聖徳太子と飛鳥時代について語りませんか

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1日本@名無史さん
飛鳥時代ってあんまり人気ないの???
2日本@名無史さん:02/08/21 17:21
人気ない
本木がやってたNHKドラマ、話題にさえならなかったしw
31:02/08/21 17:23
江戸時代あたりが人気があるんだろ。何で人気ないのかな。
4日本@名無史さん:02/08/21 17:30
仏教心が喪失された現代においては、ちと理解しにくい時代。
5日本@名無史さん:02/08/21 18:19
んなこたーない。
仏法は不滅です
6日本@名無史さん:02/08/21 18:21
ガンダーラ美術
7日本@名無史さん:02/08/21 18:23
They say it's in India 〜〜
ってか
8日本@名無史さん:02/08/21 18:26
鉄朗、遣隋使船に乗りなさい。
9日本@名無史さん:02/08/21 18:49
They say it's close to India.
じゃなかったけ。
10日本@名無史さん:02/08/22 15:37
山田寺仏塔は現在興福寺所有
11日本@名無史さん:02/08/22 15:48
仏頭な。

興福寺、藤原氏の象徴です
国宝級がカネで集められたり坊主に強奪されたりと。
12日本@名無史さん:02/08/29 07:19
まだ皇位が世襲ではなく、馬子が皇位だったんだよね。
13日本@名無史さん:02/08/29 07:49
14日本@名無史さん:02/09/05 10:49
山田寺
15日本@名無史さん:02/09/12 12:27
馬子大王マンセー
16日本@名無史さん:02/09/12 12:37
>>9

They say it was in India

では?
17日本@名無史さん:02/09/12 13:15
>>7,9,16
はたして正解は?
18日本@名無史さん:02/09/12 13:30
こんな古臭い歌で会話してるっつーことは年寄りだ
19日本@名無史さん:02/09/12 13:33
ガンダーラは愛の国
20日本@名無史さん:02/09/12 13:37
夏目雅子 美人薄命 サイコー
21日本@名無史さん:02/09/12 16:05
聖徳太子って渡来人だったって本当ですか。
22日本@名無史さん:02/09/12 20:05
しかし山岸涼子の「日出づる処の天子」。
何がすごいって、聖徳太子と蘇我蝦夷が同性愛の関係だったらしい。
何なんだよあれは?
23日本@名無史さん:02/09/12 20:32
>>21 誰がそんなこと言ってるの?
24日本@名無史さん:02/09/12 20:46
>>23
じゃ、違うのか?
25日本@名無史さん:02/09/12 20:58
>>23 荒唐無稽な話だなと思っただけ。
どんな根拠でそんなこと言ってるのかむしろ知りたい。
違うとか、違わないとかおいといて、まずはその説の中身を教えて下さい。
26日本@名無史さん:02/09/12 21:58
そりゃやっぱ、聖徳太子は渡来人でしょ。
27日本@名無史さん:02/09/12 22:02
>>26 聖徳太子は日本人と思うのが普通ですが。
では、どこから渡来したのですか?皇族が渡来人というのは
相当ナンセンスに聞こえますが、何か根拠があるのですか?
28日本@名無史さん:02/09/12 23:46
聖徳太子は存在しなかった説
29日本@名無史さん:02/09/13 00:12
>>27
では、君は聖徳太子が日本人であることを証明できるのか?
30日本@名無史さん:02/09/13 00:28
>>27
もし聖徳太子が日本人であることが証明できないというのなら、
日本史上の大抵の人物はそうなってしまうと思うが何か?
31日本@名無史さん:02/09/13 00:54
>>30
つまらんな。どうせ釣られるんだったら、もうちょっとおもしろい話ができんのか?
32ちょっといいですか:02/09/13 01:02
私は、非キリスト教徒であります。

心と宗教版で、キリシタンたちが、江戸時代、京都市民は天皇を
知らなかったとか、とんでもないバカなことを言って困っております。
誰か、論破してくれませんか?

なぜ教会に反日がはびこったのかその3

ここです。みなさんでバカなキリスト狂徒を笑ってください。    
33日本@名無史さん:02/09/13 02:10
>>27
蘇我氏が渡来系氏族だという説も結構有力だというのはご存知ないんですか。
34日本@名無史さん:02/09/13 02:20
>>33
木羅満致かい(w
今頃そんなこと言ってるとデムパ扱いだよ
35日本@名無史さん:02/09/13 02:22
36日本@名無史さん:02/09/13 02:32
>>34
お詳しい方でらっしゃるようですね。どうデンパなのか。
簡単にご教示くださいませんか。無知な私に。
37快傑ズバット。:02/09/13 02:34
飛鳥ぁ〜〜!(藁
38日本@名無史さん:02/09/13 02:47
>>36
騎馬民族説みたいなもんさ。一時期学界を駆け抜けていった。
今じゃ誰も相手にしてないよ。
どこがどう間違ってるかなんてことは
ごめんこうむるよ。そんな能力も労力もないんで。
知りたきゃ自分で勉強してくれ。
知りたくなかったらそれでいい。蘇我氏は渡来系だと思っててくれ。
39日本@名無史さん:02/09/13 02:50
>>38
そりゃ書き逃げだよ・・・
40日本@名無史さん:02/09/13 02:52
>>38
蘇我韓子、蘇我高麗こういった名前を持つ連中が大陸・半島とは無縁だと考える
理由は何なんだ。
41日本@名無史さん:02/09/13 02:58
>>38
火達磨になる覚悟もない癖に、地雷踏むなよ。(藁
42日本@名無史さん:02/09/13 03:50
蘇我蝦夷はエゾか? 土師兎はウサギか?(w
ま、ともかく、延べ3人も渡来説信者がいるってことが
わかっただけでも、俺には収穫だったよ。
あれか、天武が新羅人だってのも信じてるクチか?
とても俺の手には負えねえわ。
書き逃げするよ。さいなら〜
43日本@名無史さん:02/09/13 10:55
>>42
書き逃げするのに説明はいらねーよ。
44日本@名無史さん:02/09/13 13:46
土師兎って耳の長いうさぎ人間ではなかったんですか?
45日本@名無史さん:02/09/13 16:04
仏教拝みだしたのは朝鮮人だから。
以上
46日本@名無史さん:02/09/13 16:10
ちょっとちがうな。
「拝みだした」ではなく、故郷でも「拝んでいた」し、
そのまま、その習慣を維持したまま来日したんだろ。
4727:02/09/14 00:49
>>33 蘇我氏が渡来人との説があることは存じています。
しかし、定説ではありません。例えば遠山みつおの本などをご覧下さい。
また、馬子自体、葛城氏を称しています。その意味で、蘇我氏が渡来人説は
仮説の域を出ません。
百歩譲って、蘇我氏の先祖が渡来人として、聖徳太子は蘇我稲目の血を8分の1
受けるにすぎません。こうした人を渡来人と言うのはナンセンスではありませんか?
そんなことを言えば、桓武など純粋百済人になってしまいます。
蘇我氏が渡来人としても、聖徳太子は渡来人の血を一部引き継いでいる以上のことは
いえないとおもいますが
48日本@名無史さん:02/09/14 00:59
仏教に熱心な人物は全員渡来人に決定!
49日本@名無史さん:02/09/14 01:07
安心しろよ天皇は朝鮮人だ。
50日本@名無史さん:02/09/14 01:11
>>48 49 アホ
51日本@名無史さん:02/09/14 01:22
>27 うんうん、こういう冷静な議論を待っていた
52日本@名無史さん:02/09/14 01:40
安心しろよ日本人は全員朝鮮人だ。
53日本@名無史さん:02/09/14 01:45
安心しろよ人間の起源はアフリカ。
日本人はみなアフリカ人だ
54日本@名無史さん:02/09/14 01:59
>>47
君が聖徳太子実在説に立っていることはわかったよ。
そういう前提だからズレるわけだな。(w
55日本@名無史さん:02/09/14 02:00
葛城氏だと何で渡来人じゃないの?
56日本@名無史さん:02/09/14 02:03
>>51
待っていたとか言って、さげるなよ。(w
57日本@名無史さん:02/09/14 02:10
>56 ゴメンゴメンうっかりだよ。
27のジサクジエンではないよ。スマソ。
58日本@名無史さん:02/09/14 02:11
>>54
君が山背大兄非実在説に立っていることはわかったよ。
そういう前提だからズレるわけだな。(w
5927:02/09/14 07:55
>>54 54=33?
実在説にたたないなら、渡来人もへったくれもないのでは?
60日本@名無史さん:02/09/14 08:02
>>22 山岸涼子の「日出づる処の天子」

うむ。あの漫画はすごい。
聖徳太子が

・マザコン
・ゲイ
・ロリコン
・サディスト
・殺人者
・陰謀の達人
・超能力者
・政治の天才

・・・ほかにも何かあったかな。
この漫画を原作として大河ドラマ化できんかな。
61日本@名無史さん:02/09/14 09:51
>>59
聖徳太子=蘇我馬子大王の話してるんじゃん。
62日本@名無史さん:02/09/14 17:38
>>61 それもなんだか訳のわからない説ですね。
質問1 根拠は?
質問2 聖徳太子=馬子だとどうして聖徳太子が渡来人になるの?
渡来人系氏族といことと、渡来人というのは全然内容が異なることですよ。

蘇我氏が渡来人系ということ自体も相当疑わしいけど。
63名無しの歩き方@お腹いっぱい。:02/09/14 17:43
俺はチャゲ派
64日本@名無史さん:02/09/14 17:52
なんで、その期間、奈良盆地よりも難波に都があった期間が長いのに、
「難波時代」でなくて「飛鳥時代」なの?
65日本@名無史さん:02/09/16 06:39
飛鳥文化時代の略だから
66日本@名無史さん:02/09/16 06:44
>>62
あんたは左翼か?

渡来人ではなくちゃんと帰化人を使え。
67日本@名無史さん:02/09/16 06:48
渡来人が正解。
68日本@名無史さん:02/09/16 07:19
政治的な用語になってしまいましたね。
帰化人、渡来人
69日本@名無史さん:02/09/16 07:59
聖徳太子は蘇我馬子なのか。とすると山代大兄が蝦夷か。
てことは入鹿は父親を殺したのか。いや、そんなわけはない。
てことは山代大兄と蝦夷は兄弟。そうか、山代は倉麻呂か。
入鹿は山代=倉麻呂を殺した。
で、倉麻呂の子の石川麻呂は入鹿殺害に一役買ったわけだ。
なるほど、完璧だ(w
7062:02/09/16 08:53
>>66 左翼ではありません。
私も帰化人の方が良いと思いますが、それ自体が論争になるので避けています。

しかし、無茶苦茶なスレになってきたなあ。単なる妄想スレだよ、これじゃあ
71日本@名無史さん:02/09/16 10:04
厨房にもわかるように解説

帰化人というのが当時から長い間使われてきた言葉
渡来人というのは帰化の意味を気に入らない半島のために配慮した政治的利用な言葉
72日本@名無史さん:02/09/16 10:04
今どき左翼ねぇ・・・。
あんたかなり頭悪いでしょ?
73蘇我馬子:02/09/16 15:27
我々は帰化したつもりなどない、君らを支配搾取するためにやってきて、
長期滞在しているだけだが、何か?
74日本@名無史さん:02/09/16 21:17
>>73 渡来人でも帰化人でもいいけど、ようするに本国で食い詰めて
日本に来ただけだろ。えらそうにすんじゃない。
75蘇我馬子 :02/09/16 21:27
君たちは誤解している。猿並みに原始的な君たちを指導してあげるために、
我々は降臨したんだ。親切に対する対価を得ても良いだろう。
日本の礎を築いた我々に対して、額を地面にこすりつけて感謝するべきだろう。
76日本@名無史さん:02/09/16 21:32
こりゃ、本物...。
典型的な妄想半島人。
77日本@名無史さん:02/09/16 21:38
>>75 いいからもう国にお帰り
78アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/09/16 23:54
>>75
俺、石舞台古墳行くと必ず下痢すんだよね。
79蘇我馬子:02/09/17 11:47
>>76-78
君たち、いじめ方が足りんぞ。もっといじめて欲しいのにんのう。
80アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/09/17 12:28
>>79
俺、そんなつもりじゃなかったのに…Σ(´Д`;)
81日本@名無史さん:02/09/20 22:57
まともな話がしたいものだが
82日本@名無史さん:02/09/20 23:33
「帰化」は儒教的な概念だよね.覇道の対立概念としての王道の存在を前提に
しないと「帰化」するいわれがないことになるな.
武力によらずに徳と文物の力によって人民を支配するのが儒教でいうところの王道で,遠方の夷狄が
王のもつ徳なり文なりの力を頼りに帰服するのが「帰化」(帰服される立場からみると「王化」)だ.
しかし,儒教なり文物なりを伝えてきたのは渡来人の側なのに,なぜ「帰化」しなくちゃいけないんだろう?
83日本@名無史さん:02/09/21 05:58
>>82 「帰化」という言葉にもともとそういう意味があるのはそのとおり。
しかし、
1.歴史的に使用されていた用語を後世の考え方でみだりに変更すべきでない。
2.「渡来」した人を一般化して、渡来人全般が優れた文化を持ち込んだ
とする点の欺瞞
3.「渡来」した人の大半は「文物」を持ち込むために、「渡来」したのでは
なく、「亡命」または「難民」または「開拓者」として来日(当時はそんな言葉はないが)
その結果、当時の現地政府に従属したこと。
4.「渡来」主張者の論拠を見ると、中華思想の立場、裏返せば、日本蔑視の
立場から発言されていることが多いこと。(82がそうだとは言っていません)

以上の点から、「帰化人」と表現するのが正しいと考えます。
この点について論議するなら、別のスレをたてるべきと思いますが。
84日本@名無史さん:02/09/23 04:55
じゃ「移民」といえば?
85日本@名無史さん:02/09/23 06:51
>>84 歴史的な用語を後世の考え方で変えるなと言っているんですけど。
8684:02/09/23 07:07
基本的には私も「帰化人」派ですけど。
思考実験としてもし帰化が使えないとしたらと考えてみただけ。
いくらなんでも渡来人はないだろうと思うので。
87日本@名無史さん:02/09/23 08:02
>>84 それは失礼しました。
88日本@名無史さん:02/09/23 09:19
>>83
むしろ「帰化人」こそ中華思想の臭いがぷんぷんする用語でしょう(w
「渡来」ならあまり中華思想とは関係がないんじゃないの?
89日本@名無史さん:02/09/23 09:39
〉82
日本流言えば、「都落ち」とか「落ち武者」の方々が日本に落ち延びてきたという事ではないしょうか?
そして、彼らが一族郎党を日本に呼び寄せただけではないでしょうか?
で、彼ら自身が中心となり日本を建国(乗っ取り)したかもしれないと私は思っている。
また、日本の指導者が文物を学ぶべき相手を決して彼らの故郷であろう朝鮮半島とは
考えていなかったとも思っている。
その証しが、文物の出所である隋・唐へ直接学びに行った遣隋使、遣唐使だと思ってます。
例えば、遣新羅使や遣百済使なんかは聞いた事もない。
9083:02/09/23 09:48
>>88 「帰化」が中華思想ぷんぷんなのはそのとおりです。
日本に「帰化」はおかしい、という主張はその中華思想そのものです。
日本を蔑視しているわけです。「渡来」と言い換えることは中華思想を
肯定していることになります。
ですから、「帰化」とあえていうべきと考えます。
91日本@名無史さん:02/09/24 11:49
「渡来」でいいよ、「渡来」で。なんで蛮国日本に「帰化」しなきゃいけ
ないんだよ。いい加減にしろバーカ。俺はおまえら田舎ザルとは違うんだよ。
(当時の渡来貴族の心境を代弁)
92日本@名無史さん:02/09/24 13:03
>>91
一部の貴族はそう思ったかもしれない。
(祖国から逃げ出した自分の立場をわきまえない現代の三国人のように)
ただ大多数の落ちぶれ鮮人・無教養文盲鮮人は、
まさしく帰化っていう表現が適切だろ。
93日本@名無史さん:02/09/24 14:25
ほら、「帰化」という用語自体に>>92のような差別的価値観が
見え隠れする以上、「歴史用語」として適正とは思われないな。
94日本@名無史さん:02/09/24 15:45
差別的価値観があるなんていう理由で、
歴史用語いちいち変更していたら、
きりが無いだろ。ったく。そんな面倒な事を誰がやるんじゃ。
論文にも使用するなと、逐一編集委員が指導するのかよ。
95日本@名無史さん:02/09/24 16:08
まずは教科書変更と賠償じゃない。常識として。
96日本@名無史さん:02/09/24 16:13
ププッ。どんな「常識」なんだか。
97さsdsddsdd:02/09/24 16:19
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98日本@名無史さん:02/09/24 16:21
「帰化」があまり使われなくなった理由は,現在の価値観から差別的だとされる用語が
嫌われたのではなく,東アジアの民族大移動をあらわす用語として実態とかけ離れた用語が
嫌われただけだと思うが.
99日本@名無史さん:02/09/24 16:52
で、結局蘇我氏の出自についてはこのスレ的にはどういう結論に
なったの?
100日本@名無史さん:02/09/24 18:12
>>96
すごいね。この動物的脊髄反射が。(激わら
1012チャンネルで超有名:02/09/24 18:12
http://tigers-fan.com/~pppnn

http://sakayasan.net/zjjj1/

ヌキヌキ部屋に直行
  コギャルとヌキヌキ
  全国地域別出会い
102さげ:02/09/24 19:48
「帰化」か「渡来」か、なんてどうでもいいよ。
103飛鳥涼:02/09/24 21:38
SAY YES〜
104不動明:02/09/24 21:43
亮。お前がだんだん恐くなってきたよ。(from Devilman)
105日本@名無史さん:02/09/25 02:31
田村亮って二人いるのかな。
三兄弟とロンブーと。
106日本@名無史さん:02/09/25 03:36
坂妻に似ているといったらやはり長男としかず。
107日本@名無史さん:02/09/25 03:38
次男だけ、「亮」とか名前の乗りが違うよね。
何でかな。顔は一番二枚目だと思うけど。
108日本@名無史さん:02/09/26 02:35
109日本@名無史さん:02/09/26 03:15
蘇我氏は渡来系じゃないよ。高麗とか韓子はわざと渡来系にみせようとして
書いたんだYO!!朝廷側はなにかを隠しているのだ

110日本@名無史さん:02/09/26 06:18
>>98 意味がわからない。よく説明して下さい。

>>109 賛成。系図は「帰化人」であることの証拠にならない。
111日本@名無史さん:02/09/26 09:18
>>109
君が書いたの?
どうして「隠している」ことが君にわかるの?超能力?透視?
112日本@名無史さん:02/09/26 11:55
>>109
主語がわからないな。みせかけようとしたのは、
蘇我氏自身
天皇家
藤原氏
その他
のどれ?
「天皇家が」って言いたいのかな。
113109:02/09/26 20:17
蘇我石川宿禰 「日本書記」が書かれた頃は蘇我氏の中の石川氏に連なる一族
       が進出した時期だった
〃 満智   満智という名は百済人に多い
〃 韓子   日本人と新羅人との混血児を韓子と名付けることが多い
〃 高麗   朝鮮三国の中の国名のひとつ。誕生時5世紀後半は倭王武が
       中国に「句麗(高句麗)無道にして」という上表文を送って
       いるから敵対している国の名をつけるなんてありえない。
三国それぞれの名前があるということは逆に渡来人っぽくない。かなりつく
ってると思われ。稲目からは日本風だからいいんだけど。
そうそう「日本書紀」には推古32年に馬子が推古に「葛城県は、もと
もと私の一族の本拠であり、私どもはその県の名による姓を名のっています。
どうか、私に現在は大王の領地になっている葛城県を下賜して下さい。」と
あるらし。・・ってことは別に渡来系と思わせたいわけじゃなかったわけか。
スマソ。自分がアフォでした。日本書紀が蘇我は葛城氏と認めていました。
さらに「聖徳太子伝暦」には推古29年に葛木寺を「蘇我葛木臣」に賜わっ
たとあるらし。蘇我氏は葛城系であったと思われ。でもだとしたら韓子とか
高麗って変、日本風な名前であるはずだYO!!やっぱり朝廷側はなにかを隠し
ているのだ。(天皇家と藤原だ)        
114日本@名無史さん:02/09/26 20:41
むかし、聖徳太子は実は天皇だった。
息子の山背大兄王の時一族が蘇我氏に滅ぼされてしまった為万世一系のおとぎ話が成立しなくなった。
それで「太子」としか呼べなくなったと聞いた事があるのですが本当でしょうか?
115日本@名無史さん:02/09/26 23:06
>>113
渡来系の蘇我氏が土着系の葛城氏と婚姻関係によって結びつくことで
基盤固めを行ったという解釈はできないのですか。

それから、名前の件は舶来文化推進派の蘇我氏が舶来風の名前をつけて
かっこつけてただけという説もありましたね。今でいうと子どもに「麻里亜」
とか「都夢」とかつけるノリでしょうか。
116日本@名無史さん:02/09/26 23:49
>>114
きぐうですね。多分同じ内容の本を最近読みました。
確か隋書に登場する日本の使者の発言に、倭王の名前が、彦という
男性を表す言葉が使われた、しかし、その当時に日本の天皇は
女帝の推古天皇であった。その当時摂政が、聖徳太子なので
本当は聖徳太子は天皇だったのではないか?という内容だと思います。

ある本によると、当時の中国は、女性を軽視する風潮があり、
女帝だが、男性の名前を使者は使った。また聖徳太子が天皇なら
日本書紀に推古天皇紀をなぜ作ったのか矛盾が生じることから
聖徳太子は天皇ではないという話が載ってました。

私もこの説に賛成です。



117日本@名無史さん:02/09/27 10:26
>>113
この「葛城県を下賜」は結局認められなかったんじゃなかったでしたっけ。
すると天皇家は蘇我馬子を「葛城氏」として認めなかったということでは?
118日本@名無史さん:02/09/27 17:18
age
119日本@名無史さん:02/09/27 20:38
>>115
たしかにそうかもしれない・・と思いますた。入鹿も物部大臣とかいわれて
たみたいだし。
>>117
推古天皇が馬子を「葛城氏」として認めなかったとはかぎらないと思う。
というより葛城氏じゃないとそんなこと言えない。それより土地結局くれな
かったんだ。知らなかった
120日本@名無史さん:02/10/01 20:16
age
121天之御名無主:02/10/01 22:14
明日香村の人口の8割が渡来人って「続日本紀」に
書いてあるって、本当?
122日本@名無史さん:02/10/01 22:43
葛城氏というのは武内宿禰後裔氏族の中では嫡流だったのだが
武烈天皇に滅ぼされたので、その利権が同じ武内宿禰後裔氏族(つまり親戚)の蘇我氏に引き継がれた。
これが蘇我台頭のきっかけ。馬子はその流れで葛城氏の旧領にも権利を主張した。

ちなみに蘇我満智と木羅満智は生存年代がちがいすぎて同一人物ではありえない。
また帰化人のカバネは低い身分である「史」が多くせいぜい「造」どまり。
「臣」などの上位貴族のカバネは例がなく、帰化人説はまったく考えにくい。
123日本@名無史さん:02/10/02 13:14
>>122
>「臣」などの上位貴族のカバネは例がなく、
蘇我という例があるのに無視するの。(藁
力関係の問題じゃないのか。
124日本@名無史さん:02/10/02 22:46
>>123
意味わかってんの?(w
125日本@名無史さん:02/10/03 03:07
>>124
君こそ説得力あると思ってるの?自説に酔ってない?客観的に冷静に考えて見。
126日本@名無史さん:02/10/03 03:13
この議論は面白いなやー
127日本@名無史さん:02/10/03 03:25
>>125
唯一の例外を認めろというのなら、それ相応の根拠を
示さなければ説得できないよ。
ましてや皇別氏族の代表姓である臣を帰化人が賜った
なんて大胆な説なんだから。
128日本@名無史さん:02/10/03 03:44
そういう凝り固まった偏見を一回捨ててみな。物がよく見えるようになるぞ。
(w
129ギャラリー:02/10/03 06:18
>>127 >>128の論争には興味があります。通説的には>>127かと思います。
>>128 の論拠を詳しく聞きたいですね。
130日本@名無史さん:02/10/03 06:28
>>128
根拠示さないと単なるトンデモで終わっちゃうよ。
131日本@名無史さん:02/10/03 08:06
蘇我石川宿禰が系譜捏造しています。石川宿禰は本家ではなく緒流の出です
が大化の改新時、本家である蝦夷一族が滅んだ為、石川宿禰が権威付けに
系譜を捏造。満智 韓子 高麗 は石川宿禰の先祖にあたると
言われている。石川家は蘇我倉家と言われ、倉庫の管理にあたる家だった。
つまり満智 韓子 高麗は朝鮮半島からの貢物を
扱った為に付いた名前である。
132日本@名無史さん:02/10/03 12:59
>>122
>また帰化人のカバネは低い身分である「史」が多くせいぜい「造」どまり
具体例を上げて説明してくれないか。八色姓制定の前後をごっちゃにして
いるように思うのだけど。勘違いならスマソ。
133日本@名無史さん:02/10/03 18:19
八色姓制定の前後? なぜ八色姓制定の前後???
134日本@名無史さん:02/10/03 21:10
>>133
その前後で「連」姓の重みはえらく違うよな。
ところでなんでさげるの。
135134:02/10/03 21:13
ああ、ごめん。「造」が「連」に見えたんだわ。
136日本@名無史さん:02/10/03 21:46
あげるなヨ
137日本@名無史さん:02/10/03 22:01
君=中央ではすべて皇別氏族(地方豪族は例外あり)
臣=皇別氏族
連=神別氏族
直=比較的、神別が多い。
造=いろいろ。
首=いろいろ。
史=ほとんど諸蕃(帰化人系)。
伎=すべて諸蕃(帰化人系)。
138日本@名無史さん:02/10/03 22:13
「連」あたりでも諸蕃(帰化人系)はけっこうある。どうでもいいマイナー氏族ばかりだけど。
諸蕃(帰化人系)で最強最大最有名最有力な氏族といえば秦氏だろうけどこれは「造」だね。
139日本@名無史さん:02/10/03 22:35
サゲ進行さんにとって
大伴連
波多臣
巨勢臣
紀臣
とかは渡来なの土着なの。まあ土着という考えなんだろうな。
140怒怒怒怒怒:02/10/03 22:39
親切に相手してやりゃいい気になりやがって。
あげるなっつってんのがわかんねぇのかヨ。この糞電波めが(怒
141日本@名無史さん:02/10/03 22:40
あげ
142日本@名無史さん:02/10/03 22:41
>>140
精神が矢んでるな。
143日本@名無史さん:02/10/03 22:42
知能が病んでるよりましです
144日本@名無史さん:02/10/03 22:43
認めてるわけだ。(藁
145日本@名無史さん:02/10/03 22:45
だから知能が病んでるっていうんだヨ
146日本@名無史さん:02/10/03 22:47
がんばれよ。皆君を応援してるぞ。
147日本@名無史さん:02/10/03 22:49
一重瞼は5世紀以降に朝鮮半島から来た帰化人の末裔。
148日本@名無史さん:02/10/03 22:52
>>145
ヒステリー起こさずにもう少しがんばってみろよ。
149日本@名無史さん:02/10/03 22:53
あほか(w
150日本@名無史さん:02/10/03 22:56
>>149
きちんと論理的に相手にとどめを刺せよ。このままじゃカコワルイぞ。
151日本@名無史さん:02/10/03 23:16
彼は恥というものを知っている男だよ。
最後に「(w」と2文字つけることで、彼の自尊心は辛うじて守られた。
152日本@名無史さん:02/10/03 23:22
>きちんと論理的に相手にとどめを刺せよ。

電波風情がなに逝ってんだか。
まずそっちが通説を“論理的に”批判するのが先だろうが。
ここまで親切にしてやったのにえらそうに屁理屈たれるな。
わかったかヴォケ
153日本@名無史さん:02/10/03 23:26
更紙。
154日本@名無史さん:02/10/03 23:28
ほんと品性という言葉から遠いお方でらっしゃる。
155日本@名無史さん:02/10/03 23:31
>>152
造止まりと言ったり、連もいるといったり、君の「通説」自体ゆれている
みたいだな。もう一回よく整理してからおいで。(w
156日本@名無史さん:02/10/03 23:58
ところで>>136はなんでひとにまで「さげ」を強要してるんだ。
理由を説明したらどうだ。理由を話せば、相手も協力してくれるかも知れんぞ。
157日本@名無史さん:02/10/04 00:02
電波が寄ってくるから(w
158協力(藁:02/10/04 00:06
すでに侵入されたら意味ないじゃん。(藁
159日本@名無史さん:02/10/04 00:08
>>155
あほか。通説じゃなくてただの事実だろ

造止まりというのは臣カバネとの比較でいってるんで122をみろ。
連カバネとの比較はなにもいってないし
臣が上位とはいったが連が上位とは必ずしもいってない。

サービスはここまでだ(w
160日本@名無史さん:02/10/04 00:18
>>159
デンパ構って遊んでる暇あったら勉強しな。
来春も浪人じゃシャレにならんぞ。(藁
161日本@名無史さん:02/10/04 00:21
この程度でなぜ切れる??
せっかく面白くなってきたと思ってたのにー
162日本@名無史さん:02/10/04 00:28
>>160
お前もデンパ本ばかりじゃなくて
たまにはまともな本読んだらいいと思うヨ
163日本@名無史さん:02/10/04 00:30
>>161
ウッセー
俺はカルシウムが足りねぇんだよっ
164日本@名無史さん:02/10/04 00:36
ところでさあ、紀氏の根拠地には「横穴式古墳」が多くみつかってる
っちゅうのは皆どう思うよ。渡来でねーべか。
165日本@名無史さん:02/10/04 00:37
そろそろアスキーアートが出る頃だな
166日本@名無史さん:02/10/04 00:42
>>162
推薦図書は?教えたくれたら明日にでも図書館幾世。
167日本@名無史さん:02/10/04 00:47
ナイス話題! >164
168日本@名無史さん:02/10/04 10:32
議論期待あげ
169日本@名無史さん:02/10/04 14:28
で、>>159>>164に何か言うことないの?
170166:02/10/04 18:52
推薦図書まだかなあ。楽しみだなあ。ワクワク。
171日本@名無史さん:02/10/08 00:00
うp
172日本@名無史さん:02/10/08 21:51
>>164
紀臣は渡来系と考える方が優勢だろ。
173日本@名無史さん :02/10/08 21:59
聖徳太子はNHKでは出来ないだろう・・・
律令政治はすばらしいが、
人間関係が泥沼すぎる。
触れたくない事にも触れなきゃならんし。
174日本@名無史さん:02/10/08 22:05
ていうか話はどうしても聖徳太子は朝鮮人につなげたいんだろ。
175日本@名無史さん:02/10/08 22:10
>>172
そうなんですか? 初めて知りました
なんか参考になる文献とかありますか?
176日本@名無史さん:02/10/09 05:19
日本人はみんな渡来系だよ。
昔から日本にいたやつなんていない。
177コヴァ信者といわれた、、:02/10/09 10:20
 聖徳太子が目指した対中華対等外交が建前の上でも挫折したのって何時?
 遣隋使が続いているところを見ると対等外交なんかしていなかったのは明らかなんだが、でもそれって国書を改竄していただけだと思う。
 
 日本側国書で華夷秩序を認めるようになったのって何時からか知っている人がいたら教えて。
 ググっても見つかるのは太子マンセーばかり、、
178日本@名無史さん:02/10/09 10:25
>>176
 >昔から日本にいたやつなんていない。
 日本が人類発祥の地じゃないのは認める。

 >日本人はみんな渡来系だよ。
「渡来系」という言葉が何故あるのか考えようね?
「渡来系」ばかりだったらそんな言葉つくる必要ねーだろヴァカ。
「原住民」はアフリカにしかいないのかと小一時間問い詰めたい。
179日本@名無史さん:02/10/09 10:55
>>176のいいたのは渡来人が先住劣等民族だった倭人を駆逐して
「日本」を作ったってことでしょ、俺もこれさんせー、コリア文化
とか学ぶと「日本」文化ってのはコリア文化の模倣程度のものだって
ことがようくわかるし。
180:02/10/09 11:13
>>179
馬鹿だな、コリア文化というのは中国文化、紀元前から、中国人
衛満・楽浪郡などが置かれていて、中国文化が多数入ってきている。
これが下地になり、新羅・高麗文化へと続いている。
あなたの論理ではコリア文化も模倣の産物となってしまいますよ。

さらに、あなたの論理では、アフリカは人間の起源ですが、
世界の中の人は、アフリカからの渡来人になってしまいますよ。

そもそも国家が出来た時期、からの他国の人間を渡来人と規定した
方が正しいように思えます。
181日本@名無史さん:02/10/09 22:00
コリア文化ってなんだ?
逆に日本文化ってなんだ?

初めて日本に文化らしき物が、
いつ出来たかは、スレタイに書いてあるYO
182日本@名無史さん:02/10/10 01:04
>>179

 この世の文化はそのほとんどが模倣であると貴方が考えているのはわかりました。
 ローマ文化もギリシャ文化の模倣ですし、その後のヨーロッパやイスラムもギリシャ文化の模倣ということになりますね。

 で、日本文化に限って「コリア文化の模倣『 程 度 』」とことさらに貶めるのは何故?
183日本@名無史さん:02/10/10 15:08
論点が漠然としてきたような。
184天之御名無主:02/10/11 01:43
っつーか
「帰化けり」
って何て読む?
185日本@名無史さん:02/10/11 03:21
かえりばけり ですか
186日本@名無史さん:02/10/11 09:04
日本文化はコリア文化と対比して使っただけだよ。馬鹿。>>181
187日本@名無史さん:02/10/11 14:31
まだ居たのか文化馬鹿 藁>>186
スレ違いだからこないでね。
188日本@名無史さん:02/10/11 18:29
 しかし179はイタイ香具師だな。
 >先住劣等民族だった倭人
 いまどき
 
  劣 等 民 族 
 
 はないだろ。ひょっとして「列島民族」の誤変換か?
189天之御名無主:02/10/12 02:15
帰化=まゐおもぶ

現代の漢字の概念と全然違うという前提を受け入れずに議論しても
何も生まない。


190日本@名無史さん:02/10/12 09:11
>>186
在日おまえも帰化しろ!ヽ(゚∀゚)ノ
191日本@名無史さん:02/10/12 12:52
蘇我氏は出雲系
192日本@名無史さん:02/10/12 19:10
>>189
「まゐおもぶ」ってどういう意味なの?
193日本@名無史さん:02/10/12 21:32
あげ
194日本@名無史さん:02/10/14 02:21
195日本@名無史さん:02/10/14 04:16
本の受け売りですが、
『日本書紀』の「帰化」に関する記事は17例あって、
「帰化」「来帰」「投化」「化来」の語を用いているが、
いずれもオノヅカラマウク、マウクと訓ませたようで、
概念に差があるわけではないそうです。
オノヅカラマウクというのは、自らの意思に従って参り来ったという意味。
また、『古事記』にみえる3例では、すべて「参渡来」と記し、
マヰワタリキツ、マウクと訓ませており、これも『書紀』のオノヅカラマウク、
マウクと概念に差はないのだとか。
196日本@名無史さん:02/10/14 04:57
マウクはマヰクの音便。
マヰク=参り来る=下位の者が上位のところに来る
オノヅカラ=自分の意志で

「帰化」「来帰」「投化」「化来」の「帰」も「化」も
王道の徳化、王化に帰すの意味。

オノヅカラマヰク、マヰワタリクというのは
「帰化」を大和言葉に翻訳したわけではなくて、それとは無関係に、
もともと下位の国(朝鮮)から上がってきたという意味。

197196:02/10/14 05:06
続き

派遣するのも
倭国から三韓に派遣するのは「ツカハス」(上位から下へやる)
三韓から倭国に派遣するのは「マダス」=「マヰイダス」(下位から上にあげる)

だから漢字に直訳して「渡来」とすると平行移動のようになってしまい
「マヰク」というもとのニュアンスが失われる
そこで漢文の決まり文句である「帰化」「来帰」「投化」「化来」
を使ったのである。ここまでは漢文の書き手としてはごく自然な発想で
正確な漢文訳をほどこそうとしたといえるのであって、なんら問題はない。
198日本@名無史さん:02/10/15 17:59
あげ
199日本@名無史さん:02/10/15 22:01
当方宮城県なのだが,飛鳥・藤原京展を見てきた。
天寿国繍張生で見れて感動。
200日本@名無史さん:02/10/16 01:58
>>197
>なんら問題はない。

つまり帰化人でいいんだな。
201日本@名無史さん:02/10/16 15:04
「帰化」か「渡来」かは、すでに専門スレがあるだろ。
そっちでやれば。
202日本@名無史さん:02/10/16 22:05
>>173
遅レスだが、
すでにNHKでドラマ化したが?
203日本@名無史さん:02/10/23 15:42
藤原種継の衣装が今週の歴史本に載ってる
204日本@名無史さん:02/10/24 16:40
百済様ですか?
205日本@名無史さん:02/10/26 00:39
…・
206日本@名無史さん:02/10/26 18:09
K〜恵子 女史の学説は、偏見に満ちている。

大陸北方の民族も四天王寺を訪れたはずだから
彼らの文物や乗馬技術もあたりまえのように輸入されていたはずなのに、
「太子が騎馬民族だ」なんて奇説、よくとなえるよ。
いったいどのような背景があって、あのような奇説をとなえるのだろうか?

プロの史学者なら、中世の文書と古代の文書を同列にとらえるようなことは
絶対にしないはずだろう。

岡山大の後輩たちが泣くぞ。きっと。
207日本@名無史さん:02/10/26 19:51
プロの史学者じゃないもの
208日本@名無史さん:02/10/28 03:03
>>206 
禿同
彼女の歴史観が「K〜日本史」なんて呼ばれてるけど、冗談じゃないよ。
史実は一つしかないNO!「K〜日本史」なんて「日本史」が
パラレルワールドみたいにいくつも存在するみたいでとてもキモい。
まあ、K〜は奇説、トンデモ説唱えりゃあ、注目されて金入るとでも思ってんだろ?
「歴史」はそんな説でひっくり返るような脆弱な物じゃあないんだよ。
このことは、「歴史」というものが考証学に堕したことの象徴。
「歴史」は本来、過去を想って歴史の魂に入っていく精神が大切。
そういった意味では宣長の「古事記伝」とか鴎外の史伝小説というものは
結構高いクオリティーに達してると思われ。

Kは恥だね。過去の偉人たちに申し訳ないyo
209日本@名無史さん :02/10/29 21:28
>>206>>208は言ってる主旨が違うような?
K批判であることは共通してるけどね。

210日本@名無史さん:02/10/29 23:39
age
211世界@名無史さん:02/10/31 12:54
飛鳥時代ゲームがあってもいいような気がする
豪族間の勢力争いゲーム
212日本@名無史さん:02/11/01 05:48
そう言われればねぇ
でも、戦国とか三国志よりは見劣りして、流行らないだろう。
213日本@名無史さん:02/11/11 20:07
あすかじだいのこと
214日本@名無史さん:02/11/15 17:50
http://www.zakzak.co.jp/top/top1115_3_22.html

宮内庁書陵部は14日、聖徳太子の墓とされる叡福寺北古墳(大阪府太子町、円墳)の
発掘調査現場を初めて、考古学研究者に公開。同古墳の直径が従来想定されていた
55メートルよりも小さくなることが分かった。規模の見直しは必至で、墳形や
被葬者をめぐる論争にも波紋を広げそうだ。

書陵部は、墳丘の周辺を2重にめぐる結界石の保存のため、石列の根元付近のほか、
墳丘すそ部を3カ所発掘。その結果、いずれからも墳丘の盛り土は確認できず、
地山を掘り込んで結界石を立てたことが分かった。

これまでは結界石の間際までが墳丘とみられ、直径55メートルの円墳とされて
いたが、本来の墳丘はさらに内側で、一回り小さいことになる。現場を見学した
置田雅昭・天理大教授は「墳丘規模などを検討する必要がある」と話している。

叡福寺北古墳は、明治時代の修築の際に記された横穴式石室の形から、7世紀前半から
中ごろの築造とされる。このため、622年ごろ亡くなった聖徳太子の墓にあてられ、
聖徳太子と母、妃の合葬と伝えられている。

しかし石室の形から、もっと新しいとして太子墓説を否定する説もあるほか、墳形に
ついても皇族の墓に多い八角形墳とする見方もあり、論争となっている。

結界石は、梵字(ぼんじ)が彫られ、外側が江戸時代、内側が鎌倉時代に造られたと
されるが、今回の調査で、外側の石列を巡らす工事の際に、内側石列も建て直していたことも分かった。

宮内庁では「(太子信仰から生まれた)宗教イベントとして、結界石を据えたのではないか」としている。
215日本@名無史さん:02/11/27 13:26
古墳あげ。
216日本@名無史さん:02/11/28 23:43
>>208
おお友よ!

