創作怪談好きは「心霊?実話?検証できないんだから創作だろ」という。
実話怪談好きは「作り話のナニが怖いんだよ」という。
それぞれのスレでいがみ合っては「スレ違いだ」と罵倒合戦に陥りがちなテーマだが、
比較考察してみるとおもしろそうでもある。
ということで、「実話怪談」と「創作怪談」の彼我の違いを、
様々な視点から比較、考察する。
2 :
本当にあった怖い名無し:2006/08/26(土) 10:31:45 ID:q7j7mWaxO
(´・ω・`)
3 :
本当にあった怖い名無し:2006/08/26(土) 10:34:32 ID:5GWQ2ZmoO
∧ ∧
(';ω;`)
∧ ∧
(・∀・)
" ∧∧
"(゚д゚)
" ∧_∧
(´-`)
" ∧∧
"(.-_-)
" ∧_∧
"(´A`)
" ∧∧
"(*゚-゚)
4 :
本当にあった怖い名無し:2006/08/26(土) 10:35:20 ID:bYV+ptewO
(´Д`)
1get
なお、創作怪談と実話怪談のどっちがいいのか優劣を決めるのが目的でわなく、
違い/魅力のベクトルはどこか、
目指しているのはどこか、
支持している読者層は、
牽引役になっている著者層は、
なんて視点から、違いを容認歩み寄りになるといいですね、つーこって。
1を見る限りでは
創作怪談好きには 創作怪談⊇実話怪談
実話怪談好きには 創作怪談<実話怪談
なのか?
実話怪談の魅力はリアルさが挙げられるよね。
現実世界と地続きで自分も体験しちゃうんじゃないか?という怖さ。
(中にはそうそう体験できそうにない話もあるけど)
対して創作怪談の場合は設定の豊かさが挙げられると思う。
ジャパニスクホラーのように土着的な忌み話とかSFが混じっている様な
話、都市伝説がベースの話とか何でもあり。
また、例えば夏目漱石の「夢十夜」や小泉八雲の「怪談・奇談」、内田百聞の
「冥途」などの幻想的で美しい文章を魅力に感じる人もいると思う。
これはどっちが上というよりも「質的な違い」であり、「好み」の問題だよね。
ここではそれぞれのファン(加えて両方好きな人)が「実話怪談はここが面白い!」
「創作怪談はこれは魅力!」などと交流できる場にした方がいいんじゃないかな。
はい。すっかり結論が出ちゃったようですね。お疲れ様でした。
>>10 いや、結論を出そうというスレじゃないでしょココは。
あなたはどっちが好き? その理由は何で? 例えばどの本がオススメ?
とかそういう話題が好ましいんじゃないかな、と。
12 :
本当にあった怖い名無し:2006/08/26(土) 15:43:45 ID:kreYiaKv0
過疎スレになりませんように
このスレの場合「盛り上がる=もめる」って予想しかできんのだけれど
もうひとつ。
書き手側から見た「実話怪談」と「創作怪談」の違い、魅力、書きごたえ
なんてのもアリかも。
>>13 もめる方向性が大事だよね。盛り上がるような流れなら多少はもめても
いいと思うけど、単なる罵り合いになるとダメだろうな。
各スレが喧嘩になりそうな時の誘導場所としていいと思います
>>15 そういう役目もできるね。
まあ、でも平常時はポジ進行でいこうよ。最初から対立を前提にしないでさ。
実話って、定義としては結構危ういんでないかね?
例えば事件・事故など明確なソースがある物にまつわる怪談ならさておき、
そうじゃない物は語り部が実話だと言えば一応「実話」になっちまうのでは?
>>17 どこまでを「実話」と言うか?というのも難しい問題だよね。
実話怪談の場合再現性がないから、検証するのが困難なのがほとんど。
書き手が「これは実話だ」と言えば信じるしかない。
実際、実話怪談の著者も出来事をそのまま書くのではなく、余計な部分を削り、
怖さを演出する装飾をしてひとつの「作品」にしているようだし。
個人的な意見だけど、実話怪談とは送り手(著者)と受け手(読者)の間に
「これは実話ですよ」という暗黙のルールがあって、それに疑問を感じちゃうと
楽しめなくなる物だと思う。
だから、話にリアルティを出すための削除や装飾も込みで「実話怪談」と俺は
考えているんだけどね。
(ただ、どの程度までなら許容範囲か、というのはあると思う。つまり「実話怪談」の
定義やボーダーラインは人によって違うじゃないかな)
アイデアはそれ程でもないのに「実話だから」に胡坐をかいた話はご免被りたい。
かといってあり得ない話を「文芸だから」と開き直る話もまっぴらご免。
そんな冠など一切なしに読む者にリアリティを感じさせる話ならいくら出しても構わない。
確かに「実話だから」っつってリアリティーの構築を免除されるわけじゃないよな。
文芸では独自の世界観が完成していれば許される(つーかリアリティーが問題じゃなくなる)面もあるけど、
実話怪談では読者に信用されなくなったらそれでオシマイ。
読み手を恐怖させる、という目的は一緒でも「実話怪談」と「創作怪談」は
ベクトルというか方向性が違うんだよね。
ただ、最近では「実話」と「創作」の境界線上というか混ざってる話も流行っているよね。
ありえない設定でいくら語られても怖くもなんともない。
そして怖くもないものを怪談とは認めたくない。
世界観を構築するというのならトコトン構築して欲しい。
SF小説の世界では普通にやっているレベル。
それを民話風に仕上げて雰囲気だけで誤魔化そうとしているのを
文芸風などと称して誤魔化すのはご勘弁
要は読者のチョイスなんだよな。
今日は実話怪談が読みたいぜ!=実話怪談をチョイス
今日はホラーとか創作系が読みたいぜ!=ホラーか創作怪談などをチョイス
たったこれだけ。
何故チョイスしないといけないかというと、
>>22の言うとおり恐怖のベクトルが違うから。
(福澤徹三氏の著作なんかは両者の架け橋的な作品だよね)
実話は「言いようのない不安感」が肝だと思う。
実話である、という前提があるからこそ「明日はわが身では?」といういわば参加型wな恐怖。
創作ではない、という前提があるからこその「精神的」恐怖だと思う。
体験談の内容の良し悪しで決まるけどね。
創作(ホラーとか含む)の恐怖は「転がされる恐怖」じゃないかな。
その世界観とか雰囲気に飲み込まれて、著者の掌で転がされる受動的な恐怖。
創作だからこその「文章自体が怖い」というw
あと、著者のアイデアが肝だね。
我侭だけど、どっちも欲しいのねw
だから「どっちか選べ」といわれても困る。
あ、あと。創作怪談という言葉。
カテゴリーをあらわす言葉だと思うんだけど、これ正しいのかな?
個人的に怪談といわれる小説は単に「怪談小説」と言い表したいような。
もしくは「怪奇・幻想小説」とかw
創作、というのはあまりも怪談の「闇」を薄めちゃう気がするんだ。
(創作の意味で変わるんだろうけどね)
ホラーという言葉が全ての恐怖小説を表すのと同じで、
怪談という言葉は全ての怪談をさす。
それだと、少し大雑把過ぎるから、
ホラーはそれぞれのカテゴリーを「モダン」「ゴシック」「サイコ」
なんて分類しちゃうんだろうけど、怪談小説の分類を「実話」「創作」で
すませちゃっていいものだろうか?
ホラーのようにもっと愛を持った分類をしてもいいんじゃないだろうか?
でも、実話怪談に対する単純なカテゴリーとしての言葉だと思うんだけどね<創作怪談。
なら、「怪談文芸」とかになるんじゃない?w
「実話怪談」をチープだと考える層は「文芸」志向が強いので。
「実話怪談」は基本的にルポルタージュ。
「創作怪談」は小説の一分野。
本来まったく別系統のものだが、テーマが重なるために相互に影響し合ったり
キメラ的な作品が生まれたりして裏表の関係のような錯覚を起こす。
ような気がする。
SFは浸透と拡散の結果、あらゆるジャンルに溶け込んでいった。
昼ドラのようなものにまで自然に入り込んでいる。
怪談も創作だ、実話だ、文芸だ、コンビニだ、などと内輪で縄張り争いのような
怪談世界の中で細分化をしていくのではなく、外に向っていけないものか?
確かに「創作怪談」というのは安易な感じがするかも。
落語では「古典落語」に対する「創作落語」という分類があるけど
ココから来たのかな?
わたしは敢えて情報提供者の体験談をそのままに表現せず、
その情報提供者と一緒にいたという人物(いなければいたと仮定して)の視点に
置き変えてストーリーを再構成することがある。
理由は簡単でその方がリアリティが増すと判断したからだ。
ちなみにこういうのは実話系? それとも創作系?
>>28 縄張り争いじゃないと思うよ。
カテゴリーを分けて考えているのはわれわれ読者じゃないかな?
住み分けをしてくれ!じゃなくて、これが自分の好きなものだ!というw
全部のカテゴリーがそれぞれ発展するといいと思うし。
>怪談世界の中で細分化
例えば「実話怪談」でも木原氏とさたな氏では違う手法を用いている。
木原氏の手法はシンプルに見えるけど、あれは実は「デフォルメ的強調」じゃないかと思う。
縛りを与える事によって生み出された手法だね。
さたな氏の手法は「70年代怪談+雑誌ライターの書く怪談+ムー的+小説」。
もちろん、平山氏も小池氏も加門氏もみんな違う。
こんな風に全く違う手法の怪談を「実話」とくくっちゃうのもつまらないw
もっと読者側である我々が楽しんで細分化してみてもいいんじゃないか、と。
もちろん、それによって派閥が生まれるのは望まないけどね。
>>30 実話じゃないかな?
実話部分(体験談の内容)には手を全く出していないんでしょ?
>>24 福澤徹三氏は「小説の中に実話を織り込む」というアプローチをしたわけで、
軸足は小説という架空の物語にあって、実話部分「実際にあった出来事」は
味付けというかアクセントだよね。
逆方向からのアプローチなのが加藤一氏の「弩」怖い話シリーズで、
これは「実話怪談を小説のように語る」というもの。
福澤氏への評価は「文芸が一層怖くなる」で、加藤氏への評価は「せっかくの
実話が嘘くさくなる」というようなものだったと記憶してる。
両者が歩み寄ってボーダーが不確かになっていくとしたら、どこまでなら
それぞれの読者が許容できるんだろう。
加藤一氏のバリューは福澤氏には全然釣り合わないと思うので、
単純に並記比較するのはちょっと問題ありかもしれないけど、実話怪談の
視点からそういうことをしている例がちょっと思い当たらなかったので。
他にいい例があれば、だれかよろしく。
>>30 出来事とオチに手が加わっていなければ、
それは実話系でいいんじゃないかなあ。
>>33 うーん。そうだなぁ。
福澤氏は「実話をスパイスとして扱っている」小説。
だから、それは一つのガジェットとして、ホラーファンも見ているんじゃないかな?
実話的な美味しさが入って一粒で二度美味しい、とw
ホラーファンとしての視点で見ると、これはこれでありかな。
加藤氏の本だと「実話が嘘くさくなる」という話もあったね。
だけど、肝である実話部分には手を出していないんでしょ?
もしこれが実話部分に改変をしています、なら駄目かな。
実話怪談ファンの視点から見るとね。
だけど、「読みやすさ・親切さ」「臨場感」を加えるという手法も
ありといえばありじゃないかなぁ。
そもそも書き手自身は「実話」とか「創作」とか意識してないんじゃないかな
いかに素材(元ネタやアイディア)を活かすかだけでさ。
そして恐怖に対する感性は個人個人違うわけで、書き手の個性に応じた「怪談作品」
ができるということでわ
書くときには
>>36の言うとおりだと思う。
「素材を活かす」ことを重要視するだろうね。
だけど、書いているときに「実話と創作」を意識しないというのはちょっと乱暴かもw
意識しない=実話と創作関係
となってしまったら、創作も実話も関係なくなってしまう。
実話を書いている最中に、「あ、ここはこのアイデアを入れたいな」と
なったら、それはすでに実話じゃなくなってしまうw
創作に実話をまぶすのとは意味が違うというか。
ちなみにチープな怪談ってあるじゃないですか。
霊体験した本人が最後に呪い殺されて「じゃだれがそれ見てたんだよ!」的話。
これは何怪談に分類されるの?
ベースが実話だったら実話怪談? 最後が創作(下手すぎるけど)だから創作怪談?
>>38 それは創作怪談だと思う。
だけど、最後の「誰が見ていたんだよ!」というのを
「霊媒師が語ったんだよ!」と返されたら、
それはそれで実話怪談になるのかもしれないw
というより「霊媒師の語る怪談」という実話怪談とは微妙に違うことになりそうだけどw
>>37 実話系の場合は制限があるから、加えることより削ることに重きを置いてる
方が多いだろうね。
>>38 弩怖い話のように実話を小説風にしたってことなら実話怪談かなぁ
なんかスプーンを曲げたのが超能力者か手品師かで分類しているような気がしてきた。
お勧め怪談本は何かな?
・小説
・実話怪談
に分けると。
>>42 ・小説
小松左京「霧が晴れたとき」ホラー短編集
筒井康隆「鍵」自選ホラー傑作集
遠藤周作「怪奇小説集1と2」
この辺りは怪談ファンにもホラーファンにもお勧めできるような。
・実話
新耳袋1〜4夜(全部読むなら10夜も)
「超」怖い話
幽霊物件案内1と2
>>42 ある程度目が肥えてきたら、地方別シリーズがある「怨念地図」シリーズが、
「反面教師」になるかも。
一読、首をかしげたくなること請け合い。(笑
怨念地図シリーズがなぜ「首を傾げたくなる」のかについても考察ヨロレヒ。
>>45 ああ、失礼。言葉が足りませんでした。
なんと言うんでしょうね、この手の読み物に徹し切れていないというか。
たまに、笑わせたいのかなんなのか目的不明な話がある。
単に雰囲気だけを書いた話がある。(そこで何か目撃されたというわけでもない)
読んでいると、つっこみたくなる話が多いのですよ。
ちょっと今、手元にないので、具体的にどうこうと紹介できないのが残念ですが。
「怨霊地図」の読み方は、ゴシップ雑誌の読み方でいいんだと思うぞw
暇つぶし用雑誌としてね。
コンビニ怪談文庫やオカルト雑誌、DVDつきオカルト雑誌もそれに近いかも。
で、エンターティメントとしての小説も暇つぶしでいいかもしれんw
読者としては肩が凝るような読み方はしたくない。
だって怪談本(他いろいろな本とかさ)なんて生きるうえで不必要なものなんだから。
嗜好品としてのみ存在しうる書籍、だもんね。
唐沢俊一も
「暇つぶし用の本は、読まなくても差し支えないものでなくてはいけない」
と書いている。これには賛成だな。
>>47 賛同だな。
そう考えると実話とか創作なんてものに拘る必要もなくて、
純粋にエンターテインメントとして捉えれば良いってことね。
ロジカルがおかしい話なんかに出くわしたらトンデモとして楽しめばいい訳だ。
ちょっとだけ、荒れかねない話題で質問よい?
怪談のとらえ方として、
A「消費するエンターテインメント」と、
B「文化として残していく文芸/芸術」
という側面があるように思う。
創作怪談または怪談小説
(つまり、フィクションであることが最初から前提になっている創作物としての怪談)
っていうのは、後者Bの「文化として残していく文芸/芸術」を志向していて、
創作怪談でも実話怪談でも(フィクション/ノンフィクションであることにこだわらない)
っていうのは、前者Aの「消費するエンターテインメント」を志向してるのかな、と。
実話怪談はどうかと言うと、前者Aの「消費するエンターテインメント」のほうに
入ってくると思うんだけど、それ以外に何かの要素もあったりするんだろうか?
実話怪談=ルポっていう話が出てたので、怪談のもうひとつのとらえ方として、
C「目撃譚、体験談の記録」
というものを実話怪談が志向しているもうひとつの要素と考えてもええんかしらん。
って、書いてて思ったんだけど、
「文化として残していく文芸/芸術」→創作怪談/怪談小説
「目撃譚、怪談の記録」→実話怪談
これは、いずれも読者側じゃなくて書き手側の志向することかも。
読者側も同様かもしれんけど。
で、どちらも「残していく」という部分にこだわりはあるんだよね。
これを「芸術として残す」か「事実を伝える記録として残す」かという
視点の違いだけで。
>>49-50 個人的に書かせてもらうと
A「消費するエンターテインメント」=実話怪談
B「文化として残していく文芸/芸術」=怪談小説
じゃないかと思う。
読者側からするとね、実話怪談は消費されたナンボかと。
「とにかく数を読みたい!」といった感じじゃない?実話怪談。
新しい怪談を!新しいネタの怪談を!という。
あくまで消費されていくことは自然なんだよ<実話怪談。
だから文化・芸術として残す怪談小説とは別物として捉えているよ。
それとは別に「学術資料・民俗学としての話された」民話や怪異譚
も残す、という意味で見ることが出来るかなぁ。
これらは「結果として怪談としても読めますよ」というものだと思うけど。
だけど、小説も実話怪談も「エンターティメント」として捉えると
どっちも消費されるものなんだよね。
・読者の目的
・書き手の目的
それぞれの立場でいろいろ変わってくるね。
52 :
本当にあった怖い名無し:2006/08/29(火) 10:31:04 ID:4wWRhJwI0
あげ
興味深いので
193 :名無し物書き@推敲中?:2006/08/29(火) 17:47:48
屁の3中間集計
27名の挙げた全81篇中、重複を除くと64作品が取り上げられている。
3票:田辺「生き血」、矢内りんご「怪談サイトの怪」
2票:言之葉亭「ありがと」「ティッシュ配り」、葛木椎哉「止まない雨」「木乃伊」
田辺「あめ玉」、不狼児「マンゴープリン・オルタナティヴ」
グリーンドルフィン「げんまん」、米川京「時計」、銀峰「軍馬の帰還」
猫屋敷「怪段」、ヒモロギ「夜釣りの心得」、Firoswi「少女と過ごした夏」、きりり「よくある話」
票が集まっている作者は以下の通り。
7名:言之葉亭(一人二作品推薦は一人でカウント)、田辺
6名:不狼児、矢内りんご
5名:料理男、葛木椎哉
3名:久遠平太郎、グリーンドルフィン、米川京、銀峰、猫屋敷
2名:金魚屋、二月、ヒモロギ、Firoswi、きりり
選者セレクトと重複
不狼児「マンゴープリン・オルタナティヴ」「猫である」、言之葉亭「山中にて」「階段」
料理男「マユミ」、銀峰「軍馬の帰還」、クジラマク「生ゴムマニア」、じが「半券」、
我妻俊樹「茉莉花」、有坂「んんーげっげ」、カイロ「カーテンの丈」
久遠平太郎「いこうよ、いこうよ」、小栗四海「ブラキアの夜気」
以上
質問というかアンケート案その1。
修正書き足しよろしく。
1)好きなホラー・怪談小説作家
2)好きな実話怪談作家
3)好きなホラー・怪談小説本
4)好きな実話怪談本
5)実話怪談とホラー(怪談小説)強いて言うならどっちが好き?
6)5)の理由は?
7)実話の怖さと創作の怖さの違いはなんだと思う?
8)何故、怪談を読むの?
他の板は盛り上がっているようですが、ココはゆったりまったりで
行きましょう。
で、質問に答えると
1)竹河聖とか結構好きだなぁ
2)超怖い話の2人
3)マイナーだと竹河聖の「闇と魔の環」、有名どころだと遠藤周作の
「怪奇小説集」なんかがオススメ。
4)やはり超怖い話シリーズ。それ以外だと現役医者の元田隆生(以前アンビリー
バボーに出演していた人)が書いた病院怪談シリーズ。読んだことのない人には
ぜひオススメ。竹書房で5冊位出てたと思う。
5)両方好きなんだけど、強いて言うと実話怪談
6)現実の闇や負の部分を映し出すリアリティと予測不可能な展開があるから
7)実話怪談は翻弄される怖さ、創作怪談は引き込まれる怖さのような気がする
8)これは難しい。自分の予想を裏切られる快感とか、対岸の火事を眺めて
スリルを感じたいとか色々あると思うんだけど、いま一つ自分で説明できない。
怪談を読むとワクワクしてしまう性質なのだからとしか言えない。
うわ、改行忘れた。読みにくくてスマン orz
まったり。というか8の質問はかなり面白いと思ったぞ。
1)好きなホラー・怪談小説作家
国内:朝松健 小野不由美 海外:スティーブン・キング ※怪談小説家、といわれてもぱっとでてこない。
2)好きな実話怪談作家
超怖チーム 小池壮彦 朝業るみ子(秋元あまん)
3)好きなホラー・怪談小説本
完本・黒衣伝説 魔性の子 神々のワードプロセッサ
4)好きな実話怪談本
「超」怖い話シリーズ 幽霊物件案内 心霊ウワサの現場 誰にも言えなかった怖い話
5)実話怪談とホラー(怪談小説)強いて言うならどっちが好き?
どっちも同じくらい好き。ホラーというか小説と実話怪談、どちらも読者の喜びを感じる。
強いて言えば、「怖いものを読みたい」と思ったときには実話怪談を選ぶかな。
6)5)の理由は?
ホラー小説はフィクションとして楽しむ分、恐怖よりも興味から読むのだと思う。
実話怪談は純然たる恐怖や不思議をストレートに感じさせるからじゃないかなぁ。
7)実話の怖さと創作の怖さの違いはなんだと思う?
自分と恐怖の距離感。
創作→外界とシェルター
実話→布団一枚
8)何故、怪談を読むの?
「恐怖は人類の最も古い感情である」―ラブクラフト
心の奥底で恐怖を求めちゃうのは、人間だからじゃないかなぁと思っている。
だから、自然と手が伸びちゃうのかも。
>>57 7)の回答、上手いこと言うねえ。
思わず膝を叩いたよ。
確かに、すごく怖い実話怪談を読んだあと寝るときは、
思わず首まで布団かぶるもんなあ。w
あ、朝業るみ子と秋元あまんって同一人物なんだ?
>>59 という噂というのは前見た覚えがある。
あの人もいい感じの文章書いていたんだけどねぇ。
>>58 確かに同意だなw
「距離感」というのは重要かも。
明日はわが身的な恐怖は身近すぎて怖い。
>>60 朝業るみ子も秋元あまんも今ひとつマイナーだけど、
実話系作家としては極めて良質な部類に入ると思うよ、うん。
さたなさんより秋元あまん(朝業)の方が好きだったなぁ。
B級実話怪談文庫でいうと
朝業・秋元>さたな>>>越えられない壁>>>>ナムコナンジャタウン系
分かる分かるw
朝業るみ子はルポとしての実話怪談記述に割りと自覚的なように思えるところが好きだ。
そのスタンスゆえに、恐らくは原話に手を加えているように感じるさたなきあよりも生っぽい怖さがある。
新作が出ないのが残念。
スレ違いになりそうだから質問回答しておくね。
1)好きなホラー・怪談小説作家
ジャック・ケッチャム 小池真理子(ホラー作家じゃないけど)
2)好きな実話怪談作家
平山夢明氏 加藤一氏
3)好きなホラー・怪談小説本
隣の家の少女 墓地を見おろす家
4)好きな実話怪談本
「超」怖い話 怖い本 「弩」怖い話 怪談徒然草
5)実話怪談とホラー(怪談小説)強いて言うならどっちが好き?
実話怪談かな。ホラーも好きだけど。あんまり優劣は付けられない。
6)5)の理由は?
気負わず読めるところが好き。
7)実話の怖さと創作の怖さの違いはなんだと思う?
創作は、「創作である」という十字架を背負っている。
実話的な手法を転用できるけど、創作であることが分かっている分安心してしまう怖さ。
実話はあくまで実話である、という反則的スパイスが効いている分、怖いよね。
ホラー作家は卑怯だなぁ、と思ってそうだw
8)何故、怪談を読むの?
実話怪談もホラーも嗜好品だから。
生活に必要ないけど、あったら生活が潤うでしょ?
>>63 そうそう!あの人もとルポライターだったような。
だからこそのあの技術が身についたんだろうね。
さたなさんは、いまいち乗れないのだよなぁ。
あ、今思い出した。
工藤美代子氏(彼女もノンフィクションライターだよね)の
「日々是怪談」も入れればよかった。
1)好きなホラー・怪談小説作家
ラブクラフト、谷崎潤一郎
2)好きな実話怪談作家
超怖チーム(樋口明雄を含む)
3)好きなホラー・怪談小説本
クトルゥフシリーズ、美食倶楽部、怖い食卓(アンソロジー)
4)好きな実話怪談本
超怖、弩怖
5)実話怪談とホラー(怪談小説)強いて言うならどっちが好き?
甲乙付けがたい。
想像力をフル稼働することを求められる実話怪談が無性に読みたくなることはある。
6)5)の理由は?
ホラーはどうしても蘊蓄語りになったり著者の主観による解釈で話が主導されがち。
自分で解釈できる余地のある実話怪談のほうが、入り込みやすいので。
7)実話の怖さと創作の怖さの違いはなんだと思う?
親切さ。ロジカルさ。
ホラーは独特の世界観や約束事を持つが故に、その理解を読者に促すために
ロジカルな構成になり、親切に読者を引っ張ってくれる。原因と結果を明確にしていく
謎解きが話の骨格を作っていて、親切。
実話怪談は独自の世界観を持たないが故にそうした解説は省略される。
その分、ロジカルな構成ではなくて手触りや感触を伝える直感的なものが
多くなるような。非常に不親切な書かれ方をしているものほど、読者自身が全力で
読み進めながら自分なりの解釈をしていかなければならない。
全自動ドアのホラーに比べて、力任せに押して開く立て付けの悪いドアが実話怪談。
ホラーは「最後に謎が解かれる」ことで安心を得られる。救済がある。
けど、実話怪談は「謎は解かれない」ので読後に不安になる。救済がない。
8)何故、怪談を読むの?
自分を戒めるため。世の中の全てが安心で安全じゃない、という緊張感を持つことで、
「今日も生きてた」というか、生を実感したいというか。だからこそ、最後に安心が
あるホラーだと生が実感できないけど、読後にも不安がつきまとう実話怪談は
「ああ、俺は同じ目に遭わずに済んでる」というのを感じられる。
ロジカル(理論的)に構築されたホラーもあるけど、
真逆のホラーもあると思うな。
どっちも著者の掌で転がされるという点では変わらないけど。
ホラーや創作と実話の違いで一番大きいのは『元ネタ』だと思う。
実話は「怪異自身に付けたし」があった時点で創作と変わらなくなる。
逆に創作は「実話を骨子にして、好きなだけ肉付けしたり、削ったり出来る」のだから。
実はホラー(創作)は結構自由度が高いんだよね。
著者の好きに料理できる。
実話は実話である事が重要視されるから、意外と自由さがないと思う。
実話は足かせ。だけど、それは武器にもなる。
>>67 確かにホラー(創作)は自由度はあるかもねえ。
それは著者の都合という意味での、だけど。
実話怪談はその自由度の部分がないというか、
縛りがある分だけ、表現は難しいのかもしれない。
ホラーは表現、辻褄も合わせていくらでも膨らますことができるけど、
実話は表現じゃなくて再現に重点が置かれるんじゃないのかな、とも思うね。
ネタを自分で考えるわけじゃないから「アイデアを考えなくて楽」
と思われがちだけど、ネタを自由にいじれない、自分の都合で変えられないから
むしろ書くのは大変なのかもしれんね。
実話のほうがホラーより書くのが楽なようなイメージを持たれがちなのは、
やはりこの、
アイデアを自分で考え、取材内容はあくまでエッセンス=ホラー
取材した内容の再現に注力、余計な改謬をしない=実話
という指向性の違いかねえ。
また少し荒れるかもしれない視点で。
「ホラーは現実の出来事や取材内容を拡張し、それを下敷き・エッセンスにして書かれる」
「実話は現実の出来事や取材内容を損なわないように書かれる」
どちらも「それを書くのに技術(文芸)が必要だから、いずれも文芸に含まれる」
という主張がある。
この場合の文芸というのは「文章を書く作文能力」のことを言ってるんだとすれば、
手紙から始末書に至るまであらゆる「文章」は文芸に含まれることになる。
文芸という定義が広くなりすぎるような気もする。
ホラーは「著者の空想力」を楽しむもので、その空想を形にするために文章技術が
必要だというのは理解できる。それを文芸を称するのも。その意味でホラーというのは
著者の魅力を味わうことに重点が置かれてるのかも。
実話は「著者の空想力(著者自身のオリジナリティ)」じゃなくて、元になってる体験談
をいかに再現するかに文章技術が必要。技術は必要だけど、これを文芸と言って
いいものなのかどうか。
たぶん、このへんがよく出てくる「実話は文芸か否か」という対立論の要点なんだろなと思う。
遡って「文芸とは?」という定義が双方で違う気もするし、どちらが正しいという結論もない。
オカ板で文芸論をやるのは筋違いスレ違いっぽいんだけど、どうしてもこのテーマからは
逃れられない肝酢 ´・ω・`
>>69 それでふと思ったんだけど。
「文藝百物語」「怪談徒然草」は文芸なのかな?
当人がどう思ってるかというのと、読者がどう捉えているかで
温度差があるかもしれないなとは思うね。
個人的にはこの二つが文芸だったら、「怪談文芸論」は間違いだ
と思うんだけどなぁ。
インタビューや対談とか怪談会のテープ起こしみたいだし。
それが文芸ならテープ起こししたライターさんも文芸を名乗れるでしょ?
「文学の極意は怪談にあり」って文学者か誰かが言ってなかったっけ?
逆説的かも知れないけど、実話怪談も文章技術を高めていけば、じゅぶん
芸術作品(文芸)として認識され得ると個人的には思ふ。
結果論として「芸術作品だね」というのは実話怪談でもありうる。
だけど、最初から「これは文芸だ!芸術だ!」というのは間違いだと思うなぁ。
実話怪談は消耗品だし。
そうすると、文芸/芸術かそうでないかを決めるのは、
あくまで観測者だということにならないか。
例えば北斎漫画は、描かれた当人は芸術だと思って書いてはいなかったし、
描かれた当時は芸術として評価されたわけでもない。むしろ消耗品だった。
後年になってから、「芸術的価値がある」と観測した評論家がいて、
その価値付けが広く受け入れられた結果として北斎は芸術扱いになった。
>>73 文章技術を「高める」ことで、より高位にあらかじめいる権威が芸術認定する
と文芸/芸術作品になるのだろうか。
もしかしたら、技術を高める努力の有無とそれが芸術と認識されるかどうかというのは、
別問題だったりするのかもしれない。
実話怪談がいつか「あれは文芸だ」と言われる時代もくるかもしれない。
が、現状でそれを消費している層(実話怪談の購買層)はコンビニ文庫を
消費する層なんじゃないのかな、とも。
だって実話怪談ってコンビニ文庫以外ではほとんど見かけないし。
あっても希有な例外だしね。
これ言うとまた荒れそうだけどw、芸術と認定されて金銭的価値/希少価値
が高まった瞬間から、量産はされなくなるんだよなあ。もしくは、量産が不可能に
なるが故に単価を押し上げて高級感/稀少感を演出するのだろうか。
消耗品、エンターテインメントであるが故に安く量産され、消費される。
消費されにくいもの(購買層/市場の縮小?)になるに連れて、
単価上昇を伴い、単価上昇に十分な理由付けをするために、高級感や
芸術的価値が言われるようになる。。。というのは、ちょっと穿ちすぎだったかもしれぬ。スマソ。
>>75 そういえばミュシャも最初は劇場ポスターとかで名声を得ているよね。
そのあと、少しづつ変化していったけど、評価が高いのは
やはり「消耗品時代」のポスターとかが多い。
晩年の絵画を知っている人は少なそうだしw
(見て「あ、ミュシャだ!」と判るのはファンくらいじゃないか)
>芸術と認定されて金銭的価値/希少価値
>が高まった瞬間から、量産はされなくなる
それは困る。
暇つぶしや嗜好品として実話怪談を読みづらくなるな。
誰か
「実話怪談が文芸であることのメリット・デメリット」
を教えてください。
>>77 難しい設問。
まず、文芸であることに価値があるかどうか、から始める必要があると思う。
その上で、その価値が実話怪談に意味があるかどうか、という検討が必要では。
ちょっと挑戦してみるね。
まず、文芸=芸術という定義でおk?
芸術に価値があるのは、経済性においては「希少性」「投資価値」。
これは「価値」を数値化できるけど、芸術性に価値を見いだす人ほど数値化を嫌うw
文化性において言えば「不特定多数が共有できる普遍的な共感の喚起」。
共感というのは、一般的には「感動」だろうけど、必ずしも感動でなくてもいい。
例えばピカソのゲルニカは「怒り」を共有してるし。
「誰が見ても同じ感情の発露を共有できる」が、芸術であるかどうかを決めるポイントかも。
で、文芸を「文章の芸」と見るか「芸術的文章」と見るかで印象は変わってくる気もする。
「文章の芸、技芸」ならストイックな職人的美質を感じるし、「芸術的文章」だと華やかかつ高慢な芸術家気質を感じるし。
言葉の雰囲気の問題に過ぎないかもしれないけどね。
でも、「文芸=芸術であることに価値や価値の高低を求める」というのは、
なんとなく古美術で言うところの上手(うわて)・下手(げて)に通じる相互蔑視のようなもの
じゃないのかなという気もする。実話怪談って、決して上手じゃなくて、
民芸(お土産やの民芸品にアラズ)に属する下手物だし。
文芸=芸術に「金銭面でのありがたさ」以外の部分を求めるなら、先にも述べた
「不特定多数(またはできるだけ多数)に同じ感情を共有させる力があるかどうか」
で、その価値のありなし、または芸術性のありなしは決められるかもしれない。
入りきらないので続く。
長文スマソ。
>>78から続く
「不特定多数に同じ感情を共有させる力」をどうやって測定するか、なんだけど、
これは、「多くの人に求められているか」ということかと思う。
複製ができない一品物(肉筆画)または複製できるが量産できないもの(限定生産のリトグラフ)
が高価なのは、「共感してそれを求める人が多いのに、求められる芸術品そのものは数が限られている」から。
価値が高いのは「行き渡らないから」だとも言える。
同じ芸術品を示すものでも、画集は肉筆画やリトグラフに比べれば遙かに安い。
ポストカードになればもっと安くなる。量産できるから。
でもそれは、「現物」じゃないから「価値は低い(または複製/量産で価値が分散された)」と見なされる。
芸術は本来、「できるだけ多くの人に同じ感情を呼び起こす」から価値があり、
多くの人に求められるから「経済的価値(金銭的価値)」も高まるのだけど、
多くの人に求められないけど金銭的価値は高いという逆転現象が「芸術=高いもの」
「芸術=判る人にしか判らないもの」という誤解を生んでいるんだと思う。
これは「文章に、文芸/芸術という価値・価値観を当てはめようとする」という行為にも通じるかもしれない。
もし、その文章を「できるだけ多くの人に同じ感情を呼び起こしてもらいたい」と考えた場合、
そのための文章技術を磨くのは喜ばしいことだけど、それが思い通りの効果を発揮したかどうかを
確かめようと思ったら、「評論の是非」じゃなくて「多くの人に実際に求められたかどうか」で測るしかない。
それは「価格を高めても多くの人が求め合う。しかし、数量限定であるが故に手に入らない人も出る」というものでよいのか。
「多くの人が手に取れるように、価格を低めて量産することで求めやすくする」という、相反する方向に向かう。
文章が例えば「本の装丁」や「活字の種類」で価値が変わるというものだとしたら、
豪華装丁ハードカバー化粧箱付き3000冊限定の本は、手に入れられるかどうかがわからない
のだから、欲しがる人は増えるかもしれないけど、「欲しているのに手に入らない人」が出てくる。
また続く。
芸術論が絡むと長くなるのは、絵画の世界と一緒(´Д`)
>>79から続く。
雰囲気の違いは多少あるだろうけど、MSゴシックで読んでもMS明朝で読んでも、
文章内容に変化がないのであれば、「内容以外の装丁/製本など」は、厳密には関係ないということになる。
「よいものをよりたくさん」というと、量産=劣化のイメージは付くが、著者が自分で刷ってるわけじゃないからw
製本品質は深く考えなくてもいい。
「できるだけ多くの人に同じ感情を呼び起こしたい」=「良いと思うので広めたい」
を満たす場合、文章に限れば絵画と違って必ずしも「額縁」に凝る必要はないわけだ。
というところで、
>>77について。
実話怪談が文芸(=芸術)であることの【メリット】【デメリット】というのは設問としてちょっと難しい。
「文芸(多くの人に同じ感情を呼び起こす力がある)と見なされた場合のメリット・デメリット」でよい?
【メリット】
(文庫・新書の場合)たくさん本が売れるw
(単行本・ハードカバーの場合)は数少ない本を巡って読者が奪い合いを演じるのが予想されるので、単価を高めに設定できる。
【デメリット】
誰が、どういう視点から「芸術的価値がある」と決めるかによって変わる。
芸術品だからおろそかに扱うな、畏まれ、という機運が出てくると、当初目的の「気軽に誰にでも読んで欲しい」からは遠ざかる。
頒布促進からの量産を目指さず、少部数限定になった場合、手に入れたがる人が減る、または手に入れたくても手に入らない人が出る。
値段の多寡と部数の多寡を言うと商業主義になりがちだけど、元々「複製が前提の製品」でもあるので、
複製してできるだけ多くの人に行き渡り、共感を得ることを目指して、「値段を安く、部数を多く」を目指すのは、
文芸=芸術の本来目的に照らし合わせても間違いじゃない。
>>80まだ続く。そろそろ連投に引っ掛かりそう(´Д`)
むしろ、「わかる人にだけわかる芸術」になってしまう可能性があるとしたら、大いなるデメリットになると思う。
これはルネッサンスの功績の影の部分で、芸術家を富裕層が囲って芸術的価値の独占を図ったり、
富裕層の評論によって芸術的価値を決めて喧伝することで、芸術品の金銭的価値を高めたりした。
これが、パトロンに「芸術のわかる人間」という選民意識を育てた。
今も「芸術」という言葉に金の臭いを感じたりする人が多いのはこの頃から引き継がれた悪弊で、
逆に芸術を「金では図れない崇高なものだ」と持ち上げてしまうのも、この反動から来る悪弊。
(これはフィレンツェ・ルネッサンスから500年以上経過した現在でも見受けられる芸術への誤解)
作成者(芸術家)が感じた感動を、より多くの人に共有してもらいたいというのが、
本来的な意味での芸術の発祥と目的なんだと思うんだけどね。
実話怪談も「より多くの人に知ってもらいたい」という意味を取り出すなら、
目指しているのはそうした原初的な意味での芸術と同じではないかと。
できれば読者を選ばず、肩肘張らず、楽しんで、消費してもらってかまわない、みたいな。
芸術品を長く残そうと考えるのも間違いじゃないんだろうけど、それが芸術的か、
長く残す価値があるかどうかというのは、「それで商売をする人間」か、それを消費する人間(読者)
が決めることであって、著者・作者にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
消費に関して言えば、実話怪談に限らず怪談は何度も読むのが難しい。オチがわかったら価値半減だし。
だから、「何度も読める怪談」にのみ価値出るんだと思うよ。繰り返し上演されたからこそ、
東海道四谷怪談や牡丹灯籠や真景累ヶ淵には価値があるわけで。
新耳袋や「超」怖い話に価値があるとしたら、その反復性じゃないのかな。繰り返し話題になる、という。
その意味では、両者ともに実話怪談ながら「芸術が本来目指したこと」を目指しつつ果たしてるとも言えるかも。
>>82 連投阻止ありがとー。
それは
>>78-81で書いたように、文芸をどう捉えるかによって変わるから答えにくい。
>>78-81では「作成者は広めたい、広い共感を得たい」という希望はあるだろうけど、
それが行き渡りにくいという制限が過去にはあった。その「行き渡りにくさ」が
「行き渡りにくいのが芸術だ」という誤解を育ててるのではないか、ということを論じてる。
「行き渡りにくいことに価値を求める」のが芸術=文芸だとするなら、実話怪談はそうじゃないと思うね。
では、広く求められているからイコールそれは芸術か? とした場合に、
電車男や嫌韓流や国家の品格やバカの壁を「芸術」または「文芸」と言っていいんだろうか?
という話にもなるのではないかな、と。
文芸が「文章の芸術」という意味で用いられるなら、実話怪談はそういう勲章を
求めていないんじゃないか、と思う。
結局は、芸術的価値の有無は「発行部数と実際に消費した読者の数」で決まるんじゃ
ないのか、という気もするな。
本来はよりたくさん消費されたほうが「目的に見合ってる」はずなんだけど、
たくさん消費されると芸術的「地位」は下がる、みたいなw
近年、ネットの発達(オンデマンド印刷とか、データの複製拡散とか)や、
印刷技術と流通経路の拡大によって、「いいものがひとつだけ(少数)」
という縛りが消えつつあるわけだよね。
その意味では、「コンビニ程度の場所で量販されている下手物」である実話怪談本も、
内容で勝負できる時代がきたんじゃないかな、と。
勝負の結果は少数の評論家が決めるんじゃなくて、結局は「何人が消費したか」
で決まるんじゃないかとも思うんだがねw
そういうわけで、「文芸」の意味が共有できないうちは、
>>82の問いには答えにくい。
なんか自説をずらずら書いちゃったけど、みんなは文芸っていうのをどういうものだと捉えてるんだろう。
むしろそれを知りたい。それがわからんうちは、
「リンゴを指さしてスイカと怒鳴る奴と、リンゴを指さしてタマネギと譲らない奴が、
リンゴ(スイカかタマネギか定まらない)を使った調理法について相談する」
ようなもんで、うまくは話が運ばないと思うよ。
>>83 いあいあw
確か「怪談之怪的」には怪談=文芸 で文芸=書くための技術
だったと思う。
ただ、そこに「文芸=芸術である」というニュアンスもあるかも。
「芸術的文章」という意味合いとか。
辞書なんかで調べるとまさにそうなっちゃうんだけどw
実話怪談に付加価値を求めるのは、一読者的にはあまり考えてない。
怪談は怪談でしょ?怖い話が読みたいだけなんだよ。
というのが自分のスタンスで、消費というか「どんどんでればいい」派。
下手物であることなんて、みんな承知してると思うし。
ほんで自分が捉えた文芸はこれ。
ぶんげい 0 1 【文芸】
(1)〔literature〕詩・小説・戯曲など、言語表現による芸術。文学。
「―作品」「―雑誌」「―評論」
(2)学問および芸術一般。学芸。
(3)書名(別項参照)。
で、これを踏まえて考えると「実話怪談は文芸ではないな」と。
文学でも芸術でもないし、学問でもないし。
のちに「芸術作品だった」と評価されるのならそれはそれでいい。
著者的には嬉しいんじゃないのかな?とは思うけど。
>>85 にゃるほど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8A%B8 ウィキペディアでは、こうだね。
-----
文芸(ぶんげい)とは、
1.言語を媒介とした芸術の総称。文学と同義であることが多いが、範囲が広く、無文字文化でのものも含まれる。口承文芸、伝承文芸、歌謡文芸など。
2.文学と芸術をまとめて言った語。
3.河出書房新社が発売する文芸雑誌『文藝』。
-----
3は明らかに違うので除外するとしてw、実話怪談は「文学と芸術をまとめたもの」ではない。
1の文学と同義ということについては、「実話怪談はノンフィクションの一分野では」「ノンフィクション文学というジャンルもあるのだから、文学に含めていいのでは」
という応酬を以前見かけたような。
でもどちらにも「書くための技術」という解釈はないようなんで、「文芸=書くための技術」という語彙解釈は、【怪談之怪による狭義】ということになるのでわ。
一般語の解釈と狭義の解釈が混在するのが、先の「スイカ・タマネギ論争」の遠因かも。
普及している一般語に独自の解釈を当てはめるって、バベル的混乱の元だと思われ。
。。ということを書くと、また批判だとか言われそうw
文芸の定義に続いて、「文学」の再定義もしないと、話が進まないっぽいような ´・ω・`
ID:6E5X0FY60の人には逆に、「実話怪談は文学だと思う?」という質問を返してよいか。
wikipediaでは
文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品の事をいう。
又はそれらを研究する学問の一つ。
狭義には、小説や詩、文芸評論などを典型的な文学の例とする。
言語表現、としてみると「実話怪談も文学」になる。
(大衆文学かもしれない)
狭義で捉えた場合の「小説」という部分で考えると
小説=
随想や批評、伝記、史書に対して、架空の物語もしくは
現実にあった物語を虚構化したものであり、
手法的にいえば、詩に対して、散文形式による叙述をとる。
(ここでいう虚構は虚偽ではない、というのがポイントか)
実話怪談は小説の一種である、といえるのかもしれない。
あれ?書いてて混乱してきたぞ。
>>88 実話怪談は「架空の物語」または「現実にあった物語【虚構化】」してるわけではないので、
小説には入らない気もするなあ。
実話怪談が小説に入るかどうかが、その後に続く文学に入るかどうか、
ひいては芸術(文芸)があてはまるかどうか、に繋がる気がする。
その意味で言えば、実話怪談は建前として「虚構ではない」「架空ではない」
を何より旨とするわけで、「怪談小説」とは別ものとなるのでわ。
ここで問題になるのは、建前としての「虚構ではない」「架空ではない」を
実証できるかどうか、ということになる。
実話怪談好きでも「再現性」「証人」「証拠」にこだわる人はいるし。
ところが、聞き書き系実話怪談にとって、実証というのは凄くハードルが高いものでもある。
紹介された心霊スポットに行けば必ず幽霊が見られるというものでもないし。
再現性が確実であれば、それは「科学」であってオカルトじゃないんだよねw
実話怪談を「事実かどうか、再現性があるかどうか」で突き詰めていくと、
それは「興味深いもの」にはなるけど「怖いもの」からはどんどん離れていく。
種明かしされたら興味を失うってなもんで。
そこのあたりどうなんすかね。
再現性があることは怖いことではない。
ていうか、科学で解き明かされたときからロマンはなくな(ry
これは何故実話怪談が怖いのか?という議論にも関係してくる。
ちょっと前のアンケートでもあったけど
「不安感」「布団一枚分の隔たり」とかあって、
そこには「いつ自分に降りかかるか分からないのが実話の怖さ、厭さ」
というのが浮き彫りになっていたと思う。
正体不明で、太刀打ちできないから怖い、という。
そんで
>>89の理論だと「実話怪談は小説ではない」ということだね。
もちろん「実話怪談」という記述されたものであるかぎり
口承文芸でもないわけだよなぁ。
はっ!これはどうだ?
『実話怪談は、“実話怪談”というひとつの文章ジャンルである』
日本霊異記を始め、民間に伝わる話を知識層が記述したものを説話文学と呼ぶよね。
同様に記述者の技量如何で、実話怪談文学と呼べるものは普通にありだと思うけど。
「実話怪談文学」というひとつの文学ジャンルね。
>>91 知識層が記述したものを「〜文学」と呼ぶというよりも、
知識層が記述したものを、整理研究する研究者が現れることによって、
それは「文学」という研究分野になりうるんじゃないのかな。
もし、実話怪談が芸術という視点からではなくて説話文学のような
「継承された記述」という視点で「文学」になるためには、
「実話怪談の研究者」が【複数】現れ、ひとつの「研究分野」として
認知された後のことだと思うよ。
現時点では「学究的立場から実話怪談を整理研究する研究者」
っていうのはいないからなあ。
分野的には民俗学か社会学か心理学のいずれかの派生系になる
んじゃないかと思うけど、それに近いことをしていると定義していいのは、
山口敏太郎wということになるか。もしくは、心霊科学をぶちあげた酩酊氏か。
研究しているかどうかはともかく庇護者/紹介者たろうとしている東氏か。
彼らが「研究、整理分類、紹介」すること、つまりは彼らが観測することで、
実話怪談は「文学になる」ものなのかもしれない。
もし観測されなければならないw 北斎が再評価されるまで芸術じゃなかったようにね。
でも、そういう研究者を名乗る人に定義されることを、実話怪談を消費している人、
生産している人は喜んでいるのだろうか?
喜んでいたら、実話怪談好きとそれを「文学・文芸として評価しようとする側」との間で
対立や齟齬が起こるというのは釈然としないんだけど。
読んでいて思ったけど。
「文芸作品として存在し、実話怪談としても読めるもの」
と
「最初から実話怪談として書かれたもの」
は出発点が違うと思うんだが。
>知識層が記述したものを、整理研究する研究者が現れることによって、
>それは「文学」という研究分野になりうる
後付設定、という言葉が思い出されるw
要するに「言ったもん勝ち」なのか。
>でも、そういう研究者を名乗る人に定義されることを、実話怪談を消費している人、
>生産している人は喜んでいるのだろうか?
これはちょっと聞いてみたいね。
うお〜、中身が濃ゆいレスの連続!
読むのに30分もかかっちゃったじゃないかww
で、読んでて思ってんだけど「実話怪談」って出来たばかりの新しいジャンル
じゃなかったっけ?
超怖い話シリーズでいえば、15年前に一代目編者の安藤君平氏が樋口さんや
加藤さんと「今までにないリアルで面白い実体験怪談本を作ろう」と始まった
わけだし。
つまりこの議論でのネックは
「新しいジャンルである『実話怪談』を、今までの既存の物と比して論じる
ことが果たして適切かどうか?」ということのような気がする。
新耳袋以前から一応「この話は実話です」と
始める怪談本はあったんだよね。
70年代オカルトブームの頃なんか凄かったはずw
新耳袋が「余計なもの(解釈とか)をそぎ落とした」ことで
これまでになかった怪談を生み出した、といえる。
ここから今言われる「実話怪談」にシフトし始めた、と。
その後に超怖が出てきて、新耳袋とは別の方向に進んだ。
新耳袋はどっちかというと「怪異の記録」に拘って
超怖は「怪異を書きつづること」に進んだんじゃないかな?
今我々が言う実話怪談は、70年代辺りの実話とはすでに意味が変わっているのかも。
そんな中「実話怪談は文芸だ」という主張がでてきたり
「実話怪談は実話怪談でしかない」という主張がでてきたりした。
前者はどっちかというと実話怪談というジャンルを統合したい・定義したい
というムーブメントで、後者は実話怪談は単体ジャンルで定義される事は
あまりよろしくないのでは?と考えているのかもしれない。
>>96 >70年代オカルトブーム
考えてみれば、怪談本というのは流行ったけど
正直カストリ本扱いだったよな。
「あんなのは子供だましだ」
といって、文芸作品とは違うと認識されていたと思う。
てか、一緒にするな!という人もいそうだが。
やはり創作と実話は、別物という気がするね。
その延長線上で今の実話怪談ってあると思うんだよな。
「真偽はともかく、ショッカーな内容の本が読みたい」
「真偽はともかく、不思議な内容の本が読みたい」
で、基本は
「真偽はともかく、実話、とされている怪談本を読みたい」
これがファンの気持ちじゃないかと思う。
購入すべき読者の視点から見て、創作と実話は別物だ、とね。
だって、いくら創作が実話怪談の演出法や手法を真似たといったところで
それは「遠い世界の物語」でしかないんだよな。創作、と前提されると。
実話は実話を言った時点で「身近な物語」に変貌する。
(これは「実話を元にした創作」という小説が突然迫力を増すのに似ている。
著者はその反応を分かっていて、「実話が入っている」ということを
前面に押し出している事が多いのではないだろうか?)
実話も創作、どっちも好きだが、チョイスするときにはやはり重要なポイントだよ。
あ、ひとつ荒れるかもしれない話題を(´・ω・`)
「怪談の地位向上」って、必要だと思う?
評価の高い怪談文芸作品って、すでにある程度の地位を気付いているし
著者もそれなりのポジションに居る(居た)と思うんだけど。
多分これは「怪談というジャンルの地位向上」ということだと認識しているんだが、
個人的には「怪談はサブカルチャーだからこそ面白いし、惹かれるのだ」
と思っているんだよね。
密造酒やどぶろくが正規の酒と違って味わい深いwのと同じでさ。
地下に潜伏していた方が好き勝手できるしw
>>97 まず70年代の実話怪談と言われていたものと、90年代以降(現代)の
実話怪談(新耳/超怖)との違いを考えるところから始めてみる?
70年代の怪談は消費者が子供だった。だから子供に「怖い話を教えてやる」
というスタンスだったし、読者より著者のほうが上位にあって、読者は
【著者の言うことが真実】という前提で読む形になっていたと思う。
90年代以降の実話怪談は消費者が大人になった。これは70年代に子供
だった人たちがそのままスライドしたといってもいいのかもしれないけど。
消費者が大人になると、読者は著者は絶対に真実を言っている、という
前提では見なくなるのではないか。大人だからね。
「もしかしたら真実ではないのでは?」と疑うようになる。疑った人々のうちの
何%か(比率はわからない)は、オカルトから卒業したり最初から創作のものにシフト。
一方で、90年代怪談は「真偽について著者自身は明らかにしない(断言しない)」
「真偽の判断を読者に委ねる」というものになりつつある気がする。
読者には、「あの著者が言うのだから間違いないだろう」という70年代怪談と
同じ理解の読者はもちろんいると思う(著者への信頼)けど、同時に、
「大人の常識として考えてあり得ない。しかし、絶対にないとは言えない」
という大人的解釈を交えて真偽の判断を自分でする、という読者も増えつつあるのでは。
頭ごなしに「そんなのあるわけない。著者は嘘つき」と言ってしまう読者は、
そもそも実話怪談から離れていくわけだから、「大人になっても実話怪談を読める人」
が、どういう消化の仕方をしているかが、「実話怪談の真偽」に対するひとつの解に
なるのかもしれんね。
>>97 で、創作だと著者が断言しているものは、「事実じゃないから安心して読める=安全」
ということ以外に、著者に対する完全な信頼があってこそ読めるんだと思う。
著者が事実じゃない、創作だと保証しているんだから大丈夫だろう、という。
創作に実話が混じってる小説というのも、「著者がそういうんだからそうだろう」という、
著者への信頼がそれを成立させてる部分があるんじゃないかなあ。
対して、実話怪談は「それほんと?」「アリエナイ」という疑惑・不信が
常に読者の側にあったりするんじゃないかと。
創作だと断言されているものに対して「それ実話じゃない?」と聞く人は稀だけど、
実話ですと提示されたものに「それ創作だろ?」と聞く人はけっこういるよねw
つまり実話怪談では著者の宣言は実はあまり信頼されていない。
しかも90年代怪談では出来事に対して著者が「間違いない。確かめました」
という太鼓判は押してない。体験談を聞き書きして、「判断はあなたに任せます」的に、突き放してる。
そうすると、読者は自分で判断しなければならないから、不信と不安に駆られて翻弄される。
消費者が大人であるが故にできるようになったんじゃないかな。この不安と不信の恐怖っていうのは。
70年代の怪談こそ「権威の構築」だったのかもしれない。
怪奇研究家とかいて、彼らが専門用語を作り出していった。
地縛霊・水子霊・背後霊wとか。
子ども(一部は大人も)は彼らを「怪奇現象の権威」だと思った。
本になったことは真実である、という短絡的思考でしかないけど。
一応の権威をもった怪奇研究家・心霊研究家が書いたこと、いったことは
ヨタだろうがなんだろうが何らかの影響力がある。
その影響を受けた人たちが大人になって、真実に気付くころ、ブームの終焉を迎えた。
新興宗教問題が明るみに出て、オカルト弾圧が始まった頃と一致するかな。
これは90年代から現在の実話怪談を取り巻く状況に当てはめることが出来る
部分が多少はあるような気がするんだが、どうか?
>>98 怪談の地位向上は、うーん。
それこそ何を持って「地位が向上した」というかっていうところだよね。
70年代怪談は子供向けだったから地位が低く、90年代怪談は
大人向けになったから地位が低いのか? とか。
そもそも「地位」ってなんだろう、とか。学術的評価がされれば地位が高いのか?
偉い人がもてはやせば地位が高い?賞が設置されれば地位は高いか。
商業的な成功が地位の高さを保証するのか。地位が高くなれば商業的に成功できるのか。
ラノベやエロは部数的には怪談より遙かに大きな市場になってるよね。
でも怪談や文学の人はラノベやエロの地位が自分達より高いとは認めたがらないんじゃない?
