1 :
日本@名無史さん:
大化の改新から平安京遷都までの時代を語ってください。
天智天皇は暗殺されたのか?
天武天皇は天智天皇の同母の兄ではないのか?
等々
終了って事でいいですか?
>>1 こういう話は時々聞くけど、根拠を教えてください?
あぼーん
6 :
日本@名無史さん:03/03/15 23:24
大兄があやしいというのは、即位までの期間が長すぎると言うことから来ている。
別に電波でも何でもないし、古代にさかのぼるほどいろいろな可能性を幅広く
検討する必要がある。近くは、上杉謙信が女だったとか、信長殺しが秀吉だとか
いう説でさえ、100%の否定も仕切れないわけだから。
確かに、「中大兄」という名前自体、怪しい。中+大兄だから、固有の名前は「中」
なのか?「大海」という年上の弟の存在って、何か?実に多くの謎があり、まだまだ
それも試論の段階に過ぎない。それを明確に否定せず、教科書に平気で載せてしまっ
ているという意味では、古代史学者のほとんどはDQNと言い切っていいだろう。
そんなこと言い出したら、そもそも唐に対する戦後処理は一体どのような形でなされた
のか、という国際政治学上極めて重要な問題も手つかずと言っていい。
7 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:07
中大兄は通称だ、ボケ。本名は葛城皇子(かづらきのみこ)。何も謎はない。
舒明紀二年正月十二日条を見れば中大兄が長男で大海人が次男だとすぐわかる。
天武天皇即位前紀にも大海人が中大兄の同母弟(いろど)と書いてある。
どこに大海人が年上だと書いて有るんだ?弟としか書いてないだろうが。
8 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:08
大海人が中大兄の「年上の弟」だと決めつけているところを見ると、
日本書紀は検討の対象外らしいな。真性のデムパとしての資格を持っている。
9 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:09
>>6 大海人史観で歴史を作るなら、大海人の方が年長なのに中大兄に皇位を奪われたとした方が良いからな。
また後の、大海人が壬申の乱の勢力の大きさから言って、皇族なのは確実です。
10 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:10
まあすくなくとも、中大兄っていいかげんやめにして
葛城皇子と呼ぼうや
11 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:10
12 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:12
資格? 資格とかじゃなくて、天皇から分かれた世代数の同じ者同士の中で
年長者が「大兄」でしょ。
「中大兄」は「大兄に次ぐ者」または「2番手の大兄」の意味。
13 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:12
ちゃんと調べてから書いてる?
中大兄が2番目なら、古人大兄は1番目か?
中には「中心」の意味もあることも考慮してないし。
14 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:13
>中には「中心」の意味もあることも考慮してないし。
どういう定説ですか?称号としての「中」についてのそんな説は初耳でつが?
書き方が悪かった。スマソ。
>>225が、あまりにも単純に2番手と断言してたもんだから。
中の他の意味や、他の大兄の名前とか調べて考えてからから
言うんだったらいいんだけどね。
俺は中大兄の中に意味を求めるのに意味を感じない。
16 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:14
じゃ「中」っていう名前なのか?(固有名詞なのか?)
それとも「葛城大兄」ならいいのか?
17 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:15
古人をぶっ殺してから中大兄と名乗るようになった
中は中継ぎ
18 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:16
中継ぎも何も、古人はもういないのだから普通に大兄でいいと思うが?
やはり大兄である古人に次ぐ存在だったから中大兄だったんじゃないの?
19 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:17
とにかく、古代の日本の勢力関係は、
1000年後の戦国時代の関係に似てると、インド人が言ってるぞ。
天智天皇は近江閥で、天武天皇は尾張閥だろう?
石田三成は近江閥、加藤清正、福島正則は尾張閥。
20 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:17
似ててもいいけど偶然だろ
日本は東西に長いんだから抗争が東西対立になるのも不自然じゃないし
そうなれば東西で生産力の高い地域が本拠地になるってだけのことじゃないの?
21 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:19
皇極天皇は、最初用明天皇の孫に嫁いで、漢王を生んでいる。
そのあと死別し、舒明天皇に嫁いでいる。
実は中大兄は女帝の連れ子の漢王なんですよ。
だから簡単には皇位に就けなかったんですよ。
正当な後継者である大海人が、天智天皇の死後、壬申の乱を起こし、
大勢が味方についたのは、そう言うことだったんですよ。
中大兄が蘇我氏を征伐したのは、一族の敵討ちだったんじゃないかな。
天武系は女系で中大兄に繋がっているから、漢王の一族〔多分祖父〕
である聖徳太子を聖人化して祀ったってことじゃないかな。
山背大兄の弟の長谷王が早死にし遺児に葛城王ってのがいる。
この葛城王がのちの中大兄〔葛城皇子〕かも知れない。
これで、すっきりしませんか?
天武の年齢が不明なのはカムフラージュかも知れません。
22 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:19
何だよインド人てw
23 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:19
>>21 天智と天武は双子。
皇極天皇は、高向王と別れてすぐ舒明天皇に嫁いだので
どっちの種か自分でもわからなくなった。
だから双子がよちよち歩きするようになった頃、子供に父を選ばせた。
一人は舒明天皇の方に向かった。これが天智。
もう一人は高向王めざして歩いた。これが天武。
しょうがないんで二人の父が双子を分け取りしたというのが真相。
24 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:20
25 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:21
べつに証拠はないけど、神皇正統記は双子説でそ。
天武=漢皇子説も蓋然性高いが。
26 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:22
でもまじに、兄の娘4人も、嫁に迎えた弟って、近親相姦小説よりすごいよな。
27 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:24
兄妹で普通に結婚してる時代だから別にめずらしくもないでしょう。
28 :
日本@名無史さん:03/03/22 01:56
天智天皇は暗殺されたのか?
天皇家は遺伝子がおかしい
30 :
日本@名無史さん:03/03/23 13:30
31 :
日本@名無史さん:03/03/23 13:33
穴兄弟です。
32 :
日本@名無史さん:03/03/27 19:38
アナル兄弟!?
33 :
日本@名無史さん:03/03/27 21:27
でもまじに、兄の娘4人も、嫁に迎えた弟って、近親相姦小説よりすごいよな。
きもい。
35 :
日本@名無史さん:03/03/27 23:16
age
36 :
日本@名無史さん:03/03/29 16:48
トンチ天皇
37 :
日本@名無史さん:03/03/29 19:30
「天帝」=リン。
38 :
日本@名無史さん:03/03/29 21:40
インド人らしい
39 :
日本@名無史さん:03/03/30 22:17
近親相姦まんせー。
40 :
日本@名無史さん:03/04/01 02:16
天皇家は遺伝子がおかしい
41 :
日本@名無史さん:03/04/06 02:35
天皇家、それは2600年にわたる日本の恥部
42 :
日本@名無史さん:03/04/08 00:29
暗殺まんせ
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
57 :
世界@不比等さん:03/04/13 00:16
学習院の遠山先生の著書を読みたまえ!
彼の研究によると、
天智天皇の生没年はほぼ定説に近く、
天武天皇は、(古人ではなく)中の兄より、9歳程度年下であったとする。
だいたい15〜20歳で第一子を授かったであろうから、
十市・高市が生まれた年代や、太田・讃良・建が生まれた年代に照らしても、
全く無理がないようだ。
飛鳥時代に
晩婚で初老にさしかかってから第一子を授かったとする説はとれない。
(^^)
59 :
日本@名無史さん:03/04/19 17:46
age
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
61 :
日本@名無史さん:03/04/27 04:47
>>57 遠山先生の著書は今日にでも図書館で読んでみます。
しかし、天武の年齢が日本書紀から書き落とされているのは、不自然すぎる。
遠山先生はどうお考えなのだろうか。
62 :
日本@名無史さん:03/05/02 20:21
天武の出生の謎がばれてしまうから
>>57 遠山先生の「壬申の乱」を読みました。
年齢を逆算した推定は、大体いいでしょうが、天皇の年齢が書いてないのがふつうで、天智の年齢が書いてあるのがむしろ例外なのだ、という説は、これは強弁でしょう。
書紀の天武紀は、上下2章も割かれ、ちょっと本棚を探し回らないと岩波の書紀がないので正確には分かりませんが、たしか、天武紀は100ページ以上あったはずです。
それだけの紙数を割くヒーローの年齢が分からない。しかも、書紀は、(編纂命令を出した)天武を褒め称えているわけでしょう。
なぜ年齢を書かないのか、そして、それだけの大ヒーローなのに書紀に初めて登場するのは43歳。おかしい。
確かに、漢皇子を大海人に見立てる大和岩雄、井沢元彦説が説得力がないのは認めます。
かといって、史料批判をせず、書紀の記述を頭から疑わない遠山説は、無茶苦茶である。
早大の水野先生のように、「異母弟の可能性がある」と推定するほうが、まだまともな態度と云えるのではなかろうか。
64 :
日本@名無史さん:03/05/03 00:39
異父弟ではないかと思われ
65 :
日本@名無史さん:03/05/04 20:34
>>63 なぜ「英雄・天武天皇」の年齢が詳らかでないのか?
これについては、
彼やその妻(讃良皇女)が信奉していた道教の影響がうかがえるそうです。
遠山先生以外のさまざまな研究者の方々がとなえておられます。
「火」の徳を持つ天武天皇の年齢や没年、および皇位継承の時期は、
後の体制の安定にとって、どうしても「調整」しなければならない
事情があったようなのです。
書紀の記述のなかで、
天武天皇の命日は公式には9月9日となっておりますが、
実際は「朕の身体は臭くなった・・」と記された同年初夏の早い時期に
すでに崩御していた可能性があると考えられます。
神性の絶対君主に仕立てるために、道教の理(ことわり)にかなった演出が
どうしても必要だったからでしょう。
66 :
日本@名無史さん:03/05/04 22:52
俺は天智が天武に娘を4人も嫁がせるほど気を使ったのは
天武が天智の実弟ではなく、実兄だったからだと思う。
蘇我入鹿暗殺の首謀者であり、その後の大化の改新を推進した
彼がなかなか天皇の位に就かなかったのは
同じ両親を持つ兄天武の存在があったからではないか。
外国人とか異父兄なら、そこまで気を使う必要はあるまい。
67 :
日本@名無史さん:03/05/04 23:36
>>66 よくその話は言われるが重大な見落としがある。
天智の娘4人が天武に嫁いだのは天智の生前か?と言う点だ。
確実に天智の生前に天武に嫁いだのは大田皇女、<廬鳥>野讃良皇女の2人、
大江皇女、新田部皇女に関しては天智の死後だった可能性もある。
ヒント
古典的な論文だが青木和夫氏の「天武天皇の皇子達」という論文を探して見なされ。
68 :
日本@名無史さん:03/05/05 02:07
双子だったからだろ
69 :
日本@名無史さん:03/05/05 02:19
天智天皇と天武天皇は実は同一人物だったらしいね。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
77 :
日本@名無史さん:03/05/05 10:47
天智天皇の生没年はほぼ定説に近く、
天武天皇は、(古人ではなく)中の兄より、9歳程度年下であったとする。
だいたい15〜20歳で第一子を授かったであろうから、
十市・高市が生まれた年代や、太田・讃良・建が生まれた年代に照らしても、
全く無理がないようだ。
飛鳥時代に
晩婚で初老にさしかかってから第一子を授かったとする説はとれない。
78 :
日本@名無史さん:03/05/05 12:24
>>67 草壁と大津の生年から見て、少なくとも大田と鵜野が
天智の生前に嫁いでいることは確か。
実の兄弟に娘を2人もやった人は他にいない。
79 :
日本@名無史さん:03/05/05 18:52
>>67 生前だろうが死後だろうが、
姪を4人ももらうことなど普通ではありえない。
やはり天智は天武に頭が上がらなかい理由があったと見るのが妥当。
>>65 天武の年齢が記されないのは道教の影響、ですか。
遠山先生の著作をもう少し読み込みますか。
しかし、天武ほどの英雄が、なぜ43歳まで書紀に登場しないのでしょうか?
天智と天武は、実の兄と弟であるとは、どうしても思えないのですが。
といって、一部の研究者のように新羅人とか言うつもりはありませんけどね。それじゃいくらなんでも即位はできない。
皇室の人間だとは思いますが、書紀の通りの記述の「実の兄と弟」というのはちょっと・・・。
81 :
日本@名無史さん:03/05/06 10:18
天武は本朝皇胤紹運録によれば天智より4歳年長。
変に考えすぎずに天武が兄とすればいいんじゃないか。
これまで天智がなかなか即位しなかったのは
同母妹間人との近親相姦があったからと言われてきたが、
それなら間人の死んだすぐ後、遅くとも翌年ぐらいには
即位しているはず。
そうしなかったのは他に理由があるはずで、
天武と天智の娘たちの関係を見ると
天智が天武に遠慮していたからという推論が成り立つ。
なぜ遠慮していたのかを考えれば
天武が天智の実の兄だったからと考えるのが一番自然だろう。
82 :
日本@名無史さん:03/05/06 10:19
天武は母皇極(斉明)のように
天智の傀儡になるような人ではないし、
叔父孝徳との対立という前例を考えれば
天武を皇位に推すことは天智としてはできなかったはず。
自分の理想を現実にするためにクーデターを計画して実行し、
政治の実権を握って反対者を粛清してきた天智にとって
最大の悩みは彼が皇位継承権1位ではなかったことではないか。
彼がずっと皇太子だったのも、叔父を先に立てたのも、
天武という「兄」の存在があったからだと思う。
もし天武が弟や外国人や異父兄なら、
自分が天皇になるのが一番皇位で紛糾することがない。
これまで通説では、
天智が叔父孝徳を皇位に立てて
自分が即位しなかったのは
天皇より気楽な立場の皇太子として政治に専念したかったから
といわれてきたが、皇太子が天皇より実権があったという時代など
この天智と孝徳、斉明の時以外殆ど存在しない。
皇太子というのはいくつも廃された例があるように、
所詮は天皇よりは不安定な地位だ。
天智が孝徳と対立した時にかえって孝徳が孤立したのは
母皇極上皇の支持があったことと
改革を進めている新官僚たちの支持があったからである。
政治に専念するのに皇位が邪魔というのは
後の院政時代を知っている人の発想である。
あぼーん
84 :
日本@名無史さん:03/05/06 10:31
つまり天皇にいつでもなれる立場なのに
皇太子に甘んじたのは
政治に専念したいということではありえず、
他にどうしても皇位につけない特別な理由があったからだ。
妹との近親相姦があったからといって
皇后とかにしなければいいのだし、彼女が死んでから
3年も即位を待った理由がわからない。
あぼーん
>>81 『本朝皇胤紹運録』の天智の年齢が『日本書紀』のそれと一致しないこと
についてはどうお考えですか?
>>65 遠山先生の新著を読みました。
これは試論の段階ですね。もう少し見守りましょう。
他に同じような説を唱えている先生、著書を御教示いただければ幸いです。
>>86 では、北畠親房が天智と天武を双生児にしているのはどうお考えでしょうか。
私は、どう考えても天智と天武が同父、同母の兄と弟であったとは、どうしても思えません。
前にも書きましたとおり、天武の若い頃がまるで分からないなど、不自然な点が多すぎます。
88 :
日本@名無史さん:03/05/07 23:24
>>86 正直、自分の中で結論は出ておりません。
あるいは、天智の年齢も書記の方が間違っている可能性もありますから。
ただ、一代要記でも天武の生年は一致しておりますから、
それは確かだと思います。
と同時に、どう考えても
日本書記で天武の年齢を一切わからないようにしているのは
年齢を記せない特別な理由があったからと考えざるを得ません。
89 :
日本@名無史さん:03/05/08 18:56
『日本書紀』を一通り読めば分かると思うが、『日本書紀』に出てくる天皇は
若い時の活躍がはっきり判明している方が珍しいんだが。
>>89 それは承知していますが、天武の場合は別では?
やはり書紀最大の英雄なのに、不自然すぎますよ。
ただ、学習院の遠山先生の試論などもありますので、私はもう少し、いろいろな意見を待ちます。
91 :
日本@名無史さん:03/05/08 22:55
穴兄弟であるのは間違いないか。
92 :
日本@名無史さん:03/05/09 06:13
>>87 双子なんだから同母でしょう。
前夫と別れて後夫と再婚したての微妙な時期に生まれれば
双子でありながら二人の父に別々に引き取られたということが考えられる。
93 :
日本@名無史さん:03/05/11 16:04
>> 80〜90
シチュエーションを現代にオーバーラップさせてみましょう。
学習院大学3回生の兄が、総理大臣の政策に異を唱えて
理想主義的な大衆学生運動にはしりました。
蘇我くん、石川くん、藤原くんもいっしょです。
緊張で吐きそうになるほどの答弁の末、
そして総理大臣の勢力を失脚させるに至りました。
さて、
そのころ初等科5年生だった、まだ思春期に入ったばかりの
少年「海男くん」は、兄の運動を支援できたでしょうか?
兄の子たち(姪たち)を、
妹やガールフレンドのように可愛がっている一方、
武術も学問もまだ未熟。
果たして「乙巳の変(大化の改新の引き金)」を
手助けできたでしょうか?
小学5年生の少年には、まだ無理です。
94 :
日本@名無史さん:03/05/11 16:32
非兄弟説唱えてるヤツって、通説に盾突いて面白がってるって感じだな。
家康替え玉説とか言ってるヤツとたいして変わらん。
史料を疑うのは当然だが、疑いすぎて妄想というか我田引水になってないか?
95 :
日本@名無しさん:03/05/11 21:02
>>94 少なくとも日本書紀に嘘が多いことは確か。
天武の息子舎人親王が編纂したものなのだから
天武に都合の悪いことは書かれないと見るのが当然。
天智の墓に全く触れていない、天武の生年が全くわからないなど
意図的な糊塗が行われているのは明白だろう。
>>94 仰有ることは分かるのですが、家康替え玉説と比べられるのはちょっと。
私は少なくとも、天智と天武は書紀の記述どおりの同父、同母の兄と弟とは思いませんが、漢皇子と推定するのは飛躍があると思いますし、もちろん新羅人などとも思っていません。皇族だと思います。
要するに、この時代のことは、分からんことだらけなんですよ。
ただ、それでも、どうしても常識に照らして、天智と天武の兄弟関係は、怪しいと思うのです。
97 :
日本@名無しさん :03/05/11 23:42
書紀に年齢の全く書かれていない天皇は、天武・持統・斉明
孝徳・舒明・崇峻・用明・敏達・欽明らしい。
どう考えても多いよな、意図的も糞も無い
98 :
日本@名無しさん:03/05/12 11:08
>>97 どこの書記を読んでいるんだ?
祟峻以外はどこかに何年に何歳だったという記述があり、
そこから生年を計算できるから没年もわかる。
99 :
日本@名無史さん :03/05/13 01:21
100 :
日本@名無史さん:03/05/13 01:37
>>100 書紀最大の英雄であるはずの天武の記述は、おかしいと言わざるを得ない。
まず、年齢が分からない。これへの反論は学習院の遠山先生たちの試論があるようですので、しばらく待ちます。
若い頃のことがまるで分からない。他の天皇ならともかく、書紀は天武を讃えるためにつくられたのですから、どうもおかしい。
北畠親房は、神皇正統記で、わざわざ天智と天武を同年、つまり双生児としている。なぜそんなことをしなくてはならないのか。他の中世の書物は、天武65歳説に合わせて、天智の年齢を58歳などにしているのに。
天智・天武の兄弟関係の書紀の記述を疑うのが家康替え玉説と同じトンデモ説だと言うなら、書紀の記述を頭から疑わないことこそ、それこそ神武天皇が紀元前660年に即位したことを丸呑みするようなものだ、と思います。
102 :
日本@名無史さん:03/05/16 01:17
突然書き込みます。
そもそも乙巳の変は、成功していたのでしょうか。当時天皇家を超えた権力を持っていた蘇我氏が入鹿の死のみで
本当に滅亡したのでしょうか。この変の後、京を難波に遷したのも、天智天皇が近江に京を置いたのも飛鳥にまっ
たく別の大きな勢力があった為とは、考えられないでしょうか。実際に皇極帝が重祚した時に限り、飛鳥に京を戻
しています。そのまったく別の勢力の頭が天武天皇であると考えれば、いろいろとあった矛盾が解決できるように
思われるのですが。
103 :
日本@名無しさん:03/05/16 09:18
>>102 興味深いが、資料とかの裏づけが欲しいね。
君は天武を蘇我氏の一族と考えているのか、
あるいは新羅系の帰化人の首領と考えているのか、
そのあたりも聞きたい。
>>天智天皇が天武天皇に娘を4人も嫁がせたことが謎≠ニ言われていますが
天智天皇の娘は10名ほどいて、うちわけは
天武天皇妃→4名
高市皇子妃→1名
草壁皇子妃→1名
大津皇子妃→1名
斎宮 →1名
不明 →2名
です。
当時、天武天皇かその皇子ぐらいしか、分相応な結婚相手が
いなかったってことじゃないの?
天武天皇の皇女も天智天皇の皇子に3名と高市皇子の王子に1名
嫁いでいます。
他に誰がいるの? もらってくれるひとって感じじゃないのかな。
>>78 実の兄弟に娘を2人もやった人は他にいない。
>>79 生前だろうが死後だろうが、
姪を4人ももらうことなど普通ではありえない。
宣化天皇も弟の欽明天皇に娘を4人やっています。
敏逹天皇にいたっては娘が3人、息子〔押坂彦人大兄皇子〕に嫁いでいますよ。
106 :
日本@名無史さん:03/05/18 07:26
107 :
日本@名無しさん:03/05/18 10:59
>>105 宣化が欽明に娘をやったのは
欽明が父継体天皇と前王朝の娘手白髪との間に生まれた子であり、
父の連れ子の宣化としては遠慮があったのでは。
天智と天武の関係の類似型ではないか。
敏達の場合は蘇我氏の血を引いていない押坂のために
蘇我氏の血を引いた娘をやったと考えるべきではないか。
>>106 日本書紀では実在したかもあやふやな時代以外ではいないよ。
祟峻と天武の2人だけだ。
108 :
日本@名無史さん:03/05/18 14:30
漏れが思うに、天智・天武の問題は、聖徳太子の時代から考えるべきじゃないのだろうか?
当時の日本は隋・唐の成立によって独立か柵封体制に入るかっていう問題が常にあったと
思う。乱暴な言い方をすれば、独立・国粋主義と、交流・国際主義が入り乱れていたと
思う。幕末の尊王攘夷派と開国公武合体派の争いに近かったのではないだろうか?
蘇我・物部の崇仏論争だって、形を変えた攘夷主義と開国派の争いみたいなものだったと
言えるのではないだろうか。
だから、日本書紀では推古女帝の時代のはずが、アマノタリシヒコ(タラシピコ)という
男帝の記述があったりするわけだ。日本書紀が(もっと言えば藤原不比等が)何を隠そうと
していたのか、それを考える事が、天武の正体を探る手がかりだと思う。
聖徳太子:中国からの独立派・親百済
蘇我本家:親中国・仏教擁護派
天智天皇:反中国・反新羅・親百済
天武天皇:親中国・親新羅
こっから考えても良いと思う。漏れは、聖徳太子は当時の蘇我天皇家(アマノタリシヒコ)の
影響から当初は親中国だったが、じょじょに日本の独自性・自主独立を模索するようになり、
結果的に暗殺された。だが、この遺志を継ぐ中央集権国家構築を夢想する、舒明天皇の
血統によるクーデターが乙巳の変だったのではないかと夢想している。そして、天武とは
蘇我天皇家に連なる第2勢力だったのではと思っている。もしくは、本当に兄弟だったが、
中国との全面対立を憂える連中に担がれ、兄貴と袂を分かったのかも。
天武は蘇我氏が母の古人大兄皇子という説もあるよね。
個人的には天智=漢皇子かなと。
110 :
日本@名無しさん:03/05/18 16:45
>>108 いい意見だ。
中国大陸、朝鮮半島の情勢は古代日本にとって常に大問題だし、
無関係ではありえない。
>>107 敏達の場合は蘇我氏の血を引いていない押坂のために
蘇我氏の血を引いた娘をやったと考えるべきではないか。
そうなんだ押坂にやった3人のうち2人は
推古天皇の生んだ皇女ですね。
しかし推古天皇皇女である桜井弓張皇女の生んだ山城王 笠縫王 を
押しのけて、蘇我の血を継いでいない糠手姫皇女の生んだ田村王が
舒明天皇になったのはなぜ?
112 :
日本@名無しさん:03/05/18 21:05
>>111 私見だが、舒明はもともと推古の娘の田眼皇女を妻にしていたし、
後妻の宝皇女(後の皇極、斉明)は母が吉備女王。
吉備は推古の姪にあたり、推古の遺領のかなりの分を
相続していると見られている人。なぜ娘でなく姪が相続したかは
わからないが、おそらく竹田皇子や桜井皇女ら子供たちに全て
(またはほとんど)先立たれたからだと思われる。
つまり、蘇我氏との縁で言えば五分だが、最終的には
蘇我氏との間に古人大兄皇子を作っていたことが大きかったと思う。
山背大兄王一族を煙たがっていた蘇我氏にとって、
蘇我氏の母を持っていた古人は最大の駒だったろう。
>>109 天武を漢皇子というのは、卑弥呼を神功皇后に推定するようなもので、あまり当てにならないのでは。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
115 :
日本@名無史さん:03/05/23 00:29
もしかして、漢皇子は、天智のほう?
・皇極天皇の先夫は用明天皇の孫、高向王
・高向王の父親の情報なし
・高向王は早世
・皇極天皇と高向王との子供は漢皇子
・皇極天皇の皇子葛城皇子は後の天智天皇
・漢皇子がどうなったのか情報なし
・用明天皇孫長谷王〔聖徳太子の王子〕の王子に葛城王あり
・長谷王は早世
・葛城皇子は権力を握るが、なかなか即位しない。〔出来ない?〕
・皇極天皇の皇子葛城皇子は後の天智天皇
・葛城皇子同母妹と恋仲
漢皇子=天武天皇説のキーワード→七百年も後に書かれた本に記された記述によると兄弟の年齢が逆転
漢皇子=天智天皇説のキーワード→早世の父親、葛城の名、異常な即位遅延、同母兄妹恋の謎
117 :
日本@名無史さん:03/05/24 19:17
>>108,111
どうも、舒明天皇というのが、実は重要なようですね。蘇我氏と反蘇我氏という視点で見ると。
舒明についての事跡とか、何かありますか?
乙巳の変は舒明によるクーデターを天智に仮託したってことでつか?
118 :
日本@名無史さん:03/05/24 19:32
119 :
日本@名無史さん:03/05/25 02:56
1.学習院の遠山先生の視点
第一子を授かった年齢から推定する。
2.統治の根拠となる道教の影響
十干十二支と五行説のサイクル
これら2つの視点から全ての謎は解ける。
天武は、兄天智の9つ年下。
120 :
日本@名無史さん:03/05/25 05:29
>>107 >祟峻と天武の2人
欽明、敏達、用明も書いてないと思うが……
121 :
日本@名無史さん:03/05/25 19:36
でもまじに、兄の娘4人も、嫁に迎えた弟って、近親相姦小説よりすごいよな(w。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
123 :
日本@名無史さん:03/05/28 17:14
天武は本朝皇胤紹運録によれば天智より4歳年長
124 :
日本@名無史さん:03/05/31 19:15
葛城皇子(中大兄皇子)と間人皇女の同母兄妹相姦があったのがなかば
事実として判断されているけど、実際にそうだったの?大伯と大津の関係
のように、そうであるように思えてそうではなかった、というのは無し?
125 :
日本@名無史さん :03/06/06 00:05
age
126 :
日本@名無史さん:03/06/06 01:25
素人質問ですが、天武(大海人皇子)は記紀に初めて登場するのが、
刀を天智天皇関係の宴会で刺すところだと、記憶してるのですが、
日本書紀って天武の勅命で書かれた書物なのに、何故幼少の頃の
記述がないのでしょう?
127 :
angler:03/06/06 11:15
>>123 大嘘。
天武は本朝皇胤紹運録によれば天智より8歳年少
128 :
日本@名無史さん:03/06/07 00:29
>>126 刀じゃなくて、槍だろ?
日本には伝統的に矛はあっても、槍はなかったので、文字資料として槍と言う字が出てきた
初出だったと記憶していたが。
>>124 それは解釈の間違いだという説を大和岩雄さんが著書「天武天皇出生の謎」だか「天智・天武天皇の謎」だったか、とにかく著書に引用していた記憶がある。
大和さんの本が学問的にどうかの判定はともかく。
130 :
日本@名無史さん:03/06/09 20:21
>>126 だから天武の素性は怪しいという説が出てくる。
古くから小林惠子(やすこ)さんとか、大和岩雄さんとかが主張している。
分かりやすいのは井沢元彦さんの「隠された帝」「逆説の日本史 2巻」。
これに学習院の遠山先生が、著書「壬申の乱」などで反論しているわけだが。
131 :
日本@名無史さん:03/06/15 16:21
アナル穴兄弟
132 :
日本@名無史さん:03/06/15 18:43
天武天皇は遁甲などの知識があったとの話を聞いたことがありますが
(だから忍者説なんてトンデモ話が出ると思うのですが)
そういう人材がが朝鮮半島への出兵・その後の軍事的緊張という時期に
公式記録に活動が残されていないのは何故なんでしょう?
当時の天皇に最も近い皇族でもあり、司令官として最適の人物だったように
思われるのですが
白村江の司令官だったから、その前後の記事は削除されてるんだろう。
天武天皇の息子の舎人親王が名目上の編纂者だから
白村江の敗戦の責任者が天武天皇だとは書けない。
134 :
日本@名指しさん:03/06/23 01:23
>> 130
私は遠山説のほうが納得できます。
小林説は陰陽道や道教の影響について考察が足りませんし、
第一子が生まれたときの年齢についても言及していません。
だから小林説は荒唐無稽に映ります。
135 :
日本@名無史さん:03/06/30 01:41
あたしは里中真知子の「天上の虹」がすべてだと、おもってる。
136 :
日本@名無史さん:03/06/30 02:13
>小林惠子(やすこ)さんとか、大和岩雄さんとかが主張している。
>分かりやすいのは井沢元彦さん
これだけの錚々たるメンバーが言ってるんであれば
信憑性ゼロ確定だなw
137 :
世界@名無史さん:03/06/30 08:53
小林は、電波と言うより、それを超越している。
たしかに小林氏はトンデモ説だろう。あまりにも言うことが突飛だ。
記紀を中心に考えることは当り前だが、かといって遠山先生の御説も試論に過ぎない。
もう少し、いろいろな学者の意見を聞きたい。
139 :
日本@名無史さん:03/07/07 21:53
>> 126
宴会場で床を槍で貫いたエピソードは、
藤原氏の「家伝」に記載されているエピソードです。
記紀の記載じゃないですよ。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
うざ
143 :
日本@名無史さん:03/07/17 05:07
天智天皇の娘は10名ほどいて、うちわけは
天武天皇妃→4名
高市皇子妃→1名
草壁皇子妃→1名
大津皇子妃→1名
斎宮 →1名
不明 →2名
144 :
日本@名無史さん:03/07/24 23:46
145 :
日本@名無史さん:03/07/31 17:32
(^^)
147 :
日本@名無史さん:03/08/05 00:38
148 :
日本@名無史さん:03/08/05 01:14
江上波男が『騎馬民族国家』の論理構築において、
初代天孫系氏族(騎馬民族)を推定するにあたって、
ハツクニシラススメラミコト・ミマキイリヒコイリエノミコト等、諱名にも着目してるのだが、
その流れで、崇神と応神と断じる中、両者に「神」の文字が使用されてるのは
偶然ではない、主張している。
そうなると、天智と天武に「天」が使用されてることにも、特別な意味があると考えるべきで
はないだろうか?仮に騎馬民族説が正しいと仮定すると、天智の首謀による従来よりその
実在が疑われてきた大化の改新が実は天孫系=大和土着勢力連合王国にあって、日いず
る国の天子で始まる使節の送り手、倭王・蘇我氏を打倒して(後に聖徳太子創作でその
存在を隠蔽)クーデターによる天孫系王朝を創立し、その後、天孫系内での主導権争いで、
高句麗系天武が百済系天武より権力を奪取、国史を編纂することで体制を磐石にした。
(崇)神〜(天)武までの歴史を「神武」天皇の“東遷”として神話化し、それ以前の
歴史を卑弥呼=アマテラス神話等として、中国の史書等との矛盾を合理化した
というのが私の認識です。
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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152 :
日本@名無史さん :03/08/09 17:52
大体推古以降の生没年表記は信用できるとされているわけだから
天武の年齢については意図的な書き落としとしか思えない
新井白石も「天智は暗殺された可能性がある」みたいなこと書いてるし
同母系の姪を4人も妻にするってのもおかしい
この問題は、そもそも孝徳から天智への皇位継承がどのように行われた
のか、というあたりから考えないとわからないと思う
153 :
日本@名無史さん:03/08/09 21:28
【暗殺?】天智と天武【兄弟?】
>>>間違いなく穴兄弟!!
