☆ 公 侯 伯 子 男 2☆

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503世界@名無史さん
西洋には女帝のダンナってのがいたと思いますが
どんな称号になりますか?
それは日本語では何と訳されてますか?
504世界@名無史さん:04/03/12 21:48
日本語だと皇婿殿下ではないでしょうか。
505503:04/03/13 06:33
実際に西洋史で「皇婿」とか「皇配」という訳語が
使われている例がありますか?
どうも最近でてきた日本独自の用語ではないかと思うんですが。

西洋史では実際には単純に「〜〜公」とかですまされてるんじゃないかと
思うんですが、正式な称号はどうなってるんでしょうか?
506世界@名無史さん:04/03/13 10:56
プリンス・コンソートってのはアルバート公専用なのか。

というかアルバート公以外に、元首でない元首の夫って誰がいるのか知らん。
507世界@名無史さん:04/03/13 12:48
プリンス・コンソート?
508世界@名無史さん:04/03/13 13:41
>>506
オランダのベアトリクス女王の夫、デンマークのマルグレーテ2世女王の夫とかは?
509506:04/03/13 14:16
あ、誤解を呼ぶ書き方だったかも知れないけど、俺も素人で、どちらかというと質問者。

でも、Prince Consortという言い方はあるよな?
あれは称号じゃないのか?
510世界@名無史さん:04/03/14 02:03
ttp://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1053338507/540-542
Prince Consortはアルバート公専用みたい。

そして日本語の王配(外交上の正式な用語)に相当するのはPrinceみたいです。
オランダ王配殿下はPrins Claus der Nederlanden
デンマーク王配殿下はPrins Henrik af Danmark

511世界@名無史さん:04/03/14 09:24
>>510
うーむ,なるほど。
やはり英国のプリンスじゃないといかんのか。
512世界@名無史さん:04/03/14 09:37
>>510
専用の称号がないのは,

1.女性と違って,配偶者に対して従属的地位とは意識されない。
   ※公爵の妻は公爵夫人(duchess)だけど,女公爵(duchess)の夫は?
2.そもそも例が少ないので,専用の称号を用意するほどでもなかった。

という感じでしょうかね。

これに対して日本では,そういう例が「皆無」なため,
注意を促すために明示的に表記する必要があったのでしょう。
513世界@名無史さん:04/03/14 09:48
ttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/2716/hilfe/titel.htmlOpen
上によると,「女王の夫」は,以下のようになるらしい。

瑞 drottninggemal
英 prince consort
仏 prince consort
葡 principe consorte
丁 prinsgemal
独 Prinzgemahl
西 rey consorte

スイスとスペイン以外の「pri-」の部分は王子クラスの称号だけど,
スイスの「drottning」は女王,スペインの「rey」は王であり,ちょっと格上?

514世界@名無史さん:04/03/14 16:06
>>496 >>497
>辺境伯(Margrave)
>帝国辺境の統治を任された伯爵。辺境防備を任務とするために通常の伯爵よりも相対的に自立性が高く、
>強い権限が与えられており地位も高かった。
>フランク王国時代からの称号で、のちの侯爵(Marquess)の起源となったもの。

のちの侯爵(フランス)の語源になったとは思うのですが、起源というとしっくりこないのですが、どうでしょう?
フランク王国内、その西部でマルクグラーフが存在し、あるいは、西フランクで、マルクグラーフ
が設置され、それが、西フランク(フランス)で、マーキスに発展したというより、
フランスで、伯より、高い爵位を作ろうと考えたとき、東にあるマルクグラーフ(仏語風になまってマーキス)を
持ってきたんではないか、と思うんですが???? どうでしょう??

逆に、ドイツでは、マルクグラーフは、ずっと、マルクグラーフの儘のような。
その一方、FURSTが どこで、どう出てきたのか、疑問ですなんです。
リヒテンシュタインとか、一時期のサボイ?とか、FURSTEMでは(君主はFURST)ではなかったかなと。
515世界@名無史さん:04/03/15 03:06
とりあえずフィリップ殿下はPrince consortではないのだよね。
516世界@名無史さん:04/03/15 03:20
>>514
Fürstentum=Principalityのようで余計分かりにくい。
だから地図によってはリヒテンシュタイン「候国」などと書いたりするのだが…。
しかし嫡子、王族などのPrinceに該当するドイツ語はPrinzだからなぁ。
517世界@名無史さん:04/03/15 03:23
・・ていうかドイツに候は存在せず、Marquessの訳語にとりあえず(?)Fürstを当ててるんじゃなかったっけ?
518世界@名無史さん:04/03/15 03:28
517訂正
ドイツにMarquissに相当する爵位は存在せず、Fürstの訳語に日本ではMarquessと同じ「侯爵」を当ててるんじゃなかったっけ?
そしてFürstに相当する英語はPrince、Prinzに相当するのもPrinceのかな・・・?

519世界@名無史さん:04/03/16 21:22
503から513の話題に戻したいのですが、
国王位、あるいは、皇帝位が、女性の場合の、
亭主の呼び名は、わかりました。
ただ、これは、慣例?なんでしょうか。正式なんでしょうか。
慣例とか正式の意味自体、あえて定義しませんが(私ごときが定義するのでは意味ないし)。

520世界@名無史さん:04/03/16 21:30
同じく、503から513の話題:

それから、
当主が女性といっても、
それが、公爵位(女公爵:Princess、あるいは、Duchess)や、
伯爵位(女伯爵)、、、などなどなら、
その亭主はどうなんでしょうネ。
また、女公爵は女公爵でも、一国の君主という感じの女公や女大公のときは、
亭主はどうなんでしょネ(また、どうするんでしょ)。
と思いました。。。

521514:04/03/16 22:22
フランク王国の西部、その後の西フランクでは、どうなんでしょう。

イスパニア辺境伯が、マーキス領になったという話は聞かないし、むしろ分裂して、
伯(ただの伯かな、に格下げみたいですし・・・・バルセロナ伯も、結局、辺境伯に上がったり?していないよね)

フランスでの、マーキスの初見はどうでしょうか。
一方、フランスには、Prince も、Ducも あるようで(>>444>>453 参照)。
結局、フランスは、Prince Duc と、マーキス以下(侯爵、伯爵、子爵、男爵の4ランク)と
で6等爵のようの見えますが。
522世界@名無史さん:04/03/17 03:33
>>514

>>444のPrincipaute de Orangeはフランス領に囲まれてはいるが、フランス王国の領域ではない。
神聖ローマ帝国の飛び地のようなもの。
元々あの辺は神聖ローマ帝国(東フランク)の領域だったが、プロヴァンス伯国やドーフィネがフランスに併合されて取り残されたんだったかな。
併合されて公国は消滅したようなので、フランス王国に領主のPrinceはないと思われ。
523世界@名無史さん:04/03/17 21:01

そうだったんですか。ありがとうございます。
ドイツの等族会議のメンバーなんでしょうか?。

ちなみに、あのオルレアン公も Ducかなぁ。
七月王政では、息子の名乗りだったと思うけど。

>>451 公爵(Prince,Duc)、伯爵、男爵、騎士だと心得てましたが・・・」のような
書き込みがありますから、フランスのPrinceは、ナポレオン1世が作ったのが最初で最後でしょうか。


524こんな理解でいいかな。:04/03/17 21:10
グラーフは、これはもともとは、
プファルツグラーフや、マルクグラーフも含んだグラーフ「族」の総称だった、
と思ってるが、よいかな。

ただ、その後、この二つは他のグラーフとは分かれて別扱いになって生き残った。
すなわち、ライン宮中伯、ブランデンブルク辺境伯。

残りのグラーフは、方伯、城伯やいろいろいたが、
グラーフに一本化されていった。
というより、正確にいうと、
帝国諸侯としての方伯・城伯などはみんな
FURSTクラス以上へ昇格するか、消滅してしまったのです。

今、いるグラーフは、これは領邦君主から、与えられた伯グラーフであって、
城伯も糞もないのです。
525世界@名無史さん:04/03/18 12:24
コンデ公はprinceですが。
526世界@名無史さん:04/03/18 18:57
そういえばコンティ公もprinceか・・
527世界@名無史さん:04/03/19 13:25
コンデ公もものの本によってはducだったりprinceだったりしてよくわからん。
そこら辺厳密に区別してるんだろうか。
528世界@名無史さん:04/03/19 21:31
プランスが1例しかないとしたら、
それは「爵位の序列を表す称号」ではなく、
「特定個人に与えられる称号」に過ぎないのではないかな。

実際、モナコ公が「prince de Monaco」なのに対し、
コンデ公の方は、「Monsieur le Prince」で、
大文字のプランスだし、
直訳すれば「ザ・プリンス殿」になる。
529世界@名無史さん:04/03/19 21:39
>>528の追伸

だから、爵位という意味では、コンデ公も「デュック」に過ぎない。

ただ、王族に対しては「プランス」という呼び方をするから
(「プランス・エリティエ」とか「プランス・デュ・サン」)
王族中の王族というニュアンスの美称に過ぎない。

ということじゃないかな。
530世界@名無史さん:04/03/19 22:03
たぶんduc de Contiは誤り
531世界@名無史さん:04/03/19 22:14
↑すまん、duc de Condeの書き間違え
532世界@名無史さん:04/03/19 22:25
533世界@名無史さん:04/03/19 23:44
>>532
prince多いじゃん。
534世界@名無史さん:04/03/20 00:36
クロイ公やテュレンヌ公、スービーズ公もprinceか。
535世界@名無史さん:04/03/20 02:11
ありすぎるほどありますな
536世界@名無史さん:04/03/20 15:02
prince de Condé
537世界@名無史さん:04/03/28 21:26
モンテスパン夫人の父もトネー=シャラント公爵(prince de Tonnay-Charente)ですな。
538世界@名無史さん:04/03/29 00:01
エックミール大公、ポンテ・コルヴォ大公、エスリンク大公、モスクワ大公、
ワグラム大公、ベルク大公、ポーランド大公などもみなPrinceでよろしいか?
539世界@名無史さん:04/03/29 03:15
ベルクは違う
540世界@名無史さん:04/03/30 23:19
princeもgrand dukeも同じ「大公」。わかりにくいよ。
正確な翻訳ってやらないのかな。国語審議会とか国語研究所とかさ。
はっきりいって怠慢だよな。
個人的には「prince 藩王/君爵」「grand duke 大公」と脳内変換してる。
541カウニッツ:04/03/31 00:16
マリア・テレジアの計らいで、ハプスブルク家の人間しか入れない、カプツィーナ霊廟に
葬られた、シャルロッテ・フクス伯爵夫人と、フランツ・フェルディナント大公との結婚を
反対された、ゾフィー・ホテク伯爵令嬢。どちらの身分が高いのでしょうか?
542世界@名無史さん:04/03/31 00:40
ゾフィー・ホテク伯爵令嬢は皇太子夫人になると同じにフランツ・ヨーゼフ帝から
ホーエンベルク公爵夫人に叙爵されていたよね。
543世界@名無史さん:04/03/31 03:00
ゾフィー妃って確かハプスブルクの墓には入れてもらえなかったんだっけ?
544世界@名無史さん:04/03/31 09:17
>>543
サラエボで暗殺された夫妻ならそう
歴代王族とは別の教会に埋葬された
545世界@名無史さん:04/03/31 09:35
領地の名を名前につけるのは侯爵・子爵・男爵だっけ?
546世界@名無史さん:04/03/31 12:26
「君爵」なんてありもしない日本語訳を捏造するのはやめてほしい。
いかにもオタくさい。
547-:04/03/31 12:47
>>546
中国にも朝鮮にも「君」爵はあったがね。
548世界@名無史さん:04/03/31 19:31
>>543
こまかいけれど、ゾフィーは「妃」じゃないでしょ。
549世界@名無史さん:04/03/31 19:48
>>541
身分の上下というより、感謝の念による行為と結婚前の契約の履行の違い
というだけだと思います。
でもゾフィー令嬢はベーメンの古い家系の一員とは言え
フリードリヒ大公妃の女官をやってたわけですから、マリア・テレジアの
母親同然だったシャルロッテ夫人とは払われる敬意という点では比べ物に
ならなかったのではないでしょうか?
>>543
大公が生前に建設し、そこに埋葬するように遺言していたアルトシュテッテン
の墓所に夫妻は埋葬されました。確かに皇帝は帝族の墓所への埋葬を拒否しましたが
大公の方も死後まで愛妻と離れ離れの待遇を受けるのは願い下げだったようですね。
550世界@名無史さん:04/04/04 11:53
私は明治時代に活躍したある著名な外交官の子孫です。
その先祖は男爵を授けられました。
551世界@名無史さん:04/04/05 18:11
過去ログ
貴族の爵位って買えるの?
http://mentai.2ch.net/whis/kako/999/999907177.html
552世界@名無史さん:04/04/05 18:23
関連過去ログ
中世貴族の猟奇的残虐な風習
http://mentai.2ch.net/whis/kako/994/994270576.html
553世界@名無史さん:04/04/05 18:28
過去ログ
串刺し公ヴラド3世について語ろう
http://mentai.2ch.net/whis/kako/994/994000860.html
ワラキア公ヴラド三世について知りたい。
http://mentai.2ch.net/whis/kako/972/972488378.html
554世界@名無史さん:04/04/05 18:35
555世界@名無史さん:04/04/07 14:31
ルイ16世の弟二人は王政復古後に相次いで国王になっていますが、
革命前は伯爵ですよね。
どうして公爵ではないんでしょう?

フランス関係もう一点、chatelain(城主)とchevalier(騎士)の間と思われる
vavasseurs(陪臣)って称号は誰が与えるんですか?
国王、それとも仕えている主人?
あと伯爵級以上ぐらいの上級家臣ならもらえる称号ですか?
それとも主人が王家の分家の公爵程度じゃないと駄目ですか?
556世界@名無史さん:04/04/12 02:37
関連過去ログ
中世ヨーロッパ貴族の娘 (8)
http://mentai.2ch.net/whis/kako/1001/10010/1001088313.html
557世界@名無史さん:04/04/12 04:34
関連過去スレッド
中央ヨーロッパの爵位って何? (76)
http://mentai.2ch.net/whis/kako/964/964588376.html
558世界@名無史さん:04/04/12 11:59
>>555
革命前は公爵位はインフレ気味で今まで王族で使い回された公爵位や新しい公爵作るより
古くからの由緒ある爵位である「プロヴァンス伯爵」「アルトワ伯爵」の方が何か
新鮮でオサレな感じがあるからだとか何とか。
アルトワ伯はルイ15世の暗殺者の出身地がアルトワで、アルトワの臣民を慰藉する為に
ルイ15世の孫にアルトワ伯の爵位が与えられたらしい。
559世界@名無史さん:04/04/14 10:20
小説とか概説書等で時々教皇が甥だの隠し子、協力者等に爵位を与えるような表現がありますけど、
あれは皇帝との政治取引ですか?
それとも教皇自身が○○公爵とか××伯爵とかの爵位をいくつか保持していて、
その処分権と言うか授与権があるのでしょうか?
560世界@名無史さん:04/04/14 12:17
>>559
確か中部イタリアの教皇領内の爵位は、教皇に宗主権があったんではなかったかと。
実際はオルシーニ家などの有力豪族を追認したりしていて、実権は余り無かったと言って良いみたいですが。
でも特に有名なチェーザレ・ボルジアの場合はフランス王に離婚許可証を与える代わりに
フランス国内の爵位であるヴァレンティーノ公爵を与えられていますね。
現在も特権の幾つかは残ってるみたいで、この前もペルージャの会長が
爵位付きの城を買ったとかで、教皇から叙爵されていたと思いますが。
561世界@名無史さん:04/04/14 19:57
>>560
ご教示ありがとうございます。
そうか、確かに教皇領内の爵位はなら授与権限がありそうですね。
それとオルシーニで思い出したんですが、
オルシーニ家とかコロンナ家は確か爵位を持たないことを誇りにしていて、
分家の方が本家より先に爵位を貰ったりしたとか読んだことがありますが、
本当でしょうかね。
教えて組んでも申し訳ないですけど。
562世界@名無史さん:04/04/16 09:13
>>561
確かオルシーニ家やコロンナ家などは長らく誰にも叙されない“男爵”で
あったと思います。しかし他国の貴族と同じように、徐々に国王(この場合は教皇)
に取り込まれるというか、影響を受けざるを得なくなってきて、宮廷貴族化していくわけです。
その過程で分家が本家より先に屈していったという感じだと思います。
生憎、私も詳しくは分からないのですが、15世紀後半の時点ではまだ分家に与えられているに
留まってるみたいです。
563世界@名無史さん:04/04/20 21:15
国によって違うかもしれませんが、現代のヨーロッパの貴族って長子相続ですか?

それと欧州の王室の法的な王位継承順位第一位を国別に教えてください。
564世界@名無史さん:04/04/20 21:59
>欧州の王室の法的な王位継承順位第一位
これはスレ違いにならん? 国王の件は似たスレなかったかな。
565世界@名無史さん:04/04/21 06:54
どなたか、現大英帝国女王と、皇太子と、皇太孫のフルネームと言うか、正式名を教えて下さい。
566世界@名無史さん:04/04/21 07:36
567世界@名無史さん:04/04/25 20:29
由緒のある公や伯、副伯等は官職的存在から移行したとして、
豪族としてのbaronと爵位としてのbaron(男爵)の関係ってどうなんでしょう?
詳しい方教えてください。
568世界@名無史さん:04/04/28 19:58
 明の宗室の爵位に鎮国将軍(従二品)、輔国将軍(正三品)、奉国将軍(従三品)が有りま
すが、武官の勲等にも鎮国将軍、定国将軍、奉国将軍(いずれも従二品)があります。
 でこちらの方は最初鎮国将軍を授けられ、鎮国→定国→奉国の順で昇進するようです。
 つまり鎮国、奉国がだぶり、上下の逆転もあり、更に奉国は官品が違う。
 まるで間違えて欲しくてわざとこうしたかのようにややこしいです。
 どうしてこんなに紛らわしいことをしたんでしょうね?

清史稿の臣下の封爵のところを眺めていたら超等公なんてのがありましたが、
これはなんでしょう?
あと確か輔国公とベイレだかベイゼもいましたけどこれは平西王とかに准ずる特例でしょうか?
569世界@名無史さん:04/04/28 23:09
>>568
ベイレ=貝勒。
清についてはこのスレで聞いた方が詳しい。

清王朝について語るスレッド
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1068630308/
570世界@名無史さん:04/04/29 02:12
貝勒は皇族の序列だろ

親王(=皇子)>王(=皇孫)>貝勒(=皇三世孫)>貝子(=皇四世孫)
571世界@名無史さん:04/04/29 20:11
親王、郡王、貝勒、貝子、鎮国公、輔国公、一〜三等鎮国将軍、
輔国将軍、奉国将軍、奉恩将軍が清の宗室の爵なのは知っています。
知っているからこそ疑問なんですけどね。
呉三桂の平西王が平西親王に進められたような初期の特例でしょうか?

その封爵表には定南王、恭順王、靖南王、懐順王、平南王、平南親王、智順王、義王、武勲王、平西王、
武功郡王(追封)、忠鋭嘉勇貝子、輔国公等がありました。

超等英誠公(一等公の上?)

それと公侯伯に一〜三等の等級のあるものと承恩公、恭順侯、忠誠伯のように等級のないもの、
一等雄勇公、三等威勤伯のように嘉名があるものと単なる一等公、二等侯、三等伯等
果ては単なる伯爵もありましたが、これは初期の制度的に整わない時のものなのか、
特例なのか単なる脱漏かなんなんでしょうね。
子爵、男爵は通常嘉名はついていませんが、履歴の中には三等嘉勇男と言うのがありました。
これは例外?それとも本来はあるが表では省力されているだけでしょうか?
572世界@名無史さん:04/05/02 14:25
フランスの場合個々の家の入れ替わりあっても、
副伯が子爵に以降したと考えて良いのでしょうか?
573世界@名無史さん:04/05/03 18:21
>>572「副伯が子爵・・・」

日本語で書くと、どうだけど、原語なら同じではないかと。
ただし、日本語が、意訳であると考えると、昔はたしかに「副」の役だったけど、という意味かもね。
どう?


574世界@名無史さん:04/05/03 18:39
アンシャンレジームでの、フランス爵位は5等ですか、6等ですか?
公爵が、プリンスとデュクの二段階あり、
その下に、マーキス(いわゆる侯爵、ラファイエットさんが有名)、
伯爵、子爵、男爵の計4つ。
以上6段階でしょうか?(521がすでに言っていますけど)

ちなみに、ナポさんは、451によると、
公爵(Prince,Duc)、伯爵、男爵、騎士の5段階のようですね。
騎士というのを、爵位として採用したんですね。

ちなみに、ドイツでも騎士爵位(リッター)というのがあるようですけど、
これは、ドイツ(神聖ローマ帝国)での爵位ではなくて、その領邦で作られた爵位とのことです。
オーストリアとバイエルンで作ったみたいです(ほかの小国もあるかも?、でもわからん)。
575質問です。:04/05/03 18:52
あるURLで、オランダ女王の亭主のことが乗ってました。
Known as "Prins Claus" in the Netherlands, he was born in Dötzingen (Hitzacker),
as Claus George Willem Otto Frederik Geert jonkheer von Amsberg.
このおじさんですが、
jonkheer von Amsberg は、貴族の流れということですか。
また、jonkheer が小文字で始まっているのが、気になるんですが、どうでしょうか。

前に、VONとか、
ZU UND VON とかの名前で質問がありましたので関連質問でお願いします。
576Graf=Comte?:04/05/03 20:36
Grafですが、秘書官みたいですね。

http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1072534305/l50 お57ですが、引用すると、
それによると、下記のように読めます。
@フランスでも、王政時代に、すでに、紋章官がいて、
その後(14世紀)、紋章院という組織が創設された。
革命政府は紋章制度を廃止したものの(紋章院も廃止)、
ナポレオンが式部関係の役所を復活し、その中で紋章を扱う部署もできた。
Aドイツも、皇帝が、直接管理した。おそらく、皇帝の下の紋章官がいたのでしょう。
さらに、貴族以外への紋章については、宮中伯に委託したとのことで、
宮中伯には、大宮中伯、小宮中伯、機関宮中伯がいたとのことです。
七選帝侯のライン宮中伯は、このうち大宮中伯にあたるのかと推測しますが、
大宮中伯も元来は一人に限ったわけでなく、複数おり、
彼ら大宮中伯の元に役所(官房)があって、そこの紋章官が属していたのだと思われます。

Comteですが、
英語のCountyでみるように、地方の代官という感じですね。

言いたいのはそれだけですが。
577世界@名無史さん:04/05/05 00:29
とある小説を読んで以来、貴族制度に興味を持ちまして色々調べているのですが、いくつか分からないことがあるので質問します。
よく、貴族の名前は長ったらしいと言いますが、書物やネットなんかを見てみても○○伯だとか男爵××としか書いてありません。
貴族の名前を省略しないで表すと、どれくらいの長さになるのですか?
それから、皇族(日本の皇族じゃなくて、皇帝の一族という意味の皇族)や大貴族の子弟は
生まれながらや何の功績をあげなくても血統だけで叙勲されるというような設定をよく小説等で目にしますが
このスレを見る限りではあまりそうでもないようです。今はともかく、中世欧州辺りでは実際はどうだったのですか?
よろしかったら教えて下さい。
578世界@名無史さん:04/05/05 01:43
名前の長さは千差万別だと思いますが
名前・洗礼名・苗字が基本で、それから家門名が入ったり
先祖の名前を入れてみたりと代を経る事に長くなっていく傾向にあると思います。

皇帝や国王の一族に関しては、爵位は当然貰ってます。
ハプスブルク家なんて生まれた瞬間に大公ですし。
これに関しては親王にすら宣下を貰う必要があって、実際にそれを得られない事も
多々あった日本の方が厳しかったと言えるんじゃないでしょうか?
でも王族を独立させるという事は、王室の財産から領地なり年金を与えないといけない
わけで、なかなか時代を経る事に大変になっていったみたいですね。
イギリスのチャールズ2世は自分の私生児達を資産家として知られている貴族の
跡取り娘と結婚させようと頑張ってたみたいです。

貴族の子弟に関しては国の風習によって大分異なりますが
イギリスでは大貴族は大抵、複数の爵位を持っているので
将来の継承者である長男や孫まで名乗る爵位が決まっていたりします。
次男以降はその中から適当な物を貰って独立する事もあったようですが
大抵は親のコネだけで、後は自分で世の中を渡っていく算段をしないと
いけなかったようですね。(軍隊に入ったり、聖職者になったり)
579世界@名無史さん:04/05/05 02:06
一例:オットー・フォン・ハプスブルクのフルネーム
Franz Josef Otto Robert Maria Anton Karl Max Heinrich Sixtus Xaver Felix René Ludwig Gaetano Pius Ignazius durch den Fürsterzbischof von Wien

例2:かつてのスペイン王の称号
カスティーリャ,レオン,アラゴン,両シチリア,エルサレム,ナバラ,グラナダ,トレド,バレンシア,ガリシア,マヨルカ,セビリア,
サルデーニャ,コルドバ,コルシカ,ムルシア,ハエン,アルガルヴェ,アルヘシラス,ジブラルタル,カナリア諸島,インディアス,および大洋の島々と陸地の国王,
オーストリア大公,ブルグント,ブラバント,ミラノ公爵,ハプスブルク,フランドル,ティロル,バルセロナ伯爵,ビスケーおよびモリノ卿等々
580世界@名無史さん:04/05/05 17:25
なるほどなるほど。
とても参考になりました。ありがとうございます。
それにしてもこれは長いw
これじゃあ本人や親ですら覚えるのは一苦労だったでしょうねw
しかし、爵位って複数持つことも可能だったんですね。
だけどそれじゃあ先細りしていく気が・・・
ところで、これも国や時代によって千差万別かも知れませんが皇族や王族に爵位が下賜された場合、宮中序列はどうなってしまうのですか?
例えば皇子が子爵や男爵を下賜されたとしても、皇族ですから宮中序列は侯爵や公爵よりも高かったのでしょうか?
581世界@名無史さん:04/05/05 19:34
このスレの中でも話題になっていますが、普通は王族の特権という事で
宮中序列は通常の貴族よりも前になります。
詳しくは過去ログを参照する事をオススメします。

>先細り・・・。
だから余程の事がないと継承者以外は爵位を貰えません。
582世界@名無史さん:04/05/06 00:36
なるほど。
よく分かりました。
ありがとう御座いました〜。
583世界@名無史さん:04/05/10 03:48
von und zu ですが
ttp://www.heraldica.org/faqs/atrfaq.htm
によれば
A few noble houses use "von und zu", meaning they are not only from the place mentioned but still retain it.
とあります。
zuはナッサウやザクセンの小国によく見られます
ex.Herzog zu Nassau  Fürst zur Lippe

ausもあるようですがvonと同じ意味だそうです
584世界@名無史さん:04/05/12 20:54
521ではないが、
フランスのアンシャンレジーム下では、
Peer(この概念はフランスでもよいでしょうか、)
は、結局、6段階ということでよいんでしょうか。

また、DUC と Princeは、どちらが上位なんでしょう。
ドイツ(フランク王国としての片割れ)の類推だと、
DUCのが上のように思えますね。
Ducは、Herzogで、
Princeが、Furstだとした上で、
 ””Herzogtum > Furstentum ””の式を、そのまま置き換えると。
いかがでしょうか。



585世界@名無史さん:04/05/12 21:02
フランスが、6段階かどうか、ご意見はないようですが、
イギリスの場合、Peerは5段階(Duke、Marquiss,Earl.Viscount、Baron)と言い、
その下にBaronetがあるというふうに理解されますね(厳密にはわからないので、ご批判ください)。

