1 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=25,xxxPT】 :
2013/06/27(木) 08:10:26.54 ID:UPFU2Bm0 BE:547483542-2BP(333)
2 :
神も仏も名無しさん :2013/06/27(木) 14:07:29.99 ID:85hduT5T
レス番1から透明あぼんとは・・・(^^; ま、とりあえず乙 >> 1
3 :
神も仏も名無しさん :2013/06/27(木) 21:10:33.74 ID:oGj7vGQn
皆様方は「この地上世界が大好き」なのです。
「覚醒を求めている」とは言っていますが、本当は他人や友人に話を聞いてもらって自分を認めてもらい、家族の団らんを求め、
美味しいものを食べ、彼氏彼女を日々追い求め、少しでも人に認めてもらいたい、世に認めてもらおう、人よりお金を持っていたい、
長生きしたい、楽したい、子供の成長を楽しみにしたい・・・とその意識、思考は地上界にへばりついたままなのです。
本当に覚醒したいのなら、何度もここで申しあげていますように「覚悟」が必要なのです。
そしてその覚悟とは「この地上を離れる覚悟」なのです。
地上を離れる覚悟とは、
@「すべての執着から離脱する」
A「すべての欲望を捨てる」
@のすべての執着とは、あなたの友人、知り合い、家族、家系、仕事関係の付き合い、物に対する執着
Aのすべての欲望とは、食欲、性欲、睡眠欲、権力欲、自己顕示欲、物欲、金銭欲
こうした私たちをこの地上界に縛り付けている「接着剤」を希釈していかないと、覚醒を得ることは不可能なのです。
他に方法はありません。
やがて(いきなりは無理なので)徐々に執着や欲望を薄くしていくと、その因となっているカルマが次第に解き放たれていきます。
そうすると欲望・執着の希釈により加速度がついて覚醒に近づいていくことになります。
しかし私たち凡夫にはそもそも「欲望を絶つ」「執着から離れる」ということが出来ません。
皆様は色々質問してこられますが、本当に覚醒したいのなら欲望と執着を絶てばいいのですが、そんな簡単なこと、シンプルなことが絶対に出来ないのです。
仏陀以来人類はそのことを耳たこほど聞いてはいますが、ただ聞くだけで決して実行しようとはしませんし、出来ないのです。
2013/4/17 No.244
地球界における覚醒・解脱・卒業の在り様@〜D
2012/8/27 No.233〜2012/11/10 No.237
http://www.mandarake.co.jp/publish/space/
4 :
神も仏も名無しさん :2013/06/28(金) 06:11:43.67 ID:0xVcvo6n
さぼってばかりの学生に卒業証書を与えるわけにはいきませんな。
5 :
神も仏も名無しさん :2013/06/28(金) 10:16:34.70 ID:wRMVKyPO
>>3 「悟り」と、あなたが言う「覚醒」「この地上を離れる覚悟」?は恐らく同じものだと思います。
そして、ブッダが執着を捨てろ、厭うなと説いたのも事実でしょう。
しかし、その執着とは「悟り」への執着も含みます。
つまり、悟りたい〜と志向するのも悟りに執着している事になります。
そこで、八正道を説いたのです。
何も難しい事は無い。只、正しい姿勢で生きるだけで良い、という事でしょう。
普通に淡々と悪い事から離れて正しく生きる。その中に「悟り」がある。
悟ってから、淡々と生きるのではありません。悟ったら何か良いものがあるのではありません。
悟ってもよし、悟らなくてもよし、とにかく自分は悪い事は一切しないぞ、と腹をくくって普通に生き続ける
中に意識しない悟りがあるのだと思います。
私は5戒の一つの酒を飲むな〜を破って生きていますので悟りとは無縁です。
平日は飲みませんが、週末に一杯やりますw
でも悟らなくとも良いのです。酒以外は普通に正しく生きようとは思い、実践しています。
6 :
神も仏も名無しさん :2013/07/02(火) 19:00:29.10 ID:zBph1u+2
7 :
神も仏も名無しさん :2013/07/02(火) 19:26:27.32 ID:zBph1u+2
8 :
神も仏も名無しさん :2013/07/03(水) 00:21:43.54 ID:+Sw60/kh
9 :
神も仏も名無しさん :2013/07/03(水) 23:22:55.81 ID:+Sw60/kh
ああ、もしかしてアイツ、 ワシが自分の考えとして「TPPで農業を強くし得る」と考えてる立場の人間だと思ってんのかな? おめでたい奴・・・(^^;
12 :
神も仏も名無しさん :2013/07/06(土) 20:23:05.40 ID:OgnHQB2d
13 :
神も仏も名無しさん :2013/07/07(日) 00:25:26.55 ID:d6bxw2Nn
人間ブッダにコウベ垂れた梵天に感謝してるとかマヌケでズレまくった発言ぶっこいてた インチキ手かざし宗教信者の一在家いる?
>>13 「甘露の門が開かれる縁を結んだ(きっかけの一つとなった)」梵天への謝意は、
通仏教的にもアリだぜ?
サンカーラ(行)とダンマ(法)を観察する 〜心の安らかさを得るための釈尊の教え〜 という本を某図書館で借りてきました。まだ30ページくらいしか読んでないのですが、 新しい発見を頂いた本であることが分かりました。 この本を読んでいる最中にいろいろな事を考えていたのですが、その中で一つ の話をみなさんに紹介します。科学の発展ということがありますが、それと、 仏法の教義の発展は全然違うかもしれません。科学の発展というのは、時代遅れを 作るための、疎外させられる者を作る学問であるように思います。それに比べて、 仏教の発展というのは、誰かを疎外するどころか、善い人々が集まってくるとても 善いものであることが分かりました。しかしそれを基本的として応用では、 悪人たちさえも救う教えでさえもあり、一切の善悪の凡夫人を救う教えでもある ということが時代の変遷に照らし合わせると分かって来たことであります。 科学的な方向性の宗教は多々あれど、仏教のような方向性の宗教はまさしく 仏教しかありません。しかし科学的な方向性の中で、自分の信念を持ち続けた方々がいる ということを忘れてはならないところです。そのような者たちは、疎外されるというよりも 自分たちをちゃんと自分たちで守っているのです。
ごめん、何が言いたいのか分からない。 それと一行づつ開けて書くのは止めたほうが良いかと。
宇宙で受け入れてもらえれない人々は、どこからも認めてもらえれないのです。 僕なんかは、仲間を裏切るわけではないのですが、あなたたちに指(さし)示したいものが あるので、言いますが、科学的な方向性の中にいながらも、自分たちを自分を 守っている方々がいるように思うのです。僕はその下っ端に属していますが、 というか属さざるを得ないほど、頑固なモノ(絆?)で出来ている共同体なのですが、 僕はその中にあって、その中の人々と共に成長をするということを内心では拒んでいる 面もあることを言ってみます・・・、がしかし、そのような僕は本当はそういう事だけに 目を向けたいと思わないから、必死で抗っているのではないかという風にも 思うのです。もちろん素晴らしい共同体(同じ信念を持った仲間という意味もあるが それだけではないとも思う)にいることは確かなのですが、しかし・・・、方向性の 違いがあるわけではないのですが、なぜか抗っている自分に沸々と込み上がってくる 内面の葛藤がとても無様であり、おかしいことであると思っております。
あなたたちは、自分の生き方を見られていないと思うかもしれませんが、 実は見られているのです。見られていないと思うから、自分のしたい事を 探れると思うのでしょうが、実は見られているのですよ!見られているのだから、 頑張るということではないのです。見られているけども、見られていることが分からない 自分なりに試行錯誤する姿に共感するかつての仲間がいたのかもしれませんよ〜。 しかしですね、それだけではダメなのです。より高度な社会の中に入るには そこにいる衆生たちに認められるほどのすさまじい思想がないと、感覚がないと、 覚知がないと、受け入れてもらえれないのです。今思いついたのですが、 それをスムーズに解決するのが仏法であるように思うのです。認められる教え としての仏教。そこに行き当たったのです。それもさっきの本に紹介しました通り、 原始仏教、初期仏教の教えが一から始めるには重要な教えであるように 思われてきたのです。あとは龍樹の書いた中論。これがとてもしっくりくるのです。 なぜでしょうか?しかしこれは現代の最先端と見られている、浄土真宗の教義や 真言宗の教義などよりは、発展された教えではないのかもしれません。 初期仏教や原始仏教の教えや龍樹の中論の教えはしかし元であり、基なのです。 それを抜きに、現代の最先端であると思われている仏法はとてもじゃないが 心から話せません。本当はこれだけじゃないのですが、この辺にしておきます。
残念ながら、わかりません。
>>16 >>ごめん、何が言いたいのか分からない。
じゃあ要点を言いますね! 僕は、ですね最初に提示した本の中にあった言葉で、
「世の中の有様、一切の現象・万象を「サンカーラ(行)」といい,サンカーラの
属性・性質・ハタラキを「ダンマ(法)」という。」という言葉に感動したのです。
そしてですね、科学の発展というのは、時代遅れを作るための、疎外させられる者を作る学問であるように思います、
という言葉をあなたの見たさっきの文章で言ったのですがね、それだけを見ても
あなたが言いたいことが分からないということは、無きにしも非ずという視点を
見ることが出来ないのかもしれないのだろうと思います。僕はそれを見たから
言えるのですが、あなたたちに説明したらば、当然において、僕の見たもの
は伝わらないのです。僕が見たものではなく、あなたたちに無いものを伝えるのだから
あなたは無いものについて考えないといけないのだが、それを分からないと言ったという
ことではないでしょうか?
>>それと一行づつ開けて書くのは止めたほうが良いかと。
今はあなたの注文を聞いて、従ってみました。
まさにその通りでしょう。 「行」は全てのもの、「法」は定理、法則を表す言葉です。 しかし、科学の発展〜以降はさっぱり分かりません。
>>まさにその通りでしょう。 >>「行」は全てのもの、「法」は定理、法則を表す言葉です。 この場合の行という言葉にはすごく深い意味があり、いろいろ考えないと 分からないということをさっき提示した本の人は言っていました。 >>しかし、科学の発展〜以降はさっぱり分かりません。 僕たちの文明の科学の最先端が、この広い須弥山宇宙の中で最先端の 科学であると思いますか?僕たちの文明は時代遅れなのですよ〜。だから 少なくとも僕は、テレビも見ないし、スマートフォン(?)も使わない。 パソコンは使いますが、あまりいい風には思われない。(オタクに思われるから) だからですね、僕たちは高度な科学文明の持つ須弥山宇宙のいろいろなところの どのところからもあまり受け入れられていないのです。興味がないのです。 だから何も高度な科学についての知恵がないし、見ることさえふつうは許されない。 ここまで言えば意味分かってもらえるでしょうか?
分かりません。 第一、>高度な科学文明の持つ須弥山宇宙のいろいろなところ〜が何の事を言っているのかさっぱり分かりません。 諸行無常の行は世の中の全てのものを指す言葉です。他に解釈のしようがないと思いますが。
>>23 >>第一、>高度な科学文明の持つ須弥山宇宙のいろいろなところ〜が何の事を言っているのかさっぱり分かりません。
須弥山宇宙の中でも、天界があるでしょ?あそこは人もいるのですが、天人と言われています。
天人も人である限り、科学を使って真理を探究するでしょう。それに須弥山宇宙というのは一世界と言います。
僕たちはある一世界の中にいるのですが、三千大千世界で一つの仏国土です。
僕たちは娑婆という仏国土にいる。人間道のところは娑婆という仏国土の中には
無数にあります。つまり一世界の中の話と娑婆という仏国土の中の話ということです。
>>諸行無常の行は世の中の全てのものを指す言葉です。他に解釈のしようがないと思いますが。
この場合の行というのを観察することで、苦しみや悩みから解き放たれるのが、釈尊の教えであると
さっき提示した本の著者は言っています。まあそれともう一つ、ダンマ(法)の
観察もさっき提示した本の著者は言っていますが・・・。
お釈迦様の直伝(というか、近いもの)は素直に受けて、大乗以降の仏典作者が作ったものは真意だけ汲み取る〜 という姿勢が望ましい感じがします。 物語の世界を実際にある世界と混同してはいけません。 物語の真意を汲み取れれば十分でしょう。
>>25 >>お釈迦様の直伝(というか、近いもの)は素直に受けて、大乗以降の仏典作者が作ったものは真意だけ汲み取る〜
>>という姿勢が望ましい感じがします。
その態度でいいと思いますよ。僕もそう思うので。
>>物語の世界を実際にある世界と混同してはいけません。
>>物語の真意を汲み取れれば十分でしょう。
僕もそういう事を最近考えていました。しかしですね、それを物語と言う
のか〜。仏教世界観を物語とするところには、納得しかねますが、あなたが
物語であるとする背景には、釈尊を大事にされているということが実によく
あらわれていると思います。
>>25 >>物語の世界を実際にある世界と混同してはいけません。
これは、すごいことを言っているのですが、あなたはただ単純にそう思うから
出て来たのですか?それとも勉強した一種の境地なのですか?
28 :
神も仏も名無しさん :2013/07/07(日) 18:10:27.52 ID:sVzjUpnz
お釈迦様がキリストと対談したらどんな感じになるんでしょうか
ゴータマの400年後位にキリストの時代が来るわけですね。 仏典に書かれている事がそのまま全てその通り〜という訳にはいきません。 仏典作者は作者なりの工夫で話を作って、表現しようとします。 それは当然の事として、中心的な事として何を言おうとしているのか、汲み取れれば十分と言う事です。 単純にそう思います。
>>29 ああ単純にそういう事ですか。僕は僕たちは仏教世界にはいなくて、
一種の現世(うつしよ)にいるだけではないか、それだけでは仏教はあっても
仏教の世界ですらないということであろうと思っています。つまり僕たちには
教えしかないが、本当はこの現世(うつしよ)に仏教世界があるように思うのです。
ですが、僕たちは現に仏教世界にはいない。だからあなたが言うように物語と
表現されても当然の感覚のように感じられる僕を含めたみんながいることは
確かなのだと思いますよ。
仏教は仏陀が生まれる以前から存在したのです。 仏陀は特別難しい教えを説いたわけではないのです。 正しいものを残し悪いとされるのを排し、仏陀自身古の道の偉人達を褒め称えています。 そのような人間の生き方を実践しよと教えているだけです。 現世で仏陀の教えに感動して実践しようとするのは正しい事とは思います。 実践しているのなら仏教世界にいる事になります。 私は仏教世界にはいません。 酒好きで土曜と日曜は酒を飲むからです。 今も飲みながら書いてますw
>>31 >>私は仏教世界にはいません。
>>酒好きで土曜と日曜は酒を飲むからです。
>>今も飲みながら書いてますw
そうですかw でもですね、酒を飲むなと強制をしているわけではないように
思いますね。戒律ですか? 確かに戒律のお経はたくさんありますが・・・。
あなたは仏教世界に一回もいたことがないとお思いですか?そう思うなら謙虚であると思いますが、
その点では傲慢な僕は、仏教世界に一回もいたことがないとは思っていません。
むしろ、遠い遠い生まれる前の過去にいたように思うのです。懐かしいという気持ちが
あなたにはありますか?それはどのような懐かしさであっても、仏教世界とは無関係では
ないように思うのです。確信はありませんが・・・。その懐かしさによって
さっきの場合で言う行の観察が出来ればいいな〜と考えている面もあります。
正しく生きよ! これだけですよ、ゴータマの教えは。 挙動のひとつひとつ、「正しいのか?」と自覚しながら生きるのは簡単でもあり難しくもあり。 ちなみに正しい、悪いという判断は今の時代なりで構わないと思います。 独特の価値観で一般的には悪いというものを正しい〜と思うことこそ悪いのです。 一般というものを大事に捉えて、一般的に正しいか?悪いか?で判断して十分だと思います。 仏陀は普通の人だったろうと思います。 普通、一般の正しいものを実践して、普通、一般に悪いものを退けた人だったろうと思います。
>>33 あなたが仏教にご縁があることを願います。
仏陀は「目覚めた人」ですものねー。 神秘的な世界、精神的な世界、幻想的な世界の真理ではなく、夢から覚めた人の真理がそこにあると。 ならば普通の人に必要な、普通にあるべき姿を体現すれば良いだけ、かもしれませんね。
37 :
神も仏も名無しさん :2013/07/08(月) 00:05:07.07 ID:d6bxw2Nn
>>14 バラモン教に対する皮肉とかイヤミの逸話じゃねーのアレの本音は?(笑)
手かざしインチキ教の一在家が通仏教的に謝意ってのもなwwwwww
>>37 学究的には、仏教の優位性を示すため、と分析するし、
逸話の誕生時点では、まさに、それが意図されていただろう。
が、伝承の経緯(歴史)の上で、そうした意図は表には出ない(・・・教え継がれない)し、
寧ろ、後世の我等が仏法に触れ得るのは、「あの時梵天が請うてくれたから」だと継承されてゆく。
A(優越性形成)・B(仏法流通のきっかけ)二つの要素を最初から併せ持ってはいても、
Aは決して表立って言われたりはしない。寧ろ、秘され続けるだろう。
そうして、Bのみが残る。
ここで、「あの逸話の意味は本当はAであった。Bは間違い」と考えるなら顛倒だし、
「あの逸話にAのような要素はない」と言いきってしまうのも、現代人の立ち位置としては少々キツイ。
仏教史としてAを加味し、信心の上でBを切り捨てない、ようにあるべきと思うよ。
だから、Bを言ったからといって、盲目な狂信者と断ずるのはどうかと思うよ。
在家が云々とは関係ナシにね。
37は、梵天勧請に唯一つの意味、すなわちAしか見ず、Bをばっさり切り捨ててるわけだが、
そういうのは如何なもんかな・・とw
やだマトモな人がいる怖い
40 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/07/08(月) 01:38:57.98 ID:9+OzlgqM
ブッダという概念の源流は仙人であり、古来より超人的イメージとして継承されている。 釈尊個人の伝承が、数多の仙人と同様に脚色されただけの話であり、 後付けの理屈は全て屁理屈でしか無い。 (^。^)ねぇ、これマトモっぽいかな?どう?どう?(笑)
41 :
神も仏も名無しさん :2013/07/08(月) 01:52:29.32 ID:Pbb5HMqz
>>39 新味のねえ活字ダラダラならべ腐りやがって(笑)
いいからオレの玩具一在家連れてこいよwwww
42 :
神も仏も名無しさん :2013/07/08(月) 01:55:54.75 ID:Pbb5HMqz
・光明赫炎(こうみょうかくえん、経集部七の71ページ) ・智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことどとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ(真宗聖典479ページ) 釈尊の光明と弥陀の光明はどちらも素晴らしいのですが、赤々と輝いているのが 釈尊の光明であり、真っ赤な太陽の所から出る光明でしょうね。 弥陀の光明は、十二光と言われるように多種多様であります。その内の一つに智慧の光という つまり智慧光というのがあります。十二光の内の一つの光と、釈尊の光明である 光明赫炎とはどう関係していくのでしょうか? >>不来亦不出(レグルス文庫、中論(上)の82ページ参照) 来ることもなく出ることもないということであるが、それがブッダであると 言うのだ。しかし白道の譬えでは、来たれ、行けという二つの命令が出て・来る。 つまり白道の譬えは娑婆を求道者が出るとき行けと釈尊が言うのだが、 そしてそれから西の方から来たれという弥陀の声が聞こえてくるのである。 この菩薩(求道者)は娑婆の様々な貪りや瞋りに対して、けっして躓くことなく 一心に弥陀浄土の方へと歩みを深めていくのだが、釈尊のいるところにあった真っ赤な情熱は見えなくなり 不可思議な智慧光に誘引される場面が想定されるだろう。
45 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) :2013/07/11(木) 19:19:44.85 ID:4kleB5pZ BE:1916192047-2BP(333)
>>43 ノスタルジアさん、科学を敵視する宗教はすべて邪教です。
科学との融合を計るのが、現代の宗教家の仕事でしょう?
46 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) :2013/07/11(木) 19:35:55.96 ID:4kleB5pZ BE:1231838036-2BP(333)
ぼくはね。 大乗仏教の経典に書いてある、阿羅漢が八万人集まったとかは、 嘘ではないと思ってるんだよ。 インドで仏教が国教になった結果、それくらいの数のインド人が釈尊の教えを 理解したのだと思う。 で、釈尊の教えをふまえた上で、そういう大勢の阿羅漢の出てくる経典は、 書かれたのだと考えているのだ。
> 科学を敵視する宗教はすべて邪教です > 科学との融合を計るのが、現代の宗教家の仕事でしょう? 例えば 「 オウム真理教は、宗教と科学との融合を計って サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動を行ったのだ 」 と批判する人も、いるかもしれない
48 :
神も仏も名無しさん :2013/07/14(日) 22:32:31.67 ID:SEJAD/On
DNAが同じである一卵性双生児でも 性格は似てない。これは霊魂がある証拠。 とか言ってるバカインチキ寝言じじいの孫いる?(笑)
いつの間にかキチガイスレになってたな もう終わりだな、このスレ
50 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/07/15(月) 15:30:34.72 ID:owl62m7Z
元々、仏教を素朴実在論扱いするような基地外とか経典マンセーとかしか居なかったよーな?(笑) (^。^)マトモな奴とか見た事無い。(笑)
51 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) :2013/07/15(月) 16:19:47.79 ID:20jFZYpj BE:4927349489-2BP(427)
きみたち、 ぼくがスレ立てしてから、急に黙るのやめなさい。 ものすごく落胆している。
52 :
だいおう :2013/07/15(月) 19:00:27.19 ID:HBQo20Y0
ショーきょーちゃん、まともなこともいうんだね。
54 :
神も仏も名無しさん :2013/07/15(月) 20:37:44.22 ID:PUTLKqTX
1人生において寿命まで遊んで暮らせる金が手に入る。 2今の生どころか輪廻で送る全部の生での幸せ生活保証付き。 どっちを選ぶ? 次回の生、そのまた次回の生 ずーーーっとどんな生き物に 生まれようと一生涯幸せ保証付きなんだから大半は2番を選ぶだろうな。
>>45 >>ノスタルジアさん、科学を敵視する宗教はすべて邪教です。
>>科学との融合を計るのが、現代の宗教家の仕事でしょう?
あなたの言う科学は機械をつくる科学の事でしょうか? もしそうなら
その科学は悪だと思いますよ。鉱物にも命がある。もし科学というのなら、
あくまで異教にならない程度に咀嚼して、悪ではない方向性、善の方向性を
探るしかないですね。僕はこれは難しい事であると思いますよ。
まーた曹洞宗がやらかしたな。竹島上陸謝罪の僧侶といい、大丈夫か?最近の曹洞宗は ============================================== 曹洞宗の名刹で年下僧侶を暴行 岩手、容疑の2人逮捕 2013.7.17 20:36 岩手県警水沢署は17日、同県奥州市水沢区黒石町の曹洞宗正法寺で、 共同で修行生活をしていた年下の男性僧侶に暴行を加えてけがを負わせたとして、 傷害容疑で、いずれも僧侶の大松泰寿容疑者(23)と村田浩逸容疑者(27)を逮捕した。 正法寺は全国屈指の曹洞宗の名刹で、県内外から集まった十数人の僧侶が修行している。 正法寺の住職は「人間の生き方を考え、基本に立ち返り、切磋琢磨して修行に臨んでほしい」と話した。 大松容疑者の逮捕容疑は7月11〜12日ごろ、寺院の部屋で男性僧侶(21)をスプレー缶で殴り、 頭を切るなど約1週間のけがを負わせた疑い。 村田容疑者は昨年9月21日、寺院内で同じ男性僧侶を蹴って、右手首骨折のけがを負わせた疑い。 同署によると、2人は男性僧侶の態度が気にくわなかったという趣旨の説明をしているという。 男性僧侶が同署に届け発覚した。
57 :
神も仏も名無しさん :2013/07/17(水) 23:57:52.53 ID:ZZzZlWwe
>>55 なんだか、キリスト教原理主義者みたいですね。
科学は悪?
誰が善悪を決めるんですか? 神ですか? すでに入滅した釈迦ですか?
その誰が決めたかもわからない決定に、人類が従わなければいけない理由はなんですか?
仏教って、そんな偏狭な教えなんですか?
釈迦にとって重要だったのは人間の生き方、人間としていかに生きるのが望ましいかであって、
科学の善悪などではなかったと思いますがね。
どの時代であっても人間は常に自らの生に迷い苦しむものでしょう。
それと科学の善悪に何の関係があるのですか?
科学は人類の道具にすぎませんよ。
仏教は科学的です。 というか科学は仏教に含まれます。 構造的に相対立するものではありません。
仏教の縁起説-因果論は、科学が対象を客観的に観察してその過程としての原因-結果を 理論的に導き出す方法と類似しています。 仏教と科学の違いはその対象の範囲だけです。 科学:人間が認識できるモノだけ。(ただし直接認識だけではなく計測機器、観測機器を通しての認識も含む) 仏教:人間が認識できるモノはもちろん、宇宙にありうる全てのモノ。
>>誰が善悪を決めるんですか? 僕です。僕の自分の善を信じているという事と、悪を除け者にするという事、 それを見失ったらだめです。 >>神ですか? すでに入滅した釈迦ですか? 真の主体である、弥勒仏です。無量にいる客体としての弥勒仏とは、戒律を守る者です。 全然違います。 神は輪廻する者でしょ? 善神と悪神がいるんですが、 まあ神については別に信じていないので、よくわかりません・・・。 >>その誰が決めたかもわからない決定に、人類が従わなければいけない理由はなんですか? あなたが、誰も信じる者がいないからそうなるのです現実にね・・・。 >>仏教って、そんな偏狭な教えなんですか? 僕の知る範囲では、めっちゃ広い教えですよ〜。 >>釈迦にとって重要だったのは人間の生き方、人間としていかに生きるのが望ましいかであって、 >>科学の善悪などではなかったと思いますがね。 釈尊の時代は終わったでしょう? 終わった事にただ手を伸ばしてもつかめるわけがないですよ。 むしろ弥勒の世ですね。でも、禁欲出来るかな? もうそれしかないのですが・・・。 禁欲って何でしょう? それはあなた方同士が、仲間と話し合って深めていくものです。 >>どの時代であっても人間は常に自らの生に迷い苦しむものでしょう。 そうかな? それだけかな? >>それと科学の善悪に何の関係があるのですか? 仏教は広いから、教えれない・・・。 ただ、そのような事をレスした僕の今いるスレッドがあるので、どうぞ ご覧になってください。僕の今の境地がリアルタイムで分かります・・・。 「I」と名乗っています。
大事な人 近くにいてほしい人 違う人
63 :
神も仏も名無しさん :2013/07/18(木) 09:39:44.81 ID:ncFJPjBQ
>>54 >次回の生、そのまた次回の生 ずーーーっとどんな生き物に
>生まれようと一生涯幸せ保証付きなんだから大半は2番を選ぶだろうな。
そうですねぇ、私は「保障付き」ってのはあまり信用しない。
つうか、そんなもん信用してたら乱世においては生きて逝けんぜよw
君達はなんでも信用しちまうんだね?
信用してはいかんぜよw
どうしてか?
それは私が書くよりも、まず自分に問いてみしゃんしゃれ。
今日一日、そのことだけ考えればよろし。
暁は、その後に訪れるであらう。
64 :
神も仏も名無しさん :2013/07/18(木) 11:07:01.45 ID:WUut4wXp
と、言うか「輪廻転生」って真面目に信じてんの。無いと言うか意味が違うと思うけどなあ。
>>64 時代や地域や文化によって意味が変わる
もし「本来はこういう意味」と言いたいなら、
どの地点時点での意味なのか、何故それが本来と言えるのか、を証拠に基づいて示さねばならない
りそーはね
66 :
神も仏も名無しさん :2013/07/18(木) 12:04:29.96 ID:ncFJPjBQ
>>64 >無いと言うか意味が違うと思うけどなあ。
ええ、そのとおりですやん。
私は「信じる」という意味は、たしか小学生の頃に知ったかと思います。
その思いを何の疑うこともなく人生を歩んでまいりました。
ただ漠然とです。
しかし、人生半ばにして、こんなあやふやな概念はないですね?
それを知ったとき、わたしは「信じる」ということがほとんど崩壊しちまったのです。
今は信じることは何もないのでつ。
それは「信じる」ことの本意を知ってしまったからです。
※心の奥底を言語化することは難しい。
しかし言語化することでしか、人の心に感動を与えることはないでせう。
ゴータマの活動時期を本来とするなら、輪廻転生の本来の意味は道徳的意味です。 物理的に固定的に必ず輪廻転生はある〜とはゴータマはじめ当時の修行僧は誰も信じていなかったと思いますよ。 当時のインドの一般民衆はジャイナ教や他の信仰含めて広く輪廻転生を信じていました。 仏教は一般民衆に教義を広めるために道徳的意味で輪廻転生を認めただけです。 善因善果、悪因悪果で良い事をしなさい、悪い事をしては駄目です〜と普通の道徳を説いただけでしょう。 当時の修行僧の目的は輪廻転生から抜け出す事を志向していたはずです。
>>54 では1)は当然却下、なぜなら金がある事が人生でもっとも素晴らしい事とは思わないからです。
当時、金をふんだんに持っていたインド最初の統一王チャンドラグプタですら、晩年はジャイナ教僧侶として
裸ひとつで南インドを彷徨い、人知れず亡くなる道を選んでいます。
2)も当然却下、なぜなら
>>67 の意味で輪廻転生を前提にする事自体ありえないからです。
1)2)以外のところに選ぶべき道があります。
>>67 それは人(ゴータマ)の教えであって、仏の教えではないから仏教以前
ゴータマ死ぬまでは仏教という宗教は生まれてないっしょ
萌芽はあれど
>>69 確かに「仏教」は仏陀の死後に生まれたものでしょう。
今、一般に仏教とは、1)仏陀の説いた教え。2)仏陀になる教え。の2つの意味があります。
しかし、仏陀は一般に悪い事をせずに、良い事をすすんですぐにせよ〜と説いた人でした。
それは、仏陀が生まれる以前からあった教えでもあります。
ある意味、仏教は仏陀が生まれるより前から、遥か古くからあったとも言えるわけです。
ある意味、インダス文明から幸福の科学はあったわけだ
悪い事をするより何もしない方が勝っている〜と仏陀は仰った。 幸福の科学なんてのにハマるより何もせずにいる方が勝っている〜と言う事。
なるほど ならば仏教なんて科学的(=科学でない)なものをやっていないで、真面目に科学をやれ
仏教も科学も悪いものではありませんが、似非宗教にハマるのは悪い事でしょう。 仏教にハマってもOK、科学にハマってもOK、一般に悪いと評価されるものにハマるのはNGと言う事です。 評価するのは世間一般の人々です。自分ではありません。世間一般が広く良い事であるOKと認めている事だけしろ〜と言うこと。
いやいや仏教にハマるのも科学にすがるのもダメ なぜなら、法は正しく、その正しさを仏や科学的なものに保証してもらう必要はないから
仏教と科学は相対立する関係ではありませんが、心の世界を説く宗教と唯物的な科学は天秤の左右に位置しているとも言えます。 西欧では天秤のバランスを取るために広くキリスト教が宗教として広まっていますが、形だけの近代化を進めた日本は唯物主義に傾く バランスの悪い形になっています。日本人の宗教を持たない形がそれです。葬式仏教で仏教は葬式の時の坊主の読経〜という 程度で何も知ろうとしていません。日本人は古くから仏教、神道を信仰する民族であったはずなのに、現代日本人はそれを捨て去って 科学発展一辺倒の唯物主義に陥っています。これは不幸な事だと思います。
>なぜなら、法は正しく、その正しさを仏や科学的なものに保証してもらう必要はないから 法が正しいものか?そもそも法と思っているものが似非法で正しくないものなのか? それが、世の中の一般の広く遍く良い事として認められるものか否か?が基準になるのです。 自分ひとりで正しい事〜と妄信して「これこそが法だ」と信じて疑わないのは不幸な事です。 自分の中にある道徳観が世間一般とかけ離れたものであれば、それはもはや道徳とは言えません。
般若心経なんか顕著だが「菩薩がこの正しい法を語った」としていて、 読者が「ああ菩薩が言うなら正しいんだな」とミスリードするように誘導していて、 一見、法が菩薩の権威を借りて正しさを保証してもらっているように見える しかし法が正しいという前提に立つならば、菩薩が正しい法の権威を借りているだけのことになる 人に必要なのは正しい法を知ることであり、菩薩や舍利子や仏教などという方便ではない
>>76 科学は唯物的なものだけではないよ
哲学はまさに科学的であるから
>>79 今の先端科学は唯物論が崩壊しています。
もはや、原子レベルで全てが説明できる〜なんて思っている科学者はいないでしょう。
そういう意味では先端科学は仏教の世界に近づきつつあるとも言えます。
一神教のキリスト教等の宗教には近づけないでしょうが。
>>77 法を信じられないなら自を信じるべし
自も法も信じられないのに、世間一般におもねるべきなどという思想は苦を生むだけで、法を信じないなら苦は消えない
そんな思想が似非法でなくて何なのか
>>80 科学は法に従い唯物と観念の間を行き来して発展しているだけ
その正しさによる権威を仏教が借りるのは盗人に等しい
>>81 法=自で同じ事ですが、法(自)だけを頼るべきですが、一部の似非宗教にハマっている人達が法を信じる〜
といって闇雲に殺人を犯したり、詐欺まがいの事を犯したり〜というのは救われません。
あくまで、正しい法〜(当然これは世間一般に非難されるものではなく、良い事と認められている事になります)を前提にした
場合の話です。似非宗教から出発する事自体が誤りです。似非宗教に正しい法などありません。
似非宗教から出発して似非に染まった自分を信じて、似非の法を信じて何かを犯すよりは何もしない方が勝っている〜と言うこと。
法は人間のあるべき道、あるべき姿、を言っている言葉です。 国全体がこの道から外れる事も起こりえます。 第二次大戦中の日本なんかは完璧に国がこの道から外れていたと言えるでしょう。 では、この時代に「世間一般に非難されるものではなく、良い事と認められている事」に従うのが法か?と問われれば違うと答えなければなりません。 あくまで「人間のあるべき道、あるべき姿」に沿っているか?が第一義で、国が全体で間違った方を向いているのではコレに対抗する事になります。
>>84 なるほど法の意味が食い違っていた模様
貴方のいう法は、私に言わせれば教えであって、法そのものではなく法の現れです
全て宗教には正しい法があり、それを教えとして示すさいに間違いが起こるため、宗教の教えは極端に言えば全て間違いを含む
法を権威付けに利用するのがその理由で、法を非常にシンプルに諦らかにしている仏教ですら、仏陀を崇めると言う誤りをおかす
ではどうすれば良いか
「おのが信仰を捨てよ」
これは仏教だから正しいのでなく、仏陀が言ったとされるから正しいのではなく、仏法によるから正しいのではなく、
ただ単に法に則り正しい
>>64 です。コメント頂いた方、ありがとうございます。
>>65 さん、>時代や地域や文化によって意味が変わる
時代性はともかく、カーストなど理不尽な境遇に悩む人へ希望を与える為‥とか、
愛する人に先立たれた遺族への慰め‥とか、そう思ったりもするけど…。
現代風には、施餓鬼供養の名で金集めの一環で‥とか。
人間、死んだら誰でも無に帰す。もう、そうとしか思えない訳なんですわ。
だから「輪廻転生」とは生きてる間の事なんでしょう。
まだ帰宅前なんで、しっかり読ましてもろてから自分の考えを書きますんで、また意見してください。宜しくお願いします。
取り急ぎお礼まで。
>>85 極めて禅(南宗禅)的解釈ですね。
禅問答というと門外漢からは何を言っているのか分からない〜という風に思われています。
仏陀は禅問答的に分からない事を説いた人ではなかったと思いますよ。
法は定理、法則であり、何の定理、法則かと言えば、人間のあるべき道、あるべき姿についての定理、法則です。
これは、自灯明法灯明の言葉にあるように、自らを頼れば解決する問題でもあります。
信仰を捨てよ〜といって自らの宗派を広めた禅宗もあるでしょうが、そこに集まる人々はその宗派を信仰して集まるわけです。
要は、正しく生きれば良いだけです。執着せず厭わず淡々と死ぬまで正しく生きる。コレだけです。
>>87 あるべき道、あるべき姿は教えであり、一定の共通点はあれど時代地域社会によってかわります
道や姿を求める法を自らのものとする事、知恵が重要なのであって、固定化された道や姿はいりまへん
禅については、ドグマを拒否するというドグマに陥ったということですな
なんも難しいことではなく、現代で言えば
「義務教育は知識を教えるのではなく考え方を教えるのだ」というだけのこと
この文言を暗記するか理解するかの差はしかし大きい
>>88 まあ、あなたの「おのが信仰を捨てよ」というのは、まさにあなたの言う「ドグマを拒否するというドグマに陥った」ということです。
ひとつ、あなたの「法とは〜」を聞かせていただけませんか?
説明に「法」を使うの駄目です。法の説明をするのに「法」を使うのはルール違反です。
90 :
神も仏も名無しさん :2013/07/18(木) 22:25:09.83 ID:xjRVK3et
91 :
神も仏も名無しさん :2013/07/18(木) 22:32:10.99 ID:5wuMkbCM
言葉で表現できないけど、正しく生きる。 これはなんとなく理解できる。 人類にあたりまえに備わった何か、共同体に適応する過程に獲得した何かなのかもしれない。 その何かがあると確信した(悟った)とき、人は自由な境地を生きれるのかもしれない。 明文化は分かりやすいが、悪魔が潜みやすい。 善意を、偽善、愛を欲望と言い換えて人を誘惑する。 だから、キリスト教文化では魔女狩りなどという愚行が行われたのだろう。 だから、あえて明文化しない(言葉にしない)という禅のアプローチは間違っていないと思う。
>>89 その通り
なぜなら、おのが信仰を捨てるのは一つの手段であるが、クソ難しい上に最終目的にはなりえないから
悟りとか開いてみて完全に信仰やら観念を棄てればそのまま目的にも向かえようが、
実際は完全にゃ棄てられないのが普通だから、ある程度捨てたら最終目的チャレンジしたらいいんじゃね的な
最終目的は、自らの目的にそう法の組み立て
法とは、ねえ
法に則った答えは友人師匠に貰ったんで自分で消化できるまでヒミツ
俺なりの法に則らない答えでいいなら、今までの話からは随分ぶっ飛ぶが、
「思考効率を最大最適化するための脳のシナプス連絡強化結果」
>>92 どうもありがとうございます。
もうひとつ、ついでに教えていただければ幸いです。
>あるべき道、あるべき姿は教えであり、一定の共通点はあれど時代地域社会によってかわります
と変化するのをネガティブに捉えているように思えます。一方次の、
>道や姿を求める法を自らのものとする事、知恵が重要なのであって、固定化された道や姿はいりまへん
固定化された考えを拒否して変化するのをポジティブに捉えているように思えます。
これは、どちらが本意なのですか?
ちなみに、自灯明法灯明は、「自らをよりどころとし、他人をよりどころとせず、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」 と仏陀が説いたものです。これはまさにあなたの言う「信仰を捨てよ〜」そのものではありませんか? 法とは人間のあるべき道、あるべき姿についての定理、法則ですが、ここをおさえる事が重要だとは思います。 だから法自体は善も悪もなく、形ないものですが、人間として正しい行動をとり、正しく生きる時にそこに法が働いている事になります。
法について、流石に仏教関係無さすぎた
仏教関係で言えば、色即是空 空即是色、なんかは分かりやすい法
>>93 現象としては、ただ移ろいゆくのみ
それを人間が固定化して捉えればいずれ誤りになるが、人間は固定化した姿しか捉えられない
これは人間が矛盾的な自己同一性を持っているせい……なんて言い方をするのはあんま好きでないので
ただ簡単に、変わることを寂しいと感じることもあるし、変わることを楽しく感じることもあるさ
それは当たり前の心の動きだ
人間だもの
>>94 文字的には同意
ただ、「あるべき姿」「人としての正しい行動」がずれているような?
極端な例えですが
殺人を養成する組織で生まれ育った人間がいるなら、彼のあるべき姿は外界の敵を効率良く殺すことで、
これは法を知っていても知らなくても何一つ変わりません
この「あるべき姿」には、貴方は同意しないのではないかなと
いわゆる「人として正しい行動」は世間が決めることですが、
個人の「世間」は、他人の主観から読み取ったものの集合でしかないため、
環境次第では、どうしようもない場合も多い
>>94 自灯明法灯明は500年以上後にポンと出てきたから確実に創作でしょ
>>96 環境によって左右される法は法ではありません。
定理、法則が環境が変わったからと言って変わりますか?
それで変わらざるを得ないのであれば、それは元から法ではないのです。
人間の真理〜というものはどんな環境でも普遍的で変わらないものです。
環境でころころ変わらざるをえない真理なんてものは似非真理です。
>>98 だから「あるべき姿」は法でなく、現れだと言ってるんだけども
もし「あるべき姿」が法であれば、殺人者養成機関で生まれ育った人間も、
外界を知らずとも通常の道徳心を得なくてはならないが、無理っしょ
狼少女は人間世界に戻したら直ぐに死んじまったよ
>>100 不幸な環境だとは思います。
しかし、極端な不幸な環境においても、法は変わりません。
単に「あるべき姿」というのではなく、「人間のあるべき姿についての定理、法則」=「人間の真理」=法でしょう。
この人間の真理から外れた環境に生れ落ち、育ち、成長した人間は不幸ではあります。
そのような人間の心の底に法が働く事を願います。
しかし、環境が悪いからそのような人間は殺人を犯しても当然〜とは思いません。
哀れに思うだけです。狼少女も哀れです。慈悲の心で見守るよりありません。
102 :
神も仏も名無しさん :2013/07/19(金) 11:35:48.08 ID:gcIL3qZ7
ランタン飛ばそう。
103 :
神も仏も名無しさん :2013/07/20(土) 20:59:12.87 ID:xqVHPIrN
人間の法 オオカミ少女の法 オオカミの法 わしの法 人間の法からほんのちょっとずれてしまった下の三個はやっぱり哀れなんだろうか? あるべき姿というのは信仰なのでは?
法とは唯一不変にして不偏にして普遍 そして真実の法は一般性が高すぎる故に不便
人間に生まれて人間の法が働かない状態は哀れでしょう。 仏教は宗教ではありますが、ゴータマが何を悩んで、何を得て、どのように説いたかを見れば 宗教というより、人間の生きる指針を指してくれているように思えます。 「法」は仏陀が悟った内容です。人間としてあるべき姿の法則、定理〜と言えば言葉上簡単なようですが この意味は深く、なかなか分かりません。何故、自分は生きているのか?皆、分からない。 仏陀が悟った当時いた高名な哲学者全員誰も分からなかった。常住永遠の我があるに違いない、とそれに 固執している。だから駄目なんだと、気がついたのが仏陀です。生きている人間の根っこにある妄執が 人間を動かし(業)、迷いの生存(輪廻)におとしめている。
法事行って寺で坊さん捕まえて30分問答したお 意外に良く話してくれるもんだな
107 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) :2013/07/21(日) 09:59:04.49 ID:B1R+7nyI BE:1642450346-2BP(427)
>>59 仏教の因果は、科学以前の論理学なので、まったく現実には役に立ちません。
科学法則を仏教の因果では説明できません。
>>100 狼少女は、インド人の親の捏造だったと、親が死ぬ前に告白しました。
狼少女は、オカルトの疑似科学です。
108 :
神も仏も名無しさん :2013/07/21(日) 10:04:40.76 ID:pWdazrgj
>>107 論理学が現実の役に立たないとか……
立てる能力無いだけだろ
110 :
神も仏も名無しさん :2013/07/21(日) 11:58:52.20 ID:pWdazrgj
ヒッグス粒子が、まだ発見されて居ないとき、 計算上では、既にあると確信されていた。 だから、莫大な資金を出資して、あの巨大な実験施設をつくったのだ。 結果は図星だった。
ヒッグス粒子 //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B9%E7%B2%92%E5%AD%90 2013年3月14日にCERNは、 新たな粒子はヒッグス粒子である事を強く示唆していると発表した。 ただし、 このヒッグス粒子が標準模型で予測されているヒッグス粒子か、 それとも最大で5種類が予言されているヒッグス粒子のうち 最も軽いものかをチェックするにはまだデータが不足していると説明している。
んで、そのヒッグス粒子と仏教と何の関係があるの? ヒッグス粒子を知れば人間として悩みなく生きれるの?
とりあえず、ヒッグス粒子が存在するかしないかは悩まないで済むな
≪胸からお腹まで届きそうな、長い髭の老人が、 或る人に「夜、寝るとき、その髭はどうされてるんですか?」と尋ねられ、 それ以来眠れなくなった≫ という寓話があったと思うが、 もしかしたら、私たちの日常にも、大きく影響している粒子なのかもしれない。 またもしかしたら、 意志によって、思考によって、想いによって、そこへ干渉することもできるのかもしれない。 が、もし、干渉し得ないとしたら、 我々の日常への影響が、政策や経済、或いは光化学スモックや雨、雪、気温、等々といった 大きなものではなかったとき、(―というか、影響の回避手段があるのかないのか?」ということでもあるが―)、 ヒッグス粒子のことを考えるのは、上記老人の髭やムカデの歩みのようなもんじゃなかろうか。 現に、爺ちゃん婆ちゃんたちは、ヒッグス粒子のヒの字も知らなかっただろうけど、 立派に生きてこれているわけで、 ぶっちゃけ、別に知らなくても何の問題もない余分な知識であることに変わりはないわな・・・。
115 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) :2013/08/05(月) 16:00:29.71 ID:riVJEgl9 BE:3832382887-2BP(427)
あげるぜ。 おまえら、ふざくんな。 おれがスレ立ててから、急にレスするのやめるなよ。
116 :
神も仏も名無しさん :2013/08/06(火) 22:17:49.17 ID:TSbM6xAR
まあおちつきんさい みんな規制にひっかかったんじゃないか? わしも一時期これんかったし ちなみにわしらにとって余分なものも未来の子には必要なんだと思う そのころには普通で大事過ぎて価値さえ気にしてないだろうけど
>>535 なんで、「国宝」が、建造物だけなの?
建造物以外は価値がないの?
つか、そもそも、「国宝」という括り自体が、百年に満たない新規基準なわけだが・・・w
「国(おかみ)」のお墨付きがないと歩けない感性の方が、どうかしてると思うけど・・。
>>117 すまんw 誤爆 m(_ _)m
>>116 過疎ってる理由はそこじゃないでしょw
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/749 749 神も仏も名無しさん sage New! 2013/06/25(火) 19:19:36.07 ID:rxPO/G89
>> 748
建ってない。
また、建てるスキルを持つ者もいない。
また、常連が(ネタ切れ&ループ回避で)大きく撤退、
質問箱の如く単発質疑がなされる形、
及び、(常連撤退による)隔離対象者の出没も激減し、
役目を終えたのでは?という見方が大勢を占めるため。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/751 751 神も仏も名無しさん sage New! 2013/06/27(木) 11:48:58.95 ID:85hduT5T
>> 750
・メンバーが同じだから。(→話題も、自然、似通った所に着地する)
新規参加者が居ても、
・仏教に関して外部の者が抱く疑問・興味は、所詮似通ったものでしかないから。
新規参加者が居ても、基礎学習・基礎知識の点では
・仏教に触れよう、学ぼうとする者の興味も、同様に似通ったものになりがちだから。
・仏教に対する批判(≒仏教が抱える諸問題)は、それほど多岐にわたらず、寧ろ特徴的な幾つかに収斂するから。
或いはまた、
・幾人かの常連の発言が、それぞれの立場由来の範囲内の同じことの繰り返しであり、
それに対するリアクションもまた、(まるで化学反応の如くw)同じ反応になるから。
といったものが、ループの主な原因と推測できる。
#4 魔界潜入!怪奇心霊(秘)ファイル01 //www.youtube.com/watch?v=L9kLI8kEWqk _ _ _ 20120622ニコ生北野誠 //www.youtube.com/watch?v=5QMWAfCvPYs ↑ 49分37秒以降の、ところから 『 青い家の妊婦の幽霊の写真 』 _ _ _ スパモク!!初出し世界の恐怖映像 超絶叫200%最強版! //v.youku.com/v_show/id_XMzQwMjAxMjky.html ↑ 45分以降の、ところから 『 深夜の廃病院 』
120 :
神も仏も名無しさん :2013/08/07(水) 20:43:47.38 ID:eflOVgvR
>>118 そか〜 まあなあ〜
たまに覗いたとき、ループの中におもしろいものが不思議と出てて
いつもお世話になってたんだけどな
121 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/07(水) 20:59:37.78 ID:YuWu1SNt
要望が有れば、俺が荒らしてやりますよっと。(笑)
122 :
神も仏も名無しさん :2013/08/07(水) 22:19:36.87 ID:eflOVgvR
りんpちぇ! (^^ゞ LV.1よりおねがいします
123 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/08(木) 00:12:17.89 ID:sVe+60Kg
>122 日本語でおK
tes
125 :
122 :2013/08/08(木) 20:04:32.32 ID:YEG0/V7K
失礼、以下日本語交じりで リンポチェ師匠! (意味は解らんけどあの方が言われてたのでw) お手柔らかにお願いします では外道の皆様、お帰りなさい ヽ(・ω・)ノ
126 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/08(木) 22:53:01.09 ID:sVe+60Kg
>125 リンポチェ、といえば、オウムに金貰って日本で講演してた爺さんだな。 つまり、君はオウム信者関係の人だね? お手柔らかに、とは試合や商談などで相手に対する挑発だろう。 そして外道とは、おそらく私などオウムを否定している者の事か。 お帰りなさい、とは、よく判らないが前の文脈から否定的な意味だろう。 意訳すると 「オウム万歳 三下、相手してやんよ、 腐れ外道は地獄に帰れや!」 だな?
結局、南無阿弥陀仏を暇なく唱えるって、自我の入る余地もなく、暇なく唱えて、 三昧の状態に導こうって手法だよね。 茶道も能もそうだけど、もともと悟るための手法だよね。
128 :
神も仏も名無しさん :2013/08/09(金) 18:36:06.88 ID:YVMflLF9
茶道が悟るための手法? それは誰が言ったん? あと南無阿弥陀仏連続で唱えておかしくなってる状態は悟りとは別の何かなんじゃない?
129 :
神も仏も名無しさん :2013/08/09(金) 18:42:37.05 ID:fEM3Wglo
>>127 「浄土に行きたい」という煩悩まみれだから、悟りはない。
130 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) :2013/08/09(金) 20:01:00.84 ID:AubvMQXk BE:5543267999-2BP(427)
6800円も払って、倶舎論の解説本を買ったけどさ。 まだ全然、読んでないけど、「縁起だ、縁起」といってるやつらの根拠は、 倶舎論にあるんだな?
131 :
ブーメランに釣られる朝型人間 :2013/08/09(金) 20:30:07.56 ID:TkK5zz6x
132 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/09(金) 20:54:36.34 ID:XKgQOY/4
>127 道とは修養の法を指す。 故に仏道、仙道、茶道、武道などという。 悟心は一般には道に目覚める事。 仏家の言う悟心の転用に過ぎず。 >130 倶舎とか、読んだ事無いが、唯識の方だろ? 縁起、縁起って言ってんのは多分、中観派系だよ。 まぁ、仏教は総じて縁起を説くから無関係って訳じゃないが、個人的には唯識は荒唐無稽な御伽噺が多すぎて好きじゃないな。
133 :
122 :2013/08/09(金) 21:09:00.09 ID:dKYDDxch
リンポチェとはなかなかに徳の高い人だったのだね お手柔らかにとは言葉どうりだよ、下種の勘繰りかな? 外道も、人の道を外れてる、というほどの事かな。 ということでたしかに、言いたいことは 「みんなで地獄に行くぜ~」って感じかな >129 浄土(地獄?)に行ければそれでいいじゃないかい?
134 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) :2013/08/09(金) 21:44:36.80 ID:AubvMQXk BE:1026531735-2BP(427)
>>132 原始仏典には、八正道も、縁起もいっさい書いてなかったんだけど。
>>128 三昧の境地って、物事に打ち込んで、我を忘れると出て来るんだよ
それは茶道でも、念仏でも同じ。
スポーツ選手のほうが三昧の境地を大なり小なり経験してるかもしれない。
経験のない人は、物事に打ち込む = 悟り と、なかなか結びつかないでしょ。
茶道は一挙手一投足、意識することに打ち込む。
永平寺の修行もそうだよね。
顔の洗い方から、トイレの入り方まで、細かく作法が決まってる。
>>129 浄土真宗のことはあまり知らないから、下手なことは言えないんだけど、
確か、「浄土に行きたい」 じゃなくて、 「浄土に行くことは決まってる、だから安心して念仏を唱えなさい」
じゃなかった?