154 :
日本@名無史さん:03/08/14 00:31
やっぱ日本書紀のあやふやさが謎を生んでますね。藤原不比等の
意図はどの辺にあったのだろう?
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
157 :
日本@名無史さん:03/08/15 18:40
思うに、天智・天武の問題は、聖徳太子の時代から考えるべきじゃないのだろうか?
当時の日本は隋・唐の成立によって独立か柵封体制に入るかっていう問題が常にあったと
思う。乱暴な言い方をすれば、独立・国粋主義と、交流・国際主義が入り乱れていたと
思う。幕末の尊王攘夷派と開国公武合体派の争いに近かったのではないだろうか?
蘇我・物部の崇仏論争だって、形を変えた攘夷主義と開国派の争いみたいなものだったと
言えるのではないだろうか。
井沢元彦の「隠された帝」て小説を読んだんですが
あまり歴史に詳しくないけどつい引き込まれて読んだよ
これってどうなのかな
159 :
日本@名無史さん:03/08/21 18:52
160 :
日本@名無史さん:03/08/22 20:57
兄から弟への皇位継承ってほとんどないんだよな
仁賢・顕宗くらい?
>>160 仁賢が兄で顕宗が弟。だからこれは「弟から兄へ」。
履中−反正−允恭
鮟鱇−雄略
163 :
日本@名無史さん:03/08/28 23:27
どのスレで聞けばいいか分からなかったもので・・・
日本は昔、
天皇のことを「すめらみこと」
皇太子のことは「ひつぎのみこ」
と言っていたらしいけど
「ひつぎのみこ」は語感から「日嗣ぎの神子」という感じがするんですが
天皇の先祖の天照大神が太陽神ですし、・・・でも
「すめらみこと」ってなに?語感から感じるイメージはまるで妖怪の名前みたい
バカな私に「すめらみこと」はどういう字を当てるのか教えて下さい
お願いします
164 :
日本@名無史さん:03/08/30 15:01
穴兄弟は有名だよね。。
>163
すめらみことの「みこと」は「尊」でしょ。ヤマトタケルノミコトと一緒。いわば飾り。
すめらは・・・神様の名前かなんかで、こんなのなかったっけ。うるおぼえだが。
「すめらみこと」は、とっても偉い別格の人、みたいな意味じゃないの?
>>165 レス有り難うごさいます
他スレで「すめら」は「香ばしい」「統治」
と言う意味が有るらしいと返答をいただきました
「みこと」は「命」だと思っていました・・・「尊」の字ですか
レス感謝です
167 :
日本@名無史さん:03/09/05 06:49
スメラミコト、ですか?
有名な説では、統治する=統べる(すべる) から、
スメラミコト=統治する高貴な存在 というモノ。
別の説では、浄化する=澄む から、宗教的な側面として
スメラミコト=汚れを浄化する超越存在 という説があります。
すめら=香ばしいって、そりゃあ英語のスメルとの掛け詞で、からかわれたんだよw
個人的には、天皇自体は祭政一致と言うより、宗教的側面が強い存在だと思うので、
後者の説の方が正しいような気がする。卑弥呼や壹与など、どうも日本は武力的な
政治存在の上にシャーマンを推戴する伝統があるようなので、統治者としての
天皇よりも、宗教者としての天皇の方が、時代背景にも合致するような気がする。
実際問題として、天皇は被差別民との接触を忌避しない特殊な存在と言う認識が
あるようで、被差別民の存在自体が「穢れ」であると言う事を考えると、これは
希有な事ではないだろうか? 穢れを浄化するシャーマンがスメラミコト。
子の説の方が魅力的じゃないかな?
168 :
日本@名無史さん:03/09/07 13:01
天武といえば、天智の即位の宴会で槍振り回して大騒ぎだったけど、
内心大友どころか天智の即位そのものにも不満だったのかも知れん。
169 :
村国 男依:03/09/08 23:15
>> 168
即位の宴会じゃなくて、滋賀県蒲生野の狩猟の宴会での出来事じゃなかったっけ?
>169
そのとおり。
「茜さす〜」「人妻ゆえに〜」の歌が詠まれた宴ともいわれてまつ。
171 :
乃木 のぎ太:03/09/11 22:16
大和三山に喩えた三角関係の歌は、
狩りの宴の遊興の雰囲気の中でたわむれに歌われた、というのが
真相らしい。
あんまり深刻な意味はなさそうだ。
172 :
日本@名無史さん:03/09/14 01:31
近年、歴史学者間で大海人が天智の皇太子だったこと自体否定する向きもある。
(荒木敏夫氏、本間満氏ら)
天武が天智の弟ではなく、兄だという話があるのを聞いたことがある・・・
そこのところはどうなんでしょうか?
174 :
日本@名無史さん:03/09/15 12:23
穴兄弟という観点からは、先にヤッた天武が兄。
>>173 ここの過去スレをじっくり読んで下さいまし
さんざんそのネタについて論議されてます
176 :
日本@名無史さん:03/09/16 20:00
当時は兄弟継承が一般的。父子継承は鎌倉時代。
177 :
日本@名無史さん:03/09/23 18:30
うそー
178 :
日本@名無史さん:03/10/02 00:24
うそです。
兄弟相続か父子相続かということではなくて、長子相続か末子相続かということだろ
180 :
日本@名無史さん:03/10/03 23:33
昨日、吉野宮行ったんです。吉野宮。
そしたらなんか天皇・皇后・六皇子に群臣たちがいっぱいで座れないんです。
で、よく見たら皇后が襟を開いて六皇子を抱き「一母同産の如く慈しむ」とか言ってるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、皇位継承問題如きで普段来てない吉野に来てんじゃねーよ、ボケが。
皇位継承だよ、皇位継承。
なんか天智の子とかもいるし。先帝の子まで連れて吉野行幸か。おめでてーな。
で、よーしオレ(川嶋皇子)は大津皇子を応援しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前な、懐風藻やるから皇位諦めろと。
吉野ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
近江朝廷の遺臣の奴らといつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。親新羅派は、すっこんでろ。
で、やっと茶番が終わったかと思ったら、隣の奴が、
ここはやっぱり壬申の乱で活躍した高市皇子で、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、高市皇子なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、高市皇子で、だ。
お前は本当に高市を支援したいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、壬申の乱って言いたいだけちゃうんかと。
皇族事情通の俺から言わせてもらえば今、通の間での最新流行はやっぱり、
忍壁皇子、これだね。
忍壁・磯城皇子兄弟。これが通の選び方。
このふたりは母親の身分が低い。そん代わり同母姉妹が多め。これ。
で、磯城は天武没後のどうなったか全く不明(没年すらも)。これ最強。
しかし草壁以外を支援すると次から皇后にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、草壁皇子でも応援してなさいってこった。
額田王LOVE
182 :
日本@名無史さん:03/10/13 14:36
めっちゃ遅レスになるけど
>>107 宣化・欽明の二人の間で皇統が替わったという
王朝交代説が無かったっけ?半端な素人質問ですまないけど
いや、この二人と天智・天武の事例の類似性は
「何か」を示唆しているのではと勝手に妄想しただけです
他にも天武(天智)が連れ子だとして「父」とされる人物の
出自は?即位に差し支えがある血筋(皇統が交代という前提で)
前の王朝の末?とか飛躍しまくりだったりするし
184 :
日本@名無史さん:03/11/06 00:32
>>183 王朝交代説と言うより、2王鼎立説かな
『日本書紀』と他の史料(『上宮聖徳法皇帝説』『元興寺縁起』など)に書かれている
仏教伝来年のずれから推測して、2人の大王が同時にいたのを隠したのではないか?と言う説。
2王だったら鼎立にならないじゃん。「鼎立」というのは三つが並立すること。
187 :
日本@名無史さん:03/11/23 01:06
宣化と安閑と欽明ですね
ハァ?
宣化と安閑が同時に即位していたという説ははじめてきいた。どうでもいいけど(w
189 :
Cipher:03/11/23 11:02
関祐二氏の「壬申の乱の謎」って本に
天武天皇は聖徳太子の息子だったのではないかって
説が書かれてる。
小林惠子氏の本が大変興味深かったが。
191 :
日本@名無史さん:03/11/23 17:00
電波信者の集まるスレになりまつた
192 :
日本@名無史さん:03/12/14 03:13
あぼーん
194 :
日本@名無史さん:04/01/09 07:32
天智と天武に「天」が使用されてることにも、特別な意味があると考えるべき
195 :
日本@名無史さん:04/01/09 15:14
>>194 何かこれもデムパ臭いなあ、と思いながら
まずはその論拠をお伺いしたく。
私もこの謚号には特別な意味があるのではとは思っていますが。
196 :
日本@名無史さん:04/01/17 20:15
>>194 三船は、どの文献を元に命名したんだっけ?
どの文献もクソも、逸周書の諡号解のほかに何かある得るんかい?
198 :
日本@名無史さん:04/01/18 12:31
>>188 187は合ってはいるが表現が悪い。
欽明と安閑−宣化の二つ。
>>196 知っていると思うが三船は大友皇子(弘文)の子孫
199 :
日本@名無史さん:04/01/29 14:15
思うに、天智・天武の問題は、聖徳太子の時代から考えるべき
当時の日本は隋・唐の成立によって独立か柵封体制に入るかっていう問題が常にあった
乱暴な言い方をすれば、独立・国粋主義と、交流・国際主義が入り乱れていた
蘇我・物部の崇仏論争だって、形を変えた攘夷主義と開国派の争いみたいなものだった
200 :
日本@名無史さん:04/01/29 14:40
>>198 えっ?大友皇子の子孫が天武の諡号を考えたんですか。
そりゃ知らんかった。
201 :
日本@名無史さん:04/01/30 19:20
>>200 大友の息子で三船の祖父にあたる葛野王(母は十市皇女、669〜705)は、草壁・高市両皇子の死後皇位を巡って雲行きが怪しくなった時、「正嫡の子孫(ここでは草壁の子・軽皇子(文武))がいるのに兄弟相続を許すのは大乱の元」と一喝して皇位継承問題を解決させた。
天武が大友を倒して粉砕した「嫡子相続」の理論を持って天武の皇子の皇位継承を阻止して天智の血を3/4引いた文武を即位させたのだから、してやったりといったところか。
202 :
日本@名無史さん:04/02/02 17:57
>>201 三船は十市の子孫だったわけね。天武の血も引いてる訳だ。
だから諡号も考えている訳だ。なるほど。
この時代は婚姻が複雑だから、理解が及ばなかった。
でも、この十市皇女も妙な死に方してんですよね。葛野王はその辺、どう
考えてたんですかね。少なくても天武天皇に好意は持ってなかったでしょ
うね。それが、
>天武が大友を倒して粉砕した「嫡子相続」の理論を持って天武の皇子の皇
>位継承を阻止して天智の血を3/4引いた文武を即位させたのだから、して
>やったりといったところか。
に繋がるんでしょうけど。
三船自身はどうだったんでしょうかねぇ。天武の血を引いてるとはいえ、天
武に対してのわだかまりはなかったのでしょうか。
また天武系の人間もよく、三船に諡を考えさせる事に反対しませんでしたね。
それが天武、天智という似たような諡に表れているのでしょうか。
淡海三船が諡号をつけたのはあくまで私的な行為で、
公式なものではなかった。
(だから当時は極論すれば、よほど不敬なもの
でない限りどうでもいいものだったと思われ)
漢風諡号が公式なものとして認定されたのは、
ずーーーーっと後の時代になってから。
>>203 へぇ〜 ^10
あっ、そうなんですか。
これまた知らんかった。
てっきり、この頃は祖先崇拝の時代で先祖を祀る事が何より大事だった、
というイメージが有ったので、当時の諡号も重要なものと勘違いしてま
した。
205 :
日本@名無史さん:04/02/12 14:35
『逆説の日本史2』を読み返してみました。
諡号についても触れていましたね。
でも、森鴎外の『帝謚考』はいくらなんでも...。
鴎外だって、膨大な全ての中国古典を当たった訳ではないでしょうから。
井沢氏はこの本で
1.天智天皇は大海人に暗殺された
2.大海人の正体は天智の異父兄で漢皇子だった
3.大海人は天皇になっていた大友を壬申の乱で葬り権力を握った
としていますが、私の感想(論拠がある訳でもないので)は2、3はと
もかく1は?ですね。
根拠が『扶桑略記』だけというのが如何にも弱い気がします。
事実、暗殺が行われたのであれば、その直ぐ後に騒乱が起こりそうに思
います。
でも、この本を読んでみて、井沢氏の文章のうまさには脱帽です。人を
引き込むものがありますよね。それなりに考証しているし。
ところでもし大海人の正体が漢皇子だったとして、その父親である高向
王とは誰だったのでしょうね?
井沢氏は渡来人と推定していますが、関祐二氏は「壬申の乱の謎」で蘇
我系皇族の誰か、もしかしたら聖徳太子かも、とか書いていますよね。
想像が膨らみます。
このスレに集まる諸氏は如何に考えておられるのですか?
>>205 高向王は用明天皇の孫だと日本書紀に明記されてるから、
父は当然、用明天皇の皇子のうちの誰かだろう。
中世の歴史書では多米王(豊浦皇子)としているが
大和岩雄がいろんな理由から當麻王(麻呂子皇子)説を唱えている。
207 :
日本@名無史さん:04/03/03 11:41
大学院大学 一般教養 古典乙1 入学問題、
以下の説を論評せよ。 制限時間10日
日本書紀で高の字が出たら高句麗と考えよ説。
明の字のついたのはネストリス教、ペルシア・西アジア系説。
大化とは、大きく化けるに成功したの意説。
百済聖明王と欽明は同一人物説。
天智と金春秋は同一人物説。
天武と高句麗の泉蓋蘇文は同一人物説。
朝廷藤原氏は百済滅亡時の亡命王族・貴族説。
古朝鮮語でフジハラはクダラのクニ説。
推古、古を推し量れは卑弥呼、北条政子、女人謙信を思い起こせ説。
日本人の権威恭順の性は倭人伝倭人DNA回帰説。
推古以下の女帝はくっついてた男王が編纂時はがされた説。
権威従順の国、倭国乗っ取りは王族が女帝と仲良しになるだけでOK説。
藤原氏の外戚志向は賢明であった説。
蘇我、我は蘇りの西アジア系抹殺は仏教側の一石三鳥勝利宣言説。
うそも方便、仏教国の賢明さ理解はマックス・ビーバーも絶賛の岩並の実理論での説。
サザエさん人気は女帝到来、倭人回帰願望DNAうずき説。
アサハラ・ショウコウ三代前先祖は北朝鮮秘密警察官説。
オウムは日本の某教団韓国の某教団の援助で大きくなった説。
TVタレントに半島系多いは日韓友好促進支援説。
しこむしてますの屋球人の父は半島からの人説。
KCIAとヤクザ指導層はツーカーの仲説。
時代は今、国境越えて東アジア単位で考えよう説。
天武天皇「飛鳥浄御原宮」跡が出土 奈良・明日香村
http://www.asahi.com/culture/update/0308/012.html 古代最大の内乱、壬申(じんしん)の乱に勝利して即位した天武天皇の「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」(672〜694)の正殿とみられる大型
建物跡と石敷き広場が、奈良県明日香村の飛鳥京跡で出土したと8日、県立橿原考古学研究所が発表した。建物跡の規模や石敷きの精巧さから「天武天皇の
皇居がこの地にあったことを裏付ける発見」と、同研究所は話している。
飛鳥時代に四つの宮が置かれた飛鳥京跡では、これまで半世紀近くの調査で宮の周囲の塀跡や南門などが見つかっているが、中枢が発掘されたのは初めてだ。
調査現場は、南北197メートル、東西158メートルの板塀で囲まれていた内郭(天皇が住む内裏(だいり)に相当)の中心部(約600平方メートル)で、昨秋から始めた。
石敷き広場は水田跡から出土。内郭の南側約300平方メートルで、2000個以上の人頭大の花崗岩(かこうがん)がすき間なく敷き詰めてあった。同
研究所は、内郭全体の約2万平方メートルが一面石敷きだったとみている。
石敷き広場の北東では、天皇の生活空間の正殿とみられる大型建物跡の柱穴が東西5本、南北3本見つかった。宮殿は左右対称に建てられる原則から、正
殿は東西24メートル、南北に12メートル以上で、面積240平方メートル以上になると推定する。
正殿は柱の直径が約60センチ。建物南側には階段(幅、高さ各2メートル)を取り付けた跡があり、その階段の角度から高さ2メートル前後の高床と
みられる。瓦が見つかっていないため、屋根は桧皮(ひわだ)ぶきだったらしい。
209 :
日本@名無史さん:04/03/15 00:46
石敷き広場の南側では、太さ約20センチの柱を立てた三重の塀跡とみられ
る穴の列が東西に3列延びていた。79年に出土した前殿と、今回の正殿とを
厳密に区画する板塀らしい。三重塀が国内の宮殿で見つかるのは初めて。ま
た、正殿の西に隣接して深さ30センチのくぼ地に砂利を敷いた池跡も出土した。
日本で初めて天皇の称号を採用したとされる天武天皇は、壬申の乱の後、母
親の斉明天皇の「後飛鳥岡本宮」の宮殿をほぼ踏襲して使ったと同研究所はみ
る。天武天皇は蘇我氏や物部氏などを排除し、皇后と皇子で政治を断行。飛鳥
浄御原令や最古の通貨・富本(ふほん)銭の発行など中央集権政治を進めていった。
>天武天皇は蘇我氏や 物 部 氏 などを排除し
さすがはasahi.com 珍説をさりげなく発表w
211 :
日本@名無史さん:04/04/02 17:40
212 :
日本@名無史さん:04/04/22 00:21
殻挙げすんな
214 :
日本@名無史さん:04/05/01 00:36
うのちゃんって、ほんとに天智の娘なの?
215 :
日本@名無史さん:04/05/20 15:40
216 :
日本@名無史さん:04/05/20 16:08
>>210 高校レベル(受験用に丸暗記)の知識なら、それくらいの認識だろう。
一般人(非歴史オタ)の平均的なイメージであって、珍説とかいうものではない。
217 :
日本@名無史さん:04/05/20 16:10
丸暗記=何も考えずに暗記=試験後はすぐ忘却
218 :
日本@名無史さん:04/05/23 18:01
>>205 主犯の天武は吉野にいたから、大友が兵を集めてバレた天武も吉野を出て兵を集めて壬申の乱になったんじゃないの?
別に暗殺の首謀者が事件の現場にいなければいけないわけじゃないのだから不思議でもなんでもない。
219 :
日本@名無史さん:04/05/31 02:29
泉蓋蘇文=大海人皇子
220 :
日本@名無史さん:04/05/31 02:32
郭務そうがでてないようだな。
221 :
日本@名無史さん:04/05/31 02:58
姪4人並べて天武の踊り食いか
AVもビック理だ
, - ' ゙ `` ‐ 、_,,,,,
,r' /=ミ
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. / 彡lll
!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
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゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
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【ゴールデンレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
223 :
日本@名無史さん:04/05/31 12:31
224 :
日本@名無史さん:04/05/31 12:48
大海人皇子=郭務 説
大海人皇子=金多遂 説
大海人皇子=泉蓋蘇文 説
結局、どれが正解なのでしょうか?
225 :
日本@名無史さん:04/05/31 12:55
>>224 郭務悰だろう。
一説には唐が日本の間接統治を目指して派遣した「古代版マッカーサー」だという説もあるらしいが。
226 :
日本@名無史さん:04/05/31 13:00
マジレスすると、そういう事実があったのなら他の地域の場合のように
唐の史書に明記されるはずだから、間接統治説は単なる妄想にすぎないな。
227 :
日本@名無史さん:04/05/31 13:26
小林惠子や李寧煕は、泉蓋蘇文説ですが、
佐々克明や林青梧は、金多遂説ですな。
漢皇子説はあまり支持がなさそうですが、
井沢元彦あたりはどういう説へ変遷してましたっけ?
このスレは電波説を唱える奴しか居ないのか?
229 :
日本@名無史さん:04/05/31 20:00
>>228 金多遂と金春秋のゴールデンペア時代をしらんのか?
230 :
日本@名無史さん:04/06/01 07:50
>>226 押部佳周氏が近江令の制定の研究に絡んで白村江の敗戦後、唐が日本のきび支配を目指していており、日本書紀にも天智6年に「筑紫都督府」とうっかり唐の官制で書いてしまったところがあると指摘している。
(日本史的には筑紫宰→筑紫率→大宰府(帥)になったはずなのに)
白村江では日本は明らかに「敗戦国」なのだから、そのあと唐が何もしないでお咎め無しだったと考えるのもどうかと思うが。
231 :
日本@名無史さん:04/06/01 08:44
お咎めできなかっただけ。
在日の電波など語るに値しないな
233 :
日本@名無史さん:04/06/01 13:53
筑紫都督府は日本書紀にちゃんと書かれてますね。
百済の地では熊津都督府、馬韓都督府、東明都督府、金漣都督府、徳安都督府が置かれ、
高句麗の地でも、平壌に安東都護府が置かれています。
唐による戦後体制ですね。
235 :
日本@名無史さん:04/06/01 19:47
>>234 古田信者にとって、だろう。
なんで、唐による戦後体制の時期に、偶然に、筑紫都督府と書かれるのか?
>> 通説としては岩波の『日本書紀』頭注に見えるように、
>> 「筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの」
原史料に都督府とあったのか?
なぜ都督府という言葉が出てくる史料を、唐の戦後体制の時期に用いるんだ。
236 :
日本@名無史さん:04/06/01 20:26
もし倭国が占領されてたら、百済のように唐の史書に明記されるはず。
正史に何の記述もないことを考えると、やはり唐による占領はなかったのだ。
そもそも中国の史書が東夷の小国を憚る必要など全くない。
237 :
日本@名無史さん:04/06/02 07:55
一応百済鎮将からの使者と言う事は出先機関の(しかもすぐに廃絶した)記録が残ってなかったとも解釈されるし、
そもそもこの問題は実際に唐軍が日本の一部を占領したかではなく、日本が形だけでも降伏したのかどうかの問題だとおもうが。
238 :
日本@名無史さん:04/06/02 12:45
天智紀六年十一月「司馬法聡等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る」
239 :
日本@名無史さん:04/06/12 16:10
唐は極東の敵国高句麗を滅ぼすのが第一目的だった。
そのあとで新羅が唐の傀儡政権樹立を嫌って反逆し、
唐軍を蹴散らして半島を統一してしまったが、
本音は短期決戦で高句麗が無くなりゃ目的達成。
そんなことより吐蕃に唐の領土安西四鎮=トルキスタンを
奪われてしまう。こっちの防衛・奪還のほうがよっぽど大事。
則天武后は「さっさとケリをつけなさい」と手を打った。
倭国は敗北後、恭順姿勢のため、倭国王薩夜麻を
傀儡政権王に据えて、事態を収束させた。
傀儡政権に反体制運動が起きたのは、壬申の乱からである。
240 :
日本@名無史さん:04/06/13 18:57
もし日本が占領されてたら、韓国のように中国の史書に明記されるはず。
正史に何の記述もないことを考えると、やはり中国による占領はなかったのだ。
そもそも中国の史書が東夷の小国を憚る必要など全くない。
241 :
日本@名無史さん:04/06/13 19:37
正にいま、NHK総合で放映されている「火の鳥」。
今日はついに壬申の乱発生だね。
242 :
日本@名無史さん:04/06/13 21:24
>>240 だから、唐が日本の領土を占領したなんて言っているのはアンタだけだって!
形式上、どういう形で日唐戦争が終結したかを論じている訳で…。
243 :
日本@名無史さん:04/06/14 00:17
単純に天智と天武は同母の兄弟。
年齢は書紀の写本の間違い、
天智の皇女4人は、天武の他に嫁入り先が
無かったから天武が娶ったと言うのではダメ?
>240
>そもそも中国の史書が東夷の小国を憚る必要など全くない。
唐は敗軍の将=倭国王薩夜麻を都督にして
傀儡政権、筑紫都督府を作ったわけですが。
隠蔽しているんじゃなくて、唐軍は新羅に攻撃されて
上位機関の都護府も8回逃げ回り、その配下の筑紫都督府も
長続きせず滅んだので、みっともないので遠まわしに書いているだけ。
極東の唐軍最高司令官は雲南省に左遷されて、これも大恥。
245 :
日本@名無史さん:04/07/01 16:43
筑紫都督府の設置が極短期間でかつ失敗に終わった最大の理由は、
唐が新羅との半島争奪戦に力を裂かざるを得なくなったから?
そういえば、当時はチベットが長安占領するなど唐も散々だったね。
倭にとってはめちゃくちゃ幸運だったと見るべきか。
246 :
日本@名無史さん:04/07/01 17:03
資治通鑑に安東都護府はあっても筑紫都護府はねぇぞ。
唐の高宗はチベット(吐蕃)の攻撃防衛を急務として、
高句麗を2年でケリをつけよと厳命、
どさくさの中で総司令官劉仁願は
「高句麗は直轄領として吸収」
「平壌に安東都護符設置」を宣言したものの、
しかし、2年どころか5年も費やした挙句
半島全部を同盟国新羅に奪い取られ
安東都護符も転々と8度も逃げ回る始末。
668年劉仁願は雲南省に配流され、
後を託した郭務ソウは都督府を筑紫に置くが
司令官なき現地軍の勝手な判断となった。
対馬の倭国側役場では、郭務ソウは
唐の国書不携帯とみなされた。
後世の中国側の記録からも、筑紫都督府は
正規のものではないとしてはずされた。
日本列島内の内乱で、筑紫都督府は潰され
ますます都督府は歴史上の幻となった。
都督府を潰したのは天武天皇である。
持統天皇はさらに残党狩りを徹底した。
政情が安定したときに立てたのが
幼い文武天皇である。即位4年にして
大宝律令を発布して、律令国家が始まった。
唐の高宗はチベット(吐蕃)の攻撃防衛を急務として、
高句麗を2年でケリをつけよと厳命、
どさくさの中で総司令官劉仁願は
「高句麗は直轄領として吸収」
「平壌に安東都護符設置」を宣言したものの、
しかし、2年どころか5年も費やした挙句
半島全部を同盟国新羅に奪い取られ
安東都護符も転々と8度も逃げ回る始末。
そういう状態だから九州まで占領することは到底不可能だった。
だから筑紫都督府なんてものは唐は設置していない。
していないから史書にもでてない。
どうしてなかったものをむりやりあった、あったと言い張るのかね、この人は。
周辺諸国に、都督府を置いているのに、倭国だけ置かない理由は何?
倭国を占領してなかったから。
半島での倭を滅ぼして、唐軍は2千人連れて九州上陸したのを、どう説明する?
さあ。倭国に対してちょっかいだしてる状況でもないしな。
新羅への示威行動かもな。よくわからんが。
さあじゃないだろ、2千人が2回来てるぞ。知らんで済むか?
牽制の意味もあるかも知れんしな。
いろいろ考えられるとは書いてるだろ。
255 :
日本@名無史さん:04/07/10 01:24
それにしても、九州に上陸した唐軍2千人は、結局どうなったんだろう?
砲艦外交してあっさり帰国したのか、それとも殲滅されたのか?
まさか土着した?
新羅にいったんだろうよ。
最近読んだ「斑鳩の白い道の上に 聖徳太子論」(上原和著)という本にも
「白村江の敗戦のすぐ翌年には、早速にも行われた唐の、いわば戦後処理の日本進駐…」
と書かれてるんだよね。
しかしそのすぐ前に
「筑紫に水城を築き、また対馬、筑紫、長門、讃岐、大和の要衝に山城を築いて、唐・新羅軍の侵攻に備え…」
とあって、著者は矛盾を感じてないらしいのが不思議なんだが、
著者の上原っていう人も美術史の人で、政治史は本業じゃないから
この「進駐」の話は史学界ではどう扱われてるんだろうかと思うんだけど。
占領軍だの進駐軍だのってのは歴史学界じゃ有力な説じゃないでそ
現地の酋長を褒美として任命してた場合、本人や子孫が勝手に都督府を築イタ例もあるんじゃないかなぁ。
とりあえず、記録魔の中国が都督府を置いたんなら、記録に残さないのはカナリの理由づけが必要だし。
まぁ、倭の5王だと、イロイロあってアレだけど、倭奴国王や子孫がカノ地に都督府を勝手に築いたのが大宰府の
前身でもあるとすると、そんな表記が古文書からまぎれこんでも‥。
倭の五王は「使持節・都督・開府儀同」だから、
自分の部下を長史・司馬・諮議参軍の三役に任命してたでそ
これだって立派に(?)都督府みたいなもんだろ
>>257 唐の進駐軍がいますけど侵攻に備えてます
のたぐいの電波説は多いんだよね。
史料が少ない分、好きなように想像を膨らませるんだろうけど
それにしてもちょっとな・・・
>>260 うん、実際に都督に任命された、倭の五王を出したほうがイイかな?と思ったんだけど、
そうすると、九州王朝関係で荒れると本質からズレていやだなぁと。
で、日本書紀編纂時代になって、過去のサクホウ体制の名残を徹底的に排除しようとして、
<王ではなく天皇・倭ではなく日本・金印倭奴とは別に天皇、卑弥呼は神助皇后を勘違いしたのでは?>
なんて編集方針で、過去つかっていた「都督府」ってのもこの時点で消えていったが、検閲漏れとして残ったと。
>>262 検閲漏れじゃなくて「筑紫都督府」はヤマト朝廷の出先機関だろ。
太宰府と同じだよ。日本書紀ふつうに読んでみろよ。
なんでそんなわざわざ複雑にねじ曲げてみるかね?