ただ、その前身のひとつ、スコットランドでは、
Duke、Marquiss,Earl.Viscount、Lord,Baron となり、
6段階、その下にBaronetが、というようになっているように見えます。
スコットランド系英国貴族(高位)を引くと、彼の持っている複数爵位の羅列があり、
容易にLordShipを見つけることが出きます。
6段階あったと言い切って大丈夫でしょうか。
586世界@名無史さん:04/05/12 22:13
勝手にパクルが、
<1815年ドイツ連邦の諸国 >
<帝国、帝号>1,オーストリア帝国
<王国、王号>2,プロイセン王国 3,ザクセン王国 4,バイエルン王国
       5,ハンノーファー王国 6,ヴュルテンベルク王国

<公国、公爵>
7,バーデン大公国 8,ヘッセン=カッセル選定侯国 9,ヘッセン=ダルムシュタット大公国
10,ホルシュタイン公国 11,ルクセンブルク大公国 12,ブラウンシュヴァイク公国
13,メクレンブルク=シュヴェリーン大公国 14,ナッサウ公国
15,ザクセン=ヴァイマール大公国 16,ザクセン=ゴータ公国
17,ザクセン=コーブルク公国 18,ザクセン=マイニンゲン公国
19,ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国 20,メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国
21,オルデンブルク大公国 22,アンハルト=デッサウ公国 23,アンハルト=ベルンブルク公国
24,アンハルト=ケーテン公国 

<候国、候爵>
25,シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国 26,シュヴァルツブルク=ルードルフシュタット侯国
27,ホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン侯国 28,リヒテンシュタイン侯国
29,ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国  30,ヴァルデック侯国
31,ロイス侯国(兄系) 32,ロイス侯国(弟系) 
33,シャウムブルク=リッペ侯国 34,リッペ=デルモルト侯国
587世界@名無史さん:04/05/12 22:15
(承前)
<自由市、市長>
35,リューベック自由市 36,フランクフルト自由市 37,ブレーメン自由市
38,ハンブルク自由市 


<方伯国>
方伯39ヘッセン=ホンブルク地方伯

とのことで。

588世界@名無史さん:04/05/12 22:16
上のリストを見ての感想ですが、、、、

☆爵位の序列を反映しているかも。

☆地方伯(方伯、Landgraf)は、自由市の市長さんより下なんだね。
 もっとも、自由市が力をつけた近代だからで、古く古くを考えれば、
 地方伯が上かも、どうだろう。
☆公国と大公国が、順位が前後しているのは、何でだろう。
 大公国が上とは言い切れないのか。
☆選帝侯国
 *)8,ヘッセン=カッセル選定侯国は、大公位も併せてもっているのだろうか。
 *)ほかの選帝侯位は、ザクセン(すでに王国)、バイエルン(すでに王国)ボヘミア(連邦の外)
  プファルツ(わかんない)、ハノーバー(すでに王国)だから、響きの良い王国を用いるのかな。

☆1815年のドイツ連邦だから、こうだが、
 ライン連邦や、もっともっと昔のドイツの領邦リストを見れば、
 辺境伯国とか、宮中伯領、城伯(国、領)とかも、登場し、
 それらの序列が明確になったかもしれない。
 地方伯ではないが、市長さんより、下であろうか、どうでしょう。


589584:04/05/12 22:26


     上のリストの<候国、候爵>ですが、
     Furstentumであると思います。つまり、Principalityです。

     よって、Grossherzogtumや、Herzogtumより、下位にあることになります。
     イギリスの本家がフランス(ノルマン征服、プランタジネット)と考え、
     フランス=フランクライヒなので、フランク王国が大元になる。
     フランク王国、フランク人の王国、東フランクとなり、
     東フランク王国が、結局ドイツ王国(オットーはザクセン族=ザクセン朝だけど、
     その前まではフランク族が王様。少しアバウト。)と考えれば、
     Duke>Prince,  Duc>Prince、  Herzog>Furst という感覚が、一番FITすると思います。
     (時代にはよるでしょうが)。

     
      

590世界@名無史さん:04/05/12 22:37
>>588
>*)8,ヘッセン=カッセル選定侯国は、大公位も併せてもっているのだろうか。
ヘッセン=カッセル選帝侯が保有している称号の一つに
フルダ大公ってのがあります(1831年のヘッセン選帝侯国憲法で確認)
591世界@名無史さん:04/05/13 00:00
>584
>Peer(この概念はフランスでもよいでしょうか、)
peer(フランス語ではpair)っつーのはフランスでは意味あいが
違ってくるんではないかな。
"duc et pair"とかで検索してみたら

>また、DUC と Princeは、どちらが上位なんでしょう。
上で出ている
ttp://www.heraldica.org/topics/france/frprince.htm
を読んでみたけど、よう分からんかった。↓とかとは書いてあったけど
その人が何でPrinceと呼ばれているかによるような気がする。
But, in his Traite des Ordres, he gives princes precedence after dukes and before marquis, which is the same precedence they held in the Spanish (after 1713, Austrian) Netherlands.

Napoleon I created several princes and gave them precedence over dukes.
592世界@名無史さん:04/05/13 01:53
>>588
そのリストの時点で神聖ローマ帝国は既に消滅しており、選帝侯も消滅しています。
唯一つの例外として、ヘッセン・カッセルが名誉称号的に選帝侯を名乗ることを許されました。
(逆に言えば他の選帝侯は既に(より上位と見なされる)王国や大公国であったので必要なかった。
ヘッセン・カッセル自体は方伯に過ぎないので、選帝侯に拘った)

ちなみにボヘミアは連邦の外ではないですよ。オーストリア帝国領で連邦の一員です。(ハンガリーは外です)
プファルツはバイエルン領になっています。

なお帝国最末期に選帝侯位を有していたのは、
ボヘミア王国(ハプスブルク家)、プロイセン王国、バイエルン王国、ザクセン王国、ヘッセン・カッセル選帝侯国、
ハノーヴァー選帝侯国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ザルツブルク大公国
でした。

>>591
つまり王政と第一帝政ではやはり違うってことですかね?
593世界@名無史さん:04/05/13 02:12
それと某所(>>586氏のとは別と思われる)から勝手に引用すると、
<>内は私のつけたし

German Confederation; members in official order:

(1) Austria
<ここまで帝国>
(2) Prussia
(3) Bavaria (4) Saxony (5) Hanover
(6) Württemberg (from 1 Sep 1815)
<ここまで王国>
(7) Baden (from 26 Jul 1815) <大公国>
(8) Hesse-Kassel <選帝侯>
(9) Hesse-Darmstadt <大公国>
(10) Holstein (plus Schleswig from 12 Apr 1848) <公国・デンマーク王国と同君連合>
(11) Luxembourg <大公国・オランダ王国と同君連合>
(12) Limburg (from 5 Sep 1839)<公国・オランダ王国と同君連合>
(13) Braunschweig <公国>
(14) Mecklenburg-Schwerin<大公国>
(15) Nassau-Usingen + Nassau-Weilburg, merged 24 Mar 1816 into Nassau. <公国>
(16) Saxe-Weimar <大公国>
(17) Saxe-Gotha (18) Saxe-Coburg (19) Saxe-Meiningen
(20) Saxe-Hildburghausen <4つとも公国>
(21) Mecklenburg-Strelitz <大公国>
(22) Holstein-Oldenburg <大公国>
(23) Anhalt-Dessau (merged 30 Aug 1863 into Anhalt)
(24) Anhalt-Bernburg (same as above)
(25) Anhalt-Köthen (same as above)
<3つとも公国>
594世界@名無史さん:04/05/13 02:14
(26) Schwarzburg-Sondershausen
(27) Schwarzburg-Rudolstadt
(28) Hohenzollern-Hechingen (annexed by Prussia 12 Mar 1850)
(29) Liechtenstein
(30) Hohenzollern-Sigmaringen (annexed by Prussia 12 Mar 1850)
(31) Waldeck
(32) Reuss Senior Line (33) Reuss Junior Line
(34) Schaumburg-Lippe
(35) Lippe
<ここまで候国(Fürstentum)>
(36) Hesse-Homburg (from 7 Jul 1817) <地方伯>
(37) Lauenburg <公国、デンマーク王国と同君連合>
(38) Lübeck (39) Frankfurt (40) Bremen (41) Hamburg <自由市>

となっております。

595世界@名無史さん:04/05/13 02:26
>>592
訂正。
ザルツブルクは公国でした。
それとヴュルツブルク大司教領が1805年に選帝侯になっていました。
596世界@名無史さん:04/05/13 17:58
>>593
>>594
補足と訂正なんですが
(17) Saxe-Gotha (18) Saxe-Coburg (19) Saxe-Meiningen(20) Saxe-Hildburghausen
は1826年にGotha系が絶えたことにより
Sachsen-Coburg-Gotha,Sachsen-Altenburg,Sachsen-Meiningenに改編されてます。
Anhalt-Koethenは1853年にAnhalt-Dessauに吸収されてますので(same as above)ではないです。

(37) Lauenburg <公国、デンマーク王国と同君連合>は途中からの加盟も書いてないし、
ドイツ連邦規約に載ってないので、おや?って思ったのですが(10) Holstein に含まれてるんですね。
597世界@名無史さん:04/05/14 15:39
>>595
ヴュルツブルク大司教領じゃなくヴュルツブルク司教領ね。

ヴュルツブルクの変遷はこんな感じです
司教領→1802(1803)バイエルン領→1805選帝侯領→1806大公領
598世界@名無史さん:04/05/15 20:46
>>593
どこを調べれば、そういう立派なリストがあるのでせう。
小生、ライン連邦と、消滅直前の神聖ローマ帝国のリストを求めているのですか。
599世界@名無史さん:04/05/15 21:42
585が、スコットランドの爵位について疑問だしてますよ。

このDukeも、Lordも Baronもイングランド系の爵位だよねぇ。
もともと、スコットランド語(ケルト系)での、爵位はなかったのかしら。
それが、英語に置き換えられたんではなくて?
また、フランスの影響も強かったとのことで、
貴族の爵位名など、フランス語で持ってきてもよいかと思うけど。
(スチュアート王家の名前も、英語みたいですし、
 それを、メアリー女王のころに、フランス風に綴りを変えたと聞きますけど
 ということは、スコットランド語→フランス語→英語ではなくて、
 やっぱり、スコットランド語→英語ということ?)
600\(@∀@-b/[*]:04/05/15 21:56
600

マルキ・ド・サド
ザッヘル・マゾッホ
601世界@名無史さん:04/05/16 00:17
602世界@名無史さん:04/05/16 02:44
>>598
英語かドイツ語で探せば見つかるかもしれません
ライン連邦は

Königreich Bayern
Königreich Württemberg
Großherzogtum Frankfurt
Großherzogtum Baden
Großherzogtum Berg
Großherzogtum Hessen-Darmstadt
Herzogtum Nassau-Usingen
Herzogtum Nassau-Weilburg
Fürstentum Hohenzollern-Hechingen
Fürstentum Hohenzollern-Sigmaringen
Fürstentum Salm-Salm
Fürstentum Salm-Kyrburg
Fürstentum Isenburg-Birstein
Herzogtum Arenberg
Fürstentum Liechtenstein
Fürstentum Leyen
603世界@名無史さん:04/05/16 02:44
続き

(15 Sep 1806-)
Großherzogtum Würzburg
(11 Dec 1806-)
Königreich Sachsen
(15 Dec 1806-)
Herzogtum Sachsen-Weimar
Herzogtum Sachsen-Gotha
Herzogtum Sachsen-Meiningen
Herzogtum Sachsen-Hildburghausen
Herzogtum Sachsen-Coburg
Herzogtum Anhalt-Dessau
Herzogtum Anhalt-Bernburg
Herzogtum Anhalt-Köthen
Herzogtum Mecklenburg-Schwerin
Herzogtum Mecklenburg-Strelitz
Herzogtum Oldenburg
Fürstentum Lippe-Detmold
Fürstentum Schaumburg-Lippe
Fürstentum Reuss-Lobenstein
Fürstentum Reuss-Ebersdorf
Fürstentum Reuss-Schleiz-Gera
Fürstentum Reuss-Gleiz
Fürstentum Schwarzburg-Rudolstadt
Fürstentum Schwarzburg-Sondershausen
Fürstentum Waldeck
(15 Nov 1807-)
Königreich Westfalen
604世界@名無史さん:04/05/16 03:29
凄いものを見つけてしまった・・・
ttp://www.almanachdegotha.com/2002/profiles/holyroman.html
消滅直前の神聖ローマ帝国のリスト
605世界@名無史さん:04/05/16 17:34
↑は微妙にSachsenとかBergが抜けてるのが謎。
606世界@名無史さん:04/05/17 21:15
マイケル・L・ブッシュ著「ヨーロッパの貴族」刀水書房によるとフランスには
デュック・エ・ペール(重臣各公爵)なる特別な公爵がいたようですが、
これが1723年で76、ただの公爵ってどのくらいいたんでしょうね。
同じ本で下級貴族の称号として
騎士(ナイト、リッター、シュヴァリエ、カバリェーロ、カヴァレイロ)
エクスワイア、エキュイエ、ダモワゾー、エクスデーロ、エクスデイロ等が上げられていましたが、
どれがどの国の称号でしょう?
ナイト&エクスワイア(英)、リッター(独)、シュヴァリエ(仏)程度はわかります。
607世界@名無史さん:04/05/18 01:45
エクスワイアでなくエスクワイア。

カバレーロはスペイン語、
カヴァレイロはポルトガル語。
608世界@名無史さん:04/05/18 17:41
 ヨーロッパで独仏以外で独自に爵位制度が発達した国はありますか?
 確かに露のクニャージ、英のアールは独自の爵位ですが、
それ単独では称号ではあっても爵位制度とは言いがたいでしょう。
 各々独仏からその他の爵位を導入して初めて制度になった気がします。
 ロシアなど無爵の高級貴族がいましたし。
 他の国も仮に称号自体は自国語であっても、制度としては独仏系の気がします。

 それと北欧のヤール(侯?)と英のアールは関係あるんですか?
609世界@名無史さん:04/05/19 02:26
>>575
間違えてドイツスレに書いてしまったが

jonkheer(ヨンクヘーア?)はオランダの爵位で、英国のエスクワイア相当とされる。
610世界@名無史さん:04/05/19 23:36
608さま

イギリスの伯爵は、女性形は、カウンテスで、大陸系ですね。
EARLは、デーン人の関係と聞いています。
611世界@名無史さん:04/05/21 06:18
スコットランドの爵位は女性も継げる場合があると聞きましたが、
私は伯爵しか例を知りませんが他にも例があったんでしょうか?
612世界@名無史さん:04/05/22 21:00
>>>611
例えばHamilton公やQueensberry公は、letters patentで
男系男子が絶えた場合に限り女子とその男系男子への継承を認められ、
実際にそうなりましたが、お知りになりたいのはそんな例でなく、
当主に男子がいない場合女子に継承される
Mar伯やSutherland伯のような例でしょうか?
確か男爵にもいくつか例があったと思いますが、
具体例はちょっと自信がないです(確かKinlossとかSoultonとか)。
613611:04/05/23 21:05
>612
ご返答ありがとうございます。
当主に男子が居ない場合の女子の継承例、
継いだ女子の具体例やどのような運びでそれが実現したのか等が
知りたかったのです。
実際特定の爵位のみ女子継承ができるのはどうしてなんでしょう?
何か一定の法則があるんでしょうか?
614世界@名無史さん:04/05/26 00:38
爵位ごとにルールが違ってるだけじゃないかと思われるが…。
615612:04/05/27 01:01
>>613
大まかに言えば、古い爵位は女子相続が可能で、
概ね16c以降の新しい爵位は男系相続に限られてます。
しかし612で例示したように例外も多くあります。

王家では当たり前の女子相続の制度が、貴族では次第に制限されていったようで、
これはイングランドでも同じです。

具体例については
ttp://www.angeltowns.com/town/peerage/Peers.htm
ttp://www3.dcs.hull.ac.uk/public/genealogy/royal/peerage.html
などで、地道に探して下さい(^^)
616世界@名無史さん:04/05/27 18:59
>>609
オランダの称号でしたか。ありがとうございました。
実は、もともと、オランダの歴史スレで見つけたのですが。
152,153,184のあたりですが。
617Scotlandの関係:04/05/27 19:04
   ↑↑ いろんな国の話があるので、見やすくしようと思いました。

同国では、Duke、から、Lord まで、5段階が、Peerであるとのことで、わかりました。
ご紹介のURLを見ましたが、Lordは フルでいうと、「ロード オブ パーラメント」が正式とのこと。
でも、デュークなどは、「デューク オブ パーラメント」 とは言わないのでしょうか。

Lordは、結局、スコットランド議会が形成された後に、出てきたタイトルでしょうか。
618 Scotland 関係:04/05/27 19:11
スコットランド関係です。

そもそも。Peer、Perrageとは何?
 議会に出席できるというのがポイントだという話も聞いたけど。

@フランスやドイツでは言わないで(対応するものはなく?)、
イングランド、スコットランド、アイルランドで使うみたいですが。

Aイングランド議会でも、たとえば、いわゆる模範議会で、Peer以外の、
市民(第三身分のような)代表もいたんでないかと、こいつらは、Peerではない筈。
すると、貴族身分としての、出席権を持つということ?かな。
すると、先に、貴族身分を定義しないといけないよね。

 ドイツやフランスで、等族議会に出席する、貴族身分として出席する
 これを貴族というとか、あるかなぁ。
619 Scotlandの関係:04/05/27 19:18
スコットランド議会の成立といっても、きっちり、いつからとはいえないと思います。
終わりははっきりしてますが(1707年のイングランドとの合同)。

PEERAGEの定義と、
ロードオブパーラメントの定義、
うまく整合とれるかものなのかと思います。
  
  (い)ロードオブパーラメントは、議会のロードですから、
  まさにピッタリ合うんですが。
  
  (ろ)最初にロードに、誰が、叙された年号と、
  そのときのスコットランド議会の状況とか、うまく合うかな。
  

  (ろー2)そもそも、ロードオブパーラメントというからには、
   その時点で、パーラメントと関係ないロードという連中がいたのかも)
  
620586:04/05/27 20:05
592,593さん まずお返事ありがとう。

プファルツは、バイエルンと合体したですか。
単純に考えると、バイエルンのウイッテルスバッハ家は、
投票権が二つになる筈ですが。
 
  プファルツとバイエルンを、
  二つのラントのままにして同君連合とする手もあったと思うけど、
  そうはしないで、合併してしまったんですか。
  (帝国側、皇帝側の意向として、
    合併させることで、投票権をひとつにするとか。
   ていうか、通常は、
   国力Upに繋がる合併は禁止したりすること多いような。
   帝国=皇帝は、もうそんな事に口挟む時代ではなくなったかもしれないけど。)



621 586:04/05/27 20:09

オーストリアが「帝国」の格を保持するという点で、
  特別な存在でしょうか。

  かつての、ラントが二つもありますよね。
  ボヘミア王国と、オーストリア太公国。

   なお、僕は、オーストリア太公国がひとつのラントと言えたのか
   よくわかりません。
   ドイツの歴史を熱く語りあっている人によると、
   「上?オーストリア」と「下?オーストリア」があるようで、
   すくなくとも、それだけで二つのラントのように見えますので。

      この上オーストリア、下オーストリアという言い方やめたいですよね。
      ちゃんと、「×××オーストリア」と表現したほうが間違えなくて、
      また、旅行の時も助かりますし、ずっと良いですね。
   
622世界@名無史さん:04/05/27 20:42
  ↑ ↑ これです

>ドナウ川の上流部にあるオーストリアが上オーストリア(オーバーエースとライヒ)
>下流部にあるのが、下オーストリア(ニーダーエーストライヒ)です。
>古くは、オプ・デア・エンス、ウンター・デア・エンスとも呼ばれていましたが、
>イプス川とエンス川にはさまれた地域の扱いが異なって、名前が変わりました。
>近世以降は、オプ・デア・エンス=上オーストリア、
>ウンター・デア・エンス=下オーストリア、と理解して頂いて結構です。
>上で述べたことからわかるように、エンス川で上と下を分けます。
623世界@名無史さん:04/05/27 20:43
  ↑ ↑ これです

>ドナウ川の上流部にあるオーストリアが上オーストリア(オーバーエースとライヒ)
>下流部にあるのが、下オーストリア(ニーダーエーストライヒ)です。
>古くは、オプ・デア・エンス、ウンター・デア・エンスとも呼ばれていましたが、
>イプス川とエンス川にはさまれた地域の扱いが異なって、名前が変わりました。
>近世以降は、オプ・デア・エンス=上オーストリア、
>ウンター・デア・エンス=下オーストリア、と理解して頂いて結構です。
>上で述べたことからわかるように、エンス川で上と下を分けます。
624世界@名無史さん:04/05/27 20:44
  ↑ ↑ これです

>ドナウ川の上流部にあるオーストリアが上オーストリア(オーバーエースとライヒ)
>下流部にあるのが、下オーストリア(ニーダーエーストライヒ)です。
>古くは、オプ・デア・エンス、ウンター・デア・エンスとも呼ばれていましたが、
>イプス川とエンス川にはさまれた地域の扱いが異なって、名前が変わりました。
>近世以降は、オプ・デア・エンス=上オーストリア、
>ウンター・デア・エンス=下オーストリア、と理解して頂いて結構です。
>上で述べたことからわかるように、エンス川で上と下を分けます。
625世界@名無史さん:04/05/28 00:44
十年ぶりだかで田舎に帰ったんだけど、俺はちょっと暇持て余して買い物してたんだよ。
そしたら臨時休業か何かでさー、店閉まってて呆然としてたら、
隣の女も同じく空振り食ってたらしくて「あはは、これじゃしょうがないっすねー」っつって笑いあってた。

その人、ショートカットで飾らない感じで、可愛い系ってより美人系って感じの、
もろに俺の好みでな、かなり気になってたんだが、そしたら向こうから
「あの、良かったら・・・これから一緒に買い物でも行きませんか?」
って言ってきたんだよ。二つ返事でOKしたよ。

その人とは、話も合うし、何より一緒にいてすごく楽しいんだ。なんか今日はじめて会ったって気がしない。
俺は今まで告白なんてしたことないチキン野郎だったんだけど、
勇気を振り絞って「また会えませんか?」って言ったんだがそこで目が覚めました。

おはようお前等。
626カラジチ ◆mWYugocC.c :04/05/29 00:19
>>620
正確には、バイエルンのヴィッテルスバハ家が断絶して、プファルツのヴィッテルスバハ家に継承されたということのようですが、継承はすんなり行かなかったらしい。
皇帝がバイエルンとネーデルランドの交換を申し出て、プファルツ選帝侯がそれを受け入れようとしたところに、プロイセンや分家やらが介入して戦争になったとか。
バイエルン継承戦争ってやつなんですが、ちょっと調べてみたけど詳しく書いてるサイトも本も見つからなかった。
詳しい人いたら教えてください。
627世界@名無史さん:04/05/30 03:31
>>626
1777年にバイエルン選帝侯のマクシミリアン・ヨーゼフが亡くなった後
バイエルンの継承権はプァルツ選帝侯カール・テオドールに移ります。
しかし彼はもう50歳を過ぎていたし、自分の領土が気に入っていたので
バイエルン継承への意欲はあまり強くありませんでした。
しかも彼には正妻腹の嫡子がいなかったので、死後は庶子が跡を継ぐ事になり
この点で脛に傷がありました。
そこに目を付けたのがヨーゼフ2世で、彼はプァルツ選帝侯と78年の1月に
カール・テオドールの死後のバイエルンに関して協定を結びます。
協定の内容は、庶子に過ぎない選帝侯の息子を次代のヴィッテルスバハ家の跡目として承認する代わりに
バイエルンの三分の二をオーストリアに割譲させるというものです。
(ヨーゼフ2世が二番目に迎えた妃はバイエルン出身でしたし、彼の祖母もバイエルン出身です。
女系を辿れば彼にも継承権はありました。)
それが成立するや否や、バイエルンに軍隊を派遣して既成事実化を図ります。
この一連の活動はヨーゼフ2世の急進的な姿勢がモロに出ていたものだったので
列強に対する根回しなどされている筈もなく、強烈な反発を招きます。
この急先鋒となったのがプロイセンのフリードリヒ大王で、彼は帝国議会で
この問題を提訴し、78年の7月にベーメンへの進攻を開始します。
ヨーゼフ2世はこれに対して自ら軍を率いて撃退に向かいますが、実戦経験がまるで
なかったので、毅然とした指揮が取れるはずも無く、またプロイセン側もベーメンの国境から
あまり動かず、『じゃがいも戦争』とか『すもも戦争』などと言われる程
食糧確保以外にする事がない消耗戦に陥ります。
この現状を打開したのが、既に政治の主導権を奪われていると目されていたマリア・テレジアでした。
彼女は不倶戴天の敵を自認していたフリードリヒに密使を送って、和平への下準備を開始します。
ちなみにネーデルラントとバイエルンの交換案はこの時に提案されたのですが
当然、プロイセン側に一蹴されました。
双方とも子供の使いではないという事で、かなり難航しましたが
79年の5月にオーストリアに若干の領地の獲得を認める以外は現状維持という
テッシェンの和が結ばれました。
628627:04/05/30 03:39
補足

バイエルンとネーデルラントの交換を提案したのはヨーゼフ2世です。
マリア・テレジアはそのようなムシの良い話が通るはずも無いと即時撤退を
主張していました。
(そもそもバイエルン併合自体に反対でした)

結果としてヨーゼフ2世の面子はガタ落ちになり、相対的に帝国内での
プロイセンの地位は更に向上しました。
これは普墺戦争まで続いたオーストリア・プロイセンのドイツ内での二元主義を
決定的にするものでした。
629Scotland:04/05/30 17:50
上のURLから写すと、

The ranks of the Scottish Peerage are Duke ,Marquess , Earl , Viscount , and Lord of Parliament
Today's Parliament

Scottish Barons is not peers ,but merely baron holders of feudal baronies, which can be bought and sold.

