織田信長は過大評価されすぎ11

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1人間七七四年
ほんまに天才なんか? 何をやっても天才なんか?

前スレ
織田信長は過大評価されすぎ10
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1325028957/
2人間七七四年:2012/05/14(月) 16:57:20.71 ID:RLlht0cO
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3人間七七四年:2012/05/14(月) 19:00:25.26 ID:z4VstdtG
だがスレ立てろ
4人間七七四年:2012/05/17(木) 12:36:15.27 ID:Wq11JvKj

勧修寺晴豊の11/9書状で信長を古今無双の名将と持ち上げたのも
(しかも綸旨案でしかないので実は発送されてないw)
他の同日付けで発送された万里小路惟房宛て女房奉書と
それに応じた万里小路惟房の信長宛て書状内容を読むと
誠仁親王の御元服の費用+御所修理費用などを負担してもらいたいと露骨に書いてるしw
しかも女房奉書には信秀が御元服の御事は他とは異なる馳走として
重視していたことまで持ち出して信長に要求しろといってるw
他大名と比較して古今の名将といってるのではなく
完全に金銭目当てで褒め殺ししてる朝廷w
5人間七七四年:2012/05/17(木) 14:52:25.31 ID:3WZMIoh7
しかし褒めたという事実は覆せないのであったwww
6人間七七四年:2012/05/17(木) 18:19:36.67 ID:Wq11JvKj
朝廷が金欲しさに阿諛追従・ 阿諛便佞しようとしたけど
やっぱ辞めてその文書を出さなかっただけだろ。
7人間七七四年:2012/05/17(木) 22:21:12.07 ID:s3581jUO
「歴史とは読書感想文コンクール」っていうのがよく分かる。
研究者の性格がこうやって明らかになるのだ。
8人間七七四年:2012/05/18(金) 06:27:32.57 ID:Jr3JJ/mL
だがのポエムと研究者をいっしょにするのはどうかと思うが
9人間七七四年:2012/05/18(金) 08:02:15.87 ID:rm/Iv2Ly
浅井を裏切って朝倉を攻めた信長がどうかしましたか?
家康長男を殺害させた信長がどうかしましたか?
10人間七七四年:2012/05/18(金) 09:14:46.12 ID:+KQtRfBD
>>7
いや、信長厨は研究家とは言わん。
11人間七七四年:2012/05/18(金) 15:00:04.70 ID:pCZuDZAx
家康長男は信長が殺したって言ってるおっさんまだいたんかw
何十年前の珍説を信用してるんだw
12人間七七四年:2012/05/18(金) 15:49:30.77 ID:Q26yRBrl
>>11
何十年も何も、家康側の都合ってのも未だ仮説にすぎないんだが。
ちょっと話題になったスキャンダラスな説を頭から信じるタイプなのな、お前
13人間七七四年:2012/05/18(金) 18:35:17.96 ID:wIFOyVO4
信長が家康長男を殺害って説もスキャンダラスといえばスキャンダラス。
これ捏造だったら信長がちょっと気の毒だな。
14人間七七四年:2012/05/18(金) 22:03:08.05 ID:8B9XQ8Ah
浅井は同盟の条件に朝倉攻めの時は前もって言ってくれなんて言ってただけだよな。
反故したら朝倉に着くとは言ってないんで同盟の信長を裏切った事になるんじゃないのか?
15人間七七四年:2012/05/18(金) 22:44:17.65 ID:pCZuDZAx
>>12
仮説も何も家康と信康が不仲だったということは松平記、当代記、家忠日記と
徳川ほとんどの史料が共通で書いてあることだぞ。

信康殺しの主犯は信長なんて高柳が気まぐれで言い出しただけで
しかも理由が「信康の器量が凄すぎて怖かった」という妄想ソース
16人間七七四年:2012/05/19(土) 11:05:58.26 ID:995l+IVS
>>14
> 浅井は同盟の条件に朝倉攻めの時は前もって言ってくれなんて言ってただけだよな。

これって具体的には何がソースなの?
17人間七七四年:2012/05/19(土) 18:54:52.11 ID:9XjLLWtz
>>15
正直ね、高柳センセは日本の歴史学を退化させたと思う。
犬HK御用達のその弟子もしかり。
この人たちが日本史を妄想物語に変質させたと思う。
18人間七七四年:2012/05/19(土) 19:29:45.74 ID:08oXzCz8
その妄想で信長が過大評価されるわけよ
19人間七七四年:2012/05/19(土) 21:15:27.98 ID:53AGcNpD
妄想も何も信長の評価はまだはじまったばかりだろw
20人間七七四年:2012/05/19(土) 21:48:49.43 ID:08oXzCz8
妄想を省いた本当の評価は始まってもいないがな。
21人間七七四年:2012/05/19(土) 22:42:03.52 ID:53AGcNpD
え?
22人間七七四年:2012/05/19(土) 22:43:50.39 ID:4Mi+cWNE
>>21
現実に向き合えないヤツはスルーしとけ
23人間七七四年:2012/05/19(土) 23:07:49.41 ID:9XjLLWtz
>>18〜20
◯HK御用達、高柳弟子の仕事内容。
しゃべる場所によって話を変える。
あんま信長人気じゃなさそうな所では
 →「信長は残忍で非常識で彼の暴走を止めるため光秀は立ち上がった」(この師弟、なぜか光秀は必ずアゲる)
信長人気がやたらありそうな所では
 →「信長は革新的で新しいことをどんどん成し遂げた」(何の根拠もないけどそういうことにする)

こういう学者を大衆はどう評価する?
24人間七七四年:2012/05/19(土) 23:17:01.93 ID:08oXzCz8
そんなの学者とは言わんw
25人間七七四年:2012/05/20(日) 16:45:36.31 ID:xlHExFKW
長篠の戦い直後の岩村城攻撃を伝える信長書状には
しつこく言ってるように信忠若年だから万事において肝煎り専一しろと佐久間に命じ
信康の出陣なんていらんから留めておけと言ってる。
信長は信忠の無能さを心配し、
武田に内通している信康を邪険視しているのがわかる。

天正5年7月9日〜閏7月18日の期間に勝頼が長篠で戦死した者たちへの
相続やら、加増やらの処理を終わらせ戦後体制が確立するや
浜松の家康は信康を岡崎から遠江の掛川へ出陣させ武田へ備えさせてる(10月末まで)
武田との国境が積雪で不通になるや
12月15日に信長が1月下旬まで三河へ監視にやってくる
(徳川家臣は、家康は家康と呼び、信長を御家門様と呼ぶようになる)
2月に対武田籠城用の岡崎城拡張工事が終了後の
3月から岡崎衆の岡崎常住と毎月1日の信康への出仕を義務づける。
この事実上の徳川家後継者決定を受けて4月17日信康が浜松の家康へ礼に赴く。

9月5日突然、家康が家臣団の岡崎在郷無用の命がくだる。
この情勢下に10/17信長が三河へ来訪する意を伝える。
10/19勝頼出陣の報がきて出陣準備
10/27信康が浜松へ発つ。
10/28浜松に来た信康へ出仕したことが
申刻に大なへゆり候・五十年已来の大なへ之候(大地震?それとも信康の身を暗示?)
摂津で荒木の攻勢を受けた織田軍が大敗し水野忠分が戦死。
天正6年2月 対武田籠城用に浜松城の普請。
4/6勝頼が本願寺と荒木を援護するために義昭を擁する毛利軍の攻勢に呼応することを約する。
4/23勝頼が駿河まで出陣し、26日には浜松まで到着すると石川数正が報告する。
4/25武田軍が高天神城まで到着。4/26信康の合流を待って家康が三河吉田へ出陣。

6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、
なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。

5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。
天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。

基本的にデキの悪い信忠のこともあり信長の介入と圧力があって信康を殺したとしか思えない。
しかし家康もメンツの問題から懇望はしてるが、
かと言って信康を殺すことにそれほど悩んでいたようにも思えない。
26人間七七四年:2012/05/20(日) 17:00:44.61 ID:xlHExFKW
信長は徳川家臣から御家門様と呼ばれるように
徳川家臣の織田家臣化を進めており、
岡崎城も織田が没収する既定路線が見える。
家康も織田家臣化される流れの中で
武田の後ろ盾を得て岡崎城の没収を免れ自立する希望を
託して、信康を後継者にした。
しかし信長はそれを許さず、家康に信康を殺させることで
家康の信忠への忠義を示させた。
その褒美として信長は岡崎城主五徳の美濃への帰還を許した。
27人間七七四年:2012/05/20(日) 18:12:52.06 ID:OJkFrlRP
山岡荘八の小説みたいだなw
28人間七七四年:2012/05/20(日) 18:35:10.19 ID:NqDgVqMW
滝田栄が号泣してる場面を思い出したw
29人間七七四年:2012/05/21(月) 15:43:23.52 ID:J9MUdBxg
>>25>>26
信頼性の高い「当代記」にも
信長は家康の好きなようにせよ、と言っただけとある。
信康切腹は信長の命令ではなく家康の意思。
30人間七七四年:2012/05/21(月) 16:15:51.15 ID:b8SAHCFG
御代将。わしもタイムスリップしてみたかったぞ
31人間七七四年:2012/05/21(月) 16:18:06.08 ID:b8SAHCFG
御代将も近代化で未来からタイムスリップしてきた者であるか?
32人間七七四年:2012/05/21(月) 20:33:12.45 ID:QXI/HxlU
>>28
歳がバレますぞ。
33人間七七四年:2012/05/23(水) 00:12:14.02 ID:f3Hp+Wr/
当代記は徳川家康の長女の子が編者だから
家康を贔屓目に書いてるからなぁ。
34人間七七四年:2012/05/23(水) 06:51:56.46 ID:H4NPZrS+
つまり「家康は信長の命令を受けるような立場ではなかった」という改竄が行われている可能性があるわけだ。
35人間七七四年:2012/05/23(水) 15:24:48.08 ID:IUqWjATi
>>33
手元にある本には「筆者不詳」とあるけど?
36人間七七四年:2012/05/24(木) 00:15:23.48 ID:8l1Tmfku
メイン編纂者は松平忠明だろ。
37人間七七四年:2012/05/25(金) 17:30:14.92 ID:TCOC8fI2
>>29
信長が空気を読めと家康に無言の圧力を加えてるのが
はっきりわかるだろw

家康が酒井を使者に信長へ種々御懇してる時点で
信長が無理難題言ってきてんのは明らかなんだから。
懇望に信長が取り成しした結果、岡崎から信康追放が確定してるし。
その信長への感謝の書状を出したのが8/8
そして信長がそれになんらかの返答をした結果、9/15に信康が自害。
38人間七七四年:2012/05/25(金) 17:47:49.09 ID:izHaGfKQ
妄想を現実に出すなよw
39人間七七四年:2012/05/26(土) 05:55:42.61 ID:MMCoxSZU
どうして歴史研究者や映画評論家という人種は自らがやりもしないことを
自分なら軽く、簡単にできるくらいに吹聴するのだろうか?
自分はできるがただやらない、高みの見物をしているという風に
必死に自己のアイデンティテイを守っているんだろうか?
人間は冷徹な真実よりも自分に都合がいい妄想を好み、それしか見ないというようなこともよく言われているところだ
オレは偏向した妄想を好む、この世界の“普通人の感覚”から程遠いんだろうな
40人間七七四年:2012/05/26(土) 07:01:05.84 ID:UereMTzB
まあ、ああいう人達は自分の脳内では自分の事を
チート能力を持った大英雄だとでも思ってるんしょ。
41人間七七四年:2012/05/26(土) 09:33:22.59 ID:luYBhXdL
どの研究家だ?
聞いたことないが。
42人間七七四年:2012/05/29(火) 21:57:00.77 ID:2jtkHjnj
つーか身内にやたらと甘い信長が娘婿の信康を殺そうとするなんて思えないんだよね
信康の方も織田が圧倒的有利な状況で将来を棒に振ってまで武田に内通するとは思えない
となると親にやたらと反抗する信康を家康が信長に讒言して嵌め殺したというのが実際じゃなかろうか
家康が築山殿を冷遇しまくっていたのは息子の信康にしてみれば頭に来ていただろうし
険悪な親子関係になっていたとしても不思議ではない
43人間七七四年:2012/05/30(水) 06:54:50.30 ID:4pMcy+Lb
身内に甘いって弟とか叔父とか殺しまくっておるがな>信長
44人間七七四年:2012/05/30(水) 09:52:52.00 ID:Al+AjWII
叔父信光「いやワシ、信長に殺されたんじゃないよ。火起請破ったからってさ、○○の奴がさぁブスッとやるからさぁ」
45人間七七四年:2012/05/30(水) 14:36:47.54 ID:2l8TPXV7
43
殺しまくってはいない。
46人間七七四年:2012/05/30(水) 17:27:27.83 ID:2kRGAe1e
>>43
殺したのが明確なのは信勝(信行)だけだろ
異母兄の信広だって一度背いたのに許しているし、
信興が一揆に殺されたのにはその一揆を皆殺しにして恨みを
晴らしている
47人間七七四年:2012/05/30(水) 23:18:59.23 ID:fURbShQX
信長は過大評価されすぎかもしらん
そして信玄なんかもっと過大評価されすぎ
48人間七七四年:2012/05/30(水) 23:56:04.41 ID:M4/PlOQL
目くそ鼻くそという言葉は武田信玄と織田信長のためにある
49人間七七四年:2012/05/31(木) 02:37:49.02 ID:BOaIorge
甲斐の山猿と一緒にされては困る
あんなのは朝倉義景や三好義継が比較対象でいい
50人間七七四年:2012/05/31(木) 07:10:19.97 ID:tjNzkRSE
だから目くそ鼻くそ
51人間七七四年:2012/06/02(土) 08:23:59.90 ID:j/hu3mUh
信長が本能寺で死ななかったら、近代国家作ってたとか
専制君主になったとかいうのはまだギリギリ我慢できるが
東アジアに巨大な日本王国できたとか、理想的な
素晴らしい世の中になったとかいうのは、
そう言ってる人は脳ミソが崩壊しているとしか思えん・・・
52人間七七四年:2012/06/02(土) 09:52:08.84 ID:6ZEqH5Ka
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
53人間七七四年:2012/06/02(土) 10:04:02.09 ID:idfsyFEB
だーがだーがだがアスペの子♪
54人間七七四年:2012/06/02(土) 14:09:12.47 ID:VvHFcotO
>>51
現実ではなく妄想の信長でしか評価できない奴らだからな。
本当は信長が嫌いなんだと思うわ。
55人間七七四年:2012/06/02(土) 16:36:49.30 ID:UYm6fov7
今日は信長の命日やな〜
「わしもじゃ」山科言継
56人間七七四年:2012/06/02(土) 17:09:05.91 ID:oru+Jk6C
>>55
今は新暦だから旧暦の日付を当てはめるというのはちょっとおかしい。

本能寺の変はグレゴリオ暦換算で7月1日
2012年の旧暦6/2はグレゴリオ暦だと7月20日になる。
57人間七七四年:2012/06/02(土) 20:36:40.95 ID:j/hu3mUh
よく雑誌にある、あなたは戦国武将で例えるなら何タイプ
てのがあるが、うちの先輩が信長タイプを引き当て
「そっか〜やっぱ俺、信長タイプか〜」と喜んでるが
いや、あんた空気読めないでわがままなだけですから
と、ツッコミたい毎日です。
58人間七七四年:2012/06/05(火) 13:30:57.51 ID:HkHcu1V1
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで〜と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
59人間七七四年:2012/06/05(火) 19:43:59.97 ID:RNdRW9oX
>>58
幼少から三井寺に入れられていたのにそんなわけが無いだろう。
60人間七七四年:2012/06/07(木) 12:03:53.19 ID:ntNPUBP7
>>上月尼子は捨て殺し、別所裏切り、荒木謀反とほぼ侵攻できていない
秀吉が播磨・但馬などを制圧したのに、信長が政治レベルで失敗して
秀吉の足を引っ張っただけだろ。
その状況から秀吉兄弟は摂津・丹波・丹後戦線まで崩壊してたのに
援軍まで派遣して大活躍している。
別所の赤松家内での地位に配慮をしなかった信長が浦上を別所の上につけたのは致命的。
これで播磨は再び分裂してしまった。
というのも別所や東播磨の上月などは赤松御一門家に属しており、赤松内で同格だった浦上と敵対していた経緯も無視。
上月は散在領所と言われるほど、所領がアチコチに分散してるために
浦上や別所のような地域権力化→一円支配が成立せずに赤松政権権力を背景に統治することを余儀なくされ
結果、信長の赤松否定の政策に反発して、上月氏なども赤松氏にさらに接近してしまう。
赤松氏の被官である御着納所を勤めていた小寺氏なども同様で、せっかく微妙な空気を読んで
秀吉が播磨を纏め上げていたのに、信長が完全にブチ壊して、播磨・美作・備前の支配権を浦上に
やってしまったために浦上が播磨・備前方面で活動開始し秀吉の立場がなくなったのが原因。

>>第2次木津川で大阪湾の制海権を織田が握りその後石山本願寺降伏
信長は第2次木津川でも敗戦してるが捏造してるだけ。
本願寺顕如も天正8年9/23付けで宇喜多が敵についた為に
播磨兵庫や摂津尼崎や淡路岩屋へ渡海していた中国衆がことごとく帰国してしまったと書いている。
そして叡慮(天皇の意)で勅使がやってきたが、大坂退出は艱難至極と再三申し上げた〜などと書いていて
第二次木津川の戦いでの毛利敗戦が原因で制海権など織田は奪ってないし、
制海権喪失の原因は秀吉が宇喜多を味方にして信長の相次ぐ失敗を挽回すべく大逆転させたため。
>>毛利家中は揉めに揉めて結局宇喜多を選んだ
いやいや、毛利側では宇喜多が味方になっても三村氏は離反しないと踏んだ上でのこと。
その証拠に宇喜多が味方に参加しても三村はしばらく毛利に敵対してない。
つか毛利が一方的に三村氏へ内通を理由に攻め込んできたことから
毛利が備中の領国化をするために三村氏に汚名を着せたって説もあるからな。
>>村上3水軍の中で来島村上が羽柴についた
君は村上水軍の性格をまったく理解してないね。
天正3年3/6大友が五条氏へ
毛利を叩くために浦上宗景と能島村上水軍村上元吉を支援するため
田原親賢を赤間関に出陣させたので合力するように伝えているなど
村上氏は利害を重視していて、毛利に無二の味方と言うわけじゃない。
秀吉の宇喜多調略後には来島が秀吉側について、能島も秀吉寄りになるなど
秀吉の調略で村上水軍なんざ、軽く毛利を裏切ってる。

61人間七七四年:2012/06/09(土) 08:29:14.16 ID:IRoFVN0c
>>51
では信長が本能寺で死ななかったのなら、どんな世の中になっていたのかを、
その崩壊していない脳ミソで存分に語ってくれ。
62人間七七四年:2012/06/09(土) 09:43:25.71 ID:rdME5fh1
>>59
ソースは?
63人間七七四年:2012/06/09(土) 13:12:25.24 ID:Bfuotz56
>>61
本能寺で死ななかったら、みたいな妄想語る時点で脳味噌が崩壊してるよw
64人間七七四年:2012/06/09(土) 17:20:30.67 ID:0xQkpuCp
信長マンセーの学者さん達の本読んでみると、
信長のアイデアや戦争のやり方なんかを
まるで自分達が考えた、及び自分達が戦国時代に
生きてたら同じ事をしていたみたいに書かれてるのが多い。
いや、そんな後だしジャンケンみたいの中学生でもできるわw
65人間七七四年:2012/06/09(土) 19:44:45.24 ID:1/sp7XjO
橋下さんの独裁発言は的を射た意見である。

たとえ優秀な政治家でも、民主主義という合議制の意思決定では、
有力国人衆の支持を必要とした上杉謙信や武田信玄と似たような者。

織田信長公のように効率的な発展をするには、
時間ばかり掛かる話し合いなど無駄。
66人間七七四年:2012/06/09(土) 19:52:30.67 ID:dJ+pn6zi
>>64
お前も後出しジャンケンしてるやろ
67人間七七四年:2012/06/09(土) 23:36:20.95 ID:Bfuotz56
信長が効率的?
家臣を統率出来ずに本能寺で死んだのが効率的なのか。
68人間七七四年:2012/06/10(日) 01:03:36.36 ID:/aniV4dZ
塚、痛い人はよく信光暗殺したのは信長とか言うけど何の確証もないのな
それ言ったら義信暗殺は信玄だし長野暗殺も信玄になるぞ?
69人間七七四年:2012/06/10(日) 01:06:12.90 ID:/aniV4dZ
>>67
しっかり統率できてるだろ 頭大丈夫か?
最近の研究では明智謀反の理由は野心で決定してる
家臣を統率できてようが謀反起こす奴は起こす
70人間七七四年:2012/06/10(日) 07:27:28.95 ID:UdUfrwuV
荒木村重
松永久秀
71人間七七四年:2012/06/10(日) 09:03:23.18 ID:UdUfrwuV
信長みたいな戦い方は非効率だろ
越前みたいに反乱起こされ
勝っても自軍は消耗
皆殺しだからその後は徴税徴兵期待できず

秀吉のように同盟関係を大事にした方が効率的
72人間七七四年:2012/06/10(日) 09:50:27.45 ID:pbm2jmY4
別所や波多野秀治や山名祐豊・・・
73人間七七四年:2012/06/10(日) 13:09:01.89 ID:iU54UoGY
本願寺相手に十年も費やす効率のよさw
74人間七七四年:2012/06/10(日) 18:13:50.08 ID:/aniV4dZ
>>73
確かに信長は効率悪いよなぁ
武田程度潰すのに10日もかかってるんだもんww
75人間七七四年:2012/06/10(日) 19:09:17.39 ID:UdUfrwuV
武田なんてどうでもいいじゃん
信長の比較対照としてはちょうどいいとしてもw
76人間七七四年:2012/06/10(日) 20:05:09.87 ID:UdUfrwuV
ちなみに「武田に十日」とするなら、信長自体は明智に僅か一日(つーか数時間)で倒されたことになるよ。
77人間七七四年:2012/06/10(日) 21:20:39.85 ID:iU54UoGY
脊髄反射みたいにすぐに武田を出す時点でたかが知れるわ。
明智に倒されたことはスルーかw
78人間七七四年:2012/06/10(日) 23:11:28.85 ID:/aniV4dZ
>>76-77
いみふ〜w
武田は十日で完全崩壊
織田は組織としては存続
この違い分かります?www
逃げずに答えてね♪www
79人間七七四年:2012/06/11(月) 07:26:51.64 ID:Yct92oJd
秀吉の下に再編成された織田家
家康の下に再編成された武田家

あんまりかわらん
80人間七七四年:2012/06/11(月) 09:00:34.53 ID:L21c01J9
アンチ信長は頭悪すぎてどうにも
81人間七七四年:2012/06/14(木) 08:37:09.14 ID:sqRAU7+v
だから武家が横領した荘園も返却させたりして不満を買っていた。
公武が協力し合う関係であり足利義教に至っては天皇から治罰綸旨を出してもらって朝敵討伐してる。
皇族を無力化して〜足利家を珠玉とした時代なんて無いから。
天皇も家格だけで生きていたのではなく官位任命権なども保持していた。
それに将軍直属の奉公衆(近江・山城・摂津・大和・丹波などは特に多い)は義輝により再建整備され始めていて
伊勢氏や高氏や一色氏や上野氏や大館氏や松田氏や飯尾氏などなどがいて、さらに宗氏や島津氏らも
財政支援しておりそう簡単に将軍の首をすげ替えるのが難しくなっていたから三好&松永は暗殺の暴挙に出たわけだ。
君の言ってることの大半は間違えてる。そもそも君は鎌倉府を知らない時点でアウト
室町幕府は鎌倉幕府よりも東国西国での二元政治が顕著だよ。
義満が陸奥と出羽の統治権を鎌倉府に与えざる負えなかったのが致命的。
そのために義教が挙兵した鎌倉府を討つ時に朝廷の権威にすがって
朝敵にしてもらい幕府の正統性を付与してもらうハメになる。
有名無実どころか朝廷権威は根強いもので、鎌倉府が朝廷に錦御旗でも下されたら大乱ものなのは明らかだった。
しかも鎌倉府を滅ぼしたものの結局は関東が静謐にならないために
持氏の子の成氏を擁立して鎌倉府を再興させなければならず
しまいにはまた鎌倉府は挙兵してしまうなど足利幕府は常に不安定で
公家勢力&寺社勢力との調整で山城国周囲を保持していた。
義晴とは違い義輝が英明かつ武勇に優れていたために他国大名への御教書や外交を通じてかなりの支持を得ており、
さらに整備した奉公衆を元にかなり将軍権威を復興させてきており
その奉公衆の支持を受けたからこそ義昭は後継者として内外に認知されており、
(義輝を暗殺した三好らを奉公衆は仇として義昭上洛のために信長に協力したので六角氏や三好氏があっけなかった)
この武力があったからこそ信長に対して蜂起して籠城することが可能だった。
役に立たないならそもそも籠城なんてやらないで脱走する。
(姉川で朝倉に大苦戦した信長は三好勢の摂津出陣に兵力不足で困った挙句に、
織田家による陣ぶれでは兵が集まらないためにわざわざ将軍義昭の親征だよ!!!
などと義昭権威に頼って畿内から兵の参集を募っている。義昭奉公衆は三好は義輝の敵なのでつどって参加してきた)
つまり戦国時代の公家達は六角氏などに横領された京洛の自らの荘園を取り返してくれたから
足利将軍を支持してきた共存共栄の存在で、だからこそ将軍と横領を支持した管領が対立せざる負えない関係なわけ。
また京の五山の任命権や将軍庶子の権門寺社への出家を通じて畿内における隠然たる影響力の後援も受けていたし、
これは天皇の祭祀的権威の協力も必要な共存共栄の関係だった。
だから東国武家政権とはまったく異なり、山城周辺はただ単に武力のみに依存して支配はできないわけ。
だからこそ信長も邪魔な義昭を殺すことなど出来ないし帰京交渉もしたし義尋も手のうちにおいていた。
82人間七七四年:2012/06/14(木) 09:49:17.35 ID:/17p/mo/
そもそも効率のよさが問題なのに武田との比較に話がいく時点で会話が成立してないわ。
信長は効率が悪いから天下人になれなかった。
武田は信長に滅ぼされた。
信長は明智光秀に殺された。

それだけの話も理解できない馬鹿しかいないのか。
83人間七七四年:2012/06/14(木) 10:12:33.84 ID:sqRAU7+v
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。

84人間七七四年:2012/06/14(木) 10:12:55.35 ID:sqRAU7+v
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w


85人間七七四年:2012/06/14(木) 10:13:44.13 ID:sqRAU7+v
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

86人間七七四年:2012/06/14(木) 10:48:58.36 ID:sqRAU7+v
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。

史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw

そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に明智城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
続いて高天神城も勝頼に落とされるなど織田は連戦連敗・・・
87人間七七四年:2012/06/14(木) 11:25:20.27 ID:P9ag3SFh
ふつうに信長を史実通りに評価すれば済む話。
特別効率がいいとか革新的とか、ありもしないこと言うからこじれるのな。
武田が信長に滅ぼされたこととは無関係なのに、持ち出す時点で話が噛み合わない。

おれは武田厨じゃないから武田持ち出されても「はあ?」くらいにしか思わねえよ。
88人間七七四年:2012/06/16(土) 22:55:23.96 ID:In28n/R9
ちまちました領土拡張戦から天下統一を視野に入れた
天才信長の野望をただ指を咥えて眺めるしかなかった
周辺の大名連中は悲劇だったろうな
信長にとっては道端に転がる石ころでしかなかった大名達
89人間七七四年:2012/06/17(日) 00:16:28.71 ID:DLkYfikQ
その大名連中を馬鹿にしたきゃすればいい。
でも信長自身も破滅したことくらい理解するんだな。
間違っても天下統一とか海外進出なんてくだらない妄想はしないことだ。
90人間七七四年:2012/06/17(日) 01:52:37.34 ID:SudODFBW
信長時代に秀吉のような統一が可能だったかと言えば無理じゃないかな
秀吉って織田家勢力の統一時に相当大鉈振るって美味しいところ上手く自分と配下に分配できたけど
信長のまま行ったらそういう整理されない実力者が多数いてどうしようもないことになりそうなんだけど

あと信長は食生活のせいで長生きはできんだろ
91人間七七四年:2012/06/17(日) 15:37:33.92 ID:FzqaN21L
信長は評価が過大になっても仕方ないとおもう
それだけの事を現実に成し遂げたわけだからね
逆に信長のお陰で大した実績も残していない
武将達が信長と同列に語られているのがなんともなぁ
92人間七七四年:2012/06/17(日) 15:39:09.55 ID:tWRdVoi2
信長が成し遂げたと言われるものは、実際には秀吉や家康、さらにそれ以降の世代のやったことがほとんどだけどねw
93人間七七四年:2012/06/17(日) 16:17:27.79 ID:sBWY/HVb
>>92
無知乙w
秀吉の政策のほとんどが信長のパクリw
94人間七七四年:2012/06/17(日) 16:21:45.26 ID:DLkYfikQ
パクリでも、成し得た秀吉家康と、破滅した信長の間には越えられない壁があるよね。
95人間七七四年:2012/06/17(日) 17:07:53.26 ID:1A8XZgt1
なにがなんでも信長を全てにおいてオリジナルだということにして、
天下人として失敗したことから目を背けたがるアホがいるよな。
96:2012/06/17(日) 17:18:04.92 ID:U5TUJvdi
信長は別格だから、そもそも過大評価なんていう概念はないはずなんだが
お隣さんみたいにちんたらやってたら寿命が100年あっても何にもできんでしょ
97人間七七四年:2012/06/17(日) 18:48:00.24 ID:1A8XZgt1
確かにあの基地害っぷりは別格だ
98人間七七四年:2012/06/17(日) 21:21:00.04 ID:zQuvf2RS
信長はどちらかというと過小評価されすぎ。

特にいくさに関しては戦国時代で図抜けてるだろ。

99人間七七四年:2012/06/17(日) 21:36:28.57 ID:DLkYfikQ
信長信者みたいなやつらがオウム事件みたいなこと起こすんだよな。
100人間七七四年:2012/06/17(日) 21:41:33.14 ID:U5TUJvdi
ずば抜けてるからあそこまで登り詰めたわけで
政治・軍事・経済、全てにおいて天才でした
101人間七七四年:2012/06/17(日) 21:54:27.42 ID:tWRdVoi2
>>100
何がどう天才だったのかそれぞれのジャンルごとに説明してみろ
102人間七七四年:2012/06/17(日) 21:58:43.16 ID:1A8XZgt1
しかし部下の統率もおそまつだったというオチ
そこもきちんと評価しなきゃだめだ
103人間七七四年:2012/06/17(日) 22:02:38.31 ID:U5TUJvdi
うーん、実績を見れば一目瞭然かと
104人間七七四年:2012/06/17(日) 22:11:36.08 ID:tWRdVoi2
>>103
現実を見るためにもそれぞれのジャンルでどう天才だったのかを説明しなされ
105人間七七四年:2012/06/17(日) 22:46:13.20 ID:1A8XZgt1
日本史板でフルボッコされた金田朗君みたいな人
具体的に実績を挙げてみろよ
106人間七七四年:2012/06/20(水) 17:26:42.57 ID:1HdwEKIH

イエズス会日本報告集
天下に秀吉が尊敬すべき人物などいなかったので
いっそう自由に振舞い天下継承者の三法師を安土に住まわせていたが
これを謀反人であった明智の坂本城へ移し少しも厚遇しなかった。
信雄には三カ国を与える代わりに
これに満足し立ち去って2度と天下の政治に足を踏み入れないこと。
必要なものがあれば、かの地より書状を出せば送ると伝えさせた。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち
三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立てるやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である。
家康が信雄支持の代償として信雄が織田三河領を家康へ譲渡したのであろう。

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで
織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
107人間七七四年:2012/06/20(水) 18:04:10.27 ID:1HdwEKIH

上杉や武田同様に
北条も天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信長が国内を統治していた証拠など無いに等しい。
織田諸将が直接、在地と主従関係を結んで地域割拠していたので
地域一円謀反が多発し信長が死んだら、即、織田が瓦解したのであろう。
108人間七七四年:2012/06/20(水) 20:16:08.13 ID:vWkVeXTy
アスペルガーだがの自作自演工作のリスト
ID:sqRAU7+v=ID:1HdwEKIH

大友氏について語ろう2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/790
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/792

【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/790-796
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152866449/797-798

織田信長は過大評価されすぎ11
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/81
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/83-86
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1336979591/106-107

武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/291-293
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/304
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333551867/307

天正10年の武田攻めを語るスレ 4
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/388-389
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/391
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/393
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1333154364/402

関ヶ原の西軍の真の首謀者は毛利輝元だったのか?
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/873
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1320241565/878

武田信玄上洛成功part2
ID:sqRAU7+v
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/459
ID:1HdwEKIH
 ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1328457980/493

自演がバレてないとでも思っているのか?
おまえ馬鹿だろ?


109人間七七四年:2012/06/20(水) 20:54:52.14 ID:xS9VZn0K
>>105
玉の輿と棚からボタモチで美濃奪取、即100万石オーバー。
110人間七七四年:2012/06/20(水) 21:05:17.53 ID:XoRGUPOO
>>109
で、本能寺で天下がパー
111人間七七四年:2012/06/21(木) 03:54:44.81 ID:cPk/xiPP
天下はパーっつったってそれは実力なんだから仕方ない
桶狭間で滅亡秒読みだったことを考えれば家も残したし十分すぎる勝ち組だろ。
112人間七七四年:2012/06/21(木) 07:13:02.51 ID:1KxVbR//
そこまでの評価ならこんなスレは立ちゃしない
113人間七七四年:2012/06/23(土) 01:07:59.92 ID:jlmADEhh
そこまでの評価もできないんじゃ評価者が悪意籠ってるだけ
実際信長を越える人間は戦国期だと秀吉家康くらいなもの
信玄(笑)とか政宗(爆笑)とか引き合いに出す奴は総じてアホ
114人間七七四年:2012/06/23(土) 01:26:50.64 ID:yCDzoVGD
そのとおりだが、問題なのは「信長だったら世界制覇」みたいな妄想厨がいること。
信長自体は英傑だけど天下をとれなかったのも事実。
厨はそれを理解せず、指摘されると武田の話題に逃避する。
115人間七七四年:2012/06/23(土) 01:27:08.12 ID:5GDGhYRP
少なくとも家臣に殺されて
家を簒奪された信長は最低評価だろ。
116人間七七四年:2012/06/23(土) 02:39:35.65 ID:yCDzoVGD
厨はそこで武田を引き合いに出しますw
117人間七七四年:2012/06/23(土) 02:39:58.99 ID:uvdTShhy
49歳で畿内しか確保してないから統一はしても海外はいけねーよなー
118人間七七四年:2012/06/23(土) 02:42:37.76 ID:pWgYgTFU
信長が最低評価なら
その他大勢の屑大名は評価にすら値しないって事になるけどな
信長が最高評価でないと成り立たないのが戦国時代だよ
119人間七七四年:2012/06/23(土) 02:49:13.14 ID:yCDzoVGD
いや、信長は最低とは言わないが最高ではない。
部下に殺されたのは減点でかすぎ。
120人間七七四年:2012/06/23(土) 06:51:02.62 ID:wdHVoxdJ
>>117
広い畿内だなw
121人間七七四年:2012/06/23(土) 08:32:21.90 ID:6HtTLQ3l
そもそも信長は海外勢力と直接つながったことは一回もない。南蛮船も見たことがない。
いわゆる南蛮船が寄港するのは九州までで、そこからは日本船に乗り換え、荷物の積み替えが行われた。
122人間七七四年:2012/06/23(土) 13:38:43.07 ID:1iPqBnuc
信長>超えられない壁>秀吉>家康>越えられない壁>その他大勢
という評価は揺るがない歴史的真実
123人間七七四年:2012/06/23(土) 16:12:07.96 ID:tQQ5Crhr
必死ですなあw
124人間七七四年:2012/06/23(土) 16:21:52.08 ID:6HtTLQ3l
せめて何が超えられていないのかを定義して欲しいところだ。
125人間七七四年:2012/06/23(土) 17:10:07.33 ID:1iPqBnuc
戦国時代は信長が頂点っつーのは認めるが
信長が宇宙一とかみたいなのはちょっとな
世界史的にみたらちっぽけな存在だし
126人間七七四年:2012/06/23(土) 17:40:28.87 ID:8Fj1KCDi
>>115
なら秀吉の死後早々子飼いの家臣に裏切られて滅亡した豊臣家は更に最低評価だな
127人間七七四年:2012/06/23(土) 17:49:58.31 ID:tQQ5Crhr
秀吉そのものは信長みたいなアホじゃないから裏切りを回避できたさ。
秀頼はアホかもしれんが力なさ過ぎ。
信長は世界を征服する力があるのに()生かせなかったアホ。
128人間七七四年:2012/06/23(土) 22:40:42.36 ID:Dv0ylSBr
武田厨によれば信玄は上洛できたのに生かせなかった
謙信も義とやらで領土欲もたなかったから小さな大名だった

おいおい、そんなキチガイじみた厨がいる大名ばかり馬鹿にして大丈夫か>>127
129人間七七四年:2012/06/23(土) 23:14:08.36 ID:yCDzoVGD
武田なんて雑魚は知らんがなw
130人間七七四年:2012/06/24(日) 23:37:28.29 ID:KqzebzKT
下克上されて家まで簒奪された信長は
長尾為景にすら及ばない。
131人間七七四年:2012/06/25(月) 06:27:33.44 ID:GQJ4ExFu
>>127
豊臣なんか簒奪どころか滅亡しちゃったから論外。
織田家はなんだかんだで明治まで大名として生き残ってるし。
132人間七七四年:2012/06/25(月) 06:28:37.86 ID:GQJ4ExFu
>>130
そんな越後の田舎大名持ち出してくるな
133人間七七四年:2012/06/25(月) 09:34:42.35 ID:J2cM59Xk
秀吉は天寿をまっとうしている。
秀吉死後17年後に豊臣が滅亡したからって
それが秀吉の責任とも思えん。

しかし上杉は30万石を維持したのに較べて
織田は旧主だからと、朝鮮出兵陣の壮大さを
見せびらかせたい秀吉に家を再興してもらって
滅亡からおこぼれ復興させてもらっただけの
大名ですらなく、コジキ衰微高家だもんなぁ。
織田信雄系→2700石
織田信高系→2000石
織田信貞系→700石
もう、目も当てられないわ。
134人間七七四年:2012/06/25(月) 09:53:19.82 ID:TCNRdCcJ
厨が、信長自身滅亡したのをスルーの件w
135人間七七四年:2012/06/26(火) 00:27:01.10 ID:D7zc5Hme
>>133
え、豊臣家が滅んだ一番の原因は秀吉だろ?
晩年は徳川にチャンスを与えたとしか思えない行いの数々じゃん。
136人間七七四年:2012/06/26(火) 02:27:14.32 ID:uDpSCFsf
秀吉は信長を反面教師にして早々に天下統一出来たけど、反面教師に
しすぎて豊臣家を滅亡させられるんだよな。。。。
137人間七七四年:2012/06/26(火) 03:45:28.25 ID:96hKZHZ7
反面教師にしたせいで外様に力をつけさせすぎた
138人間七七四年:2012/06/26(火) 06:38:39.96 ID:f9Lj7iB2
織田秀信が12万石を貰い
織田信包が3万石貰っているのをあっさりスルーするのがアンチのやり方
139人間七七四年:2012/06/26(火) 07:12:50.90 ID:M9KVMvzZ
それは信長滅亡と関係ないから
他の武将のことを書いても信長が本能寺で死んだ事実はかわらない
140人間七七四年:2012/06/26(火) 08:08:38.66 ID:brnI6XQj
滅亡と死亡の区別がついてない?
141人間七七四年:2012/06/26(火) 11:47:29.82 ID:M9KVMvzZ
死亡だと病没か寿命も入るだろ。
滅亡は今川義元や織田信長や武田勝頼みたいな戦死。
142人間七七四年:2012/06/26(火) 12:01:20.68 ID:uDpSCFsf
>>137
滅ぼされたから言うわけじやないけど外様に250万石なんて
ちょっと異常だろ。

後信長自身が外様にやられているにのそういうのは反面教師に
しなかったのかな。
秀吉の場合は譜代がいないから頼らざるおえない部分はあったんだろうけど。
でもやり過ぎだわな。彼自身自分の「人たらし」に自信持ちすぎたのかも。
143人間七七四年:2012/06/26(火) 13:05:25.42 ID:388BTvz+
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
144人間七七四年:2012/06/26(火) 13:11:43.65 ID:388BTvz+
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田・天正大地震による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに
これで母や妹人質に出す程雑魚ってどうしようもない
145人間七七四年:2012/06/26(火) 19:52:30.10 ID:M9KVMvzZ
秀吉の基盤があれだからな。
しかし秀吉がざこなら、小なりとも大名でありながら自軍まとめられなかった信長は糞虫。
146人間七七四年:2012/06/26(火) 20:05:21.16 ID:MT3lOy5r
>>142
というよりあの時点で旧北条領を安心して任せられるのが家康ぐらいしか
居なかったからだと思う。

家康が関東統治に成功したからこそ安心して唐入りをやれたわけだから失敗
というわけではないんじゃないかな。
147人間七七四年:2012/06/26(火) 21:11:48.01 ID:AlMxaE5z
滅亡の意味も分からない朝鮮人が必死になって朝鮮流の意味を喚き散らしているので日本で一般的に使われる意味を書いておく

滅亡
 絶えてなくなること

>滅亡は今川義元や織田信長や武田勝頼みたいな戦死。
馬鹿丸出しな解釈って哀れだ
戦国大名として絶えてなくなったのは武田勝頼のみ
織田家は勿論、今川家も氏真が跡を継いでいる
無知はこれだから困る
148人間七七四年:2012/06/27(水) 00:49:17.12 ID:MEZm0fpI
朝倉・浅井も滅亡してる?
149人間七七四年:2012/06/27(水) 01:57:38.10 ID:kSf7hEBT
>>146

でも結局その唐入りが豊臣家滅亡の要因になるんだからバカだよな。
150人間七七四年:2012/06/27(水) 07:18:45.00 ID:MEZm0fpI
秀吉は晩年に失点が多すぎ

朝鮮の役
秀次事件
151人間七七四年:2012/06/27(水) 07:59:02.95 ID:fAng4AtV
何でノブスレで猿の話してんの?
猿叩きしたって信長がカスなのは変わらないんですけど。
152人間七七四年:2012/06/27(水) 08:08:06.24 ID:MEZm0fpI
信長がカスなら有能な戦国武将は誰なんだ?
153人間七七四年:2012/06/27(水) 08:10:27.03 ID:MEZm0fpI
てか他の武将と比較しないと優秀かどうかなんて判断できないと思うが。
154人間七七四年:2012/06/27(水) 08:41:42.89 ID:zrrGgult
信長は勢力拡大ではトップだが、組織や体制の構築、新しい仕組みの形成では落第に近いな
155人間七七四年:2012/06/27(水) 13:47:03.92 ID:kSf7hEBT
>>154
擁護するならとにかく勢力拡大に主眼を置きすぎた弊害という事だな。
後信長は軍師とかそういった類の人間が一切おらず何から何まで自分
で決めてたから手がまわらんかったのかも。
156人間七七四年:2012/06/27(水) 16:38:31.47 ID:CrCfNKp5
155
一切いないとは思わないけど。
「信長は本当に天才だったのか」では上洛に関しては光秀が参謀だったとある。
157人間七七四年:2012/06/27(水) 19:42:17.80 ID:MEZm0fpI
秀吉は参謀・・・ではないよね?
158人間七七四年:2012/06/27(水) 20:19:17.51 ID:kSf7hEBT
丁稚だろ
159人間七七四年:2012/06/27(水) 22:36:41.41 ID:47cD1CHH
>>154
そうか?
徳川なんか三河を支配していたまんまで幕府を開いてるが

>>155
軍師って・・・
三国志に影響されすぎでは・・・

信長のすごいところのひとつは、配下に大軍を与え、その軍に口出しをしなかった所。
ま、それが仇になって本能寺の変になるわけだが、信忠までしぬのは信長としても誤算だったろうな。

