて伊賀亮の官位を得たとも聞きますが、本当なんでしょうか?
だいいち地方の次官は「介」となるはずではないかと思うのですが。
385 :
日本@名無史さん:03/01/17 20:58
386 :
日本@名無史さん:03/01/17 21:17
387 :
日本@名無史さん:03/01/17 21:53
(続き)
>なお,各集落における竪穴住居の地点ごとの配置が二つの大群に区別
>される場合が一般的であることから,縄文文化社会に双分原理の存在
>を想定する説がある。
項目は縄文文化で小林 達雄氏が書いてます。
388 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:19
テスト
389 :
日本@名無史さん:03/01/18 21:58
前に同じような主旨のスレで質問させてもらったのですが、疑問解決にならなかったので質問させていただきます。
刀伊やチョン系の海賊が日本周辺の島や九州の沿岸地方を襲撃して金品や奴隷とするための日本人を拉っする
ことが元寇あたりまでしばしば行われていたようですが、元寇以降はそのようなことは少なくなったのでしょうか?
また、これは「倭寇」と関連しているんですか?
391 :
日本@名無史さん:03/01/18 23:00
>>379 小説書くんだったら、2ちゃんじゃなくてそれなりにきちんと本を読んで調べた方がいいよ。
そーゆーところで手を抜くと、碌な作品ができませんよ。
392 :
日本@名無史さん:03/01/18 23:53
>>389 世界史板で質問した方がええのでは。
もっともチョンなどと書いてると、まともな答え期待してないように思われると思うけど。
393 :
日本@名無史さん:03/01/19 00:24
394 :
日本@名無史さん:03/01/19 01:48
ゲームで謙信の武力値って高いけどなんで?
396 :
日本@名無史さん:03/01/19 01:59
謙信は大手の大名の中じゃ弱い部類だろ
397 :
日本@名無史さん:03/01/19 02:33
謙信は強いだろ
ゲームが苦手な俺でさえ全国統一できたくらいだから
398 :
日本@名無史さん:03/01/19 10:00
399 :
日本@名無史さん:03/01/19 18:01
謙信は毘沙門天(良く知らんが北の方向を護る武神)だったはず
人間がかなうわけがない
400
401 :
日本@名無史さん:03/01/20 06:42
質問です。
「小宿」の意味を知りませんか?「在郷商人」と同じような
かんじだと思うんですけど、近世用語だと思うんですけど
「国史大辞典」に載ってなかったんで。できればなぜ「小宿」
というのかもお願いしまふ。
縄文時代についてお尋ねした者です。
レスを頂いた皆様、ありがとう御座います。
いくつかの説があって、調べれば調べるほど混乱してしまいました。
あやふやな事を書くわけにも行かず、一般的にはどうなんだろう?と、
日本史板の皆様の意見を聞いてみようかと思った次第です。
何とか方向性が見えて来ました。本当にありがとう御座います。
403 :
日本@名無史さん:03/01/20 15:01
信長の誕生日は5月12日ですが今の暦になおすと何月何日なんですか?
知ってる人いたら教えてほすィ
404 :
日本@名無史さん:03/01/23 02:54
>>401 近世の用語で調べたいのなら、『地方凡例録』には載ってませんか?
「国史大辞典」は見てきたのですが、というレベルの高い質問者を初めて見た。
405 :
日本@名無史さん:03/01/23 05:00
>>404 『地方凡例録』ですね。おそらく、ある藩の藩政についての
論文の中に出てくる用語なので、もしかしたら筆者が都合よく
作ったのかもしれません。研究史あらってみます。
406 :
日本@名無史さん:03/01/23 05:49
近世湊町の水主の宿。出入津する廻船の役銀徴収などを行う廻船問屋の下で、
水主の宿をつとめたり、所によっては廻船の荷物の売買に関わることがあった。
このほか男女の出会い宿などを行う小さな宿も小宿と言うことがある。
大阪の小宿は薩摩問屋などの荷受問屋に付属して水主の宿をつとめている。
下北半島の湊の小宿は万事船問屋の大宿の指図に従い、水主の休憩所をつとめても
宿泊は認められなかったが、水主の帆待ち荷を取り扱った。
函館の小宿は廻船問屋と同様に廻船との間での商品売買や不正品取締りを行った。
越中伏木の小宿は船問屋の営業を徐々に侵すようになり、1832年(天保3)の出願により、
船頭が直接依頼した場合の荷物売りさばきを認められている。
(日本歴史大事典)
407 :
日本@名無史さん:03/01/23 09:54
少年ジャンプの読み切りでこんな漫画がありました。
「江戸時代の初期(家康が存命の頃)、ある藩の藩主が狂った。
この事態が長く続けばお取り潰しの格好の理由となるので、そこで家臣たちは分裂した。
一方は現藩主を隠居させて別の者を藩主に据える。
他方は現藩主に何とかして正気を取り戻させる。
二派の対立は日を追うごとに激しくなり、一人の家臣もまた巻き込まれることになった。
彼は主君を救う為に自らの片足を捨てるほどの忠臣だったが、事態がここまでこじれるに至りある決断をする。
彼は「乱心」することにした。
あと腐れのないようにするため二派の主だった者たちを皆殺しにし、そして最後には主君をも斬る。
こうして彼は「乱心して主君や同輩を斬り殺した叛逆者」の汚名をかぶることでこの騒動を収め、幕府に対して藩の体面を保ったのだ」
この話に元ネタはあるのでしょうか?
408 :
日本@名無史さん:03/01/23 10:10
人間五十年
下天のうちを
くらぶれば
夢まぼろしの
如くなり
であってますか?添削よろしくお願いします。
409 :
日本@名無史さん:03/01/23 11:16
黒曜石の主な産地は十勝岳と和田峠ですがどうちがうんですか?
たいした違いもないのにどっちか選ぶなんて無理・゚・(ノД`)・゚・
410 :
日本@名無史さん:03/01/23 11:47
試験でなら和田峠だよ(o'∀'o)
>>407 ベースになったのは『黒田騒動』ではないかな?
黒田騒動が起こったのは寛永9年(1632)で、当時の藩主だった黒田忠之はいわゆるボンボンで、
粗暴・短期・武芸嫌いの上美少年の側近・倉八十太夫を寵愛し、それに意見する家臣らの
知行を没収したり、地位を取り上げたりもしたといいます。
忠之の悪政ぶりに御家滅亡の危機を感じた筆頭家老・栗山大膳が幕府に忠之に謀反の疑いありと
訴え出たのがこの一件。
結果は、忠之の謀反の企ては無実だと判明し許されましたが、大膳は主君を直訴した罪により
奥州盛岡に配流されています。
栗山大膳の行動に対しては逆臣・忠臣の両方の評価がありますが、それに関しては
また別の話になると思います。
412 :
日本@名無史さん :03/01/23 16:13
>>408 続きがあります。
一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
413 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:00
>>412さん
ありがとうございました!
ってことは
人間五十年
下天のうちをくらぶれば
夢幻の如くなり
一度生を得て
滅せぬ者のあるべきか
でいいんですよね?ほんとありがとうございました(・∀・)
414 :
日本@名無史さん:03/01/23 20:14
411に補足
黒田領は手続き上は、
没収−今までの幕府への忠誠を鑑みて改めて福岡藩を与える
ということで解決しています。
>>407 >あと腐れのないようにするため二派の主だった者たちを皆殺しにし
>こうして彼は「乱心して主君や同輩を斬り殺した叛逆者」の汚名をかぶることで
>この騒動を収め、幕府に対して藩の体面を保ったのだ」
家康存命のころじゃないが、ここらへんは
「樅の木は残った」山本周五郎で描かれる伊達騒動に似ているかも。
416 :
日本@名無史さん:03/01/23 22:36
>>415 私も思った。時代さえ違うならばまんま樅の木は〜の説明文かとオモタヨ。
まあ、似たような話はいくつかあったんかね。
信長とか敦盛とか人生五十年とかで検索しろ、と。
茶屋四郎次郎って何した人なの?
教えてください。
420 :
日本@名無史さん :03/01/26 10:35
所領を持っていた武士が、天変地異、例えば台風で川幅が広がって
田んぼが全部削り取られたとか、火山の噴火によって田んぼと
して使用不可能になった場合、米が取れないということでお取りつぶしに
なるのでしょうか。、
421 :
日本@名無史さん:03/01/26 10:59
422 :
日本@名無史さん:03/01/26 11:03
>>420 いつの時代のこと?
大抵は年貢や諸税が減額されたり免除されたりする。
423 :
日本@名無史さん :03/01/26 11:24
420です。
>>422 あまり所領が多くない武家(江戸時代)が、なにかの天変地異で
その所領をすべて失った場合、その家がお取りつぶしになるのかどうか
知りたかったのです。
424 :
日本@名無史さん:03/01/26 11:29
>>423 天変地異で年貢等が払えなくなった、という理由だけで
家の取りつぶしにはならんでしょう…
所領の多い少ないに関わらず。
>>423 ある御家人の所領が河川の氾濫で荒廃し、幕府が変わりの所領を与えた
と言う話をなんかで読んだことがある。
426 :
日本@名無史さん:03/01/26 17:11
江戸時代末期の頃で、「西の長崎、東の××××」というフレーズを高校時代に習いました。
しかし、×の部分が“カステラ”としか思い浮かびません。
真相は何なのでしょう。何のことなのでしょう。
会社員 32歳
427 :
fasd@fdsa:03/01/26 17:47
自由党、立憲改進党からの政党の変遷がよくわかりません!!戦後はわかるんですが。
一覧表があるページはないですかね?
>>426 「西の長崎、東の佐倉」です。
当時蘭学が盛んだった地域を指してそう読んでいました。
江戸時代末期の佐倉藩主堀田正睦は藩財政立て直しと文武奨励を柱として藩政改革を
実行しましたが、彼はその他に蘭方外科医の佐藤泰然を招聘して蘭医学塾を建てさせています。
ちなみにその塾『順天堂』は現在の順天堂医院の元になっていたりします。
429 :
日本@名無史さん:03/01/26 21:48
>>428 なるほど、ありがとうございます。
きっと『順天堂』→『文明堂』→『カステラ』と連想して、
佐倉がカステラと置き換わったんだと思います。
会社員 32歳 独身
430 :
日本@名無史さん:03/01/26 21:53
よろず屋です。
431 :
日本@名無史さん :03/01/26 22:37
>>425 420です。
お返事ありがとうございました。石高が多い武士だと所領も何カ所か
あったでしょうが、少ない武士だと一カ所しかなく、それが何かの天災で
全く失われてしまった場合どうなったのか気になってしまって。
少なくとも幕府の臣の場合、家は存続し、代わりの所領をもらえるのでね。
仕事がなくなったらクビになるいまの日本より数段マシかも。
432 :
日本@名無史さん:03/01/27 00:38
でもいまの日本は切腹しなくてもいいですよ。
切腹は痛いぞ〜
433 :
日本@名無史さん:03/01/27 16:18
シダラ神事件、ってなんのことだか分かる人いますか?
平安〜室町あたりの事件だそうですが・・・
>>433 流行神(はやりがみ)で、辞典に載ってたよ。
漢字で「志多羅神」で検索すると10件くらいヒットする。
>945年(天慶8)には,志多羅神(しだらがみ)と称する正体不明の神格が,
>京を混乱に巻き込む一件があった。志多羅神入京を期待する熱狂的な民衆の
>信仰として知られている
435 :
日本@名無史さん:03/01/27 21:20
将門の乱の前であり、人心が動揺してた時期らしい。
>434-435
レスありがとうございます。
早速「志多羅神」でぐぐってみて各サイトを見てみました。
どうも水田の開発を守る神の熱狂的な信者による騒動だったようですね。
富豪百姓や国衙との関連について分かる人いるかなぁ・・・
>427 高校教科書
439 :
日本@名無史さん:03/01/28 00:44
>434
志多羅神?
設楽神とは違うのかな?
age
441 :
日本@名無史さん:03/01/28 14:41
応仁の乱で、細川方についた山名是豊って何者ですか。
資料によっては山名方になっているのですが。
444 :
日本@名無史さん:03/01/28 20:38
×:西軍に身を投じた
○:東軍に身を投じた
すみません、逝ってきます。
446 :
日本@名無史さん:03/01/30 18:36
逝かなくていいから、あげれ。
毛利豊元の「豊」は山名是豊から貰ったらしいね。
山内豊通もそうかな?
448 :
日本@名無史さん:03/02/01 11:57
土日の質問者。いらっしゃーい。
449 :
日本@名無史さん:03/02/01 15:41
森有礼は不敬のかどで誅殺されたそうですが
その不敬行為の具体的な内容、
および暗殺者の思想的・宗教的な背景をご教授ください。
450 :
日本@名無史さん:03/02/01 15:48
>>449 伊勢神宮に参拝したときステッキで御簾をあげたそうです。
もう少し詳しく。
あるいはこの本にばっちり載っていると
ご教授くださいってば。お願いします。
452 :
日本@名無史さん:03/02/02 01:14
第一次大戦終結と1933年までの
ドイツって日本にとって、どういう存在だったの?
石原なんかは敗戦国だけどもドイツに留学してるし
敗戦国でもやっぱヨーロッパの大国扱い?
それとも単なる過去の大国?
日本にとって一応近代化の師匠ですよね
453 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:35
女帝論争のときに、「以前、女帝があったときも女系相続はしなかった。
一人女帝になるのはいいが、その次の天皇をどうするか決めるのが難しい」
っていう意見を聞きました。女系相続って、分かるようで分かりません。
だれか教えてください。
454 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:37
日本語としておかしいけど、女系の子孫が相続していくという意味では?
455 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:56
即レス、サンクス。
例えば、愛子さんが天皇になって、だれかと結婚したら(独身時代に結婚でもいいが)
その第一子が天皇になるよね。そうするとなんか伝統を覆すような問題になるかな。
藤原氏みたいなのが天皇の父親になって影響力を持っちゃうということかな?
いや、なにもソースを出さずに一人で議論して申し訳ない。
456 :
日本@名無史さん:03/02/02 02:57
いままでの女性天皇は未婚です。
>>456 そう、それはわかってるんだけど、
昔は長男だけで皇位継承していったわけじゃないでしょ。
弟に行ったり、だいぶさかのぼって別の系列行ったり。
やっぱり結婚して子供が生まれたりすると天皇家がのっとられるって
ことになるのかな。
例えば元明女帝の子が文武なわけだけど、文武の父、つまり元明の夫君は
草壁皇子で天武の孫。つまり文武は父母ともに皇族。
これに対して近い将来、女帝が出現するとその夫君は、庶民である可能性が非常に高い。
まあ庶民出の皇后が存在するんだから、庶民出の夫君でもいいんだけどね。形式的には。
>>458 愛子さんは天皇の子供。で、庶民の子と結婚したとするよね。
女帝のだんなはただの皇族だけど、その子供は天皇になる。
そうすると、父親が庶民なのに天皇になるのはいけない。
母親が庶民の人が天皇になるのはいいけど(今の皇太子とか愛子さんとか)。
っていうことなの?
確かに愛子さんの第一子が女の子で、また庶民出の人と結婚すると
秋篠宮あたりとの関係は微妙になるような気もしますな。
つうか、ひとんちの一家のことでなんで夜通し起きてるんだろ、おれ。
460 :
日本@名無史さん:03/02/02 09:39
461 :
日本@名無史さん:03/02/02 19:09
>>452 一応、近代化の先輩国としてみていたと思います。
陸軍や医学分野への影響は大きい。
>>459 個人的には、庶民天皇が出てもなんら問題ないと思われる。
封印された象徴天皇制ですから、大衆人気しか基盤がない。
それを否定すると、存続自体が危ぶまれるご時世ではないかと。
オランダ女王のように、電車に乗ったり、デパートショッピングがいいと思われ。
すげぇ くだらないんですけど
日本人が地球が丸いということを知ったのはいつごろなんでしょう?
それ以前はどう考えられていたんでしょう?
463 :
日本@名無史さん:03/02/02 21:23
>地球の大きさを日本で初めて知ろうとした男、それが伊能忠敬である。
>「地球は丸い」ということは、織田信長の安土・桃山時代に西洋より日本に
>伝えられていた。しかし、江戸時代でも「地球の大きさ」を知る人間は日本
>には一人としていなかった。
http://www.ampl.net/ampl/sokuryo.html だ、そうです。
庶民が知ったのは明治期でないのかな。
464 :
日本@名無史さん:03/02/02 21:24
それ以前は、やはり学者以外は平と考えられてたと予想。
465 :
日本@名無史さん:03/02/03 20:11
日本人は地球の形なんていう細かいことは気にしなかったんだ☆(ゝω・)vネッ
466 :
日本@名無史さん:03/02/03 21:26
ほとんどの人は、食うのに精一杯。
学者は、日本人は独創性がないと言われるが、なぜだろう?
好奇心は強いんだけどね。模倣力も強いんだが。
467 :
日本@名無史さん:03/02/04 01:07
伊藤博文って憲法を学びに欧州に行きましたが
行ってる間に権力争いとで自分を排除されるかもしれないって思わなかったのですか?
三傑死後の権力争いや宮中派の官僚排除など十分予想できたと思いますし
山県や薩摩の残りとかライバルとかまだまだいたと思いまし、三条や岩倉は腹黒くて信用ならないし
明治天皇からも当時はまだどちらかというと嫌われてたと思いますけど
この辺が権力争いの激しい外国から見たら理解できないみたいです
468 :
日本@名無史さん:03/02/04 12:20
憲法制定前頃は、かなり、伊藤は基盤ができてたんでないのかな。
それに、子分に行かせ、自分は先に帰ってきてたと思うが。
伊藤の別荘で作業が行われていたことなどから、権力基盤の強さが
推測できる。
何故明治大帝は大勲位菊花章頸飾と勲八等瑞宝章という最高位勲章と最低位勲章を同時に佩用されて居たんですか?
470 :
日本@名無史さん:03/02/06 08:43
471 :
日本@名無史さん:03/02/09 00:41
素人です。教えてください。
まったくの部外者が、大学教授や学者の論文を読むにはどうしたらいいんでしょうか。
論文て、書店で発売しているものなんでしょうか。
472 :
日本@名無史さん:03/02/09 00:56
>>471 学術雑誌に載ってるような論文だったら、大きな公共図書館へ逝けば
読めるよ。 とくに人文科学系は、県立中央図書館あたりにいけば
そこそこ読める。 もっと特殊な研究誌に載ってる論文を読みたければ
国会図書館(東京・関西)。しかし近くにある大学に交渉してみる
ほうが、便利だろう。 公立大学は、その地方の住民を重視している
から、その市民なり県民の閲覧を許しているところが多い。
だからその卒業生でない部外者でも、閲覧できる。近くの公立大の
図書館に聞いてみればよい。
473 :
日本@名無史さん:03/02/10 00:57
天皇罵倒スレが上のほうにいっぱいあるんですけど
日本史板って、サヨのスクツなんですか?
