★まなざしの快楽(他者からの呼び声)PART13★
1 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :
最近の脳科学の研究で、他人の運動を観察したとき、あたかも自分で同様の運動を行っている
ように活動するミラーニューロンが発見された。また人はアイコンタクトによって他者に自分が
認識されたときに脳内でドーパミンが分泌されて快感を感じることがわかった。これらは、ボク達に
とって、いかに他者が特別であるか示している。
しかしこれは、実際に他者に見られる/見ることを確認したときにだけのことではないだろう。
おしゃれをして街にでることの楽しさは、他者へ同期し続けることであり、実際にどれだけの人が
彼女をみるかではなく、「今日はいけているからみんなにみられるだろう」という快楽である。
他者への同期(「他者からの呼び声」)そのものが「私」という欠如を立ち上げ、「まなざしの快楽」
いよる他者からの承認で、その欠如を埋め続けようとしているのだ。
PART12
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1134659823/l50 過去ログ
http://ime.nu/d.hatena.ne.jp/pikarrr/
氏ね
3 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 21:40:30
他者同期性の弱さによって、言語を立ち上げないといけないが、
言語は不完全なコミュニケーションであり、そのフラストレーションが
欲望、暴走となって現れる。
ネットコミュニケーションは、その抑圧されたフラストレーションを
解放する。コミュニケーションとしては「より分かり合えない」が、
どんどん発散することを可能にしている。
僕たちはネット以前よりも、ずっとずっと「おしゃべり」になっている。
ネット上の文章は会話以前の病跡
5 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 22:06:15
コミュニケーションとは、他者との同期性に目的があるために、
文章の意味の伝達事態が大切なわけではない。
「ボクの目をみればわかるでしょう。」
確かに狂ってる
7 :
考える名無しさん:2006/01/21(土) 22:24:17
自己の脳から他者の脳へと言語を介さずにダイレクト繋がる。
つまり、自己の神経から発せられた電気信号を
他者の脳が解読するのです。
8 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 22:44:47
自己−「間」−他者
ボクはこれを「間」を呼びましたが、これには
@信号伝達、A言語伝達に分かれます。
そして@の場合には、それを読み解くところに遺伝子情報がある。
たとえば人間の「身体」は高度なコミュニケーションシステムですね。
細胞間、臓器間などは、@によってコミュニケーションを行っています。
しかし人間間ではこの「完全な」コミュニケーションは失われ、
A言語(意味)によって行われます。そして言語コミュニケーションは
不完全です。たとえば自己言及の不完全性という言語で埋まらない「間」に
私という「心」が生まれている、とも言われます。
9 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/21(土) 22:52:46
ここでなぜ身体は1個体なんだろう、という疑問が生まれます。
たとえば細胞たちが人間という「集団」をつくっていると
考えてもおかしくない。蟻塚のようなものだね。
たとえば、人間という集団の中では、瞬間瞬間(細胞たちの)生死が
繰り返されている。
過剰に意味を見出してるお前の心が2chにへばりつかせるんだな
11 :
考える名無しさん:2006/01/22(日) 03:05:24
ぴかぁ見てるぶんにはおもろいわ
12 :
まずる:2006/01/22(日) 03:46:42
なんか、エイテンとエイシックスについて知ってもらいたいかも。
エイテンは俗で快楽神経つ呼ばれ、その抑制機能をエイシックスが抑制する。
13 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 04:34:13
■ラカンの欲望論
まず鏡像段階、転移、ナルシズムなど他者からの自己像の獲得(想像的同一化)というものがある。
しかし過剰な自己像の獲得は、他者との闘争を生む。このために象徴界の介入(去勢)が起こって
いる。無意識として取り決めを取り込む。ここで過剰な同一性(享楽)は抑圧される。取り決めによって、
自己像の提供が行われる。(象徴的同一化)あなたは〜家の息子であり、〜学校の何年生である
など。しかし取り決めは完全ではない。それをつくろうようにそこに本当の自分があるように幻想の
対象aが提供される。人はそれを欲望するが、対象はつぎつぎへと横滑りするだけである。
14 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 04:35:54
■ぴかぁ〜の欲望論(他者からの呼び声→まなざしの快楽→無垢(汚物)への欲望)
人間は個体の自律性(個体性)が向上したために、集団性が欠如した動物である。集団行動をする
ことができない。しかし他者は特別な存在であり、他者同期性という欲動(他者からの呼び声)によって
引きつけられる。いかに完全な集団性を確立するかが問題となる。
この個体間の「間」を埋めるものが言語による意味の伝達である。動物では、情報→解釈(遺伝子)→
命令によって統制がとれるが、言語では、情報→解釈(大文字の他者)→命令において、いかに解釈を
させるかという問題がおこる。それが大文字の他者という取り決め(社会性)の獲得である。社会に
参入することで、集団性は社会性で補完される。
しかし大文字の他者は大きく欠けているための、たえず補完しつづける必要がある。ここで転倒が
起こっている。大文字の他者の欠如を補完しするとは、完全な意味体系をもめる事であり、自己言及の
穴を埋めること、私とはなに?という単独性と手に入れることである。
そして単独性は、みんなが求めているだろうこと(「まなざしの快楽」)によって指し示された欲望の対象
(対象a)を手に入れることである。そしてそれは大文字の他者(社会)の欠乏だから、大文字の他者
(社会)の外にしかない。対象aが「無垢」性を帯び、また「汚物」であるのは、大文字の他者の外にある
という幻想だからである。
すなわちここには、完全な他者との繋がりが手に入る→大文字の他者の欠如(私の意味)を手に入れる→
他者と闘争する、というパラドクスがある。それは、想像界では転移、ナルシシズムであり、他者との
闘争であり、象徴界では去勢であり、抑圧であり、現実界では享楽であり、死への欲動である。
15 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 04:52:55
すなわちここには、完全な他者との繋がりが手に入る→大文字の他者(社会性)の獲得→大文字の
他者(社会性)の獲得の欠如(私の意味)の補完(欲望)→大文字の他者を越えた他者との近接
(差異化運動)
この大文字の他者を越えて他者への近接は、ラカンでは闘争的に描かれる。想像界では想像的な
闘争、転移、ナルシシズムであり、象徴界では去勢であり、抑圧であり、現実界では享楽であり、
死への欲動である。
しかしこれは必ずしも闘争的はなく、一つの相補的なシステムでとらえられるだろう。失われた集団性
を求めるための社会性を維持するシステムである。想像界を挟んだ、象徴界/(想像界)/現実界の
システムであり、たとえば社会への協調/利己的な自己実現の物語では、社会の維持と利己的な
開拓は相補的にシステムを支えているのである。
自分も前から居るけど………A10神経とか脳科学やセントラルドグマとか遺伝子分野のヒントあたえてもダメみたいよ。
理系分野苦手らしいから。
ラカンの解釈も独特だし。オリジナリティにあふれているのかも。他人の思いつかなかった考えはないし、知り得た知識を継ぎはきしてて面白い。
18 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 05:31:05
>>16 もしかして、本物倉人?なんかたいぶ良くなってきたな。
独り言傾向は残るが、それなりにコミュニケーションになってる。
19 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 05:32:00
まなざしの快楽の思考のまとめてきなものです。
■他者からの呼び声→まなざしの快楽→無垢(汚物)への欲望
@個体性、集団性、社会性
人間は個体の自律性(個体性)が向上したために、集団性が欠如した動物である。動物のように
「完全な」集団行動をすることができない。しかしそれでも他者は特別な存在であり、他者志向性と
いう欲動(他者からの呼び声)によって引きつけられる。いかに完全な集団性を獲得するかが問題と
なる。
人間において、この個体間の「間」を埋めるものが言語による意味の伝達である。動物では、情報→
解釈(遺伝子)→命令によって集団の統制がとれるが、言語では、情報→解釈→命令において、
いかに共通の解釈をするかという問題がおこる。それが大文字の他者という取り決め(社会性)の
獲得である。社会に参入することで、集団性は社会性によって補完される。
20 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 05:33:57
A単独性の獲得の幻想=無垢、汚物
しかし大文字の他者には欠如があり、完全な意味の伝達はできない。そして完全な意味体系を
もとめ、たえず補完しつづけられる。それが、自己言及の穴である「私とはなに?」という単独性と
求め続けることであり、欲望である。
大文字の他者(社会)の欠乏の補完物は、大文字の他者(社会)の外にしかないために、欲望は、
大文字の他者の外めざすが、それは失われたものであり手にはいることはない。だからみんなが
求めているだろうという(「まなざしの快楽」)対象(対象a)として現れ、それを獲得することで他者とは
異なる私だけの単独性が獲得される幻想である。対象aが「無垢」性を帯び、また「汚物」であるのは、
大文字の他者の外にあるという幻想だからである。
完全な他者との繋がり(集団性)を求める→大文字の他者(社会性)の獲得→大文字の他者(社会性)
には欠如があり、欠如としての私の意味(単独性)の補完を欲望する→大文字の他者を越えた他者
との近接(差異化運動)→単独性の獲得の幻想としての対象a(無垢、汚物)への欲望
21 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 05:34:37
B闘争か、バランスか
この大文字の他者を越えて他者への近接は、ラカンでは闘争的に描かれる。想像界では想像的な
闘争、転移、ナルシシズムであり、象徴界では去勢であり、抑圧であり、現実界では享楽であり、
死への欲動である。
しかしこれは必ずしも闘争的はなく、一つの相補的なシステムでとらえられるだろう。失われた集団性を
求めるための社会性を維持するシステムである。想像界を挟んだ、象徴界/(想像界)/現実界の
システムであり、たとえば社会への協調/利己的な自己実現の物語では、この対立は相補的に
システムを支えているのである。
22 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 05:42:47
ぴかぁ〜欲望論用語
個体性/集団性/社会性/単独性
他者志向性(他者からの呼び声)
まなざしの快楽
無垢、汚物
差異化運動
消費関係/創造関係
kurahitoとは関係ありません。ぴかぁスレに訪れていた名無しですよ。毎回アンタだれ、聞かれてました。
最近、無垢やら闘争やらが分からなくてぴかぁ哲学から離れてました。ぴかぁチルドレンかな(嘘
他者指向性とか言ってましたっけ……。
25 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 06:44:33
このような欲望論は、ラカンの死の欲動とは、ドゥルーズの器官なき身体
とも違う。
C動物/人間
人間は集団性が欠けている、ということである。そして集団性(他者との関係性)を求めることが
欲動(他者志向性)である。たとえば動物は集団のC−5の位置に配置されても集団性を持ちえて
いるために問題がない。しかし人間は集団性が失われ、それを補完する社会性によって、C−5位置に
配置され、「あなたはC−5だよ」と名付けられる。しかしそこに残余としての「不安」が生まれる。
なぜC−5なのか。誰が決めたのか、他の人はちゃんとB−3で収まっているのか、という
コミュニケーション不全による不安である。そしてたえず私がC−5である「意味」が求められ続ける。
すなわちこれは「私とはなに?」という単独性の芽生えである。集団性への欲動が社会性を生み、
社会性が単独性を生むのである。他者と密になろうとすることが、逆説的に、他者と差異化された
私という意味を求めるという、一見利己的な主体を生み出すのである。
この社会性への対立としての単独性が「欲望」である。そして欲望は絶えず社会性(他者の承認)に
支えられる。他者が望むことを望むのであり、社会性において、おまえは〜だからC−5なんだよ、
という単独性への完全な関係を求めるのであり、そのためには他者と違っていなければならない
のである。
この終わりのない他者との差異化、すなわち欲望が、人間の進歩を支えている。動物にはこのような
差異化はない。完全な集団性も持っているために、変化は環境との関係という長期的な時間を要する
進化によって、変化する。しかし人間は、自ら欲望という動力をもったために、進歩というダイナミズム
をもった動物なのである。
26 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 06:54:55
だから「私は誰?」という問いはいつも他者に向けて
発せられる。教えてよ・・・繋がりたいよ・・・
欲望は他者に向けて行われる。見てよ。僕って凄いだろ。
だから欲望の対象はみなが求めているが、誰も手にしていない
「無垢」であり、「上から二冊目の本」である。
そして他者が持っていないものへ、他者が禁じている「汚物」へ
向けられる。ロリータという幻想は、無垢な汚物である。
27 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 07:16:04
■創発性のみが「心」たちに力を与える。
ボクはネットコミュニケーションの活発化を心の暴走、逆襲と呼んだ。それはテクノロジーにより
甘やかされた身体、すなわち動物化への逆襲である。すなわちヘタレ化である。なぜみなネットに
向かうのか、ケータイは爆発的に普及したのか、という身体的合理性を越えた意味、すなわち
「淋しいから」という心の繋がりの社会性への欲望という汚物である。心は汚物を撒き散らしながら
暴走する。これこそ人間という症候だろう。
このような暴走、ポピュリズムの不安定は、なんでかなー→ゲッツ→残念→フォ〜→ という意味で
理解しないといけない。小泉が大勝したからと不安を煽る評論家には、「だからなに?」、ホリエモン
の失態になは「潮時か?」ということだ。
しかしおもしろいのは、「心」とは唯一無二であるから「心」である。個数に還元できない。しかし
創発性とは個性のない複数があるきっかけで秩序を生むものであるから、「心」とは相容れない
はずである。しかしこの「心の暴走」では、「心」はオレはオレであることを保っている。規律訓練的に
規格化された「心」へ訓練されるわけでも、環境管理的に知らずに規格化されるわけでもない、
オレはオレだ、ということそのものが、大きな秩序を形成する。そしてそこには、「権力者」は存在
しない。すなわち「心」たちが大きな力をもつ唯一な方法なのである。その力が不安的なもので
あったとしても。
このスレきもい
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31 :
まずる:2006/01/22(日) 14:00:28
>>16 でも哲学以前に物理的、、
つーか根本知っておかないと意味ないじゃん。
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{  ̄''ー-、,,_,ヘ^ |
ゝ-,,,_____)--、j
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| "'ー‐‐---''
なにこれ。
42 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 20:42:25
■他者からの呼び声→まなざしの快楽→無垢(汚物)への欲望
C動物/人間
人間は集団性が欠けている、ということである。そして集団性(他者との関係性)を求めることが
欲動(他者志向性)である。たとえば動物は集団のC−5の位置に配置されても集団性を持ちえている
ために問題がない。しかし人間は集団性が失われ、それを補完する社会性によって、C−5位置に
配置され、「あなたはC−5だよ」と名付けられる。しかしそこに残余としての「不安」が生まれる。
なぜC−5なのか。誰が決めたのか、他の人はちゃんとB−3で収まっているのか、という
コミュニケーション不全による不安である。そしてたえず私がC−5である「意味」が求められ続ける。
すなわちこれは「私とはなに?」という単独性の芽生えである。集団性への欲動が社会性を生み、
社会性が単独性を生むのである。他者と密になろうとすることが、逆説的に、他者と差異化された私
という意味を求めるという、一見利己的な主体を生み出すのである。
この社会性への対立としての単独性が「欲望」である。そして欲望は絶えず社会性(他者の承認)に
支えられる。他者が望むことを望むのであり、社会性において、おまえは〜だからC−5なんだよ、
という単独性への完全な関係を求めるのであり、そのためには他者と違っていなければならない
のである。
この終わりのない他者との差異化、すなわち欲望が、人間の進歩を支えている。動物にはこのような差異化は
ない。完全な集団性も持っているために、変化は環境との関係という長期的な時間を要する
進化によって、変化する。しかし人間は、自ら欲望という動力をもったために、進歩というダイナミズム
をもった動物なのである。
43 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 20:43:05
D無垢/汚物への欲望
だから「私は誰?」という問いはいつも他者に向けて発せられる。教えてよ・・・繋がりたいよ・・・
欲望は他者に向けて行われる。見てよ。僕って凄いだろ。だから欲望の対象はみなが求めているが、
誰も手にしていない「無垢」であり、「上から二冊目の本」である。そして他者が持っていないものへ、
他者が禁じている「汚物」へ向けられる。性関係は無垢で、汚物として欲望され、現代ではロリータと
いう幻想が、無垢な汚物である。
44 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 20:57:11
B闘争的か、相補的か
この大文字の他者を越えて他者への近接は、ラカンでは闘争的に描かれる。想像界では想像的な
闘争、転移、ナルシシズムであり、象徴界では去勢であり、抑圧であり、現実界では享楽であり、
死への欲動である。
しかしこれは必ずしも闘争的はなく、一つの相補的なシステムでとらえられるだろう。失われた集団性を
求めるための社会性を維持するシステムである。想像界を挟んだ、象徴界/(想像界)/現実界の
システムであり、たとえば社会への協調/利己的な自己実現の物語では、この対立は相補的に
システムを支えているのである。
45 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 21:01:46
■創発性のみが「心」たちに力を与える。
@重点化された「身体」と取り残された「心」
テクノロジーによって重点化される「身体」と、お荷物になる「心」は、動物/ヘタレの対比で
語られます。宮台の「終わりなき日常を生きろ」とは、お荷物になった「心」よ、それでも生きな
ければならない、ということです。あるいは最近の右翼発言は、お荷物の行き先の確保の提示です。
北田は彷徨える「心」を「ヘタレ」と名付け、その一部である2ちゃねらーを擁護します。大澤も
オウム信者分析で、あるいは斉藤はひきこもりで、お荷物の「心」の行方を問題にします。
これに対して、東は、身体が満足されれば、心も充足するだろうと考え、その実践をオタクに求め、
これを「動物化」と呼びます。だから東の問題はテクノロジーによって重点化された「身体」が、
環境管理にさらされているのではないかということが、問題視されます。
46 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/22(日) 21:02:24
A創発性のみが「心」たちに力を与える。
ボクはネットコミュニケーションの活発化を心の暴走、逆襲と呼んだ。それはテクノロジーにより
甘やかされた身体、すなわち動物化への逆襲である。すなわちヘタレ化である。なぜみなネットに
向かうのか、ケータイは爆発的に普及したのか、という身体的合理性を越えた意味、すなわち
「淋しいから」という心の繋がりの社会性への欲望という汚物である。心は汚物を撒き散らしながら
暴走する。これこそ人間という症候だろう。
このような暴走、ポピュリズムの不安定は、なんでかなー→ゲッツ→残念→フォ〜→ という意味で
理解しないといけない。小泉が大勝したからと不安を煽る評論家には、「だからなに?」、ホリエモン
の失態になは「潮時か?」ということだ。
しかしおもしろいのは、「心」とは唯一無二であるから「心」である。個数に還元できない。しかし
創発性とは個性のない複数があるきっかけで秩序を生むものであるから、「心」とは相容れない
はずである。しかしこの「心の暴走」では、「心」はオレはオレであることを保っている。規律訓練的に
規格化された「心」へ訓練されるわけでも、環境管理的に知らずに規格化されるわけでもない、
オレはオレだ、ということそのものが、大きな秩序を形成する。そしてそこには、「権力者」は存在
しない。すなわち「心」たちが大きな力をもつ唯一な方法なのである。その力が不安的なもので
あったとしても。
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l , (_,、)、_ ι/
ヽトtェェヨイ ) トr'
ヽニノ _,ノ
ヽ ノ .ノ / ̄`\、
. ヽ、_i⌒i/, -''~ `ヽ、
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`〈ヽ, -''~T ヽ、 , -'' ~ `ヽ、
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く |  ̄ `ヽ、/__ /
/`ヽ、/| まなざし命 `ヽ、___ノ
/ | T
48 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 02:55:46
存在とは「他者からの呼び声」である。
49 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 02:58:41
他者からの呼び声(現実界)→まなざしの快楽(象徴界)→無垢(汚物)(想像界)
50 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 03:03:02
「他者からの呼び声」が、「まなざしの快楽」を想起し、
「無垢(汚物)」を投射する。
たとえば、ロリータという「無垢(汚物)」は、
「他者からの呼び声」による「まなざしの快楽」が投影した幻想である。
このような「まなざしの快楽」が見せる幻想がなければ、ボクたちは「他者からの呼び声」に
答えられないという現実によって発狂してしまうだろう。
51 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 03:11:41
「他者からの呼び声(現実界からの声)」が、「まなざしの快楽」(象徴界)を想起し、(想像界に)
「無垢(汚物)」という幻想を投射する。たとえば、ロリータという「無垢(汚物)」の幻想は、「他者からの
呼び声」による「まなざしの快楽」が投影した幻想である。それがロリータであるのは、社会(象徴界)の
外(禁止されたもの)にあるまだ誰も手に入れていない本当の「他者からの呼び声」がそこにあるという
幻想である。このような「まなざしの快楽」が見せる幻想がなければ、ボクたちは「他者からの呼び声」
に答えられないことによって発狂してしまうだろう。
52 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 07:15:06
真の欲望の対象としての他者が、届きえないものとしての幻想の少女
(それをロリータと呼ぶ?)であるというのには同意できるな。私が
到達したいと密かに願ってやまない至高のユートピアとは、もはやそ
こから何処へ至ることも望まない永遠の少女時代なのだからな。
しかし、現実の恋愛、現実の女との出会いは必然的にその夢=欲望の
破壊なのだ。現実の恋愛がどれほどすばらしい経験であろうと、その
あとにまでユートピアが続くとわれわれは信じていない。現実の行為
は、必然的に夢を破壊し、日常という残骸と瓦礫と化したユートピア
をしか、われわれに残さないだろう。だから、われわれは何も現実化
しようとせず、何も行為しようとせず、みずからを平和な人間だから
争い事は好まぬと断言するのだ。しかし・・・。
53 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 07:24:54
ロリコンは全く理解できない。
54 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:24:57
山口もえとか流行ってるでしょ?あれ、わからない?
55 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:27:55
わからない。
56 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:30:31
ロリコン男は不幸だね。
57 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:32:56
あのねぇ〜〜 不幸じゃないやつって単なるバカだと思うんですけど。
58 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:34:28
幸福な結婚生活というものは、あるからね。
59 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:43:37
ある、かも知れないね。
でも、そういう人が2chにアクセスしたり、
まして哲板に書き込んだりはしないと思うが。
60 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:44:49
つまり、ポイントは、自分も恋愛の対象も常に変化し続けているという
当たり前の現実を、あるがままに受け入れることができるか否かだ。
61 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 08:56:15
わたしを見られたくない、という気持ちがある。女はわたしを見る
可能性があるから、嫌なのだ。少女のようなものは、けっしてわたし
を見ないであろうから、好きなのだ。わたしを見ないものがわたしは
好きだ。だから「まなざしの快楽」どころか「まなざしの不快」こそ
が真の問題なのだ。わたしはわたしをまなざさない存在をこそ愛する。
62 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 09:37:19
子供が身近にいないからそんな単純なこといえるんだよ
63 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 11:22:22
「まなざしの不快」こそ、「まなざしの快楽」である。
64 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 12:41:05
精神分析において抑圧とは非社会的なもの、受け入れがたいものを
心の奥へ隠してしまうことであり、それは欲望として回帰する。
その意味では現代は精神分析そのものを抑圧しているようである。
薬を飲むこと、あるいは欲望の回帰へ畳み掛けれように刺激を投入することで抑圧自体を消去する。
それは動物のように振る舞うことである。
65 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 13:39:14
IT技術の発展にともなうここ数年のサイボーグ関連技術の発展は目覚ましいが
抑圧された心はどこにむかうのだろう
動物化の先に見えるのは心の整形である。
なりたい自分になるとき、整形手術のカタログのように前後は提示されるのだろうか。それをみる私はどこにいるのだろうか
66 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 13:45:01
これは単純な権力論、権力が人々を家畜化しているのでなく、
これは一つの享楽であり、反社会的行為である。
人々は動物化することを欲望している。これはパラドクスだ。欲望しないように欲望する。
欲望しなくなったときに、かつての欲望した自分はもはやない。
67 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 13:54:39
これは人間とはなにかの倫理的な次元である。
なにゆえに欲望するのか
たとえばラカンは疎外されることでしかない主体の取り戻しであるといい
ハイデガーは時間を知ることによるといい
ドゥルーズは生命根源の力であるという。
そしてボクは喪われた動物的集団性の補完(欲望は他者の欲望であり
他者と関わりつづけること、他者の呼び声を聞き続けること)であるといった。
すなわち人間とは喪われた他者への呼び声を聞くことであり、
耳を塞ごうともなりやまない他者からの呼び声に悩まされつづけるものである。
68 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 14:03:22
なり続ける他者からの呼び声はなぜこんなに苦痛なものになったのだろうか
たとえば社会にでて他者と交わるよりも、引きこもる方がその声はなりつづける
あるいは社会にでてもただ組み込まれるだけでは鳴り続ける。
この声のささやきは「他者とわかりあえ。動物のように」である。
69 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 14:06:09
ここで動物化の欲望と、ささやれる動物がつながる。
欲望とは動物化への欲望である。
70 :
じくむんと:2006/01/23(月) 14:30:54
ぴかぁ〜さんは、このスレをただの自己満足のためにつかっているようだね。
自分の中で人より上に立っていると思いたいがため、ひたすらぺダントリーに振舞う。
そうして優越感にひたり、自己顕示欲を満たしている。単に自分の博識をひけらかしたいだけなのだ。
まぁ、哲学を語る人間なんてみんなそうだけど・・・。
これをなんと言うかわかる?妄想的な視姦を伴った自慰行為っていうんだよ。
本当に自分の言い分を理解してほしいのなら、もっと万人が容易に理解できるような言葉で説明しなければいけないワケだからね。
71 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 14:36:30
・・・そうだろうか?
72 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 14:40:06
われわれの知っているどんな哲学者だって、じくむんとが言うように
「万人が容易に理解できるような言葉」では語っていないよ。
だからといって、びかぁの言葉がそれらの哲学者なみだとは言わない
が、少なくとも、じくむんとの上の発言はただしいと思えない。
73 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 14:55:15
おいら的にはペダントリーという言葉の意味が
わからんかったとです
74 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 14:59:05
さらに言うならば、「ただの自己満足のためにこのスレを使う」
ことのどこがいけないのだろうか? みなが、それをしている。
誰もがそうしているのだ。誰が、崇高な真理の探究や、無視無欲
な善の実現のために、労力を費やしたりするだろう。結局はおのれの
ちいさな自尊心や自己顕示欲のために書き込むのではないのか。
あなたは違うのか?・・・ただ、それをうまく隠蔽できる者とびかぁ
のようにそれがうまくできないで、あからさまにしてしまう者の
差があるだけではないのか?
75 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 15:02:14
嫌なら見るな
飲んだら乗るな
こういうことだ
76 :
じくむんと:2006/01/23(月) 15:06:51
だから哲学ってのは自慰行為なんだよ。
という事は、これまでのどんな哲学者も万人に理解されたかったわけではないんでしょ?
わかる人にだけ、自分は真理を述べていると思ってほしい。そういうことでしょう。じゃなかったら別にわざわざ発表する必要はないんだから。
それに私の意見が正しいかどうかなんてあなたが決められるようなことではない。
じゃあ私の言葉を否定したあなたが思うには、何が正しい?そしてぴかぁさんが何を言いたいのか一般的な言語を用いて説明してほしい。
77 :
じくむんと:2006/01/23(月) 15:12:00
ちょっと待って。私はびかぁさんの意見を否定したわけではないし、自己満足のためにスレを使うことをいけないことだとは一言も言っていない。
ただ自己満足のために自分の意見を述べたまでだ。
異見を言う前にまずしっかりと私の発言を理解してほしかった。
78 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 15:18:09
びかぁ〜が何を言いたいかはわたしにもよくわからないよ。
ただ、あなたの、すべての考えは誰にでもすぐ理解できるような
わかりやすい言葉で表現されるはずだ、という信念は間違っている
と言うのです。非常に難しい表現や非常に長大な記述でしかあらわ
すことのできない考えや思想がこの世にはあるということを理解
してください。
79 :
じくむんと:2006/01/23(月) 15:28:28
理解している。しかし一部の人間にしか理解を得られないものなど思想ではない。個人の妄想だ。
それと、あんなもの信念などではない。あれは単なる意見だ。曲解している。
80 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 15:38:19
■なぜ「動物化」への欲望は回帰し続けるのか。
@「サイボーグ技術が人類を変える」
最近、興味を強くもったのが11月5日放送のNHKスペシャル「サイボーグ技術が人類を変える」である。
ここまで来てるのか、という感じであった。
>>
刺激される脳、回復する運動機能、そして…精神
この章のキーワードはDBS─脳深部刺激療法。これは、脳に電極を刺して電気刺激を持続的に加える
治療法のことです。・・・脳の悲しみを司る部位に刺激を加えることでうつ病を治療することが紹介され
ました。同様に、他の感情についても制御できる可能性が示されています。
DBSは病気を根本的に治癒するものではなく、機器の電源を切ると病状は再び悪化します。また、
すべての患者さんに効果があるとも、手術が100%成功するとも言い切れません。しかし、他の病気
治療への応用など、今後の更なる研究開発が期待されています。
一方で我々は、どこまで人間は制御できるのか、そして、制御してよいのかという疑問と向かい
合わなければなりません。科学の最先端を目撃した我々は、今後の適切な応用の方向性について
考える必要があるでしょう。
http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/sci/project/nhksp/chapter_3.php <<
81 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 15:38:32
おまえらは損誤喰
82 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 15:38:56
@「動物化」という幻想
精神分析において抑圧とは非社会的なもの、受け入れがたいものを心の奥へ隠してしまうことであり、
それは「欲望」として回帰する。現代は精神分析そのものを抑圧しているようである。精神的な苦痛には、
テレビ、映画、ゲームなどの娯楽により、「気を紛らわせる」ように、回帰する欲望へ畳みかけれように
刺激を投入すること、あるいはより直接的には薬を飲むことで、抑圧自体を抑圧する。これが現代の
「動物化」である。
「サイボーグ技術が人類を変える」に示されるようにIT技術の発展にともなうここ数年のサイボーグ
関連技術の発展は目覚ましいが、抑圧された「心」はどこにむかうのだろう。「動物化」の先に見えるのは、
美容整形手術のような「心」の整形である。これを単純な権力論、権力が人々を家畜化していると
みてはいけない。これは一つの享楽である。人々は「動物化」することを欲望しているのだ。
しかしこれはパラドクスだ。欲望しないことを欲望する。なりたい「私」になるとき、整形手術のカタログの
ように前後は提示されえないだろう。それを見比べる「私」はどこにいるのだろうか。欲望しなくなった
ときに、かつての欲望した自分はもはやない。
このようなパラドクスがおこるのは、欲望は、失われたものが決して取り戻せないことを隠蔽するために、
幻想の対象aとしての「動物化」を欲望する。「動物化」への欲望とは、「動物化」すれば、「心」を煩わす
こと、さびしい、つらい思いをすることがなくなるという幻想である。
83 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 15:39:33
A「生物化」という不可能性
なにゆえに人は欲望するのか。ボクは喪われた生物的集団性(完全な他者との同一性)の補完であり、
欲望は他者の欲望であり、他者と関わりつづけること、「他者からの呼び声」を聞き続けること、である
といった。すなわち人間とは喪われた「他者からの呼び声」を聞くことであり、耳を塞ごうともなりやまない
「他者からの呼び声」に悩まされつづける者である。
たとえば社会にでて他者と交わるよりも、引きこもる方がその声は大きく鳴りつづけ、あるいは社会に
でてもただ組み込まれ、流されるだけでは鳴り続ける。この声のささやきは「他者と同一化しろ。そして
お前の望むことを完璧に他者に聞いてもらえ。生物のように」である。
欲望とはその本質において「生物化」への欲望である。しかしそれは正しくもあるが、嘘である。なぜなら
「生物化」は失われている故に人は「生物化」を欲望しない。欲望はほんとうは「生物化」を欲望しないこと
を隠蔽し、他者の望むものを望むのである。この屈折こそ「人間」である。
84 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 15:40:04
B実現される「動物化」と回帰する「他者からの呼び声」
だからボクたちの本当に望むものが「生物化」であっても、「動物化」ではない。「動物化」とは「生物化」
できないことを隠蔽するために見せる幻想である。
テクノロジーによる「心」の整形によって、「動物化」は「生物化」と混同されながら、かなおうとしている。
そして、かなってしまったとき、それは本当に求めていたものではなく、単なる幻想だったのに、単なる
愚痴だったのに、本当は「生物化」したかったのだ、というかつての「私」は「動物化」してもはやここには
いない。
それでも「欲望」は回帰するのではないだろうか。ふたたび「動物化」は目指されるのではないだろうか。
テクノロジーの発展そのものが、「障害者を助ける」ために行われるのではなく、失われた「他者からの
呼び声」への返答であるように。
85 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 15:48:57
他者の望むものを望む、とは? どういう事か?
86 :
まずる:2006/01/23(月) 15:52:27
>>64 ゴメン、抑圧が人間社会だとおもってた。
ていうか、人間ってそういう生き物だけどね。
87 :
85:2006/01/23(月) 16:07:06
・・・ずいぶん待たせるなあ。もう、落ちるから。
88 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 17:01:34
ばいばい
89 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 20:00:06
「哲板のハンプティ・ダンプティ」(『鏡の国のアリス』から whiter shade作)
『「名誉って、なんのことですか?」とアリスはいいました。
ハンプティ・ダンプティは軽べつするように笑っていいました。
「むろん、わかりっこないよ−−おれが教えてやるまではな。
おれのいう意味は、『うまい、力強い議論だ』ということさ」
「でも、『名誉』は『うまい、力強い議論だ』という意味ではありませんわ」
とアリスは反対しました。
「おれがある言葉を使うと」とハンプティ・ダンプティは
いくらかせせら笑うような調子でいいました、「おれが持たせたいと
思う意味をぴったり表すのだ−−それ以上でも、それ以下でもない」』
むっとしたアリスは、「ハンプティ・ダンプティ」に斜線を引くと、
「哲板のぴかぁ〜」と上書きすると、抑揚を押さえた声でいいました。
「いいかげんに難しい言葉を使いたがるのは、言葉が不自由だからなの?」
90 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 20:00:45
うすら笑いを浮かべながらも顔を真っ赤にしたハンプティ・ダンプティ(+斜線)
は、早口でまくしたてました。
「キミはまったくもってバカだね。ボクの『言葉が不自由』は、
哲学的精神分析的科学的な意味での半意図的にして創造的『言語障害』であり、
無垢で欲望で差異で反復でパロールのエクリチュールの戯れなんだよ、
つまりね、象徴界と想像界と現象界の同時多発ショートショート的だから、
ただの『言語障害』じゃない! 断じてない!!
あくまでも、ラカン的デリダ的ドゥルーズ的ニーチェ的、ええーい面倒だぁ!
古今東西南北、ありとあらゆる歴史上の思想家的に、大文字の他者という他者に
対する壮絶な転移と逆転移を繰り返した挙げ句の、エロス的タナトス的享楽的
欲動的サドマゾ的ハードマスターベーション的粉飾決算的、あらゆるすべての
シンボリックでイマージナルな形容詞を身にまとった・・・」
「身にまとった?」アリスクリニックの女医は無機質な声で先をうながしました。
「・・・アイのコンセキ・・」
「アイのなに?」
鉄格子窓の外、鮮血のような赤い夕日を放心し見つめるハンプティ・ダンプティ
(+斜線)が、口を閉じたままつぶやきました。
「・・・クオリア・・」
91 :
考える名無しさん:2006/01/23(月) 20:10:25
ホリエモン逮捕ですね
金溺れたら負けです
92 :
まずる:2006/01/23(月) 21:02:29
金の無かった奴に金を持たせると自意識過剰で、
自分を神だと錯覚するんじゃないのかな。
同じように捕まって行く奴が過去沢山居ても、学ぶ事を知らずにさ。
皆さん法の目を掻い潜れるぐらい賢くなりましょう!!
ぴかぁ〜に一千万を与える
〜一年後〜
遊びまくり一文無し
ホリエモンに一千万を与える
〜一年後〜
その資金を使い投資もしくは起業して一億に増える
95 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 22:09:35
逮捕も含めて時代の寵児
96 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/23(月) 22:10:58
たとえが一千万円って器小さっ
一千万でも起業はできるというのに、アホな。
98 :
まずる:2006/01/23(月) 23:49:05
ちいさっ
一千万でマンコって名前になるんだったらいらねーだろ。
金を持つって同じくらいのリスクがあんのに、
それが解んないと、時の人になれたってだけで何でも
許されるって勘違いすんだろうな。
まぁ、墜落していく様は見物かな?
142 名前: 長谷部悠作 ◆THSqahCNw2 [sage] 投稿日: 2005/05/24(火) 11:13:41 ID:ei+sO8Ei0
もう駄目だ。
絵も小説も、何かを知れば知るほどその山の高さを「リアルに」感じてしまう。
その山はあまりに高い。僕が趣味程度でやって、何ができようか。
僕がバカにして言るもの以下のハンパなものしか出来ない。
僕は僕を過小評価はしないが、それにしてもやはり多くの何かを費やさねば
何もできないのだとわかった。わかったことが、むしろ大きな収穫であり、
無謀にくだらないものを作り続けるよりはよかったのかもしれない。
僕には修練が必要なのだ。
まず、僕は美術解剖図の絵を何度も何度も描きまねようと思う。
それから批評系、それこそド・マンみたいなね、あぁいうのをたくさん読み、
形式主義の人の小説に何度も感嘆させられなければならない。
一体、それが何百年かかるだろう?
僕に創作は無理だ。
悪かった。
俺は素直に退散する。
642 :長谷部悠作 ◆xxFBKR1QBE :2006/01/19(木) 09:05:44 ID:zfUoTE/A0
今のところ一番良くかけた絵
http://the.velvet.jp/graphic/nagisa04.jpg ----
∧_∧ ミ ギャーッハッハッハッ!
o/⌒(. ;´∀`)つ
と_)__つノ ☆ バンバン
100 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/24(火) 09:57:05
倖田來未の売り方がレイザーラモンと同じなのが気に掛かる
胡散臭いとこあったもんな、ホリエモン。
私は2年かかったな、一千万使い切るのに。
103 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/24(火) 11:02:38
現代のポピュリズムの問題は全体主義的なところへの偏向ではなく、
その流動性の高さだ。
その意味でホリエモンとレイザーラモンは同じ次元で語らないといけない。今のうちに
明日には違う話題で盛り上がっているからだ。
104 :
考える名無しさん:2006/01/24(火) 11:05:41
105 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/24(火) 16:09:16
しかしネタで数千億動く時代ってすごいな
文化祭というか2ちゃんの祭り。
107 :
十二使鳥:2006/01/24(火) 17:46:51
しかし、
東京地検ってとんでもない奴等だな。
108 :
考える名無しさん:2006/01/24(火) 20:47:05
109 :
十二使鳥:2006/01/24(火) 21:14:36
>>108 残念。はずれ。本物どす。
たまにはぴかぁ〜をからかってやろうかと、
ぴかぁ〜くぅん。
いじめないから出ておいで。
ちょっとからかうだけだからさー。
110 :
考える名無しさん:2006/01/24(火) 21:18:29
111 :
十二使鳥:2006/01/24(火) 21:22:02
どうよって
いわれてもなぁ、
ま、゜かぁ〜みたくあんまり出演してないからしょうがないか(ぶつぶつ)
男だよ。
112 :
考える名無しさん:2006/01/24(火) 21:23:18
113 :
まずる:2006/01/24(火) 21:36:46
ここはチンポばかり。
114 :
まずる:2006/01/24(火) 21:39:38
>>110 わかる〜。
安室かBritneyかMadonnaかしらんけど、
ブスで色気もないし、黒そうなセックスアピール通じないよなぁ。
あの人可愛いって言える男はオタクか不良だけじゃなかろか。
115 :
考える名無しさん:2006/01/24(火) 21:41:32
やはり、ぴかぁさんには人を引きつけてやまない魅力がありますね
116 :
考える名無しさん:2006/01/24(火) 21:42:51
で?
観念上で把握する1000万と実際1000万もっているのとでは違う
118 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/24(火) 23:19:01
■なぜもはや「ホリエモン」では笑えないのか。
@「隣のにいちゃん」「ホリエモン」
ライブドアショックである。ボクはライブドアに捜査のメスが入ったということよりも、片腕が死んだ、という
ことが、大きなターニングポイントになると思っている。もはや「ホリエモン」では笑えない、ということだ。
ボクは、ホリエモンというのは、どこまでも「隣のにいちゃん」だったと思う。想像界の住人で、何千億
だろうが、リアリティがないのは、ホリエモン自身もリアリティを持っていなかったからだ。それはただの
数字である。
何千億!!!!というとてつもない金額のすごさが伝わらないという意味で、リアリティーがない。しかし
まあ会社買うんだから数千億するだろう、普通だな。というリアリティーをボクたちも、「ホリエモン」と共有
している。それはマネーゲームということではなく、べたな例でいえば、酒代で数千円ってなんともないが、
それがメシ代だとすげー高級と思ってしまうような感覚の差がある。単にそこにあるリアリティということだ。
ボクたちの日常の金銭学と比べる必要はなく、そこにある数字というだけのことだ。
ボクはかつて「バリバリバリュー」などのセレブ紹介番組を金持ちを羨ましみながら、想像的に間近かで
みるセレブがあまり僕らと変わらない人間で、逆にセレブを笑う番組として機能しているところが人気と
いった。
これを同じ意味でドラえもん的「ホリエモン」と想像的な関係を結んでいる。それは、ボクたちが騙されて
いるということではなく、そこにあるリアリティを共有しているということであり、あるいはネットでは、
そのような価値(文化)があるということだ。たとえば世界一金持ちのビルゲイツが「仲間」であるという
ことである。そのような意味で、「ホリエモン」とボクたちは想像関係を結ぶことに成功している。
119 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/24(火) 23:20:23
A「死」を刻印された「ホリエモン」
しかし、「死」の登場で、一気に幻想が冷めて、象徴的なものが突出した。それは、もはやかつての
「ホリエモン」ではありえないだろう。このような想像的な関係が、「死」によって象徴的なものになる、
すなわち去勢されることは良くある話である。たとえば、ビートたけしのバイク事故。彼は死ななかった
けど、あれは一つの「去勢」の儀式だったともいえるだろう。去勢されたのは、たけしだけでなく、
ボクたちもだ。
あるいは、NYテロも幻想の想像界からの去勢であると言える。イスラム圏を取り込んだ新たな資本主義
秩序という下部構造(無意識)が、先進国に搾取された貧しい国々の抑圧された欲望という形で露出した。
それは(暴力的な)去勢であると言えるかも知れない。
この「死」というのは、「ホリエモン」を大きく転換させるだろう。ライブドアが継続するのか、終わるのか
わからないが。ボクたちとの想像関係を切断された「ホリエモン」は超越論的他者(シニフィアン)へと
向かう。もうボクたちは「ホリエモン」に素直に笑えない。
最近の株ブームが、「親しみのセレブ」への想像的な幻想に支えられていたら、これはターニングポイント
になるかもしれない。金に当然ついて回る象徴界(無意識)としての「力と死」が露呈する。この下部構造
(無意識)によって、素直な株ブームの住人は去勢され、血にまみるかもしれない。それは騙されていた
ということではなく、本来あるが、実感できなかったものである。
「ホリエモン」はマネーゲームの人なのではなく、「お金でなんでも買える」という素朴な幻想を夢見た
素朴な人である。マネーゲームにはそのような素朴な幻想はない。そして「ホリエモン」が村上ファンド
などのようにマネーゲームの人であれば、僕たちが「ホリエモン」に惹かれなかっただろう。僕たちは
その素朴な夢に想像的に同期したのだ。そして「死」はそのような関係を去勢したのだ。
120 :
まずる:2006/01/25(水) 00:34:25
ホリエモンなんて可愛い名前で呼ぶのはおよしなさい。
今は堀江容疑者
121 :
考える名無しさん:2006/01/25(水) 08:40:36
89・90にザブトン一枚、おあげなさい。
・・・それにしても、本人は気のきいたこと言ってるつもりなんだよなぁ。
ホリエモンが好きだったという人はいるんだろうし、びかぁがそのひとり
という事はわかったけど、自分はたいして関心なかったですけどねぇ。。。
僕たち、と言われてもねぇ。。。
早く85の質問に答えてよ。
89・90のような気の利いたコメントを引き出す媒体として
びかぁ〜の存在は有益である。
124 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 13:11:15
大文字の他者は「社会的に誰かであれ。夢をもて」とささく。
ボクたちは親を介した大文字の他者の声にうんざりして、
マックにいき機械化された店員とのやりとりや刺激的なゲームに興奮する。
しかしふとしたとき、大文字の他者の囁きは回帰する。
僕は大文字の他者から逃げるように盗んだバイクで走りだす。
そして死に近づくギリギリの走りに興奮がこみあげたとき
「私と同化しろ。そしてすべてを忘れろ」と「他者からの呼ぶ声」がかすかに聞こえた気がした。
125 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 13:41:57
まなざしの快楽とは僕の行為を導くもの、正しさを指し示すものである。
僕たちはいつもまなざしとともにある。
それは社会的なことだけでく、反社会的なことをするときもまなざされている。
社会的に禁止された行為も、まなざしはそれをやれといい、またやめろという。なぜなら正しさとは社会的であり、また反社会的だからである。
まなざしなど必要ないのではと思うが、まなざしがなければ僕達は悩むこともできないのだ。
まなざしはいつも正しくあれという。
126 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 14:19:18
親の説教とはオヤジギャグのように古いまなざし(正しさ)である。
うんざりして反抗して「悪いこと」をする。「悪いこと」とはいつも正しいことである。
「悪いこと」はいつも、これが僕らの正しさだ、としておこなわれる。
だから「悪いこと」は自慢されるのだ。
このような反社会的な正しさはなにによって正しいのだろうか。それはまなざしの快楽によってである。
それが社会的に悪いことなどはよくわかっているでもやるしかなかったのだ。
127 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 14:50:39
かつては規律訓練的にまなざしは社会的正しさと密接であった。
ここではフロイト的なエスと超自我の対立があり、悪いことは抑圧され欲望により回帰した。
しかし現代はまなざしは多様な価値のもとにあり社会的正しさと乖離しつつある。
ある行為は正しくもあり、また正しくない。
128 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 15:13:26
では精神分析の社会的正しさ、象徴界と、社会的正しさを越えた本能としての
正しくなさ、現実界の深度のことなる対立は意味をなすだろうか。
ここでは対立は想像界でみいださないとならないだろう。現実界には価値がない。
ただ象徴界の不完全さにより享楽を生み出しているのだ。
象徴界において正しくなさは存在するのだ。
129 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 15:37:12
もはや象徴界は法ではなく、まなざしであると考えるべきである。まなざしは正しい。
しかしそれが社会的な正しさと同じである保障はない。
まなざしという正しさとはなにか?
賛同であり、名付けである。
盗んだバイクで走りだすとき、盗むことが社会的悪であることわかっているが、
行われるのはそこに賛同と名付けがあるからだ。「あつはだれた?かっこいい(正しい)ぜ!」
それは誰かがほんとにみていることではなく、主体の中のまなざしである。
あつはだれたってなに?
131 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 15:51:06
では現実界とはなにか?「他者からの呼び声」である。
賛同と名付けとは、私は私だという叫びであるが、それは他者とのつながりの実感である。
それは社会性によりえられるが社会性の先の集団性をめざすものである。
集団性とは生物的つながり細胞がつながり身体ができているようなつながりであり
人間間では失われたものであり、「(失われた)他者からの呼び声」である。
そしてこれがまなざしを作動させる力である。
だから社会と反社会の対立は象徴界にあり、それを含めて社会という内部である。
132 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 15:59:26
では盗んだバイクで走りだすことは許されるのか?
許されない。それがまなざしの内部にある「法」である。「法」は便宜的なものとなるし、書き替えられていく。
そして「法」の重要性は「法」がなければ守ることも、やぶることもできない。
すなわち「法」とは過去のまなざしである。
133 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 18:08:24
ホリエモン逮捕後の報道がまた面白いですね。
ネットもできなくて大変だろう。
ちゃんと寝れるのだろうか。
まるで母親のような・・・
134 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 19:55:09
■なぜまなざしはいつも「正しい」のか。
@まなざしはいつも正しい
「まなざしの快楽」とは僕たちの行為を導くもの、「正しさ」を指し示すものである。僕たちはいつもまなざしと
ともにある。僕たちは社会的なことだけでく、反社会的なことをするときもまなざされている。社会的に
禁止された行為では、まなざしはそれをやれといい、またやめろという。なぜなら「正しさ」とは社会的で
あり、また反社会的だからである。ならば、まなざしなど必要ないのではと思うが、まなざしがなければ
僕達は悩むこともできないのだ。
まなざしはいつも「正しくあれ」という。親の説教とはオヤジギャグのように古いまなざし(「正しさ」)である。
うんざりして反抗して「悪いこと」をする。「悪いこと」とはいつも正しいことである。「悪いこと」はいつも、
これが僕らの「正しさ」だ、としておこなわれる。だから「悪いこと」は自慢されるのだ。
135 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/25(水) 19:57:56
Aまなざしという正しさとは賛同であり、名付けである。
かつては規律訓練権力によって、まなざしの「正しさ」は社会的正しさと密接であった。悪いことは抑圧され
欲望により回帰した。しかし現代はまなざしは多様な価値のもとにあり、社会的正しさと乖離しつつある。
ある行為は正しくもあり、また正しくない。
もはや象徴界は「法」ではなく、まなざしであると考えるべきである。まなざしは「正しい」。しかしそれが
社会的な正しさと同じである保障はない。まなざしという「正しさ」とはなにか?賛同であり、名付けで
ある。盗んだバイクで走りだすとき、盗むことが社会的悪であることわかっているが、行われるのは
そこに賛同と名付けがあるからだ。「あつはだれだ?かっこいい(正しい)ぜ!」それは誰かがほんとに
みていることではなく、(主体の中の)まなざしである。そしてまなざしとは「リアリティ」である。欲望とは
まなざしを求めることであり、そのまなざしの先には欲望の対象である幻想としての「無垢」が現れる。
賛同と名付けとは、私は「この私」だという「単独性」への叫びであるが、それは他者とのつながりの
実感である。それは社会性によりえられるが社会性の先の現実界の集団性をめざすものである。集団性
とは生物的つながり細胞がつながり身体ができているようなつながりである。人間間では失われたもので
あり、「(失われた)他者からの呼び声」である。そしてこれがまなざしを作動させる力である。
正しい社会性と正しい反社会性があり、それを含めて社会というまなざしの内部がある。では盗んだ
バイクで走りだすことは許されるのか?許されない。それがまなざしの内部にある「法」である。「法」とは
過去のまなざしであり、だから便宜的なものであり、書き替えられていく。しかし「法」の重要性は「法」が
なければ「法」を守ることも、やぶることもできないということ。そしてまなざしの「正しさ」も生まれない。
136 :
考える名無しさん:2006/01/25(水) 20:19:59
>最近の脳科学の研究
最近じゃないよ。
137 :
考える名無しさん:2006/01/25(水) 22:28:14
いつ?
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l , (_,、)、_ ι/
ヽトtェェヨイ ) トr'
ヽニノ _,ノ
ヽ ノ .ノ / ̄`\、
. ヽ、_i⌒i/, -''~ `ヽ、
,.‐'´ i--i \
`〈ヽ, -''~T ヽ、 , -'' ~ `ヽ、
/ ( ̄ T iヽ、__ \.
/ ┐ ( ̄T | `ヽ、 }
く |  ̄ `ヽ、/__ /
/`ヽ、/| 遁 走 `ヽ、___ノ
/ |
お前さぁ、自分のブログで存分に書けば良いのに、何故に2chに糞スレを立てるんだ?
140 :
考える名無しさん:2006/01/26(木) 07:03:08
宣伝と反応を見るため以外にないだろが
141 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/26(木) 09:26:05
すなわちまなざしとは解釈項の総体である。
142 :
考える名無しさん:2006/01/26(木) 13:13:05
まさか
つかブログのコピペかよ。アフォか。
144 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 11:08:05
アネハでも、ホリエモンでも、アメリカ肉でも、露呈しているのは、
僕らは信頼関係の中で生きているということだろう。
だから「まさかそこまで」となる。
これはいかんともしがだいだろう。どのような規制をおこなおうが、環境管理技術を使おうが信頼関係は残る。
これは規制の問題ではなくコミュニケーションの問題である。
完全なコミュニケーションは存在せず、そこにはかならず「暗闇への飛躍」があり、
信頼で飛び込むしかない。
145 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 11:16:08
それは自己責任であり、リスク管理だ。すなわち確率論の世界で、これは「賭け」とも呼ばれる。
この賭けが興奮を生み、欲望を生み、生き生きとしたリアリティを生んでいる。
146 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 11:41:53
しかし毎日どこの誰かわからない人とコミュニケーションするのでは、耐えられない。
だからリスクを低減するために、社会は作動している。
法律などの国によるものだけでなく、道徳や社会的な常識のような教えとしての取り決めがある。
147 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 12:24:31
アネハでは一部国からの保障があるようだが、ライブドア株には保障はないだろう。
社会的「信頼」が低減し、国の補助も限界として、リスク社会であり、自己責任感の向上である。
それはたいへんな時代であるとともに、これが望まれているということが重要である。
148 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 12:36:15
リスクを低減するものは、社会性である。漠然とでも取り決めや、常識を共有し、それからはずれたことはしない、
はずれた人を避ける、排除するということで信頼は形成され、リスクは低減されている。
そして人々はこのような画一的な社会性を拘束と感じはじめている。
リスクが上がり自己責任が増えても、もっと価値を自己選択したい、自由でいたいと考えているのだ。
ホリエモン応援、小泉支持にはそのような願望がこめられている。
149 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 12:56:48
アネハやホリエモンがやりすぎだとしても僕達が「社会の底が抜ける」ことを
望んでいる以上、社会の漠然とした「信頼」は裏切られ続けるだろう。
たとえば最近は幼児殺害など「凄惨な事件」が増えているというとき、それは件数の問題でなく
「常識」的な理由、立場での「正しい」殺人ではなくなっている、すなわち「社会の底が抜けた」殺人が増えているという意味だろう。
150 :
考える名無しさん:2006/01/27(金) 15:52:50
なんだ、一年前の自治荒らしはぴかぁ〜だったんじゃん。
>>29-40はじゆんに粘着していたのと同種。
自分が荒らされているという自作自演をしているのはバレバレ。
>>29-40はぴかぁ〜の自演。
そして哲学板荒らしの犯人もぴかぁ〜。
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ヽニノ _,ノ
ヽ ノ .ノ / ̄`\、
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く |  ̄ `ヽ、/__ /
/`ヽ、/| まなざし命 `ヽ、___ノ
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152 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 19:17:16
■[エッセイ]なぜ「信頼」は裏切られ続けるのか。
社会という「信頼関係」
姉歯建築偽造問題でも、ホリエモン逮捕でも、アメリカ牛肉問題でも、露呈しているのは、僕らは
ある「信頼関係」の中で生きているということだ。だから「まさかそこまで」ということが起こる。これは
いかんともしがだいだろう。どのような厳しい規制、管理をおこなわれようが、「信頼関係」の領域は
残るだろう。
これは規制の問題ではなく、コミュニケーションの問題である。完全なコミュニケーションは存在せず、
他者との間にはかならず「暗闇への飛躍」があり、自己責任で、リスクを抱え、「信頼」を持ち、飛び込む
しかない。すなわちこれは確率論の世界である。
しかしだからといって、まるでジャングルを徘徊するように、毎日リスクの高い世界の中で、どこの誰か
わからない人とで会い続け、何がおこるかわからないことには人々は耐えられない。だからこのような
リスクを低減するために、「社会」がある。それは、国による法というだけではなく、道徳や常識な
どのような漠然とした決まりがあり、守られるだろうという「信頼」である。それらによって、世界は
ジャングルからリスクが低減した「人間社会」となる。
153 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 19:18:12
「信頼関係」という拘束
姉歯問題では一部国からの保障があるようだが、ライブドア株の暴落による損失には保障はない
だろう。社会の「信頼関係」が希薄になり、国の補助にも限界があり、リスクの中で、自己責任が
求められるというたいへんな時代である。しかし人々がこれを望んでいるということが重要である。
社会では、リスクを低減するために、漠然とでも取り決めや、常識を共有し、それからはずれたことは
しない、はずれた人を避ける、排除するということで「信頼」は保たれている。しかし人々はこのような
「社会性」を拘束的なものとして感じはじめている。
たとえばモヒカンなどの奇抜なファッションなどで、商店街の食堂屋にいくと、店員はその素性を詮索
する。あるいは詮索しているように感じでバツが悪くなる。あるいは近所の人とはきちんと挨拶をする。ある程度の愛想を交わしあう。そこには、人の間の「社会的な信頼関係」があり、それを裏切る相手は
恐怖である。
しかし最近マックなどのファーストフードや、コンビニ、ファミレスなどでは、このような「社会的な信頼
関係」は重視されない。どのような身なりだろうが、態度だろうが、同じスマイルで対応する。そして
なじみだからおまけする、などなく、誰に対しても規格化された、同じ味の料理が出される。客と
店員との間にあるのは、社会的な信頼関係はなく、店が決めたマニュアルだ。
154 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 19:19:14
「社会の底を抜き」生き生きしたい欲望
人々は、社会的なつきあいをめんどくさいもの、拘束と考えて、一つの身体として扱われることを望む。
しかしこれは人々の無気力化ということではないと思う。人々は社会的な「信頼関係」が古くなったと
考え、画一的な社会の価値の拘束でなく、多くにおいて趣味的な、より小さなコミュニティの小さな
価値観へ向かっている。
社会的に、リスクが増し、自己責任が増えても、自分なりの価値観を選択したい、「自由でいたい」と
考えているのだ。なぜなら、他者への「賭け」という緊張感において、欲望が生まれ、日々の生き生きと
したリアリティが生まれるからだ。もはや今までの社会的な「信頼関係」ではリアリティを感じることが
できないのだ。
このように社会的な「信頼関係」が崩れていることを宮台は「社会の底が抜けた」といった。たとえば
最近は幼児殺害など「痛ましい事件」が増えているというとき、それは件数の問題でなく、「常識」的な
理由、関係での「正しい殺人関係」ではなく、「社会の底が抜けた」殺人が増えているという意味だろう。
僕達は「社会の底が抜ける」ことを望んでいる。かつて貧しいときは、食料を手に入れるということ
だけで、ある種の「信頼関係」に賭ける必要があっただろう。それは望んでいなくても緊張感である。
しかし豊かになったいま、それは失われている。
リスクを低減するために社会を作り上げてきたが、人々はできすぎた社会の底を抜いて、現れる
「賭け」という緊張感を欲望し、生き生きしたいと望んでている。それは安易な選択であっても、
おそらく人はそのような緊張感(無垢)を欲望し続け、生きていくのだろう。
これが姉歯、ホリエモンの違法行為を正当化するものではないが、そのような社会の中で現れた
現象であり、今後も社会の漠然とした「信頼」は裏切られ続けるのではないだろうか。
194 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/01/25(水) 22:43:45
敗戦間際かな?昭和天皇が馬に乗って閲兵してる写真を見たが、
昭和天皇、まるまると太ってる。国民は食糧難、兵士は餓死している中ででっぷりしてるのは病気か何かか?
