1 :
日本@名無史さん:
邪馬台とはすなわちヤマトの事?
纒向は邪馬台国の都、箸墓は卑弥呼の墓なのか?
3世紀日本列島の状況とは如何なるものか。西日本に統一政権はあったか?
倭国大乱の実体、そして狗奴国はどこだ?
最新の発掘状況と資料解釈を元に、古代王権の正体をを推理する!
2 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:36
3 :
日本@名無史さん:04/02/27 18:40
4 :
日本@名無史さん:04/02/27 19:17
5 :
日本@名無史さん:04/02/27 19:35
前スレの簡単なまとめ
邪馬台国畿内説
@基本的には畿内発祥の勢力との解釈(必ずしも畿内生まれでなくとも可)
A部族または首長連合が正体(UAE みたいなものか?)
B連合の理由としては経済ネットワーク、宗教統一、安全や平和への求心力、技術革新、大陸との交易権(鉄その他)、VS九州などが仮説。
C巨大化の過程として、軍事力、技術力、交易権などをちらつかせ、謀略と圧力で出来るだけ戦争を回避して勢力拡大したと考えられる。
D3世紀前半頃には、老舗の北九州勢力を圧倒し傘下においたか、少なくとも圧力を掛けていたと思われる。
7 :
日本@名無史さん:04/02/27 19:44
E狗奴国については議論中。東海、近江、関東などの説あり。
F銅鐸消滅については、小部族祭祀から権力者祭祀へと変遷する過程で失われたものとの説あり。
G倭人伝、記紀については発掘事実を絡めて説明することが必須。
H自説に矛盾が生じたり更なる改善説が出た場合は潔く撤回し、再構築する。デムパにならない宣言!
8 :
日本@名無史さん:04/02/27 19:58
@に追加訂正します。
倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、従来考えられていたよりも巨大な存在であったことが考古学的資料から導き出されている。
かつての畿内説や九州説、東遷説とは一線を画す。
ネオ畿内説と言っても良いのだが、なんとなくオカルトっぽくなるので、何か善い呼び方ありませんか?
9 :
日本@名無史さん:04/02/27 21:08
東征が記紀の重要なモチーフになっていることについて畿内説論者はどう解釈してるの?
前スレにあったように1世紀とかの解釈なの?
でっち上げだとしたらその根拠は何?
>>9 なんとも言えん。考古学的に裏付ける物が何もないし。
個人的には、新発見があるまで東征については態度保留。
狗奴国四国説
日向の大和国は一応邪馬台国連合に敵対してはいなかったが、
邪馬台国連合に敵対する四国の狗奴国にひよっていたため
奴国に一大卒を置かれて監視されていた。
倭国大乱で狗奴国が畿内の邪馬台国を滅ぼし(最初の東遷)、
続いて大和国が陰謀で政権を奪取(神武東遷)。
12 :
日本@名無史さん:04/02/27 21:39
>倭国大乱で狗奴国が畿内の邪馬台国を滅ぼし
その戦乱の跡が無いってのは散々ガイシュツなのだが
>日向の大和国
それ何?
13 :
日本@名無史さん:04/02/27 21:54
基本的に東遷した時期が問題だと思う。
邪馬台国東遷は考古学的に見てその可能性はないかもしれないが、
それ以前に、九州の一勢力が東遷したという、可能性はないとはいえない。
14 :
日本@名無史さん:04/02/27 21:58
邪馬台国が部族連合だったという案には賛成だ。
卑弥呼のようなシャーマンが象徴的権威だったわけだ。
15 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:03
前スレで宗教観が大幅に変わる時は、
何か食料の安定供給等の具体的な利益をもたらす集団に取り込まれた場合が多いって話が出てたが、
それと卑弥呼共立・前方後円墳出現・銅鐸消滅を連動させて考える事はできないだろうか。
例えば、九州から畿内が外交・交易権を奪ったとしたら、その時鉄や新技術と共に新しい宗教観も流入した筈だ。
その新しい宗教観(神仙思想?)がベースとなって、前方後円墳は考案された、とか。
大陸から流入した鉄と大規模土木技術は農業生産力を一挙に向上させる。
それと共に入って来た新しい信仰は人々に強い説得力をもって受け入れられた筈だ。
この信仰の感染力が銅鐸を消滅させ、鬼道に基づく卑弥呼=邪馬台国政権に強い求心力を産み
平和裏に邪馬台国=大和政権を強大化していったんじゃないか。
大量の鉄器と高度な土木技術を必要とし、大陸の神仙思想の影響が感じられる前方後円墳は
まさにその象徴だったんじゃないかな。
16 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:16
>>15 >邪馬台国=大和政権を強大化
このあたりの主張はやぶさかではないが
>九州から畿内が外交・交易権を奪ったとしたら、その時鉄や新技術と共に新しい宗教観も流入した筈
その逆転が起きる以前から畿内には既に相当な土木技術があったとの発掘結果があります。
畿内や東海や吉備なんかで構成された倭国連合が、最後に北九州を飲み込んだとの解釈のほうが整合性が高くないですか?
四国て主流の説じゃどういうあつかいなの?
18 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:26
>>17 瀬戸内ルートにおける中継地。元々は独自の文化があったのかもしれないが、吉備ほどの勢力を持てないまま3世紀には連合に組み込まれていった。
決して後進地と言うわけでもないが、先進地にはなれなかった。地の利が悪かったせいだろう。
>>16 >その逆転が起きる以前から畿内には既に相当な土木技術があったとの発掘結果があります
けどそれは、「江戸時代の段階で既に経済が高度に発展していたから、明治維新の急速な近代化が可能だった」
という風にも考えられると思えます。
自分には箸墓の前と後では土木技術で何か決定的な差があると思えるんですよ。
確かに畿内に大規模な土木建築をやるベースは1〜2世紀頃からあったかもしれないけど、
箸墓を作る為のトリガーを引いたのは、やはり大陸からの新技術だったように思えるんです。
>畿内や東海や吉備なんかで構成された倭国連合が、
>最後に北九州を飲み込んだとの解釈のほうが整合性が高くないですか?
これは自分も同意見ですけど。
20 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:41
>>19 技術レベルはあまり変わらなかったのではないですか。
巻向の運営が北九州抜きで可能だったように。
むしろトリガーを引いたのは思想の類ではないかと思うのです。
それとかねてからの指摘の通り、冷戦終結による緊張緩和も影響して。
21 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:44
3世紀に畿内の開発が急速に進むって話をどっかで聞いたんだけど、ホント?
ちらっと聞いただけでソースも覚えてないから自信ないんだけど。
>>20 冷戦集結による平和の配当(軍人の失業対策?)という解釈は面白いかも。
ただ、思想の類いはあの独特の形状に反影されてはいても、
規模についてはどうだろうと思えます。それに、前方後円墳の精密な作りも。
大きな墳墓は弥生時代にも作られているし、
「巨大な物を作りたい」という願望は古くからあったけど
技術が追い付かなかったから実行出来なかった、と考える事もできるのでは?
23 :
日本@名無史さん:04/02/28 00:56
>>9 とりあえず俺は邪馬台国畿内派だけど、
それはまず間違いなく東遷してきた部族だと思う
(卑弥呼の時代はすでに東遷し終わった後)
東遷説といっても、卑弥呼以前にあったという人と、以後にあったという人がいる。
ただし後者は、ほぼ考古学上ありえないとされている。(3世紀〜に移動の痕跡なし)
東遷ということ自体に懐疑的な人は、発掘の結果が第一で、
神話の記述を考慮すること自体好ましくないと考えている。
マルキシズム的な発想からくるものなのかもしれませんが・・・
とにかく「東遷」を裏付ける発掘結果はいまのところありません。
(一つの新発見でガラリと変わる可能性は大いにあります)
24 :
日本@名無史さん:04/02/28 01:07
>>23 東遷の規模にもよるよなぁ。
漏れの想像してる説は、紀元前〜1世紀ごろ、
九州での動乱で脱落した落ち武者的な集団が
起死回生を目指して畿内に逃げ込み、新天地を作り上げたという説だ。
これがあまりに素晴らしすぎるサクセスストーリーなために
神話の中で誇張されて何度も何度も出てきているのではないか。
スサノオのヤマタノオロチ(原住民?)退治の記述が一番それに近いっぽい。
25 :
日本@名無史さん:04/02/28 01:19
八岐大蛇神話は対水害闘争の物語りって話をオレは聞くなぁ。
因にスサノオもアマテラス(強大なカリスマを持つ巫女)や
ヤマトタケル(周辺諸国を平定していった将軍)同様、実在の人物が神話化したもんだと思う。
恐らく、強大な権力を持った大王がスサノオじゃないかなぁ。
多くの独裁者同様彼もまた民を苦しめるが、同時にその強大な力で国をまとめ
暴れ狂う川=ヤマタノオロチを制御する大土木工事を敢行。
始皇帝やナポレオンなど多くの独裁者が持つ名君としての側面と暴君としての側面が
スサノオの不思議な二重人格を生み出したような気がする。
妄想だけどね。
ただひとつ気がかりなのは、ネオ畿内説とも言うべき
>>8の
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であったことが考古学的資料から導き出されている。
>かつての畿内説や九州説、東遷説とは一線を画す。
最近こういう結果が出てきているのを見るにつけ、邪馬台国というより、
どうしても俺は、神話の中のオオクニヌシの国をイメージしてしまうのだな。
(神話では)
オオクニヌシは出雲を手中に収めたあと、伯耆・因幡の2ヶ国を侵略、
さらに兵を南に進め、播磨のアメノヒボコを倒し瀬戸内も征服。
次に北上し越の国を経て、遠く信濃まで平定したとある。
つまり西日本の支配者として描かれているわけだね。
この記述が俺はどうしても
>>8のネオ畿内連合とオーバーラップするわけですよ。
でもこの国は最後の国譲りでアマテラスのものになってしまう・・・・????
>>26 纒向から出雲の空中神殿でも出たら古代史はひっくり返るだろうねw
古墳と違って神殿は残らんから……。
28 :
日本@名無史さん:04/02/28 01:40
考古学的発見があまりにも記紀神話と符合しないのね。
発掘結果は全く逆の西征を暗示してる始末だもんな。
そこで宮内庁が隠蔽する墳墓の発掘要求ですよ
30 :
日本@名無史さん:04/02/28 02:00
>>26 神話の記述が忠実に史実を反映したものと考えると、
九州の王族(=高天原)がそれこそ本当に「話し合い」で
畿内の長の権限を譲ってもらったことになる。
仮に、ネオ倭国連合の首長で話し合いがあって、
「北九州だけまだ歯向かってるけどどうする?」
「滅ぼしちゃおうか?」「降伏させよう」とかいろいろ議論している最中に、
「このさい北九州の王族に連合のリーダーになってもらおう」
という妙チクリンな意見が出て、しかも仮にこれがなぜか、
賛成多数ということになって、実現の運びになったとすると・・・
リーダーとその一味だけが、すげ変わって「東入り」するだけだから、
九州が3世紀に没落していたとか、東征を裏付ける戦乱の跡がないとかという
考古学的結論にも矛盾しない。べつに戦争したわけじゃないから。
そういえば神武天皇も最初は「婿入り」ということだったんだよなぁ。
31 :
日本@名無史さん:04/02/28 02:11
だめだだめだだめだ!
派手に戦争やらかして、燃える王都に凱旗立つ、みたいな
萌えシチュエーションじゃなきゃ認められないね。
32 :
日本@名無史さん:04/02/28 02:12
そう言えば、卑弥呼の一族が元々何処に住んでたって話は全く議論されないね。
ヒミコは倭王権の象徴として宗教的権威である必要はあるけれど、
強大な武力を持つ豪族の当主である必要は必ずしもないから
日向みたいな日本の南の果てに住んでても全然困らないわけだw
卑弥呼は初めから大和に住んでいる必要はない。何処からか招いてもいい。
そのあたりが東遷神話の元になり、
考古学的にはなんの痕跡も遺さない事態となってるんじゃなかろうか。
34 :
日本@名無史さん:04/02/28 02:22
>>30 そんな九州の一部族に支配権を「譲る」なんてことが実際に起こるかな?
もしそうなら邪馬台国は北九州でも日向でもOKということになるが
確固たる裏づけは不可能でしょうね。新しい文献でも出ない限り。
ただ歴史がそのように動いた可能性は0ではないね。
確かに考古学的には矛盾がないから。
35 :
日本@名無史さん:04/02/28 02:32
>>34 鎌倉幕府の北条執権家が京都から将軍を招いたような事があった可能性は?
畿内と九州が対立したとしても、九州が老舗である事は間違いないし。
承久の乱の後の朝廷と幕府みたいなw
卑弥呼は多分、代々巫女を輩出する氏族の出身のような気がするし、
奴国や伊都国の王族って事はないでしょう。
卑弥呼の一族は世俗権力と結びつきが弱かったからこそ
男王で納める事が出来なかった倭国を統治する事が可能だった、
とも考えられるわけで。
36 :
日本@名無史さん:04/02/28 02:35
このスレは勉強になるし面白いね。どこぞの九州王朝ス(以下略
37 :
日本@名無史さん:04/02/28 03:16
>>34 鎌倉幕府の北条執権家が京都から将軍を招いたような事があった可能性は?
畿内と九州が対立したとしても、九州が老舗である事は間違いないし。
承久の乱の後の朝廷と幕府みたいなw
卑弥呼は多分、代々巫女を輩出する氏族の出身のような気がするし、
奴国や伊都国の王族って事はないでしょう。
卑弥呼の一族は世俗権力と結びつきが弱かったからこそ
男王で納める事が出来なかった倭国を統治する事が可能だった、
とも考えられるわけで。
38 :
日本@名無史さん:04/02/28 06:15
九州にあった邪馬台国が本家で、大和にあった狗奴国が神武を祖とする分家
本家の卑弥呼(ひめみこ)と分家の祟神天皇=卑弥弓呼(ひこみこ)の争い
本家の卑弥呼(ひめみこ)と分家の開化天皇=卑弥弓呼(ひこみこ)の争い
分家狗奴国は本家から御間城入彦を養子に迎えることで平和裏に統一
(いり)の名を持つ人物は九州出身の入り婿入り嫁
天皇皇后どちらか一方しか(いり)はつかない
41 :
日本@名無史さん:04/02/28 12:54
入り婿や入り嫁ってのは十分ありえる。
むしろ倭国連合の支配層が部族の長たちだったとの説を採れば、政権安定の為にも血縁関係を積極的に結んだと考えた方がより合理的だ。
ただ九州に限定する必要は無いと思うよ。
あらゆる地域との混血(まあほとんど同一民族なんだが)を図ったのではないかと考える。
もしかするとこの手法は、後の5世紀や6世紀になっても続いていたのかもしれない。
王位継承も嫡子や兄弟間だけでなく、血縁関係があればOKみたいなところがあったように思う。
要するに天皇家(王位)というシステムを維持することが最重要であり、一子相伝などではなくても良かったのかも。
その辺りが卑弥呼を「共立」するという独特な国家が形成された大きな理由じゃないかな。
継体天皇擁立時のいざこざなんかも、それが大いに関係すると思う。
42 :
日本@名無史さん:04/02/28 13:11
>>33 まあまあ
>>31の言い分も分からんでもない。
そりゃあ面白さからすれば圧倒的に九州、しかも東遷説だよ。
戦争あり、侵略あり、神話あり、おまけに13歳萌えあり(w 。空想の翼をいくらでも広げられる。
反対に一番面白くないつーか萌えないのが、悲しいかな我らが畿内説ですわ。
戦争なし、侵略なし、神話は参考程度、地道なデータと土器がお友達なんだもん。
本屋の古代史コーナーなんて九州説7割、電波2割で畿内説1割みたいなもんだし。
たいていの人が九州説から入門するのが邪馬台国論争の常だと思う。
43 :
日本@名無史さん:04/02/28 14:15
東遷という事実が無く、それを捏造したという解釈もありうる。
天皇家の親族の中で九州出身の血統を強く持つ大王がいつの時代か王権を引き継いだ際に、その正当性を強調する為にね。
逆に九州と無関係でありながら、これまた正当性を持たせる為詐称したとも考えられる。
その人物は応神かも知れないし、継体かも知れないし
案外、天智か持統か聖武かも知れない。
つまり邪馬台国建国当時の3世紀に、あえて持っていく必要は無いのではと思うのだが。
44 :
日本@名無史さん:04/02/28 15:57
>>42 えー、畿内説をベースにした小説ネタですが
二世紀末、倭国は乱れていた。
天変地異が続き、暴れ川は八岐大蛇のごとく荒れ狂う。
民は飢え、にもかかわらず戦の影が倭国をおおい尽くす。人々はただ、神に祈るしかなかった。
しかしこの時代、一人の英雄が倭国に現れる。
「戦を止め、大陸からの鉄の道を開こう。兵士達を村に帰そう。剣を鋳潰し鍬に変えよう。
そしてその力をもって、オレ達は八岐大蛇と戦わなければならない!
暴れ川を治水し、森を切り開き、子供達の為に新たな田畑を作ってやらないといけないんだ!
その為にはまず、戦のない世を作らないといけない」
しかし男の言葉に耳を貸す者はいない。民はただ銅鐸にすがって神に祈るばかり。
豪族達の頭にあるのは己の利益ばかりで、皆戦に明け暮れる。
絶望に暮れる男。
しかし彼の前に、一人の少女が現れる!
こんなんどうでしょうw
45 :
日本@名無史さん:04/02/28 16:20
巨大古墳って思っていたより簡単に造れませんか?
適当な丘陵(マウント)を整形すりゃいいような・・・
莫大な土砂を削ったり運んだりした形跡が見つからないなら妥当な
考え方じゃないかと思われますが。
>>45 大山古墳(伝仁徳天皇陵)の場合、埴輪を除いても延べ680万7000人、15年8カ月の労力が必要。
金銭的には古代工法では796〜562億円、現代工法では2年6ヶ月の工期で20億円。
だそうな。やはり半端ではないでしょうな。
47 :
日本@名無史さん:04/02/28 21:30
邪馬台国僭称や捏造なんてデンパは放置だな
問題は東遷が卑弥呼以前か以降か
※天文学的確定事項※日食をどう捕らえるか
畿内側の立場に立てば卑弥呼の時代既に畿内から長崎地方位までの連合国家となり
対等に戦争中の狗奴国は南九州だけの弱小では困るわけだ
狗奴国は必然的に東海以東になるわけだな
俺は畿内説だが
古墳(考古学)を勝手に自分の都合がいいように解釈(夢想)している香具師の言うことより
科学的確定事項日食をどう解釈するかのほうが現実的だと思う。
証拠がないんだから東遷なんてそもそも科学的論議の対象にすらならんと思うが。
そのレベルで「科学」を理解している人には、考古学・古代史学は無理。
50 :
日本@名無史さん:04/02/28 22:29
倭人伝の頃の日本は背丈よりも高い草が生い茂る平地や獣道のような山道であり、海上航路は
激流、渦、季節風、低気圧などで大陸とは全く違う環境であり、行軍、兵站などという言葉からは
おおよそ縁がないところだったと思う。倭人伝が生き生きと描いているのは大陸にはない現代で
いえばニューギニア、アマゾンのような土地柄で移動が大変だということを黙示しているようだ。
中央政権固まるにせよ相当の後のことで、九州、土佐、愛知などのある古い戦闘遺跡も極めて
局地性が高かったはずであり、狗奴国との戦争も冷戦の様相が強いのではないか。
51 :
日本@名無史さん:04/02/28 22:42
>海上航路は激流、渦、季節風、低気圧などで大陸とは全く違う環境であり、
>行軍、兵站などという言葉からはおおよそ縁がないところだった
>現代でいえばニューギニア、アマゾンのような土地柄で移動が大変だという
ことを黙示している
その主張は、3世紀のダイナミックな土器の移動から否定されてるんじゃね?
土器の移動と軍隊の移動じゃ事情が違うんじゃねーの?
53 :
日本@名無史さん:04/02/28 23:44
>>52 4世紀以降大軍を朝鮮半島に投入してた事を考えると、
水上輸送能力はかなり高い水準にあったんじゃないかなぁ。
水上輸送は交易向きだけど、倭国の交易が盛んな事は魏志倭人伝にも記述があるし
大船団が航海する様子を描いた4世紀初頭の落書きも見つかってるから、
後の日本と同様海運が盛んだったんじゃないかな。
54 :
日本@名無史さん:04/02/29 00:41
>証拠がないんだから東遷なんてそもそも科学的論議の対象にすらならんと思うが。
悲しいかな、こういう意見がまだ多いのよね。
>>54 けど、自分の都合のいいように記紀を解釈して
結論なんかでっこない議論を続けるのも不毛だと思うのよね。
日食なんて何時の時代にもおきている現象を殊更取り上げて
「科学的」とうそぶく人もいる位だしさー。
56 :
日本@名無史さん:04/02/29 00:54
>>47 残念ながら、日食は論議の対象にすらされないんだよね。
248年の皆既日食を重要視する人のほとんどが、
「天の岩戸隠れ」伝説と卑弥呼を結びつけて議論しようとするから。
神話の記述を歴史学に持ち込むこと自体が好ましくないんだよ。
昔、どこかの畿内説のサイトで
「九州説の人間は日本神話を重要視したり、
248年の皆既日食を強引に天の岩戸神話に結びつけたりと、
旧体制的、保守的、非科学的な人間が多い。」
みたいなこと書いてあったぞ。
東征が完全に嘘だとは思わないけれど、その実体にアプローチする為の資料が無さ過ぎる。
まぁ、大規模な軍事征服や民族移動の類いは無かったと思うけどね。
ヨーロッパでよく見られる他国の王族を迎え入れるような事があったか、
宗教的権威を持つ一族(後の天皇氏に繋がる?)の婿入りor嫁入り……。
そのあたりを推測するのが現段階では妥当でしょう。
考古学的な東遷の痕跡の無さと記紀の記述の極端な九州重視を最も矛盾少なく解釈するには、
平和的で小規模な嫁入りor婿入りと考えるのが妥当だと感じる。
58 :
日本@名無史さん:04/02/29 01:05
>>55 「科学的」というのは100%間違いない、と言えるということだろうね。
247年と248年、とてもめずらしい「2年連続」で皆既日食が起きていて
そのうち248年のほうは北九州でしか見られなかった(卑弥呼死亡の年)
これはパソコンの計算機で100%確定できる歴史的事実、ということ。
天の岩戸伝説と248年の日食を絡めるのは、
洪水伝説が世界中に残されてるのを根拠に
「これは氷河期に栄えた超古代文明の大海進の記憶だ!」
と主張するのと同じような発想に見えてしまう。
川の畔に栄える農耕社会にとって洪水は世界共通の恐怖で、
世界中に洪水伝説が残されているのは別におかしな事じゃ無い。
同様に、天の岩戸みたいな伝説も日食を観測した民族なら誰しもが考える事で、
実際天の岩戸ににた神話も幾らか存在している。
そのあたりを無視して、氷河期末期の海進や248年の日食にばかり注目するのは、
やはりおかしい。何か裏付ける資料があるのなら別だけど……。
60 :
日本@名無史さん:04/02/29 01:34
248年に卑弥呼が死んでいるから。
「日食を2年連続で防げなかった卑弥呼が、
狗奴国に押されていたこともあり、霊力を喪った責任を取らされて殺された」
という説もあるみたいだけど、まあとにかく自然死でも他殺でも
日食の年に女王が死んで、さらに2年連続ともなれば
それはやはり「特別な日食」として記憶されるのではないか。
61 :
日本@名無史さん:04/02/29 01:51
>>59 248年の日食は九州でしか見られなかったんだよ
62 :
日本@名無史さん:04/02/29 02:04
>神話の記述を歴史学に持ち込むこと自体が好ましくないんだよ。
考古学的発見も自分の都合の良いように妄想してるだけのように感じるが
つか、考古学的見地からの邪馬台国に関する確定事項は無い。
63 :
日本@名無史さん:04/02/29 02:05
>>62 記紀や魏志倭人伝はいうなら目撃者の証言。文献学は聞き込み調査。
考古学は証拠集め。科学調査。
真相に迫るには両方を重視する必要があるよ。
物証を認めない裁判も証言を無視する裁判もありえない。
65 :
日本@名無史さん:04/02/29 02:25
66 :
日本@名無史さん:04/02/29 02:33
証言の場合は、その証言が信用に値するかどうかの認定が先だろ。
記紀は3世紀とは400年の時間差があるから、言ってみれば、
伝聞の伝聞の伝聞の伝聞の・・・・・っていう証言だから証拠能力がない。
>>67 そのうえ証言者は自己の利益を計ってるからなw
ただ、伝説や神話の類いが証言として一定の価値があるのも事実。
シュリーマンとかいるしね。
だから物証(考古学)を積み重ねて、
証言の解釈の仕方や信憑性を分析する価値はあると思う。
69 :
日本@名無史さん:04/02/29 04:34
>>67 でわ日食は記紀の証言の証拠そのものだね
一部分だけどね。
証拠があるのに畿内説に都合が悪いから雨の岩戸は普遍的にどこにでもある伝説とか
惚けてる事言ってるから、畿内説は端からご都合主義で思想的に感じるんだな。
まず、日本の始まりは畿内でなければおかしい(じゃないといけない)と言う見地から
古墳を無理に解釈してるんだな〜。
70 :
日本@名無史さん:04/02/29 04:45
物理学に光速度不変の法則があって
そこからすべての現象が導き出されるように
歴史学では日本国家大和発祥の法則をまず立てて
そこから文献や遺跡を解釈していくのが
真理に近づく道と言える
>>69 日食が最近の前方後円墳の年代測定や纒向への外来土器流入、
三世紀における中国鏡の分布の変化等に勝る証拠だと考えてるとしたら、
相当おめでたい脳味噌してるねキミは。
せめてそのあたりをもうちょっと勉強したら?
狗奴国畿内説
邪馬台国は九州にあり、大陸半島と近いことをアドバンテージにした
軍事・技術国家であって農耕大国ではなかった。
邪馬台国の持つ権益を独占したい畿内の狗奴国は邪馬台国の
王族を王として迎えることによってその吸収をはかった。
国名を狗奴→大和と改称しているのはそのため。
>>72 その王族は神武?
ならなぜ神武東征の犠牲を創作する必要があったの?
伊予国
讃岐国
阿波国
土左国
筑紫国
豊国
肥国
熊曾国
初期倭連合諸国
ソースは記紀
75 :
日本@名無史さん:04/02/29 08:04
当時発展途上国の大和地方が先進国の北九州を制圧できるとは思えない
現代で言えば中国が人海戦術だけでアメリカに喧嘩売るようなもん。
瀬戸内海で冷戦してたんだろうな。
関門海峡は邪馬台国が制海権を握ってた。
鉄器を持つ九州は強いが人口では畿内に負ける。
にらみ合いが続いてたが、なんらかの陰謀で狗奴国を
のっとったか吸収された
77 :
日本@名無史さん:04/02/29 08:45
つまり畿内が大和朝廷の始まりで倭人伝に出てくる邪馬台国は別物てことだ
邪馬台国時代以前に畿内狗奴国も西から来た騎馬民族に征服されてできた国で
狗奴国作った征服者は馬は豊富だけど鉄剣なんかはあんまり持っていなかった種族で
九州邪馬台国と戦争では鉄がないだけ不利、人口は有利
で、和平後は最後は卑弥呼の血族を王に迎えた。
こんな話をご存知か?
古代の朝廷では、神功皇后の事を「宇佐大足姫」ウサノオオタラシヒメと呼んでいた。
更に、鹿児島神宮=大隅正八幡宮の縁起によれば、八幡の母の名は
オオヒルメ である。つまり日本書紀のアマテラスの名、そのものだ。
さてこうしてみれば、宇佐が体制側であり、
しかも大和の権力の極めて高いところに関わる可能性は相当強いだろう。
おそらく最初は、巫女王のみを出す家だったんだろう、最初は。
「太伯の子孫」の権威が売りか=混乱の調停役として。うーむ・・・(八幡は江南出身)
「中国からの自立」を目指す聖徳太子は、易姓革命を否定した。
その結果万世一系のフィクションが必要になり、神武東征が生まれたんだろう。
79 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:10
>>75 >発展途上国の大和地方
そうでもない。少なくとも3世紀初頭には纒向という北九州の文化を凌駕するような都市が建設されている。なので
>中国が人海戦術だけでアメリカに喧嘩売るようなもん
ハイテク技術を得た現代の中国が、その技術と人材をもってして英国に喧嘩売ったぐらいに考えて欲しい。
80 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:23
>>77 >畿内が大和朝廷の始まりで倭人伝に出てくる邪馬台国は別物
畿内説の俺も、そういう考えの九州説はあり(僭称説も含めて)だと思うが、騎馬民族は持ち出さないほうが良い。
なぜなら馬を飼育管理するのに必要不可欠な技術(去勢など)が遺跡からも文献からも全く確認できないため。
その技術をもつ集団が攻め滅ぼされたとも考えにくい。それほどの殲滅戦の後が全く無いためだ。
それ以外にも騎馬民族説は、現在ではかなり苦しい。
再考した方がより真実に近づけると忠告しておく。
北部九州は分裂してるし、かなり凋落してる。
英国ってより日本程度?
82 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:29
>>78 >鹿児島神宮=大隅正八幡宮の縁起
それは知らなかったが、住吉大社の縁起にはそうは書いていない。加えて宇佐神宮も。
それぞれが微妙に違うので、一概に言えない。
このスレ住人が、発掘結果が伴わない文献の扱いに慎重な態度を取っているのは、つまりはそういう事。
83 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:36
前スレの963氏のまとめが秀逸なのでコピペしておきます。
九州には高地性集落もほとんどないし、戦闘の痕跡はおろか、緊張状態になった痕跡すらない。
つまり、“倭国乱”の痕跡が九州には全くない。
一方、後期後葉の緊張状態を示唆する最後の段階の高地性集落の出現は、近畿に留まらず、東海より東まで広がっている。
だから、考古資料から見るかぎり、“倭国乱”を九州内部におさめるのは全くの無筋で、
魏志に書かれた“倭国乱“の後に成立した邪馬台を都とする国というのは、
日本の西半分ぐらいをその版図としていると考えるのが、今のところもっともらしい。
九州説をとるにしろ、畿内説をとるにしろ、この点は外せないんじゃないかな?
平野邦雄の本を読んでも、また、高島某が書いていることを見てもわかるように、
九州説というのは、その根本的な所ではこの『“西日本一帯に広がる国”が三世紀の段階では考えがたい』、という所から出発してる。
かつてはそれでよかったんだけれども、今となっては、この高地性集落の広がりや、土器の移動の実体などが明らかとなってきて、最初の
『“西日本一帯に広がる国”が三世紀の段階では考えがたい』
ていう前提が完全に崩れてしまった。だから今、九州説は非常に苦しいことになっている。
少なくとも、倭国29国を九州内におさめるタイプの九州説は終わった。
84 :
日本@名無史さん:04/02/29 12:46
それと当スレ
>>28氏の
「考古学的発見があまりにも記紀神話と符合しないのね。
発掘結果は全く逆の西征を暗示してる始末だもんな。」
このため、従来の九州説、東遷説はおろか畿内説さえも論拠を再構築せざるを得なくなった訳だ。
今のところ、寺沢薫氏などが再構築した畿内説(当スレでいうネオ畿内説)が提出されているのだが、ここはひとつ九州論者もこれらの発掘事実を踏まえて「ネオ九州説」を提出してみてはどうだろうか。
その方が、きっと議論は面白くなる。
85 :
日本@名無史さん:04/02/29 13:19
補足すると現在の畿内説とは、数百年に渡って大陸や半島からもたらされた人材と技術が、やはり土着民の技術と人材と互いに影響し合い、ハイブリット化した結果が和国連合の重要な要素だと考えている。
さらに言えば邪馬台国がすんなり大和朝廷に変化したとも考えていない。3世紀から7世紀に至るまで様々な紆余曲折を経て形成された可能性が高いと推測する論者が多い。
皇国史観やら天皇機関説などのウヨサヨ論は入り込む余地が無い。
これは九州説にしても同様だろう。
これらの思想に毒された一定の結論を前提に、古代史を語る時代は終わった。
だからこそそれが真実に近づくのならば、畿内だろうが九州だろうがどちらでも良い。
86 :
日本@名無史さん:04/02/29 14:14
>「考古学的発見があまりにも記紀神話と符合しないのね。
>発掘結果は全く逆の西征を暗示してる始末だもんな。」
それは何の発見の事を言ってるのか?明示して欲しいね。
87 :
日本@名無史さん:04/02/29 14:24
>>87 どの部分が西征を暗示している発掘結果なのか?????
89 :
日本@名無史さん:04/02/29 15:29
畿内からの土器の北九州への移動=人(軍隊?)の移動を暗示
中国鏡の分布の変化、北九州の墳墓の質素化=対大陸交易の利権が北九州から畿内へ移動を示す
魏志倭人伝の一大卒記述=北九州の豪族達ないし対大陸交易は畿内・邪馬台国の監視下に置かれているものと推測される
以上より、西征さえ考えられる現状となってるのさ
90 :
日本@名無史さん:04/02/29 15:38
倭地温暖…帯方郡とか華北(洛陽・長安)の視点でみれば倭国はどこでも
かなり温暖といえそう
南、邪馬台国、水行10日陸行1月…北九州の候補地から逆算すると
帯方郡まで行けちまいそうな感じw
阿蘇山がスルー…阿蘇山については隋書倭国伝が初出
狗奴国…クマソの国?なはずの狗奴国、後漢書倭国伝では
「女王国より東、海を渡ること千余里」に(修正?)
>畿内からの土器の北九州への移動
もう推論はいいから(w
そこまでして西征させたいのか
>>91 土器が移動するのならそれを持って行った人間が移動したのは当たり前だろ。
どこが推論だよ。
中国鏡は? 古墳は? そんなものより日食が大切なの? はぁあ?
93 :
日本@名無史さん:04/02/29 16:15
86=88=91かな?