やはり「K〜恵子」女史の奇説には批判があるんだ。
あのオバハン、朝鮮半島三国との交流を前提にしながら
文物や技術のインポートについてはイマジネーションがすこぶる乏しくて、
滅多やたらと太子を蔑み辱めているだけなのだ。

きっと仏罰が彼女に下されることだろう。
岡山大の後輩たちが、なさけなくて泣くぜ・・
217日本@名無史さん:02/11/29 03:52
この時代に物部氏が滅ぼされなかったら、
白村江であのような惨敗はしなかったであろう。
218日本@名無史さん:02/12/09 00:26
やっぱ葛城皇子が日本を窮地に陥れた売国奴でそ
219日本@名無史さん:02/12/16 23:54
天智天皇のほうがひどい!
220日本@名無史さん:02/12/17 00:03
>>218-219
てゆーか
その葛城皇子(中大兄皇子)に「助けに来て〜援軍出して〜」
と誘っておきながら、
内部分裂は起こすわ、功臣はぶっ殺しているわ、救援に行ったと
きには肝心の百済軍が崩壊していて、、、と言う余豊章の方に問
題があるんでは

話題脱線したからsagesage
221日本@名無史さん:02/12/17 20:34
「平氏伝雑勘文」に引いてある「上宮記」逸文が載ってる本ありませんか?
「釈日本紀」の方は有名なんですが……
新羅か百済の美青年ホモ武人集団ファランと
「寝た」のは聖徳太子だっけ?
223  :02/12/17 20:40
聖徳太子って実在の人物なのか?
それとも仮にいたとして、本当に
歴史的に価値のある人物なのか?
224日本@名無史さん:02/12/17 20:52
山岸涼子先生のファンなのですよ。
みなさん。
225日本@名無史さん:02/12/17 20:56
>>221
検索すれば分かるのでは?
226日本@名無史さん:02/12/19 04:35
ところで、法隆寺の裏手の法起寺は、
関東地方のさる学者が、誤って「ほっきじ」と読み慣わしてしまったそうだけど、
正しくは「ほうきじ」らしい。

奈良交通のバス停留所も、正しく改められたそうだ。
(出典:読売巨人新聞社)

発起人の「ほっき」と間違えたんだろう、きっと。
227221:02/12/21 02:59
>>225
検索しても見つからなかったんです。
「平氏伝雑勘文」に直接アタックしようとして、
県立図書館などで「大日本仏教全書(かな?)」探したんですが、閲覧不可なんです。
聖徳太子の資料集や逸文だけを集めた史料ありませんか?
228日本@名無史さん:02/12/21 11:22
>>227

『聖徳太子伝記集』(古典刊行会 1972年)
 『大日本仏教全書』所収本の複製。「聖徳太子平氏伝雑勘文(下三)」を収める。

『聖徳太子全集第3巻 太子伝 上』(藤原猶雪 編 龍吟社 1944年)
 「上宮記」逸文を収める。88年に臨川書店から複製が出ている。

検索したら2つばかり出てきましたけど、これも大学の図書館でないと閲覧は難しいかも。
229日本@名無史さん:02/12/21 11:24
聖徳大使は渡来人でしょう?飛鳥時代の文化と古代コリア
の文化が非常によく似ているのは周知の事実ですし(日本で
はこの事実は黙殺されてますが)つい何百年か前までは単なる
文化を持たぬ野蛮人に過ぎなかった倭人がいきなり後世まで残る
高度な文化を持ち得たとは思えません、常識的に考えて私達が
「日本」文化だなどと妄想しているものの大半はコリア文化起源の
ものばかりでは?
当然聖徳大使も「日本」人ではなかったでしょうね。
230日本@名無史さん:02/12/21 11:31
そもそも日本人はとにかく偏狭な
ナショナリズムで持って歴史を見がちですね、例の捏造事件が
20余年にも渡って明るみに出なかったのはそもそもこの国の国
民性にあるのでは?正しい「事実」を直視せず美しく歪められた
「歴史」を見るのが好きですからね(数年前の「つくる会」事件など
も美しい「歴史」をとかく求めたがる国民性がそれを後押しした感があります)
このような誤った態度を改めない限り日本は諸外国からいつま
でも非難を受けつづけるでしょう、特に先の侵略戦争で多大な被害
を被ったアジア諸国からは。
231日本@名無史さん:02/12/22 01:30
aげ
232日本@名無史さん:02/12/22 01:39
閲覧不可って‥‥
じゃあ何のためにあるんだか
233日本@名無史さん:02/12/22 02:56
閲覧不可でも事情を話して頼めばみせてくれるところが多いよ
234221:02/12/26 00:44
>>228
情報ありがとうございます。
235228:02/12/26 02:04
>>232
大日本仏教全書(第112巻 聖徳太子伝叢書)は明治45年に出た本だからね。
本じたいの傷みが激しくて閲覧不可なのかもよ。

>>234
いえ、大してお役にも立てませんで・・
236日本@名無史さん:03/01/01 02:14
最近気付いた五人のマロコ王
継体皇子……椀子皇子
欽明皇子……椀子皇子
用明皇子……麻呂子皇子(当麻)
太子王子……麻呂子王
山背王子……難波麻呂子王
何か共通点ある?
237日本@名無史さん:03/01/05 05:25
>>236
マロコは一種の愛称では?
238日本@名無史さん:03/01/10 20:20
聖徳太子って色んな本見るほど実在が怪しい事を確認できるよね。
で、蘇我入鹿がかわいそうになってしょうがない。
クーデターで殺されて、オマケに聖徳太子という作り上げた聖人の対照的な悪として
クーデターでの殺害を正当化されて。
出雲系豪族マンセー。
239山崎渉:03/01/11 16:41
(^^)
240山崎渉:03/01/16 08:54
(^^)
241日本@名無史さん:03/01/17 06:10
蘇我入鹿のほうが好感もてるってひとは多い
242日本@名無史さん:03/01/19 02:04
>>236
丸子部
243日本@名無史さん:03/01/19 10:10
ちょい前NHKで、グラディエイターな鎧を着た聖徳太子がやってたな。
挂甲にマント着けてたのかよ、と。
244日本@名無史さん:03/01/19 16:49
物部氏との戦争のとき、聖徳太子は14歳。
モックンだと、ちょっと老けすぎ。
245日本@名無史さん:03/01/20 05:07
短甲や挂甲を着けていた時代が
舞台のドラマも観て見たいが・・・
衣装作るだけで金が無くなりそうだな。
246日本@名無史さん:03/01/20 05:24
>>236
敏達天皇四年(五七五)正月九日条
其一曰押坂彦人大兄皇子〈更名麻呂古皇子。〉
247日本@名無史さん:03/01/30 12:59
まろこちゃん可愛いよね
248日本@名無史さん:03/02/06 20:22
この間本木のドラマつまらなかった
249日本@名無史さん:03/02/14 21:47
聖徳太子の娘を嫁にもらいたいけど誰がオススメ?
250日本@名無史さん:03/02/14 22:37
本木のドラマって緒方拳が馬子やったやつか?
251日本@名無史さん:03/02/15 19:56
聖徳太子 = 蘇我善徳 = 蘇我入鹿 = 鬼

252日本@名無史さん:03/02/15 20:05
あの、今田耕司が小野妹子役で出ていたドラマか・・・
253日本@名無史さん:03/02/15 20:53
合戦シーンは良かった
254日本@名無史さん:03/02/16 23:52
あのドラマ
>太子が馬子を殺そうとして……

コレ、元ネタあるような気がするが、思い出せん。
255日本@名無史さん:03/02/17 00:18
戦闘シーンで守屋が射られたときの両隣の女のメイクが良かった。
256日本@名無史さん:03/02/17 00:20
秦川勝が出ていなかったのが残念でした。

257日本@名無史さん:03/02/18 19:56
そう言えば、T O J I K O 以外の嫁出てなっかたよな?あのドラマ。
258一万円札:03/02/19 21:04
聖徳太子はちょっと賢しこいただの皇子でしょう。
後世にいろんな伝説がくっついて、偉人となっただけ。
259日本@名無史さん:03/02/19 21:13
>>258

太子のやったとされることはほとんど蘇我馬子がやったこと。
が、逆賊と当時されている馬子の功績を認めるわけにはいかない。
で、聖徳太子なる人物を無理やりでっちあげて、その功績とした、てなとこかな。
260日本@名無史さん:03/02/19 21:35
我蘇馬子→キリストっぽい。
聖徳太子→キリストっぽい。

どっちがキリストなの?
261日本@名無史さん:03/02/19 21:39
どちらもキリストではありません。
262不勉強な一万円札:03/02/19 22:55
>>259
『聖徳太子なる人物を無理やりでっちあげて』
こういう説を唱える人がたくさんいるけど、その証拠を教えて!
263日本@名無史さん:03/02/22 21:31
SAPIX生のみの情報(2003年2月)
開成合格数        麻布合格数
聖徳学園  4    聖徳学園  1
日出学園  5    日出学園  3
精華小★  6    精華小★  3
暁星小★  3    成蹊小★  2
国立学園  1    玉川学園  2

筑駒合格数        栄光合格数
聖徳学園  2    精華小★  8
日出学園  2    洗足学園  2
精華小★  0    横国附属  6
国立学園  1

聖光合格数
精華小★  4
聖徳学園  4
目黒星美  2
森村学園  2
横国附属  3
264日本@名無史さん:03/03/02 19:30
キリストと言うよりも、当時の新興宗教である仏教や景教の影響じゃない?
265皮オナが一番最高:03/03/02 20:00
聖徳太子が残した謎の地球儀の秘密を探れ!
266日本@名無史さん:03/03/02 20:34
あれは地球儀ではない
267日本@名無史さん:03/03/03 03:02
寺島良安ということで……
歴史読本の別冊を読んで不思議だったのでここにきました。
やっぱり聖徳太子いなかったんだ。
でも現在の定説はどうなってんですか?
>>259のカキコが定説なんですか?

そもそも読んだ本の「聖徳太子捏造」以外の項目では
まるで存在したかのごとく書いてあるものがあるんで
混乱するんだよね。

どうなんでしょ?
269日本@名無史さん:03/03/14 22:32
それは、実在した、推古の甥のはなしだからさ。凡であっても。
270日本@名無史さん:03/03/21 23:37
推古の甥は存在したが、それが聖徳太子のような伝説行為をしたわけではない。
271日本@名無史さん:03/03/29 17:55
馬子大王マンセー


272日本@名無史さん:03/03/29 20:42
そりゃやっぱ、聖徳太子は渡来人でしょ。
273一万円札:03/03/29 21:55
>>272
そもそも渡来人とはなんぞや?
それからおしえてちょーだい。
274日本@名無史さん:03/03/30 22:23
百済様ですか?
275日本@名無史さん:03/04/01 02:29
鉄朗、遣隋使船に乗りなさい。


276聖徳太子はいなかった:03/04/01 23:33
聖徳太子は捏造の人物です。
彼の事績と言われることは、アメタリシホコと上宮法皇の事績から盗み。
277日本@名無史さん:03/04/02 09:26
聖徳太子はあなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影
278うどん:03/04/02 16:57
でも、馬子や入鹿もかなり捏造臭いらしいよ。
何せ「馬」と「鹿」でしょ。えみしも野蛮人の意味だし。
279日本@名無史さん:03/04/02 22:47
「蝦夷」と書けばさういふ風に取られても仕方ないのかも知れないが
「毛人」(これでも「えみし」と読む)という名前の人は奈良時代でもいっぱいいたよ
逆に蝦夷の獰猛さにあやかったという説もある
動物の名前が入っている歴史上の有名人と言えば「藤原宇合」旧名は「藤原馬飼」
だったそうだ。
つまり「動物の名前が入っている=差別名」というのは
 んなこたーない
と言うことで砂
280うどん:03/04/05 20:05
>>279
いや、馬と鹿で「馬鹿」って意味だったんだけど。
日本史の先生が言ってた。出典は分かりません。
281日本@名無史さん:03/04/05 20:26
馬子の「子」は男子の名前に付けられる接尾語だから
本当の名前は「馬」である、というのはどこかで聞いたことがあるけどな。

>>280
その先生、それをただ言ってみたかっただけでは・・・。
282日本@名無史さん:03/04/05 22:38
だいたい「ばか」に「馬鹿」と当て字されるようになったのって
飛鳥時代よりずっと後なんでは?


と書いたが自信なし(w)
283日本@名無史さん:03/04/07 03:39
「ばか」の語源は梵語moha(無知)に由来。「馬鹿」は当て字。
当て字の由来については秦の二世皇帝が云々、って説話もあったが失念。
284日本@名無史さん:03/04/08 00:24
聖徳太子=もっつくん
285日本@名無史さん:03/04/08 01:34
馬を鹿。鹿を馬。どっちだっけ?
286日本@名無史さん:03/04/08 23:27
十七条の憲法は日本が世界に誇れる精神文化遺産
あと法隆寺も予言の寺(ちなみに寺はterra=地球)
五重塔のある西院は西洋文明、夢殿のある東院は東洋文明を象徴これ常識
287日本@名無史さん:03/04/13 02:33
聖徳太子って色んな本見るほど実在が怪しい事を確認できるよね。
288日本@名無史さん:03/04/17 12:34
ウワサの“聖徳太子ロボ”を見てきました
http://www.zdnet.co.jp/broadband/0304/15/lp14.html

一番下にある「ZDNet 歴史一口メモ」が笑える。
http://yougo.ascii24.com/gh/30/003099.html
289bloom:03/04/17 12:34
290山崎渉:03/04/17 12:42
(^^)
291日本@名無史さん:03/04/17 22:51
推古の即位もあやしいので、
おそらく馬子が大王だってことを隠すための、大王役が推古で、
実績を担当している描く人物が聖徳太子。
292日本@名無史さん:03/04/17 22:53
いちおう、ウマヤド皇子にあたる日の当らない人物は存在していた模様。
293あぼーん:03/04/17 22:54
294山崎渉:03/04/20 02:03
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
295日本@名無史さん:03/04/24 21:56
>292
記紀を見てもあまり事績をのこしていないよ
296日本@名無史さん:03/04/24 22:21
聖徳太子=蘇我入鹿=大王  これで、いいかな?
297日本@名無史さん:03/04/24 22:23
>>296
ふむ。隋書の記述とも合うね。
298日本@名無史さん:03/05/01 00:53
推古の即位はかなりあやしいもんなあ
299日本@名無史さん:03/05/09 20:03
推古以前は女帝はなく、聖徳太子でっちあげのために推古が女帝となった.
300日本@名無史さん:03/05/13 01:44
>>89
例えば、遣新羅使や遣百済使なんかは聞いた事もない。

遣渤海使は存在したから、この先、存在が確認されないとは限らないかもね。
301日本@名無史さん:03/05/13 02:08
十七条憲法の「和を持って貴しとなす」っていう記述は、カナーリ解釈が分かれるそうですが、ほんと?
302日本@名無史さん:03/05/15 23:36
age
303日本@名無史さん:03/05/21 22:48
>>301
まず、和やか(なごやか)は大和言葉ですが、
和(わ)は外来語です。
304山崎渉:03/05/22 02:42
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
305日本@名無史さん:03/05/22 04:57
我(わ)はあったので、そこから固有名詞として倭。
さらに倭の良字化で、和を採用ってところか。
306日本@名無史さん:03/05/26 21:16
>>301
皆仲良しがいいよ〜最高だよ〜っていうのではなく、
皆が忌憚なく発言できる議論の場があれば、おのずとすべてうまく良くってことだと聞いたことがある。

「和」が到達すべき目標なのではなく、
「和」からスタートして何をなすかってこと。

聖徳太子は民主主義の大前提を知っていたのだな、と。
307日本@名無史さん:03/05/27 13:57
聖徳太子のいう、「和」とは、天皇を中心とした「和」(一君万民)。
天皇制ファシズムの原点を作ったプログラマー。
308山崎渉:03/05/28 10:46
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
309日本@名無史さん:03/05/28 16:48
遣渤海使

310日本@名無史さん:03/05/29 01:32
>>300
そんなんあるんだー。しらなかった。
311日本@名無史さん:03/06/03 00:25
age
312日本@名無史さん:03/06/03 03:00
日本書紀成立以前は日本は対外的には統一国家ではなかった。
隋・あるいは唐といった大河圧力に対抗するため「日本」の国体を整備。
れそ以前は土着系・渡来系の豪族による連合政権。
各地のチャイナタウンの親分が内心の
313日本@名無史さん:03/06/03 04:12
>>300
遣新羅使は遣唐使より沢山の回数派遣されているよ。
遣百済使というのは無かったけど。
遣新羅使が知られてないことにちょっと吃驚。
万葉集なんかにも沢山派遣されたときの歌が残されてるのに。
遣新羅使でちょっとググッて見たらすぐ判るよ。
(遣唐使の空海や最澄などの有名人は出てないので、優秀なのは
唐へ送られたのだろうが)
314日本@名無史さん:03/06/03 14:09
>313
仏教なんかも唐じゃなくて新羅形式を採用したんだよね。
315日本@名無史さん:03/06/03 18:20
>>313
優秀なのが唐に送られたとは限らないんじゃないか?
新羅や渤海だって当時は学ぶべきものが多かっただろうし。

ていうか新羅や渤海自体、遣唐使のルートだったりするし、
両者は区分できないものかも知れぬ。
316日本@名無史さん:03/06/04 19:17
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317日本@名無史さん:03/06/04 20:01
とりあえず、
現在の歴史学の定説というのが知りたい。

山川の教科書にのてtるのが、定説と考えていいのか、皆の衆?
318日本@名無史さん:03/06/06 12:53
昨日「歴史が動いた」やってたから
ちょっとはスレも伸びてるかと思いきや…(w
319日本@名無史さん:03/06/06 14:17
てか、再放送だしね。
320動画直リン:03/06/06 14:20
321日本@名無史さん:03/06/10 23:59
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あげぇ〜〜〜
322日本@名無史さん:03/06/11 00:02
聖徳太子は日本精神の創始者
323日本@名無史さん:03/06/12 19:12
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  ヽ、 `~ ,,,;;;;;;;__   ||||   
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あげぇ〜〜〜
324日本@名無史さん:03/06/12 23:02
          (⌒Y⌒Y⌒)
           /\__/\
          /         \
          /  サザエの   \
       (⌒\  うしろ頭  /⌒) 
      (   |          |   )    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       (_/         \_)   <  かあさん、
          \ ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,/       \ この味どうかしら?  
           \     /            \_________          
.             ,、.┴┴ 、
            ノ >-─|<`ヽ、
            く へ,   V、_,/
          (⌒ヽ\ノ,〉 >'、\/⌒j 
         { ヽ、  テ彡⌒ ⌒}  ノ | 
         | }  丶 . .,,___ノ、ノ/{ i
         |. {           } |
        ⊆ニゝ         ヽニ⊇

325日本@名無史さん:03/06/22 01:07
600 推古8 2月 新羅と任那が戦い、倭国は任那を救援に出兵
600 推古8 年内 第1回遣隋使を派遣
602 推古10 2月 来目皇子が将軍となって新羅征討出兵(→途中で中止)
607 推古15 7月 第2回遣隋使として小野妹子を隋に派遣
608 推古16 4月 小野妹子が裴世清らと帰国
608 推古16 9月 第3回遣隋使として小野妹子が高向玄理・南淵請安らと再度隋に行く
609 推古17 9月 遣隋使小野妹子らが帰国
610 推古18 1月 第4回遣隋使を派遣
614 推古22 6月 最後の遣隋使として犬上御田鍬らを隋に派遣
615 推古23 9月 犬上御田鍬らが帰国
618 推古26 5月 隋が滅んで唐が建国される
628 推古36 4月 唐が中国を統一する
326日本@名無史さん:03/07/03 21:16
九州王朝のできごと?
327日本@名無史さん:03/07/12 04:55
九州王朝ってのは、卑弥呼のいた2世紀のはなし。
328日本@名無史さん:03/07/13 00:32
キトラ古墳には高句麗壁画古墳だけにみられる独自で典型的な四神図壁画、
周辺には高句麗特有の寺院伽藍配置である一塔三金堂様式を持つ飛鳥寺をはじめ、
高句麗文化が濃密な飛鳥の地との関係について、もっと解明が進むとよいと思います。
329山崎 渉:03/07/15 11:43

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
330日本@名無史さん:03/07/17 04:29
推古以前は女帝はなく、聖徳太子でっちあげのために推古が女帝となった
331日本@名無史さん:03/07/22 15:19
誰か頼むから聖徳太子について800字で論評してくれ。マジ明日のテストヤバ過ぎ。
332日本@名無史さん:03/07/22 16:02
>>331
偉い
333日本@名無史さん:03/07/30 05:33
800文字もあれば架空論を展開可能じゃないか?
334山崎 渉:03/08/02 01:24
(^^)
335日本@名無史さん:03/08/04 22:37
厩戸皇子は存在した。
だけど、たんなる平凡で、しかも途中で、飛鳥から通えない斑鳩に隠居。
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
 ..iiiiiiiiiiiii》|             :::      |iiiii|
 iiiiiiiiiiiiiiii|,                     |iii|
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iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii       》━━━━《       |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ     》 / ̄ ̄\ 《     |iiiiiiii|
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338日本@名無史さん:03/08/11 16:03
厩戸皇子はどうして早々と隠居させられたんだろうね。
あと、斑鳩という中心からかなり離れた地へ隠居したのは何故だろうね。
339山崎 渉:03/08/15 13:11
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
340日本@名無史さん:03/08/16 19:10

いちおう、ウマヤド皇子にあたる日の当らない人物は存在していた模様
341日本@名無史さん:03/08/21 18:52
342日本@名無史さん:03/08/29 20:40
343日本@名無史さん:03/08/31 00:11
聖徳太子がチョソってほんとう?
344日本@名無史さん:03/08/31 00:25
大化の改新以前は歴史学というよりも歴史楽ですね。
いかようにでも仮説を立てれば宜しいと思います。
345日本@名無史さん:03/09/10 02:12
346聖徳太子(・∀・)イイ!!!!:03/09/10 21:57
名前: 聖徳太子(・∀・)イイ!!!!
E-mail:
内容:
聖徳太子は神道!仏教!景教!の三位一体を
人格化させたのが聖徳太子
聖徳太子、自身は神道の信者
蘇我氏が仏教を聖徳太子に組み入れる
秦氏が景教を聖徳太子に組み入れる
3宗教を聖徳太子に組み込んだお陰で
日本には和の精神が出来上がったんじゃないの
そして!その和の精神を持ってして出来た事
列島にあった国々を統一して日本と言う国名にした事
その日本と言う国名が現在まで続いてこれた事
それは聖徳太子が神道!景教!仏教!の三位一体で聖徳太子が
人格化され それに和の精神が宿ったに違いない
聖徳太子を持ってして成せた偉業だったとσ( ̄∇ ̄o) コッチは思う
一国名を千年以上!名乗ってこれた日本はやはり偉大な国である
中国にあった国々!朝鮮半島にあった国々には
一国名を千年以上、続けてこれた国がないことからも
三位一体の人格化が出来なかったから和の精神も生まれなかった
に違いない その結果、国が起こっては消えていくを言う
繰り返しで日本のように長続きはしなかったと思う
聖徳太子ヽ(゜▽゜*)乂(*゜▽゜)ノ バンザーイ♪
347日本@名無史さん:03/09/17 22:28
348日本@名無史さん:03/09/23 19:13
349日本@名無史さん:03/10/03 20:16
350日本@名無史さん:03/10/13 00:59
351日本@名無史さん:03/11/07 00:13
352日本@名無史さん:03/11/17 22:03
昔の5千円札と1万円札の奴だろ
すげー半島顔だよ
353日本@名無史さん:03/11/29 01:13
聖徳太子と推古天皇の死期が逆だったら、大化の改新はなかったかな?
354日本@名無史さん:03/11/29 17:58
>>63
殺伐としてる中に突然この書き込み、不覚にもワロタ
355日本@名無史さん:03/12/05 20:44
今日は冠位十二階制定 1400周年ですよ
356日本@名無史さん:03/12/20 15:17
>>355
厳密には来年の1月14日
603/12/5(旧暦)→604/1/14(新暦)
357日本@名無史さん:03/12/28 12:09

今夜の実況は こちらで

時空警察 捜査一課 PART 3
http://live6.2ch.net/test/read.cgi/liventv/1072561979/
358日本@名無史さん:03/12/28 18:13

今夜の実況は こちらで

時空警察 捜査一課 PART 3
http://live6.2ch.net/test/read.cgi/liventv/1072561979/
359日本@名無史さん:03/12/28 20:12
>>353
大化の改新が有ったかどうかも定かじゃない。
360日本@名無史さん:03/12/29 03:13
聖徳太子はキリストだったんだ!!!
361日本@名無史さん:03/12/29 10:38
聖徳太子が、剣の達人って本当ですか?

七星剣と丙子松林剣で武装してたって話しですが。
362日本@名無史さん:03/12/30 02:16
逆説の日本史で、聖徳太子は摂政初期、重度のノイローゼだったって
書かれてたけど、ホントかいな?
363日本@名無史さん:03/12/30 12:09
書いた者勝ち
364日本@名無史さん:03/12/30 16:08
>>362
それは豊田有恒の説をパクったんじゃないの?
豊田の説もあくまで仮説だけど。
365日本@名無史さん:03/12/30 18:01
キリストやソロモン王、ゴーダマ何かと一緒で、何でも書き放題、誰でも書き放題。
それが聖徳太子。
366日本@名無史さん:03/12/30 23:45
   〃⌒⌒ヽ.
    i ノリノ )))〉
   ! (|l○_○リ   http://etc.2ch.net/test/read.cgi/charaneta/1072321686/
   (Y)つ⊂ハ    よろしく。
    (Y)Li_|〉
     し'ノ
367日本@名無史さん:03/12/31 00:04
NHK本木の聖徳太子。似合ってたな。「久米よ!くめよ!くめよぉ!」てとことか
うまかった。
368日本@名無史さん:04/01/01 13:34
崇仏戦争の合戦内容ってのがイマイチ判らん。

@物部守屋 対 蘇我馬子(朝廷連合軍)
A守屋の巧みな用兵で膠着状態。
B聖徳太子 仏に拝んで再度侵攻。
Cゴルゴ13みたいな奴(読み方判らん)に狙撃されて守屋死亡。
D物部勢 総崩れになり敗退

と 大まかな内容は判るが 具体的にどんな作戦を立ててどんな経緯で
物部勢を敗退に追い込んだんでしょうか?
369日本@名無史さん:04/01/01 15:06
『日本書紀』の記述からは具体的な戦術というのは分からない罠
厩戸皇子の神懸かり的な威力が異様に強調されている。

>ゴルゴ13
迹見赤檮(とみのいちい)だね。

余談 実写版のゴルゴ13は高倉健と松方弘樹が演じたことがある
370日本@名無史さん:04/01/01 15:22
369
>厩戸皇子の神懸かり的な威力が異様に強調されている。

具体的にどんな内容でしょうか?
出来れば詳細をキボンヌ。
371日本@名無史さん:04/01/01 20:55
あげときます
372369:04/01/01 21:02
ちょっとオーバーに書きすぎましたかな。
つまり端的に言ってしまうと
>聖徳太子 仏に拝んで再度侵攻。
のことなのだけど。
ちょっと今は史料のないところから書き込んでいるので、具体的な内容はご紹介できないです。
自宅に戻れば『日本書紀』があるので細かく書けると思うが。
373日本@名無史さん:04/01/01 23:38
372
お気遣い有難うございます。
後で結構ですので、教えて頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。
374日本@名無史さん:04/01/03 04:51
聖徳太子→対外強硬派(親百済)
蘇我入鹿→対外協調派
天智天皇→対外強硬派(親百済/反新羅)
天武天皇→対外協調派(唐/新羅穏健外交)

思うにこの時代、隋唐という巨大統一王朝の出現によって、日本人のナショナリズムと、
それと表裏一体のコンプレックスが形成された時代なんだろうね。その中で、
対中国独自路線を志向した王族はいたのだろうが、それ自体が表舞台に立つ事は
なかったのだろう。現実路線を取って、対中国戦略で下手に出る連中と、
ナショナリズムを振り回して、無茶な強硬外交を志向する連中と。


聖徳太子→吉田松陰
蘇我入鹿→公武合体派(井伊直弼)
天智天皇→尊王攘夷派(武市半平太)
天武天皇→明治新政府(松下村塾塾生)

みたいなものと考えると、なんとなぁく当時の状況が見えてくるような気が。
松蔭自体は挫折したし、歴史的な業績は実は残していないが、弟子達が天下を取ったので
神格化されたようなもんで。まぁ、妄想だが。
375日本@名無史さん:04/01/03 13:07
聖徳太子って、強力な中央集中政権を目指していたのかな?

律令制度の導入、憲法の制定、官僚機構の構築、そして遣隋使に見れる
対外強硬論。

そう考えると、巷で言われるような平和主義者というより、独裁者っぽい
横顔が見え隠れするが・・・。
376日本@名無史さん:04/01/03 13:28
NHKの聖徳太子は糞。
なんじゃ、あれは?
377日本@名無史さん:04/01/03 17:34
>>376
ドラマの中で現代朝鮮語をしゃべってる奴が居ましたが、
あまりの電波ぶりにすぐ他のチャンネルに替えました。
百済人を始めとする古代半島人と現代朝鮮人との文化的連続性、
言語的連続性は低いのでは。

半島に居た倭人が征服され同化されたために、人種的連続性は
多少あるとは思いますが。
(韓国では倭人の血の濃い地域ほど差別されてます。)
378日本@名無史さん:04/01/05 02:13
NHKの聖徳太子ってそんなに酷かったの?

見てなかったんでよくわからんが、内容教えてくれ!
379日本@名無史さん:04/01/06 00:07
柿本人麻呂の時代に日本には「柿」がなかったので柿本人麻呂は帰化人というのは本当ですか?
墓が朝鮮半島の方向を向いてる人もいるとか。
380日本@名無史さん:04/01/06 00:36
>>377
>現代朝鮮語をしゃべってる奴が居ましたが、あまりの電波ぶりに..
太子以下の大和朝廷人が、現代日本語を喋ってるのには、電波ぶりは
感じなかったのですか。

>>378
【飛鳥】聖徳太子【もっくん】
http://tv2.2ch.net/test/read.cgi/kin/1065949312/l50
381あぼーん:あぼーん
あぼーん
382日本@名無史さん:04/01/08 23:26
>>335
厩戸皇子の実在疑念のひとつに皇子名の奇妙さがあるが、通説では厩戸って何からとられた
名ということでしたっけ。
383日本@名無史さん:04/01/08 23:54
>>382
馬屋の戸の前で生まれたからじゃないの? 
キリスト生誕と似過ぎていて嘘っぽいけど。
384日本@名無史さん:04/01/10 12:04
>>383
母が馬小屋で起居してた馬飼いの妻だというならそれもあるがね。
同母兄弟の来目皇子,殖栗皇子,茨田皇子と比べても明らかに不審なんだよ。
桜井市金屋の古地名の亭からとの説あり。
馬屋門皇子 ttp://www.bekkoame.ne.jp/ro/gi11496/00/0c-006.html
385日本@名無史さん:04/01/10 23:06
皇子の名は実母か乳母の出身氏族の名をつけることが多い。
普通に穏当に推測すれば聖徳太子の本名は宗賀皇子=蘇我皇子。
厩戸皇子というのは蘇我馬子邸で生まれ育ったことを揶揄した渾名ではないかな。
蘇我馬子も渾名で、本名は宗賀島だろうけど。
386日本@名無史さん:04/01/11 02:36
橘寺の付近に厩戸という地名があったとも聞いたが、後世の付会なのかな?
387日本@名無史さん:04/01/13 18:33
聖徳太子いた!いない!◆架空説巡り論争白熱◆日本書紀で創作か◆聖人化の経緯検証

 聖徳太子(574-622)といえば、「和を以って貴しと為す」で知られる一七条憲法を作った人で、・・・
最古の木造建築である法隆寺も建てた。・・・こうした歴史的常識に反旗を翻し、「聖徳太子架空説」を唱え
た研究者がいる。大山誠一・中部大教授(古代史)は、「<聖徳太子>の誕生」(吉川弘文館、1999年)など
の著書で、厩戸王の存在は認めながらも、「聖人」としての聖徳太子は日本書紀を編纂するときに創作
されたと主張する。聖徳太子の実在を示すとされてきた推古朝時代(539-628)の史料が、使用語彙など
から、後の時代に書かれたものであることが明らかになったためという。
 大山説を支持する研究者も出てきた。大山氏が編者となり、昨年11月に刊行された「聖徳太子の真実」
(平凡社)では、多分野の専門家が大山説を裏付けている。そこでは、聖徳太子の実在にかかわる全史料
を対象に、その信憑性を探っている。
 瀬間正之・上智大教授(上代文学)は、推古朝時代に書かれたとされる「推古朝遺文」を国語国文学の
立場から再検討。その一つである法隆寺金堂薬師仏の光背碑文には、太子が薬師仏建立に携わった
経緯が記されている。瀬間教授は、銘文中に出てくる「仕奉(つかへまつる)」に着目。当時の史料でこの
言葉が登場するのは七世紀末からであり、銘文はそれ以降の制作と見なすべきであろうとする。
 日本書紀と聖徳太子の関係を探った章では、吉田一彦・名古屋市立大教授(古代史・仏教史)が、
書紀編纂に加わった僧・道慈の役割について論じている。書紀で聖徳太子が亡くなる場面は、唐の文献に
ある僧・玄奘の死の場面に似ていて、かなり文学的な表現になっている。それは、留学先の唐でも学識を
評価されていた道慈が「机上で創作」したためと見る。
 さらに注目されるのは用明・崇峻・推古の三王朝を否定し、蘇我馬子の王権があったとする大山氏の
論文。推古以前の王家の人々の墓は河内(大阪)にあるのに対し、これらの人々が活躍していた飛鳥を
中心とする大和(奈良)には、蘇我氏四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)が葬られている。蘇我稲目を埋葬した
巨大な古墳などを身近に見ていた飛鳥の人々にとって、蘇我氏こそが王だったと主張する。
388387:04/01/13 18:34
 記紀の編纂が進むうちに、蘇我王権は万世一系に矛盾するから歴史上から消されてゆく。しかし飛鳥を
都として整備し、仏教文化を築いた馬子の存在感は残る。それを埋めるために用意されたのが聖徳太子
だった、という大胆きわまりない説だ。
・・・
直木考次郎・大阪市立名誉教授(古代史)は、・・・「日本書紀が成立する十四年前に作られた法起寺の
塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露盤銘を偽作とする
大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分」と指摘する。
・・・
※1999年に刊行され学会に波紋を投げかけた大山誠一・中部大教授の学説は、次のようなもの。
 712年完成の「古事記」には聖徳太子の記述がほとんどない。従って720年完成の「日本書紀」によって
聖徳太子像は生み出された。当時実権を握っていた藤原不比等や長屋王らが、唐から戻った僧の道慈に
命じ、過去の皇族の中か厩戸王をモデルにして、「聖人」としての聖徳太子像を創作したとの主張だ。

■日経04・01・10(最終面[文化]文化部 中野稔)
389日本@名無史さん:04/01/14 12:43
390大化の改新への疑問:04/01/14 13:08
改新の詔(646年)
 年明けて646(大化2)年正月、孝徳新政権は4か条からなる「改新の詔」を発します。
史料 
「その一にいわく、昔在の天皇等の立てたまえる子代の民、処々の屯倉、及
び、別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処々の田荘をやめよ。仍りて食封を大夫より以上
に賜ふこと、各差有らむ。降りて布帛を以て、官人・百姓に賜うこと、差有らむ。・・・
 その二にいわく、初めて京師を修め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、
山河を定めよ。・・・
 その三にいわく、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。・・・
 その四にいわく、旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。・・・別に戸別の調を収れ。・・・およそ調の副物の塩
と贄とは、また郷土の出せるに随え。・・・およそ仕丁は、旧の三十戸毎に一人せしを改めて、五十戸毎に
一人を以て諸司に充てよ。」(出典:『日本書紀』)
=== 大化の改新はなかった? ===
 上の史料は、当時の詔をそのまま伝えたものではありません。
 たとえば、「天皇」の語がこの時代に使用されていたことを示す資料(木簡など)はまだ確認されてはおら
ず、「郡司」の「郡」にいたっては、藤原京跡から出土した木簡によって、大宝律令制定(701年)までは
「評」の語が使用されていたことが明らかにされています。「郡」も「評」も読み方は「こおり」です。 
 こうしたことから、『日本書紀』編さん時に藤原不比等(中臣鎌足の子)らが詔の語句を修正したのか、
あるいは改作したのか、さらにはもともとなかった詔をねつ造したのではないか、などさまざまな見解が
あります。
 もしも「ねつ造」であれば、「大化の改新」という政策そのものがなかったことになります。
391390:04/01/14 13:08
 詔でかかげられた4か条を簡潔にすると、次のとおりです。
1.豪族による私有地・私有民の支配をやめて公地公民制を採用すること、
2.地方行政区画を定め、中央集権的な政治体制をめざすこと、
3.戸籍・計帳・班田収授の法をつくること、
4.租税を確立すること、

 私も、『日本書紀』記載の「改新の詔」が当時のまま収録されたとは思いません。しかし、上記4か条に
似た指針が646年に示されたのではないかと思います。
 しかし、645年「乙巳の政変」で打倒されたのは蘇我氏本家だけであり、まだまだ中央や地方の豪族
の勢力は根強かったので、こうした政治改革もさまざまな抵抗をうけ、その実現には長い時間を費やす
ことになります。
*東アジアの激動と「日本」 http://homepage2.nifty.com/mazzn/651659.htm#652