その頃はもう律令制がはじまってるんだから
中国の制度にならって国内のシステムもできてるわけだろうが。
倭の五王の頃は、国内的にはヤマト朝廷で、同時に
対中国的には中国の「都督府」だったってことだろ。
通説どうりでなんの矛盾もないやん。
マトモな国交もないのに、唐突に「属国府」をつくるわけがない。
都督府っていう組織は、上に都護府が必ずある組織だ。
畿内説だと、大和朝廷が唐の属国となり、大宰府に遷都したことになる。
265 :
日本@名無史さん:04/08/03 20:54
安東都護府のしたに、筑紫都督府だろ。
しかし、安東都護府自体が大失敗で、どんどん内陸部へ撤退している。
結果的に、そのなかのさらに末端の筑紫都督府は存在すらうやむや。
都護府の下に都督府ってのは唐の制度。倭国の制度じゃないだろうに。
267 :
日本@名無史さん:04/08/21 02:55
268 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:19
唐が本気で日本を攻める気があれば、白村江後にすぐに攻め滅ぼしていた筈。
だが、最大の強敵・高句麗が残っているのに日本を攻める余力が無い。
そこで、名目だけの都督府を設置して形式だけ日本が降伏したことにして実際は手打ちという形にしたんじゃないの。
唐は日本を降伏させたという名を取り、日本は唐の本土進攻を阻止して国家としての実を守った。
269 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:32
>>268 そう、それが正解だと思う。
手打ちという形で、唐軍がしばらく筑紫に進駐していただけで、
戦いが実際に起きたわけではなかった。
とはいえ、大和朝廷としては、
国際情勢がなんらかの事情で変われば唐軍の筑紫進駐に関わらず、
唐に対する備えをしておかざるを得なかったという立場だったのであろう。
城の設置や遷都はそういう心境の中であればこそ実践された。
270 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:19
>>269 進駐軍がいる周りで城を築いたりはしない(無用の刺激を与える)と思うのですが、
名目上の都督府が撤退したあと(高句麗・新羅方面で何らかの動きがあり、
日本駐留し続ける危険が生じたか逆に駐留の必要がなくなった)になって始めて、
日側が防衛のため各地に城を築いたりしたのではないかと思いますが、
これで時期的には裏付けるような動きはありますか?
あっているならたしかに魅力的な見解ですね。
271 :
日本@名無史さん:04/08/25 00:31
>>270 日本書紀には、筑紫の唐軍が天智の崩御に対して儀礼を尽くしたことまで記述がある。
すなわちそれは672年の3月。そして5月に撤退したことになっている。
で、御存知のとおり、この672年は壬申の乱です。
>> 名目上の都督府が撤退したあとになって始めて、
>> 日側が防衛のため各地に城を築いたりしたのではないかと思いますが、
>> これで時期的には裏付けるような動きはありますか?
各地に城を築いているのは当然672年よりはるかに前なので、それは不成立。
272 :
日本@名無史さん:04/08/25 13:01
>>269 仮に唐の進駐軍がいたとしてもひょっとしたら数十人位だったのでは?
日本も唐もこれ以上の交戦は互いにとって不利だから、あくまで形式的意味だろう。
273 :
日本@名無史さん:04/09/04 14:31
流れ切ってスイマセン
2千人の唐軍が2度も九州上陸って、日本書紀に載っているんですか?
初めて聞いたのでびっくりしました。上陸されないように防人始めたんじゃなかったのかぁ・・・。
275 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:21
まとめ
非兄弟説
偉業を成し遂げた天武の年齢が不詳というのは、いかにも怪しい
吉野勢力による簒奪の末に天武側の舎人親王が正当化して兄弟ってことにした
これが一番自然だな
天智暗殺説
非兄弟説を採れば当然の帰結
「天智」の意味→殷の紂王の宝石
「天武」の意味→周の武王のこと
この二つのおくり名を考えたのは天武側の人間だ
悪の天智を善の天武が討ったと言いたいのは明らか
276 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:39
アナル兄弟なんだよ
277 :
日本@名無史さん:04/09/05 12:45
天智は殷の紂王か
ソース希望
いずれにせよ、全て、実証できないと、ただの個人的考察。
『日本書紀』という正史を覆せるだけの、実証というと…考古学に期待するしかないが…大丈夫かね?
279 :
日本@名無史さん:04/09/06 19:03
280 :
日本@名無史さん:04/09/06 20:24
天武が百済王の甥というのは間違いないな
また電波かよ…
個人がどう解釈しようと、それは、自由。
でも、『日本書紀』の記述は、否定できない。正史だから。
否定するには、それだけの原史料が必要となる。
天智と天武は、兄弟であると、前提せねば、何を前提に日本の歴史を語ればいいの?
283 :
日本@名無史さん:04/09/07 00:18
書紀が正史だから否定できないとなると
初代天皇は間違いなく、神武天皇ですね。
それを、極論というのでつ。
285 :
日本@名無史さん:04/09/09 14:17
>280-281
百済王(義慈王)は舒明天皇の弟で古事記には多良王、子沢山なようで
天平年間に大原真人を賜姓された高安王たちはこの人の子孫ね。
287 :
日本@名無史さん:04/09/10 00:41
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
猿でも分かるでしょ?
288 :
日本@名無史さん:04/09/10 01:12
なんでこんなに電波が多いのだろう。
日本書紀読もうね。
『姓氏録』に見える百済王(=久多良王)はただの一皇族だろ?( ´,_ゝ`)プ
こういうデムパは『書紀』を見ても、敏達の百済大井宮、舒明の百済宮とあるだけで
ユンユンと活気付くことだろうなw
おいおい…。
敏達は威徳王、舒明は武王ってのは常識だろw
291 :
日本@名無史さん:04/09/10 21:33:02
日本人の常識ではないですね。>290
以後、チョソは無視させていただきますね。
チョソでもデムパでもなくて、確信犯の煽りでは?
本人はそれが面白いと勘違いしてるんだろう。
295 :
日本@名無史さん:04/09/11 08:34:27
>>275 天武の年齢が不詳という不自然さ
「天智」は殷の紂王、「天武」は周の武王
この二つはそうとう怪しいよな
状況証拠としては十分だ
正式な証拠ということになってる日本書紀は天武側の作ったモノ
「実は暗殺して兄弟を僭称しました」とは書かないだろ
296 :
日本@名無史さん:04/09/11 19:55:00
天武が周の武王にあたるなら、悪逆非道の限りを尽くした天智を殺して
善の天武が即位しましたと正直に書くと思うが。
無理して兄弟にならなくていいと思う。
297 :
日本@名無史さん:04/09/11 20:00:37
天智は百済人
298 :
日本@名無史さん:04/09/11 20:17:35
天武は新羅人
299 :
日本@名無史さん:04/09/11 20:42:44
>>296 別に天智が本当に悪者だったわけではなく
単なる簒奪だったんだろう
簒奪後に世論を納得させるために兄弟ということにした
ただし当の戦の敵である相手に「天智」という悪意を込めたおくり名をつけた
300 :
日本@名無史さん:04/09/11 20:54:23
一つ気になるのは、天智、天武等の「和風諡号」は
奈良時代になってから(762年頃)淡海三船が
選んでつけたと、続日本紀にあるが、淡海三船は天智の孫。
そんな名をわざわざ選ばなくたってと思うが。
301 :
日本@名無史さん:04/09/11 20:58:39
新羅は倭人がつくった国です。
瓢公の話をしらんのか。
新羅4代目の王は倭人と、書いてある。
302 :
日本@名無史さん:04/09/11 21:24:46
>>300 淡海三船は天智・天武両方の子孫じゃなかった?
それに天智の血を継いでると言っても、それで天智の味方というわけでもないし
天智系の側近中の側近だった藤原氏が勢力伸ばしたのは天武系の奈良時代だし
つーか、そもそも淡海三船が歴皇の諡号付けまくったってのがウソだろう
一人の文人にそんな権力ある?
案は出したかもしれない
出来上がったものをまとめる作業をしたかもしれない
でも決定権は今上天皇や当時の有力者だろう
あるいは既にいくつか決まっていた諡号があったかもしれない
いずれにせよ淡海三船がどんな人物かというのは問題ではなく
諡号が決まったときの権力者は誰かというのが問題
天武側の人間であったのは間違いない
303 :
日本@名無史さん:04/09/11 22:12:24
300
X・・・・・和風諡号
O・・・・・漢風諡号
時の権力者は藤原仲麻呂と孝謙上皇(この人も天智、天武の子孫)
葛野王は天智と天武の孫。三船はその子孫。
304 :
日本@名無史さん:04/09/11 23:15:50
305 :
日本@名無史さん:04/09/11 23:34:17
天智という悪意をこめた諡号を、三船が私的に考えたとすれば
何の必要性があってそんことをしたのか疑問。>>203
306 :
日本@名無史さん:04/09/12 01:39:24
>>304 別に公式も私的も関係ないんじゃね
問題は三船の時代(つまり天武系の時代)に
中大兄→天智→殷の紂王
大海人→天武→周の武王
こういう発想があった
つまり中大兄を大海人がやっつけたという意識があったのが問題
307 :
日本@名無史さん:04/09/12 11:04:19
>>300 >>302 三船の曾祖父は大友皇子(弘文天皇)で母は天武の娘の十市皇女。
祖父は文武天皇擁立に功があった葛野王だった筈。
>>302 あのね。権力も糞も、淡海三船の漢風諡号ってのは
あくまで「私撰」で、個人的な行為。
公式なものになったのははるかずっと後世になってから。
310 :
日本@名無史さん:04/09/14 23:23:16
中大兄→天智→殷の紂王
大海人→天武→周の武王
これは間違いないのか?
提唱者は森鴎外とあるな
電波流して世を乱すタイプとは思えんが
311 :
日本@名無史さん:04/09/15 00:17:46
横レス。もう一度、話を元に戻す。
淡海三船が漢風諡号を考案したのと、舎人親王が日本紀を編纂したのは
どちらが先か?
伝承ではなく検証で考えれば、どうなのよ?
議論はそれからだ。
舎人親王が日本紀を完成奏上したのは720年だが
日本書紀の原文に漢風諡号は無いんだよ。
淡海三船が漢風諡号を奏上したらしいが
続日本紀にその記事が見つからない。
釈日本紀に"私記曰神武等謚名者淡海御船奉勅撰也"とある
王年代紀より古い漢風諡号の初見とされる文献って何?
鴎外が漢籍から古い順に漢風諡号と関係がありそうな
箇所を列挙したのが「帝諡考」で
中大兄→天智→殷の紂王
大海人→天武→周の武王
というのは、井沢はそれを論拠にした電波説。
313 :
日本@名無史さん:04/09/15 18:49:01
>>312 >鴎外が漢籍から古い順に漢風諡号と関係がありそうな
>箇所を列挙したのが「帝諡考」で
よく意味がわからん
俺も井沢の「逆説」読んだが
鴎外の文面は
中大兄→天智→殷の紂王
大海人→天武→周の武王
を示唆しているとしか思えない
314 :
日本@名無史さん:04/09/15 20:21:24
>>312 >>307を読め。
文武天皇擁立の功労者が三船の祖父だと言うのだから、その祖父と舎人親王が同時代人ということだろう。
315 :
日本@名無史さん:04/09/15 21:12:39
中大兄→天智→殷の紂王
大海人→天武→周の武王
これはどう考えても偶然ではない
完全に三船のひねくれた個人的な考え方とするよりも
一般的に皆が考えていたことを三船がまとめたとするほうが自然じゃねえか?
書紀よりも後か先かとか
公式じゃなく私的なものだから関係ないとか
そんなことはどうでもいいだろ
つまり、三船が後になって私的に中大兄を紂王に見立てたのだとしても
三船が見立てた根拠は、中大兄が大海人に殺されたからじゃねえのか?
316 :
日本@名無史さん:04/09/15 21:13:49
淡海三船が漢風諡号を奏上したが、本当に淡海三船の個人的な趣味嗜好で
諡号が決まったんですかね?
天武朝という天皇の権限が強い時代だけに
(今の北朝鮮みたいな独裁国家みたいに)
天皇(天武一家)マンセーな内容があらかじめ決まっていて
三船は考案者として名前だけ使われたのかもしれない。
天智の名前にマイナスイメージがあるとしても
天智子孫が考案したんだからOKという大義名分がつくし。
そもそも智って諡号として特異ですよね。
天武と対比させるのなら天文だし。(てんもんと同じだからまずいのかな)
317 :
日本@名無史さん:04/09/15 21:19:13
帝諡考の天智の項には周書の引用の他に何と書いてあるんだ?
>>311 舎人親王 676生−735年没
淡海三船 722生ー785年没
書紀編纂 720年となっている
>>316 アホな事言いなさんな。だったら最初から公式なものとして政府が発表すればいいじゃん
なんでそんな遠回しなことする必要がある?
321 :
日本@名無史さん:04/09/16 20:29:44
>>320 天武系の政府が上から発表したら天智系の皇族あたりが反発するかもしれんでしょ。
現代でも独裁国家だと、国家の公式発表だけじゃなくて、
新聞・テレビ辺りの記事が実際は政府の意思そのままってのはあるわけで。
少なくとも淡海三船が発表した内容が当時の政府からみて都合が悪かった
内容ではないってことは言えるでしょう。
都合が悪かったら公式発表で訂正するなり、三船の提案を完全無視すればOK。
独裁国家が上から強要していたというのと
三船が発表したものが都合が悪くはなかったというのでは
ぜんぜん事態の説明としては一致しないわけだが。
それに都合の悪い諡号ってなんだ?
諡号ってのはそもそも生き残った臣下が君主を論ずるもので
悪い君主には悪い諡号がつくのは当たり前なのだが。
323 :
日本@名無史さん:04/09/17 02:09:17
天智の業績をまとめると…
・政治を専横していた蘇我氏をクーデターで滅ぼし
・戸籍調査を敢行し税金を朝廷に独占しようとして豪族の反感を買った
・戸籍を元に集めた兵を半島に派遣し敗戦
・集めた税金で贅沢三昧
・水時計を作り時間までピシピシ働かせた。
・美人なら身分や血縁関係は問わない女好き
324 :
日本@名無史さん:04/09/17 11:35:45
>>323 "天”でもないし”智”でもない功績のような気がする
325 :
日本@名無史さん:04/09/17 12:42:55
天智の前は蘇我王朝と考えて天武はその正統血統だと思う。
天智の蘇我本家殺しはテロだと思う。
だからその後政権を取れなかったが、唐の脅威が在ったため
挙国一致体制を採らざるえず、天武は妥協して手を組んだと思う。
いわば秀吉と家康の関係に似ていると思う。
326 :
日本@名無史さん:04/09/17 21:08:48
>>322 そもそも諡号を時の政府公認ではなく、一個人が勝手に決めて発表するのは
不敬にはあたらないの? 天皇の業績を勝手に評価しているわけで。
そんな諡号を政府が追認するというのは、出来レース(政府の依頼で三船が考案した。
当然、事前に内密に報告・了承済み)と思うのだけど。
327 :
日本@名無史さん:04/09/17 21:27:01
>>326 そうだろうな
私的な決定→価値がない→天智=殷の紂王は破綻
こういう思考回路の奴は融通がきかな杉
実際、三船は国史編纂に関与したことが日本後紀にある
しかも、この時天平宝字元年紀一巻を紛失する失態を犯している
329 :
日本@名無史さん:04/09/19 10:51:54
>>327 私的な決定だから価値がないとはいってないですが。
逆に価値があると考えているから、三船が個人的につけた諡号を
そのまま追認するのはおかしくない?と言っています。
330 :
日本@名無史さん:04/09/19 11:10:29
三船は仲麻呂と真備が草案を出した漢風諡号を
検閲・再検討し修正奏上しただけだね。
331 :
日本@名無史さん:04/09/19 11:17:44
三船が諡号を選定したのはいつだっけ?
770年に称徳女帝が死んで天武系に有力者なし…ということで聖武天皇の娘・井上内親王の婿の資格で天智系の光仁天皇が即位した。
このとき、政府首班の左大臣・藤原永手が井上を皇后、二人の間の他戸親王を皇太子にすることで宮廷内の動揺を鎮めた。
だが、程なく永手が死ぬと山部親王(桓武)支持派だった藤原良継・百川が主導権を握って皇后が天皇を呪詛したとして(藤原氏による陰謀説と皇后の自暴自棄説があるが)、皇后と皇太子を廃位してやがて殺害した。
これによって、天武系の皇位継承の可能性は事実上消滅した訳だが…。
この770年の前と後とで皇統に対する考え方も大きく違うと思われるのだが…。
>>331 > 三船が諡号を選定したのはいつだっけ?
定説あるね、三船が地方に飛ばず朝廷にいた時期。
333 :
日本@名無史さん:04/09/25 15:16:47
>>332 それ、重要だろう。
〜770年 天武王朝
770年〜 天智王朝
なのだから、歴史観だって一変した筈だろう。
>>333 「天智王朝」「天武王朝」ちう考え方自体がおかしいかも知れないぞ
>>331の指摘しているように、当初光仁天皇は聖武天皇の娘婿と言うことで即位したのだから
少なくとも井上内親王・他戸親王が廃されるまでは光仁天皇は
天武→持統→文武→元明→元正→聖武→孝謙・・の系統に列する正統な後継者と
周囲からも見られていたと考えるべきでは
335 :
日本@名無史さん:04/09/25 22:04:20
光仁の父親の施基皇子に「田原天皇」の称号を贈ったのはいつ?
この贈呈は光仁→天智直系の天皇という見方のもとに行われたと思うのだが…。
「田原天皇」は分からなかったが
「春日宮御宇天皇」の方なら分かったよ。770年(宝亀元年)。
天皇の子でない皇子が即位した場合にその父に対して追号する習慣は
・文武天皇(父・草壁皇子、「岡宮御宇天皇」と追号/但し追号年度不明)
・淳仁天皇(父・舎人親王、天平宝字3年に「崇道尽敬皇帝」と追号)
と言う2例があり、とくに皇位の血統交代を示す物ではないと考えられる。
そもそも、天智の諡号に悪意があることを
森鴎外と井沢氏まで1000年間気がつかなかったんだ。
当時も「天智玉」を記載した書経か史記正義を読まないと
誰も分からん。
338 :
日本@名無史さん:04/09/27 12:52:24
>>336 天皇が自分の父親を追号するのには自己の皇位継承の正当性を示す要素もあるのではないのか?
331
定説は762年から764年の間だと思ったが。
340 :
日本@名無史さん:04/09/30 11:25:51
>>339 定説通りなら、天武系の皇統が続いている時期か…。
しかも天皇は舎人親王の息子、淡路廃帝大炊王
権力は孝謙上皇・道鏡が掌握しているはず。
じゃその時代の政治的判断が反映してんじゃないの、>漢風諡号
343 :
日本@名無史さん:04/10/13 15:50:50
孝謙天皇も天智,天武の子孫。
奈良朝を天武系だけで説明するのは抵抗有り。
平安に入ると,光仁は完全に天武の血統から外れるので、反天武なのも解るが
(光仁は志貴皇子の子、光仁の母方にも天武系の血は入ってない。
また志貴は純然たる天智系。志貴の母は天武皇女ではない)
奈良朝の天武の子孫たちでも、母が天智系が多い
草壁や高市の子孫は,純然たる天武系と言っていいのかどうか?
舎人の母も天智皇女。
淡海三船だって天智、天武の子孫。
どうも,天智玉は深読みなのでは。
344 :
日本@名無史さん:04/10/13 18:14:22
天智って百済系だったの?
345 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:00:12
346 :
日本@名無史さん:04/10/27 12:49:03
平安期に臣下となった天武の子孫はどうしていたの?
ふつうに官僚やって暮らしていた。
348 :
日本@名無史さん:04/10/27 22:20:18
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
>348
電波発見しました。
350 :
日本@名無史さん:04/10/28 00:39:11
半島がらみの話はさすがに飽きましたわ。
351 :
日本@名無史さん:04/10/28 15:57:14
352 :
日本@名無史さん:04/11/04 17:03:58
>>343 天武系だ天智系だと騒ぎ出したのは、桓武天皇が「易姓革命」などとDQNなことをほざいたからだろう。
353 :
日本@名無史さん:04/11/05 00:53:24
桓武はわざわざ辛酉の年に即位しているし
日本書紀も改竄したんだろうな
354 :
日本@名無史さん:04/11/06 21:54:16
天武天皇は忍者か新羅人だったらしいな。
かくしてふりだしにもどる。
356 :
日本@名無史さん:04/11/08 20:17:41
>>343 オレは天智玉説に賛成。
確かに奈良時代は父が天武系・母が天智系という系図で、
父母の重さを互角と考えるなら、両系の時代と言えるが。
しかし父母の重さは同じじゃないだろう。
娘と天皇家に入れて天下取った藤原氏のイメージで
なんとなく母方も強そうな気がするが
天武=簒奪者・侵略者と考えると
無理やり前王朝の娘を宮入りさせたと考えられないだろうか?
第一、天智→天武(紂王→武王)という続きは偶然にしては出来すぎ。
357 :
日本@名無史さん:04/11/09 01:54:10
でもな、跡目相続の争いの遺跡はあっても、侵略戦争の痕跡は見つからないよな。
「防御・抵抗」という点でも、インパクトに欠けるし。
また、両陣営の重臣は別として、その他の官僚が大量に失職した痕跡もない。
つまりは、兄弟でないにしても、同族だろう。
孝徳天皇擁立時に王位に変動があったという説なら、まだしも。
少なくとも天武天皇は孝徳・天智両天皇と別族ではないと見る。
358 :
日本@名無史さん:04/11/09 14:09:18
個人的に天智と天武の関係は、秀吉と家康に似てるんじゃないかな。
相手を潰し切れず、味方にするため身内を人質に送るとことか。
359 :
日本@名無史さん:04/11/09 14:19:45
古人が実は死んでなくて、大海として、吉野に匿われてたら、
話は通じるな。
360 :
日本@名無史さん:04/11/09 15:01:32
天智はクーデター起こさなければ、天皇につけるような血筋では無かったんじゃない。
ほっといても就ける血筋ならリスクの高いクーデターなんて起こさないだろう。
は?
蘇我蝦夷・入鹿を倒したこと?
クーデター起こしたのは軽皇子で葛城(中大兄)王子の方はただの実行犯だろ
それに血統とか言ってるが、この当時天皇につけるような男子(この場合は年齢)が
少なかったんだが。
何のために重祚したと。
362 :
日本@名無史さん:04/11/09 20:58:40
>>361 皇極天皇が重祚した際は、血統的にも問題なく、年齢的にはちょうど
いいくらいの皇族が複数いましたけど、それまで例のなかった重祚を
行った原因はどう考えられますか?
>天智はクーデター起こさなければ
おそらく古人が即位しているはず。
ほっとくとそのうち、蘇我氏の手で葬り去られていたのでは
だからクーデターの実行犯となった。黒幕は軽皇子だろう。
>皇極天皇が重祚した際は、血統的にも問題なく、年齢的にはちょうど
いいくらいの皇族が複数
中大兄皇子と大海人皇子と有間皇子ぐらいしか思いつかないが
大海人は天智の弟(と言うことになっている)
有間は当時15歳で年齢的に無理と思う。
舒明の弟たちや敏達の子孫は?
365 :
日本@名無史さん:04/11/09 23:58:18
>>363 >中大兄皇子と大海人皇子と有間皇子ぐらいしか思いつかないが
>大海人は天智の弟(と言うことになっている)
>有間は当時15歳で年齢的に無理と思う。
つまり3人はいたわけですよね。(有馬皇子は無理かなー、少年で即位したのは悪例の武列くらいですかね?)
それでも中大兄皇子と大海人と2人いる。
中大兄と間人皇后のスキャンダルが本当で、天皇に推戴されなくても同腹兄弟の大海人がいます。
中大兄の政治的な影響力が強かったから、大海人を推すものがいなかっただけなんですかね。
しかし、中大兄は娘を嫁がせるほど大海人には気を使っていますから大海人の背後にはそれなりの力のの
勢力がついていたでしょうし。
大海人の実力から傀儡には出来なかったから、無理やり母親を再度推戴したということかな。
当時、長子相続とは決まってないですよね。
(長子相続なら多少年少ですが有馬皇子が立っていたでしょう)
366 :
日本@名無史さん:04/11/10 00:20:52
>長子相続とは決まってないですよね。
兄弟相続の名残もあるようです。斉明から孝徳への譲位など。
長子相続は天武以後ですか。
367 :
日本@名無史さん:04/11/10 00:25:59
366
X斉明
0皇極
368 :
日本@名無史さん:04/11/10 00:43:33
定説はないが中大兄が即位しなかった理由として挙げられているもの
1 当時は天皇親政の観念がなく、皇太子として実権を握り政治を動かしたかった
2 改新反対派が多く即位できなかった。
3 即位後の皇太子の問題(健王が幼くまた不具者であった)
4 孝徳長男の有間皇子の存在。
5 間人皇后との恋愛問題。
乙巳の変の時の中大兄って20ぐらいでしょ?
年齢的にまだまだ資格はないよ
舒明の息子なんだから、血統としては別に問題なないんだろうが
370 :
日本@名無史さん:04/11/10 09:38:20
368は皇極天皇が重祚し、斉明天皇となった時の話
このときは中大兄30歳。
確かに乙巳の変の時は20歳なので若すぎるという説もある
371 :
日本@名無史さん:04/11/10 20:51:49
ちょっと話がそれますが、大兄という称号は天皇後継になりえるような
有力皇族(複数)が貰ったものと認識していいのですか?
何らかの朝廷内での仕事みたいなのはあったのでしょうか?
あと葛城皇子=中大兄皇子で葛城大兄皇子とは呼びませんが、
同じように山背大兄皇子や古人大兄皇子も大兄がつく前は別の名前だったのでしょうか。
それと何故”中”大兄皇子なんでしょう? もっと若い大兄皇子がいたのですか?
『中』は兄の古人皇子に対して次のという意味で使っているのではないでしょうか。
時代は下がりますが源氏物語などでは大君(長女)中君(次女)と呼び
三女からは、三君、四君などと使われています。
二人だけの姉妹でも大君、中君と呼ばれております。
一人の妻から生まれた子の中で長男を大兄
何人か妻(同時でも、再婚でもいいが)がいた場合、2番目に生まれた方の長男が中大兄
天皇から分かれた世代数が同じ皇族同士の中で最年長が「大兄」その次が「中大兄」
375 :
日本@名無史さん:04/11/11 22:50:37
>>372-374 素人の素朴な疑問に回答いただきありがとうございました。
大兄=有力者とは単純にはいえないようですね。
他の一般の皇子よりは有利な点がちょっと(年齢とか長男だから財産を
少し大目に相続できるとか)あるくらいのイメージですかね。
377 :
日本@名無史さん:04/11/12 11:52:27
まあ、「大兄」の定説がまだないから。
「中」は真中の中ではなくて、「次の」ぐらいの意味でいいのだろうが、
378 :
日本@名無史さん:04/11/13 02:28:55
秋の田のかりほのいほのとまをあらみ
我が衣手は露にぬれつつ
小倉100人1首の 一番目
これ天智天皇の御製じゃないな。
藤原定家ほどの人がそんなことわからないわけないんだが・・
>>378 百人一首には、作者が違うと考えられている歌は幾つかある。
事実が云々より、当時そのように信じられていたことの方に重点を置くべき。
何れにせよ定家には、天智の御製を百首歌の冒頭に置こうとする意図があった訳で。
380 :
日本@名無史さん:04/11/14 18:44:13
>>378 何故天智天皇(中大兄時代かもりれないけどが作ってないといえるのです?)
藤原定家ならわかるということは、天皇が使わないような言葉とか入って李うのですか?
>>380 ほぼ同じ和歌が『万葉集』に読み人知らずとして掲載されていたから と記憶している
詠み人知らずの歌を、定家が天智の御製だと「推定した」ってことだろ。
383 :
日本@名無史さん:04/11/16 00:20:48
天武系と天智系の皇統の交代が奈良時代にあって、(光仁帝時代に)
定家時代の天皇家の直接の先祖は天智天皇であるという
考えがあったのかな。
384 :
日本@名無史さん:04/11/17 12:33:29
今は亡失した歌集などに天智御製とするものがあったかも知れない
385 :
日本@名無史さん:04/11/17 16:38:57
今は亡失した資料になどによると天智と天武は兄弟ではない。
386 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:37:07
>>385 アナタ正気ですか?どうやって検証したんですか?ここにそれを書いて下さい。
388 :
日本@名無史さん:04/11/17 20:43:44
脳内の亡失資料なんだろ。
385です。
皮肉に決まってるでしょう。
亡失した資料によればどんな説だって創れます。
390 :
日本@名無史さん:04/11/18 23:08:08
391 :
日本@名無史さん:04/11/19 00:09:28
「紂王 天智 玉」でググッテみてください。
>紂王 天智 玉
検索しました
ちなみに否定的なサイトでした。
井沢氏のいう
・・・そういう本に真実が書かれていると、頭から信じている人がいたら、よほどおめでたいと言わざるをえない。
ところが、世の中にそういう人が実在するのである、それも大勢−言うまでもなく、それは歴史学界の人々である。
西尾幹二さんたちとケンカしたの?
393 :
日本@名無史さん:04/11/23 12:01:59
>>392 その発言と全く同じことをと学会の本で山本弘が書いていたが…とツッコんじゃダメ?
394 :
日本@名無史さん:04/11/23 15:56:41
>亡失した資料によればどんな説だって創れます。
日帝が破壊略奪しととえいば、どんな資料証拠だって
あったことにできて論証しなくていい
半島起源説という最強理論がありますが。
395 :
日本@名無史さん:04/11/23 16:08:43
俺がコピペしてやるよ。ほいっ
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
◯( ´∀`) ◯◯ ( ´∀`)◯◯(´∀`)◯ ◯(´∀`)◯ ◯(´∀`)◯
\真須美 \ 上祐 / \ 古賀 / \ 和田 / \ アーチャリー/
|⌒I、│ |⌒I、│ |⌒I、│ |⌒I、│ |⌒I、│
(_) ノ (_) ノ (_) ノ (_) ノ (_) ノ
漏れたちみんなB型犯罪者集団。
396 :
日本@名無史さん:04/11/23 17:06:29
半島起源説はハングル板で楽しみましょう。
397 :
日本@名無史さん:04/11/23 17:37:50
井沢さんは、天智天皇のことを「天地天王」などと表記している
史料を無視してるからなあ。
399 :
日本@名無史さん:04/11/28 12:28:37
>>398 「そういう本に真実が書かれていると、頭から信じている人がいたら、よほどおめでたい」というあたりでは?
確か、オウム事件とかの絡みで日本の教育は本に書かれていることに対して疑問を持つような教育がされていないから、
ノストラダムスの本などを読んだ人の中でそのまま「終末論」を信じてしまい、オウム信者を増やす一員になったのではないのかと指摘している。
400 :
日本@名無史さん:04/11/28 16:44:24
天武の子孫で公卿に昇った最後の人は?
401 :
日本@名無史さん:04/12/05 01:38:35
>>400さまへ
んー、わからない。母系も入れれば、藤原隆家になるのかな?
高階?
403 :
日本@名無史さん:04/12/18 12:36:13
>>402 高階氏の男系で公卿に就任した人物はいない。
404 :
日本@名無史さん:04/12/18 12:45:38
>>21
406 :
日本@名無史さん:05/01/01 20:08:46
逆に実際には蘇我氏の専横が無くて反蘇我勢力がクーデターを起こして蝦夷を恫喝して舒明と皇極を擁立させて、入鹿が逆襲しようとしたところを暗殺されたという説もあったはず。
>>405 蘇我氏が天皇だったのだから舒明と皇極が即位していないのはあたりまえ。
>>407 その説では、書紀の記すどの大王の代から王位を継承したんですか?