89が仮説にせよ論拠を提示しているのだから、それに反論があるなら書きなよ。簡単にでもイイから。
あんた今のままじゃ只の否定厨にしか見えない。
漏れも古代史は素人なので、あんたの見解が知りたい。
日食なんてのは時々は起こってることなんだから
いくら原始人でも自然現象として知られてはいるだろう。
天岩戸神話は中国西南部や東南アジアに分布してるのだがこの地域一帯が
特定の日食に関係あることを論証することはできないだろう。
天岩戸神話は冬至や日食のメカニズムをモチーフの一部にはしているが
特定の日食事件と結び付けるのは神話を理解する手法としてはムリ。
土器の移動は庶民単位での交流や交易などの結果で戦争や政治的支配と結びつけるのは不可能
中国鏡は国内産ケイショ4年、初期大和朝廷が大陸交易の利権を求めて交易してたというならば考古学的にはなにも証拠は無い、ここは都合の良い推論
一大卒=畿内・邪馬台国の監視下←これにいたっては夢想
大和朝廷と邪馬台国(倭人伝に記載されている女王国)は別物
ヤマトという国号が似ているのは僭称ではなくて対外的に既に名前の語感固定されていたし
倭国大乱は畿内狗奴国連合などとの騒乱高地性集落の分布でわかる
97 :
日本@名無史さん:04/02/29 18:02
庄内甕は河内で生まれ、大和南部の土器川から初瀬川の間の恐ろしく狭い
範囲に移植され、タタキめが90度逆の大和型庄内甕となり、
北部九州、中でも博多湾沿岸に大量に出土している。
また、同じ頃大和には日本全国の土器が土器見本のように出土している
しかし北部九州の土器だけがない。
北部九州が拡張するのは弥生前期だけだ
中期は独自性の高い文化を構築して引き蘢り、弥生後期は停滞と縮小に次ぐ縮小
個人的には北部九州の王の要請で畿内が中国を飛び越して進駐したと思う。
弥生末期に神武東征があったとして、神武は北部九州の人間ではない。
畿内の派遣軍の司令官か、大陸や半島の使者で即位したのは別の人物かだ
98 :
日本@名無史さん:04/02/29 18:03
983 :日本@名無史さん :04/02/28 12:10
近くの博物館で、土浦市上高津貝塚の図録を見た。
水系別に分立していた北関東の土器圏に、オリジナルに近い東海系のS字(口縁)甕や
パレス壷が少量入ってくる。
そして東京湾岸の台付甕がなだれ込んで、地元の土器組成が崩壊、ついで在地のC字
(口縁)に畿内の庄内甕・布留甕のくの字(口縁)の傾向をしめす甕が現れ、さらに、
小型器台などが入り、一気に地元の土器構造が淘汰される。そして、方形周溝墓すら受容
しなかった地域に、前方後方墳が構築される。と見た。
東海系の侵入は大規模で大平洋側と日本海の双方から東北中部に達する。いわばドミノ
倒しの要領で各地の土器を巻き込んで北上する。
弥生は、前期も含め、いわばゆっくり乗っかかってくる変化なのに、こいつは乗っかか
ってこなごなにしてしまう。氷を入れたコップに熱い鉄の玉を入れる。氷は次々と融けて
行く。やがて水になる。別のジュースが入れられ混ぜ合わされて、再び固まってゆく。
そんな感じを受けた。
例えば、とても大規模な力によって破局的事態がなく統合が進む。一種の軍事侵略以外
には考えられない。
個人的には対大陸戦略として、半島は庄内(河内・吉備)、北は東海という大戦略があっ
たのではないかと思う。
『国と国との交易が行われて市が立っていて、余剰品と不足品を交換し「大倭」に監督させている。
女王国から北には特に「一大卒」を置き、諸国を監察させている。諸国はこれを畏れはばかっている。』
えー、魏志倭人伝これをどう縦読みすれば「監視」以外の解釈が出て来るのでしょうか。
それと、魏鏡は自分も国産説ですが、ケイショ四年は極めて高度なwミスであり、畿内と大陸とで
三世紀に濃密な交流があった事は疑いないでしょう。
国産するにしても、「高度なミス」をやらかすような技術者が大陸から来る必要があったわけだし。
それにあんた、三世紀の九州から大陸系文物が減少する事や古墳の中身がしょぼくなる事には何も反論してないね。
それから、軍人も庶民だし兵糧物資を大量に運ぶ関係上、
民間交易と同様に土器の移動があるのは自然だとは思いませんか?
まぁなんにせよ、九州→畿内という大規模な流れは流れは否定されるし。
100 :
日本@名無史さん:04/02/29 18:23
北海道では、2世紀から3世紀にかけて、続縄文後期の後北(江別)2C−D式が
千島を含む全域を統一し、東北北部に南進して仙台湾及び新潟まで進む
津軽は前期には既に弥生文化を受容しているのだから、侵略に近い。
彼等は日本最古の銀器や少量ながら鉄器も持っている。
アワ・ヒエ・ソバの雑穀栽培も行っていた可能性がある。(ソバは北回りの栽培植物)
また、弥生中期には佐渡の管玉も入っている。
少なくとも縄文と同じではない。
彼等は、さらに北(サハリンもしくは沿海州)からの
圧力を受けていたかも知れない。
竪穴式住居を捨てて拡散している。避難民としても、
東日本が東海の影響もとに統合される理由にはなり得る。
>三世紀の九州から大陸系文物が減少する事や古墳の中身がしょぼくなる事には何も反論してないね。
これこそ政治中枢が畿内に東遷した結果、その他も段階的に移動していった事を表している。
>>101 それなら畿内勢力が西征したと考える方がマシだぞ
狭い島国の日本で、大都市としてのクニが存在するほどの適地は
そう多くはなく、だとしたら古よりのクニは現在の都市部と
ほぼ重なり合っていると見るほうが妥当である。
大都市の地下部分などそうそう発掘がおこなわれるものではなく、
それによってそこに何も存在しなかった、などというのはナンセンス。
奈良に墳墓遺跡が多数存在するのは事実。また、東海・山陰・山陽・
北越などとの広い交易圏の中心にあったのも事実だが、
纏向の存在した年代は200〜350年(間違ってたらごめん)と推定
され、今のところこの大都市の後継というべき巨大遺跡が発見されて
いないのも事実。
104 :
日本@名無史さん:04/02/29 21:38
藤原京あたりから都市と呼べる王城が営まれる訳だが、
その背景には公地公民制と律令体制によって、
全国から物資が運上されるという状況がある。
江戸の栄華も、大名に江戸で出費させるシステムがあった為だ。
古代のある時期、巻向に富が集められ、人も集められ、
古墳の造営などの事業が図られたのは事実だ。
まさに巨大古墳の造営などは、農耕に従事しない余剰人員を養えるだけの
物資の集中が、大前提となるだろう。
巻向の王権の強大さと、版図の広さが覗える事実だと思う。
他に、これだけの求心力を持った国や権力が存在したかな?
>>103 戦国時代以降の治水技術の進歩で、
古墳時代は洪水で手がつけられなかった平野が今は大都市ってパターンもあるんでね?
江戸なんて家康来る迄田舎だったし。
106 :
日本@名無史さん:04/02/29 21:47
◎朝鮮人は日本人と満州人の混血人種
朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人に
もっともよく似ている。身長、頭形、顔形、血液型、指紋などでは、
日本人と満州族とにもっとも関係が密で、中国人とはそれほど類似して
いない。北部の朝鮮人は満州族に、南部は日本人に似ているが、
例外として、モンゴル帝国の占領下にあった済州島人の頭形は満州族に
近く、平安南道・南北黄海道人の頭形はもっとも華北型に近い。
ツングース族に属する満州族や東部シベリアの古アジア諸族などが、
前40世紀ごろから朝鮮半島に移住し、これより前に南方から移住してきた
人々と共存していたとも考えられている。(世界大百科事典/平凡社)
>>94 ぼ、暴言を! アホ言うな!!
お手前、お幾つか存ぜぬが、
「暗くてちょいと見上げたら、た太陽が無い・・・・」
って経験、何度かあるのか?
あるいは、定点(例えば明日香村とか)で
皆既日食が何年に一度あると思われるか??
現在の日本人で皆既日食を見た人間が何人いる???
108 :
日本@名無史さん:04/02/29 22:35
神話のオオクニヌシはなぜ西日本の王者となっているのか。
これは素直に考えたい。畿内連合は邪馬台国連合ではなく、オホクニヌシ連合のことである。
記紀のオホクニヌシの領土についての記述と、昨今の考古学的結論が符合するのだ:
(神話より)・・・出雲を手中に収めたあと、伯耆・因幡の2ヶ国を侵略、さらに兵を南に進め、
播磨のアメノヒボコを倒し瀬戸内も征服。次に北上し越の国を経て、遠く信濃まで平定した。
オホクニヌシのモデルの武将はおそらく畿内も支配していただろう=オオモノヌシ
大和朝廷の書物なので、さすがに大和はオオクニヌシの支配下にさせられず、山陰出身と偽っているのだ。
その連合のリーダーの座を、九州の邪馬台国の一味が謀略で乗っ取ったのだ。
(これが国譲り。東征戦争とかそういう大々的なものはなかったと見る)
べつに「円満に九州から王族がリーダーとして招聘された」としてもいいのだが
オオクニヌシが怨霊扱いになっている事実を説明するにはだまし討ちや乗っ取りとするほうがいい。
そしてオオクニヌシの一族は暗殺され、その魂は、出雲に封印されてしまったのだ。
一人で電波出すな日食野郎
110 :
日本@名無史さん:04/02/29 23:28
3世紀の日食のデータは畿内説にとって著しく不利。
日食のデータは考古学以外の方面から出されたデータであり、
(学者にとって部外者に容喙された格好)
パソコンで額に汗せずパッパッとはじき出される結果であり、
しかも100%科学的に保証される歴史的事実である。
考古学者≒畿内説論者がよく思わないのは当たり前。
111 :
日本@名無史さん:04/02/29 23:43
なんかレス眺めてたけど、
日食でこんなに過剰反応するなんておかしいのでは。
極めて珍しい2年連続の皆既日食が起きて、
九州では観測できて、畿内では山が邪魔して観測できず、
その年に卑弥呼が死んでいる。
たったこれだけのことじゃない?いつもの通りに解釈してみればどう?
東遷伝承はじめ日本神話はすべて虚(ry、
畿内の発掘結果はすべて邪馬(ry
魏志倭人伝の南は東の間違(ry
「女王国の東、海を渡りて」の「海」は琵(ry
112 :
これが正解:04/02/29 23:48
56 :日本@名無史さん :04/02/29 00:54
>>47 残念ながら、日食は論議の対象にすらされないんだよね。
248年の皆既日食を重要視する人のほとんどが、
「天の岩戸隠れ」伝説と卑弥呼を結びつけて議論しようとするから。
神話の記述を歴史学に持ち込むこと自体が好ましくないんだよ。
昔、どこかの畿内説のサイトで
「九州説の人間は日本神話を重要視したり、
248年の皆既日食を強引に天の岩戸神話に結びつけたりと、
旧体制的、保守的、非科学的な人間が多い。」
みたいなこと書いてあったぞ。
113 :
日本@名無史さん:04/03/01 00:17
>>108 君の視野は狭い。出雲の伝統的な土器形式である二重口縁甕は、
弥生後期後半の段階で、北陸の法仏式のステップを経て新潟にまで達している
さらに四隅突出型墳丘墓も会津に達している。
なぜ西日本の枠に留まるんだい。さびしすぎる。
東海系は山陰の広大な枠組みに、祭祀系土器だけを乗っけて拡散したんだよ
それより以前から東日本の四隅の切れるタイプの方形周溝墓と、四隅突出型墳丘墓
に何等かの親和性があるかも知れない。
東海は北部九州を通さず、山陰北陸近江経由の鉄の供給ルートを確保していた
と考えたい。
どちらにしても出雲は初期大和連合の非常に大事な参加者だよ。
出現期の前方後円墳の前方部の突出は、四隅突出型墳の突出にほかならない。
九州なんか出雲にはぴくりとも影響を与える力なんかないんだよ。
それより、出雲は古墳時代に、ひとり前方後方墳を作り続ける。
出雲は東海との特別な同盟を守り続け、畿内と対立していたのかも知れない。
114 :
日本@名無史さん:04/03/01 01:19
日食に関しては
「山が邪魔して見えなかった」とか「神話を持ちこむのは好ましくない」とか
「日食なんてのは時々は起こってることなんだから」
まともな反論できないね、畿内論者。
ここまでの過剰な拒絶反応を見ると
なお更、無視できないデータであることは確かなことだな(笑
115 :
日本@名無史さん:04/03/01 01:31
俺的に言えば畿内に出てくる墓を無理に卑弥呼に結びつけようとするから
硬直した変な考え方になるんだよな
神話は嘘、倭人伝は嘘、日食に関しては耳を塞ぐ
発掘結果を自分の都合のいいように解釈(土器の分布が西征を表しているとか)
とうとう「西征」なんて言葉まで出てきたかと笑いがこみ上げてくるよ。
116 :
日本@名無史さん:04/03/01 01:37
三種の神器に何故畿内の神器銅鐸が無いのか
大王が畿内土着ならば銅鐸が九州に土器とともに流入していてもおかしくない
剣、玉、鏡
倭国連合が連合であるために三種あるんだよ
当然剣は北九州を表している
機内は銅鐸だけの一種の神器で終わる。
117 :
日本@名無史さん:04/03/01 02:01
アメリカの歴史がそうであったように
日本史の初期も
移民・征服・土着勢力(元移民も含む)まさにアメリカの西部劇ではなく古代東部劇の世界
技術革新があるたびに西から東へ征服者を伴う技術伝播があった
水稲・馬・銅・鉄・制度、思いつくだけでもこれだけある
これらのものを畿内原住民がタダで手に入れる事は不可能
ましてや西征など(w
普通に考えれば言うこと聞かない原住民は皆殺し
言うこと聞く原住民は奴隷階級
原住民が力を蓄えないように無駄に巨大な構造物(古墳群)を作らせる
桜井市の古墳の土器が各地から集まったのは各地の被征服奴隷階級が集まり生活した跡
九州土器があそこからあまりでないのは征服者だからだよ
本拠地(北九州)の民力移動は政権が安定してから出ないと厳しいだろう。
>>107 白痴かよw
藻前の頭はその程度だか知らんが、
日食電波野郎は古代人を馬鹿にしすぎだろ、いくらなんでも
申し訳ないけど、どっちも議論以前の問題です。
121 :
日本@名無史さん:04/03/01 03:42
天の岩戸伝説は
日食の責任をとらされて卑弥呼が殺され石棺に入れられた事を表現しているのは常識
記紀伝日食無視の思想家畿内説の立場なら全部嘘で終わらせることだろうが
日食をベースとする説話は東南アジアに広く分布している。
古事記にせよ、元々日本にあった説話をベースに組み立てられたもので、北方系の神話や大陸系の神話も組み込まれている。
別にそれぞれのストーリーが全て日本由来である必要は無い。
> 日食の責任をとらされて卑弥呼が殺され石棺に入れられた事を表現しているのは常識
こんな話は日本の歴史家の誰にとっても常識ではない。
123 :
日本@名無史さん:04/03/01 04:00
>>122 >全部嘘で終わらせることだろうが
↑
読んだ?w
読んでも同じでしょ?
「記紀伝日食無視の思想家畿内説の立場」でなくても、別にそれぞれのストーリーが全て日本由来である必要は無い。
むしろ他の部分との整合性で言えば、全部つぎはぎと考えるのが妥当。
畿内説だろうが九州説だろうがそういう問題とは無関係だよ。
何を熱くなってるのか知らないが、もう少し冷静に考えた方がいい。
文化人類学しらないの?
外国にもある類型パターンの神話でしょうに。
なんで日本国内の歴史事件になるのさ。
卑弥呼がいたとして、彼女の記録が残ったら
もっとふつうに人間の記録になるでしょう。
天照大神のような荒唐無稽な神話と化してしまうはずがない。
もし伝承が途中で徐々に荒唐無稽な話になったとしても
偶然に東南アジアや中国奥地の神話のコピーになってしまうのか?
いい加減に神話と歴史を混同する19世紀的解釈はやめるべき。
こんなの電波じゃなくてなんだよ?
127 :
日本@名無史さん:04/03/01 04:29
てゆーか自分の妄想に過ぎん(しかも人の受け売りの)248年日食説を
さも世の常識、不動の真理と思い込む奴の脳内構造が信じられんのだが。
てゆーかもはや荒らしだな。せっかく良スレだったのに荒らされてる。
みんなスルーしたら?
128 :
日本@名無史さん:04/03/01 04:31
129 :
日本@名無史さん:04/03/01 04:36
>>127 了解、スルーということで以降放置。
でも自分で土を掘ったことがない人間以外は他人の受け売りとも言えるな。
つまりオマエモナ
>>127。
どうしてこう電波な人って意味不明のレスつけるかねぇ
自分で土掘ってもペーパー書いてなきゃ受け売(ry
133 :
日本@名無史さん:04/03/01 07:53
あのさ、仮に日食が当時の邪馬台国に影響したと仮定しても、位置比定には全く関係しないんだけど。
それが原因で卑弥呼が死んだ(殺されたでもイイヨ)としても、そこで政変が起こった訳でもないだろうが。
せいぜい次の王を誰にするかでもめ、一応男王が立ったが、結局巫女さんを再度立てることで話がついた程度の事だし
その際に内乱が起こったなんのは、現代では考古学的成果から完全に否定されている。
つまり邪馬台国が九州にあったにせよ、ネオ倭国連合の説を取るにしても政治体制には大きな影響は与えてないんだよ、日食が。
せいぜい好意的に考えても、天岩戸神話のモチーフになった程度。
日食の事実だけでは邪馬台国の位置は決められないんだ。無論九州説に有利になど成りはしない。畿内説に不利にもならない。
自説の論拠にするには、あまりにも弱すぎるんだ、日食の影響が。
ということで、日食談義は終わりにして下さい。
ごめんなさい、終わりと言いながらもう一言だけ。
日食影響論者って「太陽が欠けていくぅ!この世の終わりだぁ!うわぁぁぁん!」とかって古代人が絶望したなんて思ってるんですか?
とんでもない、それほど無知じゃないよ彼らは。
3世紀当時どころかそれ以前から、円墳やら環濠集落を建設できるだけの土木技術とその基礎となる測量技術を有していた訳ですよ。
それらの知識が半島経由であっても、すでに100年以上己のものとして生活していたのだし、3世紀ともなれば経済連合に近い大集団を形成していたのはもう揺るがない事実な訳でしょう?
謎の天文現象ぐらいには認知していたと考える方が自然です。
もしかすると卑弥呼擁立を快く思わなかったどこかの首長が(それは九州かもしれないし、それ以外の何処かかもしれない)中央政府へのいちゃもんとして政争に利用した可能性も考えられる。
それくらい高度な権謀術数を駆使できるだけの文化度を有していたからこそ、大和川&纒向を結ぶ運河の建設やら、相当に高度な前方後円墳の建造が可能になったのだから。
弥生末期から古墳時代に移行する時代の彼らは、決して無知で愚かな原始人ではない。
>せいぜい好意的に考えても、天岩戸神話のモチーフになった程度。
頑迷な畿内論者にここまで認めさせた事はある意味凄い事
>「太陽が欠けていくぅ!この世の終わりだぁ!うわぁぁぁん!」
民衆レベルで皆既日食を見たらこうなるだろう、クニは動揺する
日食現象の仕組みなど確実に解ってないだろう。
権謀術数と技術知識は別物、ましてや権謀術数は文化などではない
測量技術や天文学が当時日食を予見できるほど進んでいたとは思えない
進んでいたとしたら何らかの記録が残るし、まずシャーマンとか信じない
当時の日本は農業技術の発展途上
マヤ文明・古代エジプト>>>>>>>>>>>>>>>>>>>弥生日本
呪術的支配体制の民衆の動揺が目に浮かぶ。
136 :
日本@名無史さん:04/03/01 09:55
>>135 >測量技術や天文学が当時日食を予見できるほど進んでいたとは思えない
だから133は
>謎の天文現象ぐらいには認知していたと考える方が自然です。
と断ってるんじゃない?
それより
>内乱が起こったなんのは、現代では考古学的成果から完全に否定されている。
> 日食の事実だけでは邪馬台国の位置は決められないんだ。無論九州説に有利になど成りはしない。畿内説に不利にもならない。
自説の論拠にするには、あまりにも弱すぎるんだ、日食の影響が。
って事にはスルーですか?
古代史門外漢の漏れでも過去ログから察するに、日食影響はほとんど無いって方が信憑性がある、つーかその方がよっぽど自然に思う。
>>135 >呪術的支配体制の民衆の動揺が目に浮かぶ。
小説でも書けよ(ゲラ
139 :
日本@名無史さん:04/03/01 10:10
ついでに門外漢の漏れに教えておくれ
九州説ってのはその発掘成果なんかが、藤村氏宜しく捏造だとか畿内に持っていくための強引な解釈だとかって考えてるのですか?
それなら九州に比定できる根拠って何なのですか?
記紀伝承や文献を裏付けする発掘ってあったんですか?
例えば北九州のどこかの古墳を発掘した際に、本当は金印が発見されていたのに政府やアカデミズムが隠蔽したとか、そういう考えなのですか?
前スレから読んでみたのですが、今のところ畿内説の方が理知的にデータを分析しているって感が否めないのですが。
出来ればそういう路線で展開してくれませんか。
畿内説が推敲しながら自説を形成する辺りは、名スレだなぁと感心していたんですけどねぇ「
俺も目通したけど理知的にデータを分析しているところなんてあるか?どこ?
141 :
日本@名無史さん:04/03/01 10:22
>>138 つー事は邪馬台国は西九州なの?西九州のどこなのですか?
長崎?熊本?それだと神武紀の日向出身って何なのですか?
あのね、正直言って
畿内説=発掘成果をベース、神話や文献はそれらに整合性のあるものを採用。
九州説=神話解釈をベース、発掘結果は完全無視。
日本史板の住人にしてみればそういう風に見えるの。そうじゃないのなら国家形成から大和朝廷に至るまでの過程を提示して下さいな。
142 :
日本@名無史さん:04/03/01 10:34
ちなみに漏れ、どっちの説でもないっつーかどっちでもいいの。
ただ、ここって日本史板でもけっこう人気スレじゃん。スレ消化早いし。
漏れみたいに他の時代が専門つーか好きな香具師も、けっこう注目してると思うの。
畿内説はふむふむと思うような説を提出しているけど
九州説が未だに具体的な説を出していないんです。
過去にそういうちゃんとした九州説があるのなら、コピペなりまとめなりで教えて下さいな。
それを読んで判断しますんで。多分ほかのROM住人も望んでると思う。
>畿内説はふむふむと思うような説を提出しているけど
だからどれ?
144 :
日本@名無史さん:04/03/01 10:46
日食が2年連続であったのが事実なら
それらは何年の何月何日なの?ソフト使ってはじき出したのなら具体的に分かるよね。教えてよ。
それとその日の天気まで分かるの?大雨だったらどうするの?
漏れは太古まで遡って天気が分かるソフトなんてのは聞いた事無いのだが、そういうのがあるの?
どこの会社の何ていうソフトなの?
145 :
日本@名無史さん:04/03/01 10:50
>>143 畿内や東海やらが経済ネットワークなんかを形成したって説を畿内説論者が批判を交えながら展開してる辺り。
それはそうと、こっちの質問には何も答えてくれないのね。
ただの否定厨?それなら今後スルーする。
他のまともな九州論者の方、教えて下さいな。
まだ?
どこ?
質問責めにして煙に巻いているのはあなたでしょう
例えば、
>>144には?が5つもあるが全てに答えないといけないのかね
149 :
日本@名無史さん:04/03/01 10:57
>>148 それくらい答えてもいいんじゃネーカ(w
重要な論拠だし
150 :
日本@名無史さん:04/03/01 10:59
>>148 別に急いでナイヨ、漏れは。
今晩また見に来るから、九州説の名誉にかけて頼みますわ。誰か他の方でもいいから。
いやだね
3つまでは解っているがあと2つは調べないといけないから
調べているうちに次の煙に巻くための質問が沢山出してきて
答えた内容の意味さえ薄れるから。
それにそういう問答がスレッドを汚していくからね。
152 :
日本@名無史さん:04/03/01 11:06
>>151 じゃあ質問はここで凍結。その3つを教えて下さいな。
>そういう問答がスレッドを汚していくからね。
その判断は当事者の我々じゃなく他の方に委ねましょうよ(w
>いやだね
ワロタ、そんならお前何の為に会話してたんだと小1時間(ry
154 :
日本@名無史さん:04/03/01 11:13
九州説、神武東遷を言う人は福岡ダイエーホークスが金曜日に新幹線で藤井寺球場に
来る感覚であるが、実際は高校球児が延岡からフェリーに乗ってポートピアや天保山に
つくのに近かったと思う。つまり、プロ野球と違う点は県の予選を勝ち抜いたものであって
お母さんの作ったお結びを持っているものであって、決して年収何十億の選手の集合では
なかったし、その年でもなかっただろうと思う。九州説、これは、記紀編者もそうであるが
余りにも現代的感覚で古代をとらえているからであろう。基本的には銅鐸が出土しても
キモイ、キモイであって全く考古学とは縁が遠く、漢籍に長ずることのみで評価される
体制があったのであろう。現在の日本を見ると余りにもよく似たことが多く、かれらは先輩
であるのは間違いないが、もう少し心に余裕がほしいものだ。
アスキー社の天文ソフト『ステラ・ナビゲーター』
247年3月24日
天気とか雨はしらん、答えたぞ
じゃあ俺からの唯一の質問
畿内論てどのレス?
なあ、せいぜい1時間くらいの日食よりも例えば真夏に太陽が
1週間も出ない、とかいわゆる冷害の方がクニに与える
ダメージは大きいし、日を司る王権(ヒミコ=アマテラス?)
の権威も失墜するんじゃないの?
そこんとこどうなんよ、日食影響論者さんは。
>>152 別に急いでナイヨ、漏れは。
今晩また見に来るから、畿内説の名誉にかけて頼みますわ。誰か他の方でもいいから。
>>155 ありがとう。1回だけだったのね、日食。
>>156 当スレの
>>8あたりがまとめなんだろうが、具体的には前スレの600からラストに至るまで辺り
連合形成の動機とか、銅鐸消滅とか論じてる一連の議論。
>>159 2回だね
247年3月24日 日没頃九州西方海上に達す
248年9月5日 早朝に能登から奥州へ横断
161 :
日本@名無史さん:04/03/01 11:31
日向を船出した給仕は瀬戸内海両岸各地の県予選を勝ち抜いた強豪高校と総当り、
トーナメント式に勝ち抜き天下の強豪の待つ大阪でPLのようなチームと対戦しなくて
はならない。一敗地にまみれ直ちに智弁が敗れようか。各地のおばさんからおにぎりを
頂戴しないと腹ペコだ。じゃー、神武におにぎりを出したのはというと、タカクラジというおじさん、
バットやボールをだしたのはヤタガラスという人なんだが、皆奈良県の人のようだ。つまり
神武は奈良県の地元チームそれなのに奈良県と戦っている。そこに大きななぞがある。
だから私の推論はそれはクーデター乃至は秘密裏に外部の(吉備)あたりを引き込み
当時の体制派、ニギハヤヒ、ナガスネヒコが打倒されてのであってその結果吉備国と
大和の合体が成立したんじゃなかろうかね。
アスキー社の天文ソフト『ステラ・ナビゲーター』でググッてみた
www.inoues.net/yamataikoku/science/waq.html
結構沢山あるじゃない、国内の日食。
248年は「早朝に能登から奥州」てさ・・・逆に九州説に不利になると思ふ。
ふーん
>>8が畿内説のまとめか
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体
これが考古学的結論で確定した畿内説でいいのかな
デムパとしか言いようがないが
発掘結果からの推論が偏向的なんだよな。畿内説。
>>162 不利有利が問題じゃないんだよな
証拠として採用するかしないか
畿内説に都合がいいと思ったときだけ認めるんじゃないよね?
この腐ったスタンスは畿内説論者の古墳や記紀や倭人伝にも言えることだが
以前、嘘吐き朝鮮人を掲示板で叩いたが
畿内論者もそれに通じる、ほんと思考回路が似ているよ。
>デムパとしか言いようがないが
>発掘結果からの推論が偏向的なんだよな。畿内説。
>この腐ったスタンスは畿内説論者の古墳や記紀や倭人伝にも言えることだが
キミの意見は罵倒や否定だけで構成されとるな。実際九州説なのかその他なのかすら解らん。
近畿と九州のどちらがデムパなのかは解らんが、少なくともキミは電波そのもの。
スルーしろ。
>>163も構うな。
>>166 >>163>>164>>165←全部同一人物の漏れですけどなにか
漏れが言いたいことは
>>142が展開されてもいない畿内説が
さぞあるように嘘をついたことを追求してるだけ、だれもあの畿内説の内容では
「フムフム」と思うよりデ ム パで理論的でも考古学的でもない。
スレを通して読んでみたが
東遷や天文学や伝承を必死で否定しているのは明らかにここに住み着いている畿内論者。彼らに自説は無い。
>>162 なるほど。まっ昼間じゃなくて日の出、日の入と重なるのか。
そこが正しいとすると、247年は日本中で見えるね。
ただ、九州の西方海上以西じゃないと最も大きく欠けた状態は見られない。
日没でも暗くなるし、雲があれば一部欠けるなんて普通にあるから日食だと分からなかったかもね。
248年は、地図がよくわからないけど、近畿以西だと最も欠けた状態は見えないね。日の出前に終わってる。
日の出とちょうど重なる日食って、普通誰も見てないんじゃない?
モウイインジャネ>日食
極々少数の日食信者が存在する事が判ったってことで、元の話題に戻ってくれ。
「男狭穂(おさほ)塚」「女狭穂(めさほ)塚」のレーダー探査に期待してる。
玄室も掘って欲しい所だが、宮内庁に期待するのは無理っぽいし。
出来れば吉備や出雲を積極的に調査して欲しいな。
あの辺りの方が新発見がありそうな気がするから。
さて、漏れは考古学専門家では無いが専門板に新スレ立ててみた
ここにいる似非考古学論者には耐えられないだろうが
立てた理由は畿内説のまとめの
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であったことが考古学的資料から導き出されている。
これがあまりにもデムパに感じたからです。
考古学的見地からの推論は他方面ではなく
やはり考古学的に否定されないと水掛け論になるから。
新スレの責任として
ここでの考古学的見解は無条件に向こうにコピペしていきます。
ではまた
176 :
日本@名無史さん:04/03/01 14:48
>>174 >倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であったことが考古学的資料から導き出されている
この論拠は大和の3世紀の遺跡からこれら全ての地域の土器が出土しており、
それらがこの地で暮らした外来の人々が運び込んだ物品である可能性が高い
という考古学的成果を元にしているんです。
つまり、江戸の武家屋敷よろしく参勤交代で集まって来た諸国の豪族達が
軒を列ねていた可能性が高い。とすれば、極めて広大な範囲に影響力を持つ
統一政権が3世紀の段階で樹立していたのではないか、と。まぁこういう案配ですな。
電波だと思うなら何か根拠出して反論しては?
単に「3世紀にそんな巨大な国家があるわけない」って意見はとっくに論破されてるので
それなりの根拠がいりますぞ。
>>113 >君の視野は狭い。出雲の伝統的な土器形式である二重口縁甕は、
>弥生後期後半の段階で、北陸の法仏式のステップを経て新潟にまで達している
>さらに四隅突出型墳丘墓も会津に達している。
>なぜ西日本の枠に留まるんだい。さびしすぎる。
オオクニヌシは西日本のみならず越、信濃まで平定している。
二重口縁甕の分布状況とそれほど矛盾しない。
あとオオクニヌシは東海にも手を伸ばしていたと思う。
ヤマトタケルの東征伝承とかぶるのでオオクニヌシに遠慮(?)させたのだと思う。
>東海は北部九州を通さず、山陰北陸近江経由の鉄の供給ルートを確保していた
鉄に関する考古学的データで九州以外に有利なものはほとんどない。
鉄の鏃・鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの発掘結果は、現時点では九州が圧倒的有利。
>九州なんか出雲にはぴくりとも影響を与える力なんかないんだよ。
影響なんかいらない。オオクニヌシをリーダーとする強力な王権が、
最後の最後で九州の一王族によって<戦争以外の方法で>乗っ取られたと考えれば、
「東征戦争は考古学上ありえない」「土器の移動が無い」とする考古学結果にも矛盾しない。
九州の王族による簒奪を正当化するための神話が国譲りであり神武東征であり、
出雲大社のオオクニヌシがなぜ怨霊的扱いなのかも説明できる。
178 :
日本@名無史さん:04/03/01 15:42
>>176 狗奴国はどこに比定するの?