自分だけが肥えるほど食うなんてありえないはずなのに。
195 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/26(木) 18:58:08
>>194 東京大空襲で首都と人々が焼き尽くされても皇居の鹿の安否の方が気になるような人だったらしい
196 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/26(木) 20:55:59
心の貧しさが「あっそ」という無感動な表現にでている。
自分のせいで人が死んでも何にも感じない冷血漢。
156 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 19:57:33
ここにはいくつからの主張が隠されています。
>最近マックなどのファーストフードや、コンビニ、ファミレスなどでは、・・・人々は、社会的な
>つきあいをめんどくさいもの、拘束と考えて、一つの身体として扱われることを望む。
>しかしこれは人々の無気力化ということではないと思う。・・・社会的に、リスクが増し、
>自己責任が増えても、自分なりの価値観を選択したい、「自由でいたい」と考えているのだ。
>なぜなら、他者への「賭け」という緊張感において、欲望が生まれ、日々の生き生きとした
>リアリティが生まれるからだ。
マックなどで一つの身体として扱われることを望むことは、東は「動物化」と呼ぶ。そして
人々は「動物」としてまたーり生きていく、ということであった。
しかしボクはこれは、より欲望するための所作であるといっている。「動物化」とは、より「人間」で
あるためのものである、ということだ。人はどこかにニッチに欲望の対象を見いだしている。
より欲望するために、人は公共において「動物化」する。
157 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 19:58:22
>このように社会的な「信頼関係」が崩れていることを宮台は「社会の底が抜けた」といった。
>・・・僕達は「社会の底が抜ける」ことを望んでいる。・・・リスクを低減するために社会を
>作り上げてきたが、人々はできすぎた社会の底を抜いて、現れる「賭け」という緊張感を欲望し、
>生き生きしたいと望んでている。
宮台では、「社会の底が抜けている」のは、ポストモダン的な動向である。人々はこれに
対応して「動物化」してまたーり生きるが、それに耐えられず、安易に超越的なもの(新興宗教、エセ右翼など)に感染する。これをヘタレと嘆いていく。
しかしボクは、人々自身が社会の底が抜けることをと目指していると、いった。すなわちより欲望する
ために、人は公共において「動物化」する。それは、欲望するための無垢を生み出し続ける、
所作なのである。
単に不況で大企業的手法が行き詰っているとき他の方法にすがりたいだけだろ?
159 :
考える名無しさん:2006/01/27(金) 20:24:13
米軍は今年中にはイラクから撤兵するだろうな
160 :
考える名無しさん:2006/01/27(金) 20:27:40
だいたい新興宗教なんぞの感染者は増えてるのか?
161 :
考える名無しさん:2006/01/27(金) 20:32:00
米軍撤退=自衛隊撤退
162 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/27(金) 20:41:37
10人の女性と暮らしているおやじが逮捕されたけど、
あれなんか、危なくないか?
女性誘って、帰りに脅しただけだろう。
あれだけで、バッシング報道され、大げさにされて。
日本人の宗教アレルギーなんだろうけど、
不気味で怪しいけど、あの騒ぎ方は逆に怖いよ。
163 :
考える名無しさん:2006/01/27(金) 20:46:04
で増えてるの?
164 :
考える名無しさん:2006/01/27(金) 20:48:40
165 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 03:14:07
宮台は流動性が上がっている。それによって「社会の底が抜けている」といった。
確かに流動性が上がっている。
緊張感はすぐ近くにあり、「賭け」の場面は身近になる。
一歩踏みだけはそこにはジャングルである。
しかしそれ故に、保守化している。自ら檻に籠もっている。
そして、保守化の中で無垢への欲望が保守化しているのかもしれない。
安全な檻の中に籠もり、身近な無垢を暴力的に欲望する。
たとえば2ちゃんねるの匿名での誹謗中傷、ロリコンなどの弱いモノへ傾倒など。
すなわち「ヘタレ」である。
166 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 03:24:26
無垢を欲望するには、「正々堂々」とチャレンジしなければならない。
それが「己の欲望に情報するな」ということであろう。
なぜなら、「無垢への欲望」とは、他者からの承認である。
「おまえすごいな!」という承認である。
匿名であるよりも、懸命を、弱いモノよりを強いモノを、
それが本当に求める欲望である。それに譲歩しているのだ。
それが「ヘタレ」であるということである。
167 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 03:25:53
情報→譲歩
168 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 03:42:23
しかし「社会の底が抜けている」中で、僕たちの欲望する緊張感は、「健全」ではないかもしれない。
「社会の底が抜けて」、社会の流動性が上がっている中に、まさに緊張感はすぐ近くに現れる。しかし
それ故に、僕たちは、社会からこぼれ落ちないように懸命に保守化している面が多いのではないだろうか。
ここにジレンマがある。怖くて社会という信頼関係に依存する。しかしそれが退屈で、「緊張感」を
味わいたい。その象徴が「ひきこもり」であり、2ちゃんねるの匿名での誹謗中傷であり、ロリコンなどの
弱いモノへ傾倒などで現れている。すなわちこれは「ヘタレ化」と呼ばれる。
理想論であるかもしれないが、欲望は「健全」に行わなければならない。なぜなら欲望とは、「他者
からの承認」、「おまえすごいな!」という承認であるからだ。本当は引きこもりなどせずに社会で
他人に認められていだろうし、顕名で自己主張しみんなに同意されたいだろうし、愛する女性に
愛されたいだろう。「健全」な無垢への欲望とは、そのようなものであろう。
ここでの己が欲望は、感じた苦を滅したいと言うことかな。
無垢へと欲望とは「現実を動態としてダイナミックに捉える」無常を掴むことかな。
得たい承認とは「金、笑顔、まなざし、優しい言葉、席、宿」の布施かな。
本当に求める欲望、ヘタレとは「無欲でありたい」と尚更に欲することかな。
ヘタレ化とは利他の押し売り(悩んでいる人と一緒に悩んであげても解決に遠い…)かな。
健全、正正堂堂とは持戒(むさぼらないこと)かな。
ネタ切れ?
本当は動物なんだけど、いろいろなルールを守って人間の顔を
偽装しないと、経済の集団的鎖列に組み込まれるのに失敗して
生きるのに必要な金が手に入らないからね。普通は。お金がな
いとうまく生きていけないから、仕方なく社会のマインドコン
トロールに服従することを、大袈裟に言うと大文字の他者が
主体の環境になるってことじゃないの?
172 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 10:06:11
信頼に甘えて腕前が腐っていただけの話。
腕前を根底にするからこそ信頼がありうるのでは。
174 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 12:43:04
>>171 本当にそうでしょうか。
いろいろなルールを守って人間の顔を偽装するとは、まさに人間ではないでしょうか。
そこから伝わるのは、「どうせボクなんて」、「動物というセカイ的な現象に流されているんだから
仕方がないのさ」というニヒリズムではないでしょうか。
やはり、(無垢への)欲望を諦めてはいけないのでは、ないでしょうか。
それがどこにあり、到達することがあまりに困難であってもですね。
目先の快楽に迎合せずに、本当は自分は何がしたいのか。どのような状態になると最高の幸福を
感じることができるだろうかを懸命に想像しつづけ、そこに向けて欲望しつづけること。
そこから逃げてはいけないのではないでしょうか。
175 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 13:12:23
そして「最高の幸福点」は、決して到達しない点である故に、欲望し続ける必要があるだろう。
しかしこれはあまりにストイックな姿勢だろうか。ある意味でボクたちは逃避しているのは、まさに
このような強迫性かもしれない。「欲望」という言葉が暑苦しいものに感じで、「動物化」という
サラッと感が受け入れられる時代、とはそのような意味かもしれない。湧き上がる欲望をもてあます。
だから実践的な「救済」が必要なのだろう。いわばそれが「オタク」であり、最近では「プチクリ」などと
言われる、創造関係ではないだろうか。
176 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 13:39:39
消費関係とは、まず無垢が与えられそれを消費する快楽によって、
欲望を満たそうとすることである。
この問題は容易に与えられることによって、本当に求めているもので
なくても、それでひとまず満たされてしまうこと。
それによって、さらなる刺激的な快楽を求めるという、快楽中毒性が起こる。
それに対して、創造関係は無垢を他者との関係の中から自ら生みだしていく。
177 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 14:33:08
消費関係/創造関係とはコジェーブの言う
動物化/スノビズムに対応するのだろうか・・・
人のために死ねるのかといったら、今のところ分からない。川に子供が溺れてるとして最終的に自らを危険に晒して、助けるか。
たぶん自己保身のが優先でしょう。んー、やっぱりその場での状況かな。
ネタ切れ?
180 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/28(土) 20:44:17
ボク達は社会的な秩序が欠如してきているということではなく、
社会的な秩序が拘束的であるように感じている、あるいは抑圧的に
感じていると言うことだ。
それはすでにインストールされたもの(超自我、象徴界)であり、
それによって、信頼関係は約束され、他者の承認を得られるはずであったが、
現実はそうではない。それは古いモノだよと、言われる。
すなわち、自己否定である。それによって作動しているものを否定されるという
根元的な自己否定である。
181 :
まきな ◆I2rWVFDN2M :2006/01/28(土) 20:53:44
びかもしろうとも現実では相手にされないがな。びかのほうがまだ自覚的なだけましか。
182 :
考える名無しさん:2006/01/28(土) 21:09:34
捏造なんていっぱいある現実も知らないのか。捏造なんていっぱいある現実も知らないのか。
捏造なんていっぱいある現実も知らないのか。
捏造なんていっぱいある現実も知らないのか。
捏造というかハッタリだ。捏造というかハッタリだ。
捏造というかハッタリだ。
捏造というかハッタリだ。
184 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 09:38:11
身近な欲望に譲歩するヘタレ化
>>
このように社会的な「信頼関係」が崩れていることを宮台は「社会の底が抜けた」といった。・・・僕達は
「社会の底が抜ける」ことを望んでいる。・・・リスクを低減するために社会を作り上げてきたが、人々は
できすぎた社会の底を抜いて、現れる「賭け」という緊張感を欲望し、生き生きしたいと望んでている。
<<
宮台がいう「社会の底が抜けている」とは、「大きな物語の凋落」というポストモダン的な状況である。
そして人々はこれに対応して「動物化」してまたーり生きようとするが、それに耐えられず、安易に
超越的なもの(新興宗教、エセ右翼など)に感染するという。
しかしボクは、「社会の底が抜ける」のは人々がそれを望んでいるからだといった。すなわち人は
公共において「動物化」しているが、それは、より確実に欲望するための無垢を見いだすための所作
なのである。
しかし「より確実に無垢を見いだす」ということには、裏があるかもしれない。流動性が上がるという
ことは、緊張感はすぐ近くにあり、「賭け」の場面は身近になる。一歩踏みだけはそこには危険である
が、可能性が広がるジャングルである。
しかしそこに立ち向かうよりも、僕たちは、そのジャングルに恐怖し、社会からこぼれ落ちないように
懸命に保守化している面が多いのではないだろうか。ここにジレンマがある。怖くて社会という
信頼関係に依存する。しかしそれが退屈で、「緊張感」を味わいたい。安全な檻の中に籠もりながら、
手頃な緊張感を求める。たとえば2ちゃんねるの匿名での誹謗中傷、ロリコンなどの弱いモノへ
傾倒など。すなわちこれを宮台は「ヘタレ」と呼ぶ。「社会の底が抜けている」中で、僕たちの欲望する緊張感は、
「健全」ではないかもしれない。
185 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 09:57:19
「健全」な(無垢への)欲望
では、「健全」な欲望とはなんだろうか。引きこもりは本当は社会で他人に認められたいのではない
だろうか。2ちゃんねらーは顕名で自己主張しみんなに同意されたいのではないだろうか。ロリコンは
自分を理解してもらえる女性と愛し合いたいのではないだろうか。
欲望とは、「他者からの承認」、「おまえすごいな!」という承認を求めることであり、そこに
「最高の幸福点」がある。それは、金を持つこと、綺麗な女を連れてあるくこと、有名になることに
よって、他者にあこがれられるということではない。
では、想像できる「最高の幸福点」とはなにか。それを想像しつづけ、欲望し続けることが、「健全」な
欲望だろう。目先の快楽に迎合せずに、本当は自分は何がしたいのか。どのような状態になると
最高の幸福を感じることができるだろうかを懸命に想像しつづけ、そこに向けて欲望しつづけること。
そのためにはおそらく、檻からでて、ジャングルへ向かい本当の緊張感に身をさらす必要がある
だろう。なぜなら「(本当の)他者」はその先にいるからである。そしてそれが、決して到達しない
ものであっても、(無垢への)欲望を諦めてはいけないのでは、ないでしょうか。そこから逃げては
いけないということだろう。
186 :
考える名無しさん:2006/01/29(日) 11:18:19
187 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 12:29:50
「(お金でも、容姿でもなく、地位でもなく)私自身を愛して欲しい」
これは恋人達だけでなく、他者との愛のある関係で人々が求めるものである。
では「私自身」とはなんだろうか。
私自身と、お金、容姿、地位の違いは、代替可能性だろう。
私の財産が愛されているということは、同様に財産を持つ者が
現れれば、そちらでも良いと言うことになる、
容姿、身体特徴、地位なども同様であり、
代替不可能な、私自身という唯一性が愛されることを望むと言うことである。
188 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 12:39:13
では、「私自身」の唯一性とはなんだろうか。
これは心身問題における「心」ということであり、
私というのは、お金でも、容姿でもなく、地位でもなくなども
含めた環境から独立して存在するものだろうか。
そのような様々な関係性そのものと言えるだろうが、
しかしこれは「固有名」の議論で言われるところの、
確定記述に還元されない「もの」である。
それこそがまさに唯一性ではないだろうか。
たとえば、この「もの」をジジェクは欲望の対象であり、原因である
「対象a」であるといった。
そしてデリダはそのような「もの」は様々な誤配された情報が
事後的に転倒されたものでしかない、といった。
これが郵便的な誤配であったとしても、「私自身」といって
転倒されたものは、強く他者へと要求されているのである。
その意味で、ここで働いているのは「対象a」であると言えるだろう。
189 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 12:43:42
これはまさにボクの言う、「健全な(無垢への)欲望」に対応するだろう。
健全な無垢への欲望とは、「私自身」を他者に承認されることである。
私のお金でも、容姿でも、地位でもなく、「私自身」が承認されることが
望んでいることであり、そのようになるように、譲歩せずに目指すことそのものが、
「健全な(無垢への)欲望」である。
190 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 12:46:49
2ちゃんねるの匿名での誹謗中傷、ロリコンなどの弱いモノなどの傾倒は、
安全なところに身を置き、刺激を求めるという、目先の快楽へ譲歩している
のではないだろうか。
唯一な私として承認されること、愛されることという「最高の幸福点」を
譲歩失せずに目指し続けよう。それが「健全な(無垢への)欲望」である。
192 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 13:19:25
「(お金でも、容姿でもなく、地位でもなく)私自身を愛して欲しい」
これは恋人達だけでなく、他者との愛のある関係で人々が求めるものである。では「私自身」とは
なんだろうか。私自身と、お金、容姿、地位の違いは、代替可能性だろう。私の財産が愛されている
ということは、同様に財産を持つ者が、現れれば、そちらでも良いと言うことになる、容姿、身体特徴、
地位なども同様であり、代替不可能な、私自身という唯一性が愛されることを望むと言うことである。
では、「私自身」の唯一性とはなんだろうか。私というのは、お金でも、容姿でもなく、地位でもなくなども、含めた環境から独立して存在するものだろうか。私はそのような様々な関係性そのものと言えない
だろうか。これは「固有名」の議論に繋がるだろう。
たとえば、確定記述に還元されない「もの」をジジェクは欲望の対象であり、原因である「対象a」である
といった。そしてデリダはそのような「もの」は様々な誤配された情報が、事後的に転倒されたもので
しかない、といった。これが郵便的な誤配であったとしても、「私自身」といって転倒されたものは、
強く他者へと要求されているのである。その意味で、ここで働いているのは「対象a」であると言えるだろう。
193 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/29(日) 13:21:07
これはまさにボクの言う、「健全な(無垢への)欲望」に対応するだろう。健全な無垢への欲望とは、
私のお金でも、容姿でも、地位でもなく、「私自身」が承認されることが、望んでいることであり、
そのようになるように、譲歩せずに目指すことである。
2ちゃんねるの匿名での誹謗中傷、ロリコンなどの弱いモノなどの傾倒は、安全なところに身を置き、
刺激を求めるという、目先の快楽へ譲歩しているのではないだろうか。唯一な私として承認されるという
「最高の幸福点」を譲歩失せずに、目指し続けよう。それが「健全な(無垢への)欲望」である。
194 :
考える名無しさん:2006/01/29(日) 15:51:21
ロリゲームやロリビデオは果たしてロリコンが作っているのだろうか?
>これが郵便的な誤配であったとしても、「私自身」といって転倒されたものは、
>強く他者へと要求されているのである。
ぴかぁ〜って帰国子女なんか? それとも?
ネタ切れか
197 :
シンプルな話:2006/01/30(月) 09:32:41
もちろん、出来ることなら人間の偽装なんかしたくないけど、
お金のためにはしかたないと言うのです。無垢への欲望という
のは、ある程度のゆとりのうえに成り立つ話ですね。たぶん、
びかぁ〜は、社会に適応しなくてもすむくらい、親からの庇護
を受けているのでしょう。でももし、親の庇護がなくなって
しまったら、あなたも無垢への欲望とか余裕のあることは言って
いられなくなるのでは?と思う。
198 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 09:57:48
お金くんにとってのお金とはなんでしょうか。
199 :
シンプルな話:2006/01/30(月) 10:00:45
あなたはお金を使わないで、生きていますか?何をするにも
お金が必要です。ただ、寝るためだけでさえ、お金が必要なの
です。
200 :
シンプルな話:2006/01/30(月) 10:05:02
そして、お金は自然発生すりものではないので、
自分で多大なエネルギー(労働力)をつぎ込んで、つまりは
社会という文脈のなかで働いて手にいれるか、あるいは、誰か
から(たぶん親から)もらうかして、手にいれる以外にないのです。
201 :
シンプルな話:2006/01/30(月) 10:37:29
なぜ、親からお金をもらうことが出来るのでしょうか?
それは、そもそも俺が存在したのは、おまえの行為のせいだ・・
と、自分の存在の責任を親に転嫁する論法によってなのです。
親もこの論法を完全には論破できない・・・と感じるがゆえに
すでにいい歳の子供にまで、要求されれば金を与えることに
なるのです。
202 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 12:12:50
お金くんにとってのお金とはなにか聞いているのです。
シンプルにお願いします。
203 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 12:39:03
現代において無垢を欲望することの難しさは無垢がないことである。
すでに手垢がつき上質な無垢がないのだ。
フリーターでも引きこもりでもよいが、彼らがぶち当たるのは、それをすることの必然性である。
それは私でなくてもよいだろう、ということ、すなわち無垢がみいだせないのだ。
無垢とは幻想であり、そこに手が付けられていない無垢があるだろうから、オレは行かなければならない、そう求められているという錯覚から始まる
しかし情報化社会ではすぐに暴露される。
みながやり尽くした、マニュアル化されたゲームに欲望するだろうか
それでも隙間の小さな無垢を見いだし欲望しようとする、これが歴史の終わりに無垢が欠乏する中での生き方、スノビズムである。
無垢を復活しなさい
強制的に無垢におなりなさい
205 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 13:52:05
なぜ過剰に包装されるのか。
そこになにか大切なもの、隠さないとみなにとられてしまうもの、すなわち無垢が隠されているためだ。
しかしすでにお分りのようにかくすことそのものが無垢を演出している。
そしてまさにこれがコマーシャルの意味である。
あるものを見せて説明するのでなく、なんであるかわからないようにすることである。
206 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 14:08:04
僕たちはこのような消費的な無垢にあふれ、用意に手に入る。
このような消費的な無垢は質の悪い無垢である。お金と交換可能であることから唯一性が失われている。
しかし実質を売るものがなくなった消費社会では偽装された無垢が売られる。
207 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 14:27:50
質の良い無垢とは、より長く唯一性の幻想をみさせてくれるものである。
たとえばある少年の夢はサッカー選手だと言う場合にめざすという延命において質の良い無垢である。
すなわち延命とは想起をうながす関係性にある。
一発やって終わりの処女性ではなく、そこからも継続して欲望する関係性であり、
そこでは無垢は静的なものでなく、動的なものとなりそのダイナミズムを生む関係性である。
208 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 14:42:06
このようなダイナミズムは単に溶けにくい飴玉的に刺激を与えるだけではない。
私そのものを愛して、という還元されない私そのものはそもそもにおいて幻想であり、
無垢は私を名指すのでなく、継続させ、成長させるのであるから、
いわば無垢そのものがわたしそのものであり、ダイナミズムとは私をつくるのである。
209 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 15:43:57
だから「この私そのものを愛して」とは静的なものでなく、
私そのものを開拓する際に受肉することを望むのである。
このような関係をボクは創造的関係といったがより具体的には想像関係と象徴関係のバランスが求められる。
たとえばスポコンのライバルの創造関係では単なる闘争でないのはルールという秩序に支えられているからである。
この第三者の介在こそがアキレスと亀のパラドクスのごとく、決して接触し終わらない、漸近的な接近という開拓を可能にする。
210 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 15:52:56
資本主義システムとは無垢を生産し、消費することにより成り立っている。
共産主義はそのような無垢の虚構性を暴き、無垢なき完全な世界をつくるというイデオロギー的無垢により
人々の欲望を歓喜したが、実働では無垢排除の中で人々は無気力化した。
だからエコロジーの唯一の成功方法はエネルギー消費と無垢を切り離すことにある。
211 :
考える名無しさん:2006/01/30(月) 15:59:26
このスレにくると落ち着きます
ぴかぁ〜さんお互い頑張りましょう
212 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 17:00:38
しかしもはやスポコンが成立しない自体がある。
心の開拓という深化では無垢をみいだせない。結局のところみながおなじところを深化させる。
213 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 20:22:18
「なぜ過剰に包装されるのか」
なぜ過剰に包装されるのか。そこになにか大切なもの、隠さないとみなにとられてしまうもの、すなわち
無垢が隠されているためだ。しかしすでにお分りのようにかくすことそのものが無垢を演出している。
そしてまさにこれがコマーシャルの意味である。あるものを見せて説明するのでなく、なんであるか
わからないようにすることである。
僕たちはこのような消費的な無垢にあふれ、用意に手に入る。このような消費的な無垢は「質の悪い」
無垢である。お金と交換可能であることから唯一性が失われている。しかし実質売るものがなくなった
消費社会では偽装された無垢がもっとも大切な商品である。
では、「質の良い」無垢とはどのようなものだろうか。
214 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 20:23:18
「私そのものを愛して」
「(お金でも、容姿でもなく、地位でもなく)私そのものを愛して欲しい」これは恋人達だけでなく、
他者との愛のある関係で人々が求めるものである。では「私そのもの」とはなんだろうか。私自身と、
お金、容姿、地位の違いは、代替可能性だろう。私の財産が愛されているということは、同様に財産を
持つ者が、現れれば、そちらでも良いと言うことになる、容姿、身体特徴、地位なども同様であり、
代替不可能な、私自身という唯一性が愛されることを望むと言うことである。
では、「私自身」の唯一性とはなんだろうか。私というのは、お金でも、容姿でも、地位でもなくなども、
含めた環境から独立して存在するものだろうか。私はそのような様々な関係性そのものと言えない
だろうか。これは「固有名」の議論に繋がるだろう。たとえば、確定記述に還元されない「もの」を
ジジェクは欲望の対象であり、原因である「対象a」であるといった。そしてデリダはそのような「もの」は
様々な誤配された情報が、事後的に転倒されたものでしかない、といった。これが郵便的な誤配で
あったとしても、「私そのもの」といって形而上学的に転倒されたものが、強く他者へと要求されている
のである。その意味で、ここで働いているのは「対象a」であると言えるだろう。
客観性ならば、良人の稼ぎがよいとかで充分でしょう。
無垢であると、信仰心でしょうか。
216 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/30(月) 20:24:21
「私そのもの」というダイナミズム
これはまさにボクの言う、「健全な無垢への欲望」に繋がるだろう。「健全な無垢への欲望」とは、
私のお金でも、容姿でも、地位でもなく、「私そのもの」が承認されることが、望んでいることであり、
そのようになるように、譲歩せずに目指すことである。2ちゃんねるの匿名での誹謗中傷、ロリコンなど
の弱いモノなどの傾倒は、安全なところに身を置き、刺激を求めるという、目先の快楽へ譲歩している
のではないだろうか。唯一な私として承認されることを譲歩失せずに、目指し続けよう。それが
「健全な(無垢への)欲望」である。
そもそもにおいて、「私そのものを愛して欲しい」というときに、「私そのもの」という静的な何ものかで
あるわけではない。「私そのもの」はそもそもにおいて幻想である。愛する、されることによって、
「私そのもの」が開拓され、受肉されるのである。無垢は私を名指すのでなく、継続させ、成長させる
のであるから、いわば無垢そのものがわたしそのものであり、ダイナミズムとは私をつくるのである。
このような関係をボクは創造的関係といった。すなわち「私そのもの」が何ものかであるように開拓する
ような関係である。一発やって終わりの処女性ではなく、そこからも継続して欲望する関係性であり、
そこでは無垢は静的なものでなく、動的なものとなりそのダイナミズムを生む関係性である。
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ノ●) (●> |:,r=、:/
l , (_,、)、_ ι/
ヽトtェェヨイ ) トr'
ヽニノ _,ノ
ヽ ノ .ノ / ̄`\、
. ヽ、_i⌒i/, -''~ `ヽ、
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く |  ̄ `ヽ、/__ /
/`ヽ、/| まなざし命 `ヽ、___ノ
/ | T
218 :
考える名無しさん:2006/01/30(月) 22:00:27
219 :
考える名無しさん:2006/01/31(火) 02:02:51
ぴかぁ〜さんは「二極化社会」とか、「希望格差社会」「意欲格差社会」って
どう思うの?
221 :
シンプルな関係:2006/01/31(火) 09:20:27
びかぁのいう「無垢」というのは、ラカン的というよりむしろデリダ的な
差延作用とか、署名とか、エスパスマンに近い概念のようだな。デリダを
びかぁ的に翻訳しているような気がちょっとしたね。これはほめ言葉だよ。
ぴかあーさんに質問ですが。
なんで、「ふぉー」って
はやったんですかね?
223 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 09:46:07
>>219 結局、ボクがいってるのは現代、欲望するがむずかしいな、ってこと
豊かだからというのもあるが欲望の対象は幻想の上になりたつから、夢(幻想)をもちにくい。
あーなりたい、と思ってもすでにそれに関する情報にあふれてるから、ある程度シミュレートできてしまう。
サッカー選手になりたい。どれぐらいの確率でなれるか、どれだけの苦労があり、仮になれたとして引退あと結構きびしいなど
これは結局「どうせ死ぬならなぜ生きるのか?」につながる確率論の世界
その中で、いかに欲望しつづけ生き生き生きるか、
ホリエモンでもリッチなイメージ、うらやましさはない。みんなが支持したのはとても欲望的だった。
欲望をもっていたから。すべて想定内にかかわらず。欲望格差の時代だね。
224 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 09:47:37
ラカンとデリダはたいしてかわらない。
225 :
シンプルな関係:2006/01/31(火) 09:57:24
僕は欲望の対象なら、山のようにあるけどな。第一、本って欲望の
対象でしょう? 最近はやっぱりレヴィナスとかジジェクの思想を
理解したいな。鈴木謙介なんかもおもしろそうだし。(びかぁの
すきそうな「動物化するポストモダン」はどうしても買う気になれ
なかったけどね)
226 :
シンプルな関係:2006/01/31(火) 09:59:36
>>224 ええ〜〜。そんなことないでしょ。デリダはラカン嫌いだったんでは?
227 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 10:06:29
そんなものは欲望ではないだろうね。単なる暇つぶし、欲望からの逃避。
228 :
シンプルな関係:2006/01/31(火) 10:15:54
つまり、びかぁのいう欲望というのは、他者から承認されるような
新たな自己を開拓し続ける努力を続行せよ、ということなんでしょうね。
びかぁが、この板でやっていることこそ、まさにそれだと。だから、
単に本を理解したい、知りたいなんていうのは欲望のうちにはいらない
と言うんでしょう。それは、デリダ的な考えに近いだろうと、先ほども
指摘しましたがね。哲学ではもうひとつドゥルーズ的な欲望というものも
あって、あえていわせてもらうなら、僕のはドゥルーズ的な欲望である、
と言って置きましょう。
229 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 10:18:34
欲望とは夢を見続ける(信じつづける)努力だから
230 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 10:25:34
デリタとか、ドゥルーズとかがごまかしなんだよ。
だからなにがしたいの?自分を信じてんの?
それだけ
231 :
シンプルな関係:2006/01/31(火) 10:29:02
びかぁ〜ではなくぴかぁ〜だったかな? とにかくぴかぁ〜の
文章を読んでいて、これはデリダ、あの難解きわまるデリダ思想の
非常にわかりやすい解説のような気がしたのは、僕にとって大きな
収穫でしたよ。考えるヒントを貰ったようなね。
おじゃまします。ちょっと質問なんですが、
>>224の話っていうのがちょっと
自分も分からないのですが、というか彼らの本読んでないので当然なんですけど(笑)。
ラカンの思想で気になるのは、あれやっぱりヘーゲル主義なんじゃないか。大文字の他者
とはフランス共同体なんじゃないか。やっぱりラカンは資本主義に抗する共同体としての
カソリックを支持しているんじゃないか。
という感じがしちゃうんですよ。そこで問題になるのは、ユダヤ人問題で、デリダはユダヤ人
なんですね。実際、彼はユダヤ人であることを意識したような思想を展開するわけです。
そこが結構政治的問題としてあるんじゃないか。つまり、ラカンが言うようなことは結局
反ユダヤ主義への根拠につながりかねないと。そんな言い方されちゃ困りますよ、という。
233 :
シンプルな関係:2006/01/31(火) 10:31:53
なにがしたいのと言えば、そりゃさきほども述べたとおり、僕の
アンテナが欲望するものをかたっぱしから消化したいですね、そりゃ。
それが、僕の欲望ですからね。
234 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 10:37:43
本を読むのが悪いわけではないが、そんなもの欲望じゃない。
というか、なんのために読みたいのか掘り下げたところに欲望はあるんだろう。
きみ、掘り下げる勇気はないと思うが
235 :
シンプルな関係:2006/01/31(火) 10:43:20
だから、あなたとわたしの欲望の概念は違うと申しあげたでしょ。
なんのためにって、それはあなたにとってはもちろん「世間」「聴衆」
に認められたい、って事なんだが、わたしにとっちゃ、欲望するから
欲望するんでね。なんのためにと言うことはないですよ?欲望はそれ
自体が快楽ですからね。欲望できることが。
236 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 10:52:06
ドゥルーズは分裂病分析だから欲動と欲望を混同している。
スキゾとパラノの違いだ。
ただ欲望するなんかありえない精神病でもないかぎり
キミの欲望は誰かの欲望なのは明らかだろ
さあ、なぜその本を読みたいのかほりさげるのだ。そして底無しの穴におちていくのだ。
そのときどぅるーす的欲望などないことがわかるだろう
237 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 11:06:44
欲望は抑圧された無意識にあるが、それを現前化するところからはじめなければならない。
シンプルくんのように現代はそれが避けられる。それは内省することがだるいのでなく
現前化することが恐いのである。
たとえばシンプルくんが本を読むのは哲学に詳しいかっこよい人になりたい、さらにはちょっとした文章を書きたい、ということであり、さらにその先は語らないが
それを現前化することはこのか弱い夢が現代の発散的社会に耐えられないことをしっているからである。
この環境圧に負けて、みながどうせおれなんかと、シニカルに向かい、他者をこきおろす。
彼らの決めゼリフは「この世界にたしかなものはない」である。
238 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 15:21:13
■ジャングル化する社会
人間社会とはジャングルから秩序を建設することであった。そのような社会的秩序は階級構造に
よってなりたっていた。うまれながらに居場所、行為が規定されている。民主化とはそもそもが
社会構造解体の流れをもつ。平等であることは競争で、位置ポテンシャルは上昇し、社会的な
規律は低下する。
抑圧され欲望とは、高い秩序性によるものでなく、秩序性がゆるんだ余裕に生まれる。
すなわち秩序と解体の対立、社会的であれ、と主体化しろのダブルバインドに欲望は生まれる。
そして現代、いよいよ社会が老朽化して底が抜けた。社会の流動性はいよいよ上昇し、
ジャングル化して、自然淘汰の世界へ向かう。
欲望は社会的な抑圧から解放されるが、それに変わって現れるのが、自然淘汰的環境圧である。
社会的な抑圧はある規範がありそれに従えということであり、環境圧は、好きにしろ、だた生き残れ。
ということである。構造改革、規制緩和、自由度の向上と言われるが、それはまた、
サバイバルな環境圧が上昇することである。
239 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 15:21:55
このような状況では、欲望は難しくなる。欲望は社会への反抗によってなりたっている。
「好きにしろ」という環境圧へは反抗は成り立たない。選択はサバイバルする(立ち向かうか)、
頭を低くしてより保守化するの選択である。
そして保守化とは、またシニカル化である。欲望は現前化することができない。このか弱い夢が
現代の発散的社会に耐えられないことをしっているからである。この環境圧に負けて、
みながどうせおれなんかと、シニカルに向かい、他者をこきおろす。彼らの決めゼリフは
「この世界にたしかなものはない」である。ジャングル化した社会では、生きることに対して
姑息であらねばならない。匿名で愚痴をこぼし、弱い者イジメをする。
ジャングル化する社会で、いかに生きるべきか。
欲望は意味をもつのか。主体とはなにか。動物化で生き残れるのか。
240 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 15:47:44
再度言えば、ジャングル化した社会とは、流動性があがり、偶有性が増え、なにが正しく、何が
間違いか不明確で、各自がリスクをもって競争する社会である。それは当然、格差社会を生むし、
勝ち組、負け組を生むだろう。今までは、なんとなく総中流的に守られていて「なんとかなるだろう」
意識は、挫折させられるだろう。もともとも社会には格差がある。民主主義的平等とは、格差を
均質化するものではなく、平等に競争した格差を認める社会であることが、ありありと現れるだろう。
どの時代において、負け組や下流層は必ずいた。そして、「なんとかなるだろう」では、負け組に
なる可能性は高い。
動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。
豊かな日本幻想から抜けられないものたちの、一時的な幻想である。だから、保守化して、環境圧に
負けて、「おれなんか」とシニカル化する。そして、匿名で、他者をこきおろすか、弱い者イジメを
するしかできない、というように、「ヘタレ」るのである。
もはや、サバイバルに出かけなければならない生きられなくなるだろう。そこでは「私とはなにか?」
という欲望する世界は、シミュラークルな世界であり、ツインタワーのように崩壊する運命にある。
ただサバイバルすることが重要になり、テクニカルに生き残ることが求められる。
2chにブログ書いてるのがテクニカルな生き残り方なのか?
ぴかさん、すみません
>>232の辺りをよかったら教えていただけませんか(笑)?
あと
>>240にある、
> 動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。
という部分ですが、ここがちょっと自分は分からないところなんですよ。というのは、逃避って
言ってよいのかなと。ジャングル化とか、競争社会という話は別に新しいものじゃない。何に
対して競争するかというと、貨幣を取得する競争ですね。貨幣とは何かといえば、社会的信用です。
つまり、市場原理というのは社会信用を得ようと競争している状態のことです。
ところが、信用というのはそれ自体が力を持つ。金を持つものはますます金持ちになります。
そこで再配分という考えがでてくるわけですね。
こういった、貨幣という中心へ向けて皆が競争させられてしまう状況を疎外論で語り、その
解決は疎外されてない自己への回帰であると主張したのが、昔の左翼だったと思います。
それはソ連の崩壊と共に崩れたと言っていい。
しかし、一方で資本主義の矛盾が解決されたわけじゃありません。しかし、疎外の克服という
ストーリーはソ連と共に崩れた。今対策としてあるのは、
そこで、ニートっていうのは
面白いあり方なんですよ。つまり、彼らは疎外論で語れないわけです。
すみません、途中で飛ばしてしまいました。
再掲します。
> 動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。
という部分ですが、ここがちょっと自分は分からないところなんですよ。というのは、逃避って
言ってよいのかなと。ジャングル化とか、競争社会という話は別に新しいものじゃない。何に
対して競争するかというと、貨幣を取得する競争ですね。貨幣とは何かといえば、社会的信用です。
つまり、市場原理というのは社会信用を得ようと競争している状態のことです。
ところが、信用というのはそれ自体が力を持つ。金を持つものはますます金持ちになります。
そこで再配分という考えがでてくるわけですね。
こういった、貨幣という中心へ向けて皆が競争させられてしまう状況を疎外論で語り、その
解決は疎外されてない自己への回帰であると主張したのが、昔の左翼だったと思います。
それはソ連の崩壊と共に崩れたと言っていい。
しかし、一方で資本主義の矛盾が解決されたわけじゃありません。しかし、疎外の克服という
ストーリーはソ連と共に崩れた。今対策としてあるのは、適度に金持ちから税金を取って、
社会保障によって安心感を得ようというぐらいです。
そこで、ニートっていうのは面白いあり方なんですよ。つまり、彼らは疎外論で語れないわけ
です。克服しようともしてないし、そもそも社会的信用としての貨幣の方向へ顔が向いてない
わけです。これは資本主義にとって最も手強いかもしれない(笑)。
あとですね。ジャングルで採集とかやっている人たちって競争はしてませんよね。ジャングルという
インフラの上で、腹がへったり、気が向いたときにブラっと来て、生えているものをとってると。
あと、狩猟採集社会って平等なんですよね。所有という観念がないと言われます。だから、格差という
のもないわけです。
ニートってそれに近くないですか?人がつくりあげた社会インフラ上で好き勝手やっていると。これ、
共産主義者のイメージに一番近いということになります(笑)。
245 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 18:02:02
>>232 前にも説明しましたが
ラカンの象徴界はフロイトの超自我です。フロイトはユダヤ人です。
またハイデガーの世間というのもあります。ハイデガーはナチです。
ようは思想、宗教のことをいっていても特定のということはありません。
246 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 19:28:13
>ららら、むじんくん
まず、ジャングル化とはなにかを的確に把握しないといけないと思います。それが競争社会である
のは、結果論です。ボクは「社会的な抑圧から自然淘汰的環境圧へ」と言いました。
たとえばなぜいま人間が栄えているのか。それは恐竜が滅んだからですね。強者である恐竜がなぜ
ほろんだか、環境が激変したからです。隕石の落下?で気温が冷えた。その環境では、弱者だった
ネズミ(ほ乳類)が強者になったのです。それから進化して人間が生まれたのです。
ジャングルは強者、弱者の競争場ですが、その環境がどうなるかわからない、不確実性な場である。
だから、ジャングル化する社会とは、競争社会である前に、不確実性社会です。
現在の不確実な社会では、貨幣を取得すること、社会信用を得ることが、生き残る可能性を
高めますが、確実に勝てるとは限らないのです。元インテルのアンディ・グローブは
「パラノイア・イズ・サバイバル」と言いました。「神経症のように絶えず回りを警戒するものだけが
生き残るのだ」ということです。一度の勝ったから、お金を儲けたから、次勝てる保証はない、
ということです。
なぜ狩猟採集社会の人々とニートが同じなのでしょうか。彼らは、サバイバルのために、ボクたち
よりも日々、懸命でしょう。「 動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル
化からの逃避である。」というのは、彼らはサバイバルしていないということです。たしかに相対主義
社会ですから、必ずお金持ちを目指す必要はないでしょう。しかし問題は、彼らが、自立して生きて
いくことができないと言う意味で、不確実性な環境圧から逃げている、ということです。
247 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 19:28:46
たとえば彼らは打算的にニート、引きこもりをしているなら良いのです。お金持ちのボンボンが
親の財産で遊んで暮らすというのは、古くからあることです。しかし彼らにはそのような打算も、
サバイバル意識もありません。ただ逃げているだけです。途中で社会にでても負け組ですし、
親が死んだら、路頭に迷います。
彼らの親が社会に厳しさをしらずに、ある意味で幸福な社会を過ごしたために、子供が引きこもる
ことの深刻さがわからずに、甘やかしているのです。彼らはそのような気分のままで、生きている
のです。いつの時代にも下流、負け組というのは存在し、冷静に考えれば、もはやそう生きるしか
ないのに、サバイバルせずに逃げているのです。
248 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 19:37:33
彼らは時代の犠牲者だ、というのは簡単ですが、現実的に彼らはジャングル化する社会の中で、
取り残されていくでしょう。
そして彼らの最後のセリフはおそらく「なぜ生きなければならないのか」でしょう。そんな必死に
サバイバルする必要などない。ということです。「なら早く死ね。」といってしまうと、終わって
しまいます。そうではなくても、いくらなんと口で言おうが、「生きたい」のだということです。
人は「生きたい」から生きているわけではなく、すでに生きつづけるように、生きているのです。
だから「なぜ生きなければならないのか」、「死んでやる」こそが逃げていることそのものです。
「ただサバイバルすることが重要になり、テクニカルに生き残ることが求められる。」のです。
249 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 19:41:07
「パラノイア・イズ・サバイバル」はボクの好きな言葉の一つですが、
これは、百獣の王ライオンでもかわらない、まさにサバイバルの極意ですね。
そこまでして生きたくないのではなく、そこまでしないと生きられないのが、
ジャングル化する社会なのです。
250 :
考える名無しさん:2006/01/31(火) 19:42:39
baka
251 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 19:57:55
欲望とは隠すことによって想起する。見えそうなミニスカートの中であり、性の対象としては
いけない幼児であり、そこになにかがあるわけでなく、隠されることで、現れる。この隠すとは
社会である。社会があり、その禁止によって、欲望が生まれる。
ジャングル化した社会では、社会の底が抜けて、世界があらわになる。そこでは、欲望は、
隠されることを欲望する。禁止されることを欲望する。盗んだバイクで走り出すとは、
禁止されることを欲望し、走り出すのだ。そこでは禁止としての「死」を近接するのである。
ジャングル化する社会では、究極的には「死」さえも禁止されない。
そこでは、もはや欲望することはできない。
>>246 > 現在の不確実な社会では、貨幣を取得すること、社会信用を得ることが、生き残る可能性を
> 高めますが、確実に勝てるとは限らないのです。
実際には残念ながらそうなってません。例えば、ピカ氏が100億円入手できたとします。それを運用すれば、
100億にお金が吸い寄せられるようにして増えていくんですよ。この辺は旧来の経済学だけではなくて、
最近はスモールワールド理論などでも数学的に検証されてますね。お金の流れはある部分に集中
してしまうのですが、その最大の理由は投資によるものです。つまり貨幣が資本に転化すると、
経済的格差が広がっていくんですね。稼いで使っているだけだとそうはならない。また、金持ちが
財産を投資にまわさなければ、はやり格差は狭まります。
一方で、商品というのは自然淘汰と同様の過程を経ていると考えていいと思います。しかし、
それを作り出す労働というのは、社会的抑圧構造によって成立しているのです。
> なぜ狩猟採集社会の人々とニートが同じなのでしょうか。彼らは、サバイバルのために、ボクたち
> よりも日々、懸命でしょう。
それは我々文明人の偏見ですよ。実際には勝手気ままに生活しているそうです。そりゃそうでしょう。
腹が減ったらどっかに取りにいけばOKですからね。種を撒いて、収穫までずっと厳しい労働を我慢する、
なんてことしないでいいんですよ。
ニートというのは昔の有閑階級と似たようなものですが、しかし階級的バックボーンなしにやっていける
というのが新しい。それだけ社会が豊かだからでしょうけど、そもそも社会的信用とか、見栄みたいな
ものを捨ててるような感じがありますよね。ここが結構重要で、負け組とか一生懸命言っているのは
ニートじゃない連中なのです。ニートは別に負けとか勝ちとかどうでもいいと思うのですね。
>>248 > そして彼らの最後のセリフはおそらく「なぜ生きなければならないのか」でしょう。そんな必死に
> サバイバルする必要などない。ということです。
例えば、自殺するというのは自らの状況に関して自分自身が納得ができないから死ぬわけです。
逆に言えば、それだけ自分のあるべき姿を強く描いているといえる。しかし、ニートはそれが
無いんじゃないか。だから、生きるとか死ぬとかじゃなくて、単に生きているという感覚だろうと
思います。
人間が「あるべき姿」を強く持つようになったというのは、割と最近かも知れません。狩猟採集している
時代だったらなかったと思いますよ。実際、労働が無いということはそういうことですからね。環境の
変化で生活が成り立たなくなれば、どこか他の場所へ移動したり、ダメったら死んでいったのです。
こういう生活を人類史の殆どの期間やっていた。それがジャングル生活ってものです。
254 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 21:18:09
>>246 100億円の試算があろうが、バブルの崩壊後、なにが起こったかみれば、明らかですね。
経済を、数学的に検証することの不可能性は、いわずもがなではないでしょうか。
狩猟採集社会の人々は気楽だった説ははじめて聞きました。平均寿命はいかほど
だったのでしょうか。江戸時代でもたしか40才ぐらいだったと思いましたが。
ニートというのは昔の有閑階級と似たようなもの説もはじめて聞きました。
そんな気楽ではないようですよ。やはり将来の不安に日々さいなまれるようです。
たしかに40、50才でニートだと、
シャレにならないものがあります。サバイバル意識があり、将来を考えている人にはなかなか
できないでしょう。
255 :
考える名無しさん:2006/01/31(火) 21:20:14
管理人【紹介】…「この腐った世界。堕落して行くこの世…。怠惰な人間社会…。この進行にピリオドを打つのは彼しかいない。
そして、彼しか残されていない。
有名私立大学付属高校首席(東京都)が絶対に人類を変えてくれる。」
この思想を持った彼は革命を起こすのに最も相応しい世界、政界へと将来足を踏み入れることにした。
彼の叔父も現職国会議員なのだが、役に立ちそうも無い。矢張り、英才教育を受けた彼しか居ない。
「新時代思考掲示板」新思想創造同盟【掲示板】は
主に個人の思想・哲学・政治・非現実的な話等、様々な議論が飛交しています。
本物の社会復興へと目を向け、新しい世界を創造して行く事が目的です。
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>>249 > 「パラノイア・イズ・サバイバル」はボクの好きな言葉の一つですが、
あはは。いや、実際にはそういう時代は終わっていくんじゃないかと思うんですよ。ケインズは
大恐慌の最中、似たようなことを考えていました。仮に当時より10倍社会が豊かになったと
仮定すると、もう労働というものは人間にとって主要な問題じゃなくなるだろうと。そのとき、
人間を長期間拘束していたものが無くなるがために神経症になっちゃうんじゃないかと(笑)。
共産主義社会というのは、生産が無くなるわけじゃないんですね。生産活動が所謂"労働"とならない
社会、遊びと等価になる社会です。腹が減ったので何か取りに行く、という狩猟採集民と同じ感覚で
労働が行われれば達成といってよい。
そういう意味では、ニートは何もやらないのであれですけど、フリーターというのはそれに近いのです。
社会のインフラを利用して適当に必要な分だけ稼いで生きるということですね。
>>254 > 100億円の試算があろうが、バブルの崩壊後、なにが起こったかみれば、明らかですね。
> 経済を、数学的に検証することの不可能性は、いわずもがなではないでしょうか。
それは100億持たない"負け組"の発想です。実際にバブル崩壊後に犠牲になったのは、100億
持つ側じゃないくて、持たない側だったのです。
> 狩猟採集社会の人々は気楽だった説ははじめて聞きました。平均寿命はいかほど
> だったのでしょうか。江戸時代でもたしか40才ぐらいだったと思いましたが。
そりゃ寿命は短いですけどね。気楽でいいんじゃないですか。もちろん、色々な集落があったでしょう
から一概には言えませんけどね。河合雅雄さん、サル学の有名な方ですけど(河合隼雄氏の兄らしいです)
とにかく未開と呼ばれる人たちの生活は暇であると。で、延々とおしゃべりしているらしいですね。文明人は
テクノロジーに追われますから遥かに忙しいのですね。
> そんな気楽ではないようですよ。やはり将来の不安に日々さいなまれるようです。
それはまぁそうかも知れませんが、開き直っているのも多いんじゃないですか?そこまで
いったら前適応しているのかもしれない(笑)。
258 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 21:37:00
>人間を長期間拘束していたものが無くなるがために神経症になっちゃうんじゃないかと(笑)。
そのような意味はどこにもありませんよ。また、読まずに書き込み病がでていますよ。せっかくの
長文ですから、落ちついて読み、書くを心掛ける方がよいと思います。
>そういう意味では、ニートは何もやらないのであれですけど、フリーターというのはそれに近いのです。
>社会のインフラを利用して適当に必要な分だけ稼いで生きるということですね。
マルクス的な理想主義ですね。必要なところに必要なものを、無駄を排除する。まさに
マルクス主義の失敗そのものですね。資本主義が成功したのが、無駄そのものにあります。
なぜならそれが欲望だからです。
どうように、ニート、フリーターを理想化するのは、知識人劣等感からくる誤謬ではないでしょうか。
かつて肉体労働者を美化したような。
彼らはある意味で普通です。ただ出口が見つからず、やる気をなくしているだけです。
259 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 21:45:12
>それは100億持たない"負け組"の発想です。実際にバブル崩壊後に犠牲になったのは、100億
>持つ側じゃないくて、持たない側だったのです。
これは明らかに嘘でしょう。
>とにかく未開と呼ばれる人たちの生活は暇であると。
暇であったのはそうかもしれません。たとえば野生動物も暇そうといえば、暇そうですから。
それとサバイバルの大変さとは異なると思いますよ。
さきほどの「パラノイア・イズ・サバイバル」でいえば、野生動物はパラノイアだ。ということに
なると思います。ちょっとした気配、音にも敏感である。それがジャングルをサバイバルするという
ことですね。たとえば、飼い犬と野生化した犬の違いを考えてもわかるのではないでしょうか。
>>258 > >人間を長期間拘束していたものが無くなるがために神経症になっちゃうんじゃないかと(笑)。
> そのような意味はどこにもありませんよ。また、読まずに書き込み病がでていますよ。
いや、ちゃんと読んでます。これは皮肉ですよ(笑)。
> マルクス主義の失敗そのものですね。資本主義が成功したのが、無駄そのものにあります。
> なぜならそれが欲望だからです。
欲望がある方向に回路付けられている。その回路を決定している主体がいる。その主体は資本です。
なので、そこが解消されれば無駄を包摂した形で気楽にやっていけると思いますよ。
> 彼らはある意味で普通です。ただ出口が見つからず、やる気をなくしているだけです。
サバイバルといいますが、別に今サバイバルしてたって直ぐに適応できなくなる可能性は低くないわけです。
むしろ、サバイバル!って頑張っている連中こそがいいように使われて捨てられていく。自然淘汰で環境変異に
最もやられやすいのは適応しすぎた種なのです。
>>259 > これは明らかに嘘でしょう。
実際には銀行は税金で救われ、株価は政府が買い支え、従業員の給料をカットし、雇用を減らし、
使い捨ての超低時給労働者をうまく使い、等などによって過去最高の「経常利益」を出している。
注意すべきは、利益は出てるが売り上げは上がってないのです。
> 暇であったのはそうかもしれません。たとえば野生動物も暇そうといえば、暇そうですから。
> それとサバイバルの大変さとは異なると思いますよ。
いや、大変じゃないらしいです。これは本当みたいですよ(笑)。
262 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 21:59:13
少し込み入りましたが、むじんくんのいうことは「動物化」ですね。
これからは、欲望することなく、のんびり、まったり生きていく。
ニート、フリーターは時代を先取りした先鋭的な人々であると、
ですね。
ボクは彼らは単にビビっているだけだと、考えます。
幸せな時代の親に幸せに育てられ、外の厳しさに耐えられない。
彼らが仮にのんびり、まったり生きていていも、それは
親へ寄生してのことなのです。
しかし先鋭的な人々と言う意味では、ジャングル化した社会での
一つの生き方かもしれません。昼は穴蔵に引きこもる夜行性な
臆病な小動物的です。それでも、彼らの生存は自立していますが。
263 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:05:30
あとは、むじんくんの左曲がりがよくわかったということでしょうか。
左特有の、世界の完全な秩序という主知主義ですね。
そこでには肉体労働者はもっとも美しく、ニート、ひきこもりは
ニュータイプである。
264 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:10:47
一つの疑問は、
なぜ「欲望」は嫌われるのか、ということだ。
この熱いもの、ウエット感は暑苦しい、マジ、かっこわるいと
最近では嫌われる。
http://yaplog.jp/maiddeyokatta/ ------
2ちゃんの連中が見てるところでお店のことを書いてもまあ所詮けなすか尾鰭をつけるだの
なんだのってなるだけだから、こういう場合は絵空ごとでもアップした方が
いいでしょう。
あまりメイドさんの言質をここで書くのもまずいですが、今日は「ぜんぜん気にもしてない
ですよー」というお言葉を頂戴します。
…何をぜんぜん気にもしてないのかは、気にされてない本人以外はたぶん誰でもわかるの
でしょうけど。
あと、2ちゃんねるの書き込み自体も、なんかもう慣れちゃったか何かみたいで、あんまり
何とも思ってないとか…ただ、「俺が悪口を書いた奴です」とわかって優しくするほど寛大でも
ないでしょうが。
最後に、ここではお店の人の言動や行動をスレのやつらに知らせるわけにはいかない。
266 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:34:38
■ジャングル化する社会
@ジャングル化する社会
人間社会とはジャングルから秩序を建設することであった。そのような社会的秩序は階級構造によって
なりたっていた。うまれながらに居場所、行為が規定されている。民主化とはそもそもが社会構造解体
の流れをもつ。平等であることは競争で、位置ポテンシャルは上昇し、社会的な規律は低下する。
抑圧され欲望とは、高い秩序性によるものでなく、秩序性がゆるんだ余裕に生まれる。すなわち秩序と
解体の対立、社会的であれ、と主体化しろのダブルバインドに欲望は生まれる。
そして現代、いよいよ社会が老朽化して底が抜けた。社会の流動性はいよいよ上昇し、ジャングル化
して、自然淘汰の世界へ向かう。欲望は社会的な抑圧から解放されるが、それに変わって現れる
のが、自然淘汰的環境圧である。
社会的な抑圧はある規範がありそれに従えということであり、環境圧は、「好きにしろ、だた生き残れ。」
ということである。構造改革、規制緩和、自由度の向上と言われるが、それはまた、サバイバルな
環境圧が上昇することである。
267 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:39:21
A不確実性
ジャングル化とはなにか。それが競争社会であるのは、結果論である。たとえばなぜいま人間が
栄えているのか。それは恐竜が滅んだからだ。強者である恐竜がなぜほろんだか。環境が激変した
からだ。隕石の落下?で気温が冷えた。その環境では、弱者だったネズミ(ほ乳類)が強者になり、
進化して人間が生まれたのだ。ジャングルは強者、弱者の競争場だがが、その環境がどうなるか
わからない。ジャングル化する社会とは、競争社会である前に、不確実性社会だ。
ジャングル化した社会とは、流動性があがり、偶有性が増え、なにが正しく、何が間違いか不明確で、
各自がリスクをもって競争する社会である。それは当然、格差社会を生むし、勝ち組、負け組を
生むだろう。今までは、なんとなく総中流的に守られていて「なんとかなるだろう」意識は、挫折させ
られるだろう。もともとも社会には格差がある。民主主義的平等とは、格差を均質化するものではなく、
平等に競争した格差を認める社会であることが、ありありと現れるだろう。どの時代において、負け組
や下流層は必ずいた。そして、「なんとかなるだろう」では、負け組になる可能性は高い。
268 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:41:15
B「パラノイア・イズ・サバイバル」
現在の不確実な社会では、貨幣を取得すること、社会信用を得ることが、生き残る可能性を高める
が、それで確実に勝てるとは限らない。元インテルのアンディ・グローブは
「パラノイア・イズ・サバイバル」と言った。「神経症のように絶えず回りを警戒するものだけが
生き残るのだ」ということだ。一度勝ったから、お金を儲けたから、次勝てる保証はない、ということだ。
「パラノイア・イズ・サバイバル」は、百獣の王ライオンでもかわらない、まさにサバイバルの極意だ。
そこまでして生きたくないのではなく、そこまでしないと生きられないのが、ジャングル化する社会
なのだ。
269 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:42:25
C欲望の不可能性
もはや、サバイバルに出かけなければ、生きられなくなるだろう。ただサバイバルすることが重要に
なり、テクニカルに生き残ることが求められる。
そこでは「私とはなにか?」という欲望する世界は、シミュラークルな世界であり、ツインタワーのように
崩壊する運命にある。欲望は社会への反抗によってなりたっている。「好きにしろ」という環境圧へは
反抗は成り立たない。
欲望とは隠すことによって想起する。見えそうなミニスカートの中であり、性の対象としてはいけない
幼児であり、そこになにかがあるわけでなく、隠されることで、現れる。この隠すとは社会である。
社会があり、その禁止によって、欲望が生まれる。
ジャングル化した社会では、社会の底が抜けて、世界があらわになる。そこでは、欲望は、隠される
ことを欲望する。禁止されることを欲望する。盗んだバイクで走り出すとは、禁止されることを欲望し、
走り出すのだ。そこでは禁止としての「死」を近接するのである。ジャングル化する社会では、究極的
には「死」さえも禁止されない。そこでは、もはや欲望することはできない。
270 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:47:59
Dヘタレ化
選択は、サバイバルする(立ち向かうか)、頭を低くしてより保守化するか、選択である。保守化とは、
ジャングル化した社会での一つの生き方だろう。昼は穴蔵に引きこもる夜行性な臆病な小動物的で
あり、「パラノイア・イズ・サバイバル」 の一つの形である。
しかし多くにおいて保守化とは、シニカル化である。欲望は現前化することができない。この環境圧に
負けて、か弱い夢を語ることは滑稽であり、許されない。みなが「どうせおれなんか」と、シニカルに
向かい、他者をこきおろす。ジャングル化した社会では、生きることに対して姑息であらねばならない。
匿名で愚痴をこぼし、弱い者イジメをする。
271 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 22:55:52
E動物化
動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。彼らは
サバイバルしていない。たしかに相対主義社会であり、必ずお金持ちを目指す必要はないだろう。
しかし問題は、彼らが、自立して生きていくことができないと言う意味で、不確実性な環境圧から逃げ
ている、というだ。
たとえば彼らは打算的にニート、引きこもりをしているなら良い。お金持ちのボンボンが親の財産で
遊んで暮らすというのは、古くからあることだ。しかし彼らにはそのような打算も、サバイバル意識も
ない。ただ逃げているだけだ。途中で社会にでても負け組であり、親が死んだら、路頭に迷う。
彼らの親が社会に厳しさをしらずに、ある意味で幸福な社会を過ごしたために、子供が引きこもる
ことの深刻さがわからずに、甘やかしている。彼らはそのような気分のままで、生きている。いつの
時代にも下流、負け組というのは存在し、冷静に考えれば、もはやそう生きるしかないのに、
サバイバルせずに逃げているのだ。彼らは時代の犠牲者だ、というのは簡単ですが、現実的に
彼らはジャングル化する社会の中で、取り残されていくでしょう。
そして彼らの最後のセリフはおそらく「なぜ生きなければならないのか」だろう。そんな必死に
サバイバルする必要などない。ということだ。「なら早く死ね。」といってしまうと、終わってしまう。
そうではなくても、いくらなんと口で言おうが、「生きたい」のだということだ。人は「生きたい」から
生きているのではなく、すでに生きつづけるように、生きているのだ。だから「なぜ生きなければ
ならないのか」、「死んでやる」こそに意味はない。「ただサバイバルすることが重要になり、
テクニカルに生き残ることが求められる。」だ。
272 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 23:18:23
人々は、豊かさにより、社会秩序を抑圧として感じ、ジャングル化することを望んでいる。
より自由をになることを意味するが、それとともに不確実化するというリスクがともなう。
しかしもはや、ジャングル化は資本主義の必然である。
このような中で、以下の傾向が現れている。
・競争から降りる。(ニート、引きこもり)
・欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かう。(ロリコン、幼児殺害など)
・はけ口がより匿名へ、弱い者へ、より集団化へ向かう。(2ちゃんねるの誹謗中傷)
273 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 23:24:16
・瞬間的な快感によって紛らわせる。(動物化)
・欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かう。(リスカ)
274 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 23:41:52
この熱いもの、ウエット感は暑苦しい、マジ、かっこわるいと
最近では「欲望」は嫌われる。逆にライトは、シニカルなスタンスが
好まれる。
これはまさに、ジャングル化社会に対応している。
ジャングル化社会では、素直な執着は危険である。
その不確実性を理解していれば、執着は回避されるだろう。
アイロニカルで、シニカルで、クールな姿勢が求められる。
しかしここでは欲望の原理が失われているわけではない。
作動しているのは、欲望の原理そのものである。
275 :
考える名無しさん:2006/01/31(火) 23:42:32
なにこのバカ
276 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/01/31(火) 23:47:31
では、ジャングル化社会での勝ち組の所作とはいかようなものだろうか。
それは、サバイバルすることが目標であるが、負けると「死ぬ」わけではない。
不確実性の勝ちとは、やはり「無垢への欲望」が求められるのだろうか。
すなわち「この私そのもの」という充実である。
だいたいサヨクってどこにいるの?
