1 :
日本@名無史さん :
03/02/20 14:42 九州にいた卑弥呼の子孫・神武天皇が東征して、大和地方の大国主命を倒し 大和朝廷を作った説がありますが、空白の4〜5世紀がすごい謎なんですが 大和朝廷はいつからできたのですか?そして誰が作ったのでしょうか。 そして神武は実在の天皇なのでしょうか
,
6 :
日本@名無史さん :03/02/20 15:02
てか日本史版って、まぢめな人、少ないみたいでつね・・ 僕が馬鹿でした・・ここはネタスレ傾向になりつつあるのを見抜けなかったので ごめんなさい・・・アホ達
7 :
日本@名無史さん :03/02/20 15:11
邪馬台国と大和朝廷は時期も場所も違うからあまし関係ないんじゃないですか。 ただ発音が似ているというだけでしょう。
瀬戸内海あたりから機内に入ったのが大和朝廷の始祖なんじゃないの? 邪馬台国はその段階で滅ぼされたか、あるいはそれ以前に滅ばされていたと思う。 それと、神武は実在の天皇なんじゃないかな。 日本書紀は神話と史実が明らかに別れてるし、英雄的な人物として語られていた王が、 日本書紀編纂時に初代天皇に据えられたんじゃないかな。 いや、リア高の妄言なんですが。
邪馬台国は白村江の海戦で消滅したが、いわゆる「大和朝廷」の祖先は九州の吉野ヶ里に上陸した人々で「倭奴国」を造り、東に移動して行き畿内に「秦王国」を建てた。 邪馬台国は九州に栄え、九州で衰えて行った。 神武は邪馬台国の王のひとりで、「大和朝廷」とは何の関係もない。
「空白の4〜5世紀」とか何をいってんのか?
>>1 は白痴?
>>8 邪馬台国と倭の五王の間に断絶は認められないから、それは無理。
>>9 dempaは消えてください
11 :
日本@名無史さん :03/02/20 22:34
邪馬壱国
12 :
世界@名無史さん :03/02/20 22:38
邪馬台国が漢王朝なら、畿内の大和朝廷は劉備の蜀漢みたいなもんか?
13 :
日本@名無史さん :03/02/20 22:40
実は魏書が間違ってるってオチはないのか?
14 :
日本@名無史さん :03/02/20 22:47
16 :
日本@名無史さん :03/02/20 22:49
病国では?
17 :
日本@名無史さん :03/02/20 22:49
18 :
日本@名無史さん :03/02/20 22:50
しかし何だな。大和は何でヤマト? ダイワだよな普通。
19 :
日本@名無史さん :03/02/20 22:51
りそな
20 :
日本@名無史さん :03/02/26 22:58
邪馬壱国だっつうの。邪馬台国って何?
21 :
日本@名無史さん :03/02/26 23:08
現在の皇統の祖になる敏達天皇の祖父母を見てみますと、 ・父の父=継体天皇 ・父の母=手白香皇女(=仁賢天皇の娘) ・母の父=宣化天皇(=継体天皇の息子) ・母の母=橘仲皇女(=仁賢天皇の娘) みごとに両系統から引き継がれていることが分かります。 母系はすべて前王朝である仁賢天皇から来てるのですよね。 九州王朝と近畿王朝の統合でも同じ構造が見て取れますよ。
あんた後漢書しらないの?
23 :
日本@名無史さん :03/02/26 23:11
>>20 『邪馬臺』です。
この『臺』という字は『台』とも書かれます。例として臺灣→台湾です。
24 :
日本@名無史さん :03/02/26 23:21
>>18 大和がなぜヤマトなのかは、日本の歴史を考えるとわかるよ。
もともと自分達の国をヤマトとよんでいた(中国音写で邪馬臺)わけだけど、
同時に周りからは倭と呼ばれていた。つまり、ヤマト=倭。
一方、倭の字の意味合いからそれを避けて、
我々日本人は倭の代わりに和と用いるようになった。ヤマト=和。
25 :
日本@名無史さん :03/02/26 23:43
魏志倭人伝では邪馬壱国だよ〜ん。 魏志倭人伝の最後の文章「因詣臺献上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹」 で「臺」の字が使われるね。この「臺」の字は1文字で「魏の政庁」を表すよ。 だから「臺」は貴字であって卑字ではないね。こんな字が「ヤマ・・」には使われないね。 そうすると、可能性は2つ。 (1)本来、邪馬臺国というべきところを「臺」の字を避けて「壱」と書いた。 (2)もとより、邪馬壱国。 しかし、(1)はありえない。なぜなら発音が違うから。
イヨタン・・・
27 :
日本@名無史さん :03/02/27 00:02
>>24 多少時期は下るけどね
大倭→大養徳→大和
8世紀後半のことだね。
28 :
日本@名無史さん :03/02/27 00:14
なぜかあまり指摘されないるけれど、ヤマトタケルの神話に、 「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」と書いてある。 魏志倭人伝によれば拘奴国は、邪馬壱国の南にある邪馬壱国の敵国。 拘奴国が勢力をのばして大和をつくったということ。
中国側は邪馬台国や卑弥呼に邪や卑の字を当てて蔑んでいますが 当時の日本側は邪馬台国を山大国、卑弥呼は日巫女と捉えていた。 ヤマトは山都が元々の語源で、大和はその意味をを込めて大和という字を当 てた。山大国の都だから山都=ヤマト・・・ だから邪馬台国の都はヤマトだ、と言いたいところだけど邪馬台国は九州に あると思うからこんな説はなりたたなくていイヨ
古代史初心者なんですが 邪馬台国の卑弥呼は30あまりの国々が共立して女王となったと 後漢書に書かれていますが、拘奴国はその30国合わして戦っても 勝てないほどの強大な国だったということになるんですか?
やまとしうるわし
33 :
日本@名無史さん :03/02/27 01:18
簒奪された九州王朝。カワイソウ。
邪馬壱国は一発変換できねー
白村江の戦ののち半島より九州へ神武が来て東征し 大和を建国し天皇の地位を継承し 九州邪馬台国に大宰府を置き 倭国王が帰る時にはすでに倭国滅びて日本天下 適当
37 :
日本@名無史さん :03/02/28 20:38
魏志倭人伝では、邪馬壹國だよ〜ん。 邪馬台国や邪馬臺国や邪馬壱国じゃないよ〜ん。
38 :
日本@名無史さん :03/02/28 20:47
>>37 旧字体新字体の違いくらい大目に見てやれよw
「魏志倭人伝」にはこだわらないんだなw 三国志魏志巻三十・東夷伝倭人条だよ〜ん。
>31 狗奴国が強大かどうかはわかりません 7〜9Cの朝廷による隼人・蝦夷征討やら 近代の例ですと、ベトナムなどの強大な側が 侵攻した為に、苦戦する例も想定されるかと
41 :
日本@名無史さん :03/02/28 23:43
42 :
日本@名無史さん :03/02/28 23:44
ちがうよ〜ん、そりゃ「デカパン」だよ〜ん。
43 :
日本@名無史さん :03/02/28 23:48
>>31 三十国ではなくて百余国。
三十国というのはそのうちで「使訳通ずるところ」(実は倭人伝本文中の国名の数)
従って、邪馬台国を中心とする国々(最低30国、最大で100?)と
狗奴国を中心とする国々(最低1国、最大で70?)に分かれていた。
45 :
日本@名無史さん :03/03/01 12:22
>>25 たしかに現存している宋代以降の『三国志』版本では「邪馬壹国」だけど、
『三国志』が写本で伝えられていた時代に成立した『隋書』や『太平御覧』が引用する
『魏志』倭人伝の本文は「臺」の字となっている。その間の『梁書』『通典』も「臺」。
したがって7世紀前半にはまだ「臺」の字の写本があって、宋代の版本から誤刻か誤写で
「壹」の字が固定してしまったのだろう、ということが事典に書いてあった。
>だから「臺」は貴字であって卑字ではないね。こんな字が「ヤマ・・」には使われないね。
「卑彌呼」の「彌」なんかは貴字かどうかは知らないけど、好字だよね。
夷狄の名称だからといって、良い字が全く用いられないわけではないと思うけど。
邪馬台国の邪馬台=大和と思われ。 当時向こうから見れば東の果てである田舎の島国(現代でこそ世界でトップクラスだが)に大の字を使いたくなかったのだろう。 即ち、大和=大きい、偉大なる倭国の意味で大倭国なのだ。 それと邪馬台国の台。これは当時大陸で<ト>と読まれていたらしいが、貴字でありその漢字を使用し<トと発音>させたくなかった大陸の勝手な読み替えがあるかと。 それを考えれば台与を<イヨ><トヨ>どう呼んでいたかも考ええるに足ります。
47 :
日本@名無史さん :03/03/01 15:55
「壹」も「一」の意味で、卑字ではないようだよね。 それはさておき、三国志の時代では「臺」は「魏の政庁」を表す畏れ多い字だったようだから、 貴字中の貴字。原本に「臺」の字が使われていたとは考え難いんだよなあ。 それに、仮に「ト」の音を表したいのなら、何か他の字を使えば済むことなのにね。 中国の文献って、こういう肝心なところに限って疑問が残るんだよなあ。 なんともねー。
48 :
日本@名無史さん :03/03/01 17:05
>>44 >邪馬台国を中心とする国々
魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国は倭国の女王の都が置かれた場所である。
邪馬台国が中心となる、という記述はない。
倭国の中心は女王による政府組織=政権である。
首都がたまたま邪馬台国に置かれたにすぎない。
49 :
日本@名無史さん :03/03/01 17:15
>>44 中国では百=∞というイメージだとどこかで聞いた。
当時の国ってって人口数十程度の小さなものから千単位の巨大なものまであったのでは?
1.もともと大陸と日本列島の貿易は博多の奴国が仕切っていた。 これを面白く思っていない、環瀬戸内海の国々が連合して 邪馬台国連合を作った. 都(一番大きい国)は奈良. 2.この環瀬戸内海邪馬台国連合のルートから外れた南九州の国々 =狗奴国にとっては面白くなく、貿易利権を奪取すべく、同じ く環瀬戸内海ルートからはずれた熊野あたりを経由して奈良を 征服した。 これが大和朝廷。 環瀬戸内海と太平洋沿岸を手中に収めたので、あとは同じく環 瀬戸内海ルートからはずれた出雲地方を仲間に入れたがった.
>>47 それはガセネタ。だったら臺獄なんてもんはない。
>>47 「台」が貴字だから異民族に使うわけない、というのは典型的なフルタ電波じゃん(w
まだ逝ってる椰子がいたとは・・・
>>48 そのとおり。漏れは44だが「邪馬台国を首都とする国々」に言い直すよ。
>>49 そんなことはない。倭王武の上表文に東55国、西66国があり合わせると121国。
隋書には軍尼120あり。国造本紀には国造144あり、すべて漢書の100余国と近い。
紀元前後のあたりから7世紀まで一貫して100余国で推移していたことは明らか。
53 :
日本@名無史さん :03/03/01 19:21
フルタでも何でも良いが、
>>47 は否定できない。
「邪馬台国と大和朝廷」じゃなくて、その間の「倭の五王」がある。 1)邪馬台国を滅ぼしたのが倭の五王で、倭の五王が大和朝廷になった 2)邪馬台国が倭の五王になったが、それを滅ぼしたのが大和朝廷 3)邪馬台国を滅ぼしたのが倭の五王だが、倭の五王は大和朝廷に滅ぼされた 4)邪馬台国が倭の五王になり、倭の五王が大和朝廷になった
age
57 :
日本@名無史さん :03/03/01 22:25
ここだけの話、三種の神器の鏡は卑弥呼が魏から貰った銅鏡なんですよ。 私が見たのだから間違いありません。
↑寒いよ
「鏡よ、鏡よ、この世で一番美しいのはだ〜れ?」 「それは卑弥呼様です」
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され るな!!) ●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い) ●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない) ●妙に気位が高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする (ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際にはた いてい、内面的・実質的に負けている) ●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!) ●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本 の常識は世界の非常識) ●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる) ●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす) ●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗) ●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ) ●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量) ●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険) ●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい) ●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、 世間体命) ●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度 も言ってキモイ) ●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い) ●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う) ●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬 する(不合理な馬鹿) ●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ) ●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷) ●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男 前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
61 :
日本@名無史さん :03/03/01 23:54
>「臺」は「魏の政庁」を表す畏れ多い字だったようだ >貴字中の貴字 ソースは?
ソ ー ス は ど こ ? ∧⊂ヽ ∧_∧∧_∧ ∩(,,゚Д゚)ノ 卩(´Д`三 ;´Д`)Ψ ∧∧ 彡 / ⊂ 三 つ (゚Д゚,,≡= )  ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⊂⊃ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (ξ';;::;;) (ξ';;::;;)
63 :
日本@名無史さん :03/03/03 18:04
,-ー─‐‐-、 ,! || | !‐-------‐ .|:::i ./ ̄ ̄ヽi ,|:::i | (,,゚д゚)|| < ソースきぼん。 |::::(ノ 中濃 ||) |::::i |..ソ ー ス|| \i `-----'/  ̄U"U
64 :
日本@名無史さん :03/03/03 22:17
ソースは、
>>25 にあるんじゃん?
魏志倭人伝そのものじゃん?
65 :
日本@名無史さん :03/03/03 22:42
ぼちぼちあの方の降臨がありそうな展開で、期待が高まる今日この頃。
66 :
日本@名無史さん :03/03/03 22:45
>>25 「臺(台)」と書くところを、けなす意味で意図的に「壹(壱)」という風に
似た字に誤記したんじゃないの?
高太王碑文でも、「百済」と書くところを「百残」と書いたりしてるし。
西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。) 2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい) 3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。 9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか? 政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。 5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。 オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。 9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。 記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。 これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
25はソースにもなんにもなってない。 臺の字に政庁の意味があるってだけでどうしてそれが 異民族の固有名詞の当て字に使われないって話になるの?
>>67 のハリコはサイト君とは関係ない奴がやってると思う。
70 :
日本@名無史さん :03/03/03 23:05
>>68 「倭」も「邪」も「馬」もけなす字だから、「臺」のような高貴な字を
使うわけないと言ってるんだろ。
71 :
日本@名無史さん :03/03/03 23:08
>>68 >「臺」は「魏の政庁」を表す畏れ多い字だったようだ
>貴字中の貴字
のソースにはなっているのでは?
>>47 では、
>原本に「臺」の字が使われていたとは考え難いんだよなあ。
>それに、仮に「ト」の音を表したいのなら、何か他の字を使えば済むことなのにね。
>中国の文献って、こういう肝心なところに限って疑問が残るんだよなあ。
>なんともねー。
ということで、疑問を発しているレベルね。
>>70 「邪」は貶めるための文字だけど、
「馬」はとくに良いとか悪いとかのニュアンスはないと思う。
>>71 25に示されたものだけでは
「臺」の字が「貴字中の貴字」かどうかは分からない。
他の用例も持ってこなきゃ。
73 :
日本@名無史さん :03/03/03 23:18
まあ、この場合貴字であれば充分で、 貴字中の貴字かどうかはこの際重要ではないかなとは思うが、 いずれにしても、他の用例とか熱心に研究している人がいるなら、 発表されたし。
「倭」は固有名詞で他に文字がないのだから、けなすも糞もない。 「邪」も「馬」も韻書の冒頭の文字を機械的に当て字に使ってるだけだから けなす意図があったとは思われない。 「臺」は「魏の政庁」ではなく単に「政庁」の意味。別に貴字でもなんでもないわけだが?
「臺」はもともと役所だろ。
>>25 のソースとやらは
もともと役所の意味の文字をそのまま使ってるだけで、
なんのソースにもなってないだろうが。
76 :
日本@名無史さん :03/03/06 19:13
大体邪馬台国ってあったのかよ?うさんくせーな。
中国の妄想。半島系と整合性がない。
78 :
日本@名無史さん :03/03/06 23:06
っていうか、中国の史書において邪馬壱国なんてあんのは、 魏志だけなんだしよ、他の史書は全部邪馬台国。 魏志においては、原本が存在せず最古のものが12世紀。 後漢書、梁書、隋書は邪馬台国、しかも梁書、隋書は 「魏志によれば邪馬台という所なり」とあるから、邪馬壱なんて もんは存在しない。
79 :
日本@名無史さん :03/03/06 23:20
後漢書や梁書の最古の版本は三国志よりもっと新しいだろ それに三国志で最も注目すべきは静嘉堂文庫蔵明景北宋本の 「邪馬一国」だ
ヒミコって中国人だったんだな コーエーの決戦2で初めて知ったよ
中国の史書に、たとえ原本や近い物が有っても隠蔽するだろうよ。 >80 気が付くのが遅い。
82 :
日本@名無史さん :03/03/07 20:38
仮に、邪馬臺国が正しくて、臺の字が政庁を表すとすれば、邪馬臺国というのは、 「ヤマという政庁の国」で、真の名前は「ヤマ」かい? 「ヤマト」じゃない?
83 :
日本@名無史さん :03/03/07 21:32
人生を投げた人たちが惨めに集い慰めあうスレッドはココですか?
84 :
日本@名無史さん :03/03/07 21:36
自虐的なやつだな。
85 :
日本@名無史さん :03/03/07 23:53
真の名は「マト〈=モト〉」です。 「ヤ」は尊称・強調詞です。したがって「ヤ・マト国」が正解。 このマトは「日の本」の「本」に当たります。 「日」も尊称です。時代や地域によって、尊称が変化しただけです。 われわれが自分たちを「本人」と呼ぶのはそういうわけです。
86 :
日本@名無史さん :03/03/08 02:29
>>79 >後漢書や梁書の最古の版本は三国志よりもっと新しいだろ
んな訳ねーだろ。
87 :
日本@名無史さん :03/03/08 02:32
日本人の俺としては、中国の朝貢国だった邪馬台国はどうでもよく、 邪馬台国と対抗していた拘奴国が日本の直系祖先であって欲しい。
88 :
日本@名無史さん :03/03/08 02:52
>>86 百納本二十四史の注を見ればわかるが
魏志も後漢書も最古の版本は南宋紹興年間の刊行。
従って百納本後漢書には紹興本を採った。
しかし魏志にはこれより半世紀後に出た紹煕本があり、
これは北宋本の重刻であるため内容はより古く
魏志は紹煕本を採っている。
蜀志・呉志は紹煕本が現存せず紹興本を採用。
89 :
日本@名無史さん :03/03/08 02:58
>>88 あなたの言っている事かなりでたらめですよっ!
ぷっ
>>87 狗奴国だって呉に朝貢してた可能性が指摘されてるね。
記録が残ってないから否定する説もあるけど。
呉の年号の入った鏡もでてるわけだし。
呉は滅亡したからそのへんの情報は十分でないのかも知れない。
呉の年号の入った鏡って兵庫県と山梨県からでてるんだよね。 ここが狗奴国ってこと?
92 :
日本@名無史さん :03/03/08 03:54
そうです。兵庫県と山梨県は確実に邪馬台国の勢力範囲ではありませんでした。
93 :
日本@名無史さん :03/03/08 04:07
>>92 初めて聞いたぞ、そんな「確実」。
誰が提唱してるんだ?
94 :
日本@名無史さん :03/03/08 04:28
>>93 邪馬台国の勢力圏で、魏と交戦状態の呉の年号の入った鏡がどうして発掘される?
95 :
日本@名無史さん :03/03/08 04:37
俺は88だ。手元の百納本(戦後の台湾版だけど) 三国志と後漢書を見て書いてるんだが? 君は史料を知ろうとしないようだね。
96 :
日本@名無史さん :03/03/08 06:04
97 :
日本@名無史さん :03/03/08 10:09
98 :
日本@名無史さん :03/03/08 17:15
俺は古代史に関してはズブの素人だが、そんな俺でも断言できる。 邪馬台にしろ邪馬壱にしろ「現代」の「日本」の発音で「やまと」に 似ているからと、比較するのは全くのナンセンス。 マサチューセッツ→真中攝津、オハイオ→おはよう、等々、よって日本語は ネイティブ・アメリカンの言語から派生した(もしくはその逆) などという主張と同列。 少なくとも音韻上は「邪馬台(邪馬壱)」と大和は全く無関係、たまたま 現代(近代)のよみで発音が似ていただけ。
99 :
日本@名無史さん :03/03/08 17:22
徳島では以前に山に住んでいる人々を山人(やまと)とよんでいたそうです。 また、家の前にテラスのように広くとった部分もやまとというらしいです。 そして、四国には約17万人規模の山上国家があったようで、吉野川中流から 上流にかけ今でもかなりの集落が見えます。 やまととは、山に住んでいた人々が新しい土地(テラス)に住み移って使われた名前と思うが
101 :
日本@名無史さん :03/03/08 17:42
>>98 ありそうな方に学説は傾いていくんだよ。
比較するのは全くナンセンス、という主張は誰も耳を貸さないと思うな。
それが答えならみんなとっくにそうしてるって。
102 :
日本@名無史さん :03/03/08 18:01
>100 問題にすべきは3世紀頃の音韻ですね。 98の説は乱暴ですが、邪馬台国と大和の関連を論ずるなら 前提として、記録された当時の読みが「やまたい」であることを 証明する必要がありますね。
え?古代後期北方音で「やまたい」??
104 :
日本@名無史さん :03/03/08 18:31
中国語をやってる友人が、古代後期北方音だと 「ジャバダウ」みたいな音だと言ってたよ (うろ覚えだし仮名では表せないらしい)
似ても似つかないじゃん
106 :
日本@名無史さん :03/03/08 18:47
>>98 まさか、ニッポン=ジャパンは否定しないよな?
>106 ごめん、主旨が判らない 否定しないよ
108 :
日本@名無史さん :03/03/08 19:00
「ウジャマダ」みたいな発音という人もいた。 三重県の宇治山田らしい。
>106 今、問題になっているのは、「邪馬台」と「大和」が当時の読みで 似ていたか、です。あなたのは、問題のすり替えです。
110 :
日本@名無史さん :03/03/08 19:12
すり替えっていうか・・・106のは、ただの冗談だろ? ふつーに議論したければ、すればいいと思うよ。 2ちゃんだからさ、気らくにいこうよ!
111 :
waiwai :03/03/08 19:14
112 :
日本@名無史さん :03/03/08 19:16
106が言いたいのは チパング→ジパング→「ジャパン」 日出るところ→日の本→「ニッポン」 このように元はまるで似てない、無関係の言葉も時がたつと たまたま似る(似てる?)こともあると、98を援護しているのだよ
>>109 今、問題になっているのは、当時の中国人にとっての「邪馬台」が、
当時の日本人が発する「やまと」に似ていたかです。
あなたのは、問題のすり替えです。
記録された当時の読みが「やまたい」である必要はありません。
>113 ご指摘の通りです!。不正確でした。訂正します。 で、「やまと」に似てたのかな?
115 :
日本@名無史さん :03/03/08 19:24
問題だよなー いろいろとさ
116 :
日本@名無史さん :03/03/08 19:27
ヒョンダイ→ヒュンディ→ホンダ?の例もあるよ
>113 これもすり替えの常套手段です。主題から逸らそうとする。 98の発言の主旨は、「当時の発音で二つの言葉が似ていたか」 であり「やまと」「やまたい」は二次的なことです。
118 :
106=113 :03/03/08 19:44
>>114 あっさり認められると困ります、、、(w
こちらこそ揚げ足とりみたいでスマソ。
暗黒の世紀と呼ばれるくらいなので、楽しく推理したいですね。
>>117 漏れがいいたいのは、、、
つか、お前だれだよ?
>117 113さんをいぢめないで!俺を援護してくれてるんだから! でも、まじなはなしどう思います?106=113さん べつにやりこめようとしてる訳じゃなくて 俺かなりまっとうで単純な判りやすいことを言ってるつもりなんだけど。
120 :
106=113 :03/03/08 20:14
>>119 仮に当時の発音で「邪馬台」と「やまと」が似ていたとしても、
双方の同一性を証明することはできないと思うよ。
でも、だからといって偶然だと決めつけることもできない。
魏志倭人伝など他の史料からの二次的な「推理」だよ。
ちなみに史料を持たない「マサチューセッツ→真中攝津」は、
「推理」じゃなくて「こじつけ」だけどね。
121 :
日本@名無史さん :03/03/08 20:21
「日本」→中国の発音?「ジいーホン」→ジーパン→ジパング→ジャパン てことでいいんですよね?
122 :
日本@名無史さん :03/03/08 20:33
>>121 朝鮮語よみのイルボンが変化したのでは?
正直な話、俺も自分の考えが間違ってるんじゃないかとも思うんだ。 だってこんな単純な、それも根本的なことを今まで誰も考えなかったはずがないもんね。 101さんの言う通り、長い議論を経てありそうな説に収斂されて行くと思うんだ。 然るに、俺の考えの通りだと邪馬台国、大和の議論がまるっきり無意味になっちゃう。 つまりこのかんがえには、俺みたいな素人には思いもつかない欠点があるはずだ。 そう思っていろんな本とか読んだんだけど、邪馬台と大和の読みが似ていた と言うのは見つけられなかった。120さんの言うように「似ている」イコール 「同一の証明」ではない。でも先ずこれが証明されなければ、ここでの議論は スタートラインにすらたてないはずだ。誰か教えてくれ俺の考えのどこに間違いがあるのか。
124 :
日本@名無史さん :03/03/08 21:10
邪馬台国九州説は、今となっては電波説じゃないの。 文献は知らないが、少なくとも考古の世界では終わりだよ。 倭王権の前身が九州から移ってきたというのは有力説だが、 瀬戸内海地域政権の連合体である、吉備から移ったという説 も有力。いまだに弥生期の畿内から出たという人もいる。
125 :
日本@名無史さん :03/03/08 21:11
まず発音の証明は不可能。(当時、テープレコーダーはないよ・・・藁) したがって、これのみにスポットを当てていたのでは、「推理」は少しも進歩しない。 あくまでも、総合的に見ていくのが史学です。 この手のスレをのんびり見ていけば、総合的に見ていくことがどういうことか、わかってくると思うよ。
126 :
日本@名無史さん :03/03/08 21:19
邪馬壱国は九州にありで決まりでしょ。 (邪馬壱国は考古学では一切不明ですよ。) 問題はその後。大和王権とどうつながったのか。関係ありかなしか。 関係ありとすれば、どう関係ありか。
127 :
日本@名無史さん :03/03/08 21:26
そりゃ関係はあるでしょうねー。 歴史は常に紆余曲折を経るものですからね。 それを楽しむためにも、頭を柔軟にしていきたいもんです。
128 :
日本@名無史さん :03/03/08 22:08
邪馬台国は現在のエクアドルと国交があって、 通訳とかもいて日本とエクアドルを行き来してた。 ってどこかのサイトで見た。
129 :
エクアドル人 裸国人 :03/03/08 23:00
私の 祖先が裸国王でした。話変わって 何故 伊都国 末ラ国 対馬国は 素直に読むのに 邪馬壱国 は発音を深く掘り下げて考えるのかな?
130 :
日本@名無史さん :03/03/08 23:02
131 :
日本@名無史さん :03/03/09 02:52
>>95 百納本とくに台湾ばんは私ももちろんもっていますが全てではないがあてになりません。もっともっと学力をつけてくださいそれが私のねがいです…
132 :
日本@名無史さん :03/03/09 05:27
邪馬台国は大和朝廷になった! 根拠はないがロマンはある!
133 :
日本@名無史さん :03/03/09 05:44
というか、古事記・日本書紀に邪馬台国らしき記述がないところを見ると 大和朝廷が邪馬台国を滅ぼしたと考える方が論理的。 日本書紀は卑弥呼の朝貢を神功皇后のところに入れてるけど年代も合わないし。 続日本紀に銅鐸が出てきて何なのか誰もわからなかったという記事がある。 銅鐸文化の中心だった茨木市を邪馬台国と言ってみる。
>>133 大和朝廷が滅ぼしたのであれば、出雲の国譲りのように何らかの形で残っていてもいいだろう
王朝の発展の記録なのだから誇らしくかかれていてもいいと思うが
記述が無いのは、大和朝廷の征服以前に滅んでしまっているか、
あるいは邪馬台国=大和だと見るほうが自然
135 :
日本@名無史さん :03/03/09 06:59
136 :
日本@名無史さん :03/03/09 09:14
考古学は新発見遺跡一発で 大逆転!!
>>135 ネタならもう少しギャグっぽいのをキボンヌ。
あなたたちは、一体何者なの? 何をして生活してるの?
139 :
日本@名無史さん :03/03/09 15:23
>138 ゲームの原作者です。
140 :
日本@名無史さん :03/03/09 15:59
神武天皇はイスラエル人
141 :
日本@名無史さん :03/03/10 00:18
>邪馬台国畿内説が正しければ、倭人伝の航海日数は正確だということになり なぜ? 畿内説と何の関係があるのかな?
142 :
日本@名無史さん :03/03/10 00:23
>>133 日本書紀の登場人物の年代がおかしいなんてのは初期の人物の
ほとんどがそうなのであって、卑弥呼を神功皇后としているが
年代が合わないから古事記にも日本書紀にも邪馬台国は
書かれていないのだ、という主張は変ですよ。
日本書紀の主張は邪馬台国は紛れも無く大和王権そのものだと
いうことなのです。
143 :
日本@名無史さん :03/03/10 00:30
だけど日本書紀は卑弥呼没後の壱与(台与)の朝貢まで 神功紀に入れてるでしょ。 大和には存在しなかった邪馬台国の「女王」の事跡を取り入れる ために神功紀を特設したと考えるべきだと思うよ。
144 :
日本@名無史さん :03/03/10 00:32
>>140 イスラエルは国名であって、民族としてはユダヤ人。
>>144 種族としてはヘブライ人。
イスラエルはエロヒム崇拝を中心とした諸部族の信仰共同体。(のちに国名に転化)
ユダヤはヘブライ人の中でイスラエルに参加せずエホヴァを崇拝する部族。(のちに民族名に転化)
146 :
日本@名無史さん :03/03/11 00:44
>>142 >>143 日本書紀は注記でそれとなく魏志を引用しているだけだが、
読者が卑弥呼や壱与を神功皇后と(勝手に)思うように構成されているので、
そう思うのも無理はないが、直接そう言っている文章はなかったように思ったが?
