★★日本史よろず問い合わせ処 其ノ九★★

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952日本@名無史さん:03/07/13 16:04
>>951
と、いうことは??
民法、第1編・総則の第1節「人」は1条の3(出生による権利発生)から始まるのですが、
1条の1と2には、まったく別のことが書いてあったのですか??
具体的に改正(削除)前の文を教えてくださるとありがたいのですが。
よろしくお願いします。
953日本@名無史さん:03/07/13 16:13
1条の3(出生による権利発生)が改正前の1条
954日本@名無史さん:03/07/13 17:57
このスレと
【初心者】スレッド立てる前に質問を Part3【歓迎】
との違いがわかりません。なぜ同じようなスレが並立しているのですか?
955日本@名無史さん:03/07/13 18:16
初心者歓迎か、そうでないかの差だろう。なので、おまいはスレ違いw
956日本@名無史さん:03/07/13 20:08
>>953
ありがとうございました。
サイトか資料を教えてくれれば幸いです。
よろしくお願いします。
957日本@名無史さん:03/07/13 20:41
六分の一殿ってだれやったっけ。山名なんとか?
958日本@名無史さん:03/07/13 21:04
山名時氏かな。
だけど、正確には一族合わせて11ヶ国だから、
山名氏一族が「六部の一衆」と呼ばれた。
959日本@名無史さん:03/07/13 21:20
博学ですな。有難う。
960日本@名無史さん:03/07/13 21:30
戦国時の北条氏が、対外的に消極的だった理由を
お聞かせ願いたい。
961日本@名無史さん:03/07/13 21:54
>>960
それなりに対外政策はしてたようです。派手ではありませんが。

1552年に山内上杉憲政を上野から越後に追って関東の経略が一段落した後,
54年に駿河の失地回復のため駿河に攻め入り,これが契機となって相甲駿
の三国同盟が結ばれた。
55年(弘治1)には北武蔵で検地を行うとともに再び税制を整備し,59年(永禄2)
には《小田原衆所領役帳》を作成している。
59年末に氏康から氏政への代替りが行われたとみられ,このころその支配体制
も確立されたとみてよい。
氏康・氏政父子は61年に長尾景虎(上杉輝虎,謙信),69年に武田晴信(信玄)
の来襲をそれぞれ退けたが,氏康は71年(元亀2)に没した。
氏康の生前には輝虎と結び晴信を敵としていたが,その死の直後に氏政は
岳父の晴信と結び輝虎を敵とした。その後,武田勝頼および上杉景勝の代
になってからは,両氏に対抗するため徳川家康,織田信長に接近して
遠交近攻策をとったが,80年(天正8)氏政は隠居し氏直が家督を継いだ。
82年の武田氏滅亡,本能寺の変ののち関東管領滝川一益の上野駆逐,
ついで家康と対陣,講和締結など激動を経たのち,豊臣秀吉との対決を
さけられず,90年小田原の戦に敗れ,氏政とその弟氏照は切腹,氏直は
高野山に追放となって5代100年にわたった後北条氏は滅びた。
民政に留意した好学の大名。
962日本@名無史さん:03/07/13 22:13
なるほど。どうもありがとうっす。
963日本@名無史さん:03/07/13 22:49
test
964日本@名無史さん:03/07/14 00:39
平安時代は初期と中期と後期と、いつが豊かだったんですか?
965日本@名無史さん:03/07/14 00:44
後期かな?
966日本@名無史さん:03/07/14 01:05
生産力は発達し続けるだろう。
967日本@名無史さん:03/07/14 01:31
日本史の論文検索ができるサイトってありませんか?
968日本@名無史さん:03/07/14 08:32
>>967
ここは、どうだろうか。
博士論文は、すべて入ってるようだ。

http://opac.ndl.go.jp/index.html
969日本@名無史さん:03/07/14 17:47
>>968
なるほど。ありがとう。
他にはないですか?
特に史学雑誌等の雑誌の中に掲載されている論文のタイトルを直接検索できるものがあると嬉しいのですが。
970日本@名無史さん:03/07/14 18:04
日本の和弓の射程距離はどれくらいでしたか?
971日本@名無史さん:03/07/14 21:48
>>969
968のなかの、「雑誌記事索引の検索」から入ってみては?
一応、すべての出版物はあるというのがウリだからw。
http://opac.ndl.go.jp/Process
972日本@名無史さん:03/07/14 21:59
>>970
種子島に渡来した鉄砲が100mちょっとだそうです。
各大名がこれを争って求めたと言うことは、弓矢より威力があったということです。
問題になるのは単に飛ぶ距離ではなく、相手のヨロイを貫く殺傷力ですから、
鉄砲を100mちょっととすれば、それ以下だったと推測されます。
何かの雑誌の記憶では、鉄砲の飛距離の7割くらいまでなら、
弓矢でも同様の殺傷力があったようです。

