慶長3年の”全国総石高1851万石”がうその件

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146人間七七四年:2012/07/04(水) 19:16:47.23 ID:9sUs8xLh
越後は内高を記載した慶長郷帳・正保郷帳が残っているわけではないので、
初期の本当の石高の別は不明だけど、他の石高を時系列順に並べると以下の通り

39万0770石 慶長3年石高(1598年)
45万0060石9斗 島原松平文庫の日本国知行高之覚石高(1610年頃か) おそらく内高
40万6000石 寛永10年巡見使国絵図?(1633年) 数字は>>123から 原則として表高
61万1960石427合 2682村 正保2年国絵図(1647年) (会津領津川約9100石が総数から抜けている) 原則として表高
81万6775石73077才 3964村 元禄郷帳(1701年) 原則として表高
114万2555石53585才 4051村 天保郷帳(1834年) 原則として内高
115万0507石79195才 4409村 旧高旧領取調帳 内高 府藩県三治制の明治3年(1870年)頃の石高(>>123の「実高」とはこれのこと)
115万0567石52359才 4546村 明治6年郡村石高帳(中身は明治5年(1872年)) 内高 明治6年以降の地租改正前の最後の石高

いきなり石高が増えたのではなく、江戸時代を通じてどんどん石高が増えていった感じになる。

一方、明治以降の実際の越後国の米の生産高は、『府県物産表』や『全国農産表』によると

153万3181石 明治7年(当時の新潟県) 全国で2591万石
122万3662石 明治9年(越後国) 全国で2474万石
138万9459石 明治10年(越後国) 全国で2660万石
134万2001石 明治11年(越後国) 全国で2528万石
166万3696石 明治12年(越後国) 全国で3168万石
197万9006石 明治13年(越後国) 全国で3143万石
165万9975石 明治14年(越後国) 全国で2991万石
177万5916石 明治15年(越後国) 全国で3045万石

天保郷帳の全国石高合計は3056万石だが、その内3割程度は畠方で、麦や大豆、あるいは宅地の地代などを、
米の価値で換算して算出したもの。
田方の石高はそもそも2500万石程度しか想定されていない。

ところが越後を始め、当時の北陸側は、実際の米の生産高が内高の数値を上回るほどの米どころに成長している。
特に越後の場合天領が多かったため、比較的税制が緩く(天領では実際の農産物生産高を考慮すると、
平均2割程度という試算もある)、実際の農産物の生産高よりも低目に内高が設定されていた。

ちなみに>>140で紹介した中村哲『明治維新の基礎構造』では、全国4684万0934石中(明治10年〜12年平均)、
越後の農産高は226万5691石と評価されていた。この内米は年兵kに150万石ほどで、
どっちにせよ幕末の内高115万石を大幅に上回る。
147人間七七四年:2012/07/04(水) 19:27:24.73 ID:rpdXPN5J
太閤検地まで含めるなら検地精度の強化と新田開発の2本立てだろう