147 :
日本@名無史さん :03/03/11 01:24
つまり神功皇后伝承にはもともと卑弥呼であるという証拠は含まれてなかったが 日本書紀の編者の頭の中では卑弥呼=神功皇后という考証があって その上で日本書紀の編年(年代設定)をしたということ。 日本書紀編纂者の説と原伝承をごっちゃにしたらいかんよ
148 :
日本@名無史さん :03/03/11 01:37
>>146 を補足すると、「或る本に曰く…」の形式でで引用されており
魏志の名前すら載せていない。
だが引用の仕方や、そのエピソードが挿入されている年代を鑑みると
ある特定の結論に導こうとする意図が感じられるのは否めない。
こういった作為的な、ある意味下手糞な嘘が神功皇后創作説の根拠のひとつ
になっているのはなんとも皮肉なもの。
149 :
日本@名無史さん :03/03/11 02:23
やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近からん者は寄って目にもよく見よ、 我こそは、白き羊と青き狼の末裔、 天つ日高見より国つ日高見にのぞみたる、 高天原より天つ日嗣を携えて、 筑紫の日向の高千穂のクシフル峰に天下れり、 アメニギシ・クニニギシ・アマツヒコ・ヒコ・ホノニニギの命!
>>149 朝青龍を想像しちゃうぞ・・・
今日も勝ったね。
151 :
日本@名無史さん :03/03/11 03:14
天照大神=オオヒルメムチ→大日靈貴(本当は靈ではなく「巫女」を表す [雨+口口口+女]なのだが)=大日巫女貴=日巫女=卑弥呼 であるから天照大神=卑弥呼。 結局邪馬台国は大和王権の前身もしくは母体であると言える。
ヒミコにゃだんなもこどももおりやせんぜ?
153 :
日本@名無史さん :03/03/11 06:09
邪馬台国にはそもそも男の王の家系があったわけで、卑弥呼やイヨの 類は官房長官のような存在ではなかったかと。
154 :
日本@名無史さん :03/03/11 06:14
昔は近親婚が多いから、どいつもこいつも同じ一族の可能性が高いだろ
まさか大和朝廷にまでその法則を適用するんじゃなかろうね? みんな一族にしちゃうんだ。ふ〜ん。 系統も考えずにころころ官房長官も変えちゃうの。 こりゃ自民党も大変だわ〜
156 :
日本@名無史さん :03/03/11 22:08
魏志倭人伝ってどこまで信用できんの?適当に書いただけかもしれんよ
157 :
日本@名無史さん :03/03/11 22:16
>>156 すでに中央集権国家体制を樹立していた国が、
近隣調査のため皇帝勅令で編んでる史書だからなぁ。
それなりの信憑性はあると思うよ。
問題は、つじつまの合わない箇所をどう解釈するか。
適当だよ、半島系倭人の風習がなぜハヤト的なんだ? 想い入れが強すぎて、創作したのよ、。
159 :
日本@名無史さん :03/03/11 22:28
>>158 当時の皇帝に、国運に関わるような事項でウソの報告したら、
どういうことになるかわかるでしょ?
なぜ命かけてまで創作する?
>159 早く、中国が民主化するのを祈るのみ。
161 :
日本@名無史さん :03/03/11 22:43
>>148 おっと。麿は146でおじゃるが、日本書紀では、
「魏志に云はく、」の形で引用されてるよ。神功皇后の39、40、43年のところを見てね。
その他は、ごもっとも。
162 :
日本@名無史さん :03/03/11 22:46
>>156 魏志倭人伝ってどこまで信用できんの?適当に書いただけかもしれんよ
そんなこといってるとこうなるよ
日本書紀ってどこまで・・・
古事記、大日本国帝国憲法、日本国憲法、日韓条約、平壌宣言・・・・・
平安時代以前の歴史はすべて神話でよしって言ってるのと同じになっちゃうよ
163 :
日本@名無史さん :03/03/11 22:58
>>157 後漢書倭伝をあわせて読んでみよう。意外と補完できる。
164 :
日本@名無史さん :03/03/12 01:34
146氏、148です。 すみません、勘違いしてました。申し訳ないです。 それと倭人伝の信憑性だけど、個々の記事が実に具体的&写実的な部分と 曖昧な伝聞推定が入り乱れている点からして、複数の時代にまたがった情報であり 1回のみの訪問で書かれたものではないという考え方が、今は主流ですね。 また倭国の定義そのものも、日本列島のみではないはずですよ。
165 :
日本@名無史さん :03/03/12 02:18
>>163 んなわけねーだろ
後漢書倭伝が魏志倭人伝を換骨奪胎した作文なのは常識だろうが
166 :
日本@名無史さん :03/03/12 03:21
後漢書倭伝の記述には魏志倭人伝にはない記述もいくらもある。 まあ自分で読んでみることだ。 魏志倭人伝のみを典拠に書いたと判断できるようなものではない。
後に出来たものだからね そりゃ典拠はいろいろさ 信憑性は落ちる。
169 :
日本@名無史さん :03/03/13 00:27
「大和」と書いてどうして「ヤマト」と読むんだろうね? 不思議だよ。
170 :
日本@名無史さん :03/03/13 00:30
万葉仮名
171 :
日本@名無史さん :03/03/13 00:41
172 :
日本@名無史さん :03/03/13 00:50
>>169 中国で表記 「倭」
大和朝廷で「それウチや」
↑
「大倭」と表記
そのうちきれいに書いて「大和」
そんなこといっても読みは「やまと」
173 :
日本@名無史さん :03/03/13 00:53
倭もヤマトとは読めないみゅ
もともと日本人が自分の国を「やまと」と呼んでたけど、中国では
東方を「倭」と呼んでいた。
で、
>>172 の言うように「大倭」を「大和」と表記したけど、読み方は
そのまま「やまと」であったとさ。
,-ー─‐‐-、 ,! || | !‐-------‐ .|:::i ./ ̄ ̄ヽi ,|:::i | (,,゚д゚)|| < ソースきぼん。 |::::(ノ 中濃 ||) |::::i |..ソ ー ス|| \i `-----'/  ̄U"U
大和言葉に漢字をあてたんだろう
>174 もともと日本人てドンナ人間?それはともかく、 大和の地の周りには、山は在るの?
川もカワとは読めないし、山もヤマとは読めないね。
>>179 文字の意味に対して、土民の使っていた言葉を当てはめた例ですね
「倭」は自分を「われ」と呼んでいる人々を漢人が当てはめた字という説もあるようです
それを好字の「和」にし、さらに「大」と付加して「やまと」と呼ばせたということですかね
「和」は十七条憲法にもでてきますから、土民が好んだじでもあるのでしょう
しかし、ちっぽけな島国に「大」かよ
『日本列島に住んでいる人々またはその領域』という“倭”という文字の意味に対して、 土民の使っていた“ヤマト”という言葉を当てはめた例ですね。 つーか、ホントは逆。 “山”や“川”は土民の使っていた言葉に対して、同じ意味の中国人使っていた文字を当てはめた例。 だから、 土民の使っていた“ヤマト”という言葉に対して、 『日本列島に住んでいる人々またはその領域』という ほぼ同じ意味になる中国人使っていた文字を当てはめた。
>>181 誤解させたようですまん、3行目以降は179とは続いてません
「漢字を知らない卑賤なる蛮族」の自称を音写したのが「倭」であって
意味に対して漢字を当てたわけではないだろう。
「匈奴」や「鮮卑」が意味に対して表記しているのではないように。
後漢の時期に朝貢に来た倭人が「ヤマト」を名乗っていたのでは無く
「ワ」と名乗っていたらしいということだと思われる。
「ヤマト」が「大和」になるのは大和朝廷がやった事ではないでしょうか
183 :
日本@名無史さん :03/03/13 08:54
大和朝廷の成立における最も重要な神話が、三世紀の邪馬台国で実際に 起こった事件を題材にしていると言われている。つまり天照大神が卑弥呼(日巫女) であり、彼女は天文学上ですでに実証されている日本列島における西暦248年 9月5日に起こったとされる皆既日食により太陽信仰の象徴である卑弥呼は責任を とらされ処刑されたのである。つまり卑弥呼の権威失墜である。これが有名な天照大神の アマノ岩戸隠れであり、大和朝廷=邪馬台国なのである。、、おしまい
184 :
日本@名無史さん :03/03/13 22:56
>>183 分かり難い文章だ。所々に推定が入っているように思える。
185 :
日本@名無史さん :03/03/13 23:37
ハングル語では、今でもこちらは「ゥワイ」(倭)だよね。 あえて「日本」と言えば、「イルボン」だけど。
186 :
日本@名無史さん :03/03/13 23:44
朝鮮語史料は11世紀より前のはないんだから 古代史研究に朝鮮語を引用するヤシはDQN
187 :
日本@名無史さん :03/03/14 03:27
後漢書によれば クナ国は 邪馬台国と海を面して向き合ってたと書いてあるらしいが 畿内説では クナ国=中部地方 もしくは四国になるのかな?
そんなこと書いてあるか?
189 :
日本@名無史さん :03/03/14 06:54
邪馬台国 島原説や宇佐説を唱える本(昔、図書館で見たから詳しい事は知らない)で後漢書にクナ国は邪馬台国と海で面していた!みたいな事 書いてあった。自分は後漢書は読んだ事ないので詳しい事は知らないが
190 :
日本@名無史さん :03/03/14 14:20
「倭」とは村の「わ(輪,環)」、仲間の「わ(輪,環)」を漢字に表したもの それか、「我々」の「わ」から漢字に表したもの
あげる
192 :
日本@名無史さん :03/03/14 19:10
∧_∧ ∧_∧ ( ´∀` ) < `∀´ > ⊂ 新宿 ⊃ ⊂新大久保⊃ |⌒I、| | |⌒I (_). | | ´(_) ∧_∧ (_) ∧_∧__ (_) ∧_∧ ( ´∀` ) (∀ ` ) ( ´∀` ) ⊂高田馬場⊃ ( 目白 > > ⊂池袋 ⊃ |⌒I、| / /\ \ | |⌒I (_). | (__) (__) | ´ (_) (_) ∧ (_) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | 山手線外回りまんせーーー!!!!! \__________________
193 :
日本@名無史さん :03/03/14 19:10
↑和輪環倭!!
194 :
日本@名無史さん :03/03/14 22:00
1、拘奴国は邪馬壱国の敵国。拘奴国はクナ国と読む。 2、「ナ」は、なだらか・なごやか・なぐ、などの「ナ」で、穏やかな状態を指す言葉。 平地・平野という意味がある。 3、熊本の「マ」には、平地・平野という意味がある。 つまり「ナ」「クナ」がなまって「マ」「クマ」になった。
大和の祖先は拘奴国だと思う。 根拠1、南朝系の天皇の名前は熊沢天皇で、クマという字が使われている。 根拠2、記紀に書かれている熊曾健(クマソタケル)神話。 「曾」という字には一代前という意味があり、 かなり簡単に、大和の一代前の国はクマ、と読み取ることができる。 根拠3、聖徳太子が奈良に建てた神社の名前が熊凝精舎で、やはり熊の字が使われている。 とくに根拠2は面白いと思う。 熊曾健を殺した若い皇子が、熊曾健から名前を譲り受け、大和健と名乗りはじめる。 という内容の神話だから。
196 :
日本@名無史さん :03/03/14 22:04
>>195 拘奴国の源流は東南アジア。
クメールからきた。
197 :
日本@名無史さん :03/03/14 22:07
クナール?
南方系?北方じゃないのか?大和は、東へ東へと向かうし。 南は、ハヤトの領域だろ。
199 :
日本@名無史さん :03/03/14 22:37
ヤマトの日本語としての意味は何? 山門とか山戸の意味かな? 水戸とか長門の感じかな?
200 :
日本@名無史さん :03/03/14 23:51
港 = 水戸
201 :
日本@名無史さん :03/03/15 01:13
ヤマの入口でしょ。 福岡市西区に山門があり大牟田の方にも山門がある。 つまり筑紫がヤマなんだと思うな。 山神社ってのも(山の中じゃなくて平地に)分布してるし。
202 :
日本@名無史さん :03/03/15 06:17
山門のヤマトと大和のヤマトは発音が違うと指摘したのは本居宣長。
203 :
(´-ω-`) :03/03/15 06:17
204 :
日本@名無史さん :03/03/15 13:16
そうか。「ヤマ」なんだぜ。こういうのどう? 「邪馬台国」は「ヤマ」に政庁がある国。(台=政庁) 「邪馬壱国」は「ヤマ」という倭の国。(壱=倭=イ) 九州にある「山門」の地名は、「ヤマ」への入口の場所。
205 :
日本@名無史さん :03/03/17 16:31
なんか証拠ないの?、、、遺跡とか
206 :
日本@名無史さん :03/03/17 17:01
>>205 存在しないものに遺跡があるはずがありません。
捏造すれば別ですが。
207 :
日本@名無史さん :03/03/17 17:03
教えてくんですまないが、結局 吉野ヶ里遺跡て何だったの?
209 :
日本@名無史さん :03/03/17 17:47
捏造しる人って、何なんだろ・・目立ちたがり屋? 捏造して金になるのだろうか
>>209 捏造すれば新学説を唱えられます。
新学説によって名誉が得られます。
公演の依頼がたくさん来ます。
本だって書けちゃいます。
捏造はお金になります。
211 :
日本@名無史さん :03/03/18 05:04
>>202 甲音乙音の問題でしょ。
万葉時代の日本語は8母音だったってやつ。
でも平安時代になると消えちゃうんだよね。
万葉集でも防人歌や東歌は5母音だし。
それは帰化人の大量渡来があった飛鳥時代後期から
200年くらいの近畿地方の特殊事情だったんじゃ?
そうやってあらゆる方面で新説を出さないと九州説が成り立たない悲しさ
213 :
日本@名無史さん :03/03/21 00:01
いまだに新説ゾクゾクザクザク。どうせどの説も証拠なんかありゃしぬ。 古い説が正しいとも限りぬ。終わりなき世のめでたさよ。
214 :
日本@名無史さん :03/03/30 01:21
>>211 例えば、現在の日本語でも、50音だと同じ表記だけど、
日本人が知らないうちに使い分けている音も多い。
「ん」なんてその典型的なもので、他にも色々ある。
215 :
日本@名無史さん :03/03/30 02:14
>>209 ハイ。徳のないチョンの薩長維新後の政府上層部(伊藤博文、桂太郎ら)にこびたら
華族の特権と優雅な生活が待ってます。藁
194-195の仮説で何故 拘奴国=熊襲 とならないのか、むしろ不思議なのだが
217 :
日本@名無史さん :03/04/02 16:59
最近になって卑弥呼の時代に2年続けて皆既日食が起こっていたことが わかった。その時に丁度卑弥呼が死に、新しい王として壱与がなった。 この出来事が、天の岩戸隠れである。
218 :
日本@名無史さん :03/04/03 01:01
>>217 245年(卑弥呼没年)の日食(金環食)はまあ判るとしても
2年続けてってのは初耳だな。
真剣にソースきぼんぬ。
219 :
日本@名無史さん :03/04/03 08:09
朝がたと夕方の日食では影響なかったと思われ。
220 :
217ではないが :03/04/07 03:28
斎藤国治氏による 200・09・26 金環食 奥州北部 247・03・24(17時頃〜) 皆既日食 九州西方海上 248・09・05 皆既日食 能登〜奥州 254・10・29 金環食 奥州
221 :
日本@名無史さん :03/04/13 02:46
age
222 :
日本@名無史さん :03/04/13 04:58
223 :
日本@名無史さん :03/04/13 13:17
225 :
tunoda :03/04/13 23:11
226 :
日本@名無史さん :03/04/14 22:44
角田さんへ 「壱」、「一」、「委」、「倭」は、「ゐ」だけど、「伊」は、「い」では?
戸数七万余戸なんてのは普通に考えれば大和以外考えられな い。 そして、この時代に始まる前方後円墳が畿内を中心に分布して いくこと、そして、大和朝廷においても継続していることからすれば 邪馬台国は大和朝廷に繋がるとみるのが自然でしょう。 これだとでもつまらないんだろうな。
(^^)
229 :
日本@名無史さん :03/04/18 09:35
でもさ、臺与って外宮でまつられてるんでしょ?
230 :
日本@名無史さん :03/04/18 21:19
臺与ってだれ? 壱与のことかな?
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
232 :
日本@名無史さん :03/04/27 17:04
壱与ではなく臺与と表記されているのではありませんか?
233 :
日本@名無史さん :03/04/27 17:23
◎二重瞼の出現頻度 アイヌ96.8% 奄美諸島84.0% 北海道73.2% 新潟70.4% 三重67.5% 京都66.9% 山形65.8% 奈良58.1% 朝鮮南部42.1%
234 :
日本@名無史さん :03/04/27 21:38
大和朝廷起源の謎は宮内庁が古墳の調査を許可しないせい
235 :
日本@名無史さん :03/05/04 15:02
邪馬台国の東遷はあったのでしょうか?
236 :
日本@名無史さん :03/05/04 16:00
なかった
237 :
にゃんちゅー :03/05/04 20:09
僕も、無かったと思います。
238 :
日本@名無史さん :03/05/05 00:24
東に行ったのはハグレものの神武一行だしょ。 邪馬壱国の本体ではなかろうもん。
239 :
日本@名無史さん :03/05/05 01:12
邪馬「壹」国は誤写
240 :
日本@名無史さん :03/05/05 21:41
241 :
日本@名無史さん :03/05/05 21:53
『壹与』についてはどうよ?
242 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:03
魏志倭人伝には『壹与』と書かれている。 『臺与』という者は根拠を示されたし。
243 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:10
>>1 その答えは「くだらない」という日本語がどこからきたかに謎解きがある。
日本史を語るときは中国史、韓国史をよく紐解いて考えてみたまえ。
日本史は日本書紀の段階ですでに時の権力により捏造され真実は見えない。
244 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:15
>>243 上方から江戸に出荷される商品は「下り物」と呼ばれたが
「下り物」に出来ないような粗悪品を「くだらない」と呼んだ。
‥って書いても「権力に洗脳された」とか言われそうだな(w
245 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:16
「くだらない」という日本語は、 元禄時代、上方の物産、特に醤油が、出来が悪いものは 江戸へ下らないことから来た。 謎は解けたかな?
246 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:22
まあ、そんなことはどうでも良いのだが、 邪馬臺国とか臺与とかいうヤツは根拠を示すべし。
247 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:29
臺与(日本簡体字では台与)は「とよ」
248 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:32
そんなことはどうでも良いのだが、魏志倭人伝には、 邪馬壹国とか壹与とか書いてあるのに、 邪馬臺国とか臺与とかいうヤツは根拠を示すべし。
249 :
日本@名無史さん :03/05/05 22:54
後漢書
しつこいよ 邪馬“壹”粘着厨のために「旧習凹嘲スレ」があんだろうが
251 :
日本@名無史さん :03/05/05 23:18
やっぱり根拠はない。
あほか
253 :
日本@名無史さん :03/05/17 13:08
臺與だっけ? トヨでいいんだよね おそらく大和言葉の豊(とよ)?
254 :
日本@名無史さん :03/05/17 21:51
壹與(ゐよ)だけど何か? 臺與って誰?
255 :
日本@名無史さん :03/05/17 22:12
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、[犬旬]葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。 復立卑彌呼宗女『臺與』、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩『臺與』。 『臺與』遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹。
256 :
日本@名無史さん :03/05/17 22:14
倭の女王の卑彌呼は、狗奴國の男王の卑彌弓呼と素より和せず、倭の載斯烏越等を遣わし、郡に詣り相攻撃する状を説く。塞曹掾史の張政等を遣わし、詔書・黄幢を齎し難升米に拜假するのに因り、檄を爲り之に告喩せしむ。 卑彌呼以に死し、大いに冢を作ること、徑百餘歩、[犬旬]葬する者は奴婢百餘人。更に男王を立てしも、國中服さず、更相誅殺し、時に當り千餘人を殺す。 復卑彌呼の宗女の臺與、年十三を立てて王と爲し、國中遂に定まる。政等檄を以って臺與に告喩す。 臺與は倭の大夫で率善中郎將の掖邪狗等二十人を遣わし政等を送り還らせ、因りて臺に詣り、男女生口三十人を獻上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹を貢ぐ。
257 :
日本@名無史さん :03/05/17 22:23
三度も出てくるので、トヨで間違いないでしょうな。 トヨノクニ(豊の国)と同じ語源でしょうな。
258 :
日本@名無史さん :03/05/17 22:41
259 :
日本@名無史さん :03/05/17 22:56
原文では臺與でっせ
260 :
日本@名無史さん :03/05/17 22:58
261 :
日本@名無史さん :03/05/17 23:08
現在伝わっているものはすべて臺與(トヨ) これを誤記とする説もあるが根拠が不十分
262 :
日本@名無史さん :03/05/17 23:15
263 :
日本@名無史さん :03/05/17 23:17
>>261 現在伝わっているもので臺與(トヨ)というのは1つもないのだが?
264 :
日本@名無史さん :03/05/17 23:29
やっぱり、臺與という根拠はない。
265 :
日本@名無史さん :03/05/17 23:38
>>243 >日本史を語るときは中国史、韓国史をよく紐解いて考えてみたまえ。
韓国史だって。これこそ最も信用できないわな。(禿藁〜
266 :
日本@名無史さん :03/05/17 23:53
邪馬臺国じゃなくて邪馬壹国だろとか 壹與じゃなくて臺與だろとか議論があるみたいですが、 問題の根源はこの二つの字が似てるってことじゃないでしょうか。
267 :
日本@名無史さん :03/05/18 00:12
そんなことは問題の根源ではない。 もともと問題は存在しない。 臺與とどこにも書いていないのに、臺與と読みたがるヤツがいるというだけのこと。
268 :
日本@名無史さん :03/05/18 00:17
卑奴母離を鄙守と解釈するには、「モ」の甲・乙分別を否定する必要がある
269 :
日本@名無史さん :03/05/18 06:49
>「モ」の甲・乙分別 これが確認できるのは、確か「古事記」のみだと思われ。
>>267 ふっ かわいそうに 誰にも相手にされてねえな
271 :
日本@名無史さん :03/05/18 11:03
不毛なことやってるなw
272 :
日本@名無史さん :03/05/18 11:14
で、卑奴母離を鄙守(ひなもり)と解釈していいのかどうか? 母離(もり)に対して、守(もり)を音韻的に対応させていいのだろうか?
かわいそうな九州王朝。簒奪されますた。
かわいそうな九州王朝。捏造されますた。
275 :
日本@名無史さん :03/05/18 21:31
神武は実在したが天皇ではない。
276 :
日本@名無史さん :03/05/18 21:58
アンチ九州王朝君は、九州王朝の香りを求めて東奔西走の模様だな。
277 :
日本@名無史さん :03/05/18 23:01
ウルトラマンには怪獣、仮面ライダーにはショッカー、 アメリカにはイラン、九州王朝にはアンチ九州王朝、 トムにはジェリー。 仲良く喧嘩してね。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
279 :
日本@名無史さん :03/05/22 23:03
大国主命
>>272 >母離(もり)に対して、守(もり)を音韻的に対応させていいのだろうか?
それは別にかまわないと思う。
3世紀と8世紀じゃ500年も離れてるし、甲乙かきわけは日本人の音感で漢字をわけたもので
中国人の耳にはどう聞こえていたかはわからない。
281 :
日本@名無史さん :03/05/22 23:23
>>1 どうも最近の学界のなりゆきみてると
かなりストレートに「邪馬台国→大和朝廷」ってことに落ち着きそうだけどな。
282 :
日本@名無史さん :03/05/23 22:40
283 :
日本@名無史さん :03/05/23 22:44
「=」
284 :
日本@名無史さん :03/05/27 21:45
>>281 はげどう。
つーか、無理があるんだよ、大和朝廷以外説なんて。
戦後、GHQに媚を売らねば生きれぬ時代に、困った歴史学者が記紀を捨てて倭人伝にすがっただけでしょ。
そんな歴史学者にしてみれば「邪馬台国≠大和朝廷」じゃないと困るわけで。。。
もう、そうな時代じゃないんだから、不毛な議論はやめろって。
「台」を「壱」と読みたがっている連中は、外国の工作員(在日?)のような気が・・。 3世紀のやまと(やまたい)と4世紀のやまと(倭)が歴史的につながると困るのだろう。彼らは。
んなことはない。 確かに戦後20年ほどの古代史関係学会の珍説多出は恥ずべきだと思うが、 少なくとも主流派は、「邪馬台国=邪馬台国」だったことは間違いがない。 これは今も変わらないが。
287 :
日本@名無史さん :03/05/28 00:08
>>285 んなヤツはいない。
壹(壱)を臺(台)と読みたがっているヤツはいるようだが。
>少なくとも主流派は「邪馬台国=邪馬台国」だったことは間違いがない。これは今も変わらないが。
何をいってるのか意味不明。知恵遅れかお前は(w
>>285 ,
>>287 壹(壱)を臺(台)と読みたがっているヤツ→多数派かつ現在の通説。
壹(壱)をそのまま読みたがっているヤツ─→電波説。(同類:九州王朝ほか)
289 :
日本@名無史さん :03/05/28 00:38
なんで、ヤマイチ国(山一国?)ってのが存在したことにしたがるの?
>>289 吉田説です。それから吉田説にのっかかる○○がちらほらと。
吉田氏自身は単なる民間歴史家で、○○じゃないけど。
291 :
日本@名無史さん :03/05/28 00:47
静嘉堂文庫本なんか邪馬一国なんだからな
292 :
日本@名無史さん :03/05/28 00:51
山一証券の栄光の時代もあったわけで
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
294 :
日本@名無史さん :03/05/28 16:45
山一証券
295 :
日本@名無史さん :03/05/28 23:11
296 :
日本@名無史さん :03/05/29 00:04
どうして、壹(壱)を臺(台)と読みたがっているの?
>>296 他の資料には臺(台)と書いてあるから。魏志倭人伝は比較的近い時代の写本らしいので、
他の資料のほうが信用できるっしょ、というのが台説。
298 :
日本@名無史さん :03/05/29 00:18
どうして、倭を「ワ」と読むの? 「ヰ」っしょ。
299 :
日本@名無史さん :03/05/29 03:31
>>298 それはまちがい。
倭の字の発音は時代によっていろいろ変わっているが
漢代に倭と委とわかてからは「ヰ」と発音したことはない。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | 今だ!300ゲットォォォォ!!!!! \__ ________ ∨ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 日 凸 ▽ ∇ U < お客さん、暴れないでよぉ ≡≡≡≡≡≡≡ ∧ ∧ \____________ U ∩ [] % Σ(゚Д゚,,) (´´ ヾ∇ ∧∧ ) |つ∽ (´⌒(´ 日ヾ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´⌒(´⌒;; ガッシャーン!! ━┳━ ━┳━
>>299 それじゃ、志賀の島の金印は
漢の委奴(ヰと)の国王となるね。
漢の委(わ)の奴(な)の国王の定説を否定するのですね。
302 :
日本@名無史さん :03/05/29 21:14
壹と臺は同じ発音だったという説はどう? 3世紀の中国語の発音なんて本当は良くわかっていないらしいし。
303 :
日本@名無史さん :03/05/29 21:22
>>297 刊本の年代同士を比べたら三国志(魏志倭人伝)の方が早いよ
304 :
日本@名無史さん :03/05/29 22:29
>>286 倭人伝は「恥ずべき20年間」の間に古代史関係学会のメインテーマになったわけだが。。。
そしてそのころの珍説学者が研究室で拡大再生産された結果が現在の倭人伝妄信だろ。
倭人伝は「最後の珍説」だよ。
仮に2、3世紀に日本を束ねるような大国が大和朝廷の他にあれば、出雲のように記紀に何らかの痕跡が残るだろ。
なんら言及されていないとなれば「邪馬台国は大和朝廷そのものだから」と考えるのが普通と俺は考えるぞ。
「邪馬台国≠大和朝廷」という理由は政治的なもの以外には無い。
大体、当時の(今も?)中国人は日本になんか興味ないんだよ。
正史を書く役人たちも日本の存在を知っているかどうか怪しいもんだろ。
空間的・時間的・精神的に遠く離れた日本に関する記述、倭人伝なんて間違いだらけのはずだ。
一字・一句で議論するなんて不毛すぎるぞ。
「倭人伝の邪馬台国」を探すのは「ムー大陸」を探すようなもの、ってこった。
305 :
日本@名無史さん :03/05/30 23:28
浅いな。
306 :
日本@名無史さん :03/05/31 01:10
>>304 >空間的・時間的・精神的に遠く離れた日本に関する記述、倭人伝なんて間違いだらけのはずだ。
おめーの思い込みなんかだれも聞いちゃいねーよ。
金印くれたぐらいだから、その当時は重要な国だとでも思ったんだろうよ。
>>正史を書く役人たちも日本の存在を知っているかどうか怪しいもんだろ。
元資料写すのに知識なんてかんけーねーだろ。馬鹿が。
307 :
日本@名無史さん :03/05/31 01:15
>>304 >そしてそのころの珍説学者が研究室で拡大再生産された結果が現在の倭人伝妄信だろ。
>倭人伝は「最後の珍説」だよ。
一次資料がそれしかないんだから、それを信じるしかないだろう?
文字の書いていない考古学資料じゃ状況証拠であって、有罪にできないよ。
そういう考古学のネタで、はちゃめちゃ言ってる考古学者もいるが、俺はアカデミックな電波だと思う。
308 :
日本@名無史さん :03/05/31 01:17
>>304 みたいな電波野郎はどっから出てくるの?
