1 :
日本@名無史さん:
バッキンガム並みの宮殿が発掘されたら無条件で認めてやる。
でもそんな物は欠片も無いので却下。
3 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:03
博多が首都だったんだよね。
4 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:07
博多を掘ってみたことはないのかな?
相当あっちこっち掘られてるがな。
6 :
日本@名無しさん:03/01/25 19:12
えらそうな2なわけだが。太宰府天満宮の下は掘らせてもらえないの
しらないようだな。
7 :
日本@名無史さん:03/01/25 19:15
博多からは、なんも出んとでつか?
いろいろ出てるが(九)のいうようなものは皆無
9 :
日本@名無史さん:03/01/25 21:24
鴻濾館
10 :
日本@名無史さん:03/01/25 21:24
短慮館
12 :
日本@名無史さん:03/01/25 22:10
鴻濾館遺跡は本当に鴻濾館なのでつか?
奈良の大和が作ったものでつか?
短慮館
14 :
日本@名無しさん:03/01/25 22:54
古田自身は博多湾岸にこだわってるわけだが。
漏れも、太宰府天神さんの下が、おおいに怪しいと思う。周辺遺構も、回りの城や水城も、どう見ても
要塞都市のようだし。原田の説も、太宰府じゃなかったか?
15 :
日本@名無史さん:03/01/26 00:19
16 :
日本@名無史さん:03/01/26 00:31
太宰府はどのくらい古い層まで掘ったんでつか?
17 :
九州王朝大好き:03/01/26 01:14
まとも!?
19 :
九州王朝大好き:03/01/26 01:50
近畿王朝説に毒されていない頭脳には、まともな説と見えますが?
「内容が全て間違ってはいない。」とは云っていませんので。
ほかの何かに毒されてると思うよ。
21 :
日本@名無史さん:03/01/26 02:33
要塞都市かも。実際は都市というより防衛要塞のようだ。
どういうことであるか。第二戦闘配備中である。
不明瞭な会話は止めよ。
23 :
九州王朝大好き:03/01/26 13:36
>>16 大宰府には古い層はありません。
最も遡って6世紀初頭です。
大宰府は6世紀初頭の都市計画による新都です。
8世紀の平城京、20世紀のブラジリアのようなものです。
24 :
日本@名無史さん:03/01/26 13:49
>>23 レス、サンクス。
では、九州倭国の首都はイズコにやありけり?
25 :
九州王朝大好き:03/01/26 14:10
>>24 九州倭国の最後の首都は大宰府。
6世紀初頭までの首都は、博多及び博多湾沿岸部。
一時的短期的な移動はあったようですが、まだよく判りません。
筑紫平野部や大分県北部の時期もあったようです。
と妄想してみるのだった。
九州王朝は暖か
28 :
日本@名無史さん:03/01/26 14:47
福岡より、大阪・奈良のほうが暖かいんじゃない。
瀬戸内式気候で雪もめったに降らない。 福岡県は日本海側で
けっこう雪がふる。
九州王朝は暖か(あったか)
な、勝ったか?
32 :
明太子大好き:03/01/26 16:38
で、結局太宰府問題はどーなったのでふか?
33 :
日本@名無史さん:03/01/26 16:44
不明。
34 :
日本@名無史さん:03/01/26 16:45
謎でることが明らかとなった。
35 :
日本@名無しさん:03/01/26 18:07
九州さん、太宰府発掘の歴史年代の根拠は?近年の放射年代測定の結果は、従来より
どんどん古くなってるわけですが。
銅鐸祭祀圏というか、その分布から見て、畿内周辺には一定の政権があったと思います。
九州人から見て、撃ちて取るべきほどの価値があったのでしょうか?
当時、奈良盆地の大方は泥湿地、大阪平野中北部は海(潟)、
その他の丘陵地域は灌漑技術無くしては耕作に不適。あまり美味みがない。
征服者として考えられるのは、畿内に入らざるを得なかった者。
九州での抗争に敗れた者か、流れ者の様な部族のような気がします。
崇神(=神武)は、九州では劣等国だったのでしょうかねぇ?
でヤマトに灌漑技術が入ってガンガン発展して九州は片田舎になっちゃったんだね。
38 :
日本@名無史さん:03/01/26 20:05
>>36 崇神も神武も国ではない。崇神は神武ではない。
>>38 九州では定住しなかった(国を作らなかった)って事ですか?
神武は後世の創作で、崇神の実績を元にした架空人物と思います。
40 :
日本@名無史さん:03/01/26 20:30
神武は人ですよ〜ん。
でもおかあさんワニ
42 :
日本@名無しさん:03/01/26 21:03
まあ神武記の様子からは、一直線に大和を目指したとは思えない。36さんの言うように、流れ者
部隊っぽいですね。それも、当初から戦闘を企図したのではなく、それまでと同じように寄宿しよ
うとして、そこはやはり文化圏の異なる土地のこと、長脛彦にうち払われて、はるばる南紀から(
紀ノ川を上ったという異説はあるが)ほうほうの体で大和の南部の僻地に定着したわけだから。
43 :
日本@名無史さん:03/01/26 21:41
つーか
みんなが話してる九州王朝が存在した年代はいつなのよ?
ワニ=倭人
45 :
日本@名無史さん:03/01/26 23:55
古田氏のホームページでは神武降伏説がでています。
あと、最近珍しく九州王朝説をとる本
「日本古代史の探究」芝喬一著、文芸社 では
弱小勢力にとどまった神武はその後
前橋天神山古墳の地に移動したのでは、
なんて推理していて面白かったですよ。
現在、銅鐸を御神体としている神社はない。
これだけ考えても、崇神の進駐は文化的にも大転機だったのだと思う。
もし強制的なものだったなら、反抗の象徴として、影にでも祭られ伝えられているはずだ。
隠れキリシタンのように。なんとも不思議な話だ。
銅鐸が御神体でなかった(例えば道具とか)か、新しい神がよほど優れていたかだろう。
>>46 銅鐸で地祇を祭り、天候と利水を神頼みしていた人々が、
崇神一派の高い技術力に感服し、技術と共に宗教も受け入れた・・・
とは、考えられないだろうか。
感慨技術とか鉄器生産とかが農業革命を起こさせ、
地祇に神頼みする事をやめた。
>>47>>46「銅鐸は埋められた」と聞いた事があります。(ソース忘れましたスマソ)とすれば、宗教弾圧を連想させますが、土着の権力者自らが好意的に崇神を受け入れた(かに見せれば)47氏の言われる事も起こりうると思われ。
銅鉾も埋められてるから、宗教弾圧だあぁ。
銅剣も埋められてるから、宗教弾圧だあぁ。
日本全国宗教弾圧だあぁ。
イスラムでもやってきたのか?
50 :
日本@名無史さん:03/01/27 23:31
>>39 >神武は後世の創作で、崇神の実績を元にした架空人物と思います。
思うのは勝手だが、そう思う理由は?
>>49埋めるのは、土のかみさまへの御供えの意味です。根拠は私のヒラメキです。
52 :
日本@名無史さん:03/01/28 01:46
新唐書だかに「天皇は筑紫城に居る」と書かれている。というのは事実?そしてそれは史実ですか?
うそ
54 :
日本@名無しさん:03/01/28 07:02
しかし、埋納というには、ぶち壊された様子だが?他に少数本当に埋納された体で出てきた銅鐸もあるので、
大半は違うと思います。
あのな、銅鐸のこと何も知らんだろ。
56 :
日本@名無しさん:03/01/28 21:37
だから?
57 :
日本@名無史さん:03/01/28 23:57
銅鐸の「鐸」って何だ?
58 :
九州王朝大好き:03/01/29 00:13
音を鳴らす道具。風鈴とか鐘のようなもの。
59 :
日本@名無史さん:03/01/29 02:12
60 :
日本@名無しさん:03/01/29 06:38
>>59 橿原厨は、屁理屈つけずに上の引用の文を普通に読んで欲しいのだが。有力な仮定として、
漏れも断定はしないが、九州王朝の可能性を読みとることができないなら、もう一度小学校
からでなおせよ。
61 :
日本@名無史さん:03/01/29 06:44
普通に読むと「天皇は筑紫城に居る」とかは全く書かれてなくて
九州王朝の可能性はゼロですが何か?
>>52>>60>>61両説の方にお聞きしたいです。史実かどうかは別にして、「筑紫城に居る」と読めます。どう読み下しされましたか?
63 :
日本@名無史さん:03/01/29 11:01
新唐書の建前としては、
(神代) 自言「初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二丗、皆以尊爲號居筑紫城。」
えー、天御中主から彦瀲に至るまでの、32代が筑紫城に居ると書いてありますですな。
そしてそのあと、
(神武) 彦瀲子神武立。更以天皇爲號。徙治大和州。
神武のときに既に大和に移っておりますですな。
史実かどうかは別にして。
九州王朝は有りえませぬな。神武が8世紀以後の人物でない限り。
なぜこんな事が問題になるのか、麿には理解できませぬ。
64 :
日本@名無史さん:03/01/29 13:27
新唐書の元になった『王年代記』。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_ref3.htm (神代) 初主號天御中主、次曰天村雲尊、其後皆以尊為號、次天八重雲尊、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次贍波尊、次萬魂尊、
次利利魂尊、次國狭槌尊、次角?魂尊、次汲津丹尊、次面垂見尊、次國常立尊、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、
次伊奘諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次正哉吾勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、次炎尊、次彦瀲尊、凡二十三世、並都於筑紫日向宮。
(神武) 彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。即位元年甲寅、當周僖王時也。
これから、新唐書の三十二世は二十三世の誤りであり、どのように数えると天御中主〜彦瀲まで二十三世なのかもわかる。
九州王朝はありえませぬ。
65 :
日本@名無史さん:03/01/29 14:43
>>63>>64それって・・・。
神武が橿原宮を立てた、父は筑紫宮に居た。と書いてあるだけでは?
九州王朝がありえない証明にはなってませんが・・・
九州王朝は神武以下と別系統とする説でしょ?
ただ、天皇が筑紫城に居た、とは書いてないに同意。
九州説のみなさんは反論ありますか?
66 :
日本@名無史さん:03/01/29 17:02
>>65 入居大和州橿原宮
って書いてあるでしょ。
大和に移動してそこで政務を執ったんですよ。
>九州王朝は神武以下と別系統とする説でしょ?
だからね、新唐書は一系で書いてあるので、新唐書から九州王朝は出てこないの。
というより、新唐書は完全に九州王朝を否定している。
だから、(新唐書を根拠にした)九州王朝はあり得ない。
67 :
日本@名無史さん:03/01/29 17:05
>>65 >ただ、天皇が筑紫城に居た、とは書いてないに同意。
筑紫城に居たのは“尊”を号とした時期のことだから、“天皇が筑紫城に居た”とは書いてない。
賛成反対、同意する・しないのレベルではなく、これは動かせない事実ピョン。
68 :
日本@名無史さん:03/01/29 19:36
>>65 >神武が橿原宮を立てた、父は筑紫宮に居た。と書いてあるだけでは?
>九州王朝は神武以下と別系統とする説でしょ?
神武以下の系統で多利思比孤が隋と通交したとも新州刺史高仁表が礼を争ったともありますが何か?
>>66 >大和に移動してそこで政務を執ったんですよ。
移動しない本体もあったとも考えられませんか。
>(新唐書を根拠にした)九州王朝はありえない。
納得しました。
>>67全くおっしゃる通りです。
>>68当方厨房にして、知りませんでした。
新唐書にそう書いてあるのですか?