武田信玄や上杉謙信は自分の後のことをまったく考えていなかったが、信長はちゃんと考えて
準備していたのに、あんな結果になるとはな
160人間七七四年:2012/06/27(水) 22:38:26.89 ID:47cD1CHH
信長の一番すごいところは、戦略戦術を理解していたところなんだけど
何故か、戦争が下手と思われてるのが謎。
161人間七七四年:2012/06/27(水) 22:59:21.37 ID:uUJukHAC
ワザとバカ発言してアンカー付きの返しを貰う事(すると手当て20円付きます)を
期待するピット狂うや餓亞螺のバイトでしょう。

シカトしてください。
162人間七七四年:2012/06/27(水) 23:50:19.20 ID:lTJA7/vW
なんつーか、司馬史観すぎるw
163人間七七四年:2012/06/28(木) 00:53:14.49 ID:sM4P0vMX
>>159

>信長はちゃんと考えて準備していたのに、あんな結果になるとはな

そうだね。自分が死んだ時の事はちゃんと考えていたけどまさか自分
と信忠が同時に死ぬ事になるなんて想像もしていなかったろう。

彼は自身が弟と家督争いをした苦い経験から跡継ぎの信忠と他の兄弟
をしっかり区別して育てたけど、それが逆に仇になって兄弟間の争い
を秀吉につけこまれた。

164人間七七四年:2012/06/28(木) 00:56:05.03 ID:T2pXtb09
>>159
軍師っつぅか助言役みたいなもんなら居たと思うよ
祐筆がそれだろ
165人間七七四年:2012/06/28(木) 05:00:30.00 ID:ALu89Iem
村井貞勝とか?
166人間七七四年:2012/06/28(木) 16:08:01.80 ID:T2pXtb09
有名なのは武井夕庵と楠木正虎?
村井はどうだっけ
167人間七七四年:2012/06/28(木) 17:18:08.68 ID:pQxQzAE3
信長を主人公にしたマンガや小説なんかでは、たいてい信長が
チート能力を発揮して勝つみたいの多い・・・
実際は、だまし討ちやら詭弁やらそうとう手段を選ばないエグい
事たくさんしてると思うんだが。
168人間七七四年:2012/06/28(木) 21:56:17.46 ID:T2pXtb09
そんなん信長に限った話じゃないわ
美化っぷりでは信玄と謙信の方がずっと酷いぞ
169人間七七四年:2012/06/29(金) 04:30:27.26 ID:0ibYUcCJ
信長は比較的ガチ戦争が多くね?
170人間七七四年:2012/06/29(金) 05:17:53.07 ID:HqEpRUfn
ガチも多いけどガチじゃないのも多いな
刀根坂みたいにチート臭いのもあるけど
171人間七七四年:2012/06/29(金) 10:51:20.87 ID:zUMX2ZWb
信長が美化されているというよりは秀吉家康といった本来の天下人が美化されなさすぎともいう。
家康は結構忍耐が強調されてキャラ立ってるけど秀吉は朝鮮のこともあって大体好意的に描かれない
172人間七七四年:2012/06/29(金) 11:44:12.31 ID:IWhKxUbi
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ

家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
173人間七七四年:2012/06/29(金) 11:50:16.61 ID:LpMQR0bH
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
174人間七七四年:2012/06/29(金) 11:54:23.94 ID:evTUzdJB
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね

175人間七七四年:2012/06/29(金) 12:29:36.54 ID:yOQha6A7
秀吉は戦に負ける特別な才能があるんじゃね

信雄や氏政、輝元でも勝てる相手なんてそうそういないだろうし
176人間七七四年:2012/06/29(金) 18:19:56.25 ID:zUMX2ZWb
昼間から御元気ですねだがさんw

徳川家が仇敵であるはずの秀吉を持ち上げるという謎の風評まで捏造してw
177人間七七四年:2012/06/29(金) 19:10:16.91 ID:yOQha6A7
信長の力を見抜き土下座外交を必死でした北条氏政が秀吉に従わなかったのは
秀吉の力のなさを見抜いてたからだろうな
運悪く周辺諸大名があっさり秀吉になびいてしまったが秀吉の天下がなあなあで形だけのものだった事は
秀吉が死んだだけで脆く崩れ去った事で裏打ちされてる
氏政は十分先見性のある武将だろう

秀吉の力を見誤ったんじゃなくて家康と伊達などの動向を見誤っただけ。

ぶっちゃけ秀吉の天下は圧倒的国力差と敵対勢力が別に抱えてた多くの敵を利用して
運だけで取ったようなもん。
実力でいえば相当無能な部類だと思う。関東でいえば小山、小田あたりにも負けそう

秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
178人間七七四年:2012/06/29(金) 19:23:51.80 ID:0ibYUcCJ
桶狭間の戦い 刀根坂の戦い 天王寺の戦い もうこれだけで信長は戦巧者といっていいよな
179人間七七四年:2012/06/29(金) 22:54:56.20 ID:jq2p4wr1
>>173
徳川時代の講談とかプロパガンダなんて哺庵の太閤記や豊臣秀吉譜やら秀吉マンセーばっかだしなあ
持ち上げられるのは仕方ない
実際徳川時代はアホみたいに過大評価されてたらしいし
180人間七七四年:2012/06/30(土) 18:24:11.66 ID:zpMkgvVy
某海外軍オタサイトだと信長の評価はパネーんだけど
ナポレオンが信長の半分の才能があればロシア征服
オットーマン滅亡、大英帝国降伏で世界の半分取れてたとか
181人間七七四年:2012/06/30(土) 18:30:58.74 ID:5eQHhM/Q
そんなキチガイを紹介されても困るわな
182人間七七四年:2012/06/30(土) 18:34:26.16 ID:C+bSkFee
>>180
具体的に信長のどういった才能のことを言ってるのか示してほしい。
ナポレオンも軍事の才能だったら信長に負けてないと思うが。
183人間七七四年:2012/06/30(土) 18:54:22.61 ID:UlqRhtAb
きっと部下を見殺しにする才能とかだな
184人間七七四年:2012/06/30(土) 19:12:56.48 ID:+LsU7zJs
マジメな話で信長とナポレオンがなんか似てると思われる点。
1、睡眠時間がやたら短い
2、酒飲まない
185人間七七四年:2012/06/30(土) 19:24:12.22 ID:5eQHhM/Q
>>184
ナポレオンは睡眠をとりまくったことと、どこでもいつでも眠れることで有名だった
信長にはそもそも睡眠時間に関する話なんて残っていない。

そして信長が酒飲まないなんてのは宣教師の記録にしかなく、実態は極めて怪しい。
186人間七七四年:2012/06/30(土) 19:39:41.67 ID:+1BlYlQE
>>182
軍事的才能のことじゃね。
187人間七七四年:2012/06/30(土) 19:53:56.32 ID:oQQsr8aq
信長は酒嫌いってのはよく見るな
そして相撲大好き
188人間七七四年:2012/06/30(土) 20:02:52.53 ID:+1BlYlQE
蹴鞠が廃れて、相撲がはやるきっかけは、信長の相撲好きらしいね
189人間七七四年:2012/06/30(土) 21:51:54.84 ID:ZZBUxJMG
>188

タニマチとか相撲の丸い土俵とかこれは信長が始まりと言われてなかったけ。

鵜飼の保護も信長がやり始めたんじゃなかったかな。後ハーブーの栽培も。

信長は戦国大名の代表みたいな所があるからどうしても武人のイメージ

が強いけど、以外と文化方面にも才能もあったのかね。
190人間七七四年:2012/07/01(日) 01:11:36.59 ID:nSxxGEDv
信長はナポレオンより曹操の方がダブるわ。
191人間七七四年:2012/07/01(日) 01:36:06.87 ID:KIbXmFfR
曹操もナポレオンも信長もぜんぜんキャラ違うっつーの
192人間七七四年:2012/07/01(日) 02:06:32.49 ID:x2lNap1J
どっちかってと孫策タイプ
193人間七七四年:2012/07/01(日) 04:08:18.31 ID:nRo/uZNm
相撲で優勝すると100石もらえるという・・・
194人間七七四年:2012/07/01(日) 04:40:30.91 ID:CEvprsmL
曹操よりは、信長のほうが戦争がかなりうまい
195人間七七四年:2012/07/01(日) 10:25:36.20 ID:KxrjUzET
一次史料や具体例を一切あげないで
妄想を事実のように語るのがキチガイ織田チョン。
196人間七七四年:2012/07/01(日) 10:40:00.11 ID:QdpEyQJL
挙げたところでソレは一次史料じゃないと独自定義を持ち出し
具体例をあげると妄想乙といい
そりゃお前の満足するような話できんよw
197人間七七四年:2012/07/01(日) 15:40:51.38 ID:CEvprsmL
>>195
信長の戦歴みれば一目瞭然だろ
198人間七七四年:2012/07/01(日) 15:54:59.69 ID:x6X9vTTx
>>197
信長公記をデタラメ扱いするキ印だから放置がベスト
199人間七七四年:2012/07/01(日) 18:01:11.46 ID:x2lNap1J
戦歴は嘘つけても領土は嘘つけないからな
200人間七七四年:2012/07/01(日) 23:04:05.99 ID:6rtagkHf
今日は本能寺の変の日。皆さん、どう過ごしましたか?
私は、東京人ですが、しっかり建勲神社へ行きましたよ。
201人間七七四年:2012/07/04(水) 23:28:16.93 ID:3CUNgUOD
>>199
慶長3年の”全国総石高1851万石”がうその件
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1208861130/l50
202人間七七四年:2012/07/05(木) 05:46:32.94 ID:C+cOl4Xe
>>201
慶弔3年の石高と信長は、何の関係も無いだろう。

と、ゆーか検地も役高を決める為の基準に過ぎないから
実際の収穫高と乖離してるしな
203人間七七四年:2012/07/05(木) 18:08:24.96 ID:vnfVH4eh
>>201
石高が違っても信長が領していた国の領土が広いのにはかわらんからな。
具体的には美濃尾張近江だけで超大国だし、ここに摂津や山城といった領土も多く加わる。
全国の主要商業都市と主要耕地をほとんど抑えてるんだからそれだけでもえげつない
204人間七七四年:2012/07/05(木) 20:08:17.39 ID:vpSM+lVa
それだけ恵まれていても天下獲れなかったのか
205人間七七四年:2012/07/05(木) 20:13:01.99 ID:vpSM+lVa

山城領有は、明智光秀様殿おかげ
摂津領有は、荒木村重殿のおかげ
尾張領有は、ほぼ父親の遺産
美濃領有は、ほぼ義父の遺産
近江領有は、六角家内紛と足利義昭様のおかげ

本当にえげつない運の持ち主だよな
206人間七七四年:2012/07/05(木) 20:15:37.58 ID:3OT9fwFk
そんな強運だから他の大名がどう逆立ちしようがかてねえな
207人間七七四年:2012/07/05(木) 20:28:08.09 ID:vpSM+lVa
信長の貢ぎ物攻撃は、すざまじいからな
屏風、屏風、マントの連続コンボとか、他の大名には多分無理だw
208人間七七四年:2012/07/05(木) 21:04:59.05 ID:o1Vs7S7e
面子にこだわって根回しもできんのはバカの証拠だな
209人間七七四年:2012/07/05(木) 22:49:49.94 ID:LrXF8Bg5
信長を過小評価すればするほど
その他大勢の糞大名がゴミ以下の存在になるだけなのになw
アンチは何がやりたいのか良く分からんわ
210人間七七四年:2012/07/06(金) 02:08:31.24 ID:mGi6VOyA
信長公があまりにも強過ぎで卑怯だって言いたいんだろ
本当は自分のおきにのゴミ大名が弱過ぎるだけと認めたくないんだよ
信長公の場合はまさに運も実力のうちを体現しているからなー
211人間七七四年:2012/07/06(金) 07:23:17.62 ID:eBGLik6j
そらおまえ、桶狭間の絶対的ピンチに余裕こいて敦盛舞ったり、
武田信玄の挙兵を受けて「謙信さん気をつけてね」と同盟者を気遣う余裕の持ち主だからな。

明智光秀の謀叛なんて実質敗北宣言みたいなもんだ、「正攻法で勝てないので不意打ちします」と即決したくらいだからな。
謀叛や離反を人一倍経験しておきながら余裕でピンシャンしている信長に「こいつ人間じゃねーな」と内心明智は恐怖を抱いていたことだろう
212人間七七四年:2012/07/06(金) 15:32:40.78 ID:YtKAdv8g
信長様の場合ほとんどの日本人が教科書通りに
桶狭間・姉川・長篠でカス大名共をフルボッコ
信長様が天下統一目前で死去→一家臣が主君の遺志を引き継ぎ見事天下統一
過大評価も糞もないですな
史実通りの天才的覇王
213人間七七四年:2012/07/06(金) 18:33:42.46 ID:og9EW6K/
>>211
>「謙信さん気をつけてね」

このノブさんすごい好きだわ。
よかったらソース教えてちょ。も少し噛みしめたい。
214人間七七四年:2012/07/06(金) 18:53:49.72 ID:mDRDjGmW
信玄は侍の作法も知らない悪逆非道のクズだから金輪際交渉しないって啖呵きってるやつじゃねえの
215人間七七四年:2012/07/06(金) 19:11:12.15 ID:eBGLik6j
>>213
1572年11月の歴代古案書状だったはず。
9月にも出してるけどこっちのは信玄のこととは違うかな。

>>214
元々向こうが頼み込んで和議結んだりしてたのに恩を仇で返した鬼畜だからな信玄は。
しかも仇で返した割には織田はおろか徳川すら満足に攻撃かけられずに死亡する無様っぷり。
寝返らせた徳川家臣は半年待たずして徳川に出戻りするという信用のなさ

一方の信長は東美濃遠山氏に親しかった延友佐渡守に対して
「おまえは岩村城が落とされたのによくぞ織田についてくれた」と本領をきっちり安堵して以降延友は織田家に忠誠を誓っていた。
216人間七七四年:2012/07/06(金) 20:17:20.75 ID:55l3+Ulf
>>211>>212
ネタなのか本気なのかよくわからないけど面白い
217人間七七四年:2012/07/06(金) 21:32:01.41 ID:M05eknuV
武田に攻められて謙信に泣きながら土下座外交かましてた情けない信長なら知ってる
218人間七七四年:2012/07/07(土) 01:11:05.45 ID:oRGP+ET2
>>212
信長は斎藤義龍、武田信玄、上杉謙信クラスには生涯勝てなかった。
しかも天寿すら全うできていないから天才とはとても言えないな。

小学校の教科書をいつまでも盲信するのはよくない。
219人間七七四年:2012/07/07(土) 02:09:03.46 ID:0Ky5t+cs
戦ってないんだから勝つのは不可能
220人間七七四年:2012/07/07(土) 02:16:17.94 ID:/jxJXIL2
戦するのがめんどくさかったんじゃないの?
221人間七七四年:2012/07/07(土) 02:24:24.48 ID:oRGP+ET2
たぶん戦するのが怖かったんだと思う
222人間七七四年:2012/07/07(土) 08:37:02.92 ID:pPMzIIJI
>>215
>>1572年11月の歴代古案書状
何月何日の誰から誰宛ての書状?
223人間七七四年:2012/07/07(土) 08:42:27.79 ID:waDGzT8a
戦するのにビビってたのは雑魚の斎藤武田上杉だろwww

「信長ごとき雑魚はいつでも倒せる」とホラ吹いてたくせに
何かと理由をつけて信長本領の尾張、岐阜、越前にすら入ろうとしなかった雑魚大名の集まりばかりw
クチだけは一丁前の癖にビビって何もできない臆病者www信玄に至っては信長への恐怖でくたばったんだろうなw
224人間七七四年:2012/07/07(土) 08:47:40.67 ID:Axjlbc90
>>222
十一月のってあるのが読めないのか?w
テンプレで煽ってるからそんな無様なことになるんだよw
225人間七七四年:2012/07/07(土) 09:25:04.27 ID:oRGP+ET2
>>223
どれだけ妄想しようと信長が、斎藤義龍、武田信玄、上杉謙信クラスに
生涯負け続けたのは事実だから。
人心掌握にも失敗してるし天才には程遠い。

むしろ2流が挫折と恐怖を味わいながら頑張った好例として尊敬するべきだと思う。
226人間七七四年:2012/07/07(土) 12:27:03.99 ID:arFD2Xlj
213だけど、
214、215、むちゃくちゃサンクス。
227人間七七四年:2012/07/07(土) 16:39:46.99 ID:0Ky5t+cs
>>226
信玄謙信とは一度も直接対決はない
228人間七七四年:2012/07/07(土) 17:06:41.98 ID:pPMzIIJI
>>224
返答から逃亡ですねwww
229人間七七四年:2012/07/07(土) 17:09:10.67 ID:xgOn2cFO
信玄、謙信が賢いのは急成長して怪物化した織田に真っ向勝負を挑まなかった事
両者は包囲網を上手く利用して漁夫の利を得ようとしただけの小心者にすぎない
直接対決してボロ雑巾の如くズタボロにされた武田勝頼は父親を見習うべきだった
限定された地域で勝てる戦のみに終始していた田舎大名と天下統一を視野に
入れて戦っていた信長を比べる事自体がそもそもの間違い
230人間七七四年:2012/07/07(土) 17:27:27.62 ID:oRGP+ET2
>>229
妄想を自信満々に語られてもw
前述の歴代古案書状にもあるとおり、信長が手取川と三方原でボロ負けしたのは事実。
231人間七七四年:2012/07/07(土) 17:30:19.92 ID:F7kWrWnG
天下統一を目指したかしらんが、あえなく部下に殺された事実は語らず他の武将の悪口を語る織田厨。
232人間七七四年:2012/07/07(土) 17:42:26.93 ID:oRGP+ET2
斎藤義龍、武田信玄、上杉謙信、長宗我部元親、毛利元就、宇喜多直家、尼子晴久、
島津義久、伊達政宗、北条氏康、徳川家康、豊臣秀吉、大友義鎮など、最盛期を
築いた大名達はみな天寿を全うしているのに、信長だけ部下に殺されている。

織田信長のリーダーシップに欠陥があったという事は、事実が示している。
233人間七七四年:2012/07/07(土) 17:50:11.68 ID:oRGP+ET2
>>211は結構いい線いっていると思う。

>謀叛や離反を人一倍経験しておきながら余裕でピンシャンしている信長
>こいつ人間じゃねー

残念ながら群れを率いる動物として完全に失格だった。
234人間七七四年:2012/07/07(土) 18:25:57.92 ID:7gWd+Kcj
>>むしろ2流が挫折と恐怖を味わいながら頑張った好例として尊敬するべきだと思う。
何気にいい事を言っていると思うよ

一生を賭して信濃・西上野・駿河がやっとの2流大名
信濃では弱小豪族に圧倒的兵力で挑みながら敗走w
駿河に至っては三国同盟を破り、嫡男を結果的に殺害、そこまでして
断行した今川攻めも徳川と共同という屁たれぶり
235人間七七四年:2012/07/07(土) 18:35:06.87 ID:eKhx/gy/
>>234
しかも駿河なんかは他の人が弱体化してくれた上、共同でどうにか落としただけだしなw
236人間七七四年:2012/07/07(土) 18:54:36.89 ID:0Ky5t+cs
>>230
そんな事実はない
だがの妄想
237人間七七四年:2012/07/07(土) 18:57:00.39 ID:Axjlbc90
>>228
ええ、煽りなぞに答える必要御座いませんのでwww
238人間七七四年:2012/07/07(土) 19:30:22.52 ID:SgenbRZX
>>230
嘘ばかりついているからみんなに嫌われるわけで
2chに一日中粘着していると馬鹿になるよ
もう手遅れだと思うけどね
239人間七七四年:2012/07/07(土) 21:28:42.38 ID:o7UkdFDA
天下をあそこまで纏めた織田さんを評価せずして誰を評価しろというのかw
240人間七七四年:2012/07/07(土) 21:33:49.75 ID:F7kWrWnG
その意味なら秀吉と家康しかいなくなるな。
問題は信長の実績以上に評価するアホがいることだ。
史実どおりに評価するなら文句はないよ。
241人間七七四年:2012/07/07(土) 21:46:42.45 ID:8JdJncL4
運と土下座で無駄に領土を広げたのと実力と勘違いしてるもんな
242人間七七四年:2012/07/07(土) 21:58:47.01 ID:F7kWrWnG
いや、少なくとも領土を広げた点は評価していい。
でも大半の厨は信長なら世界制覇とか、ファンタジーの信長でしか見てないからね。
ほとんどの織田厨はアンチリアル信長だと思うわ。
243人間七七四年:2012/07/07(土) 22:01:28.41 ID:o7UkdFDA
天下を纏める為には無駄だろうが有益だろうが領土を拡張していかざるを得ないのは自明の理。
244人間七七四年:2012/07/07(土) 22:03:30.67 ID:8JdJncL4
広げすぎて自滅したのが織田だろ
245人間七七四年:2012/07/07(土) 22:07:36.31 ID:F7kWrWnG
前半飛ばしすぎて後半バテたマラソンランナーみたいなもんだな。
246人間七七四年:2012/07/07(土) 22:14:47.21 ID:8JdJncL4
居城移動(笑)
247人間七七四年:2012/07/07(土) 22:23:45.21 ID:Dg0DVxJi
謀反はしゃーないやろ
子飼いの猿が天下取ってくれて
信長はんも草葉の陰で泣いて喜んでたはず
248人間七七四年:2012/07/07(土) 22:28:29.71 ID:SgenbRZX
>>242
>でも大半の厨は信長なら世界制覇とか、ファンタジーの信長でしか見てないからね。
>ほとんどの織田厨はアンチリアル信長だと思うわ。
それは織田厨も武田厨も同じだろうよ
信玄なら天下統一できたとかを本気で主張し続けるキチガイもいるしな

>>245
>前半飛ばしすぎて後半バテたマラソンランナーみたいなもんだな。
信玄の方は人生設計を無視した暴走ランナーみたいなもんだな
前半は鈍間の如く後半は義昭に唆されて身の程を弁えず大暴走

まあそれはさておき厨は所詮厨ということだ
都合の悪いことを無視して織田の悪口だけをぶちまけているのは如何なものかと思うぞ
249人間七七四年:2012/07/07(土) 22:30:45.21 ID:o7UkdFDA
そう、自滅はしたな。

が、統一事業の端を開いたのは偉大だぜ。

他の誰にそんなことが出来ただろう。
250人間七七四年:2012/07/07(土) 22:32:28.06 ID:8JdJncL4
信長が革命児とかは根も葉もない話だが
武田が天下とるかはさておき信長くらいは滅ぼしてたよ
同列に語るお前が厨だ
251人間七七四年:2012/07/07(土) 22:32:50.87 ID:o7UkdFDA
アンカー忘れた!
>>244-245
252人間七七四年:2012/07/07(土) 22:34:38.46 ID:o7UkdFDA
>>250
徳川も無理でしたねw
253人間七七四年:2012/07/07(土) 22:36:27.87 ID:8JdJncL4
統一事業?勝手に崩壊して後はハイエナ達が群がって勝手に統一しただけ
信長が攻め取った領土ももとはその大名が統一しといたもんだから偉大ってことになるな
254人間七七四年:2012/07/07(土) 22:40:32.41 ID:8JdJncL4
統一事業の端を開いたのは偉大だぜ

そんなの全国の大名に言えるなw 信長だけが偉大とかアホの極みだなw
255人間七七四年:2012/07/07(土) 22:42:05.73 ID:o7UkdFDA
織田さんだけが足利将軍に代わって「天下を統べてやろう」と発想して実行したのだよ。

有象無象の戦国大名とは次元がちょっと違う。異質とも言える。
256人間七七四年:2012/07/07(土) 22:45:02.57 ID:o7UkdFDA
全国の大名のどこが天下に覇を唱えようとしてるんだw

統一って云っても自国の内をだろ。

信長以前には皆無。
257人間七七四年:2012/07/07(土) 22:47:10.98 ID:ZBN31/Gp
うわぁ 今時珍しい重篤な織田厨だわ〜 戦国板初心者かな?
258人間七七四年:2012/07/07(土) 22:49:28.16 ID:o7UkdFDA
信長以前に足利将軍に代わって「天下を統べてやろう」と発想して実行した者が
いたら挙げてごらん。
自称玄人さんw
259人間七七四年:2012/07/07(土) 23:16:50.56 ID:F7kWrWnG
>>248

はあ?
武田厨の悪口は武田のスレでいうわ。
ここはノブスレだから織田厨を叩くだけ。
武田が天下どころか打倒織田すら無理なのは事実だから否定したことなんか一度もない。
260人間七七四年:2012/07/07(土) 23:21:50.78 ID:SgenbRZX
>>259
織田厨しか叩けないんだろ?
厨丸出しだな
261人間七七四年:2012/07/07(土) 23:31:43.24 ID:F7kWrWnG
叩かれて悔しそうだな。
しかし残念ながら、武田厨叩いたのが先なんだなあこれが。
262人間七七四年:2012/07/07(土) 23:40:31.16 ID:SgenbRZX
>>261
別に悔しくもなんともないので気にするな
こちらが興味あるのはおまえが嘘ばかりついて哀れなところのみ
武田厨を叩いたのが先とか嘘ばかりついて楽しいか?
263人間七七四年:2012/07/07(土) 23:41:09.23 ID:6CNci6a/
アンチな俺でもさすがにダメ田チン毛が信長倒せてたとか
そんな荒唐無稽な妄想は垂れ流さないけどなw
俺は俺の敬愛して止まない武将が信長に虫けらのごとく
踏み潰されたからくやしくてアンチやってるだけ
264人間七七四年:2012/07/07(土) 23:43:13.19 ID:SgenbRZX
追加
ちなみにおまえは今日一日このスレで織田厨叩きで大暴れをしているわけだが?
265人間七七四年:2012/07/07(土) 23:48:41.17 ID:gLfmRUKv
>>263
信長公にとってはほとんどの大名が道端に転がる石ころみたいな存在だから
くやしがる事はないよ、潔く信長公の偉大さを認めれば楽になれるよ
266人間七七四年:2012/07/07(土) 23:56:12.29 ID:SgenbRZX
上杉、北条、毛利、長宗我部は織田に滅ぼされることなく生き残ったから織田と対等レベル
武田は織田に虫けらの如く陵辱されたので評価は斎藤、六角、朝倉、山名と同レベル
この評価が妥当だろう
267人間七七四年:2012/07/08(日) 01:50:47.40 ID:SD91iEVd
まーた武田厨が妄想撒き散らしてたのか

>>266
武田は信長公が最も労を要さずに滅ぼした雑魚大名
なので最低レベルである事は間違い無いと思われ
268人間七七四年:2012/07/08(日) 15:12:13.92 ID:HzSNf57R
滅亡寸前に追い込まれて泣いてたのが信長だろ 信玄公が死んでから十年も手を出せず
自分も後追い滅亡したカス織田
269人間七七四年:2012/07/08(日) 19:05:03.52 ID:fB6JWtwT
糞田舎で貧乏な甲斐信濃より都会で裕福な機内を優先するのは戦略として当然だろ
だがはバカか?
270人間七七四年:2012/07/08(日) 19:43:11.83 ID:ga78vRnd
まぁ1万しか動員できずに
家康への救援にも失敗し
岐阜城でビビッて震えていたのが信長だからな。
信玄や吉川元春に東西から挟撃されて死亡する運命だったが
信玄が発病して死んだから助命されただけ。
追い詰められキチガイ化のあまり京を放火略奪虐殺しまくって
天皇を脅してまで義昭との講和斡旋をお願いしてた信長w
271人間七七四年:2012/07/08(日) 20:22:17.67 ID:F4EycRss
でも、信玄さん、家康すら殺せてないじゃんw
信長だったらきちんと追撃して息とめてるんじゃね?
272人間七七四年:2012/07/08(日) 20:39:04.17 ID:FTzqSx4S
信長は信玄よりは上だろ
ただし天下人の器ではなかった
273人間七七四年:2012/07/08(日) 20:44:33.17 ID:6GKfjyod
天下人っつうかヤクザの親分
274人間七七四年:2012/07/08(日) 20:48:05.70 ID:NS02K9E5
甲斐のゴミカスなんて持ち出されてもね〜
信長公は徳川だけで十分抑えられると思ったから
大した援軍も送らなかったんじゃねーのか
実際徳川に半年以上も完全に抑え込まれてたし
徳川も潰せない、朝倉も出て来ないで発狂して
死んだんじゃねーのか、チキンビビりの屁たれホモは
275人間七七四年:2012/07/08(日) 20:52:47.84 ID:8jK7yJMz
半年以上も侵略されまくってた雑魚織田が偉そうにw
朝倉が出てこないでも武田に決戦も挑めないチキンヘタレガチホモだろ
尾張の糞味噌野郎は
276人間七七四年:2012/07/08(日) 20:56:30.22 ID:8jK7yJMz
あ決戦はしてたか 三方原で織田は完敗してるんだもんな
もはや戦いを挑めるような状態じゃないかw
277人間七七四年:2012/07/08(日) 20:59:52.08 ID:PwhqSfqt
わざわざゴキブリを除去するために会社休むバカはいない
会社行ってる間にバルさんでも焚くか、業者にでも頼むか
つまり武田はゴキブリ程度のプライオリティってことだ
278人間七七四年:2012/07/08(日) 21:01:23.93 ID:GjbJs1SG
変な妄想語りだすなよゴキブリ織田厨
279人間七七四年:2012/07/08(日) 22:03:58.22 ID:F4EycRss
>>275
信長:ほっといたら帰るし、放置で欲ね?
280人間七七四年:2012/07/08(日) 22:44:27.44 ID:FTzqSx4S
すぐに武田とのからみを持ち出すけどさ。
武田に勝ったのは事実だが信長自体も負け組だと理解したらどうだ?
281人間七七四年:2012/07/09(月) 08:43:15.52 ID:q/JpRxNM
別に武田がすぐ「織田ガー織田ガー」って言ってくるだけで
長宗我部も北条でも今川でも朝倉でも三好でもいいよ。
評価としては概ね>>266と同程度

S:徳川家
==========長期政権の壁=====================

A:豊臣家
==========天下統一の壁=====================

B+:織田家
B-:島津家 上杉家 毛利家 伊達家 佐竹家
==========天下有数の大名、江戸期存続の壁============

C+:三好家 北条家
C-:長宗我部家 北条家 宇喜多家 龍造寺家 
==========戦国大名ながら滅亡した諸行無常の壁==========

D:今川家 武田家 朝倉家 六角家 細川家 山名家 大内家
==========守護大名の癖に下克上の波にのまれた先代不幸者の壁===

武田は立場もわきまえず噛みつくから常にボコられてそれが目につきやすいだけ
282人間七七四年:2012/07/09(月) 08:44:15.39 ID:q/JpRxNM
北条2つはいってたわw
283人間七七四年:2012/07/09(月) 19:19:04.39 ID:Vnt4ebII
「家単位」で評価するのなら、
室町末期だけ一瞬光った織田、豊臣、徳川、毛利、長宗我部などと、
平安末期から多くの政権下を戦い抜いた佐竹、武田、宇都宮、小山などとを
同列に語るのはアンフェアだと思う
284人間七七四年:2012/07/09(月) 20:17:52.61 ID:Wxru1EFf
と言われてもここは戦国板であって・・・
やはり信長公の偉大さは揺るぎようの無い歴史的真実な訳でして
信長公が天下統一の礎を築き、彼の家臣が天下統一を成し遂げ
彼の一番の同盟者が太平の世を築いたという事実は普遍な訳ですし
285人間七七四年:2012/07/09(月) 21:43:57.26 ID:Vnt4ebII
>>284
戦国時代だけ見ても小山なんかギリギリまで凄い粘っている
細川の激闘は島津とは比べ物にならないくらい苛烈

「家単位」で語るなら権力を保持した期間もきちんと見て欲しい
286人間七七四年:2012/07/10(火) 03:57:09.10 ID:Lop8Akba
権力を保持したって言ってもほとんどの家は酷いもんだぞ。
確かに今川、細川、山名、大内あたりは室町期でも名家の1つだが
武田に至っては同じ甲斐源氏の跡部や穴山、小山田に専横され続けて
ようやく武田で落ち着いたのが武田信昌の時で、この後武田の内ゲバが続いて
結局宗家に権力が統一されるのは信昌孫で信玄父の武田信虎の時。

室町までを考慮したら、武田は余裕でEランクいくんじゃね?
287人間七七四年:2012/07/10(火) 09:26:40.18 ID:FL6nG7mk
内ゲバは問題無いんじゃない?
平安〜明治までなら、佐竹が一番だな。
288人間七七四年:2012/07/10(火) 15:28:05.27 ID:Lop8Akba
佐竹ってそんな上に来るかね
主要勢力となった時期は一度もなかった気がするが・・・
289人間七七四年:2012/07/10(火) 17:50:54.26 ID:jyawubNi
武田はその初代が源頼朝に散々翻弄されてるからスタートからして危うい
290人間七七四年:2012/07/10(火) 19:12:04.69 ID:QPNerM/m
>>283
毛利の祖は鎌倉幕府創設に多大な貢献をした大江広元なんだが
291人間七七四年:2012/07/10(火) 21:18:12.95 ID:FL6nG7mk
>289
そういえば3代目・佐竹秀義も頼朝に翻弄されているんだよね
292人間七七四年:2012/07/10(火) 21:21:25.16 ID:FL6nG7mk
>288
領土と時間の面積で評価すればおそらく、、
293人間七七四年:2012/07/12(木) 03:14:50.10 ID:DqV1156Q
>>290
家単位だから傍流の分家は別の家だろ
294人間七七四年:2012/07/12(木) 06:55:36.45 ID:ZhO/vJec
それを言うなら佐竹も傍流の分家が乗っ取ってるな
295人間七七四年:2012/07/12(木) 18:49:39.78 ID:DqV1156Q
乗っ取りは「家単位」だからプラスでもなければマイナスでもないでしょ
家というハコモノに変化はないのだから
296人間七七四年:2012/07/14(土) 18:59:43.42 ID:lAVd8PGH
>>281
今川は高家として残ったじゃないか
297人間七七四年:2012/07/15(日) 00:19:53.30 ID:uowk1SXf
細川家 山名家も滅亡してない
上洛成功した浦上家や、有名すぎるくらいの赤松家、北畠家も居ない
298人間七七四年:2012/07/16(月) 10:35:35.98 ID:9RtVo5AX
>>296
高家なんて気休め程度の大名以下の存在だぞ。
織田家で言うなら大名になれなかった織田信高や織田信貞が入っている。
そんな織田家の当主でもない連中と同格程度とか今川の血統考えればむしろ恥。
299人間七七四年:2012/07/16(月) 10:37:22.97 ID:9RtVo5AX
>>297
室町細川家と肥後細川家は血統的には別の家
山名は大名ですらない。そもそも支流を辿ればいくらでも残ってる。
300人間七七四年:2012/07/16(月) 10:58:59.39 ID:J1lerIz2
>>299
細川幽斎はよく誤解されるけれど、
血統的な先祖の細川頼有は京兆家の出身であり、
血統的にも家的にも細川家で合っている
301人間七七四年:2012/07/17(火) 08:51:50.59 ID:7qmq1oKM
>>298
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。

山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は秀吉が婚姻させた秀忠の妻の江の哀願で信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
『高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった』信栄系に乗っ取られた。
302人間七七四年:2012/07/17(火) 08:52:59.63 ID:7qmq1oKM
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。

柏原陣屋      3万石未満    2万石とされる。 
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩
天童陣屋       1万石未満    2万石とされる。 
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。
芝村陣屋   1万石未満  9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。
柳本陣屋      1万石未満    まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩
遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。

文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長

つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるか不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりと「将」は斯波義将の偏諱なので斯波氏に仕えた証拠として
これが織田家の先祖なので
織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論を持ってくるものの
1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点で織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘されてる。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏
303人間七七四年:2012/07/17(火) 20:27:15.02 ID:8hwZaNDq
ID:7qmq1oKMは隔離スレ(武田信玄上洛成功part2)で暴れていろよ
304人間七七四年:2012/07/17(火) 22:06:15.71 ID:qzwpenLj
>>301-302
なんで話をループさせるんだよ

今川は高家→織田は高家以下→武田は〜→織田は〜(以下略)

これをずっと繰り返して楽しいか?お前は猿なのか?
305人間七七四年:2012/07/17(火) 23:18:45.99 ID:8hwZaNDq
>>304
猿ならまだ可愛いもんだ
重度なアンチ信長のID:7qmq1oKMは奇病の持ち主
相手にしても無意味だぞ
306人間七七四年:2012/07/18(水) 00:01:08.16 ID:5sa5EnK0
実は織田家の人間からも高家が出ている(織田信高系、織田信貞系)というのは
決して言ってはいけない禁句。幕末に報われた今川と違って
武田は家を乗っ取られた挙句そのまま衰退したというのはもっと禁句。
307人間七七四年:2012/07/18(水) 08:14:53.64 ID:3mc+QT1F
>>304
だがはサル以下だよ
308人間七七四年:2012/07/18(水) 08:54:45.93 ID:0sijoKFz
>>307
サルとかそんな高等生物と一緒にしちゃサルが可哀想だ
ミジンコにも劣る
309人間七七四年:2012/07/18(水) 21:17:43.57 ID:ZtQ/xzjL
猿なのかと言ったそばから織田厨>>306が、
見事に釣られててげんなり
お前らはここで死ぬまでやりあってな
310人間七七四年:2012/07/19(木) 02:42:51.26 ID:l8CStJaQ
だがさんちーっすw
311人間七七四年:2012/07/19(木) 06:40:36.49 ID:wHJ6RKs1
織田は高家旗本から降格して
ただの旗本になっただろ。
江と秀忠の縁が消えた家光時代には、
織田なんてカス扱いになってるわ。
312人間七七四年:2012/07/19(木) 14:47:17.88 ID:4zFxHj+u
信長が最も恐れた男は誰なのか?
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1342669094/
313人間七七四年:2012/07/19(木) 15:16:08.71 ID:l8CStJaQ
>>311
その頃の武田は高家旗本ですらないけどなw
武田家が高家旗本になったのは信玄から数えて5代目の信興の時
西暦に直すと1701年からで、たまたま仕えていた主君が徳川綱吉お気に入りの柳沢吉保だったからだけw
314人間七七四年:2012/07/19(木) 20:38:41.91 ID:dJAPL/ak
>>313
だがさんちーっすw
315人間七七四年:2012/07/19(木) 22:52:06.83 ID:frVDzLoQ
アスペルガーだがは313じゃなく311の方だろ?
無知丸出しの痛々しい文(>>311)を見たら一目瞭然。
316人間七七四年:2012/07/20(金) 06:59:19.82 ID:we6XbcIa
家康が穴山の息子が早逝したために武田の名跡が絶えるのを
惜しがり、息子の信吉を穴山の妻の養子として継がせ
武田旧臣を集めて武田信吉として再興させてるだろ。
水戸徳川25万石の前身であったが早逝により断絶したが
名門武田ブランドの魅力と惜しさから柳沢の後見によって
甲斐に領土を与えられ信興の信玄次男系が再興し
信玄次男竜芳系として高家武田は現在まで繋いでますが。
武田の不幸は穴山嫡男にしろ、信吉にしろ早逝してしまったり
信玄次男の血統が大久保事件の政争に巻き込まれたこと。
そもそも祖先を祀ることが忠孝とされ血の継続ではなく、
家をつなぐことが重要視され養子を入れることが当たり前だったのに
純血主義など持ち出してバカじゃねぇの。
純血なままの藩なんて滅多にないわw
だいたい血で言うなら信長の曽祖父からしてまったく不明じゃねぇかw
断絶に関しても北畠信雄なんて秀吉と家康によって
2回も改易による断絶を喰らってるしw
しかも秋田へ流罪&強制出家&付き人は小姓1人までとかw
関が原でも改易され、生活苦から大坂城で扶養家族化する始末w
秀吉が婚姻させた江と秀忠の関わりがあったから
北畠信雄系は消滅せずに済んだだけ。
武田家は四位中将と言う譜代筆頭井伊家と同列を維持してたし
(これより上は御三家や前田家くらいしかいない)
名門ゆえに儀式作法の顧問報酬でぼろ儲けしてたしな。
ド貧困で領民を地獄の悪政で苦しめていた織田陣屋とは生活レベルも家格も違うわw
317人間七七四年:2012/07/20(金) 18:25:24.14 ID:3j7FzVJt
穴山が死んで関東入封の際に用済みと言わんばかりにあっさり松平姓に戻された松平信吉と
柳沢家徳川家から武田と縁もゆかりもない人間を雇って信玄の遺徳(失笑)状態になってた高家武田家がなんだって?w
318人間七七四年:2012/07/22(日) 10:12:19.81 ID:lx3+DRtu
>>317
>>関東入封の際に用済みと言わんばかりにあっさり松平姓に戻された松平信吉

おい一次史料のソースまだかよ。
ここ以前にもお前が聞かれて答えられず誤魔化してた挙句に
wikiの丸パクと指摘され逃亡したとこじゃないかw
319人間七七四年:2012/07/22(日) 10:14:22.37 ID:X/rlReDy
だがが暴れるほど武田の惨めさが浮き彫りになるな。
320人間七七四年:2012/07/22(日) 21:54:22.03 ID:kEBlj8PM
>>関東入封の際に用済みと言わんばかりにあっさり松平姓に戻された松平信吉
なんだデマか
うっかり信じかけた
321人間七七四年:2012/07/22(日) 22:22:56.22 ID:+/L8MCg1
プププwwwww
悔しくて適当に捏造しただがちゃんwww
水戸市史や藩翰譜も隠ぺいしたんだねww

悔しがりついでに教えておいてあげる、
武田信吉ってね、「武田信吉」って名乗ったことないんだw
「武田万千代」「武田信義」が名乗りで、信吉の時点で「松平」なのねw
同名の「松平勘四郎信吉」(松平信一の養子)と区別するために「武田信吉」って呼ばれてるだけww
322人間七七四年:2012/07/23(月) 11:19:35.84 ID:z5e4np2F
だがはスルーしとくとして

そういや信吉はなんで松平を名乗ってるんだろう?
忠吉は東条、忠輝は長沢を継いだから松平を名乗ってるが
信吉の理由はなんなんだろう。
323人間七七四年:2012/07/23(月) 13:03:35.50 ID:WZvVHINJ
初歩的な質問。そもそも何を持って正式な名乗りとしてるの?
例えば加賀前田家なんかは松平の苗字をもらっていて記名する時は松平官職名なんちゃらってするでしょ?
前田と名乗る時ってどういう時?
324人間七七四年:2012/07/23(月) 13:46:56.69 ID:Wex6SwRW
そもそも松平信吉(家康子息)が存命の頃は御三家なんてなかったからな。
後継者の徳川秀忠以外は皆松平姓を名乗っていたはず。
325人間七七四年:2012/07/23(月) 15:00:37.16 ID:z5e4np2F
御三家そのものが家康存命時には存在してないけど
慶長11年に元服した義直と頼宣は最初から徳川姓だろ。
326人間七七四年:2012/07/23(月) 15:48:53.01 ID:Wex6SwRW
信吉は1603年死亡だからその頃にはもう生きてないよ
327人間七七四年:2012/07/23(月) 18:57:27.04 ID:RbQ8i25d
>>322
いわゆる御三家構想がなかったとか、徳川をばら撒いて価値を下げるよりは松平の上位に徳川を据えて神聖化?するとか
328人間七七四年:2012/07/23(月) 23:21:33.78 ID:z5e4np2F
>>327
それなら義直とも頼宣に徳川を名乗らせないだろう。

忠吉、忠輝は他の松平家に養子に出してるから納得できるとして
わざわざ武田を継がせた信吉だけ徳川じゃなくて松平に戻す理由が無い、

>>329 が書いてるように他の大名に松平の性を下賜したパターンと同じで
武田性を捨て去った訳では無いと言うのが妥当じゃなかろうか。
329人間七七四年:2012/07/24(火) 19:50:05.57 ID:xjcMkOkc
>>328
それだと御三家が特別という事にならないから
将軍家と御三家が別格という位置づけなんだろ
根拠はと聞かれても、俺の思い付きだがな!