念仏することでどうこうするんじゃなくて、もう幸せになることは決まってるから、
ただ念仏しなさい・・・ ってことだったと思う
だから煩悩にまみれる必要もない
>>132 華道もそうだよね。
あと、能もそうだと思う。
あの足運び・・・ 歌舞伎と違って、劇ではなく、作法としての動きだと思う。
もっとも、歌舞伎だろうがドラマ俳優だろうが、物事に我を忘れて打ち込むことが、
「道」になると思う。
138 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/09(金) 23:35:06.03 ID:XKgQOY/4
>134 そう思うんなら、それでいいんじゃない? >137 それが東洋的な宗教の概念なんだけど、 最近は宗教というと「絶対者に帰属する事」だというキリスト教的な考えの方が多いみたいですね。
宮崎哲也が対談で言ってるね。 キリスト教は受動的宗教、仏教は能動的宗教。 前者は救いを受ける、後者は悟りを目指す。 しかし、浄土真宗のように念仏を唱えて、救われる事を目指すのは極めてキリスト教的である〜と。 本来の仏教は、自力で悟るものなんだね。
140 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/10(土) 00:02:19.29 ID:XKgQOY/4
浄土もあの社会情勢では一つの在り方かと思ってますが、 分かり易い感情論は受けますからね。 以前まで常駐してた文献マンセーな連中とか、飛石マンセーな連中とかも、一種の感情論だと見てました。 (^。^)撒き餌してみた♪
>>140 わかったつもりな連中よりは、文献マンセーの方が遥かにマシでしょw
精霊大王とかも、わかったつもりの生兵法過ぎて痛過ぎだろ?
総じて、禅系スレ悟りスレに常駐してる連中よりは百億倍マシだと思うよ。
商況タソは、熱血過ぎて、そういう枠とは一画引いてるとは思うけどwwwww
信仰って言葉を変えれば、「お任せ」 だよね。 完全なお任せには、自我がない。 ただありのまま。 禅も茶道も念仏も、究極的にはそこを目指してると思うんだよね。 隙間なく、常に型を守ることに意識を向けていると、そこに普段の 「自我」 の入り込む余地はない。 そうやって自我だんだん消滅していき、ただその型だけに没入していく・・・ それが三昧だよね。 念仏はそういう型に没入する効果と、深い信仰によって、すべてをお任せするっていう、 二つの自我を無くす働きがあると思う。 結局、禅も茶道も念仏も、究極的には他力だよね。 人はただ型を納めるだけ、やればいい。 没入も三昧も、自然から催されるものであって、自力で得ようとするもんじゃない。 だから浄土真宗では、「救われることを目指すのではない、すでに救われているのだ」 と、 言っているのでしょ。 念仏が自力にならないように。 自力が入ると我が強く働くから。 道元も、「只」 と言ってるでしょ。 「すでに救われている」 っていうのと、「只」 ていうのは、同じ狙いがあると思う。
143 :
139 :2013/08/10(土) 01:27:27.65 ID:+df1Yjns
>>142 同意
ただ茶道はどうなんかな
戦国末期に生まれた様式だよね
利休はたしかに禅の思想をそれに組み入れていった
だけど、美への追及が主であって
これは他力ではないと思う
もてなしを究めようとしたときに
小手先の技工では満足できなくなった
それどころかあざとくご機嫌をとってくる数寄者風情のおべっかが
逆に気に障るようになる。自分も過去そのようなもてなしを工夫していたにもかかわらず。
さりとて、そこらの小僧がこれぞもてなしと思うもてなしをしたとしても無粋に感じる
何がもてなしなのかと問い続けたとき、
様式にのっとりつつ心から流れ出る所作というものに傾倒していったのだと思う
茶道の「すでに救われている」は厳密には体に染み付いているもてなし、なのだろう
でも、仏教ののそれはもっと深奥にある、心に染み付いている何かなのだと思う
146 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/10(土) 05:43:01.71 ID:Xd49dbC3
(^。^;)え?熱血か?これでもクールなつもりなんだが。(笑) まぁ、イカが臭いのは同意だな。(笑) でもまぁ俺としては、曲がりなりにも行をしてる方の肩を持ちたいと考えてるけどね。
ただ仏弟子は仏法をならふべし。 又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず。 とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるがゆえに、 みだりに知見をおこすをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたずらに蹉過す。 この知見によりて、空華まちまちなり。 あるひは十二輪転、二十五有の境界とおもひ、三乗・五乗・有仏・無仏の見つくることなし。 この知見をならふて、仏法修行の正道とおもふべからず。 しかあるを、いまはまさしく仏印によりて、万事を放下し、 一向に坐禅するとき、迷悟情量のほとりをこえて、凡聖のみちにかかはらず、 すみやかに格外に逍遙し、大菩提を受用するなり、 かの文字の筌睇にかかはるものの、かたをならぶるにおよばんや。
>>138 >最近は宗教というと「絶対者に帰属する事」だというキリスト教的な考えの方
そうですね、カルト宗教も現在の形骸化した仏教も、そういう意味では同じ信仰といえるかもしれない。
ただ、本当のキリスト教も、仏教も、もとはそういう信仰じゃないと思うんですよね・・・。
本当の信仰ってのは、すべてを投げ出す・・・、自分のすべてをキリストなり仏様なり、投げ出してしまう・・・
投げ出すってのはどういうことかというと、たとえば、自分に不幸が起こっても、嫌なことが起こっても、
すべては仏様にお任せしているわけだから、そのまま、ありのままでいい、
ここまで自分を投げ出すことが、本当の信仰だと思うんですよね。
今の形骸化した宗教って、ご利益信仰とか、自分の不都合なことから救ってほしい・・・、っていう信仰になってますよね。
不幸から自分を救ってほしい・・っていうのは、我を守り、強く堅持してて、ぜんぜんお任せじゃないですよね。
本当の信仰ってのは信じるものにすべてを投げ出してるわけだから、不都合や不幸が起きたって、関係ない。
ただそこに信仰がある。 ・・・これが本当の信仰で、悟りに通じるものだと思うんですよね。
だから信仰には2種類あるといえますね。
自分の我を叶えるための、形骸化した信仰と、自分のすべてを投げ出す信仰・・・
現在の念仏は形骸化した信仰になってるけど、もとの教えは違うと思うんですよね。
>>143 >仏教は無我を説くけど、働きとしての我は認めているという以上に、積極的に自覚して
>頼れと説いている。→自灯明法灯明
自灯明法灯明って、我に、積極的に頼れってことじゃなくて、他人や仏典の形にとらわれず、
自分の正しい洞察に従え・・・ってことだと思う。
これをやったのが昔の大衆部だと思う。
仏典とか、釈迦の教えの形の部分に捉われちゃって、本来の教えから脱線した上座部に対して、
経典や教えの言葉に捉われるんじゃなくて、もっと本質の部分、仏典や言葉の奥の本当に言いたいこと、
それが重要なんだ、と、主張したのが大衆部だと思う。
教えの本質の部分が継承されているからこそ、道元や法然など、数々の覚者のような
偉大な人物が出てきたのでしょ。
>>145 茶道は中国(唐)が発祥じゃない?
「茶経」 というのがあるみたいだけど、
それが茶道の元だと思う。
それが臨済宗とともに伝わってきたのか、分からないけど、
千利休はむしろ、既存の茶道を、社交的に変えてしまった・・・
茶道の本質を捻じ曲げたような感じがするね。
秀吉に金箔の茶室を作らせたのも、個人的には千利休だと思う。
悟道としての茶道よりも、社交の作法としての茶道に、利休は変革したと思う。
上座部、大衆部〜 つまり、宗教の発展形態で仕方なかった側面があるんじゃないの? 上座部だけでは、信者獲得、拡大に限界がある。 出家して修行したものだけが覚れるのでは、一般の就業している一般人は永遠に覚れない事になる。 それでは信者は増やせないので大衆部が出てきて、在家でも覚れますよ〜と拡大していった。 大衆部の仏教=大乗仏教だけど、大乗非仏説というのも、この点を指摘しているのだと思う。 また大乗経典は全て偽経で作者が作者の意図で作られたもの〜というのも当然背景にあるだろう。 私は、大乗より小乗、上座部の姿勢の方がより仏教的とは思う。 大乗の念仏仏教は真の仏教ではない。 仏教は覚りの宗教〜と言う指摘は全く正しく、覚りの宗教である以上ただ他から救われるのを信じて待つ〜という姿勢とは 正反対の宗教でしょう。
我、アートマンについては実態を認めなかったが、働きとしての我は認めていた。 だから自分に頼れ=法に頼れ、と自灯明法灯明を説いた。 自分というもの(意識の中心なるもの)が永遠に続くと思うな〜という事でしょう。 全ての物は自分の所有物ではない。例え自分の体でさえも。 しかし、自分の一生は自分の一生である事実は存在する。 天上天下唯我独尊は作られたフレーズでしょうが、仏陀だけのフレーズではなく生きとし生ける者全てのフレーズ。 自分だけではなく生きとし生ける者全て天上天下唯我独尊。 その根本が自であり法であるのでそれを頼れ〜と言う事だと思います。
>>150 原型は中国にはないと思うなあ
取り入れているとは思うが、
布の使い方も、大河ドラマの前解説ではキリスト教のミサの
影響があるってさ、ちょとホントかよとはおもったけどね
当時独立商業都市であった堺はすでにポルトガル・スペインと
積極的に貿易していたし、利休のその商人の代表格
現地では見向きもされなかった高麗茶碗に美的価値を認め
日本で広めたのも彼だし、ただ中国にただおもねるはずはないと思う
起源云々は中国になるのか知らんがね
154 :
神も仏も名無しさん :2013/08/10(土) 14:07:11.53 ID:vMj9RbgO
>>135 経験とさらっと書いてあるけど、経験とは何を指していっている?
仏教は走ったりスポーツをするのを推進していないと思うんだけど、
それは悟りの妨げになるからだよね?
あと、本当にスポーツで悟れるんなら坊さんはみんな庭で野球してると思う
>>154 発心即究竟を言っているだけじゃないの?
156 :
神も仏も名無しさん :2013/08/10(土) 15:38:59.97 ID:ZptLVtnG
>>149 「無我」の定義を理解していないから、墓穴を掘るわけ。
無我は無常をもって理解するべきね、
>>149 >>151 根本分裂において分かれた上座部は現在に続く上座部と同じ
ものではないし、大衆部が大乗仏教であるとも言えないよ。
参考
『大乗仏教とは何か』『大乗仏教の誕生』
(シリーズ大乗仏教)春秋社
>>155 発心即究竟ってJOJOっぽいよな
心の中で「殺る」と思った瞬間、「すでに」殺っていたッ!みたいな
>>154 馬鹿か?お前はwwwwww
たとえ仏教が、スポーツを全否定していても、
「優れた選手が」、「その行為の中のどこかで」、「同じ(或いは相似した)精神状態になる」
ことはあるのでは?
ってことだろ。
あんたに解り易いように下品な喩え方をすれば、
想いを寄せる子が受け入れてくれて、セックスして射精しても、
夜道でOLを強姦して射精しても、
そこにある「事象としての“射精感”」は同じだってことだよ。
それを、強姦推奨の考え方だとでも言うか?w 豆腐の角に頭ぶつけて来い。 ( ゚听)、
念仏は、ぽんこつのための教えだと思うから形骸化しようがないと思う 楽になりたくて唱えてればいいと思う それでぽんこつの上になにもおこらなかったら阿弥陀さんが悪いw でもやっぱりなんかがそいつに起こったから今でも(このご時世に)飽きずに称えてる
一番戒めないと駄目で、尚且つ難しいのが妄執。 仏教に固執したり、悟りや覚りに固執すると、いきなりぽんこつ以下になる。 だから、そういう意味では念仏仏教の存在意義はあるのかもしれない。 難しい事は考えず、念仏を唱えるだけでいい〜というのは、最低まで堕ちる心配がなくなる。
揚げ足を取るなら(笑)自分がぽんこつである、ということに気付いてしまった やつが、自分の存在意義に気づいていく過程が念仏だと思う。 (いつか騙されてたことに気付くのかもしれないけどw)
不?謂?羣迷性隔、楽欲不同?、雖?無?一実之機?、等有?五乗之用?、致?使?布?慈雲於三界?、注?法雨於大悲?。 莫?不?等洽?塵労?普沾?未聞之益?。菩提種子藉?此以抽?心、正覚之芽念念因?茲増長。依?心起?於勝行?、 門余?八万四千?、漸頓則各称?所宜?、随?縁者則皆蒙?解脱?。 だからみなぽんこつ以下。ああこれいっちゃいかんのか
日本語で・・・ と思ったけど検索したらすぐ出た でも善導を嫌いな人には通じないと思われ っていうか 「以下です」と言われますか。まだ甘いと ・・・・・・orz
165 :
神も仏も名無しさん :2013/08/12(月) 08:33:04.81 ID:HBhtSnuh
高麗って 今の北朝鮮のことだろうか
北朝鮮辺り 相撲とってるような絵が遺されてた
167 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/12(月) 20:17:04.37 ID:w2+9nKqT
朝鮮半島はいろんな民族が入れ替わってるから、 高句麗や百済などと現在の朝鮮人は別の民族といえる。 因みに漢族が半分くらいの混血で、近親相姦を重ねた為、遺伝子に欠損あり。 (この為、火病という朝鮮人独特の風土病がある) 日本統治下でハングルが普及する前まで識字率も低く、記録も少ない為、 アリャリャンだかアレレンだかゆー向こうで有名な曲も、由来など諸説紛々のまま。 また、歴史は妄想を基本としているので、時折発掘される遺跡などは「日本軍が地脈を断つ為に埋めた呪具」などとして破棄される。 (^。^)ア〜リャリャンア〜リャリャンア〜リャリャンリャン♪
☆ 卍 仏教 質問箱 卍 ☆ パート32 //uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1354584399/865 865 宝珠@神智学徒さんへ 代行ではなく 直接、書き込み出来る様になったんですか?
169 :
神も仏も名無しさん :2013/08/13(火) 16:52:25.02 ID:mZDxacRi
>>168 いえ、まだ規制中にて代行投稿です。
PC買い換えたので、まだ使い勝手が分からず不慣れなんです。
皆様には大変、ご無沙汰しておりますが、私は元気に過ごしています。
もう私には、ここの住人たちと特に議論を望む意図はありません。
ただ時折、気が向けば単発的に参考意見を投稿する程度のつもりでいます(質問箱含め)。
普段は、皆様にお任せします。
お盆は、
実家の精霊棚と提灯行燈の設置と、
実家の納骨、母方の墓所、妻方の納骨2カ所、
そして、各寺院の本堂とプラス本院一寺院へのお参り。
14日に実家の棚経、16日が菩提寺の盂蘭盆施餓鬼法要の参加となっていて、
とても忙しくしています。
また、加えて今は姉の希望にて、
本人が行う本格的な水子供養のための準備を私が進めている真っ最中です。
>>169 あっち、
きちんと、出家者と在家者の役割分担に触れとけよw
勿論、「自分は、その線引きを宜しとしないけど」という註を付けてでも構わないからw
でないと、《何が、苦の原因なのか》を見失うことになるぞ。
171 :
絶対神 :2013/08/13(火) 22:58:00.08 ID:54EJBL15
端的に言うと「仏教という宗教はなにをしたいのか判らない」 『たとえば解脱が六道からの解放というが六道を認めているのか認めていないのか も定かではない』 「悟りというのもなんなのかもさっぱり定かではない」 永遠的でないものを否定するようだが 『実在しないということと絶対的に実在するという事の間には関係はまったくない』 (一次であろうが実在は実在である) 「キリスト教は神による永遠の救いが根本である」(判り易く言えば 天国だな(そんなものがあろうがあるまいが) 『つまり、具体的で判り易く目的もはっきりしている』 『どちらが万人向けかというと「明らかにキリスト教」である』(戒律も 小乗に比べれば遥かに緩い)
172 :
絶対神 :2013/08/13(火) 23:03:48.99 ID:54EJBL15
「アートマンがないというが」 『そりゃ「神」以外に「絶対的な自我」なんてあるわけがない』 『人間の本質にそれを求めるから破綻するのである』(そういう 意味では「悟り」も完全に破たんしている(人間の本質は神仏ではなく、どこまで 言っても人間である)) 「それと「マイナスの面には明確にプラスの面がある」」 『必然性があるのである』 ある意味においては、「必要だから生物に備わっている機能なのだ」 宗教全般は 『それを理解していないところが非現実的だと言える』 執着だとか怒りだとか、ねたみだとか、ひがみだとか 「色々なマイナスの感情は」 『明確に意味があった存在しているという事』(無論、全面的に 肯定してよい訳でもないけどね) 「仏教に限らず、「宗教」とは、『奇麗ごとすぎて』」 『現実が判っていない』(まあ、「宗教」なんだから 仕方がないけどね)
173 :
絶対神 :2013/08/13(火) 23:07:49.77 ID:54EJBL15
『仏教とキリスト教の「大きな違い」は』 『絶対的で永遠的なものを求めているからである』(まあ、本当の 事を言うと「仏教」だってそうだけどw 無常とか色々誤魔化しているけど、それ 自体が永遠を求める、真理を求める「心の裏返し」でしかない) 「従って、「人間」にはそれは『元々不可能である』」 『だから「絶対者」である「神」のそれを求めるのである』 つまり、「人間の限界を超えた要素を求めるか求めないかの違いである」(が、 本当は仏教だってそれを『求めている』w 「悟り」の概念なんてまさに「超人願望」 そのものだww) 『対比すればそう言えるというだけの事であって』 「現実的に言えばそういう部分では「大差」ない」 『単に「キリスト教」の方が『より正直』で』 「仏教が言葉を飾って欺瞞した「嘘つきだ」というのに過ぎない」 仏教は多分、結果として、キリスト教やイスラム教ほどは 『あんまり広がらないだろう』(それは説明したように 構造的欠陥があるからである(求めるとか求めないとかいう意味ではなく))
174 :
絶対神 :2013/08/13(火) 23:12:42.18 ID:54EJBL15
『じゃあ「神」なんているのか?』 という事になるが 「元々、「宗教」なんだから」 『いようがいまいがあろうがあるまいが』 「それを『求める』のは「当然」である」 『それは「仏教」だって「御同様」だ』(でなければ あんなに理屈や教義を積み重ねたりはしない) 「前にも言ったが、「悟り」というのは」 『神様よりも『よっぽどありそうにない観念である』』(この世界に 本当の「聖人君子」なんている訳がないじゃんw それこそ「生き神様」って事に なってしまうさ) 「お前達は、『どこまでいっても「人間」であり』」 『それ以上には『なれない』』 まあ、「キリスト教の邪魔」さえしなければ 「一応、存在を許容してやろう」
175 :
絶対神 :2013/08/13(火) 23:20:14.40 ID:54EJBL15
『つまり「東洋系の宗教」は』 「人間の『本質』、人間のいわば「内面」(?)に」 『「神」だの「悟り」だのを求めるので』 『最初から破綻している』 「そんなのは「客観的根拠」がない『単なる思い込み』」 『どこまで言っても「仏教」は「現実」にはなれない』 主観的な「感覚」の域を出ず 「だから「西洋系の宗教」には『かなわない』」 『自分たちとは客観的に別に超然として「神」や「真理がある」という概念 を受け入れない限り』 「本当に『現実的』な事は、『何も出来ないよ』」
176 :
絶対神 :2013/08/13(火) 23:30:24.57 ID:54EJBL15
「単純に言うとね、生きていく為には」 『別に立派になる必要も悟りを開く必要もないのよ』 「死後の永遠の天国っていうと絶対の価値があるのかもしれないが」 『別に悟りって世俗より「上」の価値がある訳じゃないわけだ』 上だの下だのにこだわっていること自体がっていうだろうけど 『一番こだわっているのは「仏教」だからな』ww こだわってなければ、釈迦や仏教徒は「仏教」なんて『作らなかった』 「神は絶対的に万物より「上」かもしれないが」 『悟りよりも「世俗の方が「上」だよ」』 『「宗教的観念」はそういう「奇妙な錯誤」をしばしばする』 でないと追及する価値がないのだから「仕方がない」のかもしれないが 基本的に仏教は「宗教特有の欠点」をもっとももった宗教なのだよ それはカルトだとかそうでないとかいう表層的な事ではなく 『根本的にね』 キリスト教は神さえ実在すれば、どんなに欠点があっても「まあOK」と言えるだろうが 『仏教は「そういう面においては絶対的に『駄目』なんです」』
177 :
絶対神 :2013/08/13(火) 23:43:34.40 ID:54EJBL15
『つまりい』 「「神様」ってのは祈ったら本当に助けてくれる事もあるのかもしれませんが」 『「悟り」なんて『何の役にも立たないよ』』(大笑) という事 「人間にとって大事なのは人生が適当に楽しい事です」 『「真理の追究」でも「悟り」でも『無いですね』』 人生が「それなりに楽しければ」、『基本的のそれでいいんです』 釈迦とかお前達は「一種の精神病」なんじゃないかと思います 『人生に深い、宗教的意味がないと駄目ですか?』 「なんで?」(笑) ふうん、『駄目』なんですか? 「私ねえ、「宗教的な事を追及する」って」 『あんまり良い傾向だとは思わないんだな』 「そんなのどうでも良いと思わない?」 悟りって気持ちよくなる感覚なわけですか? 『じゃあ酒でも飲みなさい』(笑) これについて長いけどもうちょっと問く必要があるかもねえ 結局、悟りが「世俗的快楽よりも「上」だから目指す訳でしょ?」 『じゃあ、「上」な訳じゃないですか』w 「悟りは「神様」じゃないですか」(笑) 一時の快楽でなく、「永遠的な揺らがないなにか」が欲しいわけでしょう? 『うーん、愚かな奴らだな』
178 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/13(火) 23:54:12.96 ID:2V+p8Ogu
要するに、キリスト教は単純明快で大衆受けするはずだから正しいって話? 正しいってのは絶対神が気に入るかどうかってだけなのかな? 奇跡が証明出来たって言い張ってるけど、証明って論理的に他人を納得する事って知らないのかな? キミは詭弁を弄してオナニーしてるだけだよ。
179 :
絶対神 :2013/08/14(水) 00:04:34.60 ID:54EJBL15
『うーん、つまりねえ』 「悟りでは「何も解決しないよ」」 『宗教では「何も解決しない」』 『そんなものを追及しないで、「現実に即した生活を送りたまえ」』 「言い方を変えるなら「仏教」は「真理」なんかではなくて」 『ただの「趣味」だよ』 根本的に「仏教」がなんで駄目なのか教えてあげようか? 『「神様」はいるのかもしれませんが、仏教が言う「悟り」なんて『無いから』』 (あっても「意味がないから」(人生において役に立たないから)) 「人生において役に立つのは、仕事ができたり、勉強ができたり、人間関係が うまくできたりする事であって」 『実は「宗教」なんかじゃない』 自力とか他力とか真理とか関係なく 「極端な事を言えば、祈ったらそれがかなえられるのなら『それでいい』」 (まあそんな都合のよいことはあり得ないけどね) 人生における「本質」はね 『現実的な物事が「うまくいく事」なの』 「根本的に、「宗教」は「逃避」なんです」(そんな都合の よいことがあり得ないからです) 『人生は不条理だから、「そこに理屈をつけて納得しようとしている」「納得したがっているだけ」』 『仏教はまさしく「そういう宗教の最たるもの」』 じゃあ、「神様」は『問題を解決してくれる』んですか! と思った? 「少なくても『悟り』と違って「解決する『力』は」」 『「神」は『持っている』』
180 :
絶対神 :2013/08/14(水) 00:30:47.31 ID:bKmi0/BA
「悪霊も地縛霊も浮遊霊もさ」 『「神」だか、霊界のお偉方だとかがさ』 「ちゃんと『管理』しろよ」 『でないともし心霊現象が事実だったらさ』w 「不安で不安でしょうがないよ」 そこらを事故とかを引き起こし、どんどん人をころす霊障を引き起こす霊が うろうろしてるんだぞw 『海なんか仲間を求める溺死者の霊だらけだ』ww 「一体、我々に『どうしろ』というの?」w 『心霊関係の理屈って、脅迫めいていて、どう考えても破綻しまくりなんだけど?』 人間の霊能者に頼る、霊界の管理体制には疑問を感じざるを得ないなあww
181 :
絶対神 :2013/08/14(水) 00:47:28.74 ID:bKmi0/BA
上は誤爆 『で、いい加減長くなるからそろそろ終わりにしたいが』 「たとえばダライ・ラマがオウムの創設に協力したのは知られている」(高弟を 送り支持する演説をさせた) 『つまりさっき言ったように、「マイナス面」』 「人を疑う事を覚えな、って事」 人を悪意を持って見て、警戒心を持って見ると言う事は 『当然、必要なの』 ふつうの人がなんで優しくもないし、悟りも開かないふつうの人なのかっていうとね 『実は「それが正しい」からなんです』 本当は、 『ふつうの人間以上の善意を持ったり、悟り? っていうんですか』 『を持って生きていくってのは『無理』なの』 あり得ないんです 「ふつうの人がふつうの生き方をするのは」 『それがもっとも「この世界の現実」に『適合した生き方』だからなんです』 大体、これで判った? 「悪意や敵意や差別する心とか否定の心とか執着とかは」 『常識の範囲内で、『絶対必要なんです』』 でないと「絶対に失敗します」(逆に却ってオウムに協力したりして悪い事になり ます)
>>169 宝珠@神智学徒さんへ
レス有り難う御座いました
これからも御教示のほど宜しく申し上げます
ブッダン サラナン ガッチャーミ 屮(_ ._)屮
183 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/15(木) 06:45:59.69 ID:vQ63oxDW
>179 ふむふむ。 絶対神ちゃんは「悟ると超人になるって教えが仏教」だと思い込んでる訳ね。 まぁ、キミがどう仏教を誤解しようが関係ないからどうでもいいけど、 一つだけ教えてあげると、 「唯一絶対の神」なんて妄想だよ。 だから「解決する力」も妄想。 キミの妄想は、デーモン小暮さんの妄想と同じレベル。(笑) (^。^)もう二千年も前に論証されてますwwww(笑)
184 :
神も仏も名無しさん :2013/08/15(木) 07:33:22.28 ID:fq5ZG4hE
超カルトの一代氏、在家氏、宝珠氏の退場で終了したかに見えた本スレが、また不毛な ループ開始の予感。ループは、貴重な時間と労力の浪費に過ぎない。得られるものは何も ない。
185 :
神も仏も名無しさん :2013/08/15(木) 09:31:23.62 ID:bMyDPWaG
うんこ製造機からもな
186 :
神も仏も名無しさん :2013/08/15(木) 09:47:20.25 ID:4fyQ3ksS
>>184 じゃあ原点に戻してみてよ。新人の初心者なんで、リセットして最初から行って欲しい。
まず、カルマ、六道、解脱などの実際を知りたい。
カーストの苦悩者を慰め励ますような、過去世からの業とか来世の為に現世で徳を積んでとか信じさせようとする仏教徒が信じられませんわ。
>>186 現行南アジア仏教圏全否定かw 随分とお偉いことで・・
仏教は最もリーストドグマティックな宗教。 教条というものが無いに等しい。 他人にあーしろ、こーしろと説得しない。 ブッディストを見て、自分もそうなりたい〜と思う人間だけなれば良い。 だから、教えの拡大なんてのは本来仏教には不必要。 来るものを拒まず、去るものを追わずの姿勢で説くだけ。 だから仏教で宗教戦争なんて有り得ない。
>だから仏教で宗教戦争なんて有り得ない。 でも実際の歴史はそうではなかった。 権力者を抱き込んで反対派を弾圧するとか普通にあるよ。 そもそも仏教が日本に上陸したとき崇仏派は何をしたかな?
原始仏教の事を言ってるんですよ。 大乗以降は仏教の宗派が細かく分かれて争う〜なんて普通にあったでしょう。 そもそも、仏陀は争うなんて事を勧めなかった。 他の宗派も認めていた。
スリランカでも大乗仏教や密教を受容していた無畏山派や 祇多林派が弾圧されて大寺派に統一されちゃったしね
>>190 語るに落ちとるw
『仏教』の上で争いが起きとるやんw >大乗以降は仏教の宗派が細かく分かれて争う〜なんて
ああ、大乗非仏説の人でしたかw
そもそも >大乗以降は仏教の宗派が細かく分かれて
そうなる因や縁を、原始仏教時代から内包していたと見るべきでしょ。
>そもそも、仏陀は争うなんて事を勧めなかった
けど、 「これは確かに教えである(法である)」 という分別はするように求めたし、
その為の基準も示されているが?
これが争い(→どちらが正統か?)の誘引に繋がらないとでも思ってんの?
教えを説いて、いくら説いても相手が分からなかったら、仕方ないでしょう。 それでも相手が質問してくれば何度でも説いたでしょう。 しかし、分からない人間に対して、これはこうだから理解しろ〜なんて説き方はしなかった。 仏陀は、ジャイナ教の教えも取り入れているし、他宗教も認めていた。 良い教えは取り入れて、駄目な教えは排除した。 教えが相手に通じれば好ましいが、通じなかったからといって相手を罵倒したりはしなかった。
>>188 六方礼経の位置付けは?
七不衰法は?
法の六コは?僧伽の九コは?
「これは私(≒比丘・修行者)には相応しくない」というフレーズの位置付けは?
押し付ける押し付けないということじゃなく、
【そこに“峻別”(外教か正法か(ブッダサーサナかそれ以外か))があるかないか】ってことだよ。
言っとくけど、
ゴータマ個人只一人に無いってだけじゃ意味無いからな。
仏陀は外道を非難しなかったし、外道でも問われれば説いただろう。 外教に良い点があれば取り入れただろうし、自分の説く事だけ信じて実行しろ〜なんて説かなかった。 むしろ教えを請うものが自ら進んで実行しただけだろう。 インドにおいては自ら進んで実践するのが宗教で、他者から叱咤されてやるものではないとの認識があった。 怠ければ、結果は自分に返ってくるだけ。日本の禅寺のように皆揃って〜なんて風習は無かった。
>>196 >日本の禅寺のように皆揃って〜なんて
だからこそ、(自由度がたかいからこそ)、
【最低限押さえられねばならない部分】が出てくるだろ?ってことだよ。
四諦八正道を外れても、釈子として握手できるか?ってことだ。
それとも、
原始仏教時代から、心経や中観が説かれていたとでも言うか?
出てくるというよりあったでしょうねえ。 そもそも私は無かったとは言ってませんよ。 無いに等しい、とは言いましたが、これは=無いという意味ではありません。
199 :
絶対神 :2013/08/17(土) 07:07:37.56 ID:A3nHLvdR
>>196 『よーするに何が駄目なのか教えてあげようか?』
「この世の中に『真理がある』という考え方が『駄目なの』」
『この世の中に真理があり、人間が考えれば「それがわかる」という考えそのものが駄目なんであって』
自分の頭で考えるとか考えないとか偏狭であるとか寛容であるとかいうことは
「何の本質でもない違いにしかすぎないの」(そういう意味
ではね)
200 :
絶対神 :2013/08/17(土) 07:12:01.95 ID:A3nHLvdR
『そもそも釈迦が悟りを開いたなんてことそのものが』 「極めていかがわしい教説にしかすぎないんだから」 それと何かを正しいと考えたら、反対のものを排除しようとするのは 『人間として当たり前の感情だから』 これは仏教徒であろうがキリスト教徒であろうが 「誰であろうが変わらないの」 その感情は宗教の教説で制御できるほど生易しいものではなく 『どんな宗教でも「違う宗教」に対する強い意味での排斥と虐殺は起こってくるの』 (日本仏教もキリシタン迫害してるでしょ) 「そのていどの事も理解しないで何を言ったとしても」 『それは空論』 どんな宗教も反対者を強く排除してきたし、時にはころしてきた 「これは人の感情だの利害の対立だのの要素として「必然」なんです」 『これを否定しては「何も成り立ちません」』 宗教はそこの部分を飲みこんで、それを前提として作られねばなりません
201 :
絶対神 :2013/08/17(土) 07:31:20.38 ID:A3nHLvdR
『仮に釈迦が排他的でなかったとしても』(まあじゅーぶん 排他的な人物だと思うけど) 「「仏教」そのものを『排他的でなくする』事は」 『誰にも出来ないって事』 それこそ、そんなものは合理的、客観的に物事を考えられない人間の 『夢物語』 それとどんどん他の宗教を取り入れるなら「それは出鱈目」ってこと ちっともよいことじゃない 大体、どういう基準で選択しているの? 中核がなきにひとしいのなら 「単なる釈迦の主観でしょう?」 それこそ滅茶苦茶じゃないの(笑) そんなことをしていたら仏教徒がそれぞれ勝手に取捨選択をしていってどんどん どんどん訳のわからない方向に進んでいって、「しまいに自壊するってば」 『上で説明したように「人間に真理がわかるわけがないでしょう」』(そんな ものがあったとしてもね)
202 :
絶対神 :2013/08/17(土) 09:43:41.17 ID:A3nHLvdR
『繰り返し主張しているように』 「神の奇跡以外で宗教的要素で実際に普遍的に役に立つものはないよ」 だから本来、この世に神が現れたら どのような宗教の信者であろうが 「その『神』を崇めるべきなのだが」
かなり歪んだ宗教観の持ち主のようですね。 まあ、人それぞれで良いと思いますよ。
204 :
絶対神 :2013/08/17(土) 16:10:40.00 ID:A3nHLvdR
「じゃあ神様の言うことに唯々諾々と従っていればよいんですか?」 『第一に「神」など滅多に生まれない』 「お前達は本当に「奇跡」を起こせる存在に、私以外に『会った事があるか?』」 「そういう事だ、『基本的に神は喋ったりはしない』」 伝説の中、概念上の存在として「いるだけ」だ 『従って、唯々諾々も何も「従いようがない」』 まあ本当に「いる」と理解させていただけたお前達はかなり稀有な例だよ
205 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/17(土) 20:29:55.71 ID:f2E/1VW7
>204 お前程度の奴なら腐るほど見た。(笑)
>大般涅槃経くらい読んどけよw もちろん読んでるよ。 仏教護教派はブッダゴーサの注解を鵜呑みにし、中村元を腐すのも知っている。 だから彼らはいつまでも不寛容でお釈迦さんのようにはなれない。
>大般涅槃経くらい読んどけよw ん?すまない。206は書き込み失敗。 何か勘違いして別スレの書き込みだと思って間違って返信してしまった。
test
仏教で愛は否定的な言葉で、愛は裏に憎が潜んでいる。 慈悲を進めるのが仏教。 愛するものとは必ず別れる運命にあり、愛するものに裏切られたり別れたら苦だけが残る。 これは、人生の打ち込みにも通じる。 打ち込んで、結果良ければ全て良しだが、必ずしもそうなるとは限らない。 仏教はこういうものを全て否定しているように見えて、逆なんだな。 愛しているものに裏切られても、打ち込んだ人生が成功しなくても、愛せよ、打ち込め〜と 教えてくれている様にしか思えない。 慈悲〜こそは究極だろうが、巨大なムカデとか、無数の蛆虫集団とか、慈悲を奮い起こせない 対象もある。嫌いなものは嫌いなんだよねw 難しいね愛と慈悲は。なんせ生きとし生けるもの、醜かろうが何だろうが全てに慈しみの姿勢であたれ〜だからな。
別に生理的に受け入れることはないと思うけどな ムカデも一身上の都合で生きているわけではなく、因縁に因るんだろ そういう姿形なのも因縁なわけで そういった因縁、それ自体を受け入れることが大事なんじゃないかね 因縁を否定することは現実を否定することで、 そこに苦が生まれる(現実との齟齬が生じる)んだと思うわ 逆をいえば、因縁を見ることが現実を見るということなんだな
お坊さんが虫を踏み殺さないように下を向いて歩く〜とか 夏安居、雨安居のように暑い時期だからかもしれないが、虫を殺さないように ひっそりと過ごす〜とか虫にまで気をつかう姿勢に惚れるね。
212 :
神も仏も名無しさん :2013/08/18(日) 01:09:16.98 ID:XXJhrExi
>>211 徹底してるよな
在家では行えないことをやるから出家なんだろう
213 :
絶対神 :2013/08/18(日) 13:24:02.83 ID:OfC5lfae
『前にも言ったが』 「私が「霊界について」だとかを質問されて『答える事はない』」 『たとえ「知っていたとしても答えない」』 「それが「神の意思」だ」
214 :
絶対神 :2013/08/18(日) 13:31:24.30 ID:OfC5lfae
『それとこれは繰り返し言ったが』 「宝なんとかが勘違いしてやって見事外していたが」 『未来は「神」にしか判らないから』(なんでこんな事も わからないのか不思議なんだけど) 「地震の予測なんて現代科学でも日時まで当てるのは「とうてい無理だからね」」 ましてや、何か知らんが、 『オカルトでわかるんだったら苦労しないから』 あの馬鹿って「なんで何度言っても悟らないだろう」(大笑) 最初から変な奴だと思っていたけれど、地震を予言し始めたところで 「典型的な「馬鹿」であることがはっきりしちゃったね」w よせばいいのにな 縁起の理法だっけ? それと大乗が「信仰でなく事実だと理解できている」とか 何年か前に言った時に 『単なる信仰だから』 と指摘してやったのだが 「信仰と事実との「区別」がついていない典型的な「あれ」だわな」w お前達もあまり「神の言葉」を軽んじないようにな(と言ってもわからないと 思うけど) これについてもうちょっと書いておこうか
215 :
絶対神 :2013/08/18(日) 13:38:10.03 ID:OfC5lfae
ああ、大乗じゃないか 『まあ、どうでもいいけどね』(笑) 「証明してやったように、そして馬鹿が逆の証明をしたように」 『「神」には「未来」が見えるし、逆に「人間」が「オカルトの力」で『未来が見える』 という事は、『あり得ません』』 「人がオカルトを信じるのにはそれなりの理由があるという人がいますが」 『大した理由じゃないでしょう』 現に浅原の予言が次々と当たったから信じたという幹部がいますが 「全然当たってないですし」 『宝なんちゃらの予言も無様に外れています』 何度も解説するように、神様も100パーセント当たるようになったら「黙りますから」 「神様の予言の精度だって人に言っている間は100パーセントじゃありません」 『でも、実際に当てる力があること自体はお前達も『理解したね』』 で、当然だが、「教説」は「その人間が言っていることが事実」だから信用に あたいするのであって 『予言が外れている時点で、「単なる妄想」ってことね』 つまり、宝なんちゃらの言っていることは「妄想」 伝統宗教の信者が伝統宗教の教説で議論するのは当然かもしれないが(それももう 不成立になりつつあるけどね) 「あいつが言っているのは『ただの妄想』」 そうであるのに、自分が正しいと主張して、「他の宗教」(この場合は「キリスト教」だが) を否定してくるから 『むかつくの』(大笑) 「てめーが一番の間違った電波のくせしやがって『何いってんの?』という事」 別に根に持っているわけじゃない 「これは繰り返し注意しなければならない点だから指摘しているだけ」
216 :
絶対神 :2013/08/18(日) 13:48:11.88 ID:OfC5lfae
『人間は予言能力がかけらもないくせに』 「予言能力があると思い込むことは幾らでもできます」 古くはエドガーケーシーから最近ではジョセフィーノまで 殆どひとつも当たっていない予言書というのは幾らでも出ています 『つまり、ちっとも能力がないくせに自分に予言能力があると信じ込むことも まわりが持ち上げて、本を出すまでそれを助長することも幾らでもあることであり』 「大して不思議なこっちゃありません」 殆ど一度も当たらなくてもTVで特集を組まれる事はあるし 『私のように何度か当てても、まったく表に出ない事もあり得る訳です』 (というより超能力に限らず当たるやつに限って表に出ないと思うよ。ワールド カップで有名になったタコくらいじゃねーの?ww 表に出てんのって)
217 :
絶対神 :2013/08/18(日) 13:59:42.68 ID:OfC5lfae
『基本的に「超能力者」は「表に出ません」』 理由は、「出てもろくなことにならない」からです(その他の理由はすでに述べました) ですから 『表に出ている者たちは「全員偽物です」』 極論すると 「超能力者はほぼ『絶対に表に出ません』」 従って、こんなインターネットの掲示板でもない限り 『本来、存在が確認される訳がなかったのです』 お前達が「神の実在」を確認できたのも 『ネットがあったお陰です』
test
可知領域と不可知領域を考えると面白いね。 人間は可知領域の事しか知り得ないし今の科学的立場というのもこの立場での事。 一方、不可知領域は文字通り知り得ない領域なので本来は「分からない」とするのが 健全な人間の取るべき態度。しかし、人間は浅はかなので何やらこじつけて説明しようとする。 神の存在だとか、死後の世界とか、宇宙の果てとか〜色々物語を語りたがる。 仏陀の立派なのは、そういう領域は不可知なので語らず、という態度を取った事。 浄土宗が仏教的でないように感じるのは死んだら阿弥陀様が迎えに来て極楽浄土に行ける〜 なんて事を主張するから。 仏陀の態度は死後の世界については無記で、分からない事は語らないというものだったのに。 不可知領域はあるかもしれないし、ないかもしれない。 しかし、そんな事は人間が生きる上でさほど重要ではない、という事を認識するべき。 フォーカスを不可知領域に当てる宗教は似非。そんな宗教はまやかしだと認識する事が大事。 神の存在なんてのを大真面目に語る人間の言う事を信じるなって事だね。
220 :
絶対神 :2013/08/18(日) 21:09:29.88 ID:OfC5lfae
『もうちょっと言っておこうか?』 「釈迦に超能力がなかった事はもはや、自明の理だろう」 『つまり、私は議論の余地なく「釈迦より『偉大だ』」』 イエスに超能力があったかどうかも疑わしい 『つまり、素直に言って、「私は歴史上もっとも『偉大』だよ」』(まあ 私が本当に超能力者だったとしても、20万年だかの人類の長い歴史の中では 何人か生まれてたと思うけど) 「「神」は『完全に別格』なの」 私が本当に病気治しの力とかをもっと覚えていったら 『凄い存在になるよ』(言っとくが釈迦も弟子の 病気を治せないで死なせて苦しんだし、下痢の脱水症状で死んだんだよ) 「『神』というものの偉大さ、言うまでもなく判るよな?」
221 :
絶対神 :2013/08/18(日) 21:13:49.78 ID:OfC5lfae
『で、繰り返し言っているように』 「『神』か、そうでない、『ただの人か』を見分ける方法は」 『「超能力」が「あるかどうか」、『ただそれだけ』』 「性質は問題じゃないの」 『「善」であろうが「悪」であろうが』 『傲慢であろうが謙虚であろうが』 「そんな事は『問題じゃない』」 『そういう意味でも『神』は『別格』なの』
>釈迦が不可知な領域に触れてない
なんて初めて聞いたけど、驚きよりやっぱりとしか思わんかった。
自分的な解釈は
過去世の罪栂って、産まれ落ちた家の両親の家系的な話。
業は生い立ちで、その両家の思想、発想が想像以上の影響を子孫に与えてる。
六道は、与えられて刷り込んだ両家、両親からの影響で形を作ってしまった性質の構造的なループ。
仏教に詳しい訳でもなんでも無い自分にも
>>219 を読んで参考になり、お釈迦さんと言う指導者の信憑性がむしろちょっと高まったかも。
有り難いコメントを読ませてもらいました。
>徹底してるよな >在家では行えないことをやるから出家なんだろう 徹底していないだろう。 水こし袋も使わず、マスクも使用せず、地面を箒で掃きながら歩いてもいない。 だから虫や微生物は死に放題。 いや、ジャイナ教を見習えとは言わんが、特に感心することもないだろう。
224 :
絶対神 :2013/08/18(日) 22:42:03.58 ID:OfC5lfae
『ちょっと脇道にそれて説法するね』 「私はね、「信仰」にしろ「恋愛」にしろ『純粋な思い』というものには」 『あんまり意味がないと思っているの』 それは悟りを開けとかそういう意味ではなくてね 「純粋な思いというのは現実を認識できない『幼稚』で『無意味』な感情だからなの」 『そして、それは「現実」を認識できないから』 「何も解決できないわけ」 きちっと親が決めた釣り合う相手との見合い結婚みたいな時代に比べれば 『恋愛結婚の時代の方が多分、「離婚が多いと思うよ」』 「恋愛そのものは『実はあんまり意味がない感情だから』」(実は、子孫を 育てる事に対しても意味があるとは思えないんだよね(離婚しない方が安定した 育児環境が保てるから)) 『だから「神」が求めてるのは『純粋な信仰』でない事は「明らか」なんだ』 (無論、人間が悟りなんて開ける訳もないよ?) 「なんか『それとは別のもの』」 神を信じるというのは、『本当は、所謂、絵に描いたような「信頼」とか「純粋な思い」 とは『別のものなんだよ』』
225 :
絶対神 :2013/08/18(日) 23:22:34.51 ID:OfC5lfae
『私は寧ろ「家族の本質」とは』 「不愉快な事を『我慢』する事にあると思っているの」 『そしていざとなったら介護したりして『助ける事』』 そういう意味では、「あまり積極的な意味は家庭にはないんじゃないかな?」 『それと同じように「信仰」には』 「本当は、「あまり積極的な意味はないんじゃないか」と、『思っているの』」 『神を信じたものには「永遠の救いが与えられるでしょう」』 『でも、「それだけでしょう」』 つまり 『「神様」は、『生きている間は、「殆どなにも与えないでしょう」』』 それが結局、『信仰』とか『宗教』とかいうものだと思う 仏教も同じ事 「神仏を信じる事で、『死後悪い世界に行かないようにさせて貰う事』」 というのがしばしば現実の仏教の姿で 「本質的に「神様信仰」なんだよ」(実際の大きく広がる 意味での「仏教はね」) で説明したように、そういう教説は一神教の方がストレートに唱えているから、 仏教系統は「一神教」には『叶わないの』
226 :
絶対神 :2013/08/18(日) 23:40:38.18 ID:OfC5lfae
『当たり前だけど、自分の力で解決できることなんて』 「自分の能力の範囲内の事だけであって」 『死後の事も、この世界の大半の深刻な問題も』 「人間には解決できんさ」 『神様じゃないんだからさ』 「釈迦だって、自分の国ひとつ救えなかっただろう」 釈迦国の多くの国民は殺され、残りの殆どは奴隷にされ 『最後には殆ど皆殺しにされて滅亡したんだ』 「本当に自由に運命を覆す「超能力」を持っているのは『神様』だけなんだよ」 『仏教の致命的欠点は』 「「神」を「中心においていない事」なんだ」(無力な人間である 「釈迦」や「その教説」なんかを中心においてね)
227 :
絶対神 :2013/08/18(日) 23:45:38.95 ID:OfC5lfae
『「神様」は未熟で未完成な段階であっても』 「明確に『超能力』を持っている」 『たとえ「万能」でなくても、『確実に持っているんだ』』 「彼は「現実」を「意思の力ひとつ」で『変える事ができる』」 『信じられない事ができる「超人」なのだよ』 現世に直接干渉して、「奇跡」を本当に見せてやるのは 「まだ『万能』でない「神様」だけだ」 恐らく万能になったら、もう「摂理」としてしか『現世』に干渉して来ない 私がそれなりに成長したとしたら 『釈迦国だろうが、ユダヤ王国だろうが』 「あっさり救えただろうさ」(笑) これは、冗談で言っているんじゃないよ 『たぶん、「本当に」』
228 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/08/19(月) 05:58:38.82 ID:Fcjjg3Si
>223 あれはジャイナ教に批判されてって聞いた事がある。 個人的には、仏教は慈悲とかの感情論じゃなくて説一切有部や唯識派みたいに、微に入り細に穿ち、当時の論理的観点からの分析、分類、統合する精神活動についての博物学的アプローチってイメージ。 まぁ、密教や禅みたいなオカルティックな面や、 念仏宗や観音信仰みたいな感情論的側面の方が一般的にはメインですけどね。
また
>>219 の可知と不可知について考えてみた。
仏教での観念、観想って言う重要なメソッド?が、この2つの領域の間に存在して不可知な筈の神を語るなどと言う紛い者が現れる要因にもなってるんやろう。
代表的な観念、観想法?ナンソ法系行法の本当の効能は脳の本来の力を呼び覚ますんやと思う。
可知が陸で肉体なら、不可知は海で心として観念、観想法はその波打ち際の汀だと思う。
230 :
神も仏も名無しさん :2013/08/19(月) 20:04:56.30 ID:gBsU5VSL
>>223 素朴な疑問なんだが水こしに残った微生物はど〜なるの?
乾燥死するんじゃね?www
>>230 当時は、目に見えない生物の存在は認識されていなかったと思うけど?
>>230 微生物のこと教えられたジャイナ教徒が断食どころか断水して死んだとか……
test
234 :
神も仏も名無しさん :2013/08/23(金) 18:04:19.50 ID:1pGsT2j3
唐揚
現象世界と言語と縁起法と勝義はどういう関係にあるのだろう? 言語は、意思疎通のために使われるもので、そのために現象(外界の出来事や内心の思想も含めて)を指示する言葉 によって構成され、その言葉は意思疎通されたのちに互いの合意をうることによって、共通の認識(とりきめ)を構成する。 しかし、例えば、火は熱い、という取り決めが合意されたとしても、 熱すぎる火は皮膚がその熱点から神経を通じて脳に信号を送る暇もないのだから熱いと認識もされないのではなかろうか。 であるならば、火が熱いとは、もはや言えなくなることがありうるのではないかという疑問がでてくる。 つまり、火が熱いとはかならずしも真であるとは言えないということである。 では、「熱い」とは「温度が高い」ことだと定義しなおせば、よいのではないか。 しかし、それでは熱いと暑いが区別できなくなる。「熱い」とは皮膚の一部が高温状態にある対象に触れたり、近くにいることで 受ける作用であるのに対して、「暑い」とは、気温が上がることによって脳を含めた身体全体が受ける作用である。 よって、熱い=温度が高いとは定義できないのである。 であるならば、こういうことが言える。
言語によって行われる取り決めは、概して、適用範囲が決められており、それを普遍的に使えることはなく ある言語使用の文脈の中で、限定的にしか使われない、ということである。 実は、数学においても、自然科学においても、ある法則や公式の変数にあたる部分、これの有効範囲も示すことなく、 常にその法則や公式が真であるとは定義されない。科学的な真理とは暫定的な真理であり、未来永劫真理であるとは定義されないし 数学的な真理も、ある公理を設定したうえでの真理であるので、現実が公理に整合しなければ当然、現実において その公式は真理ではない。おまえの頭の中では正しいんだろうが、現実には適応されないということになる。 よって、宗教が永遠なる真実を扱い、しかも現実世界に生きている人間に救いをもたらす真実を説くことを標榜するならば 言語による取り決めが、真実をあますことなく指し示すには不十分であると判断するのも至極当然なことと言える。 しかし、言語は人間が互いに意思疎通をするためには不可欠なものであり、 これを使うことなく宗教的真理を知ることはできないだろう。たとえば縁起法という仏教的な真理にしても同じことが言える。 では、言語とはどこまでも世俗なのだろうか?縁起法や空とは勝義ではなく、世俗なのだろうか? 私は世俗であり、勝義であると思う。そのこころとは、ちょうど月を指す指のようなものである。 月を指すという意味においては勝義に属すが、指そのものという意味においては世俗に属す。 ならば、言語は勝義にみちびく可能性をもっているという意味においてすべて勝義であるとも言えるので 結局、あらゆる言語は勝義に属すのかと言われそうであるが、確かに広せば言語すべてが勝義だろうし 略せば仏法だけが勝義と言える。だから、敢えて勝義と世俗を分けるならば 勝義そのものは言語では表せないのであり、言語は脱世俗(仏法)、実世俗(現象に即した言語習慣)、邪世俗(現象に 即さない言語習慣)に分けられるものであると定義したい。とりわけ論理学にあたるものは実世俗に属すと思われる。
帰謬論証法と自立論証法という差があるが、 帰謬論証は、言語を使って、言語自体がもつ限定性、この不備をつくことで勝義へとみちびく方法である。 一方、自立論証は、言語の不備を逆手にとって、言語の適応範囲外(邪世俗)から勝義を立てようとする論証であるように思われる。 もちろん、他人の揚げ足取りをするより、相手の使う論法に則って、相手を説得する方が好意的ではあるが 邪世俗がまかりとおる時代はいざしらず、相手が実世俗しか使わない誠実な相手であったとしたら、自立論証はままならない。 今の時代は帰謬論証のほうが誠実な対応であると思う。
まあ、雷や嵐を神のなせる業であると捉えていた昔において、 そう説明することが、実世俗であったのかもしれない。そういう意味においては 自立論証の果たす役割は大きかったことも確かだ。
239 :
神も仏も名無しさん :2013/08/24(土) 17:09:08.65 ID:ZA1yAa6r
帰謬論証派の人々は、己が「人間である」という制限を忘れているのではないか。 釈迦盲信故に、何が何でも「無」「無我」にこじつけようとしているだけのように思える。
まともな禅宗が残っていない今、中国南宗禅の健全さには眩しいものがある。 難しい事を頭で捻り出すより、純粋にただ生きる事に価値を認めた。 所詮、人間の存在意義なんて無いのだから、ただ生きよ〜という教えは真。 死ねば無くなる人間に何の存在意義があるのか? 難しい事に悩むよりのほほ〜んと生きる方が遥かにマシ。
無学なため仏教については詳しいわけではありませんが 以前から疑問に思っていた事があります。 悟りを開いたとされるかのシャカ族の王子は 本当に悟っていたのか?ということです。 このような問が意味のない事だろうとは 重々承知の上です。 彼が人から遠ざかった理由はなんとなく実感できるのです。 周りに近しい人間がいれば、苦悩はそれだけ増え、 またその死を目の当たりにしなければならないからです。 そして往々にしてたどり着くのは自分の命を含め一切を 空なものとする思想だという事も納得きます。 そこには個としての閉じた理論が確かにあると思います。 実際に私もそうでした。死ぬ時は死ぬのだし、 いたずらにそれを心配したり苦悩したりすることは 意味がないとずっと思って来ました。 これは今も変わりません。 個人の自己の死への恐怖(慢性的なという意味で)は こう言ってはなんですが、比較的容易だと思います。 ただ、近しい他人の死への恐怖が私には克服できなかったのです。 実は一ヶ月ほど前に父を癌で亡くしました。 ほぼ一年にわたる闘病の末でした。 日に日にやせ衰えて行く父を見るのは辛かった。 そして死が恐ろしかった。 自分自身に父の死の予感を重ねたのではなく 父がどのように思って死へ向かっているのかを 想像するのが辛かったのです。 自分が死ぬ事について悟ったような気になっていたことが 愚かしいと思いました。
> 個人の自己の死への恐怖(慢性的なという意味で)は > こう言ってはなんですが、比較的容易だと思います > ただ、近しい他人の死への恐怖が私には克服できなかったのです 「 死への恐怖を克服するのは、、比較的容易だと思う 」 と言う意味でしょうか? 般若経の解説 //www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 経典には輪廻が記されている しかし、輪廻を深刻に捉えてはならない 輪廻は方便だ 世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた 世尊の時代、人々は輪廻を信じていた だから世尊は、輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた 輪廻を土台として 輪廻を前提として その輪廻から解脱する為に 正しい知恵を説かれた
>>242 の続き
渇愛 タンハー
//www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています
そこから脱出しましょう、客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう
というのがお釈迦さまの教えなのです
異蘊相続
//www.daitouryu.com/iyashi/voice/voice03.html
慢断(我慢を断滅すること)せざるがゆえに
此の蘊を捨て己(おわ)ったとしても
異蘊相続して又、来世に生じる
_ _ _
例えば
肉体的な死が訪れたとしても
我慢を断滅する事が出来なければ
異蘊相続して又
この世の生(来世)に戻り来る
と言う概念も、あるかもしれない
>>243 の続き
T0099_.02.0029c04: 雜阿含經卷第五
//21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0099_,02,0032b05:0099_,02,0032b19.html
T0099_.02.0032b06: 佛告仙尼。
T0099_.02.0032b07: 我諸弟子。聞我所説不悉解義。而起慢無
T0099_.02.0032b08: 間等。非無間等故。慢則不斷。慢不斷故。
T0099_.02.0032b09: 捨此陰已。與陰相續生。是故仙尼。我則記
T0099_.02.0032b10: 説。是諸弟子。身壞命終。生彼彼處。所以
T0099_.02.0032b11: 者何。以彼有餘慢故。
かれは慢が、あるので
身壊れて命終しても
彼彼の処に生じる
>>241 私も数年前に母を亡くした時は辛かったです。
68歳で癌で亡くなりました。
モルヒネ点滴してても痛い痛い〜と言って意識が無くなっていきました。
その数日後、そのまま亡くなりました。
近い人が苦しみつつ亡くなるのを周りの者はただ見守るより他ない〜というのが辛いのだと思います。
人間は健康で若い時は死を意識する事はありませんが、近い人の死や自分が病期になったりすると
死を意識するようになります。良い機会なのでじっくり死を考えてみてはいかがですか?