70 :
日本@名無史さん:03/01/29 20:14
>>69 >移動しない本体もあったとも考えられませんか。
普通考えられません。
72 :
日本@名無史さん:03/01/29 21:17
「新唐書」は日本書紀を参照して書いているように思える。
当時の日本人は「旧唐書」が言うように「虚を持って実に答え」ていない。
おそらく当時の日本人は日本書紀をもとに当時の唐のインテリの質問に答え
ていたに違いないからだ。日本書紀には卑弥呼も倭の五王も書いていないし、
紀元前六世紀から万世一系などと記載されていることを考えれば、「虚を持って
実に答えず」と評されてもしかたない。「新唐書」は当時の日本人の主張を、
そのまま記載したに違いない。
それじゃ、新唐書を読んで有力な仮定として九州王朝の可能性を読みとるのはThe電波ということで。
74 :
日本@名無史さん:03/01/29 21:30
>>69 70
移動するって事は、当時、どんな意味を持ったのでしょう?
移動先を征服、皆殺し、田圃と住居(環濠集落)を奪う、
配下の民に耕作させる、収穫を得て暮らす・・・・。
けっこう綱渡り的な感じがするな。
民を連れて軍団が移動するには、補給が出来ないと、すぐ飢え死にだぜ。
鎌倉御家人では、兵料個人持ちだから、長期は派兵できなかった。
戦国時代になると、街道も整いまた商業の発展で、兵料を買う事も出来るからまた違うのだが。
古代の遠征は、物資の点で大変だったと思うよ。
途中の国を襲いつつ補給したか、協力させたか、あとは海だろうな。
神武が船で東征したのが理解できるよ。
だから?
だから、九州が畿内を征服したとしたら、もっとプロセスが複雑だったと。
後世と違って、何処にでも村があり田圃がありって事じゃないから、
国と国のあいだは殆ど原野、集団が生存できる環境ではない。
軍団の遠征で、武力征服するにはコストが掛かり過ぎるってこと。
遠征と言うより、懐柔と同化だったんじゃないかなぁ。
みんな古典と考古だけを根拠に議論を進めているが、
もっと生活に関わる原理とか数字を考えに入れないと行けないと思う。
古代に生きた彼らも、生活のために国システムを築き、戦争もしたのだから。
>>70>>74 漏れも、わざわざ移動したとしたらそれなりの理由ありかと。
九州から「逃亡」かも知れないでつ。
半島勢力におされて「本体」が逃亡。
「本体」との権力争いに破れて「分家」が逃亡。
(この場合本体は残ります)
肥沃な土地を求めて「本体」が逃亡。
どれも可能性はあるとおもいまつ
78 :
日本@名無史さん:03/01/29 22:20
可能性はないの。
記紀を王代紀が写した。王代紀を新唐書が写した。
それだけ。
だから解釈の可能性は記紀のとおりだけ。
79 :
日本@名無史さん:03/01/29 22:23
そしてその記紀は史実としてはぜんぜん信用できないわけよね。
80 :
日本@名無史さん:03/01/29 22:38
>>78記紀の通り解釈すると九州王朝はありえませんよ(爆)記紀が意図的に九州王朝の存在を隠した、とするのが九州王朝説です。
81 :
74 76 46 47:03/01/29 22:40
>>77 「肥沃な土地を求めて・・・」
大和が肥沃だったとは思えないです。
農耕やるなら、他に平野はもっとあったでしょ。
戦争し掛けて、獲るほどの土地ではないような・・・。
まあ、奈良盆地の利点といえば、防御の点だろうか。
他の多くの平野は、海岸に面して開かれているから敵を防ぎがたい。
灌漑技術で泥湿地(当時の奈良盆地)を開拓できる自信があるなら、
天然の要害に守られた安国(やすくに)と言える。
やっぱり、「逃亡」集団の心理が推測されるなぁ。
記紀が意図的に九州王朝の存在を隠した、とするのが九州王朝説
だから記紀を写した王年代紀は九州王朝の存在を隠してて
王年代紀を写した新唐書も九州王朝の存在を隠してて
その新唐書を普通に読むと九州王朝の可能性を読みとることができるとな
(爆)
83 :
日本@名無史さん:03/01/29 23:03
つまり九州王朝っていうのはどんな史料にも書かれてないんですね。
>>81 「思える」とか「推測される」とか主観ばかりだね。
85 :
日本@名無史さん:03/01/29 23:11
今回も九州王朝説の惨敗でした。ちゃんちゃん
九州説容認派諸兄の反論ないですかあ♪
「大祓詞(おおはらいのことば)」という、現在神社で一般的に上げられている祝詞の1節です。
・・・我(あ)が皇御孫命(すめみまのみこと)は 豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を
安国(やすくに)と平(たいら)けく知(し)ろし食(め)せと事(こと)依(よ)さし奉(まつ)りき。
此(か)く依(よ)さし奉(まつ)りし国中(くぬち)に荒振(あらぶる)神等(かみたち)をば、
神問(かむと)はしに問(と)はし賜(たま)い 神(かむ)掃(はら)いに掃(はら)い賜(たま)いて、
語問(ことと)いし磐根(いわね) 樹根立(きねたち)草(くさ)の片葉(かきは)をも語止(ことや)めて、
天(あめ)の磐座(いわくら)放(はな)ち 天(あめ)の八重曇(やえぐも)を伊頭(いづ)の千別(ち わ)きに
千別(ち わ)きて 天(あま)降(くだ)し依(よ)さし奉(まつ)りき。
此(か)く依(よ)さし奉(まつ)りし四方(よ も)の国中(くになか)と 大倭(おおやまと)日高見国
(ひだかみのくに)を安国(やすくに)と定(さだ)め奉(まつ)りて・・・
意味は、神様が下界を清めて降臨したという趣旨です。
大倭日高見国と言っている中で、「日高見」というのは太陽の登る方向、
つまり東の土地という意味です。
四方国中とは、四方が山に囲まれた土地を想像させます。
豊葦原水穂国と言っているから、農耕は始まっている土地なわけです。
(農耕以前は葦原中つ国と言っています)
「国中に荒ぶる神たちをば、神問はしに問はし賜い 神掃いに掃い賜いて・・・」は、
荒ぶる神に問うて、その悪行を恩赦して、天の色々な有り難いものを下し与えた・・・となる。
これは、崇神による大和懐柔と進駐を語っているのだ・・・・。
はいはい。また古典の妄想的解釈ね。
私は、まず結論ありきで、それを確認する材料を求めてるんですよ。
90 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:13
そして確認する材料なんかないことを毎度思い知らされてるわけだな
91 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:16
結論ありきの弱点
なんでも自分に有利な材料にみえてくる
都合の悪いものは見えなくなる
結論ありきの強みとも言えるね。
93 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:19
>>89 しれっと言われると真面目に非難する気にもなれん・・・
信念の力は強いぞ、シュリーマンを見てみろ。
彼は実際に発掘できたから良いものの、九州王朝説の場合、
物証は何だろうね。邪馬台国論争なら、「親魏倭王」印だと思えるが。
95 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:26
惨めの極みといえるもの
掘り当てられないシュリーマン
天動説のガリレイ
96 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:27
>>94 だ〜〜〜か〜〜〜〜ら〜〜〜〜〜
シュリーマン持ち出すなら、テメェで掘れよ。
シュリーマンが評価されてるのは、トロイを堀り当てたからじゃない。
情熱をもって掘りつづけたからだ。
81氏の姿勢は科学的と思われ。仮説を立て、それをを検証する。確認の結果、仮説が肯定されるか否定されるか。ごく普通の科学的態度と思われ。それとも日本史の世界「だけ」はそれを否定するのか?ゴルァ
目からうろこです!
ここを検証する場にしましょう!
100 :
日本@名無史さん:03/01/30 01:12
邪馬台国は群馬県です。
これからこの仮説を検証していきます。
>>87 どう読んでも瓊々杵尊のことをいっているとしかとれません。日高というのは「新しい領土」というほどの意味ではないかと思いますが、そこを治めたのは天津「日高」彦瓊々杵尊でしょう。
>>99 ではお言葉に甘えて、つぎの点に付いて意見をお聞かせ下さい。
1.弥生末期および大和朝廷前後について、
巫女政治は列島において普遍的なものであったと言えるか?
2.国の王たる者と巫女の関係はどうであったか?
3.太陽崇拝という信仰は存在したか、また普遍的なものであったか?
4.神武の東征について、崇神の行為であった可能性はないか?
104 :
日本@名無史さん:03/01/30 21:43
崇神が好きな香具師だな。
>>103 1知るかぎりの文献においては、当時巫女政治が普遍的との印象は持ちません。
2私の知識不足にて不明。
3天照大神は太陽神だが、重視されるようになったのはごく最近と聞いたことありまふ。
4同じ名を持ちますし、神武が崇神の投影である可能性は否定できません。
1.ヒメヒコの実態として普遍的であったと推定可能である。
2.ヒメとヒコは近親者であると解明済みである。
3.一部の祭祀遺構の日の出方向にランドマークが見出せるという指摘があり、可能性がある。
4.神武とか崇神とか実態が不明なので保留する。
1 言うまでもなく邪馬台国では巫女政治はあった。が今はない。いつなくなったのか興味ある。 2 回答保留 3 万物に神宿る。太陽もその一つ。4 可能性なら、ある。
1. 十分な資料がない
2. 十分な資料がない
3. 十分な資料がない
4. 十分な資料がない
1.の補足質問
普遍的という質問の意味について。
例えば邪馬台国連合の国々では、巫女(或いは巫女政治)は存在したのだろうか?
卑弥呼は元々は巫女であったのではないか? 共立の王は男王を常としたが、
それでは収まらない事態となって、巫女が王を兼務した。巫女の方が人心を掌握できた
という事ではないのか?
3.の補足質問
近隣アジアにおいて、太陽信仰はあったか?
太陽ポカポカあったか
太陽神はインドまでいかないといないよ
天空神はいるが・・・
>>110 インドでも良いと思います。
朝鮮半島経由にしろ南方経由にしろ、日本列島に移民して来たのは
色々あったと思うから。
113 :
九州王朝大好き:03/02/01 00:10
ぼくだけの思いでしょうか?
先日のウィルス騒動日以来、
橿原一派の方々の橿原一派的言動が無くなったのはどうしたことでしょう。
>>105の橿原一派さんは従来の橿原一派の方々とは異なり好感さえ感じます。
おまえだけだ
115 :
日本@名無しさん:03/02/01 15:13
そりゃそうでしょ。橿原一派とかいったって、所詮このスレに巣くってるDQNは
一部のヤシだ罠。
橿原一派とかいう命名がDQN
>>113>橿原一派の方々の橿原一派的言動。何を指すのか、具体的に明らかにされないと不快です。ウイルス騒動と橿原一派の方々が関係あるかの様な書き込みですが、軽々しくそういう事を書くべきではありません。根拠がないなら、発言の撤回をされたい。
>>118 橿原一派っていうのは、まともな思考の出来る人たちのことだよ。案ずるに及ばず。
逆に言えば、橿原一派ではない=電波。
120 :
九州王朝大好き:03/02/01 22:01
橿原一派のみなさんはご健在のようです。
安心しました。
橿原一派の皆さんは科学技術に弱いようなので、
ウィルス騒動に巻き込まれてインターネットに復帰できないのでは、
と心配しておりました。
ちなみに、僕は当日騒いでいる時間帯にも殆ど影響はうけませんでした。
121 :
日本@名無史さん:03/02/01 22:07
119はキティガイ
そんなふうに「科学技術」って言葉を使うとお里が知れますよ。
123 :
日本@名無史さん:03/02/01 22:14
九州王朝お得意のレッテル貼りだよ。
>>113ありがとうございます。しかし、ウイルス騒動云々は擦れ違いっす。そんなことより大和御中さんの質問の答えを聞きたいです(笑)。
>>103意見も出ましたので、レスを希望します。
125 :
日本@名無史さん:03/02/01 22:57
126 :
九州王朝大好き:03/02/02 00:22
1.弥生末期および大和朝廷前後について、
巫女政治は列島において普遍的なものであったと言えるか?