でも消費者にとっては、「手軽で安くて選択肢が多くてすぐに続きが出る」という
消費しやすいものであるラノベやエロは、なかなか続きが出ない、高い、選択肢が少ない、
というものよりはチョイスしやすいんじゃないかな。
ここでも昨日の芸術論同様、「手に入れにくいものに価値がある」「価値があるから手に入れにくい」
という、供給不足需要不足を希少性に転化させるパラドックスが起きてる気はするね。
怪談の地位向上っていうのは、実は消費者にとっては無関係な話で、
それを書いている著者にとって意味がある話なんじゃないかな。
消費者にとっては、地位が高かろうが低かろうが、手に入りやすいならかまわない。
地位が高まることによって手に入れやすくなるならもちろんOKだろうし、
地位が低いことで手に入れやすいならそのほうがいい。
読者にとっては「選ぶ選択肢の広さ(バリエーション)」「供給される作品点数の多さ(供給量)」
「単価(価格)」「手に入れやすさ(売り場・頒布機会の多さ?)」が重要なのであって、
地位は上位の選択基準じゃないとも思う。地位ってのは後から付いてくるものであって、
意識して押し上げるものじゃないでしょ。
>賞が設置されれば地位は高いか。
二科展の話を思い出した。
>>101 だとすると、00年代に入ってからのこの「怪談の地位向上」っていうスローガンは、
「権威の再構築」と同義かもしれないね。
90年代の怪談の権威は映像作品、またはテレビ怪談師イナジュンだったと思うんだけど(異論はあるかもしれないけど)
文字の怪談は90年代は評価を得ていないんだよね。怪談(ホラー)は映画でブレイクしたから。
そこで、文字の怪談に権威付けを行う(これは新耳袋を怪談之怪が評価するという形で、
権威の再構築を試みている、というのは? これも荒れそうだな。荒れたらスマヌ
70年代怪談で権威を得た層はもう引退しているか鬼籍に入っているか。
80年代は怪談の雌伏期だから、その時代を担った権威がいない。
90年代に怪談を「誰にも評価されない」でやっていた人々は、その当時20〜30代
だったと思う。それが00年代に入って40代後半になった。当時に比べれば発言力・影響力もある。
すぐ上には権威を担う世代がおらず、70年代の権威は70〜80代でそろそろ引退だ。
40代後半の世代が90年代の自分達の業績を再評価して権威の構築をするっていう
のは、あながち見当はずれとは言いにくい。
ただ、70年代と90年代、00年代では、怪談を消費している消費者の性質が若干
違うということ。子供(または情報が少なく純真な人)を相手に権威を構築できた70年代と、
大人(または氾濫する情報を得た不純な人w)を相手にしなければならない90、00年代とでは、
70年代と同じやり方で権威の再構築をするのは難しいんじゃないかな。
それをどうやるか、という試行錯誤が今「怪談の地位向上」をスローガンにする
人々によって行われているところなんじゃないかというのは、どうか。
>>103 芸術性を論じようと思ったら、
絵画・美術の世界の経験は参考になるよねw
>>105 そうだねw
>>104 権威付けをする部分が変わったというか、
「大人が納得する権威」を成立させるのかも。
要するに「権威付けする部分のターゲットが変わった」と。
70年代が「オカルト研究家の権威」=権威のターゲットがオカルト部分。
それに対して今は怪談が文芸を認めることによって、
大人が納得する(というか大人相手に納得させる理由として)為に
「怪談文芸論」が役に立つのではないだろうか?
怪談が好きです、といったときの反応って、ほらw
「こどもか!」とタカ&トシみたいに突っ込まれるけど、
逆に「怪談文芸を読みます。あれは○○賞受賞作家を生み出しました」
の方がいい反応がもらえるはずww
本を買うであろう大人層へのアピールが多分に含まれているのかも。
一応勝手な考えで70年代からをまとめるね。
70年代 「オカルトブーム期」 研究家の権威確立。
80年代 「オカルトブーム爛熟期」 停滞の開始。
90年代前半 「Jホラー幼年期」 リング、など。新耳&超怖誕生。
90年代中期 「オカルト弾圧期」 95年の地下鉄サリン事件以降、オカルトは弾圧。
90年代後期 「Jホラー・実話怪談ブーム勃興期」 不景気などで人々が超自然的なものや精神に興味を持ったことが関係?
00年代 「実話怪談成熟期」 実話怪談類似本などの乱発。妖怪ブーム。怪談文芸論開始。
こんな感じかな?
>>106 「本を買うのが大人」
「本を読むのが大人」
っていうのは、実は古い概念なのかもしれんよw
ラノベとエロという、出版界の救世主的な出版物の主消費者層は、
厳密な意味での「文学文芸を消費する大人」じゃないもんw
文芸作品というのは今だって出版され続けているけど、文芸というジャンル(市場)
そのものが昔に比べて遙かに小さくなってる。出版物全体のバリエーションが増えた
ことが、結果的に文学を小さくしたのか、文学が出版物全体を引っ張れないから、
文学以外の出版物がその割合を増やしたのかはわかんないけど。
「文学」というのは、明治期以降の「先進の証」「老舗の看板」なんだよね。
時代をリードする、っていう。
蓄積からの地位はあるけど、現実における影響力はすでに映像やゲームに
抜かれてるしなあ。
実話怪談を買うのは大人だろうけど、その大人は多数派ではないよな。
怪談文芸と比べたらどうかはわかんない。
実話怪談を文芸に融合することについて、実話怪談側に対して与えられるメリットは
「地位」であり、実話怪談を融合した側(怪談文芸を統括する側?)が得られるメリットは、
「実話怪談を消費する読者が、他の怪談文芸の消費者にもなるかもしれない」という
【実利】の期待なんじゃないかなあ。
実話怪談の消費者はすでに「怪談」を読んでいるわけだから、創作怪談にも馴染みやすいだろう、
消費者に転化しやすいだろう、じゃあ、実話怪談という地位の低いものに「価値」「地位」を与えるから、
こっちに入って創作怪談も買ってくれないか。
という予断がある、というのはどうか?商業的には納得しやすい論理だと思うけど。
実話怪談の消費者が「別に。実話怪談が読めればなんだっていい」という反応をするのも説明できそう。
>>107 整理乙。
こうして並べてみると、高度成長期の陰りが70年代オカルトブームの隆盛に、
バブルが始まった80年代はオカルトブームが下火に、
バブルが弾けた90年代は再びオカルトブームが再燃。
90年代中期の「オカルト弾圧」はむしろ逆で、オウム真理教があれだけ力を
伸ばしていたことからも、またオウム真理教以外の新興宗教が活発だったことを
鑑みても、「問題が表面化するほど、オカルトが活発だった」と言えるんジャマイカ。
90年代前期から後期、00年代前期にかけての映像Jホラーの隆盛は、
これも不況低迷期と連動してるね。
00年代中期以降(つまり現代)は景気が上向いているので、この法則に従うと
ホラー・オカルトは停滞期に向かうんじゃないかなあ?
70年代の爛熟期のあとにきた80年代の停滞は、「景気のいい時代に不吉な話(=怪談)は
ゲンが悪いから敬遠された」のか、それとも70年代の権威が飽和状態になったからなのか。
もし、90年〜00年代前期までを「権威」とした場合、今後は80年代と同様の
「権威の飽和」が起きてくるかもしれない。
権威が確立されるということは、新しいものが生まれにくくなるってことだと思うんだ。
新しいものに価値があるかないかを権威が決めるっていうことになるわけで。権威が健全な判断を
できていればいいけど、そうでなくなったら権威によって新陳代謝が止められることになるからね。
80年代の停滞期っていうのは、そういう権威の飽和が新陳代謝を止めてしまった例だったのでは?
だとしたら、00年代中期までに対して権威の再構築を目指すと、その権威が健全でなくなったときに、
今後、新陳代謝が止まってしまう可能性はあると思う。
>>108 おおっ。そうかw
だけど「金出すのは大人」と考えると、それはそれでw
「おかーさん、ほんかってー」
「漫画は駄目よ」
「このほんだよー(と怪談本をだす)」
「あら、怪談本ね。これならいいわ。だって文芸ですもの。こ
んな難しい本を読むなんてうちの子も凄(ry」
とか何とか妄想w
確かに以前と比べて、ジャンルの細分化は行われているね。
「こんなのもでるのか!」とかあと二匹目のどじょう本とかさ。
細分化しないと、売ることができない市場になった理由に
「ネット」の存在がありそうだなぁ。
さて。実話怪談読者はホラーだろうがなんだろうが読む、というのが
このスレでも出ていた。
逆の波動なのだろうか?
>00年代中期までに対して権威の再構築を目指すと、その権威が健全でなくなったときに、
>今後、新陳代謝が止まってしまう可能性はあると思う。
だけど、現にそういう流れになっていまいか?
今年が怪談文芸元年wだと宣言している人もいるし。
あ、意味わからんこと書いてるw
>逆の波動なのだろうか?
「逆の場合はどうなのだろうか?
ホラー、怪談文芸ファンは実話怪談を読んでくれるだろうか?」
ということで。
>>110 「だって文芸ですもの」ワロスwwwwwwwww
実話怪談読者は「悪食」または「雑食」というアレねw
ジャンルを細かく分類して認識していないから、何にでも手が出せるんじゃないのかな。
おもしろいのは、創作怪談側から「創作も実話も垣根を作らない」という宣言が出ていることと、
「創作も実話も垣根なく消費するのは実話怪談読者」だというねじれ現象だと思う。
「創作も実話も(実話だって裏が取れないんだから創作と変わらないから)垣根を作らない」
という宣言は、実話怪談を創作怪談の「風下」に置いて取り込もうとするものだ、
というのが、実話怪談読者のアレルギー的反発だろうと思われる。
それでは、創作怪談をのみ読んできた人が実話怪談を「新たに」受け入れられるかと言ったら、
たぶん「創作怪談のバリエーション」または「文章技術が伴わないデッドコピー」という見方で、
やはり下位に扱うんじゃないかな?
実話怪談を肯定的に(それは実話を実話と信じるではなくてね)読んでいる人こそ、
「ジャンルごとの線引きに囚われない」でチョイスしているはず。
なのに、実話怪談を創作怪談のバリエーションに含めることには拒絶反応が出る。
これは、なんなのだろう?
>>111 なりつつあるんじゃないかなあ。
これを「権威の構築」または「地位の向上」の説明に当てはめると、
ちょっと首筋が寒くなるというか。
できるだけいろいろな怪談を読みあさりたいという消費者にとっては、
地位の向上(=実は地位の固定化)というのは、ダイナミズムを阻害する
ことにもなりかねん、かもよ。
>実話怪談を創作怪談のバリエーションに含めることには拒絶反応が出る。
・自虐(実話怪談は文芸と比べると下手物カストリ本でやんすよ。文芸じゃないで下種)
・肯定と否定(実話怪談は怪談の一ジャンルです。だけど、文芸ではないけどな)
・否定(実話怪談は実話怪談。文芸ではない)
・なんつっ亭(権威の構築と地位の固定化。大好きな実話怪談にも魔の手が!と妄想)
要するに「文芸」という言葉に対する認識の違いが大きいかと。
「文芸」=権威あるもの=実話怪談はそんな不自由なものじゃない!
という主張なのかもしれないと思った。
人それを反体制という。ていうか、反体制だと判断する権威ができつつあるという事かな。
>>114 地位の固定化、というので駄目になったジャンル色々あるもんなぁ。
>>113 実話怪談を肯定的に捉える人は、実話怪談を創作怪談と比べて「技法的な違い」と
捉えるのではなく「質的な違い」と捉えるからこそ拒絶反応が出るんじゃないかなぁ
つまり
創作派→創作怪談を基準
実話派→基準なし、もしくは一つの価値観を堅持していない
こう考えると、実話怪談読者は「悪食」または「雑食」というのが理解できるかも知れない
>>116 創作怪談を基準にしている。なるほど。
やはりどこか実話怪談を下に見ている節はある、とオモ。
文芸書籍ファンから見ると、実話怪談はお子様向け、とかさ。
実話派は基準なしというか「面白い実話(といわれるもの)」が
読みたいんじゃないかな。
それが実話怪談を読む理由とか。
それと同時に文芸作品も楽しめるのは、どこか無意識なところで
実話と創作を分離して考えているのかもしれない。
言い出したのは俺だが、上・下という言い方は良くなかったかもしれない。
ちょっと反省する。でも賠償はしな(ry
>>116 創作怪談を基準、というのは何かのヒントになりそうな気がする。
「自分の知っているものを足がかりに、他のものを理解しようとする」
っていうのは、理解の第一歩だとは思う。
そのとき、「自分の理解している(自分の基準の)ものが常に絶対である」
「自分の基準としたものに絶対の信頼を持っている」と考えるかどうかで、
理解しようとしているものに対する姿勢が決まってくるというのはあるんじゃないか?
これは、「怪」「恐怖」というものへの姿勢でもあるかもしれない。
「わけのわからないもの、理解できないもの=恐怖であり怪である」わけだが、
「怪を解体して、理解し、無害化(恐怖の克服)しよう」という衝動で恐怖に取りかかる
というのは、「自分の基準をもって怪を無毒化する」というのに通じる気がする。
原因の解説と昇華(主人公が救われなくても読者が納得する、という意味)、
著者によって支配された安全さ、その著者によって安全が保障されたものへの信頼、
これが創作怪談の安定性でもあり、かつ、実話怪談好きが物足りなく感じる部分だろうと思う。
逆に「理解できない恐怖を、無害化せずにそのまま接する」と、恐怖の原因は解消されない。
著者は「どちら」とも言わず、絶対に創作であるとは断言されない。読者はそれが創作かどうか
(信頼に値するかどうか)の判断を、著者任せにできず、自分でしなければならない。
自分に自信が持てなければ、いつまでも「でも、もしかしたら」という不安に苛まされる。
その不安と疑心暗鬼を楽しむのが実話怪談だと思ってるのだが、どうだろう。
>>117 実話怪談ファンというと色々と問題があるのでw
「超怖ファン」に関してなら
「面白い(怖い)話ならなんでもアリ」という雰囲気があるよね。
良くいえば純粋に怪談好き、悪くいうと無節操というか。ww
>>118 だったら、それぞれが「自分の基準」で論じているのが現状
とも見れるような。
その基準が大きいか小さいかの差?
>>119 超怖は好きだが、無節操だなんて、失礼な!
失礼な、、、失礼か?
いや、それは褒め言葉かもしれんねw
純粋かどうかは分からないけど。
「面白ければオールOK」
ではあるな。
実話怪談派と創作怪談派という分け方は、実はあんまり正確ではないのかもシレヌ。
実話怪談に軸足、創作怪談に軸足がそれぞれあるわけじゃなくて、
「怪談はなんでも読む。好みを聞かれたら実話怪談」というのと、
「怪談は創作怪談。実話怪談も創作の一バリエーション」という分け方はどうか?
または、
1「怪談はなんでも読む。読んだ上で創作怪談」ならなるほど、とも思う。
2「怪談はなんでも読む。読んだ上で実話怪談」これもなるほどと思う。
3「怪談は好きな物だけ読む。創作怪談しか読まないから実話怪談はいいと思わない」は食わず嫌い。
4「怪談は好きな物だけ読む。実話怪談しか読まないから創作怪談はいいと思わない」これも食わず嫌い。
3と4の対立なら「おまえら他のも嫁」になるし、1と2の対立なら「好みが違うなら仕方ない」になる。
これが、2と3または、1と4の対立だったりする場合、比較経験の量で言うと2は3に勝るし、1は4に勝る。
結局は、「創作怪談と実話怪談のどちらが優れている」とか、「どちらがおもしろい」とかではなくて、
「どれほど怪談を楽しんでいるか」を踏まえた上での感想を述べているか、それとも「食わず嫌い」に基づく
偏見なのか、というところが、この一連の意見対立の根幹のひとつなのかもしれない。
だとすると、「○○○派」というところに当てはまる語句は、「実話怪談と創作怪談」じゃなくて、
「怪談をいろいろ読んでる派」と「そんなに怪談読んでない派」になるんじゃないかな?
実話怪談好きは、「もっと新しい怪談を読ませろ」「完璧に騙してくれるなら騙されてもいい」って感じ?
その前に「怪談文芸」ってなんですか?
ここも話し合いたい。
>>118 著者によって解が出るもの=創作怪談→安定
著者によって解が出ないもの=実話怪談→不安定
でおk?
あっ。ちょっと書き足りなかった。
前から色々な古典とか小説を読んでいたけど、
「これは怪談だ!」と思った小説は少なくて。
ラフカディオ・ハーンの「怪談・奇談」は怪談と同時に
怪奇譚といった方がしっくり来る感じ。
夏目漱石の「夢十夜」も幻想譚かな。
遠野物語は、結果が「怪談として読める」民俗学資料かも。
福澤徹三氏の作品は怪談と呼べる作品が多いけど
それでもモダンホラーにした方がぴったり来る気がする。
改めて「怪談文芸」というジャンルを作ることに意味があるのかな。
そう思ったのです。
>>123 だけど実話風にして「著者の解」が出ないものもあるのでは?
それは不安定なものにならない?
>>123 だいたいそんな感じじゃないかと思うんだがどうだろう。
>>125 創作怪談で著者が明確なアウトラインや結論を明示しないと、
「片手落ち」「不完全」「不十分」「未完成」の誹りを逃れられないと思うよw
「だからなに?」って言われちゃうと思うし。
実話怪談は「出来事の提示」または「問題提示」で話が終わっていて、
「原因の究明」っていうのは重要じゃなかったりするしね。
>>124 作家による幻想譚・怪奇談、現代科学で説明できない民話、
創作された(作者が明確で、作者がそれを創作だと自認している)民話、
このあたりをまとめて「怪談文芸」と言おうとしてるんじゃないかなあ。
山口敏太郎wは、都市伝説を「現代の民話」と位置づけようとしていて、
(これは「消えたヒッチハイカー」あたりのオマージュ、またはバリアントなの?)
都市伝説と妖怪話(民話)と実話怪談を、すべて同一の「民間伝承」という枠に入れて、
民俗学の系譜に納めたい、っていうアプローチをしてるんだと思うけど、違ってたらフォローよろ。
ここから、山口氏は「実話怪談を学問(文学ではなく)として扱い、その第一人者を目指している。
(権威の構築、にも通じるね)
こういう方向からのアプローチは彼一人なので、これはまず横に置くとして、
「すでにある作家による幻想譚、怪奇談、民話、創作民話」をすべて「物語」と位置づけて、
文学の系譜に連なるものとして整理しようとしている、というのが「創作怪談」側からのアプローチかな。
改めて怪談文芸という会派横断的なものを掲げることに理由があるとしたら、
「ホラーブームに便乗した文学の復権」というイジワルな見方もできるかもしれない。
その運動そのものはいろいろな人が考えてるだろう。
問題は「誰がその旗を振るか」というところに戻ってくるわけで、このへんは実話と創作、
民俗学と文学、芸術と商業その他いろいろな思惑が絡んでいる、極めて政治的な次元の話
なのであって、もはや消費者たる読者は蚊帳の外におかれている気はする。
図書館での分類と書店店頭での棚の分類を別にすれば、本のひとつひとつに
「この本は○○○系○○○派の○○○に属するジャンルの本です」という宣言があるわけでないし、
あっても無意味だしね。
>>127 学問にしちゃうアプローチと文学にしちゃうアプローチ。
要するに「誰かがオーソリティになる為」の便宜上の手続き?
待て!厭な予感がする…!
この話はここまでで止めておいた方がいいんじゃndrftgyふじこl
各方面で物議を(ry
え?何かまずいこと、書いちゃった?
ごめんなさい。
>>131 芸術論から、極めて政治的な話になりかねないから。
それが、要点の考察というところに収まっているうちは健全だと思う。
ただ、「どちらを選ぶか」「どちらが正しいか」という結論の選択に向かいかねず、
そうした結論を導くことそのものが誰かの恣意的な誘導だ、という指摘が出て
スレが荒れる(議論の中断が起こる)可能性が高いから。
話題を少し戻してみよう。
怪談の楽しみ方の違いが、創作怪談好きと実話怪談好きを分けているんじゃないか、と思う。
そうすると、読者の資質(これも優劣ではなくて、楽しみ方の姿勢の問題)が、
その好みを分けているのではないか。
事実(という前提の体験談)を提示され、答えが示されない実話怪談を好む読者は、
明確に書かれていない部分(行間)を膨らまして、「もしかしたらありうる可能性、または否定できる可能性」を探ろうとする。
「書かれてはいないが、もしかしたら○○○という示唆があるのではないか」とか。
この「書かれていない」部分をどう解釈するかは、読者の年齢、経験(人生経験または怪談読書経験)で変わる。
だから、詳しく書かれないことによって、解釈の幅が広く取れる。
そうした「解釈の幅の広さ」を楽しみたい、想像・妄想の翼を広げることの障害が少ない方がいいと思っているのが実話怪談好き。
対して、前提や描写、原因、結論などが「解き明かされていく」のを楽しむのが創作怪談好き。
これは、「著者が意図した同じ結論」に、著者自身の誘導で導かれていくのを由とする。
行間にある「用意された結論を崩壊させかねない揺らぎ」の存在は許し難い。
オチの崩壊を防ぐために、前提も描写も厳密になる。著者の厳密さ(ストーリーも描写も考証も)が魅力でもある。
だから、アイデア・設定・考証を重視するし、そうしたものをハンドリングできる著者に対する畏敬がある。
この楽しみ方はサスペンス・推理なんかにも通じるね。今のホラー・怪談作家が少し前まで推理作家だった(または今も推理作家)ことを考えれば、
創作怪談っていうのは怪談のバリエーションじゃなくて「推理小説」のバリエーションなのかもしれない。
人間がやることではなく、スーパーナチュラルな犯人がすることだから、謎解き・種明かしも著者都合のものを入れやすくなるという書き手のメリットもあるのかもね。
>>133 話が政治的・思想的なことに及ぶと過剰な反応をする人が出てくることが多い、
そうなっちゃうとこのスレの方向性が意図するものと違うことになっちゃう危険性が
あるからね。
>>135 >創作怪談っていうのは怪談のバリエーションじゃなくて「推理小説」のバリエーションなのかもしれない。
あ〜それ俺も感じたことある。ミステリーと怪談というのも共通項が多いんだよね。
>>136 政治的・思想的っていうのは、広義での政治(国内政治、国際政治)や思想(右翼、左翼とか)ではなく、
「域内力学」または「域内哲学・信条」という意味でね。
>「推理小説」のバリエーション
それはホラーにもいえるね。
対して、前提や描写、原因、結論などが「解き明かされていく」のを楽しむのがホラー好き。
これは、「著者が意図した同じ結論」に、著者自身の誘導で導かれていくのを由とする。
行間にある「用意された結論を崩壊させかねない揺らぎ」の存在は許し難い。
オチの崩壊を防ぐために、前提も描写も厳密になる。著者の厳密さ(ストーリーも描写も考証も)が魅力でもある。
だから、アイデア・設定・考証を重視するし、そうしたものをハンドリングできる著者に対する畏敬がある。
創作怪談をホラーに置き換えてみたw
だとすると創作怪談はホラーの一ジャンルだなぁ。
ていうか怪談とホラーの違いって何?
怪談は超自然的なガジェットが出てくるから怪談?
でもホラーだって出てくるよね?
幽霊が出るから?いやいやホラーにも出てくる。
化け物が出るのがホラー?そうかもしれないけど、妖怪譚は?怪談じゃない?
日本的なのが怪談? いや、まて日本的ってなんだ?
ぼっけぇきょうてぇは岡山方言を使った怪談といわれているけど、あれは
やはりホラーだと思うぞ。
「リング」「女優霊」「呪怨」は怪談的ムービーだけどホラーだもんな。
「実話も創作も怪談は怪談」というのなら
「怪談もモダンホラーもサイコホラーもゴシックホラーも全てホラー」
というのも成り立ちそうだ。
「怪談=ホラー論」とかw
創作怪談(怪談小説)≠ホラーじゃなくて、
創作怪談(怪談小説)=ホラーでしょ。
日本語で言うか外来語をカタカナで言うかの違いでしかないよ。
逆に海外に「実話に基づき、実話を事実として再現した、リアルホラー(実話怪談)」
みたいなジャンルがあるのかどうかが知りたいところだ。
最近なら「エミリーローズ」。
「悪魔の住む家」もそうだったか。
エクソシストも(一部嘘が混じっているが)実話を基にしている。
「隣の家の少女」も実際にあった事件を基にしているし、
探せば沢山ありそうだね。
>>140 では、何故わざわざホラーと怪談を分けて考えるのだろうか?
怪談的、とはいったいなんだろう?
と書いていて思ったんだが、
「怪談的」とはその著者や読者が感じる
『肌触り』ということでしかないのではないだろうか?
すんごい微妙だがw
書いた人、読んだ人が「怪談だ」と思えばそれは怪談だし
「ホラーじゃん」といえばホラー。
そんな微妙で繊細wなところが境界線なんじゃないか。
と前提すると、「怪談専門誌」の意味がおぼろげに見えてくるね。
エロい部分
なんか「幽」の劣化版の焼き直しかい?
実話怪談の「実話」は、実証性の薄い「実話」なわけで、
限りなくフィクションに近い。
だから厳密な意味で実話・創作の区別はムリかなとは思う。
だけど、「実話」が前提となってるか否かというのは別の問題。
これは多分「リアル(実話)」を求めるのか、
「リアリティ(創作)」を求めるのかの違いじゃないかと思う。
つまり、技術的な面で実話と創作を分けようとすることには
ムリがある気がするんだよね。
つか
「実話」と「創作」が前提なのが駄目なんじゃないの?
「創作も実話も同じ怪談文芸だ」
というところから始まっているのが間違い。
(僕らは捜索も実話も拘りませんよ、ということ自体拘っている証拠では?)
>>150のいうように「リアル」と「リアリティ」の違いはあるにせよ
実話は実話としかいいようがないジャンルだと思う。
>>150 技術的な面=「文章を書くこと、文章によって何かを表現すること」は、
確かに創作でも実話でも区別は付きにくいけど、以下のような区別はできるよ。
創作は「著者が考えた架空の出来事を事実であるかのように錯覚させるために技術を用いる」
実話は「取材時の体験談を実話であるという前提に立って、著者は体験談を再現するために技術を用いる」
創作と実話は同じ文芸、という説は、この「技術を用いる」の部分にだけ注目して、
「文章の技芸はどちらも用いているのだから、創作も実話も文芸だ」
と主張しているんじゃないのかな。
でも、「文芸」という言葉に「技術/技芸」という意味は一般的にはない、というのは過去ログ嫁の通り。
文芸は「文章による芸術」または「文学」と同義語。
もし「文章を書く技術」の部分だけに注目して「どちらも同じ文芸だ」と言ってしまうとしたら、
手紙も始末書も請求書も買い物のメモも、みな「芸術性のある文芸だ」という乱暴な収束論に
なってしまうわけで、これはちょっと無理がある。
だから、「厳密な意味で実話・創作の区別はムリ」というのは不十分で、
「厳密な意味で、実話・創作の区別を【文章技術の視点から】区別するのはムリ」ということではないか。
>
>>150 ま、言ってることはあまり変わらんねw
>>151 実話(リアル)と創作の中の本物らしさ(リアリティ)というのがヒントだとすると、
著者の視点から言えば「体験談の有無と、その信憑性または体験談に対する姿勢」が
実話の意義として問われるのでは?
創作は「架空であることを前提」にしていて、読者はそれが架空であることに合意してる。
著者は架空であることを前提に架空のことをそれらしく(リアリティをもって)書いているわけで、
読者に「架空である」という合意があるから、読者を【騙してはいない】。故に、誠実である。
実話は「架空ではないことが前提」になっている。
読者はそれに合意しているが、合意しない(信じない)読者もいる。
著者が「架空ではない」ということを信じて提供しているとしたら、著者は読者を【騙してはいない】。
しかし、著者が実話ではない(=架空だ)という疑いや確信を持って書いたものを「実話である」と
供したら、それは著者が読者を【騙している】ことになる。
創作は受け入れられるけど、実話は受け入れられない読者がいるとしたら、
「実話怪談はありえない虚構なのに、著者は読者を恣意的に騙そうとしていて不誠実だ」
というところに帰結するんじゃないかな、と。
でも、その「実話か、虚構か」という部分は検証はできないから(実話怪談がルポルタージュに
通じるという説がしばしば出るのは、ネタ元を懐疑的意見から守ろうとするから、かな?)
「虚構を実話のように言って騙そうとしている」という批判は、著者が被ることになってしまう。
で、その実話か虚構かの部分を棚上げしてしまえば、「表現技術」としてはなかなかのものもある。
だから、実話か虚構かの部分を棚上げして、表現技術の部分をのみもってして「文芸である」
と言い張ることで、「どちらも大差ない」と指摘を回避しているのが、「創作も実話も怪談文芸」という
主張の核の部分なのでは。
でも、結果的にそれは「実話も創作と同じでいいじゃん!」というようなもので、
若干乱暴なところがある。だから、実話好きは「一緒にすんな!」と拒絶反応を示す。
「どちらも好きだが、それは別種の楽しみだ」とするわけだ。
創作好きは著者に誠実を求める(嘘なら嘘と最初に宣言してある部分が、創作は誠実)。
創作好きから見たら、「実証をしない著者は不誠実」に映るのかもしれない。
もちろん、実証はできないから完全な誠実さを証明することは不可能だ。
だから「虚構かもしれないのに本当と言い張るのは不誠実」ということになって、拒絶反応が出るのかもしれない。
でも、「虚構かもしれない。しかし絶対に虚構とは言い切れない。わずかでも疑わしいところがあれば断言できない」
という不確かさが、実話怪談を成り立たせている部分でもあるかもしれない。
創作は100%の虚構だから、疑う余地がない。そこに「実話」というふれこみを入れたのが
福澤氏などの小説だと思うんだけど、それの部分は話の核にはなっていないから、
あくまで虚構の中のお遊びの部分として受け入れられる。
実話は100%の事実、なのではなくて、もしそこに1%でも「虚構と断言できない」という要素が残れば、
それだけで成立するものなのかもしれない、とも思う。
NOの反対は完全なイエスではなくて、「NOと断言できないわずかな疑念」である、という考え方ね。
創作は「100%虚構である安心感」が誠実さとして評価され、
実話は「100%虚構ではない/虚構である、と断言できない不確かさ」に、可能性の余地が残ることが評価される。
おそらく、両者の違いはそこなんじゃないかなあ。
>創作と実話は同じ文芸、という説は、この「技術を用いる」の部分にだけ注目して、
>章の技芸はどちらも用いているのだから、創作も実話も文芸だ」
>と主張しているんじゃないのかな。
>でも、「文芸」という言葉に「技術/技芸」という意味は一般的にはない
「文芸=技術」、凄い珍説だな・・・。乱暴というかw
それだと「文章を書く技術があるもの全て文芸」になってしまうというのも言われてたよね?
そこはどう考えるのだろう?
>「どちらも好きだが、それは別種の楽しみだ」
ああ、それそれw
なのになんで全部一緒くたにするのか分からない。
一読者からすると
「ホラー・怪談小説は、著者の虚構に身を任せたい」から読みたいと思うし、
「実話怪談は、そこに虚構ではない何かを感じたいから」読みたいんだと思う。
とりあえず怪談の創作と実話の違いまとめ。
<創作>
・アイデアは全て著者から生み出されたものである(ヒントや元ねたがあるにせよ)
・創作は推理小説に似ている。著者の思惑通りに動かす事が出来る
・恐怖に「安心感」がある
・創作であることを事前に伝えたりなど、誠実である
・100パーセント虚構である(実際の出来事がベースだとしても好きなように改変できる)
・著者の自由度は高い。アイデアが湧けばそれをそのまま書ける
<実話>
・元ネタはあくまで実話(聞き書き)であり、著者の手柄ではない
・読者の想像に任せる事が前提にある
・実話である、という実証はしない。(不誠実?)※変わりにその部分が魅力でもある
・恐怖に不確かさ、不安さが常に付きまとう
・100パーセントの虚構ではない(改変できるところが限られている)
・著者の自由度は低い。体験談の提供がない限り書けない
<共通>
・恐怖や不可思議さがあることが前提である(怪談であること)
まとめればまとめるほど、別なものに見えてくる。
共通項は「怪談と呼べる」くらいだしなぁ。それは大きく分けすぎだと思うし。
他追加とか修正ある?
>>156 まとめ乙。
創作は「100%の創作である」と著者が宣言している。
それは著者が「嘘をついている(=虚構を書いている)」ということについて【嘘をついていない】ことが前提となっている。
「著者オリジナルの虚構である宣言」(不誠実の吐露)が誠実を保障する。
もし、「100%、著者の創作である」と宣言されていたはずのものが、他の著者のアイデアを盗用した
ものだったりすると、「著者は不誠実である」という誹りを免れない。
実話は最初から100%の創作ではない。
著者は体験者(取材元)を信用した上で、その体験談を「嘘をついていないことを前提」に再現する。
著者は体験者を信頼するしかない。かといって、事実確認(実証)を求められたときに、著者が体験者を生け贄として差し出すことは許されない。
それは、「体験者(情報提供者)を、批判から守る」という鉄則から踏み外すことになってしまう。
故に、著者は体験談の提供者に対して誠実であることが第一となるわけで、「体験者に対して誠実であることが、読者の信頼」になる。
(体験者と読者は重複していることもあるだろうし)
実話怪談は創作のそれに対して「100%の真実である」と宣言することは難しい。
ただ、「100%真実ではないとは言えない(1%でも真実の可能性があれば十分)」としか言えない。
その1%の疑いの部分を種明かししろ、というのが実話怪談実証主義派w
その1%の疑いの部分について体験者を守るという正義(誠実?)を前提にするかしないかで、その後の怪談収集が続けられるかどうかが決まる。
(不誠実な著者に体験談を託したいと思う?)
1%の疑いを曖昧にする(=読者の解釈に委ねる)ことで、実話怪談はその怪しさとうさんくささwという魅力を醸し出しているのではあるまいか。
創作はそういうところを読者に委ねないもんね。複数の解釈ができたらオチが破綻するから。
こうしていくと、ますます実話怪談はルポルタージュに近い手法で書かれていると言っちゃったほうが、しっくりくる。
実話怪談ルポ論というと
「ルポルタージュも記録文芸である!」という話がでそうだけどw
実話怪談ルポ論というのはしっくりくるんだよね。
事件の当事者や関係者などにインタビューをして、
それをまとめて、読みやすくして書くところとか。
ルポと違うのは「実名や地名などをださない」
「書かなくてよいデータは書かない」とかかな。
とにかく、必要な部分だけを書く、と。
これによって、読者は「疑似体験・追体験」がしやすくなるんじゃないかな?
平山氏もいっていたけど、実話怪談にキャラクターは不要である、と
いうのにも関係してくるかもね。
「小説にはキャラクターを表現する積み重ねが必要だけど、実話怪談には
それがいらないので、すぐにトップに持っていける」とかなんとか。
キャラクターが不在で、最低限のプロフィールしかない実話怪談だからこそ
その恐怖に自分を当てはめる事がしやすいんじゃないかと。
小説の場合の感情移入とは少し違うと思うんだけどね。
たぶんこれは「実話の不安な恐怖」につながると思う。
キャラクターが不要というか、「キャラクターを立てる余地がほとんどない(物理的に)」というのは確かにそうかも。
一行目か最初の数行に「その人の人となりを書く」というのは平山氏も樋口氏もやってるよね。
「○○○は×××である」
とかそういう書き出し。この一行でキャラクター立てを済ませてしまっているわけで。
一方で、初期の超怖(平山氏参加前の)を見ると、実はキャラクターを立てた怪談というのが散見されたりする。
竹書房版になってからは見なくなったけど、同一人物による個別機会の怪談(連作)とか。
有名どころでは不幸の連続する「紐井君シリーズ」など。
竹書房になってからの平山怪談には一人称の「私」だけで名前も性別も年齢もはっきりしない主人公の実話怪談がいくつかあるけど、
これは削りすぎで逆効果(信憑性を疑わせすぎ)かな、とは思っている。
個別批評はともかくとして、平山怪談は「インタビューの臨場感」が特徴になっていて、
取材者である私(=おそらくは聞き手である平山氏当人?)が作中に出てくる。
これは、実は「話を聞く私(=平山氏)」そのものがキャラクター立てされた主人公なんじゃないかとw
実話怪談作家である「私」が、体験者と直に接触している様子を作中に再現することで、体験者の存在に信憑性を与える導入、演出だよね。
今の超怖は「体験談を語る体験者と聞き手」を出す平山スタイルを、加藤氏も書いたりしている。
これが現在の超怖風の実話怪談の「様式」と認識されているのではあるまいか。
創作は著者が作中に「私」として登場するっていうことは、そう滅多にないよね。なくはないけどごく稀、という程度かと思う。
出てきたって、それはやっぱり「虚構」であって現実の著者が虚構の登場人物と会話できるわけじゃないから、お遊びの範疇から出ないけど。
「聞き手、著者の視点」が低い(神の視点ではない)というのも実話怪談の特徴と数えていいのかもな。
>「聞き手、著者の視点」が低い(神の視点ではない)
これを取り入れた小説もあるにはあるんだけど、
メインストリームにはなりづらいというか、飛び道具なんだよね。
実際のところ、実話怪談ならではの手法なのかも。
キャラ立てに関しては
1)罰当たりキャラ
2)被害者キャラ
3)傍観者(野次馬)キャラ
4)聞き手キャラ
等に分類できるかな?
1〜3)は体験者だから厳密に言うとキャラ立てをしている、とは言いがたいけど。
実話怪談にはある程度の様式はあるけど、どっちかというと
インパクト勝負なので、じっくりゆっくりとした展開は少ないよね。
>>160 それはキャラ立てというより、「体験者のタイプ分け」のような希ガス。
キャラ立てについては、「特定の名前で複数回登場する」
「その登場人物のキャラクター/固有の資質が怪異の源泉になっている」
のような連続した背景を背負うキャラクターのことかと思ってた。違ってたらスマソ。
あっごめんw
キャラ立てというのは
>>161のいうとおり。
分類は別のネタでした。ごめんちゃい(´・ω・`)
体験者・聞き手を分類すると、実話怪談ってこんな感じかな、と。
1〜3)が混ざり合っているキャラもいるね。
別のスレからの流れでちょっと参考になった件を。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/10/news052.html これはOhMyNewsに関連した鳥越俊太郎の発言を取材したITmediaの記事。
ここに、以下のような発言がある。
>――2ch管理人は「情報の真偽は読む人が判断すればいい」と言っているが。
>2chはエンターテインメント、娯楽だからそれでいい。これが報道、ニュースと言わ
>れた上で嘘だったら大変なこと。2chを見るときは、あそこには本当もあるかもしれ
>ないけど嘘もある。そういうもんだ、と思って見ているから成り立つ。(鳥越)
実話怪談はルポルタージュの手法に似て、かつ、事実であることを前提として
書かれているけれども、同時に「事実か虚構かの判断を読者に委ねる」という形を取っている。
OhMyNewsは「編集部がチェックすることで事実であるという保障をする」としている。
つまり、「編集部(OhMyNews)が提供したものは、疑わずに受けれてよい」という形で
読者に情報提供をしていて、読者は提示された記事に疑問を差し挟んだり、
自分で考えたりはしなくてよい、としているわけだ。
昨今インターネットの普及で「出されたネタを追証する」ということが誰にでも(やろうと思えば)
できるようになったことで、結果的にネットを使う人間の中に「聞いた話を額面通り受け取らない。
必ず疑い、自分で確かめてみる」「前提としての情報を疑い、かつ結論を鵜呑みしない」という
行動を取る人が出るようになった。所謂、リテラシーの向上が見られるようになった、という話。
創作怪談は著者が出した情報をすべて鵜呑みにしても問題がない。著者が保障した虚構だから。
実話怪談は著者が出した情報は結論まで含めて鵜呑みにするものではなくて、「著者やその背後の
体験者の発言、実在したかどうかに至るすべて」を疑い、確信は持てない。(だから、著者に誠実さを求める向きには受けが悪い)
「著者は読者に状況、設問は与えるけど、原因や結論は読者が自由に解釈していい」
というスタイルを採る実話怪談は、それだけ読者の自由度が広いということなのかもしれない。
それだけに、読み手によって解釈が違ってくるものもあるのかもしれないけど。
>>163 ちょっといいかな。
ごく個人的な意見なんだけど。
実話怪談と小説を同じように読むことってあるのかな?
小説を読むときには、「小説を読むぞ!」と思って読むし、
実話怪談を読むときには実話怪談モードに脳を切り替えて読んでる。
それぞれ、「受け手側の心境・思考・準備」が違うのが普通だと思うんだけど。
こういうのって不自然じゃないよね?
そうじゃなきゃ、混乱しちゃうかも。
「面白い怪談だって聞いたから、読んだらホラーじゃないか!」とか
「小説を読みたかったのに、実話怪談かよ!」とか。
例えば「盛り蕎麦を食べに行ったのに、出てきたのはカレーライスだったよ!」
と怒る人が出てきちゃうような。
読書のときって、モードの切り替えをしないのかな?
>>164 脳を切り替えて読むのが普通、というのは、日常的に双方を別のものと認識(前提を)して
読み分けている人じゃないか。両方が常に別種の選択肢としてある人というか。
「実話怪談は創作(虚構)ではない」という前提で創作と読み分ける人はもちろんそうだろうと思う。
実話怪談に「実は創作(虚構)なのに、実話と言い張っている(虚構ではないという嘘=不誠実な虚構)」
という先入観を持っている場合は違うかもしれない。
と、書いてて思ったんだけど、創作を「誠実な虚構」と受け取り、かつ実話に懐疑的な人は、
実話は「不誠実な虚構(の疑い)」を持ってるのかもしれないとオモタ。
誠実な虚構=創作は、最初から「これは虚構です」宣言がされているわけだから、虚構であっても誠実。
不誠実な虚構=実話を創作と疑っている(実話であるという証明ができない以上、虚構である疑いが濃厚、と考える)
人は、「虚構なのに虚構であると断言しない、虚構の可能性があるのに実話だと言い張るのは、不誠実な虚構だ」
と考えるのかもしれない。
または、「実話であるという前提だが、実話であるという証明はできない」という著者の態度を、
「内容について保障しない態度は不誠実だ」と考えるのかもしれない。
誠実・不誠実、というのは創作と実話を「どちらも文芸(創作怪談の分野に実話怪談を含む)」と
考える人が、実話怪談の本来の核である「実話かどうか」の部分を棚上げすることで譲歩しようとする
ための忌避的ロジックなのかもしれないな。
もし荒れたらゴメン。 ´・ω・`
荒れるかもしれないついでに。
何故、実話と創作を一緒にしなくちゃいけないの?
>>164がいうみたいに、それぞれをそれぞれのスタイルで楽しんでいるんだけど、
やはり別物だと思うのは俺だけかなぁ。
>>166 既出だが、考えられるのは以下の通り。
1.政治的理由(権威の統合。統合後の権威の主導権を誰が握るか)
2.経済的理由(ブレイクしているジャンルを統合吸収することで、そのジャンルの潜在読者を取り込みたい)
の2点が大きいんじゃないかな。
1については、企業合併を思い浮かべるといい。存続会社がどちらになるか(名前が残り、合併後の
経営主導権を持つのは、合併前のどちらの経営者か)。
単にプライドの問題だけではなく、これは2とも密接。
合併後の経済効果、ブランド力運用などを考えると重大だし、それの差配に「口出し(影響力行使)できる」
ことを考えれば、権威の統合を進めたい意見にあるのが善意だけではないことが透けて見える。
2は統合された権威の主導権を握った側にだけメリットがあるわけじゃない。
読者層(市場)が統合されるということは、統合するどちらにとっても市場の拡大ということに建前上はなる。
怪談文芸がホラージャパネスク、Jホラーと連動しているのは、商業的に成功していて市場が大きい
(と見なされる)映像ホラーの購買層を取り込みたいという狙いがあるからだろうし、ホラーと実話怪談の
双方をこなす平山氏を、「実話怪談も文芸」として評価するのも、実話怪談購買層を文芸市場の
購買層に引き込みたいから、というのはないことはない。(出版社は商業活動をしているわけだから、
むしろ「それはない」と考えるほうが純粋すぎる)
2の商業活動で、うまく立ち回るためにはやはり権威というのは役に立つわけで、権威の構築、強化のために、
「連合王国の王室」になろうとしているのでは。。。
という言い方をすると、荒れること必至なわけだ。
どうしても生臭い話になっちゃうね ´・ω・`
うーん。生臭いんだねぇ。
だけど実話怪談のファン層は別にホラーでもなんでも「別枠」で買って読んでいる
わけだし、わざわざ実話怪談ファン層をとりこんだところで、売り上げは変わらないと思うんだけど。
逆に、実話怪談を取り込むことで、ファンは離れてしまう可能性もある。
だって、「文芸だなんだ」といわれたところで、実購買層には関係ない、と思うし。
逆にそんな権威や利害関係なんかといわれたら、素直に楽しめなくなる。
実話怪談が不自由な権威にとらわれるのなら、それは実話怪談の成長がストップしちゃうんじゃないか?
1と2でアピールして美味しい思いを出来るのは一部の関係者だけじゃないかと。
会社経営でいうなら、主導権をもった会社の上層部は得をして、吸収された側の
一部は首をつないでもらって、万々歳。
だけど、顧客の事をないがしろにしている。
そういうことになるんじゃないのかな?
ちょっと過去ログ遡ったところにもあったかと思うけど、
実話怪談を読む人は創作怪談も「それはそれで別物」として受け入れる。
創作怪談を読む人は実話怪談を「創作怪談のバリエーション」として受け入れようとする。
それが全てではないだろうけど、そうする行動原理は「虚構を虚構として〜」という話に繋がる。
実は実話怪談を読む人間は創作怪談もそれなりにこなしてる。
だから、本来なら「どちらも同じ怪談だ!」と言ったときに、創作怪談好きよりも実話怪談好き
のほうがその主張に親和性は高いはずなのね。
だけど、「創作怪談の末席に加えてやる」という形での権威統合にはどこか抵抗があるのかもしれない。
創作怪談好きは「創作怪談と実話怪談を技巧の部分の共通性」から「同一の怪談文芸」と言い、
実話怪談好きは「別種の怪談」とした上で両方を読む。
このあたりのねじれを権威の統合の解消できるかというと、どうなのか。
読者から見たら「別にどうだっていい」になってしまいそうな気もするけどね。
>「創作怪談の末席に加えてやる」
そもそも「実話も創作も同じ(価値のある)怪談」ということにしているんだよね?
「文芸の名の下に、おまえらも語ってやる」
というのはおこがましいというか思い上がりというか。
ブランドとしての実話怪談を期待して統合するのは間違っていると思うんだけどねぇ。
ねじれの解消というかまさに「読者からするとどうでもいい」なんだよな。
単純に実話怪談を読みたいだけ。
小説も別枠で読むし。
今更実話怪談をとりあげて「俺らが認めたものが、素晴らしいでしょ?」とか言っちゃうのは、
矢を売って、刺さった先に的を描く様なもんだと思うね。
別に実録も創作も怪談でいいじゃん。
全部作家が文芸として書いているんでしょ?
それを文芸じゃないなんていったら、失礼だし侮辱しているように思える。
「怪談文芸論」大いに結構だと思うね。
文章の技芸によって、恐怖を先鋭化させる怪談というジャンルは
文学の中でも最高峰の難易度をもったものなんだし。
それに実録も創作も目的は同じなわけじゃない。
怪談は文芸じゃない、なんていうのこそおかしい。
珍説で怪談文芸を貶めるのは、怪談の発展を妨げる事につながりかねないんだから
やめてくれないかね?
>>171 >それに実録も創作も目的は同じなわけじゃない。
「怪談を書く」という行為は同じでも、
「実話を読む」「創作を読む」という読者の意識(心構え)、楽しみ方(怖さの意味)はまるで異なる。
って話をしてきたんでしょ、ログ読みなよ。
人類皆兄弟的なまとめ方もいいけど、安直にまとめられる事を不審に思っている読者もいる。
柵封体制の中へ勝手に編入されようとしているような、そんな薄気味悪さがある。
>>171 この意見は、「どっちも同じ」「どっちも文芸」という抽象論でこの話を落着させよう、という意見の典型なのね。
問題はいくつか。
「実録でも創作でも怪談でいい」は、間違いじゃない。
ただ、実録(実話)怪談と創作怪談は、「楽しみ方が違う怪談だ」ということは踏まえる必要がある。これは過去ログ嫁。
次に、「全部作家が文芸として書いている」これは認識として間違いの可能性がある。
というのは、実話怪談を書いている作家が文芸という自覚を持って、芸術として書いている、とは【誰も宣言していない】ということ。
文芸ということを表明していない人に、「文芸だと言ってやったんだから喜べ」は侮辱にあたるのでは?
「怪談文芸論大いに結構」は、これも過去ログ嫁なのだが「そもそも文芸の定義は?」という話にも繋がる。
文芸の一般的意味には「芸術性」や「文学」などが含まれるとはあるけど、「文章の技芸」という狭義はない。それを提唱しているのは創作と実話の統合を主張する方々のみ。
「怪談という文芸」はあるかもしれないけど、その中に属するものとして「実話怪談」と「創作怪談」は、恐怖の質や読者へのアプローチが違うのだから、
同列に評するのにはムリがある、っていう話。
刺身とシチューを並べて、「どちらか優劣を決めろ」と言われたとき、「シチューのほうが手が込んでいるから、切っただけの刺身より偉い」というのはムリがある。
それと同様で、どちらも「おいしい」を目指していても、目指す方向性や調理法がまったく違う刺身とシチューを同列に論じるのはおかしいんじゃないの、というのが一連の話の流れ。
そして、「怪談の発展」だけど、「文芸の定義を狭義(特殊な例外)で固めて、その狭義に見合うように他のものを持ってきて理論を組み立てる」という行為のほうが、異説・珍説にも見える。
ただ、異論をして「珍説」と切って捨てるのは、対立論者を貶すことによって優位を得ようという若干稚拙なやり方でもあると思う。
そういうのは控えたほうがいいんじゃないかな?
もっとも、すでにこれも過去ログで出てきたように、「文芸」だ「文学」だ「民俗学」だ、というカテゴライズは、観測者が観測することで初めて行われる。
実話怪談には長らく研究者がいなかったから、実話怪談全般を見渡して「これが実話怪談の定義だ」という、誰が検討し直しても同じ結論を得られるようなコンセンサスってのはない。
それをすることによって、「実話怪談の権威」に【なれた人】も今のところいない。それをさらに既存の創作怪談と統合して「怪談の権威」として評した内容を、【広く支持された人】もいない。
そういう意味では、実話怪談は未熟かつ「その価値や地位の評価を受けたことがない」ジャンルでもある。
その価値や地位というのは、結局は「人気」や「売れ行き」で決まるんじゃないのか、というのが商業主義的な価値付け。
ただ、一言で商業主義と言っても、「欲している人の人数」=「売れた部数」であるわけで、読者の支持を数値化したのが「売れ行き(部数)」だとも言える。
売れ行きや部数、読者の支持の有無ではないところに価値や地位を見いだそうというのは、「実力に見合った地位や価値」とは言えない。
実話怪談は「コンビニで薄利多売される、部数は多いけど地位は高くない消費物」というのが読者の認識だと思う。
これは、書いている側も同様なのでは?と思っている。
「売れなくてもいいからいいものを」という考えで書かれた実話怪談があるとしたら、それは「読者を選ぶ高額な本」になっていると思う。
そういう本がどれほどあるかと言われると、あまり見かけない。
結局は実話怪談というのは「安く大勢が読み捨てる」というものなのだと思う。これは間違いじゃない。
だからこそ、「芸術」や「文学」というお偉い勲章は見合わないし必要である気もしない。
このへんの話はこのスレでも骨董の「上手/下手(民芸)」の例えでも何度か出てきている。
これも出た例で、「北斎は、ヨーロッパで評価されて逆輸入され、再評価されるまでの間、芸術ではなかった」という話。
実話怪談は北斎がそうであったように、誰かが芸術だ文芸だと言わない限りは芸術でも文芸でもない消費物なんだと思うよ。
そして、芸術かどうかを高らかに宣言するのは「権威と地位を伴う観測者」だけど、それを担保するのは「消費者の同意」だろね、と。
そういえば、今ふっと女王陛下にサーの称号をもらった最盛期のビートルズが、もらった勲章でキャッチボールをしてみせた、というエピソードを思い出した。
ビートルズの価値は揺るがないけど、それは音楽評論家や女王陛下のお墨付きがあったからではないよね。
そして、芸術的であったから売れた、受けたわけでもなかったと思う。
そういうのは、消費者の圧倒的な支持というのを獲得した後に、その理由にもっともらしいものが必要になって後付けされるものかもしれん。
実話怪談というのは、今はまだ勲章をもらう段階にはないんじゃないか、その意味で「勲章の価値」が実売部数よりも大きな意味を持つ
文芸の世界には馴染まないんじゃないかな。
どう思う?
その見解を支持。
お見事。
文芸って文芸支持者(作家、読者)が祭り上げて
結局衰退したよね
怪談はいつもでも大衆の怪しい談話であってほしいよ
混沌こそがその魅力だから
というか、「実話怪談も文芸」論を言い出した人からすると、
それは認められない!ということになりゃしないか?
その人、売り上げより勲章の価値を重んじそうだし。
だけど、その「実話怪談文芸論」が展開されている雑誌の
執筆人は、それを支持しているんでしょ?
実話怪談の人たちも。
>>179 それはどうかな。
意見はひとつではなく、多種多様だからこそ、「違った視点からの別の意見」も出る。
そういう意見もあっていい、こういう意見もあっていい。
意見の多様性をよしとする、としたときに、
A「意見の多様性を認めない」という意見と、
B「意見の多様性を認める」という意見が対立した場合、
BはAをも認めないと自身の意見がぶれる。
しかし、Aを認めるとBの意見は成立しなくなる。故にBは間違い、Aが正しい。。。ということになるかというと、ならない。
「いろいろな怪談はすべて同じ観測方法で評価されたほうが正しく、それ以外の説は珍説」というのと、
「いろいろな怪談があっていい。いろいろな意見もあっていい。しかし、一元的な観測意見のみを正しいとするのはよくない」というのが両方出てるのが現状。
いい作品を書くということと、その見解が絶対だと言うことは「別問題」なんじゃないのかな。
>>180 とはいえ、その雑誌的には対談まで組んで、否定をしていた。
(あまりにタイミングがよすぎる、とは思ったが)
彼らの最終目的は
「怪談の地位向上」
「怪談の底辺拡大」
だったんじゃないだろうか?
その中に「怪談の多様性を認める」からこそ「実話怪談も文芸」として
扱い、捨てることなく拾ったんじゃないのかな。
>>181 うん。そこだよね。
「実話怪談を文芸として、【拾う】」というところ。
このへんが、「拾ってやった」という意識=文芸の地位が高く、実話怪談は地位が低い、という認識に繋がってるような。
それと、「地位向上」なんだけど、怪談のうち「ホラー映画」はすでに地位を得てると思うよ。
Jホラーと呼ばれ、95年からの10年以上に及んで一時的なブームとは言えない程度に「和製恐怖映画」は数字を出してる。
一時期、映像は「ホラーじゃないと企画が通らない」とまで言われたそうな。今もそうらしい。
つまり、「映像の怪談」はすでに地位を築いてる。
平山氏が粉掛けられてるのは、「映像もやる作家」だからかもしれないね。
映像の怪談には及ばないまでも、「ホラー漫画」というのは何度もブームになってる。今はかつてほどではないけど。
それらの「怪談的なもの」というものは、まず映像が流行って、それに追いすがるように原作も売れようとする、という展開が多いよね。
ホラー文庫、ホラー大賞などなど。
では、ホラー文芸または怪談文芸がそれなりの地位を得るかというと、得ない。
結局の所、「大衆に大量消費されるような性質のものが出てこない」というのが、怪談文芸が地位を築けない原因じゃないかな。
また、文芸とか文壇とか賞とか、そういう新聞社や出版社がお膳立てするようなものが、時代のムーブメントになるかというと、実は案外なってない。
今年の芥川賞はフリーター文学らしいけど、話題になってない。
以前話題になった蛇にピアス、蹴りたい背中の著者が、今年話題になっているかというと、なってない。
文学賞というのは、継続的な経済効果に繋がらないということの証明になっちゃってるんだよね。
こうした中で「怪談の地位向上」「文芸扱いされれば地位は向上されるはず」というのは、方向性として正しいんだろうか?