土佐が分かりやすいが、豊臣に降伏直後の朱印状では10万石、慶長2年までの検地で20万石
10年で2倍になってるが当然そんなに増えるはずはなく、長宗我部氏が把握できていた石高が
本来の半本でしかなく、その後の豊臣政権の後援を受けた強制的検地でやっと正確な石高を出せた。
関東はもともと検地を厳しくやる北条氏の領土ではあったが記録に残る数々の大規模治水と
江戸近郊への人口流入によって大きく石高を伸ばした例
148人間七七四年:2012/07/04(水) 19:39:14.47 ID:rpdXPN5J
越後はで内陸の村落がどんどん拡大していって(村落の拡大=農地の拡大)平地を侵略し、
海岸沿いの村落(漁村ではなく塩田村らしい)と合流する感じの村落の絵地図の研究をどっかで見たな
149人間七七四年:2012/07/04(水) 19:53:36.77 ID:rpdXPN5J
あと細かい石高の変動の例としては大名の思惑によるものもある
熊本藩は清正時代に内高70万石であったが次代忠広のときに94万石とされた
しかしこれは年貢増収のための圧制に近いもので、改易が決まり細川家に引き渡される前に
加藤家家老たちによって手直しされ75万石として細川家に提出され、
以後、細川熊本藩の内高として使われて行く
150人間七七四年:2012/07/04(水) 19:55:37.57 ID:9sUs8xLh
土佐の事例だと:
9万8200石 慶長3年石高(1598年)
20万2626石5斗 島原松平文庫の日本国知行高之覚石高(1610年頃か) おそらく内高
20万2600石 寛永10年巡見使国絵図?(1633年) (数字は>>123から) 表高
20万2626石 正保国絵図の石高?(1644年頃) 表高
25万4300石余 寛文4年郷村帳 (1664年) 内高
 内、24万8300石余が本高、6050石余が新田高
26万8484石974合 1076村 元禄郷帳(1701年) 原則として表高
33万0026石52升 1076村 天保郷帳(1834年) 原則として内高
49万4091石429合 426村 旧高旧領取調帳(1870年頃) 内高
51万0572石1947勺 426村 明治6年郡村石高帳(中身は明治5年(1872年)) 内高

とりあえず、江戸時代後期の天保郷帳に関しては、大部分の外様各藩は
内高を正直に報告していないことは推測できる。
151人間七七四年:2012/07/04(水) 22:35:07.88 ID:3CUNgUOD
越中は佐々成政が治水やってたね。確か信玄と同じ霞堤。
同じ人が肥後に行って加藤清正に仕え、また治水やってるんだよね。
152人間七七四年:2012/07/07(土) 16:36:50.81 ID:DDQgyanc
結局、まだ結論は出てないのか。
実際はスレタイより多いのか少ないのかもわからん。
153人間七七四年:2012/07/07(土) 19:26:24.53 ID:c8R6Czvf
慶長3年の石高は、当時把握されていた検地の結果として正しい

実際の農作物収穫高は、経済学者の試算によると2000万石程度

大名の石高を足して、それが慶長3年の石高を超えたとしても、
それは各々の大名が検地で把握して増えた分や、名目の石高も混ざっているし、
それをもって「うそ」と表現するのは間違い
154人間七七四年:2012/07/07(土) 20:04:22.74 ID:DDQgyanc
あ、俺に答えてくれたのかな。ありがとう。
155人間七七四年:2012/07/07(土) 21:39:01.37 ID:F2mHpaKL
そもそも経済指標じゃなくて軍役の負担分を規定するもんだからな
156人間七七四年:2012/07/08(日) 00:55:15.36 ID:93nupNG4
最低限これだけは言えると思うけれど。

太閤検地の傾向
・畿内と東海の精度は高い
・九州と奥州の精度は低い
・外様大名の石高は報告不正確もしくは把握能力不足の傾向あり
・土佐は明らかにごまかしている
157人間七七四年:2012/07/08(日) 00:59:47.60 ID:93nupNG4
だいたい関東はともかく、他の地域で江戸時代の石高上昇200%とか絶対おかしい
人口が2倍になってるわけじゃあるまいし
158人間七七四年:2012/07/08(日) 13:29:20.42 ID:IMDTY9mW
ん?

速水融・鬼頭宏説なら、1600年〜1750年で人口3倍だぞ
159人間七七四年:2012/07/08(日) 19:34:55.70 ID:93nupNG4
それは日本全体の話だし
160人間七七四年:2012/07/08(日) 20:07:08.07 ID:IMDTY9mW
>>159
畿内は、
1600年から1650年で人口1.124倍
その後は人口安定期

尾張・美濃・伊賀・伊勢・近江・播磨は
1600年から1650年で人口1.894倍
1650年から1700年で人口1.124倍
その後は人口安定期

その他の地域は
1600年から1650年で人口1.41倍
1650年から1700年で人口1.894倍
1700年から1750年で人口1.124倍
その後は人口安定期