縄文文化を引き継いでいる地域においては、巫女政治はなかったでしょう。
天神信仰(アマテル神信仰)の地域に限れば巫女政治はあったでしょう。巫女の中の巫女が卑弥呼。
2.国の王たる者と巫女の関係はどうであったか?
僕には判りません。
3.太陽崇拝という信仰は存在したか、また普遍的なものであったか?
八百万の神々のひとつとして太陽信仰はあったでしょう。
4.神武の東征について、崇神の行為であった可能性はないか?
僕には判りません。
>>106 >>105 ヒメヒコ制が考えられる具体的な国や地域はありますか?
(普遍的で無かったとしても)
ヒメとヒコの地位の上下関係、世襲の有無などは?
>>126 天神信仰(アマテル神信仰)の地域とは、何時の時代の何処ですか?
「巫女の中の巫女が卑弥呼」について、配下の国々にも巫女がいたと言う事ですか?
>>106 祭祀遺構の日の出方向にランドマークが見出せるのはどの遺跡ですか?
>>107 >>126 アマテラスが皇室の祖神とまでされているのです、
万物神の中の一つではウエイトが小さ過ぎると思いませんか?
>>105 崇神・垂仁による移動(宮殿内→大和の笠縫邑→伊勢)は不可解ですね。
でも、伊勢神宮は三輪山近辺から見るとほぼ真東の位置、日出る方角にあります。
何かの意図は感じられますね。
128 :
日本@名無史さん:03/02/02 12:53
まあ東に延長したのが伊勢だったというのでいいと思います。三輪山にもと何があったかはわかりませんが、
少なくとも当初勢力圏は伊勢まで及んでなかっただろうから。
129 :
九州王朝大好き:03/02/02 21:53
>>127 アマテル神(天照神)とアマ神(天神)の関係についての私見。
アマは後には「海女」を示す言葉に使われたと考えられます。
天神(アマ神)は海洋を支配する女神で、
非常に古い神で海洋族弥生人と共に中国方面の倭人が日本につれて来た神で(紀元前10世紀から6世紀)、
半島の神話にもでてくる古くから対馬海峡・朝鮮海峡一帯を支配する神と見ます。
海峡の一地域(対馬)で、一部の部族によって担ぎだされたのが、天照神(アマテル神)です。
天神の下位の神として天照神です。
たとえば猿田彦は天神信仰ではあるが、天照神信仰ではなく、又別の神を祖先として持っていたと思われます。
天照神信仰は近畿王朝と九州王朝の一部の天照神を祖神とする部族だけの信仰です。
九州王朝でも倭の5王及びイワイ等の熊本出身王朝では天照神信仰はなかったのです。
勿論彼らは天神信仰であることには変わりがありません。
卑弥呼等の北部九州部族は天照神信仰です。
天照神信仰は鏡を神器とする部族にかぎられます。
天照信仰は、対馬→壱岐→伊都→九州北部沿岸→近畿(一部分派)と広がりました。
一方、天神信仰は天照神信仰以前に近畿に伝わっております。
上記の様な仮説を取ることにより、神話の理解と現在の神社分布の理解に整合性が出てきます。
などと空想を書いてみる
131 :
九州王朝大好き:03/02/02 23:24
>>127 祖神を天照神とするそれぞれの部族には、それぞれ王がいて、
それぞれの神社があり、そこにはそれぞれ巫女がいなければなりません。
それらの神社の元社にいたのか、又は最も有力な王がいた国の神社にいたのが卑弥呼です。
132 :
日本@名無史さん:03/02/02 23:29
平野さんの本が話題になってるせいか
最近近畿説の人しずかだね。
133 :
日本@名無史さん:03/02/02 23:43
どんな話題になってるの?
きたことないな
135 :
日本@名無史さん:03/02/03 00:16
136 :
◆jkL/NfK3mQ :03/02/03 00:29
a
引退ジサマのしょもない本みたいですな
138 :
日本@名無史さん:03/02/03 00:40
どっちにしろ九州王朝説とは関係ないな。
>>138 ならびに皆様方
どうしましょうか、
「倭王権の起源を語ろう」にでも移った方が良いのでしょうか?
>>129 131
アマテル神(天照神)について自分なりに勉強しているんですが、
今一つ解りづらいですね。
対馬海峡・朝鮮海峡の海の神様なわけですよね、
天とか太陽の神に転化したのでしょうか?
それと、畿内についてですが、銅鐸との関係はどうお考えなのでしょう?
崇神についてですが、これは私も根拠に欠けるので恐縮なのですが、
極東エリアよりずっと西には何か関わりを見出せないものでしょうか?
どうでしょう?
↑トピずれ
141 :
日本@名無史さん:03/02/04 21:56
ふるたファン健在
142 :
日本@名無史さん:03/02/04 23:04
>>139よ
九州王朝大好きが主張している
>アマは後には「海女」を示す言葉に使われたと考えられます。
天神(アマ神)は海洋を支配する女神で、
非常に古い神で海洋族弥生人と共に中国方面の倭人が日本につれて来た神で(紀元前10世紀から6世紀)、
半島の神話にもでてくる古くから対馬海峡・朝鮮海峡一帯を支配する神と見ます。
との妄想にまどわされるな
根拠は何一つないぞ
日本で天神といったら菅原道真公のことだからな。
天神といってアマ神と言われてもピンと来ない。
紀元前10世紀から来ていた根拠は何よ?
>>139このスレは九州王朝が、あったか?なかったか?を論ずる擦れです。議論の結果「だからあったと思われる」「だからなかったと思われる」につながるなら、この擦れで大歓迎!
145 :
九州王朝大好き:03/02/05 01:48
>>143 天神といえば菅原道真公とはいえません。
大阪にあるのも天神、この天神は菅原道真公とは直接の関係はありません。
追放貴族菅原道真は九州でさびれた神社を再興しました。
それが天満宮、本来の天神とはかなりズレたものになりました。
本来の天神の祭りの伝統を伝えているのは大阪の天神。
海の神様であることを色濃く残しています。
大宰府の「天神」は、アメノタリシホコ(アマのテラシヒコ[天照彦])時に、
博多から新都大宰府に移転しました。
その後九州王朝は滅びその守護神も共に衰えてしまいました。
又内陸になった為、本来の海の神としての意味も無くしていきました。
そこに乗り込んだ失意の菅原道真は古い神社の再興を行いましたが、
もうそこには海の神としての「天神」は消えてしまい、
「天満宮」として生まれ変わったのです。
そこには「天神」の名前が残っただけです。
以上私の仮説に物語を付け加えました。
今では「天神」には「アマカミ」は消し去られ、根拠は希薄になっていますが、
大阪の「天神」は変質しながらも、「テンジンさん」と民衆に親しまれ、
祭りの様式に見られるものが、「アマカミ」の痕跡でしょう。
追放貴族「菅原道真」が「天の神」とは名前が偉大すぎることに疑問を持ちませんか?
菅原道真は「天照大神」より上位の神であることを示す「天神」になっているのです。
146 :
九州王朝大好き:03/02/05 03:23
>>139 対馬海峡・朝鮮海峡の海の神様は「アマ神」で女神です。
海洋神で、(海)アマ→天(天) と変化したのでしょう。
海上では海と天は一体化してしまいますから。
「アマテル神」は対馬に起源を持つ北部九州に広まった神です。
アマ神に比べると、一部族の祖神です。
この「アマ」も海→天→日の光 と転化していったものと思います。
太陽神ではありません。
銅鐸を祭器とした人々と「天神」とは何の関係も認められません。
彼らがどんな神を持ったかは、私にはわかりません。
崇神についてはよく判りません。
現在九州王朝とはあまり関係がないようなので興味がもてません。
近畿の一部を統一をした人程度の認識です。
九州系の近畿在地の部族か、新たに九州から来た部族かはわかりません。
>>142 質問です。
仮説=妄想ですか?
147 :
九州王朝大好き:03/02/05 03:27
>>141 ハイ、私は古田ファンです。
が、古田信者ではありません。
古田氏の業績には敬意をいだいております。
148 :
日本@名無史さん:03/02/05 03:41
やっぱり海を一日がかりでわたると千里って感覚はあったんだろうね。
陸上の距離感とはぜんぜんちがうけど。
150 :
九州王朝大好き:03/02/05 12:49
>>148 なるほど、短里の存在を示す現代まで残ったデータですね。
古典文献だけがデータでないのです。
九州王朝についても、文献データ、考古データだけに頼るのではなく、
現代のあらゆる分野のデータを総合して考えなければならないと思います。
近畿王朝派的、橿原一派的な大部分の人達(一部の人達は除く)のものの見方では、
日本の古代学は将来消滅するのではないかと憂慮いたします。
152 :
日本@名無史さん:03/02/05 20:52
>>148-
>>150 九州王朝主義者の妄想には果てしがないな(藁
153 :
日本@名無史さん:03/02/05 21:01
154 :
日本@名無史さん:03/02/05 21:07
155 :
日本@名無史さん:03/02/05 21:31
>>153 無いはずの鳥居が・・・うつってるるる・・・
本殿との大きさの不釣合いも笑える。
156 :
日本@名無史さん:03/02/05 21:37
>>153 心○写真か?
笑笑笑笑・・・・・・・・・・笑
157 :
九州王朝大好き:03/02/05 22:01
>>151 他田坐天照御魂神社・鏡作坐天照御魂神社はアマテル系神社とみても良いと思います。
主神陪神の全てがアマテル系であるからです。
木島坐天照御魂神社は名前はともかくアマテル系でないようですね。
主神陪神の特に陪神について検討する必要があります。
その神社は本来はどの系列の神社であるか判断するとき、
その神社の陪神がその神社名に残っていたり、
その神社の陪神がその神社名に残っていなかったり、
その神社の陪神に正体不明の神がいて、その他主陪神と全く違う名前の神社だったりで、
現地の神社までいって調べないと判断できないケースもよくあります。
具体例は長文・論文になりますので、ご容赦を。
神戸の「柳原えびす神社」について、
漢字で書くと「柳原蛭子神社(ヒルコ)」
主神はアマテル系の神。
陪臣に「ヒルコ」がいました。
神社には阿波から来た神様との説明書ありました。
つまり阿波の偉大な神様「日子神(ヒルコ)・日女神(ヒルメ)と読めます。
又「淡路島」は「阿波路島」あることが読めます。「淡島」ではありません。
記紀にいるのは「蛭子」ではなく、征服された「日子(ヒルコ)」であると読めます。
>>143 天神は、水稲を携えて九州・半島南部にやって来た海洋民である弥生人と共に来た神とみます。
その時期は気候の小変動のあった時期、紀元前10〜6世紀とみます。
158 :
日本@名無史さん:03/02/05 22:06
>>150 >九州王朝についても、文献データ、考古データだけに頼るのではなく、
現代のあらゆる分野のデータを総合して考えなければならないと思います。
現代のデータを無批判に過去と同一のものだとみなす=ト説の温床
ぜんぜん総合してないとこがミソ
結局、九州王朝で残ったのは大好きくんだけでOK?