コヴァ板辺りから?
考古学を電波だと思っているようだが、「戦後20年珍説を飛ばした」 のは、文献の方ですよ。だいたい文献学者の飛ばした @三王朝交代説 A崇神天皇=神武天皇 B四道将軍非実在説 のような珍説を否定したのは考古学の成果でしょうが。 江上先生のような方が考古学から現れたのは恥ずかしい ことですが、彼はあくまで別の研究で認められたのであ って、騎馬民族説を考古学界が認めたということはあり ませんよ。
310 :
日本@名無史さん :03/06/01 01:49
「壱」を「台」と読みたがっている連中は、外国の工作員(在日?)のような気が・・。 3世紀のやまと(やまたい)と4世紀のやまと(倭)を歴史的につなげてチョンからきた神武が 大和朝廷を建国したことにしないと困るのだろう。彼らは。
311 :
在日中卒ヒキコモリチョン人のデンパ説にはもうウンザリ :03/06/01 01:58
.................................. __,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ
i /´ リ} 知能指数の低いレスつけるなゴラァ!!
| 〉. -‐ '''ー {!
| | ‐ー くー |
ヤヽリ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'}
ヽ_」 ト‐=‐ァ' !
ゝ i、 ` `二´' 丿
` '' ー--‐f´
/ ) _ _
/ ,イ 、 ノ/ ―= ̄ `ヽ, 「大体、当時の(今も?)中国人は日本になんか興味ないんだよ。 」_
/ / | ( 〈 ∵. ・( 〈__ > ゛
>>304 、_―
| ! ヽ ー=- ̄ ̄=_、 (/ , ´ノ
| | `iー__=―_ ;, / / /
!、リ -=_二__ ̄_=;, / / ,'
/ / / /| |
/ / !、_/ / 〉
/ _/ |_/
ヽ、_ヽ
皇太子様が在日デンパ君の妄想(
>>304 )に切れられました
312 :
君達お勉強しようね w :03/06/01 02:09
別スレに書きましたが、九州王朝の存在は考古学者でさえ、 認めざるを得なくなっています。 >東潮・徳島大学教授は、栄山江流域と北部九州の古墳の横穴式石室に共通性があることを指摘、 >「前方後円墳は5世紀後半に栄山江流域に集団移住した北部九州の倭人が、 >在地勢力とともに築造した」と述べた。 このように、北部九州=九州王朝が朝鮮半島に勢力を伸ばしていたというのは考古学的に正しい。 また、以下のような見解もあります。 >佐伯有清も「三国史記倭人伝」(岩波文庫)の中で >近時の倭=大和政権説は、古くからの大和朝廷説とはその理解内容とを異にしており、 >倭の実体は、大和を中心とする諸王共同体、もしくは連合国家であったとみなすものである。 つまり、九州に王朝があっても全く差し支えない。倭というのは天智・天武ぐらいまで、 ただの寄り合い所帯だったんです。 だいたい、卑弥呼だって、壱与だって記紀に書いてないじゃないですか? 倭の五王だって、アメタリシホコだってどこに書いてあるんですか? つまり、大和朝廷はそれらと全然関係なかったんです。
313 :
日本@名無史さん :03/06/01 02:13
>>310 むしろ壹が誤写であるな。後漢書倭伝では臺だし。
後漢書倭伝の内容を読めば魏志倭人伝を原典に書いたようなもの
でないことは明らかである。
314 :
日本@名無史さん :03/06/01 02:16
北九州には確かに大規模な国があっただろうが、他に九州に無いから、 北九州が邪馬台国でないなら邪馬台国は別の場所ということになる。
ただ、5世紀の段階でも畿内の政権が中国と通交していた というのは、根拠ないですよ。
317 :
日本@名無史さん :03/06/01 02:53
北九州にあったその国を窓口にしてたんでしょうな。きっと。
318 :
日本@名無史さん :03/06/01 02:58
319 :
日本@名無史さん :03/06/01 03:07
つぶれたのは、山一だったっけ?
320 :
日本@名無史さん :03/06/01 09:34
>>309 王朝交代説は否定されないだろう?
同一文化圏内で王朝が交代したって、考古学的に何か変化があるとでも?
南朝と北朝が交代したって、考古学で否定できるか?
321 :
日本@名無史さん :03/06/01 09:48
九州王朝が東遷して、地元の地名をつけたという説は説得力があります。 ニューヨークとか、ニューオリンズとか、ニューハンプシャーとかニューファンドラントとか ここは新天地、俺達のものだっていう、入植者の認識を理解するのがよいかと。 使節の移動日数に関してですが、ゆっくり移動していたから間延びしているのでは? 方角捏造学者はもってのほかですね。
と歴史捏造非学者はいうのだった。
323 :
日本@名無史さん :03/06/01 12:58
地名の一致から考えて、九州勢力の近畿への移動があったことは確かだと思う。 しかし、邪馬台国が大和朝廷になったという根拠は薄い気がする。
324 :
日本@名無史さん :03/06/01 13:26
邪馬台国時代の近畿地方は銅鐸文化圏だよな 魏志倭人伝には兵は矛と書いてあって銅矛文化圏と思われる 日本書紀の建国神話には矛が登場する 続日本紀によれば奈良時代に土中から出てきた銅鐸が何かわからなかった ただし日本書紀に卑弥呼そのものは登場しない 中国史書との関連付けのため卑弥呼と壱与の事跡を神功紀に入れてるだけ 以上を勘案すれば 邪馬台国は九州にあったが同じ銅矛文化圏内のライバル狗奴国に倒され 狗奴国が東遷して大和朝廷になったと見るのが最も自然
>邪馬台国時代の近畿地方は銅鐸文化圏だよな 違う。 終了。
なことはない。最初から考古は、王朝交代説には否定的。 河内への陵墓移動は、農耕不適地を求めて移動したというのが、 定説(近藤義郎など)。 また、佐紀、古市、百舌鳥古墳群の配置に計画性があるとの説も ある(寺沢薫など) 継体については、文献からも否定説が多い状況だな。
327 :
日本@名無史さん :03/06/01 22:48
>邪馬台国時代の近畿地方は銅鐸文化圏だよな 違います。 土器編年が変わった今となっては電波説です
328 :
日本@名無史さん :03/06/03 00:29
329 :
日本@名無史さん :03/06/03 00:33
ハッキリしないと言う事を考えるのが大切。 大和朝廷以降ハッキリしてる。 素直に考えれば、何らかの断絶があったと見るべき。
邪馬台国の研究をして食ってくことできませんかね?
331 :
日本@名無史さん :03/06/03 01:17
332 :
日本@名無史さん :03/06/03 01:54
>>329 大和朝廷もハッキリしてるとは言い難いけどな。
333 :
日本@名無史さん :03/06/03 01:56
333 !
結局、古代天皇陵をまじめに調べるとしたら 何が出てきて、何がわかるの? 大和朝廷の起源とか判明したりするの? 素人なもんで教えてください。
335 :
日本@名無史さん :03/06/04 00:53
>>334 畿内カルト天皇教ヲタ殲滅運動強化週間
宣伝するぞこの野郎!!
待望の第2弾
初めてカキコするが、論理的思考をすれば邪馬台は九州で中心は日向だろう。
西都原は不可解な点が多すぎる。その過去の調査過程において。
畿内論者にとっては非常に不都合なものが多いからだ。
第一、刺青人など隼人以外の何者でもないではないか。
畿内説は余りにもコジツケだらけで読んでいてウザい。
以前西都原の発掘調査の関係者の方の
「ぼやき」を聞いたことがあります。
「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの
渡来民であるとしか考えられないような物が出てくる。つまりは
『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない。
336 :
かっこいい俺 完璧すぎる俺 :03/06/04 17:39
>>335 このコピペよくみますがなかなか説得力がありますね。
僕もだいたい同じ考えです
338 :
かっこいい俺 完璧すぎる俺 :03/06/04 17:56
>>337 鹿島アントラーズくらいしか知りませんがw
まず九州にあったんじゃないですかね。
証明するものはありませんけど
>>336 『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って少しでも感じさせる発掘があればNステやN23が針小棒大に騒いでくれると思いまつ。
その逆の発見に対しては無視と思われ。
340 :
日本@名無史さん :03/06/04 23:39
>>335 西都原の古墳からどんなものが出て来るのかな?
341 :
日本@名無史さん :03/06/05 00:03
何で茨城の東の果てに鹿島神宮なんて造ったんだろうね。鹿島神宮から 数キロくらいのところの千葉にも古い神社があるよね。神宮って名乗れる 神社って数少ないんでしょ?天皇の一族は近畿と鹿島あたりの2ルートから 上陸したんじゃないの?その後も常陸とかって天皇家が長官だよね。 鹿島神宮の祭りが何十年だかに一回あるけど、あれを見ると船とか中国の 船というか琉球の方の所謂南方系の感じがするんだけど。
342 :
日本@名無史さん :03/06/05 00:43
鹿島はヤマト朝廷が東へと攻め込んでいった果てだろうな。
343 :
日本@名無史さん :03/06/05 00:51
>>341 あまりおおぴらにいうとなんだが、
皇室の祖先については東支那海を活動領域とする海賊説が暗黙の
了解だったりする
神話の分布とも合うしね。
半島系ではありません。海の人(アマ)です。倭人です。
344 :
日本@名無史さん :03/06/05 00:58
海賊っていたの?
345 :
真相はこうだ :03/06/05 01:21
天皇家は朝鮮から来たのではなく、朝鮮を通って来たことを覚えておこう。 天皇家は朝鮮と日本を支配した侵略者であり、トルコとアラビアからやってきた連中が満州で混血し、朝鮮を支配し九州を支配した。
346 :
日本@名無史さん :03/06/05 01:27
>>345 半島とは関係ないと思われ。
これは願望ではなくて、よってたつ宗教などからね。
南方文化が濃厚
347 :
日本@名無史さん :03/06/05 02:04
天皇は呉の国から東シナ海を渡って琉球に辿り着いた。 さらに北上して日向に入ったのである。
348 :
日本@名無史さん :03/06/05 02:11
349 :
日本@名無史さん :03/06/05 02:16
遣明船などの帰りの航路などからすると、呉から出発したら 五島列島あたりだな。辿り着く可能性が高いのは。
350 :
日本@名無史さん :03/06/05 03:10
鹿島・香取は元からあそこに居た神様だろう 鹿島神社の分布圏(常陸・磐城)はズーズー弁地域 香取神社の分布圏(下総・武蔵)は関東方言地域 電車に乗ると荒川沖と土浦の間でガラリと言葉が変わる 常陸・磐城には装飾古墳群があるし 下総には日本最大の方墳、武蔵には稲荷山古墳群 神は人なりで、地域の王様の先祖を祀ったものだと思う
351 :
日本@名無史さん :03/06/05 04:07
>347 天皇は、ハヤト系とは無縁だろ。おそらく。
352 :
日本@名無史さん :03/06/05 04:09
その通り。五島あたりから北九州を回って日向にいったのだ。
>346 神話といっても、どれが天皇家の持ち込んだ神話なのか分からん…
354 :
日本@名無史さん :03/06/05 05:09
あのー、素人なんですが、天皇家のルーツを、ひとつに限定することに何か(政治的、感情的以外の)意味があるのですか?
355 :
日本@名無史さん :03/06/05 10:37
ニニギの長男は隼人にごわす。
356 :
かっこいい俺 完璧すぎる俺 :03/06/05 11:12
>>354 高千穂に天孫降臨した子孫とすることで天皇が神格化
されたほうが都合がいいからでしょ。
これは明らかに列島土着系だっていう 神社とかカミ様とか家系ってあんの? まあ大和朝廷が大陸系のにおいするからと言っても、 必ずしもルーツはあっちとは言えないだろうけど。
358 :
日本@名無史さん :03/06/08 20:58
>>357 人類が日本列島で生まれた訳ではあるまいに。
古墳時代、100年早まる?名大が炭化物分析 6遺跡で
http://www.asahi.com/science/update/0608/002.html 水田稲作が伝来した弥生時代が約500年さかのぼるという測定結果をはじき出した
放射性炭素年代測定で、今度は濃尾平野の古墳時代の始まりが従来説より
100年前後早い西暦80年ごろとする結果が出た。今後の調査の進展で、
弥生から古墳時代への移行時期が全国的に早まる可能性が見込まれる。
出土層と土器の変遷などから、全長数十メートル規模の墳丘墓が生まれた
東海地方の古墳時代初頭、西暦150〜200年ごろの型式とされてきた
「廻間(はさま)1式土器(前半)」の付着物5点の測定値が、
100年前後もさかのぼる西暦80年前後に集中。この5点は古墳の直接の出土物
ではないが、年代特定の基礎である土器型式の時期区分が修正されるため、
濃尾平野の古墳時代の幕開けも約100年さかのぼることになる。
西暦80年ごろは弥生後期とされてきた。中国の史書「後漢書東夷伝」の 「漢委奴国王」への金印授与(57年)から間もない。 共同体的な「クニ」が分立したと考えられてきた時代だが、今回調査に基づけば、 墳丘墓を建設するほど地域に強固な権力基盤を持つ首長層が、 学界の想定よりかなり早く誕生したといえる。 教科書では、100メートル規模の巨大古墳が生まれた3、4世紀ごろからを 古墳時代と呼ぶが、学界では「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の女王・卑弥呼の 朝貢(239年)ころを境に古墳前期の始まりとし、さらにそれ以前は古墳時代初頭 と呼んで、古墳時代に含める見方が台頭している。近畿や中国、東海地方などで 地域首長を葬った様々な墳丘墓が造られた時期にあたり、今後、こうした墳墓の年代も さかのぼる可能性が出てきた。倭人伝に邪馬台国と抗争したと記される「狗奴国」は 当時の先進地域、東海地方にあったとみる説とのかかわりも注目される。
361 :
日本@名無史さん :03/06/09 04:17
ふ〜む。 西暦80年に濃尾平野に古墳を作る狗奴国が出現とすると、 同じ頃の畿内の状況が気になってきますね。
363 :
日本@名無史さん :03/06/10 02:47
364 :
日本@名無史さん :03/06/10 06:20
雄略が5世紀後半として、神武の18世代目だから 1世代25年として、450年。神武は西暦前後ってとこか。 てことは、西暦80年は安寧・懿徳ごろ。帥升は孝昭w
日本人でも普通は自分達を特別だと思ったりしないのだろう。 ただ、一部の、国籍にアイデンティティを求めざるを得ないような 日本人が、まわりより声を大にして主張をしているだけ。 文字どおり主張して吠えているだけで犬にでも出来ることだが、 幼子のように泣きわめき、あたりらす不肖の弟の没落する姿に 韓国人は心を痛めている。 なんとみじめで悲惨でおちぶれた国になったことか。 要は韓国の躍進に対し地の果てまで落ちてゆく斜陽国家日本に すがりつく連中が優秀な朝鮮人に嫉妬するということだろう。 しかし我々は日本の幼児のような精神を許容してやらねばならない。 貧困の中で礼節を忘れるのは獣同様だが、本能に忠実なのは 50年前と変わらない。しかたないのだ。 日本は南米のように墜落するが、兄として過去の弟の悪行を 許して助けても良い。 まずは許しを超え。
366 :
日本@名無史さん :03/06/10 22:12
東海地方が狗奴国というのは考古学者のトンデモだろう? 東海地方から武器はどれだけだけ出土しているんだ? 文献的にも東海地方に一大勢力があったなんて書いてないぞ。
368 :
日本@名無史さん :03/06/10 22:35
継体天皇は応神五世孫であり、後の世でいえば平家や源氏が天皇に なったのと同じだろう? これは新王朝と呼んでよいのではないか? それとも、考古学的に応神五世孫ということが、否定できたのかね? 王朝交代説というのは支配民族交代説ではないと思うが。
369 :
日本@名無史さん :03/06/10 23:09
>>368 舒明天皇→天武天皇→草壁皇子→文武天皇→聖武天皇→称徳天皇
称徳天皇は天武天皇の5世孫、舒明天皇の6世孫ですが、
そこで天武天皇系の天皇は途絶えて、
同じく舒明天皇の子の天智天皇系へと皇位が移動しています。
370 :
日本@名無史さん :03/06/10 23:17
魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の配下の中で、 「弥馬獲支(みまかき)」が「御真木入日子(みまきいりひこ)=祟神天皇」 「伊支馬(いきま)」が「伊久米伊理昆古(いくめいりひこ)=垂仁天皇」 って本当ですか?
371 :
日本@名無史さん :03/06/10 23:20
372 :
かっこいい俺 完璧すぎる俺 :03/06/10 23:27
>>370 たしかこないだ倭人伝読んだときに
伊支馬とは官職の名前だったと記憶していますが
373 :
日本@名無史さん :03/06/10 23:46
>>372 ならば、「卑弥呼」も人名ではなく「おおきみ」や「すめらみこと」のような王位の名称という可能性はありませんか?
>>371 「邪馬台」=「やまと」もこじけつ?
374 :
かっこいい俺 完璧すぎる俺 :03/06/10 23:51
>>373 卑弥呼も日の巫女などという王位じゃないですけど
そういった名称なんじゃないですかね?たしか中華思想
により他国にものは全部卑しい字を使うとか聞いたことありますし。
ちなみに邪馬台ではなく邪馬壱が正式な名称らしいのですが
のちのやまとの名称と関わりがあることは考えられなくないですね
375 :
日本@名無史さん :03/06/11 00:00
>>369 私は継体天皇が応神五世孫というのも疑わしいと思っています。
百歩譲って、そうであったにせよ、系譜を見るに北陸か近畿の豪族
であった可能性が大きい。ただ、自称であるにせよ、そのように
名乗っている以上、三種の神器を受け継いで、天皇と同じ形式の陵墓
を踏襲したとしても不思議はないと思う。
たとえば、蜀漢の劉備が中山王の子孫であることは大変疑わしいが、
もし天下統一したら漢の皇室と政治形態や同じ形式の陵墓を踏襲した
可能性は大いにあったと思う。
で、この場合、蜀漢は新王朝とみなすべきか否かという問題と同じだと
思う。
377 :
日本@名無史さん :03/06/11 23:04
>>374 「卑弥呼」は、倭人伝の文脈からみれば人名としか思えないね。
「卑弥呼」の「卑」は卑字だが、「弥」と「呼」は卑字とは言えないのではないかな。
「邪馬壱」が正式かどうかは不明だが、倭人伝にはそう書いてあるね。
「ヤマト」と関係あるかどうかも不明だね。
378 :
日本@名無史さん :03/06/12 00:26
>>377 「卑弥呼を立てて王となす」じゃなくて「一女子を立てて王となし、名付けて卑弥呼」だから
卑弥呼は固有名詞じゃなくて、役職とか地位の名称じゃないか、というのは今でも根強い説。
最近よんだ新書でも著者名わすれたけど、聞得大君みたいな例を想定して「卑弥呼職」とかいう言い方してた。
「卑」は韻書の冒頭の字だから、相当する音を表すもっとも一般的な文字を機械的に選んだにすぎず、
ことさらに卑字を選んだとはいえない、といわれているね。
379 :
日本@名無史さん :03/06/12 00:34
魏朝が個人名だと思ってるのは間違いないけどな。 間違うなんてことあり得るのかな?類例はあるのか?
380 :
日本@名無史さん :03/06/12 04:00
ウヨって日向が邪馬台国になったら困らない人たちのはずなのにねっ w
>>380 ???意味がわからんよ。日向かどうかとウヨかどうか、なんの関係もないだろうに。
>>380 九州説の電波たちはみんなウヨでまともな判断の出来ない連中だということ
>>380 畿内説の電波たちはみんな大陸系のっぺら坊なの?
384 :
日本@名無史さん :03/06/12 21:09
>>377-379 まあ、ちょっと聞いてくれ。唐の玄宗の勅書にこういうのがある。
「勅す。日本国王主明楽美御徳。彼の礼儀の国は、神霊の扶くる所なり。・・・」
主明楽美御徳というのはもちろん「スメラミコト」つまり天皇のことだ。ここではまるで人名のように扱われている。
中華秩序では皇帝が授けていない地位は価値がない。朝貢の大きな目的は皇帝から地位を得ることだし。
「地位は皇帝が授けるものであり、自称(僭称)するのは中華秩序に対する冒涜。」
そんな固定観念のある皇帝や官僚が「スメラミコト」を人名ではなく、地位と認識できるだろうか?
同じように卑弥呼にしても、魏の立場からすれば地位はあくまで魏が授けるものであり、「親魏倭王」しかありえないのだ。
朝貢使から「我国の王はヒミコです。」といわれても、「倭王の名は”卑弥呼”」としか認識できないと思うよ。
唐の時代でも上記の有様だ。異文化コミュニケーションは難しいよ。
いや、もし卑弥呼が人名ではなく地位だと、うすうす知っていても、正史に記すのは抵抗があるんじゃないか。
「年すでに長大」というのも実際は何代も代替わりしているのにずっと「ヒミコ」だから
「あいつまだ生きてるよ(w」ってな感じで・・・
385 :
日本@名無史さん :03/06/12 22:12
>>384 卑弥呼が役職や地位の名前とすると、
卑弥呼の前後の男王や、卑弥呼の宗女壱与はどういう名前の役職や地位なのかな?
魏から見たら親魏倭王しかない? 卑弥呼は女王と書いてあるが、女王とは何かな?
386 :
日本@名無史さん :03/06/12 22:18
うーん… 職制と個人名とが未分離の状況だったってことなんじゃん? 古代の個人名ってよくわからんし
>>378 >「卑弥呼を立てて王となす」じゃなくて「一女子を立てて王となし、名付けて卑弥呼」だから
「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」だから”名付けて”なんて書いてないよ。
388 :
日本@名無史さん :03/06/12 22:28
384じゃないが、こういうのはあるとおもうんだよな 卑弥呼というのは、王になる前の役職や地位の名前で、 王となる以前にすでに本名では呼ばれず、 役職や地位の名前から転化した通称で呼ばれるようになっていた。 よく時代劇で大店の後継ぎが○○(本名)様じゃなく、 「ワカ、ワカ」とかよばれていていつの間にか「ワカ」が名前のようになってしまうみたいに。 卑弥呼の場合だったら、早くから「ヒメミコ、ヒメミコ」と呼ばれていて、 王となってからも「ヒメミコ」と呼ばれ続けていた。 とかね。 オオヒコ、なんていうのもそうだろうし。
389 :
日本@名無史さん :03/06/12 22:39
卑弥呼が仮に役職や地位の名前だとしても、 前後の男王や壱与は卑弥呼と書かれていない訳で、卑弥呼一人を表していることは 明らかだね。個人名としても職名や地位名としても文脈の理解に差はない。
別にそんなことはいっとりゃせんよ。 ただね、卑弥呼っていうのが本当の意味での固有名詞(個人名)なのか、 「ヒメミコ」のような固有名詞化した一般名詞なのかを知りたいだけさ。
391 :
日本@名無史さん :03/06/12 23:14
まあ、何ともね。 男王は別にしても、同じ女王である壱与を卑弥呼と呼んでいないところを見ると、 固有名詞と思えるよね。 ただ、現代人でもそうだけど、一般名詞を借用した固有名詞は非常に多いよね。 例えば、現代人にも「ヒメコ」という名前の人はいる。これは人名としては 固有名詞だけど同時に一般名詞としても意味を持つ。 まあ、そんなかんじじゃねーの。
392 :
日本@名無史さん :03/06/12 23:33
>>387 名曰卑彌呼 が名付けてヒミコ?
名いわくヒミコだろ。
固有名詞として理解してるよ、中国は。
私の考えでは、ヒミコの記述は日本側の当時の国体をかなり誤解して、
或いは中国側の理解し易いように曲解して報告したんじゃないかと。
ヒミコは日巫女で、太陽信仰系の部族の巫女だった女性が、
王も神の神託には耳を貸すものだから、最高権力者の女王だと思った。
巫女政治という形態、神頼みで政策を決めるなんて軟弱な体制が理解できなかったのでしょう。
実は、神託というのは、族長会議の結果を神に諮って、神のミイツに守られた聖断にしていたのではと。
専横な大本営が御前会議を開いて、その決は大元帥陛下の聖断を仰いで・・・としたのと似ている。
393 :
日本@名無史さん :03/06/13 00:07
>>392 そう思いたくなる気持ちは分かるが、
壱与は日巫女ではないのか?
394 :
日本@名無史さん :03/06/13 00:24
>>378 >「卑」は韻書の冒頭の字だから、相当する音を表すもっとも一般的な文字を機械的に選んだにすぎず、
>ことさらに卑字を選んだとはいえない、といわれているね。
んなこたー信じられんよ。「卑」は卑字中の卑字。なんたって「卑」そのもの。
ことさらの卑字よ。一般的な字だなんてとんでもなかろうよ。
また、文字遊び、距離・方位遊びにもどるの? 日巫女は、部族で立てた巫女の職名だが、中国人は固有名詞としてとらえた。 巫女に立てられると、神と人との中間の格を得て、名前では呼ばれなくなるんだろうね。 当今の帝(とうぎんのみかど)と呼ぶけど、懐仁とか名前で呼ぶことはしない、 道長は東三条の大臣(ひがしさんじょうのおとど)だし、頼朝は鎌倉殿だし、 徳川将軍も大樹様とか公方様だ、極めて偉い人をじかに名前で呼んではいけないのだ。
卑彌呼の名に関しては、やはり中国側に誤解があったと思うよ。 三国史記に始めて記録が出てくるのが160年代で死亡推定年が248年頃、およそ百才 生きていたことになるがあの時代にそれほど長生きするとは思えないので二人ぐらいを 一人の卑彌呼と認識してしまった可能性があるのでは。壱与も卑彌呼だったが中国側の 混同に気が付いた日本側が避けるために区別をしやすいようあえて名前を使ったのでは。
397 :
日本@名無史さん :03/06/13 02:39
超初心者なのですが、邪馬台国に関するおすすめの本(読みやすい) 教えていただけませんか?
398 :
日本@名無史さん :03/06/13 02:41
>>396 248-173=75でしょ。
それをいうなら三國史記を疑ったほうがいいのでないの?
400 :
日本@名無史さん :03/06/13 03:00
だから、三國史記を疑ったほうがいいのではないかといっている。 まあもっとも、 卑弥呼について「年已長大」(三国志) また、「其人壽考、或百年、或八九十年。」(三国志) とあるな。 また、「壹與」についてもおそらく成人女性ではあるまい。 このままとるものはいないと思うが、一応書いておくよ。
401 :
日本@名無史さん :03/06/13 03:13
402 :
日本@名無史さん :03/06/13 09:14
「呼」は中国では「こ」とは読まないの。 馬鹿な話いつまでも続けているんじゃないよ。
403 :
日本@名無史さん :03/06/13 10:48
404 :
かっこいい俺 完璧すぎる俺 :03/06/13 12:09
僕も基本的に
>>395 の意見に同意ですね。
例えば日本武尊にしてもなにか本名が
あったみたいですし、現代で例えれば
大魔神といえば僕たちは佐々木だとわかる
のと同じようなものだと思いますけど
405 :
日本@名無史さん :03/06/13 15:59
>>402 >「呼」は中国では「こ」とは読まないの。
とはどういうこと?
406 :
日本@名無史さん :03/06/13 17:01
>>405 最古の韻書である集韻によれば呼にはカ音とコウ音があり
三国志ではコウと読むときはその旨の注記が付いてるので
卑弥呼の場合はヒミカじゃないかって話
407 :
日本@名無史さん :03/06/13 18:05
「呼」は「ho」か「fo」だろうね。
408 :
日本@名無史さん :03/06/13 18:27
「黄」を日本では「kou」とよむが中国では「fan」だ。
409 :
日本@名無史さん :03/06/13 18:34
魏志の中で 人名で「こ」と読ませる字は「古」か「狐」が多い。 「呼」を使った例は0だから。 「呼」は「こ」でない可能性が強いという事だね。
410 :
日本@名無史さん :03/06/13 21:08
卑弥呼は「pimifa」だな。
>>401 そのページで面白いものを見つけた。隋書東夷伝だ。
”開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。”
”開皇二十年、倭王、姓を阿毎、字を多利思北孤、阿輩[奚隹]彌と號す。” て読むのか?
阿毎多利思北孤(あまたりしひこ????)は天皇で、
阿輩[奚隹]彌(あほきみ???)はオオキミだろうから、
ここでも天皇位を人名のようにあつかってるな。
「オオキミと号す。」は正解だから50点ってところか。
日本の王位と人名を正しく認識しているほうが少ないじゃない?
>>395 が言うように、日本は貴人を直接名前で呼ぶのに抵抗のある文化だから。
412 :
日本@名無史さん :03/06/13 22:39
>>411 またこれやるのか? 一応付き合って言っておくと、
「多利思北孤」は「タリシホコ」なんだな。これがどうして天皇なのかな?
根拠はあるのかな?
>日本の王位と人名を正しく認識しているほうが少ないじゃない?
キミは幾つの例を以って「ほうが少ない」と言っているのかな?
413 :
日本@名無史さん :03/06/13 22:55
>>412 すみません。
タリシホコってだれですか?
414 :
日本@名無史さん :03/06/13 23:08
>>412 >>日本の王位と人名を正しく認識しているほうが少ないじゃない?
>キミは幾つの例を以って「ほうが少ない」と言っているのかな?