「底辺拡大」は、「質のいいものを、たくさん出し、それが広まっていくように仕掛ける」ことでしか成し得ないのでは?
関係者が自己賞賛して褒めあって、それで地位向上になって、底辺拡大に繋がるのかと言われれば、その効果はかなり疑わしい気もする。
「実話と創作をなぜ同じ文芸にしなければならないのか」は、どうしても生臭くなっちゃうので、一時棚上げで。
もし、「文芸認定されることによって地位が得られ、それによって読者の底辺拡大に繋がる」なら、その方向性は間違ってないだろうと思う。
底辺拡大によって供給量全体が増え、選択肢が増えるということになるのは、読者にとって喜ばしい。
ただ、「文芸認定は地位向上になるのか?」「文芸認定で底辺拡大(市場拡大=部数倍増)は本当に起こり得るのか?」というのは引っ掛かる。
だってさ、考えてほしい。
実話怪談はコンビニ本だよね。文芸の人からは「粗製濫造、数ばかりで内容が薄い」と蔑まれるジャンルだよね。
怪談以外でコンビニに置かれてる文庫といえば、「読み捨て推理小説」と「生きるヒント」と「エロ小説」くらいだもんねw
そのくらい、コンビニ本は地位が低い。でも、部数は多い。書店が減ってる今、書店のみに置かれると本が見つけられないという話はしばしば出ている。
コンビニのほうが見つけやすいくらい。
文芸書って、コンビニに置いてないよね。
そうすると、薄利多売のコンビニ本と厚利寡売のハードカバー文芸書、どっちの市場のほうが大きいんだろうね?
実話怪談が、棚が少なくて部数の少ない文芸書の仲間入りをすることに、メリットってあるだろうか?
読者にとっては、手に入れにくくなるという不便以外、いいことが思いつかない。
実話怪談は、構えて読むんじゃなくて気軽に読めるのがいいんだと思うんだけどどうかねえ。
で。ちょっと話題が広がり過ぎちゃうかもしれないけど、こんなのはどうか。
どのようにして怪談本と出会ったか。
自分には怪談はなぜ必要か。
怪談(怪談本)を、どのように自分以外に広めているか。
文芸的な発想で言えば、「いいものを作れば本物の読者は多少高くても選んでくれる」ということかもしれない。
でもそれだと、「地位の向上に伴うメリットとしての、市場拡大」にはならないよね。
市場が拡大しないと本が手に入りにくくなって読者的に辛い、という話はすでに触れた通りなんだが。
185 :
本当にあった怖い名無し:2006/09/06(水) 03:06:38 ID:+l1K8DGUO
お岩さんの命日わかる人いますか?
186 :
本当にあった怖い名無し:2006/09/06(水) 03:29:22 ID:SYRMA2bcO
>185
岩が死んだ日付は寛永13年2月22日(1636年3月29日)と田宮家の過去帳に記されているらしい。
が豊島区西巣鴨の妙行寺にある、それは明治時代に創作された可能性もあるって話だ
田宮家には「お岩」という名前の女性が複数いるらしい。
何代か出ている、というか。
そのため、お岩という人物に関する伝聞が、ある一人のお岩に関するものなのか、
複数のお岩の風評がまとめられたものなのかもよくわからないらしい。
故に、「お岩の命日」も複数あると見ていいかもしれない。
それにしたってスレ違いだろ。それは。
>>184 1)どのようにして怪談本と出会ったか。
最初は友人のもっていた心霊写真本wとか見てたくらい。
怖い話は好きだったけど、本を買うまでしてなかった。
その後、超怖を友人に勧められてはまる。
確か5で、コミカルなものや激怖なものに衝撃を受けた。
その後超怖の既刊本をコンプリ。今も集めてる。
その流れで新耳まで流れて初版の新耳までコンプリ。
2)自分には怪談はなぜ必要か。
酒とかと同じなんじゃないかな。
生命活動を営む・・生きるうえでは必要ないけど、人生には必要だ、という。
自分にとって酒を飲むことと怪談本を読むことは同義。
これは他の本とか音楽とか趣味にも言えることだと思うんだけど。
3)怪談(怪談本)を、どのように自分以外に広めているか。
1・怪談として、話して聞かせる
2・読ませる(コンビニ怪談本を余分に買っておいて、回し読みさせる)
3・(ある程度怪談が好きな人には)コンビニ・書店で何も言わずに渡す
4・ネットでの情報をメールで送る
もうひとついうと、自分にとっての怪談って、
実話怪談なんだよね。
人から人に伝わる・伝える事が出来るようなもの。
小説は小説で、怪談ではないというか。
ただ「怖い小説」とかそういう分類になる。
口で人に教えようとすると、小説とかだとあらすじになっちゃうんだけど、
実話怪談は話すだけでダイレクトに怖い部分を伝えられる。
文章が怖い・凄いという小説と違って、ネタが凄いのが実話怪談だという
ことなんじゃないのかな?
>>189 ネタの面白さだけでいいならもはや『本』は不要かもしれん。
2ちゃんねるだけでも毎日怪談が投稿されているし、個人の
怪談サイトも大量にあり、玉石混交とはいえネタのレベルの
高いものも多い。
今の世の中わざわざ金出して怪談本は買う必要無い。
>>184 1)どのようにして怪談本と出会ったか。
子供の頃から水木大先生wやつのだじろう、楳図かずおなどの漫画が好きだったので
その流れから創作怪談、ホラー小説、文芸怪談などを読むように。
並行して二見系怪談本や私の怪奇ミステリー体験、稲川淳二なども。
実話怪談に出合ったのは勁文社版の続「超」怖い話から。
偶然入ったコンビニで見つけて、そのリアリティとバリエーションの豊富さから
一発でファンになった。以降実話怪談の方をよく読むようになった。
2)自分には怪談はなぜ必要か。
登山家が山を、サーファーが波を求めるようなもんで理屈では巧く説明できない。
自分にとって、いくつかある大きな楽しみの中の一つで好奇心や想像力を刺激してくれる物。
3)怪談(怪談本)を、どのように自分以外に広めているか。
何かのきっかけがあったとき「そう言えば、こうゆう話があるんだよ」と怪談話を聞かせる
→興味を持ったようなら本を読ます、貸す。
>>189 良いこと言うな〜
ほんとそんな感じだよね
>>190 2ちゃん、怪談サイトで満足出来ない自分は怪談本は必須
また本を所有することにある意味意義がある
>>191 1)どのようにして怪談本と出会ったか
自分もほぼいっしょでワロタ
自分の追記はラヴクラフトと怪奇系少女マンガ(苦笑)
>>190 本を買う理由、になると思うんだけど
「手元におけるから」
というのが第一。だって、ネットとかだとログを保存していても
いつかは消えてしまうかもしれない。
その点、本は版を重ねて残ったり、図書館で残る。
てか、紙媒体は汚れや折れ、破れには弱いけど
大事にすれば結構長く残る。
そんで、もうひとつ。
実話怪談本は特に絶版が多い。
だから本を買って、手元に残しておきたいんだよ。
自分の場合はね。
>実話怪談本は特に絶版が多い。
>だから本を買って、手元に残しておきたいんだよ。
確かに。おかげで本棚が怪談本で溢れて大変なことにw
>>194 そうそうw
棚が実話怪談であふれている(´・ω・`)
「この棚は実話怪談専用!」としていて
SFやホラー、ほか小説とかは別の棚にしているので、
場所をとるんだよなぁ。
捨てることはできないし。
しかし、数年前まではこんなに沢山の実話怪談が
出てくれるとは思わなかったよ。
イマイチなのも多いけどwwww
>>194-195 うう、おれんちもだ(´・ω・`)
うちの棚構成は
・超怖段(超怖関係だったら小説も何もかも入れてる)
・新耳段(文庫とか都市の穴とか
・その他実話怪談本段(小池、高田、大迫、福澤、さたな、秋本、朝業、工藤、加門あたりはここ)
・シリーズではない単発ものや都市伝説系など色々段
・雑誌など段(ナックルズ、幽、DVDつきとかはここ)
ほんで、別の棚が小説棚。
自動的に分けちゃうんだよね。
おっとスレの話題に関係ある話題に戻そうw
「○○という作家は怪談文芸作家」という話。
最近よく聞きますがw意外と怪談文芸専門の人や怪談小説家といわれても出てこない。
福澤氏はどっちかというとホラーの人だとおもうし。
(怪談風ホラーとか、ピカレスクものとか)
あ、某雑誌に掲載されている作家諸氏の場合を見ていこうかな。
最新号である5号から。
・綾辻行人 新本格ミステリの人。
・京極夏彦 妖怪小説風ミステリ系の人。
・小野不由美 ファンタジー、ホラーの人。
・山白朝子 ?有名作家の変名といわれてるのでノーコメント。
・有栖川有栖 ミステリの人。
・恩田陸 ファンタジー、ホラー、その他もろもろの人。
・木原浩勝 新耳の人。
・中山市郎 新耳の人。
・福澤徹三 ホラー、ピカレスク系小説の人。
・平山夢明 ホラー、サイコ、猟奇小説家。実話怪談も書く人。
・小池壮彦 怪奇探偵。
・高原英理 評論家の人。
・安曇潤平 登山の人。
・加門七海 オカルトミーハーの人。ホラーの人。
・工藤美代子 ノンフィクション作家の人。
・・・怪談小説作家がいない。
「怪談も書け(き)ますよ」という人しかいない。
特に平山氏の場合、小説はホラーかサイコか猟奇だしなぁ。
(チャコの怪談物語は、ホラーだと思う。てか、あれはギャグでしょう)
怪談作家、の正体ってなんだろう?
>>197 荒れるかもしれないけど。
「権威を持った人の判断」で怪談文芸作家になっちゃうんだよ。
すなわち、いくらホラーを書いていようが、ファンタジーを書いていようが
権威が「怪談文芸です」といえば、それは怪談文芸になる。
または権威が「怪談文芸出身なんです、この人」といえばそうなるし
「怪談文芸作家ですよ、この人」といえば、そうなってしまう。
いや、ならざるを得ない。
例えば、だ。
「ホラー作家の○○さんが、遂に文学賞を受賞しました!おめでとう!」
ということがあったとするw
この○○さんは、小説家としてはずっとホラー作家と名乗っていた。
別の仕事で実話怪談を書いていたが、それはそれ。
受賞前、ネームバリューが上がってきたときに、某雑誌から連載を依頼された。
雑誌は怪談専門だといっていたから、それなりの内容で書く。
その後、受賞。受賞作はミステリ+ホラー小説、としておこうw
そしたら連載中の某雑誌編集長が「怪談文芸からの飛翔です!」とぶち上げた。
受賞作も、これまでの小説も怪談とは関係ないのに。
多分、実話怪談で有名だから、かもしれないがw
さて、この場合、なんかへんじゃない?
いや、あくまでも例えですよ、例え。この話w
ということで、権威が黒といえば、白いものも黒くなるのです。
ちなみにその編集長の主張というのは
「創作も実話もありえないはずの超自然的なことを文字で書く」
「そのありえないことを文章で表現して、読者を怖がらせる」
「即ち、作中の怪異にリアリティを付与する技芸であるのだ」
「文字で書かれた怪談について論じるときや、客観的に評価するとき
その文芸性が何よりも重んじられるのである」
ちなみ、技芸=文芸ということらしいのである。
はて?
>>197 結局の所、「怪談専業作家」または、「怪談作家」という肩書きを、【自発的に名乗っている作家】というのはいないってことじゃない?
怪談作家にいちばん近いのは木原・中山だと思うけど、彼らの肩書きは「怪異蒐集家」なんだよね。
書くことじゃなくて、集めることが肩書き・看板になっている。
その他の怪談作家と目される人々が、なぜホラー、推理など別ジャンルで活躍している人なのかと言えば
「怪談専業では食えないから」に尽きるのでは?
中には「本当は怪談をやりたかったが、怪談では食べていけなくて」という人もいるかもしれないし、
「僕は怪談もいけますよ」という人もいるかもしれない。
ただ、怪談だけで食べていけるのは、イナジュンくらい。
でもそのイナジュンですら、怪談だけが本業ではないし、怪談の売り上げだけで食べているわけでもなかろう。
基本に戻れば怪談の大家である泉鏡花だって、芝居を書いたりして食っていたわけで。
もっと遡って江戸時代に小屋がけされた「夏の定番としての納涼怪談」だって、
「夏はそれが受けるから」という小屋主の商業主義wから依頼されて書かれたものなんだよね。
今でも怪談本は夏の刊行が多いのは、その時代からの伝統で、怪談というのは結局、
「他の仕事を持っている人が、食うために引き受ける余技/遊びの仕事」
ということになっていくのでは?
何の本だか忘れたが、「怪談書きは季節労働者(夏のみの)」と書いている人がいた。
焼き芋屋が秋冬以外は別の商売をしているように、怪談作家というのは夏にだけ現れる
季節労働者、または他の分野の作家が夏の定番ものを書くときに使う看板、
ということに他ならないのでは。だから怪談作家を自発的に通年名乗る人がいないんだと思うよ。
ところで、ホラーと怪談の違いっていうのを明確にさせる必要がある気がしてきた。
まずは、叩き台として似たニュアンスの言葉を羅列してみる。
ソースは講談社「類語大辞典」
(p.1406k)
・怪談
幽霊や妖怪などの出てくる怖い話。
・恐怖小説
幽霊などが登場して読者をぞくっとこわがらせるような物語。
・ゴシック小説
中世のゴシック様式の古城などを舞台にした、18世紀半ばから19世紀初めに流行した英国の恐怖小説。(Gothic novelの訳語)
・怪奇小説
超自然的な現象などの恐怖を描いた小説。
・ホラー
読者・観客を怖がらせることを目的とした小説や映画。ホラー小説、ホラー映画の略。ホラーはhorror(恐怖)の意。
・伝奇(p.1912k)
珍しく、不思議な、また、怪奇で幻想に富んだ物語。
。
・怪奇(p.9302d)
異様で、気味が悪い様子。(引用者注:現実にあり得るニュアンス)
・怪異(p.9302d)
現実にはありえないような、異様で恐ろしげな様子。(引用者注:現実にはありえないニュアンス)
Wikipediaソースではこう。
・怪談
怪談(かいだん)とは、怖さや怪しさを感じさせる物語の総称。日本古来のものを限定して呼ぶ場合もある。(後略)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E8%AB%87 Wikipediaソースでは、新耳袋は怪談(実話怪談)、ということになっている。
>木原浩勝と中山市朗は、自らが体験者にまでさかのぼって収集した怪異譚の人名や
>地名を意図的にぼかすことによって取材ソースを秘匿し、「実話怪談集」というスタイル
>にまとめ、『新耳袋』(メディアワークス)として出版した。これにより「怪談」という日本古
>来のエンターテイメントの復権がなされることとなった。
扶桑社版「新・耳・袋」のことに触れない場合、実話怪談集というスタイルで始めたのは「超」怖い話が先になってしまうな。これ。
扶桑社版「新・耳・袋」に触れるなら大迫純一にも触れないとイカン気がするんだが。。キナ臭くなりそうだから切り上げ。
また、上記Wikipediaの木原浩勝の項には扶桑社版「新・耳・袋」に言及があるけど、
そこでは「新・耳・袋」は
>扶桑社より日本怪談史上初であるとともに現在のJホラーブームの原点となった現代の百物語
>「新・耳・袋」により作家デビュー。
と言及されていて、「新・耳・袋」はホラーと扱われてるような。
ちなみに肩書きは「小説家、構成作家、怪異蒐集家」。
近代怪談の項目には新耳袋、「超」怖い話、ほんとうにあった怖い話があるけど、
Wikipediaでは「超」怖い話項目は未編集。
実話怪談と創作怪談(怪談小説)を分けるのは、それが「物語(虚構)であることを著者が認めているかどうか」に集約される。
読者は読み始める前に作者に誠実さを求めるわけで、「虚構であると誠実に告白してから始められたもの=創作怪談・怪談小説」と、
「虚構であるか真実であるか証明されず、虚構の可能性があっても告白しない不誠実な態度」の実話怪談は著者が不誠実とされると信頼されない(著者に誠実を求める人には)。
とりあえず、現状ではどうしてもそこに行き着く感じ。
「怖いならそんなことどうだっていいだろ」という意見は出ると思うし、それには同意。
その場合、どちらかに順位や地位の序列を作らないなら「こわけりゃいい」でもいい。
が、「文芸の末席に加えてやる」的な、どちらか一方の秩序に組み込んでまとめて評するということであれば、比較する要素(怖さの魅力)が違うのだから比べられないとすべきかなあと思う。
話を戻すと、「怪談作家」かそうでないかというのは、
1)当人が自発的に怪談作家と名乗る
2)権威ある観測者(評論家や版元など?)が怪談作家であると観測する
3)読者が怪談作家であるという広い了解がある
ということかも。
このうち、(1)は実は少ないんじゃないのかな、と。
本業またはこれまで活動してきたジャンルと並記する人はいるかもしれないけど、
「私は怪談作家です」とこれ専業で宣言する人はいなさそう。
(2)はこれまでにも何度か出た「権威ある観測者が、基準を定める」という奴で、
観測者の権威が広く支持される(3)ということであればそれは認められていく(3)のかも。
観測者の権威を認めない読者は、観測者の意に従うかどうか?
というところまで話は進むような気もする。
表記ミス発見。
メディアワークスだったら、電撃だw
個人的にはこう捉えている。
ホラー=恐怖 ということで、ホラーは恐怖を扱うも全てを内包するもの、と。
だから怪奇小説もホラーの中に入る。そして怪談小説は怪奇小説の一ジャンルかと。
実話怪談はホラーというより『聞き書き』の側面が強いような。
確かにホラーから分派した部分もあるけど、根本が違う。
恐怖を与えるというより、恐怖を共有するのが実話怪談の特性だと思うから。
>>204 正直、権威ある観測者の基準ほど当てにならないものはない。
そう思う。
>>206 ここにいる人たちは何年も前から進歩が無いんだね!
>>207 その時代のことはよく知らないんだけど、
どちらかというとその人達はすでによそに移ってるんじゃないかな。
だいたい、それ新耳袋のファンスレだったんじゃないの?
>>207 つか、昔からとりただされていた話なんだよ。
ていうことは、進歩がないのは(ry
>>204 価値観が多様化している現代で、昔の文壇のように権威ある観測者に皆が
平伏す、っていうのはないと思う。
それでなくてもNO.1よりONLY.1と言われる時代なのだから。
>>210 とはいえ、やはり権威から授与された冠は大勢に影響を及ぼす罠。
たとえば「蛇にピアス」「蹴りたい背中」しかり。
最近なら「花まんま」とかw
図書館でも賞をとった本は予約がたっぷり溜まっているし、
書店でも「○○賞受賞作!」と平積み&ポップ攻勢で売り出される。
そしてそれを手に取る読者も増えるわけで。
ネットで情報を得られ、自分で情報を気軽に発信できる時代。
だから「自分の価値観」を持つ人は増えている。それは確かに。
まさに価値観の多様性、だね。
だけど、意外と人は踊らされるものだと思う。
「自己を確立したといいつつ、最終的には人の顔色をみてしまう」というw
与えられた情報を噛み砕いて、そこから自己の思考を始めるのではなく、
与えられた情報をそのまま飲み込んで、他者の思考を自分の思考と勘違いしてしまう
ということなのかもしれんね。
だから「権威」の地位が成り立ってしまうというかw
そうじゃない人が、自分の意見・価値観を押し付けるのではなく「こんなこともあります」といったところで
権威はそれを潰しにかかる、ということもあるんだよなぁ。
「我々のような正しい知識を持ったものの意見が正しいのだ!」とね。
ああいかん、きな臭くなりそうだから止めておこう。
>NO.1よりONLY.1と言われる時代
と綺麗ごとをいいながら、「勝ち組負け組み」に拘るもんなぁ。いかんいかん(´・ω・`)
実話怪談読者からすると
「実話怪談はNo1にならなくてもいい。元々特別なONLY1」てことでどう?wwww
文芸の末席として扱われるぐらいなら、
カストリの末裔であるほうが性に合ってる
>>212 上手下手関係なく、
『人に読んでもらって、本は完結する』
わけで、誰も手にとってくれないような本よりも
誰もが手に取ってくれる本の方が、本として正しい姿なのかもしれない。
367 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 16:31:37
素人の「体験談告白本」は今までにもあったけど、
体験談告白じゃない素人作の怪談文芸本ということで、
屁は注目を集めると思う。
超コワのほうも体験談本じゃないが、怪談文芸でもない。
知らない人には比較されるだろうから、どういう反応になるのかは興味ある。
それ次第では屁の先行きを占うことにもなるかも。
超コワがコケたらポプラ社が及び腰になるかもしれないし。
逆に超コワが売れたらポプラ社が強気になって10万部くらい刷るかもしれないw
369 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 16:36:12
>超コワのほうも体験談本じゃないが、怪談文芸でもない。
実録も創作も文芸です。
374 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 16:43:23
>実録も創作も文芸です。
だからー。単にのべーっと書き散らかしただけの文章と、実話をいかに効果的に伝えるかを考えて作った文章とは違うんだってば。
東氏は後者の実話怪談は文芸だしているが、前者を文芸とはしていない。
375 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 16:44:35
>>374 あれ?
・「怪談に実話も創作もない」「文芸性を重視」が、幽と屁の基本です。
379 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 16:50:01
>>375 だから、そう言ってるんだけど……
「怪談に実話も創作もない」というのは、実話怪談こそ真の怪談であると主張する一部の人に向けたメッセージ
「文芸性を重視」これはつまり、実話をいかに効果的に伝えるかを考えて作った文章ってことでしょ?
380 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 16:52:23
>>379 彼らの主張は実話怪談こそ真の怪談、じゃなくて「創作怪談とは別のものだね」じゃないの?
>「文芸性を重視」これはつまり、実話をいかに効果的に伝えるかを考えて作った文章ってことでしょ?
だから、それは一般における実話怪談全てに当てはまるんじゃないの?
下手糞もいるけど、「効果的に伝える為に書かれた文章」を目指しているんだから。
381 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 16:55:51
>それは一般における実話怪談全てに当てはまるんじゃないの?
その通りだよ。でも、それを「文芸」と呼ぶと、実話怪談は文芸じゃない、と反発する人がいるわけさ。
その理由は……書くのめんどいので、あっち系のスレみるなりサイトみるなりしてください。
って事で、
>>212に同意したい心境になったんだが。
214-215を読んで分かったのは、創作系の人は怪異そのものについての関心が
無く、文章的技術のみを見ているということだな。
それはもう、あれだ。
「文芸=文章を書く技術・技芸」
という事を言っている人をリスペクトしているからだと思う。
怪談とは何を持って怪談というのか。
実話と創作のベクトル、目指すものの違いは何か。
考える事はたくさんあるのに、考えてないんじゃないかと思う。
>>219 じゃあ、内容が怖い話で文章が優れていれば文芸怪談になるのだろうか?
実話怪談=DQN向け、コンビニで販売
創作怪談=オタク向け、書店で販売
実話怪談はヤンキーの武勇伝みたいなもので「実話」でないと価値がない話
創作怪談はあくまでフィクションとして割り切って楽しむもの
>>221 実話怪談=一般向け
創作怪談=エリート向け
創作怪談は、「俺はわかってるんだぜ」という人が楽しむもの。
実話怪談は、読むために前提知識がいらないもの。
>>220 それを「文芸怪談だから」といって、一部の実話怪談を文芸怪談にしているわけ。
>・「怪談に実話も創作もない」「文芸性を重視」が、幽と屁の基本です。
という風にね。
怪談というおおまかなカテゴライズなら確かに一緒に出来る。
だけど、文芸性の意味を履き違えた珍説がベースになっている
カテゴライズなのが気になるね。
>>221>>223 実話怪談=怪談好きの大衆向け、コンビニでも販売
創作怪談=小説好きの大衆向け、書店で販売
実話怪談は消耗品みたいなもので「実話」だからこそ価値がある話
創作怪談はあくまで作家の構築した世界を楽しむもの
実話怪談は、気軽に楽しめるもので、読むための前提知識がそれほどいらないもの。
創作怪談は、「怪奇小説が読みたい」という人が楽しむもの。フィクションならではの物語好きにお勧め。
こんな感じかな?
>>214-215を読んで創作怪談の人達の主張がようやく理解できた。
つまり創作怪談の人は文章技芸のみを見ていてネタには興味が無い。
たから「怪談に実話も創作もない」となるんだよ。
535 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 12:57:03
素人からぞくっとした、と言われてもそれが賞につながるわけでもなし。
東たんからそんなことをいわれてみたいもんだ。
536 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:06:08
素人にすら認められなかったら、殿下のおめがねにかなうことは有り得ない
と思うが。
537 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:13:31
プロに認められてこそ、プロになれる。
素人に認められて、いくら「プロなれるって」と言われても
プロにはなれない。
だから、怪談文学賞を狙っているんだよな。
538 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:21:38
ん、まあネットで小説を気軽に発表できる世の中だしなぁ。
けっこう凄い筆力の書き手もいて、ファンがついている人もいる。
だけど、その中で商業出版できるのは一握り。
プロって言うのは、やはりプロから評価をされないとなれないのかもしれん。
賞なり、出版社からのスカウトなり。
539 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:23:00
>>537 何のためにプロになりたいんだよ。
見事に本末転倒してるな。
540 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:24:58
正直、幽怪談文学賞に出した作品も
「こう書けば(審査員に)受けるかもしれない」
とか考えた部分あるもんなぁ。
読者に読んでもらう、じゃなくて審査員に読ませるために
書いている節はあるなぁ。反省。
541 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:27:03
>>537 読者に認められるものを書かないと、いくらプロから評価を貰っても意味がない。
読者から「面白い」「いいものだ」と認められたら、それは素晴らしい作品だよ。
プロが「面白い」「いいものだ」といったところで、読者に届かなければ、読んでもらえないじゃん。
まさに本末転倒だよ。
542 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:31:03
全くだな。読者に受け入れられない物を書いてプロとして続けていけるわけがない。
作家とはどういう仕事か考え違いをしているとしか思えん。
543 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:33:32
自分がもし作家になったら、沢山の人に読んでもらいたい。
そして、読者から反響があって認めてもらったら、賞をもらうより嬉しいよ。
一つの賞より、何万もの読者、だよ。
544 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:39:02
>>540 反省したのは正解だと思う。
審査員の顔を思い浮かべる前に、顔も知らない読者のことを考える。
それが正しいプロの作家だ。
545 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:43:16
そんなに謙虚な作家志望者達が、なぜ他板の読者を侮辱したり蔑視したりするのか理解に苦しむ訳だが
546 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 13:48:01
いや、ジャンルが違ったら読者じゃないし。
547 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:13:33
>>545 なんだよ。
なんか論点がおかしいなと思ったら、
またオカ板のアンチ文芸たんの自演なのかw
読者は神様とか声高にいう奴に限って、
実は読者を利用する事しか考えてなかったりするんだよな。
548 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:16:21
そもそもプロの作家や評論家は、
その道で経験を積んだ読者代表みたいな人達だろ。
だからこそ作品の良し悪しの判断ができるんだし、
文学賞というものの存在意義もあるわけじゃん。
549 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:27:36
>>547-548 いや、あのねぇ。君は何で賞を取りたいの?
偉い人達に自分の作品を認めてもらいから?
だったら作家になる必要ないよね。
そーゆーことでしょ。
550 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:33:33
はずかし・・・
551 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:34:46
しかしどっちが正しいかと考えると
「読者を大事にする作家」だよなぁ。
>そもそもプロの作家や評論家は、
>その道で経験を積んだ読者代表みたいな人達だろ
一緒にするな、といいたいひともおるだろうな。
552 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:37:01
>>547 何でもかんでも自演自演ってお前…
そんなに陰謀論が好きならお前こそオカ板向きだぞ。
553 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:39:38
>>552 ぷぷっ、また粘着してるよ。
図星だったでつか?
と、また同じようなことを言うと思う。
はずかしい。このスレの恥だ。
色々と興味深い反応が沢山出ていると思う。
1)権威の評価より、一般読者の評価が大事である
2)プロになるにはそれなりの権威から認められなくてはいけない
3)沢山の読者に読んでもらいたい
4)『ジャンルが違う読者は読者ではない』と思っている
5)読者は神様、というやつほど利用する事を考えている
6)作家や評論家は読者代表である
7)スレ内で疑心暗鬼が起こっている
これまでの発言と比べた場合(「怪談文芸論者」の発言もね)、
ダブスタな部分が沢山あるのが目につくね。
ふと、あの国を思い出(ry
あそこは祭かと思うような速度で流れているから
こうして興味深いレスを抽出してくれると助かります。
ここは議論になっても荒れにくいですし。
なら俺も真似してまとめてみるかな。
406 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:27:10
幽の紙面を見てれば、
382が書いてるような怪談のレベルアップを、
あの雑誌が意図してるのは明白だとオモ。
特に実話セクションの顔ぶれなw
407 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:28:02
>>406 というか「書いても駄目な人には、連載をさせても書かせてない」のがw
408 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:29:30
何度読んでも、最後の結論がどうやって出たのかがわからん
409 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:29:56
>>406 あと、お呼びがかからなかった顔触れとw
410 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:30:58
そもそも、レベルアップを狙ってるから、ここのスレタイになってる賞を設定するんでしょ?(笑)
412 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:34:46
>>410 だよねー。
その意味でもすごく当たり前の提言なのに、
業界を牛耳る為とか怪談文壇作りの野望とか、
妄想垂れ流すヤシがいるのはテラワロス
413 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:35:20
>>409 呼ばれなかった連中は駄目なんだ、と判断するのは
まさに権威付けになってしまって、東氏の思惑を外れるのでは?
414 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:38:02
>>413 最初から全員を呼べるわけでもないしね。普通に考えて。
415 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:43:04
>>414 キャパの問題もだけど、まだ幽は成長中の雑誌だからなぁ。
芸能人対談を仕込んだり、猫怪談ややってみたり、工夫中。
連載もまだ固まっていない感じがするし。
416 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:47:06
>連載もまだ固まっていない感じがするし。
ちょっと不安なのはw
どの作品も単発読みきりスタイルなので、あっさり次回から載らなくなる事が考えられる事。
幽側からの終了宣告じゃなくて、作家のほうからいつでも切る事ができるんじゃないかと。
有栖川と綾辻、小野はずっと連載して欲しいからなぁ。
417 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:49:12
前にさ、東さんが「幽」のタイトルを「怪談のある生活」とかにしようと思っていたって書いてる記事みたよ。
たぶん怪談「文芸」誌を志向してるんじゃなくて、怪談「総合」誌を目指してるんじゃないかな。
グラビアとか対談はその表れだと思う。
418 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:50:56
>>416 逆に言うと、また気楽に戻れるわけで
あれだけの人たちに書いてもらうとなると、それぐらいの自由度にしておいた方が書いてもらいやすいのかもよ。
420 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:53:22
気楽に戻る、のは難しいと思うよ。
連載というのと読みきり掲載は違うから。
一応連載、という名目で集まっているのだから、一端はずれて、
「また戻ってきました」は許されないというかw
あ、大物だから出来るのか。
そろそろ続き物を誰かに書いて欲しいなぁ。
422 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:56:33
「怪談生活」という誌名だったっけ?
記事にも「わたしの怪談生活」というのがあったような。
そうなるとまた連載とか特集のバランスがむずかしいな。
怪談っていうのは「ハレ、ケ」の両方の特性を持っていると思うし。
「たまにあるからいいんだよ」という性質かな。
毎日フォアグラばっかり食ったら飽きるけど、白米は飽きない。
そんな状態に怪談をもっていくのは、大変だ。
423 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 17:57:55
だから年二回の発行なんじゃない?
荒れるかもしれないけど、ごめんね。
さて、ここで見ておかなくてはならないのは
「すでに権威に追従している」
ということ。うん。これは興味深い事例であるね。
もし某氏が怪談文壇という権威を作るつもりがないとしても、
すでに一部では某氏と某怪を「権威」としてみており、
それに追従している、というのが見て取れる。
「某氏は間違っていない」
「某怪は正しい」
「某雑誌が選んだものが怪談文芸である」
とかetc...
で、この流れを拡大していくとどうなるか?
「某氏&某怪&某雑誌が認めたもの以外はレベルが低いものである」
「某氏&某怪&某雑誌が認めたもの以外は怪談ではない」
「某氏&某怪&某雑誌が認めた作家以外は駄目作家」
「某氏&某怪&某雑誌が認めた作家は高レベルである」
という風になりかねない。というか、それは簡単に想像できるよね?
そういいながらも、前出の「読者の評価が大事」という認識がある。
だったら、だ。
「某氏や某雑誌に載らない・評価されない怪談及び作家が売れている場合」
はどう評価されるのであろうか?
このスレでずっと議論されている事を見ていると、色々考えちゃうね。
>怪談っていうのは「ハレ、ケ」の両方の特性を持っていると思うし。
>「たまにあるからいいんだよ」という性質かな。
>毎日フォアグラばっかり食ったら飽きるけど、白米は飽きない。
>そんな状態に怪談をもっていくのは、大変だ。
なかなか興味深いな。
確かに常時怪談に触れていると「怖さの感覚」が麻痺してくるっていうのは
あるかもしれない。
例えば、怪談ジャンキーと呼ばれる実話怪談好きは「怖さの感覚が麻痺して、
もっと怖い話を…」となるけど、創作怪談好きにはこうゆう特性は無い
それは創作怪談派が恐怖よりも技術に関心が行っているからと考えれば納得できる
>>237 まあ、こういう書き込みもあるからねw
428 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/08(金) 18:06:20
でも文芸を目指す人がこのくらいの認識ならちょっと安心だよ。
文芸がコンビニに進出することは今後もアリエナサスなので、
コンビニ本の人は文芸をいちいち気にしなくてもいいよ。
俺たちは俺たちの殻に閉じこもってるんだ。
相手にしないでくれ。こちらも触れないから。
というかあのスレ正論が無視されることが多いからなぁ。
>怪談っていうのは「ハレ、ケ」の両方の特性を持っていると思うし。
というのは、実に鋭いところをついているのに、なぜか誰も反応しない。
>>238 あそこは怪談読者というより怪談作家志望の人のスレだからな。
しょうがないちゃあ、しょうがない。
怪談作家志望だからこそ、色々な事を考えないといけないと思うし、
調べないといけないと思うんだけどねぇ。
技術を学ぶだけでは、いいものは書けないと思うし。
好奇心と探究心とほんの少しの猜疑心が必要じゃないかと。
で「ハレ、ケ」の話。
wikipediaでは
「ハレ(晴れ)とは、折り目・節目を指す言葉であるが、
俗学や文化人類学においてハレとケという場合、
レ(晴れ)は「非日常」、ケ(褻)は「日常」を表している」
「また、ハレとケは「ハレ=聖」「ケ=俗」の関係で論じられることもある」
というかなり会談の本質に迫る言葉だと思うんだよなぁ。
怪談というものはもちろん非日常を描いているが、
実話怪談で「ハレ」と「ケ」を考えると「ケ」の特性があると思う。
非日常を描いてはいるがそれは日常から地続きのものが多いし、コンビニ本という
流通形式からも「特別のもの」ではなく「日常のもの」という認識がある。
「白米のように飽きない」怪談として世間に流布される可能性はもしかしたら
実話怪談の方が高いかも知れない。
怪異は「ハレ」であり、
体験者は「ケ」を生きる市井の人。
日常に起こる非日常が実話怪談の醍醐味なんじゃないかと。
あと、怪談本発売日は「ハレ」w
だけど、1年中なんだかんだいって、実話怪談が出るようになっている。
ということはすでに「ケ」なのかもしれない。
>>242 >あと、怪談本発売日は「ハレ」w
>だけど、1年中なんだかんだいって、実話怪談が出るようになっている。
>ということはすでに「ケ」なのかもしれない。
確かにねぇ。実話怪談ファンとしては嬉しい時代になったもんだ。
昔は夏に怪談本を手に入れるのが一つのイベントだったからなぁ。
これだけ沢山出るという事は、それだけ需要があるという事だね。
実話怪談は正しい方向に進んでいる、といえるのかも。
「消耗されてナンボ」
「沢山の読者に読まれてナンボ」
なんだかんだいって、怪談の地位向上なんか求めなくても、
読者はちゃんと確実に増えているんだなぁ。
実話怪談や、もしくはそれ以上に消費者が多いホラー映画、コミックで
開拓された「怖いモノを消費したい消費者」を、そこからいちばん遠いところにいる
創作怪談が、「高尚なモノである」という権威付けをして一段高いところに立とうとしている。
それは結局、煙たいので一般受けしない。
結局は、権威のないものがいちばん気軽に消費できるし、消費しやすいものほど広く流布する。
たくさんの読者に読まれる=手に入れやすい(価格、販路)
ということだと思うんだけど、文芸の人は「手に入れにくい」「理解されにくいが自分は優越感を感じられる」
というポピュライズの真逆を志向している。
にも関わらず「地位の向上」と「底辺の拡大」という、段を下りなきゃできないことの実を取ろうとする。
結局の所、コンビニ実話怪談本・実話系映像DVDムックなんかが拓いてきた層を
横取りしたいだけなんじゃないかねえ。実話怪談を文芸と同一視して「取り込もうとしている」っていうのは。
文芸本だってコンビニ流通に載せられるほど数が出るようになれば底辺拡大になると思うけど、
それに対しては「コンビニなんてケッ!」って感じで、3000部しか出ない単行本こそがありがたい、っていう流れだし。
荒れちゃったらごめんね ´・ω・`
文学賞の話はこのスレのテーマとちょっと外れるかもしれないけど、
文学賞=プロ(少数の専門家)が選ぶもの。
選択である審査員の趣味や趣向が最初からわかっていて、しかも審査員が人数少なかったら、
「審査員好みのもの」を書けば通りやすくなるのは確かだと思う。
でも審査員の好みやセンスが「読者の支持」を確実に得るとは限らなかったりするし、
読者の人数が少なければ同じ傾向に収まるかもしれないけど、読者の人数が多くなれば
傾向はどんどんばらけていくわけで、それらに対しておしなべて好評を得るのはどんどん難しくなっていく。
作家・作者の目的は「よりたくさんの人に読んで、共感してもらいたい(なんらかの感情を揺り動かしたい)」
だと思うんだけど、文学賞狙いの作品は「特定の人にだけ受ければいい」わけで、
よりたくさんの趣味も傾向も判らない人向けに書かれたものより、「書くのは楽」なのかもしれないね。
「権威の源泉」を何と考えるか(審査員の肩書き、賞設置会社の財力、宣伝力、それとも読者の支持)
によって、この話はいろいろに変わっていくのかも。
>結局の所、コンビニ実話怪談本・実話系映像DVDムックなんかが拓いてきた層を
>横取りしたいだけなんじゃないかねえ。実話怪談を文芸と同一視して「取り込もうとしている」っていうのは。
正直に言うけど、某雑誌は実話怪談がなければ買っていない。
好きな作家が載っていたら立ち読み。それ以外は全く読まないかもしれないw
となると、確かに実話怪談やDVD雑誌層の取り込みにはなるね。
ていうか、取り込まれてる(´・ω・`)
>>246 それは試験と同じ。
「受かる事」が重要なんだもんね。
目先のことしか考えられない人は、作家向きじゃないんじゃないかなぁ。
>>245 ところでコンビニ本って最低部数はどれくらいなの?
そこがわからんとコンビニ本が「本当に」売れてるのかわからん。
部数は多くても返本率が高いってこともあるだろうから。
あと一番売れた実話怪談本はやはり「新耳袋」?
累計100万部って話をどこかで聞いた。
超怖い話とか稲川本の部数も知ってる人がいたら教えてほしい。
勁文社時代の超怖は、初版5万部くらいだった、と聞いたことがあるのだが。
これは紙屋さん情報。
超怖は「怖い本」(4まで)や竹版の0、∞、†なんかもあるから、
全体としての実数はけっこういってるのかもすれない。
>>250 勁文社時代が初版5万部。
初期の何作かは重版かかったみたい。
(手元にあるのは2刷とかある)
単純に計算してみると、
勁文社超怖11冊×5万部=55万部(売り上げではないよ)
竹書房超怖8冊可稀有r2万部=16万部
竹書房超怖系本3冊×2万部=6万部
あと、新書版が2冊あるけど、あれは分からないので除外。
77万部いってることになるかな。
東京伝説や弩シリーズなどを加えると(全部2万部ね)
竹書房コンビニ怪談文庫13冊×2万部==26万部
103万部突破したw
イナガワ系とか他出版社のコンビニむけ文庫を入れると
業界的にはかなり大きな市場かもね。
それとコンビニの利点は「人の目に付きやすい」ことかな。
本目的ではない不特定多数の人の目に触れるからね。
あっ、怖い本1〜4入れるの忘れた。
ハルキ・ホラー文庫だけど、一応加えると
怖い本4冊×2万=8万(ハルキの文庫は初版どれくらいだろう?)
合計111万部か。
怖い本は重版かかりまくっているので(書店で確認)もっと多いかもね。
253 :
本当にあった怖い名無し:2006/09/10(日) 11:52:44 ID:nFfFa2FDO
結構儲かってまんがな
>それとコンビニの利点は「人の目に付きやすい」ことかな。
>本目的ではない不特定多数の人の目に触れるからね。
これ重要だよね。俺も超怖はコンビニで偶然見つけてからファンになったし。
新しい読者を獲得するにはコンビニ本の方が有利。
それに実話怪談を読む人って言葉は悪いけど「暇つぶしに読む」ってのが多いから
購買層の目的とも合致する。
逆に言えば書店のみの販売だったら実話怪談はここまで普及されなかったかもね。
実話怪談本なんて一回読んだら駅のゴミ箱に捨てても惜しくないレベルなんだし、
そんなに気にする事無いんちゃう?
違うけどね。
あれ? ひょっとしてあんなもん後生大事に本棚に並べてるの?
他人に見られてはずかしくない?
はい、恥ずかしいです><
代わりに何を並べたら良いでしょうか?><
実話怪談は消費するものだから、読んで捨てる、大事に取っておかない、というのも読み方としてはアリでは。
盗んで読んだw、そもそも読まない、最初から買わないとは別種の、「消費行動」の一種だし。
「何の本で読んだか忘れたけど、こんな話があってな」と話題のタネが提供できれば実話怪談の使命は十分果たされている。
本棚に並べる、部屋に置いておくのが恥ずかしいから買わない、買いにくい、という人はいたらしい。
特に女性。実話怪談の主消費者層は女性だという話を聞いたことがあるのだが、
一時期さんざん流行ったホラーコミックが、少女漫画やレディースコミックからの派生物だったことを考えると、
「怪談の消費者は女性」(全てではないにせよ、大きなウェイトを占めるというのは考えたほうがいいのかも。
超怖については、「ひとり暮らしの女性が部屋においていても、彼氏や家族にドン引きされない表紙」
というのを心がけてるという話はあったよね。新耳袋もカバーを見るとよくある怪談本っぽさはない。
あれなら内容が下手物であっても気付かれにくい、と。
表紙に人魂、髑髏、血塗れの人形なんてのは、確かに手元に残しづらいわなw
>>259 だけど、そういう「いかがわしい表紙」も味があって好きだぞw
うちには稲川淳二が驚いた顔している怪談本も好きだ。
ああいう独特のイメージで作られたビジュアルイメージは
コレクターにとってはたまらんのかもしれないww
恥ずかしい、という理由の一つに
「怪談は女子ども(失礼!)が読むもの」という
昔のイメージが残っているのかもね。
だから「大人の俺が買ったらはずかしい」となるのでは?
だけど、怪談ってそういう下世話さがいいんだよなぁ。
消費者の性別、で気になること。
創作怪談(怪談小説)と実話怪談。
読者の性別比はどんなものなんだろう。
さっきの「ホラーコミック」なんかは女性の購読者層が多くて〜、という話。
ホラーコミックそのものは、実話じゃなくて創作怪談、だろうと思う。
「ほんとうにあった怖い話」の類、四コマコミック本から出てきた怪談本なんかは、実体験集ということになっていて、
ほんこわは女性読者が買い支えてる。
ホラー・怪談じゃないけどw、女性自身、週刊女性など、「実話を前提とした噂話本」の主消費者は女性。
「そんなのアリエナサス!」という現実との乖離性が男性にとっての恐怖である一方で、
「もしかしたら創作じゃないかも、実話かも、現実にあるかも」という現実との連携性が、女性にとっての恐怖だという話もあるだす。
つまり、男女では恐怖の感じ方が違う、と。
そうすると、創作は男性向け恐怖、実話は女性向け恐怖なのかもすれない、と今ちょと考えた。
>>254 書店は「専門の棚」に本がまとめられているから、特定の専門書を目指して捜している人しか、本の存在に気付かないんだよね。
コンビニは文庫棚はあってもそれは怪談専門ってわけでもないから、不特定の「目的を持たない購読者」の目に付きやすいというのは禿げ同。
>>255 一回でも読まれるっちゅうのが消費物としての正しい姿で、「読まれない。買われない」は消費されてないわけだから、遙かにオッケーでわ。
>>260 大人=大人の男性?w
怪談は女・子供が読むもの、のうち「女が読むもの」は今も引き継がれてると思うがねえ。
今の実話怪談は「大人でないと状況が把握できないような前提」から始まる話が増えてるから、大人が購読者層になってきてるんジャマイカ。
でも確かに「子供を怖がらせてやろう」的な怪談は、今の流行のメインストリームからは追いやられてる気はする。
女は血に強いからな。毎月出してるし。
男は血塗れ描写に弱いけど、女は血塗れ描写じゃ怖いと思わない。
だから血塗れとは別種の恐怖表現は、女性読者を満足させるためのものだ、とも。
>>261 ちょっとこれは聞きかじった事なんだけどw
「男性は左脳的」
「女性は右脳的」
左脳は「積み重ね理論構築型」
右脳は「閃き瞬発力イメージ発想型」
だったと思う。
男性は恐怖を感じるのにも、理論を構築しながらなのかもしれない。
だから、怪談を理論構築しながら「ありえねぇ」なんていいながら読む。
女性は内容から恐怖のイメージを取り出し、心の奥底で増幅。
少しのイメージか後々に残るような恐怖を再イメージ化しちゃうのかもしれない。
で共通するのは「最終的に残る後味の悪さ」「不安感」「反芻する恐怖」
ということかな?
創作怪談を再読する意味は「文章を楽しむ」が第一でで
実話を再読する意味は「恐怖(イメージ)の再確認」が第一なのではないだろうか?
>>262 んじゃ、「大の大人が」でw
>「子供を怖がらせてやろう」的な怪談
実は、子どもも結構今の実話怪談を怖がるんだよね。
大人前提の内容のものだとしても、結構意味をちゃんと把握している。
現代の怪談が子どもをターゲットにしていないものが多いとしても、
意外と子どものほうから接近しているのかもしれない。
>>263 にゃるほどー。それはすんなり頭に入ってくる説だね。
積み重ね理論構築型というのは、推理・サスペンス(そしてサスペンスホラー)の系統の文章構築にも使われてるね。
概念や理論をあらかじめ用意しておいて、それを紐解きながら導いていく、とかそういうの。
創作怪談は推理・サスペンス・ホラー出身の作家が書いていることもあってか、そういう「構築型」が多いような気がするがどうか。
実話怪談は「矛盾を起こさないような緻密な全体構成」をされた長編は圧倒的に少なく(というかほとんどないのでは?)
瞬発的な「違和感」を抽出したようなものが多い。その違和感に気付くと不快感増幅、みたいな。
これはまさに閃き瞬発力イメージ型かも。
「同じ怪談に対して、リアクションがまったく異なる人がいるので、万人受けする怪談は不可能。もしくは酷く難しい」
という話があったよね。あれの「まったく異なる」というのは性別差に根ざしてたものなのかもしれぬ。
推理・サスペンス・ホラー・創作怪談が理論構築型だとすると、最終的に得られるのは「納得」なんじゃないか。
「それなら怖くてもしょうがないよね」という安心。恐怖はあるだろうけど、「理屈、原因がわかって納得」みたいなのはある。
実話怪談が閃き瞬発力イメージ型なのは間違いない気がするけど、そちらはたぶん「納得」が得られないと思う。
「そういう事情なら仕方がないね」みたいな納得は得られず、不安だけが残る。「なんで?」という疑問が最後まで残ったりする。
この「怖さの原因が納得できない」という点を、「オチがない」「中途半端」と評する人が実話怪談の不完全性を「嫌う」わけなのだが、
好きな人は「オチがない」ことこそ「不気味で怖い」と評する。
この差は人格的なものなのかとも思ってたけど、「理論構築」を巡る是非が好みの差を作ってるのかもすれない。
>>264 子供の方から接近というのもあるかもー。
昔は怪談に限らず、「子供向け」のものは、大人の方からわざわざ子供のステージに階段を下りていって作られてた気がする。
これが実は「子供向け」じゃなくて「子供だまし」になってた。
ところが、最近の怪談(に限らずTV番組なんかも)は、大人の消費を前提に大人向けに作られてる。
その結果、子供の方から大人向けに作られたものに「接近」してきている。
これは、選択肢が他にないから?
または、子供は「子供だまし」を見抜いているから、とか。
もっと考えると、子供っていうのは絶えず「背伸びをしようとする」生き物でもあるわけで、大人向けのもの、
子供向けじゃないものに果敢に挑戦しようとしたりするじゃない。おまえにゃまだ早い、って言っても聞かずに。
大人向けの容赦ない怪談/恐怖を怖いと思うから敬遠する一方で、「怖くないぜ」という虚勢(これは心霊スポット襲撃と同心理か?)
や「耐えられるかどうか試してみたい」「好奇心」から、「大人ですら怖がるもの」を求めてるのかもしれない。
それに耐えうるのはどういった怪談/恐怖なのか。
少なくとも、長編怪談は子供には難しいと思うんだよなあ。
話の後半で、最初の頃にあった前振りを覚えてらんなかったりするしさw
短い(それも数頁以内の)怪談は、全体像の把握が楽だということもあって、子供にも読みやすいのかも。
>>265 あ、これ読んで思ったけど。
怪談本を読むときには脳の切り替えをする、という話があったじゃない。
それは性別差を埋めるという、恐怖ファン(あえてこう言おう)独特の
サーキット切り替えなんじゃないだろうか?
ホラー小説など創作物を読むときには「左脳的サーキット」。
実話怪談を読むときには「右脳的サーキット」。
これを自由に切り替えられるのが恐怖ファンという
「創作も実話も分け隔てなく愛しながらも、別種のものとして楽しめる人」
なんじゃないだろうか。
「納得」を得られる快感と「不条理」を感じる快感の両方を愉しめるんだから。
ということでさ、
>「理論構築」を巡る是非が好みの差を作ってる
というより「理論構築型」だけのサーキットを持っている人は
実話は駄目だろうし、格下に見てしまうのかもしれないね。
>短い(それも数頁以内の)怪談は、全体像の把握が楽だということもあって、子供にも読みやすいのかも。
小学校高学年なら、意外と長いものもいける。
だけど、子どもはせっかちだからね。これがw
普通の小学生なら、実話怪談のような「短い話」の方が受け入れやすいのかも。
ということで
>>266に同意。
子どもは結構子ども騙しを見抜くからね。
一部の実話怪談はつまらん、といっていたしw
子どもを舐めると痛い目にあるかもしれない。
で、本を読むと言う習慣づけに実話怪談をどうぞ!とかいったら
PTAは渋い顔をするだろうなぁww
>>267 おお!なるほど。
そのほうがすんなり頭に入るな!ソレダ!
そこらへんで、かつ性差の話をちょっくら蒸し返すと、
「理論構築型サーキットを持つ読者(作者)の多い男性は、創作怪談を読む」
「閃き瞬発力型サーキットを持つ読者(著者も?)の多い女性は、実話怪談を読む」
だから、「実話怪談を読むのは女(子供)」というのは、揶揄ではなくてある意味正鵠を射ているw
恐怖ファンの中には、「理論構築サーキット(男性型恐怖)」「閃き瞬発サーキット(女性型恐怖)」を両方持つものと片方しか持たないものがいる。
まったく持たない人は、気が強いか無信心か鈍感か注意力散漫w。
理論構築サーキットを持っている男性読者に、実話怪談も読む人が多数混じってるのは了解。
閃き瞬発力サーキットを持っている女性読者に、創作怪談を読む人がどの程度いるのか、というのが、
双方の「普遍性」に対する姿勢の差になるのかもしれぬ。
分けるとこうかな?
・二系統(理論構築&閃き瞬発)サーキット装備タイプ
・理論構築キット装備タイプ
・閃き瞬発力サーキット装備タイプ
で二系統タイプ装備型は「バイセクシャル」w
どちらかというと、読書好きで実話怪談も好きなタイプ。
理論タイプは男性型(この場合、遺伝子的なことではない)。
小説、それも推理小説などが好き。
瞬発力型は女性型。
不条理なものから、イメージをつむぎだして愉しめる。
で、男女の割合だけど。
超怖のアンケートで見たら「男性6に女性4」くらいだった記憶がある。
ふと思った。
実話怪談の書き手と、創作怪談の書き手はどっちのサーキットを
持っているんだろう?
272 :
本当にあった怖い名無し:2006/09/11(月) 15:33:03 ID:lD65Hvi30
>>271 書く側はそうだねぇ。
小説(長編短編問わず)書くとしたら、やはり理論を構築しながらになるのではないだろうか?
全て自分から生み出されたものを構築するわけだし。
例えばストーリー、人物像から舞台設定など決めるのは作者本人。
平たく言うと、「アイデアからひとりで作り出さなくてはいけない」わけで。
実話怪談はちょっとだけ違うんじゃないかなぁ。
「瞬発力」ではないと思うんだよね。やはり構築系だと思う。
ん〜どういえばいいのか?
実話怪談がパズルに似ている、という話を見た覚えがある。
「提示されているパーツを並べ替えてパズルゲームを作る」感覚、ということかも。
これは体験談と言うパーツは変える事ができない、ということで
あとはそれを怪談として構築していかなくてはいけない、と。
創作の場合で、実話怪談的手法を取り入れることもある。
その場合は
『自分で用意したパーツ』を怪談的に並べる、ということだし、
実話的オチがあったとしても、それは作者のアイデアでしかないはず。
そういう根本的なところが違うんだよね。
もう一つ書いておくと、
「実話では越えられない部分」
「創作では越えられない部分」
というのがそれぞれある。
実話は小説のように、好きに書けない縛りがある。
オチもストーリーの基本も何もかも、体験談に縛られる。
いくら「ここで、こういう展開をすれば!」と思ってもそこをいじってしまったら
もうそれは実話怪談ではないわけで。
その辺りはとても不自由なのではないだろうか?