474 :
日本@名無史さん:03/02/10 01:01
良識のある人が多いからね
475 :
日本@名無史さん:03/02/10 01:07
第一次世界大戦後の日本の仮想的はアメリカだったと思うんですが、
北進(対ソ戦)の言いだしっぺは誰でですか?
476 :
日本@名無史さん:03/02/10 02:07
>>472 レスどうもです!
さっそく、図書館逝ってきます!
477 :
日本@名無史さん:03/02/10 10:12
>>475 ソ連も仮想敵国に入っていたと思うが。
石原莞爾などは、まずは対ソ連、力を蓄えてから対米決戦じゃなかったかな?
478 :
日本@名無史さん:03/02/10 12:52
米、中、ソの順番だったと思う>仮想敵国
479 :
日本@名無史さん:03/02/10 13:04
<宮本顕治に対する確定判決>を引用します。(カタカナ→ひらがな)
引用開始
右の者に対する治安維持法違反殺人同未遂死体遺棄不法監禁銃砲火薬類取締法施行規則違反被告事件に付き・・略・・判決すること左の如し。
主文
被告人を無期懲役に処す。
押収に係るアストラ小型拳銃壱挺及実包弾丸参発(押収番号略)は之を没収す。
理由
・・前の部分略・・
相応じて共に小畑を組み伏せ、尚も大声を発し死力を竭して抵抗する同人を一同にて押しつけ、以てその逃亡を防止せんとして互いに格闘し、
因って同人に対し頭部、顔面、胸部、腹部、手足等に多数の皮下出血その他の傷害を負わしめ、ついに同人をして前記監禁行為と相俟って外傷性虚脱死(外傷性ショック死)に因り
同日午後二時頃その場に急死するに至らしめたるが・・略・・死体の処置に窮したる結果・・略・・同家床下に埋没せしめ之を遺棄し、略
↑これって、分かりやすく言うと、どのくらいボコボコにしたんですか?
480 :
日本@名無史さん:03/02/10 21:05
南北朝の動乱が50年以上続いた理由教えてください。
南北朝時代は、遺産相続が分割相続から惣領による単独相続に変わる過渡期に当たり、上は足利将軍家から下は小地頭に至るまで、後継ぎ争いによる不満が渦巻いていた。
両統はこれら不穏分子が担ぎ出す格好の神輿となり、足利家の内紛や守護の御家騒動の際の大義名分としてさんざん利用された。
義満による合一がなったのは、嫡子相続がようやく一般化し始め、火種が少なくなったことと、荘園での兵糧徴収の一般化などで皇家・公家の体力が落ち、とくに西国での将軍家の権力が増したことが隠れた原因となる。
482 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:12
今日入試だったんですが、どうしてもわからない問題が・・・(ノД`)
よろしくお願いします!
問:間違ってる説明はどっち?
1、勅封であるから正倉院は厳重に管理されており、宝物が紛失したことはまったくなかった
2、御物とは天皇の所蔵品に限ること無く、徳川将軍家などの所蔵品についても使う
3、どっちも正解
483 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:15
もう一つ。
問:正しい説明を選べ
1、正倉院の宝物はすべて国宝にしていされている
2、正倉院の宝物は大部分が国宝にしていされているが、国の文化財に指定されていないものもある
3、正倉院のすべての宝物は国宝と重要文化財にわけて指定されている
4、正倉院のすべての宝物は国宝や重要文化財に指定されていない
484 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:17
あと、木簡って手習いしたものも出土されているんですかね?
ほんとよろしくお願いします(ノД`)
486 :
日本@名無史さん:03/02/10 22:58
海軍の岩村清一(海兵37期・中将)についてなんですが、
戊辰戦争時の官軍の軍監、岩村精一郎となんらかの関係がありますか?
精一郎の子孫から、海軍軍人が出たらしいので。
それと、同じく海兵37期の岩下保太郎(少将?)について、情報をお持ちの方、
教えて下さい。
487 :
日本@名無史さん:03/02/11 00:24
小田原城を築城した早川氏について書かれた文献を読んだことあるかた、
情報も求む!
>>486 岩村清一中将ですが、生い立ちなどはわかりませんでした。
彼は第二戦隊司令官/艦政本部長/第二南遣艦隊司令長官と言った役職を経て
昭和19年3月20日予備役に編入され、その後は民間の会社社長を務めました。
戦後の昭和25年に日本事務能率協会(現在の日本経営協会)の創立に加わり
文献資料管理(ファイリングシステム)の普及に努め、さらには漢字の段階的廃止と
日本語のローマ字化の徹底を提唱したユニークな人だったようです。
岩下保太郎少将は榛名艦長・ロンドン軍縮会議全権随員などを勤め、第四艦隊参謀長から
昭和11年11月16日に第一艦隊参謀長に就任し、在職のまま12年2月18日に死去。
489 :
日本@名無史さん:03/02/11 23:37
木曽義仲について、教えてください。
無骨な田舎者と言われていたそうですが、意外と容姿は美形だったと聞きました。
平家物語以外に、義仲の容姿について書かれた文献はありますか?
490 :
日本@名無史さん:03/02/12 17:55
>>484 東野治之『木簡が語る日本の古代』(岩波新書、1983)の最初に、
中国の『文選』を手習いした木簡の(削屑の)話が出てきます。
当時は紙が貴重品ですから、練習には、こういう木簡に書いて、
削って、また書く(再利用)ということは、よくあることかと。
>>488 ローマ字化を提唱した岩村清一って、同一人物だったんですか!
同名異人かと思っていました。勉強になりました。ありがとうございます。
492 :
日本@名無史さん:03/02/13 00:02
だれがだいがくをはじけてつっくたべ.らくだいせいどあったべ?
無学年単位制は設置基準26条等に明示.反する学則は違憲無効.本庁は違反大を警告
の上廃校にする.設置基準は教育専門家のみしる.大学紛争.宮崎3・7裁判勝つ
戦前も単位取り消し型落第制度はなかったんとちゃう?
493 :
日本@名無史さん:03/02/13 14:05
494 :
日本@名無史さん:03/02/15 04:10
むかでの旗印?の武将の名前を教えて下さい。
495 :
日本@名無史さん:03/02/15 12:40
武田家かんけいみたいよ。
496 :
日本@名無史さん:03/02/15 12:49
お願いします。
日清戦争の時の旅順攻略で日本軍の第二軍の第一師団は本当に虐殺を
行ったのでしょうか?
調べてみると
「ワールド」等の米紙が「日本軍旅順で大量虐殺」と書きたてたのを
ベルギー公使やフランス観戦武官が「死んだのは便衣兵」と日本を擁護
していますが、実際はどうなのでしょうか?
497 :
日本@名無史さん:03/02/15 14:33
>>496 「明治19年に捕虜保護義務の万国赤十字条約に日本は加入したが、
捕虜虐殺を悪いこととは一般兵士は思ってなかったのではないか」
「陸奥宗光外相は、国内の言論統制に乗り出すほか、英米のマスコミへの
買収工作を活発化。英国のセントラルニュース社は日本政府からの
報酬の見返りに日本擁護の記事を書く。
ロイターやワシントンポストへの懐柔工作も試みる。
陸奥は12月に弁明を国外マスコミに発表」
(大谷正・再現日本史・明治G」(講談社)
個人的には捕虜・民間人合わせて、2〜3千人虐殺説。
498 :
日本@名無史さん:03/02/15 14:34
>>496 有賀長雄(第二軍司令部付国際法顧問)の記録
戸外及び戸内にあるものは死体ならざるなく、特に横路の如きは累積する死体
を踏みこゆるにあらざれば通過し難かりき〜市街に在りし死体の総数は無慮2千
にしてその中5百は非戦闘者なり。注目すべき一事は死体は大抵盛年の男子にして
婦女幼児は極めて少なき事〜数日間は稀に日本兵士が縄を持って支那人を三々五々
連縛して市街に引き行くを見たり〜殺戮するために〜市内を往来する支那人は皆、
首に我が士官の名刺をかけ、「何々隊に於いて使役する者なり殺すべからず」と書しあり。
秋山大隊の稲垣副官の手紙
「第一師団に、捕虜1人もいなきありさまなり」
秦郁彦「現代史の光と影」グラフ社から孫引き
499 :
日本@名無史さん:03/02/15 18:18
>>497、498
他スレでも話題になりましたが、これは民間人に対する虐殺の証明になるので
しょうか(例えば死者に婦女子が極端に少なく、盛年男子がほとんど
との言がありますが)?それとフランス観戦武官の言はこの
場合はどう判断するべきでしょうか(彼の言では兵士以外では職工がいたと
なりますが、この場合の500の非戦闘員の戦死者はこの職工が抵抗したと判断
するべきでしょうか)?
それとこんなものも見つけました。
明治28年の外交文書集の占領地に関するところを見たのですが(現地から
日本本国宛て)、その中では
・旅順市民に対して日本軍が戸外から出ないように指示
・旅順市民の裕福者の子弟に簡単な日本語の教育を行う事
・市民の通報より、小銃弾、砲弾、火薬など合計千箱以上を集会所より押収
とありました。
500 :
日本@名無史さん:03/02/15 18:31
(1)旅順口事件(明治27年11月21日)は,日本軍による虐殺事件と
言えるか?
△中村粲氏論旨:中国側に軍・民間含めて多くの犠牲者が出たことは認
めるが,あの時は便衣隊(民間人を装った部隊)の存
在などもあって非戦闘者と戦闘者の区別が非常に難し
く,意図的に非戦闘者を殺戮したわけではない.これ
を「虐殺」と呼ぶには抵抗がある.婦女子も多数虐殺
されたというが,有賀博士の報告では女性の死体は2
体しかなかったとなっている.これは,流れ弾に当た
ったかして2人だけ不幸にも犠牲になったと言えるの
ではないか.第一,秦氏が旅順口事件に関する資料と
して最も権威ありとする有賀博士の『日清戦役国際法
論』にも,「虐殺」という表現は全く出てこない.
△秦郁彦氏論旨:明らかに非戦闘者と分かる多数の婦女子を含む殺害に
ついて,各国から日本に多数の苦情が寄せられたが,
日本政府は事件を否定せず,かなり苦しい弁明をして
いる.フランスの大尉が書いて日本で翻訳出版された
『日清戦史』(ちなみに翻訳者は現役陸軍大尉で,出
版社も陸軍御用出版社)にも,死者2000人のうち
非戦闘者の死者が実に1500名にのぼるとある.有
賀博士の『日清戦役国際法論』には非戦闘者の死者5
00人とあるが,いずれにしてもこの規模の非戦闘者
が殺されれば「虐殺」と言えるのではないか.有賀博
士の記述については,虐殺の[責任者]側が[虐殺]
という言葉を使わないことは別に不思議ではないし,
『日清戦役国際法論』が万能なわけでもない.
ま、意見は自由だけど、あった派の方が普通みたいよ。あとは個人の判断。
501 :
日本@名無史さん:03/02/15 18:39
>>500 有り難う。ただ、これを見ると『死者があった』と言うのは解るけど(これは
誰も否定しない)、それが『日本軍の虐殺』に該当するかは別ではないかなと
思う。別に認めたくないからそう言っているのではなくて、これだと
『戦場が凄惨でした』と言う説明の域を出ていないのでは・・。
502 :
日本@名無史さん:03/02/15 18:45
文を読むと、秦氏は、あきらかに虐殺があった派だね。
秦氏は、いわゆる右派の論客だから信頼度はあると思う。
中村氏は、御存知のウルトラ極右だからねw。
503 :
日本@名無史さん:03/02/15 18:58
>>502 ただ、秦氏は虐殺に関する事には適当な部分があるから、右派が認めている
ぐらいだから本当だろうとは出来ないんじゃないかな。それが右派からも
秦氏が攻撃されている所だから・・。
504 :
日本@名無史さん:03/02/15 19:01
そうね。だから、最後は個人が判断するしかないんじゃないかな。
旅順虐殺スレは、南京スレと同じ運命になるからねw。
ここは、質問者スレだから、この辺で、やめようか。
結論「意見が色々あるので、自分で勉強して、自分で判断してください」
どう?
505 :
日本@名無史さん:03/02/15 19:06
>>504 ご免ね。荒すつもりは無かったんだけど、ただこれに関しては近代日本
戦争史を見ても解るけど資料が少ないから、何か参考になるものがない
かなと思って質問しました。ただ、ベルギー公使の話やフランス観戦武官
の話は省みられないね。
506 :
日本@名無史さん:03/02/15 19:19
大河ドラマの宮元武蔵や佐々木小次郎はキレイにヒゲを剃ってますが、
本当にそうだったのでしょうか?
ひげそりグッズとか、結構充実してたのでしょうか?
508 :
日本@名無史さん:03/02/18 12:29
保守
509 :
日本@名無史さん:03/02/19 21:16
日本史上の有名な人物の画像(似顔絵)が欲しいのですが、そういったスレはありますでしょうか?
もし、そういったサイトを御存じでしたらどなたか教えて下さい。
お願いします。
510 :
日本@名無史さん:03/02/19 22:44
最近になって中村尭円、雅真親子の存在を知りまして、
地元の奈良ではどのような評価ですか?
また、素封家だったとのことですが、
なぜ興福寺の事務方という地味な方が
これほどの財産をもっていたのですか?
>511
すみません、お手数かけました。ありがとうございます。
yahoo!で個人名で検索しても、なかなか教科書に載っているような画像って無かったものですから。
513 :
日本@名無史さん:03/02/20 19:49
すいません。
菅原道真の子どもは息子11人、娘3人でいいんですよね?
Googleで調べると息子10人、娘3人とあったので。
514 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:24
第1回衆議院議員総選挙実施時の有権者の条件の1つである
「直接国税15円以上の納税者」の、「15円」って、今の
価値に換算するといくらぐらいになるのでしょうか?
教えてください。
515 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:30
みなさん司馬遼太郎先生の小説はお好きですか?
516 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:31
丁度、同時期の小説『坊ちゃん』の給料がそれくらいだったような気がしたから
新米教師の一ヶ月分くらいかも。
517 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:36
当時の教員は様々な種類があるからなあ。
師範やら講師やら見習いなんとかとか。
もし新米教師の1ヶ月分の給与ということであれば、
有権者1%ってことはないと思うぞ。
518 :
日本@名無史さん:03/02/20 21:44
>>514 これ、物価換算とかでわりと難しい。
で、よく、人口100人に1人くらいの割合と例えられている。
さまざまな角度からのお返事、ありがとうございます。
とても勉強になりました。
はっきりとはわかっていないのですね・・・。
でも、もしよろしければ、さらにおわかりになる方のお返事を
期待させてください。
よろしくお願いします。
520 :
日本@名無史さん:03/02/21 07:29
豊臣秀吉の秀勝と並んで実子では?
と言われる長浜で産まれた娘について教えてください。
何でも秀吉が健康を祈願して絵馬を奉納したとか?
>>520さん
検索エンジンで「天秀尼」でヒットする女性の事でしょうか
522 :
日本@名無史さん:03/02/22 10:46
「天秀尼」は、豊臣秀頼の娘では。
これは、家康の話と混ざってないかい?
523 :
日本@名無史さん:03/02/22 12:39
姫路城を最初に造ったのは誰なのでしょうか。
また、現存するものは誰が造ったのですか。
何方か教えてください。
524 :
日本@名無史さん:03/02/22 13:45
家康が最下層民の出って事は事実なのでしょうか?
なんか何世代か前の先祖はそうゆうとこ出身てきいたんですけど。
だから徳川家は文献や史実をいくつか変えてきて、また権力を手にしてからも
そうゆう事が得意だったと聞きました。
525 :
日本@名無史さん:03/02/22 14:26
>>523 姫路城
兵庫県姫路市本町の姫山にある城郭。天守,櫓などの建築群を今に遺す
ことで名高い。
起源は1346年(正平1‖貞和2)赤松貞範が姫山に城を築いたことに始まる。
近世の築城は,1580年(天正8)に当時の城主黒田孝高(如水)が,毛利氏
と戦うべく西下した羽柴秀吉にこの城を明けわたし,秀吉の居城として
普請したのに始まる。秀吉の後もその親族が城主であったが,関ヶ原の
戦後,徳川家康はここに池田輝政を封じ,西国大名に備えた。輝政は
大天守,小天守,渡櫓(わたりやぐら)などからなる天守群を1609年
(慶長14)までに完成させるなど,大規模な改修工事を行った。
現存の天守はこのときのものである。大天守は秀吉時代の三重天守の
位置に建てられ,小天守建造には古材も使われた。現存の石垣にも
輝政築城以前の部分がある。また,大手門から天守に至る複雑な縄張も
黒田孝高の縄張を踏襲している可能性がある。天守は外観5重,内部6階,
地下1階で,完成当時の天守は江戸城を除くと最大規模であった。
平面の中央部に2本の大通柱(とおしばしら)を立てた構造は,織田信長の
安土城天主のやり方を模したものであろう。天守をはじめ建築はすべて
白漆喰(しつくい)の総塗籠(ぬりごめ)で,屋根は軒平瓦にいわゆる
朝鮮瓦を用い,瓦の重なり目にも漆喰を塗る。これは沖縄などの民家
に今も見られるやり方である。白鷺(しらさぎ)城と称される由来は屋根
まで白い建築群の優美さによるのであろう。家康死後の1617年(元和3)
に,池田氏に代わって本多忠政がここに封じられた。その際,忠政は
西の丸を整備し,長男忠刻(ただとき)とその妻千姫(もと豊臣秀頼室)
の居館とした。
526 :
日本@名無史さん:03/02/22 14:37
>>524 >家康の祖先をたどると現在の豊田市の松平郷に流浪の時宗の僧徳阿弥
>が松平家に婿入りして名乗った松平太郎左衛門尉親氏を祖として、
>三河松平氏八代の広忠の嫡子が家康である。
と、よく言われてます。
時宗は、被差別民に対して、差別せず救済を約束し、慕われましたから、
最下層身分と言われるのかもしれませんね。
あるいは、実際に最下層身分だったのかもしれません。
ただ、婿入りを求められていると言うことは、学識や血統が田舎では
求められるに足るレベルだったのではと予測されます。
征夷大将軍になるための清和源氏由来のニセ系図づくりは有名な話ですね。
527 :
日本@名無史さん:03/02/23 09:15
日曜日なのでアゲ!
>>522 確かにごっちゃになってるっぽいですね・・・
確か側室の誰かに生ませた子が居たかと思うんですが
ちょっとパワー不足で調査は辞退させていただきます。
529 :
日本@名無史さん:03/02/23 10:49
>>528 どうしても、ヒットしないね。
違うんじゃないのかな?
鳥羽僧正と鳥羽上皇って別人ですか?