630世界@名無史さん:04/05/30 18:07

上に書いてある「feudal baronies」は、
 <1>王様から叙すのではなく、自分で名乗っているような連中でしょうか。
 
 また<2>イギリスの、マグ名カルタの時の、バロンのようなものでしょうか。
 
    逆にいうと(別の質問になりますけど)、
    「イギリスのマグナカルタのときの、バロン」ていうのは、
    どういう連中なんでしょう。
    ノルマンコンクエストでノルマン朝の王から領地を
    与えてもらった家臣たちでは?
631世界@名無史さん:04/05/30 19:02
>>627

「プロイセン王が、帝国議会で・・・」とのことですが、
彼は、ブランデンブルク選帝侯の立場で、出席したということでいい?ですか。

それと、この当時の帝国議会は、どういう風に招集され、
出席権は誰にあったのでしょうか。604で出てくる国(領邦や市)は
出席権はあったんでしょうか。

ヨーゼフ2世の協定では、「庶子に過ぎない選帝侯の息子を次代の
ヴィッテルスバハ家の跡目として承認する」とのことで、
「プファルツ領」と、「バイエルン領の3分の1」をその跡目が相続するようですが、
合邦するということでしょうか。それとも、別々に(同君連合として)。


632世界@名無史さん:04/05/30 19:11
>>631
  >ヨーゼフ2世の協定では、、、、、

  @バイエルンの選定候としての地位は、
  ハプスブルク家が頂くという考えもあったかもよ。
  ボヘミア王と併せて、二つになるよ。

  Aバイエルンが二つに分かれるって、
  北のフランケン地方と南のバイエルン地方にかな。
  フランケンは、フランク王国の故地でしょうか。
 
633カラジチ ◆mWYugocC.c :04/05/30 19:36
>>627
おお、ありがとうございます。
バイエルンとネーデルラントの交換が問題だったんじゃなくて、バイエルンのハプスブルクへの割譲が問題だった、というわけですか。
>79年の5月にオーストリアに若干の領地の獲得を認める以外は現状維持という
>テッシェンの和が結ばれました。
これについてなんですが、現状維持ということはカール・テオドールの庶子への継承を認めないということですよね?
実際、カール・テオドールの死後、バイエルンは分家のマクシミリアン・ヨーゼフに継承されているようですし。
しかしプファルツの方はどうなってしまったんでしょう。

>>632
バイエルン公はフランケンは保持していないと思いますが……。
>フランケンは、フランク王国の故地でしょうか。
メロヴィング朝時代に、フランク王たちが人工的にフランク人を入植させて作り上げた地域のようです。
「アレマン人を南に、テューリンゲン人を北に追い出し、開墾や植民によってオストフランケン
と呼ばれる定住地域をつくりだしたメロヴィング朝の国王たちは、マイン川、ネッカー川、タウ
バー川沿いの定住地からなるいくつかの「ガウ」をひとつの大公領にまとめ、北のヘッセン人、
テューリンゲン人と南のアレマン人やバイエルン人の中に割り込む形で「(オスト)フランケン
人」という「部族」を人工的につくりあげた。
(山川『ドイツ史1』p62)
メロヴィング朝期のフランク王国はドイツにはほとんど勢力を及ぼしていなかったようなので、
おそらく前進基地や監視という意味合いがあったのではないかと。
634 632:04/05/30 19:52
>>633
そうでしたか。ありがとうございます。
今の、バイエルン州の地図を見ると、いくつかの地域に分かれていますが(行政区画?)、
北のほうに、フランケン地域というようなのがあった気がしたので、
筆が滑ってしまいました。
635627:04/05/30 21:16
>>631
そうです。彼は選帝侯の資格で帝国議会に出席し、オーストリアの一連の行動を
帝国法に反していると厳しくなじりました。
自分だってシュレジレンを・・・と出席した諸侯は思った事でしょうね。(笑)
帝国議会の開催方法は不勉強につきよく分かりませんが、参加者としては
帝国を構成する諸侯と、皇帝から認められた自由都市の代表からなっています。

・バイエルン継承問題について
この後、プァルツ選帝侯国はカール・テオドールを最後に断絶して
バイエルンに合邦されているわけですから、多分同じような形になったのではないでしょうか?
つまりバイエルン公に与えられていた選帝侯位を剥奪の上で、プァルツ選帝侯への
継承を認めるというような。
636カラジチ ◆mWYugocC.c :04/05/30 23:02
>>634
今のバイエルン州はフランケンも含みます。
どうやらウィーン会議で併合したみたいです。

>>635
ドイツ統一直前の歴史地図で、プファルツはバイエルン領と書いてるのを見つけました。
というわけで、
・プファルツの領土はバイエルンに統合。
・プファルツの選帝権は消滅。
ということみたいですね。ラントとしてのプファルツは完全消滅したわけですか。
637世界@名無史さん:04/06/02 13:01
現在の英国などの貴族は、一人で複数の爵位を持っているので子供達に爵位を分配できますが、分裂時代のドイツの領邦君主の次男坊や三男坊などはどうしていたのでしょうか?
日本の江戸時代でいう「部屋住み」みたいになるのでしょうか?
638世界@名無史さん:04/06/02 16:40
>>637
ドイツはゲルマン古法の影響を強く残していたので
兄弟間による分割相続が基本でした。
なので爵位も基本的には兄弟皆が名乗れます。
でも流石に中世以降は分割相続による弱体化を防ぐ目的で
家督相続者(長子とは限らない)に主権を認めた上で、何らかの土地を領土として
相続する方向に変わっていきました。
この点から考えると『部屋住み』的な面もありますが
独立した宮廷も持っているので、面倒な仕事の多い宗家を継ぐよりは気軽な分家が
良いと兄弟間で押し付けあうという事がしょっちゅうだったようで。
(ハプスブルク家は長子相続を国事勅令で定めたので例外)

むしろイギリスの方が次男・三男の身の振り方については厳しい面があると思います。
確かに大貴族の中で、爵位を複数持っている貴族は珍しくありませんが
これは次男・三男に与えられてこなかった為に溜まってきたわけですから。
普通は軍隊、あるいは政界に入った際、親や兄から全面的な援助を受けられる以外に
爵位や土地を相続する事は無かったようです。
ウェリントンなどその代表的な例と言えるのではないでしょうか?
639世界@名無史さん:04/06/03 10:23
>>638
ありがとうございます。

>なので爵位も基本的には兄弟皆が名乗れます。

ということは、例えば公爵に息子が五人いれば、その五人全員が「公爵」を名乗れる時代があったのでしょうか?

>むしろイギリスの方が次男・三男の身の振り方については厳しい面があると思います。
>確かに大貴族の中で、爵位を複数持っている貴族は珍しくありませんが
>これは次男・三男に与えられてこなかった為に溜まってきたわけですから。

大抵は次男・三男には爵位を一つずつ与えて、残りは全て長男が受け継いでいたのでは?
しかも貴族同士の結婚の場合、母親も爵位を持っていることもありますから、その場合は母親の爵位も相続されますよね?
640世界@名無史さん:04/06/03 10:46
>>639,
>>638さんではないですが、英国の場合は長子相続が厳しいため基本は長男が全て
継ぐ、事になっていたと思います。

そして、高位貴族の場合(伯爵より上だったか定かではないですが)、次男以下はロード
の尊称が与えられます。(つまり単に高位貴族の子供ですよ、という意味)

高位貴族が爵位を複数もっている場合でも、爵位は全部長子が持っていきます。それどころか、
長子は生まれた瞬間から劣位の爵位が与えられるのが通例です。

例:A侯爵家にB伯爵、C男爵という複数爵位があった場合、当主はA侯爵、長子はB伯爵、
次子以下はロード○○。A侯爵死後は、長子が侯爵で次子以下は相変わらずロード○○。

大陸に比較して英国貴族が少ないのは、この厳しい長子相続制にあるようです。
641世界@名無史さん:04/06/03 11:00
>>640
そうですか、ありがとうございます。
ということは英国貴族の次男坊以下は、爵位が欲しけりゃ、なにか功績をたててお上から授与されるしかないようですね。
第二次大戦時の首相ウィンストン・チャーチルは、エリザベス女王から公爵号を授与されるのを辞退したという話を聞いたことがありますが。
642638:04/06/03 14:28
>>639
>公爵に息子が五人いれば、その五人全員が「公爵」を名乗れる時代があったのでしょうか?
あったどころか、最後まで分割相続を排除し切れなかったザクセンやハノーヴァー公家では
どいつもこいつも公爵で大変だったようです。
ハプスブルクにしても、どんな傍系であっても嫡出の場合は太公位を与えられていましたし。
ただ、〜公家の宗家、分家という意識は時代を経るにつれ強くなってきたので
相続する財産、領土などでは優劣(?)はありました。

>イギリス貴族に関して
649さんが非常に分かり易い解説をしてくださっているので、母親の爵位という点に関してだけ。
多分、貴族の一人娘などを想定しているのだと思いますが、こういう場合でも母親が爵位を継承する
事はまずありません。
女性に継承を認められている爵位もありますが、これは特異な事情によるものであって
普遍的な法則ではないわけです。
ですので、こういう場合母親の家の爵位は廃絶するのが普通なんですが、その家が余程の名家だったり
すると、夫に爵位の継承を特に認めるという措置が取られる事がありました。
このスレッドの過去ログに詳しく解説している方がいるので、そちらを参考にして下さい。

>チャーチルは・・・
確かに戦後、女王から功績を認められて公爵家の創設を打診されましたが
結果的に大英帝国の清算人になってしまったという事で申し出を辞退しています。
643世界@名無史さん:04/06/03 15:16
鉄血宰相ビスマルクによって建国され、第一次世界大戦で滅亡したドイツ帝国は、幾つかの王公国を統合して連邦制の帝国でしたよね?
帝国内の各王国(プロイセン、バイエルン、ザクセンなど)内にも、公侯伯子男の貴族がいたのでしょうか?
644世界@名無史さん:04/06/03 22:34
>>642
そうでしたね〜〜。
ロシアでも大公位は男子全員が名乗っていたかと思います。
大公の子供はみんな大公。
645世界@名無史さん:04/06/03 23:29
ロシアは公爵も男子全員が公爵で、末期には爵位もちの貴族が確か2000人で、
しかもその半分以上が公爵とかいうちっともありがたみのない事態に成っていたはずです。
ちなみに日本は一番増えた時でも公爵から男爵まであわせて千いってません。
646世界@名無史さん:04/06/03 23:35
ヽ<`∀´>ノ
647世界@名無史さん:04/06/03 23:57
韓国の財閥もニダ
648世界@名無史さん:04/06/04 00:36
>>643
侯、伯、男のみ。
649643:04/06/04 11:00
>>648
ではプロイセンにも公爵と子爵は無かったのですか?
ドイツ統一前にプロイセン王国に併合されたハノーヴァー王国は、最後の王の孫がプロイセン王女と結婚してブラウンシュヴァイク公となったそうです。
私は今まで、この「ブラウンシュヴァイク公」はプロイセン王国の貴族だと思っていましたが、そうではなくプロイセン王国の外に「ブラウンシュヴァイク公国」があったのでしょうか?
質問ばかりでスミマセン(汗
650648:04/06/04 13:50
>>649
ドイツ帝国の中にブラウンシュヴァイク公国があったんじゃなかったっけ。
651世界@名無史さん:04/06/04 15:38
ハノーヴァーの南にブラウンシュヴァイク公国はちゃんとありますよ。
ちなみにハノーヴァーも元はブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国って名前だった。
652643:04/06/04 15:45
>>650-651
そうでしたか。
ではドイツ帝国の貴族としての「ブラウンシュヴァイク公」なんですね。
ところでまた質問でスミマセンが、ドイツ帝国の貴族には侯爵以下の爵位はあったんでしょうか?
この時代のドイツの軍人や外交官には、例えばヴァルダーゼー伯爵(元帥)やケテラー男爵(義和団事件で殺害された駐清ドイツ公使)などがいましたが、彼らはドイツ帝国の貴族ですか?
それともプロイセンの貴族ですか?
ついでに、宰相ビスマルクは公爵だったそうですが、これもドイツ帝国とプロイセン王国のどちらの爵位でしょう?
653世界@名無史さん:04/06/04 19:01
>652
ブラウンシュヴァイク公はドイツ帝国の貴族ではなく
ドイツ帝国を構成する領邦国家の君主ですよ。
(バイエルン王等と同じ立場ですし
公位を継承した根拠も血統によるものだったはずです。)
654643:04/06/04 19:14
失礼しました。
私の言う「ドイツ帝国の貴族」とは、バイエルン王やザクセン王などの領邦君主も含みます。
つまりプロイセン王の臣下ではなく、あくまでもドイツ皇帝の臣下である領邦君主をドイツ帝国の貴族と呼んだだけです。
ですから領地がプロイセン王国内にあるのか?外にあるのか?で区分けしてました。
紛らわしい表現でスミマセンでした(汗
655カラジチ ◆mWYugocC.c :04/06/05 00:32
ブラウンシュヴァイク=ハノーヴァーってことはイギリス王室の遠縁で、ヴェルフェンの子孫ですな。
名家っすよ名家。
656世界@名無史さん:04/06/05 16:56
>>640で英国の長子相続について説明されていますが、日本の華族に似てますね。
日本の華族では、爵位は個人ではなく家に与えられるもので、その家の当主だけが爵位を名乗れるそうです。
ですから一人娘と結婚して婿入りした場合、婿の方が当主となるので、爵位を名乗るのは婿だそうです。
そして当主の子供たちは、一代限りにおいて華族の一員としての待遇が受けられますが、次男以下は二代目から平民となるようです。

>そして、高位貴族の場合(伯爵より上だったか定かではないですが)、次男以下はロード
>の尊称が与えられます。(つまり単に高位貴族の子供ですよ、という意味)

この「ロード」とは一代限りのものだと思いますが、日本と同じように二代目以降はもう貴族ではなく平民になってしまうのですか?
657世界@名無史さん:04/06/05 18:53
通常、爵位と領地はセットになっているものと認識していますが、
息子が全員爵位を名乗れるようなシステムの場合、領地との対応は
どのような扱いになっているのでしょうか?
親が複数の爵位(当然領地とセットになっている)を持っていて、
それを子供たちに分け与える、というのはあり得ると思いますが、
それは英国でも同様に行われていたように思います。

そうではないような場合がありうるのでしょうか?
658世界@名無史さん:04/06/05 21:19
>656
>当主の子供たちは、一代限りにおいて華族の一員としての待遇が受けられますが、次男以下は二代目から平民となるようです

分家せずに華族当主の戸籍に入ってる限りは華族の一員。
華族の地位を離れるのが嫌で華族当主の従兄弟や又従兄弟でも分家せずに華族の戸籍にいることもあった。
一方で華族の子(主に次男以下)でも分家すれば即平民。

華族の扱いを受けたいがためにいつまでも華族当主の戸籍にいる(兄貴の庇護の下にいる)のか
分家して平民となっても一家を構えその家の一人前の当主になるのか
華族の次男以下の者でジレンマに思い悩む者は多かったとか。
659世界@名無史さん:04/06/05 21:32
>>657
必ずしも爵位と領地の名前が対応しているわけではありませんでした。
勿論、多くはそうなんですけど、爵位の位階が上がる際に自分の名字を
爵位名にする事も少なくなかったようです。
例えばウェリントンなど、家門名であるウェルズリーを兄に先に名乗られて
しまったので、(兄は世襲の伯爵から侯爵になった)出来るだけウェルズリーっぽくと名付けたみたいです。
660世界@名無史さん:04/06/07 10:32
ドイツでは現在でも、貴族の末裔たちは姓の前に「フォン(von)」をつけているのでしょうか?
以前西ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーは「フォン(von)」をつけていましたが、それ以外ではドイツの有名人は誰もついていません。
自分の意志で「フォン(von)」を外している人もいるのでしょうか?
661657:04/06/07 12:16
>>659
ウェリントン公アーサー・ウェルズリーについていえば、
名字はウェルズリーで、それは父も兄も自分も生涯かわりませんよね。
で、父が持っていたモーニントン伯爵位は兄が相続したと。
で、本人については、軍功によるものか、あるいは一般に
ある程度以上の貴族の息子には何らかの爵位を与えることに
なっていたのかは知りませんが、アーサー本人はウェリントン子爵位を
与えられたと。で、功績を積むに従って、ウェリントン伯→侯→公と
陞爵していったと。これはこれでシステムとしてはわかります。
(以上、以下のページを参照しました)
http://nekhet.ddo.jp/people/wellesley.html

>>657で爵位と領地の対応について述べたのでちょっと
質問の趣旨がうまく伝わらない文章になってしまいましたが、
疑問だったのは、>>638で述べられている
「ドイツはゲルマン古法の影響を強く残していたので兄弟間による
分割相続が基本でした。なので爵位も基本的には兄弟皆が名乗れます。」
という場合に、爵位の名称はどのようになるのか、例えば、具体的に言えば、
父がバイエルン公だったとすると、息子の爵位はどうなるのか、
兄弟全員バイエルン公になるのか(それはおかしい気がしますが)、
または長男がバイエルン公で他がバイエルン侯以下になるのか(これもおかしな感じ)、
あるいは全員公爵になるが爵位の名称が変わるのか(これもどうかな)、
はたまた単に長男以外には侯爵以下の名称も異なった爵位を与えるのか(これか?)、
ということが知りたく、また、第4の場合であるならば、それはイギリスでも
何ら変わらないような気がするが、何が違うのか、といったあたりが疑問なのです。
662世界@名無史さん:04/06/07 12:28
>>661
横レスすみません。
ご紹介のページを見るとアーサー・ウェルズリーは、「ウェリントン子爵」を与えられてから、
爵位が伯→侯→公と上昇してますね。
ということは爵位につく地名は「ウェリントン」のまま、爵位そのものが昇格したのですか?
663657:04/06/07 13:22
>>662
私もあのページを見ただけで、ウェリントン公について詳しく知りませんが、そうみたいですね。
こういった陞爵(陞=昇だと思いますが、爵位に対してはこの文字を使うことが
多い様)はイギリスではよくあるようですね。ランカスター伯→公とか。
他の国はよくしりません。神聖ローマ帝国が解体されたときに
ハノーファー公→王となったりしたのはまたちょっと話が違う感じがします。
664世界@名無史さん:04/06/07 13:50
>>663
ふむ・・・、「○○子爵」を与えられた後「△△伯爵」を与えられ、
更に「××侯爵」を与えられ、最後に「ウェリントン公爵」を与えられたわけではないんですね。
665659:04/06/07 14:12
>>661〜664
ウェリントンの場合、イギリスの大陸軍司令官をやっていたんですが
ナポレオン配下の高名な武将を次々と破っていったので
物凄いスピードで昇進しました。早すぎて爵位が追いつかないと言われた位です。
彼の爵位は彼が実力で獲得したもので、親が伯爵だからではありません。
(もっとも軍隊に入る時のコネは別ですけれども)

>>661
638も私が書いたのですが、ドイツの場合だと男兄弟みんなが親の爵位を名乗っている
場合もあったようです。(時代とか家にもよりますが)
最後まで分割相続を全廃する事が出来なかったハノーヴァー家では
最後のハノーヴァー王の息子達がブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を
それぞれ名乗ってますし、長子相続が確立する前のバイエルンでもそんな感じです。
ハプスブルクでも一族は皆、オーストリア太公(女)でしたし。
666657:04/06/07 14:41
>>665
http://nekhet.ddo.jp/people/hanover.html
で確認しましたが、確かに、エルンスト・アウグスト2世の息子は
エルンスト・アウグスト、ゲオルク・ヴィルヘルム、クリスティアン
の3人ともブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を名乗ってますね。
バイエルンの方も
http://nekhet.ddo.jp/people/wittelsbach00.html
で確認しました。下バイエルン公ハインリヒ13世がなくなると同時に、息子である
オット−3世、ルードヴィヒ3世、シュテファン1世が3人とも下バイエルン公を
称してます。

しかし、こんなので混乱しなかったんですかね…

バイエルン公領が上下バイエルン公領に分割されたりもしているようですが、
これはまた別の理由によるものなのでしょうか?
667659:04/06/07 18:19
>>666
>バイエルン公領が上下バイエルン公領に分割されたりもしているようですが
話の順序が逆です。元々、南北に分かれていたのがバイエルン継承戦争で統一されたわけです。
(ここでのバイエルン継承戦争は>>627で触れた以前に行われた話です)
ちなみにこちらのバイエルン継承戦争ではマクシミリアン率いるハプスブルク家が
漁夫の利を得ています。
668657:04/06/07 18:33
>>667
わたしが言いたかったのは、バイエルン公ルートヴィヒ1世の子供がそれぞれ
上バイエルン公(ルートヴィヒ2世)と下バイエルン公(ハインリヒ13世)に
任じられているなあ、これも分割相続のためなのか、それとも他の要因で
分割されたのかなあ、ということです。
13世紀の話。
669659:04/06/07 19:22
>>668
ヴィッテルスバハ家がバイエルンを封土として与えられたのは1180年の事ですが
この時は他の諸侯に比べて、取り立てて強大な勢力というわけではなく
彼の孫で、徹底的な拡大政策を取ったオットー2世の時代にバイエルンにおける覇権を確立します。
バイエルンが上下に分割されたのは、このオットー2世が死去した後の事で
兄のハインリヒが中心都市であったランツフートを継承し、弟のルートヴィヒがミュンヘンを中心とする
上バイエルンを分割して継承する事にしました。
ルートヴィヒ1世はオットー2世の父親でハインリヒ・ルートヴィヒ兄弟の祖父なので
657さんは勘違いをされてますね。
これは分割相続の典型的な一例という事が出来ると思いますが
ミュンヘンへ『出て行った』ルートヴィヒは『気難し屋』と渾名される公爵だったので
兄弟仲もあんまり良くなかったのかも知りません。
(兄弟仲という詳しい事は不勉強につき知らないので)
670657:04/06/07 21:13
>>669
そうです。オットー2世とその子供たちのことです。
書き間違えました。

同じ分割相続といっても、同じ「バイエルン公」という爵位を兄弟で称する場合もあれば、
「上バイエルン公」「下バイエルン公」というように、領地を分割して爵位を新設する
場合もあり、これらはケースバイケース、というところでしょうか。

領地を分割して爵位を新設する場合、上位の権威者の承認が必要なのでしょうか?
それは誰?
または、先代(この場合、バイエルン公)が勝手に決めることができるのでしょうか?
671世界@名無史さん:04/06/07 21:32
>>664
アーサー・ウェルズリーって
「ウェリントン公」「ウェリントン侯」「ウェリントン伯」「ウェリントン子」
をそれぞれ持ってるんじゃないの?
ウィーン議定書に記されているアーサー・ウェルズリーの肩書きを見るとそのようにとれるのですが・・・
672659:04/06/07 21:47
>>670
兄弟間、あるいは親子間で円満に分割協議が成立すれば
後は皇帝による追認(一旦、返上して再び授与してもらう)という手順を
踏むんですが、これが上手くいかないと私闘になったり、皇帝の介入を招いたりします。
バイエルンの場合、ルートヴィヒ2世が1253年にバイエルン公位を継いでいますが
1255年に上バイエルン公に任命しなおされています。
対してハインリヒは1253年、または1255年に下バイエルン公になっています。
つまり両者の間には領土的な相続争いがあったわけで、上下バイエルン両公という称号は
一種の妥協の産物だと言えると思います。
673657:04/06/07 21:51
>>671
具体的にはどのように書かれているんですか?
674カラジチ ◆mWYugocC.c :04/06/07 22:33
分割相続って面白いですねえ。

兄弟で同じ爵位を称する場合って、実際の統治ってどうなってたんでしょ。
実際に統治するのはそのうちの1人だけ(長男もしくは年長者とか)?
それとも共同統治という形を取るんでしょうか?
あるいは、同じ爵位を称しているだけで実際には線引きをしているとか?
675世界@名無史さん:04/06/07 22:35
>>673
一応爵位の部分だけあげておきますね
Le très-excellent et très illustre Prince Arthur Wellesley,
duc, marquis et comte de Wellington, marquis Douro,
vicomte Wellington de Talavera et de Wellington,
et baron Douro de Wellesley,
(以下略)
676657:04/06/08 09:11
>>675
確かに、全部の爵位を保持している感じですね。
ウェリントン公、侯にして伯、ドゥロ侯、タラヴェラ及びウェリントンのウェリントン子爵、
ウェレズリーのドゥロ男爵…
という感じですかね。(de …はどう訳せばいいのか?)
そういうものなのか…
なんかしっくり来ませんが、そういうものなのでしょうねえ。
677657:04/06/08 09:44
>>675
補足。
なぜ"Prince"なのかと思っていましたら、オランダからはウォータールー大公(Prince of
Waterloo、オランダ語ではどう発音するのだろうか…)に叙されていますね。
http://www.wordiq.com/definition/Arthur_Wellesley,_1st_Duke_of_Wellington
ちなみに、>>675さんのおっしゃっているやつはこんな感じでしょうか?
http://perso.club-internet.fr/pcombal/congresvienne.html
実は、テキストによってはPrinceではなくseigneurになっていたりします。
これだと単に「閣下」ですかね。
http://www.histoire-empire.org/articles/congres_de_vienne/acte_du_congres_de_vienne_01.htm
いずれにせよ、ウェリントン公、侯、伯と列挙されている点に違いはありません。
678世界@名無史さん:04/06/08 13:55
既出かもしれないし微妙なスレッド違いかもしれないけど、いちおう。

十七世紀以後の、独立戦争から英蘭戦争時代のオランダの歴史に、興味があるのです
が、マウリッツやウィレムの「総督」ってのが、ぴんときません。
総督というのは、宗主国(スペイン?)によって権威権力を保証されたものだと
思うのですが、具体的にはどういうシステムなのでしょう?
当時のオランダ連邦共和国は、じっさい複雑で制度がわかりにくい。

あと、オランダの世襲総督オレンジ家って、なにか爵位があったんですか?
とりあえずマウリッツは「公爵」らしいけど?
679世界@名無史さん:04/06/08 16:14
Wikipediaの爵位のページ
http://ja.wikipedia.org/wiki/爵位
ですが、前々から色々と気になっています(PrinceとFurstが対応していることになってたり)。
どなたかエロい人、修正していただけませんか。
680世界@名無史さん:04/06/08 19:53
>>679
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_and_noble_ranks
がまちがってるってこと?
681679:04/06/08 22:01
>>680
英語版は見ていなかったんですが、英語版を参照したのかな。

そもそも、PrinceとFu¨rstが対応しているのがしっくり来ていなかったんですが、
リヒテンシュタイン大公国(英語だとPrincipality of Liechtenstein)が
ドイツ語ではFu¨rstentumのようなので、これはまあ納得。

しかし、PrinceがDukeより下とは思えないんですが。
少なくとも英国ではDukeよりもPrince of Walesの方が上だと思われ。
まあこれは爵位自体の格ではなく王太子のタイトルだからという問題かもしれないが…

Fu¨rstはHerzo¨geより下、とかどっかで決まっているのなら納得できるのですが…
まあドイツの爵位は爵位の上下を云々してもしょうがないのかな…

まあ英語版はよいとしても、日本語版でFu¨rst=Princeを大公(「爵」はつけないでほしい…)
と訳しておきながら公爵より下においているのが何だか変です。
そもそも日本の五爵と対応させようとするのが間違いなのかなあ。訳つけない方がいい?
Fu¨rst=Princeに訳をつけず、Grand DukeをDukeの上において「大公」と訳つければいいかな。
説明文も他国でも爵位が5つになっているかのような説明の仕方がミスリーディングな感じ。
682世界@名無史さん:04/06/08 23:01
>>678
ネーデルラントの統治形態は、カール5世によって整えられたもので、
中央政府はブラバント州のブリュッセルにおかれ、スペインから派遣された
執政(Landvoogd)が君主権を代行していた。また、ブラバント以外の16州では、
在地領主が総督(Stadhouder)として君主の代理を務めていた。

80年戦争が始まると、南部ではスペインの懐柔政策によってアラス同盟が結成され、
一方北部7州はこれに対抗すべくユトレヒト同盟を結成する。
こうした過程の中で、エグモント、ホールネ伯らが処刑され、フローニンゲン州
のレンネンべルヒュ伯が南部へ裏切るなど、数々の有力貴族が脱落していき、
ネーデルラントにおける従来の総督統治システムは崩壊していった。

その後北部(オランダ共和国)では、建前上、全国議会が最高決定権を有し、
総督は陸海軍の最高司令官として位置づけられことになった。
選出方法は各州の州議会にゆだねられており、総督職は反乱の功労者ウィレムの
血族から選出され、ホラント、ゼーラント州などはオラニエ=ナッサウ家、
フリースラント、フローニンゲン州はナッサウ=ディレンブルク家やナッサウ=ディーツ家
から選出された。
全7州の総督を兼任したのは、ウィレム4世が初めてで1747年のこと。

オラニエ公に関してはこのスレにもあります。
683世界@名無史さん:04/06/09 02:04
>>681
ワラキアとかウェールズの部族大公のprinceと、
帝国諸邦やフランスの爵位としてのprince/fürstを一緒に扱うことに問題があるのだと思われ。
684679:04/06/09 08:47
>>683
でもワラキア公もドイツ語にしちゃうとFuerst der Walacheiだよね…
英語だとやっぱりPrinceだし…
ドイツ語や英語の時点で一緒に扱っているのが既に問題で、
それを日本語に訳すときに云々してもしょうがないってことなのかなあ。

ちなみに、ここである時期のハプスブルグ家のもつ爵位が列挙されているのですが、
http://de.wikipedia.org/wiki/Habsburg
これが格付けの順に並べられているのだとすると、HerzogやFuerstやMarkgrafは
かなり入り交じっており、HerzogとMarkgrafはどちらか上か、などと論じるのは
あまり意味がないという感を強くしました。
685640:04/06/09 10:05
>>656さんからご質問がありましたね。
>>658さんご指摘のように日本の華族制度では、戸籍がありますので籍にいる以上次男以下でも
華族です。が、英国には戸籍はありませんから、長子以外は”平民”と言うか尊称は一代限りと
考えていいでしょう。