ウヨがよく引き合いに出す「中韓に謝罪しろ」とか「世界市民」とか言ってる奴なんて、
2ちゃんに4年近くいる俺ですら、全く見たことがないんだけど。
逆に「そういう脳内仮想敵=サヨと戦っている人々」=ウヨはたくさん見かけるんだけどね。
278 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 00:13:17
ジャングル化=「不確実性社会」と、「競争社会」の違いには、
慎重であることが必要でしょう。
「競争社会」とは資本主義ゲームの上に成り立っています。
勝ち負けは、多くにおいて豊かさという価値によって語れます。
しかし不確実性社会では、「欲望の充実」、「この私そのもの」という充実を
基準にしますが、これはどのような形でえられるのかは、相対的であり、不明です。
それを探すことそのものがゲームであると言えます。
しかしこれは個人に閉じた価値ではなく、欲望は他者の欲望としてあり、
「この私そのもの」という充実とは他者の承認であるために、
多くにおいて、他者と共有された豊かさが一つの目安にはなります。
その意味で競争社会と重なっています。
279 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 00:16:47
このような意味では、むじんくんのいうような、ニートはニートなりの、
価値を見いだしている、と言えるかもしれません。
しかしここで問題は、「この私そのもの」という充実とは他者の承認であることから、
ニートなりの価値などないということです。
ニートは欲望に譲歩していることによって、勝ち組ということは難しいのです。
280 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 00:39:44
ニートが他者を目指していないように、
勝ち組だって他者を目指していないのでは?
>>276 これじゃ否定神学だよ。宗教だよ。
あらゆる疑問に対して
>>278のように避け続ける
どうどうめぐりの中心に開いているのが「私」でしょ?
ときどき働いて、時々休めばいいような社会設計を
出来ないってのがなんで前提にならないのさ。
マルクス主義は死んだ。大きな物語は消えた。
リスク化する社会はジャングル化=不確実社会ですよ。
だからといって「多極化」した心たちをそういった
言説で包括するのは否定神学だよ。宗教だよ。
そこから立ち上がる「〜の」二極化が社会を引き裂く。
「多極化」の上に原理主義が築かれる。
ぴかぁ〜さん、「無垢」が愛というなら、「他者との関係は
面倒だけど楽しいものなんだ」とかそう言う方向で話が
進まないのかな?愛は関係性でしょ?
281 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 00:40:28
>>280 まちがい
ときどき働いて、時々休めばいいような社会設計を
出来ないってのがなんで前提なのさ。
282 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 00:46:02
>>280 それをぴかぁ〜は実践している。
しばらく観察してな
283 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 00:56:37
>>280 否定神学ではなく、「この私そのもの」とは幻想である、と言いました。
だから欲望し続けるのです。
仕事とは多くにおいて、収入の糧ではなく欲望の対象なのです。
仕事によって、「この私そのもの」が承認されるのです。
仕事をしている人は仕事が楽しいのです。
愛は関係性ですが、そこに闘争があります。
楽しさと苦しさは相補的ですね。なかなか手に入らない、
その苦労が無垢を生むのです。
ネタ切れか。
285 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 01:16:20
>>283 なんとかならないですかね。
仕事が楽しいと言っても、多くは神経症的にそこに
依存していて、自己を破壊するか他者を破壊するか、
いずれにしろろくな結果になりません。
監視社会が「みんな」の欲望であるのは間違いないんですが、
この「みんな」に入る資格があるのは仕事をしている神経症者
だけなんですよね。どんどんインフラ、どんどん監視。止めどない。
「窒息するオフィス」とか「働き過ぎのアメリカ人」とか、それと
補完関係にある「浪費するアメリカ人」とか、アングロサクソン
モデルを日本は無理やり入れようとしすぎですよ。
こんな労働は嗜癖(アディクション)です。
286 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 01:17:02
究極的には生活全てが社会的関係で保証され、自由な時間が
開いていくことが人間的発達のはずなのに、資本の運動に
引きずり回されて、片やニート、片や神経症でしょう。
フリーターや派遣社員は奴隷階級ですよ。正社員より働いても
給料少ないし、年齢制限あるし。みんなで神経症になって燃え尽きて
その灰燼に光を見いだしていく蛾みたいな生物になる以外ないんですかね、
人間は?
私は今村仁司さんの「近代の労働観」で「近代的労働は苦役に過ぎない」という
率直な意見を支持しますよ。今の労働はどれもくっだらないです。
ホリエモンを肥え太らすために光り回線獲得のお姉ちゃんが空っ風吹く
アキバの街で声を張り上げて、あんな労働どこが楽しいですか?
今の仕事、労働はみんなそうです。山田昌弘が「希望格差社会」であけすけに
語ったように、欲望のまま労働できる人間なんてごく一部です。その他はそれを
支える奴隷労働です。こんな世の中をジャングルかと呼ぶならブルトーザーで
整地したいです。インフラしたいです。
287 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 01:29:04
勝ち組は快楽という幻想へ、負け組は明日への不安という幻想へ
前のめりに進んでいくけれどそこで歩みをゆるめないで集団自殺する
ネズミみたいにめちゃくちゃにやり合うしかないんですかね、現代は。
やっぱり本気ですごい仕事したくても、一律8時間とかにして、
医者とか研究者とかがんばらなきゃ行けない人には名誉職だけ
与えて、後はまったり暮らすような競争のない社会がいいですよ。
「こころ」をお互いに認め合うのに競争はいらないでしょ?
ニートもひきこもりも受け入れるのには時間がかかります。
効率性とは釣り合わない。だからどちらを取るのか、その判断が
必要となりますが、市場の判断は効率性です。これに対立できるのが
「こころ」なんじゃないですかね?
ニート、ひきこもりよ、ともに明るい未来を築こう、これでどうですか?ぴかぁ〜さん!
288 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 02:07:18
人間という存在が神経症である、というのは精神分析のテーゼですね。
欲望とはそもそも過剰なのです。たとえば今のあなたの言説も過剰なのです。
その中にすでに、過剰に現状をなんとかしようという気持ちが入っている。
そこに無垢をみいいだそうとしていますね。
>フリーターや派遣社員は奴隷階級ですよ。正社員より働いても
>給料少ないし、年齢制限あるし。
彼らを「下流」というならば、「下流」でしょう。いつの時代の社会には「下流」がいる、
ごくごく当たり前のことです。
それが最近取り上げられるのは、今まではたとえば、貧しい家庭は子供の教育も
不十分で、中卒で働くに出すという、下層は下層だという暗黙の前提があって、
これはこれで、当たり前とされていたわけですが、
総中流の時代になって、誰が下層をするのかとなったときに、フリーターや派遣社員などの
中流出身者という人々が下層に「落ちぶれる」ので、ある種の同情的に語られるのです。
誰かが下層である、ということはいままでも、これからの変わらないでしょう。
民主主義は、生まれながら下層でなく、入れ替え制のチャンスを与えるシステムです。
しかし誰かが負け組になるのは、資本主義だけの問題ではないと思います。
だからいやなら努力するしかない。それがジャングル化する社会ですね。
289 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 02:16:54
>>288 努力したら上に上がれるなんて言うすてきなお言葉じゃないですよね?
290 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 02:21:38
だいたい、なら下層の心はどうなるんだっつー話でしょ。
頑張っても頑張っても下層の人は、それでもがんばって病んでいく。
あのね、パート=短時間とフリーター・派遣社員=正規職員と何ら変わらない
という前提があるんですよ。その上で賃金場だけで差別されているんです。
この現状は、更に仕事をがんばったって上に上がれるものではない。
「アマゾン・ドット・コムの光と影」でも読んでみてください。
必至になって一分間3冊本をピッキングし続けて8時間働いて、楽しい労働で
すっきりですか?欲望は満たされましたか?欲望を満たすための消費財を
変えるだけの賃金ですか?ステップアップするための教育も技術上の習得も
ない状態で、これでも死ぬほど仕事することが果たして「欲望をあきらめない」
ことなんですかね?
291 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 02:23:48
>>288 >民主主義は、生まれながら下層でなく、入れ替え制のチャンスを与えるシステムです。
誰もこんなこと信じちゃいませんよ。制度としても成り立っていないし。ひどすぎます。
292 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 02:31:07
このまま二極化が進むことは富む者の集団と貧しい者の集団に
分かれるわけではなく、富むもののネットワークとそれ以外、という
図式になりますよ。そしたら貧しいものが出来ることと言ったら、
テロしかないじゃないですか。
結局テロ社会とセキュリティ社会の到来ですね。金持ちはバリケードで
囲まれ雇ったセキュリティ会社に守らせるわけだ。すてきなアメリカンドリーム!
欲望は労働なんかじゃないですよ。少なくとも近代における労働じゃない。
労働の「くだらなさ」と向き合わないと話は常にその周辺で終わります。
仕事はつまらないのです。面白い仕事なんて出来る人はごく一部なんです。
それでも生きて行かなきゃならないんです。出来る人と出来ない人の間に
広がる「バカの壁」を問題にするしかないでしょう。
293 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 02:31:34
「社会には下層となる誰かが必要である。」という端的な事実が
あるだけです。
下層とは黙々と安い賃金で働くものです。
最近の下層はご託が多い。だから正規職員にせずに、入れ替えるのですね。
>誰もこんなこと信じちゃいませんよ。制度としても成り立っていないし。ひどすぎます。
ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる
機会だ」というセリフがありましたね。
294 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 02:34:35
292さんはフリーターのようですね。
むじんくんが言っていたように、ニート、フリーターは
先鋭的に好きな時に仕事をする、とても気楽で、幸福な?
人たちだ、ということとは、実情はほど遠いようですね。
295 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 03:09:31
ゲームに参加するのも
ゲームから降りるのも技術が要るんだよ
296 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 07:13:50
そうかな?
297 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 07:33:36
そうだよ?
298 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 07:51:38
今日も引き篭もるの?
299 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 08:16:58
こちとら税金払ってんだ。
引きこもって何が悪い!
>>262 > ニート、フリーターは時代を先取りした先鋭的な人々であると、
> ですね。
もちろん、彼らにそういう意識があるとは思いませんよ。しかし、前適応ということは考えられる。
僕らの住む社会は、既に生産手段が高度に発達している社会です。そして、「俺は正社員だ」と
偉そうにしている人間の大半は、あってもなくても別に人間の生存に関わらない、本質的に
どうでもいい商品やサービスを生産している。
じゃあ、どうして依然として駆り立てられているのだろうか?生産手段を持たないからですよ。
そして、生産手段はある特定の人間の私有財産であり、その主体は労賃を求める人間に
「死ぬ気で働け」と叱咤激励するのです。
なので、そういう社会構造は"疎外"であるとして、ブルジョアを打倒して自らの手に生産手段を
奪回すればよい、というのが古い左翼思想だった。それは単にブルジョアの席に共産党員が
座っただけだったし、失敗したわけです。
> ボクは彼らは単にビビっているだけだと、考えます。
それはそうなのです。しかし、ビビって撤退しているということが、前適応かも知れない。僕は
撤退できないので(笑)、想像でしかありませんが、撤退してみると目の前には広大な商品群
が存在し、生産手段が存在する。そこに対して、好きなようにアクセスできたらどうだろうか?
フリーターとはそういう存在です。これはブルジョアを疎外の要因として打倒するというのとは
決定的に違うし、疎外論の罠=旧社会主義の失敗にもはまってないんですね。
疎外論の罠とは何か。これはピカ氏ならラカンを引き合いに説明できるでしょうけど、錯覚に
対する闘争になってしまうということですね。疎外する主体というのは、実は疎外されている
(感じている)主体の欲望によってつくられたものであり、相補的になっている。だから、
実際にブルジョアを打倒した国は、同じように抑圧する主体を設定してしまう。
上にブルジョアとは生産手段を所有する主体だと言いましたが、それを成立させているのは
労働者がその生産手段で労賃を引き出そうとしているからであり、なぜある生産手段に
引き寄せられるかというと、それが長期的な生活の安定につながる、高い労賃につながる、
そう考えるからです。
フリーターはそこが違ってます。ある生産手段を恒常的な自らの生活保障をするものとして
考えないのです。だからこそ、彼らは資本から自由でいられる。動機は様々でしょう。積極的に
自由でありたいと考えるものもあれば、単に恐れているのかもしれない。しかし、資本によって
つくられた回路から自由であるわけです。当然、彼らは近代的主体ではありません。一定方向へ
走り続けるという強迫性が欠けている。
具体的な政策論で言えば、フリーター、派遣といった非正規雇用という概念自体を法的に無効に
する必要があります。つまり、同一労働同一賃金を徹底する。しかし、本社機能のような、非常に
つぶしの利かない労働に関しては、転職の困難さなどを考慮して、ある程度優遇することを許可する。
そうなれば、誰も正社員なんてバカバカしくてやらないでしょうから。皆フリーター化します。特定
生産手段に隷属すると、環境変異で淘汰されてしまいますから、広く浅く仕事するようになるかも
しれないし、ある能力がずば抜けている人間は、スペシャリストとしてやっていくことでしょう。
303 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 12:31:06
■「ジャングル化する社会」と「競争社会」の違い
@下流社会
人々は、豊かさにより、社会秩序を抑圧として感じ、ジャングル化することを望んでいる。より自由に
なることを意味するが、それとともに不確実化するというリスクがともなう。しかしもはや、社会の
ジャングル化は必然である。
最近、「下流社会」と言われるが、「競争社会」と同じ次元にある。いつの時代の社会には「下流」が
いる、ごくごく当たり前のことだ。「社会には下層となる誰かが必要である。」という端的な事実がある
だけだ。下層とは黙々と安い賃金で働くものです。最近の下層はご託が多い。だから正規職員に
せずに、入れ替えるのだろう。
それが最近取り上げられるのは、今まではたとえば、貧しい家庭は子供の教育も不十分で、中卒で
働くに出すという、下層は下層だという暗黙の前提があって、これはこれで、当たり前とされていた
わけだが、総中流の時代になり、誰が下層をするのかとなったときに、フリーターや派遣社員などの
中流出身者という人々が下層に「落ちぶれる」ので、ある種の同情的に語られだろう。
誰かが下層である、ということはいままでも、これからの変わらないだろう。民主主義は、生まれ
ながら下層でなく、入れ替え制のチャンスを与えるシステムである。しかし誰かが負け組になるのは、
資本主義だけの問題ではないと思う。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば
誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、いやなら努力するしかない。それが
「競争社会」である。
304 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 12:32:30
Aジャングル化社会=非競争社会?
ジャングル化=「不確実性社会」を単に「競争社会」ととらえると本質を見失うだろう。「競争社会」とは
資本主義ゲームの上に成り立っている。勝ち負けは、多くにおいて物質的な豊かさという価値によって
図られる。しかしジャングル化社会での勝ち組の所作とは、サバイバルすることが目標である。
不確実性の勝ちとは、「無垢への欲望」が求められるだろうか。すなわち「この私そのもの」という
充実である。ここでは、本質的に競争社会は成り立たない。人それぞれの目指すゴールが異なる
からだ。
そのような意味では、ニート、フリーターには、世間でなく自分の価値を目指しているのだという、
いつものいいわけが現れる。それぞれのやり方がある。この相対主義が、不確実性の特徴でもある。熱い
もの、ウエット感は暑苦しい、マジ、かっこわるいと最近では「欲望」は嫌われる。逆にライトは、
シニカルなスタンスが好まれる。これはまさに、ジャングル化社会に対応している。ジャングル化社会
では、素直な執着は危険である。その不確実性を理解していれば、執着は回避されるだろう。
アイロニカルで、シニカルで、クールな姿勢が求められる。
305 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 12:33:44
Bニートはなぜ負け組なのか。
しかしここでは欲望の原理が失われているわけではない。作動しているのは、欲望の原理そのもの
である。たとえば、彼らに見られる傾向は、端的に欲望論によって動いていくことがわかる。
・競争から降りる。(ニート、引きこもり)
・瞬間的な快感によって紛らわせる。(動物化)
・欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かう。(ロリコン、幼児殺害、リスカ、自殺願望など)
・はけ口がより匿名へ、弱い者へ、より集団化へ向かう。(2ちゃんねるの誹謗中傷)
だから、ジャングル化(不確実性)において、価値の相対化がおこっても、「欲望の充実」を目指す
ゲームであることには代わりがない。欲望は他者の欲望としてあり、「この私そのもの」という充実とは
他者の承認であるために、多くにおいて、他者と共有された「競争社会」的な豊かさを目指すことが
一つの目安となっている。
お金、地位などを目標にしないことは良いし、目標はそれぞれであるということも良い。まさに
「下流社会」、「競争社会」が隠蔽しているのもは、あたかもみなが同じ物質的豊かさを競うゲームを
しているように見せかけていることである、ことも確かである。しかしそこにサバイバルがないこと
ではない。欲望を充実されるというサバイバルはあり、それを放棄することが物質的で豊かで
あっても、なくても、「負け組」なのである。
>>303 > 誰かが下層である、ということはいままでも、これからの変わらないだろう。民主主義は、生まれ
> ながら下層でなく、入れ替え制のチャンスを与えるシステムである。しかし誰かが負け組になるのは、
> 資本主義だけの問題ではないと思う。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば
> 誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、いやなら努力するしかない。それが
> 「競争社会」である。
この記述は"日本型社会主義"が成立していた頃の話です。バブル崩壊後、そこは変わってきてます。
もはや、一生懸命学歴社会をよじ登るという行為はペイしないのです。
じゃあ何が上流への道か。金を持ち、投資することです。しかし、それも結局より大きな資本へ統合されて
いくことになる。昔だったらマルクスの資本論とかでしたが、今はスモールワールド理論などで数学的に
証明されてますよ。
307 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 12:49:38
>むじんくん
むじんくんのニート、フリーターニュータイプ論は、最近のサヨの流行りですね。
それの典型が、マルチチュードですね。社会的にあぶれて人々が、回帰し、
資本主義を打倒する。サヨの怨念です。
これに対する反論は、サヨがなんと言おうと、このような「救世主」は、
資本主義の発展そのものが生みだし、いまの資本主義の典型的な人々である、
ということです。
たとえば、マルチチュードは資本主義的グローバリズムによって可能になる。
良く言われるのは、アルカイダ(彼らをマルチチュードと呼ぶかどうかは別にして)は
アメリカが作り出したということですね。
むしんくんのニート、フリーターニュータイプ論が資本主義的な豊かさ、過剰によって
存在可能になっている、おこぼれに預かっているということです。
全員がニート、フリーターの社会が、かつての共産主義的なものならば、
ふたたび、崩壊するわけです。
典型的な、忘れた頃に回帰するマルクス的欲望(世界から過剰をなくしたいという過剰)です。
>>307 > むじんくんのニート、フリーターニュータイプ論は、最近のサヨの流行りですね。
そうなんですか?それは知らなかったです(笑)。
> これに対する反論は、サヨがなんと言おうと、このような「救世主」は、
> 資本主義の発展そのものが生みだし、いまの資本主義の典型的な人々である、
> ということです。
それは、反論になってませんよね(笑)。というか、マルクスがどっかで書いたことそのまま
ですよ。プロレタリアというのは、資本主義の発展なしには存在しないのです。
> むしんくんのニート、フリーターニュータイプ論が資本主義的な豊かさ、過剰によって
> 存在可能になっている、おこぼれに預かっているということです。
おこぼれに預かっていない人って誰ですか?そんな
人は資本主義社会にはいませんね。
問題は、ある特定の方向に駆り立てられている、その力の源泉なのです。そこから自由に
なるにはどうすればよいか、という問題です。
> 全員がニート、フリーターの社会が、かつての共産主義的なものならば、
> ふたたび、崩壊するわけです。
かつての共産主義なんて全く認めてないし、それは古い疎外論からきたものであることは
説明しました。フリーターというのは、疎外論に当てはまらない行為だからこそ注目される
のです。
こういうことなんですかね。
まなざしの快楽=古典的な疎外論
ということで、それを肯定的に見ようと。皆で白痴風に現状肯定でやっていきましょうということですか。
310 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 13:23:03
>>309 疎外論で展開すれば、人間はその存在において疎外された存在であり、
決して取り戻せないものを求め続けることが欲望ということでしょう。
だから、むじんくんのサヨ志向は、べたなサヨ的欲望であるということです。
疎外している超越的存在(プルジョア・・・いまどきブルジョアもないですが、)を
措定しているのです。
>問題は、ある特定の方向に駆り立てられている、その力の源泉なのです。そこから自由に
>なるにはどうすればよいか、という問題です。
311 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 13:35:03
歴史は終わったのですから、問題は、革命でなく耐久です。
むじんくんのような幸せな二項対立は「無垢」を捏造します。
むじんくんは、それで、歴史の終わりをサバイブしているのでしょうが
多くの人は、もはやそのような単純な「無垢」には欲望でいません。
それならば、唯物決定論の方が好まれるでしょう。
ニート、フリーターの問題も、いかに欲望するのかです。
そして、いかにサバイブするかです。
312 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 13:57:41
フリーター、ニートは、自分らしさにこだわる、
より欲望深き人々と言われます。
これは欲望深い人々がフリーター、ニートになったのか、
あるいはフリーター、ニートになることで、欲望深くなるのか、
が考えられます。
ボクはどちらかというと、フリーター、ニートになることで、欲望深くなる
傾向が強いと考えます。すなわち社会から孤立すると、無垢が欠乏しやすくなる。
仕事とは、安易な無垢の供給装置になっています。
現代はこのような、無垢の供給装置が作動しにくくなっている、
あるいは既存社員に独占されている面があるでしょう。
だから、フリーター、ニートになることで、より欲望深く、「私らしさ」
に神経質になる。しかし無垢は欲望すればするほど、求めれば求めるほど、
逃げていく幻想です。そのような耐久性に耐えることが、フリーター、ニートの
課題ではないでしょうか。
>>310 > 疎外している超越的存在(プルジョア・・・いまどきブルジョアもないですが、)を
> 措定しているのです。
それは古い社会主義思想でしょ。フリーターは疎外論にならないという話をしているんですよ。
抑圧に対して反発し、打倒するという方向ではなく、「あ、じゃあ俺やめます」っていうわけですからね。
これは新しいんじゃないの?
314 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 15:53:21
>>313 フリーターは新しくなんともない。ただの下層だ。
いっているのです。
それが新しいのは、古い社会主義思想に立脚した
考え方をするからですね。
そんな革命思想は、いまどき誰も魅力など感じない、
ということですね。
>>314 > フリーターは新しくなんともない。ただの下層だ。
> いっているのです。
> それが新しいのは、古い社会主義思想に立脚した
> 考え方をするからですね。
"下層"っていうのが古い発想に立脚した言説でしょ。あなたが言うように、努力しない
からだとか、何だかいうのは古典的な疎外論を裏側からみた発想ですよ。
フリーターっていうのは、そういう構図から降りちゃってるわけですから、新しいのです。
316 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 16:21:05
一本とられましたな…
フリーター的存在が成立するのは条件があります。生産手段が高度に発達し、衣食住レベルは
取るに足らない労働時間で取得ができるということです。狩猟採集生活が豊かな環境を前提とするように、
フリーター的生活は豊かな生産手段、商品群を必要とします。そして、これは先進国では殆ど達成
されている。大半の人間は、あってもなくても構わない商品生産、或いはサービス労働に従事している
からです。
あとはそこに介入している搾取を制限する。具体的には、雇用のカテゴリーを撤廃する。正規/非正規
労働という区分を撤廃すればよい。
318 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 16:30:32
>>315 下層は古い発想に立脚した言説ではなく、どのような社会でも
普通に下層は存在します。
古典的な疎外論など、今時、どうでも良いんです。悪いですが・・・
>>318 > 下層は古い発想に立脚した言説ではなく、どのような社会でも
> 普通に下層は存在します。
おやおや、普通に下層が存在するって(笑)。それどういうことですか?「何で下層が存在するか」
という問いの前で思考停止する理由があるんですか?
320 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 16:42:00
階層が存在しない、「平等」な社会など存在しない。
だから、下層が存在しない社会もない。
ただそれだけのことですよ。
まぁしかし、古典的疎外論をバカにして疎外論以前の現状肯定な言説になってしまうというのは、
別にピカ氏だけではない。そういう意味ではソ連崩壊というのは大きかった。少なくとも冷戦中は
日本国内でも財界はある程度の緊張感を雇用に関して持っていたが、そこから自由になれた
わけだ。小泉改革とは、そういう下部構造を言語化したものである。ピカ氏の哲学も同じ。
>>320 > 階層が存在しない、「平等」な社会など存在しない。
> だから、下層が存在しない社会もない。
> ただそれだけのことですよ。
いや、ラカン読者なのに社会階層問題ではどうして弁証法から目をそらすんですかね。
書いている内容は古典的な疎外論でしょ(笑)。ヘーゲルが書いていることですよ。
ただ、今はヘーゲルやマルクスが抽象的に語っていた時代とは一歩前進していて、
ネットワーク理論などで数学的に表現できるし、コンピューターで階級が分かれていくのも
シュミレーションできるということです。そういう点では理科系の人間によって証明まで
されてしまっている。
323 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 16:54:58
ジジェクは最近のサヨの情けなさを嘆いています。
もはや誰も革命など信じていないし、現状を享受して、
それが変わらないことを知っている故に、
いまだに古い疎外論、二項対立でクダをまく。
おやじが酒を飲んでの昔話ということです。
これでほぼ、はなしが終わっていると思います。
それでもフリーター形態を選民へと展開するという、革命ごっごをお望みなら、
こちらのスレが適当だと思います。
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1119260494/l50 むじんくんのニート、フリーターニュータイプ論は、最近のサヨの流行りですね。それの典型が、マルチチュードですね。社会的にあぶれて人々が、回帰し、資本主義を打倒する。サヨの怨念です。
これに対する反論は、サヨがなんと言おうと、このような「救世主」は、資本主義の発展そのものが
生みだし、いまの資本主義の典型的な人々である、ということです。
たとえば、マルチチュードは資本主義的グローバリズムによって可能になる。良く言われるのは、
アルカイダ(彼らをマルチチュードと呼ぶかどうかは別にして)はアメリカが作り出したということですね。
むじんくんのニート、フリーターニュータイプ論が資本主義的な豊かさ、過剰によって存在可能に
なっている、おこぼれに預かっているということです。全員がニート、フリーターの社会が、かつての共産主義的なものならば、ふたたび、崩壊するわけです。
典型的な、忘れた頃に回帰するマルクス的欲望(世界から過剰をなくしたいという過剰)です。
>>323 何か勘違いしているようですが、二項対立を所与のものとして肯定しているのはピカ氏ですね。
下流っていうのがあるんだと。ピカ氏の現状肯定思想の裏側に、全共闘世代のオヤジがいると
いうわけです。
僕が言っているのは、フリーターっていうのはそこから脱落しちゃってるということなんですよ。
そこが新しいと思うわけ。別にフリーターが革命起こすとか一言もいってませんよ。選民とか
そういうイメージでもない。単に、そういう人が増えていくと、二項対立が地盤沈下するんじゃ
ないかということです。
325 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 17:18:54
>>324 やっと話が、現実的になりましたね。
読みたいように読むことは、控えるように、お願いします。
ボクは下流とは、物質的豊かさを基準にした幻想、「競争社会」として、
あり続けると言っているのです。経済格差が均一化する社会はないということです。
それはフリーターでも、肉体労働者でも、貧乏人でもよいが、
いまフリーターと言われる人々は、そこにいるということです。
それが疎外された人々であるというなら、そうですが、
地盤沈下もなにも起こりません。
だた物質的豊かさだけが全てじゃないということ、いまさらですが
良く言われますね。このような観点、すなわちマルクス主義の
中途半端な欲望論でなく、より緻密な欲望論から、
ジャングル化(不確実性)は考えられるだろうということです。
326 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 17:37:19
■「ジャングル化する社会」と「競争社会」の違い
@下流社会
人々は、豊かさにより、社会秩序を抑圧として感じ、ジャングル化することを望んでいる。より自由に
なることを意味するが、それとともに不確実化するというリスクがともなう。しかしもはや、社会の
ジャングル化は必然である。
最近、「下流社会」と言われるが、「競争社会」と同じ次元にある。いつの時代の社会には「下流」が
いる、ごくごく当たり前のことだ。「社会には下層となる誰かが必要である。」という端的な事実がある
だけだ。下層とは黙々と安い賃金で働くものです。最近の下層はご託が多い。だから正規職員に
せずに、入れ替えるのだろう。
それが最近取り上げられるのは、今まではたとえば、貧しい家庭は子供の教育も不十分で、中卒で
働くに出すという、下層は下層だという暗黙の前提があって、これはこれで、当たり前とされていた
わけだが、総中流の時代になり、誰が下層をするのかとなったときに、フリーターや派遣社員などの
中流出身者という人々が下層に「落ちぶれる」ので、ある種の同情的に語られだろう。
誰かが下層である、ということはいままでも、これからの変わらないだろう。民主主義は、生まれ
ながら下層でなく、入れ替え制のチャンスを与えるシステムである。しかし誰かが負け組になるのは、
資本主義だけの問題ではないと思う。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば
誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、いやなら努力するしかない。それが
「競争社会」である。
327 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 17:37:57
Aジャングル化社会=非競争社会?
ジャングル化=「不確実性社会」を単に「競争社会」ととらえると本質を見失うだろう。「競争社会」とは
資本主義ゲームの上に成り立っている。勝ち負けは、多くにおいて物質的な豊かさという価値によって
図られる。しかしジャングル化社会での勝ち組の所作とは、サバイバルすることが目標である。
不確実性の勝ちとは、「無垢への欲望」が求められるだろうか。すなわち「この私そのもの」という
充実である。ここでは、本質的に競争社会は成り立たない。人それぞれの目指すゴールが異なる
からだ。
そのような意味では、ニート、フリーターには、世間でなく自分の価値を目指しているのだという、
いつものいいわけが現れる。それぞれのやり方がある。この相対主義が、不確実性の特徴でもある。熱い
もの、ウエット感は暑苦しい、マジ、かっこわるいと最近では「欲望」は嫌われる。逆にライトは、
シニカルなスタンスが好まれる。これはまさに、ジャングル化社会に対応している。ジャングル化社会
では、素直な執着は危険である。その不確実性を理解していれば、執着は回避されるだろう。
アイロニカルで、シニカルで、クールな姿勢が求められる。
328 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 17:38:52
Bニートはなぜ負け組なのか。
しかしここでは欲望の原理が失われているわけではない。作動しているのは、欲望の原理そのもの
である。たとえば、彼らに見られる傾向は、端的に欲望論によって動いていくことがわかる。
・競争から降りる。(ニート、引きこもり)
・瞬間的な快感によって紛らわせる。(動物化)
・欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かう。(ロリコン、幼児殺害、リスカ、自殺願望など)
・はけ口がより匿名へ、弱い者へ、より集団化へ向かう。(2ちゃんねるの誹謗中傷)
だから、ジャングル化(不確実性)において、価値の相対化がおこっても、「欲望の充実」を目指す
ゲームであることには代わりがない。欲望は他者の欲望としてあり、「この私そのもの」という充実とは
他者の承認であるために、多くにおいて、他者と共有された「競争社会」的な豊かさを目指すことが
一つの目安となっている。
お金、地位などを目標にしないことは良いし、目標はそれぞれであるということも良い。まさに
「下流社会」、「競争社会」が隠蔽しているのもは、あたかもみなが同じ物質的豊かさを競うゲームを
しているように見せかけていることである、ことも確かである。しかしそこにサバイバルがないこと
ではない。欲望を充実されるというサバイバルはあり、それを放棄することが物質的で豊かで
あっても、なくても、「負け組」なのである。
ファミコンの抱き合わせがあったわな
品薄状態を作り出して、欲しくも無いソフトの獲得に追い立てる
その人の外の周りに欲望を駆り立てるものを配置する
内心で禁止されているものを他者が与えてあげる
発端を秘密にして導入がふんだんである
これは空虚である。
何故か。
それは教えてあげない。
330 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 18:06:57
物質的豊かさを基準にした幻想、「競争社会」があり、
疎外という幻想がある。
フリーターっていうのはそこから脱落などしていない。
その幻想に囚われ、下層でもがいている。
彼らが「競争社会など、物質的豊かさを基準にした幻想だ。
人が本当に求めているものは別にある。」といおうが、である。
「物質的豊かさを基準にした幻想」がいかほどに強力であり、
「世界で一つだけの花」になることが、いかに困難であるかというと、
覚悟が彼らにあるとは、思えない。
それはむしろ「競争社会」の幻想による下層であることから、
逃避したいそれだけのことだ。
>>325 > 読みたいように読むことは、控えるように、お願いします。
あはは。そりゃお互い様じゃないの?。ピカ氏の話は古典的な疎外論で語れるような
状況はあるが、放っておけということでしょ?そこはそういう認識でいいんでしょうか。
> 地盤沈下もなにも起こりません。
> だた物質的豊かさだけが全てじゃないということ、いまさらですが
> 良く言われますね。このような観点、
それはしかし、欲望っていうのは他者との関連で発生するというのがこのスレッドの
論点ですよね。だとしたら、その欲望の対象となる他者とは金銭のことですよ、我々の
住む社会では。金銭とは、信用のことなんですから。そして、金銭=信用は一定の階層に
集中しちゃうのです。それが資本家階級と呼ばれるわけです。
つまり人々が欲望を持つとき、必然的に資本の方角を向かざるを得ないわけです。
だから、ピカ氏が言うようなことは経済問題と関係ないとはいえないのですよ。
フリーターはその点で貨幣に顔は向いているが、資本家には向いていないと言える
んじゃないか。持つ者に従うという構造から彼らは外れているんじゃないか。
だとしたら、疎外論で語れない新しい存在だと思うわけです。
332 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 18:26:17
>>331 ん〜せっかく前向きな議論にしたいのに、残念ですね。
>つまり人々が欲望を持つとき、必然的に資本の方角を向かざるを得ないわけです。
だから、だから、だから、それをボク”が”言っているわけです。(笑)
どうしましょ?
333 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 18:32:06
334 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 18:33:03
言いたいことをなかなか伝えるのはむずかしいし、
誤解することは2ちゃんねるでは多々ありますが、
むじんくんの間違いは、そんな難しいことではないと思いますよ。
たぶん人のレスって読んでない、読んでる途中で、書きたいことが
湧いてきて、とまらない。ということでしょう。(笑)
会話を続けることそのものが目的というのが2ちゃんねるではありますが、
ボクは基本的はそのようなスタンスは取っていないのです。残念ながら。
ご理解の上、レス願います。
335 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 18:39:42
たしかに、ポスモダ的言説は裏の裏の裏的、
形而上学批判の否定神学的だからから。
しっかり読まないと、あるいは読み方になれないと、
わからないのかな・・・
336 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 19:02:35
人生は仕事をしないには長すぎる。
フリーターはそれを乗り越えた人々でなく、
排除された人々である。
これは見方によるかも知れない。
フリーターは自ら、ゲームから降りたというかもしれない。
しかし、仕事という効率的な欲望形成装置を乗り越えることは、
そこから降りるだけで済むような生やさしいものではないだろう。
「人生は仕事をしないには長すぎる。」のだ。
337 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 19:04:12
ニートが動物化してロリコンになって2ちゃんねるを荒らすの?
338 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 19:05:33
339 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 19:31:31
ぴかぁは、、、やっぱりなんだよね。
340 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 19:51:47
ぴかぁ〜さん、立ちすくみ型ニートは具体的にどうすればいいの?教えて!
341 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 19:57:11
>>仕事という効率的な欲望形成装置
学生からニートになったやつとか、新米でやめてニートになったやつは
効率的だともまだ感じていないときにやめる
欲望形成装置を乗り越えたとか、ただ社会に淘汰されたわけではなさそう
きっと彼らには想像力というのがかけているのだろう
自分がこれからどうなるのかを想像する力がない
社会がジャングルだということも想像できない
だから準備もしないし、その割りに大きい夢を掲げたりする
>>332 > >つまり人々が欲望を持つとき、必然的に資本の方角を向かざるを得ないわけです。
> だから、だから、だから、それをボク”が”言っているわけです。(笑)
いや、言ってるんだけど(笑)、そこで発生する階級問題に関して仕方ないで済ませるわけでしょう。
そして、人間はそういう競争社会から逃れられないんだよと。裏側で、全共闘オヤジのような、
そういう出来レースはケシカラン、という人たちがおり、レースを仕掛けている連中を倒せとなる。
しかし、フリーターっていうのはレースにそもそも参加しないんですよ。参加しないからレース
主催者である資本階級に対する怒りもあまりなかったりする。それは新しいんじゃないかと。
少なくとも、将来的な労働のあり方についてのヒントがあると思うのです。
>>336 > フリーターはそれを乗り越えた人々でなく、
> 排除された人々である。
それは我々の社会構造から必然的に出現した階層です、フリーターというのは。まさしく排除された
形で出てきた。当人が自発的だと言っていても、実際のところは統計的に一定人数の低賃金労働者を
作り出すような構造があるわけで、酷い正規雇用しかないからならない、という消極的な意味での
自発性でしょうね。
しかし、だからと言って正社員にしろ、雇用環境を改善しろ、搾取を緩和しろ、とはならないで、且つ
隷属しないで生活しているっていうのは新しい。こういう方向で変化を促進すべきじゃないか。
ただまぁ、ピカ氏が言うように、フリーターというのが自己欺瞞的な連中だというのは当たっていると
思います。だから、もっと開き直ってアグレッシブになって欲しいとは思いますね。
「俺はお前のところで一生懸命、骨を埋めるつもりで働くことなど考えない。しかし、賃金は差別するな」
という形でね。
345 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 20:26:46
>>しかし、だからと言って正社員にしろ、雇用環境を改善しろ、搾取を緩和しろ、とはならないで、且つ
隷属しないで生活しているっていうのは新しい。こういう方向で変化を促進すべきじゃないか。
そんなことしたらこの世はほんとに腐るだろうな
欲望をまあまあ上手にコントロールして今の生活水準があるわけで
フリーターにとっては都合がいいかもしれないけれど
僕には都合が悪い
みんながみんなフリーターのようにしたら
だらだらした世界になりそ 楽しくなさそ
曲がりなりにも感じられる生きているって感じがなさそ
まあ大半が欲望の強い人間だから実際はそうならないだろうなw
サバンナで食物連鎖がなかったらつまらないだろw
346 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 20:38:14
>>341 仕事そのものに閉塞感、マンネリ感があることも否めないと思います。
すなわち「仕事」が効率的な欲望形成装置として機能しなくなっている。
「仕事」というものがマンネリ化している、ということです。
347 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 20:47:59
>左曲がりのむじんくん
だ・か・ら、社会格差があっても、ブルジョア/プロレタのマルクス主義的権力のべたな二項対立は
ないんですよ。そのような幻想でもないんです。先に「マルチチュード」と同じです。
「主催者である資本階級」との闘争とか言われても、はぁ〜?なにこのオヤジ?ってなってしまう。
>>345 そんなこと無いと思いますよ。僕が書いているのは、労働市場を超流動化させよ、ということです。
必ずしもダラダラになるとは限らない。ただ、コース上をレースするということはなくなりますね。
コースが無いのです。
>>346 大半の仕事はマンネリなものでしょう。だから、別に正社員とかじゃなくて構わないし、実際に
バブル崩壊以降、企業は業務を極力定型化して非正規雇用をそこに当てたのです。
349 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 20:50:48
サヨおやじのネタだとわかっていても、
そろそろ、つまらないですね。
350 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 20:54:03
そう決め付けるのもどうだろう?
>>347 > 「主催者である資本階級」との闘争とか言われても、はぁ〜?なにこのオヤジ?ってなってしまう。
いや、資本家階層というのはありますよ。日本は今まで見えにくかったですけど、今後はっきりと
出てくるはずです。放っておけば、富は集中するのであって、それを無かったことになできないでしょう。
しかし、それに対して「闘争」するのではなく、そもそも二項対立から外れちゃっているというのは新しい
んじゃないかと。そちらを極限まで押し進めるというのはどうかということです。
352 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 20:58:18
>>仕事そのものに閉塞感、マンネリ感があることも否めないと思います。
すなわち「仕事」が効率的な欲望形成装置として機能しなくなっている。
効率的欲望装置は依然としてあるが彼らの想像力ではそれを
見出すこともできないのではないか
マンネリ化もあるかもしれないけれど
たとえば公務員なんかはマンネリ化しているだろうが
その労働環境に惹かれる人間は依然としている
その仕事に価値を見いだせなくても環境に惹かれている
効率的な欲望形成装置はここには存在している
これを感じるものと感じないものの差はやはり想像力かと
まあいつも試験でいい点取れなくていじけてしまった人もいるだろうが
そういうやつもある意味で想像力がない
あきらめても徐々に首は絞まる
353 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 21:00:17
>>労働市場を超流動化
どういうこと わからんのだけど
>>必ずしもダラダラになるとは限らない。ただ、コース上をレースするということはなくなりますね。
なかなかできることではないのをわかりますか
それには大分知恵が要るし精神も強くなくちゃね
354 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 21:22:24
>いや、資本家階層というのはありますよ。日本は今まで見えにくかったですけど、今後はっきりと
>出てくるはずです。放っておけば、富は集中するのであって、それを無かったことになできないでしょう。
>しかし、それに対して「闘争」するのではなく、そもそも二項対立から外れちゃっているというのは新しい
>んじゃないかと。そちらを極限まで押し進めるというのはどうかということです。
すごい発言がでましたね。
フリーター以前に、みんな二項対立から外れちゃっているんですよ。
いまどきっていうのは。
この手の発言はマルクススレでもきつけて、許容できるのは決定論スレぐらいじゃないでしょか。
355 :
352:2006/02/01(水) 21:28:38
>>すなわち「仕事」が効率的な欲望形成装置として機能しなくなっている。
ただねこれはなんだかわかるような気がする
想像力の前にもうこの世界の仕組みに飽きちゃった感はある
僕は中堅の大学生なのだけれど
どうせこのまま公務員か何かになって世間で言われているとおり
人生をまっとう?するのだろう
それはいやだと起業したりニートになったり
はたまた趣味に精を出したり
それでも世界の仕組みの飽きにたえれられなくなった人は
自殺とかするのだろうか
こりゃあ想像力云々じゃないぜよw
356 :
352:2006/02/01(水) 21:30:18
二項対立は近代のおっさんのかんがえでっせ
最近ははやりませんぜ
357 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 21:31:09
>>352 すこし大きな話になりますけど、
高度成長の中国では、人がたりない、やるべき事があまっているのに比べ、
日本では「重箱の隅をつつくような」仕事しかない。
さらにいえば、その基礎は日本の高度成長期である、団塊の世代当たりが
作ったものの改訂であり、新しいことが許されない、
仕事人間世代の団塊の世代がやりすぎてしまう、ということがあると思います。
ニート、フリーターは、そのような中で、白けてしまう、ということではないと思います。
たとえば彼らの親の世代がそれに当たるのですが、彼らが仕事中毒で稼いできた
お金で、子供が遊ぶという構造ができている。
すなわちリストラされると仕事しかしらないので生きていけない親の世代は
仕事を確保し、子供の世代は(おもしろい)仕事にあぶれるが、
親から援助されると、共存関係ができているのでは、と思っています。
当然、IT関連など新しい分野もあり、あくまで、物語ですが。
358 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 21:41:17
>>355 すごく正直は意見だと思います。
少し前に引きこもりから立ち直る青年の話を見ましたが、
引きこもりのときには、自分が世界から取り残され、
落ちこぼれた人間だという劣等感が強かったが、
努力して引きこもりから脱出し、「普通の若者」と
話をしてみると、考えていることを変わらないことに驚いた、ということです。
引きこもりをしていなくても、明るく振る舞っていても、
引きこもりと同じように「どう生きれば良いのか」という
不安の中にいて、落ちそうになる自分を支えているということです。
359 :
352:2006/02/01(水) 21:45:41
>>子供の世代は(おもしろい)仕事にあぶれるが、
親から援助されると、共存関係ができているのでは、と思っています
>>仕事そのものに閉塞感、マンネリ感があることも否めないと思います
話が違ってんじゃねーか
とかいってみたいけれどけんかを売るつもりはまったくないので(笑)
親から援助される共存関係というのはたしかパラサイトシングル
とかいう本で読んだことがあるけれど
仕事か趣味どっちかには精を出さないと時間は余るしつまらないし
親の支援程度の金でできることなんてほとんどつまらなそ
彼らは本当に幸せなんだろうか
高度経済成長の時代が輝かしいものにも見える
この社会の仕組みも末だな
近々革命でも起こるかもしれんぜよw
360 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 21:55:31
>>359 高度成長期・・・やることに溢れている。みなに責任ある、新たな仕事にありつき、
仕事が楽しい。仕事中毒、仕事がなければいけていけなくなる。
現代・・・ 仕事が高度成長期に確立された反復になる。
息子世代は、しゆうとめ的、パパ世代にがみがみ言われて
仕事たのしくない。
景気が悪くリストラするが、日本では既存雇用を確保する傾向があり、
仕事しかしらないパパ世代は残される。
息子世代は、パパ世代の稼ぎで生きていければ、
楽しくない仕事に固執しない。
パパは仕事できてハッピー、息子は仕事しなくてハッピー
ただパパが定年後にどうするかは不安。
ってことだ。
361 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 22:01:20
実際、会社にいると、団塊の世代あたりの人たちの仕事熱はすごいね。
ほんとにゴルフと酒とバリバリ仕事。嫁は怖いよ。的な、
高度成長期的リーマン像だよね。
ある意味、引いてしまう部分はあるよね。
>>354 > すごい発言がでましたね。
> フリーター以前に、みんな二項対立から外れちゃっているんですよ。
それはウソでしょ。むしろ昔の日本が二項対立じゃなかった。今は二項対立になって
きているわけです。外れているってどこの誰の話ですか?
