純粋理性批判に限り、各人が本書に興味がある箇所を論じるスレッドが欲しかったので
立ててみました。本書の見所を思う存分に書きこんでみてください。
>>1 乙
別スレで『純粋理性批判』やってる人たちを誘導せんとな。
判断における悟性の論理的機能について<95〜>
〜(三)判断における思惟の関係は、全てで次の三通りだけである、
即ちー(a)述語の主語に対する関係、(b)理由の帰結に対する関係、
(c)区分された認識と区分によって生じた全ての選言肢相互との関係である。
第一の判断様式では二個の概念だけが考察され、第二の判断様式では判断が考察され、
第三の判断様式では二個以上の判断の対立関係が考察される。『もし完全な正義がある
ならば、不逞な悪人は処罰される』という仮言的判断は、元来二つの命題『完全な正義
がある』と、『不逞な悪人は処罰される』との関係を含んでいる。しかしこの両命題が
それぞれそれ自体真であるか否かは、ここではまだ決定されない。この判断によって考
えられるのは帰結だけである。次に選言判断は、二個もしくはそれ以上の命題の対立関
係を含むが、しかしこれらの命題は、理由と帰結との関係ではなくて論理的対立の関係
であり、従っていずれか一つの命題の範囲は他の命題の範囲を排除するが、しかしそれ
と同時にまた全ての命題は相互関係をなし、これらの命題が相集まって元来の認識の全
範囲を充足するのである。それだから選言的判断は、一つの認識の全範囲を形成する全
ての部分相互の関係を含み、各部分の範囲は区分された認識の全体に関して、それぞれ
他の部分の範囲を補足するわけである。〜続く
判断における悟性の論理的機能について<95〜>
続く〜
例えば『世界は盲目的偶然によって存在するか、さもなければ内的必然性によって存在
するか、さもなければ外的原因によって存在するか』という命題について言えば、この命
題に含まれている三個の命題は、世界の存在一般に関する可能的認識の全範囲の一部分ず
つをそれぞれ占めると同時に、またこの三個の命題が相集まって全範囲を形成するのであ
る。これらの範囲の一つから、その範囲を占めている認識を取り除く事は、この範囲を残
りの二範囲のどれか一つに入れる事を意味する。これに反して二つの範囲を残りの一つの
範囲に入れる事は、これらの二範囲から、それぞれの範囲を占めているところの認識を取
り除く事を意味するわけである。それだから選言的判断は、二つ以上の認識の間の或る相
互関係を含んでいる、そしてこの相互関係は、これらの認識が相互に排除し合いながら、
しかも全体として真実な認識を規定する事によって成立するのである。従ってこれらの認
識を総計すれば、与えられた一つの認識の全内容を形成する事になる。〜
>>3 判断は主語が述語に包摂されるという形式をとるわけだ。その判断の関係について
論じているこの箇所が刺激的だ。主語と述語のとり得る形態を全部で三種類である
と言明しているところがすごい。物事を推理する場合やある概念に含まれないもの
を何であるかを考えるときにこれらの三通りの関係考察することにより、関係とい
うものを考えているのだと解釈した。
つまり、対象をどうしたいのか、という事を考えるとする。それを関係において考
えるならば、一つは、〜であるという事(述語)が目的である対象(主語)の性質
だと考えている。二つは、一方が原因となり他方に帰結して影響を与えている。
三つは、あるところに幾つかのものがあるのだが、それらが全部でどうなってるの
という事を考えている。これらが何かを判断するというときに、人間の意識に現れ
る概念の状態を関係として表示したものというのだ。自分がどうしたの、と考える
ならば、判断を何かしらの状態にしなければならないならば、このような意識の状
態になることを、全てでこの三通りであると言い切る度胸に仰天させられた。
>>3 判断の関係において、「〜なら、〜である」という条件があるとしよう。
このような条件を仮言という。
しばしば、仮定とか、空想話とか、絵空事とか、たら話とか言われるやつ
がこの関係を含んだ仮言であると現在に理解している。
「しかし、この両命題がそれぞれそれ自体真であるか否かは、ここではまだ
決定されない。この判断によって考えられるのは帰結だけである。」
これが本当であるならば、仮言というものは結論のみを話題にしたいのだ、
という事になるだろうか。その仮定全体を含んで、空想だというのではなく、
結論される対象がどうであるかを話題にしたいのである。だから、仮定話が
ありえないというのは、前提にされるような述語が無い、或いは主語が無い
という事が言いたい事であり、その判断全体が嘘だといいたいのだ。そうで
ないならば、あなた自体が侮られているか、相手の頭が悪いか、何かしらの
理由があるのだろうと想像させられて、この部分は読み応えがある。
「選言は二個もしくはそれ以上の命題の対立関係を含むが、しかしこれらの命題は、
理由と帰結との関係ではなくて論理的対立の関係であり、従っていずれか一つの命題
の範囲は他の命題の範囲を排除するが、しかしそれと同時にまた全ての命題は相互関
係をなし、これらの命題が相集まって元来の認識の全範囲を充足するのである。」
選言状態というのは一方の範囲が他の範囲を排除するというものである。
そして、同時に全てが全範囲を成している。これを選言状態と言い換えていいだろうか。
これを最上段におくならば、一方の範囲を否定することは選言状態を否定することになる。
つまり、判断してはならない判断であるという所がすごい。ビックリ仰天。
定言関係は述語の主語に対する関係である。だが、その主語がいったいどこから来たものなの、
という事において、対象というもの自体を絶対判らないというされるからすごい。
つまり、自分の中から生まれたものを自分の中で解釈して、あれこれ判断しているという事になる。
はじめに判断しているものだけをどうやって考えられるのかという事が解明されない限り、あなたの
言っていることは、お前の勝手な考えだろと言われかねないところがすごい。
9 :
考える名無しさん:05/02/19 16:11:59
お前の勝手な考えだろ
勝手な考えだろうか。何ゆえに、カントのこの著書が体系的であるのかというは判断から始めているからだ、
と理解している。ただ、直接に対象と関係するという事は自分以外のものが自己の内部に入ってくるという事だ。
つまり、入る前のものは自分の中に無い。考えるという事は自分の中にあるものを思考するものだ。これらを考慮
するならば、自分の入る前の対象を思惟するものではない、という事が考えられるだろう。
自己の内部にあるものから、様々な思考が行われる。
11 :
考える名無しさん:05/02/19 16:38:15
こういうのを、重複スレッドと呼びます
12 :
考える名無しさん:05/02/19 16:43:01
精読と言い切る度胸に仰天させられた。
>>12 総合スレッドと呼びたまえ、個々のスレッド達よ
こないだまでカントスレなんて
あるか無いかってなもんだったのに、
なんでいきなり乱立し始めたんだ?
密かなブームでも始まったのか?w
16 :
考える名無しさん:05/02/19 19:45:10
ヘーゲルなんかよりカントのほうが取っ付き易いじゃん、
それに、あんな観念の大伽藍をでっち上げたわけでもないしよ。
関係:(a)述語の主語に対する関係、は二つの使用法があるように思われる。
@このようなもの(主語として関係する)はどこかにないかな(述語として関係する)。
Aこのようなもの(述語として関係する)はどれかな(対象として探される)。
一、対象というものが、詳細でないものの、既に何かしらわかっている。その対象が何であるのか、どうしたいのか、
というような述語に相当する部分の関係が理解できない。
二、どのようなものにしようか、という事は或る程度理解がある。だが、それがどれか理解できない。
つまり、述語が何か判らない、又は対象がどこに存在するか判らない。
しかも、そもそも対象からどうやって考える材料を調達するのかも良くわからない。
ひょっとして自分の中だけで考えているだけのものだったり、目の前の対象を知る取りかかりが良くわからない。
これらは判断というような事をしたいが為に生じる困惑であると解釈している。
最初は空間と時間が述語とされることにより、対象がそもそもこのようなものとしてあるのだ、という事が自分の
中に与えられるというという所が見所だ。
18 :
考える名無しさん:05/02/20 00:48:40
おれもこれから純粋理性批判を読もうと思うけど、最初からやろうよ。
むしろ『プロレゴメナ』を読みたいんだが。
やっぱり自分の見所を記述すると楽しいのでそこから入るといいようだ、
或いは違う所から繋げてみたりするとそれは楽しい。関係の部位などはいろいろと参考になる。
>>18最初がいいならその初めの見所を書いて欲しい。可能な限り批判させてもらう。
>>19ここではご遠慮。
>>15 脳は物質だから意識はなんたらというスレで
カントがどうたら言われてたから
ぴかぁ〜が興味持っただけ。
哲板で特定のスレタイが増える時は
ぴかぁ〜がそれに興味持った時
22 :
考える名無しさん:05/02/20 03:03:03
純粋理性批判って、ボケ老人の戯言でしょ?
>>22 ボケ老人の戯言は『人倫の形而上学』。
『基礎付け』は名著なのに・・・
>>23 >ボケ老人の戯言は『人倫の形而上学』
なして? これも名著だろう。
>>24 もう死ぬ直前でボケてて第一版の錯簡すら気付けなかったということは有名な話。
26 :
考える名無しさん:05/02/20 14:47:44
その話はオレも聞いたがな。
だからといって「人倫の形而上学」が駄目だってことにはならんだろ
>>27 いやまあ、そうなんだけどね。『法論』の難渋さは愚痴りたくもなる。
もともとは
>>22が『第一批判』を老人が書いたと思い込んでるのを笑いたかっただけなんだけどね。
29 :
299:05/02/20 21:38:22
207 名前:考える名無しさん :05/02/17 23:14:53
>>204 カント的に、相対性理論ってどうなるんだろうね。
認識のアプリオリな形式は、あくまでユークリッド的な3次元の空間と、1次元の時間なわけで、
それは相対性理論があろうとなかろうと、変らない。
(物理学者を含む我々自身が日常、そのような空間を感じつつ生きている、という意味で)
そうするとカントにあっては、「我々にとって根源的」なアプリオリなユークリッド空間と、
「自然科学上根源的」な4次元の擬リーマン空間との双方が並立されなくてはならなくなる。
しかしこの後者についての知識(つまり、相対性理論の知識だが)の客観性は、正しく保証され得るのだろうか。
カントに詳しい人、誰か教えてくれ
↑これについて、別のスレでは
「カント哲学で相対性理論を考えるのは難しい」という結論だったようだが、
それでいいのか?
カントがもし生きていたら、何と言うか知らん
双曲線幾何学においては「三角形の内角の和は180度を下回る」。
球面幾何学においては「三角形の内角の和は180度を上回る」。
そんな三角形は想像しづらい。
ユークリッドが示した公理のうち、「平行線の公理」を否定しても、
幾何学は矛盾のない世界を証明出来る、というだけの話。
人間の直観形式としての空間が否定されるほどのものではないと思う。
また、時間を直観形式と見なしていた人と、時間の実在性を確信していた人を比べると、
前者の方が相対性理論による時間の伸び縮みに対する理解はたやすいような気がする。
楕円幾何の三角形は赤道と2本の経線で作る三角形を考えたら良い。
東京とカリフォルニアと北極みたいな。
カントの主張は「否定され」てるんじゃなくて、「素朴すぎる」んだと思う。
そういう考え方も間違っちゃ無いけど、いまやもっと実際にあう考え方は
ある、と。
素粒子の存在とか分かってきてるのに、いまだに「万物は不可分な原子で出来てる!」
って主張してるみたいな。
内容は素朴なくせに、説明が下手なためやたら難しそうに見える。
34 :
考える名無しさん:05/02/21 12:29:44
初心者が初めて読むのに、
翻訳は、わかりやすさから、宇都宮訳で
間違いありませんか。
35 :
考える名無しさん:05/02/21 12:42:31
> 人間の直観形式としての空間が否定されるほどのものではないと思う。
日常生活で人間が自分の周りの空間を認識するおそらく生得的な形式が、
そのまま物理学のアプリオリな部分になる、とカントは考えてたんじゃ
ないの? そしてそれは間違っていたってことじゃない?
>>32 素朴だろうか。感覚器官から人間の意識に与えられるものを概念が判断して、
それらを更に判断して、純粋な事柄が纏める事ができる、というように他者に
提示した点で功績があると思う。定言であるとしても、主語に拘束され述語を
さらに主語として扱い、他の述語で判断するという事が普通の状態だと殆ど
できないか、全くできない。これができると世界の見識が広がったと思うよう
だけど、単にこれが出来ただけのように思われる。
そのような意識の状態をカテゴリーで纏めて提示するのは難しい作業だと思われる。
この証明の仕方は参考になるんじゃないのかな。
38 :
考える名無しさん:05/02/21 13:34:13
だけんど、宇都宮訳って高けーぞ。
39 :
考える名無しさん:05/02/21 14:56:21
図書館さいくだー。
40 :
考える名無しさん:05/02/21 14:57:52
ホームレスお断り
41 :
考える名無しさん:05/02/21 21:13:56
宇都宮訳買ってきたべさ。
おもかー。
>>31 まさに球面上の三角形ですが、それも三角形なのですか?
でも、球面をイメージすると確かに、有限な直線しか引けませんね。
平行線も引けない。なるほど。
>>35 最短距離を走るはずの光が曲がって見えるから、
「空間は曲がっている」といえるのであって、
直観形式としての空間があってこその話だと思うのですが。
だから私としては、「否定されるほどのものではない」と思ったのです。
>>42 「平行線も引けない」というのは早とちりかも知れない。
逆に相対性理論がカントの正しさを証明してると考える人もいたはず。
>>42 形而上学スレでもそういう見解だったはず。
直観形式の意味が分からないひとが駄々こねてただけ。
46 :
考える名無しさん:05/02/22 00:31:34
原子が陽子と中性子と電子に、陽子と中性子がクォークに分割できようとも、「万物はそれ以上の分割が不可能な粒子より構成される」という考え方の反証にはなっていない。
相対性理論における時空の捉え方が非ユークリッド的であっても、非ユークリッド幾何学がユークリッド幾何学に依拠して解されるものである以上、直観の形式をユークリッド的としておくことには何の問題もない。
47 :
考える名無しさん:05/02/22 00:38:20
>非ユークリッド幾何学がユークリッド幾何学に依拠して解されるものである
はあ?
>>45 >直観形式の意味が分からないひとが駄々こねてただけ。
感性の形式の人はまた別の話だろ。
49 :
考える名無しさん:05/02/22 00:53:03
>>47 俺は46じゃないが。前半は同意できるの?
46の後半を好意的に解釈すると、
公理から演繹して作り上げる体系という意味ではどの幾何学も同じ構造。
どの公理を採択するかで違ってくるだけだが、どのような公理を採択するにせよ
そもそもの空間という直観形式が人間の側になければならない。
ということかな。
51 :
考える名無しさん:05/02/22 20:56:08
直観が非ユークリッド的であるような人を私は想像できないけれども、そのような人がいないとは限らない。
無論、数式を介すれば、非ユークリッド的な操作を行うことはできるだろう。
けれども、そのような操作をしながらも、それがどういうものなのかということを解そうとするとき、
私はそれをユークリッド的なものに翻訳して把握するのではないか。
52 :
考える名無しさん:05/02/22 21:50:20
空間の直感形式ってそもそもユークリッド的なのか?
0) 経験的・日常的なの空間
1) イデアとしての空間
2) 公理から見出される空間
空間を哲学的に考えるということは、上の三つに分かれる気がする。
数学においては学問の性質上、基本的には(2)しか問わない。
哲学は0と1をよく混同してるように見える。
でも哲学の分野でユークリッド空間といっても、
本当は(2)の結果としてそれがあるんだろうけど。
哲学においては、イデアとしての空間というのがなんなのかが
問題なのに、数学の議論に踏み込みたくないことや、
経験科学のような泥臭いこともマンドクサかったりして、
なんかあいまいな議論に終わることが殆ど。
まあ数学者に言わせれば数覚によって認識できる空間こそがイデアなんだろうな。
平行線が遠くで交わるような遠近法の絵をリアルに感じるという点を考えれば、
確かに厳密にはユークリッド的ではないかも知れないね。
真の直観形式は遠近法的変形ユークリッド(+やや魚眼レンズ的)空間?
うーん。
>>52 純粋理性批判において、区分は二分法で行われている。それらがどのように二分して区別できるかを表示する
とどうなるかだ。
人間の対象を受け取る能力は感性と悟性とされている。従って、対象は感性を介して我々の意識に与えられる。
むしろ、感性だけが直観を我々に与えてくれるのである。対象は感性を介して我々に与えられるにしても、悟性
において概念が生じるのである。思惟は直観に関係したり、表面に現れる印を介して間接に関係したりする。従
って、対象は感性を介する以外に意識に与えられる道があり得ないので、先ず思惟は感性に関係するものと考え
られる。
純粋理性批判に限り、感性的と悟性的において、数学的なものがどこで考えられるのかだ。
思惟するものは悟性に属する物である。対象を受け取るものは感性に属するものである。
受け取るだけでは見てない、思惟だけで考えているものは単なる可能性だ、
感性に属する感官はユークリッド的なものだと考えられる。何故なら、正面から見ていて、
背面から見るということが同時にできない。それができるならば、単なる可能性に由来するもの
だということだろうか。従って、そのような事を強いているのは同時で表現されるような時間や
別の所を見ることができない事を強いる空間という制約である、このように現在解釈している。
批判になっただろうか。数学とは何だ?
>>54 カントが純粋理性批判の中で、数学とは公理つまり前提から始まる学問だと
断言してしまってる個所があって失望しました。それならプラトンやアリストテレスが
数や幾何的対象の前に思い悩んだ、重要な問題がごっそりと抜け落ちてしまう
(いや、俺だけが重要だと思ってるだけということは言えるかもしれませんが・・・)。
カントの理性の能力を制限するべきという主張に従うと、イデアはもちろんのこと
数学的対象についても依然として謎のままになることになります。
>>55 前提という事は多義的に解釈できると思われます。
数学が前提から始まる学問である。そして、その前提は公理である、というものは
どこに書いてあったのでしょうか。記憶している限りでは、数学は直観から始まる
ものとして考えられていたと思われます。
何がプラトンやアリストテレスが思い悩んだ事なのでしょう。
数学的対象は直観に起源があるものとされているようです。
57 :
考える名無しさん:05/02/23 20:34:52
>>52 >空間の直感形式ってそもそもユークリッド的なのか?
直観の形式が空間であり、その空間がユークリッド的だという話であって、空間の直感形式というのはわけがわからない。
自らに由来するものでないならば、どうしていいのか分からなくなるだろう。
だから、自由でなければ駄目なのだ。そして、伝統は形式しか教えてくれないからだ。
その中でどうであるかを保障するものではない。
坐禅と見性 第十四章
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1108144172/ 一粒の芥子、よく須弥山(しゅみせん)を隠す。
一掬(きく)の水の中に人魚たちが心ゆくまで踊る。
私は終日汝に相対していて、劫初以来会った事がない。
看よ、東山全嶺が水上を歩いている。
エックハルトの乞食の挨拶 「[朝な朝な好(よ)き朝です」。 雲門 「日々是好日」
扇を扇と呼ぶな、鋤(すき)を鋤と呼ぶな。
昨日は痛かったが、今日は痛くない。 さっきは泣きわめいたが、今は笑っている。
腹が減れば食い、疲れれば眠る。
雪がすべての山を白く覆うている時、なにゆえにあるひとつの山は覆われずにあるのか。
清浄の行者、涅槃に入らず、破戒の比丘、地獄に堕ちず。
我の知っている事を汝は知らず、汝の知っている事を我はことごとく知る。
大力の人がどうして彼の両脚を挙げることができないのか。
柱が毎日動き回っているのに、どうして私は動かないのか。
わたしは釈迦の出現以前からさとりの状態にある。 光あれと命ずる以前の神と共にあれ。
60 :
考える名無しさん:05/02/28 15:16:40
>>55 ん?数学は総合的判断でしょ
アリストテレスは該当する箇所が思いつかないが
プラトン「パイドン」中盤の数学論と、純理の数学は直観から始まる云々は
むしろ両者に同じ問題が意識されていると思うが
>数学が前提から始まる学問である。そして、その前提は公理である、というものは
>どこに書いてあったのでしょうか。
同じく
61 :
考える名無しさん:05/03/01 23:13:44
精読スレッドなんだから、宇都宮訳、篠田訳、高峯訳、原訳を原書と照らし合わせながら比較検討するとか誰かやらねーの?
62 :
考える名無しさん:05/03/02 00:29:02
ドイツ語読める奴いないんだから
しょうがないだろ
63 :
考える名無しさん:05/03/02 00:46:34
Die menschliche Vernunft hat das besondere Schicksal in einer Gattung ihrer Erkenntnisse:
広島大学文学部編入学試験(第3年次)・西洋哲学分野
第3問 次の文章を読み、下の問いに答えよ。(辞書使用可)
Die menschliche Vernunft hat das besondere Schicksal in einer Gattung ihrer
Erkenntnisse : dass sie durch Fragen belaestigt wird, die sie nicht abweisen kann ;
denn sie sind ihr durch die Natur der Vernunft selbst aufgegeben, die sie aber auch
nicht beantworten kann ; denn sie uebersteigen alles Vermoegen der menschlichen Vernunft.
問1 上の文章の作者は誰か。
問2 上の全文を和訳せよ。(その際、代名詞も正確に訳出すること。)
>>64 Die menschliche Vernunft hat das besondere Schicksal in einer Gattung ihrer
Erkenntnisse : dass sie durch Fragen belaestigt wird, die sie nicht abweisen kann ;
denn sie sind ihr durch die Natur der Vernunft selbst aufgegeben, die sie aber auch
nicht beantworten kann ; denn sie uebersteigen alles Vermoegen der menschlichen Vernunft.
わたくしの分別たるや、わたくし達が或る種の事柄を見分ける事の中には、何たる運命の備えている
のかしら。:だってそうでしょ、分別する事ときたら悩ましい疑問を通り抜けるものだし、わたくし
は避けてこれないの。:何故なら、分別自体に課せられたみなさんの本性なのですから、本当に、実
際に、分別ときたら答えられてこなかったのです。:だって、それは全ての人々ができる人間の理性
的なものを通り越してしまっているのです。
66 :
考える名無しさん:05/03/02 23:05:46
なぜか今手元に宇都宮訳、篠田訳、高峯訳、原訳と、ドイツ語できないのに哲学文庫版の原書があるのだが。
カテゴリー演繹について、客観的に妥当するという事に関係する
部分について。実在論とされるものは、対象自体の性質が自己の
意識の中にある性質が同一という事が言えるだろう。
従って、自己の認識は対象そのものの性質というような結論となる。
では、認識は何を捉えているのかという事が疑問として挙げられる。
対象が感性に与えられるという事で認識が成立しているとされている。
このように言い換えても良いだろうか、我々は対象からある種の条件を与えられる
というように考える事ができるだろう。つまり、そうでないならば、対象ではない
という事になるだろう。対象が別のようなものなら、対象はどうなるのだろうか。
もはや、対象ではないのか。では、自分の認識と対象は一体どちらが正しいのか。
我々は対象の何を意識に与えられる事で、意識の中にある何が対象としているのか。
68 :
考える名無しさん:05/03/03 23:04:59
感性を介して関わるものが対象であるが、対象それ自体については知ることができない(そもそも「対象それ自体について知る」とは如何なる事態なのか?)。
認識とは対象との関係のうちにあり、認識と対象はどちらが正しいのかという問いはナンセンスである。
では、一般的概念の起源はどこにあるのか。
対象の表面に現れる印から概念の纏まり方まで感性の形式に従っている
というのは理解できる部分だろう。すると、誤認するという事がある。
これは自分の持分から概念を引き出したからと考えられないだろうか。
経験の範囲を超出するにしても、経験できるもの以上を我々は考えては
ならないのだろうか。それを禁止する事は何かだ。対象と主体を含む
感性の形式か。感性の形式の事のみが答えを与えてくれるという事になる。
すると、人間にできる事は超出する事くらいしか残されていないという事になるだろう。
70 :
考える名無しさん:05/03/04 01:18:51
何かについて語る。
そこで語られているのはその何かそれ自体ではない。
どんな語りも語られる対象それ自体ではない。
語りとそれにより語られているものはどちらが正しいのか――そう問いを立ててみる。
しかしそのとき私は「正しい」と言うことで一体何を意味しようとしているのか。
71 :
考える名無しさん:05/03/04 14:22:29
Norman Kemp Smith についての詳細希望(;;)
72 :
考える名無しさん:05/03/05 03:48:17
-130-
〜一般的に結合であるならば、それは悟性の作用である。〜
〜一般的な名称として、我々はこのような悟性作用を総合としたい。そうであるならば、
同時に次の事がはっきりするからである。つまり、我々が前もって結合しておいたもので
なければ、我々はこれを客観において結合されていると考える事はできない。〜
結合は一方と他方が一つになるという事である。そして、その結合に総合という名称を
与えるという試みが特殊な試みであるように思われる。何故なら、通常、語の意味を看取
る場合、その語を最大の範囲として扱い、その範囲に何が含まれるかを引き出して考える
からである。そして、その範囲を超えてしまうような意味は制限や否定の語を伴わせると
いう一般的な論理の操作を行い、語の意味を保存するのである。だが、このようなものが
先にある事により可能となるという考え方を採用しているのだろうか、結合という語の範
囲に総合という名称が他のものを含ませるのである。他のものとは統一である。これは判
断に由来するのだろうが、一体、判断が何をもって総合の名称を与えてもよいのかという
事を先に許可していない。何故なら、時間はそのような統一を含んでいないのであり、空
間も同様である。これが悟性の作用であるにしても、述語が総合を含むものであるから言
及できる、という事がこの結合の可能性を考える主な考え方と捉えてしまうのは自分だけ
だろうか。
74 :
考える名無しさん:05/03/08 20:05:03
75 :
考える名無しさん:05/03/11 23:13:02
>>72 いま原書読んでるけど、平凡社ライブラリーの原祐訳が
原文に忠実な日本語だと感じる。
序というものがどうやって成立するのかだ。
主語が述語であるという事を考えるときに、どうしてもこれが疑問となる。
先という事で秩序を構成するという考え方でいいのだろうか。
先にという事が構成しないならば、秩序というものに含まれる事が無いという
事になるのだろう。統覚を含めて、これが演繹論の趣旨でいいだろうか。
77 :
考える名無しさん:05/03/15 18:12:35
まず矛で突いてみよ。
主語は述語というものではない。そして、述語は主語を包摂するという事により
判断が成立するとされる。だが、判断は異なるもので構成されている。これを可
能にする総合というものは時間である。時間において、判断は成立する訳だが、
その文における述語が主語であるというように、包摂関係を交換して結合させる
訳にはいかない訳だ。これは秩序が成立しているのであり、その秩序は時間である。
つまり、序列は時間において考えられるものであり、先にこれがないと後のものが
成立しないとという事になると、判断される訳には行かないのではないか、という事
だ。
この著書において、単に持続するものが秩序であると考えられているのではないようだ。
演繹は、総合というものにおける時間の先験的解明がなされるという事だろうか。
ここらへんの演繹論はどうなんだろう。
ここにおける先というものは、時間全体における秩序や統一であり、現在のその所を去り、これから向かう或
る所というものではないようだ。つまり、未来について考えるならば、現在が先験的という把握になるのだろ
うか。
宇宙哲学だとどうなるんだろ、太陽信仰とかになるのかね。
82 :
考える名無しさん:05/03/15 19:25:35
>>81 人類の故郷である、光年の彼方にある、
あの地球への信仰が生まれます。
83 :
考える名無しさん:05/03/16 14:43:48
簡単なことよ。
先ず煙りで燻し出してみるのさ。
84 :
考える名無しさん:05/03/16 19:55:53
えッ、それって何よ?
つながってねーじゃんかよ。
多様な表面に現れる印象を一つに纏め上げたものは対象を表す事柄になるのか。
>>ゲルニカさん
このようにして経験せよ、しからば、その経験はこのようなものである。
従って、このようなもの以外ではあり得ないのである。
87 :
考える名無しさん:05/03/19 17:29:16
先っぽで燻し出せ!
88 :
考える名無しさん:2005/03/21(月) 14:07:21
で、出来上がった燻製で一杯と。
コペルニクスの前に中心を決める能力はどこにあるのかだ
90 :
考える名無しさん:2005/03/27(日) 20:51:59
>>89 どこにもない
カントのコペルニクス的転回というのは
地動説も天動説も成り立つという事だと思う
おそらく、中心というものは既にあるのであり、そのようなものとして纏まりをみせている中心があるのだ。
従って、中心というものは先験的に説明されるんだろう。だが、必ずしも、自己の適用は必要ではない事がある。
例えば、その場所の慣習は本来このように考えられるものでも、そのように行うものなのだ。
そんなものは経験しないと判らないであり、中心が替わると認識が複雑になるだろう。
92 :
考える名無しさん:2005/03/27(日) 21:04:50
どからどこまでで考えるかに帰結するのだろうか。それに従い、中心が決まってくる
のだろうか。感性に関係しない悟性のみにおいて、「・・・・・」というような像は
多数として把握されるものであると考えられるのだろうか。多数だけでは単なる概念
の纏まりを示すだけで精々になるのではないだろうか。あなたどう思うの?
94 :
考える名無しさん:2005/03/27(日) 23:22:08
う〜ん、中心が多数あるってのは中心がないのと同じでしょ?
それって宇宙じゃないですか
嘘は否定に対して真になるものである。
これは困難な状況を解決するために採用できる方法であるのか。
96 :
考える名無しさん:2005/03/31(木) 04:36:46
平凡社ライブラリー版はいつ完結するの?
一般論理学において、偽を否定すると真になるというのは奇妙さが拭いきれない。
偽ではないが別の本物であるというものが存在するからだ。
つまり、全く真である事が認められるが、別のものであり、限定された特定のものではない。
そのような限定された特定のものを考えているのであれば、偽を否定されたとしても、真であ
るとは限らないのである。偽の否定は真でもある、という事だ。
数学は料理で例えたらツナギの卵や片栗粉で、感性の形式は水槽あたりが適当か。
そして、水槽がどこにあるのか、と聞いたらば、玄関の下駄箱の上に置いてある
訳で、空中に浮かんでる訳じゃねえんだよ。中の水がこぼれない様に、水槽はその
あり方をしているんだよ。
物体が重力を具えているというならば、他のものもそうでなければならないのか。
すると、他のものを引き寄せる事になる宇宙の中心というようなものがあるか、
この宇宙を全く含んでない他のものがあるという事になるのだろう。
この宇宙を全く含んでいないのに、どうしてこの宇宙を全く含んでいない他のもの
が影響を与えているように考えられるのかだ。一方的に、及ぼすという対象を考え
る訳であり、それを統一や纏まりと人間は考えるのだろう。
100 :
ローカルルール審議中:2005/04/09(土) 08:14:07
よくカント入門などの本でカントの神学的な部分を「まだキリスト教の尾を引いて居る」などと単純に切って捨てて居る傾向がこういうカント解釈こそ問題では無かろうか
恐らくこういう読みをするのは自覚あるなしに関わらずマルキシズムの影響下でのカント解釈を踏襲しており、これではカントはわからんのではないかと思う
覚知の総合は直観の多様から構想力において行われる。
直観における多様なものから直観の統一が生じるためにはこの多様なものを通観
する事とそのような通観を纏めることが必要である。そのような作用が覚知の総
合である。
知覚は直観、感覚、覚知、思惟、カテゴリー、構想力、空間及び時間、現象、
知覚の対象、経験、度において行われる。
そして、知覚は覚知の総合である。
直線・曲線等はどうやってかんがえているのだろう。
地震直後age
104 :
ローカルルール審議中:2005/04/24(日) 10:42:38
age
時間は感性の形式とされる。時間という概念には過去、現在、未来で考え
る事ができる。感性の形式には、過去、現在、未来があるのだろう。感性
は直観と感覚に区別することができるのか。過去や未来において、感性に
与えられる対象は悟性に起源がなければならないだろう。感覚されるのは
現在だからだ。すると、このようなことがらが先になければならないとい
うことは、時間において考えられている事柄である。感性の形式には時間
というものがあり、時間には過去と現在と未来があるので、思惟の対象は
過去と現在と未来の事柄があるのだろう。それ故に、先験的に考えられる
事柄は過去と現在と未来があると考えられる。それられのどれがあるよう
に、他のものが先になければならないのかである。あるものが先にあるな
らば、どの時間が成立するのかだ。例えば、過去の事柄に限り、現在の事
柄はあるという考え方になる。それ故に、現在の事があるならば、過去に
このような事柄があるという事になるのである。要するに、過去の事柄が
無くとも、現在は成り立つのだ。
106 :
ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 00:20:12 BE:128890188-
ヒント:
時間 ≒ ウロボロス
107 :
ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 18:54:02
直線とは2点間の最短距離の線分であり、曲線とはそれ以外の線分
それは総合的に考えられた判断ではないだろうか。
直線は真直ぐである、線であるというようなことしか含んでない。
あるものが直線であっても、最短の距離という事を含んでいないのではないだろうか。最短であるということは他の事柄において、考えられる必要があるのではないか。それ故に、このような事柄でそうだから、最短と言われるべきではないのだろうか。
109 :
ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:06:17
うーん、ユークリッドによれば、第五公準の問題はあるにしても
感性的には、真直ぐであることが、最短距離であるという論理的なことを含意するのではないでしょうか?
というか、そういうふうに理解している僕が間違っているのかな?
自信ないですけど
110 :
ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:11:17
例えば、アインシュタインの一般相対性理論において
空間が歪んでいるということの意味は、何に対して歪んでいるのかといえば
カント=ニュートン的なユークリッド空間に対して歪んでいるのであって
曲率=0の空間が、カントが思った直感形式としての空間なのだと理解してます
どうして、直線が二点間の最短距離だと考えるのでしょう。線が直
線であるか、曲線であるか、が理解される訳でしょう。線が直線で
あるということを考えずに、最短という事が理解されているのでし
ょうか。最短という事は他の事柄を含んで考えないと考えられない
事ではないでしょうか。そこらへんはどうなの?
