仏教 議論スレッド その2

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【「法」のみでこと足れリ】とする傾向は、【三宝の理念化】と、
【出家/在家の区別を不問に付しがちな】大乗的発想によるところが大きいと思われる。
そこでは、律も法の中に隠れてしまい、【終には頭のみの仏教が金科玉条として謳歌される】に至る
というべきか。もし、戒律、実践を欠き歴史も文化も無視してこれを“仏教”と呼ぶならば、
これほど都合のよい平面的な仏教はあるまい。この“仏教”は自ら欠落した深みに
【あらゆるものを招き寄せ、あらゆるものと同化し、あらゆるものに帰入して様々な形相をとりうるからである。】
いわゆる学問仏教、大乗的仏教はこの類に属し、原始仏教や真の大乗仏教と大きく隔たっていよう。
法と律とは不可分ではあるが同一ではない。
法はいわば積極的な理念体系であり、律は消極的な行動体系に属している。
仏教が両者に基づく宗教であることを我々はよくよく承知しておかねばならぬ。
即ち、律は変化しうるものだが、決して失われてはならぬのである。』

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→理屈先行の“ねらー仏教”に対する痛烈な批判となるw 本スレに対する批判ともなるw
 つまり、空だとか悟りだとか神秘体験だとかごちゃごちゃ言う輩は多いが、
 それら全て、行じるこの私、自分自身がいないところには無いのだ。
 だからこそ、涅槃は「来て、見よ」と言われるのだ。
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