前の発言と少し矛盾しちゃうかも知れませんが、団塊の世代というのは二項対立世代の
ように見えて、実は違います。全共闘などは1970年代、つまり日本型社会主義がいよいよ
起動に乗りつつあった時代であり、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が三種の神器になった時代です。
雇用に関しても、企業内労働組合での闘争ごっこが行われていただけであり、だから、
全共闘などを取っても、あれは生活とは関係ない、観念的なものなのです。それ以前は
違っていた。労働運動は真剣であり、学生運動もそうだった。貧しかったからですね。
バブル崩壊後、再び資本主義本来の形態に日本も近づきつつある。新自由主義という
ものですが、そこで二項対立になりつつあるし、実際に雇用や所得の両極化は発生している。
恐らくピカ氏の"いまどき"は80年代のことでは?ピカ氏の好きなポストモダン思想が
流行ったのも80年代でした。
364 :
352:2006/02/01(水) 22:28:05
>>息子は仕事しなくてハッピー
親の支援程度の金じゃ満足できんぜよ
>ただパパが定年後にどうするかは不安。というのは
本当に仕組みの限界が来ている
ぴかさんはよく哲学版にいるから
次の世の仕組みもかんがえていそう
僕はもうそろそろ人類滅亡学という学問も出てきていい気がする
極論だけれど
人間はわがままだから映画のマトリックスのようにしちゃえw
コンピュータに支配されて脳内で作られた幸福に満足して滅亡しちゃえ
だいたいあの映画で機会に制御されちゃいけないってのがわからない
幸せでいいじゃねーか
365 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 22:38:32
>>364 仕事人間の「パパ」がリストラされずに仕事をし続けられるのは、
「息子」が仕事をしないからである。という物語です。
2007年問題のあとに、この流れは崩れます。
よくみれば、「仕事」が解放される。とにかく若いものは働かなければ
なりません。
ボクはむじんくんとちがい、根底は「欲望」だあるとおもいます。
欲望においては、「やりがい」があれば、趣味も、仕事の大差がないので、
みな、働くと思います。
団塊の世代あたりとは、戦後の第一世代という特別な世代です。
これからはもうあれほどの仕事人間は現れないでしょうか、
その反動としての、引きこもり世代も減るかもしれません。
366 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 22:42:50
>>362 うそではありませんよ。(笑)
廻りの若者に「「主催者である資本階級」との闘争」をするんだ、
と言ってみればわかりますよ。
団塊の世代はポスモダですよ。80年代は日本でのポスモダブームが起こった
だけで、全然意味が違いますよ。
367 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 22:45:52
このスレにフリーターはいないだろw
正社員と同じ仕事しているんだって。残業も同じようにサービスで
深夜までさせられているんだって。それでボーナス無し社保不完備
なんだって。でもどこもそんなもんなんだって。
うまい具合にもぐり込めて正社員を続けている奴らは既得権益を
独占して「努力しないおまえらが悪い」といい、「無垢の欲望を
あきらめるな」とかほざけるけど、たまたま正社員なだけだろ?
能力の差でも努力の差でもねぇよ。あんまなめんなよ。
親の蓄財があれば生きていけるって、あなた達どんな生まれなの?
うらやましくてしょうがないわ。たまに会えば金の愚痴ばっかりだぞ親なんざ。
だいたい、なんで仕事が面白いって前提になるわけ?
創造的な仕事に携われる人間なんてごくわずかだよ。
その人間たちが趣味的に仕事をどんどん増やしていくおかげで、
その裏方という壮大にくだらない仕事を引き受けなきゃいけない
人間が増えるんだよ。むじんくんの言うとおり、生きていくのに必要な
仕事なんて今の日本にはほとんど無いよ。パラノイアが日本の中心で
狂気を叫んでいるだけ。それを支持するぴかぁ〜氏に正直幻滅。
「ハードワーク」って本書いたおばちゃんのほうが正直だわ。
「私はこの人たちのように、ひどい仕事で低賃金じゃなくてホントに
よかった」ってw
努力次第?苅谷の本読んでからほざきなw
幸せは物質ではない?宗教かよw
山田昌弘が言ったように、二極化が進んでパラノイア競争に勝った奴らが
要塞作って引き籠もって住む世の中になるだろうよ。
「欲望をあきらめるな!」とそそのかされてバトルロワイヤルを始めた奴らから
ちょっと離れて眺めると、その滑稽な姿がよくわかる。
これが人間の本質というならさっさと絶滅した方がいい。
368 :
367:2006/02/01(水) 22:50:26
ぴかぁ〜氏の欲望論はラカンの応用だから、結局他者は一者
なんだよな。それが共有されているという考え。
結局「主と奴」の闘争に落ち着いちゃうわけだよ。超越論的一者へ
収束したいわけだ。それは確かに取り合いになるよな。
でもそれはパラノイアの称揚すなわち自身の肯定にすぎないよ。
ぴかぁ〜氏がパラノイア擁護に必死になるけれどこの話題になると
「スキゾはいかん」か話をそらすことしかできないところに、なにが
ぴかぁ〜氏を駆り立てているのかが読み取れてしまうよw
明らかに表層に露出している醜悪な欲望をぴかぁ〜氏は必死に
迂回しようともがくけれど、もがけばもがくほど、自身の言説が
トレースするのは自身のトラウマたる欲望の奈落、気付かないのは
本人だけ。
「心の充足を!」と叫ぶあなたに「いったいいつになればそれは訪れるのか」
と聞けば、「少なくとも今ではない」と応えるでしょう。
「あきらめるな」という言葉で結論をひたすら先延ばしし続ける、それだけでしょ、
やりたいのは。それって、まさにマルクス主義官僚たちがやっていたことじゃんw
温故知新ですか?w
369 :
367:2006/02/01(水) 22:55:07
具体的な話になればこの手の言説なんて簡単に化けの皮が
はがれるんだよ。
ぴかぁ〜「無垢な欲望をあきらめるな」
フリーター「やりたいこと無いけど、食っていくだけですげえ量の
仕事させられて、生きていてつらいんです。どうすればいいですか」
ぴかぁ〜「そんなのボクが知るわけ無いでしょ。欲望は本人しか知り得ない。
自分で考えなさい」
おいおいw
ぴかぁ〜「無垢な欲望をあきらめるな」
ニート「こんな状態どうにかしたいけど、適当に遊んで稼げる能力はないし、
狂ったように長時間過密労働はしたくないし、かといって株の裏取引なんて
そもそも財力がない。どうすればいいですか」
ぴかぁ〜「がんばるんだよ。がんばる、これだよ」
おいおいw
>>366 > 廻りの若者に「「主催者である資本階級」との闘争」をするんだ、
> と言ってみればわかりますよ。
そんな言い方しても分からないでしょうけど(笑)。実際、高校生などはものすごく将来負け組に
なることを恐れているようですよ。日本型社会主義に戻れば消えるでしょうけど、やはりそういう
意識は強くなりつつあるのです。
371 :
367:2006/02/01(水) 23:01:46
高度消費社会はコンビニでバイトしながらヴィトンのバッグを買うという
人格の乖離、「労働者」と「消費者」への乖離を前提としているんだよ。
場面場面でロールプレイを切り替えることを不思議とも何とも思わない。
不毛なことを繰り返す。
誰も必要としていないモノを作ることでしか社会は発展できないなら、
それをタダで配り合うような贈与的な社会を論じる構造主義者の方が
よっぽど誠実だよ。ポスモダなんて否定神学者。結局上流階級という
イデオロギーの傀儡だよ。だいっ嫌いだw
372 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:03:53
>>367 再度言うと、社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。
フリーターは下流である。彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。
「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、生きられないからだ。
そして「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ生きられず、
下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、なおさら努力する価値がある。
越えられる可能性があるのだから。それぐらいはするしかないだろう。
ボクが欲望を諦めるな、という意味は、さらにストイックである。
「競争社会」という幻想の構図に依存するな、ということだ。
373 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:06:34
>>370 なぜ読まないのかな。話を聞かずに、言いたいことをいうは
マルキストの特徴ですか?
>>347参照。
374 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:09:27
>>371 モチツケ。意味不明レスだ。
ここは人生相談でも、宗教法人でもない。
ぴかぁ〜という「無垢」以外に、与えるものはない。(笑)
>>373 > なぜ読まないのかな。話を聞かずに、言いたいことをいうは
読んでますよ(笑)。実際には資本主義本来の形へと移行しつつある、日本も。80年代に
フリーターが出てきたのは、これはバブル経済の中でのポストモダンスタイルな行動だった。
その時点のフリーターならば、ピカ氏が言うことは当てはまるかもしれません。
しかし今は違うんですよ。統計的にも明らかでしょう。どこの企業も、売り上げ横ばい、利益
過去最高って言ってますよね。これは何かと。だから、フリーター自身の言葉は相変わらず
かも知れませんが、内実は違うんです。企業は今、物凄い美味しい思いをしているんですよ、
フリーターという肩書きと、その社会的な蔑視を利用して。
376 :
367:2006/02/01(水) 23:18:16
>>372 もっと具体的に言ってよ。抽象的な思弁が哲学な訳じゃないでしょ。
依存するな、という否定だけなら誰にでも言えるよ。それが言語の
機能の本質なんだから。でも、じゃあどうやって生きるのよ、具体的に。
>超えられる可能性
も、
>「競争社会」という幻想の構図に依存するな
も、超えられない現実、「競争社会」から疎外されているという現実を
言語的に否定し結論を引き延ばし続ける身振りに過ぎないでしょう。
現実の前の議論の足踏み、これがほんとの狙いなわけだ。
ぴかぁ〜さん、ジジェクを語るあなたがそんなベタなことやっちゃダメですよ。
単純に言って、狂ったように働かなくたって、これ以上便利にならなくたって
生きていけるインフラが片方にあり、ナチスの収容所のように穴を掘って埋める
だけの作業を延々とさせられてその意味のなさとつらさでうつ病になって
つぶれていく低賃金労働者が片方にいるわけだ。これって問題でしょ?
こんなにめちゃくちゃに働いて喜んでいるのは、オヤジどものように権益に守られて
趣味的に働いて「暗黙知」を独占して勝ち抜けようとしているやつらか、パラノイアだけ。
哲学はこの社会を跡付で了承し支援するための言説に過ぎない、とぴかぁ〜氏のテクストを
読むと思えるのですよ。その戦略はひたすら形而上学的議論だ。それってどうよ?
377 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:18:23
>>375 もう笑うしかない。嫁って(笑)
現代においてマルクス主義者とは症候である。
378 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:19:46
ボクが解答を与えるとすれば、いまのところ、三つのことを言っている。
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
@下流で耐え続ける(動物化)→ヘタレサイクルを回せ。ゲーム、プチクリ、チョい仕事で、下流なりに楽しめ。劣等感に苦しみながらも。
「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ生きられず、下流がいやなら。努力するしかない。
「能力の差でも努力の差」でもないなら、なおさら努力する価値がある。
A競争社会を少しでも勝ち抜く、豊かを目指して、テクニカルを磨け。
「競争社会」という幻想の構図に依存にも立ち向かいたいならば、
Bボクが欲望を諦めるな。「競争社会」という幻想の構図に依存するな。
物質的に貧しくなろうとも、自分にとって本当の幸せをめざせ。たとえ朽ち果て、
道に倒れようとも。
379 :
367:2006/02/01(水) 23:23:17
>>374 ならばフリーターを悪しき言説の中に押し込めそれを前提として
形而上学的な議論を繰り広げるのを辞めて欲しい。
今人材派遣の業界は一兆円産業ですよ。規制緩和から数年しか
経っていないのに。この不況期にどうやってそれだけ稼ぎ出しているか、
そのやり方を知っていての発言?すごい不愉快。
哲学的言説すら、このように「問題の核心から常に外れ続ける」という
戦略上のテクノロジの一つになってしまうわけだ。まさに「知の欺瞞」
じゃないですかw
380 :
367:2006/02/01(水) 23:29:44
>>378 とりえあず、機種依存文字「@」はつかわないほうがいいですよ。
あのね、1も2も、出来る人は選ばれているわけですよ、すでに。
苅谷を読んでくれ。
3は帰依しろってことでしょ。オウムがダメなら天皇?w
この点に於いて、「ラカン理論」はほんとにダメダメだと思う。
「ラカン理論」で社会を語ろうとする人間が心の底に抱いている
欲望がすでに暴かれ晒されていることを述べているラカン自身は
さすがだと思いますけどねw
381 :
367:2006/02/01(水) 23:31:23
いや、違うな。1も2も「競争」という信仰に自身を投げ出して
いけるかだから、これも一つの信仰だな。
3は否定神学と言うべきでした。これはまた失礼いたしましたw
382 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 23:32:18
ぴかぁ〜の文なんて最初から読む価値ない
383 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:35:53
ボクは、いまのところ、三つのことを言っている。
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
1)ヘタレサイクルを回せ
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ゲーム、プチクリ、チョい仕事で、下流なりに楽しめ。劣等感に苦しみ
ながらも。
2)テクニカルを磨け
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でも
ないなら、なおさら努力する価値がある。競争社会を少しでも勝ち抜く、豊かを目指して、
「テクニカルを磨け。」
3)欲望を諦めるな
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
ボクが「欲望を諦めるな」ということは、「競争社会」という幻想の構図そのものへの依存にも
立ち向かいへ、というもっともストイックなことである。
しかしこれは、「競争社会」という幻想の構図に依存するよりももっと孤独で、ストイックな方法であり、
安易に「独自に生きる」と言ってはいけないし、ほとんどの言説が、「競争社会」に負けたための、
いいわけでしかない。「欲望を諦めない」ことには、物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て、
道に倒れることも覚悟が必要である。
>>377 > もう笑うしかない。嫁って(笑)
どこに書いてあるの?(笑)
>>378 これなんか酷いですなぁ。もう経団連の広告塔みたいな発想じゃないですか。やっぱり
ポストモダン思想家っていうのはバブル時代のあだ花だったのですね。
385 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:40:04
これは別にニートに限らない。現代を生きる人の選択肢で
あると言えるだろう。
1)引きこもりの知、2)エリートの知、3)芸術家の知
と言えるでしょう。
386 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:42:07
387 :
考える名無しさん:2006/02/01(水) 23:49:30
>むじんくんさん
ぴかぁを相手にしてはいけないって。
本当に他人の文章を理解できない馬鹿なんだから。
388 :
367:2006/02/01(水) 23:49:47
「ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏(たそがれ)に飛び立つ」
哲学という言説が所詮跡付で社会を解釈するものでしかないと
言うことがよくわかりました。ラカン流に言えば、現実界を変える
力など持たない、とね。
NAMも監視社会論も結局言説から実践へと回帰せざるを得なかった
という例証。
なぜ己がそれを欲望するかを認識した時点でもう終わりなんだね。
症候から解放されることはむしろ社会的には異常と見なされるわけだ。
>>382 それは大きな間違い。最悪の間違い。メタ的、と言う意味がさっぱり
わかってないサルの思考。
>>385 芸術家の知、はわかりやすい。
でも芸術家は常にパトロンを必要としています。
>>386 いや、競争社会が"幻想"っていうのはおかしいですよ。というのは、実際に賃労働しないと
食べていけない状況というのはあるわけです。そして、労働は競争に晒されており、奪い合う
パイを握っている主体というのは現実に存在する。
だから、アタマの中で思う/思わないとは関係なく資本の方角へ顔を向けないとダメな
状況というものがある。それを、人生観とかの問題にすり替えちゃいかんでしょ。
390 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/01(水) 23:58:39
>>388 哲学に多くを求めるのは間違いでしょうね。
>>389 食べていくにはバイトで十分でしょう。競争するほどではない。
先ほどからの「資本の方角へ顔をむける」という意味がよくわかりません。
まあ、「主催者である資本階級」との闘争とか言われても、はぁ〜?なにこのオヤジ?ってなってしまう。
391 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 00:07:41
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ヘタレサイクルとは、ゲーム、プチクリ、チョい仕事を適度に混ぜて、
下流なりに楽しむ。回帰する私とはなに、なんのために生きているのだろうという不安をやり過ごす。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、
なおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
しかし安易な「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。
「己の欲望に譲歩せず」生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、
孤独で、ストイックな方法である。 物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、
という覚悟が必要である。
392 :
367:2006/02/02(木) 00:13:02
>食べていくにはバイトで十分でしょう。競争するほどではない。
あの牛肉騒動を見てもそれ言えます?
すでに輸入された肉は全国に配られてもう後追いできないらしいですよ。
アキバファッションなんて他の町に行ったらDQNに狩られますよ。
とにかく狂ったように働くことでドパーミンがどばどば出ちゃうたぐいの人が
社会の中枢を担っていることが問題……いや、違うな。
そもそも今起きているシステム不全の原因は、「暗黙知」の領域にあるテクノロジが
次代に引き継がれないまま、責任だけ負わされていることにあるわけです。
「これまで何とかなったから、これからだって何とかなるだろう、不安だけど」
で、JOC事故とか尼崎脱線事故とかが起きる。
つぎはぎで乗り切ろうとするからますます混乱していく。
バカの壁が人の数ほど立ち上がるわけだ。いや、一人の中でも乖離が
起きるから、もっとずっと多くか。つぎはぎだらけのこころ。
やばい、ぴかぁ〜さんの昔の議論に戻りつつあるw
で、なんとかこの「システム不全」の問題を「こころ」の問題にすり替えず、
新しい共同体を立ち上げるという議論は出来ないんですかね。この道は
>>391にはありませんが。
393 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 00:16:57
フリーターの知とは、ジャングル化する恐怖の世界で、
檻に入り、容易に手に入る無垢で満足する。
甘やかされた者の超保守化。
エリートの知とは、檻の中で一番になることを求める。
現状を支えるという保守化であり、ほどほどの無垢を得る。
芸術家の知とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。
それは、無垢を手に入れるという充実を得る可能性があるが、
またそれは朽ち果てるかもしれない。
394 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 00:21:10
>>392 モチツケ。社会悪を並べ立て、社会が悪い、資本家が悪いというのは、
ベタな無垢の産出ですよ。そこを指摘することで欲望を満たそうとする。
395 :
367:2006/02/02(木) 00:35:04
>>394 >社会悪を並べ立て、社会が悪い、資本家が悪いという
「社会的悪」という概念で回収するのはマルクス主義的「二項対立」
図式に落ち込むことだからダメだってことですか?そういうことを
言っているわけではない。具体的に起きた事故や事件に言及している。
ぴかぁ〜さんの3つの回答とは、「他者」からの承認と言いつつ、その
「他者」は自己の内部の水準で回収された「他者」に過ぎないじゃない
ですか。要するにどれにしたって自己充足しなさい、ということに過ぎない。
ぴかぁ〜さんの言うことを深読みして、「なお、これらの議論で充足することを
もとめない、と言う道もある(けどそれはいわない)」という戦略なら、わかりますけど。
>>390 > 先ほどからの「資本の方角へ顔をむける」という意味がよくわかりません。
賃労働しなければ生活できないならば、資本の方へ顔を向けなければならない。
あと、バイトで十分って、さっきは彼らサバイバルしてないって言ってませんでしたっけ?
397 :
352:2006/02/02(木) 00:44:12
>>苅谷の本読んでからほざきな
あーこの人の本ね
学歴は覆せるものではない
親がろくな教育をしないと良い地位につけない
格差社会じゃ 今の社会は!!
といってゆとり教育を批判してるんだけど
社会を人間が作ってるうえで多少の格差はでてくるよ
それがいやなら山で暮らすしかないなー
まあ下層か中層の人間が2chでテラワロスとかいってる間はまだ大丈夫さ
ほんとにだめになったときは革命でも起きるでしょ たぶん
その間に追いやられた人間はなんなんだっと言われても
どうしようもないわけで
これよんでもね・・・・
みんながみんな平等な世界ってむずかしいとおもうけどね
398 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 00:49:17
>>396 ん〜絶対ちゃんと読んでないな。
生きるためにだけに働くというから、生きるためだけなら、
バイトで十分。
そうでないから、もっと働く、って意味だろう。
どー考えてもドキュソ質問だ...そろそろ放置か?
>>393 > 芸術家の知とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。
これ、仰りたいことは分かるし、多分僕が言っているようなこととあまり変わらんのだろうとは
思うんですが、やっぱり、条件が必要なんですよ。金があるか、社会が労働をしないでも済むぐらい
豊かであるか、
>>388 > でも芸術家は常にパトロンを必要としています。
ということです。パトロン必要っていうのはいい指摘だと思います(笑)。
なので、具体的には非正規雇用というレッテルによって賃金を引き下げるというようなことは
させないとか、二項対立幻想だとかそういう話ではなくて、実際に必要なのですよ。
そこを、フリーターはあれは下流である。排除されたことを自己欺瞞的にごまかしている。競争社会に
実は取り込まれている。そう言うのは、それは観念論としては正しいかもしれないが、実際には資本に
顔を向けないと生活が難しいような状況がある以上、言うべきじゃないですね。ポストモダンというのは
そこがやっぱり、バブリーな発想なのです。
400 :
367:2006/02/02(木) 01:01:25
あの、
>>395書いていてなんか確信的になってきたんですけど、
おれってすごくベタなことしてます?「議論で結論を出せ!」って言う。
恥ずかしくて消えてしまいたい……
ラカンラカン言いながら、ぴかぁ〜さんデリダっぽいことやってるじゃないですか。
「こころ」の問題は「こころ」で回収するしかない。身体的な問題は、身体的な
レベルで解決するしかない。
でも、「新しい共同体を立ち上げよう」と言うときに実践の根拠となる議論は
全て否定神学に回収されて議論で満足して「現実に」帰ることしかできないの
ですかね、我々は。
>>398 > 生きるためにだけに働くというから、生きるためだけなら、
> バイトで十分。
それはあなたの好きな芸術家の知の人が一番歩みそうな道ですが(笑)。問題なのは、
何度も言いますが、富というものは資本に転化されることで集中化し、持たないものは
持つものによって規定される状況が作り出される。
具体的に言えば、仮に今後日本で所得格差が広がっていき、ある時点で階級形成が
されるとします。これは雇用などが上流階層の人脈で固定化されたり、教育などの
囲い込みが起こったりという形で十分発生しえます。
そうなったとき、ピカ氏の"芸術家"は自分でどう思ってようとも、彼らによって評価され、
彼らによって生き方の存続を決定されてしまうのです。それを、観念的に"古い疎外論
に振り回されてはいけない。自らの欲望に忠実であれ"と言っても、それは念仏なんですよ。
402 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:04:03
>これ、仰りたいことは分かるし、多分僕が言っているようなこととあまり変わらんのだろうとは
>思うんですが、
たぶん違うと思いますよ。
サヨでも、全てを資本家悪に還元する人って、ほとんどみないですね。
むじんくんはこんなところで誰も興味がないベタサヨで自慰するよりも、
とりあえず最近のサヨの中で揉まれて来るのがよいのではないでしょうか。
まずくろしおにでもボコボコにされると、一皮むけるかと。
403 :
352:2006/02/02(木) 01:10:34
>>富というものは資本に転化されることで集中化し、持たないものは
持つものによって規定される状況が作り出される。
そうでない社会 実現できると思うか
観念論に陥ってるのは小夜さんですよw
404 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:11:40
>>401 とりあえずこれに答えて、ちょっと放置しますね。
芸術家の知は、富の競争社会に身を置くことを言うわけです。
それでは、のたれ死ぬ覚悟が必要だと、書きましたよね。
読んでない?そうですか。わかっていますよ。
405 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:12:25
芸術家の知は、「富の競争社会」の外に身を置くことを言うわけです。
え、でも芸術家がどこに逃れても
資本が、市場がその後を追っかけてきちゃうって
芸術家を否応なく囲ってしまうのが現在の構図じゃないの?
つうか、単純な「外」を措定することはできないのでは?
>>402 > サヨでも、全てを資本家悪に還元する人って、ほとんどみないですね。
そんなこと一言も書いてませんよね(笑)。
>>405 > 芸術家の知は、「富の競争社会」の外に身を置くことを言うわけです。
それは観念論ですね。パトロンがいないとダメですな。
408 :
367:2006/02/02(木) 01:16:46
むじんくんのぴかぁ〜さんに対する論点が
よく見えなくなってきた
409 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:21:04
>>408 論点もなにも単になついてるだけですよ。
410 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:22:31
大学生さん、フリーターさんの生の意見もあり、なかなかまとまったのではないかと、
思います。
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ヘタレサイクルとは、ゲーム、プチクリ、チョい仕事を適度に混ぜて、
下流なりに楽しむ。回帰する私とはなに、なんのために生きているのだろうという不安をやり過ごす。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、
なおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
しかし安易な「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。
「己の欲望に譲歩せず」生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、
孤独で、ストイックな方法である。 物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、
という覚悟が必要である。
411 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:26:40
>>406 これは運動としてとらえないといけません。
当然、外にいくことなどできません。
そんなことできれば、神です。
外を目指し続ける姿勢を言っているわけですね。
社会から離脱した芸術家。これはよく語られますが空想ですね。どんなに孤独でも人間は
孤島ではない。また、身体を持つ以上、経済的構造から離脱しているというのも空想です。
疎外論を観念的な問題として処理することは、パトロン付きの芸術家には可能ですが、
実際にはそういう観念を作り出すような経済構造がある。そこに我々が属しているならば、
それは観念的に否定しても無意味です。
ピカ氏が言うような芸術家の知が、実際に可能になるような条件というものがある。そこを
無視して、フリーターはあれは下層です、逃げております、というのはおかしいし、野たれ
死ぬ覚悟がどうとかいうのは、これ自慰行為ですね。
413 :
367:2006/02/02(木) 01:29:47
>>395 ぴかぁ〜さん、これに応えて欲しい。
最後の2行に。
414 :
367:2006/02/02(木) 01:35:02
でも寝ます。みなさんまたノシ
415 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 01:47:35
しかし、「芸術家の知」なるものがある種のサイクルから
言い換えれば「競争社会」から脱線するものだとして
その脱線を、逸脱を保証する
何かに満たされた「私」、何かに満たされ得る「私」なるもの
それらへのノスタルジックな志向
その前提はあまりに近代的ではないでしょうか
そもそも、この知の志向するところは「幸福の追求」なのですか
それは「幸福」に回収可能なのでしょうか
絶対的統合というエデンを捨て、分裂を生きること
(おそらくは岡本太郎などがそうでしょう)
それが抽象芸術以降の芸術家なのではないでしょうか?
(先ほどから、唐突に議論に割り込んで申し訳ないです)
416 :
352:2006/02/02(木) 01:50:06
>>下流なりに楽しむ。
言葉がきついな
芸術家の知はむずかしそうだ
どっちかって言うとフリーターの知と芸術家の知の
ハイブリッド型のほうが多そうだ
パトロンがついている時点で芸術家は競争社会と間接的につながっているような
自称芸術家か他称芸術家か パトロンがついているかいないか
それだけがフリーターと芸術家をわけているような
移ろいやすい精神だけが彼らの間に薄い薄い壁を作ってるような
確か前回の芥川賞は誰でもいける大学の文学部卒でバイトしながらかいたらしい
417 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:50:17
>>412 だから
>>347に戻るんですよ。そこから進んでいない。
めんどくさいが、話を進める?と
格差社会と疎外論の差を明確にすることですよ。
格差社会であり、さらに格差が生むというのは、誰もが認めることでしょう。
それを、格差=疎外と短絡するから、おかしくなるんですよ。
いつもそこに超越的な「悪の資本家」を臭わすから、ベタで退屈になるんですよ。
そこをもう少し考えてみると良いと思いますよ。
418 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 01:59:49
>>415 主体的という意味なら、近代的でしょう。
芸術家の知は当然、芸術家であるということではありません。
競争社会は、当然物質的な豊かさの競争ですが、
ボクらは単に物質的に豊かになれば満足するものではない、
そこにさらに、不満足が生まれることを知っています。
なら、本当の満足を目指そう、それは当然、
(資本主義)社会というわれるルールからの逸脱だろう、
それはあまりに、苦難の道だろう、そして満足とは、「この私そのもの」の
獲得であるから、決して満足に到達はしない
道だろう、ということです。
そして真の芸術家とは、そのような人々ではと思うのです。
419 :
352:2006/02/02(木) 02:03:47
芸術家は芸術家に他人によって成らせてもらって
資本家は資本家に大衆によって成らせてもらっている
こんなことは簡単に分かるのにDQNは自民党に票足すなあ
自分の都合の良いところに投票できるくらいの教育はしてあげないとね
中流下級のほうが圧倒的に多いのわかってんのか
僕は大衆の行動がいまいち理解できない
そこまで知恵がないのか・・・・
420 :
352:2006/02/02(木) 02:05:48
だったら仙人の知くらいにしとけばいいんでは
421 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 02:07:32
>>416 さきほどから、パトロンという言葉が出ていますが、
ネタでしょうが、面白いですか。
いまどき、パトロンって、いまどきブルジョア並に、くだらない。
だからバイトで食っていけますって(笑)
>どっちかって言うとフリーターの知と芸術家の知の
>ハイブリッド型のほうが多そうだ
これがフリーターの知ですね。最近、プチクリ(プチクリエーター)が
流行っていますね。
ボクも現実的には、「フリーターの知」かなと思っています。
芸術家の知は現代の豊かさになれ甘えた人々には、ストイックすぎますね。
生き抜くということでは、ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、
仕事のほどほどにこなす(これをぼくはヘタレサイクルと呼びます)
これが、ニートとかではなく、普通の人々の生き残りからだと思います。
もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていう
ささやかな楽しみで生きる。
まあ、これは宮台的にヘタレとということなのですが。
422 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 02:09:35
>>419 大衆を超越した神の声気取りですか?と、べたなツッコミ
>>408 > むじんくんのぴかぁ〜さんに対する論点が
> よく見えなくなってきた
ピカ氏は観念論。僕は唯物論。
やはりマルクスは偉大である。そういうことで、今日は寝ます。
424 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 02:15:47
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ヘタレサイクルとは、ゲーム、プチクリ、チョい仕事を適度に混ぜて、
下流なりに楽しむ。回帰する私とはなに、なんのために生きているのだろうという不安をやり過ごす。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、
なおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
しかし安易な「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。
「己の欲望に譲歩せず」生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、
孤独で、ストイックな方法である。 物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、
という覚悟が必要である。
425 :
340:2006/02/02(木) 02:16:52
ぴかぁ〜さん、俺は自分でいろいろ調べたり、この板でいろいろ読んだりして
ニートは哲学的にどういう位置づけであるかってことと
自分が立ちすくみ型ニートであることはわかって
「認識」まではできたけど
じゃあ立ちすくみ型ニートはどうすれば治るの?ってトコで困ってます!
他所のサイトへのリンクでも哲学視点のアドバイスでもいいから
「治し方」を教えて!
426 :
352:2006/02/02(木) 02:17:03
私がいまだ大衆の域を超越していないと?
あなたは紛れもなく大衆ですよ論は嫌いです
あんなんへ理屈です
寝ます
427 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 02:20:07
428 :
352:2006/02/02(木) 02:23:52
起きた
どうせ上野千鶴子とかに毒されたのでしょう
ぴかさん
あいつがいうことは昔は良かった系のオバサン論でしかない
429 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 02:24:53
近代において、「この私そのもの」への意志は、一面において
「オリジナリテ(創意)に対するフェティシシズム」という形をとりましたが
しかし「私」なるものを「すでにあるもの」ではないところに求めることは
「歴史の終わり」を迎えたとも言われる二十一世紀においてもなお可能なのでしょうか
可能でないとすれば、「この私そのもの」への意志は
アンリらの「生の現象学」が言うところの「根源的な自己遂行」へと向かうのではないか
つまり明証的な知ではない、言葉にしえないところに行き着くのではないか
そのような気がするのですが・・・
要は、「芸術家の知」なるものは
伝統的な意味での「知(パルメニデス的な存在=言葉)」を解体する知
伝統的な意味での知とは相容れない知ではないかと
430 :
340:2006/02/02(木) 02:25:59
もっと具体的に教えてください!
ニート問題を扱う話題ってたいてい
「社会がニートというならず者が増える今どうすべきか」視点ばかりで
ニートを脱したい本人がどうすればいいかって視点が
あまりにも少ないんです!
ニートを分析していて、「立ちすくみ型」という分類を知ってる貴方なら
ニート当人の視点での方法論や
そういうのを扱ってるサイトをご存知ではないでしょうか?
あったらアドバイスor教えてください!
431 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 02:46:32
ニートか。他力本願な自分をあざ笑えよ。そして、今自分が何処に居るのか?
おまえが何処に行きたいのかだ。
432 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 02:51:53
どこにも居場所はないし、行くべきところもない
だからニート、それゆえにニート
433 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 03:06:25
じゃ、おまえは此処に帰属される。此処が居場所だ。
そして何処に行きたいのか?
あなたは何処だ?
434 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 03:25:45
帰属すべき共同体はない
行くべきところはない
待つべきものもない
だから、ここはどこでもない
バートルビ?木に登ることを敢えてしない猿?
ランボー?ゴドー?
社会保障番号だけは持っている
ただそれだけ
435 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 03:41:45
何処でもない象徴界へようこそ。
結構居るだろ?
おまえは独りになれないんだよ。諦めな。
436 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 03:47:18
想像的なもの、現実的なもの
これらが欠けてしまったら
象徴的なものはどうなってしまうのだろう?
欲動が限りなく0に近いところでは
いかなるシミュラークルも満足に形作れないような、そんな地点では
もう哲学的思考による新哲学の開闢は期待できな過ぎますよね皆さん?
もう哲学人口ばかり増えて果てしなく
気持ちの悪い世界が広がっていくだけですよ。
さっさと科学に泣き付くか伝統に泣き付くか腹を括りなさいよ。
斬新そうな雰囲気を必死に醸し出しながら綴られる
気だるい思考しか産み出せない単調な言葉の羅列は
「限界」という2文字への道をぼんやりと浮かべ上がらせるばかりです。
その道の姿は年々くっきりと濃くなっていきます。
もうそろそろ世界戦争への備えを始めましょう。
無論何のためにとは問わずに。
438 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 07:08:36
あなたの解決策に巻き込まないでくれ
>>417 > だから
>>347に戻るんですよ。そこから進んでいない。
そうですね。ピカ氏の問題点はわりとはっきりしていて、あなたの主張は観念論なんですよね。
それは、マルクスが「ドイツイデオロギー」で批判したような宗教批判哲学と同じです。
当時のヘーゲル左派も疎外論批判でした。キリスト教とは疎外論であると。それは空想なのだと。
そして、哲学的に解消できると。
マルクスはその疎外論的思考は、物質的根拠があると考えたわけです。だから、観念的に
いくら幻想だと語ったとしても、そういう思考を導くような現実生活がある。それを無視して
観念的解決を語ることは、
「人間が水に溺れるのは重力があると皆が信じているからであって重力あるという
意識がなければ水に溺れることはない。」
と語っているのに等しい。
ただ、ピカ氏が"芸術家の知"と書いたのは正直だと思います。芸術家という、世間一般の
生活からは外れた存在、「たとえ朽ち果て道に倒れようとも」と形容されるような清貧の思想、
要するに現実ではなく観念的な生活に生きようと。
しかし、これは結果的には"1)フリーターの知"なのです。違うのは頭の中で"真実の生活"を
していると強迫的に言い聞かせることぐらいでしょう。
440 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 10:55:25
ここまでまとめると、さすがに理解が深まりましたね。
ではまず、すでに書きましたが、疎外とはなにかだと思います。
ボクがいっているのは疎外とは人間そのものの特性であるということです。
ベタには失楽園がありますが、言葉という不完全なつながりしかできなくなった存在そのものです。
その根源を資本関係のみに還元することが幼稚なのです。
ただこれは資本関係の疎外が存在しないということではありませんが、
単純な2項対立への傾倒は単なるヘタレです。
441 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 11:31:58
これをもう少し解説しましょう。
ボクは
>>392に対して、
>>394で、いました。
>社会悪を並べ立て、社会が悪い、資本家が悪いというのは、
>ベタな無垢の産出ですよ。そこを指摘することで欲望を満たそうとする
ラカン的には、人間はその根元に欠けた存在である。ハイデガー的には被投性によって
「不安」を抱えている、ということ、人間存在そのもの疎外を、「セカイの問題」と短絡する
手法は、問題を隠蔽するベタなトリックであり、特にマスメディアはそれによって支えられています。
なにが悪いかというと、牛肉騒動JOC事故とか尼崎脱線事故などへの不満、そして大衆は
どうしようもないという言説は、自分の慢性的な不安を、セカイの問題へと短絡させ、
それによって、自分の不安を解消している。単なる愚痴です。そして「大衆はどうしようもない」と
いうように、自分が大衆の外にいる=自分とは関係がない問題だとすることによって、
愚痴って人ごとだと安心する=ストレス発散なのです。
「問題を単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」
マスメディアはこの構造で、視聴者の不安解消装置、ストレスのはけ口を供給する
ことによって、成り立っているのです。
ベタなマルクス主義も同じ構造にあります。大衆の不安を資本家という超越的なものへ
還元しているのです。たしかに産業主義の時代はまだ労資関係が不明確で、
そういう問題あったと思います。現在でも資本関係の疎外がないわけではないですが、
なんでもそれへ還元するのは、単なるストレスのはけ口です。
442 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 11:34:04
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ヘタレサイクルとは、ゲーム、プチクリ、チョい仕事を適度に混ぜて、
下流なりに楽しむ。回帰する私とはなに、なんのために生きているのだろうという不安をやり過ごす。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、
なおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
しかし安易な「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。
「己の欲望に譲歩せず」生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、
孤独で、ストイックな方法である。 物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、
という覚悟が必要である。
>>440 > その根源を資本関係のみに還元することが幼稚なのです。
そこですね。人間は金だけで生きているのではないと。しかし、貨幣というものは
言語と同じように人間をつなぐ媒体であり、その根拠は社会的信用です。人は
所与の世界の内部に身体的=経済的に存在し、観念はそれを解釈するに過ぎない。
だとしたら、人間そのものの特性とされる疎外は、貨幣を軸として構成された世界に
既定されている。
次に、資本主義社会において貨幣は散財されず資本に転化します。単純に生産し、
売り、消費するだけであれば、貧富の差というのは成功するか失敗するかで当然
あり得るわけですが、それはピカ氏がいう"二項対立ではない格差"にとどまります。
ところが、資本に転化するという過程が発生すると、これが質的に変わって来る。資本は
一定の比率で増加する可能性を持つ。そして、成功/失敗とは異質の格差が発生する。
この過程は「資本論」に詳しいわけですが、最近はコンピューターでシュミレーションすることも
可能になってきてます。ここではっきりと、二項対立的な格差が生じるのです。ちなみに、
計算機上の統計からも、格差を広げるに当たって重要なのは、どれだけ大きな資本を
所有しているかであって、商売の才能ではないことがはっきりしています。株なんかをやると
分かりますが、元本が大きいと絶対金額において大きな利益を上げることが可能なのですね。
それと同じです。
だから、資本が存在するならば、そこには二項対立的格差がある。我々は貨幣の方角を向かなければ
生活できないわけですから、資本を自らを映す鏡とせざるを得ない。うまく自惚れ鏡になっている人間も
いれば、そうでないものもいる。今の日本であれば、前者は正社員として成功している人間などでしょうし、
後者はフリーターやニートでしょう。そして、そういう価値観によって自分自身を既定するために、ピカ氏を
初め、フリーターやニートを蔑んだ目で見るわけです。
問題は、この一方通行の存在価値既定が特定階層のさじ加減で決められているということです。そして、
資本の動機はより増大することであり、より効率よく搾取することです。ならば、死ぬまで働き何も言わない
ことこそが讃えられ、不満を言うものはピカ氏のように、自分の問題を他者に投影している、となってしまう。
では、ピカ氏の芸術家のように、それを精神力で乗り越えることができるか?できないわけです。そういう
芸術家はパトロンがいなければ、コンビニでバイトか何かやるか、超低賃金の工場請負労働をするか、
とにかく外からみたらただ単純に搾取されることでしょう。
>>441 > なにが悪いかというと、牛肉騒動JOC事故とか尼崎脱線事故などへの不満、そして大衆は
> どうしようもないという言説は、自分の慢性的な不安を、セカイの問題へと短絡させ、
欲望とは自己の問題である。ならば、自らの欲望の問題が解決すれば、世界には何も問題がないことになる。
これは観念的には正しい。しかし、身体的には間違いです。つまり、こういう言説を言っていられるのは、パトロン付きの
芸術家か、世間知らずの資産家の息子か、もう何もかも疲れてしまった乞食です。
446 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:06:16
いまボクとむじんくんの論点、資本家に搾取されている、そんなセカイを単純に語るな
二昔前のマルキストとポストモダニストの対立です。
いまさらこんな茶番にかかわりたくはないですが
確かに保守的かもしれませんが、現実的な、ボクは生き方を三つあげましたが、
ではちなみに、セカイ革命を唱えるむじんくんの今後の対策をうかがいましょう
ピカ氏の芸術家が自らの欲望から派生した疎外問題を観念的に解消して生活していたとしましょう。そして
そういう人間が仮に増えたとします。世の中の労働条件は悪化し、皆過労死するまで働かされるでしょう。
彼らはどんなに酷い状況でも、それが自らの欲望から派生した幻想である、悪いのは自分であると
考えて、最後に乞食同然の状態で死に絶えるのです。
>>446 > 二昔前のマルキストとポストモダニストの対立です。
注目すべきは、ポストモダニストが目立った時期というのは、ソ連が存在していた時代だということです。
つまり、冷戦の中だった。二項対立を消去する思考というものは、裏側に冷戦という対立があったから
こそ言えたのです。そして、冷戦崩壊後、ポストモダニズムの言説は力を失った。
> ではちなみに、セカイ革命を唱えるむじんくんの今後の対策をうかがいましょう
ソ連の失敗は革命による疎外の克服というストーリーであったことは明らかですね。ブルジョアの席に
神のごとき権力を持つ共産党員が座るということになってしまった。革命はもう無いわけです。しかし、
一方で資本の支配構造は存続している。ここでは2つあるんじゃないかと思います。
1.ピカ氏の芸術家
観念的に経済的構造問題を消去する。言い換えれば、自らの身体的惨めさを修行によって克服する。
2.自由な労働者
既存の発達した生産手段に対して自由にアクセスし、必要な労働をし必要な消費をする。具体的な
モデルとしては、現状のフリーターのような生き方で、且つ雇用条件を改善したものが考えられる。
同一労働同一賃金を保証し、正社員/非正社員の区分を撤廃する。結果として労働市場が超流動化し、
一方でグローバルな労組を結成する。
449 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:21:14
芸術家の知はたた誤解されているようです。これに近いのが宮台の「エリート」ですね。
宮台の「エリート」とは徹底的に現代を歴史主義的に客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、そのようなエリートを教育しようという考えです。
ボクの芸術家はそこまで世界そのものに直結は考えていませんが、たえずセカイを疑いつづける、
そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢です。
>>449 > そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢です。
現実に我々の衣食住を拘束している経済的階層問題に関わらないならば、それは世界を変えている
のではなくて、自分の考えを変えようとしているに過ぎません。つまり、エリート意識を持った乞食でしか
ないということです。どっかのカルト教団のように、修行すると空を飛べるというのと同じですよ。
451 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:34:46
ふふふ、ではむじんくんはその案をいかように実践するのですか
ここで理想論を語るだけではカルトにも劣るワイドショー好きのおばさんですよ(笑)
452 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:58:28
ボクがいっているのはフリーターの労働問題、女性の社会進出問題、環境問題はたわごとでどうでもよいのでなく
そろはそれでやればいいのですが、
そこで隠蔽される本質的な問題は、物質的な富が幸せでないし、みなが求めているのはそんな単純にことではない、といっているのです。
むじんくんの問題意識やフリーターの労働問題、女性の社会進出問題、環境問題などは、
ボク的には「エリートの知」に属します。
453 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 13:28:22
なんか逃走論を読み返したみたいだなぁ
454 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 13:51:50
ぴかぁはむじんくんの話をよく聞くべきだな
妄想で話を進めて検証をしないから変な方向へ行ってる
妄想とまではいわないが
とても聞き上手な人間とは思えないね。
456 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:08:47
だから、ボクとむじんくんのやり取りは、べたなポスモダとマルキストの対話です。
マル:資本家が攻めてくるぞ!
ポス:そんな簡単にセカイを語るな。
マル:おまえらは脅威から逃げてるだけだ。
ポス:資本社会でぬくぬく生きてて、口だけだろ。
チャンチャン
457 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:09:39
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ヘタレサイクルとは、ゲーム、プチクリ、チョい仕事を適度に混ぜて、
下流なりに楽しむ。回帰する私とはなに、なんのために生きているのだろうという不安をやり過ごす。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、
なおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
しかし安易な「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。
「己の欲望に譲歩せず」生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、
孤独で、ストイックな方法である。 物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、
という覚悟が必要である。
458 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:10:17
「芸術家の知」の意味
「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」だ。宮台の「エリート」とは徹底的に現代を歴史主義的に
客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、そのようなエリートを教育しようという
考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結は考えていない。たえず世界を疑い
つづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。
これらが保守的な対応であり、もっと革新的な対抗を求めるということがあるかもしれない。
たとえば、フリーターの労働問題、女性の社会進出問題、環境問題などなど社会問題を積極的に、
解決すべきだ、ということだ。ボクはそれを否定しない。しかしただこれらが多くにおいてワイドショー的
に語られすぎる。「問題を単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」と
いう勝者の優越、敗者の(欲求不満)として昇華されている。すなわち、それらの社会問題を語ることが、
「エリートの知」として解消されるからだ。それでは、「みなが求めているのは物質的な富が幸せでないし、
そんな単純にことではない」ということ「芸術家の知」が隠蔽されている。
459 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 16:19:23
「みなが求めているのは物質的な富が幸せでないし、
そんな単純にことではない」ということ「芸術家の知」が隠蔽されている。
だとすれば、エリートの知と芸術家の知は
ミルの功利主義とベンサムの功利主義と何が違うんだ?
必要のなければ造語は慎むべきだ(オッカムの剃刀)
460 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:23:37
芸術家の知がなせ功利主義???
>>451 > ふふふ、ではむじんくんはその案をいかように実践するのですか
フフフ。それはヒミツです。
万国の労働者よ、団結せよ!
はははははははは。
462 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 16:38:14
ベンサムの功利主義を引き継いだミルがぶつかったのが「快楽計算」だったということ
幸福を量ではなく、「質の差も考慮すべき」というミルの行き着いた袋小路
あなたの造語(芸術家の知)はミル的な破綻した功利主義を指しているに過ぎない
それは新しいように見えますが功利主義の範疇です
ポストモダンどころか近代へのある種の逆行です
舗装されていない袋小路から舗装された袋小路への
>>458 > 「芸術家の知」の意味
それは隠者の思想ですよ。そして、外から見れば単に搾取されて捨てられるだけです。
また、
「みなが求めているのは物質的な富が幸せでないし、そんな単純にことではない」
わけですが、しかしそれを実現するために皆資本に隷属させられているというのが、
資本主義社会の構造問題なのです。ピカ氏のように霞を食べて生きていくというのなら
いいんでしょうが。
464 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 16:39:39
>>430 フリーターさんへ
団塊の世代と若い世代が、仕事人間とフリーターで平衡している
状態が今の状態です。
あなたが、立ちすくみだろうとなんだろうとフリーターはフリーターです
立ちすくむというのはあなたの精神からくるのか
それとも不景気不景気といっている世の中のせいなのか分かりませんが
もし就職に気軽にありつきたいというなら
2007年まで待つのが良いのでは?
そのころには立ちすくむことはないと思います。
それでも立ちすくむというなら就職はできません。
しかし、フリーターの価値観というのもこの価値の相対化した
世の中にはあるということも事実です。
その相対化の時代にあなたが何を好み何を嫌うかです。
あなた個人がフリーターの知を嫌っているなら就職できますって。
まあ現実問題として年というのはからんでくるでしょうが・・・。
人生相談版ではないのでこれくらいにします
宮台氏というのは、テレビで以前見たことがあるだけで、あまりよく知らないのですけど
あれはちょっと変なんじゃないか。まさしく
>>458 > 「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」だ。宮台の「エリート」とは徹底的に現代を歴史主義的に
> 客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、そのようなエリートを教育しようという
> 考えだ。
ということで、当事者性が全く欠けちゃっているわけです。ありゃ見てても変だった。お前は誰なんだと。
当然ながら、彼に時代を導くことはできません。
466 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:47:37
芸術家の知は功利主義、快感であっても違います。
なぜなら快感原則の彼岸だからです。欲望論です。
467 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:51:14
秘密ですか。むじんくんの正体がワイドショー好きのおばさんであることも秘密にしておきますね。
>>467 > 秘密ですか。むじんくんの正体がワイドショー好きのおばさんであることも秘密にしておきますね。
ピカ氏が隠者であることは公開情報なんでしょうか。
非正規雇用を含む、広い範囲の労組が今重要だと思います。結構最近出てきてますね。
469 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:08:07
ふふふ、むじんくんは労働問題に目覚めたわけですぬ。
まあ、それはフリーターの知、単なる言葉遊びでしょうが、
エリートの知、さらに芸術家の知となり、むじんくんの存在意義へ昇華されりことを祈ります。
470 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 17:11:19
「快感原則の彼岸」、聞こえは良いのですが
それは超越的な階差(芸術家の知を他と隔てる)の設定であり
もはや知ることができない差(超越的な差)、その差を前提することに他なりません
また、欲望論(ヘーゲル経由の)を採るならば、
欲望は他者の欲望を欲望することになるので
芸術家の知もまた他者との「承認の闘争」へと否応なく巻き込まれてゆくでしょう
471 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 17:13:26
ぴか
>>人間存在そのもの疎外を、「セカイの問題」と短絡する
むじんくん
>>外から見れば単に搾取されて捨てられるだけです。
人間存在そのものに言及すればまあたしかに無人君の言うことは
ほとんど意味を成さなくなりますが
人間存在そのものの疎外は根本的な部分にあるとしても
それでも人間は悩んでいるんだ
それを彼が言う資本面からどうにかしようと
仮にそれがワイドショー的だとしてもむじんくんは
実に人間的で当事者的だとおもいます
まあ哲学版なんだからどっちがただしいかというと・・・・
解決しようとする姿勢はいいことです
当事者性なくただ凝視している人と解決しようとする人と
どう考えても話は折り合わないでしょうね
>>470 > 芸術家の知もまた他者との「承認の闘争」へと否応なく巻き込まれてゆくでしょう
いや、ピカ氏は霞を食べて生きていくので巻き込まれないのです。外から何言われようと
歴史の外に身を置き、まるで肉体を持たないかのごとく絶えず精神的であり続けようと
するのです。
これはあれだね、ストア派じゃないの?これ近いでしょ>ピカ氏
473 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:20:25
快感原則はフリーターの知の作動原理であり、
想像関係による闘争は、フリーターの知、エリートの知の作動原理の一つです。
芸術家の知はそれらの果実を振り切り、その先、己の本当の欲望をめざす姿勢です。
当然、挫折し果実を食べることは考えられまし、それが悪いともいえません
474 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 17:20:37
まあただ凝視しているだけの人が
曲がりなりにも解決しようとする人間に対して
ワイドショー的というのは言葉がきついな
もうすこし彼を尊重してあげてもいいのでは
一般論をふりまわして勝ったと思っているよりも
ぴかさんは彼の視点に少しくらい合わせてみては
ぴかさんがえらいのは分かったから 少しくらいのサービスとしてね
>>471 観念論と唯物論の差です。「人間存在そのものの疎外」という抽象物は物質的
基盤の上にあるということですね。それを、関係ないというのが観念論です。しかし、
マルクスが言うようにどんな観念論者も「意識せずともそう行う」のですよ。
476 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:25:24
まあ、むじんくんとは決定論からの流れなので、
ネタなのですよ。ボクとじゃれるための。フリーターなんかにこれっぽっちも興味はないですよ。彼は
477 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 17:33:21
むじんくんはじゃれたいのですか・・・
結構むこうは本気だと思いますがね
まるでぴかさんは男に話しかけられてつんとする女のようぜよ
観念論者も「意識せずともそう行う」のですよ
といったところでぴかさんは何にも思わなそ
478 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 17:35:59
観念論者と唯物論者が話を合わせる方法なんてないだろうな・・
>>477 > 観念論者も「意識せずともそう行う」のですよ
> といったところでぴかさんは何にも思わなそ
それは当然何か思ってはダメなのです。芸術家の知=ストア派としては。アタラクシアでなければね。
480 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 17:41:01
アタラクシアww
でてきたねー大学入試の倫理で
この平行線をどれくらい続けてきたんですか?
481 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:44:04
ストア派って…己の欲望に譲歩しないっていってるのな
ジャングル化ということで言えば、現代の情報社会はマスター無き世界である。これは
ある特定の正統な記憶の集積をどこかに求め、そのマスターと照らし合わせることにより
言説の正当性を測ることが出来ないということだ。
同じように、共産主義社会とは資本家無き世界である。依然として貨幣は機能しているが、
それは言語が機能しているのと同じように、開かれたものとしてある。人々は貨幣=社会的信用
へ向けて労働するが、それは特定の私有財産に結びつかない。言うまでも無く、言語を成立させている
いる領域と貨幣を成立させている領域は同一である。つまり他者だ。この他者が、特定私有財産と
結びつかない社会。これを共産主義社会と呼ぶ。
483 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 18:47:07
この3分類の倫理テーゼ、フリーターの知、エリートの知、芸術家の知、の意味を深めるための例として
ホリエモンはどれに関係したでしょうか
484 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 19:03:53
逆¥助とか言って一時雑誌や新聞で大袈裟に煽ってるようだけど
実際知り合いから聞いた
http://mh.mp7.jp/15/kskk77/ ここでやってみた
しかし・・思ってたのとちょっと違う。かなりのおばんとデートしたり
キャバ嬢とかお水系の人は外見はかなり良いけど・・飯をおごってくれる程度が多い
しかもHもなしなことも多い(もうちょっと押せたらできたかもしれないけど)
う〜ん・・エロエロで向こうから求めてくるようなのを期待してたのは甘かったのかw
中には小遣いくれる人もいるし、Hになることもあるけど
全体的に女性は精神的に満たされることを望んでる人が多いのを再確認したな
485 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 19:12:25
ネオエリートの知
ほかの知をすべて否定する
エリートの知に分類される人間も使われていたら否定
ホリエモンを庶民と富豪を関係づける存在としたならば
庶民は自分自身が否定されることで庶民と自覚する。
マゾヒズムにも似た庶民というのは本当に右往左往する。
それに対してサドヒズムはホリエモンかといったら
これはちがうなあ
ホリエモンは庶民と富豪を関係付けるものであってそれ以上の存在じゃない
とすればホリエモンを使った自民党がサドヒズムだろうか
自民党は庶民の馬鹿さをよく理解しているサディスト・・・?
資本主義社会がサディスト!