112 :
ローカルルール審議中:2005/04/27(水) 19:25:03
直線の定義の問題に帰着すると思うのですが
直線を感覚的に「真直ぐな線」というものだとすれば、よく分からなくなるんです
直線を論理的に「2点間の最短距離」ということで定義すれば
ユークリッド空間か非ユークリッド空間かにかかわらず
論理的には理解できる バカですいませんm
感性は概念により思惟されるとされている。その直線として話を進
めている概念が感性の事柄であるのか、悟性の事柄であるのか、で
はないだろうか。感性であるならば、直線としか判断できないだ
ろう。そして、推理されるものが最短という事になるのではないだ
ろうか。最短というものを直観に与える事はできないだろう。他の
ものに加えて、それが最短であるということがなければならない。
>>112 感覚において「真直ぐな線」であると考える事は、他の感覚から推論する以外に何かあるのだろうか。
つまり、感覚において考えるには、既に真直ぐであると考えられるものと同一であると考えられる。
それ故に、これは真直ぐであると考えるだろう。感覚でも充分に真直ぐであることは判る。
では、何が真直ぐの基準であるのか。真直ぐと考えられるものと言う以外にないのかな。
ただ、例え定義したとしても、曲線であっても、二点間の最短の距離であり得るから、充分とは考
えられないのではなだろうか。これに、二点間の最短の距離という事を付け加える事によって、直
線が最短の距離であると判るようになる。つまり、非常に長い直線というものがあるからだ。
この場合、短い曲線よりも長い直線があるということになるだろう。
最短でなくとも、直線であり得るから、最短は直線の概念を生じさせているものではない。
最短は規則を与えるのがいいところなんじゃないのかな。そうでいなら、同じ距離において
、同じ線を使って、同じ範囲において、云々、直線は最短である、という前提が必要とされ
るようだ。
116 :
考える名無しさん:2005/05/02(月) 01:34:29
精読ワラ
ずれてるか、まあいいや
<:左が右を含む規則を表す記号 ←:左が右を思惟する
認識 = 現象<対象<感性(<直観)←悟性
<:左が右に作用する規則を表す記号
対象<表象<感覚
<:左が右に介して関係する
直観<感覚<対象 = 経験的直観
¬<:左が右を規定するという訳ではない。
経験的直観¬<対象 = 現象
119 :
考える名無しさん:2005/05/08(日) 01:04:48
バカを発見してしまいました。
120 :
考える名無しさん:2005/05/08(日) 01:06:56
,-、 ,.-、
./:::::\ /::::::ヽ
/::::::::::::;ゝ--──-- 、._/::::::::::::::|
/,.-‐''"´ \:::::::::::|
/ ヽ、::::|
/ ヽ|
l l
.| ⌒ |
l , , , ⌒ l
` 、 (__人__丿 、、、 /
`ー 、__ / 第15話にゃお
/`'''ー‐‐──‐‐‐┬'''""´
http://www.freepe.com/ii.cgi?kitanocunika
>>118 >←:左が右を思惟する
←:右が左を思惟する
keep
時間から統一性というものを抜き去ってみるならば、
前後と同時と常住不変性のみであるとされるのだろうが、
時間は平面図の包摂関係が表す範囲になるだろう。
それ故に、時間と考えられるものは時間のみでは考えられない。
時間から統一性を抜き去ってみるならば、時間が範囲として考えられるということは否定できない。
だが、何かを範囲として考えるのは悟性の働きであり、統一性を或る部分から抜き去る、生じるという
ことを考える能力は理性の能力だろう。しかも、どうして範囲がそれ自体のあり方を判断することがで
きるのだろうか。範囲は権利、或は他の事柄との関係が明らかにするのであり、その関係は権利によって
区別されるものだろう。範囲は自身の範囲を設定する能力を含んでいないのであり、或る事柄により範囲
を設定した後に、その基準を無いものとして考えられた範囲であろう。または、全ての範囲が規則の規則
として働き得るというのだろうか。
統一は何であるのかだ。分析される事柄であると、主語は述語と同一であると考えられるだろう。
すると、同一性が主語と述語を結びつける根拠であるということになるだろう。このような統一が
考えられるだろう。
では、或る事を他のことであると言うにはどうするのかだ。主語と述語で考えられない場合、主語と
述語を含む他の事柄において同一であると考えることができるだろう。この第三のものが主語と述語
を結びつけることができる。つまり、時間から統一性を抜き去って考えるならば、時間が範囲として
考えられるというのはこの第三のものにおいて考えられた同一性と考えられる。
では、第三のものによることなく、どのようにすれば主語が、同一なものを見出すことなく、述語で
あると考えられ得るのか。
一案
∃x∃y Jxy→x≠y
∀x∀y ¬(Jab→x≠y)
∀x∀y ¬(¬Jab∧x≠y)
∀x∀y (Jab∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∀y (Jab∨<x=y>) ∨ ∀x∀y (Jab∨¬x≠y)
>>126修正
∃x∃y Jxy→x≠y
∀x∀y ¬(Jxy→x≠y)
∀x∀y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)
二案
∀x∀y Jxy→x≠y
¬∀x∀y Jxy→x≠y
∃x∃y ¬Jxy→x≠y
∃x∃y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∃x∃y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∃x∃y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∃x∃y (Jxy∨¬x≠y)
三案
∀x∃y Jxy→x≠y
¬∀x∃y Jxy→x≠y
∃x∀y ¬(Jxy→x≠y)
∃x∀y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∃x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∃x∀y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∃x∀y (Jxy∨¬x≠y)
四案
∃x∀y Jxy→x≠y
¬∃x∀y Jxy→x≠y
∀x∃y ¬(Jxy→x≠y)
∀x∃y ¬(¬Jxy∧x≠y)
∀x∃y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∃y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∀x∃y (Jxy∨¬x≠y)
総合的判断は、主語の含まれるところが述語において考えられているところの
ものであり、述語が確かにしたところに主語が含まれるような判断だ。
判断は述語が確かにしたところから導かれる判断なのだ。
判断が確実になり得ないならば、述語は主語を考えてはならない判断なのだ。
述語が確実ならば、主語も確実になる。
主語が確実である理由において、主語は確実である。
そのような理由において、述語は主語に言及し得るのだ。
つまりいわゆるリヤプノフ関数を見つけさえすれば、
そのリヤプノフ関数の定義域から逃れられる
点はそんざいしないということが、ある意味においては証明可能なのだよ
133 :
考える名無しさん:2005/05/31(火) 02:46:58
値段を全く無視して、評価するなら
宇都宮訳と原訳どっちがいいでしょうか、
宇都宮訳をドイツ語に翻訳してみたらどうでしょう
>>133 宇都宮訳。正確さを犠牲にせずに読みやすく訳されている。
136 :
考える名無しさん:2005/05/31(火) 17:22:04
原訳は渡辺がさらに読みやすくしているので、
原訳のがいいですよ
137 :
考える名無しさん:2005/05/31(火) 17:28:28
☺☻☺☻☺☻
138 :
考える名無しさん:2005/05/31(火) 17:40:17
先験的観念論の、時間と空間は、感性的直感の形式と言うのは、間違って
いたんですか?
◎
140 :
考える名無しさん:2005/06/01(水) 13:23:25
時間と空間は、結局人間でなければ感じ取ることができないわけで、
その点では間違っていたとはいえないでしょう。
141 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/01(水) 13:40:58
>140
空間の直感は人間以外の生物にも与えられているものと思います。
時間の直感は、人間特有とは思われますが、
経験的なもので、先験的に与えられているものではないものと思います。
内的に自分の意識を遡及してみても、時間がアプリオリに与えられているものではなく、
なにかせっぱつまったもの、追掛けられるもの、間に合わせなければならないもの、
あるいは、死の恐怖等の経験的意識が付随しており、それらから、
先験的な、いわば「純粋時間」なるものだけを取り出すことができないのです。
心理学を遠ざけたカントですが、空間と時間を
感性に先見的に与えられている、x,y,z軸(質料)、
及び第4軸(時間)のように定めていることに対し、
その後の統覚、悟性等を定義していく行程上の前提として、
非常に有効ではあるが、先験的認識の実態からは、
やや乖離しているものと思います。
142 :
考える名無しさん:2005/06/01(水) 14:23:18
どうもありがとうございました。
カントのア・プリオリな総合判断とア・ポステリオリな総合判断の
区別は正しいのでしょうか?
間違っているならば、なぜ間違っているのでしょうか?
一案
主語のある部分と述語の或る部分について、主語は述語であるが、
主語は述語と同じでない。
∃x∃y Jxy→x≠y
では、これがそうでないとするとどうなるのかだ。
否定の文であると、、主語のある部分と述語の或る部分について、
主語は述語であるが、主語は述語でないという訳ではない。
論理学はこのような事柄を導き出す。
すると、主語の全ての部分と述語の全ての部分について、
主語は述語であるが、主語は述語という訳ではない。
∀x∀y ¬(Jxy→x≠y)
これは条件として扱うべきかであるか判らないのだが論理学では
条件として扱うようだから、主語は述語と判断しないが、
主語は述語ではないという訳ではない。
∀x∀y ¬(¬Jxy∧x≠y)
すると、三つの否定文が導き出されるのか。
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨<x=y>) ∨ ∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)
144 :
考える名無しさん:2005/06/01(水) 16:42:42
(∃x∃y Jxy→x≠y) が否定されるものであるとすると、三つの否定文が導き出される。
論理学は、以下の三つと同時に考えられることにより、前提される括弧の文が妥当であるか
調べることができる学とされている。
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>)
全ての主語、全ての述語について、それは二つのうちのいずれかであり、
主語は述語と判断するものであるか、或は、主語は述語と異なるという訳ではない、
或は、
∀x∀y (Jxy∨<x=y>)
全ての主語、全ての述語について、それは二つのうちのいずれかであり、
主語は述語と判断するものであるか、或は、主語と述語は同一である、
或は、
∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)
全ての主語、全ての述語について、それは二つのうちのいずれかであり、
主語は述語と判断するものであるか、或は、主語でないものと述語が異なる
(これは主語と述語でないものが異なる、という事にも言及していると解釈
しようと思う)、
否定された括弧の文は上記の三つの文である。
146 :
考える名無しさん:2005/06/06(月) 19:28:22
\ | ,,...-‐‐‐--、, l /
|、 / | ,.べ;;;;;::、--- 、:::;;`ヽ、 ''‐-‐'゙/
、,_,.! ゙'-'゙(. //::/´ ``ヾ、 l
) (. /:,`!ヾ、. , ゙>- ヽ、_,,
'゙"`ヽ, /``/::;:゙;゙::!:.:| ``'''‐--‐''゙ '-‐'゙ ゙、 /
ヽ ヾ /:;'/:.:!:::l 、,r''"゙`'ヾ ,:',-‐-、,'l /
-=,'゙ ./:::/:.:.|::::l / (・),. ヾ,_(・) ,'゙l (
`ヽ ,゙:::,'::::;':!::::l `"´ ''"´ | ̄__,,l,,...,,_ \ ひぃっ!
-='゙ l::::l::::;':. l:::::l ` ゙、.,,_,,.``ヽ、
__) l!゙,l:::;'-、 ';::::! ,.-‐‐:、 l `ヽ、 \ なんなんですか このスレは!!!
ヽ. !:l:::l/-ヽ.゙;::', U /:::::::::::r=‐'''"´`''‐,.-゙'‐-、ヽ.
) ゙!::l l"''、l ヾ゙:、 u l:::::::::::::::`'''‐‐''''‐i'゙ ,,..、 `\
l:::l,ヽ、_, ヾ;\ ゙、.,,_ノ/ ̄ ̄ノ /ヽ. ` \ ____
/ !::l:゙ヽ、. ,、 ヾ、;、 ゙'‐''"7'゙/ /゙ヽ \ _,./´-、ヽ
/ / l::l``;::,`´:ヽ、 `ヾ:;、.,__ :::: / `'''゙ \ ゙、 ヾ;‐、''-、゙;
/ / l:l ";'::;'::';';! `''‐ 、.,_` ̄ / r'゙´ ̄ ̄``'''‐、 ゙、 ' l l:::!
. / l:! !:;'::!::::;! ``'''‐‐---┬'゙ `'''''''''‐-、 ゙、 ./ l:::l
(∃x∃y Jxy→x≠y)
∃x∃y (¬Jxy∧x≠y)
∀x∀y (Jxy∨¬<x≠y>)
∀x∀y (Jxy∨<x=y>)
∀x∀y (Jxy∨¬x≠y)
Jab→a≠b
¬Jab∧a≠b
*以下は否定された文
¬(¬Jab∧a≠b)
Jab∨¬<a≠b>
Jab∨a=b
Jab∨¬a≠b(Jab∨a≠¬b)
5+7∨¬<5≠7>
5+7∨5=7
5+7∨¬5≠7(5+7∨5≠¬7)
カントが文章上手ければ良かったんだ
>>141 時間は前後、同時、常住不変性であるとされているようです。純粋は経験に拠らないもので
あるとすると、純粋な時間は前後、同時、常住不変性であると考えられるようです。経験が
前後や同時や常住不変性を生じさせるとは考えられないからです。そして、経験的な概念は
明確にされた時間の区別をしてくれるようです。内的に自分の意識を遡及するとなると、そ
れは反省であると考えられます。反省は想像であるのか、感性に与えられた概念であるのか
が考えられるようです。時間の概念は時間的な死の恐怖を含んでいないようですから、規則
的な概念でないようです、それ故に想像であるようです。想像から先験的な時間を取り出す
ことができるのか。先験的な時間があることにより、そのような想像が可能になるようです。
感性と悟性の区別、想像と規則的な概念の区別から、純粋な時間はどこに座を占めるもので
あるのかということが考えられます。死の恐怖は感情であると思われます。純粋時間は感情
に占めているのでしょうか。感情はそれらのどれに含まれていると考えているのでしょう。
>>142 経験に拠らないものが先験的であると考え、総合的判断について考えると、
経験的な総合的判断と先験的な総合的判断が区別されるのでしょうか。
151 :
そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 09:42:39
>>140 >>141は、でたらめだから、真に受ける必要はない。
カントは、「空間の直感」「時間の直感」などひとことも言ってない。
「内的に自分の意識を遡及してみ」て時間のアプリオリ性に気づいたの
ではなく、カントにあって、時間、空間とは現象を成立させる論理的条件
でしかなく、それを外れて、時間、空間そのものを認識することは、
できないとカントは考えた。
カントって現代でも読む価値ありますか?
154 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 12:39:19
>151
空間と時間を軸に据えることができれば、共有できる「道具」、「尺度」等として、人間の思考にとって非常に便利で有効なものです。
だから、
>>141で、
「心理学を遠ざけたカントですが、空間と時間を感性に先見的に与えられている、x,y,z軸(質料)、
及び第4軸(時間)のように定めていることに対し、その後の統覚、悟性等を定義していく行程上の前提として、
非常に有効ではあるが、先験的認識の実態からは、やや乖離しているものと思います」と書いたのです。
<時間、空間とは現象を成立させる論理的条件でしかな>い、ということと、矛盾したことを書いているとは思いません。
空間にしても、本当の視覚では、カントのいう「先験的感性」としてではなく、
即ち、x,y,z軸にきちんとおさまったものとしてではなく、パースペクティブとしてしか与えられません。
カントが、共有できる論理思考の舞台を整備してみた、という価値は何も否定等しておりません。
しかし、あまりにも整然と整理されたカントの「先験的」認識論に対し、人間一般の日常の、論理だけを追いかけるものでもない認識の仕方は、
そういうものではないのではないか、という私固有の「感性」と「習慣」を述べたにすぎません。
155 :
そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 13:27:56
>>154 「先験的認識の実態」って何?
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc さんの術後がよく分からないから、
どうしても水かけになってしまうけれど、
少なくとも、カント解釈に限れば、
>空間にしても、本当の視覚では、カントのいう「先験的感性」
>としてではなく、 即ち、x,y,z軸にきちんとおさまったものとしてで
>はなく、パースペクティブとしてしか与えられません。
カントの空間論は、人間一般の生物学的構造から帰結する
ようなものじゃないから、視覚などの認知心理学的な話題は
関係ないよ。
>人間一般の日常の、論理だけを追いかけるものでもない認識の仕方は、
>そういうものではないのではないか
これは、個別科学の話題、哲学でいえば「心の哲学」「認知科学の哲学」
あるいは、現象論あたりの議論にも重なるかな。
とにかく、カントの問題系とは、リンクしない。
156 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 15:05:49
皆さん、間違ってはいないのだと思いますが、書いてることが難し過ぎま
す。先験的感性論は、さほど難しい内容ではなく、ただ単に、時間とは何
か?空間とは何かということに、それらは客観的なものではなく、主観的
なものだとしました。それが、時間と空間は、感性的直感の(ア・プリオ
リな)形式と言うことですね。単に感性の形式と言ってもいいと思います。
時間と空間は、認識主観の感性の形式です。わたしの質問は、このカント
の時間と空間についての理解が、その後間違いと証明されたことがあった
のかと言うことです。例えば、詳しくは分からないのですが、相対性理論
の時間と空間の考え方と合わないと考えた人もあったようです。
157 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 15:42:06
カソトの時間論の核心は図式論だよん
158 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 16:34:16
>>155 <カントの空間論は、人間一般の生物学的構造から帰結する
ようなものじゃないから、視覚などの認知心理学的な話題は
関係ないよ。>
「人間一般の生物学的構造から帰結するようなもの」を捨象した
「認識論」っていうのは、いったいどういうものですか?
人間一般は生物学的構造で成り立っている、というのは間違いでしょうか?
カントの認識論は、コンピュータかなにかのための認識論なのでしょうか?
159 :
そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 17:05:03
>>158 >「人間一般の生物学的構造から帰結するようなもの」を捨象した
>「認識論」っていうのは、いったいどういうものですか?
まず、ここで問題にしているのは、「カントの認識論」であり、「認識
論」一般のことではないです。
哲学の下位ジャンルとしてのいわゆる「認識論」については、現代
哲学でも、先に挙げた「心の哲学」などで、隣接する個別科学(具
体的には脳科学や認知心理学など)の知見を利用しいろいろ論じ
られているので、「認識論」一般についてはそちらを参照するといい
んじゃないでしょうか。ちなみに、「人間一般は生物学的構造で成り
立っている」という前提で、論じられる「認識論」は、一般に「自然化
された認識論」と呼ばれます。
で、「カントの認識論」は、時代的に人間の「心」が「脳」に還元できる
というような発想がないので、基本的に問題意識が現代とは異なるん
ですね。つづく。
だから、「認識論」といっても、カントの場合何か実際の認知機構などを解明
しようとしていたわけではなく、むしろ普通考えられる「存在論」に近いわけで
す。現象と物自体の区別といった、カント独特の世界解釈が最重要で、それに
付随する形で、人間の認識が問われる。物自体は認識できない、認識できるの
は現象であり、それを可能にする条件が、これこれだ。という論理展開です。
よって、時間、空間といった形式は、あくまで論理的に帰結する前提条件にすぎ
ないわけで、生物学的な観察、実験から帰結するものではないです。
大抵、ここの解釈が通俗化されてしまい、
>>156さんに顕著なように、安易に、
「ニュートンの絶対時間をカントは主観の装置と考えた。しかし、アインシュタイ
ンの相対性理論でニュートンの時間モデルは駄目になった、よってそれに基づ
くカントも間違い」という杜撰といえば杜撰な論になってしまうのですが、これは
明らかにカントを単純化した解釈です。つづく。
161 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 17:44:02
そこどいてさん、どうも。認知科学で、時間とか空間とかが分かるんですか?
162 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 17:49:51
認知科学でも、カント哲学は否定されないようなので、嬉しいですが
、カントの空間、時間に関してのみの話で、間違いだったとは、証明
されていないのですか?それとも、間違いは証明されてはいないが、
考えとして古いのだと言う話ですか?
それゆえ、現代のカント解釈で陥りがちな罠として、カントの認識論の安易な生物学的
解釈が挙げられると思います。これは、カントの物自体と現象の区別をたんに種に相対
的なものと考えるわけですが、カントの問題意識はそのような事実問題というより、権利
問題として考えたほうがいいですし、妥当だと思います。
>>156で、
>間とは何かということに、それらは客観的なものではなく、主観的 なものだとしました。
と書かれてあるのですが、カントは厳密には「主観的条件」と書いたので、「主観的なもの」
と実体化するのは、明らかに誤りです。
そして、その条件のもとでのみ、外的直観が可能になるといっている。
それゆえ、経験に先立って(アプリオリ)いる。つまり時間や空間という性質は経験からは
帰結しないことになる。言い換えれば、あらゆる経験はすでに時間と空間という主観的な
制約を受けている。よって経験的には実在している。しかし、だからといって、物自体として
絶対的に存在しているわけではない。よって、超越論的には観念でしかない。
このように、カントにあっては、主観的な条件として時間、空間は考えられている。
だから、「主観的なもの」という解釈は、少なくともカントを読む限りは、正しくないわけです。
164 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 18:01:24
>163
<カントにあっては、主観的な条件として時間、空間は考えられている。
だから、「主観的なもの」という解釈は、
少なくともカントを読む限りは、正しくないわけです。>
すみません。
この箇所が理解できないのですが。
>>164 >>156さんは、「時間、空間とは主観的なもの」と書いている。
「主観的なもの」というのは、
>>156を読む限り「客観的なもの」
の対立概念になっている。
>それらは客観的なものではなく、主観的なものだ
しかし、お分かりのように、カントは主観から出発した大陸合理論と
イギリス経験論を融合させたわけです。
客観が成り立つ条件は何か?というのがカントの最大の動機だった。
「先天的な総合判断はいかにして可能なりや」
つづく。
総合判断というのは、述語概念が主語概念に包摂されていない判断のことです。
「独身の男には妻がいない」という判断は、「独身」という概念を分析すれば、
「妻がいない」という概念は出てくるので、何ら新しい情報をいっていないわけです。
これらは、分析判断と呼ばれます。
で、これらは、アプリオリに正しい(すべての可能世界で正しい)のですが、情報量
がないので、ある意味無意味です。
他方、「カラスの羽は黒い」というような判断は、経験に依存している、観察や実験で
真偽が問われるわけですから、その意味で、究極的には偶然に真でしかない。
ライプニッツでいえば、事実の真理です。(この現実世界で正しい)
これは総合判断です。新しい情報があるから。
で、アプリオリに正しく、かつ、分析判断ではなく、総合判断はないか。
こうカントは考える。これが純粋理性批判の最大のモチーフです。
167 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:34:21
理解できません。カントに於ける、感性と悟性の区別はできてますか?
観念だったら悟性ですが、時間と空間は感性の形式ですよ。
168 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 18:44:13
>166
確かに、前段の分析判断は、<アプリオリに正しい(すべての可能世界で正しい)のですが、情報量
がないので、ある意味無意味>で、これはトートロジーですね。
で、後段は、経験知から、アプリオリな悟性のカテゴリー表に見合い、
「真」である、と判断されるものがアプリオリな総合判断ですね。
カントは、ここまでアプリオリ/先験性を引っ張っていますね。
で、「羽の白いカラスもいる」という経験知が新たに加わった場合、
「カラスの羽は黒い」というような判断は、事実の真理性を失いますね。
即ち、後段の総合判断とは、2つ以上の相矛盾する事実が認識された段階において、
破綻しますね。
このたぐいの次々に書き換えられていく総合判断も、
アプリオリな総合判断といえるのでしょうか?
169 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:48:32
総合判断については、そのとおりだと思います。カントは形而上学が
独断論をとならないために、ア・プリオリな総合判断を問題にしまし
た。
ところがゲーデルでしたっけ、この分析判断と総合判断の区別は
間違いだと主張しました(詳しいことは分かりません)。このカ
ントの分析判断と総合判断の区別、或いは、先験的な総合判断と
経験的な総合判断の区別は、現代から見て、間違いだったのか
それとも間違いとは言えないのかと言うのが、私の疑問だった
訳です。
170 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:51:10
低脳どもがカントを語ると物凄い
171 :
そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 18:53:01
で、例えば、「すべての出来事は原因がある」という命題は、アプリオリな総合判断。
言ってみれば、因果律に関するものだけど、これは経験的に得られる判断ではない。
つまり、観察実験によらないということ。だから、アプリオリ。さらに、出来事という概念
を分析しても、そこから演繹的に得られないから、分析判断でもない。
これこそ、先天的総合判断だ!!
こうカントは考えた。で、この判断はなぜ真となるのか、どの条件のもとでのみ可能
な判断なんだ??次にこう進む。世界の条件を問うている。
で、この因果律は、ヒュームによって、根拠のないものとされてきた歴史があるわけ。
帰納法の議論を参照のこと。
だから、カントは、考えた。
認識が存在に依存するのではなく、存在が認識に依存すると考えたら上手くいくぜ!!
これが世にいう「コペルニクス的転回}
いやっほおおおお!!!!!!!!!!
だとすると、我々の認識は、「すべての出来事は原因がある」という判断が真であるような
ものでなければならない。どのような条件でそれが満たせるのだろうか。
そして、その条件として悟性のカテゴリーが導出される。つづく。
172 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 18:55:56
黒いカラスや白いカラスの話は、経験的な総合判断で、アプリオリな
総合判断ではありませんよ。
173 :
そこどいて!! ◆Cj6Z7mDb5M :2005/06/07(火) 19:02:05
>このたぐいの次々に書き換えられていく総合判断も、
>アプリオリな総合判断といえるのでしょうか?
それはアポステリオリ な総合判断だとカントはいってる。
情報量はあるが、必然的な真理ではない。
必然的な真理であり、かつトートロジーでもないのが、
アプリオリな総合判断。
これが成り立つ世界の条件、認識の条件をカントは考えた。
感性の形式である時間、空間も、悟性の形式、カテゴリーが
あれば、先の判断は必然的に真である。懐疑論よさらば!!!
とこうなる。だから、元に戻るが、生物学的な認識論を考えていた
のではない。カントは世界概念を考えていた。
>>156の「主観的なもの」というのが、いかにそのあたりの議論展開
を無視しているかが分かる。主観的なものではなく、主観的な
条件である。
以上。
174 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:06:42
>172
私もそう思っています。
では、経験的総合ではない、
アプリオリな総合判断とは成り立つのでしょうか?
175 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 19:08:21
感性の形式である時間と空間は、悟性の形式とは、無関係だと思いますが。
176 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:12:36
>175
カテゴリー表をぐっと何度もにらんでも、感性の形式である時間と空間との
関連性は見出せないですね。
その前に統覚、構想力辺りから、感性の形式である時間と空間とのつながりが
もはや、見出しにくい。
177 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 19:22:15
カントは、数学は全て、ア・プリオリな総合判断だと言っていますが、
問題にしたのは、実在的なものの、ア・プリオリな総合判断です。
178 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:24:12
>177
7+5=12の算式を、カントは、ア・プリオリな総合判断だと言っていますか?
179 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 19:31:28
言っていると思いましたが。
180 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/07(火) 19:51:08
>179
このスレの大半の人が、そのように読み流しています。
Xの16をお読みいただければ幸いです。
181 :
考える名無しさん:2005/06/07(火) 21:19:26
>ところがゲーデルでしたっけ、この分析判断と総合判断の区別は
>間違いだと主張しました(詳しいことは分かりません)
(詳しいことは分かりません)
(詳しいことは分かりません)
(詳しいことは分かりません)
182 :
考える名無しさん:2005/06/08(水) 14:13:46
>>169 カントだけではなく、哲学全般にいえることですが、「間違いだったのか、間違いとは言えないのか」というのは、決して言えるものではありません。
「空間と時間は直観の形式である」ということについても、論理的な矛盾点はどこにも見あたらないわけで、それで納得できるなら納得すればいいだけの話であり、納得できないならば納得しなければいいだけの話です。
どこまでも論理的に組み立てられているように思える現代物理学だって、
人によって解釈が異なり、同じような状況です。
>>182 その通り!!!
僕も、ずっとぞれがいいたかったんだけど、なんでか
哲学や科学に主張を求める人って、結構多いんだよね。
184 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/08(水) 14:36:45
<「空間と時間は直観の形式である」ということについても、
論理的な矛盾点はどこにも見あたらないわけで、
それで納得できるなら納得すればいいだけの話であり、
納得できないならば納得しなければいいだけの話です。>
その通りなのですが、スレタイが一応、「精読」ですからね。
かんかんがくがく、けんけんがくがく、というのもあっても宜しいものと。
それとも、納得できる方たちだけが集まって、
静かに精読するためのスレということでせうか?
185 :
182:2005/06/08(水) 14:58:19
>>184 182は、あくまでも
>>169に対するレスです。
こう書いたのは、162氏は一般的な答を性急に求めているように
見受けられたからです。
「カンカンガクガク」は大変結構なことだと思います。
特に、最近までは死んだも同然のスレッドだったので。
ところで180を読むと、7+5=12をカントは「ア・プリオリな総合判断ではない」と
言ってるように受け取れるのですが、ご説明願えますか?
これは「ア・プリオリな総合判断である」と思いますが。
186 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/08(水) 15:40:39
>185
その直後にカントが挙げている事例として、
「純粋幾何学」の「直線は二点間で最短である」は、
アプリオリな総合判断と言っているでしょうか?
また、もし、7+5=12がアプリオリな総合判断と仮定した場合、
二進法の、3=11もアプリオリな総合判断でしょうか?
カントは、「自然科学(物理学)は、
アプリオリな総合的判断を原理として自分自身のうちに
含んでいる」、といいながら、
なぜか、先の算術的命題においては、
微妙にアプリオリという言葉を避けている。
算術的命題一般を、分析的命題ではなく、総合的命題である、
とは言っていますが、アプリオリな総合的命題である、とは、言えていない、
と解釈しております。
「7+5」には、「7に5を加えなければならぬ」という概念は含まれていますが、
その和が12に等しいということは、12という数の概念を予め(アプリオリに)
知っている必要があります。
あるいは、二進法において、3=11の場合、2で一桁繰り上げる、
という、0/1の電子信号によりコンピュータに計算をさせるための「規則」、
「経験的利便性」等が、人間の認識にアプリオリに与えられうる、という必要があります。
これは、のカテゴリー表の何をもってきて、アプリオリであると説明すれば宜しいのでしょうか?
人間は世界を眺める方法を幾つか具えているということを考え得ると思う。
外延、内包、類推、可能、これらが主語と述語だけで考えることができるのか、
或は、これらは単なる人間の勝手な区別でしかないのか、そうだとしたならば、
我々は主観においてどのような特徴からこれらを区別しているのか、そして、
各々が特徴をそれぞれ何であるかと考えることにより、同じ事を異なる名前で
考えているのかが考えられるだろう。我々はどのように対象を考えているのかだ。
このようなところが見所でしょうね。
188 :
俺じゃねーし:2005/06/08(水) 23:26:30
お初ww
うい。まあ、こんな板です
190 :
俺じゃねーし:2005/06/08(水) 23:33:58
理解可能な限り精読させてもらいますorz
外部における物自体、内部における規則、これらの想定が確かな判断にするのだろう。
判断のみであるものは幾らでも可能である判断になるのではないか。
このようなものが特徴的な判断ではないかと思う。
特徴的な判断が共同幻想によって
「幾らでも」から限定されたものになっていることは否めないが。
それを意識すること(また、超えること)をニーチェにつなげることもできるのではないかと。
>>190 まあまずはカントの「純粋理性批判」を読み給へ。
知覚とは経験的意識のことである、つまり、同時に感覚をも含んでいるような意識である。
感覚だけによる覚知はある瞬間を充たすに過ぎない。
>>182 >「空間と時間は直観の形式である」ということについても、論理的な矛盾点はどこにも見あたらないわけで、それで納得できるなら納得すればいいだけの話であり、納得できないならば納得しなければいいだけの話です。
無名な人が何があることを言っているだけなら、それはスルーされるだけ。
カントは有名だから叩かれる。しかも自分で形而上学の独断を排除するとかなんとか
言ってるんだからなおさら。
「ある命題の真偽が定まる」。哲学においてはこの考えすら相対化するのかもしれませんが、
常識的な一般人は真偽が定まることを当然のことのように考える。常識人の観点から
カントが叩かれることは、ある程度は仕方ないのではないでしょうか?
195 :
考える名無しさん:2005/06/09(木) 09:14:31
カントの物自体と現象の区別は、現代哲学から見てどうなの?時間と
空間が主観の側にあるから、物自体の認識は不可能と言う理解でいい
のでしょうか?
(( )) 空間 私 私 空間
(●( ○ )) 空間 物自体 私 主観的物自体 私 空間
外部にある物を語る事はできない。それは経験していないと考えられるからだ。
我々が語り得るのは主観的な物になるだろう。そして、物自体が私の内部にある
だけでは、物自体を考えたことにならない。経験は概念により考えられなければ
ならない。このような概念により考えられた状態が判断であろう。
すると、以下のような図に表すことができるのではないか。
(●( ◎ )) 空間 物自体 私 判断 私 空間
我々が物自体としているものは内部において考えられたものだ。
外部にある対象と内部にある対象が全く異なるのではないか、
それ故に、物自体について語ることはできないと考えるとすると、
全く異なるとすると、我々には対象を認識する仕方が具わっていな
いということになるのだから、外部のものについて知る事を諦めな
ければならなくなるだろう。存在しないとすると、想像だろう。
存在があり、そして、物自体が全くそのまま我々の内部にあるもの
でないとすると、対象はある部分を反映したものということになる
だろう。そのようなある部分は一体何であるかだ。物自体とはこの
ようなものになるのではないだろうか。
199 :
182:2005/06/09(木) 11:03:00
>>186 ご指摘のあったXの16を再読してみました。確かにここだけ読むと、カントは総合的判断についてはかなり詳しく述べていますが、数学がなぜア・プリオリなのかということの説明は書かれていません。
しかし、その前節には「数学的命題は常にア・プリオリな総合的判断であって、経験的ではない」と書いており、ア・プリオリに関してはすでに説明済みであり、あえて説明するまでもないという態度がみて取れます。
では、カントはア・プリオリをどう考えていたかというと、これがはなはだ心許ないもので、第二版の序論には次のように書かれています。
「はたして、経験によらず、感官のあらゆる印象にすら依存しない、そのような認識があるかどうかは、少なくとも、さらに立ち入った研究を必要とし、一見しただけでは片づけられない問題である。
そうした認識は、ア・プリオリと名付けられ、その源泉をア・ポステリオリ、すなわち経験のうちにもっているところの経験的認識から区別される。」
この後も長々と説明していますが、やはり説得力に欠けるのか、カントが言うところの「ア・プリオリ」とはカントがそう言い張るだけで何の根拠もないではないかと、当時から批判されていたようです。
結局、「数学は、ア・プリオリな総合的判断である」という意見に同意するか、しないか、ここはカント理解の壺だと思うんですが、いかかでしょう。
200 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/09(木) 11:32:52
>199
二進法の和算です。
十進法で5+7=12
二進法では、
101+110=1100
これを「アプリオリな総合的判断であるという意見に同意するか、
しないか」。
カントのアプリオリな総合判断というのは、
「人間の」認識論でありながら、
自然法則に見合うものは、経験を介さず、人間の悟性が、自発的に、
且つアプリオリに認識/判断するものである。
といいながら、先ず人間の感性により与えられることを前提としている。
もちろん、自然法則を認識するのは悟性のアプリオリな総合判断です。
そして、自然法則は、カントによると、
感性、悟性が、自発的に且つアプリオリに「追随できる」もの、
と規定しています。
はたして、「純粋理性批判」は、認識論なのでしょうか、
論理学なのでしょうか、はたまた、経験論なのでしょうか。
あるいは、人間のアプリオリな総合判断に見合う自然法則に則るものは、
人間の認識にアプリオリに備わっているアプリオリな総合判断により、
追随できる、ということを説いている「だけの」、
トートロジーにすぎないなのでしょうか?