死後の世界は分からないですが、自分の死への心の準備(覚悟)だけは整えておきたいものです。
母は心の準備が出来ていなかったです。あの世へ逝きかけたら、呼び戻してくれって言われました。
最後の最後で覚悟したとは思いますが。
日本の仏教って、全体的にレベル低く思える。 具体的には、昔から国家権力べったり。 第二次大戦中なんて、天皇のために人殺しするのは仏法にかなう、なんて反吐が出るような説法を全体がしている。 他国の仏教徒みたいに、戒律のために迫害受けたり国外に出なきゃならないほど信念と教えに忠実だった例なんてほとんどない。 現代の商業主義も同様。 まともな坊さんって、いるの? という点でいきなり疑問なんだけど。
その当時から、国家権力にべったりだったので 『 奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まったのだっ!』 そして又、ある時には 『 その当時の政府の、神仏分離令に、仕方なく、従わされたのだっ!』 と言う思いに、とらわれている人も、いるのかもしれない 参照文献 ↓ 神仏習合 //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88 神仏分離 //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2
248 :
神も仏も名無しさん :2013/08/25(日) 15:45:54.31 ID:37ND2Rlr
さるべーじ
日本の坊さんは戒律守らないし 空海の時代で既に初歩的な安般念すら廃れてるし
実家の檀家の坊主も大酒呑みですw まあ、葬式仏教の日本では仕方のない事なのでは? それとは別に個々人で仏教を勉強すれば良いと思います。 禅宗では頭で理解できない〜と言いますが、それは間違っていると思います。 頓悟とは言え所詮理解(分かる)するのは頭です。 大した事無いのを大げさに伝えている面が大きいですねw
251 :
272隠居も洗脳だなあw :2013/08/25(日) 22:28:13.35 ID:xMoCBsJT
えらく自信満々が笑えるなあ。 思いつきは真実であーーるてか。
まあ、というか頭の状態で受け付けないモノは受け付けないんだよね。 受け付ける状態ならば所詮頭で理解できる事。 出来ない状況の人には、出来るように導くのが親切というものでしょう。 私は導き方を知りませんが。
>>241 よく、
子供ができて・・、或いは幼児教育に携わることになって・・・、などで、
街を歩いているときの視線が変わったという話は聞きます。
歩きタバコの高さがそれだけ危険か、そもそも、街にはこんなに子供が大勢いたのか(歩いていたのか)、と。
「気付き」こそが出発点ですよ。
門は開かれていたし、おしえの声も流れていた。仏の姿も視野には入っていた筈なのです。
でも、見えない。
夢中になっていて、或いは絶好調で、或いは解ったつもりになっていて、
或いは実は怖くて避けていたりして・・・。
まるで視覚(眼球網膜)の盲点の如く、見えていなかったものに、
ふとしたきっかけ(≒条件≒縁)によって、 ふっ と焦点が合う・・。
そういうこと、そういう瞬間が、たぶん人生にはたくさんあるのでしょう。
気付きかけて流れてしまう縁もありましょう。
今は、気付けたことに、縁が繋がったことに感謝すればいいと思いますよ。
*(勿論、貴方にその縁を結んだのは、お父さんかもしれません。。。
と、考える(→受けとめる)こともアリです。(´∀`)b )
念仏を連呼するのって、サマタ瞑想の一種なの?
おそらくそうだと思う。 念仏で、心を塗り込んでいく 瞑想の簡易バージョンと見ている。
仏教においては 涅槃に至るために禅定に勤しむ教派が多く 禅定を得る止行に対して、観行も重視される 天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し 真言宗では印相を結んだり、陀羅尼や真言を唱える身体性を重視する 浄土宗や浄土真宗では称名念仏である南無阿弥陀仏をくり返し唱える 日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える いずれのアプローチも 思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる 参照文献 ↓ 禅定 //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A
法華経を護持するひとは 天台を訪ね 瞑想を行ってみると、法華経の意味が みえてくるとおもう。 天台小止観、まか止観などが残っている おそらく聖徳太子も同じような事を していたのだと見ている。 法華義疏と夢殿の伝説から
止観 //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3 サンスクリット語から「奢摩他(サマタ)・毘鉢舎那(ビバシャナ)」と音訳されることもある 止(サマタ瞑想) 心の動揺をとどめて本源の真理に住することである 観(ヴィパッサナー瞑想) 不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである 止は禅定に当たり 観は智慧に相当している 「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある 止観の語は、特に天台宗において多用される 天台智の『天台小止観』や『摩訶止観』といった書物は 坐禅の詳細なマニュアルであり、天台宗だけでなく禅宗においても参照される
日本の仏教って、苦しみから逃れるための直接対処法といえる瞑想って重視しないか、中国経由の道教的方法に変質させちゃったのが多いね なんでだろ
止も観も本質的には同じであり 勧行瞑想を行っても、止の力がないと 対象を固定化できない 観とは観察であり、理解であるという認識に立っている。 止観双運とか止観双翼とか呼ばれ この両者を使って智慧に到達する この流れについては、天台小止観に事細かく 述べられている。 法華経行者に限らず、大乗を志す者にとって 止観瞑想が何を求めている、どういう状態を 要求しているか、読んでみるとあきらかに なってくると思う。
瞑想は相当個人的な領域となって うまくいく、行かないの差が大きすぎるし 伝えきれない部分が大きいとおもう。 指導者の素養も大きく左右する 昔は資料すらも読み集めるのが大変だろう あまりにも限られている人しか救えない 念仏であり題目であるというのは、 そう考えればすばらしい方法だと思う。
個人的な感想として 瞑想を進ませる本質的部分は 大乗の感覚というか意識というものが 大きく作用しているようにみえる。 利他というか慈悲というか 瞑想が進めば進むほど、大乗経典の 様々な文言が鮮やかに よみがえってくることがわかるのでは無いだろうか
263 :
神も仏も名無しさん :2013/08/28(水) 00:40:48.00 ID:Hv0d4VPM
瞑想とは妄想なんだろか 廣隆寺の弥勒菩薩は寝てるだけか とそつてん で30億年眠る
264 :
263 :2013/08/28(水) 00:51:43.25 ID:Hv0d4VPM
50億だった そのころは人 も地球も消滅だし 別の宇宙領域に生まれるのか
265 :
神も仏も名無しさん :2013/08/28(水) 01:34:32.37 ID:1CQqaLrc
○ 無門関 第一則 趙州狗子(じょうしゅうくし) 趙州和尚、因(ちな)ミニ僧問フ、狗子ニ還(かえ)ッテ仏性(ぶっしょう)有リヤ、也(ま)タ無シヤ。州云ク、無(む)。 把手供行(はしゅきょうこう) さとれば 但(た)ダ親(した)シク趙州ニ見(マミ)エルノミニ非(あら)ズ、便(スナハ)チ 歴代(れきだい)ノ祖師ト手ヲ把(と)ッテ共(とも)ニ行キ、眉毛廝(アヒ)結(むす)ンデ同一眼ニ見、同一耳ニ聞(モン)ス可シ。豈慶快ナラザランヤ。 ○ 門関(むもんかん) 第一則(だいいっそく) 趙州無字(じょうしゅうむじ) 真理さとり とは、 山川草木国土悉有仏性 さんせんそうもくこくど しつう ぶっしょう このことを習いたての新参の修行僧が趙州和尚をキッと見据えて一本打ち込んでいきます。 常(つね)日頃 この寺の門前に寝そべってばかりいるあの痩せ狗にも仏性は有りましょうか。 趙州はニッコリ微笑んで答えます。 そのとおり、有るよ。 この新参の修行僧と趙州和尚の遣り取りを物陰から見ていた古参の修行僧がぽんと手を打ち、ニタリとほくそ笑み趙州和尚の前に歩み出て趙州和尚を試して問います。答えは既に分かってますよ、有、だろう、と。 門前のあの痩せ狗にも仏性はございますか。 趙州は振り返り、ジロリ、と古参の修行僧の心底を見抜きその得意げな顔を見て目から閃光を放ち、答えます。 無。 古参の修行僧 はっと飛び下がって地面にひたいを只管(ひたすら)こすり付け平伏しました。 この古参の修行僧に、省あり(さとりました)。 』
>>263 妄想を止めるのが瞑想で、主旨逆では。みくろさんは
現在天界で修行中で、寿命全うしないと地上に
来ないんでは。確か人間の寿命がものすごく短く
なってほとんど滅んだ後、また長くなって文明の進んだ
楽な世界になって聞く耳持った人間がいる頃に現れる、とか。
失敗は成功の母と言われる この場合、失敗とは要するに、何かを成そうとしている人物がその何かを成せないでいる現状である。 当然、何かを成せないという現実に対して、何かを成そうと努力をしなければ失敗は起こりえない。 しかし、何かを成そうと努力した結果、必ずしもそれが失敗に終わるとも限らない。 特に、他人が成功している姿を見ていれば、同じ方法をとれば成功するであろうことはいわば当然であり 失敗したとすれば自分になんらかの落ち度があったためだと考えるのが普通だろう そして、落ち度のために成功することが叶わなかったのだから むしろ、失敗(落ち度)は成功することあたわなかった原因ではないのだろうか?と大抵は思うものである。 では、なぜ失敗を成功の母と言うのであろうか? この言葉の意味はいわば発想の逆転なのである。 大抵のものは自分は成せると思っているのだ。そしてだからこそ物事を成そうと考えるのである。 至極当然の話である。誰がドブに金を捨てるような真似ができるだろうか。 誰だって、長期的にしろ短期的にしろコストとパフォーマンスの比率を考えて投資をするのである。
だが、人間には、やむにやまれないという気持ちがある。 これは、無から有を生み出すがごとき苦しみ、あるいは願い、とも言うべきものである。 そういった動機に揺り動かされるとき、成そうとして成せない現状は前提にすぎなくなる。 いわば失敗して当たり前なのだ。当たり前でなければ、意に介さないとでも言おうか。 とにかく、そのような心持ちになったとき、一手を考えて失敗したとしてもそれは次の一手のための糧になるのである。 成せないからこそ成そうという志を芽生えさせたのであり、成そうとして成せなかったからこそ次に成すため道しるべになったのであるから まさに、失敗(成せないという現状)は成功を育てた母であり、成功の礎と言うべきものになるのではなかろうか。 よって、失敗は成功の母とは、まさに何かを成そうとしてる人物に失敗がなんだと励ます言葉なのである。 ここで注意すべきことは、心が失敗を成功のための原因とも見させ、不成功の原因とも見させていることである。 では果たして、失敗は成功の因なのであろうか、不成功の因なのであろうか。 成功の因としか思っていない者は失敗に挫けたとき、その言葉を考えた者を嘘つきだと罵るであろうか? だとすれば、その者はこの言葉を理解していないというべきである。 この言葉は成功せざる者にこそ与えられた言葉であるからである。
妄想に浸ったり、薬物使ったりするような「瞑想」は邪定として昔から仏教徒がやっちゃいけないことだとはっきり言われている
私が見ている物と私とは渾然一体として私である そう口に出しているとき、私は実は見ている対象と私を区別しているから 実はいっしょであると言えるのである。もし本当に渾然一体ならば そう言う必要すらないはずである。ならば言葉は蛇足である。 ではなぜその蛇足をあえてその者は言ってみせるのであろうか。 つまりは、渾然一体として私と言えない者のために言うのである。 しかし、それも矛盾である。そのように意識しているかぎり、その者は 私が伝えたい境地にはたどり着けないからである。 ならば、ただ座れとしか言えないのであろうか。座ればすべてが解決するのであろうか。 結局のところ、その文脈を理解できる者はまれである。 仏性は確かに有るのであろう。しかし、悟っている者からすれば そんな仏性など有っても無くてもどうでもいいのである。 そんなものなど求めてなどいないからである。
人間の存在意義は無い。人生の意義は無い。 唯一有るとすれば・・・ 意義が無くとも黙って淡々と死ぬまで生きる事に意義がある。
意義も何も、すべて人が考えているだけのこと 意義があるというのも、意義が無いと言うのも 同じ事
この世に「私」というものは本来ない。 だけど人間は錯覚し続ける。だから悩みも争いも起こる。 理屈じゃなくて無我を体験させるのが瞑想という方便。 こんな感じ?
奈良の郡山で一週間の集中内観を体験した時、5日目に集中力がかなり高まった事を思い出した。 「幼稚園に上がる前にお母さんにして頂いた事、して返した事、迷惑をかけた事を調べて下さい」 と、言われて4才の頃の我が家の様子を映像を視るぐらいにハッキリ思い出した。 人間の脳は一定の時間、隔離されひとつの事柄だけを思念し続けると凄い能力を発揮できるのかも知れませんね。
>>274 あー、この世には「作話」とか「虚偽記憶」って現象があってだな……
信じ込むのは、母親とかに過去に実際にあった事か確認してからの方が良いぞ
(確認過程で、母親にも虚偽記憶が植えつけられる可能性も高いがw)
お母さん、私が4歳の頃に迷子になったことあるでしょ! → あ〜、そんなことあった気もするわね〜 → やっぱり!
なんてなw
それも有り得るな。
オレはこういうのがあったな。 あるとき友人と食事してて、その友人が、「○○へは7月20日に行こう」 って唐突に思ったわけ。 話しの前後にそれらしい話しはなくて、いきなり心の中で思ったわけだけど、 それがすべてこちらの心に伝わってきた。 伝わるというか、向こうの脳とこっちの脳が一体かしてる感じで即座に、同時に思いが浮かんでた。 すぐに、「今、○○へは7月20日に行こう って思ったでしょ?」 ってたずねると、 唖然とした表情で、「うん」 とうなづいた。 その後おどろいて言葉が出ない様子だった。 その前2週間くらい独自の修行してて、だんだん心が明鏡止水のごとくなっていったんだけど、 今はそういうのはない。
まあ、気にするな
瞑想や軟蘇に取り組んでリラックス:脱力が難しいのがようく解ったわ。 しかし内観は一週間って微妙な時間を、屏風に囲まれて先生以外の他者と接する事をなくする。 その上で過去の自分を(一事を2時間)調べるから集中力が高まる環境にあると感じた。 止観と言うのは、瞑想を行じるには日常的な生活の感覚を一旦止めるって事かと思う。
281 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/29(木) 23:18:50.92 ID:0x6gWZqt
3カ月ぶりにこの板に再生しましたら、すっかり変わっておりました。 まさに諸行無常、「議論寂滅」ですね。 また面白いネタがあればかきこしたいと存じます。 再見
立花隆が臨死体験の本で書いていたが、肉体的に感覚状態をゼロにすると純粋な精神状態となり、我思うゆえに我有りとは この事か?と感じた〜というのがあった。 このやり方が、人が寝て入れる十分に大きいカプセルに36.5度のなんとか溶液(少量で人が浮くらしい)を浸し、この中に 全裸で入って寝て浮いた状態でカプセル内を閉めて真っ暗にすると体の全ての感覚がなくなり、純粋に意識だけの状態になるらしい。 もちろん無音状態。無音で真っ暗で無臭で人肌温度の溶液に浮いているので体の触覚もない。 これは有る意味宗教的な瞑想に近い状態ではないだろうか?と指摘していた。
284 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/29(木) 23:40:49.78 ID:0x6gWZqt
今年はホームページ「浄土への道標」をアップし、「仏界交信 浄土への道標」を出版しました。 本編は昭和5年〜20年の交信で、続編は昭和56年〜61年の交信でして、続編の中に興味深い話があります。 (昭和五十七年五月一日) 一畑薬師様のお話 「私は一畑薬師でございます。元は日本からみえた三人のお寺さんに守られて、百済から奈良に行くため、舟にのって浜田港につく予定だったのが、 途中嵐にあい難船して一畑近くの赤浦海岸に打ち上げられたのを、信心深い与一に拾われたのです。 百済では薬心寺というお寺に祀られておりました。分身を残して日本の奈良に向かうのが海岸に打ち上げられたのです。」 2月に一畑薬師教団のホームページに問合せましたら、住職から「本当の話であるわけないですね。」と丁重なメールを頂戴しました。 (情報の整理) ・昭和57年に「一畑薬師」と自称する存在から交信があった ・現時点でグーグルにて「朝鮮 薬心寺」で検索してもヒットしない ・「一畑薬師」の住職からもあっさり否定 朝鮮の仏教史を調べますと多くの寺院が取り壊されていることは分かりました。 引き続き「薬師如来を本尊としていた薬心寺」が存在していたのか否かを調べております。 もし見つかれば、「一畑薬師」と自称する存在からの交信が検証されますので、その際は本スレと私のホームページでご紹介致したく。 入中論から引用してオイラ氏には散々叱られましたが、完全な涅槃に入らずに無住処涅槃にて衆生済度を祈っておられる仏達に対して合掌。
285 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/29(木) 23:52:33.19 ID:0x6gWZqt
>>282 >>283 (Wiki アイソレーションタンク)
このタンクの中では意識が飛ぶことなくシータ波が数分間観測される。この状態を瞑想に利用する人もいる。
瞑想的な状態では遅いアルファ波から時にはシータ波が観測され、これは自他の境界の消失、融合などの絶対的一者の体験とされ、
アイソレーションタンクの感覚遮断状態は、この体験を引き起こしやすい環境であると考えられる。
お二人のご紹介の通りのようです。
286 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 00:19:20.87 ID:Ca57dbye
>>14 >
>>13 >「甘露の門が開かれる縁を結んだ(きっかけの一つとなった)」梵天への謝意は、
> 通仏教的にもアリだぜ?
私も梵天への謝意は極自然かと存じます。
またテキスト上では、菩薩として下生する前の釈尊は梵天界にもおられましたので、梵天の中の一方とも見ることもできると思います。
長部経典十三経「三明経」に梵天との共生について詳細に説かれていることは過去ログで度々紹介済みです。
そして長部経典十四経「大本経」に有名な梵天勧請のシーンが登場します。
多分、十三経「三明経」を読んでから十四経「大本経」を読んだ私と、十四経「大本経」を元ネタとした梵天勧請の仏説を
聞いた仏教徒とでは異なる所感を持つのも極自然かと存じます。
十三経「三明経」を読んでから十四経「大本経」を読むと、悟りを得た後に説法を躊躇した元梵天を現梵天が励ましたように読めます。
バラモン教に対する皮肉とかイヤミの逸話ですか? 十三経「三明経」を読めばそうでないことが分かるでしょう、多分。
287 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 00:24:39.34 ID:Ca57dbye
>>286 なぜ菩薩が梵天界におられたのか?
どうして梵天界からト卒天経由で下生されたのか?
理由は分かりませんが、そういう法があるのでしょう。
一在家さん お久しぶりだな 規制解除されたか 今のうちに思う存分書き込んで また規制されるかも
289 :
? :2013/08/30(金) 02:22:22.56 ID:wmevVqC6
>>284 前世は一在家さんへ
> 今年はホームページ「浄土への道標」をアップし、「仏界交信 浄土への道標」を出版しました
お久しぶりです
↓ これですか?
浄土への道標
//minamotonoshin.life.coocan.jp/
浄土への道標 仏界交信
//books.rakuten.co.jp/rb/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E6%A8%99-%E4%BB%8F%E7%95%8C%E4%BA%A4%E4%BF%A1-%E6%9E%97%E9%87%8F%E5%AD%90%EF%BC%88-%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%99%EF%BC%90%EF%BC%89-9784864760904/item/12304214/
290 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 06:51:47.61 ID:Ca57dbye
>>289 > ↓ これですか?
> 浄土への道標
>//minamotonoshin.life.coocan.jp/
>
>浄土への道標 仏界交信
そうです。
ハンドルもペンネームも「みなもとしん」としております。
尚、本の主人公は生まれ変わった釈尊の弟子の一人ということです。
世の中で「生まれ変わり」の著作は多いようですが、具体的に誰の生まれ変わりかは分かりません。
291 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 06:57:55.98 ID:Ca57dbye
>>288 >規制解除されたか
半年ほど前に退職しまして、就職活動の一環で資格試験にチャレンジしておりました。
勉強量は当然多く、試験が終わるまで「かきこ自主規制」をかけておりましたので。
「臨死体験」も、決して絶命した人の体験じゃないから、死を迎える状況の人間が感じる事で、むしろ仏教的に言う涅槃とは臨死体験に近い事の話と思いますわ。 「生まれ変わり」みたいな不可知の領域を語るのはいろんな意味で危険なんだろうな。
293 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 07:34:58.60 ID:Ca57dbye
>>292 >「生まれ変わり」みたいな不可知の領域を語るのはいろんな意味で危険なんだろうな。
(「浄土への道標」カスタマーレビューより)
古今東西、数々の霊界通信がなされてきました。霊媒に宿った霊が、霊界の状況をつぶさに伝える通信は多く見受けますが、
この著書のように霊媒ではない一教師がトランス状態の元で、まるで一人芝居でもするかのように入れ替わり立ち代わり
仏教的知識を語るということは稀有な現象でしょう。
しかも難しい仏教用語は著者が霊に聞いて教えてもらったというだけあって、多少の誤字は見受けるものの記述全体は
まさにその場に居合わせたものしか語ることのできない臨場感あふれるものであり、信憑性を高めるものになっています。
本文中で語られた数々の譬え話が、仏教ではどのように位置づけられるのかも一般読者には興味が惹かれるところです。
別の読者からも下記のような書評を頂戴しております。
「この本では釈尊の言葉が度々出てきますが、それらは現代に残っている仏典記載の言葉と異なっております。
文章上では異なっておりますが、意味が同じなので大変驚いております。」
294 :
? :2013/08/30(金) 09:12:07.66 ID:wmevVqC6
>>291 前世は一在家さんへ
> 半年ほど前に退職しまして、就職活動の一環で資格試験にチャレンジしておりました
何の資格試験にチャレンジしたんですか?
アーナパーナやってみようと思うんだが、周囲に適当な教えてくれる場所がない 本やネットで仕方なく調べたら、いってることがみんなばらばら こういう場合、手を出さないほうが賢明?
296 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 14:23:11.73 ID:Ca57dbye
>>294 ?氏
>何の資格試験にチャレンジしたんですか?
ネット上であまり具体的には申せませんが、経産省関連の公的な資格です。
「かきこ自主規制」をかけて勉強し、神仏のご加護のもと無事合格しました。
te
>>292 立花さんは臨死体験の本を出しましたが、輪廻転生については興味がないそうです。
なぜなら、輪廻転生が土着信仰として根付いているのはインドだけで、実際〜の生まれ変わりという
例は圧倒的にインドが多くてそれ以外の地域では圧倒的に少数だからとの事です。
だからインドでは墓を作らない。死んだらインダス川に流す。
日本では墓を作りますし、お盆にはご先祖の霊が帰ってくると祀っています。これは日本人に輪廻思想が
無い事の表れです。
臨死体験については全世界的に症例が多く、細かい点で色々違った体験もありますがコア体験として共通するもの
も認められ、コレを実際に死後の世界があるとするのか、脳がイメージジェネレーターとして死ぬ瞬間に映像を見せている
だけなのか分からないと結論つけています。しかし、大多数はポジティブで有意義な体験として語られるとの事で苦しくて
暗いイメージは少数らしいです。死ぬのはそんなに苦しくはないだろうと感想を述べています。
また涅槃は一般に死後の状態を指しているような雰囲気がありますが、無明、煩悩を滅しきった状態が涅槃なので生死とは無関係です。
生きて涅槃もあります。ただ、凡人には煩悩を滅しきるのが不可能に近く、死んだら煩悩も無くなるので、死→涅槃と変わっていったのでしょう。
299 :
? :2013/08/30(金) 16:39:26.11 ID:wmevVqC6
>>296 前世は一在家さんへ
経済産業省に関係する資格・試験に関する資格・試験一覧
//www.meti.go.jp/information/license/
神仏の、ご加護によって
仏が大悲・大智によって衆生に応じる「加(加被)」
衆生がそれを受け入れる「持(摂持)」
この加と持の双方が相応一致すること
前世は一在家さんが努力をしたという因と
無事合格に至る為の周りの環境という縁によって
無事合格するという果報が現れた
ということですね
とりあえず、お疲れ様でした 屮(_ ._)屮
>>298 自分もあの本読みました。で、触発される様に「前世の記憶を持つ人たち」みたいなんも有りましたね。
宗教で悪どく荒稼ぎするようなヤカラには追い風になってましたね。
やっぱり可知の領域で語るより面白おかしく感じさせるんでしょう。
301 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 20:06:52.82 ID:Ca57dbye
>298 >ただ、凡人には煩悩を滅しきるのが不可能に近く、死んだら煩悩も無くなるので、死→涅槃と変わっていったのでしょう。 肉体から離れた精神に煩悩が無ければ、皆浄土へ往けるか輪廻も無くなるでしょうね。 でも、地獄へ往ったり(参考:スッタニパータ)、現世にとどまって浮遊霊や憑依霊と呼ばれたりするケースもあるようです。 また凡人でない聖人でも100%の聖人でなければ、何らかの煩悩、執着が残るかも知れません。 人が聖人にも獣にも成り得る理由を、ユダヤ教エッセネ派では「人は光のコアと闇のコアを宿す」という法で説いてます。 尚、仏典テキストでは菩薩以外は入胎から出胎までの間に意識(前世の記憶も含む)を失う法が説かれております。 (参考:長部経典「自歓喜経」) その前世の記憶を思い出す法について説かれた仏説があるかも知れませんが、私は知りません。
302 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 20:13:25.96 ID:Ca57dbye
>>301 >その前世の記憶を思い出す法について説かれた仏説があるかも知れませんが、私は知りません。
あー、3か月と言うブランクで忘れておりました。
長部経典の34経の中の半数以上で前世を思い出すことに関する仏説がございました。
お薦めは「沙門果経」、「大善見王経」、「典尊経」、「自歓喜経」等々です。
303 :
神も仏も名無しさん :2013/08/30(金) 20:13:56.80 ID:m/PE9Kfv
304 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 20:21:53.60 ID:Ca57dbye
>>299 :?氏
>前世は一在家さんが努力をしたという因と
その前に退職という縁がございました。
>とりあえず、お疲れ様でした 屮(_ ._)屮
真に有難うございます。
しかし貴兄の顔文字はオンリーワンでしょうか。
奈良のゆるキャラの「遷都くん」に似てます。
>>301 まあ、霊というものが本当にいるのかいないのか分かりませんが、スッタニパータの地獄は方便だと思いますよ。
良い事に励めば天上に生まれ、悪い事をすれば地獄に堕ちる〜等輪廻転生を認めているのは道徳的なものだとい思います。
仏陀は方便では語っても大真面目には死後の事は無記で語らなかった人です。
不可知の事を大真面目に言うのは、もしあればそれこそ地獄行きの発言だと思います。
306 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 20:33:06.41 ID:Ca57dbye
>>303 >番組は世界一受けたい授業の「だ液で先祖のルーツ」を 割り出すもので、
遺伝子研究は進んでおりますからね。
因みに釈尊は「日種」と自称されてます。
(参考:SN423、「姓に関しては太陽の裔といい」←太陽崇拝の王家の意)
「日種」のルーツを調べれば結構面白いかと存じます。
307 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 20:40:46.29 ID:Ca57dbye
>>305 >仏陀は方便では語っても大真面目には死後の事は無記で語らなかった人です。
>不可知の事を大真面目に言うのは、もしあればそれこそ地獄行きの発言だと思います。
少なくても長部経典の中では、仏陀は異教の修行者や修行途上者には死後の事は無記で語らなかった人です。
でも輪廻や神通などの不可知の事でも修行完成者(舎利弗ら)には大真面目に説かれております。
所謂、大智度論の冒頭で龍樹菩薩が解説されました四悉壇(釈尊の対機説法)なのでしょう。
このことを知っていて、釈尊は不可知の事を説かなかったと私が言えば、それこそ地獄行きの発言かも知れませんね。
修行完成者に対してだけ大真面目に形而上の事を説いた〜なんて初耳です。 私は大真面目に仏陀は形而上の事は説かなかったと信じていますが。
一在家殿 >「日種」のルーツを調べれば結構面白いかと存じます。 化学の進歩に驚いています、情報ありがとう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 釈迦の教えは、 己の魂を輪廻転生から断ち切ること! 即ち、如来となって二度と人間界に誕生しないことを 二千六百年前のインド地方の人々に説いたのだと思います。 菩薩は、人間界に使命を持って誕生することがあるそうです。
菩薩は大乗そのものでうからね。 自らが救われなくとも、他者を救う。 それだけが自分の使命と信じて疑わない。 菩薩は今の世にいるでしょうか?
312 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/30(金) 23:19:51.23 ID:Ca57dbye
>>310 >釈迦の教えは、
> 己の魂を輪廻転生から断ち切ること!
> 即ち、如来となって二度と人間界に誕生しないことを
>>310 >菩薩は大乗そのものですからね。
> 自らが救われなくとも、他者を救う。
>それだけが自分の使命と信じて疑わない。
>菩薩は今の世にいるでしょうか?
スッタニパータ、ディーガニカーヤでは、修行完成者の阿羅漢以上は輪廻しないそうです。
因みに「再び母胎に宿ることはない」と釈尊が保証された人々がスッタニパータだけでも7人は登場します。
菩薩は輪廻する必要はありませんが、衆生済度の発願が縁で(方便力にて)幾度も再生されます。
今の世でも結構おられるのではないでしょうか。宗教者とは限らず、科学者や事業家の中にも。
如来も輪廻する必要はありませんが、完全な涅槃には入らず「無住処涅槃」にて衆生済度をご展開中のようです。
(参考:全訳入中論 P9)
尚、有名な法華経の如来無量寿品では、衆生を教化する為に如来も再生されたそうですね。
私は修行完成者に対してだけ大真面目に形而上の事を説いたという経典を知りたいです。
314 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 00:11:53.02 ID:OtXu973A
>>313 >私は修行完成者に対してだけ大真面目に形而上の事を説いたという経典を知りたいです。
>>307 >少なくても長部経典の中では、仏陀は異教の修行者や修行途上者には死後の事は無記で語らなかった人です。
>でも輪廻や神通などの不可知の事でも修行完成者(舎利弗ら)には大真面目に説かれております。
上記は長部経典の「自歓喜経」を参考にしており、説法相手は舎利弗(修行完成者)です。
(より正確には舎利弗が釈尊から聞いた教えをリピートした後に釈尊から保証されました。)
さて、「修行完成者に対してだけ大真面目に形而上の事を説いた」かということですが、
もう一度調べてみますと「修行完成者以外にも大真面目に形而上の事を説いた」というテキストがあります。
それは長部経典の「沙門果経」でして、輪廻や神通などの不可知の事を釈尊は説かれておりますが、
説法相手は父王を殺した阿闍世王であり修行完成者ではありません。
通常はこういう相手には無記で語らなかった釈尊ですが、阿闍世王は例外だったようです。
またこの時に1,250名の修行僧が同行しておりましたので、その中の修行途上僧も聞いた可能性はあります。
以上、修行完成者以外にも大真面目に形而上の事を説いた、事例もあると訂正しておきます。
自歓喜経、沙門果経で語られた〜と言うのも一つの読み方とは思いますが、私にはそうは読めません。 まあ、人それぞれ解釈の仕方があるのでしょう。 私は仏陀が形而上の事を方便ではなく積極的に語ったとは信じられません。 書き言葉で残されたものは、何が真実なのか汲み取るのは読むものに委ねられています。 読み方次第で正反対になる事もあるのですね。
316 :
? :2013/08/31(土) 01:20:20.44 ID:6qsv3oph
>>115 記憶喪失した男さんへ
> おれがスレ立ててから、急にレスするのやめるなよ
→ 前世は一在家さん ← が来てくれたので
少しは活性化するかもしれません
そして → 机先生とか ← が来てくれれば
もっと更に盛り上がるかもしれません
_ _ _
>>304 前世は一在家さんへ
> 貴兄の顔文字はオンリーワンでしょうか
> 奈良のゆるキャラの「遷都くん」に似てます
屮(_ ._)屮<ありがとうございます
317 :
神も仏も名無しさん :2013/08/31(土) 01:30:13.28 ID:prngsKL4
指摘されなければ、でまかせを言いっ放し
ってのがスタイルだもんなw 在家は
>>314
>菩薩は輪廻する必要はありませんが、衆生済度の発願が縁で(方便力にて)幾度も再生されます。 >今の世でも結構おられるのではないでしょうか。 菩薩は、輪廻の輪から抜け出せないんですよ。 死んでから、極楽浄土に行って、本来は、如来になる資格を持つ仏様でも 衆生済度の為にあえて菩薩になって使命を自覚してこの世に誕生するのです。 如来の資格を持つ仏が如来に成れは、輪廻転生しないのです。 衆生済度のために人間界に行くなら菩薩を選びます。
320 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 06:40:03.15 ID:OtXu973A
>>318 >死んでから、極楽浄土に行って、本来は、如来になる資格を持つ仏様でも
>衆生済度の為にあえて菩薩になって使命を自覚してこの世に誕生するのです。
使命という言葉に補足しますと、慈悲の完成は仏において見られますが、この慈悲が
根本となって全ての人を救おうとする決意が生じます。これが「菩提心」ですね。
(参考:「全訳 入中論」)
私の本に登場する仏様も「我汝を救わずば正覚を取らじ」と幾度も繰り返されました。
一切智も衆生済度の為にあり、涅槃よりも衆生済度を重視されておられるかと存じます。
321 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 06:48:11.82 ID:OtXu973A
>>316 ?氏
>
>>115 記憶喪失した男さんへ
>> おれがスレ立ててから、急にレスするのやめるなよ
>
> → 前世は一在家さん ← が来てくれたので
>少しは活性化するかもしれません
そうでしたか。
3か月前にもオイラ氏にスレ解脱の兆しがあって、彼を縁とした他の住人達の
かきこが減少の兆しはございましたね。
2chの議論板はお気楽に仏教徒と仏教徒、仏教徒と異教とがお話しできる
大切な縁起の場と認識しております。
322 :
? :2013/08/31(土) 11:26:03.69 ID:6qsv3oph
↓
>>321 前世は一在家さんの為に貼り憑けておきます 屮(_ ._)屮
瑜伽師地論
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 T1579_.30.0279a04: 瑜伽師地論卷第一
T1579_.30.0279a05: 彌勒菩薩説
T1579_.30.0279a06: 三藏法師玄奘奉 詔譯
T1579_.30.0279a07: 本地分中五識身相應地第一
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1579_,30,0282c29:1579_,30,0283a10.html T1579_.30.0283a01: 爾時父母貪愛倶極。最
T1579_.30.0283a02: 後決定各出一滴濃厚精血。二滴和合住母
T1579_.30.0283a03: 胎中合爲一段。猶如熟乳凝結之時。當於
T1579_.30.0283a04: 此處。一切種子異熟所攝。執受所依阿頼耶
T1579_.30.0283a05: 識和合依託。云何和合依託。謂此所出濃厚
T1579_.30.0283a06: 精血合成一段。與顛倒縁中有倶滅。與滅
T1579_.30.0283a07: 同時即由一切種子識功能力故。有餘微細
T1579_.30.0283a08: 根及大種。和合而生。及餘有根同分精血和
T1579_.30.0283a09: 合摶生。於此時中説識已住結生相續。即
T1579_.30.0283a10: 此名爲羯羅藍位。
323 :
? :2013/08/31(土) 11:56:52.34 ID:6qsv3oph
↓
>>321 前世は一在家さんの為に貼り憑けておきます 屮(_ ._)屮
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 爾のとき父母の貪愛倶に極まって
最後に決定して、各々一滴の濃厚の精血を出す
二滴和合して母胎の中に住し、合して一段と為る
猶し熟乳凝結の時の如し
当に此の処に於て一切の種子を持ち、異熟性に摂められ
執受の所依たる阿頼耶識和合し依託するなり
云何んが和合し依託するや
謂く此の出だす所の濃厚の精血合して一段と成り
顛倒の縁と中有倶に滅す
滅と同時に即ち、一切種子識の功能力に由るが故に
余の微細の根および大種ありて、和合して生ず
及び余の有根の同分は精血和合して博生す
此の時の中に於て、識すでに住して結生相続すと説く
即ち此れを名けて羯羅藍の位と為す
324 :
? :2013/08/31(土) 12:52:55.06 ID:6qsv3oph
325 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 13:26:25.88 ID:OtXu973A
>>323 ?氏
>執受の所依たる阿頼耶識和合し依託するなり
>>324 >阿頼耶識に薫習し、その薫習によって妄心を生ずるのである
>妄心とは業識である
阿頼耶識:不生不滅ではなく輪廻の主体として業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法
(参考:「仏教要語の基礎知識」、水野、P164)
以上、最近来られた方への補足まで。
326 :
? :2013/08/31(土) 13:40:32.81 ID:6qsv3oph
↓特にこの結論には全く同意します。この方のこのブログは全てにおいて正しく原始仏教を捉えていると思います。 >つまり、ブッダの究極の境地においては、死後の輪廻が真実かどうか、具体的に言えば、死後において自らの識別作用が >存続するのか否か、死後に断滅するのか永久に行き続けるのか、などといったことについては相手にしない、そして、最終的には、 >輪廻転生が真実であるのか方便であるのか、そういった想いからも離れる、そして、そういった想いから離れる、という想いからも >離れる、ということになるのだろう。 >そしてもちろん、死後の世界(天界や地獄など)の存在を否定することは釈迦の姿勢ではなく、あくまでブッダのその勝義においては、 >あらゆる形而上学説について沈黙する、つまり問題としない、という手法がとられたのであろう。 >仏教の修行者が自らの死後の行方に関して有という想いや無という想いを持ち続けたままでは輪廻を繰り返すことになる、 >具体的に言えば、ニルヴァーナに至ること、つまり輪廻から解脱することは困難となるだろうと私は思っている。
>>330 の続き
仏教 議論スレッド 29
http://mimizun.com/log/2ch/psy//1324746559/215 水野訳
877
彼等(諸見者)を依著者なり【と知り】、かの現慧ある牟尼は依著【を知り】
「慧者は《種々の有》に戻り来たらず」【と知りて】、解脱者は諍論に至らず
877(884)
ete ca 【JatvA】 upanissitAti, 【JatvA】 munI nissaye so vimaMsI
【JatvA】 vimutto na vivAdameti, 《bhavAbhavAya》 na sameti dhIro ti
※墨括弧、二重山括弧は引用者が付加
やはり中村訳「変化的存在」は、bhava(有、生存、存在)だったか
(862(869)から、少なくとも875(882)から連続した偈と見るべきだし)
私は中村訳の方が分かりやすくて良いと思いますがねえ。 中村訳 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って 諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない 思慮ある賢者は種々なる変化的生存(次の生)を受けることがない 水野訳 彼等(諸見者)を依著者なり【と知り】、かの現慧ある牟尼は依著【を知り】 「慧者は《種々の有》に戻り来たらず」【と知りて】、解脱者は諍論に至らず 言ってる事は同じでも中村訳の方が今の人間には理解しやすいでしょ。
>>332 述部、結論が違うやんwww
>(次の生)を受けることがない (中村)
>諍論に至らず (水野)
少なくとも水野訳は、
「次の生を受けないこと」もまた、智慧者の知悉する多くのことの一つであり、
それを目指すべき結論としての文になっていない。(それ一つを特筆するものではない。)
(そして、原文の持つベクトルもそうであろう。)
林先生の要約講義じゃないがw、
結論として言いたいことが何であるか、が、水野訳と中村訳では全く異なってるのさ。
なるほど。 つまり↓こういう順番でいくのが正しいというわけですね。 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って 諸々のこだわりを塾考し、 思慮ある賢者は種々なる変化的生存(次の生)を受けることがない と知った上で、解脱せる人は論争におもむかない
335 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 17:05:15.90 ID:OtXu973A
>>329 >そしてもちろん、死後の世界(天界や地獄など)の存在を否定することは釈迦の姿勢ではなく、あくまでブッダのその勝義においては、
>あらゆる形而上学説について沈黙する、つまり問題としない、という手法がとられたのであろう。
少なくとも原始仏典(スッタニパータ、ディガニカーヤ)では、釈尊は多くの経典で輪廻や神通について説かれております。
過去ログでも二つの見解を提示しました。
説法1)仏陀は形而上学説について沈黙する(参考:ポッタパーダ経)
説法2)仏陀は輪廻や神通について幾度も説かれた(参考:スッタニパータ、自歓喜経)
見解1)四悉壇、相手に応じた対機説法の為に説法1と説法2とを使い分けた(参考:龍樹の大智度論)
見解2)修行完成者にとっては輪廻や神通は直接知覚できるので形而上学説でなかった(参考:沙門果経)
原始仏教テキストに基づきつつも、一切智の仏陀の無矛盾を説明する見解は他にもございますでしょう。
336 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 17:18:09.17 ID:OtXu973A
>>335 >見解2)修行完成者にとっては輪廻や神通は直接知覚できるので形而上学説でなかった(参考:沙門果経)
六神通の中にカルマを見る神通があり、釈尊は対機説法の中でも活用されていたようです。
(事例、沙門果経)
釈尊は阿闍世王が退出した後に修行僧達に語りました。
「もしかの王が父君を殺さなかったならば、まさにこの座において塵のない汚れのない法眼が
生まれたにちがいない。」と。
註)私が長部経典を引用する場合は春秋社(中村元監修)を使用しております。
形而上の事に対して無記という姿勢は真実だったでしょう。 では、それにもかかわらず形而上の事が経典に書かれているように見えるのは、 経典作者の意図がそうさせているのだと思います。 片方で無記で片方で無記ではなく語った〜でどちらかを信じるかは読むものに委ねられているという事でしょう。
338 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 17:29:17.08 ID:OtXu973A
>>337 >形而上の事に対して無記という姿勢は真実だったでしょう。
>では、それにもかかわらず形而上の事が経典に書かれているように見えるのは、
> 経典作者の意図がそうさせているのだと思います。
なるほど。。見解に加えておきます。
見解3)形而上の事が経典に書かれているように見えるのは、 経典作者の意図がそうさせている
なおキリスト教議論板でも福音書筆記者の意図の違いはよく議論されました。
339 :
? :2013/08/31(土) 17:45:13.20 ID:6qsv3oph
大きな違いは、
福音書は、そもそも始めから、
「“キリストの事跡”に対するそれぞれの解釈」であり、
そのようなものとして語られ(著され)、受け止められている(であろう)
のに対して、仏典は、
「解釈の挟まれていない仏語(及びその伝聞)」である、
それが伝承されてきた、と受け止められている所かな。
その点で、前者に於いては解釈の違いはあって当然だし、
福音書ごとの相違をすり合わせる作業も不遜でも手前勝手でもない。
が、仏典では、解釈の違いが存在するという見方は、不遜で、手前勝手な恣意的読みという色合いを帯びてしまう。
或いは、
仏や阿羅漢、菩薩達に二言があった、解釈に相違を生じせしめてしまう程度には説法が不完全だった、
という評価を与えることになる。
(勿論、文献学、原点批判的研究、(或いは解釈学?)というのはそうしたものだが・・。)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007019171 今ふと見つけたが、なんかオモロイサイトが立ちあがっとるw
かなり便利かも !(゚д゚;)
http://sc.chat-shuffle.net/
341 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/08/31(土) 19:47:28.96 ID:OtXu973A
>>335 >説法2)仏陀は輪廻や神通について幾度も説かれた(参考:スッタニパータ、自歓喜経)
仏陀が形而上学的?な「無色界」を説かれた一節がスッタニパータにありました。
Sn754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、
消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
Sn755 しかし(後略)
死後の世界とか、いわゆる形而上の事を説かなかった〜というのは仏陀の優れた面だと理解しています。
説かなかったというのは、あるともないとも説かなかったという事です。
一方、神秘主義思想のアプローチもあるとは言わないがありうるという立場です。
この立場を際立たせると「ありうる」に焦点があたって、その事を強調するようになるでしょう。
しかし、仏陀は
>>329 のとおり、そのような事は問題にするに値しない〜というものだったでしょう。
死後の世界はあってもよく、なくてもよい。そんな事は生きている人間には問題にならない〜と切り捨てたのが真実だと思います。
┐(´ー`)┌
物質でなければ形而上?
目に見えなければ形而上?
触れ得なければ形而上?
ならば、人間の感情は形而上?
磁力や引力は形而上?
笑わせんなw
>>341
磁力や引力は形而上ではないでしょうねえ。 一応、科学的に説明できるものですから。 感情もある程度までは科学的に解明されていますから形而上とは言わないでしょうねえ。 死後の世界とか宇宙の果てとか人間にとって不可知領域の事を形而上というのだと思いますが?
子供が親に向かって「何故自分はここに生きて居るの?」と質問して、親が答えに窮した〜 というのも、その質問が形而上だからだと思います。 分かった様な事を言う瀬戸内寂聴は、親が望んであなたが生まれて来た、あなたが居る事 が私達(親)にとって幸せなの〜とか説明しており、言っている事は分かりますが答えになっていません。 つまり答えられない質問に対しては分からないと答えるのが最も誠実で正しい姿勢だと思います。 仏陀は誠実で正しい人だったと思いますし、そのような人を尊敬します。
う〜む まあな。
緩やかなおおらかな解釈でも、鎮痛剤や抗炎症剤、禁煙補助剤等は継続OKだとしても 降圧剤、循環器系薬剤は継続不可だろうな。 コレを継続可とすれば何でも有り状態を認める事になる。 それは有り得ないでしょw
↑ごめんw 誤爆です。
>>348 いや、「テキストの読み方」(≒受け止め方・利用の仕方)からすると、
あながち外れてないw
自らや、現代、或いは、現時点の周囲の状況等に、
どこまで引き寄せて「意訳」が可能か?
という問題と相似してるように見えた。
>>350 の続き
慢を滅させることができた人に対しては
陰を捨て已りて彼彼の処に生じるとは説かない
慢を滅させることができた人に対しては
無記とする
と捉えることもできるかもしれません
T0099_.02.0032b11: 我諸弟子。於
T0099_.02.0032b12: 我所説。能解義者。彼於諸慢。得無間等。
T0099_.02.0032b13: 得無間等故諸慢則斷。諸慢斷故身壞命終
T0099_.02.0032b14: 更不相續。仙尼。如是弟子我不説彼捨此
T0099_.02.0032b15: 陰已生彼彼處。所以者何。無因縁可記説
T0099_.02.0032b16: 故。欲令我記説者。當記説。彼斷諸愛欲。
T0099_.02.0032b17: 永離有結。正意解脱。究竟苦邊。我從昔來
T0099_.02.0032b18: 及今現在常説。慢過慢集慢生慢起。若於慢
T0099_.02.0032b19: 無間等。觀衆苦不生。
>>344 だから
>>341 に於いては、
≪ 「仏教に於いて」 「無色界(領域)」 は 「形而上」 か? ≫
ということになるのさw
354 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 15:24:53.21 ID:yjJ4aD7k
>>341 >Sn754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、
> 消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
>>343 >磁力や引力は形而上?
> 笑わせんなw
>>341 >>353 >≪ 「仏教に於いて」 「無色界(領域)」 は 「形而上」 か? ≫
>ということになるのさw
21世紀の日本ではなく、2500年前のインドで「非物質的領域に住む諸々の生存者」が
「形而上外」ですか?
21世紀でも「非物質的領域に住む諸々の生存者」とは「形而上外」ですか?
現代であれば磁力や引力は形而上ではないでしょうが、当時のインドでは如何でしょうか?
一応、議論板なのでテキストベースでロジカルに。。正しく見て、正しく考えて。
非物質的領域に住む諸々の生存者って具体的に何を指しているのですか?
356 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 15:32:05.76 ID:yjJ4aD7k
>>354 >21世紀でも「非物質的領域に住む諸々の生存者」とは「形而上外」ですか?
スッタニパータに登場して、釈尊と対話した神、悪魔、精霊等は
「物質的領域に住む諸々の生存者」ですか、「非物質的領域に住む諸々の生存者」
ですか?
もし後者であれば「形而上」かと思料します。
仏典で言う神とか悪魔というのは、心の神、心の悪魔で、具体的に形ある神とか悪魔の事じゃないですよ。 そういう意味では2500年前でも形而上ではないと思います。
358 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 15:36:34.20 ID:yjJ4aD7k
>>355 >非物質的領域に住む諸々の生存者って具体的に何を指しているのですか?