この”平民”に関してですが、皆さんご指摘のように大陸では英国と比べて貴族の”名乗り”の
要件が緩いですね。例えば19世紀後半ドイツではタイトルを持つ家は2万家以上、ロシアでは
60万人、イタリアでは1万人以上、フランスでは貴族の対面が保てる血筋を引く者であれば
名乗ってよいという状態ということでした。これに対して1880年英国では580人、准男爵が856人
と一桁違っています。

つまり英国ではタイトルを名乗るのは制限されている、ということですが、逆に言うと貴族を
中心とする上流階級は大陸と同様に万単位の人数であると考えた方がいいでしょう。

ですから、上流階級であるタイトルなき”平民”は単なる平民というわけにはいかないようですし、
ここら辺は今でもデブレットの貴族年鑑などで出自はすぐわかるようになっているようです。
686678:04/06/09 12:21
>>682さん、懇切丁寧なご教授、痛み入りますm--m
オランダの総督(ベースは州総督ですね)、いささか牽強付会ながら日本の守護大名に
似た部分があるみたいに思えて、関心が高まっています^^
もちろん日本の守護大名は、州の自治的な政体から選出されたものではありません
が…

おもえばオランダ総督ウィレム三世は、英国を征服して王位におさまった、最後の征服王。
イギリス人は「名誉革命」と言葉をごまかしているけれど、たとえアメリカによるイラクの
支配のような過酷な軍政はなかったとしても、武力を背景にした「王家のっとり」であるのは
否定できません。このてん、敗戦を終戦と 言いかえる日本人のやりかたは、洋の東西をとわない人間心理なのかも。
いずれにせよ、オランダの過激なほど先進的な連邦共和制が世襲君主制へと姿を変えていった
過程は、日本や世界を風靡した左派史観の共和主義を結果として完全に逆行する実例であると
いえ、興味深いものがありまつ。
687世界@名無史さん:04/06/09 18:30
実際貴族の形態って、同じ欧州でも国によって違うよね。
イギリスの"Duke"とドイツでは"Herzog"はかなり意味合いが違うが、我々日本人はそんなこといちいち斟酌してられないから、どちらも「公爵」と呼んでいるに過ぎない。
ちなみに日本では、華族制度ができる前は、やはり律令制の官職である「越前守」や「中納言」などが爵位の役割をしていたんだよね。
ということは、欧米の人たちは日本の律令制の官職を「公爵」や「伯爵」に当てはめているのかな?
688世界@名無史さん:04/06/09 21:22
>>687
世襲でもなければ領地と結びつきもしないからなぁ。爵位と対比させるのは
むずかしいでしょ。
689679:04/06/09 21:47
>>688
まあかなり対比させるのは難しいけど、「越前守」は地方官が称号と化したという意味で
grafとの類似性もなくはない。確かに領地とは結びつかないんですが。
それにある程度は結果的に世襲になっていた部分もあり。雅楽頭は酒井家、とか。
ちょっと特殊かもしれませんが。

>>687
意味合いは違うんだけど、欧州内では付き合いも長いため、どう対応づければいいか
わかっていそうだけど、日本は突然導入したから、どうも訳し方もしっくりこない。
PrinceもDukeもGrand Dukeも全部「公」と言ってみたり。それは違うだろう、と。
690世界@名無史さん:04/06/09 22:23
>688
爵位が領地と常に結びつくわけでもないが…
特に英国では。
691世界@名無史さん:04/06/10 15:13
日本の華族制度では、爵位に地名がつかず、ただ家に対して爵位が与えられるだけだから、どちらかというと旧来の公家の家格(摂家、清華家など)と同じだね。
徳川公爵家は二家(のちに三家)、島津公爵家も二家あるから、ただ「徳川公爵」や「島津公爵」だけだと、どの家だかわからないよね。
このうえ侯伯子男爵家ともなれば、さらにいくつもあるから余計ゴチャゴチャする。
692世界@名無史さん:04/06/10 15:15
>>685
>例えば19世紀後半ドイツではタイトルを持つ家は2万家以上

「タイトル」とは何ですか?
「我が家は〜(過去の偉人など)の末裔である」とかいうものですか?
693世界@名無史さん:04/06/10 16:09
>>692
せめて英和辞典でも引けばいいのに。
title
━━ n. 表題, 題名; 書名; (本の)題扉, 見出し; 【映】(普通pl.) 字幕,
タイトル; 名称; 称号, 肩書; 権利 ((to, in, of; to do)); 【法】土地, 財産
所有権(を示す証拠[書類]) ((to)); 選手権.

この場合は「称号」
694世界@名無史さん:04/06/10 16:16
>>693
ではこの「称号」とは「爵位」と同じですか?
それとも騎士も含めてですか?
695世界@名無史さん:04/06/10 16:36
なんつ〜頭の悪さだ、こいつは
696世界@名無史さん:04/06/10 16:39
こいつとはなんだ。おまえの方が悪いだろが。
質問の意味も分からないのか? アタマ大丈夫?
697世界@名無史さん:04/06/10 16:46
消えろ包茎。臭いぞ。
698世界@名無史さん:04/06/12 13:47
まあ餅つけ、もとい落ち着け
699機械式トス係り:04/06/14 11:54
トス
700-
701世界@名無史さん:04/06/14 12:36
一般論としては爵位は称号の一種で、当然爵位持ちは称号持ちに包摂されます。
ドイツの場合にイコールなのか、爵位を持たない称号持ちがいるのかはよく知りません。
>>694氏は要はそれが知りたいんでしょうから、どなたか御存知の方答えてあげて下さい。
確か国によっては爵位どころか称号すら存在しない、しかし厳然として貴族制度はあり、
内部の序列もはっきりしている国もあったような。(東欧のほうとか)
702世界@名無史さん:04/06/15 22:45
翻訳の場合の常識でしょうが、
爵位とは、日本語であって、英語のタイトルと、イコールではない。
文脈で判断しるしかない。
タイトルの場合は、爵位以外のいろんな意味があるけど、
爵位は貴族のランクを示すタイトルで名乗りに使う。

 日本では、特に、明治の華族制度で、爵位というのがクリヤなものだけど、
 つまり、天皇大権に基づく栄典のひとつで、世襲されるものである、、、など。
 江戸時代の武家の名乗りの薩摩守とか、雅楽頭とか、もある意味で爵位みたいなもの。
 というのは、西洋の、Grafとか、Count、Viscount、Herzog、Marggrafとか、言ったって、
 官房書記官、国王代官、お代官代理、軍司令官、なんとか州知事 という感じの官職名が、
 すなわち、日本語の爵位のイメージと合わないものが、いつの間にか、
 まさに爵位という性格のものになっている。

タイトル(官職名)が、いつの間に、タイトル(爵位)になったのか、という
ところもつっこんで見たいよね。どうですか。
703世界@名無史さん:04/06/15 22:52
  それに、日本の華族制度は、天皇により与えるという形で、
  近代主権国家を前提に、できた国家による栄典という形だけども、

  西洋は、もっと前からあるよね。
  ウエリントンがオランダから爵位をもらった(プリンス)とかいう書き込みが
  あったけど、これって、オランダの貴族でもあるということ。
  中世的には、封臣かな。
  近代では、本当は、まずいよね。主君が二人いるのは、
  中世では普通でも、主権国家単位に世の中が動こうとしているのだから。

  国王に反逆しても、爵位を名乗っていたり、ジョン王やヘンリー3世に反逆した
  レスター伯爵とか、この伯爵位は、王権により与えられたもの、
  むしろ、レスター伯爵領を支配しているからなの。とか。

  EarldomとかHerzhogtumとか、いうとき、伯爵位なのか伯爵領なのか、
  横文字だとよくわからないね。

  などなど。

704世界@名無史さん:04/06/15 23:16
ドイツの歴史を熱く、、、、で、500を書いたものですが、
ドイツでは爵位は、みなが名乗るんですねやはり。

バイエルンのHerzhogは、分地により、複数に分かれた。
息子たちみんなHerzogとなった。など、上の670でで回答がありましたが、
さすがに、
ボヘミア王位は、息子がみんな、王を名乗ったりしなかったようで。

どこかに基準があるのでしょうか。

705世界@名無史さん:04/06/15 23:25
 イギリスのアルバート公の件ですが、
 実家は、ゴータ・・・家で、二つの公国(Herzhogtum)の同君連合の君主。
 彼自身は、 次男三男と聞いています。

 彼は、@Von Sachen と AFurst Von ゴータ ・・・の
 二つのタイトルを生まれながらに持つとの話なんですが。
 @ですが、実家が、そもそも、ザクセン公国君主家の分家国家との位置づけで
 ザクセン公国のタイトルHerzhogを分家の当主である彼の父も長兄も、
 そして彼自身も名乗っている。
  これは、息子たち全員が、同じタイトルという原則にあってますね。
 Aですが、これは、同君連合ですから、
  正確には、Furst VON ・・・ 、と Furst VON ・・・の二つなんでしょうけど(?)。
  これを略したのかな。
  それでなんですが、父も長兄も、ゴータ何とかのHerzhogなのに、
  彼はFurstになっているんで、これは、
  少し不思議でないですか。
  これも何かルールがあるのかな。


   注) Prince=Furst 、Duke=Herzhog で書いています。
  

  
706世界@名無史さん:04/06/16 11:43
>>705
英語で"Prince"と書かれており、それを"Fuerst"と訳しておられるわけですよね?
(逆じゃないですよね?)
"Prince"には"Fuerst"と"Prinz"が訳語として考えられますが、アルバート公の場合は
後者の"Prinz"(公子)の意味で使われているのではないでしょうか。
そう考えれば不思議はないと思います。
単に「ザクセン=コーブルク=ゴータ家の公子」というだけ。
707世界@名無史さん:04/06/16 21:03
あ、そう考えることできますね。
 Prince of Saxe-Coburg and Gotha ,Duke of Saxony
後者については、当主(嫡流、つまり、総本家の当主)と同じ爵位を名乗る。
 前者については、分家の公子としての爵位
   (「公子」は爵位というには変かも)を名乗る(分家の当主の爵位は名乗らない)。
  結局、双方で、ルールが違うような、ちぐはぐな感じはしませんか。

以下は別すれのコピー。

Saxe-Coburg and Gotha公家のメンバーは、
Prince[ss] of Saxe-Coburg-Gotha, Duke/Duchess of Saxony (Highness)を帯びます。
  tp://pages.prodigy.net/ptheroff/gotha/saxony.html
  のPART 4: SAXE-COBURG-GOTHA を参照。


でも、とにかく、706さんの回答は、ありがとうございました。
 バーデン大公マックスというのが、ドイツ近代に出てきますが、
 バーデンはGrossherzhogの国、山川の歴史辞典みたら Prnz Maxとなってたし。
 この場合は、公子の意味ですね。Principality’(Furstum)ではないもの。
  ここのところの疑問が氷解しました。

 
708しつもんですけど:04/06/16 21:16
>>651
>ハノーヴァーの南にブラウンシュヴァイク公国はちゃんとありますよ。
>ちなみにハノーヴァーも元はブラウンシュヴァイク・リューネブルク公国って名前だった

☆名前をかえたきっかけってなんでしょ。
 ☆ハノーバー王国時代も、ブラウンシュバイク公爵(Herzhog)は、
  別にいたんでしょうか。あるいは、王子たちの名乗りであったとか。
 ☆プロシアに併合されたとき、ハノーバー王位はどうなったんでしょ。
  ブラウンシュバイク公位は、どうなったんでしょ。プロシア国内の爵位に編成されたとか。
   あるいは、名跡として、神聖ローマ帝国以来の爵位として、残ったとか。
  
 
709世界@名無史さん:04/06/16 22:07
>685
本朝の爵位(明治の)は、
戸籍など整備されたもとでのもので、
官職などとはきっぱり関係なく作られてますからわかりいいですね。
あいまいなところがない。
名前は、姓と名の二つしか認めないことに無理やり決めちゃいましたし。
族も華族士族平民と単純に戸籍を見ればわかる。



 欧州はどうなんでしょうね。
 そもそも戸籍制度がどうなっているか。
 名前の構造も今ひとつ(ミドルネームとかごちゃごちゃしてるし)。
 タイトルが名前の一部であるなんて、へんな捉え方もあったりして。

  だれか、整理できませんか。
710世界@名無史さん:04/06/16 23:00
wikiにこんな記述みつけましたけど(信頼度に問題ありますが)

The child of a Fürst (in this general sense) is as a rule called Prinz (male) or Prinzessin (female),
although exceptionally there exist families where all or some members are Fürst/Fürstin (Wrede) or
Herzog/Herzogin (Anhalt, Bavaria, Mecklenburg, Oldenburg, Saxony and Württemberg)

出処ttp://en.wikipedia.org/wiki/F%FCrst
711世界@名無史さん:04/06/16 23:37
>>707
この人ですかね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Maximilian_of_Baden
http://de.wikipedia.org/wiki/Maximilian_von_Baden
確かにPrinzですね。ちなみに従兄弟のフリードリッヒ2世がバーデン大公家の
当時の当主だったようですな。

>>708
http://nekhet.ddo.jp/people/brunswik-luneburg.html#wilhelmneuluneburg
を見るに、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公位がブラウンシュヴァイク公位と
リューネブルク公位に分かれたが、リューネブルク公系の家系が絶えると公位が
ブラウンシュヴァイク公系の家系に戻ったりして、両系はくっついたり離れたり
してたと。(でもブラウンシュヴァイク=リューネブルク公位という形に
再度融合されることはなかった)

で、ツェレ公(どっからこんな公位が…)エルンスト1世(1497-1546)の息子たちの
代にブラウンシュヴァイク公系とリューネブルク公系に最終的に分かれたと。
エルンスト1世の息子がリューネブルク公ヴィルヘルムで、その息子ゲオルクが
初めてハノーファー公を名乗った。彼の孫ハノーファー選定侯ゲオルクが
後にハノーヴァー朝の祖として英国王ジョージ1世となる、と。

一方でブラウンシュヴァイクという名称はブラウンシュヴァイク公系の
公位の名称の中に残っていたが、ブラウンシュヴァイク公系の家系が
絶えた後には、リューネブルク公家の末裔である英国王が
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公位を保持した。

その後、ハノーファー王国がプロシアに併合された後、
1913年まではハノーファー王を名乗ることが許されなかったが、
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公位についてはその間も保持し続けた。

という感じですかね。
712世界@名無史さん:04/06/16 23:43
>>710
私はもう欧州の爵位を一般論で語るのやめます(^^;
実例を元に話さないとぜんぜんピンとこなくなってきた。
713世界@名無史さん:04/06/17 09:57
>>709,
われわれが想定する戸籍制度というのは、中国の制度に倣っているわけでして、中国式国家で
ないと戸籍自体が存在しないでしょう。
例えば、貴族制度が全くないアメリカの例で申し訳ないですが、戸籍は当然ありません。
ですから印鑑証明はもちろんとして住民票もありません。アメリカで戸籍に当たるような証明書
は、出生証明です。
一般的なIDとしては、ソーシャルセキュリティーカードという社会保障番号を記してあるものと、
それを基にして作る事ができる運転免許証が重要な身分確認になるのです。

本論に戻りますと、日本の華族制度は元々”家に対して与えられる”ものですし、”家”に関しても
戸籍により規定されていましたし、華族制度自体の成立が明治になってからなので、授爵基準も
ある程度明確でした。
欧州の場合、時の流れによって変化して来ていますのでなかなか一般論として説明しにくいの
かな、と思います。
714世界@名無史さん:04/06/23 20:53
イギリスの
皇太子殿下は、プリンスオブウエールズで、ウエールズ公=ウエールズの領主
王配陛下は、エジンバラ公で、エジンバラの領主で良いの?
不勉強で申し訳ないんだけど、これだと、皇太子>王配陛下になりそう。

スコットランド王はイングランド王と兼任でエリザベス2世でOK?
715カラジチ ◆mWYugocC.c :04/06/23 23:30
イングランド王国とスコットランド王国は統合したので、「イングランド王」「スコットランド王」は現在存在しないのでは?
716世界@名無史さん:04/06/23 23:43
>皇太子殿下は、プリンスオブウエールズで、ウエールズ公=ウエールズの領主
>王配陛下は、エジンバラ公で、エジンバラの領主で良いの?
違う。この場合称号に地名がついていてもその土地を支配していたり
所有していたりするわけではない。
717世界@名無史さん:04/06/24 01:28
桂宮が京都市右京区桂の、秋篠宮が奈良市秋篠の領主というわけではないのと同じかな。
718世界@名無史さん:04/06/24 01:56
ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

でプリンス・オブ・ウェールズとウェールズを検索すると
チャールズ英国皇太子が君主になってるね
719世界@名無史さん:04/06/24 03:17
英語のほうにはそんなこと書いてないけどね
720世界@名無史さん:04/06/24 10:08
日本語にしか書いてないなら信用しないほうが。
721世界@名無史さん:04/06/24 19:19
>>715
統合したけど、まだ個別の議会を持っているし
王家の紋章はそれぞれ自国側のマークが優先位置につけられてます。
また紋章院も確か別個にあったはず。
722カラジチ ◆mWYugocC.c :04/06/24 22:05
議会別って、いっぺんまとめてから分離したんじゃなかったかと……。
紋章院については分かりませんけど。
723世界@名無史さん:04/06/25 09:57
ご存知の皆さんも多いと思いますので簡単に。
イギリスの正式名称は、「大ブリテント島および北アイルランド連合王国」でUKというのは
UNITED KINGDOM。このUNITEDはイングランド、ウェールズ、スコットランドの意味でもあり、
スコットランド議会は存在しますし、スコットランド国立銀行発行紙幣もあります。
ですから、サッカーのワールドカップでも英国だけ、複数チームの出場が認められているのです。

プリンス オブ ウェールズの名称も、ウェールズ併合の際ウェールズの最高の称号を英国皇太子
が名乗ることによりウェールズの人々を懐柔する意味があったということです。現在でもプリンス オブ
ウェールズの継承はウェールズまで行って行われます。

ちなみに英国皇太子の正式名称は、プリンス オブ ウェールズならびにチェスター伯、イングランド
貴族コーンウォール公、スコットランド貴族ロスシー公、キャリック伯ならびにレンフルー男爵、
イール卿ならびにスコットランドのグレイトスチュワードのプリンス・チャールズ・フィリップ・ジョージ。
724世界@名無史さん:04/06/25 14:14
>>723
プリンス・オブ・ウェールズの即位式が実際にウェールズのカーナヴォン城で
行われるようになったのは、まだ最近の事ですよ。
ネイティブ以外で始めてプリンス・オブ・ウェールズになったエドワード2世が
ここで儀式を行ったというのは俗説というか伝説の類です。
725カラジチ ◆mWYugocC.c :04/06/25 19:52
>>723
スコットランド議会は1997年創設(復活)なんですが。

つまり、1707年の合同以来300年近くにわたって、スコットランドには議会は存在しませんでした。
議会が存在しないということは、独自の法を制定できないということです。
ということは、「スコットランド王位」の継承法を制定する主体がありません。
そんな状況で「スコットランド王」というものは存在したんでしょうか。
United Kingdom"s"ではないのは、王位がひとつだったからでは?

1603 イングランドとスコットランド、同君連合(王位を1人の人間が兼任するが、法や議会は別)
1707 イングランドとスコットランドの合同(大ブリテン連合王国)
1801 アイルランドと合同(大ブリテン及びアイルランド連合王国)
1921 アイルランド(北部を除く)の分離
1997 スコットランド議会創設
726世界@名無史さん:04/06/26 01:09
King of England と King of Scotland は
King of Great Britainに発展解消したとみるべきだな
少なくとも公式の称号上はそうだ
727世界@名無史さん:04/06/26 03:57
>>718-720
英語版ではまさに「ウェールズは大公国(Principality)と呼べるか」
について議論していますな。
http://en.wikipedia.org/wiki/Talk:Wales#Principality
エリザベス2世が持っている象徴的・名目的な権力
(議会を解散したりとか)すら、PoWはウェールズにおいて
持っていない、という点から「あれは大公国とはいえない」
ということになっているよう。

形式的にでもチャールズがウェールズ議会を招集するとか、
そういうことになっていれば大公国と呼べるのかもしれないけど。
728世界@名無史さん:04/06/26 12:11
>>726
スコットランドでは、エリザベス1世ですよ。そう簡単に割り切れないのが英国。
729世界@名無史さん:04/06/27 05:47
>>728
イングランド主導とは言え、一応は対等な形でのマージ(合体)と考えて
良い筈だから、グレート・シール、その他のマークの優先順位問題なんかも合わせて
懐柔の手段として取って良いのではなかろうかと思います。
ウェールズ公(大公かな?)の叙任式を伝統の創出によってウェールズで行うように
したのも同じなわけで。
日本もそうですけど、古くからの王国って地位の保持の為の手段なのか、非常にこういう所に
曖昧な事が多いですよね。厳格そうに見えて、肝心な所で非常に柔軟というか。
ただイングランド・スコットランド・連合王国と貴族にもカテゴリーがあるわけで
国王はこれらに対して、宗主権を保持しているわけですから、議会がないからといって
スコットランド王国が消滅したか?というのも疑問が残る話だと思います。
730世界@名無史さん:04/06/28 10:11
>>729,
そうです、貴族は同位でも序列がありどこから叙位されたかも要素のひとつ。
イングランド、スコットランド、グレート・ブリテン、アイルランド、連合王国と
順番が決まってますね。
例えば、筆頭公爵(除く王族)のノーフォーク公はイングランド公爵、ウェリントン公爵
は連合王国公爵等々。
731世界@名無史さん:04/06/28 20:58
イギリスでは、現在でも新たに公侯伯子男の爵位が授与されるケースはあるのでしょうか?
あるとすれば、どういう人が授与されるのでしょう?
官僚や軍人の高級幹部が誰でも貰えるのでしょうか?
732カラジチ ◆mWYugocC.c :04/06/28 22:00
>>726-730
ふーむ、思ったより複雑で面白い話ですね。
こだわってもしょうがないのかも知れないけど、どんどん疑問が(というより好奇心が)湧いてくる。

>>730さんによればイングランド公爵、連合王国公爵などの違いがあるとのことなのですが、
イングランド公爵を叙勲するのは誰なんでしょう。その叙勲の資格や方法を定める法律は、どこで制定されるんでしょう。
連合王国国王が連合王国議会で制定された法に基づいて、イングランド公爵を叙勲するんでしょうか。
複雑怪奇。
733729:04/06/28 23:20
イギリスの国家形態の変遷を、そのまま家格に表したものだと理解してもらえれば
良いと思います。
つまりイングランド公爵はイングランド時代から続く貴族で、グレートブリテン公爵は
グレートブリテン成立後に貴族に叙任された家柄が属します。
現在、貴族に叙任されると連合王国時代の貴族というカテゴリーに属すわけです。
なので例え位が伯爵だったりしても、ノルマンコンケストまで遡れるイングランド貴族だと
非常に尊重されるわけです。ダイアナさんの実家のスペンサー家なんかそんな感じ。
またスコットランド貴族の公爵の多くはグレートブリテン貴族としても何らかの爵位を得ている事が
多いみたいです。

で729で言いたかった事というのは、これらのカテゴリーを単なる時代区分としてでは無くて
封建関係が現在でも存続しているからこその分類だと解釈するならば、イギリス国王は
イングランド王、スコットランド王、グレートブリテンの王・・・と各政体の王としての
性格を現在でも保持し続けているのではないか?という事です。
734世界@名無史さん:04/06/29 01:16
英国の爵位についてはこっちもご参照あれ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1053338507/l50
735世界@名無史さん:04/06/29 14:59
>>732-733

今は新規に叙爵すると連合王国貴族にしかならないんじゃないですか?
イングランド貴族になるには、新規叙爵では無理で、相続によるしかない、と認識しているのですが。
736世界@名無史さん:04/06/29 17:34
>>735
733に思いっきりそのように書いてあるのだけれど。
737735:04/06/29 22:34
>>736
すんまへん。後半部分しか目に入ってなかった。

前半部分を読むとまったくそのとおりなんだが、
今度は後半部分の趣旨がよくわからなくなりますた。
「現在、貴族に叙任されると連合王国時代の貴族」なら、
現在は連合王国の王としての性格しか保持していない、
ということにしかならんような気がするが…
738733:04/06/30 00:54
>>737
分かりにくくて申し訳ありません。
例えばイングランド王との封臣関係にある(あった)貴族を
イングランド貴族として区別しているわけですよね。
あなたの言われるとおり、現在のイギリスは連合王国であって、イングランドやスコットランドと
言った区分はUKを構成する地域区分であって、国家単位ではないとするならば
女王と封臣関係を結んでいる貴族は全員、連合王国の貴族であるのが普通だと思うのです。
しかし今、現在でもイングランドやスコットランドといったカテゴリーを許容して行われているのであれば
国王は連合王国の王としての性格以外に、上記の王としての性格を今も持ち続けていると
考えては不自然だろうか?という事を言いたかったわけです。

まぁ、単なる宮廷儀礼なのかも知れないんですが。
739世界@名無史さん:04/07/04 14:27
「王の二つの身体」
740世界@名無史さん:04/07/19 23:10
そういえば、イスラム世界って爵位のようなものはあったんでしょうか?
741世界@名無史さん:04/07/20 11:48
>>740
アラブ・イラン・トルコには部族長のような有力者には
世襲の称号があるにはありますが(たぶんドイツの部族大公のようなもの)
国家に叙位されるような秩序だった爵位制度はなかったと思います。
ただ、サイイド、シャリーフなどの称号をもつ
ムハンマドの子孫が尊敬を集める社会階級で
本当にムハンマドの子孫であるか系譜を確認するなど監督する専門の役人が
置かれることもあったそうなので、宗正府・宗秩寮などに少し似てるかも。
742世界@名無史さん:04/07/21 21:25
イスラムは人間みな平等というのが建前だからな
743世界@名無史さん:04/07/30 22:19
カラジチさん

スコットランド王国の国王ですが、
King of Scot と呼ぶそうでで、King of Scotland とは呼ばないそうです。
あえて訳せば、スコット人の王という感じでしょうか。

そういえば、古くは、イングランド王も、イングランド人の王と呼んだそうです。
ナポレオンも正しくは、「フランス人の皇帝」であり、
神聖ローマ皇帝も、「ローマ人と諸民族の皇帝」などと呼んだようですよね。
744世界@名無史さん:04/07/30 22:47
これを分解分析してくれまへんか。

H.R.H.
Prince Charles Philip Authur Geoge ,
Prince of Wales and Earl of Chester, Duke of Cornwall in the Peerage of England,
Duke of Rothesay, Earl of Carrich and Baron of Renfrew in the Peerage of Scotland,
Lord of the Isles and Great Stewart of Scotland.

745744:04/07/30 22:56
言い出しっぺなんで、まず、スコットランドにかかわる部分は、下記のとおりという点、指摘するさね。
Duke of Rothesay, Earl of Carrich and Baron of Renfrew in the Peerage of Scotland,
Lord of the Isles and Great Stewart of Scotland

ロス公は、スコットランドで最初の公爵位、
次の二つは知らん。
この3つが都合、スコットランドのPeerということか。

イール卿位は、スコットランドのPeerにはハイランドのようだが、
Lordは通常はPeerの筈と思えば、例外ありということか。一体なぜなんだか。

グレートスチュワートは、宰相のような出納長のような、
イングランドのチャンセラーに対応する役職名。これは、スチュワート家が代々就任していたんだが、
同家が王位についたんで息子のタイトルになった訳だが。
だからといって、スチュワート王朝成立後、息子が宰相兼出納長になった訳ではないだろうがね。
746744:04/07/30 22:57
もうひとつ、
ここには、アイルランドに絡むタイトルがない、そこが特長かな。

そのほかの点はよろしく頼みます。
747世界@名無史さん:04/08/09 14:18
745によると、
@Baron of Renfrew は、Peerageのひとつである。
ALord of the Isles は、Peerageのひとつには含まれない。
ようですが、

下に紹介のホームページでは、こうなっています。

The ranks of the Scottish Peerage are Duke , Marquess , Earl, Viscount ,Lord of Parliament .