531 :
日本@名無史さん:03/02/23 17:23
532 :
日本@名無史さん:03/02/23 17:29
>>530 別人です。以下を参照にどうぞ。
↓
覚旨 1053‐1140(天喜1‐保延6)
かくゆう
密教図像の収集,書写に貢献し,後に天台座主にもなった平安時代の
高僧。大納言源隆国の子。覚円に師事,四天王寺別当となり同寺復興
に功をたてたあと,三井寺(園城寺)に法輪院を建立して籠居すること
二十数年,密教事相の研究に努め,収集の図像は〈法輪院本〉として
重きをなした。晩年は鳥羽上皇の信任篤く,鳥羽離宮に住し,鳥羽僧正
と称された。画技をよくし,《古今著聞集》には,風刺画に巧みであった
と伝えられ,後世の滑稽な戯画を指す鳥羽絵の名称の起源ともなって
いる。古くから《鳥獣戯画》(高山寺)の筆者に擬せられてもいるが
確証はない。むしろ転写本ではあるが,鳥羽僧正様《不動明王図像》
(醍醐寺)などに彼の画業がうかがえる。また晩年の1136年鳥羽上皇が
創建した勝光明院の扉絵制作を依頼され,この時は〈老屈〉と称して
辞退している(《長秋記》)が,当時一流の絵仏師に伍して召された
事実は本格的な画技の持主であったことを示すものであろう。
533 :
日本@名無史さん:03/02/23 17:31
>>530 鳥羽僧正(1053〜1140)
平安時代の天台宗の僧。覚猷(かくゆう)。
晩年に鳥羽離宮に住んだので、鳥羽僧正と俗称される。
鳥獣戯画の作者とされる
鳥羽上皇(1103〜1156)
堀河天皇の第1皇子で父を継ぎ天皇に即位(1107〜1123)。諱は宗仁
白河上皇の圧力で実子崇徳天皇に譲位、上皇となる
白河法皇の死後は権力を握り、崇徳天皇を退位させ、近衛天皇、後白河天皇を次々に即位させた
535 :
日本@名無史さん:03/02/26 10:20
age
536 :
日本@名無史さん:03/02/27 10:52
なんか、最古の暦が見つかったとかいう話だけど、
元嘉暦とか儀鳳暦とか、木簡一つで区別がつくもんなの?
誰かおせーて。
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030227-00000025-mai-soci
537 :
日本@名無史さん:03/02/27 11:29
臣籍降下で名乗る源姓・平姓って名乗る際に何か基準があるの?
それとも勝手に選べた? 他の姓は選べないの?
実在する最初の天皇って何代目の何天皇?
539 :
日本@名無史さん:03/03/01 01:03
聖徳太子に協力して政治を進めた人物はだれですか。
>>536 区別つきません
689年なら元嘉暦だろうという推定ですが、その部分が抜けて報道されてます
困ったものだ
>>538 最近では34.1298564782あたりが近似値とされています
>>540 やっぱり・・・・
なんとなくそうかな〜とは思ったけど・・・・・
543 :
日本@名無史さん:03/03/01 15:05
544 :
日本@名無史さん:03/03/01 15:13
>>538 15代、応神は、ほぼ確定らしい。
もっとも、大王。
天皇は天武から。
>>544 え?天智以前はじゃなくて大友以前は天皇じゃないの?
546 :
日本@名無史さん:03/03/01 18:20
すいません基礎的な質問です。明治時代までは曜日の感覚は無かったものと
思いますが町人や武士はどういう風に休みをとっていたのでしょうか?
まさか休み無しに働く訳も無いし、お城勤めの武士等はなにか決まった
ローテーションで登城していたのでしょうか?どなたかご存知の方お願いします。
550 :
日本@名無史さん:03/03/01 21:03
>>549 身分や職業によると思うが定期的な休みがあった人は少ないんじゃないかな
盆、正月には奉公人は自由をもらえていたというのはきいたことがある。
またとびなどの雨降ったら仕事がなくなる人
日雇いみたいに定期的な仕事がない人も多かったと聞く
武士などは登城日は決められていたけど登城する以外にも雑務はあるし
老中や奉行などは無休で毎日登城だったらしい。
>>550レス有難うございます。
えっ、という事は数日に一度の休みも無く江戸時代の武士達は働き詰めだった
のですか!土日に家でゴロゴロできる今の我々は幸せですね。
ただ、町民はどうでしょうか?落語なんかでも大工や職人は月の10日だけ
働いて後は寝て暮らしても食べていけたと聞きましたが。
552 :
日本@名無史さん:03/03/01 21:57
>>545 以前は、推古から天皇説と、天武から天皇説が、ありましたが、
最近は、天皇号は天武からで、ほぼ一致してきたようです。
553 :
日本@名無史さん:03/03/01 22:11
日本史門外漢ですがひとつ質問させてください
平氏の家系では将軍にはなれなかったのでしょうか?
それとも源氏の家系しか将軍になれないのでしょうか?
以前、信長は平氏の子孫である云々という話を聞いたことがあるのですが
もしそうだとすれば彼は将軍にはなれたのでしょうか?
554 :
日本@名無史さん:03/03/01 22:21
平家でも将軍になれます。おわり。
じゃあ、秀吉が将軍になりたかったのになれなくて、かわりに関白になったってのは俗説?
なんで秀吉はわざわざ関白を選んだの?
556 :
日本@名無史さん:03/03/01 23:20
信長は平氏だけど、もともとは藤原氏だったし、いいかんげんだからなぁ。
本能寺の変の直前に関白・太政大臣・将軍どれでも好きなの選んでいいよって
三職推任があったくらいだし、源氏じゃなければって慣例はなかったのでは?
とも思う。
557 :
日本@名無史さん:03/03/02 11:28
秀吉が小牧長久手で、勝てなかったのが、関東以北支配にミソをつけたとも言われてるが。
558 :
日本@名無史さん:03/03/02 11:29
鎌倉時代の将軍は、9人中、源氏だったのは3人だけ位だそうです。
559 :
日本@名無史さん:03/03/02 11:54
普公院殿って誰の事ですか?
足利の誰かですよね。
560 :
日本@名無史さん:03/03/02 13:35
>>559 ・
普広院なら、室町幕府6代将軍足利義教の院号のようですが......。
561 :
日本@名無史さん:03/03/02 18:21
562 :
日本@名無史さん:03/03/02 21:43
>>562 本当に拙いHPですね(w
今後の発展に期待します。
とりあえず開設おめでとう。
564 :
日本@名無史さん:03/03/04 17:30
ここはサイト宣伝のためにある板じゃないんだけどね。
565 :
日本@名無史さん:03/03/04 17:31
質問です。
なんで源頼朝はたったの3日で右近衛大将をやめてしまうんですか?
質問です。東京都 私 学 適 性 の過去問
学徒出陣の説明として誤っているものはどれ
1.在学中の徴兵適齢の文科系学生を陸海軍に招集する
2.高等専門学校以上の学生を軍需工場や戦地に強制的に動員する
3.法文系学生の徴兵猶予を停止し、入隊・出征させる
4.在学年限短縮や徴兵年齢引き下げなどによる学徒兵の出征
高い金取ってるなら解答ぐらいつけろや!
568 :
日本@名無史さん:03/03/05 12:07
2かな?
569 :
日本@名無史さん:03/03/05 12:41
>>536 各紙とも当たり前のように元嘉暦と記しているが,時事通信のみは,689年当時に
使用された暦は元嘉暦のみであることによる推定と明記している。
572 :
日本@名無史さん:03/03/05 13:46
2062石 免四つ(四公六民のこと)って何石何斗?
573 :
日本@名無史さん:03/03/05 15:13
>>571 工場動員でなく出征(徴兵)だから。かな?
574 :
日本@名無史さん:03/03/05 18:14
質問です。
「(花押)」はわかりますが、「(花押影)」とはなんでしょうか?
たとえば翻刻された書状などに
大久保相模守(花押影)
などとあるあれです。
花押とは違うのでしょうか?
それとも判刻されたものを押したなのでしょうか?
575 :
日本@名無史さん:03/03/05 18:17
576 :
日本@名無史さん:03/03/05 18:19
>>575 写しの文書の花押は(花押影)となるということですね。
ありがとうございます。
>>573 そ、そんな微妙なものだったのか。ありがd
578 :
日本@名無史さん:03/03/06 11:55
学徒出陣
太平洋戦争時に大学・高専在学生の徴兵適齢(20歳)以上の者のうち,理科系,
教員養成系以外の者の徴兵延期制度を撤廃して入隊させた措置。
すでに太平洋戦争開始とともに兵員の不足は深刻化し,しだいに兵力の根こそぎ
動員の様相を呈していた。従来,大学,高専の学生・生徒には徴兵猶予の特典
があったが,1941年10月,大学,専門学校などの修学年限を3ヵ月短縮し,
同年の卒業生を対象に12月臨時徴兵検査を実施し,繰上げ卒業により合格者
を42年2月入隊させた。さらに42年には予科,高等学校を加えて修学年限を
6ヵ月短縮し,9月卒業,10月入隊の措置がとられた。ついで戦局悪化による
下級将校の不足に対処するため,43年10月2日,在学徴集延期臨時特例が
公布され,理工科系および教員養成学校を除く文科系高等教育諸学校在学生
に対する徴兵延期撤廃の措置がとられた(なお,植民地の朝鮮でも同年10月
学徒兵制を実施)。同時に〈昭和18年度臨時徴兵検査規則〉が公布され,
10,11月に検査を実施し,丙種合格(開放性結核患者を除く)までを12月に
入隊させることになった。第1回学徒兵入隊を前にして,東京では43年10月21日,
文部省学校報国団本部主催による出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で
開かれ,東条英機首相,岡部長景文相出席のもと関東地方入隊学生を中心に
7万人が集まった。このほか各地で壮行会が開かれたが,翌年の第2次〈出陣〉
以降は壮行会さえ行われなかった。また43年10月,教育に関する戦時非常措置
方策が閣議決定され,文科系高等教育諸学校の縮小と理科系への転換,
在学入隊者の卒業資格の特例などが定められた。さらに44年10月には徴兵適齢
が20歳から19歳に引き下げられ,学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される
。こうして徴兵された学徒兵のなかには,青春を戦火に散らし,二度と還らなか
った者も多い。そうした戦没学生の手記《きけわだつみのこえ》(1949刊)は
戦後大きな反響を呼んだ。
質問です。
長篠で討ち死にした真田信綱には息子がいたってきいたんですけど、
その息子って、どんな人だったか知りませんか?
信綱死亡時の年齢とか・・・・。
580 :
日本@名無史さん:03/03/06 23:08
アメリカにとっては、対アフガン戦争、対テロ戦争は、自由と民主主義を守るための
( 1 )と言う意味がある。( 1 )は善と悪との戦いになるため、妥協が難しく
なることが多い。
また、靖国神社は、日米戦争を自由と民主主義に敵対する価値のための( 1 )とみ
なしている。
1に適する言葉を以下から選べ
自衛戦 革命戦争 総力戦 聖戦 限定戦
生鮮
582 :
日本@名無史さん:03/03/06 23:32
百家争鳴
584 :
日本@名無史さん:03/03/07 01:36
素朴な疑問、日本人はいつから外食するようになったの?屋台 食堂 などなど
585 :
日本@名無史さん:03/03/07 01:51
自衛隊は、外国から見るとやはり「日本軍」なんだろうね。
586 :
日本@名無史さん:03/03/07 14:53
室町末期までには旅中の食事である旅籠(はたご)を提供する店の意の旅籠屋
の語が定着していた。
これに対し,楽しみのための外食は1656年の明暦大火後の江戸で,浅草金竜山
(待乳(まつち)山)に奈良茶飯の店ができ,珍しがった市民たちが,われもわれ
もと詰めかけたことあたりを古い例とする。日本人の外食風習はこのようにし
て始まり,江戸時代以降都市人口,旅行人口の増大にともなって拡大した。
・実用外食は室町時代、楽しみの外食は江戸時代のようです。
587 :
日本@名無史さん:03/03/07 14:54
>>585 そうでしょうね。
ペルシャ湾まで行ってますから。
588 :
日本@名無史さん:03/03/07 19:55
質問があります。
新撰組、特に土方歳三と沖田総司について調べたいと思っています。
自分は歴史を専門に勉強していたわけではないので、
どういった資料が現在、重要視されているのかわかりません。
もっとも信頼に値するような資料をいくつか教えてくださると幸いです。
お願いいたします。
589 :
日本@名無史さん:03/03/07 22:26
>>589 ありがとうございます。
史料で調べた時と、資料で調べた時で、
こんなに差が出るとは驚きで、勉強になりました。
改めて、教えて頂いた中から探してみたいと思います。
591 :
日本@名無史さん:03/03/08 15:25
age
592 :
日本@名無史さん:03/03/09 01:36
横井小楠は儒学の交易論、民富論で福井藩政を改革したらしいのですが
それが良くわかるのは「国是三論」ですか?
また、横井小楠に詳しい大学教授など教えていただければ幸いです
それともスレ違いでしょうか?
593 :
日本@名無史さん:03/03/09 14:28
594 :
日本@名無史さん:03/03/09 14:47
>>592 小楠は儒教の民富論,交易論によって藩政を指導し,農民の積極的参加
を原動力とする生糸の大量輸出によって巨大な利益を挙げた。
この政策の指針となったのが60年(万延1)にできあがった問答体の
《国是三論》である。
595 :
日本@名無史さん:03/03/09 14:52
>>593-595 おお、皆さんご親切に有難うございます
これから国是三論についてのものや川勝氏の著作などを
読んでみようと思います
597 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:39
北方史を調べていて、知識が薄いためわからないことがあります。
蝦夷地について、いつの時点で日本の領土となったといえるのでしょうか。
また、歴史学会などでの一般的な見解はどうなっているのでしょうか。
寛政11年の第一次幕府直轄か、安政元年の第二次直轄をもってするのか、
それとも明治二年の開拓使設置を持って正式に領土としたのかです。
領土化するということは、内国的な法制・行政等の整備の他に、国際的な宣言も
要件だと思いますが、その点を含めて歴史学ではどういう見解なのでしょうか。
598 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:27
>>597 >江戸時代の学者の林子平が『三国通覧図説』で論じているように、
>その当時蝦夷地と呼ばれた北海道は外国と認識されておりました。
>ちなみに『三国通覧図説』の三国とは、琉球・朝鮮・蝦夷地を指して
>います。だから、「松前藩のアイヌへの収奪が厳しいから、アイヌは
>このままではロシアになびいてしまう。北海道の開拓を急がないと
>ロシア領になってしまう」
>という危機感がその当時の支配者にはありました。
>裏返せば、自国の領土になっていないという認識をしていたのです。
http://www.h2.dion.ne.jp/~hstochig/file/kouza1_7.html 参考になるかどうかわかりませんが、こういうのがありました。
ちなみに、北海道では参政権獲得は1925年だそうです。
となると、明治からかもしれませんね。
599 :
日本@名無史さん:03/03/09 23:27
>>597 ロシアとの関係では、安政元年12月(1855年2月)の日露和親条約で国境
が画定されます。この時の争点は、千島列島ではエトロフ島。実効的支配
で日本領に確定(ウルップ島以北はロシア領)。樺太については雑居とな
りました。日本側は「樺太はアイヌがいるから日本領」と主張したようで
すが、うまくいかなかったようです。この段階で、蝦夷地はまったく争点
となっていません。日本領であることは当然ということでしょう。
以上から、国際的には日露和親条約の段階で確定したといってよいので
はないでしょうか。国内的には、アイヌの扱いをふくめ色々議論がありそ
うですが、詳しい方にパスします。
参考文献:菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』(朝日選書)
まあ、近代的な国家観を
前近代には持ち込まないっていうのが
歴史学の通説だね
601 :
日本@名無史さん:03/03/10 02:00
>>598,599
ありがとうございます。
ということは、国際的には1855年(安政元年)には蝦夷地に関しては、
日本領土と認知されていたことになりますね。
これは、きっと前期幕領化のとき蝦夷地(函館)奉行をおき、伊能が地図を作り、近藤や間宮の記録をもって
幕府の権力機構が支配していたと、ロシアが考えたためでしょうか。
しかし、依然として内陸部は前人、否、和人未到だったわけですから、
実効支配はされていないと思われるのですが…。
後期幕領下で蝦夷地警備が進み、漁場開発が盛んになり、松浦武四郎が内陸調査はたし、
明治を迎えるということですから、
明確に領有時期を規定することはできないということでいいのでしょうか。
ところで、蝦夷地(北海道)が「無主地」という論法は、どこで使われ始めたものなのでしょう?
すみません、考えが取り止めがなくなってしましました。
602 :
日本@名無史さん:03/03/10 13:17
603 :
日本@名無史さん:03/03/10 14:16
織田信長って何で皇族を殺さなかったんですか???
仏は嫌いで神は好きだったんですか???
604 :
日本@名無史さん:03/03/10 15:47
使い道があると思ってとっておいたのでしょう。
官位を受け取らない信長を、朝廷は恐れていたようですが。
>>604 ありがとうございます。
それで、
> 官位を受け取らない信長を、朝廷は恐れていたようですが。
と、ありますが、当時官位を受け取らないことって
何か凄い事なんですか???
607 :
日本@名無史さん:03/03/10 17:05
>606 (604ではないけど)
いまでも大抵の人は勲章を有難がるでしょ・・・断る人は
滅多にいない、特に役人・議員・会社社長などの階層では。
近代でも土光さんくらいでしょ、この人のおかげで行政改革
が多少なりとも実行されたし。やっぱり昔の官位や現代の
勲章をもらえるのに断るのは凄い。
>>607 ありがとうございます。
確かに凄い事なんですが、何で朝廷は恐れていたのですか?
自分達の意にかなわないから何をしでかすかわからないと
いう意味で恐れていたのでしょうか???
609 :
日本@名無史さん:03/03/10 18:20
そうですね。
官位を受け取らせることによって、朝廷の秩序に丸め込めるわけです。
官位を欲しがらないと言うことは、
朝廷そのものを破壊する可能性も秘めていたわけで、
不気味がられたそうです。
610 :
日本@名無史さん:03/03/10 18:26
信長は別に仏が嫌いなわけじゃないよ。
フロイスの記録にはやや禅宗に傾倒しているってあるし。
あと、信長と朝廷に軋轢があったって考え方には無理がある。
別に仲が良かったわけじゃないけど不仲だったわけでもない。
ものすごい素人問答
>>613 元常連なのに
>>1も知らないの?
ここで質問が出ているうちは単発の質問スレが立たないんだから良いじゃないか。
615 :
日本@名無史さん:03/03/10 22:31
安土城天守閣>安土城の禁裏
からみると、
信長皇帝>天皇
も、考えられるんでないかい。
宗教問答で、奈良の僧に日蓮宗を論破させてるね。
616 :
日本@名無史さん:03/03/11 00:09
東大受験にお勧めの歴史入門書達を教えてください。
618 :
日本@名無史さん:03/03/11 00:46
他に岩波新書系では何かない?