14世紀イギリスの長弓は、有効射程距離150mだそうです。
973日本@名無史さん:03/07/14 22:23
>>971
本当に有り難う!
かなり役に立ちます。
974日本@名無史さん:03/07/14 22:37
>>973
>>968から入ってい雑誌記事検索へいくと、かなり出てくるね。
「史学雑誌」で、年代絞るか、題材か、著者絞ると、かなーりヒットするね。
ここで、確認して、大学か図書館でゲットできるといいね。
975日本@名無史さん:03/07/15 08:27
四本柱でたっている門は薬医門ですか?先日田舎にいったら四本柱でした。
1830年代に建てられた庄屋門ですけど、薬医門と長屋門ってどちらが
格式が高いのですか?
976日本@名無史さん:03/07/15 09:03
>>975
4本柱は、四脚門・薬医門・向唐門などあります。
薬医門のほうが古くて、御香宮神社表門など。

武家の長屋門はいろいろな格式のがあります。立派なのは大名屋敷みたくてすごいです。
「とくに大きな国持大名は独立した門を建てられるが,一般は長屋門で,
10万石以上は左右に唐破風あるいは切妻の出番所付,5万石以上は葺下
屋根の出番所,分家では5万石以上も片方出番所,片方出格子,1万石以上
は両方とも出格子の番所と定められている」
と、ありますので、薬医門の方が格式が上と推測します。
977山崎 渉:03/07/15 11:33

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
978日本@名無史さん:03/07/15 11:43
救出!
979日本@名無史さん:03/07/15 13:54
手ごわし山崎!
980 :03/07/15 14:48
もし大正天皇に子供がいなかったら誰がその次の天皇に
なってたんでしょうか?
981975:03/07/15 15:24
>>976 ありがとうございます。
982日本@名無史さん:03/07/15 21:55
>>980
イフの話だが、どこからか連れてきて生まれたことにしたことでしょう。
983日本@名無史さん:03/07/15 23:55
>975

横から見たときに、左右対称でなければたぶん薬医門でしょう
ttp://ltis.pref.shimane.jp/see_jpeg/ezu/ezu_yashiki/kakudai/e93.htm
( ↑↑ 柱の位置を見る)
農家によくある長屋門は明治以降に作られたものが多い
ようですよ
江戸時代に作られた門なら貴重なものと思いますので、
大事にしてくだされ。



