白村江の戦い

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934日本@名無史さん:2007/12/24(月) 21:58:51
【大和に想う】超大国・唐と戦った古代日本
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/111433/
935日本@名無史さん:2007/12/30(日) 16:28:00
>>598
>亡国の憂き目に遭いかねないような救援軍の派遣を何故決めたのであろうか・・・
そうだね、政権の存亡を賭して百済救援を決した近江政権の
動機は何だったのか?
936日本@名無史さん:2007/12/30(日) 16:54:38
後明は清に滅ぼされた。
937日本@名無史さん:2008/01/02(水) 12:57:40
>>485
>豊章は逃れて・・・
31 名前: 14 投稿日: 2001/06/27(水) 22:11
>>29
ところで、豊璋はどこ逝っちゃったんだろ?と検索してみたらこないなものが。
http://www02.so-net.ne.jp/~toshihak/t1100.html
結局、高句麗に亡命しちゃったらしい・・・
秋風 白村江 〜さらば半島〜
http://mentai.2ch.net/history/kako/993/993645859.html
938日本@名無史さん:2008/03/06(木) 19:43:05
良スレ
939日本@名無史さん:2008/03/08(土) 14:00:48
白村江の戦いで日本が負けた原因はホウショウ
940日本@名無史さん:2008/03/15(土) 17:09:08
941日本@名無史さん:2008/03/15(土) 18:12:22
日本の同盟国


古代〜現代



百済→ドイツ→アメリカ
942日本@名無史さん:2008/03/15(土) 18:42:28
結局、百済王子豊璋のわがままに付き合わされたわけだな。

こんな人質同然の奴に、肩入れした中大兄皇子もどうしようもないな。

乙巳の変から20年近くも、即位出来なかったのも頷けるわ。
943日本@名無史さん:2008/03/15(土) 19:29:04
元には事実上完敗。二度に渡り台風等の自然現象に助けられた
それが後々、プロパガンダとして神国日本として民衆に
神により守られてる国と植え付けられていく
944日本@名無史さん:2008/03/16(日) 17:04:59
中大兄皇子、大海人皇子、藤原鎌足といった
有能な要人がいながら惨敗したってのは、よくわからん。

藤原鎌足なんかは中国の兵法や戦史に通じていたはずだし。

945日本@名無史さん:2008/03/16(日) 17:44:15
主力は東北の人たちだから。
946ピンチョ:2008/03/16(日) 19:17:25
>>944
兵法なんか知ってたって勝てる訳ない。
三国志なんかの読みすぎだよ
君の伝だと孫子訳した金谷治氏みたいな人も戦上手ということになる
947日本@名無史さん:2008/03/16(日) 21:13:56
>>939
その通り!

奴は有能な自分の部下でさえ、嫉妬した挙げ句、殺して首を切断し塩漬けにしたような愚者。

こんな価値の無い人物を、庇護する必要など無い。
948日本@名無史さん:2008/03/17(月) 01:53:38
>>944
>藤原鎌足なんかは中国の兵法や戦史に通じていたはず

これの出典って何なんですか?
良ければ教えて下さい。

ちなみに孫子を日本に初めて持ち込んだのは、吉備真備だと記憶しています。
949日本@名無史さん:2008/03/17(月) 12:29:07
このすれを見ていると、
結局日本は政治的には中国と関わらないほうがいいな。
勝った負けたは別にして、中国と政治的にかかわっても、長くよい関係がつづかないみたいだ。

昔の遣唐使の時代みたいに、地域性の文化交流をやっているほうがよいように見える。

現在の大連の日本語センター支援とか、上海周辺のビジネス展開とかね。
あんまり奥地にいかないほうがw
950日本@名無史さん:2008/03/17(月) 12:53:48
>>948
鎌足が藤原姓を貰ったのは確か死ぬ前のだ。
951日本@名無史さん:2008/03/17(月) 13:28:46
>>949


おおむね同感。

文化面と経済面(貿易とか)でのつきあいならば互いにメリットがあるだろうな。

ただ、現在は
「日本は政治的には中国と関わらないほうがいいな。」
といっても、ある程度は関わらざるを得ないのでは?

