それは君がそういうふうにしか理解できないだけ
57 :
考える名無しさん:05/02/13 02:02:20
>>51 演繹は論理学用語じゃないよ。(当時の)法学用語。
第二版序文でダウンしそうなんですが、なんとかして下さい。
序文より本論の方が簡単ですか? それとも難しい?
まず日本語がちゃんと使えるようにならないとね。
「なんとかして下さい」なんて言われる覚えはないよ。
>>58 序文と本論は繰返し相互に参照しつつ読むとよい。
61 :
考える名無しさん:05/02/13 19:44:16
63 :
学者の声:05/02/14 03:22:05
>>57氏
おお!「演繹」は論理学用語ではなく法学用語ですか。
確かに、演繹が論理学用語ではない、ということは分かります。
論理学はそもそも頭から尻尾まで演繹であって、
論理学内の用語ではありえないといえるでしょうね。
でも、演繹が法学用語だってのは、初めて聞きました。
演繹論に出てくる「事実問題」「権利問題」という用語は、
法学用語だそうです、カントのいうところでは。
もし演繹も法学用語だとしたら、そこから、
「カントが演繹論の内容を法学にひきつけて組み立てていた」
という考えも出てきそうで面白いよね。
ワタクシ、法学の造詣ゼロでして、
詳しく教えてくれません?
さて、58氏へ。『批判』の序文はキツいです。
そもそも、本文のどこのことを述べているか、序文を見ても分からない。
だから、むしろ『プロレゴメナ』を『批判』の序文(というか解説)として、
読まれてはいかが?
>>63 わかりました。本当に読めそうもなくなったら、そちらを読んでみます。
ところで篠田訳って誤訳が多いという批判がありますが、
それほど酷いものなんですか?
初心者だから気にならない?
65 :
学者の声:05/02/15 02:16:42
ええと、篠田訳に対する批判は、
「誤訳」という言葉の定義に左右されると思います。
こちらの場にお邪魔する前の「カント『純粋理性批判』を読みませんか?」でも
もう述べてしまったのですが、
篠田さん、哲学専門なのではなくて、ドイツ文学専門なんですね。
「哲学者という権威付けがなぁい!」とかそういうことでなくて、
やっぱりドイツ文学者の訳は、ドイツ文学者の訳になっちゃってると。
例えば、「可能的経験」っていう言い回しと、「経験」っていう言い回し、
カント読みにとっては、絶対区別しなきゃなんないモノなんですが、
読みやすさのために、やっぱり「経験」に還元しちゃう箇所が多い。
だから、結論を申しますと、確かに篠田訳は読みやすいですよ〜。
ただ、それが本当に、許容できる範囲で、カントの真意とシンクロしているか、
それが疑問になってくる、と、こういうわけです。
いかが?
>>65 どうもです。
意味が通じなくなったりはしていない訳ですね。
それなら安心して読みすすめます。
で、今度平凡社ライブラリーから出た
原佑訳(渡辺二郎補訳)の『純粋理性批判』の訳はどんなもんなんでしょ?