それはご自身でスッタニパータを読まれて考えてみて下さい。
ただ、その存在は輪廻するとSn.754にヒントが説かれております。
359 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 15:43:10.42 ID:yjJ4aD7k
>>357 >仏典で言う神とか悪魔というのは、心の神、心の悪魔で、具体的に形ある神とか悪魔の事じゃないですよ。
>そういう意味では2500年前でも形而上ではないと思います。
それならば、仏典で言う梵天とか輪廻というのは、心の梵天、心の輪廻で、具体的に形ある事じゃないですよ、となります。
貴兄のことではないですが、仏典を唯物的に、現代科学常識的に引き寄せて読まれる方々が本スレで輪廻のことを否定されたました。
その度に今は本スレから解脱されたオイラ氏がコメントを入れておられたものです。
360 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 15:49:07.85 ID:yjJ4aD7k
>>359 >それならば、仏典で言う梵天とか輪廻というのは、心の梵天、心の輪廻で、具体的に形ある事じゃないですよ、となります。
ある宗派では輪廻とは心の輪廻であり、生きている内に六道輪廻すると教えているそうです。
つまり死んでから輪廻するのではないという教えです。
少なくとも原始仏教、スッタニパータでは、「再び母胎に宿ることはない」と幾度も明記されており、生前の心の輪廻でないことは明白かと存じます。
梵天や輪廻は立派に形而上です。 心の神(良心?)や心の悪魔(誘惑?)は言ってみれば心理学で説明可能な領域でしょう。 科学的に説明不可能な領域を形而上と言うのだと思いますが? 「存在理由」や「死後の世界」や「宇宙の果ての果て」〜等は科学的に説明不可能で今後も可能になる事は無いと思いますが。
確かに仏教で輪廻を説いてはいますが、フォーカスをここに当てすぎると逆に輪廻から抜けられなくなると思いますよ。
>>329 のとおりです。
363 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 16:05:00.45 ID:yjJ4aD7k
>>361 >心の神(良心?)や心の悪魔(誘惑?)は言ってみれば心理学で説明可能な領域でしょう。
確かに釈尊が苦行中に神の声や悪魔の声を聞いたのであれば貴兄のおっしゃることもロジカルです。
でも悟った後の仏陀が心の神(良心?)や心の悪魔(誘惑?)と度々語ったとすると如何でしょうか?
本スレの今は解脱したかも知れない他称「ご隠居」は釈尊は精神異常者だとの持論を展開されました。
三つ子の魂的な産まれ落ちて生い立ちの暮らしで染み付いてしまった性質の事でしょうね。 それが後年、人格になり思考や発想の傾向が出来上がって、人生の中でループすると言う。
悟ったら、その状態が死ぬまで続く〜とは思えませんが? 仏陀も普通の人間でスーパーマンじゃありません。 悟ったあとも、良心や誘惑はあったと思いますよ。
366 :
神も仏も名無しさん :2013/09/01(日) 16:16:56.05 ID:jlDUTbXx
●日本人は「Y染色体DNAのD系統を高頻度で持つ」事で有名である。(父方遺伝) (ミトコンドリアDNAは、母型遺伝) 世界的にもチベット人や中近東の人だけがこのDNAをもっているが、他の世界 のどこにもほとんど存在しない。 さらに日本のすぐ近くの朝鮮半島や中国人が「南方系O系統」であり、孤立した 「D系統を持つ日本人」の異質さが際立って見える。 またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、 Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布 し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。 D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本42〜56%(参考までチベット33%)で、 「韓国ほぼ0%」である。 アイヌには南方系O系統は無く、完全なD系統であり、本土日本人と沖縄人には南方系の Oが混ざっている。それでも本土日本人のD系統は半数以上である。つまり事実上アイヌ と本土日本人は大差がなく、アイヌに南方系を足したのが本土日本人となる。 結論として日本人は基本的に共通して、アイヌ人〜本土日本人〜沖縄人までD系統(北方古 モンゴロイド)がベースになっており、日本人3集団が持つ「D系統を持たない韓国人」 は 赤の他人 と結論できる。
367 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 18:38:59.06 ID:yjJ4aD7k
>>366 >●日本人は「Y染色体DNAのD系統を高頻度で持つ」事で有名である。(父方遺伝)
> (ミトコンドリアDNAは、母型遺伝)
このDNAネタも幾度も輪廻してますね。
>またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、
>Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布
>し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。
Y染色体DNAでは日本人は朝鮮人よりもユダヤ人に似ているそうですね。
更に古代ユダヤ教の慣習が古神道と似ており、「日ユ同根」、行く先が不明のユダヤ部族が
日本に来たのだろうとユダヤ教のラビ達が熱心に研究していることは有名です。
私自身も飛騨高山でラビ達の見解を聞いたことがあります。
このネタは直接は仏教に関係ないですが、各宗教の同根という話題は興味深い話です。
例えば、法華経の方便品に「全ての人は仏子にてやがて仏になり得る」という奥義がありますが、
ユダヤ教エッセネ派にも「全ての人は神の子にて神にも獣にもなり得る」という教えがあります。
368 :
神も仏も名無しさん :2013/09/01(日) 19:17:04.60 ID:fRt5kva/
また、他人の発言をモザイク・アレンジしてでたらめ三昧かw
>>359-360 >その度に今は本スレから解脱されたオイラ氏がコメントを
そのオイラ氏は、
>>341 を「形而上のことが説かれた」と、一言でも言ったのかい?
てめえの359は、そこまでの各レスの流れ(341、344、353、354)を受ければ、
オイラ氏が、341もまた形而上と見ていた、という印象になるんだが、
それで合ってるのか?
>>367 またかw
>「全ての人は仏子にてやがて仏に
>「全ての人は神の子にて神に
「神の子」ってのは、どこまで行っても被造物だよな?
まず、ここから確定していこうや。 どうなんだ?
人は、神とは別に(神に依らずに)誕生・存在し得るのか?
仏典に形而上の事が書かれているからそれは真実である〜というのはいかがなものでしょうねえ。 前にも言いましたが経典作者なり編纂者の意図的なものである可能性がかなり高いと思いますよ。 後々仏陀が神格化されたから仏陀はスーパーマンだ〜って言っても、そのようなものに興味はありません。 天国、地獄、輪廻、神、悪魔〜等に興味はありません。 人間仏陀に興味があるので原始仏教を読んでます。
>>352 思うんだけどさ、
帰謬論証派は、作用によって実際にどうなるかよりも、常に真実の観点から答えようとしてるよね
あくまで分別する世俗を立てない。燃えているという言葉で伝えようとしている現象をあくまで
燃えているという分別された表現の出来事が起こってないと排斥してるのであって、現象そのものがないとは言ってないよね。
別に俺が死なないと思ったら、火に焼かれても死なないんだとは言ってない。
なんらかの因果、縁起の流れによって生まれ変わるなりするだろうが、分別されたような世界は存在しないと。それは迷妄だと言っている。
対して、自立論証派は、燃えているという言葉はさておいて、燃えているという言葉で説明しようとしている現象はあるよねということだな
つまり、作用はあるはずだと。しかし、その作用という自己の意思とは無関係に強いられている現実、
それを業の力と定義しているのか、それとも四大の縁起する様と定義しているのか知らんが
その力と言葉に相関関係がかぎりなく1に近い結びつきが見られると。それは真だから、真実ではないにしても擬似的に認められうると
主張してるのだろう。それを実世俗として評価しようということなのだろう。
しかし、そもそも自相という表現が、真実である無相と矛盾してるんだよな。
世俗を見るまなざしと、勝義のまなざしがオンオフで切り替えられている。
しかも、それは、当時のインド文化と空があまりにかけ離れていて、説得するための世俗の言葉をある程度認めなければ
何もできなかったという苦渋の背景があるように思う
でもね、自立論証派の欠点はまだあると思うんだよね それは、論理学によって、実世俗の客観的因果関係をつかいながら、 主観的体験が支配する真実という世界まで導こうという思想傾向。 科学ってのはアナロジーの妥当性を、推論、仮説、実験というプロセスの中で保っているのに ひたすら推論のみという方法しか用いないなら、相関関係もあやしくなってくるわな 風が吹けば桶屋がもうかるのような誰も確かめようがない議論になっちまう だから、竜樹のようにただ分別で理解できない世界があるのだと、言語の欠陥をひたすらついていくのが 相手に配慮しないが近道でもある。自立論証のアプローチをまったく否定するつもりはないけどね
373 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 21:09:27.54 ID:yjJ4aD7k
>>368 >てめえの359は、そこまでの各レスの流れ(341、344、353、354)を受ければ、
>オイラ氏が、341もまた形而上と見ていた、という印象になるんだが、
>それで合ってるのか?
その印象は合っておりません。
オイラ氏は現代の科学的常識で輪廻を否定された方々にコメントされただけだと
記憶しております。
>>369 >「神の子」ってのは、どこまで行っても被造物だよな?
>まず、ここから確定していこうや。 どうなんだ?
> 人は、神とは別に(神に依らずに)誕生・存在し得るのか?
「神の子」は被造物ですね。
神とは別に(神に依らずに)誕生・存在し得えないでしょう。
また人類創造の「神」も至高神でなければ、至高神の子らの中の一方でしょう。
異教の「神」に近いのは仏典では「梵天」ですが、原始仏典の長部経典でも「梵天」は
複数存在します。
あの梵天勧請で有名な「大本経」でも「大梵天の中の一方が」と記載され、大ブラフマ神
も複数存在することを示しておりますので。
前スレで対話した貴兄も再生されたようですね。
だから、そういう神様だとか死後の世界とか輪廻とかは「あるかもね」で肯定も否定もしないのがベストなんじゃないのですか? いかにも「ある」に偏ると方向性としては180度異なると思いますが?
375 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/01(日) 21:56:18.74 ID:yjJ4aD7k
>>374 >だから、そういう神様だとか死後の世界とか輪廻とかは「あるかもね」で肯定も否定もしないのがベストなんじゃないのですか?
あくまでテキストベースでどう説かれているかということです。
あとは「信心」次第でしょう。
仏教は科学でも哲学でもなく宗教だとおもいますので。
テキストを一字一句そのまま信じるというのも「あり」なのかもしれませんが、 その背景とか成り立ちとか経緯とかを踏まえて理解したほうがより真実味が あると思いますけどねえ。 極楽浄土を信じる、コレこそが仏教だ〜という人も居るでしょうが、私はそんなのは仏教じゃないと思います。 確かに何を信じるかは個々人次第ですね。
マヌ法典の時代にはブラフマー以上の神は考えられていないが、後のヒンドゥー教では最高神はヴィシュヌあるいはシヴァとされ、ブラフマーの一生はどちらかの最高神にとっては一瞬であるというような更に巨大なサイクルの考え方も成立するようになる。
>>373 では、
「仏の子」は被造物か?(→仏によって創造された存在か?)
人は、仏とは別に(仏に依らずに)誕生・存在し得るかのか?
379 :
神も仏も名無しさん :2013/09/01(日) 22:48:57.97 ID:jlDUTbXx
一在家 殿 >Y染色体DNAでは日本人は朝鮮人よりもユダヤ人に似ているそうですね。 >更に古代ユダヤ教の慣習が古神道と似ており、「日ユ同根」、行く先が不明のユダヤ部族が >日本に来たのだろうとユダヤ教のラビ達が熱心に研究していることは有名です。 話が飛躍していませんか、日ユ同祖論は石原莞爾をはじめ、多くの旧日本軍人の間では 絶大的な人気のあった、ファンタジーではありませんか? 仏教で修行成される方の発言とは思えませんね。 しかし、雑誌ムーの話が趣味なら仕方ありませんが。
横レスだが どうも無記について誤解が大きいようだ あの世のことや形而上のことについて無記の理由は 瞑想によって実相を直接体験しろという意味だと思うが 言葉でいくらこねくり回したって、直接体験なしにこの世の実相は理解できない 言葉面だけを追う学者に成り下がるな 瞑想家であれということだろう
そんなこと議論してる暇があったら瞑想しろ それがお釈迦様の姿勢だ
確かに瞑想で極楽浄土を見よ〜というのはあったらしいですねえ。 立花さんも本で紹介していました。 それが、本当にあの世の実相なのか否かは「?」という結論でしたが。 死後の世界は生きてる人間には理解不能というのが事実でしょう。 想像ではいくらでも語ることが出来ます。 臨死体験も死後の世界を如実に語っているのか、単なる脳のイメージなのか不明。 つまり、語れない領域なのですよ。 そのような事にとらわれないで生きれば良いだけなのに、死後の世界だとか、輪廻とかに とらわれるのは、最も避けなければならない事だと思います。 瞑想したい人はすれば良いし、どうでも良い人はしなければ良い。 そんな事は大した事じゃありません。
>確かに瞑想で極楽浄土を見よ〜というのはあったらしいですねえ。 これは仏陀の言葉という意味ではなく日本の僧侶の話です。
384 :
神も仏も名無しさん :2013/09/01(日) 23:24:52.94 ID:jlDUTbXx
>>366 日本人のO2系統はO2b1で韓国人とはyDNAが異なります。
韓国人は日本人と一緒でありたくて必死のようです。
一方、O3は大陸人とほぼ同じでしょう。
385 :
神も仏も名無しさん :2013/09/01(日) 23:37:49.84 ID:lWsbcuXd
宗教と科学の境界もつかないオカルト乞食の真光信者とよく マトモに会話できんなwwこいつ手かざしで癌治せるだの味噌汁の 味変えるだの金粉降らせるだの言ってるコメディアンだぞwww 笑われてなんぼの(笑)
>>382 あなたは我見に凝り固まってますね
瞑想を深めた人の見解と、あなたの見解は同じではありません
瞑想などしてもしなくてもいいという姿勢なら、それはもはや仏教ですらありません
あなたの見解を私が否定するいわれはありませんが
その見解を仏教であるかのように語るのはやめてください
しかし、日本仏教の一部にはそういう見解もあるんですかね そうであるなら仕方ないんでしょうか 明らかに初期仏教からは逸脱した見解に見えますが
388 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:3) :2013/09/02(月) 00:18:56.30 ID:OuobrRnR BE:2737416285-2BP(427)
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ 中国唐代の禅、存在するというものにはしないと答え、存在しないというものにはすると答える弁償術をどう思う?
::::::::: (┐ノ 化物語で、忍野メメがいってた哲学だけど。」
:::::::::: /
::::::::::::::::::::::::::::::::::
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ ググってものってないぜ。
::::::::: (┐ノ 中国仏教を研究している仏僧はまれだ。
:::::::::: / この弁証術をどう思う? 真理だと思うかい? 悟りだと思うかい?
::::::::::::::::::::::::::::::::::
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ
>>103 すると、きみは真理を知らないわけだ。
::::::::: (┐ノ どこかに真理を知っている者がいるかい?
:::::::::: / 真理を知っているというものには、こういえばいい。
:::::::::::::::::::::::::::::::::: 存在するというものには存在しないと答え、存在しないというものには存在すると答える。
必ず論破できるさ。
389 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) :2013/09/02(月) 00:20:05.37 ID:OuobrRnR BE:4927349489-2BP(427)
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ つまり、自分の意識しか存在しないというものには、物自体が存在すると答え、、
::::::::: (┐ノ 物自体が存在するというものにはあなたの意識しか存在しないと答える。
:::::::::: / 議論の行きつく先は、仏教の中観派といわれるこの中国唐代の禅によって、成立している。
:::::::::::::::::::::::::::::::::: これを論破できる人はいるかな?
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ
>>118 ナーガルジュナはそこまでいってない。その基礎を作った人物ではあるが。
::::::::: (┐ノ 「主客と客体」ウィキによれば、この論理が成立したのは中国唐代の禅だということになる。
:::::::::: /
::::::::::::::::::::::::::::::::::
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ
>>121 上座部仏教とは全然ちがうぞ。
::::::::: (┐ノ 達磨さんに始まる中国唐代の禅だといってるだろ。
:::::::::: / 上座部仏教は、世界を空なりと観ぜるのが目的。
::::::::::::::::::::::::::::::::::
390 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(3+0:3) :2013/09/02(月) 00:20:42.18 ID:OuobrRnR BE:684354252-2BP(427)
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ
>>122 おれも「中論」を読んだだけだけど。
::::::::: (┐ノ 中観派の成立は、「主体と客体」ウィキによれば中国唐代の禅だ。
:::::::::: / 確認したことないんで、知らないよ。なんせ、何百冊の本を読まないとわからないことだからね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ
>>128 禅問答で何をいっていたかというと、おれのいってる論理を空という名で読んで悟りとしていたのだよ。
::::::::: (┐ノ
:::::::::: /
::::::::::::::::::::::::::::::::::
391 :
記憶喪失した男 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:3) :2013/09/02(月) 00:24:15.16 ID:OuobrRnR BE:2053062465-2BP(427)
あうあうあうあうあうああー
::::::::: へ( ^q^')ノ
>>133 竜樹がいったのは、ものごとに本質はない、ということだけだ。
::::::::: (┐ノ 後世の仏教学者がいう「あるというものにはないと答え、ないというものにはあると答える」とはいってない。
:::::::::: / おそらく、中国仏教経典の中にこの文句が発見されたのだろう? 推測だが。
::::::::::::::::::::::::::::::::::
392 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/02(月) 00:24:52.40 ID:QyMqRIrX
>>380 >どうも無記について誤解が大きいようだ
> あの世のことや形而上のことについて無記の理由は
>瞑想によって実相を直接体験しろという意味だと思うが
貴兄の見解にまったく同感です。
長部経典第九経「ポッタパーダ経」で釈尊は異教の修行者ポッタパーダの形而上学的質問には黙して答えませんでした。
でも、まったくの無言ではなく下記のように説かれました。
「ポッタパーダよ、あなたは異教の見解によっているため、異教の忍耐によっているため、異教の目的によっているため、
異教の実践によっているため、異教の師によっているため、『心理作用は人のアートマンである』とか、あるいは
『心理作用とアートマンは異なる』ということを、知り難いのです。」
もし釈尊を師とし、正しく実践(禅定)すれば悟れるという意味だったかと思料します。
ブッダの法は 四諦によって苦しみの本質が何であるか説かれ 十二縁起によってそのプロセスが詳細に説明され 四念処、五蘊無我等の瞑想によって四苦八苦が具体的に取り除かれ 四禅定等によって具体的にどの様な瞑想状態になるのかが説かれている 非常に具体的な修行体系です チベット仏教の死者の書や秘儀には 具体的に人が死ぬときにどの様に意識が変化して行き どの様に再生するのかのプロセスが詳細に記述されており それを瞑想によって体験してゆく技法もあります 仏教を詳しく学べば、勝手な我見が入り込む様な 曖昧な教えではありません
394 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/02(月) 00:38:02.33 ID:QyMqRIrX
>>393 >チベット仏教の死者の書や秘儀には
私も(前世で)浄土宗の一高校生だった頃に「チベット仏教の死者の書」を読みまして
驚愕したことを覚えております。
395 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/02(月) 00:47:07.63 ID:QyMqRIrX
>>379 >話が飛躍していませんか、日ユ同祖論は石原莞爾をはじめ、多くの旧日本軍人の間では
>絶大的な人気のあった、ファンタジーではありませんか?
本当にそう思われますか?
来日されたラビ達の講演を聞けば、どれだけ古代ユダヤ教の慣習が古神道と似ているか分かるでしょう。
最近は更にY染色体DNAの類似性まで加わっております。
在家さん、お久しぶりです。自分はと言えばここで末法仏教徒達と言い争っても 益にはならず、自分の業を汚すだけだと悟りここでの書き込みは控えることにしました。 2ch自体の書き込みもね。他人と言い争っているとちっともいい瞑想に浸れない。 唯物末法仏教徒達に何を言っても無駄ですが、見込みのある人が縁あって仏教に関わってきたのなら 唯物末法仏教徒達の邪見に彼らが迷わされないように正見正法を示すのは有意義だとは思います。 ま、在家さんも色々あったみたいですが、ますますのご繁栄と、真理への悟りへと導かされるようお祈り申し あげます。でわ。
397 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/02(月) 03:22:23.43 ID:QyMqRIrX
>>396 >ま、在家さんも色々あったみたいですが、ますますのご繁栄と、真理への悟りへと導かされるようお祈り申し
> あげます。でわ。
私自身本当にこの半年色々とありました。また一回輪廻を重ねた感があります。
オイラ氏、セブン氏、宝珠氏、ご隠居氏、カラス氏、机氏が本スレを解脱されたようでかなり寂しいですが、諸行無常ということですね。
カラス氏の原始キリスト教関連スレでの益々のご活躍を祈念申し上げます。 合掌
>>396 >正見正法を示すのは
君らのは邪見邪法だろw
399 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 10:14:33.94 ID:1YNnttze
祖霊祀りも金を取るツールだな。 名前は神道風だけど、明らかに仏教風の厨子を用いてる。 在家仏教系新興宗教の先祖供養と何が違うの? そのくせ、真光では葬式しないじゃん。戒名も菩提寺から貰ったもの。 真光は何だ? 仏教は「人が無になる教え」とかで見下してるくせに 霊友会系とか在家仏教系の猿真似をしやがって。 祖霊祀りなんかしなくていい。 在家仏教系新興宗教の信者じゃない人なら、菩提寺との関係を維持する だけでいいから。
400 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/02(月) 11:30:22.45 ID:QyMqRIrX
>>399 >祖霊祀りなんかしなくていい。
永年、胃の痛みを訴えて、病院に行っても異常が無い方が結構おられます。
手かざしをしますと先祖だと名乗る方が出て来られまして、大変ひもじいので
供養して欲しいとの訴えでした。
後日、仏壇と位牌を用意して祖霊祀りをして、毎日お供えをしましたところ、
手かざしをしますと先祖だと名乗る方がお礼に出て来られて「子孫から離脱する」
とのこと。その後、原因不明の胃痛から救われました。
この霊動現象は私自身でも数件確認しておりますので、世界中の道場を鑑みますと
数百万件以上かと推測します。
多分、お寺さんでも祖霊祀りの後に檀家の方が元気になられた事例は多いかと存じます。
理屈ではなく、実践、実証が大切です。
401 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 13:34:31.32 ID:ZJWaVuXy
>>392 また“でまかせ”かwww
そこで、ポッタパーダに言われたのは、
≪「“所謂”無記とされる事柄」を知り得る≫(→異教であるが故に無記とされる事柄を知り得ない)
ということじゃないぞ。
「無記とされること」は、仏教内でも知り得ないんだよ。だからわざわざ無記といわれるんじゃねーかw
んとに、次から次へと嘘八百重ねやがってw ( ゚听)、
402 :
? :2013/09/02(月) 14:34:32.34 ID:8g1EmYmF
>>397 前世は一在家さんへ
> 一回輪廻を重ねた感があります
議論とかの 『 一回輪廻を重ねた 』 という意味ですか?
> オイラ氏、セブン氏、宝珠氏、ご隠居氏、カラス氏、机氏が本スレを解脱されたようでかなり寂しいですが、諸行無常ということ
書き込み規制とかで
代行の人に依頼するのが面倒なので
とりあえず今は離れてる
という人もいるかもしれません
_ _ _
ちなみに、私は
(それ自体の自性で成立しているのではなくて)
因と縁と果と報によって
輪廻する
幽霊が現れる、の肯定派なので
カラスの唄さんも
前世は一在家さんも、がんばって下さい 屮(_ ._)屮
403 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/02(月) 14:42:01.59 ID:QyMqRIrX
>>392 >長部経典第九経「ポッタパーダ経」で釈尊は異教の修行者ポッタパーダの形而上学的質問には黙して答えませんでした。
でも、まったくの無言ではなく下記のように説かれました。
「ポッタパーダよ、あなたは異教の見解によっているため、異教の忍耐によっているため、異教の目的によっているため、
異教の実践によっているため、異教の師によっているため、『心理作用は人のアートマンである』とか、あるいは
『心理作用とアートマンは異なる』ということを、知り難いのです。」
>>401 >そこで、ポッタパーダに言われたのは、
≪「“所謂”無記とされる事柄」を知り得る≫(→異教であるが故に無記とされる事柄を知り得ない)
ということじゃないぞ。
「無記とされること」は、仏教内でも知り得ないんだよ。だからわざわざ無記といわれるんじゃねーかw
また中村監修訳と片山訳とのニュアンスの相違でしょうか?
中高生が普通に中村監修訳(春秋社版)を読めば、私と同じように認識すると思いますが。
404 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/02(月) 14:55:32.57 ID:QyMqRIrX
>>403 「霊魂と身体は同じものか?異なるのか?」、「修行完成者の死後存続?」という問いには無記でしたが、
「肉体から離れた意識が、やがて母胎に宿る」ことは幾つもの経典で説かれております。
また「輪廻しない者の住する界がある」ことも、菩薩の再生も説かれております。
だから、四悉壇、釈尊の対機説法の特徴と過去ログでも申しておりますが、議論が平行したままでしょう。
> 「無記とされること」は、仏教内でも知り得ないんだよ。だからわざわざ無記といわれる 例えば 慢を滅させて有余涅槃に到達できた人(如来)の経典・論書とかの場合は 世俗の人が勘違い(自分勝手な妄想で間違った解釈を)するといけないので 『 無記としている 』 という場合も、あるのかもせれません
406 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 15:07:49.15 ID:ZJWaVuXy
>>403 お前はホント頭悪いな・・。
訳し方・訳文の問題じゃなく、叙述されている事柄・内容に関することだよ。
だから、中村訳でも同じこと。
無記とされるX1〜X3があったとして、今、ポッタパーダは
X2とA3について質問し、ブッダがそれに応えたわけだ。
「A3について、それは誤っている或いはきちんと知っていない」と。
が、A3については答えたがX2については答えてないんだよ。
それとも、中村訳ではそういう文章になってんのか?
それを、てめえはAもXも一緒くたにして
>もし釈尊を師とし、正しく実践(禅定)すれば悟れるという意味だったかと
と言いやがるから、註を入れてるまでよw
407 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 15:11:22.21 ID:ZJWaVuXy
>>404 だから〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜w
已然としてXについては無記なの。
ポッタパーダに答えたのはAについてなの。
なんでこんな単純なことがわかんねーんだよ ┐(´ー`;)┌
小学校の国語で、意味段落の切り方とか、もう一回習って来いw
仏典を一字一句そのまま信じて疑わない〜というのはいかがなものかな。 最初期の頃のものはともかく、後代になるにしたがって仏陀は神格化されて 事実とかけ離れたものになるのに、それを仏典だからと丸呑みして信じるのは あまり有意義な読み方とは思えない。そのような神格化された部分を排斥して 人間仏陀を読み解くほうが遥かに有意義でしょう。
>>408 近代仏教学・文献学は、もう長いことその姿勢で発展してきたんだが・・。
そんなことも知らなかったのか?w
寧ろ、その反動で、
現代的価値観の織り込み過ぎが反省されてるのが世界の現代仏教学の潮流なんだがな。
今頃何言ってんだw
ああ、そうですか。 まあ、私は仏教学者じゃありませんので仏教学には疎い者です。 しかし、仏陀が形而上の事を語った〜とか瞑想で形而上の事も悟れる〜とか 言われる方がおられますので、そんなスーパーマン仏陀を想定するのはいかがなものか?と思った次第です。 これらの人達がむしろ少数派なのなら望ましいことです。
>>410 >仏陀が形而上の事を語った〜とか瞑想で形而上の事も悟れる〜とか言われる方
だって彼等のは仏教じゃないものw
ただ、貴方のような姿勢は「学問」であって、
「信仰」「宗教」「道」ではない、ということも憶えておいた方がいい。
>>411 瞑想そのものが心の世界であり
仏教は悟りを求めているのに形而下のことを語ってると思うのですか?
非常に妥当を欠く見解だと思いますが
>>411 補
貴方の姿勢でいけば、この世にファンタジーは不要だということになる。
尤も、貴方が文革を目指しているなら、聞く耳も無いでしょうが・・・w ┐(´ー`)┌
>>412 ハァ?(゚∀゚)
どこの誰がそんなこと言ったんだ? つか、どこをどう読んだらそういう言葉が出てくるんだ?
全く理解できないwww
414 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/09/02(月) 17:01:31.57 ID:Mjltg68p
キチガイ在家とセブンが復帰してるww
私は形而上の世界が無いと信じているものではありあせんよ。 生きている人間にはそれが有るのか無いのか分からない〜という立場です。 そういう意味では唯物思想の者ではありません。 仏陀がこういう人間に分からない世界について無記で、あるともないとも説かなかった姿勢に大いに賛同する者です。 形而上の世界は無いという主張ではかった筈です。
×形而上の世界は無いという主張ではかった筈です。 ○形而上の世界は無いという主張ではなかった筈です。
悟りとは一般の人が経験し得ない超越的な心の状態だと解釈しているのですがいかがですか? その悟りを本懐としている仏教が形而下が中心であるという見解はいかがなものか?
形而上 意味 1 形をもっていないもの。 2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。 だそうです 私の解釈は、悟りとは正に形而上だと思います
>>419 >悟りとは正に形而上だと
なら、お釈迦さんは形而上のこと、説きまくりじゃんw
ま、それはそれでいいけど。
だって、お釈迦さんの時代に「形而上/形而下」なんて区別・区分はないんだから。
現代人が
【勝手に】
【自分たちに都合のいい形で】
「コレは形而上、これは形而下」と
【割り振った】
だけなのだからw
で、 その形而上に、人は到達できるの?できないの?
421 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 18:11:34.63 ID:nI9RqJc+
パチンコやギャンブルは徳を失いますか? 在家でお答えください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A 禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」が顕れ、真理を悟ることができた
これによって釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「ブッダ(仏陀)」になったのである
三明については諸説あって通説と呼べるものはなく
十二縁起(十二因縁)とも関連する「縁起」に纏わるものであるとする説や
三明にさらに三智が加わるとする三明三智(六通)説なども存在する
対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働き ← vitarka 尋
細かい心の働き ← vicaara 旧訳では観(かん)新訳では伺(し)
この両者はともに定心(じようしん)を妨げるが、禅定の深まりによって消滅する
さとりは初期仏教から部派仏教あたりまでは究極目的であり
悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される
仏教の悟りは智慧を体としており
凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは
それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし
輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない
その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する
これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない
悟りを求める点では部派仏教も大乗仏教も共通であるが
自分のさとりを追求する部派仏教の場合
声聞(しょうもん)は四諦(したい)・八正道の教えを聞いて修行し
縁覚(えんがく)は十二因縁を覚ってそれぞれ解脱するとする
>>420 悟りを目的にしてるのですから
形而上である悟りに到達する人もいることと思います
形而上学的見解の根底にあるのは煩悩ということになる。 この見方からすると、形而上学的見解が究極的実在に対する認識にかかわっているように見えても、 それはただ空虚な概念体系で煩悩のもうひとつの変形にすぎない。 仏陀はこの煩悩の除去によってこそ、形而上学的理論が求める究極的実在の真の認識と、生存の 有限・不完全(苦)を根源的に克服することができると思ったのではなかろうか。 この結論は頭と尻尾がわからないような表現ですが、形而上学的見解(悟りへの執着?)を捨て去った ところに形而上学的真理、真の悟りがある〜という感じでしょうか?
一在家さんのように 輪廻を信じることは 危険思想と感じます 新興宗教はそれを巧みに利用します 仏陀はそんなこと考えちゃだめと言ったとか
428 :
神も仏も名無しさん :2013/09/03(火) 03:46:05.51 ID:mEOy8Qe4
ムー系だとか、トンデモ信じてる、前世は一在家所属のカルト教団真光w 何時かは万教帰一と言って、崇教真光に帰一するんだと。 677 : 神も仏も名無しさん[] 投稿日:2010/06/29(火) 01:03:03 ID:xTMYfEAS [1/3回] また「妄想実例」の解説は答えられなくて憤激臆病サゲ自演連投かぁwwwwプ アホ自認の自称真光被害者は物欲強くて霊障ヒドイのはアトランティス系だからじゃね?wwwププ ムー系が羨ましいんかぁ??www健常者を妬んで精神異常なのはしょうがないぞ〜♪wwww
429 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 04:56:11.73 ID:M74p1+X6
>>423 >仏陀と形而上学
>-無記説に対する諸解釈を中心に-
大変参考になりましたが、長部34経の中で無記説の参考にされていたのは主に
第九経「ポッタパーダ経」、そして第二十九経「清浄経」でしたね。
まず輪廻、六神通(三明智)、梵天・神・悪魔等々は現代の科学的常識では形而上だとしましょう。
第九経「ポッタパーダ経」では異教の修行者と象使いの少年に「無記」が説かれておりますが、
この経の最後で象使いの少年は「再び生存することはない」と(間接的に輪廻は)説かれております。
第二十九「清浄経」でも修行者チュンダに「無記」が説かれておりますが、第九経とは異なり
仏陀はチュンダに「過去世に関して、完き人には正しく憶い出す識別能力があります。」と
(直接的に輪廻は)説かれております。
(参考:「長部経典V」春秋社、P181)
因みに長部34経の中で少なくとも過半数の18経で輪廻、再生は説かれております。
>>427 >一在家さんのように輪廻を信じることは危険思想と感じます
仏教徒のように輪廻を信じることは危険思想と感じます、というご批判も多いようですが。。
430 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 05:05:24.11 ID:M74p1+X6
>>420 >だって、お釈迦さんの時代に「形而上/形而下」なんて区別・区分はないんだから。
> 現代人が
>【勝手に】
> 【自分たちに都合のいい形で】
> 「コレは形而上、これは形而下」と
>【割り振った】
> だけなのだからw
まったく同感です。 現代の科学的常識が仏教の上にいっております。
目出度く?貴僧も再生されたようで、私のボケに適時、適切なツッコミをお願いします。
もし住人各位の議論が高まれば、衆生済度にはプラスかと存じますので。。
431 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 05:12:17.12 ID:M74p1+X6
>>419 >私の解釈は、悟りとは正に形而上だと思います
>>420 >悟りを目的にしてるのですから 形而上である悟りに到達する人もいることと思います
まったく同感です。
尚、
>>423 で提示された文献でもニルヴァーナ(涅槃)は形而上だと記載されてましたね。
釈尊は形而上は説かなかった→釈尊は涅槃は説かなかった、変なロジックになります。
432 :
1/2 :2013/09/03(火) 07:48:51.47 ID:SRMwFiIO
ひとこと 久しぶりに覗いたが、やはりここでの議論は徒労だ。 ザッと読んだが、現在の水準は過去の類似論点の深度をまったく反映していない。 消化不良どころか、消化不能のまま、あるいは無知のまま浅薄な誤謬論が繰り返されている。 『日本の議論は過去の到達深度から出発するのではなく、またはじめから浅薄に繰り返しているに過ぎない』(丸山真男) 置き土産に、ひとつの到達深度基準として道元を提示する。
> 形而上学的見解(悟りへの執着?)を捨て去った
> ところに形而上学的真理、真の悟りがある〜という感じでしょうか?
四念住(四念処)・四神足(四如意足)・八正道とかによって
如来に到達する為の方法を、経典・論書とかに残した
ということだと思います
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し
よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として
法を灯明とし、法を依処として
四念処(四念住)の修行を実践するように説いた
これが「自灯明・法灯明」の教えである
434 :
1/2 :2013/09/03(火) 07:51:38.61 ID:SRMwFiIO
道元は、『正法眼蔵』冒頭でいきなり仏道の極意を開示している。 『・諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修業あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。 *←分別 ★万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく“さとりなく”、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。 *無分別 ・仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。 *無分別の分別 しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。』(「現成公案」冒頭) さすがである。凄いとしか言いようがない。 これは『心不可得』(金剛般若経18)と同趣旨。 心不可得なのに悟りなど有り得べくもない。 相対化・対象化=分別は不能だ。 そうでなければ餅を求めた徳山はもちろん(←餅論:駄洒落w)、心不可得で徳山を一蹴した餅売り婆子にも劣る。 ゆえに『しかあれば、参学の雲水、かならず勤学なるべし、容易にせしは不是なり、勤学なりしは仏祖なり。 おほよそ心不可得とは、画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽するをいふ。』(道元 正法眼蔵 心不可得より) ★修証一等=二相の相即的実践が仏道だ。 『悟り』は迷妄である。
>>433 の続き
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 永久不滅・常住不変のアートマンを土台として
善行に励み、永遠ばかりを探してきた
凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
輪廻を土台として
輪廻を前提として
その輪廻から解脱する為には
無我を、縁起を、空を、観察する為の練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は
吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
一切の有情には仏性があるといわれる
解脱すれば仏だという
しかし 「 解脱すれば仏だ 」 と言う事に
気づくまでは、気づくことは難しい
>>435 の続き
一切の有情には仏性があり 『 解脱すれば仏だという 』
しかし気づくことは難しい ↓ その理由は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98 末那識(まなしき)
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3 仏教における瞑想法では
人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ
意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てられる場合がある
大乗仏教における仏教哲学・仏教心理学では意識は八識に分類され
その中には末那識や阿頼耶識と呼ばれる層があり
仏教の瞑想法はそこへ到達するための方法と言われている
上座部仏教においては、瞑想修行の進展に伴い心の変化を九段階に体系化
(一般的認識である欲界を超えた後に現れる第一禅定から第九禅定)しており
第一禅定以上の集中力において
仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うことで解脱が可能と言われている
>>421 やり方や程度の問題でしょ。
尤も、「既に積まれた功徳」という意味での徳なら、
相殺される形はあり得ても、無くなるということにはならない(そうは見ない)んじゃないかな。
勿論、そのことを(せっかく積んだ功徳が)「減った」「失われた」と表現することはあるだろうけど。
「人徳」や「あの人には“徳”があるねぇ」といった時の「徳」なら、
当然、失われる可能性はあると思う。
>>424 特に
>>419 の2のような場合でも、人間が経験し得るものということ?
419の2は、「人間の経験範囲を超えている」ということだと思うが?
もし、経験し得る(到達し得る)なら、それは419−2のテーゼに反するのでは?
また、419の2を経験できるなら、彼は人間ではないのでは?
つまり、仏教は超人的、人間を超えた存在になろうとする教え、ということにならない?
それは、
>>408 >>410 と抵触すると思うけど?
この教団の思想が、八紘一宇に類似し、旧日本軍の戦争の根拠ともなったり、モーゼやイエスも日本に来て 修行をしていたとか、しかも聖書までも真光流に歪曲している。 たとえば、上級テキスト45頁イザヤ書11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から 若枝が出て実を結ぶ。(根=日本、枝・差別用語のエタ=イスラエル)。
仏教徒である以上、悟りを目指す〜というのはそのとおりかもしれませんが、 悟りに執着すると正反対の結果に陥るというのが罠ですね。 あらゆるモノ、コトに執着するな〜というのが基本的な教えですので、「執着するな」ということにも 執着してはいけない。ましてや悟りに執着する等もってのほか〜という感じでしょうか? 仏典にも執着してはいけない。仏陀の言った事にも執着してはいけない。 頼るべきは、法と自だけです。法=自ですが。
俺は悟りに執着するなとは言わんがな それがなければそもそも仏教をやろうなどと思わんのだから いきなり座れという話にもなるし、仏教なくていいじゃんという話にもなる 要するに、文脈なのだよ、方便と言ってもいいかもしれんが 今日はいい天気ですね、と言われて 実は雨だった、こいつは馬鹿かという文脈しか読み取れないのは無粋で 相手は手持ち無沙汰で、間を持て余していると考えるのが普通だ。 もちろん、馬鹿正直に相手を憐れむのも無粋だが。 頓悟するものもいれば、話しているうちに相手の心意が見えてくることもある。 文字を追っていても話は終わらんが、だからといってそれが世間人と同じというわけでもない 仏教は何も難しいものではない。頭の悪いシュリハンドクにも分かるものだ しかし、定見に安住するもの、慢心の上に座っている者には分からないというだけだ これは別に正しいことがないと言っているわけではないことに注意するべきだが しかも、上のこころえは悟りでもなんでもない、空とは何かを身をもって知るときに必要なものというだけ
非想非非想処〜というのも非論理的といえますが観念としては実在したものです。 非論理的でも何を言わんとしているのか?幹、真髄は何か?と捉える事は有意義だと思います。
非想非非想処の更に次の段階
想受滅(滅尽定)
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm 原始仏教では「四禅三明」の教説、あるいは、単に「四禅」の教説が広く説かれている
「四禅」の後に、さらに、無色界の四処定
(空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処)を説明することが多い
想受滅は、それをも超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に「解脱」するとされる
「想受滅」を出た直後に解脱するとするが、経典によりその効果の説明が多少異なる
(D)四禅にもとどまらず、四処にもとどまらず、非想非非想処も捨てて、想受滅を成就する
(C)は
想受滅においては、諸根(眼耳など)の働きはあるが
心作用のうち受、想、行が滅している
(D)は
ほとんど念がおこらないような澄み切った禅定の境地もまた
解脱ではないので、そこに執著することを捨てよという
そこにも執著せずに、坐禅工夫をしていると想受滅に達する
ヨナカ・ダンマラッキタ ←タイトル (したらば掲示板に僕がスレ作っても誰もこないw) 1 名前:浄土 投稿日: 2013/09/03(火) 09:01:00 タイトル名は、仏教上座部の法蔵部という派の創始者のギリシャ仏教僧の 名であります。 「彼は神通力の大家であると同時にアビダルマの専門家としてパーリ語圏仏教で大きな役割を果たした。」 2 名前:浄土 投稿日: 2013/09/03(火) 09:17:25 アビダルマというのは、何を指すのか、何を彼は学んだのか僕には分からないし、 日本人の専門家以外は分からないだろう。専門家にさえ分からないかもしれないことを、 ここでとやかく言えば、ただの布石にすぎないし、負けの布石を打つことにもなりかねないので、 ここではアビダルマについては、言及しないでおきます。 3 名前:浄土 投稿日: 2013/09/03(火) 09:18:08 そもそも彼についての情報が少なすぎるので、僕はアビダルマとは何かを推理したいと思います。 また、神通力とは何かを考えたいと思います。そしてパーリー語辞典を持っているので、 これから、ちょっとずつパーリー仏教というのはどういうものだったのかを 修復していきたいと考えています。なぜなら、パーリー仏典の現代語訳で、 パーリー語に忠実じゃない訳があるかもしれないからです。 4 名前:浄土 投稿日: 2013/09/03(火) 09:18:44 少しずつwikipediaの情報を頼りにしながら、彼がどういう方であったかを 研究したいです。
448 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 14:58:57.29 ID:M74p1+X6
>>436 >大乗仏教における仏教哲学・仏教心理学では意識は八識に分類され
> その中には末那識や阿頼耶識と呼ばれる層があり
>仏教の瞑想法はそこへ到達するための方法と言われている
水野先生も阿頼耶識は経験やカルマに従って変化する有為法と要語で解説されてましたし、
正しい瞑想法(禅定)にて阿頼耶識まで到達した者にとっては輪廻、前世も直接知覚なのでしょう。
直接知覚されれば、その者にとっては形而上学とは言えないかと存じます。
だから、異教徒や修行途上者からの形而上学的質問には無記でも宜しいのでしょうね。
449 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 15:07:55.24 ID:M74p1+X6
>>380 >横レスだが
> どうも無記について誤解が大きいようだ
> あの世のことや形而上のことについて無記の理由は
>瞑想によって実相を直接体験しろという意味だと思うが
>言葉でいくらこねくり回したって、直接体験なしにこの世の実相は理解できない
>>448 >直接知覚されれば、その者にとっては形而上学とは言えないかと存じます。
>だから、異教徒や修行途上者からの形而上学的質問には無記でも宜しいのでしょうね。
>>380 の横レス氏のかきこもお待ちしております。
思うんだが「身体の状態=悟り」はありえないというか現代においては 説得力がないと思うんだが 生きていく上でずっと想受滅しているわけにはいかないんだし 植物人間が救われているのかって話にもなるでしょ 活動的な脳波がある、つまり夢を見ている植物人間もありうるが、ない人もいるのだし。 それに脳死問題もある。識すらない完全に煩悩から脱した状態だが それは悟りのさらに上の状態なのか、それとももう輪廻主体が身体からぬけだした後だからもう単なる物なのか そりゃ分からんが、後者だとしても、脳死をしていても心臓をとりだされるその”死体”は 自律神経のせいか身体が動くそうだ。これを機械的な動作と見ることも可能でしょうが 人情として、身体が嫌がっていると見るしかないし、 小脳は死んでいるんですがw煩悩の働きというか防衛本能と見ることもできましょう。 そうした場合、仏教は魂など認めませんが、それは脳に宿っているものなのかと言った議論や かつて議論された四有といった詳細な分析も再考の余地があるということになりましょう。 まあ、そういった設定はあくまで仮設なので必ずしなければならないというものでもないが 少なくとも、悟りというものを説く上で、ある特定の身体の状態を求める傾向というのは 見直されなければならないということになりましょう。 では、何が大切なのか?と言えば、智慧ではないですかね もちろん、その想という心象作用、心がある光景を表象したり抽象思考をする上で心という テーブルの上でくりひろげる創作や、受という感受作用、うれしいだとか楽しいだとか痛いから やめてほしいだとかいった執着がない状態でしか得られない智慧もあるかもしれないが ブッダが相受滅の体験を重視しなかった以上、不可欠な体験という気もしません。
つまり悟ったものだけが形而上の世界を直接認識でき、それ以外は認識できないので無記だと? そのような非人間的世界が悟りだとすれば、私は悟らなくても良いです。 仏陀=非人間だとすれば、そのような世界を目指したくはないです。 そんな気色悪い世界を人間仏陀が説いたと想像する事自体意義のない事だと思います。
452 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 15:31:37.76 ID:M74p1+X6
>>284 >(情報の整理)
>・昭和57年に「一畑薬師」と自称する存在から交信があった
>・現時点でグーグルにて「朝鮮 薬心寺」で検索してもヒットしない
>・「一畑薬師」の住職からもあっさり否定
> 朝鮮の仏教史を調べますと多くの寺院が取り壊されていることは分かりました。
> 引き続き「薬師如来を本尊としていた薬心寺」が存在していたのか否かを調べております。
(情報の追加)
・「一畑薬師」の縁起によれば、寛平6年(894年)、漁師の与市が、海中から引き上げた薬師如来像を本尊とし、
医王寺として創建したという。
・755年、朝鮮の芬皇寺では薬師如来銅像を鋳造
・朝鮮古代三国と仏教の交流は日本の仏教美術に大きな影響。 例、法輪寺の薬師、薬師寺の本尊
・897年、遣唐使を廃止
現時点で下記書物を調べましたが「朝鮮 薬心寺」の名は無かったです。
多分、法相宗の興福寺か薬師寺の修行僧が遣唐使に同行し帰路で難破したように思うが裏が取れていない。
参考:
「古代朝鮮仏教と日本仏教」田村、吉川弘文館
「朝鮮仏教史」鎌田、東京大学出版会
453 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/09/03(火) 15:41:57.68 ID:Sgbst1fK
>仏陀=非人間だとすれば、そのような世界を目指したくはないです 仏陀、舐めたらあかんぞww 悟ったら、空だって自由に飛べるし、何万年だって生きれるんだぞwww
454 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/09/03(火) 15:44:45.77 ID:Sgbst1fK
>クソ在家ww お前は、惚けたジジイの寝言なんか書くなと、あれほど一代に言われたのに まだわからんかwwww
何万年も煩悩の闇に沈み続け、空をうろつく浮遊霊みたいに存在し続ける事こそ惨めで哀れなんでしょ。 だから、そういう妄想を捨て去れと教えてくれているのに、いつまでそんなくだらない妄想にしがみつくつもりなんですか?
456 :
パーピマン ◆hVgvvzQ7pw :2013/09/03(火) 16:01:50.37 ID:Sgbst1fK
>>455 ありゃ? もしかして、新人さんだったか?w
マジでとられると返答に困るぞwww
>>450 煩悩を生存時のものだけと考えるから、そういう誤った考えになる。
カルマというか、業というものは、肉体よりももっと精妙な我に、記録されてるわけ。
そこから脱しないと、生まれては死んで、また生まれて、っていう
輪廻転生から逃れられない。
脳死になっても、眠っていても、また起きて繰り返す。
死んでもあの世で目が覚める。
延々と繰り返すことになる。
この世界の生とは別の世界をひとまず認めない限り、仏教を真に理解することは出来ないよ。
459 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 17:56:42.19 ID:M74p1+X6
>>457 >この世界の生とは別の世界をひとまず認めない限り、仏教を真に理解することは出来ないよ。
そこまでキリリとおっしゃられたので、パチパチパチと拍手しました。
460 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 18:06:04.45 ID:M74p1+X6
>>454 >お前は、惚けたジジイの寝言なんか書くなと、あれほど一代に言われたのに
> まだわからんかwwww
祖父が寝言で仏様達と対話し出したのは昭和5年で、まだ28歳の若い高校教師でしたよ。
「惚けたジジイ」と一代さんが本当に言われたのですか?
「浄土への道標」の原本は国会図書館にもなく、岐阜県図書館にのみ存在します。
>>450 それは立花隆さんが本で詳しく書かれています。
意識をインプット系とアウトプット系に分けて、インプット系は残っていてもアウトプット系が無ければ
死んだとみなすのは乱暴ではないか?と指摘しておられます。
脳死と断定されてもあるケースでは内意識というのは(外からは確認でないので)ありうるものと
言われております。
輪廻転生はインド特有の思想で、それを仏教が踏襲しているからといって、それが仏教の中心教義という
わけではありません。
善因善果、悪因悪果とはいえインドですらそんなのは永遠に固定されたものではないというのが普通です。
一つでも悪因を作れば未来永劫悪の応報を受ける〜なんてインド人でも信じていません。
つまり仏教において輪廻転生なんていう方便は聞き流す程度で十分です。真剣に焦点を当てる事項ではありません。
>>461 の続き
第一義空法經
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html …
… 此の陰滅し已らば異陰相續す
俗數法をば除く
耳・鼻・舌・身・意も 亦是の如く説き 俗數法をば除く
俗數法とは 謂ゆる此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行、行に縁りて識、廣説乃至純大苦聚集起るが如く
又復た此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す
無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す
是の如く廣説し 乃至純大苦聚滅す …
…
>>457 >もっと精妙な我に
阿頼耶識のことか?
ここは仏教議論スレッドだぜ? その言い方はどうかと思うけどな・・w
意味解る?
>>462 いや、だから、滅尽定を科学的に定義するなら
植物状態で、夢を見てない状態とさして変わらんということ。
大脳の働きがほとんどなく、生命を維持するための最低限脳幹の働きしかもっていないのだから。
そして、まれに植物状態から回復する人もいる
その人は悟ったことになるのか?それはおかしいだろ?
夢を見ていない睡眠状態や植物状態、あるいは
みずから仮死状態に入ることができる、あるいは偶然そういう経験をした場合
瞑想上どう考えるべきなのか?物理的な状態を考えているかぎり、答えは出ないということ。
問題は、心が限りなく消えた、あるいは死んだ状態から
だんだん意識がひらけていく様子、認識が働いてくる様子などを
なんども瞑想した経験を基に、観察したことから見えてきたものなんじゃないのか?
>>465 臨死体験は素晴らしいと言う人が多いな
交通事故で記憶喪失になった知人の話だと
記憶を思い出すにつれて、しがらみが耐え難い苦痛として襲ったそうだ
いや、臨死体験は一種の夢だろ? 脳の情報処理の一環で、しかも脳内麻薬がでていて気持ちいいらしいが これは仏教でいう心の観察ではないと思う 記憶喪失は、知らぬが仏を地で行く話だな、興味深い
立花さんは脳循環の有無を脳死の判定基準に加えるべきと主張されています。 日本の脳死判定基準では抜け落ちているそうです。脳循環が無くて生き返る例は無いといって構わないレベルだそうです。 しかも、内意識すら無いと言うことで言葉通りの脳死との事です。 一方臨死体験で死に際を見てきた人は文字通り死に際から生き返った人で、大半は臨死体験はハッピーな体験だった〜と 感想を述べているそうです。バッドトリップの好ましくない例もあるにはあるけど非常に少数だったと報告しています。 また、体験前に無神論者で無宗教だった人が牧師になったりするケースもあるそうです。 つまり、臨死体験はいわゆる夢などの意識変容状態とは違い、明確な体験だった〜と感想を述べてその体験が非常にインパクトが 大きかったため、その後の人生観や生き方ががらっと変わったという例も多かったそうです。 瞑想で臨死体験に等しい状況を経験できて、それがきっかけで生き方や人生観が変わる〜というのはありうる事だと思います。 そういう立花さんも輪廻転生には殆ど可能性を認めていません。 なぜなら、輪廻転生がインド特有のもので体験例が殆どインドにしかなくて(その他地域ではかなり少数例しかない)その偏りの 酷さから統計手法が使えない、科学的アプローチが不可→という事はオカルトの領域から脱することが出来ないテーマという事だからです。 神秘主義であるとはいえないがありうる〜とする立場で捉えるので十分でしょう。それ以上踏み込むと完璧にオカルトです。
>臨死体験はいわゆる夢などの意識変容状態とは違い、明確な体験だった〜と感想を述べて 具体的にどうという説明がないな
それは立花さんの臨死体験の本に詳細に書かれていますよ。 興味があるのなら一読をお勧めします。
いや、科学的な根拠というか、主観でない客観的な証拠がほしいと言っているんだよ
臨死体験が、脳がイメージジェネレーターとして映し出す世界なのか、実際に世界があるのか 科学的にはこの先将来も解明できないと思いますよ。 しかし、その体験が体験者にとって夢とは違う生々しいもので、その後の人生に大きな影響を与えた という事実は残ります。
> まれに植物状態から回復する人もいる > その人は悟ったことになるのか? 宗教的な意識に目覚める程度の悟りはあったんでしょうね
臨死体験しなくても、交通事故にあっただけでも人生に大きな影響与えると思うけどな 内観の法というのがあるが、心の観察、過去、現在、未来の自己の常ならざる姿を見るだけで ずいぶん学ぶところはあるはずだがなあ 大事なのは体験にこだわることじゃなくて、体験でえられた新しい観点というもので 今まで自分というものを占めていた考えに、半分席を譲らせることじゃないかな
>>471 無理だろw
好きな子と目が合ってキュンとしたときの、『 >主観でない客観的な証拠 』があり得るとでも?