それ以外にも魏志倭人伝および記紀神話に数多くの解釈不能な文章がある。
極めて広大な範囲に影響力を持つネオ畿内連合の存在は否定しないが
イコール「女王国連合」「邪馬台国連合」と断定できるデータは何一つ無い。
畿内説論者には「年代測定を強引に邪馬台国にあわせようとする」という批判もあることだし、
少なくとも、「邪馬台国連合」と断定できる具体的な証拠を提示してほしい。
180 :
日本@名無史さん:04/03/01 16:00
>>179 狗奴国の比定地は前スレの終わりの方で東海ではないかという話が出てたので
そっちの議論を参照。まだ決着はついてなかったけど……。
確かに九州に独立王朝があってそれが邪馬台国だ、とする意見を否定する事は難しい。
ただ、3世紀の九州の衰退や大陸系文物の分布の変化を見るに、
自分には外交権が九州から畿内へ移っていた可能性は高いと思う。
これが畿内勢力=魏に朝貢した邪馬台国と考える根拠の一つ。
もう一つは国力かな? 魏志倭人伝にあるような強大な権力は3世紀の日本では畿内しか想定できない。
年代測定については自分は専門家じゃないのでなんとも言えない。
>108氏
電波じゃない九州説の人が来てくれてとっても癒されるっす。
昨日は毒電波酷かったから(涙)
>>178 最近の情報には疎くて・・・すみません。
九州が鉄文化の先進地域だったということは言えなくなり、
日本海側全体+関東が鉄の先進地域だったということになったと。
これで「魏志倭人伝の鉄についての記述の矛盾」が九州説から奪い去られるわけです(涙
九州邪馬台国には、ネオ畿内連合の有力一派である日本海勢力と、
ある時期から友好的な関係にあった。いま
>>178さんに紹介してもらった、「鉄」と言う共通点で。
大陸の文化流入のある九州からの技術提供などもあったかもしれない。
その友好関係はついに日本海+九州鉄同盟に発展し、
日本海勢力に寝返られたネオ畿内連合は空中分解した。
畿内は鉄に関しては後進地域だったのだ。(
>>178氏紹介のサイトより
日本海勢力は、中国のお墨付きをもらっていた九州の邪馬台国の権威を利用し、
九州邪馬台の一族は未来の大和朝廷の統治権をもらったのだ。
だからこそ日本神話は九州や日本海側(=出雲)のモチーフが多いのだ。
旧来の九州+東遷説ならば、九州単独で畿内に乗り込んで大和朝廷成立、という
考古学上ありえない結論が多かったが、実際に畿内に乗り込んだのが
日本海勢力で、平定ののち九州邪馬台の王族が畿内に呼ばれたとすると・・・
(今後俺は、日本海勢力の王がオオクニヌシとする風に自説を改めます)
しかしオオクニヌシは怨霊扱いになっている。これを説明するには、
やはり邪馬台国一派は畿内に入った後も腹に一物あって、何かしでかしたのだろう。
邪馬台+日本海勢力の連合統治するという約束を邪馬台が破り、
実際の大和朝廷成立の立役者オオクニヌシを政治の舞台から叩き落としたのではないか。
184 :
日本@名無史さん:04/03/01 17:31
>>182 自分は
>>178見て、当初日本海勢力が主導していた倭国連合を
畿内や吉備といった瀬戸内勢力が主導権を奪った事件が
出雲の国譲り神話になったんじゃないかなーって気がしたんだけど。
もし東海に狗奴国があったとしたら大和との係争地は近江で、
大和が東海と日本海を分断しようとしたのが
狗奴国と邪馬台国の紛争だったんじゃないか、とかね。
>>176 不思議だな
畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体と戦っていた狗奴国が東海?
東海の土器もその後ろの関東の土器も出てきてるんだろ?不思議な世界だね
あんたの説はむしろ畿内には邪馬台国は無かったとしか解釈できない。
・九州に邪馬台国があって倭国連合とは別物ということでつか?
>>180 魏志倭人伝の記述で権力を表してるの一大卒くらいでは?
あとはむしろ読んでて権力の不安定差を感じるんだがな
それと国力て何?土地の稲作潜在能力なら関東の方がでかいし東海も九州中部もなかなかのものだよ。
今の大阪府と昔の難波を混同して考えてない?畿内しか想定できないなら頭固いよ。
186 :
176=180:04/03/01 18:09
>>185 だから自分は「一時的な仲違い」説を主張してたんだが。
東海地方に一時的に軍事的緊張が走った事は高地性集落からも判るし。
あの当時どれほど広範な政権があっても、不安定な連合政権だった事は疑いないよ。
複雑な紆余曲折があった事は容易に想像できる。内紛だって一度や二度は起こった筈だ。
それと国力の論拠は古墳等の大規模土木事業が大和で行われていたらしい事が根拠。
そうした痕跡が見つかっているのは今の所大和だけだからね。
>>186 そういえば
神武東遷は軍事的緊張の高かった瀬戸内海高地性集落分布地域を軍事的に東に駆け抜けてますね
高地性集落は神武東遷の補足になりうるかもね
188 :
日本@名無史さん:04/03/01 18:29
邪馬台国=北九州から中九州まで
狗奴国=南九州
東遷=狗奴の一部が邪馬台国を破りもしくは連合(北九州に立ち寄る)難波まで統一戦争
出雲=鉄の強国で協力がないと東遷の横腹を突かれるので同盟
マキムク=征服地域
魏志倭人伝の記述に、古墳など大規模な土木事業に関するものがほとんどない。
葬制にこだわる史書において、卑弥呼の墓に関する記述がチラッとあるだけで
古墳に注目していないのはどう考えてもおかしい。
(「三国志」の著者は、葬制には関心をもっていた。
「韓伝」「夫余伝」・・・「槨あって棺なし」、
「高句麗伝」・・・「石を積みて封となす」、
「東沃沮伝」・・・「大木の槨を作る、長さ十余丈」)
さらに「棺あって槨なし」とある倭人伝による倭人の葬制は
北九州の墓制と合致しており、一方畿内の古墳にはこれに矛盾したものもある。
>>189 そのあたりは畿内説的には辛い部分だけど、
魏志倭人伝の多くは一大卒まで行って帰った使者や商人の伝聞だから、との解釈もあり得るのでは?
実際、一大卒迄の情報は風俗や経済状況を含め極めて緻密に描かれているのに、そこから先はそうではない。
大和本国迄行った使者は少数で大半が一大卒どまり。彼等からの情報を元に魏志倭人伝は描かれた結果、
九州の風俗の比重が大きくなったんじゃないかな。
191 :
日本@名無史さん:04/03/01 18:44
>>190 一大卒て邪馬台国から派遣される人たちなんだろう
伊都国の一大卒の所まで行っているなら
畿内の風俗を畿内から派遣されている人から直接聞けるのではないか?
日本において外交は、そのノウハウがある地方勢力に一任されるケースが多い。
江戸時代の対馬藩や、琉球を介しての対中国外交における薩摩藩なんかがそう。
邪馬台国の時代、外交面で非常に大きな役割を果たしていたのは伊都国で、
大陸の使者はここまで来れればそれでほぼ任を果たせた。
その結果、魏志倭人伝における風俗面での九州偏重が起こったんじゃないか。
>>191 そこはまぁ、所詮は伝聞だから色々と変な事になったんじゃないかな。東を南にしちゃったりw
卑弥呼の墓についても大和から派遣されている人からの伝聞で、結果緻密な描写がないんじゃないか、と。
193 :
日本@名無史さん:04/03/01 18:52
統一政権畿内から自分の住み慣れた領国を西に向かい一大卒の任に着く人々
聞くには最高の人だと思うが、それを方角間違えるか?普通。
194 :
日本@名無史さん:04/03/01 18:57
領国内を巡検する仕事してる人(一大卒)は邪馬台国でも頭のいい権威に近い人だとは思うが
方角間違えたり自分の国のことを刺青入れているとか言ってみたり
ありえないと思うが?
195 :
日本@名無史さん:04/03/01 19:08
畿内政権てこれのことじゃない?
「女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り、皆倭種」
>>189 >>190 魏志倭人伝で「棺あって槨なし」と書かれているのは、一体誰の墓かな?
前後も含めて引用してみよう。
倭地温暖、冬夏食生菜。皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。
以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用[竹/邊]豆、手食。
其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、
喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
この部分はいったい誰のことを書いているのだろうか?
首長層に限定した話だろうか?
違うね。倭人の一般的な風俗について書いたものだ。
一般人のことだね。
だから、「棺あって槨なし」というのはごく普通の倭人の墓が「棺あって槨なし」だということ。
だから、古墳での埋葬形態というよりはもう位置ランク下の方形周溝墓に葬られる人々の墓のことと考えるべきだろう。
方形周溝墓では木棺直葬は普通のことだから、別に畿内だからつらいということは特に無い。
むしろ、方形周溝墓が一般的ではない九州の方が『封土作冢』と一致しなくて困るのではないかな?
197 :
日本@名無史さん:04/03/01 20:48
神武天皇江南系漂流者説
時は倭国大乱、同時に三国志の時代でもある、東アジア全体が乱れ乱れていた
100年戦乱に見舞われた呉の人々はある罹災者は陸路ベトナムへ逃げある罹災者は黒潮に乗り海路南九州までたどり着いた
黒潮の流れはこの時期に留まらず古代から常に南九州に災いや恩恵を与えその気候は人の住む地域としては温暖で
魚介類などの海の幸に富むまさに豊穣の高天原であったが人種的には混ぜ合わさり殺伐として剽悍であった。
つずく
198 :
日本@名無史さん:04/03/01 20:55
さて
大乱時九州北部の諸王は女王を象徴的に立てることにより九州内の安定を図る、卑弥呼の登場である。
女王卑弥呼は魏に使いを出し親魏倭王の権威を与えられ独自の呪術的鬼道で諸国を抑えた。
当時、呉からの流入者で溢れていた南九州は敵国魏に仕える女王に納得できるわけ無い
魏系統の北部九州と呉系統の南部九州は魏呉さながら遭い争い戦争は激化していった
隼人系はさすがに剽悍で北部九州を戦闘で圧倒していった。
南部九州は戦争で北九州を制圧、卑弥呼を殺し自ら王となった。
が、国内は治まらず、仕方なく魏系統のシャーマン壱与を擁立した。
つずく
199 :
日本@名無史さん:04/03/01 21:07
だが
後援国呉の敵魏への朝貢は止めることにする。そうするうちに魏も呉も滅亡。
後援国を失った南九州は九州は地勢的に危険だと判断、東遷の事業を開始する。
そうこれが神武東遷である。魏系技術と江南系技術の合わさった征服軍団は倭の諸王を圧倒
九州と水路で直接繋がっている難波平野に降り立つ、畿内では地元王族の激しい抵抗に合ったが
なんとか制圧、地元王が住んでいた王都に地元王以上の古墳造営することで権威を示す。
大和朝廷の始まりである。
つずく
「水行10日陸行1月」帯方郡〜邪馬台国の距離とは読めんか
つまり 1万2千余里=水行10日陸行1月
倭国総代邪馬台国女王ヒミコの使者として帯方郡へ派遣された者が
「(かの国へは)どれほどかかるのか?」と下問され
「水行10日、陸行1月ばかりかかります」と答える
(隋書倭国伝…倭人は里数を知らず、計るに日を以ってす)
201 :
以上九州説の仮説の一つを作りました:04/03/01 21:18
いっぽう地元では
留守番で補給・対外外交・九州政治担当壱与は宇佐八幡に
一大卒は沿岸の伊都国では防御的に不利なので大野城など山城で囲める大宰府に置くことになった。
北九州の留守番役壱与たちは魏が滅んで晉が成立したことにより
南九州の魏への蟠りも消え晉へ朝貢。
しかし、この時点では九州・瀬戸内沿岸、畿内平野までしか支配できてなかった
晉の権威と大陸新技術を背景にこれから本格的統一戦争が始まった、
しかし新羅系オンリーの出雲だけは鉄で強く鮮人特有の偏狭で言うことを聞かない
懐柔と陰謀でここだけは制圧、他の地方は紆余曲折あったが普通に征圧。
統一戦争は当時国境のあいまいだった南朝鮮まで及び任那の鉄を確保!
朝鮮中部まで制圧した倭王は六国諸軍事安東大将軍をもらう
しかし
粘着気質の伝統を持つ新羅と新羅に逃れた一部の偏狭な出雲系は結びつき
百済王とは戦略上友好を結ぶ、白村江の戦いである、以後史実どうりに歴史は進むのであった。
>>196 普通の一般人の葬制のしくみでさえ「棺あって槨なし」とキッチリ紹介されているのに
首長層の墓の葬制どころか、古墳そのものについての記述さえほとんどないのはおかしい。
九州説はデムパが多いと思ってはいたが正直これほどとは
204 :
日本@名無史さん:04/03/01 21:39
>>203 レス番で示して反論しないと、キミも電波扱いだよ。
205 :
日本@名無史さん:04/03/01 21:48
>>203 >>8の畿内説も似たようなものだろう
デムパすぎる畿内説をデムパで終了させないで
>>195までつきあってあげてるだろう
畿内説は心に余裕が無いという華南と言うか
邪馬台国に関しては仮説だらけ、
考古学的オンリーでいくなら専門家の専用スレ立てたからどうぞ。
206 :
日本@名無史さん:04/03/01 21:54
日食厨キター!
畿内説論者のあるレス
>日食なんてのは時々は起こってることなんだから
>いくら原始人でも自然現象として知られてはいるだろう。
>「太陽が欠けていくぅ!この世の終わりだぁ!うわぁぁぁん!」とかって
>古代人が絶望したなんて思ってるんですか? とんでもない、それほど無知じゃないよ彼らは。
九州説
>>「太陽が欠けていくぅ!この世の終わりだぁ!うわぁぁぁん!」
>民衆レベルで皆既日食を見たらこうなるだろう、クニは動揺する
>日食現象の仕組みなど確実に解ってないだろう。
>測量技術や天文学が当時日食を予見できるほど進んでいたとは思えない
>進んでいたとしたら何らかの記録が残るし、まずシャーマンとか信じない
前スレあたりで指摘されてたけど
畿内説はやけに古代日本人を高度な民族として持ち上げてるよね。反面、
九州説は古代日本人を「文字も知らない原始人」的イメージで扱ってるんだよね。
偶然かな?うがった見方をすると、
両説の論者に根底に何らかの思想?が流れていると思えなくもないが・・・
211 :
日本@名無史さん:04/03/01 22:13
>>209 原始とは思ってないけど
歴史的には蝦夷として北と南に(特に北)追いやられる歴史の繰り返し
沖縄と北海道が遺伝的に近いというのはその現れだと思う。
ある部分高度に発達した縄文文明も結局飲み込まれてるし
結局、実践的戦争生産技術を持つ指導者が有利という前提だよ。
>>211 レス禁止だって。土器も古墳も銅鏡も、一切の考古学的成果を認めず
日食のみを唯一の科学的証拠だと考えて疑わない究極の厨なんだからw
人間の言葉を話してもムダよ?
213 :
日本@名無史さん:04/03/01 22:19
214 :
日本@名無史さん:04/03/01 22:21
>>212みたいな意見も電波と同等だと思う。スルーできないなら同じ。
>>213 だって、何でもかんでも「思想的偏向」に結び付けようって魂胆が丸見えじゃん。
そういうやつに何か言ってもムダだって事
青年老い易く学成り難し
春だねー
217 :
日本@名無史さん:04/03/01 22:36
考古学的成果のみ厨は専用スレへどうぞ。
今の段階ではここでの畿内説は論破されてます。
畿内説まとめ
>>8の反論には
クナ国は保留とか所詮は伝聞だから色々と変な事になったんじゃないかなとか
畿内説ボロボロです、考古学的成果と推論が乖離してしまってるのです。
いまや否定厨とレス禁止厨に成り下がってる。
邪馬台国論争は思想が根底に流れている。
かつて九州説が流行したのは
「邪馬台国が畿内にあるとするとそれは大和朝廷の前身である。
従って邪馬台国という天皇家の祖先が中国如きに朝貢するのは問題がある」
または
「神武天皇の東征はじめ神話はすべて史実である。従って邪馬台国は九州である」
畿内説が流行したのは
「神話はすべて虚構である。従って「東遷」というのも虚構である。
高天原をはじめ神話の里、天皇家の父祖の地である九州は、実態はただの田舎であり
歴史の進行に何の関係もあろうはずがない。畿内連合も九州は疎外していたはずである」
という思想による。
219 :
日本@名無史さん:04/03/01 22:52
唯一まともな九州説論者
>>108氏の
「九州+日本海」が鉄でつながっていたというのはアリかも。
220 :
日本@名無史さん:04/03/01 22:57
>>219 自説が無ければ否定厨から一部認め厨に変わっただけなんですけど
認めた理由も「アリかも。」とか理由になってない
ネオ畿内説を再構築することからはじめないと論破されてるんだから。
>>206 流れを切りたくないからここに書くよ。どうせ転載してくれるんだし。
ちょっと長いけど、転載よろしくネン。
>>177 wrote:
>影響なんかいらない。オオクニヌシをリーダーとする強力な王権が、
>最後の最後で九州の一王族によって<戦争以外の方法で>乗っ取られたと考えれば、
こういう小説のようなディテールは残念ながら考古資料から云々することはできない。
だから、ディテールには踏み込まず、纏向で王となったのは九州の王であるとだけ仮定してみる。
断っておくけれども、僕自信はこれに与するものではない。
あくまで作業仮説をおくということ。
さて、九州の王であると仮定して、その出身地を探そう。どこだろうか?
これについて答えてくれるのが、繰り返し出ている柳田・寺沢というあたりの説だ。
柳田は伊都国を掘るでこう書く。
『弥生時代に限定する限り、伊都国・奴国遺跡群のように
規模と内容が充実した壮大な遺跡群はどこにもない。
二世紀末の「倭国大乱」の結果、卑弥呼が共立されて邪馬台国が出現する。
もし邪馬台国が「倭国大乱」前から存在するとすれば、
鏡の出土量を誇る伊都国しかない。』
柳田は伊都国と見るけれども、寺沢は奴国の可能性も考えるという違いはあるけれども、
両者の考えはよく似ている。
伊都国、あるいは、奴国の王がどういういきさつかはしらないけれども、
畿内大和に都を移し、西日本に広がる国をつくった。
これが邪馬台を都とする倭国である。
では、彼等は九州説なのか?答えはノー。
なぜなら、九州の王権はあくまで、伊都国王、あるいは、奴国王としてのものであり、
邪馬台に都をおいた王権ではないから。
もちろん、前原や博多当たりに邪馬台をもってくることはできない。
これでは魏志倭人伝との齟齬が多すぎる。
だから彼等は畿内説の立場を取る。
この柳田・寺沢という二人の立場が現在の九州説のおかれた位置を象徴している。
二人とも大和王権の起源を九州と見ているわけだが、
その九州の王権の地は、前原、福岡という玄海灘沿岸に持ってこざるを得なかった。
つまり、九州には玄海灘沿岸を除外すると王都にふさわしい場所はない、というのが現状なのだ。
年代論にいちゃもんを付ければ何とかなるという信仰めいたものを持ってる人もいるようだが、
年代が動いた所で、九州で主導的な立場にあったのが福岡北部であるという事実は動かない。
柳田が書くとおり、伊都国・奴国遺跡群に匹敵するものは九州のどこにもない。
だから、考古資料からはどう逆立ちしても九州説は出てこない。
>>177を九州説と見る向きもあるようだが、纏向建設がはじまった後の乗っ取りは考えられない。
なぜなら、纏向遺跡に不連続はなく継続して発展を遂げているから。
だから、「乗っ取り」があったとしたら纏向以前の出来事であり、
従って、
>>177は事実上の畿内説にほかならない。
本人がどう思っていたとしても。
九州説の人は、たとえば>177氏の鉄器のように、
ときどき考古資料を持ち出して来たりするけれども、
それはことごとく福岡平野の資料だ。
九州説を主張するには、いくら福岡平野から鉄器が出ようとも駄目。
福岡平野から何がどれだけ出ようと、九州説を補強することにはならない。
九州説のお人は、このあたりがまだよくわかっていないようだ。
225 :
日本@名無史さん:04/03/01 23:10
>>223 人口分布的には
福岡北部が一番だが中部も多い宮崎も変に多い
西都原古墳群は匹敵するんじゃないかな
226 :
日本@名無史さん:04/03/01 23:20
>この柳田・寺沢という二人の立場が現在の九州説のおかれた位置を象徴している。
それが真実なら別にそれが畿内説だろうが九州説だろうがかまわない、思想家じゃないから
つまり、あなたの意見は九州北部以外にプレ大和朝廷を作りえる所は無いということだね
227 :
日本@名無史さん:04/03/01 23:29
>九州で主導的な立場にあったのが福岡北部であるという事実は動かない。
古墳学的見地
九州最大の墓は西都原にあります
倭人伝的見地
主導的にあった邪馬台国の言うことを聞かなくて戦争していた国が南にあります
記紀的見地
大王の始まりを高千穂に求めてます
>神話はすべて虚構である。従って「東遷」というのも虚構である。
これは別に思想じゃないぞ。
九州から大和への人や物の移動が確認できんから考古学的にそう考えざるをえなくなっただけで。
それでも最大限記紀を尊重しようと
二世紀以前の落ち武者流入とか婿入りとか騙し討ちとか、このスレの畿内派は色々な見解を出してるじゃん。
229 :
日本@名無史さん:04/03/01 23:47
>それでも最大限記紀を尊重しようと
別に尊重しなくていいよ
論拠が纏向古墳だけならば
むしろ完全否定しないといけないんじゃないかね。
考古学的に人や物の移動が確認できんから記紀デッチアゲです、とはっきり言うべき。
鉄器の移動や韓式土器
祭器文化の伝播やその他技術の伝播
畿内説論者が海外に求めている記紀伝承の伝播
まで人や物の移動無しに伝播したのかね?
>>226 >つまり、あなたの意見は九州北部以外にプレ大和朝廷を作りえる所は無いということだね
う〜ン。
>>221 >断っておくけれども、僕自信(自身)はこれに与するものではない。
>あくまで作業仮説をおくということ。
てかいてるんですけど・・・・・
『纏向の王が九州の王である』という作業仮説をおけば、
前原の王、もしくは、福岡の王になるだろうということ。
その作業仮説が正しいかどうかは別問題。
僕としては、もう九州か畿内かって話は終わりにして、
大和王権はいかにして成立したか、って議論に進みたいんだけど・・・・
231 :
日本@名無史さん:04/03/02 00:24
自分で勝手に北九州という仮説を立てて
それを九州説とひとくくりにしてしまい
自分で勝手にそれを否定
挙句の果てに九州説敗北宣言まで言う始末(w
ワカリヤスイやり方だと思うが子供騙しレベル
取り合えず九州説を一つに限定しないでくれるかね
ところで大和王権の成立は論拠は纏向古墳で推考は
>>8しかないのかな
232 :
日本@名無史さん:04/03/02 00:28
>>転載よろしく君
>
>>177を九州説と見る向きもあるようだが、纏向建設がはじまった後の乗っ取りは考えられない。
>なぜなら、纏向遺跡に不連続はなく継続して発展を遂げているから。
>だから、「乗っ取り」があったとしたら纏向以前の出来事であり、
>従って、
>>177は事実上の畿内説にほかならない。
>本人がどう思っていたとしても。
デンパ直前のあなたにお聞きします。纏向の年代は特定されているんですか?
>>231 じゃあ、九州説の中でも人気の高い北部九州説はない、と意見の一致を見たということでいいね?
で、邪馬台国は南九州のどこで、どういう論理でそこにたどりつくのか、教えてくれる。
235 :
日本@名無史さん:04/03/02 00:40
「転載よろしく君」もほのかにアブナイ臭いが・・・
新たに火種にならなければいいが。
そういえば、九州説では投馬国はどこになるの?
畿内説だとすんなり吉備になるんだけど。
237 :
日本@名無史さん:04/03/02 00:47
>>233 ちなみに妄想は
>>197で全開しておいた
漏れの物語(叩き台)を読んで突いてちょうだいな
それと
デンパ厨ならば何も答えられないから
>>8のデンパに付き合った恩を忘れずにね(w
>>237 南九州説に、根拠・論理が全くないことがわかりました。
では。
>>236 畿内説に強制的に転向させられてしまった俺が言うのもなんだけど
投馬国は「出雲」だと思います。
魏志倭人伝で、邪馬台国と投馬国は特別扱いになっている。そこで
・帯方郡から南に水行二十日で投馬国、
・帯方郡から南に水行十日、陸行一月で邪馬台国、
と読めば、そのあたりかなと。
まあ出雲というのは後の時代になって大和朝廷がつけた差別的地名ですけど
本来は「ツモ」か「ツマ」あたりだったんではと。
畿内説の漏れから見ても○カとしか思えないコテハンが一人いるな。
241 :
日本@名無史さん:04/03/02 01:01
>>235 残念ですが、あなたの嫌な予感は現実になってしまいました。
>>239 確かに、瀬戸内海航路なら一月もダラダラと陸路を進んだりはしない、
水路で直接大和まで行けますもんね。大和川から運河まで作ってあったしw
んー、でも、出雲は確かに先進国だったでしょうが、
五万戸もの人口を飲み込めたですかねぇ。長門あたりまでひっくるめて、かな?
>>238 そのレスで自分の小さな自己満足を満たしたかい?
あなたのレスは全て論駁されてるんだから
新説妄想できるまでココにこないでね、否定厨くん
邪馬台国は四国にあった。
そして同時期、狗奴国が畿内でその支配権を強めようとしていた。
九州の邪馬台国連合と畿内の狗奴国が瀬戸内海をはさんで睨み合う。
#狗奴国は東海でも蝦夷勢力と対峙していた
卑弥呼が連年の日食で権威を失った虚を突き、
小国が四国の邪馬台国を急襲。
狗奴国との冷戦中という状況をも利用して、諸王を言いくるめ
王権を取得する。
新たに倭国連合の王となった後は、謀略に謀略を重ねて
狗奴国を絡めとり、畿内に王権を打ち立てることに成功する。
245 :
日本@名無史さん:04/03/02 01:03
年代特定を疑うのが一種の信仰であるとか、
冷静な九州説の人までこんな扱いにしたり
>従って、
>>177は事実上の畿内説にほかならない。
>本人がどう思っていたとしても。
とかは、まずいと思うけどね。何を必死になってるんだか。
>>243 >あなたのレスは全て論駁されてるんだから
どこで?レス番書いてね。
それと投馬国を出雲とした場合、近江や丹後らしき国が登場しないのは変じゃないっすか?
とすると
「水行十日、または陸行一月」
と読み替えて、一行は大和に10日程で直接到達したと考えてもいいのでは。
>>246 日食厨はスルーだって……。
世の中には自分の妄想を世の真理と勘違いして疑わない人もいるんだから。
>244
猿田彦=佐多岬あたりの土着水軍ですか?
>>246 日本語解る?全てって書いたんだけど(w
平仮名で書くと
ぜ ん ぶ
以降馬鹿みたいだからあなたがなにを書き込んでもスルーします、以上バイバイ
>>246 ほら、
>>250で誰に認めてもらったわけでもないのに勝った気になってるでしょ?
こういう人もいるんだよ。自分の妄想が何者よりも正しいと思い込んでる可哀想な人が。
>>242 投馬国って「山陰+近江+丹後+北陸」のひっくるめた
日本海「鉄」王国だった感じがするんだけどね。
後は九州説論者の俺の妄想。
鉄という結びつきの日本海同盟に、九州邪馬台がその仲間入りをした・・・ていう。
254 :
日本@名無史さん:04/03/02 01:21
>鉄という結びつきの日本海同盟に、九州邪馬台がその仲間入りをした・・・ていう。
アンタの仮説だと、そのあとはどのようになったの?
255 :
日本@名無史さん:04/03/02 01:25
山陰地方のたたらは6世紀以降ではなかったか?
半島鉄なら1〜2世紀にはあると思うが
倭国に広範な連合政権を最初に作ったのが、実は日本海連合だったって事はないだろうか。
それを、後発の吉備や大和が乗っ取ったのが国譲り神話、みたいな。
古代出雲大社にそびえたっていたという高さ96メートルの空中神殿が出土しないかなー。
ついでにそこから東海あたりの土器がジャラジャラ出て来て。
ま、無理か
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種=畿内政権
又有朱儒國在共南人長三四尺去女王四千餘里=沖縄
又有裸國黒歯國復在其東南船行一年可
至参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里=インドネシア
九州説の立場だけどどう?
もう放置しまつ
あと、一言。
>>245 >年代特定を疑うのが一種の信仰であるとか、
疑うことが信仰じゃないよ。よく読んでね。
年代論を崩すと九州説が有利になる、と考えていることが信仰だ、と書いたの。
260 :
日本@名無史さん:04/03/02 01:33
大学が休みに入ったせいか微妙に香ばしいネ
別人に必死でれすしてる人がいる
>>245は漏れではない、もう止めておけ、恥ずかしいからコテはずせYO
おまえの言う大和朝廷成立過程に話移そうや。
262 :
日本@名無史さん:04/03/02 01:40
「日本海連合」は確かに信憑性高いね。
ネオ畿内連合でもおそらくかなり有力だったのではないかな。
263 :
日本@名無史さん:04/03/02 01:44
>>258 >女王國東渡海千餘里復有國皆倭種=畿内政権
畿内政権みたいな大きな勢力が、そんな一行の記述ですまされるかどうか・・・
厳しいところだね。
>>261 ん?
僕は259で、
>>245氏にレスしたのだが、何か?
コテハンじゃない君(261)のカキコがどれかなんてわからんよ。
君一人を相手にしてるつもりもない。ついたレスに返信してるだけ。
曲解されたままにしておくわけにはいかないんで。
以後、放置です。『転載よろしく君』もこれで消えます。
では。
消え方に特徴があるね、この手のヤシいままで何人か知っているぞ
269 :
日本@名無史さん:04/03/02 02:03
なんか素直な疑問なんだけど、本当に東遷はなかったの?
このスレじゃ考古学的裏づけはまるでないって書いてあるけど本当なの?
>>263 九州説の推理だけど
伊都国で留めおいてあとは伝え聞かせると言うことは
戦争前のスパイになりうる他国者に自分の国の
矮小さ(魏に比べて)を知られたくなかったんじゃないかな
那国や不弥国までは妙に正確に感じるがそれ以降いきなり
距離から日にちになる
「何十日もかかるぞー、1月は歩かないと無理だな」て感じ
そして
>>258で書いたようにまた距離にもどり
倭に関係が無い東南アジア関連は漏れ的には妙に信憑性が感じられるんだな
>>270 まぁ、確かに自分の力に自信があれば、
河内王朝よろしく海岸沿いに巨大古墳を並べとくわなw
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種=畿内政権
これも自分以外の矮小さを示す為ね、実際は人的資源がでかい強国群だろうけどな
>>269 根拠なく東遷を否定する人は電波
無視しますとか自説では消化できないというならわかる。
274 :
日本@名無史さん:04/03/02 02:08
魏と当時の日本ってあほみたいに実力の差があったんだろうな。
無効は曹操だよ。
近所だったらすぐに食べられちゃうところだ。
島国でよかったね。日本は。
話がずれてごめん。
>>269 ないっぽいね。
ただ、一つ気になるのは銅鐸。
何故銅鐸が消えたのか、外部勢力の侵略があって破壊されたんじゃないかってのは議論になってる。
前スレの最後の方で畿内説の方からも銅鐸消滅のシナリオに付いて仮説が出てたよ。
事実でないことと、証拠が見つからないのは別ですが
日本海と畿内の関係は見当もつかん。
北九州となら一大卒記述からある程度読み取れるけど、
日本海はそういうの全くないからねぇ。
>>275 >
ないっぽいね。
あなたなりの理由書いてよ、感覚的に否定(厨)?
>>276 証拠がないと、推論以上の事は言えないのも事実だけどね。
ありえない仮説を否定する事はできるけど、ありえる仮説はそれでも複数のこってしまう。
畿内と新羅は親密だったように思う。近江つながり。
>279
そういう状態を「わからない」といいますが
>>278 大量の人間(民族とか軍隊)の移動を示す証拠・土器の移動等は確認できない。
文化的な断絶、技術の急な進歩もあまり見られない。
よって、東遷の証拠は殆ど確認できない。そういう事。
東遷てなに?もうちょっと具体化してもらわないと。
互いに考えてるものが違うと、否定できるとか証拠がないとかいってもすれちがいになるだけのような気が。
ところが東遷譚は、何万という軍勢ではなく小部隊のようであるから
>275の考察はもともと虚しい。
>>284 九州にあった勢力が畿内に移動し、大和朝廷の中心になった=東遷
記紀の神武東征神話が元ネタ。
訂正>275ではなく>282
>古墳の築造と銅鐸の祭祀は重なりませんよ。
>そもそも、銅鐸祭祀は共同体全体という集団の祭祀で、古墳は首長という個人の祭祀。
>各地に首長層が出現し、集団祭祀から個人祭祀への移行するのに伴って銅鐸は姿を消していく。
これかな?
纏向遺跡の最初が3世紀初頭ならモロ重なると思う、そしていきなり消える
そて古墳は巨大化
銅鐸文化は纏向遺跡の権力者に叩き潰されたんじゃないかな
南部藩の始まりも零細な話。
>>285 3世紀以降は畿内に強大な勢力があった事が確実なので小部隊による乗っ取りは無理。
よって東遷は邪馬台国以前の出来事ないし、婿入り・騙し討ちの政略的な事象だったと言う事になる。
>>282 大量の人間が移動しなくていいよ、最悪神武一人でいいし
銅鐸文化はおもいっきり断絶してます、巨大古墳や運河は技術革新といえるのでは?
>>291 確かに銅鐸は断絶してますな。
ただ、古墳は確かに技術革新だけど、そのベースとなる技術は畿内にも弥生からあったようだし
そもそも前方後円墳は日本全体でも前代未聞。仮に先行する物があるとしてもそれは吉備のもんですからね。
>>290 ここの関西説的にいえば
大勢力でも連合国家なんだろう
クナ国という弱みも持ってる巨大勢力邪馬台国?
古墳作りながら?
>>293 290と293は考えてる時期が食い違ってるのでは?
だから、時期とか規模とか具体化しないと・・・・
>>292 普通に土着している王が
いきなり前代未聞の前方後円墳?
古墳の巨大化は周辺住民に地獄のような労役を課すしね
ちなみに
技術を平和的に貰ったとかだけでは説明が苦しいよ。
ちと説明して、このへんのメカニズム。
>>295 地獄の労役とは断定できんでしょ。ピラミッド公共事業説とか知らんわけでもないよね?
例えば大和には諸外国から膨大量の米等が運び込まれていて、
大和近郊の農民はその恩恵によくしていた(給料貰って喜んで古墳作ってた)可能性だってあるわけでしょ。
ローマやアテネ市民の豊かさはまさにそこに原因があったわけだし。
>>295 その論法でいくと、明治維新なんて絶対不可能になるベ?w
>>294 関西説的に言えば
古墳の順調で連続した巨大化を見ると卑弥呼以前からある纏向遺跡が
途中衰退したとはどこからも読み取れないが
卑弥呼以前から大和朝廷まで順調な墓の巨大化は順調だろうからね
いつでも時期は変わらないと読み取れるが?
それとも何か首の無い大量の死体でも纏向遺跡から出てきたの?