信長と朝廷の関係については学者の間でバラバラだからな〜。
朝廷が信長にとって目の上のたんこぶで最終的に信長は朝廷に敗れたって
説が今谷さんか?立花京子はどっちだっけ?
620 :
日本@名無史さん:03/03/11 01:02
>>619 立花女史は、「信長が天皇体制を侵食している」と言う論だよ。
薦められたのが、岩波新書の日本社会の歴史、日本文化の歴史、神仏習合、翻訳と日本の近代。それと現代史を歩くです。これでいいですか?
622 :
日本@名無史さん:03/03/11 06:00
友人に勧められて中央公論社の日本の歴史を買おうと思ってます。
ですが、箱入り版、文庫版、中公バックス版などがあり悩んでいます。
どれも内容は変わらないのでしょうか?
箱入りと文庫版は見較べてみたのですが、あまり変わらないような気がしました。
アドバイス、よろしくお願いします。
>>615 > 宗教問答で、奈良の僧に日蓮宗を論破させてるね
すいません、詳しく教えてもらえないでしょうか???
625 :
日本@名無史さん:03/03/11 09:34
626 :
日本@名無史さん:03/03/11 11:57
安土宗論
1579年(天正7),織田信長の命令で安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論。
当時,信長の本拠だった新興都市の安土では,折伏(しやくぶく)の談義僧で
ならした普伝日門の布教によって法華宗が猛烈にのびていた。
また,信長が当時その統治に腐心した京都や堺でも,町衆社会に法華宗が大きな
勢力をもっていた。この宗論自体は浄土宗の僧と法華信徒の問答に始まったが,
信長の命で,両宗を代表する高僧らの対論となり,
信長の介入で法華宗の無惨な敗北となって決着した。
普伝は斬られ,頂妙寺日痔(につこう)ら対論出席者は満座の中で袈裟を
はぎとられ,なぐられた。しかも宗論のあと,信長は京都の法華宗本山
13ヵ寺から黄金2600枚という莫大な償金をまきあげ,また詫証文をとって
浄土宗の本山知恩院に与えた。
法華宗の敗北は,それを支持した都市町衆の信長への屈伏を意味し,
この宗論は信長の都市政策を大きく推進させる契機となった。
信長の場合、信教の弾圧や保護は信心によるものではなくて、単なる政策の一環。
時と場合によっては、一向宗でも保護しただろうしキリスト教でも弾圧しただろうし、
ヒンズー教でもイスラム教でもブードゥー教でも認めただろう。
ただ、その時と場合にならなかっただけ。
628 :
日本@名無史さん:03/03/11 13:50
>>622,623
私も基本的には文庫でいいと思います。文庫の欠点は、(年とって)目が悪く
なった時、小さな文字に苦しみそうなこと。長所は、省スペース。
なお、中公バックス版は、別巻が5冊あります。図録原始〜平安、同鎌倉〜戦
国、同織豊〜幕末、同維新〜現代、年表・地図です。一度、図書館などで見てく
ださい。
>>627 ありがとうございました。 (スイマセン
この度20歳になりました。今年から私大3年なのですが、まだ学術論文は発表し
たことがありません。今卒論のテーマは4つほど考えています。なんとかあと7年
で博士号(歴史学)を取得したいんですが、何かアドバイスをください。
632 :
理学部数学科:03/03/11 16:05
歴史を学ぶと十中八九、ロクな人間にはならない。
633 :
日本@名無史さん:03/03/11 16:52
>>631 こんなところにいないで、時間のあるうちに(論文や)史料を沢山読みなさい。
635 :
日本@名無史さん:03/03/11 23:05
卒論のテーマはなんじゃい?
636 :
日本@名無史さん:03/03/11 23:08
>歴史を学ぶと十中八九、ロクな人間にはならない。
確かに歴史学は思考力と思想を硬直させる危険な学問だ(w
637 :
日本@名無史さん:03/03/11 23:12
そうかな。人間学にもなるんでないの?
638 :
日本@名無史さん:03/03/12 00:23
人間学ねえ(w
硬直するのは本人の責任、資質
640 :
日本@名無史さん:03/03/12 00:29
なんかPHP文庫の本みたいな読み方はやだなあ。
641 :
日本@名無史さん:03/03/12 07:50
いや、ロクでもない人間がたまたま歴史を学んでいたということではないの?
歴史じゃない別のものを学んでいてもロクデナシは多いよ。
つまり何を学ぼうがロクな人間にならない。
学問は人格陶冶(人間学?)とは縁もゆかりもないってこと。
642 :
日本@名無史さん:03/03/12 08:21
>歴史を学ぶと十中八九、ロクな人間にはならない。
各人の理解度にばらつきがあるとはいえ、日本史板の現状を見ると一概に否定できないかもよ。
民族主義やナショナリズムという麻薬も扱う学問だからね、歴史学は。気がつけばジャンキーだねw
643 :
日本@名無史さん:03/03/12 10:11
>>642 2chでいるきちがいはどの分野でもいる
子供のころいくら偉人伝をたくさん読んだからって
偉人になるとは限らん
>>644 そだね。
知っていることと行うことは違うからね。
知行合一でなければいかん
648 :
日本@名無史さん:03/03/12 15:41
さて、質問スレだから、このへんで。
質問者の方どうぞ!
不知火という言葉の由来って分かります?
>>649 ぜんぜん知らないんですけど、卑弥呼関係ですか?
「日巫女」「火巫女」とも言いますからね。
「不知火」だとオカルトか気象天文な気もしますが・・・まあ良いや。
「九州の八代海と有明海では旧暦7月晦日の真夜中になると海上に不思議な
明かりが現れたといわれている。その怪火がいわゆる不知火で、誰にでも
観察できたことから、古くから多くの人々の興味をかき立てていた。」
ですね。
名前自体は非常に古いものの様で、元々は「しらぬひ」であり、場所によっては
「竜火」とも言うようです。
由来と言われても、よく分からない火だから「不知火」ではないでしょうか?
ある説では、熊野久須毘神の「久須毘」が「奇霊」=「奇火」であり、これは
「不知火」ではないか?とも言いますが、無視した方が良いかも。
651 :
日本@名無史さん:03/03/12 22:37
不知火
しらぬい
光の異常屈折のために,一点の漁火(いさりび)でも左右に細長くのびて見える現象。
九州の八代海(別名不知火海)や有明海で夏の朔日(さくじつ)(旧暦の1日で大潮になる日),
特に八朔(旧暦8月1日)によく見られる。
この現象は《日本書紀》景行紀にも記され,古くから知られていたが,
その正体が不明のまま不知火といいならわされてきた。
1937年宮西通可(1892‐1962)が現地の観測と室内実験で,不知火現象のおこる
機構を説明した。すなわち,所々に澪(みお)(水路)のある遠浅の海で,
夜に潮が大きく引いて,干潟と澪が現れている時には,干潟の砂の上の空気
は冷たく,澪の上の空気は暖かく温度差が大きくなる。ここに風が吹いていると,
たくさん並んだ空気の柱状渦の列ができる。
柱状渦の先方に漁火があり,柱状渦の軸方向の手前からその漁火を見ると,
柱状渦はレンズの働きをして,一点の漁火でも横に広がった光の列となり,
空気の動きに応じて揺れて見えるというのである。
九州の八代海=別名が不知火海。からかな。
652 :
日本@名無史さん:03/03/12 22:44
不知火
景行天皇が肥の国を討伐した際、暗夜の海上に正体不明の火が無数に
現れたという故事がある
しらぬい(ひ)
(枕詞)地名「筑紫(つくし)」にかかる。「―筑紫の綿は身に着けて
いまだは着ねど暖けく見ゆ/万葉 336」
〔従来「不知火」と解されていたが、上代仮名遣いでは「火」「日」「霊(ひ)」
などが区別されているので、「領(し)らぬ霊(ひ)」と「白縫」など
と解する説がある〕
653 :
日本@名無史さん:03/03/13 10:26
揚げ物。
654 :
日本@名無史さん:03/03/13 20:17
フライ・ダディ・フライ
655 :
日本@名無史さん:03/03/14 13:58
からage
656 :
日本@名無史さん:03/03/14 16:22
age
657 :
日本@名無史さん:03/03/14 19:00
すごく気になったので質問です。
江戸時代ってすごく元号がかわってますよね。
それって天皇に替える権限があったのでしょうか?それとも幕府にあったのでしょうか?
658 :
日本@名無史さん:03/03/14 21:37
>>657 鎌倉時代に入り承久の乱後の1224年に元仁と改元したのに対して幕府の抗議
があってたちまち再度嘉禄と改元し,また1308年同じく幕府の申入れによって
延慶と改元,
室町時代には1384年の至徳改元が将軍足利義満の発議で行われ,1412年(応永19)
即位した称光天皇が幕府の意向で一代の間ついに改元できなかったなど,
改元に対する幕府の干渉はしだいに強まり,
新年号は将軍の内定を経たうえで天皇が形式的に決定するという方式が
室町幕府の下で固定化し,
それが江戸幕府にも引きつがれた。
659 :
日本@名無史さん:03/03/14 21:57
江戸時代においても,幕府側の意向が改元を左右した例は幾つか見られるが,
正徳の改元(1711)の場合のように,朝廷の内定した年号を無視して幕府が
正徳の年号を主張したため,改めてこの年号を勅定して改元が行われた例
もある。
後になると幕府の介入は少なくなるが,改元に幕府の同意を必要とする
慣例は幕末まで続いている。
660 :
日本@名無史さん:03/03/14 21:58
文武天皇から平成の今上天皇に至るまで,代数にして84代(北朝を加えると89代)
の間に年号は244(このうち北朝の年号は17)を数える。
代数に比べて年号の数がかなり多いのは,天皇一代の間に幾たびも
改元される場合が多いからである。
後醍醐・後花園両朝の場合のように,改元8回に及んだ例もある。
661 :
日本@名無史さん:03/03/14 22:00
室町時代には年号案の選定から改元の施行日にまで幕府が容喙(ようかい)
したこともあり,武家側の要請により改元したことも一再にとどまらない。
なお,中世の中ごろ,南北朝時代には両朝それぞれに年号を定め,
それぞれの朝廷を奉ずる人びとの間で用いられるという異例の事態が
60年近く続いた。さらにこの時代には北陸方面で活動した南朝系の人びと
の間に白鹿という私年号が用いられたこと,また,南北朝合一後に
南朝の遺臣の間に天靖という私年号が用いられたことが知られる。
ちなみに公式の年号ではなく,民間において私的に用いられたいわゆる
私年号は主として中世に見られるもので,とくに戦国時代に多い
662 :
日本@名無史さん:03/03/14 22:08
基本的に年号は変えて欲しくない
年号の和暦換算はソースに直接書いてるから
書き直すとサービス残業、今上の無事マジ祈る
長篠の戦いにおける信長の3段撃ちは無かった。つーか、大規模な射撃戦自体無かった
という話は本当?ソースはどこよ?
664 :
日本@名無史さん:03/03/14 23:47
665 :
日本@名無史さん:03/03/14 23:56
>>663 ソースと言われてもね〜
>>664のリンクを見てもそうだけど、「やった」という根拠が全く無い。
そもそも三段撃ちを行ったと記述してある史料を知らんから、何とも答える
事ができんけどね。
まあ江戸時代の創作だから。
でも数百丁の鉄砲を一斉射撃したようなので、大規模な射撃を行った事は伺える。
が、武田方の死者の多数は、敗走時のものと言われてるね。
信長公記でも、武田の波状攻撃を鉄砲で撃ち殺したと言うより、「うたれて退却」
とか「うたれて退く」とか書いてあるし、さらに「敗走時に多数の首を討ち取り」
とも書いてある。
三番手の小幡の時だけは、「大半が倒され」と書いてあるけど。
あとは、「武田方の兵は残りが少なくなり」ともあるけど、退却時と思われる
馬場の兵の死者が1万位とか書いてあるし。
そもそも当時は、全兵力の1〜2割が死んだら大損害とも言うしね。
それに武田の騎馬隊って言ったって、ほとんど馬には乗ってないんだよ。
何かあんまり答えになってないな。
668 :
日本@名無史さん:03/03/15 08:22
イメージは壊れるためにある・・・。
>>667 読みましたヽ( `Д´)ノ
×武田騎馬軍団 ○武田騎馬輜重隊 だったのですね…
戦国時代の資料として、ルイス・フロイスを挙げてあるものが多いのですが、
何という資料なのでしょうか?ちょっと読んでみたひ…
670 :
日本@名無史さん:03/03/15 22:10
672 :
日本@名無史さん:03/03/16 08:15
俺も読んでみたいな。フロイス。読みやすいのかな。
673 :
日本@名無史さん:03/03/16 14:43
>>669-672 フロイスは『日本史』のほかに、当時の日本の風俗・文化をヨーロッパ
のものと比較した『日欧文化比較』があります。もとは、岩波書店の大航
海時代叢書の1冊でしたが、現在では岩波文庫で『ヨーロッパ文化と日本
文化』として出ています。こちらの方がネタ的にはおもしろいでしょう。
674 :
日本@名無史さん:03/03/16 14:51
おしえて
プロレスラー長州力は会津若松体育館で試合に出れるの?
675 :
日本@名無史さん:03/03/16 15:36
676 :
日本@名無史さん:03/03/16 15:49
>>674 やってます。
>1981.3.20
>会津若松市体育館で、T・Jシン、D・ムラコ組の挑戦を受け、
>北米タッグ王座13度目の防衛。これが最後の防衛戦となる。
677 :
日本@名無史さん:03/03/16 16:09
>>675 これです。なお、これだと岡田章雄さんが著者のようになっていますが、
著者はルイス・フロイス、岡田さんは訳注者です。
678 :
日本@名無史さん:03/03/16 17:00
>>677 どもでした。岩波ですが、読みやすいですか?
信長公記買うつもりなんですが、角川文庫と新人物往来社のどっちがイイですか?
甲陽軍艦も買おうかと思ってたんですが、絶版でつた…(´・ω・`)
>>678 読みやすいの基準がわかりませんが、注(説明)もついてるので、
難解ではないと思います。
>>679 角川文庫版をおすすめします。
理由1:人名・神社・寺・地名索引がある(笑)。2注が丁寧。
3解説が詳しい。
欠点は、本文中に各章の内容を示す見出しがないこと(目次として
前に一括)。
681 :
日本@名無史さん:03/03/16 18:37
682 :
日本@名無史さん:03/03/16 18:50
>>681,682,679
「甲陽軍鑑」を「甲陽軍艦」で検索したからでは?
私は先日、『原本現代語訳 甲陽軍鑑』全3冊(ニュートンプレス、
以前は教育社から刊行)を本屋でゲットしました。大きな本屋なら、
あるかもしれません。こちらは索引もないし、史料的にも訳が入って
いる分落ちるかもしれません。
684 :
日本@名無史さん:03/03/16 19:08
信長公記、誰かデジタル化に挑戦しない?
686 :
日本@名無史さん:03/03/16 19:57
何かの番組で見たような気がするのですが、
見間違いだったのか本当なのか気になるので質問します。
徳川家康が秀吉に関東(江戸)を整備するように言われたとき、
(江戸を与えられた?とき)、関東には朝鮮人が多くいた。
家康に命令が下る前に秀吉は朝鮮人を関東に追いやった
というようなことをテレビで見た気がするのですが、
これは本当なのでしょうか?
「そのとき歴史は@NHK」でやっていたような気がするのですが、
寝ぼけていたか何かで勝手にそう思い込んでしまったのか
わからなくてすっきりしません。
ご存知の方、教えてください。
信長公記は角川がイイみたいですね。新人物のより3k安いし。
甲陽軍鑑、古書だとどれがイイのかわかりません…。・゚・(ノД`)・゚・。
>>684は「ブラウザのバグ? 」ってな表示が出て見れないYO!
688 :
日本@名無史さん:03/03/16 20:30
新人物の信長公記って現代語訳されているやつか?
あれ、訳の間違い結構あるらしいぞ。
ついでに角川の岩沢・奥野大先生も読み下しが間違っている箇所があるそうだ。
まあ、歴史学、突き詰めるところは原本をあたれって事だけど、一般人には無理だ。
>>688 検索しまつた。絶版じゃなくてかつ安いのは、
「甲陽軍鑑 現代人の古典シリーズ 吉田 豊 (徳間書店)」
のみなんですが、これって大丈夫なのかなぁ? ↑かなり怪しげ
691 :
日本@名無史さん:03/03/16 20:48
>>686 あまり、聞かない話ですね。
武蔵野には、古代渡来人の開拓地帯はありましたが。
高麗神社・高麗川などあるよね。
>>689,687
私があげた新人物往来社の信長公記は、桑田忠親大センセー校注の
ものです(直接見たのは、改定版1975)。訳はありません。別に現代
語訳のものも出てるんですね。知らんかったっす。
693 :
日本@名無史さん:03/03/16 21:43
ちょっとお尋ねします。
今川義元の首級を挙げた「毛利しんすけ」は
「新助」ですか?それとも「新介」ですか?
ググっても微妙な差だったので。
まあ、訳の間違いって言うか、その解釈によって学者さん達は色んな説を
唱えているんだけどね。一概に誤訳とは言い切れない。
>>693 マイナーな武将ほど史料によって表記がバラバラだと思われ。
誰か『信長公記』持っている人、確かめてあげて。
>>695,694,693
了解。
『信長公記』、奥野・岩沢本、桑田本とも「毛利新介」です(4箇所登場)。
698 :
日本@名無史さん:03/03/16 23:22
嫁さんの実家の近所に雲上左市郎(くものうえのさいちろう)伝説があります。
その雲上左市郎とは、後鳥羽上皇の第4子を指すといわれ、承久の乱後、
越後小泉庄に流され死んだといわれています。私は信じていませんが、
この後鳥羽上皇の第4子というのは、実際どこで死んだのですか?
(たしか頼仁親王だったと思います。)
699 :
日本@名無史さん:03/03/16 23:32
お江戸の文化、庶民の生活事情みたいなもんで
面白いのあったら教えてください。
700 :
日本@名無史さん:03/03/16 23:36
701 :
日本@名無史さん:03/03/16 23:47
>>700 すいません、頼仁親王ってのは間違いのようです。
第4子ってのは確かなんですが、名前忘れてしまいました…
703 :
日本@名無史さん:03/03/17 15:42
704 :
日本@名無史さん:03/03/17 15:48
>>701 >頼仁親王
後鳥羽の第4子は、頼仁親王でいいみたいよ。
>後鳥羽上皇の第4王子頼仁親王が承久の変に連座して、承久2年
>(1220)児島に配流された。
>頼仁親王は尊流院に入り、後鳥羽上皇の崩御に当り、石塔(現存・重文)
>・廟堂等を建立し供養した。
>頼仁親王崩御(廟所は頼仁親王御陵として、諸興寺跡に宮内庁管理として現存)
>長男道乗(覚仁法親王弟子)が五流一山(尊流院・伝法院・太法院・
>報恩院・建徳院をはじめとする)を再興、5院各々を子たちに継がせている。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm
705 :
日本@名無史さん:03/03/17 16:17
>>700>>704 ありがとうございます。
やっぱり伝説っていうのは、史実に基づくとウソが多いですね。
706 :
日本@名無史さん:03/03/17 17:47
>>691 やはり夢だったのか
すっきりしました
回答ありがとうございました
708 :
日本@名無史さん:03/03/18 10:57
あのう、徳川御三家の尾張、紀伊、水戸って、それ自体が姓なのですか?