よさそうだよね。買ってみまつ
なにしろ廉価なのがイイ
平凡社版原訳・・・
すみません。実はまだ買ってない・・・。従って使っていない・・・。
以下は、チェックしてない人間の、訳者補訳者情報だけに依拠した戯言として聞いて頂きたい。
理想社版カント全集の時点での原祐訳は、
ドイツ語勉強している人にとってはいい訳でした。
人によっては、原祐訳から、独訳できちゃうんじゃないかというくらい。
でも、聖書の翻訳みたいで(というと言いすぎかもしれませんが)、
ドイツ語から訳出されたその日本語が、理解というものを度外視してある。
一方渡辺二郎。
まず、この人はカント学者じゃなくてフッサール学者だという点。
(だからといって、「カント学者という権威付けがなぁい!」とかそういうことでないよ。)
それから、私見の限りでは、この人、天下一のパラフレーズ大王なんですね。
みすず出版から出ているフッサールシリーズの
『現象学の理念』や、
いわゆる『イデーン』等、ご覧ください。
パラフレーズは、訳者の理解のために必要だとは思うけれど、
果たして、原文と訳文が、同じ著作なのか・・・分からん・・・。凄いよホント。
そのパラフレーズの注もついて、『イデーン』の翻訳書の注釈は原文より長い。
そんな方です。
だから、原氏と渡辺氏は、その翻訳スタンスに関しては対極に位置するといっていい。
渡辺による、原祐の「補完」・・・。
果たして、それは原祐なのか、渡辺二郎なのか。
渡辺二郎色なら、フッサール色の相当強いカント。
原祐色なら、依然変わらぬ「聖書」です。
原文に当たらずにいい加減なこと書いてます。参照になったのかしら・・・。
まあ実際に読んでみないことには何ともいえない、と。
72 :
考える名無しさん:05/02/16 01:39:39
じゃあちょうど原=渡辺が半々の感じなら名訳ってことか。
>>72 それぞれの欠点が是正されるだけなのだから、普通の訳になるのでは?
中身自体が今となってはたいしたことないから名訳ってのはどうかと
>>74 >中身自体が今となってはたいしたことない
『純粋理性批判』が? どゆこと?
>>70 平凡社版を入手して是非意見を聞かせて下さい。
原訳の全面改訂としての渡辺訳というのは
中公クラシックスとして新たに出た、
ハイデガー『存在と時間』にも言えますね。
こちらに関して言えば、恣意的なパラフレーズで
原意が損なわれているといったことはなかったです。
確かに漢語句を和語句に直し過ぎており
逆に読み辛くなっているようなところはありましたが。
私も『純粋理性批判』の原・渡辺訳はまだ見てませんが
去年出た宇都宮訳は非常に高価だったこともあり、
評判の悪い岩波の篠田訳に代わって、
こちらが『純粋理性批判』の普及版として
これからスタンダードになるような気がしています。
>>75 形而上学も物理とか数学みたいにしっかりしたもんにしようよ、
そのためには公理とルールを決めて、あとは演繹で組み立てられるようにしようよ、
とか、言ってるだけだから。
結構いい加減だし。4つの判断とかカテゴリーで完璧だなんて書いてるけど根拠ねーし。
>>77 『純粋理性批判』をまるで理解できてないようですから
再読の上、このスレで質問した方がいいですね。
79 :
学者の声:05/02/17 04:08:31
一つお詫び。
『現象学の理念』の訳者は立松弘孝であって、渡辺センセぢゃありません。
ごめんなさい。
76氏の仰る通り、平凡社版がカント読みに膾炙するのを切に願わんばかりです。
篠田センセに罪はないとは思うが(偏に裏事情&岩波の人選ミス)。
77さんのおっしゃることには、
真面目に受け取ることができないところが確かにあると同時に、
真面目に検討しなければならないことも、実はあるんじゃないかな〜。
「そのためには公理とルールを決めて、あとは演繹で組み立てられるようにしようよ」
っていうのは、真摯にカントに帰せしめているんなら、ちょっとまずいんでない?
先ず、「公理」、「演繹」という言葉の使用が、余りにザッパじゃ。
数学の手段としての「公理」のステータスの問題、
「演繹論」の「演繹」は本当に合理主義の方法としての「演繹」なのかという問題、
それをちゃんと意識して述べてる?