>>200 n進数というのは、数のイデア性とはなんの関係もないのでは。
れは表記と計算の仕方が変わるだけのことだと思っています。
議論の筋には関係ないですけど・・・
202 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/09(木) 12:17:01
>201
間とは、Xの16で5+7=12を導き出すのに、結構、こまめに説明している。
その文章を、二進法でカントがやったら、どうなるのか。
ひょっとしたら、次の文章も違う展開になっていたのではないのか、
という問題意識を呈示したまでです。
「5本の指の表象を頼りにして順次に七という数に加えていくと、
ここに十二という数の生じるということが判るのである。(中略)
それだから、算術的命題は、常に総合的命題である。」
これを、カント自身は、「純粋数学」といっているのです。
203 :
182:2005/06/09(木) 15:11:02
私も201さんに同意です。
「七番目」の数を十進法で「7」、二進法で「111」、さらに日本語で「なな」、英語でSevenと表記しても、「七番目」という数の概念自体は変わりません。
よって、5+7=12の式を101+111=1100と入れ替えても、カントの文章はそのまま通用すると思います。
「5本の指の表象を頼りにして、次々に111(7)という数に加えていくと、
111(7)から、一番目が1000、二番目が1001、三番目が1010、四番目が1011、五番目が1100、
ここに1100(12)という数の生じるのがわかる。」
二進法が0と1という数だけを使って表記するのは、自然数論的にはかなり特殊な感じがしますが、その点は、9の次に10と表記する十進法の特殊性も同様です。
「10」ではなく、ローマ字表記の「X」や漢字の「十」のように、別の記号を使う例もあり、合理性を無視すれば、数が増えるに従って、いくらでも別の記号をつけていくことができます。
数学における表記の問題は言葉の問題とも通底する部分があり、例えば日本語という言語そのものに普遍性はないが、その概念には普遍性があります。
同様に、数学の問題を考える際に重要なのは「数」の表記ではなく、「数」という概念は、本当にア・プリオリに与えられているのかという部分にあるのではないでしょうか。
204 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/09(木) 16:49:32
>203
<数学の問題を考える際に重要なのは「数」の表記ではなく、
「数」という概念は、本当にア・プリオリに与えられているのかという部分にあるのではないでしょうか。>
「数」という概念ではなく、7+5=12がアプリオリな総合判断であるか否かを、
問題にしています。
おっしゃるように、いつ、から初めて、むう、なな、やあ、と数えていき、
じゅうに、に行き着いた時点で、じゅうに、という「数」が「生じる」、
とカントは書いています。
このとき、何が「生じた」のでしょうか?
5から7つ隔たった序数上に12が「生じた」のでしょうか。
では、「5+7=」というお題に、
12に至るまで、ひとつづつ数を加えていく(数えていく)
という行程を経て、それが、5と7の和である。
そして、その行程と結果は、先験的、自発的、且つ必然的なものとして、
アプリオリに悟性に与えられている。
この総合判断をする能力が、先の行程を経て、じゅうに、の数を生じる。
このプロセスを含む判断行為が自発的に働き始めるモチーフも
悟性の能力により、与えられているお題(7+5=)自体に予め内包されている。
だから、悟性判断の必然的帰結として、12という「数」が生じ、
それはそのお題の解である。
だから、この行程、判断はアプリオリなものとして成り立つ。
即ち、7+5=12は、アプリオリな総合判断であると?
アプリオリとアーリオオーリオには何か関係があるのでしょうか??
206 :
考える名無しさん:2005/06/10(金) 08:00:16
カントは空間→幾何学、時間→算術と言ってます。
> 学問が新しい知識を生むなら、それは総合的判断である。
> そしてそれが普遍的に正しい認識であるなら、アプリオリな判断でなくてはならない
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html こういう認識においては算術の命題は当然、アプリオリな総合判断になるよね。
フレーゲは算術は分析判断と見なしていたらしいし、ウィトゲンシュタインは
算術命題はトートロジーだと言ってたらしい。でもそれってカントの分析総合の
区分の解釈自体がずれてしまっているような。
まあどっちにしても、フレーゲやウィトゲンシュタインみたいな頭のいい人が
何十年も悩んだくらいだから、数学の問題は単純じゃないってことかな。
209 :
182:2005/06/10(金) 12:38:38
>>204 >「数」という概念ではなく、7+5=12がアプリオリな総合判断であるか否かを、
>問題にしています。
数学が果たしてア・プリオリな総合的判断であるか、その問題を考える上で「数」の概念は重要です。
カントが7+5=12の計算プロセスで示しているのは、この算術命題が総合的判断であるということです。
ここでは、「ア・プリオリである」ということは一切書かれていません。
数式が総合的判断であることを示すだけなら、十進法であろうが、二進法であろうが、シュレディンガーの方程式であろうが、その構造については「A=B」というだけの話であり、文法的に説明がつきます。
ところが、このA、Bにあたる概念が果たして、ア・プリオリに与えられるのかという問題となるとかなり難しいのですが、少なくとも、Vの16からは何の解答も得ることができません。
>>206 >カントは空間→幾何学、時間→算術と言ってます。
確かにそう書いていますね。空間が幾何学に対応するのはいいとしても、時間が算術に対応するというのは、どうなんでしょうか?
210 :
考える名無しさん:2005/06/10(金) 17:22:28
ここでちょっとまとめてみましょう。
1)分析的判断と、総合的判断
2)先験的(ア・プリオリ)と経験的(ア・ポステリオリ)
3)数学は、ア・プリオリな総合判断。
4)時間と空間は感性的直観のア・プリオリな形式
5)空間は幾何学、時間は算術に対応する。
繋がりが見えているように思います。
総合的判断 主語は述語でない判断とされるもの
(●( ○ ○ )) 空間 物自体 私 主語 述語 私 空間
(●( ◎ )) 空間 物自体 私 判断 私 空間
分析的判断 主語において考えられていたものを述語であると考えるとされるもの
(●( ○ )) 空間 物自体 私 主語 私 空間
(●( ◎ )) 空間 物自体 私 判断 私 空間
>>211 訂正:主語が述語でない判断とされるもの
分析的は主語に含まれているものが何であるか判断するということか。
総合的はどういうことなのかだ、判断されるとなると、例えば、君は
偉いと考えるとなると、分析的判断であるのか、総合的判断であるのか。
既に主語の中に含まれているとなると認識を拡張するものではなく、学問
的には何ら価値のあることではない、主語に含まれないとなると、そうで
ないものを偉いと考えていることになるだろう。
214 :
考える名無しさん:2005/06/11(土) 00:50:02
二つのドグマだな。
215 :
考える名無しさん:2005/06/11(土) 01:10:08
当然のことだが、分析的判断は主語の定
義が真理でなければ無意味でしかない。
このスレはカントを精読するスレなので、他の考えや、
独自の考えもいいけど、そういうのをやりたいならスレ違いでしょ。
217 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/11(土) 15:47:58
>216
では、マタ〜リと、精読でもしていてください。
現代社会には他者の脳に作用する装置が実在します。その装置は空間的な
任意の位置に作用し得るものです。任意の位置には人間が含まれていた
場合、そのような行いは法律的にはどのように考えられるのでしょうか。
脳に作用するのですから、映像、記憶、夢、言語、認識、連想、様々な
部分で他者に作用し得るということになるものです。このようなものは
何であると考えられるのでしょうか。そして、このようなことを他者に
施すにはどのような権利があることにより許されるのでしょうか。
思想や教育ではなくて、物であり、物を他者に使用する権利であるという
ことです。
219 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/12(日) 16:12:34
>217
批判しているわけではありません。
原書、辞書、翻訳本の3点セットで、精読やら輪読に耽溺する、
そういう至福の時間も、ある時期、ある一定期間は必要でしょう。
220 :
考える名無しさん:2005/06/12(日) 16:13:43
朝5時に起きて、
1時間カントを読んでいる
その生活態度自体カントだな
222 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/12(日) 23:15:43
>221
そうだね。あと、たばこを毎朝3本吸って、時刻を守ったお散歩ね。
223 :
bbs:2005/06/14(火) 17:41:43
数学には「数」という概念があります。その概念そのものはア・プリオリと判断しているようですね。
問題はそれがア・ポステリオリと重なりうるか否かですね。
カントに言わせれば区別されると言うことですが、ア・プリオリな総合判断としての数学はア・ポステリオリに分類されそうな気もします。
物自体、もしくは時空間が我々の観念のア・プリオリな「地平」であるというのは疑いようがないでしょうが、それ以外は微妙な気がしますね。
それから「連想した」数学がア・ポステリオリと果たして区別されるのでしょうか。
それは純粋経験と経験的認識の区別であるような気がする。
数という概念は純粋経験であるのか、経験的認識であるのか。
数列の規則は学ば経験に先立って知っているものでない、だから、数列の規則は経験の後に理解されるものであると考えら
れる。
だが、我々の認識が全て経験の後に始まるにしても、そうだとしても我々の認識が必ずしも全て経験から生じる訳ではない。
何故なら、我々の経験的認識であったとしても、我々の感覚的印象の後に受け取るところのものに、我々自身の認識能力が自
分自身のうちから取り出したところのものが付け加わってできた合成物であるということだ。ただ、我々は、長い間の修練に
よってこの事に気づきまたこの付加物を分離する事に熟達するようにならないと、これを基本的な材料、感覚的印象から区別
できないのである、とされている。
数という概念は経験的認識であるにしても、全ての経験が感覚的印象の後に受け取られたものであるのか。
数という概念は経験的認識であるにしても、経験に加え、我々のうちから取り出したものが付け加えられているものである、
ということが考えられるだろう。
経験的認識であるにしても、我々のうちから取り出したものは何であるのか。それは先験的に、経験のまえに、具わって
なければならないのだから、ア・プリオリであると名付けられるものだと考えられるだろう。例えば、数という概念があるに
しも、その前に先立ち分量というように言い当てられるようなことが我々のなかに予めなければならない、と本を読んでいる
人は考えるのだ。どうして、ここに連想が出てくるのか、何が連想であるのか?
連想であるとすると、差等を加えたそのようなものが引き合いに出されることになるだろう。
どうして連想が出てくるの?
確かなものに妥当されれば何でもいいの?
間違いだらけのカント哲学
>>180 最近読み始めたんですが、
Xの16ってどこのことなんでしょうか?
231 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 21:36:19
純粋理性批判の第2版、序論(緒言?)の5の16ページ付近のことだと思う。
232 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 21:41:40
ま、カントなんかメチャクチャなんだけどね。
233 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 21:54:40
まず理性と悟性を区別しているのが間違いです。理性と悟性に区別は
ないでしょう。
234 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:04:13
ただしカントは、人類の歴史上第一の哲学者であることは間違いない。
純粋理性批判を読まないで、哲学を語ることはできない。
235 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:11:37
>>234 「読んでも理解することはできない」の間違いでないの?
236 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:22:12
多分今でもその意味が分からないことがあっちこっちにあると思いま
す。
237 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:29:44
読んですっかり理解するのは不可能だが、読むことによって何かを
得られると言う本だと思います。
238 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 22:33:39
カントの功績は科学技術の発展期であり宗教も依然として力を維持している時代にあって
人間の信条という問題群を自覚し、宗教的意識と科学的意識との調停、解決、限度の吟味
を行ったことでしょう。
>>238 宗教的意識って具体的には何を指すの?
カントの宗教的な読みを聞いてみたい。
240 :
考える名無しさん:2005/06/16(木) 06:02:34
>>純粋理性批判の第2版、序論(緒言?)の5の16ページ付近のことだと思う。
16ページではなく、16行目でした。
241 :
考える名無しさん:2005/06/16(木) 14:44:47
>233
同意。この区別も明確ではないですね。
悟性どまり、だと思います。
どうして理性と悟性は区別されないのでしょう。
>>241
243 :
bbs:2005/06/16(木) 15:03:10
>>225 >>226 そこにある「物」があります。これは先験的です。
ここに認識があります。これも一応半分は先験的です。
ですがこれがつながる時、認識内部の経験的なものが含まれるのは否定できないでしょう。その意味での「連想」です。
244 :
考える名無しさん:2005/06/16(木) 15:29:59
>242
カントは、理性に、悟性とは異なる(超える)なにかを与えている箇所が
あれば、教えてください。
245 :
考える名無しさん:2005/06/16(木) 18:44:43
>>240 >>純粋理性批判の第2版、序論(緒言?)の5の16ページ付近のことだと思う。
16ページではなく、16行目でした。
16ページで良かったです。
>>242 どちらも概念であるので、区別するのは、間違っている。
>>244 355ページ以降。
246 :
考える名無しさん:2005/06/16(木) 19:04:22
>245
(
>>244 355ページ以降。)
ありがとうございます。
早速、読んでみます。
247 :
考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:07:26
平凡社ライブラリーの原祐訳を読んでいます。
カントが何を言ってるのかさっぱりわからないので、引用しますので
誰か噛み砕いて説明していただくと嬉しいです。
質問なんであげます。
第二版序論からです。
248 :
考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:14:30
…それゆえ、まさに同一の存在者、たとえば人間の霊魂について、私は、その意志は
自由であるが、しかし同時にこの意志は自然必然性に従っている、言い換えれば
自由ではないとは、明白な矛盾に陥ることなしには、言いえなくなるであろう。
というのは、私はこれら両命題における霊魂を、まさに同一の意味に、つまり
物一般として(事象自体そのものとして)解していたのであり、批判を先行させることが
なければ、それ以外には解しようも無かったからである。
しかし、客観を二種類の意味に解することを、すなわち、現象としてしか、あるいは
物自体そのものとして解することを教えるこの批判が誤っていないときには、
この批判がなした悟性概念の演繹が正しく、したがって原因性の原則も、
第一の意味に解された諸物にのみ、つまり経験の諸対象であるかぎりにおいての
諸物にのみ関わるが、第二の意味からみたまさにこの同一の諸物は原因性の
原則に従ってないときには、まさに同一の意志も、現象(可視的な諸行為)においては、
自然法則に必然的にかない、その限り自由でないものとして、だが他方では、在る物
自体に所属し、ある原因性の原則に従っていないものとして、したがって自由であるものとして、
そのさい矛盾が生ずることなしに、考えられる。
249 :
考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:22:47
後半がまったくわかりません。
前半はなんとかわかったような感じもするんですが。
何が何なんだか…原因性の原則?
序文が糞難しいんで、これは全文読むころには灰になるか?と思ったら、
内容は意外と平易で助かった。楽しんで読めそう。
252 :
考える名無しさん:2005/06/27(月) 12:19:21
カントの文章は酷いな。いいことが書いてあると思えんわ
253 :
考える名無しさん:2005/06/27(月) 13:46:17
>>252>いいことが書いてあると思えんわ
「プロレゴーメナ」の序文に
いったいなにを意識して純理を書く気になったか、説明があるが、
そこには「ヒュームの原因と結果に関する議論」とあり、
これは具体的には、ヒュームの「人間知性研究」で行われている因果論を指す。
いいことが書いてあるのかわからないなら、ヒュームの議論と読み比べられたし。
カントは「<結論としては>まったく受け入れられない」とヒュームを評しているが、
何がカントをそこまで拒絶させたのか、
実はこれは、「超越論的感性論」からしてそうだが、
純理全体の議論の骨組みにも関わっている。
(ちなみにカントは、フッサールに「人間知性研究よりもずっと過激」と言わせた
ヒュームの主著「人間本性論」のほうは読んでいない)
>カントの文章は酷い
「その気になれば、ヒュームやメンデルスゾーンのような文章は、私にも書けるが、
厳密な学の記述のため、そのように書くことはしない」(「プロレゴーメナ」)
>>253 カントは根っからの悪文家ではなかったということか。だからってあんな解りずらくなるとは…
しかしカントは本を多読するタイプではなかったんだろうか。何やら忙しかったらしいし、散歩してるし、規則正しい生活だし
認識が拡張されるというと、何が認識されて、認識が拡張されるのかというのだ、
空間が拡張されるのか、存在が拡張されるのか、どのようにが拡張されるのか、
何ということが拡張されるのか、ということなんだ。空間は空間が何か判ること
が必要とされるのか、存在が何であるか判ることが必要とされるのか、どうように
が判ることが必要とされるのか、何が判ることが必要とされるのか。
256 :
考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:10:15
カントはニーチェにコテンパンに批判されているので今更読む意味なし!
257 :
考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:17:23
ニーチェは永井にコテンパンに批判されて永井はニーチェは
カントを読めてないと言ってるので読む価値あり
259 :
考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:29:00
信者がいないことには知は知者と共に滅ぶのかな?
260 :
考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:38:57
>257
同意!
それもわずか数行でな。
あれは笑ったよ
261 :
考える名無しさん:2005/07/01(金) 23:43:38
自作自演乙
262 :
考える名無しさん:2005/07/02(土) 04:08:27
カント哲学を完成したのが、ショーペンハウアーです。
表象の仕方の段階
類は表象、類の下に意識をもつ表象がある、表象は知覚ともいう、
知覚が主観にのみ関係するものは感覚、客観的な知覚は認識、
認識は、直観か概念のどちらか二つである(客観的な知覚が直観であるとされている)、
直観は直接に対象に関係する、
概念は多くに共通するであろう標徴で間接的に対象に関係する、
そして、概念は経験的概念であるか、純粋概念のどちらか二つである、
純粋概念は起源で区別することができる、
純粋概念が悟性にのみ起源をもつものは悟性概念である、
純粋概念が悟性概念に起源を持ち、経験の可能を超出するような概念は理念概念である。
>>264 客観だけでなく、主観においても理念は考えられるのではないか。
266 :
考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:03:23
みんなどこの出版で読んでるの?
岩波は評判良くないし、平凡は下巻が出てないし、理想社や全集は高杉。。
平凡社は純粋下巻、実践や判断力出る予定あるんですか?
267 :
考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:05:35
みんなどこの出版で読んでるの?
岩波は評判良くないし、平凡は下巻が出てないし、理想社や全集は高杉。。
平凡社は純粋下巻、実践や判断力出る予定あるんですか?
268 :
考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:25:02
>>267 純粋の下巻は確実に出るだろw
上中だけでで下が出ないってw
269 :
考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:32:36
>>268 三代批判以外は岩波でも大丈夫なんですか?
270 :
考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:49:24
英語で読むと読みやすいらしいよ。日本語よりかは。
271 :
考える名無しさん:2005/07/14(木) 13:53:02
誰か約せよ!手ごろな値段で!
高すぎたり未完成だったりで、まともに読める純粋が一冊もないではないか!
272 :
考える名無しさん:2005/07/14(木) 20:55:57
理想社のカント全集の純粋理性批判は、一版と二版が併記されている。岩波の
全集もそうなのだろうか?翻訳そのものはどうなんでしょうか?
何かってと英語英語っていうが、みんなそんなに速く英語読めるのか?
高峯訳で読んでます
275 :
考える名無しさん:2005/07/15(金) 02:09:31
以文社から出ている宇都宮訳が一番平易かつ精確で読みやすい。
ただし高いのが難点。
276 :
考える名無しさん:2005/07/15(金) 03:42:45
55 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:22:44
ものすごい下痢をした。
56 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:25:22
切痔と向き合う。
57 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:26:25
あたしは普通のセックスよりもアナルファックの方が好きなのね
58 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:28:34
肛門ガン予備軍
59 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:32:40
肛門癌というものはない。
直腸がんの間違いでしょうか。
ストーマ、ストーマ。
60 :考える名無しさん :2005/07/15(金) 03:34:48
S嬢結腸癌
だからオマイラ無駄な努力してないでドイツ語読めるようになやれよ。
その方が早いの。
オマイラドイツ語読めるようになる能力なくてカントわかると思ってんの?
だいたいカントが書いたもの自体を読まないでわかるというのは憶測に過ぎんよ?
そもそもが「カント自体」なんて認識できんのだ。
279 :
考える名無しさん:2005/07/15(金) 11:34:33
おまえらカントカントって、コントじゃないんだからそんな議論やめようぜ。
280 :
考える名無しさん:2005/07/15(金) 12:36:30
宇都宮版の解説、部分的にはただの要約にすぎないところも多いので、それよりはむしろ
キーワードの原語の提示やキーワードの解説に、ページを使って、
原文のニュアンスができるだけ感じられるようにして欲しかった
そういうのがあると、先行者の議論
(純理の場合、さしあたってロック、ライプニッツ、バークリ、ヒューム等の認識論的著作)の
どこを意識し、どこに焦点を当てようとしているか、
比較に便利で、理解しやすいと思うのに
281 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/15(金) 16:01:58
確かに原著を読むに越したことはないね。
訳文を横に置いて、辞書片手に精読していると、ここでためらってるな、
筆が進んでないな、つっかえてるな、等という、
いわばカント自身の息づかい、思索のプロセス、行間の迷い等までが読み取れる。
だけど、それが必須のことだとは思わない。
学問は一部のリベラルアーツが占有するものではなく、
民主的なものである。
原語を読まなくても、
書いてあることのおおよその大意なり、
要点を自分なりに理解できる程度の翻訳本は出てるわけだし、
それでカントを語るに不自由は無い、と思う。
表象 感覚 認識( 直観 概念 [ 経験的概念 純粋概念〈 悟性概念 理念 〉] ) 表象
分析すると、理念は表象的認識的概念的純粋概念的なものである訳だ。
感覚は直接的なものだろう、だが、認識的な概念における関係を考えられるものではないのか。
直観は直接なものとされている、直観は認識だ、感覚を直接的に認識するということであろうか
、直接に認識するということであろうか。感覚を介さない認識というのは超越的なものと考えら
れるだろう。超越的な何かがなければならないのか。
対象(質料)→感覚(直接的なものだろう)→直観or概念
(?)→直観(直接に対象に関係するらしい)→概念
質料は感覚されるだろう、では、質料は直観されるのか。
対象の物理的なものが質料か。質料は感覚されるだろう。
対象の認識的なものが何かなのだろう。何かは直観されるのだろう。
質料がどのような関係であるかを考える能力が直観か。
直観とは対象がどのように関係するものであるかを見て取る能力なのか。
284 :
考える名無しさん:2005/07/16(土) 23:39:01
最初のほうからずっと長文で書いてるsageの名無しさんの書きこみ内容が全然理解できぬ。
俺も「純理」読んだけど、そんなこと書いてあったかなあ。
俺が馬鹿なのか?
私には確かめようがないようですし、他人が馬鹿にするか、あなたが自分に定め
たようなので、あなたが自分ではずさないことには馬鹿であるようですね。
現実的馬鹿ですか?
>>285 このスレに書かれているのが正統的解釈かどうか知りたいだけだよ。
別にケンカ売ってるわけじゃないぜ。
>>286 どのようなところのものかは数字を介しただけでも分かると考えられているようであり、
感覚できるところに本を置いてみるというのは我々がよくやることのようだ。現実の物が
確かにそうであるとすると、解釈はどうであるのかということになるのでしょう。
どの解釈でしょうか、そして、正統というと、統覚では不足な物であるというのだろうか。
288 :
考える名無しさん:2005/07/17(日) 00:10:51
>>287 内容以前に、日本語に不自由してるようだな。
>>48 「表象的直接性」とは「感覚的クオリアのこと」
「因果的有効性」とは「志向的クオリアのこと」
と考えると、必ずしも「誤訳」とは言えないと思います。
>>287 え?なに?これっておちょくり?いわゆる釣りってやつ?わかんねー!!!
統覚ってApperzeptionの統覚?わかんねー!誰か教えてくれ
291 :
考える名無しさん:2005/07/18(月) 11:39:16
表象的直接性とは、各人間には、外界が直接、感性に表象として現れているが
、しかしそれだけではなく、その表象に、純粋語勢概念が働いていることがある。
それを統覚と言う。この考えは間違いですが。
292 :
考える名無しさん:2005/07/18(月) 15:13:49
ですから、表象的直接性とは、表象のみ、統覚とは、表象+純粋悟性概念
と言うことになります。しかし私は、表象に純粋悟性概念が働くことは、
在り得ないと思います。もし表象に純粋悟性概念が働いているならば、
人間と犬の表象には、質的な違いが出てくるでしょう。犬には概念が
無いのですから。
犬は隣の犬が吼えられているのを見てそっぽ向いたり、吼えたりしますから、
性質だけでもないようですね、もともと何について考えていたのかを留めてお
く能力が足りないのかもしれいでしょうね。純粋悟性概念と称するまでのもの
が必ずしも必要であるのかという話でしょうか。素朴な人もいるでしょうから
、現実的なものであると考えられるでしょうね。
無重力状態
感覚となると、触覚ならば凹凸を概念で考える点字のようなものになるか。
視覚ならば、光の色や影を概念で考えることになるか。何が直観かというと
、先取的にどのようなことになるものなのかを与えられるということなのか。
296 :
考える名無しさん:2005/07/18(月) 21:33:46
ちょっと訂正です。人間の感性にそのまま表われたものを表象と言いますが、
カントが、表象そのものに、純粋悟性概念が働いていると考えたのか、表象に
付随して、純粋悟性概念は働くと考えたのかは、よくわかりません。たぶん
後者だと思います。
もうどうにも止まらないな、この人……。
>>296 そのあたりの操作は人間には知り得ない隠微なものであると考えられているようですね。
可能的と考えられるものが考えられると、悟性が制限される事になるというところがある
と思われます、純粋悟性概念であろうとも概念の一つに過ぎないのであり、感性がそうであ
ることで、純粋悟性もそうであるということでしょうか。
>>296 あえて言うなら後者。だと思う。
オレ解釈だと、感性的な表象に対して悟性の働き
(カテゴリーがどーとかってやつ)が
概念的な加工をがしがし加えることで、
そのままの形式では他人と共有できない表象が、
「客観的」に取扱い可能な認識へと変化する…
くらいに考えているけど(大ざっぱ)。
300 :
考える名無しさん:2005/07/19(火) 23:29:07
いったい「物自体」ってなんですか。さっぱり意味がわかりません。
301 :
考える名無しさん:2005/07/20(水) 11:43:24
例えば、ある机の外見をあれこれ言うことはできるが、
机という物自体とはいったい何か、一つの決定した答えを出すことはできない。
数十人の人が、机がたったいまどう見えるか、机が自分の目にどう現象しているか、
できるだけ精密に説明することを求められた場合、
光の当たる角度などの事情によって、それぞれの答えが微妙にずれる可能性が常にあり、
この可能性を完全に払拭することは不可能。
この場合、それぞれの人にとっての現象から、暫定的に、
机とは何かについての合意を作りさえすればそれでいいのではないか、とする立場がある。このような人は「机という物自体は人間にはわからないのだ」と
わざわざ言うことには意味がない、とする。
302 :
考える名無しさん:2005/07/20(水) 12:35:04
確かに違うな。
どうせ竹田本人だろ。
物自体 使用例;Ding für uns
「物自体」とは、認識主観から独立に、それ固有の存在のあり方をしているものを
意味するとされる。これは物質そのものではなく、その本質および精神の働きを指
す。物自体は我々にとっての物との対比において思考される概念、つまり、認識可
能な客観、現象との対比において思考される概念とされる。
批判哲学における物自体の三つの意義
『現象と物自体との超越論的区別』による二つの見方
一、体系的な意義という見方
人間は、現象としては自然因果性の法則に従属するが、物自体としては自由の法
則に従う事が可能となる。ここから、人間の自由は救われると考えられているよう
である。
二、認識論的な意義という見方
物自体は人間の認識にとって不可避な前提であり、「現象」の概念にって論理的
に要求される。さもなければ、「現象はそこで現象するあるものがなくして存在す
るという不合理な命題が生じる」ということになるからである。しかも、時間・空
間のうちに認識される対象は全て現象にとどまる。従って、時間・空間はそれ自身
物自体ではなく、また物自体との関係においてはいかなる妥当性ももたない。物自
体は、認識不可能であるが、しかし認識することは充分可能である、とされている
。
『存在論的な意義』
三、「悟性は現象を容認するというまさにこの事によって、物自体そのものの現
存在をも承認しているのである」とされている。物自体は「現象の原因」ないし「
表象の根拠」ともみられており、認識の唯一の客観である現象の存在の根拠ないし
原因という意味が帰せられている。また、現象と物自体との関係については、単に
論理的関係としてでなく、因果関係と解し得る見解もみられる。
>>304に補足
>>264にあるのだが、先ず、表象の仕方の段階は類であるとされている、類は表象
とも言い換えることができる、知覚が主観にのみ関係するものは感覚、客観的な知
覚は認識であるとされている、認識は直観か概念のどちらか二つである。
物自体はどのような判断であるのか。物自体は表象であると考えられているよう
なのだ、表象一般の類のもとに知覚が置かれている、知覚には感覚や認識があると
されている、感覚には質料が考えられるのか、認識には直観、概念が考えれれるこ
とになるようだ。対象が乙である、丁である、というのは認識の概念のことである
ようなのだ、つまり、世の中一般にある名前を挙げているだけということになるの
だろうか。
306 :
考える名無しさん:2005/07/20(水) 17:40:38
ラッセル解釈が却下されたか。
このスレの「精読」は、いっさいのパラフレーズ抜きって
意味なのかな?
質料が感覚か、すると、表象は、先ずそのようなものがあることで、感覚をさせるものだろうか。
知覚が主観にのみ関係するものは感覚、客観的な知覚は認識、と先述した。すると、それが更に主
観にのみ関係するものに言及するとなると感覚であり、客観的なものが認識であるとされる。
すると、表象は主観にのみ関係するもの、或は、客観的なものであると考えられるものであり、
言い換えると、先ず、表象することで、主観にのみ関係するか、客観的なものであるかが考えられ
るところのものである、ということになるのか。ただ、表にさらされている像とだけ言えるものか。
物自体は表象である、表面に出される訳だが、どのようなものが物自体
であると、物自体が表面に出すようになるのか、ということなのか。
何が表面に出すものであると考えられるのか、ということになるのか。
先ず、これがあることで、物自体であり、物自体が表面に表れるというこ
とになるのかね。
310 :
考える名無しさん:2005/07/21(木) 18:06:05
時間と空間が、感性の形式なので、現象はすべて主観に起源を持つ。
主観によらなければ、それは物自体である。
しかし、どうもよく分からない。
その主観観測の方法自体が、一般の主観観測の方法とちょっと違ってるのかな。
で、それと対比される物自体も結局として上手く把握できない、と。
312 :
考える名無しさん:2005/07/21(木) 18:57:20
いや主観的観測?は同じだと思います。物自体の観測は、不可能ということになってます。
同じなのか。
定義付けるという意味での「観測」も不可能ならそもそも論じることも出来ないのでは?
>>311で言った把握の意味は
>>310の「主観によらなければ、それは物自体である」というような、
どういったものが物自体であるのかっていう、定義、あるいは認識の仕方。
定義は認識の概念であるように思われる、観測はどのようなものだろう、感覚と認識を混合させたような
ものだろうか、まず、それが感覚、認識されるという考え方のようなのだ。しかも、空間や時間において
それがある、そして、空間や時間におけるそれが我々に与えられる、ということだろう。
315 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 19:10:06
物自体の認識は不可能と言う場合、感性ののことを言うと思います。考えることはできます。
感性というのは五感のことですが、重要なのは、触感と視覚です。味覚、臭覚、聴覚の場合は
、誰もそれで物質の本質が捉えられるとは考えませんが(主観があるから、臭覚、味覚、聴覚
がある訳です)、人間は、触覚と視覚では、物質の本質が分かると考えます。しかしそれらも
否定されている訳です。
或るものが既に経験的なものであるということに、物自体が成り立っている
と思われる。
317 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/22(金) 20:49:07
あるものの質料は、それを認識するためのアプリオリな感性、
カテゴリー、図式が与えられており、それにより、その質料を認識できる。
但し、それが物自体であるわけではない。あくまでも、認識知。
318 :
考える名無しさん:2005/07/23(土) 07:01:15
訂正。カントは物自体について、考えることもできないと言っているのかも
しれません。純粋悟性概念(カテゴリー)が主観の側にあるので。わたしは
これは間違っていると思いますが。
319 :
考える名無しさん:2005/07/24(日) 17:49:29
英訳と言っても様々な出版社から出されていますが、どこのがいいんでしょうか?
一般性とは何でしょう。
321 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:08:35
>>319 プラトンやアリストテレスだと
Loeb Classical Libraryのシリーズが
左ページのギリシア語原文と、右ページの英訳とが、比較対照できて便利ですが、
(例えば
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0674992997/)
カントで、プラトン等と同じように、原文と英訳を対照させて、なおかつ定評のあるシリーズを
御存知の方がいらっしゃれば、是非教えていただきたく思います。
一般の書店の洋書コーナーだと英訳版が多いですが、
英語だけだとどうしても正確性に不安が残るし、
独語だけだと、私の語学力の無さゆえですが、まともに読めるか、不安です。
そこで独英対照版があればいいな、と思っているのですが・・・
322 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:17:05
ない。
>>321 右手に原書、左手に英訳をもって読めやこら!
323 :
考える名無しさん:2005/07/26(火) 20:59:14
>>300 対象の全部をいっぺんに同時に全体として見ることはできんでしょ?
我々感性的存在者がなんらか対象を認識する際には
純粋直観なりを介してしか対象そのものを見ることは出来ないわけで、
そういう対象から時間性空間性を捨象したものが物自体なんですな。
目の前のパソコンはパソコン自体を時空の制約の下に見たものに過ぎないのじゃ。
325 :
考える名無しさん:2005/07/28(木) 23:39:55
>対象の全部をいっぺんに同時に全体として見ることはできんでしょ?
あなた、単に視野が狭いだけじゃないの、俺は見えますが
時間・空間といった感性の形式によらず、いかなる概念的把握も必要なく、
物そのものの本質を一挙に把握できる超人的能力を持つ
>>325が降臨した模様
しかしながら、「視野が狭い」という表現をして空間的な把握を示唆している
のはいかがなものか。 超人らしくない。
物自体とは文字通り物自体のことではないのですか?
我々が視覚で捉えた対象はあくまで光の情報でしかないし、触覚によって得られた情報も
単に表面を触ったことで表面の肌触りや硬さがわかるだけでしかない、と。
これが時間・空間の感性の形式の制限?
そこから推測した対象が概念的把握っていうんですか?
328 :
考える名無しさん:2005/07/29(金) 20:35:47
>>327 それは、安直な二元論だよ。
物の側に立ち、それしかない、と、
認識の側に立ち、それしかない、との両立は成り立たない。
ではカントは安直な二元論からどう脱したのですか?