あとは、信仰であることを告白して撤退と。
ま、信仰まではどうこういえないからね。
信教の自由は憲法で保証されてる。
161 :
日本@名無史さん:03/02/05 23:18
九州王朝はあったかもしれないと思うが、あったと信じてはいない。
すなわち、予感であって信仰ではない。
162 :
九州王朝大好き:03/02/06 18:10
九州王朝は、
あったかもしれないとは思わないし、
あったと信じてはいない。
又、予感でもないし、
信仰でもない。
推論の結果があったことになっただけです。
推論の根拠が信仰なだけだよね
164 :
日本@名無史さん:03/02/06 23:29
何かつまんねーな。
165 :
日本@名無史さん:03/02/07 00:57
なんたってかしわらがハシハカが卑弥呼でもトヨでもないって
いっちゃったからやる気なくすわな。
166 :
Is Nine-state-king-morning hot?:03/02/07 01:42
>>164 Yahoo!の「九州王朝」トピの方がまだマシ
167 :
日本@名無史さん:03/02/08 21:45
2チャンネルの良さは、一覧性だね。
yahoo! とかの掲示板は、いちいち操作して次のメッセージを表示するのが面倒。
あれで良いシステム組んだつもりなんだろうけど、2チャンネルみたいに
シンプルに全部表示する方が良いね。
168 :
日本@名無史さん:03/02/08 21:48
九州王朝説も文献とか資料とか発掘物とか事実のみを
シンプルに全部表示する方が良いね。
169 :
日本@名無しさん:03/02/09 10:31
カシワラにロマンも糞もない。あるのは現状肯定と、「であるかもしれない」と、天皇制
賛美だけ。ウヨならウヨらしく、街宣車でも仕立てて派手にやれよ。
日 本 に は 古 代 か ら 天 皇 制 し か な か っ た !!
楽だよな。脳内が単純で。
歴史に浪漫はいらない。
そして、ウヨもサヨも、『ウヨ、サヨと罵ることしかできないヤツ』もいらない。
171 :
日本@名無史さん:03/02/09 15:40
ネタニマジレス
ここの人たちは九州王朝の九州年号についてはどういう解釈なんでしょうか?
やっぱねつ造?
173 :
九州王朝あったかも?:03/02/09 18:33
史料は史料として厳密に扱わねばなりません。世間的な意味での常識に訴えて裁判沙汰に
持ち込むなど、もってのほかです。その意味では学者の顔をした税金泥もゼネコンも同じ
といえましょう。
さて、九州年号と呼ばれる一連の私年号ですが、よく王権の内容が暦と年号と法律といわ
れるように、日本において暦と年号は、江戸時代まで天皇家以外には公布されませんでし
た。信長が、年号や暦まで口出ししようとして、公家勢力に抹殺されたと言われるぐらい
ですから。
ですから、発見されている私年号、しかも各々整合性を見いだせるものですから、だれか
が勝手に作り出したとは常識的には考えにくい所です。
さらに、通説でいわれている大和政権初期の年号についても、実際に公布されていたのか
どうか実は確定しておらず、すくなくとも王権の確立と中国との国交についての関係も、
より一層の解明が必要だと言えましょう。
174 :
九州王朝あったかも?:03/02/09 18:39
特に系統的で、中心的に論じられるのが二中歴ですが、他の史料と完全に一致しているわけではなく、
まだまだ確定的とは全く言えないところです。ただ、一介の僧侶がわざわざ記紀と違った年号を書き
連ねる行為に何の意味があるのかといえば、何か理由思いつきますか?私はそこまで想像力が豊かで
はないので。そんな捏造などという言葉を使っていい単純なことではないとおわかりですか?
まあ、ただのあおりならしりませんがね。
175 :
日本@名無史さん:03/02/09 18:40
簒奪された九州王朝カワイソウ。
>>173 煽りじゃないです
意見を聞きたかったまでで
私は何度か古田公演にも行ってますし
私もおおむね173さんと同意見なんです
177 :
日本@名無史さん:03/02/09 21:44
素朴な疑問があるんですが、
古田氏によると
磐井の乱では九州王朝は大和王朝に完全敗北しているわけですが、
その後の白村江の戦いでは未だ九州王朝主導であったというのは
不合理に思えるんですが?
あと多利思北孤隋 の国書も「磐井の乱」後ですが
これも腑に落ちないです。
「天皇と皇子がともに崩じる」ような事態の後、
そこまで回復出来るんでしょうか?
この辺は古田氏はどのように説明されてるんでしょうか?
馬鹿な疑問だったら失礼。
178 :
日本@名無史さん:03/02/09 21:53
あと記紀に「国譲り」が存在すること、も引っかかります。
九州王朝を同じような形で登場させる事が出来なかったのは何故でしょうか?
天武の時代であれば、仮に九州王朝が存在していたとすれば
人々にとってそれはそれほど遠い過去ではないので
存在を否定するのは意味が無いと思えるのですが。
>>177。
>>178 完全敗北ではないです。糟屋の屯倉を割譲しただけです。
私の考えでは、書紀は九州王朝の存在を否定しているのではなく、その事蹟を書いていないだけだと思います。日本国の史書なのだから、書く必要はないでしょう。
ただ、神代巻については、九州王朝の神話を自家の歴史に接合することで、自分たちも元をたどれば九州王朝の血をひいているのだと、王権の正統性を主張する目的で載せたのでしょう。
180 :
日本@名無史さん:03/02/09 22:35
>>179 神代については接合したのではないのでは?
畿内一派も神代を共有するものと考えられませんか?
181 :
日本@名無史さん:03/02/09 22:42
>>179 >完全敗北ではないです。
古田氏の現在の認識が「失われた九州王朝」当時から変わったということですか?
「百済本記」の「「日本天皇及太子・皇子〜」の記述を指して
「この記事は端的に言って、”一つの王朝が敵国の大挙侵入を受け、全面的な敗北を喫した”そういうときの表現だ。」
として、それを筑紫の君「磐井」に関するものと解釈してましたよね。
>書紀は九州王朝の存在を否定しているのではなく、
>その事蹟を書いていないだけだと思います。日本国の史書なのだから、書く必要はないでしょう。
なるほど単に無視しただけであるということですね。
182 :
日本@名無史さん:03/02/09 22:45
>>179 とすると、記紀は九州王朝を抹消してるのではなく、
むしろ読者がその存在を知っている事を前提としているということですかね。
ところで古田氏は「磐井王朝の滅亡」という表現もしてますね。
>>181 >「この記事は端的に言って、”一つの王朝が敵国の大挙侵入を受け、全面的な敗北を喫した”そういうときの表現だ。」
として、それを筑紫の君「磐井」に関するものと解釈してましたよね。
そうでしたっけ。古田氏が東日流外三郡史にかかわりだしてから、本を読み返すことがなくなっていたので忘れてました。ごめんなさい。
>>180 しかし、万葉集には、記紀神話とは違う体系の神話が登場するということですし、大和にも本来は自分の神話があったのでは?
>>182 >むしろ読者がその存在を知っている事を前提としているということですかね。
前提というより、当然知っていたでしょうね。178さんのいわれるように、そう遠くない時代の事ですから。
>ところで古田氏は「磐井王朝の滅亡」という表現もしてますね。
これについても、記憶になくて・・・。あいまいな記憶をもとに書き込んでしまってすみません。
184 :
178=181,182:03/02/09 22:57
でも良く考えたら変ですね。
日本書紀でははっきり「磐井の反乱」として記述されてますね。
つまり九州王朝の権威は否定されてるというか、
王朝の存在自体がやはり抹殺されてますね。
185 :
日本@名無史さん:03/02/09 23:00
だいたい、なんで消さなきゃならんのだろうか。
熊襲征伐なんかは書いてあるのに。
186 :
178=181,182:03/02/09 23:06
>>183 そんなにあやまらないで下さい。
最近、記紀が想定していた読者像というのをよく考えるんですが、
記紀の記事からある程度近畿天皇家に有利な歪曲と
それでも触れざるを得なかった、「当時の常識」
が切り分けられるんじゃないかと妄想していて
その流れで「九州王朝」の存在する余地はあるのかどうかと。
例えば「国譲り」からは「出雲系=大国主」の先行する支配権が
無視は出来ないモノであった(過去のモノであっても)
ことがうかがわれるような気がします。
187 :
178=181,182:03/02/09 23:11
>>185 一つ言えるのは、古田氏の説通りなら
単に征服対象ではなく、現天皇家の上位に位置した存在であったということですかね。
国譲りであっても、対等以下の扱いですね。
ただ国譲りの時代より遥かに近い時代の話のはずなので
「反乱」で言いくるめるのは不可能だと思いますが。
188 :
日本@名無史さん:03/02/10 00:28
私も古田さんの本ワクワクして読んでたんですが
177 さんのように?と思えることにときどき出くわしました。
177さんの疑問には急進古田派らしき米田さんの解釈が面白い。
何より、磐井は新羅と結んで反乱したんですよね。
ところがその九州王朝がどうして7世紀にそこまで百済に肩入れするのか。
亡命百済貴族はみんな近畿にいっちゃった。
そこがどうしてもよくわからんのです。
別に反乱で言いくるめる必要があるとも思えんのだが。
筑紫の国を撃つ、で何の問題もない。
三韓との通交記事はあるのに、筑紫との通交記事はない。
なぜ隠さにゃいかんのだろ。
190 :
日本@名無史さん:03/02/10 10:59
あれも改竄これも改竄っていうのはどうしても不自然だと思います。
>>185 熊襲征伐って、景行紀のことでしょ?
古田武彦は『盗まれた神話』の中で、景行天皇の九州征討記事は、
もとは天孫降臨の後に続く九州王朝の発展史だったものを、
ひきちぎって景行紀に挿入したのだといっている。
古田説に従えば、日本書紀は九州王朝の史書(および百済系史料、
中国史書)から記事を切り取ってきて、適当なところにはめ込んでつくったものだから、天皇家のものとして記事を利用してしまった以上
九州王朝のことは書けなかったんじゃないかと。
193 :
日本@名無史さん:03/02/10 16:41
それが山口王朝なら山口王朝でもいいわけで、
九州王朝である必要も理由もなんにもないですね。
いやいや。
熊襲の征伐が書いてあるってことは、
まつろわぬ民がいるなんてことは別段気にしてないってことでしょ。
だから、すなおに、まつろわぬ筑紫國を伐ったって正直に書いたらいいじゃない。
その通りなんだから。
大唐に対してもそうだよね。
正直に書いて、我々は大唐に仇なした筑紫國を滅ぼしました。
我々は貴国の味方ですっていう歴史書にしたらいいじゃん。
本当のことなんだし。
九州王朝を隠蔽する理由がじぇんじぇん、わかりまへん。
195 :
日本@名無史さん:03/02/11 01:49
教養のない人は九州王朝説に騙される。
結局邪馬台国はどこなの?