蘇我氏が大王だったとは考えにくい。というのは、この
説でいくと、天智天皇や天武天皇は弱小豪族の出自とな
り、そんな人をどうして擁立したのか全く分からなくな
るわけ。だったら、大伴氏とか巨勢氏を擁立した方がま
とまるわけでしょ?しかしそれをしなかったということ
は、弱い立場に置かれてもそれなりの大義名分を持って
いる人、すなわち天智天皇や天武天皇は大王家の一員だ
ったと読むのが一番、バランスの取れた解釈ですよね。
410 :
日本@名無史さん:05/01/02 09:45:11
>>409 私は蘇我氏が大王家だったとは思いませんが、
もし蘇我氏(大王家)打倒後、勢力の大きい家が大王家を継ぐとは
いえないと思います。
大勢力同士が牽制してわざと小勢力を立てたり(傀儡にしようとして)
小勢力だが旧大王家だから推戴したとか。
前者の例は神聖ローマ帝国のハプスブルグ家、
後者なら信長が最初に上洛したとき足利義昭を立てたようなふうに。
411 :
日本@名無史さん:05/01/02 11:56:20
>>410 ルドルフ一世や足利義昭は当時の社会から見れば小物とは言いがたいだろう。
412 :
410:05/01/02 13:59:49
>>411 ハプスブルグ家から初めて皇帝になった人は勢力的には小勢力だったと記憶してます。
ところが、以外に才能があって、ハプスブルグ家の勢力がどんどん伸びたので
その後しばらくは別の家から警戒されてハプスブルグ家からは皇帝が選ばれてたんじゃなかったですか?
足利義昭だって自分の領地や配下なんてほとんどいなくて、先の将軍の弟という
立場を信長が利用しただけでしょ。
>>409 >この説でいくと天智天皇や天武天皇は弱小豪族の出自とな
>り、そんな人をどうして擁立したのか全く分からなく...
基本的に勘違いしてる。筆頭権力者でないのが別に弱小者にはならないし、
筆頭後継者でなかったらこそ、天智も天武も自らが指揮した武力で前政権を
打倒したんで、擁立されたんじゃないだろ。
414 :
日本@名無史さん:05/01/02 14:27:02
蘇我氏大王説は俺も取れない。
物部氏を滅ぼしたことで蘇我馬子の勢力はすさまじいものがあったであろうが、
ただちに大王にまでつけるほど、無理はできまい。
個人的には鎌倉時代の源氏将軍家と北条執権家のような関係だったのでは?
さしづめ蘇我馬子=北条時政、崇峻天皇=源実朝、推古天皇=北条政子みたいな感じで。
推古天皇時代はおそらく空位。
今でも女帝にするかどうかでもめているのに、当時即位できたとは思えない。
鎌倉時代実朝暗殺後、空位の将軍を政子が代行した(よって尼将軍)ような感じだったと思う
>>414 >推古天皇時代はおそらく空位..
は、ありえない。外交で空位では通らない。内政上も不都合があるだろう。
後代の文武即位前や平安院政期をみれば判るが、名目と実権最高者が同一者で
なくても、制度上の最高位者の不在は起こさない。推古即位は、崇峻暗殺後の
非常事態だった点を考えれば、ありうる選択肢だったと思う。
416 :
日本@名無史さん:05/01/03 00:26:52
>>415 当時の大王という地位は摂関時代の摂関や鎌倉時代の将軍職と同じで、
いまだ確立した職位とはいえないので、空位はありえるよ。
実際斎明天皇が九州で崩御してからしばらく、中大兄は皇子として職務を取り、
その間は空位だし。
内政なんて摂関や将軍と同じでいなくても、相応の権力者がいれば収まるし、
外交もまだ元首が行うという慣習が確立しているわけではないから問題は無い。
>>416 隋書に「倭王、姓は阿毎、名は多利思比孤・・」と推古朝にあたる時代に、倭が
奏上したという記事があるらしいが。
418 :
日本@名無史さん:05/01/03 03:27:46
>>417 >姓は阿毎、名は多利思比孤…
これって「姓は天から選ばれた、名は一番えらい男」みたいな名前だからねー。
当時は名前なんて結構そんな感じでしょ。
聖徳太子は「馬小屋から生まれた皇子」だし、推古天皇は「お料理のうまいお嬢さん」だから。
要するに正式には大王ではないが、蘇我馬子が「私は一番偉い人」って王様気取りだっただけだよ。
後年の日本国王源道義こと足利義満や、日本国王に任命するって言われて激怒した豊臣秀吉と同じで。
419 :
日本@名無史さん:05/01/03 17:47:04
>>416 >大王という地位は摂関時代の摂関や鎌倉時代の将軍職と同じ...
ではない。前者は首長で、後者は実権はどうあれ首長が任命する政府役職。
首長なしですむ政権はないよ。しかも推古在位592-628年の36年間も。
就中、成文化は問わず何らかの法があり、書きもので指令する政体では。
斎明天皇が九州で崩御後云々の先帝急逝後の次帝即位までの空位とは
意味が違う。
422 :
日本@名無史さん:05/01/03 23:24:52
みんなハン板へ帰れよ頼むから
郭務宗が傀儡政権作りに来たとき、
天武は慌てて本家九州倭国を攻略した。
新羅の独立獲得をきいて、我が列島の独立を
守ろうとする勢力が結集した。
しかし九州攻略に動こうとしなかった天智は
反対派に殺害されたのではなかったか?
424 :
日本@名無史さん:05/01/19 15:25:22
郭務宗の滞在日数ながすぎる
しかもずっと九州滞在だよね
天智崩御の知らせも九州で聞いている
問題は天智崩御の知らせが九州に届くのに3ヶ月かかってる点だ
まるで異国のようだ
1300年も前の話だし
>>424 >問題は天智崩御の知らせが九州に届くのに3ヶ月かかってる点だ
後継体制が固まるまで、公表しなかっただけじゃ?
>>424 >郭務宗の滞在日数ながすぎる
>しかもずっと九州滞在だよね...
来邦理由は、白村江戦の捕虜返還と記録されてるんだっけ。それにしては
引率人数も駐留期間も多すぎるからね。672年の壬申乱当時も駐留中だったっけ?
幕末なら、ペリー艦隊が江戸湾にやってきて日本占領とか言うのか、郭厨は?
>>428 寄港の便等の修好目的での非交戦国のペリー来航と比べて何の意味があるのか。
対比するなら、勝戦国のマッカーサーの進駐の方だろうが。
430 :
日本@名無史さん:05/01/23 20:04:50
修好目的といっても武力を背景にした砲艦外交だろ。
当時の幕府は戦さになるのが怖くて開国したわけだしな。
すぐGHQとかマッカーサーを持ち出すよな、郭厨はw
郭務宗が砲艦外交?
せっかくの占領地を、半島は新羅にとられ、満州は渤海として独立しちゃうし
日本に対して余裕かましてる暇などないだろ。
白村江で勝てたのも僥倖じゃないのか?
432 :
日本@名無史さん:05/02/02 07:08:26
天武はその後の政治を見る限り、中国本土を自分で直接見てるはず。
白村江で捕虜になり、その後中国の都を見て、直接中国の統治を勉強したのだ。
433 :
日本@名無史さん:05/02/02 08:17:51
新羅から学んだんじゃないの?
聖徳太子以来、中国と交流あるし留学僧とかのブレーンも
いるんだから別に不思議はないでそ。
435 :
日本@名無史さん:05/02/03 16:00:00
>>431 郭務宗が砲艦外交はともかく、渤海独立や新羅との開戦までには少し間があるだろう。
436 :
日本@名無史さん:05/02/21 00:57:49
しかし、郭務宗はなんのために、あんなに何ヵ月もの間、九州滞在してたんだ?
おまけに、天智崩御が九州の郭務宗に伝わるまで3ヶ月。謎過ぎる。
話をループさせんな。
438 :
日本@名無史さん:05/02/21 20:03:41
>>436 日本側の態度が煮え切らなかったんだろう。
>>436 可能ならば、列島の属国化を画策→予期せぬ壬申の乱でご破算に→3ヶ月は虚しく過ぎ郭務宗は帰国
441 :
日本@名無史さん:05/02/23 22:53:27
最古の経蔵・鐘楼の跡か 奈良・明日香村の川原寺跡
http://www.asahi.com/culture/update/0221/001.html 飛鳥時代を代表する寺院といわれる奈良県明日香村の川原寺(かわらでら)跡=国史跡
=で、直径1メートルを超える礎石6個が見つかったと20日、奈良文化財研究所が発表
した。7世紀後半の同寺創建時に造られた経蔵(きょうぞう)=経典を収めた蔵=か鐘楼
の跡とみられ、いずれであっても国内最古の発見例になる。同研究所は礎石の大きさなど
から豪華な建物だったとみて、「古代寺院の研究にとって重要な資料」としている。
川原寺跡にある寺院の庫裏(江戸時代)の建て替えに伴い、今月初めから約100平方
メートルを調査した。
礎石は花崗岩(かこうがん)で、直径は最大1.6メートル。南北に4個が並び、その
両端の西側に1個ずつあった。さらに西側の未調査区域にも南北方向に4個が並んでいる
とみられ、建物全体は南北6.3メートル、東西4.2メートルになる。
礎石に柱を乗せるための「柱座(ちゅうざ)」と呼ばれるくぼみは直径約1メートルあ
り、同寺の中金堂や塔の70〜80センチを上回る。柱の太さや間隔から、2階建てで軒
がせり出した豪華な建物だったと推測される。同研究所の担当者は「寺院の中心施設であ
る中金堂より太い柱に驚いた。格の高い建物だったのだろう」と話す。
経蔵や鐘楼の遺構では、これまで杉崎廃寺(7世紀末〜8世紀、岐阜県飛騨市)などが
最古とされてきた。現存するものでは、法隆寺の経蔵(8世紀)と鐘楼(10世紀)が最
も古いという。
川原寺は、斉明女帝の川原宮(かわらのみや)(655〜656年)跡に、子の天智天皇が母の冥福を祈って創建し
たとされる。当時は飛鳥寺、薬師寺、大官大寺(だいかんだいじ)と並ぶ四大寺の一つに数えられた。日本書紀には、
673年に天智天皇の弟の天武天皇が「一切経(すべての経典)を川原寺に収めた」との記述がある。
現地見学会は22日午前9時〜午後4時。近鉄吉野線岡寺駅下車、東約2キロ。
442 :
日本@名無史さん:05/03/01 11:19:41
443 :
日本@名無史さん:05/03/02 21:17:43
>>436 「天智崩御が九州の郭務宗に伝わるまで3ヶ月。謎過ぎる。」
大宰府の役人であった藤原広嗣の反乱(740年)の時、
聖武天皇は10月23日に彼を肥前国松浦部の値嘉島で捕らえたという情報を
6日後の10月29日に受け取っています。
また、11月5日には旅行先の伊勢国で11月1日に広嗣の処刑の情報を受け取っています。
これは情報が伝達されるのに4日しかたっていません。
伝令が駅の馬をリレー式で繋げて情報を運ぶ訳ですが
当然、情報の入手速度は個人の権力に依存されていました。
朝廷の高官ならば近畿〜九州の間で一週間以内に情報が伝わっていますが、それ以外の者となると
情報の伝播はどうしても遅くなってしまいます。
天智崩御が九州の郭務宗に伝わるまで3ヶ月かかったのは別に謎ではありません。
普通のことです。
444 :
日本@名無史さん:05/03/02 22:43:50
普通の事を謎だと思う人が謎です。
天武天皇の長子を大津皇子としてる点で「懐風藻」の史料価値は低い
その「懐風藻」が、大友皇子が立太子した記述しても信用できない
そもそも「懐風藻」以外に、大津を天武の長子と記述してる史料ってあるの?
446 :
日本@名無史さん:05/03/03 13:45:57
>>443 昭和天皇の崩御の時でさえ、崩御から喪が発せられるまで一時間かかった。
ましてや吉野の大海人との確執などの微妙な問題を抱えたこの時期に天皇の崩御から公式に喪が発せられるまでにタイムラグがあったのでは?
447 :
日本@名無史さん:05/03/04 22:25:32
天智が、
「わが喪は3ヵ月秘せ」と遺言したのだ
448 :
日本@名無史さん:05/03/04 22:29:23
薬師如来は天武朝の象徴って本当?
つーか薬師寺自体が天武&持統の愛のモニュメント的なお寺なのです
450 :
日本@名無史さん:05/03/05 21:17:26
>>449 つーか、その二人は政略結婚で、別に深い愛情で結ばれていたわけじゃあない。
政略結婚でも愛は芽生えるものさ。
452 :
日本@名無史さん:2005/03/26(土) 12:40:54
453 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:09:37
本当に単なる政略結婚なら壬申の乱後に廃位されているよ>鵜野皇后
454 :
日本@名無史さん:2005/04/20(水) 09:03:44
それよりも天武の死後の真実だよ
鵜野ちゃんは吉野にこもっていたけど、実権は誰だ?
>>454 いやだからこもってねーって
旅行はたびたび行ってるけれど
即位してねーけど高市皇子じゃね?
>>454 実権は台閣の首班である、太政大臣高市皇子にあったでしょう
そして高市皇子、右大臣多治比嶋、中納言大神高市麻呂
阿倍御主人ら議政官が、国務・国政を担っていたと思われ
458 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 06:56:05
459 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 07:13:46
mot
460 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 10:40:59
皇室内部の対立が歴史のメインステージになるだなんて、
飛鳥時代ってまだまだ未熟だね。
しかも何なんだよ、あの子供が作ったみたいな幼稚な石像群は…。原始時代みたい。
奈良時代以降とは根本的に、決定的に、違う。
461 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:51:20
たしか、天智と天武の母親は
再婚なんだよね。
で、天智と天武の父親の前に
別の皇族(用命天皇・聖徳太子系)と結婚し
皇子を儲けている。
その皇子の消息が不明なんだわな。
もしかしたら、その皇子が天武のことじゃないの?
っていう話だわな。
消息不明の皇子なんていくらでもいるだろ。むしろその方が多いんじゃないかい?
まあ単に行方不明などという不名誉この上ない事実を隠すために必死で捜索した
結果が3月かかったということかもしれんが。
沓が落ちていたとこにつくった塚が宮内庁に言わせれば唯一100%確定できる墓
だとw
465 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 21:17:57
中大兄が孝徳を難波に置き去りに出来た理由は何なんでしょうか?
皇太子の方が権力があった?
何故?
ドキュンだから見捨てられただけで深い意味はないよ
詳しくも何も記録にそうあるから
今墓のある所に沓が落ちていて、その後の消息が不明。
総合的見地からも、その記録は十分支持される。その死の前後は
非常に不自然。
記録っても『扶桑略記』だろ
かなり後の時代に書かれた史料だぞ
470 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 14:12:30
>>469 それでも天武一族が作った日本書紀よりは数段マシだし、
書いた人は法然の師にあたる人だぞ
いい加減なことは書かないよ
細かいミスや書き間違いはあるが、この件に関しては
どう見てもミスや書き間違いがある文章ではない。
471 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 14:13:44
>>464 そういうこと言う人の方が
定説や日本書紀を丸々鵜呑みにするバカなんだが
>>469 「扶桑略記」の史料価値は低くはない
したがって「扶桑略記」に基づく仮説なら電波とは言えないぞ
確かに天智の最後はよくわからないことが多すぎるな。中国の駐留軍の政治的圧力が相当なもの
だったのは間違いないし、強硬路線のトップが暗殺されることも十分あり得るぐらいの恐怖はあった
だろう。なんせ百済も鎧袖一触で滅ぼした超大国だし。
474 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 12:32:47
>>470-472 「扶桑略記」の成立年代は11c〜12cで
天智天皇が亡くなったと「日本書紀」で書かれている671年より300年は後なんだが・・・
伝説や根拠のない逸話が混入する可能性は大きいと思われ
天智天皇の靴伝説には聖徳太子の片岡流人との類似性を指摘して
天智天皇を神格化した物ではないかという説もある罠
475 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 13:42:20
唐に占領されたと信じたい厨が必死だなw
>>474 扶桑略記の没年齢記述、高市皇子(43才)長屋王(46才)は
公卿補任、尊卑分脈、帝王編年記、一代要記の記述と
一致しているから、扶桑略記の史料価値は高い
同一事実の記述が複数の史料と一致している場合
その史料の価値は高いと考えられる
477 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 17:28:40
>>476 やれやれ某スレからのコピペですか(呆
年齢だけを取り上げてその史料が全て真実を書いてると決めつけるのもどうだか。
日本書紀が、皇極即位前記には記述しなかった
高向王(用明天皇の皇孫)との結婚や、漢皇子を産んだ事などを
わざわざ斉明即位前記では、記述している点に疑問を感じる
>>470 そういう俗説を平気で流布する日本の歴史学者はもう犯罪者といってもいいね。
それがどのように生まれ、なぜ広がったのかを明らかにすることが科学なのに、
平然と伝説だのなんだのと言って終わりとは。学者と名乗るのがよく恥ずかしく
ならない人種だよなw
普通に考えればそれが神格化された結果だとはどう考えてもならないし、現天
皇家の直系で蘇我氏を屠った偉人だよ?その辺りの感覚は今以上に当時の方
が非常に不名誉なことだっただろ、どう考えても。
480 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 00:26:55
>>479 日本書紀が正しくて扶桑略記が電波という決め付けが
そもそも科学的ではないし、具体的な根拠がまるで欠けているね
明治政府は、日本書紀と大日本史を比較して
日本書紀では即位を認めていない大友皇子を
大日本史の記述通りに即位したと認定して
弘文天皇という諡号を与えた
大日本史は江戸時代に編纂が開始されたから史料なのに
明治政府は六国史たる日本書紀より大日本史を正しいと判定した
日本書紀を正しいと思う人は、弘文天皇の存在を否定するはず
大日本史を正しいと思う人は、弘文天皇の存在を肯定するはず
尸解仙になったってことだろ。神格化じゃん。
484 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 10:27:32
485 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 10:58:30
歴史教育は教科書を読ますより
これらの古文書を直接、国民に読ましたほうが良いよ、まじで。
出来れば古文の授業や漢文の授業でも良いから。
源氏物語みたいな恋愛小説なんか読ますよりも
よほど意味があるよ。
486 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 15:51:29
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
487 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 20:40:03
ショック!!天智と天武は百済人だったのか。
489 :
479:2005/05/21(土) 23:21:48
スマソ。レス番
>>470じゃなくて
>>474だった。
>>470さんごめんなさい。&
>>480さんややこしいことしてスマソ
漏れとしては、
>伝説や根拠のない逸話が混入する可能性は大きいと思われ
などというところに平然と何でもかんでも流し込んできた「大学者」さん達を批判したかった
わけで。
>>485 そうだね。確定もしてない事項を小中学校から教えすぎ。聖徳太子ですらその事績から実
在までまだ未解明なのに、全国津々浦々で先生達が「えー、太子は七人の話を同時に・・・」
なんて、平安貴族の太子伝説を現代人が感心してどうするって感じ。これのどこが科学なん
だかw
はっきりいって日本の歴史学者ってアフォばっかり(ry
490 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 12:06:09
日本には歴史を真面目に科学すると怒り出すウヨとサヨがたくさんいるから
古代史は天皇や皇族が直接政治に関った時代だからな
したがって天皇や皇族は研究対象、ウヨ・サヨなんぞ
気にしていられるか!
492 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 22:16:24
>普通に考えればそれが神格化された結果だとはどう考えてもならないし、現天
>皇家の直系で蘇我氏を屠った偉人だよ?その辺りの感覚は今以上に当時の方
>が非常に不名誉なことだっただろ、どう考えても。
こういう発想自体が現代人の感覚なんじゃないんですか?
戦後史学において、サヨとウヨは表裏一体
494 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 22:25:23
保守
495 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 21:28:29
点検
496 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/06/09(木) 23:58:20
497 :
日本@名無しさん:2005/06/13(月) 01:45:07
今一般で語られている「日本史」では確かに「天智天皇」=中大兄は
なぜ即位があんなにのびたのか?まったくギモン
称政としたのは、天武系の時代の記録だし
兄弟だったのは事実で
天智天皇から天武天皇の正統性のために飾られた。
ただ、この兄弟は、天皇位にすんなりつく決定打に何かがかけていた。
それがナニであるか、
だれであるか、ずーっと悩んでいるのだが。
やはり「孝徳天皇」=大化改新中心人物説か?
それとも間人皇女との禁断の恋愛か?
最近、天智天皇の子供ではないか?と考えた
天智天皇の皇子はどれも卑母の出身
498 :
日本@名無しさん:2005/06/13(月) 01:46:04
即位すれば、皇后をたてなくてはいけないが、
同時に自分の皇子ではなく、弟の大海人(天武)が急浮上するのは
必至
間人皇女の噂、額田王を奪ったのも、
身分の高い母をもつ皇子の「子づくり」に焦った結果
引き延ばし作戦であろう。
結局生まれたのは皇女ばかり、面倒臭いから天武に押し付けた結果が
4人の妻が天智皇女という不自然な結果におわった
しかもこの4人の皇女に全員皇子が生まれ(天智生存時はまだ生まれていない
皇子もいたか?)
更に自分の「跡継ぎ」が苦しくなる結果におわった
母も妹もなくなり、候補がいないから「天皇に」即位礼をした
息子大友、川島皇子が大きくなるまでまった部分もあったであろう
特に大友。
(シキ(変換めんどくさい)皇子は(個人的には)遅く生まれた子
であろうというのが見解。)
(根拠はこの3皇子の妻、天武皇女(めんどいからはぶく)の年齢
など)
どの時代も男女うみわけって大切。
もっと深い政治的理由がある気がする
500 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:46:21
>>497-498 ちなみに天武妃となった天智の4人の皇女だが
大江、新田部に関しては壬申の乱以降に嫁いだのでは?と言う説もある
確かに、大江、新田部出生の皇子(弓削、長、舎人)はいわゆる”吉野の声盟”に参加していない。
つまり参加できるほどの年齢に達していなかったと考えられる。
そこから、大江、新田部が天武に嫁いだのは他の2皇女(大田、うの讃良)よりかなり後と推測できるのでは。
天智・・・アフォな大和人。暗愚帝。
天武・・・やり手在日。孫正義。
筑紫の君の正嫡という説もあるな
ほんとか嘘かはともかく、国を二つに割って部隊を大道員出来たんだから、
別の王家というのもあながち嘘でもない気がする
503 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 23:44:36
当時の大和は島国+半島の連合国家。半島も大和なら大和も半島。
もう行ったりきたり、今の山口県と福岡県くらいの違いしかなかったんだから、
天武がチョソというのはかなりありえる。
が、天皇は大和の首長なので、半島国出身ではまずい。
だからその血筋を抹殺した。
九州と半島は近いが、当時としては奈良とは決して近くない
天智の死が伝わるのが異様に遅かったというのは、ただ距離の問題
だけではないと思うが
天智は偉大だ
律令を導入した
白村江を戦った
信長など足元にも及ばない
人も土地も皆おれのもの
異国人のなせる業か
506 :
日本史@名無しさん:2005/06/18(土) 07:55:50
>律令を導入した
白村江を戦った
証拠は?
507 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 04:20:07
勝てない戦をした馬鹿でもあるが。
508 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 04:23:24
この時代の航海術ってどの程度のものだったのだろうか?
509 :
日本史@名無しさん:2005/06/19(日) 07:56:32
畿内には外洋航海できるだけの舟も技術も部隊もない
510 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 14:09:32
日本海の商船ならあったけど?
>>508-510 「古代日本の軍事航海史」(松枝正根/かや書房)に詳しいよ。
これ読んで目を覚ませ。
512 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 15:54:12
ほほー
513 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 23:53:21
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
514 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 15:44:14
>>287 >>348 >>486 >>513 そんなに何回もカキコするなら根拠も書いて下さい。
舒明帝が崩御したのは641年ですよね?
百済の義慈王が即位したのはその頃だった気がするけど。
義慈元年って舒明帝が崩御した年かその前後なのでは?
天智帝の出生は10年以上前だから血統にも無関係だし。
社会科の宿題で困ってます・・i||li _| ̄|O i||li
40年前の日本について教えてください!!
516 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 16:55:07
>514
とりあえずおまいの「○○帝」って呼称もやめれ
一応日本史板だし
518 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:36:50
○○天皇も正確に使ってネ
天皇と呼ばれていなかった人を天皇と呼ばないように
519 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 13:01:03
大王・田村王子
520 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:18:46
そもそも「田村」という漢字表記自体、8世紀に入ってからだろう。
当時の表記がわからない以上、タムラ王子かタムラノミコ、タムラノオオキミだな。
>>518 天皇と公文書に記述されたのは天武朝から?
それとも持統朝になってから?
522 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:03:56
しかし田村とかタムラとか書いても詳しくない人には誰の事か分からないのでは?
この板にいる人が皆そゆ事詳しい訳じゃないんだから…。
ところで即位してても王子なの?
523 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 23:10:48
>>503 行き来があっただけでは何の根拠にもならないよ。
新羅人云々は根拠の無い捏造トンでも説でしょ。
524 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 23:19:43
>>503 半島出身ではマズいならそもそも帝位に就ける訳無い。
>>血筋を抹殺って何の事?
別に抹殺されてないのでは。
525 :
524:2005/08/07(日) 23:27:10
あ、血筋を抹殺=天智系の白壁王に帝位が移った事か。
これだって新羅云々の根拠には全然ならない。
岡本天皇
527 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 12:44:38
新羅人云々ってカキコ\多いけど根拠ある話なの?
ただの変な捏造?
> ただの変な捏造?
失礼な…
当時の歴史を記する日本書紀や古事記などに掲載される
多くの疑問・矛盾点によりインスパイアされた魂の叫び声だよ。
偉大なる中華文明の影響を受けられない絶域の地において
卓越した知識と見識をもつ文明人たる百済人や新羅人が
未開の倭国を導いてやったのがわからんのか?
529 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 14:50:59
>>528 だから根拠のある話なの?
全く何の根拠もなしに新羅だとか百済だとか言っているなら捏造だと言われても仕方ないのでは?
530 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:01:46
半島の人は日本の芸能人とか歴史上の人物を在日だとか
文化とかを半島起源だとか捏造するそうだから
それと同じ捏造説でしょ。
531 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 04:04:04
>>528 日本書紀・古事記のどの疑問・矛盾が
新羅云々説の根拠なの?
詳しく。
532 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 06:19:22
人いるからageさせてねー
>>6 そういえば、今出てるイブニングに連載中で打ち切り感ただよう漫画(題名わすれた)で
信長を秀吉がぬっ殺してた。いやそんだけなんだけどね。
533 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 00:16:50
>>107 押坂に嫁いだ敏達娘3人の内
田村王女(舒明母)は蘇我の血引いてなかった気ガス。
534 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 00:17:37
111で外出だったorz
スマソ。
公地公民
そんなことが出来るのは邦人とは思えない
536 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:42:00
>>535 んなの根拠にならないよ…。
やっぱり、きちんとした根拠は無いの?
この説を支持している学者っているの?
チョソの「学者」
538 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 10:24:52
539 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 10:49:35
>>538 ニュースありがとう。
蘇我家が、古代飛鳥時代の大王であったことがよくわかるね。
540 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 15:54:25
>>539 大王だったら立派な所に住んでいるのでは?
これショボいっぽいよ。
当時の天皇権力なんてそんなもん
542 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 18:57:33
当時は蘇我家>天皇家の力関係で、大化改新で形勢逆転したことがよくわかる。
電波ばっかりでウンザリ
544 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 07:12:44
嶋宮には天智の祖母(蘇我稲目の曾孫)が住んでたって何かで読んだ事があるけど、
もしそうなら皮肉な話だね。
馬子の館を受け継いだ者の孫が、蘇我宗家を滅ぼしちゃったってのも。
吉備姫王(吉備島皇祖母命)のことかな? 諡に「島」が含まれる
あと、舒明天皇の母・糠手姫も「島皇祖母命」と呼ばれていたな
諸君に論文書くような学者が天武=金多遂なんて唱えたの?マジ?
547 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 05:51:03
天武は凄い奴だと思う
秀吉=天智天皇
家康=天武天皇
朝鮮進行するも失敗し諸侯に不満が出る
時代は繰り返すもんだな
君の大好きな桓武天皇は、天智系だよ。
550 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 02:04:53
>>545 うん。その吉備姫王って人。
稲目の娘の堅塩姫の子供の子供らしいね。
551 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:18:45
オオキミは大金と漢字を当てたのか、きむさんがたくさんいてるので、
またデムパネタか このスレらすぃな
>>551 大王 です。とマジレス。
と言うか、あの時代の朝鮮人の姓って金だったの?
554 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:23:27
>>553 たしか、朝鮮半島の人名が中国風に変えられたのは、金春秋以降だと思ふ。
時期としては、白村江の戦争のころ?
>>554 ありがd。
その前から大王でしたよね。
以前宝皇女は蘇我氏の血を引く女性を大后にする為に
蘇我氏の意向で嫁いだのではないかって話を何かで読んだな。
元は田眼皇女(推古と敏達の娘)が其の為に嫁いだけど、
早世したので次に宝皇女が嫁いだのではないかって。
>>554 半島の「金」氏の初出は允恭記の「金波鎮漢紀武」
559 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 20:18:07
>>558 それ、どう読むの?
もしかして、万葉式に読むんと違いますか?
金が姓、波鎮漢紀(ハトリカンキ)は新羅の第四官位名、武が下の名
561 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 20:45:40
>>560 レス、サンクス。
氏名と官名の順番が面白いと思った。
源・九郎判官・義経
羽柴・筑前守・秀吉
この順番が正式だったのかな?
今は、小泉・総理大臣・純一郎・・とは言わんな。
ところで、金春秋は、中国式でない名前も持っていたと思うが、忘れちゃった。
何といいましたかね?
朝鮮半島の人名は、新羅による統一をきっかけにして中国式になったと思ってたけど、違うの?
いつから変わったんですか?
>>498 面倒臭いから弟に嫁がせたって酷いな……。
姉妹4人を同じ人に嫁がせただけでも酷いけど。
563 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/25(日) 03:35:30
天智は反九州王朝の立場に立つ畿内の権力者。
天武は九州王朝から派遣された反九州王朝政権討伐隊長。
天武は672年親九州王朝の尾張勢力と協力し天智の討伐に成功。
天武の686年死後混乱期を経て、690年持統を立て近畿勢力の復権。
696年文武近畿勢力は逆に九州王朝の殲滅に動き699年に成功。
なお九州王朝残存勢力の完全殲滅は714年までかかった。
文武は700年近畿朝廷による初代の日本支配者となる。
天智天武兄弟説は近畿朝廷元正による捏造。
新たなデムパ襲来か(しかも鳥付き)
>>561 新羅の貴人の尊称「智」がついた「金春秋智」というのならあるけど、
至都廬とか深麦夫みたいな新羅風の名は特に伝わってなかったとはず。
>>549 佐々克明って人が大海人皇子=新羅王族金多遂って説を唱えたんでしょ?
佐々克明って人は諸君にも論文がのったことあるんでしょ?