まあホリエモン程度は倫理テーゼには内包されるだろうが
この倫理テーゼを作り出すのは資本主義社会
でも人間が集団で生活するならまあこんくらいが限界だろう
486 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 19:22:18
これは生きるための倫理テーゼです。
例としてホリエモンと考えると、
フリーターの知・・・たまたま権力を手に入れてゲームのように楽しんでいた。
エリートの知・・・社会的な劣等感、復讐心から、No1になることを目標とした。
芸術家の知・・・自分なりのビジョンをもち、それを成し遂げたいという開拓者、革命者
ホリエモンは如何様に生きようとしていたのだろうか。
487 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 19:24:23
資本主義社会の中でね
488 :
考える名無しさん:2006/02/02(木) 19:26:52
資本主義社会の中でどの知も
生きさせられてる
>>481 > ストア派って…己の欲望に譲歩しないっていってるのな
ストア派は自らの欲望のみに生きている存在であり、だからこそ絶対的に静止しており、
ただひたすらに世界を認識しており、永遠であり、必然であり、死であり、キルケゴールの
言葉でいうところの絶望である。
「自己が自己自身であろうとする絶望」
彼らに欠けているのは他者の欲望であり、身体であり、瞬間であり、偶然であり、今まさに等身大の視点で
行われている生活というものである。
「自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに
自覚的に自己自身を基礎づける。」
490 :
367:2006/02/02(木) 20:15:40
>>486 4:あらゆる言説の「他者」として存在する知
語ると落ちてしまうので語ることができない知。
時間的経過を伴った知。無時間的モデルでは語れない知。
語ることによって自己形成する知。他者によって成り立つ知。
1〜3は全て象徴界の知。そこから常にこぼれ落ちる知を俎上に
載せなければならない、が、それは語れない。が、語ることでしか近づけない。
そんな感じで理解しましたよ。
491 :
367:2006/02/02(木) 20:16:59
結局「複雑性の縮減」としての社会・言語では、縮減した段階でこぼれ落ちるものが
あるわけで、人間の知は常にその「こぼれ落ちるもの」=「現実界」に翻弄される。
言葉では分かり合えず、社会は始めから自己形成的でコントロール不可能なわけです。
それで改めてぴかぁ〜さんに聞きたいのですが、ぴかぁ〜さんが「環境圧」を
持ち出すのは、「人間」という存在ではこれ以上の「問題」の解決は不可能だから、
新しい種として進化して、「言語以上の縮減する技術を扱える脳」をもつ何者かに
なる以外に方法はない、と言っているのですか?
492 :
367:2006/02/02(木) 20:26:25
>>448 手紙は宛先に届かない、というのが実践的唯物論者の知ですね。
モデルとして語れてしまうようなものへは決して到達しません。
そしてシステムというのは自己形成的なものです。語るように建設は出来ない。
ここらへんは結局「決定論」関係の話になるんですね。
人間は意識的存在としては意志を持つが、唯物論的実在としては法則的決定論の
中にいる。
「論者」としての「観念論者」と「唯物論者」は、どちらも「議論」の上に成り立つ存在で
あるが故に、どっちも「論者」以上ではないのです。
デカルトが言うように、議論には常に具体的実践という「仮の小屋」が必要であり、これは
語る以前に存在する必要があるわけです。カントなら、「何でも好きなものについて、好きなだけ
考えよ。しかし服従せよ!」ラカンなら、「啓蒙の限界は啓蒙それ自体である」。
要するに、実践について語る言説は存在しない。「メタ言語は存在しない」(ラカン)訳です。
不誠実に見える「議論」が議論の振る舞いでは誠実であり、相手に常に「謎」を投げかけ
言語の交換を誘発する言説が最も不誠実に見えて誠実で魅力的な振る舞いなのです。
このレスは「誠実」ですね
493 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 20:48:20
>>489 ストア派って、ストイック(禁欲)派ですよね。
「己の欲望に譲歩するな」と逆だと思いますよ。
494 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 20:52:59
>>491 まったく違います。「環境圧」はなにも特別なものではなく、
いまもボクたちにかかっていまし、闘っています。
たとえば服を脱いで外にでて、一晩過ごしてみてください。
環境圧に殺されますよ。
495 :
367:2006/02/02(木) 20:55:37
496 :
367:2006/02/02(木) 21:43:50
誰か隠喩を完全排除する文法とか発明してくれませんかね。
いちいちメタ的になるのがめんどくさい。
……ああ、「ニュースピーク」か。
>>492 語るように建設したのはソ連邦ですね。それはもうダメなのです。しかし、一方で
自らを規定している構造を語ることは必要なのです。それと問題を観念の操作で
解決しようとするのとは違うという立場です。
>>493 > ストア派って、ストイック(禁欲)派ですよね。
> 「己の欲望に譲歩するな」と逆だと思いますよ。
でも、ピカ氏は
> 幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
なんですよね。これはストア派だと思いますよ。そういえば、ドゥルーズもストア派でした。
>>468 非正規雇用の労組は確かに増えてきている
今日もイオングループのパート4万人以上が労組に加入した
というニュースがあったな
499 :
367:2006/02/02(木) 22:07:17
むじんくんとぴかぁ〜氏で仲良くケンカしてください。
僕はそんな論壇プロレスは認めない!(と激高して舞台を去る)
500
501 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 00:32:33
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。 フリーター、ニートは下流である。
彼らが下流であるのは、貧乏だからではない。 「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、
生きられないからだ。
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ヘタレサイクルとは、ゲーム、プチクリ、チョい仕事を適度に混ぜて、
下流なりに楽しむ。回帰する私とはなに、なんのために生きているのだろうという不安をやり過ごす。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、
なおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。
しかし安易な「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。
「己の欲望に譲歩せず」生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、
孤独で、ストイックな方法である。 物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、
という覚悟が必要である。
502 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 00:33:30
「芸術家の知」の意味
「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」だ。宮台の「エリート」とは徹底的に現代を歴史主義的に
客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、そのようなエリートを教育しようという
考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結は考えていない。たえず世界を疑い
つづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。
これらが保守的な対応であり、もっと革新的な対抗を求めるということがあるかもしれない。
たとえば、フリーターの労働問題、女性の社会進出問題、環境問題などなど社会問題を積極的に、
解決すべきだ、ということだ。ボクはそれを否定しない。しかしただこれらが多くにおいてワイドショー的
に語られすぎる。「問題を単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」と
いう勝者の優越、敗者の(欲求不満)として昇華されている。すなわち、それらの社会問題を語ることが、
「エリートの知」として解消されるからだ。それでは、「みなが求めているのは物質的な富が幸せでないし、
そんな単純にことではない」ということ「芸術家の知」が隠蔽されている。
ぴかぁ〜はいつ働くの?
504 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 01:34:02
単純化してしまえ。本質さえ捉えていれば、問題無い。
芸術家は、己を飼い慣らす。悼みに遵わず。ただ眼を凝らす。
505 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 02:15:56
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 10:55:25
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 11:31:58
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 11:34:04
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:06:16
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:21:14
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:34:46
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 12:58:28
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:08:47
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:09:39
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:10:17
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:23:37
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 16:47:37
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:08:07
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:20:25
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:25:24
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 17:44:04
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 18:47:07
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 19:22:18
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/02(木) 20:52:59
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 00:32:33
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 00:33:30
あらしですか?
506 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 02:42:50
GJ
507 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 02:52:11
こんな糞スレもうやめろよ!
何人かにも既に言われていることだけど、ぴかぁ〜は
昔から全然成長がないよ
成長する意識すら持たない人間が自スレを持つな!
折角そこそこ集客力のあるブログあるんだからそっちに専念しろよ
お前に乗り込まれたスレの脱力ぶりを知れよ!
まったくだな。
509 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 09:16:11
メタメタ
510 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:23:06
■ジャングル化する社会を生き抜く方法
@ジャングル化する社会
人間社会とはジャングルから秩序を建設することであった。そのような社会的秩序は階級構造によって
なりたっていた。うまれながらに居場所、行為が規定されている。民主化とはそもそもが社会構造解体
の流れをもつ。平等であることは競争で、位置ポテンシャルは上昇し、社会的な規律は低下する。
抑圧された欲望とは、高い秩序性によるものでなく、秩序性がゆるんだ余裕に生まれる。すなわち秩序
と解体の対立、社会的であれ、と主体化しろのダブルバインドに欲望は生まれる。
そして現代、いよいよ社会が老朽化して底が抜けた。社会の流動性はいよいよ上昇し、ジャングル化
して、自然淘汰の世界へ向かう。欲望は社会的な抑圧から解放されるが、それに変わって現れる
のが、自然淘汰的環境圧である。
社会的な抑圧はある規範がありそれに従えということであり、環境圧は、「好きにしろ、だた生き残れ。」
ということである。構造改革、規制緩和、自由度の向上と言われるが、それはまた、サバイバルな
環境圧が上昇することである。
511 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:23:58
A下流社会
人々は、豊かさにより、社会秩序を抑圧として感じ、ジャングル化することを望んでいる。より自由に
なることを意味するが、それとともに不確実化するというリスクがともなう。しかしもはや、社会の
ジャングル化は必然である。
最近、「下流社会」と言われるが、「競争社会」と同じ次元にある。いつの時代の社会には「下流」が
いる、ごくごく当たり前のことだ。「社会には下層となる誰かが必要である。」という端的な事実がある
だけだ。下層とは黙々と安い賃金で働くものです。最近の下層はご託が多い。だから正規職員に
せずに、入れ替えるのだろう。
それが最近取り上げられるのは、今まではたとえば、貧しい家庭は子供の教育も不十分で、中卒で
働くに出すという、下層は下層だという暗黙の前提があって、これはこれで、当たり前とされていた
わけだが、総中流の時代になり、誰が下層をするのかとなったときに、フリーターや派遣社員などの
中流出身者という人々が下層に「落ちぶれる」ので、ある種の同情的に語られだろう。
誰かが下層である、ということはいままでも、これからの変わらないだろう。民主主義は、生まれながら
下層でなく、入れ替え制のチャンスを与えるシステムである。しかし誰かが負け組になるのは、
資本主義だけの問題ではないと思う。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、努力さえすれば
誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、いやなら努力するしかない。それが
「競争社会」である。
512 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:24:51
A不確実性
ジャングル化とはなにか。それが競争社会であるのは、結果論である。たとえばなぜいま人間が
栄えているのか。それは恐竜が滅んだからだ。強者である恐竜がなぜほろんだか。環境が激変した
からだ。隕石の落下?で気温が冷えた。その環境では、弱者だったネズミ(ほ乳類)が強者になり、
進化して人間が生まれたのだ。ジャングルは強者、弱者の競争場だがが、その環境がどうなるか
わからない。ジャングル化する社会とは、競争社会である前に、不確実性社会だ。
ジャングル化した社会とは、流動性があがり、偶有性が増え、なにが正しく、何が間違いか不明確で、
各自がリスクをもって競争する社会である。それは当然、格差社会を生むし、勝ち組、負け組を生む
だろう。今までは、なんとなく総中流的に守られていて「なんとかなるだろう」意識は、挫折させられる
だろう。もともとも社会には格差がある。民主主義的平等とは、格差を均質化するものではなく、
平等に競争した格差を認める社会であることが、ありありと現れるだろう。どの時代において、
負け組や下流層は必ずいた。そして、「なんとかなるだろう」では、負け組になる可能性は高い。
513 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:26:29
Cジャングル化社会=非競争社会?
だからジャングル化=「不確実性社会」を単に「競争社会」ととらえると本質を見失うだろう。「競争
社会」とは資本主義ゲームの上に成り立っている。勝ち負けは、多くにおいて物質的な豊かさという
価値によって図られる。しかしジャングル化社会での勝ち組の所作とは、サバイバルすることが目標
である。不確実性の勝ちとは、「無垢への欲望」が求められるだろうか。すなわち「この私そのもの」
という充実である。ここでは、本質的に競争社会は成り立たない。人それぞれの目指すゴールが
異なるからだ。
そのような意味では、ニート、フリーターには、世間でなく自分の価値を目指しているのだという、
いつものいいわけが現れる。それぞれのやり方がある。この相対主義が、不確実性の特徴でもある。
熱いもの、ウエット感は暑苦しい、マジ、かっこわるいと最近では「欲望」は嫌われる。逆にライトは、
シニカルなスタンスが好まれる。これはまさに、ジャングル化社会に対応している。ジャングル化社会
では、素直な執着は危険である。その不確実性を理解していれば、執着は回避されるだろう。
アイロニカルで、シニカルで、クールな姿勢が求められる。
現在の不確実な社会では、貨幣を取得すること、社会信用を得ることが、生き残る可能性を高めるが、
それで確実に勝てるとは限らない。元インテルのアンディ・グローブは「パラノイア・イズ・サバイバル」と
言った。「神経症のように絶えず回りを警戒するものだけが生き残るのだ」ということだ。一度勝った
から、お金を儲けたから、次勝てる保証はない、ということだ。
「パラノイア・イズ・サバイバル」は、百獣の王ライオンでもかわらない、まさにサバイバルの極意だ。
そこまでして生きたくないのではなく、そこまでしないと生きられないのが、ジャングル化する社会
なのだ。
514 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:27:37
D欲望の不可能性
もはや、サバイバルに出かけなければ、生きられなくなるだろう。ただサバイバルすることが重要
になり、テクニカルに生き残ることが求められる。
そこでは「私とはなにか?」という欲望する世界は、シミュラークルな世界であり、ツインタワーのように
崩壊する運命にある。欲望は社会への反抗によってなりたっている。「好きにしろ」という環境圧へは
反抗は成り立たない。
欲望とは隠すことによって想起する。見えそうなミニスカートの中であり、性の対象としてはいけない
幼児であり、そこになにかがあるわけでなく、隠されることで、現れる。この隠すとは社会である。
社会があり、その禁止によって、欲望が生まれる。
ジャングル化した社会では、社会の底が抜けて、世界があらわになる。そこでは、欲望は、隠されること
を欲望する。禁止されることを欲望する。盗んだバイクで走り出すとは、禁止されることを欲望し、
走り出すのだ。そこでは禁止としての「死」を近接するのである。ジャングル化する社会では、究極的
には「死」さえも禁止されない。そこでは、もはや欲望することが困難になる。
しかしここでは欲望の原理が失われているわけではない。作動しているのは、欲望の原理そのもの
である。たとえば、フリーター、ニートは、無気力と言われるわりには、自分らしさにこだわる、すなわち
より欲望深い面があると言われる。では、欲望深い人々がフリーター、ニートになったのか、あるいは
フリーター、ニートになることで、欲望深くなるのか。ボクは、フリーター、ニートになることで、欲望深く
なる傾向が強いと考える。彼らに見られる傾向は、端的に欲望論によって動いていくことがわかる。
・競争から降りる。(ニート、引きこもり)
・瞬間的な快感によって(欲望を)紛らわせる。(動物化)
・欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かう。(ロリコン、幼児殺害、リスカ、自殺願望など)
・はけ口がより匿名へ、弱い者へ、より集団化へ向かう。(2ちゃんねるの誹謗中傷)
515 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:28:36
E動物化
動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。彼らは
サバイバルしていない。たしかに相対主義社会であり、必ずお金持ちを目指す必要はないだろう。
しかし問題は、彼らが、自立して生きていくことができないと言う意味で、不確実性な環境圧から
逃げている、というだ。
たとえば彼らは打算的にニート、引きこもりをしているなら良い。お金持ちのボンボンが親の財産で
遊んで暮らすというのは、古くからあることだ。しかし彼らにはそのような打算も、サバイバル意識も
ない。ただ逃げているだけだ。途中で社会にでても負け組であり、親が死んだら、路頭に迷う。
彼らの親が社会に厳しさをしらずに、ある意味で幸福な社会を過ごしたために、子供が引きこもる
ことの深刻さがわからずに、甘やかしている。彼らはそのような気分のままで、生きている。いつの
時代にも下流、負け組というのは存在し、冷静に考えれば、もはやそう生きるしかないのに、
サバイバルせずに逃げているのだ。彼らは時代の犠牲者だ、というのは簡単だが、現実的に彼らは
ジャングル化する社会の中で、取り残されていくだろう。
そして彼らの最後のセリフはおそらく「なぜ生きなければならないのか」だろう。そんな必死に
サバイバルする必要などない。ということだ。「なら早く死ね。」といってしまうと、終わってしまう。
そうではなくても、いくらなんと口で言おうが、「生きたい」のだということだ。人は「生きたい」から
生きているのではなく、すでに生きつづけるように、生きているのだ。だから「なぜ生きなければ
ならないのか」、「死んでやる」こそに意味はない。「ただサバイバルすることが重要になり、
テクニカルに生き残ることが求められる。」だ。
516 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:29:29
Fヘタレ化
選択は、サバイバルする(立ち向かうか)、頭を低くしてより保守化するか、選択である。保守化とは、
ジャングル化した社会での一つの生き方だろう。昼は穴蔵に引きこもる夜行性な臆病な小動物的で
あり、「パラノイア・イズ・サバイバル」の一つの形である。
しかし多くにおいて保守化とは、シニカル化である。欲望は現前化することができない。この環境圧に
負けて、か弱い夢を語ることは滑稽であり、許されない。みなが「どうせおれなんか」と、シニカルに
向かい、他者をこきおろす。ジャングル化した社会では、生きることに対して姑息であらねばならない。
匿名で愚痴をこぼし、弱い者イジメをする。
だから、ジャングル化(不確実性)において、価値の相対化がおこっても、「欲望の充実」を目指す
ゲームであることには代わりがない。欲望は他者の欲望としてあり、「この私そのもの」という充実とは
他者の承認であるために、多くにおいて、他者と共有された「競争社会」的な豊かさを目指すことが
一つの目安となっている。
お金、地位などを目標にしないことは良いし、目標はそれぞれであるということも良い。まさに
「下流社会」、「競争社会」が隠蔽しているのもは、あたかもみなが同じ物質的豊かさを競うゲームを
しているように見せかけていることである、ことも確かである。しかしそこにサバイバルがないこと
ではない。欲望を充実されるというサバイバルはあり、それを放棄することが物質的で豊かで
あっても、なくても、「負け組」なのである。
517 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:31:10
Gジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
社会はジャングル化している。社会に下流は必要だ。フリーター、ニートは下流である。彼らが下流
であるのは、貧乏だからではない。「競争社会」という幻想の構図に依存しなければ、生きられない
からだ。
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
もっとも容易な生き方は、下流で、動物化し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、
「ヘタレサイクルを回せ。」ヘタレサイクルとは、ゲーム、プチクリ、チョい仕事を適度に混ぜて、
下流なりに楽しむ。回帰する私とはなに、なんのために生きているのだろうという不安をやり過ごす。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。「能力の差でも努力の差」でもないなら、
なおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で生きていく。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。しかし安易な
「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。「己の欲望に譲歩せず」
生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、孤独で、ストイックな方法である。
物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、という覚悟が必要である。
518 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:35:49
H「芸術家の知」
「芸術家の知」とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。しかしこれは運動としてとらえ
ないといけない。当然、外にいくことなどできない。それは、外を目指し続ける姿勢である。それは、
無垢を手に入れるという充実を得る可能性へ問いかけ続ける。またそれは朽ち果てるかもしれない。
「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」だ。宮台の「エリート」とは徹底的に現代を歴史主義的に
客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、そのようなエリートを教育しようという
考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結は考えていない。たえず世界を疑い
つづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。
これらが保守的な対応であり、もっと革新的な対抗を求めるということがあるかもしれない。
たとえば、フリーターの労働問題、女性の社会進出問題、環境問題などなど社会問題を積極的に、
解決すべきだ、ということだ。ボクはそれを否定しない。しかしただこれらが多くにおいてワイドショー的
に語られすぎる。「問題を単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」と
いう勝者の優越、敗者の(欲求不満)として昇華されている。すなわち、それらの社会問題を語ることが、「エリートの知」として解消されるからだ。それでは、「みなが求めているのは物質的な富が幸せ
でないし、そんな単純にことではない」ということ「芸術家の知」が隠蔽されている。
519 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:36:25
I現代は「フリーターの知」の時代か
「エリートの知」とは、檻の中で一番になることを求める。現状を支えるという保守化であり、ほどほどの
無垢を得る。「フリーターの知」とは、ジャングル化する恐怖の世界で、檻に入り、容易に手に入る無垢
で満足する。甘やかされた者の超保守化である。
最近、プチクリ(プチクリエーター)が流行っている。ボクも現実的には、「フリーターの知」かなと思って
いる。「芸術家の知」は現代の豊かさになれ甘えた人々には、ストイックすぎる。生き抜くということ
では、ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これを
ぼくはヘタレサイクルと呼びます)これが、ニートとかではなく、普通の人々の生き残りからだ。
もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな楽しみで生きる。
>>499 > 僕はそんな論壇プロレスは認めない!(と激高して舞台を去る)
論壇プロレス(笑)。実際、ピカ氏の話は昔の文学者なんかと等価かも知れません。
現実にコミットしないことによってこそ文学者であると。コミットしている連中は
ろくでもないことしか言えないという。
ただ、宮本顕治みたいなケースもありますからね。あと、毛沢東だって"文化"大革命だから。
むしろ、現実から離脱している連中のほうが過激で危険だったりしますね、実際に権力
持たせると。
521 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 10:52:17
文学者とは光栄ですね。
ワイドショーおばちゃんに言われてもです。
>>521 > 文学者とは光栄ですね。
実際、大江健三郎みたいな世代は、マルクス主義の潮流の中で文学者が政治に
どう関わるのかといった話に巻き込まれてましたね。そういう点ではマルクス主義は
日本の近代史の中でも特異な思想だったのだと思います。
それがあまり言われなくなった頃から、ポストモダンというのが流行った。ある意味
その頃はピカ氏のような精神的実存として日本人が生活できた時期なのかも知れません。
523 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 11:11:30
・・・やれやれ。
むじんくんと367ががんばって、ずいぶん書き込みが増えましたね。
おかげで読みきれたものじゃない。わたしはそれほどヒマじゃないです。
ぴかぁ〜が親というパトロンの庇護も受けず、社会人として自立し、かつ
2ちゃんでこれほどまでの活躍をしているとなれば、それこそ天才的と
思わないでもないですが、確実に学生でないあなたが、どうしてこれほど
のヒマを持っているのか? 親というパトロンがいるなら、あなたが自分
で芸術(でありかつ哲学?)と自称する活動をいつまでも実践できると
いうのも、さほど不思議ではないのだが。芸術活動には、むろんどこから
か金という補給路がなければ、続くはずもないだろう。補給路の重要性は
戦争と同じことだ。芸術も一種の戦争だろうから。
わたしゃ、忙しいのですぐ落ちる。
>>519 インドに僕は行ってみたいんですが、友人の話だと最上位のバラモンとカースト外の浮浪者とあまり見た目の
区別がないそうです。芸術家の知とフリーターの知の違いはそういうものでしょうか。
525 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 11:45:15
わたしは、鬱憤ばらしに「弱いものイジメ」をしているヘタレかな・・・?
526 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 11:52:11
フリーターの知と芸術家の知の違いは見分けにくいということですが、
エリートの知とも見分けにくいですよ。
これはジャングル化する社会で「落ちずに」生き抜く心意気ですから
ホリエモンはどの心意気だったか、というように
527 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 12:04:08
むじんくんのマルクス好きは、ガンダム好きと同じレベルなので
フリーターの知ですね。2チャネラーはまあ大体そんなものでしょう
528 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 12:45:18
しかしフリーター、ニートたちの存在は大きい。彼らが下層を演じるおかげで競争社会は演じられつづけ
物質的豊かさが幸せであるという幻想としての社会は存続しみなが安心して社会に帰属することが可能なのである。
529 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 12:51:01
おまけに技術の驚異的進歩ということもあるしね。人間のように
歩くロボットが、こんなに早く実現するとは思わなかった。
やはり、物質的豊かさ、技術的豊かさの未来というストーリーは
当分続くのだろうと思わざるをえない。このネットだって、圧倒的
な技術の成果なんだから。
530 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 13:07:30
日本人は、いまの平和にすっかり退屈してしまっているが、
それなら、イスラエル〜パレスチナだったら緊迫した日常でいいのか?
531 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 13:09:16
どうしたらいいのか?もし、平和に退屈さしかないのだとしたら?
532 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 13:19:15
どこにも敵がいないときに、われわれは自分が何者かわかるのだろうか。
533 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 13:31:12
>>532わかるだろwwwwwwじぶんの名前ぐらいwwwwwww
>>531平和な方がいいじゃんwwwww
>>530退屈だったらカラオケとかいけよwwwwwwww
534 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 13:33:49
したがって、いろいろな事件の犯人は、ニュースが提供してくれる
日々の仮想敵たちなのである。
競争社会は平和なの?
536 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 13:38:36
平和ですね。競争は負にばかり捕らえるべき概念ではありません。
いかなる平和な社会にも競争はあると思います。
537 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 13:41:47
どんな世の中でも、心が平和な人もいるし、そうでない人もいるよね。
538 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 13:42:47
>>536そして競争社会から外れて、毎日のように妹スレで安価出してる
おれらVIPPERの脳内も平和ですよwwwwwええwwwww
実際VIPPERなめてもひどい目にあいませんよwww
競争社会に敵は居る?
■ジャングル化する社会を生き抜く方法
@ジャングル化する社会
人間社会とはジャングルから秩序を建設することであった。そのような社会的秩序は階級構造によって
なりたっていた。うまれながらに居場所、行為が規定されている。民主化とはそもそもが社会構造解体
の流れをもつ。平等であることは競争で、位置ポテンシャルは上昇し、社会的な規律は低下する。
欲望とは、高い秩序性という抑圧からの解放ではなく、秩序がゆるんだ余裕に生まれる。すなわち秩序
と解放の対立、「社会的であれ」と「主体化しろ」のダブルバインドに欲望は生まれる。
そして現代、いよいよ社会が老朽化して底が抜けた。社会の流動性はいよいよ上昇し、「ジャングル」
が回帰する。これは、当然、野性に戻るというとロマン主義的なことではなく、自然淘汰の世界へ
向かう。「社会的な抑圧」から解放され、それに変わって回帰するのが、「自然淘汰的環境圧」である。
「社会的な抑圧」はある規範がありそれに従えということであるが、「環境圧」は、「好きにしろ、だた生き残れ。」
ということである。構造改革、規制緩和など、自由度の向上と言われるが、それはまた、
「環境圧の上昇」である。
このような「ジャングル化」は、社会が豊かさにより、社会秩序を抑圧として感じる人々が、自由を
望んで、進めている。それは「不確実化する」というリスクがともなうが、ホリエモン問題、耐震偽造問題
では露呈してきていると言われる。しかしこの社会の「ジャングル化」は止められないだろう。
A下流社会
最近、「下流社会」と言われるが、「競争社会」と同じ次元にある。下層とは黙々と安い賃金で働く
ものだ。最近の下層はご託が多い。だから正規職員にせずに、入れ替えるのだろう。ここには、
いつの時代の社会には「下流」がいる、「社会には下層となる誰かが必要である。」という端的な事実が
あるだけだ。
それが最近取り上げられるのは、今まではたとえば、貧しい家庭は子供の教育も不十分で、中卒で
働くに出すという、下層は下層だという暗黙の前提があった。これはこれで、当たり前とされていた
わけだが、総中流の時代を経て、誰が下層とするのかとなったときに、フリーターやバイトなどの
中流出身者である人々が下層に「落ちぶれた」ことからの、ある種の同情として、語られている。
誰かが下層になるのは、資本主義ということでなく、社会そのものの構造だろう。だから誰かが下層
である、ということはいままでも、これからの変わらない。民主主義は、生まれながら下層をなくし、
入れ替え制のチャンスを与えるシステムである。しかしドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で唯一、
努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、いやなら努力する
しかない。それが「競争社会」である。
Bジャングル化社会(不確実性社会)と競争社会
しかし「競争社会」とは、「ジャングル化」の一面でしかない。たとえばなぜいま人間が栄えている
のか。それは恐竜が滅んだからだ。強者である恐竜がなぜほろんだのか。環境が激変したからだ。
隕石の落下?で気温が急激に下がった。その環境では、弱者だったネズミ(ほ乳類)が強者になり、
進化して人間が生まれたのだ。ジャングルは強者、弱者の競争場だがが、その環境がこの先
どうなるかわからない。「ジャングル化」する社会とは、競争社会である前に、「不確実性社会」だ。
「ジャングル化」した社会では、流動性があがり、偶然性が増え、なにが正しく、何が間違いか
不明確で、各自がそれぞれリスクをもって生きる社会である。それは当然、経済格差社会を生むし、
勝ち組、負け組を生むだろう。今まで、「なんとなく総中流的」を守っていた「社会」は解体され、
「なんとかなるだろう」意識は、挫折させられるだろう。
もともとも社会には格差がある。民主主義的平等とは、格差を均質化するものではなく、平等に競争
した格差を認める社会であることが、ありありと現れるだろう。どの時代において、負け組や下流層は
必ずいた。そして、「なんとかなるだろう」では、負け組になる可能性は高い。
しかし「ジャングル化」(不確実性社会)を単に「競争社会」ととらえると本質を見失うだろう。このような
「競争社会」とは資本主義ゲームの上に成り立っている。勝ち負けは、多くにおいて物質的な豊かさ
という価値によって図られる。ジャングル化社会での勝ち組の所作とは、「サバイバル」することが
目標である。現在の不確実な社会では、貨幣を取得すること、社会信用を得ることが、生き残る可能性
を高めるが、それで確実に勝てると保証されないからだ。
サバイバルにおいては、「攻めるか(立ち向かうか)」、「守るか、(頭を低くしてより保守化するか)」の
選択だろう。保守化とは、ジャングル化した社会での一つの生き方だ。元インテルのアンディ・グローブ
は「パラノイア・イズ・サバイバル」と言った。「臆病者だけが生き残るのだ」ということだ。野生動物は
みな臆病者である。昼は穴蔵に引きこもる小動物であるが、また百獣の王ライオンでも同様だ。
たえず回りの環境に敏感でなければならない。まさにサバイバルの極意だ。そこまでして生きたく
ないのではなく、そこまでしないと生きられないのが、ジャングル化する社会なのだ。
C欲望の不可能性
ただサバイバルすることが重要になり、テクニカルに生き残ることが求められる。そこでは「私とは
なにか?」という欲望することは困難になっている。欲望は社会への反抗によってなりたっている。
「好きにしろ」という環境圧へは反抗は成り立たない。
欲望とは隠すことによって想起する。見えそうなミニスカートの中であり、性の対象としてはいけない
幼児であり、そこになにかがあるわけでなく、隠されることで、現れる。この隠すとは社会である。
社会があり、その禁止によって、欲望が生まれる。
ジャングル化した社会では、社会の底が抜けて、世界があらわになる。そこでは、欲望は、隠されること
を欲望する。禁止されることを欲望する。盗んだバイクで走り出すとは、禁止されることを欲望し、
走り出すのだ。そこでは禁止としての「死」を近接するのである。ジャングル化する社会では、究極的
には「死」さえも禁止されない。そこでは、もはや欲望することが困難になる。
さらに、ジャングル化社会では、素直な執着は危険である。だから、熱いもの、ウエット感は暑苦しい、
マジ、かっこわるいと最近では「欲望」は嫌われる。逆にライトは、シニカルなスタンスが好まれる。
その不確実性を理解していれば、執着は回避されるだろう。アイロニカルで、シニカルで、クールな
姿勢が求められる。
D欲望社会
しかし欲望が回避されるから、欲望がなくなるわけではない。それ故に、作動しているのは、まさに
欲望の原理そのものであるといえる。たとえば、フリーター、ニートは、無気力と言われるわりには、
自分らしさにこだわる、すなわちより欲望深い面があると言われる。では、欲望深い人々がフリーター、
ニートになったのか、あるいはフリーター、ニートになることで、欲望深くなるのか。ボクは、フリーター、
ニートになることで、欲望深くなる傾向が強いと考える。
しかしそれは一つのデフォルメであり、「無気力なのに実は欲望的だ」という「面白さ」である。それは
勝ち組が欲望的であるのは当然である、ということと隠している。ここに見られる傾向は、人々が
なおも、いや欲望が難しく、隠されている故になおさら、欲望論によって動いているということだ。
さらに隠されているのは、不確実性社会における本当に目指されるものは、「(無垢への)欲望」で
ある。すなわち「この私そのもの」という充実である、ということだ。
逆にいいえば、欲望の困難が欲望を加速し、歪な形で表出している。「サバイバルのために保守化
する」ことは、シニシズムへ向かっている。欲望は現前化することができない。この環境圧に負けて、
か弱い夢を語ることは滑稽であり、許されない。みなが「どうせおれなんか」と、シニカルに向かう。
欲望は難しくなり、よりきわどい禁止へ向かうことによる、ロリコン、幼児殺害、リスカ、自殺願望など。
はけ口がより匿名へ、弱い者へ、より集団化へ向かう2ちゃんねるの誹謗中傷。そして勝ち組であった
はずの、ホリエモンの過剰性はその他の何であると言えるのだろう。ジャングル化した社会では、
生きることに対して姑息であらねばならない。匿名で愚痴をこぼし、弱い者イジメをする。
すなわちジャングル化(不確実性)に、いきなり社会が野性に戻るわけではない。社会的な豊かさは
維持されるだろう。では、サバイバルにおいて賭けられるものが生存するための「生死」でなければ
なにか。「プライド」を賭けた生死のサバイバルである。
それは「欲望の充実」を目指すサバイバルゲームである。ただ欲望は他者の欲望としてあり、「この私
そのもの」という充実とは他者の承認であるために、それはあたかも、物質的な豊かさを賭けた
「競争社会」の姿をしているのだ。
Eなぜ「負け組」なのか
動物化などといってまったりするというフリーター、ニートは、ジャングル化からの逃避である。彼らは
サバイバルしていない。たとえば彼らは打算的にニート、引きこもりをしているなら良い。お金持ちの
ボンボンが親の財産で遊んで暮らすというのは、古くからあることだ。しかし彼らにはそのような打算
も、サバイバル意識もない。ただ逃げているだけだ。途中で社会にでても負け組であり、親が
死んだら、路頭に迷う。
彼らの親が社会に厳しさをしらずに、ある意味で幸福な社会を過ごしたために、子供が引きこもること
の深刻さがわからずに、甘やかしている。彼らはそのような気分のままで、生きている。いつの時代
にも下流、負け組というのは存在し、冷静に考えれば、もはやそう生きるしかないのに、サバイバル
せずに逃げているのだ。
そして彼ら「なぜ生きなければならないのか」というだろう。そんな必死にサバイバルする必要など
ない。ということだ。しかしいくらなんと口で言おうが、人は「生きたい」から生きているのではなく、
すでに生きつづけるように、生きているのだ。そして、「なぜ生きなければならないのか」、
「死んでやる」こそに欲望的な言葉であり「本当は生きたい」という意味以外になんだろうか。
あるいは、「世間でなく自分の価値を目指しているのだ。それぞれのやり方がある。」という、いつもの
いいわけが現れる。確かにジャングル化では必ずしも「競争社会」は成り立たない。人それぞれの
目指すゴールが異なるからだ。そのような意味では、ニート、フリーターは確かにこの相対主義が、
不確実性の特徴でもある。
しかし欲望を充実されるというサバイバルにおいて、彼らは不確実性な環境圧からも逃げている。
彼らの言う「世間でなく自分の価値を目指す」というのは、「競争社会」で勝つことに比べられない
ほどに、とんでもなく困難なことなのだ。
「下流社会」、「競争社会」が隠蔽しているものは、あたかもみなが同じ物質的豊かさを競うゲームを
しているように見せかけていることである。そして彼らがその「下層」を演じるおかげで、物質的豊かさ
が幸せであるという幻想としての「競争社会」は存続し、みなが安心して「社会」に帰属することが
可能なっている。だから彼らが「負け組」であるのは、物質的に豊かでないからでも、競争社会に
負けたからでもなく、自ら、「競争社会」という幻想の「負け組」という位置に依存しているからだ。
Fジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ(健全な無垢の欲望)」
ジャングル化した社会で、現代の豊かさになれ甘えた人々が生き抜くには保守化する必要がある
だろう。適度な欲望を解消し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、「ヘタレサイクルを回す。」
ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これをぼくは
「ヘタレサイクル」と呼ぶ)もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな
楽しみで生きる。そして回帰する「私とはなに?」、「なんのために生きているのだろう」という不安を
やり過ごす。
「フリーターの知」とは、ジャングル化する恐怖の世界で、檻に入り、容易に手に入る無垢で満足する。
甘やかされた者の超保守化である。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生で
唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、これが意味する
ところは、受験ぐらいで「勝ち組」になれるなら楽なもんだ。ここには、「ジャングル化した社会では、
「競争社会」で勝つぐらいで、「本当の勝ち組」にはなれないが、」というアイロニーがあるのではない
だろうか。だからなおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で
生きていく。
「エリートの知」とは、ジャングル化する世界で、檻の中で一番になることを求める。現状を支えるという
保守化の一つでもある。
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。しかし安易な
「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。「己の欲望に譲歩せず」
生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、孤独で、ストイックな方法である。
物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、という覚悟が必要である。
「芸術家の知」とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。しかしこれは運動として
とらえないといけない。当然、外にいくことなどできない。それは、外を目指し続ける姿勢である。
それは、無垢を手に入れるという充実を得る可能性へ問いかけ続ける。またそれは朽ち果てる
かもしれない。
551 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 14:38:41
人間が平等でない事は確かだが、金銭面における階層と、精神面における階層は、別ものだよ。その他にもいろんな側面における階層があるわけだから、そう単純ではない。
552 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 14:39:22
たとえば、様々な社会問題に対してどうにかすべきだ、という意見では、その多くに、「問題を
単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」という欲求不満解消の機能
をしている。まさにワイドショー的マスメディアが大衆に与える商品である。このような娯楽性は
「フリーターの知」であるといえるだろう。2ちゃんねるなども多くにおくてこのような機能で動いている。
「エリートの知」ではこのような社会問題をより積極的に、実働的考えるということであるが、そこにも、
売名行為とまではいかなくても、優越感としての欲望解消の機能が働いている。2ちゃんねるには
「やらないよりやる偽善」という標語があるが、これは「エリートの知」のある種の開き直りであり、
偽善性の排除の難しさを示している。そしてそれは単に間違っているということではない。
「芸術家の知」では、社会問題に対して、その目先に善悪でなく、自分がなりのやりたいことを
掘り下げる姿勢である。このような「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」だ。宮台の「エリート」
とは徹底的に現代を歴史主義的に客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、
そのようなエリートを教育しようという考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結
は考えていない。たえず世界を疑いつづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。
これらは、基本的にはどれが正しいということではなく、ジャングル化する厳しい社会を、生き抜く
ための3つ方法ということである。
553 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 15:03:09
人は欲望の発生、解消という循環により人間である。
欲望することが困難な社会としてのジャングル化を生き抜くか、それは欲望しつづけることにある。それがサバイバーだ。
554 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 15:11:32
フリーターの知による恋愛とは、疑似恋愛により欲望を解消する
二次元であり、エンコウ、風俗、あるいは誰でよい的な
エリートの知では容姿、地位、数により欲望を満たす
芸術家の知では恋愛そのものを疑う、あるいは情熱的に埋没する
ロリ、ストーカーとは欲望の欠乏の形態であるが、芸術家も紙一重かもしれないし、このような犯罪まがいに向かうこと危険がともなう
555 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 16:05:14
あんたすげーよ
556 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 16:10:40
おもろい、疲れた時に読むと気が休まるなあ
んでスタンスとして三つ挙げてるけど、周囲の評価を置いといたら
自分の中にはそれ等の選択肢はどれも存在してるんやないかな
それ故に不安定であり無垢を過剰に求める
どれか一つ徹底して、てか自分の中の選択肢が一つだけだったら
もっと楽に生きれるのにね
情報が溢れてるから自分がどうしていいか、何がしたいのか
偉ぶの難しい
だが生きていれば常々選択を迫られる、自分で選んだのか
気が付けばここにいたのかと
今日も昼から哲学板
557 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 17:36:41
「仮面。――どこを探しても中身がないような、
純然たる仮面に過ぎないような女たちがいる。
ほとんど幽霊のような、当然満足させてくれるはずもない
こうした者とかかわり合う男はあわれなものだ
しかしまさしく彼女らこそ男の欲望をもっとも強く刺激できるのである
男は彼女らの魂を探す――そしていつまでも探す」
(F・ニーチェ『人間的、あまりに人間的』)
文章であれ映像であれフィギュアであれなんであれ
自らの「欲望」に見合う、見合うような「シミュラークル」を探し、次から次へと消費する人々
(ヘーゲル的に否定性として「欲望」を捉えるなら、所与として与えられるモノは
決して「欲望」と釣り合うことはない。)
「欲望の充足」を、「仮面」を被った女を、彼らが追い求めるかぎり
その追いかけっこは、消費のサイクルはいつまでも続く
「資本主義にはどのような「正常な」均衡状態もない。
「正常な」状態とはむしろ、永続する過剰の生産である。
資本主義が生き延びる唯一の方法とは拡大することだけなのである」。
(スラヴォイ・ジジェク『否定的なものへの滞留』)
誰かがこれではない「何か」によって、欲望が充足し得ると述べたとしよう
それは一見、サイクルを逸脱させるものであるかのように見える
だが、それは新たな「シュミラークル」の提示であり
サイクルの拡大再生産であり
「プラスティーク、プラスティーク!」(ボードレール)の要請に応えるものでしかない
では、この馬鹿げた資本・サイクルから逃れるには?
仮面の下の「中身」という妄想から
「正常な」ものに対するオブセッションから
「充足された欲望」というエデンから
決裂すること、ただそれだけではないだろうか
558 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 17:49:14
>>557 「「仮面」を被った女」の魅力は、「女は「仮面」を被らない」ということにあり、
「女は「仮面」を被る」世界では、欲望のフリか、「「仮面」は被らない幼女」に
向かうしかない。
現代の問題は、「「充足された欲望」というエデンから決裂すること」ではなく、
欲望の質が落ちていることです。質の良い欲望を求めて、資本主義が空回りする。
いかにサバイブするかは、いかに欲望を確保するか、ということです。
559 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 17:50:13
>>558 その「質」こそ仮面の下の「中身」
それに対するオブセッションがあるかぎりダメだろ
560 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 17:53:22
「ダメだろ」と言葉の「仮面の下の「中身」」の質は
いかがでしょう。
561 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 17:55:07
問題にならないね
562 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 17:59:32
「ダメだろ」というアディクション。
質の悪い欲望は、欲望のフリをした快楽である。
563 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 18:02:15
「問題にならない」は二重の意味
「良さ」がある種の支配的なものを措定することに対する皮肉
「良い欲望」なんて啓蒙的オブッセッションもいい所だと思うんだが
564 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 18:15:09
オブセッシブでない啓蒙とは?
565 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 18:23:35
啓蒙、モダニズムが批判された理由はそこにある
(オブッセッシブであることから逃れられないからね)
まともに「近代」とその汚点と向き合っていれば
今さら「質の良い欲望」などというテーゼを掲げることはないと思うが
566 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 18:30:17
語らない偽善より語る偽善というアイロニーでしょ
啓蒙をオブセッションということに、アイロニーはなければそれはオブセッション
567 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 18:38:39
メタ議論はおもしろくない
それより欲望をただへーゲル的に終わりないから、資本主義悪につなげるのは
浅くない?
568 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 18:47:15
「欲望」を完全に語りうるもの、明証なものとして扱うこと
それを否定したのがヘーゲルであり、フロイトであり、現代(ポモ)です
(「欲望」という空虚に「質の良い」という形容は冗語的ではありませんか?)
それに、端から資本主義を悪だとは考えていませんよ(笑)
「深い」VS「浅い」etcというどうしようもない構図を
見事に破綻に追い込んでくれた資本主義には感謝さえしています
そもそも資本主義を除去すれば、すべてが解決するなどといった
とても安易で舌足らずの与太話など信じてはいません
569 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 18:54:02
性格には欲望の質ではなく、欲望の対象の質ということになるんでしょうか。
無への欲望を無垢への欲望と展開したのです。
なぜかその方が消費社会を説明しやすいからです。
たとえば、なぜ人は上から2冊目の本を買うのか
一冊目より無垢だからです。
570 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 19:03:31
えーと、そこまで難しいことではなくて
汚れていないものが汚れているものより価値がある
例えば野菜がそうであるように
見た目が綺麗であることがその金銭的な価値を左右し
そのアナロジーが「二冊目の本セオリー」を生んでいるのではないでしょうか
とは言え、「欲望」が通過する何か、その何かの「質」
(なぜ、あれではなくこれなのか?といった問いにおいて)
これは重要な問題であると思います
また、「無垢」は小奇麗さではなく
ある種の「過剰」と結び付いているように思われます
欲望論にはありきたりな解答であるといわれれば
まったくその通りなのですが
571 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 19:05:12
上から2冊目の本の処女性は小さなアウラです。
ベンヤミンは複写技術の時代にアウラは消失したといいましたが、
小さくなったのです。欲望の対象の質が落ちたのです。へーゲル、フロイトの頃に比べて
存在定義は、他者からは、「滑稽な愚行」にしか見えない。
人が「人」として存在するのに「必要な事は」決して、
「何処かの誰かを認証する事」では、ないだろう?
どう想う?
存在定義に必死な君にそれを問うのは、酷なのだろうか・・・
574 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 19:14:15
だからそのアナロジーを無垢というのです。そしてこれはいつも過剰なのです。
本は読むためにあり、やさいは食べるためにあることからの過剰が欲望です。
ぴかぁ〜君?
君は、何処の誰とも定まらぬ私のオベンチャラに、頬を赤らめながら、
計語調で、レスをつけるのだろうか?
どうなんだ?
これが、もし。「哲学」だというのであれば、私と君との「会話」は、表面上
全く、すれ違っているかのように捕らえられるだろうが、、、、。
要は、君が「それを気にするかどうか?」なんだよ・・・・。
577 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 19:20:59
うーん、分かるような分からないような
おかしなのが涌いてきたので、今日はこの辺で
また後日
>>528 > しかしフリーター、ニートたちの存在は大きい。彼らが下層を演じるおかげで競争社会は演じられつづけ
> 物質的豊かさが幸せであるという幻想としての社会は存続しみなが安心して社会に帰属することが可能なのである。
競争社会が演技っていうのは(笑)。素晴らしい珍説ですな。
>>540 > ■ジャングル化する社会を生き抜く方法
これ、随分長くなってきましたね。そのうち本にでもなったりするんでしょうか。
恐らく並ぶのは自己啓発の棚だと思いますけど(笑)。
コミュニケーションの基本とは。
一対一だろう?
ここでやれば、他の視線を免れる事は不可能だけれど、君の所在が
ここに在る以上は、私もここで問うてみるしか方法が想い浮かばなかった。
580 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 19:26:36
せっかくなので、続きを。
無垢(処女性、小さなアウラ、小さな過剰)を人はなぜ欲望するのか。
それが自分の承認だからです。
誰でもない、私だけということを、小さく承認するのです。
上から二冊目の本、綺麗な野菜、ブランド品、処女、金メダル・・・
その小さな承認が主体としての「私」を承認する、
それが「私」なのです。
無垢の質と人の充足は密接に結びつき、
だからボクは、いかに無垢を欲望するか、と啓蒙を結びつけるのです。
581 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 19:29:24
「理論で満足」。それは、この時代が持ち従えなくては成らない。一種の病魔だろう・・・?
「沸いた」という。そしてどうする?・・・逃げる。「変な奴に責任を擦り付けて。」
どうでもいい。シネ。貴様こそが。
583 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 19:30:22
>人が「人」として存在するのに「必要な事は」決して、
>「何処かの誰かを認証する事」では、ないだろう?
認証することで認証されることでしょう。
プレゼンテーションに、必死になりすぎた果てに、何が在る?
片手落ちの言葉は人を欺く事しかしないな。。。
君が叩かれるのは、「ここが2CHだからだ。」というのは。
君の驕り以外の何物でもない。
586 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 19:45:18
■無垢の欲望という啓蒙
「欲望」を完全に語りうるもの、明証なものとして扱うこと、それを否定したのがヘーゲルであり、
フロイトであり、現代(ポモ)です。「欲望」という空虚に「質」という形容は冗語的です。しかしボクは、
「欲望は無への欲望」を「欲望は無垢への欲望」と展開したのです。なぜかその方が消費社会を
説明しやすいからです。
たとえば、なぜ人は上から2冊目の本を買うのか。一冊目より無垢だからです。上から2冊目の本の
処女性は小さなアウラです。ベンヤミンは複写技術の時代にアウラは消失したといいましたが、消失
したのではなく、小さくなったのです。欲望の対象の「質」が落ちたのです。そしてこれはいつも過剰
なのです。本は読むためにあり、やさいは食べるためにあることからの「過剰」が無垢です。
無垢(処女性、小さなアウラ、小さな過剰)を人はなぜ欲望するのか。それが自分の承認だからです。
誰でもない、私だけということを、小さく承認するのです。上から二冊目の本、綺麗な野菜、ブランド品、
処女、金メダル・・・その小さな承認が主体としての「私」を承認する。しかし完全に「私がなにものか」
承認されることがない。なぜなら「欲望は無への欲望」だからです。無垢の「質」と人の充足は密接に
結びつき、ボクは、「健全な(質の良い)無垢への欲望に健全な精神は宿る」と啓蒙するのです。
そこから、ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法を提唱したのです。当然、そこには「欲望とは
無への欲望である」というアイロニーは隠されていますが。
過剰な観念によって外界を消去する。これが何をきっかけに発生するのかは様々である。
貧乏、バカにされた、異性に振られた。しかし、何らかの挫折をきっかけに自己は自己自身を
食らいつくそうとし、ただひたすらに自分であることを目指す。しかしながら、自己とは他なるもの
によって規定されているものであり、自己そのものであろうとすることは無限に他なるものから
自らを引き離そうとする運動である。
588 :
367:2006/02/03(金) 21:19:59
ども。
>>586 2冊目の本が選ばれるから、それはより「無垢」なんだ、というとき、
1冊目や3冊目は私にとってなんなのでしょう?
それは2冊目、という本を下支えする「無意識」なのでしょうね。
そして、私がより強く関係することとなった5冊目の本は、私を
形作る一つのものとなる。
2冊目以外の本が、もし仮に綺麗であったとしても、やっぱり2冊目の
方がより「無垢」なんでしょう。また、見比べてどれも同じように汚れて
いるので5冊目を選んだら、5冊目の方がより「無垢」なんでしょう。
隠れている12冊目が仮により綺麗だったとしても、私にとっては
5冊目の方がより「無垢」なんですね。
「私が関わったからその本は私にとって特別になった」のですが、
私、と言うものはその本やたまたま関わった様々な記憶によって
形作られる。
そして、よりよい「本」を選び身につける「私」を評価するまなざしは、
他者のまなざしを想像的に自己に内面化したものです。このまなざしに
よって「差異化」されるから、それは「無垢」となる。
と理解した上で質問ですが、無垢の「質」は、とりこんだ「まなざし」に
左右される以上、健全な無垢なんて求めようとしたって自分じゃどうしようも
ないんじゃないですかね?というか、自分の内面化した「まなざし」の身丈に
あった「無垢」を指向しろ、そうすれば精神は健全だ、と言っているような気がして、
これもまた同語反復(手紙は必ず宛先に届くから、それで正解なんでしょうけど)
589 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 21:32:20
よくわからないね。自分の承認の主語はいったい誰なのか。
自分が、自分自身を承認すると言うことか。そう言っているように
聞こえる。自分を他者に承認させるというという事が問題ではないのか。
自分が自分自身を新しい(無垢である)と承認するから、いずれは
他者もこの真理(なぜなら、わたしが私自身にくだす「無垢である」と
いう感覚ほど確かなものは何もないから、なぜならその無垢はわたし自身
からいままさに生まれたものだからだ)を承認せざるを得ないはずだ、
という論法なのか。わたしは、すぐ落ちる。だから常に常駐している君の
ほうが圧倒的に有利なことはわかっているが、君の言葉の使い方のあいまいさ
にわたしは耐えられないので、以上のことだけ記して置くことにする。
590 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 21:37:38
かっこの中の最初のなぜなら、はすなわちの方がいいかな?
ちょっとわかりづらい文章になってしまったかも知れないね。
591 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 21:43:15
そうなのだ。わたしがこれを始めて考え、わたしがこれを
始めて書いた。。。これが、ぴかぁ〜が無垢という言葉で
言わんとしている事だし、おそらくデリダが署名という概念
で言おうとしたこともこれに近いことではないかと私には
思えるのだ。
592 :
シンプルな関係:2006/02/03(金) 21:54:37
ニーチェの超人は古い価値の板を破壊して、新しい価値の板を
置く。この価値転換の思考もデリダは継承しているのだろう。
脱構築とはおそらく、このことを意味する。
593 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 22:02:24
なかなか理解していただいてますね。
「他者のまなざしを想像的に自己に内面化したもの」とは象徴界ですね。
超越論的他者のまなざしであり、無意識であり、自分ではどうしようもありません。
たとえば上から2冊目の少年ジャンプと、世界でただ一冊のダビンチの直筆本の、
無垢の「質」は、少年ジャンプ<<<ダビンチの直筆本ですね。
これは、象徴界(社会)の評価、より他者が欲望するだろう、という主体の無意識から来ます。
自分の内面化した「まなざし」の身丈にあった「無垢」を指向しろ、ということではなく、
「ダビンチの直筆本」のような質のよい無垢があれば、良いのですが、
ボクたちに手にはいるのは、「ダビンチの直筆本」の複製品です。
しかしそのそもボクたち庶民は昔から、「ダビンチの直筆本」なんて貴重なものは手に入らない
わけです。ではかつて、なにによって質の良い無垢を手に入れていたのか。
たとえば昔はレコードなどはすり切れるまで聞いたらしいです。今では、レンタルか、ネットで
落としてすぐです。物質的に満たされていなかった。情報がなかったために、
みなが小さな「井の中の蛙」だったのです。ちょっとしたことが、とても大きな無垢だった。
たとえば今ではエロは、ネットで写真、動画、風俗で、あるいはナンパでも容易に手に
はいります。しかしかつてはエロ写真は貴重だし、女性と付き合うのも困難です。
豊かさ、情報化が、無垢という幻想を解体し、無垢の質を落としているのです。
ボクたちは、物質的に満たされる中で、無垢の飢餓状態になるのです。
そのような窒息状態から、過剰な行動にでるのです。
594 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 22:09:10
>>589 >>593ということです。別に曖昧ではなく、今まで繰り返し繰り返し言っている。
また一気に説明知ると、わからないだろうからです。
詳細の詳細は、ボクのブログの大量のテクストの中にあります。
以前から読んでいただいている、
>>588さんは、かなり的確に理解して
いただいています。
デリダの署名と無垢が近いというのは面白い指摘です。
ラカン「手紙は必ず宛先に届く」とデリダの「手紙は宛先に届くとは限らない」
ということですね。これは反対ではなく裏表ですね。
でも無垢はラカンの対象aであり、否定神学的ですから。
デリダの誤配可能性と違いますね。
595 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 22:10:11
596 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 22:21:01
>>593の続きていうと、ボクたちは「私は特別だ」という錯覚のもとに
生きています。誰でもこのような可能性であり、プライドを持っています。
たとえばアイドルオーディションになりたいという女性は、
もしかするとという奇跡と自分へのプライドという夢で頑張るわけです。
錯覚そのものが彼女のプライド、勇気、元気を支えているわけです。
そしてその挑戦が彼女の「無垢」なのです。
それを確率論などの現実的の情報化を提示して、冷静になれ、
夢もつなよと、言うことは意味がないわけですが、
現代の情報化社会は、望まなくても、情報が流れてくるわけです。
夢のない現実的な暴露情報が簡単に流通しているための、
夢をみる、夢を語ることが、むずかしい。マジであることがかっこわるい
シニカルな社会になっているのです。
ボクたちは、無垢の飢餓状態にあり、プライド、夢を持ちにくいのです。
597 :
367:2006/02/03(金) 22:30:14
>>593>>596 非常にわかりやすいです。ここはよくわかりました。
自動車事故に遭った人にとって自分が事故に遭うことは「特別」な
ことですが、確率論的には必然に起きることでありたまたま偶然に
彼に起きたに過ぎず、なんら「特別」な事ではないわけです。
(と東センセが説明していました)
勘所は「象徴界」での話であることと、その域では手紙は誤配されない、
ということですね。
ぴかぁ〜さんの難解さを理解する一つの鍵は、因果関係を
逆にして読んでみる(「それは……」の前後を逆にする)、もっと
言えば最後から最初に向かって読むということですね。これも
手紙は誤配されないから、ありなわけです。一切の偶然性は
捨象され、偶然性も「偶然性」として必然的に存在するわけ
ですね、「象徴界」では。
598 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 22:43:52
>>597 東センセの生徒さんですか?