*異説、大化の改新 http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten2taika.htm
392日本@名無史さん:04/01/16 18:54
アメタリシヒコは誰か
http://www.asahi-net.or.jp/~ds3s-oomr/kodai/ame/ame/ame-1.htm
『隋書』倭国伝と『日本書紀』のそれぞれの記述を信じると、アメタリシヒコは推古天皇でなければならない
のですが、そうは思えない理由はいくつかあります。
ひとつは『隋書』の記述です。王が女性であるとは記されていないことです。中国で皇帝といえば男性です。
女王の存在は中国にとっては珍しいことのはずなのに、そうは書いていない。しかも「王妻」まで書かれて
いて、あきらかに倭国王を男性扱いしています。『隋書』では隋に行った遣使の言葉として伝えられていま
すから、「隋側に聖徳太子が天皇に見えた」といったことはあまり考えられないと思われます。
さらに名前。最後が「ヒコ」なら男性の名前と考える方が普通です。これについては「アメタリシヒコ」で
「天皇」という意味の称号だとする反論もありますが、他にそのような証拠はないし、
また「アメタリシヒコヒメミコ」などと女性形にすることもできたはずなので、決定的な説明にはなりません。
となると、アメタリシヒコは女性の推古天皇ではなかったはず。では、誰だったんでしょうか。
393日本@名無史さん:04/01/16 19:08
聖徳太子像は生み出された。当時実権を握っていた藤原不比等や長屋王らが、唐から戻った僧の道慈に
 馬子が直接、天皇の位を奪った事実は確認できないが、其の権力は天皇家を遥かに凌いでいた。
三国志の魏の曹操が、皇帝以上の実力を備えていたのに、自らは禅譲を言わず、その子の曹否が禅譲
を受け、皇帝を名乗ったのに似ている。
 当時の識者だった馬子は、中国や朝鮮半島の王朝交代を知らない筈は無い。其処には皇帝や王の政権
交代が有るのも知っていただろう。
 崇峻天皇を殺害し、蘇我氏の権力を確立したのは馬子と言っても良いだろう。
 馬子は大臣(おおおみ)として実権を握っていたが、其の子の蝦夷は642年(皇極元年)頃から大王(天皇)
を自称する様な行動に出始めた。
 その子、入鹿が643年(皇極2年)に山背大兄皇子を攻め滅ぼし、蘇我王朝が確立されたと言えるだろう。
 では、その間の皇極帝は?。其の前の、推古・舒明帝は?。
 結論から言えば、後の時代(古事記が書かれた時代=和銅5年)に、蘇我王朝を抹殺するためと、大化の
改新後の天智・天武朝の正当性を主張する為に作られた天皇と推理します。
 舒明・皇極(二人は夫婦)は、天知・天武の両親で、天知・天武を正当の天皇継承者にする為に作り上げ、
推古帝は皇極帝が初めての女帝に成らない様に、過去の中から選ばれて、最初の女帝にさせられた。
 私の第三話・推古天皇の事を思い出してください。一度は遺言通りに植山古墳に合葬されたのに、何故、
掘り返され、別に推古天皇として埋葬し直されたのか。
 亡くなった時は「天皇」ではなかったのが、後に「天皇」にされ、其れに見合う埋葬をし直した・・・。此れなら、
つじつまが合うでしょう。
(略
394393:04/01/16 19:08
 推古天皇の摂政としての、聖徳太子は如何成る?
 崇峻天皇が殺害された後、天皇は、「厩戸皇子(聖徳太子)−山背大兄皇子−蘇我入鹿」と受け継がれた。
が、私の推理です。
 「隋書」に、倭の使者が行き、「倭王、姓は阿毎(天)、名は多利思比孤(たりしひこ)・・」と言っている。
「たりしひこ」は、男の名前であり、女帝なら「たりしひめ」に成る。倭王は男だったと言える。
(略
 大化の改新後、皇位に付いたのは、軽皇子(孝徳天皇)。皇極天皇の弟で天智・天武の叔父に当たる。
 考徳帝の皇子、有馬皇子は無実の罪で殺害され、皇極天皇が再度、斉明天皇として位に就く。
 大胆な仮説を許されるなら、天智・天武の母親は皇族でも、父親は皇族では無かったのでは無いのでは
ないか。後に、その辺を工作し、蘇我王朝を抹殺し、天智・天武朝を正当化させるために、記紀が編纂された
・・かもしれない。
−− 古代〜中世 編 −−第四話 ・ << 蘇我大王 >>
http://www.eonet.ne.jp/~tamatebako/rekisi/re-k4.htm
395age推薦:04/01/18 17:51
325 :心得をよく読みましょう :04/01/18 17:46 ID:QJJuqMZK
【板名】日本史
【スレ名】【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】
【スレのURL】http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1068492251/
【名前欄】467
【メール欄】sage
【本文】
蘇我王朝が“真の”三輪王朝直系として存在していたとしたら、当然、推古と、舒明(オキナガタラシヒロヌカ)
・皇極(アメトヨタカライカシヒタラシヒメ)は本当の意味で天皇ではなかったことになる。
舒明・皇極は天智・天武の両親であり、天智・天武の皇位継承権の存在を補強するため、天皇にされた。
タラシ系の景行(オオタラシヒコオシロワケ)・成務(ワカタラシヒコ)・仲哀(タラシナカツヒコ)は、
崇神イリ系と応神ワケ系を結びための諡号で、三者は九州統治時代の歴史の叙述だろうが、
実在性を疑問視する考えもある。舒明・皇極がこのタラシ系と関連付けられてることも興味深い。
皇統が崇神から天智・天武まで“終始一貫している”ことを強調するための作為だろう。>>433
蘇我馬子の業績を分離する対象が“天皇”ではなく“摂政”としての聖徳太子になっているのは、
皇極が初の女帝になってしまって、子供の天智・天武の継承権に疑惑を持たれるのを防ぐためだろう。
そのため、推古が選ばれて天皇にしたてられ、再埋葬されてしまってる。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1029917483/393
天智と天武の兄弟関係にも疑問があり、天武の継承権確保のために偽装された可能性もある。
継体の応神との関係、舒明・皇極のタラシにせよ、天武にせよ、無理やり関連づけてるのは、
蘇我氏が架空の天皇孝元の子孫とされてるのと同じで、むしろ関連がないことの証明だ。

[国神系] 三輪王朝       蘇我王朝
[天孫系] 崇神イリ系(任那) タラシ系(九州) 応神ワケ系(河内) 継体→天智(近江王朝) 天武→
396日本@名無史さん:04/01/30 22:59
聖徳太子みたいな、神様のような人はいないと思うぽ。
397日本@名無史さん:04/01/31 00:51

聖徳太子は実在の人間じゃないんだから、当然だろ(w

398日本@名無史さん:04/02/01 00:25
↑デムパキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !!!
399日本@名無史さん:04/02/01 00:27
いや実在だというほうが電波だよ。
400日本@名無史さん:04/02/01 00:56
実在してたことは、推古遺文や天寿国繍帳などでも証明されてます
401日本@名無史さん:04/02/01 01:06
聖徳太子非実在説というのは
「聖徳太子」がいないというのであって
「厩戸皇子」の実在までは否定してないでしょ
そこまで否定するのは厩戸=入鹿説と同じくらいの電波だよ

>>400
推古朝遺文なんてのは眉唾だというのが近年の潮流だと思うがね
402日本@名無史さん:04/02/01 01:09
>>401
推古朝遺文が眉唾かどうかはしらんけど、
天寿国繍帳が新しいのはわかってるんじゃないの?
403日本@名無史さん:04/02/01 01:19
NHKのドラマ「聖徳太子」も、終始に渡って「厩戸皇子」で統一してたな。

まぁ俺も聖徳太子という名は実在してないと思う。
404日本@名無史さん:04/02/01 02:09
>>403
あのドラマで、巫女が太子に鏡で日光を反射させつつ、
「タケミガヅチのみこと〜 天下りませ〜」とか言ってたよね。
あんな事本当にしてたの? それと何でタケミカヅチなわけ?
物部の方の巫女は、「ひと、ふた、み・・・・ここの、たり、ふるべゆらゆらとふるべ〜」
と唱えてたね、こっちの方が不気味だった。
物部さん変な宗教やめた方が良いよ、と言ってやった。
405日本@名無史さん:04/02/01 02:19
言ってやったって、テレビに向かって言ったの?

古事記でアメノウズチのミコト〜 っていうのがあったな。
なんか・・・萌えた
406日本@名無史さん:04/02/01 02:56
>>402
推古遺文は用字などの研究から、記紀よりも古いことが分かってます。
天寿国繍帳は新しいと言われていたこともあったけど、系譜の形式などから考えるとやはりものすごく古そうです。
407日本@名無史さん:04/02/01 03:00
>>404
は?「布瑠部由良由良」は物部の祝詞じゃん。
>>大和の石上神宮に伝わる鎮魂の秘法に「魂振り(たまふり)」というものがあります.
>>そこで唱えられる呪文は次のようなものだそうです.「ふるへふるへ ゆらゆらとふるへ・・・ひふみよいむなやここのたり・・・」 
ttp://www.st.rim.or.jp/~yujifuru/night/back/0042.htm
408日本@名無史さん:04/02/03 21:32
聖徳太子が同時に話を聴くことができたといわれている人の数って7人ですか?10人ですか?
409上宮聖徳法王帝説:04/02/03 22:20
上宮王々命幼少聡敏、有智、至長大之時一時聞『八人』之白言而弁其理又聞一智八故号曰厩戸豊聡八耳命
410日本@名無史さん:04/02/03 22:27
日本書紀だと何人?
411日本@名無史さん:04/02/03 23:58
10人
412408:04/02/08 15:30
ありがとうございます。たまに7人とも聞くんですが何でですか?
413日本@名無史さん:04/02/08 17:52
とりあえず、お前らは爆撃聖徳太子でも読め
414日本@名無史さん:04/02/24 08:02
NHKが、韓国語を使わせていたのは明らかに間違いなんだけど、
政治的意図がいやらしいと思った。
415日本@名無史さん:04/02/24 16:34
NHK聖徳太子もクソだったが、今度の大化改新もクソになりそうだ。
416日本@名無史さん:04/02/26 01:20
>>415
大化改新の時代劇があるの?
417暇人:04/02/26 12:48
で聖徳太子はほんとに景教徒なの? 
418日本@名無史さん:04/02/26 14:37
時空警察でそう言っていたから正しいに決まってる。
419日本@名無史さん:04/02/27 03:36
>物部さん変な宗教やめた方が良いよ、と言ってやった。
ワラタ
420日本@名無史さん:04/02/27 11:38
当時は仏教の方が新興宗教なんだがなw
421日本@名無史さん:04/02/29 03:54
今の日本の仏教のほうが異端な宗教なんだが。
422日本@名無史さん:04/02/29 17:26
423日本@名無史さん:04/03/01 23:13
>>422
葛城皇子は誰がやるのだろう
424日本@名無史さん:04/03/02 00:57
>>422
どうせまた謎の半島人が陰で暗躍してサポートするんだろうな。
425暇人:04/03/02 12:48
聖徳太子のパトロンの秦川勝とその一族とかについて教えてよ
426日本@名無史さん:04/03/02 13:50
聖徳太子って蘇我毛人とホモだちだったんだよね
427日本@名無史さん:04/03/02 22:14
その二人にかぎらず日本史は最初から最後までホモだらけ
428日本@名無史さん:04/03/03 00:01
>>426
漫画の読み過ぎ
429日本@名無史さん:04/03/03 10:19
大学院大学 一般教養 古典乙1 入学問題、
以下の説を論評せよ。  制限時間10日

日本書紀で高の字が出たら高句麗と考えよ説。
明の字のついたのはネストリス教、ペルシア・西アジア系説。
大化とは、大きく化けるに成功したの意説。
百済聖明王と欽明は同一人物説。
天智と金春秋は同一人物説。
天武と高句麗の泉蓋蘇文は同一人物説。
朝廷藤原氏は百済滅亡時の亡命王族・貴族説。
古朝鮮語でフジハラはクダラのクニ説。
推古、古を推し量れは卑弥呼、北条政子、女人謙信を思い起こせ説。
日本人の権威恭順の性は倭人伝倭人DNA回帰説。
推古以下の女帝はくっついてた男王が編纂時はがされた説。
権威従順の国、倭国乗っ取りは王族が女帝と仲良しになるだけでOK説。
藤原氏の外戚志向は賢明であった説。
蘇我、我は蘇りの西アジア系抹殺は仏教側の一石三鳥勝利宣言説。
うそも方便、仏教国の賢明さ理解はマックス・ビーバーも絶賛の岩並の実理論での説。
サザエさん人気は女帝到来、倭人回帰願望DNAうずき説。
アサハラ・ショウコウ三代前先祖は北朝鮮秘密警察官説。
オウムは日本の某教団韓国の某教団の援助で大きくなった説。
TVタレントに半島系多いは日韓友好促進支援説。
しこむしてますの屋球人の父は半島からの人説。
KCIAとヤクザ指導層はツーカーの仲説。
時代は今、国境越えて東アジア単位で考えよう説。
430暇人:04/03/03 11:03
総てはキムチの陰謀か? 
431日本@名無史さん:04/03/03 11:27
>>429
それマジ?
デムパ炸裂だな。
432日本@名無史さん:04/03/17 20:47
コピペにはマジレス不要
433日本@名無史さん:04/04/05 02:32
母が馬小屋で起居してた馬飼いの妻
434日本@名無史さん:04/04/11 09:42
無茶なカキコが10以上目立つけど(w、無茶苦茶な論理展開を使って話を元に
戻してみたいと思う。

よく語られる、”親子相続と兄弟相続”の件なんだが

厩戸皇子の外戚である蘇我氏の系譜を見てみると稲目−馬子(嶋)−蝦夷(?)
−入鹿(鞍作)とタテに相続されているような印象がある
事実、世間一般のイメージでもそう思われている

これが事実ならば4代にわたるタテだけの相続形態が自然に行われていることに
なる
・・・続く・・・
435日本@名無史さん:04/04/11 10:01
対して、上宮王家の系譜をたどって見受けられる”メッセージ”を拾ってみると

・ 厩戸皇子は用明天皇の皇子にして推古天皇の摂政
・ 大王後継者だった
・ 山背大兄王は厩戸皇子の後継者なのに残念なことになった

そしてやはりこれも系譜はタテのみの相続(上宮流としては)と見て全体的な流れ
を勘案すると

「用明天皇の第1番の後継者であった厩戸皇子は蘇我馬子の妨害で皇位につけず、
当初は大和政権内で発言力もあったのに、これも蘇我氏に奪われ、不遇のうちに
この世を去った(または暗殺された)。その後継者の山背大兄王もまた、蘇我氏
に滅ぼされ、領地や人などの財産をすべて横取りされた。」というようなものが
伝説の原型だったのではないだろうかと思うのだ。

事実、蘇我氏は馬子の代の後半から権力が巨大化している。
案外、厩戸皇子よりも蘇我馬子の方が若かったかのかも知れない。
436日本@名無史さん434・435:04/04/11 10:04
書き忘れ
>>435
稲目さんの代から対等はして来ているけれど、でも巨大化は馬子さん

聖徳太子伝説は元々、悲劇の皇子の物語だったのではないだろうか。
437日本@名無史さん:04/04/16 19:30
兄弟相続というのは特殊なケースで、基本は親子相続だよ
438日本@名無史さん:04/04/25 14:56
悲劇の皇子なのはいいとして、蘇我家の皇子なの?
439日本@名無史さん:04/04/26 10:48
母方で蘇我家の血をひく皇子でそ
440日本@名無史さん:04/05/01 21:58
悲劇の物語を更にドラマティックに描くならば、主人公がとても有能な人物
だったことを示す必要があるわけで、これが聖徳太子伝説になっていったという
ことは考えられる。
441日本@名無史さん:04/05/02 11:21
飛鳥時代の衣服について解説した本を知りませんか?
平安以降とは違った独特のファッションが
好きになりました。
442渡嶋蝦夷:04/05/02 21:27
ちょっと、ずれるかもしれないが、大阪の歴史博物館
行ったことありますか。蝋人形の身長、表情それに衣装
が近いと思う。
443日本@名無史さん:04/05/02 23:38
聖徳太子はいなかった
http://www.shinchosha.co.jp/cgi-bin/webfind3.cfm?ISBN=610062-2
いまさらだけど、本屋で見かけたので。1分くらい立ち読みしたけど、ノリノリですな。

ここ数年、聖徳太子捏造説の本をよく見かけるようになった気がする。
立ち読みしかしてないけど、どれもまず最初に著者の飛鳥・奈良時代についての
自説があって、その自説に我田引水するのが目的で聖徳太子をぶっ叩いてる。
共通点は、太子の実在を裏付ける史料は皆無という事実だけ。
その判明した事実から出発するのが筋というものだろうに…
444日本@名無史さん:04/05/11 04:57
>>443
ああ、あれね。齢三十にして、生まれて初めて本を破いた。読むに耐えない。
太子捏造説が正しい正しくない以前に、読者に対して誠実に書かれていない。

* 聖徳太子なんかいねーぞ、信じる奴はアホだぞ、と50ページばかり連呼するが、
  与太話に脱線するだけで全然証拠を出さない。この時点ですでに読む意志を失う。
* 資料考証と反対者への人格攻撃がごちゃまぜになっているため、
  どこまでが事実に基づく批評でどこからが作者の偏見なのか判然としない。
  前者に見るべきものはある…みたいだが、後者に毒されて全然説得力がない。
  無論、作者のバイアスと事実をかみ分けて理解するのは資料を読む時の基本なのだが、
  ファクトベースで議論したいのなら作者自身がバイアスを排除する努力をして
  しかるべしだろう。この本にはそんな努力は全くみられない。
* 上記二点を我慢して読み進むと、彼の論旨は以下のようなものであるらしい。
   1. 「聖徳」の文字は日本書紀の注一カ所にしかない。
   2. ゆえに聖徳太子なんて名前は捏造である。
3. 不比等の時代に皇太子を持ち上げる必要があった。
   4. 2. と 3. を合わせて考えると、不比等が主導して
    太子伝説を捏造したのだろう。
  もうね、アホかと、バカかと。
  こんな屁理屈を糊塗する為に講談まがいの口調で反対者をこき下ろしていたのかと。
  (ひょっとしたら、俺の読解力不足で、本当はもっと堅牢なロジックを持っているのかもしれない。
  でも、だとしたら、なぜもっとそれを平明に書かないのかという疑問が湧いてくる。)

結論。まじめな論争には興味のない釣り師がひりだした糞本。読む価値なし。
   大学教授が聞いてあきれる。とても学問を志す者が書いた本とは思えない。

太子捏造説についてもっとまともな本はないのか?
445日本@名無史さん:04/05/19 16:30
>>437
欽明朝は兄弟相続がデフォでそ
446日本@名無史さん:04/05/20 03:02
そこだけとったらデフォに見えるのは当たり前だわな
447日本@名無史さん:04/05/22 18:22
金曜日に四天王寺行ってきたよ!
 四天王寺式伽藍配置は見物。ただ
建物あまり古くはないんだよね。
448日本@名無史さん:04/05/29 10:29
>>445-446さんへ
というか、蘇我馬子達の政略に翻弄されているように見える。
豪族(特に蘇我馬子と物部守屋)の争いによる横槍がなければ、
欽明→用明→厩戸皇子→山背大兄王→・・・
という風に大王位が継承されたのではないだろうか?
上宮王家は、当時の認識としては王族の直系中の直系。

>>443-444さんへ
酷い話ですね。単なるキワモノ、ケチツケ本ですね。
私は朝廷による捏造ではなくて、伝説なのだと考えます。
つまり、記紀編纂時には既に有名な伝説になっていたと。
そんな厩戸皇子を人々は尊敬し、聖徳太子と呼ぶように
なっていったと考えるのが自然でしょ。
449日本@名無史さん:04/05/29 10:32
つまり、「聖徳太子」って称は、厩戸皇子に対して周りの人々が
つけた愛称だと考えるのですが。
どうして専門家は難しく難しくしようとするのだろう?
450日本@名無史さん:04/05/29 11:55
>>449 「周りの人々」って誰よ
451日本@名無史さん:04/05/29 18:34
>>448
直系ならフツーに考えりゃ
欽明→敏達→彦人→舒明
でしょうが
452日本@名無史さん:04/05/30 01:52
>>450
廷臣・僧侶ほか
453日本@名無史さん:04/05/30 01:56
>>448
大王家の血の純粋度からみればね。
454日本@名無史さん:04/05/30 03:51
神代からの言い伝え、書物等が一気に失われ、日本が畿内によって真に統一された時代ってことでよろしいか?
455日本@名無史さん:04/05/30 07:51
>444
大学教授っても畑違いだし。
この本について言えば、期待する方が間違いと思うぞ。
456日本@名無史さん:04/05/30 08:18
大山誠一はどうよ
457日本@名無史さん:04/05/30 09:02
>>452
だったら「愛称」ってよりも「私号」だな。
458444:04/05/30 23:11
>>455
専門畑がなんであれ、学者の名前を使って意見を述べる際には
それなりに真摯な態度を取って当然だと思う。
真摯というのは、礼儀とか口調という意味ではなく、
*主張することが事実と堅牢なロジックをもって
  裏打ちされていること、
*事実とロジックで導き出せる事と
  自分の偏見をハッキリと峻別して議論すること、そして
*ロジックを糊塗せず、簡潔かつ明確に説明すること。

専門分野の外ならなおさらのこと、勉強量が少ない門外漢が
専門家と違う意見を持つに至った過程をきちんと説明する義務が
あるだろう。

それが出来ていないから、学者失格だと思うのよ。
459日本@名無史さん:04/05/31 21:04
奈良国立博物館の法隆寺展いきました。
聖徳太子二王子像・法華義疏・天寿国繍帳・七星剣などが一度に観れました。
6月中くらいまでやってるみたいです。
460日本@名無史さん:04/06/19 13:59
461日本@名無史さん:04/06/20 15:26
捏造論、外国の学者はどう見てるんだろ?
第3者だから固定概念なしに真実に近い事言ってくれそう
462日本@名無史さん:04/06/21 20:53
捏造論自体が捏造なわけだが・・
463日本@名無史さん:04/06/21 22:17
捏造とは何ぞや、ということについて考えていました
464日本@名無史さん:04/06/24 02:30
>>444
谷沢永一の書いた本が低劣なのは今に始まったわけじゃないよ。
昔っから破かれまくってる。
聖徳太子に関してはこの本のネタモトである大山 誠一の「〈聖徳太子〉の誕生」を読むべし
465日本@名無史さん:04/06/24 04:34
小室直樹が「そのうち化けの皮をはいでやる!」って、谷沢を罵倒してたな。
466日本@名無史さん:04/06/24 05:12
こないだ出た「歴史通」ってのも酷いね。
467日本@名無史さん:04/06/24 05:36
谷沢栄一は書誌学者としては超一流だし、日本有数の博覧強記ではあるんだが、
反面、陰湿粘着自己顕示欲が強くて意固地な糞ジジィでもある。
468日本@名無史さん:04/06/25 00:12
>>465
どこに書いてんのそれ?
谷沢は逆に小室を評価してたような気がするが、気のせいかな。
オレはどっちもクソだと思ってるけど、
小室が谷沢を罵倒してたのなら見直すかも。
469聖徳太子について知りたい人は下をクリック:04/07/01 19:43
470日本@名無史さん:04/07/03 18:34
>448
>私は朝廷による捏造ではなくて、伝説なのだと考えます。
そりゃないだろ。飛鳥時代だぞ?
471日本@名無史さん:04/07/04 03:13
>>470
いや、可能性はある。
乱暴なたとえになるが、現代のプロ野球での長嶋茂雄のケース、
もはや存命中に伝説化している。
たとえ読売新聞のバックアップや仕掛けがあるといっても、それを
超えた状態で伝説化し、聖人化され、尊敬されている。
厩戸皇子についても、生前からスーパーマン的に扱われる「何
か」を持っていたということは考えうる話だ。
もちろん、スーパーマンだったとは考えないけれど、蘇我馬子
あたりが権力保持のため、わざと「超人扱い」しても全くおか
しくない。
472日本@名無史さん:04/07/04 03:45
長嶋のカンピューターはまさに神通力だった。
473日本@名無史さん:04/07/04 09:36
>>471

「・・・仕掛けがあるといっても、それを超えた状態で伝説化し」

 それは、媒体自体が宣伝のために単に「伝説」って単語を使ってるってだけだろう。
 現実の長島を知らない世代にどの程度伝承されているのかは未だ検証不能。
 まあ、宣伝媒体の紙や映像は、後世に「史料」として残るだろうが。

「聖人化され、尊敬されている。」

 一部の偏執的ファン以外は、そうでもないと俺は思うぞ。 
474日本@名無史さん:04/07/04 22:12
>>473
他の選手を知らない、野球を全然知らない人でも、長嶋と王の名前は知っている。

))一部の偏執的ファン以外は、そうでもないと・・・
そうかな?全国的に見たらどうなんだろね?ちなみに俺は反読売なんだけど、
そこまで意識のない連中の発言を聞いていたら、長嶋がどんなことを言っても、
好意的だぞ。

それはそうと、ここは飛鳥時代の話をするところだから、元に戻そうじゃないか。
475日本@名無史さん:04/07/07 03:49
谷沢永一、新しい歴史教科書を批判した時に聖徳太子マンセーしてたらしいな。
476日本@名無史さん:04/07/18 09:29
ふーん。
477日本@名無史さん:04/08/10 11:38
馬子の17条憲法って、なんかとても日本的。
478日本@名無史さん:04/08/11 00:55
馬屋殿皇子は在日朝鮮人だからな。マンセーもしたくなるだろう。
479日本@名無史さん:04/09/01 00:32
飛鳥時代の定義の見直しをしませんか?
480日本@名無史さん:04/09/01 00:37
倭(奈良百済)国 始祖 応神王仁

高句麗による侵攻のために百済から日本列島に逃げた応神天皇は、そこで
奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国 http://www.damool.net/html/jushin/daejusin04.jpg
を支配していた

http://www.damool.net/html/emperor/198.gif


481日本@名無史さん:04/09/01 00:37
女真族が建国したとされる大金帝国も朝鮮民族の国だった。

大金帝国初代皇帝 金阿骨打(キム アクダ)の肖像

http://www.damool.net/html/emperor/224.gif

482日本@名無史さん:04/09/01 00:44
>>480-481
糞チョンの捏造乙
483生得太子はエフタルの王子:04/09/01 00:53
「日出ずる処の天子」と隋に使者を送り中国と対等に渡りあった聖徳太子、
三宝を敬い、日本人の心に安らぎを伝える聖人聖徳太子―。しかしその実像
は、興亡やまぬアジアの草原を疾駆した騎馬民族・突厥の英雄・達頭可汗
その人だった。闘う倭王・聖徳太子の姿を、ペルシャ、
中国、韓三国、日本の史料を駆使して明らかにする。

484日本@名無史さん:04/09/01 00:55
本当は怖ろしい万葉集〜歌が告発する血塗られた古代史 小林恵子
 祥伝社

小林史学の最新書、額田大と柿野人麻呂の歌を古代朝鮮語と日本語の二重
の読みで単なる和歌ではなく政治を暗喩した歌として歴史書から抹殺され
ている政治史を読み取ると言うもの。現代の俳句や和歌等でも行われてい
ることを古代の歌にも見るのは正しい手法だろう。

485日本@名無史さん:04/09/01 01:16
古代朝鮮語というのは、残っていないというのが
定説らしいが。
現代韓国語で万葉集を読んでもしょうがないだろうに。
486日本@名無史さん:04/09/16 02:01:49
韓国人の日本偽史―日本人はビックリ!
小学館 (2002-05-01出版)
・野平 俊水【著】
[文庫 判] NDC分類:221 販売価:\500(税込)

「古代の天皇は韓国人だった」「日本海は韓国海だった」「Koreaという国名は日本の陰謀」「高天原は韓国にあった」「『くだらない』は『百済ない』だった」「法隆寺の金堂壁画の作者は韓国人」「万葉集は韓国語で書かれた」…。
“最大の反日国にして最大の親日国”の韓国で一般に伝わる日本史の常識の中には、歪曲され、意図的に捏造された「偽史」が多くみられる。
韓国TVにレギュラー出演し、「最も有名な日本人」として人気を博す大学講師の著者が、韓国人の日本に対する優越思想がいかに歴史を歪めてきたかをユーモラスに紹介する。
韓国人が信じたい「日本史」に、日本人はただア然。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094027165.html
487日本@名無史さん:04/09/19 00:17:15
488日本@名無史さん:04/09/28 01:02:40
応神天皇┬仁徳天皇┬反正天皇
      │      ├履中天皇―市邊押磐皇子┬顕宗天皇
      │      │  ‖             └仁賢天皇――――――春日山田皇女
      │      ├―草香幡梭皇女          ‖―┬武烈天皇          ‖
      │      │        ‖           ‖  ├―――――橘仲皇女  ‖
      │      └允恭天皇  ‖    ┌春日大娘皇女└手白香皇女    ‖   ‖
      │          ‖―┬雄略天皇┴青寧天皇      ‖         ‖   ‖
      │          ‖  └安康天皇                 ‖         ‖   ‖
      │   ┌忍坂大中姫                      ‖―欽明天皇 ‖   ‖
      │   └――――┐                      ‖     ┌宣化天皇‖
      └稚渟毛二派皇子┴意富富杼王┬宇非王―彦主人王―継体天皇┴―安閑天皇
                           │                 ‖
                           └阿居乃王―息長真手王┬麻積娘子
                     ┌――――――――――――――┘
                     └広姫
489系図オタの疑問:04/09/28 01:03:54
                     └広姫
┌宣化天皇┬―石姫皇女      ‖――押坂彦人大兄皇子
│┌―――┴日影皇女‖―敏逹天皇―┐ ‖     ‖‖―舒明天皇
│└倉稚綾姫皇女‖  ‖         ├小墾田皇女‖‖   ‖
│         ‖‖  ‖         ├桜井弓張皇女‖ ┌田眼皇女
└――――――欽明天皇         └――糠手姫皇女 │
            ‖┌穴穂部間人皇女          ┌―┘
            ‖┴崇峻天皇  ‖           │
蘇我稲目┬蘇我小姉君 ‖      ‖           │
      ├蘇我馬子―蘇我河上娘 ‖           │
      ├―――――蘇我石寸名 ‖           │
      └蘇我堅塩媛     ‖  ‖―厩戸皇子   │
            ‖┬―――用明天皇  ‖      │
            ‖└――推古天皇 ┌菟道貝鮹皇女│
           欽明天皇   ‖――┼小墾田皇女  │
                  敏逹天皇 ├桜井弓張皇女│
                         └――――――┘

押坂彦人大兄皇子はなんで妹を3人も妃にしてるのか。
継体天皇と押坂彦人大兄皇子は曽祖父・曾孫の間柄で相婿なのか。
欽明天皇の子供の中では敏逹天皇が一番血統が良くて
その次が用明天皇で、三番目が崇峻天皇
なんでその後が押坂彦人大兄皇子か厩戸皇子じゃなくて推古天皇にくのか。
厩戸皇子は18才だし皇女が妃だし問題ないようにみえるけど。
てゆうか継体天皇を怪しいっていうなら押坂彦人大兄皇子は怪しくないのか。
490日本@名無史さん:04/09/28 05:21:06
>押坂彦人大兄皇子はなんで妹を3人も妃にしてるのか。
>継体天皇と押坂彦人大兄皇子は曽祖父・曾孫の間柄で相婿なのか。

べつに問題ないでそ。今の物差しでいってもしょうがない。

>なんでその後が押坂彦人大兄皇子か厩戸皇子じゃなくて推古天皇にくのか。
>厩戸皇子は18才だし皇女が妃だし問題ないようにみえるけど。

押坂彦人大兄の即位を阻止するための時間稼ぎに
厩戸が推古を擁立したんだろ

>てゆうか継体天皇を怪しいっていうなら押坂彦人大兄皇子は怪しくないのか。

継体はあやしくないし、だから押坂彦人もあやしくないよ。
491日本@名無史さん:04/09/28 06:02:04
>>468
遅レスですまんが、確か「罵論ザ犯罪」と言う、栗本真一郎と映画監督の長谷川との、
鼎談集だったと思う。小室が「南京大虐殺は100万人殺せば良かった」など、
過激な事を言って左翼から顰蹙勝った本。20年近く前の本多から、もう絶版だと思う。
492日本@名無史さん:04/09/28 14:48:35
押坂彦人大兄皇子は継体の子
493日本@名無史さん:04/10/10 01:47:25
>>490
当時の物差しというか、兄妹や叔父姪の執拗な結婚って
継体天皇・押坂彦人大兄皇子・天武天皇とかあれな所に多くないですか。
それと曽祖父と相婿っておかしいでしょ。100年ぐらい時代が違ってたような。

>>492
それだと継体系の皇女と重婚する必要なくないですか?
どっちかというと「阿居乃王から押坂彦人大兄皇子まで」が天皇家とも継体天皇の
出自とも無関係な男系で繋がってて広姫を挟んだ系図操作をしたような印象を受けます。
494日本@名無史さん:04/10/10 09:38:48
印象でいわれてもレスに困る
495日本@名無史さん:04/10/10 14:29:36
じゃあ「系図操作をしたんじゃないか」にかえる。
496日本@名無史さん:04/10/11 13:24:31
古事記序文や欽明紀の注から考えると、系図が不自然な形になってしまったのは
もともと記紀以前に一本化された正確なモノが存在しなかったようだ。
正統な系図に「押坂彦人大兄皇子」の系図だけを捻り込んだわけでもないだろう。
497日本@名無史さん:04/10/12 12:32:26
具体的にどの部分が操作したところなのか明解な根拠とともに説明してくれないとレスに困る。
たいした根拠もなく「思える」といわれても「はぁそうですか」としか答えようがない。
498日本@名無史さん:04/10/12 13:52:27
阿居乃王―息長真手王

この系図って出典は百家系図?
499日本@名無史さん:04/10/14 00:02:14
>>498
いや違う。宝賀寿男氏によれば、
息長系氏族の系図は真年翁の『百家系図』に見えず、
中田憲信が編纂した『皇胤志』にのみ収録される独自史料、とのこと。
500日本@名無史さん:04/10/16 01:23:19
もうちょい詳しく書くよ、名前と生没年は系図サイトから(488・489も同じ所)
一世代
彦主人王・仁賢天皇(449-498)・息長真手王
二世代
継体天皇(450-531)・手白香皇女・麻積娘子(継体妃・荳角皇女の母)
三世代
欽明天皇(509-571)
四世代
敏逹天皇(538-585)・広姫
五世代
押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女(?〜664)
六世代
舒明天皇(593-641)

舒明の生年・糠手の没年から逆算すれば、糠手の生年は560〜70頃がまず妥当でしょ
これは敏逹の20〜30代にかかる子で年齢的に無理がない。押坂もほぼ同年代になるだろう。
広姫は、出産年齢を遅く見積もって40、押坂の生年を560頃として、早くて520頃の生まれ
次、麻積娘子。所生の荳角が継体80の子で、麻積が20だったとしたら510頃生まれ
確かに絶対ありえなくもない、でも上の年齢設定はかなり厳しいだろう。
広姫の出産年齢を30としたら530頃の生まれ、荳角の誕生が継体60・麻積30だと麻積は480頃の生まれ
姉妹なのに広姫と麻積娘子は50も年が離れてしまう、息長真手王の20と70の時の子といった具合。
「あちらを立てればこちらが立たぬ」じゃなくて「あちらを勃てればこちらが勃たぬ」(寒
501日本@名無史さん:04/10/16 01:43:50
継体天皇(前皇統・仁賢天皇の皇女を妃に)
安閑天皇(継体の子。前皇統・仁賢天皇の皇女を妃に)
宣化天皇(継体の子。前皇統・仁賢天皇の皇女を妃に)
欽明天皇(継体の子。兄・宣化天皇467-539の皇女=姪3人が妃に)←兄と40歳差、ここもどうだろ
敏逹天皇(欽明天皇皇女=異母姉妹を妃に)
用明天皇(欽明の子。敏逹天皇皇女=異母姉妹を妃に)
崇峻天皇(欽明の子。妃に皇女なし)
厩戸皇子(用明の子。敏逹天皇皇女=従姉妹を妃に)
押坂彦人大兄皇子(敏逹天皇皇女=異母姉妹3人が妃に)
舒明天皇(押坂彦人大兄皇子の子。押坂彦人大兄皇子の孫=姪、敏逹天皇皇女=叔母を妃に)
孝徳天皇(押坂彦人大兄皇子の孫。舒明天皇皇女=叔母を妃に)
天智天皇(舒明の子。皇女の妃はなし)
天武天皇(舒明の子。天智天皇皇女=姪4人を妃に)

異母姉妹との婚姻は珍しくなくとも、3人・4人と重婚するのは特異といわざるを得ないんじゃないの
継体・仁賢、天智・天武に皇統の相違や系図の操作があるのなら
押坂彦人大兄皇子と敏逹天皇の関係もなんかありそうだよ。加えて
上記の宣化皇女3人の例から継体・欽明に男系で血縁がなかったとしたら
欽明以降の4天皇は継体天皇と別系ってことになる。そして
系図上は敏逹天皇皇子で、敏逹天皇皇女3人を妃にした押坂彦人大兄皇子は母系で世代的に無理がある。
なら、押坂彦人大兄皇子を息長真手王の男系子孫として
継体系、または祖を同じくする男系氏族の皇統復帰とはみれませんか
息長真手王―(この間2代前後)―押坂彦人大兄皇子―息長足日広額尊(舒明天皇)

それと彦って字にはなんの意味があるんですか?
〜〜彦尊(命)ってのは神話の時代の天皇皇族に多いけど
〜〜彦〜〜ってのは神話の天皇と彦主人王と押坂彦人大兄皇子だけのような。
502日本@名無史さん:04/10/16 02:17:22
皇極天皇の父茅渟王の系図上の位置付けにも疑問がある。
押坂彦人大兄皇子―茅渟王―皇極天皇(594-661)―天智天皇・天武天皇
押坂彦人大兄皇子―舒明天皇
生年を仮定すると敏逹天皇(538-585)―押坂彦人大兄皇子(557頃-)―茅渟王(575頃-)―皇極天皇
茅渟王は王にも関わらず2人の子が天皇になれる血筋を持っている
そして皇極天皇・孝徳天皇の生年と祖父とされる敏逹天皇の生年から考えて570年代生まれとなり
押坂彦人大兄皇子は崇峻天皇が崩じた592年に既に10代の血筋の良い王子がいたことになる
系図が正しいなら推古天皇や厩戸皇子に皇位継承を邪魔>>490されるような存在じゃないような。
503日本@名無史さん:04/10/16 02:21:14
結局「ような」になってる。すんません。
史料とか解説系のサイト読まずに書いてますんで、そのせいで
おかしなこと言ってるとは思います。
504日本@名無史さん:04/10/16 10:06:05
なるほど、では史料とやらをまず読め、話はそれからだ。
それと珍説を説くサイトや奇抜な論調の本は読まなくていいぞ。
505日本@名無史さん:04/10/16 13:40:35
この時代の系図をおかしくしている原因は隋書のアレ。
なぜアレを日本書紀は明記しないのか?
アレは何者なのか?
506日本@名無史さん:04/11/05 00:53:33
保守上げ >>505アレとは?
507日本@名無史さん:04/11/05 03:17:34
>>502
漏れもそう思う。

押坂彦人大兄は「大兄」とあるように即位の有力候補だったと思われ。
でも聖徳太子と蘇我氏の連合が、押坂彦人大兄の即位を先延ばしするために
推古の即位を考えついたんだろう。
508日本@名無史さん:04/11/20 00:03:15
近縁スレ連結工事
【暗殺?】天智と天武【兄弟?】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1045471651/l50
欽明天皇と周辺環境
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083350482/l50
【栄華】蘇我氏マンセースレッド【4代】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1051920599/l50
有間皇子を弔うスレ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1025431037/l50
スーパー  中 大 兄 皇 子  ヒーロー
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1073766541/l50
日本書紀はどこからが史実なんでしょう?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/988620461/l50
百済人=和人説を檢證してみるスレッド
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1084094986/l50
上宮王家の謎
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1047200156/l50
【奈良時代の★女★政治家達】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1076250016/l50
壬申の乱の謎
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1033233848/l50
509日本@名無史さん:04/11/21 01:00:34
age
510日本@名無史さん:04/11/21 12:52:16
今日、谷沢某先生の『聖徳太子はいなかった』って本を買って
これから読もうと思うんだけど、読んだ人いますか?
511○●:04/11/21 16:05:44
>>505
スルーしてるわけだからおかしくはなってないんじゃない?
512日本@名無史さん:04/11/22 05:49:50
>>510
あの本は評判わるいよ
513日本@名無史さん:04/11/23 01:17:36
>>507
自分の>>502での疑問は、推定される押坂彦人の年齢・孫の皇極・孝徳の存在からみても
推古や厩戸に即位を阻まれるほど弱い存在には見えないってことです。
514日本@名無史さん:04/11/23 02:09:43
>>510
>>443-468ぐらいでガイシュツ。
515日本@名無史さん:04/11/23 09:55:32
>>513
だからこそ、蘇我氏の権勢と聖徳太子の奇策(女帝を立てる)が一丸になることで
ようやく阻止できたんではないかな?
516日本@名無史さん:04/12/03 00:22:45
なるほど
517日本@名無史さん:04/12/07 00:53:45
舒明の生年って推古即位の翌年に設定されてんですね。
逆にいえば舒明が生まれていなかったからこそ、推古が即位できたってことですか?
でも、舒明には蘇我氏の血が入っていないですし、蘇我氏が権勢を持っていた時代にはそぐわないか。