諸君購読して論文送るような人が天武天皇は新羅人だっていってんだから驚くよ。
安倍晋三が韓国擁護してるのと同じぐらいの違和感。
>>566 元々韓にそんな説があったらしいよ。
根拠も無いのに日本の文化を半島起源だと捏造とか、日本の偉人を半島人にする事が多いらしいね何故か。
568 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 01:30:00
569 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 01:40:09
佐々克明はアノ佐々淳行の弟ですよ。諸君購読ってのはわかる気がする。
漢皇子って母親が帝位についたのにその後の消息不明って事は、早世したのかな?
そういえば舒明には蚊屋皇子という子も居たような気が……こっちも消息を聞いた事が無い( ´・ω・`)
572 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 15:33:04
573 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/26(月) 22:33:49
574 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/27(火) 10:46:17
>>570 孝徳天皇と大友皇子はそれぞれ最後に蚊皇子を頼ったらしい(が、拒否られた)
子孫たちは三島真人の氏姓を賜っている。
576 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/09/27(火) 19:23:42
>>558-561 「金波鎮漢紀武」 を「こみ・はちにかにき・む」と読むのは誤り。
金を中国式の姓、波鎮漢紀を第四等官位とするのも誤り。
その頃はまた新羅には中国式の姓はない。
「金」は出身部族の名で「そなら」。
その頃まだ新羅の官位制はない。「波鎮漢紀」は新羅の
東南の領主で別名「海干」ともいい倭国との外交を担当
する重職。「はとりかんき」と読む。
「そ(orす)」は新羅語で「金、金属」の意
素奈羅=須奈羅=南加羅=金官の部族名だけを表す単語ではない。
海干は新羅が反正天皇の支配を受けたことを記念して設けられた官職である。
真興王の頃に金氏を名乗り始め、真平王代には、貴族階級にも浸透した。
579 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 21:55:03
>>577 レス、サンクス。
てことは、やっぱり允恭記のころは、朝鮮式の人名だった、
新羅による統一後、半島全体の人名が中国式に変わった、という理解でいい?
これは新羅王の命令でそう変わったのかな?
580 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 10:53:54
唐の太宗は新羅を解放するため
太宗の一族の者を新羅に派遣して王位につかせた。
と、三国史記に書いてあったような…
>>579 中国式の名前は一部の王族貴族だけ。しかもそいつらも原住民風の本名ももっていた。
中国式に「朴堤上」、原住民語で「毛麻利叱智」とか。
王族貴族階級が本格的に中国式オンリーになるのは高麗も半ば頃。
全国民が中国式になるのは李氏朝鮮になってから。
582 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 21:15:11
>>581 レス、サンクス。
>>全国民が中国式になるのは李氏朝鮮になってから
前回の創氏改名は、意外に最近のことだったんですね。
長い間誤解していたのでありがたいです。
そして、これは中国側からの強制ではなく、
朝鮮人が自ら、中国との付き合い上か、中国文化への憧れから、自分の名前を変えていった、
という理解でいい?
>>582 李氏朝鮮が建国された時の国是でシナに媚びて生き延びる路線が決まった。
それで儒教原理主義をおかみの政策として強引にすすめ、
儒教のしきたりを守らない農民を拷問したりして
強制的に味噌でも糞でも儒教式&中国式にして国家規模で
文化大革命をやった。その結果が今のチョン。
それ以前の半島人(新羅人、高麗人)は、今の日本と同じように
儒教も仏教も土着信仰もそれなりにうやむやにやってた。
高麗王朝の時代には、貴族や役人はさすがに中国式にやってたが、
僧侶(仏教)や庶民はもっと自由にやってた。
新羅の頃は王族貴族のやってた中国式もかなりいい加減。
儒教原理主義・・・これが朝鮮の諸悪の根源。
儒教文化大革命が無ければ、もう少し普通につきあえるやつらだったはずなんだけどね。
585 :
583:2005/10/06(木) 03:55:16
儒教原理主義というか、正確には「朱子学原理主義」ね。
誰かにつっこまれる前に自分で訂正しとくよw
>>583 レス、サンクス。
1回目の創氏改名で、全国民が中国式の氏名になった。(李氏朝鮮時代)
2回目の創氏改名では、日本式の氏名を「強制」されたが、実際に改名したのは少数だった。
朝鮮式の氏名を捨てさせられて何百年も経過し、日本式の「強制」は短期間だったのに、
何で、彼らはいまだに日本への恨みのひとつに、創氏改名を加えるのか、わからん。
とっくの昔に、朝鮮本来の氏名を失っていたんじゃないかと。
自由になったんだから、中国式をやめて、朝鮮式の氏名にすればどうかと。(w
素朴に、上記のような感想を持ちますた。
>>586 いや、日本式の氏名は強制してないから。使うことを許可したんであって。
それと、2回目の創氏改名じゃない。
モンゴルに支配されたときも、上流階級はモンゴル名を持った。
だから、3回目だな。
>>586 中華思想(儒教的な考え)からいえば中国式に変更するのは問題なくて
日本(蛮族)式への変更は心理的な抵抗が大きかったからじゃない?
元の時代の改名とか、通婚とかは政治的な意味があるし
(全保障上の保険とか国際的な地位を高めて日本攻めの負担を軽減するためとか)
上層部が(形式上)申し出てやったことだからしょうがないと考えているのでは。
今回の創氏改名にしたって、朝鮮からの強い要望が長年出され続けた結果なのだが。
日本国内では、朝鮮人か日本人かの見分けが付かなくなるという根強い反対が
あったのだが、結局、許可することになった。
まったく、朝鮮のごり押し要望を聞くとろくなことが無いね。
在日のごり押し年金支給要望や選挙権要望も絶対に聞かないほうがいい。
絶対に歴史的な禍根を残すに決まっている。
朝鮮には地理的な緩衝地帯以上の役割は存在しないわけだが
その不憫な歴史には多少同情するな。
半島だから不幸だとは限らないだろう。
ローマの例もあるし。
文明も帝国も築いたことがないのは、それなりの民族だからだろう。
>朝鮮人か日本人かの見分けが付かなくなるという根強い反対があったのだが
あ〜なんか分かるなこりゃ
見分けつかなくなったらとんでもないことしそうだし
593 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:49:36
意味わからん
所詮天智は、九州王朝の教養・文化を身につけていなかった。
唐軍が上陸した時の対処など、できようはずがない。
天智が死んだのは、暗殺だった疑いが拭えない。
九州王朝の国王=天子が捕虜として帰還したとき、
天武は畿内に移転し、畿内で唐の対抗国を立ち上げた。
九州王朝の攘夷派も支援しただろう。これが壬申の乱。
596 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 17:31:46
597 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 20:16:23
>>594 >>所詮天智は、九州王朝の教養・文化を身につけていなかった。
天武天皇は即位後唐文化を広めるのに必死になってるんだが。
599 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:18:12
天武天皇と始皇帝って時代は全然違うが微妙に共通点が多く感じた。
天武天皇→初めて「天皇号」を使用、強力な天皇親政、富本銭発行
豪族の力を弱め官僚化、律令国家に向け公地公民の徹底化
始皇帝→初めて「皇帝号」を使用、強力な皇帝親政、度量衡の統一
各地の王を廃し郡県制採用、中央集権化の徹底
600 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:22:55
ま、スケールも全然違うけどな。
天武天皇は初めての九州王朝系畿内王=天皇
602 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/21(月) 05:43:27
>>594 >天武は畿内に移転し、畿内で唐の対抗国を立ち上げた。
>九州王朝の攘夷派も支援しただろう。これが壬申の乱。
九州王朝の攘夷派も支援した。これが宗像氏。
もちろん尾張氏も。
>>601 >天武天皇は初めての九州王朝系畿内王=天皇
天武天皇は初めての最高権力を持つ九州王朝系畿内王=天皇
九州王朝系の畿内地方権力者レベルとしては、応神天皇と欽明天皇も。
603 :
595:2005/11/23(水) 15:25:38
>>596 d
でも、日本の歴史書信じないのに、なぜ天武天皇の存在は信じられる?
604 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/11/23(水) 16:14:23
>>603=595
>でも、日本の歴史書信じないのに、なぜ天武天皇の存在は信じられる?
古事記、日本書紀は、天武朝の文武元明に都合よく編集してあるだけ。
全てが嘘でもなく、事実でもない。
天武の妻が宗像氏の娘であり、又タリシホコがその宗像氏の一員であることから、
天武は九州の有力氏族出身であろう。
しかし、九州系天武朝は文武には持統緩衝期を経て完全に畿内化した。
605 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 22:57:14
>>604 妻が有力氏族出身だって事で夫の出自を推測してたら
他の歴史人物の出自も変わりまくっちゃうよ。
高市皇子の母は確かに胸形氏らしいけど
それで天武が九州の有力氏族出身とは
発想が飛躍しすぎ
日本書紀の記述に反する有力な史料が
発見されない限り、天武が舒明の皇子という
通説は崩れない
と言うか、天武が本当に天智系皇統から皇位を
奪った簒奪者なら、皇統が再び天智系に戻った
光仁や桓武帝の時代に日本書紀の壬申紀や天武紀は
書き換えられて、天武は簒奪者にされたはず
>>606 光仁や桓武の時代には、記紀は忘れ去られて、誰も問題にするものがいなかった。
記紀は、南北朝の時代に、北畠親房によって再発見された。
>>607 公卿補任の編纂には日本書紀も史料として使われている
そして公卿補任は平安時代の初期から編纂が始まっている
つまり日本書紀が平安時代に忘れ去られた史実はない
609 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/02(金) 22:12:55
天武が天智の年上の弟疑惑。
天武の壬申の乱までの活動の場が九州であった疑惑。
天武の出自の不明疑惑。
天武九州出身説否定できず。
つまり天武が舒明の皇子は捏造疑惑。
天武は舒明の皇子と記されているので簒奪者にする必要はない。
「天武は舒明の皇子」自体が現存日本書紀が書き換えられた日本書紀である可能性がある。
又、文武、元明、元正は天智天武両系であるから天武を簒奪者にできない。
天武九州勢力に対する地元畿内勢力の巻き返しは、
持統緩衝期を経て、文武元明元正期に成功定着したと見ます。
又、奈良盆地中央部の地名の九州筑紫平野(特に甘木朝倉地方)との奇妙な一致は、
天武期の九州からの移住者によるものと見ています。
文武、元明、元正は天智と天武の両系だし
聖武や孝謙(称徳)は天武系だから当然としても
光仁天皇以降の代々の天皇には
天武の遺伝子は全然受け継がれてないから
天武が本当に舒明の皇子でなければ
それを訂正する事はいくらでも可能
しかし天武の遺伝子が皇統から消えた後も
天武が舒明の皇子という記述に
まるっきり変更がなかったのは
それが史実だったからだと言える
611 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 10:28:22
>>609 天智の年上の弟疑惑は皇后と先夫との間の皇子って説も無かったか?
>>609 >天武の壬申の乱までの活動の場が九州であった疑惑。
こんな記録ありましたっけ?
そもそも天武が正統な天智の後継者でなく武力で皇位を勝ち取ったとしても当時の人が問題視したの?
皇族同士の争いの記録は記紀にたくさん残っているし。
天武が異国人だろうがなんだろうが前王朝を放伐して王朝変わりましたって正直に書いたのでは。
>>611 大海人皇子が、実は用明天皇の孫である高向王と皇極天皇の
皇子である漢皇子と同一人物という説は、大和和雄等が提唱している
大海人皇子=漢皇子であっても父方は用明天皇に繋がり
母は皇極天皇だから、母が伊賀の采女という卑母だった伊賀皇子(大友)より
当時の皇位継承の慣習では絶対的に有利(母が卑母では皇位に就けない)
ただし大海人=漢皇子だった場合、母が天皇という点で女系継承になるから
男系継承主義者が主張している、歴代は全て男系継承だったと言う説は
成立しなくなる
つまり天武天皇は史上初めての女系男子の天皇となるからである
大海人皇子=漢皇子の場合
皇極天皇は女性だから天武は
女系男子の天皇となる
これを認めたくない男系主義者は
大海人皇子=漢皇子説を絶対否定し
大海人皇子を舒明天皇の皇子だと
断固主張するであろう
これなら天武天皇は男系男子の天皇に
なるからである
漢皇子が女系扱いという理由
もし漢皇子が高向王の子
という扱いなら(男系扱い)
用明天皇の曾孫になるから
漢皇子とは記述されず漢王になる
しかし日本書紀には漢“皇子”と
記述されているから
皇極天皇(女性)の
皇子という扱い(女系扱い)を
受けている事になる
そして前のレスでも述べた通り
漢皇子=大海人皇子という
大和説が正しければ
天武天皇は
女系皇位継承者であり
男系主義者のいう
歴代に女系皇位継承者は
居ないという主張は
完全に誤りとなる
大海人皇子=漢皇子説は
天武の没年齢65才から見て
通説ではないが有力説ではある
しかし例え大海人が漢皇子であっても
葛城皇子の異父同母兄と言う事に
なるから天武が九州の有力氏族説は
通説でも有力説でもない単なる電波説
617 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/03(土) 19:55:54
>>612 奈良盆地の南山間部に吉野があるが、
背振山脈にも吉野がある。
大海人皇子はどこの吉野に引っ込んだのか?
背振山脈南面は疑惑山積の地域である。
>>611 天武の出自に諸説がでるように不明朗でありすぎる。
618 :
612:2005/12/03(土) 20:19:01
>>617 それ九州で活躍した証拠にならないんじゃ。
私九州在住ですけど背振って山脈ってレベルじゃないんですが。
あんなとこすぐ見つかっちゃいますよ。
九州と畿内で地名の位置関係が同じっていう仮説に基づいてるんでしょうけど
壬申の乱の軍勢の移動ルートが全部説明できるの?
吉野 -> 伊賀 -> 伊勢 -> 美濃 -> 近江(大津)
別働隊が 大和(飛鳥) -> 近江(大津)
>>617 天武天皇が漢皇子なら出自は明確
父は高向王、母は皇極(斉明)天皇
つまり葛城皇子(中大兄)の異父同母兄
これで天武が天智より年上の謎は解ける
大海人皇子という架空の皇子を
日本書紀が作り出した理由は
女系男子の皇位継承という史実を隠したかったため
しかし大海人皇子=漢皇子という史実を後世の人々に
知ってもらうために、わざわざ皇極(斉明)の再婚および
その連れ子である漢皇子の存在を斉明紀に記述した
この辺りに日本書紀の編纂者達の苦労が伺える
621 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 23:18:22
この論理でいくと
皇極天皇も天智天皇も全部架空の人物で
日本書紀自体が妄想小説という論理も成り立ちそうな
いきおいですね
>>621 全然違う
架空な存在は大海人皇子だけ
舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇
天智天皇、天武天皇(漢皇子)は実在
女系の王位継承はその当時
大陸でも半島でも行われてない
王位継承だったからその史実を
隠したかったための偽造
大海人皇子が架空と言うより
漢皇子と大海人皇子は
同一人物と認識した方が正確かも
まあ男系継承至上主義者にとって
女系男子継承である漢皇子=天武天皇説は
絶対に認めたくないと言う気持ちは良く分かる
歴代は全て男系継承だったと言う根拠が
消滅するからね
しかし男系至上主義者のロジックでは
天武が天智より年上という謎は絶対に解けない
天智の没年齢は46才、天武の没年齢は65才だからね
626 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 00:25:43
>天武が天智より年上
だからその元ネタ自体が天武や天智が死んでからかなり後の史料にしか出てこない話でしょうが。
と、ふりだしの
>>1に戻る
627 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/04(日) 00:36:14
>>618 奈良の吉野も背振も何度も訪れよく知っていますが、
どちらも飛鳥や博多大宰府甘木朝倉に程近く、それほどの山奥でもなく、
隠遁するふりにはちょうどよい場所でしょう。
九州と畿内で地名の位置関係が同じっていう仮説に基づいてはいませんよ。
筑紫平野と奈良盆地の地名に一致が見られ強い関連性が認められる事実を受容しているだけです。
これら地名一致の説明を、はて、どうすれば良いかと思っている次第です。
僕の30年来の宿題でもありますが。
ちなみに僕は奈良盆地ど真ん中の出、
子供の頃慣れ親しんだ地元でないと知らないような小さな字地名が、
筑紫平野特に甘木朝倉に訪れたときに数多くあって驚いたことがあります。
30年ほど前のことですが。
>>626 確かにその通りだけど天智天皇の場合は
書紀の記述のおかげで没年から没年齢46才が算定可能
それに対して天武天皇の場合は、書紀の記述の中からは
その没年から没年齢が算定不可能
天武天皇の没年齢は中世の史料の記述である65才しかないのが現状
つまり書紀は意図的に天武の没年齢が算定される記述を
残さなかったと言える
天武以外の天皇は書紀の記述と没年から没年齢が算定可能なのに
天武だけはそれが不可能
それは天武天皇が葛城皇子の異父同母兄である、漢皇子だと表向きには
知られたくないからと推定可能
また皇極天皇の皇子である漢皇子は、当時の習慣である男系男子で
扱われず、女系男子として扱われたから、男系から見れば用明天皇の
四世王に過ぎないから、単なる王扱いになるところを、漢皇子と言う
皇極(斉明)天皇の、皇子の身分を得る事が出来た(これも実に異例なこと)
つまり漢皇子は女系男子の皇族であり、その女系男子である漢皇子が
天皇に即位した事は女系皇位継承が行われた事になる為に
その事実を隠蔽する為に、大海人皇子という舒明天皇の皇子を捏造し
漢皇子を大海人皇子とする事で、男系継承の継続を表向きだけ整えた
しかし歴史を記述するモノの良心からか。真実を後世に残すために
異例にも皇極天皇は再婚であり、また漢皇子という連れ子が居た事も記述した
>>628 男系から見れば用明天皇の四世王に過ぎないから単なる王扱いになるところを×
男系から見れば用明天皇の三世王に過ぎないから単なる王扱いになるところを○
また従来は天智が天武ではなく大友に皇位継承を図った事を
吾が子可愛さ、あるいが直系継承を望んだからという説が有力で
あったが、吾が子可愛さは天智を卑小にみる見解であり
直系継承もまたその後も定着しなかったことから無理があり
どちらも疑問が残る説といえる
そして天智が漢皇子の即位を妨げようとした真の目的は
皇位の女系継承を防ぎたかったからだと思われる
先にも述べたが、大陸でも半島でも女系の王位継承は行われた
例がないから、女系継承を日本が行う事で周辺国から
蛮族視されることを、天智天皇は恐れたためだと思われる
漢皇子=大海人皇子説が成り立つとして(私は思わないけど)
>>628 >また皇極天皇の皇子である漢皇子は、当時の習慣である男系男子で
>扱われず、女系男子として扱われたから、男系から見れば用明天皇の
>四世王に過ぎないから、単なる王扱いになるところを、漢皇子と言う
>皇極(斉明)天皇の、皇子の身分を得る事が出来た(これも実に異例なこと)
本来王となるべきところを皇子として扱われた
特別な地位(皇位継承資格者として扱われた)と 正直に書けばいいのでは?
つまり漢皇子が壬申の乱を経て、即位したと。
漢皇子が皇位に就いたことを隠すために大海人皇子という存在を造りだした。
漢皇子とせず漢王という記載で問題ない。(何も事歴が伝わってないから)
皇位についたのはあくまで大海人皇子。
漢王 -> 漢皇子+大海人皇子という二重の隠蔽工作が必要だった理由は?
女系皇族の即位を隠したかったのならどちらか一つの隠蔽で済むのに。
>>627 >どちらも飛鳥や博多大宰府甘木朝倉に程近く、それほどの山奥でもなく、
>隠遁するふりにはちょうどよい場所でしょう。
天智/弘文朝側の粛清を逃れるため、吉野が隠遁するにふさわしい土地だから
そこに移ったというのが通常の説ですが隠遁するふりだけで助かったの?
>筑紫平野と奈良盆地の地名に一致が見られ強い関連性が認められる事実を受容しているだけです。
壬申の乱の記載は全て九州内の記録という考え?
九州だけであれだけの軍勢を動員したり、移動日数/登場する諸国名や地名がが説明できるのですか?
633 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/04(日) 11:56:28
>>632 対唐戦争非参戦等の反九州王朝的畿内朝廷との全面対決を当面避けたのが天武の隠遁となったのでしょう。
しかし、671年唐軍の薩夜麻を引き連れての九州占領により、
急遽、天武は親九州王朝の尾張氏の協力を得、壬申の乱を起したのでしょう。
天武は少数の宗像軍等を九州から引き連れ、主力の尾張軍と合流し壬申戦争を開始したのでしょう。
天武軍の優勢を見て立ち上がったのが大和の反天智親九州勢力の第二軍ではないでしょうか。
壬申の乱まで(670年迄)の九州王朝と畿内朝廷との折衝期間は畿内と九州の出来事、
壬申の乱(671年から)以降は大和の出来事。
参考:
九州王朝の連盟的主要構成メンバーは筑紫(宗像氏等)・出雲・肥(菊池氏等)・浪速(大和含む)・越・尾張・夷(武蔵)
九州王朝の弟王を輩出していたのは肥・筑紫勢力(倭の五王、磐井、タリシホコ・薩耶麻等)。
九州王朝の兄王として知られる人物は卑弥呼・壱与等。
タリシホコは宗像氏出身、天武は宗像氏の娘を妻としていることからと隠遁地が背振吉野から推定して、
筑紫の**君と呼ばれる程度の氏族(九州王朝においては**君と呼ばれる人物は多数存在)の出身ではないかと想像しています。
九州王朝の弟王は多数の君の中の単なる1人です。
634 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:48:58
舒明紀末文の天智の年齢は信用できねーな
舒明末年を百済武王末年に強引にもってきた理由を知りたい。
>漢皇子とせず漢王という記載で問題ない。
>(何も事歴が伝わってないから)
確かに漢皇子は高向王と皇極天皇の間の皇子という以外
何の事歴も記述されていない
しかしそれなら無視しても良いはず人物なのに
しかも男系から見れば三世王に過ぎない漢王を
わざわざ女系を採用して漢皇子と言う皇位継承権を
持つ皇族として日本書紀が記述した理由が分からない
やっぱり漢皇子という異例な皇族の正体は、大海人皇子と
日本書紀に記述されている人物で、その皇子が壬申の乱に勝利し
即位して天皇(諡号天武)となったと考えるのが一番分かり易い
>本来王となるべきところを皇子として扱われた
>特別な地位(皇位継承資格者として扱われた)と
>正直に書けばいいのでは?
>つまり漢皇子が壬申の乱を経て、即位したと。
女系男子の扱いを皇族内で受けていた漢皇子が
即位した事を日本書紀は隠蔽したかったからでしょう
漢皇子の即位は男系継承の伝統から見れば例外だから
正直に漢皇子が即位したとは記述出来なかったと思われます
>>634 天智天皇の没年齢は46才説と58才説があるね
天智の没年齢が58才なら、天武の没年齢が65才でも
天智は天武より年上になるから書紀の記述とおり
天智が兄で天武が弟になる
しかし没年齢が二つある天皇は天智だけだから
やっぱり不可思議ではある
638 :
631:2005/12/04(日) 16:27:33
>>635 >>636 >わざわざ女系を採用して漢皇子と言う皇位継承権を
>持つ皇族として日本書紀が記述した理由が分からない
>女系男子の扱いを皇族内で受けていた漢皇子が
>即位した事を日本書紀は隠蔽したかったからでしょう
漢皇子が”皇位継承権を持つ皇族”という記録がありますか?
天智と同父同母の皇位継承権を持つ大海人皇子という存在を捏造したのなら
漢王->漢皇子なんて隠蔽工作ををしなくても漢王の記録自体を記紀から消せるでしょう。
もしくは皇極女帝が再婚とかしていなくて、漢王を天智の同父同母の兄弟だったとすればいいだけ。
どうせ漢王の年齢を記載してないのだから兄弟の順番なんて簡単に変えれるし。
漢王の活躍が大きかったとか子孫が朝廷に仕えていたから記紀から取り除けなかった。
(取り除くと矛盾が生じる)というなら判りますが。
>>638 少なくとも古代においては、母が卑母ではない年長の
皇子(天皇の子)には、皇位継承権があったのは常識の範囲です
そして漢皇子の母は皇極天皇だから、伊賀の采女の子に過ぎない
年下の伊賀皇子より、遥かに有力な皇位継承権者です
その上漢皇子の場合は男系ではなく、例外的に女系継承が
採用された事は、漢皇子という記述からも明白です
それと隠蔽工作を行いつつも、本来は抹消出来た漢皇子の存在を
書紀に記述したのは史家の良心からか?あるいは天武=漢皇子の息子である
舎人親王(書紀編纂の総裁)が、自分の本当の父は漢皇子だという
痕跡を残したかったからだと思われます
男系なら用明天皇の三世王だから、漢は漢“王”と記述されるはずです
しかし例外的に女系が採用されたから、漢は皇極(斉明)の皇子として
漢“皇子”と記述されたと思われます
641 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 19:28:52
>>624 大海人皇子が架空で漢皇子と同人物だという根拠ってあるのですか?
無いなら男系継承とかでなくただ単に根拠浮薄だから支持されて無いだけでは?
年齢逆転だけを根拠とするには無理があると思うのですか。
>>637 安易な考えなんだが"年十六"は"年二十六"の誤りだとしたら?
鎌足と同じ歳になるな…、同一人物?!
>>641 大海人皇子が実在する皇子なら舒明天皇の皇子で
葛城皇子より年下になる
そして天智の没年は書紀の記述から46才と算定可能
しかし天武の没年齢は書紀の記述からは算定不可能
なお日本書紀において没年齢が算定できない天皇は
天武のみで、神武から天智までは全て算定可能だから
天武以外の全ての天皇の没年齢が判明している
天武だけ不明なのは異例・異常としか言いようがない
そして天武の没年齢は中世の史料ながら65才と言う
記述以外に没年齢は存在しないから65才と見るべきである
従って天武が天智の弟である事は年齢的に不可能
しかし漢皇子は天智の母である皇極天皇が舒明天皇と
再婚する前に、高向王との間に生まれた子である
従って天智天皇より年上である
また何度もレスしてきたが漢皇子は男系からみたら三世王だから
皇子ではなく王と記述されるところが、漢皇子と記述されている
ところから、例外的に女系が採用され皇極の皇子として漢皇子と
記述されていると思われる
つまり女系男子である漢皇子が壬申の乱に勝利し皇位に就く事は
男系男子・女子を皇位継承としてきた皇室の伝統を打ち破る行為だから
男系皇位継承という伝統を守る為に、大海人皇子という架空の皇子に
漢皇子の業績を渡し、漢皇子については事歴不明にしたと考察出来る
結論として、日本書紀に記述されている大海人皇子の業績は
全て漢皇子の業績であり、天武天皇とは漢皇子に対する諡号である
>>642 それは天武の没年齢65才を56才の
書き間違いという説と代らないなぁ
確かに天武の没年齢が56才なら
天智の没年齢が46才でも天武は
天智の弟になるけどね
しかし六十五才を五十六才と書き間違えた
どこにも根拠がないように、十六才を二十六才と
書き間違えたという根拠も、どこにもないから
それは無理でしょう
なお書紀では二世王では皇子と記述された人物には
田村皇子(舒明天皇)と山背大兄皇子(聖徳太子の子)と言う例があり
三世王では軽皇子(孝徳天皇)の例があります
このうち田村と軽は、後に天皇になってるから、皇子と記述されたと
推定可能です
また山背大兄の場合は、大兄である事と聖徳太子の子という
特例措置の為でしょう
(しかし山背大兄の場合は王と記述される事もある)
そして漢の場合、彼が後の天武天皇なら田村や軽と同じように
扱われたと推定可能だし、あるいは皇極天皇の子という特例措置で
女系が採用され、三世王でも皇子と記述されたと言う推定も可能です
中世資料のほとんどは天智(兄)天武(弟)の年齢設定なんだよね。
資料を統一しないのは何でかなー?
>>646 ああ、一番痛いところを突かれたしまった…OTL
確かに本朝皇胤紹運録という史料では
天智天皇の没年齢は58才
天武天皇の没年齢は65才
これの通りなら二人は同父同母兄弟でも
年齢の問題は解消される
天武の没年齢に関しては本朝皇胤紹運録を
65才を採用しながら、天智の没年齢は日本書紀の
記述から算定して46才とするのは
キストクリティークの常道から外れた行為ですね
長々とレスしてきた漢皇子=大海人皇子説は
歴史研究の根本であるテキストクリティークの
常道に反する事になりますから、これにて撤回致します
以上・・・OTL
だいたい、作家がこんなの本売るために捻り出した「ネタ」に決まってるだろ!
ほかに九州王朝説とか架空戦記の設定資料みたいで好きだけどなー。
漢皇子は建皇子(斉明四年の条では建王)と同一人物としたらどうだろうか?
八歳で夭折したなら漢皇子の子孫が存在しないのも頷けると思うが。
すると、天智紀の建皇子に関する異伝を出してまで建王を天智の子
とした意図が分からんな。
本朝皇胤紹運録によると
天智天皇(614〜671)58歳
天武天皇(622〜686)65歳
これで、二人が同父同母兄弟でも
何の問題もない
したがって没年年齢の謎は解消
次ぎに大化の改新時、天智は32才で天武は24才
これも特別不自然な年齢とは言えない
むしろ天智が32才の方が、20才の時の出来事とするより
リアリティが感じられる
651 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:18:56
男系至上主義者云々と言っているけど、傍からみると
男系に反対する人が必死に日本は男系継承では無かったと言う事にしたがっている様にしかみえないよ。
年齢が違うからっていきなり異父兄皇子と同じ人って……。
本朝皇胤紹運録では天智兄、天武弟になるから問題ない
年齢問題が解決すれば漢皇子=大海人皇子説は成立しない
舒明天皇には他にも皇子が居たよね。他にも皇族いるし、
他の人と同じ人だというなら、漢皇子以外にも可能性がある人居るのでは?
舒明天皇の皇子は4人
そのうち最有力は皇極を母とする葛城皇子と大海人皇子
その次ぎは蘇我法提娘(馬子の娘)を母とする古人大兄皇子
しかし古人大兄は葛城によって自殺に追い込まれているから
天武天皇になりようがない
残りは蚊屋皇子だが母が卑母だから蚊屋には皇位継承権がない
皇位継承は男系主義だか、それに加えて母の身分が重要な要素になる
例え天皇の皇子あっても、母が皇族か有力豪族の娘ではない限り
天皇にはなれない
天智の長子の大友皇子や、壬申の乱の英雄で天武の長子である
高市皇子が、天皇になれなかった理由は母が卑母だったからである
皇位継承が純粋な男系主義なら天皇の長子が母の身分に
関係無く皇位に就けるはずだが、女系主義が色濃く反映
されているから、母の身分が皇位継承権者を決める要素になる
一次史料よりも、二次史料、三次史料を重要視する、その感覚が分からない。
まずは日本書紀ではないですかね?