前者に関しては、カントは数学の方法と形而上学の方法、きっちり分けてるよ。
「超越論的方法論」の「純粋理性の訓練」、数学についての箇所参照願いたし。
後者に関しては、デカルト、ライプニッツ(できればヴォルフ)等々との、相違を
この場で議論して頂戴。「おお!」って議論だったら、畏敬の念で接します。
80 :
学者の声:05/02/17 04:12:05
ただね、
「4つの判断とかカテゴリーで完璧だなんて書いてるけど根拠ねーし」
っていうのは、的があたってると思います。
「アンチノミー」の証明にしても、
「原則論」の証明にしても、
空間時間の「形而上学的究明」の論証にしても、
そして無論、「カテゴリー表」の導出にしても、
もうちょっと、証明力が欲しい・・・。
これは、後の「脱カント教」のカント学者が一時期ガンガン突っ込んだところです。
『純粋理性批判』の体系は、哲学的議論としてとても面白いと思う。
けれども、一つ一つの議論をちゃんと吟味してみると、意外に脆いところは多いんでないか。
カテゴリー表は本当に絶対か。
例えば、アリストテレスのカテゴリー表と、本当に相対化されないのか。
更に言ってしまえば、アリストテレスは空間時間をカテゴリーに入れているが、
本当に、空間時間は「感性」形式であって、カテゴリーではありえないのか。
そうだとしたら、その証明はどこか。
独断論を潰しにかかるカントその人が、実は結構、独断的主張をしていること、
時々あるように見えます。
81 :
考える名無しさん:05/02/17 04:48:25
空間とは位置に関する次元・尺度でありまして、対象を「それ」と「指差す」時
まずもって「位置」なのであります。視覚的に言えば色彩(色相、彩度、明度)など
位置に還元されない次元もあるのですが、「指差す」ことにおいては「位置」が
つまり「空間」が特権的な尺度といえましょう。
82 :
考える名無しさん:05/02/17 04:54:09
>>81 んー、そういう話なら物理を学んだ方がいいような気がしないでもないんだけど。
位置は可能性ではないかな。空間であるなら、直観が関係するか、概念を作用させるとされるようだが、
何故、場所?
84 :
考える名無しさん:05/02/17 05:32:56
>>83 直観とは知覚ですが、認識において対象が示され、また捉えられるのは
位置においてということです。
対象が持つ様々な性質に先立って、対象を特定するのは、まずもって
その位置なわけです。
このことは他人に対象を示すという場合を考えれば明瞭になるといえるでしょう。
あれ、これ、それ などはこの「指差し」の言語化なのです。
位置ならば、どこにあるのか、という事が認識を左右する事になる。
位置から空間や可能性を導き出せないだろうか。
空間がないなら、位置というものは成立しないのであり、どこにでも置ける
という可能性が無いなら、三次元の広がりも意味する事ができなくなるだろう。
直観されるならば、可能性と空間が必要にならないだろうか。
既に、対象が与えられていて、その可能性を考えているというのではなく、
直観の形式に可能性が含まれているというならば、可能性という無限に直観できるという
事にならないだろうか。そして、何かの可能性の無いものは直観すらできない
という事になる。ただ、自己を規定するとなると、それを決定する場所は概念に由来する
訳であり、場所が基づくようなものが位置だろうか、或る場所において直観しないように
するという事を人間は可能なようだ。
位置は空間を前提としてますが・・・
すると、更に前提にされるものを含んだ概念により規定しているならば、
それだけではなくて他のものにも基づいているだろう。直観は更に前提を
含んだもの基づいているものだろうか。
>>79 大した違いないと思う。数学だって非ユークリッド幾何学みたいな
違う公理系が成立するんだから。
形而上学では、
最初に公理系がこれだ、って決まってるわけじゃなくて、いくつか可能な公理系の
なかで、実際に合う公理系を選ぶべし、ってだけで、これは今や数学でも同じ。
あの本を信用しすぎて細かく読もうとしすぎると本質が見えなくなるんじゃないかと。
91 :
考える名無しさん:05/02/17 23:36:54
ここには学者さんがいるようなんで、こっちに書いておく。
207 名前:考える名無しさん :05/02/17 23:14:53
>>204 カント的に、相対性理論ってどうなるんだろうね。
認識のアプリオリな形式は、あくまでユークリッド的な3次元の空間と、1次元の時間なわけで、
それは相対性理論があろうとなかろうと、変らない。
(物理学者を含む我々自身が日常、そのような空間を感じつつ生きている、という意味で)
そうするとカントにあっては、「我々にとって根源的」なアプリオリなユークリッド空間と、
「自然科学上根源的」な4次元の擬リーマン空間との双方が並立されなくてはならなくなる。
しかしこの後者についての知識(つまり、相対性理論の知識だが)の客観性は、正しく保証され得るのだろうか。
カントに詳しい人、誰か教えてくれ
どうもこうもなるわけないじゃん。カント先生に取っては時間はアプリオリ
に与えられるもんなんだから、「時間が相対的?そんな事考えても無意味!