>>297 確かに慶喜一人がいくら天才でもむりだわな
>290
畿内に強大な勢力があっても、部族間抗争があれば入り込むのは簡単。
ともかく、畿内の技術的進歩は弥生期より連続的に続いていて、
ある時期突然に何もかもが変わる、って事はないみたいなのよ。
まぁそれは、3世紀以後は大和と大陸との道が開けるから進歩の速度は変わってくるけどね。
墓の巨大化は習俗・流行と考えれば、単一直系権力でなくても可
>>300 だから、
古墳の形がある時期から突然変わるとか纒向から矢尻の突き刺さった人骨がゴロゴロ出るとか、
そういう事がない限りその考えは数ある東遷仮説の一つに過ぎんわけ。
少数の東遷連中が、現地の風習に溶け込んで文化を引き継いだのは当然。
公共事業説は一つの説だな
俺は公共事業説は貨幣経済が発達していない当時に給料なんて考えられないがな
関西説(考古学的)に言えば
>膨大量の米等が運び込まれていて
これは移動した跡の出土の確証がないと却下だね
>>302 当時古墳の形状を合わせる事で豪族間の結束を確認する所があったみたいなので
その考えは却下。
ごろごろ遺体が出るためには、東遷の人数が何万もいる必要があるだろう。
だがそんな伝承はないから、意味のない説。
>306
弱い説だと思うが
畿内だけ争いがない社会を想像されてもどう信じていいのやら
>>305 労働者は雲霞みを食って働けと? 幾ら古墳時代でもそんな阿呆な事を言う指導者はいない。
貨幣経済のない時代でも米や塩や鉄といった生活に欠かせない物資を供与する事で「給料」は成り立つよ。
>これは移動した跡の出土の確証がないと却下だね
纒向からは、言う迄もないけど他の地域の物資が運び込まれていた事を裏付ける証拠(外来土器)が出てる。
>>307 内紛に付け込んだにしても、あれだけの大勢力が内紛を起こすわけだから大量の死者が出る筈。
それがないのならそんな事はなかったって事。
>>309 古墳の巨大化、高度な運河の造営は少なくとも周辺の争いが
古墳造営側に圧倒的でないとな、それとも周辺と対等に乱世してるの?
>>309 畿内だけってゆーか、日本全体的にあの時代は遺体が出ないのよ。
今では「倭国大乱」も権力者どうしのゴタゴタであって大戦争ではなかったって説が主流。
>311
アフリカ史やインド史や中南米史を見れば、遠くの味方より近くの敵が憎いことが良くわかる。
遺体が出ない>戦死者の遺体が出ない
>312
別な二つのことを結び付けているようだが、あまり関係がない。
>>314 よって、奴国と伊都国の紛争を利用して畿内勢力が九州に勢力を伸ばしたとする説もあるのよね。
>>310 給料を成り立たせる為に鉄の塊や塩の袋貰ってもな
生きるために米の配給はあっただろうけど給料と呼べる食い扶持の余剰分が出てたとは思えない
わざわざ関東から給料貰うために大阪まで歩くか?おまえ?よっぽど高給でないとな
普通に考えて各地住民が集められたのは強制的で生口(奴隷)になり下げられた征服住民だろう
土器で食料運搬か、なんか関東や韓国からならすぐ割れそうだな
もっと頭いいんじゃない?米俵の原始的なものとか出てないの?馬車とか。
>>318 あの当時の物資輸送の主力は船。最も、木材の船は殆ど腐って残ってないが。
埴輪や絵で形状が判る程度。
>給料を成り立たせる為に鉄の塊や塩
日本では平安時代迄給料は鉄でしたし、武士の給料は江戸時代まで米でした。
サラリーの語源がローマで給料が塩で支払われた事だっての、御存じないのですか?
これ、結構初歩よ。少し勉強したら?
てゆーか、給料は貨幣で支払われるべき物だと信じ込んでる人間が日本史板にいるとは……。
>>313 九州説の立場から言えば畿内に遺体がでようがでるまいがしらん
ヨシノガリにしても高地性集落にしてもいかにも戦闘的だがこれでも平和な時代かね?
ちなみに日本の国内戦争は殲滅戦争ではなくて戦国時代のように下っ端はけっこういい加減だったと思う。
大将死んだら簡単にクモの子を散らすように逃げ散る
野戦での当時の比較的小規模の戦争で死んでも日本の風土上野ざらし死体は骨の跡さえ残らない
>>321 軍事的緊張はあったと思うが、実戦が行われた形跡はないのよねー。
そこが難しい所なんだけど。
あと、吉野ケ里は卑弥呼の時代とは違うよ。念のため。
>>321 じゃあ弥生中頃までは戦死者の死体がゴロゴロ出て来るのはなんでだよ。
>>31 些細な揚げ足取るなよ
揚げ足取れば公共事業説だ重くなるわけでもないのに
で、給料を支払った木管でも出てきたのか?
連年述べ何十万人の給料だろ?
>>324 最初から読めよ。
「古墳作りは地獄の労役」と決めつける発言があったからそれに反論しただけだろ。
あと、古墳時代に日本に文字はない。
>>324 揚げ足ってゆーか、給料は貨幣じゃなきゃダメって致命的過ぎる勘違いだぞ
>322
古代の小規模な戦闘形跡は出てこないほうが普通
>323
大規模な戦闘は遺骨が残ることがあるでしょう
>>327 矢尻の突き刺さった死体とかは結構沢山発掘される。
>>325 それに対する反論が公共事業だろ
俺は公共事業に関して丁寧に反論したが
おまえはまだ労役説に反論してないな
大筋賛成なのに揚げ足取り(貨幣)に終始したというところか。
>329
全国の古代全体でなく、神武東遷の話ね
>>331 だから、九州勢力が巨大化していた3世紀以降の畿内勢力を制圧したとは考え難いつってるの。
だから、仮に東遷の類いがあったとすれば、婿入りや騙し討ち、あるいは2世紀以前って事になるんじゃないか
つーのがオレの意見なわけだが。
鉄器が普及すれば、農産物の収穫高が倍増する。
余剰労働力が出来るから、古墳などワケがない。
>332
だから「畿内勢力を制圧した」話はあなたの空想でしょ?
小さな土地を少人数のよそ者が得ただけなんだから。
>>330 丁寧って、土器に入れて米を持って来るわけがないとか、そういうのかよ……。
あのなぁ、船や鉄器も朽ちて殆どのこらないってのに、米俵の類いが残るかっつーの。
土器の移動は、残りやすい人と物の移動の指標で、纒向の外来土器の多さは
あの地に諸国の人や物資が大量に集まっていた事を間接的に証明する証拠なわけ。
んで、大量の米等の物資さえ集まればそれを給料にして大和の農民を雇い大規模土木事業に参加させれば
古墳は作れると、こう言いたいわけ。誰も東海や吉備から人を連れて来る必要はないの。
てゆーか、纒向建設と前後して大和の村落が一斉に消えてるから、
相当多数の人間がこの「日本最古の都市」の建設に参加したと見るのが打倒ってわけ。
>>334 大和は小さくもないし、少人数で得られるような土地でもないって何度も何度も言ってる気がするが……。
>>333 なんか、今ここにいる一部の人間には「よじょーろーどーりょく」とか言っても
全く意味を理解して貰えない気がするんだよね。
神武が獲得した土地は、畿内全体に違いないなんて仮定するからおかしな話になる。
群小部族のひとつか二つやっつけて、居座っただけ。
>>338 だからそんなのは3世紀以後には畿内に強力な王権が出来上がってるから
ありえないっつってるんだが。
2世紀以前を想定してるの?
単一統一唯一王権じゃないということだ
あーもう、人の事妄想扱いして自分の方がよっぽど妄想じゃねーかよ
だいたい強大な王権というより、経済的に豊かになった土地に何人も王様が住んでいただけではないのか。
>>335 >船や鉄器も朽ちて殆どのこらないってのに
これ言うなら東遷の跡も残らん可能性があるな人の移動もな
太古の古米は炭化して残ってたりするけど
あれ残らんこれ残らん言ってた
都合がいい部分は残らんで済ませたら何とでも言える
神武が何万の軍勢で畿内全土を支配・・これが妄想
>>344 大和の一部を勝手に乗っ取って居座ったってのも凄まじい妄想だな。
絶対王権でないにしても相当強固な連合政権があったのは間違いないんだから、
そいつらがよそ物の勝手な侵入者を無視するわけないだろ。
普通内部抗争やら合従連衡やらでズタズタだが
>>343 何も証拠がないのにギャーギャー喚ける人には負けるがね
>>346 証拠もなくそういう事を平気で言えるのが妄想だっつってるんだよ。
「よそ物の勝手な侵入者」と断言できないだろう。嫌われものの首長は、誰かが倒してくれないかと思っているものだ。
勝手な決めつけをして論拠となる資料も何も示さず自分の意見と違うのは
論理的な反論の一つもせず妄想or偏向扱い。
最近こういう厨が流行り?
>348
だからインドなどの歴史に嫌というほど出てくるわけだ。
>>349 …………。
ひょっとして江戸時代までは方言が酷くて日本人同士でも意思疎通がままならなかったの知らないの?
古代は部族社会が良く見られるわけで、これは妄想ではない。
血縁地縁が近いほうが憎みあい抗争したりする。
>>345 だからー
畿内土着説は無理なんだよね
相当強固な連合政権とやらの発生過程の説明説明してくれる?
何でその場合大和地方である必要があるの?
土着はの場合地は選べないよ、信長が尾張であるように。
前スレでは話し合いとか言っていたが。????
>352
物資の流通がドンドン言葉でなされていたのは無視するの?
>>349 だから他所者が勝手に入り込んだ証拠はどこ?
嫌われ者の首長が倒された形跡はどこ?
他所者が畿内を乗っ取った証拠はどこ?
なんの根拠もなく適当な事言うなつーの。
>354
神武に聞いてくれないか?
>>355 お前は二つ前の事も忘れてしまうのか。記憶障害か?
>「よそ物の勝手な侵入者」と断言できないだろう
に
>江戸時代までは方言が酷くて日本人同士でも意思疎通がままならなかった
と反論し、どんな阿呆でも他所者と土地の者の区別ぐらいつくわい、っていったんだが。
>356
入らなかった証拠が先でしょう。
神武が何万も軍勢を率いていたと断言する理由、
そして畿内全土を征服したとする根拠は?
>>357 うん、死んだ神武に直接聞くことはできないから記紀を読んでみた。
>>355 ちなみに
コテコテの薩摩弁のバーちゃんは俺も何言ってるかわからん
>>359 オレが何時何万もの軍勢で神武が攻め込んだつったよ……。
てゆーか入らなかった証拠が先ってなんだよ。
入った証拠がないから入らなかった。それ以上の事言えるか?
古代のほうがグローバルなのを知らないでしょ
一切架空説?
そうか。オレは知障の奴と話してるんだな。どうりで日本語が通じないわけだよ……。
>>362 うん知らない。素晴らしい斬新な新説だね。もし事実なら学会に一大旋風を巻き起こすよw
以下スルーしまつ。阿呆に付合ってしまってすいません皆様。
>354の質問の意図がさっぱりわからない。
私が畿内説とは初めて聞いた。
所謂邪馬台国は九州にあったという私の考えは畿内説と呼ばれているのか?
畿内に邪馬台国があったとするのは九州説というのか?
まったくなんだか意味不明。
畿内に毛の国の王が来てるけど、話が通じない人なワケね
>>361 まあその場合証拠を遺跡のみに限定すればそうなるね
古墳に九州から人物の移動の形跡が一切無いなら一人も動いてないのだろ?
土器が出なければ例えば100年間に一人も動いてないわけだ
土着畿内勢力の戦争移動にも土器が必要だな
証拠無ければ解りませんでは古代は解らないと思うがどうよ?
天孫降臨や数々の神話?話の通じない人間同士の説話だったわけだ
>>366 すまん、もう何がなんだかわけわからん状態だな
すごいや、日本全国、言葉が通じませんでしたとさ
物理的な証明だけで、古代史を解明すべしという考えの人がいるようだが、おやめになったほうがいい
>>368 ほー。じゃ、証拠がない部分は全てオレ様の妄想で埋め合わせしてやるから従えと?
お前何様だよ。アホは消えろよ
>>373 368ではないが妄想から始まるもんだ
その妄想の部分をぐうの音も出ないように客観的に否定するのはおまえの役目
消えろなら誰でもいえる、無知な否定厨こそ消えるべきだと思うがどうよ?
>>374 根拠や証拠のない妄想は永久に妄想だよ。
しかもその妄想に合わない物理的な証拠を否定する妄想は有害な妄想。
いわいる電波だよ。語る価値はカケラもない。
>>374 自分の妄想が論破されれば相手を否定厨呼ばわりするような奴が偉そうに語るんじゃねぇよ。
お前の言葉にはクソ程の価値もない、ただ迷惑で有害である事を噛み締めて失せろや。
オレの発言も無価値で有害だったが、それはお前らに付合った為だ。
この意味をよーく理解しろや
つまり
古墳オンリーからは何もわからないと言うこと
証拠が無いならとりあえず可能性の高い別のアプローチから妄想するしかないだろ
それが日食であったり記紀であったり倭人伝であったり
それをここの畿内厨は証拠証拠とうるさい
その証拠から妄想した
>>8は論破されてるし
それ以降、否定厨に成り下がってるし
古跡だけで行くならば考古学板に新スレ立ててますからどうぞ。
ち! やっぱり日食厨か。最悪だぜ、ったく!
>>376 畿内厨は妄想を論破してないんだな
デンパ厨や否定厨はいるが、消えろ消えろうるさいよ否定厨
>>376 無価値で有害なはつげんをしたのは頭に血が上った君の責任でもあるんだよ
漏れにとって畿内説否定厨はすぐ頭に血が上ると言うことが解っただけ。
>古墳オンリーからは何もわからないと言うこと
色々判るよ。判らないのはお前の目が曇っているから。
>証拠が無いなら
証拠はある。ただ、お前は自分の見たくない証拠を見ていないだけだ。
>とりあえず可能性の高い別のアプローチから妄想するしかないだろ
>それが日食であったり記紀であったり倭人伝であったり
日食は可能性は極めて低い。記紀も伝聞の伝聞で信憑性は高くない。
お前は一度も倭人伝を語っていない。
>それをここの畿内厨は証拠証拠とうるさい
倭人伝や記紀は「目撃者の証言」、考古学的資料は「物証」
この世に証言か物証の何れかを無視する裁判など存在しない。
もし無視する弁護士がいたら、そいつに裁判に携わる資格はない。
考古学を無視するお前に古代史を語る資格はないって事だ。
>その証拠から妄想した
>>8は論破されてるし
論破されてない。論破したと考えているのは君の脳内世界のみ。
君の外の世界では誰もそうは考えていない。
>>382 終わりだよ。君とは何も語るべき事はない。君はここで何も語るべきじゃない。
君は何も理解できない。君は誰も説得させられない。君は言葉を話す価値を持たない人間だ。
以上。
384 :
ちょっと休憩しる!:04/03/02 05:10
数時間でずいぶんレス進んだな。数人でここまで進めたのか?
>>384 厨に振り回されてただけだよ。価値のある議論は全くない。
>>384 邪馬台国論争が終結つかない理由が
このスレ見てチラッとわかった気がする。
それにしても今夜は、短いレスでかなり進んだな〜
みんなおやすみ。
>381 名前:お前の全てを否定してやろう :04/03/02 05:01
>383 名前:再開? :04/03/02 05:07
同一人物か?言葉が分裂ぎみだが?
ああまた逃げか、わかったさようなら、古墳オンリー厨は二度とくるなよ
>>387 言葉を喋るなって言ってるだろ。
何も理解できない人間が何を聞くというんだ?
何も納得させられない人間が何を語るというんだ?
といってもやはり、君はこのオレの言葉さえ理解できないんだろうが。可哀想に。
390 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:16
畿内説は考古学中心で、九州説は文献中心。
どちらもそれなりの信憑性があって明確に否定できない以上、論争は解決しない。
考古学的発見も宮○庁のせいで遅々として進まない。
今度調べられるオサホメサホ古墳が卑弥呼の墓だったらいいのに。
それくらいの衝撃的大発見はあってほしい。
>>391 自分が否定されるしかない人間だと言う事が理解できないのかねェw
>>390 まぁ、今は8:2か9:1位で畿内が優勢ですけどね。
>>388 おまえこそ喋るな、消えろ消えろ消えろ
何を語るんだ?何を聞くんだー?
可愛そう誌ね市ね氏ね氏ねーーーーーーー
以上否定厨を演じてみました(w
>>394 いや、エキサイトして面目ない。御迷惑おかけしました。
396 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:21
>>393 正確には「考古学者の間で8:2か9:1」ですな。
本屋の古代史コーナーはほとんどが九州説ですよ?
ネットのサイトも九州説が多い。
397 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:23
畿内説はスレッドを罵倒で埋めたいのかね?
そもそも2chは氏ねで消えるような場所とは思えないがね。
398 :
傑作テンプレ:04/03/02 05:23
邪馬台国論争は思想が根底に流れている。
かつて九州説が流行したのは
「邪馬台国が畿内にあるとするとそれは大和朝廷の前身である。
従って邪馬台国という天皇家の祖先が中国如きに朝貢するのは問題がある」
または
「神武天皇の東征はじめ神話はすべて史実である。従って邪馬台国は九州である」
畿内説が流行したのは
「神話はすべて虚構である。従って「東遷」というのも虚構である。
高天原をはじめ神話の里、天皇家の父祖の地である九州は、実態はただの田舎であり
歴史の進行に何の関係もあろうはずがない。畿内連合も九州は疎外していたはずである」
という思想による。
ところで否定厨ってなんなんだろう。
「ちきしょー、ボクの言う事を否定する奴はみんな厨だぁあ!」
かな?w
>>396 まぁ、土器がどーだ古墳の年代測定があーだ言っても受けないですからねー。
それよりは神話を面白おかしく解釈して壮大な物語を展開するには九州の方が都合いいんでしょう。
っても、文献でもそんなに九州が多いってことはないんじゃないですか?
401 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:29
学者は他の分野から専門外の人間が口出すのを嫌がるんだよ。
だから、畿内説論者(=ほとんど考古学者)は否定厨が多い。
九州説唱えてる人は他の分野からのアプローチが多いね。
邪馬台国論争のように行き詰まった問題は、
多角的な方面から分析するのが解決の道なのに、
日食の問題一つ提示しただけでも、「日食など関係ない!」とわめきちらす。
>>401 >学者は他の分野から専門外の人間が口出すのを嫌がるんだよ。
>だから、畿内説論者(=ほとんど考古学者)は否定厨が多い。
なんかすごく納得した
403 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:31
>>399 そんなところかな
考古学的証拠が無いから全部否定だー、から始まったと思う。
しかしそれならば歴史に説明できない部分も出てくる
それを推論すれば(罵倒のみで)否定
熱くなってるからすぐわかる。
>>401 文献学からのアプローチが行き詰まった結果、
文献学とは違う方面から物事を考える考古学が幅を利かせてきたって現状を知らないの?
>>402 実は、最近の考古学的な成果を無視して従来の説にしがみついてる九州説論者の方が多いんだけどね。
406 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:36
>>404 ところが考古学的発見から導き出された結論が、
かんじんの魏志倭人伝にあわなくなって来ている。
1.
考古学者は自らが信奉する邪馬台国畿内説に都合よくするため
畿内の古墳群の年代を無理やり邪馬台国の時代にあわせようとした。
これが墓穴を掘った形になった。
魏志倭人伝には古墳の記述がほとんどないことを忘れていたんでしょうか?
2.
畿内の王権が実は九州と四国以外の日本全域を支配したネオ畿内連合とも言うべき
巨大な共同体だったという最近の結論。
これも墓穴だった。
魏志倭人伝の、邪馬台国に敵対していた狗奴国の記述を忘れていたんでしょうか?
古墳=卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
狗奴国=東海地方
408 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:45
>>405 成果なんて言葉使うから考古学者勘違いしてんじゃねーの?
結果だろ、結果からの推論は畿内説九州説関係ないと思う。
>>408 いやぁ、自分一人で考古学全てを否定できるつもりでいるどっかの誰かよりは
勘違いしてないよ。
410 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:49
考古学的結論が皮肉にも魏志倭人伝の記述を合わなくなりはじめたとき、
畿内説論者のとる方法はひとつ。魏志倭人伝の記述を「曲解する」。
>>406 たとえば2だと、「狗奴国と邪馬台国の戦争はなくて権力者同士の政争程度のものだった」
という笑い話としか思えないような曲解をする畿内説論者がいる。
411 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:52
古墳や遺跡の年代測定もままならず、捏造と言う不祥事まで犯している
考古学者の言うことはそのまま鵜呑みにはできないというのが
九州説の人たちの本音なのでは。
412 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:52
>>409 その誰かとやらが0点としたら
逆の意味でおまえもさして変わらんと言うことだな。
>>411 単に、見たくない物を見てないだけでしょ
414 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:57
>>411 畿内説の頑迷さを見ると
石器捏造は個人の名誉欲的な俗欲に感じたが
集団の思想宗教と言う形で捏造が行われる可能性が高い。
倭人伝を曲解しようとする人間がどうして発掘を曲解しないといえるだろうか。
415 :
日本@名無史さん:04/03/02 05:58
俺から言わせれば、
畿内説の人が畿内の古墳の年代測定をやたら邪馬台国の時代に
繰り上げよう繰り上げようとしているのを見て、「怪しい」と思ったよ。
実際、学者によって、見解のハバがあるんだし。そんな定まらない
不確定の意見を「成果」だと偉そうに言って、九州説の人たちに
「考古学的結果はこうだ。この立派な成果を元に、お前たちの意見をもう一度改めろ」
と言ったって、無理があるような気が。
>>414 必死だなぁ。
あ、ひょっとしてお前昔考古学者の卵に殴られた事あるだろ。
そいつの彼女をストーキングしてたら逆にボコられたとかw
そうでなきゃそこまで一つの学問を恨み抜く事などできねーよ
>>415 だって、科学的な調査の結果だしいたしかたないっしょ。
それに、年代の繰り下がり傾向は古墳時代だけじゃなく弥生時代についてもおこってる全般的な現象
欧米では随分前から採用されているのに保守的な日本ではなかなか採用されなかった技術が最近やっと取り入れられて
それで年代がくり下がったんだから。
古墳時代はせいぜい一世紀だけど弥生時代は500年くり下がってる。別におかしな事じゃない。
418 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:03
>>418 意味わかんないの? マジで?
君に必要なのは歴史じゃなく国語の教養だな。
420 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:04
畿内説論者は全員この文章を100回読み直せ。
[女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり]
海を琵琶湖と解釈したら許さんぞ。いや畿内説お得意の曲解かw
422 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:07
>>419 話の流れからあなたは畿内説論者だと解釈している、しばらく観察させてもらうよ。
>>422 頼むから、考古学を全否定するような人間の言葉を間にうけんでくれよ
424 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:12
だからといって考古学偏重はよくない。
考古学的発見だけで歴史を構築したら、
魏志倭人伝のそこここに矛盾が現れてしまった。
提出した仮説が、明らかな矛盾を呈したら、
その仮説を修正するというのが、まっとうな発想ではないでしょうか。
しかし、たった一人の厨が取り付いただけでここまで荒れるもんなんだなー(溜息)
426 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:14
この一時間のレス見てると九州説がage 畿内説がsageになっている
427 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:16
>>420 考古学者答例
1、琵琶湖を海と曲解
「それは琵琶湖の事です」80点
2、考古学的見地から何も出てこない
「そのことは保留です」90点
3考古学的に出てこないので
「倭人伝そのものが作り話」 0点
>>424 例えば倭国大乱とあるが、大規模な戦乱の痕跡が発見できない。これは大きな矛盾だ。
そこで今言われてるのが「倭国大乱とは権力者間の政争の事であって、大規模な戦乱とは違う」
という解釈なわけだ。
これはどう思う? 別に畿内説の主張ってわけじゃない。
429 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:27
>>428 「倭国大乱」=「権力者間の政争」とみるのは漏れも適当だと思います。
寝ます。
>>429 そう。全てはそうやって解釈していくしかない。
記紀や倭人伝の記述を妄信してても決して真相には迫れないと思う。
以下、コピペだが
記紀や魏志倭人伝はいうなら目撃者の証言。文献学は聞き込み調査。
考古学は証拠集め。科学調査。
真相に迫るには両方を重視する必要があるよ。
物証を認めない裁判も証言を無視する裁判もありえない。
邪馬台国に関する限り、目撃者=記録の数は極めて少なく質も悪い。
記紀も魏志倭人伝も伝聞を書き留めた物に過ぎない。
となると、何が正しくて何が過っているのか物証を積み重ねる事で一つ一つ立証してくしかないと思う。
考古学を無視するなど論外中の論外。検視や科学調査を無視する犯罪操作などありえないのと一緒だよ。
431 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:33
>>428 その時期の瀬戸内海高地性集落は軍事的緊張を表している
朝廷内の政争ではこれを理解できない
人の死体はまだ発見されてないだけだろう。
432 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:36
>記紀も魏志倭人伝も伝聞を書き留めた物に過ぎない。
考古学偏重を端的に表してる言葉だ、おまえも目を覚ませ。
433 :
傑作テンプレ2:04/03/02 06:44
畿内にそのような強力な王権が存在したとしても、それが魏志倭人伝に書かれた
「邪馬台国もしくは女王国を中心とした王権」であるという証拠はない。
「邪馬台国」の出典が魏志倭人伝であることは言うまでもないがイコール
「日本列島でもっとも強力な王権」だという断定している記述はどこにもない。
考古学的発見に限って述べられるに値する結論は
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であった。
>ただし「邪馬台国」を中心にしたものかは不明である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これ以上踏み込むことは考古学だけでは無理。
434 :
日本@名無史さん:04/03/02 06:46
このスレの法則
九州説=age 畿内説=sage
>>433 なるほど
考古学的に不明なものをさぞ考古学的成果ですと言い
邪馬台国を機内を中心とした連合国家とするとしているのがネオ畿内説ですね
矛盾は記紀伝を曲解すればネオ畿内説完成ということです。
クナ国は一応東海に置いているが
曲解に曲解を重ねてもクナ国の矛盾は表せず。クナ国所在地は保留。
この現状を打破するためには倭人伝は無視の方向。
>>426,
>>434 むしろ、わかりやすくて便利じゃん。
このスレのローカルルールとして天ぷらに入れるべきw
>>424 >考古学的発見だけで歴史を構築したら、
>魏志倭人伝のそこここに矛盾が現れてしまった。
どこが矛盾なのか、具体的に明らかにしてほしいな。
そして、これこれの説を取ればこういう理由でその矛盾がなくなるということも、
具体的に明らかにしてほしいな。
438 :
日本@名無史さん:04/03/02 11:25
>>432 魏志倭人伝の記述が事実であるかどうか確認するには考古学と照合する他手はないよ。
全てを全面的に信用するには矛盾が多く、かつ、晋の都の役人が伝聞を編集して書いた文章に
全く誤りがないと考える事も極めて難しい。
魏志倭人伝の、日本の風俗に関する記述が正しい事を証明したのも、倭国大乱が戦乱を意味しないのも
共に考古学との照合から出て来た事柄だ。
文献偏重も問題だよ。
>>433 3世紀以降、畿内からは大陸系の文物が多数出土する一方、九州のそれは相対的に減少する。
九州の墳墓の衰退も著しい。
以上の事から、外交の主導権が九州から畿内に移動した可能性も、考古学は示唆している。
よって、当時日本で対大陸外交を展開した国=邪馬台国が畿内勢力である可能性も高まって来る。
439 :
日本@名無史さん:04/03/02 11:27
さも文献的には九州が有利と思い込んでる奴が多いようだが
邪馬台国の戸数七万はどう解釈する? 戸数五万の大国投馬国は?
畿内説だとあっさり邪馬台国=畿内、投馬国=吉備、となるのだが。
まさか戸数だけは違う、適当、とは言わないよね?w
440 :
日本@名無史さん:04/03/02 11:32
>>431 だから、戦死者の遺体って結構よく見つかるのよ。
ところが、弥生時代中ごろまではザクザクでてきて、
弥生後期〜古墳時代前期はとんと出てこない。
これをただ「見つかってないだけ」とか言ってたら、
九州説の論拠の一つである鉄の格差も「全部錆びてしまったんじゃー」とか言われてしまうよ。
441 :
日本@名無史さん:04/03/02 11:36
考古学実証的には日本中の地下を邪馬台国時代まで掘り下げないと
確たることは言えないのじゃないか。
だからきちんとした考古学畑の人は纏向の発掘成果をみてもそこが
邪馬台国などということは断言していない。そんなこと言うのは
山っ気のある一部少数。
すなわち、現在発掘されている遺跡も極く幸運に発見されたり、
残されていたりしたモノだという事がよくわかっている。
古墳についても南北朝〜戦国期にかけて山城にされてしまったり
ひどいモノは太閤秀吉に全て破壊されてしまった幻の巨大古墳などの
例も存在するのである。
443 :
日本@名無史さん:04/03/02 14:31
>>432>>438 >考古学偏重を端的に表してる言葉だ、おまえも目を覚ませ。
>文献偏重も問題だよ。
バランスも必要です。
>>439 魏志倭人伝で、邪馬台国と投馬国は特別扱いになっている。そこで
・帯方郡から南に水行二十日で投馬国、
・帯方郡から南に水行十日、陸行一月で邪馬台国、
7万は女王国連合全体(狗奴国以外の九州全体)の戸数と考え、
「投馬は出雲」と考えて、戸数5万は出雲を中心とする日本海王国全体の戸数と見る。
444 :
日本@名無史さん:04/03/02 14:35
>だからきちんとした考古学畑の人は纏向の発掘成果をみてもそこが
>邪馬台国などということは断言していない。そんなこと言うのは
>山っ気のある一部少数。
よくぞ言ってくれました。この「少数」が煩くてかなわないので・・・
445 :
日本@名無史さん:04/03/02 14:42
当時の倭は、文字をもたない国だよ。
人口とか全部中国人の推測じゃないのか?
日食のことだけど、文字をもたないレベルの国の住民が
パニックにならないはずはないと思うよ。
446 :
日本@名無史さん:04/03/02 14:54
畿内説の人が「考古学的結果」と称して
>3世紀以降、畿内からは大陸系の文物が多数出土する一方、
>九州のそれは相対的に減少する。九州の墳墓の衰退も著しい。
としているが、九州の邪馬台国が衰退の一途をたどり、
畿内に押されてかなりヤバくなってきたからこそ、
魏に救援をもとめたのではないか・・・と考えればいいのでは。
>>445 そういう説もある。五万とか七万とかは
奇数を聖数と見る陰陽思想の反映だとする説。
5とか7とか適当につけたというわけだね。
447 :
日本@名無史さん:04/03/02 16:21
>>446 もちろんそういう解釈もアリなんだけどね。
けど、大陸系文物の畿内へのシフトを考えると、
やはり畿内に邪馬台国があったと考えた方が賢明だと思える。
>>446 奴国は2万戸だけど、これは例外なの?
>>444 それでも大勢は畿内・大和なんだけどね。
まぁ、纒向を邪馬台国の都と断定する人はあまりいないだろうけど。
王家の谷説とか古墳作りキャンプ地説とかあるし。
449 :
日本@名無史さん:04/03/02 16:40
>>447 調べてみた
邪馬台・・・・・七万余戸 投馬・・・・・・五万余戸
対馬〜不弥・・・三万余戸
帯方〜狗邪韓・・七千余里 狗邪韓〜末盧・・三千余里
末盧〜伊都・・・五百里
450 :
日本@名無史さん:04/03/02 17:17
最近、日本神話関係の本が、つぎつぎと出版されている。よろこばしいことである。
そもそも、学問的理論というものは、より統一的な理論が望ましいものである。
日本古代史の分野でいえば、『魏志倭人伝』をはじめとする外国文献も、
『古事記』『日本書紀』などをはじめとする日本文献も、考古学的な事実も、
神社などの由来も、民俗学的な事実も、あるいは、自然科学的な研究成果も、
総合的・統一的に説明できる理論が望ましい。
たとえば、『魏志倭人伝』の範囲内だけで、
自説は「矛盾がない」と強く主張したとしても、
『魏志倭人伝』は、そもそも情報が不足しており、
他にも同程度に「矛盾がない」説を構築できる可能性がある。
あるいは、考古学の説明だけに終始し、日本文献などを、
一切かえりみない理論なども、疑問がある。考古学の分野での年代観が、
きわめて不安定で、容易に揺れ動く性質をもっているからである。
遺跡・遺物などの、新聞・テレビなどで発表されている年代に、
異論が存在したり、反証のあげられるものがすくなくない。
451 :
日本@名無史さん:04/03/02 17:18
自分の部屋のなかだけの観測にもとづいて、
「地球は、確実な観測にもとづいて平らだ。これをみとめてほしい」
などと強く主張してはならない。
学問というものは、ある分野だけで孤立すると、かならず独断におちいる。
旧石器捏造事件なども、その分野だけで孤立し、その分野のなかだけで、
学問的権威のヒエラルキーが成立していたために生じた事件のように思える。
学説や研究の良否を判断する一つの重要な基準として、
「古代史全体へのより大きな目くばりが行なわれているか。」
をあげることができるだろう。他の情報を排除し、
ある分野のなかだけで矛盾のない理論などはあぶない。
452 :
日本@名無史さん:04/03/02 17:36
>>452 遺跡があればいいってもんじゃないよ。
『規模と内容が充実』してないと。
まあ、博多周辺や三雲でどんな遺跡がでてるか確認して卓袱台。
454 :
日本@名無史さん:04/03/02 18:52
>>453 邪馬台国自体(連合の長)直轄はそれほど大きい国だったんですかね?
邪馬台国連合全体で「七万余戸」という捉え方もあることですし。
>>452-453 畿内も九州もここが邪馬台国だという明確な遺跡はないし、
無理にそれを探ろうとするのは非常に危険なのでは。
>>453 語尾にちゃぶだいなんて怪電波止めれw
456 :
日本@名無史さん:04/03/02 19:02
教科書まで書き換えられた捏造事件という大不祥事を引き起こした
考古学界主導の邪馬台国論争はやはり終息していくのではないか。
大きさが福岡市レベルの那国が2万戸
隣の伊都国との境界があるからこう考えざる終えない
邪馬台国が機内を中心とした連合国家と考えれば
7万戸という数字はむしろ矮小な数に感じる
>>445 インカ帝国とかもパニックになってたと。
459 :
日本@名無史さん:04/03/02 21:45
結局、九州説も無理な読み替えをしなきゃ全く筋が通らないってことだけはハッキリしたな。
460 :
日本@名無史さん:04/03/02 21:46
という判断力の人すらいるわけだ
畿内説の最後の夢想スレを壊してすまんな
>>1 しばらく放置してみるからデムパ畿内説見せてみろ
462 :
日本@名無史さん:04/03/02 21:56
>>455 確かに「ここが邪馬台国」って遺跡はないけど、
畿内の場合は纒向という露骨に怪しい遺跡はあるわけで
(少なくとも邪馬台国時代の王家の墓所・祭礼場だったと思う)
これに匹敵する遺跡は九州にはないわけでしょ?
