>>791 藤田友治説とはズレますが、九州王朝の一地方王権の王者の墓です。
反九州王朝である崇神朝仲哀滅亡後、
九州王朝が畿内に傀儡政権として置いたのが応神朝(畿内王者:九州王朝順位4位の弟王)です。
応神は九州王朝の任をおびて畿内に赴任していますから、
九州王朝内の当時の最大勢力である肥の菊地族出身と考えられます。
ですから、その子允恭が出身地の埋葬形式を取り入れ、
阿蘇の凝灰岩(軟らかくて加工し易い)を使用しても自然なことです。
又その行為は九州王朝に対して忠誠を示すことであったのではないでしょうか。
参考
九州王朝の7弟王:筑紫・出雲・肥・浪速・越・尾張・夷