@1万人いるのによりによってなぜボクに?奇跡、神の意志?
A必ず誰かに当たるのだから、必然。
@は「私」中心です。単独的な存在です。
Aは1万人中心で「私」は1万人のうちの一人、すなわち誰でも良い一人、
偶有的な存在
ボクはこれをかつて「偶有性から単独性への転倒に神性が宿る」とテーゼでしました。
恋をするのは、必ず@です。選んだ彼女は特別な女神です。
Aである彼女、だれでもよい人では、恋は起こりません。
「私」も「恋」も「夢」も、「偶有性から単独性への転倒」です。
現代の情報化では、「単独性から偶有性への反転」がおこり、神性が
暴露されています。
「偶有性から単独性への転倒」がラカンであり、「単独性から偶有性への反転」が
デリダです。
ボクの言う無垢への欲望とは、「単独性から偶有性への反転」の再反転、
すなわちラカンの欲望論への回帰です。
599 :
367:2006/02/03(金) 23:04:41
>>598 >東センセの生徒さん
いえ、トークショーでカントに言及したときに、そんな説明をされていました。
わかりやすかったので取り上げました。
彼女が彼にとって「特別な人」であるのは、「彼以外に知らない彼女の
特別なところを知っている」と<彼が>確信しているからなんですね。
これは内田樹センセの説明で「師弟論」から発しているんですが、
内田センセが言われるに、このような、自分にとってのみ不思議な魅力、
「謎」を持つ恋人や師に出会うためには歩いて歩いて必死になって探さないと
いけない、なぜならそのように狂おしく求める過程に於いてのみ、「他者にその
ような魅力を発見できる」自己が形成されるから(「先生はえらい」)。
夢や希望といった魅力的な謎はごく「個人的」にしか得ることは出来ず、(同時に
多くの人間がそれに群がったとしても)、共有しているように見えても「その個人に
とって、と言う形でしか特別さは存在し得ない」のだからやはり個人的な経験なの
ですね。
>ボクの言う無垢への欲望とは、「単独性から偶有性への反転」の再反転、
>すなわちラカンの欲望論への回帰です。
単独で読むときわめて保守的に見えるのですが、言われていることは上記のような
ことかな、と思いました。その上で、各自まったりでも必死にでも<生き延びろ>と
言っているのですかね。
600 :
367:2006/02/03(金) 23:14:31
要するに、「欲望」するにも主体が享受できる能力を獲得しなければ
欲望出来ない。欲望は既製品ではないわけです。ジャストフィットな
欲望は各個人の自己形成と不可分にあるわけですね。
601 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 23:28:35
>>599 同じようなことだと思いますが、ボクなりに説明すると、
>彼女が彼にとって「特別な人」であるのは、「彼以外に知らない彼女の
>特別なところを知っている」と<彼が>確信しているからなんですね。
ボク的にいうと、彼女が彼にとって「特別な人」であるのは、彼女にとって彼が
「特別な人」だからですね。
女神に恋することは、女神に僕の特別性を承認してもらうのです。
彼女は「無垢」であり、「無垢」は僕の唯一性を承認するのです。
内田センセの説明をボクなりに解釈すると、
「無垢」へたどり着く課程が重要なのだと思います。歩いて歩いて必死になって探す
という苦労が、「無垢」の質を向上させるのです。
簡単に手に入るものと、苦労して手に入れたものの大切さの違いです。
「狂おしく求める過程に於いて、」「無垢」の質が向上し、より強く私を承認し、
私の自身、プライドになるのですね。
現代の豊かで情報化社会では、簡単に手に入ってしまう。あるいは刺激的な快楽で
欲望をごまかしてしまう。このための「狂おしく求める過程」が難しく、
「無垢」の質が低下し、私の自信が育たないのですね。
602 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 23:30:22
>単独で読むときわめて保守的に見えるのですが、言われていることは上記のような
>ことかな、と思いました。その上で、各自まったりでも必死にでも<生き延びろ>と
>言っているのですかね。
これに対して「狂おしく求めろ」とは、ボクの「芸術家の知」「己の欲望に譲歩するな(ラカン)」
に近いと思います。しかしボクは現代の欲望することの困難さ、無垢の飢餓状態は、
かなり深刻なのではないか。「狂おしく求めろ」であれ、「己の欲望に譲歩するな(ラカン)」であれ、
これはハードルが高すぎる、これではより追い込まれてしまう、のではないかと、考えました。
そのために、「フリーターの知」(ヘタレサイクルを回せ!)、「エリートの知」(テクニカルを磨け!)
においては、もう少し譲歩し、上手く小さな無垢でも見いだしながら、この状況に耐えていこう、という
テーゼを併用しました。
603 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/03(金) 23:43:33
ボクは無垢には、消費関係と創造関係の違いを挙げています。
消費関係はモノを買い消費するように、無垢を手に入れ、ただ消費する。
それに対して、創造関係は無垢を育てる関係ですね。
例として、スポーツのライバル関係をあげていましたが、
たえず相手を意識して(無垢として欲望して)負けないように
自分を磨くことによって、無垢が育つ(創造されていく)ですね。
「狂おしく求める過程」はそれにも近いのかとも思いました。
604 :
考える名無しさん:2006/02/03(金) 23:54:11
ニートのぴかさん
605 :
367:2006/02/03(金) 23:59:25
うーん、深まりましたよ。
なるほど、三つの生き方は幅を持った生き方ねぇ。
でも、論壇での概念としてのニート・フリーターと、実際に
そう区分されている人たちの危機意識、絶望感というのは
かなり異なっていると思いますよ。
それでも、一歩前に出て、主体的に生きる。
「結局自分たちが引き受けるしかない(大塚英志)」のだと
思いましたよ、腐った社会でもね。
一つ判ると、連鎖的に過去のテキストが読解できるので、
また読みに行きます。
何度か登場しているのですが、恥ずかしいのでいつも
名無しですよ。ちょっと前は「リーマン」というコテで、議論に
ついて行けず、撃沈しました……
コテを張るのは難しいこと。それ自体が、「無垢」を享受する
主体を形成する修行なのかも知れませんね。
今日は寝ます。そいじゃノシ
606 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 00:07:04
ジャングル化する社会=不確実性とは、
先ほどの例でいくと、「確率論的には必然に起きることであり
たまたま偶然に彼に起きたに過ぎず、なんら「特別」な事ではない」世界です。
より「私」は解体され、「誰でもないただの一人」になります。
錯覚することがむずかしくなる、「無垢」の質が低下する。
人々が「無垢」を求めて、徘徊、暴走する・・・
彼らに、「狂おしく求めろ」、「欲望しろ」というのは、
より追いつめるのではないだろうか。
たとえば最近「夢をもて」というのが言われます。
夢もない人間は無気力でやる気のないダメ人間だ。という思想であり、
強迫的になっている感があります。
夢を持つことは悪いことではないでしょうが、強迫するものではない。
そこからプチクリ(プチクリエーター)などの発想が出ているわけです。
607 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 00:11:46
>>605 ボクもこのように質問してもらうと、深まります。
では、また。
608 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 00:12:21
609 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 00:16:17
すいません、いい感じのところへ野暮な質問ですが。
ピカ氏の
>>609によれば、負け組(ニート、フリーター)と勝ち組(エリート)が市場で競争ごっこを
やっているのに対して、その劇場を涼しい目で観察しているのが芸術家なんでしょう?というか、
そんなもの興味ないという感じで、劇場からどこかへ行ってしまうというほうがいいのか。
しかし、一方で「無垢」ということを言う。僕はぴかぁ術語初心者なので分かってないんでしょうけど、
読んだ限り「無垢」は弁証法ですよね。しかし芸術家っていうのは非弁証法のようにも見えるが、
そこはどうなんですか?弁証法に絡め取られたら芸術家じゃないように思うけど。
少なくとも、20世紀の芸術家は、ピカ氏が言う「無垢」からいかに逃れるか、無視するかという
課題でやっていたように思います。無垢とはやはり19世紀末に終わったロマン派という感じがする。
その背景にはピカ氏が書いているように、欲望しにくい世の中になったというのがある。もはや欲望は
無いのだ。"嘔吐"を催すオブジェクトが転がっているだけだ、と。この辺に関して聞きたいのですが。
612 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 00:59:52
芸術家の俺が来たぞ。
昔、犬を飼っていた家に飼われた。詰まり、たらいまわしにされた。
犬と俺は仲が良かった。何時も一緒に居た。
其の内に俺に湿疹ができ、アレルギーだと医者が言う。
里親は犬を捨てると言った。
俺は湿疹の出た腕をライターで燃やした。
その家からは、犬も俺も消えた。
そんなものだよ。そして哲学の目は拓く。
具体例で言えば、カフカの「変身」のような世界。
614 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 01:18:35
「時効警察」が面白すぎる件について
615 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 01:21:58
>>611 そういうことですね。無垢を逸脱していくことで、無垢が現れる
というようなことでしょうか。
実際、「芸術家の知」がどこへ向かうのか難しいですね。
617 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 01:26:15
おぉ、ぴかもテレビ観るのか。
今クールで哲学に意識的なのは「小早川なんとかの恋」だったな。
618 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 01:40:07
>>616 短絡派むじんくんは、発言を熟慮すべき。
反射的すぎますな。
>>617 「小早川なんとかの恋」は1話みたが???だった。
「時効警察」の面白さって、わからんのかな。
619 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 01:50:08
時効警察か。ロングカットのアンニュイな綻びを絶えられず笑う。
ぴかはどうだ?
620 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 01:56:16
警察署内の場面は小劇団チックだね。
なんなんだろう・・・おもしろいな・・・
621 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 03:24:20
そろそろチャップリンの話も悪くないか。
状況劇場が織り成す茶番や不幸が炙り出す愛は旨い。
622 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 10:26:20
■「上から二冊目の本」
上から2冊目の本の処女性は小さなアウラです。ベンヤミンは複写技術の時代にアウラは消失した
といいましたが、小さくなったのです。欲望の対象の質が落ちたのです。無垢(処女性、小さなアウラ、
小さな過剰)を人はなぜ欲望するのか。それが自分の承認だからです。誰でもない、私だけという
ことを、小さく承認するのです。
上から二冊目の本、綺麗な野菜、ブランド品、処女、金メダル・・・その小さな承認が主体としての
「私」を承認する、それが「私」なのです。しかし完全に「私がなにものか」承認されることがない。
なぜなら「欲望は無への欲望」だからです。
たとえば上から2冊目の少年ジャンプと、世界でただ一冊のダビンチの直筆本の、無垢の「質」は、
少年ジャンプ<<<ダビンチの直筆本ですね。これは、象徴界(社会)の評価、より他者が欲望する
だろう、という主体の無意識から来ます。
自分の内面化した「まなざし」の身丈にあった「無垢」を指向しろ、ということではなく、「ダビンチの
直筆本」のような質のよい無垢があれば、良いのですが、ボクたちに手にはいるのは、「ダビンチの
直筆本」の複製品です。しかしそのそもボクたち庶民は昔から、「ダビンチの直筆本」なんて貴重な
ものは手に入らないわけです。ではかつて、なにによって質の良い無垢を手に入れていたのか。
たとえば昔はレコードなどはすり切れるまで聞いたらしいです。今では、レンタルか、ネットで落として
すぐです。物質的に満たされていなかった。情報がなかったために、みなが小さな「井の中の蛙」
だったのです。ちょっとしたことが、とても大きな無垢だった。
たとえば今ではエロは、ネットで写真、動画、風俗で、あるいはナンパでも容易に手にはいります。
しかしかつてはエロ写真は貴重だし、女性と付き合うのも困難です。豊かさ、情報化が、無垢という
幻想を解体し、無垢の質を落としているのです。
623 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 10:28:01
ボクたちは、物質的に満たされる中で、無垢の飢餓状態になるのです。そのような窒息状態から、
過剰な行動にでるのです。
ボクたちは「私は特別だ」という「錯覚」のもとに生きています。誰でもこのような可能性であり、プライド
を持っています。たとえばアイドルオーディションになりたいという女性は、もしかするとという奇跡と
自分へのプライドという夢で頑張るわけです。錯覚そのものが彼女のプライド、勇気、元気を支えて
いるわけです。そしてその挑戦が彼女の「無垢」なのです。
それを確率論などの現実的の情報化を提示して、冷静になれ、夢もつなよと、言うことは意味がない
わけですが、現代の情報化社会は、望まなくても、情報が流れてくるわけです。夢のない現実的な
暴露情報が簡単に流通しているための、夢をみる、夢を語ることが、むずかしい。マジであることが
かっこわるいシニカルな社会になっているのです。ボクたちは、無垢の飢餓状態にあり、プライド、夢を
持ちにくいのです。
たとえば、事故が1/1万の確率でおこるというデータがあると、@1万人の中でよりによってなぜ
ボクに?天罰?神の意志?となります。これは「私」中心の見方であり、「私は」だれでもない私と
いう単独的な存在です。それに対して、A必ず誰かに当たるのだろうから、必然。ここでは1万人
中心で「私」は1万人のうちのただの一人、すなわち偶有的な存在、誰でも良い一人です。
624 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 10:28:38
ボクはこれをかつて「偶有性から単独性への転倒に神性が宿る」とテーゼでしました。たとえば、恋を
するのは、必ず@です。選んだ彼女は特別な女神であり、それを選んだ私も単独的な存在です。
Aである彼女、だれでもよい人では、恋は起こりません。
「私」も「恋」も「夢」も、「偶有性から単独性への転倒」によって、支えられています。しかし現代の
情報化では、「単独性から偶有性への反転」という暴露がおこります。たとえば「なぜその彼女を
好きになったのか」そこには根拠などないのです。もっとかわいい子、もっと好みの子がいるはずです。
恋は錯覚です。情報化社会は大量な情報によって、錯覚を暴露します。
「偶有性から単独性への転倒」がラカンであり、「単独性から偶有性への反転」がデリダです。ボクの
言う無垢への欲望とは、「単独性から偶有性への反転」の再反転、すなわちラカンの欲望論への
回帰であり、「私」の取り戻しです。
625 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 10:29:27
ボクは現代の欲望することの困難さ、無垢の飢餓状態は、かなり深刻なのではないか。「狂おしく
求めろ」であれ、「己の欲望に譲歩するな(ラカン)」であれ、これはハードルが高すぎる、これでは
より追い込まれてしまう、のではないかと、考えました。
そのために、「フリーターの知」(ヘタレサイクルを回せ!)、「エリートの知」(テクニカルを磨け!)に
おいては、もう少し譲歩し、上手く小さな無垢でも見いだしながら、この状況に耐えていこう、という
テーゼを併用しました。
「ジャングル化する社会」=不確実性とは、先ほどの例でいくと、「確率論的には必然に起きることで
ありたまたま偶然に彼に起きたに過ぎず、なんら「特別」な事ではない」世界です。より「私」は解体
され、「誰でもないただの一人」になります。錯覚することがむずかしくなる、「無垢」の質が低下する。
人々が「無垢」を求めて、徘徊、暴走する・・・
彼らに、「狂おしく求めろ」、「欲望しろ」というのは、より追いつめるのではないだろうか。たとえば最近
「夢をもて」というのが言われます。夢もない人間は無気力でやる気のないダメ人間だ。という思想で
あり、強迫的になっている感があります。夢を持つことは悪いことではないでしょうが、強迫するもの
ではない。そこから最近では、プチクリ(プチクリエーター)などの発想が出てきているわけです。
626 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 11:15:01
ナショナリズム、ファンダメンタリズムなどが放つ「無垢」に対して
あなたの語る諸テーゼはあまりに無防備ではないでしょうか?
また、、ここで語られている偶有性はデリダの語った偶有性のパロディであり
単独性はラカンの語った単独性のパロディに堕してしまっているように見えます
(誰でもない誰かとの偶有、誰でもない誰かとしての単独
ブランショ的に言えば、二人が語ったのは「明かしえぬ」偶有と単独だから)
そして、ラカンが述べた「己の欲望に譲歩するな」というテーゼは
欲望を理由付けして正当化する必要はないし
欲望する己をわざわざ構築してやる必要はない
(なにせ大文字の他者(G.O.D)はそもそも不在であり、目的もまた不在であるのだから)
欲望が欲望たることに対するそうした譲歩に背を向けることであって
己の欲望を空虚なまま受けとめること―「否定的なものへと留まること」―
つまりその宙吊り状態を受けとめようじゃないかということなのではないのかな?
627 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 11:37:18
ポストモダンが志向してきたのは、ナチズム、マルキシズムへの徹底的な反動です。
主体、欲望、形而上学などいわゆる「人間」の解体が目指されたのです。
その極限にデリダがいるわけです。
もはやそれは神経症ではないのか、というのが、ジジェクの主体の救済です。
ポストモダン的解体への過剰が、転倒した欲望である。
ボク的には、ワイドショー的「フリーターの知」ですね。
>また、、ここで語られている偶有性はデリダの語った偶有性のパロディであり
>単独性はラカンの語った単独性のパロディに堕してしまっているように見えます
「パロディ」というのは面白い表現ですね。パロディはアイロニーの形態です。
しかし、もし昨日の「アディクション」の方であると、表現が「セカイ系」っぽいように思います。
ボクは「アディクションでない啓蒙はありますか」といいました。
「パロディでなく哲学(啓蒙)がありますか」と問うてもよいと思います。
結局、なにも言っていないのです。ワイドショー的「フリーターの知」ですね。
たとえば、「フリーターの知」、「エリートの知」がナショナリズム、ファンダメンタリズムなどが
放つ「無垢」に無防備であり、それどころか、それを目指しているところさえあります。
熱くなれるものを目指すということですね。
しかし現代は、むしろその「熱いモノ」の解体の神経症が、逆に突発的揺り戻しが
起こっているのではないか。たとえばイラク人質バッシング、2ちゃんねるの祭り、
幼児殺人などなど。「無垢」の飢餓が暴力を生む、なら適度の「無垢」を
許容することが、実働的に有効ではないか。ということです。
「芸術家の知」は、言われてることで良いと思います。
「己の欲望に譲歩するな」とは、「否定的なものへと留まること」、それは、
欲望の到達の不可能性を欲望し「続けること」です。
>>618 > 短絡派むじんくんは、発言を熟慮すべき。
> 反射的すぎますな。
そうかなぁ。でも無垢は弁証法でしょう。それが絶えず外へと向かうことによって現れる
というのは、やはりロマン派だなぁと思うわけです。
しかし、20世紀に入ってそういう道もふさがってしまったというのが、本物の芸術家の
人たちの実際の知だったんじゃないか。カフカの世界みたいな、ああいうものは、
無垢が立ち現れるとはもはや絶対に言えない、もう打ち止めであるという感覚から
きているわけですね。
そこから撤退したときに、自己啓発本のようなものが出てきているわけで、ジャングルを
生きぬけっていうのは、何かそういう雰囲気がしますけどね。
>>627 > 「己の欲望に譲歩するな」とは、「否定的なものへと留まること」、それは、
> 欲望の到達の不可能性を欲望し「続けること」です。
それはロマン派末期の「醜悪の美」につながりませんか?あるいは生の哲学という
ものに。そして、ファシズムは生の哲学であり、反制度であったし、"人間"の解体
だったはずです。
630 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 12:37:49
近代的な自我を脱領域化する「パッション」を、「強度」(ドゥールーズ)を、
「交流」(バタイユ)を、「情動性」(アンリ)を、
人種や教条といった所与によって
つまり明証的なものによって満たされ得る欲求に置き換えてしまうこと
ヘーゲル的に見れば、これは「自己意識」を欠いた「動物的」なことでしょう
ヘーゲルがナショナリストの論理を下支えし
ニーチェがファシストの教科書になり
マルクスがスターリニズムを正当化するかのように言われ
バタイユの試みが「超ファシスト的」と呼ばれたことを考えてみて下さい
このなかの誰一人として、所与には決して甘んじなかったのにも関わらず
ファシストからクメールルージュまで、
ある意味では反制度的(家長制の解体をはじめ)であり
彼らは彼らなりの「生の哲学」(杜撰なハイデガー主義が
彼らになんと好まれていることか)を信じていたことにはまず疑いはありません
しかし、彼らは果てまで行かなかった
檻を壊すが、それよりも強固な檻を建設しようとした
言うまでもなく、もはやそれは「パッション」でも「生の哲学」でもない
そうではありませんか?
631 :
考える名無しさん:2006/02/04(土) 13:30:35
632 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 15:32:39
近代的な自我という形而上学を、解体するという振りにおいて、強い神性を作り出す。
否定神学の構造が、ナショナリスト、ファシストなどで働いている、ということですね。
これに対する反論は、デリダがラカンを否定神学と呼び、それに対するジジェクの反論ですね。
すでに
>>627で示しましたが、もはやそれは神経症ではないのか。ということです。
自我=「私」というものが、錯覚の上に成り立っている以上、どのような言説も神性から免れない
のです。
否定神学=、神性を否定する神性、あるいは神性を否定する神性を否定する神性、あるいは
神性を否定する神性を否定する神性を否定する神性・・・
だから安易な「否定神学批判」の言説そのものに神性が当然、作動しています。
それをボクは「フリーターの知」によって、適度の「無垢」(否定神学)を許容することが、
実働的に有効ではないか。ということです。
633 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 15:40:01
もう一つの物語として、
かつて、神へのまなざしによって支えられていた「主体」は、神が死んだと、
大衆という社会というまなざしによって規律訓練的によって支えられた。
しかし現代の情報化によって、社会秩序は解体されていく。
まなざしは分散する。主体は散乱していく。
これは「社会学的」物語です。
この二つの違いは、主体を解体しているのは誰か、ということです。
哲学的物語では、によって「主体的に」解体しなければ、
ならないということであり、「社会学的」物語では、社会変容が
「受動的に」主体を解体しているということです。
ボクは「社会学的」物語を重視しています。だから「フリーターの知」、
「エリートの知」を共有し、社会変容によって解体されるゆく
「主体」を救済するということです。
「芸術家の知」は哲学的物語によるポストモダン的言説の延長に
あります。
勉強家のキミは、哲学的物語を全面的に内面化し、主体化していると、
言えるでしょう。だから「フリーターの知」であろうとということです。
634 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 15:41:22
635 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 15:42:42
>>629 ストア派の次は、ロマン派ですか。
安易では?
636 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 15:45:37
>>633の訂正です。抜けてました。
もう一つ、展開しましょう。
近代、神が死んだあと、人間が自立するために、「自立して理性的主体」が啓蒙されました。
教育、社会秩序という規律訓練型権力によって、理性を内面化することが試みられた。
その先にあったのが、ナチズムなどで極まる全体化された静的な秩序です。
ポストモダン言説は、近代的理性的主体への徹底的な解体に向かいます。
これが、哲学的な物語ではないでしょうか。
もう一つの物語として、
かつて、神へのまなざしによって支えられていた「主体」は、神が死んだと、
大衆という社会というまなざしによって規律訓練的によって支えられた。
しかし現代の情報化によって、社会秩序は解体されていく。
まなざしは分散する。主体は散乱していく。
これは「社会学的」物語です。
この二つの違いは、主体を解体しているのは誰か、ということです。
哲学的物語では、によって「主体的に」解体しなければ、
ならないということであり、「社会学的」物語では、社会変容が
「受動的に」主体を解体しているということです。
ボクは「社会学的」物語を重視しています。だから「フリーターの知」、
「エリートの知」を共有し、社会変容によって解体されるゆく
「主体」を救済するということです。
「芸術家の知」は哲学的物語によるポストモダン的言説の延長に
あります。
勉強家のキミは、哲学的物語を全面的に内面化し、主体化していると、
言えるでしょう。だから「フリーターの知」であろうとということです。
637 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 15:47:24
哲学的物語では、哲学家によって「主体的に」解体しなければ、
むじんくんの発言はよく意味がわかりませんが、人間はロマン派的なも
のから逃れることなんてできはしませんよ。わたしはロマン派の何がい
けないのか、と思う。ロマン派末期とかおっしゃいますが、ロマン主義
的なものは、現代でも大きいと私は思いますけどね。
フランス哲学でもドゥルーズやジャンケレヴィッチ、M.セールなど、
ロマン主義の流れをくむ哲学者たちが活躍して日本にも多くのファンを
うみました。・・ラカンが、ロマン派かどうかは私には謎ですが。
私はドゥルーズの権威のような口ぶりで話していますが、
ほんとうはただ一冊、「プルーストとシーニュ」を理解した、
あるいは共感しただけとも言えます。「カフカ」や「マゾッホ
とサド」「ニーチェと哲学」・・・あと名前を度忘れした
ロビンソン論なんかも好きですが、そのほかの大著には手が
出ませんでした。
640 :
お願いします。:2006/02/04(土) 17:01:52
生き物苦手板の虐待ヲタをみんなの力でやっつけて下さい。お願いします
Help me!∧_∧
please!(・ω・=)
>>635 > ストア派の次は、ロマン派ですか。
> 安易では?
ロマン派の果てにストア派がある。これは典型的だと思いますよ。ドゥルーズなんかそうだったんじゃ
ないですか?
世俗の競争劇場から精神を引き離し、失われた無垢を見出すことがロマン派であれば、その果て
にはストア派的諦念がある。そこには己の主体のみを純粋化するということ、世界と共に、唯ひたすらに
在ることのみが続く。
>>638 > むじんくんの発言はよく意味がわかりませんが、人間はロマン派的なも
> のから逃れることなんてできはしませんよ。わたしはロマン派の何がい
> けないのか、と思う。
あはは。それはそうなんですよ。ただ、哲学として言うべきかどうかと問われたら、否と言わなければ
ならない。ニーチェもどこかで書いてましたが、ロマン派的な慰みというもの、そこに落ち着くという
のはやむを得ないのではないか、そうであってはならないんです。ただ、非常に落ちやすい罠だし、
逃れることが難しいとは思います。
643 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 20:49:51
>>641 ドゥルーズもロマン派と読んじゃうと、「人間はロマン派的なも
のから逃れることなんてできはしません」=「何でもロマン派」に
なってしまいますね。
それを、言うならば、
>>630さんのように「無垢は否定神学」ではないでしょうか。
644 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 20:51:51
■否定神学としての「無垢」
近代的な自我という形而上学を、解体するという振りにおいて、強い神性を作り出す。否定神学の構造
が、ナショナリスト、ファシストなどで働いている、ということですね。
これに対する反論は、デリダがラカンを否定神学と呼び、それに対するジジェクの反論ですね。
すでに
>>627で示しましたが、もはやそれは神経症ではないのか。ということです。自我=「私」という
ものが、錯覚の上に成り立っている以上、どのような言説も神性から免れないのです。否定神学
=神性を否定する神性、あるいは神性を否定する神性を否定する神性、あるいは神性を否定する
神性を否定する神性を否定する神性・・・
だから安易な「否定神学批判」の言説そのものに神性が当然、作動しています。それをボクは
「フリーターの知」によって、適度の「無垢」(否定神学)を許容することが、実働的に有効ではないか。
ということです。
645 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 20:52:42
もう一つ、展開しましょう。
近代、神が死んだあと、人間が自立するために、「自立して理性的主体」が啓蒙されました。教育、
社会秩序という規律訓練型権力によって、理性を内面化することが試みられた。その先にあったのが、
ナチズムなどで極まる全体化された静的な秩序です。ポストモダン言説は、近代的理性的主体への
徹底的な解体に向かいます。これが、哲学的な物語ではないでしょうか。
もう一つの物語として、かつて、神へのまなざしによって支えられていた「主体」は、神が死んだと、大衆
という社会というまなざしによって規律訓練的によって支えられた。しかし現代の情報化によって、
社会秩序は解体されていく。まなざしは分散する。主体は散乱していく。これは「社会学的」物語です。
この二つの違いは、主体を解体しているのは誰か、ということです。哲学的物語では、哲学家によって
「主体的に」解体しなければ、ならないということであり、「社会学的」物語では、社会変容が「受動的
に」主体を解体しているということです。
「社会学的」物語を重視するところから、「フリーターの知」、「エリートの知」が現れます。社会変容
によって解体されるゆく「主体」を救済するということです。哲学的物語からは、「芸術家の知」である
ポストモダン的言説があります。勉強家のキミは、哲学的物語を全面的に内面化し、主体化している
と、言えるでしょう。だから「フリーターの知」であろうとということです。
646 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 20:59:47
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ!」
ジャングル化した社会で、現代の豊かさになれ甘えた人々が生き抜くには保守化する必要がある
だろう。適度な欲望を解消し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、「ヘタレサイクルを回す。」
ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これをぼくは
「ヘタレサイクル」と呼ぶ)もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな
楽しみで生きる。そして回帰する「私とはなに?」、「なんのために生きているのだろう」という不安を
やり過ごす。「フリーターの知」とは、ジャングル化する恐怖の世界で、檻に入り、容易に手に入る
無垢で満足する。甘やかされた者の超保守化である。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け!」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生
で唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、これが意味する
ところは、受験ぐらいで「勝ち組」になれるなら楽なもんだ。ここには、「ジャングル化した社会では、
「競争社会」で勝つぐらいで、「本当の勝ち組」にはなれないが、」というアイロニーがあるのではない
だろうか。だからなおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で
生きていく。「エリートの知」とは、ジャングル化する世界で、檻の中で一番になることを求める。現状を
支えるという保守化の一つでもある。
647 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 21:01:32
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな!」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。しかし安易な
「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。「己の欲望に譲歩せず」
生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、孤独で、ストイックな方法である。
物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、という覚悟が必要である。
「芸術家の知」とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。しかしこれは運動として
とらえないといけない。当然、外にいくことなどできない。それは、外を目指し続ける姿勢である。
それは、無垢を手に入れるという充実を得る可能性へ問いかけ続ける。またそれは朽ち果てる
かもしれない。
648 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 21:02:40
■いかに生き抜くか
たとえば、様々な社会問題に対してどうにかすべきだ、という意見では、その多くに、「問題を
単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」という欲求不満解消の機能
をしている。まさにワイドショー的マスメディアが大衆に与える商品である。このような娯楽性は
「フリーターの知」であるといえるだろう。2ちゃんねるなども多くにおくてこのような機能で動いている。
「エリートの知」ではこのような社会問題をより積極的に、実働的考えるということであるが、そこにも、
売名行為とまではいかなくても、優越感としての欲望解消の機能が働いている。2ちゃんねるには
「やらない偽善よりやる偽善」という標語があるが、これは「エリートの知」のある種の開き直りであり、
偽善性の排除の難しさを示している。そしてそれは単に間違っているということではない。
「芸術家の知」では、社会問題に対して、その目先に善悪でなく、自分がなりのやりたいことを掘り
下げる姿勢である。このような「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」*2だ。宮台の「エリート」
とは徹底的に現代を歴史主義的に客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、
そのようなエリートを教育しようという考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結は
考えていない。たえず世界を疑いつづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。
これらは、基本的にはどれが正しいということではなく、ジャングル化する厳しい社会を、生き抜く
ための3つ方法ということだ。
もうネタ切れ?
フリーターの知とエリートの知と芸術家の知を同時に実現しているぴかチュウは偉大ってことだな
凄い皮肉
>>643 > ドゥルーズもロマン派と読んじゃうと、「人間はロマン派的なも
> のから逃れることなんてできはしません」=「何でもロマン派」に
> なってしまいますね。
具体的に、本物の20世紀芸術家はどうか、ということです。彼らロマン派じゃないわけですよ。
シュトックハウゼンみたいな人もいますが、音楽であれば、音が限りなくオブジェクトに化していく
わけです。もはや内面の表現なんか存在しないし、かといって信じられる形式も無い。
僕は現代の風景とは、と聞かれたらカフカの小説に描かれているような世界を思います。ピカ氏の
芸術家はもうちょっと湿っぽいような気がするんですけど(笑)、少なくとも、カフカの風景には無垢を
手に入れるという可能性はない。あらゆる意味で可能性自体が蒸発した世界です。
653 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 21:48:19
>>652 限りなくオブジェクトに化す、分裂病的カフカの風景
これって、究極の「無垢」かもしれません。
>>653 > 限りなくオブジェクトに化す、分裂病的カフカの風景
> これって、究極の「無垢」かもしれません。
そうなの?(笑)。でも、もはや"充実"はないでしょう。
655 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 21:55:21
「無垢」は超越論的なものであるのは、当然なんですよ。
なぜなら、なぜそれが「無垢」なのかは、
超越論的他者がまなざすものだからです。欲望とは他者の欲望なんです。
限りなくオブジェクトに化そうが、分裂病的カフカの風景だろうが、
それを超越論的他者がまなざせば、「無垢」になるんです。
それをロマン派と言おうが、別に意味がないんです。
「ロマン派」の発生構造への言及という、これはメタ議論なんですよ。
超越的でなく、超越論的なのですね。
656 :
みく ◆GG1SfzBGbU :2006/02/04(土) 22:00:03
>>1
ずいぶんと理屈っぽい人。
>>655 > 限りなくオブジェクトに化そうが、分裂病的カフカの風景だろうが、
> それを超越論的他者がまなざせば、「無垢」になるんです。
カフカの世界に超越論的視線は存在しませんね。その意味で、カフカの世界を一言で
形容するならば「地獄」だと思います。地獄というものが本当にあるとしたら、こういうもの
だろうと。鬼が釜を茹でているなんていうのは人間的過ぎる(笑)。
「無垢」とは錯覚であるとありましたけど、この地獄はあまりにも全てが明らかであり、
もはや錯覚の余地が無い。永遠で必然の世界です。
そこに、如何にして他者の視線が再び現れるのか。現れた視線との戯れは、所詮「劇場」と
なってしまうのではないか。
658 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/04(土) 23:13:57
>「ロマン派」の発生構造への言及という、これはメタ議論なんですよ。
>超越的でなく、超越論的なのですね。
決定論スレの住人は素朴な天然である、ということを言い続けていますが、
「カフカの世界」の中の超越論的視線でなく、「カフカの世界」を見る超越論的視線です。
メタ議論です。
むじんくんはなぜ「カフカ」が好きなのか、欲望するのか、
「カフカ」が、超越論的他者がまなざす「無垢」だからです。
むじんくんにアイロニーはない?(笑)
>>658 > 「カフカ」が、超越論的他者がまなざす「無垢」だからです。
それはよく分かります(笑)。
> むじんくんにアイロニーはない?(笑)
しかし、
>>648 > ■いかに生き抜くか
これは?(笑)
660 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 00:14:28
>それはよく分かります(笑)。
ほんとに?(笑)
>これは?(笑)
?
>>660 > ?
自己啓発書的記述は、超越論的なの?
ちょっと今思い出したんですけど、「ベルリン・天使の詩」という映画で、天使が「永遠よりも瞬間を、必然よりも偶然を」といった
意味の言葉を語って、その後人間になるというのがありましたけど、ピカ氏は天使なんじゃなかったんですか?
662 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 00:27:08
>>660 カントの純粋と実践と考えれば良いと思いますよ。
というか、基本的に理解でできていないのだと、思いますよ。
むじんくんの志向は還元論、快感原則、世界の完結性なのですね。
しかしボクが言っているのは、超越論、快感原則の彼岸、世界の不完全性です。
そういう意味で、おそらくむじんくんはマルクスも読めていないかも。
柄谷の「マルクスの可能性の中心」呼びました?
>>662 > カントの純粋と実践と考えれば良いと思いますよ。
なるほど。3つの知は実践理性批判か(笑)。
> そういう意味で、おそらくむじんくんはマルクスも読めていないかも。
> 柄谷の「マルクスの可能性の中心」呼びました?
柄谷行人ですよね。懐かしいですね。「可能性の中心」は昔読んだ記憶がありますが、
もう覚えてませんね。ただ、ちょっとこの人についての感想を言うと、典型的な観念論の
人、という印象です。それが、最初は羞恥心があったのか言えなかったのが、だんだん
はっきりしてきたという(笑)。
あと、ジャーナリスティックだと思うんですよね。批評家だから当然なんでしょうけど、
哲学者を扱っていても、あくまでも時流というものが前に来ている人だと思います。
マルクス論は忘れちゃったのでなんともいえませんね。資本の運動とは死の本能である、
といったノリでしょうか?
>そういう意味で、おそらくむじんくんはマルクスも読めていないかも。
心配するな。みんなお前が馬鹿だとわかってるから。
あ、そうそう。肝心の聞きたいことを書くの忘れてました。
超越論的「認識」はあるけど、超越論的「生活」はできないでしょ?そこがよく
分からないのだけど、ヘーゲルなんかもだから知識人というのは特殊な存在と
してるわけですよね。労働の場から離れた存在として。
芸術家の知っていうのは、そういうものなのかな。それ以外はフリーターの知か
エリートの知になるしかないと。
666 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 01:51:26
>>663 柄谷が観念論者であるように、ボクは観念論者であるわけですね。(笑)
たぶんむじんくんの観念論解釈は独特ですね。
(決定論的)唯物論以外は、観念論って感じですね。
>>665 だからわかっていないっといっているのですよ(笑)
ボクが言っている中には、超越論的「認識」も、超越論的「生活」?ないですよ。
超越論的他者と言っているのですね。
もしかして、超越的と超越論的を混同していません?
>>666 > だからわかっていないっといっているのですよ(笑)
ちょっと待ってください。超越論的他者って何ですか?ピカ氏の言う。
668 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 02:26:34
一番簡単にいえば、「神」ですね。
それは超越的でなく、超越論的です。
669 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 02:43:18
また観念論、あるいは形而上学と言われそうなので、念のために
超越的では、「人は「神」のまなざしの先を欲望する。
そのような「神」がこの世界にいる。」となるわけですが、
超越論的では「人は「神」のまなざしの先を欲望する、というような、
「神」を想定している。」となるわけです。
ちなみに、ボクは唯物論者ですよ。
>>669 > ちなみに、ボクは唯物論者ですよ。
すみません、ちょっと素朴な用語解説をお願いします。超越論的というのは神に対して
言えないというのが一般的なんじゃないですか。神は反省しない、というかできませんよね。
671 :
シンプルな関係:2006/02/05(日) 09:05:52
少し傍証して置きましょう・・。ジャンケレヴィッチの本のなかでもっとも
おすすめできるのが、若いころ(30代?)書いた「イロニーの精神」という
本で、直接的にはキルケゴールの「イロニーの概念」に触発されて書かれた
ものと言えるのですが、なかにはフレデリック・シュレーゲルを筆頭にいわ
ゆるドイツ・ロマン派のひと達の言葉がたくさん引用されています。そして
このジャンケレヴィッチという人は、やはりおなじ頃「アンリ・ベルクソン」
という本を書いて、当のベルクソン本人から「自分の後継者はこの人しかいな
い」とまで認められたベルクソン学者でもあるのです。そして言うまでもなく
ドゥルーズへのベルクソンの影響の大きさはご存知のとおりです。こうした
事をすべて考えあわせると、ドゥルーズやジャンケレヴィッチが、ロマン派
自体ではないかも知れないが、すくなくともその思想的継承者ではないか、と
思えるのです。ですから、ロマン派が哲学的に駄目とおっしゃるのは早計だと
私は思う。
672 :
シンプルな関係:2006/02/05(日) 09:23:38
>>652 映画は、20世紀芸術のなかに入ると思いますか? 映画ももちろんピンキリ
ですが、人を感動させるような名作映画だってあるでしょう? これを芸術と
呼びませんか? そしてなかには、ロマン主義的傑作だ!と讃えたくなるよう
な作品だってあると思いますよ? 具体的には何だ?と聞かれても私は、ケチ
なので、教えてあげませんが。(笑)
おっと・・・話の腰を折ったようで悪かったね。わたしの書き込み
など無視して議論を続けてくれたまえ・・・。わたしは少々、スレ
介入のマナーを学ぶ必要がありそうだ。
674 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 12:33:18
>>674 > 「超越」について「論」じる
それは超越論的認識ですよね。超越論的他者って何ですか?それは神だとしたら、
神が欠如を持つということですか?
676 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 13:50:32
神が欠如???
677 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 13:51:37
■否定神学としての「無垢」
近代的な自我という形而上学を、解体するという振りにおいて、強い神性を作り出す。否定神学の構造
が、ナショナリスト、ファシストなどで働いている、ということですね。
これに対する反論は、デリダがラカンを否定神学と呼び、それに対するジジェクの反論ですね。
すでに
>>627で示しましたが、もはやそれは神経症ではないのか。ということです。自我=「私」という
ものが、錯覚の上に成り立っている以上、どのような言説も神性から免れないのです。否定神学
=神性を否定する神性、あるいは神性を否定する神性を否定する神性、あるいは神性を否定する
神性を否定する神性を否定する神性・・・
だから安易な「否定神学批判」の言説そのものに神性が当然、作動しています。それをボクは
「フリーターの知」によって、適度の「無垢」(否定神学)を許容することが、実働的に有効ではないか。
ということです。
>>671>>672>>673 > おっと・・・話の腰を折ったようで悪かったね。
いえいえ。結構自分は興味ある話題です。
ロマン派を直ちにダメっていうのは確かに難しい。例えばニーチェは明らかにロマン派の流れの中に
いるわけですね。しかし、内なる何ものかを表現するという方向は明らかに20世紀に破綻してしまった。
例えば、シェーンベルクは音楽を12音を平等に扱う技法に変移させ、その後継者は音のパターン構成に
注目していく。これは、19世紀の音楽が表現だとしたら、20世紀音楽というのは情報なんですね。
文学で言えば、文体からテクストへ、ということです。
テクスト、という観点によって文学が衰弱してしまったことは明らかなように、現代音楽というのは袋小路の
ようにも見えます。しかし、一方で失われた表現を取り戻すことは難しいと思うのです。そうなってくると、
もう音楽も文学もなくなったんじゃないか。無くて困らないならそれでもいいだろう、という考えもある。
そういう中で、映画とは何かというのは確かに面白いと思います。あれは明らかに20世紀芸術でしょうけど、
僕は論じる能力が無い(笑)。
679 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 13:53:31
もう一つ、展開しましょう。
近代、神が死んだあと、人間が自立するために、「自立して理性的主体」が啓蒙されました。教育、
社会秩序という規律訓練型権力によって、理性を内面化することが試みられた。その先にあったのが、
ナチズムなどで極まる全体化された静的な秩序です。ポストモダン言説は、近代的理性的主体への
徹底的な解体に向かいます。これが、哲学的な物語ではないでしょうか。
もう一つの物語として、かつて、神へのまなざしによって支えられていた「主体」は、神が死んだと、大衆
という社会というまなざしによって規律訓練的によって支えられた。しかし現代の情報化によって、
社会秩序は解体されていく。まなざしは分散する。主体は散乱していく。これは「社会学的」物語です。
この二つの違いは、主体を解体しているのは誰か、ということです。哲学的物語では、哲学家によって
「主体的に」解体しなければ、ならないということであり、「社会学的」物語では、社会変容が「受動的
に」主体を解体しているということです。
「社会学的」物語を重視するところから、「フリーターの知」、「エリートの知」が現れます。社会変容
によって解体されるゆく「主体」を救済するということです。哲学的物語からは、「芸術家の知」である
ポストモダン的言説があります。哲学勉強家は、哲学的物語を全面的に内面化し、主体化している
と、言えるでしょう。だからマルクスでさえ、ガンダムと同じレベルで語られ、
それは「フリーターの知」として消化されるということです。
680 :
考える名無しさん:2006/02/05(日) 13:54:10
あんたすげーよ
どこが
>>676 超越論的他者って一般的な術語なんですか?もう一つの超越論的主観ということでは
ないんですよね。神であるということは。
>>672 映画に関してちょっと書いてみると、作品に対する作家というものが無いということでしょうか。映画
だけがあるのであって、それが誰かの表現であるということから端的に逃れていると思います。むしろ
映画の中に作家がある。ベートーベンも映画になってしまう。
684 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 14:17:55
「超越論的他者」=大文字の他者
685 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 14:19:43
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ!」
ジャングル化した社会で、現代の豊かさになれ甘えた人々が生き抜くには保守化する必要がある
だろう。適度な欲望を解消し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、「ヘタレサイクルを回す。」
ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これをぼくは
「ヘタレサイクル」と呼ぶ)もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな
楽しみで生きる。そして回帰する「私とはなに?」、「なんのために生きているのだろう」という不安を
やり過ごす。「フリーターの知」とは、ジャングル化する恐怖の世界で、檻に入り、容易に手に入る
無垢で満足する。甘やかされた者の超保守化である。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け!」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生
で唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、これが意味する
ところは、受験ぐらいで「勝ち組」になれるなら楽なもんだ。ここには、「ジャングル化した社会では、
「競争社会」で勝つぐらいで、「本当の勝ち組」にはなれないが、」というアイロニーがあるのではない
だろうか。だからなおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で
生きていく。「エリートの知」とは、ジャングル化する世界で、檻の中で一番になることを求める。現状を
支えるという保守化の一つでもある。
もうネタ切れ?
687 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 14:20:33
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな!」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。しかし安易な
「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。「己の欲望に譲歩せず」
生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、孤独で、ストイックな方法である。
物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、という覚悟が必要である。
「芸術家の知」とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。しかしこれは運動として
とらえないといけない。当然、外にいくことなどできない。それは、外を目指し続ける姿勢である。
それは、無垢を手に入れるという充実を得る可能性へ問いかけ続ける。またそれは朽ち果てる
かもしれない。
688 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 14:21:19
■いかに生き抜くか
たとえば、様々な社会問題に対してどうにかすべきだ、という意見では、その多くに、「問題を
単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」という欲求不満解消の機能
をしている。まさにワイドショー的マスメディアが大衆に与える商品である。このような娯楽性は
「フリーターの知」であるといえるだろう。2ちゃんねるなども多くにおくてこのような機能で動いている。
「エリートの知」ではこのような社会問題をより積極的に、実働的考えるということであるが、そこにも、
売名行為とまではいかなくても、優越感としての欲望解消の機能が働いている。2ちゃんねるには
「やらない偽善よりやる偽善」という標語があるが、これは「エリートの知」のある種の開き直りであり、
偽善性の排除の難しさを示している。そしてそれは単に間違っているということではない。
「芸術家の知」では、社会問題に対して、その目先に善悪でなく、自分がなりのやりたいことを掘り
下げる姿勢である。このような「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」*2だ。宮台の「エリート」
とは徹底的に現代を歴史主義的に客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、
そのようなエリートを教育しようという考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結は
考えていない。たえず世界を疑いつづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。
これらは、基本的にはどれが正しいということではなく、ジャングル化する厳しい社会を、生き抜く
ための3つ方法ということだ。
>>684 > 「超越論的他者」=大文字の他者
よく分からないのが、"超越論的"ということで、これは全能者には当然当てはまらない。カントの
用法で言ったら、それは自らの認識の限界を知る主体なわけです。だから、神が超越論的だと
いうのがよく分からないのです。
大文字の他者という場合、それは"世間様"っていうのとは違うんですか?つまり、ワイドショーって
いうのは超越論的他者といえるんじゃないか(笑)。違う?
ラカンの言葉で、日本人が語る相手は大文字の"あなた"である、というのがあるらしいです。これは
ヨーロッパ文化で他者と呼ぶのとは違うんですよね。二人称の相手です。それを体現しているのが
ワイドショーだと思うわけですが、ピカ氏の超越論的他者っていうのは、そちらに近い気がしますけど
違いますか。
691 :
考える名無しさん:2006/02/05(日) 14:45:16
>>678 「ヘーゲルがロマン主義者であったというのは
それはおそらく、根本的な仕方でロマン主義者だったということなのだろう・・・
(中略)・・・現実を軽視しているロマン主義的な人間は
この現実世界を自分の恣意的な空想に従属させていると信じているが
ヘーゲルはそのようなやり方をロマン主義のなかに見ていたのではなかった」
(G・バタイユ 『ヘーゲル、死と供犠』より)
ジジェクがワイラー監督の『ベン・ハー』(検閲された)を通して述べたこと
「われわれが何事かを成し遂げるということが究極のところ無であり
最も偉大な勝利のときわれわれは全くの孤独であるということ」
(スラヴォイ・ジジェク 『否定的なもののもとへの滞留』より)
彼ら(ヘーゲルもニーチェも恐らくバタイユもドゥールーズも)の
「純然たる虚無」とほぼ同等のあの留保のなさこそ
彼らが彼らをして自らを「根本的な仕方でロマン的」なロマン主義者たらせた
その決定的な要素ではないだろうか
となれば、シェーンベルクは言うまでもなく、キルケゴールの叫び
カンディンスキーの抽象絵画の試み
文学におけるアンチロマンの試みさえもまた、「根本的」にロマン的ではないか?
>>686 つ【ジャック・デリダ『秘密の文学』】
(ちくま文庫 『死を与える』所収)
692 :
考える名無しさん:2006/02/05(日) 14:49:03
693 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 15:16:10
>>689 「超越論的他者」とは超越論的に想定される他者ということですね。
たとえば、ラカンの大文字の他者であり、大澤の「第三者の審級」、
、ハイデガーの「世間」であり、ボクの「まなざしの快楽」であり、
人はそのような他者の承認によって、「規則のパラドクス」を脱し、
「行為」を可能にしている、ということです。
ワイドショーなどの"世間様"?なども、超越論的他者として説明できるでしょう。
どこにもいないが、どこかにいるような「他者」。
>>691 > 「ヘーゲルがロマン主義者であったというのは
> それはおそらく、根本的な仕方でロマン主義者だったということなのだろう・・・
どうでしょうか。ヘーゲルがバタイユを読んだら、「この、ヘーゲル主義の落ちこぼれ」と
言わないでしょうか(笑)。
> となれば、シェーンベルクは言うまでもなく、キルケゴールの叫び
> カンディンスキーの抽象絵画の試み
そういう解釈をしてしまうことも可能かとは思いますが、しかし、文学をテクストにしてしまい、
音楽をセリーのパターンとしてしまうならば、そこにロマン派というべき何かが残っているんだ
ろうか。虚無と煩く語る人間は、実は何がしかの湿っぽい故郷を携えているんじゃなかろうか。
695 :
ヘイト ◆iyx/0deoUw :2006/02/05(日) 15:25:00
クォリアクォリアクォリアわーい
可能にしてるんじゃないです
事後の把握に過ぎませんので騙されないよう
矢に刺さって氏んでください
>>693 > どこにもいないが、どこかにいるような「他者」。
だとしたら、フリーターと芸術家は同じになっちゃいませんか?
何でこのあほまるだしスレが叩かれないのか
698 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 15:34:18
>>696 残念ですが、少し放置させていただきますね。
699 :
考える名無しさん:2006/02/05(日) 16:07:37
>>694 バタイユは、コジェーブから「ヘーゲル的な循環論の言説の彼方」などと呼ばれ
デリダからは「無際限のヘーゲル主義」と評されましたが・・・
ナンシーのヘーゲル論やジジェクのヘーゲル解釈と比較してみるとどうでしょう?
「私は変わりました。表面‐深さの対立は、もはやまったく気を引きません。
今、私の興味を引いているのは、なんらかの充実した身体
なんらかの器官なき身体、そして流れ出ているもろもろの流速
それらの間の諸関係なのです」
(G・ドゥルーズ 1972年のニーチェに関する討論会にて)
まずいくらか断っておきたいのですが
虚無を煩わしく語ったのはサルトルをはじめとする人々であって
先に挙げた根本的な仕方でロマン主義的な人々ではありません
彼らは語らずして「純然たる虚無」に滞留します
泣きながら笑いながら叫びながら走りつつ
いかなる「シミュラークル」にも固着しない「純然たる虚無」たる
「強度」が、強度としての身体がそうさせるのです
700 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 17:08:56
「すべきことはそれを「克服」「廃絶」することではなく、
それを折り合いをつけ、それをその恐ろしい次元の中に
認める術をおぼえ、そしてこの根本的認識の上に立って、
それとの間に和解協定を結ぶことである。」
(スラヴォイ・ジジェク イデオロギーの崇高な対象)
701 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/05(日) 17:17:49
超越論的他者について(1)
「超越論的他者」というのは絵画における「消失点」のようなものだと認識しています。
実在ではなく、一つの仮定された焦点のようなもの、だと。
適切な例か判りませんが。「ある点から3cmの距離にある点の集合」は半径3cmの円です。
そのような点の集合があったとして、その集合としての円が、中心点の存在を裏付けるもの
ではない。たまたま、このような点の集合が存在するに過ぎないかもしれない。
それでも、可能性としてはこのような集合が存在することで、「中心点」も存在してしまう、
すくなくとも観念上では。
この中心点を否定神学的なもの、「否定」としてしか存在しえないもの、といいますが、
なぜ神学的なのかと言えば、あらゆる法則を一つに束ねる消失点としての「他者」を想定する
ことで、我々は外界を「認識できる」からです。
702 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/05(日) 17:18:28
超越論的他者について(2)
われわれは、「無意味」な感覚の束である外界を様々な生物的なセンサーを通して知覚し、
脳においてそれを認識可能なものへと構造化していますが、これは言語的であり、共同体に
おける「価値観」から各個人が創造した認識のシステムに基づいて、それらを象徴化(言語化)し、
繋げる=認識化します。
象徴とは差異です。この時点で、感覚の束である外界は、それらの差異の関係として
編まれ直されるわけです。
この過程に於いてこぼれ落ちるものは無意識に抑圧されます。だから、認識されたものは既に
全てが関連あるものとして編まれたものです。そこに「関係ない」ものは存在しない。「関係ない」と
認識された時点で、関係あるものへと編成し直されてしまう(「手紙は必ず届く」)。無意味な
ものは「無意味」なもの、意味のあるものの言語的否定として意味のあるものなのです。
703 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/05(日) 17:19:28
超越論的他者について(3)
この、「認識化」を可能にする意味の束=共同体の「価値観」は、それは我々が行為することで常に
変化するので、確定的に言及することもできませし、各個人によって共同体の「価値観」と想定される
消失点は異なりますから、外界から到来したにも関わらず、きわめて個人的なものであると言えます。
そして、「意味あるもの」としての編成済みの認識しか持てない我々は、この消失点を直接認識する
ことができません。「あるだろうとして想定されるもの」としての「価値観」(法則といってもいいですが)は
想定することしかできない。
この共同体の「価値観」を、意味を組み立てるものとしての一者としてみれば、それが想定される
「神」であり、否定神学的な、決して到達できない想定されるもの=超越論的な他者、ということになります。
704 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/02/05(日) 17:21:15
付け加えると、感覚に直接与えられている認識を概念を介さずに
意識化することはできないわけで、単純に外界を感覚は直接反映すると
考える、いわゆる唯物論的「反映論」は観念論の一変種です。
705 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 17:39:49
>>701 おそらく混同されているのではないでしょうか。絵画における「消失点」の例は、対象aですね。
「否定神学的なもの、「否定」としてしか存在しえないもの」、象徴界の欠如、現実界へ向けた穴です。
超越論的他者は象徴界そのもの、大文字の他者です。
リーマンが敗れた
>>705 ご指摘どうも。
大文字の他者のつもりで小文字の他者を取り上げて、
その小文字の他者が途中で大文字の他者になっている。
うーん、全然ダメじゃないですか!出直してきます……
708 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 18:22:45
■「時効警察」はなぜおもしろいのか。
「時効警察」というのは、時効課の警察官が時効になった事件を趣味で操作し、
みごとに真相にたどり着くというドラマです。
このシチュエーションのポイントは、
・時効課という時効になった事件の資料を管理、処理するという、組織の中では、「脱社会的」な点
・警察、殺人という緊張的な事件などを、趣味にする点(究極のプチクリ)
・趣味なので事件の真相にたどりついても、そこでおしまい、というあくまで趣味である点
たとえば難問事件を解決できたことを騒ぎ、「エリートの知」へ展開するわけでも、
そこに問題点を見いだし、犯人へ倫理的なものを求める「芸術家の知」でもなく、
どこまでも「フリーターの知」、趣味による楽しみレベルで止める、ということです。
どこまでもヌケた感じで扱うということを演出するように、そしてシチュエーションを盛り上げる
登場人物の「抜けぶり」も魅力です。推理のあとに、「この推理が正しいかはどうかは、
あとは(犯人の)善意による自供によるものだけです。」というセリフがあるように、全体が
「善意」によって支えられ成立しているドラマです。これを癒し系ドラマといえば、それまでですが、
歴史における極限における「人間のあり方」、極限のスノビズムの形態が表現されているのでは
ないでしょうか。
それがジャングル化する社会において、「フリーターの知」でサバイバルするもっとも正しい姿が
表現されているのかもしれません。
709 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 18:24:34
ここに究極のヘタレサイクルがあるのかもしれない・・・
710 :
考える名無しさん:2006/02/05(日) 18:49:10
そうかな?