197 :
日本@名無史さん:03/02/11 02:06
大和だよ
198 :
日本@名無史さん:03/02/11 09:40
山たい。(九州弁)
199 :
また馬鹿か:03/02/11 09:55
201 :
日本@名無史さん:03/02/11 10:36
202 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:09
古田説では「やまたい」と発音しないのはわかりきっていると思うが
203 :
日本@名無史さん:03/02/11 13:13
>>193 遺跡の出土件数が問題なんだろうな
日本全国探しても当時の博多より出土件数が多いところが無い
そこが一番重要なんだろうと
なんの?
>>194 国史編纂にあたり、天皇家は始めから自分たちが日本を支配していたのだというウソを押し通すことに決めた。
だから天皇家以前の王朝の存在を隠したんでしょう。
ただ、それはあくまでも国内向けの主張であって、中国には本当のことをいってたんじゃないかな。
中国にも天皇家が始めから日本を支配していたのだと言ってるじゃん!
>>205 >天皇家は始めから自分たちが日本を支配していたのだというウソを押し通すことに決めた。
嘘嘘。
四道将軍の派遣などを通じて覇権を握ったって書いてあるじゃん。
神功が帰ってくる時に内乱があって大和に入れなかった何てことも書いてあるよね。
どうせ消すなら、真っ先に消したいなぁ。
>>208 その辺りは古田説だと九州王朝の歴史書を適当に固有名詞だけ変えて盗用したってことになってますね
しかも盗用のやりかたがズサンでツジツマ合っていないところもしばしば見受けられると
日本書紀と古事記を両方読める環境の人が作成者の中に居れば、ツジツマ合わないところを指摘しなかったわけないと思うがどうか?
日本には天皇家以外に王朝はなかったのだというウソを押し通す、
に訂正。
>>209 だから
>天皇家は始めから自分たちが日本を支配していたのだというウソを押し通すことに決めた。
は嘘だよね。盗用でもなんでも、とにかく、書いてあるんだから。
それにさ、熊襲は支配してなかったでしょ。あとから征伐したことになってる。
だから、堂々と筑紫国もあとで征伐したって書けばいいじゃん。
本当のことなんでしょ。なんで嘘つく必要があんの。
>>211 かつて大和より強大な王朝があったということには触れない方針という解釈かと
筑紫国を征伐したとなれば筑紫国についての詳しい説明が必要になってくるわけで、しかも筑紫国を滅ぼしたのは実際(仮にです)には唐なわけだが、それを大和が行ったとするなら、どういう武将がいてどういう戦いをどこでしたのか書かなければいけない。
そこまではねつ造するのが無理だったってことでしょうか?
盗用が限界なんだと?
と解釈してみるテスト
213 :
178=181,182:03/02/11 21:00
>>211 基本的に記紀の立場は現天皇家が天孫であり、
その支配権は天照の権威を認めるなら当然の帰結という立場なわけですが、
古田氏によると、九州王朝も同じ系列で
むしろ主流であった(系図的に)可能性があるということですね。
実際そう読める。
熊襲とは少し違う。
「日本全国津々浦々に勢力があった」という事は主張してませんが、
「正当な血筋である」ということは主張しており、
仮に九州王朝の征伐を記載するなら「磐井の反乱」が限界だったとも
考えられなくはないですが。
214 :
178=181,182:03/02/11 21:19
>>188 ネットで検索してみましたが、米田氏の説は見つけられませんでした。
ただ継体の完全勝利ではなかったとする説を見つけました。
ある程度解釈として納得は出来る説でした。
>亡命百済貴族はみんな近畿にいっちゃった。
不思議ですね。
古田氏は論証だけではなく、自論を通史の形にはしてないんでしょうか?
日本には九州王朝があったのだというウソを押し通す通史
山陰の出雲族、高千穂の峰系の天孫族、南方系の隼人族、北九州(?)の宗像族、
京都盆地(?)の賀茂族、紀州の??族、東海の尾張族、関東にも豪族たちがいた・・・。
という記述を、漠然とながら提起させて頂きます。
これを読まれて、九州王朝説の皆様はどうお考えですか?
それらの民族と九州王朝の構成要素との比定は?
ここで言う天孫族は、神武(崇神)の部族とは違うようです。
>>212 >しかも筑紫国を滅ぼしたのは実際(仮にです)には唐なわけだが、
嘘、嘘。
大唐にボコボコにやられたことろを、畿内天皇家に滅ぼされたんでしょ。
次々と、嘘を繰り出してくるねぇ。
>かつて大和より強大な王朝があったということには触れない方針という解釈かと
あれ?九州王朝って、九州ローカルでしょ。
九州と東北を除く日本の大半が版図なんだよ。
大和朝廷って。
九州ローカル王朝なんて熊襲とたいして変わんないじゃん。
しかも滅ぼしたのは唐にボコボコにやられた後なんだし。
たいした戦いもなかったんでしょ。
218 :
178=181,182:03/02/11 22:27
>>217 >大唐にボコボコにやられたことろを
>畿内天皇家に滅ぼされたんでしょ。
そうなんですか?
どっかにそれらしき記述があるんですか?
>>218 もともと九州王朝に文献なしだから、文献は上げられないけどね。
いろんな人がいろんな事をいってることからするとそうらしい。
それとも、唐の軍隊が九州に上陸して制圧したの?
白村江の戦いに敗れて疲弊したところを
天皇家にのっとられた、ということですね。
221 :
178=181,182:03/02/11 22:47
>>219 古田氏はその辺には深く立ち入ってないですね。
最近は知りませんが。
>>220 古田氏によると、白村江の戦い当時の九州王朝のトップは
捕虜にされた筑紫の君薩夜麻で数年に渡って不在であった。
その間に筑紫は近畿天皇家の支配下に置かれたってなニュアンスですね。
>>219 鎮将劉仁願に派遣された、郭務ソウ(りっしんべん+宗)率いる駐留軍が来てた。
まあ、近畿天皇家にたいした戦いもなく滅ぼされたのは間違いないわけだ。
ますます、記録を抹消する理由がないね。
だまし討ちなんかも堂々とのってるしね。
事実なんだから盗用や捏造する手間はいらないしね。
>>216 「多元的古代史観」
まんま古田だ
>>217 >九州と東北を除く日本の大半が版図なんだよ。
>大和朝廷って。
釣りですか?
225 :
178=181,182:03/02/11 23:03
>>219 そういや、「旧唐書」の日本伝だかに
「或云日本旧小国併倭国之地」って記述があるらしいですね。
どう読むんですかね。
>>220 221
その近畿天皇家というのは具体的には何(誰)ですか?
>>217 大和にも立派な王権があったと言う事ですね?
前方後円墳を造った人たちですね。
文献資料(記・紀)は九州王朝の歴史も取り込んだ創作という事ですね?
227 :
177=181,182:03/02/11 23:22
>>226 「失われた九州王朝」によると
天智天皇ですね。
筑紫率栗隈王を任命した人ですね。
>>225 或もの『日本はもと小国、倭国之地を併す』と伝う。
小国のままでは併呑できないから、
もともとの小国が(大国となって、小国に転落した)倭国を併呑したってことでしょ。
まあ、中国人も信じてない話だけどね。
大和ローカル国じゃあ、九州までやってこれないしね。
九州倭国滅亡時には、大国だよね。
時期的に斉明朝〜天武朝ぐらいのことだろうから、
近畿天皇家の国は、九州と東北を除く大国だよね。
いつの間にか気がつくと話題がそれてる。元に戻そう。
結局、九州王朝を隠蔽しなきゃならない理由は何もないってのが結論だね。
230 :
177=181,182:03/02/11 23:38
>>229 結論を出す前に、記紀が(古事記は表に出てなかったようなので主に日本書紀が)
どういう情報を持った、どのような立場の人々に対して
どういう目的で書かれたのかを考えた方がよくはないですかね。
231 :
177=181,182:03/02/11 23:40
それがある程度わからないと、
隠す理由があったのか、なかったのか、
そもそも隠すことが可能だったのか、
わからないと思うんですが。
232 :
日本@名無史さん:03/02/11 23:44
九州王朝説って古田への信仰以外に何の根拠もないのが弱点だよな
>>232 そうとも思わないんですがね。
定説に根拠があると見る人なら、
古田氏も根拠は提示してると見ると思うんですが。
破綻が双方にあるし、その辺を突っ込んだ話をしたいんで
黙ってくれませんか。
>>178 ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/ こんなとこあります。もちろん全部納得してはいないです。
「逆賊磐井は国父倭薈だ 米田良三 新泉社」
なんてファンタジックで面白いですよ。
つーか記紀をよんでみるとなんかへんだなーと思う。
神社伝承なんか知るとますますへんだなーと思う。
さらに聖書なんか呼んでみるとあれれ、記紀に似てると思う。
こういうとこから頭脳がいろいろと働き始め
九州王朝説も魅力的な仮説ファンタジーとして
天皇陛下が真実をお話くださるまでの楽しみにすればよいのでは?
つーか今上陛下はおことばでわが国が成立したのは
6世紀とおっしゃっていたような。
>>230 いやあ、隠したと主張してるのは九州王朝側なんだから、
責任はそっちにあるんだよね。
『隠す理由がない』という結論は、
九州王朝側の話を聞いて見たら、何の理由もなかったっていうことから出てきたの。
だって、嘘ばっかなんだもん。
記紀がどういう性格の書で、なぜ隠したのかをまずは説明してね。
>>232 信仰とか書くと、ではお前は天皇信仰か?という流れになるので
>>229 一番の根拠は中国の史書に記録されてることだと思うんだけど漢文がいかようにも読み下せてしまうわけで(w
やはり出土物の件数が根拠としては強いのでしょう
なんせ日本一ですからね
あれだけで出土すれば九州の北部にはかなりの規模の国家ないし集団がいたのは間違いないところかと
しかも大和の銅鐸文化とは異なった銅矛銅戈文化があることを考えれば、大和とは別の国家があったと想定されても不思議ではない
では記紀に何故その九州の巨大集団に対する記述が抜け落ちているのか?
何故九州王朝を隠蔽しなきゃならないのか?
本当に気になりますね(w
>>235 〜側とかよくわからんですが。
俺はどちらでもないんで。
責任の意味もよくわからんですね。
つまりアナタは、「九州王朝説をとなえる人の挙げる理由が納得出来ないから」
「隠す理由がない」という結論に至ったわけですよね。
>記紀がどういう性格の書で、
アナタ自身はそのことについてどう考えているんですか?
それがないと納得出来るも出来ないもないと思いますが。
何を基準に判断してるんですか?
というかその部分のすり合わせをしないと
只の水掛け論になってしまうと思うんですがね。
239 :
日本@名無史さん:03/02/12 00:13
>>236 そうじゃないでしょ。
記紀という基礎資料があるんだから。
昔は記紀って奈良朝の史官が机上で創作したってことになってたけど
このところ記紀を裏付ける発掘がどんどんされてるじゃん。
>>230 記紀の疑問は
古代日本の地域王国とヤマト王国 上下 門脇禎二 学生社
にたくさんでてきます。
「日本書」と日本紀」があったのでしょう。
日本書紀は豪族が読むための本ではなかった、という説は
誰でしたか今思い出せない。すみません。
>>240 ありがとうございます。
宮中では講義が行われていたらしいですね>日本書紀
対象は誰だったんですかね。
>>239 このところ記紀を裏付ける発掘がどんどんされてるじゃん。
興味ありますね。
そういう方向に話を広げてもらいたいんですが。
よければソースを教えてもらえませんか。
242 :
日本@名無史さん:03/02/12 00:33
九州人としまして
こっちで有名な人は
神武さん、神功皇后、応神天皇(宇佐)、
アマテラス、ニニギ、ウガヤ、そしてケイコウ天皇なんです。
あと用明天皇が炭焼き小五郎伝説ででてきます。
関裕二さんは天智天皇が九州王朝って言ってますが
あんまりなじみない。
天武天皇のほうが宗像氏の娘と高市皇子を産んでるし
草壁皇子も九州うまれだというので。
>定説に根拠があると見る人なら、
>古田氏も根拠は提示してると見ると思うんですが。
こういうのを典型的な古田信仰っていうんだろうなあ。
>>243 どの辺が?