創作は好きにアイデアを膨らませて、自由に書ける。
面白さ、怖さ、なんでも作者の手腕だけでやれる、というわけ。
だけど、実話が持つ「不安感」というのは中々簡単に表現できない。
いくら実話怪談的であっても、創作であるならそこに不安感は出ない。
また、突拍子もないことをかいて、辻褄が合わない・不条理すぎると
いうときには、やはり評価が下がる。
自由がある代わりに、実話というある意味卑怯な武器は持つ事ができない、ということだね。
これまでもスレで議論されているから、そこも参考にしてみて。
>>273 「実話怪談がパズルに似ている」というのは加藤の説だったかと。
超怖シータの前書きにある。
>怪談はパズルに似ていると思う。
>体験者から得たパズルの解を元に、それを危機得た著者はパズルを作る。
>パズルは不完全で何かのピースが欠けた状態で読者に提示される。読者は
>著者が隠したピースを推理し、体験者が感じた恐怖の記憶を想像しながら、
>パズルの完成型を思い浮かべる
以下略だが、加藤は「読者というパズラーがいて、実話怪談というパズルは全貌を現す」
と書いている。
「恐怖のインフレ」「怪談ジャンキー論」もこの人。(超怖Aの後書き)
小説はピースそのものを自由に作れるけど、実話怪談はピースを自由には作れず、
しかも隠すどころか最初からピースが欠落している(体験者が思い出せないとか、
体験者にもなぜかわからないとか)場合が多い。
そのピースの欠落をそのままにして、「不完全なパズル(解けていないパズル)」として提示し、
その足りない部分に想像を働かせて行間を読むのが実話怪談。
だから実話怪談は、想像力(というより妄想力w)が強いほど楽しめる、ということになる。
小説は欠けたピースを自分で作って埋めて、読み進めさせながらパズルを著者自身が完成させていく。
読者は手を引かれながら「パズルが完成していく様」を見せられるわけで、著者というパズラーの解を
楽しむのが小説なのかもしれない。巻末には「オチ」という形でパズルの解も提示されるわけで。
実話怪談はパズルの解が提示されない、解法を自分で考えなければならないのが楽しみ方。
小説はパズルを解いていく様子を著者が提示するのを眺める、読者は観客、というのが楽しみ方。
>>274 そのへんは実話怪談をなぜ書くのか、というところと通じるところなのかもすれない。
もし、「ストーリーを作ること」とか「話を書くこと」が主眼であれば、実話怪談は「ストーリーを作るには不自由」だし、
「実話というネタを流用しているだけ」でアイデアに独自性も持たない、という批判を受けることになるし、なってる。
実話怪談の目的が「著者のオリジナルストーリーの開陳」や「ストーリーの創作」ではないとすると、
たぶんそれは「話の核に据えられているネタ(小説ならアイデアというところだが、実話怪談では体験談そのもの)」
の提示そのものではないかと。
「実話というのは卑怯な武器」というのは、それが実話というだけで説得力を持ってしまうから、という意味だと思うのだが、
実話怪談は逆に「実話という訴えたいこと」が、書けば書くほど減衰していってしまうという危険性も持っている。
「なんか嘘っぽい」と思われたら、実話であることを損なってる、ということになるわけで。
体験談の発掘と提示 > ストーリー構築手腕の誇示
だとするなら、実話怪談はやはり小説ではなくてルポルタージュの一バリエーションといったほうがしっくりくると思う。
小池壮彦の書いたものを「文芸、文学」とは言わないと思うんだが、そういうことではないかと。
小池氏のはまさに「ルポ」だよね。
怪奇譚亭シリーズは特に。幽霊物件案内とかだと
「体験者から聞いた話をルポしている」感じでもある。
体験談の発掘と提示 > ストーリー構築手腕の誇示
苦労としては何もないところからアイデアを捻りだす小説家というのは
凄いと思う。無から有を生み出すんだから。
まさに文芸であり、文学だと思う。
体験談を聞いて書く実話怪談は、取材は大変だけど無からではない。
有から核を取り出す仕事がメインじゃないのかな?
どっちかというと発掘調査員的イメージがある。
>>277 無からではないけど、その発掘という作業を重く見るか軽く見るかの差じゃないのかな。
体験談が「もう手元にある」という状態からなら実話のほうが書くのは楽そうだ。
でも、実話である以上、体験を発掘しないと書き始められない。
その体験談が「ありがちな金縛り話でした。てへっ」では話にならないわけで。
実話怪談という作業の本質は、「ネタの発掘は時間と運(ツキ?引き?)に左右される。
その発掘作業は地道なもので、執筆そのものではないので注目されにくい。
そして、発掘が終わった時点で作業の大部分は終わっている」のに対して、
小説は「ネタを考えることは重要だが、それをいかにして書く(文芸?w)か」が大きい。
実話怪談も「いかにして実話を損なわないかという工夫」はされるだろうけど、
書く以前の発掘段階のほうがウェイトが大きいような。
>>278 それは「著者の手柄」という部分に直結するね。
創作は全ての手柄が著者のもの。
実話は手柄の大半が体験者のもの。
(だって、体験談ありきなんだから)
>それをいかにして書く(文芸?w)か
の比率だけど、創作も実話も同じである、という主張も囁かれる。
これについてはどう思う?
あ、荒れそうだけど。ごめん。
スレができて以来、楽しく、かつ興味深く拝読しております。
私自身は創作畑の人間ですが、実話系も創作系も大好きです。
で。
私は実話のネタを「料理の素材」と見ています。
さっと蒸かしてバターを乗せただけの方がいい物もあれば、
どこまで手をかけるんだと言いたくなるような凝った料理もある。
そのあたりのいじり加減が、実話怪談著者の腕ではないかと。
もちろん、さんざんいじったあげくに
>その体験談が「ありがちな金縛り話でした。てへっ」では話にならないわけで。
というのは論外ですけどね。
「ネタ」がすべてであれば、どんな実話怪談本でも面白いはずですけど、
実際は閲覧各氏も経験があると思いますが、そうではないでしょう?
買ってはみたけど、「2ちゃんねるの怖い話」なんて、読みにくくて仕方なかったですよ。
ま、あくまでも私感ということで。
>>279,280
取材したネタ(実話の場合)や独創的アイデア(小説の場合)を
どう再現するか(実話の場合)肉付けするか(小説の場合)ということで引き合いに出るのが、
「文章力」または「文章表現技術」だと思う。その点は異論はない。
が、その「文章力」や「文章表現技術」を、【文芸】と言ってしまうと、文芸の本来持つ意味からニュアンスが外れていく。
すでにこのスレでも何度も出たように、文芸というのは「文章による芸術表現」や「文学」のことをさす言葉で、
「文章技術」や「文章に関する技芸」をさすというのは、提唱者の少ないかなり狭義な意味合いにしかならない。
では、「文章力だけが問題で、取材したネタか独創的アイデアかはどうでもいい」と言ってしまうと、それは相当な暴論になってしまう。
「元の話を再現するための文章術」と「元がないアイデアを肉付けのための文章術」は、どちらも同質ではありえないと思うし。
この「言いたいこと、伝えたいことを文章にする技術」のことを、本来そんな意味がない【文芸】という単語に載せてしまうから混乱が起きるんだと思う。
ということで、暫定的に【文技】という言葉を提唱しておきたい。
文芸を「文章の芸術」の意味ではなく、「文章の技術」の意味で使っているなら、むしろ「文芸」より「文技」のほうが新語であってもしっくりくる。
怪談を書く技術=「怪談文技」
なるほど。
>>280 >私は実話のネタを「料理の素材」と見ています。
>さっと蒸かしてバターを乗せただけの方がいい物もあれば、
>どこまで手をかけるんだと言いたくなるような凝った料理もある。
>そのあたりのいじり加減が、実話怪談著者の腕ではないかと。
ここを読み返していて、「豆腐百珍」(江戸時代の料理書)を思い出した。
新潮社から写真入り実技復刻本wが出てるけど、
豆腐という素材を、条件やテーマに基づいていろいろ工夫を凝らすと、
豆腐の原型を留めない料理から、The豆腐という料理まで様々なものができる。
豆腐百珍によれば、「冷や奴」は歴とした一品料理だし、
「ひろうす」や「阿漕田楽」のように手を加えまくった料理もある。
豆腐を細長く切ってうどんに見立てたものもある。
でもどれも豆腐の味がしておいしい。らしい。
素材を生かす技術はいろいろあっていいわけで、素材にあった技術をいろいろ凝らすことが
実話怪談を「ちゃんと怖くする」ということだと思う。
そうした技術「文技」は、実話怪談だけでなく創作怪談にもあると思う。
が、「怖くするためのものだから、同じ文技か」と言われたらやっぱり違うんじゃないかな、と。
そして、「どちらも怖いから怪談」とか言い出したら、「怪談とホラーの区別はどこで付けるのか」
という話にも発展していきそうだし。
今後、「実話ホラー」というカテゴリが生まれたりして、また区分が面倒になったりしてw
その場合も、実話と付いたらホラーでも怪談でも「それは実話」というカテゴリに納まりそうな気はするけどね。
>「怖くするためのものだから、同じ文技か」
違うと俺も思うな。
例えば、「怖くするための手法」が全く違うんじゃないかと。
幽霊が立っています。
女です。
白い着物を着ています。
帯びも白いです。
髪は長いです。そして黒。
顔は無表情です。
目玉はありません。
口から血が出ています。
手はだらんと垂れ下がっています。
足は裸足です。汚れています。
という事を表現するのに、
・実話は読者にイメージのヒントを与える為の書き方をする
・小説は、読者に著者のイメージそのものを細やかな描写で書いて伝える
と思う。
で、どっちが怖いか?という話になると、そこがまた微妙でw
実話って、突き放しているんだよね。
読者にとっては不親切な書き方をしている。
人によっては『怖くない』と言われることだってある。
これは実話の文技が「読者のイメージを刺激すること」に主眼を置いているからじゃないだろうか?
読者の経験値から、イメージを引き出して、それを再構築してもらって、そこで初めて恐怖を感じる、という手法。
不完全なパズル、ということかも。これは人を選ぶ手法ともいえるね。
これは「イメージの起爆剤」的手法じゃないかな。
創作は「イメージ」を全て著者が用意してあげる事から始まる。
女幽霊がどんなディテールなのか、というところもバッチリ書く。
物語のバックボーンも含めてちゃんと読者を誘導する。
著者の思い描いたイメージにね。
パズルを作者が解くところを見せる、というのはこういうことなのかも。
この手法は多くの人が恐怖を感じやすい。
何故なら、親切だから。
「ここ、怖いですよ」「ここはこうなるから、こうなります」と手取り足取りだね。
不完全パズルだと、解くところを見せても、途中で読者がつまらなくなってしまうから、
完全なパズルを準備しなくてはならないけどね。
これは「イメージの共有」だと思う。
こういう風に「どのようにして怖さを感じさせるか」という点でも違いがある。
もちろん、恐怖の質も違う。根本の感情は同じでも結果的には違う恐怖になるはずだ。
あと、読者への狙いも違うんじゃないかなぁ。
なんか実話って、実話という設定に逃げてる気がする作品が多いような気がする。
SFが浸透と拡散を遂げて、様々なジャンルに行き渡った時、
オチとか小道具をSF風にすればなんでもOKみたいな作品が巷に溢れかえって、
結果的にSFは形骸化していった気がする(頑張ってる作家とかは今でもいるけど)。
実話というのは諸刃の剣で、安易にそっちに走ると同じ轍を踏みそうな気がするんだよね。
>>280 オカルト板だからしょうがないけど、実話怪談派の書き込みが多かったんで
創作怪談派の意見が聞けて良かったです。
他にも意見があったら聞きたいな。
>>286 「実話と言う設定に逃げてる」=「実話と付ければなんでもありなんじゃないか?」
ということ?
その辺りを詳しくプリーズ。
>安易にそっちに走ると
実話は「聞き書き」なので、そっちにしか走れないと思うんだ。
体験談を聞いて、それを書くことが「実話怪談」なんだから。
体験談を聞いて、それをベースに創作をするのは「創作怪談」になってしまうからね。
>>287 オカ板だけど、創作(小説)だって読むし、否定をしているわけでもないw
もちろん創作を敵視しているわけでもないし。
スレタイが「VS」だからそう感じるのかもしれないけど、
実は「実話と創作の違い」や「怪談とホラーの違い」
「恐怖の感じ方」などいろいろな点で話し合っているのが正解かも。
意見の押し付けはないと思うしw
ログを読むと、かなり面白い意見も出ていると思う。
>>285 実話怪談の文技は「読者のイメージを刺激すること」に主眼を置いている、というのはまったく同意。
これには若干の補足が必要で、
実話怪談の文技は「(それぞれ元々持っているイメージの素養(ボキャブラリと言ってもいい)が異なる)読者の(想像する、それぞれ異なるイメージ)を刺激すること」に主眼が置かれているのだと思う。
これは何度かこのスレ以外で事例が挙げられてるのを見たことがあるんだけど、
「そのとき後ろに白い着物を着て赤い血を流した髪の長い青白い顔色の女の幽霊が!」
という体験談があったとする。
読者Aは、怖いものを連想するのに、「赤い血」「長い髪」「青白い顔色」「女」の全部の要素が必要。
読者Bは、同じ連想に「血」「青白い」「髪が長い」まであれば不要で、「女」は連想でき、「青白い」はどうでもいい。
読者Cは、同じ連想に「血」「女」があれば、「髪の長さ」や「青白い顔色」は自分のボキャブラリ(過去に読んだ他の怪談)から連想して補完する。
読者Dは、同じ連想に「そのとき後ろに――」と書かれただけで、そこに繋がるものを「血塗れ」「髪長い」「白い着物」「顔色の悪い女」と、一気に連想してしまう。
>>285の主張は「A→Dに行くほど、怪談の読書歴が長くてボキャブラリが多いから、短い表現でも恐がれる」故に「実話怪談の文技=不親切な書き方」は読者を選ぶ、という結論なんだと思う。
言わんとするところはわかる。
が、一方でこういう考え方もできる。
「そのとき後ろに――」
しか書かれてない不親切な表現で書かれたものがあったとする。
読者Dは、「血塗れ」「髪長い」「白い着物」「青白い顔色」「女」を連想して怖いと思う。
読者Eは、「薄汚い作業服の男」「だらりと伸びた首」「ロンパリの目」「鼻からウジ虫」を連想して怖いと思う。
読者Fは、「包丁を持った男」「生臭い息」「目玉がない」を連想して怖いと思う。
読者Gは、「まんじゅうと熱いお茶」を連想して怖いと思う。
つまり、それぞれの読者が持っている恐怖のボキャブラリの「種類が違う」または「怖さの程度が違う」ような場合でも、
出題されたパズルが不完全で正解がはっきり書かれないが故に、読者は自分が怖いと思ったものを自由に当てはめることができる。
であるが故に、読者が怪談ビギナーでも怪談ジャンキーでも、「自分のレベルにあった正解」を何通りも当てはめられる。
実話怪談は再読性が高くて、久しぶりに引っ張り出すとつい読んじゃうことがしばしばあるけど、
それも最初に読んだときと二度目、三度目に「他の怪談によって経験を積み、恐怖を連想するボキャブラリが増えてから読む」のとでは、連想できる恐怖のバリエーションが異なるから、だと思う。
創作怪談は著者がパズルに同じ解を用意していて、著者の感じたイメージが「正解」として書かれている。
著者が常に読者を上回っていれば、読者は何度読んでも著者の上に行けないから再読が可能。
でも、一度読んで「こういうのが正解」だと判ってしまう(=読者が著者の連想力を越えてしまう)と、安心感から恐怖感を感じられなくなる。
だから再読されにくい。
怪談文芸=創作怪談小説は、「著者の主観=解を発表する」「読者はそれに追従して、著者の解=著者のレベルに追いつく」わけで、著者が読者以上なら読める。
「個性がある」というのは、著者が読者の想像を超えているということであり、「飽きた」というのは読者が著者の想像力(連想力)を越えてしまった、と言うことだと思う。
実話怪談も、かつては著者の用意した「解」「正解」があった。
新耳や超怖が出てくる以前の昔の怪談は、子供向けに書かれていて、最後に著者の見解(憶測による結論や後日談や原因)が書かれていた。
それが正解だった、ということだと思う。「子供はボキャブラリが少なく、細かい解説とそこから導きだされる解の提示が必要」という前提からそうなっていたのではないか。
怪談文芸(創作怪談小説)というのは、「著者が読者より連想力・想像力で上位にあって、情報量で劣っている読者の手を引いてやる必要がある」という前提に立っている。(だからオチもある)
これは、80年代以前の子供向け怪談と同じ前提に立っていて、口の悪い言い方をすると「情報量・連想力に劣る読者を、より秀でた著者が導く必要がある」という組み立てに成らざるを得ない。(悪意で言ってるわけではないのでご容赦を)
読者は本を「びっくりしたい」「予想外のことを提示されたい」と思って読むわけだから、怪談小説は特異性が「はっきりわかるように」描写し、ネタを考えなければならない。
だから、著者の独創的アイデアの捻出、そのイメージを具現化する描写技術である文技にこだわりと自負を持つのは自然な流れだと思う。
実話怪談は、「ボキャブラリの段階が異なる読者が、それぞれの中で持っている【もっとも怖い例え】を連想できるように、連想を促すヒントをちりばめ、出来事の結果導きだされる結論を明確にしない」という方向に進んできていると思う。
新耳の「よく読まないとわかりにくい文章」もそうかもしれないし、超怖の「オチがない投げっぱなし怪談」もそうだと思う。
ここで、「著者の用意した完全なパズルの解が、常に読者より上」なら著者に導かれる怪談小説がおもしろく読める。
「著者は不完全な出題だけをしていて、それに当てはめる解(可能性)が無尽にある」というのを楽しむ(自分のボキャブラリの増大に合わせて何度も読み直す)なら、実話怪談が楽しめる。
実話怪談を楽しむ人に「創作怪談も読むよ」という人を多く見かけるのは、「創作怪談で怪談を連想するボキャブラリを吸収した結果、実話怪談を読むときの連想力(ボキャブラリ)の拡充に役立っているから」ではないか?
逆に、創作怪談は楽しめるけど実話怪談は楽しめない、という人は、「自力で連想するだけの恐怖のボキャブラリが不十分なので、著者の導きがない実話怪談はまだ楽しめる段階にない」ということかもしれない。
これをして「だから実話怪談のほうが上位、創作怪談小説が下位」ということはないけど、両方読む人と読まない人の間に何らかの相関関係があるとしたら、そこじゃないか、と思うんだ。
でも、「創作怪談小説のほうが読者の依存度が高くて、初心者向きだとするなら、創作怪談小説のほうが実話怪談よりも売れているはずだ。実話怪談のほうが売れていないはずだ」という異論が出ると思う。
それは俺も考えた。
では、「恐怖に関する連想力・ボキャブラリが少ないはずの人は、何によって恐怖のボキャブラリ拡充を図っているのか」というと、そこに当てはまるのは「創作怪談小説」じゃなくて、「ホラー映画」だと思う。
この10年間くらいのJホラーの火付け役は1995年TVドラマ化、1997年映画化の「リング」。原作本は1993年だけど、ブレイクしたのはTV・映画になって貞子の映像が話題になってから。
今でもリングは井戸から出てくる貞子のイメージで認知されてる。つまりは、恐怖のボキャブラリの拡充は「映像」から補充されていて、怪談小説は「映画化のきっかけ」にはなっても、ブレイクそのもののきっかけにはなっていない。
ホラーに限れば原作本が売れるのも映画が出てから(またはタイアップの結果)だったりするし。
つまり、怪談小説は「映像を作る人に恐怖のボキャブラリを提供している」けど、「怪談を求める多数の読者」への情報提供やイメージ励起には、大きく役立ってはいないのかもしれない。
もし大きく役立っているとしたら、実話怪談の売れ行きよりその母体であるはずの怪談小説のほうがたくさん売れているはずだし。
以上から、創作怪談小説の文技は、「恐怖のボキャブラリをイメージ化するホラー映画」に影響を与え、ホラー映画の隆盛には役だった、のかもしれない。
ホラー映画が売れて長いブーム(そろそろ定着したとは思うけど)のフィードバックとして、怪談小説(しかし、読者の認識は「ホラー小説」で、市場として大きく認知されているのはホラー市場)も、以前よりは注目されるようになった、のかもしれない。
でも、人気怪談ホラー小説家でも単行本の初版は3000〜5000部程度らしいので、相変わらず市場が大きくなった=読者が増えたという実感はない。
だから「文学賞を設置すれば」という動きがあるんだと思う。(著者人口を増やすというより、読者の耳目を集めるが主目的だよね)
実話怪談は、Jホラーの多くの舞台が「現代」であったこともあって、そうした「現代に起こりうるありふれた、奇異な恐怖」を映画よりも気楽に手に入れられる代替物、として力を付けてきたのでは。
新耳の第一巻(扶桑社版)は1990年、超怖の第一巻は1991年。新耳の第二巻は1998年(超怖最初の休刊期間中)。超怖のピークは1995年前後だったと予想するとして、これもリングのブレイク、ホラーブームの隆盛と連動していたのでは。
Jホラーの形で恐怖のボキャブラリを蓄えた人数は、怪談小説で蓄えた人より規模が多いわけで、それの受け皿(映画からのフィードバック)に怪談小説がならずに実話怪談がなったのは、
「見る(読む)側のボキャブラリの集積度に合わせて、読者が恐怖のレベルを自由に設定できる」という、実話怪談の意図された不完全性とうまく合致したから、と考えてみたらどうだろう。
そろそろバイバイに引っ掛かりそうなのでまとめ。
創作怪談側が「実話怪談も怪談文芸(文技)」と主張することの中に「実話のネタは所詮借り物。ネタがオリジナルな分だけ創作の方が上」という自負は確かにあるだろう。
そして実話怪談を創作怪談の一分野に取り込むことのメリットは、やはり「実話怪談の購読者層の融合」だとは思う。これは穿った見方ではなく。
でも、実話怪談を求めてJホラーから入ってきた人は、結局は怪談小説には易々と移行しないんじゃないかなあ。
実話怪談と創作怪談、どちらも「怖く書くのには文技」は必要だ。
が、何のために書く、どういった需要に応えるために書く、ということまで踏み込むと、両者はまったく異質だと。
「ホラーも怪談もどちらも恐怖モノですから」と言い切ると創作怪談小説の人はきっと気を悪くするんだろうな、と思ったりするのだが、
同様に「創作怪談・ホラー小説と、実話怪談は目的も文技も読者へのアプローチも異なるものなので」というのが、
「実話怪談と創作怪談小説を同列にすんな」という、実話怪談側にくすぶる主張の骨子なのではないかと、思うのだ。
というのが、ここまでの大長文の結論ですた。
ごめんね ´・ω・` なんか凄く長くて。
うん。判りやすくて面白かった。
このレス(
>>107-109)でも年代順にまとめてあったね。
そういえばリングは映画の後、新装版や文庫で出て、
映画ファンや映画から入った人が沢山読んでいたね。
だけど、その反動でブコフに大量入荷になっていたなぁ(´・ω・`)
>>294のまとめも、うなづいたよ。
やはり実話と創作は別物だと思う。
一つだけちょっと思ったのは
「実話怪談も怪談文芸、とすることで怪談の地位を向上させる、
または裾野の拡大を行う」といった趣旨を創作側はしていたと思う。
これに関してはどう考える?
>>295 「地位の向上」では、「裾野の拡大」はできないと思う。
裾野=消費者層/消費者数の拡大は、「地位」ではなく「価値の向上」によって起こるのだと思うし。
地位の向上=価値の向上かというと、そうではないと思う。
SFは地位が向上することによって、「SFを表現する手段」が小説だけではなく、
漫画(コミック)、映画、アニメ、ゲームに広がった。その結果、日本のアニメはそのほとんどがSFになったと言っても過言ではないし、
SF漫画に違和感を感じる者はほぼ皆無になったと思う。
でも、SF小説、SF文芸、SF文壇は寂れた。
地位が向上するということは、そのカテゴリを表現するための「表現手段」が格段に広がるということであって、
テキストをちまちま書くという方法にこだわる必要がなくなるということでもある。
ホラー映画がブームを作ったという時点で、「地位が向上した結果、表現手段が広まった」のだと思う。
SF小説が減衰したように、ホラー/怪談も「ネタ元」としては存続できても、それが単体で「映像のブレイクとのタイアップ」なしに売れることはないと思う。
故に、「地位の向上」では「裾野の拡大」は不可能、ではないだろうか。
「地位」じゃなくて「価値」が向上すれば別だけど。
でも、「単行本初版3000部、わかる人だけが買う」では、価値の向上/裾野の拡大は、難しいんじゃないかなあ。正直な話。
映画&DVDの市場より桁がひとつかふたつ少ないし。
そもそも「地位の向上」は、どういった状態を示すのかについてのコンセンサスを考えるべきだと思う。
地位の向上=価値の向上なのか?
価値の向上=需要励起=市場拡大=読者拡大なのか?
価値とは別に、「地位」が向上したもので、市場の拡大に成功したものが、「ネットやメディアミックスの登場後」に前例としてあったかどうか、
といったあたりの検証から始めるべき問題かもしれない。
単純に考えて、
「怪談というジャンルをひとつの文化・芸術として認めさせたい」
というのが「地位の向上」ということなのではないだろうか?
怪談と聞いて、「ああ、怖い話ね。お化けとかの」という反応ではなく
「ああ、あれは素晴らしいものだね」と言われるレベルにしたい、と。
要するに「芸術としての価値を高めたい」ということじゃないかな。
その場合の価値の向上は「芸術作品に対する価値」ということになって
商品価値とは違うレベルのことをさしていると思われる。
だから「わかる人だけ買う」市場でも問題はない。
とはいえ、素人でもわかることといえば「芸術作品の金銭的価値」という部分もある。
「高いもの=いいもの」という風に。
これは「商品の価値を消費者が理解している」のとは違って、
「商品の金額を消費者は理解している」という事に過ぎない。
といっても、裾野の拡大になるとやはり「商品価値」がある方がいいわけで。
(この場合の商品価値は「消費者が欲しがるものという意味で)
一見さんが入りやすい、手に取りやすい状態が望ましい。
需要励起されるには「その場所に入りやすい」が重要なファクターじゃないかな。
それが売れる「商品」になるのではないだろうか?
>価値とは別に、「地位」が向上したもので、市場の拡大に成功したものが、「ネットやメディアミックスの登場後」
>に前例としてあったかどうか、
地位を確立したものは、別のジャンルに刺激を与えるかもしれないけど、
本来の核になる部分からどんどん流出してしまうので、寂れちゃうのかな?
怪談とはメインストリームになりうるのか?
という点も気にはなるね。
>>298 >「怪談というジャンルをひとつの文化・芸術として認めさせたい」
これは地位の向上というか、「権威の確立」じゃないかなあ?
単純に認知させたいなら「怪談? ああ、怖い話ね。おばけとか幽霊とか」で十分足りてる。
「怪談? ああ、あれは素晴らしいね」と言わせたいというのは、「優越、権威、尊敬を得たい」だと思う。
書いている側またはそれを欲して読む人間が、そういったものを読む(書く)ことを他人にどう見られたいか、
という部分をどう満たすかという話になるんジャマイカ。
「地位の向上」というよりも、「怪談を書く、読む自分を他人から【凄い】と思われたい」だよねw
凄いと思われれば、買うのは恥ずかしくなくなる。いい歳をした大人がと言われなくなる。
たくさん買って読んで通じている自分は尊敬を集められる。たくさん書いた人も同様だ。
そして、「凄いものだという共通の見解が生まれれば、誰もが競って買うはずだ」
「それによって市場の拡大が起こるはずだ」という考え方だと思う。
でもそれは、古典的なマーケティング拡大論なのでは?
もし、恐怖(怪談、ホラーなど)の提供方法が、「本を読む」しかないなら、その方法も多少は生きたかもしれない。
でも、恐怖を受け取る方法が、本、漫画、携帯サイト、TV映画、ゲーム、実地(アミューズメントテーマパーク、つまりおばけ屋敷)など、様々に分化してる今、
恐怖を受け取る側が常に本を選ぶとは限らない。
「恐怖」の消費者は拡大するけど、消費される形態が「本」である必然はどこにもない、と。
「怪談の地位向上による消費者拡大」は、
「怪談(というテーマの)地位(価値認識)の向上により消費者が拡大する(が、配布形態として本が常に選ばれる保障はどこにもない)」
ということにならんかな。
では、向上した恐怖/怪談の中で、「特に本が!」という方向に誘導したいのだとしたら、
それは考えるべき地位向上は、「怪談」というテーマの向上じゃなくて、「本、漫画、携帯サイト、TV映画、ゲーム、実地」などの提供形態の中で、本がいかにして地位を向上するか(序列の上位に来るか)
ということなんじゃないかな。
それと、怪談は今後どうなる、ってな話。
人間の原初的な感情として、
「喜怒哀楽恐悔妬萌」あとなんだっけ。まあいろいろある。
これらの感情を励起するためのものについての需要はなくなることはない。
でも、怪談は「恐怖」を励起するために提供されるもので、本来なら忌避されるものだと思う。
「怖いのは嫌い」「怪談、嫌いなんです」とかいう怪談作家もいるがw
痛いとか怖いとかっていう感情は、できれば避けて通りたいものなんだと思うよ。
原始的な話をすれば、暗いところは怖い。何がそこに潜んでいるかわからないから。
だから人は火を焚き明かりをともして暗い闇を明るくして、そこには何も潜んでいないことを確認して安心する。
冒険なんてのも同じで、「冒険そのもの」が目的の人もいるだろうけどそれは少数派で、
大多数は「冒険の結果、安全が確かめられる」ことを歓迎するものなんじゃないのか。
世界中の原始的な宗教や、日本の古典的な信仰の多くも同様で、多くは「神への畏れ」や「害なす厄災への恐怖」を鎮めること、恐怖を回避することが目的。
そういった見方をしてみれば、「恐怖」が、「素晴らしいもの」と受け取られるということそのものが逆説的。
恐怖を題材として扱うものが、「尊敬を持って敬われる」「多数派から賞賛される」っていうことは考えにくいんじゃないか。
だから、怪談の地位向上が「凄いと言って尊敬されたい(=芸術性を認めさせたい)」と同義ならば、【最初からそんな選択肢はアリエナイ】が正解に近いと思う。
怪談はサブカル。できれば忌避したい。触れずに過ごしたい。そう考えるのが世間の多数派なのでは?
じゃあ、なんでこの10年間くらいホラーブームなんてものがきてるのさ、説明付かないじゃん、という疑問も出てくる。
これについては、「ホラー・オカルトは、不景気な時期に流行る。景気がよくなると衰退する」というジンクスがあるらしいので、それを下敷きに考えてみる。
まず、実際に不景気な時期にホラー・オカルトが流行ったかどうかなんだけど、1995年から2006年現在くらいまでのホラーブームは、確かに不況時と合致してると思う。
バブル景気が弾けたのが80年代末から90年代初頭だよね。
不景気だと怪談(ホラー・オカルト)が流行る理由としては、
「妬み、他人の不幸を望む気持ち(不況で自分が不幸だから、他人にもそうなってほしい、とか)」
「社会が停滞するので、動乱や社会的価値観の劇的変動が起こって欲しいと望む気持ち」
が、通常の方法(正攻法や常識)では計れないやり方を容認してでも、という条件付けをして変化を求める。
これは、「明日は運動会。いっそ雨が降ってくれたらいいのに」とか「明日は期末テスト。学校が火事になればいいのに」というのに近い感覚だと思うw
そうすると、超自然的な、つまりはオカルト・スーパーナチュラルで既存の常識では説明できない怪異、というものが受け入れられやすくなる。
本来、幸せを祈って暮らしていくべきなのに、「自分の不幸を呪い、他人をも不幸に引きずり込もうとする」のが不況下の妬み心理だというのは理解しやすい。
だって、それって正に「死んでも死にきれない地縛霊が、生きてる人間を引きずり込もうとする」心理とまったく同じなわけで。
不況下では、「生きてるのに地縛霊」と同じ心理を共有する人が増える。常識外の方法を使ってでも社会が変革してほしい、と願う心も出る。
だから怪談・オカルト・ホラーの需要が増える。
決して、賞賛されたからでも「凄いもの」「素晴らしいもの」という認知が広がったからでもない。
「停滞に対する不満」の発散のために必要とされたに過ぎないと思う。
怪談作家達から言わせれば「それは失礼である」となりそうな予感もする。
彼らだって賞賛されたいから書くのだろうし、
幽怪談文学賞、超-1、bk1怪談大賞の意味がなくなってしまうと思うのだが。
思えば、2001年にそれまでの正攻法や常識ではなく、変人とまで言われた小泉総理を首相に据えることにあれほどの支持が集まったのも、「正攻法以外の変革」が望まれていたからかもしれない。
ま、これは脱線。
それで、今、景気はどんどんよくなってるんだってね。
景気が良くなる→妬む必要がなくなる→社会の劇的な変革を望む人が減る→超自然的な手段を肯定する必要がなくなる。
っていうことは、「景気が悪いとホラー・オカルト・怪談は売れる」「景気が良くなるとホラー・オカルト・怪談は売れない」というジンクスには、ジンクスではなくて「理論」としての裏付けが出来そうなきがする。
そうすると、だ。
怪談の地位向上、読者の拡大どころか、今後は次の不況が来るまで怪談は衰退していくんじゃないか?
今は怪談のピークというより、「不況の終わり」にいる、というか。
それを踏まえての「怪談の地位向上」がもし必要だとするなら、それは「読者の拡大」ではなくて、「残存兵力の死守」「固定読者の集結と維持」のための口実じゃないかな。
今の時点で怪談を読む人間に、「君たちは怪談を読まない人間に対して優越感を感じてよい。選ばれた読者であり、凄い読者だ」と繰り返して、怪談読者の中に「読まない奴らに対して俺たちスゲエ」という意識を育てなければならない。
だからこその、「地位向上」が訴えられているのかも。
創作怪談小説の部数が「少なくても問題ない」「少部数でも確実に捌ける(だから大部数の成功がなくても小市場を維持できる)」
という形態になっているのは、結果的に「これ以上の兵力損耗を避け、残存兵力には【君たちは歴戦の勇者であり一騎当千の猛者である】という暗示を与える」ための方便なんじゃないか?
実話怪談は地位向上、尊敬されたい、芸術性についてのこだわりが少ない。
必要がなくなればいずれ消えてしまうだろうことを自覚しているから、かもしれない。
「読み終わったら捨ててる」という読み方の読者もいるようだし。
実話怪談から卒業・離脱していく著者が多く、実話怪談に限らず「怪談作家」という固定肩書きをメインで名乗ろうとしない作家がほとんどなのを見ても、
怪談は「いつでも脱ぎ捨てられるはやりの服」でしかないのかもしれないね。書き手にとっては。
>>302 幽、bk1はそうかもしれない。賞賛とセットになってそうだし。
超-1は「生け贄になってもらう」とあって、賞賛もないかもしれないとまで書かれてるw
ということは、「幽、bk1は賞賛されてしかるべき」だと思ってる?
超-1のその言葉は建前じゃないのかな?
幽とbk1は主催者が事実上同じだから、同一理念の上にあると考えていいと思うんだけど、どうだろ?
違いは尺の長さだけだし。
幽とbk1は「怪談文芸の地位向上」を目指しているわけだから、ここまでの説に倣うなら「賞賛を期待している」で間違いじゃないと思う。
そして、そういうアプローチで怪談読者の固定または拡大が可能と考えているわけだと思うので、そのアプローチそのものは別に否定しない。
超-1は「シリーズの長期的存続のための人員補充」が最大目的と書かれてたような。
超怖の共著者になることが賞賛を集めることだ、と考える応募者ももちろんいただろうし、超怖の共著者になれたら光栄だろうとも思うよ。応募者にとっては。
ただそれは、応募者がそう思うって話であって、超怖の読者からは単純な賞賛は得られないだろな。まずそれまでの歴代著者、平山なんかと比較されるだろうし。
超怖の読者ではないものから見たら存在も知られない、賞賛の対象にも入ってこない。
>>306 結局、怪談文芸が発展する事で、不具合はないと思うんだがね。
逆に超-1のように「シリーズの長期的存続のための人員補充」程度の
志で怪談をやるというのは、怪談文芸の発展を邪魔している事にならないか?
今こそ、怪談に携わるものみな怪談文芸の旗のもとにつどって
協力をすべきだと思うんだがな。
景気がよくなると、業界が縮小するというのだったらなおさらだ。
一点集中して、怪談ファンの期待にこたえるべきだと思う。
>>307 だから、「怪談文芸」という言葉のコンセンサスが取れていないのに、それに集約させようというのにムリがあるっていうのが、このスレの過去ログでさんざん繰り返されてきたことじゃなかった?
「怖い話を怖くするための技術=怪談文技」であって、「文芸」ではないのではという異論に対して、「珍説」といってコンセンサスを共有を拒否してるうちは、話が進まないと思うよ?
超-1は「業界を背負わない」と宣言してのことだからいいんじゃないの。
そもそも、「とある会社の就職面接」を、業界全体の一大事のように言うのがおかしいんだと思うけどなあ。
それぞれがそれぞれのフィールドで、それぞれのやり方でがんばることで、それぞれが読者を獲得していく。
他のやり方で読者を獲得している人と、常に同じやり方でなければいけないってわけでもあるまい。
同じやり方を追求しすぎると、全体が一気に壊滅する可能性だってある。
DRCが作られなかった年のフランスみたいにな。
手法の違い、揺らぎは、全体が同時に壊滅しないための保険みたいなもんだと考えれば済むことなのに、
コンセンサスの取れていない「錦の御旗」に下れっていうのは、賛同を得にくいんじゃないかっていう話だと思うが、どうかな?
>>308 あなたは東雅夫氏の言っている事を理解していないのでは?
幽とか読んでる?
超怖の著者への賞賛はあると思う。
つか、俺は賞賛したい。
でもそれは「こいつは凄いネタを拾ってくる、凄い切り口を見せてくれる奴だ」みたいな、
記者やノンフィクション作家への賞賛に近い気がする。
何だかんだ言ってもやっぱり実話怪談はルポタージュの系統なわけで、
実際に起こった珍しい事件を、一番効果的に見せてもらえればそれで満足。
んで、彼らを記者として捉えるなら、その記事から何を読み取るかは読者の領分だし
どこかの大新聞の偏向記事wみたいに過剰な脚色は邪魔にしかならないんだよね。
「文技」ばっかりを見せびらかされたり、ご大層な「文技」講釈を垂れられても、
「記事」を期待している読者としては何だかなー、と言うかんじ。
もちろん小説っぽいアプローチも好きなんだけどね。
なので俺からすると「実話も創作も関係ない」とまで断言されたら、正直ついて行けんのです。
>>310 東氏も平山氏の怪談を賞賛しているよ。
それは「文芸だから」だと思う。
だから実話も創作も関係ないんだよ。
東氏や幽の価値観って、早い話が「怪談」と言うくくりで何もかもゴッチャにしてしまっているんだよね?
もし違ったら
>>309氏、訂正お願いします。
実話怪談にリアルを求める読者(たとえそれがカストリ程度のものでもw)に言わせれば、
怖けりゃいいってもんじゃないんですけど・・・ってとこですな。
>>312 ごっちゃにしているんじゃないよ。
「怪談文芸として」きちんと分類されたものだよ。
怪談というくくりでまとめるのなら、何でもかんでもになってしまって
きちんとした評価を下せないじゃないか。
>怖けりゃいいってもんじゃないんですけど
それこそ怪談文芸の肝だよ。
「花まんま」読んだ?古典怪談読んだ?
「夢十夜」読んだ?「遠野物語」読んだ?
怪談文芸はそんなに不自由なものじゃないよ。
超-1にも怪談文芸を重視している人がいると思うしね。
それで思い出したけど、超-1の批評で多くの人が
「文章力」と「描写力」「構成力」を重視していた事実。
これが怪談文芸論と似ていると思うんだけどね。
そこを一度聞いてみたいな。
えーっと・・・
「古き良き怪談話」と「現代の実話怪談」って、同じ楽しみ方じゃないと思うんですがw
ぶっちゃけ、昔の怪談って野暮ったくて読む気にならない。
そこがいいのかも知れないし、当時があったから今のホラー小説があるのもわかる。
でも申し訳ないけど、懐古趣味はないので興味がない。
>きちんとした評価を下せないじゃないか。
別にきちんとした評価なんか必要ないんじゃない?
一度買って、面白ければ次も買う。
それが一番わかりやすい評価でしょうw
>それで思い出したけど、超-1の批評で多くの人が
>「文章力」と「描写力」「構成力」を重視していた事実。
ややっこしいからこのスレでは「文技」と呼ぶ事にしてるのよね。
「効果的に伝えるための技術」に芸術性を見出すかどうかは受け手の自由だろうけど、
少なくとも俺は芸術だとは思ってないですな。
・・・つーか、遠野物語も文芸なの?
古くて権威があるからって理由じゃないよね、まさかw
>>313 >それで思い出したけど、超-1の批評で多くの人が
>「文章力」と「描写力」「構成力」を重視していた事実。
え〜超-1で拙い講評をした者ですが、私の場合、「作品」としての評価という意味で
1.文章力(怪異を描写する文章的な技術とか)
2.構成力(話を効果的に伝えているか、話の運び方とか)
3.ネタ(取材した話の面白さ、特異性・新奇性など)
と3つのポイントに分けて作品を評価しました。
例えば、313さんが仰るような文章的なポイントが良くてもネタが平凡なら高評価はつきません。
逆に、多少、文章的なポイントが低くてもネタが聞いた事が無いような奇抜で新しいものであれば低評価にはなりません。
つまり実話怪談というものは「ネタ」と「文技」の合わさった物(作品)であると考えています。
なので「文技」の部分のみを重視して「怪談に実話も創作も無い」とネタの部分を切りすてる意見には実話怪談肯定者としては
異論がある、というわけです。
文芸がネタを軽視する、というのはこのスレだけの珍説。
もちろんアイデアやネタも怪談文芸は重視しているぞ。
とりあえず。
ここまでの「文芸」ではなく「文技」という言葉が発生するに至った経緯はちゃんと読んでるのかな?
売ってる本じゃなく、今、このスレを遡るだけでタダで読めるものなんだけど。
「文芸=文章表現技術」のことというつもりで使っている様子なんだけど、
文芸には「文章表現技術」のことをさす意味はない、というのは了解してる?
恐怖表現を文章で行うことを差して意味するなら、「文章技術」=「文技」のほうが、新語で耳慣れないだろうけど、
文芸(=文章による芸術)とは明確な区別が出来て幾分マシだということで。
で、文章芸術=文芸と、文章技術=文技の使い分けをわざわざしている理由が理解してもらいたいな。
>>313 ところで、桜金造や稲川淳二の口述筆記的な本は文芸に入るの?芸術性はあり?
小池壮彦は文芸に入る?芸術性はあり?
超怖に文芸性はあり?平山夢明にはあるけど加藤一にはなしだとするなら、その根拠は?
平山怪談と加藤怪談は最近は巻末を見ないと見分けが付かないことがある、という指摘がしばしば出るけど、
平山怪談のレベルが下がって文芸から遠ざかったのか、加藤怪談も実は平山怪談と同じレベルに近づいたのかどちらだろう。
その明確な区別、きちんとした分類というのは、誰がするのかな?
このスレでは、「そうした分類は、観測者が観測することで行われ、観測者に権威があればその観測結果が受け入れられる」
という意見が出ていたけど、それは読んだ?
>>309 ○○○が言ったことを、文字通り受け取れ、俺は説明しないから自分で見てこい
これでは、コンセンサスというのは生まれていかないねえ。
発言者Aの見解を読者Bが、その発言者Aのオリジナルを見ない読者Cに説明できて、
結果的にAの主張の骨子を損なわないように説明できたときに初めて読者Bは、発言者Aの主張を正確に理解し自分のものにできた、と言えるわけでね。
それこそ、「だったら発言者Aをここに連れてこい」っていう話になっちゃうでしょう。
つまりは、Aの主張は正しいという盲信をBがするのは結構だけど、Aの主張内容をかみ砕いて理解し他人に説明できていない時点で、実はBもAの主張を理解できてはいないんじゃないか。
>>311 これについては、もう書いちゃったけど「平山怪談と加藤怪談の違い」をどう考える?
同じ超怖の中で、一方は文芸で一方は文芸じゃない、という。さあ、その違いはなんだ?
考えられるのは、「平山は小説を書いている」「加藤は小説を書いていない」この一点かな?
「平山は賞作家」「加藤は賞作家じゃない」ここかな?
>>316 ネタを軽視するんじゃなくて、「独創的なアイデアを重視するのが小説」「取材した体験談を重視するのが実話」という分類がされてきたと思うが。
それと、自分と違う意見を安易に「珍説」呼ばわりするのは、東雅夫の悪いところを盲従していると思う。
東雅夫を信奉する気持ちはわかるけど、そういった態度まで受けつぐことはないよ。当人でないなら。
対立論や異論を最初から「珍」呼ばわりで排除するのは、自説が絶対的に正しく、譲るつもりがないというところをスタートにしている証しで、
相違点を模索してコンセンサスを得ようとする態度ではないと思うよ。
>>316 >文芸がネタを軽視する、というのはこのスレだけの珍説。
>もちろんアイデアやネタも怪談文芸は重視しているぞ
では「怪談に実話も創作も無い」とはどういう意味で言われているんですか?
ぜひ、詳しい説明を伺いたい。
>「平山は賞作家」「加藤は賞作家じゃない」ここかな?
ワロタw
だいたい新人賞じゃない賞をもらうのは、40も半ばを過ぎてからだろ。京極然りw
今の時点で5歳も差がある加藤が平山と同等の評価を得ていたら、平山が立つ瀬ないだろ。
でもこうやって、超怖内での執筆者評価をわざわざ分断的にする批判に対して異論を唱えると、
自然に加藤擁護になっちゃって、さらには。。という憶測を呼ぶんだよな。それはツマラン。
もっとも、そうやって引き合いに出されることを当人は迷惑がっているのか、名が売れて喜んでいるのかはワカランが。
怪談に実話も創作もない、というのは
恐怖や不思議を書き表す技術=文芸である、という前提から
「書く目的は同じである。そして同じ技芸である」
といえるところからだと、思っている。
>>324 文芸、という言葉の語義はちゃんと調べた?
文芸は、「文章による芸術」「文学」「文芸春秋社の略称」以外の意味はないのが広義の定義なんだが。
「文章を書く技術、技芸」という意味は、「文芸」という言葉にはないんだよ。
その意味で言うなら、文芸という成語に「文章を書く技術」という意味を加えるほうが珍説なんだ。
>>324 自分が書き込んでいるスレのログぐらい読もうよ・・・
そして、「文章を書く技術」「その文章で表す目的」は本当に同じか?
という問いについての思考実験が行われているのがこのスレなわけだが。
読者に「恐怖」を感じさせるために書かれたのが「怪談」だ。それはok。
だが、読者が何に恐怖を感じるかは異なる。
どういった前提、どういった方向への展開を恐怖と受け取るかが違うから、その方法論も違ってくる。これはok?
そういった部分を考慮せずに、「怖い話だから文芸だ」というのでは、途中を飛ばしすぎていて同意できない。
そのずいぶんとふっとばした途中の部分を教えてくれないか。
このスレって牢名主みたいな奴が座り込んで延々電波を飛ばしてるんだな…。
スレ資源の無駄使い乙
話が一歩も進まずに疑心暗鬼でループを続けるよりは建設的だろw
そんな牢名主の説教をいつも楽しみにしている俺ガイル。
「珍説」「電波」で終わらせずに、怪談文芸統一理論信奉者の反論が読みたいんだが。
ツッコミ所があるならどうして正面から反論しないの?
>>319 >同じ超怖の中で、一方は文芸で一方は文芸じゃない、という。
>さあ、その違いはなんだ?
一方は文芸じゃない、ではなくて、どちらも文芸として、
平山怪談はレベルが高く、加藤怪談はレベルが低い。
たんにそれだけの事だと思うけど?
>>324 >恐怖や不思議を書き表す技術=文芸である
ここをもう少し詳しく説明して欲しい。
おそらく「恐怖や不思議を書き表す技術」の<技術>の部分で認識にズレが
あるように感じる。
>>331 その格付けを「誰が」したのかってのが問題なんじゃね?
超怖を読んだ事があるのか無いのか知らないけど、どっちが書いているのかわからない話も多いよ。
>その格付けを「誰が」したのかってのが問題なんじゃね?
というか、誰がした、じゃなくて「そういう風潮になっている」のが問題かと。
「某誌に載っているor某氏が評価しているもの=文芸=レベルが高い」
という流れになっているよね?対して、
「某誌に載っていないor某氏が評価していない=文芸ではない=レベルが低い」
ということを言っているという事で。
どこがまずいかと言うと、「すでに権威主義が始まっている」という事。
そしてこの権威に乗ることで「選民思想的優越感」が生まれている事じゃないかな。
結局は、権威というのは「言い出した人」への追従と、反論の封殺によって作られるわけで。
反論を「珍説」として封殺しようという人が現れていることが、権威の構築の後押しになっているという、
権威創製の現場に我々は居合わせているのかもしれんね。
問題は、その権威に連なることを、「統合される側」が果たして光栄に思っているのかどうか、という点かも。
それは「書き手が」じゃなくて、「消費者が」という意味で。
「怪談文芸」への実話怪談の統合を言う人ほど、「光栄なことだと思え」というスタンスが見え隠れしている。
つまりは、
>>334で言う選民思想的優越感に基づいて、実話怪談を「怪談文芸の【傘下】」に加えて【やろう】という。
そういう様子が読み取れるんだな。
すでに怪談文芸の傘下に加わった実話怪談作家を「文芸的にレベルが高い」、そうでない者を「レベルが低い」と仕分けしてるのも、
「判断者」に権威を与えるということに同意してるってことだもんなあ。
>問題は、その権威に連なることを、「統合される側」が果たして光栄に思っているのかどうか、という点かも。
>それは「書き手が」じゃなくて、「消費者が」という意味で。
実話怪談は文芸である。
と言われた場合、通常は「褒め言葉」として消費者は認識するかも。
ファンの場合→著者への褒め言葉、として認識。
単なる一読者の場合→「そうか、こいつは凄いんだ」=褒め言葉として認識。
これは普通の反応かと思う。
でも、よく考えると実話怪談=文芸である、というのに違和感を持つ人もいるだろう。
言葉の正しい意味を考えるとね。そこでやっぱり反発は出てくると思う。
(小説分野で活躍されている作家の小説が文芸として評価されるのは、正しいと思うけどね)
それと。
「判断者」が権威を握った場合、「判断者が望んだ著者」以外は
一方的に低評価になるのが目に見えているのが怖いね。
これはすでに
>>334が指摘しているように。
判断者に権威を与える事がすでに始まっている、といえるかな。
と否定意見ばかりじゃあれなのでw
ほんじゃまぁ、判断者に認められた実話怪談のメリットとデメリットについて考えよう。
あと判断者側のメリットとデメリットも考えた方がいいのかな?
あ、きな臭くなりそうだから止めた方がいいのか(´・ω・`)
判断者に認められた実話怪談
メリット=偉そうにできる
デメリット=胡散臭い
判断者
メリット=実話怪談に対して偉そうにできる
デメリット=輪をかけて胡散臭い
>>338 メリットか、それわw
得られるメリットは、というかメリットとして考えていいような余録があるとすれば、
1.読者拡大(著者の目的が「よりたくさんの人に読んでもらいたい」だとするなら)
2.読者の同時代方向への拡大に伴う市場拡大(売り上げ増大)
3.読者の定着(長期的な購読者の取得。リピーターの獲得)
4.世代を超えた読者の獲得(子へ孫へ読み継がれる超長期的購読者の取得。長期リピーターの獲得)
このへんじゃね?「名誉」や「地位」というのは、褒め続ける人、読み継ぐ人がいないと維持されないわけで。
判断者に認められた実話怪談が上のメリットを獲得した場合、判断者自身が得られるメリットは「短期的な名声」
か「長期的な名声」になるんじゃないかな。短期的には利益を共有できるかも。「私が選びました」という本を出すとか。
デメリットは、
A.判定者(権威)が一人、またはごく少数の場合、その権威自体に疑惑や疑念が持たれた場合に、
それに連なって権威の「分与」がされた作品は、軒並み「ちぇっ。どうせ同じだろ」と連座させられてしまう。
権威によるお墨付き(ラベリング)で価値認識をした人は、中身で判断しない。ラベルが剥がれると離れる。
他はちょっと思いつかないが、いずれ。
こうして、このスレは「文壇厨という判断者」の思う壷的風潮に
なっていくのであった。
権威主義っていうのは、「体制翼賛」なんだよねw
消費するためのシステムを掌握している側が権威と権力を兼ねる、という。
権威者が認めれば出せるけど、権威者が認めないものは出せない(出させない権限の行使)とか。
もちろん、現代においてはそういう「○○○が反対したから出せない」というのはなくなってきてると思うよ。
昔ほどキミの言う「文壇」の力は大きくないし。これは情報の出所を掌握できなくなったのと、
エンターテインメントとしての書籍の地位(商業的価値)が、他の映画、ゲーム、ネットなどの出現で相対的に低下したからだと思うけど。
文壇そのものは明治期には「同人」という形を取っていたけど、この頃は「売り上げ=人気=発言力=権威」という健全性があったんじゃないかい?
もちろん、わりとすぐに「権威者による新人発掘」と「才能ある新人の潰しあい」にはなってったけど。
そして、小林多喜二(今で言えば大江健三郎?)に見られるように、体制翼賛(大政翼賛とかけてみますた)に
対抗する反体制作家というのは、やっぱり権威に睨まれるわけで、現役の間は評価される前に特高に(-人-)
そのせいなのかどうなのか、作家って反体制/反政府がかっこいい!っていう人多いよね。
でも、反体制のままだと仕事こないから、仲間同士で褒めあうようになる。「俺たちって凄いよね」「もっと評価されるべきだよね」
そうしてまた、当人たちの明確な自覚がないまま、「反体制でかっこいい俺たち」という新体制、新権威が生まれてくる。
「反体制な俺たちに与しない奴は体制の犬!」とか言ってるうちに、自分達が新たな「体制」や「権威」になっちゃってる。
このたとえ話は60〜70年代くらいまでのレフトな皆さんの思い出話+当時の作家気分をトレースしたものに過ぎないけど、
「俺たちって凄いよね?」とか「情報の質を選別する聖なる権限が」という意識を、発信者側が持ち続けるのは現代では難しいんじゃないかと。
ネットのような媒体にはいくらでも「事実と憶測」が飛び交うし、多面的な「推測」も飛び交う。事実も混じってるかもしれないけどわからないw
言えることは読者=消費者の存在は「単なるお金を出す人」ではなくなってきてる、無視できなくなってきてるってこと。
そんな中で権威の再構築を目指したとして受け入れられるんだろか?
>340
いや、逆に言いたい事があるなら
ちゃんと理路整然と書き込めばいいと思うよ。
面白い意見や興味深い意見に珍説なんて言わないからさw
そこから議論が始まるわけだし。
誰も止めないし、(書き込むことを)否定もしないからさ。
個人的には「実話怪談文芸論」には否定的だよ。
このスレを頭から読んで、じっくり考えたらね。
できたら「実話怪談文芸論肯定者」の意見も読んでみたい。
>>340 発言の自由は誰にでもあるからねえ。
権威による制限も掛かってないし。
自分の意見への同調者を増やすのに、相手を罵倒するという手法ではシンパシーを得にくいと思うよ。
>>333 平山怪談にも当たり外れがあるけど、
その外れのレベルとどっこい程度なのが加藤怪談て感じかな。
一言でいって凡庸。素材を生かしきれてない。
誰の格付けでもなく、普通に読んでてそう感じるんだがw
>>344 どっちがどれを書いたかが付録でラベリングされてる最近の超怖だと、
「これは平山怪談だから」という、バリューが先に来る評価を下しやすいしねえ。
>344氏はきっとA〜Δあたりは読んでいないと見た。
A〜Δには巻末付録がないから、どれをどっちが書いたか判らないんだよね。
その状態で、平山怪談とそうでないものの識別ってできたの?
ていうか、できていたのだとすればその超能力には感服するけど。
アズキは多分、高機動型ザクなんだよ。(R2の方)
安藤氏は旧ザク。
樋口氏はグフ。
ドリはビグザム。
347 :
本当にあった怖い名無し:2006/09/16(土) 18:26:45 ID:bX626vtK0
赤く塗って角つければ三倍書けるようになる。
>>344 どうせならこの人たちもレビューしておくれ。
さたなきあ・木原浩勝・秋本あまん・小池壮彦・高田寅彦・中山市郎などなど。
他にも実話怪談を書いている人はたくさんいるぞ。
できたら比較論ではなく、それぞれの著者の良いところと悪いところを
率直に書いて欲しいな。
そこから実話怪談のことを掘り下げる事になるかもしれないし。
>>349 モビルスーツの話とその実現性で盛り上がってたら、トミノ監督がやってきて
「おまえら俺の妄想の産物でオナヌーしてやがんのか!」
と一喝したような展開だなw
トミノです!wwwwww
妄想の産物でワロスwwwwwwwwww
ついにマサの反撃開始ですよ、おまいらw
と言いたくなるほど珍な展開に激萎え。
多分このスレ見てますよ。彼w
さて、次はどうくる?