>>698 > 残念ですが、少し放置させていただきますね。
あはは。そりゃ残念です。しかし、ピカ氏用語の「無垢」を再び入手する可能性へ向けて突進するのが
芸術家で、無垢とは世間様がまなざすものだとしたら、フリーターと変わらないというか、フリーター
とは違うのかな。セールスマンとかに近いのかな(笑)。
これは別に冗談とかじゃなくて、ポストモダンっていうのは上も下も無いってことでしょう?別に
芸術家=フリーターでもいいんじゃないか。そもそも、フリーター/エリート/芸術家、勝ち組/負け組/異邦人
っていう区分が"ワイドショー"によって消費されているものだと思いますけどね。
ちょっと"他者"という言葉に関して、よかったらどなたか教えてください。
さっき
>>690に書きましたけど、ラカンはキリスト教社会の中で、大文字の他者ということを
語っている。それと、日本の文脈はやはり違うんですね。ラカンの著作を僕は読んでないというか、
読めないので(笑)、他人が語っていることの断片的知識しかないんであれですけど、やっぱり
ワイドショーとは違う位置に大文字の他者というのを想定しているんじゃないかと思うんです。
そして、それは日本では機能していない。
どこでそれが分かるかというと、政治家の発言です。小泉首相は、フランスで大統領になれません。
アメリカでも無理です。どういうことかというと、ラカンが言う第三項としての象徴界に参入していない
わけです、小泉さんは(笑)。だから、日本人に放送されるカメラの前で言うことと、旧植民地での
行事で発言することと、全く正反対のこと言っちゃうんですよ。ところが、アメリカ大統領なんかが
そういう発言することはちょっと考えにくいんですね。フランスでも無いだろうと思います。
だから、"超越論的他者"っていうのは誰の術語か知りませんけど、ワイドショーとか、そういう
言い方したほうがいいような気がしますけど、どうなんでしょう。
むじんくんが敗れた
日本人からすると、神の死から近代的人間の成立、そして人間の解体というシナリオを
なぞるんではなくて、ワイドショーはいかにして機能し、そして死ぬ可能性があるのかを
問うほうが刺激的でしょうね。我々を規定しているのはそこですから。ピカ氏の3種の知も
起源はワイドショーでしょう。それは「えー、キモーい」という女子高生の言説を成立させている
何者かですね。
715 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 23:48:51
>>714 なにか、言うことがあるというより、レスすることが目的化する
=「フリーターの知」化しすぎるのも、どうかなっとおもって。
ワイドショーの機能は、「まなざしの快楽」であり、ワイドショー的なものは、
「フリーターの知」によって作動している、ということです。
むじんくんの、マルクス志向(「資本家が攻めてくるぞー!」)もピカ氏批判も、
ワイドショー的「フリーターの知」化してます。
716 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 23:49:40
>ワイドショーはいかにして機能し、そして死ぬ可能性があるのかを
>問うほうが刺激的でしょうね。
死ぬ可能性とは?
717 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/05(日) 23:56:14
たとえば、なぜ僕たちは西洋哲学を指向するのか、というのが
あります。
東洋人であり、日本人であり、そこには東洋哲学があるはずなのに。
たとえば、その根底にあるキリスト教文化にして、西洋的なものを
理解し得ない、僕たちは、西洋哲学を理解することはできない、
というようなこともあるでしょう。
極端な話、NHKの歌自慢の海外大会で見る「演歌を歌うアメリカ人」の
滑稽さを持ち続けている、ということですね。
「哲学」というものが「西洋哲学」である。
僕たちは、「哲学」という体系、ゲームを「趣味」ととしている。
あるいは、西洋化された僕たちの社会、僕たちは生まれてから、
西洋化の中で育ってきた、そしてこれから育っていくのだだから、
僕たちの過去、未来は、「西洋哲学」にも見いだされるだろう。
718 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 00:01:38
果たして、日本人はどこまで西洋なのか、ということです。
たとえば、怖いのもの。僕たちは西洋の魔物よりも、
日本の幽霊的なものに、怖さを感じる、というのがあります。
ドラキュラ、狼男なのは、一つのキャラクターです。
現代だと、「リング」系の幽霊モノが恐怖ですね。
これは、映画、ドラマで継承され、ビックリさせるような西洋化の
演出もされていますが、日本的な怖さがあります。
最近では、この手のホラーがアメリカで受けているようですが、
これはどのような現象でしょうか。
日本のホラーはジメジメ系、西洋のホラーはビックリ系というのは、
崩れているのでしょうか。
怖いのはボッテリ系ですかね
ぽっちゃり型が好み
721 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 00:12:52
実際に海外にいく、アメリカ人と接すると、ほんと日本人と
実感させられたりするものですが。
その中でも、ホラーでもそうですが、いまだにもっともものが、
「死生観」ではないかと思います。
たとえば哲学においては、「死」に関する考えは、「体に入ってこない」、
一つの形としてしか受け入れられないよう思います。
たとえば、ハイデガーでは、「死」は根源的なものに置かれ、
「生」に先立つという、ようなところに置かれます。
フロイトにおいても、死の欲動は、根元性に置かれます。
「死」というものが、「個人」という単位を強烈に立ち上がらせる
根拠になっている。だれとも分かつことでない「死」によって、
「個」は「個」としての自立を受け入れなければならない、ということです。
これは逆に見ると、「個人」主義というものを「死」が支えている、ともいえます。
このような個人主義的な思想のない日本では、そこまで「強い死」というものが
ありません。
722 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 00:20:21
日本人は、西洋人ほどに「死」は根元性はないと思います。
個人よりも集団性を尊ぶために、「死」という個人的なものよりも、
集団性の義理、忠義が重要です。だから「腹切り」などが行われる。
だからたとえばハイデガーを「日本人」的に読みかえると、
「死」ぬことによって現存在があるのでなく、
「生」のよって立つ現存在というものが思考できるわけです。
てきとーなこというな
724 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 00:26:36
これは、かなり根源的な問題だと思います。
たとえば、東の「動物化」というものも、これはヘーゲル、ハイデガー
コジェーブの「人間/動物」から来ていますが、
それはプラトン、アリストテレスという西洋思想の根底にある考え方であり、
「生/死」からきています。
すなわち生/死=動物/人間です。
死ねる存在、それ故に個体として強烈に自立する現存在、ということです。
死ねない故に動物は動物なのです。
適当だな
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<先生!!ヘーゲルは『自然哲学』で
_ / / / \ 動物の死について言及していますよね?
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
御骨を分けてもらいたいんですねど
お墓はどちらですか
うわぁ、レベルが一気に低下したなり
コジェーブの『ヘーゲル読解入門』は絶版だけど
第一章の「序に代えて」だけでも読んでおくと「動物」というワードがかなり分かりやすくなる
「動物」と「人間」の差がめちゃわかりやすく書かれている
なぜ「人間」は承認を求めて命懸けで闘うのか
なぜ「人間」は他者の承認を求めるのか
「人間」の欲望はどうして他者の欲望なのか
そこらへんがイマイチな人はどうぞ一読あれ
>>716 > 死ぬ可能性とは?
ワイドショーが死ぬということは、第三項としての他者が出現するということですね。それはやはり
社会的に大きな不幸がないとダメでしょう。ただ、資本主義社会というのは基本的にそういう第三項を
要請するので、今後日本が「普通の国」になっていくならば、ワイドショー的なものは死ぬと思います。
僕は、今のフリーターの増大や雇用形態の変化はそこへつながる可能性があると考えてます。
ピカ氏はフリーター/エリートを「競争ごっこ」と形容してますけど、僕はそうは思わないんですね。むしろ、
そう語ってしまえるというのが、「ポストモダン」ということなんじゃないか。どういう意味かと言うと、現実を
言語的に抽象したものを"冗談"にしてしまえるということです。或いは「気持ちの持ちよう」とか。しかし、
所謂西洋哲学が成立するような社会では、それができない。
欧米でポストモダンという場合、それはロゴス中心主義の批判ということですが、これは僕らにとっては
全く開放感もなければ革新的とも思えない。むしろ、言語によって現実を捉えることを信じている文化に
驚いてしまうわけです。
730 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:13:11
■生の哲学、ミームイズムの可能性
@なぜ僕たちは「西洋」哲学を指向するのか
たとえば、なぜ僕たちは西洋哲学を指向するのか、というのがあります。東洋人であり、日本人であり、
そこには東洋哲学があるはずなのに。たとえば、その根底にあるキリスト教文化にして、西洋的なもの
を理解し得ない、僕たちは、西洋哲学を理解することはできない、というようなこともあるでしょう。
極端な話、NHKの歌自慢の海外大会で見る「演歌を歌うアメリカ人」の滑稽さを持ち続けている、
ということですね。
「哲学」というものが「西洋哲学」である。僕たちは、「哲学」という体系、ゲームを「趣味」ととしている。
あるいは、西洋化された僕たちの社会、僕たちは生まれてから、西洋化の中で育ってきた、そして
これから育っていくのだだから、僕たちの過去、未来は、「西洋哲学」にも見いだされるだろう。
果たして、日本人はどこまで西洋なのか、ということです。たとえば、怖いのもの。僕たちは西洋の
魔物よりも、日本の幽霊的なものに、怖さを感じる、というのがあります。ドラキュラ、狼男なのは、
一つのキャラクターです。現代だと、「リング」系の幽霊モノが恐怖ですね。これは、映画、ドラマで
継承され、ビックリさせるような西洋化の演出もされていますが、日本的な怖さがあります。最近では、
この手のホラーがアメリカで受けているようですが、これはどのような現象でしょうか。日本のホラーは
ジメジメ系、西洋のホラーはビックリ系というのは、崩れているのでしょうか。実際に海外にいく、
アメリカ人と接すると、ほんと日本人と実感させられたりするものですが。
>>728 なに「序に代えて」って最初しか読んでないのかよwww
732 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:16:36
A日本人は「死なない」
その中でも、ホラーでもそうですが、いまだにもっともものが、「死生観」ではないかと思います。
たとえば哲学においては、「死」に関する考えは、「体に入ってこない」、一つの形としてしか受け
入れられないよう思います。たとえば、ハイデガーでは、「死」は根源的なものに置かれ、「生」に
先立つという、ようなところに置かれます。フロイトにおいても、死の欲動は、根元性に置かれます。
「死」というものが、「個人」という単位を強烈に立ち上がらせる根拠になっている。だれとも分かつこと
でない「死」によって、「個」は「個」としての自立を受け入れなければならない、ということです。これは
逆に見ると、「個人」主義というものを「死」が支えている、ともいえます。
このような個人主義的な思想のない日本では、そこまで「強い死」というものがありません。日本人は、
西洋人ほどに「死」の根元性はないと思います。個人よりも集団性を尊ぶために、「死」という個人的な
ものよりも、集団性の義理、忠義が重要です。だから「腹切り」などが行われる。日本人には西洋的な
意味での「死」は存在しなかった、ということです。
733 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:17:44
B動物化/スノビズム
だからたとえばハイデガーを「日本人」的に読みかえると、「死」ぬことによって現存在があるのでなく、
「生」のよって立つ現存在というものが思考できるわけです。これは、かなり根源的な問題だと
思います。たとえば、東の「動物化」というものも、これはヘーゲル、ハイデガーコジェーブの
「人間/動物」から来ていますが、それはプラトン、アリストテレスという西洋思想の根底にある考え方
であり、「生/死」からきています。すなわち生/死=動物/人間です。死ねる存在、それ故に個体
として強烈に自立する現存在、ということです。死ねない故に動物は動物なのです。だから人間は
動物であり、新たな動物的な「生」の哲学が思考される可能性があるのではないでしょうか。
たとえば、コジェーブはアメリカの物質文化を動物化、そして日本をスノビズムと呼びました。形式化
による反復を美へと止揚していくということです。たとえば、「死」さえも形式的美学としていくという驚愕
ですね。しかしこれは日本人が「死」よいも「生」の文化に生きていることからくる、日本人には当たり前
のことではないでしょうか。「死」は重要でないから「個人」も重要でない。「生」が重要であり、「生」
においては「集団」が有用である。
734 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:19:02
Bミームイズム(創造関係)
問題は「個体」という完成ではなく、「集団」という個体が新陳代謝され継続されていく「生」です。
そこでは「人間」という「死ぬ個体」は存在しないために、「歴史の終わり」に「人間」が終了しなし。
「集団」は継続されていく。このスノビズム的な形式主義は、いわば「利己的遺伝子」であり、「ミーム」
(ドーキンスによるミームの生物学的定義では、「ミームは文化の伝達や複製の基本単位である。」
である。)、スノビズムというよりも「ミームイズム」である。オタクがスノビズムを継承しているという
ことには、それが「ミームイズム」である。
たとえばラカンの「想像関係」は西洋思想として、そこに個体間の闘争(イマジネールな闘争)が起こる
とされる。このために、去勢によって象徴関係という「社会」に参入する。文化、社会としての象徴界は
時代を超えて継承されていく「約束事」であり、ミームであるといえる。しかし、日本的な形式は、
このような契約であるように、もっと集団そのものとしての「生」である。それは「想像関係」と「象徴
関係」の中間的なものではないだろうか。
ミームイズムは、文化が組織化されていくとう生成(ダイナミズム)であり、個人は創造(参加)という
行為によって、「生」の意味が見いだしていく。そこでは個人は集団に埋没するのでなく、個人は集団
の「想像関係」にありながら、文化という総体を継続される。ボクはこれを「創造関係」と読んだ。
序文だけか
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<ねぇだから先生!!ヘーゲルは『自然哲学』で
_ / / / \ 動物の死について言及していますよね? 死ねない故に動物は動物ってなんですか??
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
737 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:23:28
>>736 人間の死と動物の死の違いわかってるくせに。
ネタは止めてくださいね(笑)
>そこでは個人は集団に埋没するのでなく、個人は集団 の「想像関係」にありながら、
>文化という総体を継続される。ボクはこれを「創造関係」と読んだ。
korehanihongodesuka?
>>731 全訳がまだ出ていない(ただ訳は抄訳らしい)
二章以降はヘーゲルの宗教哲学に関する講義の講義録だから
二章の「精神現象学の六章までの要約」までは読めても
二章以降は院生でもかなり辛いレベル(もともと高等学院での講義録やしね)
ゆえに「序に代えて」だけでも読んでくれということ
>>737 ∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<あれあれ先生? ヘーゲル読んでないんですか?指摘の意味わかってますか?
_ / / / \ コジューブを通して知ってるだけだったりして???
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
||\ \
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.|| ||
741 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:26:15
>>739 YONNDEKURETEARIGATO
>>741 nihongonobenkyoudaijiyo!
743 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:30:39
>>740 はぁ?コジューブ???
またまた、わかってるのはわかってるぞ。もうよいよ。(笑)
ぴかぁ〜は入門書レベルです
745 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:33:19
>>729 なんにしろ。ボクの欲望論を理解することだね。
このスレにはかなり要約して書いているところがあるから、
それを、読みなさい。
というか、意地になってレスするは、やめてくれ〜!
いつから厨房キャラに変わったんだ!(笑)
ぴかぁ〜の論を理解する価値はありません
>このスレにはかなり要約して書いているところがあるから、
要約の意味が分かっていません。
∧_∧∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)/<先生!! 僕はいまとTOARU大学院の哲学研究科で学んでいるんでつが
_ / / / \ ぴかぁ〜先生の言っていることは僕が習ったヘーゲル等とだいぶ違いまつね
\⊂ノ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_______________
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.|| ||
ぴかぁ〜の哲学は、なんでも哲学です。
749 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 01:43:04
>>747 ネタかと思ったけど、大学院生ならしょうがないね。しっかりがんばれよ!
>>749 そのまえに原書であたってね。哲学板なんだから。
>>747 教授は守山(確かそんな名前だった)タソで、『精神現象学』読んでる?
いや、違うならいいんだけど・・・
■生の哲学、ミームイズムの可能性
@なぜ僕たちは「西洋」哲学を指向するのか
たとえば、なぜ僕たちは西洋哲学を指向するのか、というのがあります。東洋人であり、日本人であり、
そこには東洋哲学があるはずなのに。たとえば、その根底にあるキリスト教文化にして、西洋的なもの
を理解し得ない、僕たちは、西洋哲学を理解することはできない、というようなこともあるでしょう。
極端な話、NHKの歌自慢の海外大会で見る「演歌を歌うアメリカ人」の滑稽さを持ち続けている、
ということですね。
「哲学」というものが「西洋哲学」である。僕たちは、「哲学」という体系、ゲームを「趣味」ととしている。
あるいは、西洋化された僕たちの社会、僕たちは生まれてから、西洋化の中で育ってきた、そして
これから育っていくのだだから、僕たちの過去、未来は、「西洋哲学」にも見いだされるだろう。
果たして、日本人はどこまで西洋なのか、ということです。たとえば、怖いのもの。僕たちは西洋の
魔物よりも、日本の幽霊的なものに、怖さを感じる、というのがあります。ドラキュラ、狼男なのは、
一つのキャラクターです。現代だと、「リング」系の幽霊モノが恐怖ですね。これは、映画、ドラマで
継承され、ビックリさせるような西洋化の演出もされていますが、日本的な怖さがあります。最近では、
この手のホラーがアメリカで受けているようですが、これはどのような現象でしょうか。日本のホラーは
ジメジメ系、西洋のホラーはビックリ系というのは、崩れているのでしょうか。実際に海外にいく、
アメリカ人と接すると、ほんと日本人と実感させられたりするものですが。
A日本人は「死なない」
その中でも、ホラーでもそうですが、いまだにもっとも異なるものが、「死生観」ではないかと思います。
たとえば哲学においては、「死」に関する考えは、「体に入ってこない」、一つの形としてしか受け
入れられないように思います。たとえば、ハイデガーでは、「死」は根源的なもので「生」に先立つ
という、ようなところに置かれます。フロイトにおいても、死の欲動は、根元的です。
ここでは、「死」というものが、「個人」という単位を強烈に立ち上がらせる根拠になっている。だれとも
分かつことでない「死」によって、「個」は「個」としての自立を受け入れなければならない、ということ
です。これは逆に見ると、「個人」主義というものを「死」が支えている、ともいえます。
このような個人主義的な思想のない日本では、そこまで「強い死」というものがありません。日本人は、
西洋人ほどに「死」の根元性はないと思います。個人よりも集団性を尊ぶために、「死」という個人的な
ものよりも、集団性の義理、忠義が重要です。だから「腹切り」などが行われる。日本人には西洋的な
意味での「死」は存在しなかった、ということです。
B動物化/スノビズム
たとえば、東の「動物化」というものも、これはヘーゲル、ハイデガー、コジェーブの「人間/動物」
から来ていますが、それはプラトン、アリストテレスという西洋思想の根底にある考え方であり、
「生/死」からきています。すなわち生/死=動物/人間です。死ねる存在、それ故に個体として
強烈に自立する現存在、ということです。死ねない故に動物は動物なのです。だから人間は動物
であり、新たな動物的な「生」の哲学が思考される可能性があるのではないでしょうか。
たとえば、コジェーブはアメリカの物質文化を動物化、そして日本をスノビズムと呼びました。形式化
による反復を美へと止揚していくということです。たとえば、「死」さえも形式的美学としていくという驚愕
ですね。しかしこれは日本人が「死」よいも「生」の文化に生きていることからくる、日本人には当たり前
のことではないでしょうか。「死」は重要でないから「個人」も重要でない。「生」が重要であり、「生」
においては「集団」が有用である。
755 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 02:06:08
Bミームイズム(創造関係)
「生」とは、ドルゥーズのように「個体」の「死」に対立するものではなく、個体が新陳代謝され継続
されていく、「集団性」にあります。この集団性は、全体主義的なものではなく、いわば
「利己的遺伝子」的な「ミーム」 です。(ドーキンスによるミームの生物学的定義では、「ミームは
文化の伝達や複製の基本単位である。」 である。)
たとえばラカンの「想像関係」は西洋思想として、そこに個体間の闘争(イマジネールな闘争)が起こる
とされる。このために、去勢によって象徴関係という「社会」に参入する。社会としての象徴界は
時代を超えて継承されていく「契約」であり、ミーム的ではある。しかしこの場合の「ミーム」は、形式
であって、「契約」ではない。
ミームイズムは、最近のオタク傾向に近いのではないだろうか。文化が組織化されていくとう生成
(ダイナミズム)であり、そこでは個人は集団に埋没するのでなく、創造(参加)という行為によって、
参加してく。それぞれは「想像関係」にありながら、文化という総体を継続される。いわば、「想像関係」と「象徴関係」の中間的なものであり、ボクはこれを「創造関係」と読んだ。そこでは「人間」という
「死ぬ個体」は存在しないために、「歴史は終わり」ません。
756 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 02:43:55
西洋 人間(個体)→動物化(個体)
日本 スノビズム(集団)→寄生化(集団)
西洋では個体的動物化であるのに対して、
日本では集団的動物化に向かうことによって、パラドクスに置かれる。
個体としての自立の低い動物化は、集団への寄生である。
757 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 02:46:40
個体性という自律性なく、集団性としての帰属性なく、
よって立つものが消失する。
759 :
シンプルな関係:2006/02/06(月) 10:21:09
>>752 ぴかぁ〜は養老孟司の「無思想の思想」を読んでないんだね。。。
きみの疑問点にはほとんど答えてあると思うよ。
760 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 11:46:03
まあ、普通は読んでない罠。内容おしえれ
>>745 > いつから厨房キャラに変わったんだ!(笑)
ちょっと話が混線したので、整理してみます。
<フリーターは演技?>
もともとこの話は、フリーターが競争社会で負け組を「演じている」という話が
起点になってます。僕はそれは演じているのではなくて、構造的な問題である。
ピカ氏は下流精神の成れの果てであり、快感原則に引きづられているがための
自業自得な振る舞いであるとする。
<第三の道としての芸術家?>
ピカ氏によれば、彼らフリーターが快感原則にしたがっていることは明らかである。
それは、勝ち組と言われている階層の人間と相補的であり、快感原則に基づいた行動の
必然的結果に過ぎない。ピカ氏はここで第三の道としての「芸術家」を提示する。芸術家は
快感原則に基づいた、想像的目的を追わない。それは自らを偽ることであり、己の
真の欲望から目を背けることである。己の真の欲望とは、快感原則の彼岸、死の欲望
であり、負け組/勝ち組が織り成す鏡のゲームからの決別である。
<唯物論から見たフリーター>
80年代バブル期とは違い、現状のフリーターは社会的貯蓄にぶら下る存在では
なくなりつつある。企業はフリーターを有効に使っており、生産活動を行う上での
様々なリスクに対応するための安全弁として利用している。フリーターは鏡の
ゲーム内で負け組を演じているのではなく、端的に負けており、ゲーム自体の破綻を
目の前にしている階層と言える。
<芸術家という「負け組」>
彼らが現状の市場社会で受けている、或いは受けるであろうトラウマに対処する
方法は2つある。1つは彼らが「芸術家」になることだ。死の欲望とは快感原則が
何らかの外傷によって破綻したところに表面化する。彼らが端的に日本株式会社の
構造から排除されたとき、それが決定的なものとして彼らに認識されたとき、自ら
を映し出す鏡が壊れ、その先に荒涼とした風景を見るだろう。そこで彼らはストア派
的諦念に達し、そのような風景を受け入れるという選択肢がある。これは"負け組"と
しての芸術家である。
<死の欲望としてのエリート>
一方のエリートはどうか。終身雇用を前提とした立身出世のゲームが終わったとき、
エリートもまた変化を強いられる。彼らを支えてきた会社共同体という自惚れ鏡は
壊れ、安定していたと思い込んでいた足元に裂け目が見え隠れする。彼らはもはや
自愛的賞賛のために行為するのではなく、ただひたすらに増大する資本の手足となって
行動するだろう。"ビジネス"とは端的に制圧することであり、快感原則ではなく、
サディズム的な"快楽"と化す。彼はフリーターを自らの心理的慰めなどには使わず、
端的に物質として、使い捨ての生産用具としてみることだろう。そこにナルシシズムは
存在しない。
<唯物論的思考へ>
このような端的に物理的支配としての資本主義に対して、観念的解放をうたうポスト
モダニズムは無力である。"芸術家の知"といったものは今発生している現実に対する
現状肯定、諦めにしかならない。我々は観念ではなく身体として解放されなければ
ならないのだ。そのための認識、観念ではなく現実の解放のための認識、これが唯物論
であり、モダニズムというものだ。
764 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 12:23:21
むじんくんはヘタレサイクルをまわす。
美しき「フリーターの知」の実践がここにある。
765 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 12:38:36
西洋のように個の思想のない日本人が動物化の波にさらわれたとき
死さえ美学(社会性)へむげる日本人にはよってたつものが消失する。
動物化は個の充足であり集団の崩壊である。
よって立つものをもとめなければならない。
それはウヨでも、オウムでも、コイズミでも、2チャンネルても、アニメでもよいのかもしれない。
766 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 12:53:21
ジャングル化する社会を生き抜く方法とは、簡単に言えばいかに「生き生き」しつづけるかということてす。
むじんくは「生き生き」してきたね。うざいくらいに(笑)
767 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 13:04:48
すなわちむじんくんのサバイバルが豊かさによる生死であるのに対して
ボクのサバイバルは「生き生き」による生死、現代においては「生き生き」できないものは「落ちてゆく」
そのことが問題なのだ。少し古いが「傘がない」ことの方が問題なのだ。
768 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 13:41:42
ハイデガー
他者に開く→良心の呼び声を聞く→他者との乖離→死の根源性→各自性
ぴかぁ〜
他者からの呼び声の消失→社会性により保管→つながりへの欲望→各自性への欲望
>>765 > 西洋のように個の思想のない日本人が動物化の波にさらわれたとき
> 死さえ美学(社会性)へむげる日本人にはよってたつものが消失する。
個の思想は私有財産制を観念的に表現したものです。だから、西洋でも中世に個は存在しない。
日本にそれが無いのは、戦後の日本型社会主義が機能していたからです。それは今崩壊中であり、
個の思想の夜明けは近い。
>>767 > そのことが問題なのだ。少し古いが「傘がない」ことの方が問題なのだ。
「傘がない」!。ついに馬脚を現しましたね(笑)。こう答えたらいいでしょうか。
すなわちピカ氏のサバイバルが有閑階級の暇つぶしであるのに対して、
僕のサバイバルは食べ、眠り、労働し、休みを取り、子供を育て、老いていく
ことである。少し古い「傘がない」は高度成長時代の、あるいはバブル時代の
よき思い出に過ぎない。我々は傘すら奪われつつある。
770 :
考える名無しさん:2006/02/06(月) 14:35:20
----------ここまで厨スレここからも厨スレ-----------
ちなみに、「傘がない」の井上陽水はフリーターの知で、後に変わったと思うんですが、
後期の井上陽水は芸術家の知でしょうか。自身曰く、「思想が無くなった」そうですけど・・・。
772 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 15:35:52
やっとわかっていただいてなによりです。おじさんにはなかなかわかりにくかったみたいですね。
773 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 15:54:04
しかしわかることに意味はないんだろうな。有閑マダムむじんくんは「フリーターの知」なんだから。
いや「エリートの知」かな。
774 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 16:09:40
もはや豊かさ、情報化に埋もれ、誰でもない「死した」自分から、
「生き生き」を取り戻すために
懸命に、ぶっちゃけ興味ないフリーターに対する社会悪を警告する「狼がくるぞ〜」
それも「落ちない」知恵なのだ。
775 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 16:26:35
ボクはむじんくんをいじめているわけでない。ボクの言説が実践であることを示しているのであり、
素朴なむじんくんにポスモダ社会において不可避で、むじんくんに欠落した自己言及性を体験していただいているのである。
実践であることを示すのなら、
チンチンに出演するはずだ。
どうなってるんだ、
チンチンに出演する人が来てないじゃないか。
20年送れてやってきたバブル時代の思想家ピカ氏。彼にとって最も心配なのは暇つぶしの
方法である。如何にして自己破壊的な行為をしないで有閑生活を維持できるのか?これが
彼の頭の中を占領しているのだ。
しかし、80年代に流行したその思想は、異様なインフレ状態、つまり貨幣の一時的な権威失墜の
中で発生した万能感以外の何ものでもない。我々はバブル崩壊以降、再び貨幣の権威の
下に服従を強いられ、再び弁証法の中に巻き込まれ、再び歴史的主体となることを強要
されつつあるのだ。
彼(ピカ氏)はあっけらかんと語る。
「下流ってものがあるんですよ」
ただそれだけだ。彼にとって、目の前の現実は所与の自然と同じであり、単純素朴に
肯定されてしまう。あとは家に並んでいる思想家の術語をパズルを敷き詰めるように
当てはめてみるだけだ。
認識とは所与に対する否定を起源にしているが、彼にその意味での認識はない。全ての
思想家の言葉は換喩的に現象と結び付けられるに過ぎず、依然として「あるがまま」の
世界を生きている。
なるほど、これがポストモダンか!全ての言葉は単なる冗談であり、認識は不在であり、
ただひたすら所与の現在を生きる。これが歴史の終わりの世界というものか!
779 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 19:04:50
>>777-778 >なるほど、これがポストモダンか!全ての言葉は単なる冗談であり、認識は不在であり、
>ただひたすら所与の現在を生きる。これが歴史の終わりの世界というものか!
わかったか、オヤジ!
わかったら、その欲求不満的「フリーターの知」はよそでお願いね。
780 :
考える名無しさん:2006/02/06(月) 19:13:32
被爆者ぴかは馬鹿だけど手塚は優秀
781 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 19:17:18
■ジャングル化する社会を生き抜く3つの方法
1)フリーターの知・・・「ヘタレサイクルを回せ!」
ジャングル化した社会で、現代の豊かさになれ甘えた人々が生き抜くには保守化する必要がある
だろう。適度な欲望を解消し、耐え続ける。そして少しでも緩和するために、「ヘタレサイクルを回す。」
ゲームを楽しみ、オタク的にちょっとしたクリエイトもして、仕事のほどほどにこなす(これをぼくは
「ヘタレサイクル」と呼ぶ)もしか、もしか、もしかすると、直木賞でも取れたりして・・・ていうささやかな
楽しみで生きる。そして回帰する「私とはなに?」、「なんのために生きているのだろう」という不安を
やり過ごす。「フリーターの知」とは、ジャングル化する恐怖の世界で、檻に入り、容易に手に入る
無垢で満足する。甘やかされた者の超保守化である。
2)エリートの知・・・「テクニカルを磨け!」
ジャングル化社会で、下流がいやなら。努力するしかない。ドラゴン桜では、「大学受験だけが一生
で唯一、努力さえすれば誰でもチャンスが得られる機会だ」というセリフがあったが、これが意味する
ところは、受験ぐらいで「勝ち組」になれるなら楽なもんだ。ここには、「ジャングル化した社会では、
「競争社会」で勝つぐらいで、「本当の勝ち組」にはなれないが、」というアイロニーがあるのではない
だろうか。だからなおさら努力する価値がある。競争社会の中で勝ち組になり、そのエリート意識で
生きていく。「エリートの知」とは、ジャングル化する世界で、檻の中で一番になることを求める。現状を
支えるという保守化の一つでもある。
782 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 19:18:15
3)芸術家の知・・・「己の欲望に譲歩するな!」
物質的な豊かさこそが幸福であり、「競争社会」で勝つことが幸福であるというのは幻想である。
幸福は「この私」という充実であり、人それぞれの方法論があり、これは競争ではない。しかし安易な
「社会に迎合しない」という言説は、「競争社会」に負けた者の遠吠えである。「己の欲望に譲歩せず」
生きるとは、「競争社会」という幻想の構図への依存するよりも、孤独で、ストイックな方法である。
物質的に貧しくなろうとも、たとえ朽ち果て道に倒れようとも、という覚悟が必要である。
「芸術家の知」とは、檻からでて、恐怖のジャングルに乗り出すことだ。しかしこれは運動として
とらえないといけない。当然、外にいくことなどできない。それは、外を目指し続ける姿勢である。
それは、無垢を手に入れるという充実を得る可能性へ問いかけ続ける。またそれは朽ち果てる
かもしれない。
783 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 19:19:11
■いかに生き抜くか
たとえば、様々な社会問題に対してどうにかすべきだ、という意見では、その多くに、「問題を
単純化し、自分の不安の解消のネタとして、ストレスを発散し、安心する」という欲求不満解消の機能
をしている。まさにワイドショー的マスメディアが大衆に与える商品である。このような娯楽性は
「フリーターの知」であるといえるだろう。2ちゃんねるなども多くにおくてこのような機能で動いている。
「エリートの知」ではこのような社会問題をより積極的に、実働的考えるということであるが、そこにも、
売名行為とまではいかなくても、優越感としての欲望解消の機能が働いている。2ちゃんねるには
「やらない偽善よりやる偽善」という標語があるが、これは「エリートの知」のある種の開き直りであり、
偽善性の排除の難しさを示している。そしてそれは単に間違っているということではない。
「芸術家の知」では、社会問題に対して、その目先に善悪でなく、自分がなりのやりたいことを掘り
下げる姿勢である。このような「芸術家の知」に近いのは、宮台の「エリート」*2だ。宮台の「エリート」
とは徹底的に現代を歴史主義的に客観視する能力を養い、時代を導く存在になることをめざす、
そのようなエリートを教育しようという考えだ。ボクの「芸術家の知」はそこまで世界そのものに直結は
考えていない。たえず世界を疑いつづける、そして意図的でなくても世界をかえる力になる姿勢だ。
これらは、基本的にはどれが正しいということではなく、ジャングル化する厳しい社会を、生き抜く
ための3つ方法ということだ。
784 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 19:20:16
■ドラマ「時効警察」はなぜおもしろいのか。
今クールの中でずば抜けて、面白いと思うのが、ドラマ「時効警察」です。時効課の警察官が時効に
なった事件を趣味で捜査し、みごとに真相にたどり着くというドラマです。
このシチュエーションのポイントは、
・時効課という時効になった事件の資料を管理、処理するという、組織の中では、「脱社会的」な点
・警察、殺人という緊張的な事件などを、趣味にする点(究極のプチクリ)
・趣味なので事件の真相にたどりついても、そこでおしまい、というあくまで趣味である点
難問事件を解決できたことを騒ぎ、自分の手柄とし、時効課という「窓ぎわ」から刑事課へ移動する
という「エリートの知」へ展開するわけでも、それによって犯人へ倫理的なものを求めるような
「芸術家の知」でもなく、どこまでも「フリーターの知」、趣味による楽しみレベルで止める、ということ
です。ここに究極の「ヘタレサイクル」があります。
そしてこのどこまでも「ヌケた」世界を表現するための登場人物のどこまでも「抜けぶり」=「フリーター
の知」的人々も魅力です。そして推理のあとに、「この推理が正しいかはどうかは、あとは(犯人の)
善意による自供によるものだけです。」というセリフがあるように、全体が「善意」によって支えられて
います。そしてこの「善意」とは全員が「エリートの知」や、「芸術家の知」のような欲望を持たないという
趣味のレベル「フリーターの知」で留まるということによって、成り立っています。
ジャングル化する社会において、「フリーターの知」でサバイバルするもっとも「正しい」姿が表現されて
いるのであり、「歴史の終わり」における極限の「人間のあり方」、極限のスノビズムのパロディが
表現されていると言えるでしょう。これを癒し系ドラマといえば、それまでですが、ジャングル化社会の
先にある一つのユートピアです。
785 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 19:31:19
ジャングル化する社会を生き抜く方法とは、簡単に言えばいかに「生き生き」しつづけるかということ
です。 かつてのサバイバルが豊かさによる「生死」であったのに対して、現代においては「生き生き」
できないものは「落ちてゆく」 。「生き生き」することが「生死」を賭けるサバイバルである。
786 :
シンプルな関係:2006/02/06(月) 19:35:51
243でむじんくんはニートは、資本主義社会の枠組みから逃走していて
そこが、面白いと言っていると思うのですが、かれらが主観的に逃走して
いようと、体制の側からみたらニートという症例にすぎないんですよ。
つまりは親に寄生することによって、就職することを拒否し続ける所詮は
負け組という訳です。ニートだって、金なくして生きていける訳ではあり
ませんからね。所詮は、失業者とか、モラトリアム人間といった既成の
概念に回収されてしまうのではないでしょうか。ニートはいかなる意味でも
徒党をくまないでしょう? 共産主義者たちのように団結して一定の力を
持つわけでもない無力な存在に思えます。むじんくんは、ニートにいかなる
可能性を見ているのでしょうか。おもしろいというだけではわかりません。
それとも、わたしのニート理解がどこか、ずれているのか・・?どうなので
しょう。(そういえば、今月のユリイカの特集は「ニート」ですね。)
びかぁ〜氏よ。めんどくさいのです。新書ですぐ手にはうるものだから、
自分で読みなさい・・・。
787 :
考える名無しさん:2006/02/06(月) 19:51:32
新しい可能性をみいだすためには
現在の体制の側からみていてもだめだろう
むじんくんはさよ側からみている
というか
>>786はながながとかくことでもないだろw
788 :
シンプルな関係:2006/02/06(月) 19:59:19
ニートはおもしろい、の方が短くていいですよね?
意味は不明だが。
789 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 23:03:55
■すでにそこにある力としての「生」と、百科事典の知としての「死」
生と死において重要なことは「個」ということだ。たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が
「死んでいる」 しかしそれこそが僕たちの「生」を支えている。ここでは、「細胞」を「個」と考えると、
細胞は死んでいるのであり、僕を「個」と考えると新陳代謝である。「個」はいつも不明確である。
そして「死」とはなんらかの「個」を決定し、停止することである。人間の「死」とはなにか。明確には
医学的な「脳」の停止でしかない。すなわち「個」を決定する認識者を必要とする。だから百科事典的
な知である。
それに対して、「生」の根元性は、「個」の決定以前、認識者の存在以前に、すでに生きているので
ある。すなわち「生」は「個」に縛られない。たとえば「蟻の生」とは蟻一匹であるかもしれないし、
蟻塚そのものであるかもしれない。それは、認識者が決めることであって、 「生」そのものはただ
すでにそこに「力」としてあるだけだ。
すでにそこにある力としての「生」はただ懸命に生きている。そこには、「死」など存在せず、「生」
そのものに「緊張」は内在している。「生」とはただ生きことではなく、「すでにそこにある力」である。
それは環境という終わりなき負の力以上の力がなければ、「生」は存在しえないからだ。
790 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 23:15:09
すでにそこにある力としての「生」と百科事典の知としての「死」は、
そのまま「哲学」の構造である。すなわち心身問題である。
現実界、身体、動物としての「生」
象徴界、心、人間としての「死」
そこにあるのは、人間という特別性を支えるために必要な心(精神)の
優越性である。生>死から、死>生への転倒がある。
791 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 23:49:11
人間の特別性は、いかように救済されるのか。
動物では、「力としての生」とは、動物という個体と動物の群(種)のバランスとして働いている。
また「力としての生」は環境圧とのバランスで、保たれている。
人間においては、個体性を向上させる。個体>群(種)によって、個体性としの自律性を
より向上させることが可能となる。そのような個体の自由度の向上は、動物的な集団性から
社会性へ変容させる。これの社会性は、環境圧を排除する。それはより個体性を自立させる。
環境圧の低下の中で、社会性と個体性の対立が生まれる。そして「力としての生」は、
「知としての死」として抑圧される。個体性から単独性(この私=「人間」)への転換である。
抑圧された「力としての生」は「動物」として絶えず、「人間」を破って回帰する。
792 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/06(月) 23:56:31
「力としての生」とはニーチェの、ルサンチマンという抑圧を破る「力への意志」であり、
フロイトの「生の欲動(エロス)」であり、抑圧されたものとしては
同じ力が「死の欲動(タナトス)」と呼ばれる、ところのものです。
左翼的言説は、右翼的言説と適度なバランスを取って
問題を先送りにすることで問題を解決する、重要な役目を
担っていますね。当然、当人たちは本気でやっているし、
本気でないとダメなんだけど……
哀しいのは、適度なところで折り合いをつけていける人と
本気でずぶずぶのめり込んでいく人がいること。
能力がある場合は社会の発展に寄与したり、すごいことを
成し遂げたりするからいいけど、無い場合にはいいように
使われて、信じる能力や楽しむ能力を失ってしまう。
これは、ウヨサヨだけでなく、あらゆる組織で起きうることですが。
全体とのバランスを取りながら、適度に欲望を満たし、
言葉では威勢良く、体はのんびり。
誰もがそんな風にできたらいいですけど、それは無理
なんだよな……
>>779 > わかったか、オヤジ!
「傘がない」がスラっと出てくるあなたと比べたらたいしたオヤジではありませんよ。ま、とにかく
ポストモダンはダメだから。資本論でもちゃんと正座して読むように。
>>786 > むじんくんは、ニートにいかなる
> 可能性を見ているのでしょうか。おもしろいというだけではわかりません。
ニートはどうでしょうね。確かに神経症だと言っちゃえばそうなのかも知れません。ただ、
ニート的状態は病理的に見れると思います。つまり、日本社会自体がニート的な感覚を
持つという可能性はある。
今、終身雇用などを戻せという声があるのは、そういうこととも関係あると思います。そういう
時代になれば、神経症が治るってことですね。しかし、そうならなかった場合にどうなるかです。
ニートの中に前適応しているものが出てきてもおかしくないと思いますよ。
うわぁ、ここのスレの中めちゃくちゃ厨臭いなりぃ
>>795 「なりぃ」という語尾にはつられないぞ!
797 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 09:40:59
西洋における死の重視は、死の各自性により個人への強い自己の責任の受け入れを望む。
それに対して東洋における生の重視は、生の集団性により個人よりも集団の継続が重視され、個人の死さえもそのための部分、忠義とされる。
現代科学は進化論からの生の思想であるが、たえず倫理と衝突しつづけるのはこの根底に生死の対立がある。
生の重視は精神をもった人間の特別性、それによりはてはリベラリズムまでもささえる平等の思想を脅かす。
平等とは精神を持った動物の強い個人は平等であらねばならない、ということである。
生の重視は動物/人間の断絶をあいまいにし、また個人を集団の部分にし役割をあたえ平等はなりたたない。
798 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 10:05:46
生とは個人に還元できない集団的状態であるのに対して、死はどこまでも個人的な状態である。
今日死ぬかもと言う自覚は自分の意味というもの、その責任を個人へ還元する。
たとえば生の重視思想である日本人の個の曖昧さは自然崇拝、多神教的にあらわれる。
個というものは強い個人でなくこの世界のあらゆるものに設定し神が宿るという個の曖昧な調和世界観にあらわれている。
799 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 10:19:03
この生の排除を指摘し、形而上学批判を行ったのがニーチェであり、それはプラトン以後の死の重視という転倒から、
以前の生の思想への回帰をさけんだ。
現代の日本人はこの生死のダブルバインドにある。根底の集団重視と、輸入された個の重視。しかし日本人の根底には死の引き受けという強い思想はない。
このために集団排他的な奇妙でヒステリックな自己責任論があらわれる。
アメリカ主義の最先端であったはずのライブドアでさえ、集団への忠義的な自殺が行われる。
800 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 14:00:52
■生と死の断絶と解体
@「力としての生」と「知としての死」
生と死において重要なことは「個」ということだ。たとえば、僕たちの内部では今も多くの細胞が
「死んでいる」。しかしそれこそが僕たちの「生」を支えている。ここでは、「細胞」を「個」と考えると、
細胞は死んでいるのであり、僕を「個」と考えると僕という個を生存させるために新陳代謝である。
「死」とはなんらかの「個」を決定し、停止することである。人間の「死」とはなにか。明確には医学的な
「脳」の停止でしかない。すなわち「死」には「個」を決定する認識者を必要とする。だから「死」は
「百科事典的な知」である。
それに対して、「生」の根元性は、「個」の決定以前、認識者の存在以前に、すでに生きている
のである。すなわち「生」は「個」に縛られない。たとえば「蟻の生」とは蟻一匹であるかもしれないし、
蟻塚そのものであるかもしれない。それは、認識者が決めることであって、「生」そのものはただ
すでにそこに「力」としてあるだけだ。
すでにそこにある「力としての生」はただ懸命に生きている。そこには、「死」など存在せず、「生」
そのものに生きることの「緊張」は内在している。「生」とはただ生きことではなく、「すでにそこにある力」
である。それは「環境」という「終わりなき負の力」以上の力がなければ、「生」は存在しえないからだ。
801 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 14:01:33
A転倒される生と死
このように「生」とは個に還元できない全体的状態であるのに対して、「死」はどこまでも「個」の設定を
必要する。そして設定するのは現存在である人間でしかありあえない。だから「個」の設定は、「私」
という個人であり、私はいつか死ぬ、そして死とはどこまでも個人的な事柄である。今日死ぬかもと言う
自覚が自分の意味というもの、その責任を個人へ還元する。
すなわちここには一つの転倒がある。生が「すでにそこにある力」であるのに対して、死は「百科事典の
知」であるはずが、死を根源的なモノとすることによって、個人、すなわち「人間」というものの特別性を
保証する。これこそが西洋思想の根底にある動物/人間の断絶であり、人間という精神の特別性
である。そして「力としての生」は動物的な、野蛮な、過剰なものとして排除される。
この転倒を指摘し、形而上学批判を行ったのがニーチェである。プラトン以後の死の重視という転倒
に対して、それ以前の生の思想への回帰をさけんだ。それが「力への意志」である。そしてニーチェ
の時代がダーウィンの時代だったのは偶然ではない。進化論は基本的に「生の思想」である。
802 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 14:02:23
B生と死の解体
しかし進化論の射程は、ニーチェの「力への意志」に留まらない。進化論および科学の思想とは、
生と死の思想そのものの解体であ。それは「偶然の思想」である。この世界にはなにものの「意志」
もなく、ただ全てが偶然である。力も偶然のものであれば、死も偶然のものである。「自然淘汰」が
ダーウィンの進化論のラディカルさであり、科学全般の根底にある。
進化論関連が倫理的な問題になり続けているのは、この「人間」の解体にある。進化論は人間への
止揚ではなく、生命種の多様化であり、人間は片隅の偶然の一種でしかない。
東洋では西洋と逆に「生の思想」を受け入れてきた。たとえば日本人の個への曖昧さは、自然崇拝、
多神教的にあらわれる。個というものは強い個人でなくこの世界のあらゆるもの「好き勝手」に設定し、
すべてに神が宿るという個の曖昧な調和世界観にあらわれている。東洋における「生の重視」は、
個よりも集団の継続が重視され、個の死さえも集団の部分、たとえば忠義とされる。そこにも
「偶然の思想」の波は押し寄せて、「集団」を解体している。
803 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/07(火) 14:03:33
C生と死の断絶と解体
このような「偶然の思想」は、様々な差異を解体する平等の思想(リベラリズム)へ繋がる。しかし
一方で、リベラリズムという倫理は、人間/動物の断絶に立脚し、動物を排除することによって、
精神を持った「強い個人」としての人間の平等としてある。歴史的には人間/動物の断絶、精神を
もつものともたないものの断絶によって、下層であり、奴隷が排除されることが正当化されてきた。
現代では科学の発達によって、遺伝子としてその他の動物との断絶を保証された「人間」」という
内部において、平等を唱う。
その意味で、現代のリベラリズムは、科学によって保証され、科学によって解体される。この意味で、
構造主義以降のポストモダン思想はニーチェの影響を大きく受けたとしても、保守的であり続けて
いる。保守的であることそのものが現代の哲学の存在意義になっている。この科学のラディカルさを
いかに活用し、「人間」を守るのか、それが現代の哲学の役割である。たとえばその思考の極限に
あるローティのアイロニカルなリベラリズムは、もはや「解体の探求」と「断絶の倫理」を別物として
考え、その融合の試みを放棄すべきであるという。
804 :
考える名無しさん:2006/02/07(火) 16:16:36
日本には、キリスト教が根づかなかったから、死への恐怖はそれほど
ないと思うけど、もし、キリスト教の役を演じているものがあるとしたら
そりゃ、医学界だな。医学界とか医者とかが死の恐ろしさを過剰に演出
して、巨大な権威を握っているのが日本じゃないかな。
>>801 ぴかぁ〜、プラトン以降じゃなくて、パウロ以降なんですよ。パウロが
キリスト教最大のオルガナイザーだったわけだから。
>>807 > ぴかぁ〜、プラトン以降じゃなくて、パウロ以降なんですよ。
それを言うなら、モーゼ以降(笑)。
しかし、古代ギリシャにおいて、生の世界がソクラテス以降断絶したことは確かで、
それを補填する形でプラトンのイデアが出てくるというのも正しいと思います。
ちょっと疑問なのは、ピカ氏の記述はコジェーブのヘーゲルから来ているもの
だと思いますけど、コジェーブは日本人を"精神現象"の最終地点としているでしょう?
日本人は純粋な形式に従って自殺が出来てしまうのだ、と(笑)。
コジェーブのヘーゲル解釈では、主奴の闘争で死を恐怖した側が奴となり、
それが労働を通して対自的自己となり、最終的には自らの死を克服することで
絶対知に到達するというものですね。
その意味では、純粋な形式によって自殺をする(セップク)というのは、死を受け入れて
いるとも言える。実際にはそんな日本人いないでしょうけど(笑)。キリスト教は
この世の死を受け入れる代わりにあの世の生を信じるわけですから、コジェーブに
よれば、それは不完全な精神のあり方だということになる。
809 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 11:18:23
>807
ニーチェ、ハイデガー的にはプラトン以前以後だけど
ローマ時代以降のキリスト教もプラトン哲学の影響を多々受けているでしょう
810 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 11:25:14
>>808 先に書きましたが、コジェーブは西洋的な個の思想を通して、日本を
見たのでしょう。
日本は生の思想であり、生の思想は、村の思想です。
村の生存において、個の死は細胞の死、新陳代謝ですね。
いまでも、会社、村のために、多くの自殺が行われています。
ライブドアでさえ・・・
コジェーブはこの村を形式と見たのでしょう。
西洋的な個の思想からは、セップクは個の美学としてしかみえない。
>>810 > 先に書きましたが、コジェーブは西洋的な個の思想を通して、日本を
> 見たのでしょう。
なるほど、そうでしょうね。西洋人から見たオリエンタリズムとしての日本人なんだろうな。
> 西洋的な個の思想からは、セップクは個の美学としてしかみえない。
三島由紀夫はコジェーブの日本人を実演したと言えませんか?(笑)。そうだとしたら、
日本の伝統主義者は三島に反対しないといけませんね。
812 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 11:56:34
三島はウヨですから。個ではないのではないでしょうか。
精神的にはです。
しかしもはやセップクにリアリティーがない時代には、
三島という単独性を強調する行為にしかみえない。
YMO的な、西洋人から見たオリエンタリズムジャパンのパロディですね。
あれだけの天才ですから、ただベタな行為だとは思えない。
あえていま「セップク」という意味づけはあったし、
それをみな考えるでしょう。
>>812 三島があの行為を自覚的思想的に行ったかなんですけどね。そうじゃないというのが
僕の解釈です。有名な話ですけど、三島は身体的に弱々しいことをあるとき指摘されて、
そのあと突然バーベル持ち上げたり、そういうことしてますよね(笑)。
ああいう話を聞くと、形式に到達したというよりは、形式の中で生きていたんじゃないか。
ただ、あの自殺は当時からいよいよ本格化した高度成長時代の日本人を象徴していた
と思う。会社のために死にますよ、ということですね。
敗戦後しばらくは、ピカ氏の言う"死"を日本人も感じていたんだと思うのです。だから、
これは聞いた話ですけど、マルクス主義なども流行っていたわけですが、キリスト教に
入信したりする人が若い世代中心に多かったんですね。
それが、70年代の高度成長に入ると完全に消えてしまいます。再び"死"が消去された
世界になる。三島自殺事件は、それがいよいよ始まったことを告げる象徴的演技だった
んじゃないか。
814 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 13:52:27
やっぱり、むじんくんのレスは、なにをいいたいか
よくわかんよ・・・
自分の意見がいいたでなく、対話でお願いします。
結局、賛成なのか、反対なのか?(笑)
815 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 13:54:24
いいたい
816 :
これまでのまとめ:2006/02/08(水) 15:14:32
ぴかぁ〜はむじんくんのレスがよくわからず、
むじんくんはぴかぁ〜のレスがよくわからず、
そのほかの全員がふたりのレスをまったくわからない。
817 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 15:31:35
ボクは人のこと言えないから、お互い日本語がヘタということだね。
何回読んでも、なにが言いたいかわからん
一文ずつはわかるが、間の接続詞のつなぎかたわからんから。全体的にだからなに?って感じ。
ものごとはっきりできない性格?
818 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 15:42:26
わかった!だから戦後すぐ西洋式「死」が入ってきたが
三島を境に日本的な忠義死が復活してきた。ってことだね。
ボクはウヨなんだから基本は忠義死、しかしそこにアイロニーがあったか、どうかを問題にしてるわけだから
むじんくんは三島にはアイロニーはゼロってことでよいのかな?
つかれた…
819 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 15:49:21
三島は、代表作「豊饒の海」四部作を書き終えた。もう自分には
これ以上のものは書けまいと思っていた。また、名刀といわれる
日本刀剣を所持していた事、いままで自分が書いてきた小説、エッセイ
文化論それらすべてが、三島に今こそ総決算の時だと知らせたのだろう。
あの前代未聞のスキャンダラスな死は、三島の意志がその最高の美学
を表現しようとした結果だった。
820 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 15:51:24
美学とはやはり忠義以上の個の在り方ですよね。
821 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 15:52:56
メタジャパニーズ
あえて日本という西洋
822 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 15:53:56
ジャニーズ?