人間が考えられるはずが無い」てなもんでしょ。
カントは昔にしてはよくやった、ってぐらいのもんだよ。
あれ読んで何が解明できたことあるか?
- 神様が存在するかどうか
- 自分というこの意識はいったいどういうもんなのか
- 時間とはなんなのか?
- 宇宙とはいったいなんなのか
一切分からんでしょ。分からんはずってことになってる。
あれは、「これからの形而上学は俺が決めたこういうベースの上でやろうよ」
って提案なだけだと思う。でもそれはあんまり賛同を受けなかった、という。
だったらあれをそんなに真剣に、(一生かかって?)理解したってあんまり
意味ないのではないか?あれはスタートラインで、しかもすたれちゃってるスタート
ラインなんだから。
一生かかって理解するのは老子とか無門関とかにしないと。
カントのは説明が下手 & 今となってはちょっと間違ってるんだと思う。
科学が進んだら否定されるような事を書いちゃってるってのもまずかったよなあ。
老子とか無門関とかみたいに、うまーく普遍的な感じに書きゃよかったのに。
マルチでカキコしてしまったためもう一つのスレでも議論してるんだが(スマン)、
>>92 相対性理論ってのは、別に哲学的な「相対主義」とかとは全く関係がないんだけど。
単に、空間の計量が一定値でない、つまり空間が「曲がっている」「歪んでいる」というのが
アインシュタインの理論だよ。
で、その「曲がった空間」の理論である相対性理論を、アプリオリな裏づけができないから客観的でない、と
蹴っ飛ばしてしまうのか。もしそれならば、カント哲学は現代には受け入れられない、ということになるわけだが、
俺はもう少しカントに好意的になってみたい。その場合、どういう見方があるのだろう、と。
ちなみに、無門関を理解したかったら坐禅とかすればいいわけで。
別に一生かからなくても、真面目にやれば数年で見性できるはずだよ。
見性(悟りを開く)ってすごいんだろ?すごい快感で、人生これで上がりってな
感じなんだろ?そういうの目指さなきゃ。
カントのは単にスタートラインに過ぎないんだから。
でも、座禅 x 数年で悟り開けちゃうの? 人によるんじゃないの?
あとさ、相対性理論を持ち出すより、「もしもカントがビッグバンという概念
を知ったら」って方がぴったり来ない? カント先生、気が狂っちゃうかも(w
>>94 それはもう学としての哲学をこえてるだろ。
96 :
考える名無しさん:05/02/18 03:00:20
何を、いまさら。
>あとさ、相対性理論を持ち出すより、「もしもカントがビッグバンという概念
>を知ったら」って方がぴったり来ない? カント先生、気が狂っちゃうかも(w
時間に始まりはあるか? のアンチノミーの箇所をつくづく読んでみると、
カントはそれっきしのことで頭がおかしくなったりはしないと思う。
ビッグバンの原因とされる「無のゆらぎ」についても、
何となくカントの「無の定義」にそくして考えると、さもありなんと思えて来るから不思議。
信じすぎて正しい判断が出来なくなっちゃってるんだな…
「ビッグバンを知っていたらカントは気が狂っていたかも?」
という意見に同意すればいいんですね。
同意しました。
さすが、俺。正しい判断の持ち主だ。
間違ってるのはそこじゃないけど…
全部、あんたの言う通りでいいよ。
カントにたいしてもこういう態度なんだろうな…
そうだよ。
負けた…