952日本@名無史さん:2008/04/08(火) 23:13:46
これを見てください。倭国が援軍を送ってよかったのです。
http://sky.geocities.jp/jyunpujyunpu/nhksptaikanokaisin/hakusonkou
あとNHKはだめだ。
953日本@名無史さん:2008/04/09(水) 17:11:05
>>935
>動機は何だったのか?
まぁどの時代でもそうで、近い例としてはベトナム戦争の米国と同じく、
周辺諸国、または西側陣営(国内豪族)を絡めた利権と権威の守りでしょうな。
954日本@名無史さん:2008/04/10(木) 00:05:59
>>950
質問の答えに成ってない気が…
955日本@名無史さん:2008/04/28(月) 22:35:35
>>935
当時の政府の外交ブレーンが朝鮮から逃げてきた百済人。
彼らは倭国の力を使って自国を守る為に説得したんでしょうな。
956日本@名無史さん:2008/07/06(日) 11:22:37
白村江の敗北以後、
唐から郭某というマッカーサー的な人が来て
唐軍が2000人も進駐してきたと聞きますが、
日本は唐の植民地にならなかったのですか?
郭某が進駐して来た時、
中大兄皇子や大海人皇子はどうしていたのですか?
957日本@名無史さん:2008/07/06(日) 16:40:57
日本は楽浪郡で高句麗と395年?に大規模な合戦をして敗北しています。
958世界@名無史さん:2008/08/01(金) 00:14:05
>953
7世紀中葉、唐が極東に軍事行動を起こした。当然各国に通達を出した。
当時、唐が何を言ってきたのか、書紀は沈黙しているが、それに対する反応が大化のク−デター。
百済は義慈王が政権を握ったが、経過は滅びて不明。
新羅は生き延びたので、その経過が残っている。
唐は百済に、王を廃して唐の帝族を王に推戴する要求してきていた(三国志紀新羅本紀)。
で、起こったのが田比曇(ひどん)の乱。善徳女王は死亡して金春秋が政権を握った。
唐は最初に高句麗に対して発動。百済が滅びれば、倭は唐の軍事脅威に直接さらされる。
まあ、ロシアの南下を恐れて戦争に突入していった日露戦争のパターンに近い。
私見では、20世紀に当てはめると、唐はアメリカ、新羅は国民党、百済は満州国。
いつの時代もやってることは同じ。
959日本@名無史さん:2008/08/05(火) 09:15:58
>>956
2000人程度の船団は少ないです。
当時の日本は東国のエミシ平定で何万という軍勢を徴兵しまくってきた
イケイケ軍事国家であり、補給も続かないのに唐は戦争しかけれません。
(つまり国内の戦国時代を平定して、イケイケ状態の秀吉が
海外と自信を持って戦争したのと同じ状況。
なぜ過去の任那時代と違ってこのときは大群派遣したのかは、そういう国内状況の差がある)

さらに既に新羅と唐は交戦状態にあったわけで、要するに
捕虜を帰しに来て、土産を持ってきて、唐側に付けという交渉に来たんでしょう
唐vs新羅・倭連合軍になられることを恐れているはずでな。
もちろん2000人の船団は軍事力を誇示して威嚇込みではあろうけど、戦う気はなかろう。

植民地になどなるほど弱体化はしてないよ。
秀吉の朝鮮出兵のあと、日本が支配されるなんて構図思い浮かぶか?
来ても戦うだけの能力が国内にある。

植民地説なんてのは、中国が国史に自慢げに書かないことからも分かる通り
一切唐は日本列島までは支配できてないよ。
960日本@名無史さん:2008/08/16(土) 16:14:58
あのころ唐は、激しいチベットの攻撃で、国土を失いつつあるような状況。
極東は、高句麗さえ滅ぼせばよかったはずが、長期戦にのめりこんでしまい、
極東最高司令官は左遷されたほどだった(資治通鑑より)。
だから唐には、日本列島を支配する軍備も気力も時間もなかった。
倭を唐に恭順させるか、敵対しない程度に丸めるか、というぐらい。
そのころ九州では、唐の傀儡=薩夜麻(都督)政権と新畿内政権画策派(天武)と
後九州政権(南九州)に分かれていたようだ。唐軍には、これを纏め上げる
力などなかった。
961日本@名無史さん:2008/08/22(金) 03:40:21
なるすれ
962日本@名無史さん:2008/08/23(土) 19:42:06
白村江の戦で日本が唐と戦争している最中に天皇は遣唐使を送っているので
天皇はその戦争の相手が唐なのを知らなかった可能性がある
963のんびりひまじん:2008/09/03(水) 18:44:41
唐の竜朔3年(=新羅 文武王3年=663)白村江での新羅大勝(倭人大敗)直後、このようなことがあった。