いくつかのスレで諸説が説かれている
>和歌山県隅田八幡神社蔵の銅鏡銘文
>『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』
1>「癸未年」は503年、「男弟王」は男大迹すなわち継体、「意柴沙加宮」は忍坂宮である。
2>「斯麻」は武寧王の可能性があり、「癸未(503年?)」における「男弟王=大迹・袁本杼?」との関係が議論されている。
3>それは563年「男弟王」は即位前の敏達、「斯麻」は馬子
 >鏡そのものと「日十」は太陽信仰を表している
 >敏達元年と六年に関連記事がある
4>443年 倭王済、宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。
これ、逆に時代を進ませると623年になりますよね。聖徳太子の没年が622年。
忍坂宮=押坂彦人=厩戸=多利思北孤(=聖徳太子)で、正史では推古のために即位できなかった厩戸・押坂彦人が
実は同一人物で即位もしていて、二朝が並立していたってことはないんですか?
男弟王=舒明で、兄に山背大兄(押坂彦人の子にも山城王がいる)がいたら、山背大兄の一族が討たれる理由にもなりますよね。
「厩戸皇子―長谷王―葛城王(=中大兄」ってのも他のスレでみましたが、舒明・山背大兄・中大兄をそれぞれ
押坂彦人=厩戸=多利思北孤の子・孫に比定するのはどうですか。皇極・孝徳はとりあえず推古朝系ってことで。
518日本@名無史さん:04/12/07 02:49:39
舒明母の別名は「嶋皇祖母」だけど母子で馬子の邸に住んでいたのかな?
519日本@名無史さん:04/12/08 15:38:39
>>517
623年説も実際にあるようだが、
さすがにそこまで時代は下らないと思う。
呪術的な意味合いを込めた鏡など、
古墳時代前期の中核をなす副葬品だ。
「念長寿」のためなら、当時は仏像とか造ってるだろう?
520日本@名無史さん:04/12/12 07:57:46
漫画の『日出処の天子』みたいに、聖徳太子が
ホモで超能力者っていう設定はありでしょうか?
521日本@名無史さん:04/12/12 13:39:26
美少年ならゆるす
522ビギン:04/12/14 06:58:57
それにしても聖徳太子はなぜ即位できなかったのかな
523日本@名無史さん:04/12/14 17:12:05
聖徳太子、あんなおっさん、頭がいかれとる
ええかげんな、十七条憲法なんかつくって、あいつの顔なんか アハハ
七人の人の話を一度に聞いたって、ふっふっふっ、自慢にならんことを自慢しとる  
太子のおっさん、殺法にあうかもね    という

声がたくさんあった    仏のアホ  仏殺しをどんどん実行しようとする人は昔からいます
ハハハハハハ   ハァ ヨイヨイヨイ


524ビギン:04/12/14 22:23:19
聖徳太子や光源氏、源義経、水戸光圀など最高権力者の近親者が伝説化する話は多いね
525日本@名無史さん:04/12/14 22:38:06
      -'::.:;;:-‐:.:.:.:.:.:.!:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ヽ、::.:.:.:ヽ、:.:.゙、
      ,'.:.:/.:.:.:.:.:.:.:.:.:..;!:.i:.:.:.:.:.:、:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ;::::.:.゙、:.:.゙!
      !,.'.:/:.:.:;.':.:.:.:.:.:.,.'゙!:.、:.:、:.:.:ヽ、:.:.:.:.、:.:.:.゙、:::.:.゙!::.:|
      .,'.:,イ:.:./:.:.:.:.:.:./  ゙、゙、:.ヽ;:.:.:.ヽ、:.:.:゙、.::.:.゙;:::.:.!i:.:!
      .,':;'::.:.:.;':::.:.:.:.:./,,__  ヾ,ヽ:゙、ヽ、:::.ヽ、:.゙!:::.:.゙!:::.|l.;!
     l::!゙i:.:..;!::.:.:.:.:;' _,,.`ヽミ、、ヾ:.、,.>,、、ヾ!::::.:|::.;'/
     |:! ゙!::.;イ::.:.:.:;!ィ´!ノ:::::iヽ ヽ、 ` ,イ,ノ:::!゙ヾ::.:.;!iス、      赤い話をやめなさい
.      ゙! ゙!:| !::::.:.:|  ゙!::::::ノ      L::::ノ  !|:/.:ヽヾヽ、        反逆罪は死刑だよ!
        ヾイ、:.:.,. - 、 ̄´           ,!!':.:.:.:.:゙、ヾヽ`ヽ、
       ,.'i゙,' !::ヽ!   \    '     ,.' ゙、:.:.:.:.:.:.゙! ゙!|  ,!
      /,rl::!´゙!::.:.゙、.   ゙、  ´ ̄   ,.::'.::::::::゙、:.:.:.:.:.゙! .i|:.. |
      .// |:! .゙、:.:.:゙、.   ゙!-/⌒!_,..-'',!:「`_- _:.!|i:.:.:.:.| ! ,. ,!
    .,.':,'   |!  ゙、:::.:.:.゙! .:..l |  |-‐''゙,'::::! i::ト、` i|_!:.:.:;'-'; ,'
   .,.'::::!:..    .:.゙、:.:,r' ー--ゝ、 {ニ´ッ::__::! l::゙、テ``!::/   ,!
  んヘ:゙、:..    .:::..,! 、...__  ゙!、゙、,ィ',´-::..、!:::゙、:. |/   |  
     ヾ、:.     .:.!    `ヽ.!  !,ィ´`` ‐--ヽ,_/   _,,.!  
       i゙     .{ '' ´ ̄ヽ y /::..     !- ....二二-'
       .,! ..:. ,.._ァャ゙、 t‐ 、 ,ソ /:..      ;.ヽ、 /
       ,! .:ィ',./ム-'"ヽ、` ―'゙ /:::..      , i::. Y__,
.     ゙!:.,.:イ |::i       /:::...     ,.:':. :. . !、,.゙!
      `i   !::!      イ|::::::    ,.ィ'::. ..   ,'.! !
526日本@名無史さん:04/12/15 00:15:45
聖徳太子は渡来系だから差別されて即位できなかったんだよ。
527ビギン:04/12/15 07:04:19
聖徳太子が渡来系だとすると推古天皇も渡来系ですよね。
528ビギン:04/12/16 06:48:47
あ〜。また明日香のあたりを散策してえ
529日本@名無史さん:04/12/18 23:26:38
リア厨時代、系図で聖徳太子の両親を見て爆笑した憶えがある
530日本@名無史さん:04/12/19 00:28:06
系図を見て爆笑ですか・・・すそんな人間が現実にいるとは
531日本@名無史さん:04/12/23 02:57:09
なぜに爆笑?
532日本@名無史さん:04/12/25 15:26:01
だって両親が・・・
533日本@名無史さん:04/12/25 15:51:43
例え偽系図でも、見て爆笑する奴なんていないだろ。
漫画じゃあるまいし。
534日本@名無史さん:04/12/26 01:58:39
たしかに系図を見て、おかしいと感じた人物は存在したに違いない。
しかし、爆笑したというのは、後世の捏造である。
535日本@名無史さん:04/12/27 13:50:50
用明天皇と穴穂部間人皇女

どこがおかしい?
536日本@名無史さん:05/01/02 16:18:12
>>489
>厩戸皇子は18才だし皇女が妃だし問題ないようにみえる...
現代の感覚で推測してはいけないよ。当時より前の代で、10代で即位した大王を
捜してみなさい。政務を行える大人と認められる年齢は、10代ではなかったんだよ。
537日本@名無史さん:05/01/02 17:40:28
>>397
聖徳太子はいなかったって本当ですか?
http://mentai.peko.2ch.net/history/kako/1014/10148/1014898880.html
538日本@名無史さん:05/01/02 19:24:37
>>536
武烈天皇。
539日本@名無史さん:05/01/02 19:39:30
540日本@名無史さん:05/01/02 21:03:53
>>539
それを引き合いに出すなら、継体天皇論の過去ログの方が長続きしたぞ。
もちろん、良スレだぞ。
541日本@名無史さん:05/01/02 21:19:29
540の修正。
継体天皇論の方が長続きしたのでその過去ログをリンクした方がよいぞ。
542日本@名無史さん:05/01/02 21:53:28
>>1
前スレ
聖徳太子とその周辺について話しましょう
http://mentai.peko.2ch.net/history/kako/1004/10041/1004192219.html
543日本@名無史さん:05/01/03 03:00:51
>>541
>継体天皇論の方が長続きしたのでその過去ログ...
がGoogle検索ではhitしないんですが、ログアドレスは何でしたか?
544日本@名無史さん:05/01/03 09:33:09
545日本@名無史さん:05/01/03 17:17:24
>>518
>舒明母の別名は「嶋皇祖母」...
でなく田村皇女だろ。敏達皇女の糠手姫皇女。「嶋皇祖母」は、
皇極の母の吉備姫王の方。後代の尊称が「吉備嶋皇祖母尊」。
なおこの尊称の男性版らしいのが押坂彦人大兄皇子の「皇祖大兄」。
孝徳・天智皇統にとって、直系始祖とみられていた事を示すのかな。
546日本@名無史さん:05/01/03 17:33:31
>>501
>彦って字にはなんの意味があるんですか?
普通に、日子だろう。その女性版がヒメ=日女。〜〜彦〜〜ってのは、>>500
彦主人の他にもヒコイマス、ヒコクニオケツとかあるよ。
547日本@名無史さん:05/01/03 23:27:26
>>526
厩戸皇子は愛妻に不義の上、自害された衝撃で病気になり、即位でき
なかったという説発見。
聖徳太子の真相
ttp://home.att.ne.jp/blue/atelier/Inoue-sanNihonshi/Vol13.htm
548日本@名無史さん:05/01/04 01:59:28
タイムマシン開発しろ
俺が確かめてやる
549日本@名無史さん:05/01/04 02:11:51
タイムマシンがありゃ
歴史のいい加減さが明るみに出るので
開発はないだろう
550日本@名無史さん:05/01/04 11:07:53
>>547
強引な説だな。日本で王族であれば朝鮮でも王族だった?スゴイ電波(w
河上娘って崇峻帝に嫁入りしたんだよね?
551日本@名無史さん:05/01/04 11:16:04
どうせ、駒が崇峻帝を狙ったきっかけを男女関係と関連させて仮説
を立てるなら、馬子が「泊瀬部王亡き後は河上娘をお前にやるから
暗殺しなさい」とそそのかしたと考えたほうが妥当じゃないのかね。
552日本@名無史さん:05/01/04 11:36:09
>545
天智三年に死亡記事がある「嶋皇祖母」が田村皇女、吉備姫王とは別人。
553:05/01/05 13:41:13
言われてみると本当に偽キリストって感じだな。
馬小屋って時点で
554日本@名無史さん:05/01/06 08:24:25
名前にこじつけてできた説話だろうけどな。
555日本@名無史さん:05/01/08 23:46:11
聖徳太子って肖像画とは身なり服装がだいぶ違ったみたいだね。
実際あの時代はみずらに装身具なんかをつけていたらしいから聖徳太子もそういう
身なり服装をしていたことになるね。
奈良時代というより古墳時代みたいな服装だった。
俺としては肖像画のイメージが強すぎて実際の姿が想像しにくいのだが・・・。
556日本@名無史さん:05/01/09 10:21:08
>>555
子供2人と並立した肖像画は、かなり後代の作じゃなかったっけ?
古墳時代みたいな服装は、おそらく埴輪や壁画からイメージしてるのでしょうが、
奈良時代の服装って、何をヒントにしてイメージしてるのですか?
557日本@名無史さん:05/01/09 10:25:24
キリストが偽聖徳太子
558日本@名無史さん:05/01/09 15:24:45
実際聖徳太子の時代って中央の役人は何人くらいいたの?
役所もまだ整備されていない時代だし少なそうなんだが。
でも冠位十二階なんかみたいに身分を分けているのをみると結構いそうだし。
知っている人いる?
559日本@名無史さん:05/01/11 00:27:40
>>556
>聖徳太子二王子像
推古5年に来朝した百済王子阿花の筆と伝えるが、
実際には奈良時代前半の作と言われ、現在は宮内庁蔵。
よく写真で見るのは江戸時代の模写で、法隆寺蔵。
560日本@名無史さん:05/01/11 07:43:35
阿佐
561日本@名無史さん:05/01/21 12:21:19
>>558
100人くらいかな?
562日本@名無史さん:05/02/04 09:53:33
冠位十二階をもらったうち、百済系は何人?
563日本@名無史さん:05/02/11 17:05:39
三月に奈良に仏像 寺院をみに行くんですが 広隆寺・法隆寺を楽しみます
なんかお勧めスポットありますかね まにあっくな 入鹿の首塚 とか
いまもあるんでしょうか 現地の人しか知らないような おきて 丸秘情報
ありますか。実は法隆寺が十字架を隠しているとか。楽しそうですね。わくわく 
564日本@名無史さん:05/02/11 22:15:03

聖徳太子と子・山背ってスゲーのな。

父の父と母の父が欽明天皇。
父の母の父と母の母の父が蘇我稲目。

太子の父と母は
異母兄妹と同時に同祖父母。

太子を競馬的に言うならば
欽明の2×2
稲目の3×3

さらに太子の嫁・刀自古も
蘇我稲目は祖父にあたるから
太子と刀自古とのあいだにできたセガレ・山背を
競馬的に言うならば
欽明の3×3
稲目の4×3

血統重視の競馬界でも
こんな危険配合はしない。
565日本@名無史さん:05/02/11 22:49:58
エルコンドルパサーはそのレベルだったような。
566日本@名無史さん:05/02/11 23:50:18
絶対に法隆寺は十字架を隠しているに違いない。
或はフェノロサがぱくったか。
567日本@名無史さん:05/02/14 04:26:45
理系に出入りする輩だが、このスレは面白い。
今後の健闘を祈る!
568日本@名無史さん:05/02/14 23:38:51
救世観音 みてみたい。
569「未来試写室の親父。」。:05/02/16 02:01:41
 「さらし首」みたいなへんな癖とかがある
「むかしかいまもか自傷親父。」なら知って
るけど・・・いやみきらいなくせにいいやみ
な中年親父。金持ちになりたいもんは連絡せ
570「未来試写室の親父。」。:05/02/16 02:05:27
 「夢殿を 頼む胸元 多武が身ね 不不不のフット アークかまったたり」?
571「未来試写室の親父。」。:05/02/16 02:23:54
 二軒だけ残っていたか立ち話した橘家の御子孫おばあちゃんら
が偶然多ってまっててくれたのは「北山」さ!!多武がみね妙楽
寺山門跡ちかくだった。談山神社とよばれます現在でも雪は古!
天下武布だかは織田05−11(12)うまれ06−02不本納
、井なり本能寺(みっつのうちのふたつめ)にて弘法大師の杵理
により死亡のち志望をもってうまれた顛末つけんがための龍馬誕
生11−15#11−17は大織冠記紀気流天地仲トリ藤原鎌足
たっちゅううちつ丸を観よやののどぼとけってか?ホット袈裟?
因に、いつしんでもいい覚悟官僚ヰッシ変か板葺宮?06−12
!!
572日本@名無史さん:05/02/17 21:52:32
法隆寺の地下の3つの伏蔵はどこにある。創建以来一度も開かれていないらしいが。
なにがあるのだ。しかし、法隆寺の僧は教えを守るなー。すごいよ
でも、フェノロサが何時間も掛けて僧を説得し夢殿の錠を開けさせたみたいに。
誰かがんばってよ。やっぱ十字架があんのかな。
573日本@名無史さん:05/02/18 02:34:10
聖徳太子の墓ってどこにあるの?
通説では、スーパーマンってなってるのに皇太子や天皇にもなれなかった。これって、
やっぱり○○と賢いは紙一重だったから?
574置くの印か、億の因か。:05/02/18 16:59:01
 イスラエル・・・
マツボックリ・・・
トテモデカク・・・
ハッカク形二・・・
松ガナイノニ・・・
ショウ説太子・・・
575置くの印か、億の因か。:05/02/18 17:00:33
 「放流時 亀意思ちかく ぽっくり」?
576置くの印か、億の因か。:05/02/18 17:05:17
 「法龍治 発信点八角形や 夢のドを」。
577置くの印か、億の因か。:05/02/18 17:10:29
傑作(0)
2005/2/18(金) 午後 2:21 | 夢うらないか? | 練習用




昨夜「符号競字」
2103「三年前」
につづき「BC歳」
目ガネ競事男・・・
 被害者妻「トモ」
とも聞こえり・・・
 2115「花王」
の広告はまた音楽が
皇国か2130から
「ふたつそろって」
「CC」→「三三」
わサントリーさん?

578置くの印か、億の因か。:05/02/18 17:11:45
傑作(0)
2005/2/17(木) 午後 6:04 | 夢うらないか? | 練習用




999 :名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/14 13:15:02 ID:WjQtbxSz
1000なら青11


1000 :ぶるぼんのパパ ◆4UP/87PAPA :05/02/14 13:15:31 ID:tDgjn5k9
             ∧_∧
            ((´∀` /^)>>16-999
            /⌒   ノ 
         γ (,_,丿ソ′  
         i,_,ノ  |||
アンタチゴイヨー  バンザイ      ヤッター ヨクガンバター
   ∧_∧ ∧_∧  ∧_∧  ∧_∧
 (^( ´∀`)) ・∀・)(ヽ    )')((・∀・ /') イミワカランケドエライヨー
  ヽ    /ヽ    ノ ヽ    ノ  ノ   ノ
   ノ  r ヽ /    | /  O | ( -、 ヽ
  (_,ハ_,),_,/´i,_,ノ (,_,/´i,_,ノ  し' ヽ,_,)



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579置くの印か、億の因か。:05/02/18 17:12:59
 円盤じゃないけど
角瓶、否り四角四面
のフロッピーを販売
してやろうってんだ
よ!以後はここの板
を、「千葉の親父。」
と懇意になったフリ
ー「危機記者親父。」
で意思表示のキャッチ
ボールを試用じゃん!
http://www.geocities.jp/xx8756xx/
580置くの印か、億の因か。:05/02/18 17:13:31
 それではよ・・・
581日本@名無史さん:05/02/20 01:15:01
聖徳太子「飛鳥文化アターック!」
582・・・!・・・:05/02/20 10:17:13
「六月三十二日という日は普通存在しないものです」
「多分二十二日ということでいいんじゃないかな?」 
 煙草をくゆらせながら奥の木々の方を見る多田と中西。

583bait:05/02/23 17:53:41
「トリビア」

梅原猛氏は・・・


南セントレア出身。
584むっと笑う人:05/02/27 13:47:37
聖徳太子のアホは バカ尻もちゃげて   ふぃん ふぃん
とくしょうはん、しっかり おしいたか   そうだにゃ 何いうとるにょ
仏の手下はいらんぞな  釈迦の切腹  ほとけの丸焼き

馬鹿な釈迦 アホ仏  ついでに馬鹿キリスト あほマリア  もっと言おうか 馬鹿なマホメット
それから 教派神道どもの ばかな神
とくしょうはん、 どうなってるたか  17の数字はなんじゃいな
「和」もいらんぞにゅ  そうにゃんだにぉ

ソレソレ  ふぉっこる ふぁっける   ふぇろはって     
ヴぉお  ヴぉお  ←唇をあわさずに ぼと言う

らての けとほが かしゃと  今日は  ずぼうと挨拶
さっぴを持てや  釈迦狩りじゃ

「たんあがた どこさ 肥後さ  〜 〜」と歌うのだ  これで料理の歌だ
熊本のそうども  子供に アホなこと 教えるなよ

キリストの目抜けや!!   マホメットの面皮 ひっぱがせ  この悪人どもめ
マリアを裸にして 逆さづり やりでついたら おもしろいね
こんなものは 捨てろ     長い

仏を捨てて ヨイヨイヨイ
キリスト捨てて  万歳万歳
マホメット捨てて  よ〜いやな
585日本@名無史さん:05/03/06 11:55:45
法隆寺の墓ってどこにあるの?
586日本@名無史さん:2005/03/26(土) 00:25:57
古代寺院には無い。墓地と寺が結びつくのは中世以降。
587日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 01:21:05
この状態は荒れてるってことでいいのかな。
>>536
18才の厩戸には年齢的に問題があったとして、押坂彦人のほうはどうですか?
皇極・孝徳の生年594・596と敏逹の生年538から592年当時、押坂彦人は30代だったと仮定できる
592年は皇極が生れる2年前、つまり押坂彦人には既に10代の茅渟王もいたってことですね
三世王なのに天皇になれたってことは、押坂彦人・茅渟王が嫡流中の嫡流だったってことでしょ。

>>546
ヒコイマス、ヒコクニオケツは何天皇ですか?漢字で教えて下さい。
588日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 01:23:17
山背大兄王とか山城王は山背氏(?)に養育されたってことですか?それとも秦氏?
推古のために天皇になれなかった厩戸・押坂彦人の王子を、同じ人物ないしは氏族に
ほぼ同時に養育させるって政治的にどうなんでしょ。ありえる?やっぱ>>517だと思うな。

茅渟王の妃は用明・推古天皇の同母兄弟桜井皇子の娘なんですね。
宣化天皇―石姫皇女
          ‖―――敏逹天皇――――押坂彦人―茅渟王
        欽明天皇     ‖         ‖      ‖
          ‖           ‖――――┬小墾田皇女  ‖―皇極・孝徳
          ‖―――┬額田部皇女  └菟道貝鮹皇女‖
蘇我稲目―蘇我堅塩媛 │            ‖      ‖
                ├用明天皇―――厩戸皇子   ‖
                └桜井皇子――――――――吉備姫
押坂彦人は欽明天皇の嫡孫ですよね、そして崇峻天皇が没した当時30代
(多分)長男の茅渟王も10代で、2年後には皇極天皇も生れていることから
この時既に、用明・(後の)推古天皇の同母兄弟桜井皇子の娘で
敏逹・用明・崇峻・推古天皇の姪にあたる王女と結婚していたかも知れない。
押坂彦人はなんで即位できなかったのか、ますます不思議。
589日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 01:26:12
日付がおかしいんだけど。
585 :日本@名無史さん :05/03/06 11:55:45
586 :日本@名無史さん :2005/03/26(土) 00:25:57
587 :日本@名無史さん :慶長410/04/01(金) 01:21:05
590日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 20:35:05
押坂彦人大兄は蘇我系ではないが、用明・崇峻・推古は三人とも蘇我系。
つまり、敏達天皇の後は押坂彦人大兄が当然即位すべきところ
用明・崇峻の兄弟相続になったのはひとえに蘇我の横槍でそ。
わかりやすい話だと思いますが?
591日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 22:02:59
>>590
蘇我氏は関係ないだろう

継体天皇の皇子、安閑、宣化、欽明と兄弟継承が続いて
欽明の皇子、敏達、用明、崇峻と兄弟継承が続いた訳だから
敏達の後、直ぐに押坂彦人皇子が即位できるはずがない

継体朝の皇位継承の基本は兄弟継承だと思われ
592日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:45:13
欽明は最初から継体の嫡子。
ただ若かったから中継ぎで安閑・宣化が入っただけ。
こういうイレギュラーな例をもって「基本は兄弟継承」とはいえない。
593日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 17:31:22
安閑、宣化は男帝だから中継ぎではない
女帝なら中継ぎと言えたけどね
594日本@名無史さん:2005/04/03(日) 06:48:10
欽明がすでに生まれてるんだから安閑・宣化は中継ぎでしょう。
595日本@名無史さん:2005/04/03(日) 23:00:18
聖徳太子筆とされる
596日本@名無史さん:2005/04/04(月) 01:26:26
俺はチンパン人です
597日本@名無史さん:2005/04/05(火) 02:39:15
>>587
>ヒコイマス、ヒコクニオケツ

彦坐王(開化皇子・崇神同母兄)、彦国姥津(彦坐伯父)のことだろう
598日本@名無史さん:2005/04/16(土) 01:29:19
>>590
崇峻天皇が崩じたとき押坂彦人はすでに30代で、孫とされる皇極(594-)・孝徳(596-)の生年から
その父で、押坂彦人の子にあたる茅渟王(10代)が存命だったのことが(正史上は)確実ですよね。
この押坂彦人を無視できるぐらいに蘇我氏の権勢は強かったってことですか?
蘇我氏もいくつかあった大王家の一つだと思ってるから、それはそれで結構いい。

>>591
崇峻の後に押坂彦人が継げなかったのはなんでかってことですよ。
兄弟相続が基本だったら余計に、配偶者だろうが三世王の皇極・孝徳には出る幕ないでしょ。

>>597
ありがと
天皇の兄や伯父に当たる人、長子なのに皇位につけなかった人ってこと?
599日本@名無史さん:2005/04/16(土) 02:20:47
>>598
> 崇峻の後に押坂彦人が継げなかったのはなんでかってことですよ。

それはだから何度もいってると思うのだが。
その頃は蘇我の全盛期。蘇我のプッシュがないと天皇
になれない。押坂彦人大兄皇子は蘇我系ではない。
600日本@名無史さん:2005/04/18(月) 00:53:48
>>598 >長子なのに皇位につけなかった
そう。彦坐王の事跡は何ら伝わらないが、古事記に
所生の15王を記しており、まるで天皇のような扱い。
それに拠ると、子孫には神功皇后がいるとされる。

┌彦国姥津命→(和珥・春日氏族)

└姥津媛 ..┌彦坐王─(3代)─神功
   ┠──┴崇神
   開化
601日本@名無史さん:2005/04/18(月) 00:57:07
ヤベ、同母兄弟じゃないや・・・
記憶だけで書いてるとすぐミスる

┌彦国姥津命→(和珥・春日氏族)

└姥津媛 ..
   ┠──彦坐王─(3代)─神功
   開化
   ┠───崇神
 伊香色謎命
602日本@名無史さん:2005/04/19(火) 21:50:10
彦坐王に興味がわいてきました。
603日本@名無史さん:2005/04/20(水) 01:28:08
>>599
そうすると蘇我系ではない舒明天皇が皇位につけたのはなぜでしょう?

>>601
神功皇后って夫(天皇)の死後何年か後に応神天皇生んだ人ですよね。
彦坐王―3代―神功皇后
彦主人王―継体天皇
押坂彦人―舒明天皇
彦と息長ってつく人はなんかありそう。
彦坐王は倭の五王の誰かに比定できたりしないでしょうか。
それに無理がなければ、押坂彦人=多利思北孤もいけるんでは。


あと、山城王と山背大兄の養育氏族は同じ?
604日本@名無史さん:2005/04/20(水) 02:14:34
>>603
舒明天皇(田村王)は蘇我馬子の娘(法提郎女)を夫人として
その子が古人大兄皇子だから皇位に就けた思われ
つまり蘇我毛人にとって舒明は中継ぎで本命は古人大兄皇子

しかしこの選択は、結果的に蘇我本宗家滅亡へと導いた誤った選択
もし毛人に馬子なみの器量があったら、馬子の娘である刀自古郎女の
息子、山背大兄王を皇位に就けたはず

この選択なら中継ぎを必要としない、蘇我系天皇が誕生した

結局、毛人が本命とした古人大兄皇子は、同じ舒明の子である
中大兄皇子に殺され、蘇我本宗家(毛人・入鹿親子)もまた
中大兄皇子に滅ぼされた
605日本@名無史さん:2005/04/20(水) 02:30:24
舒明朝〜皇極朝に皇太子が居なかった理由は

蘇我刀自古郎女所生の山背大兄王
宝皇后(皇極天皇)所生の葛城(中大兄)皇子
蘇我法提郎女所生の古人大兄皇子という

有力皇族が3人も居た為に、いずれを皇太子に選ぶ事も
出来なかった為だと思われ
606日本@名無史さん:2005/04/20(水) 02:51:20
>>604
晩年の聖徳太子は蘇我に暗殺されてるから
山背大兄と蘇我の仲は必ずしも良くなかった。
しかも山背大兄はすこし生真面目すぎて政治家に向かないタイプで、
馬子や入鹿と比べると温厚・穏健な蘇我蝦夷が
もてあましていた可能性もある。

それよりは血の濃さでは山背大兄よりは遠いが
器量のありそうな舒明に恩を売った方がはるかにマシ。
舒明には実際、蝦夷の妹が妃になってるんだから
その時の蝦夷の判断としては問題なかったはず。
607日本@名無史さん:2005/04/20(水) 02:57:34
>>604
山背大兄は聖徳太子が蘇我に暗殺されてるから
必ずしも蘇我とは仲良くなかった。
しかもすこし生真面目すぎて政治家に向かないタイプ。
馬子や入鹿とちがって穏健・温厚な蝦夷はもてあましていた可能性がある。

そこにいくと舒明は血の濃さでは山背大兄よりは一段遠いが
蝦夷の妹が妃に入っているし、山背大兄とちがって器量が大きそう
なのでここで恩を売っておいた方が後々のことを考えるとはるかにマシ。

当時の蝦夷の判断としては間違ってはいない。
608日本@名無史さん:2005/04/20(水) 03:30:56
舒明没後に皇后である宝が即位して皇極天皇となったのは
山背大兄王、古人大兄皇子、葛城皇子の三者が拮抗したため
しかし皇極天皇の誕生で、葛城皇子は父も母も天皇という非常に
恵まれた地位を獲得した

蘇我蝦夷に政治情勢を読む力があったら、山背大兄王か
強引に古人大兄皇子を即位させて、皇極天皇誕生だけは
阻止べきだった

皇極天皇即位で一番得をしたのは葛城皇子で、二番目に得をしたのは
皇極の同父母弟である軽王(孝徳天皇)

天皇の同父母弟という事で、軽王は一躍有力皇族の仲間入りが出来た
609日本@名無史さん:2005/04/20(水) 03:38:54
>>608
だからさ。皇極が即位したのはまだクーデター前で
蘇我に権力があった時でそ。皇極即位は蘇我の遺志でもある。

> 舒明没後に皇后である宝が即位して皇極天皇となったのは
>山背大兄王、古人大兄皇子、葛城皇子の三者が拮抗したため

その3人のうち、どれも蘇我にとって都合が悪い。
だから、かつて推古を立てた例にのっとって、
今また女帝を立てて時間かせぎしたわけでしょう。
610日本@名無史さん:2005/04/20(水) 04:56:31
>>609
蘇我本宗家の意志である事は否定しないが、その意志自体が本宗家を
滅亡に追い遣った大失策

皇極天皇の即位によって皇位を狙える有力皇族が、山背大兄王
葛城皇子、古人大兄皇子、軽王と、3人から4人に増えてしまい
古人大兄皇子の即位の可能性が1/3から1/4に減ってしまった

そこで、上宮王家の族滅という強引な手段に打って出て、山背大兄王を
自害に追い込んだものの、その結果は、蘇我本宗家の血を受け継いだ
皇族を自ら滅ぼすという、最悪状況を招き込んでしまっただけである

上宮王家滅亡で得をしたのは、古人大兄皇子ではなく、実は軽王と
葛城皇子だったと言える
611日本@名無史さん:2005/04/20(水) 05:04:53
山背大兄王は蘇我蝦夷の甥で入鹿の従兄弟
古人大兄皇子も蘇我蝦夷の甥で入鹿の従兄弟

葛城皇子は蘇我蝦夷・入鹿と直接の血縁関係は無し
軽王も蘇我蝦夷・入鹿と直接の血縁関係は無し
612日本@名無史さん:2005/04/20(水) 15:26:46
皇極即位によって中大兄と軽が浮上したといっても
山背大兄・古人大兄より上にいったわけではない。
それなら最初から蘇我が皇極を即位させたりはしないだろうし、
中大兄皇子の「中」ってのは「仲」=次席の意味だから、
山背大兄・古人大兄に比べれば優先順位は一段落ちるだろう。
軽は大兄ですらない。つまり皇極即位によって
中大兄と軽が浮上したといっても
山背大兄・古人大兄より上にいったわけではない。

中大兄と軽が上にきたのはあくまでもクーデターの結果。
613日本@名無史さん:2005/04/20(水) 16:33:38
上宮王家を滅亡させた為に、蘇我本宗家が持つ皇族カードは
古人大兄皇子だけになってしまった

もし蘇我蝦夷・入鹿親子に馬子なみの政治能力があれば
みすみす自らが持っていた皇族カードを減らす愚は犯さなかったろう

上宮王家滅亡の結果、軽王と葛城皇子にとって倒すべき相手は
蘇我本宗家と古人大兄皇子だけになってしまった

もし山背大兄王が生きていれば、軽王や葛城皇子がクーデターを
起こしたとは思えない

倒すべき勢力が、蘇我本宗家&古人大兄皇子と上宮王家の両勢力に
なったからである

この両勢力を一度に倒すクーデターは、軽王と葛城皇子にも
不可能であった思われる
614日本@名無史さん:2005/04/20(水) 22:11:26
推古を立てた時の目的は聖徳太子を即位させるため。
しかしその頃は太子は子供だったし成長するにつれ
蘇我と反目するようになった。そして最後は暗殺。
その段階で上宮王家と蘇我家との絶対的敵対が確定したわけで
上宮王家が滅ぼされるのは時間の問題だった。

そんな情況であるにもかかわらず
蘇我が後押し(少なくとも容認)した舒明の即位に反抗して
不満をあらわにした山背大兄は、滅ぼす以外に蘇我に選択肢はない。
つーかドキュンなまま皇極2年まで生きていられたことが幸運だろう。
615日本@名無史さん:2005/04/20(水) 22:58:10
まず私は厩戸皇子暗殺説は否定します

したがって、通説及び日本書紀の記述にある厩戸皇子病死を肯定します

次に私は

敏達天皇→押坂彦人大兄皇子→舒明天皇→葛城皇子
用明天皇→厩戸皇子→山背大兄王

という二つの皇統の間に対立があったと考えています

蘇我本宗家の最大の失策は、蘇我系皇統である上宮王家を
滅ぼし、敏達系に皇統を独占させた点にあると言えます
616日本@名無史さん:2005/04/20(水) 23:10:22
厩戸皇子暗殺説が考えられないのは、もし厩戸皇子が蘇我本宗家に
よって暗殺されたのなら、日本書紀にその旨が記述されると思われるからです

日本書紀編纂時には既に蘇我本宗家は滅亡しており、その事実を記述する事に
何ら問題が無いばかりか、蘇我本宗家を滅ぼした敏達系皇統の正統性を
ますます誇示することになると考えられるからです

逆に日本書紀では敏達系皇族である軽王が、上宮王家攻撃に参加した
事実を記述していません

つまり日本書紀とは、敏達系皇統の正統性を示す目的の為に作られた
史書であると言えます
617日本@名無史さん:2005/04/20(水) 23:32:41
『上宮聖徳太子伝補闕記』では山背大兄王を始め上宮王家を
滅亡に追い遣った人物として

・蘇我入鹿
・蘇我蝦夷
・軽王
・巨勢徳陀古
・大伴馬飼
・中臣塩屋枚夫

つまり上宮王家を一番滅ぼしたかったのは、用明皇統のライバルである
敏達皇統であり、その敏達皇統に連なる者が編纂した日本書紀から
軽王の存在が隠されて、上宮王家滅亡を蘇我本宗家だけのせいに
したのが史実だと認識しています
618日本@名無史さん:2005/04/21(木) 01:23:18
>>615
もれは暗殺説を支持しているが、今の議論では暗殺であろうがなかろうが
上宮王家と蘇我との間にある時期から不協和音が流れていたことが重要。

>敏達天皇→押坂彦人大兄皇子→舒明天皇→葛城皇子
>用明天皇→厩戸皇子→山背大兄王
>という二つの皇統の間に対立があったと考えています

じゃ古人大兄の存在はどうなる?そんな単純な二項対立で政局は動いてはいないだろ。

>>616
>逆に日本書紀では敏達系皇族である軽王が、上宮王家攻撃に参加した
>事実を記述していません

山背大兄を滅ぼしたことが重大な隠すべきスキャンダルだとは到底思えませんがね?