ばらまくってのは羽柴姓豊臣氏みたいなモノだろう
じゃなくて、取捨選択して一定の思想理念の下に与えるという事は、ばらまくとは少し違うと思うぞ
330人間七七四年:2012/07/24(火) 22:24:49.38 ID:rok03Gjh
>>329
御三家なるものは家康の生前には存在してないから無意味だよ。
つーか、松平も羽柴よりマシな程度で国持の外様には大抵、授けてるぞ。
331人間七七四年:2012/07/24(火) 23:34:21.73 ID:xjcMkOkc
>>330
家康のというより、徳川家としての政策なんじゃね
将軍を頂点にいわゆる御三家を配して、その下に親藩やら譜代やら
あと少し勘違いしてるけど、松平を問題にはしてないよ
豊臣と同じように松平もばら撒いてる、問題は徳川だから
332人間七七四年:2012/07/25(水) 08:03:04.29 ID:yz5GR6yB
>>321
>>信吉の時点で「松平」なのねw
一次史料のソースはまだなの?

>>同名の「松平勘四郎信吉」(松平信一の養子)と区別するために「武田信吉」って呼ばれてるだけww
誰がそう主張してんの?
ひょっとして、またwikiの丸コピですかw
333人間七七四年:2012/07/25(水) 10:29:13.04 ID:HOEUQvoT
織田厨にソース要求しても無駄…
334人間七七四年:2012/07/25(水) 16:38:56.87 ID:JoJnw8Q+
水戸市史や藩翰譜ってさっきから言ってるんだけどなw

せっかくだから聞き返してやるよ、「武田信吉」だって示している一次史料は何?w
まさかWikipediaで松平勘四郎信吉と区別して「武田信吉」と表記させられているから
「武田信吉に決まっている」なんて妄想飛ばしているわけじゃあないよね?w
335人間七七四年:2012/07/25(水) 23:50:17.78 ID:W+x7zLVF
アスペルガーだがは都合のいいように改竄したソースを提出することだけが生きがい
無様すぎて痛々しい
336人間七七四年:2012/07/26(木) 05:31:16.73 ID:hIBtMfOW
瑞竜山にある信吉の墓はどうなってるんだ?
あれなら二次史料より成立早いだろ
337人間七七四年:2012/07/26(木) 21:19:14.49 ID:WslD/9b1
>>334
水戸市史のどこにあるのか詳しく説明してくれ。
338人間七七四年:2012/07/26(木) 22:47:08.94 ID:h2+aL9Z/
水戸市史の中巻1の序盤にいくらでも書いてあるわw
おまえは話はぐらかす暇があったら武田信吉名義で
信吉が活動していたと言う史料をさっさと出せよw
339人間七七四年:2012/07/27(金) 09:06:05.41 ID:pF2sr1Pu
>>338
へっ?ここのレス内容に準ずるような該当するような内容はまったく書いてないが???
340人間七七四年:2012/07/27(金) 18:01:30.76 ID:Ks6PXigE
はいはい妄想乙w
いいからさっさと武田信吉名義で活動した史料を出しましょうねw
341人間七七四年:2012/07/27(金) 20:30:50.32 ID:S0avd1OX
>>339
この程度見つけられないって・・・
ちゃんと学校でたの?
342人間七七四年:2012/07/29(日) 09:59:20.85 ID:A3FfxpWO
信長が甲斐の大名でスタートしたら相続直後に黒人衆に内乱起こされまくって今川に攻め込まれてアボーン
343人間七七四年:2012/07/29(日) 10:25:37.57 ID:FidQsQsr
>>342
>黒人衆に内乱起こされまくって
信長は弥助に忠誠を尽くされるほどの人物だからそれは無いな

>今川に攻め込まれて
甲斐版桶狭間が起きるだけ
344人間七七四年:2012/07/29(日) 21:39:30.06 ID:Cd0wF1Bi
父ちゃんが土台を築いてくれてたからな。
逆に信長にそういう土台を築けるかは微妙な気がする
345人間七七四年:2012/07/29(日) 22:45:53.60 ID:0w6CjaPo
>>343
ちょっと感心した
346人間七七四年:2012/07/29(日) 23:31:55.33 ID:gFH+nK7P
クロンボにまで手を出すクソホモ長w
347人間七七四年:2012/07/30(月) 08:58:48.80 ID:4eL8CGBj
黒人は巨根だしな
348人間七七四年:2012/07/31(火) 09:55:05.98 ID:n0BUyEmU
509 :日本@名無史さん:2012/07/28(土) 20:48:41.35
圧倒的兵力差がないとまともに正攻法で勝てない糞雑魚織田軍w
正規軍では無い百姓に弟親族多数討ち取られるw
卑怯な騙まし討ちしか出来ない(北畠、伊勢長島、岩村城etc.)
講和に応じる振りして牛蒡丸を返してやるとまた手の平返しの糞外道
349人間七七四年:2012/07/31(火) 19:24:11.65 ID:8ZLIfgxd
砥石攻めで武田軍7000が村上軍500(城兵)にコテンパンにぶっ殺されたね
横田高松とかカンペキに犬死だったな
しかも武田軍兵士を殺されるだけ殺された挙句小城1つ落とせず後詰の村上本軍が到着
大混乱の武田軍は村上軍の挟撃を受けなす術もなく嬲り殺されていたね
君が大好きな武田軍が見事な負けっぷりを披露したことも覚えておこうね
350人間七七四年:2012/08/01(水) 07:22:41.04 ID:60jHFT+3
武田は戦争するたびに毎回武将クラスが誰か死んでる
勝ち戦ですらこのザマだから救いようがない。
三方が原はまさに奇跡の戦績だったともいえる
351人間七七四年:2012/08/01(水) 07:30:42.20 ID:ONKs8U/g
>>350
内容もアレだが、既に信長と無関係じゃねーかw
352人間七七四年:2012/08/01(水) 08:36:32.42 ID:0McU+tzN
コンプの塊でなぜかすぐ武田の話に摩り替える哀れな織田厨w
353人間七七四年:2012/08/01(水) 09:15:20.60 ID:e6myOOab
高等指揮官が最前線で指揮を執るかどうかで
武将死亡率は大きく変化する。
つまり武田は最前線で勇敢な武将が状況に応じて指揮する裁量権があると同時に
最前線から本陣への逐次の戦況情報報告が達成できるために
指揮武将が本陣から遠く離れることに問題が生じない軍事組織だったのがわかる。
354人間七七四年:2012/08/01(水) 10:55:22.70 ID:60jHFT+3
遠く離れて死んでいれば世話ないなwww
織田で武将クラスが死んだのは劣勢だった戦いばかりで
最終的にはそれらも勝っているのがほとんどwww

長篠みたいに味方が死んで死にっぱなしの雑魚武田と一緒にしてもらっては困るw
大友や今川みたいな戦国ド底辺大名と没落組同士だべってろw
355人間七七四年:2012/08/01(水) 11:28:28.75 ID:e6myOOab
>>354
>>長篠みたいに味方が死んで
どの武将が長篠で死んだって?
一次史料で返答してくれよ。
356人間七七四年:2012/08/01(水) 11:50:46.12 ID:60jHFT+3
山県土屋真田河窪・・・挙げればキリがないよ?w
まあ話はぐらかしたいんだよな?長篠は雑魚武田最大の汚点だものなw
357人間七七四年:2012/08/01(水) 11:52:20.92 ID:e6myOOab
>>356
で、一次史料による根拠はまだなのかい?
358人間七七四年:2012/08/01(水) 11:56:51.31 ID:60jHFT+3
一次史料の定義もわかってないアスペwww
359人間七七四年:2012/08/01(水) 17:59:54.86 ID:zZuKPkZU
>>357
武田氏関連の本読めば書いてあるよ
蛆素性のわからないネラーの言より信用置けるだろ?
360人間七七四年:2012/08/01(水) 18:19:59.93 ID:EClukO04
>>358
一次史料が同時代の日記や書簡といった類の者だって解らない事を直接指摘しないとだめだぞw
361人間七七四年:2012/08/01(水) 21:50:12.75 ID:lZ4xhNel
>>354
>没落組

織田の事ですね、よく分かります
362人間七七四年:2012/08/01(水) 22:49:43.53 ID:GggBbqF5
>>361
武田は滅亡組だね わかりやすい結末だ
363人間七七四年:2012/08/02(木) 06:58:57.10 ID:3Q7O8lcU
2回も改易滅亡を喰らったが江が秀忠の嫁だったからおこぼれ復興させてもらった無能信雄w
364人間七七四年:2012/08/02(木) 07:27:22.15 ID:yG1gSm1R
滅亡した挙句元家臣の大久保に寄生していたのにその大久保ともども改易されついに大名になれなかった雑魚武田w
365人間七七四年:2012/08/02(木) 12:48:05.63 ID:kmeEmjxj
お前らなんで、さも自分の事のように争ってるの?家臣なの?
前世がそうだったの?
366人間七七四年:2012/08/02(木) 21:27:52.13 ID:cQGjNxrM
>>365
オレはトイレ板でTOTO派とINAX派が激しく罵り合っているのを見たことがある。社員でもないのに。

2ちゃんとはそういう場所だ。
367人間七七四年:2012/08/02(木) 21:35:37.75 ID:Szpun+CE
とある音楽がメロスピかパワーかゴシックかで言い合ってるのもあったな
368人間七七四年:2012/08/02(木) 21:42:59.99 ID:Ab/gKAo9
信長研究してる学者やら歴史研究家や小説家とかの本読んでると
なんか自分達が戦国時代なら信長と同じ発想したとか、同じ成果あげてる
みたいな表現なのが多い。
それゃ安全な時代と場所で妄想するのは小学生でもできるw
こいつら実際戦国時代に生きてたら3日も生き残れそうに無いなw
369人間七七四年:2012/08/05(日) 11:11:32.79 ID:zaJt+69H
>>368
例えばどういうのだ?
井沢とか?
370人間七七四年:2012/08/05(日) 12:42:20.80 ID:TYxXeh7T
井沢の本はどう読んでも、自分が凄い能力があって優秀だと思ってる
フシがある。
そりゃ知識があって歴史に詳しいだろうが、じゃ今の日本がどうすれば
良くなるとかの知能は正直怪しい。
371人間七七四年:2012/08/05(日) 12:48:01.89 ID:yAXPKXQK
井沢は別に歴史にも詳しくないんだが
372人間七七四年:2012/08/05(日) 16:14:02.19 ID:BPMOB/Pc
あいつの本職は小説家だよ
司馬遼太郎や山岡荘八と同じ畑
373人間七七四年:2012/08/05(日) 22:50:40.36 ID:hEtGlkW8
井沢氏は下手な歴史学者より歴史知ってるぞ
374人間七七四年:2012/08/06(月) 19:35:27.30 ID:IWBy3ccG
知ってねえよ。というか体系的な教育を受けてないから歴史の理解も解釈も素人にすぎん。>井沢

井沢の本はあくまでエンタメだからな。アレを読んで歴史を解った気になるなよ。恥ずかしいから。
375人間七七四年:2012/08/06(月) 19:59:03.06 ID:f6Dm4C0+
井沢とかさトンデモ本しか出してないじゃん。古文書も読めないんだとさ。
昔はNHKの歴史番組でコメンテーターもやってたが、今は完全に地上波から消えたか。
376人間七七四年:2012/08/09(木) 09:50:11.18 ID:yJzNgvzi
信長は公記に
「信長公が御狂いになった」などと二回ほど書かれている。
また正式な名前は織田欝三郎信長であり
信秀も欝な姿の信長を見てそう名づけたのであろう。
また第一の後見人を林佐渡(信長を見限り謀反)
第二後見人を平手中務(信長を見限り自害)
第三を青山三右衛門(加納口の戦いで戦死)
第四を内藤勝介(売筆家太田牛一から抹消された謎人物)
このように信秀が信長のために付けた補佐役も信長にあきれ果てる始末。


377人間七七四年:2012/08/09(木) 16:41:13.83 ID:hwfQbHdJ
当時から欝の概念があったのか
378人間七七四年:2012/08/12(日) 09:54:55.42 ID:D6vV5Lys
漢字が中国から伝わってきてんだからあったろ。
379人間七七四年:2012/08/14(火) 01:09:21.52 ID:MqmvPWzi
信長はクズだな
380人間七七四年:2012/08/14(火) 07:24:35.33 ID:7DjJ4SFy
そのクズが天下人になった事実
381人間七七四年:2012/08/14(火) 13:06:13.23 ID:Z4acIBnE
そしてそのクズが武田家を虫けらの如くうっかり滅亡させちゃった事実
信忠に虐めすぎるなと武田家に慈悲を示した事実
382人間七七四年:2012/08/14(火) 16:01:32.56 ID:MqmvPWzi
クズを極めれば天下人にもなれるし武田家もほろぼせるんだね。
さすがクズの中のクズ、キング オブ クズ信長だw
383人間七七四年:2012/08/14(火) 17:12:26.32 ID:Z4acIBnE
北条家、上杉家、毛利家、長宗我部家は織田家に滅ぼされていないけどな
速攻で滅ぼされた武田家が単純に弱いだけ
まあ信玄の領国経営が酷すぎたから無理もないがな
384人間七七四年:2012/08/14(火) 17:46:38.05 ID:0+quqvAW
北条上杉毛利はわかるが長宗我部なんて雑魚でしょ
病欠で秀吉を欠いた豊臣軍に一方的にボコられる情けなさ
本能寺がなかったら間違いなく織田にボコられて終了の雑魚大名
385人間七七四年:2012/08/14(火) 18:18:41.59 ID:MqmvPWzi
なるほど
武田は弱い上に信玄の経営が酷かったから滅んだんだ
それはお家が滅ぶよねw

同じように信長はみんなに嫌われてたから部下に叛かれまくって殺されたんだね
信長の肖像みてもヒステリックな顔してるもんねw
386人間七七四年:2012/08/14(火) 19:51:50.83 ID:xApTQJY2
北条は自分から織田に臣従しているし
上杉は景勝自身が「もう滅亡すると思う」て手紙で書いているから上杉も本能寺なかったら滅亡
387人間七七四年:2012/08/14(火) 20:08:34.59 ID:fctVNUNr
>>386
景勝が佐竹に送った書状だな。

実際、本能寺の頃だと魚津は落とされるし
鬼武蔵に乱入されてるし、そうとうヤバかったな。
388人間七七四年:2012/08/15(水) 11:15:26.84 ID:srawVXOY
たしかに信玄の経営はひどすぎた
とっとと義信に家督を譲っておけば武田家もこんな醜態を晒すことはなかった
389人間七七四年:2012/08/15(水) 12:10:47.97 ID:9TgzxfFa
>>388
信玄の経営が酷いものなら
甲斐国人達による謀反で要害山へ逃げる隙を与えず
躑躅ヶ崎館でぶっ殺されてるだろ。
それに悪政を自覚してるなら躑躅ヶ館を強化して城郭化してるはず。
躑躅ヶ崎館の姿こそ甲斐における信玄の政治を体現していると言える。
>>387
寝言は寝て言えよw
ただの平城の魚津城にあんだけ苦戦してんのに
越中最大の山城である松倉城をどうやって攻略すんだよw
登山道がひとつしかなく、400M上ったあとには
のろし台から四の丸。三の丸、二の丸と並べられているが、その間は10Mの深さで区切られている上に
攻略するには絶対に通過しなきゃならない
一本道しかない上に狭いし横懸かりの攻撃を受けつつ
1キロ近く攻略しないと本丸へたどり着けない。
しかも周囲には30ほどの砦や支城の跡も確認されとる。
景勝の書状は決死の覚悟を述べたもので、絶対に降伏せずに徹底抗戦すると言ってる。
松倉城を攻略したとしても高速道路ですら海の上に建造されたほどに狭い
親不知の難路をまず織田軍は通過できないだろうしな。
森なんて無謀に突撃して敗死する猪武者だろw
390人間七七四年:2012/08/15(水) 12:38:49.23 ID:srawVXOY
>>389
木曽、穴山、小山田が武田家を見限ったことも知らない素人が都合よくわめき散らしている
アスペルガーだがのいつもの戦術だね
391人間七七四年:2012/08/15(水) 12:48:34.29 ID:V3H+Nqid
>>390
だがは史実に適応できないから仕方ない。
392人間七七四年:2012/08/15(水) 13:37:25.35 ID:9TgzxfFa
>>390
はいはいそれは天正10年の話であって
信玄生前の10年後の話なのも知らんとかwwwアホぐぐるw恥を知れwww
しかも浅間山噴火し、武田滅亡の前兆と噂され国人が動揺してたことも黙殺かwww
393人間七七四年:2012/08/15(水) 13:44:42.18 ID:srawVXOY
>>392
妄想乙!
その嘘も飽きたよ
394人間七七四年:2012/08/15(水) 15:46:12.74 ID:SU8GdJ7a
まあまあ、例の日本誤訳でも読んで和んでください

年々三分?(二)相納申候、其残者致未進候、...
(たった三分しか税をとらなかったのか、 三分収めたら残りは納めることはない。 )
...彼屋敷御棟別ニ到退屈、逐電申候、同者棟別銭半分も御赦免候ハヽ、家をも造申、所も可到繁盛候、...
(棟別銭を半分にしてやったから 新築して繁盛しまくりって書いてあるから )

395人間七七四年:2012/08/15(水) 21:03:43.86 ID:yRpiHugx
389
躑躅ヶ館って堅い城だったんじゃないの?
396人間七七四年:2012/08/16(木) 08:43:58.00 ID:57inpfJC
たしかに信長の経営はひどすぎた。
織田厨も一切、織田の内政について語れない始末www
397人間七七四年:2012/08/16(木) 08:57:08.54 ID:YD/WOJgn
ソースは?
398人間七七四年:2012/08/16(木) 10:24:30.49 ID:OlTaw0KG
織田の内政は分国法ないから、
信長が気にいるか、気に入らないかだけで全てが決まるし、
施行してるのは恐喝、虐殺、略奪、恫喝だろ。
399人間七七四年:2012/08/16(木) 10:29:06.17 ID:D258qe7p
なわけねーだろ
そんなアホな統治したら武田みたいに
ちょっとやばくなったら速攻内部瓦解するわ
武田の信濃統治がまさに恐喝、虐殺、略奪、恫喝
400人間七七四年:2012/08/16(木) 10:29:50.31 ID:x+Y1f2uV
信長って尾張制定、美濃攻略、上洛までは普通の戦国大名なんだけど、
そのあとってひたすら宗教闘争に明け暮れたんだよね。
長嶋、金沢、石山はじめとする各地の一向一揆、比叡山焼き討ち

これをどう評価するかはともかく、後世に日本国内で宗教対立が起こらなくなったことも事実なんだよな。
信仰のためなら命を投げ出すことも厭わないみたいな狂信者が居なくなって平和になった。

もしこれがなかったら幕末の頃欧米の工作によって日本人が浄土宗対浄土真宗みたいに対立させられ、
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒に別れさせられて対立させられたインドみたいに植民地にされた可能性が高い。

秀吉や家康もキリシタンとの戦いを徹底したし。
401人間七七四年:2012/08/16(木) 10:32:35.72 ID:Jl+ksGQl
だがに取り合っても仕方なかろう
402人間七七四年:2012/08/16(木) 10:42:21.55 ID:OlTaw0KG
>>399
そりゃ大分県でも観察された浅間山超噴火が、
武田滅亡の天意とか噂が広まれば瓦解するわ。
信長なんて家臣の下克上で殺され、
すぐにまた別な家臣に織田家を乗っ取られ下克上されるという、
ダブル下克上されてんじゃん。
しかも下克上が頻発してたのは親の時代の話で、
時代遅れの下克上が成立する時点で、
織田の組織としてのいい加減さがよくわかる。
403人間七七四年:2012/08/16(木) 10:50:30.61 ID:OlTaw0KG
武田は分国法あるし、
晴信が違反したら訴訟するように書いていて
近代法治国家の最も重要な面を抑えてる。
これは他国の分国法にも無いこと。
この点からも武田が法治国家であったのが論証できる。
織田が宗教戦争とかバカじゃねーのw
自分に従う勢力じゃなかったから戦っただけだろ。
しかも天皇に通算三回目の土下座で、
勅命出してもらって、今までの本願寺と一揆たちの罪は一切不問とすると言う顕如に対しての事実上の敗北宣言してるし、
それでも従わない教如にまた勅命出してもらってんじゃん。
404人間七七四年:2012/08/16(木) 11:02:01.70 ID:x+Y1f2uV
信長が本願寺と講和したのって信長包囲網で全方位と戦うのは危険だからって理由じゃん、
個別の勢力としての本願寺に負けそうだったからじゃない。
本願寺だって信長からの講和の申し出は渡りに船だったから乗ったんだし。

いずれにせよ末端の信者を「戦死すれば極楽浄土に行ける」なんて洗脳して、
政治に口出ししていた宗教勢力政治から排除しようとして成し遂げた信長は、
政教分離という近代国家形成の礎を築いたよ。
405人間七七四年:2012/08/16(木) 11:08:13.39 ID:Lw4hctSJ
>>400
その側面はあるね。
当時の純粋な信仰者には同情はする。
いつだって宗教は権力者に利用され、末端の信者は使い捨てにされるんだよな…。
406人間七七四年:2012/08/16(木) 11:33:52.15 ID:OlTaw0KG
政教分離w
頭がわいてるとしか思えない基地外だな。
90年代のコーエー武将ファイル脳だな
407人間七七四年:2012/08/16(木) 11:43:50.52 ID:YD/WOJgn
ソースも無しによくこれだけ妄言が吐けるものだ
408人間七七四年:2012/08/16(木) 11:45:50.22 ID:x+Y1f2uV
信長は特定の宗教を禁止したことはない。
政治に介入してくる宗教勢力を徹底的に痛めつけ、排除したのだ。
武力での政教分離だろ。
409人間七七四年:2012/08/16(木) 12:10:47.84 ID:Jl+ksGQl
>>407
関わってもマトモな答が出てくる訳でもないから
スルーしときなよ
410人間七七四年:2012/08/16(木) 12:20:07.29 ID:x+Y1f2uV
ほら、新しいひとつの見方を提示されるとついて来られない。
おじいちゃんみたいな脳の持ち主はステレオタイプな当たり障りのないことしか付いて来られないんだよな。
まあ、そんなに突拍子もないことじゃないんだけど。
411人間七七四年:2012/08/16(木) 14:19:37.70 ID:IRlzi+HW
近代国家にしているはずなのに織田に対して勝ち星ほぼゼロの武田とは・・・
信玄すら家康とじゃれあってるようじゃ織田に勝てるわけがないな
412人間七七四年:2012/08/16(木) 21:39:32.92 ID:asIqHNLQ
>>402
>そりゃ大分県でも観察された浅間山超噴火
アスペルガーだが、無知すぎるし馬鹿すぎるし阿呆すぎるぞ!
日本一高い富士山でも大分県から見ることができないのに浅間山が見えるか?
日本人なら誰でも知っていることで嘘なんかついて痛すぎるwww
お前は今話題のチャンチョンだなwwwww
413人間七七四年:2012/08/17(金) 00:11:15.28 ID:bWl1RaMn
信長が政教分離とかアホだろ。
ただ単に自分に従った勢力は厚遇し
抵抗いた勢力とは交戦しただけだろ。
一向宗と戦っただけで政教分離なら
上杉も朝倉も北陸一向宗相手に
政教分離政策を実行していたことになるなwww
414人間七七四年:2012/08/17(金) 00:30:22.72 ID:HV8IVIR8
なるんじゃないの?
415人間七七四年:2012/08/17(金) 00:42:54.08 ID:IjNqp5C4
どうなんだろうなあ?
正確に言うとどうなのかわからないが、宗教勢力との関係性は政教分離というよりは一職支配とみるべきなんじゃなかろうか?
まあ、この辺の認識は自分も多分にあやふやで明確で無いので突っ込まれたらごめんなさいと言うしかないが。
416人間七七四年:2012/08/17(金) 08:07:55.12 ID:AKZIoAb7
>>415
それが普通の見方だと思う。
417人間七七四年:2012/08/17(金) 08:11:40.61 ID:t4iXJmk1
政教分離っていうのにもいろいろありましてね、
宗教による特権を認めないっていう厳格な政教分離を目指すケースもあれば
特定の宗派が一方的に力を持たないように国家が統御するというケースもある。

前者は主に現在の日本で、後者は主にイギリスやアメリカで行われている。
信長が政教分離をした、の意味で使われる「政教分離」は後者だな。
上杉や朝倉も「上杉家」「朝倉家」という国家の枠組みでは政教分離をしたということでもある。
信長ほど勢力範囲が広くなかっただけで。
418人間七七四年:2012/08/17(金) 18:15:05.78 ID:KFJLK1+m
政治に宗教の影響を排除するのが政教分離。
一方を牽制するために対立するもう一方の宗派を利用するのは宗教分離じゃない。
当時の日本は僧籍の助言者や、
武将が存在していたし、
キリスト教排除で信長に讒言してる者もいたし、
そもそも安土城からして内装や障子絵が宗教色が濃く、
総見寺などまさに織田政権の宗教性を物語るもの。
政教分離なんて夢物語。
419人間七七四年:2012/08/17(金) 19:23:50.33 ID:U2XhY8Jm
当時の知識層は坊主が多い、当然広範に支持されてたのでそれを侵攻する武将も多い
讒言しているものの思想と織田信長のそれとは無関係、装飾もそれまでの日本の文化見れば特定宗教の影響は当然受ける

特別に特定の宗教を優遇していたわけではなく、結果としてそうなっていただけ
海外の日本人町歩いて、日本人とよく会うからここは日本だと言ってるようなもの
420人間七七四年:2012/08/17(金) 20:58:59.55 ID:BGjsCREX
安土城の内装が伝えられている通りなら、完全に禅宗的世界観のかたまり。
信長が武家らしく禅宗世界に傾倒していたことの証明だな。
421人間七七四年:2012/08/17(金) 21:08:50.81 ID:IjNqp5C4
沢彦も臨済宗の僧だしね。
422人間七七四年:2012/08/18(土) 05:39:24.84 ID:m4cbYZwq
信長は一向宗と戦ったけど浄土真宗を禁止していない。
宗教を否定はしていないが、政治に関わる宗教勢力を叩きのめしただけ。
のちの秀吉や家康が禁止したキリスト教も認めてる。

桓武天皇は肥大化した奈良仏教勢力を嫌って平和的に長岡京に移ったけど、
武力と坊主を殺すことを厭わなかった信長は同じように宗教勢力排除を武力をもって行なっただけ。
結果、大きな排除ができた。

信長の宗教勢力の殺し方見れば一般勢力のそれと大きく違う特別な意志が見て取れるだろ。
423人間七七四年:2012/08/18(土) 07:51:28.99 ID:myRoHb7N
宗派に拘らず信長は宗教勢力が世俗的権力を持つことを嫌っていた
というより戦で何度も負けてて弟を殺されたり
息子が鎮圧できずに和睦したりしてるので
信仰の下に結束した民衆蜂起こそが最も厄介な敵だったのだろう

実際親分潰してハイ終わりな戦争にはならないし
宗教一揆というのは歴史通してメチャクチャ強い
424人間七七四年:2012/08/18(土) 07:58:41.94 ID:hlUERu++
信長は政教分離してないし、
無理やり西洋史観を日本の歴史に当てはめて
考えようとした愚かな90年代のコーエー信長マンセー妄想が発祥の愚論。
近代と近世を分けた政教分離とか論理飛躍が甚だしい気持ち悪さ。
425人間七七四年:2012/08/18(土) 08:08:12.56 ID:Zalg71zc
信長戦国歴史検定

http://www.kentei-uketsuke.com/nobunaga/
426人間七七四年:2012/08/18(土) 08:12:18.92 ID:9tbnVFGq
そもそも今の日本のような政教分離が稀なのに
その特殊思想な今の日本の政教分離を持ち出して
「信長は政教分離などしていない」とのたまうアスペ
427人間七七四年:2012/08/18(土) 09:01:11.28 ID:MIpC0RzW
その現代の政教分離の定義、最高裁のそれですら社会の文化を鑑みて支障が出ない程度の関与は認めてるんだけどな
428人間七七四年:2012/08/18(土) 11:28:02.19 ID:q5nYetVq
>>426
今の日本じゃなくても一般的な政教分離の定義から言っても信長は政教分離なんぞしてはおらん。
お前はそういう事も解からんのか。ああ、解からんだろうなあ。ゴメン、気の毒な質問をした。
429人間七七四年:2012/08/18(土) 16:16:43.41 ID:9tbnVFGq
>>428
ばーかw
一般的な政教分離=英米の政教分離なんだよw
そもそも政教分離はヨーロッパで生まれた概念で
日本に明確な概念が伝わったのは戦後。

しかも戦後日本の政教分離は日本独自の改変が行われ
本来英米欧で使われた政教分離とは全く別物だw

あ、もしかして政教分離の概念は日本が最初とか思っちゃってた?w
今の日本と違うから信長は政教分離なんてしてないニダとか思ってた?w
430人間七七四年:2012/08/18(土) 18:31:20.78 ID:myRoHb7N
人間50年の舞を愛好したり仏教勢力に対する容赦ない処断を鑑みれば
政策として政教分離を進めたというよりは
「宗教的善行が死後の世界で報われる」という
宗教一般の核心たる教義をまるで信じてなかったというほうが正しい

宗教一揆との対峙の仕方は山賊や無能な上自分に従わない者に対するものと大差がない
431人間七七四年:2012/08/18(土) 19:12:50.33 ID:3cCzjnjW
安土宗論なんてのもあったなあ。
432人間七七四年:2012/08/18(土) 19:45:53.85 ID:Lf7GV9LR
政教分離してるわけないだろ。
そんな程度で政教分離なんて言い出したら
細川、三好どころか
比叡山を全否定した足利義教まで
政教分離したことになるわw
433人間七七四年:2012/08/18(土) 20:11:27.05 ID:3cCzjnjW
中世においては宗教勢力を武装解除しある程度軍事的に無力化できれば、政教分離と定義しても個人的にはいいとは思うけどな。
勿論、現代日本における政教分離とはイコールではないけど。
434人間七七四年:2012/08/18(土) 21:31:46.54 ID:q5nYetVq
>>429
お前本当に日本語の読めない人間なのな。お気の毒に
435人間七七四年:2012/08/19(日) 04:41:35.09 ID:87Md5jRh
信長を持ち上げたいなら宗教一揆との戦いを政教分離と評価するよりは
楽市楽座と関所の撤廃を評価したほうがいい
100年200年後の江戸幕府の超エリート家老でさえ間違える経済政策を
アダムスミスの出現より200年も早く自由主義的にやってのけたというのは異常
普通は自分が支配したらその利益を自分のものにするところだが
撤廃や制限という手段をとったのは、民衆レベルで国を豊かにすれば巡り巡って自分も潤うという
経済観念を持っていたことは疑いようがない
436人間七七四年:2012/08/19(日) 05:18:42.36 ID:2fww4Mu+
>>435
だがは駄目だな。
信長の楽市楽座と関所の撤廃なんてのは誤解の最たるものじゃないか。
437人間七七四年:2012/08/19(日) 07:45:24.50 ID:n2BxsiHR
信長はむしろ既得権を持つ商人を保護する側だし、
楽市楽座なんて今川や斎藤がやってたもんで、
信長が美濃を攻略後に
それをやむなく追認しただけ。
438人間七七四年:2012/08/19(日) 08:26:11.56 ID:mbE3hXqN
また90年代の革命児信長wwwネタかよwww
馬鹿すぎ。信長は大名の中でもかなり古い体質。
守旧派なのは明白なのにwww
439人間七七四年:2012/08/19(日) 08:59:26.28 ID:rMrE476c
>>435
逆に言うと富の独占をしなかった事が信長・信忠死後の
織田家の凋落を招いたとも言えますね
世の中結局は金ですからねー
440人間七七四年:2012/08/19(日) 09:43:23.73 ID:YECCYDjF
>>439
馬鹿かお前は。一生井沢でも読んでろw
441人間七七四年:2012/08/19(日) 10:10:23.31 ID:n66HXidQ
マッチポンプを覚えたのかだがは
442人間七七四年:2012/08/19(日) 10:18:53.40 ID:McdwvzUe
連呼リアンがまたわいてるな
443人間七七四年:2012/08/19(日) 10:30:03.80 ID:2fww4Mu+
>>441
だがは、前からずっとこんな感じじゃね?
文体でバレバレなのに自分同士で罵り合うスタイル。
444人間七七四年:2012/08/19(日) 10:38:30.03 ID:teT8EsiN
昔のだがさんはIDの事を全然知らなくて
自演やりまくってたのが同一IDだったのでバレバレだった
今のだがさんは2ch慣れしてかなり手の込んだ小細工をするようになってるよ
445人間七七四年:2012/08/19(日) 10:45:45.11 ID:McdwvzUe
連呼リアンがまた独り言つぶやいてるのか
446人間七七四年:2012/08/19(日) 20:50:04.35 ID:A3CcxZt9
>>439
織田家ご用達の商人ひとりに数国の商売を委任したりしてるんだが・・・
447人間七七四年:2012/08/19(日) 23:52:58.87 ID:mWshF1gV
三傑とか言われてるけど秀吉・家康の踏み台だよね
448人間七七四年:2012/08/20(月) 00:25:33.66 ID:QICXekVO
それはあくまでも結果論だな。
449人間七七四年:2012/08/20(月) 00:27:38.00 ID:q8cpbLs7
家康の踏み台は無能の極み武田信玄だろw
目の上のたんこぶだった今川家を滅ぼしてくれただけでなく
遠江まで美味しく頂くことが出来ました^^v
450人間七七四年:2012/08/20(月) 02:10:12.01 ID:4v/R1zVf
ここは織田信長は過大評価スレなのに、やたらと武田信玄持ち出すバカがいるなw
↑にもちょうどいるしww
451人間七七四年:2012/08/20(月) 12:37:38.44 ID:6zEzZG1K
>>450
その代表的な馬鹿が無関係なスレに基地外の如く貼り付くアスペルガーだが
452人間七七四年:2012/08/20(月) 14:03:06.66 ID:LxWqWMUy
>>447
それを言うのなら秀吉もそうだろう。
織田家は小大名とはいえ一応お家は残ったけど豊臣家は滅亡だかなあ。
453人間七七四年:2012/08/20(月) 15:30:34.10 ID:UmmF38iS
そもそも踏み台って言っても特に家康は信長秀吉存命期にはこの2人に何もできなかったからな
信長秀吉が死んだあとにおこぼれを貰っただけと言う方が正しい。
おこぼれを貰うのにも才能がいるけどな
454人間七七四年:2012/08/20(月) 17:32:01.49 ID:LxWqWMUy
2人にとっては本当に光秀様様だよな。
気持ちとしては銅像でも建てたかっただろう。
455人間七七四年:2012/08/20(月) 17:39:09.31 ID:bmiWVBA0
光秀よりも戦国一雑魚だった武田に感謝すべきだろ
上杉並みに攻略に手間取ってたら本能寺も無かったからな
織田軍が挙兵した途端に滅亡だからなwww腹いてーーーー
456人間七七四年:2012/08/20(月) 23:33:44.80 ID:ibjS4/5y
>>454
伊賀越えで大ピンチに陥った家康は感謝しないと思う。
457人間七七四年:2012/08/21(火) 01:56:24.34 ID:EADKPGDZ
>>456
いや、でも、信長が死なないと家康の天下はないぞ。
458人間七七四年:2012/08/21(火) 02:44:43.97 ID:Fxw3KAbA
>>457
その時期別に天下を望んでもおらんしなあ。
459人間七七四年:2012/08/21(火) 06:44:21.16 ID:m5WzU5Sc
その後の家康と言えば、劣勢下で死闘の連続だしなぁ
460人間七七四年:2012/08/21(火) 10:46:12.08 ID:EADKPGDZ
>>458
最終的にという意味だよ。
461人間七七四年:2012/08/21(火) 11:19:16.74 ID:dNJHXAHM
>>460
そういうのを結果論という。歴史を見る上で一番とっちゃいけない視点だ。
462人間七七四年:2012/08/21(火) 13:30:29.11 ID:EADKPGDZ
だから私が言ってるのは信長が殺された時点の話ではなく、最終的に天下
を取った時、家康は光秀に感謝したと思うよ。
信長が殺された時点では家康がどう思っていたかはわからないけど。
463人間七七四年:2012/08/21(火) 17:53:11.84 ID:Cc+2/sdE
信長死亡時の家康
 えっマジ?ウソぉ〜!そんなのあり?自分パニクっちゃったからもう死んじゃう!!
 
 殿、お止め下さりませええ〜〜(家臣)
464人間七七四年:2012/08/21(火) 18:37:23.24 ID:dNJHXAHM
>>462
それはお前の感想であって、それを勝手に家康の気持ちにされても困るわ。
465人間七七四年:2012/08/21(火) 20:54:25.76 ID:EADKPGDZ
>>464
そんな事言っていたら後世の人の感想はどれもそうでしょう。
466人間七七四年:2012/08/21(火) 21:03:52.66 ID:TENeOHHD
正直な話、天下とれたのもとれなかったのも運次第だろ。
467人間七七四年:2012/08/22(水) 00:17:48.90 ID:HsMla0hF
>>466
当人の努力も大きいと思うけどな。
三傑はみんな働きものだよ。
468人間七七四年:2012/08/22(水) 23:53:07.81 ID:/ZQR3Cu5
>>465
問題すり替えて正当化キモチワルイ
469人間七七四年:2012/08/23(木) 11:42:37.80 ID:4cgiEJma
分国法による法治国家ですらないのに
政教分離してるわけねーだろw

>>467
信長なんて汚い格好して相撲大会やってり
鷹狩りばっかして遊んでただけのアホだろ。
途中からは茶会で遊んでばっか。
苦労してんのはパワハラDQNに
休まず働けと威圧されてる
家臣団であって
信長本人は遊興に耽っていただけ。
惟任退治記には信長には3000人の妾がいて遊んでたと書いてるし。

信長は公記に「信長公が御狂いになった」などと二回ほど書かれている。
また正式な名前は織田欝三郎信長であり
信秀も欝な姿の信長を見てそう名づけたのであろう。

また第一の後見人を林佐渡(信長を見限り謀反)
第二後見人を平手中務(信長を見限り自害)
第三を青山三右衛門(信秀の美濃攻めである加納口の戦いで戦死)
第四を内藤勝介(売筆家太田牛一から抹消された謎人物)
このように信秀が信長のために付けた補佐役も信長にあきれ果てる始末。
470人間七七四年:2012/08/23(木) 19:24:19.24 ID:+uLgtGaA
どんどん崩壊してるなアンチ織田
471人間七七四年:2012/08/23(木) 20:32:10.43 ID:yFl5dNog
>>470
アンチ織田とか以前に
だがが飛びぬけて異常なだけだよ
472人間七七四年:2012/08/24(金) 20:07:04.37 ID:CNMCCXM0
>>471
sab乙w
473人間七七四年:2012/08/25(土) 08:10:38.18 ID:GoBdw8dI
だが = sab (sub)なんだが
474人間七七四年:2012/08/26(日) 08:11:18.84 ID:t7WInfQr
謙信や信玄をホモホモ言ってながら
信長のことは一切言及しないSABがだがのわけないだろ。
しかもだがが一方的にSABに攻撃してたし。
475人間七七四年:2012/08/26(日) 08:40:14.70 ID:R5+7sVC8
どう見ても同一人物だろw
476人間七七四年:2012/08/28(火) 10:44:34.55 ID:hnff96gp
>>469
8月は南部氏や遠野氏ら奥羽からの者らに安土天主を見せびらかせて自慢したり
浄土宗贔屓の信長が彼らに褒美をばら撒いたり
近江一国中から呼び集めての相撲大会見物で機嫌が良かった信長だが
宇喜多の赦免嘆願で9/4に播磨からやってきた秀吉が安土で激怒した信長に追い出され
播磨へ帰り着くや早くも9/10に秀吉が攻めかかり
別所甚大夫や別所三大夫や別所所左近や三枝小太郎や三枝道右や三枝与平次や
とをり孫大夫や安芸・紀伊の侍など数十人討ち取りの大利を得た
播州三木表合戦のことだろ。
無念に思って合戦で励んだことを9/11の報告で知った信長が
「三木城の落城も近いゆえ油断するな」と秀吉へレターして機嫌が直っている。

その後、9/14に京で富貴な者が賄賂を贈ることで目が悪い者しかなれない
検校(金貸しができる)になってる不正を座頭たちが信長に報告し
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが
信長が富貴な下手人検校から黄金200枚の賄賂を貰って不正を不問にして許している。

北畠信雄が9/17に伊賀で大敗し9/22に信長が
信雄にふざけんな親子の縁を切ることも考えると激怒書状を出す。

10/30に宇喜多の名代として宇喜多与太郎が攝津まで出向いてきて
秀吉の取次ぎで信忠にお礼を言ってる。
信長激怒から時を移さず速攻で軍功を上げた
播州三木表合戦がなければ宇喜多を許されなかっただろう。
477人間七七四年:2012/08/28(火) 14:44:41.62 ID:+GqSO7mE
>>476
数日前の自レスにアンカー宛てて何がしたいんだ?w

圧倒的な一日の総レス数でまるわかりなんだぞw
478人間七七四年:2012/08/28(火) 23:33:35.35 ID:tbpJN4Bp
しょせんだがのやる事だしw
479人間七七四年:2012/08/29(水) 00:32:44.29 ID:2G9dh7SR
浅はか
これにつきるな、だがは
480人間七七四年:2012/08/30(木) 00:32:07.34 ID:1/QJ3r7y
>>474
信長は普通に凄いと思うけど
衆道ネタでは謙信や信玄や政宗とか美少年を愛でて掘る側
信長は著名な大名の衆道ネタの中で唯一受けで掘られる側っぽい
女装してガチムチの乱丸とかに……どっちかって言うと掘られる側のがカッコ悪いってかM男っぽい
481人間七七四年:2012/08/31(金) 11:45:03.12 ID:FewJxgdL
>>476
信長の賄賂好きは異常だよなぁ。
482人間七七四年:2012/08/31(金) 12:35:03.29 ID:9f86lBxH
むしろわいろ喜んで受け取らん大名なんて当時に居ないだろ…
あほじゃね?

