★まなざしの快楽(ジャングル化する社会)PART14★
1 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :
最近の脳科学の研究で、他人の運動を観察したとき、あたかも自分で同様の運動を行っている
ように活動するミラーニューロンが発見された。また人はアイコンタクトによって他者に自分が
認識されたときに脳内でドーパミンが分泌されて快感を感じることがわかった。これらは、ボク達に
とって、いかに他者が特別であるか示している。
しかしこれは、実際に他者に見られる/見ることを確認したときにだけのことではないだろう。
おしゃれをして街にでることの楽しさは、他者へ同期し続けることであり、実際にどれだけの人が
彼女をみるかではなく、「今日はいけているからみんなにみられるだろう」という快楽である。
他者への同期(「他者からの呼び声」)そのものが「私」という欠如を立ち上げ、「まなざしの快楽」
いよる他者からの承認で、その欠如を埋め続けようとしているのだ。
PART13
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1137846910/ 過去ログ
http://ime.nu/d.hatena.ne.jp/pikarrr/
カメラを意識する俳優
3 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 01:46:02
■「生き生き哲学(笑)」
「大いなる意志」でコントロールできるうちはまだ良いのです。ボクがジャングル化する社会で
いっているのは、勝ち組、負け組がでるだろうが、底にあるのは、小さな権力闘争の「意志」なき
創発性というジャングルだ、といっているのです。勝つものが勝つ、負けるものが負けるのでなく
不確実になる。さらに混沌とするのは、確かに経済ゲームはベタにわかりやすいゲームだから
残るが、経済的勝者が勝者だという幸せさえ混沌とする。それがジャングル化社会です。
このような混沌をいかに生き抜くか、単に豊かではだめで「生き生き」しなければならない。
かつては生存するためには危険な賭けでも参加しないと生きていけない、いや巻き込まれており、
むしろ危険すぎて生きるのが大変でした。しかし現代は賭けから逃げて生存できます。
危険な賭けに巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な
賭けで間に合わせる。安全に引きこもるために、むしろ無垢欠乏症になります。安全な場所から
小さな賭けをして「生き生き」するのです。
自己啓発セミナとは、規律訓練権力の一種ですね。「心」に空にして、一気にそこに、イデオロギー的
なものをつっこむ。たとえばオウムの洗脳では、個室に詰め込んで、宙づりにする。パプティコンでは
見えないが、見られる状態におく。
ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。正論的な否定に対して、
その否定をいうことが、「生き生き」していると脱構築(内破)し、そして許すのです。 それが生き抜く
ための3つの知のうちの一つ「フリーターの知」です。
つまり生き生きニートなんだろ
ネット大評論家ってトコロ
6 :
むじんくん:2006/02/11(土) 01:55:15
>>3 > ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。
ついに言いましたね、それが自己啓発セミナです(笑)。そして、だからこそあれは
中毒性がある。一歩外に出れば否定があるからですね。
状況を肯定したらまずくないのか?
8 :
むじんくん:2006/02/11(土) 02:02:17
私の逮捕された知人もそうでしたが、ああいうセミナに引っかかる人間は頭がいい人が多いんですよ。
ぴか氏も間違いなく知能は高いわけですけど、その手の人間が引っかかる。
これ、何でだろうと以前考えたことがあって、思ったのは頭いいと弁証法が発生しないんじゃないか。
アタマ悪いと色々社会との抵抗がありますからね(笑)。挫折だってあるだろうし、弁証法を知ることになる。
アタマがいいとそこが欠けてしまって、ああいうのに引っかかりやすくなっちゃうんでしょうね。
ちょっと、これ差別的な記述でしょうか、今ちょっと酔っているので(笑)。
9 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 02:05:03
>>8 そうですね。今日はおとなしく寝た方が良いでしょう。
「肯定する」にも限度がありますから(笑)
ああ、見えてきた。
>>9 > そうですね。今日はおとなしく寝た方が良いでしょう。
ま、そうしますか。「心の貧しきものは幸いなり」とはそういうことです。知的であることは
信仰に遠くなる。まぁ、これは真実でしょうなぁ。
では。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 00:38:26
>たとえば、その「小さな権力闘争」に出口はありますか?どうやって抜け出すの。
なにを求めているのでしょう。ポストモダン思想をまったく理解してないわけですね。
これは宗教家への問いでしょう。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 01:14:21
ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。
むじんくんの自負によって他者の声を聞かないボケボケを、
「そんなので哲学やる気があるのか!」と責めるのではなく、
それでむじんくんは「生き生き」している、それでいいのですよと、
許すことなのです。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 01:17:50
これは、逆にいえば、むじんくんの正論的な否定を、
その否定そのものが、むくんじんを「生き生き」している、
と脱構築(内破)し、そして許すのです。
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
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生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
13 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 08:09:14
ジャングルの王者といえばターザン
ターザンものの映画の中でも最高傑作なのがグレイストーク
まあ自己啓発セミナーでもターザンでもポストモダンでも
人に枠を与えれば相応のものになるというわけですなぁ
14 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 18:26:49
立て過ぎだろ
16 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 18:45:14
ジャングル化する社会より、サバンナ化する社会の方がよくねえ?
ジャングルって、イメージ沸かないんだよな。
17 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 18:47:27
18 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 19:04:54
絶対、そのほうがいいぜ! ジャングル化はもう時代おくれだしな。
19 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 19:10:53
え〜ツンドラ化のほうがいいじゃーん
マンモスも出てくるしかっこいいじゃん
まぁひとことでいってバ化だ
21 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 20:01:10
ジャングルイヒ
ツンドライヒ
バイヒ
23 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 20:50:45
■ジャングル化する社会と「生き生き哲学(笑)」
「大いなる意志」でコントロールできるうちはまだ良いのです。ボクがジャングル化する社会で
いっているのは、勝ち組、負け組がでるだろうが、底にあるのは、小さな権力闘争の「意志」なき
創発性というジャングルだ、といっているのです。勝つものが勝つ、負けるものが負けるのでなく
不確実になる。さらに混沌とするのは、確かに経済ゲームはベタにわかりやすいゲームだから
残るが、経済的勝者が勝者だという幸せさえ混沌とする。それがジャングル化社会です。
このような混沌をいかに生き抜くか、単に豊かではだめで「生き生き」しなければならない。
かつては生存するためには危険な賭けでも参加しないと生きていけない、いや巻き込まれており、
むしろ危険すぎて生きるのが大変でした。しかし現代は賭けから逃げて生存できます。
危険な賭けに巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な
賭けで間に合わせる。安全に引きこもるために、むしろ無垢欠乏症になります。安全な場所から
小さな賭けをして「生き生き」するのです。
自己啓発セミナとは、規律訓練権力の一種ですね。「心」に空にして、一気にそこに、イデオロギー的
なものをつっこむ。たとえばオウムの洗脳では、個室に詰め込んで、宙づりにする。パプティコンでは
見えないが、見られる状態におく。
ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。正論的な否定に対して、
その否定をいうことが、「生き生き」していると脱構築(内破)し、そして許すのです。 それが生き抜く
ための3つの知のうちの一つ「フリーターの知」です。
24 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 21:01:42
ボクがすることは、様々な「正論」に欲望の次元を導入すること。
「正論」の中に隠された欲望、それは多くにおいて「生き生き」
しようとする欲望、の次元を開き、脱構築(内破)し、
そして許すのです。
2chブログがぴかチュウの人生をかけた小さな賭けなのね♪
26 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 21:47:53
自己満足の世界
>>24 > 「正論」の中に隠された欲望、それは多くにおいて「生き生き」
> しようとする欲望、の次元を開き、脱構築(内破)し、
> そして許すのです。
それは日本人的ホンネ暴露といった感じですね。「お前、どうせえばりたいんだろう?」という
感じの。
しかし、そうではない言説というものはあるわけです。少なくとも哲学的言説というのは、違わないとね。
赤提灯の放談と変わらなくなっちゃうでしょ。
28 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 00:36:15
■創発的ジャングルを生き残る「生き生き哲学(笑)」
テクノロジーと環境管理権力
下部構造という意味では、ボクはテクノロジーを考えています。フーコは規律訓練権力と生権力を
揚げます。規律訓練権力は、教育などで、人の内面にイデオロギーの植え込み、自立的な主体と
する。それに対して、生権力は生(身体)をコントロールする。
東はこの生権力から現代の下部構造として環境管理権力と言います。前にあげたマックの硬い椅子
であるとか、グーグルなどで検索するときに素朴にネット上全てのページを検索しているようで、実は
知らない間に様々な作為が入っています。広告料を払った企業ページが優先してヒットするとか、
エロページの排除、さらにあるイデオロギー的なところはヒットしないような作為も問題なっています。
小さな権力闘争の「意志」なき創発性というジャングル
このような環境管理権力の特徴は権力の透明化ですね。見えないところでコントロールされる。しかし
これを黒幕的な権力構造と考えるのもまた違うんです。かつての規律訓練権力の場合、イデオロギー
を教育するなど、意図的な大きな組織が必要とされます。しかし環境管理権力は個人のページの閲覧
に規制をかける、あるいは監視カメラをつけるなど、小さな権力が行われるのです。このように現代は、
小さな権力闘争の場であって、大きな黒幕というとらえ方では見えません。
ボクがジャングル化する社会でいっているのは、勝ち組、負け組がでるだろうが、底にあるのは、
小さな権力闘争の「意志」なき創発性というジャングルだ、ということです。勝つものが勝つ、負ける
ものが負けるのでなく不確実になる。さらに混沌とするのは、確かに経済ゲームはベタにわかりやすい
ゲームだから残るが、経済的勝者が勝者だという幸せさえ混沌とする。それがジャングル化社会です。
29 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 00:36:51
サバイバルする方法
このような混沌をいかに生き抜くか、単に豊かではだめで「生き生き」しなければならない。かつては
生存するためには危険な「賭け」でも参加しないと生きていけない、いや巻き込まれており、むしろ危険
すぎて生きるのが大変でした。しかし現代は「賭け」から逃げて生存できます。危険な「賭け」に巻き
込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な「賭け」で間に合わせる。
安全に引きこもるために、むしろ無垢欠乏症になります。安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」
するのです。たとえばTVゲームという家という安全とヴァーチャルな危険。2ちゃんねるの匿名の安全
とヘイトスピーチなどの危険。ロリータという弱い存在という安全と社会的な禁止という危険。
このようなボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。正論的な否定に
対して、その否定をいうことが、「生き生き」していると脱構築(内破)し、そして許すのです。それが
生き抜くための3つの知のうちの一つ「フリーターの知」です。
現実での身の丈を知ってて
ここで欲求不満を解消してるでいいじゃん♪
31 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 00:43:23
>>27 どんどんつまらないレスになってきますね。
やっと自分の立場がわかってきたのでしょうか。
すなわち中身がわかっていないのに、いいたいから反論するフリ、
という「フリーターの知」ですね。
「日本人的ホンネ暴露」?
「赤提灯の放談」?赤提灯放談でも良い話もあるのでしょうね(笑)
>>ぴかぁ〜
どんどんつまらないレスになってきますね。
やっと自分の立場がわかってきたのでしょうか。
すなわち中身がわかっていないのに、いいたいから反論するフリ、
という「フリーターの知」ですね。
33 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 00:56:11
「ウェブ進化論 梅田望夫」なる本を読み始めました。
「本当の大変化はこれから始まる」という野心的な副題がついています。
最近、グーグルが凄いという話を聞きますが、なにが凄いのかが、書かれています。
「アドセンス」など様々な革新的なシステムを繰り出していますが、その根底に、
「大いなる思想」を持っている。
それは、「「人間の介在」しないテクノロジーの作動によって、徹底的に事をなしていく」
ことであり、それは「民主主義な世界政府システムを構築する」ということの可能性である。
それはいままでのIT企業、たとえばマイクロソフトやヤフーでもサービス産業を指向したのに
対して、「大いなる意志」を持っているそれを実行していっている、ということだ。
なかなか、面白い。これはジャングル化社会への新たなる対抗である。
>>31 > 「日本人的ホンネ暴露」?
あなたの思想は否定の否定としての肯定じゃなくて、日本人的な単なる現状肯定思想ですよ。
「仕方ねぇだろう」という。
ブルジョアは存在し、それは我々全ての人間に対立する形で存在する。それを「無かったことに
しよう」というのは、自己啓発セミナーと変わらない精神論です。心が変わると現実が変わる、
そんなわけはないということです。
このヘロいネーミングセンスはメンヘル本のタイトルぐらいしか相応しいところはないわな
36 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 01:11:30
杜玖椀を知らんようだね?
37 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 01:11:36
>>34 これ以上、このことで議論する意味があるか、疑問ですね。
「否定の否定としての肯定」と言ってしまっている。(笑)
心が変わると「現実」が変わりますよ。わかりやすくは、鬱は薬物、
さらには脳手術で改善できる時代に来ています。
自己啓発セミナーのつぎは、ロボトミーかと、揚げ足を取られる前に、
言いたいことは、そのような脆い「現実」という前提の先の話をしている
のです。
フィクションが好きですね
>>37 > 心が変わると「現実」が変わりますよ。
ポストモダンとモダンの違いは結局そこだね。ぴか哲学は現実なんて存在しませんよという
話なわけだ。カントで言えば、物自体にあたるものは考えても仕方ないという。
過労で疲れたら薬使えと。こういうのは断じて許してはいかんね(笑)。
>>33 > それは、「「人間の介在」しないテクノロジーの作動によって、徹底的に事をなしていく」
> ことであり、それは「民主主義な世界政府システムを構築する」ということの可能性である。
そこがGoogleに関する疑問点なんですよね。あそこは「世界を編集する」という旗を掲げている
んでしょう、きっと。つまり、Web上の情報世界に対する認識の光、悟性であろうとするわけだ。
あまりそっち方面に行き過ぎると、皆から捨てられると思いますけどね。どうなんだろうか。
41 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 01:47:48
>>39 もうボロボロですね。
「揚げ足を取られる前に」まで言っているのに、
これですか。
無理せず、しばらく休みなさい。無理でしょうか、放置してあげます。
カントの「現象」が客観的であるのは、わかっていしますか。
結局、超越的と超越論的の違いが理解できないままでしたね。
では。
>>41 > カントの「現象」が客観的であるのは、わかっていしますか。
なので、「生き生き思想」で現実は乗り越えられるというわけでしょう(笑)。その外側としての
物自体は語っても意味ないのだと。
まぁ、結局ぴか思想が自己啓発セミナと同じであるということは、別に悲観しなくてもいいんじゃ
ないですかね。沢山いますよ、そういう人は。
社会的弱者をカテゴライズして捨て去るようなものじゃないとインパクトないよ
45 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 12:58:12
46 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 13:12:59
グーグルが「テクノロジーで世界を語り尽くす」というときに指摘すべきは、
すでにおわかりだと思います。
「テクノロジーで世界を語り尽くす」という欲望は、テクノロジーで語り尽くせ
ないだろう、ということです。
すなわちヤフーの人間を介在させて判断を曖昧に、臨機応変に行うのに
対して、「欲望」を明確にしないと、プログラム化できない。
より明確な「意志」そして「欲望」の純化が起こるのです。
だから「グーグルの特徴はテクノロジーで世界を語り尽くす。
そのためにテクノロジー開発そのものに力をかける」ということは、
その本質は、まさにそこ「意志」がある、より欲望的であることに特徴がある。
たとえばネットではこのようなテクノロジー至上によるリバタリアンというのが
あるが、ここにも、逆説的に強い欲望の表出しているのだ。
オンライン上で認証してもいいから
そこで投票できるならまだしも
役所か小学校に行って
そこでやっと電子投票じゃ
まだまだローテクでしょ。
48 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 13:27:41
まさにグーグルの「生き生き」している。それを支えているのが、テクノロジー指向である。というときに、
「その「正論」の中に隠された欲望の次元を開き、脱構築(内破)し、そして許す」ということです。
テクノロジーが発展するほど欲望は隠蔽され、それこそが欲望の純化を生んでいる。
49 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 13:28:45
>>46 たとえばネットでは「モヒカン族」という、テクノロジー至上によるリバタリアンというのが
あるが、ここにも、逆説的に強い欲望の表出しているのだ。
50 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 13:51:05
■ネット未来としてのグーグルの可能性と不可能性
「ウェブ進化論梅田望夫」なる本を読み始めました。「本当の大変化はこれから始まる」という野心的な
副題がついています。最近、グーグルが凄いという話を聞きますが、なにが凄いのかが、書かれて
います。
いままでのIT企業、たとえばマイクロソフトやヤフーがサービス産業を指向したのに対して、その強力な
テクノロジー指向によって、「アドセンス」など様々な革新的なシステムを繰り出しているということですが、
この指向の根底には、「「人間の介在」しないテクノロジーの作動によって、徹底的に事をなしていく」と
いう意志があり、さらには「民主主義な世界政府システムを構築する」ということの可能性である。
グーグルが「テクノロジーで世界を語り尽くす」というときに、ボクが指摘することは、すでにおわかりだと
思います。まさにグーグルの「生き生き」している。それを支えているのが、テクノロジー指向である。
というときに、「その「正論」の中に隠された欲望の次元を開き、脱構築(内破)し、そして許す」という
ことです。テクノロジーが発展するほど欲望は隠蔽され、それこそが欲望の純化を生んでいる。
51 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 13:52:08
「テクノロジーで世界を語り尽くす」という欲望は、テクノロジーで語り尽くせないだろう、ということです。
すなわちヤフーの人間を介在させて判断を曖昧に、臨機応変に行うのに対して、「欲望」を明確にしない
と、プログラム化できない。より明確な「意志」そして「欲望」の純化が起こるのです。
だから「グーグルの特徴はテクノロジーで世界を語り尽くす。そのためにテクノロジー開発そのものに力を
かける」ということは、その本質は、まさにそこ「意志」がある、より欲望的であることに特徴がある。
たとえばネットでは「モヒカン族」という、テクノロジー至上によるリバタリアンというのがあるが、ここにも、
逆説的に強い欲望の表出しているのだ。
隠された欲望の次元を開いたところで、脱構築(内破)し、そして許していくことを、考えていく必要がある。
一つはこの構想に含まれる実現可能性である。「ウェブ進化論梅田望夫」でも書かれているようなブログ
などにも見られる知識権威主義からの解放である。そしてもう一つは実現不可能性である。そしてその
不可能性として残余は排除され、隠蔽される。その大きなものがまさに、「世界征服への欲望」そのもの
である。これが静的な環境管理権力であり、現代の大きな物語であるが、そこで純化された欲望はまさに
ネオリベを根底にする思想に繋がっている。
52 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 14:03:01
その割にはgoogleもyahooも中国政府に屈服してるんだよなー
どういう情報を遮断しているのかにもよるでしょー
54 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 14:23:01
どういう情報を遮断しているか、ではなくて、
このシステムそのものによって排除されるものがある、ということが
隠蔽(遮断)される。
55 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 14:29:18
そうだな
伝統的な情報統制の手段だ
56 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 15:31:34
太閤検地?
57 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 15:54:15
中国の人口圧
58 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 16:04:51
「セカイ征服」という夢の実現可能性と、不可能性はいつも語られ、
そして議論されてきた。その意味では同じことの繰り返しであるが、
ネット技術のポイントは不安定性、ダイナミズムだろう。
59 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 16:25:34
プロトコルまで支配するなら世界征服と認めてもいい
60 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 16:46:24
この蠢く「ネット的なもの」を全てのデータを
収集し、分類し、価値付けし、その蠢き(ダイナミズム)
そのものを管理する。
なんにしてもそこにあるのは、「セカイ」を管理したい欲望である。
多くにおいてそれは「正義」と言われる。
正しいものが正しいとされる世界。
必要なものが必要なところに収まる世界。
間違い、そして余剰が排除される世界。
それは「死の世界」であり、「死への欲望」と呼ばれるものである。
61 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 16:55:33
そうかぁ?
じゃgoogleは自殺したがってるのか?
62 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/12(日) 17:00:42
63 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 17:05:26
いやフロさんとかは知らないけどさ
もっと即物的な意味で
64 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 11:11:32
■ネット未来としてのグーグルの可能性と不可能性
「ウェブ進化論」
「ウェブ進化論」 梅田望夫を読みました。「本当の大変化はこれから始まる」という野心的な副題が
ついています。最近、なぜグーグルが凄いという話を聞きますが、なにが凄いのかが、書かれています。
著者によると、「インターネットの可能性の本質」は、「無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近い
コストで集積できたら何が起こるのか。」というところにある、ということです。そして「いま多くの人々の
カネと時間を飲み込んでその混沌が巨大化していく。そしてこの混沌という玉石混交から「玉」を見出す
試みがおこなわれている。すなわちこの巨大な混沌から秩序を生み出されていく可能性、そしてそれを
触発する技術が今後10年の「情報そのものに関する革命的変化」になるだろう、ということです。
これらの試みの例として、以下の動きが紹介されています。
>>
「オープンソース現象」・・・リナックスなりウィキペディアなど、誰かが用意した大きな「全体」という場が
あって、そこに「個」がボランティア的に参加することで「全体」が発展していくという
Web2.0・・・「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者
と認めて積極的に巻き込んでいくため技術やサービス開発姿勢」
「wisdom of crowds」(群衆の叡智)・・・不特定多数の意見をどのようなメカニズムで集積すると一部の
専門家の意見よりも正しくなるか。
「マス・コーポレーション」・・・見知らぬ者同士がネット上で協力して新しい価値を創出する手法
「バーチャル経済圏」・・・ネット上の富をどう配分すべきか
<<
65 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 11:12:36
グーグルの「民主主義」
この玉石混交問題(玉石混交から「玉」を見出す試み)の第一ブレークスルーがグーグルの検索エンジン
であり、流れの中心にグーグルがいるということです。
>>
世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった
一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイト相互に張り巡らされるリンクの
関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランク・アルゴリズムなのである。・・・これは、
「知の世界の秩序の再編成」である。
グーグルがゴールとして目指しているのは、「グーグルの技術者たちが作り込んでいく情報発電所が
いったん動き出したら「人間の介在」なしに自動的に事を成していく」世界である。・・・「ヤフーは人、
グーグルはコンピュータという言い方には少し違和感があるけれど、ヤフーは、人間が介在することで
ユーザー経験がよくなると信ずる領域には人間を介在させるべきだと考えている。・・・ヤフーは
コンピュータが完全に人間の代わりができるとは思っていない。
消費者を主対象とするネット産業というのは、そもそもが「生活密着型サービス産業」と把握するほうが
普通で、米国の、しかもグーグルだけがそれを「テクノロジー産業」だととらえた突然変異なのだ。
・・・ヤフーとグーグルの競争には、サービスにおける「人間の介在」の意義を巡る発想の違いがある。
<<
66 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 11:13:40
グーグルは「アドセンス」など様々な革新的なシステムを成功させていますが、その根底に今までのIT企業
にはない、強いヴィジョンがあるということです。「「人間の介在」しないテクノロジーの作動によって、
徹底的に事をなしていく」という「インターネットの意志」である「民主主義」を構築するということの可能性
です。
>>
すべての言語におけるすべての言葉の組み合わせに対する「最も適した情報」とは、どういう基準で
順序付けが決定されるべきなのか。グーグルはそこに「ウェブ上での民主主義」を導入したと宣言
する。・・・リンクという民意だけに依存して知を再編成するから「民主主義」。そしてこの「民主主義」も
「インターネットの意志」の一つだと、彼らは新奉しているのだ。
世界中の情報を組織化し、それをあまねく誰からでもアクセスできるようにすること・・・「世界政府って
いうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう。
それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね。」
<<
巨大な混沌から秩序を生み出されていく可能性、すなわち自己組織性は、特にグーグルなどのシステム
とは関係なく、ネットに内在する特性です。たとえば2ちゃんねるの「祭り」なども同様な現象でしょう。
その「力」をいかに上手く管理し、活用するか。それによって、誰もが平等に知を活用できる環境が
生まれ、そのような意味ので「民主主義」に向かうことが、インターネットに内在する「意志」だろう、
ということでしょう。
67 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 11:15:29
グーグルの実現可能性と不可能性
このような流れのおもしろさは二つ考えられます。一つはこの構想に含まれる可能性です。このような
ネット上の平等思想の可能性は、グローバルビレッジ、スマートモブスなど、様々に語られてきました。
グーグルのおもしろさは、「「人間の介在」なしに自動的に事を成していくという」技術力に裏打ちした形で、
実際に検索エンジン、「アドセンス」など様々な革新的なシステムを成功させてきている、ということです。
そしてネットいう怪物を管理し、手なずることが、技術はどこまで可能なのか、ということです。
そしてもう一つは実現不可能性です。「テクノロジーで世界を語り尽くす」という欲望は、テクノロジーで語り
尽くせないだろう、ということです。ヤフーのように人間を介在させて判断を曖昧に、臨機応変に行うのに
対して、グーグルが限りなく「「人間の介在」なしに自動的に事を成していくという」ときに、プログラム化
できない残余が残るという。それこそが「欲望」純化が起こすだろうということです。グーグルのテクノロジー
至上主義は逆説的に、いままでのIT企業の中でももっとも欲望的である、ということです。
そして多くにおいて、欲望が強いほど、イデオロギーは不可能性として残余を排除し、隠蔽する傾向が
ある。これはまさに「環境管理権力」として作動する可能性であり、そして世界民主主義というネオリベラル
の元に進められているのが、まさにイラク戦争であり、イスラム圏との対立関係を生んでいるということです。
このような可能性と不可能性において、様々な問題を生み続けるという意味で今後のグーグルの影響力の大きさが
よくわかる著書です。
68 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 11:35:05
グーグルのネオリベ化というよりもまさに、最近のアメリカのネオリベ化の根底はここにあるのではないだろうか。
グローバルビレッジの素朴さの裏面がイラク戦争をうんでいる。
69 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 11:50:00
すなわちネオコンとシリコンバレーの住人が結託して世界征服を企んでいるということではなく
ネットは発展し、世界を短絡しつづけているという事実としての「インターネットの意志」をみとめざる終えない。
その短絡により様々な軋轢がうまれている。たとえばナショナリズムの台頭もその一つだろう。
ふう〜ん。一応、読んでみっかな。新書だしな。
71 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 19:56:09
■Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか 「ウェブ進化論」 梅田望夫
グーグルの「民主主義」
この玉石混交問題(玉石混交から「玉」を見出す試み)の第一ブレークスルーがグーグルの検索
エンジンであり、流れの中心にグーグルがいるということです。
>>
世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった
一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイト相互に張り巡らされるリンクの
関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランク・アルゴリズムなのである。・・・これは、
「知の世界の秩序の再編成」である。
グーグルがゴールとして目指しているのは、「グーグルの技術者たちが作り込んでいく情報発電所が
いったん動き出したら「人間の介在」なしに自動的に事を成していく」世界である。・・・ヤフーは人、
グーグルはコンピュータという言い方には少し違和感があるけれど、ヤフーは、人間が介在することで
ユーザー経験がよくなると信ずる領域には人間を介在させるべきだと考えている。・・・ヤフーは
コンピュータが完全に人間の代わりができるとは思っていない。
消費者を主対象とするネット産業というのは、そもそもが「生活密着型サービス産業」と把握するほうが
普通で、米国の、しかもグーグルだけがそれを「テクノロジー産業」だととらえた突然変異なのだ。
・・・ヤフーとグーグルの競争には、サービスにおける「人間の介在」の意義を巡る発想の違いがある。
<<
72 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 19:57:07
グーグルは「アドセンス」など様々な革新的なシステムを成功させていますが、その根底に今までの
IT企業にはない、強いヴィジョンがあるということです。「「人間の介在」しないテクノロジーの作動に
よって、徹底的に事をなしていく」という「インターネットの意志」である「民主主義」を構築するという
ことの可能性です。
>>
すべての言語におけるすべての言葉の組み合わせに対する「最も適した情報」とは、どういう基準で
順序付けが決定されるべきなのか。グーグルはそこに「ウェブ上での民主主義」を導入したと宣言
する。・・・リンクという民意だけに依存して知を再編成するから「民主主義」。そしてこの「民主主義」も
「インターネットの意志」の一つだと、彼らは新奉しているのだ。
グーグルのミッション「世界中の情報を組織化し、それをあまねく誰からでもアクセスできるようにすること」
<<
巨大な混沌から秩序を生み出されていく可能性、すなわち自己組織性は、特にグーグルなどのシステム
とは関係なく、ネットに内在する特性です。たとえば2ちゃんねるの「祭り」なども同様な現象でしょう。
その「力」をいかに上手く管理し、活用するか。それによって、誰もが平等に知を活用できる環境が
生まれ、そのような意味ので「民主主義」に向かうことが、インターネットに内在する「意志」だろう、
ということでしょう。
73 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 19:58:32
グーグルの可能性
このような流れのおもしろさは二つ考えられます。一つはこの構想に含まれる可能性です。このような
ネット上の平等思想の可能性は、グローバルビレッジ、スマートモブスなど、様々に語られてきました。
しかしそれの難しさは、ボクも語ってきました。
>>
議論の中心の一つが、「サイバーカスケードにいかに対応していくのか」ということです。サイバー
カスケードとは、ネット上に起こったイラク人質事件への自己責任論のように、「小さな発言」が集まって
自己組織的に大きな力として立ち上がってくるものです。それが、良い方向に向かうと新潟地震に
対する救済支援活動のネット上での展開のように動きとなり表れ、「創発」と呼ばれます。しかし
サイバーカスケードと創発性はネット上に現れる自己組織化現象であり、コントロール不可能な
両義的なものです。
ようは、「そのうごめきには不透明さと無根拠さがつきまとうハイパーポピュリズムとでも呼ぶべきもの」
である2ちゃんねる的なものにどのように対峙していけばいいのか、ということになるのではない
でしょうか。今回の議事録からも、知識人たちに広がるこのようなコントロール不可能性へのショック=
「2ちゃんねるショック」とでも言うものがあるように感じました。
なぜ知識人は2ちゃんねるにショックを受けるのか?
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204 <<
グーグルのおもしろさは、「「人間の介在」なしに自動的に事を成していくという」思想です。彼らは、
様々な文化人の言説とは異なり、実際に検索エンジンや、「アドセンス」など様々な革新的なシステムに
よって、成功されてきている、ということです。まさにこの知的集団と大量な投資は、世界全体を網に
かけて、このネットいう怪物を管理し、どこまで手なずることができるのか。いまこんな事は言えるのは
IT企業だけでなく、政府も含めて、確かにグーグルしかいないのかもしれません。
74 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 19:59:50
グーグルの不可能性
もう一つは実現不可能性です。それでもこのような思想はどこかで必ず行き詰まるだろう、ということです。
ヤフーのように人間を介在させて判断を曖昧に、臨機応変に行うのに対して、グーグルが限りなく
「「人間の介在」なしに自動的に事を成していくという」ときに、プログラム化できない残余が残るという。
それは倫理的な、あるいは思想的な、政治的な問題、すなわち欲望の次元が残るでしょう。
たとえば、「テクノロジーで世界を語り尽くす」という欲望は、テクノロジーで語り尽くせないだろう。それは
プログラム化するにして、誰かが判断するにしろ、その純化された「欲望」こそが「グーグル」である、
ということです。グーグルのテクノロジー至上主義は逆説的に、いままでのIT企業の中でももっとも
欲望的である、ということです。
「ネットいう怪物」の欲望
グーグルのこの世界民主主義という欲望は、ネオリベラル傾向に繋がります。このことの本質は、
グーグルがネオコン化しているとか、ネオコンとシリコンバレーの住人が結託して世界征服を企んでいる
ということではなく、ネットは急激に発展しつづけているという事実として「インターネットの意志」を
みとめざる終えないのではないでしょうか。グーグルの欲望そのものが「ネットいう怪物」の欲望である、
ということです。
グーグルしかり「グローバルビレッジ」という素朴さの裏面として、この「怪物」は世界は短絡しつづけて
おり、様々な軋轢を生んでいます。それは、イラク戦争であり、イスラム圏との対立関係であり、あるいは、
ナショナリズムが台頭などです。ネオコンがそれを利用しているとしても、この「インターネットの意志」が
まさに最近のアメリカのネオリベ化の原動力になっているではないでしょうか。
これは、「ネットいう怪物」という超越的なものへ全てを還元しすぎる「オプティミズム(楽天主義)」
でしょうか。「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは
全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね。」
ぴかあおもしろいね!がんばってね!
76 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:05:28
Googleにおける「民主主義」とはページランクという技術のことだ
77 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 23:16:11
ページランクという技術的「民主主義」だから許される?
なぜ許されるのか?
78 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:24:16
許されるとは?
>>77 > ページランクという技術的「民主主義」だから許される?
> なぜ許されるのか?
ふふふ。許してはいけませんよ。
80 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/13(月) 23:29:44
81 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:32:22
ページランクにおいては参照数
民主制度においては選挙の得票数
これがまあ「民意」というやつ
82 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:37:51
2ちゃんねるではレス数だな
Googleではなく、Winnyでいきましょう。
84 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:42:32
Winnyなどファイルシェアにおいては転送量
>>84 でも、Winnyは民主主義じゃないから。
86 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:49:16
Googleはそうなの?
88 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 23:58:56
だろ?
せいぜい総務省だ
>>88 役所なの?でも、今度から選挙でWeb使えるから、政治家たちは
この手の統計方法を重宝するだろうな。
90 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 00:29:10
民主主義は正しいのか?
91 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 01:04:56
正しいって何だ?
民主主義なんて当然ダメよ。
93 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 01:13:22
どうダメなんだ?
95 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 04:21:47
>>89 そのとき重宝するのはGoogleではなくSEO業者だよ
96 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 11:32:47
>>94 いちばんダメな制度だから、一番いいらしいぞ
馬鹿が選ばれることを担保して独裁させない仕組みを持っているのは
民主主義くらいだ。
97 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 11:57:30
正しくは独裁でも共産主義でも民主主義、その名の元に行われる暴力があるということでしょ。
アメリカを中心とするネオリベ、ネオコンは世界に民主主義化を正義として武力もじさないわけだけど
グーグルをみるとこれの力の根底はネットの爆発的広がり、「ネットの欲望」にあるのかなと思う。
この本は著者みずから楽観主義に撤したといが、本の反応を素朴におもしろいな、ばかり
すなわちその反応こそが「ネットの欲望」そのものだ。
98 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 12:13:18
人は欲望を失い動物化しているといわれるが、それは動物化したい欲望をかくしているだけではないか、と
ボクはいった。これは「機械論への欲望」といっても言いだろう。機械論はなぜ回帰するのかという話があって、
たとえば古くは機械仕掛けの時計であり、あるいはオートメーションラインであり、最近ではコンピューター、ネットのようにテクノロジーの発展は
人間身体の拡張的に発達し、そのたびに機械論は回帰する。
そこにあるのは「人間」というフロンティア(無垢)を征服したい欲望なわけだ。
99 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 12:27:06
すなわち「ネットの欲望」とは回帰する「機械論の欲望」の新バージョンなわけだ。
そしてそこにはかならず摩擦が発生する。それは機械に還元できない心身論における「心」への抑圧だ。
還元したいという欲望と残り続ける汚物としつの「心」
先の産業革命以後の生産ライン化ではマルクス主義的搾取の構造が生まれ
今回の「ネットの欲望」では民主化の強要と、あまりに空間を超越し急激に短絡しずぎる軋轢がナショナリズムの台頭を生んでいる。
100 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 12:42:03
マルクス主義自体が機械論であるのは本当の下部構造の「機械論の欲望」そのものを否定しているわけでない。
いわば「機械論の欲望」は根深い。それはすなわち「無垢への欲望」であって無意識の、現実を形成する次元あるからだ。
だからネオコンを批判することはできるが「ネットへの欲望」そのものを批判することはできない。
すなわちグーグルの欲望自体は批判できずそこで生まれる軋轢をサーチするしかない。
特に環境管理権力としての問題は大きい。たとえば検索ランキングで優遇されるもの、排除されるものという恣意性の公開
なぜある思想的キーワードが排除されたのか
著作権の問題、データ管理の問題
101 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 13:53:44
■Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2
素朴な「ネットの欲望」
「ウェブ進化論」 梅田望夫(ISBN:4480062858)は反響を呼んでいるようですが、確かに面白いし、
ネットでなにが起こっているかよくわかる。しかし世界政府など「危険なこと」も書いているにも
かかわらずに、「素朴な好意論」ばかりなのが気になります。あえて引き続いて、少し後ろ向きな話を
してみます。
僕は、アメリカを中心とするネオネオリベラル(ネオコン)は、世界を民主主義化することが正義であり
そのために武力もじさないということですが、それをグーグル的民主主義をつなげました。それは、
グーグルに見られる力の根底はネットの爆発的広がりという「ネットの欲望」にあり、それが
ネオリベラルの下支えになっているのではないか、ということです。この本は著者みずから楽観主義に
撤したと書かれていますが、この本へ「素朴な好意論」が、そのような「ネットの欲望」そのものです。
102 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 13:54:50
「機械論への欲望」
最近、人は欲望を失い「動物化」しているといわれていますが、それは「動物化したい欲望」を
隠しているだけではないか、とボクはいいました。これは「機械論への欲望」といってのではない
でしょうか。機械論はなぜ回帰するのか、という話があります。人間は機械であるというときには、
その時代の最先端のテクノロジーによって説明されます。たとえば古くは機械仕掛けの時計であり、
あるいはオートメーションラインであり、最近ではコンピューター、ネットです。これは、テクノロジーの
発展が、人間身体の拡張する方向で発達するためだと言われます。
だから新しいテクノロジーが発明されるたびに、機械論は回帰してくるのです。そしてそこにあるのは
私であるが私でない「人間」というフロンティア(無垢)を征服したい欲望です。そしてそれは、機械に
還元できない心身論における「心」への抑圧として現れます。還元したいという欲望と残り続ける残余
としての「心」の葛藤です。先の産業革命後の大量生産ライン化ではマルクス主義的過剰労働と搾取
の構造が生まれました。
103 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 13:55:38
「機械論の欲望」否定の不可能性
「ネットの欲望」は回帰する「機械論の欲望」の新バージョンでしょう。そして今回の「ネットの欲望」では
たとえば素朴な世界の民主主義化の「強要」と、あまりに空間を超越し急激に短絡しずぎる軋轢が
ナショナリズムの台頭を生んでいます。
しかし資本主義に対抗するマルクス主義自体が機械論であったのは、「機械論の欲望」そのものを
否定することの困難を表しているのではないでしょうか。「機械論の欲望」の根深さは、「無垢への
欲望」として無意識に、僕たちの現実を形成する次元あるだからでしょう。ジジェク的にいえば、「この
幻想の向こうに本当の現実があるわけでなく、この幻想自体が現実そのものである。」ということ
でしょう。
だからネオコンを批判することはできるが、素朴な「ネットへの欲望」そのものを批判することは
困難です。すなわち「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずの
システムは全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね。」
と言うときに、このグーグルの欲望自体を批判することは困難であり、そこで生まれるだろう軋轢を
サーチするしかない、ということです。
104 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 14:00:13
「巨大化する『Google』にひそむ危険性」
>>
彼らがこんなことができるのは、Googleがインターフェースを掌握しているからだ。コンピューターを
起動してインターネットに接続するとき、われわれの多くは、Googleが35年後に期限が切れる
クッキーを送り込んできていることに気づいていない。そうしてGoogleは、われわれの現実に
フィルターをかけ、美的価値観を規定し、われわれの記憶を照合してカタログ化し、さらにわれわれ
が引き出す情報を選択する。Google検索は集合的なロールシャッハテストになり、それがわれわれ
の世界観を形成し、われわれの現状と将来の姿に影響を及ぼすことになる。
巨大化する『Google』にひそむ危険性
ttp://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20050629204.html <<
>>
いやまあ、知ってる人は知ってることなんだけど、googleの検索では、デフォルトでSafeSearchという
機能がOnになっていて、sexとかセックスとかfuckとか入れても、きわどい画像はブロックされて
出てこないようになっている。この設定はなぜか日本語設定では変更できない、というか、そういう
オプションがあること自体見えないようになっている。
Googleでエロ画像検索する際の裏ワザ
ttp://plaza.rakuten.co.jp/erokabu/diary/200602040003/ <<
105 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 14:00:58
たとえば検索ランキングはただリンクされた数で決まっているのではありません。そこに優遇される
もの、排除されるものがある、ということです。さらには、著作権の問題、データ管理の問題など、
さまざまな軋轢が生まれています。これは、まさに環境管理権力としての問題でしょう。
再度言えば、グーグルの欲望は素朴な僕たちの「ネットの欲望」を推進力にしています。そして
グーグルの欲望そのものは、様々な可能性を秘めたもので、ただ危険であるだけではありませんが、
だからなおさらグーグルの可能性に対してそこに潜む危険をサーチし続ける必要があるのしょう。
そして本書は、そこを意図的に排除している点で「オプティミズム(楽天主義)」すぎる、そして素朴な
「ネットの欲望」に偏向しすぎているのではないでしょうか。
106 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 16:09:35
まあ激しい欲望を持つやつほどGoogleなどの汎用エンジンは
すぐに使わなくなる
というよりGoogleの有効性が低くなってくる
107 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 16:55:58
ん?
108 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 17:14:42
気にスンナ
Googleがそれほど強力かなと思って思いついたことを
書いてるだけだ
109 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 17:16:34
いま、やふとぐーぐるから締め出されたらネットから締め出されたと思ってよい
110 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 17:16:53
ところでみんなは何らかのブラウザにコンボするツールバーを
使ってるのだろうか?
111 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 17:19:16
>>109 まあ確かに一般的にはそう見えるわな
たとえばミクシィのページは当然クロールされてないんだが
そこら辺どう思う?
112 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 17:25:49
シェアの問題だね。二つでほぼ百パーだ。
ミクか、ミクね。ミクってキモいね。なんなんだろ?出会い系?
113 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 17:33:35
最近、ミクでおもしろかったのが、マイミクで友達になってる十人以上全員が
顔出しのモデル並の美人ばかりの野郎のページがあった。完全に収集が目的なんだろうな
当然その写真が必ず本人かはわからんけど、ミクに美人であることが価値がもてるから
自身のある子はさらす傾向はあるんだね。
114 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 17:34:54
今はツールバーよりもっと強力なGoogleデスクトップってのも
あったりするが
よく考えてみれば次バージョンのOSにはマイクロソフト謹製の
サイドバーもついてくるし
WindowsUpdateを普通にしてれば制限付サイトってのが
どんどん増えていく
Googleに排除される前にOSに排除されてるのがある
今のメジャー検索エンジンが出てくる前は主に大学のサーバに
設置された検索エンジンが主流だった
115 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 17:35:54
テキスト越えた世界はまだぐぐる外だな。
逆にミクはそのような意味で生き残ってんしゃないかな。
なんというか出会い系?
116 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 17:37:40
>>112 そこでシェアといってしまうと排除されてないってことになる
ミクシィは入会してないから内容までは知らん
まあその楽しさは想像できるけど基本的にクローズドネットは好かん
117 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 17:42:57
俺がむしろ危惧するのはツールバーが限りなく
スパイウェアに近づいていくことだな
まあ当然みんなノートンとか使ってるんだろうが
それだけじゃクリーンにならないんで気をつけたほうが良いと思う
Googleのクッキー程度の情報はどこのサイトでも取っているし
タブブラウザを併用すれば自動的にクッキーを消すことも出来る
118 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 17:43:32
それよりiモードなんとかなんないかな。なにかというと小銭かせいで
完全にiモードメニューで囲って、早く普通のヘトムルみれるようにしろや
120 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 18:26:36
>>96 > 馬鹿が選ばれることを担保して独裁させない仕組みを持っているのは
> 民主主義くらいだ。
どの独裁も民主的な喝采と共に現れます。民主主義と独裁は親和的ですよ。それは
Googleのページランクで自らを規定したがるような習性に依存しているからです。
122 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 19:56:29
Googleの目指すところはかつてエージェント機能といわれた
統合的なネットアシスタントじゃないのかと思う
123 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 21:22:19
■Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その2 「機械論の欲望」
素朴な「ネットの欲望」
「ウェブ進化論」 梅田望夫(ISBN:4480062858)は反響を呼んでいるようです。確かに面白いし、
ネットでなにが起こっているかよくわかります。しかし「世界政府」など「危険なこと」も書いている
にもかかわらずに、「素朴な好意論」が多いのが気になり、*1あえて引き続いて、少し後ろ向きな話を
してみたくなりました。
アメリカを中心とするネオコン(≒ネオリベラル)は、世界を民主主義化することが正義であり
そのために武力もじさないということが言われていますが、それをグーグル的「民主主義」の中に
見られると前述しました。それは、グーグルに見られる力の根底にネットの爆発的広がりという
「ネットの欲望」にあり、それがネオリベラルの下支えにもなっているのではないか、ということです。
そしてたとえば著者はこの本を楽観主義に書いたと言っていますが、この本へ「素朴な好意論」
そのものが、「ネットの欲望」そのものではないでしょうか。
124 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 21:23:12
「機械論の欲望」
最近、人は豊かさの中で満たされ、欲望を失い「動物化」しているといわれていますが、そこには
「動物化したい欲望」を隠しているだけではないか、と以前ボクはいいました。これは「機械論の欲望」
ともいってのではないでしょうか。
近代以降、「機械論」はなぜ回帰するのか、という話があります。人間は機械であるというときには、
その時代の最先端のテクノロジーによって説明されます。たとえば古くは機械仕掛けの時計であり、
あるいはオートメーションラインであり、最近ではコンピューターであり、ネットです。これは、
テクノロジーの発展が、人間身体を拡張する方向で発達するためだと言われます。だから新しい
テクノロジー進歩のたびに、機械論は回帰してくるのです。グーグル的な「世界征服」は回帰する
「機械論の欲望」の新バージョンでしょう。
そこにあるのは私であるが私でない「人間」というフロンティア(無垢)を征服したい欲望です。心身論
における「身体」のように「機械」に還元できない(コントロールできない)「心」を抑圧するように
現れます。先の産業革命後の大量生産ライン化における抑圧では、労働者を(機械のように扱う)
過剰労働と搾取の構造が生まれました。今回の「ネットの欲望」では、たとえば素朴な世界の
民主主義化の「強要」や、あまりに空間を超越し急激に短絡しずぎる反動としてのナショナリズムの
台頭と対立を生んでいます。
さらに還元したいという欲望と残余としての「心」の対立において、還元したいという欲望そのものが
残余としての「心」であるという「己の尻尾を食う蛇」のパラドクスがあります。ボクは、グーグルの
「テクノロジーで世界を語り尽くす」という欲望は、テクノロジーで語り尽くせないだろう、と前述しました。
125 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 21:23:55
「機械論の欲望」否定の不可能性
しかし機械論的資本主義に対抗するマルクス主義自体も機械論であったのは、「機械論の欲望」
そのものを否定することの困難を表しているのではないでしょうか。「機械論の欲望」の根深さは、
「無垢への欲望」として無意識に僕たちの「現実」を形成する次元あるだからでしょう。ジジェク的に
いえば、「この幻想の向こうに本当の「現実」があるわけでなく、この幻想自体が「現実」そのものを
形成している。」ということでしょう。
だからネオコンを批判することはできるが、素朴な「ネットへの欲望」そのものを批判することは困難
ですし、「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは
全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね。」と言うときに、
このグーグルの欲望自体を批判することは困難であり、これを推進することで生まれるだろう様々な
軋轢をサーチするしかない、ということです。
126 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 21:25:14
「巨大化する『Google』にひそむ危険性」
>>
彼らがこんなことができるのは、Googleがインターフェースを掌握しているからだ。コンピューターを
起動してインターネットに接続するとき、われわれの多くは、Googleが35年後に期限が切れるクッキー
を送り込んできていることに気づいていない。そうしてGoogleは、われわれの現実にフィルターをかけ、
美的価値観を規定し、われわれの記憶を照合してカタログ化し、さらにわれわれが引き出す情報を
選択する。Google検索は集合的なロールシャッハテストになり、それがわれわれの世界観を形成し、
われわれの現状と将来の姿に影響を及ぼすことになる。
『グーグル・ウォッチ』も運営するダニエル・ブラント氏は、問題はグーグル社が「公的な領域に対する
(同社の)責任をまったく認識していない」ことだと考えている。「コンピューターおたくが支配し、
リバタリアニズムは素晴らしい、政府がすることと言えば干渉と規制だけ。これがグーグル社の
世界の見方だ」
巨大化する『Google』にひそむ危険性
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20050629204.html <<
>>
いやまあ、知ってる人は知ってることなんだけど、googleの検索では、デフォルトでSafeSearchという
機能がOnになっていて、sexとかセックスとかfuckとか入れても、きわどい画像はブロックされて
出てこないようになっている。この設定はなぜか日本語設定では変更できない、というか、そういう
オプションがあること自体見えないようになっている。
Googleでエロ画像検索する際の裏ワザ
http://plaza.rakuten.co.jp/erokabu/diary/200602040003/ <<
127 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/14(火) 21:25:54
これは、まさに「環境管理権力」の問題です。たとえば検索ランキングはただリンクされた数で
決まっているのではありません。そこに優先されるものと排除されるものがある、ということです。
さらには、著作権の問題、プライバシーの問題など、グーグルの回りにはさまざまな軋轢が生まれ
ています。
再度言えば、グーグルの欲望は素朴な僕たちの「ネットの欲望」が推進力にしています。そして
グーグルの欲望そのものは、様々な可能性を秘めたものです。だからなおさらグーグルの可能性に
対してそこに潜む危険をサーチし続ける必要があるのでしょう。
そして本書は、そこを意図的に排除し、「オプティミズム(楽天主義)」に素朴な「ネットの欲望」へ
偏向しているという一つの思想書であるから素朴に「面白い」のです。
「ネットの欲望」ってどういう事よ?よくわからないから説明してほしいね。
素朴に考えて、ネットにはまってるって事なら、ぴかぁ〜本人こそがもっとも
強い「ネットの欲望」の保持者ってことになるんだけどね。あいかわらず
ぴかぁ〜の日本語はわかりづらい。
ちなみにわたしはいろいろな知識が得られて、好印象をもったけどね。
なにより非常にわかりやすい文章でネット社会の内幕を解説してくれるのが
いいね。グーグルがそんなにすごい会社だったなんてまるで知らなかった
からね。
それにグーグルの危険性なんていってるけど、具体的にはどういう危険が
ありうると思うの? それが書かれてないね。まあ、あんまりネットの
パワーに依存し過ぎると、いざ、大規模なウィルス・テロが起こったとき
大変なことになるのは、確かだな。ウィルス・テロは根絶できないと思う
から。
この著者も言ってるけど、いくらネットの力が増大しているからと
いって、活字文化の潜在パワーのほうがまだはるかに大きいわけだ。
100年後はどうなっているかわからないけど、いまはまだ、ネット
は「若造」に過ぎないのさ。「恐るべき子供」かも知れないけどね。
ページランキングが何故皆のツボにはまった検索なのか。これは、ぴか氏の言う欲望の対象を
指し示す端的な指標となるからだ。他人が見ているページが見たい。
しかし、スモールワールド理論などで明らかなように、ある分岐点を越えると急速に決まった
サイトだけがリンクされることになる。他人が見ているページにリンクしたいというわけだ。
ここでマルクスが資本主義社会の物神性と呼んだ現象と似たようなことが発生する。皆が
リンクしているページは何やら内的に抽象的価値を保持しているかのような。
Googleはその傾向を強めこそすれ、批判とはなりえない。だからこそ、彼らの立場は"Google社が"
Web世界を編集するということになる。当然、自らの内部(Linux数千台?)システムに世界中の
Webページをキャッシュし、世界中のWeb上の文字列をアナライズし続けなければならない。
そういう意味では、Googleは非"マス"メディアであったWeb世界をマス化する、或いは、その傾向を
促進する機能として働いているといえる。これが"民主主義"と呼ばれるものであり、それは常に
権力を作り出す。
Googleが開発した機能を見れば、それは端的にWeb世界の管理に応用可能だ。
結構前から問題になっているGmailでは、メール内容をスキャンして対応する広告を
出すということになるが、こういうものは国防省などがテロ対策などを理由として
使う可能性は高い。
GoogleはYahooのような人間による登録申請ではなく、ロボットプログラムによる自動
ページ収集、解析を行ってあのようなサービスを実現している。このロボットが警察に
変身しない理由がどこかにあるのか???