823 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 15:54:56
そう、忠義なんか関係ない。三島個人のなかの美学で
あり、それを自決の形で殉じてみせた。おのれの美学
に殉じたと言えるのだろう。
824 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 15:59:03
異国人三島か…
そこまで疎外しなくもよいのでは
825 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 16:00:45
まあ、ぴかぁ〜の好きそうな言い方をすれば、対象aとしての
天皇に殉じたという所かな。冗談だが。
826 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 16:11:30
それは深い意味かな?
通常天皇は神であり大文字の他者だが、実は三島は天皇など信じてなくて
ただの欲望の対象、たとえばオタクの萌キャラのようなもんだと?
>>817 > ものごとはっきりできない性格?
フフフ。君はポストモダニストじゃなかったのかね。
>>818 > むじんくんは三島にはアイロニーはゼロってことでよいのかな?
そういうことです(笑)。深さがないというか、絶対の表面において行われた行為という感じ
じゃないか。反モダンではなく、非モダンとして。
敗戦後すぐは、日本人にも"死"が感じられたんだと思います。ただ、世代で色々ですけどね。
昭和ヒトケタ世代はその刻印があるんじゃないかと感じる。戦争体験しても、全く敗戦で
心理的に動揺が無かったという人もいるんですね。
828 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 16:19:48
通常、天皇は人であり、まずくすると戦犯でしょ?
戦前だって、本気でそんな事思っていたひとがどれだけ
いると思う? 口では天皇万歳を叫びつつもだよ。
きみの書き込みはズレてるなあ。とにかく、そういう
時代に三島だけは、幻想としての天皇を信じたかったの。
内心はわからないよ。自己欺瞞かもしれないよ。それでも
みんなの前では、そういう自分を演じたかったんじゃないかな。
829 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 16:30:28
きみって?ボク?
きみの意見をようやくしただけだろ
ん〜どうしたんだろう、ズレたやつが集合してきた
甘い顔しすぎたか
天皇は大文字の他者なのかな。そういう感じで機能していたのはごく一時期なんじゃないか。
三島は当然天皇を大文字の他者として信じてはいないでしょうね。
831 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 17:00:25
天皇の姿を普通にみられるいまと違い、誰ということでなく、象徴だから
その意味で神だったんだね。
>>829 > 甘い顔しすぎたか
ポストモダニストって、果てしなく続く他者無き世界を生きるんでないの?
>>831 > その意味で神だったんだね。
戦中の天皇っていうのは、歴史的にも例外的ですよね。江戸時代なんかは大衆の意識から消えてたし、
戦後もエンペラーではない。
よくある日本知識人のパターンで、左翼が右翼になるというのがありますね。或いは、西欧哲学を追求した
果てに天皇制を見出すという。小林秀雄とかそうじゃないかな。レベル低いのだと赤尾敏とか。
つまり、打倒すべき権力、或いは中心となるロゴスというものに"対立"するのではないあり方、これが
天皇制なんだと。ポストモダンだよと、天皇制は。
833 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 19:33:55
ウヨをただ天皇だけで語ってもしょうがない罠
共産主義国家でマルクスを、俗物だったと実在で語るごとくか
>>833 > ウヨをただ天皇だけで語ってもしょうがない罠
日本の右翼は保守であると同時に超革新でもあるというのが特異な点ですね。バブル時代に
ポストモダン思想と平行して流行したのが、「日本は近代西欧を超えている」というもので、
これは戦前に「近代の超克」座談会で言われたようなことが蒸し返されていた。
天皇というのはそこに象徴として現れるが、それは権力主体ではないわけですね。「悪いのは
天皇陛下ではなかった」という。
あと、ゲイは欧米では左翼だが、日本では右翼というのがありますね(笑)。これは余談ですけど。
現状でも、自殺者30000人とは言われるものの、決定的に日本的"生"の世界が壊れたとは
いえませんね。むしろ、"ウチ"として村が縮小しただけで、外れた人たちが自殺などをしていると
いう感じでしょう。
そこが壊れるかどうか。壊れた風景を見たいですねぇ。
836 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 21:44:19
封建社会内部の中心点(つり上げ点)ということです。
すなわちその構造の象徴ということですね。
だから天皇がどうこういっても意味がないわけです。
サヨは内部にこのような中心点(つり上げ点)がないというのが、
現時ですが、実際の共産主義圏を見てわかるように、
見事に中心点(つり上げ点)がある。
このような中心点(つり上げ点)がないのが、資本主義の極みの
現代のグローバリズムであるのは皮肉ですね。
837 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 21:55:28
現時→原理
>>836 > 封建社会内部の中心点(つり上げ点)ということです。
天皇がそういう中心を担っているかというと、違うんじゃないのかな。そこを超革新=右翼が
主張するんでしょう。日本はだから凄いんだと。どちらかというと、日本の中心=天皇では
なくて、天皇=日本という感じでしょうね、超革新の語る天皇制というものは。全てが天皇
なのだと。天皇しか存在しませんよ、という。弁証法が無い世界。
> このような中心点(つり上げ点)がないのが、資本主義の極みの
> 現代のグローバリズムであるのは皮肉ですね。
そういう認識がバブリーだと言うのですよ(笑)。貨幣というものをバカにしていられるのは
好況期の時だけです。
まなざしの快楽って天皇制のことを語るのかと思っていたんだけど(笑)。ちょっと違うの?
ヨーロッパ哲学はまなざしの快楽が途切れたところから出発するでしょ?
840 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 22:34:58
ウヨ、サヨも結局同じ構造で作動していたように、どの時代の天皇が機能として働いていたかは
それほど重要ではありません。
本質的に、つり上げ構造が絶えず作動するわけです。現代もです。
現代には、そのような中心はどこにあるのか。天皇か?小泉か?
誰であるということではなく、絶えずそのような中心点としての超越論他者を想定することが、
象徴界の作動なわけです。それは、本質的に心を作るのです。
それを利用したのが、封建社会であり、具現的な王なわけです。
「まなざしの快楽」は天皇制であり、心を形成する作動原理なわけです。
貨幣自体が中心点であるわけでなく、貨幣を貨幣として保証する
ところに中心点があるわけです。
841 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 22:35:30
■ 「力としての生」というエロスとタナトス
個体性と集団性
生命においてはある種のバランスが存在する。環境圧/「力としての生」である。環境圧とは静へ
向かう力(エントロピーの増加)であり、それに逆らう「力としての生」(エロス)は動へ向かう力
(エンタルピーの減少)である。「力としての生」とは動物的な生の本能であり、生きようとする環境圧に
対する生命秩序維持が目指される。
しかし「力としての生」はニーチェの「力への意志」のようにエゴイスティックな力ではない。「力としての
生」としての生命秩序維持は、個体性と集団性のバランスで保たれている。集団性とは下階層の
個体群の秩序であり、その個体はさらに下階層の個体群の秩序である。たとえば蟻の群は蟻群の
秩序であり、蟻は細胞群の秩序である。
社会性と単独性
生命としての高等化は、生命の個体性を向上させる。それは集団性を低下させることとなる。
このために個体間の情報交換は、後天的な「社会性」によって補完されるようになる。このような
高等生物では、「個体性」への力と、集団性が補完する「社会性」という集団化の力としてバランスを
保つことになる。
社会性におけるコミュニケーションでは、意味の伝達が必要である。先天的な集団性の秩序に比べて、
意味による伝達は不完全である。このために個体間には絶えず「不安」が現れる。これが伝えようと
するヒステリックな過剰性が生まれる。ここでは、いかに他者を引きつけるかが、重要な課題となる。
そのためには、他者との差異が重要になる。目立つこと、社会性の中で埋もれるのではなく、誰とも
違う私という自我である「単独性」が目指される。
842 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 22:45:08
タナトスの過剰性
人間がもっとも高い社会性を持つ。人間のコミュニケーションは言語であり、意味の伝達の不完全性は
たえず過剰な「不安」を生む。それは「社会性の中で埋もれるのではなく、誰とも違う私という自我
である「単独性」が目指される」という強い欲望を生む。
さらには、多くにおいて、動物は環境に逆らい、生きることに必死であり、いつも「力としての生」は
環境圧に対してバランスを保っているのに対して、集団性を補完する「社会性」が環境圧を排除する
形で、秩序世界を構築する。そのときに、この内部に閉じこめられた「力としての生」は過剰なものと
転ずる。
ここに社会性と「力としての生」の過剰の対立が生まれる。社会性の内部を形成する場合にはエロス
(生の欲動)と呼ばれ、それが抑圧された過剰な「力への生」の場合には、タナトス(死への欲動)と
呼ばれる。「人間」の内部では、いつもエロスは、容易にタナトスに転倒するのである。これが本能の
壊れた動物としての人間の特性である。
843 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 22:48:02
エロス=タナトス
環境という静へ向かう力は、生命秩序維持にとって、動を抑圧する「不快なもの」となる。このために
生命は、「不快なもの」を排除し、動として安定することを志向する。これが、フロイトのいう快感原則
である。
快感原則が、緊張を和らげる、主体内部の静へ向かうのであるが、ここで重要なのは生命にとって
静とは、安定した動である、ということだ。それに対して、快感原則の彼岸は、本来環境が作り出す
不快を、自ら作り出すことを示す。安定した動であるエロスが、自ら不安定を生みだすのである。
これがタナトスである。
これは物理学の法則で考えるとわかりやすいかもしれない。快感原則とは、等速度運動である。
一定速度で動く。このとき物体には力が働かない。電車でいえば、走っているが、車内では止まって
いるような安定した状態である。
そこには原則させようとする環境の力が働く。速度が低下するときには、物体に力が働く。電車が
ブレーキを踏んだときのように、車内の人に力が働き、不快なのである。そしてエロスは、環境の力に
対抗して、等速度運動しようとする
それに対して、タナトスは加速度運動である。エロスによって等速度運動し、快感であるにも関わらず、
自ら加速することによって、物体には力が働く。電車が加速すると、車内の人に力が働く現象である。
すなわちエロスもタナトスも環境の外圧(エントロピーの増加)に対抗する力であり、環境と相反し
安定を目指す動物的な力がエロスであり、それを越えて安定を崩す過剰がタナトスである。
844 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 22:49:43
環境的現実界
この欲動理解から、ラカンの不明瞭な現実界の姿見えてくるのではないだろうか。ラカンの現実界の
一つの説明が、カントの「ものそのもの」である。これがここでいう環境であり、「環境的現実界」と
呼ぼう。環境とは単に自然世界ということではない。人間の認識の向こうにあり、人間が決して認識
できないものである。その本質は不確実性である。偶然性とカオスが渦巻く、何がおこるか不確定な
世界。本来、世界とはそのようにあり、人間は「現象」として見たいように見ているだけである。人間は、
この環境世界の内部に秩序ある世界を構築したのである。
環境的現実界は、人間社会(内部)/環境(外部)と考えることができるが、これは物理的な制約とは
関係がない。大きなところでは地震、事故などの偶発的な障害もそうであれば、庭の花壇も飼い
慣らされているようで、そこのは不確実性が内在している。そして人間そのものもまた環境的現実界
である。心身二元論的にいえば、この身体で何が起こっているかわからない。不確実な存在である。
そして管理できない欲動そのものも環境的現実界である。
去勢的現実界
しかしここで区分が必要である。欲動が過剰でないときには、エロス(生の欲動)と呼ばれ、環境的
現実界に分類されるが、過剰であるときには、タナトス(死の欲動)と呼ばれる。これは、「去勢的
現実界」と言える。ラカンの理解では、タナトス(死の欲動)は象徴界(社会秩序)への参入によって、
去勢による抑圧によって生まれる。これはまさに、動物的なエロスが環境の力を越えたとき、本来
エロスによって構築された秩序が、抑圧として働くのである。社会で生きるとは、このような抑圧を
受けて、内部に過剰性を持ち続けるのである。
ドゥルーズは、ラカンが欲動を去勢によるタナトス(死の欲動)として強調して考えたことを批判し、
そのエロス(生の欲動)面を強調した理由がわかる。タナトス(死の欲動)は欲動の一部である。
しかし精神分析においては、抑圧された欲動が問題であり、それが「人間」なのである。
845 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 22:51:37
本能の壊れた動物
現代では、環境からの脅威は軽減されている。しかしエロスは止められない。外部にでられずに
閉じこめられ、内部圧力は増していく。止まらないエロス、すなわちタナトスはどこに向かうのか。
たとえば、それは内部での殺し合うに向かうのである。有史以来、人は過剰性によって互いに
傷つけあってきたのだ。
闘いは、過剰性の解消装置だった。兵器戦争でなんなる悲惨な場になったが、戦争は人々を
「生き生き」させる装置であった。いまならワールドカップの熱狂があるが、サポーターでなく、男子は
全員がプレーヤーになる。そして敵国と戦う。賭けるのは命程度のものでなく、家族も含めた我々の
コミュニティそのものである。これにまさる欲望の対象である「無垢」があるだろうか。
有効な使用方法は、内部世界の拡張に費やされている。環境の不確実性を秩序あるものとして
開拓するのである。それが加速されたのが近代であり、数量化革命である。世界のすべてを定量的に
数値化する手法は確実に、開拓を成功させ、内部世界を拡張した。それは地球から宇宙へという空間
から、物理的な量子力学によるミクロ的、そして宇宙物理学的なマクロ的へ、あるいは遺伝子工学に
よる身体へなどなどへと向かうのである。
たとえば量子力学が、原子力発電所に応用され人類の英知と言われるときは、エロスであり、それが
原子爆弾として使われるときには、タナトスと呼ばれるのである。だからこの分類は両義的である。
あるときは豊かさを生み、すばらしい芸術作品を世に生み出すが、またある時は、殺戮の狂気へ
向かう。そもそもにおいて過剰性があり、それが有効であるか、どうかに決定できないだろう。
これは「人間」が生まれた時から内部に抱えた問題なのであり、「本能の壊れた動物」としての
「人間」である。
847 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 23:45:49
■他者からの呼び声→まなざしの快楽→無垢(汚物)への欲望
集団性から社会性へ
人間は個体の自律性(個体性)が向上したために、集団性が欠如した動物である。動物のように
「完全な」集団行動をすることができない。しかしそれでも「力としての生」の中には、集団性、すなわち
先天的な他者志向性の残余が残っている。これを「他者からの呼び声」とよぶ。
集団性が欠落した中でも、人間は一人では生きることはできない。故にいかに集団行動を行うかが
問題となる。人間において、この個体間の「間」を埋めるものが言語による意味の伝達である。動物
では、情報→解釈(遺伝子)→命令によって集団の統制がとれるが、言語では、情報→解釈→命令
において、いかに共通の解釈をするかという問題がおこる。それが大文字の他者という取り決め
(社会性)の獲得である。社会に参入することで、集団性は社会性によって補完される。
単独性の獲得の幻想=無垢、汚物
しかし大文字の他者には欠如があり、完全な意味の伝達はできない。そして完全な意味体系を
もとめ、たえず補完しつづけられる。それが、自己言及の穴である「私とはなに?」という単独性を
求め続けることであり、それが欲望である。
大文字の他者(社会)の欠乏の補完物は、大文字の他者(社会)の外にしかないために、欲望は、
大文字の他者の外をめざすが、それは失われたものであり、手にはいることはない。だからみんなが
求めているだろうという(「まなざしの快楽」)対象(対象a)として現れ、それを獲得することで他者とは
異なる私だけの単独性が獲得されるという幻想である。対象aが「無垢」性を帯び、また「汚物」で
あるのは、大文字の他者の外にあるという幻想だからである。
完全な他者との繋がり(集団性)を求める→大文字の他者(社会性)の獲得→大文字の他者(社会性)
には欠如があり、欠如としての私の意味(単独性)の補完を欲望する→大文字の他者を越えた他者
との近接(差異化運動)→単独性の獲得の幻想としての対象a(無垢、汚物)への欲望
848 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 23:47:51
闘争的か、相補的か
この大文字の他者を越えて他者への近接は、ラカンでは闘争的に描かれる。想像界では想像的な
闘争、転移、ナルシシズムであり、象徴界では去勢であり、抑圧であり、現実界では享楽であり、
死への欲動である。
しかしこれは必ずしも闘争的はなく、一つの相補的なシステムでとらえられるだろう。失われた集団性を
求めるための社会性を維持するシステムである。想像界を挟んだ、象徴界/(想像界)/現実界の
システムであり、たとえば社会への協調/利己的な自己実現の物語では、この対立は相補的に
システムを支えているのである。
849 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 23:49:27
動物/人間
人間は集団性が欠けている、ということである。そして集団性(他者との関係性)を求めることが欲動
(他者志向性)である。たとえば動物は集団のC−5の位置に配置されても集団性を持ちえている
ために問題がない。しかし人間は集団性が失われ、それを補完する社会性によって、C−5位置に
配置され、「あなたはC−5だよ」と名付けられる。しかしそこに残余としての「不安」が生まれる。
なぜC−5なのか。誰が決めたのか、他の人はちゃんとB−3で収まっているのか、という
コミュニケーション不全による不安である。そしてたえず私がC−5である「意味」が求められ続ける。
すなわちこれは「私とはなに?」という単独性の芽生えである。集団性への欲動が社会性を生み、
社会性が単独性を生むのである。他者と密になろうとすることが、逆説的に、他者と差異化された
私という意味を求めるという、利己的な主体を生み出すのである。
この社会性への対立としての単独性が「欲望」である。そして欲望は絶えず社会性(他者の承認)に
支えられる。他者が望むことを望むのであり、社会性において、おまえは〜だからC−5なんだよ、
という単独性への完全な関係を求めるのであり、そのためには他者と違っていなければならない
のである。
この終わりのない他者との差異化、すなわち欲望が、人間の進歩を支えている。動物にはこのような
差異化はない。完全な集団性も持っているために、変化は環境との関係という長期的な時間を要する
進化によって、変化する。しかし人間は、自ら欲望という動力をもったために、進歩というダイナミズム
をもった動物なのである。
850 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/08(水) 23:50:12
無垢/汚物への欲望
だから「私は誰?」という問いはいつも他者に向けて発せられる。教えてよ・・・繋がりたいよ・・・
欲望は他者に向けて行われる。見てよ。僕って凄いだろ。だから欲望の対象はみなが求めているが、
誰も手にしていない「無垢」であり、「上から二冊目の本」である。そして他者が持っていないものへ、
他者が禁じている「汚物」へ向けられる。性関係は無垢で、汚物として欲望され、現代ではロリータ
という幻想が、無垢な汚物である。
「他者からの呼び声(現実界からの声)」が、「まなざしの快楽」(象徴界)を想起し、(想像界に)「無垢
(汚物)」という幻想を投射する。たとえば、ロリータという「無垢(汚物)」の幻想は、「他者からの
呼び声」による「まなざしの快楽」が投影した幻想である。それがロリータであるのは、社会(象徴界)の
外(禁止されたもの)にあるまだ誰も手に入れていない本当の「他者からの呼び声」がそこにあるという
幻想である。このような「まなざしの快楽」が見せる幻想がなければ、ボクたちは「他者からの呼び声」
に答えられないことによって発狂してしまうだろう。
852 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 23:58:33
ぴかぁ〜も前、ロリコンだってカミングアウトしてたよね。
ロキソタン
854 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 01:41:43
<社会性の浮上> 個体性の上昇→集団性の欠落(他者からの呼び声)→(言語獲得による)社会性による補完
<自我の形成> 社会性に強化→環境圧の排除→不安の上昇→単独性の発生→
<社会性による抑圧> 単独性の発生→社会性による抑圧→力の過剰=タナトス化
「力としての意志」=欲動(他者からの呼び声)→社会性/単独性→エロス/タナトス
855 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 01:51:53
動物
エロス=「力としての意志」の等速運動 環境圧/集団性のバランス
過渡期
集団性の欠落→「他者からの呼び声」
人間初期
エロス=「力としての意志」の等速運動 環境圧/「他者からの呼び声」による社会性
過渡期
社会性の強化→環境圧排除
人間文明
エロス=「力としての意志」の等速運動 「他者からの呼び声」によって社会性は作られる、私(単独性)は名指しされる。
タナトス=「力としての意志」の加速度運動 「他者からの呼び声」によって社会性以上の私(単独性)を求める。
856 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 01:56:04
社会性/単独性→エロス/タナトスでは、愛というグレーゾーンの尊さが浮き彫りにされてしまう。
ピカは愛されたいと訴えているのよ。
858 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 02:00:52
ぴかぁ〜も前、ロリコンだってカミングアウトしてたよね。
859 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 10:19:04
最近のケータイの使用はすさまじいものがありますね。
最近おもわず写真とりたくなった光景があって、昼時、街のスパゲッティー屋さんの前で椅子にすわって順番待ちしてる四人家族がいて
小学生ぐらいの息子、娘とパパ、ママの四人が待ちながら四人とも黙々とケータイを触ってました。
なんか微笑ましいような、不気味なような
最近、電車でも小学生前の幼児が騒ぐ横でママがケータイに夢中な光景はよくみますね。
>>840 > 本質的に、つり上げ構造が絶えず作動するわけです。現代もです。
そうかな。日本の特徴はつり上げ構造が不在、或いは非常に弱いことなんじゃないか。
"まなざしの快楽"が「他者」からくるものであるならば、それは死せる他者でなければ
ならないかと思います。しかし、日本というのは死せる他者じゃなくて、生きている"他人"から
の"まなざし"が基点となっている。当然、それは中心がない。
日本社会の特徴は、ラカンの言葉で言う「対象a」の存在をどこまでも信じようとする、或いは
信じれるように仕向ける社会です。だから、ラカンならラカンの言葉自体が「対象a」になって
しまい、ラカンマニアになってしまう。
日常の作法なんかでも明白じゃないか。絶えず相手に遠慮し続ける態度、契約の不在、
いつも笑っている、などなど。
861 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 10:30:27
みんなつながりを求めてということは言われますが、どちらかというとケータイ
という対戦ゲームを楽しむと言うほうがよいのではないでしょう。プログラムされた他者よりも本当の他者という予測不可能な反応と
限りなく私であるが私でない他者。究極の欲望の対象を使ったゲーム。
プログラムされたゲームも疑似他者とのコミュニケーションなんですね。
>>859 最近の学校では、試験の日程表が張られると、それを生徒は携帯で写真に撮っていくそうです。
また、学校の入試結果が携帯メールで届けられたりするところがあると。
こういう話を極限まで推し進めると、記憶というものが何なのか、不用なんじゃないか、そういう
話になっていきますね。端から忘却していって構わないと。その都度、接続しているデータを参照
すればよいと。
人間関係も、身体との関連がますます薄くなる。身体が邪魔だという感覚は今後強くなっていくでしょうね。
863 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 10:42:15
まさに2ちゃんがそれなわけですが、これの欲望の特徴を表していましね。
欲望は欠如がありそれを満たすのでなく、欲望自体が欠如を広げる。
ボクたちにあらかじめいまのようなケータイを望む欠如があったわけでなく、
ケータイにはまることで欠如が生まれ肥大してゆく。そしてこれがまさに資本主義の作動原理ですね。
いまからケータイ、ネット、テレビ、車、電気のなかった時代を想像できないというときには、欠如が
開かれた今から事後的にみるから大きな欠落が口をひろげているが、その当時は
それである種の充足はあるわけです。まさに人間の特徴ですね。
864 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 10:54:51
ここから資本主義への危機が生まれます。欠如はどこまで開き、いつか引き裂かれるのではないか。
しかし欲望のすごいところはこのような危機、恐怖さえ欲望の対象に取り込むことです。エコロジーの駆動さえ欲望です。
これがおもしろいところで欲望は豊かさを、資源消費をのぞんでいない。転倒して貧しさを欲望することは起こる。
ただ普通は生存(身体維持)の安心がえられたあとですが。
865 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 10:59:14
ダイエットを成功させるコツは欲望を懸命に我慢するのでなく、ダイエット
そのものを欲望の対象にすり替えることだ、というわけです。
866 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 11:25:11
といっても欲望の対象は簡単に操作できないでしょう。他者のまなざしの先にしか欲望の対象はあらわれないからです。
現代でいえば、僕らが求めているのは豊かさよりお金そのものです。みながお金を求めているからです。
みなのほしいものが分散するなかでお金だけが強いまなざしの共有可能にする。ではあとは欲望と物神性、そして現代資本論についてむじんくんにひきつぎましょう
去年の一時期、体重が普段よりも25キロ減ってた。
せっかく飢え死に寸前までいったのに、あん時死んどきゃよかった。
25じゃねーや15だ。
それでも標準体型の私にとっては大変なことなのだが。
869 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 12:53:09
精神科へ
>>866 > ではあとは欲望と物神性、そして現代資本論についてむじんくんにひきつぎましょう
何を言わせたいのかよく分かる引継ぎですが(笑)。ぴか氏の欲望論から資本主義を
見ようとするならば、それは物神性というのが重要な点になるんだろうと思います。
また、マルクス自身もその点から考察をしてますね。
しかし、一方でマルクスは労働価値説というのを使うわけです。もちろん、これは実際の
労働と直接リンクはしてないわけですが、商品の交換を可能にする分母にあたる部分を
論理的に遡行していった際に仮定されるものとして、労働というものを持ってくる。
だから、物神性ということで語ってしまうのがポストモダンな発想だとしたら、マルクスは
裏側に本当のことがあると信じているという点でモダンなんですね。あくまでも機軸に
なるものが機能していると信じてるんです、マルクスは。そうじゃないと、「資本論」全体が
成立しない。つまり、資本主義社会に対する批判をすることが不可能になります。
バブル時代に、こういう考えが袋叩きにあったわけです。そんな価格の根拠なんかあるか。
あるのは欲望が織り成す波なのだと。都市論なんかでもその手のがあったと思います。
機能というのはあまり重要じゃないんだと。しかし、一方で様々なポストモダンな見かけの
都市の地下には上下水道があり、電気が通り、地上では合理的な交通が行われており、
それなくして非合理的表現も何も無いんですね。
例えば、携帯電話と人気ブランド商品とは同じなのか。人気があるが故に価格上昇を一時的に
している商品は、昔存在しなかったし、必要もされなかった携帯電話と等価な現象といえるのか。
言えないというのが僕の考えです。携帯電話はある社会の発達状況に合理的に適合した
形で出現したインフラです。それは皆が必要性を感じ、だからこそ多くの生産者が参加をし、
競争が発生する。
そうなれば、"上から二冊目の本"という視点を主軸に携帯電話生産を行うことは普通しない。
携帯電話は一般的に"上から二冊目の本"ではない。
872 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 18:08:13
ケータイの生産に「上から二冊目の本」性があるかないかでなく、
「商品」というものの交換を成り立たせているものが「上から二冊目の本」性、すなわち物神性だとマルクスはいっているのです。
ジジェクは、ラカンが「はじめに(精神分析的)症候を発見したのはマルクスだ」といったことを紹介しています。
それも資本論のはじめはこの欲望論からはじまっています。なぜならそれが資本主義の根源的な問題だからです。
873 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 18:18:57
問題は、マルクスが言うものの交換、すなわちコミュニケーションを成り立たせている可能性としての物神性が
ケータイという危機、通信費など含めた現象において当然働いているだけでなく、
もはやその物神性のみが交換されているという事実です。
すなわち物神性を呼び出すために、コミュニケーションの(不)可能性にベットされているのです。
>>872 > ケータイの生産に「上から二冊目の本」性があるかないかでなく、
> 「商品」というものの交換を成り立たせているものが「上から二冊目の本」性、すなわち物神性だとマルクスはいっているのです。
そこがあなたとの対立点ですね。資本論はそこを軸にしてはかかれてません。物神性で交換を
説明したら、資本主義批判は成立しませんね。
875 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 18:30:00
商品の物神性とは賭けであり神だのみです。商品交換そのもののこのギャンブル性が
必要以上の交換にむかわせるという交換に隠された欲望をマルクスは暴露したわけであり
ケータイはこのギャンブルのみが消費されているわけです。そしてこの物神性が無垢性です。
876 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 18:32:11
そこではボクとマルクスは同意であり、むじんくんは違うのです。
ボクとマルクスの相違点は別にありますから
877 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 19:19:31
このような賭けをなりたたせているのが、動物的な集団性の喪失を保管する社会性です。
社会性としてつながりながらそこには断絶がある。断絶をまたいだ交換には賭けがあり、その緊張をやわらげるために物神性という幻想をみる。
しかしその賭けにともなう夢、買わなければ当たらないという宝くじ同様の夢こそが消費となる
そしていかに夢をつくりだすかがマーケティングですが
もはや与えられるのでなく自ら夢に酔おうということがケータイやネットが駆動する原理です。
賭けるという危険に人は酔う。この「生き生き」が無垢です。
人はこの「生き生き」がなければいきていけません。かつては生きることが
不確実な賭けの世界ですからいきるだけで「生き生き」できた。むしろ危険すぎていきるのが大変だった。
最近は社会が整備され、あえて賭けが試みられます。しかも安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」するのです。
ケータイ、2ちゃんのように
878 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 19:43:06
賭けがなぜ興奮するのか、自分を賭けているからですね。
自分のお金、所有物を賭けているということでなく、自分自身が賭けられているのです。
たとえばコミュニケーションは恐いですね。街でみず知らずの人に声をかけると怪訝な顔をされ、それで傷つきます。
しかしこれは自分が賭けられているというよりも、賭けそのものが「自分」を立ち上げるのです。
賭けは他者が現全している必要はなく、物思いに耽っているときも小さく賭けられています。
賭けとは私が私だという単独性の獲得の実感なのです。
>>875 > 商品の物神性とは賭けであり神だのみです。商品交換そのもののこのギャンブル性が
それは、未開人がある貝殻に拘ったりするのと同じでしょ。資本主義社会の商品とは違いますよね。
こう言ったらいいのかな。マルクスは価値と価格をわけてますよね。ぴか氏のは価格の話でしょう。
実際の現象としての商品売買。マルクスは裏側で価値が機能していると信じているんですよ。そこが
違います。ポストモダン風に読もうとしても、資本論はそう読めませんよ(笑)。
880 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 20:02:53
現代は賭けをコントロールすることができるようになりました。
かつては生存するためには危険な賭けでも参加しないといけない、いや巻き込まれていました。
しかし現代は賭けから逃げて生存できます。危険な賭けに巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。
そして安全な賭けで間に合わせる。マック、コンビニにしかいかない。あるいはワイドショー、ハリウッド映画、
テレビゲーム、ケータイなど管理された安全な賭け(どきどき)で間に合わせる。
これはまた無垢欠乏症になります。そして突破的に無謀な賭けにでてまわりを巻き込み破滅してしまう。
ロリコンのポイントは幼児という弱さによる安全と社会的に禁止されている危険な賭けということです。
その先に破滅する幼児殺人犯がいます。
2ちゃんのヘイトスピーチも安全な位置から、禁止された言葉をいう賭けです。
>>880 > 現代は賭けをコントロールすることができるようになりました。
いいですね。有閑階級は(笑)。
882 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 21:24:57
ボクが「フリーターの知」というとき、それでもこのようなヘタレを許す、あるいは奨励するのである。
ヘタレなさい。姑息に賭けなさい。と
無垢とはなんに身体的な生死をかけた危険な賭けをするのとは違う。
無垢とは私が私であることの賭けであり、単独性の満足がめざされる。
身体的な危険な賭けは私しかできないという意味で無垢であって、勘違いされるかもしれないが身体の危険そのもののスリルでない。
では現代において、そもそもヘタレずに無垢を手に入れるとはなんだろうか。
これは難しい問題である。なぜなら情報化社会において、私だけの賭けを見いだすことはむずかしいからだ。私である必要はない。
883 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 22:08:29
ボクは西洋の死の思想からくる単独性重視と、東洋の生の思想からくる社会性重視をしめした。
これらはそれぞれの形で主体を想起する。そして現代科学がこれを解体する偶然の思想であるといった。
すなわち賭けが賭けとしてなりたつための背景としての生死の思想が解体されつつあるのだ。
そして主体とり戻しのために、「生き生き」するために無謀が表出している。より禁止へ危険へ、そして身体的なスリルへ。
それを回避する方法として「フリーターの知」はある。
884 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:01:08
■ケータイとマルクス
ケータイという欲望
最近のケータイの使用はすさまじいものがあります。最近おもわず写真とりたくなった光景があって、
昼時、街のスパゲッティー屋さんの前で椅子にすわって順番待ちしてる四人家族がいて小学生ぐらい
の息子、娘とパパ、ママの四人が待ちながら四人とも黙々とケータイを触ってました。なんか微笑
ましいような、不気味なような最近、電車でも小学生前の幼児が騒ぐ横でママがケータイに夢中な
光景はよくみます。
みんなつながりを求めてということは言われますが、どちらかというとケータイという対戦ゲームを
楽しむと言うほうがよいのではないでしょう。プログラムされた他者よりも本当の他者という予測不可能
な反応と限りなく私であるが私でない他者。究極の欲望の対象を使ったゲーム。プログラムされた
ゲームも疑似他者とのコミュニケーションです。
まさに2ちゃんがそれなわけですが、これの欲望の特徴を表していましね。欲望は欠如がありそれを
満たすのでなく、欲望自体が欠如を広げる。ボクたちにあらかじめいまのようなケータイを望む欠如が
あったわけでなく、ケータイにはまることで欠如が生まれ肥大してゆく。そしてこれがまさに資本主義の
作動原理です。いまからケータイ、ネット、テレビ、車、電気のなかった時代を想像できないというとき
には、欠如が開かれた今から事後的にみるから大きな欠落が口をひろげているが、その当時はそれで
ある種の充足はあるわけです。まさに人間の特徴ですね。
885 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:05:27
物神性と無垢性
ジジェクは、ラカンが「はじめに(精神分析的)症候を発見したのはマルクスだ」といったことを紹介
しています。「商品」というものの交換を成り立たせているものが「上から二冊目の本」性、すなわち
物神性だとマルクスはいっています。それも資本論のはじめはこの欲望論からはじまっています。
なぜならそれが資本主義の根源的な問題だからです。
問題は、マルクスが言うものの交換、すなわちコミュニケーションを成り立たせている可能性としての
物神性がケータイという危機、通信費など含めた現象において当然働いているだけでなく、もはや
その物神性のみが交換されているという事実です。すなわち物神性を呼び出すために、
コミュニケーションの(不)可能性にベットされているのです。
商品の物神性とは賭けであり神だのみです。商品交換そのもののこのギャンブル性が必要以上の
交換にむかわせるという交換に隠された欲望をマルクスは暴露したわけであり、ケータイはこの
ギャンブルのみが消費されているわけです。そしてこの物神性が無垢性です。
886 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:07:41
賭けと夢と「私」
このような賭けをなりたたせているのが、動物的な集団性の喪失を保管する社会性です。社会性として
つながりながらそこには断絶がある。断絶をまたいだ交換には賭けがあり、その緊張をやわらげる
ために物神性という幻想をみる。しかしその賭けにともなう夢、買わなければ当たらないという宝くじ
同様の夢こそが消費となる。そしていかに夢をつくりだすかがマーケティングですが、もはや与えられる
のでなく自ら夢に酔おうということがケータイやネットが駆動する原理です。
賭けるという危険に人は酔う。この「生き生き」が無垢です。人はこの「生き生き」がなければいきて
いけません。かつては生きることが不確実な賭けの世界ですからいきるだけで「生き生き」できた。
むしろ危険すぎていきるのが大変だった。最近は社会が整備され、あえて賭けが試みられます。
しかも安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」するのです。ケータイ、2ちゃんのように。
賭けがなぜ興奮するのか、自分を賭けているからです。自分のお金、所有物を賭けているということ
でなく、自分自身が賭けられているのです。たとえばコミュニケーションは恐いですね。街でみず知らず
の人に声をかけると怪訝な顔をされ、それで傷つきます。しかしこれは自分が賭けられているという
よりも、賭けそのものが「自分」を立ち上げるのです。賭けは他者が現全している必要はなく、物思いに
耽っているときも小さく賭けられています。賭けとは私が私だという単独性の獲得の実感なのです。
887 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:10:38
安全な賭けと「フリーターの知」
現代は賭けをコントロールすることができるようになりました。かつては生存するためには危険な賭け
でも参加しないといけない、いや巻き込まれていました。しかし現代は賭けから逃げて生存できます。
危険な賭けに巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な賭けで
間に合わせる。マック、コンビニにしかいかない。あるいはワイドショー、ハリウッド映画、テレビゲーム、
ケータイなど管理された安全な賭け(どきどき)で間に合わせる。
これはまた無垢欠乏症になります。そして突破的に無謀な賭けにでてまわりを巻き込み破滅して
しまう。ロリコンのポイントは幼児という弱さによる安全と社会的に禁止されている危険な賭けということ
です。2ちゃんのヘイトスピーチも安全な位置から、禁止された言葉をいう賭けです。
ボクが「フリーターの知」というとき、それでもこのようなヘタレを許す、あるいは奨励するのである。
ヘタレなさい。姑息に賭けなさい。と。無垢とはなんに身体的な生死をかけた危険な賭けをするのとは
違う。無垢とは私が私であることの賭けであり、単独性の満足がめざされる。身体的な危険な賭けは
私しかできないという意味で無垢であって、勘違いされるかもしれないが身体の危険そのもののスリル
でない。では現代において、そもそもヘタレずに無垢を手に入れるとはなんだろうか。これは難しい
問題である。なぜなら情報化社会において、私だけの賭けを見いだすことはむずかしいからだ。
私である必要はない。
ボクは西洋の死の思想からくる単独性重視と、東洋の生の思想からくる社会性重視をしめした。
これらはそれぞれの形で主体を想起する。そして現代科学がこれを解体する偶然の思想であると
いった。すなわち賭けが賭けとしてなりたつための背景としての生死の思想が解体されつつあるのだ。
そして主体とり戻しのために、「生き生き」するために無謀が表出している。より禁止へ危険へ、
そして身体的なスリルへ。それを回避する方法として「フリーターの知」はある。
888 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/09(木) 23:21:00
>こう言ったらいいのかな。マルクスは価値と価格をわけてますよね。ぴか氏のは価格の話でしょう。
>実際の現象としての商品売買。マルクスは裏側で価値が機能していると信じているんですよ。そこが
>違います。ポストモダン風に読もうとしても、資本論はそう読めませんよ(笑)。
???物神性は価値形態ですよね?
価格は費用と利潤ではありませんよね?
ロト6で1億円あたったwwww
891 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 23:35:55
嘘なら嘘って言えよ、
素直に虚言を認めるなら許してやるからな。
嘘でーす。
本当はミニロトで1千万円でした。
>>888 > ???物神性は価値形態ですよね?
価値形態論だけど、ぴか氏のは価格の話に近いんでないの?あと、マルクスは物神性は社会的労働の
総体を表現したものだと信じているんですね。バクチとちょっと違うと思いますよ。
895 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 01:12:26
■ネット依存の快楽
ケータイという対戦ゲーム
最近のケータイの使用はすさまじいものがあります。最近おもわず写真とりたくなった光景があって、
昼時、街のスパゲッティー屋さんの前で椅子にすわって順番待ちしてる四人家族がいて小学生ぐらいの
息子、娘とパパ、ママの四人が待ちながら四人とも黙々とケータイを触ってました。なんか微笑ましい
ような、不気味なような最近、電車でも小学生前の幼児が騒ぐ横でママがケータイに夢中な光景は
よくみます。
みんなつながりを求めてということは言われますが、どちらかというとケータイという対戦ゲームを楽しむと
言うほうがよいのではないでしょう。プログラムされた他者よりも本当の他者という予測不可能な反応と
限りなく私であるが私でない他者。究極の欲望の対象を使ったゲーム。プログラムされたゲームも
疑似他者とのコミュニケーションです。
物神性と無垢性
ジジェクは、ラカンが「はじめに(精神分析的)症候を発見したのはマルクスだ」といったことを紹介
しています。「商品」というものの交換を成り立たせているものが「上から二冊目の本」性、すなわち
物神性だとマルクスはいっています。それも資本論のはじめはこの欲望論からはじまっています。
なぜならそれが資本主義の根源的な問題だからです。
問題は、マルクスが言うものの交換、すなわちコミュニケーションを成り立たせている可能性としての
物神性がケータイという機器、通信費など含めた現象において当然働いているだけでなく、もはやその
物神性のみが交換されているという事実です。すなわち物神性を呼び出すために、コミュニケーションの
(不)可能性にベットされているのです。
商品の物神性とは賭けであり、「神だのみ」です。商品交換そのもののこのギャンブル性が必要以上の
交換にむかわせるという交換に隠された欲望をマルクスは暴露したわけであり、ケータイはこの
ギャンブルのみが消費されているわけです。そしてこの物神性が無垢性です。
896 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 01:13:17
賭けと夢と「生き生き」
このような賭けをなりたたせているのが、「社会性」です。「社会性」としてつながりながらそこには断絶が
ある。断絶をまたいだ交換には賭けがあり、その緊張をやわらげるために物神性という幻想をみる。
しかしその賭けにともなう夢、買わなければ当たらないという宝くじ同様の夢こそが消費となる。そして
いかに夢をつくりだすかがマーケティングですが、もはや与えられるのでなく自ら夢に酔おうということが
ケータイやネットが駆動する原理です。
賭けるという危険に人は酔う。この「生き生き」が無垢です。賭けになぜ興奮するのか。自分を賭けている
からです。自分のお金、所有物を賭けているということでなく、自分自身が賭けられているのです。
たとえばコミュニケーションは恐いですね。街でみず知らずの人に声をかけると怪訝な顔をされ、それで
傷つきます。そしてこれは自分が賭けられているというよりも、賭けそのものが「自分」を立ち上げる
のです。賭けは他者が現前している必要はなく、物思いに耽っているときも小さく賭けられています。
賭けとは私が私だという単独性の獲得の実感なのです。だから人はこの「生き生き」がなければ
いきていけません。
897 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 01:14:18
無垢欠乏と安全な賭けと中毒
かつては生存するためには危険な賭けでも参加しないと生きていけない、いや巻き込まれており、
むしろ危険すぎて生きるのが大変でした。しかし現代は賭けから逃げて生存できます。危険な賭けに
巻き込まれる前に、他者との交流をたつ。さらには引きこもる。そして安全な賭けで間に合わせる。
安全に引きこもるために、むしろ無垢欠乏症になります。安全な場所から小さな賭けをして「生き生き」
するのです。
マック、コンビニなどは「他者回避」の場です。ワイドショー、ハリウッド映画、テレビゲームなど、管理された
安全な賭けで間に合わせる。さらにロリコンのポイントは幼児という弱さ存在という安全であり、幼児を
欲望するという社会的に禁止されている危険な賭けです。2ちゃんのヘイトスピーチも安全な位置から、
禁止された言葉をいう賭けです。
しかし無垢とはなんに身体的な生死をかけた危険な賭けをするのとは違います。無垢とは私が私で
あることの賭けであり、単独性の満足がめざされます。身体的な危険な賭けは、それを私しかできない
という意味で無垢であって、その身体の危険からくるスリルでない。主体をとり戻しのために、「生き生き」
するために無謀が表出しています。より禁止へ危険へ、そして身体的なスリルへ。
ケータイという対戦ゲームにおいて、私の取り戻しであるのか、身体的なスリルであるのか、違いを
見いだすことができるだろうか。ボクたちにあらかじめいまのようなケータイを望む欠如があった
わけでなく、ケータイにはまることで欠如が生まれ肥大してゆくというときの中毒性において、どちらに
しても快楽は身体的なものである。
ポトラッチの一形態?
>>897 > しかし現代は賭けから逃げて生存できます。
いいですね。有閑階級は(笑)。
実際は違うんじゃないか。社会での上層に行くための手段が見えにくくなってきているので、
今まで以上に学歴に拘ったり、あと、教育がかなり階層化していると聞いてます。一方で、
もう全く諦めムードの人たちがいたりする。
どちらかというと学校で勉強をし、成績がいい者から有名企業へ就職ができ、終身雇用を
前提とした中での出世競争という、「賭けの無い」世界が壊れてきており、誰もがギャンブラーに
ならないといけない時代になってきているんじゃないか。
あと、賃労働に転落しているならば、基本的に自分を商品として売らなければならないので、
賭けから逃げるというのは不可能ですね。他者からの逃避をするには蓄財が必要です。
901 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 10:43:02
>>900 ボクの意見との相違が微妙になっていますね。
「誰もがギャンブラーにならないといけない時代」=ジャングル化する社会
なんどのいうように、大きな違いは充足とはなにか、ということでしょうね。
物質的な豊かさか、物資的豊かさの彼岸か。
>>901 > ボクの意見との相違が微妙になっていますね。
関心の対象も見方も似ているとは思いますよ。しかし
> 物質的な豊かさか、物資的豊かさの彼岸か。
物質的豊かさではなくて、精神的な充足の問題が経済的構造に既定されていると
考えるのが僕で、精神自体の問題だとするのがピカ氏でしょ。観念論と唯物論。
903 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 11:51:27
観念論と唯物論の使い方が間違っているのですが、
まあ良いでしょう(笑)
>物質的豊かさではなくて、精神的な充足の問題が経済的構造に既定されていると
>考えるのが僕で、精神自体の問題だとするのがピカ氏でしょ。
精神的な充足を規定する経済的構造に黒幕はいるか、どうかでしょ(笑)
下部構造という意味では、ボクはテクノロジーを考えています。
フーコは規律訓練権力と生権力を揚げます。規律訓練権力は、教育などで、
人の内面にイデオロギーの植え込み、自立的な主体とする。
それに対して、生権力は生(身体)をコントロールする。
東はこの生権力から現代の下部構造として環境管理権力と言います。
前にあげたマックの硬い椅子であるとか、グーグルなどで検索するときに
素朴にネット上全てのページを検索しているようで、実は知らない間に
様々な作為が入っています。広告料を払った企業ページが優先してヒットするとか、
エロページの排除、さらにあるイデオロギー的なところはヒットしないような作為も
問題なっています。このような環境管理権力の特徴は権力の透明化ですね。
見えないところでコントロールされる。しかしこれをむじんくんのような、
黒幕的な権力構造と考えるのもまた違うんです。
かつての規律訓練権力の場合、イデオロギーを教育するなど、意図的な
大きな組織が必要とされます。しかし環境管理権力は個人のページの閲覧に
規制をかける、あるいは監視カメラをつけるなど、小さな権力が行われるのです。
このように現代は、小さな権力闘争の場であって、むじんくんのいう大きな黒幕という
とらえ方では見えません。そしてこの小さな権力闘争の場の成立は、物質的な
豊かさが前提にしないと考えられません。
ジャングル化する社会とはそのような意味であり、サバイバルのそのように考えないと
いけません。
>>903 > 精神的な充足を規定する経済的構造に黒幕はいるか、どうかでしょ(笑)
困った人ですねぇ(笑)。そういう意識面での問題じゃないわけですよ。
フーコーの話なんかは僕は面白いと思うんですけど、やはりそれは上部構造の
話なんです。系譜学的な記述は意味あると思うし、凄く面白いとも思いますけどね。
例に出しているマックの椅子の話なんかも、そうやる理由は都市化しているからであり、
人々に内面的抑圧が不可能になってきているからですが、そもそもそれは資本主義的
生産様式の上に私有財産制が機能しているから必然的に発生するわけです。
内面の管理→身体の管理、はい終わり。では説明にならないわけで、そうせざるを得ない
社会というものを考えなければならない。
テクノロジーの変異というのは、当然社会の物質的基盤として考慮すべきですが、
しかし一方で全く変わらず鉄の意志で動き続けている構造がある。経済的下部構造
とはそういうものですね。見た目がいかに変わろうとも、資本主義社会は資本主義社会です。
905 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 12:31:14
>内面の管理→身体の管理、はい終わり。では説明にならないわけで、そうせざるを得ない
>社会というものを考えなければならない。
「そうせざるを得ない」という言葉にあるのは「意志」ですね。
すでに脱構築(内破)されていませんか。
政府でもよいですが、「大いなる意志」でコントロールできるうちはまだ良いのです。
ボクがジャングル化する社会でいっているのは、勝ち組、負け組がでるだろうが、
底にあるのは、小さな権力闘争の、「意志」なき創発性というジャングルだ、といっているのです。
906 :
考える名無しさん:2006/02/10(金) 13:10:11
ほう、これはたいした才能だ
907 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 13:19:01
東もリトルブラザーと小さな権力といちながら、セカイの
下部構造としての大きな環境管理権力から抜け切れていないように思います。
すなわち闘争でなく静的な構造物とみています
>>905 > 「そうせざるを得ない」という言葉にあるのは「意志」ですね。
意志という言葉をどういう意味で使っているのか分かりませんが、借金返済のために何かをするのと
同じってことですよ。例えばマックが借金していて、それを返済しなければならないので、顧客の回転を
早くしたいと考えたときに、椅子を硬くするという方法などがある。これが小さな村であれば、そうしなくても
構わないかも知れないが、都市部ではそうするしかない。そして、裏側で働いている借金返済という動機は
同じなのです。
M.ウェーバーがどこかで書いてたと思いますが、資本主義社会が浸透するときに
見られることは、借金をさせるということなんですね。これがかなり難しい。だから、
植民地ではまず、借金せざるを得ないように現地の生産関係をズタズタにするのです。
貨幣を欲しがるようにしなければならない。
911 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 15:25:28
追い込まれてきましたか。
ボクは資本関係が作動していることも、経済的勝ち負けがさらに広がることも否定していませんよ。
勝つものが勝つ、負けるものが負けるのでなく不確実になる。だから単純なブル/プロレの静構造はない。
さらに混沌とするのは、確かに経済ゲームはベタにわかりやすいゲームだから、「エリートの知」ゲームとして残るが
経済的勝者が勝者だという幸せさえ混沌とする。
それがジャングル化社会です。
再度まとめてむじんくんの立ち位置を明確にしてください。
912 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 16:03:29
このような混沌をいかに生き抜くか、単に豊かではだめで「生き生き」しなければならない。
その方法を3つの知として示したのです。
>>911 > 追い込まれてきましたか。
どうも僕を古典的な左翼活動家と見做したいようだけど、それは全く違いますよ。経済的勝ち負けゲームと
いうのはそれは人々の意識に上がってきているものですが、そのレベルではなくて、勝ち負けゲームを意識的に
しようとしまいと、資本の運動下にあることは変わらないということなのです。
仮に善意の経営者がいようとも、大企業が倒産しようとも、資本の支配とそこに従属する労働者という構造は
変わらず、そこでは必然的に搾取が行われるのです。その構造を見ようということですよ、僕の立場は。
ピカ氏のは、そんな構造知るか、感覚的に生き生きしてればそれでOKだろう、そういう発想なのです。それは
修行すれば外界の問題は解消することが可能だという精神論だということです。そこに反対なわけ。
914 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/10(金) 18:51:36
>>913 追い込まれてきましたね。
さすがにマルクスを見方につけたところが勝因でしょうかね。
>ピカ氏のは、そんな構造知るか、感覚的に生き生きしてればそれでOKだろう、そういう発想なのです。それは
>修行すれば外界の問題は解消することが可能だという精神論だということです。そこに反対なわけ。
話にならないですね。
>資本の支配とそこに従属する労働者という構造は
>変わらず、そこでは必然的に搾取が行われるのです。
これも議論のポイントがずれていると思うのです。
では資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのです。
むじんくんの立ち位置は、ブル/プロレの静構造があるという、
古典的な左翼活動家でいいと思いますが。
自分と同等か、それ以上のものを好敵手とせよ!
>>914 ちょっと今酔っ払っているので変な感じかも知れませんが、頑張って書いてみますか(笑)。
> これも議論のポイントがずれていると思うのです。
> では資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのです。
誰かというのは問題になりませんね。植民地論を考えるべきなのですよ。そこで何が行われたか、なぜ
それが必要だったか。そして、その本質的な部分は先進国も変わりなく続いているのです。ヨーロッパとは、
世界で始めて植民地となった場所なのです。
> 古典的な左翼活動家でいいと思いますが。
ブルジョアジーはいます。しかし、それは具体的な特定の人間を指すのではない。
ピカ氏の思考が精神論ではないというのはどうしてなの?外の構造が何だろうと、哲学すれば開放されるという
のがピカ氏の思想なんでしょ?経済的下部構造に無関心な精神、現実の世界に対して無関心な精神をつくろう
というのがピカ哲学です。
ピカ思想は自己啓発セミナーに近くないですか?
918 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 00:36:01
植民地とは、資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのですね。
>ピカ氏の思考が精神論ではないというのはどうしてなの?
まったく理解できていないのですよ。
>>918 > 植民地とは、資本とは誰で、労働者とは誰か、ということが問題なのですね。
違います。いかにして現地の人間の生活を賃労働に転落させるか、いかにして借金させるか、
いかにして分業をさせるか。
> >ピカ氏の思考が精神論ではないというのはどうしてなの?
> まったく理解できていないのですよ。
結構理解していると自負してますよ(笑)。自分の知っている人に逮捕された自己啓発セミナー幹部がいますが、
その人が言っていることとそっくりですよ。彼ら自己啓発軍団はエリートでもなければフリーターでもない、生き生き
哲学を持ってます。
920 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 00:43:12
>>919 酔っぱらっているのですか?いつももボケボケなのでわからない(笑)
誰と誰かは、来訪者と現地の人間でしょう。自分で書いてますよ。
むじんくんはいつもすべて自負しいるのですよ。
自負していないことをから始めないと、いつまで立っても
他者の声は聞こえませんよ。
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
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生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
>>920 > 酔っぱらっているのですか?いつももボケボケなのでわからない(笑)
そんなことありません。今はちょっと調子悪いかもね(笑)。
> 誰と誰かは、来訪者と現地の人間でしょう。自分で書いてますよ。
来訪者を突き動かしている構造があります。現地人は来訪者によって玉突きのように
動かされました。その運動はイスラム社会などで今も続いてます。
> 自負していないことをから始めないと、いつまで立っても
> 他者の声は聞こえませんよ。
自己啓発セミナと同じっていうのはどうですか?彼らの主張との違いがありますか?
923 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 01:11:11
自己啓発セミナとは、規律訓練権力の一種ですね。
「心」に空にして、一気にそこに、イデオロギー的なものを
つっこむ。
たとえばオウムの洗脳では、個室に詰め込んで、宙づりにする。
パプティコンでは見えないが、見られる状態におく。
なににおいては、ボクの「生き生き哲学(笑)」が
自己啓発セミナ的なのでしょうか?
924 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 01:14:21
ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。
むじんくんの自負によって他者の声を聞かないボケボケを、
「そんなので哲学やる気があるのか!」と責めるのではなく、
それでむじんくんは「生き生き」している、それでいいのですよと、
許すことなのです。
925 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/02/11(土) 01:17:50
これは、逆にいえば、むじんくんの正論的な否定を、
その否定そのものが、むくんじんを「生き生き」している、
と脱構築(内破)し、そして許すのです。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 00:38:26
>たとえば、その「小さな権力闘争」に出口はありますか?どうやって抜け出すの。
なにを求めているのでしょう。ポストモダン思想をまったく理解してないわけですね。
これは宗教家への問いでしょう。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 01:14:21
ボクの「生き生き哲学(笑)」の基本は、「現状を肯定すること」なのです。
むじんくんの自負によって他者の声を聞かないボケボケを、
「そんなので哲学やる気があるのか!」と責めるのではなく、
それでむじんくんは「生き生き」している、それでいいのですよと、
許すことなのです。
名前: ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 投稿日: 2006/02/11(土) 01:17:50
これは、逆にいえば、むじんくんの正論的な否定を、
その否定そのものが、むくんじんを「生き生き」している、
と脱構築(内破)し、そして許すのです。
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)生き生き哲学(笑)
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