信長はまだ拒否った例があるぐらいじゃないか
483人間七七四年:2012/08/31(金) 14:31:43.91 ID:I8ohJTcw
金も米も火薬も尽きた信長のターゲットから逃れるための出した
金の受け取りを拒否っておいてから
放火略奪虐殺しまくり
御所まで延焼した上京での信長の悪行のことか?
受け取り拒否ったのは是が非でも全財産略奪したいからだろ…
484人間七七四年:2012/08/31(金) 16:07:54.79 ID:QD5NYKLG
>>482
つうか今と違って当時は賄賂=誠意だからね。
江戸時代の記録ではきっちりと賄賂で記録されてる。

賄賂を受け取るなんてけしからん、じゃなくて
ほうほうおまえはこんなに賄賂をくれるのか愛い奴め、っていう世の中
485人間七七四年:2012/08/31(金) 16:35:59.28 ID:FewJxgdL
>>484
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが信長が賄賂を貰って許すwww

当時の社会でも賄賂は社会や秩序の乱れの原因だと認識してたのがモロバレなんだがwww
486人間七七四年:2012/08/31(金) 16:40:58.92 ID:aFOMRCOA
>>485
708 名前: 人間七七四年 投稿日: 2012/08/31(金) 11:50:34.36 ID:FewJxgdL
>>699
信長の命令を無視して市場取引を拒否られる屑銭ばっかりを献上して朝廷で不興を買った信長乙www
487人間七七四年:2012/08/31(金) 16:46:23.87 ID:FewJxgdL

興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。

一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
488人間七七四年:2012/08/31(金) 20:11:09.46 ID:BQrPWuMb
ID:FewJxgdL

書き込んだスレッド一覧

【疑問】スレ立てるまでもない質問 9【戦国時代】
長篠・設楽原合戦の真実 part3
*  織田信忠 その2 *
織田軍団ってイメージで凄いと思ってたけど…
武田信玄上洛成功part2
悪逆大名
なぜ織田家はあっけなく滅びてしまったのか
織田信長は過大評価されすぎ11
下克上された暗愚な暴君
信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】


08/31(金) 10:16〜〜08/31(金) 17:46の間に合計25の駄レスwwwwww
489人間七七四年:2012/08/31(金) 20:31:10.73 ID:9f86lBxH
>>484
流石に堪忍袋の緒が切れた相手からのわいろは受け取らん事多いけどねー
490人間七七四年:2012/08/31(金) 23:21:36.78 ID:X4lm6gRt
>>486
無限ループみたいだなー
一人二役とかやりすぎて、だがの壊れ方も酷くなってきたな>
491人間七七四年:2012/09/02(日) 21:09:11.33 ID:X9DmcW4B
堪忍袋の緒が切れたはずなのにヒラグモだせってしつこかったじゃねーか
492人間七七四年:2012/09/02(日) 22:16:11.21 ID:aIaJx2OE
松永の謀叛なんてむしろ甘々だったじゃないか
荒木と一緒にしてやるなよw
493人間七七四年:2012/09/03(月) 01:25:29.85 ID:4pBXkSYk
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
アマゾンレビュー

信長の寺社や通貨、交通に対する政策を細かく分析している。
当時の有力寺社は大荘園領主・高利貸しといって性格を有し、
独立した寺内町に商人を集めて流通・交易を支配して収益を上げていた。
信長はこうした宗教の権力支配を強制的に排除した。

堺など港を押さえた信長は「荷止め」(経済封鎖)ができる立場となり、
他の敵対大名の硝石の入手を妨害して、軍事的な優位を確実なものとした。
武田信玄の西上は物資不足を打破するための最終手段であり、
そのために時間と労力のかかる籠城戦を避けるために
家康が逃げ込んだ浜松城を通り過ぎた、とする説はユニークである。

社会の不正や経済的不合理を排除することで、
「誰もがやろうとしていたこと、やりたかったことを
前例に捉われず、臆することなく徹底的にきっちりやり遂げた」のが
信長である、とする著者の信長像こそ現実的で明快に思われ共感できる。
494人間七七四年:2012/09/03(月) 01:26:55.10 ID:4pBXkSYk
信長は人々の暮らしが豊かになり、自分も豊かになることを夢見て戦っていた。
大胆な仮説に豊富な資料で実証を進める。
現代日本の基本的なインフラ整備は信長によって行われていたことがわかり、驚いた。
495人間七七四年:2012/09/03(月) 02:01:23.53 ID:9AWYdRid
近代の贈位で正一位はともかく
官位は正二位だったし
死後直後の贈位で従一位だし
普通にやり手の凄い人物だったんじゃねえの?
496人間七七四年:2012/09/03(月) 18:40:37.54 ID:v9IVCk32
>>493
その著者、歴史学者じゃなくて、
生活保護の謎だとかしょーもないビジネス本を書いてる程度のやつで、
テキトーに信長マンセーすりゃ売り上げあがるだろw的な
最強無知のカモ長厨房向けで書いた本だよ。
497人間七七四年:2012/09/03(月) 23:44:54.21 ID:Nye6oVEt
諜報と戦に関しては過小評価
内政に関しては過大評価
498人間七七四年:2012/09/04(火) 12:32:29.02 ID:Jz1JYTuY
>>493>>494
なんで二次資料、三次資料を駆使してっ書いてあるレヴューはコピペしないでシカトしてんの?
499人間七七四年:2012/09/04(火) 18:20:59.70 ID:INPqq+d2
>>494
民心を掴んだからこそ群雄割拠から抜きん出る事が出来たんだろうね
戦国の乱世に終止符を打って太平の世を築くという大望は奇しくも
一番の同盟者だった家康によって成し遂げられるというのも
信長・家康が戦ってきた経緯を考えるとある意味納得させられる
500人間七七四年:2012/09/04(火) 18:24:20.74 ID:nnPv7FPR
信長の永禄2年のいわゆる「天下見物」の時みたいに、ありもしなかった美濃の刺客事件など
姑息な創作が多い信長公記
501人間七七四年:2012/09/04(火) 20:50:50.97 ID:VFLtvHmr
まあ信長研究もいいが、あんまりのめりこんで自分が信長と同じ能力
また信長そのものと思い込むのはやめよう。
ああいうのは異常な時代に、まれに成功した例と思うほうが無難。
502人間七七四年:2012/09/05(水) 00:39:32.41 ID:ZxbxiZHH
>>494 >>499
来世の浄土を否定し民に現世利益を供与する生き神たらんとした信長だからね。
自分の使命と社会のニーズが合致したってとこか。
後醍醐みたいに武士社会の実態を無視した改革は、結局失敗に終わる。
503人間七七四年:2012/09/05(水) 03:46:23.54 ID:vQDjLR5l
信長だって結局失敗したじゃん
504人間七七四年:2012/09/05(水) 08:50:13.49 ID:jqyraneq
信長のやったことなんて秀吉の時代にあらかた否定されてるしな
505人間七七四年:2012/09/05(水) 08:56:30.47 ID:a7+Xevqc
否定は無いな。どうみても継承発展系
506人間七七四年:2012/09/05(水) 14:47:42.26 ID:gsAywUoD
秀吉は単なる自己保身で、信長が破壊した中世以来の身分制を復活させたヘタレ。
信長時代の雇用の流動化をやめ雇用の固定化を選択した為、国内統一後過剰に膨れ上がった専業兵士を持て余し、
大陸侵攻を選択せざるを得ないハメに陥り、見事な大失敗で、豊家瓦解の根源となる失政。
507人間七七四年:2012/09/06(木) 17:24:22.80 ID:rbqDwFwu
>>506
>>信長が破壊した中世以来の身分制
>>信長時代の雇用の流動化をやめ
なにそれw具体的に書いてみ?
>>中世以来の身分制を復活させたヘタレ
はっ?惣村皆兵時代から秀吉は刀狩などを通じて兵農分離させていったのが、なぜ身分制復活なんだよw
それ江戸時代の士農工商の階層社会と混同しててバカすぎ。
508人間七七四年:2012/09/07(金) 02:17:34.43 ID:4jpfgYsF
馬鹿な質問する前に、少しは通史のお勉強したらどうかね。
その上で書き込み内容に異議があるなら、正しく修正したまえ。
単なる難癖では誰も相手にしない。
509人間七七四年:2012/09/07(金) 12:08:21.99 ID:XIB4DH0W
信長ってあれだけ家臣に謀反を起されているから人望がなかったんだろうけど
本能寺では多くの部下が殉死してんだよね。
部下ではなくたまたまその日に本能寺に泊まっていた矢代なんとかとか、
本能寺の変を知って駆けつけた家臣もいるから人望が全くなかったわけでは
ないだろうけど、本人の性格のブレ幅がでか過ぎてどうしても好かれる嫌われる感情
が極端になるのかね。
510人間七七四年:2012/09/07(金) 12:40:02.76 ID:lkuZwpxL
よくよく見てみれば、皆謀反起こされてたのが戦国時代。
大内さん然り。○○さん然り。□□さん然り。
511人間七七四年:2012/09/07(金) 14:07:44.01 ID:mDtRmESN
嫌いだから謀反とか小学生かよw
512人間七七四年:2012/09/07(金) 17:00:03.88 ID:XIB4DH0W
ただ信長はちょっと多過ぎるというかまあ勢力が巨大な分
謀反率は上がるのかもしれんが。
でも秀吉は信長の土台を引き継ぎより発展させても謀反が起こっていない
のを考えるとやっぱり信長の性格に帰する部分大だわな。
513人間七七四年:2012/09/07(金) 17:19:15.18 ID:bG0ko7aE
検証がすっぽり抜け落ちて、結論ありきの仮定
まあその程度だよな
514人間七七四年:2012/09/07(金) 19:40:31.10 ID:D/M3p7Rw
尾張時代を別にすれば謀反起こすのは中途採用の外様ばかり。
外様の重用は考え物やで。
515人間七七四年:2012/09/07(金) 22:32:47.64 ID:P807KYXC
下からの裏切りなんて戦国時代通しての常識で、そんなの大小挙げれば数え切れない。
信長はあれだけの複数の敵を一手に引き受け、それで組織内離反は数える程度。
他の戦国大名ならとても持ちこたえられず内部瓦解が必至も、織田家だけは一部離反者が出ただけで、結局勝ち残り。
516人間七七四年:2012/09/08(土) 01:58:10.30 ID:SbZoaQ+a
>>514
尾張統一戦の段階で身内を粛清しまくって深刻な人材不足だからな。

>>515
勝ち残ったかあ〜?
一部離反者によって織田家パーされているし。
517人間七七四年:2012/09/08(土) 06:38:42.20 ID:m0rvIx/u
謀反が多いどころか家まで乗っ取られると言うダブル下克上までやられたのは
信長の一職支配による内政丸投げが
在地勢力と家臣の主従関係成立に発展し、
家臣が軍閥化してしまうと言う
信長の内政統治システムの無策からくる致命的失敗によるもの。
安国寺も天正元年の時点で信長の末路を予見断定していた危険な均衡の上で成立していた。
また義昭追放後も幕府政治にすら信長は介入できなかったのも、
それらに関わる一次史料が全く存在しないことから判明している。
518人間七七四年:2012/09/08(土) 13:46:48.88 ID:SbZoaQ+a
でもだからこそあれだけのスピードで征服拡大が出来たとも言える。
まあどんなやり方でもプラスマイナスがあるから難しいよな。
519人間七七四年:2012/09/08(土) 19:17:54.99 ID:zHniuhOD
>家臣が軍閥化してしまう
してねえだろw

>義昭追放後も幕府政治にすら
義昭追放後の幕府政治に介入??信長が? 意味わかんねえよ
520人間七七四年:2012/09/08(土) 21:36:49.85 ID:sl/mhg1R
一職支配権は、
守護大名を作ってるだけだからな。
だから信長は大和や河内や越前や摂津や播磨や丹波や信濃や甲斐など大領謀反が頻発。
丹波の謀反で信長死亡。
甲斐の謀反で川尻血祭り。
521人間七七四年:2012/09/08(土) 22:50:27.65 ID:GtcuCDoP
>>517
では君なら、信長の家臣統制機構をどう改善できるのか、やってみたまえ。
522人間七七四年:2012/09/08(土) 23:37:04.34 ID:SbZoaQ+a
>>520
教えて欲しいのだけどその信長のあとを継いだ秀吉の場合は謀反らしき
謀反が起きていないのは何故?
523人間七七四年:2012/09/09(日) 00:30:47.02 ID:tcYlzvJ+
信長の性格は冷酷残忍で際立ちます。
延暦寺焼き打ち、越前や長島での女、子供を含む大量虐殺。

ルイスフロイスなども、信長の残酷性を実例をあげて言及しています
果物のカスを捨てなかった侍女を切り殺したと
524人間七七四年:2012/09/09(日) 00:48:10.79 ID:Na1gPL/R
人が権力をもつとどうなるのか
お前ら人を切って殺しても、なんの罰もない自由なところに行って
切らないでいられる奴が何人いるんだ
525人間七七四年:2012/09/09(日) 00:59:36.13 ID:bNuLsxIm
その通りで人が人を支配すると恐ろしい心理状態に
陥るという実験がアメリカで実際に行われた
Stanford Prison Experiment
そのあまりの衝撃的な実験結果で全米を騒然とさせた
526人間七七四年:2012/09/09(日) 03:19:17.31 ID:/TKVNgFD
>>523
やるべき事をやらずに手を抜く人間や、本来の分を超えているというか
逸脱しているというかそういう人間が大嫌いなんだと思う。

でも普通にやるべき事をやっていたらそうでもないと思うけどね。

本能寺でもあの絶対絶命の状況でちゃんと女性を逃がしている。
勿論当時はそれが当たり前なのかもしれないが、本当に冷酷なら
知ったこっちゃないだろう。今正に自分の生命が危機に瀕している時
なのに。
527人間七七四年:2012/09/09(日) 07:34:40.14 ID:DBUVt3Xu
>>522
豊臣政権下では一揆が頻発してるな
528人間七七四年:2012/09/09(日) 09:24:11.42 ID:dTcnBZrx
>>521
一職支配の制度は、
三好長慶が考案した統治体制で、
律令制の行政単位を否定し、
摂津を上郡下郡に分けて、
広域行政単位となし、
さらに重層的な土地権利を一括し、
荘園領主を否定する性格を持つもので、
松永久秀が摂津下郡一職支配を任されていた。
一方で国人や有力者との独自の主従関係を作り、
軍閥として盤踞する恐れがあるため、
久秀は永禄3年に大和へ転出させて、
在地支配の確立を阻害してる。
それを理解せずに全てを丸投げと誤認した信長は致命的失敗をやらかしており、
信長の一職支配は三好の考案した制度の単なる劣化パクり。
しかも荒木が主従関係を作り謀反するなど、
猿真似でやはり大失敗してるし、
本能寺の変後に、織田家を傀儡政権にする
家臣の軍閥化を完成させてしまった。


言わば、三好長慶の一職支配制度を内政丸投げと誤認理解し、
守護領国制との違いを信長が理解出来てなかったために、
結果的にリーダーシップなり、カリスマ性を持つ光秀らが軍閥化してるのに気付かずに、
信長への謀反が成立できる在地主従化を完成させてしまった。


細川も光秀も筒井も秀吉もみんな軍閥化してるだろ。
それを90年代は織田軍は各戦線に分かれて軍団制を布いたとか
デタラメ妄想でマンセーしていただけでさ。
529人間七七四年:2012/09/09(日) 09:33:57.56 ID:dTcnBZrx
信長が在京せずに京を遠隔支配している手法も三好長慶が考案した手法だしね。
長慶は村落や都市共同体など将軍や幕府機構などの権威を必要としない
新興自治と国人のコミュニティーを持つ地域に独自の支配機構を構築し始め
その成長促進と商業収益を政権基盤として芥川城に在城していた。
信長って長慶などの猿真似はするんだけど、形だけパクってるだけで
魂の部分を理解してないから新興自治と国人のコミュニティーを潰して
京を遠隔支配すべく安土城に居城した。そして光秀の謀反であっさり近江が光秀に組み込まれた。

そもそも前田や金森は信長直臣で家老柴田を監視する役目で付けられてるのであり
もともと柴田の配下ではない。柴田に付与された与力は同僚じゃない。
信長直参の母衣衆出身者は超エリートで信長の指揮命令系統で動くのであり
家老の柴田の命令なんて受け付けない。信長が柴田と相談するように命じてるから
柴田との会議で越前経営に同席するのであって柴田が彼らを家臣扱いすることは
信長を軽視してることになる。
柴田・佐々・前田らはそれぞれに軍閥化したとするべきで賤ヶ岳の戦いではその弱点が見事に顕れた。
一方の光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を
同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は
秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)
530人間七七四年:2012/09/09(日) 09:59:09.80 ID:P8FZPksN
こういう結論ありきの文章を書いているから、あなたの考えは広く認められていないのでしょうね
531人間七七四年:2012/09/09(日) 10:08:48.63 ID:DBUVt3Xu
>>530
だがの場合、結論もアレだけど過程に問題がありすぎるのが致命的なんだと思う。
532人間七七四年:2012/09/09(日) 10:35:19.16 ID:mR3DOnv5
信長の政策のほぼすべてが、三好政権の一織支配なども含めて、既存のものの流用だったのは確かだが、
それが短絡的に配下の軍閥化に繋がったと結論付けるのは非常に乱暴だな。
というかそもそも、織田政権はその命令系統すらよく解っていないので、軍閥化を云々する以前の問題として
地方支配の実態がよく解ってない。
533人間七七四年:2012/09/09(日) 11:01:34.08 ID:3axwgy5X
>>531
前提もダメだけどなw
534人間七七四年:2012/09/09(日) 11:11:17.76 ID:D1CVi5qE
三好長慶って朽ち果てた足利将軍を形式的に上に戴かないと、統治さえ覚束無かった守旧派大名。
しかもその畿内統治も全国政権化を意図しておらず、当時の一般的戦国大名と同様、地方分権志向止まり。
三好以外の大名連中は、三好が自領に侵食して来ないのなら、敢えて敵対する必要もない。

535人間七七四年:2012/09/09(日) 11:17:54.14 ID:p+ie7KTH
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。

信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。

天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。

美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。
御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。

まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて
織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。

10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で

有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。

謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから
毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊し
その影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)
明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし
(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)
再度崩壊するから織田は詰むよ。
536人間七七四年:2012/09/09(日) 11:21:05.23 ID:p+ie7KTH
三好長慶は幕府の政治に介入主導してるが
信長は義昭追放後も一切、幕府政治に介入できなかった無能。
537人間七七四年:2012/09/09(日) 18:58:19.98 ID:5LwEDoNs
もう幕府自体が存在してないんだがw
15代将軍足利義昭はほとんど何もできず朝廷すら
織田と改元を進めるなど総スルー
14代将軍足利義栄系に至っては完全無視される有様

信長が死んだあと秀吉らが「戻ってきてね」とアピールするも
お飾り未満の扱いでしかなく関白に就任した秀吉から捨扶持を貰う有様
足利義栄系に至っては阿波を領する蜂須賀に冷遇され100石未満の野武士程度の石高
豊臣が死んで徳川の世になっても直系でありながら無視され養子連続の喜連川に本家扱いを奪われる失態
538人間七七四年:2012/09/09(日) 20:33:05.21 ID:dkuluO4l
>>536
義昭追放後に幕府なんてあったのか?鞆幕府ってやつかいw

幕府政治に介入する気なんてさらさら無いだろ。
それを潰して新たな体制を築こうとしたんだから。

539人間七七四年:2012/09/09(日) 21:38:32.05 ID:8juAr3MH
足利義尋だろ。
そもそも信長は幕府行政機構に一切手を出してないし。
裁判など室町幕府行政はそのまま存続してる。
540人間七七四年:2012/09/10(月) 05:24:12.44 ID:E2zJFnWI
>>536
なら幕末に倒幕目指した雄藩も幕府政治に介入できなかった無能なのかね。
倒幕は万人が認めてる時代の趨勢。信長の対幕府姿勢も同様。
三好長慶の様に幕府の政治に介入主導しようとする発想自体が田舎大名であり時代遅れ。
541人間七七四年:2012/09/10(月) 08:15:25.42 ID:ZkHfz4W4
実際、織田は京を軍事占領してただけで、
織田政権なんて存在してなかったし、
義昭が京都に戻ってくれば
いつでも元の鞘に収れたし、
豊臣政権が運営されて義昭が諦めて将軍位を返上するまで室町幕府は存続してる。
542人間七七四年:2012/09/10(月) 08:52:30.47 ID:lqfP4RKA
>>541
そんなんじゃ誰も釣れないよ
543人間七七四年:2012/09/10(月) 20:18:37.33 ID:xN6Vkhst
信長は分国法すら作れないんだから、
内政や裁判や寺社交渉は
室町幕府組織がやるしかねーだろね。
544人間七七四年:2012/09/11(火) 00:45:02.33 ID:1g/WALz0
分国法なんて使い回しでええやろwww
545人間七七四年:2012/09/11(火) 05:48:47.08 ID:149xBMOA
分国法って死亡フラグだよなぁ
546人間七七四年:2012/09/11(火) 07:14:48.05 ID:5hpEuG3T
分国法ないから
信長の気分しだいで、
家臣を殺しまくり、村消しまくりの私刑多いからなあ。
547人間七七四年:2012/09/11(火) 07:47:06.14 ID:SCxuiUSr
まあなあ、分国法あっても税金しっかりとれてない武田みたいなのもいるからなあ
あってもなくても同じだろ
548人間七七四年:2012/09/11(火) 14:44:28.26 ID:kH0cMYg0
家臣すらも納税拒否する織田w
そんな拒否する家臣に加増する土下座っぷりの信長www
549人間七七四年:2012/09/11(火) 19:32:14.84 ID:cdiDYv09
546
家臣殺しまくったっけ?
550人間七七四年:2012/09/11(火) 19:50:34.71 ID:5htLoeho
家臣に対してはむしろ分国法がない分なあなあだったと思うぞ>信長
551人間七七四年:2012/09/11(火) 21:59:46.54 ID:/pTPBSAR
法が細かいのは治安が悪いからなんだけど
552人間七七四年:2012/09/11(火) 22:16:12.63 ID:z6dKr0bm
また戦国の逸話レベルの話を。んなわけねーだろ。
治安の安定した状況のほうが法律も細かくなるっつーの。
553人間七七四年:2012/09/11(火) 23:39:36.67 ID:SCxuiUSr
治安安定してるのに細かく立法する必要ねえだろ・・・
554人間七七四年:2012/09/12(水) 01:27:11.89 ID:gQk/IlZ6
つか基本的に統治安定した前任者がいたのにわざわざ弄ぶ必要ゼロだからな
だがはアスペだから「新しい制度を定めないとダメだもんksklw」って思ってるんだろ
555人間七七四年:2012/09/12(水) 06:58:34.12 ID:gYFBikzQ
フロイスも信長はちょっとしたことですぐ殺しまくると書いてるし
法律がないってのは暴君を生み治安を乱し、
暴君を見習い下克上する不平家臣が生まれるだけ。
結果、光秀と秀吉によって二重下克上が発生。
織田家臣団が全く織田家を守る気持ちが無かったのは、
興福寺が、信長の葬儀をまだやってもいないのに、
それを無視して家臣同士で領地の取り合いとは狂ってるわって書いてるくらい前代未聞の暴挙が織田家を襲ったのも
法律が無かったから織田家が裁くのではなく、
有力家臣が恣意的に裁くことが可能だったから。
こんなことは2000年以上前の秦の時代から指摘されてきた法治主義の常識。
556人間七七四年:2012/09/12(水) 07:34:42.22 ID:5l2SZUEb
法治主義w
法律がないとかw
すっげえ研究成果ですねw
557人間七七四年:2012/09/12(水) 08:23:28.04 ID:eGeERdvZ
実際には、過去の法や慣習がそのまま利用されてるだけだしな
558人間七七四年:2012/09/12(水) 10:33:13.89 ID:50PrEYgu
>>553
安定するといろんなニーズが出てきて、それに対応する法律が必要になってきて結果細かくなるんだよ。
戦国時代より江戸時代のほうが法律の内容も種類も多く細かくなってるだろ?
乱れていると大雑把な法律しか通用しないが安定すると細かい法律も通用する。
だから安定した状況のほうが法律は細かく、多くなる。
559人間七七四年:2012/09/12(水) 11:04:34.85 ID:5l2SZUEb
社会の進展と治安ごっちゃにしてんのかよw
武田の法律見てみろよ、明らかに守られてないから追加してるだろw
560人間七七四年:2012/09/12(水) 19:16:09.04 ID:5X0CXq8Q
武田の法は
信玄自身も法で裁かれるという法学の魂が入っており、
神の元では王と言えど平等であり、
王権すら制限を受けると言う古典的立憲主義を達成している。
しかも貴族や豪族からそれを強制されるのではなく、
自ら宣言したのは世界史的偉業であり、
下克上的気風の元において、
反意を持つ国人達との衆議に諮りカリスマ性を以ってリーダーシップを発揮し、
衆議を主導し合意に導き行動するのは非常に民主的統治と言えるだろう。
なお日本民法典起草の際にも参考にされている。
561人間七七四年:2012/09/12(水) 20:11:22.29 ID:KPMRBj2t
戦国の時代にそんなことやるってのはよほど結束がなく
信玄に逆らう配下が多かったんだろうな
562人間七七四年:2012/09/12(水) 23:49:48.17 ID:5l2SZUEb
>>560
どの文言からお前がそのように考えるにいたったか明確にしてみ?w
読んだ事ないだろ?w
563人間七七四年:2012/09/13(木) 07:37:11.35 ID:WgBD0IgV
イギリスなんかは貴族によって強制的に王権を制限されたもんな。
マグナカルタって言ったっけ。
信玄はキリスト教的思考が無いはずなのによく発想できたな。
天が信玄の行動を監視しているみたいな天道思考があったのかもな。
564人間七七四年:2012/09/13(木) 22:06:56.95 ID:jOt7JT8I
武田の分国法が民主主義に繋がるとかいかにもホラ吹きらしいアスペだなw
武田が定めた法律で武田自身が裁かれた例はひとつもない。

これは「法は天の下で平等である」というお題目を用いて、
「王様でも法を守る、下々の民が守らないのはおかしい」という独裁主義のおぜん立てをしているだけ。
「天」という武田家当主よりも崇高な存在を用い、そのありもしない「天」を利用して武田の独裁化を公然と行うためのもの。

近代で言うなら「陛下が法律を作った、国民は皆これを守らねばなるまい」として独裁を進めた戦前日本政府、
「国民から公平平等に総書記を選ぶ」として、3代で一族世襲を行った北朝鮮の支配体制に近い。

「我々は神に認められている。我々に逆らうのはすなわち神に逆らうのと同じ」というわけだ
565人間七七四年:2012/09/14(金) 12:33:42.61 ID:i0YezrUx
>>日本民法典起草の際にも参考にされている
すごいな!
566人間七七四年:2012/09/14(金) 23:28:42.27 ID:ncgwQSyD
>>565
それはこじつけのネタだから本気にしないよーに
567人間七七四年:2012/09/15(土) 03:42:59.41 ID:jmQJInBo
信長は様々な改革を断行したが、その恩恵は全て信長の利益に直結している。
そりゃそうだ。
自分の利益に成らない改革なんぞ、命の危険を冒してまで、アホらしくてやってられるかっつーの。

信長の利益 = 反信長の既得権勢力の不利益。
だから信長の勢力が伸張していく程、反信長の既得権勢力が弱体化していった訳だ。

自分の利益の為の改革という点では、建武の「失政」を強行した後醍醐帝と同類だが、
後醍醐の改革がブザマな失敗に終わり、信長が成功した分水嶺は、
社会のニーズに適ってたか否かに尽きる。

後醍醐は武家を忌み嫌い武家政権の幕府を武家の軍事力を利用して倒したが、
戦後の論功行賞では武家を冷遇。
だから武家の利益第一を掲げる足利尊氏の台頭を許し、後醍醐は都落ち。

信長の改革は、民衆にも多大な恩恵をもたらした為、信長の政策は広く受け入れられ、政権の安定に寄与。
加えて配下の武士の土着性を否定し、信長に直接雇用された武士はサラリーマン化し、
よって信長は他に類例の無い独裁権の行使が可能になり、信長の一存でどんな大幹部であろうと、身一つで放逐。

568人間七七四年:2012/09/15(土) 08:16:29.67 ID:6qPegW/F
放逐を選んだのは佐久間本人だけどな
まあ林の場合は完全に厄介払いだが
569人間七七四年:2012/09/15(土) 13:22:10.30 ID:XN/2i9uc
>>565
民法修正案理由書によると、
日本民法典起草の際に参照されたことが明記されており
現行法にその影響が残っている
「民法修正案理由書 第四編親族第五編相続」251・252頁
>>566
織田チョン涙目乙w
570人間七七四年:2012/09/15(土) 20:33:53.73 ID:xWu8N2Fm
571人間七七四年:2012/09/15(土) 22:23:21.80 ID:klicRqYw
>>570
所詮だがだから仕方ないw
572人間七七四年:2012/09/17(月) 06:50:01.21 ID:i2aBalgX
ちゃんと明確なソースがあればwikiでもよいだろ。
wikiは出典不明な話が多過ぎる。
573人間七七四年:2012/09/17(月) 20:36:32.63 ID:ObZeVwRH
ウィキ以外でよろしく
574人間七七四年:2012/09/18(火) 22:21:07.39 ID:sIhAznQy
織田チョン涙目w
575人間七七四年:2012/09/19(水) 06:50:49.49 ID:nL/2VP1c
wiki以外のソースが出せずに泣き言とは・・・哀れな
576人間七七四年:2012/09/19(水) 08:42:37.41 ID:klF8K+yM
可哀想なのは、
wikiが出典ではなく、
「民法修正案理由書 第四編親族第五編相続」251・252頁 が出典である事実を意地でも認めない愚かな織田チョン
577人間七七四年:2012/09/19(水) 12:32:40.99 ID:Oa/2QJeA
民法修正案理由書なんて明治期の書物に目を通したこともないくせによww

251・252頁になんて書いてるか教えろやw
578人間七七四年:2012/09/20(木) 22:27:52.92 ID:IY61K67S
史料の名前を書けば出典扱いされると思い込むだがであった
それらしい史料の名前を、自分の妄想の後ろに載せるだけの簡単なお仕事
579人間七七四年:2012/09/22(土) 07:00:43.16 ID:HmTypCXV
>>577,578
ネットでも見れるので確認した。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2385831
ここの251〜252頁、第九百八十六条の項で参照されてるものとして確かに「信玄家法」の文字が見られる。
それだけのことなのか、それ以上のことなのかはそっち方面には詳しくないので論評は避ける。
580人間七七四年:2012/09/22(土) 14:18:09.56 ID:VJCUxSWO
もともと財産祭具などを継承すると書いていたら財産権しか相続できないと勘違いされまくったから
民法改正で「権利義務」としただけで、この義務に負債など借金が入っているのを
「信玄家法を参考にした」と言うだけに過ぎない

ちなみに元の信玄家法ではこの「親の負債について相続した子供の義務」が長々と書かれており、
親が死んで借金チャラにできると思うなよと生き血を啜るかのごとく強調されている
581人間七七四年:2012/09/22(土) 14:58:49.43 ID:i0jPvCi2
なるほど財産は相続するけど借金はチャラな!って言ういいとこ取りをする者が多くトラブってたから、
信玄の作っていた法を参考に修正して現在に至っても通用してるわけか。
さすが財産権を定めたは信玄公だな。
分国法がない織田は信長の勘気次第で財産のみ没収追放だもんな。
借金取りに追われて高野山に逃亡か野垂れ死。
582人間七七四年:2012/09/22(土) 15:00:57.58 ID:qRdHmeZi
だがは相変わらず物知らずだな。
583人間七七四年:2012/09/22(土) 21:32:11.63 ID:QrtYoYij
584人間七七四年:2012/10/10(水) 00:15:27.92 ID:tdGmmYSr
誰か教えてください
比叡山焼き討ちで秀吉が女子供を見逃して、光秀が殺しまくったとの
エピソードの出典を教えてください
585人間七七四年:2012/10/19(金) 05:53:28.65 ID:WGWovsKO
>584 秀吉さんが言ったんじゃね?
586人間七七四年:2012/10/20(土) 05:10:07.45 ID:fdZ9Rc5z
信長は、天下統一の暁には、秀吉の様に大陸侵攻するつもりだったという風説が流布してるが、とても信じられん。
信長が秀吉の様なお粗末極まりない海外への軍事侵攻を考えてるなんて、これまでの政略や軍略を鑑みると、齟齬が大きすぎる。
ヨーロッパから様々な情報を吸収していた信長は、スペイン・ポルトガルの小国の重商主義に多くを学んでいた筈。
よって、信長存命なら1840年のアヘン戦争より約250年早く中国を軍事的に圧伏せしめ、彼の国との交易により富を蓄え、更なる富国強兵・殖産興業へと日本を隆盛させた筈。
領土の拡大一辺倒の秀吉の愚政には、政権の永続性は無い。

587人間七七四年:2012/10/20(土) 21:29:03.62 ID:eUC1cRyD
>>586
天下統一も果たせないお粗末な信長には秀吉も言われたくないだろw
史実をねじ曲げるチョンは秀吉嫌いなんだよな。
588人間七七四年:2012/10/20(土) 21:34:08.73 ID:BlTEBA/p
信長の最大の功績は秀吉を取り立てたことという認識でいいのかな。
589人間七七四年:2012/10/20(土) 21:38:55.68 ID:yx3riYMo
本願寺政権を阻止した事じゃね?
590人間七七四年:2012/10/21(日) 00:35:06.45 ID:HOdolQcO
少なくとも本能寺後の秀吉の天才ぶりは信長を上回ってた
大返しして主君の仇討って傀儡後継者を確保して最有力の柴田を倒して
甲斐を吸収した徳川まで抑え込んでと
運の良さもあろうが何かが憑いてるとしか思えない強さ
591人間七七四年:2012/10/21(日) 13:55:27.92 ID:dOX0qR4q
>>590
まあね、その後サクサクと天下統一しているし。
天が味方する時はそんな感じじゃない。
関が原の前後の家康もそうだね。
592人間七七四年:2012/10/21(日) 13:58:58.92 ID:dOX0qR4q
信長の最大の功績は天下統一の土台を作った事だと思う、色んな意味で。
秀吉を取り立てた事や家康を同盟者にした事が最大級だろう。
593人間七七四年:2012/10/21(日) 15:36:28.82 ID:K2oGENau
同意
594人間七七四年:2012/10/21(日) 18:41:09.43 ID:5ZdxnaFt
信長は信玄や謙信に大軍ぶつけて完敗したので、
後世の評価が凄い下がったよな
あの場面では、部下に任せず自ら出陣すべきだった
595人間七七四年:2012/10/21(日) 18:45:07.88 ID:FgI4lyuW
自分の願望をさも事実化のようにいわれてもw
596人間七七四年:2012/10/21(日) 18:46:24.40 ID:Q5Pq8scH
いつ信玄や謙信に大軍ぶつけて完敗したんだよw
597人間七七四年:2012/10/21(日) 18:56:54.87 ID:5ZdxnaFt
>>596
何も知らないんだな

三方が原
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆
推定2万(水野勢、徳川勢含まず)

手取川
柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤長龍、美濃三人衆
不破光治、前田利家、佐々成政、原彦二郎、原長頼、金森長近、若狭衆
推定4万
598人間七七四年:2012/10/21(日) 19:00:17.05 ID:5ZdxnaFt
手取川の参加武将で、
堀秀政が抜けてた
599人間七七四年:2012/10/21(日) 19:03:37.13 ID:/m7kD9I/
信長の凄いのは戦国によって分裂した日本をともかくも再統合の方向に向かわせたことだ。
この基盤があった上で秀吉や家康の覇業も可能になった。
600人間七七四年:2012/10/21(日) 19:06:16.85 ID:5ZdxnaFt
三方が原
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、毛利長秀・美濃三人衆
推定2万(水野勢、徳川勢含まず)

手取川
柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、斎藤長龍、美濃三人衆
不破光治、前田利家、佐々成政、原彦二郎、原長頼、金森長近、堀秀政、若狭衆
推定4万
601人間七七四年:2012/10/21(日) 19:57:38.31 ID:Q5Pq8scH
三方ケ原に推定2万()を派遣したという典拠史料は?
手取川は歴代古案しか史料が無く合戦の規模は小競り合い程度だったというじゃないか。
602人間七七四年:2012/10/21(日) 20:17:47.91 ID:5ZdxnaFt
>>601
手取川は長家家譜にも信長公記にも記事がある。
むしろ合戦の規模は小競り合い程度だったという典拠史料を教えて欲しいね。
603人間七七四年:2012/10/21(日) 20:28:04.55 ID:Q5Pq8scH
長家家譜と信長公記のどこに織田が完敗したと記述されてる?
上杉の誇張書状ただ一つを鵜呑みにするなよw
604人間七七四年:2012/10/21(日) 20:36:47.15 ID:5ZdxnaFt
>>603
謙信は石川県松任市まで南下し、
柴田勝家は石川県白山市水島町まで北上しているのに、
小競り合いで決着がついたなんて、どういう典拠史料により主張してんの?
その変な解釈、詳しく述べてみてよ?

それに長家家譜も信長公記も織田側の史料なのに、
自分が完敗したと書くと思うのか?
605人間七七四年:2012/10/21(日) 20:46:08.98 ID:5ZdxnaFt
>>603
柴田勝家は4万、上杉謙信は2万なのに小競り合いで決着とかいうトンデモ説を
鵜呑みにする方が普通おかしいと思うぞ。
606人間七七四年:2012/10/21(日) 20:48:19.98 ID:6GGe7cDh
>柴田勝家は4万、上杉謙信は2万なのに

お前が決めたのかw
607人間七七四年:2012/10/21(日) 20:49:30.02 ID:5ZdxnaFt
>>606
長家家譜に織田勢4万って書いてあるが?
608人間七七四年:2012/10/21(日) 22:52:12.53 ID:/q8ergoT
家譜w
609人間七七四年:2012/10/22(月) 01:03:45.26 ID:i/CMyVeQ
>>600
その名前は長家家譜じゃなくて信長公記だろ。
長家家譜ってネットで読めるんだね。
長家家譜によると、

柴田勝家、丹羽五郎左衛門尉長秀、長谷川藤五郎秀一、稲葉伊予守通胤、
滝川左近将監一益、羽柴秀吉、前田利家、徳山五兵衛則秀、
柴田伊賀守勝豊、佐々内蔵助成政、不破彦三、金森五郎八、堀久太郎秀政

まあ信長公記とほぼ同じ。
長谷川藤五郎秀一の名前が堀久太郎秀政に比べてやたら前にあるのが気になるな。

約4万というのは北陸方面軍、丹羽ら若狭衆、斎藤ら美濃衆あわせた数字としては、
妥当だと思われる。
610人間七七四年:2012/10/22(月) 01:23:49.44 ID:i/CMyVeQ
>>600
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、毛利長秀・美濃三人衆では、
2万もいかないぞ。
おそらく1万、多くても1万5千くらいだろう。
611人間七七四年:2012/10/22(月) 04:52:30.96 ID:L2xYByCP
佐久間や林+アルファ程度で軍勢が2万もいるなら
織田軍全体では10万越えるんじゃね?w

所詮赤の他人の徳川に自分の軍隊の大半預けるとかいう自殺行為はしないからw
612人間七七四年:2012/10/22(月) 07:40:14.28 ID:K8c7WMPD
>>594
安土城で戦局の総合指揮を執る信長が、特定戦線だけに意識を傾注できる訳もなかろう。
そんな事をすれば、柴田の面目丸つぶれ。
小者界の小者には、その程度の真理さえ分からんか。
613人間七七四年:2012/10/22(月) 19:51:06.47 ID:Zy4x9N4r
手取川

上杉が大勝したと伝えてる史料が上杉の書状の写し一枚だから疑義が出るんだよ。
他の史料で裏付けとれないからな。
614人間七七四年:2012/10/22(月) 21:47:10.36 ID:40inC8ir
生野山の証拠は怪しいから、上杉は負けていないはず
手取川の証拠は怪しくても、上杉は勝ったはず
ということですかw
615人間七七四年:2012/10/22(月) 23:50:10.96 ID:diLXQzG3
大勝したなら感状とかいっぱいありそうだしなあ。
616人間七七四年:2012/10/23(火) 09:43:42.61 ID:GxSqYPd9
勝った負けたとか、極端な人が多いけど、そこまでの決着はなかったんじゃ
ないかな?
有名どころがが討ち死にしたって話もないし。
617人間七七四年:2012/10/23(火) 18:33:26.50 ID:2Jb+K/mW
長家家譜って離脱した筈の羽柴まで柴田勢に加えてるのか。
618人間七七四年:2012/10/23(火) 22:21:00.14 ID:l/rqfkq1
>>610
織田1万5千+徳川1万2千+水野2千、
武田勢より多いな。
619人間七七四年:2012/10/23(火) 22:34:05.09 ID:l/rqfkq1
>>617
そういう意味なら、信長公記にも書かれてる。

織田勢4万が手取川を渡河、長連龍と羽柴秀吉が撤退を提案(長家家譜)
秀吉が勝手に離脱して信長激怒(信長公記)
織田勢、退却中に襲われ大敗(歴代古案)

この流れが自然な解釈だろう。
620人間七七四年:2012/10/24(水) 00:33:45.46 ID:sRmeUQFf
で、>>618のソースは?
621人間七七四年:2012/10/24(水) 10:17:19.19 ID:adgumBv7
石川と福井の県境にある博物館の学芸員や寺社で伝わる話では手取川の合戦があったかどうかは別にして織田方が加賀から全面撤退して来て
上杉方の南下に備えて慌てて国境を固めたと聞く。
織田贔屓の柴田や前田ゆかりの寺社でその様に伝わっているのだから織田方が加賀から逃げ帰ったのは事実だろう。
622人間七七四年:2012/10/24(水) 13:15:11.64 ID:2HLcmRxA
大勝?完勝?その戦果を記してるのは謙信書状写し一枚のみプッ
Wikiレベルでも戦果に議論があることが述べられてるぞw
623人間七七四年:2012/10/24(水) 13:21:16.74 ID:2HLcmRxA
『信長公記』
佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として

『総見記』
佐久間右衛門尉・平手甚左衛門ヲ両将トシ、林佐渡守・水野下野守・毛利河内守・美濃三人衆、都合三千ノ人数ヲ遣ハサレ
624人間七七四年:2012/10/24(水) 22:37:55.30 ID:8YaJ5ZBf
>>623
その顔ぶれで3千は、やりすぎだろ総見記
徳川家から圧力でもかけられたのか?
625人間七七四年:2012/10/24(水) 22:38:50.47 ID:zlDX4XVQ
>>624
総見記の成立は秀吉の時代だろ
626人間七七四年:2012/10/24(水) 22:47:12.17 ID:8YaJ5ZBf
>>625
織田軍記(=総見記) 遠山信春 1702年(元禄15)/

小瀬甫庵の「信長記」をうけて、これを補訂するという形で
「増補信長記」を記したのが最初。その後「総見記」と改め、
さらに信長の諸孫にあたる貞置に校閲を依頼し完成したのが本書。
甫庵信長記をもとにしているため、史実に潤色がされている。
627人間七七四年:2012/10/25(木) 00:43:54.28 ID:g0keh2WD
>>622
4万の織田勢が2万程度の謙信から逃亡したのは動かしようの無い事実。

ここからは推測だが、
あまりにも織田勢が弱すぎて、
謙信は感状を出す気にならなかったのだろう。
628人間七七四年:2012/10/25(木) 04:11:35.50 ID:PiTBH9qy
釣り糸がひどすぎるでござる
629人間七七四年:2012/10/25(木) 04:12:32.25 ID:1NpGQ3Og
弱すぎたから感状は無し…小学生か!危険を省みず手柄を立てたのにそんな理由ありえん。
630人間七七四年:2012/10/25(木) 07:06:27.27 ID:8xgROPzD
法螺スレかよw
631人間七七四年:2012/10/25(木) 14:27:53.29 ID:i/GOTU3f
織田側が手取川を越前方面から能登方面へと渡ったところは確認されてんだよな?
その後の一向一揆軍が越前との国境近くの大聖寺城を占領している事も確認されている。
戦が無かったとすれば何故織田側は越前まで退く必要があるのか疑問となる。
兵を引くにしても手取川の南側の河川沿いで止まるか、大きく引いても大聖寺城までだろ。
越前まで撤収する理由が理解不能。
もし戦が行われずに越前まで兵を引いたとしたなら織田側はアホの集団としか言いようがない。
戦に敗れて越前まで撤退したという方がまだ格好がつく。
632人間七七四年:2012/10/25(木) 17:34:50.22 ID:/Grk6bsJ
上杉と対立してる勢力の救援に向かったが間に合わなかっただけでしょ
633人間七七四年:2012/10/25(木) 18:45:21.08 ID:QN7fjsXK
まぁスレタイからしてアンチ織田厨が織田の粗探しをする自慰スレだからな笑

634人間七七四年:2012/10/25(木) 20:16:42.79 ID:LmE6R+8j
>>627
生野山では、あまりにも上杉勢が弱すぎて、
氏康は感状を出す気にならなかったのだろうw
635人間七七四年:2012/10/25(木) 22:38:49.55 ID:g0keh2WD
4万の織田勢が2万程度の謙信から逃亡したのは動かしようの無い事実。

ここで問題なのは、
・織田勢は何人屠殺されたのか、
・何故謙信は感状をほとんど出さなかったのか
この二点だな。
636人間七七四年:2012/10/26(金) 05:15:51.19 ID:136nSJLQ
俺は謙信の事詳しくないけど
謙信が感状を出さなかったのは能登、越中を褒美としてあげられたからじゃない?
感状出してたのは謙信が戦をしても領土をとらず、褒美としてあげるものが感状しか無かったからじゃない
637人間七七四年:2012/10/26(金) 14:57:30.74 ID:4Npwzqz/
能登や越中を得たことと、織田軍撃破は別の戦なんだけど…なんで褒賞をごっちゃにするのよ?
ありえない。
638人間七七四年:2012/10/26(金) 17:58:59.74 ID:136nSJLQ
織田軍撃破って越とる前なの?
639人間七七四年:2012/10/26(金) 18:22:15.72 ID:kl2ch+Q5
感状を出さなかった?