これを否定したら、全ての歴史は「嘘」になりかねない。
日本書紀では天武天皇の没年齢は算定できない
従って天武の没年齢に関しては日本書紀は
全く役立たない史料と言える
しかし本朝皇胤紹運録では天武の没年齢が65歳と記述されてる
また天智の没年齢58歳と記述されており、天智と天武の没年から
算定すると天智(兄)天武(弟)という、日本書紀の記述通りの結果になる
しかし日本書紀では天智(兄)天武(弟)と記述しながら、その根拠を
没年齢では示すことが不可能だから、本朝皇胤紹運録を使い
天智(兄)天武(弟)と言う日本書紀の記述の補強を行った
>>658 訂正
しかし日本書紀では×
つまり日本書紀では○
簡単に言えば、日本書紀の記述の正しさを
本朝皇胤紹運録で補強したのである
兄弟じゃなかったとするのが、一番自然で無理がない。
>>660 それでは日本書紀の記述を完全否定する事になるぞ
漢皇子説(俺はその説撤回したが)でさえ葛城と兄弟の
順番は代るが、異父兄弟だから兄弟ではあるのに
それ以上に無謀な説だ>非兄弟説は
日本書紀と
本朝皇胤紹運録という
二つの史料を使う事で
天智と天武は兄弟だったと
立証可能
立証可能なのは、そういう捏造をしたかったという内容だけ。
>>663 本朝皇胤紹運録が捏造史料という証拠はどこにもない
>664
本朝皇胤紹運録は旧唐書ではなく、新唐書を前提に書いている以上、捏造があると思われる。
捏造があると言われても、本朝皇胤紹運録の舒明、皇極(斉明)、持統
文武、元明、元正、聖武天皇の没年齢記述は、日本書紀や続日本紀から
算定される没年齢と同一だから、天智と天武の没年齢だけ捏造というのは
はっきり言って説得力に欠ける
九州王朝と畿内王権の権力2重性に触れる部分を、
隠蔽した資料をベースにしているので、
洞院満季らがその積りがなくとも、それを持ち込んでいる。
668 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 08:27:30
>>643 >なお日本書紀において没年齢が算定できない天皇は 天武のみで、
へえ、そうなんだ。舒明や皇極・孝徳も分かるの?
皆さん皇位継承の例外を古代に 発 見 できないと困るんですね
古事記を基準に応神天皇とか日本書紀で仲哀天皇とか
年齢を調べると血縁関係に疑惑ありですよ
>>668 日本書紀で神武から天武までで
その記述から没年齢が不明なのは天武だけ
日本書紀を読めば分かるから一度読んでみたら
>>658 >日本書紀では天武天皇の没年齢は算定できない
そんなことは分かってる。
言いたい事は、天武の没年齢は不明、という事。
>しかし本朝皇胤紹運録では天武の没年齢が65歳と記述されてる
>また天智の没年齢58歳と記述されており、天智と天武の没年から
>算定すると天智(兄)天武(弟)という、日本書紀の記述通りの結果になる
天智の没年齢が違っている。
日本書紀が12年、天智の年齢を、さば読んだけ
まあ干支(12年)だけ、さばを読むなんて
実に分かり易い、さばの読み方w
正しいのは本朝皇胤紹運録の天智58歳、天武65歳
これで二人は同父母兄弟になるから問題は解決
実は日本書紀だけ読んでいては、分からない事ってあるんだよね
例えば山背大兄王が、一体誰の子なのか?日本書紀を読んだだけでは
分からない
上宮聖徳太子伝補闕記を読むと、山背大兄が聖徳太子(厩戸皇子)の
長男だと分かる
それと同じように、日本書紀を読んだだけでは、天武の没年齢は
分からないと言うことです
674 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 20:51:48
日本書紀といえば、
その編集長の舎人親王は、天武の息子
その編纂方針は、朝廷(天武天皇とその系統)支配の正当性を歴史によって説明しようとする意図が強く
天武は、日本書紀の主人公といってよいほどの中心的人物
天武の業績だって、誇張や美化をされているはず
それなのに、その天武の没年齢だけ、書紀には書いてないって、絶対不自然だね
その代りに本朝皇胤紹運録に天武の没年齢は65歳と記述されてます
中世の史料の方が天智・天武兄弟を客観視することが可能だと
思えるから、天智58歳、天武65歳の没年齢は信用できます
簡単に言えば、本朝皇胤紹運録は天智とも天武とも利害関係を
直接持たない史料だからこそ、その記述の信頼性が担保されてると
言えるわけです
その点が、日本書紀と本朝皇胤紹運録との最大の違いです
>>672 さばをよまねばならない根拠はなんでしょう?
>>673 >それと同じように、日本書紀を読んだだけでは、天武の没年齢は
>分からないと言うことです
本朝皇胤紹運録では、天智の没年齢の違っている理由が分からないです。
山背大兄王云々とは、話が違うと思います。
>>674 >それなのに、その天武の没年齢だけ、書紀には書いてないって、絶対不自然だね
不自然ですが、理由は不明です。
>>675 >中世の史料の方が天智・天武兄弟を客観視することが可能だと
>思えるから、天智58歳、天武65歳の没年齢は信用できます
中世の史料に信頼を置く根拠が納得行きません。
日本書紀の記述の正確性は、考古学的にも実証されており、
敢えて、時代を下った後世の史料に信頼を置く姿勢に、「?」が付きました。
>中世の史料に信頼を置く根拠が納得行きません。
>日本書紀の記述の正確性は、考古学的にも実証されており、
>敢えて、時代を下った後世の史料に信頼を置く姿勢に、「?」が付きました。
日本書紀の編纂者は舎人親王、父は天武天皇、母方の祖父は天智天皇
つまり天智や天武の身内が編纂総裁の日本書紀の記述より、両者と利害を持たない
本朝皇胤紹運録の記述の方が信用出来ると言うこと
以上
天智の没年齢が58才
天武の没年齢が65才で
それで何か問題があるのかな?
天智と天武は同父母兄弟と言う
通説を否定したい人にとっては
本朝皇胤紹運録の記述は
迷惑だし都合が悪いから
否定したい気持ちは分かるけどね
>捏造する理由がない
何故なら天武の血筋は皇統から外れたからね
もし天武が皇統に関係のない簒奪者だったら
それを記述すれば良いだけの話しだけ
したがって天武天皇の没年齢は65才で問題ない
日本書紀で大海人皇子の没年齢が不明になっているのは
俺は葛城皇子の年齢をさば読んだからだと思っている
葛城の年齢をさば読んだ理由は、山背大兄王が率いる
上宮王家の滅亡に、実は葛城と鎌足が深く関与してるのを
隠蔽するために、葛城を実年齢から12才若く記述して
上宮王家滅亡に関与してないと装うためだと睨んでいる
もっと言えば葛城皇子にとって最も脅威の存在は
叔父の軽皇子でも、異母兄弟の古人大兄皇子でもなく
父である舒明のライバルであり、その後も有力皇位継承者で
あり続けた聖徳太子の長男であり、母方の祖父は蘇我馬子ある
山背大兄王
そして、その山背大兄王と上宮王家を滅ぼした張本人が
葛城皇子と中臣(藤原)鎌足
それを隠蔽するために、葛城の年齢を12才若くして事件の
範囲外に置いたのが日本書紀の詐術
>680
九州王朝系の天武の出生などややこしいことを書いたら、
ニニギからまっすぐ続いているように偽装した皇統が
ズタズタになっちゃうじゃないか。
唐以降の中国とは、倭が自然に畿内王権にシフトしたという
申し合わせが、武韋の禍以降にできている。
その約束がくずれちゃうじゃないか。
>>683 そんな約束は、天武系統が称徳天皇を最期に
永遠に皇統から離れてしまったのに意味があるのか疑問
それより葛城皇子が上宮王家滅亡の主犯だとする事の方が
今上まで皇統が続いている天智系統が、実は聖徳太子の子孫を
絶滅に追い込んだ事になるから、それこそ絶対に隠したい事だろう
つまり葛城皇子が上宮王家を滅ぼした主犯という史実は
天智の皇統が続く限り永遠に知られてはいけない
最大の皇室のタブーだと思われる
隠された十字架を書いた梅原猛も相当に良い線まで
真相(主犯が馬子ではなく鎌足)に迫れたけど
日本書紀のトリックに引っ掛かって最大の首謀者である
葛城皇子には迫れなかった
それは葛城の没年齢46才を信じてしまったから
上宮王家滅亡の時は18才で事件の圏外だと判断してしまったから
である
しかし実際の葛城の年齢は30才だったから、事件の首謀者に足り得る
年齢だった
>684
お前頭悪いな。旧唐書と新唐書を見比べろよ。
倭と日本の記述が全然違うだろ。
ここに大きな、日中列島史捏造合作があったのだ。
お前こそトンデモ電波だな
葛城皇子と中臣鎌足が山背大兄王と
上宮王家を滅ぼした首謀者だと言う事が
全然分かっていないその鈍感さに笑える
中臣鎌足が首謀者だと気づいた梅原にも
お前は及ばないわな
はっきり言って九州王朝説なんどと言う
ドンデモ史学にしがみ付いている限り
山背大兄王と上宮王家を滅ぼした首謀者は
山背大兄を皇位継承の上で、自分の最大の
ライバルとしていた認識していた葛城皇子という
日本書紀最大のタブー、そして天智系皇統にとって
絶対に秘匿したい史実にたどり着く事は出来ない
天智=鼠
690 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 11:15:08
年齢が違うだけなら単に大海人が兄で天智の方が弟だったって可能性無いの?
異父兄弟と同人物とかでなく2人共舒明天皇と宝大后の子で、順番違うだけとか…。
ところで漢皇子ってどんな人だったんですか?
宝皇女と先夫高向王の子という以外の話残ってます?
ないよ
>687−688
独り言は、チラシの裏にでも書いとけよ。
葛城皇子なんて端役、どうでもいいんだよ。
チラシの裏は九州王朝の方だろうw
>>691 日本書紀には漢皇子に関しての事歴は
高向王と斉明天皇の皇子という以外
何も記述されていない
葛城皇子なんて端役より、
いわゆる九州邪馬台国を
天武〜持統〜文武が滅ぼしたことのほうが
最大の隠蔽ネタだろ。
それはもう見解の相違ですね
俺にとっては葛城皇子と中臣鎌足が共謀して
山背大兄王と上宮王家を滅ぼした事の方が
重大な問題ですから
葛城皇子は聖徳太子と蘇我馬子の血を受け継ぐ
山背大兄王を殺害する事で、自分の最大のライバルを潰した
そしてその事を、葛城の歳を12才若くする事で日本書紀は隠蔽した
中世以前で最大の事件は壬申の乱だろ。
あれは、唐の「羈縻(きび)政策」傘下に入った
いわゆる九州邪馬台国からの独立運動だった。
その勝者が天武。
くだらねぇ、小物が狭い場所で
乳繰り合った事件なんてどうでもいい。
当時の唐と倭はこうだった。
新羅によって半島をたたき出された郭務宗の上官、劉仁願は
半島情勢の短期沈静化に失敗したために、668年8月
雲南省に左遷・配流されている。そんな中、平壌に置かれた
安東都護符は新羅に攻められて度々移転していた。
671年郭務宗が筑紫に来て捕虜=薩野馬(筑紫の君)を
帰還させる。676年唐は新羅統一により半島を完全撤収している。
郭務宗は負けが混んでいるさなかに、戦敗国倭国に対し
最大限、有利な取引を持ちかけたことだろう。則天武后から、
極東政策の失敗をきつく咎められ、必死だったに違いない。
郭務宗は唐が手なずけた薩野馬を国主とする羈縻(きび)政策
を強要してきたことだろう。
こんな中で天智が死ぬ。天武は属国化していく列島を、
畿内政権を乗っ取り、畿内から独立を勝ち取ろうとしたのだ。
>くだらねぇ、小物が狭い場所で
>乳繰り合った事件なんてどうでもいい。
君にとってはそうであっても俺にとっては
聖徳太子の子孫である山背大兄王と上宮王家を滅ぼした
葛城皇子と中臣鎌足、そしてそれを隠蔽した日本書紀の欺瞞を
暴くことが重要なのさ
643年の上宮王家滅亡と645年の蘇我本宗家滅亡
この二つの事件は連動していてその首謀者は葛城と鎌足
聖徳太子(厩戸皇子の血を受け継ぐ上宮王家は
押坂彦人大兄皇子の子孫である葛城にとって
皇位を争う敵である
そして、鎌足は蘇我本宗家に取って代る野望を持っていた
この二人の利害の一致が、上宮王家と蘇我本宗家を
滅ぼす陰謀へと発展したと言える
日本列島の権力者中、上位ではない聖徳太子など
隋も高句麗も相手にしていない。
上宮王家だの蘇我本宗家だのはコップの中の嵐。
そしてこのスレはデムパvsデムパのお猪口の中のアラシ
>>702 葛城皇子が上宮王家滅亡の首謀者という説は
他人から見ればデンパに見えるのか・・・OTL
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
天智は舒明の弟塞城、古事記でいうと中津王だ
蘇我宗家=上宮王家
蘇我入鹿=山背大兄
葛城皇子=蘇我入鹿
舒明天皇=余豊
中大兄皇子=塞上
>>703 定説では蘇我ですよね。
何か根拠があるのですか?
もし全く根拠無く思い込んでいるのならちょっとデンパかも…。
>>704 完全デンパ説のコピペウザイ。
>>705 上宮王家滅亡の首謀者を葛城皇子と中臣鎌足だとする根拠
梅原猛氏の「隠された十字架」
『上宮聖徳太子伝補闕記』
(「大織冠伝」『藤氏家伝』)
上宮王家と蘇我本宗家が滅亡して
最も得をする人物は誰か
異母兄弟である古人大兄皇子殺害
妻の父である蘇我倉山田石川麻呂一家絶滅
従兄妹である有間皇子殺害
叔父である孝徳天皇への不遜な態度
同父母弟である大海人皇子への冷たい仕打ち
これら分かる葛城皇子の異常な程の冷酷な性格
そして日本書紀の葛城皇子の年齢さば読み
以上を、総合的に考察した結果
山背大兄王を殺害の首謀者は葛城皇子と言う結論に至りました
妄想学者、梅原猛さん、ごくろうさん。
708 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 16:15:00
天智の皇統がここまで続いていなければ
こんな擁護が付くことも無かったのに…
いまこそ天皇制廃止を!
709 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/08(木) 21:25:38
>>706 何でそれを総合的に考察した結果その2人が首謀者だって事になったのですか?
身内殺害、不遜な態度等から中大兄が冷酷な性格だったと言うのは分かりますが、
中大兄が冷酷な性格だった事は上宮王家滅亡の首謀者だと言う事の根拠にはならないのでは?
>>710 そうですねー、皇位につく為に邪魔な山背大兄皇子を殺すのなら
古人大兄皇子にも動機はありますね。 軽皇子も可能性ありそうだし。
>>710 その根拠葛城の動機で、その動機とは皇位継承争い
もっと言ってしまえば、敏達系皇族の中で最有力葛城皇子にとって
用明系皇族の中で最有力の山背大兄王とその子孫は邪魔だった
葛城皇子:父は舒明天皇、母は皇極天皇(宝皇后)
山背大兄王:父は聖徳太子、母は蘇我刀自古(馬子の娘)
つまり山背大兄王は、隋と対等外交を展開し、十七条憲法を制定し
官位十二階を定めた、偉大な聖徳太子の長男であり
母の刀自古は大和豪族最大の勢力を持つ蘇我宗家の出身
つまり山背大兄王と蘇我宗家が存在する限り
葛城皇子は自らが皇位に就き、独裁政治を行えないから
上宮王家と蘇我宗家を滅ぼしたいと考えた
この事は、蘇我宗家に代って大和最大の豪族となりたいという
野心を抱いていた中臣鎌足の野望とも一致していた
>>711 軽皇子や古人大兄皇子のような小心モノには
皇族殺し、特に聖徳太子の子孫の絶滅なんて無理ですからw
軽や古人大兄にそれだけの甲斐性があるなら、葛城皇子の独裁なんて
不可能でした
逆に言えば葛城の独裁を押さえられる徳と力を持っていたのは
聖徳太子の長男である山背大兄王だけ
そして上宮王家絶滅なんて非道な事は、兄弟である古人大兄皇子を殺し
孝徳天皇の皇子で従兄妹である有間皇子を殺し、兄弟である
大海人皇子を殺そうとした、冷酷無比な葛城皇子にしか出来ないことです
>>712 その根拠葛城の動機で×
その根拠は葛城の動機で○
>軽皇子や古人大兄皇子のような小心モノには
>皇族殺し、特に聖徳太子の子孫の絶滅なんて無理ですからw
>軽や古人大兄にそれだけの甲斐性があるなら、葛城皇子の独裁なんて
>不可能でした
そんな小人物ならわざわざ殺したり、皇位につける必要はないけどね。
ようするに証拠は何もないわけですね。
軽は無能だから皇位につけたが所詮は葛城のロボット
古人大兄は蘇我宗家が滅びたから殺す必要は
なかったけど殺したところこそ、葛城の冷酷非道さを示す証拠
しかし直接の葛城が殊遇王家を滅ぼしたと言う証拠はない
日本書紀に隠蔽されてしまった
それに天智系皇統が現在まで続いている事も、証拠を探す点で
著しく困難な仕事
まあ上宮王家を滅ぼした犯人を蘇我宗家に押し付けたのは正解だったな
蘇我宗家も滅びたから冤罪を主張する事も出来ない
したがって証拠の断片を注意深く探し、それらの点を線として繋がる
作業が必要になる
それが子孫まで完全に絶滅した上宮王家と蘇我宗家の無念を
晴らす事にも繋がる
718 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 01:52:45
>>716 証拠が無いと言う事は日本書紀が隠蔽したと言う証拠も無いのでは?
>>718 「日本書紀」が事実を隠蔽していたことは
『上宮聖徳太子伝補闕記』を読めば分かる
「日本書紀」では蘇我入鹿が単独首謀者になってるけど
『上宮聖徳太子伝補闕記』では、入鹿と孝徳天皇の共謀になっている
この時点で、入鹿を単独首謀者にした日本書紀の欺瞞が判明してる
しかし上宮聖徳伝補闕記は平安時代に記述されて歴史書
そして平安時代は天智系皇統(これは現在の皇統も同じ)
また藤原氏の全盛期でもある(藤原氏の祖先は鎌足)
従って、まだ本当の真実は記述できずに、皇統が絶えている
(有間皇子の処刑の為)孝徳天皇と、子孫まで完全に全滅した
蘇我宗家に、その罪を擦り付けるしかなかった
つまり聖徳太子の子孫は絶滅、蘇我宗家の子孫も絶滅
孝徳天皇の子孫も絶滅
上宮王家を絶滅させた首謀者を、これまた子孫が絶滅した
孝徳天皇と蘇我宗家に仕立てあげる事で、天智系皇統と
藤原氏は、聖徳太子の子孫を皆殺しにしたと言う罪を
実に見事に隠匿できたのである
「日本書紀」が事実を隠蔽していたことは
『上宮聖徳太子伝補闕記』を読めば分かる
「日本書紀」では蘇我入鹿が単独首謀者になってるけど
『上宮聖徳太子伝補闕記』では、入鹿と孝徳天皇の共謀になっている
この時点で、入鹿を単独首謀者にした日本書紀の欺瞞が判明してる
しかし上宮聖徳伝補闕記は平安時代に記述されて歴史書
そして平安時代は天智系皇統(これは現在の皇統も同じ)
また藤原氏の全盛期でもある(藤原氏の祖先は鎌足)
従って、まだ本当の真実は記述できずに、皇統が絶えている
(有間皇子の処刑の為)孝徳天皇と、子孫まで完全に全滅した
蘇我宗家に、その罪を擦り付けるしかなかった
つまり聖徳太子の子孫は絶滅、蘇我宗家の子孫も絶滅
孝徳天皇の子孫も絶滅
上宮王家を絶滅させた首謀者を、これまた子孫が絶滅した
孝徳天皇と蘇我宗家に仕立てあげる事で、天智系皇統と
藤原氏は、聖徳太子の子孫を皆殺しにしたと言う罪を
実に見事に隠匿できたのである
>>720 上宮王家を滅ぼしたのが蘇我家単独ではなく蘇我氏+軽皇子と書いてあるだけでしょ?
中大兄皇子と中臣鎌足が出てきたら困るから子孫が隠したって証拠は何処にもないですが。
ついでに蘇我入鹿暗殺の主犯は軽皇子で中大兄皇子達は単なる実行役という説もあるわけですが
同じように上宮王家滅亡の際も使いっぱしりしてた可能性だってあるわけだし。
後に大きな権力を握ったからといって若い頃から権力握っていたとは決め付けられないでしょ?
資質はあったかもしれないけど年齢とか対抗者とかも関係するわけですから。
まず蘇我入鹿の単独首謀説が崩れた時点で日本書紀の記述は
上宮王家絶滅事件の記述の信用性が崩れた
それは平安時代には既に入鹿単独首謀説を展開するのは無理が
あった事の明白なる証拠
次ぎに孝徳天皇に力があったのなら、葛城皇子が孝徳を置き去りにして
難波宮から大和へ戻った時に、皇極上皇、皇后、皇族、群臣までが
孝徳を宮に置き去りにして葛城に従い大和に戻る事などあり得なかったはず
通常の力関係なら天皇>皇太子が当然で、葛城の行為は天皇に
対する明確な反逆行為なのに、その反逆行為の方が支持された事から
孝徳天皇は葛城の単なるロボットだった事が判明
つまり葛城のロボットにすぎない孝徳が、山背大兄王殺害の首謀者だったとは
とても思えないのである
そして偉大な聖徳太子の長男である山背大兄王は、孝徳などとは違って
葛城如きのロボットになる事を潔しとしない人物だから、葛城にとって
最も危険な皇位継承権者なので滅ぼした
いかしそれを孝徳のせいにしたのは、上宮聖徳太子伝補闕記が
書かれたのが平安時代で、その時の皇統は山背大兄を滅ぼした
天智の子孫だった為に、葛城の名を出す事が憚れたため
逆に孝徳の子孫は滅亡していたから犯人に仕立てるのが簡単だった
>>722 だからそういう天皇をないがしろに出来る権力を握ったとされるのは孝徳天皇が在位していた時代の話でしょう。
書紀の記述が信用できないのならば上皇や有力豪族のほうがイニシアチブを持っていて中大兄が
それこそロボットだったかもしれない。
以前からそういう大きな権限を持っていたのなら、蘇我氏滅亡後にリリーフを立てずに
母親から譲位されて即位すればいいでしょう。
上宮王家が滅んだとき中大兄皇子は17才ですけど、すでに権力を持っていたと考えるのですか?
上宮王家が滅んだ時の葛城皇子の年齢は30才
そして葛城が、蘇我宗家を滅ぼしたの32才の時
その時、直ちに即位ぜずロボット孝徳を天皇に据え
自分は皇太子になった理由は、自分が天皇になると
大海人皇子(24才)が皇太子になるから、それを
防ぐため
葛城皇子が天皇に即位するのを引き延ばした理由は
自分が即位すると大海人皇子が皇太子になるから
自分の子に皇位を継がせたい葛城は、自分の子が
成長するまで天皇に即位できなかった
つまり間人皇后(孝徳の皇后)との、同父母近親相姦の為ではない
舒明天皇(593〜641)49歳:日本書紀、本朝皇胤紹運録とも同一
皇極(斉明)天皇(594〜661)68歳:日本書紀、本朝皇胤紹運録とも同一
天智天皇(626〜671)46歳:日本書紀
天智天皇(614〜671)58歳:本朝皇胤紹運録
天武天皇(?〜686)?歳:日本書紀
天武天皇(622〜686)65歳:本朝皇胤紹運録
日本書紀の記述だと天智は、皇極が33歳の時に産んだ子供
その後に間人皇后と天武天皇を、皇極が本当に産めたのか生理的に問題あり
しかし本朝皇胤紹運録の記述なら天智は、皇極が21歳の時に産んだ子で
天武は皇極が29歳の時に産んだ子になるから生理的に何の問題もない
つまり日本書紀の天智天皇の年齢記述は、皇極天皇の生理的問題からも
無理があるといえる
727 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 20:33:00
>>726 天智と天武の年齢差を7歳とすると、
33歳で天智を生んだ皇極は、天武を生んだ時40歳。
ぎりぎり可能では?
>>727 栄養事情が現代より遥かに悪い古代において
40歳の出産は生理的に非常に困難だと思われ
やっぱり本朝皇胤紹運録の記述とおり
皇極が天武を産んだのは29歳とする方が
生理的には問題が少ない
まず持統天皇が草壁皇子を産んだのは持統が24歳の時
また元明天皇が元正天皇を産んだのは元明が20歳の時で
文武天皇を産んだのは元明が23歳の時
そして光明皇后が孝謙天皇を産んだのは光明が18歳の時で
基皇子を産んだのは光明が27歳の時
以上の例から見ても、やはり皇極(斉明)の40歳での出産は事実上
無理だと思われますから、日本書紀の天智の年齢は信用出来ません
>>727が皇極(斉明)と同じく古代(飛鳥〜奈良時代)の人物で
40歳で出産した女性の事例を挙げない限り
>>727の推論は何の根拠も持たない事になります
皇極がものすごくブサイクな女だったとすれば、結婚が極端に遅いのも不思議でない。
皇極がものすごくスケベな女だったとすれば、40代でセックスしたとしても不思議でない。
また、古代は栄養事情が悪いといっても、それは庶民の話であって、天皇皇族はいいものを食っていた。
732 :
↑:2005/12/11(日) 16:12:40
当時は顔の美醜より、出産能力を含めた健康さが、女の価値だろう。
733 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 16:52:57
>>729 再婚だから他より年齢高いじゃない?
ところで何で高向王(?)と離別したのかな。
離婚か死別か資料にあります?
>>732 身分もじゃない?
734 :
733:2005/12/11(日) 16:53:31
年齢高いじゃない?→年齢高いんじゃない? だった…。
すいません。
735 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 17:24:00
昔は10代から40代まで産み続けることよくあります。
>>733 初婚、再婚の問題より40歳の女性が古代において
生理的に出産が可能かどうかの方が問題です
あと皇極天皇と高向王が離婚か死別か一切不明
>>735 10代に関しては光明皇后も孝謙天皇を18歳で出産しています
ですから飛鳥時代〜奈良時代において40代で出産した女性を
具体名で提示してください
やっぱり天智天皇は
天智天皇(626〜671)46歳:日本書紀×
天智天皇(614〜671)58歳:本朝皇胤紹運録○
そして天武天皇は
天武天皇(?〜686)?歳:日本書紀×
天武天皇(622〜686)65歳:本朝皇胤紹運録○
が、妥当だと思われ
親である舒明と皇極の二人は日本書紀、本朝皇胤紹運録とも同じ没年齢になるのに
その子である、天智と天武の二人の没年齢が異なるのは、書紀が偽造したからだと思われ
739 :
↑:2005/12/11(日) 19:57:25
ほぼ同時代資料よりも
はるかな後世資料が正しいとするのは、
相当な根拠が必要。
チョト弱いかな。
>>739 まず同時代の史料の方が事象に対する客観性に欠ける
そして舒明と皇極は日本書紀、本朝皇胤紹運録とも同じだから
余計に天智の年齢の違いが怪しいと思われ
また他の天皇の没年齢に関しても、本朝皇胤紹運録の記述は
実に正確だから、非常に信頼性が高い史料と言える
結局、飛鳥〜奈良時代において
40代で出産した女性は
居ないという事で良いのかな
>740
>実に正確だから
こんな理由じゃチョト弱いな。
舒明天皇(593〜641)49歳:日本書紀
舒明天皇(593〜641)49歳:本朝皇胤紹運録
皇極(斉明)天皇(594〜661)68歳:日本書紀
皇極(斉明)天皇(594〜661)68歳:本朝皇胤紹運録
孝徳天皇(597〜654)58歳:日本書紀
孝徳天皇(?〜654)?歳:本朝皇胤紹運録
天智天皇(626〜671)46歳:日本書紀
天智天皇(614〜671)58歳:本朝皇胤紹運録
天武天皇(?〜686)?歳:日本書紀
天武天皇(622〜686)65歳:本朝皇胤紹運録
持統天皇(645〜702)58歳:続日本紀
持統天皇(645〜702)58歳:本朝皇胤紹運録
文武天皇(683〜707)25歳:続日本紀
文武天皇(683〜707)25歳:本朝皇胤紹運録
元明天皇(661〜721)61歳:続日本紀
元明天皇(661〜721)61歳:本朝皇胤紹運録
元正天皇(680〜748)69歳:続日本紀
元正天皇(681〜748)68歳:本朝皇胤紹運録
聖武天皇(701〜756)56歳:続日本紀
聖武天皇(701〜756)56歳:本朝皇胤紹運録
孝謙(称徳)天皇(718〜770)53歳:続日本紀
孝謙(称徳)天皇(718〜770)53歳:本朝皇胤紹運録
淳仁天皇(733〜765)33歳:続日本紀
淳仁天皇(733〜765)33歳:本朝皇胤紹運録
光仁天皇(709〜781)73歳:続日本紀
光仁天皇(709〜781)73歳:本朝皇胤紹運録
日本書紀、続日本紀と本朝皇胤紹運録とで没年齢が違うのは
孝徳、天智、天武、元正の4人、そのうち元正の違いは1歳だけ
これを見ても本朝皇胤紹運録の記述の正確性が裏打ちされている
おいおい、同時代資料の続日本紀と、他を並列するなよ。
原典批判失格。
はぁ?
本朝皇胤紹運録の没年齢記述の信頼性を示しただけですが
テキストクリティークを知らない人とはコミュニケートが成り立ちませんねw
はあ?って判らなければ、失格だな。
同時代資料を第一とするのが基本。
よほどの理由が無ければ、
後世の書の正確さに根拠なし。
同時代の史料に問題がある場合、後世の史料で検証する
その後世の史料の正確性を調べるために、同時代の史料と比較検討する
そんな基本的な史料操作も分からない人とは議論なんて無理ですw
日本書紀と続日本紀を同列に並べた時点で池沼ですな。残念でした。
池沼さを示してるのは自分だと言う事に気づいてないから笑える
こりゃ救いがたいからもういいわ。
とんでもない低能さんには本当に困るなぁw
日本書紀の記述では天武の没年齢が不明だから
本当に天武が天智の弟なのか確定出来ないから
こういう疑問のスレが立ってるのにそのスレタイの意味も
分からないお馬鹿さんは、正直言って困ります
もう一度言いますけど、日本書紀だけでは本当に天武が
天智の弟かどうか、天武の没年齢が不明から確定出来ません
はっきり言って池沼さんがありがってる日本書紀では
天智と天武が本当に同父母兄弟なのかという
決定的な確証が、天武の没年齢が不明の為に取れません
従って日本書紀の記述とおり、天武が天智と同父母弟だと立証する為には
日本書紀以外の史料を使う必要性があるのに、それに気がつがない点こそが
あなたが“池沼”だと言われる理由ですよw
>>752 ありがってる日本書紀では×
ありがたがってる日本書紀では○
そもその池沼さんは、天智と天武が同父母兄弟なのか
異父同母兄弟(大海人皇子=漢皇子)説なのか
それとも兄弟ではないのか、このスレタイから言って
それについて述べるのが先決です
私自身は、本朝皇胤紹運録の記述を信用しますから、天智と天武は
同父母兄弟だと認識しています
一時は大海人皇子=漢皇子説に魅力を感じ、このスレでもそちらの方向で
レスしましたが、天智天皇の没年齢は日本書紀を採用し、天武天皇の没年齢は
本朝皇胤紹運録を採用するという、史料操作上の重大な欠陥をレスで指摘され
天武天皇=漢皇子説を撤回致しました
>私自身は、本朝皇胤紹運録の記述を信用しますから
後小松が自らの後光厳系皇統の正統化の証明として作らせたのが
本朝皇胤紹運録。完成は応永33年=1426年。
これだから池沼さんには呆れるなぁ・・・
日本書紀の記述だけでは、天智兄、天武弟という事が立証できない事を
これだけ説明しても、全然理解出来ないのには正直言って驚きだよ
つーか2chでもこんな馬鹿を始めて知ったw
日本書紀と本朝皇胤紹運録をの二つの史料を総合して考察する事で
天智と天武が同父母兄弟だと立証できるのだよ>池沼君w
それとも池沼君は日本書紀の記述だけで
天智兄、天武弟だと立証出来ると思ってるのかなw
758 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 01:34:21
粘着カキコごくろうさん
759 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 02:02:54
>>741 そもそもいるとかいないだとか判断出来るほどに記録が多くないのでは?