ま、それにつけても箸墓を掘れればなぁ。
>454
晋書の
至魏時、有三十国通好 戸有七万
というのが根拠ですね
九州説にはほかにもいろいろ示唆に富んだ解釈がある
465 :
日本@名無史さん:04/03/02 22:23
倭人伝に照合して、畿内は「ハア?」でしょう。海洋国家で潜水漁してる習俗が特徴だ。
卑弥呼の頃は倭人の国の集合体だから、ピンポイントで豪華絢爛遺跡を空想してもあてにならん。
466 :
日本@名無史さん:04/03/02 22:30
三輪山は古来、太陽神祭祀の中心地であった。
太陽神の子を僭称する始祖王は、乱反射する銅鏡を携えて、
銅鐸を祭る一族を打ち破り、王都をマキムクに定めた。
銅鐸一族は海路、東海に逃れる。狗奴国(三遠式銅鐸)がそれである。
私は、吉備の王族の一部が大和を征服し、畿内政権=邪馬台国を
打ち立てたと想像するのですが、どうでしょうか?
>>466 >銅鐸一族は海路、東海に逃れる。狗奴国(三遠式銅鐸)がそれである。
ここがダメですね。
時系列が、「近畿式→三遠式」ではなくて、「近畿式と三遠式の併存」→「近畿式のみ」ですから。
春休みでもないのにすごいことになってますね
可能な限り確からしい証拠を積み上げていくのが本来の筋のはずなんだが
「倭人伝がどうたらこうたら」 から始めるあたりが,えもいえず香ばしい
マキムクは王家墓のようなものか?
住居跡は出てないみたいだし王都と呼ぶには厳しい
巨大連合国家の首都らしくない
大量の民をまかなうほど土器は出てきてないし
韓式土器や関東方面の土器が出てきてもそれが支配しているとは全然言えないし
東北の石器も出てきてるみたいだから
土器はお供え物の入れ物の跡くらいにしか思えないけど
当時交易位は普通にあっただろう
470 :
日本@名無史さん:04/03/02 23:24
神武以前の大和の原王者ニギハヤヒ(物部の始祖にして太陽神)。
ヒノモトの日下。紀州、東海での銅鐸の巨大化。熊野=狗奴国?
熊野大神=太陽神。物部と尾張の同族伝承。
以上のことが、邪馬台国建国の時代を語る上で、キーワードに
なってくるかと思うのですが。
唐古・鍵に住んでいたモノノベ一族は、太陽神を崇拝する大和の王者
であったが、神武に屈服し、銅鐸を廃棄せざるを得なかった。
471 :
日本@名無史さん:04/03/02 23:29
>468
微に入り細にわたって壷にはまり、迷走・大爆走の誰かさんのほうが、香ばしい
472 :
日本@名無史さん:04/03/02 23:31
>>469 盛んな交易はあったろうし、魏志倭人伝にもその記述がある。
しかし、日本の主要な地域の土器を網羅した遺跡は纒向だけだよ。
日本全土からなんらかの政治的・宗教的理由で各地の人々があの地に集まってたのは
明らかだと思うけど。
473 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:01
シルクロードの中心地は奈良の正倉院なワケね
474 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:04
中心地ってどういうこと?
>>472 でも住居跡出てない段階で人々が集まってたと言うのは早過ぎ
土器の破片と古墳と祭壇跡で巨大連合国家邪馬台国は厳しい。
476 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:10
出土物学より古代史学のほうが面白いんだが
477 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:10
>>475 しかし、宗教的に重要な場所であった事は疑いない。
そこで日本各地の土器が出ているのだから、
なんらかの政治的・宗教的統合が大和を中心に出来上がっていたと考えるのは
おかしいのかな?
478 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:18
みんな、倭人伝の方向記事が45度〜90度程、反時計回りにズレている事実に対してどう解釈してる?
北九州地方の地図を見てごらん。
マツラ→伊都→奴→不弥までの方向が実際と一致してないことがわかるだろ。
かつて富来隆がこれを根拠に邪馬台国=宇佐説を主張したのだが、そっくりそのまま畿内説に転用できるとも考えられないか?
今のところ大方の九州説もマツラや伊都の位置には異論はないのだろうから、この矛盾を説明出来ないと資料の信用性そのものも揺らいでしまう。
ちなみに漏れは(仮説だが)陳寿が編纂する時点で報告記事を書き換えた可能性が高いと思っている。
「なんだ、この帯方郡からの報告は?倭国は南北に長いはずじゃないのか?間違えやがったな田舎者めが!」
実のところは帯方郡からの報告が正確で、陳寿が当時の誤った知識の元に書き換えたのかもしれない。
一見電波と思うだろうが、文献だけを参考にするとどんなことでも考えられるって事です。
今のところ、こういう説を肯定も否定も出来るだけの他の証拠がない訳だからさ。
考古学的成果を物的証拠に、一番矛盾の少ない仮説を提出すると言うのが古代史の基本的アプローチ。
>>477 土器の破片と古墳と祭壇跡の段階で
政治的・宗教的統合が出来上がっていたと考えるのはおかしいと思います。
480 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:26
>>479 大和の聖地に日本中の主要な地域の土器が集まってたら、
それを巡礼者の持ち物なり古墳造営の関係者なりと想定するのが自然だし
それはつまり日本全体になんらかの宗教的統合があった事を示唆すると考えるのは
普通の思考だと思うけどな。
>>475 これまで何度かでてるはずだけど、後期後葉辺りで高地性集落が多数出現してくるし、
環濠の掘りなおしなどもおこなわれる。それが顕著にみられるのが瀬戸内から東海にかけて。
一方、魏志倭人伝には倭国乱があって、その後、卑弥呼を共立して一つにまとまったと書いてあるわけだ。
だから、その痕跡がどこかに残っていないかと探す。
そうすると、上で書いた高地性集落やら、環濠の掘りなおしやらが該当してくる。
一方の九州はというと、後期後葉辺りで特に緊張状態になった様子はない。
そうすると、倭国乱というのは、九州におさまるものではなくて、
東海から瀬戸内を中心としてその周辺にも及んだものだ、ということになる。
卑弥呼を共立したのは、この倭国乱に関与した集団と考えられるから、
魏志倭人伝にいう倭国の領域は、日本の西半分ぐらいに広がっていると考えるのがもっともらしい。
したがって、魏志倭人伝の『共立』ということと、
この、考古学的資料から類推される倭国乱の範囲を考えれば、
卑弥呼共立でできた新たな国と言うのは、大きな連合国家にならざるをえない。
それは、都が畿内だろうと九州だろうと、それ以外だろうと、同じ。
ここまでいいかな?
482 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:30
それと出来れば日食信者はスルーしてくれないか、みんな。
奴の主張は察するに安本美典の東遷説をそのまま鵜呑みにしているものだ。
古田信者を論破した功績は認めるが、安本氏も今じゃあ商売で東遷説を主張している職業物書きに成り下がった。或いは引っ込みがつかなくなったかだ。
氏の「邪馬台国畿内説を撃破する」って本を読めば判る。
神獣鏡=中国産説をあれほど見事に論破しながら、結論は20年前の東遷説を繰り返すだけ。
安本信者は、とにかく他の説を執拗に攻撃することでアイデンティティを保ってるのだから、議論をする気など全く無い。
ということで、スルーおながいしまつ。
>478
伊都国を起点とした放射コース読法というのがある
唐書から類推して求めている
484 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:33
>>481 そこまでは、殆どのスレ参加者も同意していると思う。
>>482 てゆーか、日食厨は日本人としての基礎的なコミュニケーション能力がそもそもないよ。
第一、考古学という学問全体を自分一人で全否定できると思い込んでる所が痛すぎ。
486 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:35
>>483 榎氏の説は知っている。
要するに何故方向がズレているかに対しての仮説提出です。
>>480 今の発掘段階では
「日本全体になんらかの宗教的統合があった事を示唆」
こんなことは言えない。
九州説と畿内説の基本にして最も根本的な違いは、3世紀の日本の状況を
畿内説=西日本全体を含む広範な連合政権があった
九州説=日本はまだ分裂状態にあり、統合は4世紀以降進んだ。
って点で、前者の可能性が高まっている現状では、実は邪馬台国論争の一番重要な点
は、実はもう決着してると言っていいのかもしれないと思う。
>>487 んー……。
じゃあ、あんたの纒向の出土状況についての解釈はどうなってるの?
490 :
日本@名無史さん:04/03/03 00:42
>>485 あれはもう一種のカルト宗教だよ。
オウムなんかの信者を改宗させるのがいかに困難かがよく解った。
もしくは揶揄じゃなく、モノホンのキティかだ。
インターネットは治療効果どころか、余計に異常を進行させる危険性がある。
だから無視しましょうよ。
>488
「前者の可能性が高まっている現状」・・・畿内の連合政権と
北部九州から西部九州に遷都した倭人の国はそれぞれあったわけで
別に矛盾しないと思う。邪馬台国は九州のほうだったに過ぎない。
畿内だって大勢の人が全国から来ただろうが、邪馬台国とはいえない。
>>489 環濠も住居址も無い
倉庫址まで無いから物資の集積地もありえない。
出土品の15%は九州から関東まで多彩
出土品から仮設市場位はあったかもしれないけど倉庫跡が無いのが気にかかる
考古学上言えるのはここまで。発掘待ちだね。
>>492 そうそう。どうも今の九州説の主流はその解釈みたいだね。
倭国乱期の高地性集落が九州にない事、纒向から九州の土器が出てない事などを考えると、
九州勢力は初期大和政権に参加していなかったかも、とも考える事ができるわけで。
結構矛盾の少ない発想ではあると思う。
ただこの場合、畿内勢力がどうやって大陸の文物を入手したかが問題になってくるね。
日本海を渡って直接大陸と交流するルートでもあったのかな?
>494
畿内はずっと新羅経由
496 :
前スレの107です:04/03/03 01:06
108氏や
>>492 >>494のようなまともな九州説が出てきてくれて嬉しいよ。
僕は基本的に畿内説なのだが、
>畿内勢力がどうやって大陸の文物を入手したかが問題
畿内連合が九州勢力に対し、軍事や経済力をバックにした一種の恫喝ともいえる提携を持ちかけたのじゃないかと考えます。
その結果九州側が折れ、それで大陸との交流が可能になった。
その手始めが魏への朝貢かもしれません。
あるいはその朝貢も、半島の経営権を睨んでの外交政策だったようにも思います
>>495 その考えだと、地勢的に出雲の重要度が恐ろしく高くなってくるねw
>>494 倭国大乱時の高地性集落は九州からも出ています。
それに纒向からは九州は元より半島の土器も出ています。
あえて嘘を突いてるのか勉強不足なのか、前提から間違ってます。
>>496 いや、自分も畿内説なんだけど、
九州と大和が別の国だったって発想は面白いと思ったので思考実験の一貫で組みしただけw
自分も九州を大和が恫喝して航路を開けさせた可能性は高いと思う。
その場合九州はかなり屈辱的な地位に甘んじるだろうし、考古学との整合性も悪くない気がする。
ただ、邪馬台国=九州独立国説(?)の場合、出雲の影が否応なく巨大になって来て、
記紀の記述と整合性がとれてちょっと面白いかも、と思ったんだけどね。
>>498 高地性集落も纒向の九州土器も極めて数が少ない。
他の地域と比べたらゼロといってもいい。
完全にないわけじゃないんだけど。
501 :
前スレの107です:04/03/03 01:19
>>497 出雲は、現在の山口県北西部も手中に収めていたのではないでしょうか。
ですので沖ノ島ルートや関門からの対馬ルートから独自の貿易を展開していたのかも知れません。
しかし非常に危険が伴い確実性に欠けるルートではあったので、やはり出雲勢力も北九州ルートをなんとか手中に収めたかったでしょう。
このあたりの利害の一致が、近畿以東と出雲との提携理由になったのかも。
おそらく2世紀後半か3世紀初頭くらいの頃に。
九州勢力は、半島の混乱と巨大な西日本連合への対応と言う2つの大きな問題に相当苦慮していたと考えます。
>497
出雲はBC1Cには武装解除されているので、日本海岸は割合無防備地帯だった。
畿内は近江経由で新羅から仏教や文物を(特に鉄)手に入れていたように思う。
(いい雰囲気だ。久し振りに凄くいい雰囲気だ。コレだよコレ)
>>500 高地性集落は吉備と大阪湾岸が極端に多いが九州が極端に少ないわけではない。
纒向の九州土器も出土品全体から15%の各地の出土品のを更に細分化している訳
韓式土器が一つしか出て無くても極めて少ないとはいえないだろう。
考古学を標榜するならゼロなど極端な表現は避けるべき、嘘なんてもってのほかだ。
506 :
前スレの107です:04/03/03 01:29
>>499 ありゃま、畿内説ですか。こんち失礼(w
>九州はかなり屈辱的な地位に甘んじるだろうし
かなり忸怩たる思いがあった筈ですよ。プライドずたずたですもん。
そういった一種の怨念が、台与共立までのごたごたの一因だった可能性もありますし。
頑なに前方後円墳を拒み続けた理由かもしれません。
後の竹原なんかの見事な装飾古墳も、北九州の独自性を物語ってますし。
ちなみにオイラ畿内説ですが、必要以上に九州を貶める必要なしとも思っています。
完全な国内統一とも言える政権が出来たのは、下手すると6〜7世紀まで後になる可能性もありと思います。
>>506 九州が強い独自性を持ち、大和に対し一定の距離があったのは間違いないっぽいね。
そのあたりは邪馬台国をどこに持って行くにしても間違いないように思える。
九州王朝なんて事はいわないけどw
>>504 いつの高地性集落のこと言ってるの?
それって、第1期、中期の終わりから後期の始めぐらいのヤツじゃない?
寺沢の王権誕生に分布図があるから見てみたら?
>纒向の九州土器も出土品全体から15%の各地の出土品のを更に細分化している訳
九州の土器は外来性土器の中で1%未満。全体では0.15%未満。
1%までしか数字がでてないからそれより少ない九州の数字はしかとはわからない。
>>507 >高地性集落は・・・が出典って事で
ちょっと古いね。王権誕生とかを見たほうがいい。
510 :
前スレの107です:04/03/03 01:39
僕も九州説の立場に立って考えると、魏への朝貢は九州勢力の起死回生の一手だったと解釈します。
ただ他の方が再三言われてるように、九州に伊都国や奴国を上回る遺跡が出てこないのが我ながら根拠が薄いところです。
煽ってる訳じゃないので、過剰な反応は勘弁してください。
畿内王朝と九州王朝があったんだと思う。
王朝の定義にうるさいことを言えば、「王朝とはいえない論」も可能。
>>509 ググって出て来たのがそれしかなかったんでスマン。
513 :
前スレの107です:04/03/03 01:43
>510
魏への貢献は、後漢亡き後の朝鮮半島(=鉄)覇権争いに「お墨付き」が欲しかったもの。
鉄によって軍事的・農業的・経済的優位が確保できるのは当然。出雲鉄はもっとあとの時代。
同じじゃん
517 :
前スレの107です:04/03/03 01:48
>>514 >朝鮮半島(=鉄)覇権争いに「お墨付き」
倭人伝にはそうは書いていませんが、倭国連合の本音としてそれは十分考えられますね。
>出雲鉄はもっとあとの時代。
この辺り出来れば詳しく教えて下さい。参考書籍を挙げていただければなお嬉しいです。
>517
ヒラメキです。
519 :
日本@名無史さん:04/03/03 01:54
今のところ畿内9九州1で圧勝です。
>>513 だから、違うって^_^;
今、手元で確認したから確かだよ。
その図は、東の方がゴソッと落ちてるしね。
>>519 今日は根本的な所で対立してないからな。
522 :
日本@名無史さん:04/03/03 01:59
僕は纒向が邪馬台国でクナ国は伊勢だったと思う。そうすれば南になる。
対出雲戦のために一大卒を置いていて伊都国の一大卒はその一部分だと思います。
吉備と邪馬台国は同盟してまず九州を占領して出雲は最後だと思う。
>>520 これ、日本海には全くないけどどういう事だろうね。
>519
10人て誰と誰?
525 :
前スレの107です:04/03/03 02:00
>>520 僕も今、手元で確認しました。
大変申し訳ありません。マジで深くお詫びします。
526 :
日本@名無史さん:04/03/03 02:06
>522に付け加えます。
伊勢と東海の連合軍がクナ国だと思う。
マキムク遺跡で東海の土器が多いのは敵対勢力の東海伊勢の捕虜で古墳を作らせた。
出雲は九州と同盟していて九州を邪馬台国に占領されたため邪馬台国と長い冷戦状態になり
先に韓国から占領していったと思う。
>>523 少ないけど、いくつかあるよ。日本海側も。
だけど、山陰は比較的安定していたんだろうね。
山陰は中期も終わりごろから四隅突出墓が出現してきて、
いちはやく首長祭祀に切り替わってるから、そのあたりが関係してるかも。
>516
神武侵入後、鉄の輸入が途絶え、青銅器時代に逆もどりしているようだ。
>522
対出雲戦は卑弥呼の300年以上前に終わっているので、軍事的に緊張していないはず。
山陰〜山陽は出雲の宗主権剥奪により、穏やかな自主独立傾向があったように思う。
>>526 関東も反邪馬台国連合に加わっていたかも?
>>527 この山陰の無気味な安定っぷりがどーも気になる。
ひょっとしたら日本で最初に本格的な連合政権を作ったのは
出雲を中心とした日本海勢力なんじゃないかなって気もするんだけど。
それを大和あたりの勢力が乗っ取ったのが国譲り神話の元ネタなんじゃないか、とか。
まぁ、別に考古学的な根拠があるわけじゃないんだけどね。
531 :
前スレの107です:04/03/03 02:16
>>526 >敵対勢力の東海伊勢の捕虜
そこまで強い王権だったかどうかは疑問ですよ。
もっと提携関係のような緩やかな結びつきだったように思います。
各地で激しい戦乱があった痕跡が見当たらないですし。
むしろ半島の混乱を千載一遇のチャンス(もしくは存亡の危機)と考えて、国内で連合したと見るべきでは。
532 :
日本@名無史さん:04/03/03 02:17
>529
考古学では戦乱の跡がまったく出てないから陰謀で九州は落としたと思う。
その時に一大卒を伊都国に置いて九州が反乱しないように監視したんだ。
………。
時々根拠のない持論を何の脈絡もなく展開する人がいますが
日食厨も時々そういう事します。気をつけたほうがいいっすよ。
534 :
日本@名無史さん:04/03/03 02:21
>107
陰謀で東海連合軍クナ国は落としたと思う。
そうすれば考古学的に成り立つ。
535 :
前スレの107です:04/03/03 02:21
>>530 それもアリです。
前スレで、実際に邪馬台国建設に主導権を発揮し、自分のところの巫女を卑弥呼として立てたのは
出雲かも知れないし、吉備かも知れないし、近畿かも知れないし、東海かも知れないし、もしかして九州かも知れないって言う秀逸な意見が出ていました。
>>535 九州は入ってないです敵国条項で半植民地化されてた。
それで九州が地盤沈下して古墳が出なくなった。
537 :
前スレの107です:04/03/03 02:30
>>534 陰謀かな?僕は和議に近いような気がします。
ジョンイル君のトコなんかもそうですが、戦争やら防衛って莫大な費用がかかるじゃないですか。
冷戦状態でも下手すると実際に戦争するより経済が圧迫されるし。
そのあたりも連合形成に大きく作用したのではないかと考えます。
538 :
前スレの107です:04/03/03 02:33
>>536 いやその辺りは僕もご指摘を受けて考え直しました。
九州入れとかなきゃ、マズイかなって思いましたんで取り合えず入れました(w
>>532 陰謀説には同意。
陰謀で九州を占領した後九州の強国那国を監視するために隣の伊都国に一大卒を置いたと
>>535 考古学的には吉備と邪馬台国の結びつきが特にうかがえる
540 :
日本@名無史さん:04/03/03 02:39
吉備⇒和議
九州⇒陰謀後奴隷化
東海⇒陰謀
関東⇒和議
東北⇒半独立を許す
>>540 C巨大化の過程として、軍事力、技術力、交易権などをちらつかせ、謀略と圧力で出来るだけ戦争を回避して勢力拡大したと考えられる。
542 :
前スレの107です:04/03/03 02:51
ひとつ気になるのは、記紀の征服に関する記事って
武力で統一だ!ゴラァ!って感じじゃなく、知略に勝るものが権謀術数を駆使して謀を進めるってのをかなり肯定的に記してるじゃないですか。
そういう意味ではもちろん陰謀も多用したとは思います。
弥生後期から殲滅戦の跡が窺えずに、何故か統一に向かって各地が動き出すってのも何らかの一致する価値観があったのでは?
それが宗教名のかもしれませんが、絶対神とはまた違う何か利益供与みたいなものを思わせるのです。
僕は3世紀に限らず日本の宗教の歴史って、実はテクノロジー信仰が基本ベースにあるのじゃないかと思っています。
後の仏教伝来にしてもまた密教や陰陽道なんかも、より効果あるものを取り込んでいくように。
>107
2000年前の戦国時代
そういえば纏向遺跡は中央の権威を表してるともいえる天守閣のようにも機能したと思う。
鉄を持った出雲勢と九州勢を制圧はかなり困難を極めたと思う。
九州は武力制圧したと思う、一大卒を伊都国に置いているのは九州を武力で抑え。
出雲に一大卒が無いのは陰謀だからだと思う。
その困難が伝説となり日本書紀などに出てくるんだと思う。
後漢が滅んで極東は半島鉄の確保などを中心に軍国主義時代に移行します。
今までの部族国家が部族を超えた統一国家の様相を呈してきます(3C)。
倭国大乱したのち、邪馬台国は4Cに西九州に移転、急襲されかねない博多湾を捨て
有明海に移ります。
畿内は新羅と友好関係を保ち、邪馬台国の半島侵略を冷ややかに見ているようです。
邪馬台国は反新羅=百済に肩入れし、衰退の道をたどります。
533 :日本@名無史さん :04/03/03 02:18
………。
時々根拠のない持論を何の脈絡もなく展開する人がいますが
日食厨も時々そういう事します。気をつけたほうがいいっすよ。
546 :
日本@名無史さん:04/03/03 04:15
考古学的に言えば3世紀には
畿内を中心に邪馬台国連合が関東から西を支配していたとも言える
これだけは確実。高地性集落の分布が物語っている。
記紀に東遷と出ているのは征服した九州の民を慰撫するためでもある
マキムクに東海の土器が多いのは
東海から西征に向かう準備のため一度集合した跡の可能性を
古墳は示唆しているといえる。
考古学的には西遷の跡しか出てこないんだよ。
>545
全体としての解釈に論拠があるので、その批判に当たりませんよ
548 :
日本@名無史さん:04/03/03 04:26
>>546 九州を大和が恫喝して航路を開けさせた可能性は高いが最終的には武力を使っただろう
考古学的にはもちろん倭人伝にも一大卒が軍単位で出てくる。
九州制圧には一大卒軍を率いた卑弥呼が攻略
出雲制圧には二大卒軍を率いた弟が攻略
神話の問題はこれで解決できる。
>546
「東遷と出ているのは征服した九州の民を慰撫するためでもある」
・・・・4Cに九州勢にいったん乗っ取られただけのことで、以後土着化した。
7Cにまた九州勢に乗っ取られたので以後九州系の血統を自称するようになった。
恫喝の事実や根拠は無いと思うが
551 :
日本@名無史さん:04/03/03 04:46
>>546 そうかこの場合九州勢が屈辱的な立場になり相当怒ってるだろう
反乱を企てるのを防止するために九州だけ特別に一大卒を置いたと
戦争に負けても反乱を起こす可能性が高いから敵国条項に指定、都から排除
纒向から排除されたことの筋が通る考古学では九州の土器は発見されてませんからね
そして邪馬台国に占領されてた九州は奴隷となり生口として魏に送られた
九州は地盤沈下し畿内が隆盛を帯びる。
>>548 俺は出雲は陰謀で攻略したと思うぞ、
倭人伝に二大卒が出てこないのは陰謀を使い頭で攻略したからだと
高地性集落の分布を見ると二大卒は東の攻略のために琵琶湖に置かれた可能性がある
二大卒は関東を巡察していたんだろう、倭人伝にはイト国までしか行ってないからね。
552 :
日本@名無史さん:04/03/03 04:54
>>550 九州説には残念だけど考古学的には戦争の跡がでてこないんだよね
纒向や高度な運河を持つ技術的に超越した邪馬台国が技術を背景に恫喝か陰謀で
乗っ取った、記紀にも符合する。
考古学的に見るとある意味平和的な全国統一事業だったとも思える。
>551
出雲にもなんらかの巡察軍がいたと思うよ
謀略だけでは攻略は難しいよ
あくまで二大卒軍を率いての軍を背景とした恫喝だよ
554 :
日本@名無史さん:04/03/03 04:59
二大卒って初耳だけど、何かの文献に出てくるの?
漏れは畿内説だが
邪馬台国が吉備と出雲を使い九州征伐したとおもいまつ
瀬戸内海から吉備軍が日本海から出雲軍が北九州に進行
吉備はすんなり邪馬台国に同化したが
出雲はその後九州と反乱を企てて戦争国譲りの神話になっていった
マキムクの土器の出土は関東東海の軍を都で警備させたことを物語っている。
556 :
日本@名無史さん:04/03/03 05:14
>>554 文献厨?
九州統括に一大卒がいるだろ
多方面に軍を展開してた場合二大卒があってもおかしくないのでは?
イト国までしか来てないんじゃ九州統括軍のことしかわからなかったんだろう
557 :
日本@名無史さん:04/03/03 05:21
>>556 いやいや、二大卒って言葉を知らなかったのでどこかに載ってるのかなって思って聞いただけ。煽るつもりはなし。
つまり出雲方面進駐軍を指すわけだね。
たとえば東海進駐軍が三大卒とか。そういう侵攻部隊の名称なんだね。
558 :
日本@名無史さん:04/03/03 05:58
文献には出てこないが考古学的調査を見てみれば
邪馬台国軍はどうも多方面軍臭い、軍一つのわけが無い
文献的には古事記に四道将軍としか出てない
二大卒は確立が高いと思う、ほかに何か名前はあったかもしれないが。
四大卒までは文献的に確認できる。
今日は良い流れだね、畿内説の勝ちだな。
縄文時代の黒曜石やサヌカイトの交易圏を考えれば、この時代の
各地域の交流ももっと大規模であった可能性があるな。
後の前方後円墳の伝播もそうだけど、地方は畿内の流行を取り入れた
結果(文化的・平和的に)その影響圏に組み込まれた、てのも
ありじゃないの。
561 :
日本@名無史さん:04/03/03 11:39
>>560 ありありですよ、黒曜石やサヌカイトはマキムク遺跡で出ています!
平和的文化的に緩い超巨大連合邪馬台国の直接支配は関東までで交易は遠く北海道沿海州にまで広がってた
卑弥呼の呪術的緩やかな政治でサハリン方面の人からも慕われていて、王都に人が集まってきたと考えれば考古学的にマキムクの謎が解ける。
邪馬台国連合の東北と北海道が準領国だったかもしれない可能性まで出てきた。
でもこの場合クナ国をどこにするかが問題になってくるが、魏誌倭人伝の方位を180度間違えてると考えれば(クナ国、南→北)
北のまつろわぬ者としてアイヌ族が浮上してくる、アイヌ族は当時沿海州サハリン北海道と巨大な存在では有った。
邪馬台国連合と対等に近い勢力で邪馬台国は北からの圧力に苦慮していた。
考古学上謎の倭国大乱の戦闘跡が出てこないのはもしかすると北で戦ってたからで、政争レベルでなく邪馬台国連合対アイヌ連合の巨大な衝突が連想できる。
そしてここからは想像だが
戦いに敗れたアイヌ族は大陸に逃れ高句麗となり昔の恨みは忘れず大和朝廷と半島で激突した。
戦に勝った好太王は長年の宿願成就記念に好太王の碑を建てると。
562 :
108@文献偏重派:04/03/03 12:29
>九州説には残念だけど考古学的には戦争の跡がでてこないんだよね
>纒向や高度な運河を持つ技術的に超越した邪馬台国が技術を背景に恫喝か陰謀で
>乗っ取った、記紀にも符合する。
「近畿が九州」を恫喝で乗っ取ったということが
記紀神話に符合しているとは思えない。一般的には逆。
高天原は明らかに北九州だし、九州から畿内への地名の移動(安本美典氏)
天皇家・大伴氏・中臣氏・物部氏もすべて九州発祥。
宇佐・対馬・壱岐(一支)・松浦(末盧)の九州の一族が「天孫」とされ
三輪・磯城・宇陀といった大和の一族が「地祇」とされている。
畿内説が考古学のうえでは優勢ということは認める。
しかしいずれ、記紀神話の大きな矛盾について触れなければならない。
東征の記述を考古学上ありえないという結論と主張するのなら、
その先を考えてもいいのではないか。つまり、
九州・東征というモチーフがなぜここまで記紀において
重要視されているかの説明が求められるのではないだろうか。
563 :
108@文献偏重派:04/03/03 12:35
>>561 確かに東北や北海道はあまり「掘られてない」ようですからね。
邪馬台国連合とアイヌの衝突など、将来大発見があるかもしれません。
(そうなると邪馬台国はいまの日本の領土とあまり変わらなくなるw
564 :
日本@名無史さん:04/03/03 12:41
おまんこ女学院 校歌 /詩・曲 奈菜氏
一・
臭いたつ 誇り高き香り
縦に一本 割れ目ちゃん
淡く光る双丘の奥
潮風の香り びらびら
我らが学び舎 おまんこ女学院
あーあー おまんこ おまんこ女学院
おまんこ女学院
二・
まだ見ぬ陰茎に 心躍る陰唇
夢が広がる 陰核のしこり
磨けよまんこ我がこころ
熱き血潮の ヴァルトリン
我らが学び舎 おまんこ女学院
あーあー おまんこ おまんこ女学院
おまんこ女学院
どっかのアホ作家がね、
岩手県掘ったら邪馬台国出てくるって言ってた
近畿が九州を恫喝したんじゃなくて
九州邪馬台国が近畿を手なずけて、
朝鮮半島に連れて行って戦争してる。
逆ですよ。
九州VS近畿の戦争は7C末の西・南九州出の出来事であり、
そのときの近畿は九州一派なんだから九州の分家が本家を滅ぼす戦いにすぎない。
このあたりは発掘したのかな?特に30回以上に及ぶ持統天皇の吉野ヶ里討伐など。
1.いろんなところから縄文人や弥生人が渡来
2.半島から鉄器や大規模土木技術を持った倭族が九州に渡来
3.原住民を取り込みながら東へ進む。九州は大陸との玄関兼司令部として機能
4.畿内にまで進んだ倭族が都を建設
5.東海のまつろわぬ原住民の一国(狗奴国)と衝突
6.狗奴国を滅ぼした邪馬台国が東北と対峙するため首都機能を畿内に移転
7.不穏な動きをとっていた出雲を謀略で取り潰し中央集権の準備を進める
8.蝦夷征伐
>557
隋書か何かに東北地方の一大率の記述があるんじゃなかったかな
570 :
日本@名無史さん:04/03/03 16:42
>>539 高地性集落も吉備〜畿内が中心だよね。
倭国大乱→卑弥呼共立の中心になったのは吉備&畿内なんだろうね。
個人的には山陰が凄い気になるんだけど。
571 :
考古学偏重派:04/03/03 18:07
>>562 正論だね。東遷神話に関する説明はいずれ必要になって来るとオレも思う。
ただ、今の段階では憶測でしか物が言えないのが悲しい。
考古学的にはせいぜい、仮説を出してもらってそれを物証で潰して行き、
それでもなお潰す事の出来ない幾つかの仮説を残して、新たな発見を待つしかないかな。
572 :
日本@名無史さん:04/03/03 19:18
最新考古学的邪馬台国の領地は
近畿・東海・山陽・九州・関東・北陸・東北・北海道・任那
山陰は独自の鉄文明を持っていて半独立
クナ国はアイヌ、後に高句麗
>>562 九州豪族は大陸への玄関口として重要で手懐ける必要があったからでは?
負けた民族九州族の慰撫のために当時九州民間伝承の夢物語東遷を許したのでは?
考古学的に実際は西征。
瀬戸内に高地性集落が多いのは畿内の前線基地として機能していたから
徳川幕府が大阪方の反乱の防止のために東海に子飼いの手駒大名を並べて配置したのと同じだよ
573 :
日本@名無史さん:04/03/03 19:24
>>570=元九州説の負け犬
九州説から山陰説に鞍替えか?w
伝承の伝承の伝承の文献からではなく考古学で証明してくれんかねwww
何も出てきてないなら今のところ山陰は邪馬台国ではないなwww
574 :
最新の畿内説:04/03/03 19:33
今後考古学的証明が無い記紀倭人伝のレスは電波と見なす
邪馬台国は畿内を中心とした穏やかな連合国家北は北海道から九州朝鮮半島まで
ネオ畿内説以上なんで何か善い呼び方ありませんか?
575 :
日本@名無史さん:04/03/03 19:42
>>574 また変な説が出たw
邪馬台国成立後も、近畿やその周辺に「まつろわぬ民」が残ってて
東海・関東は「まつろわぬ民」だらけだったのに
>邪馬台国は畿内を中心とした穏やかな連合国家
>北は北海道から九州朝鮮半島まで
とか、狗奴国=北海道とかいくらなんでも電波だろ
576 :
最新の畿内説:04/03/03 19:42
>邪馬台国は畿内を中心とした穏やかな連合国家北は北海道から九州朝鮮半島まで
こう書いてはみたが個人的には
北海道はアイヌ倭人両国民雑居地で任那は鉄利権の完全な植民地と考えている
今後考古学的発見を待つしか方法が無い
577 :
日本@名無史さん:04/03/03 19:47
最新の畿内説=日食厨w
畿内説論者を装ってわざとこのスレの畿内説論者をおとしめようとしてるな。
578 :
日本@名無史さん:04/03/03 19:51
>>575 まつろわぬ民対策のために考古学では高地性集落という答えを出している
考古学上最後まで邪馬台国に抵抗しいたのは南と北
南は九州で北はアイヌを指すのは常識、ほかに民族がいるのか?