出せなかったんだろw ろくな戦果が無かったんだからよ。
640人間七七四年:2012/10/27(土) 03:19:36.01 ID:+Plzt3gV
>>631
倶利伽羅峠の戦いや富士川の戦いみたいなものだろ。
勝手に崩れて上の者から先に逃亡。

織田軍なんて畿内や越前の敗残兵の寄せ集めだから、
弱いのは仕方が無いし。
641人間七七四年:2012/10/27(土) 08:07:02.97 ID:+k19t5A5
感状がないから戦が無かったとか言うなら
そもそも信長の戦いの大半は無かったことになるんだがw
642人間七七四年:2012/10/27(土) 09:02:19.94 ID:lnrn5iUY
血染めの感状なんてあるから、川中島は武田の惨敗ということか
643人間七七四年:2012/10/27(土) 11:20:45.83 ID:+Plzt3gV
>>642
感状が無くても、手取川は謙信の圧勝
感状があるから、川中島は謙信の圧勝

どちらにせよ謙信が圧勝ということかよwww
644人間七七四年:2012/10/27(土) 12:10:33.72 ID:lnrn5iUY
つまり結論ありきと
645人間七七四年:2012/10/27(土) 13:00:27.87 ID:+Plzt3gV
>>644
自分でその結論を導いてることに気付けw
646人間七七四年:2012/10/27(土) 13:36:15.04 ID:gLz+XFWh
誰が何処で「感状がないから戦が無かった」なんて云ってんだよ?
647人間七七四年:2012/10/27(土) 15:30:07.58 ID:+Plzt3gV
手取川で戦があり、負けたところまでは認めたってことか。
648ハチミツボーイ:2012/10/27(土) 20:24:11.33 ID:xKYsddyT
猫も杓子も信長だよな
649人間七七四年:2012/10/27(土) 20:36:05.98 ID:4jN6iDbe
観察眼、直感力があるネコ杓子がたくさんいるってことだ
650人間七七四年:2012/10/28(日) 00:42:56.96 ID:8L14LUTb
>>645
結論ありきって意味分かってる?w
651人間七七四年:2012/10/28(日) 00:56:26.03 ID:wcwDEzYm
まあ戦国一の領土拡大をしたのが信長で、戦最強とは誰も言ってないんじゃないかね
内政も外交も含めた総力で一番成功したってことだ
652人間七七四年:2012/10/28(日) 09:58:13.48 ID:b8TwIzCG
過大評価スレにふさわしい結論がでたな
653人間七七四年:2012/10/28(日) 14:01:23.29 ID:OjCiqPRS
>>631
冬が近かったからでしょ
補給の関係上冬に敵地にとどまっていたら大変なことになる
654人間七七四年:2012/10/28(日) 19:38:03.26 ID:aMfBBBmN
>>653
関東出兵はほとんど冬に行われているから
理由にならないと思うわ
655人間七七四年:2012/10/28(日) 20:19:24.16 ID:b8TwIzCG
>>640
平宗盛と織田信長って似てるよね。
東海道で負けて、北陸道で負けて、反乱に悩まされ、、

なんとか強運で乗り切ったけど
656人間七七四年:2012/10/28(日) 21:43:35.23 ID:awx1RlQ5
>>655
昨日の自分のレス>>640にしれっとレス付けてんなよw わかんねえと思ってんのかw
657人間七七四年:2012/10/28(日) 23:38:00.19 ID:b8TwIzCG
>>656
このバカ、なにを言ってるんだ???w
658人間七七四年:2012/10/28(日) 23:39:16.97 ID:8L14LUTb
自演だって指摘してんだよ
そんなのもわかんねえのか?w
659人間七七四年:2012/10/28(日) 23:46:45.51 ID:b8TwIzCG
>>658
本当の自演とは、こういうのを言うんだよw
バレバレw

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1230030608/466-471

466 :人間七七四年:2012/10/27(土) 19:40:21.83 ID:gLz+XFWh
こいつって、もしや例の「だが」ってオヤジなんかw?

471 :人間七七四年:2012/10/28(日) 00:40:38.82 ID:8L14LUTb
>>466
yes
660人間七七四年:2012/10/28(日) 23:53:17.67 ID:8L14LUTb
被害妄想を押し付けられてもw
さあ自演だと証明する作業に取り掛かるんだ!w
661人間七七四年:2012/10/28(日) 23:54:18.68 ID:b8TwIzCG
>>660
え?自分に話しかけてるの?
662人間七七四年:2012/10/28(日) 23:55:42.74 ID:8L14LUTb
そうおもうなら統合失調症だw
病院いってこいw
663人間七七四年:2012/10/28(日) 23:58:08.01 ID:b8TwIzCG
君は明日病院に行くんだね。お大事にw
664人間七七四年:2012/10/29(月) 01:49:11.21 ID:IX9blEdq
と、まあ自分に都合の悪いのはなんでも自演と根拠も無く泣き喚き
あまつさえ意思疎通も満足に図れない
その程度の人間ってことだなID:b8TwIzCG
665人間七七四年:2012/10/30(火) 06:04:25.77 ID:Uj1qx/iP
信長が現代にいたら、ハマーとか乗ってそうだ。
人間が小さい奴ほど大きい車に乗りたがるじゃん。
それともファントムあたりかな?

世間は信長の器量の無さをもっと知らなければいけない。

666人間七七四年:2012/10/30(火) 08:28:09.80 ID:xmMYtLdx
そうやって人を見下すのも、人としてちっぽけだけどな
667人間七七四年:2012/11/17(土) 21:43:23.03 ID:hJcL/kVK
寧ろ本能寺で死んだのって凄いことじゃね?
668人間七七四年:2012/11/18(日) 14:34:20.23 ID:HcLUb9Fv
信長も本能寺で死んだから、かっこいい最後とか悲劇の英雄
みたいにいわれるが、本能寺がおこらず天下取って、無茶苦茶な内政や
無謀な海外進出とかしてたらボロクソな評価になってたんだろうな・・・
669人間七七四年:2012/11/20(火) 19:13:09.16 ID:2Ei191nd
「無茶苦茶な内政」って、そりゃなんぞや。
具体的に列挙してくれたまえ。

「無謀な海外進出」をして「ボロクソな評価」になったのは秀吉。
670人間七七四年:2012/11/20(火) 21:10:28.68 ID:l16yCpMz
信長や秀吉がボロクソというよりは、家康が凄すぎただけ
鎌倉幕府も140年ちょっとしか持ってないし、室町幕府は出だしから躓いて
6代目の将軍で既に家臣にぶっ殺されるなど事実上安定期はほとんどなかったといっていい

そんな「武士の政権なぞ長続きしない」と言われた時代にあれだけの強力政権を打ち立てたのは革新的
671人間七七四年:2012/11/21(水) 08:15:50.38 ID:TIgqm+cI
>>669
無茶苦茶かどうかはともかく税金は間違い無く高かった。
石高・貫高軍役制に移行していない信長体制は、恒常的に配下に、実力以上の過剰な軍役を奨励しており、
その負担は直に領民に振りかかる。
その上中世的な中間搾取勢力(国人・地侍)の整理をおこなっていないから、
織田支配下の領民への搾取は非常に厳しく、それが一向一揆という形での反信長反乱に
繋がったと見ていい。
672人間七七四年:2012/11/21(水) 20:33:07.56 ID:Yw/zvHdU
それで農民が逃亡したという記録が無いんだからすげえよな
武田なんか税安くしてくれればもっと賑わって家も建てられるのになんて嘆かれる始末w
農民の余剰資産をきっちり回収して、それでつぶれてないんだからどんだけ優秀なんだよ織田政治
673人間七七四年:2012/11/21(水) 20:42:14.37 ID:258mDYVm
>>672
> それで農民が逃亡したという記録が無いんだからすげえよな

いっまいあるぞ、長嶋や越前などの一向一揆はまさにそうだし、摂津でも荒木村重の乱のあとも
百姓たちは村を放棄し反織田活動を続けていた。
そういう民衆の離反は織田政権の構造が創りだしたもので、叩いても叩いても続出する
マッチポンプ状態だった。
674人間七七四年:2012/11/21(水) 20:54:24.15 ID:Yw/zvHdU
逃亡と一揆を同列に語るとかw
一揆起こす気力すらも無いほどにむしられた結果が逃亡だw
一揆はまだ武器を用意して食い物用意して示し合わせて戦う余力があるのw
675人間七七四年:2012/11/21(水) 20:55:43.53 ID:Yw/zvHdU
そもそもそいつら宗教前提の混じってるじゃねえかw
イスラエルは税が高いから戦争ばっかりなのか?w
676人間七七四年:2012/11/21(水) 22:19:20.97 ID:258mDYVm
>>675
宗教も何も例えば越前や摂津の一向一揆などは、本願寺が信長と和睦した後も、本願寺とは関係なく
行動している。
ここから明らかなように、一向宗は組織化のための方便にすぎない。
677人間七七四年:2012/11/22(木) 05:11:36.37 ID:uV/ywf1y
>>671
織田版図内の税金は超安い。
天正十年の武田征伐時、織田軍侵攻の報を聞いた武田領民は大層喜んでた。
何故なら、勝頼の暴政による重い担税負担に苦しんでいたから。
これでようやく重い税負担から開放されるとな。
つまり織田領内の低い税負担は他国にまで知れ渡っていた訳だ。

まるでハシシタの大嘘の焼き直しだな(爆笑)
678人間七七四年:2012/11/22(木) 05:38:50.91 ID:DSN0sJ9f
>>677
そんな安かったら本能寺の後あんな反乱起こるかよ。
信長の重しがとれた後は織田本国といっていい尾張・美濃でも反織田の蜂起が起こったくらいなんだぞ?

民主のマニフェストレベルの織田のプロパガンダに騙されたと気がついた後の甲斐領民の絶望がよく解るわ。
679人間七七四年:2012/11/22(木) 12:30:12.61 ID:9WxcDQMF
>>678
こういう偏狭な解釈どうすりゃいいんだ?
「西洋史の見過ぎ」とでも言えばいいか…
680人間七七四年:2012/11/22(木) 13:13:07.87 ID:uV/ywf1y
>>678
明智討ち後、秀吉は賤ヶ岳に至るまでの間、領内の反織田の蜂起鎮圧に忙殺されてたっけな。
全くされてねーけどな。
少しは歴史を反芻しろよ。

その愚論だと、
山崎の戦いに破れて敗走中の光秀を襲った土民達の動機も、「反織田の蜂起」になるな(爆笑)

病院行って来い。
681人間七七四年:2012/11/22(木) 17:17:29.39 ID:Oxhew8O2
>>676
戦国大名論集でも読めや
本願寺の統制が効かなくなってるってかいてあるから
独自解釈で独りで気持ちよくなってんじゃねえよw
682人間七七四年:2012/11/22(木) 17:47:03.76 ID:Dk0pGdzB
信長=外部因子なので過失なし、アンチはそこらへんの奴殺してきて殺されたお前が悪いと言えるの?
信玄謙信=完全な自己責任、無理をして状態を悪化させるのは愚の骨頂、地盤固めもせず子に迷惑をかけた
683人間七七四年:2012/11/22(木) 18:48:41.62 ID:1ubNjFoY
織田信長は右大臣
豊臣秀吉は摂政関白
徳川家康は征夷大将軍

何故に織田右府は本能寺で無念の横死をしてしまったのか?
684人間七七四年:2012/11/22(木) 19:37:53.53 ID:A0hGCqmr
>>683
辞任してるのだから前右府な。
685人間七七四年:2012/11/23(金) 08:08:09.60 ID:z8Sx734w
>>682
どうみても、
下克上された無能な当主達の一人ですw
本当にありがとうございましたw
686人間七七四年:2012/11/23(金) 20:58:07.12 ID:59thWJzt
>>677
>>織田版図内の税金は超安い。
>>天正十年の武田征伐時、織田軍侵攻の報を聞いた武田領民は大層喜んでた。

はいはいデタラメ乙。
一次史料のソース出してから吠えてねw
687人間七七四年:2012/11/24(土) 04:12:10.62 ID:soV/NZR/
>>686
なら、一次史料のソース出して否定してみ。
688人間七七四年:2012/11/24(土) 07:47:27.67 ID:/hfor2ru
>>687
お前アホすぎwさすが織田チョンはソースなしの捏造ばっかり書いてるだけあるなw
689人間七七四年:2012/11/24(土) 08:39:40.28 ID:soV/NZR/
>>688
つまり否定する根拠たる一次史料のソースは存在しない訳だ。
で、できるのは幼児性丸出しの個人中傷だけってか。
ボクちゃん、ちっとも進歩してねーな。
690人間七七四年:2012/11/24(土) 18:56:37.42 ID:SlTCi+I5
悪魔の証明来たよw

信長は韓国人
否定するなら一次史料出せ!みたいなもんだな。
691人間七七四年:2012/11/24(土) 22:24:03.31 ID:aqT6MqgC
悪魔の証明?
つまり武田の税制と織田のそれを比較できるものは無いと
ならどっちの税が高いか低いかも論ずることはできんわな

まあ事実として存在するのは、武田領では税に難渋してるって文書が残ってるってことだなw
692人間七七四年:2012/11/25(日) 00:14:09.95 ID:YnpKMYgx
677のソースある?
出したらあんたの肩をもつ。
693人間七七四年:2012/11/25(日) 10:11:33.24 ID:/1ogt36A
肩を持つってw
サークルの派閥対立じゃねえんだからw
そもそもこの程度知らないやつが何できるんだ?w
694人間七七四年:2012/11/25(日) 13:47:22.43 ID:YnpKMYgx
ソースはありません


まで読んだ
695人間七七四年:2012/11/25(日) 21:24:13.48 ID:pLZ67kSV
武田信者のやってることは論弁じゃなくて言い訳
696人間七七四年:2012/11/25(日) 21:29:33.89 ID:RlbRF1JX
言い訳こそ正義
697人間七七四年:2012/11/25(日) 21:30:31.98 ID:xczTlGj5
またまただががやらかしたのかwww
698人間七七四年:2012/11/25(日) 21:31:37.42 ID:xczTlGj5
数年ぶりに戦国板来たらまだだががいてビビッたwww
699人間七七四年:2012/11/25(日) 23:22:17.66 ID:2XwBvwz2
武田は最終的に家を滅ぼしたボンクラ
織田右府が死んでも家はここにありとした織田家とは全く違う

まあ基地外は織田信包も織田長益も織田信雄も織田信孝もいたのに
「織田家は実質滅亡」などと糞垂らしているがw
700人間七七四年:2012/11/29(木) 23:41:21.74 ID:k2C5FPRu
織田信雄アホ伝説

秀吉に改易させられ従者一人のみ従い、秋田県の辺境に流罪にされる。でも切腹する勇気なし。
家康に改易させられ嫡男は栄養失調で死亡
でも切腹する勇気なし。
市と娘との関係から再興を許されてるだけのへたれ。
701人間七七四年:2012/12/01(土) 00:53:26.75 ID:PyH97/Nc
秀雄は秀忠から捨扶持支給されてるよ
秀信と勘違いしていない下位?
702人間七七四年:2012/12/07(金) 21:02:33.81 ID:nHnHWOV0
>>699
武田家は滅んでいないよ、江戸時代な高家として残ったし、明治には華族にもなったし、

なったし、今でも武田家当主は現存している。
703人間七七四年:2012/12/07(金) 23:19:47.30 ID:RRGrH8wq
型かあるから  型破り、何も無ければ、型なし(無錫せいきょう?さんだったと思います}

{エタ頭  中村勘三郎さんに哀悼の念を込めて・・・・合掌}
704人間七七四年:2012/12/08(土) 00:50:50.85 ID:m7I6/BeJ
ぶっちゃけ武田信玄より上杉謙信の時の方が信長死にかけてたよな

毛利に海戦で負け、
本願寺は勢いづいて、
山陽じゃ波多野や赤井や別所が蜂起するし、
畿内では松永や荒木が謀反するし、
東海じゃ武田も北条も敵だし、
北陸で主力が崩壊するし。

長宗我部元親が三好や毛利を圧迫してなかったら、
絶対死んでたと思う。
705人間七七四年:2012/12/08(土) 01:46:35.22 ID:n7CRycrS
中一だが、去年「義元より信長の方が強い」とか言っているアホ教師がいたなー       「安土城は愛知県にあったよ」とも言ってたかなー
706人間七七四年:2012/12/08(土) 12:11:07.85 ID:6Y2k+il2
>>704
徳川家康も織田の援軍無しじゃ死亡だろうね
707人間七七四年:2012/12/09(日) 03:18:10.84 ID:OBvJhbk/
>>704
謙信は信長を見逃してあげたんだよ
潰すのは簡単すぎたからw
708人間七七四年:2012/12/10(月) 10:33:00.10 ID:7NOzdWeL
>>704
石川や福井の一部では手取川の合戦で信長が柴田勝家の軍に合流しようと北上していた時に
上杉軍が手取川の合戦で柴田軍を打ち負かして更に越前に向けて進行している報を聞いた信長が大慌てで命からがら美濃方面に逃亡したという言い伝えがある。
709人間七七四年:2012/12/10(月) 19:37:16.90 ID:fokdnwTc
信長って妙にDQNに人気あるんだよな。
この前も同級生のDQNに源頼朝や足利尊氏も知らんのに
信長の事にやたら詳しい奴がいて、で要は自分が信長みたいと
言わせたいのがミエミエだったのが笑いそうで仕方なかった。
しょうがないから正直に「お前なんか流れ弾で死ぬ足軽で終わりだ」
て言ったらいきなりキレだした。
ついてけんよ。
710人間七七四年:2012/12/11(火) 04:02:08.06 ID:+qvLpfpg
>>702
御先祖様は徳川家康なんですけど
武田信玄の血統は男系でも女系でもいないんですけど

由緒正しき甲斐源氏武田家より家康が気まぐれで作った武田信吉家や
家を乗っ取って繋げた高家武田家の方が正嫡だと言ってる現状についてどうですか?
711人間七七四年:2012/12/11(火) 21:56:04.36 ID:PnBgJo6f
>>708
けっこう毎回死にかけてるんだな
712人間七七四年:2012/12/11(火) 23:58:33.49 ID:GezqT01d
711
バレバレ自演乙w
713人間七七四年:2012/12/12(水) 00:27:01.83 ID:zcO0jKQC
もはや何も反論できなくなった哀れな織田厨w
714人間七七四年:2012/12/12(水) 06:34:03.65 ID:LeXJ6s4c
まあ何があっても自滅した信玄謙信よりマシなんですがね
715人間七七四年:2012/12/12(水) 06:42:20.21 ID:PZaT3svq
上杉織田は家を存続させたが武田は家を滅ぼした
江戸時代通じて不遇だった家はお察し
716人間七七四年:2012/12/12(水) 17:54:07.61 ID:WcL4T7aR
織田家なんて信長が光秀にぶち殺されてあっという間に滅亡したじゃん
717人間七七四年:2012/12/12(水) 20:58:01.23 ID:gujIda/Q
>>710
武田家の現当主は武田英信氏で、信玄の次男竜芳の流れである。あなたの言う家康の子孫
というのは家康の子の武田信吉のことだと思うが信吉死後断絶した。
最近雑誌でこの英信氏は徳川宗家の人と対談した。
718人間七七四年:2012/12/13(木) 05:27:41.19 ID:RPhqk1qx
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
さて、人物叢書刊行で世間の皆様の織田信長へのイメージが変わってくれると嬉しいのだが…。

MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
問題は、一般の方よりもまず多くの織田研究者が抱いている信長像から覆さなきゃいけないことなんだよね。
織田研究に足を踏み入れてみて、本当によくわかった。だって、何で信長を戦国大名と比較するんだ?
同列では論じられないでしょ?という反応が本気で来るんだもん。あれには、愕然とした。

MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
その意味で、人物叢書織田信長は、織田研究者の思考を相対化してもらうことが第一の課題となるように思う。
おそらく、僕がもっとも高く評価している織田研究者の名前をあげたら、皆さん驚くと思う。一人は地道な研究を
積み重ねている方だからいいとして、もうお一方は専門の歴史研究者ではないのだ。

MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
もっとも、お名前を出したら多分ご迷惑になると思うから、ここでは出さないが。

MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
まかこれは論文にも書いたのだが、まったく同じ文面の、信長と戦国大名が出した文書があるとする。
これは一般的な傾向だが(もちろん違う人もいる)、何故か信長はその文書から革新性を評価され、
戦国大名は既得権を温存した勢力として後進性を指摘される。こうした例は、非常に多い。

MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
だから、後北条氏の研究者である池上さんが、後北条と比較しながら信長を論じたことには大きな意味があるのだ。

https://twitter.com/kurmacf
719人間七七四年:2012/12/13(木) 07:15:44.30 ID:yeF3M9IE
>>717
厳密には柳沢家の人間だね
武田信玄正統でも、徳川家康の直系でもない

http://reichsarchiv.jp/家系リスト/柳沢氏

武田英信(現当主)−武田邦信−武田昌信−武田信保(柳沢保申次男)−柳沢保申−柳沢保興−
柳沢保泰−柳沢保光−柳沢信鴻−柳沢吉里−柳沢吉保(徳川綱吉側用人)
720人間七七四年:2012/12/13(木) 12:17:22.28 ID:HkT7xpD0
>>718
人物叢書織田信長、どんな本かと思って見てみたら
なんだ◯◯先生の本か。
この先生もともと信長嫌いだよ。悪イメージになりそうな史料だけ一生懸命取り上げる。
信長革命児論だのは分からんけど、当時の人達が英雄だ偉人だ言ってるんだから、
そこらへんもちゃんと着目した方がいいよね。
721人間七七四年:2012/12/13(木) 18:06:27.38 ID:xdnDnHIg
>>719
高家武田氏に養子に入ったということだ。ほかにも信玄の子で上杉の家臣になった者もいるし、
あとは徳川の旗本になった者もいる。
722人間七七四年:2012/12/13(木) 21:53:50.48 ID:DFCpxVQZ
>>718
全く同感だ
よく調べると信長も尾張、美濃、近江一帯で長い間四苦八苦してた
戦国大名の一人にすぎない事がわかるんだけどな
723人間七七四年:2012/12/15(土) 12:33:40.16 ID:QmchhrgZ
信長も戦国大名の一人って元々誰もが知ってるだろ。
今頃気付いたんか?おそ過ぎだろ。
単に大名の一人なんだけど、ちょっと他より抜きん出たから皆が着目してるわけで。

でまあ信長が革新的革命的と言われ我慢ならない人はアメちゃんに文句垂れるのがいいな。
今の日本史、アメちゃんみたいな外人さんが作ったわけで。
724人間七七四年:2012/12/15(土) 13:21:43.53 ID:6nNEniMK
>>723
他より抜きん出たって言ってもせいぜい最後の1年だけだしな
死ぬまで抜きん出続けた三好長慶とかに比べたらあまりよい出来じゃないよなー
725人間七七四年:2012/12/15(土) 16:52:46.52 ID:BiDt+elW
本能寺の変で死んだことも理解できない人がいると聞いて
726人間七七四年:2012/12/15(土) 17:34:29.97 ID:6nNEniMK
本能寺の大転落w
727人間七七四年:2012/12/17(月) 23:00:08.60 ID:3j7RicFg
三好‐織田‐豊臣‐徳川と繋がっているのが大きいんだろ

>>724
信長を擁護するわけじゃないが三好長慶ってもっとアカンやろ
十河一存が死んだあたりから明らかに勢威と覇気が曇ってる
三好義賢も死ぬし安宅に至っては自らぶっ殺してそれで気を病んでしまった
殺されたとはいえ最期までピンシャンしてた信長と比べるとさすがに信長の方が上や

もちろん秀吉や家康は信長より上やけど
728人間七七四年:2012/12/18(火) 22:44:12.93 ID:a/Iyow3N
>>727
仲の良い兄弟が権力を握ると、
代わりが居ないから凋落も早いよね。
豊臣秀吉とか長宗我部元親とか、
729人間七七四年:2012/12/20(木) 08:38:06.00 ID:sIc36vG0
>>727
724じゃないけど、三好長慶も信長と同じかそれ以上の事を成し遂げてるから
あまり悪く言わないでくれw確かに弟達が亡くなってからは覇気が落ちたのは事実だけど
安宅冬康殺して後悔してるって話が残ってるだけマシだとw
730人間七七四年:2012/12/22(土) 01:07:20.93 ID:sX9yiPrj
三好長慶は応仁の乱以降、ひたすら暴れ続けた
あの細川京兆家と細川典厩家を屠ってるんだよなー
731人間七七四年:2012/12/22(土) 02:01:45.54 ID:fcsdT0kS
屠っていると言えば聞こえはいいんだけど、周辺勢力を含めたらほとんど共倒れに近いのがな
特に屋台骨である阿波を預かっていた三好義賢の戦死が痛すぎた
織田と違って結局存続できなかったのが余計に哀愁漂ってるのかもしれないが・・・
732人間七七四年:2012/12/29(土) 13:50:21.96 ID:uIMv12sG
論破された武田厨は歴ゲ板に逃亡
733人間七七四年:2012/12/29(土) 19:34:46.18 ID:PIoQJ5/s
武田しか相手にできない織田ww
734人間七七四年:2012/12/30(日) 00:57:21.43 ID:KAmihmfo
>>731
どこが共倒れなのかよくわからない
実際のところ三好長慶が死ぬまで三好家は微動だにしていないだろ?
ウツとか講談を真に受けるのは恥ずかしいと思うよ

そもそも兄弟の一人が死んだだけで大騒ぎとか言うのなら、
信長の兄弟なんて散々たるもんじゃね?
735人間七七四年:2012/12/30(日) 08:49:04.43 ID:MnAaUz94
>>734
信長の兄弟達は別に信長から強力な権力を与えられていたわけではないからな
信長存命中に死んだ兄弟の中で比較的大きな権力があったのは織田信広くらい
それすら三好義賢と比べると微々たるものでしかない。

三好義賢が死んだことが最も致命傷になったのは屋台骨である四国三好を
ほぼ全てこの人が取り仕切っていたこと、後を継いだ三好長治が幼少だったこと
結局長治が幼かったから篠原長房が代わりに取り仕切って、それが原因で四国三好は対立をかなり生んでいる

三好家は長慶が死ぬまで微動だにしてないというが、実際には十河一存が死ぬ頃から衰退期が始まっている
確かに教興寺の戦いで反三好勢を打倒して盛り返しはしたが、六角勢は降伏講和して無事のまま
六角は足利将軍と結んで京から三好勢を追い出したりしているから、無傷で残ってしまったのは辛すぎた。
三好長慶が存命だったなら、六角含む反三好や足利将軍を統御できたかもしれないが・・・
736人間七七四年:2012/12/30(日) 11:45:56.82 ID:pd31QNHK
織田は、武田信玄、上杉謙信、北条氏直の全てに戦で負けている
しかも織田屈指の武闘派の家老(佐久間、柴田、滝川)が大敗
もし信長が東日本に生まれていたら、あっというまに滅亡してただろうな
737人間七七四年:2012/12/30(日) 12:08:51.70 ID:MnAaUz94
滝川佐久間が織田屈指の武闘派って初めて聞いたな
特に滝川なんてろくすっぽ大軍も与えてもらってないが・・・
738人間七七四年:2012/12/30(日) 12:10:05.46 ID:MnAaUz94
あと凄く言いにくいが、尾張は東日本だろw
739人間七七四年:2012/12/30(日) 12:23:06.50 ID:ku2TEvTu
『信長の支配は、強い主従意識、直接的な命令・指揮の発令関係によって成り立っている。
一定程度独立して決まった職務を分担執行する奉行人制や評定衆などの政治機構を構築しようとしなかった。
したがって、信長に急変が生じた時、分国全体の支配が後継者にスムーズに継承されるかどうか、その保証はない体制だった。

例え嫡子信忠が生き残ったとしても、分国の一大名で、譜代ともその他とも直接の主従関係を持たない信忠が、
分国全体を維持するのは容易ではなかったはずだ。』
740人間七七四年:2012/12/30(日) 12:30:02.89 ID:pd31QNHK
>>737
佐久間は名声、実力共に織田家臣の頂点だろ
そんなことも知らないのか?
滝川は織田四天王の一人で局地戦において
この二人の軍功を上回る織田家の武将なんてほぼ皆無だろ。
741人間七七四年:2012/12/30(日) 13:00:23.26 ID:H105dBX6
>>739
なんで引用文献の表記消してコピペしたの?

人物叢書・織田信長(P280)より と。
742人間七七四年:2012/12/30(日) 13:14:45.97 ID:STBUNIJl
織田信長にそっくりなイングランドの貴族

http://music.geocities.jp/jphope21/0203/37/252.html

そのイングランドの貴族は、ちょんまげを結っていた。
743人間七七四年:2012/12/30(日) 22:15:13.73 ID:MnAaUz94
>>740
滝川の軍功なんてほぼ全く存在しなくて
せいぜい眉唾モノの伊勢戦線くらいだろ

佐久間にしても柴田蜂屋森丹羽以下の扱い
ただ石山本願寺で抜擢されただけで終わったら用済みとばかりに追放されてるじゃんw
明智羽柴柴田以下じゃんw

それともアスペ君はそんなに三方が原ごときの楽勝戦争を引っ張りたいの?
今川氏真ですら勝てるような戦争でw
744人間七七四年:2012/12/30(日) 23:08:49.14 ID:QS8JEVdw
佐久間は畿内方面軍司令官になって一回も敗戦してないし名将だろ
滝川もほとんどの戦参戦しまくってる暦戦中の歴戦で赤井に二回も敗戦した光秀や
雑魚毛利に蹴散らされまくった秀吉なんかより遥かに戦上手。
それを2倍程度の兵力で10倍もの被害差与えたのが北条氏直
745人間七七四年:2012/12/31(月) 07:47:58.84 ID:NsqyovyB
佐久間の畿内方面司令官は原田が戦死したことによる棚ぼた人事じゃんw
ただえさえ結果出せない佐久間に信長が最後の温情を示したという典型
ところが佐久間はそこでも結果出せないから信長に追放処分になっただけ

滝川は結局自前の大軍を率いた経験がない事実は変わらない
唯一率いたのは信長死んでから
羽柴柴田明智に遠く及ばないのが滝川佐久間
佐久間はその3人どころか池田前田クラスにすら及ばないだろう
746人間七七四年:2012/12/31(月) 13:17:06.53 ID:9El47jln
棚ボタ人事=お前のアホな妄想
大阪方面軍は方面軍司令官でも最大規模
しかもそこで全く敗戦なし(改易は信長の都合で行っただけ)
滝川=信長の主要な戦にほとんど参加。
明智=赤井に二回も敗戦
柴田=御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化した上杉を9倍もの圧倒的兵力&神保・長・斉藤らの派遣で火事場泥棒するも
越中中部〜魚津松倉間で2年も立ち往生。
羽柴=熊見川で雑魚毛利に3000戦死の大敗、天正11年に伊勢でも滝川との直接対決で苦しめられまくる

佐久間滝川>>>>>>>羽柴・明智・柴田
747人間七七四年:2012/12/31(月) 13:35:45.10 ID:NsqyovyB
アスペ君発狂wwww
大坂方面軍の司令官は原田直政
原田直政が死んだから佐久間信盛になったわけ

おまえの理屈が正しいなら最初から佐久間信盛がやっている
もちろん信長が改易にすることはないw
明智羽柴柴田はおろか丹羽池田前田クラスにも負けていると判断されて折檻状まで送られている
748人間七七四年:2012/12/31(月) 13:40:36.06 ID:NsqyovyB
佐久間信盛折檻状

一、父子五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、
我貼も思ひあなり、言葉にも述べがたき事。

一、丹波国の日向守が働き、天下の面目をほどこし侯。次に、羽柴藤吉郎、
数ケ国比類なし。然して、池田勝三郎小身といひしも、程なく花熊申し付け、是れ叉、
天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。

一、柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知しながら、
天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付けし事。

一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、
我等にきかせ、相済むのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、油断、曲事の事。

一、信長家中にては、進退各別に侯か。三川にも与力、尾張にも与力、
近江にも与力、大和にも与力、河内に与力、和泉に与力、根来寺衆申し付け候へば、
紀州に与力少分の者ども候へども、七ケ国の与力、其の上、自分の人数相加へ、
働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度を取るべからざるの事。


明智羽柴柴田池田を功績を挙げた人物の例に出して「たくさん与力がいるのに功績がないとはどういうことだ」と信長に折檻されている事実
749人間七七四年:2012/12/31(月) 13:47:26.00 ID:NsqyovyB
功績を立てていないんだからそら敗戦もあるわけないw

>>746の理屈に従えば日本の戦国時代で最も戦争が上手かったのは徳川家光

大阪方面軍どころか全国の武士団軍団を統御できる立場にあり
司令官としても日本の最大規模の軍団を誇る
しかもそこで全く敗戦なし、兵を全く損失していない(戦争に立てなかったのは家康秀忠の勝手な都合)
750人間七七四年:2012/12/31(月) 13:58:19.11 ID:H3UjGzug
>>748
何気に柴田も評価が低い
つまり信長は新参者好きなだけ
751人間七七四年:2012/12/31(月) 14:00:53.86 ID:NsqyovyB
>>750
全然低くないだろ・・・
そもそも池田勝三郎なんて信長からすれば
柴田勝家以上に古参中の古参だし
752人間七七四年:2012/12/31(月) 14:06:41.19 ID:H3UjGzug
ちなみに池田恒興が花隈城攻めの功を評されているが、
主戦場の有岡城で抜群の戦功をたてたのが
後に北条氏直に敗れた滝川一益であり、
織田家のトップを争う武将であったことは、間違いない
753人間七七四年:2012/12/31(月) 14:09:53.38 ID:NsqyovyB
滝川がトップクラスの一戦級武将だというのは否定しないよ。
ただ大軍を率いた経験は全くないよね、北条氏直に負けた神流川以外では。
勘違いしないでほしいが、だから北条氏直が無能だとか偶然の産物だとか言ってるわけではないよ
754人間七七四年:2012/12/31(月) 14:10:19.86 ID:H3UjGzug
>柴田勝家はこれらの事を聞き、越前一国を領知しておりながら
>何もしないとあっては天下の評判もあろうと考え、この春に
>加賀一国を平定した

信長は柴田について滑り込みセーフと評しているだけ
下手をすれば佐久間同様追放する気だったとしてもおかしくない
755人間七七四年:2012/12/31(月) 14:11:48.39 ID:NsqyovyB
あ、もしかして>>743と同じ人物だと思っている?
俺は>>744がおかしいと思ったから突っ込んでるだけよ
滝川の軍功に関して言うなら信長公記にも十分すぎるくらいある
756人間七七四年:2012/12/31(月) 14:14:27.77 ID:NsqyovyB
>>754
滑り込みセーフならこんなところで取沙汰しないよ
明智羽柴池田の功績を受けて、天下の評判を考慮して奮起して加賀を取ったと言うこと。
他の連中が功績を立てているのに何もしなかった佐久間と、きっちり功績立てて仕事した柴田を対比させている。
757人間七七四年:2012/12/31(月) 14:20:55.31 ID:H3UjGzug
No.1の佐久間信盛やNo.2の柴田勝家は織田家のほぼ全ての戦いで主戦力として働いているのだから、
別働隊のような軍功ではなく、ほぼ全ての勝ち戦と負け戦において別格の軍功を誇っていた
と考えてよいくらい。
だからこそ佐久間や柴田は前任者が失敗するような困難な任務を与えられていた
758人間七七四年:2012/12/31(月) 14:23:51.01 ID:H3UjGzug
>>755
どちらでもいい
最近の織田厨は織田家のことすら無知すぎる
佐久間信盛に軍功が無いなんて...
759人間七七四年:2012/12/31(月) 14:24:25.42 ID:9El47jln
>>747
佐久間の追放は能力とは関係ないだろ
信長折檻状では功積がないとか馬鹿な妄言が書かれてるが
実際本願寺に勝てたのは佐久間のおかげでしょ
信長なんて対本願寺戦で何もやってないじゃん
>>753
柴田も明智も羽柴も毛利に負けたり赤井に負けたり内乱自壊中の上杉に手間取ったりしてるし
滝川と比べて何ら優れた部分などない
760人間七七四年:2012/12/31(月) 14:28:46.77 ID:I66acml/
七ケ国の与力与えられてた武将が実力ないわけないわな
佐久間の改易は明智が丹波召し上げられて山陰に飛ばされたのと同じく
家臣の肥大化防いで中央集権化を測る意図があったと考えるのが妥当
んで佐久間林光秀と首切ったら謀反→死亡って流れじゃね
761人間七七四年:2012/12/31(月) 14:41:19.65 ID:9El47jln
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
762人間七七四年:2012/12/31(月) 14:43:41.27 ID:H3UjGzug
畿内でいくら活躍しようと、
東国勢の一流(謙信、信玄、氏直)と決戦したら皆敗走するんだから、
織田家の実力レベルはハッキリしてるよな
763人間七七四年:2012/12/31(月) 14:52:34.23 ID:RmFjhTD/
>>759
佐久間は五年間包囲していただけで決め手になったの信長自身による戦略と外交でしょ
だいたい佐久間が本願寺を直接下したわけじゃないし
764人間七七四年:2012/12/31(月) 15:07:33.05 ID:9El47jln
信長の戦略と外交?
具体的には?
援軍もろくに送ってたなかったような…
765人間七七四年:2012/12/31(月) 16:40:38.08 ID:FqVOLvfM
>>761
だがちょんの妄想コピペなんざ参考にすらならねえぞ
766人間七七四年:2012/12/31(月) 17:21:45.02 ID:I66acml/
佐久間が本願寺攻め総責任者になってから
まったく織田軍は敗退してないし
名将でしょ
信長が佐久間への折檻状で主張するような
要害を頼んで大坂で籠城してる
本願寺を攻略なんてもともと無理な言い掛かり。
本願寺が大坂を譲渡したのも天皇の度重なる斡旋であって
信長自体が大坂の武力制圧できなかった責任を
佐久間に押し付けただけ。
信長が功臣を排除しようとする流れから
摂津方面責任者だった荒木は摂津の軍権を佐久間に取られ
丹波は光秀、播磨の軍権は秀吉、和泉の軍権は織田信張と
完全に荒木は排除されたから謀反したんだし、
謀反した光秀にしたって本来、光秀が山陰や四国征討の拠点にするはずだった但馬も淡路も秀吉に横取りされたことで
完全に秀吉の下の地位に堕ちてる。
しかし佐久間は信長に謀反せずにおとなしく高野山へ行き
信長の御勘気が解けるのを待っていたほどの忠臣。
信盛死後に高野山にあった信盛の遺品を奪い取るために
信長は高野山攻めを開始してるほどキチガイ。
767人間七七四年:2012/12/31(月) 17:25:19.24 ID:NsqyovyB
>>760
与力は佐久間の直臣じゃないから一時的なものにすぎん
前田利家が北陸統治にあたって柴田勝家に与力としてつけられていたようなもの
ましてや佐久間の場合は死んだ原田の後任だから与力がついていた時期すら短い

>>757
そのレベルの軍功でいいなら丹羽池田蒲生にすらあるんだが
信長主導の戦いについていったくらいで「家中で一番」とか言ってたの?
むしろ織田家臣でそれやってない奴いるの?