330 :
考える名無しさん:2005/07/29(金) 20:58:04
徹底して認識の基盤から追求したが、
イデアとしての絶対者を希求している。
しかし、安直には、絶対者が認識に及ぼすことを肯定することにためらっている。
そこが、カントの真摯さだ、と思う。
331 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/29(金) 21:03:01
サルトル辺りになると、即自存在、対自存在、対他存在、というような
カテゴリーを持込み、物自体=人間の死=即自存在は、人間の認識とは異なるもの、
として、人間存在/認識/意識と、物自体との関係を、
棄却(関係性を持たない、と)している。
>>304から引用した
>一、体系的な意義という見方
>『人間は、現象としては自然因果性の法則に従属するが、物自体としては自由の法
>則に従う事が可能となる。ここから、人間の自由は救われると考えられているよう
>である。』
[解釈]
物自体は、現象として考えられると、自然の法則中でも原因と結果の法則に従うもの
である、だが、物自体としては自由の法則に従う事が可能となる。ここから、人間の自
由は救われる、言い換えると、自由になれるのだ、ということだろうか。
現象として考えると、我々は、自然の法則の中の原因と結果の法則、自然的法則の
原因と結果の法則に従っている、だが、物自体は自由の法則に従う可能性がある、
言い換えると、物自体が自由の法則に従うことは救いであろう。
つまり、我々の認識の側から立ってすれば、物自体という概念がなければならない
、あるはずだ、という立場で、観測はできないが理屈からいってあるはずと想定される
ような本性・精神的なもの、でしょうか?
つまり、物の側と認識の側が非対称で、物の側は「ある」と断定することさえできないような
いわば神の世界のようなもの?
だけど、神が居れば道徳が成り立つわけだから、神の証明はバカバカしいが、
神はいるはずだ、みたいな。
最初の3行むちゃくちゃですねwww
すみません。つまり認識の側という確固の立場をまず獲得して、実際にあるかどうかはともかくとしても
物自体があれば自由を得られるわけだからそれはあるはずだ、あるべきだ、という考え、といいますか。
>物自体は、現象として考えられると、
まずこの書き出しからして箸にも棒にもかからない。
超越論的感性論の最初のページを読み直せ、という感じ。
333-334と332は別人です…
「精読スレッド」なのに一読もしてないような奴が長文書くのはどんなんでしょ
>>337 精読の前に一度通読してる感じがしないよね。
初心者が概説なしにいきなり「純粋理性批判」を読むスレ、みたいになってる。
>>339 重複とは言えない。
カントはもっともメジャーな哲学者の一人なので
主著ごとにスレはあってよい。
カント研究者のなかでも認識論・倫理学・美学等で
専門が分かれるという事情もある。
研究者によっては見事なくらい他の領域には手を出さないってことも多々あるな。
全体を考える能力がある。
我々は、全体を考える能力がある、
可能的一般性と他の一般性との関係を考えることが可能だ、
理想的な一般性に規定されるものに関係する。
>>341 俺もカントの純粋理性批判は好きだけど、
カントの倫理学の考え方は好きじゃない。
345 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 01:02:24
>>332 >物自体は、現象として考えられると
物自体と現象の区別は初心者の読みとして最初にクリアしなきゃならないことじゃね?
その意味では
>>304がいい感じにまとめてくれてる
あれを意識して超越論的感性論の空間についてを読めばその区別が段々はっきりしてくるよ
ただしあくまでも参考にして自分で考えなきゃ意味ないが
346 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 13:58:08
ちょうど空間についてを読んでいたのですが、
外的感管と内的感管とはなんのことなのでしょうか。
内的な諸規定に属するものは時間の諸関係において表象され、
外的には諸対象を空間において表象する。
外的には時間が直観されないのは、空間が私たちの内なるあるものとして直観されえないのと同様。
内的状態が魂を直観可能な形式というのはなんとかわかるような気もしますが、
何故内的なものにのみ時間の諸関係が表象され、
外的には時間が直観されないのでしょうか?
347 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 14:41:21
視覚、聴覚などの外的感覚器官は、現在を感覚するだけで、
時間の認識のためには、記憶の想起という内的感覚が必要ということ?
348 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/08/01(月) 14:56:45
>>346 空間は、外的なあるものの「質料」が直感として与えられ、
それを認識するためのアプリオリな感性、カテゴリー、
及び図式が与えられており、それにより、その質料(空間)を認識できる。
一方、時間は、 外的ななにかが、直感としえは与えられない。
このため、それは、アプリオリな感性、カテゴリー、
及び図式を介し、内的な悟性概念として与えられる。
しかし、例えば、鳥が空を飛んでいくのを見るとき、
それが、「質料」の位置の変化として外的な直感に与えられるが、
変化の観察軸としての時間は与えられない、というのも、
アプリオリな外的直感の定義として無理がある。
いっそ、論理的整合性をシンプルにするために、ここで無理押しをし、
一挙的に、時間も外的直感としてアプリオリに与えられる、とカントが明確に書いておけば、
もう少し「純理」は読みやすくなっていた、と思う。
>>346 カントの場合、感官は能力とされているようだ、その能力は感覚器官の能力の意味
で考えられているようだ。
感官は感性において考えられている。感性は二つのものとして考えられているよう
だ、一つは(感覚器官の能力である)感官によるもの、二つは構想力によるものだ。
感官であるが、対象が現に現れるのを直観する能力とされている。この能力は更に二
つに分けて考えることができるそうだ、一つは外官であり、二つは内官だ。
○二つに分けて考えられる感官
内官:人間の身体が心によって触発される感官、
我々の全ての認識が、内官の形式的条件、即ち時間に従うところのもの
とされているようだ。
* 快や不快を感じるのは、内官とは別の内面的な感官とされているよう
だ。
外官:物体的なものの感覚が与えられる感官、
対象を我々の外にあるものとして、即ち、空間において表象する、とされ
ているようだ。
<客観的と考えられる感官> 触覚、視覚、聴覚、
<主観的と考えられる感官> 味覚、嗅覚、
350 :
346:2005/08/01(月) 16:10:51
こんなに詳しくレスしてもらえるとは。感動しました。
みなさんのレスを読んでなんとなくカントの言わんとするところが掴めてきたような気がします。
すると内的感管は悟性の内にあるものなのでしょうか。
フッサールの言う「いまここにありありとある充実した現象」を基盤に外的感管が規定されているのかな。
でも今が過去と未来を全く含まずに捉えられるというのは無理があるような気がする。
とりあえず読み進めてみます。レス下さった方ありがとうございますー。
351 :
346:2005/08/01(月) 16:15:37
あ、感管はあくまで感性なのか。じゃあ悟性とは違ってるのか…誤解してましたすみません
353 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 19:16:04
>>349 >* 快や不快を感じるのは、内官とは別の内面的な感官とされているようだ。
これはどんな感じ?
逆立ちしようとしたら、足から空に吸い込まれていく感じ
355 :
考える名無しさん:2005/08/01(月) 23:50:01
超越論的感性論の第6項のCの時間についての言及が全く意味不明だ…
時間は経験的実体?諸物一般?超越論的観念論?
何が何やら…
時間は主観的に捉える場合には全ての現象が属するアプリオリな条件である。
しかし主観を捨てて諸物一般として物それ自体を観測しようとするならば
時間は何でもなくなり、経験的実在性となってしまう…?
時間が絶対的実在性を持つならば、実在性が
感性的直観の形式を考慮しなくても諸物の固有性と結びつくから?
その面で時間は超越論的観念性である。
何故?時間が経験的実在性?後で実在を否定してるのに…
時間には実在的な面と超越論的な面があるということ?
なんで実在的なんだ?
356 :
考える名無しさん:2005/08/02(火) 00:23:31
わかった!
時間は基本的にはアプリオリだけれど、物自体にあるわけではなく
感覚する条件として与えられているに過ぎないから、
そういう意味では経験的実在性であるって事か!
どうも日常で考えるところに引き寄せてこの部分を考えるには、
概念の形式が時間であると考えられているようだ。
>>283あたりはどうだろう。
358 :
考える名無しさん:2005/08/02(火) 02:59:57
ワロス
構想力
感性 悟性
総合について
感性は構想である、感性は悟性である、悟性は構想である、従って、感性は構想である
感性と悟性は構想である
感性は悟性である、悟性は構想である、従って、感性は構想である
361 :
考える名無しさん:2005/08/02(火) 17:13:47
時間の内的アプリオリ性に対するアンビバレンツが、
カントの最大の弱みだけど、それに対し、
逃げずに誠実に対峙している点が、カントの凄さ。
空間(上下、左右、或るところ)・時間(前後、同時、持続、常住不変)
物自体
現象(表象)
感性(感官、構想力)
悟性(直観、認識)
感性 感官(内官・外官)、構想力(産出的、再生的)
悟性 直観、認識(経験的概念、純粋概念 <純粋悟性、理念> )
感官 内官 身体が心によって触発されるもの
外官 <客観的と考えられる感官> 触覚、視覚、聴覚
<主観的と考えられる感官> 味覚、嗅覚
直観 対象へ直接的に関係する表象を直観という
認識 経験的概念 多様なことに当てはまる概念的な普遍性
純粋概念 カテゴリー表
* 統一、或るところ、或るところにおける他のものは上下、或るところ、
左右によって考えられるのではないか。
___
!ヾ. ̄⌒__ ̄彡|
iミ:::ミC= ≡..::: )
|:::: ″. ´/
|::::: ヽ / /;|
|::: ( ' ( .::;;;|
|::: | ミ .ヽ\|
|::: 丶ヽ ..:ヽ )
|::: .i ! ::;;;;;|
|::: i .ノ . ::;;;;;|
|::: ( ヽ ..::;;;;;|
( \ l. | ..:;;;;;;|
|::\∨丿 ″..:;;;;;|
|::: ( ( ゙ ..:;;;;;|
,,.-‐''"´" ノ ノ ""´"''- 、
/::: ヽ
/::::::: 〇 〇 ヽ
l::::::: :l
.|:::::::.. :|
l::::::::::. :l
` 、:::::::.. (__人__) /
`ー 、;;; /
`'''ー‐‐──‐‐‐─'''""´
感性に与えられた対象、対象は或る概念である、
或る概念は他の一般的概念である、どのような一般的概念があるのか連想しよう。
感性 感官 図式
366 :
考える名無しさん:2005/08/09(火) 19:36:26
私もカントの倫理学は嫌い。
『純粋理性批判』では有効な「純粋」という概念が逆に害になっているような気がする。
漠然としていて、よくわかっていないけど・・・。
関係と同一律
368 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 14:41:33
369 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 14:57:52
「哲学文庫」てのは Philosophische Bibiliothek のことだろ。
Felix Meinerから出てる緑色の表紙のやつ。
370 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 15:08:49
理性のやつめが!
373 :
369:2005/08/24(水) 13:04:55
よく見たら「ビブリオテーク」ぢゃなくて「ビビリオテーク」になってた。
涅槃に行ってくる。
ビブリオマニア
375 :
考える名無しさん:2005/08/25(木) 20:15:10
岩波文庫の3批判はそんなによくないの?俺、ヒキコモリだし金ないから、
もう本買えないし図書館にもいけないよ・・・・
平凡社ライブラリのをかえばいい
377 :
考える名無しさん:2005/08/25(木) 20:48:53
>>376 純粋理性非難だけでも6000円なんて高すぎ。悪文でもそれなら岩波読むよ。
それにお気に入りの哲学者でもないし。
378 :
考える名無しさん:2005/08/25(木) 20:56:56
英語で読めればいいんだが…
379 :
考える名無しさん:2005/08/25(木) 21:06:12
誰か英語の勉強の仕方教えてください
岩波文庫よく言われるほどやばくもないが。
ハンバーガーやサンドウィッチを好きになることから始まるだろうね。
ドイツ語でよめばいい。安いぞ。
383 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 14:51:56
>>377 自分の関心のあるところから読み始めるべきだし、
そうでないと、読んでも腑に落ちず、無駄な時間と金を使うことになる。
まず、上巻か中巻のどちらか1冊を買って読んだあとで、
この哲学者の議論に今後も付き合うべきかどうかを考えればいい。
時間・空間とは何か、あるいは分析哲学にすでに関心があるなら、上巻から読み始めるのがよい。
そもそも普遍的なものはありうるのか、あるいは合理論にすでに関心があるなら、
むしろ中巻から読み始めるのがよい。現に最初のほうでプラトンのイデアの解釈をしている。
下巻は、哲学的にはむしろ補足なんで、どちらにせよ後回しでいい。
(岩波文庫も平凡社ライブラリも巻構成は同じ)
そもそもお気に入りの哲学者でない人の本など、何故読む気になるのかが疑問。
(私はいまだにヘーゲルを熟読する必要性を感じないし、いまだにそれで不足していない)
読まなきゃならないという強迫観念をどこか(この板?)で植え付けられたんだろうか?
>>383 あなたがどのような立場の人間なのかも分からないのに、
「ヘーゲルを熟読する必要性を感じないし、いまだにそれで不足していない」
なんて言われたって、仕方がない。
大学の哲学科の教授だとでも言うのなら、「へー」と思うが、
普通のサラリーマンだったりしたら、そりゃ個人的趣味以外には、
ヘーゲルを読む必要になんか、迫られないだろうし。
385 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 15:25:03
屠殺場の壁がガラス張りだったら、人々はみな、ベジタリアンになるでしょう。
ポール・マッカートニー
「仏教」「地獄絵図」ってキーワードで検索してみてください。
というよりしてほしいと思う。
ひよこはオスだとわかると数十匹袋に入れられて圧迫されて叩き殺される。
食肉される牛は最後涙を流すこともあるらしいです。
片脚を鉄のチェーンで縛られ逆さまに吊るされ、宙に浮く。悲鳴を上げる。
牛は自らの重い体重を支えられず、
吊るされた脚は脱臼し骨がバキとへし折れる音が解体場に鳴り響き、
牛の頭は人間が持ってきた解体する大きなまな板のよな台に首が乗って目は充血し、
パニックになり鳴きつずける。人間はノコギリのような刃物で首に切れ目を入れ、
その瞬間に動脈が切れ大量の血が滴る。。
・・・生きてる鶏を吊るして羽をむしりとり首を切って、
中には動脈でつながり意識ある鶏を熱湯に放り投げフタをする。
俺このサイトみてから改心した。
「牛の作文1、2」ってコーナー見て人間は戦争をやめろだとか
平和を願ってるけど、家畜の動物たちに待ってるのは地獄。
安楽死させてると思ってた。
もしくはガスの中で意識薄れていく中で死んでいってると思った。
だけど、現実はそうじゃなかった。涙というよりショックで肉食べれなくなった。。
人一人がベジタリアンになると80の命が救われるらしいです。
俺は宗教あんま信じてるほうじゃないけどそんなんじゃなくて
普通にベジタリアンになろうと思った。
俺が食べないことで少しでも殺される数が減っていることに
なるならいいやなんて思った。。
グロテスクな映像は見なくていい。命ってなんなのか。文章だけでも読んでほしい。
ここを覗いた人が何かしら家畜たちに対して感じてほしい。
国道16号線を走っていた時、赤信号で止まって前のトラックの隙間から
見えた牛と目が合った。大きな瞳がすごく潤んで見えた。。
それから16年間肉は食べていませんって書き込みに泣いてしまった。
386 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 17:21:44
>>384 どうやら真面目な人みたいだから、念のために書くと
「ヘーゲルは読まなくていい」という、とんでもないことを
>>377に伝えたかったわけではない。
(そもそも、私にそんなことを言う資格はないのだし、ありえない)
でも、関心がないものでも読まなくてはならないのは、
職業哲学者と、その予備軍である学生など、だけ。
ある仕事を職業にしようとする人に対して
「個人的興味が向く以外のことも学べ」と指導するのは当然のことで、
その種の職業的自意識・誇りがあるから、
>>383の書き込みは、
>>377を誤った方向に導く不適当な言い草、
と感じたのかも知れないが、
そんなの、
>>377が仮にそういう立場であったとして、
それが分かった時点で、初めて考えればいいだけの話だと思う。
>あなたがどのような立場の人間なのかも分からないのに、
だいたい、相手の「立場」が分からないと話ができない、とは思わないけどね。
「立場」を気にする必要がどこにある?
相手が哲学科の教授なら、同じ内容でも、私は態度を変える、というのでは、
あなた、すごい権威主義者になってしまうと思うが。
重複じゃないじゃん
>>387 このスレッドが『【Immanuel】 カントだよ全員集合!3 【Kant】』の中に
含まれているものとしてそのスレッドに属するものだ、と言われているのだ
ろうか。でも、それはこのスレッドの外にあるものだ。
どうして重複であるのか。
390 :
377:2005/08/26(金) 21:46:11
>>383>>384 ケンカをやめて〜二人をとめてぇ〜♪
岩波文庫、合計6冊はもう既に持ってるからそれを読みます。どもでした。
カントの考えには興味あるけど、訳文の質はどうでもよかったりするので、
とりあえずがんばって読みます。お騒がせしました。
カントを理解しなくちゃならないってのは、ずばりヘーゲルの精神現象学を
読みたいからです。おしまい。
>>390 ならオススメはカントのアンチノミー論(超越論的弁証論)をそれなりに理解してから、
同じく岩波文庫のヘーゲル「哲学入門」のカントのアンチノミーについてを読む。
ヘーゲルはカントの四つのアンチノミーの真の解決は実はこうだ、と言って
論を展開する。これがカントとヘーゲルの差異を理解する早道。
392 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 13:47:37
>391
へえー。そうなのかな。
超越ということだが、それだからどうなのかだ。
394 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 14:11:39
止揚ならわからないでもないが、超越というとエポケーっぽくなるのだよ
時期は秋になるから、演繹の季節になるのかなぁ。
396 :
377:2005/08/28(日) 19:18:51
カントって童貞のくせになんでこんなに自信満々なの?
感性と悟性の区分にしたって、本人確実だとか言ってるけど、
なんの根拠もないじゃん。それなのに17世紀の哲学者を
独断論者とかいって、いったい何様なのかと。
一方は神の実体であると考えているのだが、
他方は感性から始まることであると考えているのだ。
一方は神から生じた法則に従っていると考え、目の前のことは神の性質である
と考えているのだが、
他方は感性から始まることであると考えている、ということだ。
一方は神に従っているのだが、
他方は感性から始まるということなのだ。
一方は理屈を判らないもに慈悲を与えるのだが、
他方は屈辱を感じるということだ
一方は明白なことから始めているのだが、
他方は判らないということだ。
398 :
377:2005/08/28(日) 21:01:33
神や実体から始める人たちの方が謙虚な件について。
399 :
考える名無しさん:2005/08/28(日) 21:59:50
カントは何でセックルしなかったの?性欲が無かったの?
貧乏だったから働いた。気づいたら婚期を逃してた。
性欲はあったんじゃない?オナニー用の春画かいてたらしいし。
401 :
377:2005/08/28(日) 22:14:48
いかにも性格の悪そうなあの文章は、貧乏からくるものだったのか。
納得。貧乏人はたいてい性格悪いもんだしね。
性格はかなりいいほうだったみたいよ。
博識で社交的な人物で知られとって、食卓では話題が豊富で親しみやすかったらしい。
そういうくだけた場で小難しい哲学の話をするのを嫌悪してたとか。
403 :
考える名無しさん:2005/08/28(日) 22:27:56
カント童貞説はどこから来てるんだ?
404 :
377:2005/08/28(日) 22:30:11
>>403 前に2ちゃんのカントのスレで読んだ。あとレイパールソーの話も。
>>403 未婚って事実とカントの結婚観から来てるんじゃないか?
『法論』によれば結婚は性器の相互所有契約らしい。
性器が結婚によって相互に所有されていない場合に、
性交のために性器を使用することは
相手の人格を「単に手段としてのみ扱う」ことになるからカントの倫理学説にあわないだろう。
>性交のために性器を使用することは
>相手の人格を「単に手段としてのみ扱う」ことになるからカントの倫理学説にあわないだろう。
ワロタ。いや、ホントにそう思ってたのかも知らんけど。
407 :
考える名無しさん:2005/08/28(日) 23:17:16
ニーチェに言わせれば童貞のルサンチマン哲学なんだろうな。
あ、ニーチェも童貞か
408 :
考える名無しさん:2005/08/29(月) 03:40:54
↑釣り?
>>407 童貞とそうでないものとの相違の有無と相違点が有る場合のその特定、
及び童貞を揶揄する意味を定義せよ。
カントと分析哲学の関わりについて教えてください。
411 :
考える名無しさん:2005/08/29(月) 21:40:48
>>407 人類の半数を占める女、それを知らない人間が
何故人倫における普遍的法則を提唱できるのか?
「普遍的哲学者」の感性界における基盤をなすものは所詮、
すべての人間が抱かざるを得ない「仮象」などという高級なもの?では決してなく、
童貞の独断的幻想・妄想の類であった
何度セックスしても全然女がわからないんですが…。
>>411 お子さまだね
セックスをしない=女を知らないってことじゃないでしょ、
415 :
考える名無しさん:2005/08/29(月) 22:30:04
416 :
377:2005/09/02(金) 22:57:08
先験的感性論のところで、悟性の作る概念でも、感覚に属するものでもないものとして
純粋形式としての時間と空間が挙げられてるけど、これなんか綺麗にすっきりさせすぎな
感じしませんか?ここはそういうもんだと思って納得するべき?
カントの物事を整理する能力みたいなのはびしびし伝わって来るんですが、
同時になんていうか、動機のない辻褄合わせの臭いを感じてしまいます。
>>416 >動機のない辻褄合わせの臭いを感じてしまいます。
認識が成り立つためには感性・悟性・理性は
どういうものでなければならないのか、
という観点からカントは論じているので仕方がないと思います。
418 :
377:2005/09/03(土) 12:40:40
>>417 経験論と観念論をくっつける糊みたいなものだから、そこの部分は譲れないのかもね。
感性の領域にもアプリオンな形式があるってことが、ヒュームと違う重要な点なのかな。
ってヒュームが何言ってたのかなんて知らないけどw
カントを読んでいて、なんとなく肌に合わないと感じるのは
>どういうものでなければならないのか
っていう議論の進め方。哲学書は、観念と実在の関係を必死に追う姿みたいなのが
見たくて手に取るんだけど、カントにはそれがあんまり感じられないというか。
頭の良さしか伝わってこない。カント好きな人って何が楽しくてこれにはまるの?
『日本の朝食は味噌汁とご飯でなければならない』ということが、
味噌やご飯やワカメがあるからだ、ということで説明できるのか、
というような関係についての話なのだ。
○『或る概念について一般に肯定され、もしくは否定せられるものは、この概
念に含まれている一切の特殊なものについてもそれぞれ肯定せられ、もしくは
否定せられる』
○『或る一般的概念に含まれていないものは、この概念のもとに包摂せられる
全ての特殊的概念にも含まれていない』
これどうよ。
>>421 個物は一般性が含む関係にある。この場合には、個物は一般性が含むとなると、
一般が肯定されると個物についても肯定される、或は、そのものが否定である。
だが、個物は一般性が含む関係にあるとしても、一般に含まれないものは、この
概念のもとに含まれる個物に含まれていない、という現代的ように現代的に解釈
した。
特殊的概念は普遍的概念よりも多様な概念だということであり、普遍的概念が
或る事において考えられると、普遍が特殊に関係するのか。何が包摂や基礎にな
るのだろうか。
423 :
考える名無しさん:2005/09/14(水) 16:50:54
最近カントの純理(岩波文庫 篠田訳)が猛烈に速く読めるようになった。
下巻に入ってからだけど。なんかうれしい。
424 :
考える名無しさん:2005/09/14(水) 16:55:22
岩波篠田訳を読んだら高峯一愚訳にゆくぞ。
だれか天野訳読んだ人いますか?すごい訳らしいが興味ある。
経験者教えてください。
425 :
考える名無しさん:2005/09/14(水) 17:01:58
純理を読んで宗教に対する考え方が少し変わった。
いいですね人間の認識能力の限界とか。
ハイデガーの確か純理の講義録があったような、それ読みたいのだが。
426 :
考える名無しさん:2005/09/14(水) 17:25:12
ハイデガーのカント講義録って
「第二版の純理のカントは腑抜けやがった。いらつくぜえ」みたいなやつだったっけ?
427 :
377:2005/09/14(水) 20:27:04
原則の分析論読んでたら、やっぱりこのおっさん凄いかも?!と思った。
童貞の先入観で舐めてたの反省。
ところで、ウィトゲンスタインの哲学探究の前半は規則がどうこうって、くどいぐらい
いろいろ語ってるけど、あれはカントをちゃんと踏まえておかないと分らない議論だったのですね・・・
428 :
考える名無しさん:2005/09/15(木) 05:00:39
>>426 講義録は読みやすいみたいだけど、そんなにくだけた感じなんですか?
童貞舐めんな。
430 :
考える名無しさん:2005/09/15(木) 08:28:48
すいません、明後日テストなんですが
プロレゴメーヌの2部の18パラグラフの注釈お願いいたします。
訳語が分からないのですが、経験判断?(客観的)と知覚判断?(主観的)、
による経験?ここら辺をお願いします。何ならカントの言う経験(これが
テーマ)についてもお願いします。
無限と無制限は比べて考えることができるだろうか。
無限と無制限は、超越的なもののようで同一であるようだが、
無制限は感性において制限がない事実的なことに関するものであり、
無限は理性が関するものとして、それぞれ違うようだ。
このような使いわけをしているようだが、どうでしょうか。
432 :
考える名無しさん:2005/10/01(土) 21:19:42
これはどうしようもないくそ本だな。
これを有りがたがるやつは頭がおかしい
433 :
考える名無しさん:2005/10/01(土) 22:33:06
430
認識の消極的受動的条件。
俺も糞だと思うけど、有りがたがるやつがいること自体はなんとなく理解できる。
対象が感性と悟性としてそれぞれの法則に区別される、という誤り。
>>435 それは便宜的な区分だろう。そんなものには大した意味はないんじゃ。
437 :
考える名無しさん:2005/10/03(月) 17:43:45
という事は純理自体に意味がなくなるということではないか・・・?
よく分らんが、物自体といい始めた時に、もう単細胞的な
真理探究の道は諦めたってことなんじゃないの?
感性とか悟性なんてのは実体としてあると見るのは間違いじゃないのかと。
まだ読み途中なので適当ですが。
感性も悟性も実体じゃないだろ
実体はちょっと使うべき言葉じゃないか。実体的とでも言っとけばいいのかな。
441 :
考える名無しさん:2005/10/05(水) 00:44:49
いま超越論的感性論だけど、それなりにすごいのは分かった。
しかし何か分裂病っぽいな
>>441 空間から始まる認識が感覚に起源を置いていて、感覚以外にもあるのか
が認識論の後半に響いてくるわな
主観的根拠が客観的根拠に影響を与えて、起源を混同させている
誤謬なんてのは誰も言わないので言ってみるテスト
困難な部分があると、それを解決しようと考える。
傷があると、傷薬を塗ると考える。
その傷に適した治療を行うのだ。
そして、
一部分が、全てを代表して考えられることがある。
腕は傷が付いている。
傷があると、傷のある腕であると考えることがある。
傷は重症である。それ故に、腕は重症であり、
傷のある腕は重症だと考えるのだ。
傷ということが、腕の全体を表している。
そして、
傷が重症であったり、傷は治療が必要だと考えることから、
腕が全く重症だと考えられることがある、
傷は深くとも、それを含むことに関係があるのだろうか、
例えば、針のように深い傷であっても、腕は動くことがあるし、
脳の一部は体が動かなくなることがある。
一部のことが全体であると考えられる。
だが、
傷は腕に付いている、つまり、腕は傷を或る部分に持っている、
傷ということが治療が必要であるが、それを含む腕は治療が必要であると
考えられているのだろうか。傷が治療が必要であることから、腕の全てが
治療が必要であると推論されることがある。
腕は大丈夫であるのか、ということが考えられる。
>>444 傷のある腕は、腕の全てが傷付いている、腕のあるところが傷ついている、に区別し得る。
腕が傷だらけである、腕のどこかに傷がある、ということだ。
物自体は主観的なものである、主観は私が認める明らかなものである、
そこで、物自体は私が認める明らかなものであるのか。
私の判明で考えると、物がそれ自体知り尽くせないと思われるのは明らかだ。
主観で考えると、ここまで判るようだ。
447 :
考える名無しさん:2005/10/15(土) 21:46:11
自家本の訳本ってありますか?
わざわざ自家本を引用してる研究者がいるけど、
A・B版とどういった違いがあるのかな・・・
弁証法が矛盾であるのか。
どうしたら纏まると思う、どれが絶対的だと考えるのか。
449 :
考える名無しさん:2005/10/17(月) 13:39:26
>>412 カント哲学に登場する、あの有名な「物自体(ヌーメノン)」という概念が
俺にはどうしても「女性一般」の存在とダブってしまう。カントは人間には
想像はできても認識できない不可思議な「経験的認識を超えた存在」があって
それを「物自体」と名づけた。カント哲学に唯一ロマンチックな側面があると
すれば、この概念こそそれだと思う。同時代のゲーテ『ファウスト』では、逆に
カントの「物自体」のような中心存在としてマルガレーテ、ヘレナが登場して
最後に「永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ」と語られる。
たぶんカントの弟子を自任したショーペンハウアーはこの点に気付いていたと
推測できる。というのも彼はカント的な「物自体」は認識できる「意志」である
と宣言しているから。ここで言う「意志」とは「性欲」の別名だ。19世紀的な
ロマン主義は「女性」を軸に哲学者や文学者に模索させた思想潮流だったね。
>>449 「ヌーメノン=女性一般」は同感(同意ではなく)だが
それをロマン主義には結び付けて読みたくはないな、個人的には
岩波の純粋理性批判って結構わかりやすいじゃん。評判悪いからどんなに酷い訳かと思ったら。
あれが難解だったらウェーバーの”プロテスタンティズムの〜”なんかどうなる。
452 :
考える名無しさん:2005/10/22(土) 06:29:18
>>451 なんか誤訳があるらしい。中島義道の本に書いてた
453 :
考える名無しさん:2005/10/22(土) 07:40:24
いま読んでいるところだが、誤訳云々は別として
篠田訳は文章がコンパクトでリズムがあって読みやすいと思う。
この手の本で何が嫌かといって、用語を平易にしようとするあまり
文章がだらだらと妙に間延びすることだ。
間延びした文章の小理屈はホント始末に負えない。
『純粋理性批判』については
もう平凡社ライブラリーから優れた邦訳が出たのだから、
わざわざ篠田訳なんぞで読まんでいいよ。
>>455 平凡社ライブラリーだぞ?
高くない。一冊千円代だ。
あれが高いだなんて・・・
458 :
453:2005/10/22(土) 14:02:33
原文の統語構造の正確な再現に努めた原訳が優れている、という評価は
うなずけるけどね(原書と対照して読んでいくには最高の訳かもしれない)。
篠田訳については「読みやすさ」の点で優れていると思うが、
意訳が多いのがちょっとひっかかるところではある。
ところで、指摘されている誤訳はどのへん? 教示乞う。
459 :
考える名無しさん:2005/10/22(土) 16:39:28
>>458 誤訳といえば誤訳かもしれんが・・・
例えば人称代名詞「sie」を、「理性」(女性名詞)、あるいは「Vorstellung」
「表象」(女性名詞)のどちらかということで間違って差し示している個所は
原書よめば解る。
460 :
考える名無しさん:2005/10/22(土) 17:34:37
カントは本当に恒久平和を願っていたのだろうか?
一般人にわかるように書いてくれんと意味ねえーよ。
批判本もも少しわかりやすく書いてもいいと思うがね。
何で哲学って難しい言葉と言い回しを使うのですか?
>>458 「読みやすさ」の点では篠田訳などよりも
以文社の宇都宮訳の方が遥かに優れているであろう。
いいかげん篠田訳に頼るのは止めた方がいい。
>>460 カントは別にスローガンを掲げて練り歩くような反戦主義者でもなんでもないからだろ。
空間は存在を含む。
>>461 以文社版は読みやすいよね。図書館で借りて読んだ。
以文社っていうのは本文に要約が挟み込まれているからじゃないの?
466 :
考える名無しさん:2005/10/23(日) 19:43:17
要約はあまり意味ない気が・・・・・
467 :
考える名無しさん:2005/10/23(日) 19:49:17
本人には意味がある気がするが。
468 :
考える名無しさん:2005/10/23(日) 22:26:07
著者本人
要約する人その人。
470 :
考える名無しさん:2005/10/23(日) 22:56:09
471 :
466:2005/10/24(月) 09:46:18
純粋理性概念
純粋理性概念は推論から得られた概念である。
対象を認識するものは悟性だ。
悟性的概念が或る概念であると推論することが理念だ。
理念が或る統一であると信仰することが宗教なのだろうか。
宗教が或るものだというと最高の原理になるのかね。
カントの理性宗教はいかなる意味でも宗教じゃない
結局、物自体がああだこうだと言ってしまうのか・・・
475 :
考える名無しさん:2005/11/03(木) 19:24:20
精読スレって・・・
476 :
考える名無しさん:2005/11/05(土) 23:58:16
カントは「純粋理性批判」の最終結論で彼自身が敷いた
「批判の道」を読者がさらに進むなら今世紀(18世紀)が
終わるまでの間に人類がこれまで失敗してきた人間の知識欲の充足
という理想を満たせるかもしれないという趣旨の事を述べていた。
カントはヘーゲル哲学を知らずに死んだが、もし生きていたら
ヘーゲルは彼の後継として彼自身から認めてもらえただろうか?
ヘーゲルのつもりでは「純粋理性批判」の結論は「精神現象学」での
「絶対知」把握でとりあえず人類史の終結を見たことになっているんだが。
477 :
考える名無しさん:2005/11/06(日) 14:00:36
>>476 だ・か・ら・それを自分で考えるのが哲学
>>476 あんた「純粋理性批判」も「精神現象学」も読んでねーだろ。
479 :
学生さんは哲学する:2005/11/06(日) 15:52:59
みなさん平凡社版のやつって、はじめて読む時第一版と第二版両方とも読んでからつぎのにすすんでますか?
平凡社ライブラリーの純粋理性批判 上巻を買ってみた。
事項索引が下巻にしかついてないのが惜しい。
481 :
考える名無しさん:2005/11/10(木) 15:13:10
>>479 諸言は、A版・B版をそんなに比較しなくてもよし、
純粋悟性の演繹論は、かなり慎重に読み比べるといいのでは?
演繹論は俺的には一番重要な個所だと思う。
岩波文庫版でも、A版の演繹論は「下巻」の最後に付録として
書かれているので、ご心配なく
482 :
考える名無しさん:2005/11/13(日) 17:31:02
今日、感性論読んだ。素朴でいいなぁ
時間としての「こころ」と空間としての「身体」、心身二元論
483 :
479:2005/11/13(日) 22:46:06
>>482 僕も感性論まで読んだんですが、
感性論における空間論と時間論って心身二元論として解釈されることが多いんですか?