>>617
>『上宮聖徳太子伝補闕記』では山背大兄王を始め上宮王家を
>滅亡に追い遣った人物として
> ・蘇我入鹿 ・蘇我蝦夷
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

入鹿と蝦夷が筆頭にあげられている。蘇我を悪者にするためとか言うつもり?
他のメンツみても蘇我しか主導し得る大物はいない。明らかに他の4人は
おまけ。(蘇我の腰巾着か、強制されてやむなく付き合ったか、単なる便乗組か)
619日本@名無史さん:2005/04/21(木) 02:07:05
>>618
上宮王家と蘇我本宗家が対立関係にあった事までは否定しません
しかし本宗家だけが上宮王家滅亡に関ったという日本書紀の記述は
信用できません

軽王は後の孝徳天皇だし、巨勢徳陀古は孝徳朝の左大臣で
大伴馬養は孝徳朝の右大臣

結局、上宮王家滅亡で一番得をした、軽、巨勢、大伴の関与を
故意に隠した日本書紀の記述から見て、主犯は軽とその側近で
蝦夷と入鹿はそれに乗せられた従犯だと認識しています
620日本@名無史さん:2005/04/21(木) 02:16:20
>じゃ古人大兄の存在はどうなる?
>そんな単純な二項対立で政局は動いてはいないだろ。

古人大兄皇子は敏達系の舒明天皇が蘇我本宗家を取りこむ為の
捨て駒だったと認識しています

つまり舒明天皇は始めから古人大兄皇子を天皇にする気はなかった
そして宝皇后所生の皇子(中大兄皇子等)への皇位継承を望んでいた

その証拠に古人大兄皇子は、上宮王家滅亡、蘇我本宗家滅亡によって
用無しになった時点で、軽王(孝徳天皇)と中大兄皇子に殺されている
621日本@名無史さん:2005/04/21(木) 02:48:03
>>619
「山背大兄を滅ぼした中には蘇我親子以外は含まれていない」
などとはまったく逝ってないのだが。関与した者にはそれなりの理由はあったろうが
あの段階で蘇我の滅亡を予測したり孝徳朝での地位を妄想するのは現実的な意味はないね。
蘇我の全盛期において山背大兄が生きようが死のうが相対的な意味しかない。
そもそも山背が蘇我と仲違いしなければ(蘇我が殺そうと思わなければ)
誰も山背を殺せないだろ。山背が死んだところで軽の前には葛城もいれば古人もいる。
巨勢、大伴に至っては誰にくっついて出世するかはいくらでも選択肢があるだろう。
軽のような順位の低い皇族が即位するという低い可能性に賭ける必然性はない。

>>620
舒明天皇が古人大兄より葛城皇子に皇位を伝えたいと思っていたのは否定しないが
山背大兄との仲が破綻していた以上、古人大兄と蘇我の線ができるのは当然じゃないですか。
622日本@名無史さん:2005/04/21(木) 03:13:59
軽王は同父母姉の宝皇女が天皇に即位したおかげで有力皇族になった
そして軽王の妻(有間皇子の母)は孝徳朝の左大臣阿倍倉橋麻呂

つまり軽王の周りには有力豪族である、阿倍氏、大伴氏、巨勢氏が
付き従い、姉が天皇になった事で皇位継承の有力候補者になった

この時点で軽王にとって邪魔な存在は上宮王家と蘇我本宗家
そして軽王は実際に上宮王家を滅亡謀ったのに、その事を一切日本書紀が
記述せずに、蘇我本宗家だけが上宮王家を滅ぼしたように記述した

日本書紀が記述できなかったのは、上宮王家を滅ぼした主犯が
蘇我本宗家ではなく、軽王と阿倍氏、大伴氏、巨勢氏だった事の
証しである
623日本@名無史さん:2005/04/21(木) 03:55:16
>>622
同じこと繰り返してるだけで反論になってないよ。

軽、大伴、巨勢が参加したことを否定してるわけではないのだが。
主犯とするには動機が薄いでしょ。

姉が天皇であることはどうでもいいヒラ皇族よりは有利だろうが
両「大兄」よりも皇位継承順位が上ということではない。
(女帝はまだ二人目で「女帝の弟」の価値がどの程度かは流動的)

大伴、巨勢の出世は孝徳朝でのことで段階ではまだ
海のものとも山のものともつかない雲をつかむような話。
成功するかどうかもわからないクーデターあっての孝徳朝でしょう。
クーデターによって生じた事態があたかも自明の未来として
予測されていたかのようなお話作りには賛同できませんね。
624日本@名無史さん:2005/04/21(木) 13:36:32
敏達系皇統の正統性を誇示する目的で編纂された
日本書紀の記述に騙されている人に史実は見ぬけない

上宮王家を滅ぼした中心人物は『上宮聖徳太子伝補闕記』の記述とおり
・蘇我入鹿
・蘇我蝦夷
・軽王
・巨勢徳陀古
・大伴馬飼
・中臣塩屋枚夫
の6人

そして日本書紀に記述されていない
・軽王(孝徳天皇)
・巨勢徳陀古(孝徳朝の左大臣)
・大伴馬飼 (孝徳朝の右大臣)
・中臣塩屋枚夫 (中臣鎌足と同氏族)
この4人こそ主犯

主犯だからこそ日本書紀は、この四人の名前を記述できなかった
625日本@名無史さん:2005/04/21(木) 14:04:04
上宮王家を滅ぼしたのは蘇我本宗家
その蘇我本宗家を滅ぼして誕生した孝徳朝は正しい

敏達系皇統が用明系皇統の最有力だった
上宮王家を滅ぼした歴史事実を隠し
敏達系皇統の正統性を誇示する事が日本書紀の目的
626日本@名無史さん:2005/04/21(木) 16:14:15
舒明天皇(諱田村) 
宝皇后(皇極天皇)

第一皇子 葛城皇子(母、宝皇后)
第ニ皇子 大海人皇子(母、同上)
第三皇子 古人大兄皇子(母、蘇我法提郎女)
第四皇子 蚊屋皇子(母、粟田香櫛郎女)
627日本@名無史さん:2005/04/21(木) 21:33:57
>>624
訂正
日本書紀も巨勢徳陀古の関与は記述してました

しかし蘇我入鹿が、独断で古人大兄皇子を天皇にする為に
山背大兄王殺害を謀ったというのは、史実を捻じ曲げた日本書紀の曲筆

山背大兄王を始めとする、上宮王家滅亡を謀った真の主犯は
敏達系皇族で皇極天皇の弟である軽王(後の孝徳天皇)だと断定できる
(『上宮聖徳太子伝補闕記』がその証拠)

蘇我入鹿などは軽王に唆された従犯に過ぎない
628日本@名無史さん:2005/04/24(日) 00:45:05
>>604
押坂彦人の妃にも敏達・推古の皇女が3人いるから、蘇我氏との関係はありますよ。

なぜ皇位を継げたのか、なぜ皇位につけなかったのか、ちょっと整理。
応神の五世孫(ということになっている)にすぎない継体が継げたのは、直系皇族が絶えたから。
安閑・宣化の皇子が継げなかったのは、母が前王朝の出身ではなかったから?
厩戸皇子が継げなかったのは、弱年だったから。
押坂彦人皇子が継げなかったのは、母が蘇我氏ではなかったから。
押坂彦人の三世孫に過ぎない孝徳が継げたのは、姉が天皇で蘇我系ではなかったから。
天皇家に連なることを最低条件として、蘇我氏に連なることが基本だった。とするのが自然?

押坂彦人の王子で蘇我氏の血を引かない舒明が継げた理由
押坂彦人の三世孫に過ぎない皇極が蘇我系でもないのに継げた理由
この2つがどうもスパっと分からない。
蘇我氏は、蘇我氏の血を引かない押坂彦人の即位を女帝を建ててまでして阻止した。
なのに蘇我氏の血を引かない舒明は即位し、その妃に同じく押坂彦人系で蘇我系ではない後の皇極が収まる。
正妃が馬子の娘だとしても、めちゃくちゃ面白くないよね。なのに舒明死後には皇極の即位も許している。
蘇我氏は相当妥協してるように見えるが、専横の咎で誅されてしまう。どうしてそうなるのか。
629日本@名無史さん:2005/04/24(日) 02:29:01
だから蘇我氏の専横なんて日本書紀の曲筆なのです

ご指摘の通り舒明天皇の母、糠手姫皇女は蘇我系皇女ではありません

舒明天皇は蘇我馬子の娘である法提郎女を妻にして、古人大兄皇子が
生まれましたが、皇后は非蘇我系の宝皇女で葛城皇子と大海人皇子の母です

そして舒明没後、蘇我系の古人大兄皇子ではなく、非蘇我系の宝皇女が
皇極天皇として即位しています

用明、崇峻、推古と3代に渡って蘇我系天皇が誕生した後に
舒明、皇極と2代に渡って、非蘇我系天皇が誕生しましたが、
蘇我本宗家はそれに異を唱えておりません

その蘇我本宗家が、古人大兄皇子の即位を狙って山背大兄王殺害を
謀ったと日本書紀に記述されても、はいそうですかと鵜呑みなんて出来ません

その上日本書紀は軽王(孝徳天皇)が、山背大兄王殺害を謀った
メンバーだった事実を故意に隠してしまいました

結論として、上宮王家と蘇我本宗家の滅亡は、非蘇我系の敏達系皇統が
蘇我系の用明系皇統を滅ぼすための、時差を付けた連続クーデターだと
認識しています
630日本@名無史さん:2005/04/24(日) 04:02:58
おまえは自分の書いたレス以外は見てないのか?
もう疲れたよ。
631日本@名無史さん:2005/04/24(日) 11:43:45
日本書紀の蘇我本宗家専横の記述は、軽王と葛城皇子の
クーデターを正統化するための潤色
632日本@名無史さん:2005/04/24(日) 20:01:58
中大兄はすでに恭順していたらしい古人大兄すら謀叛の罪をかぶせて殺しているが
堂々と書かれているしそれが即位を阻んだ事実もない。

山背大兄を殺した時だけ隠す必要などはない。恥でもスキャンダルでもないのだから。
633日本@名無史さん:2005/04/24(日) 21:06:49
中大兄皇子の真の名に答えがあるのだ。
634韋駄天はふと考えた:2005/04/24(日) 21:11:50
歴史を楽しむ者へ

人権擁護法案とやらが可決されれば、人権委員会によって
朝鮮人の心証を悪くするような歴史の考察ができなくなるのを知っていますか?
たとえそれが歴史上の事実であっても、人権委員会は差別とみなして
規制をかけてくるでしょう

邪馬台国の謎を考察推理して楽しむ者たちにも、人権委員会の規制の網からは
逃れることはできませんよ
日本の歴史に関係する朝鮮半島がらみの考察はすべて、朝鮮人の都合のよいような
考察へと書き込みさせられてしまいますよ

人権擁護法案はあなたのささやかな趣味すら奪ってしまう恐ろしい法案です
したがって断固とした決意で反対して廃案にさせなければいけません
635日本@名無史さん:2005/04/24(日) 23:42:09
>>632
それでは何故、日本書紀は上宮王家滅亡に孝徳天皇が
関与した事を隠すのですか?

それに古人大兄皇子殺害を隠さないのは、敏達系皇統内の
争いだからでしょう

しかし敏達系皇統が用明系皇統の最有力であった上宮王家滅亡に
関与していた事は、絶対に隠さなければならなかった

専横を誇った蘇我本宗家を倒した正義の敏達系皇統が
皇位を巡って競合関係だった用明系皇統を滅ぼし
皇位の独占を謀ったなどと、日本書紀には絶対に書けない事です
636日本@名無史さん:2005/04/25(月) 00:57:13
敏達天皇−押坂彦人大兄皇子−舒明天皇(田村王)−葛城皇子(天智天皇)
                                  −大海人皇子(天武天皇)
                                 −古人大兄皇子
                    −茅渟王−皇極・斉明天皇(宝女王)
                          −孝徳天皇(軽王)−有間皇子

用明天皇−聖徳太子(厩戸皇子)−山背大兄王−難波王
637日本@名無史さん:2005/04/25(月) 01:10:55
書かれていないから隠したとは短絡的な
「書かれていない」ことに立脚した議論は恣意的になりがちですよ一般論として
その理由なんて可能性としては無数ですから
638日本@名無史さん:2005/04/25(月) 05:47:46
>>635
悪いけど、いちいち根拠がない話の連続だよ。
敏達系だの用明系だのは系図上の用語。そこで対立が起きようが無い。
系図の上では優先順位が明確なのだから。
たとえば敏達系と用明系では敏達系が本流ときまっているから。

問題は母方で蘇我系であるかないかだけ。

山背大兄は蘇我が日本初の女帝を立ててまで擁立を画策した聖徳太子の直系。
たから山背は自分が蘇我系の中での嫡流という自負があった。
それが鼻持ちならない態度としてあらわれ、蘇我蝦夷がもてあましただけでなく
皇族仲間からも嫌われていたんだろう。

蘇我蝦夷が同じ従弟という条件をもつ古人大兄を支持した時に
蘇我の分家である境部摩理勢が蘇我本家に背いた(蘇我一族の分裂)。
しかし山背大兄は境部摩理勢のクーデタープランを破棄して、反対に
忠臣・境部摩理勢を突き出すことで蘇我本家に恩を売ろうとバカなことを考えた。
これは蘇我本家からみれば蘇我への分断工作に映るだろう。
しかしドキュン山背にしてみれば、自分を擁立しない蘇我は恩を仇で返す奴。
ここで両者の対立は極限に達する。

古人大兄でも有間皇子でも普通は皇室への謀叛という罪を着せられて殺される。
(くりかえすがこれは勝者にとって隠さなければならないような恥ではない)。
しかし山背にそれがない理由は簡単。山背は皇室にではなく蘇我に対して叛乱しよう
としていただけだから。
日本書紀は首謀者・主体者の名を簡単にあげたにすぎない。意図的に隠蔽したわけではない。
蘇我にしてみれば、利害の一致しそうな皇族を抱き込むのは、自分らの行動を
私戦ではなく「皇族を擁しての戦い」という形にしたかったのは保険みたいなもの。
軽皇子は大化改新みてもわかるように神輿にかつがれるタイプ。
即位後に途中で自分の立場を勘違いして群臣からそっぽ向かれるような典型的なドキュン。
639日本@名無史さん:2005/04/25(月) 09:06:47
>>637
『上宮聖徳太子伝補闕記』には孝徳天皇が上宮王家滅亡に
関与していた事をしっかりと記述している

敏達系大本営発表の「日本書紀」には絶対に記述できない事だがな
640日本@名無史さん:2005/04/25(月) 09:17:50
>日本本書紀は首謀者・主体者の名を簡単にあげたにすぎない。
>意図的に隠蔽したわけではない。

はあ、貴方の主観で事を決められても困りますねェ
「日本書紀」は蘇我入鹿が古人大兄皇子を天皇にする為に“独断”で
山背大兄王の殺害を謀ったと記述してますが

それに対して『上宮聖徳太子伝補闕記』は、山背大兄殺害を謀った者の
中に孝徳天皇が存在してる事を明確に記述しています

つまり「日本書紀」は敏達系皇族の孝徳天皇が、用明系皇族の
山背大兄王一族の滅亡に関与していた事を知られくなかったから
入鹿が独断したと史実を曲げて記述したのです
641日本@名無史さん:2005/04/25(月) 09:35:43
>蘇我の分家である境部摩理勢が蘇我本家に背いた(蘇我一族の分裂)。
>しかし山背大兄は境部摩理勢のクーデタープランを破棄して、反対に
>忠臣・境部摩理勢を突き出すことで蘇我本家に恩を売ろうとバカなことを考えた。
>これは蘇我本家からみれば蘇我への分断工作に映るだろう。

貴方は馬鹿ですか?
山背大兄王が蘇我氏の分断工作を謀るのなら、摩理勢のクーデタープランに
乗ることの方でしょう
山背が摩理勢のクーデターに乗らなかったのは、蘇我氏が分裂することで
氏族の力が弱ることを恐れたためで、それは非常に懸命な政治的判断

逆に入鹿は馬鹿だから敏達系皇統である軽王に唆されて用明皇統で
蘇我系皇族の上宮王家を滅亡させて氏族の力を弱体化させた
(軽王の背後には中臣鎌足あり)

そして入鹿の暴挙は蘇我氏族内においても疑心を生み、蘇我一族の
倉山田家は軽王や葛城皇子のクーデターに参加した

しかしその倉山田石川麻呂も葛城皇子に滅ぼされている

つまり敏達系皇統にすれば、蘇我氏と用明皇統を潰すために
蘇我氏族内部を争わせて力を削ぐことに力を注いだのである

これが上宮王家滅亡と蘇我本宗家滅亡および、蘇我氏の氏族としての
弱体化の真相
642日本@名無史さん:2005/04/25(月) 09:48:28
>敏達系だの用明系だのは系図上の用語。そこで対立が起きようが無い。

押坂彦人大兄皇子(父は敏達天皇)の息子である田村王と
聖徳太子(父は用明天皇)の息子である山背大兄王が
天皇の位を巡って対立した事こそ、敏達系皇統と用明系皇統の間で
対立があった事の証しでしょう
643日本@名無史さん:2005/04/25(月) 20:51:25
>>639
「絶対に記述できない」ことは証明できますか?
それが政治的意図にもとづく意図的な事実隠蔽だと
論理的要請で言っているだけでしょう、それを「恣意的」というのです

『上宮聖徳法王定説が』意図的に記述した、という可能性だって同じだけあるのです
『日本書紀』の単なる省略という可能性だってある
それを「意図的」というのは、それこそあなたの主観でしかありません
史料的確証がない以上、それは推測の域を出ないのです
どんなに、あなたの中でその論理が完璧に見えても
それでは人を納得させられませんよ

そしてループは続く
644日本@名無史さん:2005/04/25(月) 21:23:19
>>643
『上宮聖徳太子伝補闕記』だけでなく「大織冠伝」『藤氏家伝』も
「蘇我入鹿、諸王子と謀り」と記述されています
因みに『藤氏家伝』のうち「大織冠伝」は藤原仲麻呂が記述した
藤原氏の歴史書

「日本書紀」は入鹿の独断、「上宮聖徳太子伝補闕記」は軽王も共謀と
名指し、「大織冠伝」は名は特定してないものの入鹿が諸王子と
共謀と記述

日本書紀という一つの史料と、上宮聖徳太子伝補闕記と大織冠伝という
二つの史料の記述が対立している場合、二つの史料の記述とおり
上宮王家滅亡は入鹿の独断ではなく、入鹿と諸皇族)との
共謀とするのが史料批判の原則

史料批判の原則とは、単一史料を盲信せずに、同じ出来事に対して
各史料が、どのように記述しているかを仔細に見当する事です
645日本@名無史さん:2005/04/25(月) 22:02:25
推古天皇の没後、敏達天皇の孫である田村王と用明天皇の孫である
山背大兄王との間に皇位を巡る争いあり

田村王を押した者は大臣蘇我蝦夷(内心)、阿倍臣仲麻呂、大伴連鯨
高向臣宇摩、中臣連弥気(鎌足の父)、采女臣摩礼志、難波吉士身刺の
7名

山背大兄王を押した者は、巨勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手、境部臣摩理勢の
4名

完全中立は蘇我臣倉麻呂(倉山田石川麻呂の父)の1名

7対4で田村王の勝利だったものの、名門氏族である巨勢氏や紀氏
天皇家の武力を担う大伴、佐伯両氏のうち、佐伯氏が山背大兄王の
天皇即位を望んだ事は、敏達皇統に対して用明皇統が有力な
ライバル皇統であった事の証しと言える
646日本@名無史さん:2005/04/25(月) 22:30:59
>>644
少々言葉足らずだったようだ
私も事実認識としては軽皇子は山背王殺害事件に首謀に近い形で関わっていたと思っています
軽皇子が単なる飾りではなかったというのは、最近ではかなり有力な説ではないでしょうか

問題は、そのことを『日本書紀』が書かなかったということから、「隠した」ことが言えるかどうかです
なぜなら「書かなかった」理由は証明できないからです

あなたは>>640>>638氏を「主観」と決めつけていますが
どちらが主観的でしょうか?
「(『日本書紀』が)入鹿が独断したと史実を曲げて記述したのです 」というのが事実であっても(私は事実だと思いますが)
「(軽皇子が)山背大兄王一族の滅亡に関与していた事を知られくなかったから 」だというのをその原因とすることは
実は何ら史料的根拠に基づいてはいないということはご理解いただけるでしょうか
「入鹿・蝦夷の関与を強調した」ことと「軽皇子の関与を隠した」ことはイコールではありませんよ

「実際には軽皇子が関与していたのに『日本書紀』はそれを書かなかった」
この理由は貴説以外にも無数に考えられます
その可能性をあなたは「恣意的」に捨象していませんか?
「書かれていない」ことに立脚した議論が恣意的になりがちというのはそういうことです
647日本@名無史さん:2005/04/25(月) 23:19:22
>>646
確かに軽王が上宮王家滅亡に関与したことは複数の史料から
立証することは可能ですが、その立証と日本書紀が軽王の関与を
故意に隠したという立証とがイコールではないというご指摘は
その通りだと思います

そして私の日本書紀が故意に軽王の関与を隠したという認識は
主観であって客観性を持たない事を認めます

その上で、大織冠伝や上宮聖徳太子伝補闕記の記述から
上宮王家の滅亡は蘇我本宗家の独断ではなく
軽王もその謀議に関与していたと主張致します
648日本@名無史さん:2005/04/25(月) 23:28:47
>軽皇子が単なる飾りではなかったというのは、
>最近ではかなり有力な説ではないでしょうか

遠山美都男氏がその説の代表的論者ですね
私も遠山氏の説を基本的に支持しています
649日本@名無史さん:2005/04/26(火) 02:29:56
>>647
ずいぶんなボリュームダウンだな
650日本@名無史さん:2005/04/26(火) 02:32:03
>軽王もその謀議に関与していたと主張致します

最初からそれだけいってれば誰も反対しなかったんじゃないの?
「首謀者は軽王で、蘇我蝦夷は唆されただけ」というのは撤回するんですね。
651日本@名無史さん:2005/04/26(火) 02:47:13
>>650
それは撤回しませんよ
上宮王家滅亡の首謀者は軽王を中心とした敏達系皇統に連なる皇族
上宮王家と蘇我本宗家との私闘であったら、大伴氏、巨勢氏、中臣氏等が
蘇我側に付くとは思えません

上宮王家滅亡後に起きた、乙巳のクーデターで蘇我本宗家側についた
有力氏族が居なかった事から見ても、蘇我本宗家が首謀者として
有力氏族を動員する事は不可能でしょう
652日本@名無史さん:2005/04/26(火) 02:51:42
つまり日本書紀に軽王の関与が記述されなかった事を
日本書紀の編纂者が故意に隠したという事だと立証する事が
客観的には不可能だと認識しただけです
653日本@名無史さん:2005/04/26(火) 03:08:39
つまり>>651は根拠のない憶測説ってことですね。
654日本@名無史さん:2005/04/26(火) 03:36:04
井上光貞氏の

「舒明即位の争いの経過を見ると、蝦夷の大臣としての手さばきは
いかにもすっきりしない。(中略)父馬子ほどの器量はなかったのであろう。
加えて大夫層を形成する群卿の勢力が強くなってきて、その統制に手を
やいたためであろうか」『飛鳥の朝廷』(小学館『日本の歴史』3)

の見解を私は支持します

つまり大臣で蘇我本宗家の長である蝦夷を持ってしても、簡単に皇位を
決める事が出来ず、巨勢氏や紀氏と言った氏族は蝦夷に反対している
状況を見ると、蘇我本宗家が専横を行なう状況にあったとは思われません

田村王と山背大兄王との即位争いでさえ、氏族間で対立があったのに
その山背大兄王の上宮王家滅亡を、蘇我本宗家の独断で行なった場合
勢力を増した氏族・群卿が支持することは到底考えられません

氏族・群卿が上宮王家攻撃に参加したのは、その時皇位を握っていた
敏達系皇統の意志が上宮王家滅亡にあった事を知っての事だと思われます

そして蘇我本宗家の滅ぼす事も敏達系皇統の意志だと知っている
氏族・群卿は、乙巳のクーデターの時には、蘇我本宗家の敵になったのでしょう

蘇我本宗家側に付いたのが東漢氏だけだった事は、蘇我本宗家が
弱体化して、氏族・群卿を味方にする事が出来なかった証しです
655日本@名無史さん:2005/04/26(火) 03:38:28
>>653
藤氏家伝と、上宮聖徳太子伝補闕記という
二つの史料に基づいた見解です
656日本@名無史さん:2005/04/26(火) 07:15:34
>田村王と山背大兄王との即位争いでさえ、氏族間で対立があったのに


それは蝦夷が優柔不断な態度を示したからだろう。

>その山背大兄王の上宮王家滅亡を、蘇我本宗家の独断で行なった場合
>勢力を増した氏族・群卿が支持することは到底考えられません
>氏族・群卿が上宮王家攻撃に参加したのは、その時皇位を握っていた
>敏達系皇統の意志が上宮王家滅亡にあった事を知っての事だと思われます

「山背大兄=蘇我そのもの」でもなければ「アンチ山背大兄=アンチ蘇我」でもない。
何度もくりかえすように、敏達系皇統や群臣の中に「アンチ山背大兄」がいても
なんの不思議もない。なぜそのことがただちに「蘇我が主犯ではない」という結論に
短絡するのか? 蘇我蝦夷もまた「アンチ山背大兄派」の一人であり、そしてその中
での最大権力者。軽王がいくら山背を滅ぼそうとしても蘇我の賛同ななければ
どれほどのことができたか疑わしいと思いますね。一方、蘇我にしてみれば
軽王という皇族をメンバーに引き入れることができたのは渡りに舟。この情況で
「蘇我は首謀者どころか被害者」というのはどうみても無理があるでしょう。

>そして蘇我本宗家の滅ぼす事も敏達系皇統の意志だと知っている
>氏族・群卿は、乙巳のクーデターの時には、蘇我本宗家の敵になったのでしょう
>蘇我本宗家側に付いたのが東漢氏だけだった事は、蘇我本宗家が
>弱体化して、氏族・群卿を味方にする事が出来なかった証しです

クーデターの時に蘇我があっさり負けたように見えるのはクーデター側が
蘇我と古人大兄の連絡を分断することに成功し、古人が降伏せざるを得なかったから。
それで蘇我は玉を失い群臣は蘇我に勝ち目がないとみた。つまり一重に
クーデターの手際のよさの賜物。失敗すれば蝦夷が率いる蘇我勢力が古人を
擁立して反撃に出る可能性はあった。そうなったら群臣はどっちにつくかわからない。
657日本@名無史さん:2005/04/26(火) 12:53:10
>それは蝦夷が優柔不断な態度を示したからだろう。

蝦夷優柔不断になるくらい、蘇我本宗家の力と他の氏族の力が
接近してきたからだと思われ
(この点では井上光貞氏の見解に賛成)

>「山背大兄=蘇我そのもの」でもなければ

山背大兄王は自分達上宮王家が皇族+蘇我氏族だと認識していと思われます

山塩大兄王は蝦夷の事を「叔父上」と呼び「また叔父に背くことはできない」とも
言い、蘇我の一員として蘇我氏が分裂し相打つ事を、最も恐れていた事が
分かります
658日本@名無史さん:2005/04/26(火) 12:54:17
>なぜそのことがただちに「蘇我が主犯ではない」という結論に
>短絡するのか?

私は乙巳のクーデターの首謀者は、軽王という遠山氏の説を支持しています
そして中臣鎌足が蘇我氏にとって代ろうと狙っていたという梅原氏の説も
支持しています

そして蘇我氏を滅ぼす為には、蘇我本宗家、用明+蘇我系皇統である
上宮王家、倉山田家の三家を滅ぼす事が肝要
その為に三家を離間させる必要があり、蘇我本宗家に古人大兄即位という
餌をちらつかせて味方に引き込む事に成功したのでしょう
659日本@名無史さん:2005/04/26(火) 13:15:13
舒明天皇が亡くなった時に、殯で誄をしたのは宝皇后所生の葛城皇子で
あったから、葛城皇子が最有力の皇位継承権者であったものの年齢の点で
難点があり、舒明天皇が即位した時に有力なライバルであった山背大兄王も
今だに有力な後継者として存在し、また蘇我法提郎女所生の古人大兄皇子は
蘇我本宗家が皇位に就けたいと思った皇子

蘇我本宗家に圧倒的な力があれば、古人大兄皇子の即位を強引にでも
押し進めたであろうし、逆に敏達系皇統側に圧倒的な力があれば
誄をした葛城皇子の即位を強行した事でしょう

しかし用明系皇統である上宮王家も含め、三者の力が拮抗していたから
皇位を定められずに、中継ぎとして宝皇后が即位し皇極天皇になったと
思われます
660日本@名無史さん:2005/04/26(火) 13:26:46
敏達系皇統で蘇我腹の古人大兄皇子の即位を望む蘇我本宗家と
敏達系皇統の皇位継承を確実にしたいと思う、敏達系皇族の利害が一致した
結果が用明系皇統の上宮王家滅亡したと思われます

その点では
>なぜそのことがただちに「蘇我が主犯ではない」という結論に
>短絡するのか?
「蘇我氏が主犯ではない」というのは間違いかも知れません

上宮王家滅亡に関しては、蘇我本宗家と敏達系皇族の共謀共同正犯と
言った方がより正しいものと思われます
661日本@名無史さん:2005/04/26(火) 13:44:34
敏達系皇統と蘇我本宗家は、上宮王家滅亡では利害が一致したものの
敏達系皇統側、もっと具体的に言うと皇極天皇、同母弟である軽王
葛城皇子達は、古人大兄皇子の即位をを容認するつもりなど
更々無かったと思われますから、今度は倉山田家を抱き込んで
蘇我本宗家を滅ぼす乙巳クーデターへと突き進んだのでしょう

倉山田家を味方に引き入れる事に成功し、本宗家を滅ぼす事に
成功した後は、今度は倉山田家が邪魔な存在ですから
石川麻呂が葛城皇太子暗殺を企てているという容疑を
石川麻呂の異母弟の日向に密告させて、自殺に追い込むという
形で倉山田家を滅亡させました

上宮王家、本宗家、倉山田家という蘇我氏族有力三家が滅んだ事で
敏達系皇統の皇位を独占と、蘇我氏にとって代る形で中臣氏(後の藤原氏)の
繁栄が決定されたものと認識しております
662日本@名無史さん:2005/04/26(火) 15:54:47
田村王と山背大兄王の即位争い

田村側
蘇我本宗家
阿部臣
大伴連
高向臣
中臣連
采女臣
難波吉刺

山背側
巨勢臣
佐伯連
紀臣
境部臣

中立
蘇我倉家
663日本@名無史さん:2005/04/26(火) 16:06:19
上宮王家滅亡事件

首謀者
蘇我本宗家(蝦夷・入鹿)
軽王
巨勢臣
大伴連
中臣連

攻撃軍
巨勢臣
土師連

上宮王家側
三輪君

参戦拒否
高向臣

動向不明
阿倍臣
紀臣
佐伯連
蘇我倉山田家
など
664日本@名無史さん:2005/04/26(火) 21:51:55
最初から計画どおりに進んだなんてのは陰謀史観。まぁ小説としてはありだろうけど。
665日本@名無史さん:2005/04/26(火) 22:28:38
梅原猛氏が提唱している中臣鎌足陰謀説を、私は肯定的に
評価しています

但し、法隆寺が聖徳太子の怨霊を鎮魂する為の寺という説には
同意しかねます

坂本太郎氏が梅原氏に反論した、怨霊思想が史料上確認出来るのは
桓武朝になってからという点

また737年の藤原四子死亡を藤原氏が、聖徳太子の怨霊だと恐れたというのは
かなり飛躍がある発想で、もし藤原氏が怨霊を恐れたとしても、それは聖徳太子の
怨霊ではなく、729年に滅ぼされた長屋王の怨霊であったろうという
坂本氏の指摘は正に的を得た指摘だと思っています
666日本@名無史さん:2005/04/27(水) 07:15:03
梅原はぜんぜん支持できない。

蘇我の権力がそんなに揺らいでいたのなら
なにも失敗してすべてを失うかもしれない危険なクーデターに賭ける必要はないし
鎌足の陰謀ならもっと確実で慎重なやり方を選ぶだろう。
667日本@名無史さん:2005/04/27(水) 13:35:44
蘇我氏も馬子健在の頃は、本宗家を中心に結束を保っていました
しかし馬子の死後本宗家の家督を継いだ蝦夷には、馬子ほどの求心力が
なかった為か、境部家は反抗(その為に滅亡)
倉家も、本宗家のイエスマンではなくなりました

その点で言えば、馬子時代より本宗家の力が弱まった事は事実でしょう
しかし、このまま蘇我氏が衰退いくというのかどうかもまた未知数

そして乙巳のクーデター一発勝負なら、リスクが非常に高いとも言えますが
蘇我氏を更に弱体化させる為に、蘇我氏内の有力三家を敵対させ同士討ちに
持ち込むという中臣鎌足の謀略には、鎌足の凄みが感じられます

上宮王家を本宗家+敏達皇統の連合によって滅亡させ
次に本宗家を倉山田家+敏達皇統連合で滅ぼし
最後の仕上げてとして、倉山田家の家長である石川麻呂を
葛城皇太子暗殺容疑という、事実無根の罪で自殺に追い込む

実に見事な手際だと言うしか言葉がありません
668日本@名無史さん:2005/04/27(水) 13:40:33
>>667
衰退いくというのかどうかもまた未知数×
衰退していくのかどうかもまた未知数○
669日本@名無史さん:2005/04/27(水) 20:40:06
黒幕史観はついていけない。田中角栄がすべて悪いとかいうのと同レベルでしょ。
670日本@名無史さん:2005/04/27(水) 20:43:20
>上宮王家を本宗家+敏達皇統の連合によって滅亡させ

蘇我の協力・蘇我にその気があったればこそ

>次に本宗家を倉山田家+敏達皇統連合で滅ぼし

クーデターは危険な賭け

>最後の仕上げてとして、倉山田家の家長である石川麻呂を
>葛城皇太子暗殺容疑という、事実無根の罪で自殺に追い込む

そりゃ政権とった後だし。

>実に見事な手際だと言うしか言葉がありません

ハァ(・・)?
671日本@名無史さん:2005/04/27(水) 23:10:16
陰謀史観を排除するのも如何かと思われ

特に藤原氏は鎌足以降、その子孫達も権謀術数を用い
数々の政変を引き起こして、他氏族を蹴落として行きましたから

通説では安和の変で左大臣源高明を失脚させたのが
藤原氏が行なった他氏排斥の最後の事件

そして私は梅原氏同様、藤原氏の最初の他氏排斥は
鎌足が画策した蘇我氏滅亡だと認識しています
672日本@名無史さん:2005/04/27(水) 23:16:09
>蘇我の協力・蘇我にその気があったればこそ

蘇我本宗家にもその気はあったでしょう
本宗家単独では、もはや古人大兄皇子を即位させる力失ってましたから
古人大兄を即位させる為には、山背大兄王という有力皇位継承権者を
消す必要がありました

>クーデターは危険な賭け

だからこそ倉山田家の家長である石川麻呂を抱き込んだのですよ
673日本@名無史さん:2005/04/27(水) 23:34:36
山背大兄王は、古人大兄皇子を即位させたい蘇我本宗家
敏達皇統による皇位独占を目指す、敏達系皇族の両方にとって
非常に邪魔の存在

山背大兄王が有力な皇位継承権者でなければ、生き延びられたろうに
聖徳太子の息子で、斑鳩宮と法隆寺(若草伽藍)を保持していた点が
逆に仇になったとは
674日本@名無史さん:2005/04/28(木) 06:00:48
もういいよ。
675日本@名無史さん:2005/04/28(木) 12:56:29
藤氏繁栄の基礎を築いた中臣(藤原)鎌足恐るべし
そして梅原氏の指摘とおり、中臣という氏名を捨てた事で
氏職だった神道に縛られず、仏教の庇護者なる事にも成功

それまでは
蘇我本宗家−飛鳥寺
上宮王家−斑鳩寺
倉山田家−山田寺
676日本@名無史さん:2005/05/13(金) 17:36:55
そういや、中臣金も藤原金と名乗っていた時代あったよな
677日本@名無史さん:2005/05/18(水) 15:48:45
age
678日本@名無史さん:2005/05/26(木) 23:06:13
保守
679日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:35:08
>>626
葛城皇子って皇極の連れ子じゃないんですか?
どのスレか忘れたけど、それが前提として進行していたような。

押坂彦人大兄皇子┬山城王
(多利思比孤)   │(山背大兄王)
(厩戸皇子)     │
(聖徳太子)     ├舒明天皇―間人皇女
(意柴沙加宮)   │
            └長谷王―葛城王(皇子)
                   (中大兄皇子)
                   (天智天皇)

こうすると近親婚が珍しくはない古代にあっても過剰な押坂彦人が敏達・推古の3皇女
天武が天智の4皇女を娶ったことも単純明快。
舒明天皇の子供の中で古人・間人・大海人と葛城ってなんか名前がちがわない?
いつまでたっても即位しなかったらしいし舒明天皇の子供じゃなかったんじゃないの。
680日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:43:22
「継体・安閑・宣化」は間違いなく一つのグループだが、欽明を継体の子とするのは怪しい気がする
これは親子の年齢差が最大で60才、最少で40才だからだけど、
40才説をとると継体崩御で即欽明即位もありえる年齢になるので、これはないとおもう。
複数大王家と仮定したばあい、婚姻関係が結構示唆に富んでると思う。
まとまりのないレスで申しわけないが
継体・安閑・宣化の妃には蘇我氏がおらず、3人がそれぞれ仁賢皇女を妃に迎えている。
安閑・宣化ではなく欽明の系統が皇位を独占したのは、欽明が仁賢皇女腹だったことによる。
欽明には宣化の皇女が3人嫁いでいるが、安閑・宣化系の男子に欽明皇女ないしは蘇我氏が嫁いだ例はない。
敏達は欽明と宣化皇女を父母に生まれ、欽明と蘇我氏を父母とする推古を妃にするが、息長氏との間に押坂彦人を作る。
欽明の妃に始めて皇妃として蘇我氏が現われ、その間に用明・崇峻・推古などをえた。
敏達には推古との間に4皇女がいたが、そのうち2人が異母兄押坂彦人、1人が従兄弟厩戸、1人が甥舒明の妃となった。

繰り返しになるが、継体・安閑・宣化は前王朝の仁賢皇女を妃に迎えて王朝を継ぎ
欽明は仁賢皇女を母として生れたことで、より正当な前王朝の後継者となった。
欽明朝より蘇我氏が大王家の有力な外戚として突如現われるが
欽明は応神朝と継体朝の関係を踏襲するがごとく、同父系のはずの継体朝の宣化皇女を3人も妃とした。
系図上は欽明を父、継体朝宣化皇女を母として生まれた敏達には
息長氏との間に押坂彦人が出来たが、蘇我氏系の異母妹推古との間には男子が出来きず
系図上は異母弟にあたる欽明の諸皇子(用明・崇峻も含む)やその王子に自身の皇女を嫁がせることもなかった。
681日本@名無史さん:2005/05/27(金) 01:55:44
息長氏を母体とする継体朝(継体・安閑・宣化・敏達・押坂彦人・舒明)と
応神朝ないしは蘇我氏を母体(またはその物)とする欽明朝(用明・崇峻・推古)
通常一つの父系とされているが、敏達・押坂彦人・舒明へとしばしば欽明朝から継体朝に
皇女が嫁ぐことに比べ、継体朝から欽明朝へ皇女が嫁いだのは王朝交代の欽明1人にのみ。
これは天智と天武もそうで、天智から天武へ嫁いだ娘4人に対して天武から天智へは1人もいない。
前王朝(天皇)の娘を娶ることが王朝交代ないしは、皇位継承の正当性を示すのに重要だった場合
蘇我系天皇が即位させたくない押坂彦人に皇女を嫁がせる意味は全く見出せない。

そこで、推古と重なる時期に大王だったとされる多利思北孤を=押坂彦人とすると
複数大王家による交代制だった皇位が、なんらかの確執によって並立していて
この確執が生まれる前の時代に押坂彦人へ蘇我氏から嫁いだ皇女がいて
その友好時代に行なわれた押坂彦人と蘇我氏による事績が、厩戸皇子という用明の皇子に仮託
または用明皇子厩戸その物が創作され、押坂彦人と蘇我氏との間に生まれたのが
押坂彦人の子山城王(=厩戸の王子山背大兄)なんでは。
これだと蘇我氏が無理して山背大兄を担ぐ必要性はないが(押坂系の血を引き緩衝材として使えるが
力があれば蘇我氏その物が立てばよい。しかしそうなると蘇我氏の専横とも取れる)
押坂彦人系の孝徳からすると、蘇我朝と母系で繋がる山背大兄は消したい人物候補筆頭になる。

蘇我氏目線でみると、敏達・押坂彦人・舒明と代々息長系の天皇に娘を嫁がせ
やっと生まれた皇子が古人大兄だったとか。
682日本@名無史さん:2005/05/27(金) 06:25:56
>>680
40歳の差なら問題ないんだろ?
683日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:15:16
>欽明の諸皇子(用明・崇峻も含む)やその王子に自身の皇女を嫁がせることもなかった

???!
684日本@名無史さん:2005/05/29(日) 02:42:51
ちょっと質問なんだけど、聖徳太子ってなんで天皇ではないのに
「日出処天子」って名乗ってるの?
685日本@名無史さん:2005/05/29(日) 06:42:29
天皇の代わりでそ。摂政なんだから。
686日本@名無史さん:2005/05/29(日) 15:40:41
なるほど。前から疑問に思ってたので納得しました。
687日本@名無史さん:2005/05/29(日) 18:14:50
昨日の日テレの世界一受けたい授業、見た人いないのか?
688日本@名無史さん:2005/05/31(火) 17:14:04
山岸涼子の「日出処天子」ってどのへんまで史実どおりなの?
なんで布都姫は大王に嫁ぐハメになったん?
689日本@名無史さん:2005/06/01(水) 01:24:13
>>682
継体天皇と欽明天皇が40才差になると継体崩御のとき欽明は40才以上になり
安閑・宣化の中継ぎがいらなくなるうえ、皇子女の用明・推古と数えで70才離れる。
30才以上で数年後には孫まで生まれた押坂彦人、40才以上の欽明でもまだ若すぎて
中継ぎが必要となるということになると、もうなにを満たせば問題ないのかと。

>>683
敏達皇女が嫁いだのは推古腹が厩戸に嫁いだ一例だけではないですか?
仁賢→継体・安閑・宣化(各1人)
宣化→欽明(3人)
欽明→敏達・用明(各1人)
敏達→押坂彦人・厩戸・舒明(押坂彦人のみ3人、内2人は推古腹。厩戸・舒明各1人、ともに推古腹。
     5人中4人が推古腹なので、敏達皇女より推古皇女として嫁いだという性格のほうが強い)
用明→なし
崇峻→なし
舒明→なし
天智→天武・高市・大津(天武のみ4人。高市・大津は各1人)
天武→大友・施基(各1人)
継体親子と天武親子が妃の迎え方で酷似していて、息長系の宣化皇女が欽明に
推古皇女が息長系の押坂彦人・舒明に嫁いでいるのもリンクする。
欽明妃の実家として突如現われる蘇我氏、推古期の謎の男王・多利思比孤
複数大王家が一番素直で無理がないと思う。
690日本@名無史さん:2005/06/01(水) 03:03:29
>天智→天武・高市・大津(天武のみ4人。高市・大津は各1人)

天智皇女のうち
太田、讃良、大江、新田部皇女が天武に嫁ぎ
御名部は高市、阿閇は草壁、山辺が大津、明日香が忍壁に嫁いでいる
(高市〜忍壁は天武皇子)

>天武→大友・施基(各1人)

天武の皇女のうち
十市が大友、泊瀬部が川嶋、多紀が志貴に嫁いでいる
(大友〜志貴は天智皇子)
691683:2005/06/01(水) 17:37:37
>>689
推古腹の桜井弓張が彦人大兄の死後、来目皇子に嫁いでいる
692日本@名無史さん:2005/06/01(水) 20:27:10
てs
693日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:29:36
>>689
じゃもとにもどって60歳差でいいじゃん。
694日本@名無しさん:2005/06/13(月) 02:47:34
>679
>舒明天皇の子供の中で古人・間人・大海人と葛城ってなんか名前がちがわない?