大王(文武王)は倭人に語って「考えてみると、われわれとお前の国とは、海をへだてて境界を分かち、いまだかつて交戦したことがなかった。
ただ友誼を結び、和を講じて、訪問し交通してきた。
それにもかかわらず、どうして今、百済と悪事をともにして、わが国を欺こうとするのか。
今、お前の兵士は、わが掌中にある。これを殺すに忍びない。
お前は国に帰ってお前の王に報告せよ。」といった。
(そして、逃げ帰ろうとも)その思うままにさせた。
←三国史記  列伝 金ユ信 (に本当に書いてある。)

上記のこと、ここだけにしかない記事である。(新羅本紀 文武王紀 や 日本書紀 には見えない。しかし)

日本列島と朝鮮半島との、その後、1300年あまりの歴史は、ほぼこの文武王のことば通りの推移をしたことを認識するなら極めて重要である。
この直後の時期について、日本書紀(続日本紀)に 唐に捕らわれた日本列島の人びとの悲惨な帰還を伝える記事がある。だが、新羅に囚われた記事がない。それどころか
守君大石、阿部比羅夫たちは早々と無事帰国している。百済の遺臣も多く日本へ亡命している。

7世紀の合戦直後、この新羅の王の呼びかけは、その後の極東の歴史に決定的な影響を残した。日本列島と朝鮮半島の政治関係を考えるとき、この遺産は今も残っている。
964のんびりひまじん:2008/09/03(水) 19:00:25
>>1
>日本は、2度も負けているんですね。

いいえ、3度負けています。
@白村江合戦
A薩英戦争&下関砲撃事件  そして
B対米戦争         です。

重要なことは、
@後、  大化の改新
A後、  明治維新
B後、  戦後改革   という国家改造によって敗戦前以上に国勢が生き返ったことです。

注意)私は、九州王朝説による、大化の改新は敗戦後(690年代:九州年号の大化)説です。
徹底した平和改革路線が、圧倒的な支持を得て、半島侵略志向の九州王朝を滅ぼした。これが九州王朝滅亡の真相であり、当時の人びとが正統王朝であっても捨て去り、歴史偽装の日本書紀をも受け入れた と、考えます。 
965のんびりひまじん:2008/09/03(水) 19:03:47
>>964
補足
九州王朝説による、大化の改新

九州王朝説による、近畿王朝の大化の改新は敗戦後
966日本@名無史さん:2008/09/09(火) 05:13:01
確かに大化の改新は、半世紀ずらさないとつじつまが合わない。
967日本@名無史さん:2008/09/09(火) 22:41:03
大化の改新は孝徳天皇によるもので、皇極上皇と中大兄皇子の妨害によって失敗しました。
968日本@名無史さん:2008/09/27(土) 14:33:36
age
969日本@名無史さん:2008/10/03(金) 22:56:28
 
970日本@名無史さん:2008/10/07(火) 08:11:40
970
971日本@名無史さん:2008/10/07(火) 08:16:25
 
972日本@名無史さん:2008/10/07(火) 08:18:28
 
973日本@名無史さん:2008/10/07(火) 08:19:17
 
974日本@名無史さん:2008/10/07(火) 08:20:24
 
975日本@名無史さん:2008/11/12(水) 10:04:54
976日本@名無史さん:2008/11/12(水) 10:07:34

977日本@名無史さん:2008/11/12(水) 10:10:33

978日本@名無史さん:2008/11/12(水) 10:18:41
979日本@名無史さん:2008/11/12(水) 10:19:47
980日本@名無史さん:2008/11/12(水) 12:42:47
981日本@名無史さん:2008/11/12(水) 12:45:06
982日本@名無史さん:2008/11/12(水) 17:13:17
無駄に埋めるなカス
983日本@名無史さん
馬鹿右翼の工作か。大体対外戦争は二度どころじゃなく、日中でも負けつんだろが。さらに朝鮮しゅぺいでも負。対外戦争数の少ない日本は半数が国を揺るがす敗北を期してるクソ国家。雑魚国家。へたれ国家。猿国家。世界の最果てのちっぽけな国家。

以上