どちらも純粋形式として主観なしには存在しないという点ではそう単純に割り切れたものでもないと思ったんですが…
解説書などを読んだことがないのでどういう解釈が一般的なのかわからないですが…
484 :
考える名無しさん:2005/11/13(日) 23:37:49
/:::::::|/::::::::::| ...|:::::|.i::::,,,---::::::::i:::::::i::::||:::iあっははは! なあに? この変なマンガ本の山は?
:|::::::::::::::::::::::i...ii .i::::::ii::/.,,─-,,"ヽi:::::::i:::ii:::::|「おにいちゃん、もうダメッ……!!」って、何これ?
:i::,,-""""-::::i..i:i |:::::::::::.i .. i...i:::i:::::i:::ii:::::iあんた、いつもこんなの見て、その粗末なモノを一生懸命こすってるの?
i:i .,-""..ヽ::::ii:::i ..i"".. "..,,__丿ヾ:i::::i:::ii::::::|道理でイカ臭いわけだわ、このマンガ本。ページもガピガピだし。
i,,i | ..|." ...i i ...i::i::::ii::::::|どうせあんた、現実の女と寝たことなんてないんでしょう?
i::",,,ヽ ,,/ ii ....i:::::i:::::::|こんな子供の裸見てオナニーなんて、人間として恥ずかしくないのかしらね。
::::::::"" i ...|::::::::::::::i……あら、どうしたの。私に罵られて勃っちゃったわけ?
:::" ..ヽ::::::::::::: i::::::::::::::|幼女趣味だけじゃなくて、そっちのケもあるの? サイテーね。
ゞ :::::::::.,,, --,," ,":::::::::::::|そんなサイテーなあんたは、せいぜいそこで一生しごいてなさい。え、何?
-".,, --,,," ./ .,"::::::::::::::::l私にやって欲しいって? あっはははは、冗談でしょ? 私が? あんたのを?
::|::::ヽ ."- .-"::::::::: /::::::::::::::::::::|誰がそんな汚いチンポに触ると思ってんの? 寝言は寝てから言いなさいよ。
::::i::::|:"--.,.,,, :::::::::::::::::::::::::/:|:::::::::::::::::::::::iこうして見てあげてるだけで有難く思いなさい、ロリコン童貞!
::::::::::::::::::_,r-┤"--.,,,,,:::::::::::,-":::├、,:::::::::::::::::::lほらどうしたの。さっさと出せば? いつもやってるでしょ? あっははは!
486 :
考える名無しさん:2005/11/14(月) 00:36:36
>>485 ないとも言えないよ。素朴じゃないかも知れないし、確立された学説ではないけど。
>>482 空間と時間は、単なる直観の形式じゃないのか?
488 :
考える名無しさん:2005/11/21(月) 20:35:49
高峯一愚訳の純理、普通に日本の古本屋で500円で
ゲットしたぞ
489 :
考える名無しさん:2005/11/22(火) 08:30:01
>>487 空間は外官、時間は内官。だから前者は物質、後者は心と繋がりがある。
490 :
考える名無しさん:2005/11/22(火) 10:20:56
>>489 空間は時間に依存するから、物質である空間は心と必ず繋がりがある内官に決まっている。
491 :
考える名無しさん:2005/11/22(火) 10:32:52
>>490 空間が時間に依存するというのはどういう訳で?
外官を通した認識も内官を通して自分のものとなるといいたいのでは?
494 :
考える名無しさん:2005/11/22(火) 22:48:24
>>492 いや、内官を通しちゃったらまずいでしょう。
それだと、外官で感じるべきものが、内官で感じるものに
変化してしまうんじゃないですか?
495 :
考える名無しさん:2005/11/23(水) 16:46:47
>>494 まずくはない。時間の優位、内官を通じなければ外官は成立しない。
「わたし」と思う「わたし」がなければ、いくら空間が存在したとこれで
それは無に等しい。空間を空間と認識するわたしがなければ
空間は存在しない。
逆に空間は時間から独立できない。
>>495 そうすると、内部感官から得るものと外部感官から得るものの区別は
どうなるんでしょうか。
497 :
考える名無しさん:2005/11/23(水) 18:47:59
>>495 カントは空間を「存在物」でなく、認識者の「表象の形式」と
しましたから、認識者である「わたし」がないのなら、
空間はない(存在しない、というよりも)のではありませんか?
498 :
考える名無しさん:2005/11/23(水) 18:56:46
唯心論じゃないけれど495,497の言うように
主体としての「わたし」がなければ認識は始まらない。
主体をこころとすれば、内官=時間=こころ、と言える。
>>496 内官と外官をどう考えてるのか気になるな。簡単に言うと、
内官は時間の感覚(私という感覚)を得るものね。時間のかたち(Form)を与える。
外官は視覚聴覚等々の感覚器官。空間のかたちを与えてくれる。
自分の個々の感覚器官がいくら正常に機能してても得られた刺激を
一連の時間の経過として私の中で感じられ(←ここが内官の働き)なければ意味がなくなるでそ。
だから空間的な感覚的認識も時間のうちに包摂されるというわけ。
内官はあくまで内部感覚だから、それによって見たり聞いたりすることはできない。
ある瞬間と別の瞬間がつながっているって感覚なのね。
失明したり聴こえなくなったりしてもそういう感覚はなくならないでそ?
だから内官からえるものと外官からえるものとの区別は判然としたまま。
500 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 15:33:22
500ゲト
501 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 16:32:11
>498
<主体としての「わたし」がなければ認識は始まらない。
主体をこころとすれば、内官=時間=こころ、と言える。>
内官=時間は先験的なものではなく、経験的総合判断でしょう。
また、「=こころ」とすると、先験理性の枠を超えてしまう。
先験理性の構造、成り立ちを説明するまでであって、
「こころ」は、もし、これを「私自身」とするならば、
これは、先験理性の及ぶところではない。
502 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 18:32:22
>>501 時間は、おもいっきり「先験的」なものだぞ。
なんで経験的綜合判断なの。ぷっ
503 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 18:36:18
>502
カントの誤謬。
時間はアポステリオリな経験知。
504 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 18:37:37
「純理」はもとより批判書なのだから、
読む側も絶対視しないで批判的に読まないと迷宮入りするよ。
505 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 18:38:54
上の方のレスで、この点については書いてるよ。
読んどいてね。
506 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 19:08:44
粘着質出現
507 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 20:23:17
>>505 何番のレスか教えていただけませんか?
500以上もあるレスから探し当てるのは大変なので。
もしくは、ご面倒ですが新たに要点を書き出していただけませんか?
508 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 20:51:14
509 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 20:56:15
>>504 貴方の言い分はよく理解できません。ひとえに私の頭が悪い
せいなのでしょう。
あくまでここは「純粋理性批判精読」スレであって
カントの視線で純理をよむことを目的としています。
ですから「批判的」(貴方の言う)な読み方は各自自由でしょう
けれども、なにか副次的な資料で得たような小手先の
理論を発表されたいというお気持ちがあれば、blogなり
新スレをお立てになったらよろしいかと存じます。
510 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 21:11:37
>509
「純理」を読み、何年かすると、距離を置いて考えることもできるようになるでしょう。
ひたすら、忠実に純理を精読する時間は非常に貴重だと思います。
但し、批判精神を捨てて読むことが、必ずしも「精読」でもないと思いますが。
ま、哲学の読み方は、基本はあるでしょうが、
それ以降は、各自の解釈で宜しいのではないでしょうか。
511 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 21:15:56
蛇足ながら、私は、「教壇哲学」というものを知りませんし、
また、学者でもないのですから、それに拘束されたくもありません。
但し、哲学の大衆化はもっともっと必要であると考えています。
このスレは、教壇哲学を「習う」人だけのスレだとも思っていません。
それゆえ、いろいろと書きこみを続けています。
それだけです。
512 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 21:29:15
>>509 <カントの視線で純理をよむことを目的としています。>
↑
大きなお世話でしょうが、「カントの視線で純理を読む」のは、
「カントを読む基本姿勢」ではないと思いますよ。
「自分なりに考えながら読む」、というのが基本だと思います。
輪読の時間も、喧々諤々と解釈を出し合わないと、面白くないのでは?
そうでなければ、ひとりで読んでいればいいわけですから。
ま、門外漢がいろいろと言いますが、お気になさらずに。
513 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 21:39:32
お気になっておられるのは貴方のようですね
514 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 21:41:23
>513
いかようにも解釈してください。
私があなたをどのように解釈しようが、その逆も、すべては自由ですから。
515 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 21:49:40
もしかして池田信者?
516 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/24(木) 22:01:10
>515
すべての「原理主義」にからめとられぬよう、ご自愛のほどを。
517 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 22:27:08
ありがとうございます。よくお眠りください。
おやすみなさい。
518 :
考える名無しさん:2005/11/26(土) 17:27:27
カントと俺はどっちが基地外ですか?
お前
うわーーーーーーーやっぱりwwwww俺かなりやべーーーーーーーーー!wwwww
カントより基地外なこと書くとやっぱりかなりバカにされますかね?
カント(純粋理性批判)理解しちゃった俺って…やっぱ基地外?
原因結果の法則って結局ライプニッツのことなの?
普通の因果律だろ
ライプニッツの因果律をカントの枠組みに取り込んだって
ことだと思うけど?
525 :
学生さんは名前がない:2005/11/27(日) 19:20:59
また質問なんですが、カントの第一アンチノミーから
アキレスと亀のパラドクス連想したんですが、この連想は的外れでしょうか?
526 :
考える名無しさん:2005/11/28(月) 12:15:49
我々の表象のもち得る一般的な関係
一、主観に対する関係
二、客観に対する関係(更に、客観は現象としての客観、思惟一般の対象としての客観に区分される)
*再区分
一、主観に対する関係
二、@現象における多様な客観に対する関係
Aあらゆる物一般に対する関係
純粋概念と純粋理性の反対
純粋概念は全ての表象の総合的統一をすることを旨とする。
純粋理性の概念は一般にあらゆる条件の無条件的、総合的統一を旨とする。
我々の表象がもち得る関係は主観、客観に対する関係だ。我々の表象のもち得る関係と理念を考える
と、我々の表象がもち得る関係に、あらゆる条件の無条件的、総合的統一を与えることが考えられる。
我々の表象の区分は三種類であるから、先験的な理念も三種類になるとされる。すると、先験的理念は
下記の三種類の絶対的(無条件的)なものを求める考え方になるとされているようだ。
一、思惟する主観は心理学の対象(理性的心理学)
二、@一切の現象の総括は宇宙論の対象(理性的宇宙論)
A一切のものを可能ならしめる第一条件を含むところの物は神学の対象(先験的神学)
529 :
考える名無しさん:2005/11/29(火) 16:54:23
<<528
もっと噛み砕いて説明してください
>>525 むしろ第二アンチノミーでないかい?(分割に関するやつ)
ギリシャあたりから続いている形而上学的な問題をカントがこの辺りで意識してるのは
確かだから君の連想は的外れではないと思われ。
531 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 16:59:27
あげ
暇だがね
純一、名古屋弁か?
暇だがね ,;-‐-、
,;-‐'゙、^:^ー、. i' / ;' ;゙゙ヽ、
/ 、 r、.゙:、゙i ヽ! ┬ `'゙゙、/_r ヽ、
/ i゙ー'^ー'‐'‐' ,,-−'' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄''−,,, `i ゙:、
/ ,;! / :ィ≠ミヽ) f ィ'下:::テz_ヽ | ゙:、
. / ,;: | r' iノjr1` i;; i ヾで辷ノ ヽ. | ゙i
/ ;;'_,! :::r'7 ::. ヾ=' ''=-=''' ^ ̄´ ヽ.. _,! ゙:
.,ノー‐‐'''''" ゙7'ー :| :: _―‐ 、,,_,,----.. ゙) ゙; ⌒`i::゙ヾ、___,,!
i'::::::ヾ;;:::::::: ゙: ヽ`l /´ _..,, _..、丶 /,;i' :::::::::::::;;ノ
.゙ヾ;;:::::゙、::::; ミ ヾ,l 丿 / ! i` T"i ! i ヽ ヒ -''゙ 彡 ::::::;;;/
/// `゙゙゙''ヾ;;!_ 彡 "l,_l 丿 /‐'" ̄ ̄ ̄`'''ヘ i ゙レr゙,, ミ -‐'" \\\
. ,´::::::::: ヽ":/ _../ ゙、 `−,_i ,!、":::::::;;ヽ、
\\\ /`-_::、N l :゙、 `、,-−‐-;,.,;−‐ー,,′/,フ ノ (::::::::::;;;;;-ミ、 ///
" ,,゙ i |_i" ゙、 ゙、 / / i l" i´ ', i,,
.i ":::: / | ヽ i / / .|'" ヾ ゙,, i,
i :::/ .{ i 工エェェエ工 / | \ '; _i
_/," :::/ '、 ゙l; : ゙ー 、,,_____,,....‐''´, ノ '、` _ ̄,⊃
_,,=='´ "::::,' / \ ゙l;: ,,_;,ノ \ ヾヽ ':;ヽ
,と二_ ,ノ / /`''-、`'ー--─'"-ヽ、 ヽ
>だがね
名古屋弁ではないがね?
暇だがね
暇だがね
540 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 22:38:33
連投明け
541 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 22:40:18
名古屋弁じゃねーのか、そーか。
そうかな?
544 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 22:43:52
純一は連投規制ないのか?
ぴかぁ〜もミスターXも連投規制がないがね
暇だがね
帰ってきたがね?
名古屋弁ではないがね?
550 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:04:04
連投明け
551 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:04:34
なんで規制ないの?
554 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:06:26
運営に報告されたと聞いたが。
555 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:06:44
何で生きてるの?
暇だがね
暇だがね
560 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:13:48
概吉だな。
誰かね?
563 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:25:13
純一はもう落ちたか
566 :
◆t5eP81M5/k :2005/12/08(木) 23:30:11
てす
明け。俺もう寝るよ、純一
23 名前:考える名無しさん :2005/12/08(木) 23:31:40
氏ねじゃなくて、死ね。キチガイ。
24 名前:考える名無しさん :2005/12/08(木) 23:33:28
ほっといてやれよ
22 名前:考える名無しさん :2005/12/08(木) 23:11:22
>>19 病気じゃないの?
対戦負けてないので、
引退できないのですがね?
573 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:39:37
惨めな奴だな
どうなのかね?
576 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 23:48:58
空気←これ読んで
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/12/08(木) 23:18:47 ID:1x9ibgUa0
どうしても読めないんだよ
2 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/12/08(木) 23:19:30 ID:coetjcX30
うんこ!!!!
3 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/12/08(木) 23:46:37 ID:1x9ibgUa0
フゥーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
4 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/12/08(木) 23:46:55 ID:uC+DseEL0
ピョピョピョピョpypypy歩世pyピョーーーーーーーーーーーーーー!!ウワンノぬぬ
5 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/12/08(木) 23:47:08 ID:Yi/P4h4s0
air
6 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2005/12/08(木) 23:47:20 ID:j1mPxr1/0
>>5 あーのーうーみー
どうなのかね?
暇だがね
582 :
考える名無しさん:2005/12/09(金) 22:35:02
↑
またまた出てる暇で頓馬なタン純一ってか。
ちょっかい出すなヴォケ
純一さん、さすがにマジメに運営してるスレに関係ないことを書くのはやめてください
なんでわざわざ呼び込むんだ
氏ねよお前
反省 反省は与えられた表象が我々の二つの相異なる認識源泉に対するそれぞれの
関係の意識である。
* 我々の認識の源泉は感性と悟性である、概念の認識源泉の所属を区別す
るということ。
概念が心意識の状態において対になり得る関係の場合
@同一と相違 A一致と反対 B内的なものと外的なもの C質料と形式
* これらの四つの組み合わせがある
客観的判断を構成するに先立つ判断のための概念を比較
@ 同一は全称 相違は特称 A 一致は肯定 否定は反対
(B 内は定言 外は選言 C 質料は現実 形式は可能)
書いてないので予想を書く
*B我々の悟性と感性の能力の区別を考慮して、悟性は定言的関係である、対象を
含むことを考慮して感性は受動の選言的関係である、感性は現実的様相である、
悟性は可能的様相であると考えたからだ。
@ 同一は悟性の対象とみなされる限り、同一の内的規定で現れるものである。
相違は感性の対象とみなされる限り、数的相違を示し、一つの物ではない。
A 一致は悟性の対象とみなされる限り、実在は一致である。
反対は感性の対象とみなされる限り、実在は反対である。
B 内は悟性の対象とみなされる限り、悟性の対象と異なるものと関係をもたない
ものが内である。
外は感性の対象とみなされる限り、空間における現実的実体の内的規定は全て
関係である。
C 質料は悟性の対象とみなされる限り、規定せられ得るもの一般である。
形式は悟性の対象とみなされる限り、規定せられ得るものに対して規定するも
のである。
現象には、それ自体現象ではないような何か或るものが対応しなければならない
現象は我々の表象の仕方をほかにしては存在し得ない
589 :
もうすぐ試験:2006/01/10(火) 02:41:45
はじめまして。もうすぐ大学で哲学の試験があるのですが、
ノートには
特称命題・全称命題
↓
カテゴリー12の形式
って書いてあるんですが、この関係がわかりません。。
検索してもどこにも書いてなくて困ってます
この語句を使って文章にしたいのですが、
どなたか教えてください!!
>>589 今、手元に『純粋理性批判』ある?
もしあったら、Tの第二部門の第一篇の第一章の、
「第二節 判断における悟性の論理的機能について」読んでみ。
岩波だと、上の143ページ。
あと、検索したら「純粋理性批判に関する私的覚書D」ってとこがヒットしたよ。
もう消えてるみたいだから、ぐぐってキャッシュで見てみ。
論理学の学習経験があるので、判るとすると、
それはア・ポステリオリだ。
>>589 問題の全ては、特称命題・全称命題→カテゴリー12の形式であるのか。
これだけのものは関係が無いようだから、関係はいくら考えても判らない。
先ず、問題があることで、我々が経験するようだ。
594 :
もうすぐ試験:2006/01/10(火) 14:19:23
>>590 『純粋理性批判』持ってないんです。。ごめんなさい
調べてくれてありがとうございます!!
>>591 ヒットしました!!でもぐぐってキャッシュってどうやるんですか?
素人ですみません。。教えてください
>>592 ア・ポステオリってア・プリオリの反対語の
「生まれつき持ってない」って意味ですよね??
>>593 関係がどこにもでてないんですよね。。
使ってるテキストには特称命題、全称命題って言葉すら出てこないんですよ。。
教授が説明でただ使っただけなんでしょうか。。
「元々持っている12形式のカテゴリーの中に特称命題、全称命題など経験的なデータをいれる。」
って文章はおかしいですか?
なんか無理やりですけど・・・
>>594 まず『純粋理性批判』を図書館で借りてくるか買うかして
入手しなさい。話はそれからだ。
597 :
もうすぐ試験:2006/01/16(月) 21:27:04
教授に質問したら、意外とあっさり教えてくれました。
今は試験前でゴタゴタしてるので、今回はとりあえずこれで納得したことにしたいと思います。
試験終わったら『純粋理性批判』買って読みたいと思います。
ありがとうございました。
598 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 16:23:23
U「純粋理性批判」
難解さのゆえん
この本が世間で難解と思われるのは、カントの著述の方法が原因であろう。
1783年8月16日付のモーゼス・メンデルスゾーンあての書簡で、彼はこう
述べている。この本は「少なくとも12年の間私の心を占めた熟考の結果です
が、私はこれを4,5ヶ月足らずで大至急完成しました。内容には細心の注意
を払いましたが、解説とか読者の容易な理解を助ける点にはほとんど意を用い
ませんでした。 − この決定を後悔したことはありません。もし反対に時間
をかけて遅らせ、より通俗的な形式をとるとしたら、おそらくこの作品は完成
を見なかったでしょうから」
明快にするには時間がかかる。カントはそのような時間はないと確信した。
彼は実例によって本がふくれ上がらないよう、それを故意に省略した。「それは
一般の見地からすれば必要だが、この仕事は一般の読者向けに行なったものでは
ない」。そのため彼は仲間に手紙を書き、第三者に理解しやすく解説してくれる
よう依頼した。クリスティアン・フォン・ヴォルフは彼にドイツ語で哲学を書く
よう説いていたが、その言語はまだ未熟でさまざまの思想を表現することができ
ず、術語もはっきりと確立されてはいなかった。カントはほとんどすべての段階
で、ラテン語の術語のドイツ語訳を考案しなければならなかったし、多くの場合
はラテン語でさえ、彼が望む微妙な区別を表す言葉に欠けていた。彼は古い言葉
に新たな意味を加えたり、ときには再定義したことを忘れたりして読者を混乱に
陥れた。初めの百ページはそれでもすっきりしているが、残りの部分は哲学の
大火災とも言えるもので、教育のない読者には煙以外に何も見えないであろう。
ウィル・デューラント『世界の歴史31』
599 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 16:52:36
U「純粋理性批判」(続き)
題名も明快さに乏しかった。「クリティーク・デア・ライネン・フェルヌンスト
(純粋 理性 批判)」という題名が、経験から独立する理性の批判的な研究を
意味するということが、だれにわかるであろうか。「クリティーク(批判)」とは
分析と説明を意味するだけでなく、ギリシャ語の原語が「クリネイン(判断する)」
にあるように、判断をもあらわしている。カントは感動、認識、観念、理性などに
ついて触れ、それぞれの適切な限界と管轄権をきめようと提起した。さらには
理性が、確証的な経験から分離した知識を与え得るという点もあかそうと望んだ。
たとえば六掛ける六が三十六になり、結果には原因があるというような知識である。
それらは「純粋理性」−すなわち先験的知識−、すなわち経験によって証明を必要
としない知識の実例である。「先験的諸原理に基づく知識力が純粋理性と呼ばれる
もので、その可能性と限界を全般的に研究することが、純粋理性の批判である」。
カントはそのような研究が形而上学のあらゆる問題を網羅すると信じ、この「批
判」で「解決を見なかったり、解決に当たって少なくとも“鍵”を与えられなか
った形而上学はただの一つもない」と確信した。唯一の危険は「論駁されること
ではなく、理解されないこと」だと彼は考えた。
ウィル・デューラント『世界の歴史31』
600 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 16:59:04
600get
判断が文化であるという意見に賛成できるだろうか。
判断が世界について考えさせる原理なのだ。
これがあることで、批判があり得る。
判断が無いと、性質があるようだ。
つまり、沢山含んだ性質があるだけのようだ。
完全なものがどこにあるのか。完全と言って誤解があるかもしれないが、
完全な存在があり、認識するごとに制限を加えられていき、制限を加えようが
無いものが正義である。
一方、
正義が完全であり、存在があるにしても、完全なことを加えていき、
正義であると考えられる。
603 :
考える名無しさん:2006/03/06(月) 18:21:21
「純理」をスラスラ読める奴はダメ人間
戸坂の解説も面白かったな。
「純粋」をどういうように考えるのか。
分神論者の方でつか?
606 :
考える名無しさん:2006/03/06(月) 19:44:07
あんな悪文をスラスラ読める奴はって意味で
607 :
考える名無しさん:2006/03/06(月) 19:57:01
高校2年ですが、よくでてくるcodeってなんでしょうか?
漠然としてよくわかりません。
あと、アート作品の説明の下記の翻訳はどういう意味でしょうか?
すみませんが教えていただけますか?
Each track (or reproduction), is a program. Each program is a code.
These codes can be produced with commercially available materials from commercially available sources.
The display of any program or combination of programs can be selected quickly because of availability.
This availability always exists due to each program's independence from other programs.
>>607 >アート作品の説明
どこからその英文持ってきたの?
意志は動物である、自由である。
感性において規定されることがあるものは動物的である。
一方、
理性の一連のことにおいて原因により規定されるものは自由である。
「物自体」は理性の原泉にして保証者なんだな。。
カントは同じこと何度も繰り返し言っててくどいね
参考
三角形の内角の和は180℃である。点A・B・Cは三角形である。
B・Cの延長線上に点Dを引く。
線分A・Bに平行な直線を引く、つまり、CからEを引く。
平行線の性質により錯角は等しい、 ∠A=∠a
平行線の性質により同位角は等しい、∠B=∠b
∠C+∠a+∠b=180℃
つまり、三人目の横の繋がりDを用意する、
Eを用意して、A・B間の関係に対してC・E間の平行な関係をつくる。
すると、
A点・B点・C点における∠A+∠B+∠C
と
B点・C点・D点における∠C+∠a+∠b
は同じく平行線的である。
えーと、くどいようですが、
彼と彼女と私がいます、
私は友達を一人用意して、しかも、男性を一人用意します、
彼と彼女の関係を私とその男性で築きます、
すると、
彼と彼女と私の関係と彼女と私と友達の関係が同じく平行であるとわかる。
三角形の図形は二辺であるが、しかし、関係は二力である。
三角形の図形は角度であるが、しかし、二点の延長が焦点である。
このような図であるから、
C・a・bの性質の度がA・B・Cの性質の度であると考えられている。
三角形は二辺の度であるが、辺と考えられている関係は二力が働いている。
一辺と他辺の合同Aの延長線、合辺Fが考えられるが、関係はB・A間の発展、C・A間の発展である。
>>615 スレチガイだとごめんなさい、BC線上に延長すると、証明にどんな影響があるんですか?
>>616 点Dが出来る。すると、点B、点C、点D線が度であると考え得るということに証明がかかっているのだ。
直線は度、つまり、180℃であるということをいいたい。
純粋異性批判
619 :
考える名無しさん:2006/04/06(木) 10:31:32
そういやぁ、高校の時、担任に不純異性交際すんなって言われて、
そりゃ何のこったと聞いたら、桃色遊戯だとよ。もう死語じゃん。
桃色遊戯したいなぁ・・・
621 :
考える名無しさん:2006/04/06(木) 16:14:59
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
622 :
赤:2006/04/06(木) 16:19:10
あなたは何色ですか?
わたしゃ青息吐息です・・・
道徳は他人の罵倒と私の価値観の継ぎ足し算であるのか。
>>625 考えるべきは、何故、罵倒しているのかであり、理由とその仕方から、どこに帰結するのかだ。
或は、どの対象から、価値観に至ったのかということだ。
しかし、対象から、価値観に向かう事、そして、他人の罵倒の合力は屈折しているものである。
私が価値観に至る処に、罵倒を加え、つまり、価値観を曲げて、それらの統合ものなのだ。
>>626 あなたの進んでいる方向に、彼の行動を加えて、正しいところに導こうという考えは
合わせ算の図だということだね。そして、彼は合わせ算の図の先を目的にしているのだ
ろう。しかし、彼の一連のことを幾ら分析しても判るところなんて少しも無いってことだろうか。
何故なら、合力の先が目的だ、彼の進む方向だけにしても困るわけだ。
だから、彼は先にも後にも正しいことがあると考えているのだ。
だから、彼の動機や進行後に少しも無いとしても、しかし、合力の目的に何かがある。
或は、彼の動機や彼の進行先に何かがあるのだろうね。
図の能力
地平を基礎に考える能力
記号の能力
限定する能力
関係の能力
629 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 15:41:17
age
630 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 20:20:36
そうか純粋理性批判とは純粋に理性を批判することか。
631 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/05/16(火) 20:27:06
>630
「純粋理性=ア・プリオリであろうと想定される理性」を批判した書です。
パソコンの画面見ながら読書会なんて、ムリ(笑)普通に気が散ってムリ(笑)
時間に区分が無いと言われるが、逆であるようだ。
何故なら、空間における物はいくらでも分解できるのだし、始まりと言っても、
地面の影響を受けているのか、地面を離れているのかくらいのものであり、
始まりも終わりも区別をしないものとして考えることができる。
そういうものから、区別しないものが色々な部分であると考えることになるのだ。
だから、時間は区別があり、空間が一なんじゃないの。
>>1 蓬莱の玉を欲しがるのは超越的であり、
すんごいものが欲しいって思いの根本は超越論だ、
すんごい喜びたいのは超越的ですか、超越論ですか。
635 :
考える名無しさん:2006/06/09(金) 23:52:55
. ∧_∧
(´・ω・`) やぁ、カントは生涯童貞だったらしいね
/ ヽ
| | | |
| | | |
|| ||
し| i |J
.| ||
| ノ ノ
.| .| (
/ |\.\
し'  ̄
636 :
純理!:2006/06/11(日) 21:44:19
始めまして。純理と言います。
これから半日で純粋理性批判の超越論的感性論の空間を読みますので
協力してください。一時間ごとに現われます。
材料は、「以文社の宇都宮芳明訳の純粋理性批判」と「カント純粋理性批判入門(黒崎政男)」です。
ご協力お願いします。
何か流れを崩すような書き込みの仕方で申し訳ありません。
無限と部分のカントの考え方を理解する事が必要
部分はどれも無限と言う空間の分割されたものに過ぎない。思考の中でも。
どのモノも空間を持たない形式では頭の中にも出てこない
カントの感性論空間論については黒崎の本は全く当てにならない
入門書過ぎるのだ。普通入門書にこの空間の証明を入れるべきだと思うのだが。
ちなみに時間論では常にコギトが存在する事から証明をしている。
空間の所は何やらひたすら概念と観念でやりきってるけど見る価値ありだと思うね
638 :
純理!:2006/06/11(日) 23:33:35
たまに書き込みに来ますので、ご批判・アドバイス等をよろしくお願いします。
1:なぜカントは超越論的感性論を書こうと考えたのか?
従来の形而上学は人間の認識が及び得る範囲を全く検討もせずに人間はすべての物事を認識し得ることを自明のものとして
神や霊魂の不死や自由の問題を気軽に論じてきたため、ことごとく不毛な議論をし客観的な真理を見つけられずにきた。
そこでカントは正当に形而上学を構築するために従来の哲学者達が自明のものとしてきた客観的認識の成立する範囲を確定しようとした。
639 :
純理!:2006/06/12(月) 00:37:37
黒崎の超越論的感性論の記述のみを要約してみました。
私自身、理解がおかしな点が多々あります。また、黒崎本の超越論的感性論の記述のみでは
カントの超越論的感性論を説明しきったとは言えない点もある様にも思われます。
そこで、おかしな点がありましたらご批判・アドバイスよろしくお願いします。
以下に呈示します。
640 :
純理!:2006/06/12(月) 00:50:30
{要約}
時間・空間を人間認識の主観的条件とは考えず、物自体が存在するための根底にあるものと考えれば、空間・時間は単なる観念的なものになる。
他方、時間・空間を人間の主観的条件と考えるのであれば空間・時間は経験的に実在するものになる。
つまり、空間・時間は経験的には実在しているが超越論的視点から見ると単なる観念的なものになる。
よって、「あるがままの事物をとらえる」と考えるのはおろかな妄想に過ぎず、認識は徹頭徹尾、主観的な条件で成立している。
その物についての人間の認識が成立するための主観的な条件とは、空間と時間である。
よって、人間は世界を時間・空間という人間認識の枠を通してみている。人間が知り得るのは、時間と空間の枠内にある現象のみである。
だから、ありのままを認識しようとすれば、それは主観的なものとなる。そして、世界は主観による構成物と考えることで初めて客観的認識が成立する。
641 :
純理!:2006/06/12(月) 00:55:08
誰も着てくださらないので上げさせていただきます
642 :
純理!:2006/06/12(月) 01:12:23
今、考えてます。
空間・時間とは感性的直観の純粋形式であるというのは、
つまり、空間・時間は経験を超えて存在する感性のレベルで認識することの形式である
ということでしょうか?
>>640 空間と時間は物自体が存在するための根底にあるものと考えれば、実在になるんじゃないの?
着ましたが今は眠いのでまた着ます。
時間・空間を人間認識の主観的条件とは考えず、物自体が存在するための根底にあるものと考えれば、
空間・時間は単なる観念的なものになるのだろうか。むしろ、対象から与えられるならば、対象の根底に
あるのみならず、主観の根底にもあると考え得る。
何故、物自体の根底にあるならば、主観が成り立たないのでしょうか。
646 :
純理!:2006/06/12(月) 02:25:53
どうも、いろいろなご指摘ありがとうございます。
はっきり言います。皆さんの批判の意味がさっぱりわかりません。
たぶん、私自身、要約したにも関わらずさっぱりわかってないんでしょう。
そして、解説本の一部を要約した後、さっそく純理に入りましたが
挫折してしまいました。哲学用語がさっぱりわかりませんね。
最後に、正直にいいます。レポートの課題なんです。助けてください。
超越論的感性論をわかりやすく説明していただけませんか?
先ず、君が何を考えたいのかを話してみなさい。
そうしたら、ぼくはどうゆう順序で説明すればいいのかが判るでしょう、
ってことでしょうね。
どういうオチだよ。
人間の認識は経験とともに始まる。経験を構成する人間の認識能力の
1つに「感性」がある。人間は感官を通じて外界の世界、物を認識する、
これが人間の認識の段階の第1歩。しかし、感性はただ単に外界の物を
反映する能力ではない。感性には、経験に先立って、あらかじめ感性の
カテゴリーと呼ばれる機構を具えている。そのカテゴリーとは時間と空間
である。人間の感性は時間と空間というカテゴリーを通じて、外界の物を
認識する。この感性のカテゴリーを外して「物自体」を認識することは
人間にはできない。ちょっと乱暴かな。
649 :
純理!:2006/06/12(月) 02:37:37
本当にありがとうございます。
超越論的感性論の序章から時間までのところで
空間は感性的直感の純粋形式であるということを1200字で説明せよという問題です。
この本は鬼難しくて、なぜこのようなものを課題にするかわかりません。
これを理解なさってる皆様は、本当に頭のよい方なのだなとつくづく尊敬いたします。
よろしくお願いします。
650 :
純理!:2006/06/12(月) 02:40:58
おお!648様、たいへん勉強になりました。
私は頭が悪いのでゆっくり咀嚼して考えてみます。
厚かましい事かもしれませんが、私は頭が悪いのでできれば
もう少しだけ丁寧におっしゃってくださるとありがたいです。
本当に私が頭が悪いから、こんなことになりました。
本当に申し訳ないです。
ヒント:「まったく空間のない」状態を人間は直観することも思惟する
ことも想像することもできない
652 :
純理!:2006/06/12(月) 02:47:51
これは空間・時間というカテゴリーが先験的に与えられているからですよね。
つまり、これらのカテゴリーを抜きにして物を認識することは不可能だと言うことですか?
653 :
純理!:2006/06/12(月) 02:50:50
もっと具体的にどこがわからないかをいいますと、序章です。
序章で様々な概念がカントの切り口で説明されてます。
それは私には人間の認識の順序を細かく概念化するとこんな風になるということを
語られてるように思えます。私はここがさっぱりわからないせいか、
ここで語られてる知識をベースに以後論理が展開していく故にさっぱりわからず、
イメージを持てぬまま、頭の中に言葉がぶら下がってるだけに映るのであります。
正直、難しすぎて困りきってます。
そういうことです
もう1回純粋理性批判の感性論を再読してみるとよいかと。
「物自体」の不可知性って感性論の段階で出てきたかな?