動悸だとか、目の瞳孔の開き具合だとか、脳内麻薬の分泌度だとか あるんじゃね?
>>476 それが、
「キュンとしてるから」なのか、「気まずさから」なのか、「後ろめたさから」なのか、
どうやって判別できるんだ?
脳波からとか、ちがいがでてくると思うが。 多幸感などを感じる場合はベータ派がでていると聞くな
>>478 いや、だから、
その >多幸感などを感じる場合はベータ波がでている というのが、
正しい識別・分別となっているだろうか?
そのベータ波が出ている時の本人の感覚は、本当に多幸感だろうか?
或いは
ベータ波は、多幸感が感じられたときにしか出ないものだろうか?
それこそ、赤ん坊が泣いているとき、その泣いている理由を推測するのと同じではなかろうか?と。
「泣いている」という只それだけで、一意に理由を定め得るだろうか?
すまん、今見直してたんだが、αは安静状態、βは集中状態で出る傾向があるそうだ 多幸感との関連は不明だな、多幸感を感じるときに人はシナプスの信号を伝える物質を 盛んに出すことが知られていて、欝の場合は逆にほとんどでない そのへんから、感情と物理との関係が見られることになるんじゃないの? つまり、感情の問題は、客観的なデータとして呈示されうるということ。 赤ん坊の泣くという行為は、赤ん坊の救難信号をだすための表現手段が おもにそれしかないからだろう うんこなのか、ごはんなのか、目になんか入ったのか、 それをすべて泣くという行為に一括変換して伝える だから、泣くという行為だけ見ても、赤ん坊の気持ちはわからないわけだ 実際に身体を調べながら反応を見てさぐるしかない。 要するにあなたが問題としているところは 脳波や脳内物質がまったく同じであってもそれだけでは 夢と脳死体験が同じだとは言えないということだろう たしかにもしかしたらという可能性はあるが、可能性をあげていけばきりがないよ。 それに俺が言っているのは、そういう可能性はないということではなくて その問題に関して現実的に今のところ違うと言える証拠はないということ。 キュンという客観的なちがいを呈示できる感情とはちがい、 臨死体験については呈示できるだけの夢との差異は発見できていないということじゃないの?
>>480 そ。
そこ(「キュン」と「臨死体験」の間)には、蓋然性の違い、或いはデータ量の差異しかない、ってことさ。
昨日のクローズアップ現代で、カネボウの美白問題やってたが、
化粧品の合わせワザの試験人数が極端に少なかったんだと。
だから、有意な実害が検出されなかった、と。
これは、形而上でも、宗教的問題でも、主観的感覚・感情の問題でもないが相似形だ。
臨死体験は、データが少ないから見出せていないだけかもしれない。
また、
キュンは、データが積算されてきたら、最初の仮説・定義・一対一対応が覆されるかもしれない。
何よりも、
『 >感情と物理との関係が >感情の問題は、客観的なデータとして 』
と言えるだけの一対一対応が確認できているのか? と。
そのデータと結びついているのは、本当に「キュン」なのか? と。
だから
>要するにあなたが問題としているところは
>脳波や脳内物質がまったく同じであっても・・・・・・夢と脳死体験が同じだとは・・・・・・
とは、かなり違うかな・・w
睡眠時の体外離脱例でアメリカの方では色々実験をやっているみたいですね。 立花さんも臨死体験は脳内のイメージという解釈で殆ど解釈できる、がしかし少数の例ではあるが それでは説明できない例もあるとの事です。 体外離脱も臨死体験も体験者から見えない離れた空間に有る状況を詳細に覚えている〜 なんてのは脳内説では説明が付かないと言っています。 また、夢がその後の人生に影響を与えるほどインパクトがある事は殆ど無いと思いますが、 臨死体験では少なくとも体験者にとって夢とは異なる生々しいインパクトのある体験として認識されているという 事からも夢と同じ現象と一言に片付けられない側面があると思います。
>>482 夢と一緒でも別にいいのさ。
問題は、所謂「悟り」或いは「涅槃」と言われるものも、
同様な精神状態の異相でしかない、(かもしれない)ということさw
夢の中で怪獣に追いかけられるも、
オペ室でひまわり畑を歩くのも、
ああ、これで次の生存はない、と思うのも、
薬物でトリップするのも、
みんな同じかもしれないということさ。
>>483 補
少なくとも、
何とか波やら脳内物質やらの向こうに“それ”を見ようとすれば、
そこに違いを見出せるのか? と。
問題は美白とはまったく別だよ 単純にデータが少ないなら、調べればいい 臨床実験が足りなかったというだけの話だ しかし、臨死体験の話は主観の問題を客観的に証明できないのを ひたすらデータが少ないと逃げ続けているだけだろう 通常、データが少ない、というなら方法論的にいくらでも解決方法はあるはずなんだよ たとえば、美白の問題なら、臨床が足りなかった、品質のバラつき 他商品との混ぜるな危険を調べつくせなかった、あるいはそういう許認可規格が甘かったという話ですむ。 でも、ここで問題になっているのは主観的にちがうと思っているものまで 客観的なデータで説明できるかって話だろ? 記憶は変性するし、主観通りの体験をしたかすら主観では判断しようがないのに 主観を客観的な物事を評価する基準にしようと言うのだからもはやナンセンスだというしかない 赤ちゃんが泣くというものも、実際身体をさぐって実証できるからこそ 泣くという意味が分かるのだろ? 臨死体験に特別な思いをもっている人たちを客観的なデータで納得する方法というのはあるのかい? どこまで行っても夢と同じデータしかでなかったとしても、彼らがちがうと言えばデータが足らないということに なるんじゃないのか? 思うに、体験に重きをおく体験主義者たちは、 ある特定の心の状態(主観)と、ある特定の体験(客観)というものを深く結びつけすぎなのではないかと思う。 同じ体験をしたからと言って、みな同じことを思うわけではないし 同じことを思う心の状態が、同じ体験によってしかなされないわけでもない。 ある特別な場合にだけ、主観=客観とするならば、それこそそういう人たちが客観的なデータを 呈示するべきだと思うが
>>485 そ。
だから、仏教に於ける「悟り」「涅槃」ってのは、
臨死体験以上に“いかがわしさ”満点なのさwwwww
世界各国臨死体験例は数多く報告されており、文化的な違いで枝葉として違いはあっても コア体験というか、共通の体験もいくつかあるとの事です。 トンネル体験や人(キリストかお地蔵さんか等の違いはあるらしい)との出会いとか〜 共通する体験もあるということは客観的に認められています。
要するに 客観的なデータで主観のちがいを説明することはできるが 客観的なデータで主観のちがいを説明することができないと主張する場合 その主観を客観的な物事を評価する基準にすることはできない ということかな
>>486 いや、だからそれがおかしいと何度も言っているわけなんだが・・・
俺が言っているのは智慧は体験とはちがう、ということ。
無我はものごとをつぶさに観察していけば理解できるし、納得もできる
>>489 だったら、仏教である必要ないよね。
どこにでもあるちょっとした自己啓発と変わらないw
>>491 三法印で悟るの?
つか、
体験無き仏教なんてありえないんだが・・・w
体験のない人間はいねえよ ただ、体験のあり方は人それぞれだって言ってんの
臨済がそれ(悟りの境地)を言葉に出して言えばもう的外れであると言ってますね。 お釈迦様も生きる指針を示されはしたが、悟りの境地とは〜なんて言っていないでしょう。 言葉で語れない領域もあるということではないのですか? 矛盾してますが、それをなるべく言葉で伝えようと努めたのがお釈迦様だと思います。
ちなみに、脳死しても心臓は酸素さえ送り続けていれば動き続けるそうだよ 脳死ってのは大脳も小脳も脳幹もみんな死んでるんだよ 意識作用はまったくないと言っていい でも、そんな体でも心臓を奪おうとすると身体を動かして訴えかけてくる 家族には死んでるとは思えないだろうな でも、そんな身体は臨死体験なんて味わえない、臨死体験は大脳が見ているものだからな だから、大脳が完全に死んだ植物人間は夢を見ないし、回復もない。
>臨死体験は大脳が見ているものだからな 断定するのはいかがなものかと思います。 前述しましたが、脳内説で説明が付かない例も実在します。
いや、だからさ、特定の体験という客観性をもったものと主観を結びつけるなって話なんだが 智慧ってのは特定の体験をしなきゃえられないもんなのか?そこまで言ってないだろ俺は
>>498 仏教で言う智慧(諸法の縁起してあることを“見る”こと(術語で言う“縁起の現観”))は、
特定の体験(具体的には禅定・瞑想)無しには無い筈だが?
少なくとも、伝統的に通仏教的に、ここはどの部派も宗派も譲ってないと思うが?
>>500 禅定波羅蜜と智慧波羅蜜は同じという見方なのか?
戒定慧は 戒律を守って、心を落ち着けて、反省する といういわゆる、企業が勧めるPDCAサイクルと基本的に同じだよ
戒定慧の反対が惑業苦だからね 煩悩に惑わされ それに耐え切れず貪り 結果苦しむのだから
>>504 補
ただ、
仏教の教理研究で世界を牽引する近現代日本に於いて、
悟った人間が出ていない(と少なくとも推察できる)のは、
まさに体験が欠けてるからじゃねーの?w
仏教の理屈なんて猿でも「解」る。
が、
理屈が「解」るだけじゃ仏教じゃないのさ。(´∀`)b
ただなにより体空観が歴史の過程でもちあげられてきたのは確かだろうし その中でとくに禅定による神秘性を重んじてきたのがインドの伝統だろうけどね
特別な体験に重きを置かないだけで 体験しなければ何事もはじまらないだろそりゃ 仏教は生きることについての教えなのだから
>>507 で、批判も多いし、(古尊宿方はともかく、現代の現時点では)
(真に悟りには)届いてはいないかもしれんけど、
その考え方で言う時、禅(宗)が直系になるわけさ。
また、体験無しに何もないと思うしね。
たとえば、子供が「お腹が痛い」「頭が痛い」ということを、
単に言葉上・表現上でなく学ぶには、彼らに経験が無いと駄目でしょ。
「夏は暑いものだ」ということを、極地に暮らす者が、真に知り得ると思うかい?
理屈だけなら(≒
>>489 )図書館の蔵書と同じ。(尤も、現代日本仏教は図書館の蔵書並だがなw)
>>508 >仏教は生きることについての
それは、近代仏教学及び現代日本(大乗)仏教のスタンスであって、
通仏教的ではないよ。
仏教の目指す所は、あくまでも「安心あんじん」(完全なる寂滅)なのだから。
8:1 (因縁略)。 『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。 そこには、地(paThavI)もなく、水(Apo)もなく、火(tejo)もなく、風(vAyo)もなく、 空無辺処(AkAsAnaJcAyatana)もなく、識無辺処(viJJANaJcAyatana)もなく、 無所有処(AkiJcaJJAyatana)もなく、非想非非想処(nevasaNNAnAsJJAyatana)もなく、 この世(loka)もなく、あの世(paraloka)もなく、月・太陽(canima-suriya)の両者もありません。 比丘たちよ、私は、そこに来ること(Agati)も、行くこと(gati)も、止(とど)まること(Thiti)も、 没すること(cuti)も、生まれかわること(upapatti)も説きません(na vacAmi(vadAmi))。 依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。 これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』 8:2 (因縁略)。 『「不屈(anata)というものは、見難い(duddasa)。 なぜなら、真理(sacca)は見易いもの(sudassana)ではないからである。 知る者(jAnato)に、渇愛(taNhA)は洞察され(paTividdha)、 見る者(passato)にいかなるもの(kiJcana)も存在しない(natthi)。』 8:3 (因縁略)。 『比丘たちよ、 生まれもしないもの(ajAta)、生成もしないもの(abhUta)、 作られもしないもの(akata)、形成されもしないもの(asaNkhata)がある(atthi)。 比丘たちよ、もし、 生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがなければ、 この世において(idha)、 生まれるもの(jAta)、生成するもの(bhUta)、 作られるもの(kata)、形成されるもの(saNkhata)の出離(nissaraNa)は知られないであろう。 しかし、比丘たちよ、 生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、 生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』
通仏教というが、七仏通戒偈 に禅定なんて書かれてないじゃん
8:4 (因縁略)。 『依存する者(nissita)には、動揺(calita)があり(atthi)、依存しない者(anissita)には、動揺がない(natthi)。 動揺がなければ、軽快(passaddhi)があり、軽快があれば、屈従(nati)は起こらない(na hoti)。 屈従がなければ、来と去(Agati-gati)は起こらない。 来と去がなければ、没と再生(cuti-upapAta(cutu-upapAta))は起こらない。 没と再生がなければ、この世に(idha)だけでなく、あの世にも(huraM)、両者の間にも(ubhayamantarena)ない。 これがすなわち、苦の終わりである。』 ※言い回し等が柔らかく、また、より新しいということで、 8:1のみ「パーリ仏典入門」(大法輪閣)から引用に対応語を付記。 他は全て「パーリ仏教における涅槃」(駒澤大學佛教學部研究紀要 59, 478-462 ,20010401)から。
自浄其意て禅定のことなのかよ 根拠は?
515 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/03(火) 23:48:50.55 ID:M74p1+X6
>>480 >すまん、今見直してたんだが、αは安静状態、βは集中状態で出る傾向があるそうだ
そしてシータΘ波は更にリラックスした脳波、深い瞑想、浅い睡眠、潜在意識にアクセスしている状態でしょうか。
法相宗の唯識では、深い瞑想にてうまく阿頼耶識にアクセスすることができれば、カルマや前世を思い出せるかも知れません。
なおΘ波は「無我の境地」とも言われております。
以上、横レスにて失礼します。
浄土教には定散諸機という言い方がある 定心の善根功徳で悟ろうとする機類と 散心のそれで悟ろうとする機類のことだ。 もちろん、あんさんのいうように、定機のほうが上輩だよ 早く悟ることになるというのが伝統的な見方だ 一方、散機というのもある、これは 心が定まったいない状態で行なう善、もっぱら三福といって 父母孝行や仏寺等の布施の功徳によって悟ろうという機類のこと。 どちらでもすくわれるとするのが仏教だよ
517 :
神も仏も名無しさん :2013/09/03(火) 23:52:15.24 ID:QR1ZDWo9
うるせーぞ在家・・このハッタリチンチクリンが(笑)
>>514 いや、強いて言えばってことw
また、サティを持ってしてということであるなら、(禅)定、瞑想無しに意が浄まる道理もなく、
下記の如く、修道に於いてのセット物なわけで・・・。
Dhp 183-185
183.SabbapApassa akaraNaM,/kusalassa upasampadA
SacittapariyodapanaM,/etaM buddhAna sAsanaM.
諸悪莫作 (諸の悪を作すなかれ)/衆善奉行 (衆くの善を行い(奉じ)て)
自浄其意 (自ら其の意を浄くせむ)/是諸仏教 (是れ諸の仏の教えなり)
(私は) いかなる悪も行わず、もっぱら善を完成し、自己の心を浄くする。これが諸仏の教えなり。
184.
KhantI paramaM tapo titikkhA, nibbAnaM paramaM vadanti buddhA;
Na hi pabbajito parUpaghAtI, na Λ samaNo hoti paraM viheThayanto.
(ayaM nakAro)(pAtthakesu na dissati)
185.AnUpavAdo anUpaghAto , pAtimokkhe ca saMvaro;
MattaJJutA ca bhattasmiM, pantaJca sayanAsanaM;Adhicitte ca Ayogo,
etaM buddhAna sAsanaM.
184
耐え忍ぶは最上の修行、涅槃は最上、と諸仏は説く。
他を害するは出家にあらず、他を悩ますは沙門にあらず。
185
罵り害することもなく、根本戒をよく守り、食事において量を知り、
遠く離れて臥し坐り、また禅定によく励む。これが諸仏の教えなり。
(183下段・184・185偈とも片山訳)
*一般には183偈だけだが、パーリでは此の3偈を言う。
*パーリ文は一人称。つまり、『私は、これこれを為さないようにしよう。
これこれを為すようにしよう。』という自ら発起するベクトルが備わっている。
(文字通り「発心」としての志向性。)
519 :
清晴 :2013/09/04(水) 00:18:11.31 ID:fU4POyGQ
岐阜県多治見市にある県陶磁資料館にて、92年9月17日の写真日付で、 教団誌に不敬写真が教団の手によって出ておりますので、 「紀宮様のご案内役を拝命、岐阜県多治見小道場、加藤よね子」P80 「昨年9月17日、天皇陛下第一皇女、紀宮様が美濃路をご旅行の際、 岐阜県多治見市の県陶磁資料館にお立ち寄りになられました。」 「私は、4年前資料館が新装されてからは、出勤すると欠かさず館内の お浄めをしています。そして数多くの方々が来館される中、 手かざしと真吼えを機会を見つけてはさせて頂いております。」 「当日、宮様をお迎えさせて頂き、私は後ろよりそっと手をかざし ながら、約一時間ご案内をさせて頂きました。」 この日の朝、私(加藤よね子)は、家を出るまでの間、下痢の清浄化を 頂いておりました。また、いつになく目もかすんでいます。」 以前も県の博物館でこのようなゆゆしき行為が崇教真光において行われた。 皇室の方に勝手に手かざししたはめ撮り写真を、掲載するとは何事か。
>>520 浄土教基準で言われてもねぇ・・・(^^;
522 :
神も仏も名無しさん :2013/09/04(水) 00:27:11.95 ID:Kv/ImIKj
>>520 いや、浄土教基準じゃないだろ、URLもひらくヒマなかったか?
>>523 そうなの?そりゃ失礼した。 URL開いてないから・・(^^;
長部22大念処経にある如く、
念は(禅)定とセットだし、この四念処なしに、どの宗派も成立しない*と思うけど・・・(´・ω・`)
*(どの宗派の行法も、ここに集約できる)
ダンマパダとかって、当時のインド人は道徳観念が薄く、風紀が乱れに乱れていたので、 それを制するためにも、より戒律的表現になったんじゃないかな。 言ってみれば、学校で勉強するのに、まず校則を作るようなもん。 校則は、秩序を守るためには必要だが、それが本来の目的じゃない。 目的は大学に合格すること。 ところが小乗仏教は、本来の目的を、戒律と混同しちゃって、戒律が釈迦の教え みたいになっちゃった。 教えは教えでも、目的を達成するための環境作りの教えであって、本道の教えじゃない。
いや、だから冷静に見てくれよ 落ち着きなさすぎだろ 念は禅定とはまったく関係なく行えることだろって言ってるんだよ そんな難しいこと言ってる覚えはないんだが
久しぶりに夜更かしが過ぎたな・・ ノシ
なんか“イタイ”奴が出てきたけど寝るw
>>526 だから何?w
念と禅定が無関係だとでも?www ノシ
ひねくれてんなあ 念と禅定が関係あったらすべて禅定なのかよ そんなまともな識別作用すら失ってるのか?
103 :神も仏も名無しさん:2009/07/22(水) 00:13:34 ID:wjBbx3mB どうして真光隊だけの100名上級研修があるか知ってんのか?wプ また家族に聞いてみるのか?w世話係以上の御役者ならしってるだろうな〜wwプ 家族の中にロクデナシが居てみんな困ってるだろうよ〜wwwwwwwww オールグリーンの研修開催にいたる経緯を知らんだろ〜?wプ また家族の情報にフェイクまぜて某掲示板で書き込みしてコピペしてくんのか?w それとも「思いやりが無い」と自分が出来ないくせに真光被害者の会でクソスレたてんのか?w 早くシネ〜ト家族にもっと迷惑かかるぞ?wぷぎゃあwwwwwwwwwwww
530 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/04(水) 00:48:19.22 ID:MWKmx191
>>515 >法相宗の唯識では、深い瞑想にてうまく阿頼耶識にアクセスすることができれば、カルマや前世を思い出せるかも知れません。
禅定体験に基づいて我と世界の関係を説明するのが所謂「六十二見」で、「六十二見」は体験に応じた転生をもたらし、解脱はできないそうです。
正しい禅定は必要条件でしょうが、十分条件ではないようです。
仏陀の生存中は仏教は宗教じゃなかった。 仏陀滅後仏教は宗教になった。 仏陀生存中の仏陀の説いた事にだけ関心があります。 その後に宗教として変化したものには全く関心がありません。 輪廻転生や死後の世界等、仏陀の説いた教えの中で方便や枝葉の部分には関心がありません。 幹の部分だけをわが人生に取り入れて、実践したいです。 ただし五戒の一つ酒を飲むべからず〜と言うのは守る意志がありませんので、この点で仏教徒では ありません。 仏陀の説いた教えは仏教徒ためだけにあるのではありませんので構いません。 悟りとか、超常現象には全く関心がありません。 関心があるのは人間としての理想的な生き方だけです。
>>531 仏陀の教えの本質って、「人間としての理想的な生き方」とか、
「非理想的な生き方」とか、そういう人間の認識の価値判断を超えたところに
あるんじゃないの?
苦しみを性質とするもの、煩悩のことですね、わかります すなわち、小乗においては主に見思惑だ
> 苦しみを性質とするもの
> 小乗においては主に見思惑
知りませんでした、ご教示ありがとうございます 屮(_ ._)屮
見思惑
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%8F%E3%81%8F 見惑と思惑
ともに三界(欲界・色(しき)界・無色界)内に存する煩悩である
天台宗で立てる三惑(見思惑・塵沙惑(じんじゃわく)・無明惑)の一つ
見惑は三界の理に迷うもので見道において断ぜられる
思惑は「修(しゅ)惑」ともいい、三界の事(じ)(現象)に迷うもので修道で断ぜられる
この2惑は三界の生死を受ける因であって、これを断滅することによって修行者は三界の生死を超越する
そしてこれより進んで塵沙惑を断じ、さらに無明惑を断ずることによって次第に悟りを向上せしめ、究極の仏果に達する
この二つの概念は
もと小乗の阿毘達磨において見道で断ぜられる煩悩と修道で断ぜられる煩悩を分けて説いたのを
天台宗が取り入れ再組織したものである
見道は四諦の理を観じてはじめて聖人の位に入る段階
修道はその後に同様の修行を繰返し行なって行く段階である
536 :
神も仏も名無しさん :2013/09/04(水) 01:51:25.02 ID:Kv/ImIKj
538 :
神も仏も名無しさん :2013/09/04(水) 02:03:22.67 ID:Kv/ImIKj
539 :
神も仏も名無しさん :2013/09/04(水) 02:05:26.04 ID:Kv/ImIKj
>>537 「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ・・・・」
これ、結果論だよね?
正しく観ずるから、厭いが生じる。 その結果、「喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離る。」
「喜と貪とを離る」 → 正しく観ずることが出来る じゃないよね?
「その世俗性の否定によって、結果として ・・」
これ、あたかも世俗性を否定することが、悟り得る条件みたいに言ってるけど、
確かに、世俗性を否定するような心境になれば、悟りは近いんだろうけど、
「世俗性を否定するような心境になる」 っていう結果論と、「世俗性を否定していって悟りを得よう」 っていう行程論っていうか
そういうものと違うよね?
多くの人は誤解してるんじゃないかな?
この文章もいってることに少し矛盾を感じる
「正しく観ずるが故に厭を生じ・・・」、という文章をあげながら、後半で、
「俗性の否定によって、結果として・・・ 」 という風に書いてる。
この書き方、あたかも、「世俗性を否定することを修行となせば、悟れる」、と、誤解を生むような感じになってる。
ここに大きな間違いがあるように感じる。
仏教の教えって、戒律的なものと、結果論が 入り混じってるような気がするね。 「二種の障害を根絶することによって・・・ 阿頼耶識が変化を起こす」 「根絶する」 て書くと、あたかも自分の意思の力で根絶・・・みたいな感じになるよね? この 「根絶することによって」 ていう意味は、「根絶されることで」 ていう意味じゃないかな〜。 意思によって根絶するんじゃなくて、結果論として、根絶される。 もちろん、戒律的な意味で、節制、抑制するということで、そういう邪まなことを考えるな、 ということはあるだろうけど、それと結果論がごっちゃになってるような気がする。
> 正しく観ずるから、厭いが生じる。 その結果、「喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離る。」 > 「喜と貪とを離る」 → 正しく観ずることが出来る じゃないよね? 深層的な自我心(末那識)を滅させて、正しく観じて 真の無我行を実践することができる、ということだと思います 末那識(まなしき) 睡眠中でも深層において働き続け 根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる 第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩
> 「根絶する」 て書くと、あたかも自分の意思の力で根絶・・・みたいな感じになるよね? > この 「根絶することによって」 ていう意味は、「根絶されることで」 ていう意味じゃないかな〜 > 意思によって根絶するんじゃなくて、結果論として、根絶される > もちろん、戒律的な意味で、節制、抑制するということで、そういう邪まなことを考えるな > ということはあるだろうけど、それと結果論がごっちゃになってるような気がする 因だけではなくて 縁だけでもなくて 因と縁によって 煩悩障(自己に対する執着) 所知障(外界のものに対する執着) の二種の障害を根絶する為の方法によって この二種の障害を根絶させて … ということで良いと思います わかりやすい説明が出来なくてすいません スマソ 屮(_ ._)屮
546 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/04(水) 09:29:13.35 ID:MWKmx191
>>541 ?氏
>非想非非想処の次の段階の想受滅(滅尽定)によって解脱に至る、ということだと思います
そうかも知れませんね。
一つ譬え話をしますと、AさんとBさんがいました。
Aさんは自身の前世、カルマも知らずに輪廻から解脱しようとします。
Bさんは自身の前世、カルマも知った後に輪廻から解脱しようとします。
現代の常識から考えると知らないAさんの方が輪廻に執着が無いので解脱できそうです。
でも長部経典「沙門果経」に登場する解脱者達は皆Bさんタイプですね。
やはり輪廻、前世を知った後の滅尽定が寛容かと思料します。
前世は判らんけど‥ 人間は両親から受けた影響、その両親もまた、その両親も、、、、 個人の発想だと思い込んで生きてるけど、実はその性質は親筋の両家から継承した因によって突き動かされているんでしょう。 そういう事のような気がします。 「唯我独尊」や「八正道」は、両家から伝わる因縁?性質を相続しない事、事象を偏って感じない、という事だと思います。 「出家」の本来の意義もそういう意味じゃないでしょうか。
548 :
絶対神 :2013/09/04(水) 10:07:55.45 ID:MV9AcgnU
>>533 『いや人間が考えたものである以上、『人間にとって理想的な生き方』でしかない、
「それ以上」という考え方は「合理的」じゃない』
「また、人の理想など多様である以上」
『飽くまで仏教徒にとって「理想的な生き方」でしかない』(煩悩まみれの
生き方が「理想」である人間も世の中にはいくらでもいるからな)
>>547 『それを言うなら、「偶然」というものも人間の人生にかなり多くの影響を齎す』
たとえばたまたま交通事故にあったり、たまたま地震で死んだりすることは
いくらでもある(死という最大の要因すらかなり偶然的要素が強い)
『つまり「本人の行動とは何の関係もない」』
この世界はしばしば因があって果があるわけでもなんでもない(またそうである
場合も、『人間は元々、「そんなに立派になんかなれない」)
たとえばストーカーをすれば逮捕されるが、しばしば病的なストーカーは
「相手をころすまで自分の意思ではストーキングはやめられない」
(もちろん、そこまで病的でなければやめられるだろうが、本人の意思とは
関係ない病的な心理で突っ走ることはこの世界ではわりとよくある)
549 :
絶対神 :2013/09/04(水) 10:10:40.89 ID:MV9AcgnU
『本人が悪いから悪い事が起こる』 「悪い原因があるから悪いことが起こるという考え方は」 『もういい加減やめないか?』 「それは人を苦しみから解放したり救ったりするのにも、それ以外にも」 『何の役にも立たない』 釈迦の最大の罪は 「そういう宗教が犯す典型的な誤りをはっきりとおかしていることである」 仏教というものは、そういう面では 『キリスト教よりより悪い』(キリスト教の場合、 単なる偶然や、単なる自然のシステムをふつうに認めている)
550 :
絶対神 :2013/09/04(水) 10:23:37.60 ID:MV9AcgnU
「仏教の問題点は」
『なかなか自分たちが「宗教を信じている」という事を認めない点なんです』
「解脱も悟りも「全部『信仰』であって、「事実ではありません」」」
>>546 『その通りです、現代の常識では「前世」はありません』
それは無知だからではなく、調べた結果、「宗教的なそういう超現実的部分」が
間違い、嘘であることが判ってきたからなんです
『それに対して、「キリスト教」は、「自分たちが宗教を信じている」という事を
ふつうに認める場合が多いです』
「仏教がキリスト教ほど広まらず、かなり衰退しているのは、ゆえがない事
ではないのです」
私が仏教徒と話ていて強く感じるのは
「そういうキリスト教に比べて、「遥かに非現実的」である部分です」
『大丈夫ですか? と言いたいのですよ』
>>549 そう。宗教の世界の方がこの世界より狭いんだ
552 :
絶対神 :2013/09/04(水) 10:30:42.35 ID:MV9AcgnU
『つまり人類共通の「真理」などというものは』 「神様でも実在しない限り」 『元々、『無い』のです』 「本当に「正しいこと」、「人として正しい生き方」などは」 『唯一絶対全知全能の『神』が実在でもしない限り』 「ありえません」(大笑) 「そしてお前達には「神」が実在するかどうかなんて」 『永遠に判らないでしょう』
医者がある患者の見当識を調べる時(見当識障害か否か?)、1:ここはどこか?2:あなたはだれか?3:いまはいつか? という3つの質問をする。一般に正常とみなされるには、住所を言って名前を言って日付を言えば済む事です。 しかし本質的にこれらの問いに答えようとすると、われわれ人間は誰も答えられない。住所は座標系の一点を示すわけですが 本質的に答えようとするとより大きな座標系を示さねばならず、日本-地球の北半球-太陽系-銀河系-宇宙-??で宇宙がどの 座標系でどの位置にあるのか知らない。日付にしても同様です。時間の座標軸の一点を示すわけですが、西洋暦(日本暦)何年 何月何日何時何分何秒〜と言ってもこの元の西洋暦(日本暦)が無限の時間の流れのどの位置にあるのか知らない。名前も同様。 名前はただのレッテルです。住所、職業、年齢、親子兄弟の名前を答えればどういう人間か分かったような気になる。
「出家」「出世間」は家系的な因と、それで生じた世間的な縁の柵を払拭する事でしょう。 形だけ家や社会から出るって意味じゃないとやろうし。 産まれ育って親筋や社会から刷り込まれた性質を払拭するんでしょうが、そう簡単に拭えない性質をなんとかしようと言う事でしょう。
555 :
絶対神 :2013/09/04(水) 10:42:11.53 ID:MV9AcgnU
「つまり、『仏教なんて単なる信仰であり』」 『仏教の教義なんて単に古代人や中世の人間なんかが考えた「神話にしかすぎない」って事なの』 『これすら認められないから仏教は駄目なのです』(キリスト教陣営は リベラル派をはじめ、かなり科学合理主義的な部分を認めている教派はあるんだけど。原理主義 だって「しばしば宗教を信仰しているのにすぎない」ていどの事は認めると 思うよ?) 「大抵の日本人は仏教も神道も本気で信じてないから」 逆にそういう意味では話があうやつは多いけどね 『しょせん、信仰にしか過ぎないのだから』 現実との間に矛盾を生じて結局、人を救えないことなんて幾らでもあるわけだよ (また現実は厳しく元々、盤石な『救い』なんて『無い』がね) 「「キリスト教」にしろ「仏教」にしろ『宗教』の駄目なところってそういうところ」 『人生について「結論」を求めて信じるのに』 結局、「事実」ではなく「信仰」にすぎないので 「全部駄目にしていってしまう」 って事なのよ 『じゃあ本当に救いを求めている人間はどうしろってうの?』 っていうしかないの 『私はしばしば『現実』っていう名の『絶対神』に対して』 「俺の事は、忘れて『ほうっておいてくれ!!』」 と叫び出したいのです まあ生きている以上 「絶対に逃れられない、そういう意味では文字通りの『絶対の神様』なんですが」ww
われわれは自らの存在理由、根拠を調べてみても、空間軸でみても時間軸でみても最終的には宇宙史までしか
さかのぼり得ない。肉体を構成している物質を調べても同様に行き着く果ては宇宙史です。
その宇宙はビッグバンまでしか人間には分からない。ビッグバン以前の宇宙は謎です。知りうる手段がない。
つまり、本質的に自分自身の存在根拠が分からないと言うことは、あらゆるものの存在根拠が分からないということ
で、この世界が何故いかにして存在するにいたったか分からないと言うことです。
生について分からず、この事は同様に死についても分からないということです。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kuukai1.htm 空海 秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く-わたしたちは生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない
死に死に死に死んで死の終りに冥し-死に死に死に死んで、死のおわりをしらない
557 :
絶対神 :2013/09/04(水) 10:52:03.55 ID:MV9AcgnU
『つまりねえ』 「そういう意味では、「仏教」に限らず」 『すべての「宗教」は『現実逃避』でしかないんです』 もちろん、ある程度、「現実逃避」してリフレッシュしなければ 『人間の精神は「もちません」』 ただもうそういうレベルじゃない、ボロボロに傷ついてどうにもならない人が 「宗教」に救いを求めてくることが多いのです 「まあ、不治の病の人とかね」(見方が変わるだけ じゃどうにもならないよ) 『そういう人たちに対して「どうしろっていうの?」』 と言いたいの 「神は一体なにを考えているの?」 私は仏教と否定しているというよりも(それもあるけど)、どちらかというと 『本当の救い』というものがないこの世界の『現実』を 『嘆いているのです』(笑) 人間の力では乗り越えられない現実や、乗り越えられない壁は 「幾らでもありますよ」 私は両手をあげて(お手上げw)て言いますよ 『神様、助けて!!』(大笑)
559 :
絶対神 :2013/09/04(水) 10:56:48.02 ID:MV9AcgnU
『「神」がいようがいまいが』 「現実にこの世界では『神様助けて!』としか言いようがない状況は幾らでもあるわけです」 『神を否定してもしょうがないの』 「信じてもなんのたしにもならないかもしれないが」 『否定してもまたなんのたしにもならないんだわ』(大笑)
560 :
絶対神 :2013/09/04(水) 11:07:08.40 ID:MV9AcgnU
『それでも助からないやつは幾らでもいるよね』(笑) 『仏教を熱心に信じようが信じまいが』 「解脱であろうが悟りであろうが「なんであろうが」」 『助からないやつは、「幾らでもいる」』(大笑) 冷たい事いっちゃうと、小乗みたいだけれどw 「よーするに『自分が助かるか助からないか』が」 『問題なだけ』(大笑) 『まあ、私にとっては、本当に自分が『超能力者』で『神』であれば』 「それでいいやって事」(大笑) まあその基本的な部分は、クリアしたと思うけど? それでも「ほうっておいてくれ」と現実に対して叫びたいわけですか? 『うん、『まだ重度の病気だし』』 「まだ、あったとしても「通力」は『弱い』からね」
561 :
絶対神 :2013/09/04(水) 11:15:05.92 ID:MV9AcgnU
『つまり、しばしば』 「「現実」を「認識する」だけでは」 『どうにもならないって事』 「それを変えていける力とワンセットじゃないと」 『単に「自分が地獄にいる」と自覚してしまうだけになってしまうという事なんです』 だから、理想を言えば 『現実への認識は「神様」への『信仰』と』 「ワンセットになっていなければならないのです」(しょせん 人間の力では『変えられない現実』というのは「いくらでもあるのですから」)
562 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/04(水) 11:16:49.30 ID:MWKmx191
>>549 >「そういう宗教が犯す典型的な誤りをはっきりとおかしていることである」
仏教というものは、そういう面では 『キリスト教よりより悪い』
そうですかね。
キリスト教では『原罪』、「全ての人は生まれながらに罪人」という教えがあるのでは。
「良いカルマの人も悪いカルマの人もいる」という仏教より厳しいでしょう。
まあ、『原罪』の教義は原始キリスト教にはなく、パウロ神学かも知れませんが。
原始基教:全ての人は神の子にて神に近づき得る
パウロ神学:全ての人は罪人にてクリスチャンのみが救われる
563 :
絶対神 :2013/09/04(水) 11:21:35.95 ID:MV9AcgnU
『でも、「自分が絶対に現実に勝てない場合は」』 「どうすればいいんだ!!」 って事になると思うけど(大笑) 『道はみっつあるよ』(大笑) 「神に祈って、祈りをかなえてもらうか」 『自分が神として「覚醒」して「奇跡の力」で『道を開くか』』 「それとも「死ぬ」か」(大笑) 『どちらにしろ「この三つしか道はない」』(まあ厳密に 言えば「負け犬」として生きるって道があるが、「それは死んでいるのと一緒だ」) 「私は二番目の道を選んで、あるていど達成したけど」 『君たちには無理だろう』(笑) しかも「あるていど達成した」のにすぎず 全知全能になったわけでも解脱したわけでも悟りを開いたわけでもないww
> 前世は判らんけど
> 人間は両親から受けた影響、その両親もまた、その両親も
> 個人の発想だと思い込んで生きてるけど、実はその性質は親筋の両家から継承した因によって突き動かされているんでしょう
> そういう事のような気がします
> 「唯我独尊」や「八正道」は、両家から伝わる因縁?性質を相続しない事、事象を偏って感じない、という事だと思います
> 「出家」の本来の意義もそういう意味じゃないでしょうか
輪廻から解脱することを目指す、ということだと思います
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる
仏教は輪廻と解脱の考えに基づいている
人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる
その苦しみから抜け出すことが解脱であり
修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった
瑜伽師地論
http://reigaku.jugem.jp/?eid=424 我愛と戯論(けろん)と善悪業によって中有が形成される
その中有が次に生まれるべき処を求めて母胎に入り
父母の精子が結合する時、中有が滅すると同時に生有が生じ
一切の種子たる阿頼耶識がこれに結合する
565 :
絶対神 :2013/09/04(水) 11:29:54.37 ID:MV9AcgnU
『つまり、繰り返し言うけれど』 「しばしば、『現実』を認識するだけでは」 『どうにもならないという事なんです』 この世界では『道がない』事なんていくらでもあるんです 「助けて、神様」 と叫んで滅んでいくしかない事がね……
>>533 仏陀が何を求めて出家して何を悟ったのか、そして何を説いたのかを見れば答えは分かると思います。
人間としての理想的な生き方、この世界の真理〜こそが答えでしょう。
極めて精神的な話ではありますが、仏陀生存中の仏教は西洋の一元論ではなく現実的に説いているのが理解できると思います。
後代の大乗仏教では唯識で一元論に陥っています。
インド人以外の現代の人間に対して輪廻を説くのは非現実的で意味がありません。
輪廻なしでも十分仏陀の説いた道は理解想像できます。というより輪廻や、生前のカルマ(業)にこだわると仏陀の説いている
事が理解できなくなるでしょう。
567 :
絶対神 :2013/09/04(水) 11:44:21.97 ID:MV9AcgnU
『他人はどうでもよいって?』 「あんたに「良心」はないのか!」 っていう人もいるかもしれないが 『少なくても「良心」とともに「滅ぶ気はない」』 俺がもし『神』であるのなら 『たとえ何を犠牲にしても!』 『全知全能になってみせる!!』
存在根拠や生前、死後の世界など形而上の事は人間には知りえない。 知りえない事は分からないで良いじゃないのですか? それを「分からない」じゃ済まない、何とか分かった事にしたい〜と言うのは邪心です。 分からない世界を説明するのに分かっている(生きている)この世界の言葉で表そうとしても無駄です。 分からない世界は分からない理論や言葉でしか表せないのだろうし、それはその世界に死んで 行って見なければ分からないと言うことです。それを生きている人間が、生きてい人間の理論、言葉で 表しても無駄です。 だから輪廻やカルマを説くのは無意味だというのです。
> 輪廻や、生前のカルマ(業)にこだわると仏陀の説いている事が理解できなくなるでしょう
例えば
前世からの心相続とかに囚われている人の為に
その他、諸々の煩悩とかに囚われている人の為に
無我・縁起・空・を観察する
という方法があるんだと思います
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html 経典には輪廻が記されている
しかし、輪廻を深刻に捉えてはならない
輪廻は方便だ
→ 世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた ←
世尊の時代、人々は輪廻を信じていた
だから世尊は、輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた
これまであなたたちは、善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない
あなたたちは、練習が必要だ
およそ、禅定に入ろうとする人は …
… 吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます
輪廻やカルマや死後の世界を実在するものとして言い表す行為こそオカルトです。 仏教には神秘主義の部分(有ると断定しない、有るとは言わないがありうる、かもしれないという立場)はあっても オカルト(あると断定する)の部分は無いです。 間違った捉え方をしておられる方がいらっしゃるようなので一言。
572 :
絶対神 :2013/09/04(水) 12:27:22.91 ID:MV9AcgnU
『で、「神」なんかいるのかって?』 「いなかったら多くの人間が救われないだけの事だな」(笑) 『まあ「永遠の救い」という事を言うのなら』 「人類全員が救われなくなるだけの事」 『ついでに俺も救われないだけの事だよ』(笑) 俺としては何度も言うが 『俺であろうが他人であろうが「神」にはいてほしいね』(大笑)
> 仏教には神秘主義の部分(有ると断定しない、有るとは言わないがありうる、かもしれないという立場)はあっても > オカルト(あると断定する)の部分は無いです > 間違った捉え方をしておられる方がいらっしゃるようなので一言 間違った捉え方をしてる 『 心の働きを滅させる 』 為の方法がある、ということだと思います _ _ _ 因だけではなくて 縁だけでもなくて 因と縁によって 煩悩障(自己に対する執着) 所知障(外界のものに対する執着) の二種の障害を根絶する為の方法によって 二種の障害を根絶することによって 阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち) これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し それを得たものは解脱身であり 仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)
宗教としての仏教では、お経を読んで座禅して瞑想して仏像を拝んで〜という形を取るのでしょうが、
仏陀の生存時の大元に戻って見てみれば何の事はない、ただ生き方を指南しただけです。
苦しい人生を乗り切るにはどう生きれば良いか?コレを説いたのが仏陀です。
今の宗教仏教には何の魅力も関心もありません。
信者獲得の為、変化して元の仏陀の説いたものとかけ離れたオカルト仏教には何の魅力も関心もありません。
http://space.geocities.jp/mindmanipulate/bukkyou-honnshitu.html 仏教の本質とは
現在の新興宗教に見られる「形而上学的、不可思議なご利益」による奇跡 など微塵も無い、論理の教えである。
「原因」があるから「結果」がある。「苦」は何故生まれるのか。→「欲」が「苦」の根源である。→○○すれば救われる???
そんな「迷信」自己中心や思い込み信仰も捨て去り、欲を鎮め奪い合いをやめ自らをこそ整えれば、相互慈愛で分け合い
助け合うことができるだろう。 崇拝も盲信も信仰も「迷い」である。 過去を追うな、未来を願うな。過去は過ぎ去ったものであり、
未来はいまだ到っていない。現在の状況をそれぞれよく観察し、明らかに見よ。今なすべきことを努力してなせ。(中略)
仏教の堕落であり大衆のオカルト志向を逆手に取る、宗教信仰要素である。 このように「妄想に囚われること」それをこそ釈迦は棄却したが、
後の大乗者たちは ミイラ取りがミイラとなり、仏教を「骨抜き」にしてしまった。 (中略)
このようにして本来仏教は滅亡した。 現在在るのは偽仏教団なのでご用心。 むしろ世俗の図書館の書棚とそれを手にする名もなき比丘・比丘尼の
心象に仏が息づいている。 そこにはご加護も献金も勧誘も無い。 仏法とはそもそも、その名のとおり、妄想でも信仰でも崇拝でもなく、
単なる生き方の法則なのである。
奢摩他(サマタ)とか毘鉢舎那(ビバシャナ)とかは
心に働きかける為に必要な方法である、と思います
_ _ _
止(サマタ瞑想)とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである
観(ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである
止は禅定に当たり
観は智慧に相当している
「止」だけでなく「観」を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と ☆ 念いと精神統一 ☆ と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである
大乗より上座部の方が仏教的ではありますが、戒律重視では在家では実践不可です。 それに私は仏教徒ではありません。 仏教徒ではない一般市民でも仏陀の説いた事を読むのになんら問題はないし、 大乗の唯識まで行くとこれは妄想甚だしい世界です。 悟らなくてもOK、ただ人生をより良く生きるには・・という視点で仏陀の説いた教えを読むというのは 非上座部・非大乗で有る意味もっとも仏陀に近い存在かもしれませんw
>>577 のスタンスであれば、他を批判する必要も理由もないが?
一方はこういうデメリットがあり、一方はこういうデメリットがあり、
だから自分はこの方向で行く、ってだけだろ。
それなのに貴方に
>>574 を書かせた因があると思いますよ。貴方の心の裡にね・・。
ちなみに、
>仏教徒ではない一般市民でも仏陀の説いた事を読むのになんら問題はないし
どこの誰が、「問題だ!」「ゆゆしきことだ!」といって批判したのですか?
>大乗の唯識まで行くとこれは妄想甚だしい
そりゃねーだろwwwww
それは、それこそ貴方に実践(≒禅定)が足りないからでしょw
「先生、この漢字読めません!」「先週やった筈だが?」「寝てましたw」じゃ駄目に決まってんじゃん。
>>526 そう?
文言として(禅)定或いは念が無くとも、自浄其意には、精神の調整が必要だということなれば、
そこには必然的に定(或いは念)がなければならない。
なんとなれば、禅定・瞑想無き智慧を仏教では認めないから。
日本に各宗派あるけれど、どの宗派も、定や瞑想に代わる方法論を有しているのではないかい?
勿論、七仏通戒偈は、万人向け、対外的スローガン足り得る如く、
具体的な方法論や教理に踏み込んではいない。
だが、(いや、シンプルだからこそ、か)
そこに、理(縁起)や行(戒・定)の基本テーゼが織り込まれている、
おしえの全ては余す所なく示されている、と見るべきでしょう。(事実その通りだし)
文言として定や念がなくとも、その内容は戒定慧を半歩も外れていない。
だからこその、七仏に通ずる偈と言われ得るわけで。
で、
>念は禅定とはまったく関係なく行えることだろって
密接に関連したものもあるでしょう?
その関連した部分を念頭にしただけだが、間違った思考だろうか?
AはBと全く関係なく○○だからといって、Bに於いてAが使用されないわけではないならば、
□□のためにAを媒介としてBが必要である、という言明におかしな部分は無いと思うが・・。
「自浄其意」に、念は必要だが定は必要でない、と言いきることは
仏教ではできないのさ。ケースとしてそのような比丘がありえたとしても、
それは特殊ケース・規格外ケース(>まったく関係なく行える)だということです。
特殊ケースを基準とすることは何事でも不適切でしょう?
そして、(慣れれば別なのかもしれませんがw)
念を起こす・念を集中する等といった時の具体的手法の一つが定でしょう?
なれば、自浄其意に関しても、付加して語ることに瑕疵はないと思いますよ。
まあ、
>>448 の
>水野先生も阿頼耶識は経験やカルマに従って変化する有為法と要語で解説されてましたし、
>正しい瞑想法(禅定)にて阿頼耶識まで到達した者にとっては輪廻、前世も直接知覚なのでしょう。
>直接知覚されれば、その者にとっては形而上学とは言えないかと存じます。
>だから、異教徒や修行途上者からの形而上学的質問には無記でも宜しいのでしょうね。
とか、
>>506 の
>仏教の教理研究で世界を牽引する近現代日本に於いて、
>悟った人間が出ていない(と少なくとも推察できる)のは、
>まさに体験が欠けてるからじゃねーの?w
とか、まさに
>>578 であなたが言うように、
>実践(≒禅定)
が足りなければ駄目に決まってんじゃん。〜
という指摘は、禅定、瞑想至上主義で、悟りを得る為に禅定、瞑想を実践する事こそもっとも要点。
禅定、瞑想して励めば形而上の事も直接知覚できるようになる〜なんてのは妄想以外の何者でもないのでは?
悟りを志向すること自体阿呆らしく思えます。
悟りを志向する妄想仏教でなく、現在の在家にも有意義でありるのは、まさにあなたが言う 図書館の蔵書で十分です。 行は禅定、瞑想ではなく、日常の行為という風に捉えればそれはそのとおりですが、果を望む 姿勢自体妄想。理+行(禅定、瞑想に限定しない、広い意味で日常行為という行)だけでOKでしょう。
583 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/04(水) 16:58:33.78 ID:MWKmx191
>>581 >禅定、瞑想して励めば形而上の事も直接知覚できるようになる〜なんてのは妄想以外の何者でもないのでは?
>悟りを志向すること自体阿呆らしく思えます。
妄想ではなく、原始仏典の教義(テキストベース)ですね。
ただし、直接知覚の段階で終わってしまえば、貴兄のおっしゃる通りアホらしいかとも思料します。
本スレの過去世でも幾度も議論しましたが、直接知覚を否定した人々に対して、直接知覚は悟りへの通過点に
過ぎないとテキストベースで申しているだけです。 誤解なきよう。
日本の仏教界ではこの知覚体験も少ないようですが、チベットの仏教界では自然に起きているとオイラ氏から
伺ったように記憶しております。 間違いならば、再生セブン氏のツッコミをお待ちします。
>>582 だからw
【君にとって】は図書館の蔵書でいいんだよ。
誰もそれを批難してない。(寧ろ褒めるわw)
しかし、他者にも援用して、
【自分にとって有用な部分以外(不要な部分)は、他者にとっても不要だ】などと思いあがっているとしたら、
傲慢、我儘、自己中以外の何ものでもない。
最も仏法から遠いと言わざるを得んだろうよ。たとえ「理」のみだったとしてもね。
つか、588のリンク論文読んでから言えよw
(ま、あとで過去レスコピペしてやってもいいけど。)
君は、自分のスタンスの危険性を自覚はできているかい?
原始仏典の教義でオカルトを認めている〜とする読み方はいかがなものか? 形而上の事を直接知覚でき〜というのは通過点であって真意はそこにない〜とは言っても 断言している以上オカルトでしょう。
>【自分にとって有用な部分以外(不要な部分)は、他者にとっても不要だ】 正確にはオカルト要素は不要だ〜と言うだけです。 だから、瞑想したい人はすれば良いとも言っています。
587 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/04(水) 17:25:02.16 ID:MWKmx191
>>583 >妄想ではなく、原始仏典の教義(テキストベース)ですね。
聖書の教義(テキストベース)では、イエスと使徒達は人々を聖霊のバプテスマで癒し、
とりついた悪霊も追い出しました。
この知覚体験も通過点に過ぎませんが、貴兄にとっては不要なオカルト要素でしょうね。
>>前世は一在家 さん。このようなもし正統派な派があったら入りますか? 空想の範囲で聞いてもらっても結構です。 光台現国 声聞教 法蔵派 開祖・ナーガールジュナ 閉祖・恵周三蔵 本尊阿弥陀仏 根本聖典(般若経・華厳経・真宗聖典)(それぞれ私的に解釈した翻訳としてのそれら) 【教義内容の頌】 静かな者である釈尊を敬い、動く者である恵周三蔵に出会う。 その出会った者たち声聞と名づける。自己の国を持ち、 それぞれ独立し得るなり。一心に弥陀に帰命し称名念仏すべきものなり。 我(恵周三蔵)、男女両方の離別をすすむるなり。 僕(恵周三蔵)、一人称の範疇におさまらず、 それ故、僕の範疇超ゆることはなはだ難しきことなり。 仏界開き来たった釈尊の経を聞き、鸞師(親鸞)の教えを受持し、歩みゆくべし。 ↑以上で言いたいことは終わりですw 何か感想のようなものをくれればいいです。 妄想と思われてもいいですし、思ったことをずばっと言ってほしいです。 もちろん、慈しみ(深い意味での慈しみではない)をもって言ってほしいところです・・・。
589 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/04(水) 17:45:44.63 ID:MWKmx191
>>588 ノスタルジア氏
>本尊阿弥陀仏 根本聖典(般若経・華厳経・真宗聖典)(それぞれ私的に解釈した翻訳としてのそれら)
>(中略)
>仏界開き来たった釈尊の経を聞き、鸞師(親鸞)の教えを受持し、歩みゆくべし。
私の祖父が29歳の頃の寝言とよく似た箇所がございますので、その箇所のご紹介でコメントと致します。
参考:「仏界交信 浄土への道標」林量子著、P65
第三十七回 昭和六年三月二十七日
寝言「弥陀の本願におわしませば釈尊の説法虚言なるべからず、仏説誠におわしまさば……本師上人(法然)の仰せ事空事ならんや、
法然の仰せ誠ならば親鸞の申す処、又以て空しかるべからず候。
……近頃は耳新らしい説を聞いて迷うがそこが大事の処じゃ、衆生の求むる所は、……相共に」
>>589 ところで、祖父というのは、前世は一在家さんにとって、どのような人でありましたか?