760 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 02:13:25
>>729 下の2人は早くに夫亡くしてなかった?
何才か忘れたけど。
761 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 04:12:23
>756
これは単なる信仰だわな。
>>天智と天武が同父母兄弟だと立証できるのだよ>池沼君w
762 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 04:14:17
兄弟のわけね〜だろ、ボケ>757
>>760 早く夫を亡くしたのは元明だけ、持統の夫は65歳まで生存
光明の夫は56歳まで生存
しかし二人とも出産は20代
>>762 池沼君、二人が兄弟ではないという根拠は何に?
学会の通説は天智兄で天武弟だから、その通説を
否定するのには、余程の根拠がない限りは
君の言い分は単なるデンパに杉ません
しかし池沼の上にデンパとは恐れ入りますw
日本書紀では天武は天智の同父母弟と記述しているが
その天武の生年は不明だから、兄弟ではないと
主張したいのかな>池沼デンパ君
そもそも皇極天皇が40歳で天武を産んだという史料はない
日本書紀では皇極が天武を何歳で産んだのかまるっきり不明
本朝皇胤紹運録では皇極は天武を29歳の時に産んだ事になる
池沼デンパ義士は九州王朝支持者っぽいから
天武が弟だと困るのでは〜?w
>>766は
>>727への疑問
皇極天皇が天武を40歳の時に産んだという根拠は?
日本書紀では皇極が天武を何歳で産んだか不明ですよ
>>767 池沼デンパ君の正体は九州王朝支持者ですかw
大和氏の大海人皇子=漢皇子説には魅力を感じ、俺も一時は支持した説です
しかし俺自身の、史料操作の不備・欠陥を指摘され撤回し、現在は通説を支持
九州王朝説(天武は九州の有力氏族説)に関しては、さすがにデンパすぎて
その説の支持は一切出来ません
>>769 だな。九州王朝説は俺の『舒明は義慈元年に王の名代
として倭国に派遣された男だよ』説にも劣る駄説だよ幼稚杉w
771 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 13:05:02
と、耄碌爺が申しております
772 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 13:09:25
脳が溶けちゃったんだなw
勝手に信仰してろ。
>私自身は、本朝皇胤紹運録の記述を信用しますから
773 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 18:16:35
>>770 そっちよりはましでしょ。
しつこくコピペするだけで根拠も提示しないデンパよりね。
774 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 19:23:22
日本書紀に2人が舒明、皇極天皇の皇子だって記述無い?
あるのなら兄弟で良いんじゃね?
兄と弟が逆でも皇后と先夫の子でも兄弟ではあるんだし。
>>770 これまた強烈なデンパですなw
舒明天皇(田村皇子)は押坂彦人大兄皇子の子供ですよww
>>774 日本書紀の記述からは天武の生年が算定できない
したがって日本書紀だけでは、天武が天智の弟という
立証は不可能なにです
だから大和氏の天武天皇=漢皇子説はデンパ説あつかいを
受けないのです
しかし九州王朝説だとか、舒明が義慈王の代理として倭国に派遣されたとか言う説は
完全なデンパで、まとまな学者は誰も問題にもしていませんw
天武天皇・大海人皇子説。この場合は天武は葛城皇子の同父母弟
(学会の通説、俺も現在は通説を支持)
天武天皇・漢皇子説。この場合天武は葛城皇子の異父同母兄
(大和氏が提唱した説、この説の賛同者はけっこういます
俺も一時はこちらの説を支持してました)
池沼連呼にワロスwww
何で兄弟なんだよ。信仰か?
池沼デンパ君、まずは日本書紀を嫁
池沼君。兄弟だって電波ヤメレ。
まあ日本書紀にも色々と問題はあるが
池沼クンには日本書紀がデンパ書に見えるかw
妄想で兄弟にしちゃった電波君哀れ
書紀のどこにも舒明、孝徳、斉明の年齢の記載が見当たらない
池沼デンパ君に教えてあげるw
通説は天武天皇は天智天皇の同父母兄弟
大和説は天武天皇は天智天皇の異父同母兄
それ以外の説はデンパ、妄想の類
池沼くんが史学科の学生で、古代史で卒論を書くなら
早く更正する事を望む
池沼君が史学科の学生でなければ、一生妄想の中で
遊んでなさい
786 :
↑:2005/12/13(火) 03:45:55
通説を信仰しちゃったワケね。たまには学問しようよ。
通説を否定した結果がデンパではお話になりませんよ>池沼デンパ君w
>>784 同じく、舒明紀、皇極紀、孝徳紀を読んだけど年齢が算定出来る
記述を発見出来ません・・・
大騒ぎした挙句に、根拠は「通説」だってよ。
こんな馬鹿相手にしてもなぁ〜!
791 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 17:46:42
漢皇子説でも兄弟じゃないの?
仮に舒明の子ではなくても、どっちも宝大后の子だよね。
792 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 17:48:53
舒明が義慈王の代理ってレス良くあるけど、具体的な根拠は何かあるの?
言動が日本人とは思えないだとか主観的な事意外に。
>>791 その通りです
天武天皇が漢皇子でも葛城皇子と兄弟です
その関係が同父母兄弟から異父同母兄弟に変り
漢皇子の方が兄になりますが兄弟です
大和氏の天武天皇=漢皇子説が支持される理由は、天武の没年齢が
不明な事と、漢皇子という高向王と皇極(斉明)天皇の子という以外
一切経歴不明の皇子が、斉明紀に記述された事です(皇極紀には記述なし)
>785
>通説は天武天皇は天智天皇の同父母兄弟
( ゚Д゚)ポカーン
斉明は初め用明天皇の孫である高向王と結婚して漢皇子を産んだ
後に舒明天皇と結婚して葛城皇子、間人皇女、大海人皇子を産んだ
(「日本書紀」『斉明紀』より意訳)
797 :
通説の人じゃないけど:2005/12/13(火) 23:38:39
通説って最も支持されている説って事でないの?
通説ではって別に変な事ではないのでは。
全然支持されて無い事を通説では〜って言ってたら変だけど。
根拠だそうです。
>私自身は、本朝皇胤紹運録の記述を信用しますから
799 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 23:42:53
九州王朝説の人は根拠提示しているけど、
義慈王の代理云々は根拠も提示せずしつこくコピペしているだけだし、
何かあっちの人は日本の偉人とか文化とかを根拠も無く半島起源認定するから
デンパ扱いされても仕方無いんじゃない?
800 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 14:33:45
古人事件、石川麻呂事件、有馬事件いずれも書紀には中大兄がぬれぎぬを着せて葬り去ったと読める。
有馬事件なんか赤兄と妙にリアルなやりとりがある
持統や元明もいるのになぜ中大兄をそこまで下げるのか?
やはり天武の素性に何かあるから?
葛城皇子は冷酷で猜疑心の強い性格なんだろう
古人大兄皇子や有間皇子は皇位継承権を持つから潰した
それと天武が大海人皇子(通説)だろうと
漢皇子(大和説)だろうと、その素性に何の問題もない
母が卑母だった伊賀皇子より遥かに有力な皇位継承権者
なぜ葛城皇子が即位を遅らせたか?
天皇不執政説は、天武天皇の例から否定されている
近親相姦説は、直木氏と吉永氏以外に余り支持されてない
俺は前のレスでも既に述べたけど、伊賀皇子の成長を
待っていた説
自分が即位したら皇太子に大海人皇子がなる可能性が高いし
実際にそうなったが、天智としては自分の血筋に皇統を独占したと言う
野望を持っていたと思われ、だから伊賀皇子がある程度の年齢になる
まで即位を遅らせ、大海人を廃太子した上で伊賀を皇太子にして
天皇にしようと企んでいたと思われ
668年に葛城が即位した時、伊賀は21歳になっていたから
成人した事になる
(傍証ではあるが、大宝令では21歳で初叙される規定になっている)
>>802 それなら大海人皇子に罪を被せて葬ればよいのでは?
古人大兄皇子も有馬皇子もそうしたように。
兄弟の情に勝てなかったのか、大海人の勢力が強すぎて手をだせなかったのか
でもその割に大海人の即位前の活躍って記紀に記されていませんね。
殺さずとも、流罪にするとか手はあるような気がするんですけど。
天武が漢皇子でも大海人皇子でも皇極(斉明)天皇の息子
だから斉明天皇が生存中は手が出せない
天皇没後は白村江の敗戦と都を大和から近江に移すと言う
事業の為に、葛城としても漢OR大海人殺害は自重したと思われ
それでも(「大織冠伝」『藤氏家伝』)には、大海人が天智の前で
長刀を振り回し、それに激怒した天智が大海人殺害を命令
それを鎌足が諌めたという記述がある
>>804 それだけだと単なる乱暴者だし。
鎌足を持ち上げるだけの内容でしょ。
政治的/軍事的な功績とか一切記録にないのに有力者なのは何故かなと。
>>805 実際、際立った功績を大海人皇子が挙げてなかったら
それを史書に記述する事は歴史の捏造でしょう
つまり壬申戦争以前の大海人皇子は、際立った功績は
挙げていなかった
807 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 21:19:54
大海人には熱田や息長の勢力が加担している
継体擁立が坂田氏や尾張氏などによるのと似ている
東国の経済力と大海人のつながりが、中大兄が手を出せない理由の一つでは?
壬申戦争において、大和の名門豪族で大海人皇子側に付いたのは
大伴氏(馬来田、吹負)くらいで、蘇我氏(赤兄、果安)、中臣金、巨勢人
紀大人と言った諸豪族は、伊賀皇子側に付いた事から見ても、大海人は
名門豪族に高く評価される程の功績を、壬申以前には挙げていなかった
のかも知れない
まあ壬申戦争で名門豪族が味方をしなかったおかげで
天武天皇は大臣を一人も置かない治世が可能だった
天智天皇でさえ伊賀皇子の行く末を名門豪族に託す為か
蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣に任じたと言うのに
天武の治世では、大臣は誰一人として存在はしなかった
他スレからコピペ
↓
畿内王権が九州王朝にはっきりと従わなくなったのは天智からです。
661年から663年の唐戦に畿内軍が参戦しなかったことです。
天智の九州王朝に対しての反乱ですね。
663年白村江戦で九州王朝が唐に破れ、671年迄畿内は独立状態が続きます。
671年唐と九州王朝の和平により、九州王朝天武の畿内天智征伐が壬申の乱になるわけです。
天武の死後持統期には、畿内勢力は力を盛返し、弱体化した九州王朝への軍事侵攻を開始したのです。
九州王朝への畿内勢力の軍事侵攻は3度ありました。
仲哀の侵攻に対して応神の畿内征伐、
継体の侵攻に対して欽明の畿内平定、
天智の反乱に対して天武の畿内鎮圧。
いずれも九州王朝軍主力の半島出兵の間隙を狙って九州に出兵したものです。
又陸戦武力は重装備(木鉄製甲冑)の畿内軍は軽装備(皮製甲冑)の九州軍を上まわるものでした。
九州王朝軍が強かったのは、船による機動力を生かした海上からの上陸作戦のようです。(米海兵隊の様?)
>九州王朝に「日出ずるところの天子〜」とか言える冴えた人物がいて、
>その業績を書紀では聖徳太子に乗り移らせたんかいな、とか思ってるんですが。
そうだと思います。
アメノタリシホコ
法を以て国を治めた人物。元号「法興」を持ち、「天皇」に対し並ぶ尊称「法皇」と呼ばれた。
宗像氏の出身。
>>810 神功皇后は確かに九州から機内に侵攻して仲哀の皇子二人
(かご坂皇子、忍熊皇子)を殺してる事が日本書紀からも
確認出来る
しかし継体の場合は、越前から機内に侵攻してるから九州とは
全然関係ない
813 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/15(木) 01:19:55
>>811 >しかし継体の場合は、越前から機内に侵攻してるから九州とは全然関係ない
継体は越前から畿内に侵攻し畿内を支配後、九州に侵攻し一時的に九州に勝った。
磐井の乱のこと。
九州占領の継続には失敗しているが、侵攻前に物部と継体は支配地分割の密約をしている。
わかりにくいのは、継体死後の九州王朝派である欽明の畿内支配。
>>813 宣化・安閑両天皇と欽明天皇の両朝対立があったという
林屋達三郎説の拡大解釈ですか
継体の子である宣化・安閑朝が畿内勢力で、それと九州勢力の
欽明朝が対立してニ朝体制が一時的に成立、しかし欽明側が
安閑天皇を滅ぼして畿内も制圧したとか・・・
>>814 訂正
宣化・安閑両天皇×
安閑・宣化両天皇○
宣化・安閑朝×
安閑・宣化朝○
安閑天皇を滅ぼして×
宣化天皇を滅ぼして○
816 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2005/12/15(木) 02:11:51
>>814 >安閑・宣化両天皇と欽明天皇の両朝対立があったという林屋達三郎説の拡大解釈ですか
拡大解釈ではありません。
欽明存在の不自然さが林屋達三郎説を生んだのではないでしょうか?
僕の場合は欽明朝へ疑問が九州王朝と結びついたのです。
確かに継体、安閑、宣化、欽明の四王朝には謎が多い点には同意です
継体の没年齢は古事記では527年に43才で没、日本書紀では531年82才で没
しかし同じ日本書紀がわざわざ(注)を付けて534年に没という説も紹介
そして531年に関しては百済本紀の記述を採用したと述べている点
安閑天皇即位の年も日本書紀は、531年即位と534年即位という
自己矛盾を犯している
また欽明天皇の即位も日本書紀では539年としているが
「上宮聖徳法王帝説」では、欽明の即位531年になる
仏教伝来に関しては日本書紀の552年という記述より
上宮聖徳法王帝説の538年という記述が通説になる位
その史料価値が高い
(「元興寺縁起」も538年と記述)
以上の記述は、『神話から歴史へ』(中央公論社『日本の歴史』1)を、基づいています
私は九州王朝説については反対の立場ですが、これだけの謎が
継体〜欽明朝にあるのですから、この4代の皇位継承が順調に進んだとは
思ってはいません、大伴氏、物部氏、蘇我氏の激しい権力闘争が展開された事が
反映されたものだと思っています
そして井上光貞氏は反対してますが、私は林屋達三郎氏の言う
ニ朝対立(安閑・宣化朝VS欽明朝)はあったと思っています
欽明天皇の即位は史料価値が高い、上宮聖徳法王帝説の記述とおり
531年とし、また安閑天皇の即位は日本書紀の記述とおり531年と
考えればニ朝対立は存在した事になる
井上説の最大の弱点は、上宮聖徳法王帝説の欽明天皇531年即位は
認める立場で、一旦即位した欽明天皇が退位して、安閑、宣化天皇が
相次いで即位したと言う点にあると思われます
少なくとも史料上からは、欽明天皇が一旦退位したという証拠はありません
史料から言えることは、欽明天皇は531年に即位し、安閑天皇もまた
531年に即位したと言う事です
821 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:06:42
聖徳太子の母親が佐富女王出産したのって何才の時なのか記録あります?
こっちも再婚だから年齢高くないかな?
>>821 穴穂部間人皇后は生年不詳なので何歳で左富女王を産んだのか不明です
日本書紀では天武の年齢は不明
日本書紀の舒明十三年十月十八日条
東宮開別皇子(天智天皇)16歳の記述は事実なのか?
まず確実に嘘だと分かるのは、この時点で葛城皇子は
東宮=皇太子ではなかったのに、東宮と記述している点
これは明確な歴史の捏造だから、年齢の記述も信用できない
天武天皇の皇子が創建に関わった寺院で古いものがある一方で高市皇子の様な例も
ある。天智天皇、大友皇子の近江朝が天武、持統天皇の飛鳥朝と相対していた時期が
どれ位あったのか。無紋銀銭は誰が発行したものか。やはり大友皇子は即位していたと
みるべきか。
伊賀皇子が即位したのは
明治政府公認だからなぁ
それで諡号が弘文
したがって大海人皇子は壬申戦争によって
弘文天皇を弑逆して皇位を簒奪した事も
明治政府公認の歴史となった
また明治政府によって神功皇后と北朝の天皇が
歴代から外された、それでも神功は皇后だけど
北朝の天皇は明治政府によって偽帝と認定された
明治政府によって偽帝とされた天皇
光厳天皇、光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇、後円融天皇の五帝
弘文天皇以外についてはこのスレのタイトル不適当なスレでした事を
お詫び致します
それと伊賀皇子は天皇に即位したと思われます
それが天智天皇の晩年における最大の目的だったと思われますから
したがって壬申戦争は俺の認識でも、大海人皇子が弘文天皇に挑む
皇位簒奪戦争であったと思われます
大海人皇子にとって、母が卑母である伊賀皇子が即位する事は
母が皇極・斉明天皇であり、天智朝において皇太弟に就いた自分を
全く疎外することであり、皇族として屈辱だったと思われますから
大海人が決起するのは当然かと思います
829 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 04:09:51
>>827 そ・そんな個人的な感情で戦争を起こしたのかっ!?、、、、呆れた奴>大海人
天智の卑母の子は天皇になれないという、皇位継承の慣習を破ってまで
伊賀皇子を天皇にしたいと言うのも、言わば個人的な感情
大海人皇子の行動には個人的な感情の他に、皇位継承の慣例を守ると言う
大義の部分があった
質問スレからやってきました。
天武天皇が天智天皇の弟でないなら、なぜ天武天皇は、
「自分は天智の弟だ」という、「その時代の人物にはバレバレの嘘」を日本書紀書かせたのでしょうか?
勿論、できあがるまでの時間を考えろとか言われそうだけど、たかだか数十年だし。
通説の通り、天武天皇は天智天皇の同父母弟である
大海人皇子の可能性が非常に高いと思われます
天武の皇統は称徳天皇で絶えて、光仁天皇から
今上天皇まで天智の皇統が継続しています
従って日本書紀の、天武が天智の弟だと言う記述が捏造だったら
それは光仁天皇以降に訂正されたと思われます
例えば欽明天皇即位年の記述が、日本書紀の捏造だと言う事は
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起という史料で証明可能です
この捏造は、日本書紀がニ朝対立という史実を隠蔽する為の
捏造だと思われます
しかし天武天皇が天智天皇の弟という記述が、日本書紀の捏造だと
証明出来る史料はありません
弟だと証明できる史料もありません。
>>834 日本書紀、扶桑略記、帝王編年記、神皇正統記、皇代記、皇年代略記
本朝皇胤紹運録と言う、複数の史料の記述から、天武天皇は天智天皇の
同父母弟だと立証されています
もう少し史料を調べてからレスしましょう。史料に基づかない発言は
歴史学では意味を持ちませんから
追加
皇代畧記でも天武は天智の弟と記述されています
立証できていないワケだが
複数の史料で天武は舒明の皇子で天智の同母弟と記述されている
それに対して君は史料に基づく反論が出来ていない
それでは通説を否定する説得力を持たない
通説は学問じゃありません
同時代資料ほど、兄弟である可能性が低いのは明らか。
こういうのは、後世にいたって造作されてきた可能性が高い。
同時代の史料でも天武が天智の同母弟である事を
否定している史料はありません
通説を否定するなら説得力を持つ史料を提示してください
例えば欽明天皇即位に関して、日本書紀の記述である539年は
上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起の記述で否定され、531年が
通説になっているが、天智と天武に関しては、そのような史料は存在しない
まあレスしてる人が学部レベルか院生レベルか分からないけど
通説を否定するのに、史料的根拠が提示していないから学部レベル
しかもまだ1、2年生と言ったところか?
もし院生レベルなら、その大学院のレベルは・・・w
【日本書紀】
斉明天皇即位前記
斉明天皇は初め用明天皇の孫、高向王と結婚して漢皇子を産んだ
後に舒明天皇と結婚して、ニ男一女を産んだ
天武即位前紀
天武天皇は天智天皇の同母弟である
幼い頃は大海人皇子と呼ばれた
日本書紀の斉明即位前紀と天武即位前紀には何の矛盾もない
【扶桑略記】
天武天皇 舒明天皇第三男。母斉明天皇也
【帝王編年記】
天武天皇 舒明天皇第ニ皇子。母天智天皇と同じ
【神皇正統記】
天武天皇は天智同母の弟なり。
【皇代記】
天武天皇 舒明第ニ子。母は天智と同じ
【皇年代略記】
天武天皇 舒明第ニ子。母は皇極天皇
【皇代畧記】
天武天皇 舒明第ニ子。天智同母弟
【本朝皇胤紹運録】
天武天皇 母は(天智)と同じ
追記
【日本書紀】
舒明天皇紀
舒明ニ年一月一ニ日条 宝皇女を立てて皇后とした。
皇后は二男一女を産んだ。第一は葛城皇子、第ニは間人皇女
第三は大海人皇子である
夫人、蘇我馬子の娘法提郎媛は古人大兄皇子を産んだ
また吉備国の采女蚊屋を召して蚊屋皇子を産ませた
舒明天皇紀、斉明即位前紀、天武即位前紀の記述に全く矛盾がない
日本書紀は一貫して天智兄、天武弟という記述である
時代を経るにしたがって、思い込みで
兄弟として整理されていく典型だな。
最初から一貫して、葛城皇子(兄)大海人皇子(弟)ですがw
北畠親房は年齢設定まちがえてるのは問題だけど
双子説を唱えたのは秀逸だったな。
同父同母の双子だったんだろうと思う。日本書紀とも矛盾しないし。
六十五歳説は中世の妄説だから却下。
適当に書いた説だから噛み合ないのは当たり前で
これを謎解きのカギだと思う神経はイカれてるとしか言いようがない。
まず神皇正統記も中世の史料ですがw
それと日本書紀の舒明紀では、葛城皇子、間人皇女、大海人皇子という
順で産まれたと記述されてますから、葛城と大海人が双子と言うのは
日本書紀の記述と矛盾してます
中世の史料である神皇正統記を根拠に
葛城と大海人双子説を唱えること自体
神経が逝かれてるとしか思えない
しかも神皇正統記の天智の没年齢58歳
天武の没年齢73歳は間違えて問題だと
言いながら双子説の方は信用できると
思う根拠も意味不明
神皇正統記の記述では
天智天皇の没年齢が58歳
天武天皇の没年齢が73歳
これだと二人は共に614年
生まれになるから双子になりますが
肝心の神皇正統記の没年齢を記述を
否定したら二人が双子と言う根拠も
無くなりますがw
【日本書紀】
天智天皇(626年) 天武天皇(?年)
【一代要記】
天智天皇(619年) 天武天皇(622年)
【神皇正統記】
天智天皇(614年) 天武天皇(614年)
【本朝皇胤紹運録】
天智天皇(614年) 天武天皇(622年)
【川崎庸之説】
天智天皇(626年) 天武天皇(631年)
日本書紀(奈良時代)
一代要記(鎌倉時代)
神皇正統記(南北朝時代)
本朝皇胤紹運録(南北朝時代)
神皇正統記の年齢記載は信憑性がない。
例えば顕宗天皇を48歳、仁賢天皇を50歳にしているが
仁賢は11年間だから仁賢、顕宗の兄弟関係の辻褄が合わない
武烈天皇なんかは58歳で父親の仁賢と同年齢だ
系図も独特だ、継体天皇の祖は隼総別になっている
本朝皇胤紹運録の場合
顕宗天皇は38歳、仁賢天皇は50歳、武烈天皇は57歳
帝王編年記の場合
顕宗天皇は31歳、仁賢天皇は51歳、武烈天皇は57歳
仁顕と武烈の親子関係は、帝王編年記でも本朝皇胤紹運録でも
破綻している
少なくとも、この二つの史料からは、武烈が仁顕の皇子ではあり得ない
と言う結論が導き出される
父の生年が448年か449年、子の生年が450年で親子と言うのは
生物学上不可能と言える
武烈天皇の没年齢が水鏡の記述通り18歳なら生年は489年になるから
仁顕天皇と親子関係が成立する
仁顕天皇は武烈天皇の父のクローンとすれば成立する。
861 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 15:34:26
孝徳紀にでてくる「皇弟」はやっぱり天武のこと?
孝徳紀に出て来る「皇弟」を、井上光貞は大海人皇子としている
おれも井上説に従い「皇弟」を、大海人皇子と認識している
その理由は孝徳天皇には皇弟が存在しないこと
それに対して間人皇后や葛城皇太子には
大海人皇子と言う皇弟が存在していること
日本書紀では仁顕天皇と武烈天皇の没年齢は
何歳と記述されてますか?
俺の持っている岩波版や中公版「日本書紀」では
両天皇の没年齢が分かりません
864 :
849:2005/12/17(土) 20:19:49
>>850 「中世の妄説」とはいったが「中世の説はすべて妄説」とはいってない。
先に北畠を評価してるんだからそれ以外を排除した物言いにすぎない。
それくらいわかるだろうに何からんでんだよw
間人も入れて三つ子でどうだw
北畠親房信仰ですかw
それなら没年齢記述、天智58歳、天武73歳の方も
信仰してやって下さいww
三つ子・・・デンパでも受信しましたかwww
866 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 20:53:15
>>862 ということは天智と天武は吉野にでるまでほぼ行動をともにしていたといえますね
なのになぜ旧大和豪族VS東国勢力、百済派VS新羅派という構図に発展してきたのでしょうかね 大海人の事績が乏しいだけに、疑問です
大海人皇子が伊勢、尾張、美濃等に、天智天皇の治世中
どのようにして自己の勢力基盤を築き上げられたのか
俺には分かりません
大伴氏が大海人皇子側に付いた理由は、近江朝の左右大臣や
大納言に任じられなかった事から、弘文天皇の治世では大伴氏の
繁栄は望めないの考えたからだと思われます
「海人」が養育氏族とかかわっている名なら、伊勢・尾張との縁もあろうかと思うが
弘文天皇の養育氏族は大友氏だから、大津遷都の時点でかなり大海人には不利な状況だったんだろう
>>869 大友皇子の「大友」は大伴氏とは関係ない。
本名は伊賀皇子であり、大友とは後世付けられた名である。
中大兄皇子も日本書紀の文飾で、本名は葛城皇子だと思われます
873 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 08:02:38
大津遷都には大友氏が技術・財政的に貢献している。大友皇子に大友氏が深くかかわっているのは間違いない。
もちろん大伴氏は関係ない。
近江国滋賀郡大友郷を本拠地とする後漢献帝苗裔大友村主氏
八種の姓の内、第一の真人を賜った13氏
第ニの朝臣を賜った52氏
第三の宿禰を賜った50氏
計115氏の中に
大友氏は含まれてないから、それほど有力な
氏族ではなかったと思われます
序に言えば海人氏=尾張氏は宿禰を賜っているから
やはり北伊勢美濃、尾張において勢力を誇った
有力地方豪族であったと思われます
大友は伊賀皇子の宮(予定地)名ということだね
葛城皇子が日本書紀では中大兄皇子とも記述されているし
同じく伊賀皇子も大友皇子と記述されているから
少なくとも日本書紀の編纂時には既にそう呼ばれていたのでしょう
但し、当時から中大兄皇子や大友皇子と呼ばれていたかどうかは
疑問が残ります
日本書紀では天武天皇の没年齢が不明だけど
日本書紀に載っている武烈天皇の没年齢58歳は
完全に出鱈目だろうw
武烈57歳説はおそらく継体即位前紀の誤読だろう。
> 天皇年五十七歳八年冬十二月己亥小泊瀬天皇崩
継体二十五年紀によると継体は82歳なので武烈八年には57歳で合っている。
武烈天皇の没年齢は、扶桑略記、水鏡、神皇正統記の18歳という
記述の方が、日本書紀の57歳より信用が出来る
帝王編年記、皇代畧記、本朝皇胤紹運録、皇代記、皇年代略記は
無批判に日本書紀の記述を信用して、武烈天皇の没年齢を57歳と
記述している
882 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 20:49:53
>>875 有力かどうかの根拠を八色の姓に求めるのはどうかな。
たとえば秦氏は忌寸姓だけど有力氏族だと思うよ。
ところで尾張・美濃って実は新羅人の巣窟じゃない? 尾張氏も有力氏族だと思うが、
新羅人が製鉄で貯えた経済力で天武を支えたのか。
天武の紀が上下に分かれてるのって、
ひょっとして、即位前≒弘文の治世
扱い?
神功皇后と同様、即位していないという扱いながらも
一応は「治世」のようなものとして、
扱わざるをえなかったんかな?
>>883 大海人皇子が出家を天智天皇に申し出て
それを天智が認めたのだから
伊賀皇子が大海人の後任として皇太子になり
天智没後は伊賀が称制していたと思われ
したがって天武紀(上)=伊賀称制紀でもあると
思われ
天智天皇が伊賀皇子を皇位につけたかった理由には
我子可愛さ以外に、天皇の長男子なら母の身分に関係無く
皇位に付けるという新しい皇位継承の規則を作りたかったのかも
知れない
しかし当時の皇位継承の慣習では、母の身分の高さ(高貴)さが重要視
されていたから、母が天皇だった大海人皇子の方が、伊賀采女の
子供だった伊賀皇子より、皇位継承の序列は当然高かった
886 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 01:45:36
もし本当に不改常典が天智せいていなら弘文即位
不改常典がもしあったとしても
そんなモノはほとんど守られなかった
母の身分および母の実家の勢威が
それ以降も長く続いた皇位継承の慣例・慣習
不改常典を持ち出したのは文武即位の正当性を説いた葛野王
その葛野王自身、母は十市皇女だからこの上ない身分。
本当に不改常典が天智の時に決められたものなら、葛野王の主張は皮肉がこもっている
長屋王も母は御名部皇女だからこの上ない身分
珂瑠王が父:草壁皇子尊(皇太子)、母:阿閇皇女なら
長屋王は父:高市皇子尊(太政大臣)、母:御名部皇女だから
不改常典が適用される対象は珂瑠王より長屋王のはずだけど
葛野王が、その長屋王を無視したのは、長屋王の父高市皇子が
大海人皇子軍の最高司令官だったから
葛野王にとって父(弘文天皇)の、仇の子だから長屋王が憎かったとか
葛野王:父は伊賀皇子、母は十市皇女(母の父は天武天皇)
珂瑠王:父は草壁皇子、母は阿閇皇女(母の父は天智天皇)
長屋王:父は高市皇子、母は御名部皇女(母の父は天智天皇)
天武朝は天智の娘が産んだ皇子だらけだな
893 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 03:58:08
この時代は、皇女は臣下の結婚は出来なかったの?