もう忘れてしまいました。とにかくテキストと向き合う
ことを勧める
655 :
純理!:2006/06/12(月) 02:52:41
出てきてませんよ。いろいろありがとうございます。
対象ならば、直観である。直観ならば、感性である。
一方、感性は概念である。
しかし、概念でないならば、感性でない。感性でないなら、直観でない。
だから、概念でないなら、直観でない。
従って、直観は延長と形態である。
657 :
純理!:2006/06/12(月) 02:54:05
物自体は空間においては少ししか出てきません。
それにしても何て難しい本なのでしょう。
明日が提出日だというのに、私をどこまで困らせたいのか・・・
あぁ。。
658 :
純理!:2006/06/12(月) 02:55:25
物自体は空間においては少ししか出てきません。
それにしても何て難しい本なのでしょう。
明日が提出日だというのに、私をどこまで困らせたいのか・・・
あぁ。。
>>656 対象ならば、直観である。直観、或は、感性である。
そして、感性は概念である。
序章に何が書いてあったか、冒頭の有名な段落以外は忘れてしまった
ので、私にはもう手助けはできません。
カントは人間の認識能力を3つに分けました。感性、悟性、理性です。
そのうち、感性が最も最下位といったら語弊があるけど、物自体に
触発される能力を持つのが感性です。悟性は感性が受け取ったものを
悟性のカテゴリーに従って処理します。感性論がまず最初に置かれる
のはこのためです。
感性でないか、直観でない。
直観でなく、そして、対象であり得る。
だから、対象の形式でもあり得るんじゃないの。
662 :
純理!:2006/06/12(月) 15:32:48
おまえら、全員死んでしまえ!哲学なんかつまんねぇーんだよ!ボケ!
俺はさっさと会計士になりたいんだ!
何が嬉しくて哲学科なんかに来たんだろうか!
面白くもなんともないわ!
663 :
考える名無しさん:2006/06/12(月) 16:10:38
じゃあさっさと哲学やめて会計士目指せばいいじゃん
665 :
考える名無しさん:2006/06/13(火) 18:40:46
>>662 │ _、_
│ ヽ( ,_ノ`)ノ 残念 それは私のおいなりさんだ
│ へノ /
└→ ω ノ
>>662 我々が全員しななければならんとすると、我々は死ななければならないということに
従い、君もしななければならない。しかし、きみが言うばっかりで、死んでいないところ
をみると、おまえらが全員ということは考えられない。だから、我々も死なないし、君も
死なないだろう。誰かが死なないと、俺さんは会計士になるのだろうか。
誰かが生き残るか、俺さんが会計士になれないなんて過酷な条件なのかね。
自然なら、生存しなければならないかもしれないけど、そんなところで会計士になってど
うするつもりなのだろうね。返答をお待ちしています。
667 :
考える名無しさん:2006/06/17(土) 12:01:48
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
668 :
考える名無しさん:2006/06/17(土) 12:09:22
∩_
〈〈〈 ヽ
〈⊃ }
∩___∩ | |
| ノ ヽ ! !
/ ● ● | /
| ( _●_) ミ/ <こいつ最高にアホ
彡、 |∪| /
/ __ ヽノ /
(___) /
平凡社ライブラリー版の『純粋理性批判』ってどうですか?
誰の訳が一番良いのでしょう?
>>669 マジレスすると、平凡社ライブラリー版『純粋理性批判』は旧理想社版カント全集の原佑訳『純理』を改訂したもの。
原門下の渡辺二郎が中心となって、量義治やら高山守やら湯浅正彦やら錚々たる面々が分担して取り組んだもの。
・・・・・・などという話は下巻のあとがきに載っているはずだが、
つまり誰が担当した部分の訳が一番良いのでしょうか、っていうこと?
>>669 平凡社ライブラリの純理は評判悪くないし、A版B版比較しやすいので独自の面もある。
一番評判いいのは宇都宮訳だけど値段が異常だから、一般的にはライブラリ版が
定着すると思う。
>>670 >>671 どうもありがとうございます。
金銭に余裕のない個人が読むには、ライブラリ版が適当ということですね。
篠田訳は持っているので、万が一もう一度買い替えるという愚を犯す
ことになると、大変厳しいので、お金をためて、一番評判の良い
宇都宮訳を購入しようかと思います。
批判は広義の定言である。
674 :
考える名無しさん:2006/06/20(火) 23:24:31
ジダンは広義のイケメンである。
>>672 あー、私は親切な
>>670の人だけど(笑)、篠田訳(←岩波の恥)を買ったという失敗をしたあなたは、
例えば図書館(大学や自治体の)で借りてあらかじめ内容を見るということは出来ないのかな?
訳の良し悪しってけっこうその人それぞれだとも思うんだけどな。
平凡社ライブラリー版も決して安くない。
宇都宮版はこれはこれで北大閥全員集合(かつては東大の熊野純彦もいた)で総力版っていう感じ。
岩波版全集(有福訳・京大系)は当然決定版目指しただろうけど、私個人としてはあまり感心しない。
あなたがどういう状況か(何のための読書か、どこに住んでるのか)わからないとなかなか適切なアドバイスが出来そうもないけど、
高峯訳(河出書房新社。いろんな版あり。古本屋でも比較的入手し易い)と高峯『純粋理性批判入門』(論創社)とを併せ持つというパターンもある。
私の周りの研究者にも多い。「古い」という人もあるかも知られんが、もともと18世紀の本ですからね。
最近の研究史なんてほんの表層で、専門家でもなければあまり問題ないし、専門家なら欧米の研究書を読むから。
うーん、やはりなかなか上手くアドバイスできないが、とりあえずそんなところ。ではまた機会があれば次回。
>>675 ご丁寧にありがとうございます。
そうですね。長く読むものなので、ご教示頂いた3つの版を
図書館や書店で比較してからということに致します。
研究者でも専門家でもないので、ゆっくりと自分にあった訳本を選ぼうと思います。
アマゾンで検索してみましたが、高峯訳は1巻本なのでしょうか。
コンパクトで良さそうですね。
677 :
675:2006/06/21(水) 15:59:15
早いすね(笑)
初めにお断りしておくと、私が「良し悪し」言ってるのは訳文レベルではなくむしろ訳注レベルの話です。
高峯版は一巻本です。訳注やらを省いているぶんコンパクトになっていて、
解説として上記の『純理入門』があるわけなんです。私個人としてはお世話になりました。
(高峯先生はもう亡くなりましたがゼミに参加したこともあります)
新刊ではないから、古書店でということになりまして、あなたがどこにお住まいかで入手しやすさが変わってきますが、
我々の感覚では1000円ちょっとでいくらでも手に入れられるものと捉えております。
私は実は平凡社版はまだ細かくチェックしてませんからあまり責任のあることは言えません。私の研究に関連のある数箇所をざっと見たかぎりでは、
従来の理想社版(これには若干不満があった)からさほど変化が無いように思われました。
(ただしこれは私の関心がやや特殊なものだからで、近年の研究成果があまり反映されていないのでしょう。特殊な事情と考えて下さい)
渡辺氏はいわゆるカント専門家ではありませんが、近現代ドイツで出来ない分野は無いというくらいの人ですし、
量氏をはじめ大御所から中堅までの一流カント研究家が揃って改訂したものと聞いてますから、まぁ悪かろうはずはありません。
むしろこのスレの住人でこの版の「・・・は〜という理由でイカン」という意見があったら参考にしたく思います。
678 :
続き:2006/06/21(水) 16:04:24
宇都宮版は『実践理性批判』『人倫の形而上学の基礎づけ』『判断力批判』などの優れたシリーズの極めつけで『純理』が出たわけで、
これも彼にとっては決定的な業績でしょう。私個人はまだ所有してませんし、さっきと同じ程度にしか参照してませんが、
『実理』や『判断力』なんかには恩恵を蒙りました。
先行シリーズとの違いは宇都宮氏単独の作業から、宇都宮門下のグループ作業(宇都宮氏監修)となった点ですが、
これもまさか悪いパターン(弟子にやらせてほとんどスルー)にはなっておらぬだろうと信用してます。
有福訳は岩波の全集だけに、おそらく最も標準的に用いられるものと思います。私の注目した箇所についてやや物足りなさを感じただけで、
さすがにこれも立派な訳です。おそらくあなたにとってのネックは全集で三分冊というところでしょうね。
古くからある訳では天野貞祐訳が少し前までは講談社学術文庫4冊で復刊されてましたが、今はなかなか入手難みたいです。
これは旧岩波カント著作集(後に岩波文庫)のもので、言葉づらは古いけどかなり充実してます。悪く言う人は好き嫌いで言ってるケースが多いようです。
これら大正期の訳(大西訳『判断力』など)は、B5サイズに拡大復刻されて神保町あたりでは新刊書店でも購入できます。ただし値段は高い。
これらはあくまで私的かつ断片的な感想なので、ごくごく参考程度にどうぞ。
ちなみに上記の先生方にはいずれもゼミやら学会やらで直接間接にご指導いただいております<(_ _)>。
ぶっちゃけていうと、篠田訳で問題ない。
(先験的→超越論的とか読むときに工夫する)
そもそもまず通読できるのか、という問題がある。
ところで平凡社からでた純理は、改訂版というか補訂版ね。
名前がクレジットされるわけでなし、十分な金銭的対価が得られるわけでもなしで、
必要以上の期待はしないほうがいい。(つまり旧全集の文庫落ち、廉価版)
680 :
考える名無しさん:2006/06/21(水) 20:43:12
>>677 >>678 評判の良い、高峯版の一巻本が古書で手に入るというのは、
なかなか魅力的です。当方、古書店のあまりない郊外に住んでおりますので、
『入門』と合わせて都内に出た際にでも探してみます。
>>679 >(先験的→超越論的)
何度も出て来る用語なので、一々読み替えるのが煩雑ですね。
新訳を入手するまで、篠田訳を活用します。
681 :
680:2006/06/22(木) 00:19:25
高峯版、新装版というのと、世界の大思想シリーズと二種類あるようですが、
内容は同じなのでしょうか?
682 :
考える名無しさん:2006/06/22(木) 00:42:23
訳なんて基本的にはなんでもいいんだよ。
高峯さんて名前のとおり坊さんだし訳文は硬いよ
683 :
考える名無しさん:2006/06/22(木) 08:34:48
硬いのはアソコだけでよいのじゃがな。
684 :
考える名無しさん:2006/06/24(土) 12:41:36
女の人にとって、アソコは堅いほうがいいの?
男にとっては?
685 :
考える名無しさん:2006/06/26(月) 10:44:37
あげ
>>681 新装版というのはA5版のやつのことだと思います(同シリーズで『エンツュクロペディー』などを所有してます)。世界の大思想シリーズと同じはずです。
バージョン違いで他にも存在してますが、中身は変わらないと思われます。つまり、改訳はされていないはずです。
もし都内にお越しの際は、神保町だけでなく(相場が高い)、早稲田や中央線沿線(高円寺・西荻窪)あたりも探してみてください。
お暇ならね。
>>679 なるほど。確かに私の見た部分に関しては手直しはあまり認められませんでした。
金銭的対価云々というのはわからない。大学教授はあまりそういうことを気にしないものだし、渡邊氏の呼びかけを断る勇気もあまり無かろうと思われる(笑)。
>>682 あの人が坊さん? 川原栄峰さんが得度したのは知ってたが。
私が高峯氏から受けた恩恵の最大のものは、カントの超越論的論理学の位置づけについての見解で、
それは彼が伝統的論理学研究者としても一流だったからである。『論理学と方法論』とかはカント研究書としても評価できる。
高峯一愚って完全に坊主の名前だけども・・・。
金沢のどっかの寺の人だよ。
>>687 気になったから検索してみた
ttp://www.groovy-net.co.jp/tayori2-8.html 8月10日(土) 墓参り
朝から墓参りに出掛ける。私から見て祖父と祖母の里に当たる氷見のお寺と羽咋のお寺へ。
高峯山(こうほうざん)という山号のついた氷見の光伝寺へ行くと、高峰の名前の由緒を感じ、頑張らねばといつも思う。
2年ぶりにお邪魔したので、その間に制作したものを御住職にお渡しし、報告。
出身者の中ではカントの研究家の高峯一愚氏(大学の時の保証人をお願いしていました)が一番名前が知れた方かもしれない。
今度、こちらにお見えになったら、西田幾太郎記念哲学館に御案内されたいとのこと。どこかでつながっていますね。
・・・君にとっては笠智衆も坊さんなのか?
689 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 03:20:13
うん。そういう名前って寺の生まれじゃないとつけないし。
いいじゃん別に職として坊主でなくても。環境的に坊主なんだよ。
んな無茶な
691 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 08:46:47
www
692 :
考える名無しさん:2006/06/27(火) 09:40:02
うわ なにこのスレつまんね(^ω^;)
コピペ お門違い この世の涯まで消えて 永劫に
694 :
考える名無しさん:2006/06/29(木) 20:44:06
認識に関して経験的なるものと先験的( ア・プリオリ)なるものを区別し,
先験的認識の妥当する範囲と限界を明らかにした本書 こそ,哲学史上いわゆ
るコペルニクス的転回をなしとげたとされる世紀の古典である.
後の竹田青嗣である
哲学関係で「連関」という単語を使う本を見ますが、
どうして「関連」と表現しないのでしょうか
697 :
考える名無しさん:2006/06/30(金) 21:03:06
超越論的とはどういう意味ですか?
698 :
考える名無しさん:2006/06/30(金) 22:02:22
>>696 もったいをつけるため(投企→企投など)
またはドイツ語等の外国語には存在するが、
日本語に対応する表現がない複数の同義語を区別して用いるため
>>697 直観などによる直接的な仕方ではなく、より反省的な仕方で
対象一般に関わるすべての認識のこと
699 :
考える名無しさん:2006/06/30(金) 22:30:27
なんだかんだで純粋理性批判をとおしで読んだ人って思いのほか少ないんだよね。
解説書で終わっちゃう人がほとんど。あるいはプロレゴメナだけで。
まあほんとに重要なとこは岩波文庫で言うと下巻のとこだけだしね
700 :
考える名無しさん:2006/06/30(金) 22:32:39
哲学辞典を読めば十分
701 :
考える名無しさん:2006/07/01(土) 12:17:48
つーか、読まなくてもOKよ。
702 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 19:20:07
門外漢ですが、哲学はすごい。
自然科学の先を行ってる。
あるいは、自然科学が、とりあえず避けているところを攻めている。
挑戦的でもある。
人類に思考することを継承している。
自然科学は、哲学に鼓舞されているのだ、と独断してる。
私の哲学者ナンバー3
1.ソクラテス・プラトン連合
2.カント
3.わかりません
703 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 19:28:23
3.にヘーゲルをぜひ
704 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 21:07:43
正、反、合の弁証論
絶対精神
う〜ん?
昨夜から精読を始めました。
至る所に、カントは物自体は認識不可能であると言ってますが
これはいったいどういう意味でしょうか?
あげ
純粋理性批判を懇切丁寧に解説してるHPってありませんか?
708 :
考える名無しさん:2006/07/02(日) 23:26:23
>>698 反省的な仕方でというのは、どういうことですか?
悟性を利用するということでしょうか?
総合的な認識ということでしょうか?
709 :
パン:2006/07/03(月) 00:05:28
私も参加させてください。
これから一晩で純理を読んでみようかと思います。
710 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 00:29:45
三批判は、長文系でなく、要点をまとめた、手っ取り早い教科書がほしい。
それを通過した人が原書なり翻訳を読む。
まあ、無理なこと言ってるかもしれない。
物理の、量子力学はわかってしまうと基本は簡単だが、
おかしな教科書の一文一文に神経質にやってると破綻きたす。
まあ、カントも同じような気がする。
カントの純粋理性批判を理解するためには純粋理性批判の構造をはっきりしておくことが
必要だ。大きく見ると先験的原理論と先験的方法論に別れる。ここで重要な部分は先験的原理論だ。
先験的原理論ーー>先験的感姓論ーー>空間、時間
ーー>先験的論理学ーー>先験的分析論(範疇形式)
ーー>先験的弁証論 (合理的心理学、合理的宇宙論、合理的神学)
カントによると認識の先天的形式は二つだ。(感性論の時、空間と分析論の範疇)
上から述べた部分はすべてが現象的な実際だ。つまり、本体的な実際は人間が認識
することが不可能だ。
本体的な実際が物自体(Ding an sich)だ。ここで物自体が認識不可能な
理由は物自体は時空間と範疇によって規制されることじゃないからだ。
しかし、カント以前の哲学者(G.W.von Leibnizなどの独断的な合理主義者)は理性によって
本体的な実際が認識できるといった。
カントが先験的な弁証論で批判する三つ(神、自我、世界)も物自体のように
認識が不可能だ。
やさしく整理すると、実際にカントは‘認識は経験から’と述べる。人間の経験は時空間の中で
12範疇と判断表によって整理(認識)される。しかし物自体は時空間のなかで存在するものがない。
それでカントの純粋理性批判で物自体の認識不可能だと言うわけだ。
もちろん、次のドイツ哲学者によってカントの主張は批判される。
先験的は transzendental、先天的は a prioriの訳語。
日本語が母語がないので表現が不自然なところは理解してよ。
712 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 00:40:33
>>710 量子力学を学んだ人が今さらカントを読むのは無駄でしょう
先験的原理論に感姓論と論理学が包含される。
@感姓論は認識の二つの流れの空間と時間をあつかる。
A論理学はまた純粋悟性の範疇形式の分析論と
合理的心理学、合理的宇宙論、合理的神学を批判する弁証論。
714 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 01:00:45
>>712 現象を見てそれ考えに考えて仮定(一つの式とエネルギーに最小単位があること)を生み出す。
実験で確認。
プランクの量子発見は、そのように行われた。
それを、ハイゼンベルクが、またまた、考えに考え、不確定性原理を発見した。
この2つが元になって、量子力学は成り立つ。
シュレディンガーの波動方程式は有名だが、あれも、努力の賜物で生み出されたんじゃなかったか?
つまり、量子現象をあらわす式を求めたわけ。それが、はまったんだね。
という具合に、ポイント、別の言い方すればが次の段階(エポック)あるんだよね。
カントの教科書もそんなふうに描けないかな?
715 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 01:06:51
> カントの教科書もそんなふうに描けないかな?
あなたがカントの著作を書き直すという意味ですか?
無駄に長いので、1/50程度に圧縮してください。よろしこ
716 :
パン:2006/07/03(月) 01:19:45
物自体って何ですか?もし、それがあるとすれば、なぜ人間は認識できないんですか?
今、それを考えるため、カント流の人間の認識作用を調べてます
717 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 02:47:01
718 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 02:52:54
ありがとうございます。人間の認識作用はわかりました。
しかし、物自体がどうも捉えきれてないんです。
もしよろしければ、教えてくださるとありがたいです。
719 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 02:56:14
誰かいませんか?
確かにここがカント(読解)の急所だね
721 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 03:09:23
物自体とは何か語ってくださいませんか?
それと本に時間と空間という先天的な感性的直観により
物を認識できると書かれてましたが、これは間違いですよね?
なぜなら、時間と空間では直観しかできないからだと私は思います。
認識には悟性の働きが必要です。
違いますか?
後者はそのとおりですよ
前者は、私も勉強中なので詳しい人ヨロ
723 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 03:23:20
誰か助けてくれー。わからないよー
724 :
純理:2006/07/03(月) 03:42:43
おまえら、俺を怒らせるなよ!
カントなんか大きらいだ〜。今日もレポートだったんだ。
725 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 04:22:20
726 :
純理:2006/07/03(月) 23:01:52
昨日はレポート間近で憤激してしまって悪かった。
後々、純理を読み直したらこの本の面白さがなんとなくわかってきた。
もっと謙虚になって読み進めて見ます。
いろいろありがとね。
727 :
考える名無しさん:2006/07/03(月) 23:03:03
俺もそろそろ読書しよう。
728 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 00:37:02
>>718 「富士山自体」を考えてみよう。ある人は「夕日に赤く染まった富士こそ真の姿だ」
別の人は「登らなければ富士山は分からない」、又、富士山麓に長年住んでいる
人はこのような意見に苦笑するだけかもしれない。
しかしどんな見方、見え方にせよ「人間的な見方・見え方」であることからは
逃れ得ない。
対象としての「富士山自体」は様々な見方、見え方の根本にあって「人間的な見え方」
以前のものである。
物自体と言ってしまえば、富士山という個別的な区別以前ですらあるわけだ。
729 :
純理:2006/07/04(火) 00:43:47
なるほど。物自体は現象の背後にある不動のものということですよね?
では、なぜ人は認識し得ないのですか?
当たり前だろと言われればそうかもしれませんが、
それを単に否定したら真理というものには一生出会えないのではないでしょうか?
我々が出会える多種多様な現象のみであれば。
それとカントもすごく面白いと思えてきたのですが、
将来的にハイデガーを卒論でやりたいと考えてます。
どうでしょう?カントとハイデガーどちらが難しいでしょうか?
取っ付き易さなど語ってくださるとありがたいです。
ただ、カントの純理は読みつづけるつもりですが。
730 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 01:03:07
>>729 物自体が不動であるとかも言えないでしょう。
どのように認識が向上しても「人間的な見方、見え方」であることには
変わりないのですから。
現象の背後に本体を想定することが間違ってるとか、あらゆる見え方の綜合が物自体の認識であるとか、
意識から独立した実在としての物質とか、色々意見はありますが・・・
普通に言えばハイデガーが難解ということになってますが。
超越論的な物自体と経験的な物自体の区別ということがポイントになってるみたいだね
732 :
純理:2006/07/04(火) 03:44:52
経験的な物自体とは何でしょうか?
人間の認識は先験的に空間と時間という感性的直観の形式により経験とともに始まる。
であれば、経験的なものを捉えることが人間には可能ということですよね。
とすると経験的な物自体は人間に認識し得るが、超越論的な物自体は人間には認識し得ない。
では、超越論的な物自体と経験的な物自体とは何ですか?
733 :
純理:2006/07/04(火) 03:49:12
それと私が純理を読み進めていくうちに難解だなと思われる点がありましたので
これからお読みになられる方はお気をつけください。
カントの認識作用がこと細かく記述されます。
ここが一番初めにぶち当たる壁だと思います。
できれば、どなたかカントの人間の認識作用の記述をフロート・チャート化してくださると
理解が進む気がします。
それとたぶん、読書一般に当てはまることだと思いますが
躓いたら読み進めてください。そして、カントの主張を何となくでいいので汲み取りましょう。
感性的なものと概念的なものの二項対立でこの書物は記述されてるという視点が大切です。
734 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 04:39:58
ぼく大人になったら
お兄ちゃんたちみたいな
ニートになる!
735 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 05:03:12
はいはい
そういいながら4時台に書いてるクソホモ童貞
736 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 09:25:10
ハイデガーは哲学史の素養が物凄いので、カントくらい読んでおいたほうが
よいのでは。
737 :
純理:2006/07/04(火) 23:28:00
わかりました。ご親切にありがとうございます。
738 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 01:42:57
カントの哲学は本物であること、超一級品であることを認めます。
しかーーーし、ある面、悲しいほど学者過ぎました。
ある程度、広く理解してもらえなければ、有意義でないのです。
自己満足、ごく少数の自己満足で終ります。
確かに難解な造語を作らないと、論を進められないかもしれません。
が、カントの著作はともかく市民を無視した難解さがあります。
その点が残念です。
もう少し、書きようがあったはずです。
どうか、カント研究者は、噛み砕いた訳書を作成してください。
でも、ドイツ人にとっては市民の生活・文化の隅々にまで、
カントの思想が浸透してるらしいよ。
カントではなくて、翻訳が難解なんだろう。
740 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 02:27:07
してないだろう。
ナチスがカントの思想から生まれたとは思えん。
一般人への配慮なんてどうでもいいんです。
>>740 それはナチスがドイツ人の市民の生活・文化から生まれたのではないからでは?
なんか天皇制が軍国主義を生み出したぐらいに極論というか、風土や文化の一部を過剰に取り上げて
その風土や文化の問題箇所の最大の原因としてしまうぐらいの詭弁にしか聞こえないが。
744 :
考える名無しさん:2006/07/06(木) 20:33:36
>>738 カントと同時代人のカール・ラインホルト著『カント哲学についての書簡』が
かなり分かりやすいカント解説書らしいんだけど残念ながら邦訳が出ていない。
この本はプロイセンの一般読者にカント理解の一助になったというほどだから
よほど噛み砕いた大衆本だったはず。カントは『純理』出版に際して第三者に
解説を頼んだというエピソードが伝えられてるけどそれはラインホルトの事かも。
最近、稼ぎが悪くって、お金もってこれないのよ。
お父さん、がんばるからな。
746 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/07/06(木) 21:31:09
純理は、カントが呻きながら書いている箇所も、比較的、楽に書いている箇所もある。
そのニュアンスをつかめれば、特に難解な部分っていうのは無いと思う。
言いたいこと、書きたいこと、逡巡しながらもとりあえず書ききってしまいたかったこと等は、後世の真偽/妥当性等の検証等はおいといて、ほぼ誤解なく訳本からだけでも読み取れる、と思っている。
純粋理性がどこまでのものか、論述に曖昧な箇所は非常に多いけど、少なくとも、このカントが自らに与えた最低限のミッションは純理で書ききっている、と思う。
>>729 >>それを単に否定したら真理というものには一生出会えないのではないでしょうか?
それをフィヒテ、シェリング、ヘーゲルといったドイツ観念論の人たちが必死になって考えたわけですよ。
カントは確かによくやったけど、カントの言うこと認めちゃったら、「理性の使いすぎには注意しましょう」で終わっちゃう。
それを克服しようとしてがんばったのがドイツ観念論の人たちです。
結果的に、彼らの哲学では克服できなかったのだけど。
748 :
考える名無しさん:2006/07/14(金) 09:03:26
749 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 00:58:54
750 :
考える名無しさん:2006/07/22(土) 19:22:33
751 :
f&rle;usianasan ‡&rlo;元紀&rle; ◆KIGENeiQig :2006/07/22(土) 19:34:57
( ・ิω・ิ)
>>729 私は単純に、人間の意識というものは半透明のビニール袋に入っているようなもので、
あらゆる認識はそのビニール袋の中から手探りで外を知ろうとすることだから、
もの自体を完全に認識することは不可能、と理解していました。
私の学生時代、哲学の教授が、生まれながらに目の見えない人を例に挙げて、
彼には物体の「色」は永遠に理解できない、逆に、普通の人間にはない感覚器官を
備えた人間がいれば、その人には普通の人には感知できない物体の形相を感知できて、
それだけもの自体に近づくことができる。けれど、どんなに近づいても、
人間がもの自体に到ることは遂にないのだ。・・・・・・というような説明を
していました。
こんな説明はどうでしょうか?
755 :
754:2006/07/24(月) 21:08:32
自分も今、純理に挑戦しているものですが、この理解で正しいのか
不安になってきた・・・。
756 :
考える名無しさん:2006/07/29(土) 04:01:33
解釈は読者の自由だぜ、自信を持て。
ただ、ひけらかす時には空気を良く読んでな。
その位のケツの穴の大きさは持っておけってことよ。
757 :
考える名無しさん:2006/07/29(土) 04:35:58
悲惨だなw
あなたはwの使い方を知ったほうが良い。
759 :
考える名無しさん:2006/08/03(木) 00:40:15
質料と形式について
◎論理学者とされる人々の見解
彼等は普遍的なものを質料と名付ける。又、普遍的なものの或る部分と他の部分との種別
的な差異を形式と名付ける。そして、命題が質料であり、命題と命題の関係が形式である。
しかし、普遍的なものを質料であると、同じくすることが形式であると考える。しかも、
或る部分は他の部分でないとも考える。要するに、適意と限界が形式である。
従って、或る部分や他の部分が区別されるのであり、普遍的なものが部分であるとわかるのだ。
◎悟性の要求
(形式として)悟性は、先ず何かあるものが与えられていることを要求する。それは悟性が
このものをある仕方で規定する目的をもっている。すると、質料は形式よりも前にあると
いうことになる。これは悟性から物に向かうことである。
ライプニッツの単子論の表象力について触れられている。しかし、物からモナドへ至る
想定をしているのである。
形式的直観が質料の可能を与えるとすると、その現実性や必然性をどこに求めるのだろ
うか。形式的直観が必然か現実であるとすると、質料の可能が与えられる。質料の可能か
ら現実か必然が与えられるのだろうか。形式的直観は現実を本質にすることで成り立つ考
えである。しかし、質料の可能が与えられるにしても、どのようなものから認識が与えら
れるのだろうか。質料の可能である、それならば、可能性から感覚的な現実が与えられる
のである。だから、可能性から与えられるとすると、想定と思われるだろう。
方向を転換するものであり、逆転するものが可能であるという議論なのだ。
ただし、これは形式のみであると考えるものだ。
760 :
考える名無しさん:2006/09/09(土) 18:20:10
1回目読んだ時は、なんとかしがみ付いていくだけで
全体が雑然としてたけど、2回目はよくわかるもんだな
761 :
考える名無しさん:2006/09/17(日) 09:24:05
そこまで辿り着けたらめっけもんよ。
762 :
初学者:2006/09/18(月) 20:34:59
英語圏の学者の論文で、
たとえばカントからの引用を英訳書からしているものとかあったと思うけど、
英語圏の学者は英語以外の言語の原典を(ポーズだけでも)読もうとしない傾向があるのでしょうか?
さすがに英米でも、カントが専門の研究者なら
ドイツ語で読んでます
ドイツ語がその程度に読めない学生は
カント研究を諦めるよう大学院の段階で指導されます
よほど質の悪い大学院でもない限りはね
ただしドイツの哲学が専門でない研究者が
たまたまカントを読む場合などは人によります
764 :
762:2006/09/21(木) 06:58:16
765 :
考える名無しさん:2006/11/11(土) 22:27:02
良いスレだね
良いスレでも一ヶ月以上も放置されちゃな
767 :
考える名無しさん:2006/11/12(日) 13:58:47
夏休みが終わればヒマ人も居なくなったんだろう。
吉本の爺サンじゃないが、「取っ付き易いカントより、
胸突き八丁が連綿と続くへーゲルこそ必須」って
とこかな?
768 :
考える名無しさん:2006/11/12(日) 14:03:03
吉本の自慰サンの問題意識からは
屁ー下痢こそ必須ってのは理解できるし、
正にその通りだと思う。
だけど、"取っ付き易い云々"に付いて
は個人々の問題であって一般化は出来ない
だろうぜ。
769 :
考える名無しさん:2006/12/17(日) 14:07:00
みんな精読してるか?
770 :
考える名無しさん:2006/12/18(月) 08:54:02
いんにゃ、射精もしてないのに。
771 :
考える名無しさん:2007/01/12(金) 10:23:31 BE:785799476-2BP(340)
保守
>>769 精読というほどじゃないけどこの前、Beweis des Dasains Gottes を触って、
面白くなって弁証論を結局最初から読み直した。やっぱカントは面白いや。
原典だけを読むというのもいいんだけど、手ごろな研究書を数冊読んでから
読み直すとまた違った発見があるよ。
Kantstudien の Heft 4 もそろそろ入荷してるし、何か自分の関心に
ひっかかる本を探してみるといいんじゃないだろか。
「816」崎谷博征(さきたに・ひろゆき) SNSI研究員 の 新刊 『グズな大脳思考 デキる内臓思考』 を紹介します。
浅薄な「合理主義的思考」に代わる新しい思考法は、現実の生活にも大いに役立つ思考法です。2006.12.24
副島隆彦が文末に加筆しました。2006・12・26
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#2401 この日本の土人の知識人階級の人間たちには、この「ネイティヴズム 対 ビヘイビアリズム」という、
ヨーロッパ近代思想の土台 ( 基礎、岩盤、インフラ、基本枠組み)が分かっていない。この基本の
土台のところの、思想用語は、今、日本全国で、合計500人も理解していない。この国は、その程度
の土人の国なのです。そのくせに、高度情報社会で、高度技術大国だとまだ、勝手に信じ込んでいる。
もうすぐ同じ東アジア土人国である、中国にも、韓国にも追い抜かれるだろう。
日本の全国の大学知識人のうちの、社会学・政治学・政治思想あるいは「哲学」などの 専攻 の大学
教授たちであっても、この Nativism (ネイティブズム、人間の知能の生来決定主義)と、Behaviorism
(ビヘイビアリズム、人間は学習で知能が増す主義 ジョン・ロック主義) の巨大な対立軸のことを
知らない。かすかにも知らない。本当だよ。彼らと話してみるとよい。だから副島隆彦の本を自ら進んで
読んで、粗(あら)っぽくでも、西欧の近代学問の枠組みを知った君たちは、日本の国内水準は、軽く
抜いたのだ。
(中略)
私の書いた主著の『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社プラスアルファ文庫刊、
2000年)をしっかり読んで震えるような感動を味わった者たちだけが、共有できる、日本における
世界政治思想理解の、素朴な基本段階の、初歩ではあるか、荒削りの世界水準に、何とか到達している
段階だ。
この思想勉強の作業が出来ていない者が、いくら、この学問道場に近寄ってきても、どうせ、土人
(原住民とも言う)だから、何も分からない。 分からないものは、分からない。分かったふりさえ
も出来はしない。私に、堂々と対論を申し込む人間もいない。臆病者どもの、卑屈な人間たちだ。
773 :
sapere:2007/01/25(木) 09:42:48
wisteria-1さん、貴方の書き込み拝読させていただきました。
今日から純理を邦訳で読もうと思います。貴方となら建設的な意見交換ができると感じました。
わたしもわたしなりに読んでいこうと決心しましたが、どうしても分からないところやわたしの間違いを正してくだされば
うれしいです。
774 :
考える名無しさん:2007/01/25(木) 12:24:14
純粋理性批判とは、純粋に理性を批判することである。
775 :
sapere:2007/01/28(日) 15:27:43
理性には避けられない問題があるのですよね。それは死、自由、神。
これらは理性の使用をはるかに凌駕していて、もはや経験によって
検証することはできない。
理性とは経験以上の上級能力ですよね。経験によってわたしたちが
知ることができることとは何でしょうか?
たとえば雨雲がでてきたら雨が降るというのは経験の蓄積によって
知ることができますよね。じゃあ経験によらずして知ることとは
何でしょうか?
現象界に対する認識(対象)が、私たちの認識を通して構成されたものというならば
物自体=認識・自我となるんだろうか。
777 :
七師:2007/02/07(水) 02:41:00
777げっと!
778 :
考える名無しさん:2007/03/06(火) 22:06:13
純理を原文で読みあうグループ、京、大阪近辺でないかなー?