当然のように、前世は一在家さんのことですよね?
僕が言いたいのは、祖父の寝言がなぜ、そのようなことを言ったのかということ
ではなく、祖父の寝言は、祖父と関係があるのだろうかということです。
というのも、関係があるのならば、血のつながりのある、前世は一在家さんとも
関係がある言葉であるのでしょう? であるなら、祖父はどういう意味で衆生と
言ったのだと思いますか? 祖父と関係がないなら、なぜ衆生と言ったのだと
思いますか? 僕は衆生という言葉の前世は一在家さんの解釈する意味と祖父の解釈する意味の両方聞ければ
なおいいですが・・・。
というのも、衆生という言葉で、僕は考えていることがありまして、
こうやってご縁があって議論する機会を頂きましたので、どうせなら
その衆生という言葉について議論したいのであります。そういう趣旨です。
>>537 それで、じゃあ、大乗仏教の道元さんは、なにか八正道について語ってないかと調べたところ、
こういう文章が出てきた。
「正見道支は、眼睛裏蔵身なり。しかあれども身先須具身先眼なり。〈中略〉正思惟道支は、作是思惟時、十方仏皆現なり。・・・
正定道支とは、脱落仏祖なり、脱落正定なり、他是能挙なり、剖来頂[寧+頁]作鼻孔なり、正法眼蔵裏、拈優曇華なり。」
正確な意味は分からないけど、これは修行論じゃないよね?
悟るために正しい言葉を語れ、とか、正しい行いをしろ、とか、言ってるような感じじゃない。
「正しい思惟を行うとき、十方の仏が皆現れる。」 とか言ってるでしょ。
これは悟りの境地だよね・・・?
こうしなさい、ああしなさい、って、凡夫に語ってる修行論じゃないような気がするね。
> 「正見道支は、眼睛裏蔵身なり。しかあれども身先須具身先眼なり。〈中略〉正思惟道支は、作是思惟時、十方仏皆現なり。・・・ > 正定道支とは、脱落仏祖なり、脱落正定なり、他是能挙なり、剖来頂[寧+頁]作鼻孔なり、正法眼蔵裏、拈優曇華なり。」 (私の場合は、現代語訳の、初心者向けの、わかりやすい解説書を読んでる段階なので) この文章を現代語に翻訳することができません スマソ 屮(_ ._)屮
絶対神さん 神は存在しませんよね 人類進化も神のご意志 でもなく いつも考えるのだが無から有が生まれるのかと ここに宗教がつけいるのか 救いとなるのか わからん
>>594 世俗的なものを越える為の仏道・・
世俗の真っ只中に生きて居る人間には、到底到達不可能で
世俗を捨て出家して瞑想に励んで初めて仏教の奥義を極める事ができる〜
出家前提でなければ仏教とは無縁とおっしゃれば、われわれ世俗人には用のない教えと言うことになります。
http://www.kempon.net/newpage15hasshou.htm 八正道は、専門家向けに説かれた面もあるでしょうが、われわれ世俗人にとっても有意義な教えだと思いますが。
そんなに難しい事を説いているわけではないでしょう。日常生活で注意して取り組めるものばかりです。
八正道の正定は正しい禅定で瞑想を指した言葉とは思いますが、一方で世俗の日常生活の様々な場面での心の持ちようとも
いえると思います。
>>594 どうもおかしいな・・・
八正道というからには、八つの正しい行い、ということで、八つが平等じゃないといけない。
ところが、正見は正定によって得られるという・・・・
だったら、十二縁起みたいに、順序だてないといけないよね。
ところがどうも八正道というのは、八つの正しい道 ということで、順序じゃなくて、
それぞれ一つ一つが確立してるニュアンスなんだよね。
にもかかわらず、正思惟〜正念 までは、一般の道徳みたいなことが言われてて、
最後の正定は、凡夫にはまるで出来ないような、「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」 とある。
まるで悟りの境地だよね。 凡夫には絶対不可能。
おまけに正見は、その正定を完成させないと、得られないという・・・・
なんかおかしいよね?
そもそもお釈迦様が戒律以外に、悟りの道として、こんな道徳にこだわるような、
低レベルの話をするだろうか・・・?
>>597 >一方で世俗の日常生活の様々な場面での心の持ちようとも いえると
少なくとも、正見と正定は、凡夫にはムリでしょ。
どうも八正道ってのは、途中から戒律的なものが混ざったような気がする。
道徳は低レベルな話ではないと思いますが。 悟り志向の、超常現象を想定する方が低レベルだと思います。 凡夫にムリならば、ムリでない部分を取り入れれば良いのではないのでしょうか? 酒を飲むべからず〜と言われても、凡夫の私には守れそうにないのでスルーしてます。 もちろんヘベレゲに飲むのは醜悪ですのでそのような飲み方はしてません。 家で土日に飲むだけです。
600 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/04(水) 21:22:50.66 ID:MWKmx191
>>590 >僕が言いたいのは、祖父の寝言がなぜ、そのようなことを言ったのかということ
> ではなく、祖父の寝言は、祖父と関係があるのだろうかということです。
>というのも、関係があるのならば、血のつながりのある、前世は一在家さんとも
>関係がある言葉であるのでしょう? であるなら、祖父はどういう意味で衆生と
>言ったのだと思いますか?
Q.祖父の寝言は、祖父と関係があるのだろうかということです。
A.祖父は寝ている時に前世を思い出し、来臨された仏様達と対話されます。
Q.血のつながりのある、前世は一在家さんとも関係がある言葉であるのでしょう?
A.血のつながりよりも、前世からの仏縁が関係しているようです。
Q.であるなら、祖父はどういう意味で衆生と言ったのだと思いますか?
A.祖父は自称「菩薩の生まれ変わり」で「衆生済度」を発願されたそうです。
一つ一つご質問にお答えするよりも、一度ホームページ「浄土への道標」をお読み下さい。
実は私自身も分からないことが多いのです。
>>579 いやあ、わりと真面目に読んだつもりだが
禅定の意味を伸ばして無理やり念はおれの仲間なんだぜ?って言っているようにしか思えんのだが
なんとも俺が議論しているところの本質からずれてんだよね
戒定慧と惑業苦の対から導きだすところの定は
至極当然のことを言っているにすぎないよ
心をしずめて冷静にならなければ、正確な判断てできないよな
怒りで興奮してるやつに、ウォーリーを探せをやってもらおうとしても無理じゃん
怒りっていうのは一種の苦しみの結果だから、その前に業が行われたと見るべきで
なぜその業を行ってしまったかというと、抑えるべきところを抑えなかったことから
はじまったと見るべきなんじゃないの?という至極自明な推論、あるいは経験からくる教訓だよね
念とよばれるものも、「気づき」と現代語訳されているものらしいが
要するに、心をしずかにしてみなければ、「あっ」という閃きも訪れないというにすぎないよ
まさに自明な流れを説いているにすぎない。
つまり、この定を、特殊な体験と定義するには無理があるんじゃないの?というわけ
もし、これを禅定であるというなら、俺は別段かまわない
一般人が普段の生活でも禅定してるって話になるんだからね
俺が言ってるのは特別な体験を崇拝して、智慧を体験と同視することの危険であって
禅定が一般的な行いとしてみとめられうるかぎり、それは体験というより、動作の差異を言及しているにすぎない
ので、俺が糾弾するところではない
昨日も書いたのだけど 大事なのは体験にこだわることじゃなくて、体験でえられた新しい観点というもので 今まで自分というものを占めていた考えに、半分席を譲らせることじゃないかな が個人的な見解かな かと言って新しい観点=智慧じゃないし、なんでもかんでも席を譲らせることが大事というわけじゃない もっとも大事なのは、自分というものを占めている何か(考え?)は絶えず変わりうると身をもって実感することで それが仏教で言うところの無我であり、智慧に当たるものではないかということ。 今いきている自分という仮名人は、なんらかの執着したと言われる見方でしか生きられないだろうと思う その生き方は仏教的には他人を活かす形でなら許容範囲であると思う。 でも、自分がこれがという何かを頼みとして裏切られる可能性も考えないというのは 仏教ではノーじゃないかな。 そういう意味で、体験は悟りに関与することだと思うが、体験=悟りというのはちがうのではないかということなのだが
スーパー超人仏陀の悟り〜に何の意味があるのでしょうか?
http://miytak.at.webry.info/201001/article_12.html ブッダたることは、誘惑を斥けるという行為それ自体のうちに求められねばならぬ。
不断の精進がそのまま仏行なのである。
さとりを開いて「佛」という別のものになるのではない。
もし後世の表現を用いることが許されるならば、『発心即究竟』であり、『修証不二』である。
というように、「不断の精進」「つとめはげむ」ことを指していると思います。
修行して修養して悟りを開いて、それから何かをしよう〜と思ってもいつまでだっても
悟りの境地は得られない。
心をおこしてつとめ励む、その中に究極の境地(悟り)がある。〜
と捉えたほうが、スーパーマン仏陀の悟りを想定するより有意義だと思います。
俺の滅尽定の位置づけだけど 例えば、地球は丸いとたいていみんな思ってるよね だけど、他人から聞いてそうだと思っている、あるいは映像でそれを確認しただけであって 誰もそれを実地に確かめたわけじゃないよね みんなが船にのって地球一周しなくても、宇宙に出て地球を確認しなくても みんなまず相手が正しいことを言っているだろうという信頼と 相手の言っていることを正しいと言いうるに足る証拠と論理によって地球は丸いと判断しているわけだ 滅尽定ってのはちょうど宇宙に行くようなものだと思う PCのブートのように、意識が立ち上がる瞬間に立ち会って、我がそれだけで成り立つものでない とブッダは発見した。そこから十二因縁の筋道をつくったのだろう でも、みんながみんな独覚のように、その筋道をたどらなくても ブッダが言うこれが真実というものを信じて、それを証明するに足る証拠に気づいて 苦の原因となるものをなくせば、原理的には煩悩の吹き消された状態を経験することができるよね? それが声聞がたどる四聖諦の道であって、たいていの仏教徒がたどる道じゃないかね
>>599 つまりさ、正語も正業も正念も、修行者が行じることじゃなくて、
悟った人の心境を、現してるんじゃないの?
中道をさ。
それをあたかも〜風にすればいいって、凡夫の修行論みたいになちゃって、戒律的になって、
一段レベルが下がっちゃってる。
だから矛盾してるように見えちゃう。
正見と正定って、あきらかに悟った人か、もしくわ、それに近い人の境地でしょ。
八正道を実践て、少なくともこの二つは最初から出来ない。
八正道 = 中道 なら、中道って悟った人のみが得られるものと思うから、
八正道(中道)の実践って、なんか言葉がおかしくなっちゃう。
中道は凡夫が実践出来るようなモンじゃない。
そんなのはいきなり出来ないんで、ものすごいレベルを下げて、「正しい言葉を語りましょう〜」 みたいな、
戒律的な修行論になっちゃう。
八正道が修行の成就に得られるもんじゃなく、修行の過程で実践していくものだって、
書いてるお経があるのかなぁ・・・?
もしあるんだったら教えて欲しい。
ちょっと言葉を変えて、 八正道が完成の形ではなく、(悟った人が歩む姿ではなく)、凡夫が修行の始めから、実践していくものだって、 書いてあるお経があったら教えて欲しい。
中村元さんの
>>603 のリンク読みましたか?
普通一般に後世の仏伝に説かれているところによると、釈尊は山林にこもって六年間苦行を修した。
その結果、かれの身体はやせ衰えて、色は死灰のようになったが、最高の認識を得ることができなかった。
かれはついに苦行は真実の道ではないことを知って、〜
↓
が、著者(中村)によると、苦行をすてたという伝説は後代になって次第に追加されたものだという。
最初期の仏教は苦行(tapas)をほめたてえていた。仏教徒も苦行を行わねばならぬということを明言している。
しかし恐らく実質的には他の諸宗教(ジャイナ教等)よりも楽な修行を行っていた。
ところが他の諸宗教すなわちジャイナ教、アージーヴィカ教などは仏教のこの点をついて、仏教徒は怠けていると言ったので、
仏教徒は自己の態度を擁護し主張する必要が起こった。そこで「中道」が意識的に説かれるようになり、釈尊が修行中に苦行をすてたという
伝説が積極的に発展せしめられたのであろう。
釈尊は何ら特別なことを行ったのでもなく、従来のインド思想のやり方にのっとって修行をし、「さとり」を開いたのだということになります。
それを後代の人がたの宗教と差別化するためにいろいろ伝説化したり、教義を追加していったのだと。
続き) 普通よく引かれるのは、律蔵の記述にしたがって釈尊が十二因縁の理を観じてさとったということである。 しかし十二因縁の説よりも以前にもっと簡単なかたちの縁起説が成立していて、それにもとづいて種々の縁起説が成立し、 最後に十二因縁の説の成立したことが立証されているから、右の説は歴史的事実であるとは考えられない。 他の説では、経典の中に釈尊が四禅を完成して衆生の運命を見極めたとするが、この説も古い詩句のうちには述べられていないから、 後代の付加としています。 ↓ 四聖諦(苦集滅道)も説かれていない パーリ聖典では、釈尊がさとりを得たことの回顧の直後に、釈尊が説法を躊躇したが、梵天の懇願により説法するに至ったことを記す一段があるが、 漢訳相当文にはこれが無いから、この一段は後世の付加である。 このように、仏典全部そのまま鵜呑みに受け入れるのは好ましい事じゃないと思いますよ。 後代の付加というのは編纂者や作者の意図で加えられたという事ですから、そういう要素を除外して理解するべきと思います。
比丘比丘尼ウバイウバソクという別が仏教にある かんたんに言えば出家僧と在家信者という別なのだが 僧が修行を行ってブッダの残した教えをたよりに実地に手探りで真理をさぐり 悟りとは何かを調べる。 じゃあ、在家は何もしなくてもいいのか、財施してそれだけか そういうわけではなく、僧の体験をもとにした智慧から、ブッダの教えが一体何を教えたものなのか 聞くという話になるのではないか 例えば、地球は丸いと教えるとして、じゃあ裏側の地面では物が空に上がるんですか? と聞かれたら、そういうわけではない、実際に行ったが裏側も物は地面におちる ニュートンはこれを万有引力と言って・・・という話をするわけだ こうして、一般人は科学はすごいなあ、やっぱこういうこと研究するひとって必要だわーって思うわけだ 僧はこうして在家が早く悟る方法を考えるべくいろんなことを試してみる存在で しかもそれが悟りと異ならないことに検証審査する集団でもあるのではないかね
>>608 中村氏の著作はあまり読んでないが
たしか比較文献学というのは再考が試みられてきているんじゃなかったっけ?
あと、十二因縁の話だが、早い話がこうではなかったかな
当時、苦しみが煩悩のような心に原因があると思われているのが通説であって
一つは苦行によって抑える、二つに思いを断つという方法があったが
苦行には限界があり、思いを断つのは過渡的であるから、無明というものの存在を
問題視したということが、十二因縁のはじめということになったのではないかね
増補、補完されて今の形にはなったが、基本的な構造は変わっていないはずだよ
四聖諦も同様のはずだよ
“俺俺仏教”は、このスレには不要です。
文字だけ追ってもそれを理解する頭が追いついてないならそれもまた無意味ではなかろうか
>>611 補
「テキストにはこうあるけど、それは間違ってて、俺はこう読む」
を、どこまで認めるかは、難しい問題だよなwww
それによっては、隠居や在家も仏教となってしまうから。
それでも構わないなら、もう何も言わんが・・・。 >> ID:YFcUZFlQ >> ID:eNoNpXUi
>>601 >なぜその業を行ってしまったかというと、抑えるべきところを抑えなかったことから
>はじまったと見るべきなんじゃないの?という至極自明な推論、あるいは経験からくる
経験から来るんじゃねーかw
>まさに自明な流れを説いているにすぎない
説法躊躇の理由を忘れたか?w 「この法は見難い」だ。
その自明な流れを見えなくしているのが世俗の生活・世俗の価値観・世俗の優先順位なわけさ。
だから、それらを、(たとえ一旦でも)離れせしめ、自明な流れを如実に知る・観察する為の手法が「定」じゃねーかw
お前さんの言ってるのは、『仏教的考え』であって『仏教』ではないということにイイカゲン気付けよw
テキストを否定したつもりはないが、伝統的な解釈を否定してテキストを俺はこう読む もいただけない。いや、たいていはこういう人が多いのだけど
私は文献学者じゃありませんので専門家(中村氏)の書いている事を信じるよりありません。 ちなみに間違ってて〜とは書かれていませんよ。 後代の付加、伝説化、教義の追加と「間違ってて〜」では意味がまるで違います。 また中村氏の言葉では、 歴史的人物としてのゴータマはその臨終においてさえも、仏教というものを説かなかった。 彼の説いたのは、いかなる思想家、宗教家でも歩むべき真実の道である。 彼の教示のしかたは、弁舌さわやかに人を魅了するのでもなく、また一つの信仰に向かって人を脅迫するのでもない。 単調にみえるほど平静な心境を保って、もの静かに温情をもって人に教えを説く。 その包容力こそが、仏教がインドや、東アジア全体、ひいては世界に広まった理由ではないかとしています。
>>614 反論が雑になってきたねぇ
経験というのは人生の中での一般的なという意味で、特殊性について言ったものではないでしょ
法が見難いのは、分別を離れるからだよ
たいていの人は我はあると思っているから、それを否定する仏教を理解しがたいということだろ?
いや、俺は仏教を学んでない人も悟れるとは言ってないよw
それなら仏教は存在しなくていいよ
まず理解してから、それを実際にそうかと確かめるわけだ
理解という部分なしに、一般人が普段の生活から仏教の正しさを体験することはできないよ
>>607 >最初期の仏教は苦行(tapas)をほめたてえていた。
これの具体的経典をあげてもらえないと、なんとも言えないね。
スジャータの話しが嘘だってのは、にわかに信じられない。
ちなみに、摩訶般若波羅蜜経ってお経に、三十七道品の解説が出てたけど、
これなんかも、凡夫に修行しないさい、っていってるんじゃなくて、
菩薩摩訶薩の摩訶衍とか、言ってて、ある程度修行のすすだ人? → 菩薩摩訶薩が、
どういう道を歩んでるか・・・、みたいな話になってる。
凡夫の修行じゃないようなニュアンス。
>菩薩摩訶薩の摩訶衍とは、いわゆる八つの正しい道である。
>八つとは何だろうか。
> 正しい見方・正しい考え・正しい言葉・正しい行動・正しい暮らし・正しい努力・正しい注意深さ・正しい集中である。
>これを菩薩摩訶薩の摩訶衍と名づけるのである。〈実体として〉認知することができないからである。(
八正道って、「菩薩摩訶薩の摩訶衍」 であって、凡夫の修行論じゃないんじゃないの?
619 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 00:45:18.10 ID:QEG/AYgi
>>617 >法が見難いのは、分別を離れるから
不足だなw
そうじゃない。つか、足りない。
法が見難いのは、世間の価値観逆の位相(ベクトル)を持つからだよ。
>人生の中での一般的なという意味で特殊性について言ったものではないでしょ
どこの誰が、特殊性の経験について言ったんだ?
ワシもまた、 >人生の中での一般的なという意味で 言ってるが?
ただ、“それ”を経験するには、日々に追われていては困難で、定を修養して初めて、ということじゃねーかw
>いや、俺は・・・・・することはできないよ
,だったら返レスの必要すらねーじゃんかw なんでレス返すんだよ。
>理解という部分なしに、一般人が普段の生活から仏教の正しさを体験することはできないよ
まったくその通りだと思いますが? 100%同意ですが何か?w
>>616 パーリ経典より漢訳阿含が古層だといろいろ言われたりするけど
そもそも言語というものが常に標準性を犯される可能性をもっているということは
言語の宿命と言っていいものなんだよ
標準性というものは大切だけど、言語の形を守ればそれが守られるというわけでもない
だからこそ、筆記と解釈が常に必要とされるんじゃないの?
体系化の流れが起きたり、相対的に自己が強調されたりといったことがありうる
>>620 めんどくさいな
世間と出世間の差も要するに我を前提に成り立っている社会とそうでない社会の別だろ
世間で禅定という過度に専門化した修行はできないが、冷静になって物事を判断することはできる
そういう意味を定と言っている場合、その限りにおいてそれは一般的な意味と言えると俺は言ったんだが?
はじめから見直してこいよ、絡んでるのはおまえだろ
なんで俺が切れられてんだよ
>>622 ん?
七仏通戒偈に戒定慧を重なることに異議を唱えてた人じゃないの?
レス書いてて、ID二つあるな・・と不思議には思ってたんだが・・
>>621 私は文献学者でないので詳しい事は分かりませんが、2つの同じ文献で最古層の文献と古層の文献を比較して、後のもので
新たに増えている部分はその時の編纂者なり作者にりの意図で加えられた〜とするのは理にかなった考え方だと思いますが?
>>624 初版が文献ならなw
けど、仏教は数百年の間口伝だったんだよ。
文字化されたときは、既に各地に異伝が存在していたのさ。
36 3/4 sage 2010/05/05(水) 11:43:18 ID:m176QriK 【「法」のみでこと足れリ】とする傾向は、【三宝の理念化】と、 【出家/在家の区別を不問に付しがちな】大乗的発想によるところが大きいと思われる。 そこでは、律も法の中に隠れてしまい、【終には頭のみの仏教が金科玉条として謳歌される】に至る というべきか。もし、戒律、実践を欠き歴史も文化も無視してこれを“仏教”と呼ぶならば、 これほど都合のよい平面的な仏教はあるまい。この“仏教”は自ら欠落した深みに 【あらゆるものを招き寄せ、あらゆるものと同化し、あらゆるものに帰入して様々な形相をとりうるからである。】 いわゆる学問仏教、大乗的仏教はこの類に属し、原始仏教や真の大乗仏教と大きく隔たっていよう。 法と律とは不可分ではあるが同一ではない。 法はいわば積極的な理念体系であり、律は消極的な行動体系に属している。 仏教が両者に基づく宗教であることを我々はよくよく承知しておかねばならぬ。 即ち、律は変化しうるものだが、決して失われてはならぬのである。』
35 2/4 sage 2010/05/05(水) 11:42:10 ID:m176QriK from〔 相対的基準T 〕 『 さて、既に触れた通り、図のタテの構成(仏・法と律・僧)から言えば、 仏・法は仏教において決して変わることのない理想面、普遍性/単一性に貫かれ、 僧・律は時と場とに応じて変わりうる現実面、民族性/多様性を内包していることになる。 つまり仏教はそれ自体の中に明らかに不変的な部分と可変的な部分とを共有しているわけである。 もちろんそれは世界宗教とか普遍宗教とか呼ばれるキリスト教やイスラム教においても異なるものではない。 ただ我々が注意しなければならぬのは、 【宗教の世界性とか普遍性とかを口に出して言う場合、【そこには法、もしくは教法のみが意味されている】】 ということである。 【仏教が普遍宗教であると言われるのもまさにその点、つまり【「法」の側にしかない。】】 ことに我国には、仏教の現状を嘆きつつも、 【法のみを重視し、戒律に触れぬまま仏教を理解しようとする】向きもある。しかしそれでは十全たりえない。 戒律の欠落した「智慧」や「慈悲」があるのかどうか。コンテキストが脱落したテキストに意味があるのかどうか。 仏教は単なる哲学的思弁でもなければ、倫理性を欠く知的パズルでもない。 「法」が頭となり、「律」が手足となって動かなければ仏教が人間の宗教として機能することはないであろう。 原始経典の中で法と律が区分され並置されている意味もここにある筈だ。 「これは法である、これは律である、これが師の教えである」 (ayaM dhammo ayaM vinayo idaM satthu sAsanaM , D.U.124) と。そしてまた、 「律は仏教の命である。律が存すれば仏教は存する」 (vinayo nAma buddhassa sAsanassa Ayu , vinaye Thite sAsanaM ThitaM hoti , DA.T.U ; Sp.T.13) とは、第一結集以来の伝統仏教の合言葉である。今日なお上座部仏教徒はこれを信じて疑うことがない。
数百年口伝で伝わってその後文献化されたから、その時は既に異伝が存在していて 何が最古層か判別できない〜という意味ですか? 所詮、文献を元に探るより手が無い以上、最古層と言われる文献にこそ真実に近いものが描かれている と思いますがねえ。あくまで真実に近いで、=真実とは言えないのは当たり前ですが。
>>628 >最古層と言われる文献にこそ真実に近いものが
そうとは限らないw
古層は、旧来の表現・旧来の語用をそのまま流用してるから。
寧ろ、後代の散文の方が、【エッセンス、本質】を的確に言語化している可能性もあるわけさ。
まったくの新人が来ると、このスレもまだまだ結構面白いなw
誰か、一代作成(?)の輪廻必須理由の箇条書き貼ったれやw
>>626 の、「律は変化しうるものだが、決して失われてはならぬのである。」
>>627 「これは法である、これは律である、これが師の教えである」
「律は仏教の命である。律が存すれば仏教は存する」
は、
仏教と戒律は別けて考えてはならない・・・ 一体だ、別けると別物になる・・ と、言いたいんだろうけど、
それは間違ってると思うね。
たとえば仏教を=国とすると、国が成り立つには法律がなくてはならない とすると、
一見、国と法律は切っても切れない仲・・・のように見えるけど、その言い方はそうじゃない。
国は、治安が乱れれば乱れるほど、法律を必要とするのであって、治安がまったく乱れていなければ、
法律は用済み・・ってことになる。
国は変わらない大元なのに対し、法律は、国によって、治安の度合いによって、さまざまに変わる。
平和の世の中に法律はいらない。
昔のインドは道徳観念もなにも、ないに等しいっていうか、道徳的に荒廃した世界みたいなこと読んだことある。
道徳的に荒廃した世界だからこそ、仏教にとって戒律が命でしょ。
戒律がないと、仏教が滅びてしまうから。
風が強いから建物の補強がいるんであって、風がやめば補強はいらない。
風が止んだのに、補強を大切に守ったって、なんの役にもたたない。
人間は補強で暮らすわけではないのだから・・・。
>戒律の欠落した「智慧」や「慈悲」があるのかどうか。コンテキストが脱落したテキストに意味があるのかどうか。
ならば、風の止んだ建物に、補強が必要なのか・・・? と、言いたい。
634 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 05:18:31.90 ID:qwGPU+4s
その証拠にユダヤ教に原罪はない。 したがって、罪とはすべて過去のものだ。 時間軸という概念を大切にするなら過去形にするべきだな。
635 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 05:34:09.37 ID:ta29sj//
>>621 >パーリ経典より漢訳阿含が古層だといろいろ言われたりするけど
そうですか?
日本の仏教界は漢訳(北伝)がメジャーだからそういう見解が多いという可能性がございます。
同じ経典を長部と長阿含とで読み比べますと、前者は同じ台詞の繰り返しが多くて長文で口伝らしく
後者は推敲がなされていて短文が多いです。
まあ、同じ北伝や南伝でも異伝が多いことは本スレでも紹介されてましたが。。
パーリ経典が後世の追加が多いと決めつけるならば、漢訳阿含が後世の削除、添削が多いという
可能性もございます。
因みに手許にある漢訳阿含の「沙門果経」でも、修行完成者は「三明智」を得ると説かれております。
なお「三明智」は形而学上の神通(相手の潜在意識のカルマ、経験まで読みとる読心通)です。
636 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 05:44:12.67 ID:ta29sj//
>>634 >その証拠にユダヤ教に原罪はない。
そうですね。「原罪」はパウロ神学、後世の追加でしょうね。
もし「原罪」で衆生を縛り、神成(テオシス)への道を閉ざしたとしたら「重罪」かと存じます。
因みにエッセネ派ユダヤ教でも原始基教のトマスの福音書でも「原罪」はなく、神成(テオシス)への道は開かれております。
法華経の方便品の「人は仏子にてやがて仏になり得る」が思い出されされます。
637 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 05:49:21.20 ID:ta29sj//
>>636 >法華経の方便品の「人は仏子にてやがて仏になり得る」が思い出されます。
この法華経の奥義は衆生に希望を与え「衆生済度」に役立つので個人的には最重視しております。
638 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 07:32:40.52 ID:ta29sj//
>>632 >誰か、一代作成(?)の輪廻必須理由の箇条書き貼ったれやw
★525 :神も仏も名無しさん:2013/02/26(火) 19:42:46.34 ID:JZPfVy8Z
仏教でいう「一切」は五蘊十二処十八界ですが、それは凡夫の知覚だけではないんです。
凡夫は自分の常識だけを「一切」と考えやすいので、『梵網経』で「つまらないことしか見ない」と説かれるわけです。
実際は、外道の聖者も過去世を体験し、それを釈尊が体験したと説いています。
そして何より果として宿命通というあらゆる過去世を見通す智慧が出ると、多くの中部・長部経典で説かれ、
部派も大乗もそれに従っています。
もし、一切を凡夫の常識と同じとするなら、断見が否定されることも宿命通も矛盾することになりますし、
あらゆる伝統仏教と矛盾することになります。
常識断見仏教が盛んに典拠とする道元禅師『正法眼蔵』も来世なしという説は断見としています。
以下の第一は外道のある説を批判対象としているけど、現代人の断見も同じことです。
T2582_.82.0295b05: 人。死スル
T2582_.82.0295b06: トキ。カナラス性海ニ歸ス。佛法ヲ修習セ
T2582_.82.0295b07: サレトモ。自然ニ覺海ニ歸スレハ。サラニ
T2582_.82.0295b08: 生死ノ輪轉ナシ。コノユヱニ後世ナシト
T2582_.82.0295b09: イフ。コレ斷見ノ外道ナリ。カタチ。タト
T2582_.82.0295b10: ヒ比丘ニ相似ナリトモ。カクノコトクノ
T2582_.82.0295b11: 邪解アラントモカラ。サラニ佛弟子ニア
T2582_.82.0295b12: ラス。マサシクコレ外道ナリ。
T2582_.82.0299a01: サラニ後世ノ
T2582_.82.0299a02: 説ナシ。ステニコレ斷見ノ流類ナルヘシ。
T2582_.82.0299a03: 莊老ヲキラフニ。小乘ナホシラス。イハ
T2582_.82.0299a04: ンヤ大乘ヲヤトイフハ。
明治時代に曹洞宗で編纂された以下の『修証義』も明らかに輪廻を前提としていると分かるでしょう。
http://teishoin.net/sutra/501.html
639 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 07:33:51.23 ID:ta29sj//
>>638 ★526 :神も仏も名無しさん:2013/02/26(火) 19:46:29.57 ID:JZPfVy8Z
輪廻に関する代表的な誤解は以下のように過去に解決されてます
1.無我だから輪廻できない。主要論者:和辻など。
反証:現在、諸法が無我でも縁起しているように、無我でも死後も輪廻する。
死後、輪廻しないというのは、断見である。
2.輪廻は、それを信じる蒙昧な古代人のための方便説である。主要論者:和辻など。
反証:輪廻説がなかった、ギリシャ、シナ、チベットなどに思想抵抗にあいながらも、
必ず説いているので方便説ではない。聖者が獲得する宿命通からも方便説でないことが分かる。
3.十/十四無記で死後が不問にされている。主要論者:桜部健など。
反証:水野弘元先生以下が論証したようにタターガタを人、有情と注釈するのは、ジャイナでも
タターガタという語を使うからで、十/十四無記のタターガタは、解脱者の意味に他ならない。
つまり、解脱者は死後どうなるのか、それは答えられないという意味である。
4.釈尊の仏教では輪廻は否定された。主要論者:並川考儀など。
反証:輪廻は否定したという意味が異なる。輪廻は仏教で一貫して厭離され解脱することが目的である。
それを輪廻という現状を認めないという意味で無理に解釈している。
5.三世輪廻は部派のみのもの。主要論者:梶山雄一先生など。
反証:『雑阿含』『スッタニパータ』『小四十経』『量評釈』『タルカバーシャー』に明らかなように
原始仏教も大乗仏教も三世輪廻、というか輪廻は始まりはなく、終わりは解脱するまで続くもので、
それ以外の輪廻など現代日本以外で説かれたことなどないと思われる。
6.輪廻は現世の因果で転生ではない。主要論者:常識論
反証:経典の用例は明らかに前世・来世を想定したものであり、現世のみの因果であれば、
始まりと終わりがあることになり輪廻ではなく他ならぬ断見である。
7.輪廻や神々、地獄、餓鬼などは譬喩または、象徴表現としてとかれた。主要論者:望月海慧
反証:方便説のヴァリエーション。仏典では譬喩は、かならず譬喩と説かれる。
古今東西の文献・口伝の両伝承に譬喩であるという解釈はみつけられない。
640 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 07:35:05.64 ID:ta29sj//
>>638 ★527 :神も仏も名無しさん:2013/02/26(火) 19:55:06.34 ID:JZPfVy8Z
確かに輪廻は現代人にとって受け入れがたい見方だと思います。
色々問題があるでしょう。
ですが、三つほどに集約されるのではないでしょうか?
一つは素朴実在論や亜科学信仰、常識に一致しないという見方です。
これは問題になりません。実在論や常識への拘りを打ち壊すのが仏教だからです。
それが嫌な人は仏教を取らなければいいだけです。
仏教は輪廻・因果という前提なしには殆ど成立しません。
ただし、最近は輪廻を前提としない仏教も方便としてはありかなとも思うようになりました。
ですが、あくまで方便なので本道の仏教は輪廻が前提になります。
第二に仏教内部でも輪廻や因果に整合性のある説明体系がないといことです。
これは確かにそうです。因果も突き詰めると破綻します。
なぜなら、それは縁起・空性・仮設で、本質がないからだと思われます。
釈尊も業不思議とされ追求しないように説かれました。
ですが、行為によって苦しんだり、楽になったりする行為の内容を判定するなど様々な縁起説の根幹を
支えていることも確実なので、これは信じるか信じないかの問題だと思われます。
第三に業が差別を助長するという問題があります。
ですが、これは仏教を武器として他を害する使い方が問題なので、業や輪廻は本来中立なものです。
これは戒律にしろ公案にしろ悟りへの導きのためのものなのに、それを他を害するためにもちいれば
害にしかならないことは同じで、使い方が悪いだけだと思います。
空性も同じで、なんでも空なんだから気にしなくていいといった間違った用い方は破滅をもたらすだけのことです。
641 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 08:22:37.01 ID:ta29sj//
★530 :神も仏も名無しさん:2013/02/26(火) 20:12:39.27 ID:JZPfVy8Z
>>529 >生物としての存在が、(意識や心も含めて)、三世に跨って継続し得るのか?
>(→そこに『連続性を見る』のは妥当なのか?)ってことでしょがw
連続は見るよね。ただ、その連続を同一性と見るのは仮設だけでしょう。
本来は同じものでも異なるものでもない、縁起し仮設された空なるもの。
そう考えないとヴィナヤとかで、釈尊が因縁譚を説いた最後に、その時のxがデーヴァダッタで、
yが私だったと説かれる意味が通じない。
★539 :神も仏も名無しさん:2013/02/26(火) 21:00:40.50 ID:JZPfVy8Z
釈尊は初心者には布施・戒律・生天を説かれた。
これは全て因果と輪廻の教えだよ。
ただ、輪廻の主体が恒常なアートマンなどと捉えるのが常見なわけ。
無常な魂でも意識でも自相続でもなんと名付けてもいいけど、
そういう何らかの連続があって、それが経巡るというのが輪廻。
そこをなんというか現代に阿諛した文献学者の本とかにはアナタのような説を立てる人がいるけど、
それは無記を意図的に誤解したものだと思う。
642 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 08:24:23.56 ID:ta29sj//
★916 :神も仏も名無しさん:2013/03/11(月) 09:16:09.03 ID:bJdsdXfr
>>864 >業報輪廻転生(生まれ変わり)これらは「物語」でしかない。
これが邪見で、こういう人は仏教が全く分かってない以下の通り。
アーガマ・ニカーヤの中部経典『大四十経』(田中教照 訳)
比丘たちよ、それでは邪見とは何であろうか。布施なく、祭祀なく、供犠なく、善悪業の報いなく、
此世、彼世、母、父なく、化生の有情なく、沙門バラモンにして正行正習、自ら此世と彼世を知り
証して説く者の世になし、と主張する、これが、比丘たちよ、邪見である。
龍樹菩薩『宝行王正論』1-43(瓜生津隆真 訳)
要約すると、(善悪の)果には果が存在しない、というのが虚無論(無見)であります。これは不善であり、堕地獄であり、邪な考え方である、といわれます。
643 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 09:23:50.06 ID:Ib/ucY0O
>>642 『要約すると、(善悪の)業(因)には果が存在する、というのが実有論(自性有見)であります。
これは善であり、善趣にいたる正しい考え方である、といわれています。』(同上1-44)
龍樹は説一切有部なのか?w
★『知にもとづいて無と有(との二見)を寂滅し、それによって罪福(善悪)を超えます。
これがかの悪趣と善趣からの解脱である、と聖者によって説かれています』(同上1-45)
*知にもとづいては無と有(との二見)を寂滅できない。
この意味では龍樹?『宝行王正論』1-43・44の論述は批判されるべきである。
批判の対象となる論説の一部のみをとりあげて歪曲したイメージを抱かせる前世は一在家の態度は、
追軍売春婦捏造問題の韓国人の手法と共通する。
なぜなら、在家は在日朝鮮人だからである。
歪曲捏造イメージ創出を行うことは<行い>を問うものであって、
朝鮮人という<生まれ>による差別ではない。(Sn.136・142)
その心根はきわめて<賤しい>人間である。(Sn.同上)
644 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 09:37:08.90 ID:Ib/ucY0O
645 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 10:17:56.78 ID:ta29sj//
>>643 >なぜなら、在家は在日朝鮮人だからである。
嘘ばかりついていると、どこ往きか仏説にございましたね。
お気の毒に。。
>>644 >完全論破済み。
オイラ氏がいないことをいいことに、言いたい放題でしょう。
646 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 10:21:35.43 ID:ta29sj//
>>644 >完全論破済み。
今年2月25日〜3月11日のオイラ氏の言への論破かきこを貼ってみて下さい。
そうすれば貴兄のかきこが嘘でないことが証明されますよ。
それではどうぞ。
647 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 11:21:21.57 ID:Ib/ucY0O
>>646 論破かきこを貼ってみても無意味だ。
お前の<賤しい>意図的健忘症=アホ・ウソつきにつける薬はない(中論 帰敬序)
・大滝秀治
・遊びをせんとや生まれけむ
・閻魔大王
・その他エトセトラで
ペンキ屋一代、宝珠、カラス、前世などの広義のスピリチュアリズム妄想は爆砕済みである。
過去スレを読み返せ。
少なくとも到達深度を前提として「議論」せよ。
読まないなら質問箱に行け。
過去スレも読まず、または無視して議論を蒸し返すな。
過去スレ深度を恒常的に無視する<賤しい>人間である外道在家などの態度は
許しがたい。
アタシはもうこんなグルグル回転処には執着はない。
如理作意(相応部 15)一つさえできないのだからオハナシにならない。
以上
>>643 >*知にもとづいては無と有(との二見)を寂滅できない。
> この意味では龍樹?『宝行王正論』1-43・44の論述は批判されるべきである。
これ、「知」 っていうのは、我意識の 「知」 じゃなくて、悟った人の 「知」 じゃないの?
前の方の、
「しかるに思慮のない人は、すべての苦しみを滅する法を聞いて、無知のために、恐れる理由のないものを恐れて
おののく」
この 「無知」 に対して、対語のように 「知」 という言葉を使ってるだけで、
本当は後ろの方にで出てくる 「如実知」 ってやつでしょ。 悟りの境地から来る・・・。
「無論者は悪趣に堕し、有論者は善趣に赴く。 この両者に依存しない人は、如実知によって解脱にいたる。」
649 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 13:09:19.13 ID:ta29sj//
>>632 >誰か、一代作成(?)の輪廻必須理由の箇条書き貼ったれやw
それで「輪廻誤解七見への反証_縁起一代氏」を貼りました。
>>644 >>638 〜
>>642 は完全論破済み。
>>647 >アタシはもうこんなグルグル回転処には執着はない。
まさしく「去ると言う者は去らず」(中論、八不)かも知れません。
>>631 でも書きましたが輪廻は仏典(文献)において最古層で否定的でその後の古層でより肯定的に表現されてます。
それを、古層の文献を証拠としてあげ、仏陀は輪廻に肯定的であった、輪廻なしに仏教は理解できない〜と言うのは
非論理的であると思います。
以下に関連箇所を出します。
初期経典すべてをゴータマ・ブッダが説いたものと理解すべきではない
初期経典に「ゴータマ・ブッダの仏教」として説かれていたとしても、その多くは後の仏弟子が理解した仏教が説かれている。
そう考えると、初期経典に輪廻転生に関する資料がみられるから、ゴータマ・ブッダが輪廻の思想を説いたという立場は、
すぐさま認めるわけにはいかない。
最古層の資料で直接的に輪廻を表現する語は、「種々の生存」だけであり、「輪廻(サンサーラ)」やその類語はまったく見られない。
古層資料になると、「輪廻」が頻出し、逆に「種々の生存」という語が見られなくなる。
最古層の資料には輪廻に関連する語は用いられてはいるが、それへのこだわりが仏教の教えとは相反するものと位置づけられ、
すべてそれを否定する文脈で説かれている
このことから、当時の仏教の輪廻に対する態度やかかわり方は決して肯定的ではなく、むしろ否定的に説かれていたことが判る。
ちなみに、最古層の資料には輪廻と業報を結びつける記述がまったく見られないことも注意すべき点である。
古層の資料になると、輪廻の表現例は最古層とは比較にならないほど多様化し、両者間には断層と言ってよいほどの差異が認められる。
ブッダを定義づける場合でも、輪廻を前提とした上で、そこから解脱した人物と記述しているところに古層資料の特色がある。
古層資料に見られる輪廻を概観したが、「輪廻」という語の他にも、表現が多様化しているとともに、来世の生存や生まれかわりを認め、
最古層とは正反対ともいえる輪廻に対する肯定的な態度がはっきり読み取れる。
最古層が輪廻へのこだわりに否定的な対応をとっていたのに対して、古層資料は輪廻を導入し、その枠組みを前提とした上でさまざまに
教えが説かれたものと理解してよい。
さらにいえば、古層資料には仏教独自の思想に輪廻の考え方が組み込まれている例を見ることができる。たとえば、悟りを得た者を表現する 「最後身」や、三種の明知をいう「三明」、ブッダの宗教的属性についての表現が挙げられる。 このことは、仏教が輪廻思想を導入しただけではなく、一層積極的に取り組み、定着させたことを示すものと理解できる。 この傾向は『スッタニパータ』にも見られるが、比較的成立の遅い韻文資料、たとえば、『長老偈経(テーラガーター)』などにいたっては顕著である。 業報についても述べておこう。この考え方は最古層資料では説かれていなかったが、古層資料では輪廻と結びついて説かれている。 業に応じ、その報いとして悪趣、善趣に生まれることを説く用例が数多く見られる。 業報はなした行為が他の世において結果として現れるという因果律のことであるから、当然のこと輪廻と一体化した観念である。 この観念が最古層にはまったくみられず、古層に数多く見られるということは、仏教の輪廻観を解明する要件となろう。 この展開の背景には、仏教教団も当時のインドの人々が圧倒的に信じていた世界観・人生観の根本である輪廻思想を決して無視することはできず、 むしろ教団の発展のためには否応なしに受容しなければならなかったという社会的な背景があったと想像できる。 その結果、教団においては輪廻を受け入れつつ、発展したのであろう。 歴史上のゴータマ・ブッダは、最古層の資料が伝える時代よりも古いか、あるいはほぼ同時代の人物と設定できよう。 とすれば、ゴータマ・ブッダの輪廻観も、最古層の資料に見られる輪廻観と同じものか、それよりも古いものかのどちらかであると理解してよい。 最古層の資料が伝える輪廻観がゴータマ・ブッダの輪廻観を映し出したものといえる。 『...最古層の資料から見た輪廻に対する姿勢は、輪廻に関する用例も少なく、パターンもごく限られて、輪廻に対するこだわりの態度を否定し、 ものの考え方や見方は現世に力点が置かれたものであった。
ただ、輪廻思想そのものは表れないにしても輪廻に類する用語は使用しており、その意味では輪廻を全部否定したり、まったく無視する態度はとらなかったようである。 たとえば、輪廻して繰りかえす生存への執着を捨て、生まれと老いの苦しみを乗り越えよと説かれ、輪廻からの解脱を説いている。 こうした説示も、輪廻からの解脱こそがジャイナ教など当時の宗教家や思想家にとっての最大の課題であったので、当然のことといえる。 輪廻は解脱のための方便として用いられていると言い換えてもよいかもしれない。 また、輪廻と業報を結びつける記述が見られないという点からも、古層に見られる輪廻観とは異なったものとなっている。 当時の人々が輪廻を信じ、その世界観・人生観の中に身を置かざるをえなかった状況にあって、ゴータマ・ブッダはそういった現実を直視しながらも、それに反駁して、 バラモン教とは思想上・宗教上まったく異なった立場を主張した。 新基軸を打ち出した彼に対して、宗教的にも社会的にも猛反発があったであろうことは想像するまでもなく、この反発をうまく解消しながら、 同時に自分の立場を主張しなければならなかった。 こうした彼の置かれた状況を考えるとき、最古層の資料の見られるような輪廻観であればこそ、つまり輪廻という言葉を直接もちだしてそれを真正面から否定したり 無視することを避けながら、自分の主張したい立場を表明するという態度であったからこそ、ゴータマ・ブッダは摩擦を生むことなく自分の教えを人々に説き示すことが できたのではないかと思われる。
うーん、いまいちだな 輪廻がないとするなら、わざわざ出家して苦しい修行する必要ないだろ 来世がないなら今生楽しんだ者勝ちじゃないか 出家、禁欲、修行という厳しい道は 長い輪廻の苦しみからの解脱だからこそ釣り合うんだから
654 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 13:56:41.06 ID:Ib/ucY0O
>>648 >「無論者は悪趣に堕し、有論者は善趣に赴く。 この両者に依存しない人は、如実知によって解脱にいたる。」
・「無論者は悪趣に堕し、有論者は善趣に赴く。」←ナンセンスな妄想です。有無相対分別している限り善悪ではなくともに<苦趣にある>というべきです。
・「如実知によって解脱にいたる。」 ←いたりません。日本の共同幻想では【知】はあくまで相対前提ですから、如実とは縁起の間接現実を知る=如「理」作意(中部15)であって、
無分別直接現実には届きません。
【仏道=八正道の構造】
<【間接現実】自帰依(灯明・洲)←如理作意・大疑団―フィードバック―菩提心・般若智直覚→法帰依(灯明・洲)【直接現実】>⇒涅槃【還滅(間接)現実】
・【間接現実で】縁起を知覚する者は、すなはち、<苦・集・滅・道>を見る。(龍樹 中論24-40)*←如理作意=如実“知”見:相対分別
・【直接現実で】縁起を般若智直覚するものは、すなはち、無<苦・集・滅・道>を観る。(般若心経)*←般若“智”直覚:非相対無分別
・【還滅(間接)現実で】縁起を還滅知覚する者は、すなはち、<即煩悩即菩提⇒涅槃寂静>にある。(閻魔大王)*←還滅智覚:即分別即無分別
龍樹の論述は厳密性に欠けます。
(続き) ゴータマ・ブッダが亡くなって以降、仏教教団にあってはゴータマ・ブッダの教えを人々に浸透させ、教団の拡大に向けての布教活動に比重がかかるという環境の変化が見られる その結果、ゴータマ・ブッダの教えを人々に浸透させるために、あえて当時の人々の人生観や世界観、または宗教的・思想的な潮流すら、 ある程度認めざるをえない状況になったのであろう。 このことは、教団組織の運営と維持のために、当時の社会の現実的な制約を受けざるをえなくなったことを意味する。 場合によっては、ゴータマ・ブッダの教えを純粋に継承することと、社会に妥協しなければならないといった異なった二つのベクトルを内包する状況にあったと考えられる。 その傾向は時代が進むにつれて、度合いを強める。
>>653 楽しんだ者勝ちなんだろうけど老病死は避けられないし
楽しいことにも終わりはあるわけで。
もう楽しむより苦をなくしたい!ってのがスタート地点かと思ってた
輪廻や地獄、天界を想定しなきゃ 解脱で人なんか釣れないって
>>653 何度も言いますが、コレは一般にカナリ高い信頼度のある話ですよ。
人間仏陀は形而上の質問を受けても回答を拒絶した。→無記
輪廻は立派に形而上の問題です。
つまり、聞かれても回答拒否というのが彼が取った姿勢と判断するのが最も可能性が高い。
回答拒否というのは、あるともないとも答えないと言う事です。
輪廻は無い〜というのは回答拒否ではなく無いと回答した事になります。
そんなことはありえません。
輪廻に否定的というのは、あると認めていなかったという事ででしょう。
しかし拒否もせず、自らの教えを説いた〜という事でしょうね。
それが後代になると、180度方向性が変わって、積極的に肯定するものに変化した。
あきらかに仏陀の姿勢とは異なります。
後(新しい)のが真実に近く、前(古い)のが事実と異なる〜なんて見解は普通の頭の持ち主には理解できません。
659 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 15:26:15.92 ID:IrpTYakv
輪廻についてはパオ式で修業された水源禅師という方が、 法話集であると言及してるよ。第四禅で実際に輪廻を見て悟るらしい。 (水源禅師で検索) 同じくパオ式で修業しているウ・アローカ氏も同様のことを言ってる。 おそらく釈迦は自分で確かめろっていう意味で輪廻を無記としたのかもしれない。
>>658 輪廻が無いならおしゃか様も「輪廻は無い、よって解脱もない」って言うわw
てすと
私は瞑想での意識の変容状態というのを認めるものですが、瞑想で見た世界が 事実、実際にありうるのか?というのは別問題だと思います。 瞑想で極楽浄土が見えたから死んだら極楽浄土に行くのは事実である〜なんて 話を聞かされても、ああそうですかくらいの感想しかもてません。 所詮、分からない話を分かったように話して説くのは全部インチキのオカルト偽宗教ですよ。
>>662 でも、その考え方って、ほとんど日本の学者&僧侶だけなんだよね・・。
その他世界各国の、実際に行じている者たちで、それを言う人は皆無なんだよね・・。
(最近、タイだかどっかで、そうした近代解釈する比丘が出てきてるみたいだけど。特例だよね・・。)
日本仏教が賢明聡明なのか、(実践面で)未熟なのか・・・。
664 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 16:29:09.37 ID:qwGPU+4s
645 :前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 10:17:56.78 ID:ta29sj//
>>643 >なぜなら、在家は在日朝鮮人だからである。
嘘ばかりついていると、どこ往きか仏説にございましたね。
お気の毒に。。
ソースは?
>>654 まさにあなたの言うとおり、有無相対分別している世界にいるから、「苦」から逃れられないのでしょ?
善趣に赴いたり、悪趣に堕したりするうちは、苦から逃れられない。
この文章は、
「良いことをしても、悪いことをしても、それが自分に跳ね返ってくることはないとか、
いや、良いことをすれば、良いことが跳ね返ってくるんだとか、そういう有無相対分別している限り、真の苦から逃れることは出来ない・・・
良い行いをすれば、良い果報が返ってくるとは、この世的には善で、善人の世界になるだろうが、
そういう世界にこだわってるうちは、本当の意味での「苦の世界」からの離脱にはならない。」 って意味でしょ。
つまり、「苦」 というのは、善悪にこだわってる世界は、「苦の世界」 ということであり、
「善趣に赴く」 というのは、善に捉われてる状態で、決して 善趣に赴く = (本当の意味での)苦の世界から逃れる ということではないでしょ。
だから決してナンセンスとは言えない。
>>654 >【知】はあくまで相対前提ですから、・・・・・ 無分別直接現実には届きません
如実知とは、ただありのままの世界を受けている状態のことを言うんじゃないの?
如「理」作意の、「作意」 という部分は付いてないでしょ。
「我で知る」 という意味じゃなくて、ただありのままを受けている状態・・・・
例えば、月が太陽の光を受けて輝いているとき、月自身が光を放っているわけじゃない。
また受けるといっても、月自身が太陽の光を受けるため、キャッチャーミットを構えてるわけじゃない。
光を受けるのも、放つのも、無我の状態。
無我ゆえに、ありのままを見ることが出来る。 (見るというのは便宜的)
例えば鏡は、すべてのものを映している(知っている) 我がない(限りなく曇りがない)から、
すべてのものをありのままに映し出すことが出来る。
これはあなたの言う、無分別直接現実と、同じことじゃないかね・・・?