>プロという言葉の定義によるんだろうけど、「プロの気構え」の定義によって、
>この「プライド」ってのも意味が変わってくるんだろうなー。
ということは「プロの気構え」というのは人によって違う、ということになる。
確かに、これは様々なものがあるだろう。
細かく言うと「プロとして小説を書く」とか「プロとして実話怪談を書く」ということを
考えた場合に、その定義が人によって大きく変わる可能性もある。
曖昧だから、というより、認識の甘さから出てくるずれなのかもしれないね。
その上「何を持ってプロなのか?」という問いにも関係してくる話だと思うな。
>>354 移動乙。
>>355 「何を持ってプロか」という問いは興味深いとこだな。
文章を書く【技術】に対する「プロ意識」というのは、文芸とか実話とかに関わらず、
文章を書く仕事をする人ならみんな持っていそう。字を間違えないとかw ちゃんとした文法で、とか。
後は〆切守る、とか?
「怪談を書くということに対するプロ意識=プライド」と、「実話を書くということに対するプロ意識=プライド」
っていう比べ方をした場合、やっぱりこれは別のものなのか、それとも同じものなのか。
焦点をどこに絞るかで違ってくると思うなあ。
>>356 「何を持ってプロか」というのはプロの意見も聞いてみたいところ。
いい物を提供するのはプロとして当然だと思うししめきりを守るのも、当然かとw
社会人として当たり前のことは、やってて当たり前なんだと思うなぁ。
「いやなことでもちゃんとやる」「約束は守る」「やらないうちから言い訳しない」とか。
あ、社会人としてじゃなくて人としてになってきたw
「プロが言ったから、それが正しい」
「プロが認めたから、それが正しい」
という以前に、まずそこから自分で掘り下げて考えていかないといけないと思う。
「まず考えよ」、ってね。
それが「自分のプライド」を作っていく基盤になるんじゃないかなぁ。
>「怪談を書くということに対するプロ意識=プライド」
>「実話を書くということに対するプロ意識=プライド」
これも続きになるんだけどね。
二つのプロ意識は同じものでないといけない部分もあると思うんだ。
ただ、ベクトルは逆になると思う。
それがやっぱり違うからこそ、実話と創作は別として考えた方が
まとめやすいんじゃないかなぁ、とほんのり思った。
単に書き手の技量の問題だろぉ
360 :
本当にあった怖い名無し:2006/09/19(火) 23:01:18 ID:4Pk2StVC0
>>359-361 「何をもってプロとするか」=「書き手に技量があればプロ(
>>359-360意見)」
てこと?
では、「プロ並みにうまいが職業作家ではない」「プロ並みにうまいが本人がデビューする気がない」
という場合は、技量の是非を持ってプロかどうかを語れない気がする。
また、「プロはうまくて当然」についても、「何を持って【うまい】と判断するのか?」という定義が必要かも。
「万人がうまいと感じる」のが条件だとしたら、一人でも「俺はそうは思わない」がいたらプロではないのか?
反対意見があってもいいのだとしたら、何人(何割)くらいが支持すればプロなのか?
売れ行き、実売部数、発行巻数で評価するのか? では、1冊だけだとプロではないのか?
「読者の代表たる評論家がうまいと言えば、それはうまい。評論家がうまいと言わなければそれは下手」
ということになるか?その評論家に絶対的な権限が与えられないのだとしたら、(または、異なる評論をする
別の評論家がいて、意見が対立した場合は?)誰が何をもってそれを「うまい作家」と判断するのか?
などなど。
「俺の主観」で、「俺がうまいと判断、俺は下手だと判断」というのもひとつの判断方法だけど、
「俺の主観」が全体の評価とイコールかどうかというのは、それまた誰が何を持って判断するのか?
むずいよね。
広義でなら「仕事をして、報酬をもらってる人」でいいんだろうけど。
スレのテーマ的にはむずかしいなぁ。
基本的な文章力に相当問題があるけど、毎年本を出しているプロ(特定の誰かを想定してないにょ)
というのがいた場合、「それで食べているからプロ」だとすると、技量はプロであるかどうかとはやはり
無関係ということになっちゃうしね。
>>364 でも、極論かもしれないけど、やっぱり技量は無関係なんじゃないかな。
金を出すから書いてくれと言う需要があるなら、それはプロだと思う。
あるいは「プロ行為」?
何て言えばいいかわからんが。
需要がいつ途切れてもおかしくなかったり、需要を無理矢理作ったりw、
色々な状況のプロがいるって話ではないかな。
技量がプロであることに無関係だとするなら、
プロがプロでる由縁は、
1)本人が自称する(プロを自覚すればプロ。していなければプロじゃない)
2)第三者が他称する(プロと認定/任命されていればプロ。プロの定義は当人ではなく認定する第三者が決める)
3)商行為として金銭報酬と引き替えに書けば、書かれた作品の出来とは無関係にプロ(金銭報酬は、書かれた作品の対価。作品を金に換えたらその時点でプロ)
というあたりか。
「プロの作家」ではない、例えばプロの八百屋は、「それで鎬を削っていればプロ」で、「金を取るからには品質を保証する」のがプロの誇りであり仁義。
金を取って提供する野菜の品質は、高ければ高いほどいいんだろうけど、程度の低い野菜を売る八百屋がプロじゃないかと問われれば、そういうこともない。
また、程度というにもいろいろあって、「辛い大根」と「甘い大根」があったとして、辛い大根好みの客、甘い大根好みの客と、
評価する客側の好みに合わせていろいろ提供できる八百屋もいれば、八百屋自身のポリシーとして辛い大根しか扱わない八百屋もいる。
辛い大根が多数に好まれていれば八百屋の評価は高まるが、甘い大根好きの客が多ければ、八百屋自身のこだわりやプロ意識とは無関係に評価は低くなる。
それでも、「プロとして金をもらってそれを提供している」ということへの自信と責任感があれば、程度はどうあれプロ。
それがないか、作品に責任を持たない(作家に責任を持つことを担保させるために報酬が支払われる=契約)ならプロじゃない。
こんなとこでどうだろう。
「本当のプロは責任を果たす」
というのも当たり前だと思うけどね。出来ていない人もいるけどw
いや、誰とかそういうのはここでは関係ないので、割愛。
さて。そんなところで。
一応実話と創作のスレなので、こんな話を振ってみる。
荒れたらすまんことです(´・ω・`)
1)実話怪談著者の責任とは?
2)創作怪談著者の責任とは?
3)怪談とホラーの違い
4)実話怪談と怪談小説とホラーの関係(これは散々語られてきているけど1〜3と絡めて改めて)
1と2は例の「提供する側の責任」という話につながるかな。呵呵大笑。
3と4はある程度のコンセンサスを得る為にも必要かな、と。
あと、読者側と提供する側(著者や出版社など)で意見が変わると思うので
その辺りもつっこんでいけるといいかも。
>>367 んじゃー、まず(1)(2)から。
1)実話怪談著者の責任とは?
嘘をつかないこと?
体験者(情報提供者)を守ること?
2)創作怪談著者の責任とは?
嘘を嘘だときちんと宣言すること?
独創性を主張するなら盗作をしないこと?
共通の責任は「〆切を守ること」「文章上のクオリティを保つこと」かな。
文章技術(=文技)は文章を作る仕事では必須技能、だけど実話と創作ではそのベクトルが違う、
というのがこのスレのこれまでのコンセンサスだったと思うので。
作品に対して問われること(例えばクレーム、批判、賞賛、損害の全てについて)の最終責任を引き受けること
というのは、実話も創作も著者責任としてはどちらも同じだと思う。
創作怪談の著者は、「自分の脳から生まれた虚構」を「独創的なモノ」として提出してるわけだから、
内容に関する責任を他人に押し付けるとか、逃げたりとかをしたらいけないんだと思う。
独創的であるが故の賞賛も批判も、すべて著者が引き受けうる、とか。
実話怪談の著者は「取材によって得た体験談」を「事実と信じて」提出してるわけだから、
内容に関する疑問を、他人(この場合は取材元の体験者)に押し付けて逃げたりしたらいけないんだと思う。
体験者(情報提供者)を守る、っていうのはそのへん。収録判断をした責任は著者に帰属、とか。
仮に体験談が事実でなかった場合でも、事実と信じて収録することを決めた責任は著者が取るべきで、
「自分も騙された」と言っちゃいけないし、「事実じゃないに違いない!」という疑いが掛けられたときに、
「自分は知らない。体験者に聞いてほしい」とお鉢を回しちゃいけない。ということではないかと思う。
>>367 3)怪談とホラーの違い
これは正直よくわからない。
どちらも「恐怖を扱う」という点では同じ。ホラーには、「実録ホラー」とか「実話ホラー」というジャンルはないので、
ホラー=全部創作(虚構)と、とりあえず判断する。
怪談が「怪談小説」とか「創作怪談」だと前提するなら、それも「虚構の恐怖を演出したもの」であるわけで、
怪談とホラーの違いは「日本語か英語か」しかないような気がする。
4)実話怪談と怪談小説とホラーの関係(これは散々語られてきているけど1〜3と絡めて改めて)
実話怪談は「虚構と断言されていない」ものであって、創作されたストーリーではないと考えると、
「恐怖【小説】」の範疇には含められない。
描写に必要な文技が同じとか似通っていても、前提や目的が違うような。
その意味で、「ホラーと怪談は事実上、同じ。虚構の恐怖小説」で、
「実話怪談は虚構と断言されていない、小説でもない」ので、並記比較が難しい。
今日、本屋の店頭で「江戸っ子と助六」という本が山積みされてた。
演劇畑の人が助六について書いた本なんだけど、そこにあった一文が興味深かったので要旨を引用。
----
助六という舞台について書かれた本はいっぱいあるけど、そのほとんどが演出家や役者、批評家など、
舞台の上にいる人、舞台内部関係者によって書かれている。
が、舞台というのは一体感を重視するというか、一度として「同じ舞台」に仕上がることがない。
その舞台ごとに客席の客は、年齢性別性格に至るまで客層ががらりと代わり、同じ反応をするとは限らないため。
同じ芝居を役者がやっても、客が同じ反応をするとは限らず、同じように舞台が成功するとは限らない。
つまり、演じる側(役者)と観劇する側(客)(の反応)の共同作業によって舞台という「事象」は成立する。
客の存在を無視して舞台は成り立たない。(シェークスピアも似たようなことを言ってるらしい)
しかし、助六に限らず舞台を「客の側から見た本」というのはあまり例がない。
舞台を成立させるために必要不可欠な存在である客の視点を盛り込まずして、助六を語ることはできない。
----
だいたいこんな内容。
で、これは怪談にも言えることで、前述の助六本の言葉を借りれば「読者がどう反応するか」は、読者の年齢性別性格によって違うわけで、
怪談は読者が読むことによって初めて「怪談という事象」として成立する、と言い換えることができる。
超怖シータ前書きに似た話が出てくるけど、実話怪談・創作怪談ともに、「著者の視点」じゃなくて、
それを消費する読者の視点からの話というのを探っていくと、「実話怪談と創作怪談は、著者がどう考えるかではなく
読者がどう捉えるかで変わってくる」という話に連なっていくかもしれない、とオモタ。
>演じる側(役者)と観劇する側(客)(の反応)の共同作業によって舞台という「事象」は成立する。
>>370 これに似ていることをなんかで読んだ事がある。
「文学というのは、読者がいて始めて文学になる」
だったかなぁ、違ったかなぁ。
要するに、著者がいくら文学だなんだといったところで、
読者というそれを読む存在がいない限り、それは文学にはなれないのだ、
とかなんとかいってなぁ、違ったかなぁ。
>「実話怪談と創作怪談は、著者がどう考えるかではなく読者がどう捉えるかで変わってくる」
となると、読者が信じた時点でそれは実話になり、読者がフィクションだ、と論じた時点で
それは創作、となってしまうということ?
>>371 最近よく言われるメディア・リテラシー論だよね。
提示された情報の品質(真偽)を、かつては発信者が保証していたので、受信者は無条件に
発信者の情報を受け入れることができた=昔は新聞やテレビを疑う人はいなかったし、新聞テレビが書いたら「それが真実」になった。
小説も、著者が「本当だ」と言えば本当になり、「創作だ」と言えば読者はそれを創作として受け入れた。
が、ネットの出現により誰でも裏が取れるようになったり、読者が孤立せずに「多角的な視点からの検証」を、
同時多発的に行うことができるようになった。スレでの議論とか、ブロガーによる情報検証とかね。
つまり、「発信された情報をまったく疑わず、そのまま真に受ける人」というのは近年ではじわじわ減ってきている。
必ず「言葉に裏があるのでは」「嘘を書いていないまでも隠していることがあるのでは」「嘘をついているのでは」
と、疑う習慣=メディア・リテラシーを身に着けるようになってきている。
これは「創作」「実話」にも言えることで、読者がもしも「著者の主張を疑わずに受け入れる」純真で従属的な存在のままなら、
著者が創作だと言えば創作、著者が実話だと言えば実話で、その情報の真偽の制御権は著者側にあった。かつてはそうだった。
が、2ちゃんねるなんかでは、「受け取った情報について、発信者の発言をそのまま鵜呑みにせず、信じるか信じないかの判断が利用者に委ねられる」というのが基本的お約束になっている。
つまり、情報の質を判断するのは著者の保証することではなく、読者が個々で判断することに変質してきている、のだと思う。
で、読者が信じた時点でそれは実話になり、読者が虚構だと思えば創作になるというのは、間違ってないと思う。
一方で、「ある一人の読者が個々に判断したことが、全体に対しても同じ結果になる」かと言うと、ならない。
読者Aが「これは事実だ」と信じ、読者Bが「これは創作だ」と確信したとする。
ここで、著者が「事実です」または「創作です」と正解を明示した場合(これは従来と同じで、品質を著者が保証している)は、読者全員が同じ内容から同じ結論を共有できる。
が、著者が「さてどっちでしょう」と正解を明示しなかったら、全員が全員とも同じ回答を共有できなくなる。
同じ作品を読んで、同じ結論を共有できない状態になる。
虚構の小説では、読者は著者の意図した結論やオチに向かわなくてはならないわけで、同じ内容から違う反応になってはいかんわけで。
そのために著者は厳密な描写をし、虚構であるという保証を与えることになるんだけど、
実話怪談ではそういうことをしない。
(著者が「事実です」と明言していたとして、著者が信用されていて読者が従属的ならそれは事実になるし、
著者が信用されていない場合、読者はそれぞれ個々に「事実か」「虚構か」「信頼できるか」「できないか」を判断しなければならない)
つまり実話怪談というのは、読者が共通の感想を持ちにくいものなのかもしれない。
創作小説の場合は、「虚構である」という一点については読者同士、読者と著者の間に明確な見解共有がされてるわけで、
後は「文章力の出来不出来」「構成力」など、技術上の問題だけになる。だから技術のことを「文芸」という人は、技術上のことしか言わないのかもしれない。
虚構か、虚構ではないのかが共有できない曖昧さの中で、判断が読者に委ねられ、「さあ、どうする?」とされたときに、
「こんなの嘘っぱちだ」と思うなら、極論すれば買わなきゃいいわけでなw
金を払ってそれを買うのは「嘘だと思う。でも、絶対にそうと言い切れるだろうか?」というわずかな戸惑いがあるから。
その「絶対にそうと言い切れない」というブラックボックスの有無が、実話怪談と創作怪談の違いなのかもしれないな、と思う。
そこで「証拠を見せろ」「証明しろ」「体験者を出せ」「現地に案内しろ」という向きもあるんだろうけど、
そういうのをすると野暮になる。
「実話怪談の粋」って難しい。
>>374 粋と野暮か。
粋人というのは中々難しいよねぇ。
江戸関係の本を読んでいると、実にそう思う。
まずは余裕をもつことかなぁ。
とはいえ、粋を理解した送り手というのは、意外と少ないのかもしれない。
その辺りを自覚している人が書いたものの方が面白いんじゃないだろうか。
粋は「わかってて受け流す余裕」、野暮は「余裕のなさ」。
「もてなす側の意図に気付いてるけど、それを声に出して言わず、快く楽しむのが粋」で、
騒ぎ立てるのは野暮。
粋は送り手が心がけるものじゃなくて、受け手が理解するものなのかもしれないと思うよ。
「その趣向に身を任せて楽しむ」のが、もてなされる側の礼儀であり、それこそが粋なんじゃないかと。
458 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/22(金) 04:11:14
相手の主張を理解するために、相手の視点や相手の主張を消化しようとすると
「相手の肩を持ってる」「工作員」という反応をする人がたまにいるけど、
物語の中で正義の味方と悪役を同時に登場させようと思ったら、悪役の都合や
悪役にとっての正義も描かないと話に厚みが出ない。
正義の味方の主張を聞き入れない悪役を一方的に悪く書くだけでは、
物語は薄くなるばかり。
ストーリーテリングを考える上で、「違う立場の登場人物の考えをトレースする」というのも
トレーニングになると思う。相手の立場で考えることは相手に屈することではなくて、
相手の思考の全体像を掴む役にも立つ。
あんまり凝り固まって発想力を硬化させるのもどうかと思うよ。
466 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/22(金) 04:20:15
>>458 本当に自信家なんだな、うらやましいよ。
ここの住人がアンチに同意しないのは、
東に右へならえしてるんじゃなくて、
アンチの言ってる事がどうしようもなく
独りよがりで底が浅いからだと思うよ。
>>377の中にあるように「独りよがりで底が浅い」意見はNGだと思うよ。
どっちの立場でもねw
正論が書かれていても「アンチ」「底が浅い」「粘着」で終わってしまう
パターンが多い、ということは「意見を拒絶」しているだけで、そこからは
何も生み出せないわなぁ。と思った。
(多面的にみて、深く思考することは作家志望にもお勧めかもしれないね)
東某の「実話怪談も文芸である」というのはある意味褒め言葉だよ。
だってカストリ本であって単なる暇つぶし本である実話怪談を
「芸術の一種(文芸・文学)」として扱ってくれているんだからw
著者にとっても、読者にとってもそりゃありがたいことだ。
例えるなら、近所のこきたないけど旨い定食屋(職人気質のオヤジがいる)に
食の評論家がやってきて、「ううむ。このまったりとした」と
のたまって「☆、みっつ!芸術的!」とかガイドブックに乗せてくれるようなもんだし。
悪い気はしないでしょ?ね?www
だけど、それの根幹部分が非常に間違った認識なのが気にはなる。
だってその理由が「文章を書く技術=文芸だから」なんだから。
(定食屋の場合はさしづめ「調理技術=芸術だから」?オヤジはそれ聞いたら怒りそうだw)
「文章を書く技術=文技(このスレで使われているね)」として
考えた方が思考はまとまりやすいと思うんだけどね。
で、だ。
「実話怪談も文芸です」=「実話怪談文芸論」
「実話怪談は文芸じゃない」=「実話怪談否文芸論」
の両方は存在してもいいと思うんだよ。
例えば「実話怪談は文芸なんだ」と主張しながらも、もう片方の主張も理解しておくこと。
そこから議論に発展していけばいいと思うし。
このスレの存在意義はそこにあるんじゃないかな。
これができたら、非常にいいと思うんだけどね。
最初から全てを拒絶して、自論をを押し付けるだけ、というのはよくないことだもんな。
最終的にお互いのコンセンサスが得られると、なおいいねwてことかな。
これを思い出した。
「地動説=実話怪談文芸論」 ローマ教皇庁検邪聖省他
「天動説=実話怪談否文芸論」 ガリレオ・ガリレイ他
あ、間違えた。
「天動説=実話怪談文芸論」 ローマ教皇庁検邪聖省他
「地動説=実話怪談否文芸論」 ガリレオ・ガリレイ他
すまん、つってくる。or2
>>378 >褒め言葉
問題は、「褒められた側が、褒められたと受け取っていない」ってところだね。
賞賛というのは、褒める側の自由だけど、褒めたからといって褒められた側が喜ぶとは限らない、という。
料理屋の親父の例えで言えばさ、
「あなたの料理の腕は抜群ですね!」と褒めたら
「馬鹿野郎!腕じゃなくて味を褒めろ!」と怒鳴られるような。褒めるところが違うだろ、みたいな。
または、「あなたの腕があればどんな素材でもおいしくなりますね!」と褒めたら、
「馬鹿野郎!いい材料があってこそ、いい料理になるんだよ!」と怒鳴られるような。
で、だ。
「実話怪談も文芸です」と「実話怪談は文芸じゃない」は、一見すると対立論のように見えるんだけど、
実は対立する意見ではなかったりすんじゃないかと思う。
>>381 「実話怪談は文芸として素晴らしい!」尊敬
「いえいえ、実話怪談はそんなものではないんですよ」謙遜
こんな感じ?
どちらかというと、「一方がもう一方を包括する」「包括を拒否する」という。
と、これじゃわかりにくいのでたとえ話をすると、
「多様性を認めない」と「多様性を認める」のふたつの意見があるとする。
この場合、多様性を認めない=実話怪談文芸論、多様性を認める=実話怪談文芸否定論になるんだけど、
説明はちょいと後で。
で、多様性を認めないという意見と、認めるという意見がそれぞれ対立したとする。
多様性を認めない、という意見が正しいとすると、認めるという意見は排除されてしまう。
多様性を認めるという意見が正しいとすると、「多様性を認めるのだから、【多様性を認めないという意見】も認めろ」
ということになり、多様性を認める側は自らの説を尊重すると、多様性の排除を主張する意見を認めざるを得なくなる。
もちろん、そういった意見を認めると多様性を認める意見は結局排除されてしまう。
多様性を認めない、という意見が存在する限り、多様性を認めるという意見は無効化されてしまう。
どっちかしか生き残れないんだから対立論かというと、わかりにくかったかもしれないけど、
「包括と非包括」という関係になるんじゃないかなとか思ったりした。
うーん、わかりにくい。
>>382 価値を認める人がいるのはその人の自由だけど、
その人が認めた価値を他の人が認めるかどうかというのは別問題ってことかな。
尊敬はご自由にどうぞ、されても別に感謝しないよ、という。
>>384 感謝しない、というか「それはそれでありがたく拝聴します。はっは」という
多様性(
>>383)の表れなのかな?と。
「多様性を認めない」排他的主義
「多様性を認める」排他的主義をも飲み込む主義
だとするのなら、
>>378のいっていることに近いのかな?
>385
意見としては両方存在できるなら、そこには「多様性」があり、「異なる意見の存在を認める」
ということになると思うんだけど、そうなったら「多様性を認めない」側は否定されちゃうよね。
多様性を認めない(=実話怪談は別に文芸じゃないと思うよ論の否定)を通さないと。
多様性を認める=排他主義の根絶
だからね。
んで、ちょっと見てきた。
398 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/09/22(金) 02:21:16
AとBは同じCというもの、とAが言う。
Bは「BとAは違う。Aと同じにしないでくれ」と言う。
Bは「Aには関わらないから、Bにも関わらないでくれ」と提案。
Aは「関わらないけど、BはAだから」と主張を変えない。
Bは「だから関わらないでくれ。同じにしないでくれ」と反論。
AとBの間に合意がない状態で、AはBを「A'」だと言い、言われたBはAを拒絶する。
AとBがそれぞれ融合を目指すなら、AとBの間で合意のための対話が必要。
AとBが融合を目指さないなら、AがBを同一視することを辞めない限り、BはAに反抗し続ける。
Aは怪談小説。
Bは実話怪談。
Cは怪談文芸。
今、こんな感じ。
---
これあたりが発端だったのかな?
>>386 ということは「実話怪談文芸否定論」は排他主義ってこと?
>>387 あ、これは判りやすいかも。
ふと思ったが、実話怪談ファンというのはどちらを望んでいるのだろう?
AとBの融合?それとも拒絶?
>>388 んにゃ。実話怪談文芸肯定論が排他主義の場合に限る。
多様性を容認する主張は、その選択肢の中で唯一「多様性の否定」だけは容認できない。
実話怪談文芸否定論は、「そういう意見もあっていいが、自分はそれに与しない」と、多様性容認
の立場から宣言することはできる。が、相手が「その意見は容認できない」と排他的主張をする限り、
多様性そのものが否定されるわけで。
怪談文芸肯定/否定論の双方が、「我々はそう主張するが、そうではない主張が存在することも容認する」
とした場合に、初めて多様性が認められたことになると思う。
>>389 融合でも拒絶でもなく、併存じゃないかなあ。と、思う。
ひとつの定義に全てを委ねる、全依存の状態に置かれて、
自分の解釈が常に誰かの物差しで確認・評価されるような状態は避けたい。
好きな本を自由に読み自由に解釈する自由を侵されたくない、というだけのことで。
>>390-391 サンクス、ようやく判った。頭悪いな俺。
併存、というのはいいね。
実話怪談文芸否定論者が目指す落としどころはそこかもしれない。
「一つのものさしで評価されたものが正しい」
となると、先細りになりそうだし。
書いてて「ディッシュ」を思い出した。
>文学性を意識し過ぎるあまり、難しくなり過ぎているのだ。
>既存のSFの枠を打ち壊して文学的であろうとしたニューウェーブは
>その目的ゆえついには娯楽の小説であるはずの大衆小説ですらなくなってしまい、
>最終的に読者を失って急速にしぼんでしまう。
前にも似た話がどっかで(ここか?)出てた気がするけど、
SFはSF小説に端を発し、アニメに映画にゲームに、とその許容領域を広げた。
SFを日常のように容認する安定したマーケットもできた。
なのに、SF小説はどんどん力を失った。「SFっぽいラノベ」は山ほどあるが、
本格SF、ハードSF、SF小説雑誌は、風前の灯火だ。
怪談が「ホラー映画ブーム」や、ホラーゲームなんかにシフトし、
怪談文芸論に執着を示すことで、怪談文芸そのものはかつてのSFのように萎縮していくのかもしれない。
読者=マーケットを喪失して。
そうならない可能性はないわけで(類似の前例の辿ったパターンから)、
文芸の皆さんにはそうした「揺らぎのない遺伝子プール」は避けていただきたいなあ。
実話怪談が文芸路線を取らないことは、同一遺伝子の同時消滅から
怪談の遺伝子を守る知恵だと思うんだが。
>>393 >>296で出てるね。
マーケットの消失も怖いけど、実話怪談本が出なくなるのも怖い。
>実話怪談が文芸路線を取らないことは、同一遺伝子の同時消滅から
>怪談の遺伝子を守る知恵だと思うんだが。
「自分達だけが、正統」と主張する人がいたら困るな。
そのうち近親交配が始まって、袋小路に入っていきそうだ。
「独りよがり」「底が浅い」「勘違い」「バカ」「粘着」「珍説」「馬鹿」「程度の低い」「非常識」「ゴロツキ」「居直り強盗」etc.etc
(おそらく)このスレの住人が幽スレに出張した結果、浴びせられた罵倒の数々を拾ってみた。
人の好きな本を勝手にジャンル分けして、元々の読者がそりゃ違うんじゃねえのと言ったらこの反応。
確かにスレ違いじゃ嫌がられてもしょうがないだろうと思ったが、
これは相手も眼を閉じ耳を塞ぎたがっているとしか思えないね。
全然会話になってない。
正直なところ失望した。
んー。
譲れないものがあるからこその拒絶反応なんだろうね。
守勢の気持ちはわからないでもない。
今後、好みはどんどん多様化細分化していくことはあっても、融合統一されていく
ことはないだろな、と思う。そうなると、「自分の好みとは違うもの」の存在は認めないと
ならないし、自分の主張が受け入れられない、または鼻にも掛けられないということも
起きてくるだろう。あらゆるジャンルで。
そうなったときに、「個人としてはそう思うけど、君の言うようなこともあるかもね」と、
自説を否定されないために相手も否定しない、という態度は求められる。それが社会。
いずれは、そういう「他人と異なる好み・趣味の共存」を選んだものは生き残り、
自分のアイデンティティを守るために異なる意見を拒絶するというものは、結局は、
「その他の選択肢」を選びたい人から敬遠されて、どんどん小さくなっていく。
そういう展開に陥ってほしくないんだけどな。彼らには。
>>395 書き込んじゃいないが、傍観はしてる。
目と耳をふさぎ、自分達にとって「都合のいいもの」しか受け取らず。か。
清濁合わせて飲み込んで、そっから何かを生み出すのが作家だと思うんだけどねぇ。
美味しいものだけ食べていても、身体の為にはよくないですよ、と言っても
またボロカスに言われて終わりだろうな。
>>396 うんそれは困る。
市場が縮小された場合、困るの誰?となったらやはり読者。
結局「送り手側が自分のアイデンティティを守る為」他者を拒絶する
というのが非常に不健康な状態だと思う。
自分で自分の首を絞めているというか。
全ての怪談はフィクション
想像力の欠片もない奴だなぁ……。
>>398-400 ホラーなどに限らず「読者の想像を掻き立てる」ものなら
読者の感情を動かせると思う。
だから、怪談というのはそういった部分で「想像力を刺激」するものがよい。
が、実話と創作(フィクション)だと方向性がまるで違う。
創作で想起される恐怖というのはあくまでも「作り物の恐怖」でしかないはず。
ホラー映画やホラー小説を読んで、「怖い!」と感じても、結局
「どうせフィクションだし」というところにオチをつけて、読者は安心する。
実話の場合は「どうせフィクションでしょ?こんなの起こりっこないよ」と
いいながらも、どこかに不安感が残り続ける。
「実話である=もしかしたら・・・」
という、自分のみにも降りかかりかねないのでは?という不安感。
ここが実話の肝じゃないのかな。
>>399のいう「じゃあ、怖くないな」は
「(フィクションか。なら作り物じゃん。)じゃあ(実話ほど)怖くないな」
ということだと思われる。
実話という設定だと「本当かも?」とか思って読んでるの?
そりゃスゴイ!
フィクションだと宣言されてるものは、100%作り話で、そこには「不安」や「不信」がない。
実話怪談は「事実」だという保証はないけど、「事実ではない」という保証がない。
100%の安心があるのがフィクションの怪談。
1%でも不安や可能性が残るのが実話怪談。
著者が「完全に絶対に大丈夫」を保証してくれないから「もしかしたら」という可能性を想像する。
想像力が強いから「フィクションという保証がない怪談」は怖い。
ここまで書いていて、実話怪談とフィクションの怪談の決定的な違いがだんだん判ってきた。
フィクションの怪談、創作怪談、怪談文芸、ホラー小説、恐怖小説っていうのは、
【恐怖】を感じるためにいろいろな演出がされていて、文芸文技云々も「読者を怖がらせる」ために使われる。
実話怪談はそうじゃない。
実話怪談は、「実話と銘打つ」または「100%のフィクションだと保証しない」ことによって、
【不安】を煽る。あらゆる演出は「体験者の恐怖エピソード」を紹介しつつ、「読者を不安にさせる」ために使われる。
似たような題材(怖い話)を扱っていても、読者をどういう気持ちに追い込もうとしているか、
という演出目的が実話怪談とフィクションの怪談では違うんだと思う。
「恐怖」を材料に扱っているという点(著者の作業)を見れば「どちらも同じ」だけど、
読者にどういう感情を抱かせようとしているか、という目的の部分が違うんだと思う。
そもそもフィクションであっても「本当にあったらどうしよう?」という畏れが
恐怖の源になっているのだと思う。見る側に「本当にあるわけがない」という確信があったら、
フィクションの怪談は微塵も怖くない。「ありえない」でおしまい。
根底に「だってフィクションでしょ?」がつきまとうし。
「そうかもしれません。しかし、本当にそうかな?」
と、著者が「絶対のフィクション」であることを保証しない場合、
「ありえない」「本当のはずがない」という保険みたいなものが利かなくなる。
「ありえない、よね?」「本当のはずない、よね?」と確認したときに、
「フィクションです」と返事が返ってくるのがフィクションの怪談。
著者は笑ってるか黙ってるかしていて返事が返ってこないのが実話怪談。
著者の態度から、1%でも事実の可能性がある、100%フィクションという確証が得られないから、
実話と銘打たれた怪談は、100%フィクションの怪談より怖い、ということになる。
逆に
>>402がどういう姿勢で怪談本を読んでいるのか聞いてみたい。
・世に存在する怪談は全てフィクションである
・だが、想像力を活かせば怖いものである
・実話怪談を「本当かも」と想像して読むことはスゴイことである
・「実話」は単なる設定である
といういうのが言い分だよね?(矛盾している部分があるけど)
「怪談なんかに興味がない」「怪談なんか読まない」という人には
このような意見は言えないだろうから、それなりに自論を持っている、と判断する。
そんな人がどう怪談本を向き合っているのか。
これは興味がそそられる部分だ。
「怪談に興味はあるが、それはあくまで【作られた物語】としてである」
「現実にあるという前提に立つことはない」
「実話は【単なる設定】というのも、怪談が【作られた物語】だから」
というのが、
>>402の姿勢でわないか?
>>407 いや、そんなに分かり易いことだろうか?、と思ってねぇ。
もしかしたらもっと深い自論があるのかもしれないぞ?www
全ての怪談は創作で、かつ文芸作品だと言いたいだけかもよ。
アズのブログに書いてある実話怪談の要点を全否定だねw
「怪談に実話も創作も関係ない」「全ての怪談は文芸である」
というような意味での言葉なら、それはそれでここできちっと
議論をしてもらえると嬉しいんだがなぁw
>>410 「全ての怪談は文芸(怪談文芸)である」という前提に立つと、
「怪談に実話も創作も関係ない」に繋がるのはなんとなくわかるんだよね。
文芸=「文章を書く技術=アート」と言ってるわけで、
その技術を駆使して書かれるものが実話でも創作でも、
「恐怖表現の読み物には変わりない」ということだしょ?
「恐怖表現」という技術の向上と錬磨がされれば、素材は問わない、
素材が事実であるかどうかは無関係、恐怖表現技術(怪談という文章作成技芸)さえあればよい、
という。
この姿勢は、「書く側の都合」でのみ言われていることなんじゃないかと。
あくまで、書き手の主張なんだよね。
この主張に違和感を感じる側は、「書く技術」はあるに越したことはないだろうけど、
「その技術によって書かれた目的」や「素材」の部分に注視してるわけで。
なぜならそれは「書き手視点」じゃなくて「読者視点」で怪談を読んでいるから。
書く技術のみの偏重をしているのは、「読者視点」じゃなくて「書き手視点」の人だと思う。
実話怪談と創作怪談それぞれの支持層の温度差、もしくはオカ板と創作文芸板の温度差っていうのは、
実話と創作の温度差じゃなくて、「実話=読者/消費者」「創作=著者(志望)」の温度差
なんじゃないかなあ。
>>411自己レスで
恐怖表現(=怪談の文章技芸/文技)を駆使していれば、
素材は実話でも創作でも「怪談文芸(を駆使した)作品」になる。
という前提だとするなら、
恐怖表現を駆使した始末書
恐怖表現をちりばめたラブレター
恐怖表現を随所に強調した注文書
なんてのも、全部「創作怪談文芸(文章技芸)」になることに。
ストーリーを伴っていることが怪談文芸の条件だとするなら、
ストーリーを伴わない怪異スケッチみたいなものをカテゴリに含む実話怪談は、
やっぱり文芸じゃなくなるけどw
その技術を使って読ませたい内容に、どういった要素が含まれているか?
読者に何を感じさせたいか?の部分を考えていくと、やはり「別物」と考えたほうが
読者としては馴染みがいいんだけどね。著者としては違うのかもしれないけど。
一行か二行の捨てレスに対して必死すぎる長文連投…
キモすぎ
>「実話=読者/消費者」「創作=著者(志望)」の温度差
それはあるね。というと「ネタ偏重が実話怪談ファンだ」という事を言われそうだけど。
確かに文章力はあった方がいい。読み物としてはそれは正解。
だけど、怪談を読む、というのは文章のテクニックを読むだけじゃないと思う。
「テクニックで怖くかけるんだから、怪談は全て創作怪談であり、文芸だ」というのなら
実話怪談の意味がどこかへ消し飛んでしまうことになるんだけどねw
だいたい、実話怪談を読む理由は「怖がりたいから」「不思議がりたいから」であって
そこにある「不安」を対岸から楽しみたいからなんじゃないかなぁ。不謹慎だけど。
>恐怖表現を駆使した始末書
>恐怖表現をちりばめたラブレター
>恐怖表現を随所に強調した注文書
ワロタwwwwwwww
発注書 8月13日
A4コピー紙 100枚×10
B4コピー紙 100枚×10
業務用のり 5P
クリップ(大) 5P
※納品は8月15日までに宜しくお願い致します。
なお、事務所に鍵がかかっている場合は隣の○○霊園の北東の角、「山田家」まで届けてください。
家のものが、そこで待っているはずです。
(裃を着たちょんまげ姿です。足はありません。なにもしないはずです)
と発注書に書いても、怪談文芸w
>>413 1行か2行からでも、いろいろ想像できることがあったので。
裏を読んだり、そこから発展させたりというのが「想像力」じゃないの?w
>>400 この程度の長さが「長文」じゃ、200頁以上あるのが当たり前の本を読めないし。
>>414 どんな発注書よwwwwwww
>>415 こんな発注書が来たらなぁwwwwwww
近い、ということなら少々違うという事。
>>417、自分の言葉で語ればいいじゃん。
そっちの方が誤解もされないし、説得力あると思うぞ。
>そのような証言を行う者の精神について調べる
それは著者の仕事だろうか?
それに体験者に対しての侮辱にならないか?
てか、あなたのいう実話というのは「何が何でも事実でないとだめだい!」という
ことなんだろうけど、その前にきちっと
>>560読んだかい?
実話怪談っていうのは創作怪談と比較されるときに、「100%創作に対しての100%事実」
「100%事実だというなら証拠を示せ」という論理展開に陥りがちなんだけど、
「100%創作(100%事実ではない)」に対する対立校は「100%事実」じゃなく
「100%事実ではないと【断言できない】」なんだよね。
そこに疑惑や疑念や不安の余地が入り込むわけで、信じたくない人は「嘘だ」「フィクションだ」と
宣言して安心を得ることができる。
確信を持って「本当だ」「ノンフィクションだ」という人もいるだろうし、
「どちらとも言えない」「不安が募る」という人もいるだろうし。
どちらに針を振るかというのが読者に委ねられているのが実話怪談。
どちらに針を振るかを著者が決め撃ちしているのが創作怪談ってことじゃないかねえ。
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1156730086/565 については、
>>420に禿げ同で。
実話怪談っていうのは、体験談提供者をどう見るかで扱いが変わってくるよね。
「嘘つき」「正気じゃない」という前提に立つなら、実話怪談は「嘘つきに騙されたバカが、
嘘を増幅して読者も騙している」という被害者の連鎖を生み出す悪のシステムになるねw
体験談提供者が嘘をついているかどうかというのは、「調べる」ことである程度はわかる
のかもしれないし、調べてもわからないのかもしれない。同じ場所に同じ時間に行けば
同じ現象が再現されるとは限らないわけで(中には再現されるものもあるんだろうけどさw)。
そうすると、その体験者を信じるというところからスタートしないと、実話怪談は成立しない。
裏を取って確証を得るという進め方がある一方で、裏は取らない、聞いたままを書く、
というスタイルの実話怪談もあるよね。これは提供者を信頼し、それが事実だと著者が
受け入れているか、そうでなければ「事実かどうかの判断を、著者は下さない」という
スタンスにあるか。ここでも、「それが事実だと思うか、フィクションと受け取るか」の判断は
読者が自由に選ぶことができる、というのが実話怪談だということになる。
著者はせいぜいが「自分は体験談提供者を信じ、おそらく事実だろうという前提で発表する。
しかし、信じられない人もいるかもしれないので、事実かどうかの判断は読者に委ねる」
ということになるんでわないか。
読者を過保護にしない、ということで。
「実話」という単語は「実際にあった話」という意味。
しかし実話怪談での実話は「実際に聞いた話」に勝手に置き換えてしまっている。
情報提供者を聞き手が信用するのは構わないが、
自分が信用する人物の話だから本当だという論理展開はおかしいでしょ?
聞き手の知識が不充分だと話の内容の矛盾や真贋を見抜けないし……。
「信じるも信じないもあなたの勝手」なものを「実話」と言うべきじゃない。
さてその「実際にあった話」について。
実際という意味も色々ありまして。
じっさい 0 【実際】
(名)
(1)物事の、あるがままのようす。本当の姿。
「その話は―と違う」「取引の―が知りたい」「―のところ、困っているんだ」
(2)(理論や推測ではなく)実地。
「理論と―」「―の業務に携わる」
(3)〔仏〕 存在の究極的な真実、すなわち真如のこと。
「迷悟同じく自心の実心の―也と覚悟すべく候/道範消息」
(副)
本当に。確かに。
「あの時は―おかしかった」「行ってみると、―、まだその家はあった」
>>584が言いたいのは2と3だろう。
だけど1の意味を見てみよう。
>(1)物事の、あるがままのようす。本当の姿。
あるがまま=ありのまま ね。
だとすると
>実際にあったとおり。事実のまま。ありてい。
>「―の姿」「―(に)話す」
「体験者が実際にあった、とありのままに話したこと」=「体験談」
で「実話」ということになるんじゃないのか?
あちゃ、ロングパスしちまったw
>>424な。(あっちのスレのアンカーつけちまった。同じこと書いているから)
>「信じるも信じないもあなたの勝手」なものを「実話」と言うべきじゃない。
だったら「絶対にあった、と証拠があるもののみ実話怪談として書け」と
いうことだな。あなたのいっていることは。
「ノンフィクションとして書け」という。
ノンフィクション 3 [nonfiction]
虚構によらず事実に基づく
伝記・記録文学などの散文作品、または、記録映画など。
フィクション 1 [fiction]
(1)想像によって作り上げられた事柄。虚構。
(2)作者の想像力によって作り出された物語。小説。作り話。
事実って、体験者にとっての事実、ということにもなりそうだね。
>>424 出版物では「実話」というと、「胡散臭い」と同義なんだよねw
カストリ雑誌・実話雑誌と言われている分野なんかまさにそうで。
その流れを引く実話怪談も「胡散臭い怪談」というのを引き受けてるところがあって、
だから「実話怪談作家」という肩書きも、本来は自慢ができなかったりするらすぃ。
>自分が信用する人物の話だから本当だという論理展開はおかしいでしょ?
だから、著者も「自分【は】信用した」という前提では書くが、それが事実だとは
断言してない人もけっこうおるよね。でも、嘘だとも自分が作った話だとも言わない。
だから、読者は「それが本当かどうか、体験者を疑う」という意味で言うなら、
著者が体験者と対面対峙するのと近い感覚を追体験できる。
超怖などは、当初は「体験者当人の主観的な再現談」から始まって、
「体験者の体験談をなるべく克明に再現する」に移行し、平山夢明が登場
してからは「体験者に話を聞いている著者のインタビューの様子を再現する」
という方向にシフトしていった。これは、読者がインタビュアー(著者)と同じ地平に立って、
体験者の話を聞くというスタイル。
そして、その話が事実であるかどうかという保証や裏やオチを付けない、というのが
90年代以降の現代実話怪談(主に超怖や新耳の手法だね)になっていく。
今の実話怪談というのは、著者が読者に「明確な結論」を押し付けないというスタイルが
支持されているわけで、明確な結論(裏を取った結果)を出さないことで、
読者の不安を煽り、読者が自由に判断できる(恐怖を自己拡張できる)ように
なっている、のだと思う。
もちろん、明確な事実、裏を取った明らかな事実、というのを標榜している実話怪談もある。
が、「事実かもしれない」の、「かもしれない」という曖昧な不安の部分に重点を置いている。
実話怪談では、「真贋を見抜けるかどうか」という部分をも読者に任せている。
聞き手(この場合は読者)の知識が不十分だと、「何が怖いのかわからない」で終わってしまう話もある。
が、知恵や知識が付いてくると、二度目、三度目に読んだときに、一度目とは違うことに気付いたりする。
曖昧に書かれた実話怪談ほど、再読性が高くなる。毎回違ったことに気付くから。
だから曖昧に書かれた実話怪談ほど、手放さないし何度も読まれる。
オチまで明確に書かれて、一回で全てが氷解する怪談本は、実話怪談であれなんであれ、
再読されない。
再読されない怪談は、記憶に残りにくい。記憶に残らない怪談は人の口の端にも乗りにくい。
何度も読み返すことによって記憶に残り人の口の端に乗りやすくなると、話題性が高まる。
「こういう話があってさあ」とかね。
すげえ脱線したw
>>426の最終行にある、「体験者にとっての事実」というの。
「客観的に証明でき、再現性があり、誰にでも同じ状況を再現できる」
というのが事実なのか。
ある場所ある時ある人だけが一回こっきり体験し、再現できない(証明者もいない)
ものは、事実ではないのか。
裏を取って云々というのは、例えば「証拠」だったり「証人・証言」だったり「再現」
だったりをもって裏を取ったということを言っているんじゃないかと思うんだが、どうか?
もし、そうだとすると、人間が二人以上いる場で起きたことか、何らかの痕跡が残ったことか、
特定の方程式に基づいて毎回同じ結果が得られるものか、そのいずれかしか事実として認定されない。
一人でいるときに見たものは、すべて事実ではなく「頭がおかしい」になってしまうな。
よく「真実」と「事実」は別物だというが、裏を取って客観的に証明できるものは、
事実なのか真実なのか、どっちなんだろな?
実話=胡散臭い
広辞苑にもないこんな意味が世間一般的に了解されているのでしたら認識不足でした。
またこのような認識した上でそのジャンルを愛好する方々を否定するつもりも全くありません。
ただ、実話という誤解の生じるような表現ではなく、別の表現に変えて欲しいものです。
>一人でいるときに見たものは、すべて事実ではなく「頭がおかしい」になってしまうな。
ふと思ったけど、これって事件の目撃者の話にも通じるね。
一人が「確かに見たんです!」と言っても、そこに痕跡や他の目撃者がいない
となった場合に、証拠として不十分になってしまう、というような。
このときも「虚言でしょ?」という推定はなされるけど、目撃者にとっては「真実」。
だけど、誰にも信じてもらえない。だって証拠がないんだから。
という事を考えたw 脱線すまん。
>>430 「実話怪談」という熟語だ、と考えるという事ではないか?
かいだん くわい― 0 【怪談】
化け物や幽霊などに関する恐ろしい不思議な話。
「四谷―」
ふしぎ 0 【不思議】
(名・形動)[文]ナリ
〔「不可思議」の略〕
(1)思いはかることのできないこと。どう考えても原因や理由などがわからないこと。また、そのさま。
「―な現象」「―に思う」「七―」「生命の―」
(2)思いもかけないこと。とっぴなこと。また、そのさま。
「人の嘲(あざけり)をもかへり見ず、―の事をのみし給へり/平家 1」
(3)(「不思議を立てる」などの形で)不審に思うこと。怪しく思うこと。
「―を立るも断(ことわり)なり/浮世草子・諸国はなし 1」
(4)〔仏〕 思いはかることも言葉で言い表すこともできないこと。
「娑婆に―の薬あり、法華経なりとぞ説いたまふ/梁塵秘抄」
[派生] ――が・る(動ラ五[四])――さ(名)
「実話怪談」という熟語がある、と考えると全てがしっくりいくような気がする。
>>430 平山・福澤は対談で「実話怪談ではない他の呼び方」を話題にしてたな。そういえば。
怪談はそもそもが、マジメで証拠を見なきゃ納得しない人から見れば「胡散臭い」ものだと思うよ。
大の大人が「幽霊見た」と真顔で言ったら、翌日から会社に席がなくなるくらいのな。
でも、当人は「そうは言っても見たもんは見たんだ!」としか言えない。
だから、大の大人の多くは「見えたけど、見なかったこと」にしてるんだね。
子供は見たものは見たままに言っちゃうから、子供の目撃談というのが若干多めになる。
体験談本でも「子供の頃に見た話」という形で語られるものが多かったりするのも、
「万一否定されても子供時代のこと、と逃げられる」という打算があったり、
「子供は世間体を考えつく段階にないので、見たままに言う」があったりするのかも。
大人が体験談を話すときって、周囲の目を気にするような話し方になること多いし。
大人が大人に話したら「じゃあ証拠見せろ」って言われるのがオチだけど、
証拠が残らない体験の場合、結局「事実であると確信していても証明できない」から
黙り込むしかないわけで。
そういう話を「信じます」と言って聞いてくれる人(著者)がいれば、
我慢を重ねるのをやめて、吐き出したくなるってのはわかる気がする。
>>430 「週刊実話」とか「実話ナックルズ」あたりのような、書名に「実話」と付く雑誌群のことを、
実話誌という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%A9%B1%E8%AA%8C ヤクザ、エロ、猟奇、ゴシップ、ギャンブル、ホラー・怪奇まで含まれる。
実話を取材したものか、実話というふれこみで書かれた裏が取れないものまでが題材。
一言で言えば「実話」というカテゴライズでくくられた実話誌が扱っている内容は、
いずれも「胡散臭い」w
実話怪談は、裏が取れない(取ろうにも取れない)ということから、
こうした「下品な読み物」に含まれる、「真贋不確かな、しかし創作と断言できないもの」
なんだと思うんだよね。創作怪談が崇高な文芸作品として長く残ろうと努力するのに比べて、
実話怪談は消費されることが存在目的だったり。コンビニで扱われるあたり、まさに消費物だよね。
そのあたり、下品で胡散臭い消費用怪談、オカズ本としてのエロ本と同程度の地位にあるもの、
で、いいんじゃないかと。
そんな下品なオカズ本的な怪談であるだけに、「文芸作品でなくていいよ、別に」という意見もあれば、
「文芸作品の末席に加えて貰えるなら光栄なんじゃないか」という下卑た賎民意識が出たりw
するのかもしれねえなあ、と思いますた。
業界用語としての「実話」。胡散臭いことも了解済みという事なんですね。
んなもんもちろん文藝なんかにはなり得ないですね。
文芸作品だと言い張る人達もいます。
困った問題です。
437 :
本当にあった怖い名無し:2006/09/30(土) 08:22:10 ID:/H6zlNrx0
ホシュ
そろそろ保守。
超怖スレ、軽く祭り中。
実話怪談として応募された作品が、実話ではなかった、と著者らしき奴が発言している。
話の要点は、
1)告発者は本当にランカー(著者/掲載者)かどうか?
→発言者の実在性の証明は可能か?
2)告発者の言う「実話と偽って創作された話」という告発は、事実かどうか?
→創作であることの証明は可能か?
3)告発が事実であった場合の責任の所在はどこにあるか?
ということと思われ。
で、告発者は(1)については
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1156730086/752 を持って、本物だと証明したいらしいが、それが本物であるかどうかを判断できるのは、
同様のメールが実在するとしたら、それを受け取った他のランカーか送信者の証明が必要。
仮に実在が証明されても、メールの内容を他の誰かに見せたランカーがいれば、偽装は可能
なので、告発者がランカーであることの厳密な証明にはならない。
ネットでは「自分が本当に自分であること」を証明するのって凄く難しいんだよね。
また、仮に告発者が実在し本人であると証明されたとしても、(1)の実在性が
(2)を事実として担保することには直接繋がらない。だって、実在の人間が嘘をついている
可能性というのを、(1)の結論がなんであっても、解決したことにならないもんね。
次に
(2)告発者の言う「実話と偽って創作された話」という告発は、事実かどうか?
→創作であることの証明は可能か?
について見てみると、(1)の結論がどうあれ、それでは告発が事実かどうかは証明できない。
いみじくも同スレに出てた
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1156730086/494 にあるように、「絶対のフィクション」かどうかは、著者の発言だけでは証明できないんだよね。
著者が信頼されていなければ「実はあれはフィクション」と言い張っても、それを受け入れてもらえない。
近い事例を挙げると、「沼正三は誰か?」という問題。
沼正三は「家畜人ヤプー」の著者。
発表された時代背景から、覆面作家ということで当初は沼正三の正体は明かされなかった。
当人もずっと黙ってて、謎の作家の正体は何度も取りざたされる。そのうち、沼正三の代理人
の人が「自分が沼正三だ」と名乗り出るんだけど、その人が本当に沼正三である証拠という
のが証明できなくて、未だに異論が多い。「。。。という説もある」という扱いになっていて、今も証明されていない。
自分が誰であるかの証明と同時に、書いたのが自分であるという証明、さらに書かれた内容が
フィクションかどうかの証明というのは、断片的な情報の提示だけじゃ証明が難しい。
特に、テキストをデータで書くようになってくると、昔の大作家みたいに草稿、準備稿やメモが
発見される、ということもないんだろうし、ますます証明そのものが難しい。
読者は著者の主張を信用することでそれを受け入れるしかないわけで、
「創作だと最初から言っていますし、これは創作です」という著者を信頼していれば、受け入れる。
著者に信用がなければ、著者がどう言おうと受け入れられない。
現時点では、告発者が信用されていない限り、告発内容は信用されないんじゃないかなあ。
告発者は(1)を証明する(自分が実在する)ことで信用を得ようとしているけど、
実在証明は内容証明にはならないというのは、すでに指摘した通り。
今回は告発者が「虚偽」を目的にしているようなので、ますます難しいかも。
3)告発が事実であった場合の責任の所在はどこにあるか?
これについて言うなら、それを選んだ編者の責任そのものは免れないと思う。
もちろん、最初から「実話怪談を求む」として集められたわけで、そこには
応募者と主催者の間の信用があってこそ成り立つもので、主催者が応募者を
信用してそれを用いたわけだから、編者に落ち度はない。
落ち度はなくても、編者である限りその責任は負う義務はあるだろう。
でも、虚偽を目的にそれをしたと告白している告発者の主張が全部正しいとしたら、
これは計画的な犯罪だとも言える。
責任の大きさ、責められるべき非の大きさはむしろ告発者のほうが大きいような。
祭の経過を見ると、告発者が実在するかどうかについて、少なくとも主催者は
かなりの確率で個人特定ができている、と見るべきだろう。
実話怪談を扱う以上、その中に実話ではないものが混じっている可能性からは
どうあっても逃れられないんだろうけど、「結果として実話ではなかった」というのと、
「意図的に実話ではない話を実話と偽った」のとでは、雲泥の違いがある。
詐欺の被害者と詐欺師当人くらいの差が。
どう決着していくのか、「実話怪談vs創作怪談についての考察」と相まって
結構興味深い。
最近、こっちのスレは下がり気味だったので、体の言い燃料ということでw
だから出版業界においては「実話」=「胡散臭い話」なんだから、創作だろうが何だろうが
全然問題ないでしょう? 「本当にあったことなんだけど」で始まる形式の創作怪談だとこちらも思ってるし。
なんだか「オレは宇宙人に拉致された」と騒いでいるアプダクティーの言ってる事と重なるなぁ……。
いやいや、「胡散臭い」=「創作」ではないでそ。
「胡散臭い」=「真偽を測りかねる」であって、明確な創作でも明確な事実でもない。
明確な事実でない=明確な創作だ、ちうことでもないのだと思われ。
ま、あんまりデジタルにモノ考えすぎるなや、ということで。
胡散臭い=どことなく疑わしい。何となく怪しい。
ですから怪談はすべからく胡散臭いでしょう?