ちなみに根拠を提示してるかどうかと、
提示した根拠が正しいかは別の話ですね。
根拠でないものを根拠というあたりかな
>>239 記紀にそう書いてあるから大和朝廷しか存在しなかったと?
逆に記紀の捏造(三韓征伐とか)や古事記と日本書紀の不一致部分など見つかっているわけで、頭から記紀を信じてる人なんて今時いないわけですよねぇ?
基準が記紀に書いてある無しでは何も進まないかと
248 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:01
こいつ九州王朝に根拠があるとかごり押ししてたあのばか者?
>>247 疑わしいとか怪しいとかいう単なる個人感情。
古田信者
254 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:19
古田説って根拠とか提示してるの?
255 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:21
>>246 だからって史料のどこにも無いものを「あった」と言うのはおかしいと思います。
258 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:26
259 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:30
>>257 >古田氏も根拠は提示してると見ると思うんですが。
あなたはどういう根拠が示されていると?
>>258 左翼に右翼と言われたような気分。
別に逆でも良いけど。
262 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:37
どんな隣国資料?
どんな隣国資料か答えられないらしい。
>>255 資料はあるだろ
隋書の「日いつづる・・・」にしたって、百済本紀だって三国史記だって梁書(漢字でてこない)だって
>>264 反対派だろうがなんだろうが読んでれば
そんな無意味な質問はしないでしょ。
目次だけでも読めば、する必要の無い質問なんで。
読まずに批判したいんですか?
267 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:43
あとは宋書かな
>>266 やっぱりどんな隣国資料か答えられないらしい。
>>267 都度説明するのは面倒なんで、疑問のある箇所を指摘して頂きたい
271 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:47
聞かれると古田の本を読めとしか答えないのは古田信仰の人の証拠だね。
>>270 九州王朝のことが書いてある箇所を指摘して頂きたい
ひょっとして177=181,182は有名な「質問するけど答えないあの人」では… ???
質問だけしてればいい人は楽ですよね
>質問だけしてればいい人は楽ですよね
どこに九州王朝のことが書かれているのか?とかね
276 :
日本@名無史さん:03/02/12 01:59
じゃ、まあ九州王朝説に根拠なしで決定ということで
旧唐書だっけ?
倭国と日本は別の項として書かれていますが、そのあたりはどういうお考えでしょうか?
278 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:12
後世の中国人の誤解ということで決着済みです。
>>278 でたよ
ではタリシホコのあたりの記述もみんな誤解なんでしょうか?
ずいぶん前にやったね。
唐会要は別伝が立てられてるけど同一国なんだ。
実例があるので、旧唐書も別伝だから別国とは言えないんだな、これが。
それと、唐会要も旧唐書も日本を『倭の別種』と書いてるけど
唐会要は同一国なんだな。だから、『別種』だから別国とも言えないんだな、これが。
281 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:16
タリシホコのあたりの記述なんて旧唐書にないでしょ。
282 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:19
旧唐書には同一人物が別の項に書かれているケースがいくつかあることも指摘されてたね。
>>281 いや
なんでもかんでも中国人のものは誤解ですますのかとな思ったので
所詮10世紀の後代史料だもんね
285 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:22
>>283 「後世の中国人の誤解」と書いてあるものを
同時代史料を持ち出して
「なんでもかんでも中国人のものは誤解ですますのか」
ときちゃう誤読力が旧習王朝説を支えているのだな。
286 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:23
そもそも記紀には隋と外交したなんで書いてないし
現代文でも歪曲誤読す。いわんや古典史料をや。
>>286 それも極めてガイシュツ。
地の文では中国の統一王朝を「唐」で統一していることも指摘済みですな。
289 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:33
結局どこに九州王朝のことが書いてある隣国史料があるのかという問いには回答不能なんですね?
290 :
日本@名無史さん:03/02/12 02:45
お題とはまったく関係ないのですが、
そういった、板がなかったのでココに質問させてもらいます。
日蓮が竜の口で首を切られそうになった時に、雷がなって阻止された(多分そんな話だったと思います)
という逸話は、「まんが日本の歴史」などにもでて来ますが、
この話を正式に伝える(裏付ける)幕府の文書などは、
本当に残っているのでしょうか?
また、残っているとしたら、その名前を知っている人いませんか?
九州王朝説が窮地に陥るといつも突然まるで関係ない話題に切り替わるのは偶然だろうか
293 :
日本@名無史さん:03/02/12 04:51
>>292 そちらにいってみます。
どうもありがとうです。(^^;)
294 :
日本@名無史さん:03/02/12 06:48
おやおや。昨夜は九州王朝説ボコボコですな。
確かに、どうして九州王朝をなかったことにしたのか、
その理由についてはよくわからない。
でもそういうことにしちゃった。
その結果随所にボロが出ている、というのが古田説ですよ。
たとえば、(本当は神代史である熊襲征伐を景行紀にもってきて)
景行天皇の時代には九州が大和の支配下に入ったとする一方で、
磐井の乱のときに継体天皇が物部麁鹿火に、
「長門以東朕制す、筑紫以西汝制(と)れ」
なんていってるから、九州(および中国・四国地方の西部)が
まだ大和の領域でないのがわかってしまう、とかね。
九州王朝の滅亡ってこんなところなのかな?
www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hakusuki.html
白村江で負けて『倭王』筑紫君薩夜麻が戦犯として唐に連れていかれる。
そのすきを見て、東の近畿天皇家の『日本国』が九州王朝を滅ぼす。
敗戦の8年後、筑紫君薩夜麻が2000人の唐の進駐軍とともに帰国。
『帰国を許された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませんでした。』らしい。
・・・・・・?
あれ?おかしいですね?『帰るべき祖国』はないんですよね?
2000人の唐軍はいったいどこに進駐したんでしょう?
『倭国』を滅ぼした『日本国』が進駐を認めるはずないですね。
つ〜か、倭国がないんだから進駐の必要がないですね。
だいたい、自分たちが負けたわけでもないのに、
なんで日本書紀には白村江の敗戦が書いてあるんでしょう?
普通なら、たとえ事実でも、なかったことにしたいくらいですよね。
いや〜〜、九州王朝って、ほんと、不思議ですね。
進駐軍は九州に来た。
大和に来ないのは、白村江で唐と戦ったのが日本国ではないから。
あれ?
だって、九州倭国って、筑紫君薩夜麻が帰国する前に“日本国”に占領されちゃってるんでしょ。
筑紫君薩夜麻といっしょに進駐軍が来た時には九州はもう『日本国』だよ。
いや、日本国は創建されていたけど、まだ倭国の地は唐の管轄下にあって、
日本国に権力が委譲されたのは、大宝元年からでしょ。
300 :
日本@名無史さん:03/02/12 20:17
>>295 >「長門以東朕制す、筑紫以西汝制(と)れ」
(かと)れの間違いね。初歩的。
芸文類聚からのコピペ部分で後世の挿入であることが明らかだから史料性なしなのに、いまだにそんなこと言ってるんですね、九州王朝説って。
301 :
日本@名無史さん:03/02/12 20:19
>>297 「進駐軍」なんてのも九州王朝説ならではの脳内歴史ですね。
唐側の記録にはいっさい無いんだから。
>>300 問題にしているのは、すでに支配下であるはずの九州を、
磐井を倒したら二人で分けようといってるところですよ。
>>296 > 『倭国』を滅ぼした『日本国』が進駐を認めるはずないですね。
それは断定し過ぎ
日本国が進駐を断固認めないと言えるほどの力があったとは思えないですよね?
> つ〜か、倭国がないんだから進駐の必要がないですね。
日本国が筑紫を統治開始してまだほんの数年ということになりますよね
唐としては、筑紫君が帰国したら、またかつての倭国が復活する可能性があることを懸念していたとしても不思議ではないと思います。
> だいたい、自分たちが負けたわけでもないのに、
> なんで日本書紀には白村江の敗戦が書いてあるんでしょう?
> 普通なら、たとえ事実でも、なかったことにしたいくらいですよね。
そこがわからないんですよね
>>303 >> だいたい、自分たちが負けたわけでもないのに、
>> なんで日本書紀には白村江の敗戦が書いてあるんでしょう?
>そこがわからないんですよね
倭国が負けたから喜んでいるんですよ。
その証拠に天智天皇は白村江の敗戦後すぐ後に叙勲している。
305 :
日本@名無史さん:03/02/12 21:47
>>302 >問題にしているのは、すでに支配下であるはずの九州を、
>磐井を倒したらようといってるところですよ。
それがもともとデッチアゲ文章だって分ってるんだから根拠ないじゃん。
それ以前に「二人で分けよう」とかも言ってないし。
「二人で分けよう」ってすごい歪曲超訳じゃない?
>倭国が負けたから喜んでいるんですよ。
倭国?日本が負けたって書いてありますけど?
308 :
日本@名無史さん:03/02/13 01:55
>>306 「長門以東朕制、筑紫以西汝制」の「制」を「とる」と訓んでるから、「制=取」
だと思ってるんじゃない?九州王朝の人は。
309 :
日本@名無史さん:03/02/13 02:14
古田はいいこと言ってんだよ。
史料をつまみ食いしないで文脈を読めってね。
漢書の解釈なんか見事なもんだ。
ところが、九州王朝関係の史料の読み方は
自分で自分を裏切ってるとしか思えない。
長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。
専賞罰を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ。
(戦後処理は)長門以東は朕が統御する。筑紫以西はお前がやれ。
自分の裁量で賞罰を行え。いちいち報告することはない。
これでいいだろ。
それ、たんなる持節将軍の任命ってだけだよね。
つまりお笑いトンデモ解釈で夢想しちゃったわくだ。
311 :
日本@名無史さん:03/02/13 06:25
昨夜も九州王朝説ボコボコでしたな。
解釈に関しては古田の本にあった占領地分割案という言葉にたよったもので、
自分には漢文の素養がないから、おかしいというならそれでいい。
いいたかったのは、芸文類聚の語句を「長門以東、筑紫以西」と書き換えた人の頭の中に、
九州王朝の領域が浮かんで、つい本当の事を書いてしまったんじゃないかなあ、ということ。
>史料をつまみ食いしないで文脈を読めってね。
古田の漢文解釈?
ああ、あれはほんとに見事だねぇ。
曹操が作ったギョウの三台の尚書を、【董卓】が呼び出したりしてるもんねぇ。
文脈をしっかりと読んでるねェ。絶対につまみ食いなんかじゃないねぇ。
他人にはまねできないよ。いや、見事だ。
314 :
日本@名無史さん:03/02/13 15:41
>>313 >古田の漢文解釈?