Scottish Barons is 以下略。
(  ttp://encyclopedia.thefreedictionary.com/Peerage%20of%20Scotland  )
748世界@名無史さん:04/08/09 14:21
また、「Great Stewart of Scotland 」ですが、
もともと、Lord Of High Stewart とか呼んだようですが、
いつから、グレイト云々に変わったんでしょう。
スチュアート家が王位に就き、
これが、王の後継者の名乗りになったときでしょうか。
749通りすがりです。:04/08/09 15:06
@Prince of Wales and AEarl of Chester, BDuke of Cornwall in the Peerage of England

ですが、in the Peerage of England は、どこまでにかかるでしょうね。
BのDukeとAのEarlでは、Bの方が格上であるにもかかわらず、
Dekeが後に書かれているのは、Peerageは、Duke of Cornwall のみであって、
@とAは、イングランドのPeerageではないんでしょうか。そう読み取るしかないですよね。
750世界@名無史さん:04/08/09 15:12
>>749
チェスター伯はノルマン朝成立後、王の全権代官として創設された
爵位(辺境伯?)だから、非常に格が高い。
イギリス皇太子は上院の議席をコーンウォール公位ではなくて
チェスター伯位によって与えられている程。
つまりウェールズ公(大公)とチェスター伯に限っては通常の爵位
と区別して考えるべきかと。
751世界@名無史さん:04/08/09 19:07
早々のレス、深謝。

すると、チェスター伯が、Duke of Cornwall を先に書かれるのは、格式が高いからであって、
必ずしも、チェスター伯が、Peerageではない、ということを意味しないんですね。

  仮定の話で恐縮ですが、コーンウオール公位も、それ自体が独立に有すれば、上院議席を得そうですね。
  コーンウオル公位の嚆矢はいつ、誰だったんでしょう、どなたかご存知ですか。
  最初から、Dukeだったんでしょうか。
752世界@名無史さん:04/08/09 20:01
 ヘンリー3世が弟リチャードに与えたコンウォール伯が嚆矢で、後にエドワード二世が
寵臣ピエール・ギャブスタンに与えたりもしています。
 1337年エドワード3世が、イングランド最初の公爵位として皇太子エドワード(いわゆ
る黒太子)に与えて以降、王の長子にのみ与えられる爵位となったそうです。
753世界@名無史さん:04/08/09 20:05
寵臣ピエール・ギャブスタンに与えたときは、これは、上院議席にもつながりそう。

ちなみに、コーンウォールは、ケルトの地で、もともとは、敵の本拠地、
なんとなく、ウエールズに近いイメージがしますが。
754世界@名無史さん:04/08/09 20:19
チェスター伯は、チェスターの地の伯爵でしょうか。
 あるいは、そんな地はもともとはなかったとか。
 ドイツの辺境伯に匹敵するようで、すると当初は各地におかれたんでしょうか。
 宮中伯と比較するようなことを書いている文献もあるようですね。これだって、
 当初は複数あったと聞いています(最後はライン宮中伯だけになりましたが。結局
 プファルツとは、ライン川の中流域のある辺りを指す言葉になってしまいましたね。)。
755スコットランドについて:04/08/09 22:30
スコットランドについて、アイルランドスレでも言及あるが、

スコットランドは、ピクトのオルバーン国、スコットのダルリアダ国(アーガイル)、
ブリトンのストラスライド?国とサクソンのロージアン国で成立します。
これらは、基本的にローランダーだと思います。当然、東北部とかは関係ないですよね?

これに従わない連中が、ハイランダーで、宗主権を認めているようないないような関係かと。
東北部がなかなか従わないのは、当然ながら、
たとえばダルダリアの本拠地のひとつアーガイルのマクドナルドなんかも
もともとダルダリア国王の分家(だよね?)のくせに、あるいはだからこそか
なかなか半独立的な立場を維持してイール卿などを保っていた。

すなわち、アーガイルに居たスコット族もダルダリァ国を通じ、完全にスコットランド(ここではつまりローランド)に入ったわけではなく、
ハイランダーとして半独立を保ったわけであった、と思うが。

  
 イール卿は、スコットランドが成立する前の卿位でないかなぁ。
 ウエールズ公位みたいな。
 ロス伯位はどうだろ。
 その点、アーガイル伯(公)は、
 スコットランド成立後のスコットランド王の封臣に位置のはず。
756750:04/08/10 00:41
>>754
もちろんチェスターの伯(軍事司令官)だからチェスター伯です。
この場合の伯位は単なる階級ではなくて、実権を伴った役職です。
伯爵と伯の違いは多分、過去ログで詳しい解説があると思います。
チェスターはイングランド地方西部、リヴァプールの南方にある都市で
ローマ時代からの要塞都市(地名もそこから由来する)で
ノルマン朝の創設期には対ウェールズの重要な拠点だったようです。
そこでウィリアムは変事に際して、迅速な行動が取れるようにと
自らの指揮権を委譲したチェスター伯位を創設して、この地の防御を任せました。
チェスター伯位が持つ権威はイギリスの爵位の中でも一、ニを争う歴史と
この時に与えられた大きな権能に由来するようです。
757世界@名無史さん:04/08/10 17:49
>>755
ですが、一部間違いかと。正しくは、

>スコットランドは、ピクトのオールバ国、スコットのダルリアダ国(アーガイル)、
>ブリトンのストラスクライド国とアングルのロージアン国で成立します。
>これらは、基本的にローランダーだと思います。

ダルリアダ国の西半分は、ハイランダーの色が強いような気がします。
アルピン王家の本拠地が、なかなか服さないというのも、皮肉ですね。

ダルリアダ王国はアイルランドのダルダリア王家の出身者の遠征で成立した国。
ケニス1世マクアルピンが839年即位し、846年にオールバ国を下して、
ダルリアダ・オールバ連合王国成立。本拠を、オールバに移した為か、
その後、オールバ国と通称される。
ダルリアダは王都から離れてしまう。
ダルリアダにはいうことを聞かないやつ(マクドナルド=ハイランダーとして)が出てくる原因かも。

連合王国で、1005年マルコム2世が即位し、1018年にロージアンを併合する。
以後をスコウシア王国と通称。なお、同年、ストラスクライド王に孫のダンカンを就ける。
実質的に四王国の連合体となる。
1034年、マルコム2世死去により、ダンカン1世が、両国の王となる。
これを、スコットランド王国成立とする。
758亀レスですが。:04/08/10 17:59
>>104ー109

ブルース家ですが、どうして根絶やしにされなかったんでしょう。
スチュアート家ってやさしいのかな。
また、その後、ブルース家はおとなしく引き下がっていたの(いろいろ面白い話あると思うけど)。
 ●ちなみに大英博物館のエルギンマーブルのエルギン伯は、この系統?
 ◎エルギン伯って、大変な名跡なのかな。


スチュアート家は ブリトン貴族の末裔とのことですが、マクベスに殺されたバンクォウは、
アルピン王家の血を引くと聞いたことがあります。
アルピン王家なら、ダルリアダ国にて、スコット人の国と思うんですが、
どういう関係になるのやら。

759757:04/08/10 18:04
一応補足:

 アルピン王家は、ダルリアダの王家からくるのです。
 ケニス1世マクアルピンの父は、アルピンという名で、ダルリアダの王でした(伝説?)。
 ちなみに、マクアルピンとはアルピンの息子という意味ですね。
 したがって、アルピン王家はダルリアダ王家です。ただ、
 連合王国になってからの呼称がアルピン王家なのです。
760世界@名無史さん:04/08/10 18:31
ダンカン1世は、ノーサンブリア伯の妹と結婚し、マルコム3世カンモーと設けた。
このノーサンブリア伯は、ダンカンが殺害された後、マルコム3世をかくまった訳で、
カンモーにとっては恩人だ。
このノーサンブリア伯とは、イングランドのノーサンバラント伯のような気がするんだけど。
もちろん、ノルマンコンクエスト前なので、アングロサクソン貴族だと思うが。
そうすると、彼は、ノルマンコンクエストの後、どうなるのか心配になる。



(アルピン王家) ─マルコム2世┬次女─マクベス(父マリ領主)
                │    
                └長女─ダンカン1世(父アサル領主)─マルコム3世カンモー
761世界@名無史さん:04/08/10 18:39
補足:

この領主は、Mormaer の訳です。これは国王から貰ったタイトルではないと考えます。
これが、伯なり、公なりに置き換わると、王に服属したということになるかと。

なお、マルコム3世カンモーは、Jarl Of Orkney ( Earl ではない)の家の嫁と再婚します。
たまたま未亡人になってしまってましたんで。
Jarl は、スカンジナビアの国王に与えられたタイトルと思われます。すなわち、外国の領土であり、
外国の貴族。

今は、Earl Of Orkney がいるんでしょうけど
(JAMES Vへ輿入れしたマーガレットの持参金としてオークニー島が
 きました。住民ごときたわけです。このとき、Jarl が一緒に来たのか
 どうでしょうか。土地に付着した農奴のように、
 貴族も売り飛ばされたり、質入れのかたになってしまうんですかね。)
762正しくは、Lord High Stewart :04/08/10 19:48
748 :世界@名無史さん :04/08/09 14:21
また、「Great Stewart of Scotland 」ですが、
もともと、Lord High Stewart とか呼んだようですが、
いつから、グレイト云々に変わったんでしょう。
スチュアート家が王位に就き、
これが、王の後継者の名乗りになったときでしょうか。

   スチュアート家が王になったころは、
   職の内容は、すでに形骸化していたのかな。
   だから息子の名誉的称号にしても構わなかったとか。
   もっとも、スチュアート家が摂政をやっていた根拠は、
   これかもしれませんけど。どう。
763世界@名無史さん:04/08/10 19:48
>>761
国家の概念がまだ希薄な時代なので、ただ貴族が封主を変えただけと
解釈するべきかと。
あの辺りの島々はスコットランドやノルウェー、イングランドが
宗主権を巡って錯綜しているので、複数の封主を同時に持つ
(=爵位を与えられる)という事も有り得たわけで。
764世界@名無史さん:04/08/10 19:48
チェスターの他にケント、ダラムもパラティン伯領だったようですが、
こっちはどうなったんでしょう?
ケントは王族に与えられるケント公に繋がるような気がしますが、
ダラムの方はどうなったんでしょうね?
765世界@名無史さん:04/08/10 22:56
ダラムは司教でずっと存続。
普通はチェスター、ダラム、ランカスターの三つが
county palatineと呼ばれている。
他はごく短期間か、本当にそうだったのか不明らしい。
766世界@名無史さん:04/08/12 17:33
チェスターという言葉自体は、地名からくるんですね。
プファルツという地名が、もともとは宮中伯の「宮中」であるのと逆ですね。
767世界@名無史さん:04/08/14 14:12
開会式にシメオン・サクスコブルクゴツキ首相いたね
768世界@名無史さん:04/08/14 16:55
<1>サクスコブルクゴツキ首相って アルバート公のご実家と関係あるですか。

<2> >>750
Prince of Wales and Earl of Chester, Duke of Cornwall in the Peerage of England
ですが、結局、
 @Earl of Chester in the Peerage of England
 ADuke of Cornwall in the Peerage of England
は、わかりました。両方、イングランドのピアレージということで。
 また、Prince of Wales ですが、たしかに別格ということは了解しました。
 で、Prince of Wales in the Peerage of England といっては間違いでしょうか。

769世界@名無史さん:04/08/14 17:16
>>768
間違いかと思いますが・・・。
ウェールズ公は名目上はイングランドの支配下にあるわけではないので。
文法上からでもPrince of Walesだけを区別しているわけですし。
ネイティブのウェールズ公がイングランドとは一線を画していた事を
考えれば、含めるのは不自然かと。
770コピペ推奨:04/08/14 18:58
女の人って、なんで恋愛物が好きなの?

1 :名無しさん 〜君の性差〜 :04/04/22 21:41 ID:c82LqFp5
女の人ってなんで「冬のソナタ」とか「タイタニック」とか、
くだらない恋愛物のドラマや映画観て「感動した〜」とか
平気で言えるの?なんでそんなに恋愛物が好きなの?

http://love3.2ch.net/test/read.cgi/gender/1082637661/l50
771世界@名無史さん:04/08/16 16:31
76,765
ダラム場合、宮中伯(ダラム宮中伯)を俗人ではなく、聖職者であるダラムの司教の兼任としてわけ?
一方、ランカスター宮中伯は、その後、ランカスター公爵に格上げとなったので、
マージされたという感覚だろうか?

話がそれましたが、ノーサンブリアは、半独立の王国で、
EArlを名乗っていた時期があるようです。どこのEarlなのか知りません(イングランドかな)。
その後、ノルマン朝イングランドに攻められて、分割。ノーサンバラントとダラムに分かれたようです。
ノーサンバラントは、だいぶ後に、伯領となり、パーシー家が。この地域の節度使(Warden?)に任ず。
ダラムは、宮中伯か。ノーサンバラントもダラムも、対スコットランドの前線基地だから
ね。
772世界@名無史さん:04/08/17 00:17
>771
>ダラム場合、宮中伯(ダラム宮中伯)を俗人ではなく、聖職者であるダラムの司教の兼任としてわけ?
兼任というより、宮中伯というのは特権であって与えられる人がどういう身分なのかはまた別の話のような。
773世界@名無史さん:04/08/17 18:14
>>769
重箱の隅ではないけど、
ウエールズのカウンティを采邑地名とするEngland Peerageがある。
これはどう思いますか。
1661年の創出ですから、GBでも、UKでもない。

Earl of Cardigan;Earl of Cardigan is an English peerage title.
It was created in 1661 for Thomas Brudenell

ウエールズは名目上も(実質上はもちろん)、
イングランドに併合されているように見えるよ。
なお、法体系はどうなんだろう。コモンローなのかなぁ。だったら、完全併合だといえる。

 (ブランメルって、あの伊達男とは別??)
774773:04/08/17 18:17
ごめん。下記は無視して。

 (ブランメルって、あの伊達男とは別??)
775世界@名無史さん:04/08/17 22:48
>773
ttp://www.wordiq.com/definition/Act_of_Union_1536
骨子は
・辺境諸侯の廃止と州 county の設置
・ウェールズからウェストミンスターの議会への代表派遣
・イングランド同様の治安判事の設置

ただし769はウェールズ「公」はとしか言っていないのが
個人的にひっかかっている
776世界@名無史さん:04/08/18 22:45
>>773
封建制度から考えれば、貴族のカテゴリは誰が封主なのか?という事に
集約する事が出来るわけで、領地がどこにあるか?という事はそれに比べれば
余り意味の無い事にも思えます。
ウェールズはイングランドに早期に同化されていった事は>775からも明らかですが
ウェールズ公自体がイングランド王の支配下にあるのか?という事には繋がらないでしょう。
ただ現在のUK体制での両者の関係については上の論理が成り立たないので
自身が無いですけれど。
777世界@名無史さん:04/09/12 19:53:30

これ、放置されてますね。
そこで私、一言いうけどね。
いんちき臭いよ。
スチュアート朝の王様が、バロネットを売り出して、金を調達したよね。
地方のお金持ち達、これを買ったよね。

下のような制度があるなら、バロネットなんて買う必要ないじゃない。
しかも、下の爵位って、タイトルから見てPeerageのようなものあるけど、
本当かなと思う。
上院に出れないでしょう、きっと。



343 :世界@名無史さん :04/01/14 00:43
ttp://www.elitetitles.co.uk/
↑のサイトで爵位を買えるみたいだが・・・
778773:04/09/12 19:59:01
>>776

ウエールズ公というのは、
イングランド王の儀礼上のタイトルではないかと思ったこともあります。
ウエール公は、本当はイングランド王が兼任しているということで、そのうち、儀礼上の爵位として
いくつかを、まさにいくつかを、皇太子に割り振っているということで。

実際のところ、ウエールズの君主は、実態上は、イングランド王ですよねぇ。

しかし、そういいきっていいのか、よくわかりません。
何を儀礼上の爵位とするか、
各家ごとに決まっているようですし、多分これは文書になっている(あるいは慣習)と
思いますし、
すると、ウエールズ公位についても、これを儀礼上の爵位にするという規定なり
慣習がある筈ということになりますけど、こんな説は聞いたことないし。
779世界@名無史さん:04/09/25 14:58:39
>>778
>ウエールズ公というのは、
>イングランド王の儀礼上のタイトルではないかと思ったこともあります。
>ウエール公は、本当はイングランド王が兼任しているということで、そのうち、儀礼上の爵位として
>いくつかを、まさにいくつかを、皇太子に割り振っているということで。


 ウエールズ公というのは、
 イングランド王の「長子」の儀礼上のタイトルではないかと思ったこともあります。
 
と訂正すべきですね。
儀礼上のタイトルとして、何を割り振るのかは、法律か何かで決めると思います。
一般の貴族の場合も(ノーファーク公の長子が、アランデル伯を名乗る)そうしていると思います。



780世界@名無史さん:04/09/25 15:34:13
>>777

以前、領主協会というものを、マールなんとかという御仁が紹介していましたねぇ。
これに関係するんではない?

こんなのもあるよ。

ttp://www.englishmanor.co.uk/index.htm
781世界@名無史さん:04/09/26 02:49:06
横レスですまんが、今「各家成員リスト」が引越し中で使えない。
困った、困った・・・
782世界@名無史さん:04/10/02 15:32:52
公候伯子男の名称は、周の5爵の流用かと思いますが、
そもそも、5つのランクを作るというアイデアはどこから来たんでしょう。
周の制度を使おうと思ったことにより、結果として5つのランクとなったんでしょうか。

それとも、英国のイメージが最初にあり、5つあたりにしようと思ったんでしょうか。
 
どうも、調べにくいテーマなもので。
783世界@名無史さん:04/10/02 20:44:51
明治のはじめには
公、卿、亜卿、大夫、元士の5段階にするという案もあったらしい。

井上馨なんかは新しい名称なんか諸外国の笑いものになるのがオチだから
公家は公家の、大名は大名の昔ながらの家格の名称をそのまま使えと提案していた。
784世界@名無史さん:04/10/10 16:58:24
高校薄志団
785世界@名無史さん:04/10/11 01:44:09
ウェールズを「(大)公国」としてしまったから混乱するんですな。
フランスのドーフィネ(王太子領)と実質は同じだと思うんですが・・・
もっともドーフィネ自体がウェールズに範を得たものなのかもしれませんが
786世界@名無史さん:04/10/12 17:06:16
>>783
昔ながら・・・ねえ
八種の姓は有名無実化していたがいちおう残っていたのでそのまま使うと混乱や不満の元だな。
いっそさらに遡り公(公)・臣(侯)・連(伯)・直(子)・造(男)・首(士族)でもよかったかもね。
787世界@名無史さん:04/10/12 17:31:27
>周の制度

六朝時代、中国はインドのカ―スト制を模倣して等級は四つ。
名族を甲姓、乙姓、丙姓、丁姓に分類して階級を作っていた。
これがさらに朝鮮、匈奴に取り入れられる。
788世界@名無史さん:04/11/02 20:50:22
a g
789世界@名無史さん:04/11/03 21:58:26
そもそもジオン(名前)公国じゃなくてダイクン(姓)公国として世襲制を明示してたら、
キャスバル坊やは国を追われる事もなく、ザビ家が独裁に走ることも無く
ひねくれてなくてロリコンに走ることもない良いキャスバルが、良い公王になって
平和にコロニー独立を果たしてたかもしれない…

諸悪の根源はこいつのような気がしてきた。
790世界@名無史さん:04/11/04 01:27:16
>>789
こぴぺ乙(*゜д゜) 、ペッ
791世界@名無史さん:04/11/05 21:29:48
中世の爵位制度って、シャルルマーニュ以前と以降で
全く違う制度に変質していたと解釈するべきなんでしょうね。
特に公や伯といった称号の優劣なんて、中世初期にはしっちゃかめっちゃか
になってるみたいだし・・・。
792世界@名無史さん:04/11/06 21:54:53
>>791
ええ?明らかに公>伯じゃないんですか?
伯>公ということがあったのですか?
煽りじゃなくて、実際そういうケースがあったのでしたらお教え願いたいのですが。
793791:04/11/06 22:34:05
>>792
カロリング帝国の実質的な崩壊後、複数の伯管区を兼任する勢力
(必ずしも本来の伯とは限らない)が現れてきて、領邦を構成する諸侯(君主)
の層が成立してくるわけです。
そうすると同じ伯では我慢が出来ないので、より権威のある称号を名乗るように
なるわけです。
で、ネタ元という言い方はおかしいかも知れませんけど、シャルルマーニュ以前の
官職である辺境伯を名乗ったり、大伯とか主伯(従伯と対応させた訳語)と自称したり
あるいはローマ時代の称号だった公(dux)を名乗ったりしたようです。
でも複数の伯管区を手中に収めても、そのまま伯を名乗ってた貴族(トゥールーズ伯とか)
もいるわけで、必ずしも公>伯という優劣関係は成立してなかったようですね。
ノルマンディー公もトゥールーズ伯も王以外に主君を持たないという点では
同じ大諸侯なわけですし。
794カラジチ ◆mWYugocC.c :04/11/07 00:04:01
>>793
公(dux)はローマだけじゃなくメロヴィング朝も採用してたようですが……。
公と伯の違いって、公のほうが管区は大きかったようですが、何か職能の違いという感じを受けますね。
まあもともと官職なんだから当然か。
あと、duxを名乗る諸侯ってフランク王国の外側(つまりドイツ方面、アキテーヌ、ブルターニュ)に偏ってる。
これも公と伯がそもそも性格の違うものということを匂わせる。
795791:04/11/07 00:59:12
>>794
duxのドイツ語対応語はherzogですがherrとziehenの合成語であると言われています。
で意味が“軍隊”と“指揮”するなので原義は明確になるかと。
シャルルマーニュ時代までは伯は役人としての統治者の側面が強いので
この差があるのでは?
duxが領邦諸侯の称号として使われた地域は、かつてのローマ属州(イタリア中心)や
部族の単位が権力の基礎になっている地域に限定されるようです。
カラジチさんが挙げられた諸侯はこの後側に当てはまりますね。
あと、フランク王国の外縁部=シャルルマーニュが確立しようと図った諸制度が曖昧な地域
と言える訳で、旧フランクの規定から逸脱する事に抵抗が少なかったという事も考えられます。
(神聖ローマ帝国やイール・ド・フランスでは残滓が濃く残っていたようで)
796世界@名無史さん:04/11/07 01:50:42
ローマ帝国の女帝にして、ドイツ、ハンガリー、ボヘミアの女王、
オーストリアの女公、ブルグント公、チロル伯たる
神の恩寵によるマリア・テレジア
797世界@名無史さん:04/11/07 11:47:02
伯>公

英国のダービー伯爵は、もともと英国王のもつ称号ということで、ほかの伯爵や公爵より一段上
とされたらしいですね。
またダービー伯爵じたい、英国で二番目くらいに古い伯爵号みたいです。

その後、妾の子などに公爵を乱発する王様がでて、さらにお金で貴族の称号を買い取る
風潮が強まってからは、伯爵の値打ちもすいぶんさがり
英国で1、2をあらそう北部の大地主、権門中の権門である家が伯爵なのもどうかということで
公爵の下賜が内示されましたが、ダービー伯爵家は断ったそうです。

また権門といえば、バラ戦争でキングメーカーといわれたウォリック伯爵は、文字どおり英国の支配者
であった時期もありましたが、ヨーク家との婚姻でウォリック伯爵号は英国王室に戻されて
いわば国王が、その領地と権力を兼任しました。
反乱をおそれて、強固なウォリック城に滞在した国王が危険な指令を下すこともあったようです。

いったんウォリック伯爵はとだえた形になったのですが、そのうちウォリック城も臣下に下賜され
やがて商人がウォリック城を買取り、王室に運動してウォリック伯爵をも買い取りました。

そうなると、誰もが知ってるキングメーカー伯爵も格がたいぶ落ちる訳ですね・・・

日本でいえば講談で有名な織田信長などの家名を、江戸時代に誰か商人が買い取り
大真面目に子孫を名乗るような感じでしょうか。
798792:04/11/07 11:53:45
791さん、ありがとうございました。勉強になりました。
799世界@名無史さん:04/11/07 20:02:13
難しい話で盛り上がっているようで、すばらしいですね。

フランスでは、プリンスとデュクの二つがあって、結局、どちらが上なんでしょう。
王権が確立すれば、とにかく、何らかの順序、席次が無理にでも、出来てくると思いますが。

フランス(西フランク)王は、辺境伯というのは設置しなかったようですが、正しいですか。
分裂前のフランク王や、また、東フランク王(ドイツ王)は、辺境伯を設置していますが。
その代わり、フランスは、侯爵(マーキス)をその後、作っていますね。
語源的には、辺境伯だそうですが、フランス語で、辺境伯はなんと言うんでしょう。
日本語ですと、訳者が気を利かして意訳したりするのですが、実は、フランス語の侯爵は、
そのまま辺境伯である懸念はないですか。
 (気を聞かせた意訳は、ときどき迷惑ですよね。たとえば、連合国が、国際連合に変わったりとか)。
800また、質問ですけど:04/11/07 20:09:09
783 さん、ありがとうございます。
>明治のはじめには 公、卿、亜卿、大夫、元士の5段階にするという案もあったらしい。
>井上馨なんかは新しい名称なんか諸外国の笑いものになるのがオチだから
>公家は公家の、大名は大名の昔ながらの家格の名称をそのまま使えと提案していた。


、でも、結局、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵になったんですね。誰の提案なんでしょう。 
 どこを見ればわかるでしょう。

 また、それの英訳を、Prince、Marquiss、Count、Viscount、Baronにしたのは誰でしょうか。
 (ちなみちなみに、独訳、仏訳、伊訳は、どうなっていますでしょうか)
801783:04/11/07 21:09:16
>>800
漏れのネタ元は『明治維新資料』だったかな。記憶で書いてるので
間違いの訂正を賢人に期待しまつ。

新しい貴族制度をどうするかは、根本的に貴族制度をとらないという案も含めて
一時期、百花繚乱してたみたいですね。

結局、Prince、Marquiss、Count、Viscount、Baronと
明治人の漢文教養の中にあった公侯伯子男爵がどっちも5段階だから
こじつけやすかったのかな???