>>443 この祭りの要点は、「実話ではなく創作が混じっている」という点ではなくて、
「実話ではなく創作だということを、証明するのは難しいんちゃうか」という点。
書いた当人が告発してるんだとしても、告発者=書いた当人という証明ができてない。
著者が「本当に俺の嘘なんだ!」と言い続けても、著者が信用されなければ、
嘘である事実でさえも受け入れられない、という話っすよ。
実話であることを前提に信頼されたのに、あれは嘘でした、しかも意図的に騙そうと
しました、という告白になってる時点で、告発者はすでに信用を失ってる。
信用のない人の告発だけを信用するというパラドックスは起きにくいわけで、
告発者が信用されなければ告発内容も信用されないんじゃないかねえ。
ということよ。
>>445 疑わしいよw
が、疑わしい、だから創作、という結論を下してしまったら、
それはもはや「疑わしくはない、創作という明確な結論」になっちゃってるじゃん。
>446でも触れてるけど、これは書かれた内容の真偽(真であれ偽であれ)を
保証する立場の著者が、意図的に嘘をついている場合に、作者の主張は
どこまで信用できるか?という問題だと思う。
創作の怪談は最初から著者が「これから嘘を書きます」と宣言してから、
読者は作者の嘘=想像の世界を楽しむわけで、嘘を先に告白してるから罪がない。
創作の怪談を最初に「実話です」と宣言して書き、読者はそれを実話として信用したのに、
「実は最初から騙すつもりでした」と著者が告白したら、それは道義的に問題大ありだろう。
ここで何度か出てきてる話だけど、最初から騙すつもりであっても、「これから嘘を書きますよ」
という宣言の元に成り立ってる創作怪談は、それはそれでそういうジャンルとしてアリだと思うよ。
問題は実話だと言いながら嘘をつき、それを黙ってるということだろうな、と。
逆に、実話として聞きました、証明は難しいですが体験者の言葉を信じます、
皆さんがどう解釈するかは自由です、という姿勢で書かれた実話怪談というのは、
事実かどうかの結論は書かれていないわけだから、胡散臭いし疑わしい。でも、
創作だという明確な証拠も検証もないから、著者が告白しない限りは、
「もしかしたら本当かも」というのを楽しめる。
実話怪談と創作怪談の楽しみ方の違いは、そこじゃないかねえ。
実話って銘打ってたら本当かもしれないと思うわけだ。ふーん。
そこを逆手にとって書く人間がほとんどだと思うけどなぁ。
アプダクティーは自分の体験を本当のことだと信じてるわけだけど、
それを証明する事は出来ない(というか宇宙人による拉致なんてない)。
出版社の編集さんから「だかららしい話お願いしますよ」と言われてやってるだけでしょ。
449 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/02(月) 12:18:44 ID:GjYmjFI00
>実話って銘打ってたら本当かもしれないと思うわけだ。
それと同じくらい「嘘かも知れん」とも思うし「いや、もしかしたら」と思うわけだw
実話怪談ならではの現象だね。うん。
で、なんかネットで「創作を実話といって書いてくださいよ」みたいなことを
頼まれたライターの話をどっかで読んだ記憶がある。
こういうこともあるだろうけどさ。
それに関しても「責任を負うのは著者である」ことに変わりはないわけで。
って、これはログを読めば分かるね。
>>448 だから、どう受け取ってもいいのが実話怪談だしょ。
創作怪談は著者が「創作だ」と保証していて、創作以外の受け取り方を許さない。
創作の話として書いたのに「これは実話だ!」と言われてはかなわん、とw
そうしたら、著者の独創性っていう手柄は喪失するもんな。
実話怪談は著者が「実話だと自分は思う」としているけど、保証はしていない。創作とも断言してない。
だから、読者は「実話かもしれない」「いやきっと創作だろ」「創作に決まってんじゃん」と、
自由に受け取っていい。読者にとっての「主観的真実」が、必ずしも著者による制限を受けない。
著者の言うことを信じてもいいし、著者を疑ってもいいし、体験者を疑ってもいい。
どう受け取ってもかまわない、という意味で、読者の自由度が高い。
その代わり、「自分がこう信じたからそれが絶対的な事実」と、全体の価値を一読者が決めることはできない。
創作だったら価値(または実話か創作か)は著者が最初に宣言しているから、読者が考える必要がない。
実話は「真実について」は、あくまで著者は「実話として聞いた話を信じる」という立場を取っているけど、
その著者の選択を読者に強要はしていない。むしろ、「君たちはどう思う?」という程度。
自分で体験した著者はそれこそ「必死だな!」というくらいに問うだろうけどw
まあでも、証明できない体験、信じて貰えない体験のすべてをフィクションと言い切って安心するのも
別にいけなくはない。
「もしかしたらあるかもしれない」という低い可能性・不安に恐怖する、というのが実話怪談なのかもね。
胡散臭いっていうのは、「著者が内容を保証してくれない」「イエスかノーかをはっきりさせない」
から胡散臭いんだと思うのよ。
読者は検証できるわけじゃないから、その回答を著者に求めるけど、著者はそれにウンともイイエとも言わない。
だからしびれを切らして「やっぱりフィクションだろ!?」と迫る奴と、「もしかしたら本当かも」とビビる奴が出る。
実話怪談を楽しめるのはそこで「もしかしたら」と考えてしまう心配性、想像力の強い人間。
低い可能性であっても、可能性があるならば完全否定できない、と考えるわけね。
ここで創作を主張する人は、100%の可能性でないならそれはあり得ない、と考える。考えて、安心する。
結局はアレよ。
怪談を読む意義として、「ありえないことをありえない、と安心したい」という読み方と、
「ありえない。でももしかしたら。。と不安になりたい」という読み方があるんだと思うんだよ。
創作怪談は最初からあり得ないわけだから、安心して読める。また、実話怪談を読んだときに、
「そんなのありえない。フィクション」と言い切れば安心できる。
「創作怪談は最初からあり得ないと保証されてるから不安がない(ので物足りない)」
「実話怪談はあり得ないけど、絶対にないという保証がないから不安(そこに痺れる憧れるゥ)」
という、受け取り方の差が、この創作怪談と実話怪談の受け取り方の差なんジャマイカ。
ところで、創作怪談とホラーは違うんだっけ?
まあそれはともかく。
今、怪談を専業で書いている作家というのはいない。
だいたい、ホラー小説と兼業か、推理小説と兼業のどっちかだ。
推理小説とホラー小説の接近は著しく、いつの間にかホラーに鞍替えしちゃった
作家とか出版社もあるよねw
そうすると、怪談の組み立ての中には当然推理小説やホラー小説の作法が
組み込まれてると見て的はずれじゃないと思うんだがどうかな?
推理小説・ホラー小説っていうのは、基本は謎解き・犯人捜し・因果探しだよね。
創作怪談もけっこうそのケがあるけど。必ず「祟りの原因」や「オチ」があるし。
つまり、謎を解くことで、恐怖の原因と因果律を明確にしていくっていう流れで書かれてるんだよね。
推理小説・ホラー小説出身の作家が書いた怪談ってみんなそうでしょ。
犯人が生きてるか幽霊かの違いしかないという。
そうすると、フィクションの怪談=論理的な謎解きが可能なストーリーでないとダメで、
なおかつそういうフィクション内部での論理的検証が可能なもの、というのを求めてるのかも。
読者ももちろん「謎が解かれて原因がつまびらかになっていく」という流れを期待してたり。
あとは文芸だっけ?w このスレでは文技と呼んで区別してる「文章力の小手先の手業」かな。
実話怪談は、実話と銘打たれてるけど論理的な検証はできないもんねえ。
明確なオチもない話が結構あるし。そのあたりが、怪談はフィクションじゃないと納得いかない
人が馴染まないところかもしれない。
453 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/04(水) 13:33:57 ID:oHk3llnz0
部数主義のあなた達に贈る。
826 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/04(水) 13:17:42
>>822 バカを感化する必要などなく、理解力があって理解してくれる者だけを相手にすればよい。
作家には読者を選ぶ権利があり、賢い読者だけに支持されればよい。
教育が必要なバカな読者など不要だし、そんなものは無視していい。
835 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/04(水) 13:26:39
>>831 文芸界は読者の総数が減ろうがどうしようが関係ないってことだ。
例え100人でも10人でも賢い読者なら高額な本だって買い支えてくれる。
そういう賢い読者に向けてだけ書いていればいいことで、
理解力のない愚鈍な読者に合わせてかみ砕いてやる必要などない。
おまえらのような低俗カストリには分かるまいwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>453 ええと、そのまま行くと文芸は一部エリートだけが楽しむものであって、読者の拡大や
市場拡大、新規読者獲得のための努力などは一切不要な高尚なものである、
とゆーことになるのだが、それでおk?
最終的には部数100部くらいの同人誌に落ち着きそうな論理だけど、そこまで
自分のジャンルの発展性を否定するようなことを書いちゃっていいのか?
というか、それ、誰かの釣りじゃねえ?
455 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/04(水) 15:52:41 ID:ok+eWVES0
>>454 釣りだとしても、これは酷いw
釣られてみるけどw
>>453を作家側の主張だとそのまま受け取った場合、
「最低限売れれば、あとは売れなくてもいい」
「全ての読者を相手にしているわけではない」
「分からない読者は要らない」
「俺様が正しい」
というのが見え隠れしているというか。
で、このまんまの姿勢で商売すると出版社は潰れる罠www
最初の方だけ読んでカキコ。
お ま い ら 濃 い よ
ちゃんと読んだらまた来ます。
本を出版するという行為は基本的に商業なんだから部数が取れ無い本は糞。
今、何世紀だと思ってるのさ、オナニー文ならブログにでも書いとけ。
はっ!釣られたっ?!
458 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/04(水) 19:15:22 ID:NU3NptzF0
>オナニー文ならブログにでも書いとけ。
サーバーへの負荷になるので、それも止めて欲し(ry
「売れている本を書けば、作家か?」
「良質だが売れない本は、どうなのか?」
「部数が出ること、露出が増えることは悪か?」
「一部の読者にだけ分かる本が高尚なのか?」
とかいろいろありまんな。
>>458 いろいろ論点が混じってる希ガス。
少し整理しようよん。
・本が売れることは良いことか/悪いことか
・売れる本を書いたら善か/悪か
・売れる/部数が増える/露出が増える(注目を集める)ことは善か/悪か
・読者を限定する本は高尚か/読者数増(部数拡大)を目指さないので悪か
部数主義というのを悪意を持って使ってる人がいるようだけど、
少数の観測者が挙げる「良いという主観的評価」に対して、
「良かったから実際に買った、売れた」という数字(売り上げ/刷り部数)を、
「カウントできる評価」として指針にすることをして、部数主義と言うべきかも。
良ければ売れるし、良いと思う人が多ければたくさん刷れる/売れる。
良いと思う人がいても、それに賛同する人が少なければ売れない。
賛同する人が少ないものは果たして本当に良いものなのか?
では、賛同する人がたくさんいて、よく売れたという本があるとする。しかし、内容については
高く評価したくない、という人がいたとする。「売れただけで内容はないよう」
というのは、鋭い指摘なのか賛同者を得られなかった天の邪鬼の嫉妬なのか?
「売れている本を書けば作家か?」
についてだけど、商業的なスタンスで書かれた、または商品として販売された本の
著者は、すべからく作家であると思う。書いた当初は商業的なスタンスで書かれたものではなくても、
最終的に商品として売ることに著者が同意したものも同様で、その著者は売り出された瞬間から
作家(この場合商業作家)という責任は負う。
一方、売り出されない作品を書いても「作家」は名乗れると思う。同人とか、趣味のとかね。
その場合、対価として金もらって商売をしていなくても、作家として書いたものへの責任はついてくる。
故に、書いた作品が売れようと売れまいと、作家の自覚を持った瞬間から作家だし、
作家の自覚を持っていなくても、書いた作品が商品として売り出されたら自動的に作家になり、
鳴かず飛ばずの売れ行きだったとしても作家としての責任は1gも減衰しないのだとおもふ。
「本が売れることは良いことか/悪いことか」
については、これは論を待たず、「売れた方がいいに決まってる」だとオモw
著者の目的は「主張や伝えたいことを、面談より効率のいい方法で広めたい」
にあるわけだから、部数がたくさん出ることは、より広めることができて、
よりたくさんの人に支持される(可能性を持つ)ことだから、その著述目的に適う。
出版社は内容に関わらずw本がたくさん売れることで、稼ぐことが目的。
だから、たくさん売れる本を書く作家は出版社にとってよい作家だし、
そういう作家を重用するし(人気作家、話題の作家、固定ファンが多い作家)。
ただ、誰にでもまんべんなく売れる本(いわゆるミリオンセラー本)というのを
まんべんなく出せる作家というのはそうそういるわけではない。
たくさん売れる本をいつも書けるほうがいいに決まってるけど、いつもそうとは限らないので、
「出せば少なくとも○人は確実に買う」という作家も重宝される。
それが3000人とか5000人でもいいわけだ。その人数に合わせた部数を出せば損が出ない。
固定読者が4800人いる作家の本を後先考えずに10000部刷ったら、半分は売れないかもしれない。
でも、5000部だったら、ほぼ全員に行き渡り不良在庫が残らずに済む。量産大部数本
に比べれば利鞘は小さいけど、リスクも小さい。だから、リスクを考えて、囲い込みが出来る
固定読者を持つ作家というのが重用されるんだとオモ。
そういう作家を大人数抱えるようにしておくと、多品種少量生産みたいな感じで
市場が小さくてもなるべく損が出ない商いができる。
たくさん売れる本を書ける作家はもちろん善。
だけど、そんな確実性のある作家は少数だから、「少数でも確実に売れて損が出にくい作家」が次善。
なのだとおもふ。
「売れる/部数が増える/露出が増える(注目を集める)ことは善か/悪か」
これは、基本的には善なのだとおもふ。
著者の目的「たくさんの人に読ませたい」と、出版社の目的「たくさん本を売りたい」
の双方に適っている。それぞれ相乗効果でもある。
が、売れない時代wから買い支えてきた読者にとっては、「新参者がブームで飛びついた」
という感情を持つ人も出ると思う。いや、絶対確実に出る!w
読者が増えるってことは、遅れてきた人が多数派を占めるということでもある。
古参読者の「俺は早い時期からそう思ってた」や「俺だけが全部わかってる」
的な優越感を、遅れてきた人々はぶっ壊す。だから、古参読者は新参読者を
仲間と見なしたい気持ちと、浅はかな新参者として蔑視したい気持ちの双方に
苛まされる。ディープな読者ほど、「俺が先に」感情が強く、却って新参読者を
寄せ付けない排他性を持ってしまいかねない。
しかも、新参読者が増えれば古参読者は相対的に少数派になる。
古参読者が思うところの「後から来て、よく知りもしない連中が多数派になり、大きな顔をする」
という、腹立たしいw状態にもなる。著者は読者(新しい読者も含めて)を公平に
相手にしないとならないから、新しい読者に合わせた内容に変わってくると、
濃い古参読者は「日和やがって」「露出が増えてから○○○はダメになった」と、
かわいさ余って憎さ百倍的な思考に逃げ込んでしまう。
売れて部数が増えて露出が増えることは、著者と新たに開拓された新規読者、
それをアテにしてる出版社にとっては良いこと。
ただ、相対的に少数派に追い込まれてしまう古参読者(コアを形成する読者)
にとっては、「秘密の花園を荒らされる」ようなムカつくことだったりする。
昔からの読者が、好きな作家を腐す精神構造ってのは、そういうとっからきてるとおもふ。
だから、「本が売れて部数が増えて露出が増えるのは悪だ」と考えるのは、古参読者だと言えないこともなひ。
「読者を限定する本は高尚か/読者数増(部数拡大)を目指さないので悪か」
これは、
>>462とかなり重複する話だとおもふ。
読者を限定するということは、「読者を選ぶ」または「市場拡大を目指さない」
「大きな部数を想定しない」ということ。
例えば、最初から4800人の読者のためだけに、5000部だけ刷るというスタイルで、
「損をなるべく出さない」という戦略なら、著者も出版社も読者も合意の上で
やってるわけだから、それでいいのだとおもふ。
そういう戦略で出される本の内容が高尚かどうかというのは、著者と選民的古参読者
(コアの読者)の間で合意ができていれば、周囲がとやかくいうことぢゃないし。
出版社&著者の戦略が4800人以上読者は増える見込みはなく、この読者を
今後も減らさないように大切に大事に育てていきましょうね、という考えでいるなら、
この「高尚な本をわかる読者にだけ出す」という戦略は悪でわない。
ただ、「高尚な本によって市場拡大」というのは、ほとんど見込めない。
高尚かどうかというのは、価値の理解があって始めて下せる評価であって、
新参読者が価値を理解する機会が与えられないジャンルでは、その価値が高尚か
どうかを新参読者が評価することはほとんどできないわけでありおり。
新参読者獲得(部数拡大)を善とする戦略については、どうかというと。
これは、コア(古参読者)と新参読者という、段階の異なる読者の双方を
満足させないといけないわけで、コアのみに顔を向けた高尚な損を出さない戦略
に比べてリスクが大きいとおもふ。
確実に売れるコアが大きいほどいいのは間違いないけど、コアを大きく見積もるほど、
「同じものに同じように反応する」「同じものを同じように評価してくれる」可能性
というのは相対的に低くなるとおもふ。
母数が増えるほど、好みの多様化は進む。古参読者が少人数である場合、
多様化していてもその選択肢は少なくて済むけど。
同じものを提示しても古参読者と新参読者では反応が違ってくるだろう。
それを織り込んだ上で、新参読者へのフォローアップを手控えれば「マニア向けの
読者を選ぶ高尚な本」になる。(マニアが飽きなければ。でも微減はするとおもふ)
新参読者へのフォローアップを広げていくことについて、古参読者が協力的な姿勢
を示すかどうか、そういう古参読者の理解と協力を引き出しつつ、新参読者の開拓
と繋ぎ止めができるかどうかというのが課題なのだらうとおもふ。
これは、5000部以下の古参読者のみを相手にする戦略を採る著者+出版社も、
新参読者獲得で市場規模を大きくしようと言うリスキーな戦略を採る著者+出版社にとっても
共通の課題だらふとおもふ。度合いの問題だけで。
その意味で、そうした「市場維持と拡大のための新規読者開拓獲得」を、
古参読者がどのように受け止めるかというのが、ひとつのカギなのかもすれない。
ただ、古参読者は古参であるが故に、やはり優越感、新参排他、過剰な愛情w
を抱きがちでもあるわけで、そうした古参読者の愛に身を任せてしまうのか、
古女房を満足させつつ愛人の存在を受け入れさせてしまうのかというのが、
著者と出版社の腕の見せ所なのでわあるまいか。
465 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/07(土) 11:07:45 ID:FAmOvrMl0
お。おもしろいw
思わず読み込んでしまった。
これは読者と著者と出版社の立場が混ざっていていいね。
あ、ちょっと質問。荒れるかも(´・ω・`)
「いい本を作ったが売れなかった」
「いい本を出したが絶版になった。が後から話題になって評価された」
という話あるよね?
これでさ、書いた本人、または作った本人が
「売れなかったけどいい本だったんだ」
「絶版になったけど、後から話題になればいい。いい本はみなに認められる」
という発言をしたとする。
これは個人的にいただけないと思うんだけど、このスレ的にはどうなのかな?
>>465 長文でスマソ。
このスレの他の人のことはわからないが、個人的主観的意見でよければ書いてみる。
「いい本を作ったが売れなかった」
「いい本を出したが絶版になった。が、後から話題になって評価された」
について。
いい本というのを、何を基準に言うかという絶対的指針が共有できてるかどうか、なのだとおもふ。
例えば、極論だけど嫌韓流という本がある。70万部近くも売れた。
この本は、嫌韓感情を共有している人にとっては「真実を指摘したいい本」だ。
が、指摘されてる側の韓国から見れば「間違った嘘を世にばらまく酷い本」になる。
つまり、同じ内容の本であっても、その内容が「いい本」か「悪い本」かは、見る人によって異なる。
これはOK?
70万部売れたからいい本かというと、これが2000万部売れても韓国はいい本だとは言わないだろうw
つまり、本の内容(伝えたい内容、または品質)の「善し悪し」というのは、売れ行きとは無関係と
言えないこともないかもすれない。
どんなに売れない本でも著者と出版社とそれを新刊で買った古参読者は「あの本はいい本だった」
ということはできるし、そう思うことも間違いじゃない。主観的な問題だから。
ただ、実際問題としてその本が売れなかったのだとしたら、「いい本だと思う」という主観は、
多数の支持は得られなかった(理解されなかった)のだとおもふ。
嫌韓流で言えば、いい悪いにかかわらず、70万人は著者に賛同して買ってるわけで、
出版社的には「売れたからいい本」と捉えてるとおもふ。だから嫌韓流2が出たんだしw
そして、売れたからこそ「(売れたから、賛同者が多いから)いい本」という、いい本の根拠が
手に入るのであって、売れない場合は、「賛同者が少ないが、【私にとっては】いい本」という、
個人的評価/主観的評価の域を出ないとおもふ。
その意味で、「売れた」というのは、主観的評価が客観的評価と近いことを示す、
数値で示せるバロメーターなのだとおもふ。
その意味で「いい本だから売れる」のではなく、「売れて初めて、いい本だと言うことを許される」
のだというのは言い過ぎだらふか。
レビューや評論家の評価があればいい本か、という話もある。
もちろん、ないよりはあったほうがいいw
が、レビューや評論家は「売れているから注目する」ものでもある。そもそも売れていなかったら、
買おうとも思わない、目にも留めない、話題にもしない。
また、売れてはいないけど自分が気に入った、目に留めたからレビューする、という人ももちろんいるだらふ。
では、レビューによって本が売れるということがあるかというと、実は案外ないw
考えてもみてほしいのだが、レビューがたくさんある本というのは、「今話題の」だったり「評判の」だったりで、
すでに売れてる本、売れていろいろな人が手に取るからこそレビューがたくさん書かれるのであって、
売れてもいないのにレビューがたくさん書かれて、それによって逆に爆発的に売れるというケースは、
寡聞にして聞かない。
もちろん、知られざる例外はあるだろうし、自分も万能ではないので断言はしないけど。
また、「自分と趣味が近い人が書いているブログ」や評論は、自分と趣味が近いが故に視界に入る。
趣味が違う人の世界には近づかないわけだから、自分の趣味じゃない世界で話題になっているかどうかを
確かめることはできない。自分の趣味の、行く先々で目に入るからといっても、それを書いているのが
全部知り合いばっかりwだったら、それは「広く話題になっている」とは言い難い。
そうするとやっぱりレビュー(がたくさん書かれる)というのは、売れた後の話ということになる。
そして、売れている=評価され支持を得ているという客観評価を、誰にでも計測可能な数字で
見ようと思ったら、部数・売れ行き・順位などで見ることになるのだらふと思う。
そうでなければ、出版社に営業担当がいる意味がないからw
468 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/07(土) 11:33:37 ID:FAmOvrMl0
>「賛同者が少ないが、【私にとっては】いい本」という、
>個人的評価/主観的評価の域を出ないとおもふ。
うん。それだと思うね。
これも個人的な話なんだけどw
結局いいわけだと思うんだよね。著者の。
著者自らがそんなことうぃうのは自分の仕事への責任放棄だと思う。
それに出版社や読者はいい勘定を持たないんじゃないかな、と。
もちろん読者からそういう評価を受ける本もある。
絶版後に話題になって、再販決定したものもあるし。
新耳とか超怖の復活とかは読者の声に後押しされたのが大きかったんじゃないかな?
(出版社の熱意もあるだろうけど)
って。
>>467www
確かにそうだ。特に実話怪談本は好事家が買うのが多いだろうしw
客観的に見るなら「部数・売れ行き・順位」だね。
>>468 「私はいい本だと思う。思っている」というのは著者の主観評価。
それを出版社がどのくらい信じてるかwが部数に現れる。
出版社が著者の言い分を真に受けてwいた場合、5000人の読者に対して50000部刷っちゃうかもしれない。
それで50000部捌ければ著者は正しく出版社もそれを正しく評価したことになる。
で、そんなに売れなかったら、著者の力量を見抜けなかった出版社の責任。
かつ、次からは本が出ないか、5000部しか刷って貰えないか。
絶版後に「あの本はいい本だった」という評価が高まって復刻にこぎ着けたのだとすると、
それは5000部しか刷っていない本に対して、10000人の需要が発生してる状態なのだとおもふ。
出版社の思惑以上に求められているということで、需要があるわけだから、
その分を刷らないわけにはいかない。
でも、実際に何人が実需要となっているのかは、「売れた結果の売れ行き」と違って予想は難しい。
だから再版復刻というのは、声が上がっても実現しにくいんだとおもふ。
その意味で「復刊ドットコム」なんかのように、将来発生する実需要をあらかじめ計測できるというのはおもすろい。
出版社というのも一枚板ではなくて、編集部と営業部のせめぎ合いというのは結構あるらすい。
その手の話はよく聞く。
編集部は著者と読者の声という数値化しにくい「手応え」に基づいて部数を要求し、
営業部は過去の実績という数字から部数を決めてくるわけで。
編集部が営業部より強ければ、編集部(著者)の希望通りの数字が出せるんだろうけど、
編集者が営業部に強く出られるのは「過去に売れた本を出した」という実績がある人の場合で。
編集者に出版社内での政治力wを持たせるか、持っている版元編集者に首を縦に振らせる実力がないと、
そういう車内政治的な争いに勝ち抜いて部数確保はできないんだらう、とおもひを馳せる。
470 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/07(土) 11:46:29 ID:FAmOvrMl0
>そういう車内政治的な争いに勝ち抜いて部数確保はできないんだらう、とおもひを馳せる。
出版業界は伏魔殿だなw
超怖ではAが復活したばかりの頃に「とにかく愛読者ハガキ(アンケートハガキ)を書いてくれ」
というキャンペーンをやってた記憶がある。
あれの理由も、ハガキがたくさん戻ってくるというところでしか、営業部は手応えを計れないかららすぃ。
赤兜の大昔の日記に、著者が送っていたお知らせメールの一回目かなんかのコピーが載ってて、
そういうことが書いてあった。ソース引こうと思ったらもうキャッシュから消えてたよママン。
事前注文、予約というのは発売前にわかる「読者の声」なんだらう。
数字を相手にする部署にとっては。
>>470 出版業界だけの話ではなくて、フツーの製造業でもよくある話。
営業部が持ってくる企画は話を大きくなりがちだし、経理はシブチンだしw
そういった財布を握ってる部署と風呂敷を広げる部署がどこか、という差の問題で、
どこも事情は変わらないのでわあるまいか。
473 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/09(月) 22:13:38 ID:JFofZzur0
25 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/09(月) 22:11:51
A 怪談文芸論者東原理主義(極右)
東さんを否定する者は全て敵
B 怪談文芸論者保守派
怪談乃怪が好きでその趣旨に同意
C 怪談文芸否定論者文芸派
怪談文芸を志向しているが実録は加えるべきじゃない
D 怪談文芸論者塾生会
怪談文芸を志向しているが実録を重視
E 怪談文芸否定論者実録派
怪談文芸を志向せず実録はそっとしておいて欲しい
F 反怪談乃怪勢力(極左)
東さんが怪談文壇を形成しようとしていると考え反発
G ノンポリ応募者
どこの賞でもいいし怪談じゃなくてもいい、とりあえず腕を磨きたい
476 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/10(火) 10:25:46 ID:6sfDDmIg0
サンクス。移動した。コピペも乙。
後は回答を待つだけか。
とはいえ「理解の浅い懐疑主義初心者」や
「ちょっとした知識を得た中学生」みたいな回答や逃げにならなければいいが。
創作文芸板から移動。
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/bun/1160324435/211-213 211 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/10(火) 10:11:46
とりあえず、文芸をアートとエンターテインメントどっちだと捉えてるのか知りたい。
そんで、実話怪談を好んでいるからって、超常現象ビリーバーとは限らなくね?
胡散臭い話って事を承知で楽しんでいる人の方が多いと思うけど。
あと、新耳が創作文芸なら実話怪談と名乗るのおかしくね?
実際に体験した人がいる実話怪談として売ってきたのはズルくね?
212 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/10(火) 10:13:15
続きはこちらでどうぞ。
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1156555799/ 213 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/10(火) 10:23:20
実話とか聞き書きとか現代民話とか名乗れるのは、
基本的に体験談を書き記してるって立場だからだと思うのよ。
上手に書いて読者を怖がらせるのがメインで、
体験した怪現象を自由に改変しながら書いた話、
これを実話怪談て呼べるのかな。
創作怪談にとっては本当にあった事も含まれていますって
売りに出来るのかも知れないけど、
実話怪談が作者の空想も混ざってますとか言うと
そんなの誰が買うんだよってなんねえ?
>>476 該当書は、「エイリアンは存在しない。存在しないのに、なぜ存在するように思いこむのか」
という書で、心理学の視点から書かれている、ということで了解した。
で、リンク先のレビューにもあるように、「ないという前提から始める」書であるわけで、
「ないという前提が正しい」ということを証明する書ではない。
故に、「幽霊はいない。いないのになぜいるように思いこむのか」ということを、実話怪談の
体験者の体験を否定するところから入ろうという批判だと受け取った。
これもリンク先のレビューと同様に、「幽霊がいないという前提を証明する」ことにはならない。
著者が心理学者の立場から「納得できる理由付け」を導きだそうとしたという点においては、
感心するし、そうした努力の見られる書なのだろうと思う。
が、「絶対に間違いない」という前提が、本当に絶対なのかどうかについては、確定的証明
ができたと断じることは難しいのではないか?
その「前提の盲信を、そのままにしていいのか?」というのが、実話怪談を成立させるポイント
だと思うのだが。
479 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/10(火) 10:38:51 ID:6sfDDmIg0
>「前提の盲信を、そのままにしていいのか?」というのが、実話怪談を成立させるポイント
だね。
間違った意見かもしれないけど、
実話怪談好きというのは「ないという前提」も「あるという前提」もない状態から
始まっていると思うんだよな。
「絶対ないとも絶対あるとも言い切れない」部分に実話怪談の面白さはあるわけで。
前述の書籍やリンク先を読むと、「心理学の立場から語るオカルト」という魅力はある。
それにこういう話は嫌いじゃない。だけど、実話怪談の成立に関して、これを例にとって
批判するのは、ちょっと違うような気もする。
>>478 観測できない=存在しないものとして考えてよい、というのは科学の基本で、
例えばニュートリノなどのように長く「存在は予測されていたが、観測できなかった
ので、ないものとして考えられていた(ニュートリノの重量はゼロで計算されてきた)」
というものもある。
もちろん、現代ではニュートリノは実在し、観測もされていることをニューカミオカンデ
などの存在とともに、広く知られるとおり。
しかし、観測される前までのニュートリノは「おばけ」と同じ扱いだった。
ニュートリノが観測できるようになったのは、科学技術の進歩の結果だが、観測技術が
進歩しなければ、今もニュートリノは「空想上の存在で実在しないもの」に留まっていたはずだ。
つまり、「現代の科学で観測できないものは、現状ではないものとして認識するしかない」
ことを了解することと、「新しい技術で観測できるようになるかもしれない、または観測された」
ことを否定することとは、別の問題だと言える。
現時点での科学では幽霊やそうした存在を定量的に観測できないし、100%の説得力を
持って記録できないから、現代科学では幽霊は「いない」ことになっている。かつてのニュートリノと同じ。
が、ことの全てが実在するかどうかはともかくとしても、その全てが実在しないと否定することには
無理があるのではないか、という意見もある。
これが、オカルトが完全否定されない、実話怪談が存在する余地を残している部分でもある。
が、「今、現時点で可能な科学技術理論に基づいて、総括的な結論を得よう」としたら、
「心理学的な見地から言えば【気のせい】」と結論づけて説明することは、たやすい。
たやすい方法に逃げ込んで、可能な範囲での説明を行っているのが前述の参考文献であると言える。
現時点での科学に基づいた結論という意味では十分足りるとは思う。説得力もあるし、それを
信じることで心の平安を得たい人には、格好の教典たり得ると思う。
が、それもまた、「ないという前提」に立っているに過ぎないといわれたらいかがなものか。
悪魔の証明というのがある。
「ないものを、ないと証明せよ」という奴で、ないものは厳密には証明できない。
あった(在った)からこそ、何らかの証拠が残るのであり、在るという証明をするのは可能だけど、
それが「なかった」証明をするのは酷く難しい。というより厳密には不可能。
可能性というのは「可能である要素」を言い、不可能ではないことを証明しかできない。
実話怪談は、そうした「痕跡」を「ないとは思うが、あるかもしれない可能性」として列挙する
ものであって、「あるかもしれない可能性」「ないと言えない可能性」を提示することはできる。
だから、「ないと思うけど、絶対にないとは言えない」という結論が残る。
創作怪談のうち、実話を下敷きにしないもの(完全創作)について言えば、
著者が「それは絶対にない。すべて著者の脳から出た」と保証し、それを読者が受け入れることで
成立しているので、「絶対にない」という著者の主張を信じるなら、そこに幽霊は実在しない。
が、実話を下敷きに書かれた創作怪談は、「下敷きにした実話」の存在によって、
完全な創作という、創作怪談(創作小説)の拠り所が消えてしまうのではないか。
a)100%創作
b)99%から1%の間の創作
c)99%から1%の間の実話
d)100%実話
こういう区分があったとき、「1%でも創作が入っていれば、それは実話怪談とは言えない」
という主張から、(d)以外の全ては創作怪談または創作性のある怪談、実話の否定=著者の手柄
となってきたが、実は逆で、(a)以外の全て(b)〜(c)は、すべからく「創作ではない可能性」を色濃く残す、
「実話怪談」と呼んでいいものなのではないか。1%でも「完全創作ではない可能性」が残っていたら。
(a)〜(d)の組み合わせのどこかに線を引くとしたら、それは(c)(d)の間ではなくて、(a)(b)の間だと思う。
1%でも実話の可能性が在れば、それは実話怪談と受け取ることが可能だから。
482 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/10(火) 10:48:03 ID:6sfDDmIg0
で、新耳なんだけどさ。
幽第5号から引用してみると
京極「「新耳」の多くは実話をもとにした創作怪談でしょ?
(中略)怪談としてのキモはやはりやはり書きかたなわけで」
それを受けて木原氏は
木原「これは作り物を交えていない、ゼロから作ったものじゃないんだ、
ということを提示したかったんです。
とある。
気になるのは京極発言の「「新耳」の多くは」」というのと「もとにした創作怪談」という部分。
あと木原発言の「これは作り物を交えていない」という言葉。
京極氏の言葉だと「新耳は実話を怖く読めるように書いたもので文技をつかったもの」だから、
(文技部分は)創作である、といいたいのかな?と思う。
だけど「新耳の多くは」という言葉が気になる。「新耳のそれ以外は?」とか「多くがどこにかかっている?」
とか考えると、京極氏は「新耳は実話ベースの創作怪談。フィクション」といいたいのか?とか思ってしまう。
それに対する木原氏は「作り物は交えていない=文技は駆使しているけど、フィクションは髪の毛一筋たりとも
交えていない」という京極発言に対する主張にも聴こえる。
このあたり、ちょっとひっかかった。
ここでいう実話の定義は、「著者が創作したのではない出来事」
「著者が自由に設定できないできごと」だと思う。制限枠、でもいい。
著者が自由にできない条件が盛り込まれたのが実話怪談。
著者が全て自由にできる条件のみで構成されているのが創作怪談。
比率として、創作の占める割合が増えていけば、創作怪談に近づくか
と言われたら、100%全てが創作である、例えばエターナルファンタジー
のようなものしか、100%の創作とは言えないかもしれない。
>>482 その辺りは、怪談之怪の中でもまだ結論が出せていない部分なのではないか。
創作怪談を単に「怪談を書いた」という意味に置き換えただけなら、京極意見も存在しうる。
「ゼロから著者のみによって作られた(前提から出来事から体験者の存在に至るまで)怪談」
という意味で京極氏が使っているなら、少なくとも木原/中山氏の意見はそれとイコールとは
思いにくい。
東氏の「ネタが実話でも創作でも、それを描く文芸(文技)が重要で、ネタの実存性は問わない」
というのは、怪談之怪が分解しないための理由付けなのではないか。
ただ、いずれも、著者の保護が主眼に置かれているように思う。
そうしておけば、ネタが「事実と偽った捏造でした」ということに至った場合でも、「そう思いこませる
だけの恐怖表現にこそ価値がある」とすることが可能だから。将来的な責任回避のための布石、
と言ったらそれは穿ちすぎだろうか。
218 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/10(火) 10:48:43
入口は二つあってもいいのよ。
店の看板はそれぞれ掲げられてるの。「実話」「創作」って。
そのほうが一見(いちげん)の客には親切だから。
でも常連になって、店の奥のほうまで覗くようになると
二つの店が実は奥の方でつながってることに気がつく。
「実話」から入ったのに「創作」から出てしまったり。その逆もある。
この「店の奥のほうの混沌としたグレーゾーン」のことを
実話怪談作家の多くは意識してると思うよ。
そっと「創作」店舗のほうに行って商品を補充してきたりとかね。
でも「実話」の客はある意味ピュアな人も多いから
そんなことは口が裂けても明かせないと思うけど。
>>485について言えば、「実話怪談も創作怪談も怪談文芸」と言い切ることで、
入り口をひとつにしたい、というのが真実ではないのか?
店の看板はひとつしかないのに、店の中に入ると男湯と女湯に別れてる銭湯のようなもの。
読者は男湯女湯双方のいずれかを、結局は選ぶことになる。
確かに中には混浴部分もあるかもしれない。
しかし、男湯側が混浴に積極的だったとしても、女湯側が混浴に積極的とは限らない。
「どちらも湯には違いないのだから、すべてを混浴にすべきだ!」
という男湯の主張に対して、女湯は「湯は必要だが、全面混浴にする必要はない」としている
のが、現状なのではないかとも思われ。
487 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/10(火) 11:02:30 ID:6sfDDmIg0
>>484 確かに怪談之怪は「怪談の定義づけはしない」といっているね。
これはある程度の回答が出ると、怪談之怪メンバーの主張が
それぞれ別の方向向いちゃいかねないかもしれない。
あながち穿ちすぎの考えでもないかもね。
で
>>485で「でも「実話」の客はある意味ピュアな人も多い」。
木原氏も自分のことをそういう感じでいっていたような気がする。
「体験と取材を押し出した」とかいっていたところで。
>>481 a)100%創作
b)99%から1%の間の創作
c)99%から1%の間の実話
d)100%実話
線を引く場所がaとbだとしても「創作と実話」を一緒に考えるのは余計無理があることになる。
「著者の主張はどっちなのか?」
「取材した体験談自体をいじって創作にしていいのか?(創作した部分はどこなのか)」
とか考える事は沢山あるし。
>>474の210に対して。
>「話を作る方なので実話怪談と呼ばれる作品はズルイ作り方にしか見えない」
というのは、怪談創作を志す人にとっては、至極自然な感想だと思える。
これは、創作怪談は「アイデアをゼロから構築して恐怖譚を紡いでおり、著者のウェートが
大きく、かつ、著者の手柄が大きい」という前提に立っている。それはまったくもってその通り。
実話怪談は「体験者、ネタ提供者」が存在し、その存在を作品成立の拠り所にしている
わけだから、ゼロから自分のアイデアだけで勝負する、創作怪談著者から見れば
「ズルイ」=「他人の成果を元にしているのに、作品に対する賞賛は著者が受けるのはズルイ」
というニュアンスであろうと思う。
ここを、「体験者がいようといまいと、恐怖表現の技術の部分のみ注目することで、
どちらも等しく評価しよう」という仲裁役wに入ろうとしているのが、怪談之怪東主張なのではあるまいか。
つまり、東主張は「(すでに獲得している)実話怪談著者を、怪談文芸の枠の中で評価するために、
実話怪談はズルイのではないか、という創作怪談著者の不満を慰撫すること」が目的なのではないか。
結果的に、「実話とは言ってるけど、所詮は創作だから」という形で納得させたり、
「表現技術こそが注目すべき点で、ネタ(体験者の有無)は無関係」とすることで、
「実話怪談のズルさ」を緩和させよう(創作著者を納得させよう)という試みなのかもすれない。
489 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/10(火) 11:31:49 ID:6sfDDmIg0
ずるい、と言われても読者からすれば関係な(ry)。
といえど、著者側からすると色々あるんだろうね。
だけど、「アイデアを内から出す」創作は好きなようにアイデアを転がすことが出来るメリットが。
「アイデアが外から来る」実話は好きなようにネタをいじれない、というデメリットも。
アイデアが外からくる実話怪談が「ズルイ」と考える理由を考えると、
a)「自分で考えずに怖い話を借りてこられるからズルイ」
b)「創作怪談は信憑性を出すのに苦労しているのに、実話怪談は「実話だ」というだけで、
信憑性を掌中にするからズルイ」
が考えられる。
(a)について言えば、オリジナルのアイデアを内からわき出させる努力・苦労は忍ばれるが、
外にある実話を探り当てる努力・苦労には、オリジナルのそれとは別種の苦労があるわけで、
「サラリーマンは大変。だけど月給とボーナスと社会保障があって羨ましい。でも想定外の収入はない」
「自営業は大変。だけど想定外の収入があって羨ましい。でも月給とボーナスと社会保障はない」
みたいなもので、それぞれ苦労やメリット・デメリットが異なるので、隣の芝生をうらやんでもしょうがない。
(b)について言えば、創作怪談は最初から創作なのに、恐怖を裏打ちするのに「信憑性」
を出そうと苦労している、ということが窺える。結局は「信憑性=事実らしさ」がないと、
恐怖譚を恐怖してもらいにくい、という点は創作怪談も認めている、ということか。
その点をして、「最初から実話であると宣言している実話怪談は、創作怪談がもっとも
苦心する「もっともらしさ」をたやすく手に入れてるところが許せない」ということかもすれない。
491 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/10(火) 11:42:29 ID:6sfDDmIg0
だけどその「もっともらしさ」がない実話怪談もある場合が。
もちろん文技でのもっともらしさとは違うよ。
「体験談のもっともらしさ」という点で。
よくあるのは「これは実話ですね」という言葉。
要するに「あるかもしれない度が高い」体験談。
金縛りであったり、火の玉を見たであったり、女が立っていたとか
そういう「ありがち系」をはじめとしたもの。
逆に「あるかもしれない度が低い怪談」でも、
実話、という黄門様の印籠的な言葉で認められることもある。
このあたりも「ずるい」に直結するのかな?
補記:「あるかもしれない度」はビリーバー的「あるんだって!」という
断言ではなく「あるかもしれないね。もしかしたら」という視点での
楽しみ方を指す。
あ、しまった、俺ずっとageてた。
すまんです。
荒れもせずに議論が成立しているスレを久しぶりにみた
>>493 厳密には議論ではないのかもすれないw
が、投げかけられた意見や疑問について、ひとつひとつその言葉の趣旨を
紐解いていくというのは、必要なことかも。
うまく説明できなくても、言いたいことの断片は隠されているだろう、という予測から、
疑問や主張の骨子を見ることは可能だと思うし、それに対する考察や別の立場からの
反論も可能だとおもふ。
また「異なる立場にとっての正義」を理解することで、どこかにおとしどころは見つかるのかもすれない。
それが「対話による解決」だとおもふ。
もちろん、「拒絶による一時的解決(問題炎上の無限モラトリアム)」というのもないではない。
それが鎖国政策であれ、相互無視であれ、没交渉を徹底することで
「交渉しても絶対に合意できないのだから、交渉によって生じる齟齬・摩擦を能動的に回避する」
というのも、問題を加熱させない方法の一つとしてはアリだろう。
スルーの徹底は「没交渉主義・拒絶による一時的解決・モラトリアム主義」であり、
短期的な問題回避としては有効。2ちゃんねるの多くのスレでは「スルー推奨」や「NGワード徹底」
で、意見衝突を回避する方法を獲得している。
それ以外の方法としては、やはり「相互に相手を研究すること」、
「賛同者(シンパシー)を多く獲得して多数意見の構成者を増やすこと」
しかないだろうともおもふ。
賛同者の獲得のためには、興味がない人の興味を引く、不理解の不を解きほぐす努力を重ねる
のが、効果的だらふとおもふ。
気長に続けていくのが吉ではないだらふか。
本当は、相互考察というか「自分側から相手がどう見えているのか」
についてを、同じフィールド(スレ)で相互に、決して相手を見下すことなく、
相手の主張する正義を尊重しつつ、それについての理解を深めあう、
という形で、冷静に行えるのがベストなのだとおもふ。
その場合、扇情的な発言を控え、また自作自演(自分で発言して自分で賛同)
ができにくい、ID付きのスレでやるのがよりベター。
なかなか難しいことだと思うけれども、いつかそういう落ち着いた議論が
できる日がくるといいとおもふ。
496 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/11(水) 14:27:07 ID:9N5waz660
>>1および
>>6より
>目指しているのはどこか、
>支持している読者層は、
このあたり、かなり的を得ていると思う。俺は難しい文を書くのが今は苦手になってしまった。
ここ数年は、対象とされる年齢層、そしてメディア(今の場合ならIEや専ブラのフォントなど)による「読みやすさ」
そして何より読者が何を求めているか(これは反応を見ながら)
なんてことを考えながら書いてる。まぁ趣味のレベルだけど。
まず怪談好き、怖い話が読みたい、と思って読むのだから、怖くなれば始まらない。
たまに感動話があってもいいけど、基本的には恐怖心を味わいたい。
ここが創作・実話共に目指しているところなのかな。
恐怖は身近なものであるほど共感しやすいよね。
その点、実話怪談は「次は自分も…」という単純明快な恐怖の構造が作れるメリットがある。
創作怪談は共感を得るのが難しいので、海外のホラー映画なんかはすぐにグロやショッカーに走りたがるよね。
安易だし、それなりに効果はあるんだけど文章で表現するととても陳腐になり勝ち。課題かな。
「読みやすさ」というのも大事だと思う。
一時ほど顕著ではないけど活字離れは続いていると思うし、そんな「文章読むのはあまり…」なんて子供たちが
読者層の大半を占めているのが怪談・ホラーというジャンルなのだから、「読んで欲しい」のならば簡単な表現を
心がけるのが基本なのではないだろうか。
以前にやってしまったことなのだが、掲示板に書き込んだあとで「これ(漢字)なんて読むんですか?」というレス。
もう読者が冷めているのがわかってしまう(笑) 読みやすさが大事だと痛感した出来事でした。
長文・駄文失礼いたしました。とりとめのない文章ですがツッコミ・補足お待ちしておりますm(_ _)m
>>496 読みやすさというのは、いろいろ解釈できるところだとおもふ。
例えば、「平易な表現」「かみ砕いた表現」をして読みやすさという場合もあるし、
「難しい漢字を平仮名に開く」も読みやすさだし、「取っつきにくいテーマから、取っつきやすいテーマへ」
というのも読みやすさを工夫する上で切り口の一つたりえるとおもふ。
IEや専ブラのフォント、極論すればAAを使うか使わないかまで含めて、「読まれやすさ」
を工夫するための切り口は無限にあると考えられうる。
この「かみ砕いた表現で読まれやすく」というのを、「日よって読者に媚びた」と取る人もいるし、
「読ませたいテーマを読者に届けるためには、表現方法が変わったっていい」と取る人もいる。
これは、表現方法そのもの(手段)の技巧を見せたいのか、テーマ(目的)が届くなら表現方法(手段)
はフレキシブルであってもいいと考えるのかの違いでもあるかもすれない。
もし、テーマ軽視、表現方法(手段)そのものの優劣や錬磨研鑽度を誇りたいのだとすると、
それは手段と目的が転倒している、という誹りを逃れられないかもすれない。
実話怪談であれ創作怪談であれ、目的は「テーマを読者の心の深いところに届けること」であって、
文芸や文章技術とされる表現方法は手段に過ぎない。と、おもふ。
その手段を用いて、何を伝えたいのか。
その「何を伝えたいのか」がおろそかになっていって、「どうだ、恐ろしい表現方法だらう」という
方向にばかり目が向いてしまうと、当然ながら「それであなたは何を言いたいの」ということにもなりかねなひ。
創作怪談=小説は、「誰について描きたいのか、何について訴えたいのか」が
抜け落ちてしまったら、すでにその時点で魂が抜け落ちていると言わざるを得なひ。
もちろんそれは実話怪談でも同様だが、実話怪談は体験者から託された、
「変えてはいけないテーマ」が常に作品全体を支配することになるとおもふ。
そのテーマの実体は「呪い」であったり、「何はともあれ怖かったんだ!」といふ
体験者の悲痛な叫びであったりするかもしれなひ。
その体験者の感じた感覚を損なうことなく再現することに、恐怖表現という技法を
注ぎ込むのが実話怪談なのだとおもふ。
創作怪談なら、著者当人が読者に届けたいテーマがそれにあたる。
この部分を蔑ろにして、「恐怖表現とは」という話にばかり気が向いてしまうのだとすれば、
それはやはり些か、人形を作って魂を込めなひようなものではないかとおもふ。
>497
もひとつ。
「活字離れ」についてなのだが、おもふに活字離れというのは言われているほど
進んではいなひとおもふ。
まず、漫画。絵柄ばかりに目を奪われがちだが、漫画はフキダシの中の活字を
抜きにしては物語を理解できなひ。
次に、メール、ブログ、掲示板(2ちゃんねる含む)といったネット文化。
これらは「文字コミュニケーション」であるわけで、当然ながら文字(活字)を
読まないことには成立し得ないし、発信する側にまわったとき、活字/文字を書く
ことに接する。つまりは、文字を読む、書くという習慣について言えば、ネット時代以前
よりも、ネット時代の渦中にある現在のほうが、遙かに増えているのだとおもふ。
これだけ活字が読まれているのに書籍を読む方向にシフトしないのは、
提供媒体の形状変化が大きいのではないかとおもふ。
かつて、書籍と言えばハードカバー化粧箱入り網紐の索引付きであった。
が、そんな本は持ち歩いて読むのに向かない。値段も高い。読書習慣は、
家でじっくり腰を据えて読むものではなく、通勤通学や「ちょっとした時間の空き」
に文庫を読むというものに変わった。値段も安いし。
しかし、文庫の値段も500〜600円以上するようになった。(文庫が登場したばかりの
頃は、1冊180円、高くても250円、300円程度だったのに)
さらに、テキストビュアーとして便利な携帯電話が普及するとなると、文庫ですらも
「重くて嵩張って邪魔」ということになるのだとおもふ。
携帯電話でテキストを売る商売が成立しはじめているのも、ここらへんの
読者側の読書環境の変化によるものではないかとおもふ。
本(文章)を読む習慣そのものが減っているわけでは、決してないとおもふのだ。
それを踏まえる必要はあるかもしれなひ。
>>496 著者というものは、「書いたものができるだけ多くの人に読まれる」ということを、
目標とするものなのではないかとおもふ。それは著者にとって正義である。
その点に絞れば、創作・実話それぞれの著者の目指すところは同じはずだ。
できれば「できるだけ多くの人に読まれたい」のだとおもふ。
読まれたくなかったらそもそも書かないとおもふし。
ただ、「読んだ人が理解してくれる(=受け入れてくれる)」とは限らなひ。
a)理解されず、拒絶されるのが怖いから、できるだけ平易に書く、という選択肢もあるし、
b)理解されず、拒絶されるのが怖いから、理解してくれる人だけが読めばいいという選択肢もあろう。
a)を突き詰めていくと、表現の改良を繰り返しながら、平易な表現または受け入れられやすい表現
を模索する方向に進んでいくのかもすれない。それがいい結果になる場合もあろうし、
逆に「またそれかよ」的な批判を浴びる可能性だってある。諸刃の剣だ。
b)を突き進めていくと、市場拡大・・というよりも、「できるだけ多くの人に読まれたい」という、
本来の目的が阻害されてしまふ。読者を著者が選ぶという行為を肯定する著者も
いたが(井伏鱒二とか)、本来的な「書くこと」の意義から言えば正しいとは言いがたひ。
諸々難しひことだとおもふ。
501 :
496:2006/10/11(水) 19:40:04 ID:9N5waz660
>>497-500 早速の補足とご意見、有難うございます。
>テーマ軽視、表現方法(手段)そのものの優劣や錬磨研鑽度を誇りたいのだとすると
かつての自分を思い出しました^^;
文章を書くこと自体が楽しかった反面、ただの言葉遊びと忠告をを受けたこともありました。
>その(実話怪談の)テーマの実体は「呪い」であったり、「何はともあれ怖かったんだ!」といふ
>体験者の悲痛な叫びであったりするかもしれなひ
>創作怪談=小説は、「誰について描きたいのか、何について訴えたいのか」が
>抜け落ちてしまったら、すでにその時点で魂が抜け落ちていると言わざるを得なひ。
う〜む、身につまされる言葉です。
創作であっても「怖ければいい」逆に言えば「怖くなければいけない」とつい思ってしまいます。
ある意味、自由であることが創作のいい部分でもありますもんね。
単純な「怖い話」に留まらずもっといろいろなテーマを持たせて見る。
少し、噛み砕いてもう一度考えて見ようと思います。有難うございましたm(_ _)m
>>501 礼にはおよばなひ。
自分は孫娘の誕生を心待ちにする、一介の老いぼれに過ぎなひ。
503 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 01:18:51 ID:dgwO6Gi00
ちょっと荒れたらすまぬ。
>>503 言うなれば、これが「手法に固執してテーマの伝達が疎かになる」の一例と思ってもいいかもすれない。
ここでの発言は、主張される内容が重視されており、表現手法そのものは重視されていなひ。
文体・口調・著述癖がこの場合の手法・表現手段に当たると言っていい。
>503の指摘は手法の稚拙を貶すものであり、テーマに当たるものがなひ。
こうした表面的な手法の功劣に囚われすぎることで、結果的に語るべきテーマが軽視されていく
傾向は、テーマそのものが自由に設定できる創作怪談では、しばしば陥りがちな落とし穴
なのではないかとおもふ。実話怪談にも同様の落とし穴がないとは言えなひ。
が、実話怪談には「体験者が得た体験」という絶対にはずせなひ大テーマがある。
(これをはずすとそもそも実話怪談を語る意味が消失してしまふ)
表現手段・手法は錬磨されるに越したことはなひ。
その点については同意するが、それはテーマの表現・演出のための手法としてであって、
テーマ伝達が成されるための副次的なものに過ぎなひとおもふ。
テーマ伝達なしに表現技術だけが錬磨された状態とは、それこそ「唄うまくして、唄う唄なし」
であろうかとおもふ。
505 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 09:50:47 ID:dgwO6Gi00
へたくそな懐古調というか、間違えた表記が散見された時点で、読むに値しないものと
判断されちゃうよ。使いこなせないのならいい加減普通の文章にしなさい。
中国製品の日本人向け取り扱い説明書並みの文章では、いくら真面目に書いてあっても
誰も読みはしないよ。
>>505 ところで、内容についての反論は?
特になければ、「読まずに判断」ということになるが。
「〜できなひ」「〜すれない」は、懐古調を意識したものではなくて、
2ちゃんねるに広く分布する語尾の方言程度のものとして、
こだわらずに読み流すのが吉。
著者の特定(正確には連続性)を示すサインのようなものだから。
さて、このように「作法の充実」を読むか読まないかの前提条件にしている
ところが、テーマより作法(この場合表現手法)を重視する態度という
指摘に、指摘された当人が担保を与えていると見てよい。
その証拠に、
>>505は「手法重視」については繰り返しているものの、
指摘された内容そのものに対しては、反応しないことで潜在的に指摘を
認めている。
507 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 10:41:49 ID:dgwO6Gi00
ならば502のような記載は控えなさい。
しかし便利だね。2ちゃ的表現という逃げ道を使えばどんなおバカな表現でも
自分ではなく2ちゃのせいに出来る。
きちんとした擬古文でも書いて御覧なさい。
>>507 あなたの言い分はもう分かったからw
では記載されている内容については、同意ということ?
それとも異論がある?
異論があるなら、ちゃんと書いてみて欲しい。
そこから議論が広がるからね。
あ、擬古文でもいいよ。
>>507 >502を控える理由がよくわからないのだが、それは
>>501最終行に対して
「そうした気遣いは不要だ」ということを表明してはいけない、という指摘だろうか?
そしてここは2ちゃんねるであって、どういった表現を使おうとも アリ ではないか?
少なくとも、創作文芸板ではないからね。
きちんとした擬古文を書く必然は特に感じない。
繰り返しになるが、
>>503,505,507
でID:dgwO6Gi00がこだわっているのは、すべて「表現技法」についてのみ。
伝達すべきテーマが重視されるべきであって、伝達のための表現方法や作法は
テーマに継ぐ優先度であり、表現手法が重視される場ではない場合、そこに
拘泥するのは本末転倒ではないか?