135 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 11:27:18
>他人が見ているページが見たい。
これは確かにそうなのだが、これは何もGoogleに限ったことではない
昔からそうなんだよ
Googleが画策したことでもなんでもない
みんなリンクをたどりまくっていいサイトに当たるとそこにリンクした
Googleは後発のためにそれをうまく利用している
ボット収集も93年にはすでにあったサービスだし
ネット情報の収集は各国政府がすでにやっている
国会図書館もボット走らせてるよ
もちろんGoogleのDBを転用する可能性は皆無ではないが
ぴかぁの言う危機はそういう意味ではないだろう
136 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/15(水) 11:44:35
>>128 「ネットの欲望」 とはこの短期間にウイルスのように広がったネットの力です。
これは、どのような力によって、これほどのダイナミズムを持ち得ているのか。
それが「ネットの欲望」です。
当然、ボクも強い「ネットの欲望」の保持者でしょうし、素朴にこの本を受け入れる
人々も保持者でしょう。このような素朴さが力を生んでいるということです。
ボクもこの本はおもしろく読みました。
「グーグルの危険性」の一部は書きましたし、ググると出てきますよ。
>>135 環境管理権力という意味では、当然そのような危機も入っています。
しかしボクが「ネットの欲望」「機械論の欲望」と言ったのは、ある種、人間そのものの「症候」としての
征服欲(無垢への欲望)が、ベタに作動しているなあ、ということです。
「人間を介さずに」といのがまさにキーワードですね。
「いままでの様々な管理は人間を介したために、ある人間の意図に支配されてきたために、
様々な事件、戦争、虐待などなどが起こってきた。それがもう人間を介さなくても良いんだ。
そこには間違わない新たな神がいるんだ。このユートピアへ向かうのだ。」という素朴さが、
あるように思うんです。「人間を介さずに」という言葉は、まさに「人間の意図」を隠蔽しているね。
ということです。これもベタな幻想だね、ということです。
137 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/15(水) 14:23:31
かつて紙は何回折りたためるか、という番組があった。素朴には何回でもかなり折れるそうだが
体育館いっぱいの紙を折ったが、厚みが倍倍で増えるために数回しか折れない。
このような数字のトリックは多々ある。最近のはやりが地球上のみず知らずの二人でも知り合いをたどると
六人でつながっているというスモールワールドだ。確かに六人は驚きだか、数式にスレは一人が百人の
知り合いがいることで計算すると大変な数字になる。
たとえば一秒に何人が生まれてる、死んでいる話もまた同様のトリックだ。
うそではないが、生活回りの実感をただ言い換えているだけだ。
私には知り合いはそんなにいないと六人でつながるは、なんかわらない現実の表現の違いでしかない。
138 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/15(水) 14:44:10
脱構築とは簡単にいえばあげ足とりだ。ポストモダンはどのような言説もかならずあげ足をとれるという実践である。
しかしあげ足をとる言説もあげ足をとれる。ではこのゲームはいつおわるのか。終わらない。それが答えであり、終えてはいけないが倫理だ。
>>135 > 昔からそうなんだよ
もちろんそうですけど、それを数学的に記述し、システムで実現したところが大きい。
>>137 > 私には知り合いはそんなにいないと六人でつながるは、なんかわらない現実の表現の違いでしかない。
もちろんそうですけど、それを数学的に記述でき、コンピューター上で実験が出来る点が大きい。
ヘーゲルは科学者をバカにしていたそうだけど、そうもいかなくなるんじゃないか。
140 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/15(水) 15:22:11
>もちろんそうですけど、それを数学的に記述でき、コンピューター上で実験が出来る点が大きい。
「数学的に記述でき、コンピューター上で実験が出来るものはできるが、できないものはできない。」
それだけのことですが、その素朴さこそが、「機械論の欲望」ですね。
回帰し続ける「機械論の欲望」の現代版が「ネットの欲望」であると言いましたが、
機械論スレでもそうですし、「ウェブ進化論」信者もそうですが、彼らは驚くほどに素朴です。
懸命な方はすでにこれがフロイトの「糸巻き遊びの話」そのままである、とお気づきだと思います。
投げては引き寄せる糸巻き遊びは、自分であり、他者であり、「人間」です。
彼らはあたらなテクノロジーを操作することで、自分であり、他者であり、「人間」が
コントロールする/されることを望むのです。フロイトはこれを「快感原則の彼岸」、
死への欲動の典型例と見るわけです。
>>140 > それだけのことですが、その素朴さこそが、「機械論の欲望」ですね。
でも、精神分析もその中に入るでしょ。
人間関係を数学的記述に落とせるというのは大きい。Googleに対して企業が注目するのは、
口コミをシステム的に操作できるんじゃないかということです。これは大きいんじゃないの?
「死の欲望」としての反復だと言っちゃえばおしまいだけど(笑)。
143 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 15:49:20
それがうまい方法だったってのは
Googleエンジンを採用している検索サイトが多いことでもわかる
Googleに好まれるサイト作りをしているところも多い
俺のサイトに来るやつの大半もGoogleのリファラをしょって来る
多分先頭の数ページ以内にランクされてるんだろう
リピータは次からお気に入りかなにかで直接来ている
でなぜか登録した覚えもない検索サイトに他薦で登録されてる
民主的だろ?
いや推薦はありがたいが
だがGoogleのリファラから検索語を見てみると俺のサイトの
主題から外れているものもかなりの割合で存在してる
来てくれた人に無駄足踏ませたなと思うと同時に
いかなGoogle機械神といえどもお粗末だなと思うわけ
だからそれ相応によく出来たシステムではあるが
テクニックを知らないと相応のものしか得られないというのが
実感なんだよね
144 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 15:51:50
145 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/15(水) 16:03:27
>>141 精神分析は「機械論の欲望」か、ですか。
正当論では、精神分析は唯一「機械論の欲望」を回避する科学である、ということでしょう。
「機械論の欲望」とは還元主義です。なんらかの単位で説明し尽くそうということです。
そのように意味で科学は全て「機械論の欲望」です。一般的に非還元論的科学でもです。
精神分析が精神学ではないのでは、継承していく学問に還元でないからです。
ということでしょうが、
精神分析への欲望に、「機械論の欲望」が作動していることは、否定できないですね。
じゃあ、なんでも「機械論の欲望」か?ということですが、その本質が征服欲であり、「無垢への欲望」
である、と言っているように、欲望の科学的還元のバージョンを「機械論の欲望」と呼んでいます。
>>143 ボクのブログもぐぐる流れがほとんどですね。いままで、いくつかHPを作りましたが、
グーグル内部での優先順位の優劣が作られていることは感じますね。
ボクのブログもぐぐる流れが多いのは、明らかにグーグルがはてなを優遇しているからです。
「人間の介在なく」という言葉そのものに潜む怪しさもさることながら、
人間の介在なくをどこまで目指しているかも怪しいと思っています。
146 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 17:22:56
>>145 そうだなぴかぁの言う機械の神も人が作ったものだし
>>145 > 正当論では、精神分析は唯一「機械論の欲望」を回避する科学である、ということでしょう。
> 精神分析への欲望に、「機械論の欲望」が作動していることは、否定できないですね。
精神分析の終わりはないでしょうけど、区切りがあるとすれば、「機械論の欲望」を知ることでしょうか。
つまり、精神分析への欲望がどこから来ているかを知ることですね。
>>143 > 「人間の介在なく」という言葉そのものに潜む怪しさもさることながら、
> 人間の介在なくをどこまで目指しているかも怪しいと思っています。
ふふふ、Google陰謀論は流行りそうですね。
しかし、これがGoogleが期せずして人々に感じさせているものだとしたら、Googleのシステムは素晴らしい
ということになる。逆に人間関係、社会の情報構造に意識的なバイアスをかけれるということです。
148 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 18:09:26
陰謀論は楽しいから好きだが
じゃあ実際のところGoogleはどういう方策で
陰謀をめぐらすと思うの?
149 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/15(水) 18:24:52
グーグルのみの陰謀論はつまらないでしょ
陰謀というなら、「ネットの欲望」としての僕ら自身も考慮にいれないと
すなわち僕達はいかようにネット社会を望んでいるか。
たとえばグーグルと僕らの共犯は素朴にリバタリアニズムを欲望している。
150 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 20:30:54
ループしてるな、ネタ切れ?
「サイカノ」に中高生がそっぽ!「最終兵器」及ばず!(2006/2/14)
http://www.webotaru.jp/news/2006/02/0214-1.htm 一般公開中の小樽を舞台にした松竹映画「最終兵器彼女」が、
中高生からそっぽを向かれ、上映1回当たり約10名しか客を
呼べない惨憺たる結果となっている。
小樽を舞台にした、切ないラブストーリー「最終兵器彼女」。
1月28日の初日のワーナー・マイカル・シネマズ小樽(築港)での
入館者が、3回上映でわずか54名という切ない幕開けとなり、
先行きが危ぶまれていた。その後もまるで客足が伸びず、
上映回数も1回減らしたが、1日2回の上映でも平均約10名という
お寒い結果となっている。
152 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 22:48:04
俺が貼り付けたのまんまコピペするなよ。
153 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 22:48:49
いいじゃないか。
154 :
考える名無しさん:2006/02/15(水) 22:50:37
自分が誤爆してたのかと思ったじゃん。
>>148 > じゃあ実際のところGoogleはどういう方策で
> 陰謀をめぐらすと思うの?
Googleが陰謀を企むことが面白いのではなくて、Googleのシステムに陰謀があると
人々に思わせてしまっているとしたら、Googleのシステムは素晴らしいということです。
実際にはそんなもの無いと思いますよ。純粋にGoogle社が開発したアルゴリズムに
したがっているだけでしょうけど、それがある特定サイトを優遇しているかのように
見えるとしたら、人間関係とか、弁証法とか曖昧に語っていた部分が数学的記述で
表現可能だということになる。
それは、マルクスが商品の物神性と呼んだ現象と関係しますね。或いは、ある特定の人間が
特別な存在に見えてしまうのはどうしてか。これを数学的に表現可能なのです。
更に言えば、ヘーゲルが「精神現象学」で語ったような過程を数学的に表現できるんじゃないか。
そこまで行けば、人工知能は可能だということになる。
158 :
考える名無しさん:2006/02/16(木) 10:57:30
>>155 陰謀というかたとえば検索結果の表示順はどのエンジンも
ディレクトリ(カテゴリ)>スポンサー(パートナー)>検索結果
の順番になってる
試してみればすぐ分かるし、たしかプレスにも公表されてるはず
俺はヘーゲルとかマルクスとか知らんからもう少し具体的に
言ってくれればこちらも具体例を出しやすい
>>158 Googleって検索結果自体をスポンサー優先順でやってるの?単に関連付けして
広告を横に載せてるだけかと思っていたけど。
ヘーゲルやマルクスの話は、ある個人なり個別の商品なりの内部に自立的な価値が存在するかに
見えるのは、社会的関係性によって実は既定されているということです。それをページランクのような
統計処理は数学的に表現しているわけで、今まで文系的な記述しかされてこなかった部分に理科系的
記述が可能となってきているということですね。
これは言語に関してもいえます。ソシュールの一般言語学講義はその辺のことを
言ってるわけですけど、語彙の意味が他の語彙との関係性によって既定されている
ということを、数学的記述に落とそうというのは既に研究が進んでますね。
161 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 12:57:08
>Googleって検索結果自体をスポンサー優先順でやってるの?単に関連付けして
>広告を横に載せてるだけかと思っていたけど。
むじんくんは素朴なおじさんなので、いつも「機械論の欲望」の純粋な形として参考になりますね。
いくつか、論点はありますが、
おそらくむじんくん的素朴論では、グーグルの優先順位は、いつも事後的に決まるということでは
ないでしょうか。誰かが、HPをつくる。そこへのアクセスする人、リンクする人が現れ、その結果からのみ、
グーグルの優先順位は決まっている。
そこにないのが、予測ですね。
グーグルが目指すのは、人が求める情報を、いかに的確に提供するか、それによって、より多くの人が、
グーグルのリピーターになることです。
このときに、ただ結果のみの分析で良いのか。事後的だけだと時間差ができます。
みながほんとうは求めているだろう「良い情報」なのに、まだ多くのが見つけ切れていないと、
アクセス数が上がるまでに時間がかかるという、時間差ができてしまいます。
このために、人々にとって、その情報が求められるかと予測し、予め優先順位を上げる。
すなわち、情報の質の判断です。
162 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 12:57:51
たとえば、わかりやすいのか、個人のHPと企業のHPの差ですね。
広告料によって、優先順位はかわるでしょうが、最近は映画などでも企業が、
作品毎にHPが作られますが、このようなHPは、グーグルに広告費を払わなくても、
登録も早く、優先順位も上位に設定されるでしょう。
それに比べて、個人が自己紹介的なHPなどは、なかなか登録されません。
というような、予測と、情報の質の判断は行われています。
いわば、この判断を人間を介さずにいかにプログラム化するか、ということが、開発のポイントかも、
しれません。「欲望」の予測ですね。
さらに、これを、プログラムでやっていても、その恣意性は人間が考えでプログラムとして組み込んだだけです。
>ヘーゲルやマルクスの話は、ある個人なり個別の商品なりの内部に自立的な価値が存在するかに
>見えるのは、社会的関係性によって実は既定されているということです。それをページランクのような
>統計処理は数学的に表現しているわけで、今まで文系的な記述しかされてこなかった部分に理科系的
>記述が可能となってきているということですね。
だから数学的に表現されているようでも、その根底には人間の恣意性があるということです。
しかしそれでも、この文章はおかしいと思います。
物神性なりは、人間の認識側にあるもので、それが文系的な記述か、理科系的記述か、は関係ないと
思います。たとえばアルキメデスの時代、数字、数学は、秘技的、宗教的なものでしたよね。
純粋なランダムにでも、恣意を見いだせるのが人間ということではないでしょうか。
>>161 > むじんくんは素朴なおじさんなので、いつも「機械論の欲望」の純粋な形として参考になりますね。
フフフ。ぴか氏の「観念論」も純粋ですよ。
> そこにないのが、予測ですね。
> たとえば、わかりやすいのか、個人のHPと企業のHPの差ですね。
それは純粋な予測とは違っていて、既に著名な企業と関連の強いページは上位に来るよう
システム化されてるんでしょう。既に形成されたページランクの延長にあるものとして。
「皆が見ているページから派生したページは皆が見る"であろう"」。
> さらに、これを、プログラムでやっていても、その恣意性は人間が考えでプログラムとして組み込んだだけです。
しかし、そのGoogleの恣意性はやはりページランク的に決まっている。「皆が見ているページを見たいということを
皆が言っているから私も言うのだ」
> 物神性なりは、人間の認識側にあるもので、それが文系的な記述か、理科系的記述か、は関係ないと
> 思います。
もちろんそうです。しかし、そう認識させてしまう構造があるわけで、ヘーゲルはそこで社会ということを
言ったわけですね。そこが数学的記述にできるというのは、人工知能と人工知能による社会形成が実現可能で
あることを意味する。
決定論スレの話題と重なりますけど、リンゴならリンゴを視覚の中で切り出しているのは
「恣意的」です。しかし、その恣意性は言語によって既定されており、言語は社会的に
存在している何かである。つまり、自分が見ているリンゴは社会によって既定されている。
165 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 14:18:56
>>163 >そこが数学的記述にできるというのは、人工知能と人工知能による社会形成が実現可能で
>あることを意味する。
そうですね、むじんくんが陥っているのは、まさに人工知能のパラドクスそのままではないですね。
予測とは、事前にHPの「質」を判断するということですが、「なぜ機械に「質」は判断できないのか」は、
「なぜ人工知能は不可能なのか。」そのものでしょう。俗に言う「フレーム問題」であり、
機械にはコンテクスト(文脈)は読めないからですね。
なぜならコンテクスト(文脈)などという確定記述されるものはなく、人は、「皆が見ているページ」
まなざしの快楽による「無垢への欲望」によって意味は現れるからです。
人工知能には欲望がないからです。
だから、むじんくんがいうような意味での画期的な「数学的記述」とは違い、
単に質の判断そのものは人間が考えて、その都度ただプログラム化されて、走るだけで、
そこに予測する「知能」はないのです。
>決定論スレの話題と重なりますけど、リンゴならリンゴを視覚の中で切り出しているのは
>「恣意的」です。しかし、その恣意性は言語によって既定されており、言語は社会的に
>存在している何かである。つまり、自分が見ているリンゴは社会によって既定されている。
人間が切り出すようにプログラムしないと、人工知能にはなぜリンゴを切り出せないのか。
逆には世界全ての切り出しをプログラミングすることは可能か?
ということです。「社会など存在しない」のです。
166 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 14:21:10
むじんくんが陥っているのは、まさに人工知能のパラドクスそのままですね。
167 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 14:40:53
ボクたちは社会なるもの、言語体系なるものがあるという錯覚により、行為は可能になっている。
だから象徴界は大文字の(超越論的)他者なのです。
これはただの錯覚ではなく、僕達が人間であるところの現実です。
そしてこの「現実」を成り立たせ、社会なるものがあるように成り立たせているのは
とにかく僕達が他者を欲望するからです。言語より社会よりまず僕達は他者とコミュニケートしたいのです。
これは、生物学的な次元にある「他者から呼び声」への応答の欲動です。
>>165 だんだん決定論スレになってきましたが。あっちは何か荒れてますね(笑)。
> 予測とは、事前にHPの「質」を判断するということですが、「なぜ機械に「質」は判断できないのか」は、
> 「なぜ人工知能は不可能なのか。」そのものでしょう。
ある機械が「質」を判断する必要はありません。何故ならある単独の人間、身体もまたそれ自身において
「質」を判断できないからです。「皆が見ているページを見たいということを皆が言っているから私も言うのだ」
> 人工知能には欲望がないからです。
人工知能が社会的にしか存在し得ないならば、人工知能は人間と同じ「欲望」を持ちます。問題なのは
単体の人工知能ではなくて、人工知能群が形成する社会です。
> 逆には世界全ての切り出しをプログラミングすることは可能か?
> ということです。「社会など存在しない」のです。
世界全ての切り出しをプログラムするなんていうのは愚劣ですね。固定した"切り出し"があるのは
動物です。しかし、人工知能群がある特定の制限による振る舞いをし、その結果派生したコンテクストが
内部にフィードバックするような形であれば、そんな静的な切り出しを気にする必要は全くありません。
例えば、人工海馬はある特定の記憶がどのようなニューロン回路に対応しているかを逐一追うようなことは
しないし、できない。しかし、個別のニューロンは刺激に対してある決まった法則で反応します。だから、
人工海馬としてはニューロンの振る舞いを関数化できればよい。そして実際にできるのです。
これが複雑な相互関係を形成するとコンテクストになり、それはもはや確率論的記述しかできないよう
になる。"人間"とはコンテクストであり、社会です。人工知能の設計はできないが、人工知能を発生
させるようなコンテクストは作れるんですよ。
近代的自己意識とは「我思う故に我在り」ですが、デカルトはそこを出発点にしたが、
ヘーゲルの「精神現象学」はそこがゴールです。精神現象学を数学的記述に落とせれば
人工的な「我思う故に我在り」をつくれる。
「何故人工知能は人間と違うのか?」とは間違った問いです。正しくは「何故人間は人工知能ではないのか?」
昔、「ブレードランナー」という映画ありましたね。
171 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 17:24:43
決定論スレの素朴さなノリで、つっこみどころ万歳ですね。まさにそれをだらだら繰り返すのが、
決定論の楽しみでしょうが、それは勘弁を。しかしいくつかつっこみます。(笑)
人工知能の不可能性の本質を理解されいないようですね。
「世界全ての切り出しをプログラムするなんていうのは愚劣」なのでなく、できないのですよ。
それが、まさに「フレーム問題」です。
>個別のニューロンは刺激に対してある決まった法則で反応します。
この刺激とはなんですか。当然、外部刺激ではないですね。外部刺激と内部刺激は、因果律では
繋がりません。
>複雑な相互関係を形成するとコンテクスト
その「複雑」が問題だと思うのですが。
「世界は単なる「複雑な相互関係」で決定している。」といっているだけで、なにもいっていませんね。
172 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 17:35:54
>人工知能が社会的にしか存在し得ないならば、人工知能は人間と同じ「欲望」を持ちます。問題なのは
>単体の人工知能ではなくて、人工知能群が形成する社会です。
「社会」の本質を全く理解していないことがわかる、とてもすばらしい例ですね。
人工知能と人工知能群の違いはなんでしょうか。疑似神経系のネットワークならば、机の上にあろうが、
地球上の広がろうが、同じです。
問題は、「断絶」なのです。私と他者はどのようにも繋がっていないのです。他者が考えることは、
私には絶対にわからないのです。その「断絶」を補完するために「社会」があるのです。
そしてこの「社会」はまったくの「錯覚」なのです。だから他者が考えるをわかっているフリをしながら、
僕たちは生きているのです。
人工知能はこの「断絶」を越えられないのです。人工知能と私の間の断絶の前に、人工知能は
無限計算でフリーズするのです。
>>171 > 人工知能の不可能性の本質を理解されいないようですね。
人工知能は出来ちゃうんじゃないかというのが僕の立場です(笑)。
> >個別のニューロンは刺激に対してある決まった法則で反応します。
> この刺激とはなんですか。当然、外部刺激ではないですね。外部刺激と内部刺激は、因果律では
> 繋がりません。
これはちょっと意味が分からない。内部刺激ってなんですか。Input→Outputのパタンですよ。単に。
> 「世界は単なる「複雑な相互関係」で決定している。」といっているだけで、なにもいっていませんね。
そりゃ当然です。複雑な相互関係を記述するというのはできないし、やらなくて構わない。しかし、
複雑な相互関係を生成することは可能なのです。
>>172 > 問題は、「断絶」なのです。私と他者はどのようにも繋がっていないのです。他者が考えることは、
> 私には絶対にわからないのです。その「断絶」を補完するために「社会」があるのです。
それは全く問題にならない。まず、「断絶」というのを問題にするのは現状の我々が抱える変な悩み
ですが、例えば足の細胞が脳の細胞のことを知る必要はない。しかし、全体として関連性がある。
他者の考えっていうのもおかしい。ヘーゲルは逆に考えました。むしろ他人の考えが自分の考えであり、
それが自分の考えへと進化するんだと。つまり、この悩みはマッチポンプなのです。
> そしてこの「社会」はまったくの「錯覚」なのです。だから他者が考えるをわかっているフリをしながら、
> 僕たちは生きているのです。
むしろ逆に分からない振りをして生きています。後ろを見れば、ドアは開け放たれている。
要するに、我々が目標とすべきは「人工知能をつくること」であって、「人工知能を知ること」ではない。
人工知能を知ることは、脳細胞の回路全てを把握すること、この世の森羅万象を知ること、等などと
同じように不可能です。確率論的にしか記述ができない。しかし、そういう回路形成をさせることは
可能なのです。
175 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 19:06:39
>>173 >人工知能は出来ちゃうんじゃないかというのが僕の立場です(笑)。
むじんくんができちゃうと思っていることはかってですが、そんなことでなく、
なにがいま問題と言われているのか、その本質を理解していないと思います。
ようするに、むじんくんはただ「なんでこんな簡単なことが出来なんだよ。」と言ってるだけ、
ということです。
>それは全く問題にならない。まず、「断絶」というのを問題にするのは現状の我々が抱える変な悩み
>ですが、例えば足の細胞が脳の細胞のことを知る必要はない。しかし、全体として関連性がある。
いま「人工知能」というときには、「人間的な」人工知能ですね。では、なぜ人間に知能が宿ったのか。
それが「断然」なのです。足の細胞が脳の細胞には「断絶」がありません。コンピューターネットワークと
同じです。だから(人間的な)知能は生まれないのです。
断絶があり、その断絶という隙間を埋めようとする、それでも他者と繋がろうとする、そこに
言語(社会)が生まれ、「私」が発生する。これが知能です。
>むしろ逆に分からない振りをして生きています。後ろを見れば、ドアは開け放たれている。
>>167でボクが言ったことですね。
「ボクたちは社会なるもの、言語体系なるものがあるという錯覚により、行為は可能になっている。
だから象徴界は大文字の(超越論的)他者なのです。
これはただの錯覚ではなく、僕達が人間であるところの現実です。」
すなわち、 「分からない振りをして生き」られることが知能ですね。
176 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 19:09:28
>>174 なるほど。人工知能問題の本質は、フレーム問題ではなく、「チューリングテスト」問題のように、
そこに知能があるということを、僕たちはどのように知るのか、ということだ、ということです。
これも「断絶」の問題です。私は他者がなにを考えているか、決してわからない、ということは、
それが他者(知能をもった私以外の存在)であることを、知ることはできない。
だから、「我々が目標とすべきは「人工知能をつくること」であって、「人工知能を知ること」ではない。」
を好意的に読むと、そこに知能があるかどうかなどわからないのだから、人々がそこに知能があるだろうと、
思いさえすれば、それこそが人工知能なんだ、そのような意味で「人工知能はできちゃう。」
ということでしょうか。
>>155のむじんくんの発言に繋がりますね。
>Googleが陰謀を企むことが面白いのではなくて、Googleのシステムに陰謀があると
>人々に思わせてしまっているとしたら、Googleのシステムは素晴らしいということです。
>実際にはそんなもの無いと思いますよ。純粋にGoogle社が開発したアルゴリズムに
>したがっているだけでしょうけど、それがある特定サイトを優遇しているかのように
>見えるとしたら、人間関係とか、弁証法とか曖昧に語っていた部分が数学的記述で
>表現可能だということになる。
どちらにしろ「人間関係とか、弁証法とか曖昧に語っていた部分が数学的記述で
表現可能なのでなく」、そこまでも人間側の錯覚も問題、「機械論の欲望」である、
ということでしょう。
177 :
考える名無しさん:2006/02/16(木) 19:14:13
いきなり人工知能の話に変わってるな
この転載したログを見てくれ
これはあるチャットのログだがこの中に人口無能が入ってる
どの人か分かるだろうか?
2006年2月7日
00:55:37 (Ma**_zZz) うず*ちゃぁん*はぎゅ*
00:55:46 (uz***) ボキボキ
00:55:50 (Ma**_zZz) ぎゃーーー
00:55:59 (u**_home) ま、ま*さめ...
00:56:11 (Ma**_zZz) つ,ついにやってしまったですよ!
00:56:26 (u**_home) 愛ある故の悲劇
00:56:39 (K**_***ky) ぎゃーw
00:56:47 (K**_***ky) ベホマ>うず*
00:56:53 (uz***) やっぱし僕の頭の中には長瀬愛しかなかった…
00:56:58 (Ma**_zZz) こらこらw
00:57:01 (K**_***ky) 走馬灯が回り始めてます
00:57:18 (uz***) 今の僕の発言って実は大したものだよなぁ...
00:57:21 (u**_home) そっちの愛じゃねーw
00:57:27 (Ma**_zZz) ど,どうしよ……(おろおろ
まああるところでは有名なので知ってるかもしれんが
178 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 19:19:12
再度、「足の細胞と脳の細胞」の話に戻ると、むじんくんが考えるように、「足の細胞と脳の細胞」のような
「複雑な相互関係」によって、仮に閉じた内部に高い知能があっても、それが人間とのコミュニケーションという
外部へ開かれている、すんわち「断絶」を乗り越えられないと、ただの箱です。
人間は「断絶」の乗り越えにおいて、そこに知能があると錯覚するのです。
すなわち、「断絶」がなければ、そこに知能があるかわからない。そして「断絶」あると、人工知能は「断絶」を
越えられない。故に、「人工知能は存在しない」のですね。
『群像』に連載されていた三浦雅士の『出生の秘密』が刊行された。
腰巻きの謳い文句に「衝撃作『青春の終焉』に続く新たな地平」とある。
ぱらぱらと眺めているとラカンの「想像界・象徴界・現実界」とパースの「イコン・インデックス・シ
ンボル」の関係を論じた箇所がある
言語記号のように因果関係がまるで分かってないようなものもシンボルである。
例えば、四つ足でワンワン(キャンキャン?)吠える動物を日本語でinuといい、
英語でdogというのは人為的に決められたものであり、
意味するものと意味されるものとの結びつきには一定の規則(性)が認められない。
インデックス(index)というのもあって、普通は「索引」を指すが、これは意味するものと意味されるものとの
有契的で直接的関連性(contiguity)に基づくもので、例えば、煙を火のインデックスという。
アイコンというのは図像そのものである。動物とその絵の場合のように意味するものと意味されるものとの類似性に基づく。
パースの思想の魅力は、およそ人間に関わる一切万事を、意味作用(semiosis)としての記号の働きのみによって
体系的・整合的に解明していこうとする、全体的でありながらかつ力動的、しかも自由で独創的な彼の学的姿勢の内にある。
パースは、彼がもっとも重視した「シネキズム(連続性)」(synechism)によって、感性と理性、自然と人間、自己と他者、
物質と生命、生と死、過去と現在と未来、そういった一切が互いに分断されているのではなく、
すべてがすべてと連続していることを説き明かそうとしたのだ。たとえば、散逸構造を提唱して
ノーベル化学賞を受賞したプリゴジンが「パースの仕事は、物理法則に含まれる多元性の理解に向かっての、
先駆的な一歩だと思われる。」(p.18)と評価したエピソードなどは、そうしたパースの重要性を示すほんの一例である。
パースの記号論の基調にあるのは、記号的な働きによる<解釈>としての蓋然的な推論(abduction)によって世界は知られる、
という考えである。言い換えれば、世界を知るとは、原初的な感覚や感情によって生み出されるイメージ
やその複合体のレベルである第1次性(イコン性)から、対象への反応あるいは対象との関係性によって
対象が指し示される第2次性(インデックス性)を経て、慣習的な社会規約性によって1次性と2次性を媒介(解釈)する
第3次性(シンボル性)へと順次進んでいく意味作用の過程そのもののことである。
シンボルの内にはイコン性もインデックス性も何らかの形で内包されていて、決して解消されることはない。
しかもシンボルそれ自体がまた一つの記号として第1次性に位置づけられる以上、それが2次、3次と展開され、
そのようにして尽きることなく如上の三項関係が進んでいく。原初的な感覚や感情に由来するイコン性は
人間という種に普遍的である一方、言語における文法化の過程は、文化的なローカリティが色濃く刻印づけられている。
そうした両極の間での揺らぎが私たちの日々の(広義の)記号活動そのものなのだろう。
182 :
考える名無しさん:2006/02/16(木) 20:29:23
まあおそらく人工知能を考えるほどGoogleは非現実的じゃない
だろう
こちらが勝手に勘違いすることはあるかもしれないが
詳しくはないが社会学にも経済学にも計量的に社会の仕組みを
考えるのがあるんだろう?
統計なんかはどちらも頻繁に使うんだろうし
>>175 > いま「人工知能」というときには、「人間的な」人工知能ですね。では、なぜ人間に知能が宿ったのか。
> それが「断然」なのです。足の細胞が脳の細胞には「断絶」がありません。コンピューターネットワークと
> 同じです。だから(人間的な)知能は生まれないのです。
それは細胞にだってあるだろうし、遺伝子の乗り物である生物にもあるでしょう。つまり、
自然淘汰というのはそういうことで、それがそれぞれの個体の等身大の視点から見たら
「断絶」になるということです。
>>178 > すなわち、「断絶」がなければ、そこに知能があるかわからない。そして「断絶」あると、人工知能は「断絶」を
> 越えられない。故に、「人工知能は存在しない」のですね。
閉鎖系という話はしてませんよね。それは脳みそを設計書にしようと試みることと同じ、不可能な行為です。
断絶とは淘汰と同じことです。だから、ある関数と等価な振る舞いをする神経細胞が、周囲の関係性によっては
淘汰され、ある細胞は残存し、そして回路が形成されていく。これと人間社会とは別に質的な違いはないのですよ。
また、最初から環境がモデルになっている、つまりあらゆる可能性を制御する知能というものを前提としない
わけですから、これは断絶を越える/越えないという問題自体がはじめからないのです。
>>182 Googleが人工知能をつくるというよりも、
>>176で書かれているように、我々がGoogleの
検索結果に「意図」を感じてしまうとしたら、それは人工知能の可能性を匂わせているという
ことなのです。
そもそも「ブレードランナー」ではないですが、我々が人工知能ではないのか?
185 :
考える名無しさん:2006/02/16(木) 21:15:18
>>184 Googleの検索結果に作為があると思えるときに
最初に思うことは
「ああそういう順番になるようにプログラムしたんだな」
というぐらいなんだけど
レプリカントも
>>177の例もGoogleのプログラムも
どの出力結果をみても勘違いするのは自分らのほうだよね
仮に自分が人工知能であっても関係ないんじゃない?
そこでWEB2.0ですよ?
187 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 21:31:38
>>183 >断絶とは淘汰と同じことです。
これは面白いですね。なにが同じで、何が違うのか、ということは考えると面白いと思います。
たとえば、進化と進歩の違いはなにか、ということです。
人間は進化しています。進化の時間単位が長いために、それを認識することはできませんが、
進化とは良くなるのでなく、単なる変化ですから。
しかし進歩はまさに目の前で見え、「断絶」をもつ人間のみに可能であり、「断絶」により
生まれた「私」であり、欲望であり、言語によって行われています。
「断絶」はこのような意味で取らないといけません。「淘汰」と区別しなければなりません。
そしていま問題にしているのは、コミュニケーションの問題、進歩する時間単位の問題です。
>>184 たとえば人形がいて、誰かがその目に刃物を突き立てる。それは不快ですね。
ただの物体にそこに他者(自己)を投影しているからです。
人間はどのようなものも、「意図」を感じてしまうのです。そこに「他者」の姿をみるのです。
それは単に人間という「症候」です。
「我々が人工知能ではないのか?」という言葉は、人工知能とはまったく関係ないでしょう。
神経症でもないかぎり 「僕は人工知能ではないのか?」と「真剣」に悩みません。
そうではなく、社会が錯覚であるように、「私というものは、錯覚でしかない」
「私という確かなものがない」という不安を想起するのです。
188 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 21:48:17
*Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その3 人工知能の不可能性
■「ネットの欲望」
「ネットの欲望」とはこの短期間にウイルスのように広がったネットの力です。これは、どのような力
によって、これほどのダイナミズムを持ち得ているのか。それが「ネットの欲望」です。当然、ボクも
強い「ネットの欲望」の保持者でしょうし、素朴にこの本を受け入れる人々も保持者でしょう。このような
素朴さが力を生んでいるということです。
ボクが「ネットの欲望」「機械論の欲望」と言ったのは、ある種、人間そのものの「症候」としての
征服欲(無垢への欲望)が、ベタに作動しているなあ、ということです。
「人間を介さずに」といのがまさにキーワードですね。「いままでの様々な管理は人間を介したために、
ある人間の意図に支配されてきたために、様々な事件、戦争、虐待などなどが起こってきた。
それがもう人間を介さなくても良いんだ。そこには間違わない新たな神がいるんだ。このユートピアへ
向かうのだ。」という素朴さが、あるように思うんです。「人間を介さずに」という言葉は、まさに
「人間の意図」を隠蔽しているね。ということです。これもベタな幻想だね、ということです。
回帰し続ける「機械論の欲望」の現代版が「ネットの欲望」であると言いましたが、グーグル好意論
もそうですが、彼らは驚くほどに素朴です。これがフロイトの「糸巻き遊びの話」そのままだと
いえます。投げては引き寄せる糸巻き遊びは、自分であり、他者であり、「人間」です。彼らは
あたらなテクノロジーを操作することで、自分であり、他者であり、「人間」が、コントロールする/される
ことを望むのです。
189 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 21:49:23
■欲望の予測技術
グーグル好意の素朴論では、グーグルの優先順位は、いつも事後的に決まるということではないで
しょうか。誰かが、HPをつくる。そこへのアクセスする人、リンクする人が現れ、その結果からのみ、
グーグルの優先順位は決まっている。
そこにないのが、予測ですね。グーグルが目指すのは、人が求める情報を、いかに的確に提供
するか、それによって、より多くの人が、グーグルのリピーターになることです。このときに、ただ結果
のみの分析で良いのか。事後的だけだと時間差ができます。みながほんとうは求めているだろう
「良い情報」なのに、まだ多くのが見つけ切れていないと、アクセス数が上がるまでに時間がかかる
という、時間差ができてしまいます。このために、人々にとって、その情報が求められるかと予測し、
予め優先順位を上げる。すなわち、情報の質の判断です。
たとえば、わかりやすいのか、個人のHPと企業のHPの差ですね。広告料によって、優先順位は
かわるでしょうが、最近は映画などでも企業が、作品毎にHPが作られますが、このようなHPは、
グーグルに広告費を払わなくても、登録も早く、優先順位も上位に設定されるでしょう。それに比べて、
個人が自己紹介的なHPなどは、なかなか登録されません。
というような、予測と、情報の質の判断は行われています。いわば、この判断を人間を介さずにいかに
プログラム化するか、ということが、開発のポイントかも、しれません。「欲望」の予測ですね。さらに、
これを、プログラムでやっていても、その恣意性は人間が考えでプログラムとして組み込んだだけです。
190 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 21:51:11
■なぜ機械は(場の)空気を読めないのか。
なぜ「欲望」の予測のプログラムは不可能なのかは、人工知能のパラドクスに繋がります。予測とは、
事前にHPの「質」を判断するということですが、「なぜ機械に「質」は判断できないのか」は、「なぜ
人工知能は不可能なのか。」そのものでしょう。俗に言う「フレーム問題」であり、機械にはコンテクスト
(文脈)は読めないからですね。「機械は(場の)空気を読めないからです。」
問題は、「断絶」なのです。私と他者はどのようにも繋がっていないのです。他者が考えることは、
私には絶対にわからないのです。その「断絶」を補完するために「社会」があるのです。そしてこの
「社会」はまったくの「錯覚」なのです。だから他者が考えることをわかっているフリをしながら、
僕たちは生きているのです。
ボクたちは社会なるもの、言語体系なるものがあるという錯覚により、行為は可能になっています。
しかしこれはただの錯覚ではなく、僕達の「現実(リアリティ)」です。そしてこの「現実」を成り立たせ、
社会なるものがあるように成り立たせているのは、とにかく僕達が他者を欲望するからです。
言語より社会よりまず僕達は他者とコミュニケートしたいのです。むしろ、これは、生物学的な次元に
ある「他者から呼び声」への応答として、すでにコミュニケーションしているのです。断絶があり、その
断絶という隙間を埋めようとする、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」
が発生する。これが知能です。
人工知能はこの「断絶」を越えられないのです。人工知能と私の間の断絶の前に、人工知能は、
無限計算でフリーズするのです。人工知能には欲望がないからです。単に質の判断そのものは人間
が考えて、その都度ただプログラム化されて、走るだけで、そこに自ら予測する「知能」はないのです。
191 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 21:52:16
■知能があるかわからない。
人工知能問題の本質は、このような「フレーム問題」ではなく、「チューリングテスト」問題のように、
そこに知能があるということを、僕たちはどのように知るのか、ということです。これも「断絶」の問題
です。私は他者がなにを考えているか、決してわからない、ということは、それが「他者」(知能を
もった私以外の存在)であることを、知ることはできません。
コンピューターネットワークあるいは、「身体内の細胞と細胞」のような「複雑な相互関係」によって、
仮に閉じた内部に高い知能があっても、それが人間とのコミュニケーションという外部へ開かれて
いる、すなわち「断絶」を乗り越えられないと、ただの箱です。人間は「断絶」の乗り越えにおいて、
そこに知能があると錯覚するのです。
すなわち、「断絶」がなければ、そこに知能があるかわからない。そして「断絶」あると、人工知能は
「断絶」を越えられない。故に、「人工知能は存在しない」のですね。
192 :
考える名無しさん:2006/02/16(木) 21:55:59
哲学じゃないなw
193 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 22:13:46
■「人間を介さず」という魔法の言葉
人間と人工知能の差は「断絶」の乗り越えです。「断絶」があり、その「断絶」という隙間を埋めようと
する、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」が発生する。これが知能
です。そしてこの「断絶」こそがネットが爆発的に広がった理由そのものです。そこに他者と繋がる
可能性があることが欲望を想起しつづけるのです。それがボクが「ネットの欲望」あるいは「機械論の
欲望」と言ったものの本質です。
ネットコミュニケーションは、「断絶」を越えて繋がれる可能性、「断絶」が消失する可能性としてあり、
「人間を介さず」というグーグルの指針は、これをまったく同様な意味である。「人間を介さず、すなわち
断絶が消失する」という欲望を想起する魔法の言葉なのですね。
194 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/16(木) 23:19:06
>>192 ヴィトの規則のパラドクス、デビットソンの先行理論などと
絡めても、退屈でしょう。
195 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 01:18:04
基本的な点で教えていただきたいことがあります。
「こころ」という言葉は複数の概念をうちに含んでいますが、これを
峻別し定義している言葉はあるのでしょうか?
>>176 >私は他者がなにを考えているか、決してわからない、ということは、
>それが他者(知能をもった私以外の存在)であることを、知ることはできない。
だから「わたし」は常に「わたしにとってのわたし」、今思惟しているわたしでしかない。
だからこの意味の「こころ」は、私の「こころ」であり、常に単数形です。
これが「こころ」(1)
>>193 >人間と人工知能の差は「断絶」の乗り越えです。「断絶」があり、その「断絶」という隙間を埋めようと
>する、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」が発生する。これが知能
>です。
しかし人間は他者と繋がろうとすることで(他者への欲望で)「私」を発生させます。他者の「こころ」の
理解とその承認を狂おしく求める過程で「私」が生まれるわけです。
この意味の心は、他者の「こころ」であり、思惟しているわたしの「こころ」とは別のものです。
これが「こころ」(2)
>>191 >人間は「断絶」の乗り越えにおいて、そこに知能があると錯覚するのです。
認識者としての「私のこころ」が存在して初めて、私にとっての「他者のこころ」は存在しますが、
それは常に謎であり欲望の対象であり源泉です。
「渚にて」という映画では、核戦争後、既に死に絶えたと思われる地域から発する電波に人間の
生存を認めてたどり着いてみたらラジオだった、というエピソードがあります。これは人間が、
具体的な他者でなくとも想像的に他者の「こころ」を認識者としての自身のなかに発生させられる
と言うことを示している。この点でも「私にとっての他者のこころ」と言う意味で、「こころ」(2)です。
この「こころ」(1)と「こころ」(2)は何か別の言葉で表されてはいるのでしょうか?
196 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 01:26:07
>>195 お答えいたします。
>基本的な点で教えていただきたいことがあります。
>「こころ」という言葉は複数の概念をうちに含んでいますが、これを
>峻別し定義している言葉はあるのでしょうか?
>「こころ」という言葉は複数の概念をうちに含んで
いるのですが、これは厳密に言えば「こころ」ではありません。
心的システムという言葉をご存知でしょうか?「こころ」は実態として、
存在しない、ないし、存在が不確定で空虚なものだとの認識も、現在の
学界ではあるていどの位置を占めています。これはシステム論に馴染みの
無い人でなら、おやっと思うかもしれませんね。システム論における心の
問題というのは、無論システムに依拠するわけです。ここをどう考えるか
そこのところに我々の独創性があるといえるでしょうね。
197 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 01:35:58
で、続きですが、195さんは、
>この「こころ」(1)と「こころ」(2)は何か別の言葉で表されてはいるのでしょうか?
と仰るわけですが、先程申しました通り、こころという概念の問題ではなく、
こころという言葉の文脈が問題であるわけです。「こころ」(1)のケースに
おいては、単称です。これは単なる実存的個人、あるいは主体が一個存在して
いるのではなく、「こころ」の文脈が意味として単称を帯びているということに
過ぎません。同じく「こころ」(2)の時のケースも同じです。シーニュの、
シニフィアンスが同じでもその内容まで同じとは限らないわけです。これにて、
だいたいのこころの謎と謳われるものの正体は掴めるかと存じ上げます。
198 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 01:55:21
早速ありがとうございます。
でも正直難しいです(笑)。概念が追いついていないようです。
「心的システム」と言う言葉は知りませんでした。ググってみると(笑)
ニコラス・ルーマンの概念のようですね。馬場先生の本は買ったっきり
なので、ここは勉強してみます。
>>196 >これは厳密に言えば「こころ」ではありません。
そうなのですか。しかし手持ちのカードを切るしかありませんので、
ちょっと展開させてください。
>>190 >言語より社会よりまず僕達は他者とコミュニケートしたいのです。むしろ、これは、生物学的な次元に
>ある「他者から呼び声」への応答として、すでにコミュニケーションしているのです。断絶があり、その
>断絶という隙間を埋めようとする、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」
>が発生する。これが知能です。
「断絶」があり、「欲望」は際限なくわき上がるわけです。
>人工知能はこの「断絶」を越えられないのです。
ここです!
知能、こころ、と言う言葉は、共同体からの言語による世界の分節化によって獲得する認識では
ありますが、私たちはそれ以前に「人間」と「人間以外」を分けているわけです。
「断絶」というキーワードは、この感覚、この人間という同じ種族を見分ける先天的な能力によるもの、と、
ぴかぁ〜さんは考えられていますか?つまり「身体的な能力」であると。
ある精神的な疾患を患えば、存在しない他者の存在を「リアル」に感じることができます。これはこの
身体的な能力を(一時的にしろ永続的にしろ)失った状態、と考えることができます。
200 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 02:04:38
ですから、時間的な経過に沿って整理すると、こういう事ですかね。
1)認識者としての私は、共同体の言語的規範を受け入れ、世界を
意味化(分節化)する
2)人間は人間と人間以外を感じ取る能力を持ち、他者とコミュニケーションを
取ろうとする欲望を持つ。しかし他者は意味化された世界では私の中にのみ
存在し、私の獲得した言語による世界の意味化(分節化)によっては決して
理解することができない。
3)この「理解できないもの」を「こころ」と呼ぶ。この「こころ」は複数形である。
4)認識者としての私も同様に「こころ」を持っているはずである。
5)しかし私は私自身が解釈するようにしか世界を持っておらず、世界は私に
とって常に唯一の世界である。ここに単独性が発生する。
6)「こころ」は私にとってのこころとしてしか確実性を持たないので、「我思う、
故に我あり」となり、わたしの「こころ」は単独性をもつ(ように見える)
201 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 02:07:49
202 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 02:11:14
>>198 >>人工知能はこの「断絶」を越えられないのです。
>ここです!
>知能、こころ、と言う言葉は、共同体からの言語による世界の分節化によって獲得する認識では
>ありますが、私たちはそれ以前に「人間」と「人間以外」を分けているわけです。
>「断絶」というキーワードは、この感覚、この人間という同じ種族を見分ける先天的な能力によるもの、と、
>ぴかぁ〜さんは考えられていますか?つまり「身体的な能力」であると。
>
>ある精神的な疾患を患えば、存在しない他者の存在を「リアル」に感じることができます。これはこの
>身体的な能力を(一時的にしろ永続的にしろ)失った状態、と考えることができます。
まず、なぜ、
>人工知能はこの「断絶」を越えられない
のかが問題となりますが、これは現時点ではこのように考えられております。
人間は人工知能と明らかに異なりますが、どこが異なるのかが焦点になります。
人工知能のケースではあるプログラムなりの構成要素が、一定の条件(ミスの無い
プログラムであるか、etc)に沿った形態であれば、一度解体しても人の手に
よって、再び構成すれば、再度そのプログラムを起動させることができます。
しかし、良くシステム論で言われることですが、人間のケースではそうはいきません。
そこから色々な暫定的結論を出せますが、とりあえず人間の細胞を集めても肉の塊に
ならず、そこから生命は生まれせん。<<続く>>
203 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 02:20:00
<<続き>>
で、人間の明らかに異なる性質を暫定的に引き出しますと、
これもまた良く言われることですが、定常システムと言われています。
ここらへんの話はさておき、ぶっちゃけ人間と人工知能が明らかに
異なる点は、その存在の複雑性にあるという結論に至らざるを得ないのです。
人工知能はどうかわかりませんが、マテリアルな機械類は基礎的に生命の
ような自己回復能力というか、定常的な自己維持能力がありません。
これは機械がシステムを持たないというよりは、その存在の複雑性が、
実際問題として、生命よりも人工知能や機械のほうが単純なシステムだからです。
204 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 02:29:38
<<続き>>
で、そういう観点から見ますと、
>知能、こころ、と言う言葉は、共同体からの言語による世界の分節化によって獲得する認識では
>ありますが、私たちはそれ以前に「人間」と「人間以外」を分けているわけです。
>「断絶」というキーワードは、この感覚、この人間という同じ種族を見分ける先天的な能力によるもの、と、
>ぴかぁ〜さんは考えられていますか?つまり「身体的な能力」であると。
今申しました通り、基本的に私は他我問題を言語の問題と照らして考えている訳です。
即ち、人工知能と我々人間が明らかに異なるのは、そのシステムの性質の違いです。
とするなら、人間も同じように考えることが可能になるように思われます。
これも即ち、システム上の性質の違いによると。
>ある精神的な疾患を患えば、存在しない他者の存在を「リアル」に感じることができます。これはこの
>身体的な能力を(一時的にしろ永続的にしろ)失った状態、と考えることができます。
人間は様々なシステムから構成されています。それは、
>「こころ」という言葉は複数の概念をうちに含んでいますが、
と貴方が仰った通り、心の場合もそれほど単数的な要素から構成されて
いる訳ではないからです。ですから、私は、このクランケのケースでは、
むしろ、ある定常システムの一部が欠損したので、我々と違うシステムに
準拠するようになったというのが、より正確な結果と言えるのではないか
と思います。
205 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 02:51:11
>>202>>203 「複雑性」とは「複雑系」に繋がる概念ですよね。
単純に内包する要素の巨大さで「量から質への転換」を起こす、
といったレベルの話ではないようなので、これも学ぶきっかけと
させていただきます(要するにピンと来ていない)。すみません。
わたしは、要するに二元論の立場なんです。もちろん「こころ」は
脳のはたらきである、ということは前提としていますが、同様に
脳をいくら分析したところで「こころ」を知ることはできない。「こころ」は
身体と密接に結びついていますが、たんなる脳波の動きではないわけです。
「断絶」が起きるためには、この「システム」が理解不能、ブラックボックスで
あることが条件です。その条件を担保するためには、二元論の立場を取らざるを
得ないのではないかと。
私は他者の欲望を取り込み私になりますが、私が他者を理解できないのと
同様に私自身を理解することはできないのですから。
「バカの壁」などで触れられているように、DNAレベルで脳の容量を増やすような
処置をされた超人間が、現在の人間の能力と+αをもって生まれてくれば、
彼にとっては自明なのかも知れませんが、それは私たちにはやはり理解不能でしょう。
206 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 02:56:27
蛇足ですが、大塚英志氏が「更新期の文学」で、検索エンジンを
「クラスター分析に似ている」と指摘されていますが(例によって
クラスター分析の概念はよくわからないでいます)、要するに
検索エンジンに蓄積された膨大なデータ、たとえばある言葉の後に
どの言葉がどの割合で置かれるのかを蓄積していけば、「文体」と
呼べるものは再現可能で、「SPA!」レベルの記事は自動的に
記述可能ではないか、と言っていました。
そうなると物語が人間によって語られたのか人工知能によって
騙られたのかはもはや判断不能なわけです。
これは知能とは言えませんが、振る舞いとしては知能なわけです。
これはどう考えたらよいのでしょうね?
遅い時間につきあっていただいてありがとうございました。
207 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 02:59:15
ピンと来ていないのは、ある意味あなたの思考が正常であることの証です。
長々とシステム論について語った私が言うのも何ですが、システム論はやや
大雑把な印象を受けますし、細かいところで色々矛盾もあるでしょうから。
まあ、「こころ」の問題を考える時に、こういうアプローチの仕方もある
という程度のことですね。実際問題二元論の方が現代では有効ですし。
208 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 03:03:48
>>206 >これは知能とは言えませんが、振る舞いとしては知能なわけです。
>これはどう考えたらよいのでしょうね?