というのが速水・鬼頭の仮定による計算
161人間七七四年:2012/07/08(日) 20:17:27.05 ID:93nupNG4
ほとんど江戸じゃないのかな?その他
162人間七七四年:2012/07/08(日) 20:21:11.08 ID:GQ5gqTvO
>>156
土佐はごまかしてるのではなく長宗我部氏が自分の国の石高を知らなかっただけ。
163人間七七四年:2012/07/08(日) 20:36:01.05 ID:IMDTY9mW
1670年以前の人口の記録が残っている主な藩と、1732年頃の人口の比較

熊本藩領民人口は99年間で2.75倍
20万3678人(1633年)→56万0546人(1732年)

長州藩(支藩を含む)領民人口は69年間で2.38倍
20万4331人(1663年)→48万6485人(1732年)

薩摩藩人口は70年間で1.52倍
30万2021人(1636年)→45万7806人(1706年)

徳島藩領民人口は67年館で1.52倍
30万8880人(1665年)→47万0512人(1732年)

仙台藩(支藩を含む)人口は49年間で1.43倍
86万9846人(1668年)→60万7868人(1717年)

南部藩領民人口は63年間で1.31倍
24万5635人(1669年)→32万2109人(1732年)

津藩領民人口は67年間で1.14倍
25万2061人(1665年)→28万7096人(1732年)

ただ、速水の歴史人口学の研究は熊本藩の人畜改帳と諏訪地方の過去帳の研究から始まっていて、
熊本は特に江戸時代前半の人口増加が激しい地域だった。

いい加減150年で3倍モデルを改訂した過去の地域別人口推計値を、
どこかの研究者が発表して欲しいものだけど
164人間七七四年:2012/07/08(日) 23:46:33.61 ID:93nupNG4
2倍以上は熊本と長州だけだね
仙台藩減ってる
3倍ってどの地域が担っていたんだろうね?
165人間七七四年:2012/07/09(月) 00:14:57.26 ID:SU9Cc0Ug
書き間違えた。

仙台藩は、60万7868人(1668年) →86万9846人(1717年)で49年間で1.43倍

3倍というのは、諏訪地方、熊本の過去帳・人畜改帳における人口増加パターンを
人口モデルにあてはめた場合、人口増加の始りから収束まで、
丁度150年間で3倍となるロジスティック関数を描けると結論し、
それを日本全国に当てはめたというのが、速水・鬼頭らの推計人口

熊本藩と長州藩は、それぞれ約100年間、約70年間での人口増加で、
むしろ150年間3倍パターンを上回っている。

仙台藩は約50年間で1.43倍で、一応150年間3倍パターンに載っている。
薩摩藩、徳島藩、南部藩は下回っているが、薩摩藩は江戸時代を通じて人口が増え続けている。
166人間七七四年:2012/07/09(月) 00:30:24.19 ID:SU9Cc0Ug
ちなみに人口史料を時系列で並べるとこんな感じ

1591年頃:豊臣秀吉の人掃令 (実態不明) 米沢藩領の邑鏡?
1609年:細川家の作成した小倉藩人畜改帳:現存する最古の人別帳
1634年:長崎平戸町人別帳:現存する最古の宗門改帳
1665年:幕府が全国的に宗門改帳の作成を命じる
1721年:幕府が全国的に領民人口の集計を開始 (武家等を除き2606万5425人)
1846年:幕府による最後の人口集計 (武家等を除き2690万7625人)

実際にもっとも人口増加率が高かったのは、正保郷帳が作られた頃の1650年前後だろうと目されているけど、
それ以前の記録はほとんどないので、1600年頃の人口はそれ以降の人口から補間して求めるしかない。
167人間七七四年:2012/07/09(月) 00:31:49.58 ID:SU9Cc0Ug
あ、「邑鑑」ね