俺は正直知らんのだ。
天皇の名を正しく記している例を2,3見せてくれれば黙るよ。
できれば日本側の文献も残っている7世紀以降のヤツ希望。
それ以前は本当にそんな名前だったかわからんからね。
416 :
日本@名無史さん :03/06/13 23:10
417 :
日本@名無史さん :03/06/13 23:50
『オオキミと号す』って『号』なんだから名前じゃないじゃん。 『称号はオオキミ』でしょ。
418 :
日本@名無史さん :03/06/14 00:25
>>415 大王(天皇)が中国に朝貢したのは、タリシホコさんが最後じゃねえのかな。
タリシホコさんの国書は隋の煬帝さんにコケにされた訳で、
その後の遣唐使は国書なしだったよね。
そんで、次第に日本が中華思想を持つようになり、
遂に、遣唐使は廃止になったもんね。
時代は下って、倭寇が出まくることになったり、
源義満さんが日本国王の位を明皇帝からもらって朝貢貿易やったり。
つう訳で、タリシホコさんの後は、中国側にちゃんと名乗った大王(天皇)
はいないと思うがね。
だから、
「日本の王位と人名を正しく認識している」ほうも、
「日本の王位と人名を間違って認識している」ほうも、
そんなものはないと思うんじゃがね。
419 :
日本@名無史さん :03/06/14 00:30
源義満って誰?
420 :
日本@名無史さん :03/06/14 00:33
通称は、足利義満さん。
垂れ目の義満
422 :
日本@名無史さん :03/06/14 10:27
>>418 タリシホコが誰だか分からないが、スレ違いだからやめるよ。
(600年ごろだから推古天皇か?)
俺が言いたかったのは、中国から見て日本の王位名と個人名を識別するのは非常に難しく、
魏志で人名扱いされてても人名じゃない可能性がかなりある、ということさ。
三国史記はともかく魏志にも「年すでに長大」と書かれているので複数人数説は捨てきれないと思うぞ。
歌舞伎役者みたいに卑弥呼には人名と地位の両方の意味があるかも。
ただ、俺の本音としては卑弥呼は人名でも王位名でもなく、「神さま」だと思ってる。
●●●マスコミの 「盗聴/盗撮」 は許されるの?その9●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/1016/10165/1016527634.html 540 名前: 投稿日: 02/04/08 20:51 ID:IogY8uxo
>>537 >同じ時間に同じ放送を聴くか見て、ほのめかされたと感じる人は日本に数多く
>いそうだな。
理由は簡単。たくさんの人の盗聴ネタが入っているからだよ。たくさんの人の盗聴ネタの
平均値を使うこともあるだろうね。盗聴に頼った創造しかできない糞制作者がたくさん
いるんだよ。
【おまけ】朝の連続盗聴/盗用小説「ちゅらさん」のライターが、無効だクニ子賞とかを
もらったそうだ。あれは、俺と沖縄の知り合いとの電話を盗聴して作ったドラマだ。
呆れた。セリフは創造だと認めるが、俺の電話盗聴なくして、あのドラマは作れない。
424 :
日本@名無史さん :03/06/14 23:08
>>422 >>ただ、俺の本音としては卑弥呼は人名でも王位名でもなく、
>>「神さま」だと思ってる。
天照大神なら分かる気がするが・・・。
実在した最高位の巫女じゃないかな。
部族連合であった邪馬台国の全体共立の巫女。
それまでは部族それぞれで巫女を置いていたが、連合国家としての巫女はいなかった、
つまり画期的な出来事だったんだよ卑弥呼擁立は。
男王を立てたが国中まとまらなかった、かくして女王を立てるとまとまった・・・
と言うのは、中央の直接為政者の地位はまだ不安定、宗教的には統合されつつあったと言う事かな。
425 :
にゃんちゅー :03/06/17 20:13
「卑弥呼」は、「日霊王」で 「卑弥弓呼」は「日霊男王」でしょう。 「呼(ホ)」は、大陸北方騎馬民族系部族の王号「ハン」 の転訛と考えられる。
426 :
日本@名無史さん :03/06/17 20:49
邪馬台国と大和朝廷って何の関係もないんじゃないかな。ただ名前が似てただけで。 日本書紀読んでると大和朝廷には邪馬台国の記憶って全然残ってなかったみたい。 まるで他人扱いという感じ。神宮皇后が卑弥呼だろうかと紀の編纂者ですら 「推測」しているとか言われてるし。 何か関係があるならもっとはっきりとした系譜関係が史料として大和朝廷に 伝わってるんじゃないかしら。400年も前のことではあるけどねえ。 もちろんそんなに紀を読み込んではいないですが。素人勘ぐりで。
427 :
日本@名無史さん :03/06/17 21:07
>>426 天皇(崇神か)がいる時代に女王が統治者ではまずいから
さて、俺が卑弥呼を「神さま」と考える理由だが、 「ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居処に入室する。」 という件を読んで、神社の祭神(卑弥呼)と神主(男子一人)をイメージしたからだ。 さらに卑弥呼には統治する能力も環境もない。 つまり「邪馬台国の女王」になった当時は壱与同様、少女であり政治的能力は無く、 また上記のごとく、宮殿に閉じこもった状態では領民に直接号令をかけることも出来ないのだ。 卑弥呼は「統治者」というより象徴的な存在「神」であり、実質的な統治者は「男子一人」と思われる。 ただし、建前上は「神」の親政なので魏への使いは全て「卑弥呼」の名の下に行われたのではないか。
もう一つ、卑弥呼が擁立された時代背景も「卑弥呼=神」と考える理由だ。 卑弥呼は倭国が乱れた後に戦乱を収拾させる目的で擁立されている。 当時、邪馬台国が最大勢力であったことは間違いないだろう。 だが、その邪馬台国も単独で武力統一は達成していない。 しかし、「卑弥呼」を擁立することで倭国はまとまっている。古代国家に女王の例が少ないにもかかわらずだ。 血で血を洗う戦乱の世から「統治能力無き少女」の元にまとまれる理由はただ一つ、 「女神統治の正当性」を謳う神話・伝承が当時既に倭国に広まっていたのだろう。 倭の他の国も実質的な邪馬台国支配と分かっていながら、その正当性は認めざるを得なかったのだ。 でなければ小娘一人で国はまとまらない。 倭国の統一のために「女神神話」を使うとなれば、なるべく政治的能力のない者が好都合だ。 その結果が「13歳の少女」であり、「夫婿はなく」、そして「姿を見るものは少ない」なのだ。 卑弥呼は天照大神のモデル、という意見もあるが、俺は上記の時代背景から、卑弥呼は女神神話を利用した政治制度と考える。
430 :
424+392 :03/06/18 10:11
>>429 「女神神話」って何ですか?
古代にあったのですか。
その頃の日本列島の、各クニの隔たりはどの程度だったのでしょうね。
同人種の民がクニに分かれていただけか、氏族と呼べるほど精神的まとまりがあったか、
クニごとに分化習慣が違う程度か、言葉が違う程度か、全く人種が違うのか・・・。
今の日本人の風貌などを見る限り、かなり多様な人種が入っていますね。
混血で特長は薄められていますが。
古代では、クニごとに見て分かるような違いがあったかも知れませんね。
そんな人たちがくっ付いて、後の日本を構成して行くんでしょうね。
432 :
日本@名無史さん :03/06/18 12:43
新羅本紀(三国史記) を読んでいたら 第八代 阿達羅尼師今(154〜184) 二十年(173年)夏五月 倭の女王卑弥呼が使者を送って来訪させた。
素朴な疑問なんでつが、卑弥呼を古代中国(魏)の発音で「ヒミコ」なわけ? みな日の巫女だとかいろいろ言っているが、 邪馬台国語を魏の人が聞き書きしたんだろうから、現代日本語読みで推論しても 無意味なのではなかろうか?そう思ったんだがどうだろう?
434 :
にゃんちゅー :03/06/18 16:02
井沢元彦の出てたテレビで中国の学者が「卑弥呼」は、当時の魏の発音では 「ピミハ」と読むと言っていた。
当時の発音ってどうやって調べるの?
436 :
にゃんちゅー :03/06/19 06:09
当時書かれた文献を見れば、おおよその発音が分かる。
437 :
日本@名無史さん :03/06/19 14:25
「呼」が「ho」だとすると「h」は発音されないことが多いから「o」で「王」だったとも考えられる。
438 :
日本@名無史さん :03/06/19 14:45
年長大で、鬼道を能く使う とか、死の様子まで書かれてるんだから 実在した一人の人物でしょう>卑弥呼
439 :
にゃんちゅー :03/06/19 16:13
>>437 「ho」が「o」で「王」だとすると明らかに音です。
当時は3世紀ですよ。訓ならともかく音は無いんじゃないかな。
440 :
日本@名無史さん :03/06/19 16:49
>>439 だから当時の日本人がシナ語の「王」という言葉と発音を知っていて、
「姫(古くはヒミと言ったらしい)王」と言ったんじゃないかというのが、
その説の根幹なわけです。
441 :
日本@名無史さん :03/06/19 17:23
>>440 魏略の太伯伝説とつながるわけか。
太伯が姫姓だからな。
442 :
日本@名無史さん :03/06/19 17:40
443 :
日本@名無史さん :03/06/19 18:55
>434 卑弥呼=PE ME HuA
444 :
にゃんちゅー :03/06/20 07:46
中国の学者も↑の様に「HuA」と言ってる訳だから、やっぱり「h」は発音 したと考えた方が良いのではないでしょうか。
445 :
日本@名無史さん :03/06/20 10:51
>>444 当時の日本にはH音がなかったことが判明しているいて、
H音は日本ではK音にて受けていたことも多数の例があるわけで。
たとえば、中国での海(ハイ)は、日本では音読みでも海(カイ)とH→Kで受け。
446 :
日本@名無史さん :03/06/20 12:11
>>445 あのね
日本に「H」音がなかったかどうかじゃないの。
「呼」を中国人がなんと発音したかということだよ。
それに「王」は「おほ」と読むから「H」はあったんじゃないか?
中国人が日本人の発音を聞いたら「狐」か「古」、「か」だったら「可」と書くのが普通で決して「呼」とは書かない。
ということも頭に入れてね。
447 :
日本@名無史さん :03/06/20 14:16
だからkとhの間の音があったのではなかろうか・・・・といわれてるわけで・・・ 琉球原音だか原琉球音だかだっけ? ほかにも、記紀あたりではすでにないけれども、三世紀ぐらいにはホ音が残っていたとか・・・・ いろいろあった気がする。
448 :
日本@名無史さん :03/06/20 22:58
対馬・壱岐は当時は「つしま」・「いき」じゃなかったのだろうか? 地域の名は昔からあまり変わらないだろうから、やっぱり「つしま」・「いき」だったような。 「まつら」とか「な」、「わ」とかね。 でも当時の魏の発音じゃ違う音になるんだろうなぁ。
449 :
にゃんちゅー :03/06/21 09:52
>>446 「おほ」と読むのは、「王」じゃなくて「大」なのでは?
3世紀頃の日本には「h」音が無かった代わりに「p」音が使われていたら
しいので、当時「ハヒフヘホ」は「パピプペポ」と発音していた事になる。
にもかかわらず、「呼(HuA)」とあたかも倭人が「h」音を言ったかの
様に書かれていると言う事は、倭人が「PuA」と言ったものに、それに
近い音の「呼(HuA)」をあてたのではないかと推測出来る。
450 :
日本@名無史さん :03/06/21 09:55
PとHは全く違う。近い音ではない。
451 :
日本@名無史さん :03/06/21 11:04
>>446 >それに「王」は「おほ」と読むから「H」はあったんじゃないか?
白痴か?
>>450 現代日本語のハ行音は、声門摩擦音[h]だが、江戸初期では、両唇摩擦音[Φ]。
題「母には二度あひたれども、父には一度もあはず」 解「くちびる」
「後奈良院御撰何曽」と言う書物に出てくる有名な謎謎だ。
当時の「はは」の発音は[ファファ][Φ]は両唇摩擦音だから、「ΦaΦa」と発音する際に2回唇が合う。
でも「ちち」は唇を使用しない歯茎破裂音、だから唇は一度も合わないと言う答。
また、上代日本語のハ行音は、両唇破裂音[p]であった。
これは、[p]と[F]が容易に変化する事例。
沖縄県宮古島平良市方言 「骨」 両唇破裂音[puni]
鹿児島県奄美大島市方言 「骨」 両唇摩擦音[Funi]
そして、両唇破裂音から両唇摩擦音への音韻変化は、唇音退化と呼ばれ色々な言語によく見られる現象。
よって、[p]と[F]の関係は[p]>[F]の順で変化したと推定される。
だから、けっこう「近い音」だろう。
453 :
日本@名無史さん :03/06/21 11:52
ちなみに「王」の歴史的なカ使いはオホじゃなくてワウなのだな ウは今日の「う」より閉口でungの音訳に適切
454 :
日本@名無史さん :03/06/21 16:57
古代倭語から歴史的仮名遣いを経ての現代語の表記の中途半端さ 「王」:「わう」→「おう」(現代表記)→「おー」(現代発音) 「大」:「おほ」→「おお」(現代表記)→「おー」(現代発音) 「奥」:「あう」→「おう」(現代表記)→「おー」(現代発音) 「押」:「あふ」→「おう」(現代表記)→「おー」(現代発音) 「欧」:「おう」→「おう」(現代表記)→「おー」(現代発音) 「追う」:「おふ」⇒「おう」(現代表記)→「おう」(現代発音) 元々はバラエティーに富んだものが、どんどん簡略化されて来ています。
455 :
日本@名無史さん :03/06/21 22:11
「王」「わう」、「大」「おほ」、「奥」「あう」、「押」「あふ」、「欧」「おう」 は全部音読みだわね。すなわち、古代中国語のカナ写しであって、古代倭語ではないよ。
456 :
にゃんちゅー :03/06/21 22:35
くれくれ君で、スマソ それじゃぁ、邪馬台国って魏でも、「やまたいこく」って読んだのかな?(素
458 :
日本@名無史さん :03/06/22 21:36
>>452 全ての動物は魚から進化した。
だから魚と人間は近く、たまには間違えることもある、と言ってるようなもんだな。
>>457 「こく」って倭音じゃないから、読まなかったと思う。
461 :
日本@名無史さん :03/06/24 23:37
>>459 魏では中国人が漢字を音読みで読んだんだぜ。
「国」はまあ「コク」に近い古代魏音で読んだろうね。
462 :
日本@名無史さん :03/06/25 23:44
「やまたい」又は「やまだい」に中国側が「こく」を追加して記載しただけで「国」は日本側ではなかったんだろう?
463 :
日本@名無史さん :03/06/26 23:21
>>462 当然その通り。もともと何の疑問もない。
464 :
日本@名無史さん :03/07/08 01:28
裴世清が見たのは邪靡堆であって、この「ヤヒタイ」は別じゃないかな? そもそも、男王という報告であって、推古天皇と違うし。
465 :
日本@名無史さん :03/07/12 23:16
推古・皇極・持統は即位していない説もけっこう支持があるので、 あまり、推古天皇ありきでかんがえないほうがいいよ。
466 :
日本@名無史さん :03/07/15 04:02
西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。) 2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい) 3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。 9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか? 政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。 5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。 オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。 9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。 記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。 これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。...
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
469 :
日本@名無史さん :03/07/17 01:07
470 :
日本@名無史さん :03/07/22 21:14
卑弥呼には統治する能力も環境もない。 つまり「邪馬台国の女王」になった当時は壱与同様、少女であり政治的能力は無く、 また上記のごとく、宮殿に閉じこもった状態では領民に直接号令をかけることも出来ない
471 :
日本@名無史さん :03/07/30 08:29
472 :
日本@名無史さん :03/07/30 12:34
つまり邪馬台国は神政国家、卑弥呼は大祭主。 それを奉戴する形で王がいて、部族連合の盟主。 王が族長会議を主宰し、結果を卑弥呼にお伺いをたてる。 卑弥呼は神問して、その是非を下す。これに皆従う。 これが神政国家。 一見、卑弥呼は女王の様でもあるが、実は巫女に過ぎない。 神に仕える身として普通の王族の様な自由はないし、神問に失敗が多くなると下ろされる。 いや、霊威が衰えたら殺されたかもしれない。国の厄難を肩代わりする形で。
473 :
日本@名無史さん :03/07/30 12:54
奴⇒大和 奴はヤマタイではない ならば、大和はヤマタイではない ヤマタイに馬はいない 大和で、3世紀末〜4世紀頭の墳より鐙が確認されている 大和はヤマタイではない
474 :
日本@名無史さん :03/07/30 21:43
倭人伝に書いてあるのは、3世紀前半以前のことだよ。
475 :
日本@名無史さん :03/07/30 22:09
>>466 すごいね〜。よくこんな手前勝手な説が・・・
いや,西都がそうじゃないって言ってる訳じゃない。
あそこは,何度か行ったけどたしかに古墳の数が半端じゃないね〜。素人目にも。
でも,これだけ珍論並べられて,西都が邪馬台国だ!!ってやられると
かえって違うとしか思えなくなっちゃう。
でも,この珍論集批判すると,
・じゃあ,完璧に否定してみろ
・できないだろ。
・できないのならこの説は正しいのだ
ってな感じの理屈にでてくるんだろうな〜。
(^^)
477 :
西都くんを見守る者 :03/08/04 01:48
完璧に論破されても「西都念仏」 サルのせんずり
478 :
日本@名無史さん :03/08/04 02:06
西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に「都」という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京「都」、東京「都」。宇「都」宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位のことではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味(原文に沿わせるとこうなる。) 2、三角縁神獣鏡も出土。(魏鏡説らしい) 3、西都のオサホ・メサホ塚は宮内庁の管理化であるため発掘ができない。 9割5分以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 4、現在、長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都である邪馬台国の所在が何故特定できないのか? 政治的意図(天皇制)による組織的な隠蔽工作が行われたと思量する。これに荷担する畿内説は不快である。 5、国内最大級の古墳群が西都にはある。また、九州で一番大きな帆立貝式古墳(オサホズカ)がある。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は西都。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 8、朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書のウワサ」は、畿内説による歴史改竄を思わせる。 オサホ塚に後方部をつける改修は、卑弥呼の墓が円墳であることから、これを隠蔽する行為である。 9、好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も歴史改竄であろう。 記紀による天皇家の出自も歴史改竄、現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきた。 これの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。...
479 :
日本@名無史さん :03/08/04 02:08
東冶の東は沖縄で沖縄が狗奴国なわけないと思っていたが 馬、牛の骨が出てこないのは沖縄県だけだし 沖縄から日向まで1万2千里だから原田常治が言うように 郡から1万2千里とは半島からではなくて沖縄の狗奴国(郡)から 1万2千里だったわけだ。 九州の川内に国府が置かれたがココが投馬国。沖縄の狗奴国の飛び地だったわけ。 なるほど水行南へ20日ぴったりだね。 w
>>467 もともと邪馬台国軍(日向)は寄せ集め軍団であり、
邪馬台国と敵対する沖縄の狗奴国と川内(後に国府が置かれた場所)の投馬国(つまり薩摩隼人)と
(沖縄の狗奴国の飛び地だったわけ。)
(なるほど水行南へ20日。)が同盟。
(邪馬台国の次に人口が多かったのが投馬国。(戸数5万戸))
やがてニニギの子孫神武(崇神)は
日向を足がかりに北部九州、瀬戸内沿岸を順次征圧し、奈良(大和)への
帰還を果たしたのである。以後東国の制圧にも乗りだし大和王権を確立して
いくのである。
邪馬台国(日向一帯)は食料基地的なまとまりであり、一大文化、経済を
伴った都市国家だった。
しかも、斉殿原ともいわれ宮殿跡があり発掘調査をするべきだ。
西都のオサホ、メサホは発掘出来ないし、結論はなかなか出ないだろう。
>>479 >>709 投馬に接頭語の「サ」をつけて、「さつま」になったと考えられる。
具体的には巨大な川、川内川の流れる「川内市」が投馬国の核であっただろう。
川内市には、ニニギノミコトの墓と言われる「可愛山稜」があるが、これが投馬国王の墓だろう。
川内(せんだい)の名は”千の台(うてな)があるほど栄えた”から来ている。
まあ、誰がなんと言おうと「邪馬台国」の「台」は「台地」の「台」
西都原台地以外に考えられませんね。
482 :
日本@名無史さん :03/08/04 02:17
「倭の地は温暖にして、冬、夏生菜を食す」 この風俗記事から考えれば大和なわけないだろ。 里程記事を解析する前に常識で考えられないの? まあ、畿内説信者に何を言ってもムダか? w
>>482 畿内って奈良県の事だろ。東に海なんてあったんだろうよ。
弥生時代、畿内信者の脳内の中では。 w
日向の東に海あるし、冬も温暖(ぷっ
485 :
日本@名無史さん :03/08/04 02:25
486 :
日本@名無史さん :03/08/04 16:43
>>482 倭の地は温暖…って、当たり前なんだけど、半島に比べたら。
それと倭についての紀行文は邪馬台国そのものを指す訳ではない。
こんなの畿内説だろうが九州説だろうが、常識の範囲だぜ。
ちなみに魏使が邪馬台国に本当に到着した事を示す記述はない。
榎氏の放射説のなかで、これだけは両派共通の基本事項だ。
487 :
日本@名無史さん :03/08/04 17:20
文献学としての論争は堂々巡りになるだけだ。 とりあえず倭人伝について認識して欲しい要点は以下のとおりだ。 @倭人伝は魏使の出張報告書ではない。 そもそも魏使の構成メンバーが不明である。 A記載記事は同一時期の報告ではない。 後半特に伝聞とおぼしき記事が増えるのはそのため。 B倭人及び倭国に関する記事は気候風俗に関してはかなり具体的だが 政治形態や国力、戦闘力に関しては他国の報告に比べて曖昧である。 C陳寿の時代には、トヨが継いだ邪馬台国が現在どうなっているのか 明確なはずなのに簡単な記事しか記載されていない。 これだけで政治的意図云々を唱えるのはいささか乱暴だが 要するに倭国の存在が、大陸に影響を及ぼすものではなかったとの見方ができる。
488 :
487の続き :03/08/04 17:30
決定的なのが、倭人伝の記事が仮に3世紀中頃の西日本を指すものだとすると 稲作や牧畜の事実が発掘結果と矛盾することだ。 邪馬台国が大和朝廷の前身だったのかどうかは、かなり疑わしい。 しかし少なくとも自らの国を倭と呼ぶ文化圏の豪族が政権を築いたことは 間違いない。 今のところ解明されているのは、大雑把だがこんなところだ。
489 :
日本@名無史さん :03/08/04 18:20
「わ」というのは、当時の日本語の第一人称だ。 当時のシナに訪れた倭人に対して、シナ人が「お前らは何者だ?」と質問したら、 言葉の壁で意思疎通がままならない倭人は「わ(私)」と発音し、 シナ人がそれを国名と勘違いした可能性がある。 倭国と命名したのはシナ人であって、当時の倭人が自国を「倭国」と名づけた訳ではない。 倭人は自分たちの国を「ヤマト(山の人=山岳民)」と名乗っていた。 これは、海幸彦の末裔だとされた海洋民の「ハヤト(素早い人)」と区別する為の名称で、 ヤマトは海幸彦の弟である山幸彦の末裔だと名乗っていた。 シナ人は、次第に倭人が祖国を「ヤマト」と読んでいる事に気づき、その発音を写した「邪馬台国」と表記した。
490 :
日本@名無史さん :03/08/04 18:39
↑ コピペだし、思いっきり俗説だし。 日本史版ってこんなにレベル落ちたのかよ
>>489 [倭]って「ウエノブ」といって現在でも朝鮮人が人を「土民」って中傷する時
使われる言葉なんですけど。。。
492 :
日本@名無史さん :03/08/04 19:19
>>486 半島も南岸は結構温暖。対馬海流が暖流だから。
みかんだって取れるぞ。
奈良は内陸性気候で冬は底冷えがする。
493 :
日本@名無史さん :03/08/04 19:29
>>490 反論があるなら、根拠の提示を忘れずに。
根拠が無ければ、俗説は君が信じてる方。
>>491 正しくは、「ウェノム(倭奴)」
朝鮮語では「倭」に「奴」をつけないと、蔑称にならないようだ。
>489 ハヤトも地域呼称しか名乗ってないぞ、九州南部地域がヤマトに逆らったので 隼人だかわけのわからん名前付けられた、蝦夷もいしょだろ。 種子、屋久以南は地域呼称だ。
>>488 >稲作や牧畜の事実が発掘結果と矛盾することだ。
なんじゃそりゃ。
論理上:
『稲作や牧畜の事実』っつーやつが、『発掘結果』だろ。
『稲作や牧畜の事実』⊂『発掘結果』だから矛盾したくても出来ない。
内容上:
『牧畜の事実』なんてどこにもないだろ。
『稲作』は倭人伝と一致してるよな。
倭人は稲作をしてますよね。
497 :
日本@名無史さん :03/08/05 01:49
畿内説信者は否定証拠にしかならない前方後円墳の多寡を盛んに自説の証拠にしているが愚の骨頂。 三角縁神獣鏡も既に国産が決定的だし、倭人伝の記述から卑弥呼の墓も円墳である事は間違いない。
498 :
日本@名無史さん :03/08/05 01:50
邪馬台国 福井武生説。
499 :
日本@名無史さん :03/08/05 02:02
↑ 畿内バカってなんでもアリだな 藁
>>348 ネタじゃないぞ。二種類ほどソースを。
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_1.htm#第一章 、中国古代を探る
弥生人の大半は、中国江南地方から朝鮮半島を経由して移住した呉人、越人と
判明しました、したがって、中国、朝鮮の古代を知ることは日本を知る一助と
なるはずです。両国の歴史、伝承から日本を探ってみます。
古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-52.html 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。
おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人
は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を
残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで
自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが
『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた
倭人」である。
501 :
日本@名無史さん :03/08/05 02:42
そうか内海を瀬戸内海から日本海に当てはめると距離的に福井がピッタシ。
しかし邪馬壱=大和は、まず無いでしょ。 中国の当て字は今でも最悪だし。 「魏志倭人伝は歴史の廃墟」(再体験するに値する人間の行為や思想をんいひとつ語っていない)、 152pには岡田英弘『日本史の誕生』の1735年中国の正史である『明史日本伝』の記述を紹介している。 =日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった、当時、関白だったのは 山城の守の信長であって、ある日、猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして飛 び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平の秀吉といって薩摩の国の人の下男だという。 すばしっこくて口がうまいので、信長に気に入られて馬飼いになり、木の下という名をつけてもらっ た。---信長の参謀の阿奇支というのが落ち度があったので、信長は秀吉に命じて軍隊を率いて攻め させた。ところが突然、信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼしたばかり だったが、返事を聞いて武将の行長らとともに、勝った勢いで軍隊をひきいて帰り、明智をほろぼし た。=中国で150年もたってから書かれた信長、秀吉時代の日本史に関する「正史」である〜。
503 :
日本@名無史さん :03/08/05 03:17
支那は時代が下がるごとに民度も学問のレベルも下がってくるから 明史をもって三国志を測ることはできないよ
低脳スレの悪寒
505 :
日本@名無史さん :03/08/05 14:14
明史のその記述は特別だよ。国交なかったし。 新唐書以降の記述は正確だよ。
506 :
日本@名無史さん :03/08/05 16:32
西都は「安羅国」→邪馬臺国 熊本県玉名は「多羅波国」→邪馬二国 前原「伊都国」→邪馬壹国 この3つの国が邪馬台国連合をくみました。
507 :
日本@名無史さん :03/08/05 17:35
>>425 「卑弥呼」は、「日霊王」で「卑弥弓呼」は「日霊男王」でしょう。
なるほど!説得力ある〜。
お坊さんがありがたそうに唱えるお経だってサンスクリットの音訳。
レーガンもクリントンもブッシュも漢字。
発音から意味を類推するすることは重要でしょう。
「卑弥呼」「卑弥弓呼」ヒミコとヒミユコ、
これが固有名詞というなら日本人の感性なら親子か兄弟。
これが敵対関係にあった者同士の固有名詞といわれてもちょっとね…
425さんの主張は正しい!(と日本史ビギナーは考えます。)
『明史』は出鱈目とはいえ、いちおう要点をおさえている。 ・日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった ・秀吉は信長に仕え、木の下という名をつけてもらった ・信長は家来の明智に殺された ・秀吉は明智を滅ぼした
509 :
スレ違いか :03/08/05 23:22
確か卑弥呼ってゆうAV女優いたな。
倭奴国
511 :
日本@名無史さん :03/08/06 03:53
畿内説信者に恥じらい貞操ナシ
九州信者に知性ナシ
513 :
日本@名無史さん :03/08/06 07:14
卑弥弓呼をヒミユコとかいってるアホは どの説が正しいとか言ってる前にまず国語の勉強すべきだろ(和良
514 :
日本@名無史さん :03/08/06 08:01
おまいらの議論はほんとに空論だね・・(´д`)クスクス
515 :
日本@名無史さん :03/08/06 09:15
>>513 音の問題は重要だからこんな(一部の本で見かける)読み方と、
固有名詞と捉えることは間違いだろうといっているのに
主旨も理解できず意味の無い攻撃をしかけたがるアホがいる。
516 :
日本@名無史さん :03/08/06 10:02
音読と訓読もきちんと区別できない馬鹿が 固有名詞かどうかについて意見がいえるとはノーベル電波賞ものでつね(w
517 :
日本@名無史さん :03/08/06 10:03
507と513では、明らかに513の方がアホ。
というか魏志を素直に受け取って解釈しようとしているお前たちに萌え。 論ずるに足る歴史資料じゃないで一蹴してもいいのにな。
歴史書ってのはその時の権力者の都合のいいように書いてるから信用しない方が良いと思う。 古事記だって仏教徒の都合に書いてるし、、、 天照大神が女神で卑弥呼と被ってるのも、その時の天皇が女性だったからで。。。
520 :
日本@名無史さん :03/08/06 16:47
邪馬台国の一部は東北に逃げた。 侵略して来た天皇・騎馬民族は近畿に大和朝廷を?
東北に行かなかった人は奴隷みたいに〜 縄文土器の方が弥生土器より、個性が出てるのはいやいや作ったから〜
,,,--─===─ヽ/へ /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶 iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ iiiiiiiiiiii/ \iiヽ iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ ...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii| ..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii| iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii| ..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii| iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii| iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii| iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii| iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii| iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii| iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii
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526 :
日本@名無史さん :03/08/07 15:24
元来歴史にそれほど興味があるわけでもないが 意図的に隠されてきたことは知らなきゃならん 歴史は時の権力者に都合良く作られてきたが いまでも「都合の悪い歴史」が存在するのか 愚民政策もほどほどにしろ、官僚ども!