考古学上では九州は制圧されたが,巨大な北の狗奴国は邪馬台国に圧力をかけていた
>狗奴国=北海道とかいくらなんでも電波だろ
>>561を参照してください
580 :
日本@名無史さん:04/03/03 20:02
確かに、一部の畿内説論者が変な方向に向いているなぁ。
論拠は「黒曜石がサヌカイトがマキムク遺跡から出てきた」
だけじゃ不十分じゃないか?
それを言うなら、畿内を象徴する銅鐸だって九州からも出てきているわけだし。
>>580 だから緩い穏やかな連合と言っているが
個人的には
>>576に書いたように北海道は雑居の地と考えている
君も
>>561を参照してから反論してくれ
>>580 付け加えると邪馬台国連合=後の大和朝廷は
中国東北部に巨大な勢力を保っていた高句麗と戦っている
これも考古学的に証明されている
君が考えてたより邪馬台国は巨大な連合だったのかもよ
583 :
日本@名無史さん:04/03/03 20:21
>>582 河内王朝=邪馬台国と単純に結び付けるのはおかしいぞ、明らかに。
>>583 疑問があるなら論拠を提示してくれ
おかしいだけなら反論しようがない
585 :
日本@名無史さん:04/03/03 21:48
>>583 それは朝廷内での権力闘争、蘇我氏や藤原氏が王朝交代とはいえないのと同じ事
文献では後に中国から六国諸軍事安東大将軍の称号を貰っている事
これは大和朝廷の支配が巨大だったことを物語る
そして卑弥呼時代には親魏倭王の最高位の金印
倭連合と戦った物証好太王の碑文
北海道から朝鮮半島までの邪馬台国連合を文献と考古学的物証が物語っている。
586 :
日本@名無史さん:04/03/03 22:05
>>562 だから、応神が東征した記憶が残っていて、それが神武伝説のモデルとなった
と前から言っているのですが、誰も同意してくれません。
昔から、神武と応神の説話が似通っていることは、指摘されている事だ
と思うのですが。
「昔、九州にいた太陽神の子を名乗る王子が大和に攻め上ってきて、
偉大な王権を樹立した」
この程度の記憶が、畿内の民衆レベルにさえ、広範囲に浸透していたのでは
ないかと思うのですが。
卑弥呼と天照も似てるよね。
二人とも女王だし、巫女だし、夫いないし。
邪馬台国に命令されて、畿内王権はしぶしぶ百済復興戦争に出かけたというのに
河内王朝=邪馬台国なんてことはありません。
天照はBC100頃活躍、卑弥呼はAD230頃活躍で別人
590 :
108@文献偏重派:04/03/03 22:36
>>586 私も神武=応神だと思います。
神武は明らかに後世に創作された存在で、
奈良以降の天皇家の神武天皇に対する扱いは、
それこそ無視というべきものだった。
(神武天皇を祭る唯一の神社・橿原神宮の建立は明治22年)
「東遷+正当性」を強調するためにのみ作られた存在が神武であり、
九州勢力が東征の実際は、考古学的発見に従えば、そのような一大戦争ではなく、
「畿内のリーダー権の乗っ取り」ないし「嫁入り婿入りによる血統の乗っ取り」
程度だったと予想します。
591 :
日本@名無史さん:04/03/03 22:38
アマテラスオホミカミと卑弥呼には決定的とは言えないまでも、
さまざまな類似点がある。少なくとも完全否定は無理。
>>590 神武は創作だとは思わないけど、「畿内のリーダー権の乗っ取り」はそのとおりでしょう。
神武=応神なら、神武をもう少しかっこよく創作できなかったか。
時代的に
天照>ニニギ>>>>>卑弥呼
594 :
日本@名無史さん:04/03/03 22:57
神武だ応神だ言われてもね
考古学的物証がないと想像だけではデムパ
文化人類学的には似たような伝説は世界中にいくらでもある
太陽の子とか母なる女神的な天照とか腐るほどある
君らは邪馬台国語る前に文化人類学を学ぶべきだよ。
595 :
108@文献偏重派:04/03/03 22:57
文献厨の戯言として・・・
崇神天皇から仲哀天皇までの歴史は、このスレで言うところの
ネオ畿内王権の歴史を投影したものだと思う(≠邪馬台国)。
で、仲哀と応神は血のつながりが無いことは明白。
(少なくとも、記紀では、血のつながりが無いことを暗示している)
仲哀は九州で謎の死を遂げ、そして応神は神武と同じように東遷して畿内入りした。
もうひとつ、「崇神」という称号について。
この「崇」という文字を仮に「崇峻」「崇徳」と同じ発想でつけられたものとし、
しかもこのスレの「ネオ畿内連合」の初代の長が崇神であると考えると、
何か見えてくるような気がするのだが。
記紀の年代はグチャグチャしてるでしょ。応神=神武なんて説も出てるし。
オレは元々男神だった天照が、それを祭る巫女に信仰が集まるうち女神になったと思ってる。
神と入れ代わってしまう程強烈なカリスマを持つ巫女となると、
女王として共立される程のカリスマを持った卑弥呼ないし彼女の後継者たちしかありえないと思うんだが。
>>595 自分は東遷は婿入りだと思ってる。
邪馬台国が連合国家だとしたら、
大王は当初、各有力首長から持ち回りor話し合い(選挙?)
で決められてた可能性もある。
どこかの段階で九州系の大王が出て、
そいつらが血統上の天皇の祖先になった可能性は
結構高いと思うんだよ。
「東遷が婿入り」にしては、神武の兄が戦死したり、神武が敗走したりして、お粗末な説話過ぎる。
>>598 継体天皇即位時と同じような複雑な経緯があったんでね?
600 :
日本@名無史さん:04/03/03 23:42
>>594 おまえの言うことはつまらん(by大滝秀治)
神武天皇以降では
仲哀天皇と神功皇后がが鎮國香椎大神、太奈良良姫大神とされてますね
大神と為されたのはこの二人、何か理由があるんでしょうか
考古学オンリーなら、このスレ自身を否定することになる。
「邪馬台国」や「大和朝廷」の文字が発掘されるまでは発言できないだろう。
>>594 >記紀や魏志倭人伝はいうなら目撃者の証言。文献学は聞き込み調査。
>考古学は証拠集め。科学調査。
>真相に迫るには両方を重視する必要があるよ。
>物証を認めない裁判も証言を無視する裁判もありえない。
今日は証言を分析する日のようだ
604 :
日本@名無史さん:04/03/03 23:55
記紀や魏志倭人伝はいうなら目撃者の証言。文献学は聞き込み調査。
考古学は証拠集め。科学調査。
真相に迫るには両方を重視する必要があるよ。
物証を認めない裁判も証言を無視する裁判もありえない。
邪馬台国に関する限り、目撃者=記録の数は極めて少なく質も悪い。
記紀も魏志倭人伝も伝聞を書き留めた物に過ぎない。
となると、何が正しくて何が過っているのか物証を積み重ねる事で一つ一つ立証してくしかないと思う。
考古学を無視するなど論外中の論外。検視や科学調査を無視する犯罪操作などありえないのと一緒だよ。
605 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:02
話は逸れますが、
西って書いてカワチ、東って書いてヤマトと読むよね。
西文氏、東漢氏みたいに。
原始ヤマト政権っていうのは、やっぱり大和川周辺に発生した王権
が中核だったのでしょうね。
記紀を読む限り、畿内ヤマト政権って言っても、
大和川水系、淀川水系、紀ノ川水系など、主導権争いが激しかったようです。
紀ノ川沿いに、鬼に親近感を持つ寺社が多いのは、何かを物語っている
のでしょうか。
鬼=国津神=熊野=狗奴と考えると、スッキリするような気が…
仲哀天皇と神功皇后の記述で気になるのは、南九州に攻め込んだ
607 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:03
つまり記紀の証言で物証を覆すなどありえないのだよ
※考古学的には東遷は否定されている
これ以上の踏み込みは新たな物証の発見がないとデンパ
むしろ考古学的にはは西征を匂わすありさまだ
何故西征が東遷に入れ替わったかを推理する必要がある。
608 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:05
>>605 そう、そうだよ
原始邪馬台国内の主導権争いが記紀として現れてる可能性は高い
609 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:08
中国では天地の祭祀を郊祀という。その制度は前漢末に出来上がり、
天子だけが冬至に長安の都の南郊に造られた円丘で天神を祀り、
また夏至には北郊の方丘で地祇を祀った。
これって、そのまま前方後円墳の祭祀のモデルになったのでは…
「東遷が婿入り」だとすると
香椎の豪族の仲哀天皇が奈良の神功皇后に婿入りしたのか
しかし仲哀は言うこと聞かないので誅殺されたから鎮国香椎大神として祭られた
611 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:10
>>607 何度も聞くようだが
>※考古学的には東遷は否定されている
これって3世紀以降のことを言っているんだよね?
612 :
108@文献偏重派:04/03/04 00:13
>>605 このスレではあまり議論になっていないようだけど(俺的伝家の宝刀w
魏志倭人伝に「女王国の東、海を渡ること千余里、また国あり、皆倭種なり」
とあるものに対応する記述として、
後漢書倭伝に
「女王国より東、海を渡ること千余里にして拘奴国に至る。皆倭種なりといえども女王に属せず」
というのがあるんだよね。これが魏志倭人伝の
邪馬台国の南に位置する「狗奴国」と同一かどうかはべつにして、
注目すべきは、皆倭種なり、という表現。
これは邪馬台国の東にある「拘奴国」が
邪馬台国ばりの、しかも邪馬台国と無関係の、
連合国であることを示しているんじゃないかな?
(ただし戦争状態であるとは書かれていない。
仲哀天皇と神功皇后の記述で気になるのは、
南九州に攻め込んだ仲哀が否で新羅に攻め込んだ神功が是とされてる点。
これって早い段階から大和朝廷が朝鮮半島を重視し
列島統一に優先させていた事を暗示しないかな。
半島重視の動機は多分鉄しかない。
邪馬台国経済ネットワーク説ってのが出てたけど、この話はその延長じゃないだろうか
614 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:16
>>608 西征についてだけど
力は強いが頭は弱い九州人を懐柔するために取った懐柔策説もある
卑弥呼が西征したおり、九州人酋長に東遷したということでおとなしくしてくれと
615 :
108@文献偏重派:04/03/04 00:18
>>610 謀殺された仲哀天皇に対する鎮魂の意味かもしれませんね。
そういえば神武天皇の父親もカゲが薄いんだよなぁ。
108@文献偏重派=日食厨
日食厨キター!
618 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:28
邪馬台国が緩やかな連合政権だった時代、大王なり女王なりは象徴的な存在だった。
朝廷は各勢力の紛争解決機関、せいぜい国連程度の組織だったんじゃないかな。
ところが彼等が鉄という共通利害の為に朝鮮半島に乗り込む段になって情勢が変わる。
倭国連合軍の総司令官となった大王には絶大な権限が集中する。
それが神功→応神の時代に起こったとしたらどうだろう。
あるいは、強い兵権を握った倭国連合司令官応神は筑紫で挙兵=クーデターをおこし、
仲哀(?)を退位させ大王に納まる。
これを正当化ついでに神話化したのが東征神話じゃないかな。
>612
後の史書では「日本國者倭國之別種也」という表現があるね
以下続けて
「或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本」
「或云 日本舊小國 併倭國之地」
つまり物証で記紀の解釈を放棄したり改竄したりなどありえないのだよ
※視野の狭い考古学によってのみ、東遷は否定されている
108@文献偏重派氏は日食厨じゃないぞ。この人は非常にマトモだ。
>「女王国の東、海を渡ること千余里、また国あり、皆倭種なり」
>「女王国より東、海を渡ること千余里にして拘奴国に至る。皆倭種なりといえども女王に属せず」
海は津軽海峡、拘奴国はアイヌ
623 :
108@文献偏重派:04/03/04 00:31
>力は強いが頭は弱い九州人を懐柔するために取った懐柔策説もある
>卑弥呼が西征したおり、九州人酋長に東遷したということでおとなしくしてくれと
確かに東遷伝承がそのように生まれたとしても無理はありませんが
九州を天皇家がゆかりの地と考えている(宇佐神宮)という歴史的事実
大伴氏・中臣氏・物部氏もそれぞれ自分たちを九州発祥と称している
九州から畿内への地名の移動、など謎も依然多く
そして時の権力者にとっては極めて大きな思想的武器(?)だったと思われる
「神話」の中核を九州に明渡している事実もあります
(神話は九州を舞台にしているものが30%、出雲が27〜8%・・・畿内9%)
624 :
108@文献偏重派:04/03/04 00:32
日食のことは絶対に触れません。約束します。
625 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:34
3世紀以降の東遷については考古学的にあり得ないと思うが、
それ以前に無かったって言うのは果たして言い切れるかどうかは
疑問ですね。
「九州人酋長に東遷したということでおとなしくしてくれ」
大和朝廷は天孫=九州人の系譜だと公言しているわけで、その必要はないです
「3世紀以降の東遷については考古学的にあり得ない」
東遷が必ず出土物に反映しているはずと断定している時点で電波
628 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:37
みんなマキムクからサヌカイトが出ていることを忘れてはいないだろうか
卑弥呼は相当北方まで政治的宗教的に影響力を持っていた発掘の成果が出ている
※東遷は畿内から東に征服した物語でアイヌとの戦いの物語が変質したものと考古学は物語る。
東遷は神武が河内に攻め入った話であり、畿内人のアイヌ攻略とは無関係
630 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:42
631 :
108@文献偏重派:04/03/04 00:45
サヌカイトは四国の讃岐が原産の鉱物だったと思いますが
>630
残念だが、6Cに大和朝廷は播磨国さえ支配していないから、電波
633 :
108@文献偏重派:04/03/04 00:49
縄文期の交易圏を考えれば確かに納得はできるんだが・・・・・?????
狗奴国=アイヌですか。
そうすると邪馬台国はどうなっちゃうんだろう
もはや邪馬台国首都畿内説ですな
サヌカイトが出るのは、隠岐や諏訪の黒曜石が手に入らないから、讃岐から採掘しているもの
日食厨とは違う新手の電波が一人はいり込んでるな。
ま、自作自演かもしれんが。
636 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:57
サヌカイトは大和の二上山麓からも普通に採れますが?
この前、奈良県香芝市のサカイ、平地山両遺跡で、縄文時代から弥生時代
にわたる国内最大のサヌカイト採掘坑跡が発見されてたな。
637 :
日本@名無史さん:04/03/04 00:57
>>631 四国のサヌカイトも東北の石器も出ている
マキムクはその量質とも最強でこれに匹敵する古墳は九州からも全国からも出ていない
卑弥呼は四国、東北も含む広い範囲に政治的宗教的影響力を持っていたと考古学は物語る
>>632 マキムク見てどう思う?卑弥呼の平定のあともまつろわぬ者として小さな反乱は頻発している
高地性集落がそれを物語る、君の思いつきより考古学上の結論のほうが信用できる
隋書では有阿蘇山とあるのに富士山については全く触れられていないので
6c中に直接支配が関東まで及んだとは思えない
>637
マキムクに倭人の潜水漁の伝統はあるのか?
邪馬台国の特徴だ。
640 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:01
神武(=応神)を意識して、大和の橿原、イワレで即位した継体天皇。
継体は自分の直接の祖先として、応神を殊更に神格化したのでしょう
まあ、金石文で卑弥呼か邪馬台国の文字をマキムクで探すが良い
マキムクで金印を発見してもらわないと困るな
>639
晋書に食海物、隋書に入水捕魚とあるが
644 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:09
>>108@文献偏重派
>この「崇」という文字を仮に「崇峻」「崇徳」と同じ発想でつけられたものとし、
>しかもこのスレの「ネオ畿内連合」の初代の長が崇神であると考えると、
>何か見えてくるような気がするのだが。
詳しく聞きたい
645 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:09
>>639 というか・・・
まだ九州説いたのかよ、しつこいね
イト国までしか来てない使節はイト国周辺の状況を書き記したとは思えないかね
本当は東の畿内にある邪馬台国を南と勘違いしてるんだよ
使節が南=温暖と考えてそう書いたものと読み取れる
考古学的証拠はそれを語る
646 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:11
九州説なんて本屋の古代史コーナーやネット上にごまんといるのだが。
むしろ畿内説のほうが見かけない。
「まだ九州説」とは麻原みたいだね
>>646 邪馬台国がまったりと大和朝廷になっていったんじゃ面白くないからだろ。
戦国時代や幕末はよくドラマやマンガになるが、江戸時代のお話はお年寄り向けばかり。
しかも庶民や浪人の生活や活躍を取り上げるのばかりで歴史物語りを描く物は殆どない。
それと同じ。
>>645 麻原そっくり
>本当は東の畿内にある邪馬台国を南と勘違いしてるんだよ
さあさあ、出土物に合わせて、文献をじゃんじゃん改竄してみましょう
そうすれば畿内説になるそうな
651 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:18
>>646 ここではいまのところ畿内説10九州説1だよ
九州説のほうが派手で本は良く売れるから仕方ないさ
考古学はコツコツ実証を求める地味な学問だから
マキムクから読めば
畿内の邪馬台国を中心に巨大な連合国家を形成
クナ国アイヌとの北海道での死闘で魏に援助を求めている
>九州説なんて本屋の古代史コーナーやネット上にごまんといるのだが。
>むしろ畿内説のほうが見かけない。
まともに相手にされない便所の落書きレベルが書店やネットに顔を出してるんだろ
653 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:22
>>650 そうそう、文献は改竄できるからね
記紀伝も改竄を重ねたと言えなくは無い、それにもともとが伝承
時の権力者に良く思わせるためにはどんなことでも書く
黄金の国ジパングのようにな。
電波度は
近畿説>九州説で決まりだが
655 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:30
>>644 108の人ではないですが、三王朝交代説がベースにあるのではないかと
思います。
つまり崇神=三輪王朝を滅ぼした応神=河内王朝は、大和の前王者の
祟りを酷く恐れていた。
河内に古墳が出現するのは、三輪王朝の怨念が立ち籠める奥津城がある
ところの奈良盆地に、本拠を置くことを憚ったためではないか。
崇神の忌み名ミマキイリヒコのマキは真木=杉のことであり、大三輪神=
大物主(疫病神)はミマキイリヒコのことでは。大神神社は古くから
杉の社と言われてますし、祟り神として恐れられてます。
子孫を根絶やしにされ、祀られることがなくなった巫覡が、
祟り神=怨霊になってしまうということなのでしょうか?
詳しくは日本史板の『「崇」字をもつ天皇たち』を参考にして
下さい。
656 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:31
それに今のところ考古学上確実になった事項を記紀伝で確かめるしか方法は無い、逆は不可
それを考えると邪馬台国連合は思ってたより巨大でアイヌの圧力に悩まされていたとの結果が出ている。
邪馬台国は文献上の存在であり、考古学と照合するのは良いが
考古学にあわせて改竄していいのか?
マキムクの代表的な山は阿蘇山であることを証明しなきゃね
659 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:35
>>657 文献のみの九州=改竄
考古学の畿内=解釈
なっとくしましたよね。
考古学の重大な読み違い=畿内・・・・・・・納得
661 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:38
>>658 改竄されたかも知れない文章を証明できますか?
考古学で証明されれなければ、文献を疑うのは筋だと思うが?
「阿蘇山と金印は畿内です」とする電波説はいただけない
金印の出土はマキムクでしたか?
阿蘇山はマキムクにありますか?
664 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:44
>>662 大昔の現地の人から伝え聞く・・・魏の使節
↓
文章に書く・・・・・・・・・・・倭人伝
↓
売れない作家が勝手に解釈して本を出す・・・作家
↓
脚色された本を見る・・・・・
>>662 わかった?
665 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:46
つまり4段階5段階の改竄の可能性を秘めているんだよ
666 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:48
以上のことから
邪馬台国は北海道から九州任那までを含む緩やかな宗教的連合国家と考古学上断定できる。
狗奴国=北海道より
狗奴国=駒国=高句麗
狗奴国=毛野国のがまし
668 :
日本@名無史さん:04/03/04 01:55
>>667 クナ国=アイヌ=沿海州に逃げる=高句麗に影響
>>664 電波説の異常さがよ〜くわかった
倭人伝には倭の国書が載っていたり、
倭国に派遣された中国人(しかも軍人)の知識が前提となっており
あなたほど電波な内容ではない
考古学的に「金印」は無視していいわけね→マキムク厨
電波はスルーしろよ。
672 :
日本@名無史さん:04/03/04 02:05
673 :
108@文献偏重派:04/03/04 02:05
>>644 「崇」のつく天皇は非業の死を遂げたり、殺されたり、
怨霊になる可能性が極めて高い天皇に贈られる。
で、崇神天皇は、一番はじめの「崇」+天皇ということで、
何か近い、しかも深い意味があるのではないか、と考える。
ちなみに崇神〜仲哀王朝は、考古学上「ネオ畿内連合」、
神話的には「アマテラスに乗っ取られたオオクニヌシ+神々の国」だと思う。
怨霊となる可能性とは何か?
崇神天皇自体の記事にはそれらしきものはないが、
じつはその後継者たる仲哀天皇には恐ろしいほどある。
仲哀が遠征先の九州で謎の死を遂げ、(99%殺され)
九州の応神とやらに、(99%血のつながりがない)
逆に畿内を乗っ取られてしまったのだ。
そして九州出身の応神は、畿内に侵入して、
何かとてつもなくヤバイことをしたのではないか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>>672 お前も立派な電波だ。アイヌ厨と名付けよう。
675 :
108@文献偏重派:04/03/04 02:06
考古学的には東征はないことになっている。これは認めざるを得ない。
しかし、九州説の俺はなおこう思う。
戦争というれっきとした方法で、九州が畿内を下したのなら、
「勝敗は兵家の常。仕方ないな」と霊も納得(?)するだろうが、
「戦争以外の方法」、つまりだまし討ち・乗っ取りなど、
アンフェアな方法で応神が畿内をぶん取ったからこそ、
(実際、神功皇后はだまし討ちで畿内に入っている)
崇神は「祟」の文字を与えられ、崇神〜仲哀までの歴史を天皇家の歴史に組み込み、
そして「ハツクニシラス」という神武・応神と同じ存在に祭上げたのではないか。
天皇にしてあげる、のが最高の鎮魂方法として用いられたのだ。
676 :
日本@名無史さん:04/03/04 02:10
プゲラッチョ!!
>>675 河内系の豪族か何かとつるんで九州の応神が大和を乗っ取ったんじゃない?
なんかそんな気がするんだけど。
それから、応神が新羅に攻め込んだ神功の子ってされてるのも気になる。
彼が大王になりおおせたのは、彼が半島遠征軍の司令官か何かで、
強力な兵権を握ってたからじゃないか、と思うんだけどどうかな。
考古学的な根拠はないけどねw
ただ、連合政権邪馬台国と四世紀後期以後の河内王朝とでは性格が大きく違う気がする。
前者は緩やかな連合政権だったのに対し、後者は対半島作戦の為強大な兵権を持った組織だった気がするんだが。
そのあたりの政治的な変革が応神のクーデターだったとしたらどうかな。
678 :
108@文献偏重派:04/03/04 02:21
九州(邪馬台国)と、中国の権威だけじゃ勝てっこ無いから、
ネオ畿内連合の有力な一派を取り込んだ可能性はあると思います。
実働部隊は吉備か出雲あたりがやって、応神がゆうゆう東遷と。
えーっと、つまり東遷=応神クーデター説?
畿内説的には3世紀前後とは直接は関係ない?
108@文献偏重派氏は意地でも九州にこだわるのだなぁ。
そうか。話が噛み合わないと思ったら108氏は九州説だったのか。
オレが畿内説の枠内で考えてたら、そりゃ話は噛み合わないよなぁ。
文献だけ見ていると邪馬台国は大和政権(狗奴国か?)に従ったととる事もできるんだよな
宋書には東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
とあって東西と朝鮮半島を支配したとある
随の時代となってはじめて人口が増え(戸可十萬)戦争が終わった(雖有兵無征戦)
日本國者倭國之別種也や或云日本舊小國併倭國之地も日本の倭国(邪馬台国?)の征服の可能性示唆する
畿内がマキムクが世界一の大都市だったとしても、邪馬台国は畿内とはいえない。
4C半ばに神武が河内のわずかな領地を得たのが東遷=東侵。
理由は極東各国が軍国主義となり、邪馬台国は玄海から有明海沿岸に遷都、
北部九州の三流軍人神武は活路を失い東方に都落ち、辛くも生き延びる。
唐と敵対した倭国は日本国を自称するが、白村江の敗北後の内部分裂で
天武系とサチヤマ系に2分して、畿内に根拠地を移した天武系倭国が勝った。
よって日本国=倭国出身の天武が畿内を乗っ取ったうえで倭国の残党狩りをした。
この辺の複雑な事情が新旧唐書に出ている。
天智は畿内の土着王だったから、畿内王権は壬申の乱で滅亡している。
685 :
108@文献偏重派:04/03/04 03:03
>>681 応神天皇の話題ではあまり邪馬台国は関係ないかな・・・と思いますけどね
まあ、畿内の強大な王権連合は確実に存在しますから、
畿内説に従えば、その連合が順当に国内統一して朝鮮行こうとしたところで
軍の司令官あたりにクーデターされて畿内が乗っ取られたと。
九州説では
クーデターの主人公が、九州で落ちぶれていた卑弥呼の子孫を祭り上げた、あたりでしょうか。
「没落しはしたが、由緒正しい邪馬台国の・・・」とか何とか言って。
もちろんクーデターの主人公はネオ畿内連合の有力者でしょうね。
686 :
日本@名無史さん:04/03/04 03:17
>>685 それで、卑弥呼=天照となって、天皇家は天照の子孫であるという神話ができあがるわけですな。
688 :
日本@名無史さん:04/03/04 03:20
>>688 すまん。もうオレ、クリックして再起動してきた(;;)
690 :
日本@名無史さん:04/03/04 03:24
691 :
日本@名無史さん:04/03/04 03:25
文献を重視すると九州派?・・・・なにを逝ってるんだ…?
>>692 文献をすんなり解釈すると九州になる
と信じて疑わない厨がいるんですよ
694 :
孤高の24歳無職:04/03/04 03:42
まだやってたんですかw
いくら議論したとこで真実など
わかりゃしませんよ。頭が
およろしいなら推論でああだこうだ
いうよりさっさとタイムマシーンでも
発明してくださいw
695 :
日本@名無史さん:04/03/04 03:50
現在のまとめ
畿内説
倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東、東北、北海道、サハリン、任那
までを含めた共同体であり、従来考えられていたよりも巨大な存在であったことが考古学的資料から導き出されている。
かつての畿内説や九州説、東遷説とは一線を画す。
九州説
超大国を少数で乗っ取った(ぷ
696 :
日本@名無史さん:04/03/04 03:58
その畿内連合は、九州の倭国に引きずり回されて、朝鮮半島にいやいや駆り出されちゃってますね。
畿内連合ってずいぶん矮小なんですね(プププ
697 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:02
>>696 夢でもみたのか?
九州は制圧されてますけど
九州人は生口として卑弥呼が魏に送ってるだろう
698 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:06
699 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:09
四道将軍=一大卒説
考古学的には卑弥呼が日本平定にために四方に放った軍を
古事記では四道将軍
倭人伝では一大卒
九州平定軍が一大卒 ほかに2,3,4まで大卒軍は存在したと思われる
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東、東北、北海道、サハリン、任那
>までを含めた共同体であり、従来考えられていたよりも巨大な存在であったことが考古学的資料から導き出されている。
>かつての畿内説や九州説、東遷説とは一線を画す。
連合の規模を大きくしたところで説の信憑性は高まらず、
魏志倭人伝との齟齬が大きくなるだけだが。
「邪馬台国」も「卑弥呼」も魏志倭人伝出典だということを忘れているのか?
701 :
孤高の24歳無職:04/03/04 04:14
もうだいたい結論も出てるでしょ。
邪馬台国≒ヤマト国でいいっしょ。
連合国家の国内の統治のために暫定的に女巫女を
擁立したが3世紀後半になると国内は
安定して従来の男王による統治に移行。
そして徐々に連合国家から中央集権型の大和朝廷になり
5世紀ごろ中国の文献に登場と。これ以外
どういうふうに解釈できるというのです?w
702 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:17
>>698 古墳も小さい遺跡もしょぼい北九州は衰退をしているといえる
それに比べてマキムクの隆盛を見よ、運河の超技術もある
制圧されてたか奴隷階級になって落ちぶれてたと考古学的成果が出てる。
703 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:19
>>701 正しい。さすが24歳無職!
アンタの素晴らしい解釈で結論でました!!
もうこのスレは終わりだからアンタは帰っていいよw
704 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:22
>>702 そんなこと言ってないで考古学者ならさっさと
マキムク遺跡から「卑弥呼」「台与」「邪馬台国」の
いずれかの文字を見つけて来い。そうすれば邪馬台国論争も終わる。
705 :
孤高の24歳無職:04/03/04 04:25
東遷の考古学的な根拠がないとしたら
おそらく九州のなんらかの名門の家柄の
一族が連合国家の王にかつがれて畿内に
入ったのでしょう。源頼朝が源氏の棟梁として
かつがれたみたいにね。呪術的な側面が根強い時代なので
おそらく宗教関連の教祖かなにかかな。
とにかく連合国家の長として誰もが納得するような
家柄だったものでしょう。
>>702 その制圧された奴隷階級のいる九州が
なぜ神話および天皇家の源流になっている必然性は何ですかね?
707 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:27
709 :
孤高の24歳無職:04/03/04 04:34
九州九州と一口にいいますが
東遷したとしても九州の1部族がでしょ
九州全体で見るのは誤りです。
おそらく宇佐あたりの一派のみであって
あとの九州地区など関係ないでしょ。
710 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:37
畿内説論者は、その言説のうちに、
倭人伝と神話の記述との重大な矛盾を
孕んでいる以上、九州説を完全に滅ぼすことはできない。
今後日本が中道化(右翼化)すれば必然と、九州説がまた勃興してくるのは
おそらくここのスレにいる人間ならわかっていると思うが、
そうならない前に
畿内説考古学者は
「ネオ倭国連合がいかに古墳をつくり文物を集め、強大であったか」
ばかり強調するのではなく
「ネオ倭国連合が本当に邪馬台国を中心にしていたか」
の証明を急いだほうがいい。
712 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:40
713 :
孤高の24歳無職:04/03/04 04:43
>710
アイヌってw
魏志倭人伝の方位が180度違うことなど
ありえないと思うのですが。帯方郡から奴国までの
場所はほぼ特定されてますし、そこまでにいたる
方位もほぼ正しいものでしょう。
714 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:43
日食厨に引き続きましてアイヌ厨も無視しましょう。
もしかしたら畿内説にトンデモを植え付けようとする九州説電波、日食厨?
すなわち
日食厨=アイヌ厨?
そしてさっきブラクラを貼り付けた奴がひょっとして・・・
結論:日食厨=アイヌ厨=ブラクラ厨!!!!!!!!!
なんか孤高の24歳無快刀乱麻だな。
ヤンヤヤンヤ!!!!
今日は二人の九州説コテハンがいいトコ鳥ですな
716 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:47
717 :
畿内説論者はこれを読み発掘のみに邁進せよ:04/03/04 04:48
畿内にそのような強力な王権が存在したとしても、それが魏志倭人伝に書かれた
「邪馬台国もしくは女王国を中心とした王権」であるという証拠はない。
「邪馬台国」の出典が魏志倭人伝であることは言うまでもないがイコール
「日本列島でもっとも強力な王権」だという断定している記述はどこにもない。
考古学的発見に限って述べられるに値する結論は
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であった。
>ただし「邪馬台国」を中心にしたものかは不明である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
畿内説考古学者は
「ネオ倭国連合がいかに古墳をつくり文物を集め、強大であったか」
ばかり強調するのではなく
「ネオ倭国連合が本当に邪馬台国を中心にしていたか」
の証明を急いだほうがいい。
718 :
孤高の24歳無職:04/03/04 04:48
>711
倭国連合が邪馬台国を中心にしてたに
決まってるでしょ。そんなこと魏志倭人伝読めば
わかるっしょ。
719 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:50
>>713邪馬台国まで90度ずれるそしてクナ国もさらに90度
宇佐の名前出す人おおいけどおれは宇佐家の伝承は偽書だと思っている
うさ族は日本最古の先住民族でもとは山城国を根拠地にしていたとか
神武はベトナムからやってきて、紀元前後日向王朝を成立させたとか
神武東遷の途中安芸で死んだとか、もう適当、読み物としては面白いけど
721 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:51
>>718 ところがそうとは限らない。
九州の邪馬台国が倭国連合の勢いに押され、窮余の策で
いちかばちか中国に朝貢して救援を求めたという説もある。
722 :
日本@名無史さん:04/03/04 04:53
だから考古学者は早く「卑弥呼」「邪馬台国」の文字を
マキムクでもどこでもいいから古墳の中から見つけて来いと言うのだ。
あ、でも、藤ちゃんみたいに捏造はダメよw
723 :
畿内説論者はこれを読み発掘のみに邁進せよ:04/03/04 04:55
畿内説論者は、その言説のうちに、
倭人伝と神話の記述との重大な矛盾を
孕んでいる以上、九州説を完全に滅ぼすことはできない。
今後日本が中道化(右翼化)すれば必然と、九州説がまた勃興してくるのは
おそらくここのスレにいる人間ならわかっていると思うが、
そうならない前に
畿内説考古学者は
「ネオ倭国連合がいかに古墳をつくり文物を集め、強大であったか」
ばかり強調するのではなく
「ネオ倭国連合が本当に邪馬台国を中心にしていたか」
の証明を急いだほうがいい。
>718
どうして魏志倭人伝しかよまない?
