武田勝頼って信玄以上の名将だったんだな part3
291 :
人間七七四年:
>>289 陣城に引きこもっていなければ
軍が瓦解壊走してるレベルだな。
戦死者の三倍以上の戦傷者が出るのが軍事常識だしな。
292 :
人間七七四年:2012/06/14(木) 16:08:39.18 ID:sqRAU7+v
フロイスによると恐ろしいほどに
東方の空が真っ赤に染まったと書かれており
しかも浅間山噴火と同日に赤い光りが
豊後国(大分県)でも観測されたと言う。
実に凄まじい爆発力だったのがわかる。
293 :
人間七七四年:2012/06/14(木) 16:10:09.34 ID:sqRAU7+v
浅間山が大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み
天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。