井上馨は「周の制度でも西洋のでも、爵位は封地につくもので領地もないのに
その称号はおかしい、笑いものになるからやめれ」と言っていた。
802世界@名無史さん:04/11/07 22:49:22
メロヴィング朝ではdux、公は、ガロ・ローマ人(被征服民)を統括する王の地方長官という意味合いもあったようです。

もともとフランスはガリア、ローマの領地で
そこへフランク人が征服者として乗り込んできました。
フランク人は王の直属として税金を納めなくてよい特権をもち(もともとフランク族が税を納める習慣も無かったようだ)
これらゲルマン系の風習がフランス貴族のもとになったわけですが
旧ローマ人たちは強固な城塞都市にこもり、いわば半独立ながらフランク王に税を納めました。
かれらの指導者はローマ時代の長官もしくはキリスト教の大司教でした。
(ローマ時代の元老議員や、皇帝のつながりを誇ってた)

辺境伯、マルクグラーフは武勇に優れたゲルマン系が多かったのですが
ガロ・ローマ人のdux、大公もいたのはフランク王が広大な被征服地を掌握するための手段とおもわれます。

大公、辺境伯、司教など広大なフランス各地の支配者形態はさまざまでしたが
この中ではキリスト教会の権威や収入を持つ、有力都市の司教がいちばん強く、王より裕福な司教もいました。
duxや辺境伯はあまり力は無かったようです。
僧侶以外では文盲がおおかった時代ですから・・・

王は、強力な司教をねたんで処罰したり、親戚縁者を有力な司教座に送り込むなどキリスト教会の旧権力を
とりこむ政策をつづけ、王権を強めていきました。

いまでもフランスやドイツの尊敬される身分階級といえば、大会社の社長などのほか、聖職者(世襲貴族)ですね。
むろん旧ドイツやフランス貴族の末裔もいますが、聖職者ほどの尊敬はあつめていません。
803791:04/11/07 23:11:38
>>802
シャルルマーニュとルイ敬虔王の時代は、聖職者の土地から挙がる収入を
各貴族が横領していたので、度々、王権による取締りをしなければならなかった
程ですが・・・。(しかもほとんど効果なし)
そもそもカロリング家が勢力を拡大する際、教会の知行を不当に奪った事が
効果的だったのも事実なわけで。
聖職者が強力な諸侯になっていく要因としては、世襲がありえないという理由に
よって伯管区を委ねるのに好都合と王(主に分裂後)が判断したからだと思うんですが。
804世界@名無史さん:04/11/07 23:16:10
>>800
戦前日本の華族制度での公爵の英訳はPrinceじゃなくて
Dukeじゃないのかな。
各宮家の英訳がPrinceだったようだから。
805世界@名無史さん:04/11/07 23:33:04
聖職者というのは、直系相続はできませんが有力な家門から定期的に出していたので
けっきょくおなじ。

司教の地位は売買されることもあったようです。
この場合は、ある家の既得権である司教の地位を、他家が金を出して買う、という意味です。
その約束の不履行が原因の争いで訴訟がおこってます。

ようするに世襲貴族なわけですね。
806791:04/11/08 00:35:44
>>805
封建時代の高位聖職者が全部、貴族の子弟だとするのは極端すぎるかと。
叙任権闘争以前の聖職者、特に王(皇帝)の礼拝所は王に忠実な官僚としての
聖職者育成機関という面が強かったようです。
国王はこれらの聖職者達に地理的要因などで自ら保有する事が出来ないが
非常に重要な伯管区を任せていました。
(神聖ローマ帝国で初めて、聖職者に伯管区が完全な形で委託されたのは
イタリアへの交通の要衝、ブレンナー峠を含む地域であったようです)
そしてグレゴリウス改革以前は世俗諸侯が子弟を聖職に送り込む事で影響力を
保持するよりも、教会の(知行の)保護者というカロリング以前からあった役職
に就く事で、実権を握る、または俗人の身のままで修道院長職などを兼ねる事などに
よって、自らの知行地を拡大したいった事は有名かと。
807世界@名無史さん:04/11/08 01:12:03
もともとローマ帝国の支配体制の腐敗、異民族の侵入などによりガリアに限らず各都市は自己防衛の必要にせまられ
ローマ皇帝より半ば独立した地方の自治が強化されるのは必然でした。
その担い手が司教などキリスト教会の指導力でした。

それらキリスト教貴族という存在がフランク族の征服支配において初期の障害であったことは確かです。
あくまで王権の弱かったメロヴィング朝あたりの話ですよ。

物事には順序があり、キリスト教貴族→王に忠実な官僚、という歴史的な段階があった。
808Richelieu:04/11/08 02:34:28
聖職者が妻帯禁止されたのは、教会内の地位を特定の家門が独占することを阻むためだったと思います。
もっとも、その制度にチャレンジする例は多いと思いますが。
聖職者の地位を特定の家門が独占する例としては、(東欧の例で恐縮ですが)
主教が君主だった頃のモンテネグロのペトロヴィッチ=ニェゴシュ家
ルネッサンス期の教皇を一族でたらい回しにしようとしたボルジア、デッラ・ローベレ(貴族出身ではない)等そういった例は豊富と思います。


809世界@名無史さん:04/11/08 03:48:35
まあ現実問題として僧侶に必要な教養を身に付け、高徳の師の指導を得るには
それなりの家(貴族)に産まれないと不可能といった側面もあり、よほど近代にならないと
庶民から優秀な子が・・・というプロセスは事実上ありえませんが。
810世界@名無史さん:04/11/08 04:48:15
庶民出でも本当に超優秀で運にも恵まれたなら司祭くらいにはなれるかな?
司教以上はどう頑張っても無理でしょうが・・・
811カラジチ ◆mWYugocC.c :04/11/08 12:10:35
>>795
>duxのドイツ語対応語はherzogですがherrとziehenの合成語であると言われています。
>で意味が“軍隊”と“指揮”するなので原義は明確になるかと。
細かい突っ込みだけど、Heerとziehenね。
her:こっちへ(herziehen:引っ張る)
Herr:主人、男性
Heer:軍隊
ややこしいなこれ。私、ずっとherziehenに由来すると思ってた。
軍隊を「引っ張る」から将軍なんだなー、と。
812世界@名無史さん:04/11/09 00:57:01
>810
教皇シルヴェステル二世とか
813世界@名無史さん:04/11/15 21:42:12
>>786
>昔ながら・・・ねえ
八種の姓は有名無実化していたがいちおう残っていたのでそのまま使うと混乱や不満の元だな。
いっそさらに遡り公(公)・臣(侯)・連(伯)・直(子)・造(男)・首(士族)でもよかったかもね。

遅レスですが、こんなのありました。
貴族制度の一案(確か霞会館「華族制度の研究」酒巻芳男著に載ってました)
貴族
 皇族
  一等 郎子(いらつこ) 皇子
  二等 大兄(おおえ)  皇孫
  三等 小兄(すくね)  皇曾孫
  四等 公(きみ)    皇玄孫
  五等 別(わけ)    皇来孫
 華族
  一等 真人(まひと) 公
  二等 朝臣(あそみ) 侯
  三等 忌才(いみす) 伯
  四等 臣(おみ)    子
  五等 連(むらじ)   男
 名族
  一等 首(おふと)   卿
  二等 造(みやつこ) 大夫
  三等 主(ぬし)    大士
  四等 直(あたい)  中士
  五等 勝(すくり)   少士
814世界@名無史さん:04/11/17 09:19:30
>>813
忌才(いみす)は「忌寸(いみき)」の間違いde
首(おふと)は「首(おびと)」の間違いだよね?
815世界@名無史さん:04/12/05 18:53:50
>>813

上の表はどう読むのですか。
たとえば、華族一等の場合、真人と公は、どう使い分けるのですか。
816世界@名無史さん:04/12/05 19:15:26
>結局、Prince、Marquiss、Count、Viscount、Baronと
>明治人の漢文教養の中にあった公侯伯子男爵がどっちも5段階だから
>こじつけやすかったのかな???

801さん、
華族制度は、伊藤博文の頭には、
ドイツ帝国があったかと思っていましたが、
どうでしょうか。明治憲法を作ったとき、大体同じ時期に華族制度を作ってますから。
もっとも、ドイツ帝国の貴族の制度は複雑でしょうから、やっぱり英国だったかもしれませんが。

817世界@名無史さん:04/12/05 19:29:38
ドイツは五等爵じゃないから違うでしょ、やっぱり。
818世界@名無史さん:04/12/05 20:09:21
爵位がいろいろだ。
バイエルンやオーストリアは、騎士爵があった見たいだし。

また、ドイツ皇帝も、
プロイセン王位はもちろん持ち続けていたと思うし、
プロイセン公位と、ブランデンブルク辺境伯位をも、
一応持ち続けていたかもしれないし。
819世界@名無史さん:04/12/05 20:18:57
ワイマールとかバーデンのような大公国にも独自の貴族はいたんですか?
820世界@名無史さん:04/12/05 22:54:19
>>818
プロイセン公位は王位に昇格しているので、消滅しているかと。
また辺境伯位は帝国諸侯位なので、神聖ローマ帝国解体時に
消滅して、官職知行はプロイセン王国に合併されたんでは?
821世界@名無史さん:04/12/06 19:32:29
ドイツ帝国に入った領邦君主に辺境伯いなかったっけ?
822世界@名無史さん:04/12/06 23:27:51
>>820
でも一時期公位と王位が併存していた可能性はあるよ。
プロイセンが公国から王国になったとき、神聖ローマ皇帝は
プロイセンが完全に自立することを恐れたとか、公から王への昇格の前例を
作りたくなかったとかで、
プロイセン公が王に昇格とか、プロイセン公国が王国になるというのではなくて、
プロイセン公に対して「プロイセンにおける王(または『プロイセン人の王』)」という
きわめてあいまいな「王位」を与えるという形を取っていたからね。
823821:04/12/07 02:20:58
>>207に出てた。ドイツ帝国じゃなくてドイツ連邦だった。
でも神聖ローマ帝国解体後に違いはないか。
とにかくブランデンブルク辺境伯領が
プロイセン王国に法的に併合されたことがあったとしても
ブランデンブルク辺境伯のタイトルが神聖ローマ帝国と一緒に消えたとは
一概に言えなさそうな気がするんだけど。
824世界@名無史さん:04/12/07 02:44:43
フランス王家はパリ伯の出世魚わけで。

日本の従一位や二位のように、公爵や伯爵が、順序どおりの上下関係にあるわけでもない。
土佐の守や壱岐の守が強大な大名の官職名であることもあれば
小さな神社の神主だったりもする。それとおなじ。アバウト。

伯爵といっても辺境伯となると都市の知事みたいな意味もあるだろうし
場合によっては小さな王様でもあり、たんなる城主でもあり、野戦軍隊指揮官でもある。

百年戦争のころは全イギリス海軍は伯爵が指揮していたらしく(規模が小さかったのだろう)
カレーの領主は強大な陸軍主力部隊の指揮官を意味した。
825世界@名無史さん:04/12/07 05:53:03
>>824
おなじ国司でも官位に格の差はあったんだよ。
大国(大和、伊勢、陸奥、越前など)は従五位上相当官
上国(加賀、山城、摂津、筑前など)は従五位下相当官
中国(安房、土佐、日向、薩摩など)は従六位上相当官
下国(伊賀、和泉、飛騨、壱岐など)は従六位下相当官
826825:04/12/07 05:55:03
あ、間違えた。
中国(ちゅうこく)は正六位下相当官だった。
827825:04/12/07 06:13:35
要するに何がいいたいのかというと
職分や収入はたしかにアバウトだったけど官職名は官位に直結しているので序列ははっきりしていと。

板違い失礼しました。
828世界@名無史さん:04/12/07 07:20:21
>>824
> 土佐の守や壱岐の守が強大な大名の官職名であることもあれば
> 小さな神社の神主だったりもする。それとおなじ。アバウト。

>>825
> おなじ国司でも官位に格の差はあったんだよ。

>>824の言いたいことは分かるけど,
>>824の例も,>>825の反論も,この件に関しては不適切だと思います。
829カラジチ ◆mWYugocC.c :04/12/07 11:16:50
実はドイツ帝国も連邦制で、例えばバイエルン王国なんかは1918年消滅のようです。
系図とか見ると、ちゃんとそう書いてあることがある。
けどブランデンブルクはわからないなあ。
神聖ローマ消滅時に、ライン連邦に参加してないし、その時点でプロイセン王位に一本化されたと思うけど。
ドイツ連邦の表でも、ブランデンブルク辺境伯の名前はないし。
830世界@名無史さん:04/12/07 23:43:31
幕末の宮廷とかをみると、旧家は中国守で新家は下国守とかがあったりするので、
厳然と序列は残っていたようですね。
あと菓子商人とうのじょう(判官)は京都に近いほうが格上らしいです。
831世界@名無史さん:04/12/08 02:26:35
ttp://www.geocities.com/eurprin/brandenburg.html
によれば1701年、Duke in Prussia/Herzog in Preussen がKing in Prussia/König in Preussenに置き換わり、1772年からKing of Prussia/König von Preussenになったようだが。
Markgraf zu Brandenburgの称号はずっと所持していたみたいだな。
832世界@名無史さん:04/12/08 12:57:16
>あと菓子商人とうの

等(など)を”とう”と読んでるんだ・・・
そんな奴が日本史板にいるのねぇ。
833カラジチ ◆mWYugocC.c :04/12/09 09:22:54
>>831
プロイセンは帝国外(もともとポーランドの封臣)、ブランデンブルクは帝国内でしたので。
プロイセン王は皇帝選挙や帝国議会においては、「ブランデンブルク辺境伯」として参加したはず。
問題はその帝国の消滅した1806年以降、ブランデンブルク辺境伯が存続したのかどうか、です。
しかし「プロイセン公」ってHerzog in Preußenなんですねえ。
834世界@名無史さん:04/12/11 20:46:43
他のことで知りたいことがあってギリシア語辞典を見ていたら、
公爵以下の爵位が載ってましたが、ギリシア王国に爵位があったのでしょうか?
それとも、外国の爵位をそう呼んでただけですか?
トルコ語辞典も確か子爵以外は載ってましたが、
こっちは後者のほうですよね?

あと関係ないですけど、ビザンツのいわゆる爵位(一代限りの称号)を爵位と訳した人って、
秦漢史の素養があった(二十等爵の事を知っていた)人なんでしょうね。
そうでなければ、あれを爵位とは訳さないと思います。
835世界@名無史さん:04/12/13 17:24:52
>>834
大きいトルコ語の辞書を引くと子爵も載ってます。
もちろん後者のほうで。
836世界@名無史さん:04/12/15 19:07:59
ヴィスコンティ家の家名の由来って子爵と関係あるのですか?
837世界@名無史さん:05/01/02 16:33:47
良スレさらいage
838世界@名無史さん:05/01/02 22:05:25
>>836
そいつはわたしもかねがね疑問でした。
839世界@名無史さん:05/01/05 01:59:42
日本の華族制度成立時には家柄華族と勲功華族となる元勲たちの間に
五等爵にするか、喧嘩したそうな。
井上毅は清朝3000年前の遺物と呼んだらしい。
岩倉卿によれば華族は皇室の藩屏であり、血統を以ってお仕えする。
すなわちお妃候補や伝統の保持などを役目とする階級として華族は家柄のみ。
士族には別個の爵位を設ける様にと。
蓋を開けたら五等爵だったけど。。

日本では古来、従五位下に叙せらることを叙爵といい、五位のことを別名 松爵と呼んだが、
爵位というものはなかった。

もし、士族用の爵位があったらどうなっただろうか。英国を参考にすれば

 準男爵
 騎士爵(士爵)
 勲功爵(勲爵士)

 であろうか。
840世界@名無史さん:05/01/05 02:00:48
関連スレでも書いたんですが、

次スレ設立の時は、スレタイに【爵位】【貴族】という単語がついてるとうれしいな。
841839:05/01/05 02:35:12
おっと、歴史にifは禁物だったな。
おとなしく旧藩の士族会レベルで懇談してるさ。
842世界@名無史さん:05/01/05 03:11:53
>>840

こんなスレタイで貴族や爵位以外のどんな話が出来るというのかw
843世界@名無史さん:05/01/05 13:37:57
>>842

いや、いつもブックマークにいれず検索しているからね。理屈じゃなく単純に便利かなと。
844世界@名無史さん:05/01/05 16:46:58
下のスレに纏めて書いてしまったが、
ネタ的にはこのスレの方が相応しかったかな?

【欧州の人口100万人未満の小国の歴史】
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1038230155/848-850

英国や仏伊の侯爵Marquis, Margravioは、ドイツの辺境伯Markgrafと同格であり、
ドイツの侯爵Furst (呼称ではFurstだが、正確にはReichsfurst帝国侯爵)は、
英語ではPrinceと翻訳され、しばしば公爵とも訳されるが、ドイツでは公爵どころか
辺境伯・方伯・城伯・宮中伯よりも格が下。複数の資料にそう書いてあった。
本来Furstは、伯爵以上の地位を指す言葉で、領主聖職者はFurst-XXXXといった
タイトルによって、世俗諸侯に対応する地位を示した。Reichfurst自体は、
1500頃から導入された新しい階級。

ただ、辺境伯・方伯・城伯・宮中伯の順番だとか、
選帝候と公爵とどっちが上だとかは未だ不明。

方伯は公爵と同格とかいう解説があり、一方で
城伯は他三つよりも身分が低いという解説がある。
これらを総合すると、
方伯 Landgraf > 辺境伯 Markgraf (=英仏伊の侯爵) > 宮中伯 Pfalzgraf > 城伯 Burggraf
の順か?

ネット上では公爵が上とも選帝侯が上とも書かれているが、
バイエルン公も選帝侯時代はバイエルン選帝侯と名乗っていたし、
ヘッセン=カッセル大公も選帝侯を優先して名乗っていたりするところを見ると、
選帝侯 > 大公 > 公爵 > 辺境伯など > (帝国)侯爵 > (無冠の)伯爵の順と思うのだが?

845世界@名無史さん:05/01/05 20:53:14
ユンカーすれで無視されたので、こちらでお尋ねします。

神聖ローマ帝国時代には、「フォン」の称号だけで爵位の無い貴族を「帝国騎士(ライヒスリッター)」と呼んでいましたが、神聖ローマ帝国滅亡後にはこの呼び方はどうなったのでしょうか?
ドイツ帝国やオーストリア帝国でも「帝国騎士」という呼び方は存続したのでしょうか?
それとも「ユンカー」と「帝国騎士」がほとんど同義語になったのでしょうか?
846世界@名無史さん:05/01/07 08:17:27
神聖ローマ帝国滅亡後っていうか、現代のドイツではフォンがつく人は異常に多い。
指揮者で有名なフォンカラヤンなどは、たんなる俗称のようだが。

英国などでは貴族は長男しか継げないから断絶すれば終わりだし
貴族同士が結婚すると爵位を兼ねる。
ノーフォーク公爵ハワード家は伯爵号をいっぱい持ってるのがその例かと。
このように他の国では貴族は減る一方なのだが
ドイツは見栄っ張りな国で男系の兄弟にすべて貴族を名乗る習慣があったため
貧乏人にフォンがいっぱふえた。むろん領地などない。

当然ながら土地にむすびつき権力をもった名族もいて、ヒトラーが政権を握った後で
貴族の処理に頭を悩ませた記録もある。
そんな場合は、貴下の家系にユダヤ人がいるようですな?と貴族に匂わせて
強制収容所いきを暗示して震え上がらせたらしい

ヒトラーにすすんで協力した大貴族もいる。
ケルンかどっかの大司教がナチス親衛隊にはいったのがその例かと。
ナチスは有力なドイツ大貴族のうち政権に協力的でない家をいずれ処理するつもりだった
といわれる。
847世界@名無史さん:05/01/07 22:15:43
>英国などでは貴族は長男しか継げないから断絶すれば終わりだし
>貴族同士が結婚すると爵位を兼ねる。
これだと貴族は男同士で結婚するかのように読める
848世界@名無史さん:05/01/08 08:21:28
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849世界@名無史さん:05/01/08 08:28:54
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                  ツツツーツツツーツツツーツ
850世界@名無史さん:05/01/09 20:27:10
845さん、
 サンダル貴族について、
 ご参考までに、

>ハンガリーについてV

>912 :世界@名無史さん :05/01/04 22:26:58
>>911
>勇爵 Vitez という称号は戦間期にホルティ反革命政権が
>サンダル貴族のために作った称号で、オーストリアのEdler von
>みたいなもの。そんなのは掃いて捨てるほどいた。

851世界@名無史さん:05/01/10 18:35:37
844

爵位にも、息子のうち一人だけが継ぐのと、そうでないのがあるように思いますが。
前者は、たとえば、ボヘミア王とか、選帝侯とか、宮中伯とか、偏狭伯とか、
なんとなく、帝国官職の色彩が強いもののように思いますがいかがですか。。
一方、846のいうように、息子がみんな名乗れるのもあるようです

ただ、帝国官職としての爵位しか持たない場合、次男三男は無爵となるかというと
そうでもないようで、
本人が、王や、大公、公クラスなら、Furstとか、もっと下位なら、VONだけ貰っとくとか、
そんな感じを受けていますが、どうでしょうか。
852世界@名無史さん:05/01/10 18:51:52
ボヘミア王の話題です。
 (1)ヴラディスラフ2世 Vladislav II
  1140-1158 ボヘミア公
   1158-1172 ボヘミア王

    どうして、公から王になったですか。誰が授与したですか。
    もともと、公だったんですよね。

  (2)もともとの公位(Herzog?かなぁ)は、どうして貰ったんですか。誰から貰ったんですか。
    東フランクの部族大公とは、格上ですか、または、おんなじようなもんですか。
 
853世界@名無史さん:05/01/10 20:33:04
イギリスは島国で土地も限られてるので貴族をふやすわけにいかない事情があった。
百年戦争で大陸に伸びようとしたんだが失敗した。
たしか勝ち戦のときはヘンリー5世の貴族が、土地収入が10倍だか100倍になったといってたな。
しかしフランスは失われ、またのもとの100分の一に戻った。
狭いだけでなく土地が痩せてるからねブリテンは。
これは島国日本も同じで、主流以外の皇族は1代で庶民に戻るような仕組みが昔からあった。

大陸は土地が一杯あって、むしろ人が少ないぐらいだから貴族を増やせる事情があったのだろう。
いまのように国境がはっきり決まってるわけでもない時代なら尚更
ロシアなど公爵がやたら多かったね。
854カラジチ ◆mWYugocC.c :05/01/11 10:38:13
>>852
ボヘミアはプシェミスル家が11世紀頃にドイツ王の封臣として大公位を授けられるようになった。
時期が違うとはいえ、東フランクの部族大公の延長線上にあると思う。
1158年にヴラディスラフ2世が獲得した王位は、皇帝フリードリヒ1世のイタリア政策を支持した見返りとして、皇帝から与えられた。
ただしこれは一代限りの王位で、ヴラディスラフの死後は大公に逆戻り。
永続的な王国になるのは1212年の「シチリアの金印勅書」によるもの。
これは大公プシェミスル・オタカル1世がヴェルフェンとシュタウフェンの争いでシュタウフェンに味方したことへの見返り。
855世界@名無史さん:05/01/11 18:56:37
>>851
上級貴族(様々な称号を名乗るので、大公で便宜的に統一している論文もあります)
への譲歩として誕生した帝国諸侯の特性について考えてみると、謎は解けると思いますよ。
乱暴な言い方をすればカロリング朝崩壊後の選帝侯とか、宮中伯とか、辺境伯といった
爵位は箔付けの為に古文書漁って名乗った物と思って良い訳で。
856世界@名無史さん:05/01/16 17:42:55
>>850
ここしか聞くとこないので。

ハンガリーの貴族は爵位あり、爵位なし含めて結構いたんだとはわかりました。
ハンガリーの貴族の制度はどうなっていたんでしょ。
 神聖ローマ皇帝から貰った貴族の位や、ハンガリー王から貰った貴族の位、
 オーストリア帝国から貰った貴族の位、ハンガリー王から貰った貴族の位、
 そして、WW1後の「王なきハンガリー王国」から貰った貴族の位があるのか、
 と思いますが、どんな風になっていたんでしょう。
 大英帝国では、Englamnd爵位、Scotland爵位、Ireland爵位、Great Britain爵位が
 あったようで、その序列もややこしいようですが、
 ハンガリーはどうであったんでしょうか。
 
857日本の貴族の筆頭の皇室について:05/01/17 01:57:23
日本では、家督相続では、長子相続となっていて、
有爵貴族(つまり華族)でも、当主のみが爵位を名乗り、
その死後は、長子のみが名乗ることになっていました。
ただ、さすがに、さすがに、
皇室では、次男三男も、その子孫も、称号なしというわけにはいかず、
しっかり皇族でいる限り、親王(あるいは王)を称するようになってた。
ただ、いつまでも称号があるわけではなく、代を何代か経ると親王(内親王)が王(女王)に格下げになり、
そして、ついには、皇族から離脱しなければならず、
離脱すると、なんにも称号がなくなることになっていた。
つまり、称号がなくなる=皇籍離脱である。
これはずいぶん昔に決まっていたことを(天武時代)、
そのまま、明治の皇室典範でも踏襲した?というわけである。
以上は、あっていますでしょうか。
858世界@名無史さん:05/01/17 02:04:51
Prince と Dukeの違いの参考になる?かと思って、コピーします。

フランスでは、
Foreign Princes
By the same logic, the rank of prince was allowed to certain foreigners,
scions of foreign ruling houses, who settled in France and were admitted
by the French king to his court.
Examples of the latter include the prince of Orange and
the prince of Monaco (whose sovereignties were both recognized in the 15th c.),
as well as members of the house of Lorraine (the Guise).
After the mid-16th century, the concept of "foreign ruling house" was
stretched to include French families with claims on foreign sovereignties,
however doubtful the claim.
Thus, the La Tour d'Auvergne (as sovereign dukes of Bouillon) Likewise,
the Rohan family claimed to descend from the sovereign dukes of Brittany,
and its members were given ranks as foreign princes in the 16th c.
In the late 18th and early 19th c.,
some foreign titles of prince of the Holy German Empire or
the Papacy were recognized in France (Broglie, Polignac),
even though they did not correspond to actual sovereignty
(in the case of the German titles, they did not carry membership
in the Imperial Diet; in any event the French chancery did not
treat as sovereign any German prince except the electors and
a handful of others).