>>764
木津川口の時ですら上陸した毛利軍と本願寺軍叩いてるし
天王寺の時も明智の救援に行ってますやん
768人間七七四年:2012/12/31(月) 17:25:53.19 ID:Tb/AiTFR
部下を大事にしないと組織が崩壊するという見本だな。
769人間七七四年:2012/12/31(月) 17:27:16.09 ID:NsqyovyB
>>佐久間が本願寺攻め総責任者になってからまったく織田軍は敗退してないし名将でしょ

戦争してないんだから当たり前でしょ
戦国時代で一番の戦上手は徳川家光なんだな?
770人間七七四年:2012/12/31(月) 17:28:05.29 ID:9El47jln
戦争していない?
本願寺と戦争してるじゃん
771人間七七四年:2012/12/31(月) 17:30:59.88 ID:NsqyovyB
>>770
まともにしてないよ
軍を率いるだけなら徳川家光でもできる
他の連中、例えば松平忠輝なんかもできるわけ

そもそも信長折檻状が載っている信長公記の牛一ですら
佐久間に対しては比較的好意的な書き方をしているのに
その信長公記ですらまともに登場してない時点で終わってるでしょ
772人間七七四年:2012/12/31(月) 17:34:25.16 ID:I66acml/
佐久間信盛の参戦した戦 
○稲生の戦い
○観音寺城の戦い
○野洲河原の戦い
○姉川の戦い
▲志賀の陣
●三方ヶ原の戦い
○一乗谷城の戦い
○若江城の戦い
○高屋城の戦い
○長篠の戦い
○天王寺の戦い
○紀州征伐
○信貴山城の戦い
○石山合戦
>>771
んなこといったら他の司令官も同じだろ
大軍で攻囲→物資不足で降伏勧告が他司令官も行いまくってるし
一国人の赤井に2回敗戦したり別所相手に苦戦しまくったりガチンコじゃろくな戦課あげられてないね
773人間七七四年:2012/12/31(月) 17:42:11.56 ID:NsqyovyB
>>772
最終的にそいつらは自分で切り取ってるだろ
羽柴だって鳥取とか毛利攻めは最初こそ織田本隊の協力仰いでるが結局独力で落としている
明智も摂津に駆り出されたり赤井に負けたりしたが最終的に落とした
佐久間はどう?最後は信長が強引に和議結ばせてやっただけでしょ。

確かに佐久間折檻状は信長がキツすぎたと思ったのか、佐久間の息子を家臣にしているけど
だからといって『佐久間に全く咎がなかった』というのはいくら何でも極論
774人間七七四年:2012/12/31(月) 17:50:53.92 ID:NsqyovyB
本願寺攻めの佐久間の評は折檻状の『善悪の働きこれなきの段』で終わっている
明智や羽柴がサクセスストーリーではなく失敗もあったというのはその通りだが
最終的には努力して軍功戦果を自らもぎ取っているんだよな。
佐久間はそれを怠って当時勢力拡大に大忙しだった織田軍の兵力を無駄にしていたというわけ。

まあ佐久間の擁護をするなら、動いて死んだ原田の後釜だったから、それに何か感じるものがあったのかもしれん。
でもそれは、武士として有能かと言われれば、間違いなくNoだな
775人間七七四年:2012/12/31(月) 17:51:30.55 ID:9El47jln
羽柴が鳥取取れたのは山名が元々親織田で米を大量に売るようなヘタレ君主だったから場内にろくに物資がなかったのと
毛利が寝返った南条宇喜多に苦戦して後詰どころか因幡伯耆国境すら抜けずに立ち往生してたおかげだし
明智も本願寺に比べればハナクソみたいな国力しかない丹波一国人の赤井直正に2回敗戦。直正死居後やっとこさおとしただけだし
佐久間は石山という要害・規模でいっても大きく物資も毛利が搬入するなど恵まれてただけだし
状況・やった事からいえば大軍で攻囲→物資不足で降伏勧告が他司令官も行いまくってるしかわらんだろ
776人間七七四年:2012/12/31(月) 17:55:53.22 ID:NsqyovyB
石山が要害だったというならなぜ相談してこなかったと信長も言っているわけだが

一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、
我等にきかせ、相済むのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、油断、曲事の事。

明智や羽柴と対決相手が違う、と言ってもそれは信長に協力を仰げば済む話
それすらしなかったというのは、佐久間が強敵相手に動じて何もできなくなるほど
武将としての器量に疑問符がつくような人物だったということになるだけ

あるいは本当にやる気がなくて、社内ニート同然のサボリとも取れる能天気君だったか
777人間七七四年:2012/12/31(月) 17:56:48.74 ID:I66acml/
佐久間が織田の兵力を無駄にしてたって織田の兵力を当の佐久間に与えてたのは信長じゃん
問題があれば当然天正8年まで放置せずさっさと左遷なり降格なりすればいいだけ。
それをせず佐久間に大身与えて本願寺と講和がすんだ後解雇っていうのは
能力どうこうではなく本願寺攻めが済んで佐久間が用済みになっただけだろ
柴田や滝川の場合は上杉が御館の乱や新発田の乱、武田の寝返り連鎖で侵攻が比較的スムーズにいったが
対本願寺戦ではそんな状況とは程遠かったんだし別に他の司令官と比べて何ら変わるところがないどころか
功積でいえば一番でしょ>>772
778人間七七四年:2012/12/31(月) 18:03:09.42 ID:NsqyovyB
>>777
すぐに解雇していたら家臣の芽が育たないから我慢強く待った結果でしょ
実際明智も羽柴も柴田も1年2年で国をまるごと取るなんておおわざしていない
本当に佐久間が用済みになったのなら追放せずとも減封左遷すればいいだけ
いきなり領地なしの追放処分か死地に突っ込んで軍功立てろという時点でかなり怒ってるのがわかる

そもそも対本願寺戦どころか摂津方面を佐久間は担っていたわけだが
荒木村重の討伐すら信長がやっているというやる気のなさ
本願寺と毛利の戦いも信長自ら出張る戦いの方が多く
なんのために佐久間を任命しているのかわからない状態

それでも旧来の家臣だし長々と見守っていたところ
やっぱり佐久間が何も動かなかったので信長の逆鱗に触れただけ
779人間七七四年:2012/12/31(月) 18:05:02.29 ID:NsqyovyB
× 信長自ら出張る
○ 信長自ら出張ったり他の家臣が出向いたりする
780人間七七四年:2012/12/31(月) 21:34:14.37 ID:92enSzhj
信長の長男は塙直政の妹を母として天文23年に生まれた信正であり
(直政がロクに実力も功績もないのに大和守護に抜擢されたりと厚遇されたのも信長嫡男の叔父という地位から)
塙直政が本願寺包囲中に討ち死にしたことを口実に塙一族から所領を没収し
指名手配をしたので、信正を存在しないことに公記は捏造。
実際は信長が生駒氏と寵愛しはじめた為、信忠を嫡子にするために塙は犠牲となったのだ。
(公記は光秀の妹が信長の寵愛を受けていたが天正9年8/7頃に死去したことも
わざと記さず光秀謀反の遠因まで隠蔽。光秀は直政のような末路を危惧して
多聞院を前にしての光秀は無比類力落也を隠さなかった)

光秀や原田らが失敗した大坂本願寺の動きを完璧に封じた佐久間の武功は織田随一の実力者で
逆に言うと畿内本軍を統括して総指揮が可能な人徳や能力が佐久間にしかなかった。
もし中核的な策源地たる摂津で佐久間が失敗していたら秀吉や光秀の丹波や播磨戦線は崩壊していた。
そもそも柴田のように謙信死後に御館の乱や新発田の乱で上杉が加賀なんて放置状態になったラッキーさで
首の皮一枚がぎりぎりつながったほどの無能と比べてみれば歴然。
つか柴田の場合は前田や佐々らに監視されていたほど駄目待遇でやはり佐久間が織田家No2なのは間違いない。
781人間七七四年:2013/01/01(火) 07:15:56.21 ID:1BZKB91X
年末も絶好調っすね
782人間七七四年:2013/01/02(水) 09:09:57.46 ID:cXU1ilmI
折檻状にもあるが信長にしてみれば失敗はまあ仕方ないがやる気ないのだけは我慢ならなかったってことでしょ
783人間七七四年:2013/01/02(水) 10:34:32.69 ID:wcfMsXBW
それ武将として一番致命的だろ
長篠で戦って散った山県内藤馬場より
長篠で戦わずに帰った穴山等の方が酷いしな
784人間七七四年:2013/01/02(水) 15:23:47.98 ID:XUzf2ho+
>>739>>741
信長がもし長生きしたとしても拡大する分国の統合を維持することは難しいし
破壊と殺戮に走る戦争をいつまでも続けられるだろうか。
際限のない戦争は武士にも百姓にも不満を広げるはずだ。
「上方の儀は不実に候」という不信感 〜略〜
信長の発給文書をみて気づくことは信長自身は百姓や村と正面から
向き合おうとしなかった権力なのではないかよいうことである。
郷村宛の禁制以外に村や百姓支配に関わって発給した文書がほとんどないのである。
〜略〜信長には農政・民政がないのである。戦争遂行には築城・道路整備、
兵粮等の運搬のために百姓らの夫役・陣夫役等が不可欠である。
信長は村・百姓の負担の実情に思いを致すことはなかったし
その年間負担数量を規定することも無かった。
>>766
本願寺攻略なんて天皇を使わなきゃ無理。秀吉が宇喜多を調略して
毛利水軍を引き上げさせるまで水上から補給だって維持されてきてたんだから。
むしろ本願寺を100%封じ込めた大功に対して加増させるのを嫌がったんでしょ。
石山本願寺が和睦に応じた後に加賀を攻略できただけの棚ボタ柴田にしたって
越前府中などを信長に回収され加賀へ行かされ、その後釜は信長の娘と婚姻した
前田利勝に与えられ能登と府中から信長直臣の前田氏によって織田家家老の柴田が
いつでも前後から挟撃される監視状態がさらに強まり、いつでも用済みでポイすてできる
体制になってる。おそらく近い将来、佐久間と同じ改易にされてただろう。
佐久間への折檻状は信長のイチャモンでしかない。尾張出身の佐久間は理不尽な要求に謀反しなかった。
785人間七七四年:2013/01/02(水) 17:20:12.65 ID:OGNCPf/c
2chは光秀の評価が高すぎるんだよ
786人間七七四年:2013/01/02(水) 17:26:10.54 ID:wcfMsXBW
物はいいようとはよく言ったもんだな
787人間七七四年:2013/01/02(水) 18:51:15.77 ID:zrfs0Dzh
kadaikadai
うっしぇな〜
788人間七七四年:2013/01/03(木) 12:23:23.58 ID:3+HI+XmC
信長は無差別大量虐殺者&破壊と荒廃を全土に撒き散らした狂人。
英雄ではない。
789人間七七四年:2013/01/03(木) 13:10:22.13 ID:Ujqt0Tpu
悪意的に言えば戦国大名皆に言えることだな
790人間七七四年:2013/01/03(木) 13:12:15.04 ID:fu8J2+ng
信長の悪という面ならむしろ、「平時の体制」を最後まで作り出せなかったところだろうな。
791人間七七四年:2013/01/03(木) 13:33:22.46 ID:oZ/EMjpN
>>776
石山が要害であり本願寺が強敵であることは信長自身が一番分かっている事だろう
だからこそ跡地に大坂城を企図し、天皇まで引っ張り出して和睦している
結局自分ですらその程度の処置しか出来ないくせに、
相談云々言い出し、長期戦を部下の責任にする情けない信長の人格がよくわかる
792人間七七四年:2013/01/03(木) 13:42:21.40 ID:oZ/EMjpN
>>778
当時の荒木村重の地位と戦力を理解していないと思われる
摂津一国を完全に独力で切り取り、謀反しては信長の支配地のど真ん中で
1年も戦い続ける程の武将

当時の実力的には松永久秀を完全に上回る事実上の戦国大名といえる
これを本願寺包囲の片手間で倒せるとか言い出してたら信長はアホの極み

実際のところ信長がそんなアホな事はさすがに言わず、
謀反当初は、珍しく誠心誠意、村重の説得を試みている
793人間七七四年:2013/01/03(木) 13:54:18.03 ID:oZ/EMjpN
>>778
そもそも佐久間信盛折檻状は19項目もある
本願寺戦以外の8年前に遡る言いがかりを何項目も長々と連ねているのだから、
致命的な失策とは言えず、さりとて信長は他の決定的な追放理由を見出せず
苦心していることが自明
794人間七七四年:2013/01/03(木) 18:56:17.56 ID:Ihv46I2y
要するに信長は、信盛君に何となくレターしたかっただけかもな。
安土築城の時転がり込んじゃったのも信盛君チだし。
795人間七七四年:2013/01/03(木) 18:59:52.96 ID:aCxtHTxe
>>790
戦国時代なんだから当然なんじゃね
天下平定できなかったという意ならまた違うが
796人間七七四年:2013/01/03(木) 19:03:52.98 ID:ym9j/Laf
you tubeで「新唐人テレビ」を検索して見てください。
それを見ると中国人も中国の民主化を望んでいる事がわかります。

新唐人テレビは中国の民主化を望む中国人自身によるテレビ局で、海外に拠点をおき、中国共産党の圧力に屈する情けない日本のマスゴミよりもよっぽどまともなテレビ局です。

日本語による吹き替えも毎日アップしています。
日本では中国共産党の圧力により報道出来ないニュースが沢山取り上げられています。
新唐人テレビのような勇気ある報道機関を広める事で、中共の圧力に屈し、真実を伝えない日本のマスゴミのへなちょこぶりを浮き彫りにする事にもなります。

さらに新唐人テレビを衛生放送を使って中国国内に放送する計画まであります。
これはある意味、中国共産党に対する強力な「兵器」です。

新唐人テレビを日本や在日中国人の間に広めて、中共が日本に戦争をしかけてくる前に中共を内部崩壊させましょう!
797人間七七四年:2013/01/03(木) 19:48:08.38 ID:fu8J2+ng
>>795
他の、特に東国の戦国大名は合戦しつつ安定した民生の仕組みを構築している。
信長には民生の部分が全く存在しない
798人間七七四年:2013/01/03(木) 20:40:34.87 ID:aCxtHTxe
じゃあ”他の”で、具体例あげてくれないか
文書が多く残ってるところぐらいしかあげられないだろ?
つまりはそういうことじゃないのか?
799人間七七四年:2013/01/03(木) 20:50:48.12 ID:q2h9rK2l
>>798
残った文書で言ったら信長は北条武田より多いぞ
800人間七七四年:2013/01/03(木) 21:02:04.74 ID:ugFuBTgY
多くねーよ
801人間七七四年:2013/01/03(木) 21:21:27.67 ID:f/DGv4L4
>>791
そういう措置にならざるを得なかったのも佐久間が何もしなかったからだろ
しかも自分は息子と茶の湯三昧で負担は与力たちに押し付ける始末
802人間七七四年:2013/01/03(木) 22:22:15.26 ID:oZ/EMjpN
>>801
伊勢長島の願証寺ですら3度も崩れ、武将どころか信長の兄弟まで討死しまくっているのに、
さらに強固な城で、種子島や土佐と海流で繋がり、紀毛利の支援まで受けていた石山本願寺を
佐久間信盛だけで落とせるわけがない

茶道については信長も一益も傾倒しており、その仲介はむしろ信盛の功績の一つ
そもそも信長こそ国人の統治能力に欠けて畿内を不安定にし、信盛の足引っ張ってた張本人
自分の問題を部下の責任に転嫁する最悪の上司だな
803人間七七四年:2013/01/03(木) 22:25:53.41 ID:q2h9rK2l
>>799
いや、多いぞ。北条武田みたいに体系的にはまとめられていないが、発給文書で言ったら
さすが政権構成しただけあって残っているものは北条武田より多い。
804人間七七四年:2013/01/03(木) 22:31:50.71 ID:aCxtHTxe
それは初耳
戦国大名論集でも織田の残されてる文書は少ないと書かれていたが
何を根拠にそんなこと言ってるの?
805人間七七四年:2013/01/03(木) 22:41:26.27 ID:Ujqt0Tpu
>>789
何をいきなり発狂してんだ?
本願寺との和睦なんて本願寺が勅願寺であるから最後の情けを織田がかけただけ
大体和議とか言いながら本願寺は結局本拠である石山本願寺を捨てている。
普通の和議なんていうならこんなことはまずありえない。志賀の陣でも信長は和議を結んだが
別に信長は岐阜城を捨ててはいないし、浅井朝倉も小谷一乗谷を捨てたわけではない。

他の例で言うなら完全に降伏勧告なのを、信長がせめてもの取り繕いで和議にしてやっているだけ。

>>摂津一国を完全に独力で切り取り、謀反しては信長の支配地のど真ん中で 1年も戦い続ける程の武将

一国の大名程度切り取れないのを無能だと評されただけ
毛利や武田は一か国以下の領土か?上杉の領土は加賀に1国しかなかったのか?
羽柴柴田信忠はそんな1カ国程度のショボイ大名を相手にしていない

逆に言えば、1カ国しかない程度の大名で既に佐久間はお手上げだったわけ
本願寺に毛利や別所などの援軍がついてる時点で、佐久間には到底できない任務だった

>>本願寺戦以外の8年前に遡る言いがかりを何項目も長々と連ねているのだから、

1つや2つの理由で追放していたら家臣なんて残らんわなw
秀吉や柴田ですら信長から叱責された例があるのに佐久間はそれが積もり積もっていただけ
同時期に追放された林なんぞ20年近く前の話を持ってこられている
役に立たなかった人間を追放するときに「でもこの時は活躍した」と言われても面倒なだけだから全部出しただけw
806人間七七四年:2013/01/03(木) 22:41:38.20 ID:QwVCfw1G
戦国大名論集って古いな…
807人間七七四年:2013/01/03(木) 22:48:13.07 ID:Ujqt0Tpu
そもそも本当に佐久間信盛が織田家随一の有能武将だったら追放なんてまずありえないわな
信盛の行状は一貫して信長支持だから柴田や林のように疑われることもないし、
権力や能力を危険視されているならとっくの昔に切られている。

秀吉柴田明智という優秀な家臣や、池田丹羽滝川と股肱の万能武将の中で
佐久間は取り残されたから追放しただけで、しかも正確には追放ではなく
「一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し」
と、わざわざ信長は救済条件までつけている。

「有能すぎて邪魔になった」というならこんなことを書く必要がない
さっさと殺すか追放すればいいだけ
808人間七七四年:2013/01/03(木) 22:49:48.54 ID:q2h9rK2l
>>804
戦国大名論集って1980年代の本じゃないか…
その頃は織田どころか、北条武田だって史料のない時代だった。

その時代あたりから研究が進んで、信長の発給文書もガンガン発見されるようになった。
809人間七七四年:2013/01/03(木) 23:09:10.62 ID:aCxtHTxe
へえ
で、その最近の動向とかの根拠は何なのさ
なかなか答えてくれないね?
810人間七七四年:2013/01/03(木) 23:32:04.51 ID:ZtL7mO3U
羽柴が鳥取取れたのは山名が元々親織田で米を大量に売るようなヘタレ君主だったから場内にろくに物資がなかったのと
毛利が寝返った南条宇喜多に苦戦して後詰どころか因幡伯耆国境すら抜けずに立ち往生してたおかげだし
明智も本願寺に比べればハナクソみたいな国力しかない丹波一国人の赤井直正に2回敗戦。直正死居後やっとこさおとしただけだし
佐久間は石山という要害・規模でいっても大きく物資も毛利が搬入するなど恵まれてただけだし
状況・やった事からいえば大軍で攻囲→物資不足で降伏勧告が他司令官も行いまくってるしかわらんだろ
柴田や滝川の場合は上杉が御館の乱や新発田の乱、武田の寝返り連鎖で侵攻が比較的スムーズにいったが
対本願寺戦ではそんな状況とは程遠かったんだし別に他の司令官と比べて何ら変わるところがないどころか
功積でいえば一番でしょ
811人間七七四年:2013/01/03(木) 23:36:11.25 ID:ZtL7mO3U
棚ボタ人事=お前のアホな妄想
大阪方面軍は方面軍司令官でも最大規模
しかもそこで全く敗戦なし(改易は信長の都合で行っただけ)
滝川=信長の主要な戦にほとんど参加。
明智=赤井に二回も敗戦
柴田=御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化した上杉を9倍もの圧倒的兵力&神保・長・斉藤らの派遣で火事場泥棒するも
越中中部〜魚津松倉間で2年も立ち往生。
羽柴=熊見川で雑魚毛利に3000戦死の大敗、天正11年に伊勢でも滝川との直接対決で苦しめられまくる

佐久間滝川>>>>>>>羽柴・明智・柴田
812人間七七四年:2013/01/03(木) 23:39:05.01 ID:tTSUlfOg
佐久間信盛の参戦した戦 
○稲生の戦い
○観音寺城の戦い
○野洲河原の戦い
○姉川の戦い
▲志賀の陣
●三方ヶ原の戦い
○一乗谷城の戦い
○若江城の戦い
○高屋城の戦い
○長篠の戦い
○天王寺の戦い
○紀州征伐
○信貴山城の戦い
○石山合戦


佐久間が本願寺攻め総責任者になってからまったく織田軍は敗退してないし名将でしょ
信長が佐久間への折檻状で主張するような要害を頼んで大坂で籠城してる
本願寺を攻略なんてもともと無理な言い掛かり。本願寺が大坂を譲渡したのも天皇の度重なる斡旋であって
信長自体が大坂の武力制圧できなかった責任を佐久間に押し付けただけ。
信長が功臣を排除しようとする流れから摂津方面責任者だった荒木は摂津の軍権を佐久間に取られ丹波は光秀、播磨の軍権は秀吉、和泉の軍権は織田信張と
完全に荒木は排除されたから謀反したんだし、謀反した光秀にしたって本来、光秀が山陰や四国征討の拠点にするはずだった但馬も淡路も秀吉に横取りされたことで
完全に秀吉の下の地位に堕ちてる。しかし佐久間は信長に謀反せずにおとなしく高野山へ行き
信長の御勘気が解けるのを待っていたほどの忠臣。信盛死後に高野山にあった信盛の遺品を奪い取るために
信長は高野山攻めを開始してるほどキチガイ。
七ケ国の与力与えられてた武将が実力ないわけないわな
佐久間の改易は明智が丹波召し上げられて山陰に飛ばされたのと同じく
家臣の肥大化防いで中央集権化を測る意図があったと考えるのが妥当
んで佐久間林光秀と首切ったら謀反→死亡って流れじゃね
813人間七七四年:2013/01/03(木) 23:43:49.38 ID:ZtL7mO3U
本願寺攻略なんて天皇を使わなきゃ無理。秀吉が宇喜多を調略して
毛利水軍を引き上げさせるまで水上から補給だって維持されてきてたんだから。
むしろ本願寺を100%封じ込めた大功に対して加増させるのを嫌がったんでしょ。
石山本願寺が和睦に応じた後に加賀を攻略できただけの棚ボタ柴田にしたって
越前府中などを信長に回収され加賀へ行かされ、その後釜は信長の娘と婚姻した
前田利勝に与えられ能登と府中から信長直臣の前田氏によって織田家家老の柴田が
いつでも前後から挟撃される監視状態がさらに強まり、いつでも用済みでポイすてできる
体制になってる。おそらく近い将来、佐久間と同じ改易にされてただろう。
佐久間への折檻状は信長のイチャモンでしかない。尾張出身の佐久間は理不尽な要求に謀反しなかった
814人間七七四年:2013/01/03(木) 23:48:08.72 ID:q2h9rK2l
>>809
んーとね、例えばこのサイトによると、現在信長の発給文書の総数は1485となっているね?
これは単独の戦国大名のものとしては、圧倒的な残存数なんだけど?

http://nobunagagaku.com/shiryo/index.html
815人間七七四年:2013/01/04(金) 00:19:39.68 ID:RcQwoTFT
コピペ発狂の挙句嘘までバレたアスペだがwww
816人間七七四年:2013/01/04(金) 02:25:44.20 ID:4+Tex8AF
>>814
たとえば芝辻俊六、武田信玄が約千三百点
圧倒的?わずか一割の違いで?なるほど、まあ確かに武田より多いね
他の戦国大名と比べてというからには、北条、毛利、上杉、伊達あたりとも比較した上だよね?
それらの数はどうだったの?
817人間七七四年:2013/01/04(金) 09:34:13.63 ID:jCPMC+Gy
支配地の規模で比較したら本来なら武田の何倍もの文書が出てきてもよさそうな気はするね。

少ないという発言は吉川弘文堂の人物叢書に書いてあることの受け売りみたいにみえるけど、
これはこれで裏付けがほしいと思う。
818人間七七四年:2013/01/04(金) 10:20:35.99 ID:bjnsaG+I
すごい簡単に言うと、戦国大名としては多い、天下人としては少ない。
819人間七七四年:2013/01/04(金) 12:17:03.09 ID:jCPMC+Gy
ベストアンサー。

信長は戦国大名としては優秀だったが天下人としては雑魚、と置き換えると評価がよくわかります。
820人間七七四年:2013/01/04(金) 20:22:02.82 ID:iASqyIeW
>>802
信長は願証寺を包囲してから2ヶ月で陥落させているが?
佐久間は包囲してから5年かかっても結局攻略出来なかった

あと茶の湯をするにも限度がある
負担を全部与力に押し付けてまでするものではない
だから信長個人だけでなく世間の評判も悪かった
821人間七七四年:2013/01/04(金) 20:41:34.00 ID:j3VcJDQh
と、信長の与太話を未だに信じている健気な>>820さんがおっしゃっています。
822人間七七四年:2013/01/04(金) 21:38:22.10 ID:sIPMHY9u
>>805
>完全に降伏勧告なのを、信長がせめてもの取り繕いで和議にしてやっているだけ
意味不明。なぜ取り繕う必要がある?実力で勝てなかっただけ。
>羽柴柴田信忠はそんな1カ国程度のショボイ大名を相手にしていない
明智はどうした?
柴田は誰と戦ってたんだ?畠山?
羽柴は宇喜多に手も足もでなかったぞ?
信忠は滝川と木曽の加勢がなければ美濃から一歩も出てないぞ?
823人間七七四年:2013/01/05(土) 01:07:04.31 ID:xcPQvq33
アスペは日本語も読めないのかw

>>意味不明。なぜ取り繕う必要がある?

>>805のすぐ上に勅願寺だからって書いてあるだろ
いいかアスペ、本願寺はただのカルト宗教団体じゃないんだ
朝廷から認可された、由緒正しい家格を持つ寺社集団なんだ
そんな伝統ある寺院を、たかだか新興勢力である織田が全部壊滅させてどうする?

統治も何も立ち行かなくなるだろ?事実天下を取った秀吉と家康は
本願寺をいつでも潰せる軍事力を持っていながら、弱体化させるだけに留まった。
それだけ本願寺の政治的影響力と民衆への影響が大きかったということだな

>>明智はどうした?

摂津戦線に何回も足を運びながら片手間で丹波を平定しましたが?

>>柴田は誰と戦ってたんだ?畠山?

畠山はとっくに滅びているだろ、上杉だろw

>>羽柴は宇喜多に手も足もでなかったぞ?

味方勢力と戦争でもすんのか?w

>>信忠は滝川と木曽の加勢がなければ美濃から一歩も出てないぞ?

木曽を寝返らせたのは他ならぬ織田家臣ですけど?
当時の織田家当主は信忠ですけど?
824人間七七四年:2013/01/05(土) 01:12:27.66 ID:xcPQvq33
>>819
そもそも信長が過大評価だと言われる大部分の所以は、信長が天下人と同一視されていることが原因だからな
秀吉や家康のように日本の隅々まで支配領域が渡ったと思われてるからこそ
「アジアを制覇できた」とか「天皇制を廃した」なんて無茶な所業まで「できる」と言われているから
過大評価だと言われているだけ。

戦国大名として織田信長が過大評価だと言うのなら上に比類できる大名なんてほとんどいないからな
信長は生涯で斎藤龍興、浅井長政、朝倉義景、三好義継、六角義賢、北畠具教、松永久秀、三好三人衆、武田勝頼、足利義昭と
これだけ多くの大名を滅亡させている。中には500年近く伝統を守っていた名門守護家もある。
これを越える実績を持っているのは秀吉家康くらいだろ
825人間七七四年:2013/01/05(土) 11:46:24.42 ID:OKdjo+yf
まず信長に言えるのは「過大評価されすぎ」でなく、「ズレ評価されすぎ」ってことだよな。

>>823、>本願寺は朝廷から認可され・・・
これっていつ?認可されたの江戸時代だと思ってた。
戦国期の本願寺って将軍から討伐命令下されるわ、それに呼応した各地大名から攻撃されるわで大変そうなイメージ。
826人間七七四年:2013/01/05(土) 12:07:28.58 ID:xcPQvq33
>>825
本願寺が所蔵している本願寺文書によると室町初期には既に勅願寺になっている
1516年にも大谷本願寺が後柏原天皇の綸旨で勅願寺に任命されたことが柳原家記録にある
827人間七七四年:2013/01/05(土) 13:12:54.09 ID:yeJSgYjw
>>摂津戦線に何回も足を運びながら片手間で丹波を平定しましたが
摂津戦線に何回も足を運んだなんていつといつの事だ?
しかも丹波の赤井って丹波全域も持ってない・要害もなしの本願寺以下のハナクソ大名なんだが。
こんなのに2回も敗北
>>畠山はとっくに滅びているだろ、上杉だろw
謙信存命中→加賀で衝突し敗走
上杉に勝つどうこうではなく加賀も突破できない体たらく
景勝時代→御館の乱や新発田の乱で弱りきって北陸が放置になった隙に織田が送りこんだ長・神保・佐々長縄ら地元諸将の活躍やら斉藤ら飛騨口の別働隊派遣
で越中能登で寝返りがおきまくっただけ。柴田は45000と上杉の9倍もの兵力がありながら対上杉戦で特に功積なし
御館の乱後の内戦が終結する天正8年中盤頃〜本能寺までで越中中部〜魚津松倉という短い区間で立ち往生。
ろくなそなえもなく後詰もない松倉城の枝城にすぎない魚津を45000の圧倒的大軍で攻めて3〜4か月篭城大苦戦
>>味方勢力と戦争でもすんのか?w
宇喜多離反前の天正7年以前の話だな
>>木曽を寝返らせたのは他ならぬ織田家臣ですけど?
>>当時の織田家当主は信忠ですけど
んでなぜ本人の行動と関係ない離反という棚ボタと滝川らの動向が信忠やらの功積になるんだよアホ
828人間七七四年:2013/01/05(土) 13:39:09.23 ID:2Fi+n9f4
秀吉や家康は本願寺を攻撃しなかったってはなから交戦してもない相手を攻撃してどうすんだよw
信長は長島一揆を皆殺しにしたり延暦寺を焼き討ちにしたり
普通なら攻撃対象にしない連中も殺しまくってるし
勅願寺だから〜なんて理由として説得力なしだわな
そもそもそうなら最初から攻撃命令出す必要すらないし
長年にわたって大軍はりつけてしつこく攻める必要すらない
なぜ石山合戦で要害に篭もる相手にだらだら戦い続けたのか?
829人間七七四年:2013/01/05(土) 14:00:15.24 ID:/sBkq+VQ
830人間七七四年:2013/01/05(土) 14:39:33.69 ID:yeJSgYjw
そもそも折檻状の内容信じるなら
信長は本願寺を討伐する意思ありまくりだったわけなんだが。
本願寺攻めの不手際が理由の一つで上がってるのに
本願寺を壊滅させる気はないとか意味不明
なら最初から攻める必要ないし佐久間を追放する理由で本願寺攻めを取り上げる必要がない
折檻状の内容がデタラメ・でっち上げか
信長は本願寺討伐する気まんまんで、それができずに朝廷和議に頼ったか最低でもどちらか。
実際には両方だと思うが
831人間七七四年:2013/01/05(土) 15:51:42.71 ID:xcPQvq33
>>828
無知すぎワロタwwww
三河一向一揆に苦しめられたのはどこの誰だって言うんだよwww
夏目蜂屋のような徳川重臣クラスですら一向一揆に加担して「家康三大危機の1つ」とまで言われるくらい
苦戦した家康がわざわざ教如の法主就任すら助けてあげたのは
「家康は実力で本願寺に勝てなかったから」とでもいう気か?w

>>827
無知すぎるw

>>摂津戦線に何回も足を運んだなんていつといつの事だ?

原田が死んだせいで筒井と一緒に天王寺砦に籠っていたのは明智だし、荒木村重討伐にも明智は参戦しているがw
もっというと播磨神吉攻めにも明智の名前があり、播磨戦線にすら明智はいっているわけだが
おまえこそどこの国の歴史学んでいるの?w

>>御館の乱や新発田の乱で弱りきって北陸が放置になった隙

北陸を放置したのは景勝含め上杉側の失態、別に柴田の功績がそれで霞むわけではない。
向こうの失態で功績がフイになるなら武田信玄とか長宗我部元親なんて功績ゼロの無能になるが。
「相手が勝手に崩れただけ、功績なんてない」で全て終わる

>>宇喜多離反前の天正7年以前の話だな

結局宇喜多は傘下に入って当主であるはずの宇喜多八郎秀家が秀吉の手元にいるという
完全に人質状態であったと言ってもいい状態になったけどなw
今川義元が幼いころの家康を人質にとって三河を我が物とした構図と全く同じ。
結局宇喜多が秀吉含めた織田方に勝てないと悟った証拠。

>>んでなぜ本人の行動と関係ない離反という棚ボタと滝川らの動向が信忠やらの功積になるんだよアホ

武田を滅亡させたのは他ならぬ信忠本人ですがw
それともくだらないコピペ使っていちゃもんでもつけるか?w
832人間七七四年:2013/01/05(土) 15:57:36.02 ID:xcPQvq33
>>830
そもそも本願寺対織田の戦線は本願寺側が
勅願寺のくせに幕府や朝廷を支える資金を提供せず
あまつさえ「我慢の限界」と勝手に称して信長はおろか
時の将軍である足利義昭にすら反旗を翻すくらいの無謀かつ一方的な宣戦布告が原因で
信長からすれば本願寺なんて最初から戦いたくない相手だっただけ。

もともと本願寺は浄土真宗本願寺派という屈指の歴史と伝統と勢力の3本柱を持った
当時日本最大級の宗教勢力で、ここと戦争した比叡山や管領細川、その家臣三好といずれも痛い目を見ている。

かたや織田なんてもともと朝廷からも金ヅルとしか思われていない、誰が先祖かも未定の新興ポッと出勢力
朝倉や武田をあっさりと切り捨てた信長が足利と本願寺だけは何度も戦争をやめようと和睦なり慰労の使者まで派遣していた。
明らかに足利や本願寺を討つことで社会的に後ろ指を指される「統治者としてそぐわない異端児」という存在になることを恐れている。
833人間七七四年:2013/01/05(土) 16:11:02.92 ID:xcPQvq33
大体信長が「本願寺を討伐する意思ありまくりだったわけ」なんて無知にもほどがあるだろ
佐久間信盛折檻状には

一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ、
幾年も送り候へば、彼の相手、長袖の事に候間、行く貼は、信長威光を以て、退くべく候条、さて、遠慮を加へ候か。
但し、武者道の儀は、各別たるべし。か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、信長のため、
且つは父子のため、諸卒苦労をも遁れ、誠に本意たるべきに、一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。

という条文があり、この中頃に「信長威光を以て、退くべく候条」という文すらある。
明らかに信長が自分の威光を見せつけて、本願寺が降伏に近い態度を示して退くことを信長が目論んで行動していることが
この文だけでもばっちりわかるわけだが。

そもそも朝倉や武田といった名門家を慈悲なく滅亡に追いやった信長が、何もなく本願寺を存続させようと思うわけがなく、
また本願寺側もわざわざ本拠地石山を捨てて鷺森という僻地に寄ってまで信長との決戦を避けているわけ。
これで「信長が実力で本願寺を倒せなかった」なんて言うのは「私はゲームや漫画でしか歴史を知らないにわかです」と
恥を晒しているようなものだろ
834人間七七四年:2013/01/05(土) 16:26:47.63 ID:yeJSgYjw
×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
835人間七七四年:2013/01/05(土) 16:28:05.85 ID:yeJSgYjw
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
836人間七七四年:2013/01/05(土) 16:30:26.52 ID:yeJSgYjw
長篠の戦いの翌年(天正4年)に毛利領で義昭が鞆幕府を立ち上げ、
上杉も本願寺と和睦している。大分後ではないぞ。

天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に敗戦を隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないとあまりに大幅な白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
837人間七七四年:2013/01/05(土) 16:31:39.96 ID:yeJSgYjw
浅間山が大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み
天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。

天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
838人間七七四年:2013/01/05(土) 16:38:18.95 ID:2Fi+n9f4
御館の乱や新発田の乱で内紛状態になって放置されてた能登や加賀を
織田が送りこんだ長・神保・佐々長縄ら地元諸将の活躍やら斉藤ら飛騨口の別働隊派遣
で越中能登で寝返りがおきまくっただけなのが何もやってない関係ない柴田の功積になるとか
勝頼の自爆失政と対北条戦疲弊と浅間山噴火と甲江同盟反故の騙まし討ちで家中の離反の連鎖で滅んだのが信忠の功積になるとか
とんでもないアホだな

信長が実力で光秀に殺されて死んだとか
信長死後滝川や森、川尻らが総敗走したのが
信長含む織田軍団に自力で北条・甲斐一揆衆らが勝ったといってるようなもんだろ
839人間七七四年:2013/01/05(土) 16:41:17.95 ID:yeJSgYjw
あと宇喜多直家が寝返った時期は織田に勝てない所か
織田が播磨や摂津・丹波で苦しめられまくってた時期だろ
なんで寝返った理由が「勝てないと判断した」などと根拠不明の理由になるんだ?
劣勢でも寝返りが起きるときはおきるし
優勢でも頑強に抵抗する時は抵抗する
勝手な決め付け乙
840人間七七四年:2013/01/05(土) 16:43:10.89 ID:2Fi+n9f4
家康が三河一向一揆を根絶しなかったのは西三河でハナクソみたいな領地しかない時代じゃねぇかw
なんで本願寺の何十倍も国力がある時代の織田と
三河の10万石そこそこの頃の家康を一緒くたにするんだアホ
841人間七七四年:2013/01/05(土) 16:47:40.28 ID:yeJSgYjw
>>832-833
よくわからんけど
信長が佐久間に言った折檻の内容は全ていいがかりとデッチ上げという事だな
信長が自分の威光を見せつけて、本願寺が降伏に近い態度を示して退く
こういったことを信長が望んでるなら佐久間のような戦い方で十分だろ
大軍で攻囲すればいずれ降伏するから佐久間は信長に命じられた仕事を信長に命じられたとおりに行ったが
信長のいちゃもんで無理やり改易されただけということね
842人間七七四年:2013/01/05(土) 17:10:17.46 ID:xcPQvq33
>>839
アホかおまえ
おまえの理屈なら将来の当主であるはずの宇喜多秀家が秀吉の手元にいる理由は全くない
適当な人質か何か出してまた寝返ればいいだけだし、毛利の時はそうやっていたはずだが?w
今川義元に対して松平元康が人質に行ったのを「松平家は降伏したわけじゃない、今川が逆に勝てなかっただけ」
なんて記述している史料はないし、それとほぼ全く同じ状況だったのが当時の宇喜多家だが

>>840
独立してまもない頃にいきなり三河一向一揆で崩壊の危機があった家康が
天下取った後も教如を法主にしてやるという慈悲深い態度をとったのはなぜなんだ?
おまえの理屈なら「家康は本願寺に勝てなかったから、天下とったあとも厚遇した」となるがw

>>841
おまえほんとに折檻状全く読んでないんだなw
「一、父子五ヶ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我〱も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。」
「一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事。」
と職務怠慢が真っ先に非難されるべきことだと信長は叱責しているわけ

そもそも佐久間は大軍で攻囲するどころか「たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ」と自分のいた居城の防備しか固めてないわけだが
敵を囲むどころか自分の防備だけ構えて何もしないのを「攻囲」とは言わないw
843人間七七四年:2013/01/05(土) 17:15:02.44 ID:xcPQvq33
知識が足りないんだったら無理に突っ込まなくていいよw
コピペでスレを荒らして矜持を保ちたがるあたりがアスペルガーだがらしいと言えばそうだが
844人間七七四年:2013/01/05(土) 17:33:34.67 ID:7L+g2ryq
>>833
とりあえず信長の戦争目的から考えてみようか?
まあだがは上田原は武田の勝ちとか言っている軍事音痴だからわからないかも知れないが
845人間七七四年:2013/01/05(土) 17:36:06.95 ID:yeJSgYjw
>>842
寝返りの起きる理由は両勢力間での優劣以外にも複数要因があるから
劣勢だった優勢だったの証明にはならん
宇喜多の場合浦上宇喜多間の相克での因縁も関係してるし人質どうこうも同じ
特に信長の場合越中や伊勢の連中を殺しまくる前例があるから
宇喜多みたいな大勢力間の小大名は、猜疑心の深い信長の信用性を得るために人質を差し出したと考えても筋が通るしな
>>天下取った後も教如を法主にしてやるという慈悲深い態度をとったのはなぜなんだ?
そんな何十年前の頃の事をぽっと思い出していきなり突発的に本願寺を攻め殺すとか
非常識な事は信長くらいしかやらん
今日の敵は明日も味方が戦国。事実三河一向一揆で敵対した譜代系も普通に許してる
>>そもそも佐久間は大軍で攻囲するどころか「たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ」と自分のいた居城の防備しか固めてないわけだが
大軍預かって攻囲もしてねーわけねーだろアホw
何のために与力預かりまくり信長から織田家一の軍団規模率いて5年以上いたと思ってんだアホ
そんな大軍で攻囲することもないアホに軍団長やらせて5年放置する信長はアホといいたいわけ?
846人間七七四年:2013/01/05(土) 17:39:38.34 ID:2Fi+n9f4
寝返りが劣勢優勢の証明になるなら
光秀が中央で寝返った織田家は諸大名相手に劣勢だったって事になるだろアホ
本願寺を攻め潰す目的がないならわざわざ自分から攻めかかる必要すらないだろアホ
何の理由で佐久間に折檻上送ったのか考えろよアホ
847人間七七四年:2013/01/05(土) 18:59:48.05 ID:xcPQvq33
人質出すんなら宇喜多秀家じゃなくてもいいのに真性のアホだなw
大名当主の息子、ましてや次に大名になるはずの宇喜多秀家を出すなんて降伏同然の人質

>>光秀が中央で寝返った織田家は諸大名相手に劣勢だったって事になるだろアホ

光秀がwwwwww中央でwwwwww寝返るwwwwww
明智はwwww誰にwwwww寝返ったの?wwwwwねえねえwwwww

で?w明智は誰か支持を得られたんですか?w
明智が劣勢だったのに明智の娘婿だった細川はさぞや忠誠心を発揮して明智に味方したんですねw

>>本願寺を攻め潰す目的がないならわざわざ自分から攻めかかる必要すらないだろアホ

本願寺対織田の戦線を切ったのは本願寺wwww
織田じゃないんだよアスペwww

>>何の理由で佐久間に折檻上送ったのか考えろよアホ

「武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ」
「善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我〱も思ひあたり、言葉にも述べがたき事」
「武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀」
「信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。」
「右、数年の内、一廉の働きなき者、未練の子細、今度、保田において思ひ当り候。」

職務怠慢以外に何かあるんですか?w
848人間七七四年:2013/01/05(土) 19:02:51.21 ID:xcPQvq33
正直笑いが止まらんわ
いくら信長が嫌いだからって
もっとまともに取り繕って捏造しろよw
それができないのにいつまでも居座って
壊れた機械のようにコピペを投下する恥晒し
暗愚無能と称された人間ですら
退き際くらいわかってるよw
849人間七七四年:2013/01/05(土) 19:07:37.58 ID:xcPQvq33
>>今日の敵は明日も味方が戦国。事実三河一向一揆で敵対した譜代系も普通に許してる

つまり今日の敵は明日も味方の論理で織田信長は石山本願寺を許したわけ
わかる?ww今盛大に自爆したんだけど?w

>>大軍預かって攻囲もしてねーわけねーだろアホw

「攻囲」の意味をわかって言ってるのかなそれはw
ただ適当に城の近くでボサっとしているのは攻囲と言わないよw
事実信長は攻囲をしてないからという理由を持ってきているわけだからなw
佐久間がきっちり城攻めをしていたというなら、根拠を持ってきてもらわないと
850人間七七四年:2013/01/05(土) 20:03:05.32 ID:yeJSgYjw
>>人質出すんなら宇喜多秀家じゃなくてもいいのに真性のアホだなw
>>大名当主の息子、ましてや次に大名になるはずの宇喜多秀家を出すなんて降伏同然の人質
寝返りの起きる理由は両勢力間での優劣以外にも複数要因があるから
劣勢だった優勢だったの証明にはならん
宇喜多の場合浦上宇喜多間の相克での因縁も関係してるし人質どうこうも同じ
特に信長の場合越中や伊勢の連中を殺しまくる前例があるから
宇喜多みたいな大勢力間の小大名は、猜疑心の深い信長の信用性を得るために人質を差し出したと考えても筋が通るしな

>>明智はwwww誰にwwwww寝返ったの?wwwwwねえねえwwwww
織田の敵対大名じゃね
つーか松永や荒木や波多野など織田から寝返った連中なんてアホみたいにいるわけで。
みんな織田が諸大名相手に劣勢だった証拠じゃね
>>本願寺対織田の戦線を切ったのは本願寺
なら本願寺を待ち伏せ迎撃すりゃいいだけだろアホ
自分から攻めかかる必要ないだろアホ
>>職務怠慢
本願寺を攻め落とす意思が信長にないんだから職務怠慢くらいでちょうどいいだろアホ
>>つまり今日の敵は明日も味方の論理で織田信長は石山本願寺を許したわけ
信長の場合寝返りが疑われた連中を片っ端から城に呼び出して殺しまくる残虐な性格なのでそれはない
伊勢や越中での粛清劇をみればわかるし
わざわざ餓死寸前の一揆を騙まし討ちにするほど非人道的だからな
大軍預かって攻囲もしてねーわけねーだろアホw
何のために与力預かりまくり信長から織田家一の軍団規模率いて5年以上いたと思ってんだアホ
そんな大軍で攻囲することもないアホに軍団長やらせて5年放置する信長はアホといいたいわけ?
851人間七七四年:2013/01/05(土) 22:10:17.56 ID:P3lnOsjb
ポケナガまじうぜぇ
852人間七七四年:2013/01/05(土) 22:36:04.58 ID:+3ASekLo
いずれにせよ信長は家臣を大切にしなかったから殺された、以上。
853人間七七四年:2013/01/05(土) 23:22:28.46 ID:2Fi+n9f4
安藤にも濡れ衣でっちあげて追放してるし
佐久間追放も理由としてめちゃくちゃだし
伊勢や越中での粛清とかと同じで家中を無理矢理再編しようとした事例にすぎんだろうな
854人間七七四年:2013/01/05(土) 23:41:29.49 ID:xcPQvq33
コピペ君はまだ恥をかき足りないらしいwwww

>>つーか松永や荒木や波多野など織田から寝返った連中なんてアホみたいにいるわけで。

反乱と寝返りの区別もつかないアスペwww
そもそも戦国時代なんだから天下を取りたいと志すのは当然の発想だし
ましてや実際に考えて行動できた信長という生き証人までいる
荒木に至っては信長と親しかった和田を討ってまで基盤固めようとする奴だからな
松永も三好家臣時代に天下の実権を掴み損ねた悔しい思いがあるし天下狙って反乱を起こすのは当然の発想

>>信長の場合寝返りが疑われた連中を片っ端から城に呼び出して殺しまくる残虐な性格なのでそれはない

それが通じるのはその辺の木っ端武者だけ
本願寺は勅願寺に認可されるほど朝廷との仲が厚く、足利義昭に目をつけられた
関白職の近衛前久が逃亡先に選ぶくらいの昵懇の仲。朝廷と関係強化したい信長が本願寺を壊滅させるわけがないし、
力を削って残しておく方がはるかに有用だと考えていたのは「信長威光を以て、退くべく候条」から誰でもわかる話

>>大軍預かって攻囲もしてねーわけねーだろアホw

してなかったから佐久間は追放された。佐久間折檻状の
「武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ」
で証明済み。佐久間がちゃんと城を攻めていたとするソースは?