ん〜、つまり、本物の人間と偽者の人間もどきを見分ける方法が、
情報のハイテク化によって、区別できなくなるということが、
問題なんでしょうかね?ちょっと問題点がよくわからないのです。
209 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 03:07:21
仮に貴方の言う「断絶」というのが、
>>208のような、
本物の人間に到達できないという事態を、「断絶」と
呼ぶのだとしたら、私にも問題が分かってくるのですが。
210 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 03:09:52
あとは、そういう「断絶」が、情報のハイテク化によって
生まれたということが、焦点なのか。もしかしたら両方
含んでいるのかもしれませんが。
211 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 03:30:50
>>208 >ちょっと問題点がよくわからないのです
私自身が「こころ」と「欲望」の関係がうまく整理できていないからだと
思っています。
「断絶」は他者の心を知りたい、しかし絶対に理解はできない。
それ故、他我として自身の心の中に他者の写し身をつくり、それを
もって他者とするわけですよね。
私の単独性は、絶対なわけです。
ぴかぁ〜さんのいわれる「断絶」を、この「私の単独性の絶対さ」としての、
人間の条件として受け止めました。
そこで、
>>203 >生命よりも人工知能や機械のほうが単純なシステムだから
という発言が意外だったのです。
この心の原動力である「他者への欲望と理解不能という断絶の必然性」が、
あるシステムである、と言うことならば、なぜ故にそのシステムを
コンピュータに自己組織する形で形成させることができないのか?
可能性として、でもいいのですが。
システムと理解するとできてしまう気がします、可能性として。
そうすると、やはり人工知能と知能は差が生じない気がするのです。
「本物の人間」が「私」として語る物語は、その文体、「私」を主語とする
言説にいわば引きずられる形で自動生成するわけです。
その時に、同じレベルで物語れる「神話自動生成装置」がデータベースの
蓄積と分析によって可能なら、「本物の人間」はどうやって見分けるのか。
そんな疑問が湧いたので、その例を出しました。
212 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/17(金) 03:31:56
で、今日は寝ます。おやすみなさい。
自分は何者かに記憶を植えつけられたロボットである可能性はあるか?
絶対にない!!
確かに人間は記憶の集まりによって自己を規定してるかもしれない
しかしロボットということはありえない
髪、皮膚、心臓・・・どれをとってもロボットではなく人間だ
人間はロボットではない これは絶対だ!
214 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 08:56:22
>リーマンさん
会話が成立しているようなので、特に言うことはないですが、
重要だと思う一点だけ、気になったので。
>「断絶」というキーワードは、この感覚、この人間という同じ種族を見分ける先天的な能力によるもの、と、
>ぴかぁ〜さんは考えられていますか?つまり「身体的な能力」であると。
これは私が悩み続ける重要な点ですね。
現在のところ僕は、「人間という同じ種族を見分ける先天的な能力」を「他者からの呼び声」と
呼んでいます。
このあたりの詳細は、最近「欲望論パースペクティブ
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060208」
としてまとめています。
ここにも書いていますが、僕は個体性/集団性/社会性/単独性で考えます。
簡単にいうと、
人間以前の生命は個体性と集団性のバランスでなりたつ。たとえば一匹の蟻と蟻の集団、
あるいは身体内の細胞と身体。このバランスは遺伝子情報を「完全」なコミュニケーションが成り立ちます。
たとえば性関係は誰に教わることなく、生殖のためのみ行われます。
人間は個体性の高まる、個体として自立するために、集団性が弱まる。
すなわちこれが「断絶」ですね。
それとともに集団性を補完するために、この「断絶」を補完するために、社会性が上昇します。
このために性関係は社会的に誰に教わらないと行えない、そして生殖のためでなく、社会性として行われます。
ラカンのいう「性関係は存在しない」状態です。
それでも、集団性はあると思います。「人間という同じ種族を見分ける先天的な能力」があるというよりも、
「同じ種族」=他者は特別でありつづけ、求め続ける。これは失われているが、残り続ける集団性の残余です。
これは僕は「他者からの呼び声」とよび、とても根源的なもの、現実界にある、欲望の前の欲動であると
考えます。
215 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 08:58:03
これは、ラカン、フロイト、ハイデガー、ヘーゲル・・・などなど西洋哲学と断絶する点です。
西洋哲学は「死の哲学」であり、それに対する「生の哲学」をボクが目指すポイントです。
「欲望論パースペクティブ」参照
集団性の「断絶」を補完するために社会性があると言いましたが、社会性は単独性を立ち上げます。
集団では個体は、個性は必要なく群れの1個体としてあることで、集団性のバランスが保てます。
しかし社会では、個体間の「断絶」のために、個体の個性が、私が何ものであるという「声」が
なければ、バランスが保てません。そこに生まれるがの、人間であること、欲望、心、知能という
「この私」という単独性です。
簡単には「他者からの呼び声」→社会性→単独性です。
「この私」という単独性は、失われた集団性を取り戻す、「他者からの呼び声」へ応答しようとする
=欲望によって生まれます。
より詳細は現在のぴかぁ〜哲学のまとめのこちらで。
「欲望論パースペクティブ
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060208」
216 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 09:11:03
217 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 09:37:15
知能と欲望が密接なら、欲望する人工知能を作ればよいのでは、ということはあります。
欲望とは他者への欲望です。その意味で
>>1にも書いたミラーニューロンの発見は画期的なのでしょう。
しかし欲望する人工知能は必要ですか?いうことをきかずわがままでなにをするかわからない人工知能は必要ですか?
すなわち僕達が「人工知能」という言葉そのものに「機械論の欲望」が含まれているのです。
「断絶」を超越し完全にわかってもらえる、失われた「他者の呼び声」を語る存在がほしい、という欲望そのものです。
だから「人工知能の欲望」は挫折し、そして回帰しつづけるのです。
>>185 > 「ああそういう順番になるようにプログラムしたんだな」
> というぐらいなんだけど
いや、それは(笑)。知っているからですよね。例えば「Google社は我が社の
社員によって独自の方法でランキングを決定している」とアナウンスされれば
そうかとも思ってしまう。
> レプリカントも
>>177の例もGoogleのプログラムも
> どの出力結果をみても勘違いするのは自分らのほうだよね
> 仮に自分が人工知能であっても関係ないんじゃない?
勘違いといいますけど、一方で共通性がありますよね。石を蹴飛ばすのは
何も感じないが、人形を蹴飛ばすとちょっと嫌な気がしたりする。そう"勘違い"
させているのは何者だろうということです。
>
>>183 > >断絶とは淘汰と同じことです。
> しかし進歩はまさに目の前で見え、「断絶」をもつ人間のみに可能であり、「断絶」により
> 生まれた「私」であり、欲望であり、言語によって行われています。
それは観測者の位置の問題に過ぎないのでは?まさしく、そういった"進歩"という目的論的
思考を回避することをダーウィンは立証しようとしていたわけですし、フロイドは人間心理に
適応しようとした。マルクスも同じですね。
つまり、等身大の人間主観としては「自分が欲しいものを欲しい」と感じるが、それは「人が欲しいと
思うものを欲しい」などの非常に単純な関数で行動している。その要素が不特定多数関連付けら
れると、淘汰によって意味あるものが残存し、それが人間主観からは「進歩」に見える。あたかも
キリンの首が長いのは、キリンがそう願ったからであるかのように、人間も自分たちの社会を見てしまう。
>
>>184 > 人間はどのようなものも、「意図」を感じてしまうのです。そこに「他者」の姿をみるのです。
> それは単に人間という「症候」です。
しかしデタラメに意図を感じるわけではない。
>>218
例えば、ダーウィニズムで宗教を語ることは可能だし面白い。そして、ヘーゲルはそれを
「精神現象学」の中で実際にやったのです。
221 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 09:59:36
「他者の呼び声」は人のアプリな属性だといいました。
ボクは哲学の様々な言説にこれが語られなくとも前提とされていると考えています。
たとえばラカンの鏡像段階でなぜそこに他者がいるとかんがえ、鏡像とするのか、
ひよこではないですが最初に見た動くものに反応するのでしょうか
たとえばデリダでも議論されたなぜ翻訳は可能か。そこには、そのみしらぬ声を発するものとコミュニケーション可能という前提が必要です。
最近はバウリンガルなどがありますが
>>217 > しかし欲望する人工知能は必要ですか?いうことをきかずわがままでなにをするかわからない人工知能は必要ですか?
人間が必要と思わなくても、社会が必要とすれば出現します。人間はそれに従う。それを欲望
すらします。
古典的な「ターミネーター」を出現させたような中央集権的人工知能は、ぴか氏が言う神のごとき知能
でしょうけど、それは出現しないでしょう。フレーム問題もありますし。しかし、それ自体が社会的である、
関係性を創出するような知能は出てくるでしょうね。
一つの理由は、身体的問題です。今の調子で行けば、早晩身体というのは非常に不都合というか、
邪魔なものとなり、それが限界に行き着くと思います。例えば、ネットワーク上だけで知能が機能
するならば、それは非常に社会にとって有意義でしょう。現状の身体の形に依存しなくてもよい
というのは大きいと思いますね。
223 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 10:26:22
これを人間にも人間以外のように同種を見分ける能力があるとみてはいけません。
集団性は失われ、「断絶」が開き、その残りとして「他者からの呼び声」があるのです。
他者が特別な存在であることはかわりないと思います。なぜならまさに他者との完全なつがり=集団性を求めているからです。
しかしなにが他者かわからなくなっているのです。だから手当たり次第に、世界に同期するのです。
柳がそよぐと幽霊という他者がいると騒ぎ、人の顔の模様をみると心霊といい、
世界すべてを、手当たり次第に「痕跡」(他者からのメッセージ)にかえる。その究極が神ですね。
この錯乱した手当たり次第の同期の振り回しが欲望であり人間です。
映画「マトリックス」はそう考えると酷い映画です。
まず、どうしてマトリックスの世界は人間の身体なんぞ必要とするんでしょうか。それは
全く不都合だし、経済的ではない。
更に、本当の世界=人間身体 VS マトリックスの世界=バーチャルという構図が愚劣です。
しかも、映画の中でその身体性を表現するときに、黒人が踊り狂うというシーンを使う。これ
なんかも問題にならないの?って思っちゃいましたよ。
実際にはそんな方向には行かないんじゃないか。ネットワーク的に存在するシリコンチップが
ネットワーク上に在るが故に精神となり、知的活動を行う。その際、ネットワークから何らかの
理由で切れると大変なことになるので、擬似的に世界を自己生成して修復を待つというのが
よいでしょうね。そして、これは分裂病の妄想と同じです。
>>223 > 世界すべてを、手当たり次第に「痕跡」(他者からのメッセージ)にかえる。その究極が神ですね。
だけど、それは多神教の神ですね。ユダヤ系の神はこの世に痕跡を残さない。カルバン派のキリスト教に
至っては、天地創造の時に救われる奴とそうじゃないのが決まっているから何しても関係ないと言い切る
わけです。つまり、世界との断絶を決定付ける神。
226 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 11:07:03
「痕跡」は他者の存在のあかしですから、信仰があればかならずあります。
たとえば「痕跡」がないことが痕跡でもよいのです。
227 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 11:27:03
やはり人間には人間は特別だと思います。吸い込まれるように同期してしまう。笑い顔、怒り顔に手に取るようなわかる。
それはアプリオリに限りなく同じだからだからです。しかし「断絶」している。ほんとに笑っているかは、絶対にわからない。
そのジレンマ、宙ずりを支えるものとしてこころはあり、欲望は生まれる。
228 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 11:47:35
>>218 >そう"勘違い"させているのは何者だろうということです。
そこまでいくと俺の範疇外だ
まあ人はそういうふうに作られてるんだろうというぐらいしかない
ここら辺はぴかぁと同じような考えかもな
>ぴかぁ
そういえばウェブ進化論にはWeb2.0のことは書いてあったの?
229 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 12:25:50
>>219 >>187の「進化とは良くなるのでなく、単なる変化ですから。」と意図的に排除していませんか。
ボクが進化、進歩というのは、より良くなるではなく、変化のスピード、ダイナミズムを問題に
しているわけです。すなわち目的論的思考の向こうの話ですね。
>>222 >一つの理由は、身体的問題です。
身体的問題こそが重要ですね。すなわち人工知能ではなく、サイボーグの問題ですね。
一から心を作る人工知能でなく、今ある心を改造するサイボーグ化の問題です。
ボクは最近みたNHKスペシャルのサイボーグ化の話をしましたが、「機械論の欲望」は、
「ネットの欲望」、そして「バイオの欲望」として押し寄せていますが、それがここ1、2年で、
「サイボーグの欲望」へと向かってします。ここ数年で、大きな変化が起こるような予感が
しました。
ボクが、「欲望する人工知能は必要ですか?いうことをきかずわがままでなにをするか
わからない人工知能は必要ですか?」といっうときも、それはサイボーグ化する方がずっと
簡単だという意味も含まれています。
ではなにが起こるのか、というとボクもよくわかりません(笑)
むじんくんの身体を離れ、ネットワークに宿る知性は、様々に語られます。マトリクスもそうですし、
攻殻機動隊もそうです。しかしボクは、むじんくんとは逆にまさに身体が重要になると思います。
231 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 12:43:45
いまボクが興味があるのは、ネットの創発の問題とサイボーグ化の問題ですね。
ネットの創発の問題とは、簡単には2ちゃんの祭りのような立ち上がるダイナミズムです。
このダイナミズムがもはやネットの問題でなく、コイズミ一人勝ちなど社会のダイナミズムを生んでいます
グーグルやむじんくんはこの創発をコントロールするといってるわけですが、このダイナミズムの中、
人はどうなちゃうのかなあ、が興味があります。このために生き抜く三つの知を提案しています。
そしてサイボーグ化の問題はあらたな「機械論の欲望」としておもしろいですね。
ここにはいつも対立がありますね。管理したい欲望と変化しようとする欲望。タナトスとエロスの対立
しかしこれら二つは同じものですね。
232 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 13:06:57
今気づいた
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerUとぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnwは
別人なのか?
>>229 > ボクが進化、進歩というのは、より良くなるではなく、変化のスピード、ダイナミズムを問題に
> しているわけです。すなわち目的論的思考の向こうの話ですね。
だとしたら、それは質的相違ではなくて量的なものですよね。不完全な新皮質であえて生まれて
くることにより、進化に比べて極端にサイクルの短い適応をするという。脳神経細胞が環境に
よって"自然淘汰"されるということですね。
>
>>222 > ボクが、「欲望する人工知能は必要ですか?いうことをきかずわがままでなにをするか
> わからない人工知能は必要ですか?」といっうときも、それはサイボーグ化する方がずっと
> 簡単だという意味も含まれています。
そうですね。サイボーグに関しては、これは出来る/出来ないではなくて、"何時"できるのか
という話となっています。念じればマウスカーソルは動かせる、人工海馬がつくられる。その果てに
身体なしの"私"はあるか?という問いが出てくるんじゃないか。身体なしの私が可能ということは、
人工知能が可能ということです。
234 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 16:36:05
>>233 当然、量的では言えないでしょう。そのその進歩と進化は構造的に違うものですから、
ダーウィンの進化は突然変異と自然淘汰です。
進歩は人間の「意志」をもった最適化が行われます。
ただなぜ似た振るまいをするのか、というのは面白い話題です。
進化に意図があるように見えるのはなぜか。
進化が進歩的なのか、進歩が進化的なのか。
むじんくんがいうようにキリンの首が長いのはキリンがそう願ったからという人間的物語?
念じればマウスカーソルは動かせるは、できていますね。
人工海馬はあと一歩ですか。
サイボーグ化はすでにできていますので、今後何ができるかでしょう。
しかし、おそらく「身体なしの"私"はあるか?」まさに人工知能であり、別の話でしょうね。
あるとすれば、瓶の中の脳がネットワークに繋がれて、というところでしょう。
ボクはかつてなぜマトリクスは不可能か、ということを書きました。
あの容器に入れられた現実の「身体」はあのままでは維持できないだろうからです。
身体を維持するには、適度な運動や、刺激という「生きる活動」が必要ですね。
それはマトリクス内の想像だけではだめで、たとえ栄養を送り続けようとも、
あのような容器に身体を封印していると、どんなにマトリクス内でおもしろくても、
身体が衰退し、「精神」は減退するでしょう。
要するに、身体の活動と「精神」は切り離せない、というのが、ボクの考えです。
だからサイボーグ化は、「身体」が重要なのです。
235 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 18:28:42
>>228 >そういえばウェブ進化論にはWeb2.0のことは書いてあったの?
Web2.0・・・「ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて
積極的に巻き込んでいくため技術やサービス開発姿勢」
著者は、このように考えているようです。
2ちゃんねるをあげるまでもなく、能動的=ダイナミズムはネットに内在します。
すなわちより現状にあったサービスを目指す。あるいは、ダイナミズムそのものを管理する技術ですね。
>>234 > ダーウィンの進化は突然変異と自然淘汰です。
> 進歩は人間の「意志」をもった最適化が行われます。
ダーウィンが画期的だったのは、目的論的思考をせずに生物の多様なあり方を説明できた
からですね。それは、キリンなら首が長いという"図"に対する"地"を見ることによって考えると
いうことです。
フロイドやマルクスも同じです。無意識とは"地"であり、経済的下部構造とは"地"です。それに
意識や人間社会が規定されている。
進歩というのは目的論的思考ですが、それは人間の社会的欲望とその時の歴史的状況、経済的
下部構造によって淘汰が起こった結果に過ぎない。ある商品が売れる/売れないは淘汰です。商品
生産は(変な言い方になりますが)平等な視点から見たら単に差異を生産しているだけということになる。
それがあるものは売れ、あるものは売れないのはそのときの社会環境による淘汰があるからです。
これは生物の突然変異と自然淘汰と質的に変わらない。
> しかし、おそらく「身体なしの"私"はあるか?」まさに人工知能であり、別の話でしょうね。
> あるとすれば、瓶の中の脳がネットワークに繋がれて、というところでしょう。
しかし、人口海馬のようにニューロンをチップ化することが可能だとすれば、脳の各部位を外だしに
していけますよね。そうなると、全ての部位をシリコンチップにできちゃうような気はします。或いは逆に
そういった人口ニューロン群によって脳回路を生成できるということにもなる。
> 身体が衰退し、「精神」は減退するでしょう。
> 要するに、身体の活動と「精神」は切り離せない、というのが、ボクの考えです。
これは、悪名高き「ゲーム脳」と同じ発想では?(笑)。今のサイボーグ化の技術では、出力だけではなくて
入力もできるわけですね。だとしたら、身体がなくなっても脳はキビキビしていられますよ、きっと(笑)。
237 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 21:07:40
>>236 >ダーウィンが画期的だったのは、目的論的思考をせずに生物の多様なあり方を説明できた
>からですね。それは、キリンなら首が長いという"図"に対する"地"を見ることによって考えると
>いうことです。
ゲシュタルト心理学を御修めのようですね。私はゲシュタルト心理学は単純ではないかと思うのですがね。
>フロイドやマルクスも同じです。無意識とは"地"であり、経済的下部構造とは"地"です。それに
>意識や人間社会が規定されている。
まあ、システム論的な見地からすると、妥当なところでしょうかね。
>進歩というのは目的論的思考ですが、それは人間の社会的欲望とその時の歴史的状況、経済的
>下部構造によって淘汰が起こった結果に過ぎない。ある商品が売れる/売れないは淘汰です。商品
>生産は(変な言い方になりますが)平等な視点から見たら単に差異を生産しているだけということになる。
>それがあるものは売れ、あるものは売れないのはそのときの社会環境による淘汰があるからです。
>これは生物の突然変異と自然淘汰と質的に変わらない。
事態はそれほど単純なものではありません。
ここらへんはまた後述します。
238 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 21:11:07
わかりにくいんだって、だから(笑)
239 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 21:13:12
まあ、ポストモダンというのはある意味システム論の統合能力に
拠って説明される部分があるのですね。ポストモダンのたとえば、
ドゥルーズなんかの差異というものが、システム論的には再帰性を
促す概念として理解されているのですから、ポストモダンのデジール
的能力を、解体されたものをシステムによって、再び取り込むのですね。
240 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 21:14:46
241 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 21:19:34
ゲシュタルト心理学なんかは、メルロポンティーが取り入れた概念でしょう。
学際的な噂とは裏腹に、ゲシュタルトにそれほど可能性にあるとは思えませんがね。
たとえば、
>フロイドやマルクスも同じです。無意識とは"地"であり、経済的下部構造とは"地"です。それに
>意識や人間社会が規定されている。
フロイトの精神分析(ラカンなんかも含まれるでしょう)、マルクス経済学の知見を地と捉えるのは、
無理矢理なこじつけという印象も否めない。これはむしろ、システム的な差異と、それに伴う、
システムの環境があると言った方が正確です。
ですから、
>進歩というのは目的論的思考ですが、それは人間の社会的欲望とその時の歴史的状況、経済的
>下部構造によって淘汰が起こった結果に過ぎない。ある商品が売れる/売れないは淘汰です。商品
>生産は(変な言い方になりますが)平等な視点から見たら単に差異を生産しているだけということになる。
>それがあるものは売れ、あるものは売れないのはそのときの社会環境による淘汰があるからです。
>これは生物の突然変異と自然淘汰と質的に変わらない。
このケースであっても、自然淘汰が環境によって作動させるという点はシステム論的には正しいのですが、
それが未来永劫、何らかの下部構造に規定されているのは作動形式として、
動的、柔軟な動きを持つ地の構造を上手く把握し得ていないように思いますね。
242 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 21:27:16
知らないものは知らないというのが哲学的だよ。ぴかぁ〜って、哲学好きな割りに
かなりいい加減なんだね。「なんか」で括るところなんか、ほんと傲慢だわな。www
243 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 21:38:30
>>234 >ダーウィンが画期的だったのは、目的論的思考をせずに生物の多様なあり方を説明できた
>からですね。
やっと進化論の本質がわかってきましたね。かつての自然淘汰をなんどの説明したか・・・
進化と進歩の類似はこのように説明したいところですし、否めませんが、問題も大きいですね。
しかしまたこのように簡単に同一化することは自然主義の誤謬ですね。
なぜなぜ人間の行為全ては結局自然淘汰か?戦争も、虐殺も?ということですね。
>そうなると、全ての部位をシリコンチップにできちゃうような気はします。或いは逆に
>そういった人口ニューロン群によって脳回路を生成できるということにもなる。
この考えがなぜ不可能なのか、人工知能議論以前の問題です。
成長しないからです。それは単なる鉱物でしかない。だから生物の補完物として可能なのです。
>これは、悪名高き「ゲーム脳」と同じ発想では?(笑)。今のサイボーグ化の技術では、出力だけではなくて
>入力もできるわけですね。だとしたら、身体がなくなっても脳はキビキビしていられますよ、きっと(笑)。
なぜ「ゲーム脳」と同じ発想?「ゲーム脳」の問題は社会的な領域の変化を身体の変化と混同する
ことですね。たとえば女性にミニスカートが流行っているのは、女性の脳がおかしくなっているからだ、
というような発想ですね。だからといって「ゲーム脳」批判が心身の分離を言っているわけでは
ないでしょう。だからボクがいう「身体が衰退すると、気力が減退する」となんら関係がないですよ。
「ゲーム脳」の問題とは、先ほどの進化と進歩の混同です。たとえば人間はネットを発明し、
「進化」した。という誤謬です。
すみません、ぴかぁ2さん、もう少し分かりやすくお願いします(笑)。
245 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/17(金) 21:40:28
>ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU
読みにくいよ。このスレ以外でやれよ。
246 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/17(金) 21:46:28
システム論を理解していれば簡単なはずですが。
247 :
考える名無しさん:2006/02/18(土) 00:15:21
>>235 なるほど
Web2.0とGoogleの関係も知りたかったんだが
そこまで教えてもらうのも悪いな
ダイナミズムをユーザに移譲するってことはよりカスタマイズ性を
高めることだからな
そのうちGoogleはボットとページランクのような情報整理する
プログラムをフリーウェア化するんじゃないかな
248 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 00:57:05
■ラカンとポストモダンとボク
「クッションの綴じ目」=偶有性から単独性への転倒、まなざしの快楽、無垢への欲望
ボクは「偶有性から単独性への転倒に神性は宿る」といった。たとえば、ある女性を好きになる。
そして彼女は僕の女神になる。このときになぜその女性が好きになったのかの理由はたまたま
(偶有的)としか、言えない。しかし好きになったのであり、このたまたまであることの「不安」を隠蔽
するために、彼女は僕の女神だという「幻想」を見るのだ。
これは、ラカンの「クッションの綴じ目」理論である。シニフィアンの連鎖の中で、遡及的に「クッションの
綴じ目」として、意味が与えられる。その決定の不安において、幻想/S◇aは生まれる。これは
主体の物語である。斜線を引かれた主体/Sは、象徴界Aに参入し、「クッションの綴じ目」において、
他者の中で主体S(A)を獲得し、象徴的同一性I(A)を果たす。
再び、ボクの考えで言えば、彼女は僕の女神であるのは、みなが彼女を「まなざし」ているからだ。
それによって、彼女は「無垢」として現れる。そしてみなにまなざされる彼女にまなざされる僕は、
この私という単独性を手に入れる。
まなざしとは「他者(象徴界)」であり、象徴界の固定された位置によって、意味をもつ。それは
象徴的同一性I(A)によって、私の意味を獲得する。
249 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 00:57:58
享楽、欲望=他者からの呼び声、「外部の想定によって内部は強化される」
しかしラカンにおいてこれで終了しない。そこに「享楽」の次元へつなげる。享楽において、「他者
(象徴界)」は欠けている。S(/A)。まさにこの欠如がこの欲望自体を加速させ、幻想を強化するのだ。
すなわち、彼女は僕の女神だというときに、そこにある欠如、たとえば彼女はわがままであるなどの
欠点であるとか、この恋愛に親の反対、ライバルの出現などがあるから、より彼女への愛は深まり、
欲望は加速されるのだ。これは僕のいう「外部の想定によって内部は強化される」につながる。
外部(内部の欠如)を想定することによって、内部は強化される。僕と彼女という内部は強化される。
そしてこの欠如とは、「他者からの呼び声」である。この意味を、幻想を破り、本当に求めている
ものは、それか、問い続ける。それは幻想だと問い続ける欲動である。
このような欲望の構造において、ジジェクは二つの意味で解体することを示唆する。一つは、ボクが
いうところの、「単独性から偶有性の逆転(リバース)」である。これはデリダの脱構築を意味する。
その他の単独性の可能性の次元を開くのである。たとえば、その他の女性たちとの交流によって、
彼女へ思いは冷めるのかもしれない。彼女である必要などない、ということだ。
しかしそれだけでは不十分である。もう一つは、なにがこの欲望を想起する享楽という欠如を構成
しているのか、と問うことである。そこには享楽の核がある。そこでは、「その他の女性たちとの
交流してみろ。彼女は完全ではどない。彼女よりも理想の、完璧な女性がいるだろう。」という欠如
そのものが、彼女への思いと強めているのである。ただ解体するだけでは、ダメなのだ。欠如の
指摘そのものが、内部の強化に繋がるのだ。まさにこの次元の指摘が、デリダなどポストモダンと
ラカンを分けている点である。
250 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 01:12:07
*Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その3 人工知能の不可能性
■「ネットの欲望」
「ネットの欲望」とはこの短期間にウイルスのように広がったネットの力です。これは、どのような力
によって、これほどのダイナミズムを持ち得ているのか。それが「ネットの欲望」です。当然、ボクも
強い「ネットの欲望」の保持者でしょうし、素朴にこの本を受け入れる人々も保持者でしょう。このような
素朴さが力を生んでいるということです。
ボクが「ネットの欲望」「機械論の欲望」と言ったのは、ある種、人間そのものの「症候」としての
征服欲(無垢への欲望)が、ベタに作動しているなあ、ということです。
「人間を介さずに」といのがまさにキーワードですね。「いままでの様々な管理は人間を介したために、
ある人間の意図に支配されてきたために、様々な事件、戦争、虐待などなどが起こってきた。
それがもう人間を介さなくても良いんだ。そこには間違わない新たな神がいるんだ。このユートピアへ
向かうのだ。」という素朴さが、あるように思うんです。「人間を介さずに」という言葉は、まさに
「人間の意図」を隠蔽しているね。ということです。これもベタな幻想だね、ということです。
回帰し続ける「機械論の欲望」の現代版が「ネットの欲望」であると言いましたが、グーグル好意論
もそうですが、彼らは驚くほどに素朴です。これがフロイトの「糸巻き遊びの話」そのままだと
いえます。投げては引き寄せる糸巻き遊びは、自分であり、他者であり、「人間」です。彼らは
あたらなテクノロジーを操作することで、自分であり、他者であり、「人間」が、コントロールする/される
ことを望むのです。
251 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 01:12:42
■欲望の予測技術
グーグル好意の素朴論では、グーグルの優先順位は、いつも事後的に決まるということではないで
しょうか。誰かが、HPをつくる。そこへのアクセスする人、リンクする人が現れ、その結果からのみ、
グーグルの優先順位は決まっている。
そこにないのが、予測ですね。グーグルが目指すのは、人が求める情報を、いかに的確に提供
するか、それによって、より多くの人が、グーグルのリピーターになることです。このときに、ただ結果
のみの分析で良いのか。事後的だけだと時間差ができます。みながほんとうは求めているだろう
「良い情報」なのに、まだ多くのが見つけ切れていないと、アクセス数が上がるまでに時間がかかる
という、時間差ができてしまいます。このために、人々にとって、その情報が求められるかと予測し、
予め優先順位を上げる。すなわち、情報の質の判断です。
たとえば、わかりやすいのか、個人のHPと企業のHPの差ですね。広告料によって、優先順位は
かわるでしょうが、最近は映画などでも企業が、作品毎にHPが作られますが、このようなHPは、
グーグルに広告費を払わなくても、登録も早く、優先順位も上位に設定されるでしょう。それに比べて、
個人が自己紹介的なHPなどは、なかなか登録されません。
というような、予測と、情報の質の判断は行われています。いわば、この判断を人間を介さずにいかに
プログラム化するか、ということが、開発のポイントかも、しれません。「欲望」の予測ですね。さらに、
これを、プログラムでやっていても、その恣意性は人間が考えでプログラムとして組み込んだだけです。
252 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 01:13:15
■なぜ機械は(場の)空気を読めないのか。
なぜ「欲望」の予測のプログラムは不可能なのかは、人工知能のパラドクスに繋がります。予測とは、
事前にHPの「質」を判断するということですが、「なぜ機械に「質」は判断できないのか」は、「なぜ
人工知能は不可能なのか。」そのものでしょう。俗に言う「フレーム問題」であり、機械にはコンテクスト
(文脈)は読めないからですね。「機械は(場の)空気を読めないからです。」
問題は、「断絶」なのです。私と他者はどのようにも繋がっていないのです。他者が考えることは、
私には絶対にわからないのです。その「断絶」を補完するために「社会」があるのです。そしてこの
「社会」はまったくの「錯覚」なのです。だから他者が考えることをわかっているフリをしながら、
僕たちは生きているのです。
ボクたちは社会なるもの、言語体系なるものがあるという錯覚により、行為は可能になっています。
しかしこれはただの錯覚ではなく、僕達の「現実(リアリティ)」です。そしてこの「現実」を成り立たせ、
社会なるものがあるように成り立たせているのは、とにかく僕達が他者を欲望するからです。
言語より社会よりまず僕達は他者とコミュニケートしたいのです。むしろ、これは、生物学的な次元に
ある「他者から呼び声」への応答として、すでにコミュニケーションしているのです。断絶があり、その
断絶という隙間を埋めようとする、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」
が発生する。これが知能です。
人工知能はこの「断絶」を越えられないのです。人工知能と私の間の断絶の前に、人工知能は、
無限計算でフリーズするのです。人工知能には欲望がないからです。単に質の判断そのものは人間
が考えて、その都度ただプログラム化されて、走るだけで、そこに自ら予測する「知能」はないのです。
253 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 01:14:17
■知能があるかわからない。
人工知能問題の本質は、このような「フレーム問題」ではなく、「チューリングテスト」問題のように、
そこに知能があるということを、僕たちはどのように知るのか、ということです。これも「断絶」の問題
です。私は他者がなにを考えているか、決してわからない、ということは、それが「他者」(知能を
もった私以外の存在)であることを、知ることはできません。
コンピューターネットワークあるいは、「身体内の細胞と細胞」のような「複雑な相互関係」によって、
仮に閉じた内部に高い知能があっても、それが人間とのコミュニケーションという外部へ開かれて
いる、すなわち「断絶」を乗り越えられないと、ただの箱です。人間は「断絶」の乗り越えにおいて、
そこに知能があると錯覚するのです。
すなわち、「断絶」がなければ、そこに知能があるかわからない。そして「断絶」あると、人工知能は
「断絶」を越えられない。故に、「人工知能は存在しない」のですね。
254 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 01:15:17
■「人間を介さず」という魔法の言葉
人間と人工知能の差は「断絶」の乗り越えです。「断絶」があり、その「断絶」という隙間を埋めようと
する、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」が発生する。これが知能
です。そしてこの「断絶」こそがネットが爆発的に広がった理由そのものです。そこに他者と繋がる
可能性があることが欲望を想起しつづけるのです。それがボクが「ネットの欲望」あるいは「機械論の
欲望」と言ったものの本質です。
ネットコミュニケーションは、「断絶」を越えて繋がれる可能性、「断絶」が消失する可能性としてあり、
「人間を介さず」というグーグルの指針は、これをまったく同様な意味である。「人間を介さず、すなわち
断絶が消失する」という欲望を想起する魔法の言葉なのですね。
それが仕様。
これは僕が作ったもので、そういう仕様にしている。
明確な意思を持っているのであって、間違ったわけではない。
世界で一番美しいものを作ったと思う。
著名建築家が書いた図面に対して門の位置がおかしいと難癖をつける人はいない。
それと同じこと
一度言ってみたいものだ・・・
256 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 10:15:57
■ラカンとポストモダンとボクと
「クッションの綴じ目」=偶有性から単独性への転倒、まなざしの快楽
ボクは「偶有性から単独性への転倒に神性は宿る」といった。たとえば、ある女性を好きになる。
そして彼女は僕の女神になる。このときになぜその女性が好きになったのかの理由はたまたま
(「偶有的」)としか、言えない。しかし好きになったのであり、このたまたまであることの「不安」を
隠蔽するために、彼女は僕の女神だという「幻想」を見るのだ。
そして彼女は僕の女神であるのは、みなが彼女を「まなざし」ているからだ。そしてみなにまなざされる
彼女にまなざされる僕は、「この私」という「単独性」を手に入れる。
これは、ラカンの「クッションの綴じ目」理論で説明できる。シニフィアンの連鎖の中で、遡及的に
「クッションの綴じ目」として、意味が与えられる。その決定の不安において、幻想/S◇aは生まれる。
これは主体の物語である。斜線を引かれた主体/Sは、象徴界Aに参入し、「クッションの綴じ目」に
おいて、他者の中で主体S(A)を獲得し、象徴的同一性I(A)を果たす。
ボクの言う「まなざし」とは「他者(象徴界)」であり、象徴界の固定された位置によって、意味をもつ。
それは象徴的同一性I(A)によって、私の意味を獲得する。
257 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 10:16:43
対象a、享楽、欲動=無垢への欲望、「外部の想定によって内部は強化される」、他者からの呼び声
しかしラカンにおいてこれで終了しない。そこに「享楽」の次元へつなげる。享楽において、
「他者(象徴界)」は欠けている。S(/A)。まさにこの欠如がこの欲望自体を加速させ、幻想を
強化するのだ。
すなわち、彼女は僕の女神だというときに、そこにある欠如、たとえば彼女はわがままであるなどの
欠点であるとか、この恋愛に親の反対、ライバルの出現などがあるから、より彼女への愛は深まり、
欲望は加速されるのだ。これはボクのいう「外部の想定によって内部は強化される」につながる。
外部(内部の欠如)を想定することによって、内部は強化される。僕と彼女という内部は強化される。
これは障害があるほど恋愛は燃えるというラブストーリーの定石につながる。欲望は禁止そのものに
向かう、享楽を隠すように、欲望の原因である対象aは現れる。この対象aがボクがいう「無垢」であり、
それは禁止されることによって、より「輝く」のだ。
そしてこの欠如をボクは「他者からの呼び声」と呼ぶ。この意味を、幻想を破り、本当に求めている
ものは、それか、問い続ける。それは幻想だと問い続ける欲動である。
258 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 10:18:58
脱構築、「己の欲望に譲歩するな」=「単独性から偶有性の逆転(リバース)」」「芸術家の知」
このような欲望の構造において、ジジェクは二つの意味で解体することを示唆する。
>>
だからこそ「イデオロギー批判」には二つのたがいに相補的な手続きがあるというふうにいえる。
第一は言語的手続きであり、イデオロギー的テクストの「症候的読解」である。それはイデオロギー的
テクストの意味の無自覚的経験を「脱構築」する。すなわち、あるイデオロギー的領域が、雑多な
「浮遊するシニフィアン」のモンタージュの、つなりある「結束点」の介入によるそれらのシニフィアンの
全体化の、結果であることを示す。
もう一方の手続きは享楽の核を抽出し、あるイデオロギーがいかにして、意味の領域を越えて、だが
同時にそれに内在的に、空想の中に構造化されたイデオロギー的享楽を包含し、操作し、生産
するか、分節表現することを目標とする。
イデオロギーの崇高な対象 スラヴォイ・ジジェク P195 (ISBN:4309242332)
<<
259 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 10:21:43
一つは、ボクがいうところの、「単独性から偶有性の逆転(リバース)」である。これはデリダの脱構築を
意味する。その他の単独性の可能性の次元を開くのである。たとえば、その他の女性たちとの交流
によって、彼女へ思いは冷めるのかもしれない。彼女である必要などない、ということだ。
しかしそれだけでは不十分である。もう一つは、なにがこの欲望を想起する享楽という欠如を構成
しているのか、と問うことである。そこには享楽の核がある。そこでは、「その他の女性たちと交流
してみろ。彼女はきみが求める完全ではないことがわかるだろう。彼女よりも理想の、完璧な女性は
いくらでもいる。」といわれても、その彼女否定そのものが、そして彼女が完璧でない欠如そのものが、
享楽の核となり、彼女への思いと強めているのである。欠如という外部点があることによって、内部
としての「ボクと彼女」がより強化される。
だからただ脱構築するだけでは、ダメなのだ。欠如の指摘そのものが、内部の強化に繋がるのだ。
だからその「享楽の核」という外部点の存在を指摘する必要がある。これはラカンの「己の欲望に
譲歩するな」という倫理テーゼにつながる。ボクはこれを「芸術家の知」と呼んだ。幻想の向こうの
享楽へ向けて問い続ける。まさにこの次元の指摘が、デリダの脱構築などのポストモダンとラカンを
分けている点である。
260 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 10:58:20
しかしジジェクの二つの解体は、東のいうデリダ的脱構築と
ゲーテル的脱構築(否定神学)と対応するだろう。
デリダ的脱構築・・・「単独性から偶有性の逆転(リバース)」
ゲーテル的脱構築・・・象徴界の欠如、言語体系の不完全性
ここでまさにラカンとデリダは繋がる。
>>243 > なぜなぜ人間の行為全ては結局自然淘汰か?戦争も、虐殺も?ということですね。
この議論の発端は「断絶は淘汰か?」ですね。つまり、人間の行為は"自然"淘汰では確かに
ないわけですけど、質的に同じだということなのです。人間は身体的な変異ではなく、あえて未熟児
で出生することにより、後天的な適応を実現するところが特殊なわけですが、しかし、その新皮質の
後天的な回路形成は"自然淘汰的"なのですよ。まぁ、正確には社会淘汰ですが、原理は同一なのです。
ピカ氏は柄谷行人とか読んでるようですが、彼の「命がけの飛躍」というやつがありますね、或いは
ラカンで言うと「想像界の裂け目」とか。これは、あの時代にはそういう表現しかできなかったんでしょうが、
今はスモールワールド理論などで定量的に記述が可能だし、そうすべきなのです。
じゃあ「断絶」って何だと言ったら、それは個体から見たら社会が確率論的にしか記述できない、という
ことなんですよ。それは種が自然環境によって確率論的に選別されることと質的に同じです。
> >そういった人口ニューロン群によって脳回路を生成できるということにもなる。
> 成長しないからです。それは単なる鉱物でしかない。だから生物の補完物として可能なのです。
生物と鉱物を区別する必要は全くありませんよ。分子生物学以降、生物は情報になりました。
> なぜ「ゲーム脳」と同じ発想?
「ゲーム脳」っていうのは、ゲームやっている連中は外で元気に遊んでいる連中よりも脳が鍛えられて
ないんだという、いかにも体育会系教師の考えそうな発想ですよね。だから、身体が弱っても脳が健全で
あるということは可能ですよ、と言いたかっただけです。
余談ですが、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉は、"宿ればいいのに"という願望表現だそうです。
つまり、現実には丈夫な奴らはバカばっかりだということです。
262 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 17:16:28
>>261 もう「機械論の欲望」へ、猛進してしまっていますね。(笑)
むじんくんのいまの「機械論の欲望」は、人間社会も確率論的世界で記述される。ということですね。
この「システム論」的確率論的世界観に関して、むじんくんはベタな誤謬にはまっているのでは
ないでしょうか。
では少し、この当たりのことを語りましょう。
なんども言っていますが、ある街で年間に犬に噛まれて入院する確率は毎年だいたい決まっている。
というように、人間集団の行為は統計的に予測できる、ということです。
ただこれは、「人間の個性が消失するほどに」多くの母集団を対象にした、偶然性の世界のことです。
「そうだ!思い立った。今日は映画「サイレン」を見に行こう。」という一人の行為を予測するのは
不可能ですが、映画「サイレン」の今日の動員数はある統計によってある程度予測できるかもしれない。
これは、予測する母集団の違いですね。私一人か、日本人1億人か。
では進化と進歩の比較では、進歩の時間単位は数百万年単位の子孫の反復という母集団です。
進歩はどのような時間単位を考えるかです。1年、10年、100年、人類史数十万年?
たとえばここ1年の変化、女性にミニスカートが流行っているとうことを、身体の変化(進化的なもの)に
短絡するのは、この母集団の差を無視した誤謬なのです。
ここに、自然淘汰と社会淘汰の短絡であり、「ゲーム脳」の問題があるのですね。
>ピカ氏は柄谷行人とか読んでるようですが、彼の「命がけの飛躍」というやつがありますね、或いは
>ラカンで言うと「想像界の裂け目」とか。これは、あの時代にはそういう表現しかできなかったんでしょうが、
>今はスモールワールド理論などで定量的に記述が可能だし、そうすべきなのです。
???それを踏まえて、このことはなにを指しているのか、とうことです。
263 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 17:30:04
補足すると
精神分析も「機械論の欲望」か?というむじんくんの疑問がありました。
僕が本質的にはNO!といいました。精神分析が精神分析学でないのは、
精神分析の診断が、唯一性なものだからです。
すなわちいつも母集団は1人であることが、その理念なのです。
同じように人間を扱う、心理学、認知科学などが科学の科学の反復可能性をめざすのに対して、
精神分析はあえて、反復不可能性を目指すのです。
それは精神分析が、人間の「唯一のこの私」を尊重するからですですね。
そこには人間は、確率的側面以外のものである、という人間性の尊重があるのです。
そしてこの「唯一のこの私」は「断絶」という隙間に生まれるのです。
だから動物には「断絶」がないのです。
264 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 17:33:19
反復可能性→反証可能性
265 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/18(土) 17:37:35
斉藤環は最近、母集団1人の精神分析の限界を言っています。
精神分析は社会現象化するということです。
たとえば家に引きこもる人を引きこもりと呼びますが、
「引きこもり」が社会現象として語らえると、
それに影響されて「引きこもり」になるために家に引きこもる人が
増える、ということです。
多重人格も社会現象として増えていると、言います。
このために、現代では、精神分析とシステム論的観点を上手く
使わなければ、ということですね。
267 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 22:04:45
*Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その3 人工知能の不可能性
■「ネットの欲望」
「ネットの欲望」とはこの短期間にウイルスのように広がったネットの力です。これは、どのような力
によって、これほどのダイナミズムを持ち得ているのか。それが「ネットの欲望」です。当然、ボクも
強い「ネットの欲望」の保持者でしょうし、素朴にこの本を受け入れる人々も保持者でしょう。このような
素朴さが力を生んでいるということです。
ボクが「ネットの欲望」「機械論の欲望」と言ったのは、ある種、人間そのものの「症候」としての
征服欲(無垢への欲望)が、ベタに作動しているなあ、ということです。
「人間を介さずに」といのがまさにキーワードですね。「いままでの様々な管理は人間を介したために、
ある人間の意図に支配されてきたために、様々な事件、戦争、虐待などなどが起こってきた。
それがもう人間を介さなくても良いんだ。そこには間違わない新たな神がいるんだ。このユートピアへ
向かうのだ。」という素朴さが、あるように思うんです。「人間を介さずに」という言葉は、まさに
「人間の意図」を隠蔽しているね。ということです。これもベタな幻想だね、ということです。
回帰し続ける「機械論の欲望」の現代版が「ネットの欲望」であると言いましたが、グーグル好意論
もそうですが、彼らは驚くほどに素朴です。これがフロイトの「糸巻き遊びの話」そのままだと
いえます。投げては引き寄せる糸巻き遊びは、自分であり、他者であり、「人間」です。彼らは
あたらなテクノロジーを操作することで、自分であり、他者であり、「人間」が、コントロールする/される
ことを望むのです。
268 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 22:05:31
■欲望の予測技術
グーグル好意の素朴論では、グーグルの優先順位は、いつも事後的に決まるということではないで
しょうか。誰かが、HPをつくる。そこへのアクセスする人、リンクする人が現れ、その結果からのみ、
グーグルの優先順位は決まっている。
そこにないのが、予測ですね。グーグルが目指すのは、人が求める情報を、いかに的確に提供
するか、それによって、より多くの人が、グーグルのリピーターになることです。このときに、ただ結果
のみの分析で良いのか。事後的だけだと時間差ができます。みながほんとうは求めているだろう
「良い情報」なのに、まだ多くのが見つけ切れていないと、アクセス数が上がるまでに時間がかかる
という、時間差ができてしまいます。このために、人々にとって、その情報が求められるかと予測し、
予め優先順位を上げる。すなわち、情報の質の判断です。
たとえば、わかりやすいのか、個人のHPと企業のHPの差ですね。広告料によって、優先順位は
かわるでしょうが、最近は映画などでも企業が、作品毎にHPが作られますが、このようなHPは、
グーグルに広告費を払わなくても、登録も早く、優先順位も上位に設定されるでしょう。それに比べて、
個人が自己紹介的なHPなどは、なかなか登録されません。
というような、予測と、情報の質の判断は行われています。いわば、この判断を人間を介さずにいかに
プログラム化するか、ということが、開発のポイントかも、しれません。「欲望」の予測ですね。さらに、
これを、プログラムでやっていても、その恣意性は人間が考えでプログラムとして組み込んだだけです。
269 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 22:06:31
■なぜ機械は(場の)空気を読めないのか。
なぜ「欲望」の予測のプログラムは不可能なのかは、人工知能のパラドクスに繋がります。予測とは、
事前にHPの「質」を判断するということですが、「なぜ機械に「質」は判断できないのか」は、「なぜ
人工知能は不可能なのか。」そのものでしょう。俗に言う「フレーム問題」であり、機械にはコンテクスト
(文脈)は読めないからですね。「機械は(場の)空気を読めないからです。」
問題は、「断絶」なのです。私と他者はどのようにも繋がっていないのです。他者が考えることは、
私には絶対にわからないのです。その「断絶」を補完するために「社会」があるのです。そしてこの
「社会」はまったくの「錯覚」なのです。だから他者が考えることをわかっているフリをしながら、
僕たちは生きているのです。
ボクたちは社会なるもの、言語体系なるものがあるという錯覚により、行為は可能になっています。
しかしこれはただの錯覚ではなく、僕達の「現実(リアリティ)」です。そしてこの「現実」を成り立たせ、
社会なるものがあるように成り立たせているのは、とにかく僕達が他者を欲望するからです。
言語より社会よりまず僕達は他者とコミュニケートしたいのです。むしろ、これは、生物学的な次元に
ある「他者から呼び声」への応答として、すでにコミュニケーションしているのです。断絶があり、その
断絶という隙間を埋めようとする、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」
が発生する。これが知能です。
人工知能はこの「断絶」を越えられないのです。人工知能と私の間の断絶の前に、人工知能は、
無限計算でフリーズするのです。人工知能には欲望がないからです。単に質の判断そのものは人間
が考えて、その都度ただプログラム化されて、走るだけで、そこに自ら予測する「知能」はないのです。
270 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 22:07:38
■知能があるかわからない。
人工知能問題の本質は、このような「フレーム問題」ではなく、「チューリングテスト」問題のように、
そこに知能があるということを、僕たちはどのように知るのか、ということです。これも「断絶」の問題
です。私は他者がなにを考えているか、決してわからない、ということは、それが「他者」(知能を
もった私以外の存在)であることを、知ることはできません。
コンピューターネットワークあるいは、「身体内の細胞と細胞」のような「複雑な相互関係」によって、
仮に閉じた内部に高い知能があっても、それが人間とのコミュニケーションという外部へ開かれて
いる、すなわち「断絶」を乗り越えられないと、ただの箱です。人間は「断絶」の乗り越えにおいて、
そこに知能があると錯覚するのです。
すなわち、「断絶」がなければ、そこに知能があるかわからない。そして「断絶」あると、人工知能は
「断絶」を越えられない。故に、「人工知能は存在しない」のですね。
271 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/18(土) 22:08:22
■「人間を介さず」という魔法の言葉
人間と人工知能の差は「断絶」の乗り越えです。「断絶」があり、その「断絶」という隙間を埋めようと
する、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」が発生する。これが知能
です。そしてこの「断絶」こそがネットが爆発的に広がった理由そのものです。そこに他者と繋がる
可能性があることが欲望を想起しつづけるのです。それがボクが「ネットの欲望」あるいは「機械論の
欲望」と言ったものの本質です。
ネットコミュニケーションは、「断絶」を越えて繋がれる可能性、「断絶」が消失する可能性としてあり、
「人間を介さず」というグーグルの指針は、これをまったく同様な意味である。「人間を介さず、すなわち
断絶が消失する」という欲望を想起する魔法の言葉なのですね。
>>262 > では進化と進歩の比較では、進歩の時間単位は数百万年単位の子孫の反復という母集団です。
> 進歩はどのような時間単位を考えるかです。1年、10年、100年、人類史数十万年?
> たとえばここ1年の変化、女性にミニスカートが流行っているとうことを、身体の変化(進化的なもの)に
> 短絡するのは、この母集団の差を無視した誤謬なのです。
よく分からないんだけど、母数の問題なのかな(笑)。ある個人の歴史的記述を統計的に語るというのが
おかしいという話なんでしょう、きっと。それはそうです。しかし、そのことと、社会が確率論的である、
確率論的にしか記述され得ないということは別に矛盾しないでしょ。
断絶っていうのは、社会との関連が確率論的でしか語れないこと以外の意味があるんだろうか。動物は
そこがもう決定されているから、確率もへちまもなく、ただ本能に従うわけですが、人間はそこで不安を
感じてしまうと。
ミニスカートの話も同じですけど、流行を自然淘汰的説明をしないならば、形而上学になっちゃいますね。
273 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:24:56
>>272 >よく分からないんだけど、母数の問題なのかな(笑)。ある個人の歴史的記述を統計的に語るというのが
>おかしいという話なんでしょう、きっと。それはそうです。しかし、そのことと、社会が確率論的である、
>確率論的にしか記述され得ないということは別に矛盾しないでしょ。
いや、統計はどうでもいいんですが、要するに統計学で語れれば、
そんな楽なことは無いってことでしょう。そもそもむじんくんが
統計学的に生きられないことは明白ですからね。
>断絶っていうのは、社会との関連が確率論的でしか語れないこと以外の意味があるんだろうか。動物は
>そこがもう決定されているから、確率もへちまもなく、ただ本能に従うわけですが、人間はそこで不安を
>感じてしまうと。
まあ、確率論というのが基礎が無い学問ですから(哲学に比べればね)
貴方の言う断絶というのも、多分東あたりから引っ張ってきてるんでしょうけども。
274 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:26:43
>ミニスカートの話も同じですけど、流行を自然淘汰的説明をしないならば、形而上学になっちゃいますね。
そもそも形而上学を理解しているのでしょうかね?