725 :
孤高の24歳無職:04/03/04 04:57
>>719 南と東南くらいなら多少の誤差も許容範囲ですが
南と北を間違えることなどありえません
>>721 ありえない。邪馬台国よりはるか遠くの国々まで
記述されてるのに倭国連合なんていう巨大なものが
全く記述されてないことはまずない
726 :
孤高の24歳無職:04/03/04 04:59
>724
他に当時のことを記してある書物があれば
教えてほしいものですw
727 :
日本@名無史さん:04/03/04 05:04
>>725 ありえる。邪馬台国は虚勢を張らなければいけなかったから。
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」=畿内政権ね。
これも自分以外の矮小さを示す為。示さないととてもとても。
補足
>>726 「後漢書」にこの「皆倭種」の国名が拘奴国と書いてあるらしい。
728 :
日本@名無史さん:04/03/04 05:06
>孤高の24歳無職
スレの流れは
>>561で固まりつつあるんだからかき回さないで
729 :
日本@名無史さん:04/03/04 05:07
>>728=日食厨=アイヌ厨=ブラクラ厨 狂おしいほどに必死だな
732 :
孤高の24歳無職:04/03/04 05:16
>727
狗奴国は女王国の南と書かれてますし、女王国の東にある倭種とは
別物でしょう。
>726
記紀以外では前後の中国正史である後漢書と晋書だが宋書以降の
各史の記述を比較すると見えてくるものもあるのではないか
734 :
孤高の24歳無職:04/03/04 05:21
あと自分以外の矮小さを示すためとありますが
矮小だったら魏に救援を求めたりしないことくらい
魏のほうもわかるんじゃないですか?逆に矮小なのに
救援を求める弱小国というレッテルを貼られて
侵略される危惧が高まるでしょうね
古代だから真に矮小かどうかわかんないだろう。
なんせ地形描写もあのありさまだし。
邪馬台国が当時の常識をはるかに上回るような朝貢を
やってのければ大国と錯覚されても不思議ではない。
クナ国が西遷で邪馬台国を滅ぼしたはいいが、
中華王朝の権威の重大さを悟り、名目上の権威を
九州出身の一部族に与えることで安全保障とした。
西遷は大規模な軍事的衝突ではなく冷戦の結果
邪馬台国側が国力を使い果たしたもの。
魏の消滅で最終的なよりどころも失った結果敗北に近い講和をした。
>732
>其南有狗奴國
これをどこからの南に狗奴國があると解釈しています?
随所に夷人不知里數但計以日とありますが、
里数表記の不彌國までが中国人が正確に調べたもので投馬国、邪馬壹國、狗奴國は
実は倭人の自己申告で信頼性に違いがあると思いませんか?
後漢書にある倭奴國が倭國之極南界也というのは無視ですか?
なんか自分の交易圏の話がえらい迷惑かけたみたいだけど、オレと
してはこれは領土的な意味合いとか支配関係では全くなく、
売りたいヤツが売り、買いたいヤツが買うみたいな「自由貿易圏」
を想定していたんだよね。
すなわち畿内は倭国の物産の集積地・消費地であり、いいお得意様
みたいな感じで各地方の商人?が集っていたとか。
つまり「自由貿易圏」と魏志の「倭国」は必ずしも一致する必要はなく
邪馬台国…女王の都とするところ
女王国…邪馬台国+傍国21カ国
女王国連合…女王国+伊都国+投馬国+不弥国+マツラ国+一支国
+対馬国(+狗邪韓国?)
倭国…女王国連合+狗奴国+東渡海千余里の倭種の国
(+朱儒国+裸国・黒歯国?)
倭国内には他にもクニがあってしかるべきだが、魏志はここまでしか
記述していないということでは?
741 :
日本@名無史さん:04/03/04 11:42
>>740 禿胴。交易範囲は広かったのだろうが、必ずしもイコール連合or被支配地とは言えないと思う。
それとかねてからの疑問なのだが、当時の戦争や軍事行動の実態はどうなんだろう。
征服を可能にする程の軍事能力を有していたのなら、それを可能にした「武器」は何なのか。
実用可能な武器といえば、せいぜい鏃ぐらいしか発掘されていないのだし(銅剣や矛は祭器なので非実用)。
確か山陰で骨盤を切り裂かれた2世紀の遺体が発掘されていたと記憶しているが、そのような殺傷能力を持つ鉄剣があったとは想像できるが、3世紀には軍隊の編成が可能になるくらい鉄剣が普及していたとはちょっと考えにくい様に思う。
逆に圧倒的な軍事力がなかったからこそ、謀略が重要視されていたと考えるほうが自然じゃないか。
経済ネットワークを基盤に発展した倭国連合だからこそ、それをバックに恫喝したとも考えられる。
記紀の一連の東征や征伐譚も、連合内の権力争いを強く示唆しているのだが、結果的に編纂時に万世一系に統一(創作)されてしまったのだろう。王家の起源を古くするために。
そのほうが考古学的にも文献的にも矛盾無く解釈できると思う。
742 :
日本@名無史さん:04/03/04 11:54
東征伝承の謎を解くには、記紀編纂時の政治状況、つまり壬申の乱以降の天皇家や有力豪族の権力状況を参考にする必要があるのではないか。
僕としては記紀そのものは、神道よりも大乗仏教的なヒエラルキーの影響を顕著に感じるのだが。
この手の話は、更に電波を呼び寄せそうな気がして、語るのにはあまり気が進まなかったのだが、必要であることは間違いない。
743 :
日本@名無史さん:04/03/04 13:30
>九州説・・・超大国を少数で乗っ取った
そういう風に考えてる九州説はごく少数だろう。このスレでも再三議論されているように「滅亡説」か「入り婿or入り嫁にて畿内と同化」が主流だと見たが。
東遷説論者も、「マキムク建設以前の畿内入り説」「畿内王権参加後に権力奪還説」が提示されている。
中には「それ立派な畿内説ポ」と指摘されていた奴も会ったが、いずれにせよ畿内中心の巨大勢力の存在と記紀の整合性を真面目に考えていると思われるので、電波扱いはあまりに失礼だ。
漏れ自身はいわゆるネオ畿内説なんだけど、これらの九州説の見解はけっこうためになる。
そこでひとつ九州説に疑問提示。
天皇家を始めとして、藤原氏や大伴氏などの有力豪族が自分たちのルーツに九州を挙げている訳だが
それらのことごとくが伊都国や奴国に代表される北九州の主流勢力から若干外れる地域なのは何故だと思う?
いわゆる「九州の敗残勢力説」だとしてもちょっと不自然だと思わない?
むしろ「九州出身だとのでっち上げ。理由は文化的先進国であり続けた九州ブランドが支配層の権力強化と虚栄に必要だった。しかし老舗の北九州を名乗ればウソがバレバレになるので、仕方なく周辺地域にした。」との解釈が成り立つのだが、どう?
744 :
743の続き:04/03/04 13:51
出身でっち上げのもうひとつの理由は、記紀が歴史を無理に遡った事に対する整合性を合わせる為。
「そんな昔じゃ近畿には文化程度の低い土着民しか居なかったじゃん」
「そんなら皆で九州出身ってことにする?」
なんて調子で捏造したのかも知れない。
実際、九州だけでなくあらゆる地域との政略結婚(入り婿or入り嫁)を謀った形跡も記紀から推察できるし、あながち100%ウソとも言い切れないかもしれないが。
それと任侠道よろしく、義兄弟や親子の契りなんかを結んだ可能性もあるよ。政権強化のために。
天皇家の系図が、本当の親族関係を示していると鵜呑みには出来ない。
まあ物的証拠の無い推論に過ぎないのだが、世界的に見ても大概の王権成立過程なんて大なり小なり、こういう事をやっている。
>九州の主流勢力から若干外れる地域なのは何故だと思う?
北九州は倭人伝にも書いてある通り一大卒を置かれ主流ではない
それより畿内からの出土は交易圏の広がりを表してる可能性がが高い
交易=連合国家は無い
畿内に考古学上邪馬台国を持ってくる理由は希薄
746 :
日本@名無史さん:04/03/04 14:08
747 :
日本@名無史さん:04/03/04 14:21
>>745 >北九州は倭人伝にも書いてある通り一大卒を置かれ主流ではない
それは邪馬台国の元に参加してからのことで、歴史的には圧倒的に主流であり続けた勢力。そこまで九州を貶めんでも良かろう。
>畿内からの出土は交易圏の広がりを表してる
土器や祭器の分布からそれは同意。だが
>交易=連合国家は無い
言い切るにはそれだけでは説明不足。もっと堅牢な根拠が必要。
なんか日食厨のかほりが・・・もしそうなら、以後一切無視します。
748 :
108@文献偏重派:04/03/04 14:26
邪馬台国は九州で、「ネオ畿内連合」に押されて中国に救援要請
結局畿内の九州侵入で滅亡したか、細々と生き残る
神武〜開化は虚構で
崇神〜仲哀は「ネオ畿内連合」の歴史の投影
応神〜は大和朝廷
「ネオ畿内連合」の有力者だった応神が野心をおこして
九州で落ちぶれていた卑弥呼の末裔を祭り上げて畿内を乗っ取った
(応神は、もしかしたら軍事関係の有力者だったかもしれない
これが基本ラインだと見る。応神の指令で九州を聖地に祭り上げた。
応神に協力した豪族たちにも九州出身を名乗るように指示。
これなら九州に関するほとんどの謎が解ける。
749 :
日本@名無史さん:04/03/04 14:30
>>743 老舗の北九州を名乗ればウソがバレバレになるので、
仕方なく周辺地域にした。」との解釈が成り立つのだが
うがったかんがえであるが、一寸考えすぎかな。大体、
物部なんかは筑後川辺(吉野ヶ里かな)の人間、百姓よりも
モノノフ色の強いものが多かったんじゃないか。北九州(筑前)は
先進地帯だから日本中にに有名だったと思う。今で言えば成田
関空のようなものかね。しかし、奴国、伊都国にせよ最早彼らに
食わすだけの米はなかった。彼らは大和に移住せざるを得なかった。
大和でどんな騒乱が起こっても彼らが飛び込んだ。あたかも神武や
ニギハヤヒのように。
>>748 >>749 レスさんくす。流石九州説屈指の論者だけあるね。
なるほど、両者とも矛盾なしに説明できる。面白い。
俺もあんたらの意見を参考に、また考えてみる。
こういうやり取りが出来る雰囲気を壊す奴が居るのが悲しいが、枯木も山の賑わいと思ってスルーしとくよ。
749氏の説をヒントにひとつ。
そうやって食い詰めた戦闘集団や技術者を雇用に近い形で取り込んだのが畿内豪族だったと解釈してみる。
生産力は確かに有していたのだろうが、基本的に田舎者じゃないですか、当時の畿内豪族って。
積極的に受け入れた可能性も十分にある。
もちろん畿内だけじゃなく、倭国の各地で同じようなことが起こったと思うが。
僕は高地性集落の拡大の理由は、首長間の争いだけではないと考えている。
むしろ農耕からはみ出した、或いは隔絶された山の民や海の民の一部が野盗化して、強奪や田畑を荒らしたり等の被害が頻発していた可能性大だと考える。
そのためには自警団的組織は必ずあった筈だし、用心棒に特化した集団も出現したと考えてもおかしくない。
最終的に畿内に政権を持った豪族の出自がどこかは別にして、連合化を促進する大きな理由にはなると思う。
>後の史書では「日本國者倭國之別種也」という表現があるね
>以下続けて
>「或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本」
>「或云 日本舊小國 併倭國之地」
用は、倭国をなぜ日本国と呼んだかは不明ってことだろ
>>「女王国の東、海を渡ること千余里、また国あり、皆倭種なり」
>>「女王国より東、海を渡ること千余里にして拘奴国に至る。皆倭種なりといえども女王に属せず」
>海は津軽海峡、拘奴国はアイヌ
アイヌは倭種じゃないだろ?
普通に考えて当時の女王国の勢力圏は九州だけ。
従わない倭種は現在の近畿、
アイヌ系の部族に関しては毛人という分かりやすい記述が
ある。
堅牢な根拠の無い「ネオ畿内連合」を認めた上での議論でないと日食厨なのね(藁
>>754 他人の意見にはケチをつけるくせに、自説の展開は全くせず。
ただひたすら罵倒と荒らしで構成されるレスが、日食厨に認定されるんだ。
まあ本物の日食厨はどうも真性キティらしく、誰も関わりを持ちたくないので、違うと言うなら自説を展開してみな。
話はそれからだ。
756 :
日本@名無史さん:04/03/04 16:39
>>751 むしろ農耕からはみ出した、或いは隔絶された山の民や
海の民の一部が野盗化して、強奪や田畑を荒らしたり等の被害
が頻発していた可能性大だと考える。
傾聴に値する。ただ、それは相当大きい要素ではあろうし、万里
の長城の考え方、技術者、経験者の流入もあったであろうが、
それはやや古い頃であって、後には村落集合体の共同作業、
集合体の成立そのものを象徴化するものに転じたということも
あろうし、また、分布図を見ると吉備の周辺などの国境策定的な
機能も感じられる。とはいえ、やはり、ご指摘の水稲耕作者の
防衛線の線が強いような気がする。
757 :
日本@名無史さん:04/03/04 16:47
>堅牢な根拠の無い「ネオ畿内連合」を認めた上での議論でないと日食厨なのね(藁
纒向遺跡では九州を除く全国各地の土器が出て、東北の石器や朝鮮半島の土器まで。
倭国連合は思ってたより強大で北は東北から南は韓までと想像される。
>>757 出土土器片の85%が近郊の物、残り15%の殆ど東海地方、
交易を連合国家の証拠と精々好意的に考えても畿内東海連合政権。思ってたより小さいぞ。
畿内vs九州は冷戦
ここまでは共通認識
>「武器」は何なのか。
其兵有矛楯木弓竹矢或以骨為鏃(後漢書)
有刀楯弓箭以鐵爲鏃(晋書)
>むしろ農耕からはみ出した、或いは隔絶された山の民や海の民
それは話がずれてきていないか?
749氏は
無良田食海物自活乗船南北市糴 や 差有田地耕田猶不足食(魏志倭人伝)
あたりに根拠があると思われるが、農耕からはみ出ただと意味が変わってくる
>>757 中央集権的な倭国連合を想定するのは短絡的すぎる。
言葉さえ通じればマージナルマンな商業活動従事者はクニに
関係なく幅広く列島を行き来していた可能性がある。
当然物産の集積地や宿場町的なクニも各地に存在していたと
みるべき。
このような商業ルートが後の大和朝廷の拡大期にそのまま
利用された可能性はあるが、商活動による交流と政治的影響力
は別物と考えたい。
国交のない国や敵対関係にある国でも商人による交流は
ありえるし。
762 :
畿内説論者はこれを読み発掘のみに邁進せよ 改版:04/03/04 18:06
畿内に強力な王権が存在したとしても、「邪馬台国を中心とした王権」とできる証拠はない。
魏志倭人伝において「邪馬台国」が「日本列島でもっとも強力な王権」と断定している記述はない。
考古学的発見に限って述べられるに値する結論は
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であった。
>ただし「邪馬台国」を中心にしたものかは不明である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
畿内説論者は、その言説のうちに、倭人伝と神話の記述との重大な矛盾を
孕んでいる以上、九州説を完全に滅ぼすことはできない。
今後日本が中道化(右翼化)すれば必然と、九州説がまた勃興してくるのは
おそらくここのスレにいる人間ならわかっていると思うが、そうならない前に
畿内説考古学者は「ネオ倭国連合がいかに古墳をつくり文物を集め、強大であったか」
ばかりではなく「ネオ倭国連合が本当に邪馬台国を中心にしていたか」の証明を急いだほうがいい。
>>762 ブラボォォォーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!
もんどりうって激しく同意!
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり
交易が共同体といえるかどうかがまず議論の余地がある、
ところで関東で区切るのは何故だろう。
韓半島や北国とも交易していた出土物は出ているが。
>>今後日本が中道化(右翼化)すれば必然と、九州説がまた勃興してくるのは
?
畿内に強力な王権が存在したとしても、「邪馬台国を中心とした王権」とできる証拠はない。
魏志倭人伝において「邪馬台国」が「日本列島でもっとも強力な王権」と断定している記述はない。
考古学的発見に限って述べられるに値する結論は
>倭国連合とは畿内、東海までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも小さな存在であった。
>ただし「邪馬台国」を中心にしたものかは不明である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
畿内説論者は、その言説のうちに、倭人伝と神話の記述との重大な矛盾を
孕んでいる以上、九州説を完全に滅ぼすことはできない。
今後日本が中道化(右翼化)すれば必然と、九州説がまた勃興してくるのは
おそらくここのスレにいる人間ならわかっていると思うが、そうならない前に
畿内説考古学者は「ネオ倭国連合がいかに古墳をつくり文物を集め、強大であったか」
ばかりではなく「ネオ倭国連合が本当に邪馬台国を中心にしていたか」の証明を急いだほうがいい。
767 :
日本@名無史さん:04/03/04 19:26
日向やオノゴ島には太古からの歴史がある。オノゴロ島とは博多湾の能古島であろう。
出雲の佐多の潜戸も太古の昔からあるのであろう。それに引き換え大和は稲作がな
かったら何もない。三輪山程度の山なら全国どこにだってある。だからといって神話の
あるところを国の中心とするのは神話作りのためにはいいが、実際の人間活動の中心
からは大きく外れてしまう。だから神話を持って歴史であると決め付けることはできない。
畿内説論者の思考
マキムクに未掘の古い古墳があり他地域の土器片も出ている
↓
人間活動の中心であったに違いない(謎
↓
巨大連合国家であったに違いない(謎
↓
邪馬台国であったに違いない(謎
↓
巨大な倭連合に対して東遷は不可能(謎
↓
畿内大王が中心となり九州を取り込んだ(謎
(´-`).。oO(真面目に九州説やってる人が不憫でならない今日このごろ)
(´-`).。oO(畿内の妄想を指摘した人は全て九州説なんだ・・・・カワイソウニ)
金印の出土した北部九州が、(少なくとも)一時邪馬台国だったことは間違いないでしょう。
畿内がいかに大国だとしても邪馬台国である必然はないでしょう。
飛躍しすぎでは?
九州にあった奴国が邪馬台国に組み込まれたのは間違いないと思うが
女王の居所である邪馬台であるとは限らない
(´-`).。oO(親魏倭王と漢倭那国王間違えてると思う・・・・)
倭人の中心国=倭奴国
775 :
邪馬台国論争は思想の代理戦争である:04/03/05 00:53
九州説の根底
「邪馬台国が畿内にあるとするとそれは大和朝廷の前身に他ならない。
邪馬台国という天皇家の祖先が、中国如きに朝貢するのは問題がある」
「神武天皇の東征はじめ神話はすべて史実である。従って邪馬台国は九州である」
畿内説の根底
「神話はすべて虚構である。従って「東遷」というのも虚構でなければならない」
高天原をはじめ神話の里、天皇家の父祖の地である九州は、実態はただの田舎であり
歴史の進行に何の関係もあろうはずがない。畿内連合も九州は疎外していたはずである」
「一般に、支配者による人民に対する弾圧は必ずあるものである。
古墳建設は、人民に対する不当な搾取・抑圧・弾圧の最たるものであるが、
邪馬台国も古墳事業に手を染めているはずだし、そうでなければおかしい。
九州には見るべき古墳はなく、畿内には見るべき古墳がある。従って邪馬台国は畿内である」
「中国に朝貢するのがただの九州の一王権では、中国も馬鹿にされたものである。
当時中国は東アジアで絶対で強大な存在であり、朝貢した臣下である邪馬台国は
やはり「天皇家」かもしくはその源流であるに違いない。従って邪馬台国は
大和朝廷に発展したとするべきであり、所在地は畿内と見るのが適当である」
>775
旧スレの説明では、簡単に言えば学閥だという事だ
東大(九州説)× 京大(畿内説)
東大はライバル京大のおひざ元に邪馬台国があるのが気に入らないので
考古学的には不利だが九州説支持を打ち出し影響力を誇っている
マスコミ的にも商売になる九州説
だが後10年経って守旧派がいなくなればかわってくるとか、、
いつの話してるんだか。
今、東大で九州説って誰だよ。まったく・・・・・
根も葉もない話が好きだこと。
780 :
日本@名無史さん:04/03/05 01:36
不利になると思想を持ち出して話を逸らす畿内説。頭悪いヨ。
ここにいるのは京大じゃなくて単なる馬鹿だろ?
世界最大の都を持つ超文明、大邪馬台国帝国はどうなったの?
781 :
日本@名無史さん:04/03/05 01:56
このスレの平均年齢って相当高いんじゃ。
だからここだけ畿内説最後の楽園みたいな感じなのか。
ネットでも畿内説優勢なのはめずらしいが。
残念だが、九州説はまた勃興してくるだろうね。
若い世代には記紀神話に対する抵抗感があまりないから。
>若い世代には記紀神話に対する抵抗感があまりないから。
あんた40以上だろ?
783 :
日本@名無史さん:04/03/05 03:07
>記紀神話に対する抵抗感
マジでそれ何ですか?
普通に神話と思うが
軽視でも重視でもその人の価値観だと思いますけど。
784 :
邪馬台国は九州。卑弥呼の古墳は西都原。:04/03/05 03:07
1)魏志倭人伝では、倭国の特徴を冬でも裸足で歩ける温暖な国と紹介。
そのなかで邪馬台国を説明しているのだから邪馬台国も温暖な場所にあるはず。
したがってそれは、寒い奈良ではなく温暖な九州である。
2)もし奈良に偉大な邪馬台国があったのなら、日本書紀でそのことを何故、自慢、強調しないのか。
奈良になかったから書けなかったのである。
3)宮崎県西都市西都原の男狭穂塚は直径150m余りの円墳である。
「径100余歩」の条件を満たす古墳はここにしかない。
以上の考察から、邪馬台国は九州にあり、卑弥呼の邪馬台国は西都原にあったことは明らかである。
785 :
日本@名無史さん:04/03/05 03:11
意義無しです。
786 :
邪馬台国は九州。卑弥呼の古墳は西都原。:04/03/05 03:13
奈良にあったのは、邪馬台国ではなく、邪馬台国よりも早く占領された国。
すなわち「秦王国」である。
「倭奴国」をたてた連中が東征して奈良に行き着いたのである。
ものすごい初心者なんですけど、
渡来系の人が作ったわけじゃないですよね
788 :
日本@名無史さん:04/03/05 03:28
西都原から金印が発見されたことはない。
邪馬台国は北部九州から西部九州に遷都してまた北部へ戻る。
西都原が邪馬台国の都だったことはない。
789 :
邪馬台国は九州。卑弥呼の古墳は西都原。:04/03/05 03:30
すべて渡来人です。
790 :
日本@名無史さん:04/03/05 03:38
考古学者は自らが信奉する邪馬台国畿内説に都合よくするため
畿内の古墳群の年代を無理やり邪馬台国の時代にあわせようとした。
これが墓穴を掘った形になった。
魏志倭人伝には古墳の記述がほとんどないことを忘れていたんでしょうか?
791 :
孤高の24歳無職:04/03/05 04:38
どうでもいいですが40すぎてまで
2chですか、、、そんな人がたくさんいるとは
思いもよりませんでしたw
792 :
日本@名無史さん:04/03/05 04:52
そもそも大和ってなに?なにをもって定義されるの?
日本列島には他の民族や文明圏もあったんでしょ?
日本列島における大和による日本の統一っていつ達成されたと考えるべきなの?
793 :
日本@名無史さん:04/03/05 06:16
昔の政府の名前だろ
邪馬台国が大和かどうかで意見が分かれるけど
統一が始まったのは神武東遷で神武が難波についたあたりじゃないかな
北海道入れなければ統一が終わったのは田村マロに時代で青森あたりまでだと思う。
九州説の積極的な根拠があまり出てこないような
>若い世代には記紀神話に対する抵抗感があまりないから。
「デムパに対する抵抗感がない」のまちがいではないでしょうか :-)
知識がないのをいいことに自分好みにいじくりまわして
妄想に都合の悪い事実は全て無かったことにし、
かっこいいファンタジーを作り上げてそれに酔えてしまうw
796 :
日本@名無史さん:04/03/05 14:02
ちょっと私事で恐縮なんですが、二年前の一月に祖父が亡くなって
るんですよ。で、相続税やら固定資産税やらを納めるために農地を
500平方mくらい売却したんだけど、そこは遺跡の出るかも
しれない地区だったので市教育委員会から人が来て試し掘りを
したのね。・・・まあ、何も出なかったけど(出たら困るよ、税金
払えなくなるもん)。
けどさぁ20cmくらいの穴二つしか掘らんで、解るもんなの?
>748 :108@文献偏重派 :04/03/04 14:26
>邪馬台国は九州で、「ネオ畿内連合」に押されて中国に救援要請
>結局畿内の九州侵入で滅亡したか、細々と生き残る
>神武〜開化は虚構で
>崇神〜仲哀は「ネオ畿内連合」の歴史の投影
その論拠は?
>>794 九州説は文献上の論拠が多く、畿内説は考古学上の論拠が多い
文献とは記紀も含むから、第二次大戦後
文献からのアプローチそのものが閑却されてしまったんだな
まあ文献研究自体が行き詰まったこともあるんだけど
畿内説の人はあくまで考古学が中心だという「信仰」があるから
九州説の人の唱える論拠が非常に弱いものに見えてしまうのだな
>論拠が非常に弱いもの
というのは、特に魏志倭人伝を金科玉条にしている人たちは自説に都合の悪いところは
都合良く改ざんしたりするが、それがまったく前後の中国正史などと矛盾したりしている
からだろう
また畿内説の一部の人はあまりにも文献を知らなすぎるというのもあるね
だから妄想の域に入ってしまう
799 :
日本@名無史さん:04/03/05 14:34
畿内説の致命的な欠点は、畿内で
「遺跡がありました古墳がありました全国の文物が出土しました」
ということにどれだけ躍起になっても
「それらを擁した勢力が本当に邪馬台国であることの証明をしてください」
と言われればグウの音も出ないことなんだな。
800 :
日本@名無史さん:04/03/05 15:41
邪馬台国時代の倭国は高地性集落、各地各様の古墳が前方後円墳に統一され
鏡の埋葬が始まった時代でその前の時代とは完全に違ってきている。邪馬台国が
始まってから後100年間の大型前方湖円墳の分布地図が明確に邪馬台国を示し
ている。すなわち、それは奈良県東南部だけであり、その他にはない。後漢鏡は
九州北部が中心であり、金印は志賀島から出土している。奴国は吸収以外にはない。
倭人伝は奴国と邪馬台国の間に十分な距離をおいて描写している。九州から奈良県に
移動する行程と見れば実によくあっている。問題は邪馬台国の共立による建国が
急すぎて魏の側で後漢までの九州西岸地方を南北に描く倭国像を東西にする地理像が
まだできていなかったから東と南の間違いが生じた。
801 :
日本@名無史さん:04/03/05 15:47
泥縄みたいな邪馬台国にろくな神話があるわけもなく、各地の古い神話を合成して大和の神話にした。
だから神話では九州とか出雲がよく出てくる。ただおもしろいのは丹後から淡路にかけての神話も案外
多いことだ。邪馬台国のシャーマンは近畿西部の神話を中心にしていたのではなかろうか。
802 :
日本@名無史さん:04/03/05 15:51
こうしてみると日本の建国に関する研究も韓国と相変わらないな。
いい加減で不明なことが多すぎる。
縄文シャーマンを忘れずに。
804 :
日本@名無史さん:04/03/05 16:06
日本は古墳が多いのが強みかもね。でも韓国も色んな遺跡は多い。韓国の神話も
日本の神話もそれを歴史だなどといわなければ随分立派なものが多い。世界中どこへ
出しても恥ずかしくないんじゃなかろうか。
とりあえず、糸島郡だから伊都国だとか漢委奴国王の金印が
発見されたから奴国だとかいう比定はやめてもらいたい。
魏志を盲信するなら伊都国はマツラ国の東南500里だし
奴国はさらにその東南100里なんだから。
当時は獣道同然の道しかなかったんでしょ?
そんなところを延々歩かされたら距離感も狂うんでは。
807 :
日本@名無史さん:04/03/05 17:01
>>806 さらに、山道を登る場合も距離に比較して想像以上に時間がかかる。
808 :
108@文献偏重派:04/03/05 17:04
九州と出雲の神話が多いのは、権力者の強い要請があったからだと思う。
大和朝廷は九州を父祖の地とし、神話の舞台も多く九州を採用した。
もともと文化的先進国だった九州ブランドが権力強化に必要だったのだろうが、
もっと踏み込んだ理由があると思う。
「ネオ畿内連合」の有力者だった応神が、野心をおこして九州を拠点に反乱を起こし
九州で零落していた卑弥呼の末裔を祭り上げて(僭称して)畿内を乗っ取ったと考える。
(これが大和朝廷の始まり。ちなみに応神は、軍事関係の有力者?)
応神は指令で九州を聖地に祭り上げた。その上で九州出身を名乗り、
応神に協力した豪族たちにも、九州出身を名乗るように指示した。
宇佐・対馬・壱岐(一支)・松浦(末盧)の九州の一族は「天孫」とされ
三輪・磯城・宇陀といった大和の一族が「地祇」とされている。
高天原=九州、地上=畿内という概念が生まれた。さらに
応神は畿内に残る崇神王朝の残党を山陰地方に流して、
そこを忌まわしい意味をこめて「出雲」と命名。
その差別化を図るために、九州と出雲がクローズアップされるのではないか。
809 :
黒頭巾参上!:04/03/05 17:13
日本列島が「倭国」(九州)と「別倭」(本州)に大きく分かれていたことを先ず認識しなければならない。
魏志倭人伝は、「倭国」(九州)の邪馬台国について描写したのである。
810 :
108@文献偏重派:04/03/05 17:15
俺の考えの基本ラインとして
「ネオ畿内連合・考古学」
「崇神〜仲哀王朝・文献」
「スサノオ〜オオクニヌシの国・神話」
この3つは同じ国だと思う。
考古学者の人たちが考えているネオ畿内連合の勢力範囲は
>崇神天皇は四道将軍を山陰・山陽・越・東海に派遣した
>オオクニヌシは出雲を手中に収めたあと、伯耆・因幡の2ヶ国を侵略、
>さらに兵を南に進め、播磨のアメノヒボコを倒し瀬戸内も征服。
>次に北上し越の国を経て、遠く信濃まで平定した。
これと符合するのではないかな?
>「ネオ畿内連合」の有力者だった応神が、野心をおこして九州を拠点に反乱を起こし
>九州で零落していた卑弥呼の末裔を祭り上げて(僭称して)畿内を乗っ取ったと考える。
だからね、大規模な東征なんか考古学的にありえないんだよ。戦争の痕跡がない。
東征戦争そのものの痕跡は必ずしも必要ない。
応神が九州で圧倒的規模の大軍の指揮官を任されていたと考えればいい。
無血入城で畿内乗っ取りもできる。
(オオクニヌシの国譲りも実に表向き平和的だった。裏は怨念ドロドロだが)
813 :
日本@名無史さん:04/03/05 17:47
3世紀の大和政権(邪馬台国?)=安定した交易を保証する為の連合政権
5世紀の河内王朝(応神朝?)=大陸への大規模な侵攻を前提とした強力な軍事政権
よって、応神の乗っ取りは大化の改新同様、大規模な政治変革期に発生したクーデターだと
オレには思えるんだがなー。東征神話の元ネタが出来上がったとしたらこの時期しかないと思うんだが。
まぁ蘇我氏を大兄が倒した痕跡だって考古学的には残らないだろうし。
クーデター成功の背景は、対半島作戦の為九州で編成されていた強力な軍団だとしたら東征神話的にも矛盾は少なかろう。。
しつこいようだけど、伊都国・奴国のような「東南」にある
はずのクニを「北東」に比定するような矛盾は、邪馬台国は
「南」と書いてあるのに「西」と読み違える畿内説と
同レベルじゃないかと思う。
それと神武に比すべき九州から来た天皇はもう一人いるよ。
前半生さえ無視すれば天智天皇こそ辛酉年(661年)に
即位(実際は「称制」)した人物になるけど。
旧唐書や新唐書の倭国・日本国の不可解な記述もそれで
解けないかな?
すなわち記紀の編纂にあたって天智の娘である持統天皇は、
実質的な「日本国」建国者であった父を神話時代の伝説的
建国者にまつりあげさせたとか・・・
(余談ながら持統自身はアマテラスに投影させているという
説もある)
ただ、東遷と国譲りを同じ事件と考えるのはオレは賛成じゃないな。
倭国大乱の頃の山陰の無気味な安定ぶりがどうにも気になる。
ひょっとしたら畿内政権に先行して広範な連合政権が出雲を中心に
邪馬台国の時代以前に出来上がってたんじゃないかなぁ。
そこから、吉備や大和が主導権を奪った事件が国譲りじゃなかろうか、とか。
出雲で何かでっかい遺跡が出ればなー。
例えば出雲大社の下から高さ96メートルの空中神殿とかw
今の所箸墓に相当するような強大な権力を思わせる遺跡が出てないから、
裏付けはなにもないんだけど。
>>814 >余談ながら持統自身はアマテラスに投影させているという説もある
あ、それうちの大学の教授が授業で主張してたわ(汗)
817 :
日本@名無史さん:04/03/05 18:21
>右近長者氏
禿胴。俺もそれを
>>471で指摘した。
北九州でさえも倭人伝の方向記事と一致していないという事実を踏まえると、「東」→「南」を勝手な読み替えとは言い切れなくなってしまう。
倭人伝には風俗記事や植物記のように、異常なくらい細微に渡る記事があるのに、こと各クニの位置となると反時計回りにずれているという奇妙な矛盾がある。
このことから編纂時に方向を修正された可能性が高いと思うのだが。
ああスマソ。指摘したのは
>>478だったわ。
基本的に倭人伝の記述は、実地探査と伝聞推定が入り乱れてると考えるのが文献学的にも基本だと思う。
これは後に考古学成果が、北九州における絹製品の存在を実証する発見をしたように一部内容の正しさを証明したのだが、同時に北九州の各クニの位置が倭人伝記述とは異なるとの証明もされている。
避けては通れない事実だと思うが、意外に皆スルーせるんだよね。特に自称文献に詳しい研究科なんかが。
邪馬台国を推理するのに、方向記事を鵜呑みにできないというのはもう基本姿勢だ。
●唐古鍵遺跡と池上曽根遺跡の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥
生時代中期(宇約2100〜2200年前) の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、
これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事がわかる。 すなわち、2000年前明らかに中国大
陸からb遺伝子を含む水稲が渡来してきたことが実証できるのである。
大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったと
ころ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
中国史書によれば少なくとも倭国は隋の時代まで里数を知らなかった
ただし距離を日数で測ったとある
里数表記のある国は中国人が実際にいったことあるのである程度正確に出せるのだろう
投馬國と女王之所都は日数表記なので倭人の話を元に推測した可能性が高い
>「南」と書いてあるのに「西」と読み違える畿内説と
・・・げえっ、なんじゃこりゃ 「西」→「東」だよ とほほ
それと天智=神武は東征・東遷論の不毛さを言いたかったので
あってこーいうデムパ信じてる訳じゃないです。念のため。
>>820 んじゃ、中国人って東の海の向こうにある倭種の国にも行ったの?