というようなことは、
>>504,506で指摘した通り。一応補足としておこう。
ここから導きだされるのは、「作法の充実」が第一条件で、作法が十分に整備されて
いないものは、そこに込められたテーマが読み取られないのは当然だ、というのが
ID:dgwO6Gi00の主張であろうと受け取る。
これは文芸(文章による表現技法)の【正確性】を重視し、その技法で何をするか、伝えるか、
という本来目的が軽視されている気もする。
いちばん近いのは、ディベートに接したイギリス人のようなもので、相手が英語を
母国語としない場合であっても、
「正確な英語でなければ、その発言内容は考慮検討に値しない」
という態度は、厳格と言えるかもしれないが同時に「把握力に乏しい」か、「形式重視」か、
「尊大」と取られる場合もあろうかと思う。
この場
>>495-501での話題は「表現方法」「作法」にはなく、「内容」にありそれを重視すべきだ、という
ものなのだが、ID:dgwO6Gi00の指摘はその部分には何一つ触れていない。それが全てと思われる。
510 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 11:29:58 ID:dgwO6Gi00
伝えたい事があるから表現するわけだから、内容がなければ仕方がない。
ただ内容を正確に伝達するためには正しい表現を用いなければならない。
表現がいい加減な文章というのは、正しく相手に伝えたいという気持ちがないと解釈する。
故にそのような文章は最後まで読まない。読んで欲しければまずキチンと書くべきである。
お前の書いた「ぷぷぷw」・「2ちゃ的表現」等は表現として正しいのかと。
>>510 では
>>509についてはどうなのだろうか?
それに「文章をちゃんと書け」以前に「ちゃんと内容を読んでいるか」疑問。
>>510が思う正しい文章で書き直してくれてもいいんだが。
>>510 「正確な英語でなければ相手にしないイギリス人は正しい」という理解と受け止めた。
「たどたどしい英語であっても、意志を伝えようと努力する母国が英語ではない人の主張を、
読み取ろうとする努力をする人」でありたい、と返しておきたい。
今しているのは、原語の違う出身国からきた異国人同士の会話に限りなく近い。
話法の完全性・正確性にこだわることで、本来目的であるコミュニケーションへの不介入、
または不寛容な態度を取ることを正しいと強弁するのは、いかがなものかと思う。
514 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 12:38:15 ID:dgwO6Gi00
ここ日本でしょ? 突然英語の話なんか持ち出したのは図星だったから?
英語を日本語に、イギリス人を日本人に置き換えて考えることも出来ないのな。
517 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 12:44:33 ID:dgwO6Gi00
訴えたい、伝えたいのであればそこまでやるのが最低限の礼儀だろ?
出版社が誤字・脱字をなくすために躍起になるのも正しく伝えたいから。
物書きであれば正しく書く事を目指すのは至極当然の事。
その上でメッセージを込める。
>>516 多分、「例え話をそのまま受け取るタイプ」だと思う。
もう少し平易に書かないと、理解できない人なのかも。
ではそこで再度質問しよう。
お前の書いた「ぷぷぷw」・「2ちゃ的表現」等は表現として正しいのかと。
堅い話を薄めるためにふざけた口調で書いてる、
そのぐらいの空気漏れにも読めるだぜ?
>>518 1行目(しかも文頭)以外読んでもないに赤いき○ねを賭けても良い。
というか
>>509も読んでいないに緑のた○きを賭けても良い。
>>520 それなら、それ以前の全てのテキストの語調には何ら問題はないな。
524 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:18:37 ID:dgwO6Gi00
こんな事も理解できないレベルの者が実話や創作について語ってると言うことが驚きだ。
道理でオカ板でも創作板でも痛い奴が現れるとここへ行けという理由が判った。
>>514 については、例え話が理解しにくい(連想力が乏しい)のだと理解した。
同情するが、残念ながらこちらの配慮では解決が難しい。
>>517 >>509はおそらく読み落としているのだと了解した。
再読をお奨めする。
句読点を忘れる程に必死か…
>>524 >>509を再読の上、意見を。
文芸板出身者は、技法と作法にこだわるばかりの頑固なイギリス人だということを、
まったく否定しない人なのだということもよくわかったよ。
でも、安心してほしい。
語彙に乏しく、連想力や応用力の拙い君が納得できるまで、包容力を持って接したいと思う。
実話怪談の元となる体験を経験した人間というのはね、自分の正気を受け入れて貰えるまで、
言い方や言葉遣いを変えて、辛抱強く説諭することには馴れてるんだ。
ばかばかしいの一言で投げ出す逃げ出す人の相手には馴れている。
さあ、じっくり話を聞こうじゃないか。
528 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:27:36 ID:dgwO6Gi00
とても人の話を聞きだすのに慣れている人の言葉とは思えない。
済まないが君の集めた実話怪談とやらをここで披露してみせてくれ。
さて、
>>517の理論に沿ってみることにしよう。
君の主張が正しいのだとすると、
・正しくしゃべれない(文章を記述できない)者
は、一切の主張をしてはいけない、ということになる。
また、
・正しくしゃべる(文章を記述する)技術
を、十分にモノにした者以外にも、発言や主張の機会は与えられないことになる。
発言すべき機会は、掲示板、ブログに留まらない。あらゆる「発言・主張の発露の機会」は、
正しい作法を修得していないものに対して門戸を閉ざす、それが当然だ、ということになるね。
体験談を語る人々の多くは、文章や弁舌の専門家じゃない。
彼らは(それは自分もだけど)、どこから切り出せばいいのか戸惑いながら、
そして拙いながらも自分の見聞した体験を必死に伝えようとする。
君の意見に沿うと、そのように「拙くても必死に伝えようとする」という態度に対して、
「ちゃんとしゃべれるようになったら出直してこい」という対応をするのと同じことなのだが?
そこに語られている、書かれていることを読み取ろうという優しさについて言えば、
不十分・不完全に語られたそれを読み解こうとする実話怪談読者諸氏のそれに比べて、
君は遙かに劣るのではないか?
>>528 スレタイをよく読み返していただきたい。
ここは、考察するスレであって、実話怪談を披露するスレではないよ。
いつになったら、「お前の書いた「ぷぷぷw」・「2ちゃ的表現」等は表現として正しいのかと。 」
という質問に対して答えが返ってくるのやら。
532 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:33:23 ID:dgwO6Gi00
なんだ。方法論を語るだけで実行はしないのか? 机上の空論ね。了解。
勝利宣言早いねぇ…
>>528 >物書きであれば正しく書く事を目指すのは至極当然の事。
>とても人の話を聞きだすのに慣れている人の言葉とは思えない。
>済まないが君の集めた実話怪談とやらをここで披露してみせてくれ。
書き込んでいる、読んでいる人全てが作家だと勘違いをしているのか。
このスレは「実話怪談と創作怪談について考察」するスレ。
誰が書いても、誰が読んでもかまわない。
それに「意図が伝わるのであれば」どんな書き方でも別にかまわないと思うのだが。
>>432 スレの意図を読み違えている時点でアウト。
まさかあなた作家(志望)じゃあるまいね?
さて、ここまでのやりとりをまとめてみると、以下のようなことが見えてくるように思える。
a)読解力もだが、不完全な表現・描写で語られた、門外漢の体験談から、
その真意を聞き取ろうと必死に耳をそばだて、不十分な語彙からその真意を
読み取るために想像力や連想力を駆使する、という態度。
b)もうひとつは、完全な作法や手続きを経ていない書式(プロトコル)で語られた
ものについては、真意を聞き取る努力すら不要であるとして、真意を読み取る努力
を放棄することが、間違っていないと主張する態度。
b)は、この場ではID:bpkLjg0W0の態度を指していると受け取ってくれてかまわない。
a)は実話怪談を読むもの、聞くもの、実話怪談の著者などによく見られる態度と言える。
平山夢明について、繰り返し「インタビュアーとして優れている」「聞く能力に長けている」
という指摘が、相棒の加藤一からなされていることをID:bpkLjg0W0は知らないかもしれないが、
体験者が忘れている記憶すらも、丹念に聞き拾うことで、全体像を復元しようというのが
実話怪談を書く者を筆頭に、読む者にも求められる能力だ。
一方、(b)にあるような態度を取れば、実話怪談は見つけられないし提示されても
そこにある恐怖を拾い取ることは難しい。読む姿勢の差が、同じ作品に対する評価
をまったく違うものにしてしまう原因は、そういったところにあるのかもしれない。
もっとも、「正しい書き方」にすることで、(b)のような態度の読者にも、門戸を広げることが
可能だということであれば、文体を変えることなどやぶさかではない。(
>>509以降そうしている)
が、こうした指摘を行う人は、自分が指摘したこと以外については、結局は興味を抱かない。
取れる揚げ足を取り尽くしたら、後が続かない。
こうした人にまで、「自分はこう思ったのだ」「こうした体験をしたのだ」ということを、
受け入れてもらうことの難しさを考えると、読み理解することに積極的な実話怪談読者が
創作怪談を違和感なく受け入れることができるのに、逆が難しい理由がわかるような気もする。
537 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:40:05 ID:dgwO6Gi00
>>534 「言い方や言葉遣いを変えて、辛抱強く説諭することには馴れてるんだ」
というから実際そうやって聞き出し、それを披露する立場の人間と判断した。
そうじゃないんだったらこんな表現を出すべきじゃない。
538 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:42:54 ID:dgwO6Gi00
>>536 悪いけど、読んで欲しいという気持ちが伝わってこないものは読まないよ。
努力してまで読もうとは全然思わない。
周りの人間を「説得」したこともないのか?
何かの「説明」をしたこともないのか?
そしてどうやったら、その文章から「聞き出す」などどいう文意を汲めるんだ?
>>537 体験談を「人に話すときに」だ。
>527の、君が指摘した1行上の行を正しく引用しよう。
>実話怪談の元となる体験を経験した人間というのはね、自分の正気を受け入れて貰えるまで、
>言い方や言葉遣いを変えて、辛抱強く説諭することには馴れてるんだ。
君は今引用した行のうちの1行目を読み落としたか、意識的に無視したね?
「実話怪談の元となる体験を経験した人間というのは」とあるが、これを、
「体験談を集めた人間」と君は理解したようだが、「体験した人間」と、なぜ素直に読み取れないのかね?
541 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:45:23 ID:dgwO6Gi00
情報を発信する者は正しい文章を書けと言っているだけ。
それすら判らない相手をわざわざ説得してあげる義務はこちらにはない。
そっくりそのまま自分のことじゃんw
>>538 無理しなくていいよ。
読まないんじゃなくて、読めないんだろ?
すでに読めている行すら、読み零しているじゃないか。
でも大丈夫。同情するけど、投げ出したりしないよ。
>>538 >読んで欲しいという気持ち
というより、受け手が「理解しようとする気持ち」がなければ
ネット上の掲示板や情報とは付き合えないと思う。
もちろん、通常生活においても、そういう気持ちは大切だと思うし。
相手にだけ「こうしろああしろ」じゃなくて、対等な立場でものを見ないと、
色んなことを見落とすと思うよ。
545 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:48:05 ID:dgwO6Gi00
あぁ、これは自律神経失調の方でしたか!
それは大変失礼しました。
お大事に。
在宅療法中ですか? 早く良くなると良いですね。
>>541 それについては、>529に書いた通り。
正しい文章で書いていても、君は読まない。
つまり、「一度でも間違った作法で書いた経験がある人間の文章は、
一切拒絶する」という態度を君は続けているのだね。
そして、自分が取った同様の態度については釈明はしないのだね。
君の書いた文章が作法から外れていても、こちらは特に気にしない。
が、君は作法から外れていると君が判断したものについては、ただのめくらになってしまうのだね。
>529が何か君の思う作法から外れているのだとすると、
君は条件を示さずに、自分の秘密の内規と照らし合わせて、
人を判断するタイプの人間だということになるね。
>>545 このように、実話怪談体験者=自律神経失調症と決めつけて、対話を拒否する態度。
こういった人が、もっとも人とコミュニケーションを積極的に取ることが出来ない人間の典型と言える。
なぜこのような人間になってしまうのかを考えてみよう。
548 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:51:47 ID:dgwO6Gi00
だって病気だよ。
早く病院いった方が良いよ。
煽ろうとして失敗したらレッテル貼りか…
カスだな。
>>547 >なぜこのような人間になってしまうのかを考えてみよう。
昔、何かそれが原因で痛い目にあったから?
それか元々通信簿に「人の話をよく聞かない子ですね」と書かれるような正確だから?
あらら。しまった。
性格を「正確」と変換ミス。
また「正しくものを伝える意図が(ry」といじられちゃうwww
まず言えることは、彼が「演説、または自分の主張の途中に他人に介入させることを嫌う」
という人間だということだ。
自分の主張や発言が否定されたり、途中で遮られるのが嫌なんだね。
なぜか。
自分の主張は完全なものとしてまとめられた後に、発言・発表されたものだ、という
自負を持っているのだろう。つまり彼は「発表の場」は必要であっても、自分の主張を
他人の主張と混ぜ合わせることで、錬磨する必要がない、と当人は思っている。
平たく言えば「自分が完全だ」と信じる余り、「聞く耳を持たない」わけだね。
こういう態度は、一人で作品全てをハンドリングしなければならない、という強迫観念に
常に苛まされている、孤独な小説家にわりと多い。何しろ、作品内部においては作者は
神であるわけで、気に入らない発言や不都合な行動などを一切取らせない強権力を、
作品内部に対して発揮できる。
その延長線上の態度を、作品外で振る舞おうとすると、自分の作品の登場人物ではない、
実在の第三者によって、自説が否定されたり傷つけられたりする。
そのことを受け入れられないから、コミュニケーションを否定してしまう。
掲示板はあくまで発表の場であって、意見交換の場には成り得ない。
意見交換の場ではないということは、他人の意見を聞く必要も、聞いて自分の中に
取り入れる必要もないわけだから、相手が自分の切に跪く以外の態度を取ることは
想定外であり、また受け入れられないわけだね。
553 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 13:56:35 ID:dgwO6Gi00
新興宗教の勧誘員と自律神経の失調した人からは、
何にも教わりたいとは思わないんだよね、悪いけど。
結構若い頃から症状出始めたでしょう?
文章作成ルールも学んでないみたいだよね。
大変だけど、今は良いお薬もあるから、焦らずにゆっくり治療した方が良いよ。
自分が体験した事をあんまり言い触らさない方が良いよ。症状が進行するからね。
>>553 言いたいことがあるなら、ちゃんと文中から引用して突っ込めばいい。
それをせずに「はいはい、病気、病気w」なんていうのはあまりにも駄目な行為だと思う。
こうした態度を取る=自分の作り出した架空の理論の上に立つ自分や、
自分が信奉してきた何らかの基準の上で優等生である自分を、別の基準で
計り直されることに耐えられない人であったりする。
これを言うとスレ違いの上に少しもめるかもしれないけど、中華思想の序列で
言えば優等生であるはずの韓国が、中華思想とは別種の序列で自分の上位
にある日本に対して耐えられない、聞こえない、自分達がナンバーワン、小中華、
と連呼するのにも似ているね。
ネットの掲示板は、自分より勝っているか劣っているかはともかくとしても、
自分が信じていたのとはまったくベクトルのことなる主張や理論、意見が、
すべて「仮定」の状態で飛び交っている。その中に一歩足を踏み入れたら、
自分の信じていた定説・真理ですら、仮設の一つにすぎないということを、
自分の世界だけを見ている人はどうしても忘れがちになる。
これ、自己紹介なのかな?
何か可哀想になってきた。
>>554 どちらかというと、
>>553が病気なのだと思う。
つまり、他人と自分の境界が曖昧な上に、他人を拒絶することでしか、
自分の自我を保てない。
我々は、自分以外の人間がいることを知っているし、そうした人々が
様々な考え方を持っているのを知っている。ときに受け入れ、時に衝突し、
意見を常にリミックスし続けることで、その都度その都度の方向性を再検討
し続ける。それが普通の態度だし、自分と他人の境界を確認する方法でもある。
彼のように、他人を拒絶することでしか、自分の自我を保つ術がないというのは、
軽度の自閉症と言えるものかもしれないね。
大変気の毒なことだと思う。
>>557 「医者のふりをする○○病患者」を思い出した。
自分は医者だ、と思い込んで、周囲が病気なんだ、と
思っている人物視点で展開する小説。
>我々は、自分以外の人間がいることを知っているし、そうした人々が
>様々な考え方を持っているのを知っている。ときに受け入れ、時に衝突し、
>意見を常にリミックスし続けることで、その都度その都度の方向性を再検討
>し続ける。それが普通の態度だし、自分と他人の境界を確認する方法でもある。
同意。
「アステカの祭壇」は21世紀最初の壮大な釣り&創作会談
560 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 14:43:54 ID:75Wa+4sR0
スレが急に伸びたから何盛り上がっているのかと思ったら・・・期待した俺のワクワクを返せ
>>524 >こんな事も理解できないレベルの者が実話や創作について語ってると言うことが驚きだ。
>道理でオカ板でも創作板でも痛い奴が現れるとここへ行けという理由が判った。
一応、釣られておくけどみんな↑嫁
ID:dgwO6Gi00はここへ池と言われた「痛い奴」なんだぞ。そんなにいじめるなw
>>560 いあいあ。
そういう人にでも優しく接するのがオカ板のいいところ、ということに。
作家志望の人って、どうして議論が苦手なんだぜ?
これってまるっきり創作文芸板と同じ展開なんだぜ?
>>562 作家志望全体の傾向なのか、「彼」一人の個人的資質なのかはわからないので
断言はしにくい性質のものだとした上で言うなら、
>>552または補足としての
>>553で概ね理解できるように思う。
この理解が正確かどうかは、また別の考察が必要かもしれないけど。
まあ、個人的資質、ということにしておきたい。
しかし、書き込みなくなったね。彼。
確実に個人の資質でしょ。
逆に一人がハイクオリティだからと言って、板や同志望の人全体が
ハイクオリティとは限らないのと一緒。
オカ板クオリティ=常に全力で釣られる
創作文芸板クオリティ=言い逃げ
>>565-566 個人の資質でなければ辛すぎるからね。そうだと思いたい。
また、そういう性質であるが故に、彼から「志望」の部分が外れないのかもしれない。
>そういう性質であるが故に、彼から「志望」の部分が外れないのかもしれない。
それいっちゃいけないw
570 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 15:37:30 ID:dgwO6Gi00
おかげさまで今年外させていただきました。すまんね。
あぁ、志望するのを止めたのか。
賢明だよ、お前程度にしてはな。
>>571 違うんじゃないの?
「今年<志望>を外した」の意味では?
ということはプロ作家かw
で、怪談系スレに来ているという事は怪談を書いているんだな。
>>570 彼は類推するに、
1)超怖スレで話題のホンネマン氏。ランカーであるというのが事実なら。
2)文芸板で話題のてのひら怪談収録者。事実なら。
3)その他。
のいずれかとお見受けするが、(1)〜(3)のいずれだとしても、
事実証明ができない宣言は、言っても無駄と言われていなかったか?
いずれにせよ、ここまでの理解度の程度なら、それはまぐれに過ぎないのかも。
罪なことだ。
>>572 それはない。
…と思ったが、同人誌デビューも立派な「作家」だな。
こっちならまぁ…
>3)その他。
大豆とかそのあたりだったりしてな。
「自分が○○○だ」
というのを宣言して、それを実証する方法は以下の通り。
オカ板的優しさに則って教えておきたい。
1)自分を証明する必要がある発言は、トリップを付けて行う。(できればBe)
2)トリップをブログや個人HPなど2ちゃんねる以外の場所で公開する。
3)個人HPに、個人でなければ知り得ない情報を書く。
4)個人HPの発言者たる自分の実存性について、自分以外の第三者に証明を仰ぐ。
(この場合の第三者は、公正性が高い、または知名度が高く信頼性が高い存在でなければ無意味)
それを踏まえても、自分が自分であることの証明というのは酷く難しい。
自分が自分であることを証明できない場で残された個人の痕跡というものは、
署名としてすら何の意味も成さないわけだが。
>>576 ということは、この読解力0マンの
「デビューしましたけど何か?」
という発言自身、証明できない、となるね。
負け惜しみだったのかなぁ?
>>577 それはわからない。白かもしれないし黒かもしれない。
ただ、自分の発言が事実であるという根拠がなければ、彼の発言は何ら効力を持たない。
自分の発言が事実である根拠を彼が示せなければ、それは無意味な発言だということ。
仮に根拠を示すことが出来た場合は、個人特定というリスクを彼は負うことになる。
彼がそれをリスクと考えるかどうかはわからないが、これまでの流れで言えばリスクと考えて
いるからこそ、身分を明らかにしないのだと思う。それは理解できる。
が、身分を明らかにしなければ効果がないような発現をする理由が何かを考えると、
1)断片的なヒントを公開することで、話題にされたい、という功名心。
2)自分が得ている(と想定して)相手に対するアドバンテージ(この場合はプロ、という立場)を
相手に行使することで、相手より有利な立場に立ちたい、という戦術的心理。
3)いきがかり上の勢い。
といったところが考えられる。おそらくは(2)だろうと思うが、それを含めても「身分は明かさず、
しかし賞賛または尊敬、幾分かの嫉妬を得たい」という欲望としての(1)はあるかもしれない。
579 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 15:55:16 ID:dgwO6Gi00
今、充分に考証した上で書く正しい文章表現で苦労してるから、
このジャンルでの恩返しの意味を込めてそれを情報提供したつもりだったんだけどね。
書かない人たちには無用の情報でした。どうぞ、机上の空論を今後も展開し続けてください。
何度勝利宣言をなさるつもりだ?
この自称作家様は。
>>579 なんか論点ずれてないかい?
「恩返し」といいながら、全く恩返しになっていないんだけど。
やっぱこの人ホンネマンの人だったのかな?
逃げ方とかそっくり。
しかしこのスレ、こういう荒らしの書いたことでも
しっかりとスレに則した話に持って行くのが偉いな、と感心した。
>>579 人にものを伝えようということを仕事にしようかという人間が、
自分の意志を伝える努力を放棄したり、相手の主張を理解
しようとする努力を端から放棄するするようではねえ。
正しい文章表現は、「主張を相手に伝えるため」に存在する、
副次的存在である。副次的存在である「表現方法」が徹底
されてさえいれば、どんな主張も必ず相手に伝わる、という
本末転倒な思想が君の中にあるわけだ。
自分は常に正しいと思っているだろう。
自分の主張を疑う自分以外がおかしいと蔑んでいるだろう。
自分の正しい主張を疑う人間を相手にする必要はない、と
自分を盲信することで、君は自分の意見を他人に、他人からの
指摘を自分の中に入れ込んでいく、コミュニケーションを否定・拒否
している。
ところが、それに気づけない。
自分の正しさを疑うことになるようなことはできないわけだな。君には。
こうした議論は、疑問を投げかけるだけなら簡単だ。言い逃げは楽だということ。
だが、相手の主張を理解した上で、自分の従来の主張との差違を吸収
することがとかく難しい。
一番楽なのは「相手がおかしい。自分は正しい」と、異説を排除して
勝利宣言することであり、今君はそうして終止符を自分で打つことで、
自分の勝利で終わった、ということにしたがっている。
そうだな、今の君は、国会質疑をするときの民主党議員に似ているな。
それと、「珍説で論破したつもりになっている」というようなことをどこかに
書こうとしているのではないかとも思うので、念のため述べておこう。
このスレはスレタイにあるように「実話怪談と創作怪談の性質の差について
考察することで、その違い(差を埋めたり同化させたりする必要はない)
を理解しようじゃないか」ということが目的のスレだと思う。
ここに、創作怪談を志向する立場の人が、その立場から自分の主張を
書き込むことは一向に厭わないし、むしろ違いを理解するために有益だとも
思っている。
また、論破して追い払おうというつもりは、少なくとも自分にはない。
議論は相手を打ち破るために行うものではないし、追い払って屈服させる
ために行うものでもない。誤解があればそれを解きほぐすために、埋められない
違いがあるなら、その違いを理解するために行われるべきものだと思う。
これまでの君の意見に触れ、そういった意見を持つ君自身の姿を、
憶測ながらもその発言の断片から想像し、理解しようと試みている。
その理解は正確かもしれないし、不十分かもしれない。
君がその不十分な部分を埋めるためにこの議論につきあってくれるならば、
我々は君という人間がそういった意見を持つにいたった経緯と、君が
その君の結論を変えることが出来ない理由を理解することもできるかもしれない。
その過程で君と意見を同じくすることもあるかもしれないし、理解をした上で、
君とは違う結論を選ぶことになるかもしれない。
人、他人の主張を理解するというのはそういうことだと思うのだ。
自分の中に他人という異質な意見の揺らぎを導入することで、自分が硬化
することを防ぐために議論があると思うのだ。
これは他人を理解し吸収することで行われる成長と言い換えてもいいだろう。
だが残念なことに君は理解や成長を拒否するという。
こちらは君からいろいろと学ばせてもらったのに、君がこちらから何も受け取らずに
去っていくのは、非常に惜しいことだと思うが、それが君が選んだ選択なら仕方がない。
議論は自分を高めるためにあるが、高めるというのは他人を下すことで
手に入れる高度ではないのだと思う。
よく聞き、よく識り、よく考え、差違を理解し、排除せずに共存する。
そうしていくしか、我々が生きる術はないのではないかな。
この世では。
プロ作家のレベルって本当に低いんだなwww所詮この程度ってことかw
周りの人たちのほうがどう見たってまともなこと言ってるw
587 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/12(木) 17:41:36 ID:dgwO6Gi00
じゃ、作家になってごらん。
別に作家志望じゃないしwwwちゃんと働いてますよw
阿呆なことばっかり言ってるID:dgwO6Gi00がプロだと名乗った
↓
プロってレベル低いwww
それだけさ。
じゃついでに言っておく。 ID:dgwO6Gi00のデビュー作はなんだい?
買ってやるから何処の出版社のなんて本なのか挙げてみろよwww
ここまで他人をけなした奴がどれほどちゃんとした日本語使っているのか、オカ版、文芸版、ついでにVIPにも添削してもらうか?
あ、ちなみに俺は ID:dgwO6Gi00が本物のプロかどうかなんて考えてないよw
どちらにせよそう名乗ったからには、 ID:dgwO6Gi00はプロ作家として責任を取るべきww
ま、できればの話だがなwww
>>587 すでに掲げたように、作家かどうか、証明できないことを言い張っても無意味。
匿名掲示板でできることは、自分の実名のときの身分を高らかに謳うことではない。
誰が言っているかについて、何の証明も出来ない場所では、何を言っているかという
発言内容のみが真価を問われる。
2ちゃんねるに限らないけど、匿名掲示板での基本中の基本だろう。
おそらく彼は、そうした流儀に慣れていないだけなのかもしれないけど。
ついでに言えば、プロであろうとなかろうと作家を名乗ることだけなら誰にでもできる。
原稿を売って金を得てプロ(商業)作家という身分を手に入れることだってできるだろう。
ただ、プロであり続けることが難しい。
まぐれや偶然を必然に変え続けることができたとき、自分以外の人間が自分のPNを
掲揚して売り出そうという努力をしてくれるのを、長期的に確認できたときに、
改めて自分はプロだと、匿名掲示板以外の場所で名乗りを上げるのがいいと思う。
俺は本人の証明なんかいらないなぁ
お 前 の 作 品 を 読 ま せ て 見 ろ
それだけですべてわかるでしょwww
ID変わる前に自分の作品挙げとけよw
>>578は上の方の質問や突っ込みに対して
ちゃんと答えるべきだな。議論にもなっていないし。
>>593 「上の方の」ではなくて、具体的にアンカーを付けて促すべきだと思うが。
何を指しているのかわからない。
>>592 それは逆効果な気がw
>ただ、プロであり続けることが難しい。
そうだよなぁ。
プロって、仕事がなくなることを怖がるとか聞いたことがある。
収入がなくなる、ということもあるだろうけど
仕事がなくなる=必要されない、ということでさ、
「プロである自分」のアイデンティティを失うという事だもんな。
>>592 すまん、やりすぎた。 ID:dgwO6Gi00ごめんな。
>>598 いや、ID:dgwO6Gi00は「内容への反論」がないのかな?と。
ざっと見たところ、「書き込みの文体」に対してしか発言してない上、
突然「俺様はすでにプロだ」宣言して終わったみたいだから。
結局「プロの目からのご進言をしに来た」といいつつ、
「人に伝える意思が」となっていて「人の意思を受け取ろうとする姿勢」
が見えなかったことが気になったもんで。
何か見落としがあったのかと思ってチェックしてみたが、
>>536の文中のアンカーが自分になってたw
>>536の文中のアンカーを
× ID:bpkLjg0W0
○ ID:dgwO6Gi00
に変えなければ文意は通じないね。これは申し訳ない。
まあ、誤差の範囲内ということでスルーしてもらえれば幸いだ。
>>599 「プロの高い視点から、教えてやろう。さあ、跪いてありがたく拝聴するがよい」
というつもりでアドバイスをしたら、ありがたく拝聴せずに猛烈なクロスファイアを
受けたので、自分が何を言うつもりだったか、自分が何を指摘されているかが
把握できなくなってしまったのだろうと思う。
プロは人にアドバイスをすることはあっても請うことはなく、素人の意見に左右
されることなどない、ということを示したかったのではないか。
>プロは人にアドバイスをすることはあっても請うことはなく、素人の意見に左右
>されることなどない、ということを示したかったのではないか。
そりゃ人の意見に左右されすぎるのも困り者だけど、
「意見は意見として聞く」のが正しいのでは?と思った。
プロというのは「傲慢」という意味じゃないよね。
見方を変えれば、ID:dgwO6Gi00は「文体についての指摘」や作法としての文章の正確さ
については執拗に食い下がっていたけれども、その文体で示された内容については、
一言も反論をしていなかった。つまり、内容には同意して貰えているのではないか、と思うw
彼が言う擬古文もどきの2ちゃんねる訛りは、>506以降改めているのだから、
ID:dgwO6Gi00は>506以降の内容はきちんと読んで理解しているのでなければ、
彼が最初に掲げた「文章がおかしいから読まない」という自己規則に対して、彼自身が
違反し続けていることになる。
それとの整合性を考えると、以後の内容については読んでおり、かつ特に異論がないから
噛みついていない、ということなのではあるまいか。
>>603 なるほど。そういうことになるか。
しかし、それならそれで「内容に異論はない。が、文体がなってない」と
一言書き添えてくれればいいのになぁw
スレの流れ的には「読者視点」の意見とかが多かったけど、
ID:dgwO6Gi00からは作家視点の意見が聞けたのかもしれないね。
残念。
つまり揚げ足取りしか出来ない上に、自分の作品を読ませる自信も無く逃走・・・と。
プロってすげーなwww
はっ
ごめんよID:dgwO6Gi00、またやっちまった。
もう苛めないから戻ってきてくれ。プロの作家様のご意見を拝聴させてくれよ。
顛末を読んでいて思ったが、内容が大事と言う意見に対し、それを伝えるためにも
キチンと書くここも大事と言ってるだけに読めた。表現の仕方に問題はあるかも知れんけどね。
それに対し
>>605のような煽り方は創作スレのあの板か超-1の板と変わらない。
ここはそんなところになるのを目指している訳ではないのではなかったか?
ていうか、始まりは単なる煽りだったわけで。
503 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2006/10/12(木) 01:18:51 ID:dgwO6Gi00
>>502 擬古文、下手だね。ぷぷぷw
ここから
>>504がこのレスに対してちゃんと答えているのに対して
505 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2006/10/12(木) 09:50:47 ID:dgwO6Gi00
へたくそな懐古調というか、間違えた表記が散見された時点で、読むに値しないものと
判断されちゃうよ。使いこなせないのならいい加減普通の文章にしなさい。
中国製品の日本人向け取り扱い説明書並みの文章では、いくら真面目に書いてあっても
誰も読みはしないよ。
と返した挙句、書かれた内容には一切ふれていない、という状態。
で「伝える為の文章を書け」に終始しちゃっている。
で、「きちんと書くことも大事」というのを踏まえてID:dgwO6Gi00へ
色々とコミュニケーションをとろうとしているのだが、それを拒絶しているように見えるよね。
その後も、それはそのままだった。
これじゃちょっと、と思うよね。
で、これは余計なお世話かもしれないが。
>創作スレのあの板か超-1の板
板の使い方が間違ってるw
だからせっかくのその内容を正確に伝えるための技法の事を言ってるんだと思う。
自分もちょっと書いたりするから、それは嘘じゃないと思える。
せっかく書く立場の人の意見を聞きだすチャンスだっただけに今回の結果は惜しい。
>>608 スレとしては「書く立場」の人間が書き込むことを厭わない。
だけど、今回はコミュニケーションをあちらが拒絶していたのでは?
最初から煽り気味の書き込みで始まっているし、途中はあれで、最後はああだし。
辛抱強く付き合った人もいるけど、それでも駄目だった、と。
>議論は自分を高めるためにあるが、高めるというのは他人を下すことで
>手に入れる高度ではないのだと思う。
>よく聞き、よく識り、よく考え、差違を理解し、排除せずに共存する。
>そうしていくしか、我々が生きる術はないのではないかな。
これがスレ的には正しい議論の姿だと思うよ。
ここは掲示板。
書き方云々言うのは難癖以外の何者でもないと解釈するが?
そういう意味で
>>503はただの荒らし。
消えてもらっても惜しくも何とも無いよ。
それを踏まえて書くけど、正しい擬古文を使え、というのは創作活動において何の意味も無い発言。
国語の授業か、と小一時間。正しい日本語でなければ読む気がしないなんて、お前はどこの翻訳ソフトかと。
>>610 まあまあw
といいつつ
>お前はどこの翻訳ソフトかと。
で笑ったがw
ID:V8Na8yS60
>>6060,608
その指摘に対する回答は、すでに>509でなされている。
つまり、「不完全な文体」と指摘された2ちゃんねる訛りを
>>509以降改めて、
通常の文体で書かれているが、それ以降も主題に対する意見はなく、
また、「すでに改めた」ことについて、遡ってこだわり続けることに終始していた。
これは、戦前の日本の所業について、永久に謝罪と賠償を求め続ける特亜の
行動にも似ている。つまり、「改めた」「別の方向へ進んだ」という現在以降の
対応は評価せず、指摘以前の態度だけを永久に指摘し続けるという、過去だけ
に囚われた態度と言える。
これでは、未来志向の建設的な話には進みにくいわけで、日韓首脳会談の
安倍総理の努力が偲ばれるw
>>610 ものすごい極論を言うとだね。
作家の書いた文章がおかしいとか、間違っていたとする。
もし、作家が完全主義で自分の文章に一切手を入れさせないタイプだったら、
自分の文章は自分の責任で一切を完璧にしなければならない。
一方、作家が自分の文章の間違いを他人の指摘を受け入れて直すことに鷹揚
なタイプだったら、指摘に基づいてその都度直せばいいし、指摘をする側(編集者とか)
は責任をもって「どこがおかしく、どう直すべきか」を指示する必要がある。「おかしい。
だがどこがおかしいのかは自分で考えろ」という指示が許されるのは、デビュー前の
新人の、掲載予定が決まっていない(〆切がない)持ち込み作品に対してのみだと思う。
さらに、自分の文章を編集者(第三者)自らが手直しすることについても抵抗がない
タイプだったら、「じゃあ、おかしいところがあったら直しておいて」ということになるだろう。
その場合、責任の一部は編集者が担うことになるのだが、編集者が直したものを
最終的に著者校正で確認してOKを出したなら、本になった後の責任はやっぱり
名前が出る作家が引き受けることになるんだろうね。
編集者は名前が出ないけど、作家が自信がないことについてフォローしてくれる影の
存在であるわけで(単に原稿取りをするだけじゃなくw)作家の書いた日本語がおかし
かったら編集者に任せちゃえばいいんじゃないのか、と思ったりもする。
もちろん、「それはプロじゃない!」という人もいるんだろうけど、そういう作家の見落とし
を直していくのも編集者の仕事なんだから、甘えてしまって共同作業で作品をモノに
すればいいんじゃないか?
そう考えると、何から何まで作家がすべてを完璧に・・・と考えるのは、編集者との共同作業
を経験したことがないか、編集者を原稿取りと連絡係としてくらいにしか接したことがない
かのどちらかじゃないかと思う。
作家が気を遣うべきは、言葉遣いや文章作成術ももちろんだろうけど、それに優先する
のが内容と構成じゃないかと思うんだがねえ。車の両輪であることに代わりはないだろうけど、
あくまで内容が主、文章表現はサブじゃないだろうか。
文章表現だけを注視するなら、「散文詩」でいいじゃねえか、ということにもなるしね。
なんだか違和感を感じたので添削。
>>579 > 今、充分に考証した上で書く正しい文章表現で苦労してるから、
→ 内容について十分な考証を重ねた上で、正しい文章表現で書くということについて、今、苦労をしている。
> このジャンルでの恩返しの意味を込めてそれを情報提供したつもりだったんだけどね。
→ このジャンルでそれ(正しい文章表現で正しい内容を書くこと)を学んだので、恩返しの意味を込めて後に続く人に自分の得た情報・経験を提供したつもりだった。
> 書かない人たちには無用の情報でした。どうぞ、机上の空論を今後も展開し続けてください。
→ 文章を書く人に向けたアドバイスなので、文章を書かない人には余計なお世話だった。
→ 聞く耳を持たず、さりとて理論はあってもその理論を生かした文章を実地で書くわけでもないなら、
今後も空虚な理論だけを振りかざしていればいい。
・・・だいたいこういう意図だったのだろうと思うが、オリジナルは文章表現に少し違和感を感じた。
ちなみに、この文章から得られる作文者の意図は以下の通り。
・自分は苦労して正しい作法を身に着けた。
・自分の獲得した作法を伝授してやろうと思った。
・自分は成功した作家なので、かつての自分と同様の作家志望にアドバイスするつもりだった。
・しかし、作家志望ではない(書き手ではない読者)が相手ならアドバイスは余計なお世話だった。
・書けない奴ら(つまり、書き手の視点から読者を見下している)は勝手にオナニーしてろ。
>>614 擁護派かと思ったら馬鹿にしてるだけか(笑)
出来たばかりの頃と違って、単なる排他的なスレに成り下がったな。
>>616 単純な排他に見えてるのだとしたら、読解力が下がってるとしか思えないな。
はい、はい。所詮はオカ板ってことね。
>>616 本人乙!とでも言ってもらいたいのか?
>>503 を100回読んで荒らしかどうか判断しろよ。排他と見てもいいがな、排他されて当然の奴だったまでだ。
正しい日本語じゃなきゃ読む気がしない?阿呆か?
作家はいつから正しい日本語を書く職業になったんだ?教科書でも書きたいのか?
そういえば随分昔に教科書に載せる詩で、川の流れを「さらさら」と表現しなかったから載らなかった、なんて事件があったな。
誰も彼もに同じ文を書け?阿呆すぎてかける言葉が見つからないぜ。
>>502氏が使っている擬古文だってあくまでも「本人らしさ」だろうが。
上手い下手なんて関係ない「個性」ってやつだ。誰も添削なんか頼んじゃいない。
文を書くっていうのはそういうことだろう、違うか?
「所詮はオカ板」で思考停止しちゃってるから、何言っても無駄なような気が・・・
>>619 なんでそんなに喧嘩口調なのか判らないなぁ。ここではそれが普通なの?
あ、ひょっとしてオカ板って差別用語だった?
馬鹿にはこれで十分だ。相手してもらっているだけありがたく思え
はいはい。釣られないw
「オカ板」という言葉に反応しているけど、これは単純な釣りと思われる。
これは「俺のいる板の方が上」「俺の方が上」「おまえら馬鹿」という意味で
書いているのだろうけどねw
こういうのはスルーしておいた方が吉。
かまうと思うツボw
さてと。
>>615 >・自分は苦労して正しい作法を身に着けた。
>・自分の獲得した作法を伝授してやろうと思った。
>・自分は成功した作家なので、かつての自分と同様の作家志望にアドバイスするつもりだった。
>・しかし、作家志望ではない(書き手ではない読者)が相手ならアドバイスは余計なお世話だった。
>・書けない奴ら(つまり、書き手の視点から読者を見下している)は勝手にオナニーしてろ。
>>614のこれはは
>>579の意図を汲もうとしている。これはOk?
オリジナルの
>>579をよく読むと、どうしてもそこに「煽り」「釣り」という雰囲気があるよね?
その上で、足りないであろう部分を補ったのが
>>614。
何故こんなことをしなくてはいけないかというと、
>>576はスレ内の書き込みで常に
「正しい文章表現を心がけろ。そうでなければ読み気がしない」と言っていた。
逆にスレ的には「正しくない文章方言でも、相手の意図を読み取る努力をすべきだ」と反論している。
それは「分かり辛く正しくない文章でもちゃんとその意図を読み取っている証拠」なわけだ。
即ち
>>614は始めから擁護も排除しようとも馬鹿にもしていない。
相手の意図を汲み取ろうとしているだけ、なんだね。
だから、このスレは排他主義ではないと思うよ。
で
>>622は「まあまあ、おちつけ」と
自演乙!
>>623:
加えて言うと、>579は「正しい文章表現をしなければ」と自己規定
しているわりには、>579の文面そのものが正しい(わかりやすさと文法的正確さ)
文章じゃないんだよね。主語がないとか、読点がないので修飾詞が掛かる
単語がわかりづらいとか。こりゃ、相当苦労したんだろう、と思ってw
正しくないから読む気がしないかと言われたら、正しくあろうがなかろうが
読み取る努力をするのが「読者」だから。
>579は最後まで「著者」「書き手」の視点だったけど、著者が書いたものを
どのように受け取り、読み取り、理解するかということを繰り返し訴えている
このスレは、基本的に「読者」の視点なんだよね。
つまり、ここで再現されていたのは、著者と読者という異なる視点の対立であって、
著者は正しい表現にこだわり、読者は表現の正しさよりメッセージを読み取ること
そのものを重視している、と。そういうことだと思うんだけどね。
>625
ところで、君の出身地の板に、「自演乙」を合いの手もしくはコーラス、お囃子
のように口にする人がいるスレがあるけど、君もそこの出身なんだね。
書き物をする人にしては、語彙が少ないように思えるけど。
ID変更作業乙!
>>627 IDの生成ルールに疎い人なのかw
文芸板の人間は専用ブラウザの存在を知らないっていうのは伝説じゃなかったんだな。
勘違い推理お見事!
全力で釣られるのがこのスレの礼儀なのでw
消去法で行くと、
1)以前から「著者」vs「読者」の意識の差から疑似抗争状態にある創作文芸板東スレの住人
週末は東スレは動きが少ない(東ブログの更新がない他)ので、疑心暗鬼から東スレが共食い状態に。
それを嫌って、このスレに出向してきている。
2)入院中と捨てぜりふのトーホグ・ホンネマン(仮称)がジャミングをかけている。
3)実は
>>503 。正面から反論できないので、IDが変わったことをいいことに自演している。
(よく知られているところでは、自作自演をしている当人に限って自分から目を背けさせたいがために
他人に「自演乙」と指名する、というが君はどうかな?)
他にもあるけど、疑いが濃厚なのはこのあたり。
「所詮オカ板(>618,621)」という批判から見ると、逆説的に「オカ板住人ではない」または
「オカ板を見下すことを正しいと思っている」のどちらか、(外部の者)という可能性が高いね。
もちろん、嫌だ嫌だと言いながら常駐しているツンデレ住人もいるので、全てとは言わないけど。
そして、上記の推察が当たっていようともいなくとも、「そう見える振る舞いをしている」または、
「そう見せることで文芸板東スレへの敵愾心を煽ろうとしている」というところから、以前から
向こうのスレでも言われている「W粘着」ではないかとも思われる。
そうであってもなくても、「そう見える」っていうところが重要なんだよね。
妄想乙!
ID:t45DD5VC0はこれまで出たことをちゃんと読んでる?
単に「妄想」とか少ないボキャブラリでレスしても、何の解決にもならないよ。
言いたいことがあるなら、順序だてて、理論的に反論しないと。
あんな自分勝手な屁理屈真面目に読む奴いるの?
>>633 屁理屈、と取る人もいるだろう。
だけど、それなりに面白い事を書いてあると思うし、
逆にキミがその「屁理屈」だと思ったところを理路整然と突っ込めばいいのでは?
と書いてて思ったけど、
>>633は読んだ上で屁理屈だと思った、でいいんだよね?
……まさか、「こんな屁理屈な文章読むに値しないから、読んでるわけねぇ」と
いうつまらないことは、言わないよね?
80 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/14(土) 11:59:50
VSスレはガチでパラノイアと小児病患者の巣だから関わり合いになっちゃダメ。
あそこに比べたら超怖スレとかは常識人のサロンに見える。
>>636 他板の書き込みをコピペするんじゃなくて、キミの言葉でちゃんと書き込みをしておくれ。
あと、何故「パラノイア」「小児病患者」の巣だと思ったのかもよろしく。
(コレを貼った、ということはキミがそう思っているからでしょ?)
age
殴り込み&返り討ち乙!
640 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/14(土) 23:01:38 ID:o7R0NWE30
殴りこみ?誰かに殴りこみ(攻撃)をかけられたと思っているのかな・・・
それでこの一行レスで返り討ちにしたと思っている・・・と、いう意味にとっていいのかな。
何が起こったのかは知らないが、推測するにもしかして
>>636の書き込みがオカ版住民の仕業と思ってやり返しに来ているのかな・・・
ちょっとkwsk説明してはくれないか?
>>639 もう少しきちんと書いてくれないと分からん。
大丈夫。判ってる奴はいるから。
644 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/15(日) 09:23:07 ID:ykxIFV4b0
>>636 >超怖スレとかは
の発言で
>>636の書き込みをした人物は少なくともオカ版に出入りしている人物、という推測をしたのだろうね。
同様に
>>636はどこにあるのか知らんがVSスレとやらの住人である(またはそこに縁のある)ものであると推測できる。当たり前のことだけど一応再確認のため。
まぁ、オカ版住人、という表現はこれほど間口の広い版では正確な表現ではないと思うけど。オカ版だけに出入りしている人のほうが珍しいのではないだろうか。
その書き込みをした人物はオカ版に出入りしている人物かもしれない。もしかしたら俺かもしれないし、違うかもしれない。
どちらにせよ、これ以上スレを荒らすのはやめにしてほしい。
せっかくの良スレなのだし、この荒れている状態でも読むに値するレスが続くスレなんて稀有だからね。
どうしても・・・というなら、頼むから超怖スレとやらでやってくれないか?
良スレ? なんだかんぁ
×良スレ
○隔離スレ
>>645 絶対善のスレというのはないわけで、心地よく思う者もいればそう感じないものもいる。
また、スレの内容が個々の理解の一助になる場合もあれば、それが一言一句頭に入ってこない人もいる。
そうした意味で、スレの価値は相対的なものであり千差万別である。
だから、どう感じる人がいてもかまわないわけだが、自分以外の人が良いと主観的に判断しているものを、
わざわざ「客観的に悪いのだ」と腐すような幼稚なことはしなくてもいいと思う。
>>644 このスレができた経緯から言うと、元々「超怖スレ(オカ板)」から分離してできたのがこのスレ。
超怖スレは実話怪談本・「超」怖い話に関する話題のスレだが、実話怪談を創作怪談の一分野と
認識する人々(創作文芸板東スレ)との摩擦から、超怖スレが荒れたため、
実話怪談と創作怪談の比較と考察のため、及び、創作怪談のスタンスの人からの意見を
聞くために、このスレが別途分離された。
その意味では、流れ的にはこのスレが隔離スレという
>>646の指摘は間違いではない。
これまでのところ、
実話怪談論者は「読者視点」「体験談肯定」「市場論(多く消費されることで部数が増え、ジャンルが活発になる)」
を唱え、
創作怪談論者の断片的な発言から聞き取れる主張は、
「作者(書き手)視点」「書かない人間(読者)に対する蔑視感情(作者優越感)」「体験談否定」
「市場論より文芸性と品質論(よいものを作ることに執心し、金勘定にかつかつするのは下品)」
というもの。
ただ、このスレの議論には直接参加せずに「珍説」と呪文を唱えるか、聞く耳を持たないレッテルを貼るかに
終始する人が多く、実際の創作怪談論者の主張はわかりにくい。
質問に対してはほとんどが東雅夫のテキストの引用がそのまま貼られるが、それを整理解釈して
説明し直す能力はないようだ。
忘れてるぞ。
「実話」とはこの業界では「胃酸臭い」と同義語である。
だろ?
全く自分に都合のいい意見だけ書き連ねるここのどこが良スレだよ。
>>648 だから、創作怪談の書き手にとって都合が良くて説得力のある意見を、
読んだ人間が「なるほど」と膝を打って納得するように説明すればいいじゃない。
ここはそのために、「双方の意見を聞く」場としてあるわけで、
「意見はあるが言うまでもない」
「言うまでもないことだから説明しない」
「言うまでもないことを理解できない者は相手にならない」
と言って、理解を促す努力を放棄しているのはいかがなものかと。
これは、「正しい答えを自分だけが持っているが、それについては教えない」という態度。
秘密の自己規定への服従を、その規定の説明をしていない相手に強いるという。
要は、「意見が正しいかどうか、正義かどうか」ということは、発信者の主観的な問題で、
それを受け取る、「判断を決めかねている多数」に、理解を促し賛同を得られるような
説明ができるかどうかが重要なのだと思われる。
書き手として、著述・叙述を仕事にすることを目指しているならできるだろ?
「実話」=「胡散臭い」は、このスレの
>>430-435辺りで出た結論だろ?
なんでそれを無視するんだよ?
>>648,650
別に無視しちゃいないけど、それがだから何?
>>434 で、「実話というのは、真贋不確かだが、創作と断言できないものをさして使われる修飾詞」
ということを言っているわけだが、だから?
>>481 で、「では、実話怪談と創作怪談はどこに線を引くべきか?」という話が出ている。
「胡散臭い話=実話怪談」は、真贋不確かで完全な実話(d)とは言えないかもしれないが、
完全な創作(a)とも言えない。その場合、創作と実話の線引きは、(c)と(d)の間ではなく、
(a)と(b)の間に引かれるものなのではないか、という話に続くんだよな。
連綿と続いている意見の中のひとつだけをすくい取ってみて、全てを表現しているような気分に
陥るのは近視眼的だと思うが。
怪談文芸の視点から、「泉鏡花だって体験談に影響を受けて怪談を書いたのだから、
実話か創作かという線引きには意味はなく、すべては(創作怪談を上位とする)怪談文芸
の中に含まれるのだ」というのが、創作怪談論者が引用する東論の主題だったな。
>>481の定義で行くと、泉鏡花が書いてきたものや、実際にあった事件を下敷きにして書かれた
四谷怪談も含めて、それらはすべて「実話怪談」である、という反論はどうだろうw
実話、または実際にあった事件を一切影響されずに書かれたものだけが、創作怪談であり、
1%であっても、実話に影響を受けた(または、怪異のもっとも重要な部分が創作ではない)
怪談は、すべて実話怪談の範疇に入る。
怪談文芸(著者の文芸性が重視される創作怪談)は、実話怪談の一バリエーションに過ぎないんだよ。
というわけで、
>>653の珍説wを説得力を持った反論で否定して頂きたい。
「バカじゃね?」
「はいはい珍説珍説」
というのは、説得力を持った反論とは言えないぞ。
ちなみに、「ネタの真贋にかかわらず、著者の文芸性(文章表現力)が重要なのだ」
というのをそのまま受け取ると、実話怪談の問題点(とされていること)は、文章表現力の拡充
のみだということになるね。(創作怪談論の人々が、「文章がうまい作家が書く実話怪談」に
対して否定的ではないところを見ると)
そうすると、分野の否定ではなく個人技の否定をしたい、ということなのかな?
それと、明確な反論が期待できないようであれば、そのときは東スレに行くから。
この間もあっちにやってきてあっさり返り討ちにあったばかりなのに?
>>656 このスレに留まっているのは、東スレに対して遠慮しているからだが?
ここでやらなくていいなら、今後はずっと東スレでやるぞ?
>>656 ついでに言うと、最近は向こうに行った記憶はない。
誰かがコピペしたのかもしれないが、コピペに何か言っても
返答が得られないのは当然だろう。
だいたい、君のレベルから察するに、何か適当なレッテルを貼って、
後は「言うまでもないことが判らない奴には言う必要もない」という
理論をぶって終わりになっただけなのではないか?
それで、改めて聞くが向こうでやっていいのか?
あそこも今グダグダだけどね。
オレが許可するものでもないと思うけど、いきたきゃ行けば。
って言うか2ちゃなんて誰かの許可がないと書き込んじゃいけないスレなんてないよ。
ここなら良くて別スレなら駄目って思考が理解出来ん…
>>660 基本は「他スレに内政干渉しない」ということでは?
「スレ違いの話題はしない」ただこれは、強制力・罰則があるルールではなくて、
あくまで「マナー」の問題でもある。
マナーがない、罰則を伴うルールが何もないなら、何をしてもいいという考え方は
荒らしと一緒。
もともとこの「創作怪談と実話怪談」というテーマは、他のスレで発生した。
(複数のスレに縦断的に展開されていた)けれども、それぞれのスレの本来のテーマ
から外れてくる、反論とレッテル貼りの応酬になって、発生元の元々のテーマが
圧迫されるので、
「それ専用の話題をするスレッド」
として分離独立された。隔離された、というのは指摘として正しいけど、
隔離スレであることを自覚した上で、このスレから出ないほうがそれぞれの関連スレに
迷惑が掛からないという暗黙の了解もあって、ここが被害担当の特務艦スレに
なっているわけ。
何かあると「それはVSスレに池」「続きはVSスレで」という、スレ違い議論のバッファ
として使われるという位置づけ。
繰り返しになるけど、元々は、
「超」怖い話[オカ板] ……「超」怖い話ファンスレ
「実話怪談本」について熱く語れ[オカ板] ……実話怪談本全般スレ
屁本&幽怪談文学賞[創作文芸板](通称東スレ) ……創作怪談投稿者スレ
新耳袋[オカ板][創作文芸板](いずれもすでに途絶) ……新耳袋ファンスレ
の4つのスレで相互砲撃状態に陥った話題があったことが発端。
基本的には、超怖スレvs東スレのそれぞれの住人同士による罵りあい
がそれぞれ相互に相手のスレに対して、または自スレ内での応酬という形で
小競り合いが勃発。
それぞれのスレ内での話題を、相手のスレにコピペすることで燃料とする、
という手法(これは双方のスレでW粘着と呼ばれている)で、双方ともに荒れた。
加えて創作文芸板はIDの出ない板なので、東スレでは潜入工作なのか
第五列なのか攪乱なのかわからないような意見が飛び交い、
疑心暗鬼の恐慌状態に陥った。
その煽りから、東スレ(創作文芸)では混乱を避けたスレ内テーマの「三題噺」が独立して待避。
超怖スレ、実話怪談スレ(オカ板)では、「双方異なる意見同士で議論できる機会を作るべきだ」
として、VSスレ(このスレ)が分離独立。
東スレ住人による攻撃/挑発は基本的にこのスレが引き受けるという暗黙の了解で成り立っている。
オカ板住人側はVSスレを「そういう場所(待避先)」として受け入れているものの、
創作文芸住人側は「話題に触れない(話題に出さない)」派と、「レッテル貼りで議論拒否」派
に分かれているが、レッテル貼り議論拒否派の言動が、結果的にIDの出ない創作文芸板への
「反論者(この場合はオカ板住人)招致」の原因になっている。
創作文芸板がそうしたスレ間/板間抗争の経験が少ないとは思わないが、東スレの住人は
そうした経験があまり多くないのかもしれない。
双方の板(スレ)のうちの穏健派の共通の了解事項はおそらく下に挙げる通り。
・できれば相互不介入(相互スレへの内政不干渉)が望ましい
・荒れる原因になる因子を自ら呼び込むべきではない
・本来のスレのテーマを邪魔されたくない
(以上、表現は違うが全て「内政不干渉の徹底」)
相互努力としては、
・相手のスレに関する話題を極力控える(配慮)
・相手のスレに関する話題が出たら極力反応しない(スルー推奨)
・関連話題にどうしても触れたいときは、隔離スレなどの待避先で行う(オカ板ではこのスレが推奨されている)
・隔離スレ以外に話題が出ることを極力抑えるように心がける
が、必要。強制力は伴わないから、あくまで「自分が迷惑を被りたくなかったら、
そうしておくといいかもしれない」くらいのもの。
スレ同士の対立は、上位法規の罰則や強制がないという意味でも国同士の対立に似ていて、
その対立解決のための提案も「双方が遵守努力をしないと成立しない」という、
国際条約とよく似ている。
一方が配慮しても、もう一方が配慮しなければ条約は成立しないというのは、
国連安保理決議という配慮と、それを配慮しない北朝鮮の関係を見れば明らか。
>>659-660 の言い分は個人としては正しいし、書いてはいけないスレというのはない。
が、「書くべきではない話題」や、「控えた方がお互いのため」という話題はある。
そういうものをどう扱うかが大人のマナーであるわけなのだが、掲示板を使い慣れない
人は、しばしばそういう配慮を欠くし、「なぜダメか」というのを考えることができないようだな。
おそらく
>>659はこのスレの議論を東スレに「連れ出したい」のではないか?