>>273 こちらは偽ぴか氏ですか。
> いや、統計はどうでもいいんですが、要するに統計学で語れれば、
> そんな楽なことは無いってことでしょう。そもそもむじんくんが
楽じゃないですよね。皆確定論的に生きようとしています。
> 貴方の言う断絶というのも、多分東あたりから引っ張ってきてるんでしょうけども。
断絶って本物ぴか氏の言葉なんですが(笑)。東って何ですか?
>>274 > ミニスカートの話も同じですけど、流行を自然淘汰的説明をしないならば、形而上学になっちゃいますね。
> そもそも形而上学を理解しているのでしょうかね?
ミニスカート流行を自然淘汰と同じ原理で語らなければ、あるミニスカートには必然的に流行する何かが
あると考えることになる。これは、キリンが首が長いのは、長くなるべくしてなったという話と同じ、目的論的、
形而上学的思考です。
277 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:32:39
>>275 >東って何ですか?
東浩紀の動ポモですよ。
断絶の元ネタでしょう。
278 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:34:55
>>275 >こちらは偽ぴか氏ですか。
むじんくんは初めての方ですか?
偽者と仰いますが、公開トリップという概念をご存知ないようですね。
マイノリティー問題ですか?
280 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:40:00
>>278 >楽じゃないですよね。皆確定論的に生きようとしています。
過去ログ読んでないので、確定論的が何を指すのか
不分明ですが、システム論的な話をしている訳ですよね?
で、それは宮台あたりのシステム論を持ってきてる訳でしょう。
本物(貴方の言い方で言えば)の論はこれを水増しして薄めて
言ってる訳ですね。
>むじんくん、その他の方々
円滑な議論を進めるためのお願いです。
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerUは徹底放置してもらえると助かります。
>>280 > で、それは宮台あたりのシステム論を持ってきてる訳でしょう。
宮台さんとい人は、テレビでしか見たことありません。ああいうのは困ったものですね(笑)。
そういう意味で、当事者性のない記述っていうのは僕も尊敬しませんよ。
283 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:43:41
>>282 >宮台さんとい人は、テレビでしか見たことありません。ああいうのは困ったものですね(笑)。
>そういう意味で、当事者性のない記述っていうのは僕も尊敬しませんよ。
でも、貴方は確か、統計学な視点を持って是としているのでしょう?
それは宮台一派のシステム論を真に受けた結果としてあるのでは?
284 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:44:53
>>279 >マイノリティー問題ですか?
ん?よくわかりません。
統計学とかシステム論の話ではないですかね。
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerUは数年間、ボクに粘着しつづける荒らしです。
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerUにレスする方もまた荒らしとして、
放置させていただきます。あしからず。
286 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:46:01
>>281 >円滑な議論を進めるためのお願いです。
>ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerUは徹底放置してもらえると助かります。
別に放置しなくても、円滑な議論は行われていますよ。
287 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 01:51:14
>>285 >ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerUは数年間、ボクに粘着しつづける荒らしです。
>ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerUにレスする方もまた荒らしとして、
>放置させていただきます。あしからず。
いいですか?削除ガイドラインには、
>固定ハンドルが題名に入っている・固定ハンドルが占用している・
>閉鎖的な使用法を目的としている・等は、自己紹介板・最悪板・夢・
>独り言板・おいらロビー・なんでもあり板・PINKのなんでもあり板以外では、
>原則として全て削除または移動対象にします。
とあり、
>>1に個人サイトの宣伝リンクつけてるような
スレは削除対象ってことですよ。
288 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 02:03:03
今さっき、だいたいのログ見ましたが、
例の統計、システム以外は特に大したことないですね。
元ネタから持ってきたものでしょう。
289 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 02:22:07
宣伝してるブログ
>>1(削除対象)も見てみましたが、
これも人のブログからのパッチワークですから、
ある意味ポストモダンですね。
試しに、#虹で、カキコしてみるね(w
291 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 02:43:30
292 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/19(日) 03:23:02
>>272 荒らし放置にご協力ありがとうございます。
統計学は、変数と母数の問題ですよ。対象の変数にたいして、十分に母数が大きいときに、
確率論は成立するのですよ。
だから個人を確率論で記述しようとしても、多量の変数に対して、母数が1ですから、記述
できないのです。
たとえば地震の予測もできないですね。100年周期に対して、データの母数が少なすぎます。
さらに精度の問題もあります。地震は確率論的に予測されていますが、10年の精度でも当てるのは
むずかしい。
だから流行も確率論(自然淘汰)で語ることはできません。流行は10年周期で繰り返すなど
ありますが、実際は人類の歴史に反復がない。だから母数は1です。
「断絶」はボクが作った言葉です。そしてその意味を理解していないだけです。(笑)
「断絶」は動物に心を宿る条件、すなわち「この私」という母数を1にする条件です。
293 :
考える名無しさん:2006/02/19(日) 03:25:23
_,,-―────--,,_ /_, ー──,_'\
/ `ヽ、 ,r-=・=-∴-=・=-\
/ -=・=-∴-=・=- \ .| '"ー=〓=-'` .:|
/ ー=〓=- ヽ ..|. `ニニ´ .:::::|
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| -=・=-∴-=・=-.:::| ー=〓=- .::::::| | -=・=-∴-=・=-.::::::|
| .::::::| `ニニ´ \| ー=〓=- .::::::|
| ー=〓=- .:::::| .:::::|
\ `ニニ´ .:::::/\ . .. .:::::/
/`ー‐--‐ 要するに今はふまいっちょおまんじゃろ?
294 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 03:30:45
>>292 >「断絶」はボクが作った言葉です。そしてその意味を理解していないだけです。(笑)
>「断絶」は動物に心を宿る条件、すなわち「この私」という母数を1にする条件です。
いや、だから東の動ポモを前提とした概念だろうと言ってる訳ですがね。
オリジナルではないでしょう。
295 :
考える名無しさん:2006/02/19(日) 05:09:28
偽物ぴかぁちゃんがんばれ、本物ぴかぁちゃんもっとがんばれ、いきいきがんばれ
またぴかぁ〜と純一か
297 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :2006/02/19(日) 10:49:17
292
今は統計よりもベイズ理論が主流なんですがそこらへんはどうなのですか?
「まつうらあや」が、無意味にフェチ心をくすぐるような、
ビニール製のロングブーツとロンググローブを着けている写真を見る。
彼女が幾つかしらないが、最近のアイドルは、かわいらしく、
かつ大人の心をくすぐるような、微妙にエロティックな格好をしているのをよく見かける。
同じような年頃の少女らが同じような格好をしたいと望んでも拒むことはできないだろう。
しかし、親達は、一方では、テレビのアイドルの可愛さを認めながら、
自分の娘にはそれを禁止しなければならない。どうやって説得するのだろう。
ここには「規律」というものの無根拠性、言い換えれば、胡散臭さがある。
教室で授業中に騒いで席を離れるいる生徒、図書館で机に座り騒ぐ生徒や本を
返さないで紛失して金で返そうとする生徒、皆に羨ましがられる衣装をつけたがる少女。
彼等にどのようにその「規律」が「正しい」ことを教えればいいのだろう。
「規律」とは本来無根拠である。(進化論的な背景がある場合もあるが、それを成員が自覚しているはずはないので)
「そうだからそうなのだ」としか言えないものなのである。それを支えるのは文脈である。惰性である。
もっといえば、押し付ける側の無根拠な権威と教えられる側の無根拠な従順さのある空間である。
言語の習得と同じく、ここには「そうだからそうなのであって、みんながしているようにしないといけない。
そうでないと権威者が暴力的に振る舞う」という、一種の暴力が存在している。
その無根拠な暴力性が、別の暴力である理性によって斬られようとした時に、「規律」は崩壊する。
「なぜヒトを殺しちゃいけないの」「何故教室で騒いじゃいけないの」
「何故皆が可愛いと思うあんな格好をしちゃいけないの」。
ことあげし理由を問うという、理性という別の「暴力」が働く時、「規律」を守る方法は、
「規律」も「理性」で防衛することだけである。
だから最近、道徳が崩れた時には、二つの選択肢があるが両方が称揚されるのだろう。
一つはひたすら「道徳」を言い立て早期の「教育」すなわち権力への屈従をしいる立場である。
もう一つは、理性によって、規律の根拠付けをする倫理学や進化心理学の発展を促す力である。
299 :
考える名無しさん:2006/02/19(日) 18:43:00
晒しあげ
>>298 > 「規律」とは本来無根拠である。(進化論的な背景がある場合もあるが、それを成員が自覚しているはずはないので)
>「そうだからそうなのだ」としか言えないものなのである。それを支えるのは文脈である。惰性である。
ここからシステム論へと向かう訳ですね。
>>292 > だから個人を確率論で記述しようとしても、多量の変数に対して、母数が1ですから、記述
> できないのです。
いや、ぴか氏が主張していることは違うんじゃないですか?つまり、歴史と科学の相違のような
ことを言っているのだと思います。
ある特定個人を扱うにしたって、"科学的"に人間を扱えば統計的にも描けるが、歴史的に扱う
ならば統計的表現にすりかえるのはおかしいのだと。例えば、自分の親が交通事故で死んだとして、
歴史的に語ることはできるが、それを「年に10000人は日本で交通事故で死亡します」という
表現にはできないだろう、そういうことではないですか?
ただ、今までだと歴史というのは文系の人間にとって聖なる領域だったわけですが(笑)、最近の
スモールワールド理論などだと、その辺が数学的に落とせてしまうんじゃないかと思うんですね。
そこで先駆的だったのは、ダーウィンなんかだったと思うわけです。そして、フロイドはダーウィンを
尊敬してました。
"一回性"というのは、つまりは科学で記述不可能なぐらい複雑であるということを言い換えたもの
です。そして、科学は基本的に世界を単純な式へ変換することを目指すわけですから、そこで
何となく皆納得してたわけですよ、ちょっと前までは。ところが、あえて世界を還元せずに、そのような
複雑な世界が生成するのは如何にしてか、という視点による記述をしようという流れが出てきました。
それが複雑系だったり、人工知能であればフレーム問題などを起こさない、ボイドのような発想
だったりするわけです。
これは、ぴか氏が主張する"一回性"を記述できちゃうんじゃないか。そして、一方でそれは世界を
もはや確率論的にしか記述できないとする。これは別に矛盾しないんですね。
フレーム問題でちょっと思ったんですけど、統合失調の発病前の状況と似てますよね。
中井久夫氏によれば、発病前に猛烈に勉強して世界を一つの式にしてしまおう、偶然の
無い世界にしてしまおう、そう思い込んでしまうことが結構あるらしいです。そして、それは
必ず破綻するのでそこで発病したりすると。これはフレーム問題に人間が突き当たって
しまったといえますね。
ヴィトゲンシュタインは中井久夫氏によると、限りなく発病すれすれのところを生きた人
らしいんですけど、実際、「論理哲学論考」を書いたときはかなり危なかったらしいです。
しかし、「語りえないもの」を認め、自分の論考を「捨てるべきもの」と語るほどに優れた知性
だったため助かったのだと(笑)。
現在の人工知能は後期ヴィトゲンシュタイン的なんじゃないですかね。
303 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/19(日) 22:36:01
>>298 なかなかストイックですね。最近は、「まつうらあや」以上のカッコウぐらいだれでもしているのでは
ないでしょうか。むしろ男性のもつ女子の清純さの幻想を支えているのではないでしょうか。
しかし「規律」の無根拠性、権力性を嘆くのも違うような気がしますね。
「規律」は無根拠であるというよりも、「規律」を守ることが、社会の形成の要因になっていますね。
社会があるから、貨幣の価値が保証されるのでなく、みなが貨幣の価値が保証されているように、
振るまうことが、社会の成立を支えている、ということです。
そしてさらには、反社会的な、あるいは反「規律」的なことへの欲望は、この無根拠な社会の、規律を
より強化する効果があるということです。社会の不完全性こそが社会の愛しさを支えている、という
ことです。「なぜヒトを殺しちゃいけないの」「何故教室で騒いじゃいけないの」 「何故皆が可愛いと
思うあんな格好をしちゃいけないの」に、大人が明確に答えられないことが、子供を社会に
向かわせる、無根拠な「規律」を守る要因になっている、ということです。人がなぜ社会に参加する
のか、「規律」を守るのかは、「権力への屈従」でも、理詰めの説明でもなく、社会の、そして私への
愛おしさなのですね。
欲望とは、禁止(反社会的)なことへ向かいます。これは、逆説的にとても社会的な行為なのです。
最近の問題は、反社会ではなく、脱社会性ですね。脱社会的な人たちは、反社会的な、あるいは
反「規律」的なことへの欲望がない。「なぜヒトを殺しちゃいけないの」「何故教室で騒いじゃ
いけないの」 「何故皆が可愛いと思うあんな格好をしちゃいけないの」ということを考えない。
だから社会の不完全性に愛しさを覚えない。
ボクはこのような傾向に対して、「フリータの知」を紹介しています。
304 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/19(日) 23:34:37
>>301 話が循環し始めました。先にあげた、科学の反証可能性と精神分析の反証不可能性(1回性)ですね。
歴史は反証不可能、1回性です。だから母数の問題です。
>例えば、自分の親が交通事故で死んだとして、
>歴史的に語ることはできるが、それを「年に10000人は日本で交通事故で死亡します」という
>表現にはできないだろう、そういうことではないですか?
自分の親を1回性(母集団1)とするか、日本人1億人という母数の一人として見るか。
それはそうとして、話を進めると、むじんくんがいうこれがイメージできない。
どこにブレークスルーがあるのでしょうか。
>最近のスモールワールド理論などだと、その辺が数学的に落とせてしまうんじゃないかと思うんですね。
>ところが、あえて世界を還元せずに、そのような
>複雑な世界が生成するのは如何にしてか、という視点による記述をしようという流れが出てきました。
>それが複雑系だったり、人工知能であればフレーム問題などを起こさない、ボイドのような発想
>だったりするわけです。
>これは、ぴか氏が主張する"一回性"を記述できちゃうんじゃないか。そして、一方でそれは世界を
>もはや確率論的にしか記述できないとする。これは別に矛盾しないんですね。
それが科学である以上、反証可能性の世界です。反証可能性の世界は、1回性を記述できない、
ことにはかわりはないと思います。
305 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/19(日) 23:47:03
>>302 そうですね。人間がフレーム問題の無限計算を乗り越え可能なのは、その判断が
必ずしも最適でなくても「他者」(象徴界(大文字の他者))がそれが正解だと指示する
からですね。ラカンによると、統合失調(精神病)は、象徴界の排除と考えられますから、
フレーム問題を起こすことに繋がります。
そしてフレーム問題は、ヴィトの論考の規則のパラドクスそのままですね。
規則を決定する規則はない。ここからクリプキは、人間が規則を行使できるのは、
社会があるからだ、すなわちラカンの象徴界を同じような考えています。
だから後期ヴィト的な人工知能が作れないから、すなわち空気を読める人工知能は、
できない、ということでしょう。
>>304 > それが科学である以上、反証可能性の世界です。反証可能性の世界は、1回性を記述できない、
> ことにはかわりはないと思います。
反証可能性という話はよく理解できずにいるんですけど、例えば天気がどうなったという話を
する際、この基準の範疇なんだろうか。別に複雑系を知ったから天気予報ができるわけでも
ないですしね。
且つ、ある天候はユニークである。歴史的と言ってもよいわけです。その辺をシュミレートはできるが、
しかし決定論的記述は不可能として複雑な天候なら天候をそのまま放っておくというのが新しい展開
ですね。
複雑な世界が展開されます。終わり。では何の意味があるかといえば、世界生成の仕組みを
定量的に押さえることができるからです。そういった観点のAIは既に簡単なやつは映画とかで
使われてますよね。「ボイド」もアニメ作っていた人が考えたわけです。
308 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 01:22:30
>>306 反証可能性とは、科学はある証明に対して、それを検証し、そしてそれは間違っているよと言える可能性に
開かれていないといけないというホパーの唱えた理念ですね。ここでは、1回性は科学ではないということです。
天気予報というのは、正確には、反証可能性はないでしょう。
それよりも現在の天気予報は、数学的な予測ではなく、アメダスの画像などから、気象庁の人が経験的に
頭で決めているのではなかったでしょうか。
もしかすると、むじんくんの話は単なる「コンピューターシミュレーション」の話をしているのでしょうか。
「コンピューターシミュレーション」は、対象を小さなメッシュにきり、単純計算の反復(繰り返し)計算によって、
近似させるものです。すなわちメッシュがより小さいほど、すなわち母数多いほど正確ということです。
しかしそれ以前に、元になる計算式が実際とあるか、など様々な近似要因があります。
そして「コンピューターシミュレーション」は、たとえば材料へ変形や、温度拡散などのその事象そのものが、
反証可能なものには有効ですが、一人の人間の行動や、歴史、あるいは経済などの予測できません。
反復されない不確定要因が多いためです。
経済は近似的なっているといっても、まだまだで、競馬シミュレーションで
大もうけと同じで、胡散臭い話なのですよ。
309 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 01:33:49
ボイドってこれ?
具体的な実行からシミュレーションに移れば、われわれは人工生命(AL)に行き着く。これは自然に
生きているシステムの行動の特徴を示す、人造システムの研究である。ALの一つの例がレイノルズの
架空の生き物であるボイド、言ってみれば鳥や魚のようなものが群れ集う行動を示すコンピュータ・
モデルだ。群れは、たとえば障害物の両側を分かれて通った後に、再び一つにまとまる。この行動を
指導する管理者はいない。各々のボイドは、隣のボイドと障害物から最小限の距離を保ち、スピードを
隣のものにそろえ、近接したボイドの中心とおぼしきところに向かって進むという、比較的単純な
局所的規則にしたがっている。にもかかわらず、そこからボイドたちの自発的かつ大域的な、鳥に
似た行動が生まれる。
http://nbsakurai.exblog.jp/m2004-10-01/ 人工知能と人工生命はぜんぜん違いますよ。人工生命はコンピューターウィルスしかり、
簡単なものでも、生命的な振るまいをしますね。この程度のことで、人工知能であり、
シミュレーションを、ものすごいものと語るのはいかがなものかと。
>>308 > 反証可能なものには有効ですが、一人の人間の行動や、歴史、あるいは経済などの予測できません。
> 反復されない不確定要因が多いためです。
いや、予測ができる/できないはどうでもいいんですよね。定量的な記述ができれば。ここでの話は、「断絶」とか
「歴史」という言葉でしか表現できなかったものが、数学的記述へ落とせるということが重要で、予測はどうでもいい
んじゃないですか?そして、「断絶」とは何かといったら、完全に予測しようとしたら
>>305のようなことが発生して
しまうということであると。つまり、確率論的にしか世界は立ち現れないということと等価だということです。
>>309 > 人工知能と人工生命はぜんぜん違いますよ。人工生命はコンピューターウィルスしかり、
> 簡単なものでも、生命的な振るまいをしますね。この程度のことで、人工知能であり、
> シミュレーションを、ものすごいものと語るのはいかがなものかと。
いや、しかしヘーゲルは似たように考えていたわけです。精神がいかにして「我」を語るに至るかと。
それがシュミレートできるんだったら、人工知能はできるってことでしょう。少なくとも質的問題は
ないということになる。
>>308 > 経済は近似的なっているといっても、まだまだで、競馬シミュレーションで
> 大もうけと同じで、胡散臭い話なのですよ。
ちなみに、あらゆる賭博で勝つ方法は「確率論的」にゲームと向き合うことです。統計とって
「予測」するという方法は最悪。自分が統計の中にいることを知ることですね。
313 :
考える名無しさん:2006/02/20(月) 02:06:33
もう寝ろよお前ら・・・
314 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 09:18:45
>>310-312 この話題もにつまってきましたね。
なにかまた技術的にブレークスルーがあったときは、おしえてください。
>>314 整理すると、フレーム問題は人工知能が乗り越え不能なだけでなく、人間の知能でも乗り越え不能である。
動物は遺伝的に既定された本能でフレーム問題を抑止するが、人間は文化でそれを行っている。そんな
ところでしょうか。そして、抑止方法は自然淘汰的に決定されており、それを観測する際には確率論的
記述しかできないのだと。
抗精神病薬っていうのは、脳がフレーム問題を起こさないように天井を設ける効果が
あるんでしょうね。「何か物事を突き詰めて考えることができないんです」と薬飲むと
患者が訴えることが多いらしいですから。
逆に、過去にそういう大脳へ変異した種がいたかも知れませんが、フレーム問題で
淘汰されたという仮説もなりたつ。頭のイイ人は既にいなくなっている(笑)。知性よりも
感性が優位ということですかね、進化論的には。
「心の貧しきものは幸いなり」か。歴史に耐えてきた宗教というのは偉大なのですねぇ。
318 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 10:52:59
めずらしく、むじんくんがまとめを(笑)
フレーム問題というのはいかに自立的な判断は可能か、ということです。
人工知能では判断の最適化がめざされるわけですが、そうすると意味の宙ずりで決定できないわけです。
動物(動物群)は内的プログラムにしたがって判断するだけ。
「断絶」された人間はみな(社会)がそうすることが正しいという錯覚により判断する。
抑止方法が自然淘汰的に決まっているというのはよくわかりません。
319 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 11:06:22
むじんくんの気持ちはよくわかります。ボクも「機械論の欲望」大好きで
宇宙の法則から人間の心まで大統一的に語るのは楽しいです。
しかしそれとともにもう少し自然主義的誤謬に敏感にあるべきだと思います。
ボクがラカンが好きなのは徹底的に「大統一論」から人間を断絶させるところです。
それが象徴的なテーゼが「性関係は存在しない」です。
そしてラカンは統一論では表記できない「この私」としての人間をよく記述しているのです。
320 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 11:40:19
進化論はその強烈さからたえず誤謬されてきたわけですね。
一番は人間は進化の先端にいる、という人間優越論です。これは優生学など人間内にも進化論的に優劣があるという差別につながります。
逆には人間も動物だというものですね。質的な差はなく、量的な差だけだ。人間を身体に還元し、心をなおざりにする。科学全般です。
そしてこれの反発として人間と動物の断絶、人間の一回性、心の救済が尊重される。現代のリベラルな社会はこれをもとに秩序化されています。
現代はこの二重性に生きています。
しかしダーウィンは最初からこれらと違います。動物も豊かであり心があると考えます。
人間は動物だと、人間と動物は断絶している。ではなく、いわば動物も「人間」だという立場ですね。
むじんくんは人間は動物だであり、ボクは人間と動物は断絶している。ですね。
まだ誰もダーウィンの域に達してないのです。
>>318 > 抑止方法が自然淘汰的に決まっているというのはよくわかりません。
それは、
> 動物(動物群)は内的プログラムにしたがって判断するだけ。
この内的プログラムは自然淘汰によって既定されたもので、
> 「断絶」された人間はみな(社会)がそうすることが正しいという錯覚により判断する。
社会的な淘汰によって既定されている。しかし、全体としてみたら人が棲む環境へ
ちょっとへそが曲がった形で適応していると言ってよいわけです。ドーキンスの言葉で
言う「ミーム」ですかね。
遺伝的な本能プログラムが未発達の状態で生まれる"人間"という種が出てきたとき、
目の前の世界は無限の可能性を持つモノとして露出してしまうわけで、そこで言語などで
生の現実を減圧する。しかし、ぴか氏が言うように断絶が知性をつくるわけですけど、
それは当然フレーム問題を抱えているわけで、どこかで打ち止めにしなければならない。
文化というのはそういう機能を持つものだと思います。
宗教というものはその代表だと思います。宗教的感覚というのは脳のどこの部位にあるかは
もうかなり前からわかってますが、その進化論的優位性はフレーム問題を考えると筋が
通りますね。知性のみではフレーム問題で破綻してしまうので、逆に"考えない"能力が
必要であり、そこに快をもたらす仕組みを持つ種が淘汰で生存してきたのだと。逆に言えば、
暴力的なまでに機械論的であるためには、裏側に信仰が無いと厳しいということです。
>>319 > 宇宙の法則から人間の心まで大統一的に語るのは楽しいです。
複雑系とかの場合には、客体としての世界を大統一的に語ることを放棄してるんじゃないですか?
322 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 12:03:28
むじんくんの誤謬はただ徹底的にマクロ論に語るところでしょう。
たとえば宇宙はビックバンに始まり、最後は拡散し死の世界になる。これはシミュレーションに簡単にもとまる。
地球の生命など揺らぎだ。まして私の一回性などなにものではない。
これは間違いではないでしょうが、この言説には必ず裏があって「だから僕なんてどうなってもいいんだ」と欲望が隠されています。
この手のマクロ、ミクロの短絡は欲望論のセオリーそのままです。
これをボクは「機械論の欲望」と呼ぶのですが、なんどもいうようにむじんくんも同じなのです。
だからどのスケールを語るか明確にしないといけないということです。
323 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 12:06:03
まあ、あとは欲望の宝庫である機械論スレでやるのがよいでしょうね。
>>322 > むじんくんの誤謬はただ徹底的にマクロ論に語るところでしょう。
でも、理論となればそうなってしまいますね。精神分析だって同じでしょう。しかし臨床の場では
違うんだと。つまり、視点を落とすならば、その記述は文学になります。
僕が言うことを等身大の視点に落として語れば、信仰を持つものは純粋な"賭け"ができるが、
持たないものはできない。フレーム問題に突き当たるということです。そして、我々の社会は
ますます人間に純粋な"賭け"をしろと迫っている。
325 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 12:27:47
理論はマクロとミクロの短絡などしない。脳内の宗教ニューロンなど、ゲーム脳以上に笑い者です。
賭けを迫る社会=ジャングル化する社会
だから「フリーターの知」は許さないとならない。
やっとここまできましたね。(笑)
>>325 > 理論はマクロとミクロの短絡などしない。脳内の宗教ニューロンなど、ゲーム脳以上に笑い者です。
しかしぴか氏の「生き生き哲学」はまさしくマクロとミクロの混同の賜物じゃないですか(笑)。僕は等身大の
視点というのは別物として記述してないから混同してませんね。
広く宗教的感情とされるものが、脳のある部位に既定されているというのは昔から言われてますね。
ゲーム脳は誰も確認してません。
>>325 > だから「フリーターの知」は許さないとならない。
いや、違います。賭けてないでいる存在=ブルジョアとの闘争があるということです。
> やっとここまできましたね。(笑)
328 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 14:47:37
たとえば宗教的なものと宗教を分ける必要があります。キリスト教ニューロンと仏教ニューロンがあるとはいわないですね。
賭け社会の不確実さはブルとプロレの素朴な対立も解体しますよ。
329 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 18:04:13
ボクは西洋思想が死の哲学である。そしてそれが動物/人間の対立という形而上学につながるといった。
これはまた否定神学なのである。
それに対して東洋的な生の哲学では動物/人間の対立は解体される。
これはハイデガーの「良心の呼び声」とボクの「他者からの呼び声」にも対応する。
デリダはハイデガーの「良心の呼び声」を否定神学と呼ぶ。それは死の一回性、死の引き受けとしての自己同一性を保障するからだ
しかしボクの「他者からの呼び声」はなにも保障しない。生とは失われた集団性自己同一性をうしなった集団の一部、
様々なものの可能性である複数性、デリダ的には幽霊的ということになるだろう。
330 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 18:37:42
集団性をすでにある力としての生と呼んだが、これは主体の死でもある。
だから「他者からの呼び声」とは主体の死の欲望でもあるといえる。
331 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 18:55:09
「他者からの呼び声」の地点は享楽と呼ばれる。主体を集団性に溶解する地点である。
しかしそれは失われた地点であり、そこに引かれながらその力は社会の中の主体へと転倒される。
ここには主体維持の循環が見いだせるだろう。
社会へ参入→主体獲得→違和感(不安)→欲望→享楽(集団性=主体溶解)→社恐怖→より社会へ参入→
332 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 19:13:35
これによるとデリダの(原)エクリチュールは現実界にある、享楽である。
333 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 19:43:48
■主体というダイナミズム
ボクは西洋思想が死の哲学である。そしてそれが動物/人間の対立という形而上学につながると
いった。これはまた否定神学なのである。それに対して東洋的な生の哲学では動物/人間の対立は
解体される。これはハイデガーの「良心の呼び声」とボクの「他者からの呼び声」にも対応する。デリダ
はハイデガーの「良心の呼び声」を否定神学と呼ぶ。それは死の一回性、死の引き受けとしての自己同一性を保障するからだ。しかしボクの「他者からの呼び声」はなにも保障しない。「生」とは失われた
集団性自己同一性をうしなった集団の一部、様々なものの可能性である複数性、デリダ的には
幽霊的ということになるだろう。
集団性を「すでにある力としての生」と呼んだが、これは主体の死でもある。だから「他者からの
呼び声」とは主体の死の欲望でもあるといえる。「他者からの呼び声」の地点は享楽である。主体を
集団性に溶解する地点である。しかしそれは失われた地点であり、そこに引かれながらその力は
社会の中の主体へと転倒される。ここには主体維持の循環が見いだせるだろう。
@社会へ参入→A主体獲得→違和感(不安)→B欲望により享楽(集団性=主体溶解)へ→恐怖
→@より社会へ没入→
「我思う我在り」という呪文を口にするとき、なぜ僕たちになにも起こらないのだろうか。感動も、充実も
起こらない。なぜなら我=主体とは上述のような動的に維持される循環システムであるからだ。「我思う
我在り」という呪文はある時点のA主体獲得でしかない。次の瞬間には、「「我思う我在り」?だから?」
と次の対象へ向かうのだ。そしてこのシステム自身は脱構築システムでもある。主体という静止を
宙づりしつづけ、ダイナミズムを産み続ける。
【2ちゃん名物、貧乏ニートの特徴】
・面倒なことから逃げ回ってきたので経験値が非常に少なく人間総合レベルが低い。
・なので、ダメな自分を言い繕うことが習い性になっており、言い訳力ばかりが高い。
・狭い視野と世界で生きているので、知識自慢をしたり、すぐに対立を煽る。
・一般人を知的ではないと見下している割には、自分は他人の与える答えを憶えやすい。
・恐ろしくカラーがなく無視されてきたので、カラーのある人間を攻撃対象に選ぶ。
・自分が無能で退屈であるとばれないように、発言しないで誰かの意見をそのまま言う。
・答えを憶える勉強ばかりしてきた為IQが低く、自分で考えたり判断することができない。
・自分より優れたひとや、自分の足らないところを補う人と付き合えず、とんでもなく孤独。
・もはや自分が自力で今より幸福になることはないので、他人の不幸をクローズアップして忘却。
・人と目を合わせて話すことができず、ひとに聞こえるように話すこともできず、促すと怒る。
・断片的知識ばかりで、体験を通じた知恵や情感が無い。
335 :
考える名無しさん:2006/02/20(月) 20:27:12
「・判断力がないので、チェックシートのような阿呆向きマニュアルが好き」
ってのが欠けてるぜ。
336 :
考える名無しさん:2006/02/20(月) 20:45:03
337 :
考える名無しさん:2006/02/20(月) 20:54:37
ぴかあ、環スレから逃げてんじゃーんーよ。
338 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/20(月) 22:29:37
■社会の「愛おしさ」
「規律」は無根拠であるというよりも、「規律」を守ることが、社会の形成の要因になっている。社会が
あるから、貨幣の価値が保証されるのでなく、みなが貨幣の価値が保証されているように、振るまう
ことが、社会の成立を支えている、ということだ。
そしてさらには、反社会的な、あるいは反「規律」的なことへの欲望は、この無根拠な社会の、規律を
より強化する効果がある。社会の不完全性こそが社会の「愛しさ」を支えているのだ。「なぜヒトを
殺しちゃいけないの」に、答えられないことが人々を社会に向かわせ、無根拠な「規律」を守る要因に
なっているのだ。人がなぜ社会に参加するのか、「規律」を守るのかは、「権力への屈従」でも、理詰め
の説明でもなく、社会のそしてそれに帰属する私への「愛おしさ」なのだ。欲望は、禁止(反社会的)な
ことへ向かう。これは、逆説的にとても社会的な行為なのだ。
しかし最近の問題は、反社会ではなく、脱社会性である。脱社会的な人たちは、反社会的な、あるいは
反「規律」的なことへの欲望がない。「なぜヒトを殺しちゃいけないの」ということを問わない。だから社会
の不完全性に「愛しさ」を覚えないのだ。
>>328 > キリスト教ニューロンと仏教ニューロンがあるとはいわないですね。
そういう話題ではないですね。
> 賭け社会の不確実さはブルとプロレの素朴な対立も解体しますよ。
賭けをしなければならない状況にあるのはプロレタリアです。プロレタリアとは生産手段を
持たない人々のことを指します。そして、資本主義社会では森羅万象全て"私有財産"です。
だから、誰かが生産手段を持っている。そうであれば対立は必然なのです。
つまり、"まなざしの快楽"は進化論的優位性から出てきたものです。それは知性を持った段階で
フレーム問題につきあたった種が滅んで、"考えない"能力を持つものが淘汰に耐えたということと
説明が付く。
>>338 ちょっと質問ですが、ぴか氏はファシズム賛成派なの?
342 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 10:59:10
外部への享楽、そして恐怖が内部を強固にする。
私とはなに?なぜ人を殺してはいけないの?という不可能性を隠すために内部は語られる
2ちゃんでは嫌韓であり、ナチのユダヤ人などしかり
343 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 11:19:35
これこそむじんくん的には人間進化の覚醒、宗教遺伝子の作動でしょ(笑)
>>343 > これこそむじんくん的には人間進化の覚醒、宗教遺伝子の作動でしょ(笑)
困った人ですね。それはともかく、フレーム問題は社会的レベルで見れば資本の運動とも
等価だといえます。全てがぴか氏の言う"死"の世界へと取り込まれていく、骸骨のような
冷たい手によって万物が凍り付いていくのが資本主義の過程ですね。そして、それは
必然的に知性万能主義が伴う。
そこへの対立点として、精神に対する身体、否定に対する肯定、反知性主義、こういった
ものが出てくるわけで、これはファシズムなのです。
ぴか氏はファシズム派?芸術家の知はファシズムの匂いもしませんか。
20世紀最大の実験はソ連の社会主義とファシズムであり、これは大失敗だった。ファシズムに最も
対立的なものは資本主義です。しかし一方で資本主義は搾取の問題があり、その過程はフレーム
問題と等価なのです。ここをどうするか。
346 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 12:02:04
詳しく言わないとわからないでしょうね。
ファシズム的な問題はファシズムは自分をファシズムとは言わないのです。
すでに巻き込まれていることにただ無自覚なだけなのです。
ナチが優生学など進化と進歩の誤謬を犯してたのはご存じですね。
しかしボクはむじんくんのフリーターの知を許すといいました。誤謬がむじんくんを支えているのであり、
そこにある小さなファシズム的なものに寛容であるべきです。
>>346 > ナチが優生学など進化と進歩の誤謬を犯してたのはご存じですね。
優生学はファシズムと関係ないでしょ。別に前近代社会から存在しますよ、
そういうのは。
「生き生き哲学」ってファシズムになりませんかね。等価な感じがします。例えば、
経済的問題を観念的に消去しているという点などはまさしく同じじゃないか。
348 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 12:25:36
ファシズム的なものは誰のなかも普通にある、という自覚が大切です。
だから安易に進化と進歩を短絡したり、おまえはファシズムだなどの無自覚、すなわちベタさが一番あぶない。
現代は特に「機械論の欲望」としてあらわれます。その意味で機械論スレのベタ集団は一番危ない。(笑)
しかしボクはそれを許したい。過剰な追込みこそが内部への没入を生む。
>>348 > しかしボクはそれを許したい。過剰な追込みこそが内部への没入を生む。
あはは。何だかなぁ。
ファシズムは誰にでも潜んでますよ。最も強い願望として。それを肯定しているのが「いきいき哲学」じゃあ
ないんですか?という問いなのです。
進化と進歩にどうも拘っているようですけど、僕は進歩なんてこと言ってませんよね。ある状態を"進歩"と語る
人間主観はある社会状況に既定されているということです。だから、優生学と一言で言ってもファシズム社会での
優生学では特定民族差別になるでしょうし、現代アメリカ資本主義においては、精子バンクで頭のよさそうな
男の精子をカタログから選ぶということになる。そして、全体としてそれらはダーウィンが言うところの"自然淘汰"的に
決定されているということです。
350 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 12:34:13
フレーム問題とはゲーテルの不完全性定理です。システムに開いた埋められない(自己言及の)穴=「断絶」ですね。
「機械論の欲望」がなぜ危ないか。世界を説明つくそうという欲望群が穴に向かい集中されていく。
それは決して埋まらない故に暴力などの過剰を生み出す。
2ちゃんなどでもなんでわからないんだよ!荒らしに走るなど
351 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 12:43:36
あぶないなあ(笑)
ファシズム的なものがあるのは誰の心にもある悪としてなく、むしろ善としてあります。
いえば人が生きるために不可欠な要素としてあるのです。
だからその自然淘汰の乱用こそが誤謬なのですよ(笑)
352 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 12:49:15
それもありますが、忠告として、哲学の場で、社会への自然淘汰の転倒発言は控えたほうがいいですよ。
公共の場で性器の名を叫ぶいうぐらい恥ずかしいことですから(笑)
353 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 14:12:11
まあ、むじんくんとボクの裏と表の関係にあるのですね。少しまとめましょう。
>>333にも書いた主体システムを説明しましょう。
@社会へ参入→A主体獲得→B違和感(不安)→C欲望→D享楽(集団性=主体溶解)へ
→E恐怖 →F空想(無垢)を生む→Gより社会へ没入→
@、Aは、たとえば「オレはけん玉が上手い」という自信(意味)を獲得することによって、
「私」=主体を獲得します。これは社会によって認められる「まなざしの快楽」として獲得されます。
Bでは、しかしそのことに充実した次の瞬間には、それでは満足できない、
さらなる充実をもとめようとC欲望が生まれます。
しかしこの完全なる充実は破綻しています。たとえば日本人という確率論において、
「オレ」ぐらいのけん玉の上手いヤツというのは、確率論的に発生するだろう。
そこでは、「必ずしもオレである必要はない。誰かでも良い」のです。
先に宝くじの例がありましたね。宝くじにあたったオレは選ばれた人だ!、しかし確率論で
見ると誰かが必ず当たるのです。これがむじんくんがいう「淘汰」的なものでしょう。
この不完全性(D享楽)は主体に主体を溶解するE恐怖を与えます。これを回避するために、
この享楽の回りに、誰も到達してない充実というF空想(無垢)が配置されています。
それによって、Gより社会(まなざし)をめざすのです。
このような循環によって主体は維持されています。そしてこれは、偶然性と対立しています。
Bの違和感をあたえるのも、Dの享楽も、そのにあるのは、確率論的世界である。
たとえば、ナチズムでは、Aはゲルマン民族の特権です。Eはゲルマン民族はただの人だ、
という偶然性です。そしてFの空想はユダヤ人です。ユダヤ人という存在が、ゲルマン民族の
成功を躓かしている、という空想です。
すなわち社会(主体)はたえず偶然性にさらされ、それでも維持しようとするシステムです。
>>350 > 「機械論の欲望」がなぜ危ないか。世界を説明つくそうという欲望群が穴に向かい集中されていく。
「機械論の欲望」がファシズムにつながるということ?
>>352 > それもありますが、忠告として、哲学の場で、社会への自然淘汰の転倒発言は控えたほうがいいですよ。
それは哲学なるものを後生大事にしている人間にとって都合悪いからでしょう。
自然淘汰的という言葉は、それ自体何も意味してませんね。
例えば、「断絶」というものにしても、これは自然淘汰的視点から見たら単なるマッチ
ポンプです。つまり、主体が自然淘汰的に生成し、その後に主体が「断絶」を語る。
最初に「断絶」があってという話は後付の物語ということになる。
主体であるならば、当然他者問題が発生します。これがどこか変なのは、マルクスの
物神論と同じようにそもそも社会的形成物なのにそれ自体が何か自立的にあるかの
ような錯覚をしているからですね。そして、その錯覚の中で語り続けることこそが
哲学なるものです。哲学者というのは、哲学する主体の自立性を崩されたくないの
ですよ。どこまでもそこを出発点にしたいのです。しかも、妙なことにそこからの
脱出を試みたりする。後ろのドアが開け放たれているにも関わらず、です。
355 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 16:36:50
>>354 ファシズムというのは曖昧ですね。
短絡、暴力に繋がる、といいましょう。
忠告は忠告です。ただ現実をいったまでです。(笑)
>>353 > まあ、むじんくんとボクの裏と表の関係にあるのですね。少しまとめましょう。
確かに。この話では、
> @社会へ参入→A主体獲得→B違和感(不安)→C欲望→D享楽(集団性=主体溶解)へ
> →E恐怖 →F空想(無垢)を生む→Gより社会へ没入→
スタートが違うんですね。参入する主体は存在しない。@とAは同一事項であり、主体とは決定論的、
還元的であるが故に世界の偶然性に「断絶」を感じる(B)。以下のことはそこから派生してくる。
357 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 16:58:19
>スタートが違うんですね。参入する主体は存在しない。@とAは同一事項であり、主体とは決定論的、
>還元的であるが故に世界の偶然性に「断絶」を感じる(B)。以下のことはそこから派生してくる。
めずらしく、鋭いですね。(笑)
再まとめします。
358 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 16:59:02
*主体システムの不全と「緩やかな社会性」
■主体システム
@社会へ参入→A主体獲得→B違和感(不安)→C欲望→D享楽(集団性=主体溶解)へ
→E恐怖 →F空想(無垢)を生む→Gより社会へ没入→
@、Aは、たとえば「オレはけん玉が上手い」という自信(意味)を獲得することによって、「私」=主体を
獲得します。これは社会によって認められる「まなざしの快楽」として獲得されます。しかしそのことに
充実した次の瞬間には、そこにはB違和感(不安)がうまれます。なぜなら私=「けん玉が上手い」
ではないから、「本当の私」は別にいます。このために、さらなる充実(本当の私)をもとめ、C欲望が
生まれます。
「本当の私」とはD享楽の地点にあります。失われた集団性です。細胞の一つであり、そこにある
のは、「誰でもある私」という「可能性」です。たとえば日本人という確率論において、「オレ」ぐらいの
けん玉の上手いヤツというのは、確率論的に発生するだろう。そこでは、「必ずしもオレである必要は
ない。誰かでもあったかもしれない」のです。先に宝くじの例がありましたね。宝くじにあたったオレは
選ばれた人だ!、しかし確率論で見ると誰かが必ず当たるのです。
このD享楽は主体という一回性を溶解するために、E恐怖によって、社会へ退避します。(これが去勢
です。)そしてこの恐怖の現実を緩和するために、「けん玉の上手い」にF空想(誰も到達していない
点としての無垢)が付加されます。たとえば学校一になれば、もっと私である実感が手に入ると。
そして仮に「学校一けん玉名人」になってもまたB違和感おこり、サイクルはまわって、ではつぎは
町一番、つぎは県一番と、サイクルの終わりはありません。
359 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 16:59:46
■「他者からの呼び声」という動力源
このサイクルは、「私の承認」「私」の一回性(単独性)の獲得を目指されているように見えますが、
その動力源はD享楽にあります。D享楽は「断絶」された地点です。動物では「他者」と完全に繋がる
地点(集団性)であり、人では「断絶」されており、失われた「他者からの呼び声」が聞こえるのです。
だから失われた完全な繋がりを求めて、「他者からの呼び声」に呼び寄せられ、向かいます。しかし
そこは社会によって禁止された地点であり、その前で恐怖し、社会へ、社会に保証された空想の「私」
という位置を見出すのです。しかしそれは疎外された私であり、再び享楽を目指すのです。
このようなサイクルによって、社会という内部は維持され、その内部に主体と位置は確保されます。
このサイクルの動性は、その外部環境に内部を維持することが目指されます。外部環境は秩序の
ない「偶然性」の世界です。
むじんくんが「自然淘汰」と呼ぶものは社会の外部のことでしょう。外部からは内部に向けてたえず、
環境圧がかかっています。動物は、環境圧/生という秩序の対立にあります。人間は「断絶」に
よって、社会という内部秩序を形成し、その内部から環境圧を排除し続けているのです。
360 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 17:01:55
■社会の「愛おしさ」
このようなシステムにおいて、社会の「規律」は無根拠であるというよりも、「規律」を守ることが、
社会の形成の要因になっています。社会があるから、貨幣の価値が保証されるのでなく、みなが
貨幣の価値が保証されているように、振るまうことが、社会の成立を支えている、ということです。
そしてさらには、反社会的な、あるいは反「規律」的なことへの欲望とは、享楽を隠す空想としての無垢
を目指すことであり、この無根拠な社会の、規律をより強化する効果があります。
そして、社会の不完全性(享楽)こそが社会の「愛しさ」を支えているのです。「なぜヒトを殺しちゃ
いけないの」に、答えられないことが人々を社会に向かわせ、無根拠な「規律」を守る要因になっている
のです。人がなぜ社会に参加するのか、「規律」を守るのかは、「権力への屈従」でも、理詰めの説明
でもなく、社会のそしてそれに帰属する私への「愛おしさ」なのだ。欲望は、禁止(反社会的)なことへ
向かう。これは、逆説的にとても社会的な行為なのだ。
■空想の暴走
「社会」自体が不全に陥っている。そして内部としての機能が低下して、外部からの環境圧=偶然性に
さらされている。ボクはこれを「ジャングル化する社会」と呼びます。その中で反社会ではなく、脱社
会性が現れています。社会性でなく、自己防衛的に自閉する。そして豊かさはそれを可能にしている。
脱社会的な人たちは、反社会的な、あるいは 反「規律」的なことへの欲望がありません。「なぜヒトを
殺しちゃいけないの」ということを問わない。だから社会の不完全性に「愛しさ」を覚えないのです。
これは豊かさによる充足によって、「他者からの呼び声」を見失っている、といえます。 「他者からの
呼び声」へのドライブの消失は、欲望が生まれず、社会、そして私の消失に繋がります。これを
「動物化」と呼びます。
そして脱社会の問題は「動物化」としての充足であるよりも、それでも「他者からの呼び声」は回帰する
ということです。欲望の空想そこが主体の「現実(リアリティ)」ですが、回帰した「他者からの呼び声」は
不器用に、突発的に、「独りよがりな空想」ともに、他者への暴力として噴出します。
361 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 17:02:53
■フリータの知
このような「独りよがりな空想」へ没入を回避するための一つとして、ボクは「フリーターの知」を考えて
います。それは、無垢への欲望を想起し、「緩やかな社会性」を目指します。
>>
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ!」
ジャングル化した社会で、現代の豊かさになれ甘えた人々が生き抜くには保守化する必要がある
だろう。適度な欲望を解消し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、「ヘタレサイクルを回す。」
ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これをぼくは
「ヘタレサイクル」と呼ぶ)もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな
楽しみで生きる。そして回帰する「私とはなに?」、「なんのために生きているのだろう」という不安を
やり過ごす。
「フリーターの知」とは、ジャングル化する恐怖の世界で、檻に入り、容易に手に入る無垢で満足する。
甘やかされた者の超保守化である。
ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法 その2
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060205 <<
>>355 > ファシズムというのは曖昧ですね。
> 短絡、暴力に繋がる、といいましょう。
機械論自体は資本主義と同じように反ファシズム的だと思います。しかし、そこで裏側に
形成される隠された身体のようなもの(ぴか氏の用語の"無垢"?)を形成する。そこに居直る
というのがファシズムです。
> 忠告は忠告です。ただ現実をいったまでです。(笑)
問題はファシズムの問題には他者問題と似たようなトリックがあるということです。これは
マッチポンプなんですね。そのヤラセ劇場を形成しているのが資本主義の運動なのです。
だから、常にファシズム的な現象はブルジョアにとってありがたいのですよ。経済的問題を
観念的に解決しようというわけですから、現実的な批判とはならない。2ちゃんねるであれば
不遇な人が嫌韓になるようなものです。
363 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 17:12:48
ある程度主体システムが理解してもらったところで、
むじんくんの問題を指摘すると、
むじんくんが排除する、ブルジョア、ファシズムとは、
むじんくんという主体システムのどこにあるのだろうか、
ということです。
>>363 > むじんくんが排除する、ブルジョア、ファシズムとは、
> むじんくんという主体システムのどこにあるのだろうか、
> ということです。
それは簡単な質問です(笑)。ブルジョアは私の精神であり、ファシズムは私の身体である。
365 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 17:30:03
>>364 なるほど。むじんくんはブルジョアなファシズムなのですね(笑)
>>365 > なるほど。むじんくんはブルジョアなファシズムなのですね(笑)
いや、皆そうなのです。
手段と目的が逆転して、繋がる事が目的になったら終わりは近い
もしくは正確には機能しなくなる
でも2ちゃんねるは今でもぜんぜん破綻してない
それが2ちゃんねるの凄い所なんだよ
つまり2ちゃんねるには常に新しく参加する人がいて
新陳代謝してるんだな
2ちゃんねるは終わったとか言う学者もいるが
まぁ今頃言い訳を考えてるかもね
368 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 17:50:23
冗談はさておき、むじんくんは、ブルジョアを、ファシズムを外部外部へと排除して語るのです。
これは「フリータの知」、ワイドショー的です。ナチズムはユダヤ人を外部外部へと排除し
物語を語ります。
ファシズムを内部に置くとは、「芸術家の知」です。「己の欲望に譲歩するな」とは、
空想(ブルジョアを、ファシズムを外部へと排除する。他人事とするワイドショー的物語)の
向こうの享楽へ向かうことを意味します。偶然性へ己をさらします。
誰でもありえた可能性へ向けて開いていくのです。そこから世界を形成します。
「機械論の欲望」は、一見、偶然の物語を語ります。誰でもありえた世界を語ります。
しかしこの空想は、享楽から退避しています。この物語は世界を還元し理解し尽くす
神の視点に自分を置く、「エリートの知」を目指します。それによって空想に埋没するのです。
世界そのものを外部におく、「セカイ系」的ですね。
何度も言うように、ボクは「フリータの知」も、「エリートの知」も、否定しません。
この厳しいジャングル化する社会を生き抜く方法ですね。
369 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 17:57:37
>>367 なるほど。常に新しく参加する人がいることもありますが、
匿名性が大きいのではないでしょうか。
毎回が始めてとの人との出会いを演出する。
たとえば哲学板もすべて、コテ性にするをもっともっと
閉塞するでしょうね。こいつとは前に話したからと。
ボクは、かつて、増殖するネットとは、ネットコミュニケーションの失敗の
塊である、といいました。それは、相手の情報の少なさによる、
ネットコミュニケーションの失敗がより欲望を想起する、ということですね。
370 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 18:00:09
誰でもありえた可能性へ向けて開いていくのです。
それは、私がファシズムでもありえた、ユダヤ人でありえた、
そして私がファシズムでもありえる、ユダヤ人でありえる可能性です。
ぴかぁ〜さんはなかなか分かりやすいですねー。言葉は難しいけど。
資本主義的なやる気が枯渇している僕にそれを打破する方法論を教えて下さい。
372 :
371:2006/02/21(火) 20:33:31
ageときますね
373 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 20:45:08
>>371 このような具体的な質問には答えるのは難しいですね。結局、ボクが言っているのは、思弁的な、
そして限りなく簡略化した物語ですから。これは、実践的なものにはほど遠いでしょう。
欲望はどこまでも他者との関係です。それは現代では、現前している必要も、実際にコミュニケーション
する必要もありません。それを前提に引用しましょう。
>>
D消費関係と創造関係
しかしボクが「健全な無垢への欲望」という時には、「欲望をあきらめるな!」というほどのストイックさを
緩和したところにあります。現代のように無垢が欠乏した時代には、窒息し、転落するよりも、それが
「幻想の無垢」であっても、安定的に供給されることが、重要ではないか、ということです。
ロリータが好きならば、ロリータに萌えるのも良いということです。しかしこのような幻想の無垢をただ
消費し、またつぎの消費へと向かうという現代の消費社会の欲望形態は、身体的な刺激を重視した
ものであり、より過激に向かうしかないのではないか。そこには充足はないのではないか、と考え
ました。ボクはこのような関係を「消費関係」と呼びました。
ボクは「消費関係」に対して、「無垢」を創造する「創造関係」を考えました。これは「差異化運動」を基本にしています。差異化運動とは、より「近い他者」と差異をより細部に見いだそうとする運動です。
たとえば、「宿命のライバル」などです。差異化運動が魅力的なのは、他者との関係で、より自分が
細部において見いだされるという、「失われた他者からの呼び声」に近接し、無垢を産み続ける運動
ではないか、ということです。そしてこのような関係をボクは「愛」と呼びます。
この創造関係と、闘争へいたる想像関係(イマジネールな闘争)とは、とても近い関係にあります。
これを明確に区別することは難しいですが、そこには保たれる象徴界の介入が必要とされること、
すなわち純粋な二者の関係ではなく、開かれたコミュニティであることです。
無垢とは「他者からの呼び声」である。
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060116 <<
>>368 > 冗談はさておき、むじんくんは、ブルジョアを、ファシズムを外部外部へと排除して語るのです。
> これは「フリータの知」、ワイドショー的です。ナチズムはユダヤ人を外部外部へと排除し
> 物語を語ります。
ちょっと待って、こちらの方が"冗談"でしょう。
ブルジョアやファシズム的なものを批判しているのは心理的防衛であるという話でしょうけど、
それは精神分析のよくある揚げ足取りと同じじゃないですか。
「分析医の言うことを認めれば分析医の言うことは正しい、認めなければ防衛であるからやはり正しい」
そういう言葉遊びされても困るわけですよ(笑)。
> この厳しいジャングル化する社会を生き抜く方法ですね。
もうちょっと、実際の生活を見ましょうよ、一般人の。ぴか氏が有閑階級だというのは分かるけど(笑)。
"ブルジョアなファシズム"として我々が存在することの悪循環をどう回避するかです。
資本に隷属する機械と化すか、そこからの"身体の開放"を叫んでファシズムになるか、
或いはその間を取って、ほどほどに機械となり、ほどほどにファシスト的開放を慰みと
するか。
>>373 > たとえば、「宿命のライバル」などです。差異化運動が魅力的なのは、他者との関係で、より自分が
> 細部において見いだされるという、「失われた他者からの呼び声」に近接し、無垢を産み続ける運動
> ではないか、ということです。そしてこのような関係をボクは「愛」と呼びます。
「神経症」の方が正確じゃないですか(笑)。サルでも広いところより狭いところで同じメンバーといると
細かいところが気になってくるそうです。そういうことでしょ?