そうか!なるほど!!
まあ通称の中大兄の方が有名だけど。
695日本@名無史さん:2005/06/23(木) 13:57:41
>>※※1
696日本@名無史さん:2005/06/23(木) 14:00:45
「日出づる処の天子」は聖徳太子ではない!!
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hi_izuru.html
697日本@名無史さん:2005/06/24(金) 00:08:56
>>694
ぜんぶ同じだよ。乳母氏族からつけた名前じゃん。
698日本@名無史さん:2005/06/24(金) 02:31:01
天智は「人」でなしってことだろ
699日本@名無史さん:2005/06/24(金) 05:55:00
偶然だろ。大海人皇子なんて字に人の字が入ってるだけで読みは「おおあま」じゃん。
700日本@名無史さん:2005/06/24(金) 22:03:35
>>697
間人連・凡海連
古人〜なんて氏族いたっけ?
701日本@名無史さん:2005/06/26(日) 11:52:41
>700
物部(石上)氏じゃね?
702日本@名無史さん:2005/06/27(月) 01:47:18
古人のフルは物部の神のフル。
703日本@名無史さん:2005/07/06(水) 00:56:32
どういう意味?
704日本@名無史さん:2005/07/07(木) 00:42:49
布留
705日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:29:42
706日本@名無史さん:2005/08/24(水) 01:25:20
数ヶ月前の賑わいが嘘のように閑散としている
707日本@名無史さん:2005/08/27(土) 13:30:53
俺は日本の最高額紙幣は聖徳太子でなければならないと思っている。
福沢諭吉などという雑魚に代わってから日本経済がおかしくなった。
708日本@名無史さん:2005/08/27(土) 17:27:10
鬼の雪隠
709たま:2005/08/28(日) 09:31:51
あほ
710日本@名無史さん:2005/09/06(火) 20:15:42
今謹慎中で明日までに課題を全部仕上げないと退学になるかもしれません。
本当に人生かかってます。皆様どうか手伝ってください!宜しくお願いします!

第2章-1 飛鳥の朝延

1 6世紀から7世紀にかけて、政治の中心となった飛鳥地方は現在の何県か。
2 6世紀始めの政治指導者で、やがて朝鮮外交の失敗で失脚した豪族は何氏か。
3 2が失脚したのち急速に勢力を伸ばし、6世紀中ごろ激しく対立した2豪族の氏名を答えよ。
4 6世紀の末、勢力争いに勝利し政治権力を集中した大臣は誰か。
5 4に滅ぼされた大連は誰か。
6 最初の女帝であり、厩戸王を摂政に任命したのは誰か。
7 厩戸王が、豪族を官人に編成してゆくために制定した段階制度を何というか?
8 厩戸王が、豪族達に官僚としての道を説き、仏教を新しい政治理念とするために定めたものを答えよ。
9 厩戸王が、2度にわたり遣隋使として中国に派遣したのは誰か。
10 遣隋使が派隋されたころの、隋の帝王は誰か。
11 9に従い留学生として、入隋、大化改新で国博士となり、654年は隋唐使として入唐し長安で死去したのは誰か。
12 9に従い留学生として学問僧として入隋、大化改新で国博士となったのは誰か。
13 遣隋使の記事がみられる、中国の歴史書を答えよ。
14 618年、隋に変わって強大な帝国を築いた中国の王朝を答えよ。
15 14の王朝に、最初に日本から派遣されたのは誰か。
16 4が建立したといわれる寺院をあげよ。
17 鞍作鳥の代表作といわれる、法隆寺金堂の仏像をあげよ。
18 飛鳥建策をしのばせ、須弥座にはすぐれた仏画が描かれている法隆寺の工芸品は何か。
19 高句麗の僧で、日本に彩色・紙・隅の技法を伝えたといわれているのは誰か。
20 百済の僧で、日本に暦法を伝えたといわれているのは誰か。
711日本@名無史さん:2005/09/06(火) 20:56:20
>>1
古墳時代とかぶってるし
時代が短いし
そりゃ人気ないわな
712日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:59:43
>>710
カンタン
713日本@名無史さん:2005/09/08(木) 00:52:41
蘇我入鹿は実はいい人。
中臣鎌足はチョソ
714日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:58:24
鎌足はいい日本人、入鹿はわるい日本人。チョンなどいない。
715日本@名無史さん:2005/09/18(日) 15:13:58
昨日、テレビでやってたけど入鹿って
悪者なの?まあ、真実は誰にもわからない。
716日本@名無史さん:2005/09/22(木) 11:05:05
聖徳太子は存在しなかった。
蘇我馬子は大王だった。

てのが最近増えてるけど、どうなのよ?
71716歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/22(木) 11:16:05
聖徳太子自殺説
718日本@名無史さん:2005/09/22(木) 11:50:16
蘇我氏大王説だと、3人の大王は架空となる
719日本@名無史さん:2005/09/22(木) 15:46:51
架空も何も実権が蘇我氏にあって、
名目上の大王が腐れ越後屋である天皇家にあっただけじゃないの?
720日本@名無史さん:2005/09/22(木) 23:10:39
聖徳太子がいた証拠が一つでもでてきたら退職してもいいって
言ってた大学教授は誰だっけ?
721日本@名無史さん:2005/09/23(金) 12:14:25
聖徳太子という言葉自体、
奈良時代にできた言葉だからなぁ
架空っぽいね
722小姉君:2005/10/02(日) 22:24:23
なぜ父母系どちらからも蘇我稲目の孫にあたる聖徳太子を父に持ち、馬子の娘を母に持つ山背大兄王が、入鹿達に疎まれたのでしょう?
723日本@名無史さん:2005/10/04(火) 01:23:46
聖徳太子は晩年は蘇我と対立してた。それで暗殺されたともいわれる。
山背は薄々それを知ってたかもしれないし
蘇我にしてみてもそんな聖徳太子の子なんて疎ましいだろ。
724日本@名無史さん:2005/10/04(火) 21:08:52
>>721
それを言い出したら神武から元正までの諡号も奈良時代に
勅命で淡海三船が考えたものだから架空と言う事になるが
725日本@名無史さん:2005/10/04(火) 21:20:08
用明大王は蘇我稲目の外孫
厩戸王子は蘇我馬子の娘婿
山背大兄王は蘇我馬子の外孫
言ってしまえば用明皇統は蘇我系皇族
だから敏達皇統に連なる皇族達にとって
上宮王家は邪魔な存在

そして敏達皇統に連なる軽王(孝徳天皇)は
上宮王家を滅亡に追い込んだ主犯6人の中の一人
726日本@名無史さん:2005/10/04(火) 21:21:42
『上宮聖徳太子伝補闕記』に記述された主犯6人

・蘇我入鹿
・蘇我蝦夷
・孝徳天皇(当時軽王)
・巨勢徳陀古(孝徳朝の左大臣)
・大伴馬養(孝徳朝の右大臣)
・中臣塩屋枚夫
727日本@名無史さん:2005/10/08(土) 07:37:16
板違いとは思いますが、こちらの住人の方がより詳しいと思うので。。。

「日出る処の天子」というマンガがありますよね。
あれはどこまで史実通りなのですか?
特に知りたい点は、

・なぜ斎宮(布都姫)が大王に嫁いだのか
・大王亡きあと蘇我に嫁いで入鹿を産んだのは本当か
・厩戸の三番目の妻は本当に気狂いだったのか

です。
728日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:50:28
布都姫と蝦夷(毛人)の子が入鹿なのは本当です。嫁いだかは知らないけど。
王子が最も愛した膳部菩岐々美郎女は漫画では気狂いだったけど、ネットではどこにもそんなこと書いてないので創作だったと思ってたけど実際のとこどうだったんだろ私も知りたい。
えろい人教えて。
729日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:34:19
大王亡きあと臣下と再婚なんてよくある話なの?
730日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:58:04
>布都姫と蝦夷(毛人)の子が入鹿なのは本当です。

史料が錯綜しているので断言出来ないが、布都姫が「馬子の妻・蝦夷の母」だった可能性はある。
『天孫本紀』に「物部守屋公・・(略)・・妹物部連公布都姫夫人。字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ。此の夫人、
倉梯宮御宇天皇(崇峻)の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る。」とあるが、蘇我氏との
関係には触れない。 『紀氏家牒』『石上振神宮略抄』によれば、蝦夷の母親(=馬子の妻)を守屋の妹の「太媛」
とし、崇峻紀にも「蘇我大臣(馬子)の妻は、是物部守屋大連の妹なり」と記す。 「太媛」は布都姫を指すのだろう。

ところが、先の『天孫本紀』によれば、物部贄古(守屋の弟)の娘「鎌姫大刀自」が「宗我嶋大臣(馬子)の妻と為り、
豊浦大臣を生めり。名を入鹿連公と曰ふ」としている(ただ、入鹿は蝦夷とあるべき)。 『本紀』を基準に据えれば、
大王に嫁いだ女と蘇我に嫁いだ女は別人となる・・・ マンガのベースは複数の史料がチャンポンになっているな。
731日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:58:37
聖徳太子がいなかったとすれば、それに関わる人たちも
いなかったということになるの?
馬子の娘や推古の娘などの4人の妻たちや、その子供たちとか。
732日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:05:26
聖徳太子ってキリスト教徒だったってほんとかな?
本で見たんだけど・・・
733日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:10:05
538年 仏教伝来
1549年 キリスト教伝来

仏教が入ってくるまでは神道てのがあったけど
それはキリスト教で言うGODとは違うしなあ。。。
734日本@名無史さん:2005/10/11(火) 02:10:27
厩戸皇子が架空の存在なら、それなら山背大兄王の父親は誰かという
大問題が出て来る
山背大兄王の父が厩戸皇子以外だという事が、史料価値の
非常に高い史料で証明されない限り、厩戸皇子架空説は成り立たない
735日本@名無史さん:2005/10/11(火) 18:28:07
私も聖徳太子は実在したと思う。
ただ、生まれてすぐに言葉を発したとか、幼児期に高僧の悟りに達したとか、
10人の訴えを同時に聞いて的確な判決をおこなったとか、未来を予言したとか、
そういうのは後付けの伝説っぽい。
736日本@名無史さん:2005/10/11(火) 19:04:43
>山背大兄王の父が厩戸皇子

意外だが、日本書紀にこの父子関係は記されておらず、
ただ大兄王が上宮王家の1人であったことを知るのみ。
平安時代、「厩戸皇子と山背大兄王は父子関係でない」
との俗説が巷に流れていたという・・・
737日本@名無史さん:2005/10/11(火) 20:09:09
だって山背は刀自古と毛人の子供だもん(^^)
738日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:23:09
どうも大山氏の「聖徳太子はいなかった」説が誤解を受けて一人歩きしてるな
あくまでも実在しなかったのは「スーパーマン的」で「政治上重要な役割を果たした皇太子」の聖徳太子であって
斑鳩宮を営んだ王族としての「厩戸王」は否定されてないよ
739日本@名無史さん:2005/10/11(火) 22:02:23
関裕二とかの影響じゃないの?
740日本@名無史さん:2005/10/11(火) 22:02:58
741日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:55:45
>>737
女が嫌いつってたわりには子供いっぱい作ってるね(^^)
ホモでゲイでマザコンでロリコン(^^)

742日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:35:15
厩戸はいたが太子は架空なら、推古も架空で、大王は馬子だということになる
それの方がすっきりしていいかもしれん
743日本@名無史さん:2005/10/12(水) 20:27:30
蒲地のり子は実在だが松田聖子は架空。
昭和天皇は架空だが裕仁は実在。

・・・っていってるようなもんだろ。馬鹿げてるよ。
744日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:42:50
そして誰もいなくなった・・・
745日本@名無史さん:2005/10/13(木) 17:00:25
いるお(^^)
746日本@名無史さん:2005/10/13(木) 17:45:29
太子はみんなの心の中にいるってことでいいじゃないか。
747日本@名無史さん:2005/10/13(木) 19:50:51
太子信仰やね
748日本@名無史さん:2005/10/17(月) 00:02:52
未来記って偽書なの?
749日本@名無史さん:2005/10/17(月) 02:00:55
もちろん。200xは片腹痛し
ttp://www.ntv.co.jp/FERC/research/20001119/f012.html
750日本@名無史さん:2005/10/26(水) 09:55:07
語りませんか
751日本@名無史さん:2005/11/07(月) 17:26:00
落ちるよ
752日本@名無史さん:2005/11/15(火) 01:32:04
聖徳太子の邸宅跡は?
753日本@名無史さん:2005/11/15(火) 01:52:43
>>752
斑鳩宮
754轆輪眞山:2005/11/15(火) 02:48:26
聖徳太子は被差別部落民の先祖
『日本人と日本語の起源・・4』・・・・轆輪眞山

http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r21287134
755日本@名無史さん:2005/11/16(水) 01:07:51
上宮
756日本@名無史さん:2005/11/17(木) 13:57:51
日本書紀もそこそこ信じられる読み物だったのかな。
蘇我の邸宅発見で。聖徳太子も実在だろう。
757日本@名無史さん:2005/11/19(土) 16:48:34
蘇我の邸宅という証拠はまだ出てないのではなかったかな
日本書紀の記述を踏まえて蘇我の邸宅と報道しているんじゃない?
758日本@名無史さん:2005/11/19(土) 23:34:21
嘘八百描いて無知な連中をだまくらかす元祖ショタおば山岸凉子は氏ね。
聖徳太子とその妻達を汚しおって!!
くそショタばばぁは、死刑じゃ!!!!!!!
759日本@名無史さん:2005/11/21(月) 22:17:24
>>738
こういうことに関しては
日本史板のキモ(歴史)ヲタどもより
三戦板の低脳バカどものほうが物分かりいいな
(バカだけど実直だからね)

諸葛孔明が正史だとスーパーマンじゃ無かったとか
知ってた上で歯牙にもかけずに楽しんでるし
760日本@名無史さん:2005/11/22(火) 05:32:20
あ 作家ねロクさんって某所で有名な…

なんかなつかしーなー
忘れてたよ
761日本@名無史さん:2005/11/22(火) 13:05:04
聖徳太子の最愛の妻・菩岐岐美郎女は、
かなりの才女で、聖徳太子の片腕となって国政を手伝っていたらしい。
太子の、よき相談相手でもあったそうだ。

それを、山岸凉子が、クソ漫画で知的障害者に描きやがった。
そいつを、実際に信じ込んでいる奴らもいるから、痛すぎ。。
まさか、聖徳太子まで「快楽殺人者のホモ吉」と信じ込んでいる奴はいねぇだろな!!?
762かしわで:2005/11/22(火) 15:32:17
若い娘をたぶらかしたのはほんと…

とんでもない おっさんだwww
763日本@名無史さん:2005/11/24(木) 22:50:18
山背大兄王にとっては、母の蘇我刀自古が生きていた方が良かったけどな
刀自古が生きていたら、蝦夷も山背を天皇に推薦したかも知れないからな
764日本@名無史さん:2005/11/26(土) 11:37:24
 聖徳太子の正体は用明天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で天皇になっていない筈がありませ
ん。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になります。
 根拠
「日本書紀」によると用明2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人皇太子
(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとしたが、それが
難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇太子の家臣の迹身
赤檮(トミノイチヒ)は中臣勝海が退出するところを刀を抜いて殺害したとあ
る。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用明天皇と聖徳太子を呪詛したこ
とが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に迹見赤檮
(「伝暦」では太子の舎人となっている)がいて、この人物が物部守屋を弓矢
で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での出来
事であることは一目瞭然で、同時期に迹見赤檮は彦人皇太子と聖徳太子の両方
の家臣になっている。ということは彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると
いう証明になる。
645年、天皇に即位していた聖徳天皇(聖徳太子)は三韓の使者の挨拶を受
けていた時に中大兄皇子(百済王の子豊璋)と中臣鎌足(新羅の武王)によっ
て殺害された。大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えている。中大兄
皇子は祖国復興のために日本軍を白村江の戦いに派遣して、多くの犠牲者を出
させた。
765日本@名無史さん:2005/11/26(土) 13:04:54
またコピペか
766日本@名無史さん:2005/11/26(土) 13:10:36
 聖徳太子の未来記
その時、魔王波旬は仏法を利用して、本当の仏法を打ち破ろうと企み、日本を
乗っ取って、鬼の国にしようと願う。そのために、三人の眷属を使って三人の
僧(一遍法師、日蓮法師、親鸞法師)に化けさせた。邪法、魔業を授けて、日
本の衆生を惑わして、三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)に落とそうと願う。
以下省略
三番目は親鸞聖人と名乗る。この世のすべてものが仏の現れであるのに、もっ
ぱら、阿弥陀仏一仏を信じ、仏の決まりを修めずに、ただ、南無阿弥陀仏の念
仏を唱え、本当の僧を頼らずに自作の親鸞上人を敬い頼りとする。黒色の衣装
をまとわず、鼠色などの衣装で着飾り、戒律を守らず、女を犯すことを良しと
し、不浄を避ける食事を取らず、肉食を行い、釈迦の仏法を汚して、神社を穢
し、大衆を集めて、死者をえさにして、食い物とする。信徒を惑わし、畜生道
に落とす。ゆえに、天皇や公家は許さずして、犬衆と名づけ、武家は信ぜずし
て、悪党と呼ぶ。この一党は本当の仏法のきまりに従わず、王家や武家の法律
にも背いている。これが、戦争が起こる因縁であり、国が滅びる基になる。
日本の末世には、この三悪魔を見聞きしても禁じ断つ者がないと、六天の魔王
は活躍し、外国の理智に暗い人間は歓喜し、畜生の心の人間が本性を現して言
葉を話し、龍が空を飛び、悪魔が巖などにへんげする。地球の軸が大きく傾い
て、暗闇の世となり、夜半に太陽が出る白夜となり、北に月が出る。
聖徳太子が日本の将来を憂いて、このような予言書を残してくれました。本当
に有難い事です。日本を救う道は、太子が残してくれたものの中に、きっとあ
る筈です。
767日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:11:56
>>764
悪いけどその説には乗れない
俺は敏達系皇統と用明系皇統の対立があったと考えているからね
そして押坂彦人大兄皇子は敏達系皇統の代表者として
用明系皇統の代表者である厩戸皇子と対立関係にあった
この対立関係はその子である田村王(舒明天皇)と山背大兄王の対立へと
持ち越され、軽王を含む敏達系皇統によって、用明系皇統の山背大兄王
以下、上宮王家が滅ぼされたと認識している
768日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:17:39
その説の最大の難点は、押坂彦人大兄皇子が厩戸皇子と
同一人物なら、田村王と山背大兄王は父を同じくした
兄弟という事になるが、この二人が兄弟であるとする史料がない
したがって押坂彦人大兄皇子は田村王の父
厩戸皇子は山背大兄王の父である
769日本@名無史さん:2005/11/27(日) 05:27:33
敏達記ではだめか?
770日本@名無史さん:2005/11/27(日) 08:42:32
典型的な電波の論法

1、○○と××は同一人物
2、○○の正体は××
3、○○は架空、捏造で存在しなかった
771日本@名無史さん:2005/11/27(日) 08:53:38
こうですか?

1、神武と崇神は同一人物
2、多利思比孤の正体は聖徳太子
3、神功皇后は架空、捏造で存在しなかった
772日本@名無史さん:2005/11/27(日) 13:25:17
>>771
俺は、
1、神武と応神は同一人物
2、多利思比孤の正体は聖徳太子
3、神功皇后は架空、捏造で存在しなかった
だと、素で思っている
773日本@名無史さん:2005/11/27(日) 13:43:48
>>769
敏達記では
押坂彦人大兄皇子と厩戸皇子を
同一人物だと記述してるの?
それと敏達記とは古事記所収?
774日本@名無史さん:2005/11/30(水) 17:11:20
厩戸ってのは、別な字では
驛遞うまやど駅逓
ロジスティックとインフォメーション、
そしてインテリジェンス(諜報)

「厩戸王子は10人の話を同時に聞き分けた」
と言われる
つまり舎人を繰って豪族の動きを常に察知していた
厩戸は新しい外来の技術を取り入れた秘密警察の長
でもあったのだ

蘇我と厩戸は輸入した新技術と仏を楯にして、
古来の神にすがる物部ら神道系を倒した
(そして共通の敵を失った後、厩戸の一族は蘇我に焼かれた)

厩戸はダーティな世界に手を染めた、知りすぎた男だった
彼は権力を掴んだが、
公の世界で皇位を継ぐ者にはなれなかった
775日本@名無史さん:2005/12/13(火) 22:47:55
聖徳太子って朝鮮半島で生まれたんですか?
776日本@名無史さん:2005/12/14(水) 03:03:19
>>775
聖徳太子(厩戸皇子)は日本で生まれ育ち亡くなりました
777日本@名無史さん:2006/01/09(月) 02:26:28
778日本@名無史さん:2006/01/09(月) 03:18:13
物部は倒したけど、神道を排しはしなかったでしょ。
779日本@名無史さん:2006/01/10(火) 13:58:06
そうですね
780あげ:2006/01/18(水) 21:15:48
その時歴史が動いた
「古代の文明開化」日本最初の寺院・飛鳥寺建立
▽蘇我馬子の世界戦略とは
781日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:45:37
NHKの番組まったく聖徳太子の存在に触れず
まるで馬子が天皇であるかのような扱い
782日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:46:36
飛鳥とは鳥トーテムの現れ。
783日本@名無史さん:2006/01/19(木) 07:40:12
↑あ 誰かさん見つけた
784日本@名無史さん:2006/01/22(日) 06:48:07
何であれだけ聡明な聖徳太子がいたのに
わざわざ推古天皇が前例のない女性天皇として即位し、
しかもわざわざ摂政なんて役職を作って聖徳太子を任じたの?
聖徳太子が天皇として即位すればいいじゃんって子供の頃から思ってた。
聖徳太子は蘇我系だし、蘇我氏としても何も問題はないのでは?
蘇我氏が聖徳太子では傀儡できないから嫌がったのであれば、
摂政にもしないはずじゃないかと思うんだけどね。
785日本@名無史さん:2006/01/22(日) 12:35:53
「聡明な」という書紀のバイアスに捕われてはいけない。 厩戸は
王位継承候補者の1人に過ぎず、他に彦人大兄や竹田がいた。
彼らの紛擾を避けるべく、一世代上の推古が即位したのである。
推古が欽明の皇女であったこと、敏達の后として私部などの財政
基盤も磐石であったこと、崇峻の即位を推し進めたことからして、
彼女の政治に対する発言力は察するに余りある。また即位に際し、
蘇我氏を筆頭に群臣の推挙があったことも見逃してはならない。

書紀には厩戸皇子が皇太子として「政を録摂す」と記述しているが、
「摂政」なる語は存せず、実際は厩戸が馬子と組んで、大王政治
を輔弼する構造だったらしい。彦人大兄や竹田と違って蘇我系の
厩戸は、蘇我氏から経済的優遇を受けたことも想像に固くない。
786日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:32:59
押坂彦人大兄皇子は蘇我氏との血縁関係はない
竹田皇子は母の推古天皇を通して蘇我氏と血縁関係があった
(推古は馬子の姪)
厩戸皇子は父の用明天皇、母の間人皇后。つまり父系、母系の
両系統を通して蘇我氏と血縁関係があったから、馬子にとっては
意中の皇子だったであろう
(用明、間人は共に馬子の甥と姪)

厩戸皇子が押坂彦人大兄皇子や竹田皇子を押さえて皇太子
(当事、こ名称があったが疑問だが)になったのは、蘇我氏との
血縁が一番濃い皇子であったからだろう
787日本@名無史さん:2006/01/23(月) 13:47:05
>>784
蘇我氏が聖徳太子を天皇にするために時間かせぎが必要だったから。

順当に考えると押坂彦人大兄が即位すべきところだが
そうなると永遠に聖徳太子に皇位は回ってこなくなる可能性が高い。
そこで先帝の皇后を立てて時間かせぎし、その間に摂政として
実績と実権をつかんでおくという作戦。
788日本@名無史さん:2006/01/23(月) 19:48:14
ところが、押坂彦人大兄も竹田も厩戸もあぼーん
789日本@名無史さん:2006/01/23(月) 20:36:49
聖徳太子は「脇役」という立場にいてこそ力を発揮するタイプだから…って話は嘘とみていいのですか?
790日本@名無史さん:2006/01/23(月) 22:55:33
どこの話やねん
791日本@名無史さん:2006/02/06(月) 13:54:51
>>787
そもそも聖徳太子って、実在してたの???
792日本@名無史さん:2006/02/06(月) 23:11:24
大兄であっても即位できない皇子もいたし、敏達や崇峻みたいに弟王が即位した例もある
皇位継承が兄弟間で行なわれていたのが基本だったようではあるが、推古が早く死んだとしても厩戸が即位できたとは限らない
793日本@名無史さん:2006/02/07(火) 00:21:21
>>791
厩戸皇子は実在しました
794日本@名無史さん:2006/02/07(火) 10:33:13
日本書紀も聖徳太子の頃の記述はそこそこ信用できそうだから
実在したんでしょう。
795日本@名無史さん:2006/02/07(火) 10:55:25
「そこそこ信用できそう」の根拠が不明
796日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:32:00
日本書紀より成立が古い「上宮聖徳法王帝説」という
史料から考えて聖徳太子は実在した

つまり聖徳太子実在の根拠は日本書紀だけではない
日本書紀より成立が古い史料が、実在の根拠となっている

ちなみに日本書紀と上宮聖徳法王帝説とでは
欽明天皇の即位の年や、仏教伝来の年が違っている
797日本@名無史さん:2006/02/07(火) 23:12:05
アメ・タリシヒコは実在の人物?
798日本@名無史さん:2006/02/08(水) 00:33:45
たぶん聖徳太子
799日本@名無史さん:2006/02/08(水) 09:50:16
九州政権の王じゃないの?
800日本@名無史さん:2006/02/09(木) 21:33:26
中国に通じようとしていた九州勢を攻めようとしたのが、
崇峻紀の筑紫出兵ですよね
801日本@名無史さん:2006/02/10(金) 00:17:45
厩戸皇子も弟の来目皇子を将軍に任じて筑紫に派兵している
802日本@名無史さん:2006/02/11(土) 00:36:26
アメ・タリシヒコ政権はその出兵で滅んだのでしょう。その政庁があったところに派遣されたのが筑紫宰(かな?)
803日本@名無史さん:2006/02/11(土) 00:37:32
聖徳太子って何それ?
804日本@名無史さん:2006/02/12(日) 00:24:43
電波ゆんゆん
805日本@名無史さん:2006/02/14(火) 01:58:20
摂録だったんでしょ
806日本@名無史さん:2006/02/14(火) 19:07:17
★★ 和漢同盟と百済建国 ★★

4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について、皆さんの意見を書き込んでください。
和漢同盟があってこその、百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。

百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の役人や武将、
民間人が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。
807日本@名無史さん:2006/03/02(木) 10:01:59
>>793
だから、聖徳太子って、実在してたの???
808日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:59:34
>>807
後に聖徳太子と呼ばれるようになった厩戸皇子(王子)は実在した
809日本@名無史さん:2006/03/03(金) 19:40:02
聖徳太子は不在でした
810日本@名無史さん:2006/03/24(金) 11:20:45
ん?
811日本@名無史さん:2006/03/25(土) 00:43:53
後の聖徳太子と尊称された厩戸皇子は実在の人物です

斑鳩寺(若草伽藍跡)や、中宮寺にある天寿国繍帳が
厩戸皇子実在の物的証拠

架空説=電波説ですなw
812日本@名無史さん:2006/04/06(木) 13:55:28
なんか最近の教科書では聖徳太子と書かず厩戸王にするらしいが、
用明天皇の子なら王じゃなくて皇子でないの?
なんで王なのか分かる人います?
813日本@名無史さん:2006/04/07(金) 01:19:39
「天皇」号が成立してないからでしょ
814日本@名無史さん:2006/04/07(金) 04:52:25
>>813
じゃそれ以前の天皇皇族も変えてんのかな?
聖徳太子だけ?
815日本@名無史さん:2006/04/07(金) 10:58:54
>>812
天皇という名称が正式に使用されたのが天武朝だからでわ
それ以前は天皇ではなく大王と名乗っていたらしい

そして厩戸皇子は用明大王の王子だから、厩戸王子または厩戸王

王族のトップは大王
臣系氏族のトップは大臣
連系氏族のトップは大連
だったらしい
816日本@名無史さん:2006/04/09(日) 01:34:20
>>815
でも厩戸以外の天皇などが教科書での呼称が変わったって話も聞かないが…。
天智天皇とか推古天皇とかはどうなるんだろ?
もし厩戸だけならなんでかね?
817日本@名無史さん:2006/04/09(日) 12:37:50
厩戸皇子の“聖徳”という漢風諡号は、朝廷によって正式に定められた
訳ではないからだろう

だから教科書では使わなくなったと思われ
(聖徳太子は正式な名称ではない)

神武から聖武までの漢風諡号は、朝廷の命により淡海三船が名付けた
正式な諡号

それに対して聖徳太子の“聖徳”は、上宮聖徳法王帝説で厩戸王子を
聖徳法王と記述しているところから、慣習化されたモノだからだろう

正式な諡号ではないが、聖徳太子が余りにも有名な名称になったから
(聖徳太子信仰等によって)
朝廷では天皇の諡号に、聖徳という用語は使用しなかったと思われる

したがって、称徳天皇という諡号を持つ天皇は存在したが
聖徳天皇という諡号を持つ天皇は一人も存在しない

つまり聖徳は聖徳太子が独占している状態で、これからも聖徳という
天皇は存在しないだろう

まあ元号に聖徳が採用されたら、その時の今上天皇が没後に
聖徳天皇と呼ばれる事になるが、元号に聖徳が採用されるとは
思えない

政府も聖徳太子に遠慮して、元号に聖徳は使わないと俺は思う
818日本@名無史さん:2006/04/09(日) 18:19:54
聖徳宗という宗教もあるし、聖徳(せいとく)という学校もありますね。
元号が聖徳になったら俺はウホッ!だけどな。
遠慮する必要もないでしょうに。
819日本@名無史さん:2006/04/09(日) 20:06:05
聖徳宗の本山は法隆寺
そして法隆寺は厩戸王子が建立したお寺
昔は法相宗のお寺だったけど
現在は法相宗から独立し聖徳宗という宗派を
結成してその本山になった
820日本@名無史さん:2006/04/09(日) 20:37:02
去年法隆寺に行った時に聖徳宗の文字を見て初めて知ったのですが
そんな経緯があったのですね。
821日本@名無史さん:2006/04/10(月) 15:13:44
××王というのは大王の孫以降に使われるとどっかのスレであったけど…。
用明大王の王子なのになんで厩戸王子じゃなくて厩戸王?
822日本@名無史さん:2006/04/10(月) 18:09:12
四天王寺は「和宗」
もちろん厩戸憲法の第一条にちなむ
823日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:04:18
>>821
史料で皇子をそのまま「王子」と表記している例は無いと思うが?
学問上、大王の孫以下の「王」と区別するための便宜的な呼称。
824821:2006/04/11(火) 14:41:12
>>823
ありがd。
じゃ昔は皇子→王だったんですね。
825日本@名無史さん:2006/04/12(水) 01:19:43
826日本@名無史さん:2006/04/12(水) 01:21:43
>>825
なんだこれwwwwwwww
827日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:28:06
>>821
上宮聖徳法王帝説の記述だと用明天皇の皇子達(間人皇后所生)
厩戸豊聡耳聖徳法王、久米王、殖栗王、茨田王と記述されている
このうち「豊聡耳聖徳法」は敬称だから、そこを除けば厩戸王

つまり厩戸に限らず、日本書紀より古い時代の史料では
用明天皇(大王)の皇子(王子)達は、○○王と記述されている

教科書で厩戸王と書くのは、当時の呼び方に従っているモノと思われ
828日本@名無史さん:2006/05/02(火) 01:49:50
小野妹子 というか おののいモー子 萌え〜
829日本@名無史さん:2006/05/02(火) 02:53:10
つまりキリストなんだね。
830日本@名無史さん:2006/05/02(火) 04:54:44
用明天皇は正式には即位してない説も最近あります。
831日本@名無史さん:2006/05/02(火) 16:03:01
珍説だけどな。
832日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:01:59
また電波説が誕生したのかよw
まともに史料を読めば、電波なんて受信する事は無いのになぁww
833日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:49:44
むしろ崇峻のほうがまともな扱いされてないだろう
大妃はいない、もがり宮も営まれず、おくり名も幼名のまま
史上最大の弑逆事件なのに馬子は罰せられるどころか
逆に重用されている
834日本@名無史さん:2006/05/04(木) 17:34:34
だってそれが政治というものだもん。

さて、「王」の件についてですが、あれが釣りだとしても、再度、記入。

用明天皇の皇子に限らず、古代皇族はそうなんじゃないんですか。
忍熊王とか倭彦王とか市辺押磐王とか。
835日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:36:27
836日本@名無史さん:2006/05/21(日) 21:40:29
上宮一家の血脈を伝える人たちが
秘密を伝承しているかもしれない
837日本@名無史さん:2006/05/26(金) 22:29:19
■民主党が伊藤公介の証人喚問を要求■
衆議院ビデオライブラリ
5月24日 国土交通委員会
質疑者 馬淵澄夫(民主党・無所属クラブ)
http://www.shugiintv.go.jp/jp/wmpdyna.asx?deli_id=30831&media_type=wb&lang=j&spkid=6933&time=01:42:39.7

5月12日 国土交通委員会
質疑者 馬淵澄夫(民主党・無所属クラブ)
http://www.shugiintv.go.jp/jp/wmpdyna.asx?deli_id=30577&media_type=wb&lang=j&spkid=6933&time=01:39:06.6
47:00ぐらいから
見どころ・・・新たな疑惑が発覚
838日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:16:35
>>833
崇峻天皇が弑逆されても、誰も馬子を責めなかったのは
蘇我氏と蘇我系大王の身内争いで、しかも崇峻の方が馬子を
先に殺そうと考えていたから

つまり蘇我系王族達にとっては、馬子>崇峻だったと言う訳だな
839日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:30:23
額田部大王(推古天皇)の子供達も、上宮聖徳法王帝説では
たとえば尾治王などのように、皇子ではなく王と記述されている
つまり当時は、大王の子も王と記述されるのが慣例だったのであろう

*尾治王の娘である位奈部橘(女)王(額田部大王の孫)は厩戸王の妃
840日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:51:30
額田王
841日本@名無史さん:2006/06/28(水) 22:36:56
近親相姦に萌え
842日本@名無史さん:2006/07/05(水) 06:01:52
とすると、用明や蘇我系統でない藤原氏は、何人系になるのですか??
唐人系、百済人系、何々人系??
843日本@名無史さん:2006/07/05(水) 23:31:17
天神系
844日本@名無史さん:2006/07/07(金) 15:46:12
 聖徳太子の正体は用命天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になりま
す。
 根拠
「日本書紀」によると、用命2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用命天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると特定できます。
なぜ、聖徳天皇の業績が残らなかったのか。聖徳天皇を暗殺した事実を隠
蔽するためなのです。645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)
は、三韓の使者の挨拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)
と中臣鎌足(新羅の武王)によって殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られ
てしまったのです。
大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてしまいました。
中大兄皇子は祖国復興のために、日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。
845日本@名無史さん:2006/07/07(金) 16:16:24
846日本@名無史さん:2006/07/14(金) 11:53:32
日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
 秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
 白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
 蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。天皇家は偽者(朝鮮人)であり、日本は昔からフリー
メーソンに支配されていた。
 藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
 家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
 徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
 寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
 ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良田元信である事の証拠となる。

847日本@名無史さん:2006/07/18(火) 07:39:26
>>846
古代日本において秦氏の力が大きかった
と主張する点は評価できるが、あとが間違いだらけ。

秦氏は朝鮮経由で日本に来ているが、朝鮮人ではないだろう。

秦氏は一言でいえば、シルクロードでシルクの売買をしていた商人。
日本でも養蚕と絹織物を生業としていたし、
高価なオリエント由来の献上品を度々送り、
土地や資金や技術を提供して、平安京を作り上げるなど
莫大な富をもっていた証拠が多々ある。
848日本@名無史さん:2006/08/06(日) 12:33:25
うそつき
849日本@名無史さん:2006/08/11(金) 14:06:10
 京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、
歴代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになってい
ます。と言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、
聖徳太子の祟りを恐れて慰めるための行事だと分かります。 
 聖徳太子の正体は用命天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になりま
す。
 根拠
「日本書紀」によると、用命2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用命天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると特定できます。
なぜ、聖徳天皇の業績が残らなかったのか。聖徳天皇を暗殺した事実を隠
蔽するためなのです。645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)
は、三韓の使者の挨拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)
と中臣鎌足(新羅の武王)によって殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られ
てしまったのです。
大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてしまいました。
中大兄皇子は祖国復興のために、日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。
850日本@名無史さん:2006/08/11(金) 23:16:17
いきなりすみません。飛鳥文化の特色を記述で書くとどのように書けばいいのでしょうか?
851日本@名無史さん:2006/08/11(金) 23:55:55
宿題なんです
早く教えろ
852日本@名無史さん:2006/08/12(土) 00:03:02
日本最古の歴史を持つ建築会社ケージー建設(旧金剛組)が自己破産申請。
旧金剛組は聖徳太子の命により四天王寺の建築を手掛けている。