667 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/05(木) 17:22:17.33 ID:jW766ez6
寺和田だかオウムだか知らんが、 この手の 「古代インド人の輪廻観」と 「仏教に於ける方便としての輪廻観」と 「現代日本人の輪廻転生という迷信」を 故意に「輪廻」と一纏めにしてミスリードする連中は、 以前「輪廻を否定するならなんて生きてんの?しねば?」 とか書いてたよな。(笑) (^。^)妄想の押し売りをするチンピラとは関わらない方が良い。
668 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 17:59:37.15 ID:ta29sj//
>>650 >
>>631 でも書きましたが輪廻は仏典(文献)において最古層で否定的でその後の古層でより肯定的に表現されてます。
スッタニパータで結構ですので「最古層」はどの章か提示願います。
原始仏典の中でも「最古層」と「古層」が多いスッタニパータでは「輪廻」に関する記載が少なくとも10か所はあります。
貴兄が提示した章でそれらを全て回避する必要があります。
また、「最古層」以外は怪しいとなりますと、「空」とか「縁起」も「最古層」にあるのか否かという問題になります。
尚、
>>650 〜
>>652 が貴兄の私見でない場合は、出典を提示願います。
669 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 18:04:58.97 ID:ta29sj//
>>664 >嘘ばかりついていると、どこ往きか仏説にございましたね。
>お気の毒に。。
>ソースは?
それでは私は「最古層」と「古層」 の中から一つ提示します。
「第三 大いなる章」で嘘をついた修行者コーカーリアがどうなったのか一読願います。
670 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 18:11:06.60 ID:ta29sj//
>>669 >それでは私は「最古層」と「古層」 の中から一つ提示します。
>「第三 大いなる章」で嘘をついた修行者コーカーリアがどうなったのか一読願います。
それでは私は「最古層」と「古層」が多いと言われてるスッタニパータ の中から一つ提示します。
「第三 大いなる章」で嘘をついた修行者コーカーリアがどうなったのか一読願います。
671 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 18:19:55.70 ID:vPMEzim7
風呂場にコバエがわいてうっとうしい でも殺生はいかん でもうっとうしいし不衛生 どうしたものか 戒めを破って殺ってしまうべきか 死ぬまでのんびり待つべきか 殺すことを考えてる時点ですでにやっているのと変わらないのでやってしまうか いやいやこんな考えにさせてくれてコバエさん達ありがとうと感謝していてもらうべきか ぶっきょーのおまえらは俺どないしたらええ思うねんやんかー?
672 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 18:21:31.95 ID:Ib/ucY0O
>>665 >>666 趣旨は同じだろうと思いますので、ほぼ同意します。
ただ、そのようなあとからの「解釈」を必要とする『龍樹の論述は厳密性に欠けます。』(
>>654 )
上記八正道の構造は、道元さんのいう修証一等=二相の相即的実践と同趣旨です。
ゆえに悟りは迷妄です。
「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、
最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」(Sn.1072)
この【最上の<想いからの解脱>において解脱】ここにおいては、仏教などありもしないし、ダルマもありもしません。
★★★最上の<想いからの解脱>が仏法のゲシュタルトであり、
仏法のゲシュタルト崩壊が涅槃であることを示唆しています。
これが筏の喩えの法門です(金剛般若経6 中部:マッジマ・ニカーヤ22)。
『有漏路より 無漏路透過で また有漏路 有漏路はに非ず 無漏路は無漏路に非ず』
合掌 ではお先に
673 :
672 :2013/09/05(木) 18:26:36.04 ID:Ib/ucY0O
訂正 × 『有漏路より 無漏路透過で また有漏路 有漏路はに非ず 無漏路は無漏路に非ず』 〇 『有漏路より 無漏路透過で また有漏路 有漏路は有漏路に非ず 無漏路は無漏路に非ず』 失礼
675 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 18:33:18.14 ID:IrpTYakv
>>662 瞑想や禅定の必要性はどの経典にも書かれているし、
実際、瞑想修行をした僧侶が共通して禅定状態で自分の前世や来世、
その他いろいろな物(六道やカラーパの生滅等)を見ていることを考えると、
禅定状態で見るそれらが悟りの過程において必須だってことじゃないのかなぁ。
「紀宮様のご案内役を拝命、岐阜県多治見小道場、加藤よね子」P80 「昨年9月17日、天皇陛下第一皇女、紀宮様が美濃路をご旅行の際、 岐阜県多治見市の県陶磁資料館にお立ち寄りになられました。」 「私は、4年前資料館が新装されてからは、出勤すると欠かさず館内の お浄めをしています。そして数多くの方々が来館される中、 手かざしと真吼えを機会を見つけてはさせて頂いております。」 「当日、宮様をお迎えさせて頂き、私は後ろよりそっと手をかざし ながら、約一時間ご案内をさせて頂きました。」 この日の朝、私(加藤よね子)は、家を出るまでの間、下痢の清浄化を 頂いておりました。また、いつになく目もかすんでいます。」
ちなみにスッタニパータの中では4章と5章が最古であると書かれています。
出典は
>>631 のリンク先です。ここでは1〜4に分けて下から上に順番に書かれていますので
下から上まで全部読まれる事をお勧めいたします。
最古といわれる第四章と第五章の成立に関しても、宇井伯寿やワーダーのように第五章が最古とする説と、
山田龍城や荒牧典敏のように第四章が最古とする説が存在するが、どちらが古いかは未確定である。
ところで、第四章と第五章はともに古いが、ただ、第五章に関してはすべてが古いというわけではない。
第五章の第一経「序」(976〜1031)は、この章の注釈書である『小義釈(チュッラニッデーサ)』にはこの部分だけに
語義解釈が見られないことから、後に付加されたものと考えられる。
『スッタ・ニパータ』が仏教最古の世界を伝える文献であり、さらに詳しく言えば、第四章、第五章(第一経「序」976〜1031を除く)最古層、
第一章〜第三章が古層といった、異なった時代層に設定できるという検証の結果にもとづき、その時代の違いを軸にしながら『スッタ・ニパータ』に
説かれる世界を眺める。
ざっと読んだ上での書き込みです。
680 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 20:52:17.95 ID:ta29sj//
>>674 ID:DtkQc/Ep氏
>
>>668 >
>>631 のリンクを1〜4まで全部読まれた上での書き込みですか?
読んでおりませんでしたので、只今読んで参りました。
>>677 >ちなみにスッタニパータの中では4章と5章が最古であると書かれています。
それでは、四章と五章から形而上学(輪廻、神通)に関わる説法を紹介致しましょう。
四章
877 思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることはない。
955 サーリプッタは言った、「私は未だ見たこともなく、また誰からも聞いたことはない。
このようにことばうるわしい師(仏陀)、衆の主がトゥシタ天から来たりたもうたことを。」
五章
1023 質問者が何も声を出して聞いたのでないのに、仏陀が質問に答えたもうたのを聞いて、
全ての人は感激し、合掌して、じっと考えた。
1051 (仏陀答えて)苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執着)をつくっては
ならない。
以上、岩波文庫「ブッダのことば スッタニパータ」中村元訳より一部抜粋。
ブログでスッタニパータに関心を持たれた仏縁で、一度「ブッダのことば スッタニパータ」を
読まれては如何でしょうか。
既に読んでます。 10回は繰り返して読みました。 今も時々、読んでます。
>>680 ちなみに、5章の1023は最古層ではないらしいですよ。
5章の976〜1031は除く〜とあると思いますが。
それと、あなたが示された4章877、955 5章1051は仏陀が輪廻を
積極的具体的に肯定したようには見えません。
877:
>>330-334 955:トゥシタ天→兜率天、仏陀はこの世に生まれる前にトゥシタ天に住しそこから没して
カピラ城近くのルンピニー園で生まれたという伝説をいう。
1051:1050後半から正確に書けば、世の中にある種々様々な苦しみは執著を縁として生起する。
実に知ることなくして執著をつくる人々は愚鈍であり、繰り返し苦しみに近づく。
だから知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。
683 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 21:47:10.02 ID:ta29sj//
>>658 >輪廻に否定的というのは、あると認めていなかったという事ででしょう。
>>682 >それと、あなたが示された4章877、955 5章1051は仏陀が輪廻を
>積極的具体的に肯定したようには見えません。
>1051:1050後半から正確に書けば、世の中にある種々様々な苦しみは執著を縁として生起する。
> 実に知ることなくして執著をつくる人々は愚鈍であり、繰り返し苦しみに近づく。
>だから知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。
仏陀が輪廻(再生)はあると認めて、言及したということでしょう。
684 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 21:52:21.45 ID:ta29sj//
>>681 >10回は繰り返して読みました。
もしかしたら
>>631 のブログのご本人かと思いましたよ。
引用が正確で、よく固執されているようなので。。
再生=輪廻ととるか苦しみの再生ととるか、まどっちでも良いんですが 結論は素因=執著をつくってはならない、ですね。 何を言ってるのか汲み取る姿勢が大切とは思います。
>>623 もう勝手にしろ、バカすぎる
こういううなぎ論法を駆使する自称仏教者を見るとプラトンの方がましに思えるなぁ
>>624 うーん、たとえば「雨が降ってる」と誰かが言ったとするよ
それは、洗濯物をほしている人に注意をよびかけたのかもしれないし
気まずい二人が話題にと持ち出した言葉かもしれないし
外で遊びに行きなさいと言われた子供の抗議の言葉かもしれない。
文脈というものを知っている者でなければ、言葉が不十分ということはよくあることだよ
後で付加されたものが蛇足である可能性があるが、
だからと言って、何もつけてない言葉を解釈した人間に独断が含まれていない可能性はないよ
それと、追加で言わせて貰えば、私は輪廻はあってもよくなくても良いという立場です。 死後の世界も同じです。 しかし、一部の人は仏教の根幹に輪廻がある〜輪廻を認めない人間は仏教を理解できない〜 なんて無茶苦茶な主張をしておられるから異を唱えただけです。 人間仏陀が無記で回答を拒絶したものを、真っ向から断定されるのはいかがな姿勢かと疑わざるを得ません。 繰り返しますが、私は仏陀がそうであったように輪廻は無いと断定するものではありません。 所詮、人間が形而上の事をこの世の言葉で表現するのは不可能だから何も言わないのがベストだと思います。
もう一つあったわーすまんいっしょに書けなかった
>>635 反論はもっともだね、いろんな可能性は考えられうると思うよ
俺は別に漢訳を持ち上げたいわけじゃないし
ただパーリだけにこだわる姿勢も偏っているように思うよ
ちなみに「三明智」、これは古層にも説明があるの?
>>687 何で今までの議論を無視するの?
仏教は形而上を語ってることについては
否定できなかったでしょ
議論が成立しないならキチガイの独り言じゃないか
>>689 では最古層で仏陀が形而上の事を具体的に語っている話を紹介してください。
形而上の質問に仏陀が具体的に回答した例など。
>>687 俺も輪廻はあえて入れる必要はないと思うが
いろいろ問題もあると思うよ
道義的問題、たとえば来世がないんなら、この世で好き勝手やってもいいじゃんという人がでてくる
逆におまえは過去にうんたらかんたら言うやつもでてくるが、それはサンガが邪義認定すれば足りるでしょ?
他に、経として残っている話は出家者向けだけど
在家に解かれている話の多くは生天思想と呼ばれるものじゃないかね?
当時、財施をしてサンガを支えた在家信者たちが輪廻から逃れるわけじゃなく
天に生まれると思ってそうしていたのだとしたらブッダは騙したことになるの?
瞑想は形而下ですか? 四禅定は形而下ですか? 悟りは形而下ですか? 何見てたんですか?
693 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 22:23:13.26 ID:ta29sj//
>>682 >ちなみに、5章の1023は最古層ではないらしいですよ。
> 5章の976〜1031は除く〜とあると思いますが。
1051: 実に知ることなくして執著をつくる人々は愚鈍であり、繰り返し苦しみに近づく。
だから知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。
1121:(仏陀は答えた)ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、
物質的形態を捨て、再び生存状態に戻らないようにせよ。
>>687 >しかし、一部の人は仏教の根幹に輪廻がある〜輪廻を認めない人間は仏教を理解できない〜
>なんて無茶苦茶な主張をしておられるから異を唱えただけです。
> 人間仏陀が無記で回答を拒絶したものを、真っ向から断定されるのはいかがな姿勢かと疑わざるを得ません。
貴兄のスタンスはよく分かりました。 対話していただき有難うございました。
694 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 22:38:07.20 ID:ta29sj//
>>688 >ちなみに「三明智」、これは古層にも説明があるの?
四章と五章が最古層で、三章が古層としまして、三章に小中学生でも分かるほど
ハッキリ説かれております。
656:三つのヴェーダ(明知)を備え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、
諸々の識者にとっては、梵天や帝釈天と見なされるのである。
ヴァーセッタよ、このとおりであると知れ。
695 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 22:42:20.29 ID:ta29sj//
>>694 >656:三つのヴェーダ(明知)を備え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、
>諸々の識者にとっては、梵天や帝釈天と見なされるのである。
>ヴァーセッタよ、このとおりであると知れ。
後世では梵天や帝釈天は再生するから阿羅漢達よりも低いように説かれた経典があった
ように記憶しますが、また探しておきましょう。
>>693 1121→1120〜1123 学生ピンギヤの質問
学生とはいってもピンギヤは老人なんですね。
そのピンギヤが自分の老境を嘆いて、迷ったままで死ぬ事のないように説法を仏陀に請うた訳です。
結論を正確に全部書きますと、1123
師は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、
それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」
物質的形態というのは、ピンギヤが老境で目や耳がはっきりしなくなった〜と嘆いているのに対して答えたものと
推察できますが、いずれにせよ生存状態とは迷いの生存状態〜というのが結論にもあるように真意でしょうねえ。
もちろん輪廻でも構いませんが、積極的肯定〜とは言えません。
>>692 瞑想や禅定は形而下、悟りは内容は形而上。
禅定が形而下なんて 一体何言ってるんですか 我思うゆえに我ありの西洋哲学のより奥である 認識の主体まで遡り分析してゆく四禅定が形而下なんですか?
698 :
神も仏も名無しさん :2013/09/05(木) 22:55:05.26 ID:Ib/ucY0O
言葉の定義から始めよ
言葉の定義上げましたよね、ちゃんと辞書から
>>695 ふむふむ、サンクス
前世さんの世話になったのははじめてだわ
ブッダの文脈はどうだったのだろうね
701 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/05(木) 23:22:14.78 ID:ta29sj//
>>700 >ブッダの文脈はどうだったのだろうね
青年バラモンのヴァーセッタとバーラドヴァージャとが「バラモンとは?」
で議論しており、それに対して釈尊が説かれたという文脈です。
因みにこの二人の青年バラモンは長部経典の三明経では「梵天との共生とは?」
で議論しており、また起源経でもこの二人は登場します。
フリーメーソン陰謀論などユダヤ陰謀論と同様、根拠不在の妄想だよ。 陰謀論者が『世界支配の為の双頭戦略』として説明していた冷戦体制は 旧ソ連の崩壊によって、存続することなくあっけなく終わってし、多くの 陰謀説作家達が警告していた2000年問題の大パニックもついに起きませんでした。 このように陰謀論は、いたずらに関わる者を疑心暗鬼にするだけの、実に無責任な妄説だよ。 陰謀論者に共通するのは退化思想、停滞思想、現状維持、旧習の固執、改革意識の欠落、 化石化である。それは何に起因するかといえば、保身だよね。 おのれの利益にとらわれているのである。彼らには次世代を思う気持ちはないとおもうよ。 他宗教者を思う気持ちはない。 キリスト者の囲い以外のものを救うというナザレのイエスような崇高な意識は欠落しているよ。 われわれ真のキリスト者は真のキリスト者は、真の聖霊の油注がれたものとして、これらの問題 に取り組むべき。 >701
703 :
神も仏も名無しさん :2013/09/06(金) 00:59:38.43 ID:LB+ESu8S
現代のすべてのカルトの起源は、釈迦とイエス。 現代人に比べれば、知恵も知性もはるかに劣る大昔の1個人に、2000年以上 も執着し続けるとは、精神医学的現象以外の何物でもない。 カルトは、それを知って「営利の手段」として「利用」しているだけ。だから、 釈迦とイエスは絶対に手放せない。
704 :
神も仏も名無しさん :2013/09/06(金) 01:04:47.88 ID:LB+ESu8S
釈迦は、「己の我を以って無我を説く」という初歩的論理矛盾を犯しているし、 煩悩とは、生命の維持に不可欠な機能であり、排除すべき異物ではなく、むしろ 感謝して受け入れるべきものであることに思い至っていない。 その誇大妄想故に、己が創造主になりたかった、なった積りのイエスにある ものは、「創造(あるがままのすべての人間)に対する激しい憎悪であることを、 看破する必要がある。
>>697 形而上、形而下の説明は色々あるとは思います。
形あるものが形而下、形なきものが形而上とか
目に見えるもの触れるものが形而下、目に見えないもの触れないものが形而上とか・・
私の判断基準は科学的説明が可能なものが形而下、科学的説明が不可能なのが形而上です。
だから形而上のものは科学的に説明できませんから、科学者はそのような世界は無いと想定するケースもあります。
一方、これを肯定する立場がオカルトです。科学的に説明できない世界をあると断定する立場です。
断定せずに、あるとは言えないがありうるとして、論を展開するのが神秘主義です。
瞑想、禅定は基本的に同じものだと思いますが、脳波計でも付けてもらって測定したら、瞑想状態に入っているか否か
確認できますよね。だから形而下です。
悟りの内容は科学的に説明できません。だから形而上です。
△一方、これを肯定する立場がオカルトです。科学的に説明できない世界をあると断定する立場です。 ○一方、これを肯定し、この世の論理と言葉で説明する立場がオカルトです。 科学的に説明できない世界をあると断定し、この世の論理と言葉で説明する立場です。
707 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/06(金) 08:56:46.90 ID:im5wmwDl
>>705 >だから形而上のものは科学的に説明できませんから、科学者はそのような世界は無いと想定するケースもあります。
> 一方、これを肯定する立場がオカルトです。科学的に説明できない世界をあると断定する立場です。
天国、極楽、エホバ、アッラー、等々を肯定するとオカルトですか。
ムスリムの前でアッラーは科学的に説明できないからオカルトだと貴兄は言うのですか。
708 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/06(金) 09:04:20.18 ID:im5wmwDl
>>707 >ムスリムの前でアッラーは科学的に説明できないからオカルトだと貴兄は言うのですか。
ムスリムやクリスチャンから阿弥陀如来も科学的に説明できないからオカルトだと言われそうです。
仏教は科学や哲学でなく、宗教であり信仰対象だという前提がないように存じます。
輪廻がないと思ってる人は、仏教を勘違いしてるっていうか、 仏教やめたほうがいい。 もうそれは解脱を教えとする教えじゃなくて、単なる自己啓発の世界だから。
>>707-708 wikiによると、
形而上学の研究には心理学的、宇宙論的、存在論的、神学的な関心に基づいた研究もあるにもかかわらず、
形而上学は哲学的方法に基づいた研究であり、物理学や心理学や生物学といった科学的方法に基づいた自然諸科学や、
特定の聖典や教義に基づいた神学と区別される。
とありますから、キリスト教や仏教やイスラム教などの特定の宗教そのものの世界については研究対象ではないという事でしょうか。
しかし、研究対象ではないとしても実質的には形而上であることに変わりなく、あると断定して大真面目に神とは、天国とは、
地獄とは〜とこの世の論理と言葉で説明すればオカルトでしょう。あると断定せず、あるとは言わないがありうる〜で論をすすめれば
神秘主義です。
私は宗教といえども神秘主義までは認めますが、オカルトは認めません。
>>709 お釈迦様でさえ、形而上の事については回答を拒絶したのに、これに真っ向から歯向かってあると断定し、コレを認めないものは
仏教をやめたほうがいい〜というアナタの方が仏陀の説いた基本的な事を理解していない。私はアナタにやめたほうがいいとは
言いませんが、もう少し頭を柔らかくして観察する事をお勧めいたします。
輪廻に固執するより、ちょっとはブッダの対機説法見習ったほうが。
>>710 だから、無いなら無い、って言うでしょ、普通。
無いものを無記にする必要はないわけだよ。
無いと言えばそれで終わりだから。
ところが 有る と言ったらずっつ続いちゃう。 それに捉われちゃう。
だから、捉われるな、って意味で、無記にしたんでしょ。
もしあなたが最古層の経典に拘るなら、お釈迦様が 「あの世、輪廻は無い」っていう記述を提示しないといけないよ。
「無記」 というのは、どちらかというと、輪廻、あの世があります、って言ってる方が有利だよ。
あなたこそ頭を柔らかくしたほうがいい。
所詮、あの世とか輪廻とかは、悟った人しか分からないんだから、凡夫がイジクリ回していいもんじゃない。
ただ、この世の苦しみがあの世や来世まで続くんなら、いっそう解脱を求めないといけないな〜 ってところで止めといて、
あとはそういう世界に触れない。
あなたは仏教がそういうものを認めると、オカルト的になると思ってるんでしょ? カルト宗教みたいに。
でも仏教は、そういうところからの解脱を目的としてるんだから、オカルトになりようが無い。
だから、オカルト的な仏教はダメだけど、解脱の対象としてのあの世、輪廻は認めるって、
もっと頭を柔らかくしたほうがいい。
>>712 無いものは無いと言ったでしょうねえ。足して言えば、有るものは有ると言ったでしょう。
有ると言えば、それに捉われるから、無記で回答を拒絶した〜と言っても、無記でも有ると決めて
それに捉われるのではお釈迦様も生きていれば悲しい思いをするでしょうね。
有るのなら最初から有ると断定して、教えを説くほうが理に適った方法だと思いますよ。
もっと素直に解釈した方が良いですよ。
アナタの解釈を聞いていると凝り固まった思考方法ばかり目に付いて気の毒に思います。
>>713 >有るものは有ると言ったでしょう
>有るのなら最初から有ると断定して、教えを説くほうが理に適った方法だと思いますよ。
この考え方自体が浅はかっていうか、人がわき道にそれる怖れがある場合、
あえてその存在に触れない、示さない、ってことがあるでしょ。
だけど否定すると嘘になっちゃうから、決して無いとは言えない。
>有るなら有るというでしょ ← これ自体が、「凝り固まった思考方法ばかり目に付いてる」 状態。
もし輪廻とか、あの世が解脱の過程に不可欠なものだったら、
「有るのなら最初から有ると断定して、教えを説くほうが理に適った方法」 ということにもなろうけど、
そもそもそういう世界からの解脱なのだから、とくだん不可欠というわけではない。
あえて凡夫に説いて、わき道にそらすような危険を犯すことはないでしょ。
解脱の対象として捉え、そこに執着する怖れのない人には、きちんと説くでしょ。
気の毒に思うって、輪廻やあの世を否定して仏教をやってる人のほうが、気の毒だわ。
気の毒っていうか、残念だわ。
>>714 アナタは私のレスを読んだ上での書き込みですか?
私は否定論者ではありませんよ。
一言も形而上の世界は無いとは断定していませんが?
無いと断定するのは唯物論者です。私は唯物論者ではありません。
有るとも無いとも言わないのをまるで否定論者のように決めてかかるのはいかがなものか?
>解脱の対象として捉え、そこに執着する怖れのない人には、きちんと説くでしょ。
つまり、釈尊が形而上の事を、特定の人には語った〜と言われるのですか?
最古層の文献でその場面がある証拠の提示をお願いします。
アーナンダが釈尊に最後の説法を懇請したのに対し、
「アーナンダよ。修行僧らは私に何を期待するのであろうか。私は、内外の区別なしにことごとく法を説いた。
まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような、教師の握りこぶしは存在しない。」
釈尊は何か奥義のようなものを特定の弟子にだけ話し、ある弟子には秘密にした〜という人ではありません。
何ものかを弟子に隠すような、教師の握りこぶしは存在しない。と言っているではありませんか。
>>715 なぜ最古層の文献に拘るのか・・・?
古層の文献で十分じゃないですかね・・・?
もし、最古層の文献が一番正しいというなら、それ以外は仏教じゃないってことになる。
頭から仏教を否定しているってことでしょ。
>まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような、教師の握りこぶしは存在しない。」
これは無記とは関係ないでしょ。
ここでいう「教え」というのは、解脱の教えであって、そういう意味では隠すことしないってことでしょ。
喩えて言えば、武道家がだいたいの教えを弟子に伝えたが、いくつかの奥義はもったいないから自分だけの秘密にしてるとか、
ラーメン屋の主人が、弟子にある程度のコツを教えたが、最後の秘伝のスープだけは教えなかったとか、
そういう出し惜しみはしてないって意味で、凡夫に、誰彼構わず教えを説いたら害になる可能性のあるものを、
話さない・・・・ってこととは違う。
古層の文献でそういうのが出てくるってのは、ある程度のレベルの人には話してた、ってことでしょ。
だから、ここでいうところの「隠す」と、「無記」は、違うってこと。
>>616 古層文献は輪廻積極肯定のものですからねえ。
最古層は否定的。(しかし無いと断定はしていない)
輪廻に対する捉え方が180度方向性が違い、最古層と古層とどちらが仏陀の実像に近いか?
と考えれば古い最古層の方が近いと言わざるを得ません。
仏陀の無記に対抗して、有る〜と断定する人からすれば古層資料は宝の宝庫です。
しかし、そんなものは何の証拠にもならないでしょう。
古層以降の後代の付加、教義の追加、伝説化、神格化〜された文献をそのまま全部鵜呑みにするのは
間違った経典の読み方でしょう。
古層以降も有意義な表現も多いと思いますが、少なくとも後代の付加、教義の追加、伝説化、神格化〜
された部分は何で、それが実際の仏陀の教えに近いのか遠いのかくらいは用心して読むべきと思います。
>>717 2500年経って、日本の一部学者だけが、そこに到達したって思ってんのか。
随分と賢いんだな、日本人はw
何度も言うけど、
全世界で輪廻否定の仏教を語ってるのは、日本の極一部だけだから。
それとも、どっかに、そういう僧侶や西洋学者が居る?
居たら教えてよw
それから、
>>715 >私は否定論者ではありませんよ。 >一言も形而上の世界は無いとは断定していませんが?
誰も、そうは言っていませんよw 出ていない話題へスライドさせて話をはぐらかすのは良くないですよw
貴方は明確に「輪廻という考え方が仏教の教義の構図としてありえない」という否定の立場じゃないですか。
それに対して、修道面でも倫理面でも、対在家説法でも、或いは解脱という構造上でも、
輪廻という要素は必須ですよ、と反論が出てるんじゃないですか。
それを、「いや、私は形而上のことを否定してはいませんよ」という返答は、ピントがずれているにも程があるでしょう?w
>>717 >最古層は否定的。(しかし無いと断定はしていない)
・・・というんなら、
>輪廻に対する捉え方が180度方向性が違い
・・・とは言えないでしょ。
多少の ー 付加、教義の追加、伝説化、神格化 ー よりも、もっとも恐ろしいのは、
教え自体が捻じ曲げられることでしょ
輪廻やあの世の存在が、すべてこういうものによる創作だとは、言えないでしょ。
もしあったとしたら、本道の教えとかけ離れちゃう。 矛盾がそこに生じる。
でも辻褄があってるでしょ。
因縁因果とか、だから輪廻がつづくとか、そこから解脱しなければ、苦しみは終わらないとか・・・
用心はいいけど、偏見に基づいた用心というのも、気をつけないといけないような気がしますね。
>>717 >最古層と古層とどちらが仏陀の実像に近いか?
たとえば剣道の達人がいて、弟子に教える時に、弟子は華麗な技に心惹かれてて、すぐにでもその技を教えて欲しいんだけど、
それは基礎の習得を妨害してしまうので、先生はあえて教えない。
当然、技術書にも、載せないようにするわけです。
一部の高いレベルの弟子には、口頭で伝える。
だから先生が生きてるうちは、あるいは死んだ直後は、基礎を守って指導する・・・という方法がとられる。
ところが、その剣道を広めよう(布教しよう)となったとき、ただ基礎の部分を語ってもどうにもならない。
足さばきばっかりやってると、その剣道全体が、足さばきとか、単純な剣道だって、思われちゃう。
仏教で言えば、単なる自己啓発か、哲学の話と思われちゃう。
だから師が生きてるうちの、導きの教え・・・ あるいは、布教が盛んになる前の教えでは、
うちわの未熟な弟子に対する基礎の教えしか表に出てないこともある。
だけど布教の段階になれば、この教えはこういう教えだって、弟子のレベルの過程を無視して、
説明する必要が出てくる。
だから一概に、一番初期が正しくて、以降が創作や付加だってことはいえないと、
思うんですけどね・・・
>718
>貴方は明確に「輪廻という考え方が仏教の教義の構図としてありえない」という否定の立場じゃないですか。
「構図」を「根本教義」に置き換えればそのとおりです。積極肯定ではない消極肯定であろうという見方です。
いやそうではなく必須で積極肯定で、有ると断定して、この世の理論と言葉で説明するのはオカルトであり、私はオカルトは認めません。
しかし、私は唯物論者でもありません。ピントはずれていないと思いますが?
>>719 リンクを参考にさせていただきます。
ざっと見た感じではご指摘の通り同じ事の繰り返し〜という感じを受けました。
宝珠さんに最古層の証拠を示せ〜と言って示されたものに異を唱える〜なんてw
量がかなりありますので、なるべく読み飛ばさないように目を通すつもりですが、全部読んでみようと思います。
では、何日かこのスレともお別れです。
過去スレ読むのに時間を使いたいと思います。
724 :
神も仏も名無しさん :2013/09/06(金) 16:45:38.64 ID:LLIcgvOY
釈迦が言ったか、言わないかを、それほど問題にするのは無意味。釈迦は、 現代人とは、その知識と知性において桁違いに劣る、大昔の1個人に過ぎない。 釈迦の誤りは、片っ端から是正するのが、現代の仏教者の義務であろう。
>>722 ピントというのは、
「輪廻否定は、(現時点では)仏教の骨格を歪めてしまいますよ」
「いえ、私は形而上を否定してはいません」
という会話が、噛み合っているものかどうか?という意味です。
過去ログ読破は、余分なレスも膨大なので、かなりの労力だと思いますが、がんばってくださいw
輪廻絡みに限らず多方面で、珠玉の名レスも多いですから。
ノシ
726 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/06(金) 18:04:35.33 ID:im5wmwDl
>>715 >「アーナンダよ。修行僧らは私に何を期待するのであろうか。私は、内外の区別なしにことごとく法を説いた。
>まったき人の教えには、何ものかを弟子に隠すような、教師の握りこぶしは存在しない。」
> 釈尊は何か奥義のようなものを特定の弟子にだけ話し、ある弟子には秘密にした〜という人ではありません。
隠すというよりも、釈尊は説き方は相手に応じて変えられたそうです。
(参考:「大智度論」龍樹の四悉壇)
>>718 >何度も言うけど、
>全世界で輪廻否定の仏教を語ってるのは、日本の極一部だけだから。
えー話やなー。。
私の阿頼耶識に無かった情報なので蓄積しておきます。
グローバルで、「あなたの信仰は?」と聞かれた時に、「ありません。」と言えば、相手がひくという
話は聞いたことがございます。
しかし、私が再生した縁かどうかは分かりませんが、前世(過去スレ)でセブン氏とかご隠居氏とかの
名称があった方々の再生も起こってきている感があります。
宝珠氏や、オイラ氏の再生もあるかも知れませんが、折角涅槃入りした方々に執着するのはまた悪業を
積みますので止めておきます。
見事に、ミニマムにモデル化された輪廻を経巡ってるなw その因は勿論、我見・我執(見栄・自己顕示含)や、スレを覗いてしまうことなわけだが、 様々な書き込みが縁となり、様々な登場人物のさまざまな発言内容が縁となり、 反論の内容や反駁行為、或いは賛同の喜び、或いは疑問疑念を誘発する・・。 そうして、そのように自己を統制できず、他者へ自説を浸透させようとして、再びこの世(スレ)に生を受ける、とw 因果やなぁ・・・w
728 :
神も仏も名無しさん :2013/09/06(金) 19:50:49.33 ID:LLIcgvOY
輪廻転生を認めない仏教の宗派も多い。 そもそも釈迦は、生きていて教えを説いた。生きている釈迦に、死後のこと など分るはずがない。単に、バラモン教の洗脳が解けていなかっただけ。 死後の輪廻転生など、現代では荒唐無稽な妄想に過ぎない。死ねば感覚器官 も思考器官も腐敗するか灰になるのに、一体どうやって来世を認識するのか。 死者にとっては、来世があろうとなかろうと、全く無関係。
輪廻転生を認めるしゅうは どこ
>>728 ご隠居さん久しぶり!
相変わらずブッ飛んでるなw
733 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 00:15:18.09 ID:wJimzDp9
734 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 00:16:53.14 ID:SCw5dVEm
釈迦は如来になって、輪廻転生を断ち切った。
735 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 00:36:38.66 ID:KxJjB2Tn
>>732 現代人なら、小学生にでも分る、釈迦の幼稚な論理矛盾と誤り。
すべて、中論によって是正されている。
736 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 00:39:52.34 ID:KxJjB2Tn
>>730 数年前の「大法輪」の「輪廻転生」特集号と、公益の面からの編集者のコメント
を参照のこと。
>>736 馬鹿だなぁ・・w
個々人がどう思おうが勝手だが、
各宗派の教義上、或いは説法上、
或いは踏まえねばならない(放棄し得ない)先師たちの語録上と整合性が取れなくなる、
ってことなんだがな・・・。 ┐(´ー`)┌
〜崇教『真光』1994年5月号 No.380より部分抜粋〜 ・・・待てよ!たとえ千円といえども誰かが落とされたもの。これを懐に入れたら 盗みの罪になりはしないだろうか……。 千円ばかりのことで後味の悪い想いをすることもあるまい。 かといって千円ばかり交番に届けるのも難儀だし…… そうだ、明日お浄め御礼と一緒に御奉納することにしよう〉と思ったのでございます。
739 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 02:01:36.35 ID:fUORz7Pq
因みに、 教学上で「輪廻転生」、 いわゆる「個人主体としての魂の生まれ変わり」 を認める宗派は、 日本の伝統的仏教には無い。 もちろん、末寺や個人的見解としては様々な「感得」があるから 「水子」だの「生まれ変わり」だのと宣うハゲも居る。 あと隠居も、「釈迦がー」って根拠無く断定すんなよ。(笑) (^。^)何回目だろう、同じ事書くの嫌なんだが。
そもそも無性生殖を行う生物には死なんてものは存在しないのだから、仏教が言うような生者必滅だの輪廻転生だのといったことは無性生殖生物には通用しない。
有性生殖を行う生物でも、不老不死のクラゲというものもいるしな。
742 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 03:12:38.50 ID:wJimzDp9
>>739 バカ言ってんじゃねぇよ
日本仏教も極楽浄土に生まれ変わるって言ってんだろ
お前、いい加減なこと言いすぎて オウムの奴らにすらコテンパンにやられて逃げ出してるじゃねぇか
>>740 >>741 我執のない生物に、果たして輪廻転生があるかどうか分からないけど、
少なくとも仏教でいうところの「不滅」とは、「常住」のことでしょ?
何者にも依らないで、存在できる・・・
そういう生物も、生存環境が無ければ生きていけないし、捕食される可能性もある。
本当の意味での 「不死」とは言えない。
分裂をしたものを、前と同じ固体だとも言えないし、老化(劣化)した後、再生するものを、
{不老」とは言えない。
>>745 >そういう生物も、生存環境が無ければ生きていけないし、捕食される可能性もある。
そういう環境変化や食べられたりすることがない限り永遠に生き続けるわけだから、生者必滅とはいえないな。
そもそも仏教においては輪廻転生を行い生老病死を永遠に繰り返すという過程の中で死は位置づけられているわけだから、生存環境がなくなるような生物絶滅は想定していない。
>分裂をしたものを、前と同じ固体だとも言えない
全く同じ個体だよw
細胞分裂は我々の体内でも常に日々行われているわけで、それで違う個体になったとは言わない。
>老化(劣化)した後、再生するものを、
だから、このような生物達は老化すらしないんだよ。
>>746 >全く同じ個体だよw
それが顛倒妄想なんじゃないですかwwwww
貴方、仏典読んだことないでしょ?w
>>747 まあ確かに生物学的・一般用語的な意味での個体の違いを言っているが、百歩譲って仮にそれが仏教的に見たら違う個体になっているのだとしても、生者必滅だの輪廻転生だのといったことにそのような単なる細胞分裂の類は含まれていないだろう、ということ。
749 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 16:06:29.33 ID:fUORz7Pq
>>743 あのねぇ、
>>739 で「個人主体としての魂の生まれ変わり」って断ってるでしょ?
日本仏教は形式上、全てが中観派を継承してるから、
キミたちが盲信してる「生まれ変わって成長する個人としての本質たる魂」なんて与太は、
少なくとも日本仏教の教学上有り得ないの。
(^。^)てか、オウムの信者になると日本語の読解力が無くなるのか?オウム信者ってバカばっかしだが。(笑)
>>749 あほが
中観論だから生まれ変わりの否定とか
基地外じみた妄想を垂れ流すな
輪廻転生するときは、肉体は滅び違っても、同じ魂だと思うよ。
>>748 テロメアってあるじゃん
ゾウリムシにはないの?
あと、皮膚の細胞は生まれ変わっていると思うが
体内の細胞も同じくらい生まれかわってるんすか?
753 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 17:02:44.33 ID:fUORz7Pq
>>750 プトガラは否定されてんだが。
(^。^)このパターンも大概秋田。
>>753 あ?中観論の正当な後継チベット仏教が
活仏制度取ってダライラマが現存していることを
どうせつめいすんだよ
この嘘つき
>>746 >だから、このような生物達は老化すらしないんだよ。
ベニクラゲは老化しないのかね・・・? 老化した後、ポリプに戻るんじゃないの・・?
仮に老化じゃないとしても、未成熟 → 成熟 という過程をたどる限り、老化というんじゃないかね・・?
最初から成熟した状態で、一切の変化がないというんなら、別だけど・・・。
微細な生物を例にするんなら、こっちも極大解釈を例にしないといけない。
たとえば、ニクラゲやミドリムシは、地球が滅んでも生存しつづけるんだ・・・?
地球にも寿命があるよね・・?
太陽系にも寿命がある。
でも、ミドリムシやベニクラゲは、永遠の生命を得てるんだ?
生者必滅ということが通用しないんなら、地球や太陽系に寿命がきても、永遠に行き続けるはずだよね・・?
757 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 17:16:15.06 ID:fUORz7Pq
>755 ダライ・ラマ何世だか忘れたが、存命中に次のダライ・ラマとして少年を指名してんだよ、ばーか。(笑) (^。^)つーかプトガラについてはいいのか?(笑) コロコロと論点ずらすのはオウムでは正義なのか?(笑)
>>757 チベット仏教が生まれ変わりを信じてることについて
同説明するんだときいてるんだこの低脳が
論点ズラしてるのはお前だろこの嘘つきめ
http://semi.natura-humana.net/2003/contents/genzemi/bunken/2004-aki/abidaruma.pdf 仏教では輪廻もまた、無明(avidoya)によって生起した迷妄にすぎず
そのゆえに、解脱とともに消滅してしまうのである
だが、輪廻を否定すると業の主体や因果応報、また人格の連続性を否定されてしまう
そこでアビダルマで考え出されたのが
プトガラ(人我)という考え方であるが『ミリンダパンハー』では、このプトガラの存在を認めず
かわりに業の相続、つまり行為の連鎖的持続という考え方で
この難問をかわしたと考えられるが、これではまたアビダルマの
小乗的な法の恒有に戻ってしまうのではないだろうか
そこで、このアポーリアをクリアするために
仏教の深層心理学である唯識思想が登場してくる
(アビダルマは大乗仏教への架け橋 世親もここから出発している)
唯識では阿頼耶識という無始以来のすべての有情の
記憶が(大脳新皮質と古皮質の問題と考えあわせると興味深い)存在し
それが末那識(いわゆる無意識層)に働きかけ
結果的に意識上に表象された(業によって影響されているが)世界
つまり、識転変こそが我々の認識のすべてである、世界そのものであるとする
業(行為)はまた、その阿頼耶識に沈潜されて上記のプロセスを経ることで
我々の業を形成し続け、無明の世界の我々の存在となる
>>759 解脱できないものは生まれ変わりを続けるということは
否定してないんだろうが
761 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 17:30:21.14 ID:fUORz7Pq
>758 だから「個人主体としての本質たる魂の転生」があるなら、 ダライ・ラマの爺様が目の前の少年に、次のダライ・ラマだと指名する訳無いだろ?(笑) (^。^)オウム信者ってホントに日本語理解出来ないんだな?(笑)
>>761 アホはお前だ
知らないことを適当に語るんじゃねぇ大嘘つき
観音様の化身ということになれば
化身というのは一体じゃねぇんだよ
輪廻のことをちゃんと答えろこのアホ!
話しズラしてるのはどの大バカ野郎だよ!!
オウムオウムってこの議論スレで 頭でも狂ったのかこのボケが
764 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 17:42:07.44 ID:fUORz7Pq
>762 お前がチベットの話ふったから教えてやってんだがな?(笑) だいたい、こっちの話を理解すら出来ないド素人の間抜けに、 なんで「仏教に於ける輪廻」なんてナイーブな問題を説明しなきゃならないんだ?(笑) (^。^)寝言は寝て言え。(笑)
>>764 寝るのはテメェだこのボケ
出てくんなこの基地外が
どこにチベットの話が出てきたんだこのボケ基地外が 口から出任せ続けてんじゃねぇぞ
767 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 17:51:46.53 ID:fUORz7Pq
>763 あれ? キミ、オウム信者じゃないの?(笑) そりゃあ悪かった、誤るわ。 あんな豚みたいな松本死刑囚の下らない妄想を信じるカスと同列とか、 君が腹を立てるのは当然だ。 いや、ホントに悪かった。 (^。^)オウム信者とか宗教を騙る極悪テロリスト集団だもんなぁ。(笑)
>>767 話ズラしてんじゃねぇ大嘘つきが
消えろ
769 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 18:11:39.61 ID:wJimzDp9
問う、門前の痩せ狗にも仏性はございますか。 答える、無。 教え 居ぬが赤狗なら、喰え!喰え!喰え!。 理念、 さとりとは揀.擇(けんじゃく、好き嫌い)しないである。 仮きゅらむ なすべき事をただちになせ。 1、門前のやせ狗を見たら、射殺(いころ)せ。(悟る為に必修) 2、その狗が赤犬なら、煮て喰え、焼いて喰え。(食中毒注意、サルモネラ菌、腸炎ビブリオ) 3、学ぶ事が無く、ひたすら太った犬は、撲殺(ぼくさつ)せよ。(僕さあボクサー) 4、主流派、多数派の権力に擦り寄る狗は、蹴殺(けころ)せ。(サッカーは物書きか) 5、狗も歩けば30俸を喰らわせ!聞き回り、訪ね周り、食い物にありつく者の舌を塩タンで喰う。(舌即是喰う) 6、物乞いの狗にお注射お薬は無駄、薬石効無く傷口に塩を塗り込み一夜漬けで喰え。(ふつかと置くな腐る) 時間を問わず、汝(なんじ)妄想(もうぞう)する莫(なか)れ 妄想のさとりのすがた10条リストアップ一覧表 1.あれれ、わたしが いない。 2.さとりとは、諸法無我。 3.悟前の人にさとりあり、悟後の人にさとりなし。 4.本来ひとはさとっている。だから何故、修行するのか。 5.本来ほとけなのだから、無駄な読経、座禅はしない。 6.生まれたから、死に、生まれなければ、死なないの真理さとり 7.悟りとは揀.擇(けんじゃく 好き嫌い)しないである。 8.日常生活、行住坐臥、そこがほとけ。 9.悟前は自己のため、悟後は他人(ひと)のための修行 10.さとれば、自他が無い。一味(いちみ)一色(いっしき、ひといろ)の世界である。
>>756 >仮に老化じゃないとしても、未成熟 → 成熟 という過程をたどる限り、老化というんじゃないかね・・?
老化というのは「体の機能が衰え低下すること」を言うんだろ。厳密にいうと「時間の経過とともに不可逆的に進行する形態的、生理的な生態の衰退現象」か。
子どもが大人になることは成長とはいっても老化とは言わない。
>生者必滅ということが通用しないんなら、地球や太陽系に寿命がきても、永遠に行き続けるはずだよね・・?
だから、生者必滅・輪廻転生というのはそのような極端な例外的場合にしか起こらないことと仏教はしているのか、と言っている。
日常的に起こることだとしているんじゃなかったのか?
772 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 18:49:48.88 ID:fUORz7Pq
>>768 は謝罪を受け入れたんだろうか?
(^。^)ホント、悪かった。アホ丸出しの松本死刑囚の妄執を崇拝してるド外道のオウム信者と間違えるとか、ヒドい事して悪かったな。
> (^。^)ホント、悪かった。アホ丸出しの承狂の妄執を崇拝してるド外道のニート心裏狂と間違えるとか、ヒドい事して悪かったな。 何関係ない自己紹介してんだよ 消えろ
774 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 19:07:02.91 ID:fUORz7Pq
>>755 >>766 なぁ、お前、頭大丈夫か?(笑)
>>773 とか日本語として文章が成立してないって解らないんだろ?(笑)
(^。^)精神科の医者に看てもらえよ。(笑)
>>774 ミリンダパンハーの話して
どこにチベット仏教の法の話が出てきたんだって言ってんだよ
話の一貫性が持てねぇのかこのキチガイ
776 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 19:12:26.68 ID:fUORz7Pq
糖質のヤバいキリスト教系コテですら、曲がりなりにもちゃんと文章は作れるのに・・・・ なんて不憫な、J28G6yfMちゃん。 (^。^)かわいそうになぁ。(笑)
>>771 老化にはプログラム説とエラー説があるらしいが、
そもそもエラーがあるからどのようにプログラムするかという
さまざまな種を残すための戦略があるのではなかろうか?
それが死というプログラムであれ、再生というプログラムであれ
>>776 法の話ができねぇから
そうやって誤魔化すしかねぇのかニートキチガイ
仏教わかんねぇなら
いい加減なこと言ってねぇで消えろや
779 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2013/09/07(土) 19:15:04.10 ID:fUORz7Pq
続きはオウムスレでしようぜ、バカオウム信者ちゃん♪(笑) (^。^)ノシ
>>779 しょうきょうはオウム巣れに帰れよ
お前みたいなキチガイの居場所はここじゃねぇんだよ
>>771 「縁起」ってのは、語弊を恐れず言えば、
「変化するかしないか」ってことだから。
新陳代謝するなら、無常であり、そこには生滅が繰り返されてるわけ。
それがない、常住であるということはないよね、少なくとも、見出されていないよね。
というのが仏教なわけ。だから、生命が云々とか惑星が云々とか宇宙が云々じゃなくて、
それら全てをx(エックス)という対象として、いかなるXも所縁のものならざることはない。
つまり、なんらかの条件の上に、そこに顕現しているだけなの。
だから、今一連の遣り取りも苦笑ものなの。
そういう変容や栄枯盛衰を言ってるわけじゃないから。
最近また、しょっちゅう飛ぶようになったな・・。 >>鯖
さるべーじ揚
782 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 20:53:25.16 ID:TVFG42eP
あ、揚がってないw
あ、IDがリセットされてる(´・ω・`) 何があったんだ?w
なんなんだろうね、F5攻撃でもされてるのか・・・
>>781 俺は別になんでもかんでも仏教の輪廻で解釈しなくていいと思うけどね
クラゲなんてとくに株分けみたいに増えるらしいし
植物的な面ももってんじゃないの?
仏教では植物についてとくに言及してないよね
心をもっていないと思われてるからかしらん
少し考察してみたいのだが 「私」とは何かといった場合、生物的な防衛領域なのか、自己同一性の認識なのか、 二通りの解釈がありうると思う。 本来、両者に明確な区分はないのだけど、 たとえば、前者は、自他の区別という意味においては植物にさえあると思うし もし、快不快の神経が通っているなら、意識がなくとも(後者でなくとも)死を目の前にして苦痛を感じると思われる わからんが、もしかしたら快不快を感じず、ただ生物的な反射で、回避行動をとるような動物も いるかもしれない。ミドリムシとかそんな感じだ。 すべての生物を、前者か後者かできっちりと区別はできんと思う。 で、だ。 仏教の悟りが何を目指しているのかというとき、もし後者のみが問題であれば かぎりなく本覚思想に近づくと思うんだ。クラゲや植物は悟ってるとも言えるかもしれん。 だが、それではイマイチ納得できん。大人が赤ん坊のように我がままに行動すれば 事件を起こしそうなもんだからだ。 要するに、私とあなた、その関係に幸福をもたらす法がある、それを知ってさらに後者を問題としなければ ならないというのが仏教のように思える。 言うなれば、悟りには高度な識別能力を前提として必要とする、 あるいはその法を身につけることを必要とするように思う。 よって自我意識だけを=無明である、とは必ずしも言えないのではないか。
>>784 輪廻で解釈、
じゃなくて、諸法の無常なる相の一部が輪廻であるだけ。
一部は輪廻であり、一部は生成破壊であり、一部は生死であり、一部は成長であり
一部は情動であり、一部は心模様であり、一部は栄枯盛衰であり、
一部は実現・成功であり、一部は挫折・失敗であり、
一部は迷いであり一部は目覚めなわけさ。
別に輪廻だけが特別な変化の在り様ってわけじゃないのが、仏教の世界観だと思うよ。
>>785 その自我が、他を侵食している、阻害している、痛めつけている、
(その危険性を常に孕む)という自覚があるかないかじゃない?
電車のシートで、脚おっぴろげて二人分取ってる自我は無明にある自我、
一人分のみをキープし、場合によってはその座を放棄する自我は、無明が明けている自我、
みたいな。
朝、「あと5分寝てよう」、と思うのも無明にある自我、
「明日から本気出す」も、無明にある自我、かなw
>>786 手芸や裁縫で言えば、
最後まで縫製されきってない、仮縫いレベルの自我、っつーのかな。
絵画で言えば下書き前のラフデッサン程度の自我、
或いは、TDLのキャストが、地面に水で絵を描く時の輪郭程度の自我、っつーのかな。
それらは、存在する上で最低限必要な他者との境界や自立性における主体だけれど、
それらは、その都度その都度、場面場面で作用していればいい。
そのTPOを超えて境界が主張され(或いは防護され)、他を阻害して自立するような主体は排される、
というか。
>>781 言ってることは分かるんだけど、少なくとも仏教で「常住なものは無い」、
「すべてのものには老死がある」って、言っている以上、あらゆるものがこれに当てはまらないといけない。
所縁云々を言おうとすれば、どうしても宇宙とか惑星の話にまで言っちゃうわけ。
ミドリムシとか、クラゲでも、所縁抜きに説明出来ないといけない。
すべてのものに老死があるんであれば。
まあ、ベニクラゲの場合は、退行が若返りということではなく、体に損傷を受けたり、飢餓状態になると退行を始めるらしいから、
「老」がないっていうと嘘になる。
退行して一からやり直すってことは、前の生は「死んだ」とも受け取れる。
およそどんな生命にも、物にも、仏教で言うところの「老子」は当てはまるはずだよ。
いや、当てはまらないとおかしい。
新陳代謝だけじゃなくて、老死も当てはまらないとおかしいわけ。
ミドリムシも、生物学的に何か説明できるはず。 専門的には分からないけど・・。
調べれば何か出てきそうな気がするけど・・・。
>>786 そうだね、
いや、なんだかね、かんがればそれなりに理屈はたつが、昔の人が考えていない無性生物とやらについて
輪廻があるとかないとか、そんなことを真面目に考えているのがバカバカしく思えてね
だけど、輪廻って一応、迷いを経巡ることじゃん
迷いは衆生にあるものでしょ?
ゾウリムシも衆生であるからには、輪廻している一つの個体だなと考えてると
まじな議論なのかなーと思ったりして、よくわからなくなったわ
>>789 それらは、それを「変化」とのみ称するか「老死」と見做すか、
新たなラベルを設けるかの違いしかないでしょ。
で、何でもかんでも「老死」にしてはいない筈だけど?