>>526 でたらめは君ら
官僚は良くやっているんだがねぇ
528 :
日本@名無史さん :03/08/07 19:37
売文家もよくやるけどな。
529 :
日本@名無史さん :03/08/08 17:25
>>500 さん、なるほど整理ができそうです。
すると、イワレヒコが大分の辺で遭遇して従わせた
「顔に刺青をして羽根をもった海人」の一団が
越人社会の特徴を表している(東漢氏の始祖)
と書いた本がありましたが
そういうことでOKですか?
530 :
日本@名無史さん :03/08/13 20:53
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
533 :
日本@名無史さん :03/08/16 01:22
534 :
日本@名無史さん :03/08/19 01:09
勝手な想像なんだが熊本のチブサン古墳ってあるよね。 そこに三本の角のような冠?を冠った人物が卑弥呼なんじゃないかと 思ってる。これは赤鬼と青鬼の角の合計で鬼の頂点のつもりじゃないかと。 それにミカドとは三角から来たのではないかとも思う。
>ミカドとは三角から 夏だねえ
536 :
日本@名無史さん :03/08/19 02:18
巻向以外考えられん。
537 :
日本@名無史さん :03/08/29 01:05
538 :
元歴史学者志望、現在無職23歳 :03/08/29 01:33
藤原カムイの漫画「雷火」でも読んでみてくだしゃい
539 :
日本@名無史さん :03/08/29 09:11
んで可能性的には邪馬台国→大和朝廷になった方が高いのですか?
レーニン=冷忍 世の中こんなものです。
541 :
元歴史学者志望、現在無職23歳 :03/08/29 10:09
>>539 九州勢力が東遷して大和政権になった確率は
高いと思う。朝鮮から九州に渡ってそれから
しばらく経ってから東遷して大和朝廷になった
と思われる。現にそうしないと宮内庁が九州とかの
古墳発掘するの一向に許可しない謎が解けない。
>>534 なるほど
とすると、御狗奴なわけか w
543 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/08/29 22:16
>>541 >九州勢力が東遷して大和政権になった確率は高いと思う。
東遷(進)したのは天武天皇(7世紀末)と神武天皇(4世紀末)。
東遷したのは、明治天皇と大久保利通・伊藤博文・岩倉具視 大久保は、なんと1200キロメートルも移動した。
545 :
日本@名無史さん :03/08/30 10:41
九州勢力が東遷したことには賛成だがそれが邪馬台国かそれ以外の倭国かはわからない。 男王がいた倭の国が東遷したと考えるほうが合理的かも。
546 :
日本@名無史さん :03/08/30 23:20
邪馬台国は九州と考えた場合、九州王朝が東遷すると考えると、 色々と辻褄があうのはよく分かりますが、 実際問題、九州の勢力が畿内に遷都する必然性は稀薄ではないでしょうか。 何か決定的な要素がないと無理がある仮説のように思います。 もちろん、確率の問題であって、絶対起こらないとは思いませんが。
547 :
日本@名無史さん :03/08/30 23:49
邪馬台国が大和政権の礎になったと主張する説は、大きく分けて3つのパターンがあるんだ。 1、畿内邪馬台国→そのまんま大和朝廷 2、九州又は備前勢力→(東遷)→大和朝廷 3、卑弥呼傀儡説(もしくは邪馬台国出先機関説)→畿内勢力増大→九州あぼーん →大和朝廷 このうち現在最も有力なのは・・・3である。
548 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/08/31 01:55
九州の近畿への東進は2回あります。 第1次東進(侵)、神武の東侵。 倭の5王に代表される熊本菊地勢力の台頭により、 九州王朝の旧勢力である糸島の一部勢力が、 九州の自分達の将来に見切りをつけ、 新天地を求めて、東に放浪し、 最終地奈良盆地の南部に侵攻したのが神武一派です。 4世紀末の頃です。 第2次東進(侵)、天武の東侵。 白村江の敗戦と唐の占領(駐屯)で疲弊した九州王朝において、 イワイ没後に勃興し、タリシホコ朝時に勢力を拡大した北九州沿岸部の一部勢力が、 九州の将来に見切りをつけ、近畿の東の勢力である尾張と組み、 奈良政権に侵攻したのが天武一派です。 この東侵の立役者は筑紫平野東部(甘木・朝倉)の住民で、 奈良盆地南部に多数移住したことです。 (この移住は両地方の地名及びその位置関係で説明されます。) 672年の頃です。
549 :
日本@名無史さん :03/08/31 07:17
亀レスになるけどさ・・・・ 「王」の昔の読み方は「わう」だろがぁぁぁぁぁぁ!
見てきたような嘘をつき
551 :
日本@名無史さん :03/08/31 11:33
すくなくとも、4世紀以降の九州に、近畿を侵攻できるほどの勢力があったという 痕跡は無い。
552 :
日本@名無史さん :03/08/31 11:50
見てきたぞ。
553 :
日本@名無史さん :03/08/31 21:50
>>546 ひさしぶりにこのスレに平衡感覚持った人が書き込みました。
554 :
日本@名無史さん :03/08/31 22:52
>>541 九州勢力は半島から渡ってきたというのはどのくらい
信憑性があるの?
また他に考えられる説にはどのようなものがあるのか教えてください。
555 :
元歴史学者志望、現在無職23歳 :03/09/01 00:16
この世で真実を知るものはただ空に輝くはるか遠くにある星々だけです
556 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/01 00:52
>>551 4世紀以降の九州に、近畿を侵攻できるほどの勢力はありませんでした。
対半島対策に忙しかったので。
4世紀末の神武の侵攻は、
九州の地方武装小集団神武が、奈良盆地の中央部沼沢地の南岸部にひっそりと入り込んだものです。
神武は河内湾侵攻においては、摂津・河内中央近畿勢力に敗退しています。
7世紀末の天武の侵攻は、
九州王朝の傍流である天智が、自らの非力を踏まえ、
近畿王朝の地方勢力である尾張勢力のバックアップと、
近畿王朝の地方勢力(摂津・河内・播磨・吉備)の中立化とで、
近畿王朝の中心勢力(奈良・近江)の天武を倒したものです。
557 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/01 01:45
>>556 書き間違いの修正。
7世紀末の天武の侵攻は、
九州王朝の傍流である天武(誤:天智)が、自らの非力を踏まえ、
近畿王朝の地方勢力である尾張勢力のバックアップと、
近畿王朝の地方勢力(摂津・河内・播磨・吉備)の中立化とで、
近畿王朝の中心勢力(奈良・近江)の天智(誤:天武)を倒したものです。
558 :
日本@名無史さん :03/09/01 02:10
旧約聖書に出てくる「シバの女王の国」 実はあれこそが邪馬台国であり、「シバの女王」は卑弥呼のことだった 「シバ」は「司馬」に通じるから邪馬台国は漢族系の征服王朝で支配層の姓が「司馬氏」だったのだろう。 今の皇室の「菊の紋章」は古代イスラエル王族と同じらしいから、 多分卑弥呼がソロモン王に朝貢したときにもらったんだろうね。 よって卑弥呼の金印はエルサレムあたりを掘れば出てくるはず。
559 :
日本@名無史さん :03/09/01 02:13
↑気違い
560 :
日本@名無史さん :03/09/01 02:17
武蔵丸の一尺竿がナルヒトの菊門にねじり込まれていく・…
561 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/01 07:56
>>546 >九州の勢力が畿内に遷都する必然性は稀薄ではないでしょうか。
>何か決定的な要素がないと無理がある仮説のように思います。
九州の中心王権が遷都する必然性は全く無いといっても良いでしょう。
しかし、九州の大きな政治的変化の時期に、
将来に希望の持てなくなった不満分子である神武や天武は、
東の地に新天地を求めて移動しました。
移動した不満分子は、どの時代にも数多くいましたが、
その中で神武と天武だけが記録に残るかたちとなったに過ぎないと見なせます。
562 :
日本@名無史さん :03/09/01 10:01
はやくタイムマシン作って調べてきてください。
563 :
日本@名無史さん :03/09/01 10:07
じゃあ大まかに言うと、渡来人が来て九州に勢力を広げ そんでその一派が近畿を征服して大和朝廷をつくったと、これが 一番可能性が高いのですね・・あくまでも可能性が・・うん可能性が
564 :
日本@名無史さん :03/09/01 11:01
江戸幕府は明治政府の礎なのか?
566 :
日本@名無史さん :03/09/02 15:33
>>561 不満分子かどうかわかりませんが、
海岸線の人の移動は明らかです。
福岡→和歌山→愛知→千葉→宮城→岩手
海女(潜水漁)・同一地名・面長で体毛薄い人など
一連のつながりが見て取れます。
明治以降、中南米の開拓に出て行った人たちの一部は
この地域の人だったような気もします(熊本・広島は??)。
567 :
九州王朝大好き ◆q0FP2AXqkY :03/09/02 18:56
>>566 生活苦も現状打開も、不満分子でしょう。
政治的不満分子でない不満分子も、
歴史的には数多く西から東に移住したのではないでしょうか?
先進地域の西から東への移住は痕跡が残りやすいので判りやすいですが、
勿論、東から西への移住も数多くあったと思われます。
神武も天武も、政治的不満分子の移動だとは言い切れないと思います。
彼らにも、現状打開や生活苦の気持ちがあったと考えるのが自然です。
568 :
日本@名無史さん :03/09/03 10:12
定住が当たり前ではない。絶対的な王権で無い限り移動するわな。 倭国大乱の時代は半島から九州にかけて騒然としていただろうから、 東遷の必然性はむしろあるといったほうが正しい。
569 :
日本@名無史さん :03/09/05 16:04
出雲大社の位置と時代ははどう説明するみなさん?? 私は 九州からの東征のための基地的な意味を持つように思えるのでつが
一世紀には小国が分立し、その中の一国は、確実に後漢と通交していた 二世紀初頭には、中国側から見て倭国王と認識されるものがいた 三世紀中葉には邪馬台国が親魏倭王に叙せられた 四世紀代には、朝鮮半島と倭人の武力交渉があった 五世紀には、中国から見て倭王○○と認識できる王統が数代続いていた 日本国内では大王と称される人物がいて、巨大古墳が造られている 六世紀には、大和地方に強力な王権が存在した 七世紀には、隋と通交した王権が存在した
571 :
日本@名無史さん :03/09/06 17:42
>>569 九州勢力の東遷には神武東征や崇神東征や応神東遷などの説があるが
どれも出雲には立ち寄ってないから基地的な意味はないと思う。
大和入りするのに山陰まで行くなんて合理的ではない。
572 :
日本@名無史さん :03/09/09 13:27
東征以前に侵略済みだし、北九州からだと近すぎて意味がない。 瀬戸内海から行くのなら前進基地は吉備だろう。
573 :
日本@名無史さん :03/09/09 14:12
>564 いきなり嬉しくなる様なページにリンクさせるなよ、この馬鹿やロー(感謝)
574 :
日本@名無史さん :03/09/11 21:46
575 :
日本@名無史さん :03/09/23 01:56
576 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :03/09/27 08:16
/
577 :
日本@名無史さん :03/10/03 20:18
森博達「日本書紀の謎を解く」という本では、雄略〜用明・崇峻紀の作者は、 シナから渡来した人である可能性が極めて高いとしている。 この本における書紀の字句解析の結果から、この巻においては倭習と呼ばれる シナ人が使わない熟語が、極めて少ないことがわかっている。 シナの史書の修辞法がそのままそっくり使われているのも、この巻の特徴である。 武烈天皇に関する記述が、シナ人の修辞法によって記されているのも道理なのである。 「妊婦の腹を刳く」という記述はシナ人があえて書き加えた可能性も高い。 二十世紀にも「妊婦の腹を刳く」というシナ人の歴史記述が存在する。
578 :
日本@名無史さん :03/10/03 20:51
ことさらに「シナ」などと書くシンタローかぶれの言うことなど、 いかに出典を示していても信用できない。
579 :
日本@名無史さん :03/10/05 05:39
いくら悔し紛れに政治的なレッテル貼りをしたところで、 藻前が反論できないくせに「信用できない」と遠吠えしてるのは誰の目にもあきらか(w
>>578 577の人格はともかく、レスの内容に間違いは無いよ。
森博達の本は岩波新書だから手軽に入手できるよ。
森は、シンタローよりは信用できる人間だよ。
一度読んでみれば?
中公。 元は、大修館。
582 :
日本@名無史さん :03/11/02 16:34
583 :
日本@名無史さん :03/11/21 01:31
シナ人による記述のおかげで、 我々は当時に日本語の発音を大陸推定音の研究結果から知ることができるわけね。
584 :
日本@名無史さん :03/11/21 15:46
1の言うとおり。
585 :
日本@名無史さん :03/12/18 21:34
586 :
日本@名無史さん :04/01/03 10:53
魏志倭人伝にかかれている「朝貢していた邪馬台国」は、九州にあった。 そしてその時代、畿内に別勢力があり、こちらは古墳をすでに築造し、 九州の「邪馬台国」をさまざまな面で凌いでいた。記紀では、 この畿内の統治者を、大国主命および崇神天皇に投影していると思う。 崇神天皇から仲哀天皇までの時代は、(架空の天皇や年数の捏造もあろうが) 形式的に畿内勢力の歴史を天皇家の歴史として組み込んだという見方ができる。 12代天皇の息子である日本武尊伝説は、大和朝廷よりも以前に、 畿内勢力が東国に及んでいた大勢力であったことを示すものである。
応神天皇の大和入りは、九州の「邪馬台国」の東遷を示すものであり、 古事記で、応神が仲哀の子でないということも暗示されている。 (大和入りの際、仲哀の二人の子が反乱を起こしたとの記述もあるが、 これは、天照大神が葦原中国に国譲りを迫ったとき、大国主命の 二人の息子が抵抗したという神話の一節に似ている) 実際のところ九州の「邪馬台国」は、東征どころか、畿内勢力の敵ではなかったはず。 しかし、応神「東遷」なる事績を「東征」という一大戦争にまで誇張され、 そのためにのみデッチあげられた架空の存在が神武である、と予想されるし、 また、北九州と畿内大和には数多くの同一地名がある、ことなどから、 「東遷」自体は何かしらの歴史的事実としてあったのは間違いない。
何らかの取引をしたか、折衷策を出したか、だまし討ちしたか、 それとも本当に戦争をして勝ったかして、北九州出身の 応神は大王になれたということだろう。 もし仮に応神が、悪辣な陰謀やだまし討ちで畿内を乗っ取ったとするなら、 畿内の歴代の王が「崇り神」となり災いをなすであろうと考えたのではないか。 だからこそ鎮魂の意味で、崇神には「ハツクニシラス」の称号を与え、 以降、仲哀までの王を天皇家の歴史に組み込み、さらに大国主命に 出雲大社という超巨大神殿までをも与えたのではないか。
590 :
日本@名無史さん :04/01/06 03:58
仲哀が北九州の地で、しかも、暗闇の中で死んだという記述があるが、これは 「邪馬台国」を滅ぼそうとして北九州に遠征した畿内勢力の王(=仲哀)が、 「邪馬台国」の陰謀で、だまし討ちで逆に殺されたことを示している。 またその後、人軍を整えた応神一派が九州を発ち畿内に向かったが、 仲哀の二人の息子率いる畿内軍を、やはりだまし討ちで撃破している。 記紀には、「神功皇后が亡くなった」と偽りの降伏をしてだまし討ちしたとある。 (推論だが、偽りの降伏は、はじめ仲哀の軍に対しても行ったものではなかったか)
591 :
587-590 :04/01/06 04:42
>>28 >ヤマトタケルの神話に「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」と書いてある。
上で書いたように、日本武尊の伝説が、
(邪馬台国と同時期の)畿内勢力における東国遠征物語を投影しているとすると
・九州−邪馬台国
・畿内−拘奴国
女王国と海を挟んで対峙していた「狗奴国」=「拘奴国」=畿内勢力?
592 :
587-590 :04/01/06 04:52
>>90 >狗奴国だって呉に朝貢してた可能性が指摘されてるね。
>記録が残ってないから否定する説もあるけど。
>呉の年号の入った鏡もでてるわけだし。
>>91 >呉の年号の入った鏡って兵庫県と山梨県からでてるんだよね。
非常に興味深いです。
物理的にむりぽ 魏の戦利品かも
大和 りそな 埼玉りそな 三井住友
595 :
日本@名無史さん :04/01/19 03:18
>ヤマトタケルの神話に「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」と書いてある。 本当ですか?
596 :
孤高の24歳無職 :04/01/19 12:24
邪馬台国が九州にあったとして それから九州から畿内に東遷する 理由がわからない。本部が畿内にあって 北九州にあった邪馬台国は畿内の 出先機関という見方が一番有力かな
>>596 遷都じゃなく落ちぶれた王族の一部が畿内に侵入。
598 :
日本@名無史さん :04/01/19 12:46
九州は火山活動が活発。 噴火により田畑が使えなくなり人口を養えなくなったことが何度もあり より安定した土地を求めさまよった。 その一派がニギハヤヒや神武。 稲作に適した大和盆地勢力は既に強大であったが、なんとかその一角に 食い込みついには支配層に食い込んだ。
599 :
日本@名無史さん :04/01/19 12:52
邪馬台国は大和かもしれないが、天皇は九州からやってきた。 大和は既に各地から人が集まってくる都会だった。記紀神話は 各地から集まってきた人が持ち込んだ神話の集大成である。
600 :
日本@名無史さん :04/01/19 12:56
神武天皇は大和入りに際し、戦闘を行い、大和の一角に根拠地を作った。 しかし、それで大和制圧が出来たのではない。大和統一が出来たのは 崇神天皇の時であり、欠史7代時代は単なる豪族のひとつに過ぎなかった。 崇神天皇は宗教改革により大和統一に成功した。
601 :
日本@名無史さん :04/01/19 13:11
古墳は天皇家がやってくる以前から作られ始めていた。 前方後円墳は天皇家の祭祀ではなかった。卑弥呼と天皇家はつながらない。 大和の住人は天皇家に前方後円墳体制を維持することを求め、天皇家も それを了承した。 そうしなければ大和統一は出来なかった。
602 :
日本@名無史さん :04/01/19 13:16
天壌無窮の神勅 は 卑弥呼 と天皇家をつなぐ工夫である。 卑弥呼から正当性を引き継いだと言いたいのである。 しかし卑弥呼は大和、天皇家は九州・・・・みんな天皇家が 武力で大和に攻め込んできた記憶はしっかりと持っている。 そこで九州高千穂の峰に降臨したことにしたのだ。故に高天原 は大和なのだ・・・
603 :
日本@名無史さん :04/01/19 13:43
邪馬台国は素直に日本人が読めば発音も“ヤマト”じゃないのか
604 :
孤高の24歳無職 :04/01/19 19:19
誰かさっさとタイムマシン発明してください。 こんな史料のない時代のことなんて推論でしか 議論できませんし、永遠に正しい結論なんて わかりゃしませんよ
605 :
日本@名無史さん :04/01/19 21:17
>>604 いや、天皇陵の発掘が解禁されれば、かなりのことが
分かると思いますが。
天王領なんてなにも出ない餘
東遷説は年輪年代法によって死にました。
608 :
日本@名無史さん :04/01/20 12:15
邪馬台国は岡山。これ最強! 晴れの国=太陽の国 岡山に多く残る鬼の伝承は侵略してきた大和軍との戦いの歴史に違いない。
609 :
日本@名無史さん :04/01/20 12:50
年輪年代法は信用出来ません
610 :
日本@名無史さん :04/01/22 07:54
2代目女王伊与たん。 最近この娘のことが凄く気になる。 なんか卑弥呼の親戚らしいんだけど・・・ 俺内部では凄い美少女と化しているのだ。 詳しいこと教えてください。 あ、台与のほうが正式名らしいけどこっちは音の響き的に萌えないので却下
611 :
日本@名無史さん :04/01/22 10:19
>610 伊予タンはその後クロオトコと故郷の島に帰って幸せに暮らしましたトサ 若い頃のピロスエ風の美少女ですた
私 やまもとデス。やもとは山の本なんです。だからヤマトは ワタシの国です。・・・・・無礼者メが。
613 :
日本@名無史さん :04/01/22 11:30
>>610 邪馬台幻想記読め
多分お前にあってるよ
614 :
日本@名無史さん :04/01/22 11:48
ヤマトって山のあるところっていう意味なのか
615 :
日本@名無史さん :04/01/22 16:52
普通に考えて邪馬台国は大和王国と聞きとれず、適当に当時のチャンコロが魏志倭人伝で当て字をおいただけ。
616 :
日本@名無史さん :04/01/22 16:58
で、当時のチャン語だと「ジャマダイ」「ジャワティ」だっけ?
>616 「うじやまだ」宇治山田のこと。
618 :
日本@名無史さん :04/01/22 23:52
九州の地名が数多く大和(畿内)に移動している というのがどうも気にかかる。 これは九州邪馬台の「東遷」「東征」以外で説明できるのかな? 畿内邪馬台論者はこのことは無視?
619 :
日本@名無史さん :04/01/23 01:50
素人ですみませんが、邪馬台国なり大和はその地に自然発生してできたの? それとも完全な大陸由来? 答えなんてでないでしょうが、どっちのほうが確率が高いの?
>>619 大陸由来だよ
チャイナはオリエント由来
オリエントはエジプト由来
エジプトは・・・
621 :
日本@名無史さん :04/01/23 02:46
>>618 昔の日本語には甲音・乙音の使い分けがあり、
甲音と乙音は同じ意味を表さないという事に
気付いたのが本居宣長。
九州と大和の地名は、現代日本語では読みが同じでも
昔の日本語では読みが違うことになる。
622 :
日本@名無史さん :04/01/24 00:07
>>620 民族のルーツや文化はそうでしょうけど、
なんというか、確固とした国家というか、政治的な集団と言う事
ならば、どっちのほうが可能性が高いんですか?
623 :
日本@名無史さん :04/01/24 00:12
ヤマト民族は日本列島において形成された これ定説!
624 :
日本@名無史さん :04/01/24 00:14
そういえばアメリカ民族とはいわないなぁ。 アメリカ人には民族性は無い、か。
625 :
日本@名無史さん :04/01/24 00:17
626 :
日本@名無史さん :04/01/24 00:46
邪馬台国の本体がわざわざ畿内に移動する理由は無いだろう。 日向の地方勢力が大和朝廷の起源なんでは?
マジに言うと九州地方の古代国家で、後の天皇家だと俺は信じている。
まあ、北方系ならは本来生物学的な本能から言って、真っ先に片付けるのは ハヤト系なんだがな?
629 :
日本@名無史さん :04/01/25 07:07
>>621 「原」が九州では「バル」であり「村」を意味したのに、畿内では「ハラ」と読み平たい土地を意味した。
630 :
日本@名無史さん :04/01/25 07:46
博多を首都にしていた九州王朝は 近畿地方の奴らに簒奪されました。 カワイソウ。
631 :
日本@名無史さん :04/01/25 08:28
橿原文明、集散地化、都市利権→出雲族の進入→日向族の侵攻・征服
632 :
日本@名無史さん :04/01/25 08:55
邪馬台国は大和=高天原 ずーと倭国の首都であり続けた・・・外敵の進入に強く、稲作に適したから。 支配層は何度も入れ替わった。 イザナギイザナミ=瀬戸内海勢力→のち吉備に大古墳 アマテラス(岩戸前)=奈良在地=卑弥呼 スサノオ=出雲勢力 アマテラス(岩戸後)=奈良在地=台与 ・・・ツクヨミは早く政権争いから消えた・・近江〜東海勢力(メイン銅鐸祭祀) ナガスネヒコ=奈良在地=ニギハヤヒ 神武=九州勢力=皇祖→大和の一角に武力で食い込む。 欠史七代=大和で豪族として過ごす 崇神天皇=大和政権奪取
633 :
日本@名無史さん :04/01/25 09:06
天壌無窮の神勅はアマテラス=台与(奈良=高天原在地)から 九州勢力が(ニニギ〜神武〜崇神〜)が正式に政権を受け継いでいる と主張するための”仕掛け”。何故九州勢力が大和に武力侵攻してきたか を正当化するための言い訳。「いや台与が昔そういったんで・・てへっ」 である。
634 :
日本@名無史さん :04/01/25 09:21
ちょっと訂正及び補足・・・ スサノオは東海勢力=ツクヨミ=狗奴国と結び卑弥呼を殺した 戦争をした。挟み撃ちである。スサノオは出雲に強制送還もしくは流罪。 ツクヨミ=狗奴国は邪馬台国と戦争前から国交断絶(太陽と月にわかれ、 顔を合わさない)していた。(素より和せず・・・)
神武の東征が嘘になるのかな? 邪馬台国は九州だと俺は思うのだが。
隼人は朝廷が京都に移ってから起こした民族の反乱だろ。 時代がおかしくないのかい?
637 :
日本@名無史さん :04/01/25 10:34
奈良には国立の研究センターもあり、年中シコシコ調査してるのに、 何も見つからないのは、畿内説を否定されたも同然じゃないか
いぱーい見つかってまつが何か?
邪馬台国といえる遺跡が、だよ
一つ見つかってまつが何か?
641 :
日本@名無史さん :04/01/25 12:10
>>637 邪馬台国という観念に拘らなくても良いのでは?
三輪山西麓の纏向遺跡がそれかもしれないだろ。
おい、いまんとこ最大級の弥生遺跡は鳥取の妻木晩田遺跡なのに、 スゴク忘れられてない?
643 :
日本@名無史さん :04/01/25 19:35
266 年 邪馬台国女王壱与が西晋に遣使(「魏志」倭人伝) 270 年 応神元年 1・1 応神天皇即位(「日本書記」)
644 :
日本@名無史さん :04/01/26 00:25
箸墓は卑弥呼の墓でも壹與の墓でもないと橿原考古学研究所も認めているけど何か?
馬がいないってのはどういう意味? 沖縄?
委国[ヰ]→(海)委国→山委国[ヤマヰ]→山倭国[ヤマヰ]→ 山大倭国[ヤマタイヰ]→邪馬台国[ヤマタイ] 倭国[ヰ]→大倭[タイヰ]→タイ国
九州王朝、ひさしぶりに電波ゆんゆんだな。
648 :
日本@名無史さん :04/01/26 02:15
昔、井沢元彦が「邪馬台」国はチャン語で「ハカタ」国と発音する!みたいな ことを言ってたような気がしますが、あれって否定されたの?
ハカタは好古都国の読みでそ
650 :
日本@名無史さん :04/01/27 08:56
手持ちの井沢氏の著作ではそれらしいことは言ってないようだが・・・
651 :
日本@名無史さん :04/01/27 09:53
TBSでやてた新世界紀行だろ。二見書房の「謎と不思議の旅」に 空白の古代史・卑弥呼は殺された!?とかやてる。
652 :
日本@名無史さん :04/01/27 10:13
倭語に対応していた高句麗語の地名を、産能大学の安本美典教授が調べ、 ほとんどが中部朝鮮に分布していることを明らかにしている。 高句麗南部(=半島中部)だけが新羅領になったのだから 三国史記の地理志の新羅九州の地名の部には半島中部しかでてこないのが当然。 安本美典は三国史記の地理志の新羅九州の地名の部しか見ていない。 同じ三国史記の地理志には唐が管理した半島北部や満州方面の地名も出ている。 新羅九州にくらべればサンプル数は極端に少なくなるものの むしろ満州・半島北部の方が日本語との類似率が高い。
653 :
日本@名無史さん :04/01/27 10:53
東殿塚古墳も箸墓と同じくらい古いんだろ。
>>652 あれ?それ以前に漏れがどっかで書いた奴だな。
誰だか知らんがコピペしてくれてありがとう。
でもスレの流れと関係あるのか?
655 :
日本@名無史さん :04/01/27 22:41
>>651 そうでつ。井沢元彦が現地人に「邪馬台」の文字見せて、
「これはなんて言うんだ、ハアハア」してまつた。
3げっと
>>655 今の現地人とやらに聞いても意味無いんだがなぁ
邪馬台の読みはヤマトでいいと思うよ。 ただし、その後裔が奈良の大和朝廷になったわけではない。 加羅人が邪馬台国を滅ぼしてそのまま東進し、畿内で王朝を造った。 これが大和朝廷。 邪馬台国は魏や晋の册封を受けていたため、勝手に滅ぼしてしまった 加羅人は宗主国の報復をおそれて邪馬台の後裔を自称した。 だから日本書紀に卑弥呼っぽい人が登場したりする。
騎馬民族征服説ですか?
今時?
661 :
日本@名無史さん :04/01/29 04:02
>>658 なんでこういう人っていつも断言口調なの?
662 :
日本@名無史さん :04/01/29 04:05
断言口調というか頭の中でも断言してる人が、こういう人になるんだから 当然ですね。 あれこれ比較検討できるような知能があれば、こういう人 にはなりません。
>>658 は天皇ネタになるといつも「天皇は加羅の傭兵隊長の子孫」と
ハリコしてる馬鹿と同一人物?