どんな会社だよw
853日本@名無史さん:2006/08/12(土) 12:25:48
>>851
これは自分ではありません…
国際色が豊かと聞いたんですが本当でしょうか?
854宇治小町 ◆Coro/vD7aI :2006/08/12(土) 14:46:35
>>849
法隆寺にひけをとらないくらい、「怨霊」分が高そぉですねぇ ..
855日本@名無史さん:2006/08/13(日) 00:25:01
856日本@名無史さん:2006/08/18(金) 11:50:10
 戦争責任は人類すべての人間にあるのです
 野生の動物の世界は弱肉強食の悪法がはびこり、戦争状態である。たとえ、
百獣の王ライオンであっても、その子はハイエナに食われる。人間の世界も物
欲によって争闘し、最後には殺し合いとなる。これは人間の欲望に限りがない
からであり、ぜいたくを享楽しているためである。肉食は食欲のぜいたくの極
みであり、これを得るためには家畜を殺し、弱者を犠牲にしなければならない。
動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。これでは、人間の霊性は獣と
何ら変わることがなく、自分の子供がハイエナに食われても文句が言えない。
 人間の横暴によってすべての生物が地獄の苦しみにあえいでいる。先の大戦
の犠牲者はこうした人間の行為の償いであり、神からの啓示である。だから、
戦争責任は人間が自らの行為を反省することなく、物欲を発揮してぜいたくを
むさぼっている、人間一人一人にあるのです。
 偽科学が常識を盲信させる
 非ユダヤ人において、科学の盲目的信仰が功を奏しているようである。学校
の教科書で教えられる事がすべて正しいと信じる。こういった人々にとっては
権威ある学会が言うことのみが正しく絶対なのである。
 ユダヤ議定書(第2議定書)
 非ユダヤ人は歴史を基礎とする観察を怠り、専ら理論上の旧弊に囚われて、
その結果に対する批判的工作を忘却している。我々は新聞雑誌を利用してこの
科学理論を盲目的に信用させる。非ユダヤ人の知識階級は自己の知識を誇りと
して、科学から得た知識でものを考えようとする。その知識を論理的に吟味も
せず、その知識なるものが、人間を我々の目的の実現に向けて、教育するため
に作られた事に気がつかないのである。悪魔の世界制覇に向けて。我々の主張
を根拠なきものと思ってはいけない。我々の仕組んだところのダーウィン、マ
ルクスの教説の成功に注意なさるがよろしい。これらの教説は非ユダヤ人の心
に破壊的作用を及ぼした。ダーウィンの進化論は常識となっている。チンパン
ジーは何時になったら人間となるのか。急には進化できないから、その中間の
形態のものが存在しなくてはならない。
857日本@名無史さん:2006/08/19(土) 15:55:13
 天皇家はフリーメーソンだった
 狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。右左で阿吽の形になってい
る。
 古代のイスラエルは北王国ヨセフと南王国ユダの二つに分裂していて、ヨセ
フ王国の紋章が一角獣(ユニコーン)であり、ユダ王国の紋章が獅子である。皇
室に伝わる紋章には右に獅子が、左に一角獣(ユニコーン)が描かれ、中央には
12匹の獅子が描かれている。これはイスレエル12支族を表している。
 ヨセフ王国の10支族が中央アジアに移った。彼らは肌の色が白いことから
白狄族と呼ばれ、ヘブライ文明の高い技術力で騎馬軍団を組織して中国を制覇
し、秦帝国を築いた。秦帝国滅亡後、北魏を建国した。後に朝鮮に移って百済
王家にとって代わった。
 百済王子豊璋と新羅王武王が三韓の挨拶の時に聖徳天皇を殺害し、中大兄皇
子(百済王子豊璋)は一時難波へ逃れ、聖徳太子の子高市皇太子と孫長屋親王を
殺害して、草壁皇子にすり替わったのである。その前は中大兄皇子に化けてい
て、大化の改新の後ずっと、天皇に成れなかったのは聖徳太子の子が天皇に成
ったためで、推古、皇極天皇などの女帝は虚構で、その後に天智天皇となり、
自分の子を文武天皇にしたのある。こうして、日本はフリーメーソンの陰謀に
よって乗っ取られたのです。
858日本@名無史さん:2006/08/22(火) 00:22:15
ふぉぉ?日本にもKKK団の構成員がいるとみたw
そんな攻撃には乗せられませんからね。
日の本は神州なり。
859日本@名無史さん:2006/08/24(木) 15:25:21
 京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、歴
代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになっています。
と言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、聖徳太子の
祟りを恐れて慰めるための行事だと分かります。 
 中大兄皇子が白村江の戦いに日本兵を派兵した理由は祖国復興しかないのだ。
百済が滅び。それを復興させるための籠城戦の救助のために、なぜ日本兵が助
けなければならないのか。日本にとって百済が滅びても痛くもかゆくもない。
まして、この時代の海運技術では補給が続かない。百済を助けることは無理で
ある。このような援助すべき義理もない。すなわち、百済復興以外理由はない
のである。だから、中大兄皇子は百済王子である。
 日本の白鳳時代は米作中心の経済国家で、文化も唐から入ってきた未開の国
ではないのか。そんな遅れた国の技術の兵器で朝鮮を侵略したり宗主国になれ
るものか。
 日本の歴史学の学会はフリーメーソン(華僑系)が支配しており、日本は侵略
国家であると洗脳するために神功皇后の三韓征伐と言うでたらめを作文したの
だ。聖徳太子暗殺の事実を隠すために聖徳太子架空論を出してきているのだ。
明智光秀(長屋親王の子孫)有罪論も日本の正当な天皇を闇に抹殺して、朝鮮人
の偽の天皇を正当化するためのプロパガンダなのだ。君たちはまんまとその罠
にはまってくだらない事で議論しているのだ。もっと常識と自分の頭で考えろ。
馬鹿な学者の意見など鵜呑みにするな。 
860日本@名無史さん:2006/08/24(木) 23:10:31
常識と自分の頭で考えていますが何か?
聖徳太子架空論って聖徳太子暗殺を隠すために出てきた説なのか?
それならば奈良時代〜昭和まで、どうして架空説が、説かれなかったのか?
あなたの文面の中に「日本の白鳳時代は米作中心の経済国家で、文化も唐か
ら入ってきた未開の国ではないのか。そんな遅れた国の技術の兵器で朝鮮を
侵略したり宗主国になれるものか。」とあるけど、朝鮮半島の諸国も同様に
唐文化を受け入れる存在だったのではないのかね?
それが証拠に、今日の朝鮮半島の住民の姓は、みな、中国式だ。
日本にはこれが当てはまらない。オリジナル性を維持できているのは日本。
仮に百歩譲って、葛城皇子が百済の皇子だったとしても、俺としては疑問
が残るんだな。
それは何かというと、
「葛城皇子がそこまでして復興に熱心な百済人だったのだとしたら、なぜ
大和の国号を百済もしくは新百済的な名前に改名しなかったのか?」
「”百済王家の栄光の伝承”のようなものをどうして子孫に伝えようとし
なかったのか?百済人だったらそこまでするんじゃないのか?」
ということだ。
明智光秀が織田信長を討ったのは、日本に歴史学会なるものが登場する
以前だし、まあ、歴史家というものはいたにせよ、三韓征伐の逸話を聞
いて「日本は侵略国家なんだ」なんて想像できる奈良〜江戸時代の一般
人なんてどの程度いるものなんでしょうかねえ?
平成の世になってからの後付のこじつけにしか思えませんよ、あなたの
説は。
861日本@名無史さん:2006/08/24(木) 23:14:40
結局>>856=>>857=>>859の意見って半島系街宣右翼のパロディなんですかね?
日本人でありながらこんな考え方の人間がいると思うと情けないw
862日本@名無史さん:2006/08/24(木) 23:19:54
よって葛城皇子は日本人であります。鎌足も日本人であります。
馬子も蝦夷も入鹿も、皆日本人。巨勢徳太も日本人です。
物部尾輿も、大伴金村も、平群真鳥も、みーんな日本人。
863日本@名無史さん:2006/08/24(木) 23:26:40
FM厨は大阪の四天王寺に行って厩戸王に謝って欲しい
864日本@名無史さん:2006/08/25(金) 13:58:10
>>860
 朝鮮半島の諸国も同様に唐文化を受け入れる存在だったのではないのかね?
答 だったらその朝鮮を支配して唐が宗主国なるのが本筋である。陸続きだから。
 聖徳太子架空論って聖徳太子暗殺を隠すために出てきた説なのか?
答 法隆寺が聖徳太子の怨霊封じをしていると言う説を梅原猛氏が出したため。
 それまでは朝鮮人の支配者が弾圧を行って、言えば殺される。
百済王家の栄光の伝承のような物をどうして子孫に伝えようとしなかったのか。
答 そんな事をしたら、日本人に天皇が朝鮮人だと気づかれて支配できなくなる。
 麿と言うのは百済王家が使った王と言う意味で、神社の狛犬は古代イスラエル
の北王国ヨセフの紋章である一角獣である。文武天皇は新羅の文武王からの由来。
 皇太子の名前は押坂彦人大兄皇子のように大兄の前に4字の漢字が付くのが
普通なのに、中大兄皇子と言う下手な命名は朝鮮人が付けた為で、中大兄皇子
は白村江の戦いで敗れた後、九州各地に防兵堤を築いている。小国日本が唐・
新羅連合国に勝てる訳がなく、初めから、分かっているのに無理したのは祖国
復興しか有り得ない。
 三韓征伐の逸話を聞いて日本は侵略国家なんだなんて想像できる人はいない。
答 中大兄皇子が日本を侵略したことを隠すために、反対に日本が朝鮮を侵略し
ていた事にすれば、白村江の戦いが日本の侵略戦争の一つと捉えられ、誤魔化
す事が出来るのです。
 明智光秀が織田信長を討ったのは以下
答 日本の天皇と朝鮮人との戦いは聖徳太子暗殺から始まっている。南北朝時
代の南朝側が日本で、北朝側が朝鮮人である。聖徳太子の孫が長屋親王で(天
武天皇の孫説は嘘)、その子孫が後醍醐天皇で、その血筋を受けた一色義澄の
子孫が斉藤義龍(明智光秀)である。 
865プラム=がいやまん:2006/08/25(金) 14:24:42
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
PU=プラム=安曇連=がいやまん =太国=ヒッキー=サガミハラ=本田=定ちゃん=彼都
♪探して♪探して♪ 更新望む


【PU作成HPワクワクするね必見だよ!】
http://www1.ocn.ne.jp/~gengoman/MyPage/album_show8.html?page=7
このアドレスよその窓に、貼り付けてみてください。この窓からは重いかも
PUのマニアックな生態が窺い知れます。

お仕置きしちゃだめ

    %%%%%%%%% 
    6| -σ-σ | 
     |   ゝ  |  <チョンコまるだしだから
     \ ∀ / 
    │|  │ 
     U ♂ )
     │|│|
     ⊂つつ

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151161164/l50
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1151055171/l50
【大ヒット書き込み中】先行ぷスレ 今は座談会になってます。 【大ヒット書き込み中】



866日本@名無史さん:2006/08/25(金) 14:37:36
天智や半島系と称される輩は今風に言えばたんなる売国奴だろが
867だれかプラムを通訳してください:2006/08/25(金) 14:45:36
========= 改め PUについてかたるスレ ===========
このスレはPUが作った乱発スレの一つですが、それを逆手にとりPU対策スレとしています
※PUは1人で自作自演して、他の人がせっかく入れた意見を、消し去ります。しかも結論も無い妄想や暴言で!何とかしてください!
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868日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:10:56
日本書紀に隠されていた暗号
 なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
 日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると敏達天皇が亡くなればその皇太子が天皇になる
から、用明天皇の存在が消えてしまうのである。敏達天皇と広姫皇后の皇太子
押坂彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、用明天皇と広子の長男も麻呂
古皇子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じであると言う事は入れ替わった
と言う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇子(朝鮮人)に入れ替わったの
である。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡くなったのか分からない。ま
るで聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子で、皇位
継承第1候補者で天皇になっていた。このことを隠すための嘘の女帝が推古天
皇である。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に卑しめて、天皇になれなかっ
たとするための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮人を妻とする筈がない。
869日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:13:40
飛鳥時代の頃はすでに全国統一されてたんですか?
870日本@名無史さん:2006/08/26(土) 16:16:19
朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
 日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
 大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。
 二人は天武天皇の血筋ではない。
 天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
 文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。
871日本@名無史さん:2006/08/27(日) 14:01:53
藤原鎌足は渡来系だろ?足をハングル語で「タリ」って言うじゃん。カマタリ。
872日本@名無史さん:2006/08/27(日) 20:05:14
>>864
当時朝鮮半島にあった政権は唐に朝貢していませんか?
日本における朝鮮人の支配者って誰のことですか?
天智天皇が1000年も2000年も長生きしていたというのですかw
お宅は「本当のことをいったら朝鮮人の支配者に弾圧されてきた」と
いってるが、平安末期以降、明治に入るまで、確かに天子様はいらっし
ゃいましたが、政治の実権は別の者が握っていたのですよ?
特に江戸時代には、武家政権が朝廷を塩漬けにしていたわけで、それでも
「朝鮮人が支配しているとばれると都合悪いので弾圧」なんてするわけで
すか?
あなたの理論だと、徳川家も朝鮮人、織田信長も朝鮮人、といってるように
見えるのですが?
873日本@名無史さん:2006/08/27(日) 20:09:50
じゃあ、その他の豪族の状況について、研究成果とやらを聞かせてよw
874日本@名無史さん:2006/08/27(日) 20:25:57
>>864の説でわからんのは、例えば、
新しい王が昔の王家の者を、女性以外は根絶やしにした
ってのならわかるが、
古くから伝わる王家の一員に外国の王が成りすまして同居した
ってのがわからない。
論理的に不成立だろ。
それに、>>864氏によれば日本の歴史学界はフリーメーソンで
朝鮮びいきらしいのでw、そのために侵略を隠し続けている、
ということだが、どうして、そういう戦争の後の遺跡とか出て
こないのかな〜wwwww
ま、氏によれば、それも歴史学会が隠蔽している、というんだ
ろうなァ。
防衛戦争がない、ってのもおかしな話で、普通、侵略があったら
抵抗する罠。
それをできなくするぐらいの力があったら、何も日本人に化ける
必要性もない罠。

875日本@名無史さん:2006/08/28(月) 15:45:23
大和政権がそれまでの長年の蓄積の成果を発揮しつつあった時代=聖徳太子の時代といえる。
蘇我氏は、欽明体制以降、大和随一の豪族として、大和政権の基盤整備の牽引車たる大活躍をしたが、
皮肉なことに、学問や法が整備されればされるほど、自分達の今までの生活基盤が脅かされるように
なってしまった。
用明天皇崩御のあと、蘇我の実力者は、群臣が納得するラインとして、泊瀬部王を大王とした。
しかしながら、後世の一部のものが言うほど、蘇我一族そのものを憎んでいたわけではないにせよ、
「家来が自分の言うことよりも馬子の言うことを聞く」ことが面白くなかった崇峻天皇により、
蘇我馬子は地位を奪われる立場になってしまった。密告を受け、馬子は大王暗殺を画策、実行。
古墳時代のこと、地位どころか命も召し上げられるかもしれなかったからである。
さらには、厩戸王が勉強に励み、群臣に”理想郷づくり”の命令をすればするほど、かえって蘇我
一族の存在を脅かすようになった。ただし、今回に関してはさすがに暗殺は得策ではないと判断し、
即位を引き伸ばすように、政治工作した。
群臣の人気度や血の順位からすれば、厩戸王を即位させてもおかしくないが、そうせずに、反対派を
押さえ込む方法・・・
「厩戸王は学識に長けておられますので摂政をお願いいたします」(by蘇我タテマエ)
つまりこれは、史上初の女帝の即位の背景の大きな要素のひとつである。
876日本@名無史さん:2006/08/28(月) 15:50:28
海外の宗教やらなんやらを持ってこずとも、記紀の記述を読み解くだけでも、>>875
のように、厩戸王に即位のチャンスが与えられなかった背景を証明できる。
877日本@名無史さん:2006/08/28(月) 15:52:01
証明、という表現はおかしいかもしれないので、説明、としておこう。
878日本@名無史さん:2006/08/28(月) 16:18:46
ついでに書くと、馬子たち蘇我勢は、崇峻天皇の一件から学習したのだよ、
このことを。すなわち、
「従来の大王候補者ではまずい。勉強にオネツな厩戸王はさておき、他の
候補者は政治的野心が見え見えで、どうも蘇我に分が悪い。ここはそれ以
外の方に即位していただくとしよう。」
「何?!まさか、蘇我から大王を出すつもりか?それは他の一族が黙っては
いまい。なによりも神の祟り・・・」
「落ち着け。そうじゃない。もちろん、古よりの大王の血を引く方に即位
していただく。」
「どういうことだ?よくわからないのだが?」
「姫に即位いただくのだ。糠田部の・・・」
「姫?!それは前例がないな・・・でも、なるほど名案だ!そうすれば
押坂の王を推す者どもへの抑えも利く、ってわけか。」
879日本@名無史さん:2006/08/28(月) 16:20:00
ということをね。
880日本@名無史さん:2006/08/28(月) 16:31:12
すみません
糠→額
ですw
881日本@名無史さん:2006/08/29(火) 16:39:12
古墳時代の頃は本州、九州、四国の全国を統一し、飛鳥時代になるとすでに全国は
栄えてたんですか?
882日本@名無史さん:2006/08/29(火) 16:44:14
日本は二千年帝国 世界史上最強
日本民族は世界一優秀
戦争はアメリカ以外に負けたことはない。
現在の常任理事国アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国を相手に
戦えたのは日本民族だけだぞ。 日本は世界史上最強
883日本@名無史さん:2006/08/30(水) 14:20:05
 日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
 秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
 白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
 蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。
 藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
 家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
 徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
 寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
 ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良田元信である事の証拠となる。
884日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:20:32
京都の太秦にある広隆寺には聖徳太子の等身大の木像が安置されており、
歴代の天皇が大嘗祭で身に着けた衣装をこの木像に着せることになってい
ます。と言うことは今の天皇家が聖徳太子を殺害し、皇位を奪ったため、
聖徳太子の祟りを恐れて慰めるための行事だと分かります。 
 聖徳太子の正体は用命天皇の第1皇子の押坂彦人大兄皇子である。
すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で、天皇に即位していたはずで
す。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていたというのは嘘になります。
 根拠
「日本書紀」によると、用命2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人
皇太子(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとした
が、それが、難しいことを知り、彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇
太子の家臣亦見赤壽(トミノイチヒ)は、中臣勝海が退出するところを刀
を抜いて殺害したとある。
覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用命天皇と聖徳太子を呪詛し
たことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
亦見赤壽(トミノイチヒ)(「伝暦」では太子の舎人となっている)がい
て、この人物が物部守屋を弓矢で射殺している。
この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に亦見赤壽(トミノイチヒ)は彦
人皇太子と聖徳太子の両方の家臣になっている。こんなおかしな事はあり
えません。彦人皇太子と聖徳太子は同一人物であると特定できます。
 645年、天皇になっていた聖徳天皇(聖徳太子)は、三韓の使者の挨
拶を受けていた時に、中大兄皇子(百済王の子豊章)と中臣鎌足によって
殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られた。
 大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えられてた。
 中大兄皇子は祖国復興のために日本軍を白村江の戦いに派兵して、大量
の犠牲者を作りました。百済が滅び、それを復興するための籠城戦の為に
小国日本が唐・新羅連合軍と戦っても勝てる筈がない。そんな無理をした
動機は祖国復興しか有り得ない。中大兄皇子は百済王子である。
885日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:23:29
天皇家はフリーメーソンだった
 狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。右左で阿吽の形になってい
る。
 古代のイスラエルは北王国ヨセフと南王国ユダの二つに分裂していて、ヨセ
フ王国の紋章が一角獣(ユニコーン)であり、ユダ王国の紋章が獅子である。皇
室に伝わる紋章には右に獅子が、左に一角獣(ユニコーン)が描かれ、中央には
12匹の獅子が描かれている。これはイスレエル12支族を表している。
 ヨセフ王国の10支族が中央アジアに移った。彼らは肌の色が白いことから
白狄族と呼ばれ、ヘブライ文明の高い技術力で騎馬軍団を組織して中国を制覇
し、秦帝国を築いた。秦帝国滅亡後、北魏を建国した。後に朝鮮に移って百済
王家にとって代わった。
 百済王子豊璋と新羅王武王が三韓の挨拶の時に聖徳天皇を殺害し、中大兄皇
子(百済王子豊璋)は一時難波へ逃れ、聖徳太子の子高市皇太子と孫長屋親王を
殺害して、草壁皇子にすり替わったのである。その前は中大兄皇子に化けてい
て、大化の改新の後ずっと、天皇に成れなかったのは聖徳太子の子が天皇に成
ったためで、推古、皇極天皇などの女帝は虚構で、その後に天智天皇となり、
自分の子を文武天皇にしたのある。こうして、日本はフリーメーソンの陰謀に
よって乗っ取られたのです。
886日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:26:04
神皇正統記(抜粋)
 継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが(日本書記では)、
皇位を奪われた正統な天皇の血筋を受けた天皇で、その正統性を証明す
る古文書が「真清探桃証」なのです。しかし、この文書は孤立無援の文
書で、他のすべての文書はこれを否定しているものばかりなのです。
 444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子ですが、安康天皇の弟(嘘)の雄略
天皇が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に
魔の手が伸びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせよう
と出発した。すでに、追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一
宮へ逃れた。すると、弟の弘計王に子が生まれ、根尾で養育してもらう
ことになった。しばらくして、雄略天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏
した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の男子は絶える)は市辺押磐皇
子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億計王が皇太子になる事
が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無くなるので、先に
弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾にいた男
大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木を
植えたのが淡墨桜として残りました。
 継体天皇の孫用明天皇は欽明天皇の皇太子で、用明天皇の皇太子が聖
徳太子なのです。聖徳天皇(聖徳太子)は大化の改新で中大兄皇子(百
済王の子豊璋)らに暗殺され、日本は朝鮮人に支配される事になった。
 大阪府太子町の叡福寺は「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子の墓が石柱
で2重に結界が結ばれている。この寺は聖徳太子の怨霊封じの寺です。
羽曳野市の「中の太子」と呼ばれる野中寺の弥勒半跏像には、天智6年
に「中宮天皇」の病気平癒を願い、作ったとあります。境内の墓には鬼
追(怨霊)という姓が刻んである。この寺は高市皇太子の怨霊封じの寺
です。八尾市の大聖勝軍寺には「縁起絵巻」があって、聖徳太子などが
毒殺されたという姿が描かれていた。この寺は長屋親王の怨霊封じの寺
です。これら三太子はそれぞれ天皇になって、長屋親王は毒殺されたと
分かります。
887日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:29:10
 アイヌ人はキリストと日本人との混血民族だ
 青森県三戸郡新郷村戸来(へらい・ヘブライから来ている)にキリストの墓が
あります。墓の説明によると、イエス・キリストは21才の時に日本に渡り、1
2年間神学について修業を重ね、33才の時にユダヤに帰って、神の教えについ
て伝道を行いましたが、その当時のユダヤ人達はキリストの教えを容れず、かえ
ってキリストを捕らえて、十字架に磔刑に処さんと致しました。しかし、イエス
の弟イスキリが兄の身代わりとなって処刑されたとある。危機を脱したキリスト
は再び日本に渡り、ミユ子という女性をめとり、三人の娘をもうけて、106才
で亡くなったとあります。その長女が嫁いだとされているのが沢口家です。沢口
三次郎の風貌は眼が青く、目鼻立ちが日本人離れしていて、山根菊子女子は、絵
に見るキリストの肖像と生き写しだと言っています。
青森県の十和田湖周辺にはアイヌ語の地名が残っており、アイヌ人は日本へ来た
渡来民族によって迫害され、北海道へ難を逃れたと思われます。アイヌ人の風貌
もユダヤ人の風貌にそっくりです。
 根拠
竹内巨麿が公開した「竹内文書」には、日本の天皇が世界を治め、天のとり船で
世界各国を巡航したという記録が残っており、モーゼ・キリスト・釈迦・孔子な
どの偉人が日本で修業したと記載されています。世界中にあるペトログラフ(岩
石に刻まれた古代文字)が「竹内文書」の神代文字で解読出来るのです。日本は
世界文明の発祥地なのです。
888日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:34:19
 ワシントンの日本大使館員寺埼英成はフリーメーソンである
 日本の真珠湾攻撃が宣戦布告の前に行われた事の原因の究明はうやむやにさ
れ、奥村書記官がタイプの清書に手間取ったからと言う嘘の情報操作で国民は
だまされた。ハルとの文書手交の時間まで指定されているのだから、間に合わ
なければ手書きにし、誤りは訂正印で修正すればよい。間に合わなかった原因
は最後通牒の電文が届いていなかったからです。寺埼英成は大使館員で、真珠
湾攻撃の直前に南米への転勤が決まり、日本時間の12月7日の夜8時に彼の
送別会が行われた。彼は主賓なのに1時間遅れ、その理由をルーズベルト大統
領が天皇に宛てた親電について、その後の対応を野村大使と相談していたから
と説明した。しかし、その6日前に、東郷茂徳外務大臣からの電報があり、野
村大使が提案した天皇のルーズベルト宛の親電は、政府としてはハルノートを
受け入れることは出来ないので、日米交渉は打ち切らざるを得ない状況なので
適当ではないと伝えたから、その後に野村大使と天皇宛の親電について相談す
る筈がない。寺埼は送別会で誰もいなくなった大使館で電報を受け取り、最後
通牒の内容の電文だけを密かに身近に隠し持って、ちょうど頃合に発見される
ように出した。解読するのに時間がかかり、手書きしても間に合わなかったの
である。寺埼は米英(フリーメーソン)に工作を命令されていた。彼の攻撃直前
の南米転勤はおかしい。外務省はフリーメーソンに命じられて、だまし討ち攻
撃で日本人に危難がかかる前に彼をアメリカから避難させた。
 真珠湾攻撃はフリーメーソンが考えた作戦で、それを支配下にある海軍の山
本五十六(フリーメーソン)に命じた。フリーメーソンは最後の強敵は日本だと
認識しており、日本を侵略者に仕立てて葬り去ろうと計画し、日本を挑発して
戦争しなければ滅びるところまで追い詰めた。日本は石油を止められ、戦わな
ければ兵器の燃料が無くなって、戦わずに侵略されていたのです。アジアの国
々が日本の緒戦の勝利によって自信を持ち、民族意識を高めて独立したのです。
米英が日本のために、民族意識の恐怖心を植えつけられて、手が出せなかった
からです。神風特攻隊はこのような劇的な神風を吹かしたのです。
889日本@名無史さん:2006/08/31(木) 10:37:11
 戦争責任は人類すべての人間にあるのです
 野生の動物の世界は弱肉強食の悪法がはびこり、戦争状態である。たとえ、
百獣の王ライオンであっても、その子はハイエナに食われる。人間の世界も物
欲によって争闘し、最後には殺し合いとなる。これは人間の欲望に限りがない
からであり、ぜいたくを享楽しているためである。肉食は食欲のぜいたくの極
みであり、これを得るためには家畜を殺し、弱者を犠牲にしなければならない。
動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。これでは、人間の霊性は獣と
何ら変わることがなく、自分の子供がハイエナに食われても文句が言えない。
 人間の横暴によってすべての生物が地獄の苦しみにあえいでいる。先の大戦
の犠牲者はこうした人間の行為の償いであり、神からの啓示である。だから、
戦争責任は人間が自らの行為を反省することなく、物欲を発揮してぜいたくを
むさぼっている、人間一人一人にあるのです。
 偽科学が常識を盲信させる
 非ユダヤ人において、科学の盲目的信仰が功を奏しているようである。学校
の教科書で教えられる事がすべて正しいと信じる。こういった人々にとっては
権威ある学会が言うことのみが正しく絶対なのである。
 ユダヤ議定書(第2議定書)
 非ユダヤ人は歴史を基礎とする観察を怠り、専ら理論上の旧弊に囚われて、
その結果に対する批判的工作を忘却している。我々は新聞雑誌を利用してこの
科学理論を盲目的に信用させる。非ユダヤ人の知識階級は自己の知識を誇りと
して、科学から得た知識でものを考えようとする。その知識を論理的に吟味も
せず、その知識なるものが、人間を我々の目的の実現に向けて、教育するため
に作られた事に気がつかないのである。悪魔の世界制覇に向けて。我々の主張
を根拠なきものと思ってはいけない。我々の仕組んだところのダーウィン、マ
ルクスの教説の成功に注意なさるがよろしい。これらの教説は非ユダヤ人の心
に破壊的作用を及ぼした。ダーウィンの進化論は常識となっている。チンパン
ジーは何時になったら人間となるのか。急には進化できないから、その中間の
形態のものが存在しなくてはならない。
890日本@名無史さん:2006/08/31(木) 13:30:50
資本主義経済は悪魔の偽りの経済だ
 資本主義経済は弱者の犠牲の上に成り立つ経済であり、ちょうど江戸時代、
武士が百姓を奴隷にして重い年貢を取り立てて、百姓の生き血をすすっていた
事と同じである。その時は生き血をすすられて犠牲になる者が大勢いたから、
経済がなりたった。今のようにぜいたくになって、犠牲になる者が農家しかい
ない状態では経済が成り立つ訳がない。それが今の不況の原因である。勝ち組
が負け組の生き血をすすっているのだ。悪魔の吸血鬼アメリカに国益を絞り取
られ、国が破産しているのにそれを借金で誤魔化している。最後には国に、金
と資産をかすめとられ、円が大暴落して、日本は物を輸入することが出来なく
なって、食料危機となり大パニックとなる。後は戦争を待つのみ。
 2・26事件はその悪魔の資本主義経済が原因で起こった
 昭和11年2月26日、青年将校率いる決起部隊が政府要人を殺害する事件
が起きた。首謀者は暗黒裁判によって裁かれ銃殺刑に処せられた。
 当時の日本は世界大恐慌の影響で経済が沈滞し、関東大震災によって発生し
た大量の不良手形が原因で銀行、企業が相次いで倒産し、民衆は金に困窮して
生活苦にあえいでいた。農村はアメリカ向け輸出生糸の暴落とそれに連動して
米価が暴落し、東北地方はそれに輪をかけて凶作にみまわれて飢餓に苦しみ、
娘の身売りなどで命の糸をつないでいた。
 民衆が塗炭の苦しみにあえいでいる原因は、政権維持にしか眼中にない政党
と、これに結託し民衆の膏血を絞る財閥と、これを擁護して圧迫する官僚と腐
敗する軍部にあり、これらの特権階級が搾取しているからである。したがって
、疲弊した農民を救うためには、税金の免除と米価の安定を図る必要がある。
その障害となる特権階級の奸賊を倒し、国民を愛する天皇の考えが行き届く国
家に建て替えようと青年将校が決起した。しかし、昭和天皇は朝鮮人で偽天皇
だから、奸賊と同類で、彼らの尊い意志を無視して抹殺した。
 彼らが頼りにした真崎大将はソ連の工作員で、満州侵略に反対していた皇道
派の軍人を抹殺するために、青年将校をそそのかし、実行させたのである。天
皇を中心とした統制派の軍部の陰謀である。
891日本@名無史さん:2006/09/01(金) 06:27:45
長過ぎて誰も読まないだろ。
892日本@名無史さん:2006/09/02(土) 12:42:05
長屋親王は天皇になっていた
 天皇は中国語読みではてんのうだが、日本語読みではあめのすめらきと読む。
天孫降臨説から天を前につけているが、皇の一字で天の下を治める尊と言う意
味である。また、王は1国を治める君主である。皇子は天皇の嫡流の子で親王
はその孫である。王子は嫡流外の子を指す。
 昭和63年から長屋親王邸の木簡の発掘調査が行われた。邸宅は5.7ha
の広さで、不比等邸に匹敵する。
 宅地東辺に掘られた溝から大量の木簡が発見された。
 長屋親王宮大贄鮑十編
 これは長屋親王に献上された干しアワビに付けられた荷札で、大贄とは天皇
の食物を表す。長屋親王は皇太子になる前に、天皇の代理を務めていた?献上
する者が親王と尊称し、大贄と書いた。
 吉備内親王大命以符 婢筥入女進出
 吉備内親王の命令で端女の筥入女を呼び出す。大命とは天皇の命令を表す。
これは長屋天皇の死後、その室である吉備内親王が天皇の代理を務めていた?
 長屋親王御命符
 長屋親王の命令書に御命が使われており、これも天皇の命令を表す。
 長屋皇宮俵一石舂人夫
 長屋天皇の宮で人夫が米一石搗く。
 後皇子 後皇子命宮
 後天皇の子 後天皇の子の宮殿
 芳野幸行用貫簣
 天皇の芳野御幸(外遊)用荷物
 長屋親王邸の木簡が千年以上の間保存出来た理由は、粘土によって密閉され
て、空気と水から遮断されていたからです。溝に廃棄後すぐに、粘土で埋めら
れたと考えられる。すると、この木簡を後世に残そうとした意図が読み取れる。
 以上のことから推論すると、長屋親王が前皇(聖徳天皇)の孫で後皇(高市天
皇)の死後、長屋親王が天皇の代理を務めたのは祖父、父が相次いで殺された
からである。後に天皇になったが藤原氏の陰謀によって毒殺された。その室吉
備内親王が天皇の代理を務めていたが、長屋天皇一族すべてが殺された。その
事実を後世に残そうとして、家臣が木簡を土に埋めて隠したのである。
893日本@名無史さん:2006/09/02(土) 12:45:45
長屋親王は天皇になっていた
 天皇は中国語読みではてんのうだが、日本語読みではあめのすめらきと読む。
天孫降臨説から天を前につけているが、皇の一字で天の下を治める尊と言う意
味である。また、王は1国を治める君主である。皇子は天皇の嫡流の子で親王
はその孫である。王子は嫡流外の子を指す。
 昭和63年から長屋親王邸の木簡の発掘調査が行われた。邸宅は5.7ha
の広さで、不比等邸に匹敵する。
 宅地東辺に掘られた溝から大量の木簡が発見された。
 長屋親王宮大贄鮑十編
 これは長屋親王に献上された干しアワビに付けられた荷札で、大贄とは天皇
の食物を表す。長屋親王は皇太子になる前に、天皇の代理を務めていた?献上
する者が親王と尊称し、大贄と書いた。
 吉備内親王大命以符 婢筥入女進出
 吉備内親王の命令で端女の筥入女を呼び出す。大命とは天皇の命令を表す。
これは長屋天皇の死後、その室である吉備内親王が天皇の代理を務めていた?
 長屋親王御命符
 長屋親王の命令書に御命が使われており、これも天皇の命令を表す。
 長屋皇宮俵一石舂人夫
 長屋天皇の宮で人夫が米一石搗く。
 後皇子 後皇子命宮
 後天皇の子 後天皇の子の宮殿
 芳野幸行用貫簣
 天皇の芳野御幸(外遊)用荷物
 長屋親王邸の木簡が千年以上の間保存出来た理由は、粘土によって密閉され
て、空気と水から遮断されていたからです。溝に廃棄後すぐに、粘土で埋めら
れたと考えられる。すると、この木簡を後世に残そうとした意図が読み取れる。
 以上のことから推論すると、長屋親王が前皇(聖徳天皇)の孫で後皇(高市天
皇)の死後、長屋親王が天皇の代理を務めたのは祖父、父が相次いで殺された
からである。後に天皇になったが藤原氏の陰謀によって毒殺された。その室吉
備内親王が天皇の代理を務めていたが、長屋天皇一族すべてが殺された。その
事実を後世に残そうとして、家臣が木簡を土に埋めて隠したのである。
894日本@名無史さん:2006/09/02(土) 21:08:15
そうまでして隠匿した割に内容がしょぼいのは何故なの?
895日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:25:11
 聖徳太子の謎
 蘇我馬子の専横によって、蘇我稲目の娘の子が用明天皇になり、次に崇俊天
皇になった。崇俊天皇が暗殺されて、蘇我氏の血筋の男子が絶えた状態になっ
た。当然聖徳太子が天皇になれば良いのに、用明天皇の妹が推古天皇になった。
なぜ、太子は天皇になれなかったのか。摂政を務めるなら天皇になれば良い。
 この後押坂彦人大兄皇子の子が舒明天皇になり、其皇后が皇極天皇になった。
皇極天皇在位中に蘇我入鹿が専横の罪で中大兄皇子に暗殺された。彦人皇太子
は蘇我氏の血筋ではない。なぜ、天皇の血筋が本筋に戻ったのか。どうして、
本筋に戻った事が蘇我入鹿の専横となるのか。皇極天皇は後に斉明天皇になる。
この辺りの皇位継承はおかし過ぎて話しにならない。時の彦人皇太子がいつ亡
くなったのか分からないのもおかしい。
 聖徳太子は仏教を普及させた事になっているが、神道の奥義書、先代旧事本
紀大成経を撰述している。この中に予言書の未然本紀がある。神仏論争時代に
この両立は難しい。
 太子の正妃は莵道貝蛸皇女であるが、太子が病となり、妃の膳大郎女が看病
して二人が同時に亡くなった。太子の死亡年が621年と翌年の2説ある。太子
を妻でなく妾が看病し、二人が同時に死亡し、その年が2説ある。こんな話は
不自然であり、2説あるのは捏造の疑いがある。
 「上宮聖徳法王帝説」に、聖徳太子と山背大兄王が親子でないと言う人がいる
ようだが、それは良くない事だとある。そのように言論統制するのは本当の事
が広まると困るからである。書記は太子の子が山背大兄王だと言っていない。
 729年に長屋王が死亡し、737年藤原不比等の4子が疫病で死亡した翌年から
藤原氏が法隆寺の食封を再開し、夢殿を建立した。これらの行為は長屋王の怨
霊封じであり、長屋王が太子の孫だと分かると、法隆寺が太子一族の怨霊封じ
の祈祷をした事が分かる。
 隋書に、600年倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤(天足彦)で天下を支える
男(天皇)となる。この時は推古天皇で男の天皇は聖徳太子以外は考えられない。
896日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:28:58
 法隆寺の謎
 聖徳太子は607年に法隆寺を父用明天皇の為に薬師如来像を本尊として建てた。
 しかし、623年に太子の菩提を願って遺族が造った釈迦如来像と鎌倉時代の阿
弥陀如来像が同じ金堂に三具並んでおり、中央の釈迦如来像が本尊だと分かる。
薬師如来像は釈迦如来像に比べて鋳造技術が進歩した物であり、前者の方が後
作となり、製造年が逆転する。法隆寺の本尊が2具あるのはおかしい。
 書記に670年に法隆寺が焼失したとある。しかし、「法隆寺縁起幵記資財帳」
には再建されたと言う記載が無く、建物の尺度が大化の改新以前の高麗尺で後
の唐尺でないから、再建説は成り立たない。様式も雲形斗?など飛鳥時代の物
である。西院伽藍内を掘ったが焼土は無かった。
 すると、若草伽藍説が出てきたが、再建するなら同じ場所に建てる筈で、法
隆寺の南に面する向きと若草伽藍では、ずれている。区画の時代が違うのだ。
 609年に造られた飛鳥寺の丈六如来像の大衣は、右肩から前を覆って後ろへ
回して左腕前膊にかけているから襟が2重である。しかし、法隆寺の釈迦如来
像は襟が1重で最後は左肩の背面に垂れている。作者は両方とも止利で、前作
が正しく着用し後の物が着用法が分からないのは理解に苦しむ。釈迦如来像は
溶銅が拙く鋳造し直した跡がある。
 このように文化が衰退したのは侵略されたからであり、大化の改新を境とし
て飛鳥から天平へと移り、唐様式になったのも侵略が原因である。
 書記が670年に法隆寺が焼失したと記した目的は、唐文化によって再建した
事にしないと飛鳥文化の技術の高さを否定出来ないからだ。
 やはり、聖徳天皇は大化の改新時に暗殺されて、それを隠蔽する為に622年
に病死したと言う嘘を後世に残す為に釈迦如来像が造られ、薬師如来像は聖徳
太子の様な聖者が仏教を勧めたと言う方便で仏教を普及しようとした。其像が
あった寺が太子の崇りで焼失したから法隆寺に移したのである。
897日本@名無史さん:2006/09/17(日) 17:09:16
 アメリカの正体を見破れ
 米国はドルを湯水のように印刷しても、各国がドルを買い支えてくれる。日
本は円高になると輸出不振となるため日銀がドル買いをする。この資金は外資
の餌食となる。
 米国の外資が不良債権で6兆円を注いだ新生銀行を10億円で買い叩いた。
旧長銀の負債は免除された。
 1985年プラザ合意によって円高不況になり、1987年景気を良くする為に公定
歩合を引き下げた。インフレ傾向になった為、公定歩合を引き上げ、不動産融
資総量規制を行うと、1990年バブル崩壊が起きたとある。しかし、これは計画
的に起こされたのである。米国のソロモン・ブラザーズ証券等が事前に売り逃
げして、巨万の利益を上げた。これらの外資が日本政府とくるんで意図的に株
価操作を行った。デリバティブ(株の先物取引)を利用して株価が下がる方に投機
したのです。バブル崩壊はアメリカが仕組んだ株と土地のいかさま博打である。
 米国は日本製品を、ダンピング関税、スーパー301条、いわれのない損害賠償
等で締め出した。米国はいんちき国家である。
 米国はユダヤ悪魔教徒の秘密結社(フリーメーソン)が支配する国家で、軍産
複合体は戦争によって成り立ち、資本経済は戦争後の復興事業で不況を脱して
来た。
 アメリカは真珠湾攻撃の騙し討ちや9・11テロ(自作自演)等で戦争の口実を得
て、軍事大国になり、核の威嚇外交で国を支えている。
 オーム真理教の村井秀夫が右翼に刺された時に「ユダにやられた」と言ったの
はフリーメーソンの意味。ユダヤを敵視して様に見せていたのは、高等戦術で
ある双頭作戦で、戦争は相手が無いと出来ない。自由主義も共産主義もフリー
メーソンが作ったもの。
 郵政民営化は郵便貯金等を外資に貢ぐ為のもの。
 ジェイコム株上場の株価誤入力事件は、新生銀行からの転職者が行った陰謀
で、外資が暴利を得た。10分間で大量のデーターの中から誤入力を見つけて買
い付ける事は難しい。
 堀江貴文が行ったニッポン放送買収資金は、リーマン証券から受けたもので、
逮捕によるライブドアの株価下落等によって、外資は不当な利益を得た。
898日本@名無史さん:2006/09/18(月) 09:02:16
 ファチマ第3の予言
 貴方たちは、私の忠告を妄想だと言って無視したり、自分の知識を誇って、
無知だとあざ笑って、自尊心を満足させましたね。それで、改心の機会を失い
ました。
 麻原の死刑が確定したように、貴方たちの死刑も確定しました。原爆の超高
熱で焼かれるのです。どこへ逃げても、天変地異によって、マグマと津波の生
けにえになる。たとえ、あの世へ逃げても、地獄の極熱の業火で、魂まで焼き
尽くされる。悪業の報いを受けるのである。そうしなければ、犠牲になった動
物たちの魂を救えないし、宇宙が破滅する。
 聖母マリア像が血の涙を流している。神が貴方たちを哀れんで、救えない苦
しみの血涙を流しているのです。
899日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:05:15
900名無し:2006/10/03(火) 00:39:43
初めまして。
ちょっと緊急で聞きたいことがあるのですが、聖徳太子の面白い伝説を知っている方がいたら、教えてもらえませんか??
一度に10人の話を聞くことが出来た、とぃぅのは知っているんですが、他のんも知ってるかた、教えてください。
お願いします
901日本@名無史さん:2006/10/03(火) 23:13:13
そんな君には「聖徳太子伝暦」をお勧めする
902日本@名無史さん:2006/10/04(水) 01:03:12
ジャージ着てノーパンでカレー食べてブランコこいで魚が友達だった
903日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:55:04
>>902
あとなんか臭いんだよなwww
904日本@名無史さん:2006/11/04(土) 11:26:13
戦争責任は人類すべての人間にあるのです
905日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:18:11
飛鳥で古代にチーズが造られてたんだって?
じゃあ太子もチーズたべてたの?
906日本@名無史さん:2006/11/05(日) 01:48:03
かもな
907日本@名無史さん:2006/11/06(月) 01:14:07
太子「チーズおにぎり何これうまっ!うまままっ!」
908日本@名無史さん:2006/12/24(日) 12:14:58
うまままっ!
909日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:52:17
歴史学者って、たぶんみんな年寄りばっかなんじゃねーかと思う。
今まで読んだ本はどれも、太子の最愛の妃がホッキーになってて…。で、その理由
が「子供が一番たくさんいたから」。そんな理由、現代じゃセクハラで訴えられる
レベルだろ〜wしかも天皇の娘を差し置いて、墓がとなりにあるのもなんか政治的
で謎…
910日本@名無史さん:2007/01/07(日) 11:02:13
>>900
乞食のフリをした聖者を見分けたりとかもしてたな
日本書紀と日本霊異記に記述がある
911日本@名無史さん:2007/01/18(木) 15:23:48
人気ない
912日本@名無史さん:2007/01/19(金) 18:19:21
 日本は悪魔の支配下
 日朝共同声明は小泉総理と金正日が協議して出したものだが、一日でお互い
の利害を調整出来る訳がない。事前に外務官が条件を提示し合って合意にこぎ
つけたのである(本当はメーソンの指示)。だから、外務省は拉致被害者の生
死一覧表を事前に把握していた筈で、小泉が訪朝時に初めて見たと言うのは嘘
であり、偽りの一覧表だと判断すれば書類を叩きつけて帰ってくれば良かった
のである。金正日は拉致問題に終止符をうって、日本の経済支援を獲得しよう
としたのである。金正日はしたたか者で日本の総理など相手にしないのである。
 日朝共同声明は拉致被害者の帰還によって小泉総理の人気を高め、メーソン
の傀儡政権である小泉内閣を継続させて、日本の国益を吐き出させる為の策略
である。それが証拠に参議院選挙の前日に、曽我ひとみの娘とジェイキンスが
帰ってこれたのだ。郵政民営化はアメリカの年次要望書にうたってあり、郵貯
と簡易保険を外資が獲得する為の措置である。北朝鮮の核開発は、日本に危機
感をあおって憲法を改正させて集団的自衛権を行使させて、日本を戦争に巻き
込む為の陰謀である。
 太平洋戦争はアメリカが仕組んだ陰謀で、日本が国力が10倍もあるアメリカ
に戦争(負けると判っている戦争)を仕掛ける筈がない。日本は支那事変には
められ、蒋介石支援ルート(米英)によって本当の敵が米英だと知らされ、経
済封鎖、石油禁輸によって国家存亡の危機に追い込まれたから、やむなく、米
英に宣戦布告したのである。アメリカは国際法を踏みにじった、非戦闘員の大
虐殺(大空襲、原爆投下)を行ったのである。そんな国が日本の危機を救って
くれると思っている者はおめでたいと言わざるを得ない。
913日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:17:14
>>761
いい加減なこと言うなよ!菩岐岐美郎女が、最愛の妻だったというのも「後付け」
なのに、なにが国政を手伝うだよ?なにが「よき相談相手だよ」ーっ??