377 :
371:2006/02/21(火) 21:29:03
>>373 つまり他者との関係から湧き出るものということですか。それはそう思います。
むじんくんさんにも聞きます。
資本主義的なやる気が枯渇している僕にそれを打破する方法論を教えて下さい。
378 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/21(火) 21:40:58
>>374 >ブルジョアやファシズム的なものを批判しているのは心理的防衛であるという話でしょうけど、
まったく違います(笑)外部と内部です。今日はその話をしていたともいますが。
何を外部へ疎外し、内部を得ようとしているのか、です。
>サルでも広いところより狭いところで同じメンバーといると
>細かいところが気になってくるそうです。そういうことでしょ?
まったく違います(笑)
379 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 18:17:54
■なぜ「いかに安定して欲望し続けるか」が問題なのか。
なにが外部へ排除(欲望)されているか
グーグルの「人間を介さず」という空想を、ボクが「機械論の欲望」と呼ぶものである。完全な世界
=「システムに還元できずいつも邪魔をする管理し得ない消失点(断絶)が消失する」ユートピアという
無垢である。たとえばマルクス主義的空想は、完全なシステムは存在しない。システムには消失点がある
ということを隠すための「ブルジョア(/プロレタリア)」という空想である。
人はいつもこの消失点に悩まされる。システムの消失点、1回性であり、予測できず、管理されない。
しかしそれは、「他者からの呼び声」として私を私として呼び続ける。
まずは、そこではなにが外部へ排除(欲望)されているか、ということだ。ユダヤ人、ブルジョア、
ファシズム、嫌韓、「規律」、「まつうらあや」、地球温暖化、ぴかぁ〜・・・ボクはこれを「偶有性から
単独性への転倒に神性が宿る」と呼ぶ。すなわち神的に保証される。単独性(この私)の空想
=「無垢」によって、「私」の現実(リアリティ)、生きる実感が得られるという主体維持のシステムのある。
380 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 18:19:06
主体という否定神学システム
デリダ(東)によって、否定神学だと批判されている。「この私」という単独性(一回性)を保証するために
この消失点を単数とする。彼らの(郵便的)脱構築は、システムの消失点(断絶)を多数化し、無垢
という空想を曖昧にする。たとえば、外部へ排除(欲望)されているユダヤ人、ブルジョア、ファシズム、
嫌韓、「規律」、「まつうらあや」、地球温暖化、ぴかぁ〜などを、それが違うものでもよい可能性を
暴露し、宙づりにするということだ。
問題は、この否定神学が「この私」という実感(リアリティ)実感を形成しているということである。確かに
ユダヤ人差別、嫌韓、特定人物の排除は悪いが、それによってその人はその人を支えているので
ある。そして同じシステムが、恋人を、好きな音楽を、様々な好みを特別であると思う(外部におく)
ことと同じシステムの作動である。さらには「ユダヤ人差別、嫌韓、特定人物の排除は悪い」という
ときにも、それはこれらを外部におくというシステムが作動してしまっている。すなわち逃げられない
ものなのだ。
381 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 18:19:53
動的な否定神学システム
ただこれが否定神学システムであるとしても、これは動的な否定神学システムである。すなわち空想は
代謝する。同じ人を同じ強度で思い続けることはできない。そして同じ人を同じ強度で排除し続ける
ことはできない。ボクはこれは「単独性から偶有性へ反転に神性は暴露される」。この否定神学
システムにおいて、消失点は単一であるか、複数であるか、というよりも、強度としてとらえなければ
ならない。
これは、否定神学システムとしての主体がどのような位置にいるかを示している。否定神学システムは
主体という内部を維持し続ける動的なシステムとしてあり、その外部は秩序なき混沌である。外部は
たえず内部を拡散しようとする圧力としてある。あるいは外部から進入し続ける「混沌」を懸命に秩序化
することがこの内部、否定神学システムである、といえる。
382 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 18:21:03
いかに安定して否定神学システムを作動させるか
脱構築はたえず否定神学システムの外圧としてある。そして現代情報化社会では、外圧は増して
いる。ボクはこれを「マイフェイバリットからマイブームへ」と呼んだ。一生において見続ける
「フェイバリット」な趣向、恋人、イデオロギー、信仰などの空想が、情報の氾濫によって、短期的な
代謝が行われている。「最近のマイブームはなに?」という趣向の代謝が増している。
この中で問題は、否定神学システムである主体を主体として支える空想が拡散し、自己同一性が
曖昧になっている可能性である。これが社会という空想を欲望する社会化でも、反社会化でもなく、
「脱社会化」であり、そして「動物化」である。「脱社会化」の問題は、引きこもり、ニートなどで
現れているが、さらに問題は一見「脱社会化」した主体が解体されつつある否定神学システムとして
「安定」するわけではないということだ。それは、否定神学システムの不安定化として現れる。空想を
見つづけることが困難であることの抑圧から、突発的に、過激な空想へ暴走することが起こっている。
まさに問題はここにあるのではないだろうか。否定神学システムそのものが問題なのではなく、
否定神学システムの抑圧が、否定神学システムを加速する。より過激な外部の排除に繋がる。
脱構築が否定神学システムを暴走させる可能性があるということだ。これがボクが「健全な無垢への
欲望に健全な精神は宿る」ということの意味である。いかに安定して否定神学システムを作動
させるか、いかに安定して欲望し続けるか、それが現代の「健全」である。
383 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 18:33:35
だた当然、ボクの「健全な無垢への欲望」という言説そのものにも、否定神学システムが作動している
「健全」による「不安定」の外部への排除という空想には、消失点の消失を隠蔽していることは
いなめないだろう。
384 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 18:44:12
だた当然、ボクの「健全な無垢への欲望」という言説そのものにも、否定神学システムが作動している
「健全」による「不安定」の外部への排除という空想には、消失点の消失を隠蔽していることは
いなめないだろう。「メタ言語はなく」、誰も否定神学システムを回避するのは困難であるのだから。
>>378 > 何を外部へ疎外し、内部を得ようとしているのか、です。
それは精神分析の言う防衛じゃないの?どうも、ブルジョア/プロレタリアのこともそうですが、
心理的問題にすりかえてしまうけど、生産手段を持つ/持たないは心理的現象ではないですよ。
ただ、これは観念論/唯物論のよくある対立点ではありますね。卵が先か鶏が先かという話に
すぐなってしまう。
386 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 20:58:01
防衛?
観念論/唯物論のよくある対立点?
何度もいうように、生産手段を持つ/持たないがない、すべては
妄想だ、と言っているのではないのです。
「生産手段を持つ/持たない」がどのようにして、イデオロギー的に
語られるかを、言っているだけなのです。
>>386 > 「生産手段を持つ/持たない」がどのようにして、イデオロギー的に
> 語られるかを、言っているだけなのです。
なので、そういうイデオロギーを形成しているのは人間心理にあるというわけでしょ?
人間主観が生産手段の所有をイデオロギー化している→観念論
生産手段の所有が人間主観を規定している→唯物論
>>377 > 資本主義的なやる気が枯渇している僕にそれを打破する方法論を教えて下さい。
やる気を起こそうとして何かをしてもやっぱりやる気は出ないでしょうね(笑)。やる気は
どこから来るかというと、トラウマからしかこない。トラウマは常に不意打ちとして来なければ
トラウマにならない。
だから、よく優秀な学生が土方やるとか、変な苦労をあえてするとか、そういうのは絶対に
ダメなんですよね。自ら進んでやることは自己を超えたものの感覚を呼び覚まさないのです。
ちょっと質問とずれてしまったですかね。単に"資本主義的なやる気"であれば、財産を
捨てて企業で働かなければならない状況に自らをおけば、嫌でもやりますよ。やる気が
なくても(笑)。
>>382 > いかに安定して否定神学システムを作動させるか
ふふふ、珍しくいいこと言うじゃないですか。
390 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 21:42:34
ぴかぁ〜とむじんくんの内部も、循環して
「無垢」が欠乏し、息苦しくなってきましたね。
「生き生き」するため、「健全」であるためには、
外部へ開かれていることが大切です。
それが健全な「フリーターの知」でしょう。(笑)
391 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 21:44:18
あいていえば、むじんくんも開く努力が必要ですよ。
それが「消費関係」と「創造関係」の差です。
392 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 22:52:00
■むじんくんという素朴な否定神学システム
むじんくんがボクに「ブル/プロレという重要な問題を誤魔化し、有閑的言説を繰り返す」と批判するのに
対して、「ではむじんくんは、実践的になにをするんだ」と問うたのに対して、「秘密」とごまかした。
まさにこの点が、むじんくん、そして多くの「時代遅れのマルクス主義者」の消失点です。
すなわちこの資本主義の豊かさの中にいる、むじんくんたちは「ほんとはブル/プロレなどどうでも
よい」のです。
何度もいうようにこれは、社会に経済格差的な問題がないということではありません。
ワイドショー的に騒がいて終わらずに、(無垢として消費されて終わりでなく、)
いかに、本当に、社会の経済格差を問題するのか、あるいは現代において、本当に共産主義を
実現するにはどうすればよいか、ということです。
ボクもこの板で多くのサヨにあいましたが、むじんくんほどのベタな「時代遅れのマルクス主義者」は、
他には知りません。くろしろに軟弱さを説教されると、いいのではないでしょうか(笑)
393 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 22:59:29
それはそれとして、キーワードはむじんくんの「ベタさ」です。むじんくんが機械決定論スレの住人で
あったということは、あながち「ベタさ」と無関係ではないでしょう。機械決定論スレの消失点は、
「決定か、決定でないかは決してわからない」ということです。彼らはそれがあたかもわかるように
議論を白熱するのです。ここに美しい「スノビズム」があります。
これはボクが「機械論の欲望」というものに繋がります。すなわち現代においては「テクノロジーに
よる完全な世界をつくる」という空想が大きな無垢である。それは、PC、ネットなどテクノロジーが
今後のあたらな可能性を作るだろう世界だからです。そのたびに、「機械論の欲望」は回帰します。
もはや「スノビズム」的(手段と目的が逆転)でなければ、2ちゃんねるなどできませんが、
そのためには深度が必要になっています。たとえば、「決定か、決定でないかは決してわからない」
とその浅さで「素直に自分をだませて、熱くなれ」ずに、、「決定か、決定でないかは決してわからない」
上でいかにいかに熱くなるかとメタへと向かい、無垢を見出そうとします。
たとえば、この今のボクの言説もむじんくんと内部が、循環して「無垢」が欠乏し、息苦しくなって
きたための、その言説自体をメタに語るという深化によって、新たな無垢を見出そうとしています。
394 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 23:00:30
むじんくんや機械決定論スレ住人の「素直に自分をだませて、熱くなれる」ことは、ボクが
「フリーターの知」(ワイドショーの知)の達人と呼べるのかもしれません。これは「オタク」と
言われる特性です。その意味で、彼らはある意味で、現代の先鋭的な人々と言ってもいいかも
知れません。社会的には「空気が読めないやつ」であったり、「女性にもてない」というような
リスクはあるにしてもです。
回りからみると「ぴかぁ〜」はどうでしょうか。「フリーターの知」を提示するように、こう見えても
なかなか素朴にだまされなくて、困ってます。様々な切り口を検討しています。
「いかに安定して(無垢を)欲望し続けるか」が問題なのですね。
395 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/22(水) 23:15:11
むじんくんが、あるいは機械決定論スレの住人たちが「ベタ」である
というのも、素朴な観察かもしれません。彼らは彼らなりに
「フリータの知」によって「生き生き」と、サバイバルしているのでしょう。
>>393 > たとえば、この今のボクの言説もむじんくんと内部が、循環して「無垢」が欠乏し、息苦しくなって
> きたための、その言説自体をメタに語るという深化によって、新たな無垢を見出そうとしています。
ひっかかりませんよ(笑)。
スノビズムということでいえば、ぴか哲学はまさしくその純粋な形態を実現するべく存在するわけですね。
無垢を見出す営みとは、つまりは暇つぶしということだ。
ただ、こういうのは別に下らないとは言えないと思います。奴隷制だったギリシャでは重要なことだった
でしょう。あるいは、ぴか氏のような有閑階級にとって。
しかし、現状の我々は資本主義的生産様式の内部におり、賃労働に転落しており、誰もが一時は有閑階級に
なれるかも知れないが、大半は奴隷として生きているのです。だから、心理的傾向としてベタだとかメタだとか
いうことではなく、端的に皆ベタであるのですよ。経済的、身体的にベタなのです。中には"武士は食わねど〜"
のような、プライドの高い乞食もいるかも知れませんが。
398 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 00:43:17
むじんくんが、ボクに近接し続けるのは、「無垢」の欠乏、機械決定論のベタに
「素直に自分をだませて、熱くなれ」なくなって、退屈してしまっている、からでしょう。
懸命に、ぴかぁ〜という危険に近接し、「無垢」を見出し、消費しようとしてる。
なにをいっても空想に引きこもろうとする、その安全から無垢を楽しむ。
「やさしく追いつめて欲しい」と欲望している。
>ワイドショー的に騒いで終わらずに、(無垢として消費されて終わりでなく、)
>いかに、本当に、社会の経済格差を問題するのか、あるいは現代において、本当に共産主義を
>実現するにはどうすればよいか。
ワイドショー的/本当に実現するのか、これがフリータの知/芸術家の知の差です。
もうむじんくんに言うことはこれしかないのでしょう。
「ではむじんくんは、実践的になにをするんだい(ボクにいっても仕方がないだろう)」
メタっていうので思うのは、80年代というのはそういう時代だったなぁと。ああいうのはもう来ないのかねえ。
ぴか哲学が実現した時代でしたね。
>>393 > そのためには深度が必要になっています。たとえば、「決定か、決定でないかは決してわからない」
> とその浅さで「素直に自分をだませて、熱くなれ」ずに、、「決定か、決定でないかは決してわからない」
> 上でいかにいかに熱くなるかとメタへと向かい、無垢を見出そうとします。
昔、浅田彰っていましたよね。やはり80年代に流行した。「構造と力」って僕も面白く読んだんですけど、
あれの"シラケつつノリ、ノリつつシラける"というのと似てますね。
僕は浅田彰という人は結構好きなんです。ただ、あの言葉はやはり80年代の日本という時代性が
あると思います。その点で、思想というものは自分が置かれている状況を明確に言語化することだと
したら、彼の思想は的確だったんだと思います。また、それを批判する気もない。
しかし、冷戦終結後の世界で同じことを言うのは滑稽ですよ。浅田彰だって今は違うこと言ってますよね。
あまり最近は目立たないのでよく知らないんですけど。
ベタということを馬鹿にするのは観念的には簡単ですけどね。現実には難しい。つまり我々は身体を持って、
身体として生きているということがある限り、そこへ引き戻されてしまうのです。キルケゴールの言葉で
言うならば、「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」の世界で生きているのです。
その意味で、「現実にあんたは何をするの?」っていうのは、これは思想的問題じゃあない。人それぞれとしか
言えないでしょう。しかし、我々を既定しているものを見るということは必要で、それが無ければ人間は一歩も
前に出れない。我々が日常で思い込む観念がどうしてそうなるのか。そう思ってしまうのはどこから来ているのか。
ただしかし、ぴか氏の言う"脱社会"が本当に実現したならば、そのときは「現実にあなたは何するの?」が
全てになるんでしょうね。というか、問い自体が存在しない世界でしょう。それが人間に可能かどうか。
403 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 14:07:03
「ではむじんくんは、実践的になにをするんだい(ボクにいっても仕方がないだろう)」
404 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 15:43:33
■なぜ「無垢」を求めるのか。
主体とは否定神学システムである。否定神学システムとは消失点(断絶)を空想で隠す。消失点とは
自己言及点だ。この「私は誰だ」に答えられないというシステムの不全点から、「お前は誰でもない」と
偶然性が進入し続ける。だから「オマエモナー」は空想を暴露し、恐怖の消失点をちらつかせる
呪文だ。この言葉により、フレーム問題の前で人はフリーズする。空想は「私」を溶解させる消失点を
隠すベールだ。人は消失点から逃れるために、空想を見るのだ。空想とは現実(リアリティ)そのものだ。
現代の情報化社会は、消失点からの偶然性の進入を活発化している。もはや単純な空想は溶解
されてしまう。たとえばもはや人はブルジョア/プロレタリアートのような二項対立の空想を見れない。
このような話は、人はオヤジギャクのように、むしろ嫌悪を覚える。それは、空想として機能する
のではなく、むしろ現実が空想であることを暴露するからだ。これは、なぜ人々がオタクを嫌悪する
のか、と同じ理由である。オタクが見る空想はベタすぎる。それは人々の現実さえも空想であるという
ことを露出してしまう。
その意味で人は複雑な空想を求める。しかし複雑すぎても夢を見られない。だからよい空想とは
「無垢」であることだ。そして現代の情報化社会では、「無垢」は現れては、すぐにベタへと劣化し、
つぎの無垢を求めることが起こっている。それは流行り廃りの早さであり、科学であり、資本主義
であり、ハムスターの回し車のごとく、欲望の終わりなき加速化を起こしている。その意味で、人々が
オタク化するのは、現代に適合するために必要なことである。オタクはベタな空想に、「無垢」を見出し、
埋没する能力だ。
405 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 16:10:26
地球温暖化の問題にリアリティがないのは、いつも今がゼロ点におかれるからだ。
今が「正しい」点であり、温暖化によって「正しさ」がいかに、壊されるのかだけが、
語られる。それは温暖化は悪い、ということが前提になりすぎている。
だから素朴に思うのは、「日本が南国化(ハワイ化)するって悪くないのでは?」
温暖化に適応し、それで生きていく。この素朴さのどこに問題があるのか、
という視点で語られなければ、素朴さは消えないだろう。
そして、地球温暖問題を語る人々は、おそらく素朴さを否定することはできない。
それこそが温暖化問題の本質なのかもしれない。
406 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 16:14:53
すなわちこの変化において、得をするものと、損をするものがでる、
ということだ真実なのだ。
だから地球温暖化の警告はいつも犠牲者の提示という、
人情物語にならざる終えない。
こうもいえます。経済学で言うならば、マルクスとケインズの差というのがある。どちらも
資本主義社会の問題点として同じ部分を見ていたと思うのですが、ケインズはそれは
仕方ないだろうと。我々にできることはせいぜい傷が深くなって破綻=恐慌にならないように
することぐらいだ、というわけです。ぴか氏の言葉で言えば、「過激な幻想へ向かうことを
防ぐために安定した無垢を産出し続ける」とかなるんでしょうね。
マルクスはそう考えてなかったのです。無制限の強迫的な前進運動、現れては消える無垢を
追い続けることから決定的に転換することが可能だと信じていた。
408 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 17:23:56
>>407 まったく違います(笑)
アダムスミスの「神の見えざる手」との対立ですね。
否定神学システムでは、ほっておけば、消失点から適度に偶然性が進入し、
それを空想(無垢)にかえて、健全な否定神学システムは維持されるだろう。
しかし実際には、恐慌などのシステムが攪乱することが起こる。
だからコントロールする必要があるだろう、というのが、ケインズ、マルクスの問題点ですね。
そしてケインズ的計画経済も、マルクスも失敗した。
逆に、「神の見えざる手」という「健全な否定神学システム」を阻害した。
それが社会の経済の閉塞に繋がった。
すなわち問題は、「神の見えざる手」に対して、どの程度、人の手を加えるかです。
最近は、ネオリベや小泉始め、「小さな政府」が目指されていますから、人の手を
なるべく少なくしようということです。
たとえば、先にグーグルの件でも、あれはリバタリアン(モヒカン族)という、
政府の規制、介入を最小限にして、自己責任を進めることを指向していることです。
この傾向は、人々が無垢の欠乏を感じているからなんですね。
だからボクが「フリータの知」というときには、反ケインズ、反マルクスのアダムスミス的なのです。
409 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 17:26:28
ケインズ、マルクスとアダムスミスの「神の見えざる手」との対立ですね。
否定神学システムでは、ほっておけば、消失点から適度に偶然性が進入し、
それを空想(無垢)にかえて、健全な否定神学システムは維持されるだろう。
これは、アダムスミスの「神の見えざる手」的なのです。
410 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 17:38:21
しかし、民主党はお粗末ですね。話にならない。
小泉政権が革新に立ち、大衆に「無垢」を提供しだしたときに、
民主党など野党の立ち位置は消失し、空回りしてますね。
411 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 20:42:02
Wed2.0とは構造主義に対するポスト構造主義のようなものだ。
412 :
考える名無しさん:2006/02/23(木) 20:42:35
プッ
413 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/23(木) 23:25:44
■「無垢」ジャンキー
主体とは否定神学システムである。否定神学システムとは消失点(断絶)を空想で隠す。消失点とは
自己言及点だ。この「私は誰だ」に答えられないというシステムの不全点から、「お前は誰でもない」と
偶然性が進入し続ける。だから「オマエモナー」は空想を暴露し、恐怖の消失点をちらつかせる呪文
だ。この言葉により、フレーム問題の前で人はフリーズする。空想は「私」を溶解させる消失点を隠す
ベールだ。人は消失点から逃れるために、空想を見る。空想とは「私は誰でもないこの私だ」という現実
(リアリティ)そのものだ。
現代の情報化社会は、消失点からの偶然性の進入を活発化させている。もはや単純な空想は溶解
されてしまう。たとえばもはや人はブルジョア/プロレタリアートのような二項対立の空想を見れない。
このような話は、人はオヤジギャクのように、むしろ嫌悪を覚える。それは、空想として機能するのでは
なく、むしろ現実が空想であることを暴露するからだ。これは、なぜ人々がオタクを嫌悪するのか、と
同じ理由である。人々がオタク化するのは、現代に適合するために必要なことである。オタクはベタな
空想に埋没できる能力だ。しかしオタクが見る空想はベタすぎる。それは人々の現実さえも空想である
ということを露出してしまう。
求められる空想とは「無垢」であることだ。現代の情報化社会では、「無垢」は現れては、すぐに消費
されと劣化し、つぎの「無垢」を求められる。人は「無垢」の欠乏に対して、消失点からの偶然性の進入
を活発化させる「空想」を求めているのだ。それは流行り廃りの早さであり、科学の進歩であり、資本
主義であり、ハムスターの回し車のごとく、欲望の終わりなき加速化を起こしている。
414 :
考える名無しさん:2006/02/23(木) 23:26:43
プッ
415 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/24(金) 20:19:14
結局、なぜコウダクミは売れているのか、となる予感。
>>408 > まったく違います(笑)
> アダムスミスの「神の見えざる手」との対立ですね。
うむ。ぴか哲学と等価するのはケインズに失礼だったかな(笑)。
> 否定神学システムでは、ほっておけば、消失点から適度に偶然性が進入し、
> それを空想(無垢)にかえて、健全な否定神学システムは維持されるだろう。
それがケインズが一般理論を出す前の新古典派の予定調和的世界観だった。しかし、
実際には適度な偶然性を維持するのではなくて、それを回避する方向へ向かう。一般理論
で言うならば、所得の増加率と消費の増加率は一致しない。そうなると、ある一点で
「売れない」方向へのサイクルが始まる。必然的にそうなるというのがケインズの主張です。
> だからコントロールする必要があるだろう、というのが、ケインズ、マルクスの問題点ですね。
> そしてケインズ的計画経済も、マルクスも失敗した。
ケインズの見ていた本質的な市場の問題点と、具体的な対応策とは区別すべきですね。現代では
財政投資をいかにして行うか、という点でも判断が難しい。これはケインズ派の人も認めるんじゃない
でしょうか。しかし、ケインズが指摘したような問題点は依然として生きているんですよ。そして、ケインズは
「その問題は仕方ない。せいぜい我々は傷が深くならないよう対処療法ができるだけだ」という主張であり、
マルクスは根本的な転換が可能だと信じていたのです。
> 最近は、ネオリベや小泉始め、「小さな政府」が目指されていますから、人の手を
> なるべく少なくしようということです。
これは必然的に破綻します。"目指されている"と今言う人は少ないですよ。
417 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/24(金) 21:59:51
>>416 >それがケインズが一般理論を出す前の新古典派の予定調和的世界観だった。
アダムスミスの「神の見えざる手」は進化論同様にいまでもラディカルだと思います。
それは、適度な偶然性ではないのです。恐慌的な予測不可能な恐怖を受け入れることです。
いつ来るかわからない大震災を受け入れることです。
その前に、ケインズもマルクスもたじろぎ、空想を見たのですね。
>これは必然的に破綻します。"目指されている"と今言う人は少ないですよ。
破綻?"目指されている"と今言う人は少ない?
良いか悪いか別にして、今はリバタリアン傾向が流行りでしょう。
自己責任論、「小さな政府」、グーグルしかり。
そないに揉める話でもないやないか。仲良くしたまえ
>>417 > それは、適度な偶然性ではないのです。恐慌的な予測不可能な恐怖を受け入れることです。
違いますよ。恐慌は予測不可能な恐怖を回避することで発生するのです。だから
> いつ来るかわからない大震災を受け入れることです。
大震災とは全く違う。弁証法的なのです。
> その前に、ケインズもマルクスもたじろぎ、空想を見たのですね。
ケインズ/マルクスが空想を見たのではなくて、貨幣を求めるべく行動すれば必然的に
やってくるのが恐慌です。一般理論ならば所得の増大は消費の増大と同率ではない。
資本論であれば、総生産物の価値総量よりも少ない価値が労働者に支払われる。
> 良いか悪いか別にして、今はリバタリアン傾向が流行りでしょう。
流行ってないでしょ。ただ、新古典派的政策によって資本主義の本来の姿が見えやすく
なってきたということはありますね。結局戦後の経済政策はケインズ主義がメインだった
わけで、それによって見えにくくなっていたということです。そう考えるとやはりケインズは
偉大だったのですよ。
420 :
考える名無しさん:2006/02/25(土) 10:26:55
リバタリアンの行動指標というか
目指すものって何なの?
モノポリー?
421 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 10:31:28
>>419 恐慌は偶然か、必然か、地震は偶然か、必然か。
先の祇園と同じです。問題はそれに恐怖することです。
リバタリアン傾向が流行っていないというのは、
感性が鈍いというか、浮世離れというか、
そりゃ、時代遅れのマルクス主義の夢を見るな、としか言えませんね(笑)
422 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 11:10:12
>>420 リバタリアンというよりもリバタリアン傾向
不干渉、自己責任、「小さな政府」、規制緩和、構造改革
>>421 > 恐慌は偶然か、必然か、地震は偶然か、必然か。
> 先の祇園と同じです。問題はそれに恐怖することです。
いやぁ、もう凄いですね。精神力で現実を消去しようっていうどっかのカルトと同じじゃないですか。
心頭滅却 すれば火もまた涼し、ですか(笑)。
繰り返しますが、恐慌は天災とは違いますよ。弁証法的な現象です。
> リバタリアン傾向が流行っていないというのは、
> 感性が鈍いというか、浮世離れというか、
> そりゃ、時代遅れのマルクス主義の夢を見るな、としか言えませんね(笑)
それ、例えば小泉カイカクとかを指して言っているのですか?あんなものは別にまともな
人たちの間で流行っている言説ではありませんよ。アメリカだって随分前からマネタリズムには
限界があるとされているわけです。
じゃあ、小泉カイカクって何だといったら、あれはバブル崩壊で発生した借金をどう清算するかと
いうときに、財界が望んでいた政策なんですよ。企業においては、首を切り、正社員を減らし、
その場限りで都合よく使える超低賃金労働者を増やし、実力主義の名の下平均賃金を賃金を
下げる。一方銀行は超低金利政策でしかも公的資金注入までされるという、やっていることは乞食以下
だが高給取りという状態を続けてきた。
だからね、しわ寄せくったのは一般人です。リバタリアンとかカッコがいいものじゃないの。バブル崩壊後に
残った信じられないような借金のババ抜きの結果が小泉カイカクってことなんですよ。
425 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 21:55:44
「顔」は特別である。僕たちは他者のほんのわずかな顔の変化から、
様々な情報を読みとる。いわば、顔を読むエキスパートである。
それが端的に現れるのは、CGのリアリティを挫くのはいつも「顔」である。
426 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/25(土) 22:02:23
>>424 レスをする意味があるのでしょうか。レスが目的化して、前後の整合性もない。
最初は「創造関係」がありましたが、どんどんイマジネールな闘争関係に
落ちていっていますね。ののしりあい?になる前にやめましょう。
いままでありがとうございました。
427 :
考える名無しさん:2006/02/25(土) 22:34:31
825 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/24(金) 22:14:46
セックスとは、いつも見られていることで成立する。
「こんなことしてる・・・」
親の視線と無垢という母乳みたいな話は
なにを目指しているんだかよくわからんが
>>426 > いままでありがとうございました。
あはは。そうですか。
まぁ、あれですね。僕はぴか氏がストア派だということがよくわかったな。ストア派とは何かと
いったら、世界の中にありながら世界から離脱している、離脱し続けんとする精神です。それは
歴史の外に自らを置き、物質的な地球の上には存在するかもしれないが、歴史的実存として
社会の中には存在しない。
そういう人物の言説が現在進行形に近い形で見れるというのはネット時代だからですね。ストア派的
人間は外から見たら内面と符合するものは何もないし、ただひたすら世界からの離脱を目指すという
ことはひたすら内面的であるということで、こっそり本でも書かなければ身近な人も分からなかったりする
わけです。
僕がストア派的精神に反対な理由は今までも書いたように当事者性というもの、歴史の中に嫌でも
存在してしまっていることを観念的に消去しているからですが、そもそもそういった精神のあり方を
厳密に突き詰めていくことは不可能だと思うのです。アウグスティヌスが回心体験の前に語ったように、
精神が物質に働きかけることは容易だが、精神が精神に働きかけることは何故かできない。言うことを
きかそうとすればするほどうまくいかないものだと。
だから、歴史の外から歴史の中へ。離脱している状態から没入している状態へ遷移するしかない。
不思議なことに、世界はそこにおいてしか色彩を持たない。
430 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 00:00:04
>>429 問題意識?をスレにするところから始めましょうね。
それぐらいの能動性が最低あることは信じたいところですね。
「天然」ならなにを言っても許されるというオチも悲しいです。(笑)
それでは。
430 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 00:00:04
>>429 問題意識?をスレにするところから始めましょうね。
それぐらいの能動性が最低あることは信じたいところですね。
「天然」ならなにを言っても許されるというオチも悲しいです。(笑)
それでは。
432 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 13:26:45
むじんくんの実在論的闘争スレは立たないようですね。残念です。
432 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/26(日) 13:26:45
むじんくんの実在論的闘争スレは立たないようですね。残念です。
434 :
考える名無しさん:2006/02/27(月) 10:19:40
あはは
435 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 10:37:45
■「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く
精神と身体の「断絶」
ラカンのネオテニー(幼形進化)はフロイトから来ているものでしょ。人間は早熟で生まれ、統一した自我を
持たないために、生まれた後に他者像(鏡像)によって統一的な身体像(自我)をもつ。これによって
人間はそのはじめから自分を他者へと疎外されている。そしてそれを取り戻すために、他者の欲望を
欲望する。ここに他者との「断絶」があります。
そして、これはヘーゲル的な、「人間」という欲望する動物と「動物」という欲求する動物の断絶が
あります。さらにラディカルには、ラカンは「性関係は存在しない」といいました。人間は動物のように
アプリオリな生殖のための性関係を持つことはできない。
また精神分析では、人間はみな神経症である、と言われます。それは、社会的な去勢(オディプス・
コンプレックス)によるものです。そしてここから欲動(生物的な力)は、「死の欲動」(フロイトの「快感原則
の彼岸」)と言われます。
436 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 10:38:20
ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」では、去勢以前の人間には原初的な器質的な欲動(生の欲動)がある
と考えます。ラカンは、精神病を父の名(象徴界)の排除と考えますが、ドゥルーズは去勢前(象徴界排除)
を「器官なき身体」と呼び、精神病という病気ではなく、本当の生命の力と考えます。ここには、精神分析的
な、パラノ/スキゾ(神性症/精神病)、オディプス/アンチオディプスがあり、死/生が断絶があります。
これら人間と動物、死と生の「断絶」は、精神と身体の「断絶」、心身(心脳)問題です。これは、西洋哲学が
継承する「断絶」です。そしてたとえばフロイトはデカルトを継承して言うというように、精神分析もまたこの
「断絶」を継承しています。これに対抗するのが、進化論の系統です。進化という連続性が「断絶」を解体
する。科学は進化論の系統にあります。認知科学、心理学。
この問題の重要性の一つは、この「断絶」が西洋の倫理的ものを内包していることです。だからダーウィン の進化論が公表され、社会的な問題になりました。
437 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 10:39:25
「断絶」による否定神学システム
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の成立に、クリプキ、デイビットソンなどは「共同体」を想定しました。
あるいはこれはラカンの象徴界にも繋がります。これは「共同体(社会)」があり、規則があり、
「言語ゲーム」が成立するというよりも、「言語ゲーム」が成立するだろうこと、あるいは成立への欲望が
あたかも「共同体」が成立しているように振る舞われる。そこには神性(人々が共同体があるという信じる
こと)によって保証されています。
このような「共同体」の成立は躓きます。この「共同体」には穴(断絶)があります。ゲーテルの
不完全性定理の消失点(断絶)、自己言及という「この私とはなにか」に答えられない、ということです。
そして逆説的に、科学的な大系化や、社会的秩序という「共同体」におけるこの躓き、「断絶」が、全体へ
還元されない「この私」を支えています。
たとえば、ハイデガーではこの裂け目からの「良心の呼び声」によって、現存在の唯一性が支えられる。
あるいはラカンでは、象徴界から現実界へ開いた穴、対象aあるいはファルスです。これは
否定神学システムと呼ばれます。
438 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 10:40:28
「断絶」による唯一性
これら人間と動物、死と生、精神と身体の「断絶」、心身(心脳)問題の本質は、「この私」という1回性
(唯一性)です。動物とは違う「人間」、身体に還元されない「精神」、そしてだれとも代われない「死」とは、
代替のない一回性としての「この私」です。精神分析はなぜ精神分析学ではないのか。人間を扱うと言う
ことは、一人一人、1回1回が唯一である、ためです。「この私」の精神は代替がきかない。同じものはなく、
ただ一つと考えます。
それに対して、科学はこの唯一性を扱うことができません。科学は、本質的に反証可能性という反復性
(還元主義的)です。たとえば人間を扱う心理学では人間の1回性を扱うのでなく、反復される行為を
統計学的にあつかいます。統計学的とは、同じ単位が多数存在することを前提にしている。たとえば
身体について、同じ身体、同じ心が多数存在していることを前提にしています。これは、認知科学でも
同じです。科学が人間を扱うときに、「この私」を多くのうちの一人に抑圧しています。
439 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 10:41:12
「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く
だから科学であり、哲学であり、歴史であり、みな懸命に統一した世界像を造ろうとしていることそのものに
「断絶」は内在されています。すなわち世界像をつくろうとする欲望が、「この私は誰か、はわからない」
という「断絶」への不安を隠す神経症的な所作であり、この否定神学システムの世界像を俯瞰する位置に
よって、「この私」が確保される、ということです。
だから、「断絶」をなくしたい世界像をつくりたいということ、「人間」を動物へと還元したい、「精神」を身体
へと還元したい、「死」を生への還元したいという欲望が、「断絶」そのものである、ということです。
逆にいえば、決して還元されない「この私」が人々を次々とフロンティアへ駆り立ている、ということです。
440 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 13:08:30
神は決してあなたを他者との差異で見ない。一人部屋にいようがいつも見ている。世界人口が六十億だろうが、あなたそのものを見つづけている。
これはウンコ引きこもりの万能妄想ではないか!
21世紀の神ピカチュウはハイテク機器を駆使し今日も盗聴盗撮を繰り返す!
443 :
考える名無しさん:2006/02/27(月) 16:52:17
>>ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
すげー。
久々に哲学板来たけど、 Part14 までいってるんかい!
よくそこまで人生を無駄にできるね。。。
444 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 21:27:08
いまごろ、24見てます。
そんなに面白いかな・・・
24話、あーじゃないこーじゃない、引っ張りすぎじゃない?
リアルタイムで進行するからなんなんだろう・・・
445 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/27(月) 23:21:03
女性蔑視ではないか。女性のヒステリックを使いすぎる。
大統領の嫁、ジャックの嫁、娘、大統領の補佐の女・・・
ぴかぁ〜の定義によると、脱構築とは「あげ足取り」のことであり、
その唯一のルールとは、「あげ足取り」を止めてはならないであるとか。
それなのに、ぴかぁ〜のあげ足取りを感心するほど見事にやり続けて
くれた「むじんくん」に対して、もうあげ足取りは止めてくれと懇願
するとはね。それは完全な「敗北宣言」ですよね?
むじんくんは、他のどのスレに出入りしているのかな? もし、
出入りしているスレがあれば教えてほしいな。。。少しファンに
なりかけているので。
機械スレって無くなったの?
むじんくんとのやりとりはそこが発端でしょ
449 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 22:09:53
>>446 むじんくんは、闘争のために旅立ったのです。
今頃、フリーターの労働環境改善のために活動しています。
449 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 22:09:53
>>446 むじんくんは、闘争のために旅立ったのです。
今頃、フリーターの労働環境改善のために活動しています。
451 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 23:26:59
■「断絶」
精神と身体の「断絶」
ラカンのネオテニー(幼形進化)はフロイトから来ているものでしょ。人間は早熟で生まれ、統一した自我を
持たないために、生まれた後に他者像(鏡像)によって統一的な身体像(自我)をもつ。これによって人間
はそのはじめから自分を他者へと疎外されている。そしてそれを取り戻すために、他者の欲望を欲望
する。ここに他者との「断絶」があります。
そして、これはヘーゲル的な、「人間」という欲望する動物と「動物」という欲求する動物の断絶が
あります。さらにラディカルには、ラカンは「性関係は存在しない」といいました。人間は動物のように
アプリオリな生殖のための性関係を持つことはできない。
また精神分析では、人間はみな神経症である、と言われます。それは、社会的な去勢(オディプス
・コンプレックス)によるものです。そしてここから欲動(生物的な力)は、「死の欲動」
(フロイトの「快感原則の彼岸」)と言われます。
ドゥルーズの「アンチ・オイディプス」では、去勢以前の人間には原初的な器質的な欲動(生の欲動)がある
と考えます。ラカンは、精神病を父の名(象徴界)の排除と考えますが、ドゥルーズは去勢前(象徴界排除)
を「器官なき身体」と呼び、精神病という病気ではなく、本当の生命の力と考えます。ここには、精神分析的
な、パラノ/スキゾ(神性症/精神病)、オディプス/アンチオディプスがあり、死/生が断絶があります。
これら人間と動物、死と生の「断絶」は、精神と身体の「断絶」、心身(心脳)問題です。これは、西洋哲学が
継承する「断絶」です。そしてたとえばフロイトはデカルトを継承して言うというように、精神分析もまたこの
「断絶」を継承しています。これに対抗するのが、進化論の系統です。進化という連続性が「断絶」を解体
する。科学は進化論の系統にあります。認知科学、心理学。
452 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 23:27:49
「断絶」による唯一性
これら人間と動物、死と生、精神と身体の「断絶」、心身(心脳)問題の本質は、「この私」という1回性
(唯一性)です。動物とは違う「人間」、身体に還元されない「精神」、そしてだれとも代われない「死」とは、
代替のない一回性としての「この私」です。精神分析はなぜ精神分析学ではないのか。人間を扱うと言う
ことは、一人一人、1回1回が唯一である、ためです。「この私」の精神は代替がきかない。同じものはなく、
ただ一つと考えます。
それに対して、科学はこの唯一性を扱うことができません。科学は、本質的に反証可能性という反復性
(還元主義的)です。たとえば人間を扱う心理学では人間の1回性を扱うのでなく、反復される行為を
統計学的にあつかいます。統計学的とは、同じ単位が多数存在することを前提にしている。たとえば
身体について、同じ身体、同じ心が多数存在していることを前提にしています。これは、認知科学でも
同じです。科学が人間を扱うときに、「この私」を多くのうちの一人に抑圧しています。
これはかつては「神」によって保証されていました。世界人口が六十億人だろうが、「神」は決して「私」を
他者との差異で見ません。なんらかの番号、社会的位置ではなく、「私」そのものを見つづけています。
一人部屋にいようがいつも見ているのです。
だからダーウィンの進化論が公表されて、社会的な問題になり、神学と対立しました。それは、この「断絶」
が西洋の倫理的を内包しているからです。しかしその後の科学の発展とともに、「神は死に」、「この私」は
取り残されました。
453 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 23:29:18
「断絶」による否定神学システム
ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の成立に、クリプキ、デイビットソンなどは「共同体」を想定しました。
あるいはこれはラカンの象徴界にも繋がります。これは「共同体(社会)」があり、規則があり、
「言語ゲーム」が成立するというよりも、「言語ゲーム」が成立するだろうこと、あるいは成立への欲望が
あたかも「共同体」が成立しているように振る舞われる。そこには神性(人々が共同体があるという信じる
こと)によって保証されています。だからラカンは象徴界を大文字の他者と呼びます。大文字の他者とは
超越論的他者であり、「神」です。
そしてこのような「共同体」の成立は躓きます。この「共同体」には穴(断絶)があります。ゲーテルの
不完全性定理の消失点(断絶)、自己言及という「この私とはなにか」に答えられない、ということです。
そして逆説的に、科学的な大系化や、社会的秩序という「共同体」におけるこの躓き、「断絶」が、全体へ
還元されない「この私」を支えています。
たとえば、ハイデガーではこの裂け目からの「良心の呼び声」によって、現存在の唯一性が支えられる。
あるいはラカンでは、象徴界から現実界へ開いた穴、対象aあるいはファルスです。
「断絶」を閉じる欲望が「断絶」を開く
科学が「断絶」を解体し、「神が死んだ」後も、「断絶」は生き残ります。それは、科学であり、哲学であり、
歴史であり、みな懸命に統一した世界像を造ろうとしているときに、その世界像を俯瞰する位置として
「この私」が確保されている。そしてこれは否定神学システムと呼ばれ、この「世界像」とは神話である
ということです。
だから、「断絶」をなくしたい世界像をつくりたいということ、「人間」を動物へと還元したい、「精神」を身体
へと還元したい、「死」を生への還元したいという欲望が、「断絶」そのものである。逆にいえば、決して
還元されない「この私」が人々を次々とフロンティア(無垢)へ駆り立ている、ということです。
454 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/28(火) 23:30:03
「現実界→解釈項(象徴界)→想像界」
このような否定神学システムとは、外部から流入する不確実性をある一元的な意味へと変換し、
統一した世界像へと組み込むことによって、主体という自己同一性を維持するシステムであると、
考えることができる。ただこのような否定神学システムは、脳でも身体でもなく、位相的に存在する
主体の維持システムである。だから外部は、また身体外、脳外ではない。たとえば身体そのものは
外部である。
ラカン的には「現実界→解釈項(象徴界)→想像界」の図式になる。これは、パースの記号論の三項に
繋がると言われる。「断絶」の向こう現実界(外部)から内部へ進入するカオスティックな情報は、
解釈項としての象徴界(言語)によって変換され、想像界という統一した世界像としての「空想
(ファンタジー)」を形成する。そこではファルスとして自己同一性の空想も形成されることになる。
さらにラカンでは、「断絶」の向こうの現実界を享楽と呼ぶ。享楽はそれに近づくことによって主体が
崩壊するものであり、象徴界によって禁じられた(去勢された)ものである。そして禁じられている故に
欲望が目指される。しかし主体が崩壊する前に、空想化して、欲望は空想を追いかける。しかしそれは
満足を与えないために、欲望はトライし続ける。
たとえばこのようなシステムは人工知能でも再現可能のように思われる。しかし人工知能に欠けている
のは、解釈項としての象徴界である。ラカンにおいて象徴界は大文字の他者との言われる。この変換
の正当性は信頼(神性)によって保証される。そして「欲望とは大文字の他者の欲望である」と言われる
ように、欲望の対象であり、原因となる空想を想起し、象徴界を新陳代謝させるという自己組織的な
システムである。
455 :
考える名無しさん:2006/02/28(火) 23:34:42
456 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/01(水) 00:34:50
「内部」・・・心、後天的(アポステリオリ)、1回性
→想像界、象徴界(言語、無意識)、バタイユのエロティシズム、フロイトの超自我
「断絶」
「外部」・・・身体、先天的(アプリオリ)、反復性
→外部知? 暗黙知、ユング的な無意識領域、
→ラカン、フロイトの「欲動」、エス、現実界(物自体)
→脳神経学、認知科学
なぜ、内部と外部の断絶にセンシティブでなければならないのか。たとえば、エロティシズムを
脳の快感物質に還元すると、これは外部であり、先天的(アプリオリ)ということになります。先天的な
ものは、遺伝子によって決定され、進化によって変化する。すると、進化という変化単位を、文化や、
人の寿命と比べると、長すぎて、エロティシズムはほとんど「真理」です。すなわちボクたちの脳には、
人の個性、文化に変わらず、「これがエロティシズムだ」というものがあるということになります。
あなたがなんといおうと、これがお前のエロティシズムだと、「真実」と突きつけられるわけです。
難しく書いてるけど、ようするに
心は物理・化学的要素には還元できない=断絶があると言いたいわけね
458 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/01(水) 00:50:07
この「断絶」は東浩紀の「解離的近代の二層構造論」にも対応する
動物的原理の層
情報、環境管理、身体、ゲーム理論、データベース、認知科学、偶然性、可能世界
人間的原理の層
意味、規律訓練、主体、言語ゲーム、コンテクスト、精神分析、必然性、固有名
459 :
考える名無しさん:2006/03/01(水) 15:05:51
あげ
460 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/01(水) 18:51:51
ランダムとカオスは違います。
461 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/01(水) 18:54:13
ランダムか確率論に従いますが、
カオスは従いません。そこに1回性が混入するのです。
462 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/01(水) 19:47:07
>>
「ゆらぎ」による構造生成は、「ミクロ現象は偶然で説明してもよいが、マクロ現象は偶然で
説明してはならない」という認識論上の暗黙の要請を満たす形式を持っているといえる
(ゆらぎはミクロレベルで生ずる偶然の過程とされている)。
偶然性の導入は認識の停止を意味することになるが、マクロの偶然というのはそれ自体、
さらなる認識を必要とするからである。これに対して、ミクロの偶然(ミクロの論点先取)が
許容される理由は、認識の停止を無限小(+0)にどとめることができるからである。
自己組織理論の現段階 黒石晋
<<
463 :
考える名無しさん:2006/03/01(水) 20:49:15
ん?
464 :
考える名無しさん:2006/03/01(水) 21:59:55
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
465 :
考える名無しさん:2006/03/01(水) 22:01:07
15 名前:考える名無しさん :03/07/12 21:14
ぴかぁ〜さんは、自費出版とか考えないんですか。
そんであちこちの哲学科に送りまくるとか。
17 名前:ぴかぁ〜(^O^) ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 21:18
>>15 君に一任します。
一儲けして、遊んで暮らしましょう。
466 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/02(木) 01:01:07
>「ミクロ現象は偶然で説明してもよいが、マクロ現象は偶然で
>説明してはならない」という認識論上の暗黙の要請
確率は、当然、認識論です。世界の一つの見方です。
すなわち世界を必然と見るか、偶然と見るか
一回性とみるか、反復性としてみるか
だからこれは内部である。
外部は必然でも、偶然でも、一回性でも反復性でもない、混沌である。
467 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/02(木) 01:14:56
外部を語る言説、たとえば脳科学、認知科学、宇宙論などは、
内部から外部を見たものでしかない。
世界は「現象」であり、外部を見ることはできない。
では、脳科学、認知科学、宇宙論を如何様に語るべきか。
468 :
考える名無しさん:2006/03/02(木) 02:10:08
内部観測
469 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/02(木) 12:29:13
哲学者の一生
@過去思想の懐疑→A自己思想の肯定→B自己思想の実践
→C没入→D現実との解離による挫折→E抽象性(芸術性)への逃避
470 :
考える名無しさん:2006/03/02(木) 12:38:44
>>466 ぴかぁ〜はどこまでをミクロ現象としてみてるん?
471 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/02(木) 12:42:28
>>470 ミクロ/マクロはどこまででなく、認識論の問題です。
宇宙は1つですからマクロですが、
多元宇宙論のように無数に宇宙があるとすると、
宇宙はミクロになる。そしてその上位概念のマクロが
必要とされる。
472 :
考える名無しさん:2006/03/02(木) 20:01:45
ネタぎれ?