168人間七七四年:2012/07/14(土) 17:23:29.68 ID:9Ub1pebz
ちなみに巨椋池干拓後は3万石取れたらしい
169人間七七四年:2012/07/16(月) 19:18:24.23 ID:0hrUq2rH
>>165
薩摩藩は年貢率も相当高かったし
人口が増える要素が他にあったとは思えんのだが。
170人間七七四年:2012/07/17(火) 05:25:43.46 ID:Xl4/vdUT
>>169
確かに米にも畠に対しても薩摩藩の課税は高いんだが(八公二民)、
田でも畑でも二毛作が当たり前になっていて、
表作の米がほとんど税として取られても、裏作の麦や大豆は、総て農民の収穫となる。

明治11年〜明治12年の米の平均収穫高は
12万3804石 大隅国 
14万9375石 薩摩国 
9万0563石 日向国諸県郡

日向国諸県郡の米収穫高の93.5%が旧薩摩藩領として、
旧薩摩藩領の米収穫高は明治初期の段階でも合計約36万石に過ぎない。

一方他の穀類の収穫量を同様に計算してみると:

甘藷:3億1115万1719斤=18万6691トン (明治12年の数字)
粟:11万0796石
麦類:9万1519石
蕎麦:3万5498石
大豆:1万9393石

結局のところ薩摩藩に人口増加をもたらした農作物は、サツマイモであることがわかる。
19万トンのサツマイモを85万人が365日消費したとすると、
1人1日平均600グラムの生のサツマイモを食すことができる計算になる。
171人間七七四年:2012/07/19(木) 17:11:05.06 ID:dVZMmvqq
そう考えると、凄い。
しかし、たまには米も食べたいね。
172人間七七四年:2012/12/16(日) 02:23:57.60 ID:pYo+SzN9
東高西低なのはなぜ?
173人間七七四年:2012/12/16(日) 08:50:23.84 ID:ZE6ie12s
過少申告か過多申告の違い
174人間七七四年:2012/12/23(日) 15:52:47.40 ID:e3782kIe
あとはペナルティ的な側面もあるかと。
島津家が実高30万石なのに名目で60万石と定められたのは
九州の役を引き起こした為とも言われている。
逆に早くから豊臣と通じていた南部家は実高20万石だけど
名目で10万石にしてもらってる。
175人間七七四年:2012/12/24(月) 20:48:40.37 ID:cd0E7Yx0
>>174
津軽家もそうだな

実質15万石といわれてるが3万石
(これは為信が上手に検地の目をごまかしたからだが)
176人間七七四年:2012/12/24(月) 21:08:29.30 ID:tTryVbAy
過少申告つったってろくに検地もしたことがない田舎大名が自分の領地の収穫高を把握してなかっただけだぞ
177人間七七四年:2013/05/07(火) 04:59:30.26 ID:Nje8+KZN
>>1
その有名な1800万石から1950万石試算は間違いだよ。

1 その時代の統計は統一基準じゃないから、隠田などもまばらにあり正規的な統計は取れてない。
2 戦国年間に地域差はあるが、全国規模の正規てきな統計は期間的に[やってない]しとってないのである。
大規模+統一規格+長期間必要で故に正規統計はとってないからないのである。

3 秀吉の石高計算方式統一というのは、石高計算方式の統一と普及までであり、計算式は普及段階で、
口頭調査ていどはしても、正規計算はする時間がない。

つまりここまで正規統計はとれずかつ農地面積統計すらとってる可能性あやしく、そこまで
せいぜい口頭報告があっただけで農業統計でわないのである。

また西日本の地域別の石高は異様に乱下高してるのは農業外生産
を含んでる可能性がある。
178人間七七四年:2013/05/11(土) 21:11:54.18 ID:XkQTwaPq
>>177
検地が徹底されてないから実情と異なるというのは、間違いじゃないだろ

それをいうなら江戸時代を通じて実情通りの石高が計上されたことなど一度もないし、
江戸時代の石高計算ですら、農業外生産を含むかどうかなんてのは各藩次第
179人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:2SaqzWJP
>>1