聖徳太子とほぼ同時に亡くなっているために、そう言われているのかもしれないが、
それは二人が「愛し合っていたから」ではなく、「暗殺されたから」と考えた方が
納得できる。それと墓が隣にあるのは、山背大兄がさせたこと。彼の妻は、
菩岐岐美郎女の娘・つきしねだからね。母親の権威を高める必要があったためと
考えたほうが理解しやすい。

>>727
漫画の設定と史実は違うよ。菩岐岐美郎女は気狂いというのはフィクション。
菩岐岐美郎女の父、膳氏は斑鳩を統治する豪族だったので、これも「斑鳩寺」
建立のための政略結婚ともいえる。そのためか菩岐岐美郎女の妹も、
弟の来目皇子に嫁いでいて、ちゃんと膳家は取り立てられてるからね。

山岸涼子も、梅田猛もなんかのインタビューで言ってたが、聖徳太子の妻の中で
一番彼の思想を理解し、かわいそうな目にあったのは漫画に出てこなかった
正妻・橘大郎女だったのでは?
914日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:52:37
>厩戸皇子の仏教の師が、高句麗僧・恵慈(えじ)であったことはよく知られている。
>恵慈が来朝したのは推古3年(595年)、皇子が22歳のときである。

 上記のような説があるが、恵慈は高句麗僧ではなく、コマ(漢城)の僧であろう。
595年に、高句麗から僧侶が来るわけがない。この時代、日本と高句麗は戦争状態だった
のである。
 百済と高句麗の間に「同盟関係」が成立するのも、643年からである。
595年頃、日本と高句麗の間に外交関係はなかったのだ。
 恵慈は、漢城から渡来した倭人僧であろう。
915日本@名無史さん:2007/01/20(土) 19:55:40
>>913
>漫画の設定と史実は違うよ。

それって聖徳太子をホモと冒涜したBL漫画だったよな。
916日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:04:22
今、2チャンネルのあちらこちらの板を見れないのはなぜ?
917日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:42:51
納豆みたいに誰かが「2ちゃん見たらやせる」って言ったんだろう。
918日本@名無史さん:2007/01/22(月) 00:38:09
>>915
そうそう。漫画の設定では、こうなってるww

「聖徳太子」=不思議な超能力を持つがゆえに、実の母親にも恐れられ、母親の
       純粋な愛情を受けられない。求めても得られないことがトラウマに
       なり女性不信→禁断の愛に走る(蘇我蝦夷に片思い)

「刀自古郎女」=蝦夷とは同母の妹でありながら、兄・蝦夷との間に子供ができる。
       (それが山背大兄王子)。他の子供たちも、男を次々に変えて
        作ったので、実は聖徳太子の実子は一人もいない。

「兎道貝鮹皇子」=通称「大姫」。プライドの高い推古天皇の娘。子供なし。

「菩岐岐美郎女」=気狂いの少女。年下の子供にもバカにされ、周囲と馴染めない
         彼女の様子に、太子が共感。自分と同じものを感じて、半ば
         愛する蝦夷への当てつけに娶る。「自分だってその気に
         なれば子供を作ることだってできる」と証明したいがために
         はじめて子供を作る

919日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:42:43
日本人や韓人(からびと)の先祖について、
「フヨだよ、フヨに決まってるじゃん!」とワメいているのは、
世界中で朝鮮人だけ。世界の学界からは馬鹿にされてる(笑


■志羅紀の地理的位置■

 中国の史書『後漢書』の記録である。馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の西にあり」と
記している。また弁韓についても、「辰韓の南に(弁韓は)あり、その南また倭と接す」とある。
 『三国志』も同じく、「馬韓は南で倭と接す」とある。さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は
倭と界を接す」とある。
「辰韓の南に弁韓あり、その南また倭と接す」
後漢書のこの記述は、ひじょうに興味深い。

・辰韓は北にある。
・弁韓は辰韓の南にある。
・弁韓の南に倭がある。

この記録は、稲飯命が建国した志羅紀(シラキ)の位置を語っているのである。

辰韓→ ワイ人の国(後の新羅=シンラ)。3世紀に南下して志羅紀を侵略する。
弁韓→ 倭人の国。志羅紀。神武天皇の皇兄=稲飯命が建国。天日矛命の国。
 倭→ 弁韓(志羅紀)の南方にある倭人国・ヤマト。日本国。

 こういうことなのだ。
 やはり、志羅紀と新羅は別の国なのである。シラキの王子=天日矛命が倭人であることが、『後漢書』の記録によって
証明された。天日矛命の子孫が神功皇后である。神功皇后の新羅征伐は、ワイ族(朝鮮人)に侵略された先祖の祖国=志羅紀
(シラキ=弁韓)を解放するための聖戦だったことが明らかになった。
920日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:22:14
蝦夷はその少女が聖徳太子の母親に似ていると思ってたな。
921日本@名無史さん:2007/01/26(金) 15:39:42
 出口王仁三郎 続・瑞能神歌(予言)
シベリア狐は死にたれど(ソ連崩壊) 醜の曲霊は種々に  妖雲呼んで東天は 北から攻め入る非道さよ
オホーツク海や千島船 樺太島を揺さぶりて  雪割草の間より 暗雲低く仇鳥の
舞い下り上る恐ろしさ  北海道から三陸へ 雪崩の如く押しよする
ここを先どと連合の 戦の場や神の国  華のお江戸は原爆や 水爆の音草もなき
一茫千里大利根の 月の光も哀れぞかし  残るは三千五百万 星条旗の旗の下
どっと攻め入るアメリカの 沖縄沿いや人のなく  非義非道の場所狭く 八百曲津見神八岐大蛇
哀れ崩るや日の本の 血汐に赤き統一も  アメリカの殺戮も ここに終わりて神の子は
再び原始に帰るぞかし
大江の幽山に立籠めし 醜の邪霊の重なりて  今は九尾の本姿 世界隅々またがりて
組んずほぐれつのたうつる 姿は哀れ曲津神  八百曲津見神八岐大蛇 その行くさまの凄まじき
物質界の曲津神 狂人の如く振舞いて  世は様々の相克ぞ
世の大本も散り失せて 月の輪台の影あわれ  お蔭信心なしいたる 信徒は今は離れ去り
真実の三千五百人 残る教の幕開きは  この時からと高熊の 山の五十鈴や清水台
国常立の大神の 岩戸開きはこの時ぞ  固き巖に手をかけて 振うて落す地獄道
ノアとナオとの火水霊 現れ出でて揺さ振れば  一天にわかに掻き曇り 矢を射る如く流星の
地球に向いて落ち来る 大地一度に震動し  吼へば地軸の回転も 止るばかりの大音響
物質浄土は忽ちに 地獄餓鬼道修羅と化す  山は崩れて原野裂け 人は哀れに呑み込まる
身の毛のよだつ凄まじさ 今明かに書き置くぞ  三段いよいよ開く時 三千余年の昔より
国の御祖の選まれし 中略  神代ながらの祭政一致 開き始めて日の本の 中略
ここに従ふ三五の 人の心ぞ尊とけれ  宇宙を拝し宣りませば 世界は輝きおのころの
東天に向い伏し拝む 地上天国この秋ぞ  
922日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:15:54
飛鳥時代の貴族の服って、独特な中華風味ですよね?
あれってなんていうのか知ってる方いますか?それと髪型も…
耳横にヒョウタンくっつけたような形ですけども、イケてるんでしょうか、あれ?
飛鳥時代がみんなに今ひとつ認知されてないのは、ファッションが意味不明だから
かも。貴族が力を持っていた時代のファッションが、地味であったはずはないと
思うんですが…。特に、橘大郎女なんかは、刺繍の名手だったらしいしさ。
923日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:24:02
>>922
あの髪型自体は古墳時代からあった日本独自の様式ですよ。
飛鳥時代前期には流行遅れとなり廃れたようですけどね。
924日本@名無史さん:2007/01/30(火) 01:09:53
>耳横にヒョウタンくっつけたような形

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%AB%AA
925日本@名無史さん:2007/02/23(金) 14:17:43
「日出づる・・・」で当時の中国と対等の態度をとった聖徳太子。
中国が大国であることを知った上で言ったの?
それとも世間知らずの自信過剰でこう言ったの?
926聖徳太子:2007/02/23(金) 15:36:51
925>>

吾は日出処の天子(の代わり)だから間違ってはいない
927日本@名無史さん:2007/03/06(火) 00:17:38
みずら大好き
928日本@名無史さん:2007/03/07(水) 03:49:06
925>

当時の中国(隋)は朝鮮半島侵略を狙っていて、日本と軍事同盟を結んで
これをはさみうちにする形でプレッシャーをかけたかった。そんな中国の
下心につけこんで、自国に有利な外交をすすめるため、大きな態度に出た
というのが一般的な説ですね。

でも、本当に勉強が出来るだけの世間知らずだったのかも。

直後に中国から使者が来ますが、土下座しまくりだったのでは...
929日本@名無史さん:2007/03/07(水) 04:34:58

そもそも聖徳太子って実在の人物なの?

あまりにも超人的で欠点や汚点が一つもないよね。
まあ、厩戸皇子という人はいたのかもしれないけど、本当に日本書記などで
伝えられているような超人だったのか?本人の死因については記録がないし、
子孫は蘇我氏に皆殺しにされたんだとか。

聖徳太子の政治的功績といえば、十七条憲法、冠位十二階の制定、遣隋使の
派遣などだが、これらは実は蘇我氏の歴代の大臣たちの功績なのでは?
つまり蘇我氏を悪者にするために、蘇我氏の悪行だけを誇張して伝え、
蘇我氏の功績については、これを付け替えるために架空の人物像を創作する
必要があったのかもしれない。
930日本@名無史さん:2007/03/19(月) 17:39:40
大和と河内(大坂湾)繋ぐ龍田街道を押さえられる
要衝の地である斑鳩に、法隆寺を建立し斑鳩宮を
造営した厩戸王子は、当時の王族の中では
最大級の実力の持ち主

寺の建立や宮の造営に、どれだけの労力と財力が必要かと
考えれば、それを行えた厩戸王子の実力の程が理解出来るだろう
特に寺は瓦葺だから礎石や柱は萱葺きの建物とは比較にならん程
強固でなければ建てられるモノではない

それだけの建物を建てたと言う事は、莫大な財力を有し
多数の労働者を動員出来る実力者だった事の証明

当時、蘇我馬子が飛鳥の地に建立した法興寺(飛鳥寺)に対抗出来たのは
厩戸王子が斑鳩の地に建立した法隆寺(斑鳩寺)だけだ
931日本@名無史さん:2007/03/31(土) 23:59:51
ほー
932日本@名無史さん:2007/04/01(日) 18:53:49
>>929
たしかに私もその様な考えに行き着きました。

聖徳太子の伝説や業績は、実の所、蘇我氏の功績であって、歴史上
悪人に仕立てたい為に、「分離」させられた。

また、聖徳太子は実在したでしょうが、蘇我氏の「功績」を、付加
されて伝承された…。

実像は、当たり障りのない敬虔な仏教徒だったのではないかと。
933日本@名無史さん:2007/04/02(月) 09:15:19
馬鹿馬鹿しい
934日本@名無史さん:2007/04/07(土) 04:36:49
>>8
不覚にもワロタ
935日本@名無史さん:2007/04/12(木) 09:56:34
【日中韓朝】 女神プロジェクトって? 【済州島】
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1175889512/l50
936日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:35:09
聖徳太子って、正式?には「うまやとのおうじ」ですか?「うまやとのおう」ですか?あるいは、「うまやとのみこ」ですか?
どういう呼び方が一般的なのでしょうか?また、「皇子」ですか?「王子」ですか?
937日本@名無史さん:2007/04/14(土) 02:25:07
厩戸王(うまやとのみこ)
938936:2007/04/15(日) 18:01:33
ありがとうございます。
939日本@名無史さん:2007/04/18(水) 15:45:52
去年の4月に明日香に行きました。
植山古墳にブルーシートが被ってました。
今後保存されるらしいという話を聞きましたが、
その後整備されたかな?
940日本@名無史さん:2007/04/24(火) 06:42:40
聖徳太子「なんか、中国皇帝から摂政に任命されたわけだが」
941日本@名無史さん:2007/05/08(火) 12:27:27
たしかに、女帝だから摂政、ていうのも異様。
この時代の推古天皇以外の女帝、
皇極(斉明)天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙(称徳)天皇、
すべて摂政など置かずに自ら政治を執っており、推古朝だけが明らかに異様。
そもそも、推古天皇の代わりに厩戸皇子が政治をやるなら、皇族である厩戸皇子が即位すればいい話。
日本書紀の訓も、厩戸の地位を「政を摂る(原文は漢文で摂政)」と表現するだけで、
そのような官職があったとは見なしにくい。
実際には、推古天皇は自分で政治を行っており、摂政など存在しなかったという説がある。
942日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:54:00
聖徳太子の自画像とやらを見る限りでは、
聖徳太子は朝鮮人だよな。
それに代々、天皇家は朝鮮人顔。
943日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:51:20
>942
また板違いな朝鮮人が書きこんでるなw
944日本@名無史さん:2007/05/09(水) 04:39:32
推古・厩戸・馬子の三頭政治だろ
945日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:45:07
日本書紀はかなり正確な歴史書らしいですが、
聖徳太子に関することは架空的な記載が多いらしいです。
藤原不比等は何故か聖徳太子に対して「恐れ」をもってるのだろうか?
946日本@名無史さん:2007/06/03(日) 18:35:16
そりゃ不比等のオヤジ鎌足が聖徳太子=蘇我入鹿を謀殺しちまったからだろう。
聖徳は隋と対等な関係を築くような国書を送って怪しまれ、使者を随行されて検分されてる。
でまあ同盟カンケーでいきましょうとなったはいいものの、隋が同じく鮮卑系の唐に滅ぼされる。
こうなると、列島の隋派は唐にとって邪魔になる。鎌足は隋派を抹殺するべく派遣された使者だろう。
不比等が天武が死んでから動けてるというのはヒント。
947日本@名無史さん:2007/06/03(日) 21:39:14
聖徳太子は政治より文化的な方向に傾いていったみたいです。
隋や中国から最新の文化(仏教等)を取り入れることが目的で、それは政治的外交にたけた
曽我氏の思惑にうまく合致したこともあってその時はそれでよかったと思う。
隋と中国は仲が悪く後に大戦争になったが、日本として両国に「よしみ」をとってたから
外交的にうまくいったと思う。
危なかったのは外交的手腕のあった曽我氏が滅ぼされてから、あの「白村江の戦い」での
大敗であの時、唐・新羅連合軍の大軍が日本に攻めてきてもおかしくなかった。
攻めてこなかったのは唐と新羅の関係も悪かったせいか不幸中の幸いだったと思う。
外交的に大失敗したと思うけど、ま〜聖徳太子と関係ないけどね。
948日本@名無史さん:2007/06/03(日) 21:44:52
上スマン。
隋(中国)と高句麗ね。

>>946
>鎌足は隋派を抹殺するべく派遣された使者だろう。
その説は初めて知った。
根拠的に何かありますか?
藤原氏も謎が多いんで。
949日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:30:10
聖徳太子は40歳後半で亡くなったが
死因は暗殺の疑いもあったがどうも病死したみたいです。
かわいそうなのはその子山背大兄王で何であーなったんだろう?

950日本@名無史さん:2007/06/04(月) 15:20:41
藤氏=唐氏と韻touをふんでるじゃないかw

山背が聖徳太子の子などとは書紀に書かれてない
上宮にいるので、あたかも子のように思わせている

書紀編纂は不比等がプロデュースしたものである
951日本@名無史さん:2007/06/04(月) 20:53:47
不比等は太子に関してははっきり書かなかったと思う。また法隆寺に関しても書かかれてないらしいから、何故か意図的に避けようとしてる感じがあってそれは山背皇子暗殺事件が大きく関係してると思う。
952日本@名無史さん:2007/06/04(月) 22:12:01
謎の稗田阿礼?
953日本@名無史さん:2007/06/06(水) 00:46:34
阿礼。あれ〜って古事記は平安時代後期にできたもので、
これが何で日本書紀に先行したものとされるようになったのか
明治政府=東大史学会の捏造なんだけど
まあ、謎としておきましょうかw

954日本@名無史さん:2007/06/06(水) 22:08:47
700年ごろに太安万侶と稗田阿礼によって編纂されたので?
稗田阿礼は藤原不比等ではの説があるが・・
黒幕が藤原氏であれば「怨霊」を恐れ触れないようにしてるのはわかる感じがする。


955日本@名無史さん:2007/06/06(水) 22:43:52
何故か藤原氏が法隆寺に数多くの奉納してること。
法隆寺の夢殿にある聖徳太子を表す救世観音の光背の事と長く封印してた意味が
よくわからない。
太子を避けようとする藤原氏?またその藤原氏も謎。
太子は藤原氏の秘密を知ってるからこそ封印しようとしてるのか?
太子は仏教に深く関心をもってましたが、信仰をもつ者が怨霊になるのはおかしい。
謎が謎。

956日本@名無史さん:2007/06/09(土) 13:45:01
あまり細かいことを追求すると、すべて「謎」になって思考停止してしまうだろう。
大雑把にわかってることだけ把握してみよう。
人類学の埴原和郎東大教授によれば、7世紀の列島人口は540万人で、90%が渡来人だった。
10%は原住民。縄文時代からいた人たちだね。
この縄文人も元をたどればシベリア方面から入って来てる。
宝来聰はじめ東大研究グループによるDNA調査では
現在の日本人の5%が縄文系で、面白いことにコーカソイド系が20%近くいる。
これは他のアジア地域では見られないとか。
ま、現在の日本人なんて雑種なのだ。どこの国でも雑種だけど。
で、これから倭でなく日本でいきますて、不比等が粟田真人をシナに派遣するのが702年。
当時、唐の皇帝高宗が死んで妻の則天武后が周と国号を変えてたのだが、8年も留められて了承する。
日本人というのは列島に代々いて天皇が統治してる国であるてな「日本書紀」が完成したのが720年。
この神話に現在の日本人が呪縛されてるのは明治の薩長政府にもよるんだが。
え、藤原氏の出自とか天皇家の出自を探るとか意味あるの。
日本人は文献を読む知性は優れているにしても、自分の意見を述べる知性がない。
と、明治以降来日した外国人がよく言うことです。

957日本@名無史さん:2007/06/10(日) 21:10:18
蘇我氏は渡来系の帰化人で聖徳太子もその血を引く。
渡来系でも中国か北方民族、朝鮮系でも新羅、百済、高句麗かによって人相や性質が違うと思う。
(名前からしてどこだろう?)
物部氏はカンでたぶん縄文人の血を引いているのだろう。
秦河勝の秦氏はたぶんペルシャ人。
藤原氏(中臣氏)はよくわからなくて鎌足以前の系図がないらしい。
東関東の鹿島で鉄の採掘をしてたとか(中央では発言力をもつ)中央で神事を司ってたとか
何故かはっきりしてないのが謎です。

958日本@名無史さん:2007/06/10(日) 22:27:10
>>956
物部氏と曽我氏の対立から大化の改新までの間に興味があります。
聖徳太子が後半に政治から身を引いていったことと法隆寺の謎。
なぜ曽我氏が滅ぼされたか?
裏で見え隠れする藤原氏。
なぜか興味を持ちます。
959日本@名無史さん:2007/06/11(月) 15:37:35
>>958さまへ。>>956です。
隋書倭国伝を読むと、聖徳太子なんているのかいなあと疑問になる、フツウ。
倭王は阿毎多利思比孤、妻は云々とあって、隋の答礼使節が派遣されて確認してる。
日本書紀によると当時推古という女帝で摂政が聖徳太子と言う。
隋書がウソを書く理由はなかろう。日本書紀もこの件について述べてるのだが、
核心に触れる記述は避け、いたって冷淡である。日本書紀は隋書を参照文献にしてるため、万世一系という
イデオロギーを貫く都合上、ちょいと触れてみましたてな扱いだね。
ここから分かるのは、書紀を編纂した王朝とは別な王朝があって、隋と交渉したのは
その別な王朝ですね。それが書紀で言うところの蘇我氏でしょう。
そうだとすると蘇我氏は物部氏と代々縁戚関係にあるのだが、仏教導入をめぐって
両氏が対立して云々という書紀の記述もいかがなものかと思う。
ま、謎を追求してくださいませ。

960945以降のスレです:2007/06/11(月) 22:01:54
>>959さん
阿毎多利思比孤妻は男性の天皇の一般的名称を言ってるらしい。
煬帝は天皇の名前を聞いてるのに女帝であることを隠すためにこう言ったらしくて、
一回目の遣隋使のことは「日本書紀」に記載がないらしいが「隋書」には記録があって
女帝を隠すため文がおかしくなり煬帝に「大いに義理なし」と言われ大恥をかいたらしい。
ま〜日本書紀に書けなかったのだろう。
2回目の小野妹子の時も女帝であることを隠したが、あの有名な「日出づる処の天子、書を日没む処の天子に致る」
ですが、もしこれが「日出づる処の天子へ書を日没む処の天子から致る」としたら煬帝も機嫌を
悪くしなかったと思うけど、翻訳・通訳が間違ったかもしれない。
961945以降のレスです:2007/06/11(月) 23:12:24
つづきです。
この時代(607年)に遣隋使を派遣したのは意味があると思う。
隋国が北の突厥へ遠征して平定し又高句麗戦にそなえて遠征の準備を始めていて
これら脅威が日本では今の沖縄まで大きく及んでいたので使節を送る必要はあった。
しかし煬帝を怒らすような国書を持って行くことは考えられず、今思ったがどこかで
すりかえられたのではないだろうか?遣隋使には百済や高句麗の使節も同行してたらしく
この2国も怪しいが、もしや太子と同年代らしい小野妹子が・・謎です。

962日本@名無史さん:2007/06/12(火) 08:11:48
日出づる処というのは、なにもこれから発展していくというような意味はない。
隋から見て我が国は東の方にあたりますからというフクミで言ったまででへりくだっている。
皇帝が怒ったのは、あたかも両者を対等とみなすようなスタンスに対して。
中国は皇帝が中心にあり、周囲の国々は朝貢するものであり、これを蔑ろにするとは何事かと。
以上は小学生時代に先生から教わったことなんですけどね。
なんか自分で勝手に謎をこしらえて核心を問うこと問わない。
単にアタマが悪いのか、工作員wか。
もうこのスレに来ることはありません。さようなら。
963945です:2007/06/12(火) 21:18:11
それぐらい知ってるよ〜スレ主じゃないから来る来ないは自由。
日は東から昇って西に沈むからあたりまえだねw
ただ当時日本には高句麗から太子の師であり外交官である慧慈がきていたから
隋の情勢は知ってたであろう太子や曽我氏がなぜ対等な文を送ったんだろう?
でも煬帝は逆に裴世清を小野妹子とともに日本に遣わしたが、これは戦略的要素があって
高句麗侵攻をひかえ日本に仏教文化を進呈するからけっして高句麗の味方にならないように
って約束をとりつけようとしたのだろう。また日本の国情を知るためスパイ的な目的も
もっていただろうけど、こちらもしたたかでいずれ日本侵攻もありうると考え大和朝廷が
あたかも九州にあるように裴世清に見せてそう思わした。
もしこのシナリオを考えて遣隋使を派遣したなら太子は天才といえる。
964日本@名無史さん:2007/06/13(水) 16:36:19
あれほど倭国を弁護する日本書紀が、
隋に対して対等外交を要求したとは書いていない。
「日出ずる・・・」の一文は、日本の官僚が何も考えずに
つい東の国の天子から西の国の天子へ、と書いたのを、
隋の皇帝が見逃さずに、とがめただけのような気がする。
わざわざ日本から海を渡って皇帝のご機嫌伺いに行っているのだから、
形式は朝貢だったと思われる。
皇帝は、大国の威厳で、朝貢国からの貢物よりも立派な品々を
朝貢国に使わすのが慣わしであったし、
朝貢外交は、むしろ朝貢する側にメリットが大きかったのだが。
965945です:2007/06/13(水) 23:11:37
あの文は煬帝に対しての予言の言葉かもしれない。
太子は父である用明帝が即位したとき彼に「あなたの命は短いので前帝(敏達帝)
の葬儀をやめて政務につとめなさい」といったらしい。
太子は幼少の頃から未来の出来事が「見える・わかる」予知能力みたいなものが
あったかもしれない。
煬帝が執拗に大規模な高句麗遠征(侵攻)を行いことごとく失敗してそれが国力の
低下を招き弱体化して滅んでいくことを予知して「高句麗遠征をやめないと国が亡びますよ」と
伝えたかったかもしれない。


966日本@名無史さん:2007/06/14(木) 00:36:33
聖徳太子は自殺です。
しかも第三夫人と一緒に死にました。
この夫人はご存知のように平民出身です。
病死なわけがない。明日死ぬと言って夫人を誘ったのですから。
967日本@名無史さん:2007/06/14(木) 07:55:10
ハワイからみれば、日本は「日が没する処」ですよねえw
968日本@名無史さん:2007/06/14(木) 08:03:28
ハワイからみれば、日本は「日没する処」ですよねえ
サンフランシスコからみれば、ハワイも日が没する処ですw
969日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:01:14
ニューヨークからみればサンフランシスコは(ry
970日本@名無史さん:2007/06/14(木) 15:35:45
>966
心中なら一緒に死ぬだろw
翌日、太子が死んでくれる保障なんかない。
妃の膳夫人だって、太子がほかの女と一緒に心中したのなら、
そんな憎い男のために、
太子のために死後、天寿国繍帳なんか作らんだろ。
971日本@名無史さん:2007/06/14(木) 22:58:43
例の国書の一件ね。
朝貢する側が天子と名乗ることが問題なんだよ。隋にとっては。
天子と名乗れるのは隋の皇帝しかいないのだから。
朝貢のメリットとはべつなこと。
方角にこだわるのは現在日本人だけ。
受験戦争以外戦争体験してないからなあ、がんばれよ。
972945です:2007/06/14(木) 23:36:37
膳部妃は別名芹摘姫という伝承があって、芹を摘んでるところを太子によって
見初められたらしい。
どうも彼女を特に愛していたみたいで法隆寺にある釈迦三尊像は中央に太子、左右にある像が
間人皇后と膳部妃を現していて太子の思いか願いがそこにあるのだろう。
膳部氏というのは代々皇室に仕える今でいう料理長みたいな身分だったらしいです。

973日本@名無史さん:2007/06/22(金) 22:52:40
太子を現す法隆寺の救世観音の後頭部には深く杭が打ち込んである・・
誰かが太子の「魂」?を封じるため頭に釘を刺してるのだろう。
謎であり怖ろしい・・


974日本@名無史さん:2007/07/03(火) 01:54:54
「阿毎多利思比孤は男性の天皇の一般的名称を言ってるらしい」という説が
ありますが、新唐書には、初めて歴代天皇(大王)の名前がズラーッと並べて
あって、その中に、(ア)メノタリシヒコとは、用明天皇のことだと特定され
ています。中国側が勝手にそう決めたとは思えません。日本側の使節がそう
言ったのでしょう。しかし、隋使が日本に来たときには、用明はすでに死ん
でいたはずです。日本の使節が、でまかせを言ったのか。あるいは、580年
代の用明在位時代から600年過ぎまで、誰か別の「大王」が日本にいたので
しょうか。
975日本@名無史さん:2007/07/04(水) 00:01:44
倭王の名前として姓はアマ、字はタリシヒコ、号はオオキミと名のった。これは固有名詞ではないらしくてアマタリシヒコは漢字にすると単なる「天皇」らしいです。
976日本@名無史さん:2007/07/10(火) 12:12:51
「らしいです」では他人に説得力ないだろ?
キミの願望のようなものしか伝わってこないねえ。
古代にしろ現代にしろ傍証をそえて事象を述べる習慣をつけようね。
その傍証が真偽かどうかを検討するのが各人の知性の試されるところとなる。
977日本@名無史さん:2007/07/12(木) 14:29:52
一応〜梅原猛の「聖徳太子」に書いてあったんで、「らしい」が妥当。
978日本@名無史さん:2007/07/12(木) 22:31:23
>>972
>膳部氏というのは代々皇室に仕える今でいう料理長

それ、かなり違います。膳部氏は、自分の娘を太子の妻にして、あわよくば
天皇の親戚になろうとした人。それも物部のようなハッキリしたアピールは
示していませんが、どちらかといえば「神道擁護派」。ふつうに地方豪族です。

>膳部妃は別名芹摘姫という伝承があって、芹を摘んでるところを太子によって
見初められたらしい。

もはや根拠なし。しかも本当にソレが、ホキキミノ郎女かどうかは微妙です。
村娘と太子のつかの間の恋という説もある。

979日本@名無史さん:2007/07/13(金) 01:35:17
>ふつうに地方豪族です
阿倍氏族だから、中央豪族だろ。
980日本@名無史さん:2007/07/13(金) 08:22:16
阿倍氏=膳部氏?ま〜もともと斑鳩の豪族だが地元でもあり皇居内で料理のことも授かってたのだろう
981日本@名無史さん:2007/07/13(金) 14:27:21
大彦命を祖先に持つ同族という意味だろう
この時期には阿倍と膳部は同じではない
982日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:42:24
膳臣と膳部は同じだろうね。武内宿禰は…また別か。みな孝元天皇から出てるんだね。
983日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:51:31
ギャグマンガ日和 聖徳太子の楽しい木造建築
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=515616
984日本@名無史さん:2007/07/14(土) 17:00:50
>>975
アマタリシヒコ 漢字にすると「天足彦」

>>980

 斑鳩の地と膳氏の関係性はないのでは?斑鳩は山部氏の地だったような。
985日本@名無史さん:2007/07/14(土) 22:42:52
阿毎多利思比孤〜
986日本@名無史さん:2007/07/14(土) 23:19:13
>960「これ大いに義理なし」
と言ったのは、煬帝の親父、文帝です。原典読もうね。
>966この夫人はご存知のように平民出身です。
善大郎女は平民出身ではありません。善氏は天武朝には高橋という名と、朝臣(八色の姓)を賜っています。
この時点では、真人(皇族)に次ぐ高位の氏族です。
>977
梅原猛さんは、言うことをころころ変えます。ご自身で、10年前の論文が正しい率は30%と言っておられます(三輪山の話だったかな)。
あまりよっかかると倒れます。でもー、
>975は普通に言われています。
>980
昔はマツリゴトの後で宴会をしました。そのコーディネーターだからかなりの重職。半島への使節も出しているし、
外国使節の応接もしている。後、伊勢神宮への使節を定職とした。
原典読もうね。
987日本@名無史さん:2007/07/15(日) 00:04:14
ゴメン。文帝だね。>梅原猛さんは、言うことをころころ変えます。ご自信で、10年前の論文が正しい率は30%と言っておられます。
「大いに義理なし」WW
988日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:05:07
792 :大兄であっても即位できない皇子もいたし、敏達や崇峻みたいに弟王が即位した例もある
皇位継承が兄弟間で行なわれていたのが基本だったようではあるが...

兄弟相続は、欽明息子兄弟までの22世代まででは、仁徳・允恭・市辺押磐・
継体・欽明の各息子兄弟の5例にすぎず率で言えば23%であり
基本であったとはとても言えない。
989日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:15:11
>皇位継承が兄弟間で行なわれていたのが基本

この手の話は、神武〜応神の直系継承を疑うところから議論が
出発してるのだから、「率で言えば23%」とかいうのはナンセンス。
990日本@名無史さん:2007/07/15(日) 23:22:51
続きは
聖徳太子になって飛鳥時代を救おう
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1181734024/
にして、あとは埋め立てでよろ
991日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:28:51
>>972
>どうも彼女を特に愛していたみたいで法隆寺にある釈迦三尊像は中央に太子、
左右にある像が間人皇后と膳部妃を現していて太子の思いか願いがそこにあるの
だろう

そんな説、初めて聞いた。でもなんでそんなに、熱いの?
結局「〜だろう(思いっきり仮説)」で締めくくってるくせに?
992日本@名無史さん:2007/07/16(月) 13:10:25
>991
現在聖徳太子の墓とされている叡福寺の玄室は三廟式といわれ、太子と間人皇后と、
膳大郎女の3人が祭られていると言われています。明治以前には、誰でも入れたそうで、
3個の棺が配置されているという記録が残っています。
993日本@名無史さん:2007/07/16(月) 16:15:54
>>992
ご親切に。でも申し訳ないのですが、それは知ってます。

>>972さんは、法隆寺の釈迦三尊像って言ってるでしょ?
それが初耳だって言いたかったんだけど?
994日本@名無史さん:2007/07/16(月) 17:42:52
995日本@名無史さん:2007/07/16(月) 17:43:35
996日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:25:47
>>993
金堂の釈迦三尊像の両脇にある小さな像のことで、光背には銘文が書いてあってそこにそれらしきことが書いてあるらしいです。
997日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:49:37

こんな聖徳太子はいやだ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1158554274/
★ 聖徳太子は朝鮮人だった!! ★
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1176026022/
聖徳太子になって飛鳥時代を救おう
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1181734024/
998日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:50:41

ここだけ飛鳥/奈良時代に時空移動しているスレ*二
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1178752157/
【飛鳥時代】藤原京は何時代に入れる?【奈良時代】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1045327351/
蘇我入鹿から飛鳥の人々
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1131953570/
【飛鳥から】大和朝廷の豪族たち【平安初期】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1149638384/
999日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:51:44
999
1000日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:53:17
1000
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