仏教 議論スレッド その2

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  from〔 相対的基準T 〕
『 さて、既に触れた通り、図のタテの構成(仏・法と律・僧)から言えば、
仏・法は仏教において決して変わることのない理想面、普遍性/単一性に貫かれ、
僧・律は時と場とに応じて変わりうる現実面、民族性/多様性を内包していることになる。
つまり仏教はそれ自体の中に明らかに不変的な部分と可変的な部分とを共有しているわけである。
もちろんそれは世界宗教とか普遍宗教とか呼ばれるキリスト教やイスラム教においても異なるものではない。
ただ我々が注意しなければならぬのは、
【宗教の世界性とか普遍性とかを口に出して言う場合、【そこには法、もしくは教法のみが意味されている】】
ということである。
【仏教が普遍宗教であると言われるのもまさにその点、つまり【「法」の側にしかない。】】
 ことに我国には、仏教の現状を嘆きつつも、
【法のみを重視し、戒律に触れぬまま仏教を理解しようとする】向きもある。しかしそれでは十全たりえない。
戒律の欠落した「智慧」や「慈悲」があるのかどうか。コンテキストが脱落したテキストに意味があるのかどうか。
仏教は単なる哲学的思弁でもなければ、倫理性を欠く知的パズルでもない。
「法」が頭となり、「律」が手足となって動かなければ仏教が人間の宗教として機能することはないであろう。
原始経典の中で法と律が区分され並置されている意味もここにある筈だ。

「これは法である、これは律である、これが師の教えである」
(ayaM dhammo ayaM vinayo idaM satthu sAsanaM , D.U.124)
と。そしてまた、
「律は仏教の命である。律が存すれば仏教は存する」
(vinayo nAma buddhassa sAsanassa Ayu , vinaye Thite sAsanaM ThitaM hoti , DA.T.U ; Sp.T.13)
とは、第一結集以来の伝統仏教の合言葉である。今日なお上座部仏教徒はこれを信じて疑うことがない。