悪いこといわないから、突っ込むところがないのに鸚鵡返ししないほうがいいよw
おまえが沸くたびになぜか発言して、しかも全く同じスレにしか書いていない
ID:2Fi+n9f4が自演だということもある程度見当はついてるよアスペ君w
855人間七七四年:2013/01/06(日) 00:05:27.78 ID:2UBlq9x8
降格くらいならまだしも、親子揃っていきなり追放とかありえねーんだよ
きっと信長はアスペだろうな
856人間七七四年:2013/01/06(日) 00:07:42.76 ID:2UBlq9x8
元亀2年の長島願証寺戦
信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍団は三手に分かれて攻め入った。

信長本隊、津島に着陣。
佐久間信盛軍団、中筋口から攻め入る。
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団、西河岸の太田口
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
857人間七七四年:2013/01/06(日) 00:11:29.33 ID:2UBlq9x8
枝の長島願証寺ですら、上の面子で敗れ去っているのに
本願寺に佐久間信盛が攻勢をかけて城内に入るとかムリゲーすぎw
明智だろうが羽柴だろうが無理w
858人間七七四年:2013/01/06(日) 00:22:37.76 ID:FPGIwoSC
>>855
無知乙

一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事。

敵をたいらげるチャンスをやると信長は言っているわけだが
追放を選んだのは佐久間本人だし息子は側仕えに戻しているわけだが

アンチ信長厨ってほんと無知ばかりだなw

>>857
信長は最終的に潰した。しかも信長は

一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事。

と「本願寺を攻囲できないなら俺に相談しろ」とわざわざ言っている
実際秀吉は信長の助力を仰いで別所を潰すことに成功した
その例を見ているのになにもせずに職務怠慢した佐久間
859人間七七四年:2013/01/06(日) 00:38:30.78 ID:2UBlq9x8
>>858

身分兵力を全て剥ぎ取るから一兵卒として手柄あげて戻って来い=追放

だろうがw
どこがチャンスなんだよアホw
860人間七七四年:2013/01/06(日) 00:47:13.97 ID:2UBlq9x8
>>858
別所を実質潰したのは信忠以下、滝川、明智、丹羽だぞ
秀吉は三木城をただ見張ってただけだな
861人間七七四年:2013/01/06(日) 00:52:30.92 ID:2UBlq9x8
佐久間は信長の代理を任せられる程の存在だったが、
信忠や信孝が育ってしまうと、有能なだけにより巨大な危険因子と見られ排除された。
それだけのこと
862人間七七四年:2013/01/06(日) 01:04:10.12 ID:FPGIwoSC
>>859
連投してまで無能な話を出すなよww

>>身分兵力を全て剥ぎ取るから一兵卒として手柄あげて戻って来い

どこにそんな文書いてあるんだww
「此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し」
なんて兵を率いてに決まってるだろw

>>860
とどめは秀吉がさしたし、そもそも別所攻めは中国征伐の一貫
どっちにせよ無策でボサっとしていた佐久間が他人の功績を前に何もしなかった事実は変わらない

>>信忠や信孝が育ってしまうと、有能なだけにより巨大な危険因子と見られ排除された

信孝はハナからロクな扱いうけてないだろ
天正御馬揃えですら織田信忠の80騎、織田信雄の30騎に対して織田信孝は10騎
兄貴である織田信雄の半分以下で息子ですらない織田信包と同格

>>有能なだけにより巨大な危険因子と見られ排除された

ソースも何もないただの妄想
そもそも七カ国の与力は織田家臣で佐久間の家臣じゃないw
863人間七七四年:2013/01/06(日) 01:09:28.84 ID:2UBlq9x8
>>862
おいおいアホかw
佐久間はボサっとしてるどころか播州攻めに参加してる
信長自身が石山本願寺攻めを後回しにしてるのは明らか


天正6年6月26日、播州に展開する織田勢のうち、滝川・明智・丹羽の各勢は敵方への
備えとして三日月山@へ上り、同時に羽柴秀吉・荒木村重は高倉山の手勢を払って
書写山まで引き揚げたA。そして翌27日には中将信忠殿の軍勢が神吉城を取り囲み、
城北から城東の山へかけて信忠殿・織田信孝・林秀貞・細川藤孝・佐久間信盛らが
前後左右に段を連ねて布陣したのであった。

また志方城に対しては織田信雄が攻囲の陣を据え、同時に丹羽長秀・若狭衆が城西の山に
陣を布いて敵に備えた。そしてこれらの備え手を除く滝川・稲葉・蜂屋・筒井・武藤・
明智・安藤・氏家・荒木の諸勢は、神吉城めがけ怒涛のごとく押し寄せた。
864人間七七四年:2013/01/06(日) 01:26:28.50 ID:9IXWoJ3b
>>反乱と寝返りの区別もつかないアスペwww
反乱も寝返りも同じだろアホ
寝返りでいっても別所や荒木や浅井や北畠残党やら寺崎やら石黒やら寝返られまくってるだろアホ
>>そもそも戦国時代なんだから天下を取りたいと志すのは当然の発想だしましてや実際に考えて行動できた信長という生き証人までいる
>>荒木に至っては信長と親しかった和田を討ってまで基盤固めようとする奴だからな
>>松永も三好家臣時代に天下の実権を掴み損ねた悔しい思いがあるし天下狙って反乱を起こすのは当然の発想
なら離反とかはどちらが優勢だったかの証明にならんって事になるだろタコ
>>それが通じるのはその辺の木っ端武者だけ
長島一揆とか延暦寺とか普通の人なら不可侵な存在でも信長は侵攻しまくってるだろアホ
>>信長は最終的に潰した
デタラメ信長マンセー公記ですら餓死寸前で1000にも満たない一揆勢を騙まし討ちにしたら
一門10人以上殺される醜態っぷりだろアホ
>>一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事
>>武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ
なんでこれが本願寺を攻囲していない事の証明になるんだよ曲解乙
砦普請って敵城を包囲する時に敵の動きを封じる目的で行われるのも知らんのかアホ
865人間七七四年:2013/01/06(日) 03:30:17.86 ID:FPGIwoSC
>>863
従軍したから功がある、なんてのはそれこそ暴論だろ
別に佐久間は全く戦争に行かなかったわけではないのは信長の折檻状見ればわかる

そもそも「他国と戦争しながら別方面の戦争に駆り出される」なんてのは
織田家では日常茶飯事で秀吉、光秀、信忠と多くの一級重臣連中が通ってきた道
つまりちょっと手が込んだだけで本業に専念できなくなっていたのが当時の佐久間

>>864
>>寝返りでいっても別所や荒木や浅井や北畠残党やら寺崎やら石黒やら寝返られまくってるだろアホ

寝返りと反乱は全然ちげーよwww
寝返りは庇護先を変えるだけだw保身のために主君をかえるだけww
ついでに言うならその例だと荒木と浅井と北畠残党は完全に反乱だなw

>>なら離反とかはどちらが優勢だったかの証明にならんって事になるだろタコ

当主になるはずの宇喜多秀家が秀吉の手元にいる時点で宇喜多の場合は降伏同然
仮に織田を裏切って秀家がぶっ殺されたら誰が大名当主になるの?wまともに立ち行くの?w

>>長島一揆とか延暦寺とか普通の人なら不可侵な存在でも信長は侵攻しまくってるだろアホ

長島なんてただの在地土豪集団じゃねーか
さすがにそんなのまで許せるほど信長は優しくねーよ、しかも3回も命令違反してるのになw
比叡山延暦寺は普通に信長治世でも存続しただろアスペw

>>一門10人以上殺される醜態っぷりだろアホ

信長の一門なんて大半はどこで何やってたかわからん連中ばかりだからな
尾張時代に弟の秀孝が殺されても信長はそこまで追及しなかったくらいだし
信勝に謀叛されたり信広と不仲になったりしたから大半の一門は信用できなかったのだろう

>>砦普請って敵城を包囲する時に敵の動きを封じる目的で行われるのも知らんのかアホ

居城の近くに砦を築いて何の役に立つの?w
攻めているはずの織田軍が守りを構えて敵の前で籠城でもするの?w
どっちが攻めているかわからないねw
866人間七七四年:2013/01/06(日) 05:47:11.95 ID:9IXWoJ3b
>>寝返りと反乱は全然ちげーよwww
自勢力から離反するというだけで何もかわりない
>>寝返りは庇護先を変えるだけだw保身のために主君をかえるだけww
>>ついでに言うならその例だと荒木と浅井と北畠残党は完全に反乱だなw
浅井→朝倉に離反 荒木や松永、別所→本願寺に離反 宇喜多→毛利から織田に離反
で何もかわらんだろタコ
>>当主になるはずの宇喜多秀家が秀吉の手元にいる時点で宇喜多の場合は降伏同然
何でまともに戦ったら宇喜多は天正4年秋の上月城攻防でも勝利してるし優勢なのを降伏する必要あるんだよタコ
>>仮に織田を裏切って秀家がぶっ殺されたら誰が大名当主になるの?wまともに立ち行くの?
直家急逝後忠家が当主になって大軍で攻めて来た毛利軍蹴散らしただろうがアホ
>>長島なんてただの在地土豪集団じゃねーか
>>さすがにそんなのまで許せるほど信長は優しくねーよ、しかも3回も命令違反してるのになw
本願寺に篭もってるのも三河など他の寺社からの援兵がいるんだよアホ
下間が書状で書いてる
>>比叡山延暦寺は普通に信長治世でも存続しただろアスペw
攻め込んで大量に虐殺しただろアホ
>>信長の一門なんて大半はどこで何やってたかわからん連中ばかりだからな
根拠なし
北陸派遣の柴田とかのがよっぽど何やってるかわからんわw
>>居城の近くに砦を築いて何の役に立つの?w
佐久間って敵城の周りに砦築いてるんだが
天正4年6月摂津石山周辺に砦を大量に築いてる(御湯殿上日記言継卿記言経卿記兼見卿記)
つーか折檻状って内容がデッチあげどうこう以前に軍記にしかないデタラメ文書じゃねぇかw
867人間七七四年:2013/01/06(日) 13:58:09.89 ID:FPGIwoSC
>>866
>>浅井→朝倉に離反 荒木や松永、別所→本願寺に離反 宇喜多→毛利から織田に離反

浅井は朝倉の家臣じゃねーし松永や荒木も本願寺に仕える気なんざ毛頭ねーよ
宇喜多に至っては毛利にすらまともに従属せず明らかに自分達が勢力拡大するのに都合のいい勢力をえり好みしているだけw

>>何でまともに戦ったら宇喜多は天正4年秋の上月城攻防でも勝利してるし優勢なのを降伏する必要あるんだよタコ

1回凌いだくらいで限界だったなんて浅井朝倉の対織田戦線見てればわかるだろアスペw
宇喜多軍の何倍の兵力が織田にあると思ってんだw

>>直家急逝後忠家が当主になって大軍で攻めて来た毛利軍蹴散らしただろうがアホ

忠家なんて所詮代理だろアホかwwww
当主の嫡男いるのに弟に家督献上とかwwww

>>本願寺に篭もってるのも三河など他の寺社からの援兵がいるんだよアホ

主力は伊勢長島にいる在地集団だろーがwww
どこどこから援軍来てるから、なんて言ったらどこも攻められねーよw

>>根拠なし

信長公記ですら庶兄の織田信広くらいで弟の信治信興秀成など等は戦死する場面しか記述がねーよwww
他の史料では戦死すら省かれるような連中が「功績ある」とかそれこそ妄想だろw
信長は信勝に謀叛起こされたり信広と不和になったりしたから心根から兄弟を信用することをしなかっただけw
重宝された信包や信長の息子達は殺されていないし信長が邪魔な兄弟を敵に殺させたとする見方すらできるな

>>佐久間って敵城の周りに砦築いてるんだが

天正4年の6月の砦普請を任されたのは佐久間だけじゃなくて荒木松永水野山岡といっぱいいるんだよ
大方佐久間がサボってたか他の与力を酷使して楽こいてたのをこいつらにチクられていただけ
特に荒木松永は最終的に一花咲かせようと反乱を起こしているくらいだからな、佐久間の人心掌握や与力管理ができていない証拠

柴田勝家で言うなら前田利家や長連龍が北陸制圧中に反乱起こすようなもの
868人間七七四年:2013/01/06(日) 14:13:36.27 ID:FPGIwoSC
弟じゃないと言う説もあるから一応一門ということにしておく
869人間七七四年:2013/01/06(日) 21:22:37.80 ID:i2fYSrjU
>>862
「一度帰参致し」の意味をどう捉えてるのか教えてくれwww

兵を率いて離脱し、手柄挙げて帰参する???
いくらなんでも、お前馬鹿すぎwww
そんなんだから佐久間信盛が無能とか思っちゃうんだよ
小1の国語からやり直した方がいい
870人間七七四年:2013/01/06(日) 21:27:14.56 ID:FPGIwoSC
>>869
突っ込むところがないからって捏造までしなくてもwww

原文では
一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し

になっている。「いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ」なんて明らかに手柄を立てて来いという話しだし、
あと言っておくが佐久間はその辺の新米家臣じゃない、信長が佐久間につけた家臣の他に
佐久間が自ら雇った家臣もいる。そいつらを率いるのは佐久間の自由なんだがw
871人間七七四年:2013/01/06(日) 21:33:19.39 ID:lhHRSUr3
http://mainichi.jp/feature/news/20130106ddm015070033000c.html
今週の本棚:五味文彦・評 『織田信長』=池上裕子・著
毎日新聞 2013年01月06日 東京朝刊
872人間七七四年:2013/01/06(日) 21:34:37.71 ID:FPGIwoSC
というかこれ自体の処分は困難ではあるが不可能な話ではなく
前田利家が尾張時代の信長から叱責されて同様の処分を受けて
そこから利家は這い上がってきているわけ。

佐久間が織田家臣トップクラスというのなら、前田にできたことくらい造作もないことだろ?
それをせずにいた時点で、佐久間は前田利家以下の能力しかなかったと言われても反論はできまい
873人間七七四年:2013/01/06(日) 22:55:23.10 ID:9IXWoJ3b
前田みたいなろくな功積もない雑魚と比較じゃ流石にかわいそうだ
874人間七七四年:2013/01/07(月) 00:55:41.35 ID:56eV2Wi4
織田厨が持ち上げたがる武将は大体雑魚(前田、丹羽など)
織田厨がけなそうとする奴は名将多い(佐久間、滝川など)
875人間七七四年:2013/01/07(月) 01:22:05.35 ID:uoGTMuZN
滝川なんかあっさり武田を滅ぼしたもんな
876人間七七四年:2013/01/07(月) 01:39:12.78 ID:B6BKquGS
>>873
その前田にすら現状劣ってるのが佐久間じゃんw
明智羽柴柴田池田以下の功績しか立てられず
前田のように死にもの狂いで功績立てようともしない

いくら俺は有能だ、なんて言っても働かない功績立てないじゃ意味がない
部屋に閉じこもって「俺はいつかビックになる、俺は天才だ」って言ってるニート君じゃないんだから

>>874
織田厨織田厨とまるで親を殺されたか如くの言い分だなwww
さっさと佐久間が有能だとする根拠を述べたらどうだ?w

功績も立てられないし窮地から挽回できない佐久間が
柴田秀吉明智滝川丹羽池田などより優れているという理由をよw
877人間七七四年:2013/01/07(月) 01:45:14.40 ID:B6BKquGS
まあ織田大嫌いのアスペ君のことだから
ひとしきり佐久間を持ち上げた後で
なぜか佐久間が出撃に反対した三方が原の戦いを挙げて
「でもそんな有能佐久間ですら信玄には勝てなかった」と
お得意の武田マンセーのための道具にしたがるのは目に見えているんだよw

毛利や島津、秀吉柴田をこき下ろすのは武田信玄と関係のない大名武将だからだろうなw
所詮織田家臣団は優秀な人材の宝庫で、滝川にしろ明智にしろ秀吉にしろ佐久間にしろ柴田にしろ
こいつが死んだら織田家は衰退するなんてのは当主であった信長信忠除けばまず起こりえない話
馬場や内藤のようなロートルが死んだくらいで滅亡一直線だった武田とはわけが違いますなw
878人間七七四年:2013/01/07(月) 01:49:02.88 ID:B6BKquGS
>>875
滝川に話を逸らしてないでさっさと佐久間が有能だとする根拠を述べたらどうだ?w
少なくとも俺は滝川が無能だなんて一言も言ってねーしむしろ佐久間とは比較にならんくらいの
有能な人物だと思っているが、なぜ唐突に滝川を出したんだ?w
同僚が有能だから佐久間も有能だって根拠にはならんぞw
879人間七七四年:2013/01/07(月) 02:39:38.51 ID:B6BKquGS
ん、安価間違ったかな
>>874
880人間七七四年:2013/01/07(月) 06:02:23.62 ID:FPXi1Itm
織田苗字の女にロクなのいないぞ
881人間七七四年:2013/01/07(月) 09:38:05.67 ID:56eV2Wi4
>>その前田にすら現状劣ってるのが佐久間じゃんw
前田なんて手取川で謙信に瞬殺され御館の乱や新発田の乱で弱りきって北陸が放置になった隙に織田が送りこんだ長・神保・佐々長縄ら
地元諸将の活躍やら斉藤ら飛騨口の別働隊派遣で越中能登で寝返りがおきまり柴田は45000と上杉の9倍もの兵力がありながら対上杉戦で
御館の乱後の内戦が終結する天正8年中盤頃〜本能寺までで越中中部〜魚津松倉という短い区間で立ち往生。
ろくなそなえもなく後詰もない松倉城の枝城にすぎない魚津を45000の圧倒的大軍で攻めて3〜4か月篭城大苦戦
こんな雑魚柴田より遥かに下の雑魚が前田
>>明智羽柴柴田池田以下の功績しか立てられず
本願寺が退去したの佐久間のおかげだろアホ
赤井に二回も蹴散らされたり雑魚毛利や宇喜多に蹴散らされる秀吉より遥かに上だわアホ
>>前田のように死にもの狂いで功績立てようともしない
当たり前だわw信長が攻囲と持久戦で降伏させる方針だったんだから
>>いくら俺は有能だ、なんて言っても働かない功績立てないじゃ意味がない
お前が大好きな前田とか丹羽のことだろアホ
>>部屋に閉じこもって「俺はいつかビックになる、俺は天才だ」って言ってるニート君じゃないんだから
お前の事だろ妄想曲解厨乙
>>さっさと佐久間が有能だとする根拠を述べたらどうだ?w
そら本願寺下したの佐久間の功積だし一番の功といっていい
ちなみに信長の折檻状は軍記にしかないデタラメ文書なので資料的価値なし
>>功績も立てられないし窮地から挽回できない佐久間が
>>柴田秀吉明智滝川丹羽池田などより優れているという理由をよw
大阪方面軍は方面軍司令官でも最大規模
しかもそこで全く敗戦なし(改易は信長の都合で行っただけ)
滝川=信長の主要な戦にほとんど参加。
明智=赤井に二回も敗戦
柴田=御館の乱や新発田の乱で極度に弱体化した上杉を9倍もの圧倒的兵力&神保・長・斉藤らの派遣で火事場泥棒するも
越中中部〜魚津松倉間で2年も立ち往生。
羽柴=熊見川で雑魚毛利に3000戦死の大敗、美作攻防で補井田に蹴散らされる、祝山・児島合戦で敗戦する
天正4年には赤松・別所・山名・小寺など多くが味方の状況で上月城攻防で敗戦
天正11年に伊勢でも滝川との直接対決で苦しめられまくる

佐久間滝川>>>>>>>羽柴・明智・柴田
>>毛利や島津、秀吉柴田をこき下ろすのは武田信玄と関係のない大名武将だからだろうなw
秀吉は信玄と交戦した家康との攻防やらその家康より劣ると秀吉から見做されてた信雄との攻防があるから信玄と直接交戦してなくても比較する材料
として十分すぎるし柴田も直接対決で上杉に蹴散らされまくってるから比較材料として十分すぎる
>>所詮織田家臣団は優秀な人材の宝庫で、滝川にしろ明智にしろ秀吉にしろ佐久間にしろ柴田にしろ
>>こいつが死んだら織田家は衰退するなんてのは当主であった信長信忠除けばまず起こりえない話
信長が死んだらめちゃめちゃになっただろアホ
織田家臣団なんて北条氏直以下だアホ。家臣がそんなチート有能なら信長死んだくらいでびくともしないわアホw
斉藤義龍死んで幼君龍興ですら信長何回も撃退してるしなw
>>馬場や内藤のようなロートルが死んだくらいで滅亡一直線だった武田とはわけが違いますなw
馬場や内藤が死んで滅亡一直線ってどんな馬鹿だよ
信長は木曽穴山ら一族衆離反や甲江同盟反故の火事場泥棒や浅間山噴火による混乱で領内がめちゃめちゃになるまで手も足もでなかっただろうがw
たかが5000しかいない岩村を3万〜4万で攻めて半年以上敢闘され最後は騙まし討ちでしか勝てない醜態っぷりw
882人間七七四年:2013/01/07(月) 09:38:48.38 ID:56eV2Wi4
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
883人間七七四年:2013/01/07(月) 09:39:24.96 ID:V9EKcqI5
ゼロから百万石までのし上がった前田利家は甲斐ニ六万石から同じ石高の武田信玄よりはるかに有能だろ
884人間七七四年:2013/01/07(月) 09:39:58.01 ID:56eV2Wi4
×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
885人間七七四年:2013/01/07(月) 09:40:19.63 ID:56eV2Wi4
長篠の戦いの翌年(天正4年)に毛利領で義昭が鞆幕府を立ち上げ、
上杉も本願寺と和睦している。大分後ではないぞ。

天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に敗戦を隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないとあまりに大幅な白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
886人間七七四年:2013/01/07(月) 09:40:34.87 ID:56eV2Wi4
浅間山が大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み
天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。

天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。

高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
887人間七七四年:2013/01/07(月) 09:49:29.48 ID:g6dorFnM
佐久間が本願寺攻囲してないわけねーだろアホ
何の指令のため大阪軍団を佐久間に任せたと思ってんだタコw
大体本願寺って毛利や上杉や三河の本澄寺上宮寺などから物資支援受けてんのに
物資切れ気味になってたのが下間の書状からわかるのに
攻囲がされてないならいくらでも物資補給可能じゃねぇか
なんで毛利は必死で物資を搬入しようとしたり信長が阻止しようとした戦が起きてると思ってんだタコ
888人間七七四年:2013/01/07(月) 09:50:47.64 ID:56eV2Wi4
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。

六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ

やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。

元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
889人間七七四年:2013/01/07(月) 15:24:00.42 ID:B6BKquGS
無知無能なるアスペ君に1つだけいいことを教えてあげよう
信長が佐久間に対して突き付けた19条の折檻状、実は信長公記以外にもきっちり朱印状形式で残ってたり(尊経閣文庫所蔵文書)する等文書として残ってるんだよねw
つまり君の「ちなみに信長の折檻状は軍記にしかないデタラメ文書なので資料的価値なし」という論拠はまず破綻するわけ

ちなみに信長公記では
「遠国へ退出すべき趣、仰せ出だされ、取る物も取り敢へず、高野山へ上され侯。
爰にも叶ふべからざる旨、御諚に付いて、高野を立ち出で、紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。」
等と、これでも佐久間が誠心誠意信長の言うとおりにしようと同情の念で佐久間を比較的擁護する書き方で書いているわけだがw
890人間七七四年:2013/01/07(月) 15:39:33.48 ID:B6BKquGS
>>881
>>こんな雑魚柴田より遥かに下の雑魚が前田

根拠なし
佐久間は本願寺攻めも怠慢攻囲でまともに攻めようとしなかった
この無気力合戦においては前田どころか全織田家臣に劣ると言っても過言ではない
ただこれまで佐久間が信長につき従ってきた、という一点で温情を許されただけ

>>本願寺が退去したの佐久間のおかげだろアホ

「信長威光を以て、退くべく侯条」と折檻状にはあるし、むしろ佐久間は
「、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、
我等にきかせ、相済むのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、油断、曲事の事。」とすら言われている。
ちなみにこの文章は信長の思いつきや気まぐれではなく
「やす田の儀、先書に注進」と佐久間信盛と関係の深かった与力である紀伊保田氏の証言ありきで進められているわけ。
つまり信盛は与力にも苦言を呈される働きっぷりしかしなかったことがわかる

>>当たり前だわw信長が攻囲と持久戦で降伏させる方針だったんだから

まともに攻囲すらしなかったのが佐久間
天正4年の本願寺の砦普請も佐久間以外にも水野荒木山岡松永と大勢任じられている
反乱起こした荒木松永はともかく、水野や山岡は改易にすらなっていない
大方佐久間がサボっていたのだろう

>>お前の事だろ妄想曲解厨乙
>>お前が大好きな前田とか丹羽のことだろアホ
>>そら本願寺下したの佐久間の功積だし一番の功といっていい

根拠一切なし、雑魚武田を盲信する武田厨お得意の捏造

>>しかもそこで全く敗戦なし(改易は信長の都合で行っただけ)

戦争しないのだから敗戦しないのは当たり前
おまえの理屈なら戦国時代に戦争が上手かったのは徳川家光だな
891人間七七四年:2013/01/07(月) 15:47:35.78 ID:B6BKquGS
>>馬場や内藤が死んで滅亡一直線ってどんな馬鹿だよ

長篠でボッコボコにされたショックから重臣秋山を見捨ててて見殺しにした武田が何をおっしゃるw
さっさと救援していれば木曽の寝返りも穴山の寝返りも小山田の離反もなかったんだよw
秋山もある程度持ちこたえていたのに独力で織田軍を撃退して攻囲を解くことは結局できなかったんだよねw
精強織田軍をある程度持ちこたえても結果が主君に見捨てられる+自分の死亡じゃ誰もついていかないよなww

>>織田家臣団なんて北条氏直以下だアホ。家臣がそんなチート有能なら信長死んだくらいでびくともしないわアホw

で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w

>>秀吉は信玄と交戦した家康との攻防やらその家康より劣ると秀吉から見做されてた信雄との攻防があるから

信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
こんな雑魚が天下を取ろうとした結果が700年近く続いた名門甲斐源氏武田家の滅亡だからな
浅間山の噴火も武田の天下に対する横暴な振る舞いに対する天罰だよw
892人間七七四年:2013/01/07(月) 19:09:17.18 ID:56eV2Wi4
>>信長が佐久間に対して突き付けた19条の折檻状、実は信長公記以外にもきっちり朱印状形式で残ってたり(尊経閣文庫所蔵文書)する等文書として残ってるんだよねw
どの文書だ?愛知県史資料編探っても全く乗ってないが
>>根拠なし
当たり前だろアホ
普通に序列で考えて柴田>>>>前田だタコw
>>佐久間は本願寺攻めも怠慢攻囲でまともに攻めようとしなかった
攻囲してたから兵糧が不足気味だったんだろタコ
>>「信長威光を以て、退くべく侯条」と折檻状
信長の威光ってなんだアホ
佐久間が囲ってたから物資不足になって降っただけ
>>まともに攻囲すらしなかったのが佐久間
攻囲してなかったら物資不足になるわけねーだろアホ
何のために大阪に大軍団貼り付けたんだよ信長は
>>戦争しないのだから敗戦しないのは当たり前
戦争してるだろアホ
要害の石山を囲って物資切れにしたのは佐久間だろアホ
>>長篠でボッコボコにされたショックから重臣秋山を見捨ててて見殺しにした武田が何をおっしゃるw
長篠でボコボコにされたショックから秋山の篭もる5000の城を30000〜50000で囲って半年かけて騙まし討ちで落とすのが精一杯だった織田はどうかしたか?
>>さっさと救援していれば木曽の寝返りも穴山の寝返りも小山田の離反もなかったんだよw
さっさと陥落してれば天正3年段階で瞬殺可能
信忠が雑魚すぎたせいで天正10年までかかって対北条戦の疲弊や浅間山噴火・騙まし討ちで離反の連鎖がおきまくってやっとこさ滅ぼしたのが織田
>>秋山もある程度持ちこたえていたのに独力で織田軍を撃退して攻囲を解くことは結局できなかったんだよねw
兵力比6〜8倍で武田領から孤立した後詰なしの所で撃退できるわけねーだろアホ
むしろそんな所に半年もかかって騙まし討ちで殺すのが精一杯だったのが織田
>>精強織田軍をある程度持ちこたえても結果が主君に見捨てられる+自分の死亡じゃ誰もついていかないよなww
織田軍が精強なわけねーだろタコ
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
893人間七七四年:2013/01/07(月) 19:28:26.24 ID:B6BKquGS
くだらんコピペなぞどうでもいい
武田は織田に滅ぼされた雑魚

そもそも美濃岩村で武田織田(+斎藤)に両属していた遠山を
すったもんだの末になんとか味方につけたのに
1年余りで重臣秋山を失うという代償を払って
むざむざ織田に帰属させる羽目になる
結局この遠山が木曽に寝返りの打診をするのだから
勝頼は自分で自分の首を絞めただけ

もともと木曽は自分の領地を守るために武田に味方しただけだから
同じ目的で、かつ武田織田両方に仕えた遠山氏の話は
説得力が大変高かったことだろう
信長は東美濃遠山氏が武田に味方したとき最前線の東濃に
池田と河尻を置いて防衛線を強固にしていたが
勝頼はそんなことをちーともやらず、
やっと慌てて防備を整えるころには木曽の手引きで
膨大な数の織田軍が信濃に参入してきた後という笑えない話
木曽を討伐しようとした軍が敗退した腹いせに
居城にいた人質を全て焼き殺すという真性の屑
894人間七七四年:2013/01/07(月) 19:39:57.34 ID:56eV2Wi4
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死

織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
895人間七七四年:2013/01/07(月) 19:43:49.16 ID:56eV2Wi4
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
896人間七七四年:2013/01/07(月) 19:44:16.39 ID:56eV2Wi4
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。

馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当

一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
897人間七七四年:2013/01/07(月) 19:45:11.06 ID:56eV2Wi4
東美濃攻防はガチンコのぶつかり合い。激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と
永禄9年に12歳前後で婚姻していて、勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。

苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。

信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。

永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信コが今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた

元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論でありその文中には「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
898人間七七四年:2013/01/07(月) 19:45:40.21 ID:56eV2Wi4
信長は武田と和睦する匂いをかけて、織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。

>噴火前から森や団のおかげで下条氏長や小笠原信嶺が寝返っているのに

そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。

松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。

そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww

団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。

武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
899人間七七四年:2013/01/07(月) 19:46:49.84 ID:B6BKquGS
>>どの文書だ?愛知県史資料編探っても全く乗ってないが

自分で引用してるじゃんw
日本語もしゃべれない痴呆になったの?w

>>普通に序列で考えて柴田>>>>前田だタコw

前田と佐久間の優劣関係とは関係がない
そもそも佐久間は与力に苦言を呈されて追放処分にされるくらいの力量

>>攻囲してたから兵糧が不足気味だったんだろタコ

信長の命令がなければ毛利水軍の手によってスルスル本願寺に兵糧が入ってましたがw

>>佐久間が囲ってたから物資不足になって降っただけ

物資不足と佐久間の功績に因果関係なし
そもそも佐久間以外に本願寺攻めに関わった武将はたくさんいる

>>要害の石山を囲って物資切れにしたのは佐久間だろアホ

根拠なし
そもそも信長折檻状では攻囲すらしていないと書かれている
与力が頑張った功績を勝手に我が物にしようとした可能性すらある

>>長篠でボコボコにされたショックから秋山の篭もる5000の城を30000〜50000で囲って半年かけて騙まし討ちで落とすのが精一杯だった織田はどうかしたか?

天正三年終了時点で山県内藤馬場土屋秋山真田三枝原と重臣の大半が死に絶えた挙句徳川にすら押される武田が何か?
織田?織田はこの頃越前で派手に一揆を起こした連中を討伐して大国越前の統治体制を柴田勝家中心に刷新して
織田信忠が秋山の籠る岩村城を落として家督を相続するなどウキウキ状態でしたが?これが何か問題でもあるんですか?w

>>さっさと陥落してれば天正3年段階で瞬殺可能

長篠はもともと徳川の依頼で発生したようなもの
事実信長は田舎大名の武田の相手なぞ上杉で十分とばかりに書状を送っている

>>兵力比6〜8倍で武田領から孤立した後詰なしの所で撃退できるわけねーだろアホ

秀吉は浅井七郎率いる7、8倍の兵力を後詰なしで撃退しましたし
そもそも後詰の有無は武田勝頼に委ねられるわけですから別に後詰を送ってもよかったんですけど
よほど長篠でボコボコにされたのがトラウマになっていたのでしょうね

>>むしろそんな所に半年もかかって騙まし討ちで殺すのが精一杯だったのが織田

後詰が来るかもしれないのに城を無駄に攻めて兵力を損なうことの方が問題だということにも気づかないアスペ
ボロボロの岩村城と疲労困憊した織田軍を勝頼の大軍後詰が攻めたらいくら織田軍でも苦しい戦いになるのは必定
実際6月の上杉謙信宛て書状によると信長は美濃信濃を織田が、駿河を徳川が、甲斐信濃を上杉が攻める対武田の三方面作戦を考慮していたことがわかる

まあ勝頼が予想以上に長篠でトラウマを抱えたせいで警戒していた後詰は来なかったわけですがw
900人間七七四年:2013/01/07(月) 19:47:55.11 ID:56eV2Wi4
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。

永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、
このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと
逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた



66 :人間七七四年 :2012/04/29(日) 14:55:44.90 ID:+yD8Cyu/
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論であり
その文中には
「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので
忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。
そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において
岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
さて、じゃあ推移を説明しようか。

信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
901人間七七四年:2013/01/07(月) 20:00:36.57 ID:56eV2Wi4
>>自分で引用してるじゃんw 日本語もしゃべれない痴呆になったの?w
どこでしてるんだよアホ
>>前田と佐久間の優劣関係とは関係がない
柴田より上なのが佐久間
柴田のおまけなのが前田
>>信長の命令がなければ毛利水軍の手によってスルスル本願寺に兵糧が入ってましたがw
佐久間がいつから水軍ひきたんだよアホ
物資不足と佐久間の功績に因果関係なし
そもそも佐久間以外に本願寺攻めに関わった武将はたくさんいる
>>根拠なし
大阪を囲ってたのは佐久間。よって佐久間が攻囲してないなら物資がいくらでも大阪に入るわけ
>>そもそも信長折檻状では攻囲すらしていないと書かれている
折檻状は軍記にしかないデタラメ文書
>>与力が頑張った功績を勝手に我が物にしようとした可能性すらある
妄想乙
>>天正三年終了時点で山県内藤馬場土屋秋山真田三枝原と重臣の大半が死に絶えた挙句徳川にすら押される武田が何か?
重臣の大半が死んだなんて軍記にしかねーじゃん
>>織田?織田はこの頃越前で派手に一揆を起こした連中を討伐して大国越前の統治体制を柴田勝家中心に刷新して
謙信に向けて散々信濃出陣要請した上に自分も兵出すと書きながら結局何もできず一揆討伐がやっとこさ。
>>織田信忠が秋山の籠る岩村城を落として家督を相続するなどウキウキ状態でしたが?これが何か問題でもあるんですか?w
信長は謙信宛書状で信濃出兵要請&自分も出兵するとはりきりまくりなのに
信忠がたかが岩村一城に半年もかけたおかげでそれはおじゃん
>>事実信長は田舎大名の武田の相手なぞ上杉で十分とばかりに書状を送っている
謙信に軍勢出せだせとしつこく送り自分は美濃で相変わらずビビル有様w
>>秀吉は浅井七郎率いる7、8倍の兵力を後詰なしで撃退しましたし
浅井につけられてるのなんて非戦闘員の一揆勢だろ
そもそも箕浦合戦なんて軍記にしかないデタラメ合戦
>>そもそも後詰の有無は武田勝頼に委ねられるわけですから別に後詰を送ってもよかったんですけど
>>よほど長篠でボコボコにされたのがトラウマになっていたのでしょうね
謙信に援軍要請するだけで自分は岩村1城がやっとこさ。よっぽど長篠がトラウマになってるんでしょうね
>>後詰が来るかもしれないのに城を無駄に攻めて兵力を損なうことの方が問題だということにも気づかないアス
援軍が着たらさっさと倒せばいいだけだろアホ
長篠で弱ってるなら滅ぼす大チャンスだろアホ
>>ボロボロの岩村城と疲労困憊した織田軍を勝頼の大軍後詰が攻めたらいくら織田軍でも苦しい戦いになるのは必定
武田が本当に重症追ってるなら後詰来るかもなんて想定必要なし
むしろ後詰こようが来るまいがさっさと落とせばいいだけ。それができないのが織田の雑魚戦闘力
>>実際6月の上杉謙信宛て書状によると信長は美濃信濃を織田が、駿河を徳川が、甲斐信濃を上杉が攻める対武田の三方面作戦を考慮していたことがわかる
美濃から信濃に抜けるには岩村を突破する必要あるんだろアホ
>>まあ勝頼が予想以上に長篠でトラウマを抱えたせいで警戒していた後詰は来なかったわけですがw
予想以上に長篠でトラウマかかえた織田が岩村一城で苦戦して後詰戦は果たされなかったんですがw
902人間七七四年:2013/01/07(月) 20:03:55.74 ID:56eV2Wi4
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。信勝に弓を引くとか考え難い。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、
信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
お前は信長に都合悪い話はぜんぶ認めないキチガイなのは明白なんだがw
木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと美濃織田領国は崩壊前夜にあった。
また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。
そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状 遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候 などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。鴨川→14日岩村城の武田方への自発的な降伏開城説
芝辻の反論→18日付け謙信宛河田書状に書いてある通り岩村城を巡り攻防戦があったのは間違いない。同城が織田方重要拠点なのに城将達が自発的に投降なんて説は奇異だ。
その後は一切反論なし。 織田チョン恒例の曲解屁理屈ワロスw
903人間七七四年:2013/01/07(月) 20:44:35.12 ID:B6BKquGS
>>901
>>どこでしてるんだよアホ

>>892

>>>>信長が佐久間に対して突き付けた19条の折檻状、実は信長公記以外にもきっちり朱印状形式で残ってたり(尊経閣文庫所蔵文書)する等文書として残ってるんだよねw
どの文書だ?愛知県史資料編探っても全く乗ってないが

>>尊経閣文庫所蔵文書)する等文書として残ってるんだよねw
どの文書だ?愛知県史資料編探っても全く乗ってないが

>>尊経閣文庫所蔵文書

これで満足か?アスペ
そもそも愛知県史資料編をどれだけ万能史料だと思ってるんだ

>>柴田より上なのが佐久間

加賀を制圧して天下に面目を施したのが柴田
本願寺を攻囲すらせず与力に苦言を呈されて追放されたのが佐久間

信長の弟である信勝に味方して一時期信長から冷遇されていたのが柴田
最初から信長に味方して信長の信任は柴田以上にあったのが佐久間

柴田>>>>佐久間は疑いようがなく柴田>>>>>(他のたくさんの織田家臣)>>>>佐久間になる可能性すら高い

>>>>根拠なし。大阪を囲ってたのは佐久間。よって佐久間が攻囲してないなら物資がいくらでも大阪に入るわけ。

原田戦死後の本願寺に対する砦を建造した武将ですら荒木松永水野山岡もいる
そして本願寺攻めの佐久間の行動を逐一信長に報告したのは佐久間与力の保田
最低限こいつらは本願寺攻めに加わっていることは明らか

>>妄想乙

「やす田の儀、先書に注進」と佐久間与力の保田の証言をもとに信長が折檻状を作っている

>>重臣の大半が死んだなんて軍記にしかねーじゃん
>>そもそも箕浦合戦なんて軍記にしかないデタラメ合戦

根拠なし
信長公記は日記形式で書かれた一次史料
編纂された池田信長本が後から出てきてそちらの方が
有名になったから勝手に編纂物扱いされてるだけ
本来信長公記は最初に出来た建勲本の方を指す
904人間七七四年:2013/01/07(月) 20:55:08.16 ID:B6BKquGS
>>謙信に向けて散々信濃出陣要請した上に自分も兵出すと書きながら結局何もできず一揆討伐がやっとこさ。
>>信忠がたかが岩村一城に半年もかけたおかげでそれはおじゃん

そもそも上杉謙信は武田に対して一兵も出していないからいくら信長が頑張っても意味なし
上杉への出兵要請の1ヶ月後には武田に領土を追われた村上国清に対しても
「仇敵を討てる大チャンスだ」と書状を送っているが信濃方面に行くどころか全く関係のないところで
軍事活動をしているなど武田討伐の意志がないのが明白。結局武田が全軍で織田と対抗する可能性があったから
後詰を警戒して城を攻囲していただけ。

>>援軍が着たらさっさと倒せばいいだけだろアホ

なかなか落ちない長篠城を攻囲して「援軍が来たらさっさと倒せばいいだろ」と息巻いていた武田軍は
織田徳川の軍勢に壊滅的な打撃を受けて寝返り者であるはずの奥平すら倒せずに撤退しましたね
その長篠からまだ1ヶ月しか経っていないんですがw

>>長篠で弱ってるなら滅ぼす大チャンスだろアホ

勝頼が無理をして攻めてくる可能性も考慮しないアスペ
せっかく武田の影響を排除できそうなのに無為無策で突撃して負けたらどうするんだw

>>武田が本当に重症追ってるなら後詰来るかもなんて想定必要なし

最低でも穴山と武田一門衆は長篠でロクに戦わずに撤退してますけど
こいつらが大軍率いてくる可能性は全く考慮しないんだなw
特に穴山は長篠の後で山県の権益引き継いでいるから相当基盤大きいんだがw

>>美濃から信濃に抜けるには岩村を突破する必要あるんだろアホ

上杉が来ないのに無理に突破して信濃で袋の鼠になったらそれこそ笑えねーわw
おまえってほんと世の暗愚無能武将も真っ青の戦略的無知を晒してそれを平然と行わせようとするんだなw
織田豊臣に対してだけはw

>>予想以上に長篠でトラウマかかえた織田が岩村一城で苦戦して後詰戦は果たされなかったんですがw

武田勝頼が重臣の秋山と遠山一族を見捨ててまで織田と決戦を回避したのに苦しい言い訳だなw
決戦したけりゃ秋山を救援して信忠軍の背後を襲えばいいのにw
905人間七七四年:2013/01/07(月) 21:12:25.83 ID:56eV2Wi4
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
906人間七七四年:2013/01/07(月) 21:13:24.25 ID:56eV2Wi4
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
907人間七七四年:2013/01/07(月) 21:19:15.20 ID:B6BKquGS
一次史料と第一級史料の史料区分もつかないアスペwwwww
908人間七七四年:2013/01/07(月) 21:22:02.04 ID:56eV2Wi4
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。

そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。

無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから
909人間七七四年:2013/01/07(月) 21:22:52.29 ID:56eV2Wi4
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)

天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。

第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある

毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」

毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

討ち取られた武将もいない

野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長
江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。
しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの
追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが
義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
910人間七七四年:2013/01/07(月) 21:24:59.87 ID:56eV2Wi4
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。

史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw

そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に岩村城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
当時の斎藤は浅井と戦っていて、
六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、
斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
911人間七七四年:2013/01/07(月) 21:25:51.72 ID:56eV2Wi4
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
912人間七七四年:2013/01/07(月) 21:37:50.99 ID:56eV2Wi4
913人間七七四年:2013/01/07(月) 22:16:01.98 ID:B6BKquGS
>>912
HPに載ってないっていうのは否定の根拠としていくらなんでも早計だろ
ただえさえ信長関連の史料は多いしそのサイトは
「信長の署名なり花押、または印等が明かに確認できているものだけを織田信長文書」という基準があるみたいだし
参考資料としてもう20年以上前に刊行された「織田信長文書の研究」(吉川弘文館)を
元にしているみたいだからな、文書の載せ忘れとかもあるんだろ。