当時知られている知識の範囲内での(既存・従前の)分類の上に、各種言い回し、ラベルは貼られていると思うよ。
たとえば、植物に老死を当てはめている例は無いくらいじゃないかな。
クラゲなら、当時クラゲが知られていたとしても、
≪それらは「生死」と【見做された】≫
と思うよ。
今、各種発見知識の蓄積によって、そこから「老死」のラベルを剥がすことは吝かではないにしても、
それが常住であることにはならないわけで・・。
>>791 それが、「慈悲を遍く潅ぐ」ということだと思うよ。
茶碗一つにも命を見る、散るもみじ一枚にも手を合わせる、みたいな。
>>791 補足
たとえば、「根境識の和合」なんかも、現代科学生物学からすれば、
正しくないとも言えるわけで。
視力は網膜に光が当って反応して、神経を電気信号が流れて知覚される。
匂いや味も、各物質が受容体と接触して知覚されていく。
音だって、空気というある密度質量を持った物質の振動が鼓膜や耳小骨を振動させて知覚されてゆく。
≪なんだ、全部『色(物質)と触(接触)』じゃん。六境じゃないじゃん。≫
という考えも生じ得る。限りなく唯物論に近づく仏教として・・。
でも、そういう(極ミクロな或いは極マクロなズームを用いた)枠組み」や「見做し」を採用しない。
あくまでも、五蘊レベルで止めておく。
そういうところに、仏教の融通性(普遍性、拡大性)が補償されているかもしれんしね。
>>790 それ、俺も調べたけどさ、自我意識という面ではどうなんだろ
減数分裂して二つのゾウリムシが半分ずつ遺伝子を分け合って、
ちがう遺伝子のゾウリムシになるのだけど
前後のゾウリムシで同一性をもっていると言えるのかな
仏教では、唯識で識転変と言って、一刹那ごとにものは生起しては消滅すると説くよね
これは、外界環境が変化することを言ってるんだけど、唯識だから一刹那ごとに自分も
変化していることを表すわけだ。我は存在しないが、私という生き物を主催する恒常体はあるわけだ
それが存在することを相続というわけだが、(つまり、水が流れつづけても川はありつづけるみたいな)
ゾウリムシもそう言えるのではないか、と思うと、不死と見ていいのかなと思ったわけだ
そうなると、ゾウリムシは地球がなくならないかぎり、不死と言える。
まあ、仏教的世界観はインドの世界観の系譜を受け継いでいるから
地球どころか、宇宙が滅んでも、また再生して、無色界から色界、色界から欲界へと
衆生多少不思議というやつで、生き物が湧き出してきて常に生き物が絶えないらしいから
ゾウリムシが死なないとは仏教では言えないわけなんだけど
>>792 すべてのもの(固体)に常住なものは無い・・・ という時、 それを立証するのが、
「生老死」 だと思うんだよね・・。
横の立証が、「相依性」 であり、 縦の立証が 「生老死」。
龍樹の縁起は、「横の縁起」で、お釈迦様の縁起は、「縦の縁起」。
十二縁起は確かに人間についてだけど、最後の方の 「有生老死」 って、人間だけじゃなくて、
「有」 あるすべてのものには、「生」 があり、「生」 あるすべてのものには、「老死」 がある ってことで、
これは人間に限らず、すべての固体に言えることだと思う。
例えば自転車でいうと、作られて新品の状態から、劣化が進んで廃棄されるまで、
そこには自転車の 「生老死」 がある。
老化 = 劣化
常住するものはない、ということを証明しようとする時、横のつながり・・・ 縁によって証明しようとすることも、
縦のつながり・・・・ 「生老死」 によって証明しようとすることも、どちらも出来ないといけないと思う。
どちらも出来て初めて、「無常」 というものが完全に表現されると思う。
>>796 それはどうなんだろう
十二因縁の解釈に、有、たしか十番目だよね?
有とは業のこととあるらしい
業とは生き物がつくるものだと思う、カルマだからね
まあ、縁起、「あれあればこれあり、あれなくばこれなし」
これは何もカルマのみを言っているものじゃない思うが
だから、生き物の運命はカルマのみによって決まるわけではないと思うが
カルマによらなければ運命は決まらないとするわけだから
生き物と無生物に区別はあると思う
>>795 言ってることはよく分かる。
例えば・・・・ 川の例でいうと、 「水の流れ」 という曖昧な状態では、
「川」との区別はつきにくい。
たとえばある特定の水の流れ・・・・Aというのがあるとして、上流から5メートルにわたって、
牛乳で色を付けたとする・・・・ そうすると、水の流れAは、海に流れた時点でその生命を終わるわけだよね・・・?
ある固体に絞るか、それとも全体的な大きな存在を定義するかによって、違ってくると思う。
ゾウリムシの場合、
>減数分裂して二つのゾウリムシが半分ずつ遺伝子を分け合って、
>ちがう遺伝子のゾウリムシになるのだけど
というんであれば、前の固体に絞っていうんであれば、二つに分裂したときに、
前の固体は消滅したとも言えるよね。
ちがう遺伝子になるということであれば、なお更そういう気がする。
全体に拡大すればするほど、永遠の生命に近づくみたいな、逆に固体に絞れば絞るほど(執着、我が強くなればなるほど)、
その生命ははかないものになる・・・・ こういう感じじゃないかな。
>>798 まあ、人間的に言えば死んでるね
遺伝子というのは減数分裂しないとエラーが蓄積していって
個別体と言えど同一性を保持できなくなるらしい
なんらかのリフレッシュ方法がとられる必要があるわけで
それが接合という再生プログラムであったり、死のプログラムであったりするそうだ
ゾウリムシはテロメアによる分裂に限界がないらしいけど
接合する理由はそのためらしい。よって同じ遺伝子は一定期間たつとまったくなくなる
それを死と表現するかどうかは、人の見方によると思う
>>797 有 = 業 について、調べたんだけど、
wikiで見る限り、 有 = 存在、生存 となってるね。
有を 「業」 として解釈するのは、阿毘達磨・・・? 説一切有部なのかな・・・?
まあそれはともかく、物体にもカルマがあるかっていう話になると、ちょっと難しいよね。
物にも微細な精神が宿るって聞いたことあるけど、たとえば山を削ると、何万年もかかって、その山は痛みを感じるとか、
これはちょっとオカルト的だけど、覚者から見ると、物体にも精神があり、カルマがあるのかもしれないけど、
これは分かりようがないよね。
無生物だからカルマがないか・・・って話は、形而上の話で分からないと思うね。
801 :
722 :2013/09/08(日) 02:36:40.16 ID:NQVqkG4p
まともに読むと1〜2週間かかりそうですねw
転生(再誕生)と輪廻転生をかなりすっとばして目を通しました。
やはり並川氏の最古層の文献研究からのアプローチは説得力のあるものだと思いました。
で、輪廻転生について皆さんの立場を表明する上での事ですが、自分は輪廻を肯定する(a1)否定する(a2)肯定も否定もしない(a3)
というのと、人間仏陀は輪廻を肯定した(b1)否定した(b2)肯定も否定もしていない(b3)という2重の意味合いがありますね。
私はa3b3の立場です。しかし私のa3は否定寄りです。
前にも書きましたが、私にとって死後の世界とか輪廻とかあってもなくても良いものです。
悟り、解脱も同様に無くても結構なのです。
立花隆さんの本の話を前に書きましたが、臨死体験の症例は地球上世界各国に満遍なくあって、そのあり方も偏り無く多数あるので
統計手法で科学的にアプローチできる。一方、輪廻転生は圧倒的にインドに多く、その他地域では皆無に近く統計手法が取れないので
科学的アプローチが出来ない、と述べておられます。
仏陀の活躍時にはインドに既に輪廻思想が根付いていたと思われますが、そのような背景を考慮すれば、最古層で推測できるように
仏陀は積極的に輪廻を説かず、彼の死後に教団が発展のため輪廻を積極的に取り入れ(古層)改定教義として追加、付加した〜と考えるのが
最も自然なことだと思います。
宝珠愚者さんが主張する→修行により何万年も生きる聖者も実在するとか、食事をせずとも空気中のエネルギーを取り込むことで生きられる〜
とか非科学的な世界を現代人は認めません。そのような根本思想で輪廻転生がある〜と主張して誰が信じるのでしょうか?
輪廻否定で仏教の骨格が歪むのなら、そんなものは全部壊してしまった方が良いと思います。
>>725 仏陀の縁起は輪廻なしに十分成り立つものでしょう。因果応報は過去世の業があるので現世のオマエはそうなんだ、と言う(過去を振り返った)
ものではなく、現世のオマエさんの努力で未来は切り開かれていく(未来志向)というものだと思いますよ。
あと、机さんの禅家らしい書き込みも面白かったです。5さんとか前スレの5さん前スレの○○さんの立場は私とそっくりなので驚きました。
コレではミミタコですね。失礼しました。残りをまた読んでみます。
802 :
絶対神 :2013/09/08(日) 05:50:25.12 ID:kKhztxL3
>>801 >>現世のオマエさんの努力で未来は切り開かれていく(未来志向)というものだと思いますよ。
『その時点ですでに破綻しているが』
「努力しても実らないことなど掃いて捨てるほどあるからな」(仏教徒を見てると
毎回思うんだが、ガキかお前らは)
縁起とか因果応報は、中学生でもわかるがあっさり大抵の人間の人生経験から見ても
破綻しているよ
「非業の運命にのまれてしんでくやつなんて人間の歴史の中ではごまんといったっての」
(広島で死んだやつは悪人だから死んだのかよ(大笑))
803 :
絶対神 :2013/09/08(日) 06:16:38.05 ID:kKhztxL3
『で、前にも書いたが』 「『神』には本当に未来が見えるらしい」 『今回もオリンック候補地選挙で東京が勝つ事は判っていた』(笑) 「別に事前に書いておけばよかったとは思わない」 何度も書いたが、「基本的な証明はすでに終わっているから」 上のやつに言っておくが、宝なんちゃらってのは「単なる頭のおかしなやつだから」 (これは精神病という意味ではなく、病気でなく巣で根本的に「おかしい」 って意味(多分一生治らないだろう)) 『証明してやったように「神」は実在する』 が、何万年も生きる聖者が「何人もいる」とかなんとか 「あいつの信じている事が話にならない事は、誰でも判る」 あいつが馬鹿なところは『そんな視点から宗教をわかったつもりになって、 世界最大の宗教である「カトリック」とかを否定するところ 「失笑もの」(笑) 縁起が前世がないと成り立たない理由 「そもそも、仏教徒も善人や正しい人が現実には不幸な結末を迎えることじたいは 知っていたし認めていた」(つまり、それが仏教の理屈にあわないから) 『原因を「前世」に求めたのだよ』 だから前世を否定した時点で、「縁起」は「あっさり破綻するんだよ」 仏教徒が「輪廻」にやたらこだわるのは 『これが理由なのさ』(釈迦の教説そのものが破綻して しまうから)
804 :
絶対神 :2013/09/08(日) 06:20:13.67 ID:kKhztxL3
「多分、元々、輪廻って思想そのものが」 『もし、この世に正しい真理があるならば、現実は理屈にあわない』 というところから 「不幸の原因を過去に求めていった結果」 『出来あがったんじゃないかと私は推測する』(死後の世界は あってほしいという願望も元々あっただろうが、輪廻思想が生み出された背景には 『恐らく強くそういう要因があったと思う』) 「多分、この私の推測は『間違っていない』」
805 :
絶対神 :2013/09/08(日) 06:27:03.29 ID:kKhztxL3
「ついでに言っておくと」 『悟りがなくても構わない、解脱がなくても輪廻がなくても構わない』 というのは単なる「逃げ」だから 「それらがなにひとつないのなら『そもそも仏教は完全に破綻する』」 まあ前世がなくても縁起は成立すという考えじたいが、指摘したように かなり変な考えで 『はっきり言うと、宝なんたらが言う』 「何万年も生きている聖者がいる」 というのと『あまり変わらないけどね』 努力したら良い結果がでることもあるていどでは、「単なるふつうの人のふつうの 考えで」 『特に縁起なんて大層な言葉を用いる内容ではない』(縁起という 場合、「絶対に原因と結果には関係がある」という意味でふつう使うのであって、 「関係があることもけっこうあるね」ていどの意味では使いようがないのでね)
806 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 06:50:00.23 ID:Dlm0Iqw2
>>801 >一方、輪廻転生は圧倒的にインドに多く、その他地域では皆無に近く統計手法が取れないので
>科学的アプローチが出来ない、と述べておられます。
(輪廻転生Wiki)
死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることを言う。
ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想において顕著だが、古代のエジプトや
ギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られる。
輪廻転生観が存在しないイスラム教においても、アラウィー派やドゥルーズ派等は
輪廻転生の考え方を持つ。
またキリスト教圏の西洋では「リインカネーション」とも呼ばれております。
807 :
絶対神 :2013/09/08(日) 07:06:53.74 ID:kKhztxL3
『「神」に「過去」は『見えるのか?』』 「未来が見えるんだから、理屈の上からいえば『見れる』んじゃないの?」 「実際見たことあるし、ピッタリ当たってたよ」 ただ、未来なら基本的に 『絶対に確認できるけど』(そもそも確認できる 事を予言しないんなら「無意味」なんだけど) 「過去の場合、かなり前を見ないと「意味がない」」(未来なら 五分未来の事を当てても実際に当てるのなら「意味が生じる」が、過去の場合は 考古学的過去じゃないとあまり意味がない) 『つまり、過去の場合』 「当たってるか当たっていないか『確認しようがない』」」 という難点があるが 未来をどんどん当てられるのであれば、過去も「同程度、当たっているだろう」 と結論するのは間違っていない
808 :
絶対神 :2013/09/08(日) 07:16:14.36 ID:kKhztxL3
『とは言っても、4:50くらいに』 「候補地選挙の結果は、東京だ!!」 と書いておけばよかったと後悔しているんじゃないかって? 『してるのでしょうかね?』(大笑) まあ、八割くらいは「してない」と思うよ もう何度か当ててるかほぼ当てて、証明しているからね 『まあ、君たちは「別の意味」で』 『「解脱」も「悟り」も「輪廻」もなくても『どうでもよい』のだよ』 「だってもう、『神』が実在する事を『知っている』のだからな」(大笑) 『苦しい時は、天に向かって祈りなさい』 「完全に『無視』するけどな」(笑)
809 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 10:21:01.37 ID:qz5/xQ9y
韓国が散々東京のオリンピック招致活動を邪魔したり 国ぐるみで嫌がらせをした事実は消せないから。 在日バカチョンどもにもその責任はきっちり負ってもらわないとね 奴等には一切利権を与えるな。
>>806 初歩的な話になるが、
その「り・インカネーション」(→《転生》)と、インド(≒仏教)の「サンサーラ」(→《輪廻》)は違う、
ってのは、勿論判ってるよな?まさかよもや万が一にも、同じだなんて思ってないよな?w
811 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 12:46:51.48 ID:Dlm0Iqw2
>>810 敬虔なキリスト教徒であるケイシーは「生まれ変わり」について、どう対処したのだろうか。
彼は、キリスト教も初期の時代には生まれ変わりを認めていたとする。むしろそれが本来の教えだとする。
紀元前後のヨーロッパではギリシャのプラトンやピタゴラスの考えが一般的であり、
それはリインカネーション (生まれ変わり)を認めるものであった。
新訳と旧訳聖書は、東ローマ皇帝ユスティニアヌスが西暦553年にリインカネーションを異端として
否定した後のものしか現存せず、ユスティニアヌス帝により改ざんされた可能性が強いとする。
ただこの考えはオーソドックスのキリスト教の教えには反している。
↑という説もあります。
また人格憑依をリインカネーションと混同しているケースもクリスチャンには見られます。
>>801 もうここには書くまいと思っていたがあまりに酷い人が来たようなので一言。
君のような人を不可知論者といって、ゴータマさんははっきりと外道だと言っているんだよ。
そのうちこういう輩は中論を持ち出して詭弁を磨くようになるんだが、中道を盾に、自性と呼ばれているものを
認めない立場でいながら、形而上の事柄は、あるともないとも言えない。中道だと言い出すから
言っておくけど、そのような物言いをうなぎ論法といって、もちろんそのような詭弁論もゴータマさんは外道だと
言っている。六師外道
http://mahorobanomori.web.fc2.com/spiritual-Rokushigedo.html 中道を言い出すなら、形而上に自性と呼ばれている者を認めなければいけない。それを認めずにうなぎ論法を使うのは
結局は詭弁を使って誤魔化している不可知論者の外道に過ぎない。竜樹の中論をベースに自性と
呼ばれている者を肯定的に合理的に説明できるが言葉で説明するのは大変面倒だし、ここには聞く耳の無い人が
多いので豚に真珠になるのでやめておこう。ちなみに竜樹は自性を、自性と言う言葉で考察している時点でアウトな。
ところで君の仏教に対するアプローチは酷い。とこにここ。
>輪廻否定で仏教の骨格が歪むのなら、そんなものは全部壊してしまった方が良いと思います
こういうのをエゴ丸出しだっていうんだよ。自分が気に食わないから元の教えを自分の気に入るように捻じ曲げてこれが
仏教だと広める。これが禅宗を代表する現代の末法仏教の姿だろ。もうここには一代とかいう坊さんはいないようだけど、
彼が書いてた、ゴータマさんは業報輪廻転生を説いていたとみなければおかしいという、たとえば、業報輪廻転生を全く
信じていなければそういう思想も持っていなかった異教の人達にもわざわざ業報輪廻転生を説いていたとかなんとかその他
諸々の資料に基づいた反論を貼ってやれよ。大体さ。原始仏典を読んでゴータマさんは業報輪廻転生は説いていなかった
なんて議論が起こること自体異常なんだよ。そんなことで議論になるのは日本くらいなものだろ。
>>811 答えになってないw
輪廻と転生はイコールなの?そうでないの?
(って、これ、初代スレの話題だが・・・w)
814 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 13:27:15.74 ID:Dlm0Iqw2
>>813 >輪廻と転生はイコールなの?そうでないの?
輪廻:幾度も生まれ変わること(動物も含む)
転生:人間に生まれ変わること
復活:同じ人格の人に生まれ変わること
まあ、仏教的には輪廻と転生はかぶっているようなので、使い分けておりますか?
あまり、言葉にこだわって質問を繰り返さずに、貴兄の定義をご紹介下さい。
サンジャヤ・ベーラッティプッタの不可知論が外道で ブッダの無記が許されるのは何でなんですか? 違いが分からないです。
>>815 ゴータマさんは一切には、自性は無い=無我と説いた。一切外については無記を通した。
なぜならそれは言葉では表現し得ないから。わかる?
817 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 14:16:25.20 ID:7oRm05lv
818 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 14:34:21.79 ID:qz5/xQ9y
エドガー・ケイシーは、アーカシックレコード(人の魂記録)を リーディングして、患者へ処方箋を出していましたね。
>>814 ワシは使い分けてるね。
つか、過去の経験が全く活かされてないのな・・w
散々がいしゅつネタじゃねーか。
転生ってのは、一般的イメージとして、
容姿以外、前回の人物としてそのまま再誕生する、ってことだから、輪廻と大違いなんだよ。
輪廻に於ける再誕は、(ジャータカ等での台詞にあるように)、
≪「過去そのとき」「○○であった」≫というだけで、そのときと現在との繋がりは、業果や功徳しかないんだよ。
過去生の具体的な何をも引き継いでこないんだよ。
たとえば、過去生で信長だったとしても、転生してきて「私は信長だ」等とは言わない。
仮に、ケースとして過去生者A現在生者者Bの両者に関係する身内Zが存命しているからといって、
現在者Bは、Zに思慕を抱いたりしない。
なぜなら、現在者Bは、その身内Zとは何も関係がないからだ。
輪廻の場合、AとBの間には転生のような継承はないんだよ。
(だから、無我(非我)説と共存し得てきたんじゃねーかw)
流れ無視して悪いけど、どなたか釈尊出家から成道へのストーリーで、登場人物のサンスクリット語名の意味判る人いますか。 ブッダ=目覚めた人 シッダルタ=達成する人 ラゴラ=足を引っ張る者 五比丘の1人=散髪屋 別の1人=豚が好むモノ などなど 昔、印哲の先生か誰かが出した本に、登場する人物1人々の名前を日本語に意訳したのを読んだ事あるんですけど、著者名もタイトルも忘れたんですわ。 その本のタイトルとか、ここを検索してみろとか、どなたか知ってる人おられたら頼みますわ。 お願いします。
821 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 15:52:13.17 ID:Dlm0Iqw2
>>819 なるほど。
前世もその前の世も歌手だったから、あの子は歌の天才だという場合は
輪廻ではなく転生ということですね。
このケースの場合は経験値を継承しておりますので。
>>820 列挙するが宜し。
このスレなら漏れなく数通りの和訳語義が得られるよw
>>821 別に、「経験値の継承」とは限らんだろw
「センス」かもしれない。「発声器官」の適性かもしれない。
「環境・成育過程の類似」かもしれない。
おまえはほんとに・・・ ┐(´ー`)┌
823 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 16:04:45.51 ID:Dlm0Iqw2
>>818 ケーシーは2500人以上の人の過去世についてリーディングを行って、生まれ変わりが疑いないものと彼自身確信するに至った。
ケイシーによれば、彼は過去世についての情報をAkashic Recordsから得ているという。
それぞれの魂が経験したことは全てそれぞれの潜在意識の中と、Akashic Recordsの中に保存されているという。
Noel Langley, "Edgar Cayce on Reincarnation" (Warner Books, Inc. 1967) レビューより
The late Edgar Cayce's groundbreaking psychic work in nutrition, health, religion, ESP--and reincarnation--
have made him the most respected clairvoyant of our time.
Compiled from 2,500 of his extraordinary readings, this illuminating book unveils the reality of rebirth.
824 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 16:11:18.69 ID:Dlm0Iqw2
>>823 >それぞれの魂が経験したことは全てそれぞれの潜在意識の中と、Akashic Recordsの中に保存されているという。
業だけでなく経験も潜在意識(阿頼耶識)に蓄積されているというケーシーのコメントは、水野先生の仏教要語で
「輪廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法」に整合しているようにも思います。
>>824 お前はほんとに・・・ ┐(´ー`;)┌
・「潜在意識=阿頼耶識」という定義自体が、そもそも定説として認知されてない
・「 >Akashic Recordsの中に保存 」ということが、仏教的にありえない設定であること
・「 >業や経験に従って常に変化しつつ連続する 」というのは「蓄積される」ことを意味しない
・「 >輪廻の主体として >連続する有為法 」は、変化せず継続して継承されることを意味しない
(寧ろ、変化しつつ、(内容・外身全て入れ替わりつつ)、清国が中国になるが如く、そこに存在し続けるという意味でしかない)
まったく整合してねーじゃねーかw
>>816 諸法無我や縁起から無記とされていることについて導き出したが言語では表せられない
だから不可知ではないってことですか。ちょっと納得しました。
827 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2013/09/08(日) 16:51:26.04 ID:tNQ4e5KN
>>817 名称と形体。言葉は識別知。君は
>>815 で書いた言わんとする意味が全く
理解出来ないんだね。智恵の欠片も無し。お気の毒。
>>827 アホはお前だw
「無記=言語化不能」ではないんだよ。
言語化不能な「涅槃」については、実に饒舌に語られている。無記どころの話ではないw
勿論、涅槃そのものをダイレクトに示すのではなく、
周縁を描写することで、(輪郭を描いてその線分の内側を示そうとするが如く)
必死に比丘たちに伝えようとしている。
言語化不可能領域を炙り出す輪郭が言葉だ。
そして、輪郭すら描けない(→語り得ない)のが無記なんだよ。
829 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 17:42:22.02 ID:Dlm0Iqw2
>>825 >・「 >業や経験に従って常に変化しつつ連続する 」というのは「蓄積される」ことを意味しない
ディスクに情報を書き込みますと、書き込む前と後とではディスクは変化しております。
阿頼耶識に業や経験を書き込みますと、書き込む前と後とでは識は無変化でしょうか。
>・「潜在意識=阿頼耶識」という定義自体が、そもそも定説として認知されてない
水野先生の仏教要語でも、この有為法を阿頼耶識(唯識法相の学説)に他ならないと記載。
また、後出しせずに、最初から言え、とツッコミがありそうな。。
>>829 だからw
「潜在意識=阿頼耶識」と水野が定義したのか?
当該箇所を引用してみ?
>>829 ああ、前半
蓄積されることを意味しないだろうがwww
「変化=蓄積」か?
結果としてそういうケースもありえなくは無い、ってだけの話だ。
お前等は、ほんっっっっっと、でまかせを羅列して恥じることがないよな。
恐れ入るわ・・ ( ゚听)、
832 :
820 :2013/09/08(日) 17:49:18.09 ID:HSW/0hZ5
>>822 ありがとう。列挙出来るかどうか判らんけど調べてみます。その時はまたお願いしますわ。
>>829 ヒント;
つ第17刷p.123
その後は、個々に
潜在意識とは、どういうものを指すのか、
阿頼耶識とは、どういうものを指すのか、
そして両者の共通点・相違点はそれぞれどのようであるか?
の吟味が必要になるがなw
wikiの輪廻のところ・・・ 「仏教における輪廻 」 という項目のところで、 >仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我) >[無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。 >輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か >断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。 >主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。 >恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、 >「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。 これはとんでもない勘違いだね。 「無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たない」 ↓ 「恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、 無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない」 ここの部分は、とんでもない間違いをおかしてるね。
>>834 ってか、瞑想で真実を知らなければ
理屈こねくり回してわかる話じゃないのに
無記なのに我見を展開する人多すぎ
>無常であるなら、 「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。 これ、物凄く幼稚な考え。 我が滅びれば、輪廻は成立しない・・・・ ←仏教ではこれを目指してる 解脱すれば、輪廻は終焉する。 我が無くなるから(我は常住ではないから) >無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たない ほんとに馬鹿じゃないかと思うよね。 そもそも、無我であれば、輪廻は成立しないんだよ。 仏教において、こういう考えがスタンダードになってるとは、驚きあきれたね。 これじゃ、いつまでたっても机の周りをグルグルグルグル回ってるだけだよ。
>>835 確かに 「学」 ばかりだと、一歩間違えると、全然違う方向にいっちゃうんだよね。
経験がないと分からないってのは、その通りだと思うけど、正しい洞察力があれば、
かなり真に迫れると思うんだよね。
正しい洞察もなく、ただ「学」に頼れば、いくらやっても真には迫れない。
一番理想なのは、「洞察」と「学」 両方がバランスが取れてること。
もちろん、体験がないと詳しいことは分からないけど、でも正しい洞察があれば、
理屈だけでもかなり真実に迫れると思うんだけどね・・・。
>仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我) これも酷すぎる。 無我であれば、それは解脱であって、輪廻することはない。 そもそも、「輪廻において主体となる我がない」 って、完全に言葉が矛盾してるよね。 永遠不滅の魂(我)は存在しない ってのはその通りなんだけど、 「輪廻は永遠」 という仮定の元に、そこに我があれば、「我は常住になってしまう」 という結論に導いてるのがおかしい。 我が常住であるとおかしい といいながら、輪廻を常住と仮定している。
839 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 18:50:23.55 ID:Dlm0Iqw2
>>838 >我が常住であるとおかしい といいながら、輪廻を常住と仮定している。
現代科学の譬え話では似たような事例はありますね。
(条件)
・情報はディスクまたはメモリに記録され、書き換えが行われる。
・処理装置はディスクまたはメモリの情報を読みだして処理を行う。
・処理装置は適時新しいものと取り換えられる。
(アナロジー)
・業や経験は阿頼耶識に記録され、書き換えが行われる。
・顕在意識は阿頼耶識の情報を読みだして精神的活動を行う。
・顕在意識は適時新しい脳によってと取り換えられる。
この輪廻モデルですと、変化する情報が継承されて、意識は脳の更新毎にリセットされます。
私はこの説には賛成しませんが「我が常住であるとおかしい といいながら、輪廻を常住と仮定」
の一モデルにはなっているかと存じます。
えーと、輪廻が仮にあったとします。 しかし、輪廻した人間が自分は○○の輪廻であると認識できない、他者が見ても認識できない〜 というのでは、輪廻なんて問題にならないのではないのですか? 何かしら主体(というか業でも何でもいいのですが)が輪廻する、という状況を誰も認識できない。稀に認識できる人間が居たとしても そんな稀なケースを全体に当てはめる事はできません。 そんな誰も認識できない事を問題にする事に意味は無いと思います。
一在家さんも、輪廻に嵌ってしまったようです。
つまり、輪廻なんてのは信じるか信じないかだけの話で、信じているのならそれで良いんじゃないですか。 信じなければそれでも良い。信じないけど、ひょっとしたらあるかも〜の人もいるかもしれません。 自分の立場を絶対視して仏教の根本教義に輪廻があるのだかこれを認めない人間は仏教を語るべからず〜 というは傲慢じゃないですかねえ? 輪廻抜きで仏教を読んでも全く問題ないし、経典の神話伝説をあったものとして信じるのもありでしょう。 自分の読み方だけが真実だ〜というのはいかがなものでしょうねえ。
>>838 とりあえず、
せめて普通の入門書くらい読んでから来ようなw
ここは、お子ちゃまの来るスレじゃないよ。 (´∀`)b
844 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 19:47:03.05 ID:07HgYf/2
>>843 釈迦やイエスの宗教自体の「お子ちゃま性」が批判されているのだよ。
釈迦やイエスが言ったから正しい、などということは、論理的にどこからも
出てこない。真理とは「誰が言っても真理」のことである。真理追究の方法論
として基本的誤り。
845 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 20:01:14.11 ID:07HgYf/2
己の我を以って無我を説くことの滑稽な初歩的論理矛盾と、人類はその発生 以来、知覚できる対象のみを「実在」として、それに100%依存すること のみにより生存してきたこと、人間が死ねば、その記憶、思考、認識、知覚 器官の機能はすべて失われることは、現代の小学生にも分ること。 宗教者は「お子ちゃま」にはるかに劣る知識と知性の持ち主。
宝珠愚者さんが言う「修行により何万年も生きられる、食事をしなくても空気中からエネルギーを取り込み生きられる、 悟った人間は空も飛べるし海にも潜れる(水中生活が可能〜とかの意味でしょうか)」は超常現象の積極肯定ですが、 それも個人で信じるだけなら良いのですが、輪廻転生含めてコレを仏典の真実世界〜と標榜するのはいかがなもなか? 所詮、仏陀は80歳で亡くなった普通の人間ですよ。
それと、般若心経の色即是空、空即是色〜も色々な解釈があるんですねえ。 空即是色とわざわざ付け加えてあるのが素晴らしい〜とか・・ 私は、単純に色=この世の全てのものと捉えて、この世の全てのものに実体はない。 だって、全て永遠に存在し続けるものではありませんからね。 この経の作者がビッグバンを想定したかどうかは知りませんが、空即是色はそのような 何も無い世界から全てが生まれる〜と解釈してます。 存在論、存在の根拠は形而上の問題で人間に説明不可能な事です。 その説明できない仕組みをこの経は示しているのだと思います。 この世の全てのもの(色)は、実体がなく(永遠に存在不可能=空)、 何も無い世界(空)から全てのもの(色)が生まれる。
848 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 20:44:19.39 ID:A3Fpns93
>>847 >その説明できない仕組みをこの経は示しているのだと思います。
この世の全てのもの(色)は、実体がなく(永遠に存在不可能=空)、
何も無い世界(空)から全てのもの(色)が生まれる。
正解サ
849 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 21:37:41.70 ID:7oRm05lv
850 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/08(日) 22:20:53.63 ID:Dlm0Iqw2
>>839 >この輪廻モデルですと、変化する情報が継承されて、意識は脳の更新毎にリセットされます。
>私はこの説には賛成しませんが「我が常住であるとおかしい といいながら、輪廻を常住と仮定」
>の一モデルにはなっているかと存じます。
賛成しない理由は、長部経典の「自歓喜経」他複数の経典に意識を持ったまま入胎する者もいるし、
菩薩は出胎すると説かれておりますので。
確かに意識(性格)まで輪廻の度に更新されてしまうのであれば、菩薩が衆生済度の為に生まれ変わる
ことも不可能になってしまうでしょう。
>>841 >一在家さんも、輪廻に嵌ってしまったようです。
そう見えますか。涅槃入りして再生しない阿羅漢達よりも、無住処涅槃にて衆生済度を展開される
如来や菩薩の方が私はずーっと好きですので、あしからず。
851 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 22:38:24.15 ID:07HgYf/2
>>847 「色即是空」「空即是色」。この世界は、人間の目に映じるだけのものだから、
実は空かも知れない。しかし、人間にとっては、その世界のみが、これまでに
生きてきた、将来も生きるべき唯一の世界なのだ。この両句を、同一の比重で
「併置」したところが、般若心経の凄さである。
「生じる」のではなく、「既にある」のである。人間自体が、その「既にある」
世界」から発生したのだから。
中論は、もろもろの存在が、関係性という抽象性によってすでにあるから、
空である、即ち、執着すべき自性はない、と説く。
既にある、というなにがしかは何故生じたのか? 全く形而上ですねw つまり、その既にあるというものも空であり、全く何も無い状態からそのなにがしかが生じた〜 全く何も無い状態で、「既にある」というのはないですよ。
853 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 22:51:20.92 ID:07HgYf/2
>>852 「既にある」世界から発生した人間には、その発生以前のことが判る訳がないw。
太古の地球の画は「想像画」だよw。
だからそういう形而上の事を般若心経は語っているのです。 だからと言って般若心経をオカルトとは言いませんよ。 何も無い世界から全てのものが生まれる〜 全く、この世の人間には想像もつかない仕組みです。
855 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 23:14:12.38 ID:07HgYf/2
>>854 中論は、「発生する」などという言葉を使っていない。すべてが「関係性(空)」なら、
あくまで「関係性の変化」に過ぎず、「発生」ということは有り得ないからだ。さすが
である。
関係というのは2つ以上のものがあって始めて成り立つ性質のものです。 その2つ以上のものは何故生じたのか? 人間の頭でそれは答えられない。 だから、空即是色なんですよ。
>>853 も、或る意味「諦観」には違いないw
実際、人間ってのは、今ある現状の中で、もがくことしかできないわけだしね。
(魚屋の子として生まれた子は、その理由を探索してもしょうがない。
魚屋の子として生まれ育っている現状・事実は変わらない。)
過去の事は、原点・起点以外なら、伝聞という形で知り得るわけで。
で、その伝言ゲームをどこまで信じるか。
(物語にはあるよね、実は大富豪の落とし種だった、みたいなw)
隠居は、信じるなと言ってるわけなんだよねぇw 自身の理解し得る範囲以外は。
このスタンスは、或る種の「諦観」でありながらも、同時に井の中の蛙で、
高さ180cmの塀の向こうが見えないのは、
自分の背が145cmしかない、或いはジャンプ力や各種ツール、手段、技術が視線を180cmを超えるに至らないのかもしれない。
そういう可能性を、隠居は考慮しないんだよね・・w
>>855 >中論は、「発生する」などという言葉を使っていない。
原文チェックしていない人間の言う台詞が信用できるわけなかろう?w
859 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 23:24:34.95 ID:07HgYf/2
>>857 人間も、他の種属の動物と同様、その与えられた認識能力の範囲内のみで生存している。
若し、人間に犬の臭覚や梟の視覚があったら、人間はあらゆる臭覚や視覚に悩まされて
狂い死にするだろう。
しかし、
んと、論点を斜め下にずらすのが上手いよな、隠居はw
>>859 >その与えられた認識能力の
そこに個体差がある、って話w
それが皆同じだったら、スポーツにしろ学問にしろ芸術にしろ、
向き不向きや成績の差なんて生じてこないだろうよ。
思想にしても小説にしても作曲にしても、真似できないレベルの差なんて存在しないだろうよ。
一人残らずイチローになり、ひとり残らずモーツアルトになり、ダビンチになれるさw
が、そうではない。 そこには、見える世界に差、相違がある、ということだ。
そして、場合によっては、大勢に見えていないものが見えた者は、
虐げられ、詰られ、嗤われ、冷遇されるわけさ。
そういうことを言ってるんだがな・・・(^^;)
>>810 >「り・インカネーション」(→《転生》)と、インド(≒仏教)の「サンサーラ」(→《輪廻》)は違う、
この答えが・・・・
>>819 >≪「過去そのとき」「○○であった」≫というだけで、そのときと現在との繋がりは、業果や功徳しかないんだよ。
> 過去生の具体的な何をも引き継いでこないんだよ。
>輪廻の場合、AとBの間には転生のような継承はないんだよ。
(だから、無我(非我)説と共存し得てきたんじゃねーかw)
これだよね?
これは愚かな考えだわ。
無我説と転生を一生懸命すり合わせようとした結果、仏教の輪廻は転生とは違うなんて、
結論を導き出しちゃってる。
まるで説一切有部が、つじつまを合わせようとして、三世実有説をひねり出したようなもんだよ。
輪廻における主体である我を認めるってことは、死後、我が存在することになる・・・・
死後、我が存在すると、肉体は滅んでも精神が存在することになる・・・
そうすると、我は常住ってことになる・・・
そうであってはマズイ。
もしそうなら、お釈迦様の教えの無常に反することになる・・・・ よし、我の代わりを考えよう・・・
うん、業果や功徳を継承することにしよう・・・
まるで辻褄あわせだよ。 びっくりだね。
死後、我が存在すれば、その我は常住になってしまう・・・ もうここの発想が幼稚。
まるで、さなぎが脱皮したら、その生物はもう死なない・・・ だから、脱皮する主体があってはおかしいのだ、
って言ってるのと同じ。
これは愚かな考えだよ〜 仏教が死んでしまうぞ。
>>861 俺に言わずに上座部やチベット仏教・インド仏教に言えよw
無我説を学でひねくり回した結果がこれだよ これはお釈迦様の教えじゃなくて、無我説との整合性を保つために、学者が考えたことだよ。 学者が考えたことを、仏教(お釈迦様の説)として、発表するなんて、 とんでもないことだよね。 仏教を冒涜するにもほどがある。
864 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 23:51:08.62 ID:07HgYf/2
>>860 個体差があっても、種属としての範囲はある。
その偏倚が、「自他の生存に支障を及ぼさない」範囲内にあれば、病気とは
言わない。
>>862 仮に上座部やチベット仏教に、業果や功徳を継承するという記述があっても、
輪廻の主体が無い と書いてあるのか・・・?
そのような記述があったら見せて欲しい。
業果や功徳を継承するという記述を昔の経典から拾い上げて、
無我説から輪廻に主体が無いと決め付けて、その整合性を保つために
これらの記述を利用したとしたら、とんでもない過ちだよ。
>>863 いいから、基礎知識くらい勉強してから文句言いに来いよw
学者?w
2500年、阿羅漢が伝えてきた内容にケチつけるとはね。恐れ入るわ。
>>866 いやいや、輪廻に主体が無い という経典を提示してくれ。
そうすれば納得するから。
昔の人にケチなんかつけてないぞ。
なるほど、業果や功徳を継承するというという記述があるんだろ。
ところが 業果や功徳を継承するということと、輪廻に主体が無い ということが
どうやって結びつくんだ?
「輪廻に主体は無いが」 と、前置きしてる部分を提示してくれ。
「輪廻に主体は無いが」 ・・・この部分。 まさか無我説から、現代人が勝手に創作したんじゃあるまいな・・・?
>>865 >業果や功徳を継承するという記述
正確には、「業の影響力が(機を遅れて)果を結ぶ」ってこと。
>そのような記述が
「輪廻の主体がない」という言い方一字一句同じではないよ。
これは、私ら後代の者が便宜上当てはめている言い方に過ぎない。
実際には、「輪廻前と輪廻後の存在との間に、継続性や連続性、或いは共通性が無い」
ということが、事例(エピソード)として描写されているだけ。
具体的になら、岩波青のSnや長老偈・長老尼偈とかでもパラパラめくってみたら?
>無我説から輪廻に主体が無いと決め付けて
それが誤解だっつーのw
「縁起」ゆえに無我なの。
「縁起」ゆえに輪廻なの。
結果として、無我ゆえに輪廻、と言い得るだけなの。
そして、日常に主体はあるの。 (なかったら、説法もできないし托鉢にも廻れないw)
>>868 おお!w その通りだが?
だからまず、(中論読めとは言わんからw)
「縁起」とはどういうことなのかを踏まえてから来いっつってんだよ。
スレチで申し訳ない。 仏教系の宗教で、お坊さんがお経を唱える時、参列者も頭を振り膝(足)を叩きながらお経を唱えるのはなんていう宗教団体ですか? この前、知り合いの葬儀に参列した時に八王子の霊園付きの宗教 団体がそうだったのですが気になります。 教えてください。 遺族に聞くのもなんか憚られるので。宜しくお願い致します。
輪廻に引き継がれる主体とか業とかあってもなくても、結果として認識できないのであれば、 そんなものは、どうでも良い事なんじゃありませんかねえ。 無我というのは全てのものは我が物ではないという事ですよ。500億の財産も1億の借金も 死んであの世に持っていくことは出来ませんからねえ。自分の体も火葬されてなくなります。 体ですら自分のものではない。では自分って何だ?と考えると何も残らないんですね。 生きている間の意識だけは自分でしょうが、死ねばその意識もなくなります。 ある生物学者が言ってました。人間は個として死んでもその人に子供がいれば死んだ事にはならない。 自分の子供は生殖過程を経て生まれたものだから自分の分身である。この考えを拡大させれば 子供がいようがいまいが、人間の枠を超えて生物としては過去から未来に延々とDNAをリレーして 存在し続けているのだから個の死なんて小さい問題。輪廻なんてさらに小さい問題でしょう。 人間が絶滅してもゴキブリは生き続けますよ。
>>869 まあ、その長老偈・長老尼偈は、後で読んでみるわ。
読んだら簡単に論破できそうな気がするけどね・・・。
昔の経典を論破するんじゃないよ、昔の経典を誤って解釈している部分を論破出来そうな気がするって事。
>おお!w その通りだが?
これはやっちゃいけないんだよ。
まず、「輪廻に主体があれば、無我説が成立しない」 ここに間違いがあるんだよ。
勝手にそう決め付けちゃってる。
輪廻も主体も、無自性空ってことで言ってるんだよ?
主体が常住って意味で言ってるわけじゃない。
輪廻の主体(仮に霊とか魂にしても)も常住ではない、って言ってるわけ。
ところが、「無我説」との整合性を合わせようとする人は、 「死後、精神が存在すれば、それは常住だ」、って
早とちりしてるわけ。
>「縁起」とはどういうことなのかを踏まえてから来いっつってんだよ。
これ・・・・ これは、常住な輪廻の主体は無い、って言いたいんだよね・・・?
勘違いしてるのがよく分かる。
常住な主体は無い・・・当たり前。 輪廻は常住じゃない・・・当たり前。
>>871 >そんなものは、どうでも良い事
>輪廻なんてさらに小さい問題
そういう考え方もアリだとは思うよ。
ただ、「伝統的仏教」ではない、というだけの話で・・。
このスレでは、新基軸な考え方(或いは現代から遡ってアレンジした考え方)を、
あたかも2500年の間埋もれていた真の教えの如く伝統説を一蹴する者が多いんでね。
一応、都度都度釘指しとかないと。
で、 >輪廻なんてさらに小さい問題
それは、現代人だから持つ感想であって、当時及び過去歴代の人々にとっては小さくなかったのだろう、
ってことだよ。
そこを視野から外す姿勢は、ちと狭いと思うよ。(昔の人を馬鹿にしすぎというか、配慮が足らんというか・・w)
>>872 せめて水野要語くらい読んどいてくれよ・・・(^^;)
また明日なw ノシ
それから、
長老偈長老尼偈だけでなく、
長部中部等幾つも読めば、全体でどういう教えになってるか見えてくるもんだが・・。
もしかして、マジで一個も仏典読んだことないんじゃない?
見てもいない知りもしないことについて、あーだこーだ批判してたわけか・・。
随分と偉い人なんだな、君は・・・┐(´ー`)┌
おやすみ ノシ
インドのカーストで低身分の人間も輪廻転生でより高い身分に転生できる可能性がある〜 だから輪廻を信じましょう〜という歴史背景は分かります。 でも、それを現代日本で言ってどれだけ説得力のある話なんでしょうかねえ。 何度も言いますが、仮に輪廻しても誰も実感、認識していない事実。 実感、認識できない世界を論じても無駄でしょう。空想だとか妄想だとか言われるだけでしょ。 輪廻なんてあってもなくても良い〜という考えの人は結構多いんじゃないんですかねえ。 あるに違いない〜というのはインドでは多いでしょうが、インド以外で輪廻を信じているのは 皆無に近いんじゃないんですか。 大体、墓がある国民は非輪廻思想ですよ。日本人は墓持ってますよねえ。 墓持たないで、死んだらガンジス川に流す〜なんてのはインドだけでしょう。
876 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 00:44:55.89 ID:wRQCi08R
ダライラマさん はどう考えるだろ
>>874 だから・・・・ 仏教学で言うところの、「輪廻の主体となる我は無い」 ってのは、
無我説から導き出したんだろ? 現・代・人 が。
「縁起を踏まえろ」 ってのは、輪廻の主体となる我を想定すれば、それは常住の我を認めることになる・・・・
常住のものがあるかどうか、縁起を踏まえて考えろ・・・ってことだろ?
死後に人の我を認める = 常住の我を認める っていう、浅はかな発想なんだよ。
たとえ死後に我があったとして、なんでそれがいきなり常住と決め付けるんだよ?
こういう勘違いをしながら、勝手に仏教を、自分達の手で作り上げてるわけ。
「輪廻に主体があったら・・・ いや待てよ、お釈迦様は無常って言ってたな、常住である我があってはおかしい、
そうだ! 輪廻に主体である我は無いんだ!」
この部分はあきらかに「創作」だろ。
もし仮に、輪廻の主体である我を、常住不滅のアートマンと想定しているのなら、 「そんなもんは無い」 でいいよ。 ただし、言葉を訂正しないといけない。 「輪廻の主体となる常住不滅のアートマンは無い」 とね。
> 「輪廻の主体となる常住不滅のアートマンは無い」 とね。 それも後世の創作じゃない
伝統的仏教というのは、仏陀が活躍中の教えを弟子が覚えていてそれを口伝で 伝えながら、仏陀死後100年か200年か後に文字に残し始めて、その残された 文献も口伝という背景を考えれば同時期に異伝で色々と複数あったであろう〜 そして、仏陀死後、教団が自らの発展のため仏陀の教えを神格化、伝説化して 教義の追加もしながら経典を作り上げそれを元に当時の仏教徒は修行に励んだ。 しかし、当然精神世界の事は色々異論も出ることは当然で、分裂、派生していった〜 それで、このうちの現在に息づいているのが伝統仏教〜という事ですね。 その枝葉まみれの伝統仏教に固執するより、最古層の文献から仏陀の直説に近い ものを拾い想像し実践する方が有意義だと思いますけどねえ。
> 仏陀の直説に近い > ものを拾い想像し実践する こう言ってるけど、四念処とか瞑想してるの?
我論を妄想してるだけに見えるけど
>>883 瞑想でその悟りの世界が得られるのなら簡単ですね。
100人瞑想して100人悟りました。でめでたしめでたしです。
しかし八正道なんて極めて道徳的な教えですよ。
凡夫にはできないと思えばそれをスルーしてそれ以外を実践すれば良いだけです。
私は瞑想不要論者です。瞑想したければすれば良い。したくなければしなけりゃ良い。
要は、道徳的な八正道を日常にどれだけ生かせるかが価値ですね。
>>885 だったら釈迦ムニの結論には到達で気ないし
あなたの指向してるものは釈迦ムニの説いた仏教じゃないよ
自分のやりたいようにやるのは勝手だけど
それが本質だとは勘違いしないように
仏陀が説いた本質のものは、人間の苦からの解放でしょう。 苦から開放されるのに瞑想は不可欠でしょうかねえ。 八正道を可能な限り実践するのは今の人間にとって最も有意義な事だ思いますが。 何か凡人には得られない有り難いものを悟りと想定されているのなら、そんなものこそ妄想です。 仏教が不死、不老の教えと言われるのは、スーパーマンになって死なない、老いないという意味ではありません。 死の苦しみや老いの苦しみから解放されるから不死、不老なのです。 死や老いに悩まないで済むのは人間にとって有り難い教えであると思いますよ。
888 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 02:08:44.97 ID:nJhhGfB7
釈迦の初歩的論理矛盾と誤りを前提として、釈迦が、釈迦が、といくら言って 見ても無意味。仏教は、釈迦の誤りを訂正した中論から始めるべき。 釈迦仏教は、当時は勿論、後世のカルトの根源として、全面的に否定し、是正 すべきもの。さもなければ、釈迦の神格化、偶像崇拝に堕してしまう。、
八正道自体が多くの瞑想を含んでいることすら解らないような素人が 勘違いの妄想をひけらかすな
> 釈迦の誤りを訂正した中論 何言ってるんだアホか 竜樹は釈迦ムニの教えを理解させる為に 理論補完をしようとしただけだアホ
正定はまさに瞑想でしょう。 しかし、瞑想とはただ座禅を組んで目をつぶり何も考えないようにする事でしょうか? それこそが命〜というのならそうかもしれませんが、正定以外に7個もありますよ。 それを実践すればいいんじゃありませんか? 瞑想無しに悟りなし〜という捉え方こそ妄想でしょう。
893 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 02:29:15.06 ID:nJhhGfB7
釈迦カルトは、釈迦盲信の余り、中論の帰教序に縋りついているようだが、帰教序には、 釈迦の思想など微塵もない。すべて竜樹の思想。 中論第一章では、釈迦の「これがあるから、あれがある」の命題を明示的に否定している。 また、釈迦の「因果の概念」も否定している。 中論は、「釈迦は何の教えも説かなかった」とまで言い切っている。 仏教は、釈迦の初歩的論理矛盾と誤りを是正した中論から始めるべき。釈迦は単なる カルト教祖に過ぎない。
あなたの考えもありでしょう しかし三学、八正道、六波羅蜜と瞑想は基本中の基本となっております 瞑想を避けては悟り、解脱などは到底不可能となります 別に強制するものじゃないのであなたが正しいと思うことをしてください
>>892 お釈迦様が瞑想しろと指示し
弟子たちが瞑想して悟って行ったのに
どうして我見で悟れると思うんだ
自分の考えがお釈迦様より上だとか
勘違いしてるんじゃないのか?
それとも基本的な人生経験に欠落があるゆとりか?
>>894 で、正当な瞑想の方法とはどういうものですか?
ただ、座って眠っているような状態でも瞑想なんでしょうか?
瞑想の具体的実践方法を教えてくだされば有り難いです。
瞑想〜と一口に言っても素人には何が瞑想なのか分かりません、
黙って長時間目をつぶって何も考えないようにして座っていれば瞑想ですか?
瞑想=極めて抽象的で分かりにくいものです。
最初は呼吸に意識する感じでいいよ いきなり高度なのは無理だから じゃあ頑張ってね
まあ、私は悟りなんていらないですから、瞑想なんてしませんけどね。 私が仏教を読むのは生き方、考え方等道徳的な面が良いと思うからで、 究極の解脱とか悟りなんていらないです。 もちろん仏陀の教えはそんな浅薄なものでなく瞑想を基本とした深遠なものである〜 というのも分かりますが、在家の人間にそんな深遠な世界は前提から無理なので、 志向しないことにしていますw
900 :
前世は一在家 ◆2o6x38TRbE :2013/09/09(月) 07:11:04.66 ID:ijlgZEJN
>>890 >竜樹は釈迦ムニの教えを理解させる為に
>理論補完をしようとしただけだ
同感ですね。
>>893 >中論は、「釈迦は何の教えも説かなかった」とまで言い切っている。
龍樹の真作とされる「廻諍論」29で「わたしには主張はない」とまで言い切っているそうですよ。
また中論以外は龍樹著作ではないとおっしゃるのでしょうが。
901 :
池田晶子 VS オウム・幸福の科学 :2013/09/09(月) 08:14:10.36 ID:mvDSch61
902 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 08:27:56.38 ID:nJhhGfB7
>>900 中論は、それだけで完結した体系を持つ。釈迦正当化の執着・欲求の余り、
他の作品までいろいろと漁られたら、竜樹も迷惑だろう。釈迦カルトたちは、
専ら中論以外の作品に必死で釈迦正当化を追求する。石飛氏がその好例。
903 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 08:37:18.55 ID:mvDSch61
上座部の坊さんに、涅槃とはなにかと尋ねると決まってこういう。「それは言葉では言い表せない」
彼らは伝統的にそう言い伝えられて来たことを我々に伝えているのだろう。俺はその答えを親切丁寧に教えてあげている。
俺は上座部の坊さんですら教えてくれない答えをここでただで教えてあげいる。だが豚は感謝することなく
足で踏みつけ、噛み付いてくる。
>>828 ここでもちんぷんかんぷんな言いがかりのレスを返してくる御仁がいるわけだ。
俺はは、自性=アートマン=我と呼ばれている者をテーマに書いたんだが、もちろんゴータマさんは一切については
自性=アートマン=我と呼ばれているものは無いと明言された。一切法無我だ。では一切外には
自性=アートマン=我と呼ばれているものは有るのか否かを明言されたのか?そこは無記を通してるんだよ。
原始仏典でどこか明言してるテキストがあるか?あるなら出してみろよ。なぜゴータマさんがその部分は頑なに無記を
通したかの理由は今まで書いて来たとおりだ。もちろん涅槃の概要自体は言葉で説明できる。ややこしい話だが
俺が書いてきたこと自体も見方によれば涅槃の概要を言葉で説明していることになるからな。
ただそれは言葉では正確に言い表せない。ちなみに業報輪廻転生にしろ、天界にしろ、ゴータマさんは形而上のことは
全て無記を通したどころかけっこう話していたりする。それを三本の矢のエピソードに出てくる猜疑心の強い
青年に対しては無記を通したからと全て形而上のことは無記を通したなどという嘘を広めるなと、唯物末法仏教徒達には
このシリーズでは言ってきた立場の人間だ。勘違いするなよ。