779 :
考える名無しさん:2007/04/08(日) 11:23:01
age
>>747がいいことを言った。
>カントは確かによくやったけど、カントの言うこと認めちゃったら、
>「理性の使いすぎには注意しましょう」で終わっちゃう。
>それを克服しようとしてがんばったのがドイツ観念論の人たちです。
>結果的に、彼らの哲学では克服できなかったのだけど。
この視点があれば余裕をもってカントを読むことができる。
まあ、読んでも報われないけど。
でもハイデガーを読んで人生を浪費するよりは意義があるでしょうね。
781 :
考える名無しさん:2007/04/09(月) 00:39:41
>>780 >でもハイデガーを読んで人生を浪費
自分がハイデガーを理解できなかったといって一般化するなよ。
ハイデガーすら理解できないやつがカントを読めるわけがない。
782 :
考える名無しさん:2007/04/09(月) 14:50:07
>>775 経験によらずして、理性のみで知る学問として数学がある
783 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/04/10(火) 20:04:51
>782
>>178移行のレスをいくつか読んでみて、それでも、数学をもってしても、ア・プリオリな学問だと思いますか?
自然科学も、カントはアプリオリと言ってるよね。
多分、物理学のことだとは思うのだけど、数学と物理学の壁はなかなか厚そうだけどな。
785 :
考える名無しさん:2007/04/23(月) 17:00:22
>783
数学の法則を発見する方法は直観しかないよ。
787 :
考える名無しさん:2007/04/23(月) 20:02:18
勉強のかいあって思った以上にスラスラ嫁る
ただ、読んでいるうちはなんとなくわかるんだけど
閉じた瞬間、いままでなに読んでるかすっかり忘れてしまった
788 :
考える名無しさん:2007/04/24(火) 16:32:58
>786
偶然は直観の一部じゃないの
789 :
考える名無しさん:2007/04/24(火) 18:08:54
でもカントを読んで人生を浪費するよりは意義があるでしょうね。
790 :
考える名無しさん:2007/04/24(火) 20:18:50
「純粋理性批判」に加えられた同時代人の論評について、カントの友人の証言...
独断論者は「純粋理性批判」を、知識の確信を覆す一懐疑論者の試みだと宣言した。
懐疑論者は既存の体系の廃墟に新たな形式の独断論を打ち立てようと図る、傲慢不遜な
作品だと宣言した。超自然論者は宗教の歴史的基盤を押しのけ、反論を認めず、自然
主義を打ち立てようとする巧妙な策略だと宣言した。自然論者は死に瀕した信仰の哲学
の新たな支えだと宣言した。唯物論者は物質の実在に関する観念論的矛盾だと宣言した。
唯心論者は経験の領域という名に隠れた、物質世界に対する全ての知識の不当な制限だ
と宣言した――カルル・ラインホルト(1786年)
これらの流派はこぞってこの本を攻撃し、「シュクセ・ド・スカンダル(醜行による
成功)」という名による名声を与えた。難解もかえって称賛の的になり、先端を行く
精神が経験しなければならない挑戦を受けた。やがてカントの「長ったらしい言葉」
は、あらゆる知識人の口にのぼるようになった。
ウィル・デュラント『世界の歴史 31』(p.246-247)より
791 :
考える名無しさん:2007/04/24(火) 21:03:32
>>790 m9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーッハハハヒャヒャヒャヒャ
792 :
考える名無しさん:2007/04/24(火) 21:04:30
>>790 m9。゚(゚^Д^゚)゚。プギャーッハハハヒャヒャヒャヒャ
793 :
考える名無しさん:2007/04/24(火) 23:49:40
>>783 アプリオリな学問などあるわけない。
アプリオリなものに関する学問はありうるとしても。
794 :
考える名無しさん:2007/04/25(水) 01:19:53
>>792 679 :考える名無しさん :2007/04/24(火) 14:51:16
「測定」と「存在・非存在」のどちらが基本的か?という問題を考えてごらん。
ヒントは「ルーマン(情熱としての愛)」を見てごらん。
795 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/04/25(水) 19:15:09
>>785 >数学の法則を発見する方法は直観しかないよ。
数学の「法則」が、ア・ポステリオリな「モデル」であることを認めるのですか?
それとも、数学の法則は、先験的に備わっているものであるから、それは直感によって、無条件に「発見する」ことができると主張されているのですか?
>>795 発見には直感やひらめきが必要だと言っているのでは?
797 :
考える名無しさん:2007/04/26(木) 07:49:41
>数学の法則を発見する方法は直観「しか」ないよ。
それじゃダウンジングやオカルト霊視の類と変わらない。
798 :
考える名無しさん:2007/04/27(金) 16:28:50
test
799 :
考える名無しさん:2007/04/28(土) 16:08:13
>797
直観での閃きの後、証明が求められる点が、オカルトとの決定的な違いとなるだろう。
検証や証明が不必要なオカルトと、証明が求められる数学的直観とを同一視するのは間違い。
800 :
考える名無しさん:2007/04/28(土) 16:23:20
>795
個人的には、自然法則は人間の存在と無関係に存在すると考えています。
人類誕生以前から自然法則は存在し、人類が絶滅しても自然法則は失われないと。
法則と理論化とは違うと考えています。
ですから、法則自体は発明したものではなく、発見だと思う。
例えば公転という自然法則があるけども、あなたは人類誕生以前に地球が公転してないと思いますか。
人間の意識が一切作用を及ぼさず、無関係に公転するのではないですか。
801 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2007/04/30(月) 18:36:00
>800
>法則と理論化とは違うと考えています。ですから、法則自体は発明したものではなく、発見だと思う。
「人間」が、自然現象一般を記述し、それらの幾分かを説明できるものを「モデル」と呼ぶとします。
観測/観察等を経て、モデル化していく人間の指向/志向性一般のなかで、法則と理論化との相違点とはどういうものだとお考えでしょうか?
私は、「人間という観察/観測/認識/モデル化していく主体を、一度、カッコに入れたモデル」というものを想定するのは、人間の認識の閾値を越えたものであることから、問題提議可能/不能の判断を超えているものであると思います。
802 :
考える名無しさん:2007/05/19(土) 03:05:31 0
test
>>732 「物自体」とは、「単に私の認識能力と関係なくそれ自体としてあると想定される場合の物」のことである。
(中島義道「カントの自我論」p314)われわれはある体験(けがをするとか)を過去に遡って
想起するとき、その体験の表象を構成する。しかし、その体験自体はもはや過ぎ去ってどこにもない。
体験自体はかつて現実にあったものだが、もはやない。追体験(過去の想起)してもそれはわれわれが構成した表象
にすぎない。
>>754 カントはなぜ「物自体」なる概念を作らねばならなかったのか。
それは、われわれの認識能力が対象世界を思惟として構成しなければ、対象世界を認識できないからなのだ。
認識は、内官の形式としての時間と外官の形式としての空間(これを直観の形式という)があってはじめて可能となる。
認識とはわれわれが身体をもち、外界を構成する統覚をもつ
ことが前提である。その統覚には経験的と超越論的の二つの統覚がある。超越論的とは、もちろん経験上不可能な飛び越え
をするからそう名づけた。
だから、物自体に経験的と超越論的の二つがあるとはおかしなことだ。物自体を理解していない
証拠だ。
超越論的観念論には物自体はさけられないものだ。世界の森羅万象すべては私の表象であるかぎり、物自体はその外にある。
私の表象とは関係のない実在するものなのだから。
>>754の理解でいいんじゃないの?
>>732がおかしいんだよね。
「物自体に経験的と超越論的の二つがある」というのは、もちろん間違っている。
806 :
考える名無しさん:2007/05/26(土) 13:58:39 0
>>780 いやいや、ハイデガーを読むことが浪費なら、カントを読むことだって十分浪費なわけで…w
人によったら、そもそも哲学なんかに興味もってる時点で浪費なんだから。
それはともかく、カントによる「物自体」の発見を、西洋哲学の転回点と考えてもいいと思う。
ヘーゲルなんかは弁証法によってそれを乗り越えようとしたわけだけど、それではあまりに観念的で、乗り越えたとは言い難い。
それを踏まえた上でニーチェ、キルケゴール、マルクス、ハイデガーらが出てくるわけで、
現代においてカントを読むわれわれの立場からすれば、こうした哲学者の視点を欠かしてはならない。
特にハイデガーの「存在と存在者」っていう概念は、明らかにカントに通じるものがある。
それを浪費と言ってしまうのは速断に過ぎる。
>>807 (以下は中島義道は「カントの自我論」の中の記述であるが、適当に変えてある。)
カントの超越論的観念論は、(いや、そもそも人間はと言い換えたほうがいいかもしれない。われわれは、)
「太陽」も「空間」も「円」もこれらのあり方を了解できる。ところが、「私であること」「私という存在」は私が存在している
からこそ了解できる。これはトートロジーだ。
私の存在とは私の表象の中の穴である。私はすべての世界のもろもろを表象するが、私の存在だけは私の表象のうちに
おいておくことができない。私の存在、”私はある”ということは、私の表象から「そと」へ逃げてしまう。統覚は「私である」ことを
私の表象の「そと」に「存在する感じ」をもって存在している私から、導いた。私であることをそもそも前提としている。
私が存在しないならば、そもそも超越論的独我論をはじめられない。
私の存在は私の表象の「うち」から了解することはできない。「表象」の「そと」は無である。しかし、
「すべてが私の表象である」という宣言は超越論的観念論の「そと」に立たねば意味を確保できない。この認識論(観念論)の「そと」とは、
「表象の手前にある場」「『私は存在する』という私の存在が開示する場」である。すべての私の表象の手前に端的に感じられることによって、
私の存在は与えられる。
カントの「純理」からハイデッガーの「存在と時間」への道は細い道でつながっている。
カントのアンチノミーって有名だけど、
あれは正しい議論ではないよね。
つまり、
「Aが正しい」かつ「¬Aが正しい」
を示していない。
示しているのは
「Aが正しいみたいに示せる」かつ「¬Aが正しいみたいに示せる」
だ。
だから
カントのアンチノミーって意味なし。
> カントのアンチノミーって有名だけど、
> あれは正しい議論ではないよね。
> つまり、
> 「Aが正しい」かつ「¬Aが正しい」
> を示していない。
カント自身
そんなことを示してるつもりだなんて
一言も言ってませんが何か?
>>810 カントのアンチノミーは、
「世界に始まりがある」
と
「世界に始まりがない」
の両方を示しているのでは。
違うよ
「世界に始まりがある」「ない」という問いが意味をなしてしまうような
世界・時間の概念がおかしいことを示していると
カント自身が言ってる
809みたいに記号を使えば
「Bという概念を使うとAが正しい」
「Bという概念を使うと¬Aが正しい」
「だからBという概念が正しくない」
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人はどうせみんなから捨てられる。
このことは、肝に銘じておいたほうがよい。
日本の知識業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、「ドイツ哲学の学者達」の
悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。
この病気は今でもなかなか治らない。本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、やたらと、象徴語と、
ドイツ式観念語(本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。500語)を使いたがる。
読んでいる方はいやになる。こんな下手な誰も説得できないような文章を、苦しみながら書いてるとあとあと大変だろうな。
どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。当たり前のことを、はっきりと書くことができない。
やたらとこねくり回してそれが「するどい批評になっていなければいけないと、勝手に思い込む。
副島隆彦「属国日本論を超えて」
(副島隆彦「今日のぼやき」2001.5.21より抜粋)
私の頭の中は、今でもこのように、雑然とした理解で成り立っている。生活実感で理解できないと「理解」と
いうのはそもそも成り立たない。私はもの書き言論人としては、素人さん(一般大衆)レベルでの実感での理解、
というのをものすごく重視する。わけの分らないことを書く人や、その文章を毛嫌いする。
このことは、私は、「オッカムの刃」 Occam’s razor と言う考えを自分の思考原理に置いているからだ。
全ての事柄(事象)を徹底的に明晰にしようとする 思考方法であるオッカムの刃 については、そのうち書く。
この日本語という限界言語によってでも、私は、明確なものをぎりぎりまで追究して、死んで行こうと思っている。
(抜粋おわり)
>814
誰だったかなぁ
ドイツのパン屋で客が店員に「そのパンをあうふぇぃべぇんして下さい」と話してるのを聞いて
流石、彼の国では日常的に哲学ってる・・・と大いなる誤解をしたそうだが
>>814 言いたいことはわかるが、哲学用語はやはり、特別な漢字を使わなければ、
逆に、効率が悪いのでは?
「統覚」とか「超越論的」とかはどうやさしく言い換えることができるのか
教えてほしい。
>>816 「統覚」=「納得」
「超越論的」は不要
面白い
ジョークスレに書いてくるといいよ
>>817 「統覚」とは「私が存在すること」の意識である。
納得とは私が存在することの意識である。は意味が通じるか。
通じない。納得とはからだでわかる、腑に落ちるということ。
>>817 「私は私自身を意識するのだが、それは私が私に現れるようにでもなく、私が私自身において
存在するように、でもなく、むしろ私は私が存在することを意識するのである。」
カント「純粋理性批判」
B 157
>>817 超越論的とはなにか。経験的の対立概念だ。われわれは物事を独特の視点から見る。独特の視点とは、
われわれが個物に出会う仕方=時間・空間のことだ。この時間と空間は私に固有の視点からの固有の光景
を与える。こうして私は初めて世界を見ることが可能となる。この世界は一つの世界である。これを保証している
のが、一つの時間と一つの空間だ。
直観の形式(時間と空間)は私が見ている世界が一つの実在的世界であること保証してくれるものだ。
そして、このことは経験的観察の集積で確認したことではなく、直観の形式をわれわれは前提として了解している。
直観の形式は超越論的である。
>>821 超越論的=不要などといってもなんのことかさっぱりわからん。やはり、漢字を使わぬコリア人の脳が
退化したように、哲学用語をわかりやすい日常言語に置き換えることの無理なこともある。統覚や超越論的
に該当する日常言語が存在しないからだ。
すっかりさびれちまったな
824 :
考える名無しさん:2007/08/10(金) 10:56:12 0
age
ほす
>>826 コペルニクス的転換とは
超越論そのものをさすことばだ。
天動説は経験論。
視点を太陽から地球を見る視点へ転換させよ。
これが経験から超越論への転換=コペルニクス的転換である。
>>827 超越論的観念論とは
この地動説とわれわれ自身の実感に近い天動説
この2つの視点をもつことだ。
すると、地動説に立った視点とはなにか。
それは実際の光景ではなく、単なる概念にすぎない。
太陽は東から上り、西へ沈む。
しかし、太陽から見た視点を表象することはできる。
そして、すべての表象は私の表象であり、
世界は私の表象となる。
>>828 人生は厳密にではないが、大体「同一のものの繰り返し」だ。
ニーチェの永劫回帰は奇怪な思想に過ぎないが、人生は繰り返しだというのは
真実だ。人々はそれを日常生活という。
毎日毎日大体同じことを仕事・学校でする。しかし、土日は休む。
ただ、毎日が違うというのも真実だ。
今日という日は二度と還らないのも真実。
そして、毎日同じような繰り返しで生命を維持してゆくものの
毎日少しずつ老いが進行する。エイジングは繰り返しの中にある
漸進的変化だ。
繰り返しと不可逆的老化の果ては死だ。
この人生のなぞに挑んだ人がケーニヒスベルクの人間嫌い
イマニエル・カントだった。
毎日の生活は時計のような規則正さ=繰り返しであった。
>>829 人生のなぞ
霊魂は不滅なのか
宇宙、世界の生成の理由はなんだ?
神はいるのか
純理はそのなぞを解く鍵であるが、カントは
ハイデガーの場合と同じように基礎理論の構成
だけで内容論は書かなかった?
>>817 > 「統覚」=「納得」
> 「超越論的」は不要
「超越論的」=「思い込み」だよ。
糞スレ化してますな
ほしゅ
834 :
考える名無しさん:2007/11/06(火) 21:49:28 0
様相のカテゴリーは、可能と現実と必然である。
様相を関係的に判断するのではなくて、様相で判断してみよう。
様相の判断に当てはまる日本語を考える。
可能は、〜でありそうだ、〜できる、〜得る。現実は、〜である、〜がある。
必然は、〜でなければならない。
このように表現する。
〜できるは、関係が様相である判断だ。主に、能動の相互的な関係が可能
である判断の表現だ。これは様相と様相の判断でないので、ここでは考えない。
〜でありそうだ、は現実的なものからすると、可能的なことが伺えるという、
現実が可能である判断である。
〜得るは、可能を加えただけを示す判断だ。
〜がある、は判断の尊属的なことに従って、ものがあるという関係的な判断で
ある。関係なので、ここでは考えない。
〜である、は現実的な判断である。
〜でなければならない、は必然の判断である。
様相と様相が重なり判断する。
先述の、現実と可能が重なると、現実的なものから可能であるという、〜であり
得るという判断である。可能と必然が重なると、〜せざるを得ない、という判断である。
現実と必然が重なると、〜でなければならない、という判断である。
日本語は、必然のみと現実と必然が重なる判断に区別をする表現を欠いるのか。
これは、人間の持つ信念であるとも、現実のものが信念であると判断しているのとも
、私達は様子に判断が付かないのだ。必然は、しなければならない、として公然と認
知されている。現実が必然である様子を上手く表現する語が無いようだ。
現実が必然である、はどのように表現するのか。〜であらねばならない、と表現す
る。こういうことは、信念と呼ぶのだ。
このように、様相と様相が重なる判断は、〜せざるを得ないという、回避不可能な
必然性に表現し、〜であらねばならないという、現実性の伴う必然性の表現をする
のです。
様相であり、推理する関係はどのように考えるのか。
関係を踏まえた上で、様相を考える。
可能は現実である。現実は必然である。
だから、可能は必然である。
可能はA、現実はB、必然はCである。
判り易くすると、
Aであり得る。
AはBでありそうだ。
Bである。
BはCであらねばならない。
Cでなければならない。
だから、AはCであらざるを得ない。
推理の関係であると、AはBである、BはCである。だから、AはCである、だ。
しかし、様相を交えると、AがCである結論であると、〜せざるを得ないと表現
するし、BがCである、と結論するならば、BがCであらねばならない、と表現す
るのだ。
だから、路線的な思考では考えられないものがありますよ。
836 :
考える名無しさん:2007/11/06(火) 22:24:20 0
可能が現実であることは、蓋然性である。
可能が必然であることは、不可避性である。
現実が必然であることは、義務性である。
推論は、以上の三項目の判断を導きます。
様相は、関係ですと、三項目の二分法ですが、
様相の判断ですと、六項目の分類になりますね。
可能ーー|
蓋然 |
現実 | 不可避
義務 |
必然−−|
判断表にしますと、相成ります。
837 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 23:02:47 0
○推論からこのような様相になる
可能 現実 必然
可能 ・ 蓋然 不可避
現実 蓋然 ・ 義務
必然 不可避 義務 ・
○判断によると、三つの様相があり、一階の様相と二階の様相を使い、
それ以外の様相であると判る。あえて表にするまでもないぐらい判り易い。
○三段論法に従うと、大前提に従い、大きな前提に含まれるべきである、
含まれるべきでない、と考える。
1、必然に従い可能を媒介として現実を考える場合
これは量的に表現すると、必然が全てで、可能が一つで、現実が数多的であるようだ。
必然に従い、あり得る、あり得ない、という可能で、現実のものを調整するのだ。
838 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 23:24:10 0
1
必然:全体 可能:数多 現実:一
我々は全く乙でなければならない。甲もできれば、丙もできる。それだけのものである。
こういう量的で比喩される様相は、一が認められれば良い。だが、不可能であると、現実
的に無であると考える。
全く必然でないと、可能であろうが、不可能であろうが、現実に有るようだ。
このように、敢えて量的に表現するとこのようであろう。
必然:一 可能:数多 現実:全部
ソクラテスは死ななければならない。パイドンも死ぬかもしれないし、アナクサメデスも死ぬ
かもしれない。人間は死んでいる。
論理の拡大が激しいようだ。幾つかのもので、全部は説明しきれないのだ。
必然:一 可能:全部 現実:数多
ソクラテスは死ななければならない。人間は死ぬ。ソクラテスやゴルギアスなどがいる。
そうであるものやそうでないものが現れるようだ。
839 :
考える名無しさん:2007/11/11(日) 19:57:42 0
>>811 だからアンチノミーは
>「世界に始まりがある」と「世界に始まりがない」
が同時に成り立つことを言っているのではないだろ。
どっちが成り立つとしてもこの世界と矛盾はないと言うだけ。
840 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 17:20:57 0
数学 3 2 1
推論 判断 推理
→こういう順に量なり関係なりを秩序を持たせると良い
つまり、3−2は1なんだ。
○ ○ ○
○ ○
● 純粋
じゃあ、推論・判断・推理を一遍にやるとどうなるのか。
晴れたら遠足に行く。遠足にいったら、おやつはバナナだ。だから、晴れたらバナナが食べれる。
晴れという訳で遠足なのであり、晴れという訳では考えられないものがある。それ故に、バナナがある。
従って、バナナだけを言いたい。
841 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 17:27:06 0
>>840 しかしだね、そういうように考えることも可能だろう、現にそのように考えているのだろう。
君は、なんだってバナナの話なんてしなければならないのだ。
そういうようにできる訳だ、そういう考えをね。そういうように考えられないものがあると思うよ。
それ故に、どうしてしなければならない大事なものがあるんだ。
大事なものを考えたいのだ。
論理はその大事なものを教えてくれるのかい?
>>841 それは考え方に不備がある。量的に表現すると、現実に対して、独特になっていく考えなんだ。
外界のものに対して内心、一人考えるのみになる。
これは自分が一人納得する考え方だ。
秩序を変えよう。
1→2→3
そうすると、特別なものから、大なることへ進む考えになる。
そうでないと、反対に、みんなに対して考えることになる。
特別なものを問題にしている場合、そうしたほうがいいようだ。
843 :
トリック☆スター:2007/11/15(木) 08:51:39 0
えっと…
要するに、感性、理性(悟性)って
例えば、目の前にいる犬が居たとして
それを犬が居るから、認識するんじゃなくて
犬の影(現象?)みたいなモノを感じて頭で認識するって事?
イギリス経験論は見たものをまんま感じてそれが経験になるって言うから
分かり易いし、大陸合理論はようするに頭の中に神様(的なモノ)が
あるから真理が見える的な事だよな。
何か対象が観測者の影響を受けるって言われると何だか量子力学っぽく
感じるんだが、それと純粋理性批判の中で言ってる事って近いの?
それに1+1=2って勉強しないと理解出来ないよね?
それが元々理性?の中に有ったとか言われても、数学自体概念では?
エロイ人、分かり易く教えてくだされ
844 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 09:22:05 0
1+1=2を理解するというのが何なのかによると思うね。
数学をまったく知らないたとえばチンパンジーでも
たとえば、Aのボタンを押せばバナナが2本、
Bのボタンを押せばバナナが3本でてくることを学習させれば、
AではなくBを押すようになると思う。
これをチンパンジーが2<3を理解していることとするなら、
実験の工夫で、1+1=2を理解させるのもできそうだが。
弁証法は仮象の原理です。
したがいまして世界の原理です。
846 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 02:28:33 0
反省的概念とは、判りやすく言うと、感性に起源があるものと、悟性に起源があることを
見分ける能力である。
もっと、図的に表現すると、もし、悟性に起源があるとすると、一端、私たちの考えから、
ものを介して再び認識する理論である。感性に起源があるとすると、物の世界を端緒として
、物から感性を介して悟性へ至る理論である。
これをカントは317の辺りで説いている。
847 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 02:50:41 0
感性から悟性へ至る反省概念(人生的な反省)
区分 と 内と外
先ず、感性から来た条件を区別する、それらを外と内と考える。
外と内が、一致するか、反対であるかを考える。
それならば、、一致していることと同じである。
それならば、一致していることと違う。
それならば、反対していることと同じである。
それならば、反対していることと違う。
区分
外
と
内
一 反
致 対
↓ ↓
同∧違 同∧違
こうすると、人間的にはそぐわない反省概念が出てくる。反対の項である。
先ず、区分しているので、外と内が判る。分かれているものが基礎にあるので、それらが
一致であると考える。
しかし、先ず区分してあるので、外と内であると判っているので、外と内以上に何も言っ
てない。一致がその通りであるとすると、矛盾とでもいう名前で呼ぶといい。感性のままで
は考えられないことなのだ。この二通りの道を、要するに、同じだ、違うだ、というのだ。
すると、人生的な反省だけれども、悟性を起源にして、感性に至る、という反省の理論
も考えるはずだ。
記憶的なことを考えよう。
逆 と 一致
同∧違 同∧違
規定∧被規定 規定∧被規定
外と内 外と内
悟性を起源とする反省概念は二通りあって、逆と一致の他は、融通が利いており、
その人精密さや上手く行くようなノウハウがあるようだ。
反省概念の二義性
850 :
考える名無しさん:2007/12/12(水) 17:25:08 0
850get
851 :
考える名無しさん:2007/12/12(水) 18:42:19 0
あれかな、その反省(反照)概念ってヘーゲルのと同じなの?
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
>>843 カントの超越論的観念論では、世界は私の表象であるという仕方で世界を認識する。
統覚は対象世界を意識において模写するわけでなく、統覚が世界を表象として構成する。
しかし、世界において実在する物は<物自体>として、私の表象にはとりこまれない。
私の存在も私の表象にはとりこまれない。では、私の表象は世界を正確に認識できるのだろうか。
これは当然だれしもが持つ疑問だろう。
>>853 カントは、認識論において、「意識は現実を模写する」という説を否定した。
また、ソクラテスの言うような、どこかにイデア界があって、私の認識は、
それの影にすぎないという観念論も否定した。
超越論的観念論=思い込み
私は、日本知識人として、己を失うまい、と心に決めている。己の立っているこの貧困なる知識の土俵が、
どんなに、東アジアの一種族としての劣悪なるものであるとしても、それは構わない、と腹を据えてきた。
しかし、嘘はつくまい、と念じきた。
この土俵と劣等な知識環境の中にあっても、知ったかぶりの高踏知識遊戯―即ち、やたらと気まじめぶった
学者の論文のこと。この知識環境で友人たちさえ読んでくれないような難解な文章を書くこと―はすまい、
決めてきた。日本の文科系の大学講師たちのほとんどは、アホである。
彼らの知識は外国に持ち出して、全く通用しない。言語の壁を横に置いたとしても。この書き方を、私は
これからもやめない。どんなに嫌われようが、煙たがられようが、やめない。
副島隆彦「日本の秘密」P43
[569] 以下の一連の投稿文に、私の考えを書きます。
投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/05/31(Thu) 05:30:06
大事なことは、日々、読書して、そして、それが楽しくて、発見があって、「ああ、そうだったのか」
「なるほどなあ」と、驚く喜びに満ちていることです。それ以外の学問は邪道だ。自分たちだけ
偉いお坊様だと気取って、哀れなことに信じ込んだ、天台密教のクソ坊主たち、新カント学を
名乗って、アホダラ経の、自分たちにも意味不明のことを書き続けた、東大のクソ学者たちの
やったことだ。 私たちは、あの悲惨な轍(てつ)は、絶対に踏まない。
858 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 17:43:02 0
は!
859 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 01:50:10 0
『群像』2008年4月号での新連載が刺激的!
中島義道
『純粋理性批判』を噛み砕く
だってさ。
860 :
反省さん:2008/03/26(水) 21:43:15 0
人生論的反省概念を考察すると、同じに対する語には異なるの概念であると判った。
同じと異なるの概念が先ず考察しなければならないのである。
異なるという概念が自由と対立するものであるとすると、異なるという語は自由になら
ない、そうでないと、自由であるのは同じものにのみ反省される、そして、考え抜いた挙
句に同じであるのだろう。それで、どうしても異なるの概念は自由の側に置いて考察す
べきだと判った。
反省の概念はどうやって考えるのか。世の中を二つに分け給え。すると、世界は同じか、
異なるである。しかも、同異は先ず区別することであった、異なるは自由の側にあった。
すると、こういった図になる。
異 | 同じ
これを更に、二つに分ける。どうしても、自由の領域では考えられないものに対しては、
同じであると考え、自由であることには異なると考えられる。そう言った事でも尚且つ、
ものに意見が一致するか、受け入れられないのかと考えられる。反対の側に、物に対して
物とどういった様式を持ったことであると区別せられる。すると、こういった図になる。
一致 | 反対 材質 | 形式
異 | 同じ
こうなったことは、結局は、内面と外面のことであるということが反省なのだ。すると、
こうである。
内 | 外
一致 | 反対 材質 | 形式
異 | 同じ
本来、二分するとなると、一致が二分され、反対が二分され、材質が二分され、形式が
二分されるはずである。本来は、内面・外面の話となると、反省概念は八つに区分される
はずである。
だが、実際こうなのだ。
それか、こう考えるとスッキリする。
異なるを内面と外面に分けてみた。同じを内面と概念に分けて考えてみた。
二分したものをそれぞれ二分してみたのだ。
こういった区別が反省概念だ。
すると、こういった図になる。
内|外 内|外
一|反対 材質|形式
異 | 同
しかしだね、同じの内が材質というのが気になるだろう。自分が理解して、考えるとなると
形式を内に持ってきたほうがいいはずだ。そうすると、外となると、物でしかないという単なる
材質というのだ。
だが、キメ細かさが気になると、内であると言っていいのかもしれない。すると、形式が気に
なると外であるということなのだ。
これはどうやって決めるのか。
形式が内であるとすると、同じものに異なることを求め過ぎてしまう。同じにあるものである
のに、異なるで認められるようなこととして形式を求めては自由ではない。
すると、材質のほうが内面的だとわかる。
862 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 10:17:31 0
フッサールの「Ideen zu einer〜」読んでみれば
君が如何に的外れなことを書き綴っているかわかるよ。
863 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 10:27:01 0
形式=イデアですよ。
質量=物ですよ。
864 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 10:29:07 0
865 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 15:54:31 0
866 :
考える名無しさん:2008/03/28(金) 21:20:17 0
純 一 理 性 批 判
純一スレ1000行ったな。 終って惜しい気持ちというか不安な気持ちになるスレはあのスレくらいだね。
868 :
反省の論理学さん:2008/04/16(水) 00:01:50 0
○使用例の確認
同一律 原則から出発して、原理に含まれているものを見つけて、原則と導いたものから
すると、理解するものがあると考えていく働きである。これを繰り返して、何でも
説明しようとする。
異分子律? 人纏まりで考えるようなことを避け、特別に変わったものを見出そうとする。
材質律? 含んでいるものに突き詰める考え。
最後まで突き詰めていった一つを質量と考える。アリストテレスの形相因や
質量因の考え。
形式律? 含むことを突き詰めて考える。
重層的な思考をする。ヒダやフリルや象徴を考える。単なる物であるようでいて
その上に考えることがある。
一致律? 方向の通りであると認める。
反対律? 方向が留まる。
内律? ものが覆っていることであると見出す。表面と対に内面を考えるのであって、対に
考えるから、それのみというのは考え難い。
保護する、交わる、という規定的、可能的なこと。
外律 同上。放り出す。排他的。
○じゃあ、反省してみよう。
1、原則から始まり、他のことを導き出して次々と説明し、
構成する最小のものか、一言で言い尽くせることを考え、
何が表面で、何が内面であるかを見出せ。
2、人纏まりで考えるようなことを避け、特別に変わったものを見出し、
特別に変わったことが、その通りであるのか、
人纏まりで言い表せるものが、それに留まるのかを考え、
どれが表面で、内面化を見出せ。
人に反省しろと言う人がいますが、こういったことをさせたい。
○反省的論理構成
同一律・末法律・質量因・形相因・ヒューム・弁証法・論文の両立可能な議論・絶対的
○組み上げてみよう 思考スケールは下から上に組みあがるように反省してください。
中央線で分かれています。
議論の両立可能|絶対 | 議論の両立可能|絶対
ヒューム|弁証法 | 質量因|形相因
末法律 | 同一律
○結び
どうやら、このどっちかの底辺からよくある論理を使って出た結論を、次の論理方法で
考察していくと、どうやら反省しているようだね。
870 :
考える名無しさん:2008/04/18(金) 17:49:15 0
1・2・3の順列論理
原理が一であり、法則が二であり、格律が三である約束で論法を作る。
原理が反省の論理である。
同一原理
○分析
全ては同じことである。
同じことを区別すると、原則に従う二つのものに区別される。同じことにおいて、
行為するものと、行為されるものだ。
行為から当然考えられる影響がある。同じことにおいて、行為者が被行為者に与えると、
行為したならば、そこから生じるものを考え付く。
○総合
何か影響するものを考える。
影響したならば、行為と被行為が考えられる。例えば、自動車が当たって、体に傷が付いて痛い。
すると、自動車が当たったならば、体の傷が与えて、心に痛みを与えられる。
影響するものと、行為者と被行為者を一つの事で言い表す。
871 :
考える名無しさん:2008/04/18(金) 17:59:41 0
1・2・3の順列論理
原理が一であり、法則が二であり、格律が三である約束で論法を作る。
原理が反省の論理である。
異なる原理
○分析
全ては異なることである。
一つのことと思っていると、一つのことでは説明されない他のものがある。
行為者が被行為者に与えるならば、行為者や被行為者とは全く異なる第三のものが生じる。
○総合
何か影響するものを考える。
何かの影響から、行為するものが生まれる。行為者が被行為者に影響を与える。
影響や行為の部分を取って説明するのではなく、もっと大きな枠組みで捉えた事で考える。
872 :
考える名無しさん:2008/04/18(金) 18:08:52 0
>>870 >>871 同一原理と異原理をこうしてよく判るようにしてみると、
同一原理は総合的であると、もっと同一原理の外に向かうのであって、
異原理は分析的であると、同じものを求めて外へ外へと向かう、
これは生産的であると判るだろう。
873 :
考える名無しさん:2008/04/29(火) 02:37:00 0
『純利』に
感性---- 時空間
悟性---- 因果
と書いてますが、
感性---- 空間
悟性---- 時間、因果
の方がいいと思います。
どうなんでしょうか?
874 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/05/01(木) 20:39:12 0
>873
ハイデガーの「存在と時間」などの観点からは、そういう解釈でいいと思います。
時間は、自らの死の概念から生起する、というのであれば、感性ではなく、悟性の方に近い。
空間は、とりあえずは、そのまま感性に置いておいてもいいと思います。
875 :
考える名無しさん:2008/05/01(木) 22:06:08 0
ありがとうございました。
感性------写真
悟性------アルバム
ですね。
というか、
感性と悟性なんか区別がつかないんじゃないか?
877 :
考える名無しさん:2008/05/06(火) 13:45:23 0
つくだろw
878 :
考える名無しさん:2008/05/11(日) 23:00:46 0
どうやってつけるんだよ?