漢書の解釈でしょ。楽浪海中倭人ありの前に孔子の話が繋がってるってこと。
>>312 それ妄想。
豊・火をおさえてる筑紫君を討ちに行く将軍に「筑紫以西を制せ」と命令するのはあたりまえだもの。
当然そう言うセリフを創作するね。
九州王朝の領域が浮かんだからとか根拠のない空想ね。
つーか誰か基城の跡地を掘れよ!!
↑「基」本ができてない
318 :
九州王朝あったかも?:03/02/13 19:15
そうだなあ。古田自身も、箸墓掘って卑弥呼の墓って確定したら、そんなうれしいことはないって言ってたが、
八百数十の古墳を未だに発掘出来ないなんて、正味かの将軍様の国とレベルかわらんなあ。
せめて、九州の掘れるところ沢山掘って欲しい。特に太宰府天満宮の下、改修工事かなんかの名目で掘って、
色々出てきたら流石に神主でも止められん罠。どうも、太宰府の神主色々知ってる節もあるし、怪しい。
寝言いってな!
>>318 結局のところ古代史の進展は宮内庁次第ですな
321 :
日本@名無史さん:03/02/13 20:36
太宰府のこといろいろ知ってるのは禰宜の味酒さんだよ
西高辻家って幕末に京都から来たんで神主はヨソモノ扱い
323 :
九州王朝あったかも?:03/02/13 22:07
しかし、天神さんってほんとうは何が祀ってあったんですかね。
あと、祝詞もどういう由来で、いつからあるの?神性があるので、相当古いんだろうけど、
これも古代学の研究対象になると思うんだけど。
白村江でぼろ負けした日本が何故遣唐使を送ることになったのかな?
戦争に負けたから遣唐使を送るようになったのかな?
それと聖徳太子が”日出国の・・・・”を煬帝に送ったって習ったけど
もしそうなら聖徳太子は物知らずだったんだね^^。
326 :
日本@名無史さん:03/02/13 23:39
太宰府天満宮は明治の廃仏毀釈まで「神社」というより「寺」だったんだよ。
勝手な妄想並べるのもいいかげんにしろ!
それから,今全国の神社で使ってる祝詞は,確か延喜式かなんかに記載されてたやつのはずだよ。
これも明治以降の国家神道政策の一環で,統一されたもの。
故郷の神社の神主が,「息子にあとを継がせたいが,独自の祭式を続けるなら神社本庁が認めてくれない」
とこぼしていた。
かなり以前に同様の書き込みをしたが,ここでもう一回強調しておく。
「現在の情報を無条件に過去のものと同一にみなす=ト説の温床」
考古資料は,埋没することで時間の流れから外れてしまうので,その当時の情報を保持している。
文書は,書かれる以前の時代の情報を伝えることもできるが,書かれた時代の知識・解釈が混入している
可能性を疑わなければならない。
伝承は,過去の情報を伝えている可能性も持つが,伝えられる過程でその時代の知識・解釈で変容している
可能性が高い。
地名は,その土地の住民の都合によって簡単に変化することがあり,基本的には使えない。
>>325 そういうことを書くのが物知らずの証拠。
当時の国際情勢を読みきっての”日出国の・・・・”なんだよ。
だから返使か来たんじゃないか!
328 :
日本@名無史さん:03/02/14 01:19
>>325 >>327 君たち隋書ちゃんと読んでないでしょ。
倭国の使節が日出処天子の国書を持ってきた。
煬帝が怒って相手にしなかった。
翌年臣は遠く海外に居て天下のことを知らないと謝ってきて
許してやった。
こういうストーリーなんだよ。
都合のいいところだけつまみ食いして読んでるのは
日本の学者全員。古田も含む。
329 :
九州王朝大好き:03/02/14 01:19
>>326 >太宰府天満宮は明治の廃仏毀釈まで「神社」というより「寺」だったんだよ。
「寺」になった神社は沢山あるよ。
現在でも「寺」なのに神がいるところは沢山あるよ。
「寺」と「神社」についての歴史的関係を勉強しようね!
>「現在の情報を無条件に過去のものと同一にみなす=ト説の温床」
無条件に鵜呑みなら当然のあたりまえでしょう。
>地名は,その土地の住民の都合によって簡単に変化することがあり,基本的には使えない。
「その土地の住民」ではなく、「その土地のあらたな権力集団(者)」でしょう。
又「基本的には使えない」ではなく、「無条件には使えない」でしょう。
>>327 >当時の国際情勢を読みきっての”日出国の・・・・”なんだよ。
>だから返使か来たんじゃないか!
侮辱されたと思った相手から、丁寧に返使が来るものでしょうか?
330 :
九州王朝大好き:03/02/14 01:32
>>323 大宰府の天満宮には、わけのわからない神様がいますよ。
その中の消えかかった一柱が「天神」と思っています。
注目すべきは、主神ではなく陪神です。
吸収王朝の説だと王様の名前は、倭讃とか中国風の名前にしてみたり、多利思北孤(足りし矛?)みたいな和名でしかも神様みたいな名前にしてみたり、また薩夜麻とか普通の和名にしてみたりと名前の付け方がコロコロ変わるのは何故ですか?
>>329 >「寺」になった神社は沢山あるよ。
例えばどこでしょうか?
>現在でも「寺」なのに神がいるところは沢山あるよ。
わたしゃ,↑の事実を否定したつもりはありませんが?
>「寺」と「神社」についての歴史的関係を勉強しようね!
そっくりそのままお返ししますよ。
>「その土地の住民」ではなく、「その土地のあらたな権力集団(者)」でしょう。
又「基本的には使えない」ではなく、「無条件には使えない」でしょう。
「その土地のあらたな権力集団(者)」といのも「その土地の住民」ですが?
歴史を振り返れば,権力者だけが地名を変えているわけではないことがわかるので,
上記のような表現にしてます。
>>330 326に追加
神社や寺の縁起は,自分たちのステータスを高めるためにしばしば改変,捏造されるので,
検証材料がなければ使えない。
神社の祭神は,祀る側の都合によって入れ換えや付会がなされるので,検証材料がないと使えない。
334 :
九州王朝あったかも?:03/02/14 23:34
326さん、あんた面白くないよ。人をDQN扱いするなら、それなりのことを言ってもらわないと。
端から見てても、見苦しいことこの上ない。神社と寺の関係だって、そんな一般論誰でもしっとるっ
ちゅうの。
てゆうか真面目に取り合うからキリ無いんだよ。
九州王朝説、いいじゃないですか。
キリストは日本で死んだってのと同じくらい面白いよ。
九州王朝の存在が主張されている時期に
日本が大和朝廷の一元支配だったという根拠となる資料って何?
信頼出来る資料事実と、信頼できない資料事実を
判断する基準は何?
面白くなってきました!!!
白犬の話?
344 :
日本@名無史さん:03/02/15 02:03
345 :
九州王朝大好き:03/02/15 03:10
>>333 >>「寺」になった神社は沢山あるよ。
>例えばどこでしょうか?
>>現在でも「寺」なのに神がいるところは沢山あるよ。
>わたしゃ,↑の事実を否定したつもりはありませんが?
とりあえず具体例2つ。
兵庫県西宮市と宝塚市
門戸厄神→東光寺(現在名) :現在東光寺の名を知る人は殆どいない。門戸厄神で知られている。
清荒神 →中山寺(現在名) :地元では清荒神が通称として知られる。中山寺は地名と見る人が多い。
346 :
九州王朝あったかも?:03/02/15 09:25
そんなんいっぱいあるよ。333氏、自分でぐぐるなり、実際に行くなり、図書館行くなり
すればよろし。
347 :
日本@名無史さん:03/02/15 19:52
>>345 九州王朝大好きさま
門戸厄神
http://monndoyakujin.or.jp/index.htm 清荒神
http://www.kiyoshikojin.or.jp 326氏のいうとおり,縁起を鵜呑みにしてはいけないと思いますが,
両寺とも「神社から寺になった」とは思えませんが・・・。
それと清荒神は「中山寺」ではなくて「清澄寺」ですよ。
「中山寺」の方は西国33所の札所でもある名刹で,全く別のお寺です。
阪急宝塚線の駅も別にあります。
>>346 九州王朝あったかも?さま
私のこれまでの寺社参りの経験によりますと,
明治の神仏分離令の際に,「寺から神社になった」というのはよく見かけましたが,
逆の「神社から寺になった」というのは見かけたことがありません。
邪馬台国はもちろん,各地の寺社の歴史にも大変興味をもっております。
実例を教えていただけましたらありがたいのですが。
348 :
九州王朝あったかも?:03/02/15 23:11
そりゃ、神仏分離の時に寺にした所は沢山廃寺にされたようなので、ねえ・・・。
神仏習合が進むと、寺の方が優勢になっていった反動で、廃仏毀釈が行われた部分もあるんで、
近代では逆の方が多い罠。お布施を取るときに公称寺で、実体として神社も残しておく、とか。
・・・って、おたく、それぐらいのこと知ってる癖に、聞くなって・・・。
349 :
日本@名無史さん:03/02/16 00:12
>>348 どうも神社が寺になった例をだせないようようだから、
せめて、神社が寺になったという説が解るソースを
示してくれよ。
ちなみに神社に神宮寺ができて独立していったとかいう
のはなしね。
あくまでも神社が寺へと変わった例ね。
そろそろネタ切れですかね
351 :
日本@名無史さん:03/02/17 12:32
ではそろそろ万葉集の中の九州王朝についてでも語りましょうか
九州王朝=百済
ねーよ
354 :
日本@名無史さん:03/02/17 22:31
九州王朝=無い
九州王朝=百済
ゆえに
百済無い
356 :
日本@名無史さん:03/02/18 22:28
九州王朝は一番盛上がるネタだったんだがなあ。
だから近畿王朝が日本と名乗る前は何と名乗っていたのか言ってみろって
扶桑国か?
なんたってクズ王朝説だから
過去スレ見てないんで何で問題になってるか知らないけど
神社なんて廃仏毀釈前はほとんどみんな寺みたいなもんじゃないの。
社僧とかいてさ、実際経営してたの寺なんでしょ
361 :
九州王朝大好き:03/02/22 13:03
>>360 水稲と陸稲の区別ない稲作の議論は、何の意味もなさないことですね。
記紀の内容を信頼できないとしながら、都合よく拾い読みをして、
九州王朝が無かったと主張するのと、似ていませんか?
>>360 その記事、古いね。稲作は縄文から始まったのはすでに定説。
縄文時代の水田だって見つかっている。
そもそも青森は当時の世界のおける稲作の北限じゃないか。
むしろ稲作の開始は最後発と見るべきで、実際、他の地区では
もっと早くにスタートしている。
363 :
日本@名無史さん:03/02/22 14:29
都合よく拾い読みは九州王朝の専売特許でしょ?
365 :
九州王朝大好き:03/02/22 15:42
>>357 倭国の一部。
扶桑国は銅鐸国のひとつ。
>>362 水稲と陸稲の区別がない、無意味な稲作論議。
弥生期と稲作についての議論は無意味。
弥生と水稲、縄文と陸稲、縄文と水稲を論議すること。
縄文の水稲には興味をもっています。
BC6000〜BC3000の頃には、
陸稲の熱帯ジャポニカの自生・栽培が、
青森以南では可能な気候でした。
その当時の関東の気候は、今の沖縄と同じくらい。
海には珊瑚があったよ。
専売じゃないよ。九州王朝以外にもその手のものはゴロゴロある。
367 :
日本@名無史さん:03/02/22 18:08
368 :
日本@名無史さん:03/02/22 18:17
>>365 その後、東北では、稲作を放棄してるね。
理由は何?