例えば、尾張義直とか、紀伊頼宣とか、水戸頼房とかなるんですか?
御三卿は姓ですよね?
709 :
日本@名無史さん:03/03/18 11:50
>>708 それぞれが徳川ってことになってる。
すべて家康の子が祖。
ちなみに水戸からは将軍は出せない。
落語でも「紀州」ってのがあるくらい。
御三卿は吉宗から。それぞれが姓でOK
>>709 御三卿も徳川性じゃないの?
通称としてなっているだけで。
厳密に氏姓も変わってるの?
711 :
日本@名無史さん:03/03/18 12:16
>>709 じゃ、あの「水戸光国(くにって是で良かったっけ)」っていう名前は俗称なんですか?
>>711 水戸(に領地がある徳川)光圀
と通称されてた。
713 :
日本@名無史さん:03/03/18 12:56
>>712 では、やはり正式名は「徳川光圀」なのですね。
そして、御三家全部がそうなのですね。
714 :
日本@名無史さん:03/03/18 14:22
>>713 徳川光圀です。
江戸中期の大名。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男として水戸に生まれる。
母は頼房の側室谷久子。家臣の屋敷で養われた。幼名は長丸,のち千代松,
9歳で元服のとき3代将軍徳川家光の1字を与えられて光国と名のる。
のち50歳代に国を圀に改めた。
字ははじめ徳亮,また観之,のち子竜。
号は常山,別号は日新斎,梅里,率然(そつぜん),
隠居して西山,採薇(さいび)などを用いた。
諡(おくりな)は義公。
6歳のとき世子に決定し,江戸の水戸藩邸に移り,61年(寛文1)父の死後,
34歳で第2代藩主となる。
715 :
日本@名無史さん:03/03/18 15:07
>>714 続き
46歳で隠居。
47歳で越後栃尾のちりめん屋甚衛門方に奉公として入る。
51歳でちりめんの目録を得る。
52歳で角さんとともに全国を周る。
54歳で後室としてお銀を迎える。
58歳で死去。 戒名:徳戸院西山義公大居士
716 :
日本@名無史さん:03/03/18 15:40
>>715 こらw。
本気にする人が出たらどうする。
717 :
日本@名無史さん:03/03/18 16:46
718 :
日本@名無史さん:03/03/18 16:53
719 :
日本@名無史さん:03/03/18 17:23
戦国板で場違いな人物が出てきたのでお教えくださいませ。
上杉鷹山ってだれですか?
上杉だから戦国武将?たかやま?読みも分かりません。
ケネディ大統領が尊敬したとかどうとか。
720 :
日本@名無史さん:03/03/18 17:29
>>719 戦国時代じゃあありません。
江戸中期の大名です。詳しい事は分かりませんが
九州?の小大名から養子に来て上杉家の財政を立て直しました。
ケネディさんが尊敬したかどうか知らないけど
リストラをやった人でもあります。
721 :
日本@名無史さん:03/03/18 18:26
722 :
bloom:03/03/18 18:29
え?なんで水戸家からは将軍になれないの?
724 :
日本@名無史さん:03/03/18 19:56
>>719 超有名人です。
上杉治憲 1751‐1822(宝暦1‐文政5)
うえすぎはるのり
第10代米沢藩主。江戸時代の名君の一人。幼名松三郎,元服して治憲,
のち鷹山(ようざん)と号した。
日向高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生まれ,上杉重定の養嗣子
となる。1767年(明和4)17歳で米沢藩主となった。
治憲襲封以前の米沢藩政は動揺が激しく,宝暦年間(1751‐64),森平
右衛門が郡代として藩政の実権をにぎったが,新政半ばにして菁莪社
中のクーデタによって暗殺され,治憲の藩主就任とともに,奉行
竹俣当綱(まさつな)を中心とする藩政改革が開始された。
改革は長期にわたったが,第1期は明和・安永の改革で,治憲が直接
藩主の座にあった時期である。改革政策はまず大倹約令にはじまり,
農村統制では副代官,廻村横目,郷村出役を設け,国産奨励として桑,
コウゾ,漆の各100万本植立策を実施し,越後から縮織業を導入した。
縮織はのちの米沢織の始まりである。また江戸の折衷学派の泰斗細井平洲
を招き興譲館を創設した。
725 :
日本@名無史さん:03/03/18 19:57
改革は天明年間(1781‐89)に入ると,大飢饉の影響もあって一時挫折
し,執政竹俣当綱,小姓頭莅戸(のぞぎ)善政らは失脚し,治憲も
85年2月,家督を治広に譲って隠退した。ときに35歳。
訓戒書として治広に与えた〈伝国の辞〉は有名。治憲は隠殿餐霞館
にあって,治広,斉定の後見役となりその後も政務を指導した。
天明年間は改革が中断したが,やがて莅戸善政は中老職に登用され,
第2期の寛政改革が始まる。改革は善政の構想によって進められ,
とくに上書箱の設置,代官制度の改革,財政再建16ヵ年計画,また
広範な国産奨励策などの実施があげられる。
中でも養蚕業,織物業の発展が著しく,財政および農村復興の基盤
となった。人材の登用,古い慣行の刷新と現実的な政策の採用が,
改革を成功させた大きな理由とみられる。治憲の言行,業績は,
莅戸善政《翹楚編》,小田切市郎《南亭余韻》がくわしい。
(横山 昭男)
726 :
日本@名無史さん:03/03/18 19:57
上杉の家督をついだとき,春日大明神に奉納した誓詞に,
〈受けつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母〉
という歌を書きつけた鷹山は,江戸時代中期の代表的な名君として,
和歌山の徳川治貞,熊本の細川重賢らと並び称された。
その名はすでに江戸時代後期から高く,明治時代に内村鑑三がすぐれた
日本人5人を選んでその事跡を世界に紹介しようとして著した
《代表的日本人》にも,卓越した封建領主として書かれている。
鷹山が藩政改革に際して,率先して粗衣粗食に耐えたこと,
師の細井平洲に対して終始門弟としての礼を守ったことなどの
逸話は国定教科書に掲載され,鷹山は修身教育上の模範的な人物
として広く知られた。 (大隅 和雄)
727 :
日本@名無史さん:03/03/18 20:03
んで、ケネディ大統領はどっから出てきたんだ?
728 :
日本@名無史さん:03/03/18 20:24
<1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、
日本人記者団からこんな質問を受けた。
「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」
ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」>
と言うのが「上杉鷹山 ケネディ」で沢山ヒットします。
<ただし、ケネディ米大統領が日本人記者に「尊敬する政治家は」と
聞かれて、「上杉鷹山」と答えたという有名なエピソードは、
眉唾らしい>
というもの一つ見つけました。
729 :
日本@名無史さん:03/03/18 20:41
>>723 御三家とは将軍家に世継ぎが生まれないなど万が一の時に次期将軍を
輩出する目的で設置された。
しかし水戸家の初代藩主頼房は三代将軍徳川家光と年が1歳しか離れて
おらず、常に江戸にあって将軍の相談役となっていた。
このため水戸家は次期将軍を出すことは原則として無く、代わりにに
江戸常府・参勤交替免除とされて将軍の相談役となった。
水戸家が「天下の副将軍」と称されるのはこのためである。
だ、そうです。
730 :
日本@名無史さん:03/03/18 20:43
>>723 徳川幕府成立当初は、本家、尾張家、紀伊家を御三家とし、
本家が絶えたら尾張家、紀伊家から将軍がでることになっていました。
しかし家光の時代に、本家と分家が同格であるのはおかしい、
ということになり、尾張家、紀伊家、水戸家をもって御三家と称することになったのです。
ただし、御三家に入ったからといって、
水戸家から将軍を出すことを認めたわけではなかったので、
御三家という言葉は尾張家、紀伊家、水戸家を指しますが、
将軍になれるのは尾張家と紀伊家だけだったのです。
だから慶喜は養子だったんだ。
732 :
日本@名無史さん:03/03/18 23:02
一橋家
ひとつばしけ
三縁の一つ。8代将軍徳川吉宗の四男宗尹(むねただ)を祖とし,1740年(元文5)
江戸城一橋御門内に屋敷を与えられたところから一橋家と称した。高10万石。
三縁は三家とともに将軍家の血統保持の役目をもち,一橋家からは2代治済の
四男家斉が11代将軍となり,徳川斉昭の七男で一橋家を継いだ慶喜が15代将軍
となった。
なるほどね。
733 :
日本@名無史さん:03/03/20 12:11
ワォ!
735 :
日本@名無史さん:03/03/20 22:14
>中国が自国の外交戦略として他国の歴史書に介入するのは、
>現代でも続いていることなのだから。
これが言いたいだけなのでは・・・。
736 :
日本@名無史さん:03/03/20 23:11
>>734 一般的には、こういわれてますが。
編集の由来を述べた序文を欠いているために成立過程は明らかでないが,
天武紀(下)の10年3月丙戌(17日)条に,川嶋・忍壁(おさかべ)両皇子以下12人
の王臣に帝紀と上古諸事(旧辞)の記定を命じたとあるのが,編集の開始とみられている。
その後,持統朝には斤善言司が教訓的な歴史物語を作ろうとし,有力豪族の18氏
が墓記を提出して諸氏の伝承を記録化し,元明朝には風土記の提出を命じて
地方の伝承を集め,紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)に
国史の編集担当を命じたことなど,みな《日本書紀》の編集に役立ったのであろうが,
これは天智紀以前と天武紀以後との内容の懸隔や,天武紀と持統紀との表現の
相違からも確かめられ,結局編集の開始から完成までには40年を要したと
認められる。しかし最終段階の編集者は舎人親王以外に明らかでない。
太安麻呂(おおのやすまろ)が参加したというのは,子孫の多人長(おおのひとなが)
の主張に過ぎず,《日本書紀》が8年前の《古事記》を,内容においても表記に
おいても参考にしていないことは明らかである。
737 :
日本@名無史さん:03/03/20 23:32
司馬の「国盗り物語」を読み始めたのですが,物語では齋藤道三は父親は不明で坊主の出身ということになっているのですが、日本史用語集には齋藤道三の父は坊主の出身とありました。どちらが正しいのですか。
道三の父がもと妙覚寺の坊主です。
旧説で道三の前半生とされていたことが、(油商人から身を起こして、
西村勘九郎と名乗り云々)実は彼の父長井新左衛門尉の事績で
道三は父の跡を継いで下克上を成し遂げたと言うことが、近年の研究で分かりました。
司馬は確かにヴァカですが、このことでは彼に非は無いです。
ただ近年と言っても司馬の生前のことなので、再版での訂正は可能ですが。
739 :
日本@名無史さん:03/03/22 01:15
日本の和服を最も美しく引き立たせている有識文様は中国や韓国の古代服装にもありますか
741 :
日本@名無史さん:03/03/22 21:35
ま、もっと以前と比較してるようだから、目をつぶってあげたら?
742 :
日本@名無史さん:03/03/24 18:05
樺太の南半分、なんで所属が決まってないような描き方なんすか?
744 :
日本@名無史さん:03/03/24 19:05
>>742 サンフランシスコ講和条約で、日本は放棄したが、帰属先は明記されてないからです。
日本国内で発行されている地図は、北方4島が日本と同じ色で、
樺太南半分不明確な色で、国境線が二重基準になってないと
外務省高国土地理院高の許可が出ません。
教科書とか見ると、検定されるので細かな地図にまで徹底されてます。
個人的には樺太南半分や北千島まで所属不明にしてるのは、
「馬鹿じゃん?」って感じです。
>個人的には樺太南半分や北千島まで所属不明にしてるのは、
>「馬鹿じゃん?」って感じです。
個人的には、が入っていないと紆余・サヨで荒れたろうな(W
板違いだが、英国議会ってノルマンジー(北仏の一部)の領有権とそれに付帯する開戦権を未だ留保してるの?
前世紀末に放棄したという記事を読んだような、読んでいないような、、、、、
746 :
日本@名無史さん:03/03/25 00:27
サンフランシスコ講和会議に参加した数と平和条約に調印した数
教えて下さい。山川出版社と石川(河合塾)で違うんですけど…
747 :
日本@名無史さん:03/03/25 10:10
748 :
日本@名無史さん:03/03/25 13:55
>>746 >52ヵ国が参加し,うちソ連,ポーランド,チェコスロバキアは署名を拒否した。
>中国,朝鮮は招待されず,インド,ビルマは参加を拒否した。
>(平凡社・百科事典)
参加数52。調印数49。になるのかな。
749 :
日本@名無史さん:03/03/25 18:49
>>745 ちょっとくぐったがわからなかった。
誰かどうかな?
公家の家臣はどうやって生計立てていたか教えてください。
なんで戦争してない国とも講和せにゃならんの?
752 :
日本@名無史さん:03/03/25 21:45
>>750 主人からの給料
てかどの時代の何家とか書かんと答えようがない
源氏物語読んでも一代で没落して姫と乳母だけで暮らしてるような姿が
描かれているだろ、貴族といってもピンキリあると思うが・・・
>>751 実際に戦火を交えなくとも、宣戦布告されれば戦争状態ですから……
え?日本って世界中に宣戦布告しまくったの?
755 :
日本@名無史さん:03/03/25 23:29
>>751 日独伊軍事同盟で、中国や現在戦闘に参加していない国からの攻撃に対して
3国はたがいに協力してたたかうことをきめた。
↓
枢軸国側9ヵ国、連合国側51ヵ国が参戦と、なりますた。
枢軸国9ヶ国?
757 :
日本@名無史さん:03/03/25 23:39
日本で最初に茶髪にしたのって誰?
758 :
日本@名無史さん:03/03/25 23:40
茶髪はいつごろからあるの?
759 :
日本@名無史さん:03/03/25 23:52
>>756 ドイツ、イタリア、フィンランド、スロバキア、ハンガリー、
ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、日本。
かな?
ユーゴって枢軸参加数日後にクーデター起こして、結局ナチスドイツに踏みつぶされたけど、「9カ国」に入るのかなあ。
タイとかクロアチア、セルビア、満州国とか含めたらもっと多そうですね。
761 :
日本@名無史さん:03/03/26 00:19
自己つっこみ
所見>初見
スロバキアは枢軸国で講和拒否?チェコ絡み?
764 :
日本@名無史さん:03/03/26 12:49
>>761 ありがとうございます。そんなふるくからあるとおもいませんでした。
20年くらいなのかと思ってました。
765 :
日本@名無史さん:03/03/26 12:50
>>761
なんでも知ってるんですね
766 :
日本@名無史さん:03/03/26 13:10
《平家物語》に斎藤別当実盛が出陣に際し白髪を染めたという話があるが,
〈あらはせて見給へは,白髪にこそ成にけり〉とあるので,簡単に落ちた
ものであろう。
江戸時代末期には白髪染も商品化され,川柳に詠まれている〈今ならば
実盛も買ふ美玄香〉は特に有名だった。
明るくする系の毛染めは昭和30年代から。
767 :
日本@名無史さん:03/03/26 13:27
>>760 >タイは対連合国との宣戦布告は、日本の圧力に拠るもので無効である
>と宣言し、枢軸国では無いとした。
タイは枢軸国ではなかったと主張してるようです。
クロアチア、セルビアはユーゴに入るのかなぁ?
満州は国家認定が少なかったのでは。
768 :
日本@名無史さん:03/03/26 13:29
質問です。
オーストラリアかニューギニアの近くで、連合軍(特にオーストラリア?)
の捕虜をたくさん餓死させたり虐待してしまった、日本軍の捕虜収容所って
なんて名前でしたっけ?
769 :
日本@名無史さん:03/03/26 13:34
>>763 >インドやビルマ、ユーゴスラビアは条件を不満として参加せず、
>ソ連、ポーランド、チェコ・スロバキアは調印しなかった。
理由は東西対立かな。
770 :
日本@名無史さん:03/03/26 13:55
771 :
日本@名無史さん:03/03/26 13:58
>>768 こういうのもあったよ。
http://opinion.nucba.ac.jp/~kamada/H14Koceania/oceania14-7.html ラハ事件
日本軍のラハ攻略の激戦の後、日本軍の報告ではオーストラリア兵
約200名(後の報告では250名)が捕虜となった。多くの捕虜は
アンボンに送られたが、よりわけられたオーストラリア兵に対して
銃剣の刺殺による集団処刑が行われた。後に、数珠つなぎになった
50体ほどの遺体が発掘されたが、全貌の解明に届かなかった。
豪側は、ラハの死者を300人ほどとしているが、戦死者と処刑者の内訳
はつきとめられなかった。
泰氏は、戦死者は20名程度で、あとは処刑されたのではないかと
推測している。ラハ事件では、最高責任者はすでに戦死しており、
1人が死刑、2人が禁固20年の有罪判決を受けた。
アンボン収容所の捕虜虐待
アンボン攻略直後は、収容所は管理がゆるやかで、労働も課せられなかった。
監督者が交替した1942年6月から待遇が悪化し、暴行、処刑などの「捕虜いじめ」
が頻発した。特に1944年以降は補給が絶たれ、日本兵も慢性的飢餓にさらされて、
捕虜の待遇もさらに悪化した。アンボン収容所での捕虜の生存率は、
23%であった。飛行士処刑も含め、起訴された者は100人を超えたが、
死刑13名、有期刑43名の結末となった。
772 :
日本@名無史さん:03/03/26 14:02
三戦板で古文・漢文板を紹介され、さらに古文・漢文板から日本史板を紹介されて来ました。
もしよろしければ、皆さんのお知恵をお借りしたいのですが・・。
お彼岸に親族の集まりがありまして、そこで本家に伝わる古文書の写しを貰いました。
自分で見たところ、「河中島」「合戦」「軍功」「晴信入道」「高坂弾正」はなんとか読める
んですが、他の文字がサパーリわかりません(´・ω・`)
分かる文字から推測すると「先祖が川中島の戦いで軍功を挙げた」ってことなんだと
思われるのですが、これはいわゆる「感状」ってものなんでしょうか?
ttp://no.m78.com/up/data/up007083.zip 写しをスキャンしたので、文字が霞んでいますが・・。
左下の「長岩」というのが、本家の苗字です。
>>767 ユーゴは王家と政府がロンドンに亡命しているんで、枢軸扱いではないと思いますが。
国家認定の数を問題にするなら、セルビア、クロアチアも含みそうにないですね。
枢軸側9カ国って、8つしか思いつかないよ……。
しかもスロヴァキアも微妙。
>>763 スロヴァキアはナチスドイツがチェコを併合した後に作った傀儡国家。
チェコスロヴァキアとは直接の関係はないはずです。
世界史ネタっぽくなってきたのでsage。
774 :
日本@名無史さん:03/03/26 15:30
今般於信濃河中嶋
合戦之刻抜群之働ニ付
為軍功太刀壱振并鐚
壱筋可差贈もの也
晴信入道信玄(花押影)
奉行
高坂弾正昌信(花押影)
永禄四辛酉年
極月十五日
長岩長門江
でどうだろう?