15 名前:考える名無しさん :03/07/12 21:14
ぴかぁ〜さんは、自費出版とか考えないんですか。
そんであちこちの哲学科に送りまくるとか。
17 名前:ぴかぁ〜(^O^) ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 21:18
>>15 君に一任します。
一儲けして、遊んで暮らしましょう。
474 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/02(木) 23:51:30
■私はなぜ「この私」であって、他人ではなかったのか。
なぜ「この私」は「この私」か
柄谷は「この私」を固有名であると言いました。犬と「ポチ」の違いですね。100匹の犬がいて、
どの犬である可能性はありえた。しかしそのうちの1匹を選び、「ポチ」と名付けた。固有名の
過剰性とはなにか。これはラッセルからつづく言語論上の議論です。
東は、デリダの「郵便的」をつかって、その犬が「ポチ」でなかった可能性(散種)が転倒されて、
「ポチ」という確実な意味(多義性)になる。そしてその転倒(散種の多義性化)で失われた可能性が
過剰があるように錯覚させる、と言います。
ボクはジジェク(ラカン)の固有名論を絡めて、どの犬でもありえた可能性の中で、「この犬」を
選んだのはなぜか。名付けられた根拠はなにか?そんなものはない。しかしそれに意味=過剰が
あるように振るまわれる。「ポチ」とは「対象a」です。そしてここでも東と同じように、可能性の抑圧が
あります。
すなわち「この」性は、「クオリア」であり、この「現実(リアリティ)」のありありとした感じです。そして
人は「この」性から逃れることはできるません。目の前のりんごが5個あるときにも、それは「りんご」
であるが、目の前の「このりんご」であり、そこには「小さなこの性」=「小さな単独性」があります。
たとえば「大きな単独性」とはアウラでしょう。
475 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/02(木) 23:54:08
自由意志の在処
これを「自由意志」の問題につなげると、「この私の選択」には、ほんとうは意味などないが、
意味があるような振るまいであり、その過剰は、選択された「もの」が「対象a」として振るまわれる
からです。すなわち「自由意志」とは、可能性を抑圧した「意味」であるということです。
ボクはラカンから、主体を「否定神学システム」としてとらえますが、これは象徴界の穴、ゲーテルの
消失点、言語化できない自己言及点=「この私とはなにか?」が、否定的に(欠如として)主体という
単独性を示す。それは、消失点を隠す欲望の「対象a」という空想を見せることによってです。
すなわち主体とは消失を隠す「空想」である、ということです。これは、自由意志が「この選択」という
単独性であり、「対象a」である、ということとまさに繋がります。「自由意志」による選択が、
自己同一性を維持する、ということです。
しかしこれは「意味」の問題です。主体が、「選択」に「意味」を見出す方法です。100匹の犬から
「ポチ」を選んだことが、単なる「偶然」でなく、必然であったという「必然」を支える「意味」です。
自由意志の問題は、さらにこの「偶然」が本当に偶然か、ということが残り続けるということでしょう。
行為の「選択」はいかに行われるのか。
それには、心の作用(意識的意志、無意識)+身体反応+外部環境要因の要因が考えられます。
すなわち自由意志の在処は欲望の対象である「意味」(想像界、象徴界)の向こうにあり、
到達できないところ(現実界、物自体)にある、ということです。
476 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 13:49:46
■「安全な危険」
「良心の声」と「脱構築」
現代のキーワードは「安全な危険」ではないだろうか。ゲームでの闘い、2ちゃんねるという匿名の発言、
ロリコンという社会的なタブー、自己責任論、それらは全て「安全なところからの危険への近接」であり、
これを、一頃で言えば、「バーチャル」である。
人はなにを引き受けるか。「このとき」、「この痛み」、「この感触」、現前のありありとして「この」性が
「私」の「この」性、唯一性を想起しつづける。ハイデガーはそれを「良心の声」と呼んだ。この現前、
この私=現実(リアリティ)は、「良心からの声」という主体の引き受けだ。この私はこの私に任された
という、責任の在処である。
デリダが批判したのは、まさにこの現前性である。耳と目の差異、パロールとエクリチュールの差異、
エクリチュールの引用可能性、失敗可能性は、「この」性を可能性へと脱構築する。
477 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 13:50:32
これはまさに、現代の情報化だろう。テレビ、雑誌、ゲーム、ネットetc。容易なコピー(引用可能性)は、
この現前、この私=現実(リアリティ)を可能性への脱構築する。すなわち「良心の声」という引き受けが
脱構築されるときに、可能性とともに、「責任」は発散する。この私でなかった可能性、この私の罪が
誰かの罪であった可能性。そこにあるのは、偶然性である。その罪を背負ったのは、たまたま私で
あっただけだ。
ここには駆け引きがある。現前性という「この私」と可能性という誰でもありえた私。これの対立をボクは
「断絶をによる内部と外部」と呼ぶ。これはまさに主体の両義性である。
「内部」・・・心、後天的(アポステリオリ)、1回性、マクロ
→想像界、象徴界(言語、無意識)、バタイユのエロティシズム、フロイトの超自我
「断絶」
「外部」・・・身体、先天的(アプリオリ)、反復性、ミクロ
→外部知? 暗黙知、ユング的な無意識領域、
→ラカン、フロイトの「欲動」、エス、現実界(物自体)
→脳神経学、認知科学
478 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 13:51:35
「安全な危険」
現代は内部という主体への、情報化という外部からの「偶然性」の進入が活発化している。それは
究極的には解離症へいたるだろうが、そこで主体が行っているのが、「安全な危険」である。
外部からの「偶然性」の進入に対して、内部へ強く避難し、「この私」を確保する。しかしこの息苦しさに
耐えきれずに、その安全な場所を確保される限りで、「偶然性」へ近接する。そして「この私」の引き受けは
曖昧になる。
安全で快適な場所から、ゲームによって生死をかけた闘いをする。2ちゃんねるという匿名性の安全から
ヘイトスピーチなどの危険な発言をする。幼児という弱い者という安全とロリコンという社会的なタブー
という危険。そして、守られた高い自己プライドと危険という社会性の低さ。それが「安全な危険」である。
479 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 14:04:29
「安全な危険」を宮台のように「ヘタレ」と一括しても良いのだろうか。溢れる情報に溺れ、つぎつぎ
展開する価値観という情報化社会の中で、「この私」という現前性を強く、引き受けて生きることは
難しい。それは現代を生きために誰もが活用するだろう方法論でもあるということだ。
480 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 15:32:42
この主体の両義性は、東浩紀のポストモダンの二重構造に対応するだろう。
>>
ポストモダンの二重構造(東浩紀)
主体(内面)の自由 (コミュニティの層)・・・複数のコミュニティ(相互無関連化・島宇宙化)
多様な価値観の共存、コミュニタリアン、多文化主義、
規律訓練型権力の作動域、市場の論理が支配
身体の管理 (アーキテクチャの層)・・・単一のアーキテクチャ(都市・交通、市場、コード)
価値観中立なインフラ、リバタリアン、メタユートピア、
環境管理権力の作動域、セキュリティの論理が支配
<<
481 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 16:28:51
同じ構図を持ちながら、いわばボクは内部(ラカン)派であるのに対して、東は外部(デリダ)派である。
東によると、もはや内部は曖昧なシミュラークルである。だから内部の一部による管理も、
多数のコミュニティの闘争も意味がない。外部の単一なアーキテクチャが管理することが良い、
すなわち環境管理権力に向かうだろう、ということだ。しかしこの単一を、いままでのように
単一のイデオロギー、コミュニティと考えてはいけない。それは外部であり、主体性、社会性も
ない「脱政治的な社会」、グーグル的表現をすれば「人間を介さない」社会である。
482 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 16:29:49
>>
解離的近代の二層構造論 東浩紀
二層構造論は「非政治的」、というより、もっと積極的に「反政治的」である。・・・それは、この
二層構造論の枠組みでは、「政治」そのものが、人間的欲望の層における現象のひとつとして
相対化されてしまうからだ。・・・僕たちが関心を向けるべきなのは、そのようなうわさ話が
上部構造でのシミュラークルに変えられてしまったあと、脱政治的=脱人称的な秩序形成が
どのように進化するかだ。
もしかしたら「まつりごと」としての政治は残るのかもしれない。そして僕たちは相変わらず、政治家の
スキャンダルや派閥争いを注視しているのかもしれない。しかしそれは、mixiで友人の日記を読み、
ワイドショーで有名人のうわさ話に耳をそばだて、サッカーでナショナルチームの勝敗に一喜一憂する
のとあまり変わらないレベルの現象になるだろう。というより、僕たちはそのような脱政治的な社会を
目指すべきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう
(間接民主制というのはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の
積極的帰結のひとつである。
「戦争」「暴力」の問題はどうなんだ、という反論がありうるかもしれない。・・・これに対する僕の答えは、
今後の社会秩序は友敵の区別を必要としない環境管理型権力によって維持されるはずで、それは
実際にセキュリティの全面化というかたちで試みられている、というものである。・・・僕は、情報技術を
駆使すれば、セキュリティの確保を友敵区別の再構築から引き離すことは、可能なのではないかと
思う。というよりも、環境管理型権力の概念は、まさにそういうものとして考えられている。
<<
483 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 16:41:09
そしてボクがこれをなんと呼ぶか、ご存じだろう。そう「機械論の欲望」である。、内部を俯瞰
する言説はない。「メタ言語は存在しない(ラカン)」そしてここに「安全な危険」が見いだせる。
>>
「人間を介さず」という魔法の言葉
人間と人工知能の差は「断絶」の乗り越えです。「断絶」があり、その「断絶」という隙間を埋めようと
する、それでも他者と繋がろうとする、そこに言語(社会)が生まれ、「私」が発生する。これが知能です。
そしてこの「断絶」こそがネットが爆発的に広がった原動力そのものです。そこに他者と繋がる可能性
があることが欲望を想起しつづけるのです。それがボクが「ネットの欲望」あるいは「機械論の欲望」と
言ったものの本質です。
ネットコミュニケーションは、「断絶」を越えて繋がる可能性、「断絶」が消失する可能性として欲望
されます。そしてグーグルの「人間を介さず」というキーワードは、これとまったく同様な意味です。
「人間を介さず」、すなわち「断絶が消失する」という欲望を想起する魔法の言葉なのですね。
Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか その3
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060216 <<
484 :
考える名無しさん:2006/03/03(金) 17:16:24
よくわからないけど、言葉だけが踊っていて、まるで「現実」にコミットしていないように見えるのは、ポスモダのせいか、ぴかぁ〜のせいか?
485 :
考える名無しさん:2006/03/03(金) 17:41:24
100%ぴかぁ〜のせいです
486 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 17:55:13
>>484 東の言っていることはわかる?
そこがわからないと、勉強してもらうしかないね。
487 :
考える名無しさん:2006/03/03(金) 17:59:33
いや、東は皆分かっているが、
ぴかぁ〜が意味不明なこと言ってる←ここが重要
ってことが問題なんじゃないか?
488 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 18:10:23
>>487 「ポストモダンの二重構造」が読めてれば、わかると思うけどな。
489 :
考える名無しさん:2006/03/03(金) 18:16:28
そうかー
東を読まないとわからないものなのかー
ならば東を読んでわかってしまえば、それだけでいいってことかー
ぴかぁ〜のレスってそういうものなのかー
490 :
考える名無しさん:2006/03/03(金) 18:19:23
いや、ぴかぁ〜は東をよく読めてるんだよ
で?ってところが問題なんじゃないか?
491 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 18:30:03
東はパブリックでわかりやすく書いているからね。
ボクはそこまでマメに書いてない。
まずこのエントリーを読んで、読めないと勉強して
もらうしかないよ。
http://www.hirokiazuma.com/ 解離的近代の二層構造論3
解離的近代の二層構造論2
解離的近代の二層構造論
そこからボクの文を読むと、「で?」がわかる。
それより、は素直にここでわからないとこ質問すれば(笑)
492 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 18:33:43
この東のエントリーは、ひさびさ?面白いし、
わかりやすい。
ブログだからだろうけど、ここまで俯瞰してぶっちゃけてるのは、
そうそうないのでは?
だって、環境管理権力化を肯定してるんだよ。
政治的な発言ししたくないと、言いながら、物凄く政治的だよ。
かなりヤバイよ。
493 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 18:40:51
でも、とにかくラカンかな。
東のデリダ研究は有名だけど、東はラカンなんだよ。
ラカンがある程度わからないと東は読めないと思う。
「ポストモダンの二重構造」ってラカンだよね。
東スレでも最近、良い東読みのレスがない。
手塚んは、知識豊富だったけど、ラカンはしらなかったから、
オタクの東は読めても、本論(情報論)はほとんど読めてなかった。
東はデリダからラカンにどんどん近づいている。
東スレにはもう書き込まないでくれ。
荒らされると迷惑だ。
今やってるNHK教育の茂木は相変わらずベタですね。
496 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/03(金) 23:17:08
「抗いがたい」
東スレや自己責任スレなどへのコピペ爆撃は止めてください
迷惑です
498 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 00:40:14
■アイロニーのベタ化
「アイロニー→シニカル→ベタ」というのは、一つの法則としてあるのでは、ないだろうか。そこにある
のは、対象への介入量の問題である。
たとえば最近では、「勝ち組/負け組」という言葉があった。それはまず多数に足しうる知的少数
からのラディカルなアイロニーとして生まれる。「勝ち組/負け組」というのは未婚女性の自虐的
アイロニーからはじまる。それは逆説に、自ら「負け組」と言えることの余裕である。自虐性を帯び、
社会(多数)へのシニカルへ向かう。それが、広く広まることによって、ただベタに「勝ち組/負け組」
という価値へと転倒される。
ここであるのは、アイロニーというコンテクストが伝達されにくく、エクリチュールとして、
「勝ち組/負け組」が多様なコンテクストに紡がれ、もはやベタな意味としてしか伝わらない。それは
単に伝わるだけでなく、それは一つの力となる。「勝ち組/負け組」というただの格差である。
これ「ブーム」のかなり一般的な傾向だろう。たとえばイラク人質の自作自演説も、ネタからはじまった。
むしろこれは「ブーム」そのものの法則であるとも言える。
499 :
考える名無しさん:2006/03/04(土) 05:53:33
ひきこもりの僕がきたよ・・
相変わらずぴかぁーもひきこもりみたいなことやってるんだね・・
わたしも最近、ラカンに少し興味が出てきました。。。これも、ぴかぁ〜様の
ご利益かな?
501 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 20:54:14
ラカンは哲学の一つの臨界ですね。
502 :
考える名無しさん:2006/03/04(土) 20:55:42
ぴかぁ〜さん、ラカンにトライしたいのですが、最初に何を読めばいいですか?
503 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 21:05:40
なにからラカンを入るか、これは難しい問題ですね。
ラカンは一つの鏡像で、解説書などいろいろでていますが、
著者それぞれのラカンがあります。多面的ですね。
一番オーソドックスには、ラカン「現代思想の冒険者たち」 福原 泰平
ですかね。
しかし多面体の中で、いま、受け入れやすいのはジジェク(のラカン)でしょう。
504 :
考える名無しさん:2006/03/04(土) 21:47:32
ラカンよりニーチェだと思うのですが、ぴかぁーさん
505 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 21:47:40
■「安全な危険」の時代
情報化と「良心の声」の脱構築
現代のキーワードは「安全な危険」ではないだろうか。ゲームでの闘い、2ちゃんねるという匿名の
発言、ロリコンという社会的なタブー、自己責任論、それらは全て「安全なところからの危険への近接」
であり、これを、一頃で言えば、「バーチャル」である。
人はなにを引き受けるか。「このとき」、「この痛み」、「この感触」、現前のありありとして「この」性が
「私」の「この」性、唯一性を想起しつづける。ハイデガーはそれを「良心の声」と呼んだ。この現前、
この私=現実(リアリティ)は、「良心からの声」という主体の引き受けだ。この私はこの私に任された
という、責任の在処である。
デリダが批判したのは、まさにこの現前性である。耳と目の差異、パロールとエクリチュールの差異、
エクリチュールの引用可能性、失敗可能性は、「この」性を可能性へと脱構築する。
これはまさに、現代の情報化だろう。テレビ、雑誌、ゲーム、ネットetc。容易なコピー(引用可能性)は、
この現前、この私=現実(リアリティ)を可能性への脱構築する。すなわち「良心の声」という引き受けが
脱構築されるときに、可能性とともに、「責任」は発散する。この私でなかった可能性、この私の罪が
誰かの罪であった可能性。そこにあるのは、偶然性である。その罪を背負ったのは、たまたま私で
あっただけだ。
506 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 21:48:38
内部と外部
ここには駆け引きがある。現前性という「この私」と可能性という誰でもありえた私。これの対立をボクは
「断絶」による「内部と外部」として以下のように示す。これはまさに主体の両義性である。
>>
「内部」・・・心、後天的(アポステリオリ)、1回性、マクロ
→想像界、象徴界(言語、無意識)、バタイユのエロティシズム、フロイトの超自我
「断絶」
「外部」・・・身体、先天的(アプリオリ)、反復性、ミクロ
→ラカン、フロイトの「欲動」、エス、現実界(物自体)、脳神経学、認知科学
<<
507 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 21:56:33
「安全な危険」
現代は内部という主体への、情報化という外部からの「偶然性」の進入が活発化している。それは
究極的には解離症へいたるだろうが、そこで主体が自らを守るために編み出した方法が「安全な危険」
である。
外部からの「偶然性」の進入に対して、内部へ強く避難し、「この私」を確保する。しかしこれだけでは、
その息苦しさに耐えられない。そのためにその「安全な場所」を確保しながら、外部からの「偶然性」
へ近接する。
安全で快適な部屋で、ゲームによって生死をかけた闘いをする。2ちゃんねるという匿名性の安全から
ヘイトスピーチなどの危険な発言をする。幼児という弱く安全な者へ、ロリコンとして社会的なタブー
(危険)へ近接する。ここには、保守化した強い「この」性に支えられたプライドと安易に危険に近接する
という社会性の低さがあることが指摘されている。それが「安全な危険」である。
このような「安全な危険」を宮台のように「ヘタレ」と一喝することもできるだろう。しかしまた溢れる情報
に溺れ、つぎつぎ展開する価値観という情報化社会の中で、「この私」という現前性を強く、引き受けて
生きることは難しい中で、「この私」を維持し、柔軟であるという現代を生き抜く、サバイバル法である
ことも否めないのではないだろうか。
508 :
考える名無しさん:2006/03/04(土) 21:57:19
509 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 22:47:15
>ラカンよりニーチェだと思うのですが、ぴかぁーさん
どのような意味で、でしょうか。別に優劣の問題ではないので。
ラカンはハイデガーを経てニーチェの流れも組んでいると思います。
ただニーチェは今となっては、生へ(「外部」へ)偏っていますね。
ニーチェの立ち位置では、(ヘーゲルで確立した)巨大化した「内部」の潮流に対して、
「外部」を立て、「内部」とはルサンチマンであると、いうことだったわけです。
特に、前期は、ディオニュソス的/アポロン的=外部/内部において、その融合が目指されて
のですが、後期では、超人、力への思想と、「外部」へ系統しすぎていますね。
510 :
考える名無しさん:2006/03/04(土) 22:53:57
ぴかぁーさん、ラカンの解説書ではなく、
ラカン自身の著作で翻訳されてるものから、
何か推奨していただけませんでしょうか?
511 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 22:58:48
>>510 「エクリ」とセミナールになりますが、
セミナールでは「精神分析の四基本概念」が読みやすいと
言われていますね。
でも、ラカンを多少でも知っていればわかると思いますが、
ラカン自身の著作をいきなり読むのは、難しいですね。
ラカン関連では、いままで、どのようなものを読まれましたか?
512 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 23:06:51
質問するのはいいですが、もう少し自分のことも言わないと、
くれくれ君として、嫌われますよ。(笑)
がんばってください。
512 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 23:06:51
質問するのはいいですが、もう少し自分のことも言わないと、
くれくれ君として、嫌われますよ。(笑)
がんばってください。
バイオ遊びはやめたほうがいいですよ。
彼らも人格を持ちうるのだから。
515 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 02:06:09
オタクのベタ性は如何ように「獲得」されるのか。
コミュニケーション数の少なさ?
社会は複雑になって、複雑な空気読みが求められる。
日々、空気がダイナミックに変化する。
たとえばTVを見るということも、空気読みの訓練になる。
欲望によってコミュニケーションは動機づけられるために、欠乏感が
必要になる。
親に甘やかされる、与えられすぎると、他者へ向かう必要性が薄れる。
516 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 02:27:04
「なんのために生きているのか」
これは意味の次元です。しかし「生きる」という次元はまず「外部」=身体側にある。
意味の外側で、身体の作動は、なんの疑いもなく、「生きる」ということを前提にある。
ここに一つの答えがある。すでに「生きようとしている」。
そして意味という内側では、「生きようとしている」ことをなぜ疑うのか。すなわちこの問いが
「本当」はどのような意味で発生しているのか、ということだ。
問いは、純粋にコンスタティブに発生しえないばかりか、むしろパフォーマティブである。
すなわち「生きようとしてこと」を疑うという「否定性」はなにによって、生まれているのか、ということだ。
そしてさらには、その「否定性」は、意味の次元にあるのか、ということだ。
小物
延焼を起こしそうになった焼き物の灰皿。
519 :
考える名無しさん:2006/03/05(日) 03:35:05
例えばだ、軽くやらかすとだ、
険しき土地を後に海辺のあの人のもとへ。
その気まぐれに口を尖らすカモミールの様な微笑み。
ため息をつく度に俺のアリバイはあなたの胸にしまい込まれ
情感の霧が立ち込める中、あなたは霧を吸い込んで
吐き出せばそれは庭先の花になる。
詩人に報われぬ恋はつきものだと人は言う。
同じく恋人達には擦違いの危惧が用意されている。
けれどあなたを手放さずにいれば苦しみは離れていく。
すなわち涙は消えていく。
すなわち雨は晴れていく。
すなわち悲しみは癒えていく。
すなはち偽りは失せていく。
あなたを手放さずにいれば。
我ながら凄まじい誤爆だな。
まぁなんだ、此れもパフォーマティヴの欠片ぞよ。
521 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 14:37:41
ん?
頭悪い奴が秀才に見せようと頑張って書いた頭悪い文 て感じ
ゆだや人のフロイトが見落としたこと。
それは、「被る」「剥ける」こと。
524 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 16:36:39
>>522 レスがつけられるように、せめてもう少し頭良さげな文
書けないのかね。
生まれ落ちて社会に一人さらされる西洋人、
世間に包まれる日本人。
>>524 コンプレックスと一人よがりなプライドを突かれて顔が真っ赤
鏡見てから物言えよ 豚
527 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 17:42:47
512 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 23:06:51
質問するのはいいですが、もう少し自分のことも言わないと、
くれくれ君として、嫌われますよ。(笑)
がんばってください。
もう純一しかレスしなくなったな。
いいことだ。
531 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 19:00:43
■人はなぜ「汚物」に惹かれるのか
なぜ「無垢」を求めるのか
まずはじめに人は根本的に欠けた存在なので、完全な充足を求めているということです。そのために
「無垢」を欲望します。なぜ「無垢」を求めるのかというと、それが処女地(フロンティア)だからです。
そこに一番に乗り込む、征服することによって、私が1番、すなわと他者とは違う、唯一な存在として
承認され、充足されます。たとえば、だれも登ったことがない山を一番に登ることによって、彼には、
初登頂、初征服した唯一な存在としての名誉が与えられ、充足が得られます。
たとえば、大航海時代には、みなが未開地を求めて世界へ旅立ちました。それによって、アメリカ大陸
は発見され、発見者に名誉が与えられます。しかしここでおかしいのが、原住民がいたのになぜ
発見なのか。処女地(フロンティア)なのか。それは「西洋というコミュニティ」の価値として、アメリカ大陸
はフロンティアであり、発見であったからです。アメリカ大陸発見者の名誉など、原住人にしてみれば、
なにを言ってるの?ということになります。
532 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 19:01:31
無垢の幻想
だれも登ったことがない山を一番に登ることの価値も、それが価値あることだと、承認するコミュニティ
があるからです。それが無垢であるという価値は、あるコミュニティの承認によって得られますから、
だからボクはこれを「無垢の幻想」と呼んでいます。
「無垢の幻想」として、物理的な処女地をあげましたが、コミュニティ内にそれを行うことに価値がある
というときすべてに「無垢の幻想」が生まれます。たとえばある算数の問題が解けることにしろ、新品の
靴を買うことにしろ、誰かとコミュニケーションするにしろ、属するコミュニティが、そこに価値を認める
ときに、小さな「無垢の幻想」が生まれ、それをすることで、小さな充足をえるのです。小さなところ
では、「上から二冊目の本」を買うことから、大きなところでは、オリンピックで優勝するなど、より多くの
人が欲望することほど、大きな「無垢」があり、それを達成することで大きな充足が得られます。しかし
どのような無垢を征服しても、人が完全に充足することはないので、人は一生欲望し続けます。
533 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 19:02:24
■若者はディープを目指す
現代では、大きな無垢がなくなってきています。なにをやってもすでに誰かがやってきたことで
しかない。特に社会という「大きなコミュニティ」ではそうです。だから人々は無垢を求めて、コミュニティ
を細分化させています。たとえば、オタクという「小さなコミュニティ」の中で有名な声優と握手したという
価値は、オタク以外の人々には価値がありません。しかしオタクたちにはものすごく大きな名誉です。
このように「無垢」への欲望は、小さなコミュニティ内で、小さいながらも、誰もやっていない無垢へ、
よりディープへ向かっています。
特に若いときは過剰に自分の価値を求めますが、現代で、若い人が、家庭や学校などで言われる
社会的な価値に興味がもてないのは、社会という「大きなコミュニティ」には無垢が見いだせない
からです。だから無垢を求めて、オタク、ネット、ファッションなどのより趣味的な「小さなコミュニティ」に
向かいます。
534 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 19:03:23
社会的なタブーへの近接に「汚物」は現れる
そしてより細分化された価値の誰も到達していないというディープな方向へ向かう時に、社会的に禁止
され、タブー視されているところへ向かうのは、当然ともいえます。たとえば「女たちはなぜパンツを
見せるのか」*1の中で言いたかったのも、このようなことです。若い女性たちが、無垢を求めてディープ
へ向かうとき、社会的に「女性が下着であり、肌を露出することはいけない」というタブーへ近接する
のです。そしてそれを、そのコミュニティの外からみると、奇妙で、病的に写ってしまうのです。
古くは不良少年が犯罪をするのも、あるいはかつてロック少年が不良と呼ばれたのも、女子高生が
スカートを短くするのも、オタクが幼児をロリコンとして性の対象とするのも、社会的なタブーへの近接
であり、過剰な「無垢」への欲望です。このようなことをボクは「汚物性」と呼んでいます。
「無垢の汚物性」を現代の若者で説明しましたが、どの時代も無垢とは、社会的な価値の境界、
タブーなところから現れるものであり、「汚物」であるのではないでしょうか。革新的なことは往々に
して、常識を逸脱し、過剰であり、醜悪で、非難されるところから始まる。そしてボクたちはそのような
ものに眉をひそめながらも、なぜか引きつけられてしまう。このような「無垢の汚物性」は、コミュニティ
の内と外という境界を脱構築し、コミュニティを新陳代謝させる傾向でもあるのです。
>>530 昔はオマエの方が哲学知識があっただろう
それが、あっというまに抜かれてこのザマかw
本気で言ってるなら大爆笑ものだな。
512 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 23:06:51
質問するのはいいですが、もう少し自分のことも言わないと、
くれくれ君として、嫌われますよ。(笑)
がんばってください。
538 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/05(日) 22:43:59
ポストモダンとは、無意識の審級(言語の次元)の思想である。
理性的主体を宙づりにする。
たとえばニーチェは理性的主体批判に、生と立てた。これは外部から内部を
破壊することを目指す。
しかしポスモダの理性的主体批判は、内部に無意識の次元を進入させ、内破させる。
ここで特にラカンが重要であるのは、このような無意識の乱用を注意し、
新たな主体像を提示するからだ。
539 :
考える名無しさん:2006/03/05(日) 22:50:35
てか右翼、こんな時間に軍歌ながすなボケ
北チョンに特効しかくる根性もねえくせによ
いぬの遠吠えだ
恥さらし
街宣車かね?
>>536 こそこそせずに、ぴかぁ〜に論戦いどめw
論戦?テーマは?
512 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/04(土) 23:06:51
質問するのはいいですが、もう少し自分のことも言わないと、
くれくれ君として、嫌われますよ。(笑)
がんばってください。
15 名前:考える名無しさん :03/07/12 21:14
ぴかぁ〜さんは、自費出版とか考えないんですか。
そんであちこちの哲学科に送りまくるとか。
17 名前:ぴかぁ〜(^O^) ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 21:18
>>15 君に一任します。
一儲けして、遊んで暮らしましょう。
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
546 :
考える名無しさん:2006/03/06(月) 12:45:47
晒し
ぼくは20代後半にしてプログラマーをめざすよ。
ぴかぁさんもどうだい?
548 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/07(火) 10:11:54
デカルトのコギトとは乖離、心身の引き裂かれの叫びである。
問題は疑う私という身体から乖離した心にあるのでく、
科学の発達により引き剥がされる身体側にある。
人間という神になざされた特別性は科学により「解体」してみると
動物であり、機械であった。
この恐怖を前に叫んだのがコギトだ。もはや「疑う私」があると宣言する、人間を救うことができない
ああ、神よ。デカルトの叫びである。
だからデカルトは「外部」の人であり、認知科学者である。
そしてデカルトの末裔たる認知科学者たちは、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。
デカルトの恐怖=コギトを消去することに躍起なのだ。
そしてデカルトが安心するようにコギトは残り続けている。
回帰し続ける「機械論の欲望」に抗してデカルトの恐怖=コギトは死なない。
549 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 10:24:17
心身一体!
550 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/07(火) 10:37:13
デカルト末裔の繰り返しの努力にかかわらずなぜコギトは消失しないのか。
デカルトが動物と呼び、機械と呼んだものはデカルトが考えるようた物体でなく「言語」であったからだ
身体は言語によってしかとらえられない。そして「これ以上疑えない私」は言語であることで疑えるというデカルトのミスこそが、コギトを延命している。
疑える故にコギトはしなない。デカルトの恐怖に反してコギトはタフだったということだろう。
551 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/07(火) 11:02:37
疑えるこの私の存在は、ことばなくてはない。
そしてことばは後天的に受け取ったあいまいなものだ。そもそも「私」とはことばでしか存在しない。
しかし科学という「世界」もことばでしかなく、そもそも存在しない。
そもそも存在しない中でしか何物でもない内部に、疑い、科学、世界と私の物語がある。
この内部で、ボクたちがでられない内部でコギトは疑えないゲーテル的消失点である。
552 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 13:41:57
ぽかぁ〜、epic2014って言うフラッシュ見たか?
553 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 13:42:35
すまん、ぴかぁ
名前を間違えるなんてな
554 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 19:27:58
ぴかあー、ゲーデル的消失点ってなあに?
555 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 20:24:49
鈴木謙介だったかなんだったか忘れたけど
言ってた事じゃないの?
556 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 20:58:13
pikkaサン、肩ノ、チカラ、ヌイテヌイテ
557 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 21:49:36
ぴかー、いつも思うんだけど、文章いつも失敗してないか?
558 :
考える名無しさん:2006/03/07(火) 22:03:37
失敗しているようにあなたが捉えた時点で成功なのですよ
559 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/07(火) 22:23:07
■「コギト」とはデカルトの恐怖の叫びである。
デカルトの「コギト」とは乖離、心身の引き裂かれの叫びである。問題は「疑う私」という身体から
乖離した心にあるのでく、科学の発達により引き剥がされる身体側にある。人間という神に名指された
特別性は科学により「物体」へと解体してみると、「動物」であり、「機械」であった。この恐怖を前に
叫んだのが「コギト」だ。もはや「疑う私」があると宣言するしか、人間を救うことができない。ああ、
神よ。デカルトの叫びである。
だからデカルトは「外部」の人であり、認知科学者である。そしてデカルトの末裔たる認知科学者たち
は、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。デカルトの恐怖=コギトを消去することに躍起なのだ。
そしてデカルトが安心するようにコギトは残り続けている。回帰し続ける「機械論の欲望」に抗して
デカルトの恐怖=コギトは死なない。
デカルト末裔の繰り返しの努力にかかわらず、なぜコギトは消失しないのか。デカルトが「動物」と
呼び、「機械」と呼んだものはデカルトが考えるような「物体」でなく「言葉」であった。そして「コギト」も
また言葉でしかない。言葉は後天的に受け取ったあいまいなものだ。科学という「世界」も言葉で
しかなく、そもそも存在しない。だから「コギト」もそもそも存在しない、と疑える。そもそも存在しない
世界の内部に、科学、世界とコギトの物語がある。そしてこの内部で「コギト」はゲーテル的消失点
としてある。
デカルトの考えとは異なり、「コギト」は疑える。恐怖の叫びの中で、デカルトが見つけた者は
この「世界」の裂け目であったのだ。
560 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/07(火) 22:57:25
デカルトの恐怖の叫びは、また享楽の叫びであった。
デカルトの本当に言いたかったことは、「人間は機械だ」ということ
ではないだろうか。その恐怖の前に体が震えたはずだ。
コギトとは、人類が「機械論の欲望」を見出した瞬間であったのだ。
561 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/07(火) 22:59:04
我思う故に我あり、されど機械なり。
baka
563 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 00:23:51
ぴかあ、言語論的転回したようだな。
564 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 01:10:14
■プログラム:「生き延びろ」and「意味を問え」
「なんのために生きているのか」というのは、「意味の問い」である。「私が生きる意味とは?」、
「私の意味とは?」である。動物は「意味」を問わない。ただ生きるだけである。「生き延びろ」と
プログラムされている。人間だけが「意味を問う」のだ。なぜ人間が「意味」を問うのかは、人間も
動物であり、「生き延びろ」とプログラミングされている。さらに人間は言語をインストールされる
ことによって、「意味を問え」とプログラミングされているのだ。
人間にプログラミングされている、「生き延びろ」と「意味を問え」は微妙な関係にある。「意味」とは、
「生」を危険にさらす、「生き延びろ」に逆らうことで得られる。その究極は自殺である。「生き延びろ」と
「意味を問え」は逆に働き、そして「意味を問う」ことが「生き延びる」ことを凌駕してしまう。「意味を問う」
ために自殺し、「意味を問う」ことに失敗し自殺する。
だから人間は「意味を問う」ことによって、他の動物に比べ、活発な進歩と繁栄を可能にし「生き延び」
やすくしているように見えるが、たえず危険なバランスの上に立っているといえる。それが戦争で
あったり、集団闘争であったりする。
565 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 01:10:46
「意味を問う」ことは言語をインストールされたために人間にプログラミングされた。言語とは他者との
コミュニケーションのための方法である。だから「意味を問え」とは、「他者とのコミュニケーションしろ、
そして他者との差異を見いだせ」ということである。動物は「生き延び」るために共生し、そして
闘争する。闘争に敗れた動物は死ぬ。人間は「意味を問う」ために共生し、そして闘争する。
しかし人間の自殺は闘争に破れたためとはいえない。「意味を問う」闘争では、賭けられているのは
「生」ではなく、「意味」だからだ。「生」を犠牲に、「意味」を獲得することはありえるからだ。
特に現代のような「生き延びる」ことが満たされた時代では、「意味を問う」ことがより重要視され、
人間の行為は「意味」を中心に行われる。そして「なんのために生きているのか」という問いは
より活発に発せられるだろうが、「意味を問え」とプログラミングされている存在に対して、
「生きていることに意味などない」という返答は十分ではない。
baka
なんかドイツ占領下のフランスのような流れになってるな
568 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 01:18:00
特に現代のような「生き延びる」ことが満たされた時代では、「意味を問う」ことがより重要視され、
人間の行為は「意味」を中心に行われる。そして「なんのために生きているのか」という問いは
より活発に発せられるだろうが、「意味を問え」とプログラミングされている存在に対して、
「生きていることに意味などない」という返答は十分ではない。それでも「意味は問われる」からだ。
まして、「生きることに意味がないから生きていてもしかたがない。」というのは、「生き延びろ」と
「意味を問え」の混乱である。「意味を問え」とは「生死」とは異なる次元である。
569 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 01:27:19
ボクなりの「なんのために生きているのか」への答えは、
「生きている意味は他者との交わりの中に見いだせる」である。
ゾルレンも何か言ってやれよ。
ほとんどの時間を2chでblog書いてる人間が心理学的正論を述べて
なんか効果あんのか?
それとも他人との交わりも色々質的に異なるとか
なんとか言っちゃうのか?
うーん、じゃあ
ピカの言ってることって「実存は本質に先立つ」の焼き直しじゃないの?
でもそれってポモに言わせればもう死んだものでしょ
574 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 01:50:40
>>573 俺とお前らでは「意味」という用語の使用は違うだろ
576 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 01:54:18
偽問題です
577 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 02:01:14
>>575 「ゾマホンはなんのために生きているの?」
578 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 02:09:10
生かされておるのじゃ
579 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 02:09:17
ヴィトとハイデガーは裏表である。
語り得ぬものに沈黙するか、語り得ぬものを問うか。
ポモは、ハイデガーを継承し、より過激に語る。
baka
581 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 02:17:34
ヴィトとハイデガーは裏表である。語り得ぬものに沈黙するか、語り得ぬものを問うか。
ポモは、ハイデガーを継承している。そしてさらに、フロイトを継承している。
これは無意識の審級(言語の次元)の思想である。 すなわち語り得ぬものという言語について
語るのだ。たとえばニーチェは理性的主体批判に、生と立てた。これは外部から内部を 破壊することを
目指す。しかしポモの理性的主体批判は、内部に無意識(言語)の次元を進入させ、内破させる。
このような「解体」に反して、それはまた主体の構造の提示である。
582 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 09:15:01
強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。
しかしバーチャル技術はそれを可能にしつつある。
583 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 09:26:21
ドラッグ、セックス
現に享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。
584 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 09:29:23
そして享楽の場は広がっている。ゲーム、セックス、ネットコミュニケーションなとなど
享楽の時代をいかに生きるべきだろうか
出会い系サイトで出会えないのはなんでだろう・・・。
586 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 10:06:10
それは言語が溶解する地点である。
欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能である。
欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、
享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。
587 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 10:10:51
だからSMは社会的であり、社会的な反社会的イメージの欲望である。
しかしドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグの快楽ははじめの行為に社会的な反社会的イメージがあっても、
それを越えた快楽がある。
588 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 10:27:25
■享楽の時代
強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術は
それを可能にしつつある。現に享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の
場は広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど
それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能
である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、
享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。だからSMは
社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。しかしドラッグそのもの快楽には
イメージはない。ドラッグの快楽ははじめの行為に「(社会的な)反社会的」イメージがあっても、それを
越えた快楽、それは外部への、「脱社会的」快楽がある。
最近のネオリベラル傾向、自己責任論、構造改革、「小さな政府」は、反社会的な自由を求めるという
よりも、社会の脱社会傾向から来ている。すなわちそこにイデオロギーなどない。ゲーム、容易な
セックス、ネットコミュニケーションなどの享楽の拡大によって、内部(社会)が拘束的に感じ、
脱社会化を目指す傾向である。このようなネオリベラル傾向、自由競争社会は当然、格差を生むが、
脱社会的な享楽の次元には、下流でなろうが関係がない。下流であろうが、社会的な拘束から
解放され、享楽したい、ということである。
589 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 11:00:38
ここはぴかの内面スレですね
ぴかの心象風景が切々とつづられている
590 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 11:21:14
ボクは、最近のネオリベ(ネオコン)の潮流の下層にはインターネットの増殖という要因があるといい、
これを「ネットの欲望」と読んだ。「ネットの欲望」はデカルト以来コギト宣言(征服(機械化)すべき残された土地は「我」のみだ!)以来、
回帰し続ける「機械論の欲望」の新バージョンである。
591 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 11:42:28
「機械論の欲望」にある享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による我の溶解である。
当然そこでは社会、勝ち負け、あるいは生死さえ溶解される。
592 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 11:49:23
ほう、これは大した才能だ
593 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 12:05:45
ドラックでは限りなく享楽に近づく。最近のコンピュータ技術はまた享楽への入口を開く。
最近、フロー体験ということばがある。ゲームのような障害に熱中するときの快楽体験である。
コンピュータ技術がフロー体験を生みやすいのはフードバックの速度向上を用意にするからだ。
トライ&エラーは一つのコミュニケーションである。たとえばおしゃべりの楽しさもその一つである。
コンピュータ、あるいはネットコミュニケーションは発信に対する応答の早さによる反復継続の容易さがフロー体験を生む。
ゲームにしろ、ネットコミュニケーションにしろ、言語世界の理解、コンテクストにより楽しめるが、
それがフロー体験かしたとき、享楽の入口が開く。
594 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 12:31:06
ぴかぁさん、もういいよ。
よく頑張ったよ
でも、もういいよ。
595 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 13:04:08
子供でさえコンピュータを触ることを喜ぶが、ここにフロイトの糸巻き遊びをみることもできるだろう。
投げ、引き寄せる。フォー・ダーこれはコントロールする/される快楽であり、「快感原則の彼岸」、
すなわち享楽の原初的入口である。
たとえばパーソナルコンピュータはそもそも必要とされなかったものと言われる。
それはケータイなどネットコミュニケーションもしかりだ。これらは過剰なものである。
そして糸巻き遊び、ゲーム、ネットコミュニケーション、ここにあるのは享楽(外部)への入口であり、
内部の欲望にとどまるか、外部の享楽へむかうかである。
科学は客観的世界であるのでなく、なぜ人びとは科学へ没入するか。
テクノロジーとは享楽への入口を開く有効な手段であるために、めざされるのである。
それが「機械論の欲望」である。
596 :
世界:2006/03/08(水) 13:40:10
セカイノ真理ヲ知ッテシマッタpikaサン。
メンヘル板ニモ遊ビニキテネ。
597 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 14:25:21
■享楽の時代
@欲望と享楽
強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術はそれを
可能にしつつある。現に享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は
広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。
それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能
である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、
享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。
SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向
が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかし
ドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な)反社会的」
イメージへの欲望があるが、ドラックの快楽は欲望を越えていく。それは外部への、「脱社会的」
快楽である。ドラッグの快楽は、社会的な立場に関係がなく作用するのだ。これをぼくは
「あぼーんする快楽」と呼ぶ。
598 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 14:28:07
Aフロー体験が享楽の入口を開く
最近のコンピュータ技術はまた享楽への入口を開く。最近、フロー体験ということばがある。ゲームの
ような障害に熱中するときの快楽体験である。コンピュータ技術がフロー体験を生みやすいのは
フードバックの速度向上を用意にするからだ。トライ&エラーは一つのコミュニケーションである。
たとえばおしゃべりの楽しさもその一つである。コンピュータ、あるいはネットコミュニケーションは
発信に対する応答の早さによる反復継続の容易さがフロー体験を生む。ゲームにしろ、
ネットコミュニケーションにしろ、言語世界の理解、コンテクストにより楽しめるが、それがフロー体験化
したとき、享楽の入口が開く。
子供でさえコンピュータを触ることを喜ぶが、ここにフロイトの糸巻き遊びをみることもできるだろう。
投げ、引き寄せる。フォー・ダーこれはコントロールする/される快楽であり、「快感原則の彼岸」、
すなわち享楽の原初的入口である。そして糸巻き遊び、ゲーム、ネットコミュニケーション、ここに
あるのは享楽(外部)への入口であり、内部の欲望にとどまるか、外部の享楽へむかうかである。
599 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 14:35:23
B「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ
デカルトの「コギト」とは乖離、心身の引き裂かれの叫びである。問題は「疑う私」という身体から
乖離した心にあるのでく、科学の発達により引き剥がされる身体側にある。人間という神に名指された
特別性は科学により「物体」へと解体してみると、「動物」であり、「機械」であった。この恐怖を前に
叫んだのが「コギト」だ。もはや「疑う私」があると宣言するしか、人間を救うことができない。ああ、
神よ。デカルトの叫びである。
しかし「方法序説」に書かれる身体の解体のリアリティを読むと、デカルトの恐怖の叫びは、また享楽
の叫びであったのではないだろうか。デカルトの本当に言いたかったことは、「人間は機械だ」という
ことではないだろうか。その恐怖の前に体が震えたはずだ。コギトとは、人類が「機械論の欲望」を
見出した瞬間であったのだ。「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ
そしてデカルトの末裔たちは、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。デカルトの恐怖=コギトを
消去することに躍起なのだ。
それが科学の秘密である。「科学は客観的世界である」というときに、隠されているのが、
「なぜ人びとは科学へ没入するか。」ということだ。それは、テクノロジーが享楽への入口を開く
有効な手段であるためであり、それは「機械論の欲望」である。
600 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 14:39:43
ぴかぁ〜、この一連のスレの過去ログ倉庫ないの?
601 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 14:42:14
C「コギト」という裂け目
デカルト末裔の繰り返しの努力、回帰し続ける「機械論の欲望」に抗して、「コギト」は溶解しないのか。
なぜならデカルトが「動物」と呼び、「機械」と呼んだものはデカルトが考えるような「物体」でなく「言葉」
であったためだ。
科学という「世界」は言葉でしかなく、そもそも存在しない。だから「コギト」もそもそも存在しない。
そもそも存在しない世界の内部に、科学、世界とコギトの物語がある。そしてこの内部で「コギト」は
ゲーテル的消失点としてある。デカルトの考えとは異なり、「コギト」は疑える。しかしデカルトが
見つけた「コギト」は溶解しないこの「世界」の裂け目であたのだ。
602 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 14:44:31
最終的に何がしたい?
603 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 14:46:59
D「我」は行為、体験の極限で溶解する。
たとえば、デカルト末裔のマイケル・ポランニーは「暗黙知の次元」で、「体験」について語っている。
>>
ある人間による身体の巧みな動作は、別な人間が認識できるリアルな存在である。しかもそれは、
ただそれを包括することによってのみ認識できるリアルな存在なのである。また、このリアルな存在を
包括する行為は、その行為の対象たる「動作」と類似の構造をもっている、と。P62
他のすべての暗黙知の事例において、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の
構造は、一致する。P63
<<
言語コミュニケーションは認識論であり不確実であるが、そこにある「動作(行為)」は存在論的な次元
を開き、リアルである。たとえば、相手の「動作(行為)」を見て認識するのではなく、技の伝承のように、
体と体のコミュニケーションによって、認識を越えた身体的に「同期」する。そこに主体と客体と要素
とした高次の統合(創発)が生まれる、というようなことだ。たとえば社会も言語をもとにした幻想の
共同体であり、その下部に人間という「行為」が統合された、「創発」が働いている。すなわち行為、
体験の極限で「我」は溶解する。
すなわち科学は言語であり、「我」を溶解しない。むしろ「機械論の欲望」はどこまでも「我」という
裂け目を開き続けるが、科学的テクノロジーの「体験」が享楽の入口を開くのだ。
604 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 14:48:06
E享楽の時代
たとえばパーソナルコンピュータはそもそも必要とされなかったものと言われる。それはケータイなど
ネットコミュニケーションもしかりだ。これらは過剰なものである。現代は、ゲーム、容易なセックス、
ネットコミュニケーションなどの享楽の拡大によって、内部(社会)が拘束的に感じ、脱社会化を
目指す傾向である。
本来、ポランニー的な「暗黙知」の創発性において、技の伝承のような場において、「我」は溶解し、
他者への「同期」としての享楽が入り口を開く。しかしテクノロジーの「フロー体験」は、機械と「我」
という閉じた関係の中で、享楽の入口を開けることを可能にしてしまう。
しかしここにはまだ「行為」の反復が介在している。さらには、テクノロジーは「行為」の反復さえ必要
としない、ドラッグのような直接、器質へ介入する方法、たとえばサイボーグ化、遺伝子改良など、
目指されている。「享楽の時代」へ向かっている。
605 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 14:51:42
F「自由に享楽させろ」
ボクは、このような意味で、最近のネオリベ(ネオコン)の潮流の下層にはインターネットの増殖という
要因があるといい、これを「ネットの欲望」と読んだ。「ネットの欲望」とは、デカルトの「コギト」以来、
回帰し続ける「機械論の欲望」の新バージョンである。
最近のネオリベラル傾向、自己責任論、構造改革、「小さな政府」は、反社会的な自由を求めると
いうよりも、社会の脱社会傾向から来ている。すなわちそこにイデオロギーなどない。このような
ネオリベラル傾向、自由競争社会は当然、格差を生むが、脱社会的な享楽の次元には、下流になろうが関係がない。そこにあるのは、「自由に享楽させろ」ということだ。
享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による「我」の溶解である。
当然そこでは社会、勝ち負け、あるいは生死さえ溶解される。下流であろうが、社会的な拘束から解放
され、享楽したい、ということである。そして「サイボーグの欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、
「ネットの欲望」のあとも、「機械論の欲望」は回帰し続けるだろう。
606 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 15:25:32
ネオリベの下層に「ネットの欲望」があり、享楽を容認する。
権力は享楽を管理するからだ。それが生権力であり、環境管理権力である。
人々は自由に享楽し、権力は生として管理するというユートピア。
しかし物語はそう簡単におわらない。なぜならそれでも「コギト」は生き残るからだ。
607 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 15:26:58
過去ログ倉庫ないの?
ないならないでいいんだが
608 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 17:09:06
G静的な「我」と動的な「生成」
ネオリベの下層に「ネットの欲望」があり、享楽を容認する。権力は享楽を管理するからだ。それが
生権力であり、環境管理権力である。人々は自由に享楽し、権力は生として管理するという
ユートピア。しかし物語はそう簡単におわらないだろう。
享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による「我」の溶解であるが、これは単に
ドラック中毒のような快楽に溺れる廃人ではない。仮に享楽によって「我」が溶解しても、「生の力」
であり、生成が残る。
たとえば、2ちゃんねるの祭りとは一つの「享楽」の形態だろう。ポランニー的に、言語による認識論
から「動作(行為)」の存在論的な次元の開示であり、遠隔でありながら、興奮として身体間の
コミュニケーションからの「創発性」が生まれている。まるでウィルス群のように環境管理を越えていく。
享楽に近接しても、そう簡単には、「我」の消失しないだろう。「ネットの欲望」のあとも「サイボーグの
欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、「機械論の欲望」は回帰し続ける、享楽の時代とは、
静的な「我」と動的な「生成」が共存する、社会的に理性的な主体が、2ちゃんねるで祭りに享楽に
興じるといような、より管理がより厄介な時代である。
609 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 17:09:47
610 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 17:17:00
>>609 >>1は見たけど抜粋だったからさ
スレそのものを保存してる場所はないってことだな
了解だ
611 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 18:10:14
ベキ夫の新刊でてたよ。買おうかなあ〜
612 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 18:35:16
杉田 俊介 さん
当ブログは、これよりいっさいこの人とは関係がありません。
杉田さんには一度だけ京都に来られたときにお会いしました。フリーターに
関するMLと新設予定の雑誌についての説明のための面談でした。
その際、ネット上の共通の知人のプライバシー暴露をされ、戸惑いました。
差別・人権にからむ薬暦・病歴が含まれていたからです。もし、新しく作る予定の雑
誌でそのようなことをかけば、人権無視で裁判になる、最悪の場合
出版差し止め訴訟も覚悟せねばなりません。知り合いの編集者に聞いたところ、
出版業界でもひとつの作法として、人に許可なく実名や住所などの固有
名詞は出さない、薬歴・病歴ならばなおさら書かないとのことでした。別の
同人誌の編集者に話を聞いても、同人誌・ミニコミ業界でも基本的に同じと
のことでした。なんとひどいことをやるのか、とおどろき、あきれざるをえ
ませんでした。
613 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 18:49:21
今調べてみたけどお前らもっとログを大事にしろよ
抜けだらけじゃんか
まだこのスレはマシなほうだけどさ
614 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:09:44
615 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:10:14
616 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:11:09
617 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 19:20:15
サンキューな
でもログ倉庫ぐらい作っといたほうがいいぞマジで
618 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:37:57
G二重構造
ボクはデカルトを継承した心身二元論を「「断絶」による「内部と外部」」と呼ぶ。
>>
「内部」・・・心、後天的(アポステリオリ)、1回性、マクロ
→想像界、象徴界(言語、無意識)、バタイユのエロティシズム、フロイトの超自我
「断絶」
「外部」・・・身体、先天的(アプリオリ)、反復性、ミクロ
→ラカン、フロイトの「欲動」、エス、現実界(物自体)、脳神経学、認知科学
<<
東浩紀も同様な「解離的近代の二層構造」を示している。
>>
ポストモダンの二重構造(東浩紀)
主体(内面)の自由(コミュニティの層)・・・複数のコミュニティ(相互無関連化・島宇宙化)
多様な価値観の共存、コミュニタリアン、多文化主義、
規律訓練型権力の作動域、市場の論理が支配
身体の管理(アーキテクチャの層)・・・単一のアーキテクチャ(都市・交通、市場、コード)
価値観中立なインフラ、リバタリアン、メタユートピア、
環境管理権力の作動域、セキュリティの論理が支配
<<
619 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 19:39:28
しかし、おそろしいほどのスレ数にしては内容がしょぼい
620 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:46:07
>>
もしかしたら「まつりごと」としての政治は残るのかもしれない。そして僕たちは相変わらず、政治家の
スキャンダルや派閥争いを注視しているのかもしれない。しかしそれは、mixiで友人の日記を読み、
ワイドショーで有名人のうわさ話に耳をそばだて、サッカーでナショナルチームの勝敗に一喜一憂する
のとあまり変わらないレベルの現象になるだろう。というより、僕たちはそのような脱政治的な社会を
目指すべきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう
(間接民主制というのはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の
積極的帰結のひとつである。
「戦争」「暴力」の問題はどうなんだ、という反論がありうるかもしれない。・・・これに対する僕の答えは、
今後の社会秩序は友敵の区別を必要としない環境管理型権力によって維持されるはずで、それは
実際にセキュリティの全面化というかたちで試みられている、というものである。・・・僕は、情報技術を
駆使すれば、セキュリティの確保を友敵区別の再構築から引き離すことは、可能なのではないかと
思う。というよりも、環境管理型権力の概念は、まさにそういうものとして考えられている。
解離的近代の二層構造論 東浩紀
ttp://www.hirokiazuma.com/archives/000194.html 解離的近代の二層構造論2
ttp://www.hirokiazuma.com/archives/000195.html <<
621 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:47:24
Hうつろう「我」と動的な「生成」
ネオリベの下層に「ネットの欲望」があり、享楽を容認する。権力は享楽を管理するからだ。それが
生権力であり、環境管理権力である。
東によると、もはや内部は曖昧なシミュラークルである。だから内部の一部による管理も、多数の
コミュニティの闘争も意味がない。外部の単一なアーキテクチャが管理することが良い、すなわち
環境管理権力に向かうだろう、ということだ。この単一は、いままでのように単一のイデオロギー、
コミュニティではない。それは外部であり、主体性、社会性もない「脱政治的な社会」、グーグル的
表現をすれば「人間を介さない」社会である。
ボクがこの単一性をなんと呼ぶか。「機械論の欲望」である。人々は自由に享楽し、権力は生として
管理するというユートピア。
622 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:48:22
物語はそう簡単におわらないだろう。享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による
「我」の溶解であるが、これは単にドラック中毒のような快楽に溺れる廃人ではない。仮に享楽によって
「我」が溶解しても、「生の力」であり、生成が残る。
たとえば、2ちゃんねるの祭りとは一つの「享楽」の形態だろう。ポランニー的に、言語による認識論
から「動作(行為)」の存在論的な次元の開示であり、遠隔でありながら、興奮として身体間の
コミュニケーションからの「創発性」が生まれている。まるでウィルス群のように環境管理を越えていく。
享楽に近接しても、そう簡単には、「我」の消失しないだろう。「ネットの欲望」のあとも「サイボーグの
欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、「機械論の欲望」は回帰し続ける、享楽の時代とは、
うつろう「我」と動的な「生成」が共存する、社会的に理性的な主体が、2ちゃんねるで祭りに享楽に
興じるといような、より管理がより厄介な時代である。
623 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 19:51:12
>>619 なんとか絡みたい感じは伝わるが、それではいかんとも
しがたい。
624 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 19:55:26
ぴかぁ〜この過去ログリストさ
削除されちゃったスレは入ってないんだろ?