要は信長公記等にも載っている「佐久間信盛折檻状」が信用に足るかどうかの話なわけで
逆にそれが「信用できない」という根拠やソースは何?
914人間七七四年:2013/01/07(月) 22:48:40.83 ID:56eV2Wi4
史料編纂で探してもないし愛知県史資料編でもないし>>912のサイトでもない
そもそも信盛折檻状のソースの尊経閣文庫所蔵文書って信長記の事だろ
915人間七七四年:2013/01/07(月) 22:56:12.77 ID:B6BKquGS
HPで探したものじゃないから今手元で再現性があるわけじゃないが信長記ではなかったはず
916人間七七四年:2013/01/10(木) 06:55:22.53 ID:jMoolgX2
武田厨曰わく武田は天変地異で滅亡する内ヶ島レベルの雑魚
917人間七七四年:2013/01/10(木) 07:08:13.86 ID:jMoolgX2
まあ確かに信長は過大評価だよ、宇宙の支配者にはなれないもん
ただ信玄じゃ上洛も無理ってだけ
918人間七七四年:2013/01/10(木) 16:10:00.46 ID:jMoolgX2
だがにとっての議論とは自分の身勝手な主張に無条件賛同すること
919人間七七四年:2013/01/10(木) 18:08:30.20 ID:MBYa4ERF
長文いろいろ見たけど戦国に詳しいそれなりに
知識がある人々の書き込みだと見た。
しかし、人に読んでもらおう、優しく説こうという
気持ちは欠片もない、人として何かが欠落している
ような印象を受けたと言ったら言い過ぎだろうか。
知識の軽重こそあれ、同じ戦国ファンならそうあって
ほしくなかった。いや知識がある人ほど謙虚で
人としての礼に厚くあってほしかった。
勝手な言い方だけど残念です。
ごめんなさい。
920人間七七四年:2013/01/11(金) 00:28:28.69 ID:IJv3S9Kq
>>919
何も言い過ぎでないよ 至極的を射てると思う
彼は恥を知らない
戦国板や当該スレを良くする気は全く無い
他人の知識で相撲をとるだけのつまらない人
921人間七七四年:2013/01/13(日) 18:38:32.00 ID:XE21AH+R
信玄は雑魚だろうが信長自体が過大評価なのは変わらない
922人間七七四年:2013/01/14(月) 21:24:11.40 ID:sOaZDESa
論破されると議論から人格批判にすり替える
いつもの織田厨であった。
923人間七七四年:2013/01/16(水) 02:11:34.39 ID:oXcNrkua
豊臣徳川以外の大名は全部クズってことでFAじゃね?
924人間七七四年:2013/01/16(水) 10:13:59.93 ID:2LNd3yKE
徳川を入れるのは間違い
所詮豊臣との血縁関係を持ち出して政権簒奪しただけ
自力で確立できてない分豊臣どころか織田にも劣る
925人間七七四年:2013/01/16(水) 11:47:11.26 ID:2+ti/Nhk
それまんま豊臣の事じゃん
926人間七七四年:2013/01/16(水) 15:34:02.94 ID:2LNd3yKE
豊臣はまだ姓を新たに作ってもらって政権樹立しているし
九州四国関東東北と全部に軍を差し向けてるじゃん

家康は九州にも四国にも中国にも軍を差し向けていない
全て島津黒田加藤藤堂山内毛利と元豊臣家臣団が惰性で家康に従っただけ
これらの勢力のうち1つでも家康と徹底抗戦していたら家康は天下とれたかわからんレベル

現にほぼ全国を従える最大勢力を誇りながら
福島や加藤といった恩顧にも見捨てられた寄せ集め浪人衆+実戦経験ゼロの秀頼+摂津1国にも満たない国力を
擁した豊臣家を潰すのに1年以上かかるという体たらく
927人間七七四年:2013/01/16(水) 15:45:45.32 ID:2LNd3yKE
そもそも三英傑の中で家康が一番過大評価
信長は自分で北陸や駿河など各地の戦線に赴いたりしているし
秀吉は南は九州から北は関東まで行動するという驚異的な行動力

対して家康は基本江戸駿府京都の行ったり来たりでまさに貴族風情
九州に軍を送るのが面倒だったのか島津を無償で許すという行動力のなさ
秀吉の遺徳のおかげでどの大名も天下なんて考えなかったおかげで幕府維持できた程度でしかない

そんな薄弱基盤だから天草四郎や由井正雪みたいなわけわからん奴に幕府転覆狙われる始末
自分も真田幸村みたいな田舎の爺武者に圧倒的有利な状況から殺されかけると言う逆桶狭間一歩前まで詰め寄られる無様っぷり…
928人間七七四年:2013/01/16(水) 16:02:45.53 ID:2+ti/Nhk
>>豊臣はまだ姓を新たに作ってもらって政権樹立しているし
徳川は徳川幕府樹立後豊臣なんて部分的にしかなのってねぇよカスw
>>九州四国関東東北と全部に軍を差し向けてるじゃん
家康は九州四国関東東北地方を全て二分した関が原で畿内方面だけで18万もいる大軍を一日で撃破
秀吉は圧倒的国力差がありながら自国の10分の1そこそこの信雄家康島津長宗我部北条などに手まどりまくり(しかも長宗我部や島津は秀長の功積で秀吉は何もしてない)
>>全て島津黒田加藤藤堂山内毛利と元豊臣家臣団が惰性で家康に従っただけ
そら本決戦で一日で西軍が壊滅させられたからな。
信長や秀吉が手こずりまくった畿内や美濃を瞬殺したのが家康。
>>これらの勢力のうち1つでも家康と徹底抗戦していたら家康は天下とれたかわからんレベル
それまんま秀吉の対柴田戦とかにいえることじゃん。丹羽池田など多くが味方で勝豊・稲葉・前田・金森・不破が篭絡され
佐々も対上杉戦で動けなかったから勝てただけ。
>>福島や加藤といった恩顧にも見捨てられた寄せ集め浪人衆+実戦経験ゼロの秀頼+摂津1国にも満たない国力を
当時の豊臣方でも真田毛利後藤長宗我部など実践派は多くいるし
むしろ徳川方のが家康時代の連中が死んで実践経験不足の将ばかり。後大阪の陣は総大将秀忠(大阪に出兵する時秀忠が総大将として軍令発してる)
>>擁した豊臣家を潰すのに1年以上かかるという体たらく
実際に戦ってた期間でいうとわずかじゃん
夏の陣なんてほんの短期間で瞬殺されたしあれだけ大規模な城攻めにしてはあっさり終わったといっていい。
>>信長は自分で北陸や駿河など各地の戦線に赴いたりしているし
いつの事だ?
>>秀吉は南は九州から北は関東まで行動するという驚異的な行動力
九州も四国も秀長に任せきりで秀吉は何もしてねーじゃん
>>対して家康は基本江戸駿府京都の行ったり来たりでまさに貴族風情
根拠なし
>>秀吉の遺徳のおかげでどの大名も天下なんて考えなかったおかげで幕府維持できた程度でしかない
そんなら信長や秀吉も、道徳のおかげで大名も天下なんて考えていなかったおかげで版図広げたでFA
そんな薄弱基盤だから天草四郎や由井正雪みたいなわけわからん奴に幕府転覆狙われる始末
自分も真田幸村みたいな田舎の爺武者に圧倒的有利な状況から殺されかけると言う逆桶狭間一歩前まで詰め寄られる無様っぷり…
929人間七七四年:2013/01/16(水) 16:14:51.26 ID:2LNd3yKE
絶好調のアスペwwww

>>家康は九州四国関東東北地方を全て二分した関が原で畿内方面だけで18万もいる大軍を一日で撃破

毛利吉川は不参加、小早川脇坂赤座小川朽木は全部寝返るという西軍が類稀な烏合衆だっただけw
残った石田本隊に逆に苦戦され、島津に至っては井伊と息子を負傷させられる有様w

>>そら本決戦で一日で西軍が壊滅させられたからな。

島津は本国に大軍が残っているし毛利もまともに戦ってないから全然蹴散らせてないじゃんw
立花に大坂城を背に籠城しようなんて提案を出されて、家康も必死に懇願して毛利が大坂城を出ていくように仕向けている有様w
どっちが勝者かわからんような体裁に西軍武将も呆れてものが言えなかっただろう、もっと呆れたのは何もせず出て行って減封になった輝元に対してだがw

>>むしろ徳川方のが家康時代の連中が死んで実践経験不足の将ばかり。後大阪の陣は総大将秀忠(大阪に出兵する時秀忠が総大将として軍令発してる)

秀忠は将軍なんだから命令を出すのは当たり前
逆に秀忠は京まで急ぎ足で行軍して家康に咎められている
秀忠が総大将なら秀忠の都合で軍を進めればいいだけで何も不自由はない
それをして怒られているのは秀忠が総大将ではないという証拠w

>>いつの事だ?

日本地図もわからない知恵遅れ乙w
越前の一向衆討伐したり雑魚武田を駆逐するときに富士山観光なんてしてるがw

>>九州も四国も秀長に任せきりで秀吉は何もしてねーじゃん

秀吉は九州を纏めるために自ら足を運んだがなw
で、家康はどうした?九州どころか中国地方にすらいかないまま死んだじゃんw
大和平安時代の朝廷の人間が適当に軍を誰かに預けて討伐しているのと同じレベルw

>>根拠なし

根拠出ているのに認めないアスペw
家康が一番西上したのは大坂の陣の時、一番北上したのは上杉征伐の時
大坂以西に一度も足を運んだことない引き籠り将軍w

>>そんなら信長や秀吉も、道徳のおかげで大名も天下なんて考えていなかったおかげで版図広げたでFA

版図を広げるには武力も行動力も必要
家康の場合はただ向こうが形式的に頭下げに来ているだけ
島津や伊達のように刃向おうが命令違反しようが御咎めなしの弱小基盤w
930人間七七四年:2013/01/16(水) 16:20:33.51 ID:2LNd3yKE
ま、悪いこと言わないから家康を過剰に評価しない方がいいよw
いつぞやのコピペで織田政権や細川高国政権や三好政権は
天下の頂点に立ってからほとんど年月が経ってないなんてほざいていたが
家康が天下の頂点に経っていた時期はそれよりはるかに短い

なんせ豊臣家が滅びるまで家康は天下の頂点にいなかったのだからな
息子の秀忠、孫の家光など子孫が優秀だっただけで
家康自身は徳川幕府にほとんど貢献していないのが現実・・・
931人間七七四年:2013/01/16(水) 16:57:39.65 ID:2+ti/Nhk
>>毛利吉川は不参加、小早川脇坂赤座小川朽木は全部寝返るという西軍が類稀な烏合衆だっただけw
>>残った石田本隊に逆に苦戦され、島津に至っては井伊と息子を負傷させられる有様w
島津の記録の薩藩旧記雑録には井伊と息子が島津の軍によって負傷したなんて書いてない
後同史料によれば小早川脇坂小川赤座朽木が寝返りだすのは東軍の優勢が決定的になった後だと書いてる
他の関が原関連の史料見ても関が原の序盤戦で徳川が劣勢だったなんてどこにも見られず完全に日本戦史の影響だろ
むしろ陣地的にみれば西軍のが有利な上に東軍は関が原に家康本軍が全く投入されない状態で片付いてしまったのが西軍
>>島津は本国に大軍が残っているし毛利もまともに戦ってないから全然蹴散らせてないじゃんw
島津は領国の兵ほとんど関が原に連れてきてる(8/20義弘→本田正親書状で惣在国之人集ハ彼表へ在番可申付と書いてる)
石田三成人数書立にも美濃口 羽柴兵庫頭(島津義弘) 六千人と書いてる
>>立花に大坂城を背に籠城しようなんて提案を出されて、家康も必死に懇願して毛利が大坂城を出ていくように仕向けている有様w
どの史料の事を言ってるんだ?日付と差出人教えてくれ。
>>逆に秀忠は京まで急ぎ足で行軍して家康に咎められている
史料名と差出人、日付よろ。後後見という立場なら隠居しててもとがめられても別に総大将じゃない根拠にならない
>>越前の一向衆討伐したり雑魚武田を駆逐するときに富士山観光なんてしてるがw
なんで観光するのが名将の条件になるんだ?むしろのんきすぎてマイナス評価だと思うが
>>秀吉は九州を纏めるために自ら足を運んだがなw
足はこんだだけで何もしてないまま帰っただけだろ
秀吉がいようがいまいが大友高橋など九州の残党勢力+先鋒秀長の先遣隊宮部らで十分だったのが島津。
何もしてないんだから功積も糞もなくただ部下と大友らが頑張っただけ
家康はそもそも中国にも九州にも行く必要がなかっただけだろ。一日で主力が瞬殺されて終わったからな
>>家康が一番西上したのは大坂の陣の時、一番北上したのは上杉征伐の時
朝鮮征伐の時九州いってなかったか?後どこいこうが何しようが有能無能と関係ないからどうでもいい
>>版図を広げるには武力も行動力も必要
信長や秀吉のように自国が糞みたいに大国で相手が雑魚国力勢力ばかりで歯向かうものもなく
頭を勝手に下げにくれば行動力も武力もいらん
>>家康の場合はただ向こうが形式的に頭下げに来ているだけ
それまんま信長秀吉の事じゃん。信長の斉藤征伐とか上洛戦とか秀吉の毛利征伐とか九州征伐とか信雄討伐とか
次々に相手が頭下げにきて何もせずに相手領土を火事場泥棒したにすぎん
>>島津や伊達のように刃向おうが命令違反しようが御咎めなしの弱小基盤w
島津はどうかしらんが伊達は戦前の100万石オーバーの盟約破棄されてる
後福島加藤最上とかも改易されてる
932人間七七四年:2013/01/16(水) 18:43:36.57 ID:2LNd3yKE
>>他の関が原関連の史料見ても関が原の序盤戦で徳川が劣勢だったなんてどこにも見られず完全に日本戦史の影響だろ

苦戦したといっただけで劣勢なんて一言も書いてないわけだがw
脳内で別の人と何か言い合ってんのか?w

>>陣地的にみれば西軍のが有利な上に東軍は関が原に家康本軍が全く投入されない状態で片付いてしまったのが西軍

徳川家臣で徳川に好意的な大久保ですら自著で「金吾中納言うらぎりを以て」と書いてあるわけだがw
裏切りなど全く関係なく最初から東軍が全てにおいて勝り優勢だったなんてどこの史料ですか?w
そもそも薩藩旧記雑録等島津の史料を採用するなら「井伊や忠吉が負傷していない」というのはありえない
傷を負ったどころか忠吉は落馬すらしているし、正面に向かってきた井伊、松平が崩れたおかげで島津はそこから逃げ帰って来れたわけ

>>どの史料の事を言ってるんだ?日付と差出人教えてくれ。

必要か?そもそも毛利輝元は西軍総大将として大坂城に入っているんだから
立花どころか大半は主戦派だぞ?三河物語ですら吉川の行動を讃えてあきの森(毛利)は「安堵」とあるくらいだ

普通に考えれば西軍総大将の家臣のおかげで領地安堵なんてありえない話
吉川が勝手にやったとしても家康からすればどうでもいい事情にすぎない。
吉川の行動で毛利が「安堵」となったのはどう考えても家康が絡んでいたからこそだろ

>>後後見という立場なら隠居しててもとがめられても別に総大将じゃない根拠にならない

隠居した人間が当主を昔の立場で怒るって当主をないがしろにする最もやってはいけないことなんだが
事実豊臣政権崩壊後に武家諸法度が制定されたが、これも家康は命令を出しただけで
実際に製作も布告も「秀忠」の名で行われている。駿府記、当代記。

>>なんで観光するのが名将の条件になるんだ?むしろのんきすぎてマイナス評価だと思うが

もともと観光目的じゃなくて戦争目的だったのに武田が雑魚過ぎるから
「関東見物する」と発言していただけだろ。のんきすぎるも何も軍率いて来ているんだから、
当然いざとなったら戦争するくらいは可能だろうが、おまえほんと言外の知識は悉く読めないのな
だからアスペって言われるんだよ、それはアスペの特徴だから
933人間七七四年:2013/01/16(水) 18:45:35.97 ID:2LNd3yKE
>>足はこんだだけで何もしてないまま帰っただけだろ

博多を復興したりキリシタンの対処とかしてただろうがw

>>家康はそもそも中国にも九州にも行く必要がなかっただけだろ。一日で主力が瞬殺されて終わったからな

毛利軍含めて四国九州の西軍はほとんど無事だがw
関ヶ原で壊滅したのは所詮石田大谷宇喜多と大半が豊臣中央軍
九州からやってきた連中で関ヶ原で霧散したのって小西くらいだろw

>>朝鮮征伐の時九州いってなかったか?後どこいこうが何しようが有能無能と関係ないからどうでもいい

秀吉のおつきで強引に連れて行かされただけだろ、それも元となる史料は江戸時代のだったはずだが
有能無能と関係ないというが明らかに行動範囲が狭いのは徳川政権そのものの基盤を揺るがしかねないだろ
事実島原の乱が起こったのは徳川が介入しきれなかった九州だしな

>>頭を勝手に下げにくれば行動力も武力もいらん

その結果不安定な基盤になってりゃ世話ないでしょw

>>次々に相手が頭下げにきて何もせずに相手領土を火事場泥棒したにすぎん

頭下げて許すどころかボコボコにされて討ち取られてる勢力ばかりじゃんw
特に信長なんて斉藤以外はほとんど皆ぶっ殺したし、斉藤すら朝倉戦できっちり討ち取ってしまったじゃん
家康なんか大半許してばかりじゃん、生涯で殺すまで追い込んだ勢力って石田小西安国の関ヶ原三人衆くらいだろw
島津や毛利があっさり惰性で頭下げてくれなきゃどうなってたことかw

>>後福島加藤最上とかも改易されてる

そいつら改易したの家康じゃねーしw
家康が改易した外様大名って小早川くらいだろw
後は大久保とか石川とか身内ばっか
934人間七七四年:2013/01/16(水) 19:32:54.82 ID:2+ti/Nhk
>>そもそも薩藩旧記雑録等島津の史料を採用するなら「井伊や忠吉が負傷していない」というのはありえない
薩藩旧記雑録のどこにも井伊や忠吉が島津軍によって負傷したなんて書かれていない
>>傷を負ったどころか忠吉は落馬すらしているし、正面に向かってきた井伊、松平が崩れたおかげで島津はそこから逃げ帰って来れたわけ
だからそんな事薩藩旧記雑録のどこにも書いてないって。
>>裏切りなど全く関係なく最初から東軍が全てにおいて勝り優勢だったなんてどこの史料ですか?w
たとえば七条鳥丸本願寺(上宮寺文書)や稲葉家譜、慶長見聞集、慶長年中記とかでも
東軍は初めから優勢で勝利が日を見るより明らかになり西軍総崩れの時に小早川軍や朽木脇坂らが東軍に味方して襲ったと書いてる
後三河物語には金吾中納言裏切りを以ってとは書いてるがその次に句読点が入り、きり下させ給うと書いてるだけでこれによって勝敗が決したなどとは読みとれない
>>必要か?そもそも毛利輝元は西軍総大将として大坂城に入っているんだから
>>立花どころか大半は主戦派だぞ?三河物語ですら吉川の行動を讃えてあきの森(毛利)は「安堵」とあるくらいだ
>>普通に考えれば西軍総大将の家臣のおかげで領地安堵なんてありえない話
>>吉川が勝手にやったとしても家康からすればどうでもいい事情にすぎない。
>>吉川の行動で毛利が「安堵」となったのはどう考えても家康が絡んでいたからこそだろ
ようは史料に書かれてる事ではなくお前の妄想で
>>立花に大坂城を背に籠城しようなんて提案を出されて、家康も必死に懇願して毛利が大坂城を出ていくように仕向けている有様w
これを主張しているということな
935人間七七四年:2013/01/16(水) 19:34:22.21 ID:2+ti/Nhk
>>もともと観光目的じゃなくて戦争目的だったのに武田が雑魚過ぎるから
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始
936人間七七四年:2013/01/16(水) 19:34:56.74 ID:2+ti/Nhk
×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

長篠の戦いの翌年(天正4年)に毛利領で義昭が鞆幕府を立ち上げ、
上杉も本願寺と和睦している。大分後ではないぞ。

天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に敗戦を隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないとあまりに大幅な白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
937人間七七四年:2013/01/16(水) 19:39:09.90 ID:2+ti/Nhk
>>隠居した人間が当主を昔の立場で怒るって当主をないがしろにする最もやってはいけないことなんだが
信長も信忠家督継承後武田侵攻時無謀に突出しないように注意してるだろ
あと怒ったって何がソースだ?
武家諸法度の例は秀忠が当主だった事証明する例じゃねぇかw
>>のんきすぎるも何も軍率いて来ているんだから
信長の軍なんて何もやってねーじゃん
裏切りの連鎖で勝手に崩れたにすぎん
938人間七七四年:2013/01/16(水) 19:40:00.68 ID:2+ti/Nhk
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。

馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当

一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
939人間七七四年:2013/01/16(水) 19:42:19.77 ID:2+ti/Nhk
長篠の戦いの翌年(天正4年)に毛利領で義昭が鞆幕府を立ち上げ、
上杉も本願寺と和睦している。大分後ではないぞ。

天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に敗戦を隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないとあまりに大幅な白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
940人間七七四年:2013/01/16(水) 19:42:40.53 ID:2+ti/Nhk
浅間山が大噴火して 武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み 天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。 東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。

天正10年1月6日付けの勝頼書状には軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
高天神城は3年も籠城し続けていて徳川はかなり苦労してるね。つか一次史料を読むと天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。織田と武田の同盟が成立すると誤認して遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやってまたしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
941人間七七四年:2013/01/16(水) 19:44:01.02 ID:2+ti/Nhk
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
942人間七七四年:2013/01/16(水) 19:45:07.46 ID:2+ti/Nhk
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
943人間七七四年:2013/01/16(水) 19:45:38.64 ID:2+ti/Nhk
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
944人間七七四年:2013/01/16(水) 19:45:43.28 ID:n9FPkmha
キチガイが暴れているということだけは理解できた
945人間七七四年:2013/01/16(水) 20:06:03.23 ID:2+ti/Nhk
>>毛利軍含めて四国九州の西軍はほとんど無事だがw 関ヶ原で壊滅したのは所詮石田大谷宇喜多と大半が豊臣中央軍
>>九州からやってきた連中で関ヶ原で霧散したのって小西くらいだろw
島津隊6000はほぼ全滅してわずか数十騎で薩摩にヘタレ敗走してる
美濃口の稲葉・秀信ら10000や北国口の木下勝俊木下利房丹波7頭之衆但馬二頭木下頼継姫路衆
上田重安以下3万も勢田在番組の太田、垣見、熊谷、秋月、相良、高橋、伊藤、竹中、中川など計6900もほとんど東軍に蹴散らされて壊滅させられてる
>>頭下げて許すどころかボコボコにされて討ち取られてる勢力ばかりじゃんw
美濃三人衆離反 鵜沼城主離反 他美濃侵攻時まともに抵抗することなく降伏する奴ばかりだから助かっただけなのが信長
>>特に信長なんて斉藤以外はほとんど皆ぶっ殺したし、斉藤すら朝倉戦できっちり討ち取ってしまったじゃん
朝倉戦でも朝倉影降、景鏡はじめ一門重臣連中ほとんど抗戦せず降伏するものばかりで助かっただけなのが信長
逆に長島一向一揆とかガチで離反なく抗戦されると騙まし討ち&餓死寸前&圧倒的兵力差ですら一門10人以上ぶち殺されるのが信長
>>家康なんか大半許してばかりじゃん、生涯で殺すまで追い込んだ勢力って石田小西安国の関ヶ原三人衆くらいだろw
殺す殺さないは残忍さの高低を言うだけで何も強い弱いの根拠にならん
>>島津や毛利があっさり惰性で頭下げてくれなきゃどうなってたことかw
毛利や島津なんて雑魚だろ
毛利なんて総勢6万〜8万いながら総大将に祭り上げられて何もできずに大厳封食らっただけだし
島津も6000ほとんど寡兵の徳川軍の本多や井伊に殺されて死んでる

>>そいつら改易したの家康じゃねーしw
そんなら信忠家督継承後改易された連中とか信長ではなく信忠がやったでいいな
>>家康が改易した外様大名って小早川くらいだろw
関が原で改易された連中なんて日本全国たくさんいるんだが一々書かないといけないほどお前は無知なのか?
>>後は大久保とか石川とか身内ばっか
そもそも改易とか殺すとか残虐な性格を現すだけで何で有能無能の話にすりかわるんだ?
946人間七七四年:2013/01/16(水) 20:06:33.64 ID:2+ti/Nhk
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
947人間七七四年:2013/01/16(水) 20:07:00.77 ID:2+ti/Nhk
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
948人間七七四年:2013/01/16(水) 20:14:47.97 ID:2+ti/Nhk
原田森坂井正尚・久蔵 平手氏家
与力の織田信治 青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤 小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
青山与三衛門
949人間七七四年:2013/01/16(水) 20:42:14.42 ID:2+ti/Nhk
信玄の死と朝廷権力に救われただけで信玄が生きていたら滅亡確定だった信長w

2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上洛もできないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
950人間七七四年:2013/01/16(水) 20:43:18.99 ID:2+ti/Nhk
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
951人間七七四年:2013/01/16(水) 21:14:17.10 ID:2LNd3yKE
いつものごとく無意味なコピペは置いといて

>>薩藩旧記雑録のどこにも井伊や忠吉が島津軍によって負傷したなんて書かれていない

鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵、薩藩旧記雑録後編(鹿児島県史料、旧記雑録後編3)
1328 同合戦西國方敗北之事 (以下原文)

秀秋ノ人數シトロニナリテ山上ニマクリ立ラレル處、
松平下野守忠吉卿・伊井兵部少輔直政山下ヨリ切テカゝリ、
島津ヲ中ニ取込テ戦ケル、此時下野守疵ヲ負セ給、馬ヨリ眞サカサマニ落給ケル所ヲ兵部少馬ヲ

どこをどう読んだら『薩藩旧記雑録のどこにも井伊や忠吉が島津軍によって負傷したなんて書かれていない』という主張につながるのだろうかw

>>後三河物語には金吾中納言裏切りを以ってとは書いてるがその次に句読点が入り、きり下させ給うと書いてるだけでこれによって勝敗が決したなどとは読みとれない

その後すぐ「打たせ給う」の文字が出て「さを山の城」と関ヶ原の話が終わっているわけだが
わざわざ勝負に関係のないことをそれも徳川家臣ですらない小早川の記事で埋めるのか?w
ちなみに井伊や本多はおろか福島黒田すら関ヶ原本戦での記述はないぞw

>>ようは史料に書かれてる事ではなくお前の妄想で

都合が悪くなるとすぐ妄想認定、アスペルガーたるゆえんだな
徳川史料の三河物語ですら吉川の話が出ているのに主戦論がゼロとかウリナラもびっくりだな
そもそも関ヶ原本戦についてない部隊の方が多くしかも戦っている部隊すら少ないのに
石田や宇喜多が負けただけで毛利が兵を引くとか都合よすぎる、現に徳川史料ですら吉川が
吉川が交渉して「安堵」を取ったという記述があるくらいだがw

>>信長も信忠家督継承後武田侵攻時無謀に突出しないように注意してるだろ

書状でキツく発言しているのは信忠じゃなくて信長家臣の滝川や河尻だがw
もちろん信忠にも言いくるめてはいるが別に信忠の動きを制約しているわけじゃない
そもそも甲州征伐は本来信長も出動する予定だったのを、あまりに雑魚過ぎた武田が信忠すら苦戦するのを見て
信長は息子に見せ場を譲ろうと兵を帰しただけだから総大将は本来信長
逆に言えば大坂の陣の対応も、家康が総大将であるという証明にすらなりえる

>>あと怒ったって何がソースだ?

駿府記当代記ってさっき書いたろーが

>>信長の軍なんて何もやってねーじゃん

倒すべき敵が既に崩れているんだからやる必要がなかっただけ
本来武田がそこそこ骨があれば信長が指揮して倒すはずだった
ところが信忠が予想以上に押したので息子に見せ場を譲っただけ
武田が雑魚かったから休憩しただけのこと
952人間七七四年:2013/01/16(水) 21:29:23.48 ID:2LNd3yKE
>>上田重安以下3万も勢田在番組の太田、垣見、熊谷、秋月、相良、高橋、伊藤、竹中、中川など計6900もほとんど東軍に蹴散らされて壊滅させられてる

負け戦だと早合点して逃げ出したのを「壊滅した」とは言わないw

>>美濃三人衆離反 鵜沼城主離反 他美濃侵攻時まともに抵抗することなく降伏する奴ばかりだから助かっただけなのが信長
>>朝倉戦でも朝倉影降、景鏡はじめ一門重臣連中ほとんど抗戦せず降伏するものばかりで助かっただけなのが信長

朝倉浅井三好波多野別所荒木松永北畠、ぶっ殺された奴の方が格段に多いじゃんw
アスペ君の中の信長は斉藤と朝倉だけ倒して死んだんだねw

>>殺す殺さないは残忍さの高低を言うだけで何も強い弱いの根拠にならん
>>毛利や島津なんて雑魚だろ

誰も殺さないなら勢力はそのまま残る、馬鹿でもわかる話
実際その毛利と島津に最後は政権崩壊させられてるじゃんw

>>そんなら信忠家督継承後改易された連中とか信長ではなく信忠がやったでいいな

その改易は全て信長の名でやっているわけだがw
福島加藤が改易される頃には家康死んでるわけだがw

>>関が原で改易された連中なんて日本全国たくさんいるんだが一々書かないといけないほどお前は無知なのか?

関ヶ原の改易処分は全て豊臣の名の下で行われているわけだが
他人の褌で気に入らない連中をクビにするんだからそら気前よくガンガンできるわなw
事実徳川幕府が成立した後で改易された連中は親藩譜代が多く占めるチキンっぷりw

>>そもそも改易とか殺すとか残虐な性格を現すだけで何で有能無能の話にすりかわるんだ?

身内ばかりを切り捨て余所者を大事にするのは主家の権力基盤に関わる話
簡単に言えば自分のお家を存続させる力が拙いということだな
事実家康が死んだ後で秀忠は外様含めバンバン改易処分を行っている
家康がチキンすぎたから秀忠がケツふきせざるを得なかったんだろう
953人間七七四年:2013/01/16(水) 21:37:12.75 ID:2+ti/Nhk
>>武田が雑魚かったから休憩しただけのこと
武田が雑魚だったのではなくただ単に弱ってる所を奇襲と火事場泥棒で騙まし討ちしただけ
武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始
×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
954人間七七四年:2013/01/16(水) 21:52:42.11 ID:2+ti/Nhk
9/15長宗我部盛親・長束正家・安國寺惠瓊等、美濃南宮山に陣す、關ヶ原の敗戰を聞き、敗走す、惠瓊、毛利秀元の軍に屬し、密に京都に入る、
9/16徳川家康、福島正則・黒田長政をして、大阪城に在る毛利輝元に、陽に本領安堵の旨を告げしむ、輝元、之を喜ぶ、
9/18是より先、美濃大垣城三丸守將相良頼房・秋月種長・高橋元種、二丸守將熊谷直盛・垣見一直・木村總右衞門等を誘殺して東軍に降り、
水野勝成・西尾光教等に屬す、是日、本丸守將福原長堯を攻め、尋で、勝成、長堯をして城を致さしむ、
955人間七七四年:2013/01/19(土) 12:22:42.06 ID:9+Ln2M/f
豊臣家臣だった福島や黒田を使ってなんとか毛利を城から出させたかったんだな家康・・・
956人間七七四年:2013/01/19(土) 14:56:48.92 ID:A4M7G6jj
それで両川改易+本家4分の1の厳封食らってりゃ世話ないわな
957人間七七四年:2013/01/19(土) 15:56:00.89 ID:yQ0kJIpu
そもそも毛利の減封の話は退去の段階で近衛前久が既に情報を得ている。
最初から減封ありきで、それは毛利もわかっていたが、対面や混乱を抑えるため取り敢えず安堵といっておいただけ、
というのが実際だろう。

毛利が騙されたとか、話にならん説だな
958人間七七四年:2013/01/19(土) 19:32:56.48 ID:9+Ln2M/f
戦国2大チキンレースだな
959人間七七四年:2013/01/20(日) 12:44:50.09 ID:Apzv/FcE
そもそもだがの主張する信長包囲網は武田抜きでも甲州征伐より
ひどい状況なんですが。
960人間七七四年:2013/01/20(日) 17:45:07.85 ID:2iUOoYK6
あれで滅びなかった信長を讃えるべき、という話なんだろう
961人間七七四年:2013/02/02(土) 20:19:19.83 ID:2MbTtjwd
>>957
近衛から毛利へその情報が伝わったとするソースは?
962人間七七四年:2013/02/06(水) 21:17:22.00 ID:sFTVdB76
捏造だからそんな話はない。
963人間七七四年:2013/02/06(水) 22:06:12.59 ID:GpFgiqzI
>>961
アホか。近衛が毛利との講話の内容を察知してたって話だ。
近衛前久・信尹書簡にちゃんと残っとる。少しは調べろ
964人間七七四年:2013/02/07(木) 07:36:17.81 ID:H0zps05J
>>963
興味あるので年月日と共に
該当書状内容をここに転記してください。
965人間七七四年:2013/02/07(木) 20:20:30.62 ID:4TDVtYRN
>>964
慶長五年九月廿日付近衛前久書状

すごい有名な書状だと思うのだが…
966人間七七四年:2013/02/07(木) 22:02:56.86 ID:ScSrLSjb
>>965
ID:H0zps05Jはアスペルガーだがって言う奴だよ
やたらソースを要求しては排撃するキチガイだ
まともに相手したら馬鹿を見るからスルーしとけ
967人間七七四年:2013/02/07(木) 22:22:34.34 ID:FSLXKCf+
ソース要求する割に正しい議論ができんのだよね
ソースが必要なのは「ある」と主張する側ってのが解ってない
968人間七七四年:2013/02/08(金) 01:47:38.80 ID:njGO0dXs
>>1

信長は地の利が良いんだよ
尾張だけで50万石
50万石の美濃を併合すると100万石だもの
尾張・美濃・伊勢半国だけで130万石
それに30万石の三河徳川と連合すると敵なしだよ
3万〜4万くらいの兵力を京近くに維持できる
969人間七七四年:2013/02/10(日) 09:05:11.76 ID:NvMf4TTi
溝長厨は、未来永劫永遠の社会の脇役!
970人間七七四年:2013/02/10(日) 20:01:54.82 ID:9L6iOXmN
確かに運の良さは大きいが、運だけで無能であれば
尾張統一戦の自転で終わってるだろうね、それと大名の資質は戦争の指揮が上手い下手だけでなく
その他の能力も総合的にみて判断しないといかん、確かに信長は信玄、謙信、元就、氏康といった戦上手の
大名らに比べれば戦争の指揮に関しては1ランク落ちるのも事実、
例えば秦の始皇帝なんかは戦争の指揮は部下の将軍たちに丸投げして、
自分は全然戦場にいかなかったが、始皇帝が無能だったかといわれるとそうではないわけだよな
971人間七七四年:2013/02/10(日) 23:17:26.86 ID:R5+G7Si+
信玄なんて全然戦上手じゃないじゃん
同じ相手に2回も自軍優勢の状況から負けるとか
信長からすればハナで笑われるレベル
そして同一視される謙信元就氏康にも大変失礼

信玄の軍事手腕は毛利輝元と同レベル
972人間七七四年:2013/02/10(日) 23:29:50.70 ID:R5+G7Si+
大体その中で運の良さが一番大きいのも武田信玄じゃん
信長が義元を討取ってくれたおかげでようやく駿河に手をつけられたし
あのまま謙信と直接やっていれば信玄が討ち取られていても全くおかしくない
10万石もない村上ごときに2回も負けて、やっとこさ追い払ったら上杉軍の猛攻に
一門重要格の弟と重臣を討取られるなど、来る戦来る戦ほぼ全てで重臣を討取られる体たらく
こんな信玄が勢力拡大できたのは今川が勝手に崩れてくれたおかげ
973人間七七四年:2013/02/11(月) 08:48:33.62 ID:D6U9FAtu
今川義元をウルトラスーパーラッキーパンチで殺したはいいが
幼君でガタガタ状態の斉藤を火事場泥棒しようとしたら6回も7回も撃退されたり
一揆軍数百に餓死寸前の状態を騙まし討ちにして一門10人以上殺されまくる雑魚長さんよりはマシだろ
974人間七七四年:2013/02/11(月) 09:10:26.57 ID:ZIEWz9NH
とは言うが、義龍は尾張の反信長勢力と結びかき回していたが、結局のところ尾張を信長にほぼ統一され、桶狭間後は逆に美濃に侵攻され始める。
龍興は侵攻されるたびに最終的には何とか撃退するもののその都度どんどん美濃を侵食されてる。
義龍、龍興を過大に評価しすぎ。
975人間七七四年:2013/02/11(月) 13:52:07.18 ID:D6U9FAtu
義龍の攻撃目標は西の浅井家で南下なんて考えてないだろ
龍興の頃は幼君・クーデター騒ぎおきまくり&不景気で信長が何もしなくても寝返りばかりになっていっただけだし
逆にまともに抗戦されると毎年の年中行事みたいに蹴散らされてたし
976人間七七四年:2013/02/11(月) 13:55:36.00 ID:12MoSzOP
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだしさっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
977人間七七四年:2013/02/11(月) 15:33:21.29 ID:zgQgRruK
>>975
その義龍が苦戦した浅井も信長に跡形もなく滅ぼされているが?
978人間七七四年:2013/02/11(月) 21:13:03.07 ID:AouNks2p
>>970
美濃が稲葉山城を家臣に乗っ取られたりする無能だったし
将軍奉公衆や甲賀衆や大和衆やそれに協力する一揆や本願寺や比叡山といった
諸勢力が三好軍を摂津や近江などで撃退したりと
敗北続きの信長に協力してくれたし、
天皇も決勝綸旨でバックアップしてくれたから
三好軍はあっけなく瓦解し信長は成功しただけだろ。
信長は他力で這い上がった挙句、増長し味方だった者はことごとく裏切られたと激怒。
始皇帝なんて評価するほどの実績なんて残してない。
始皇帝が秦王として即位するだいぶ前から
秦は軍制改革や法治の導入によってすでに他国を圧倒していて
始皇帝でなく別な人間であっても同じように中華統一は完成していた。
>>971
はいはい同じことを連呼する壊れたカセットテープ乙
>>972
今川が衰退期を迎えたのは遠州錯乱という大謀反が勃発したからで
それ以前の今川はまったく衰退していないのも知らんでアホかよ。
だからこそ桶狭間合戦捏造説が成り立っているのに無知晒すな。
それに信長公記における桶狭間の戦いは年代が全然間違ってるし、
第一次小豆坂の戦いにおける織田圧勝も完全に作り話の捏造だしな。
>>974
信長は絶対安泰な体制を作ってくれた父の期待を裏切り
(今川との同盟+道三の後見+美濃大垣城+尾張一国+三河にも領地を持つ水野氏を引き継いだ)
信長は無能暴君DQNを遺憾なく発揮しまくり、失望した守役達は自決したり&謀反の連続で
英主義龍時代の斉藤家に領地を奪われまくり
尾張半国を斉藤家に奪われてしまったので、
信玄が哀れんで信長を救う為に織田と同盟してあげ救助してやったのが史実。
979人間七七四年:2013/02/11(月) 21:40:12.97 ID:AouNks2p
>>977
えっ?苦戦どころか浅井に勝ってますが。
980人間七七四年:2013/02/11(月) 22:21:40.02 ID:LfmAJhTY
>>977
稲葉一鉄の父や兄とか沢山戦死してるよな…
981人間七七四年:2013/02/11(月) 22:37:31.83 ID:AouNks2p
>>980
バカかw
稲葉一鉄の父や兄が戦死したのは1525年で
いまだ斉藤道三さえ一次史料に登場してこない
土岐氏時代の美濃の話を持ち出してまで・・・哀れだな織田厨ってw
982人間七七四年:2013/02/11(月) 22:42:03.93 ID:D6U9FAtu
浅井ってそもそも10万石そこそこなのに
織田200万石チート勢力に勝てるわけないじゃん
むしろその割に信玄在世中は優勢だったし
983人間七七四年:2013/02/12(火) 00:01:02.83 ID:MC6eyeQ7
村上はさらにそれより少ないけどなw
村上ごとき10万石未満の雑魚勢力に2度打ち負かされたことを否定するために
60万石近くあった美濃斎藤に信長が負けた戦いがある(キリッ
と言い出す基地外だがw
984人間七七四年:2013/02/12(火) 00:04:17.33 ID:MC6eyeQ7
アスペルガーだがと呼ばれる、武田信玄を崇め織田信長を嫌っている人物についてまとめたサイト

アスペルガーだがってどんな人?
その名の通り、アスペルガー症候群に見られる、頑固・執拗・妄想の激しい人物です。
武田信玄を信奉していて信玄なら天下を取れたと信じ込んでいます。一方で織田信長が大嫌い、徹底的にこき下ろしています。
ちょっとでも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みは絶対に許さないのがだがの信条。

だがは織田厨という人物を目の敵にしています。織田厨は一人しかおらず、武田を叩いたり信長を持ち上げるのは
全て一人の織田厨によるものと信じ込んでいます。もちろんあなたも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みをすれば、
だがから織田厨の認定を授けてもらえます。

http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1359964379/
妄想を悉く否定され、基地外だがのコピペによってスレを埋め尽くされた信長の野望スレ
985人間七七四年:2013/02/12(火) 00:04:51.92 ID:MC6eyeQ7
986人間七七四年:2013/02/12(火) 00:21:40.20 ID:qEwvi2Tc
>>965>>964の文章内容が理解できない池沼なの?
>>983
勃興期に入り領土が拡大しまくってた当時の村上が
10万石未満なんてまったく聞いたことないので
ソースください。
ちなみに川中島の周囲が大穀倉地帯で
そのエリアだけで15万石もあったし
善光寺の門前町は相当な経済収益があった。
さらに村上氏は天嶮に拠っていた。
987人間七七四年:2013/02/12(火) 00:30:15.58 ID:4rnhD0G9
村上は連合組んでるし上田原は兵力1.4倍程度。
さらにキツイ山ランキングトップが立ち並ぶ天嶮。
両上杉や長尾の介入もあったし
斉藤単体(幼君・内乱で崩壊状態・不景気でろくに抗戦するものもなし)
に毎年の行事のように負けまくったり餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ちで一門10人以上殺される雑魚よりはマシ
988人間七七四年:2013/02/12(火) 01:42:42.39 ID:LNVKeKvE
>>986
書状を書き出させる理由は?
ソースに当たれないから?
そんな無能なの?
なら提示しても意味無いじゃん
989人間七七四年:2013/02/12(火) 07:48:21.98 ID:qEwvi2Tc
>>988
引きこもりと違い仕事で忙しく図書館に行く暇がないからです。
990人間七七四年:2013/02/12(火) 10:29:16.85 ID:LNVKeKvE
それはお前の言い訳
暇が無いじゃなくて、作れよ
結局無能じゃん
991人間七七四年:2013/02/12(火) 11:31:14.49 ID:egnoGxWJ
>>982
信長のときは朝倉という大大名の軍勢も加わっていたが?
一方石高にして5分の1にすぎない浅井単独に手こずっていた斎藤
992人間七七四年:2013/02/12(火) 12:27:00.87 ID:4rnhD0G9
>>991
その浅井朝倉らに織田は押されまくり史実では下記のように滅亡確定だったわけだが。信玄の死と朝廷権力に救われただけなのが信長。
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した

9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
993人間七七四年:2013/02/12(火) 13:31:44.22 ID:egnoGxWJ
つまりそこから大逆転してみんな滅ぼした信長は戦争の天才ということか
994人間七七四年:2013/02/12(火) 13:53:10.92 ID:4rnhD0G9
信玄が死んで包囲網勢が離反だらけになって瓦解
朝倉なんて重臣連中こぞって織田に寝返り出す始末
結局信玄の死と朝廷の威光に救われただけにすぎない
995人間七七四年:2013/02/12(火) 14:43:06.47 ID:egnoGxWJ
信玄が死んだから瓦解したという根拠は?
996人間七七四年:2013/02/12(火) 14:53:03.06 ID:4rnhD0G9
信玄が死んで朝倉離反だらけになったじゃん
997人間七七四年:2013/02/12(火) 14:58:45.48 ID:egnoGxWJ
根拠になってないな
つーか離反自体織田軍の猛攻の結果起こったことだし
信玄が死んだ直後から離反者出まくりならともかく
998人間七七四年:2013/02/12(火) 15:34:43.66 ID:Bz26jEyu
999人間七七四年:2013/02/12(火) 15:36:26.40 ID:Bz26jEyu
駒犬の怒つて居るや梅の花
1000人間七七四年:2013/02/12(火) 15:38:05.70 ID:Bz26jEyu
明た口に団子賜る梅見かな
10011001
      /    `ヽ、
      ー┬――─‐ァ
      / ̄ ̄ ̄ ̄,l,
    _/     ,、r'" _」
.    | ̄ ̄ ̄ ̄ ,、r:''゙ヽ、
   /`'''''''''''''''''''" ヽ::::::::::ヽ
   /  秀家    ゙ヽ:::::::::',   ごくろう。このスレはみごと統一された。
  ゙|゙゙゙'''   ‐‐''""'  ';:::;r==,、  さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
.  |エi> ,'  イiエ>  レ'゙,r .,l }  
  i.  /         Y./ノ   さあ泳いでゆけ、現代のもののふたちよ!
  l  {  .、          /      
  ',  ` ''  '       rTヲ
   '、 `'ー‐''"    / lzュ、__
---‐ヽ  -'     /  〃ィ ヾ'‐,--        
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