>>772
776 :
日本@名無史さん:03/03/26 21:38
>枢軸国
日本、ドイツ、イタリア、ハンガリー、フィンランド、ルーマニア、ブルガリア
満州国、タイ
ってのもあるかな。
満州国ってのはどうなんだろうか?
777 :
日本@名無史さん:03/03/26 21:46
778 :
日本@名無史さん:03/03/26 21:57
>>775,773,772
お疲れさま。読める人がいて、日本史板の面目が立ちましたね。
個人的には、1行目の「今般」は「今度」か。3行目「鐚」は
「鑓」かな。あまり自信はないけど、その後が「壱筋」だし。
あとはこれでいいと思うよ。
「額田女王」とは、結局、何なんでしょう?
780 :
日本@名無史さん:03/03/26 22:02
あの真面目に質問するのですが,「尺八」という語は江戸時代の文献に出ているそうですが、口を用いた性行為というのはいつからあったと考えるべきですか。また、男性の方が女性器を舐める行為をさす言葉はあったのですか。
皆さん、レスありがとうございます。
日本史板でダメだったらどうしようかと・・・(;´Д`)
>>774 あ、この変な記号は花押なわけですね。なるほど・・
今まで花押ってスタンプみたく墨を塗って押すものだと思ってました(w
要はサインなんですね。
>>775 詳しい解析、ありがとうございます。
>今般於信濃河中嶋
>合戦之刻抜群之働ニ付
今回の信濃・川中島の戦いにおける抜群の働きにより
>為軍功太刀壱振并鐚
>壱筋可差贈もの也
太刀一振りと・・壱筋ってことは、槍?を贈る、かな・・。
旗って「〜筋」じゃないですよね?
>晴信入道信玄(花押影)
>奉行
>高坂弾正昌信(花押影)
論功行賞の奉行が高坂昌信だったんですね。
>永禄四辛酉年
>極月十五日
永禄4年ってことですよね? 永禄4年が西暦何年か分かれば、第何次川中島の戦い
で功績を立てたのか分かりますねヽ(´ー`)ノ
>長岩長門江
子孫がこんなんでごめんなさい(つД`)
>>778 レスありがとうございました。
鑓ってのは、騎馬武者が投げて使う短い槍でいいんでしょうか?
>>781 1561年9月。
一番激しかった時の川中島の合戦。
で、論功行賞が行われたのが12月だったんだね。
>>778 「鑓」は「鎗」の方がいいようです。普通に「やり」で漢字変換すると
「槍」か「鑓」が出ますが「鎗」もありますね。「鎗」は投げることもあ
りますが、馬上から相手を突き刺す時に使いますよね。
あと永禄4年の川中島の戦いは、第4次。最も有名なやつだと思います。
>>781 八幡原の戦闘があったときですね。
そんなに有名な合戦の文書ってことは、なんか逆に信憑性が下がった
ような気がしてチョト怖いです(´・ω・`)
あと、極月って12月なんですね。
>>784 「鎗」ですね。わかりました。
お前らカコ(・∀・)イイ!やっぱ教養のあるひとはいいね
787 :
日本@名無史さん:03/03/26 22:42
>>781 >高坂弾正昌信
歴史は素人ですが、ここのところで文書の信憑性に疑問のにおいがプンプンします。
うん、高坂昌信って名前コロコロ変わっているよな。
川中島合戦のときの名前が高坂弾正昌信じゃないってことでつか?
791 :
日本@名無史さん:03/03/26 22:48
天皇が空位で皇太子が政治を執政する制度とは何ていうのですか?
792 :
日本@名無史さん:03/03/26 22:55
>>779 額田王
ぬかたのおおきみ
《万葉集》第1期(舒明朝〜壬申の乱)の女流歌人。生没年不詳。《日本書紀》
天武天皇条に,鏡王の娘で,はじめ大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁して十市
皇女(とおちのひめみこ)を生んだとあるほかは,伝もつまびらかでない。
父の鏡王に関しても不明。出生地についても大和国,近江国の2説あるが,
どちらとも決定しがたい。《万葉集》の題詞によれば,額田王はのち天智天皇
に召されて近江大津宮に仕えた。娘十市皇女は天智天皇の子大友皇子(弘文天皇)
の妃となり,損野王(かどののおおきみ)を生んだが,壬申の乱(672)によって
夫は自尽,のち皇女自身も急逝した。額田王はかかる波乱に満ちた時代を経て,
持統初年ごろまで生存していたことが,弓削(ゆげ)皇子と贈答した晩年の詠に
よってわかる。このころおよそ60歳余か。
歌は《万葉集》に長歌3首,重出歌も含め短歌10首を収めるが,斉明,天智両朝
のものが大部分である。斉明朝の西征途次に詠んだ〈熟田津(にきたつ)に船乗り
せむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな〉(巻一)や,近江遷都のおりに
三輪山によせて詠んだ長歌,反歌などは,天皇御製とする異伝をもち,
他の歌人にみられない特殊性を示している。これを天皇の代作歌と考え,
彼女の歌に伝統的な巫女性や呪術性をみる説が有力である。近江朝における,
春秋の優劣を判断する長歌(巻一)や,蒲生野の遊猟で大海人皇子と交わした
〈あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る〉(巻一)
などになると,宮廷雅宴の花として活躍する才媛ぶりがうかがえる。
また〈君待つと我が恋ひをれば我がやどの覧(すだれ)動かし秋の風吹く〉
(巻四)の繊細優美な歌には,春秋優劣歌とともに中国詩の影響も指摘されて
いる。このほかに天智天皇没後の公的な恐歌も詠んでいる額田王は,宮廷に
おける代作歌人として,また衆を代弁する専門歌人として,《万葉集》
第2期(壬申の乱後〜奈良遷都)の柿本人麻呂の先蹤(せんしよう)に立つ歌人
ということができる。また,その歌の抒情性と技巧は,女のみやび歌,女歌
の流れとして大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)を経て,
平安時代の女流文学へ受け継がれていった。
>>787 いけません!それをいっちゃいけません!!
香坂弾上様
春日源助→香坂弾上虎綱→春日弾上→香坂
>>791 「称制」かな。ただ、法律として明文化され制度化された物ではないと思う。
自信がないので誰か後はフォローよろ
あとは感状の形式かな。
ここらへんは誰かアドバイス求む。
798 :
日本@名無史さん:03/03/26 23:06
>>792 その通りです。全く彼女については分かっていません。
兄:天智(中大兄皇子)、弟:天武(大海人皇子)の共通の妻
であることは間違い有りません。
当時のサロンでの寵児という位置なのでしょうか?
にしても、万葉集に入っているし。
799 :
日本@名無史さん:03/03/26 23:08
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shiba/monjo.htm 感状 かんじょう
南北朝期以降、戦場での部下の武勲を大将が承認した文書。戦国大名は多用し、恩賞の対象としている。
戦場や帰陣直後に部下の申請に基づいて出されたもので、簡略な様式のものが多い。信玄も多用しており、
代替わり直後から晩年まで百通前後のものが知られている(「甲斐武田氏文書目録」甲府市刊)。初期に
は切紙・折紙による花押・「晴信」方朱印による簡略なものが多く、次第に竜朱印状による恩賞内容を含
んだものに変化していく。とりわけ偽文書の多い分野である。
801 :
日本@名無史さん:03/03/26 23:26
>>796 その通りです。
中大兄王子が直接絡んだ大化の改新と言われる
蘇我入鹿・蝦夷親子を暗殺の直ぐあとに王位つくのは
反発が大きいので母親をまず王に即位させました。
母親は即位して斉明となり色々な事業を行いました。
朝鮮半島へ出兵し唐と戦いましたが大敗。
斉明は死んでも彼女への批判は強く、
それは当然息子である中大兄にも向けられました。
その為、中大兄は直ぐに即位せず皇太子の立場のまま大王としての役割を
担うようにしました。
これが称制です。
詳しくは講談社『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男 著)をどうぞ。
かなり面白いですよ。
>>802 「日本」という国名と「天皇」という称号についても
講談社『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男 著)と
同じシリーズの『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏 著)で説明されてます。
>>801では天皇、大王、皇太子、皇子、皇子などの称号については細かく説明する必要がないと思い
手を抜いてしまいました。
804 :
日本@名無史さん:03/03/26 23:40
>>796 追加スマソ。
称制
天皇の在位しないとき,皇族が天皇に代わって政治を執ることをいう。
古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),
弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,
姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,
ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,
天武天皇の没後,皇后朋野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく
3年間政務を執った例の3例がある。
ところで《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位
しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の
在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうこと
からすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。
また《続日本紀》によると,文武天皇の没後,元明天皇が践祚に先立つ
2ヵ月間に万機を摂行したのも,称制といえよう。したがって称制の事例
はすべて5例となるが,史料に称制と明記されているのは前の3例である。
645 大化の改新(19)鎌足(31)
皇極、孝徳、斉明 23年間、皇太子。
668 天智天皇即位(42)
672 壬申の乱
>>805 はいはい。
>>791の質問に答えたかったのね。
がんばって文章にして説明してね。
日本という国号と天皇という称号の成立の背景が今どの程度研究されていて、
誰がどんな意見を述べているのかまで説明して上げて。
っていうかしろよ。
>>806さん、まあ私が、791な訳ですが、
壬申の乱は海と友の親分争いってことになってますが、
本当にそんな単純な解釈でいいの?
809 :
日本@名無史さん:03/03/27 00:22
>>808 そうでもない。
>>805 誤解ならスマン。
>壬申の乱は海と友の親分争いってことになってますが、
>本当にそんな単純な解釈でいいの
基本的にはそう。
一度、皇統(天皇という称号を与えられた最初の人が天武なのでちょっと微妙な表現だけど)を
外れるとその家系は天皇に付けないからね。
そういう疑問も含め
>>803で紹介した本は色々と解決してくれるかと。
俺はネット掲示板でこれ以上詳しく説明しようと思わないんで。
>>809さん、皇位継承争いの血生臭い話は、イヤという程、有りますが、
壬申の乱ほど日本全国を内乱状態に陥れる継承争いは有りませんでした。
何故、反乱者の海が、支配者の友に勝ったのか?
811 :
日本@名無史さん:03/03/27 00:40
従五位下・刑部大輔ってエライの?
>>810 当時の大和政権は大津に遷都しなければならないような緊急事態に
追い込まれていたので、若くてちょっと頼りない大友より
天智と共同統治者として経験豊富な大海人が大王になることを
望んだ人が多かった。
何より乱中の大海人の行動が早かったので大海人が勝利した。
と思う。
813 :
日本@名無史さん:03/03/27 00:43
地下と比べたらえらい
公卿と比べたらえらくない
814 :
日本@名無史さん:03/03/27 00:46
大化改新の諸政策や朝鮮出兵による地方豪族の不満
新たな官僚制への中央豪族の不満が、大海人側の勝因。
近江側には内部不統一もあり対応が遅れた
>>811 刑部大輔は従五位下じゃなくて正五位下だね。
偉いかどうかは見る人による。
太政大臣は正一位で、この人から見ると( ゚д゚)、ペッ
少外記は従七位上で、この人から見ると( ´∀`)つt[] 飲み物どーぞー
感状は日付の下に花押を書くってどこかで読んだような気がする。
やっぱり偽物じゃね?
817 :
日本@名無史さん:03/03/27 00:56
太政大臣で二位ってことはありえる?
あるいは右大臣で無位とか。
>>818 官位相当制が確立されてからはないと思う。
「官」は太政大臣とかで、「位」は正一位とかね。
じゃあ、昇進するときは必ず一緒に位も官もあがるんだ。
あ、官を失ったあとの位は?
821 :
日本@名無史さん:03/03/27 01:20
>刑部大輔は従五位下じゃなくて正五位下だね。
六国史に見える数十例のうち、正五位下は数例。従五位上が圧倒的に多い。
四位も少なからず見え、もちろん従五位下もある。
従五位下守刑部大輔弘道王
従五位下小野朝臣喬木為刑部大輔
従五位下守刑部大輔小野朝臣喬木為山城守(同人)
散位従五位下藤原朝臣邦直為刑部大輔
従五位下藤原朝臣行道為刑部大輔
従五位下甘南備真人神前為刑部大輔
従五位下宇治王為刑部大輔
従五位下当麻真人大名為刑部大輔
>>820 >あ、官を失ったあとの位は?
それは知らねぇや。
恐らく「位」もなくなると思う。
官を引いた後も、給与はなくなっても「元○○」という待遇で扱われたと思う。
摂関家が力を持ったのはそれが原因にあったはず。
そろそろ寝るので、他に知っている人がいたら説明よろしく。
823 :
日本@名無史さん:03/03/27 02:00
>昇進するときは必ず一緒に位も官もあがるんだ。
んなこたあない。
平安前期までは右大臣はほとんど三位任官(官位相当は二位)、翌年以降従二位。
>恐らく「位」もなくなると思う。
んなこたあない。
罪で剥奪されたりする以外は元のまま。
じゃあ、官があがればそれに相応した位に必ずあがるが、
位があがっても必ずしも官があがるとは限らないんだ。
825 :
日本@名無史さん:03/03/27 11:25
先に位だけ上がっていく人もいるの?
散位って,きいたことないかい?
827 :
日本@名無史さん:03/03/27 16:57
公卿補任<国史大系>を見てごらん
828 :
日本@名無史さん:03/03/27 21:49
散位
さんい
〈さんに〉ともいう。日本古代の律令制において,官職がなくて,位階のみ
を有するもの。
五位以上の子孫で蔭位(おんい)により位を有するが役職のないもの,
致仕(ちし)・廃官・遭喪(父母の喪による解官)・患解(病気による解官)等により
官職をはなれたもの,
白丁出身で舎人(とねり)等の考により位をえたが官職のないもの,
貢献等により位をえたものをさす。
在京の五位以上は散位寮に,六位以下は分番で仕え,地方では国衙に仕えて
雑使にあてられた。
あのさあ、有位者なんてやたら沢山いるわけさ。
それに対して官職ポストは限られてる。
自然、位はあっても無官の奴があふれるわけ。
しかも位は考課でほとんど機械的に上がりうるのに対し
官のほうは、特に京官は明確な任期も銓官法もないから。
わかった? 簡単な理屈でしょ
830 :
日本@名無史さん:03/03/28 04:07
で、家柄ごとの年功序列みたいに位は自然と上がっていったのか?