その統計は隠石を計算しない。農業生産以外の生産高を含めない計算

ホントはもっとあったけど
@武士含め非農耕民が異常に少なく(対人口10から15%)
元から税率が過度に低く一部地域以外でわ積極的な徴税や税制も無かった(早雲1割税でもそれまでの慣例からいえば高すぎた税)
その都合税の正確な換算や統計もなかった。徴税が少なくかんたんだったんだよね。
Aよって秀吉検地ですら期間が短く正確な統計はとれず陰石は統計できなかった。
ないし換算しなかった。
B正確な石高把握はその後数度検知を行なって検出された1650年の2,500万石ほどが打倒でそれまでわ雑統計
180人間七七四年:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN ID:2SaqzWJP
尚それまでの増加率等からすれば
鎌倉最後期1300から1400万石 税8%非農業階級100万以下
1450年1500から1600万石非農業階級150万規模
1590年1900万石その他隠石100万石以上非農業生産100から200万石非農業階級200万以上人口2000から2200万

1620年までの増石100万石隠石発見100万石総2400万石

1650年2550万石以上以降非農業生産爆発的に拡大
1800年2900万人石高不安定
1850年石高3200万石人口3400万非農業生産3000万石
1880年石高3600万石人口3500万前後
181人間七七四年:2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN ID:SZ28io8b
>>179-180
その数字は何を元に計算している?

中村哲の計算によると(>>140)、1880年頃の段階で、穀物だけで石高4681万石
182人間七七四年:2013/09/12(木) 06:49:48.63 ID:iaZKaRP3
いつもすごく疑問なんだけど、日向国ってやけに石高が少ないと思うんだ。
googlemapの航空写真で見る限り、そこまで平野部が少ないというわけでもない。
確かによく見ると、他の平野よりは山が入り組んでる気はするが、それは日向の倍石高がある薩摩も同じ。
増して薩摩と言えば土地が痩せているのは有名な話。
どうしてこんなに石高が少ないんだろう?
183人間七七四年:2013/10/20(日) 16:38:20.23 ID:oDXC9vgF
日向石の石高変遷

12万0088石4斗4升 太閤石高 (1598年)
28万8589石5斗 慶長郷帳石高 (1610年頃)
29万0180石9斗7升3合 正保郷帳石高 (1644年頃)
30万9954石5斗2升8合1勺7才 元禄郷帳石高 (1700年頃)
34万0128石8斗6升1合7勺9才 天保郷帳石高 (1830年頃)
41万8142石3斗5升6合6勺5才 明治5年石高 (1872年)

徳川の時代になっていきなり倍増以上しているから、
単に太閤時代の数字が不正確なだけ
ただ明治初期の実際の米(糯米を含む)の収穫高を見ると

明治11年:17万3404石
明治12年:23万8497石
明治13年:25万4725石
明治14年:36万5014石
明治15年:31万1136石

米はいまいち取れなくて、他の農作物で賄っていたことがわかる。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802336/20
明治12年の数字で見ると
作付 2万8446町、収穫 21万7458石 米
作付 3483町、収穫 2万1038石 糯米
---------------------------------
作付 9073町、収穫 3万3096石 裸麦
作付 8480町、収穫 3万1586石 蕎麦
作付 7709町、収穫 8311万9925斤 甘藷
作付 7604町、収穫 4万0887石 粟
作付 5476町、収穫 2万1900石 大豆
作付 4813町、収穫 2万2928石 大麦
作付 4180町、収穫 1万4187石 小麦

畑の面積が田の面積を大幅に上回り、特に
サツマイモ、ソバ、アワが重要だったことがわかる
184人間七七四年:2013/10/23(水) 07:55:40.39 ID:RQ/nLuTp
>>183
九州南部はみんなそんな感じだな>米が獲れないので他の農産物込みでの石高
185人間七七四年:2014/02/23(日) 00:27:56.70 ID:DJ+Pc3oZ
186人間七七四年:2014/02/28(金) 13:35:58.93 ID:gRDB8YZ3
>>59
>>60