でも、よくわかりません。どなたか訳せません?
859世界@名無史さん:05/01/17 04:44:03
フランスに住んでて宮廷に加えられた、他国人(他国のprince)と他国を統治する家の人間が、foreign princeってことだろ

で、既に統治する国が無くなったりした家でも16世紀後半以降は統治家と見なされた。
いくつかの神聖ローマ帝国と教皇領のprince位もフランスでprinceとされた。
(しかしドイツのprince位の場合、帝国議会のメンバーは継いでおらず、フランスの大法官?は選帝侯と他の極一部を除いて、ドイツの領邦を統治するprinceを扱うことはなかった(?))
860世界@名無史さん:05/01/17 07:54:38
>>857
だいぶ違うような。

(親王の要件について)

1.天武朝のころ,天皇との親族関係(兄弟及び子供)を親王の要件とする原則を定めた。
→親族関係の要件を満たせば,当然に親王となり,逆もまたしかり。

2.淳仁天皇が,王でありながら天皇になっため,それまで王であった者が親王の要件を満たす事態が生じた。
→親王宣下により,非親王を親王とすることが行われる。

3.嵯峨天皇が,自分の皇子の一部を臣籍に落とした(賜姓源氏)。
→親族関係の要件を満たしているのに,親王となれない場合が生じる。

4.平安期以降,天皇の皇子であっても,親王宣下がなければ親王になれなくなる(ex.以仁王)。
→逆に,親王宣下があれば,親族関係の要件に関係なく親王になれる(宮家の成立)。

5.明治の皇室典範で,天武朝の原則に近い形に戻る(但し,親族関係の要件が,天皇から四世までと広がる)。

6.戦後の皇室典範では,天皇から二世までと,親族関係の要件が厳しくなる。

(王の要件および皇籍離脱について)

1.天武朝の原則では,天皇の玄孫の子(五世王)より後は,「王」と名乗って良いが「皇親」ではない。

2.明治の皇室典範では,五世以下は,すべて王であり,皇族である。

3.現在の皇室典範では,三世以下は,すべて王であり,皇族である。

4.したがって,代数を経ることによっては,当然に「皇籍離脱」は生じない。

861世界@名無史さん:05/01/17 08:20:44
>>858

本来は,他国を統治する家の外国人子弟をForeign Princesと言ったが,

16世紀中葉以降,フランス人でも,他国を統治している家柄だと主張すれば,
どんなに疑わしい主張であっても,Foreign Princesとされた。

18世紀後半から,いくつかの神聖ローマ帝国のprinceや教会の称号が,
その土地を実際に統治していなくても,フランスのprinceとして認められた。

実際,神聖ローマのprinceに関して言えば,彼らは帝国議会の議席を有していなかった。
フランスの国璽詔書も,神聖ローマのprinceを君主(sovereign)として扱わなかった(選帝侯等の例外あり)。

862世界@名無史さん:05/01/17 14:10:14
今風に言えばロシアは公爵が一杯いるということになるが、彼らは
王に等しい大領主であった。
ロシアでは各地に大貴族がいて、いわばその貴族会の承認のもとに
皇帝を決める気風もあった。
名門シュイスキー公などが有名だが、公爵というより王というのが
妥当ではないか。
863世界@名無史さん:05/01/17 22:53:35 0
>>862
ロシアの公の中には、リューリク朝崩壊後の大動乱時代に
僭称者から公の爵位を貰って、ロマノフ朝成立時になし崩し的に
公認された香具師も結構いる。トルベツコイ公あたりはかなり有名。
864世界@名無史さん:05/01/17 23:10:33 0
基本的にロシアの古い大貴族はモンゴル帝国よりの考えで
官僚である新興貴族はそうではなかった。
というのはシュイスキー公など古いモンゴル時代からの大貴族は
名前を見ればすぐわかり、子孫は永遠に特権を持つ法があった。
血を尊ぶのはモンゴル貴族の特徴。
明の時代でも、ジンギス汗の子孫は名目上の汗であり、それ以外の人物
はいかに権力があっても汗になれなかった。

独裁者イワン雷帝は、これら大貴族の権利を取り上げ官僚である
新興貴族をどしどし任命して、百姓くさい、あるいは商人くさい名前の
貴族を大量に作った。これを嫌ったのが古いロシア貴族。
ロシア近代化につれドイツ化がすすみ意味合い的にはドイツ風の貴族
になっていった。
だから同じ欧州といってもロシアやフランス、ドイツ、イタリアなど
で公爵の成り立ちや意味がかなり違う。
865世界@名無史さん:05/01/17 23:46:21 0
イギリスの有爵者の長男以外の男子はロード(卿)と言う称号だけもらえるらしいけど、
女子は何かしらの称号をもらえるのか?
866世界@名無史さん:05/01/18 00:23:45 0
>>865
結婚相手のクラスによります。
つまり、結婚相手の階級と父親の階級の比較によって決定されるもので
例えばA伯爵の娘がB勲爵士と結婚した場合、Aの方がBよりも上席権を有しているので
娘さんはレディ・A・Bという称号を名乗る事になります。
しかしBが何らかの功績によって貴族(爵位ではなく、貴族と言うクラス)に叙せられると
娘さんはレディ・Bと名乗るようになります。
867世界@名無史さん:05/01/18 07:54:37 0
>>866
レディは卿と訳するのが正しいの?
それとも夫人?
868世界@名無史さん:05/01/18 11:42:36 0
日本風にいえばお嬢様だろう。
869世界@名無史さん:05/01/18 17:24:34 0
>>867
夫人とか〜家令嬢とかが適当なんではないでしょうか?
ただ重要なのはこのレディがジェントルマンに対しての物ではなくて(紳士淑女)
ロードに対してのレディだという事です。
なので貴婦人という訳もありますが・・・使い難いんですよね。(苦笑)
870世界@名無史さん:05/01/18 18:16:43 0
中国の用例だと一般的には夫の官位に付随して○○夫人(国夫人、郡夫人等)の称号を
得るにしても、楊貴妃のとか則天武后の親族は本人の資格で国夫人になっているから、
夫人でもいいような気がしないでもないです。
別に魯国公の妻だから魯国夫人と言うわけでもないようです。
871世界@名無史さん:05/01/18 21:17:42 0
未婚なのに伯爵夫人というのもおかしなもんだ。
この奇妙な訳は日本だけだろう。
すなおにカタカナでレディでいいのに漢字にするから・・・
たまに女伯爵とか訳す人もいるが、未婚ならこっちのほうがましだろう。
872世界@名無史さん:05/01/18 21:45:18 0
女男爵

夫の身分が自動的に妻の身分を決定するような制度は本邦ではあまり聞かないね。
873世界@名無史さん:05/01/18 22:04:43 0
紫式部(これは父だけど)とかの例もあるから,

エリザベス伯爵とか。
874世界@名無史さん:05/01/19 00:03:41 0
ノーサンバランド伯爵といえば、王位につこうとして反乱を
おこした北部の大貴族で、なかでもヘンリー・パーシー
(ホットスパー)は英傑として歴史上名高い。

その名門ノーサンバランド伯爵も、はるか後代には
女1人しか生まれず断絶の危機になったこともあった。
いわゆる女伯爵。
もちろん他の貴族と結婚するとパーシー家も爵位も絶える。

スミソン氏を婿をむかえパーシー姓に変えさせ再起を図ったが
そのスミソンはなかなかのやり手で、ノーサンバランド伯爵を存続
させただけでなく王室に運動して初代ノーサンバランド公爵に
クラスチェンジ成功した。

しかしイギリス貴族にとって、結婚しても子供ができない
あるいは娘1人しかできないと相続上、ピンチだ。
歴史に残るような名前を数世紀にわたり保存するには
ちょっとシステムに欠陥があるのかもしれない。

徳川将軍や大名は分家をいくつか作って血筋をプールしたが
ヨーロッパの貴族はあまりそういうの聞かないね。
875世界@名無史さん:05/01/19 00:27:12 0
>>874
イギリスの貴族って長子単独相続なので、分家が腐るほど発生しますが。
というか年子だったりすると、やっぱり納得いかないみたいで
財産争いで骨肉なんてのも珍しくないようで。
(親族争いの果てに家産の多くを失った貴族もあるみたいです、でも爵位は存続してますが)
直系子孫が絶えても、紋章院がどこまでも父系親族を辿っていくから
よっぽどの事が無い限りお家断絶なんて事はない・・・と思ってたんですが。
876世界@名無史さん:05/01/19 23:09:18 0
清の宗室の爵の入八部公と不入八部公ってなにが違うのでしょう?
上下関係なのはわかりますが、なにが入八部でなにが不入八部なわけでしょう?
入八部公は八つの特権をもつとかは書いてありますけど、それが八部なんでしょうか?
877世界@名無史さん:05/01/19 23:36:42 0
>>867-869
レディの訳は「姫」だと思う。
江戸時代の日本では未婚、既婚を問わず大名の娘は「姫」と呼ばれていたし、
シャーロック・ホームズシリーズの短編「レディー・フランシスの失跡
(The Disappearance of Lady Frances Carfax)」の別訳は「フランシス・
カーファックス姫の失踪」だから。
878世界@名無史さん:05/01/19 23:39:39 0
古代の「比売」だとニュアンスが一層近付きそう。
879世界@名無史さん:05/01/20 00:00:26 0
ブロワ姫フランソワーズ・マリー
880世界@名無史さん:05/01/22 15:09:59 0
百年戦争とあとにつづく薔薇戦争、ヨーク家の滅亡で
ほんとうのイギリス貴族はほとんど絶えてしまい
後は平民の成り上がりや外国人の詐欺師みたいのが増えた。

クロムウェルの議会軍が、城にこもる王党派に手を焼き
多くの城を破壊して廃棄したので空家がふえた。

金持ちの商人が、何代もつづくうちに爵位をもらって
貴族になるとき、この廃棄された城を買い取って
ついでに昔の城主の姓を名乗ったりした。
まるでアニメのコスプレのようだが、けっこう多い話。

ところが爵位をついだ息子は、結婚もせず独身でおわり
先祖が代々かけて築いた家は断絶・・・
という悲惨な例はじっさいあったようです。
881世界@名無史さん:05/01/22 15:50:32 0
>>866

結婚したあとの称号のことは、そういうことなんですね。
未婚の場合、また、結婚後離婚した場合は、どういう風になるのですか。
882世界@名無史さん:05/01/22 15:55:28 0
>>866さん
>つまり、結婚相手の階級と父親の階級の比較によって決定されるもので
>例えばA伯爵の娘がB勲爵士と結婚した場合、Aの方がBよりも上席権を有しているので
>娘さんはレディ・A・Bという称号を名乗る事になります。
>しかしBが何らかの功績によって貴族(爵位ではなく、貴族と言うクラス)に叙せられると
>娘さんはレディ・Bと名乗るようになります。

  父親の称号(爵位)は、世襲称号で、
  配偶者の称号は、一代称号で記載していますね。
   配偶者の称号の場合は、世襲称号でも一代称号でも、夫人の称号に影響するけど、
   父の称号は、世襲称号でないと駄目、という意味ですか。
   少し細かいけど、聞きますのでよろしくお願いします。
883世界@名無史さん:05/01/22 16:18:01 0
>大英帝国では、England爵位、Scotland爵位、Ireland爵位、Great Britain爵位が

 さらに、United Kindom爵位がありますが。

ここでクエスションなのですが、
準男爵にも、このような区別はあるのですか。
884世界@名無史さん:05/01/22 16:18:55 0
>>880
断絶と言えば、名家の一人娘が嫁いでの家名断絶を避ける為の
欧州で度々見られる「複合姓」は、どの代まで有功なんでしょうか?
複合姓の息子がまたどこかの名家の一人娘と結婚して、それが
後の代でも続いたら無限に姓が長くなってしまいますよね・・・
885883:05/01/22 16:40:03 0
この問題の正解者には、ひとし君人形を2つ差し上げます。
では回答をどうぞ
886世界@名無史さん:05/01/22 20:03:29 0
>>881

  結婚しても離婚するし、その後独身だ。
  結婚して離婚して、また結婚した場合もある。
  結婚しても、死別して未亡人の状態があるし。
  未亡人だったのがまた結婚したりする。

 昔から政略結婚で、再婚はいっぱいしていたと思う。
 だから、ルールがないと、呼び方は難しい。
887世界@名無史さん:05/01/22 20:31:54 0
>>860 すごい詳しいです。はじめてみました。

 ちなみに、親王も王も、英語ではPrinceですね。

 1.長子だけが名乗るのではないところが、兄弟平等で良いですね。
 特に、明治憲法下で兄弟平等がいいですね(明治の皇室典範は、明治憲法の下ではないですけど)。

 2.内親王と女王は、結婚すると、配偶者の身分になってしまうのですよね。
 相手が親王なら、そのまま親王妃。王なら王妃。ですか。(王妃はちょっと変?)。
 相手が、侯爵なら侯爵夫人(ただし、戦前の話)、それ以外ならただの人ですね。
888866:05/01/22 20:41:49 0
>>881
・未婚の場合
当然、父親の爵位をそのまま名乗ります。A伯爵の娘だったら
レディ・Aという感じです。
・配偶者と死別した場合
再婚するまでは結婚時に名乗っていた称号をそのまま使います。
再婚すると、当然その再婚相手と父親との関係で再決定されます。
・離婚した場合
正直、これは不勉強に付き分かりません。盲点でした。
ヘンリ6世まではカトリックだったので、離婚は原則禁止でしたし
それ以降も、別居とか妻を軟禁する貴族は少なからずいましたが
離婚というケースは資料が手元にないので、正確にお答えできません。
申し訳ないです。
ただ王族の離婚のケースの場合は、離婚した後の妻の処遇を取り決める
条件交渉の中で、称号はかなり重要視されていた事は確かです。
>>882
基本的な適用条件はロードと同じです。つまりこれらの称号は名乗る人達が
貴族というクラスに属している事を示しているわけですから
一代貴族の子弟は名乗りません。
ただ社交界に出られるクラスである事は多いわけですから
区別せずにレディと呼びかけられることはあるみたいです。
ただこちらのレディは866で述べた通り、紳士に対する女性形なので
称号ではないわけです。
889世界@名無史さん:05/01/22 20:51:38 0
865+866でのやり取りでの例に近いものとして、
 下記のサッチャー女史はどうでしょうか。
 彼女の男爵位は、父のものではなく、自ら獲得した点で少し違いますが、
 夫の配偶者として(準男爵家の当主の配偶者として)の立場と、
 自己に帰属するタイトル(男爵家の当主みずからとして)の立場とが錯綜しています。


☆マーガレット・サッチャーは、男爵位を持っています(自らの功績)。
  ・・・・・1992年に一代貴族(Baroness Thatcher of Kesteven)
☆彼女の配偶者のデニス・サッチャーは、準男爵を持っています
 (父からの襲爵ではないと記憶しますが、誰の功績か知りません)
890世界@名無史さん:05/01/22 21:03:24 0
>ただ王族の離婚のケースの場合は、離婚した後の妻の処遇を取り決める
>条件交渉の中で、称号はかなり重要視されていた事は確かです。

博識ですね、脱帽です。今後ともよろしくお願いします。
実は、上記のくだりなのですが、
 ここでおっしゃる例は、
王・女王という特別の王族ではなく、一般の王族の例だと思います。
 特別の王族といえば、まずは、王様、女王様ですが、
この例で離婚の例はないと思います。
ヘンリー8世の場合、結婚は無効であったとしたわけですから、離婚ではないですね。
とすると王位継承権者にまで広げるとどうでしょう。私はチャールズ現皇太子しか思い浮かびません。
 イギリスでは、ウエールズ公妃という称号は聞きますが、
これとは別に「皇太子妃の称号」があるんでしょうか。

 ダイアナさんの場合は、「Princes OF Wales」を離婚後も、
 名乗らせることになったわけですから、大変なことだったと思います。
 チャールズが結婚したら、、「Princes OF Wales」が二人になってしまう
 かもしれなかったんですから。
 それとも、チャールズの新しい細君は、
 「Princes OF Wales」を名乗ってはいけなかったのかもしれません。
 ここは、ダイアナさんはやりすぎだったと思います。
 英王室には耐え難いでしょうから。 陰謀説の出るのも、ここかもしれません。
891世界@名無史さん:05/01/22 21:31:08 0
730 :世界@名無史さん :04/08/14 17:10
>>729
>ハプスブルク家の「女帝」マリア・テレジアでトスカーナ大公から
>神聖ローマ皇帝となった元ロートリンゲン公フランツ・シュテファン、
>その7世代前のロートリンゲン公アントンの弟で
>8世代前のロートリンゲン公ルネ2世の次男がギーズ公クロード、
>その娘がメアリー・ド・ギーズ。

  ギーズ家の出自はどこでしょうか。
  ひょっとして、マリアレレジアの旦那は、フランス人だったのでしょうか。
  王侯の間ではフランス人もドイツ人(おっと、ドイツ人はまだいないかな)も
  ないかもしれませんが。

892永遠の青 ◆pkFA3D428. :05/01/22 21:56:28 0
>>891
ギーズ家はロレーヌ家の分家です。
893素人ですが、顔出しました。:05/01/22 22:04:17 0
tp://nekhet.ddo.jp/people/ という、著名なサイトを見ると、

 ヴィッテルスバハ家(長子相続確立以前)

 ヴィッテルスバハ家(長子相続確立以後)

となってます。
この家以外は、こういう区別はなかったんですか。
たまたま、この家の分が長くなったので、こう区分しただけで、
他のドイツの諸家もこうなんでしょうか。

また、そもそも、ここでいう長子相続、これはどういう意味でしょうか。
「長子相続確立前」は、
@領土に関していうと、領土は分割相続するとこう意味ですか。
A称号に関していうと、
  次男以下も領土がなくても、父とまったく同じ称号を名乗ったということですか。
   (みんなバイエルン公を名乗るという風に)
  父と同じ称号といっても、格において同じということですか。
   (”上バイエルン「公」”、”下バイエルン「公」”という風に、
    その後は、たとえば、上バイエルン家では、
    子供たちみんな領土が無くても、”上バイエルン公”になるというふうに)
B長男でなくて、次男が次ぐこともあったという意味ですか。
 あるいは、分家本家の別があったということですか。
894タイトル:永遠の青さん、ありがとう。:05/01/22 22:13:36 0
>ギーズ家はロレーヌ家の分家です。
 
ロートリンゲン公ルネ2世の次男から始まるからですか。
本家はロレーヌ公爵(ヘルツオーク? デユク?ですよね?)
ですが、クロードは、ギーズ公位を貰ったんでしょうか(ギーズってどこ?)。
それとも、
ドイツ流に、次男三男もヘルツオーク(デユク)を名乗る慣わしがあって、
彼の系統は、代々、デュクだったんでしょうか。


 

895866:05/01/22 22:31:51 0
>>893
長子相続か否かというのは、血族共同体制度と密接な関係を持っています。
古代ゲルマンの部族制などに端を発する制度なんですが、ようは土地や地位を
一族共同の財産と見做すわけです。
ドイツ以外にも、例えば南フランスなどの貧乏騎士では一族でひとつの城を
共有していたりしていたようです。
で、長子相続制度というのは長男(には限らないわけですが)は直接の主君と
主従関係を設定し、他の一族は長男と主従関係を結んだ上で、一族の領土の
一部を統治するようになっていきます。
これは時代を経るごとに、分家の統治権が一代限りになり、最後には分家が
直接統治しないようになっていきます。(地域差が大きいので一概には言えません)
896世界@名無史さん:05/01/23 05:39:48 0
>>894
>ギーズってどこ?

北緯49度54分 東経3度38分
897世界@名無史さん:05/01/23 06:04:44 0
初代ギーズ公爵クロード

ロレーヌ公爵ルネ2世の次男。
ギーズ伯爵、オマール伯爵、ジョアンヴィル男爵、マイエンヌ領主、エルブーフ領主の称号と領地を
父から与えられ、フランス王に仕えるようになる。
マリニャーノの戦功によりフランソワ1世によってギーズ伯爵は公爵に叙される。
898866:05/01/23 14:08:27 0
>>890
一応、crown prince/princessという単語があります。>皇太子
また王族の妻、いわゆる妃殿下に対してはHer Royal Highnessという
称号が与えられますが、ダイアナさんは離婚に際して、この称号を剥奪されて
いたと思います。
ただPrincess of Walesの称号は維持されていたので、文字通り灰色の決着と
言えるかも知れません。
899世界@名無史さん:05/01/23 15:11:22 0
プランタジネット朝の終わり、ランカスター家のヘンリーの妃キャサリン
がウェールズ人の衣装係オーウェン・テューダーの子を産み
リッチモンド伯爵エドマンド・テューダーとなった。

その子リッチモンド伯ヘンリー・テューダーがヨーク家をたおして
英国王ヘンリー7世を名乗りテューダー朝をひらいた。

キャサリンはフランス王女。つまり外国人の私生児が王位についたことになる。

これを現代に例えるとダイアナがエジプト人の夫と私生児をうんで、その子が
いまのウィンザー朝をたおしてスペンサー朝をひらく。
・・・ということも有り得ない話ではない。じっさい先例があるのだし。
エリザベス女王には身の毛のよだつ話でしょう。

まあヘンリー7世は女伯爵マーガレット・ボーフォートの息子だから
ランカスター公爵ジョンの子孫ではあるので、プランタジネット家
の血がまったくはいってない赤の他人ではありませんけど。
900世界@名無史さん:05/01/23 15:19:33 0
>>899
そのオーウェン・テューダーってウェールズの王とか貴族の血を引いていないんですか?
901世界@名無史さん:05/01/23 18:15:25 0
902世界@名無史さん:05/01/23 18:15:42 0
>プランタジネット朝の終わり、ランカスター家のヘンリーの妃キャサリン
>がウェールズ人の衣装係オーウェン・テューダーの子を産み
>リッチモンド伯爵エドマンド・テューダーとなった。

 これは、通説なの、当時言われた俗説なの?
 キャサリンが、ランカスター家の娘ならともかく、ランすかスター家の嫁なら、
 ぜんぜん、イギリス王家の血が繋がっていないことになる。

 キャサリンの中に、イギリス・プランタジネットの血は入っていないの。
903世界@名無史さん:05/01/23 18:31:08 0
ヘンリーZはキャサリンの息子でなく孫だ。
母親はボーフォート女伯爵、この家は妾腹ながらランカスターの一族。

それとヘンリーZのイギリス上陸を支援したのはフランス王家で彼らの都合では
フランスの血が入ってれば誰だって構うことじゃない。
指揮はフランス人で、その軍隊はドイツ傭兵。まさに外国人による侵略だよ。
904世界@名無史さん:05/01/23 18:40:33 0
>>902
公然の事実。
そもそも父親の身分の高くないエドモンド・テューダーが
リッチモンド伯になれたのはヘンリー6世の異母弟だったから。

でもリッチモンド伯ヘンリー・テューダーの王位継承の直接的な権威付けになったのは
母のマーガレット・ボーフォートを通じてランカスター家と繋がっていることと
妻がヨーク家のエドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークだということで
ランカスター家とヨーク家を結びつけたことにある…と普通の本にはそう書いてある。
905初代ギーズ公爵クロード のこと。:05/01/23 18:44:00 0
>ロレーヌ公爵ルネ2世の次男。
「ギーズ伯爵オマール伯爵ジョアンヴィル男爵マイエンヌ領主エルブーフ領主
の称号と領地を
父であるロレーヌ公爵から与えられた。」
とのことですが、

  これらは父が有していた領地を分割相続により、彼が得たということでしょうか。
  つまり、当時のフランスでは領地の分割相続があり、
  分割相続すると、その領地の付随していた称号も相続者が引き継いだと。
   (別の言い方をすると、父自身は、
     ギーズ伯爵、オマール伯爵以下の爵位を有していたということですか)
906世界@名無史さん:05/01/23 19:08:38 0
たとえば日本の天皇の妃が、夫が死別した後に中国人と結婚して
その息子が中国軍の支援で攻めてきて現天皇を攻め殺し
天皇を自称するようなもんで、日本の考えでは常識外だろうね。

でもヨーロッパではわりとあったこと。
それに、テューダー朝は歴史の教科書ではうまく美化(捏造)されてるほう。

これを恥と言い切るイギリス人もいるがね。盗賊の子孫だと。
907世界@名無史さん:05/01/23 19:13:00 0
>>901
有難うございます。試みに冒頭を訳してみると、

Owain ap Maredudd ap Tudur はヘンリー7世の父方の祖父であり、
ウェールズの旧い家系の出身である。彼の家系は伝説の Calchfynedd
の諸王の直系子孫であり、the Princes of Deheubarth (South-West Wales)
の親戚でもある。また、アングルシーの領主であり、イングランド王の下で
数々の重職に就いていた・・・

つまり、歴としたウェールズの貴族であったということですね。
908世界@名無史さん:05/01/23 19:16:22 0
ひらたくいえばイングランド国王のウェールズ侵略に迎合して勢力をのばした家。
裏切り者だね。
909世界@名無史さん:05/01/23 19:27:15 0
>>906
まあ、古代天皇制が確立する以前の7世紀以前なら、そうともいえんぞ。
あのあたりは、蘇我氏大王説とか天智・天武非兄弟説とかあるからな。
910世界@名無史さん:05/01/23 19:28:20 0
ボーフォート家は確かにランカスター家の血筋ではあるけど、
本来継承権を否定された家系で、王位継承の根拠は怪しげだった
とか読んだことありますが、本当でしょうか?
911世界@名無史さん:05/01/23 19:34:08 0
>>905
Larousse百科事典ではこうなってる。

René II (1451-1508)
comte de Vaudémont et baron de Joinville (1470);
duc de Lorraine (1473) et de Bar (1480/1485);
comte d'Aumale (1476);
comte titulaire de Guise (1504/1506);
baron d'Elbeuf et de Mayenne
912世界@名無史さん:05/01/23 19:46:33 0
徳川の最後の将軍・慶喜公は、水戸だから本来は相続を否定された家系だね。
その根拠は不明だが・・・始祖の水戸公の母親になんか問題が?

ボーフォートはランカスター公爵の妾の子だから、やっぱ論外でしょう。
歴とした正妻の子から見ればw
卑しいメイドの子みたいなあつかいでは?
サマセット公爵ではあったが。

マーガレットはランカスター公の息子、サマセット伯爵ジョン・ボーフォートの孫。
913世界@名無史さん:05/01/23 19:48:33 0
イギリス王家って外国系ばっかりの印象があるな。
デーン系、ノルマン系フランス系、スコットランド系、ドイツ(ハノーヴァー)系等々
914世界@名無史さん:05/01/23 19:56:21 0
マーガレット・ボーフォートの姉妹がスコットランドのジェイムズ一世に嫁に行き、そこで
スコットランドはテューダーと縁続きになり相続が可能となった。

というような記憶あるけど、これだとオーウェン・テューダーとは無関係だね。
915世界@名無史さん:05/01/23 20:03:42 0
>>912
水戸家は他の御三家と違い、最初から副将軍として将軍を補佐する目的
で設立された家だからです。その為、江戸にほとんど常駐でした。
だから家康死去に際しての遺産相続でも、他の二家とは差をつけられています。

>>913
むしろ西欧では土着王家の存在の方が稀です。
フランスもロマンス語圏なのに、王権はゲルマン系ですし。
916世界@名無史さん:05/01/23 20:11:41 0
>>915
「副将軍」という役職は存在しない。
江戸常駐の家格ということから、後付けでそう言われるようになっただけ。
917世界@名無史さん:05/01/23 20:17:14 0
でもまぁ大筋は>>915で良いと思われ。
ようは最初から将軍跡目候補のお家柄じゃなかったって事だな。
あとは日本史板に池。
918世界@名無史さん:05/01/23 20:20:55 0
本来の御三家とは将軍家・尾張・紀伊の三家だとも。
そう将軍に言ったのは確か尾張の初代か2代目。
そんなことを言うから警戒されて紀伊に将軍職をさらわれ、
挙句の果ては本家分家共々最終的には水戸にのっとられた。
919世界@名無史さん:05/01/23 20:39:50 0
慶喜は一橋家から将軍になりましたがなにか?
920世界@名無史さん:05/01/23 20:47:11 0
水戸家じゃ将軍は継げないから、御三卿に養子に行ったんだよ。
御三卿は別家というよりは、将軍家の部屋住みのようなスタンス。
921世界@名無史さん:05/01/23 21:06:17 0
ヘンリーZの王位相続は、あまりに胡散臭いので、記録は全て捏造で
完全な偽者ではないかと考えたこともあります。
当時、イギリスで重税で農民が反乱をおこし偽の王子を名乗って
(だいたい廃された前の王の隠し子とか)ロンドンに進撃すること
もまれではありませんでした。
922世界@名無史さん:05/01/23 21:40:00 0
そういえば「王子と乞食」なんてお話もあったけど、ヘンリー8世の息子だよね。
923永遠の青 ◆pkFA3D428. :05/01/23 21:55:12 0
>>921
ロシアほどひどくは無いと思います。
924世界@名無史さん:05/01/24 00:00:08 0
英国王室の歴史は漫画ベルセルクもびっくりの陰謀、悪魔、聖騎士が入り乱れた一大絵巻。
925世界@名無史さん:05/01/24 03:48:27 0
>>915
言語はそうだけど、民族(?)的にはガリア、ローマ、ゲルマンの混血じゃないの?
まぁ大意は同意。
イタリア王家もフランス系だし(それ以前の諸邦もハプスブルクとブルボンだし)
19世紀以後のバルカン諸国は殆どドイツ系だし。
欧州じゃないがナセルに追放されたエジプト王家ってアルバニア人なんだよな
926世界@名無史さん:05/01/24 06:10:53 0
>>924
王室なんてどこの国も似たようなもんだろ。
日本も含めてナ    

                     っとマジレス
927866:05/01/24 17:08:16 0
>>889
つまり女性が夫よりも上席の爵位を手にしていた場合という事ですね。
不勉強に付き、サッチャー夫妻(という使い方をして良いのかどうか)
の具体的な社交界での名乗りを見た事がないので断定は出来ませんが
エリザベス2世とエディンバラ公の関係を考えるとある程度の予想は付きます。
当初、『私と私の夫』で始まる事が常だった女王の挨拶は格好のジョークのネタになり
現在では『私とエディンバラ公』というようになっている事から考えて
夫婦双方が爵位(クラスが同じ)を持っている場合は、双方共に尊重するというのが
社交界での流行(?)なのではないかと思われます。
勿論、そういう名乗りを挙げたからといってサッチャー女史が夫君の称号を
否定したわけではないのですが。
928世界@名無史さん:05/01/24 18:18:53 0
>>926
日本の場合、江戸時代の藩主の血筋なんて地元民とはほぼ完全に無関係だしね。
それどころか、その家の血筋とはほとんど関係がない人が養子になって藩主に
なったりするけど、この点が血筋最重視なヨーロッパ王家とは違うところ?
929世界@名無史さん:05/01/24 18:58:44 0
>>887
板違いで気が引けるが,2につき,明治以前はそうとも言えない気がする。