831 :
日本@名無史さん:03/03/28 12:50
位階制の運用は平安時代に入ると形骸化が進み,年給や成功(じようごう)
による叙位も盛行し,官人の昇進コースと家柄の固定によって叙位のあり方
も大きく変化し,勤務成績もほとんど問題とされなくなる。
832 :
日本@名無史さん:03/03/28 23:33
はじめて書き込みします。
江戸時代の吉原に、首代という人たちがいたそうです。
隆慶一郎さんの吉原御免状などにも出てきています。
けど小説と違って犯罪が起きた時に身代わりに出頭する人だった・・・と
図書館の本でちらっと読んだのですが、その本が図書館から消えてしまいました。
いつでも読めると思っていた気楽さから、タイトルや装丁など全然思い出せません。
どなたか「首代」についての記述のある本をご存じないでしょうか。
833 :
日本@名無史さん:03/03/28 23:48
834 :
日本@名無史さん:03/03/28 23:49
>>832 新首代引受人 1 (1) アフタヌーンKCデラックス
平田 弘史 (著)
コミックですが・・・。
835 :
日本@名無史さん:03/03/28 23:57
1 吉原徒然草 結城屋 来示/著 東京:岩波書店 200301 384.9 4-00-302771-X
2 お江戸吉原草紙 田中 夏織/著 東京:原書房 200209 384.9 4-562-03543-9
3 吉原と島原 小野 武雄/〔著〕 東京:講談社 200208 384.9 4-06-159559-8
4 よしわら 鈴木 弘樹/著 東京:新潮社 200204 913.6 4-10-453201-0
5 甘露梅 宇江佐 真理/著 東京:光文社 200111 913.6 4-334-92346-1
6 江戸狂歌本選集 第10巻 江戸狂歌本選集刊行会/編 東京:東京堂出版 200103 911.19 4-490-30459-5
7 日日談笑 小沢 昭一/著 東京:晶文社 200010 914.6 4-7949-6459-5
8 The Nightless City or the History of the De Becker,J.E./著者 Tokyo:ICG Muse,Inc. 200008 384.9 4-925080-31-8
9 日本史が楽しい 半藤 一利/編著 東京:文芸春秋 200001 210.04 4-16-748307-6
10 日本古典文学紀行 久保田 淳/編 東京:岩波書店 199801 910.2 4-00-001743-8
836 :
日本@名無史さん:03/03/28 23:58
11 付き馬屋おえん吉原大黒天 南原 幹雄/著 東京:新潮社 199611 913.6 4-10-110019-5
12 参宮駕篭 村上 元三/著 東京:毎日新聞社 199601 913.6 4-620-10532-5
13 泉鏡花集成 4 泉 鏡花/著 東京:筑摩書房 199510 913.68 4-480-03174-X
14 隆慶一郎短篇全集 隆 慶一郎/著 東京:講談社 199509 913.6 4-06-207282-3
15 八丁堀警視庁吉原大変 典厩 五郎/著 東京:双葉社 199505 913.6 4-575-23219-X
16 路地裏人情 池波 正太郎/〔ほか〕著 東京:講談社 199405 913.68 4-06-254903-4
17 ふるさと文学館 第14巻 東京:ぎょうせい 199404 918.6 4-324-03781-7
18 吉原はこんな所でございました 福田 利子/著 東京:社会思想社 199307 384.9 4-390-11501-4
19 柳生刺客状 隆 慶一郎/〔著〕 東京:講談社 199305 913.6 4-06-185404-6
20 付き馬屋おえん吉原御法度 南原 幹雄/著 東京:新潮社 199212 913.6 4-10-110015-2
21 吉原大尽舞 上 南原 幹雄/著 新座:埼玉福祉会 199204 913.6
22 吉原大尽舞 下 南原 幹雄/著 新座:埼玉福祉会 199204 913.6
23 五代目古今亭志ん生全集 第8巻 古今亭 志ん生/〔述〕 東京:弘文出版 199203 913.7 4-87520-184-2
24 江戸吉原図聚 三谷 一馬/著 東京:中央公論社 199202 384.9 4-12-201882-X
25 柳生刺客状 隆 慶一郎/著 東京:講談社 199003 913.6 4-06-204809-4
837 :
日本@名無史さん:03/03/29 00:00
26 吉原遊廓2039年の殺人 水野 泰治/著 東京:双葉社 198912 913.6 4-575-00307-7
27 吉原御免状 隆 慶一郎/著 東京:新潮社 198909 913.6 4-10-117411-3
28 江戸へようこそ 杉浦 日向子/著 東京:筑摩書房 198901 210.5 4-480-02286-4
29 江戸文化誌 西山 松之助/著 東京:岩波書店 198710 210.5 4-00-004893-7
30 吉原ホログラフィー 北村 一夫/著 東京:六興出版 198706 384.9 4-8453-8076-5
31 湯の宿の女 平岩 弓枝/〔著〕 東京:角川書店 198705 913.6 4-04-163004-5
32 吉原はこんな所でございました 福田 利子/著 東京:主婦と生活社 198603 384.9 4-391-10889-5
33 吉原御免状 隆 慶一郎/著 東京:新潮社 198602 913.6 4-10-361801-9
34 絵草紙 吉原炎上 斎藤 真一/著 東京:文芸春秋 198510 913.6 4-16-340070-2
35 モナ・リザは歩み去れり 近藤 富枝/著 東京:講談社 198311 384.9 4-06-200508-5
36 川端康成全集 第29巻 川端 康成/著 東京:新潮社 198209 918.68
37 あやかし 山田 正紀/著 東京:集英社 198109 913.6
38 鶴屋南北全集 第7巻 鶴屋 南北/作 東京:三一書房 1976 912.5
39 名作歌舞伎全集 第24巻 東京:東京創元社 1976 912.5
40 鏡花全集 巻13 泉 鏡花/〔著〕 東京:岩波書店 1974 918.68
41 吉原夜話 喜熨斗 古登子/述 東京:青蛙房 1964 384.9
838 :
日本@名無史さん:03/03/29 00:01
839 :
日本@名無史さん:03/03/29 22:25
age
833-838のみなさんありがとうございました。
がんばって探してみます。
日本史板なのやら皇室板なのやら・・・
842 :
日本@名無史さん:03/03/29 23:54
843 :
日本@名無史さん:03/03/30 00:21
>>841 漏れは反天皇制なんだが ちょっと天皇関係のが多すぎるね。
天皇の正体をあばいて その非を広めるのは大切だが
これだけ多いと一般の日本史好きがやって来なくなって、
啓蒙の効果が無くなってるよ。
マンセーと否定論者だけが 寄ってくる。とくに週末は。
844 :
これはマジですか?:03/03/30 00:26
そもそも徳川家康が嫌がった「江戸」の背景となった武蔵の国そのものが
海外からの亡命者や入植者、百済人による入植地だった。
府中は国の司(つかさ)が百済人 と決められていた時期があります。
崩壊した百済の支配層を受け容れ亡命させるためです。
桓武天皇以来、東夷(あずまえびす)が住む関東の姿とは、アイヌ系の
先住民と朝鮮の百済の人の入植地であり、時代ごとの政権からの派遣
の 源氏や平氏が割拠する土地だった。 (「海老〜」、「蝦〜」)
7世紀後半以降、 新羅が朝鮮半島を統一するという情勢を受けて、政治
的には、 これまでの日本各地の渡来人を東国の「武蔵」にまとめる必要
がおきた。
〓 666 年 百済人男女 2千余人 東国移住
〓 716 年 高麗郡の設置 関東の高麗人 1779人を武蔵国に移す
〓 760 年 新羅人131人を武蔵の地へ移り住む
1600年 1700年 1800年 1920年 1960年
15 万人 85 万人 130 万人 400 万人* 1000万人*
武家に対し、 町人は江戸の全体面積の15 〜20%の土地に65万人が
生活。 多摩川以西はおろか新宿区、世田谷区、目黒区なども帰化大陸、
朝鮮人がほとんど。
隅田川以東の足立区〜江東区は上総の国で、 江戸ではない。 大凶の地。
外堀以外の地、埼玉、千葉、神奈川も帰化系の人間が大多数にのぼる。
明治以降の不法入国者(関東)も100万以上にものぼる。
明治維新後に上京した薩長系( 九州・四国・中国地方 )も、非常に最近
の帰化系が多い。
>海外からの亡命者や入植者、百済人による入植地だった。
関西もな。
846 :
日本@名無史さん:03/03/30 00:50
だって関西は倭人が多くて 王族くらいしか土地がもらえなかった。
DQNな帰化人はみんな関東。 だから関西人は倭人と帰化人王族の
混血の末裔、関東人はアイヌと食い詰め帰化人の混血児。
アズマスレの人集めご苦労様
848 :
日本@名無史さん:03/03/30 08:26
渡来系は、開拓技術を持っていたので、関東などへ移住し開拓先頭者となりました。
秦系と漢系で、日本人の三分の一はいくとの話もありますね。
849 :
日本@名無史さん:03/03/30 09:04
〓 666 年 百済人男女 2千余人 東国移住
〓 716 年 高麗郡の設置 関東の高句麗人 1779人を武蔵国に移す
〓 760 年 新羅人131人を武蔵の地へ移り住む
1600年 1700年 1800年 1920年 1960年
15 万人 85 万人 130 万人 400 万人* 1000万人*
武家に対し、 町人は江戸の全体面積の15 〜20%の土地に65万人が
生活。 多摩川以西はおろか新宿区、世田谷区、目黒区なども
大陸系帰化人、半島系帰化人がほとんど。
隅田川以東の足立区〜江東区は上総の国で、 江戸ではない。 大凶の地。
外堀以外の地、埼玉、千葉、神奈川も帰化系の人間が大多数にのぼる。
もちろん、当時の朝鮮半島は多民族がいたため、今の朝鮮人ではないことに注意。
850 :
日本@名無史さん:03/03/30 09:21
関東の地には、7〜8世紀に確実に数千人の帰化人がいて、
それが徐々に増えて、徳川が入る16世紀には10万ちょいですな。
計算上は妥当なところ。
もちろん、皇孫である赴任した源平などの血との混血になってるはず。
江戸初期の関東人=(帰化人と皇孫源平の混血)+三河武士
帰化人といっても、大陸〜高句麗〜百済(および一部新羅)と元は多様。
未開拓地であった関東の開発にはもってこいのところであった。
アイヌと混血したかどうかは不明。
851 :
日本@名無史さん:03/03/30 11:24
>>846 関西に言われたかねえよ。関西の帰化人なんて関東以上だよ。
奈良、京都、滋賀、帰化人だらけだ。
852 :
日本@名無史さん:03/03/30 12:05
>>849 もちろん、当時の朝鮮半島は多民族がいたため、今の朝鮮人ではないことに注意。
>>あのさ、あなたに質問だけど、「バカチョソカメラ」と言っても「バカ韓カメラ」
とは言わないでしょう。2chでチョソと朝鮮は叩かれるけど韓国をバカでもカンでも
とは言わない。一体現在のハングル朝鮮民族っていつ頃どこから半島に民族移動してきた
民族なの?高麗の時代?それとも李氏朝鮮の時代?
ある人は元の大軍が半島に押し寄せてきて高麗を服従させたモンゴル人が今の
朝鮮人のルーツというけど、どうなんだろう?元の初代義経ジンギスカン??の事を朝鮮民族
はどのように思っているのだろうか?
853 :
日本@名無史さん:03/03/30 12:36
>>852 三国+任那(加羅)時代の支配層言語からみると、
現在の朝鮮語の祖先は新羅語にあたります。
判明している高句麗語の数詞を見る限りは当時の大和言葉と同じで新羅語とは別。
ところが、新羅国にも多くの大陸系の人々や倭人がいたことが記録にあり、
加羅地域の混乱後は、新羅と合併している地域もあります。
もちろん加羅地域の逆側は百済へ譲渡されて併合となってます。
滅亡前後で百済の王族や貴族並びに技術を持つ人々は倭へ移住帰化しており、
新羅からはわずかですが高句麗からもかなりの人々が倭に移住帰化しました。
支配層となった新羅の言葉が現代朝鮮語へつながるのはこういう理由です。
854 :
小市民街道:03/03/30 12:40
百済王家および上級貴族の子孫はkoreaに居るのだろうか
全員亡命したと思うが。
よって、百済領は・・・ とは思いませんが
855 :
日本@名無史さん:03/03/30 12:48
>>854 百済支配層が大量に日本へ亡命して日本人として溶け込んでから、
既に1000年以上経過しているので、
我々にも必ず百済人の血は受け継いでいると言えます。
(ちなみに天皇家にも百済系帰化11世日本人の血から入りました。)
よって、無理を強いれば、我々は祖先の血を返せー、と、
旧百済領に対して主張することは可能です。
もちろん、1300年経過しているので、意味や効果はありませんが。
百済が滅亡する前に、倭は百済への援助のために、
倭の勢力圏であった加羅地域の一部を百済へ割譲しています。この権利も。
856 :
日本@名無史さん:03/03/30 13:15
(扶餘)武寧王[461年(雄略5年)倭国生まれ第25代百済王(在位501-523年)]−純陀太子
−斯我君−法師君−雄蘇利紀君−和史宇奈羅−和史粟勝−和史浄足−和史武助
−高野朝臣(和史)乙継−高野朝臣新笠−桓武天皇[第50代天皇]
857 :
日本@名無史さん:03/03/30 13:23
お若いの、教えてくだされ。
中央公論新社『日本の中世 10』はいつ出るんかのう。
スレ違い板違いならごめんじゃ。
858 :
日本@名無史さん:03/03/30 13:52
というか今の天皇家の顔ってもろ新羅顔じゃん。
百済の血は高野新笠くらいで後あんまり入ってないだろ。
漏れは天智天武は新羅系だろうと考えてる(百済に味方した
から百済系という説が強いのはしってるが、もっとも倭人系
としたい人が学界ではもっと有力だけどよぉ)
860 :
日本@名無史さん:03/03/30 13:58
>>857 確かに月報にはありませんな。
ということで『日本の中世 6』の帯を見ろ。
4月25日予定と書いてはいないか?
862 :
日本@名無史さん:03/03/30 14:11
>>858 第40代天武天皇が(今の韓国につながる)新羅系だとしても、
(支配層は日本へ帰化した)百済系の血が入ったのは第50代桓武天皇
863 :
小市民街道:03/03/30 15:22
>858
ちゅうか、藤原氏及び丹波や山城の農家の娘の血が帰化人より濃いと思う
農家の娘が生んだ藤原系下級貴族の娘が代々の生母だろ。
864 :
日本@名無史さん:03/03/31 04:47
おもしろい日本史の本ってある?
本朝文粋
調べても分からないので・・・
「歴史の意味について考察しなさい」ってどういうこと答えればいいの?
867 :
日本@名無史さん:03/04/01 07:18
歴史を学ぶ意義とか
868 :
日本@名無史さん:03/04/01 15:27
>>866 授業の課題だと思うけど、その授業出てた?
多分867さんのようなことを書けばいいと思うけど、その授業に私たちは
出てないので、全然違うかも.....。まずは、その授業に出てた人から情報
を集めるべきでしょうね。それから解答を考えるべきだと思います。
>「歴史の意味について考察しなさい」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もしかして京都の大学?
入学前にその課題を漏れもだされたよ、、、、、、
レポート30枚以上なら同じ教授かな(W
870 :
日本@名無史さん:03/04/03 07:35
歴史を学ぶ意義なら俺も教えて欲しい。
なんで歴史を勉強せにゃならんの?
>>870 する必要がないと思うなら学ばなくても良いと思う。
何か興味を持ったことがあれば、もっと知りたいと思って本を読んだり
ネットで調べたり色々するだろうし。
無理強いされて学んでも何も身に付かないしストレスが溜まるだけ。
そんな事をするぐらいならアナタが好きな事をした方がエエ。
872 :
日本@名無史さん:03/04/03 18:03
>>871 小中学生に同じ事言ったら勉強し無くなっちゃうぞ
>>872 確かに小中学生には良くないな。
でも、高校生以上になってからは留年しない程度に勉強していれば良いと思う。
874 :
日本@名無史さん:03/04/03 19:15
なぜ歴史を勉強しなくちゃいけないの?
さあ、中学生に答えてみよう↓
>>874 興味を持つ機会を与える為。
小学校から理科だけ教えられていて大学までずっと化学や物理ばっかり
だったら、それが好きでない人や不得意な人はどうしよう。
色々なものに触れる機会を与えて、その中で興味を持ったり
面白いと思ったことを勉強すれば良い。
中学生ぐらいまでに勉強して面白みを感じなかったり、
不得意だったものは高校生以上になってもあんまり変わらんと思った。
876 :
日本@名無史さん:03/04/03 22:08
中学生までは、何が自分に向いてるか決める所だよ。
ってのは?
877 :
日本@名無史さん:03/04/03 23:09
何かの本で継体天皇が百済王武寧の弟だとか書いてあったけど。墨田八幡神社の
鏡の文章から、そう読めるらしい。
ほんと?
879 :
日本@名無史さん:03/04/04 17:17
最後に福岡城に住んでいたのは黒田長智ですか?
長智が藩知事を罷免された1871年時点で城は誰の物になったのでしょうか?
個人(長智)が突然自宅(福岡城)を追い出されたのでしょうか?
ここ1ヶ月ほど気になって仕方有りません。
どなたか・・・ググルのでキーワードだけでも・・・
880 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:28
黒田長知か?黒田長知でくぐったら、
贋札がばれて藩知事罷免とかあったが。
881 :
日本@名無史さん:03/04/04 22:32
>>877 継体天皇
「隅田(すだ)八幡人物画像鏡の銘文にみえる男弟王を天皇の名に当てる
ことには,音韻の上で難がある」
だ、そうです。
882 :
日本@名無史さん:03/04/04 23:22
883 :
日本@名無史さん:03/04/04 23:52
>880様 ありがとうございます
なんと漢字間違いでした・・・いくら検索しても出ないはずですよね
しかし贋札発覚で罷免とは・・・
884 :
日本@名無史さん:03/04/05 12:34
日本史上に宦官が居ないのは何故ですか?
885 :
日本@名無史さん:03/04/05 12:37
>>884 去勢するという発想が遊牧民のものであり、日本はそうではないからと言うのを何かで読んだことがある
886 :
日本@名無史さん:03/04/05 14:24
>>884 中国の宦官制度は朝鮮・安南などにも波及したが,日本には輸入されなかった。
その理由は,日本が四面海に囲まれた島国で,異民族との幅広い接触や,
あるいはそれを征服したことがなかったことによるのであろう。
なお,日本の古代には唐の文化が輸入され,刑法では唐の五刑である笞(ち)
・杖(じよう)・徒(ず)・流(る)・死(し)がとり入れられたが,宮刑(去勢)は隋の
時代にすでに廃止されていたので,そこにはない。したがって,日本では宮刑
は行われず,宦官も登場しなかった。
>>885 >>886 有難うございます。
神道が穢れを嫌ったから、宦官制度は輸入されなかった
という説を聞いたことがあるのですが。
888 :
日本@名無史さん:03/04/06 15:43
こんなのがありました。投稿サイトですけど
↓
宦官という風習は、中国だけではなく、西はギリシャ・ローマから東は朝鮮
まで広く分布していた。インドやイスラム世界でも行われていた。
ユーラシア大陸でこの風習がなかったのは、日本とアルプス以北のヨーロッパ
ぐらいのものである。それを神道やキリスト教のおかげとして賞賛する向きも
あるが、実は、ともに世界の辺境であり伝達すべき情報量が乏しかったからに
過ぎない。
中国の宦官がとりわけ有名になったのも、宮廷の権力がそれだけ広範な地域に
君臨したからだろう。
ヨーロッパにも宦官はいなかったから、神道だけの理由と言うのは、
ちょっと厳しい気がします。
穢れを嫌ったら、逆に切り落とすw?
日本でいう穢れは血の穢れ
>889
ではやはり身体刑を忌み嫌うのでは?
ところで即答スレに戻って俺の質問全部に答えてくれ。
くだらないんですが・・
質問です。佐分利公使は自殺なんですか?他殺なんですか?
892 :
日本@名無史さん:03/04/07 12:38
>>892 どうもありがとうございます。
全然わからなかったので
894 :
日本@名無史さん:03/04/08 00:40
>佐分利は左ききで右手に拳銃をもつのはおかしい
板違いだとは思うが、利き腕ではないほうで大口径の拳銃を撃てるのかな?
895 :
日本@名無史さん:03/04/08 00:43
あの〜厨房なんですけど、寺社と社寺の違いが分かりません。
お教え願います。
分かりましたので質問を取り下げます。
897 :
日本@名無史さん:03/04/08 19:51
山岡荘八原作の伊達政宗のマンガ本に書いてあった内容で、いまだに
良く分らないところがあります。
政宗が小田原城攻め遅参の言い訳を秀吉にしに行く前に、秀吉を笑わせて
機嫌をとろうとする場面なのですが、このとき、
「湯治場にやってきた青大将を政宗がイチモツで追い払った」という話を
結城秀康をつかって秀吉に伝えさせていました。
マンガを読んでいると青大将が湯治に来たと言った時点ですでに側近が
吹き出しているのですが、いったいどうしてそんなことで笑ってしまうのでしょう?
どなたかご存知の方いらっしゃいましたら、お願いします。
898 :
日本@名無史さん:03/04/08 20:14
>>897 そんなバカバカしい話をわざわざ大仰に使者を立てて伝えてきたからじゃないの?
899 :
日本@名無史さん:03/04/08 21:26
>>894 >>佐分利は左ききで右手に拳銃をもつのはおかしい
>板違いだとは思うが、利き腕ではないほうで大口径の拳銃を撃てるのかな?
そうなんだよ。
でも、他殺だとすると、密室殺人となるらしい。
松本清張などは他殺説。だけど、彼のこの手の推理は、ほとんど外れてるらしいんだ。
900 :
90000:03/04/08 21:45
琉球の親方とか親雲上ってなんですか?
901 :
日本@名無史さん:03/04/08 21:54
902 :
900000:03/04/08 21:56
もう少し詳しく教えてください。
903 :
日本@名無史さん:03/04/08 21:57
>>900 親雲上(ぺーちん)とは、地頭職や脇地頭職に相当する士族の位階です。
親方(うぇーかた)は、はっきりしませんでしたが、やはり士族の位階では
ないかなと。
904 :
9000000:03/04/08 22:00
なるほど、さんくす
905 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:02
高円宮久子妃殿下は、お歳はいくつ?