加羅人はもはや騎馬民族とは呼べないと思う。稲作してるし。 傭兵隊長というより部族連合の代表だと思う。>首露王
>>632 の説にはだいたい賛成だけど
神話時代の人物を無理に歴史に当てはめない方がいいと思う。
よその文献で確認できるのは卑弥呼ぐらいだし、
神話の人物は後世の為政者の投影であることが多い。
たとえば、神武は崇神・応神を投影した虚像だろう。
666 :
日本@名無史さん :04/01/29 12:46
東北の山村に落武者部落があるように(山形県の大井沢とかね) 天皇家も、半島から敗走して来たんだと思うよ。 当時の状況からしたら、「海を渡る」か「死を選ぶ」かの2択だったろうし。 それで、乾坤一擲の大勝負に勝った、てことじゃないの。
敗走つーか手つかずの新天地に入植したんだけどね。
>>666 >>667 東北の山村に落武者部落があるように(山形県の大井沢とかね)
天皇家も、「糸島」半島から敗走して来たんだと思うよ。
当時の状況からしたら、「東方に逃げるか」か「菊池の支配下に甘んじる」かの2択だったろうし。
それで、3敗1勝ながら、乾坤一擲の大勝負に勝った、てことじゃないの。
そして、策謀と騙しで略奪入植したんだけどね。
倭国に馬はいなかった
天皇家が半島から政治的理由で渡って来た集団だったという事は 何をもってしたら証明できますか?
何をもってしても、無理っぽ。
皆さんの心酔する邪馬台国学説でも挙げてミソ
弥生時代から古墳時代にかけて130〜150万の半島からの渡来があった。 縄文人は長頭であり、弥生人は中頭。そして近畿地方を中心に 短頭が広がっている。半島は全土が短頭。 前期古墳文化は加羅地域の古墳文化に酷似している。 短頭人が分布する北九州・瀬戸内沿岸・近畿は マキムク1式・2式時期の古墳が分布しており、 カラ・カヤの地名が多数残っている。 以上、解剖学・人類学・考古学的に証明してみました。 弥生人部族→大和朝廷説は マキムク1式時期前後に近畿地方で弥生人の銅鐸が破棄されている ことによって否定されます。
674 :
日本@名無史さん :04/01/30 18:39
九州王朝の倭と畿内王国の邪馬台国の統合が大和。
>天皇家が半島から政治的理由で渡って来た集団だったという事は >何をもってしたら証明できますか? 天皇家はどうか知らんが もしかしたら遠い昔(中国の春秋戦国時代) に敗れた集団が日本列島に侵入してきた可能性はあるんじゃない。 台湾ににげてきた国民党みたいに..... もともと列島に住んでた人にとってはたまったもんじゃなかっただろう。
そもそも聖徳太子の時代ですら 女帝とその補佐という関係を受け継いでるんだけどな。 九州王朝が滅ぼされたというが そもそも大和に来た連中は九州から来たんだろ だからどちらにしても同族だったんじゃない。
>>673 >>弥生時代から古墳時代にかけて130〜150万の半島からの渡来があった。
嘘八百。根拠なし。
埴原和朗「シミュレーションによる古代日本への渡来者の数の推定」 (人類学雑誌95巻3号) 根拠。
眉唾
反証は無しですか。 日本解剖学会総会でも古墳時代の大量渡来が報告されていますよ。
当時、百万も移住したら、半島が空っぽになる。 ―かどうか知らないが、 社会が崩壊するほどの破滅的事態だ。 半島人は文字を書けなくても、中国人が何か記述しているはずだす。 130〜150万の増加は、 半島からの移住ではなく、 稲作の普及による列島人の増加だす。
682 :
日本@名無史さん :04/01/30 21:36
>>681 でしょうねえ。百済も新羅も人口100万未満だったでしょうから。
一度に100万人が渡来したって訳じゃないよ。 でも弥生から古墳まで1000年かけて100万人移住しても空っぽになるかな? 鋭い反論ですな。今度調べておきます。
684 :
日本@名無史さん :04/01/30 21:53
中国漢時代の人口 約5,000万 日本の人口 奈良時代で600万 韓国と日本の人口比が現在でも1(4000万):3(1億2000万)であることを 考慮して、当時はMAX200万ぐらい。 現在の韓国は、おおざっぱにいって昔の百済・伽耶・新羅ぐらい。 と考えていけば、130〜150万も来たら南韓はほぼからっぽですな。
685 :
日本@名無史さん :04/01/30 21:58
>>683 半島にそれほど人が住んでいたか非常に疑問です。
もともと朝鮮は肥沃な土地ではないしね。
686 :
日本@名無史さん :04/01/30 22:03
魏志倭人伝を読んでも、風俗は南方と同じだし、 ジャポニカ種は中国南部から来たことは遺伝子で解明されているし、 いろいろ考えても、半島から人が大量に来たと言うのは疑問。
>>684 サンクス。
私は渡来人口の供給元が加羅・百済だと考えているので、だいたい母胎は50万人ぐらいかな?
当時の人口増加率がどれくらいか判りませんが、年間1000〜2000人ぐらいの渡来は可能なんじゃないですか?
688 :
日本@名無史さん :04/01/30 22:13
脛の長い男とか、鼻の高い大男とか、土蜘蛛とか、鬼とか、海を照らして来る神とか、大蛇の様なヤツとか・・・ ある人達から見れば、いろいろ奇怪に映る容姿・習俗・分化の集団がいた事を示している。 いろんな人が渡来して来て、やがて全体を統一する王が現れて、日本が出来たと言う事で良いじゃない。
魏志倭人伝の倭は弥生人だと思うのです。 邪馬台国は九州にあった弥生人の都市国家と考えています。 半島の稲もジャポニカ種なんですかね?(不勉強で申し訳ない) だとしたら半島にジャポニカ種を広めたはずの中頭人種がいないのが不可解だ。
690 :
日本@名無史さん :04/01/30 22:16
うん朝鮮人渡来者の中から統一したというのでいいよ。 実際は統一した倭王から簒奪したのが今の天皇家の祖先だけどね。
691 :
日本@名無史さん :04/01/30 22:26
半島から弥生時代にそれほど人が来たというのはちょっと信じられない。 まったく来ていないとは言わないが。 3世紀においても、「有無するもの(海南島の)たん耳や朱崖と同じ。」と魏志倭人伝 に書いてあるほど、南方の風俗を残していたことを考えれば。
>>690 統一っていうか、最初に大和政権をつくった倭王は加羅人。
簒奪っていうか、同盟のために百済から迎えられたのが今の天皇家の祖先。
こういう論を展開するつもりでした。先越された。
693 :
日本@名無史さん :04/01/30 22:35
まあ、史料とか考古学的事実を無視してあれこれ言うのは勝手だが、 少しは根拠でも示してくれ。
>>691 それもそうですね。ということは3世紀後半以降にドッと来たことになるけど、
それだと本国が空になるし。論理的に考えると100万以上は無理があるかな・・・。
ずいぶん馬鹿っぽい会話してるのがいるな
古墳を調査すれば分かるかも。 何で調査させないんだろう。 大和朝廷と今の天皇家が無関係だと分かると何か問題あるの。
697 :
日本@名無史さん :04/01/31 00:17
>>694 そんな、あっさり引っ込められても。
何か強力な証拠があるのかと思ったんだが。
あなたのいう伽耶・百済の人々が来たとしたら、新羅の勢力が伸張して、
朝鮮半島を統一していく過程において、日本に逃げてきたというのは、
かなり可能性があると思うんだが。事実、百済の貴族たちが日本に
逃げてきたことは記録に残っているし。その他の人々が日本に来た
としても別におかしくはないと思うんですけどね。
698 :
日本@名無史さん :04/01/31 00:42
やっぱり発音からしても邪馬台=大和じゃないの?
699 :
日本@名無史さん :04/01/31 00:53
古代史って発掘成果からどういう状況が存在したかは、ある程度分かるのだが ストーリーの部分が見えてこないんだな。 舞台がどこにあってどういう舞台装置や大道具が使われた、とかは分かっても そこで演じられた劇の内容は不明、みたいなもので。 あるいは劇の台本(記紀)はあるがその劇を演じた役者は分からない。
>>698 やっぱり発音からしても邪馬台=山大倭(ヤマタィヰ)、九州じゃないの?
私はじょうもんじんが稲作の伝播で食生活が変化し、五百年くらいかけて 弥生人の身体的特徴に変わり、そいつらが大和朝廷を造った、 というストーリーを考えましたがどうですか? 主役は縄文人青年、アペフチカムイリムセでつ。
半島から来た天ちゃん一家の祖先が九州の邪馬台国を滅ぼし、 九州王朝を起こした。 で何代かして瀬戸内海を東に移って狗奴国を滅ぼして畿内政権をうち立てた。
704 :
日本@名無史さん :04/01/31 02:15
つーか もう念仏のように天皇の祖先が半島から来たとか定説のように 言ってるが、それって確定なのか? 半島抜きにして 土着の真性日本人が大和朝廷作ったってストレートな意見はないんでつかね なんか、ねじまげて考えすぎだよね そんで、普通に邪馬台=大和じゃんね、考えすぎだよwあふぉですか?君達
半島からきたの大陸からきたのって逝ってる奴って 何年頃にどういう理由できたのか、向こうにいた時はどういう存在だったのか まったく不明瞭で曖昧なことしか岩内根。
土着かどうかは定義が難しいからなんともいえんけど、 統治機構の起源としては、半島から政治的に渡来したんじゃなくて、 列島住まいの香具師らによって自然発生的に打ち立てられた可能性も 十分に考えられるんじゃないか? どうよ?
>>706 逝ってることがいまいち和歌欄。
3世紀の段階では明らかに韓より倭の方が発達した統治機構ができてるわけだが
「なんでも半島起源ニダ」に洗脳されてると魏志東夷伝よんでも逆に受け取って
しまうらしいな。かわいそうに。
708 :
日本@名無史さん :04/01/31 09:30
考古学だと、大和朝廷は畿内起源っていうのが定説なんだよな。
709 :
日本@名無史さん :04/01/31 10:09
しかし記紀神話だと明確に南九州を指定している 畿内はニギハヤヒやナガスネヒコ、蛮族どもの地だとも どういうんだろね・・・
710 :
日本@名無史さん :04/01/31 11:14
ニギハヤヒが蛮族?
711 :
日本@名無史さん :04/01/31 11:18
国栖とか有尾人とかウカシ兄弟とか
>>697 ただ、百済滅亡前に100万以上は無理かなと。
百済滅亡時に20万人の渡来亡命者がでたと言うのはほぼ確定なんですが。
日本列島原住民が大和政権を樹立説
それこそ証拠が必要ですね。
>>673 でイヤと言うほど反証を挙げて否定しましたよ。
>>712 20万だって無理だよ。
どういう計算すか?
>>673 >弥生時代から古墳時代にかけて130〜150万の半島からの渡来があった。
それはこのスレで否定されたでそ
>縄文人は長頭であり、弥生人は中頭。そして近畿地方を中心に
>短頭が広がっている。半島は全土が短頭。
頭形云々は今時の人類学では相手にされてないよ。
初期の渡来系弥生人が半島経由で大陸からきたのは認めるが、
彼らが日本国内で政権たてたかどうかはそれだけではなんとも言えない。
>前期古墳文化は加羅地域の古墳文化に酷似している。
それは別スレの騎馬民族スレで否定されてる
>短頭人が分布する北九州・瀬戸内沿岸・近畿は
>マキムク1式・2式時期の古墳が分布しており、
古墳が存在するだけでなんで理由になるのかわからん。
>カラ・カヤの地名が多数残っている。
地名の出現率によって意味はちがうだろう。
>弥生人部族→大和朝廷説は
>マキムク1式時期前後に近畿地方で弥生人の銅鐸が破棄されている
銅鐸が破棄されたのはいろいろな解釈が可能で
海外から侵入した勢力が征服王権を建てたなどというのは飛躍しすぎ。
>>697 征服王権が海外から侵入してきたのは、具体的にいつ頃・どこからなのよ?
征服したというより逆に取り込まれたという方が現実的
前期古墳文化≒加羅古墳文化は否定されてるのか。 ま〜た調べ直しか・・・。
>>712 >>百済滅亡時に20万人の渡来亡命者がでたと言うのはほぼ確定なんですが。
20万が日本に渡ったとは、考えられませんな。
当時の百済の人口のほぼ半分だと思うが、
それだけの民衆が、王族と一緒に逃げる理由はないだす。
一般民衆にとっては支配者が代わるだけ。
新羅に反抗すれば殺されるだろうが、
新羅にしても、年貢を生産する百姓を意味なく殺すわけがない。
当時の小さな船で、20万を渡すのに、何隻の船が必要か?何往復必要か?
滅亡の間際に、大型船を建造できるわけもないから、ほぼ不可能だす。
したがって、渡来亡命者は、王族貴族とその使用人など、
その数は数百人から、最大で数千人くらいでそ。
もちろん、この数で日本を征服できるわけがない(笑
大部分は、関東その他各地に、開拓者として入植させられますた。
719 :
日本@名無史さん :04/02/04 19:21
征服王朝派は逃亡したようだな。
代わって古モンゴロイド建設派が台頭させていただく。
721 :
日本@名無史さん :04/02/05 07:54
4世紀〜5世紀にかけて世界中に騎馬民族旋風が吹き荒れたらしいですが ひょっとしたらその影響でゲルマン民族の大移動みたく 朝鮮に住んでた人々も圧迫されて追われて日本に逃げてきたんじゃないですかね そんでその人々が大和朝廷をうち立てたと言う話は、べたですか?
722 :
日本@名無史さん :04/02/05 07:56
というか征服王朝の可能性・・・70% 土着王朝の可能性・・・10% 征服+土着の融合王朝の可能性・・・20% こんくらいですか
723 :
日本@名無史さん :04/02/05 13:18
ま た 征 服 王 朝 厨 か
東シナ海を荒らしまわってた海賊が九州に王朝を打ち立てて 東征、機内にあった邪馬台国を滅ぼして大和王朝となった。
>>721 騎馬民族旋風が吹き荒れたけど、被害にあったのは主に古代文明の
栄えた後の爛熟・老朽化した大帝国。(ロ−マとか中国とかインド)
極東でいうと、高句麗(これは騎馬民族ではない)が鮮卑(騎馬民族)
への防波堤の役をはたしたので、騎馬民族は朝鮮半島や日本列島を
征服することはできなかった。
>>725 いずれにしても、馬では海を渡れないわけだが(w
思うんだけど、民族大移動とか征服王朝建設みたいな大きな出来事が あったとしたら、たとえ昔のことだろうと、伝承なり言い伝えなりが 半島、列島双方にもっと確かな形で残っててもいいんじゃないの?
728 :
日本@名無史さん :04/02/06 05:45
邪馬台国関係のサイトを色々見て回ったが……。 九州説論者・文献畑の人々の、考古学畑の畿内説論者への怒りと憎しみがすげー渦巻いてるなw オレ的には、大和を中心とした西日本の邪馬台国と東海の狗奴国が日本を二分して戦ってたーって話の方が燃えるのでこっちを支持するがw
729 :
日本@名無史さん :04/02/06 05:56
>>728 同意。
九州に起源があっただろうがすでに東遷してて、卑弥呼の頃の邪馬台国は九州を含む都市連合国家で大和に宮があったとオモワレ。
>>728 それらは時代に取り残された孤児(じじい)たちの恨み節ですな
731 :
日本@名無史さん :04/02/06 06:49
>>730 てことは、一般的にはほぼ畿内・大和説で決着?
そのまま大和王権へ一直線?
732 :
日本@名無史さん :04/02/06 06:55
畿内・大和説で決着 初期大和王権へ一直線
733 :
日本@名無史さん :04/02/06 11:03
>>731 一般的には決着してないと思うぞ。
何故かしらんけど、九州説から入るヤツの方が多そうだ。統計は取ってないけど。
Webのアンケートでも、九州説は結構強い。
サンプル www.yu-ji.com/cgi-bin/eztohyo.cgi
他方、学界では畿内説が強い、というより、ほぼ事実上畿内で決着済み。
これからの課題は、この極端な温度差をどうやってちぢめていくか、だと思うけどね。
バカの壁じゃないけど、話してもわからん香具師が多いからなぁ。
魏志倭人伝の記述からはとても畿内には持ってけないから。 ちなみにオレは邪馬台国はあくまで魏が認めただけで必ずしも列島の中心ではなかったと思ってる。 デムパ?(藁
文献上じゃ畿内に行けないな。畿内説は資料を恣意的に 使ってるよ。そもそも九州に邪馬台国があったとしても、 畿内に真なる大和国(ニギハヤヒ?)があればうまく おさまるじゃん。
>681 毎年一万人移民してくれば100年で 100万人は移民できる。 現在でも半島からの移民は1万人ずつ 帰化してるよ。 俺としては気化してほしいけど。 ついでに当時は日本列島にまともな 国家がなかったので不審船が大量に やってきても何の取締りもなかった。
当時の人口増加率も何も 食い物さえ確保(農業)できれば 子供はわんさか生んだのだから どんどん増える。
>702 五百年ぐらいじゃ弥生人と交配しない限り 変化ないでしょ。そもそも稲作をやったぐらいでは 一重まぶたにはなりません。 白人や黒人がいくら稲作一重まぶたにならんよ。 シベリアにいったらなるかもしれないけど。
739 :
日本@名無史さん :04/02/06 13:28
>>734 >>735 悲しいかな、畿内説と巷の九州説はここで既に分かれる。
畿内説は、というより、文献史でも考古でも自称ではない研究者は、魏志倭人伝のままではどこにもつかない、
畿内にもつかないけど、九州にもつかない、という事実を正面から見据えて取り掛かる。
これは、九州説に立つ研究者も同じことで、いまどき行程論で決着を付けようっていう研究者はいない。
入手しやすい所では、九州説に立つ文献史の先生である平野邦雄の邪馬台国の原像を読んでみそ
>>739 あぁ、平野邦雄、あれいいねー。
漏れは畿内説支持だけど、あの人の本からはかなり影響されまくったよ。
古田武彦みたいにあとから騙されたと思いあたることがない。
今でも平野説のかなりの部分に洗脳されたまんまw
平野邦雄本人は九州説だけど、あの人の論考は九州派にも畿内派にも 区別なく参考になるような良質な部分が多い。 本人が九州説に固執しながらものを考えているわけではない という証拠だろう。好感がもてる。
742 :
日本@名無史さん :04/02/06 17:14
三世紀半ばに畿内に、それこそ戸数七万戸位の強大な勢力があったのはほぼ確実で、 それが大和王権の原形となったのはおおよそ間違い無い。 問題はそれが邪馬台国なのか否か。 魏志倭人伝の記述はこの原大和王権について論じた物か、 それとも既に畿内の勢力に圧倒されていた九州の地方勢力についてのものなのか。 そのあたりが今現在の争点……かな?
そんなこと言ったら出雲や吉備や南九州とかの 数え切れないほどのご当地厨達が暴れだすよ。
744 :
日本@名無史さん :04/02/06 19:42
箸墓古墳あたりをほったら何か出てこないかなァ。 ほっちゃだめなの?
745 :
日本@名無史さん :04/02/06 20:12
大陸に近く先進文化を取り入れ安い九州に強い勢力が成立 ↓ その中の一派が何らかの理由により畿内方面へ東進(政治抗争の敗北・亡命?) ↓ 東進した一派によって畿内・瀬戸内勢力が台頭 ↓ 大陸との交易利権を巡る畿内と九州の争乱が勃発(倭国大乱)。畿内勢力の勝利。 ↓ 強大化した畿内を中心に広汎な連合政権が成立。彼等が邪馬台国として魏志倭人伝に登場。 ↓ その後邪馬台国は東方の狗奴国を破り日本に初めての政権=大和王権を成立させる。 てなシナリオはどう?
>>736 毎年1万人、それがコンスタントに100年連続、計100万人移住とか
毎年千人、それがコンスタントに1000年連続、計100万人移住とか
絶対にありえないだす。
半島側でも、年貢の生産者たる百姓の逃亡を禁止するだろうし。
列島側でも、よそ者が大挙して押しかけても、分け与える余分な食料はない。
もし来れば、流れ付いた村村で、村人に殺されただろう。
もちろん、途中の海で溺死する確率も高い。
半島よりも列島の方が、生産力も高く、人口が多いのだから、
少ない側の人口を、多い側が100年、1000年吸収しつづける理由がない。
747 :
日本@名無史さん :04/02/06 20:32
まともな学者でまだ九州説やってるのは平野くらいだろう。 といっても生きてるというだけだが・・・
748 :
日本@名無史さん :04/02/06 20:59
あまり関係ねーすが、沖縄では「ヤマト」といえば 普通鹿児島の事を指し、日本全体の事は 「ウブ(大)ヤマト」といい、両者はきちんと 区別して使われています。
>748 区別せんよ、そりゃ最近だろ?
750 :
日本@名無史さん :04/02/06 21:58
>>747 あっちこっちで畿内説を批判してる奴いるけど、こいつらまともな学者じゃねーのん?
みんな電波さんでしょ
>>745 最近の考古学の成果からすれば、大筋はそれしかないでしょ。
邪馬台九州説とか邪馬台東遷説は、紀元前後の九州から畿内への人や文化の移動を
誤認混同してるだけ。
いまだに九州説唱えてる人って、もう意地になってるだけでしょう。生涯かけた主張を今さら
おろせないと。
753 :
日本@名無史さん :04/02/07 00:15
初歩的な質問ですいません。 弥生末期〜古墳初期の日本にはまだ製鉄技術はなかったんですよね。 それで大陸から輸入してたと。 って事は、大陸との関係や交易ルートの確保って当時の諸勢力の栄枯盛衰とやっぱ直結してたんですか?
結果としては直結してたことになる。 だが原因ではないよな。
馬が居なかったのは? 銅鐸を知らんかったのは?
>>750 あっちこっちじゃわからん。名前あげてくれ。
>>745 >その中の一派が何らかの理由により畿内方面へ東進(政治抗争の敗北・亡命?)
>↓
>東進した一派によって畿内・瀬戸内勢力が台頭
この辺は必然とはいえないな。
東進の痕跡が見えない。
文化的東進が明らかなのは、遠賀川式まで遡るけど、
これとて文化だけが伝搬したのか人的移動まであるのか、判断は難しい。
それに、東海が落ちてるようだが、
瀬戸内と東海が結んで、結果として、
畿内に政権ができたっていうのもありかも。
>>753 製鉄技術は弥生時代からあったよ。大陸より優れていたかも知れん。
半島から輸入してたのは最終完成品としての鉄製品ではなく、
原料素材としての鉄挺(鉄の延べ棒)。
中国には、オリエントからシルクロード経由で伝来した華北の製鉄法と、
インドから東南アジア経由で伝来した江南の製鉄法があって、
両者は別々のままだった。朝鮮の製鉄法は前者のみ。
日本には両者が伝わり融合して独自のタタラ製鉄法に発展していた。
760 :
日本@名無史さん :04/02/07 03:48
邪馬台国が大和朝廷になったと言うより、最初期の大和朝廷の姿が偶然邪馬台国の名で中国の歴史書に記録されていた。 で、ファイナルアンサー?
761 :
日本@名無史さん :04/02/07 03:51
>>760 漏れもそう思う。個人的には崇神朝あたりかと
763 :
日本@名無史さん :04/02/07 09:17
ゴミクズがな
>>762 ほとんど“学者”様はひっかからんのだが・・・・・
自称・・・・は別だが。
765 :
日本@名無史さん :04/02/07 10:13
漢や魏でいう「国」って小さいものだと食邑数百戸程度の ものなんだよね。
オイオイ、安本先生は立派な学者だろ
心理学のな。歴史はトーシロー。
>>745 狗奴国が邪馬台国の東にあるって、どこに書いてあるんだ?
根本的なことを言うとな、南を東と読み替えないと成立しない
ような説は学説とは呼べないぞ。読み替えた時点でその資料の
価値を否定するに等しい。女王の都する邪馬台国の方角だけ
が間違ってます、みたいな言い訳が通じるかよ。
邪馬台国は奴国や伊都国より南にある。これだけはちゃんと
頭に入れておけ。その上で語れ。
ついでだから、もう一つ。 「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種なり」 と書いてある。海を渡るんだから、邪馬台国には海に面した港が あった。この時点で大和説はおしまい。しかも、南を東に読み替 えたら、この「女王国の東」はいったいどっちだ? つまり、あれだ。3世紀に大和に強力な政権があったことを、 認めるにしても、それが邪馬台国であることは「倭人伝」を 読む限りありえない。だとしたら、大和政権は倭人伝の世界の 外にあると考えるのが自然だ。
学界でも見解のわかれて長年議論の続いてる問題なのに、 自分が答え知ってるみたいに えらそうに断言調でしゃべる奴って ホントに恥ずかしいね
学界で見解分かれてる?素人が好き勝手なこと言ってるだけじゃない? 今、学界で非大和説なんて圧倒的少数派でしょ。分かれてるというほどの もんではないような。 素人研究家はみんな中国文献大好きで、しかもなぜか九州説にこだわる 人多いが、本元の中国の考古学界は大和説。
旧唐書に倭人は「倭国」と「日本国」に分かれてたっちゅうのは どういうことでしょう。 んで、「日本はもと小国、倭国を併せる」は?
>>769 >邪馬台国には海に面した港が
>あった。この時点で大和説はおしまい。
これだと、九州説でも人気のある筑後川流域に比定する説、
古田御大の博多説、などなど、あと熊本の玉名とかいうのも聞いたことがあるけど、
これら全部、まくらを並べて討ち死にだがイイのか?
何度も出た話だが。
それに、東には伊勢から東に海を渡るルートが、北には琵琶湖経由で北に向かうルートが
あることが物流の流れからわかってるから、現実には海を渡る港もちゃんとある。
この『海を渡る』っていう話は九州説の衆はよく持ち出すけど、
現実には、九州説のほうが痛いのな。畿内説は別にどうということはない。
いいかげん、自分の世界に引きこもるのをやめて現実を見ような。
>>773 おっと、『物流の流れ』なんて書いちゃった。
これは頭痛が痛い。
>>773 「海を渡る」のと「水行○日」の違いが分かってないでしょ?
>>773 奈良あたりから伊勢や北陸に出るルートと九州の北〜西の
沿岸から瀬戸内にでるルート、ほとんど大差ないと
思いますよ。
どちらも女王国の東の港には陸超えしなきゃならんのだし。
>「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種なり」 >と書いてある。海を渡るんだから、邪馬台国には海に面した港が >あった。この時点で大和説はおしまい。しかも、南を東に読み替 >えたら、この「女王国の東」はいったいどっちだ? 戸数七万って記述を信用すると、 邪馬台国の人口は三十万とか四十万とかいった数字になってくる。 とてもじゃ無いが当時の大和だけにおさまる数じゃ無い。 とすると、邪馬台国の領域は近畿全域、 ひょっとしたら若狭湾方面迄広がっていたかもしれない。 それから南を東と読み替えると、東は北だ。 >「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種なり」 というのは淀川→琵琶湖→若狭湾→日本海と通る交易ルートをあらわし、 その先の国というのは出雲あたりの日本海勢力を指すんでは無いか? 素人の勝手な推測だけどね。
>>773 伊勢湾から千余里も船で東行するまで一つも
国がないとしたら、濃尾平野はスルーですか?
琵琶湖経由で北に向かうルートとは、もしかして
得意の方角ずらしですか?
ところで狗奴国はどこですか?
現実もいいけど、倭人伝をもっとまじめに読もうね。
779 :
日本@名無史さん :04/02/07 17:43
>>778 大和説は古墳の分布と年代を根拠に日本地図を90度ひっくり返してから物事を考えます。
よって狗奴国は濃尾平野から琵琶湖東岸にかけて存在するのです。
女王国の東にある倭種ってのは、東海か関東がしらんが 東日本のどこらだろ。これで何か問題あるのか?
>>779 南北の軸が45度傾いているというのは認めれば、
90度転回はさせずにでも畿内説は主張し得るよ
基本的な質問でスマン。 日本の物流はこの時代から殆どが船? まぁ馬いないから当然そうなんだろうけど。
>>780 女王国の東の倭種は、海を渡って千余里のところに
います。女王国の東隣にいるわけではありません。
狗奴国は女王国の南です。
784 :
日本@名無史さん :04/02/07 18:06
>>783 「東の倭種」と「狗奴国」は別だろ。後漢書はごっちゃにしてるけどさ。
786 :
日本@名無史さん :04/02/07 18:28
九州説だと「東の倭種」ってのが初期大和王権になんの?
狗奴国は女王国(=奴国)の南で熊本県の菊地〜球磨 東の倭種は女王国(=邪馬台国=大和)の東で東日本のどこか
狗奴国と邪馬台国の抗争は琵琶湖を経由した大陸への航路を巡る経済紛争だった。 と言ってみるテスト。
789 :
日本@名無史さん :04/02/07 19:32
九州説にはもう電波素人しか残っていない
__,,,,,, ,.-'''"-─ `ー,--─'''''''''''i-、,, ,.-,/ /::::::::::::::::::::::!,, \ ( ,' i:::::::::::::::::::::;ノ ヽ-、,,/''ー'''"7 `''| |:::::::::::::::九州説} ``ー''" ! '、:::::::::::::::::::i '、 `-=''''フ'ー''ヽ、::::::::::/ヽ、-─-、,,-'''ヽ \_/ ヽ--く _,,,..--┴-、 ヽ ``" \>
畿内説だと邪馬台国は何処にあったことになってるの?
大和
畿内に行くのに瀬戸内の船泊まり(クニ)についての記述が 一箇所もないのはどうしてだ?
陳壽の手元に資料が無かったからだろうなあ。
邪馬台国が「南」というところだけ間違いであとの 方角はすべて正しい、というのかな畿内説は。 普通「南」が間違いなら方角すべてが狂ってると 思いますがなぁ。 南→東 東→北 北→西 西→南 となっちまいますが
797 :
日本@名無史さん :04/02/07 21:52
>>796 だから畿内説では、
「邪馬台国の南の狗奴国」とは大和の東の濃尾平野の勢力って解釈じゃ無い?
あのあたりには大和とは一線を画す強い勢力があったという考古学的発見も絡めて。
それと、個人的には「東の倭種」ってのは東=大和の北の若狭湾の港から到達できるクニの事を
大和までしか行かなかった魏の使者が伝聞で聞いたんじゃない?