何か皆皇女は皇族に嫁いでいるけど。
>>893 養老律令では内親王は天皇の3代孫、女王は天皇の5代孫までと決まっていた
(と思う、手元に資料が無く、曖昧なのはご容赦)
それ以前に当たる天智・天武朝でも皇女の結婚相手は皇族のみ、というのは暗黙の
了解だったのでは無かろうか。
結婚相手が皇族に限られたのは、この時代皇女も所領を持っているため、
臣下に嫁ぐと財産が散逸することを恐れた物かと考えられる。
が、詳しい理由を明言した史料はなかったと思う。
ちなみに律令の規定は平安時代以降緩和されるが、
それでも内親王の臣下への嫁入りが許されたのは平安中期(藤原師輔と勤子内親王)が最初で、
これも既成事実が出来て非難の対象となったとき、師輔の叔母・穏子女御のとりなしがあったから
無理矢理許可されたものらしい。
それ以後も皇女(特に内親王)の嫁入りには世間一般の心理として抵抗感があったらしく、
適当な嫁入り先がない場合は独身をとおす方が普通だった。
ttp://homepage2.nifty.com/hpsuiren/asobi/naisinnou/n1.htm
天智天皇の皇女
大田皇女、讃良皇女、大江皇女、新田部皇女:天武天皇
御名部皇女:高市皇子(天武皇子)
阿閇皇女:草壁皇子(天武皇子)
山辺皇女:大津皇子(天武皇子)
明日香皇女:忍壁皇子(天武皇子)
泉皇女:独身
水主皇女:独身
天武天皇の皇女
十市皇女:伊賀皇子(天智皇子)
泊瀬部皇女:川嶋皇子(天智皇子)
多紀皇女:志貴皇子(天智皇子)
但馬皇女:高市皇子(天武皇子)
田形皇女:六人部王(経歴不詳)
大伯皇女:独身
紀皇女:独身
896 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:41:44
天智系、天武系と区別する言い方が一般的だけど、
女系で見ればあんまり関係ないな
大海人皇子と海人氏=尾張氏との関係
尾張氏は八色の姓によって天武天皇から宿禰を賜る
皇子の中では高市皇子だけ、天智の皇女御名部と
天武の皇女但馬の二人の皇女を妻にしている
自分が天武の長子であり、壬申戦争の英雄にも
関わらず、母が卑母という一点で、皇位継承権を
持てなかったから
(天武朝における高市の序列は、草壁、大津に続いて3番目)
自分の息子には、その轍を踏ませたくなくて、二人の皇女を
妻にしたと思われ
(これで高市の子は高貴さは非常に高まる)
その他に高市皇子には、十市皇女(異母姉)との悲恋も
あったらしい(古代史学者、北山茂夫、黛弘道説)
900 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 23:14:13
宗像氏は地方豪族としては伊賀国造氏なんかよりいいほうだけどね。
ほかに皇女の産んだ皇子が多すぎるから。
>>899 >自分の息子には、その轍を踏ませたくなくて、二人の皇女を
>妻にしたと思われ
そうなんですかね?
親父の血統がそれなりなのに(功績によってそれなりの待遇は受けているけど)
母親が高貴だからといって子供の貴種性がより高まりますかね?
高市の考えというより、天智が大海人に娘を嫁がせたみたいに
天武側の懐柔策という面が考えられるのでは。
天武は弘文帝の即位の根拠(長子相続制)を否定して立ったのだから
天武以降の朝廷でも貴種である草壁の血統をより尊重せざるをえないのでは。
長屋王:父が高市皇子尊(太政大臣)母が御名部皇女(天智皇女)の
おかげで、21歳の初叙の時に、令の規定では従四位下を賜るところを
その貴種性により、勅によって正四位上という破格の叙位を賜る
903 :
901:2005/12/23(金) 21:39:52
>>902 その例は知っていますけど、草壁皇子の家系と匹敵するような
皇位継承権者という立場ではないのでは?
といいつつ、草壁皇子没後、高市が一旦皇太子になったみたいですけど
天武没->(持統称制)ー>3年後草壁皇子没->高市立太子->翌年持統天皇即位
って流れで一年だけなんですね。
後がまにすぐ軽皇子が立太子したわけでもなさそうだし。
(まあ、当時としては太子になるには幼すぎるからでしょうけど)
たった一年の皇太子ってのは単なる箔付けなんですかね?
皇太子を辞した後も朝廷には残っているし。
二世王で内親王と結婚出来たのは
長屋王(父は高市皇子):吉備内親王(元明皇女)
六人部王(出自不詳):田形内親王(天武皇女)
塩焼王(父は新田部皇子):不破内親王(聖武皇女)
白壁王(父は志貴皇子):井上内親王(聖武皇女)
の4人だけ
やはり長屋王は二世王の中でも貴種
草壁皇子と大津皇子の死亡で
高市皇子が天武の皇子の序列トップ
位階も皇太子だった草壁皇子と同じ浄広壱に上昇
その上、太政大臣に任じられた
母が卑母で皇位継承権を持たない代償として
高市皇子は持統天皇に次ぐ地位を得た
また食封も五千戸という他者を圧倒する戸数を持ち
経済的にも天皇に次ぐ立場となった
大津皇子と違って皇位を狙わなかったおかげか
持統天皇から信頼され、天皇以外では最高の権力と
財力を得たのだから、43歳という若さでの死以外では
恵まれた人生だったと思われ
(唯一の例外は十市皇女との悲恋)
>>903 高市皇子→長屋王の系統が
皇位継承権を持つという認識は
橘奈良麻呂(左大臣橘諸兄の子)が
長屋王と藤原長娥子(不比等の娘)である
黄文王を天皇にしようと企てていたから
充分にあったと思われ
まあ奈良麻呂の母である多比能も不比等の娘だから
黄文王と奈良麻呂が母方で従兄妹同士という関係が
あった点も大きいとは思うが
また長屋王の変は、長屋王を倒すためではなく皇位継承権を
持つ長屋王と吉備内親王の子である、膳夫王を殺す為とも
言われている
膳夫王は男系の原則では、天武天皇の曾孫であるから三世王に
なるところを、勅によって例外的に女系が採用され
元明天皇の孫(二世王)という待遇を得た
そしてそのおかげで、初叙も本来(三世王)なら、従五位下になるところを
4階も超越して従四位下を授けられている
そして息子が二世王だから、父の長屋王は事実上の親王扱いを受けた
その証拠が長屋王邸から発掘された、木簡に記されていた長屋「親」王である
結論から言えば、長屋王とその子供達は勅によって
令の規定から外れた存在だったと言える
それは父である高市皇子と母である御名部皇女のおかげであろう
やはり奈良時代はいつ女系天皇が誕生してもおかしくない時代だったんだな
元正天皇は父が草壁皇子だから
男系女子の天皇と言われているが
元明天皇の皇女でもあるから
女系女子の天皇とも言える
また基親王が死んだ直後に安積親王が生まれ
皇位継承の行方が混沌とそてきた
光明子の子は阿部内親王(女子)だけで、安積親王は男子であるが
母は縣犬養氏だから、母の身分が必ずしも高くない点が難点
したがって元明天皇の孫で、元正天皇の甥、聖武天皇の従兄妹である
膳夫王(父:長屋王、母:吉備内親王)にも皇位継承権はあった
基王の正確な生没年は…
基親王(727年9月29日〜728年9月13日)
安積親王(728年?月誕生)
卑母でも直系に皇位を伝えたいという天智の野望は、
桓武即位で結果的に果たされるわけだが
天智天皇の意向は母の身分に関係無く
天皇の第一皇子に皇位を継承させる事だ
しかしその桓武天皇自身が、平城天皇の皇太子に
平城の弟の、神野親王(嵯峨天皇)を選んだから
天智の意向に反して傍系継承を選択している
そして嵯峨天皇も皇太子に、自分の弟の大伴親王
(後の淳和天皇)を選んだから、これまた天智の意向に
反して傍系継承を選択している
また母の身分が皇位継承の決め手になる事は
藤原氏によって継続され続けたから、天智の意向は
皇位継承の原則にはならなかった
まあ天智の意向が皇位継承として制度化したのは
明治になってからの話しだな
916 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 00:04:59
母の身分はどのレベルが皇位継承の分岐点なんだろうか?
欽明以降では蘇我臣が皇族と同格。阿部臣や春日臣などの臣姓の中央豪族も高貴な部類かな。
臣・君姓でも地方豪族ではだめということだな。
敏達天皇から孝謙(称徳天皇)までで、母が皇(王)族でなかった天皇は
用明天皇(蘇我堅塩媛)
崇峻天皇(蘇我小姉君)
推古天皇(蘇我堅塩媛)
弘文天皇(伊賀采女宅子)
持統天皇(蘇我遠智媛)
元明天皇(蘇我姪娘)
聖武天皇(藤原宮子)
孝謙・称徳天皇(藤原光明子)
の8人
弘文を除いて母は全て蘇我か藤原だから、それ以外の豪族では無理かも
>>915 第一子とは限らないだろ。自分の選んだ子ってことしかわからない。
伊賀皇子は天智天皇の第一皇子です
健皇子の方が伊賀より先に生まれたかも
知れないけど健は夭折しているから
伊賀皇子が第一皇子
川嶋皇子が第二皇子
志貴皇子が第三皇子
従って天智の意向は母の身分に関係なく
第一皇子に皇位継承権を与えるという
ものだったと思われます
そして、それがおそらく不改常典の内容でしょう
920 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:24:16
>>872 え、それじゃ当時は中大兄とは呼ばれてなかったんですか?
何か意外だなぁ。
921 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 22:41:58
>>917 とすると蘇我、藤原系以外で皇位継承対象者と考えられていたのは有間皇子だけ?
>>921 有間皇子は有力豪族阿倍氏の外孫だから皇位継承権は
あったと思われ(有間皇子の外祖父は左大臣阿倍倉橋麻呂)
それとは逆に舒明天皇の皇子でも、蚊屋皇子は母が卑母だから
皇位継承権はなかった
孝徳・斉明朝で皇位継承権があった皇族は
葛城皇子(母は皇極・斉明天皇)
古人大兄皇子(母は蘇我氏)
漢皇子(母は皇極・斉明天皇)
有間皇子(母は阿部氏)
大海人皇子(母は皇極・斉明天皇)
の、6人だったと思われ
923 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 23:55:57
母の身分の貴賤が最大の要素だと認めるが、
その私部の経済力は影響してないだろうか?
先ずは母方の実家高貴な血(皇・王族)
次ぎは母方の実家の政治的・経済的実力が
皇位継承に、大きく作用されたのだと思われ
それが無かった蚊屋皇子は殺されずに済んだ
しかし有間皇子は母方の実家(阿倍氏)の勢力が仇になり
謀叛という疑いをかけられて葛城皇子に殺された
925 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 09:30:32
女系か…
応神も女系じゃね?
父親とされる仲哀(倭健の息子)はあきらかにカミさん(神功)にぶっ殺されたっぽい。
その後生んだ不倫の子が応神。
つまり歴史上最初の女系天皇は応神
926 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 09:39:37
そもそも神功も仲哀も架空の存在だから・・・
地方豪族が采女を出すのは「外様」としての服属儀礼だったんでしょう。
蚊屋がどのあたりか知らないんですが、吉備はかつての地方王朝。
経済力はありそうですが、召しだされた采女だから、皇子を産んでも外戚として勢力を持つことはできなかった。
そうでなければ宗像氏なんかもっと活躍していてよさそうだし。
皇位継承は父系が原則だけど、実は母系が大きな要素を占めていた
だから蘇我氏も藤原氏も天皇と自分の娘を結婚させ、天皇を娘婿とした上で
生まれて来る皇子に皇位を継がせ、外祖父として権力を振るうという
外戚政治が成立していた
この外戚政治の存在自体が、如何に皇位継承に対して母系の占める
要素が大きかったかの証しになる
929 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 16:12:25
ちょっとまって、蘇我氏の外戚政治は外祖父が権力者だったわけではないよ。
蘇我系天皇は用明〜推古の三代。いずれも伯父の馬子の時代。蝦夷・入鹿はときの天皇とは直接の血のつながりはない。
成人皇族の兄弟相承が行なわれていた時代は、若い皇子のうちに妃を出し、
その皇子が皇位につくまで待たないといけないから、外戚は代替りしてしまう。
>>928 母系の血筋そのものに価値があったというより
母方の豪族から得られる経済的な支援が
権力基盤になったってことでしょう。
931 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:28:53
連姓氏族とは通婚してないというのもありますね。
>>931 臣系豪族は、もともとは大王家と同格であったと言われている
しかし連系豪族は、初めから大王家の家臣だったから
大王は家臣の娘は娶らないと言う不文律があったとする説がある
そこで中臣氏(藤原氏)は連系豪族から臣系豪族へと転換を画策し
八色の姓の制定時に、本来なら大伴氏などと同じく宿禰姓になるところを
臣系豪族の姓(かばね)である朝臣になったと言われている
933 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 14:12:06
外戚が本当に権力と結び付くなら、安麻呂系蘇我氏(石川氏)は藤原不比等より早くに台頭してきてもよさそう
天智はそうした外戚政治を嫌って古人、有間を廃し、伊賀を皇位につけようとしたのでは?
大海人皇子が天皇に即位しても外戚が力を持つ事はないです
大海人皇子の母は皇極(斉明)天皇ですから
したがって母が卑母の場合は皇位を継げないという慣例を破ってまで
天智天皇が伊賀皇子の即位を目指した根拠になりません
935 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:28:52
936 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 13:08:46
外戚政治そのものが権力をもたらすのではなく、
力をつけてきた氏族が皇室に妃を出せるようになり、さらに権力基盤が増すということ。
蝦夷が山背王より田村王を推したのは、法堤郎女が妃になっていたからだろう
>>936 蝦夷が山背大兄王より田村皇子を押したのは自分の意志というより
推古天皇の遺言を尊重したからであろう
田村皇子は確かに法提郎女を夫人にしていたけど、推古の皇女である
田眼皇女も妃(「日本書紀」『敏達紀』参照)にしていたから、推古の娘婿にあたる
従って推古が山背大兄王より娘婿の田村皇子を推したのは当然と言える
しかし残念ながら田村皇子と田眼皇女との間には皇子が生まれなかったから
推古天皇の血が舒明の皇統に残る事はなかった
もし田村皇子と田眼皇女との間に皇子が生まれていれば、宝女王ではなく
田眼皇女が皇后となり、その皇子が天皇に即位したであろう
ちなみに宝女王は敏達天皇の曾孫で、田眼皇女は敏達&推古両天皇の皇女
従って、皇族内での地位は当然の如く田眼皇女の方が宝女王より上である
田眼皇女が皇子を産んでいたら皇后になったのは、宝女王でなく田眼皇女の方で
あったろう
そして宝女王が皇后になれたのは、同じ妃同士では、皇族として田眼皇女の
下位に立つ事になるから、皇后になる事で田眼皇女を超えようと図ったものであろう
938 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 14:11:43
>>937 田眼は早世したのではないかって説を何かで読んだ気がするんだけど、何処だったかなぁ…。
蘇我氏の血筋の女性を大后にする為に田村と田眼をケコーンさせ、
田眼が早世してので代わりに同じ蘇我の血筋の宝とケコーン。って説。
ネットじゃなくて本だった気がする。
>そして宝女王が皇后になれたのは×
>そして宝女王が皇后になったのは○
宝女王を皇后にしたのは舒明天皇の意志であろう
自分の皇子、葛城皇子と大海人皇子を産んだ宝女王を
皇后にする事で、葛城、大海人両皇子の皇族としての地位は
格段に高まる(皇后所生の皇子は最有力の皇位継承権者)
これは用明皇統である山背大兄王及び上宮王家や、敏達&推古両天皇の
皇子である尾張皇子に皇位は渡さないという決意表明と思われる
ちなみに尾張皇子の娘である橘大郎女(橘女王)は、厩戸皇子に妃であり
尾張皇子自身は、その婚姻関係から上宮王家よりだと思われます
>>938 田眼皇女に対する日本書紀の記述は
田村皇子ではなく、舒明天皇に嫁したと記述されているから
少なくとも田村皇子の即位後までは生存していたと思われます
>>938 それと宝女王を蘇我の血筋というには無理があります
宝女王の父は彦人大兄皇子の子である茅渟王で、母は吉備姫王
そして吉備姫王の父は欽明天皇の皇子である桜井皇子
従って蘇我馬子の孫である山背大兄王(母は蘇我刀自古)の方が
はるかに蘇我氏の血が濃厚であるから、蝦夷が蘇我氏の利益を
第一に考えるのなら、田村皇子ではなく甥の山背大兄王を即位させたと
思われます
日本書紀の記述でも山背大兄王は、蝦夷を叔父として頼みに思い
蝦夷の支持を得ようとしたところから見て、山背大兄は自分に流れる蘇我の血に
多大な期待していた事が良く分かります
>>940-941 レスありがd。
あの説はあまり根拠の無い憶測だったのかな。
うろ覚えなのでその推測の詳しい根拠は忘れちゃいましたが、
宝女王が蘇我の血筋というのは吉備姫王の父は欽明天皇と堅塩媛の皇子なので、
宝皇女は蘇我稲目の曾曾孫だって事だったかと。
でも確かに山背の方が蘇我の血が濃いですね。
>>939 >皇后所生の皇子は最有力の皇位継承権者
確かにそうかもしれないが、直子相承ではなく兄弟相承が行なわれていた当時としては必ずしも即位の順番まで優先されていたわけではないと思う。
舒明の皇子のなかでは、乙巳の変までは古人即位の可能性は高かったのではないかな?
僕は孝徳が皇位につけたのも天皇の弟としての立場からとみている。
舒明没後に皇后所生の葛城皇子が即位出来ずに、中継ぎとして宝皇后は
即位して皇極天皇になった背景には、葛城皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の
三者が拮抗して、三人の中の誰もが即位出来なかった為だと思われます
日本書紀の記述から推測するには、蝦夷は舒明没後には山背大兄王の即位も
考えていた可能性があり、入鹿は古人大兄皇子、敏達系皇族の多数は
葛城皇子の即位を望んでいたと思われます
また軽王が天皇に即位出来たのは、指摘の通り姉の宝が天皇になった事で
天皇の弟という立場になり、敏達系皇族内での地位が上昇した為だと思われます
入鹿が山背大兄王と上宮王家滅亡を謀ったのは、蝦夷の山背大兄王即位の
意図を砕き、古人大兄皇子即位の地固めを狙ったものと推測します
山背大兄王即位の可能性が無ければ、入鹿が上宮王家滅亡を謀る動機が
存在しない事になりますから、皇極朝においても山背大兄王は依然として
用明皇統+蘇我系皇族の代表として、即位の可能性が多いにあったと思われます
946 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 02:49:57
>>944 舒明没後に中大兄が即位できなかったのは若過ぎたからじゃない?
15才ほどだよね?
>>946 日本書紀の記述なら16歳だけど
その他の史料では28歳説もある
また文武天皇は15歳で即位してるから
16歳なら即位可能な年齢
やはり、古人大兄皇子や山背大兄王と
三竦み状態になったからだと思われます
葛城皇子即位派:敏達系皇統に連なる皇族集団+中臣鎌足?
古人大兄皇子即位派:蘇我入鹿
山背大兄王即位派:用明皇統に連なる皇族集団+蘇我蝦夷?
948 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:06:22
しかし年少の葛城皇子は古人皇子より順位は劣後になる。舒明天皇存命中に山背王を滅ぼしていれば、古人即位の可能性が高かったが、
皇極即位で結果的に軽皇子の順位が高まり、山背王襲撃は孝徳即位を利することになった
蝦夷が入鹿の行為を非難したのはそういう背景もあったと思う。
確かに皇極天皇の誕生は、葛城皇子、古人大兄皇子、山背大兄王の他に
新たなる有力皇位継承者である軽皇子を誕生させる事に繋がった事になったと
思われます
敏達皇統である軽皇子と葛城皇子
敏達系皇統+蘇我系皇族である古人大兄皇子
用明系皇統+蘇我系皇族である山背大兄王
これで4人の有力皇位継承権者が、皇極朝において存在した事になります
>>947 文武天皇と天智天皇では、「他の皇族」の力が違うと思うが。
よくわからないのですが、蝦夷・入鹿父子が対立していたことを示す資料はありますか?
もしかして入鹿は蝦夷の実子ではなかったのかも。林臣鞍作が本名?
>>951 日本書紀には、入鹿が行った上宮王家滅亡に対して、蝦夷が激怒して
「入鹿の大馬鹿者、悪逆を行ったお前の命は脆いものだ」と罵ったと
書かれています
つまり日本書紀によると、上宮王家を滅ぼす事悪逆であり
蘇我宗家も、それによって脆くなると、蝦夷は考えていたようです
確かに山背大兄王は蝦夷にとって甥であり、上宮王家は蘇我宗家の
血を受け継いだ皇族集団であります
上宮王家の滅亡で、蘇我宗家の持ち札(皇族)は、古人大兄皇子だけになり
その上、上宮王家滅亡から僅か2年で、脆くも大和第一の豪族蘇我宗家は滅亡しました
>>950 高市皇子の死を待っていたかのような文武天皇の即位から見て
高市存命中には、文武の即位はなかったかも知れません
高市皇子自身は、母が卑母である為に即位の可能性はなかったと
思われますが、太政大臣という官職、浄広壱という草壁皇太子と
同じ位階、食封五千戸という経済力、壬申戦争の英雄という名誉と実績を
持っていましたから、高市存命中の珂瑠の即位は持統天皇を以ってしても
難しかったと思われます
もし持統の方が高市より先に死んだとしたら、歴史は変わったかも知れません
持統の方が高市より年上ですから、その可能性は充分にあったと思われます
>>953 おっしゃることに意義はありませんが、その上で、
「若い頃の天智天皇」と「即位したときの文武天皇(て言うか後見の祖母、母、叔母)」では、他の皇族の力が違うのではないでしょうか?
てか、持統天皇って、孫の即位の時生きてた?
この人何言ってんの?
日本書紀の天武、持統天皇の時代は実質、大友皇子と高市皇子の時代だろうが
8世紀に橘氏系の天皇が成立するのかは
蝦夷・入鹿対立論には無理があると思うが。古人擁立はともに利益がある。
蘇我系王族の二枚のカードを温存するか、切り捨てるかの戦術的な違いだけでないか。
>>951 フルネームは蘇我大朗林臣鞍作。
蘇我氏の支族としては林臣を称していた。
って門脇禎二氏の本で読んだ。
日本書紀に大臣の児ってあるらしいし。
>>954 おっしゃることに意義はありませんが
↓
おっしゃることに異議はありませんが
じゃないですか?
意義だと
>>953のレスを否定する意味になる。
>>957 蘇我宗家の持ち札を古人大兄皇子一枚に限定する入鹿の戦略と
上宮王家を蘇我宗家の持ち札として温存しておく蝦夷の戦略とでは
皇族対策として著しく異なると思われ
そして、やはり蝦夷が入鹿の上宮王家滅亡させた行動を、怒り罵ったという
日本書紀の記述は無視できない
その上、日本書紀を読むと蝦夷と山背大兄王の個人敵の関係は、決して悪くない
蝦夷が田村皇子を推したのは、あくまでも推古の遺言を実行する為であり
最後は山背大兄も、叔父の意向を認め、己の即位を断念したと日本書紀には
記述されている
つまり日本書紀の記述から見て、山背大兄王は叔父である蝦夷の支持が
ない限りは、強引に即位を求めるようには思えない
その事は、中継ぎである皇極の次に、蘇我蝦夷が山背大兄王を即位させる
という意向があった可能性に繋がると思われ
そして入鹿の強引とも言える上宮王家滅亡作戦と、それに対する蝦夷の激怒を
考えると、入鹿と蝦夷との間に皇極の次の皇位に関して、充分な意思疎通がなかった
という結論に、日本書紀の記述を読んで至った
>>959 ・・・指摘されるまで変換ミスに気がつかなかった・・・
そう、その通り。
962 :
958:2006/01/05(木) 05:23:10
私もミスってたorz
大朗→大郎でした。
>>960 なるほどね。皇極即位の背景に蘇我父子の対立があったというのはおもしろい考え方かも
上宮王家滅亡後に対立は解消し蝦夷も古人擁立に動いたということかな。
その古人大兄皇子は実に頼りない存在だった
入鹿の暗殺で葛城皇子や軽皇子の軍門に簡単に降った小物
これが山背大兄王なら上宮王家(甥)と蘇我宗家(蝦夷・叔父の連携で
葛城皇子や軽皇子に対抗したと思われ
葛城が舒明天皇の皇子だと言うのなら、山背大兄は聖徳太子の長子
大和の豪族の中には、上宮王家+蘇我宗家に組みする豪族も居たはずだから
上宮王家+蘇我宗家連合軍が、葛城皇子と軽皇子、それに組みする豪族を討ち
皇極天皇を退位させて山背大兄王が即位したかも知れない
そんなことあるわけないだろw
山背大兄こそヘタレの最たる者だろうが。
山背大兄王が秦河勝と東国壬生を頼みに反撃すれば、滅亡を免れた可能性はある
ただし彼自身が語ったとされるように、かなりの大乱となって民を疲弊させることになったろう
河勝は動かなかったかもしれないが、アゲハの幼虫の新興宗教を鎮圧しているしかなりの実力者と思う
日本書紀を読めば山背大兄王がヘタレだとはとても思えない
山背大兄がヘタレなら、入鹿が上宮王家を滅ぼす必要もないし
上宮王家が滅亡してから、僅か2年で蘇我宗家は滅びるはずもない
結局、上宮王家と蘇我宗家は運命共同体で、どちらが欠けても
敏達系皇統である葛城皇子と軽皇子、そして中臣鎌足を利する事になる
それを入鹿は理解出来てなかったから蝦夷に怒り罵られたのである
蘇我入鹿が大馬鹿だった証拠は敵を完全に見誤っていたこと
入鹿は山背大兄王と上宮王家を倒せば古人大兄皇子を即位さられると
考えていたようだが、本当の敵は葛城皇子や軽皇子、そして中臣鎌足
敵・味方の区別が出来ない馬鹿者が暗殺されるのは当然である
蘇我宗家の滅亡は、入鹿が本来は味方である用明皇統で
蘇我系皇族集団、上宮王家を滅ぼした点に尽きる
入鹿は皇極・軽皇子に乗せられて上宮王家滅亡に手を出してしまったとかないのかな。
見返りに古人を葛城の前に即位させるとかの裏取引で。
入鹿が望んでいたのは蘇我系の皇子の即位ではなくて、蘇我のロボットとなる皇子の即位でしょうから
勢力がある上宮王家を排除する動機はあると思うけど親父に無断で自分のみの判断でやるかな?
上宮王家攻撃の際に動因された兵ってどこに所属していたものでしょう?
970 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 23:42:30
上宮王家襲撃には軽皇子も参加していましたから、入鹿単独による集兵でなかったはず。
というか僕も軽皇子が、自らの立場を有利にするために入鹿をたきつけたように思えてなりません。
中臣鎌子が最初軽皇子に接近したと家伝に伝えるのも、次期天皇と目していたからでは?
軽皇子が敏達と彦人の遺産の大半を相続してたからでは?
972 :
衣笠宮:2006/01/08(日) 08:37:06
>>971:軽皇子が敏達と彦人の遺産の大半を相続してたからでは?
実は、孝徳天皇こそ敏達天皇系の後継者ではなかったか
との説もありますよ。
父親の茅渟王は、舒明天皇の兄にあたるわけだから
敏達天皇-押坂彦人皇子-茅渟王-孝徳天皇(596年誕生)
敏達天皇-押坂彦人皇子-舒明天皇(593年誕生)-天智天皇
遺産といえば馬子ゆかりの嶋宮がありましたよね。
嶋宮は皇極・孝徳に受け継がれた可能性はありますか?
受け継いだとしたら糠手姫と吉備姫ですが
蘇我宗家滅亡後から中大兄の手にあったと思われます。
>>970 その可能性は多いにありますね
軽皇子が山背大兄王を皇位継承のライバルと考えていれば
その存在は疎ましく排除したい対象だったと思われ
敏達天皇→押坂彦人大兄皇子→茅渟王→軽皇子
用明天皇→聖徳太子(厩戸皇子)→山背大兄王
敏達系皇統と用明系皇統はライバル関係にあったと思われ
敏達天皇没後、嫡子である押坂彦人大兄皇子は即位出来ず
敏達の異母弟の用明天皇が即位
推古天皇の皇太子には用明皇統の厩戸皇子が立太子
推古没後に即位した舒明天皇は敏達系皇統で
押坂彦人大兄皇子の息子
つまり敏達皇統と用明皇統は皇位を巡り常に対立関係にあった
そして用明皇統は、血と思想(仏教信仰)で蘇我氏と強い絆があった
それを愚かにも、入鹿が上宮王家は滅ぼす事でその絆を破壊し
日本書紀によると父である蝦夷に怒り罵られた
976 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 18:30:19
>>974 皇極・孝徳は吉備姫王の子供だから受け継いだって事は無いっすか?
二人の諱から皇極・孝徳の養家は東漢氏系だと思います。
吉備姫は皇極2年に薨去していますが、それ以前から相続
していたと考えられるでしょうか?嶋宮の世帯主は馬子が
亡くなった後はずっと糠手姫と姉の太姫だったのでしょう。
明示された史料は知りませんが太姫は吉備姫の母君だと
思います。そーゆーわけで吉備姫は伯母様と嶋宮に住んで
いたのだと思うんです。糠手姫は長生きなのでその間
誰かに受け継がれることはなかったでしょう。
すると
>>974で立てた乙巳の変以降、中大兄の手にあった
という仮説は否定されることになるねぇ。。。
巨勢徳太や高向国押の動きをみると、上宮王家打倒は敏達系と入鹿の共通目標だったようにみえる。
石川麻呂が敏達系に接近したことからみて、蘇我氏の内紛もからんで
入鹿ひとりがはめられたといえる。
天智天皇と天武天皇の全御子達の生没年がわかる方いませんか?
有名な皇子皇女は自分で調べてわかったのですが、
有名じゃない皇子皇女は調べてみても全くわかりません。どなたか教えて下さい。
>>979 天智の子で没年齢不明な子は
健皇子
志貴皇子
大田皇女
大江皇女
新田部皇女
御名部皇女
山辺皇女
明日香皇女
泉皇女
水主皇女
天武の子で没年齢が不明な子は
磯城皇子
穂積皇子
長皇子
弓削皇子
新田部皇子
泊瀬部皇女
但馬皇女
紀皇女
多紀皇女
田形皇女
以上のように天皇の皇子・皇女でも没年齢不明な者は多い
追加
天武の皇子の忍壁皇子も没年齢不明
御方大野の父も
天武の皇子は、高市、草壁、大津、忍壁、磯城、穂積、長、弓削、舎人
新田部の10人しか史料上確認できない
直木孝次郎は御方大野の父を、天武の皇子で唯一没年不明の
磯城皇子だと推定している
984 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 19:44:56
>>977 天智称制3年に死んだ嶋皇祖母命は糠手姫のことですか?
吉備姫王は大きな貸稲田を領有していたとも伝えるので、敏達系の女系はかなりの経済力があったようですね
>>985 スレタイとスレ立て主に多少難ありだが、われわれで有効活用はできそうだ。次スレ酸性
987 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 21:20:24
>>966 大生部多ですね。もう少し時代が遅くて、仏教系なら役小角や行基みたいな
立場になれたかもしれないのに、後々名前が知られたのは河勝の方。
988 :
979:
>>980-3 どうもありがとうございます。
うわー。生年がわかってない皇子皇女のほうが多いんですね。もう俺には調べようがないっす‥。
もしどなたか天智天武の子供について書いてある、お勧め本をご存じでしたら教えて下さい・。それを読んで参考にします