石高には田・畑双方の収穫高が反映されている
大豆や麦などの見込み収穫高も、米の価値に置き換えて評価する

例:1605年の金森長直による飛騨国の慶長郷帳では飛騨三郡で
総石高3万8764石4斗=田方2万5475石3斗2升7合+畑方1万3289石0斗7升3合
物成1万1215石8斗3升 (税率28.9%)

なおこの石高はあくまでも拝領高にあわせて数値処理した表高で、
実高の方は同じ慶長期の検地で、
4万石以上になっていたはず(手元に文献がないので正確には書けない)

6年前の書き込みだけど、否定するレスがなかったので
187人間七七四年:2014/02/28(金) 14:48:29.11 ID:Db3zpLqK
ちなみに1石とは一人が1年間に消費する穀物の量を表してる
であるからして人口から米の生産高が割り出せる
また逆も可能

人口1000万人なら1000万石
石高3000万石なら人口3000万人

概算ではあるが目安としてなら十分使える
188人間七七四年:2014/02/28(金) 15:23:03.24 ID:gRDB8YZ3
>187
1石は玄米換算の収穫高であって、実際にはそんなに正確に出せない
そもそも江戸時代の標準的な扶持米の計算だと、
男扶持なら1日玄米5合、年間で玄米1.8石
女扶持なら1日玄米3合、年間で玄米1.2石で
1人1石以上必要

慶長3年の石高は1851万石
江戸時代に入って初期の初期高(おそらく慶長国絵図・郷帳高)は2217万石
しかしながらこれらはどっちも表高

1611年(慶長16年)の小倉藩(細川領)の人畜改帳記載の実高で比較すると:
規矩郡3万8929石余に対して領民1万0893人
田川郡4万6323石余に対して領民1万5247人
京都郡3万1362石余に対して領民5676人
仲津群3万6033石余に対して領民7809人
宇佐郡7万5723石余に対して領民2万1838人

このデータだと1石で養える領民は0.3人程度にしかならない

幕末の日本の総石高3000万石、総人口3000万人は、
長年の緩い石高設定により実態を大幅に下回った石高設定のせいで、
結果として1石≒1人の図式ができただけで、
少なくとも江戸時代初期にはそのような単純化ができない
189人間七七四年:2014/02/28(金) 15:58:57.75 ID:a0QY0Asu
>>175
為信は検知の時に既存の田畑まで一旦埋め戻してたという話まであるね
ほんとかどうかは知らんけど
190人間七七四年:2014/03/01(土) 08:22:46.16 ID:r+TdgD6z
もうざっくり二千万石でいいじゃん
191人間七七四年:2014/03/02(日) 18:43:30.73 ID:BNg3vBlW
>>182
戦国時代というカテゴリーだけで見れば、大国肥後と絶望的な程交通網が整備されてない日向と、
肥後に抜ける道だけは山岳路なりなあった薩摩との違いじゃね?
肥後と豊後とで差が開いたのは戦国時代より前だから知らん。
192人間七七四年:2014/08/25(月) 20:09:40.27 ID:tfuZDZ3p
193人間七七四年:2014/08/27(水) 05:08:59.03 ID:1fJrYwln
1反=300坪の水田=玄米2.5俵150kg=1石=1両=大人1人の半年から1年分の米

日本の面積=6000万反

水田にできるのが半分くらいとして、3000万人分の米しか作れない。

7000万人いた太平洋戦争中、海外からの食糧輸入が、ほぼ不可能になって、
ひどい食糧不足だったからな。

太平洋戦争前後に成長期だった世代は、栄養不足が原因で、平均身長が低くなった。
194人間七七四年:2014/08/27(水) 05:33:07.27 ID:1fJrYwln
間違えた

日本の面積=3.78億反か?

よくわからん
195人間七七四年
太閤検地は差出(自己申告)も一部認めていたみたいなので
実際より少ない石高になっていると推測。