984参勤交代:03/07/16 00:18
教えて下さい。
江戸時代に「〜守(〜のかみ)」と言う役職名がありました。例:大岡越前守。
これは鎌倉・室町時代の守護職の名残だと思いますが、これは江戸幕府が任命していたのでしょうか?またこれは世襲ですか?
それから役職の国名と実際の領地は因果関係が無いと思いますが、どうでしょう?
もうひとつ−加賀前田藩の重臣にも「〜守」の役職名を持った人がいました。
加賀藩は大藩とは言え、国名は70程しか無いわけで、各藩の家臣にまで割り振ると、国名が足らなくなると思います。
同じ時期に同じ役職名を持った人が複数いたのでしょうか?
宜しくお願いします。
985日本@名無史さん:03/07/16 02:05
>984
朝廷にもらったのでは
986日本@名無史さん:03/07/16 02:52
>>984
1.「守」などのいわゆる受領名は守護ではなく、律令に基づいた国司のものです。
2.本来は朝廷が任命するものですが、江戸時代の武士については幕府が代行していました。
3.本来世襲ではありませんが、同様の受領名を名乗ることが多いようです。
4.実際の領地と直接関係はありません。
5.初期はともかく、一部を除いて基本的に陪臣は名乗れません。
6.もちろん複数人が同じ受領名を持つ場合があります。
細かく言えば他にもルールはありますが、概要はこんなところです。
987日本@名無史さん:03/07/16 07:14
庄屋に軍役負担義務はあったのですか?田舎に行くと先祖の刀や槍、弓など
があるのですが・・・・。
988パシッチ ◆mWYugocC.c :03/07/16 11:40
>>984
「〜守」以外の役職も名乗るので、70以上あると思いますよ。
浅野内匠頭なんかその例ですね。
989日本@名無史さん:03/07/16 11:49
正も「かみ」と読みますね。
ところで、介、助は「丞」の代わりなのでしょうか。それとも別の字?
990日本@名無史さん:03/07/16 17:47
>>989
「すけ」(介、輔など)が次官、「じょう」(丞など)はその下
991日本@名無史さん:03/07/16 18:31
あ、中国とは違うんですね。ありがとうございます。
992日本@名無史さん:03/07/16 19:56
名字帯刀者は、身分上義務があったのかもしれませんね。
外様などでは、輜重(輸送兵)は百姓が割り当てられてます。
993参勤交代:03/07/16 22:42
985さん、986さん、988さん、ありがとうございます。
なるほど国司の名残なんですね。
確かに吉良上野介などは旧国司の役職名ですもんね。
同時期に、例えば能登守が二人いたりするとややこしいですね。
でも実体は無かったとは言え、国司の役職名を複数に任命するのは、無茶な話ですね。
ところで鎌倉室町期のように守護が地方を治めていた時代にも、
朝廷は形式的にではあれ、国司を任命していたのでしょうか?
また宜しくお願いします。
994:03/07/16 22:51
お邪魔します☆

明治維新の唯物史観という歴史観とはなんでしょうか?
教えてください。
どうしてそういう歴史観が生まれたのか、まで分かればいいんですけど。
宜しくお願いします。
995日本@名無史さん:03/07/16 22:51
鎌倉時代に入って幕府の手で諸国に守護が置かれると,国司制はこれに
圧迫されてますますその実質を失い,後醍醐天皇が一時これを復活しよ
うとしたが,室町時代から戦国の争乱に至ってまったく消滅することとなった。

戦国からなくなったみたいね。
ただ、戦国中も地方勢力が、権威付け正当性づけのため金で朝廷から
もらってるのも、部分的にはあるが。
996日本@名無史さん:03/07/16 23:23
>>994
明治維新を下からの草莽の王政復古と見る歴史観のことについて?
それとも、明治維新がブルジョワ民主革命か絶対主義の成立かという、
日本資本主義論争のことについて?

明治維新が下部構造(生産力)の経済発展による、上部構造の変化をもたらした。
ってことかな。マルクス主義の流入以後の考えですね。
マルクス主義は、大正・昭和と学会を席巻してました。

明治維新の理解にかかわる意見は2派閥。
講座派は天皇を頂点とする中央集権的国家機構の樹立,土地変革の不徹底性に
起因する半封建的地主階級の強固な残存,藩閥的軍部・華族勢力の台頭,人民の
政治的未解放などを理由に,明治維新はブルジョア革命では決してなく,絶対
主義の成立にほかならないと主張した。
これに対して,労農派は地租改正によって半封建的な土地所有の成立発展は
不可能となり,それにともなって封建的絶対主義勢力の物質的基礎も取り除かれ
たこと,維新政権によって資本主義の育成がはかられたことをもって
明治維新=ブルジョア革命説を主張した。

で、講座派はブルジョワ革命が日本に必要と説き、
労農派は、社会主義革命が必要と説いた。ともに、弾圧され潰されたが遺産は
大きかった。
997日本@名無史さん:03/07/16 23:27
>995
今谷氏の本に官位をほしがる戦国大名の話が書いてあったよ
998日本@名無史さん:03/07/16 23:36
>>997
そうですね。読みました。天皇家権威復活の理由とされてましたね。
ただ、全国的な国司制度としての国司任命は、室町前期がやっとで、
戦国には朝廷は京都の支配権さえ失って何とか天皇がいじけて怒ってたね。
だから、戦国期の国司任命はあくまで、天皇側からの政治としての任命ではなく
戦国大名に求められての財政政策?みたいなものでは。
999日本@名無史さん:03/07/16 23:52
次スレは?
999ですが。
1000日本@名無史さん:03/07/16 23:59
次スレ

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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。