>>660が>659と同一人物かどうかはわからないが、ここまでの説明(このスレができた
経緯の説明と、存在理由)を読んでなお、「ここなら良くて別スレなら駄目」という
思考が理解できないとしたら、それは「異質な社会性や党派性による対立と混乱を
回避する努力」というのを経験したことがない、自分にとって未経験のことだから理解
できないのだと思う。
共通の趣味についてだけ確認をしあうスレではなく、対立する意見が混在するスレ
にも行ってみたほうがいいかもしれないし、それ以前に自分のリアルな周囲の人間と
意見が対立した場合に、どのように解決しているかを思い出してみたほうがいいかもしれない。
>>664 ご丁寧に有り難うございますです。
因みに、
>>659とは別人です。
引っかかったのが、「○○に書き込むには誰かの許可が必要だけど、○○では
許可が要らない」と取れる主張だったので。
そういう意味なら納得です。
ちと内容が情けなさ過ぎると思う
208 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/16(月) 00:34:06
>>196 声援ありがとう
>>197 熱いのがいいならそうするけど
>>198 それが分かってるのに、かまってしまうキミは低脳だねw
>>199 そんなもん確認するかバカ。揚げ足とるだけだハゲ
>>200 キミみたいのはあえてスルーだwww
>>201 キミの脳内の小人たちがか?
>>202 人に命令すんなよw何様?
>>203 知るか(苦笑
>>204 だから何?
>>666 それも少なくとも俺は知らん。
第五列かW粘着じゃないの?
209 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/16(月) 00:35:25
>>205 明日の朝鬱で電車に飛び込まないようにな、乗客に迷惑だから
>>207 おまえの腋の下が臭いからだろww
210 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/16(月) 00:36:13
>>206 キミに合わせたんだねw
212 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/16(月) 00:39:32
>>211 腋の下が臭いのを自覚したかww
215 :名無し物書き@推敲中?:2006/10/16(月) 00:44:50
>>213 キミに合わせたんだね
>>214 そんなつまらないレスしかできないセンスでそれ見てもしょうがないんじゃない?
ID:O3rweDIB0が何をしたいのか分からんのだが。
最近、このスレを知ったものです。
そんな経緯があったんですね。
自分は創作でも実話でも面白ければどちらでもいい派です。どちらにも良さはありますもんね。
とてつもなく単純ですけど、いち読者として。
お互いの良い部分を吸収できる議論の場かと思っていましたが…
そんな因縁(怨念?)渦巻く場所だったとは…しかも今なお継続中だったとは…
新参ゆえ、事情も知らずに荒らし(挑発)に反応してしまったのは私です。
この場を借りて皆様にお詫び申し上げます。
671 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/16(月) 15:28:10 ID:BShB2i0a0
>>670 重ねて失礼、
>>619を書いたものでした。
唯でさえ因縁のある相手に、さらに煽るような言葉すみませんでした。
こちらの住人による煽り書き込みを返しに来ただけ。
>>672 こちらの住人は、レッテル貼りの短文煽りはしたことないと思うんだが。
どちらかというと、こちらの住人というのは君らが言うところの「珍説を長文で書くゲロ長文厨」だろ?
なので、その短文煽りはいつものW粘着だと思うよ。
君は釣られたんだよ。
>>670 お互いの良い部分を吸収できる議論の場でありたいと、実話怪談側は願っているよ。
それに乗ってこないイケズは、向こうの人々、ということになるけど。
だいたい、「2ちゃんねる=挑発と荒らしが容認され、レッテルはり倒した方が勝ち」
だと思ってる人が多いみたいなんで、そのあたりの認識の差が埋まらないことには、
今後も有意義な議論に発展させることは難しいかもしれない。
それでも、彼らの考え方をできるだけシミュレーションすることで、このスレは成り立っているわけ。
>彼らの考え方をできるだけシミュレーション
小説執筆と言うストレスを、あそこのスレで発散させているのかもしれないねw
「他者を攻撃すること」「レッテルを貼ること」「仮想的を設定すること」で
自分のアイデンティティを保つ、という意味合いもあるかもしれないけど。
さて。
この創作怪談vs実話怪談の対立というのは、ものすごく単純化できるんじゃないか、と思い至ったので試してみたい。
対立というのは、「相違点を否定し合う」か「共通点を認め合わない」かで起こると見ていい。
今回の場合、話を大胆に単純化すると、だいたいこうなる。
@[創作怪談著者] vs 《実話怪談読者》 →書き手視点からの主張と、読者視点からの反論
@について言うと、創作怪談の主張(東論)は基本的に、「書き手視点」で行われている。
創作怪談(怪談文芸)の著者としてはこうあるべき、という書き手優位の視点で、
書く側の論理と正当性から話が進む。
対して、実話怪談の主張(珍説とされる側)は、基本的に「読み手視点」になっている。
実話怪談の著者は創作怪談の著者より、実数として多くないからというのもあるのだろう。
想像たくましくすれば書ける創作怪談と、取材ありきネタの引きは運次第の実話怪談という
執筆以前の準備の手間、さらに執筆後に評価を得られるかどうか(実話怪談を顕彰する賞はない)
から言えば、創作怪談の執筆者人口が多いのは理解しやすい。
「怪談を読みつつ書く」というアマチュアの人口が多いのは創作怪談だと言えよう。
実話怪談を擁護する主張は、執筆者からではなく読者からになりやすいのでは。
実話怪談側の論理が「売れ行き」「部数」「読者の数」「レビュー」などに偏るのは、
それぞれが「読者の視点」「消費者の視点」など、個々の最終購入者の視点に立っている
せいだろうと思われる。
次。
A[文章表現という共通点を理由に同一のものと考える創作怪談]
vs 《ネタの構築・取得原理の相違から別のものと考える実話怪談》
これまでの文脈を整理すると、創作怪談側からの主張はこう。
「実話怪談はネタの真偽が証明できないのだから、著者の創作である可能性が疑わしい。
が、作り話だと完全否定もできないから、ネタの真偽は問わない(ことで顔を立てる)。
どちらも「文章力による恐怖表現(=これを文芸、と狭義で表現している)」が主体。
故に、「怪談文芸(=文章による恐怖表現、文章技芸)」を用いた文学の範疇に入り、
創作怪談も実話怪談も【同じものと考えてよい】(共通点があるから)」
ということ。
つまり、【共通点に注目することで、同じものと受け取る】という考え方。
これは、「目が二つ、口がひとつ、胎生で子供を産むから、人間と猫は同一の生物」というようなもの。
もちろん、目が二つ、口が一つ、胎生で子供を産むほ乳類であることは事実で、
指摘にはまったく誤謬はないが、「人工衛星を打ち上げる人間と、ニャーニャーとしか鳴かない猫」
を果たして「同一の生物」と言ってしまうことに問題はないのか?
ここで、実話怪談側は、「共通点に着目して同一」という主張に対して、「相違点に着目して別もの」と主張している。
両者の違いは、特に「ネタ(原案)の獲得方法」、「主題(語る目的)」の違いが大きい。
ここで、「目的」についても整理したい。たぶん、ここが混乱を招いているところだと思う。
怪談全体の目的は、実は2系統ある。
「著者にとっての目的」と「読者にとっての目的」だ。
著者の目的は、「それを伝えることによって、読者にどういった感情を励起【させたい】か」と言い換えてよい。
読者の目的は、「それを受け取ることによって、自分はどういった感情を励起【したい】か」と言い換えておこう。
怪談は恐怖を題材とするわけで、ホラー小説、創作怪談(怪談小説)において、
読者の目的はいずれも「恐がりたい」に集約される。第一義は「話が事実かどうか」ではなくて、
「恐がれるかどうか」であって、恐がれる、恐怖が最大限励起されるように工夫をするためなら、
恐怖の題材、表現、前提に、【何を持ち込んでもよい】のが【小説】としてのホラー・怪談だと思う。
読者も怖いと思えるものなら、それがなんでも構わない、という了解があるわけだ。
ただし、読者には好みや恐怖を感じる基準・指針というものが、個々に設定されている。
だから、流血を怖いと思う読者、腐敗を怖いと思う読者、怨念・祟り、心理的圧迫、あついお茶など、
怖いと思う対象・方針とその程度はそれぞれに違う。その話が真実である、と思わされるようなものほど怖い
という読者もいれば、想像力を喚起さえさせられれば必ずしも真実である必要はないという読者もいる。
この読者の「傾向の差」に対応する必要が残る。
ここで、「実話怪談」という選択肢と、「創作怪談」という選択肢が現れる。
実話であることを前提に話を進める実話怪談と、実話であることが前提にはならない創作怪談は、
その入り口の部分で読者をすでに峻別している。このことを考慮に入れなければ、読者に対する
誤解が起こるのではないか。
> 実話怪談を顕彰する賞はない
創作の世界はウソですよと宣言した上で書かれる。
実話はウソなのに本当ですよと宣言して書かれる。
そんなたちの悪いウソをつくような輩にあげる賞はなくて当たり前。
では、「著者の目的」についてはどうか。
著者の感覚が読者に近い場合、「読者は恐がりたいのだから、著者は恐がらせるのが正義だ」
という結論にたどり着きやすいのではないか。
怪談好き読者から発展するのが怪談著者だと考えた場合、著者は「自分が欲することを
読者も欲しているはずだ」と考える。読者は恐怖を欲しているのだから、著者は恐怖を与える
ことが第一義である、という考え方だ。
これはこれで間違いではないと思うし、そうした考え方の怪談著者もしくは怪談著者志望が
多数派なのではないか。
一方で、「創作怪談」にない、実話怪談の著者特有の目的というのもある。
実話怪談著者は採話(取材)した話を、体験者の代わりに語る、というスタイルを採る。
言わば、体験者の代弁者であるわけで、その目的は「恐がってもらう」「恐がらせる」という
ことに加えて「信じてもらう」が入ってくる。
もともとが信じてもらう必要がない創作怪談と、実話怪談が大きく異なる点はそこにある。
創作怪談全般が「恐がってもらうため」に恐怖表現をふんだんに使うのに対して、
実話怪談が恐怖表現を用いるのは必ずしも恐がってもらうためだけではなく、「信じてもらうため
に起きていることを描くと、それが結果的に恐怖描写になる」ということではないか。
創作怪談が「恐がらせるために怖い描写をする」のと、実話怪談が「信じてもらうために
描写した内容が怖かった」のとでは、構成要素は似ているが実態には大きな隔たりがあると言える。
このスレの前のほうにあったと思うのだが、
「表現技術を研鑽する」ことそのものは間違いではないし、伝えたいことを的確に伝えるために
表現を磨く必要は、創作怪談・実話怪談ともにある。
しかし、「恐怖を感じさせるために、恐怖表現力を磨く」のと、
「信じてもらいたいことを表現した結果、それが怖いものだった」というのとでは、やっぱり違う。
目的・手段が怖いのと、結果として怖いのとでは違う。
怪談文芸を支持する人の主張を聞くだに、やはり「手段の先鋭化」が先んじてあって、
手段に合わせたストーリーを考える、手段を磨くことでうまく恐怖を表現できる、ということに終始している。
「手段はもちろん磨かれたほうがいいだろう。しかし、目的は手段ではなく、伝えるべき主題にあり、
主題を伝えた結果として恐怖を共感できる、ということが実話怪談の目的ではないか」
という主張に対して【反論はなかった】と記憶している。(手段についてのみしか反論がなかったから)
著者の目的?
スポーツ新聞の風俗嬢のインタビューを書いてる人間と実話怪談を書いてる人間は同列なんだよね。
だからどちらも賞なんかもらえない。
こいつらの目的は雑文でもなんでもいいからものを書いて糊口を凌ぎたいってだけでしょ。
創作怪談 実話怪談
-------------------------------------------
読者 恐怖を感じたい 恐怖を感じたい
著者 恐怖を感じさせたい 伝えたい事柄を信じてもらいたい。結果として恐怖されたい
体験者の話を聞くと、「恐がってもらいたい」と思って話している人ばかりではない。
「こんなことがあったんだよ、信じてくれよ」という訴えで話されることのほうが多い。
そうした体験を信じない人は体験者を嘘つき呼ばわりする。そして、自分が作った創作のほうが
もっと怖いぞ、と【自分の手腕を誇る】方向にシフトするわけだ。
体験者というのは、自分の体験がいかに怖かったかを説得しようとするが、
あくまでその上限は「自分が体験したことを事実として認めさせたい」にあり、
体験したこと以上の恐怖比べをしたいとは限らない。
手段としての恐怖表現にこだわる人は、「伝えたい事柄」という上限(主題)を持つ体験者の話を、
より以上の恐怖表現手段を持つ自分より劣っていると見なして、体験者を蔑視する。
体験者も、そんな創作怪談著者に積極的に話をしようとは思わない。
結果的に、そういう話を「真実という前提で聞いてくれる実話怪談著者」に話が集まることになる。
創作怪談著者はそういう話を聞いても「大したことではない」と思うか「より以上の恐怖表現」を求め、
「伝えたい、信じてもらいたい」という部分は置き去りになる。
おいおい、折角答えてやったんだから無視すんなよ。
ID:VxPjVECd0のレス。
途中途中で挿入されているから判り辛いんだよ。
679 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2006/10/18(水) 09:36:48 ID:VxPjVECd0
> 実話怪談を顕彰する賞はない
創作の世界はウソですよと宣言した上で書かれる。
実話はウソなのに本当ですよと宣言して書かれる。
そんなたちの悪いウソをつくような輩にあげる賞はなくて当たり前。
682 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2006/10/18(水) 09:54:21 ID:VxPjVECd0
著者の目的?
スポーツ新聞の風俗嬢のインタビューを書いてる人間と実話怪談を書いてる人間は同列なんだよね。
だからどちらも賞なんかもらえない。
こいつらの目的は雑文でもなんでもいいからものを書いて糊口を凌ぎたいってだけでしょ。
684 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2006/10/18(水) 09:59:30 ID:VxPjVECd0
おいおい、折角答えてやったんだから無視すんなよ。
>>679,682
実話怪談を顕彰する賞がないのは、実話怪談そのものが低く見られているから。
検証不能な大昔の怪談は、「秀逸な創作」と受け取られるが、例えば四谷怪談は
当時実在した複数の事件が人々の口の端に上がったものをリミックスして書かれたもの、
ということは小池壮彦氏の取材にある通り。(ここでは氏の説を採ることにしよう)
これを「実話に材を採った創作怪談」としているわけだが、当時としては今のスポーツ新聞
の噂話欄程度の扱いでしかなかった。時代が下ったことで、そうした「価値」が見いだされたに過ぎない。
それ以前の怪談のうち「残っているもの」はさほど多くない。
例えば耳嚢にしても、これも聞き書きの類で、書かれた当時は「顕彰するためのもの」ではなかった。
(そもそも、文学作品、文章、本を顕彰する習慣が生まれたのは明治・大正より遙か以降)
このスレではたびたび引き合いに出る北斎、また写楽などは、「当時人気を誇った」とされるも、
それはやはりスポーツ新聞の人気連載と同程度の意味合いの人気であって、その当時は
顕彰されていない。当時の立場としても、花形だったのはあくまで歌舞伎俳優であって、
それを書いた描き手が花形だったわけではない。
「実話怪談なんてあんな雑文」と言われるように、実話怪談は文芸の末席には数えられない。
実話怪談著者であることは、どちらかというと憚られるもので、食えない小説家が
食うためにPNを変えてエロ小説を売るのと同程度にしか受け取られていない。
エロは大きな市場を得たが、それでもエロで名を成し財を成した人が、高尚な尊敬を
集めているかというと、やはりどこかで蔑視されているのが現状。
だから文芸重視の小説家はエロに手を染めたがらないし、エロに手を染めることを堕落・挫折・恥辱
と受け取る。怪談は純文学とエロの中間あたりにあって、かつては「エログロ」とひとまとめにされてきた。
スポーツ新聞、カストリ新聞の主題もエロとグロが多かった。であるが故に、今もって地位が低い。
(四谷怪談も本来はエロの要素と不可分だ)
そこからエロの要素を省き、うさんくささを希釈し、かつ「著者の独創性が産んだ幻想的な物語」
と言い換えることで、その地位を得ようとしているのが幽などの活動。
>実話はウソなのに本当ですよと宣言して書かれる。
・嘘が誠が判らないことを指して「ウソ」と断言しちゃうのはいかがかと。
「判らないからこそ、不安であり怖い」というのが実話怪談、というのが
このスレで良く出る話。読んでる?
>スポーツ新聞の風俗嬢のインタビューを書いてる人間と実話怪談を書いてる人間は同列なんだよね。
>だからどちらも賞なんかもらえない。
・これはもう少し詳しく書いてくれまいか?
で、賞を貰う為に文章を書く人、なんてプロにはいるのだろうか?
結果として賞を貰うことがあっても、賞のために作品を書くなんていうのは
動機が不純じゃないかと思う。
(デビューしたい、とか「手段として賞を狙う」人はいるかもしれないが)
>折角答えてやったんだから無視すんなよ。
これは、途中途中で短いレスを入れるからだよw
最後まで読んで、まとめてレスすればよかったのかもしれない。
で、2ちゃんは掲示板であり、チャットじゃないからねぇw
即レスを望んじゃいけないよ。
福澤氏は「本当は純文学が書きたかったんだけど、純文学は売れないから。
怪談をにじませれば今なら書く機会が増えるので、実話を自分の小説の中に忍ばせている」という。
小説家が目指すのは(それが全てかどうかはともかく)純文学なのかもしれない。
もしくは、その他の本来の目的ジャンルがあるのだろう。
が、それをする口実、または露出の機会を獲得するために、「今なら怪談」ということかもしれない。
つまり、怪談、怪奇・恐怖表現は、別のテーマのための口実でしかないわけで、その意味で、
「主題のために恐怖表現を用いる」ということは、創作怪談(のうち、怪談を主目的にはしていない、
しぶしぶ怪談を書いている著者)には当てはまっているのかもしれない。
が、アマチュアから怪談作家を目指そうという人ほど、その「主題」が置き去りになっている傾向が強い。
そのことは批判しておきたいね。
bk1怪談大賞は「創作も実話もないまぜにした賞」であり、「恐怖表現の優劣」を競う、
技術大会であると思う。つまり、「伝えたい主題」に対する評価が置き去り。
なぜ置き去りになるのかと言えば、創作怪談に対しては「著者のアイデアの独創性」を
褒められるが、実話怪談に対しては「著者の取材力、または体験者の悲壮なメッセージ」を
褒めなければならない。ところが、双方をひとつの俎板に載せて募集しているため、
「主題の真贋の見分けが付かないから、そこは論じない」としてしまった。
つまり、完全に「技術の優劣」だけを見るものになってしまっている。
怪談に限らないが、文章というものは「主題を伝えるために、文章技術を駆使して書かれるもの」
であって、主題を問わない(主題の前提が異なるものを一緒くたにしてしまった)時点で、
「技術大会」に堕してしまったことは惜しいとしか言えない。
双方、垣根なく募集にするなら、「実話怪談部門」と「創作怪談部門」に明確に分けておくべきだった。
>>689 >「実話怪談部門」と「創作怪談部門」に明確に分けておくべき
確かにそうだと思う。
それに「文章技術(彼らが言うところの文芸性)」についての優劣を
はっきりさせるなら、テーマを設けてもよかったかもしれない。
「同じネタを競作する」という部門、とか。
・創作部門A(フリー)
・創作部門B(テーマ)
・実話怪談
blogでやるなら、カテゴリー登録してしまえば管理は楽だろうしさ。
実話怪談を顕彰する賞がないことについて、また別の視点からの雑考を。
すでにこれも書かれていると思うので繰り返しになるが、実話怪談を書くことを恥辱と思わない作家
が多数いることが、実話怪談を顕彰する賞を設置する前提になると思う。
小説を顕彰する賞が多数あるのは、その分野で顕彰されることが名誉であるからだ。
名誉に伴い、例えば「部数増」「発注増」「映画化」などの余録もある。
顕彰されたことそのものも、名誉として受賞者自身が掲げられるし、
それを羨ましく思う競合者の数も多い。
(逆説的には、著者の数が多いからこそ優秀者を峻別して顕彰する必要が生まれる)
一方、実話怪談は著者の数そのものが少ない。毎年、同じ著者の名前が夏にだけ挙がる。
新人著者の名前が、翌年に持ち越されることがほとんどない。同じ名前の著者の新作も、
通年を通じて出ることはほとんどなく、一部の例外を除けば基本的には夏しか出ない。
(夏しか売れない市場だからこそ、同じ著者だけで回していけるのだろう)
それを追う競合者が少ない理由は、ひとえに「夏だけの季節市場」であることが大きい。
(これは実話怪談だけの問題ではなく、創作怪談にも言えること)
市場が小さい→著者(供給者)は多くは不要→顕彰の必然(優秀者の峻別)がない
だから実話怪談を顕彰する賞が存在しないのではないだろうか。たぶん、3〜5年もやったら、
ほとんどの実話怪談提供者に賞が行き渡ってしまう。
こうしたところから見れば、「全体市場」そのものは創作怪談も実話怪談も決して大きくはない。
著者の絶対数が少ない実話怪談は、「つぶしが利く創作怪談」よりさらに少ないだろう。
(ただ、市場全体の小ささと、それを占有する個々のタイトルの市場規模は別として考えるべき。
最大業界の最末席と、最小業界の最大手の市場は、必ずしも比較はできない、という話)
>>690 bk1怪談大賞は毎年進化しているようなので、来年あたりからそのようになるといいなと思う。
「bk1怪談大賞」というくくりで、創作怪談と実話怪談を双方扱おうという姿勢は悪くはない。
ただ、同じ基準で審査しようというのには無理がある。
>690に挙げられた、「創作部門A(フリーテーマ)」「創作部門B(テーマ限定・三題噺とか)」「実話部門」
のような分化は必要だろう。
実話怪談については、「ネタの真贋について裏が取れないから難しい」とのことだが、それは
創作と同列の基準で扱おうとするからではないかと思う。
学術検証を求めているわけではないので、ネタの裏取りは必ずしも必要だとは思えない。(ちょっと暴論)
「本当か嘘かわからない(=胡散臭い)、不安な状態を前提として提供される分野」であり、
読者としては、【不安】を楽しむのが実話怪談ではないかと思う。
この楽しみ方は、創作怪談に対する「よくできた仕掛け(著者の努力)に対する感心」とは別種のものだろう。
ところで、今のペースで進むとおそらく800レス前後くらいに届く前に500kb制限で一杯になると思われる。
次スレテンプレを云々言うのにはまだ少し早いかもしれないが、以下提案。
・スレタイは「VS」と書くと対立を煽るようで揉めるので再考したほうがいいのではないか。
という案が草創期に出ていた。今は通称VSスレできてしまっているが、変えるべきか。
変えるとしたら代案は。提案としては「実話怪談と創作怪談について考察するスレ」で通称「考察スレ」でいいような。
・必須テンプレに、このスレができた経緯を触れておくべきか。
>>662,663 で触れているが、そのままテンプレにすべきかどうか。
VSスレ=創作・実話議論の避難先として隔離を受け入れることが前提になっているので、触れたほうがいいのかも。
>>693 ・スレタイは「実話怪談と創作怪談について考察するスレ」でいいかも。
VSは外した方がいいね。
・必須テンプレに
>>662-663を入れてもいいけど、少しまとめなおした方が。
なぜから「長いと読んでくれない人」がいるからw
それと、
>>1があげている「初期テンプレ」も少々作り直した方がいいね。
実話怪談と創作怪談の相違点について考察するスレです。
様々な視点での意見をお待ちしています。
(創作怪談と実話怪談の優劣を決めるのが主眼ではありません)
>>1はこれくらいシンプルな方がいいかもしれない。
あとは経緯の説明。スレで出てきたことのまとめとか?
>>695 >1 は>694で異議なし。あとは前スレの誘導くらいか。
>2-3あたりに、>662-663の経緯を整理したものを入れる、とか。
自発的隔離スレ(指定避難先)であることは明記したほうがいいかも。
スレで出てきた話題のまとめを入れるとしたら>4-5あたりだと思うが、
たぶんまとめきらないと思う。
論点の整理くらいでいいかも。
でもそれだけでも膨大になりそう。
論点の整理については、拙稿>676あたりからを挙げようと思ったが、
あんまり単純化できているとは言い難い。
長いと読まれない、単純化すると誤解を招く。難しい問題だな。
>662-663の整理を試みようと思ったんだけど、丁寧語にすればさらに長くなるし、
必要事項はあれ以上ほとんど削れなかった orz
>自発的隔離スレ(指定避難先)であることは明記
うん、これは必須だと思う。
それと各スレからの誘導の際の注意、とか。
で
>>676はこのまま仕様して様子を見るのはどうだろう?
>>662-663も、このまま転載かなぁ。
簡略箇条書き版を
>>2-3に。
そして原文をテンプレ最後に、というのはどうだろう?
原文の頭に「
>>2-3の原文はこちら。※長文です」とかいれておく。
これから読む人はちゃんと読んでくれると思うし。
簡略版(
>>2)の原案。
このスレは、実話怪談と創作怪談の差違について、無為に感情的な対立や対話を拒絶した
レッテル貼りに陥った不幸な過去の経験を反省して、冷静かつ建設的に「怪談」を巡る過去、
現在、未来、その他の周辺事項について、落ち着いた考察・議論を重ねるスレです。
【スレ成立の経緯】
・[オカ板]実話怪談系スレと[創作文芸板]創作怪談系スレの意見対立があった。
・双方のスレ同士がレッテル貼りと荒らしの扇動で荒れた。
・このため、双方のスレでの論禍を避けるための議論の待避先/避難先/隔離スレとして設置された。
【スレの傾向と目的、振る舞いについてのマナー】
・冷静に双方の違いを比較、考察する。
・双方の主張に優劣や順位を求めない。
・相手の言い分を理解する努力をする。同時に自分の言い分を理解してもらう努力もする。
・単純なレッテル貼りは思考の放棄と同じ。
・いつもウィットを忘れない。
成立経緯の詳細は
>>3-4をどうぞ(長文です)
で、これっていうのは別に「こっちのほうが上だぜ!」という話じゃない。
母数(初版部数)や単価も違うので一概に比較はできない。
それを出している版元にとって、その商品は売れているかどうか?という。
版元にとって利益を出す商品かどうか?というバロメータとして見た場合、
1)発売直後に売れ筋上位にある(期待値の高い商品)
2)長期に渡って売れ筋上位にある(ロングテール商品)
であるわけで、竹書房に関する売れ筋商品の中で見ると、
2位の怪コレは(1)として評価されてて、12位の東京伝説は(2)として評価されてる。
という見方をしていいのかもしれない。
怪談文芸関連書籍をいくつか当たってみたんだけど、
その会社の発売点数が多いのか、夏季限定商品だからなのか、10/13時点での
売れ筋ランキング20位圏内に創作怪談・怪談文芸系の本は見あたらなかった。
ちなみに、心霊に関する書籍の売れ筋ランキングに、
http://www.ne.jp/asahi/jubus/com/jinbun/html/jinbun43.html 小林壮彦「心霊写真 不思議をめぐる事件史」15位、
加門七海「ほんとにあった怖い話コミックス?怪奇心霊語り」17位、がそれぞれ見える。
リイド社はカテゴリになく、光文社、筑摩書房などは順位上位には怪談関連はなかった。
怪コレはたいして売れてないという指摘もありそうなのと、
怪コレ2、3の決定が早かったのは出来レース、という話が出てたので気になっていたが、
怪コレ1がこれだけ売れ筋をはっきり数字で誇示してたら、業界全体に対してでなく
竹書房の類似商品・文庫と比較しての重要度から言えば、高く見積もられて当然なのかも、と思う。
ポプラ社の動向もみたいですね。
>>700 これ筑摩書房の奴はまともなデータベースとして機能してるのか疑問。
並んでる本を見て思ったが、これはタイトルに「筑摩書房」と入ってる
本のデータベースじゃないのか?下位はランクなし在庫切れだし。
ちくま文庫のデータベースではないだろう。
>>701 こっちのデータベースはタイトルに「心霊」が入ってれば心霊に関する本で
なくても拾っちゃってるね。第2位が泡坂妻夫のミステリだし。
この2つのデータベースはかなり精度に問題がある気がする。
特に前者は何の参考にもならない。
竹書房の奴はちゃんと「竹書房から出た出版物」のデータになっているようだが。
Θの著者がアズになってるのが気になる。
夏冬体制に向けた竹書房の戦略かな?
>>702 地元の書店をいくつか回った時に確認してみたんだが、
某地方チェーン店では平積みになってた。
んで、昨日行ってみたら山が半分になるぐらい捌けてる。
ミニマムな視点なのであんまり説得力はないけど、
あの様子なら書店側の印象も悪くないんじゃないかと勘ぐれた。
なお東の文豪怪談はAmazonのランキングではどれも超-1に桁1つ差をつけられている。
リアル書店でどうなっているかはわからん。
707 :
本当にあった怖い名無し:2006/10/22(日) 02:46:00 ID:w2bU06bo0
下がりすぎ
>>706 >
>>704 > これは疑問だった。
> でも「超」怖い話Aも編著者がアズになってたりするんだよね。
> あれはなんでなんだろう。
いろいろ大人の事情が……税金とかゴニョゴニョ
この流れを見ていて思ったこと。
・実話怪談系の文庫を手に取る人の目的
・創作怪談・怪談文芸系の本を手に取る人の目的
の違いなのかなぁ、と。
それに俺の場合は「怪談本」といえば実話怪談本だからw
怪談本を買う・読むとなった場合、実話怪談本が頭に浮かぶ。
ぱっと「創作怪談・怪談文芸=怪談本」と出てこない。
どちらかというと普通の小説をチョイスする感覚なのかもしれないな。
読むんだけど、実話怪談のような読み方はしない。
スレ内で何度も出てきている「恐怖の概念」の違いからじゃないかなと思う。
・「怪談に実話も創作もない」「文芸性を重視」が、幽と屁の基本です。
という創作文芸板の標語は、そこから一歩も踏み込まないまま思考停止が決まったのかな。
「怪談の中にある実話怪談と創作怪談の、読まれ方(消費され方)の違い」
に踏み込んでいかないと、その成り立ち、求められる理由、書く側の意識、
読者の意識の把握、ということに結びついていかないと思うのだが、創作文芸板は、
「読者がどう思っているかは関係ない」というのが、結論としてあるのかなあ。
何しろ、創作怪談を創作する側からの、そのへんに踏み込んだ意見ってほとんど出てこないので、
想像で語るしかないんだよね。
>>683 この稿をもう少し。
創作怪談 実話怪談
-------------------------------------------
読者 恐怖を感じたい 恐怖を感じたい
著者 恐怖を感じさせたい 伝えたい事柄を信じてもらいたい。結果として恐怖されたい
これおを見ると「読者は恐怖を感じたいのだから、読者にとっては創作怪談も実話怪談もない。
怪談に創作や実話の垣根を作ろうとするのは著者の傲慢ではないのか」という反論が出てくる
んじゃないかと思っていたんだけど、
>>679,682,684にそういう指摘はなかった。
実際、いずれも「怪談には相違ない」という点については特に反対はない。
が、「求められる恐怖の性質や方向性が違うのだという点については譲れない」というのが、
このスレで繰り返されてきたことではないか。
創作怪談と実話怪談の最大の差は「その実在を裏付ける体験者の存在の有無」にある。
体験者の体験が実在するかどうかという疑いと、体験者そのものが実在するかという疑いは
いつも晴らすことが出来ない。
それを晴らすためにはネタ元の体験者を暴露してしまうしかないのだが、体験者がどう考えて
いるかによって、その行為の正否が決まってくる。
体験者が自分の存在をあらわにすること、自分の正体が明かされることを望んでいる場合
(=自分の特殊な体験が価値ある貴重なもので、自慢できるものと思っている場合)と、
自分の存在があらわになり、正体が明かされることを望んでいない場合
(=自分の特殊な体験を当人は自慢したいと思っていない場合、忌避している場合)
とがあるのだが、体験をしたことがないけど恐怖は好き、という読者は体験者を「羨ましい」
と思い、「自慢したがってるはずだ」とすらも思いこんでしまいがち。そこに誤解もあるかもしれない。
実話怪談著者が「体験者の存在」を暴露し、その実在性を証明できれば、
実話怪談の信憑性に関する証明責任は著者から体験者に移動する。
体験談を自慢したい体験者なら、そうした証明責任を負うことを厭わないかもしれないが、
自分の体験談を忌避している、または自分の正気のために否定したいと思っている体験者は
そういう証明責任を負わされることを望まないだろう。そうなったら、次からは口を閉ざされてしまう。
実話怪談はそういう事情から、「ネタ元の体験者」をはっきり明示することがあまりないのではないか。
>>711の話に戻って、「体験者が存在する話」と「体験者が存在しない話」では、読者が望む恐怖の
性質は違うのではないか、だから、怪談という大分類の中に「創作怪談」と「実話怪談」の分化があり、
そこで分化を始めたものについて、上位分類の視点からだけ「同じもの」というのには無理があるのでは
ないか、むしろ大分類のところで留まってしまっては、読者の求めを深く理解できないのではないか、
というのがこのスレで繰り返されてきたことと思う。
読者の視点から、「実話怪談の何が怖い」「創作怪談の何が怖い」というのをはっきり言えれば
いいのだろうけど、結局は「ともかく怖かった」になってしまって、恐怖の核の部分というのはなかなか
説明しづらい。が故に、「わかったわかった、とにかく怖かったんだな?」と生産者側が恐怖の核を
理解しきれないままに進んでいる、そういう著者が創作怪談著者には多い、ということになってしまう。
このスレにときどき現れる人には、「創作怪談と実話怪談の恐怖の性質の違い」「求められていること
の違い」について説明していただきたいところ。
楽しみ方の幅は、読者ごとに大きな開きがあると思う。
「本当と言っているのだから全部本当(ムー民的思考)」や、
「基本的に疑わないが、異常すぎる話はイマイチ乗れない」、
「騙される可能性を承知で読むが、たまに本当だったらどうしようと不安になる」、
「嘲笑し、読後ごみ箱に捨てる」などなど。
他にも沢山あると思うが、自分の周りでは、2番目と3番目のタイプが多い気がする。
つまり多かれ少なかれ、体験者の語った怪現象が事実なら、という楽しみ方をしてる。
しかし、創作怪談作家志望の人々の意見を聞いていると、
「メンヘルの妄想に耳を貸す奴はバカ」ないし「著者を盲信する信者乙」といったニュアンスが強く感じられた。
これは実話怪談の読者そのものを否定しているように思うし、単純なオカルトアレルギーだと思う。
東氏の見解は「創作の中にも実話が含まれている可能性はあり、境界は曖昧」
だったと思うのだが、あのスレの共通認識にはズレがあるように感じた。
個人的には、彼らにこの点をもう少し聞いてみたい。
>>713 あっちのスレは、「提示された設問」を、設問のままにしていて、
そこから解を引き出そうとか、そこから導きだされる次の問いを考えようという動き
があまり見られないように見られた。
以下、多少荒れるであろうことを織り込んで例示。
「イエスは『1+1は何か』と仰った」
「2だろ?」
「いや、イエスは『1+1は何か』と仰っているのだ」
「だから2だろ?」
「イエスの御心は『1+1は何か』であって、それに手を触れることは許されない」
「だから2じゃないのか、と」
「1.5+0.1でも同じですよね」
「2×1じゃいかんのかな」
「答えが求められてるんじゃないんだよ。設問の存在が重要なんだよ」
「だから2じゃないのかよ」
「おまえら黙れ。引用する。聖書見れ。イエスは『1+1は何か』これしか言ってないんだよ。文字通り受け取れよ!」
「じゃあ、1+1は要するに1+1だ。以上FA」
「だから2だろ?」
「珍説乙! 重要なのは1+1ってことだよ!」
「2じゃないのかよ」
バロスwwwwwwwwwwwwww
>>714 ×「1.5+0.1でも同じですよね」
○「1.5+0.5でも同じですよね」
だったorz
まあ、イエスの使徒が1+1以外は認めないという偏狭さを持っていたら、
「2だろ?」「2×1」「1.5+0.5」などの「正しい別の解」も、
「1.5+0.1」の誤った解も、全部「1+1ではないから間違い」
と言いそうなので、あながち間違いだったとは言えない肝酢。
コピペする人は修正してからにするようにw
何事か疑問を提示すると、「怪談の学校見ろ!」と言われる辺り、
「聖書読め!」と連呼、聖書の該当箇所らしき部分を引用した後に、
「だから?」と聞かれると「そこに書いてある通りだ」とキレる信者に、
似ていなくもない。
と、ここまで言ったらまた何か呼び込むかもしれないけど、ここは
それを見越した隔離スレなのでキニシナイ。
52 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/23(月) 17:12:00
どうでもいい。
新耳はもう終わった作品だし。
東も持ち上げておきながら、今は創作怪談って言ってるしなw
中山と木腹も二人の仲は修復不可能状態だし、中山もブログ読む限りでは
怪談書くよりも塾生育成に力を入れたいようにも見える。
今後新耳コンビはどうなってしまうのだろうね(・∀・)ニヤニヤ
55 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/23(月) 17:14:56
>>52 >東も持ち上げておきながら、今は創作怪談って言ってるしなw
相変わらず殿下の意図を全く理解してない人がいるねー。
59 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/23(月) 17:20:47
>>55 信者乙
62 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/23(月) 17:26:38
>>59 「怪談の学校」をちゃんと読んでごらん
キミの知るべきことが書いてあるからね
65 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/23(月) 17:41:43
>>62 いや、それ以前に「創作怪談」と「実話怪談」を対立項と考える間違った思い込みを捨てなきゃダメだよね。
創作怪談にも実話にもとづく作品が多数あるし、実話怪談の多くにも創作の要素は抜きがたく混在している。
そこをちゃんと理解して認識しないかぎり、お話にもならないってことだよね。
71 名前:名無し物書き@推敲中?[sage] 投稿日:2006/10/23(月) 17:49:33
>>65 たまには読者の事も思い出してあげてください。
「創作怪談」読者と「実話怪談」読者、求めているものが同じとは限らない。
創作怪談に実話が入ってればバリューになるけど、
実話怪談に創作が入ってるとガセネタ扱いになる。
今日
>>717の実例があったので保存。
ちなみに
>>71は漏れだが、以降華麗にスルーされてるorz
ついでに。
現在、新耳が創作怪談として仕分けされている問題は
読者の受け止め方(版元の売り方?)は依然として「聞き書きの実話怪談」のままだと思われるし、
中山木原両氏・東氏・京極氏の三者の立場にからむ政治的wな話にしか見えないので
このスレで扱っている系統の問題ではない、と思う。一応。
超怖スレから誘導。
609 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2006/10/24(火) 11:31:19 ID:cHU9STgN0
bk-1の連中はただの喧嘩好き。
まだ本が出版されていないのに怪コレに勝った気でいるし。
目指すところも購買層も違うので、そもそも勝負にならない。
部数の話をすると市場論だと見下されるし、内容はジャンル違いなので比較不可能。
あと、超怖スレ住人が幽スレへ出張して怪コレの宣伝をするのも問題あり。
少なくとも木原氏は「聞き書き・実話」に拘っていると思われる。
これまでの氏の言動を見るとねぇ。
京極氏の「新耳袋は実話を元にした創作怪談である」という主張。
実は、この創作という言葉が問題なんだよね。
京極氏らしいといえば、らしいのだけどw
創作を辞書で引くと
(1)それまでなかったものを初めてつくりだすこと。
(2)翻訳などに対して、作家の主体的創造力によって芸術作品をつくりだすこと。また、その作品。
「―活動」
(3)事実でなく想像によってつくりだすこと。また、その話など。
「苦しまぎれに―した話」
になる。多分大多数の人が2と3を想像するんじゃないかな。
この創作という言葉が1を意図して使われているとするなら、まだなんとかなるかもしれないが。
だけど、前後の口ぶりから言って、どうも2と3以外のニュアンスはなさげではある。
「新耳袋は、体験談を著者が再構築したもの」という意味合いなら問題ないんだけどね。
これはどの実話怪談にも共通することだと思うし。
実話怪談を書くというのは「創作に対する翻訳」と煮ているのではないか。
ある言語で表現されたものを別の言語になおす、という点とか。
>三者の立場にからむ政治的wな話
これは仕方ないというかw
これを細かく考えると荒れちゃう原因になりかねないからなぁ。
>>721 勝負、という概念からして間違っているのかな。
比較することもないと思うし。
お互いに売れたら売れたで、いいことじゃないかと。
でも、気になるのかねぇ?互いの動向が。
それかよほど対立を促したいのか。
はたまた目の敵にしているのか。
部数に関しては少々気にしてもいいと思うけどね。
市場論だからといって無視するのはできない話だし。
>>722 木原氏が京極氏の発言を訂正していないのは、京極氏が「新耳袋は創作怪談」
というのを、木原氏を褒める文脈で発言しているからだったと記憶してるがどうか?
「このおとっつあんたちが書くと凄い怪談になる」という文脈の中で「新耳袋は事実を
下敷きにした創作怪談」と言っていて、木原氏もそれを否定していない。
でも、聞き書き実録怪談だということそのものを捨てているわけでもない。
焦臭い話に入っていくんだろうけど、新耳で大ネタを多く取材してきたのは中山氏で、
中山氏は怪談之怪・幽ではあまり発言していないし、会の方針に影響を与えている
ようにも見えない。新耳のスポークスマンは木原氏だし。
そのあたりから、いろいろな類推が出てくるけど、それは憶測の域を出ないので割愛。
ただ、新耳は「現代の遠野物語」とか、一時期実話怪談色について積極的に打ち出して
いたんだけど、幽では新耳へのそういうアプローチってあんまり見ない気がする。
その辺りに温度差の可能性を疑ってしまうんだろうけど。
もうじき500kb制限に掛かりそうなんで、次スレ立てたほうがいいかもしれん。
建ててくる。
>>721 実話怪談と創作怪談の比較考察の端的な例として、怪コレとてのひらは
比較しやすいというのはあるのかもしれない。
この場合、「どちらが勝っているか」という優劣を求めようとするから揉めるわけで、
どういった方向性の違いがあるか、というのを比べてみるというのは、それはそれで
一度やっておくべきことかもしれん。
どちらかがどちらかを意識している、というよりも、当事者はともかく読者側は
どちらもある程度意識はするだろうと思う。その存在を互いに知っているなら、という
条件付きだけど。
怪談の世界は広くないし、「こういう本が出るらしい」となれば、情報が広まるのは
早い。情報源が「目の前に並んでいるのを見るまで気付かなかった」という昔なら
いざ知らず、怪談好きのレビューブログも、書店の新刊情報も、2ちゃんねるみたいな
情報交換の機会も、すべてパソコン上から読めるわけで、情報の集約と取得はずっと
容易い。怪コレの話もてのひらの話も、「怪談ならなんでも手を出す」という層なら、
いやでも耳に入る。
そこから、比較はされていくのは仕方ないことだと思う。
超怖スレ住人が幽スレに出張して怪コレの宣伝をしているのは、挑発になってしまって
いるように思う。どうしても挑発したいならこのスレでwすべき。
ただ、挑発の結果報告を超怖スレでしているところを見ると、もしかしたら「超怖スレから
幽スレに喧嘩をふっかけにいった住人がいる」というアリバイ作りをしたいだけなんじゃないか、
という疑念がどうしても残る。事実はわからんし、善意かもしれないけど、善意が良い結果
になっていないのでは、ということは気付いて欲しいかも。
>>724 「いや、それは違う!」といえなかったのかもしれな(ry
それはおいといて。
褒める文脈ではあるんだけどw
「幽」5号の対談の流れを見ると、その京極氏の発言直後、
木原氏はやんわりと実話であることが重要だ、と発言していると思う。
「これは作り物を交えていない、0から作ったものじゃない」とかね。
この辺りは
>>724のいうとおり「実話怪談というのを捨てていない」証拠だと思うし、
怪談之怪の温度差の原因でもあるのか知れない。
怪談之怪メンバーの立ち位置や発言を見ると、やはりそれぞれの思惑というのは
存在するのだろうな、と。
>幽では新耳へのそういうアプローチってあんまり見ない
木原氏と中山氏の連載は「聞き書き実話怪談取材レポート」として
新耳袋の取材の裏を見せようとしているのだと思っていた。
=「我々は実話怪談であることをやめていない」という主張なんじゃないか。
対して、幽の方針としては、実話を打ち出すより「新耳の文芸性」を打ち出したいのだろう。
それは判る。判るのだけど、やはりこれも著者と雑誌と読者の求めるものがずれている気が。
>>727 乙です
次スレも更に突っ込んだ考察を期待
というわけで、次スレとまたがりそうな気がするけど、【てのひら】と【怪コレ】の比較考察とか。
とりあえずはすでに判明しているデータなど。
対象ジャンル
【てのひら】 怪談ならなんでも。創作怪談(ゼロからの完全創作)、実話怪談(聞き書き)の双方を対象とする
【怪コレ】 実話怪談を対象とする。創作怪談(ゼロからの完全創作、オチや出来事に関する創作)は排除する
対象著者と人数
【てのひら】 bk1怪談大賞応募者から72人を選抜。伸べ100話を収録
【怪コレ】 超-1応募者から第一巻は17人を選抜。第一巻は伸べ82輪を収録
母体企画の開催目的
【てのひら】 ビーケーワンの夏期振興企画。怪談文芸発展のための、傑作怪談を求める文芸賞 →傑作怪談を求める
【怪コレ】 「超」怖い話の新人共著者の捜索と選抜、獲得のための、著者能力テスト →実話怪談を書き続けられる著者を求める
審査方法
【てのひら】 東雅夫、福澤徹三、加門七海の三名による審査選抜。専門家のセンスと読解力に信頼性を置いて選ぶ。
【怪コレ】 読者及び応募者による互選講評。読者・応募者のセンスと読解力に信頼性を置いて選ぶ。
作品集について
【てのひら】 bk1第四回大会審査終了後(2006/8)に内定、9月に確定。ポプラ社より2007/2刊行予定。おそらく単行本。定価1000〜1200円300頁前後?続刊未定。
【怪コレ】 超-1募集告知時(2006/1)に予告、開催期間中(2006/4)に内定、開催期間中(2006/5)に確定。竹書房より2006/9/30に刊行。文庫本。定価600円。272頁。2006/10、11に続刊、計3巻。
てのひらは創作文芸板東スレで、怪コレはオカルト板超怖スレで、それぞれ話題になっている。
で、どういう話題の盛り上がり方をしているのかというのにも着目しておきたい。
てのひらは、圧倒的に「著者視点」「書き手視点」での盛り上がりだったように思う。
これは、板の性格にもよると思う。創作文芸板は「創作をする人の集う板」であるわけで、
実質的には「文学賞に出す書き手が集まる板」になっている。東スレも、「幽」「bk1」を
対象とした文学賞挑戦者のサロンになっている、と見て間違いないと思う。
当然、スレ住人は応募者が中心。話題も「いかに書くか」や「審査員へのアピール」
が多いようだ。
「てのひら怪談」に対する理解も書き手視点からになるのも無理からぬところ。
それに「いかに載るか」や「書き手としてどう向き合うか」が興味の中心となっている。
対して「怪コレクション」は、オカルト板超怖スレで話題になっている。
元々超-1は「超」怖い話から派生したものであるわけで、超怖スレで話題になるのは
これも自然な成り行き。スレには書き手も参加しているのだろうけれども、いろいろな
経緯wもあって、スレになるべく書き手として降臨しないのが暗黙の了解になっているね。
また、「オカ板はビリーバーに優しい」というのを別におくとして、超怖スレでは「書き手視点」
の話よりも、「読み手視点」の話が多いように思う。これも、「書き手であることを明らかに
しない」という暗黙の了解ができてから(それ以前からそうではあったけど)、読み手として
どうか?という見方をしばしばされるためかもしれない。
超-1自体、「読者が講評する」というシステムを採っていたこととも関係がある。
双方の違いは、板の性格の違いだけではなくて、そのまま創作怪談と実話怪談の
読者の違いでもあるのかもしれない。
実話怪談は、それが実話であるかどうかを最終的に判断して決めるのは、
実は著者ではなく体験者でもなく、読者であると思う。もちろん、事実は事実として
あるのだろうが、それを「事実として受け入れる=信用する」か、「あり得ない、と
切って捨てる=信用しない」かは、個々の読者が個々の判断で決めることができる。
だから、実話怪談の成立には「読者の判断」というのが欠かせない。
読者が判断する基準というのはひとそれぞれで、「著者の言い分を信頼して」という
場合もあれば、「自分が自らそれを裏付けて(現地に行っちゃったり)」というのもある。
または、「前後関係から類推して、ないと断言できない」だったり。
どちらにせよ、その信憑性についての最終判断は読者が下せるものだ。
読者の位置づけが大きいということが、そのまま読者が書籍に対して思い入れる機会と
それを発信する機会を大きくしている。
体験者・著者・読者のどれが欠けても実話怪談は成立しない、という指摘にある、
トリニティの構成要素として、体験者と読者の双方が実話怪談の支持者であるのだと思う。
超怖スレなどで、読者視点からの発言が多いことの説明は以上。
対して、東スレに見られる創作怪談関連では、著者の発言がほとんどで、
「読者としてどうか」という発言はあまり見られなかった。
これは純粋にスレの性質・板の傾向の違いと言ってしまえばそれまでだが、
読者として他人の作品を見るときの態度の違いも気になる。
話は戻って、てのひら怪談を、「読者」として考察する人が、今のところ
ほとんどいないことが気になっている。てのひらを持ち上げる、または高く評価
している東スレの住人のほとんどは、おそらく「書き手」なのだろう。採否にかかわらず。
だから、「作品発表のステージ」として、または「デビューのチャンス」としててのひらを
評価している。これは、著者視点での評価であって、それを買う購読者からの
評価とは異なる。
購読者がてのひらにどのような魅力を感じるか、購読者にてのひらをどのように
アピールするかについては、今ひとつ見えてこない。
そのあたり、「創作者による創作者のための創作者を読者とした本」というイメージ
がてのひらにはつきまとう。
怪コレは「読者から著者を募る」という切り口から入ったせいもあるかもしれないが、
著者へのアピールよりも「読者へのアピール」にリソースを割いているようにも見える。
もっとも、編者からの宣伝またはコメントは、当人のブログか怪コレ本誌にしかない
わけで、その真意は実際にはわからない。
ただ、「開催中の超-1にリアルタイムに触れていなかった人が多数派であろう」という
前提に立っていることは、「そこに居合わせなかった読者を多数と見て、それを意識
している」と見て間違いではないと思う。
てのひらは何分にも完成品ができていないので、読者に対してどういうアピールを
行うつもりのものなのかが、未だ見えてこない。
「著者のための記念品」になってしまうのだとしたら残念なことだが、「読者に訴えるもの」
になるとしたら、今後発売までの間にどういうアピールをしてくるのかが興味深いところ。
小島信夫死去。
でもそれ以上に、大木金太郎逝去に心を馳せてしまう。。。
さらば頭突き王。
>今後発売までの間にどういうアピールをしてくるのか
まずは「宣伝媒体の潤沢さ」を利用するだろうね。
MF関連やbk1、幽、東氏が同時にアピールを始めることは想像に難くない。
また、採用者70名の一部がネットなどで情報を発信するだろう。
・MF(幽やダヴィンチなどの媒体)では注目の新刊として扱う
・bk1では「自社発の企画」としてのプッシュと予約特典をつけるだろう
・東氏は様々な媒体でレビューを展開
・怪談之怪などの関係者からのプッシュもある可能性が
・当然ポプラも宣伝はきちんと打つだろう
って、「内輪褒め」+「職権乱用」みたいに思えるなw
読者に訴えるものがない。
どの層を狙っているか、などを考えたら、結構ピンポイントになりそうではある。
ポプラの思惑を推察するのも手かもしれないな。
そんでまあ、
1)どの層を狙っているか
・怪談ファン
・ホラーファン
・幻想文学ファン
・怪談文芸ファン
・応募者層
ぱっと思いつくとこれくらいか。
応募者層が一人5冊買ったら、約350冊だがw
怪談ファンが食いつかないと、ちょっと厳しいのではないか?
ここで思うのは「怪談ファン」と内わけ。
創作怪談ファン層と実話怪談ファン層の割合はどうなっているのだろう?
個人的には実話怪談ファン=怪談ファンではないか、と感じているのだが。
だとすると、実話怪談ファン層を飲み込むことが肝要になるはず。
だが、そこに対してのアピールはない。
2)ポプラの思惑
ポプラといえば子供向けの書籍が頭に浮かぶ。
が、最近は一般向け書籍への注力も始めているように感じた。
(2000万の文学賞とか、その辺りの売り方とか)
その一環として「大人向けの怪談関連」を始めたいのではないだろうか?
これまでは子供向けの怪談書籍をヒットさせていたポプラだが、
大人が読むに耐えうるだけの怪談書籍を出す為に、とかw
とはいえ、突然本を出しても売れないことは判っている。
なら、どこかと提携して、そのノウハウや人脈を利用した方がいい。
そこに「利害関係の一致」という点が浮かび上がってくる・・・と書くと荒れそうだな。
そろそろ止めておこう。
3)幽とbk1の関係
これに関しては「受賞者の売り出し」というアレが(ry
>>737 内輪褒めでも職権濫用でも、持てるリソースを全て注ぎ込むのは戦略として
当然のことと思うので、それはよし。
ないないづくしの超怖とてのひらを比べるのは、1944年の大日本帝国と
アメリカ合衆国を比較するくらいの差があるのだがw、歴史にIFがないように
現時点の背景の勢力差について「もし同じだったら」みたいな想定は無意味だし、
そういう背景勢力を整備する能力や期間も、主催者の才能・実績・能力のうちだろう。
48歳の東雅夫と39歳の加藤一の経験値、人脈の差というのもある。
そういうキャリア・蓄積はおいとくとして、てのひら怪談そのものに目を向けた場合に、
それをバックアップする側から見てどれほどのウェイトがあるか、というのも興味を引く
ところかも。宣伝媒体が潤沢であったとしても、そのリソースが無尽蔵に割けるわけ
ではないし、リソースを注ぎ込むだけの価値があるものでなければ、リソースを使う
ことについて許可が出まい、と。
雑誌の場合、例えば1頁広告を打ったらうん万円とかうん十万円の広告料を本来なら
取れるところに、「新刊よろしく」という自社広を入れたり、キャンペーン紹介記事を
入れたりするわけで。幽やその他の関連媒体が、どのくらい宣伝に力を入れるかで、
てのひら怪談のMF・ポプラ・bk1の中での重要度が見えてくるのではないかと思われる。
東氏にとっては、「たくさんある仕事の中のひとつ」なのか、将来の布石として重視してるのか。
東氏の思惑とそれを支援するMF・ポプラの思惑は一致しているのか、などなど。
それはそれとして、そろそろ一杯一杯だと思うので、続きは次スレへ。
実話怪談と創作怪談について考察するスレ【2】
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1161661757/