907 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:13
宮内庁って、年齢まで公表してるの?
908 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:17
全皇族のプロフィールが掲載されている。
909 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:17
んじゃ、私人でもなんでもないので、プライバシーうんぬんて必要ないんじゃ?
910 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:35
存命中の皇族に関するネタは板違い。
女性誌レベルの話題は噂話板か芸能人板でやってくれ。
戦後の旧皇族は、全くの私人なんだからプライバシーにかかわるぞ。
911 :
日本@名無史さん:03/04/08 22:39
>>173 班位とは、天皇陛下を中心とした皇族方のご順位をいう(旧皇族身位令1条ないし7条)。
1.皇后(天皇のご正配)
2.太皇太后(先々帝以前の天皇のご正配)
3.皇太后(先帝のご正配)
4.皇太子(儲嗣たる皇子)
5.皇太子妃(皇太子のご正配)
6.皇太孫(皇太子がいらっしゃらないときにおける儲嗣たる皇孫)
7.皇太孫妃(皇太孫のご正配)
8.親王(旧皇室典範では皇子より皇玄孫に至る皇男子孫、現行皇室典範では
嫡出の皇男子及び嫡男系嫡出の皇男子孫)
親王妃(親王のご正配)
内親王(旧皇室典範では皇子より皇玄孫に至る皇女子孫、現行皇室典範では
嫡出の皇女子及び嫡男系嫡出の皇女子孫)
王(旧皇室典範では五世以下の皇男子孫、現行皇室典範では三世以下の
嫡男系嫡出の皇男子孫)
王妃(王のご正配)
女王(旧皇室典範では五世以下の皇女子孫、現行皇室典範では三世以下の
嫡男系嫡出の皇女子孫)
912 :
日本@名無史さん:03/04/09 12:06
新スレはどうするのかな?
漏れは立てられんが。
★★とか【〜】・・・【〜】とかつけて、目立つようにすればいいかなと思うが?
913 :
日本@名無史さん:03/04/10 21:47
租庸調の時代に商人はどんな税を払っていたのでしょうか。(市があったので商人は存在したと思います)また、皇族や貴族、それらの使用人は税を払わなくてよかったのでしょうか。
914 :
日本@名無史さん:03/04/11 00:30
>>913 確証はありませんが、市もまだ未発達状態だったので、
有力貴族や寺社が背後で管理した座の原始的状態で、
租税対象外だったのではないでしょうか。
皇族・貴族の使用人は私有民として無税ではないかと予測されます。
915 :
日本@名無史さん:03/04/11 15:47
>>914 そうだね。
平安期〜鎌倉期ごろまでは商人は有力者達の庇護を受ける形で
商売をしていたので租庸調は払っていなかった。
その代わり有力者達に「アガリ」(売上げの一部)を払っていた。
貴族達は荘園支配と同じような形で商人たちを支配していた。
>皇族・貴族の使用人は私有民として無税ではないかと予測されます。
使用人でも特別な技能を持っていた人たちはその技能をもって奉仕し、
そうでない人たちは奴隷的な扱いで売買の対象になっていた。
えた・ひにんスレでもこの辺の話が出てた。
916 :
日本@名無史さん:03/04/11 18:20
亨和元年(1801年) お触書の発布
領主により苗字・帯刀を許可された庶民
1.郷士のように由緒あって以前から許されていたもの
とありますが郷士って庶民なんですね。郷士は維新後士族になつた
薩摩郷士や十津川郷士や平民になった多田郷士などありますが
士族と平民の線引きは何を基準としているのですか?
917 :
bloom:03/04/11 18:31
919 :
日本@名無史さん:03/04/11 20:40
>>916 士族
明治維新後,旧武士階級に与えられた身分族称。
1869年(明治2)6月の版籍奉還後,公縁や諸侯らが華族と称されたのに対し,
藩士は一門以下平士にいたるまですべて士族と称した。
このうち微禄の者は同年12月に卒とされ,士族は18等,卒は3等に分けられた。
この士族のもとに,農工商は平民と称せられた。72年1月,卒は廃止され,
世襲の卒は士族へ,一代抱えの卒は平民に編入された。
ここに華族・士族・平民の3階級(身分)に国民は分けられたのである。
ちなみに73年1月現在での士卒合計は,40万8823戸,189万2449人とされている。
919さん、答えてくれてありがとうございます。少し言葉足らずだったかもしれません。
つまり、郷士という中での士族と平民の区分けについて知りたいのです。
郷士を辞書で調べると 「江戸時代、農村に居住した武士。
また、由緒ある旧家や名字帯刀を許された有力農民を指すこともある。」
とありますから、郷士の中で農村に居住した武士が士族になり、名字帯刀を許された有力農民が平民になった
ということですか?
921 :
日本@名無史さん:03/04/12 09:48
江戸時代の朝廷の和歌について調べています。
後水尾院や霊元院あたりのことは調べたのですが、その後の時代について
調べるのにどんな史料があるのでしょうか?あと先行論文があれば教えて
ください。
922 :
日本@名無史さん:03/04/12 13:37
>922
ありがとうございました。
924 :
日本@名無史さん:03/04/12 14:22
>>920 919さん
はっきりわかりませんでしたが、
「1872年(明治5)太政官布告により郷士の多くは士族となった」
という文が辞典にありました。
ラインはわかりませんが、多くが士族となったもようです。
法令の正式名は
「郷士家筋由緒アル者ハ士族ニ入籍(明治5年太政官布告第44号)」
とあります。多田郷士は手続き上で何か失敗した?
>>924 わざわざ辞典まで調べてもらって、ありがとうございます。
926 :
日本@名無史さん:03/04/13 13:25
(^^)
928 :
日本@名無史さん:03/04/17 16:43
とにかくこのスレ使い切ろう
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
931 :
日本@名無史さん:03/04/20 09:20
932 :
日本@名無史さん:03/04/23 15:01
『マッカーサーの新聞検閲:掲載禁止・削除になった新聞記事』(読売新聞社、1984年)
の著者の「高桑幸吉」ってなんて読むの?
たかくわ こうきち? ゆうきち?
933 :
日本@名無史さん:03/04/25 23:06
こうきち
934 :
日本@名無史さん:03/04/26 02:23
935 :
日本@名無史さん:03/04/26 19:13
936 :
日本@名無史さん:03/04/27 12:04
>>934 高麗時代に作った版木ですった大般若経ですね。
経典は、当時の印刷技術などからすると貴重品でしたから、
日本史的にも価値があると思います。
般若経は、奈良時代から日本で盛んに写経されています。
ただ、事件の真偽は闇の中ですね。証拠がない限り韓国を疑えないし、
韓国は植民地時代の関係でに文化財には敏感とそのサイトにもありますね。
>>936 印刷技術の点で価値があるということですね。
わかりました。
938 :
日本@名無史さん:03/04/28 08:45
数え年の解釈で各サイト意見が分かれているのですが、
当時の基準に合わせるということで行くと、
織田信長、真田幸村、上杉謙信の3人とも享年49でいいのでしょうか?
939 :
日本@名無史さん:03/04/28 11:16
>>937 違います。たくさん刷ってないはずだから貴重品だろうと言う意味です。
940 :
日本@名無史さん:03/04/28 11:29
織田信長・1543〜82年
真田幸村・1567〜15年
上杉謙信・1530〜78年
誕生日を無視すると、3人とも、数えで享年49歳ですかね。
数え年は生まれた年(日)が1歳ですね。
942 :
日本@名無史さん:03/04/28 19:57
桓武天皇の母は高野新笠という名前ですが、
その父は和乙継(やまとのおとつぐ)という
名前ですよね。そこで質問。
新笠は別に養女にいったわけじゃないのに、
どうして氏(うじ)を変えたのですか?
>>943 高野新笠 ?‐789(延暦8)
光仁天皇の夫人。桓武天皇・早良親王らの母。もと和(やまと)新笠という。
父は百済系氏族の和乙継,母は土師(はじ)真妹。土師氏のうち毛受(もず)腹
にあたる家系で,のちに山背国の居地により大枝朝臣と改姓する。
諸王だったころの白壁王(光仁天皇)との間に733年(天平5)能登内親王,
737年桓武天皇,さらに750年ごろ早良親王をもうけた。
光仁天皇の即位により夫人となり,高野朝臣と改姓するが781年(天応1)娘,
夫をあいついで失う。桓武の即位で皇太夫人となるが,785年(延暦4)に末子
早良親王が藤原種継暗殺事件に連座し淡路流配の途に憤死するという事件に
あう。789年に没し翌年山背国乙訓郡の大枝山陵に葬られた。百済系の出身で
あることが桓武天皇に大きな影響を与えたと思われる。
どう?
947 :
日本@名無史さん:03/04/29 10:12
あげ
948 :
日本@名無史さん:03/04/29 15:28
祖父の代から散々煮え湯を飲まされているのに、
家康はなぜ桜井松平に寛容だったのか教えて下さい
949 :
日本@名無史さん:03/04/29 21:34
寛容さは、家康の大きな武器です。
寛容は、一族の安定をもたらします。
950 :
日本@名無史さん:03/05/03 15:22
今、『柳生一族の陰謀』見てるんだけど、根来衆って何ですか?
ついさっき村が焼き払われましたが。部落みたいなもんでしょうか?
951 :
日本@名無史さん:03/05/03 15:30
>>950 紀州国(現和歌山県)を根城にしていた国人衆でおま。
戦国時代末期に活躍。
根来寺を中心として結束し、勢力としては小さい物の
強力な鉄砲隊を持ち、織田信長ですら恐れていたといふ。
最後は豊臣秀吉によって徹底的につぶされた。
細かいトコ誰かフォローよろしう
952 :
日本@名無史さん:03/05/03 15:40
>>951 ってことは戦闘集団つーか戦闘部族ってことで? サイヤ人みたいなもん?
953 :
日本@名無史さん:03/05/03 17:27
>>950 >>951 じゃ、少し細かく。
根来寺の僧兵集団。教団組織では行人衆をいう。
その行動はとくに戦国時代に活発で,鉄砲を使用したことで知られる。
戦国諸侯は〈金銭を以て彼らをやとい入れ〉,その数は〈つねに二万余人〉
が準備されていた。
文明期(1469‐87)に和泉へ進出をはじめ,細川・三好と争い,永禄年間(1558‐70)
には泉南を支配した。
粉河寺や高野山と領有権をめぐる争いをくり返して寺領拡大を図った。
集団の指揮者は旗頭,大将とよばれ,泉職坊快厳,杉坊照算,岩室坊勢誉などが知られる。
彼らは泉南,紀北の土豪と関係が深く,土豪たちで行人衆になったり,
寺領代官を務めたり,寺坊持ちとなる者が多く,そのことが寺領拡大をいっそう
容易にした。
和泉・紀北は一向一揆勢力が強いが,表面的にはこれと争うことはなく共存した。
しかし石山本願寺一揆では,情勢により織田方へつき,門徒の本願寺参詣を妨害
するなどのけん制策をとっている。
小牧・長久手の戦で徳川家康と盟約を結び豊臣秀吉の背後をついたが,1585年(天正13)
豊臣秀吉の紀州征伐によって全山焼失し平定された。
よくわかりました
さんくすこ!
955 :
日本@名無史さん:03/05/03 23:23
どういたしま○こ!
名古屋城は誰が建てたの?どうして金の鯱がいるの??
957 :
日本@名無史さん:03/05/05 12:21
>>956 1521年(大永1)今川氏豊が現名古屋城二の丸付近に城を築き,那古野
(なごや)城と呼ばれ,その後,織田信秀・信長の居城となったが,
信長が尾張支配の拠点を清須(清洲)城に移すに及んで,一時廃城となった。
関ヶ原の戦後,徳川家康は福島正則を改易し,尾張に第4子松平忠吉を
封じたが,1607年(慶長12)忠吉は急逝,かわって第9子徳川義直をその後継とした。
しかし清洲は狭隘(きようあい)で水害の危険が多く,新たに交通の要地
でまた要害の地でもあった那古野が選ばれた。
大坂の豊臣氏への備え,東海道の鎮護として,10年豊臣家恩顧の西国諸
大名を動員して〈天下普請〉が興され,石垣,天守,本丸御殿と作事が
行われた。このとき加藤清正は天守台石垣を担当,作事奉行に小堀遠州(政一),
大工棟梁に中井正清,その下に安土城天守を手がけた地元熱田の大工岡部又兵衛らが配された。
鯱はなぜでしょうね?
アイヌでは海の神の一位が鯱です。それが関連??
>957
ありがとうございます。おみゃーさんいいひとだなも。
いつもひとに聞かれて困っていたんです。
しゃっちーのこともしりたいな。
なんで金なんだろう...
質素なイメージの徳川家なんだけど...
金きらきんなのは安土城天守を手掛けた熱田の大工さんの意見?
家康様は名古屋城にお泊まりしたことあるの??
名古屋城にお姫さまはいたの??
教えてちゃんですが、よろしくおながいします。
959 :
日本@名無史さん:03/05/05 14:35
>>958 金鯱は実在するシャチ(鯨目イルカ科の哺乳類)とは関係のない想像上の動物で、
飛鳥時代に中国から伝わり、当時の寺院や宮殿などを飾りました。その原形は、
中国において海中に棲み雨を降らせるとされている鴟尾(しび)や、インドに
おいて鰐(わに)と竜の合体した想像上の動物である魔伽羅(まから)をかた
どったものではないかと言われています。日本では、当初は火事の際に水を吹く
という言い伝えから火除けのまじないとして、後には権力の象徴として造られました。
http://www.nagoyajo.naka.nagoya.jp/question/q1.html ↑
「名古屋城。何でも質問箱」サイトです。
鯱の金の代金は現在価格で2億〜3億だそうです。
まだ、桃山時代の豪華絢爛キンピカ文化が残ってた時代ではないでしょうか。
豊臣への対抗上も、豪華さで負けられない物を狙ったと思われます。
日光東照宮もキンキラですよね。
お姫様は代々いたと思います。
家康は、はっきりしませんが泊まったと予測します。
家光は泊まってます。
名古屋の方ですか?
愛知県県史編纂室や、名古屋市史編纂室に膨大な資料・史料があると思います。
質問すれば、教えてくれたり、本を教えてくれると思います。
960 :
日本@名無史さん:03/05/05 22:23
>>957 重箱のスミをつっつく様だけど、
>関ヶ原の戦後,徳川家康は福島正則を改易し,尾張に第4子松平忠吉を
「改易」ではなく「転封」では?
961 :
日本@名無史さん:03/05/05 23:50
>>960 957ですが、御指摘ありがとうございました。
そのとおりですね。訂正させていただきます。質問した方にも失礼しました。
↓
関ヶ原の戦後、家康は福島正則を「転封」し、〜
962 :
日本@名無史さん:03/05/06 08:09
>>959 >愛知県県史編纂室や、名古屋市史編纂室
どうして県のほうだけ県が二字続くのですか?
963 :
956の「教えて。」:03/05/06 10:48
>960
「転封」ってどういう意味ですか?
964 :
日本@名無史さん:03/05/06 10:59
>>962 ×名古屋市史編纂室
○名古屋市・市史編纂室
>>963 江戸時代に行われた大名の配置替えのこと。
事典に載ってますよ。
965 :
956の「教えて。」:03/05/07 11:49
>>964 ありがとん。今、海外で辞典がアパートにないのです。(ネットで調べろって煽らないでね。)
966 :
日本@名無史さん:03/05/10 09:54
大久保利通の本を読んでいたら、陽明学というのが出てきました。
本屋に行ってさがしてみたのですがすぐに見つからないので、こちらに
質問させていただきます。
陽明学そのものや、王陽明のことを中心に扱っているサイトがありまし
たら教えてください。
967 :
日本@名無史さん:03/05/10 12:19
>>966 とりあえずgoogleと言うサイトで
「陽明学」あるいは「王陽明」で検索されてみましたか?
968 :
日本@名無史さん:03/05/10 14:19
吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、安岡正篤、岩崎弥太郎、
伊藤忠兵衛、藤田伝三郎、三島由紀夫(晩年)・・・
陽明学って割と多いんだね。大塩くらいしか知らんかった。
969 :
日本@名無史さん:03/05/10 16:07
まあそんなもんです。傭兵として活動していました。
織田家隆盛期には織田方についてた。
971 :
日本@名無史さん:03/05/11 09:27
日本で火葬がはじまったのはいつ頃ですか? 最初に火葬された人は誰ですか?
972 :
日本@名無史さん:03/05/11 12:01
>>971 史料で確認できる最初の火葬については
700年に道照と言う高僧が荼毘に付されたのが最初と書かれています。(『日本書紀』)
但し、発掘などにより、それ以前から火葬のあとが発見されていて、渡来人の間では
700年より以前から火葬がおこなわれていたのではと考えられています。
973 :
日本@名無史さん:03/05/11 12:27
続日本紀?
974 :
日本@名無史さん:03/05/11 12:32
坊主は金と女にだらしないって本当なの?
977 :
日本@名無史さん:03/05/17 15:34
昭和10年にリース・ロスが中国の幣制改革に日本が協力する代りに
満州国を承認するという提案があったのを広田弘毅がけったそうですが、
その辺の経過を詳しく解説した著書を教えてください。
978 :
日本@名無史さん:03/05/17 19:32
正式に満州国承認ではなく、援助の部分的なものを満州が払うのだから、
逆なとらえ方もある。右よりのサイトや本が取り上げてるようす。
当時国民党政府は、経済危機打開のため各国の援助を求め、英国はこれに応じ
ましたが、こと中国となると、日本の頭越しでは、日本から文句がでるので、
日英共同の援助を提案しました。
英国の特使リース・ロスの案は、中国の対外債務の三割ぐらいは、満州分と
想定して、援助の三割は満州分とするが、満州は分離されているので、その分
を満州国から中国に払う形で、満州国を事実上承認させるという、英国らしい
老練なアイデアです。
≪英国の提案に応ぜず≫
外務省は、本省も出先も飛びつきましたが、大蔵省は日本の国際収支が悪いうえ
に、ロシアからの東支鉄道買収にもお金が要るので不可能と言います。
須磨彌吉郎南京総領事は、あきらめきれず、「対支外交に王手がかかっている」
と高橋是清蔵相に直訴しますが、「趣旨はもっともだが、無い袖は振れない」と
断られました。
ttp://www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/hyakuisan45.html
979 :
日本@名無史さん:03/05/18 14:09
長州の品川弥次郎の生涯について書かれた本で、
お手軽に読めるものは何かありますか?
あと20。埋め立ててから移れ。
982 :
日本@名無史さん:
品川弥「二」郎ね。
品川弥二郎関係文書 1〜5
尚友倶楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会/ 山川出版社 1993.9
これがあたけど、専門書っぽいね。