俺あそこにもいろいろ書いてたのになぁ
625 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 21:57:55
■「自由に享楽させろ」 享楽自由主義の時代
@「社会的」欲望と「脱社会的」享楽
強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術は
それを可能にしつつある。享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は
広がっている。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。
それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能
である。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、
享楽にはイメージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。
SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向
が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかし
ドラッグそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な)反社会的」
イメージへの欲望があるが、ドラックの快楽は欲望を越えていく。それは外部への、「脱社会的」快楽で
ある。ドラッグの快楽は、社会的な立場に関係がなく作用するのだ。これをぼくは「あぼーんする快楽」
と呼ぶ。
626 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 21:58:46
Aフロー体験が享楽の入口を開く
最近のコンピュータ技術はまた享楽への入口を開く。最近、「フロー体験」ということばがある。
ゲームのような障害に熱中するときの快楽体験である。コンピュータ技術がフロー体験を生みやすい
のはフードバックの速度向上を用意にするからだ。
トライ&エラーは一つのコミュニケーションである。たとえばおしゃべりの楽しさもその一つである。
コンピュータ、あるいはネットコミュニケーションは発信に対する応答の早さによる反復継続の容易さが
フロー体験を生む。ゲームにしろ、ネットコミュニケーションにしろ、言語世界の理解、コンテクストにより
楽しめるが、それがフロー体験化したとき、享楽の入口が開く。
子供でさえコンピュータを触ることを喜ぶが、ここにフロイトの「糸巻き遊び」をみることもできるだろう。
投げ、引き寄せる。フォー・ダーこれはコントロールする/される快楽であり、「快感原則の彼岸」、
すなわち享楽の原初的入口である。そして「糸巻き遊び」、ゲーム、ネットコミュニケーション、ここに
あるのは享楽(外部)への入口である。
627 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 21:59:35
B「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ
デカルトの「コギト」とは乖離、心身の引き裂かれの叫びである。問題は「疑う私」という身体から
乖離した心にあるのでく、科学の発達により引き剥がされる身体側にある。人間という神に名指された
特別性は科学により「物体」へと解体してみると、「動物」であり、「機械」であった。この恐怖を前に
叫んだのが「コギト」だ。もはや「疑う私」があると宣言するしか、人間を救うことができない。
ああ、神よ。デカルトの叫びである。
しかし「方法序説」(ISBN:4003361318)に書かれる身体の解体のリアリティを読むと、デカルトの恐怖の
叫びは、また享楽への叫びであったのではないだろうか。デカルトの本当に言いたかったことは、
「人間は機械だ」ということではないだろうか。「我思う故に我あり」とは、人類が「機械論の欲望」を
見出した瞬間であったのだ。「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ。
そしてデカルトの末裔たちは、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。「コギト」を消去することに
躍起なのだ。それが科学の秘密である。「科学は客観的世界である」というときに、隠されているのが、
「なぜ人びとは科学へ没入するか。」ということだ。それは、テクノロジーが享楽への入口を開く有効な
手段であるためであり、それは「機械論の欲望」である。
まだやってんのか(ワラ
629 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:00:41
C「コギト」という裂け目
デカルト末裔の繰り返しの努力、回帰し続ける「機械論の欲望」に抗して、「コギト」は溶解しないのか。
なぜならデカルトが「動物」と呼び、「機械」と呼んだものはデカルトが考えるような「物体」でなく「言葉」
であったためだ。
科学という「世界」は言葉でしかなく、そもそも存在しない。だから「コギト」もそもそも存在しない。
そもそも存在しない世界の内部に、科学、世界とコギトの物語がある。そしてこの内部で「コギト」は
内部の不完全点、「ゲーテル的消失点」としてある。デカルトの考えとは異なり、「コギト」は疑える。
しかしデカルトが見つけた「コギト」は溶解しない。なぜならこの「世界」の裂け目であるからだ。
D「我」は行為、体験の極限で溶解する。
たとえば、デカルト末裔のマイケル・ポランニーは「暗黙知の次元」(ISBN:4480088164)で、「行為」について語っている。
言語コミュニケーションは認識論であり不確実であるが、そこにある「動作(行為)」は存在論的な次元
を開き、リアルである。たとえば、相手の「動作(行為)」を見て認識するのではなく、技の伝承のように、
体と体のコミュニケーションによって、認識を越えた身体的に「同期」する。そこに主体と客体と要素
とした高次の統合(創発)が生まれる、というようなことだ。行為、体験の極限で「我」は溶解する。
すなわち科学は言語であり、「我」を溶解しない。むしろ「機械論の欲望」はどこまでも「我」という裂け目
を開き続けるが、科学的テクノロジーの「体験」が享楽の入口を開くのだ。
630 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:01:30
E享楽の時代
たとえばパーソナルコンピュータはそもそも必要とされなかったものと言われる。それはケータイなど
ネットコミュニケーションもしかりだ。これらは過剰なものである。現代は、ゲーム、容易なセックス、
ネットコミュニケーションなどの享楽の拡大によって、内部(社会)が拘束的に感じ、「脱社会化」を
目指す傾向である。
ポランニー的な「暗黙知」の創発性において、技の伝承のような場において、「我」は溶解し、他者への
「同期」としての享楽が入り口を開く。しかしテクノロジーの「フロー体験」は、機械と「我」という閉じた
関係の中で、享楽の入口を開けることを可能にしてしまう。
しかしここにはまだ「行為」の反復が介在している。さらには、テクノロジーは「行為」の反復さえ必要
としない、ドラッグのような直接、器質へ介入する方法、たとえばサイボーグ化、遺伝子改良など、
目指されている。というような「享楽の時代」へ向かっている。
631 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:04:26
F「自由に享楽させろ」
ボクは、このような意味で、最近のネオリベラル(ネオコン)の潮流の下層にはインターネットの増殖
という要因があるといい、これを「ネットの欲望」と読んだ。*2「ネットの欲望」とは、デカルトの「コギト」
以来、回帰し続ける「機械論の欲望」の新バージョンである。
最近のネオリベラル傾向、自己責任論、構造改革、「小さな政府」は、反社会的な自由を求める
というよりも、社会の「脱社会化」傾向から来ている。すなわちそこにイデオロギーなどない。この
ようなネオリベラル傾向、自由競争社会は当然、格差を生むが、「脱社会的」な享楽の次元には、
下流になろうが関係がない。そこにあるのは、「自由に享楽させろ」ということだ。
享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による「我」の溶解である。当然そこでは
社会、勝ち負け、あるいは生死さえ溶解される。下流であろうが、社会的な拘束から解放され、
「自由に享楽したい」、ということである。そして「サイボーグの欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、
「ネットの欲望」のあとも、「機械論の欲望」は回帰し続けるだろう。
632 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:06:20
G解離的近代の二層構造
ネオリベラルの下層構造に「ネットの欲望」があり、「脱社会的」な享楽を容認する。権力は享楽を
管理するからだ。それが生権力であり、環境管理権力である。東浩紀は、環境管理権力を対応させた
二元論、「解離的近代の二層構造」を示している。
>>
ポストモダンの二重構造(東浩紀)
主体(内面)の自由(コミュニティの層)・・・複数のコミュニティ(相互無関連化・島宇宙化)
多様な価値観の共存、コミュニタリアン、多文化主義、
規律訓練型権力の作動域、市場の論理が支配
身体の管理(アーキテクチャの層)・・・単一のアーキテクチャ(都市・交通、市場、コード)
価値観中立なインフラ、リバタリアン、メタユートピア、
環境管理権力の作動域、セキュリティの論理が支配
<<
ボクは、デカルトの心身二元論的構造を「内部と外部」と呼ぶ。享楽は内部から外部へ断絶を
乗り越える試みである。東によると、もはや内部(主体(内面)の自由)は曖昧なシミュラークルである。
だから内部の一部による管理も、多数のコミュニティの闘争も意味がない。外部(身体の管理)の
単一なアーキテクチャを管理すること、環境管理権力を目指す、ということだ。この単一性は、
いままでのように単一のイデオロギー、コミュニティではない。それは外部であり、主体性、社会性
もない「脱政治的な社会」、グーグル的表現をすれば「人間を介さない」社会である。
ボクがこのような「単一性への還元」をなんと呼ぶかおわかりだろう。「機械論の欲望」である。
人々は自由に享楽し、権力は生として管理するというユートピアである。
633 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:07:16
Hうつろう「社会(反社会)的」主体と生成する「脱社会的」享楽
物語はそう簡単におわらないだろう。享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による
「我」の溶解であるが、これは単にドラック中毒のような快楽に溺れる廃人ではない。仮に享楽によって
「我」が溶解しても、「生の力」であり、生成が残る。
たとえば、2ちゃんねるの祭りとは一つの「享楽」の形態だろう。ポランニー的に、言語による認識論
から「動作(行為)」の存在論的な次元の開示であり、遠隔でありながら、興奮として身体間の
コミュニケーションからの「創発性」が生まれている。このウィルス群を環境管理権力によって単一性へ
還元することはできるだろうか。
享楽に近接しても、そう簡単には、「我」の消失しないだろう。「ネットの欲望」のあとも「サイボーグの
欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、「機械論の欲望」は回帰し続ける。享楽の時代とは、うつろう
「我」と動的な「生成」が共存する。「社会的」な主体が、2ちゃんねるで「反社会的」な発言をし、
そして「脱社会的」に祭りの享楽に興じるといような、より複雑で、管理が厄介な時代である。
634 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:28:10
いかに内部から外部へ向かうのか、
様々な指向が見られる。
外部へ向かおうとしたのは、ニーチェである。
ディオニュソス的、「力への意志」であるが、ニーチェには、言語論的転回
という、壁がまだ見えなかった。
その境界のギリギリまでいったのが、ラカンである。
それは享楽であり、裂け目の向こうである。
ドゥルーズは、歴史観によって越えていく。
外部という「器官なき身体」がラカン的オディプス的内部を
形成していく成長物語である。
デリダは、文字(エクリチュール)である。シニフィアンは、
エクリチュールの次元では物質性を持つ。
そして物質性のないシニフィアンは存在しないのだ。
これらは必ずしも、外部への突破口となり得ていない。
しかしポランニーあるいは、ポンティは一つの可能性を
与えているのかもしれない。
「行為」によって、外部への道は開ける。
まだ曖昧であるが、実感としてはわかりやすい。
シニフィアンのダイナミズム(行為)において、
エクリチュールの審級が現れる。
すなわち文字の物質性であり、身体という外部への享楽である。
635 :
考える名無しさん:2006/03/08(水) 22:31:51
ぴかぁ〜に質問なんだけど、、、ふだん日常会話ではどんなこと話しているんだい?
やっぱ、このスレと同じ調子?(やや笑)
637 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:39:47
>>636 ボクの回りには哲学に興味のあるような変わった人は
いませんし、哲学に興味がある、哲学書を読んでいるなどと
いうと、失笑されます。そんな感じです(笑)
638 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 22:47:57
だからレスするときはも少し骨のある内容でお願いします
要するに、ぴかぁ〜は変わり者と見られているってことだね。
わかった。
性的快楽は身にしみた社会性を失わせる。
社会を分析することで、かろうじて己に模型の社会をあてがう。
生理的に他者を選択し、なにがなんでも優位にたとうとするゲームの連鎖にはまってしまう。
そんなエピキュリアンを志向する現代社会は快と優越を配布しているだけです。
あなたは自らの性的快楽を制限できますか?
641 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 23:37:29
>>640 >あなたは自らの性的快楽を制限できますか?
できますよ。あなたは街でかわいい子をみると、飛びかかるのですか。
人間のセックスは、単に生物学的快楽で行われているわけではない。
むしろ社会的な行為です。
まず性的快楽の社会的次元と、生物的な次元を理解する必要があります。
セックスに起因する社会は嫌だ。
せまい理性が君臨するから。
643 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/08(水) 23:57:30
>>642 セックスは社会的すぎるということですね。
享楽を開くのは至難の業です。
脳人も人です。
645 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/09(木) 00:08:30
たとえば、セックスの快楽には2種類あります。
一つは、セックスをしている自分をみる快楽です。
アダルトビデオのように、マッチョなエロ話のように、
女性をあのように扱って、あのように扱われて、
SMのこの次元にありますね。
もう一つは、端的に身体的な性器の気持ちよさです。
たとえば、キスの性器的な快感では、
だれとキスしようと変わらない、気持ちよさです。
おやじとも、おばさんとも、同性ともかわらなく、
コンテクストにまったく依存しない、気持ちよさです。
たとえばドラックの快楽は、コンテクストに依存しません。
どのような状況でも、快楽を感じます。
これが享楽ですが、このようにセックスの快楽を感じることは
可能でしょうか。
コンテクストにまったく依存しないことは無理にしても、
セックスで身体的な快楽を得るためには、それなりの訓練(経験)が
必要です。
醜い自演だな
セックスを訓練しなくていいと思います。
ましてやバイオテクノロジーで人をつくって交わるなど言語道断です。
快楽の方向に走り出して止まれないのが現状じゃないでしょうか。
648 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/09(木) 00:25:21
>>647 他の動物と違い、訓練しないとセックスはできない、ということです。
快楽の方向に走り出して止まれない社会の上で豊かさを享受しているでは?
人ごとではダメですよ。
限度があります。
名前もそうですが人間は道具ではないのです。
650 :
考える名無しさん:2006/03/09(木) 00:45:00
快楽を恐れることはないと思うんだがな
651 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/09(木) 00:48:58
>>650 享楽は「私」を解体するので恐ろしいでしょうね。
しかしなければ、生きていけない。
どのように扱うかですね。
652 :
考える名無しさん:2006/03/09(木) 01:00:29
一般的な話はいいんだ。
それより、そろそろホッチキスの針を糊付けする作業に戻るんだ
653 :
考える名無しさん:2006/03/09(木) 02:41:30
まあそうだな
快楽に限らず刺激のエスカレーションはあるわけだからな
654 :
考える名無しさん:2006/03/09(木) 21:06:16
どうだかな
655 :
考える名無しさん:2006/03/09(木) 22:16:38
どうだかなと言われるとな
もう少し考えてみるか
>>645 セックスは脳内麻薬を放出して気持ちよくなることだから、
そりゃドラッグ直注入よりめんどくさいだろうよ。
しかしドラッグ直注入は「快楽」なのか?
「快楽」は人間的なものでしょ。
657 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/10(金) 20:53:03
■精神病的ミクロ認識と神経症的マクロ認識
人はなぜ宝くじを買うのか
たとえば、雲行きから天気を予測する場合、いままでの経験に照らし合わせて、「この雲行きだと、
雨が降りそうだな。」と予測します。これは、ある意味、「統計的な認識」です。一日を単位として、
それが反復されている。その毎日毎日の経験値(母集団)に照らし合わせて、天気を予測する。
このようなある単位=「ミクロ」が反復しているという想定で、予測が行われますことを「ミクロ認識」と
呼びたいと思います。
それに対して、経験値とは別に、「今日はなにか良いことがありそうな気がする。だから今日は
晴れだ。」と予測する場合もあります。これは、反復のない今回1回限り=「マクロ」の認識であり、
「マクロ認識」と呼びたいと思います。
人間は世界を、「ミクロ認識」と「マクロ認識」の相補的な関係で認識していると、考えられます。
たとえば、宝くじを買うことを考えます。宝くじを確率的に考えると、「購入者」は必ず損をするんです。
「発行者」の儲けは、「購入者」の払ったお金−宝くじの当たり−経費α、です。これは必ずプラス
になります。だから確率的(「ミクロ認識」)では、宝くじ買う理由はないんです。しかしなぜかみな
宝くじを買います。それは「この私!なら当たるんじゃないか」、「奇跡は起こる」というように、拠なき
「信頼」という「マクロ認識」によるものです。
658 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/10(金) 20:53:51
「ミクロ認識」的儀礼と「マクロ認識」的冗談
このような認識は、日常で働いています。たとえば、「おはよう」と話しかける場合、経験的(ミクロ認識)
には、「おはよう」とかえってくるだろうと予測しています。特に強く意識しなくとも、こーいえば、
あーいうだろう。こーいわれれば、あーいおう、ということが、予測されています。社会というのは、
このようなミクロ認識が儀礼化しているための「安心」な場として作動しています。
しかし「おはよう」と話しかけた場合に、「おまえを殺す!」などの、予測もしない不確実性な反応が
返ってくる可能性があります。これは、どのような親しい関係でも、相手が本当はなにを考えている
のか、どう行為するのかはわからないという意味で「他者との断絶」であり、マクロ認識が作動する
理由の一つです。冗談というのは逆にこのような「マクロ認識」の作動を利用しています。ミクロ認識な
安心の場をあえて破り、予想しないことを起こし、場を緊張させ、その後安心な場への復帰に「笑い」が
生まれます。
659 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/10(金) 20:54:35
「ミクロ認識」的トラウマと「マクロ認識」的空想
マクロ認識の「信頼」を「欲望」論で語ります。ミクロ認識の究極とはなんでしょうか。全てが経験値的に
(予定調和に)作動する世界。ここでは、もはや「この私」は必要とされません。統計的な「私」とは
誰での良い一人であり、簡単にいえば、人の体の中の1細胞のようなものです。一つの細胞が
死んでも、すぐに隣の細胞がその機能を代替します。これが「この私」のトラウマでなくて、なんでしょうか。
このトラウマから、逃れるために、「この私」の意味を求めます。確率的には買う必要がない宝くじを
買い、「この私なら当たる。1億円当たったら、あれもしよう、これもしよう」という「空想」を見るのです。
ここでポイントは、人は必ず「信頼」する、「空想」をみるということでなく、ミクロ認識がトラウマ的
だから、なおさらマクロ認識的な空想をみて、欲望するのです。欲望論的にいえば、「宝くじは
当たらないからこそ、買われる」ということです。
科学的、確率論的とは、ミクロ認識です。しかしこれは、ミクロ認識が正しくて、マクロ認識が曖昧と
いうことでなく、宝くじというものをどのように認識するのかの違いです。
660 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/10(金) 20:55:29
「精神病」的ミクロ認識と「神経症」的マクロ認識
ミクロ認識とマクロ認識の究極を考える場合には、人間と動物の「断絶」を考えないといけません。
動物には「この私」(自意識)はありません。だから本能(あるいは遺伝子命令)と経験値(ミクロ認識)で
生きています。すなわち動物は群れの「1つ細胞」としてのただ生きるのです。ミクロ認識は「生」を
純化します。これをニーチェは「力への意志」と呼びます。
しかし人間は、動物と違い「この私」という自意識を持っています。だからミクロ認識のみで「生」を
純化状態では、「この私」が消失することに耐えられません。だから人は動物のような純粋な
「ミクロ認識」を持ち得ません。純粋なミクロ認識の前では、「この私」は解体され、精神病になります。
だからマクロ認識が作動し、「生」を疑い、「この私」の意味を求め、「空想」の中で「信頼」して生きます。
人間のミクロ認識は、マクロ認識という空想によって囲まれています。しかしどこを差がしても、
「これが私だ」という「この私の意味」は獲得されません。マクロ認識は「この私」を過剰に欲望し
つづけます。だから「人間はみな神経症なのです。」
マクロ認識は「生」を危険にさらすことで成り立ちます。確率論的に正しくないはずの宝くじを買う、
盗んだバイクで走り出す・・・そして追いつめられると、「この私」に意味がないと「生」を抑圧し、
自殺することがあります。これはフロイトの「快感原則の彼岸」、ラカンの「死への欲動」です。
動物は、ただ生きるのみで、自殺しません。
「機械」にはマクロ認識がなく、経験値によるミクロ認識で作動します。だから人工知能は「動物」を再現
できるでしょうが、「人間」は再現できません。確率論的に正しくないはずの宝くじを買う、盗んだバイク
で走り出すような神経症の人工知能は必要ですか?世界を滅ぼします。人間のように・・・
661 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/10(金) 20:56:30
否定神学化するマクロ認識
現在、ボクたちのおかれた環境は、ミクロ認識>マクロ認識なんです。日々あふれる情報は
マクロ認識(信念)を解体し、ミクロ認識へ導きます。「この世界は確率的だ。人が生きる意味などない。
ものごとを素朴に信じるヤツは馬鹿だ。神などいない、もはや死んだんだ。」
このトラウマ的ミクロ認識に耐えられるのでしょうか。確かにこの中で窒息しかけている面はあります。
「ならなんのために生きているんだろう」と。このために宗教にはまるなどもありますが、現在、
信じることはそう容易ではありません。
そのような中で、人々は、むしろミクロ認識を指向しています。ここには逆説的な戦法が隠されて
います。それは、「「この世界は確率的だ。人が生きる意味などない。ものごとを素朴に信じるヤツは
馬鹿だ。神などいない、もはや死んだんだ。」ということがわかっているこのオレ様!すごい」。あるいは
「「この広大な宇宙論の前でおれはちっぽけだ」ってしってるおれってかっちょいい!」ということです。
信念(マクロ認識)を徹底に否定することで逆説的にマクロ認識を確保する。これは否定神学と
呼ばれます。現代はこのように巧妙にマクロ認識(信念)を作動させ、「この私」を救出しています。
このような機械論(ミクロ認識)指向に隠されたマクロ認識をボクは「機械論の欲望」と呼ぶわけです。
662 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/10(金) 22:27:17
>ミクロ認識の究極とはなんでしょうか。全てが経験値的に
>(予定調和に)作動する世界。ここでは、もはや「この私」は必要とされません。統計的な「私」とは
>誰での良い一人であり、簡単にいえば、人の体の中の1細胞のようなものです。一つの細胞が
>死んでも、すぐに隣の細胞がその機能を代替します。これが「この私」のトラウマでなくて、なんでしょうか。
>ミクロ認識とマクロ認識の究極を考える場合には、人間と動物の「断絶」を考えないといけません。
>動物には「この私」(自意識)はありません。だから本能(あるいは遺伝子命令)と経験値(ミクロ認識)で
>生きています。すなわち動物は群れの「1つ細胞」としてのただ生きるのです。ミクロ認識は「生」を
>純化します。これをニーチェは「力への意志」と呼びます。
究極のミクロ認識により純化される「生」はニーチェの「力への意志」と、いいました。
そして、 究極のミクロ認識で、トラウマ的な「全てが経験値的に(予定調和に)作動する世界。」
これはニーチェの「永久回帰」に対応している、ことがわかるだろう。
663 :
考える名無しさん:2006/03/10(金) 22:41:55
ぴかあ、いいかげん木津家
それはキミの精神の表出なんだよ。
664 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/10(金) 22:46:51
究極のミクロ認識は、マクロの反復であり、時間性をもつ。
それは変化を生み出す。すなわち生成する生の力である。
それに対して、ミクロ認識は、非時間性である。
変化を抑圧し、時間を止める。それは「死」である。
665 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 00:25:18
(象徴界)ミクロ・・・反復性・・・統計的認識→経験的確信・・・儀礼化な社会性
→(現実界)脱構築、多数性、力への意志、永久回帰
(象徴界)マクロ・・・1回性・・・直感的認識→信仰的信頼・・・空想・・・否定神学的
←(現実界)現実界を一つに抑圧
666 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 00:39:58
ほう、これは
ぴかぁ〜っていつ仕事してんの?
いつ寝てるの?
668 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 01:47:50
よんだ?
670 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 01:53:33
このスレは純一とぴかあでお届けしております。
純一はもっと生産的なことしなさいよ
生産?ここを荒らせってことかね?
レスが無いなら寝ますよ
さっさと寝ろ。ウザイ
後5分待ちます
残り4分
3分
2分
15 名前:考える名無しさん :03/07/12 21:14
ぴかぁ〜さんは、自費出版とか考えないんですか。
そんであちこちの哲学科に送りまくるとか。
17 名前:ぴかぁ〜(^O^) ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 21:18
>>15 君に一任します。
一儲けして、遊んで暮らしましょう。
残り1分
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
680 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 02:15:13
「精神病的ミクロ認識と神経症的マクロ認識」読んだけど、
なんか引っかかるんだよな。
結論として否定神学に希望を見いだしている点が疑問。
他の論考で論じている「人間は否定神学から逃れられない」という
指摘と相互補完的に成り立つんだろうけど、でも否定神学は
スターリン主義にも結びつくよ。
そこら辺の制御をどう論じていますか?
681 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 02:18:15
>>680 主体とは否定神学システムである。ということです。
スターリン主義も、コイズミ支持も、あややファンも
変わりません。
希望を見いだしているのは俺だと言いたいのね。
要するに、読み手がどう欲望するか次第だと。
ぴかぁ〜氏は「主体は否定神学システムだ」としか
言ってないよ、と。
なんだかわかったようなわからんような。
683 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 02:26:13
>>682 深読みしすぎですね。
だれもが、スターリン主義になる、あややファンになる
可能性があるということです。
逆には、誰もが、スターリン、コイズミ、あややのような、
「この私」を支える対象を持っています。
684 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 02:28:11
後出しじゃんけんだから仕方ない
ま、いいわ。あまり重要な点ではない気がしてきた。
ちょっとそこは離れて、もう一つの点。
○「ミクロ認識」的儀礼と「マクロ認識」的冗談
言いたいことはわかるけど、ここの例はあまり適切じゃないのでは。
先に、ミクロ的認識を「反復性」、マクロ的認識を「単独性」と
定義づけているんだけど、「おはよう」に対して「おはよう」が
かえってくると言う話は、メッセージがメタメッセージと対に
なって行われる、という事でしょ。たとえ相手が「おまえを殺す」と
言ったところでそれが冗談であるなら、そこに反復性があって
初めて成り立ち、単独性を持てない。
ほんとに襲いかかられるなら一回性の単独性を担保する出来事
だろうけど、「一度目は悲劇、二度目は喜劇」なんだから、冗談は
断裂を生みはしないよ。
つまり、冗談は単独性を担保しない=この私を生み出しはしない
=断裂を認識させはしない、と思うよ。
687 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 02:52:19
>>685 いや、そうではなくて、冗談の前の話です。
ミクロ的認識を「反復性」だけでなく、
マクロ的認識的な「単独性」、1回性=差異の到来に、認識は開かれている。
ということです。
それがミクロ的認識を「反復性」という安心へ回復するときに、
笑いが起こる、ということです。
しかし、確かに「精神病的ミクロ認識と神経症的マクロ認識」は、
いろいろと混乱していると、思っています。
>>665に整理図式をメモってみましたが・・・
ミクロ−マクロと象徴界−現実界の軸があるのですが、
それをミクロ−マクロだけで語ってしまっている。
688 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 02:55:37
認識は、ミクロ的認識「反復性」だけでなく、
マクロ的認識的「単独性」、1回性=差異の到来にも開かれている。
ということです。
「一度目の悲劇」の緊張感が、ミクロ的認識「反復性」という安心へ回復するときに、
笑いが起こる、ということです。
689 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 03:07:23
(現実界)不確実性、カオス、可能性・・・精神分裂病
→(象徴界)・・・神経症
ミクロ・・・反復性・・・統計的認識→経験的確信・・・儀礼化な社会性
現実界を多数(の穴)に抑圧・・・脱構築 、力への意志、永久回帰(→精神分裂病)
マクロ・・・1回性・・・直感的認識→信仰的信頼・・・空想
現実界を一つ(の穴)に抑圧・・・否定神学、死の欲動(→神経症)
ていうか、「一回性」と「反復性」の間には断絶があるでしょう。
「一回性」とは、認識不可能な事態です。認識できない。「一回性」が
主体により読み替えられて他の事象と比較連結されて、「反復性」と
解釈される。そして反復性の否定として、「反復性」が認識に立ち上がる。
イデ崇の3章だね。
691 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 03:22:23
>>690 これは認識論です。認識論はすべて認識できる世界で起こることです。
認識不可能な事態などないんです。
認識不可能な「1回性」でなく、「一回性」として認識されることなんです。
>>689の図式でいくと、
認識不可能な「1回性」=現実界
「一回性」として認識されること=象徴界
>>687のこの部分ですね。
>ミクロ−マクロと象徴界−現実界の軸があるのですが、
>それをミクロ−マクロだけで語ってしまっている。
この文全体的に、認識不可能な「1回性」=現実界と、
「一回性」として認識されること=象徴界が混乱している、ということです。
だから指摘としては、するどいです。
>イデ崇の3章だね。
ジジェクのジョーク論ですか。読み返してみましょう。
692 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 03:31:34
しかし、「認識できない「一回性」」という表現もおかしいですね。
より正確には、「認識できない「不確実性」」が主体により読み替えられて
「一回性」と解釈される。他の事象と比較連結されて、
そして反復性の否定として、「反復性」が認識に立ち上がる。
ということではないでしょうか。
693 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 03:54:07
再度、ボクの冗談解釈は、
@「認識できない「不確実性」」が(現実界から)到来、
A「一回性」として「体験(認識)」し、緊張して=マクロ認識
B他の事象と比較連結されて、「反復性」と解釈され、安心する。=ミクロ認識
Aで「一回性」と認識するときに、「反復性」と比較がおこなわれるのでは、
と思うかもしれませんが、僕たちが、世界をリアルに感じることができるのは、
Aのすべてはまずはじめに「1回性」として「体験」するからではないでしょうか。
その後に、Bで反復性との比較がおこなわれます。
Aの緊張が大きいときに、Bの緩和で、笑いが起こるのではないでしょうか。
>イデ崇の3章だね。
見つからない。なんページでしたっけ?
694 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 04:17:58
「内部」・・・心、後天的(アポステリオリ)、「人間」→想像界、象徴界(言語、無意識)
「断絶@」
「外部@」・・・身体、先天的(アプリオリ)、不確実性、
「動物」、「生命」、「潜在的なもの」→暗黙知(創発性)、「欲動」
「断絶A」
「外部A」・・・「機械」、「可能的なもの」
695 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 12:05:08
冗談(機知)はフロイトからつづく、精神分析的テーマです。
「面白いとは、なにか。」これはかなり面白いテーマです。
@「認識できない「不確実性」」が(現実界から)到来、
A「一回性」として「体験(認識)」し、緊張して=マクロ認識
B他の事象と比較連結されて、「反復性」と解釈され、安心する。=ミクロ認識
Aで「一回性」と認識するときに、「反復性」と比較がおこなわれるのでは、
と思うかもしれませんが、僕たちが、世界をリアルに感じることができるのは、
Aのすべてはまずはじめに「1回性」として「体験」するからではないでしょうか。
その後に、Bで反復性との比較がおこなわれます。
Aの緊張が大きいときに、Bの緩和で、笑いが起こるのではないでしょうか。
>>691>>692 了解。
>認識論はすべて認識できる世界で起こることです。
やっぱここか……「1回性」という物自体は、すでに「一回性」という
「反復性」を獲得した上で遡及的に推測されるのね。
>イデ崇の3章
欲望のグラフの解説が、上記の認識論の解説になっていたので。
まぁ3章に限った話じゃないね。適当に開いても、
p89「過去は、シニファンの共時的な網のなかに取り込まれ、
その中に入っていったときに、はじめて存在する」
p91「主体の当初の『幻想』とは、単に、その場面に自分自身の
行動を含めるのを忘れていたということだ」
やっぱイデ崇おもしれー
でも、どこが「ジョーク論」なの?
>>693 ベルクソンの「笑い」だな。
恐怖と笑いの差は、かき乱された象徴界が再び整合性を保てるかの差かな
だから、かき乱す「不気味なもの」=「現実界」を消去しようと狂おしく求める
のかね。
でもさ、やっぱ「マクロ認識」より「マクロ的認識」のほうがただしくね?
「現実<リアル>」と「現実的<リアリティ>」に対応するでしょう。
697 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 14:17:25
ぴかあ>>>>ジジェクだなw
698 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 17:54:10
>>696 >やっぱここか……「1回性」という物自体は、すでに「一回性」という
>「反復性」を獲得した上で遡及的に推測されるのね。
ラカンの「遡及的」を考えるときは、シニフィアンとシニフィエを分けて考える必要が
あるということですね。遡及的に獲得されるのは、シニフィエ(意味)ですから。
マクロ認識において、シニフィアンは必ず反復ですね。
たとえば「おまえ殺すぞ!」はなんの音?でなく、すでにシニフィアンとして
認識されますから。
「おまえ殺すぞ!」の1回性は、シニフィエの1回性ですね。
本来、「おはよ」と反復されるところに、突然、「おまえ殺すぞ!」という
シニフィアンが入ってくる。「はぁ?な、なに?」と意味がわからない。
これが以下に繋がるでしょうね。
p89「過去(というシニフィエ(意味))は、シニファンの共時的な網のなかに取り込まれ、
その中に入っていったときに、はじめて存在する」
699 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 17:55:13
>でもさ、やっぱ「マクロ認識」より「マクロ的認識」のほうがただしくね?
>「現実<リアル>」と「現実的<リアリティ>」に対応するでしょう。
現実界は認識できないので、おかしいです。
>でも、どこが「ジョーク論」なの?
「ジョーク論」がどこかにあったと思ってみたら、P57でした。
「どうしてこの笑い声が録音されているのかについて考えなくてはいけない。
笑いは義務であって自発的な感情ではないという逆説を含んでいるからだ。
だが、この答えでは不十分だ。なぜなら、われわれはいつでも笑うとは限らないからだ。
テレビ受信機の中に具現化された「他者」がわれわれの代わりに笑ってくれ、
われわれを笑いの義務から解放してくれているのだ。」
700 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 17:59:00
ベルクソンの「笑い」はしらないですが、
>>695のような感じでないでしょうか。
ジジェクの「義務」は、「反復性」という儀礼への回復
として考えることができます。
701 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 18:08:06
697 名前:考える名無しさん :2006/03/11(土) 14:17:25
ぴかあ>>>>ジジェクだなw
>>698 逆に言うと、「反復」とは「予測」=未来の先取りの
ことね。
「想定外」のシニファンが認識されたとき、象徴界が
構造を大きく変える。新たなシニフィエを織り込むように。
そして既存のシニフィエ(過去)もその位置を変える。
>>699 >現実界は認識できないので、おかしいです。
ばっさりだな、オイw
「1回性」と「反復性」と「一回性」があって、
「1回性」は「現実<リアル>」において起きるが、
「反復性」と「一回性」は「象徴界」において起き、
それらは「現実的<リアリティ>」を持つ、ということね。
「1回性」の経験は認識に至らない、と。
ジョーク論は指摘されると思い出した。「笑いの缶詰」(笑い袋)
のお話ね。あんがと。
で、宝くじの話なんだが、人間は自らの生命維持を担う
富をばくちに投じる事でしか己を認識できない、
>マクロ認識は「生」を危険にさらすことで成り立ちます。
と語られるとき、常に「それを認識している主体」がいる。
絶望から希望を、抑圧から解放を求め、怠惰から窒息を、
富から絶望を感じてしまう主体が。
この語られない部分を計算に入れないと、単なる虚無主義に
なるね。
ぴかぁ〜氏の文章を読んでいる自分という主体を計算に入れないと
つい「ぴかぁ〜はファシストだ」と言いたくなるw
704 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 20:11:01
>>699 >「1回性」と「反復性」と「一回性」があって、
ん?混乱してます。「1回性」=「一回性」です。
ボクの現実界理解では、
忘れてはならないのは、現実界は人に認識できない外部である、
ということです。ジジェクも現実界を多く語りますが、
それは、「象徴界から見た」現実界、ということですね。
だから突然の「1回性」として現れたり、
永久回帰的?徹底的な偶然の世界で現れたりします。
>ぴかぁ〜氏の文章を読んでいる自分という主体を計算に入れないと
>つい「ぴかぁ〜はファシストだ」と言いたくなるw
こういうことでしょうか?
「「「この広大な宇宙論の前でおれはちっぽけだ」ってしってるおれって
かっちょいい!」とおもっているおまえらかっこわるいよ」とってしってる
ぴかぁ〜ってかっちょいい!」
ぴかぁ〜にとって「否定神学」が否定神学化している。
しかし「「「「この広大な宇宙論の前でおれはちっぽけだ」ってしってるおれって
かっちょいい!」とおもっているおまえらかっこわるいよ」とってしってる
ぴかぁ〜ってかっちょいい!」ってファシストだろ」というオレってかっこいい!
ということでもある。
これが否定神学ですね。逃れられない。
しかし確かに気をつける必要はるでしょうね。
705 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 20:14:26
確かに、「現実界とはなにか」というのは、
様々な解釈がありますね。
706 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 20:42:05
イデオロギーの崇高な対象 ジジェク P245-250
「象徴化・弁証法に抵抗し、自分の場所に固執し、つねにそこに帰ってくる固い核と見なされている。
・・・だがこれはラカンのいう<現実界>の一面にすぎない。これは1950年代に優勢だった一面である。
だが70年代になると、・・・<現実界>は、象徴的構造の歪みを説明できるように、事後的に構築される
べきものなのである。・・・<現実界>が存在不可能だとしても、効果を通してその不可能性をとらえ
なくてはならない。・・・
このよううに<現実界>を、存在していないにもかかわらず一連の属性の効果を生む、逆説的で
キマイラ的な実体と定義づけると、なによりもまず<現実界>が享楽であることが明らかになる。
享楽は存在せず、ありえないにもかかわらず、無数の外傷的な効果を生む。この享楽の逆説的な
性質はまた、<現実界>の現前を有無を言わさず証明する根本的逆説を説明する鍵をわれわれに
提供してくれる。すでにそれ自体が不可能である何かを禁止するという事実である。」
707 :
考える名無しさん:2006/03/11(土) 20:46:41
ぴかモチツケ
>>704 >>691で
>認識不可能な「1回性」でなく、「一回性」として認識されることなんです
と言っているから、「1回性」と「一回性」を分けているのかと思ったよ。
>>692をちゃんと読んでなかった。
全ての事象は1回きりのできごとだが、それを「1回性」と言ってしまうと
「比較対象がないのに『〜性』ってなんだよ」、と言う話になる訳ね。
「1回性」という単語は論理矛盾であって、「不確実性」というべきだと。
了解です。
>>704 世界を入れ子構造で認識する、と言う点を、自分を勘定に入れて
行う必要がある、ということですね。
>マクロ認識は「生」を危険にさらすことで成り立ちます。
と言われると、「盗んだバイクで走り出す事を称揚するのか」と
つい言いたくなります。また、「ならば『生』を暴走しないように
管理することが大切」というファシズムに結びつくのでは、とも
考えられます。
しかし、「生」を危険にさらす存在を認識してはじめてそれを止めようと
する欲望も働くわけで、この実在と認識は対になっている。
そこに「他者の存在を認め、議論をする余地」が生まれる。これは
倫理ですね。
710 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 22:18:56
>と言っているから、「1回性」と「一回性」を分けているのかと思ったよ。
たしかに(笑)
711 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 22:41:47
>>709 「「生」を危険にさらす」という表現が、過激でしたか。
人はあえてリスクをおかすこと(過剰性)で、生き甲斐を見出す、ということです。
小さなことでは、毎日通う道から寄り道をする、というようなことなど、
人間の行為すべてにあることではないでしょうか。
言いたいことをより正確にために、論理的に話をする。
要件を伝えるためにだけにネットコミュニケーションを利用する。
ことから、冗談を言う、無駄なおしゃべりをする、
小さくあえてリスクをおかしている、ということです。
>世界を入れ子構造で認識する、と言う点を、自分を勘定に入れて
>行う必要がある、ということですね。
これを考えると、『生』を暴走しないように管理することが大切」という
ファシズムがどのように作動しているかわかりますね。
過剰な管理で、生き甲斐を見出しているわけです。
しかしその否定神学構造で、ファシズムを否定するのも違うんですね。
「それを止めようとする欲望」にも過剰性がある。
世界は入れ子構造である、ということです。
712 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 22:42:44
「他者の存在を認め、議論をする余地」が生まれる倫理、の難しさです。
たとえば、西洋人の倫理家が、(植民地の)異文化の存在を認め、議論をする、
という ときにおこなった抑圧があるわけです。
西洋人の倫理家は、「「(植民地の)異文化の存在を認め、議論をする」おれって
かっちょい!」の次元は、排除できないわけです。
だからまず、「私は西洋人でしかない。それにプライドももっている。だから、
(植民地の)異文化を理解できなし、不快に感じ、差別することもあるだろう。」と
認めるところから始めないといけない。そして、他者の同じように、こちらを
不快に、差別することもあるだろう。ということが、ローティの
アイロニカルリベラリズムですね。
713 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 22:44:38
■現実界とは
ボクの考える「現実界」は、「失われた集団性の残余」=失われた「他者からの呼び声」です。
生命(動物)は、集団性によって存在しています。それは、群れの一部、細胞群の1細胞です。
それはまた、ただただ生きるという純化された「生」の力です。その「呼び声」に従って、細胞は
集団性を形成しています。
しかし動物と人間には「断絶」があります。人間は、その「呼び声」は失われており、現実界の
向こうから、僕たちに呼びかけています。そこ声は、「我」をすれてて、融合し、細胞の1つになれと。
この失われた集団性(純化された「生」の力)は、ニーチェの「悲劇の誕生」での、アポロン的なる
ものに対立させた、ディオニュソス的なるものであり、「力への意志」です。ドゥルーズも指摘する
ように、「力への意志」は象徴的な権力欲などではありません。複数的で、潜在的な、
純化された「生」の力です。ディオニュソス的なるものは、秩序ある社会(象徴界)を解体するもの
として、禁止され抑圧されてきた、というのがニーチェの主張です。
すなわちこれが、失われた「他者からの呼び声」、ディオニュソス的なるものへの近接は、
禁止された、現実界への近接、「享楽」です。
714 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/11(土) 22:55:21
人間と動物の断絶、心身の断絶とは、断絶@です。もう一つの断絶があります。生命と非生命の
断絶です。非生命=機械でも最近はコンピュータ技術などで、高度な情報処理能力があります。
では、生命は機械か?その差がニーチェの「力への意志」であり、ドゥルーズのいう潜在的なもの
、あるいはポランニーの暗黙知、創発性です。
「内部」・・・心、後天的(アポステリオリ)、「人間」→想像界、象徴界(言語、無意識)
「断絶@」
「外部@」・・・身体、先天的(アプリオリ)、不確実性、
「動物」、「生命」、「潜在的なもの」→暗黙知(創発性)、「欲動」
「断絶A」
「外部A」・・・「機械」、「可能的なもの」
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
716 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 15:10:40
<内部>・・・象徴界、想像界 →神経症
ミクロ・・・反復性・・・統計的認識→経験的確信・・・儀礼化な社会性
現実界を多数(の穴)に抑圧・・・脱構築 、力への意志、永久回帰(→精神分裂病)
マクロ・・・1回性・・・直感的認識→信仰的信頼・・・空想
現実界を一つ(の穴)に抑圧・・・否定神学、死の欲動(→神経症)
−−−−−−−−−−<人間の断絶>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<外部>・・・身体、先天的(アプリオリ)、不確実性、
「動物」、「生命」、「潜在的なもの」→暗黙知(創発性)、「欲動」
−−−−−−−−−−<生命の断絶>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<生命の外部>・・・「機械」、「可能的なもの」
717 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 17:24:29
ニーチェ アポロン的(ルサンチマン)/ディオニュソス的(力への意志)
ラカン 象徴界(欲望)/現実界(欲動)
ドゥルーズ パラノイア/スキゾフレニー
フーコー 規律管理権力/生権力
718 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 17:28:35
デカルト 心(我)/身(機械)
カント 現象/物自体
719 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 17:34:53
ぴかぁ〜 まなざしの快楽(無垢)/他者からの呼び声
720 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 18:16:34
<内部/外部>
デカルト 心(我)/身(機械)
カント 現象/物自体
−−ダーウィン−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ニーチェ アポロン的(ルサンチマン)/ディオニュソス的(力への意志)
フロイト 超自我/エス
ラカン 象徴界(欲望)/現実界(死の欲動)
ドゥルーズ パラノイア/スキゾフレニー
フーコー 規律管理権力/生権力
ぴかぁ〜 まなざしの快楽(無垢)/他者からの呼び声
721 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 18:18:57
「種の起源」以降、外部は「力」へと変容した。
722 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 18:34:53
現象学は心理学を受けて、デカルト継承する。内部へ徹底的する。
しかし「ダーウィン」以降、内部/外部=死/生の構造から、
逃れられない。それが特に現れたのが、ハイデガーの「死」の
根元性である。内部の徹底は、「死」へ閉塞する。
(ポンティはそれに抵抗するが。)
フロイトのダーウィニストである。外部をエロスとして語る。
しかし最後にタナトスへいたる。
ラカンは、ハイデガーの死とフロイトのタナトスを繋ぐ。
それへの反動して、ドゥルーズがある。
723 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 19:04:54
ドゥルーズは、「差異と反復」の行き詰まりを、
「アンチ・オディプス」で打開したとこ言われるが、
内部/外部の断絶の突破にくじけて、
パラノ/スキゾという二元論に逃げ帰ったとも言える。
すなわちパラノよりスキゾがよい、という価値論へ
引き返したのです。
なんだとぉ!
725 :
考える名無しさん:2006/03/12(日) 19:41:01
ぴかぁ〜かっこいいな。
大哲学者と並び称されてるよ。
726 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 19:51:18
科学技術の発展も良いが、
この二元論の問題を、いかように語るのか、が、
それぞれの時代を代表する。
後生に、この時代をどのように語られるだろう。
727 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 19:55:49
一つの解答の代表が、
エリート、ヘタレ/動物化だろう。
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
729 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 22:13:48
内部から外部へいかに断絶を越えるか。それは、言語論的転回をいかに越えていくか。
・意味論・・・このいきいきとして意味(クオリア)はどこにあるのか。
・行為論・・・行為による創発性
・文字論・・・言語のエクリチュール性(物質性)
730 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 23:26:53
■断絶越えは、生物学的そして意味論的に試みられている。
「ダーウィン」以降、哲学では外部は、力動論が中心となる。社会は拘束にとらえられ、そこか
ら解放される生命力という構造はニーチェ、フロイト、そしてラカン、ドゥルーズ、デリダへとつづく。
ハイデガー、ポンティにも同じ構造が見られる。ある意味で、これらは生物学的であるといえるだろう。
それに対して、分析哲学系ではヴィトの「語りえぬもの」に特徴的に、外部を持たない。これは外部は
科学が語り、安易に語れないという環境もあったと考えられる。内部という言語論理の追求という形で
進んだのだ。そして外部へ近接は、意味論というかたちで、別におかれている。
この意味では、フッサールは、特別な位置にいるかもしれない。現象学でも、ハイデガー、ポンティには、
外部への「回帰」が見られるが、フッサールは、徹底的な内部に留まり、外部を持たず、独我論と
言われる所以である。フッサールは言語について積極的に語らなかったが、意味論の次元、現代で
言う「クオリア」への言及である。
このように、内部から外部への通路は、生物学的な通路と、意味論的な通路が考えることができる。
これらはハードの問題と、ソフトの問題と分けることができるかもしれない。
科学は外部を追究してきた。認知科学において外部から内部が目指されている。その通路も同様に
生物学的、意味論的なものが考えられているだろう。特に生物学的通路が進んでいると言える
かもしれない。それは心理も含めて身体構造の解体などのハードの問題である。最近では心の
システムを示すために、システム論が語らえる。たとえば、神経システムを示すためにオートポイエーシス
などである。これではいっこうに見えない内部への通路のために、意味論の次元、「クオリア」である。
まだ成功しているとはいえないが。
731 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 23:46:11
意味とはなにか。
リアリティは欲望に関係する。欲望は対象への志向性を生み、ありありを
生み出す。
暗黙知とは、生命力である。
732 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/12(日) 23:52:03
・意味論・・・認知科学=意味(クオリア)、ラカン「意味は現実界にある」、現象学=志向性
・行為論・・・ポランニー=行為による創発性、柄谷、ヴィト=教える、学ぶ
・文字論・・・デリダ、ラカン=エクリチュールの物質性
733 :
考える名無しさん:2006/03/13(月) 00:20:44
ぴかあさん
いつまで著名人の理論をレンタルするつもりですか?
ぴかあさんなら自分のことばと理論だけで勝負できるはずです
734 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/13(月) 09:37:37
すべて内部にある。
科学も心も他者も
735 :
岩:2006/03/13(月) 09:41:54
ぴかあさんはすごいなあ。
俺の中にもぴかあさんがいるのかなあ。
俺もすごいのかなあ。
736 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/13(月) 15:25:56
言語は物体の流れとしてあるように快楽もしかりだ。
物体の流れる場に心は表れる。
世界は物体が流れる場である。
737 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/13(月) 15:29:54
それはただ物体であるいがいなにものでもなく、だから人は物体そのものを認識することはできない。
ただなんらかの現象としてのみ表れる。原物体とよぼう。
738 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/13(月) 19:37:32
これはわかりやすいですね。
■ミクロ/マクロ認識 機械スレの
>>361 個々の場面で何を選択するか(ミクロ認識)は、何を価値(マクロ認識)とするかで決まるのではないか。
通常、私たちが統計学(確率論)に沿って行動する(ミクロ認識)とすれば、それは「統計学は当てになる」
こと(マクロ認識)を信じているからでしょう。また、ある人間がここというときに統計学(確率論)を捨て、
微分的認知(カン)に頼るとすれば、それは彼が「いざというときにはカンが一番」という(マクロ)認識を
持っているからです。
739 :
考える名無しさん:2006/03/13(月) 19:41:50
>738
ミクロとマクロとは直結しているのだが・・
どちらがどちらを含むという関係でもない。
馬鹿でしょ
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
742 :
考える名無しさん:2006/03/13(月) 23:44:39
ぴかフられたん?
キモがられたかな、当時は。
>>739 象徴界では別
というか、別になるのが象徴界
15 名前:考える名無しさん :03/07/12 21:14
ぴかぁ〜さんは、自費出版とか考えないんですか。
そんであちこちの哲学科に送りまくるとか。
17 名前:ぴかぁ〜(^O^) ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 21:18
>>15 君に一任します。
一儲けして、遊んで暮らしましょう。
746 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/15(水) 11:15:28
ん?
747 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/15(水) 11:16:38
享楽型人間
748 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/15(水) 12:37:10
いかに手をあげるのかは、たいへんおもしろいですね。
749 :
考える名無しさん:2006/03/15(水) 13:02:36
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
751 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/16(木) 12:36:52
「信仰」とは、他者の信じることを信じることである。
仮にそれが非難されても、僕は他者の信じることを信じただけなのだ、
といういいわけが担保されている。
しかしこれが「信じる」ということそのものの構造である。
よしぴかぁがニートでないと信じる
753 :
考える名無しさん:2006/03/16(木) 14:38:01
ぴかさんは鬱状態のときはありますか?