>>797 魏の使者は帯方郡から来たときは東南を指して
来たけど、日本列島に着くやいなや方向音痴に
なって、帰るときは西南に向けて帰っていった
わけですね。
>>796 それは資料のでどこが一つだった場合。
異なる由来の複数の資料を、現地を知らない人がつないだ場合は、
どうなるかわからない。
800 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/02/07 22:21
>>797 若狭湾の港から船で出た場合、陸伝いに進むので「渡海」ではなく
「水行」と書くと思うよ。女王国が大和の場合「渡海」という
表現が使われてもおかしくないのは、伊勢湾でしょう。
だから僕は、この「女王国東渡海」の部分の「東」だけは、「北」に
直す必要は無いと思います。
>>798 まだこんなこと言ってる。
倭人伝の行程記事は全部が一人の魏使・郡使の報告によるのではなく、
複数の資料が繋ぎ合わされたものだっていうのは誰もが認めてるとこなんだけどね。
>>786 「しま国」から第二の「奴国」までが東の倭種。
その中の「邪馬国」がのちのヤマト。
803 :
日本@名無史さん :04/02/07 22:35
少し話しが変わるけど、なんで日本では統一国家の建設が急がれたの? 邪馬台国もそうだけど、日本の場合豪族が連合してでもなんでも、 とにかく統一しようという意志が感じられるんだけど。 これがマヤとかギリシャとか他の文明だと、都市国家の分立のまま放置した例もあるでしょ? 日本は交通の便が悪いし深刻な異民族の脅威があったわけでもないから、 統一国家の建設を急ぐ積極的な理由はないように感じられるけどねェ。
>>801 複数の資料を「つなぎ合わせた」というといかにも
そこで手違いがおこるかのようなニュアンスですね。
裏をとりながら慎重に執筆した結果かもしれんでしょ。
まかり間違って「倭国討伐軍」が派遣されたとき
方角を間違えて迷子になったらどうするんですか?
『魏志』が邪馬台国の方角を間違うことはあり得ません。
805 :
日本@名無史さん :04/02/07 22:53
豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国はこれわが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。 爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。さきくませ。 寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむことまさに天壌(あめつち)と窮(きはま)り無かるべし。 という強烈な自負と信念をもった人達がいたからです。
806 :
日本@名無史さん :04/02/07 23:18
>>805 いや、普通文字もないような段階で大河を持たない文明が
急いで統一を急ぐのってあまり聞かないなぁと。
それとも瀬戸内海が大河の代わりをしたのかね?
書いたような、民族の宗教理念に急かされた行動でしょうね。
>>792 奈良の三輪山の西にマキ向古墳群というのがある。ここを邪馬台の都と考えるのが有力。
吉野ヶ里が超有名なのにマキ向が一般にほとんど知られてないってのはなんかいびつな話。
どう考えたってマキ向が最有力なのに。
ここには卑弥呼の墓と言われてる箸墓古墳もある。箸墓には「昼は人が作って夜は神が作った」
という伝承がある。日本の古墳でこのての伝承があるのはここだけのはず。
>>800 伊勢湾でも「渡海」はおかしい。
90度読み替えた場合は、出雲→隠岐が
かろうじてありうる。読み替えなければ
該当地なし→大和説あぼーん
おかしいという理由があぼーんなのでこの主張があぼーん
>>779 日本地図を90度ひっくり返しても「大和マキ向」地域から
「濃尾平野から琵琶湖東岸」地域への方向は東にしかなりません。
南は無理です(南は伊勢)。
>>804 >裏をとりながら慎重に執筆した結果かもしれんでしょ。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
だから『裏をとりながら慎重に執筆した』ことが証明されないと、
『普通「南」が間違いなら方角すべてが狂ってる』と結論することができないわけだ。
おわかり?
813 :
日本@名無史さん :04/02/08 00:53
日本書紀の年代が信用できないのと同様に、魏志倭人伝も地理は信用せず読む、 というのはダメなの?
>>810 陸伝いに進むのは「渡海」ではないと800さんが
いみじくもおっしゃってるでしょう?伊勢湾から、
知多半島→渥美半島→遠州灘→関東じゃあ、
まるっきり「水行」じゃないあかと、まあ、
いいたいわけです。それとも、列島住民を
思いっきり無視して、伊豆大島あたりまで
「渡海」しますか?
列島→本州島 に訂正した方がいいかな。
816 :
日本@名無史さん :04/02/08 01:21
若狭湾から日本海航路を通って朝鮮半島南部の倭人居住地に至る航路を 大和に行った魏の使者が伝聞で聞いて誤認し 「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種なり」 となったと言ってみるテスト。
所で、当時の航海技術では陸伝いに海を渡るのって危険だったの? それともわりかし安全な航海だった?
818 :
日本@名無史さん :04/02/08 02:24
>>814 カレがそう言ってるってだけでしょ。何の根拠にもならない。
水行・渡海の話と方角の話がごっちゃに進んでるなー 方角にかんしていえば、位置の比定に異論のない狗奴韓国から奴国までの 国々を実際の地図にプロットすると、45度傾いてる。つまり魏志倭人伝の 「南」は実際には東南。「東」は実際には東北。 投馬国を但馬、邪馬台国を大和とすれば投馬国から邪馬台国への「南」は 問題ない。 于弥国から投馬国への「南」は、日本海渡航説なら、かなり苦しいが なんとか説明できなくもない。つまり途中の出雲沖からは東南に向かう わけだから。 水行は、海を渡るだけでなく川を遡ったり川をくだったりするのも入る。 渡海には川は入らない。
九州説は支持しないが一つ疑問。 いっくら古代の地理観がいい加減だからといって、 方向を間違ったりするだろうか? 毎晩夜になれば北極星は空に現れるわけだし、 毎朝太陽は東から上って西に落ちるわけで。 距離なら何か勘違いしたでも通じるけど、方角はそうはいかんよーな気が……。
>>813 ダメだと思う。
自説にとって都合の良い所は信用できて都合の悪い所は信用できないというのでは信憑性にかける。
といっても別に文献に間違いは存在しないといってるのではないので念のため。
>>821 ダメも何も、魏志倭人伝の地理に関する記述って序盤はともかく終盤は滅茶苦茶じゃん。
特に東の倭種の先とか酷いもんよ?
それともやはり、鹿児島南方の大平洋迄ばく進します?
823 :
日本@名無史さん :04/02/08 07:01
邪馬台国、大和朝廷という言葉が列島全体を対象とする統一国家的な集合という意味とすれば考古学的には 西日本の大部分の連合体が成立する頃ということになる。それは2世紀末の纒向建設以外には考えられない。
824 :
日本@名無史さん :04/02/08 07:06
大和朝廷というのは記紀に記述されている神武からの天皇の系列の全部又は一部であるとすればこのトピの 問題は邪馬台国と記紀の記述の関連の問題ということができる。
825 :
日本@名無史さん :04/02/08 07:15
邪馬台国、記紀共に文献であるので物証である古墳、土器、鏡、青銅祭器などの分布状態などの考古学的 発見に照らして検証することが提起された問題検討の正しい方法だと考える。
826 :
日本@名無史さん :04/02/08 07:34
列島は渦巻く星雲、台風のように新たに供給される水田用農地の豊富な地域を中心として政治的な中心が形成されたの であろう。この点、奈良盆地と大阪湾が農地に変わった近畿地方に中心が形成されたのは当然であり、九州を中心として 国家が形成されるということはない。九州に残る近畿地方やその周辺との地名の類似も、それが起こった順序を考えると 縄文時代又は奈良時代などにおける東から西への地名コピーと考えられる。
827 :
日本@名無史さん :04/02/08 07:41
他方において東シナ海沿岸の中国、朝鮮半島、九州においては縄文、弥生時代を通じて共通の文化圏が 形成されており、この地域における古代からの認識が魏志倭人伝の倭国の南北に伸びる地理的構成となった のであろう。日本列島に一夜にして成立した纒向が伊都国を中心とする末端にある場合、それを南の果てと 記述しなければ記述の信頼性が疑われる時代であったのだろうと思う。
>この地域における古代からの認識が魏志倭人伝 >の倭国の南北に伸びる地理的構成となった そうなった理由が書かれてないな、長々と書いてるわりにはw
>>814 現在の地図見ながら語っちゃだめよ。
当時の人間が近畿地方と、東海・関東が陸続きと思ったかどうかが問題。
すでに落ちたスレに書いたけどね、中国でも例の東冶のあたりは、
長い間海に隔てられた島だと考えられていた。
また、
『広輿図』 東南海夷図所収 明・羅洪先 1557年初版/1558年版
という古地図が残されているけれども、この地図では近畿周辺と東海以東は別の島としてかかれている。
16世紀でもこの程度の認識でしかないので、三世紀にそれより精度の高い地図を要求しても無理ポ
まして、東に海を渡った先に国があるというのは魏の人間の体験談ではなく、
倭人からの伝聞であることは誰もが認めるでしょ?
このときに聞いた話が、『船で東に行くと別の国がある』程度の話だったとすると、
これが、陸づたいかどうかを話を聞いた人間は知りようがない。
いろいろな可能性が残されているものを、
自分に都合のいい一つの解釈のまわりに
『バカの壁』を作ってその中に引きこもちゃだめだよ。
巻向・三輪山麓・箸墓という畿内論者が邪馬台国に比定している 重要地からは肝心の鏡が出土していないという問題はスルーですか?
831 :
日本@名無史さん :04/02/08 10:42
九州最北端と沖縄最南端、朝鮮半島と長江下流域、この間で海人族が媒体となる情報のやり取りが 長期に渉って続き倭国の輪郭が南北に細長い群島の形になったのだろう。
832 :
日本@名無史さん :04/02/08 10:57
833 :
日本@名無史さん :04/02/08 11:01
邪馬台国時代になってから鏡は近畿が中心となり、それ以前の後漢時代は九州が 中心ということは邪馬台国が九州になかったという何よりの証拠。
>>833 >以前の後漢時代は九州が中心ということは邪馬台国が九州になかったという何よりの証拠。
ふ〜。
なんでまだこんなこと言ってるんだろうねぇ。
誰も後漢代(特に前半)は九州が中心(特に外交面)であることに反対してるわけではなのに。
論点は、後漢末期〜魏前半にかけて倭人の対外的代表者が九州から畿内に移ったか移らなかったかだYO
>>833 ごめん。寝てた。
似たようなカキコで、「九州にあった証拠」というのをしばしば見てたのでつい・・・
>>834 は取り消し。
836 :
日本@名無史さん :04/02/08 11:20
当時は伊都国と纒向の間には吉備、出雲、播磨、河内等伊都国以上の大国がいくらでもあり、 勿論、奈良県東南部などは田舎の外れに過ぎなかったであろうが、それでも伊都国の代表者が 纒向の代表者になるよりは吉備、播磨、丹後、尾張あたりの首長がなる可能性の方がはるかに 高かったのでないかと思う。
837 :
日本@名無史さん :04/02/08 11:23
奈良県東南部が倭国の都のなのはもう確定でつが
銅鐸王国だったくせに。発掘するたびに銅鐸という 「余計」なモノが見つかっちまうんだよな、畿内は。
↑わけわからん
840 :
日本@名無史さん :04/02/08 11:55
銅鐸イデオロギーを急に鏡イデオロギーに切り替えている点は確かにおかしい。 奈良県東南部がそんなに進歩的な場所柄とは思えない。卑弥呼さんの出身地は やはり九州なんかなー。でも前原女王には遺跡があったりするしねー。その後輩が スカウトされて纒向に来た。こんなのありかなー。
ぶっちゃけ、考古学界ではもうほとんど「所在地論争はおしまい」って空気なんだが。 九州にはいたるところに邪馬台候補地があるけれど、そのどこにも卑弥呼の墓を含む 邪馬台の中枢と想定されるような古墳群がない。にもかかわらず、これまで一大勢力 だったのは、「大和にもない」とされてきたから。 でも、それは土器による年代測定というインチキな手法がまかりとおってきたからで、 今や年輪年代測定によってマキ向が3世紀初頭〜前半というまさに邪馬台時代の古墳群 であることが証明された。マキ向には全長280Mの箸墓、巨大な運河跡、祭祀場などが あって吉野ヶ里のようなちゃっちい集落遺跡とはまったく次元が違う。日本最古の都市で あることは確実と思われる。 これに匹敵するような物的証拠がでない限り邪馬台=大和は揺るがない。矛盾だらけの 「魏志倭人伝」の字句だけを根拠に論を張るようなおとぎ話はもういい。
842 :
日本@名無史さん :04/02/08 13:53
崇神天皇はアマテラスを自宅で祭っていたんだが、ベッドルームと礼拝室を一緒にするのもなんだから と思い、三輪山に神社を作り、娘に祭らせたという。聞き様によっては新興宗教の教祖を止め、政治に 専念するということかとも思えるような話だが、鏡にこだわると政治家としての活動の足を引っ張る、つまり 当時も色んな宗教を信じる向きがあり、天皇が一宗教に肩入れすることは統治上好ましくないとされたの だろうか。
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ぱくっ|
/V\
/◎;;;,;,,,,ヽ そんなエサ(
>>841 )で
_ ム::::(,,゚Д゚)::| 俺様が釣られると思ってんのか!!
ヽツ.(ノ:::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
844 :
日本@名無史さん :04/02/08 13:59
学界では決着ずみなのに教科書に明記しないのは何故?
845 :
日本@名無史さん :04/02/08 14:44
基本的には、古墳の発掘禁止を含め、現在の天皇制が記紀の記述を、カトリックがキリスト教の 聖書の記述を扱うように、基準としているからだろう。この天皇制の背後には神社本庁、靖国神社 等の政治宗教的複合体がある。そう簡単に教科書を変えるわけにいかないのはこういう事情がある んだろう。しかし、老人は死ぬ。若い人々の時代が来る。愛子さんが天皇になるかもしれない。いつか、 きっと宗教と政治が完全に分離しても国民が動揺しない時代が来るだろう。
>>844 タイムラグの問題。
じき書かれるでしょ。
847 :
日本@名無史さん :04/02/08 14:56
アイコは天皇にならんでいいし、天皇などなくなっても痛くもかゆくもないが、 邪馬台国=大和と早く明記してほしいものだ。
848 :
日本@名無史さん :04/02/08 15:10
神武東征譚は代15代応神天皇の九州平定から その後東に向かったとされるエピソードを誇張したものと思われ
そういう事いうと日本書紀が神功をヒミコにしたがってるのも 何か関係があると思われ。
古代の日本列島は九州を北にして逆立ちしていたのだ! これで魏志倭人伝の方角の矛盾が解消する。 やはり邪馬台国は畿内にあった!
851 :
日本@名無史さん :04/02/08 15:56
九州説論者は何か考古学的な根拠はあるの? どーも、「鏡は国産だー」「銅鐸は何だー」「前方後円墳は魏志倭人伝とちゃうー」 よかなんとか、畿内説の揚げ足取りばっかしてるよう見受けられるが。
852 :
日本@名無史さん :04/02/08 17:15
邪馬台国のヒミコ自体は神功に滅ぼされた蛮夷の女酋長でしょ。 邪馬台国は九州にあったけど、正当な倭王権の主は畿内の ヤマト国で九州のは騙り。 邪馬台国ヒミコ→ヤマト国イヨ(神功)
853 :
日本@名無史さん :04/02/08 17:19
イヨなら伊予で愛媛なんじゃない?電波だけどw
箸墓古墳から「親魏倭王」と書かれた金印が出て来たら全て解決。 九州説論者は「邪馬台国が九州から持って行ったんだ!」とか「大和王権が奪ったんだ!」とか「国産だ!」 とか叫ぶだろーけど。
>>841 繰り返しになりますがね、
魏志倭人伝のどこをどう読んでも邪馬台国を
大和にもってくることはできないんです。
3世紀に大和マキ向地域に一大都市が
発達したことは考古学的に証明されつつあり
ます。ところが、そこが、
1 西日本全体の政治的な中心地だったこと
2 シナと外交交渉をもったこと
は全く証明されていません。むしろ、魏志の記述は
それを否定するものです。
3世紀、卑弥呼たちが魏と外交を展開しているとき、
東の彼方に一つの大国が勃興しつつあった。
それいいじゃないですか。
二つの現実を同時に受け入れる勇気を持ってください。
>>855 外交交渉はともかく、何らかの形で大陸と交流があったのは確実だろ?
そでなきゃ魏の年号が入った鏡が国産でもなんでも出るわけがない。
それに、あれだけの強大な勢力が魏志倭人伝に登場しないのは不自然だ。
纏向遺跡からは日本全国から人々が集まって来ていた事もわかっているし、あそこが九州も含めた広範な連合政権の中心地で、
それが則ち邪馬台国とした方が違和感は少なかろう?
>>771 おいおい、トチ狂うなよ、漏れは大和説だ。
>>845 70年代末だったか80年代初頭の山川の高校教科書(赤い表紙のやつ)には
学界では畿内説に半分決まったようなものと受け取られかねないニュアンスの文章があり
当時、古代史マニア(九州派?)から抗議の嵐がきた。
>>771 >素人研究家はみんな中国文献大好きで、しかもなぜか九州説にこだわる
>人多いが、本元の中国の考古学界は大和説。
中国文献大好きというのはよくわからんが?
80年代の半ばくらいだったかな、呉智英が出版点数だけみると九州説がわずかに
リードしてると言ってたけど、あくまで素人や歴史ライターの通俗書ベースのことだから
ロマンを楽しむためのしかけエンターティナーとしての謎解きが重要なんで、
そうなると大和説は「実は・・・だった」という知的ゲームに仕立てにくいのではないか。
九州説を成り立たすためには様々な知的アクロバットを展開する必要があるので
商業出版には向いてるだろう。
10年くらい前のシンポジウムでは「我々畿内説の学者はまじめで目立たない地味な
タイプが多くて、あまり宣伝とかは苦手な口下手な人が多いもんで」とやって
笑いとってたな。
>>841 >これに匹敵するような物的証拠がでない限り邪馬台=大和は揺るがない。矛盾だらけの
>「魏志倭人伝」の字句だけを根拠に論を張るようなおとぎ話はもういい。
誤解を招く言い方するなよ。
畿内説だって「魏志倭人伝」の字句を九州説と同等もしくはそれ以上に説明できてるよ。
>>855 なんで素直に解釈できないかな。そこまでして九州説に固執する理由が
わからない。現実を受け入れる勇気が必要なのはあなたでは?
>>855 繰り返しになりますがね、
魏志倭人伝のどこをどう読んでも邪馬台国を九州にも、もってくることはできないんです。
日本人の素人自称研究家の間でしか通用しない曲芸的な読み方をしない限りはね。
860 :
日本@名無史さん :04/02/08 19:15
古田武彦講演会
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jkiki/jkiki4.html 「だから卑弥呼・壱与二人分を一つにまとめて神功皇后一人に結びつけてしまった。
無茶苦茶ですけれども『日本書紀』が出来た当時は『日本書紀』の編者は、ばれないと思った。
なぜかというと八世紀『魏志倭人伝』を読んでいる人はいなかった。だから二人を一人に結びつけても、
おかしいという人はいなかった。又おかしいというインテリがいたら即座に首を切られたかもしれない。
だから『日本書紀』の編者は百も承知である。はっきり言えば『日本書紀』は偽史の要件を備えている。」
日本も石の文明だったらわかりやすかったのになァ。 アンコールワットかマヤの遺跡よろしくデデーンと古代遺跡が残ってたりして。 木の文明だとどーも後世へのインパクトに欠けるのがイカン。
>>855 ここまで大見得を切るからには、九州には、
>1 西日本全体の政治的な中心地だったこと
>2 シナと外交交渉をもったこと
が証明できる場所がきっとあるにょにゃ。
畿内説が駄目にゃというより、邪馬台国は九州島の中のどこで、
これこれの理由により、1、2が証明できるから
九州説が正しいといってもらえれば、ず〜っと話ははやくすむみゃ〜
楽しみにしてるから、早いとこ書いておくれにゃ〜
九州説いじめはやめにして、スレの趣旨に戻ろう。 邪馬台国が九州か畿内かではなくて、 邪馬台国と後のヤマト朝廷との関係はいかに?
>>863 九州島のどこっていう断定はまだやってないんです。
邪馬台国が西日本全体を支配していたとは言って
いませんよ。ゆるやかに服従していたとは思っていま
すが。大和説をとったら、近畿が卑弥呼以前に
九州先進地域を制圧した物語を別にこしらえる必要が
あるでしょ?できますか?
九州先進地域がシナと長年外交交渉をもっていたこと
はいまさら言うまでもありません。畿内説の場合、畿内
新王朝は「外交」未経験者。未熟な人が外交をやると、
煬帝みたいに怒らせてしまうこともありうるわけです。
ところが卑弥呼はものすごく外交がうまくて、魏の
政治力を最大限に利用している。狗奴国ともめるごとに
郡に使いをだしている。大和と東海がもめていたとして、
いちいち帯方郡まで使いを出しますか?
邪馬台国と狗奴国は魏と呉の代理戦争。魏の旗印が
あれば、重い腰を上げて味方になる中間的な勢力が
あったということでしょ?南北九州で考えるのが自然。
旅程の万二千里のうち不彌国まで万五百里、残り千五百里。 半島から九州まで約三千里。 つうことは邪馬台国の位置は多く見積もってみても不彌国から半島-九州の半分の距離内にあるとすれば九州から出るとは思えん。
867 :
日本@名無史さん :04/02/08 21:26
自郡至女王國萬二千餘里=到其北岸狗邪韓國、七千餘里+始度一海、千餘里至對馬國+又南渡一海千餘里+又渡一海、千餘里至末盧國+東南陸行五百里、到伊都國+東南至奴國百里+東行至不彌國百里+南至投馬國水行二十日+南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月 「南至投馬國水行二十日+南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」・・・これだけ九州から出ている。
868 :
日本@名無史さん :04/02/08 21:27
>東南へ陸を行く事五百里で伊都国(今の福岡県糸島郡)に到る。長官を爾支といい、 >副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々が住んでおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。 >帯方郡の使者が常駐している所である。 という記述があるから、北九州に邪馬台国の出先機関があり、大使館をも備えた外交上重要な機関が置かれていたと推測される。 邪馬台国を西日本各地の豪族の連合政権とするなと、邪馬台国が直接大陸との外交交渉に当ったと考えるより、 江戸時代の対馬藩のようなその方面に精通した豪族に外交交渉を委任し、間接的に魏と外交関係を結んでいたと解釈するのは、どうだ?
869 :
日本@名無史さん :04/02/08 21:32
邪馬台国が経験豊富な九州人を使わなかったなんて証拠はどこにもない。特に通訳なんか 九州人だろう。(その通訳がお国自慢というか、近畿の地理的情報を持たない現地雇用だった場合 どうなる?方角の間違いも通訳の誤解ということだってあるんだぜ。)
>>865 九州派の典型的な病理が現われてるな。なんでそんなになんでもかんでも
説明できなきゃおかしいなんて思うんだ?
わからないことはわからないとするのが学問。
>近畿が卑弥呼以前に九州先進地域を制圧した物語を
>別にこしらえる必要がある
そんな物語は必要はない。ドラマの脚本じゃあるまいし。
近畿の方が生産力・人口ともに上なんだから何の疑問もないだろ。
>卑弥呼はものすごく外交がうまくて
それ、畿内人が3世紀の段階で外交能力のあった証拠じゃん。
>狗奴国ともめるごとに郡に使いをだしている。
前にこのスレで出た平野邦雄(九州説)によるとその解釈は誤りで、
邪馬台国と帯方郡の外交は狗奴国でなく韓の反乱制圧がメインテーマ。
>邪馬台国と狗奴国は魏と呉の代理戦争。
そのこと自体は邪馬台国の勢力圏と狗奴国が隣接していればいいだけで
邪馬台国が九州でなければならないという理屈にはならない。
>>866 奴国までで万二千里は終わってる。邪馬台国までの里程は表示されてない。
九州のどこかから水行十日・陸行一月で九州内におさめるのは無理。
>>865 >九州先進地域を制圧した物語を別にこしらえる必要があるでしょ?
誰が制圧したって言ってるのかねぇ。
誰も主張してない話を持ち出してもしょうがないでしょ。
畿内説をとる人の中には、畿内王権の成立(つまり卑弥呼の共立ね)に
九州の勢力が大きな役割をになったと考える人もいるわけだし。
漏れはそうは思わんけど。
>九州先進地域がシナと長年外交交渉をもっていたこと
>はいまさら言うまでもありません。畿内説の場合、畿内
>新王朝は「外交」未経験者。未熟な人が外交をやると、
>煬帝みたいに怒らせてしまうこともありうるわけです。
この辺がズレてるんだよな。
ここで書いていることが正しいかどうかは別にして、
畿内説で考える場合、北部九州はその畿内に首都を置く連合の中に取り込まれてるのな。
だから、なんだったらその『外交を得意とする』九州人に渉外担当をやらせればいい。
それ以前に、新王朝が外交下手っていうテーゼが成立するとは思ってないけど。
>>871 書き忘れたけど、
>煬帝みたいに怒らせてしまうこともありうるわけです。
これって『日出ずるところの天子』ってあれだよね?
あれを外交の失敗だと思ってるとしたら、ちょっと勉強しなおしたほうがいいよ。
873 :
日本@名無史さん :04/02/08 22:28
倭国大乱=畿内・瀬戸内勢力と九州勢力の抗争で、畿内がこの戦いに勝利した、 という解釈もあるよ。
まだ
>>866 みたいな原始的な解釈してる人がいるんだねー
876 :
日本@名無史さん :04/02/09 00:10
次スレは「邪馬台国=初期大和王権か」で行こう。
古事記とかの日本書紀を除く古代神話からすると >50 は結構いけてる。
狗奴国の候補地って、これまでにあがってたのは、昔の説も含めると 鹿児島県・熊本県・愛媛県・和歌山県・奈良県・滋賀県・愛知県・静岡県・群馬県 ってとこか。 奈良・滋賀・群馬を除くと九州・四国・東海の黒潮交流圏がうかぶ。
二行目で四国というと愛媛県・・・・・黒潮?????
すまん。愛知あったね
いわゆるクナ国東海説って、名古屋市域は含まれるんだろうか? 愛知でも一宮とか、岐阜との県境に近いほうじゃないんかなぁ・・・・
狗奴国東海説では、国境は琵琶湖付近だっけ?
884 :
日本@名無史さん :04/02/09 03:47
纒向の古代都市ってどんな姿してたんだろ。 ぐぐってもミニチュアとかイラストの類いがひっかからないんでイメージできないんだが。 竪穴式住居は見つからないって言うし、 やっぱ運河に沿ってハニワみたいな屋根の異様にはり出した館が整然と立ち並んでる感じ?
>邪馬台国九州説が一番信憑性がなさそうだ そんなこたないでしょう。 確かに今は畿内説の方がやや有力視されているような気配だし 九州説が再浮上することは永遠になさげな気もちらほらしますが、 一応かつては学説史上に位置付けられるそれなりの学説だったわけで 九州説そのものがトンデモ説や電波説というわけではありません。 (ただし民間の九州説論者の中にはかなりおかしなのが多いけど) あるいは、昔は、九州説は東大閥、畿内説は京大閥 という学閥による閉鎖性みたいのがあったから、 それで九州説が生き延びてただけかも知れませんが、 そのへんの細かい事情はよくわかりませんねぇ。 >邪馬台国の所在地に関しては、もはや「地域の名誉を賭けて」 >論争しているようにさえ見えるんですけど・・ まぁね。邪馬台国にからむ不条理な感情については 「邪馬台国と近代日本」�千田稔 NHKブックス 1,020円+税 「「邪馬台国」と日本人」 小路田 泰直 平凡社新書 ¥680 両書とも、あんまり、かゆいところに手が届くような出来のいい本かどうか微妙だけど。
886 :
日本@名無史さん :04/02/09 09:49
クヌという言葉に似ているのは静岡県の久能山、久野氏、クガという言葉に似ているのは 京都、北陸、甲賀。卑弥呼の勢力圏というのは日本列島の一部であって関東甲信越、東北 九州南部、沖縄などが入っていない。邪馬台国は文化的にはマイノリティーであり、縄文、 銅鐸の基層文化が潜在している邪馬台国以外の諸国こそ本来の倭国ではないのか。 そして、この精神的葛藤が解消し始めるのは古墳時代の終わりころでないのか。
887 :
日本@名無史さん :04/02/09 10:59
何で「ヤマト」って読むんだろね。倭国が尊称をつけて 「大倭」国であり、それが奈良の大和になったとしても ヤマトとは読めん・・・。「ダイワ(オオワ?)」国が 邪馬台国を滅ぼし国号を併せたとか。 まあ、大倭国が国号でヤマトは首都程度の意味だったのが いつの間にかヤマトが国号になったとしても悪くないが。
888 :
日本@名無史さん :04/02/09 11:08
奈良県の大和ではなく、福岡県の山門が本命じゃないか。奈良県の纒向に邪馬台国を 建設しては見たものの、対外的に知名度が低い。一方で福岡には昔から女王はゴロゴロ いたはずであり、地名を拝借(山峡という普通名詞だろうから問題はない)したんじゃないのか。
889 :
日本@名無史さん :04/02/09 11:38
オレはどちらかというとヤマト=奈良に近い、邪馬台国は 九州ヒミコの偽せん説なんだけどあえて考古学系へ反論を 試みてみる。 1、後世の難波京・恭仁京・大津京なども、文献上の記録が なければ場所を特定できない「幻の都」であった。 2、奈良は捨てられた都であり、その後は比較的古代の ままが保たれた。 3、風土記の散逸、神社合祀令などによって地方の歴史的な 遺跡を推定する事は困難である。 奈良は王家ゆかりの地であり、古記録もよく残る「幸運な地」で あると思うのですがどうでしょうか。
890 :
日本@名無史さん :04/02/09 12:32
恭仁京聖武天皇が伊勢地方の巡幸から帰った後建てられた都だが、クニという語感がクヌを想起さす。 この地方も山峡であり、伊勢湾に抜ける要衝、椿井大塚山、タケハニヤス等の歴史的事件の多いところ。 思うに、聖武天皇は倭姫同様、ツクヨミノミコト、日子坐等による残酷な銅鐸民弾圧(マー、島原の乱のよう なものだったんだろう)したあとの慰撫、鎮魂、祟り封じのために遷都して神に祈ったのかも。
891 :
日本@名無史さん :04/02/09 13:09
九州の土器分布は東シナ海の面した西九州、瀬戸内に面した東九州に分かれる。これは東シナ海 海洋族と縄文族の分かれるところである。玄界灘から背振山脈東麓に成立し、遠賀川に広まる水田 農業地帯は一種の農業コンビナートであり、宗教、工業、土木建設、農業の独立した経済圏を形成した。 これが広域の農業地帯の国家建設の青写真となったのではなかろうか。
892 :
孤高の24歳無職 :04/02/09 13:25
昔の中国人が日本について書いた地図をみれば 日本は南に長かったふうに書かれてたと記憶してる。 当時の中国人がそのように認識してたとしたら 魏志倭人伝の記述も矛盾なく証明できる。
893 :
日本@名無史さん :04/02/09 14:21
狗奴国の背後が呉でないことがもしも皇帝の耳に達したら帯方郡の官吏の運命はどうなったか。 魏にとっては戦時における銅製品の無償輸出は簡単な決断ではなかったはずだ。
どうして九州にこだわるやつの文章はこうも電波っぽいのかね。
もっと普通に九州説唱えられるだろうにさ。
>>893 には賛同
896 :
日本@名無史さん :04/02/09 16:26
>>889 日本の都の特定が難しいのは日本が木の文明だからじゃないかなぁ。
これがもし石の文明だったらジャングルの中に石の町並みが残されてたりして(笑)非常によく判る筈だけど。
纒向の場合は幸い古墳が多数残されていて、目印が燃えたり腐ったりせず残された。
よってその存在を確認できた。
斑鳩以降の都の位置は仏教の普及と古墳の消滅によって特定が難しくなってしまった。
てな風に解釈してみたけどどう?