あほらし
>822
後漢書による狗奴國のことか?
女王国に属さない倭人がいたことが魏の時代以前から知られていたのだろう
824 :
日本@名無史さん:04/03/05 20:48
後漢書では
狗奴国は女王国の東の海の向こうに存在してかつ
かつ、狗奴国は邪馬台国連合と同じ連合国家
だったらしいことが読みとれる
当時の日本列島では邪馬台国、投馬国、狗奴国の三つの連合国家があったと思われる
825 :
日本@名無史さん:04/03/05 20:51
>>819 >●唐古鍵遺跡と池上曽根遺跡の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥
>生時代中期(宇約2100〜2200年前) の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、
>これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事がわかる。 すなわち、2000年前明らかに中国大
>陸からb遺伝子を含む水稲が渡来してきたことが実証できるのである。
>大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったと
>ころ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
>●唐古鍵遺跡と池上曽根遺跡の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥
>生時代中期(宇約2100〜2200年前) の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、
>これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事がわかる。 すなわち、2000年前明らかに中国大
>陸からb遺伝子を含む水稲が渡来してきたことが実証できるのである。
>大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったと
>ころ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
神武かどうかはわからないが、徐福遠征隊を考えなくてはならないなー。しかも、朝鮮半島経由ではないルート
というと串木野から延岡方面か、筑後川から別府方面か、舟は捨てて九州東岸で現地調達、神武ルートで大阪湾
には入ってきたんだろう。物証は怖いところがある。
826 :
孤高の24歳無職:04/03/05 21:11
きっと私が10年後タイムマシーンを
作って、このスレの方々と共に古代にワープして、倭国を
支配しているんでしょう。だから
戦争の痕跡などないのですよw
827 :
日本@名無史さん:04/03/05 22:32
神武率いる小部隊が日下や熊野でチャンバラやった「遺跡」が発見されていないという理由で
考古学では神武東遷(本当は東侵)は否定されたとする根拠はない。
そもそも大戦争ではないのだから、発見される可能性は低いだろう。
その100年ぐらい前の卑弥呼が邪馬台国を統治していたという考古学的証拠も
今のところ発見されていない。未発見を理由に無かった証拠とするのは誤りだ。
必要条件と十分条件をすりかえる論議には、注意すべきだ。
828 :
日本@名無史さん:04/03/05 22:59
少なくとも畿内論者は信仰地マキムクから卑弥呼に関する決定的なもの(金印とか)
が出てくるまで考古学的にマキムクを邪馬台国とするのは弱すぎる。
だから今のところ倭連合としているのだろうが
連合政権の根拠が交易というのもおかしい、交易なら倭人伝にも盛んであったように書いてあるし
政治的連合統合ができたから交易できたというより自然に民衆が物物交換してたのではなかろうか
歴史を思ったように書き換えて自己満足するのは朝鮮人のすることだぞ、そのことを忘れないでくれ。
と、一つの証拠も示さない(場所も決まらんので出したくても出せない)九州説はひとりごつのであった。まる。
>>828 そうそう。最早「邪馬台国は何処ですか」みたいな議論をした
ところで、堂々巡りな訳だから。
マキムクを首都としたヤマト連合が、いかに倭国を統一して
いったかを論じた方が、実りのある議論になると思う。
考古学の成果と記紀文献学を両輪にして。
831 :
日本@名無史さん:04/03/05 23:52
縄文時代の黒曜石分布を見れば、畿内連合政権なんてチッポケで笑ってしまう。
交易で栄えた痕跡のある土地は、皆連合政権の首都なのか?
正倉院がある奈良は、ユーラシア連合政権の首都とはいえない。
>>831 三輪山が太陽神信仰の中心地だったという説はどう
お考えですか? 「太陽の道」説など、私は興味深く
思ったのですが。
三輪山は、時代を下って、降伏した蝦夷のリーダー
ですら特別視した山です。普通の神体山とは違います。
834 :
日本@名無史さん:04/03/06 00:23
>>833 いやもうどうでもいいというか、三輪山がどうしたの?
太陽信仰とか御神体とか考古学的に解らない事
神話持ち出したらデンパ扱いされるし
自分で妄想するしか方法は無い
自己完全妄想はデムパ。
835 :
日本@名無史さん:04/03/06 00:26
日本全国、特別視された山は無数にありますな。きりがない。
唐書で特筆している阿蘇山のほうが、邪馬台国に関係ある山です。
837 :
日本@名無史さん:04/03/06 00:59
奈良には阿蘇山はないわな。。。となると
838 :
日本@名無史さん:04/03/06 03:02
>>830 まず
マキムクが首都であったかどうかを議論しよう
次に
マキムクを中心とする連合政権であったかどうかを議論
839 :
日本@名無史さん:04/03/06 03:20
九州の地図を見ていて不思議に思ったのだが
伊万里の北にある半島が東松浦半島
伊万里の西にある半島が北松浦半島
反時計回りに90度ずれてないか?
伊万里が末盧国の可能性はないかな?
840 :
邪馬台国への道:04/03/06 04:01
唐津に上陸後、二丈浜玉−前原道路を通って太宰府まで行き、南に下って筑後川まで行き、船に乗って柳川まで下る。
あとは沿岸沿いに熊本県の玉名まで南下後、上陸。
阿蘇山を前方右に見ながら竹田市へ向かう。この坂がとてつもなく時間を要す。
山を越えて延岡の海岸へ出る。
海岸沿いに南下すれば西都市はもうすぐ。
少し内陸に入れば、そこが卑弥呼の邪馬台国(西都原)。
このように、伊都国(福岡)と多婆羅国(玉名)と西都原は邪馬台国連邦を形成しており、安全のためその連邦内を歩んで来たのである。
勿論本国は卑弥呼のいた西都原であり、「男狭穂塚」が彼女の古墳であるのは言うまでもない。
841 :
日本@名無史さん:04/03/06 04:58
もし九州内としたらどこだろう?
筑後川流域とかの八女
宮崎の西都原
クナ国については
八女の南には屈強そうな熊襲が
西都原の南の隼人族は強そうだ
俺は漠然的九州説だからどちらともいえない
一口に九州内といっても色々騒乱はあってそうだ
九州内の騒乱の複雑な経緯が東遷になったのだけは確かだと思う。
宮崎の九州一大きな墓を掘ってみたら金印が出てきたりして
そうなれば数百年の議論も終わることができるのにね。
842 :
日本@名無史さん:04/03/06 05:05
数年前まで宮崎など思っても見なかったが
古跡・記紀神話・倭人伝の3点が妙に一致するところが怪しいんだよな
けど八女あたりの地名大和盆地に一致するというし、不思議だな
今のところ俺的には九州中部説60%宮崎説40%。畿内説0%です。
「旧百余国」が「今、使訳通じる所三十国」になったのは統合が
進んだと読むべきか、それとも七十余国が交流を絶ったと読むべきか
844 :
日本@名無史さん:04/03/06 11:24
倭人伝のできる前に九州の背振山脈東南部に物部、大伴等を主体とする邪馬台国があり、
他方マキムクでの新都建設計画は吉備、播磨、河内、摂津、丹後、尾張等が計画したもの
だろうが、各国には十分な余裕兵力、武器がなく、筑後(筑前ではなく)の豪族を招聘した。
これが神武伝説とヤマトの地名の起こりである。日向の伝説はこの際に参加した久米族
が持ち込んだ。・・・という筋書きはどうかな。
845 :
日本@名無史さん:04/03/06 11:43
魏の役人「ところで倭国には首都はおありかな?」
倭人(九州人)「それは山門ですばい。伊都国の南ですバイ。」
倭人(ヒミチャン)「ウッソー。それって奈良県の山奥に今、人が集まって
建設中だっていってるわよ。」
魏の役人(田舎者だなー!!!世界は動乱の最中にあるのも知ら
ないで。)(エーイ。どうにでもしやがれ。)「皆様のお話よくわかりました。
魏の皇帝も博識なる皆様のご立派なご説明にご満足のことでしょう。」
・・・こんなシーンがあったような。
ヤタガラスは中国由来。
847 :
日本@名無史さん:04/03/06 12:00
おいらはやっぱり博多そのものが邪馬台国だったと思うぞ。古田説。
周辺民族の酋長たちが中国詣でした褒美に家臣や将軍、将校扱い
に任じられた記念(証拠)にもらって喜ぶ印鑑の材質は、単一都市
国家レベルの酋長だと最高でも「銀印」止まり。
「金印」はそれら銀印連中を従えて統一君臨している民族の首長と
認められた場合でないともらっていない。
卑弥呼の約200年前にもらった「漢委奴国王」の金印が博多地区
から出土したということは、そここそが当時「倭」民族の首都だと
認められていたことを示している。
では、その後200年のうちに博多は衰退して実権が他に移ったの
か?というとそんなことはなくて、ますます人口も出土物も賑やか
になってさらに繁栄していたことが窺えるのだ。当然、依然として
博多が「倭」民族のキャピタルだったのだ。
由緒ただしい古都「博多」の名を浅ましい「福岡」などに変えやがっ
た下司は誰だ?チッ!
848 :
日本@名無史さん:04/03/06 21:02
>>847 那国は卑弥呼の北限って記載されてるし一大卒を隣町に置くのも不自然なかんじがするがなー
黒田長政あたりだと思う、福岡に変えたのは、博多のどこが気に入らなかったんだろう。
849 :
日本@名無史さん:04/03/06 21:05
邪馬台国の時代、九州の全盛期はもう終わってたのでは?
850 :
日本@名無史さん:04/03/06 21:16
一大卒を隣町に置く、つまり軍隊を都のど真ん中に置かないのは普通のこと。
邪馬台国時代に、都を一度有明海沿岸に移して(4C)おり、博多に戻ってくるのは7C。
すれちがいのような気もするがまあよい。
珍しい九州説同士の議論だ。ガンガレ。
852 :
日本@名無史さん:04/03/06 22:00
>>849 邪馬台国は朝貢した魏の葬礼に倣って薄葬だった可能性がある、曹操の墓も見つかってない
だから古墳の大きさを競っていたのはむしろ田舎者の証拠だと思う。
853 :
日本@名無史さん:04/03/06 22:03
そんな何もかも魏に倣うかよ
854 :
日本@名無史さん:04/03/06 22:16
>>853 何もかもとは言ってないぞ、大袈裟な
時期は曹操が死んだ直後だ、曹操は口酸っぱく薄葬にせよと命令していたんだぜ
墓制を見習ったとしてもおかしくないではないか
(´-`).。oO(百余歩の墓を作ったという魏志倭人伝の記述、放置プレイ中・・・・)
856 :
日本@名無史さん:04/03/06 22:41
百余歩の墓の具体的内容がわかってないんだよね、単なる小山を小改造したかもしれないし
巨大前方後円墳かもしれない。
宮内庁が箸墓を掘らせてくれれば疑問の何割かは晴れるのにねぇ
(´-`).。oO(百余歩の墓を【作った】という魏志倭人伝の記述、放置プレイ中・・・・)
壱与の墓の記述が無いことは見てみぬふり中
860 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:16
当時の倭国は九州から越後にいたる裏日本と狗奴国(山城、近江、尾張)を含む親韓派と
吉備、播磨、河内、大和、九州東岸を中心とする親魏派に分かれていたが、三韓の魏との
戦闘の結果、親韓派は列島内において実権を失い、魏国は親魏派に強力な援助を行なった。
こう考えなければ先進地九州の歴史的な急落や狗奴国、出雲等の説明がつかない。
861 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:17
畿内説の亡霊が粘着厨です
862 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:20
>吉備、播磨、河内、大和、九州東岸を中心とする親魏派
まずコレの説明からしてもらおうか
863 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:27
864 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:31
畿内に大乱の形跡が出てきてないんだろ?あらゆる意味で却下だね
北九州には鉄の鏃200近く出てきてるよ、ちなみに畿内は2個だけ
というか、親韓派というのがなんとも芳しいのだが・・・・
>>864 次から次へと根も葉もない嘘を思いつくこと。
高地性集落、環濠の掘りなおしなど、倭国乱が瀬戸内から東海まで広がっていたのは確定事項。
逆に、九州にはその痕跡はない。
宗教的国家が乱れたのに、はたして大戦争なのか?
その後、宗教国から軍事国に変容しているのは認める。
なんかよくわからんが、十字軍などあり得ないといいたいわけか?
869 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:55
最近の発掘結果では畿内が、九州+日本海側に比べて
鉄ということに関しては著しく後進的だったということが判明した
もとより文献的根拠が乏しく、しかも古墳しか拠り所のない
邪馬台国畿内説は今後苦しくなってくるだろうと思う。
魏志倭人伝に古墳の記述がほとんどないことに対する矛盾もあるし。
>高地性集落、環濠の掘りなおしなど、倭国乱が瀬戸内から東海まで広がっていたのは確定事項。
>逆に、九州にはその痕跡はない。
九州の軍勢が押し寄せるのに備えようとしたからだろう。
870 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:11
畿内説的には倭国大乱の痕跡が無いから緩やかな連合国家じゃなかったの?
ああ言えばこう言うこう言えばああ言うって感じだな
あるのないの?大乱?え?畿内説亡者よ
>>869 かも知れない。そのあたりはまだわからない。
が、ともかく、九州には戦乱の痕跡はみられないから、倭国乱の倭国はほぼ西日本全体を含む。
そして、高地性集落が姿を消し、環濠も埋め戻される時期になると
関東以西全体に求心力を持っ大規模な集落が纏向に出現するわけだ。
そして、人が集まるだけでなく、そこに突如出現する前方後円墳は、
畿内の弥生時代の伝統からはでてくるものではなく、
前方後円形の墳墓は播磨や讃岐あたりに起源を持つ墓制であり、
大規模な墓を造るという発想は、吉備の楯突き墳丘墓、山陰の西桂見、西谷3号などに由来を求めることができる。
石積みの石室を作って棺を収めるという埋葬施設は吉備や瀬戸内に起源が求められる。
つまり、そこは全国から人が集まっていることに加え、西日本各地からの墓制や技術が持ちよられている。
だからこそ、前方後円墳の存在そのものが倭国乱後の連合の象徴であり、その地が連合の中心地と目されるわけだ。
これと比較して、九州にこれよりふさわしい都の地があるかといえばない。
したがって、倭国乱後、都は畿内大和に置かれたと考えざるをえないわけだ。
わかるかな?
>>870 過去レス読み返してね。
872 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:26
倭国乱後に宗教的首長が立つんだから、西日本全域の様子ではない。
大阪は江戸の台所だったが、首都ではない。
卑弥呼の前時代にもらった金印が九州から出ているのだから、卑弥呼が畿内人とはいえない。
873 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:28
なんか厨房が荒らしてるな。
>>872 悪いけど、意味不明。
>卑弥呼の前時代にもらった金印が九州から出ているのだから、卑弥呼が畿内人とはいえない。
徳川の前時代の幕府が京都室町にあったから、徳川幕府が江戸にあるはずがない、
っていうのとほぼ同レベルの暴論。
875 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:30
>>872 大和朝廷でも皇位継承の危機には巫女的皇族が称制することがしばしば
876 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:31
邪馬台国がそこにある
877 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:34
畿内説の人は「倭国大乱」=戦争と思ってるのかな?
878 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:34
九州説の人ってまだいるのかな?
879 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:39
>>870 >九州には戦乱の痕跡はみられないから、倭国乱の倭国はほぼ西日本全体を含む。
失礼だが、これ一つでは到底「倭国」=「西日本全体」という証明にはならない。
また、たとえば、倭国乱が権力者同士の政争程度のものと考えればこの等式は崩れる。
倭人伝の「東方の倭種」や、後漢書倭伝の「拘奴国」の記述、
さらに中国の史書のさまざまな「倭」の記述も考えあわさなければならない。
880 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:42
九州王朝ヲタか
881 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:43
>>871>九州にこれよりふさわしい都の地があるかといえばない
だから、九州邪馬台国は何度か遷都しているから遺跡遺物も分散してるわけ。
九州に戦乱の跡がみられなくてもみられても、倭国乱が大戦争だった証拠だないの。
だから近畿しかありえないなんて言えないの。
全国から人が集まっているのは結構だけど、邪馬台国は〜〜大将軍号をもらっているから
列島の文物だけだったら、それは邪馬台国とは考えにくいの。
882 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:46
阿蘇山の国が邪馬台国です。
883 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:47
「邪馬台国は〜〜大将軍号をもらっている」
「邪馬台国は〜〜大将軍号をもらっている」
「邪馬台国は〜〜大将軍号をもらっている」
>>879 今度は、【相攻伐歴年】を放置プレイですか。
政争程度ではないのは自明だね。
885 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:49
宗教家が終結させた大戦争だと断言されるわけね
886 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:49
邪馬台国が必ずしも日本列島で一番のクニである必要もないしね。
魏志倭人伝にも後漢書倭伝にも、邪馬台国の東に
女王に服属しない倭種が存在していることが描かれてるし。
畿内連合とやらに押されはじめた九州の邪馬台国が
魏に救援を求めたとしても無理はないわけだ。
887 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:50
宗教家
>>881 大陸の文物もでてますが何か?
大陸の文物の分布も、この倭国乱の前後で九州中心から畿内中心にかわるのよね。
すべて整合してるわけ。
逆に九州は、大陸系の文物という点ではますますショボくなるわけで、どうしようもないのね。
889 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:50
救援を求めた記述など、ひとつもありませんが・・・
890 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:51
女王に服属しない倭種って蝦夷のことじゃないか?
891 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:52
>>884が魏志倭人伝読んでいるとは思えない・・・。
892 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:52
魏に救援を求めた?
893 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:53
畿内の天皇は九州の王のもとで隔離され、半島の戦争に行かされているわけで、
畿内が属国なんですが。
>>886 888とかぶるけど、そういう考えは大陸のものが東へと拡散する動きと全く矛盾するのよね。
895 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:53
救援=朝貢の真の目的だね。
896 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:55
897 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:55
>この倭国乱の前後で九州中心から畿内中心にかわるのよね。
>逆に九州は、大陸系の文物という点ではますますショボくなるわけで
東遷したんじゃないの?
898 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:56
899 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:56
大陸系の文物で一番重要なのは「鉄」ですが、畿内だけ少ないから全然ピンときませんね。
900 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:57
鉄って大陸系?
901 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:58
中国が日本列島を救援したことなし
>>897 東遷だとしてもそれは倭国の乱を契機としているわけで、
卑弥呼のときにはもう移っている。
903 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:58
904 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:59
>>901 実際には救援しなかったんでしょう。
で、邪馬台国は畿内連合に滅ぼされたと。
905 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:59
東遷したのは卑弥呼の100年後、邪馬台国で干されていた、しがない軍人神武。
906 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:00
>>899 鉄の出土量は、ちょうど卑弥呼の時代と考えられる三世紀前半で逆転するのよね。
出土する鉄は副葬品が多いから、実際にそれを使っていた人物が活躍した時代はそれよりも前。
ってことで、ぴったり。
908 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:01
>>905 デムパキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !!!
909 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:02
平均年齢35歳ぐらいだが
悪いけどもうねるよ。
911 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:03
912 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:04
畿内連合構想の説得力がいまいちなんですが
>>911 それ弥生時代でしょ。
そこから転換がおこるのがその直後の古墳時代初頭。
じゃあ、お休み。
914 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:05
とにかく発掘が進まないと何も言えない。
年代測定にも問題があるし
漏れたちの生きている間には結論が出ないと思う
915 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:06
916 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:12
倭国乱と東遷が連動している根拠は、全然無いな
917 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:14
邪馬台国の朝貢は、半島の利権・覇権・領有権の追認・承認願いにすぎない。
918 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:17
畿内連合=邪馬台国連合じゃなくて狗奴国連合っぽいがなぁ
919 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:18
また畿内連合かよ(w
もういい加減にしてくれよ
畿内連合自体が妄想の産物だろ?緩やかな超巨大連合がなんだって?
北九州から出ている鉄の鏃は戦闘の跡といえるだろ、少なくとも
機内からは2個しかでてないんだよ
嘘だと思うなら詮索してみれ
920 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:21
機内を中心に平和的に話し合いで統一は進んだんだろ(w
陰謀とか阿呆か?マキムク見て妄想膨らませすぎだよ
現実を見れ、畿内厨。
921 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:24
邪馬台国畿内説の論理は簡単だよ。
畿内連合のサイズを大きく予測すればするほど
邪馬台国畿内説の信憑性が高まると思い込んでる
古墳も年代を無理やり邪馬台国時代に組み込めば
それで畿内説が有利になると思っている
ちなみに、肝心の魏志倭人伝に、古墳の記述はほとんど出てこないw
922 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:26
畿内が後進地域だったから、九州から法隆寺を移転したのですが。
畿内説論者は考古学者が多い。
というか考古学者以外の畿内説論者はほとんどいない。
なぜだろう?
答え:考古学者以外はばかだから。
925 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:32
考古学者って、「木を見て森を見ない」人が多いんだって。
926 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:33
>>923 ココにいる畿内説は考古学者ではないな
平気で嘘を突いてそれを前提に妄想膨らませてるし
鉄の鏃の事位、考古学者なら知ってるだろう?
それを根も葉もないこと、と(w
畿内説論者は嘘吐きなのか無知なのか
927 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:34
文献資料もあわせて考えると九州説が有利だろうな。
考古学者も、大和朝廷(天皇家)の発祥は九州だとは認めているだろ。
まさか考古学者はそこまで文献資料に疎くまい。
ああ、今まさに時代に取り残されんとする九州説の嘆きが聞こえる
929 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:45
>>927 考古学だけでも邪馬台国が畿内にあったとはいえないよ
畿内亡者は土器片から全国連合にまで膨らますキチガイ差
嘘を付き捲り、考古学的見解が弱くなれば文献に逃げ、文献が弱くなれば考古学の権威に逃げ
どうしようもないカスだよ。
お前等畿内説論者の考古学的嘘を暴いてやろう。
930 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:46
畿内に邪馬台国があった物証は、ついにひとつも無かったな
931 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:47
>>928 時代とか関係ないだろ、時代がどうしたの?
初期大和政権の大王たちが、三輪山の麓を王都に定めていたのは、
文献、考古学からも、反論の余地はない訳で。
この三輪王朝が前方後円墳の祭祀を創始し、天皇氏の初代、
ハツクニシラス・スメラミコトになった。古墳時代の幕明けである。
邪馬台国が九州か畿内かの論議は、もうどちらでも良い気がします。
>>932 粘着な厨が一人かそこらいるだけだよ。あまり気にしないほうがいい。
934 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:55
>>932 そうそう、畿内にはかなりの権力を持った王がいた。
九州には金印と阿蘇山に象徴されるいわゆる邪馬台国があった。
935 :
日本@名無史さん:04/03/07 01:59
>>932 マキムクのこといってるなら、あれはいきなり出現した遺跡
弥生時代から連綿と繋がった歴史なんて無い遺跡
他所から進入した豪族がとしか思えないがな
936 :
邪馬台国は畿内でいい:04/03/07 02:07
おれみたいにこの時代に詳しくない素人から見ると、
邪馬台国から奈良、平安時代にかけてまでは、
日本は関西中心で動いてた事にしていいと思う。
その後、武士が力を持ち鎌倉、尾張、江戸と力が移り、
明治に入ると、九州・山口中心になるし、
古代日本の中心は関西周辺であったことにするのはバランスがいい
>>935 その纒向の建設が2世紀の末まで遡る事くらい、もちろん知ってるよな?
938 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:13
>>937 知ってるよ、だが
ココの嘘吐きが考古学者なら
考古学者の言うことを手放しには信用できんな
>>935 その、侵入して王権を打ち立てた豪族が、吉備なのか、東海なのか、
出雲、北陸、九州なのか?
九州というのは、九州の土器が出土しないことから否定されていますね。
しかし王都を、自分たちの勢力圏に置かず、奈良盆地に置いた理由は
一体、何なのでしょう?
また、征服されたのが、銅鐸をレガリアとする人々であったのかどうか?
940 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:17
>>937 >纒向の建設が2世紀の末まで遡る
いろいろ学者間でも説が分かれている。
特に邪馬台国論争に首を突っ込んでいる人が
懸命に年代を古く見よう古く見ようとしている。
941 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:19
>>939 土器片の量が王権に関わると言うなら、圧倒的に東海が一番出てきてるんだから
九州以外などと言わずに、東海の勢力が、と言え
また微妙な嘘の前提から畿内に邪馬台国もっていこうとしてるよね?
942 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:19
関西には武士とは別格の、公家とか身分の高い人がいたし、
天皇家も大久保が動かすまで、ずーっと京都に居たことだし、
古代日本の中心が関西であったことは明らか。
全然場所の違う、佐賀の吉野ヶ里なわけないだろw
943 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:20
ここは関西人が多いねw
944 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:22
945 :
邪馬台国論争は思想の代理戦争である:04/03/07 02:22
九州説の根底
「邪馬台国が畿内にあるとするとそれは大和朝廷の前身に他ならない。
邪馬台国という天皇家の祖先が、中国如きに朝貢するのは問題がある」
「神武天皇の東征はじめ神話はすべて史実である。従って邪馬台国は九州である」
畿内説の根底
「神話はすべて虚構である。従って「東遷」というのも虚構でなければならない。
高天原をはじめ神話の里、天皇家の父祖の地である九州は、実態はただの田舎であり
歴史の進行に何の関係もあろうはずがない。畿内連合も九州は疎外していたはずである」
「一般に、支配者による人民に対する弾圧は必ずあるものである。
古墳建設は、人民に対する不当な搾取・抑圧・弾圧の最たるものであるが、
邪馬台国も古墳事業に手を染めているはずだし、そうでなければおかしい。
九州には見るべき古墳はなく、畿内には見るべき古墳がある。従って邪馬台国は畿内である」
「中国に朝貢するのがただの九州の一王権では、中国も馬鹿にされたものである。
当時中国は東アジアで絶対で強大な存在であり、朝貢した臣下である邪馬台国は
やはり「天皇家」かもしくはその源流であるに違いない。従って邪馬台国は
大和朝廷に発展したとするべきであり、所在地は畿内と見るのが適当である」
考古学的な裏付けを欠いた言説にどの程度の意味があるんだろうね
947 :
邪馬台国論争は思想の代理戦争である:04/03/07 02:26
>>941 >土器片の量が王権に関わると言うなら、圧倒的に東海が一番出てきてるんだから
>九州以外などと言わずに、東海の勢力が、と言え
>また微妙な嘘の前提から畿内に邪馬台国もっていこうとしてるよね?
畿内説論者が必要以上に九州を疎外する理由は
「九州が神話の里であり天皇家の父祖の地」だから。
九州を考えること自体が学問的に相応しくないんだろう。
畿内説はマルキシズムのニオイがプンプン。
948 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:27
>>945 うわっー、すごい勉強になります。
ご丁寧にありがとうございます、
949 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:27
>>945 ↑
畿内説の言い分だけ妙に多いな(w
これも畿内説論者書いたの嘘、微妙に嘘が散りばめられている
おまえら関西人は嘘吐き集団だな
嘘吐き考古学者なんか信用できるか。
>>947 論理的に反論できなくなるとレッテル張りか。
ワンパターンな奴らだw
951 :
邪馬台国論争は思想の代理戦争である:04/03/07 02:32
九州説は戦前、畿内説が戦後流行ったのは、結局そういうことなのよね。
だからもっと冷静にならなければならない。
いずれにしても、文献・考古学のバランスが必要。
畿内説論者は自分たちの分野(考古学)でしか物を見ようとしない。
952 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:34
>>946 >考古学的な裏付け
だからマキムクの事を聞いてやっただろ、結果巨大連合かよ(W
考古学的にはマキムクの「考古学的な裏付け」では何も解らん、ということだ。
解っているのは「交易をしてたであろう」ということだけ
つまり裏付けでもなんでもない。
953 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:41
どっちにしろ西日本のどこかにあったわけだし、
九州も関西も西日本の人間からしてみれば、どっちでもうれしいじゃん。
それに比べ、
東日本は日本の歴史の重要な部分に全く関わることも出来ずに、可哀想だべ
>>951 文献がみんな九州説の味方だと思ってる所がおめでたいなァ
956 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:42
邪馬台国は金印と阿蘇山の国だったわけで、なんで畿内説がありうるのだ?
考古学以前に考える必要があるだろう。
957 :
邪馬台国論争は思想の代理戦争である:04/03/07 02:43
>>954 畿内説に有利で、九州説に不利な文献があるなら
指摘してみなさい。相手してあげるから。
958 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:43
畿内の国がいかに巨大だったかに関係なく、邪馬台国は文献に載っているだけ。
>>956 文献をどう曲解すればそんな結論になるんだか。
それと、どういう妄想で親魏倭王の金印が出て来るんだか
960 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:46
>>954 おまえのような畿内説亡者の逃げ道はもう無いんだよ
考古学的に駄目なら文献
文献が駄目なら三輪山信仰?
それでも駄目なら思想論を持ち出して誤魔化す。
関西人だけじゃないのか?我が町に邪馬台国を的な関西説
九州だろうが関西だろうがどこでもいいが、おまえら関西説亡者の嘘は我慢ならんな
961 :
邪馬台国論争は思想の代理戦争である:04/03/07 02:48
そうだ大変なこと忘れてた
畿内説論者は「韓西人」が多いんだったw
962 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:51
畿内の出土物から、邪馬台国の物証がひとつもないのは明白。
邪馬台国は文献資料に出てくるだけだから、基本は文献学となる。
963 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:51
捏造と誇大妄想の関西説を見てると
やはり関西人=チョン賎人
九州電波は御乱心のようでつ
もう空疎な罵倒しかできないのだなぁw
日食厨は今宵も元気だw
966 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:55
なんか今晩はすごくいい勉強になりますた。
最初は関西には誇るべき文化もそんなにないし、
古代日本の中心は関西であり、
邪馬台国ぐらい関西にあったとしとくのがいいと思いましたが、
このスレをざっとみたところ、九州のような気がしてきました。
天孫降臨、やっぱり九州は輝かしい経歴の土地柄ですね
967 :
邪馬台国論争は思想の代理戦争である:04/03/07 02:55
魏志倭人伝は九州が9割くらい有利
中国のその他の文献も九州が8割くらい有利
記紀(神話)も九州が9割9分有利
968 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:56
こうして畿内説はレッテル貼りに終始するのであったとさ・・・・
969 :
日本@名無史さん:04/03/07 02:58
「倭国乱」→「その頃九州には戦乱の跡が無い」→「倭国とは西日本全体である」
とても古代史を学んでいる人間の考え方とは思えませんw
971 :
日本@名無史さん:04/03/07 03:01
というか、もう本人達(畿内説)も解ってるだろ
畿内に邪馬台国は無さそうだ、ということが。
意地で思想?を通そうとするから電波と嘘で塗り固めないといけなくなる
972 :
日本@名無史さん:04/03/07 03:03
最近、日本神話関係の本が、つぎつぎと出版されている。よろこばしいことである。
そもそも、学問的理論というものは、より統一的な理論が望ましいものである。
日本古代史の分野でいえば、『魏志倭人伝』をはじめとする外国文献も、
『古事記』『日本書紀』などをはじめとする日本文献も、考古学的な事実も、
神社などの由来も、民俗学的な事実も、あるいは、自然科学的な研究成果も、
総合的・統一的に説明できる理論が望ましい。
たとえば、『魏志倭人伝』の範囲内だけで、
自説は「矛盾がない」と強く主張したとしても、
『魏志倭人伝』は、そもそも情報が不足しており、
他にも同程度に「矛盾がない」説を構築できる可能性がある。
あるいは、考古学の説明だけに終始し、日本文献などを、
一切かえりみない理論なども、疑問がある。考古学の分野での年代観が、
きわめて不安定で、容易に揺れ動く性質をもっているからである。
遺跡・遺物などの、新聞・テレビなどで発表されている年代に、
異論が存在したり、反証のあげられるものがすくなくない。
ふー、キチガイにひっかきまわされただけでこのスレも終わりか。
良スレも知障一人来るだけでこんな有り様になっちまうんだな。やりきれん。
974 :
日本@名無史さん:04/03/07 03:05
自分の部屋のなかだけの観測にもとづいて、
「地球は、確実な観測にもとづいて平らだ。これをみとめてほしい」
などと強く主張してはならない。
学問というものは、ある分野だけで孤立すると、かならず独断におちいる。
旧石器捏造事件なども、その分野だけで孤立し、その分野のなかだけで、
学問的権威のヒエラルキーが成立していたために生じた事件のように思える。
学説や研究の良否を判断する一つの重要な基準として、
「古代史全体へのより大きな目くばりが行なわれているか。」
をあげることができるだろう。他の情報を排除し、
ある分野のなかだけで矛盾のない理論などはあぶない。
>>941 別に、邪馬台国は九州でいいですよ。
景行親征で帰順した女酋が、卑弥呼の子孫であっても、
別に不思議とは思いません。
九州邪馬台国が大和を征服して東遷したという説は、
地形的に考えて、余りに非現実的だとは思いますが。
神武の東征伝説は、ずっと時代が下って、
応神の大王位簒奪の記憶が原型になっていると思ってます。
>>975 そいつ(多分日食厨)は論理的な説明を受け入れる知性を持たないから
そういうマトモな説明しても無駄だよ。労力の無駄。オレも随分無駄な事したから判るw
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日本@名無史さん:04/03/07 03:43
なんか必死だね 畿内説
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