いやあまりに醸舌なので。
まなざしと他者からの呼び声って何が違うの?
同じ比喩に見えるんだけど。
751 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/16(木) 12:36:52
「信仰」とは、他者の信じることを信じることである。
仮にそれが非難されても、僕は他者の信じることを信じただけなのだ、
といういいわけが担保されている。
しかしこれが「信じる」ということそのものの構造である。
750 名前:考える名無しさん :2006/03/15(水) 22:55:58
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
756 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/16(木) 21:06:01
機械論の欲望
ジャングル化する社会
他者からの呼び声
無垢への欲望
ヘタレ化するポストモダン
私の中には二人の「他者」がいる。
リアルへの没入
溢るる汚物
ボクたちは誰かのために生きることを望んでいる。故に誰かを傷つける。
神話なき神話な生活
神話なき神話の時代
アウラな世界
2ちゃんねるはポストモダンを越えていく
パロリチュールの時代
もはや落書き帳だな。
758 :
考える名無しさん:2006/03/16(木) 22:11:45
西遊記には失望した
759 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/17(金) 09:54:09
ボクも2話ぐらいで脱落したなあ。
今期はなんといっても時効刑事だね。ヒヒヒッヒヒ
760 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/17(金) 12:58:57
カント、ヴィトは限界を思考したとされるが、
ラカンも限界を思考したといえる。
>>754 >まなざしと他者からの呼び声って何が違うの?
まなざし=言語でありますから、そのまま他者からの呼び声であるのでは
ないでしょうか。
まなざしを感じ取れる能力が希薄になりつつある時代ですね・・・
762 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/18(土) 20:12:39
まなざしの快楽=言語的、他者からの呼び声=生物学的です。
たとえば動物は、先天的に獲得したシグナルによって異性を呼び寄せられます。
これを「他者からの呼び声」と呼びます。
人間ではこのようなシグナル(他者からの呼び声)は失われ、
遠くの方で呼んでいます。
これを補完するために、あるのが「まなざしの快楽」です。
他者がそれを望んでいる(まなざしている)だろうから、
それを欲望するということです。
750 名前:考える名無しさん :2006/03/15(水) 22:55:58
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
まなざしは、他者からの呼び声よりは
より高次元な欲望ということでしょうか
動物は言語を持ちません
ですから、まなざし=(実際には発話されない)言語の快楽は
ありえないことになります
彼らは呼び声として、実際に発話されたものしか聞き取れません
まなざしの快楽は言語を有する人間だけのもの
765 :
考える名無しさん:2006/03/19(日) 18:44:38
>>764 「言語的」に注意。人類に至らなくても、動物でも
言語的な呼びかけは行う。
自演?
ジ・エンド
768 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 19:27:02
>>765 「言語的」に注意。動物の叫び声は、言語的ではない。
>>768 >動物の叫び声
は言語じゃないだろうね。
しかし、人類以外にまなざしは
ないと言えるのかい?
770 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/03/19(日) 19:32:57
もし、人間の言葉が無条件に他者と共有できないとしても、動物と共有不可能でるとはいえないのではないでしょうか?
動物飼ってる身として、動物との言語の交換の方が無条件であると感じる。
771 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 19:33:10
>>768 見られている私をみる。
自意識をもつ人間だけです。
772 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 19:38:09
>>770 それはそうだと思います。
人形、石(仏像)、神(アイドルポスター)などなどと、
無条件に言語の交換可能な存在こそが
まなざしの快楽としての人間ですから。
773 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/03/19(日) 19:49:27
>772
ぴかぁ〜さん、私はこのレスのいい読者ではなくてほとんど読んでなくて申し訳ないのですが、
まなざしは、他者から自分に向けられるもので、それを意識することから対他意識が生起し、
対他存在=実存者となる契機である、とサルトルが書き、これには何も異存は無いのですが、
ぴかぁ〜さんのまなざしは、フェティシズムも含むものなのでしょうか?
774 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 20:00:53
>>773 まなざしは様々な人が様々に使用するメタファーですね。
だから「まなざしの快楽」はボクの定義です。
近いものは、ラカンの「大文字の他者」のまなざしです。
「他者が見ているだろう」快楽です。
フェティシズムも含みます、というかフェティシズム(物神化)的ですね。
被害者が増えたw
776 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/03/19(日) 20:06:49
ぴかぁ〜さんの書き込みみて、ラカン読みたくなってきたのですが、ぴかぁ〜さんのお奨め本ってあります?
777 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 20:20:44
>>776 これが結構むずかしい質問ですね。
ラカンを理解しないと、ラカンは読めない、と言われるように
ラカンそのものを読んでも理解できません。
だから解説書から入るのですが、困ったことに解説する人それぞれの
ラカンがあるのですね。
だから推薦する場合には、誰のラカンを推薦するか、ということになります。
ボクなら、ラカン初心者に推薦するのは、
@現代思想冒険者たち 鏡像段階 ラカン 福原 泰平
初心者向きで、もっともノーマルです。
Aイデオロギーの崇高な対象 スラヴォイ ジジェク
ある程度、哲学知識のある人なら、面白く読めます。
いまは、ジジェクのラカンがもっともメジャーです。
これはおすすめ。
B構造と力 浅田 彰
ラカンの章があります。わかりやすいし、これで学ぶ人も多い。
しかし中期までのラカンなので、ボクはあまり好きではない。
出たー!知ったか!
まなざしを快楽として体験できるのは、人間だけでしょうね
なぜなら、動物は他者に見られているだろう、という
自意識や想像力は持ち合わせていないから
まなざしの快楽を体験するには、自意識と想像力が必要です
何よりも、まなざしを通して言語を読みとる能力が必要です
780 :
769:2006/03/19(日) 21:54:51
>>762を見て了解。すまん。
>>777 福原さんの本は俺は読み通せなかった……
ジジェクの方がピンときたよ。
なんちゃってマルクス主義者だったからw
「ラカンの精神分析 講談社現代新書」
(新宮 一成 著)
がラカン理解のきっかけになったなぁ
781 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 22:10:16
>>780 「ラカンの精神分析 講談社現代新書」は、「対象a」に偏って、癖がありますね。
初心者向きとは言えないように思います。
福原さんの本は、前期、中期、後期と、広く浅く扱っていますから、
一番ノーマルだと思いますが。
やはりジジェクが一番でしょうか。
あとジジェク派?の「ラカンと政治的なもの」 ヤニス スタヴラカキスの
前半は、ラカン入門になっています。もしかすると一番わかりやすいかもしれません。
あくまでジジェク派理解なのですが。
782 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/03/19(日) 22:12:43
>781
福原さんの本、amazonで注文しました。
サンクスでした。
783 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 22:17:44
>>782 第一歩ということで、頑張ってみてください。
783 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 22:17:44
>>782 第一歩ということで、頑張ってみてください。
785 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 22:59:21
「真理は必ずあります。」
「真理などない」などの相対主義的な言説がなにを
担保に行われているのか、ということです。
「真理などない」という真理です。
786 :
769:2006/03/20(月) 01:00:05
>>781 ありがとう。「ラカンと政治的なもの」読んでみる気になった。
福原さんの本はラカンの遍歴を、思想と学会での立ち位置の両方から
追っていて、非常に読まされたよ。
ラカンの場合は何をもって初心者向けとするかが難しいよね。
数冊読んでみるのが良いね。
>>782 楽しんでね。
「どうして人を殺してはいけないのですか?」
読みました。
すごくわかりやすかったです。
>なるべく「殺す」こと、「死」の概念を忘却し、
>「他者を潰して」いるだけだ、という隠蔽
>この隠蔽のもとに、多くの「殺人」が行われているのでは
>隠蔽された「殺意」が回帰
これはリアリティを感じる。
こんな言い方は失礼ですが、
一段レベルアップされた感じです。
いままでとは別種の「腑に落ちる」感じを
受けました。
750 名前:考える名無しさん :2006/03/15(水) 22:55:58
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
789 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 10:11:26
>>778 言っていることはここしばらく変わらないのですが、「どうして人を殺してはいけないのですか?」
という例題へと展開してみた感じですね。
「どうして人を殺してはいけないのですか?」 も否定神学の構造だと思うのです。
「どうして人を殺してはいけないのですか?」 に答えられない、という言説(象徴界)の穴(断絶)に
あえて言及することが、逆説的に「この私」を支えている。
「「どうして人を殺してはいけないのですか?」 に答えられないことを知っている、この私
かっちょいー!」ということですね。
「死」は多くにおいて、このような否定神学の場です。その典型が、ハイデガーの「存在と時間」です。
だから「死」は言葉でしかないと、解体しえますが、また解体しえません。言葉によって、
否定神学構造によって、僕たちは「人間」となり、「この私」となるわけですから。
否定神学構造を暴露することは、脱構築でポスモダ的であるが、それとともに、その構造の
解体不可能性を指摘する。安易な相対主義的解体の言説もまた、否定神学であることを
指摘する、これはラカン的(ジジェク的)です。
「「それって否定神学だろう」って知ってるこの私かっちょいー!」という否定神学。ということです。
そして、ボクの言説は、「「「それって否定神学だろう」って知ってるこの私かっちょいー!」という
否定神学だろう」と知っているこの私かちょういー!」という否定神学なわけですが(笑)
790 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 11:21:47
脱構築しつつ脱構築不可能性を説く
否定神学であると指摘し、そこから逃れられないことを説く
宙吊りにして維持する、この醜悪な手法
791 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 12:07:55
この「否定神学批判」から逃れる方法は、神学であることを認めるしかない。そして「あえて」語るしかない。
これはローティーのアイロニーな姿勢である。
だから「否定神学批判」がアイロニーなのでなく、相手にアイロニーをしいるだ。
792 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 12:15:23
宙吊りにしてピン留めする、悪趣味にはそれに病名をつける。ある意味「思考の極限」である。
793 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 12:17:40
この極限においてローティーは哲学は文学の一形態でしかないといった、のだ。
794 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 12:21:34
それはまったく正しいのであるが、ローティの否定神学にかけているのぱ「だからなんなのだ」といことである。
哲学は宙吊りにされても哲学である。なぜなら「哲学」としてピン留めされているからだ。
795 :
考える名無しさん:2006/03/20(月) 16:59:10
まだエッチまでの関係になってない彼氏に、カミングアウトした。
私「私尻毛生えてるんだ。」
彼「へー。オレ脇毛も尻毛もない。ぼーぼーのワイルド男になりてー!!」
私「毛ないんだ…」
彼「大丈夫だよ、尻毛についたウンコごと愛してやる」
私「ありがとう、いつか医療技術が発達したら、尻毛ドナーになってあげるね」
というような会話になってしもた…orz
すごい会話だな
797 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 20:35:55
NHKスペシャルつまんねぇ〜!!!
798 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 20:38:20
ボブ・デイビットソンしかり、アメリカ落ちぶれすぎ。
799 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 20:43:31
■否定神学批判
否定神学構造を暴露することは、脱構築でポスモダ的であるが、それとともに、その構造の解体不可
能性を指摘する。安易な相対主義的解体の言説もまた、否定神学であることを指摘する、これがラカン
的(ジジェク的)です。
「「それって否定神学だろう」って知ってるこの私かっちょいー!」という否定神学。ということです。そし
て、ボクの言説は、「「「それって否定神学だろう」って知ってるこの私かっちょいー!」という否定神学だ
ろう」と知っているこの私かちょういー!」という否定神学なわけですが(笑)
脱構築しつつ、脱構築不可能性を説く。否定神学であると指摘し、そこから逃れられないことを説く。宙
吊りにして維持するというこの醜悪な手法。この「否定神学批判」から逃れる方法は、神学であることを
認めるしかないでしょう。そして「あえて」語るしかない。これはローティのアイロニーな姿勢です。だから
「否定神学批判」がアイロニーなのでなく、相手にアイロニーをしいる。宙吊りにして「ピン留め」する。あ
る意味「思考の極限」です。
この極限においてローティは「哲学はもはや文学の一形態でしかない」といったのです。それはまった
正しいのであるが、それでも哲学は哲学であるということは疑えないでしょう。哲学は宙吊りにされても
哲学です。なぜなら「哲学」として「ピン留め」されているからです。
はいはい800
802 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/20(月) 23:41:02
ニュー速VIPってのに始めていったんだけど
あれってどう楽しむの?
ニュース速報
804 :
考える名無しさん:2006/03/20(月) 23:52:37
先月、生まれて初めて混浴に入りました。
女性は水着着用可なのに対して男性はみんなスッポンポンなのです。
一応タオルで前を隠していますが、それでもときどきおチンチンが見えちゃいます。
若い男の子のきれいなお尻とかも見えて、とても楽しくてついつい長湯をしてしまいました。
今度は友達をたくさんつれていきたいと思います
女でも混浴が楽しいのか?
806 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/21(火) 18:05:36
イチローのナショナリズムな姿勢にやや引きはしたけど、
海外で頑張るっていうのは、そういうことなのかな。
様々な疎外を味わう中で、よりナショナリズムが育つんだろう。
そしてグローバリズム化とはまたリージョナリズム、ナショナリズム化
ということなのだろう。
807 :
考える名無しさん:2006/03/21(火) 18:16:05
あたしは、ケツ毛抜いてるよ。
初めて抜いたときは痛すぎて涙出たけど、慣れたら平気。
でも一本ずつ抜くのめんどいし、某エステ脱毛のVライン&iライン脱毛行くつもり〜。
剃ったらいいんじゃない?
809 :
考える名無しさん:2006/03/21(火) 22:14:48
ぴかあは病気なの?
「統合失調症の規範回避」なんだって。
純一はよっぽどぴかぁにひどいことされたんだな。
812 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/21(火) 23:05:29
「24」を見たあとでは、「アンフェア」はたるくて見てられませんね。
最終話でも見たわけですが(笑)
今期はなんといっても「時効警察」ですか。
813 :
純一:2006/03/21(火) 23:20:15
呼んだ?
814 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/03/22(水) 01:24:13
>>789 ああ、やっぱり難しいですね。勘違いしていました。
「殺す」という概念は「死」という概念が内包されていて、それは「個の死」=
「自己の確立」であり、その背景としての「共同体」と、それを成り立たせる
「掟」が前提とされている。
だから「どうして人を殺してはいけないのですか?」 という問い自体が
自己矛盾を犯している問いなんですね。
この問いを発するということは、同時に質問者が共同体の「禁止」の概念を
(無意識に)前提にしている、ということだから。
問いに答えて「殺してもいい」つまり共同体の掟を廃棄すれば、私も消える。
それゆえ、「隠蔽」する必要がある。
問いはあたかも共同体の掟の起源を問うているようで、その掟の
外には決して出ることができない。起源に達した瞬間に問いが解体され
再び問いが発せられる。
カフカの「掟の門」が思い浮かびました(ちょっと違いますか?)
岩を破壊することと人間を破壊することを区別するのは人間でしかないのですね。
>「どうして人を殺してはいけないのですか?」 も否定神学の構造だと思うのです。
>だから「死」は言葉でしかないと、解体しえますが、また解体しえません。言葉によって、
>否定神学構造によって、僕たちは「人間」となり、「この私」となるわけですから。
思考の限界ですね。「個」を保ったままこの限界を突破することは論理上不可能で、
その先に広がるのは超越的な観念の世界ですね。
815 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/03/22(水) 01:44:09
「どうして人を殺してはいけないのですか?」と言う問答は、
大概「理由がなければ殺して良いのか?」と、「殺人の手前」での
議論に終始しているように見えます。
そして戦場での人殺しは、倫理の確立を前提として、上記の
問いとは独立して、「殺すな!」「いや、しょうがなかったのだ」と
やりとりされるのです。
ぴかぁ〜さんのエントリが興味深かったのは、「人殺し」を「善悪」という
価値論の可否ではなく、その存在基盤そのものの不可触性として整理
されていることと、
戦場で行われる人殺しと「どうして人を殺してはいけないのですか?」
という問いを上記の整理で一括して対応されていることで、
どちらも非常に新鮮に感じ、なるほどと思ったのです。
「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いは、答えが問題に
なるのではなく、そのような問いが答えられないものである、と言う点に
重要性があるのですね。
816 :
考える名無しさん:2006/03/22(水) 02:26:56
ある本で読んだが、女のほうが屁やウンチはくさいらしい。
汲み取りでは、とんでもないくさいにおいが辺りに漂うが、あれは大半が女が
体内から出した悪臭だ。
817 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 10:13:24
>>841 >カフカの「掟の門」が思い浮かびました(ちょっと違いますか?)
なるほど。面白いですね。
818 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 17:13:27
■なぜお笑いブームは「狂気」化するのか
世界は「狂気」であり、日常は「薄氷の上を歩く」
たとえば、電車の中でサラリーマンがすこし大きな声で仕事の話をしています。そんなことは
よくあることで特に気になりません。しかしよく見ると、そのサラリーマンには話し相手がいなかった。
独り言を会話しているようにしゃべり続けていたのです。このとき「狂気」を感じます。
たとえば、昼間、サラリーマンが街中で、大きな声で歌を歌っている。その場に緊張が走ります。
このサラリーマンが、「みんなビックリした?笑いのために、あえてやってみました〜!」と言った。
これでは誰も笑わない。さらなる「狂気」がおそいます。
この場合に僕たちがすることは、このサラリーマンがだれとコミュニケーションを成立させているか、
ということでしょう。たとえば同僚が少し離れたところで、はずかしがり、歌うサラリーマンをわらって
いる。それはなんらかの罰ゲームかもしれませんが、歌うサラリーマンはこの同僚に向けて歌って
いる。そこにコミュニケーションが成立していることを確認すると、僕たちはホッとします。
さらには、「実はテレビ番組の収録でした。みんなビックリした?笑いのためにあえてやぶって
みました〜」といいそこにTVカメラが出現すると、もっと緊張は緩和されます。そして「正常な地点」へ
回復することで笑いがおこります。
「狂気」の方が「一般的」であるということです。そもそも「他者」とはなにを考えて、なにかするか
わからない「狂気」の存在です。この「狂気の世界」で懸命に、「他者」ときちんとコミュニケーションが
できているように、装うことで社会はできています。それは、「薄氷の上を歩く」ようなものではないでしょうか。
819 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 17:15:10
笑いの強迫性
TVとは関係なく「歌うサラリーマン」は、普通は「狂気」ですが、とても「シュール」であるともいえない
でしょうか。「シュールな笑い」とは、緩和し回復されるはずの「正常な地点」でないが、それが
(新たな)正常点なんだという、この「狂気さ」を笑おうとする意志によるものです。このような
「滑稽さ」は「あり」だとそこに正常点が見出され、同意されるときに、それは緩和されるのです。
実は、この同意性はシュールだけでなく、笑い全般に言えることではないでしょうか。どこに正常点が
あるのか。それは誰にもわかりません。それはそのときにのみなの同意によって決められるのです。
だからTVのお笑いで笑い声が足されるのです。ここが同意された「正常点」であると教えるのです。
シュールな笑いは、その「正常点」を一般的に同意されているだろう地点とは、ズレたところ、まだ
狂気が残っているだろう新たな地点に、新たに見出し、笑ってしまいます。それによって同意の
「小さな内部」を形成されます。だから「シュールな笑い」はいつもマニアックであり、
「オレそれわかるわかる!」というわからない人を排他する快感とも言えるでしょう。
だから笑いはあたらに創造されてづける意味で解放的ですが、「内部」を強要すると言う意味で、
本質的に排他的です。たとえばアメリカのコメディを見ても、違和感があり、面白くありません。
なぜなら僕たちが「正常点」を同意する「内部」に属していないからです。そして「内部」に属して
いない事実で、排他的な不快感を感じます。そしてこの笑いの疎外が、人々に「笑わなければ」、
あるいは「笑いなさい」と強迫的にも働きます。
820 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 17:15:51
お笑いの浄化作用
現代、「同意」形成の場として作動しているのは、テレビメディアでしょう。テレビは大きな「同意の内部」
を形成して、社会の正常点を生みだしています。あるいは強迫してもいます。テレビタレントは往々に
して「変人」です。一般社会では「狂気」の人ですが、それがテレビに出て、「同意」されるとその「狂気」
は「笑うもの」として同意されます。
たとえば素人参加番組でも、テレビにでると人々はよく日常隠していたことを暴露します。日常の狂気、
罪をみなに同意されることで、あるいは笑われることで、正常点として、浄化されるのです。これは
テレビだけでなく、悩みを友達に相談することでも行われる「同意」の効果です。
821 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 17:16:56
狂気化するお笑いブーム
このような同意の「内部」は生き物であり、絶えず変化し続けています。それによって、人々は
最近の「空気(ノリ)」に同意するのです。そしてその正常点はたえず変化します。
最近のお笑いブームでは特に流行り廃りが早いですね。「なんでだろ〜」、「ゲッツ」、
「〜切り、残念」、、「ヒロシです。」「フォ〜!!!」と見事に切り替わっています。これは「狂気の消費」
といえるかもしれません。ブームとは新たな新鮮な「狂気」が同意されていくという消費過程です。
そしてそれが同意尽くされる、そこに「狂気」性が失われると、飽きられるのです。
HG当たりから、最近特に受ける笑いがヒステリックになっているようにも感じます。猫ひろし、
小梅太夫など、人々が刺激を求めて、より「狂気」へ、あるいはより「病的」へ向かっています。
これはボクが「無垢への欲望」と呼ぶものの一形態と考えられます。
822 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 18:15:11
たとえば真っ白いものの狂気というものはないだろうか
真っ白いものの非日常性。
たとえば買ったばかりの新品、サラっびんの狂気
823 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 23:08:20
「他者」とはなにを考えて、なにかするかわからない「狂気」の存在です。「狂気」の方が「一般的」である
ということです。この「狂気の世界」で懸命に、「他者」ときちんとコミュニケーションができているように、
装うことで社会はできています。それは、「薄氷の上を歩く」ようなものではないでしょうか。
シュールな笑いは、その「正常点」を一般的に同意されているだろう地点とは、ズレたところ、まだ狂気が
残っているだろう新たな地点に、新たに見出し、(無理矢理に)笑ってしまいます。「シュールな笑い」は
いつもマニアックであり、「オレそれわかるわかる!」というわからない人を排他する快感とも言える
でしょう。笑そしてこの笑いの疎外が、人々に「笑わなければ」、あるいは「笑いなさい」と強迫的にも
働きます。
解放し、閉鎖し、開き閉じ、同意の「内部」は生き物であり、絶えず変化し続けています。それによって、
人々は最近の「空気(ノリ)」に同意するのです。そしてその正常点はたえず変化します。「同意尽くされる、そこに「狂気」性が失われると、飽きられるのです。人々が刺激を求めて、より「狂気」へ、あるいはより
「病的」へ向かっています。
824 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/22(水) 23:14:00
この消費は笑いだけでなく社会の流行り廃りなどの一般的な運動ですね。しかし笑いというのは
その中でもすごくセンシティブものではないでしょうか。人間という動物のコミュニケーションを端的に
表している。生死にかかわるとまでいってもいいかもしれません。すなわちみなが笑うところで笑えない
と生きてはいけない、ということです。だからただの流行り廃りたけとは異なる差し迫ったものがある。
笑いの正常点は簡単に変化しない。だからシュールはシュールでありつづける。これは正常と狂気
とは別にシュールという文化=正常点ができていることでもあります。シュールは狙え、一部マニア
に受ける。しかしその裾野は広がっています。
社会、正常がありとしてそれを破る方法は反社会、非社会があります。たとえば泥棒をすることは正しく
ない、反社会です。しかし泥棒は安心です。泥棒はなにものか、社会的にわかりからです。お金が
ほしくて盗むなど、不良も社会に不満なものです。しかし非社会は意味がわかりません。町中で
いきなり歌いだす。ぽかーんとして、不気味で狂気です。シュールはこの非社会性、意味の宙吊りに
あります。
たとえば真っ白いものの狂気というものはないだろうか。真っ白いものの非日常性。たとえば買った
ばかりの新品、サラっびんの狂気。
女子高生は狂気である。幼児は狂気である。薄氷を破る狂気である。そして弱く安全な狂気である。
だからボクたちは欲望する。薄氷をあるく強度にたえられない。しかしほんとの狂気にはたえられない。
だから安全な狂気を求める。2ちゃねらーは罵倒する。そして薄氷をやぶる。しかし匿名という安全
であるかぎりでだ。
いいから吉本のお笑いスクールにかよえ
826 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/23(木) 12:51:40
漫才ブームいらいひねりひねりできましたが、刺激系にきているということでしょうか
827 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/23(木) 13:01:56
アンガールズの笑いのポイントは異様な親密感にあります。予期の予期で場を正常に保つ密着さの過剰なおかしさですね。
たとえば女子中高生やカッブルなどのべたべた感。機嫌は子と親です。
828 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 13:05:43
750 名前:考える名無しさん :2006/03/15(水) 22:55:58
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
830 :
考える名無しさん:2006/03/23(木) 17:42:18
かなりバカ
19:ぴかぁ〜◆q5y3ccmqnw :2006/03/19(日) 00:33:56
映画は制作費がかかるからどうしても大衆迎合にならざる
おえないからね。
シュールな笑いは、他に比べて文脈が共有されていないことが暴露されやすいだけなんじゃないかな
832 :
純一:2006/03/24(金) 09:04:54
ぴかぁ〜大好きチュッ!
よかったな、ぴかぁ〜
834 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 11:37:22
きもい
835 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 11:51:18
まともな分も綴れないやつが、哲学などと称して小難しい言い回しをしているのは笑止千万。
自衛隊にでもいってこい。
びかぁ〜 とやら。
↑まともな分プププ
837 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 11:58:33
必死か
838 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 12:22:52
友近で抜いてしまった。
必死すぎるな、俺。
出たあとすげーイヤな気分だよ・・・。
839 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 12:27:30
24 第四シーズンまで見ました。
1と4が良いですね。2と3はバウワーが超人かしすぎます。
あたりまえなんですが、よくもまー24時間内で次から次へと問題がおこるもんあですな
おもしろいのはヒーローの在り方ですね。使命至上であり、組織重視は意外です。
いままでのアメリカンヒーローならもっと個人主義的です。あれが本来のアメリカでしょうか
840 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 12:48:09
じゃ行って確かめてこい。
841 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 12:51:40
個人主義と組織重視?は矛盾しない。
お前ヤパーリ真性厨だな。
842 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 13:43:25
必死
843 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 13:58:51
↑回転寿司で席につくなりインターホンで注文するおっさん。
ちょっとは流れてくる寿司を見る余裕持てよ。
こーゆーおっさんて肉体労働者風の頭悪そうなんがほとんど。
ごばくか?
845 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 15:10:52
★まらざしの快楽(ジャングル化する会陰)PART14★
に変わりました。
846 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 16:23:08
で?
847 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 20:26:12
私も入れてほしくて我慢できないときあります。じらされると嫌だ…
挿入自体気持ち良くて大好き。
逆にクリとか乳首をぐりぐりいじられるのはほんとに嫌い。どっちも優しく舐められるのが好き。
ぐりぐり触られて『気持ちい?』って聞かれても…全っ然だわ。
で?
いやいや、おもしろいよ。
850 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:36:04
■「自由に享楽させろ」 享楽自由主義の時代
@「社会的」欲望と「脱社会的」享楽
強烈な生物学的快感は享楽として、社会的に禁止(去勢)されている。しかしバーチャル技術はそれを
可能にしつつある。享楽に溺れるものは社会活動に支障をきたすだろう。そして享楽の場は広がって
いる。ゲーム、容易なセックス、ネットコミュニケーションなとなど。
それは言語が溶解する地点である。欲望はその前で踏みとどまらせるための社会(言語)的機能であ
る。欲望は構造化されたイメージ、すなわち社会(言語)に許容される対象を欲望するが、享楽にはイ
メージはない。ただ身体的、生物学的、社会(言語)外にある快感である。
SMは社会的であり、「(社会的な)反社会的」イメージの欲望である。社会的に高い地位の人にSM指向
が強いと言われるのは、社会性に対する反社会がその快感の原動力になっているからだ。しかしドラッ
グそのもの快楽にはイメージはない。ドラッグへ向かうとき、はじめは「(社会的な)反社会的」イメージ
への欲望があるが、ドラックの快楽は欲望を越えていく。それは外部への、「脱社会的」快楽である。ド
ラッグの快楽は、社会的な立場に関係がなく作用するのだ。これをぼくは「あぼーんする快楽」と呼ぶ。
851 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:36:46
Aフロー体験が享楽の入口を開く
最近のコンピュータ技術はまた享楽への入口を開く。最近、「フロー体験」ということばがある。*1ゲー
ムのような障害に熱中するときの快楽体験である。コンピュータ技術がフロー体験を生みやすいのは
フードバックの速度向上を用意にするからだ。
トライ&エラーは一つのコミュニケーションである。たとえばおしゃべりの楽しさもその一つである。コン
ピュータ、あるいはネットコミュニケーションは発信に対する応答の早さによる反復継続の容易さがフ
ロー体験を生む。ゲームにしろ、ネットコミュニケーションにしろ、言語世界の理解、コンテクストにより
楽しめるが、それがフロー体験化したとき、享楽の入口が開く。
子供でさえコンピュータを触ることを喜ぶが、ここにフロイトの「糸巻き遊び」をみることもできるだろう。
投げ、引き寄せる。フォー・ダーこれはコントロールする/される快楽であり、「快感原則の彼岸」、すな
わち享楽の原初的入口である。そして「糸巻き遊び」、ゲーム、ネットコミュニケーション、ここにあるの
は享楽(外部)への入口である。
852 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:38:08
B「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ
デカルトの「コギト」とは乖離、心身の引き裂かれの叫びである。問題は「疑う私」という身体から乖離し
た心にあるのでく、科学の発達により引き剥がされる身体側にある。人間という神に名指された特別性
は科学により「物体」へと解体してみると、「動物」であり、「機械」であった。この恐怖を前に叫んだのが
「コギト」だ。もはや「疑う私」があると宣言するしか、人間を救うことができない。ああ、神よ。デカルトの
叫びである。
しかし「方法序説」に書かれる身体の解体のリアリティを読むと、デカルトの恐怖の
叫びは、また享楽への叫びであったのではないだろうか。デカルトの本当に言いたかったことは、「人
間は機械だ」ということではないだろうか。「我思う故に我あり」とは、人類が「機械論の欲望」を見出し
た瞬間であったのだ。「我思う故に我あり」、故に「我」を征服(機械化)せよ。
そしてデカルトの末裔たちは、身体を徹底的に引き剥がしに必死である。「コギト」を消去することに躍
起なのだ。それが科学の秘密である。「科学は客観的世界である」というときに、隠されているのが、
「なぜ人びとは科学へ没入するか。」ということだ。それは、テクノロジーが享楽への入口を開く有効な
手段であるためであり、それは「機械論の欲望」である。
853 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 22:38:24
>>843 最近はインターホンなんかが寿司屋にあるのかい?
854 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:40:30
C「コギト」という裂け目
デカルト末裔の繰り返しの努力、回帰し続ける「機械論の欲望」に抗して、「コギト」は溶解しないのか。
なぜならデカルトが「動物」と呼び、「機械」と呼んだものはデカルトが考えるような「物体」でなく「言葉」
であったためだ。
科学という「世界」は言葉でしかなく、そもそも存在しない。だから「コギト」もそもそも存在しない。そもそ
も存在しない世界の内部に、科学、世界とコギトの物語がある。そしてこの内部で「コギト」は内部の不
完全点、「ゲーテル的消失点」としてある。デカルトの考えとは異なり、「コギト」は疑える。しかしデカル
トが見つけた「コギト」は溶解しない。なぜならこの「世界」の裂け目であるからだ。
855 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:42:31
D「我」は行為、体験の極限で溶解する。
たとえば、デカルト末裔のマイケル・ポランニーは「暗黙知の次元」で、「行為」について語っている。
>>
ある人間による身体の巧みな動作は、別な人間が認識できるリアルな存在である。しかもそれは、ただそれ
を包括することによってのみ認識できるリアルな存在なのである。また、このリアルな存在を包括する行為は、
その行為の対象たる「動作」と類似の構造をもっている、と。P62
他のすべての暗黙知の事例において、包括する行為の構造と、その行為の対象たる包括的存在の構
造は、一致する。P63
<<
言語コミュニケーションは認識論であり不確実であるが、そこにある「動作(行為)」は存在論的な次元
を開き、リアルである。たとえば、相手の「動作(行為)」を見て認識するのではなく、技の伝承のように、
体と体のコミュニケーションによって、認識を越えた身体的に「同期」する。そこに主体と客体と要素とし
た高次の統合(創発)が生まれる、というようなことだ。行為、体験の極限で「我」は溶解する。
すなわち科学は言語であり、「我」を溶解しない。むしろ「機械論の欲望」はどこまでも「我」という裂け目
を開き続けるが、科学的テクノロジーの「体験」が享楽の入口を開くのだ。
856 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:43:23
E享楽の時代
たとえばパーソナルコンピュータはそもそも必要とされなかったものと言われる。それはケータイなど
ネットコミュニケーションもしかりだ。これらは過剰なものである。現代は、ゲーム、容易なセックス、ネッ
トコミュニケーションなどの享楽の拡大によって、内部(社会)が拘束的に感じ、「脱社会化」を目指す傾
向である。
ポランニー的な「暗黙知」の創発性において、技の伝承のような場において、「我」は溶解し、他者への
「同期」としての享楽が入り口を開く。しかしテクノロジーの「フロー体験」は、機械と「我」という閉じた関
係の中で、享楽の入口を開けることを可能にしてしまう。
しかしここにはまだ「行為」の反復が介在している。さらには、テクノロジーは「行為」の反復さえ必要と
しない、ドラッグのような直接、器質へ介入する方法、たとえばサイボーグ化、遺伝子改良など、目指さ
れている。というような「享楽の時代」へ向かっている。
857 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:44:00
F「自由に享楽させろ」
ボクは、このような意味で、最近のネオリベラル(ネオコン)の潮流の下層にはインターネットの増殖と
いう要因があるといい、これを「ネットの欲望」と読んだ。*2「ネットの欲望」とは、デカルトの「コギト」以
来、回帰し続ける「機械論の欲望」の新バージョンである。
最近のネオリベラル傾向、自己責任論、構造改革、「小さな政府」は、反社会的な自由を求めるという
よりも、社会の「脱社会化」傾向から来ている。すなわちそこにイデオロギーなどない。このようなネオリ
ベラル傾向、自由競争社会は当然、格差を生むが、「脱社会的」な享楽の次元には、下流になろうが関
係がない。そこにあるのは、「自由に享楽させろ」ということだ。
享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による「我」の溶解である。当然そこでは社
会、勝ち負け、あるいは生死さえ溶解される。下流であろうが、社会的な拘束から解放され、「自由に享
楽したい」、ということである。そして「サイボーグの欲望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、「ネットの欲
望」のあとも、「機械論の欲望」は回帰し続けるだろう。
858 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:45:46
G二重構造
ネオリベラルの下層構造に「ネットの欲望」があり、「脱社会的」な享楽を容認する。権力は享楽を管理
するからだ。それが生権力であり、環境管理権力である。東浩紀は、環境管理権力を対応させた二元
論、「解離的近代の二層構造」を示している。
>>
ポストモダンの二重構造(東浩紀)
主体(内面)の自由(コミュニティの層)・・・複数のコミュニティ(相互無関連化・島宇宙化)
多様な価値観の共存、コミュニタリアン、多文化主義、
規律訓練型権力の作動域、市場の論理が支配
身体の管理(アーキテクチャの層)・・・単一のアーキテクチャ(都市・交通、市場、コード)
価値観中立なインフラ、リバタリアン、メタユートピア、
環境管理権力の作動域、セキュリティの論理が支配
もしかしたら「まつりごと」としての政治は残るのかもしれない。そして僕たちは相変わらず、政治家のス
キャンダルや派閥争いを注視しているのかもしれない。しかしそれは、mixiで友人の日記を読み、ワイ
ドショーで有名人のうわさ話に耳をそばだて、サッカーでナショナルチームの勝敗に一喜一憂するのと
あまり変わらないレベルの現象になるだろう。というより、僕たちはそのような脱政治的な社会を目指す
べきだ。社会秩序の運営をひとつの閉鎖的なコミュニティに全面的に委託してしまう(間接民主制という
のはそういうものだ)のは、単純に危険だからである。これは二層構造論の積極的帰結のひとつであ
る。
解離的近代の二層構造論東浩紀
ttp://www.hirokiazuma.com/archives/000194.html <<
859 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:47:43
ボクは、デカルトの心身二元論的構造を「内部と外部」と呼ぶ。享楽は内部から外部へ断絶を乗り越え
る試みである。東によると、もはや内部(主体(内面)の自由)は曖昧なシミュラークルである。だから内
部の一部による管理も、多数のコミュニティの闘争も意味がない。外部(身体の管理)の単一なアーキ
テクチャを管理すること、環境管理権力を目指す、ということだ。この単一性は、いままでのように単一
のイデオロギー、コミュニティではない。それは外部であり、主体性、社会性もない「脱政治的な社会」、
グーグル的表現をすれば「人間を介さない」社会である。
ボクがこのような「単一性への還元」をなんとと呼ぶかおわかりだろう。「機械論の欲望」である。人々は
自由に享楽し、権力は生として管理するというユートピアである。
860 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 22:48:09
当たり前のことを難解な言い回しを労してこねくりまわしているだけだな。
内容空疎。
お前の欲望に基づくオナニーってこった。
861 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 22:48:17
Hうつろう「社会(反社会)的」主体と生成する「脱社会的」享楽
物語はそう簡単におわらないだろう。享楽の次元は完全にコントロールする/されること、快楽による
「我」の溶解であるが、これは単にドラック中毒のような快楽に溺れる廃人ではない。仮に享楽によって
「我」が溶解しても、「生の力」であり、生成が残る。
たとえば、2ちゃんねるの祭りとは一つの「享楽」の形態だろう。ポランニー的に、言語による認識論か
ら「動作(行為)」の存在論的な次元の開示であり、遠隔でありながら、興奮として身体間のコミュニケー
ションからの「創発性」が生まれている。このウィルス群を環境管理権力によって単一性へ還元すること
はできるだろうか。
享楽に近接しても、そう簡単には、「我」の消失しないだろう。「ネットの欲望」のあとも「サイボーグの欲
望」、「遺伝子改善の欲望」などなど、「機械論の欲望」は回帰し続ける。享楽の時代とは、うつろう「我」
と動的な「生成」が共存する。「社会的」な主体が、2ちゃんねるで「反社会的」な発言をし、そして「脱社
会的」に祭りの享楽に興じるといような、より複雑で、管理が厄介な時代である。
ぴかぁ〜さんは仕事してるんですか?学生ですか?
863 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 23:08:17
>>847 かなり激しく同意!!
男の人は自分が力強いことを考えずに
クリトリスをいじってくる、痛いっつーの!
それを指摘して力弱められても全然気持ち良くないんだよね…
はじめは自分が変なのかな?って思ったけど
男がうまくないことの方が大きいと気づいた
864 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 23:13:57
口論でわざわざ難しい言葉を使ったり演説口調になって
理論派を気取ろうとする奴。大半が論破する以前に呆れられて終わる
技術の時間にここぞとばかりにパソコン知識をひけらかそうとするパソオタ
ほとんど誰も見てない
力弱めてもだめだったのか。
866 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 23:35:08
でもセックスでじらさられるのは嫌だな。
だんだんと醒めてくるというか…するならやめないで
逝かしてほしい。
やはり女の場合は男よりも数倍気持ち良いのだろうか
868 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/24(金) 23:44:38
画像内容識別技術の難しさを考えてみると、
たとえば、求める画像があると、映し出される画像を
次々と判断することができる。
これをコンピューターでやることを考えるときに、
なにを元に判断してるのだろう。
750 名前:考える名無しさん :2006/03/15(水) 22:55:58
43 :ぴかぁ〜 :03/02/17 23:18
ソフィア、マンコ舐めさせて。
70 :ぴかぁ〜 :03/02/18 00:36
ソフィアのおっぱい飲みたいからいったんわしの子をはらんで
乳だけ出したら堕胎しろ!わかったか!
370 名前:Sophia ◆8ADoZCl6.k 投稿日:03/04/07 02:45
ぴかぁ〜はもう病院行ったほうがいいよ。。。
あともう少し自分の考えを論理的に見つめ直した方がいいよ。
悲しいスレだなw
871 :
考える名無しさん:2006/03/24(金) 23:50:39
ほんとにね
ほんとw
ぴかぁ〜の独白が空しく響くスレだな。
874 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/25(土) 00:00:32
たとえばりんごの画像を選ぶとすると、「りんご」の姿は
無数にある。ひとつのリンゴから、リンゴの山から、
木になるリンゴから。僕たちはそれを意とも簡単に認識する。
しかしコンピュータはいかように「リンゴ」の画像を
判断することができるだろうか。
それまさに「リンゴ」というシニフィアンの「意味」と
いえるかもしれない。
そこまでぴかぁ〜にこだわるのはなぜ?
やっぱりこだわりがあるんでつね?
がんばれw
878 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:09:11
がんばれよ
879 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:13:10
880 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:15:40
クリトリスをそんなに激しく弄られても全く気持ちよくないこと。
もっと優しく触ってくれた方が気持ちいいのに。
女だからって続けて何回もイけるわけではないということ。
痛いんだよふざけんな。
いれて欲しくて我慢できないなんてことになるなんて、ありえないこと。
さっさと終わりにしたいから、お願いいれてって言ってるだけなのに。
上手な人とやれば違うんだろうか。
>いれて欲しくて我慢できないなんてことになるなんて、ありえないこと。
>さっさと終わりにしたいから、お願いいれてって言ってるだけなのに。
マジでつか…。
882 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:26:25
たぶん、相手が下手か合ってないんじゃない?
>いれて欲しくて我慢できないなんてことになるなんて、ありえないこと。
これ、私はあるけどなぁ。普通に。
883 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:27:16
体の相性ってやっぱあるんだね。
たしかにいまこの板で読める文章が書けるのはぴかぁぐらいだからなw
885 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:34:40
読めるのか?
純一の文章はどこかで読めるのか?w
887 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:41:24
ブログで読めるんじゃない?
888 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/25(土) 00:46:48
障害に直面したときに、対応は内部と外部がある。
外部は環境を変えるということである。
内面は自分を変えるということです。
外部をコントロールするためには、
外部を内部へ取り込むというメタ視線が求められる。
その困難さから、内部へ没入する。
特に子供は環境の悪さを外部を俯瞰する視線を持たない故に、
内部の変化へ向かう。親が離婚するのは、ボクが悪からだと考える。
それは外部から見ると、過剰な思いだが、抑圧を内部へしか解消できない。
多くにおいて人が大きな障害にあたると、この子供のような
思考へ向かう。外部へ向かうことができないからだ。
そもそも自己は不完全なものでしかないという後ろめたさがあるためだ。
889 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:48:06
15 名前:考える名無しさん :03/07/12 21:14
ぴかぁ〜さんは、自費出版とか考えないんですか。
そんであちこちの哲学科に送りまくるとか。
17 名前:ぴかぁ〜(^O^) ◆lk7eU.5KwI :03/07/12 21:18
>>15 君に一任します。
一儲けして、遊んで暮らしましょう。
890 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:49:25
これのどこが読めるんだ?
ジエンか、乙だな。
ぴかぁ〜は明らかに名無しで自演しているね
純一スレ立ててくれ。ここでは話しにくいわw
893 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:56:29
さっき、女友達とその連れの男2人が部屋から帰ったんだけど・・。
洗濯籠の中見て、ビックリ!? ブラとショーツに精液が・・。
お気に入りのブラで、黒地にゴールドの刺繍が入ったEカップブラのカップの部分
に、まだ出して間もない白い液がベッタリと・・。同じ柄のTバックのショーツに
も所々染みが付いていて、アソコの部分にもしっかりとかけられてた・・。
たぶん、由香とコンビニに買い物に出掛けた20〜30分の間にやられたみたい!
他に部屋の中、物色された跡ないけど・・。でも、このブラとショーツ、取り敢え
ず捨てた方がいいよね・・?
894 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 00:58:25
何のスレ?
そして何の話をするんだね?
雑談w
897 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:04:20
誇大妄想狂のスレだろ
ストーカー被害とかでも、
まず届け出さないことには動きにくいし。
899 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:07:30
じゃあ、このスレで十分だわなw
900 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:08:51
ここがまさに誇大妄想狂のスレじゃん。
901 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/25(土) 01:17:59
■薄氷のコミュニケーション
障害に直面したときに、対応は内部と外部がある。外部は環境を変えるということである。内面は自分
を変えるということです。外部をコントロールするためには、外部を内部へ取り込むというメタ視線が求
められる。その困難さから、内部へ没入する。特に子供は環境の悪さを外部を俯瞰する視線を持たな
い故に、内部の変化へ向かう。親が離婚するのは、ボクが悪からだと考える。それは外部から見ると、
過剰な思いだが、抑圧を内部へしか解消できない。多くにおいて人が大きな障害にあたると、この子供のような
思考へ向かう。外部へ向かうことができないからだ。そもそも自己は不完全なものでしかない
という後ろめたさがあるためだ。
「他者」とはなにを考えて、なにかするかわからない「狂気」の存在であり、この「狂気の世界」で懸命
に、「他者」ときちんとコミュニケーションができているように、装うことで「外部」はできている。それは、
「薄氷の上を歩く」ようなものである。これが、外部を内部へ取り込むというメタ視線である。
画像内容識別技術の難しさを考えてみると、たとえば、求める画像があると、映し出される画像を次々
と判断することができる。これをコンピューターでやることを考えるときに、なにを元に判断してるのだろ
う。たとえばりんごの画像を選ぶとすると、「りんご」の姿は無数にある。ひとつのリンゴから、リンゴの
山から、木になるリンゴから。僕たちはそれを意とも簡単に認識する。しかしコンピュータはいかように
「リンゴ」の画像を判断することができるだろうか。それまさに「リンゴ」というシニフィアンの「意味」とい
えるかもしれない。この「意味」とは、また「薄氷の上を歩く」ような外部を内部へ取り込むというメタ視線
による。
902 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/25(土) 01:18:51
笑いも含めた「薄氷の」コミュニケーションの成立は、同意された内部への帰属によって行われる。こ
の内部(正常点)は、あたらに創造されてづけるという意味で解放的だがが、「内部」を強要すると言う
意味で、排他的です。内部は、新たな新鮮な「狂気」が同意されていくという「狂気の消費」過程によっ
て、生き物のように絶えず変化し続けている。
たとえば真っ白いものの狂気というものはないだろうか。真っ白いものの非日常性。たとえば買ったば
かりの新品、サラっびんの狂気。女子高生は狂気である。幼児は狂気である。薄氷を破る狂気である。
そして弱く安全な狂気である。だからボクたちは欲望する。薄氷をあるく強度にたえられない。しかしほ
んとの狂気にはたえられない。だから安全な狂気を求める。2ちゃねらーは罵倒する。そして薄氷をや
ぶる。しかし匿名という安全であるかぎりでだ。
903 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:19:38
誇大妄想が発狂したw
【ぴかぁと純一】まなざしの快楽15【二人だけの世界】
905 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:21:51
いいスレタイじゃんw
【天才ぴかぁ】まなざしの快楽15【弟子純一】
907 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:26:37
いいスレタイじゃんw
【出版間近ぴかぁ】まなざしの快楽15【入院間近純一】
909 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:31:38
いいスレタイじゃんw
純一ごめんw
911 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:34:17
【ぴかぁ〜】まなざしの快楽15【遂に発狂】
純一のブログなんかあるのか?あいつに文章が書けると思えないが
913 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:36:13
podcastもあるよ、と。
914 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:36:50
【三十路の】まなざしの快楽15【ニート】
【純一】まなざしの快楽15【才能ゼロ】
916 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:39:20
【三十路を】まなざしの快楽15【超越する】
【純一】まなざしの快楽15【死ぬな】
918 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:41:19
【誤読も】まなざしの快楽15【差延へ】
純一のpodcastワラタ
920 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:44:48
興味があったら聞いてみて
どこ?
podcastの前にブログ書けw
923 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:50:44
ブログも書いてるっちゅうに
ぴかぁ〜とどっちが人気がある?w
925 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:54:05
尻にも万個サイドにも毛が無い。
恥骨んとこにはあるけど直毛。
モジャモジャしてみたい。
926 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:54:34
「ピエール・リヴィエールの犯罪」
927 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:55:23
928 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:56:05
アドレス教えて!
930 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:58:37
荒らされるからやだ
931 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:59:20
全体的に体毛薄いのに、なぜかケツ毛がはえてる。
マン毛もワレメが見えそうなくらい薄くて、ケツ毛に至っては大根のヒゲ根のようで密度がない。
中途半端で、逆にヘコむ。(´・ω・`)
932 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:59:32
タイトル晒したから各自で探せや
934 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:01:16
剃っちゃった方が良いかもね
935 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:03:56
936 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:06:23
勇気をだして尻毛を剃ってみますた。
なんか、尻は見えない場所だから手探りで剃った。
そうしたら結構立派な毛がw 毛がww 毛がwww 毛がwwww 毛がwwwww
無事、UnkoMamire(略してUM)にならなくなったよ。
一回剃るとやみつきになるね。
937 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:06:40
陰毛のカツラも存在するらしいね
純一を信じるなw
939 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:07:50
見えないところって剃りにくいな。
また知らないうちに生えてくるんだろうが。
940 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:08:40
純一って長州小力に似てる奴だよね?
941 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:12:21
じゃキレることはないな。
942 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:12:52
違う、ルックスが
純一ブログのヒントください
944 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:13:52
945 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:14:24
見つけても直リンはやめてくれ
ブログ書く能力があれば荒らしなどしていないわな。
947 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:20:01
948 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:20:17
949 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:21:00
ブログなんて、誰でも書けるって今の時代。
950 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:23:15
どこだ?
951 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:26:05
>「ピエール・リヴィエールの犯罪」
ググったけどないよ。
953 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:30:25
これ、両面テープでくっつけるのか…。
しかも3万円とは高いな。
954 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:31:24
原文で打ってるからかな
955 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:32:03
尻毛も超がつくとどうもね…
paiste.cocolog-nifty.com
956 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:36:37
957 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:45:16
958 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:46:10
これが噂のssか…。
959 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:47:52
s.sってことは、読み方もスーパーシリゲなんだな
960 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/03/25(土) 14:53:31
野球世界一になったわけですが、野球人気がもどるかは怪しいですね。
テレビでいっぱい流れたわけですが、結局野球解説者の親父が喜んでまた長島から王の歴史を流すわけですね。
正直、選手は一郎以外しないし、先にオービーがでかい顔してしゃべるから
選手も視聴者もさめるわけです。もはやお荷物です。
961 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 14:57:53
結局お前は本質に迫る気迫も知性もない。
一生自慰に耽っていなさい。
962 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 15:04:52
>>960のような話題になるとやけに文体が稚拙になるな、こいつ。
963 :
考える名無しさん:2006/03/25(土) 18:41:05
ほんとにね
おや、使い切らないのかね
【2ちゃん名物、貧乏ニートの特徴】
・面倒なことから逃げ回ってきたので経験値が非常に少なく人間総合レベルが低い。
・なので、ダメな自分を言い繕うことが習い性になっており、言い訳力ばかりが高い。
・狭い視野と世界で生きているので、知識自慢をしたり、すぐに対立を煽る。
・一般人を知的ではないと見下している割には、自分は他人の与える答えを憶えやすい。
・恐ろしくカラーがなく無視されてきたので、カラーのある人間を攻撃対象に選ぶ。
・自分が無能で退屈であるとばれないように、発言しないで誰かの意見をそのまま言う。
・答えを憶える勉強ばかりしてきた為IQが低く、自分で考えたり判断することができない。
・自分より優れたひとや、自分の足らないところを補う人と付き合えず、とんでもなく孤独。
・もはや自分が自力で今より幸福になることはないので、他人の不幸をクローズアップして忘却。
・人と目を合わせて話すことができず、ひとに聞こえるように話すこともできず、促すと怒る。
・断片的知識ばかりで、体験を通じた知恵や情感が無い。