《……》内は
松田京三 「カントの空間論に於ける不一致対称物(inkongruentes Gegenstuck)について カントの空間論の一考察」
を適当にまとめたもの。
混濁した感性が明確な悟性へと移行する、いいかえれば感性と悟性は地続きである
とヴォルフ派は主張している(「純粋理性批判の無用論」の福谷茂の解説)。
《しかし不一致対称物は悟性的には等しく、その差異は感性によってしか分からない。
したがって感性は悟性から独立してある。
ただし感性のありかたが絶対空間(方位論文)であるか直観の形式(批判期)であるかは時期によって異なる。》
でもマッハは次元をふやせば不一致対称物を悟性的に区別できると言ったとか。
つうかヴォルフだっていちおう区別したうえでそれが連続的だと言ってるな。
>>879 やっぱ、時間は悟性だな。
しかし、
言語能力は感性だな。
挫けずに頑張りたいが、こういう反応は正直辛いでしゅ。
883 :
考える名無しさん:2008/05/15(木) 21:29:47 0
二つの量のものがある、これを選択する。選択を反省するとどのように考えるか。
参考図
内 外
一致|反対 質量|形式
異なる | 同じ
一、表
@同じ・異なる 似る|各々
A質量・形式 数字|並立
B一致・反対 一方か、全くそうでない|両方
一方と他方が同じであると、似ているという。一方と他方の異なることを内面に持つとそれぞれである。
一方と他方が質量であると、数字の数で言い表す。一方と他方が形式を持っていると並立している。
一方と他方が反対であると、どちらかを外すか、全く反対である。一方と他方が一致であると両方である。
一方と他はどのように選ぶか。
@の段階であると、どちらも似たようなものである、同じようなものである。或いは、それぞれのものとして
扱うように選ぶ。よく、これに一致か反対かを求めることは似たようなものであって、それぞれ扱うようなこと
なのである。
Aの段階であると、一方と他方が質量であると、二つがある。他方が無くなると一方が無くなってしまう。
一方があれば、他方がなくても良い。こうやって根源的な一つのものを選ぶ。
一方と他方が形式である、すると、これに一致か反対を求めるのは意外であって、実現する形を作った
ものに従うというように選ぶ。例えば、ひっそりと消え入るような形であると、みな消えてしまうようである。
Bの段階であると、どのようなスタイルが良いなど入り込むにはもっと内密なことである。一方と他方が
どちらであることは反対であるか、一致するかであって、反対であると、一方がなくなるか、一方も他方も
反対であるのか、それとも、一致であるとすると両方なのである。
こういうような意味を用意しておかないと、選ぶということは判らないようだ。精々、似たようなものとか、
カテゴリー的な適当というだけであって、選ぶことを判ってない。
884 :
883:2008/05/15(木) 21:41:24 0
選択は良いのか悪いのかということで迫られる問題である。
これは内的な一致か反対かを問われているのである。
内面の問題に外面の問題を招き入れると、選択は迷う。
良いのか悪いのかという問いで、物をもっと理解しようとしてどのような形を目指しているのだとか、根源的な一つの
ものを見出そうとする。例えば、そういったものが判ったとしても、やはり一致か反対かという問題を考慮していない
で自分自身どうしてよいのか判らないというのだ。
外面のものがあるとしても、選択の一致か反対はどっちももらっていいのか、どれか無くすか、これを決めると、
自分自身の考えは決まるのだ。
885 :
考える名無しさん:2008/05/16(金) 21:41:20 0
@判断
私←Aさん
A比較
Aさん
私 <
Bさん
@+A=批判
区分はマニアである。
批判は判断が比べる意味である。
886 :
考える名無しさん:2008/06/10(火) 05:24:57 0
感性と悟性などいくらいじくっても仮説の域を脱せないよ。
重要なのは
総合的的判断と分析的判断
の区別だよ。
why?
コピペだけど
感性=ア・ポステリオリな総合的判断
悟性=ア・プリオリな総合的判断
理性=分析的判断
に感心したのだが、どうなんですか?
誰か上級者はいないの?
>>889 百歩譲って
ア・ポステリオリな総合的判断=観測
ア・プリオリな総合的判断=因果
分析的判断=数学
なら、いいかも。
892 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2008/06/11(水) 13:38:10 0
千歩譲っても、「カントの」分析的判断=数学の説明は論にもなっていません。
「分析的判断=数学・論理」はカントの考えではないが、
分析的判断=トートロジー=数学・論理
と思えば、いいんじゃない。
894 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 00:46:16 0
理論的には、決意はどういった理解であるのか。
しかし、これからどうするというと心の準備であって実践的だ。
理解し難いものなどであり、その中でもこういうように考えることにする、というのが理論的な決意であるようだ。
私が決めるというのはどうやって考えるのか。どっちにするというのがよく言われる。
これは二義的であって、実践的と理論的な区別がある。
実践的には、これからどちらに向かうのだ、という意味であって心構えである。ただ、これから向かうにも、
先ず、もう既に方針があるか、方針が無いなら、理解しないといけない。方針が無い時には実践よりも理論が
先になければならない。
理論的に、私が決意するとはどういう理解であるのか。
それは心構えでないので、これからどちらへ向かうということを考えて根拠の無さに迷ったり、不安になること
ではない。
私はこういうように考えることにするという決意である。
これが理論的な決意である。
895 :
心の仕組みドットコム:2008/06/12(木) 13:45:42 0
>>894 ところで君は、理解を五回、理論を五回と頻繁に使っているけど【理】って何か分かっているの?
896 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 14:00:24 O
カントがいってたアプリオリな総合判断っていまなら神経システムのことだろ。
>>896 それで。
DNAでプリントされている神経システムのことが前提になって、
現代カント哲学が展開されているんだよ。
898 :
考える名無しさん:2008/06/13(金) 00:03:13 0
神経システムは後天的にものの見方(形式)を獲得する。
空間、時間、言語認識しかり。
脳科学者の澤口俊之の
最初に書いた本がそんなんだったような>カント哲学と脳に関する
900 :
考える名無しさん:2008/06/13(金) 07:25:32 0
>>898 知ったかいうなよ。
まだ分かってないだろ。完全に神経システムが解明されてから言えよ。
902 :
考える名無しさん:2008/06/19(木) 18:05:34 0
純理を読めば読むほど、やっぱ認知科学の元祖だなと思うこの頃。
904 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 03:55:31 0
905 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 09:52:01 0
>>904 百人いりゃ百通りの定義があるぜ、ってのが哲学よ。
>>902 カントは哲学を「認知科学」に貶めた馬鹿野郎。
907 :
考える名無しさん:2008/06/30(月) 14:18:48 0
>>906 違う。馬鹿野郎がカントの哲学を「認知科学」に貶めた。
908 :
考える名無しさん:2008/06/30(月) 16:37:39 0
純理を岩波文庫の上巻だけしか読まないやつは認知科学だと思ってしまうだろうな。
909 :
考える名無しさん:2008/06/30(月) 17:21:18 0
認知科学の方が哲学より上だろ。
910 :
考える名無しさん:2008/06/30(月) 17:52:31 0
認知科学は神や自由や魂について語れない。
神や自由や魂も哲学ではないぞ。
ようやく上巻読んだ。
長かった、確かに認知科学っぽい感じはしたな。
>>912 たいしたもんだね。
しかし、ここからが大切だよ。
認知科学的な部分を全部消去して、君自身のカント哲学を構築してごらん。
この作業が、、カント初心者が中級者になるためには絶対必要なんだよ。
急がないで、じっくりと考えることだよ。
914 :
考える名無しさん:2008/07/02(水) 07:31:22 0
915 :
考える名無しさん:2008/07/02(水) 07:51:31 0
>>913 ありがとう、まだまだ初心者だけどその言葉肝に命じておく。
確かに。
認知科学とカント哲学(純理)の違いをはっきりと区分できれば、
すごいね。
ラッセルは区分しようとして、カント批判派になっちゃったんだよな。
917 :
考える名無しさん:2008/07/03(木) 15:10:54 0
今からこのスレを全部印刷させてもらう。
918 :
考える名無しさん:2008/07/03(木) 15:13:31 0
やっぱやめた、長すぎる。。。
919 :
関係の言い表し方:2008/07/07(月) 23:46:57 0
定言
───┬────
│
選言 │ 仮言
│
仮言は相手の世界、物の世界、結果の世界、力の世界、など。
選言は私の世界、心理の世界、アイデアの世界、関係の世界など。
定言は必要の世界、規則の世界、普遍の世界など。
定言と選言は定説、仮言と選言は仮説。順逆同じ。
定言と仮言は普通、定言と選言は一般。選言と仮説は普遍とは違うので仮説。
920 :
考える名無しさん:2008/07/26(土) 02:01:42 0
>>1 硬くなるのはしょうがない。まるで、車のサスペンションが重い荷物を乗せる場合のようにねえ。
または、マンホールにはめる鉄蓋は道が広くなればなるほど、荷重量が大きい物である。
または、マンホールは県花や県鳥の名物を凹凸の皺で表現している。
または、富山県の県花はチューリップである。
このように決まっているのだよ。
921 :
考える名無しさん:2008/07/28(月) 00:07:09 0
1、スタイルとタイプの論理
@、様相論理
必然:□
可能:◇
A、形式論理学
タブロー
2、図
内 外
様相 | 形式
3、奇妙な論理計算
様相論理は¬の命題が¬◇であると、必然と計算する。可能性を否定しただけで、必然性
にならないことが疑わしいようです。論理の変換をしただけで、必然的だと認めてしまう。
単に裏返っているだけとなってしまう。
形式論理は論理記号の計算結果が矛盾する形で計算関係を確かめる論理だ。不完全性が
あって、計算が合わなくなる。
論理が或る部分カバーするものだ。
4、The 様相形式論理
桃でなければならないならば、デザートである。
計算
○真
桃でなければならないならば、デザートである。(真)
桃でないなんてあり得ないならば、デザートである。(真)
桃でなければならないならば、デザートでない。(偽)
桃でないなんてあり得ないならば、デザートではない(真)
○偽
桃でなければならないならば、デザートである。(偽)
桃でないなんてあり得ないならば、デザートである。(偽)
桃でなければならないならば、デザートでない。(真)
桃でないなんてあり得ないならば、デザートではない(偽)
○理性の限界を考える人の世界
教育|社会 | 自然|神
○理性と自然で考える人の世界
知能|構造 | 機械|自然
923 :
考える名無しさん:2008/08/11(月) 07:57:01 0
理性の問題
感性から悟性、悟性から理性に進むという人間観で考えます。
理念は幾つか考えられます。善や正しさや美など理念というと幾つか考えるのです。
理性の問題は同じものを善とか正しさとか幾つも考え分けられるのか、そうしたら、
どうやって、何時区別しているのか、という問題があります。
感性に区別があり、感性に違いがあると或る時は善になり、或る時は美になる。いつも
同じような感じにしておりますと、同じ理念として考えられます。しかし、色や形や手触りの
感じで、或る時は善になり、或る時は正になり、或る時は美になります。どうすれば美的な
感じであるかというと、同じ感じですと、好みがあります。違う感じですと、気分です。
悟性に区別があると、概念の構造です。同じ構造が理念であると考えられると、固定的な
構造を持ちます。概念が計算されまして、この構造は善である、その構造は正しさである、
あの構造は美であると考えます。しかし、違う構造が理念であると考えられると、構造を新し
くする過程や他の概念の含み方やどの概念で考えられたということが理念を区別します。
どうすれば美的であると考えるのか。決まった事が理念であると考えられるのであり、甲構造
は善であり、乙構造は正であり、丙構造は美であると区分してあります。しかし、違う事柄であ
ると、判断です。言い換えると、カオスとか、新しさとか、場合とか、確率とか、ランダムとか、
記憶するとか、好奇心が強いのです。新しく憶えたことを善いとか、正しいとか、美とか考えら
れます。
理性に区別があると、同じ理念は秩序を持っています。善が司ると美が含み、美が正しいを
含むというように配置をします。違う理想は一つに空想がある。感性や悟性に移して空想した出
来事に役割を担わせて、ここまで来ると、このような役割のように理念を区別すると考えます。
どうしたら美しいのか。先ず、善良であって、美というと、ここまでのことであると正しい認識をす
るというような具合です。違うというと、国に見立てて検閲所があり、門番がおり、民衆がいて、
順々に理念となります。
私達が善いだとか、悪いだとか言うのはこういうことなのです。誤解がないようにしておきます
と、感性とか悟性とか理性で考えた理論の話しです。
924 :
考える名無しさん:2008/08/22(金) 20:07:45 0
決めることを感性と悟性に区別する
量に相当する決める
悟性において全てが決まっていることは完成である、感性において特称に決まっているものは優先である。
質に相当する決める
悟性において決まっていることが肯定であると可決である、感性において否定的なものがあると否決である。
関係に相当する決める
悟性において決まっていることは決定である、感性において決まっているものは選択である。
様相に相当する決める
悟性において必然である、感性において摂理である。
925 :
考える名無しさん:2008/09/15(月) 09:37:45 0
で、『群像』誌上での中島センセの『純理』を噛み砕くの評判は如何なん?
926 :
考える名無しさん:2008/09/15(月) 11:18:09 0
今の社会で「純理」を読み解く意味はなんでしょう?
簡単に答えて。
純理を読み解く意味は価値を考えることです。
理性的に良さを考えますと、良さの筋道が判ります。
そうしますと、それは良くならないと言えます。
これはどういう意味があるのかというと、気に入らない、駄目ではないということからが
要らなくなります。君自身が追求する方向に進むと、どうにもならないものであったり、
悪くなることです。
私自身の考えは成功すると良くなりますし、良くなることをやってないと区別が付きます。
しかし、邪魔をしたり破滅するものは自分の方針にならないし、自分の採用するものを
用意しないとならないので、単純に優れています。
だから、良く考えましょう、という意味なんです。
928 :
考える名無しさん:2008/09/16(火) 05:18:28 0
言語としての考察が希薄
929 :
考える名無しさん:2008/09/17(水) 13:42:03 0
私は理性が両立すると考えるか、統一的であると考えるのか。
両立は或る部分に権利を持つ。理性の両立に従って、部分と部分を交換するものができる。
理性を交換するものがないと、理性を打ち立てても、その部分に限るのであって、或る理性では
考えないものごとができる。また、一から考え直したり、考察しても他のことには適用できないと
なる。この場合、理性を考察するのはもとより、理性を交換する比率が必要になる。例えば、善
に対して美が10必要であり、美が一つに対して正しさが10必要である。こうしないと、経験から
理性を打ち立てることは特別なことであるとしてなし得ないし、上記のように考えられない。
統一的であると、理性においてどれくらいの値であるというものが理念の区別として考えられる。
考え易い単位として理念を区分しておいて、理性ということで考えると、1が利益であり、10が合理
的であり、100が正しさであり、1000が美である。どのような事柄であっても、美で表すのか、利益で
あらわすのかで考察するのである。どのように区別してあっても同じ理性の状態であるということ
なのである。
理念を条件的な記号で表現する
真 →
魔 ・← 、 →・
美 〜
正 □
聖 ―
邪 > 、 <
悪 →× 、×→
利益 ○← 、 →○
真の理念はそれだけである。魔の理念はある点に向かって進む記号である。向かう先には
私がある、或いは、進んでいても最終的にはある点に向かう。美はなだらかなカーブや曲線
である。正は線で囲う。聖はずっとそのままである。邪は何か別のものが交じり合ったり、
別のところへ気が逸れる。悪は直線が失敗に向かう、失敗しているものから延長している。
利益は真っ直ぐ利益になった、真っ直ぐ利益になったというのである。
中巻からプロレゴメナと並走しながら読んでいったけど、
いい手引書になってくれたわ。
932 :
考える名無しさん:2008/10/25(土) 04:25:24 0
価値と原理
価値と原理は悟性を統御する働きである。価値とは上記で表した記号的なことであり、
これを悟性の側より価値を考察した場合、原理というのである。悟性の側よりどのように
法則を扱うべきかを纏め上げることなのである。
価値をどのように考えるかということが課題である。
理性自体の把握が考えを統御する理性の働きである。理性とは、単純に行き着いた事柄
であると考え、浮かんでは消えて、このように考えたことはこのような理性であるというと真的
である。どの理性が含み、他の理性が囲まれるということを考えることは正しさの原理で考え
る働きを纏めているのである。理性は他の理性とぶつかり合い紆余曲折を持つということは
美的な理性の働きである。このように、内容は理性のように作ってあるのである。
933 :
考える名無しさん:2008/10/25(土) 04:37:20 0
価値の世界
各界の最高の事柄を表示してみる。
理性、方針、真、法、国、血筋や出会いなどの縁、イデア、金銭、神、まだあるが、こういった
事柄が最高なのである。最高の事柄に課せられた使命は価値自身でもって他の最高のものを
説明付けてくれるというものである。他のものもあるけど、単に価値があると認めるこは重要では
あるけど、最高ではない。
こういう働きを価値は持っています。
何故なら、本質的であることを説明にあてるとすると、続いてさえいれば、それ自身から
説明しなくてもよいのだし、内容はどうであれ、表象はそれ自身から説明するからなので
あって、同じくしたり、一致や反対ということも、自分自身から説明付ける使命を持っている
からである。よく、実際にそうなってしまったらどうするつもりなのか、と疑問を持つ人がいる
けど、そうなると最高なんです。
935 :
考える名無しさん:2008/11/03(月) 00:42:00 0
1カントは認識を判断で考えました。ヘーゲルは概念で考えました。
2「ア・プリオリ」は「先天的」で問題がないのですが、カントは自分の認識を
transzendentalと形容しました。これは普通「先験的」と訳されるのですが、訳語で
考えると「先験的」と「先天的」とは、日本語としては、違いはないと思います。
しかし、カントのtranszendentalはカント自身の定義によりますと「先天的な認識能力
の根拠を検討する」という意味であり、「先天的な認識論に関する」ということですから
「先天的」とは違いますし、そもそも「先験的」と訳すのは間違っているとすら思います。
「先験論的」と訳すならまだ分からなくはないですが、ともかく日本語を見ても意味が
ピンときません。私は「認識論的」と訳してもいいと思っています。
又、カント自身このtranszendentalを常に自分の定義した意味では使っておらず、
「ア・プリオリ」(先天的)と同義に使っている場合も多いと思います。
牧野紀之再話(『西洋哲学史要』波多野精一著)
936 :
考える名無しさん:2008/11/08(土) 22:57:38 0
>>935 私は先天的ということを先験的と考えておりました。何故なら、ヒュームの経験論や
ライプニッツの合理論が対立しているからです。飽くまで経験よりも前にあるというものです
のですので、先験的であるということです。
経験を排した合理論と同じあるのか。合理論は推論の連続といいますか、当然考えられる
ようなことから、更に導き出した答えで問い詰めていくものであると思います。たぶん、先験的
というのは、合理論者が考えてた共通部分であると思います。だが、前提を提出して議論を
重ねてあるべきものを結論する合理論とは、骨子を抜き出したということが違うようです。
飽くまで、学問の方法を使ってますから、カントは判断という訳でもないかもしれませんね。
判断というと趣味の問題と聞いたことがありますね。
判り易く理解力を養成してくれた思想であったのだと思いますよ。
質問です。時間と空間が人間の感性の形式に過ぎないとするならば、
人類が存在する前にあるはずの「時間・空間」とは何なのでしょうか?
938 :
考える名無しさん:2008/11/09(日) 10:44:49 0
>>937 人間に空間や時間が依存しているという考えてですね。
空間や時間は人間の先験的形式である。人間の考え得ることであり、先験的形式で考え
得るものを経験するのだ。
では、先験的形式という訳でないものがあるのか、こういう疑問であると考えました。
空間と時間ではないといいながら、尚、答えが空間と時間にあると考えているようですね。
空間や時間から導き出した何らかの回答に対しても空間や時間で考え得る何かです。
議論の仕方でしたら、論理の教本などありますので、自由に考えていただいて良いと思いま
す。
もっと考えたいものがあると思われます。対象は空間や時間で証明できるものがあるのか
、と考えるでしょう。もう少し、対象を自分自身でもっとよく考えて欲しいです。
しかし、対象が無いと判る訳がありません。ちなみに、身近な物がありますと、端も見えない
ような広大な土地や歴史などありますかね。
ですから、まだ937さんは自分自身の考えを整理する段階であると思いました。
>>937 >人類が存在する前にあるはず
何かがあるけれど、原理的に人間にはどうなってるか分からんちんというのがカント。
940 :
考える名無しさん:2008/11/09(日) 17:44:57 0
カントの時代には「何かがある」という考えはなかったのでは。
単純に人間の認識がなければ時空間も実体としてない、と考えていたんだ。
いやカントの場合は物自体(noumena)は、人間の認識ではそれとして捉えられないけれど
建前としては要請として存在するし、実際の所カントはそれなりの仕方で存在すると考えていたでしょ。
それを時間や空間と全く無関係なものとして考えていたかどうかは、意見が分かれるところではないですか?
942 :
考える名無しさん:2008/11/09(日) 19:19:17 0
現代は宇宙論から実体としての時空間の存在は疑い得ないものと
なっているが、そこのところとの整合性はどう?
>>942 >実体としての時空間の存在は疑い得ないものと
>なっているが
実体として、ということの意味と
疑い得ないもの、という表現の意味を詳説して下さいな。
944 :
考える名無しさん:2008/11/09(日) 22:09:10 0
だってビッグバン理論から宇宙は膨張して現在に至ってるんだから、
空間的な広がりがあるのは明らか。つまり実体として確かにあるということ。
宇宙の外に別の宇宙があるとすれば、それも宇宙だ。
だから宇宙といった場合は概念でしか考えられない。
逆に実体は確かめようがないばかりか確かめなくていいもの。
時間を考える場合宇宙の起源や始まりがあるとして、その前に時間が
存在していたか、と問う。答えは始まりという言葉を使ってしまった以上
時間の概念以上のことは答えられない。
始まりが無ければ時間の概念そのものは無に帰する。
>>944 カントは別にそういうことを否定していません
947 :
考える名無しさん:2008/11/09(日) 23:35:21 0
その実体をそのままの形では認識できないということ?
基本的には、私たちが自然科学的に記述しているような世界は
私たちの認識形式に従って現れるものなのだから
実体そのままの形とか考える必要はないよね、って話です
そもそも最初の話に戻るけど
>だってビッグバン理論から宇宙は膨張して現在に至ってるんだから、
>空間的な広がりがあるのは明らか。つまり実体として確かにあるということ。
これは、与えられた現象から、科学的に、理論的に再構成された知識であって
別にビッグバン理論自体は「宇宙が実体として確かにあるかどうか」は問題にしていません
949 :
考える名無しさん:2008/11/10(月) 23:13:21 0
>>944 私の考えなんですが、理論は或る方向を持っている、ということです。
物とは区別されるような自分として意識されることです。こういったことが議論や理性として
考えられています。
ですが、純粋概念から物を追求しますと、何を目的に考察を深めていったのか理解でき
なくなります。志半ばで踵を返すようなものになります。
私見に都合を良いものを集めて行くというのでもないと思います。
順調に行くとこうなるということが理論であると考えます。
世界に向かうとすると、理由があるからです。そういったことは私が起源を持っていること
です。
私から爆発に向かうというのは考えがたいかもしれませんね。
もし私の考えがないと、大事なものがあり得ないという考えを持っていたのでしょう。
これが実践という方向であると考えます。
宇宙の法則は複雑ではありませんか。何故なら、先ずどうであると考えながら、始まりを
考えただけで満足して空間に向きを変えるのですから。考える暇も与えずに入り口で満足
してしまうとは、話を広めたかったに過ぎないでしょう。
関わりあった時間も僅かですから、世界は何キロで充分であります。
世界は広いのでまたチャンスがありますよ。今度は漏らさず記録しておいてください。
やっぱり、カントが間違っていたんでしょう。
951 :
考える名無しさん:2008/11/13(木) 16:11:43 O
952 :
考える名無しさん:2008/11/15(土) 06:32:09 0
ライプニッツ>カント
定言と選言と仮言で考える。
法則からどうやって分析するのか。
法則を分解しようにも予め決まっている答えが出るだけである。その前に持っている印象で
区別する偏った意見でしかない。法則から物事を分けるにはどうするのだろう。
1、目的を加えた仮定から分ける
方法と目的の中間に判断を考える。方法ならば、結論する。
方法を目的に照らし合わせて考えると、行為者と被行為者が判る。
954 :
考える名無しさん:2008/11/17(月) 01:26:59 0
どういう配置にすると最も美しいのか。
善よりも美が高いとすると、美的なことでは善いとも悪いとも判らないことをするはずだ。
美よりも善が高いとすると、善いことに限って美的なことをするのである。
ただ美しいばかりで善悪の区別が知れないようなことであると奔放である。
悪ではなく、善いことにおいて美しくあるべきであるとすると、善良で健全な美である。
美しさと正しさをどちらを高いとするのだろうか。正しさを高いとした美は作法を守ることで
美的な振る舞いをするものである。美を高いとした正しさは正しい基準の上で美的な表現
をすることである。正しい基準の上で美的なことをあらわすと技巧的である。
最高に美しいことは何か。奔放であり、技巧的な美なことである。これが美的なだけで
他の理想よりも高いことである。
955 :
考える名無しさん:2008/11/19(水) 18:13:01 0
或る理性 或る理性に対立する反価値
○正と妖
正しさは形式的であり、範囲を持っている。法則では主導的なことであり、法則と違うこと
を認めない。
妖しさは質料的であり、中身を持っている。形の中に魂や命が宿る。中身が形式を変える。
表面的には物だけど、中身は何かである。
○聖と魔
聖は持続的である。行き詰っても、継続する。
魔は一点に向かう過程である。時間的に将来であろうとも、過去であろうとも、一点に向かう
過程である。他の目的を認めず、挫折せず、その先の展望のない、将来の希望は一点の目的
である。過去の記憶を基に時間の流れと共に一連のものを作り続けたり、過去の一点より離れ
て継続していく。
○正と邪
正しさは先述した。
邪は否定的なことに従属して好まれるものがある、条件的には脇に逸れたり、合流する。
相互の関係が反転逆転しており、自分がやらされて相手にやらされる、絶対というより自殺的で
ある、こういうのは邪というのです。
○真と幻
真は概念の計算結果である。そのままのであることであり。その通りになる考えである。
幻は余計なことで形作っている。上辺だけ。別のところに通じている。実体が無い。こういう
ものを幻と言う。
訂正
邪
自分がやられて相手にやらされる、本来、私が能動であり、相手が受動であるところ
が誘導であるということ。又は、相手が能動であり、私が受動する時に、私から求めさせ
られて、相手が引き出されるという時。
957 :
考える名無しさん:2008/11/19(水) 18:44:35 0
悪
聖に対しては終了。正しさに対しては侵犯、僭越。美に対しては反発。
真に対しては滅亡。
例えば、聖に対して性欲や権力や俗世というと悪である、正しさに対しては正しさの範囲の
不確定や主導することを侵害して従属するものにするというと悪である。美に対しては寄り集
まって結合するものに、反発して人が離れていく醜さなどを悪という。真に対して失敗するよう
に仕向けると悪という。
958 :
考える名無しさん:2008/11/21(金) 20:24:51 0
美と妖 妖艶。結びつきをさとし、中身に宿るものが命である様子。
美と正 節度のある美、折り目正しい美。グラマー。結びつきをさとし、範囲が確定している様子。
美と聖 清純。結びつきをさとし、持続する様子。
美と魔 誘惑的な美。結びつきをさとし、或る点に向かう様子。
美と邪 略奪的な美。結びつきをさとし、幾つかの物が加わる様子。
美と幻 儚い美。結びつきをさとし、何も無い様子。
美と真 真実の美。実際に美しい様子。
よく使う理由というのはこういうことである。今まで考察してきた論理は理性と異なるものが
ある。理性まで考えると、理性の論理を作るべきである。理性と悟性をどうやって考えるべき
なのか。
美と悪 性悪の美。
結びつきをさとし、終わり、侵害し、上下の秩序が逆転し、反発して、滅亡へ向かわせる。
「純理」は失敗作だな。
無かったとしても、カント研究者以外は、誰も困らない。
961 :
考える名無しさん:2008/11/22(土) 11:04:36 0
『純理』がなければ近代哲学は無に等しかっただろう。
「純理」がなくても、
ソシュール、ウィトゲンシュタインは出てきたと思うが。
物自体=相対性理論
純理がなかったらフレー毛もなかったの?
965 :
考える名無しさん:2008/11/28(金) 04:02:09 0
ここまでの原理整理
カント この力の方向のどちらに傾くかを区別する能力が批判
総合
↑
│
│
│
│
合理 ←────┼────→ 経験
│
│
│
│
↓
分析
俺 カントは合理・経験・分析・総合・批判の五次元時間だが、俺は選択、それらを考察した価値を加えて7次元
選択 (左右スケール)
↑
合理 ←───総合・分析(上下スケール)────→ 経験
↓
選択 (左右スケール)
966 :
あまのじゃく:2008/11/28(金) 04:27:32 0
アインシュタインの相対性理論はこの本をから受けた
インスピレーションに影響されたんだよね
967 :
あまのじゃく:2008/11/28(金) 04:54:13 0
カントは時間と空間をアプリオリな直観的形式としたが、よく考えてみると
カントは自分の生きた数十年間の経験則からこの事を導き出したわけで、時間
と空間が別々の先験的な形式であるということは実は先験的ではなくまだカン
ト自身もそこから抜け出ることができなかった経験的知識にすぎないのではないか。
実際ビッグバンの直後は時間と空間がまだ未分化の状態があったという。
時空間は実在するものではなく直観的形式なのだという真理がいまだ無傷なんだと思う。
物自体をカント自身は何故か客観自体と捉えていて唯物論的な誤謬から抜けきれない感じ
がある。
>>966 だとしたら、アインシュタインの方が一億倍すごい。
969 :
あまのじゃく:2008/11/28(金) 05:19:09 0
2倍くらいでは
970 :
考える名無しさん:2008/11/28(金) 07:09:13 0
分析 妖的
総合 正的
合理+経験 魔的と聖的
合理 真
経験 幻
合流 邪的
選択 価値
原理というのは考えたいものを或る仕方で考え抜く本になる事柄だ。そうなることでもいいね。
原理と理念を対応させてみるとこういうようになるんじゃないのかね。
こういうのを化粧を抜いて書生っぽくやってうると学者で飾ると創作家だと、そういうのは値打ち
で決まってくると。
971 :
考える名無しさん:2008/11/28(金) 17:22:13 0
純粋理性批判の超訳ってでないのかな。
ニーチェの反キリストは『キリスト教は邪教です』という超訳が出てるし、
マルクスの資本論も第1部だけ超訳『資本論』が出ている。
入門書よりもずっと初心者のためになると思うんだけど。
972 :
考える名無しさん:2008/12/01(月) 01:30:18 0
理想の対立
正と妖
正しさは、量の指定、肯定否定の区別、関係の尊属、必然、図の周縁、結合、
これらを反省してどちらとも判断する能力だ。
妖しさは、内容、レベルを下げたものへの言及と高レベルの事柄の下でのものへの
言及、中身の高低の調整である。
正しさは、妖しさを規定できない。量を指定しても、要素や全体のレベルの話をして、
関係的な従属をしており、可能的であり、図に囲んだ中にあり、色々なものと結び付く。
妖しさは、正しさの下には居れない。性質を指定しても、量を多くしたり、少なくする、
限定してもそうとは限らないものがあり、図で囲っても敷詰めて囲えないようにしたり、
囲んだ中に少なくなったり、支配することと物を結合させたり、中身や大なる法則において
言及するものがあるので、正しさを守れない。
正しさは妖しさに厳密さを持っている。詳細に厳密な規定を設けなければならない。
要素があると、必要な指定を設けることである。これが最小の単位になるまで続いて、
型どおりに物事が進むまで続くまで必要である。
妖しさは様式を持っている。法則で扱うことであり強制するものがある。中身のものに
注意しながら形式を論じる。世の中にはもっと大なることであるから、あり得ないものがある。
少しのものがあるので、形式ではないというのである。高低の調整で規定しなくなるまで登り
下がる。
純理は認知科学の聖書。
カント=認知科学の祖
975 :
エビルマウンテンさん:2008/12/06(土) 01:56:40 0
邪 邪的な仮説 合流 悪の理念を加えて邪を考察
条件に影響する場合 外れたら本当のところ駄目になる 加わったら本当のところ駄目になる
相互の場合 取って持って行ってしまう 都合の悪いものを持っていってもらう
976 :
考える名無しさん:2008/12/06(土) 02:32:34 0
邪
量 特称
質 否定
関係 仮説 推理
様相 可能
一致 自我との一致
反対 自我との反対
同じ 相手と同じ
違う 私が違う
内 外のものと入れ替え
外 内的なこと入れ替え
質料 度が強い
形式 毒々しい
理想 邪悪 邪魔 性悪(女) 収賄 結合法 押し付けの善意(ありがた迷惑)
纏り 恣意
宗教ということか。
美
量 単称 特称
質 肯定 無限
関係 仮言 選言
様相 現実 可能 必然
一致 対象と一致
反対 対象に反対
同じ 併置
違う 通い分け
内 思い遣り
外 外見、体面
質料 否定的なことにおける消えない一つ
形式 少ないものを含んだ壮大な形式
理想 妖艶 節制 清純 誘惑 共同作業 遊び 美
纏り 統摂
979 :
考える名無しさん:2008/12/09(火) 00:09:34 0
>967
「感性論」の実在的究明をお読みになればと。
980 :
考える名無しさん:2008/12/09(火) 00:14:43 0
↑実在論的の間違いでした。
981 :
論理学の予備学さん:2008/12/09(火) 08:10:17 0
善の推理
善の推理は都合の良くなることを選び出す。
正の推理
正しい推理はやるべきことを結論するように与えたり、受け取ったり議論することである。
邪推
推理は一つ一つ連続させて、始まりと終わりを一本のラインにする考えだ。一致するだけで
直ちに始まりと終わりが結論する論理は理性の世界では邪だ。
真の推理
真の推理は論理規則を計算して真であると受け入れ、偽であると判定するに留まる。
邪の理念を消そう、考えないようにするとどうなるのか。
考え合わせて結論する考えを持たない、流れに加わる考えを持たない、形式的な推量
をしない。他のものが抜けると、立ち行かなくなる。本来のものに、駄目なものが加わって
いるという考えを持たない。邪だとみなせない。
何かの理想であろうとして、邪念をなくしてしまうと、これらの働きを認めない。こういうも
のを正しいとか、美しいとか、こういうことで置き換えてしまう。
悪の理念を消そう、考えないようにするとどうなるのか。
途中で止めさせることがない、気を紛らわさない、限定を越えない、反発しない。悪だと
みなせない。
これを他の理想で説明してしまう。
世の中で邪や悪は他の理想と兼ね合いを考えなければならないが、理念としてもってお
かないと見抜けなくなるので駄目だ。
だから、理想としては考えておかなければならないようですね。