確かに内親王は降嫁すると,「ただ人にならせ給(源氏・蜻蛉)」のだけど,

例えば,師輔に降嫁した雅子内親王の薨去の記事には,
「奏雅子内親王薨状」(村上天皇御記・天暦8・9・4)とある。

あるいは,和宮親子内親王の戒名は
「静寛院殿二品親王好譽和順貞恭大姉」だそうだ。

また,「宮」という敬称も失わない。
もっとも,「宮」は,「源氏の宮」とかいう言い方もあるから,あまり関係ないかもしれないが。
930世界@名無史さん:05/01/25 01:14:06 0
イギリス人は自分の王様が敵国人でも我慢できるけど
日本人は天皇陛下が中国人とかアメリカ人だとがまんできそうにないな。
まあ中国人もダメだろうな。

ヨーロッパ人は王様に対して、クールなんだよなw
931世界@名無史さん:05/01/25 01:16:18 0
天皇は百済人ですが何か?
932世界@名無史さん:05/01/25 01:19:56 0
>>930
中国人は過去にモンゴル人や女真人の皇帝を戴いた経験があるので、ノープロブレムです。
933世界@名無史さん:05/01/25 01:26:47 0
マッカーサーが天皇の上に君臨してたんだからアメリカ人で何の問題もない。
934世界@名無史さん:05/01/25 01:40:57 0
>>933
コテの誰だかがバースを関西の天皇にして、長嶋茂雄を関東の天皇にすればいいとか言ってたよな。
誰だっけか。
935カラジチ ◆mWYugocC.c :05/01/25 09:57:07 0
>>925
ナショナリズムが未発達な頃の王室に民族性を云々してもしょうがないと思われ。
どうせ通婚で混血しまくってるだろうし、どこの宮廷でもラテン語やフランス語、ドイツ語あたりがもてはやされてたみたいだし。
むしろ18世紀以降のナショナリズムの高まりの中で、どうやって外来王朝がうちの王様と見なされるようになったのかが気になる。
ナポレオンの一将軍が養子になってそのまま王位につきましたって、
前近代ならアリだけどナショナリズムから見れば許されないと思う。
936世界@名無史さん:05/01/25 14:47:59 0
19世紀前半の初代ギリシア国王オットー一世は名前でわかるとおりドイツ系で
バイエルン王子、19世紀後半の革命で追放された後はデンマーク王子が国王。
19世紀後半の初代ルーマニア国王はホーエンツォレルン・ジクマリンゲン家の
カロル(カール)一世。
このあたりは国内政治の都合による妥協の産物?あるいは列強の圧力?
937世界@名無史さん:05/01/25 15:08:06 0
イギリスでは貴族が少なく、次男3男が簡単に商人に転じる
ような社会構造で、これが経済競争力につながったようだ。
貴族(政治家)と商人の垣根がない。
フランスの貴族の子弟は、商人などの他の階層の職業
を卑しむ傾向にあった。
相続の結果ドイツでは貧乏貴族がふえたんだが、それが
士族が増えることにもなり、プロイセンはうまくこの階級
を士官として利用した。
ゆらい軍隊の強い国は、少数の富豪が支配する国ではなく
貧乏な小貴族がいっぱいいる国だ。
938世界@名無史さん:05/01/26 03:28:50 0
ラプラタ(アルゼンチン)は独立する際に国王を探すために欧州に調査団を派遣したようだ。
成り手がいなかったので共和制になったが。

ブルガリアはザクセン=コーブルク=ゴータ家だな。
ドイツはWW1の時にヴュルテンベルクやヘッセンから、フィンランド王やリトアニア王やクールラント公などを出してるが…
939世界@名無史さん:05/01/26 17:19:06 0
ドイツの場合、小国が多かったおかげで単純に王家たくさんあったしね。

んで、ヴィクトリア女王のように大国の国王かつ子沢山だったりすると
ヨーロッパの王族の多くに自分の血を入れさせられるけど、配偶者として
ではなく国王として迎える場合、英国のような大国だと併合されたり
そこまではいかなくても多大な影響力持たれちゃうんじゃないかという
危機感を抱かせちゃうんで、この辺もドイツの小国なら願ったりかなったり。
940世界@名無史さん:05/01/26 18:36:03 0
国王のなり手がないといえばポーランドも、ずいぶん候補者に逃げられていたな
なったところで選挙王では有り難味がないか。
941世界@名無史さん:05/01/26 19:14:25 0
>>940
見た目は大国でも、内情は火の車だからね…。
選挙王だとしても、旨味があれば構わん。
だが、あの時代のポーランドの王になる旨味が想像できん。
942世界@名無史さん:05/01/26 19:21:31 0
>>936
ギリシアの場合、本来ならウィーン体制に違反する物として
黙殺したかったのに、世論の反発で独立を支援せざるを得なかった経緯から
何としても共和制樹立という革命的なニュアンスを消したいという
列強、特にオーストリアやロシアの思惑があったので
バイエルンという歴史だけはある王家の一族をギリシア国王に推戴させたという
理由がありました。
943世界@名無史さん:05/01/26 19:50:44 0
ポーランドの貴族が、野武士の気骨があって外国の王族には野卑にみえたらしいね。

フランク王国のうち東フランク(いまのドイツ)だけは、王に対して貴族が脅迫するような野卑
な態度だったというから、貴族の傲慢無礼・独立精神は東欧の伝統みたい。
半分は平等な精神、半分は貴族のコントロールがきかない。
ただロシアだけはモンゴルの汗が240年も貴族をおさえつけたので、だいぶちがう。
944世界@名無史さん:05/01/26 19:56:42 0
>>943
なんせ、脱税の追徴金を払うために、外国に攻め込んで詐欺師を
皇帝に擁立しようとするような奴が居るぐらいだからな。
945世界@名無史さん:05/01/26 20:21:45 0
>>942
そのギリシア王国には爵位制度はあったんでしょうか?
あった場合どんなひとがもらったんでしょう?
独立戦争の指導者クラスがそのまま君主になった国だと、部下だの協力者、
あるいは懐柔すべき政敵や地方有力者とかが爵位もらえそうですけど。
外来君主の場合はお付の外国貴族?
946世界@名無史さん:05/01/26 20:35:32 0
>>945
普通に考えたら、土着の貴族に爵位を与えるんじゃないかねえ。
947世界@名無史さん:05/01/30 15:31:44 0
イギリスでは、伯爵などの貴族がいると、その下に騎士10人、その下に郷士100人
というような社会構造だったらしいですが
郷士は代々受けついだ土地がある長男でないとなれない。

騎士は、たとえば公爵や伯爵に子供のうちから小姓として仕えて、功績をあげて
だんだん出世するような人だったらしいです。
なんとなくサラリーマン、それも中間管理職的なものを感じるのですが、彼らの出身階層は
貴族、郷士、どちらに属するのでしょうか?

それと現在、社会的に成功してる人に与えられるナイトの位は一代かぎりですが
昔からそうだったのでしょうか?
948世界@名無史さん:05/02/05 19:47:00 0
昔に、PrinceとDukeの日本語訳が同じでわかりにくいという話があったので、

  Duke(Herzhog)では、Grand−Duke(Grossherzhog)がありますけど、
  Princeの場合は、Grand−Prince はかつてあったんでしょうか、質問です。

 怪しいのは、モスクワ大公国。
       リトアニア大公国。
       ワルシャワ大公国。
       フィンランド大公国。です。それぞれ英語(ドイツ語、フランス語)で どうでしょうか。


  
949世界@名無史さん:05/02/05 19:52:38 0
>ドナウ川の上流部にあるオーストリアが上オーストリア(オーバーエースとライヒ)
>下流部にあるのが、下オーストリア(ニーダーエーストライヒ)です。
>古くは、オプ・デア・エンス、ウンター・デア・エンスとも呼ばれていましたが、
>イプス川とエンス川にはさまれた地域の扱いが異なって、名前が変わりました。
>近世以降は、オプ・デア・エンス=上オーストリア、
>ウンター・デア・エンス=下オーストリア、と理解して頂いて結構です。
>上で述べたことからわかるように、エンス川で上と下を分けます。

[イプス川とエンス川にはさまれた地域の扱いが異なって]の意味を詳しく知りたいのですが。
 どなたか、よろしくお願いします。

950世界@名無史さん:05/02/05 21:14:06 0
>>948
これらの国のタイトルは、英語でもgrand princeと呼んでいる模様。
何でもスラブ系言語における"veliky knyaz"という単語を直訳すると
grand princeになるらしい。
ただ、1533年以降のロマノフ家の「大公」に対しては、慣用的に
"grand duke"と訳すそうな。
ちなみにドイツ語ではいずれの場合もgroβf"urstと呼ばれている模様。
フランス語では分からない。

多分ドイツ語的にはgroβherzog > groβf"urstという語感があり、
英語的にはgrand prince > grand dukeという語感があるんで、
ロシア王族の大公に対しては別の訳語を使うのだろう。

結構この辺のタイトルは混乱があるようで、
例えばリトアニア大公国の君主(1379-1501)はgrand princeと英訳されるが、
公文書におけるラテン語表記だとmagnus duxまたはsummus duxで、
つまりgrand duke相当になる。
全体としてgrand duke ≒ grand princeなんだろう。
951世界@名無史さん:05/02/05 22:14:04 0
欧州内部でもいろんな混乱がありそうだから
日本語に正しく訳するってのは無理っぽいね。
952世界@名無史さん:05/02/05 22:46:43 0
まあGrand Princeなるものはロシアとその近辺でしか使われなかったから、
Grand Dukeと同じく「大公」という訳で問題ないと思う。

princeに関しては、結構混乱があるな。

ロシアやポーランドの場合:Dukeに相当するものが無く、Knyaz(Prince)は「公爵」。

ドイツの場合:F"urst(Prince)は、Herzog(Duke)「公爵」どころか
Markgraf(Margrave)「辺境伯」やLandgraf(Landgrave)「土伯」よりも下。
「侯爵」と訳した方が良い。リヒテンシュタイン公(候)がこれに相当する。

英国の場合:Prince of Wales(皇太子)のみで、明らかにDuke「公爵」よりも上」。
「公爵」か「大公」相当。

スペインの場合:Pr’incipe de Asturias(皇太子)とかPr'incipe de la Pazとか、
英国と同様非常に限られた数しかなく、あきらかにDuque (Duke)「公爵」より上。
「公爵」か「大公」相当。

イタリアの場合:どうみてもDux「公爵」やMargravio「侯爵」よりもPrincipeは下なんだが...
神聖ローマ帝国下の北イタリアはF"urstと同じ基準で設けられたし、南イタリアでは
シチリア島だけで120ものPrincipalityが存在した時期もあったらしい。
これらは慣用的に「公爵」と訳されるのか?何か「侯爵」という訳が相応しい気もする。
モナコ公(候)がこれに相当する?イタリア史に詳しい人の解説が欲しいところ...

フランスの場合:Duch’es「公爵」のみ
953世界@名無史さん:05/02/05 23:11:21 0
フランスの場合princeたちはducの称号を欲しがっていたという記述をどこかで見た記憶が。
954世界@名無史さん:05/02/06 00:31:36 0
漢文の「公侯伯子男」をひとまず無視して、現代語的に直訳(意訳?)した上で
その訳を漢文に詳しい人に検討してもらって、
改めて「公侯伯子男ほかの漢字語」を割り振ってもらうのがよいのでは?
955世界@名無史さん:05/02/06 03:53:24 0
トランシルバニアもgrand princeだね。
>>948
Grand Duchy of Warsawってのはかなり広がった間違いであるらしく、
Duchy of Warsawが正しいらしい。
956世界@名無史さん:05/02/06 19:17:48 0
http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/etc/deutschland/bayern.htm
で最後の方の系図の図をみると、アルブレヒト4世による統一前だが、
 下とか上とかなっている。
 これは、上バイエルン公、下バイエルン公だと思うが(参考は下記)。

 >>672 :659:04/06/07 21:47
 兄弟間、あるいは親子間で円満に分割協議が成立すれば
 後は皇帝による追認(一旦、返上して再び授与してもらう)という手順を
 踏むんですが、これが上手くいかないと私闘になったり、皇帝の介入を招いたりします。
 バイエルンの場合、ルートヴィヒ2世が1253年にバイエルン公位を継いでいますが
 1255年に上バイエルン公に任命しなおされています。
 対してハインリヒは1253年、または1255年に下バイエルン公になっています。
 つまり両者の間には領土的な相続争いがあったわけで、上下バイエルン両公という称号は
 一種の妥協の産物だと言えると思います。




  
957つまり、こうです。:05/02/06 19:20:02 0
ルートヴィヒ6世  オットー5世  ルートヴィヒ5世   シュテファン2世
 (上,1347-51)   (上,1347-51)   (上,1347-61)     (下ラ,1347-75,63-上)
          (下ラ,1376-79)    │          │
958世界@名無史さん:05/02/06 19:32:40 0
上は、上バイエルン公のことで、これは皇帝も正式に認めたもの。
でも、オットー5世の下ラ、とか、系図のさらに後をみると出てくる、
下ミや下イは、どういうことか、わかりますか。
バイエルンが上下に分かれたあと、また、争いがあり、
下ミュンヘン公が。皇帝の承認のもと成立したということでしょうか。
それとも、単に、ミュンヘンに宮廷を置いたので、
上バイエルン公の一族(当然、上バイエルン公を称す)ではあるが、
ほかの上バイエルン公特別するために、下ミュンヘン公と称しただけでしょうか。
皇帝側からみれば、あくまで、上バイエルンの一部に過ぎない、
皇帝とは直接の授封関係のない、陪臣のようなものでしょうか
(下の叙述の「部屋住み」という身分に相当します。
 もっとも、部屋だけでなく、領土領民家来もいるんですけど。)。

  >>638 ドイツはゲルマン古法の影響を強く残していたので兄弟間による分割相続が基本でした。
  なので爵位も基本的には兄弟皆が名乗れます。
  でも流石に中世以降は分割相続による弱体化を防ぐ目的で
  家督相続者(長子とは限らない)に主権を認めた上で、何らかの土地を領土として
  相続する方向に変わっていきました。
   この点から考えると『部屋住み』的な面もありますが
  独立した宮廷も持っているので、面倒な仕事の多い宗家を継ぐよりは気軽な分家が
  良いと兄弟間で押し付けあうという事がしょっちゅうだったようで
959世界@名無史さん:05/02/06 20:09:45 0
さかのぼって読むと面白いです。。。。。

>>667 ですが、
バイエルン継承戦争は、カールテオドールの時だけではなく、
 それ以前にもあったということ?。
 アウブレヒト4世のバイエルン統一は、戦争を伴って成し遂げられたのね。

 と、
 正しくは、第一次バイエルン継承戦争、第二次バイエルン継承戦争というわけなの。
 そういう風に呼ばれているの?
960世界@名無史さん:05/02/06 21:05:31 0
>917
>でもまぁ大筋は>>915で良いと思われ。
>ようは最初から将軍跡目候補のお家柄じゃなかったって事だな。

 確かに日本史板の内容だけど、一応。
 水戸家に将軍家継承の権利が無い、という事実は無いらしい。
 実際、三家が直接に跡目を争った8代目継承の時に、水戸家の当主も候補と
して上がっているし。
961世界@名無史さん:05/02/06 21:11:20 0
継承順位は低いがあるが実情では。
家格自体尾張・紀伊より一段落ちることは事実らしい。
962世界@名無史さん:05/02/06 21:50:56 0
>>961
> 家格自体尾張・紀伊より一段落ちることは事実らしい。

いえ、らしいのではなく、事実です。代々の当主の官職が違います。
尾張と紀伊は大納言、水戸は中納言ですから。
963世界@名無史さん:05/02/06 22:28:03 0
20世紀のアイルランドの作家にロード・ダンセイニという人がいたが、この人の本名
はエドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット、第18代ダンセイニ男爵
という。

独立後のアイルランドではダンセイニ男爵は英国の貴族として存続しているのだろうか?
それとも独立に伴い称号は公式に廃止、または自然消滅したのだろうか?
964世界@名無史さん:05/02/07 02:15:24 0
フランク王国時代に兄弟相続というものがなければドイツ(東フランク)もフランスになってたのになあ。
965世界@名無史さん:05/02/07 11:27:13 0
>>953
下級貴族がprinceという称号を用いていたことがあるらしい。
神聖ローマ帝国領と被る地域を除けば、基本的にフランスにはprinceがいない。
伯爵以上をまとめると:
ドイツ
Erzherzog (archduke) > Groβherzog (grand duke) > Herzog (duke)
> Markgraf (margrave)等 > F"urst (prince) >Graf (count)
番外編: Kurf"urst (prince elector)

フランス
duc > marquis > comte

イタリア
granduca > duca > march'ese > principe >conte
-------------------------------------
イギリス
prince > duke > marquess >earl

スペイン
prinicpe > duque > marqu'es >conde
-------------------------------------
ロシア
veliky knyaz(grand prince; grand duke) > knyaz (prince) > それ以下は自分は知らない

966世界@名無史さん:05/02/07 11:31:08 0
こうやってみると、イタリアの場合、march"eseもprincipeも「侯爵」と訳してしまうと
混乱が出てくるな。神聖ローマ帝国下ではイタリア半島北部に存在した侯領は、
すべて辺境伯扱いだから、「辺境伯」という訳を導入すれば一応区別はつく。
その場合はドイツと同様、辺境伯>侯爵という逆転現象が出てくるし、
モナコも公国ではなくて侯国扱いになってしまう。
ただ、イタリアのprincipeはドイツのF"urstと違い、ほぼ慣例的に「公爵」と訳されている。
これだとducaとの区別がつかないし、ミラノ、モデナ、マントヴァ公国と、
長らく保護領に過ぎなかったモナコ公国やイタリア半島・シチリア等に沢山存在した
多数のprincipe領とが同格になってしまう。

そういえばアンドラ公国も本当に「公」という訳が相応しいんだろうか?
967世界@名無史さん:05/02/07 13:51:14 0
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1038230155/867
よりコピペ。

辺境伯ってのはカロリング時代の官職の名前に由来します。
軍事権を併せ持った伯の事で、速やかな軍事行動が必要な区域に
置かれました。(反乱が怖いので、数は絞ってましたが)
で、王命がすぐに届かずなおかつ軍事的脅威に晒される区域というと
国境地帯が多かった為、辺境伯と呼ばれているわけです。
で、この官職ですが、カール大帝以降の混乱時代になると王国内部でも
頻繁に軍事衝突が起こるようになり、その対処として辺境伯管区が設置される
ようになりました。

という説明をしておいてなんですが、中世盛期(10世紀以降)になると
フランク王国の官職的要素の強い伯なんて、いなくなってしまいます。
いくつかの伯管区を兼ねる事で、強大な権力を獲得する事に成功した伯が
箔付けの為に、かつての王国の遺制からそれらしい官職名を引っ張ってきて
名乗る事が多くなりました。(公とか大公とか辺境伯とか)
もちろんアンジュー伯のように、称号に興味の無い上級貴族もいたので
この時代、爵位の間に明確な区別なんてなかったと考えるのが正しいです。
(帝国諸侯制度なんかが整備されてくると、また話は変わってくるわけですが)
968世界@名無史さん:05/02/07 14:13:43 0
イングランドのチェスター伯なんかは、成り立ちの意味合いとしては辺境伯
的存在ってことかな?
969世界@名無史さん:05/02/07 20:38:08 0
ドイツやフランスの公爵って全部で何人くらいいるんでしょうか?
970世界@名無史さん:05/02/07 20:54:20 0
イギリスはマーチ伯が辺境伯みたいな存在だったかな。
971世界@名無史さん:05/02/07 20:56:59 0
ときにそろそろ次スレの相談をした方がよくはありませんか、みなの衆。
972世界@名無史さん:05/02/07 21:15:12 0
フランスの公爵ってうじゃうじゃいるイメージがあるんだが・・・
ドイツの場合は19世紀の初めに神聖ローマ帝国の諸侯だったとこだけ?
973世界@名無史さん:05/02/07 21:19:32 0
フランスの場合、王室メンバーで公爵位を乱発していたからね。
いわゆる昔ながらの封土付きの格式高い公爵領は、ブルボン家が
権力を掌握したころには全て滅んでしまった。
974勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/07 21:34:30 0
>>973
封を回収しても、それを中央集権的に支配する事が出来なかったが
故の親王領なので、至極自然な話かと。
975世界@名無史さん:05/02/07 22:34:13 0
辺境伯が強大な権限をもってたという意味なら、イギリスの城で巨大なやつは伯爵が築いた
ものが多いんだよね。
住民の反乱に備えるためって理由で作るんだが王室にとっては良い気分ではない。
そこが貴族反乱の根城になりかねないから。
レスター伯の城はすばらしい巨大な城で水面に浮かぶ宮殿のようだった。
ドイツ流に言えばヴァッサーブルクだね。
案の定、そこで謀反がおこり貴族軍がたてこもった。
やっぱり城の大きさは、それを建てた城主の野心を表してるのだろう。

それだったら王のほうで貴族の城を制限してもいいんだろうが、レスター伯爵の壮麗な城
をみた各地の貴族は、それをまねして巨大な水城を作るんだから・・・
個人主義といいうか、ちょっと日本の大名は考え方が違うね。
たかが一伯爵のくせに巨大な城をつくる、どっから金が出てるんだと思うが
王室もそれに無関心。
976世界@名無史さん:05/02/07 23:10:56 0
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1038230155/890-892
よりコピペ。

890 :世界@名無史さん :05/02/05 19:50:10 0
Vizegraf 子爵( = Vicecountはドイツ史では一部の伯領内でのみ存在。)については、
誰が与えたという形でしょう。Grafがですか?

891 :世界@名無史さん :05/02/05 22:00:56 0
少なくとも神聖ローマ帝国としては子爵位を出していないけど、
まあGrafとかが伯爵領内で出したんじゃない?
vicecountにしてもVizegrafにしても、元来「伯爵の代理人」という意味だし。

892 :勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/02/05 22:34:57 0
>>890
フランク王国の官制上は伯の下級役人という事になります。
なので、当初は国王の選任によっていたはずですが、こちらも世襲化したようです。
年代が降るにつれ、伯が自らの管区の副伯との縁組によって管区を完全に掌握しようと
した事が見られます。
977世界@名無史さん:05/02/08 00:49:52 0
>>963
子孫はアイルランド共和国に居住しながら、
英国の貴族として存続しているようです。

当主 The Rt Hon The Lord Dunsany (Edward John Carlos Plunkett)
住所 Dunsany Castle, Dunsany, Co Meath, Ireland

他のアイルランド貴族も全て英国貴族として存続しています。
978世界@名無史さん:05/02/08 02:23:11 0
>>954
いまさらかもしれないが、たしかにそのとおり。
 日本は、便利な漢字を使える訳だし、
  また、新規に作らずとも、
    漢字を使った名称など、本朝、チャイナ、韓国朝鮮に、
    在庫がいくらでもあった訳だし。
979世界@名無史さん:05/02/10 19:16:25 0
プリンスは基本は君で押えておき、実態に応じて大君・国君・君王・君公・君侯・邦君・君等
と訳すといいかも。
980世界@名無史さん:05/02/10 20:19:32 0
そもそも訳すのがおかしい。カタカナ表記でプリンス某でいいじゃん。
実在人物を扱う歴史本などはそうすべき。
そのプリンスの意味を注釈つけて理解を求めればいい。
大公など適当な訳じゃ混乱する。
981世界@名無史さん:05/02/27 13:12:04 0
ハンス・ディートリッヒ・フォン・ゼークト
982世界@名無史さん:05/02/27 13:43:46 0
オランダ人の「ヴァン」というのは、ドイツの「フォン」と同じなの?
983世界@名無史さん:05/02/27 13:47:43 0
>>982
ヤー。
984世界@名無史さん:05/02/27 15:48:17 0
さて、以上を踏まえると、
愛子天皇の夫はどんな称号が与えられるのですか?
何とかの宮とか名づけられるのですか?皇王殿下?
985世界@名無史さん:05/02/27 16:53:57 0
江戸時代の徳川将軍はプリンス扱いだったそうだが、白人は日本をジャパン大公国
みたいな考えだったのかもね。
中国皇帝、ジャパン大公みたいな〜。

これでは軽く見られるんで天皇を出してきたような感じ。

明治政府はロシア皇室を視察して皇室典範や豪華な儀礼を制定したといわれてるし
(ほんとは英独を参考にしたかったが、あまり相手にされなかった。露は親切だった)
じつは日本皇室の原点は、いまは亡きモスクワ大公家にあるのであった。
986世界@名無史さん:05/02/27 16:56:24 0
>>984
そんなことありえないから心配するな。
987世界@名無史さん:05/02/27 17:00:13 0


皇婿殿下
988世界@名無史さん:05/02/27 18:06:47 0
平民はどこまでいっても平民。

殿下?・・・プッ
989世界@名無史さん:05/02/27 22:47:16 0
990世界@名無史さん:05/02/28 00:44:45 0
>>984
モンゴル帝国なら「附馬公」かな。
991世界@名無史さん:05/02/28 02:36:04 0
皇配殿下じゃないの?
992世界@名無史さん:05/02/28 17:48:05 0
>>991
皇配っていう言葉、2ちゃんでよく見かけるけど、なんか動物の飼育みたいな響きがあるな。。。
993世界@名無史さん:05/02/28 18:50:30 0
「皇配」って、2ちゃんの皇室オタクや歴史オタクのオナニーくさい言葉だな。
994世界@名無史さん:05/02/28 22:47:08 0
 皇后に「陛下」を当てるんだから、普通に考えれば「陛下」になりそうな気が
するが。
995あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/01 13:10:33 0
>>990
附馬は駙馬の誤記でしょうか。魏晋からこのかた公主に配せられる者を駙馬都尉に
除する例であったところから生まれた称号です。従って女帝の場合にまで適用する
わけにはいきません。
そもそも漢字文化圏においては皇后から登極した事例を除き、女帝が結婚する事態が
発生しませんでしたから、その旦那さんの称謂が準備されてなくて当然なわけです。
「皇婿」というのも「婿」という字にあまり好いイメージがありません。婿が付く熟語で
想起されるのは「贅婿」くらいで、これは貧乏で嫁取りできず労働力として入り婿に
なるとか、借金の質として未亡人や出戻りにくっつけられるとか、奴隷のようにしか
社会で待遇されない人です。
まあ「皇配」あたりが無難でしょう。
>>994
たしかに「陛下」にならないと男女同権論上からも変ですよね。ただイギリスなんかは
女王の旦那さんは「公」ですから殿下が相当となるのでしょう。もっとも「陛下」は
皇帝と皇后にのみ奉られる敬称ですから、本来は女王は「殿下」でなくてはならないと
思います。
996世界@名無史さん:05/03/01 13:27:16 0
>>995
>「陛下」は
>皇帝と皇后にのみ奉られる敬称ですから、本来は女王は「殿下」でなくてはならないと
>思います。

皇太后もですね。

んでもって、外国の王族の敬称は日本の皇室に当てはめたものではなく、
His/Her MajestyやHis/Her Royal Highness の訳語ではないでしょうか。
英王室ではHis/Herの違いがあるとはいえ、男女どちらでも王はHMですから。
997世界@名無史さん:05/03/01 19:20:25 0
女王の旦那さんが公なら,女帝の旦那さんは王とか。
998あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/01 22:19:54 0
>>996
一応は承知していたんですが、なら「太皇太后」は・・・とか際限がないので両陛下に止めたんです。
後段についてはそのとおりでしょうね。
999あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/01 22:32:07 0
更に野暮を言えば皇室典範では「三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、
女を女王とする」とあって、外国の王位にある女性を「女王」と称するのも
果たして国際儀礼上の敬礼を失するのではないかという懸念も生じます。 
1000あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/01 22:42:04 0
1000レスになりますが、承継する新スレはどっかに出来てるんでしょうか?
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