897 :
日本@名無史さん :04/02/09 16:29
卑弥呼は本当に倭国連合(邪馬台国ではなく)の女王だったのかという 根本的な疑問もあるね。 後の大和朝廷との関連を考えるってのが当スレのお題だから あえて疑問を呈するが 何故書記が卑弥呼を比定するためにあえて捏造した人物が 神宮「皇后」なのか? これってどうよ。
>>897 卑弥呼=倭国連合の盟主かどうかは断定できないけれど、それに近い存在ならいたんでない?
崇神天皇と倭迹迹日百襲姫の話しを見、箸墓古墳を倭迹迹日百襲姫の墓と少なくとも比定している事を考えると
初期大和朝廷においても絶大な影響力を持つ巫女の存在があった事は確実で、その中に卑弥呼がいても変じゃあるめ?
899 :
日本@名無史さん :04/02/09 17:00
>>898 レス感謝。実は大筋で同意なのですが。
大和朝廷があえて神宮皇后を女帝と記さなかったように
当時の倭国連合にも卑弥呼が女王だとの認識は無かったのではないかと考えられませんか。
ただ魏にとってみれば実際に政務を取り仕切る男王の他に
神託を与える女性が居るというのは、中華思想的には非常に奇異に映った可能性もあります。
それが「女王」の表記に反映されたと考えた方が様々な辻褄が合う。
そのあたりが例えば倭人伝における伊都国の地位が中途半端な理由とも思えるのですが。
こう考えると、案外柳田説や寺沢説って正鵠を射っているのかも知れない。
>>899 これは自分の勝手な推測なのですが、
卑弥呼は後の武士の時代における天皇のような存在だったんじゃ無いかと思うんですがどうです?
実権は無い。
しかし宗教的な権威はあって、実質的な支配者(後の将軍のような)の権力を補完する役割を担っていた、というか。
モンゴルの監国皇后制みたいに、皇后の摂政ってのは実は しょっちゅうあって、あたり前すぎて日本人はいちいち 特筆して記憶しなかったから忘れられてんじゃない? 実は記紀の歴代皇后はほとんど摂政してたとか。 中国人からみれば全部女王。
皆さんそれぞれの個人的な説ではいろいろありましょうが、 それはちょっと脇においてもらって質問ですが 一応今の学界の有力説としては、卑弥呼と倭五王って つながってると見てるの?切れてると見てるの?
というより卑弥呼はいわば初代女王でそれ以前の主権者との連続性はないんじゃないの? その後を男国王が継ぐも混乱が生じたため卑弥呼の一族である壹与が女王の坐につくわけだけどこれもその後連続した王統となったかは不明。 結局、卑弥呼とか壹予とかは名前は残ってるもののあくまでイレギュラーの存在にしか過ぎないんじゃないかと。 だから邪馬台国が何処にあったかはともかく主権者としての天皇家と直結するような存在ではなかったと考える方が自然なのではなかろうか。 以上は非常に大雑把な書き方だがそう思うのであります。
>>900 レスどうもです。当時の有象無象連合の倭国(キツイ言い方ですが実質こんなもんだった筈)に
果たして二重権力のシステムが確立していたかどうかは疑問ですが
あながち的外れではないかもしれませんね。
と言うのは外交や為政は勿論男王の守備範囲ですが、その経営基盤となる産業が
稲作に移行した時期であるというのがキーポイントかと。
つまり台風や冷害のみならず、ただでさえ世界的な冷寒期だった2〜3世紀において
天気予報の知識や技術はまさに「神託」に等しいものであったはずです。
卑弥呼(固有名詞ではなく○○姫の意味だと思われる。故に代々その役割を担うものが居た筈。)共立の
背景には、輸出入産業依存の北九州的政策の限界、加えて魏の南下による公孫氏の滅亡などが
大いに影響しているのでは?
905 :
日本@名無史さん :04/02/09 17:36
>>902 有力説は・・・今のところ解らないってトコだと思う。
それだけ倭人伝の記述が突出している為でもあり、記紀作成者も大いに悩んだ部分ではないかと思います。
意図的に隠したという説もありますが、それにしては隠蔽がヘタクソすぎるんですよね。
邪馬台国は大和朝廷成立以前に弱体化して分裂状態になっていたので 古事記にも征服に関する記述がないのではないでしょうか。 古事記によると大和朝廷(この時点ではその表現は妥当ではないですが) は、大和には南方から侵入したような記述があります。 南洋黒潮勢力圏から北上していったとするのが比較的無理がないように 思われます。 瀬戸内海から勢力圏を拡大したとすると、地理的に南方から進入するのは 無理がある。 魏志倭人伝よりは古事記の記述の方が信頼性はあるんじゃないでしょうか?
907 :
日本@名無史さん :04/02/09 17:51
>>906 文献史学の立場からすると、一連の国譲りの記述がそれに当たるとも考えられます。
実際考古学的にも「倭国乱れる」や「再び乱れる」更には狗奴国との「素より和せず」に
相当するような大規模な戦乱や破壊の痕跡がどの遺跡からも見られません。
だからこそ新都市建設としか表現のしようが無いマキ向遺跡の存在が
大きな鍵になっている訳です。
908 :
孤高の24歳無職 :04/02/09 18:04
倭国乱れる、再び乱れるですか、、、 性の乱れだと想像してしまった 私は逝ってよしですか?
909 :
日本@名無史さん :04/02/09 18:20
>>908 実際卑弥呼は魏と援助交際してた訳だから、それもアリかも。
「ねェおじさま、アタシお小遣いピンチなの」
「そうかそうか、そんなら大好きな鏡をやるぞ!」
「ねェおじさま、アタシ狗奴国ってチョームカツク!」
「そうかそうか、そんなら助っ人と旗を貸してやろう!」
910 :
日本@名無史さん :04/02/09 18:22
911 :
日本@名無史さん :04/02/09 18:39
>>904 有象無象の連合政権だったからこそ、実質的な権限のない宗教的権威を頂点に置く必要があったんじゃないかなぁ。
例えば最も強力な豪族の王が邪馬台国の王となったらあっちこっちから異論反論が噴出して
(さしずめ「○○は独裁者になる気か!」と叫ぶ豪族が出たりして)もめ事が頻発し(これが倭国大乱)
そうした諸勢力のエゴの緩衝剤として、実質的な政治力は無いが宗教的な権威はある少女を女王に頂く事で妥協が成立しえた、みたいな。
その後、この連合政権の中央=大和は次第に力を増し、緩衝剤を必要とせず力で倭国を統括できるようになった。
その力の象徴として三世紀の終わり頃に巨大な前方後円墳の建設が始まったとみると、どうだろう。
>>911 お互いの主張は対立していないように思うのですが・・・。
基本的には平野部が少なく、天災の多い北九州勢力が衰退して
替わりに近畿東海地方に広大な生産能力を有する畿内勢力の台頭が際立ったという
所でしょう。
その契機となったのが魏の南進政策であり、その時点で伊都国を中心とする旧勢力は
命運を絶たれたってところかなと考えます。
この親魏政策が結果的には北九州勢力にとっては致命傷となり、畿内の勢力拡大を許した。
そういう意味では、神託機関である邪馬台国はやはり畿内に位置し
その機能を十二分に発揮するために建設されたのがマキ向であると・・・
アカデミズムの主流説どうりの主張で面白くとも何とも無いですが
このあたりが決着点なんでしょうね。
ひょっとして、王族の血統が(男系)が絶えたのでは? そこでワンポイントで卑弥呼が王位につき(この人は皇女且つ大王専属巫女で 先の大王の霊を呼ぶことが出来た) その間に次の大王を決めようという事にしたのだが、卑弥呼が死んだとき まだ後継者が決まっていなかった。そこで有る男子(卑弥呼の先の大王 のゆかりの皇族何世かの孫)をようりつしようとしたが、また満場一致とは 行かず、大王位争いが生じた。しかたなく、卑弥呼の宗女を立ててまた 時間稼ぎをした。その後どうなったかは記録になく不明だ。 ひょっとして現皇族(南九州由来)がトヨから政権を譲り受けたのかも 知れない。それが天壌無窮の神勅という形で神話に残った。 今、皇室では男系が絶えようとしているね。 不謹慎だがたとえると秋篠宮の崩御後、旧宮家の子孫を捜してきて皇位に つけようとして反対され 愛子様を皇位につけ混乱を収めたというようなシチュエーションでないか?
914 :
日本@名無史さん :04/02/09 19:11
↑ どうでもいいが、愛子に「様」づけするのはヤメレ。
915 :
日本@名無史さん :04/02/09 19:12
邪馬台国スレでまで「愛子様」はないだろw
愛子内親王殿下
917 :
日本@名無史さん :04/02/09 20:49
皇室はシュメール→インド→東南アジア・中国南部→沖縄諸島→日本 だといいな。
何がいいんだ? アフォーでつか?
台与は卑弥呼の宗女(一族の女性)。つまり卑弥呼や台与の選出母体になった 一族が存在したわけで、そりゃ先代の男王や、おそらく台与の後に立った 男王の出身母体と同じものと考えるのが自然だろう。 中国の歴代正史の編者たちは、台与と倭の五王の間をさりげなくつなげて しまっている。むろんこれが正しいとは限らないわけだが、少なくとも 中国人は大雑把に卑弥呼の一族がそのまま倭の五王になったと思っていた ことがわかる。
920 :
日本@名無史さん :04/02/09 22:54
東遷があったとしても三世紀より前だろ。 卑弥呼の時代ないしその直後に巨大な前方後円墳の建設が始まるわけで、 邪馬台国の後の時代に無理に東遷を挿入するのは些か無理があるんでないか? あれだけ巨大化してた”前方後円墳勢力”を排除するのに大きな戦乱の跡がないのはおかしい。 一方ヤマ向遺跡は唐突に出現するわけだから、外部勢力の大和へ侵入したのはその前と見るべきだとオレは思うがね。
すまん。ヤマ向→マキ向ね
922 :
孤高の24歳無職 :04/02/09 23:14
しかし自分たちの国の一番重要なとこの 歴史すらわからないとは、、中国だと しっかり史記とかあるのに。古代の日本人は 自分たちの国の歴史を語り継ぐ意識がなかったのか? 文字がなかったにしろそのくらい口頭で子孫に 語り継がれててもいいのに。
>>922 だから記紀の神話まがいの記述を読んであーでもないこーでもないと言ってるんだろ
史記も相当ぁゃιぃ。 史記の記述がどこまで正しいかは、今もってわからない。 この前も阿房宮が焼けた焼けないで大騒ぎ。
まだ古事記の方が資料的価値は高いと思われ
日本なんてまだまだマシな方だぜ。 半万年の歴史を自称する某国だるや……。
927 :
孤高の24歳無職 :04/02/09 23:55
檜山良昭という人の書いた 「戦乱邪馬台国」という小説のように タイムマシーンでも作って確かめてくるしか なさそうですねw結構おもしろい小説だから お薦めしときます。読んだのはもう10年ほど前ですけどw
ネタスレにしては大漁だなw
929 :
日本@名無史さん :04/02/10 05:38
>>928 邪馬台国=大和朝廷って説は、今現在結構ポピュラーらしいからな。
930 :
日本@名無史さん :04/02/10 06:41
まあとにかく天皇陵を発掘させないで、学術振興とかいってる時点で チョンと変わらんな。 あっ天皇がチョンだからしゃーないのかぁ
931 :
日本@名無史さん :04/02/10 07:13
>>920 纒向建設の直前に奈良盆地全体で集落消滅現象が確認されているが、これは平和裏に
纒向周辺へ労働力が集結したことを物語るようだ。又同時に倭国全域からの土器が集まるが
東海のものが多く、祭礼用のは吉備のが多いようだ。食料の搬入を伴う人と物の集結があったのでは。
奈良盆地全体としては建国の一大イベントの経済的恩恵に浴したのではないかと考えられる。
集結はあっても破壊的な侵入はなかったのではないかと思われる。
932 :
日本@名無史さん :04/02/10 07:27
東遷、天下り等のイメージは例えば静岡県から神奈川県に海路開拓民が伊豆半島を回って 移住するといった場合のことであろうが、それといっても事前のFS、用地の手当て等綿密な 下準備の上に平和裏に、例えば、自衛隊がサマーワに入るように、行なわれたんだろう。 それでもアパッチの襲撃のような目には遭ったのかも。これが世を経て勇ましい東遷の 話となり、どの部族にもこうしたものがあったので記紀編集者は古代において神武、ニギハヤヒ のようなものがあったと自然に考えるようになったのと違うだろうか。
933 :
日本@名無史さん :04/02/10 07:46
人口が急増した奈良盆地では警備員が必要となり、戦闘能力の強い九州南部の 傭兵を招聘して使用したことはありえよう。神武とは警備会社の社長だったかも。
934 :
日本@名無史さん :04/02/10 07:59
筑紫平野は千年もの長きに渉り倭国の表玄関として栄えたが、近畿、北陸、東海に大型 集落が出現、農業生産力においては重心は、ちょうど青銅器の始まる時代から関西に移っていた。 そこに来て中国の三国志の大動乱が始まるころ、後漢の滅亡と共に、倭国でも中心が九州から 関西に移ったが、それは従来最終需要家であったものが、営業の前面に出るような変化であった のだろう。
935 :
日本@名無史さん :04/02/10 08:09
卑弥呼から倭の五王の時代はおおよそ天皇とか、万世一系とは縁のない時代で、 全てはまじない、呪術によって決められていたのだと思う。父子二代がせいぜい 最長の男系王朝の切れ切れなものと地域社会に密着した女系社会が縄文の名残を 留めて徐々に移動したんじゃないか。これを万世一系に纏め上げたのは愛国的な 記紀編集当局だろう。この愛国心は白村江の敗戦によって発生したものだろう。
次スレタイ、希望があったらお願いします。
【衝撃】邪馬台国は大和朝廷だった!!
どちらかというと大和説の方々の方が必死なのは どうしてですか?
もう「大和説」とか「必死」とかいう問題ではないんだけど。 大和>>>断定するのは慎重に>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>九州>オカルト ぐらいの感じ。
必死だな
必死だな、と言ってる奴が一番必死なのはもう定説なんだが。 あんまり九州論者をいじめるなよ、とかいう声もあるけど、おれはもっといじられるべきだと思うね。 吉野ヶ里だって最初からただの弥生環濠集落遺跡である可能性が高いって分かってたのに、 「吉野ヶ里から邪馬台が見える」なんて煽り的な言辞を弄する人がいてああいう騒ぎになった。 そういう人たちが今また「年輪年代法は信用できない」などという中世キリスト教者のような言辞を弄してる。 いつまでもそういうことを黙認していてはいけない。厳しく科学的裏付けを求めた結果、九州からすごいもの が出れば、それでいいわけだから。なれあい、ぬるま湯体質は駄目。進歩を生まない。 九州説にこだわるなら文献にひきこもってないで九州中、探し回って邪馬台にふさわしい古墳群を見つけるべき。
942 :
日本@名無史さん :04/02/10 15:19
必死つーよりは「詰め」の段階なんだ、邪馬台国議論は。 だから邪馬台国が何処にあったかなんて事が出発点じゃ決して無い。 3世紀の国々がどのようにして集権国家に変貌して行ったか。 経済、軍事、宗教、外交がどのようにして統合されたかが議論の焦点だ。 現在のところ、一番矛盾無く説明できるのが畿内説だってだけで 逆にそれらをきちんと説明できるのなら別に九州だろうが東北だろうが フィリピンだろうが何処でも良いんだよ。 実際畿内説論者でも、魏に最初の使いを送った時点では、卑弥呼が北九州か吉備に居た 可能性もある事は十分承知しているよ。 これが所謂「東遷」とは違う邪馬台国建設予定地選定説なんだけど、こういうレベルでの 九州、吉備、出雲説が議論されているってのは知っておいて欲しい。
943 :
日本@名無史さん :04/02/10 15:24
魏志倭人伝に記載されている「邪馬台」が 当時の日本列島にあった国ではもっとも強大な国だった、という錯覚に毒されてますな。 邪馬台は九州の有力な一国。地理的にたまたま中国に近かったので朝貢できただけ。 しかし考古学的に畿内にその当時より強大な国があったのは確実で、 漏れはこの畿内にあった国を「狗奴国」と考える。 ・ヤマトタケルの神話に、「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」と書いてある。 ・「邪馬台」と「狗奴国」は海を挟んで対峙していたという記述 ・「邪馬台」から海をわたると、さらに「倭種」の国がたくさんあるという記述
宮内庁管理の墳墓掘らせろゴルァ 税金はらわんぞゴルァ
墳墓掘らせないのは畿内説を覆されると困る宮内庁の陰謀
946 :
942の続き :04/02/10 15:32
補足すると、最初の朝貢時に主導権を握っていた国はどこか? 並びに卑弥呼はその国の一族の一人か出身者なのか?それとも別か? 更には邪馬台国とは以前より在った国のひとつなのか、それとも 共立時に導入された新機関・・・いわゆる「首都」の意なのか? これらを遺跡状況や副葬品から議論しているってのが、現在の邪馬台国論争です。
_,......,,,_ ,、:'":::::::::::::::::``:...、 /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ i::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ !::::::::::::::::::::::;‐、:::::::::_::::::_::::'; |::::::::::::::::::::::| :: ̄ ``! r''ヾ'::::::::::/ :: | l r‐、\::/ _,,、ii_;;_、 _,,,l、 ヽヾ〈 ::= -r:;;j_;、`/ :;'ィ;7 !:!_,、 :: ` ー : |: `´/ ,./ヽ | 、_ :: ,: 'r' :i |: / ,../ `ヽ;_ i | '"、_:::__`:'‐'. / / ``'ー 、_\ ! `::` ̄''`チ`シ /ー 、_ `\:、_ :: ` ̄/ なんかもう、必死でしょ / ``ヽ、 ヽ`'7‐--'゛ 最近の九州説論者 / `ヽ、 `/
948 :
日本@名無史さん :04/02/10 15:37
949 :
日本@名無史さん :04/02/10 15:38
>>943 は揃って討ち死にした九州説の中で、唯一とも言えるまともな説です。
でも・・・じゃあ何故畿内が後に大和と呼ばれるようになったのかとか
もっと後の記紀との整合性はどうなるんだとか、解決すべき課題が多いのも
悲しい事実だったりします。
九州説だって馬鹿にされるかもしれないけど、 漏れは九州の邪馬台国はやはり畿内の狗奴国に対し ・戦争して(奇跡的に)勝って、晴れて東遷 ・降伏した後、または降伏すると偽って だまし討ちか、反乱を起こして、そのまま勢いに乗じて畿内乗っ取り したんだと思う。特に後者だと思う。 国譲りの神話、神武東征、応神東遷の三つの伝承は だまし討ちのニオイがプンプンする。
951 :
日本@名無史さん :04/02/10 16:04
国号がヤマトとなったのは養老律令(718年)以後のことですしね。 朝廷の意味として「大和」が使われるのはさらに後だし。 ところで文献上ではかなり早い時期から日本自体は倭「国」と呼ばれて ますよね。その中の邪馬台国だとか奴国というのは中国の周や漢の 王族が封された「国」のようなものと考えていいのではないでしょうか。 後漢の光武帝(劉秀)は実際「共立」されたといってもいい存在ですし。
952 :
日本@名無史さん :04/02/10 16:40
卑弥呼をかつぎ出して西日本の諸勢力をまとめ、纒向を建設し、 前方後円墳を設計した奴は何者だろうな。 もし同一人物だったらとんでもない英雄だが。
953 :
孤高の24歳無職 :04/02/10 17:00
954 :
日本@名無史さん :04/02/10 17:05
>>952 一人ではないだろうが、親、子、孫くらいの期間で行われたことは間違いない。
乱暴にイメージだけを例えるなら蘇我馬子、入鹿、蝦夷ってとこだな。
955 :
日本@名無史さん :04/02/10 17:11
あえて奈良説につっこむとしたら、纏向は祭祀・墓地遺跡と しては完璧だが住居遺跡としてはまだ・・・ね。 奈良自体は「王家の谷」とみなす事もありだけど、範囲を 広げすぎると比定地を統一できない九州説の二の舞だし。 九州説にも、ある日突然ただの小山が古墳として 認められる可能性がないわけじゃないけどねぇ・・・。
>>954 卑弥呼共立、纒向建設、最古級前方後円墳の建設がおおよそ二世紀末〜三世紀初頭にかけて行われた事だから、
同一人物がやってても不思議じゃないんじゃない?
957 :
日本@名無史さん :04/02/10 18:00
九州説なんていらないよ
>ヤマトタケルの神話に、「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」と書いてある。 >「邪馬台」と「狗奴国」は海を挟んで対峙していたという記述 この人はどんな本を読んでるんだろうか???
【論争】邪馬台国とは大和朝廷の事だ!【決着?】 次スレこれでいこう(笑)
961 :
日本@名無史さん :04/02/10 18:53
いや、 日本最古の王朝、邪馬台国! でキマリだねっ♪
962 :
日本@名無史さん :04/02/10 19:20
>>943 >>・ヤマトタケルの神話に、「大和」の一代前の祖先にあたる国は「拘奴」と書いてある。
それは、毛野(けぬ)の国である関東の事でしょう。
次スレは ◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART2 でみなさんOKなら俺が立ててみます。 2−5あたりで論点整理。942=946さんの文なんかを 参考にさせてもらっていいですか?
964 :
日本@名無史さん :04/02/10 20:47
考古学好きの人なら知ってると思うが、先日東京府中市の熊野神社で 畿内にも数例しかない上円下方墳が発見されました。 この型が王家に限られたモノで畿内から広まったというのには異論 ありませんが、問題は発掘された経緯です。そこが神社という聖地で あり伝承がわずかですが残り、かつ比較的形も保たれて(といっても たんなる小山)いたために確認されるにいたったモノなのです。 ことほどかように地方においての新遺跡の発掘などというものは 困難を極めるものだということです。
邪馬台国が九州にあったと言える勇気を持とう
966 :
孤高の24歳無職 :04/02/10 21:27
九州にあったなら水行10日、陸行1月もかかるなんておかしい。 実際は南というより東南に進んで畿内にいったんじゃなろうか
967 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:30
大和朝廷=朝鮮
968 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:36
神功皇后と卑弥呼の関係を考察することが邪馬台国問題を決着させる ことになると思うのだが 日本書紀の作者は神功皇后=卑弥呼だと考えていたようでつ 邪馬台国の4世紀における可能性 九州説・・・大和へ東遷し大和朝廷となったor 九州の地で大和朝廷に滅ぼされたor 他の勢力に滅ぼされ(あるいは連合し)大和へ移動した 大和説・・・大和においてそのまま大和朝廷に移行or 大和の地でそのまま大和朝廷に滅ぼされたor 他の勢力に滅ぼされ(あるいは連合し)そのまま大和朝廷となる この中で九州から東遷し近畿の地方政権を滅亡させ、大和朝廷となったが 一番可能性的に高いと思うがw
969 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:38
>>966 ずっと後の延喜式のころの諸国の朝貢に要する行程日数は
大宰府〜京都で約30日と定められているよ。
この日数で船を使えても相当キツイらしいけど。
970 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:39
逆に天照大神が卑弥呼だったという説もある。 女神卑弥呼の子孫の応神帝が大和に入り朝廷を興したとか
971 :
孤高の24歳無職 :04/02/10 21:44
井沢元彦流の解釈と自分の考えを 合わせて考えてみると、畿内〜九州に かけて日本を統治してた邪馬台国を中心とした連合国家が 狗奴国により畿内にあった本拠地の邪馬台国を 滅ぼされた。それにより連合国家の体制が崩壊して 狗奴国による統治体制に変わったと。これが のちの大和政権であり、国名を大和(邪馬台)としたり 天照大神(卑弥呼と仮定する)を国神としたりするのは前統治者に 対する怨霊信仰からきており国を奪った側の 狗奴国の配慮からではなかろうか?
972 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:47
出たよ 井沢流 穢れ思想と怨霊信仰・・・
973 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:47
どっちにしろ神武東征は応神の東征をもっと古く見せるための偽装だな
応神っていつくらいの人?
975 :
日本@名無史さん :04/02/10 21:59
第15代天皇A.D.300年前後の人物
>>945 世の中を知らなさすぎ。役人はみんなコチコチの先例主義者。よほど大きな力が働かない限り、
先例を覆すようなことはしない。ただ、それだけの話。
>>955 マキ向には竪穴式住居跡がないだけ。柱穴はいっぱいある。つまり、マキ向には平地式、高床式の
住居があったと思われる。この面でも弥生集落とは時代を画する王都。
>>964 確かに遺跡発見は困難。しかし、九州のめぼしいところは探しつくされてるでしょ。マキ向に匹敵する
壮大な古墳群が人知れず眠ってるとはとても思えない。
>>968 邪馬台の東遷なんて完全に死説。オカルトとしか言えない。邪馬台九州でありえるのは、邪馬台が
ただの地方王権でそのまま滅びたって説だけ。
タケミカヅチ=神武=応神 スサノオ=崇神 オオクニヌシ=仲哀 オオクニヌシの二人の息子=仲哀が畿内に残してきた二人の息子
978 :
日本@名無史さん :04/02/10 22:09
>>959 すいません。「http」をNGワードにしていたせいで
気づきませんでした。次スレ立ちましたので、
どうぞよろしく。
981 :
孤高の24歳無職 :04/02/10 22:33
みなさんもしかして テレビとかによくでてくる 考古学ファンのおじいさんばかりですか?
982 :
考古学ファンのじじい :04/02/10 22:35
はーい♪そぉーでーす
関西の女子高生でつ 歴史が好きで、いろいろ勉強してます みなさんくわしいんですね〜ww
>>976 大きな力が働いてるんですよ。976先生。
考古学なんかどうでもいいけど、落ち目の学説をいじめるのが好きです!
986 :
日本@名無史さん :04/02/10 23:21
ネット上では必死になって畿内説を叩いてる九州説のサイトを見かけるが、 何故だろう。因に、畿内説のサイトはあまり九州説を攻撃していない。
だって学術的にもほとんど結論が出てるからでしょ? 強者は弱者を叩かない。
強者は弱者をたたかないって構図だったらいいんだけね。 どうも、まじめに考古学やってる人はおとなしすぎるような。歴史マニア、派手なネタがほしいマスコミ、 自治体、物証をかえりみない文献学者、ここらが合体して考古学をお国自慢のオモチャにしはじめたとき、 アカデミズムの側が無力すぎる。 嫌われようと、ウザがられようと、「物証を」「科学的検証を」と言い続けないと。
なんか今みたら九州王朝スレが九州派の避難所みたいになってるなw
いまだに九州派っていたのか・・・。
俺は邪馬台国のことなんかより
>>983 のエミちゃんの方が気に掛かる・・・(彼の今後の人生が心配だ)
九州派、もうちょっと必死になってほしいなぁ・・・・ 相手の主張を知らない・・・・ 最近の動向を知らない・・・・・ 歴史と無関係な教授の肩書きの人、元教授の肩書きを持つ人にだまされて、事実誤認ばかり・・・・ 発想が、明治の内藤−白鳥の時代から動いてない・・・・・ もう、議論とか論争以前の問題だもの・・・・・ どっちが正しいかというより・・・・・ つまんないよ〜
九州王朝とか言ってるしなあ
995 :
日本@名無史さん :04/02/11 21:58
考古学に常に限界があるように、文献学にもその学問の領域というものがある。 文献学というのは時として考古学を導く立場にもなる大切な学問だ。この二つの 学問共に永遠に分析的なものであって何らかの結論、例えば邪馬台国の所在 地であるとか、文族の移動であるとかに決定的な結論を出すことはその本来の 目的を外れているのだ。その結論を出せるのは実にこういうCH2見たいな場所な んだ。
996 :
日本@名無史さん :
04/02/11 22:00 あ、字間違えた。だから、われわれ、CH2族は堂々と自己の存在意義を、自己の スレに誇りをもてるんと違うか。建国の日の言葉としたい。