気候変動?
私は生産性の問題かと思うんだが。
369 :
日本@名無史さん:03/02/22 18:19
ウソは九州王朝の専売特許
371 :
九州王朝大好き:03/02/23 01:39
>>368 地球科学の歴史も学ぶべき。
縄文の早期には氷河期、本州中部の気温は現在の北海道程度。
9000年前に急激に気温が上昇8000年前には日本は亜熱帯化。
最高温期は2000年続き、6000年前以降気温の上昇下降を繰り返しながら徐々に気温低下、
3000年前には現在の気候より少し暖かい程度まで気温低下。
3000年前以降は小氷期を何度か繰り返し気温低下。
20世紀に入って気温上昇の開始。
21世紀初頭の現在の気候は3000〜2500年前と同程度と推定されます。
中国の歴史変動も気候変動と連動しているようです。
日本に入って来た陸稲の熱帯ジャポニカは8000年前まで遡れる可能性がありますが、
縄文後期においては気温低下の為、陸稲栽培は北部本州では不可能になったでしょう。
縄文晩期の3000〜2500年前の頃、気温低下と共に日本に入って来たのが水稲灌漑技術、
灌漑技術を伴った水稲栽培の再上陸が、九州王朝創成期にあたるでしょう。
創成期の九州王朝が、出雲王朝から覇権を奪うのは、もう少し時代が下るでしょう。
2500〜2000年前の小氷期の頃と思われます。
歴史の変動期には気候の変動が伴っていること考慮することが重要です。
日本の歴史学者と考古学者には、気候の歴史に及ぼす観点が全く欠けている人々が殆どなのが残念です。
逆は真ならずなので、念の為。
6000年前以降の小氷期(小気温低下期)の正確なデータが手元ににないので、間違いもあるかも知れません。
縄文晩期が九州王朝創成期というあたり......病気
373 :
日本@名無史さん:03/02/23 08:57
2500〜2000年前は、日本では「弥生小氷期」と呼ばれています
ただし関東以西では、現在よりやや涼しいか、同じくらいだったというデータが出ています
中国大陸では乾燥化が進んだようです
九州王朝が出雲王朝から覇権云々はどのくらいの年代を想定しているのか分かりませんが、この文脈から推して
福岡平野を中心とする弥生文化は、山口県西部くらいまで広がりますが、より東(瀬戸内や山陰)には、地域的な文化が発達します
山陰の場合、そこに北部九州系の影響はあまり見られず、墓制の上からは半島北部と直接の交流がうかがえます
土器の上からは、山陰と瀬戸内中部(吉備)や近畿との交流が顕著です
近畿に古墳が出現する頃、近畿には、東海、北陸、瀬戸内、山陰などとの積極的な交流が見られます
古墳出現の前後から、山陰には吉備の影響が強くなりますが独自色も残します
福岡平野を中心とする弥生文化は弥生中期から後期にかけて広がりが凋んでいきます。
>>375 ということで、九州北部から出雲地域への進出とか、征服とかはなさそうですが
377 :
九州王朝大好き:03/02/24 13:37
>>376 >九州北部から出雲地域への進出とか、征服とかはなさそうですが。
その通りです。
九州王朝が出雲王朝の覇権下から脱して、逆に出雲王朝を覇権下入れた時期はいつか?
九州王朝が出雲王朝を支配したことはありません。
出雲王朝が九州王朝の支配下に入ったことはありません。
文化的・政治的には、九州王朝と出雲王朝は独立しています。
九州王朝が支配下に入れたのは、東は山口県西部(長門)と愛媛県西部(伊予)までです。
>>377 >>371の「創成期の九州王朝が、出雲王朝から覇権を奪う」というところにレスしたんですが
>>377では「九州王朝が支配下に入れたのは、東は山口県西部(長門)と愛媛県西部(伊予)までです。」とあるので、この地域(長門、伊予)がもともと出雲の覇権下にあったのを九州王朝が支配下においたということなんでしょうか?
長門はともかくとして、伊予に北部九州の影響というのはあまりないのではないかと…
それ以前に「出雲」の影響と思われる文物も見られないような気がするのですが?
「九州王朝が出雲王朝の覇権下から脱して、逆に出雲王朝を覇権下入れた時期」はいつとお考えなんですか?
379 :
日本@名無史さん:03/02/24 14:07
九州王朝大好き
あいかわらず口先でごまかし
380 :
九州王朝大好き:03/02/24 19:30
>>378 「九州王朝が支配下に入れたのは、東は山口県西部(長門)と愛媛県西部(伊予)までです。」
上記地域は、単に九州王朝が一時的にせよ7世紀までに支配下に入れた地域と言うことです。
山口県西部(長門)の支配開始は景行記にみられ、
愛媛県西部(伊予)は上宮上皇の時支配下にあったと見なせます。
出雲王朝とは何の関わりもありません。
>九州王朝が出雲王朝の覇権下から脱して、逆に出雲王朝を覇権下入れた時期はいつか?
この時期については、僕もまだ特定できません。
BC4C〜BC1Cの弥生期と思うのですが。
出雲王朝に水稲栽培が定着する前の時期。
九州王朝と出雲王朝間の経済格差(主要因は水稲栽培)が最大の頃と思います。
AD1Cには西日本の経済格差が小さくなり、各地の勢力が均衡し戦乱の世となったと思います。
と妄想するのだった。
382 :
日本@名無史さん:03/02/24 20:35
>>377 つーことは、記紀の国譲り部分は
別に九州王朝の神話を奪ったわけではないと言うことなんかな?
アレはどう読んでも、婉曲に書いた征服なんだけど。
383 :
九州王朝大好き:03/02/24 21:16
>>377 記紀の国譲り部分は,九州王朝が出雲王朝を占領支配したのではなく、
九州王朝が出雲王朝を覇権下に入れたことを記述しているだけです。
九州王朝が直接統治したとは記紀には書かれていません。
大国主命も殺されてはいないし、彼は引退しただけです。
九州王朝は出雲王朝の祭政機構を下部組織として傘下に入れただけです。
国譲りの部分は九州王朝と近畿王朝に共通する部分ではないでしょうか。
景行記の九州統一部分は九州王朝の熊本菊地朝の業績を盗んだものです。
>>383 「お隠れになった」ってのは「死んだ」の婉曲表現なんじゃないの?記紀では。
熊本菊池朝ってククチヒコのこと?
てことは狗奴国?
菊池氏が南朝方なのも関係あるの?
386 :
九州王朝大好き:03/02/25 13:16
>>385 菊池朝は倭の5王からイワイ(倭ワイ・磐井)葛子まで、
4世紀から5世紀半ばまでの菊池一族の王朝です。
九州王朝の末期2王朝の前半王朝です。
九州王朝と呼ばれるのは、菊池朝と次のタリシホコ朝(宗像朝)によるところが大でしょう。
ククチヒコ・狗奴国との関係有無については判りません。
菊池氏が南朝方であることと関係ないです。
>九州王朝が出雲王朝を覇権下に入れた時期がBC4C〜BC1Cの弥生期
支配していなくても、覇権下にあるなら影響は及ぼしているということでは?
この時期に北部九州からの顕著な影響は見出しにくいと思うのですが
>出雲王朝に水稲栽培が定着する前の時期
北部九州との間に時間差があったのでしょうか?
388 :
日本@名無史さん:03/02/25 21:49
389 :
九州王朝大好き:03/02/26 00:01
>>387 支配でなく、覇権を行使する程度では、宗教・生活習慣にはなんら影響を与えない。
そこには顕著な影響も与えない。
水稲技術を学ぶ時間と水稲栽培による生活経済変化に対する対応を学ぶ時間が必要。
学習・変化にいかに早く対応しても、一世代20年として、50年〜100年の時間は必要。
水稲技術を持った弥生人の同時移住でも無い限り時間差は発生する。
そこに弥生小氷期が重なれば、気象影響の受けにくい水稲先進九州と
低温化により農業に痛手を受けた出雲の経済格差はより大きくなる。
390 :
九州王朝大好き:03/02/26 00:05
つるめそさん、
名前の意味は何ですか?
気になりまする。
犬神人のことだね
393 :
日本@名無史さん:03/02/26 22:44
米はうまい。瑞穂の国。おれたちの先祖は偉い。酒もうまい。感謝。
飢餓のない社会。感謝。
古代人の生活はどんなだったか。お疲れ様です。感謝。
>>389 >支配でなく、覇権を行使する程度では、宗教・生活習慣にはなんら影響を与えない。
どういう枠組みなのかいまいち理解できませんが、この理屈なら逆も真なりですよね?
「出雲はつねに北部九州を覇権下においていたが、宗教・生活習慣にはなんら影響を与えるものではなかった。よって、今日、考古資料の上では影響関係を見ることはできない」
出雲と北部九州は、どの地域に置き換えても成り立ってしまう気がしますが?
>水稲技術を学ぶ時間と水稲栽培による生活経済変化に対する対応を学ぶ時間が必要。
>学習・変化にいかに早く対応しても、一世代20年として、50年〜100年の時間は必要。
>水稲技術を持った弥生人の同時移住でも無い限り時間差は発生する。
そんな時間差はなさそうですが?
395 :
日本@名無史さん:03/03/01 18:58
じゃ、無かったということで決定っと。
396 :
九州王朝大好き:03/03/01 19:06
>>394 その通りです。逆も真なりです。
出雲と北部九州は、どの地域に置き換えても成り立ちます。
成り立たない地域の関係は支配被支配です。
北部九州と日本の他地域では50年以上の時間差があると思います。
397 :
日本@名無史さん:03/03/02 11:49
漫画のはなしなんですが
最近「鬼平」とかの時代劇ものの青年雑誌をコンビニでよく見かけます。
そのなかに「斬鬼」という雑誌があって
「まぶちの右近」が連載されていますが
古代史の異説がいろいろでてきて面白いですよ。
今月は鵜戸神宮が舞台で、
磐井が、イワレヒコになったという話。
卑弥呼もどき女神も出てきます。
この前は高良大社の話、
その前はかつて出雲は日本海を真中にして朝鮮まで含んだ
国家で、大和と争ったという話で
ちょっとおおーっと思わせます。
398 :
日本@名無史さん:03/03/02 12:08
>>397 その出雲の話は面白いね。
ありえないことは、ないかも。
九州王朝大好きさんに質問です。
あまり詳しくないので、大まかな質問です。
九州王朝がなくなって近畿王朝は誰が立てたのですか?
それは新羅人なのですか?
400 :
日本@名無史さん:03/03/02 14:01
九州王朝大好きさんに質問です。
あまり詳しくないので、大まかな質問です。
九州王朝が作った歴史書はありますか?
(古事記、日本書紀みたいなの)
401 :
九州王朝大好き:03/03/02 15:46
>>397 大和三山の争いの神話に、其の争いに出雲王朝が様子を覗うため播磨まで進出してきた、
と言う話があります。銅鐸を祭器とする時期までの頃です。
毎年10月に神々が出雲に集まり、出雲以外の地域では10月を「神無月」言い、
出雲では「神有月」と言います。古田氏も書いていましたね。
>>399 タリシホコ王朝の分裂一派が、天武天皇を擁立したものと見ています。
天智天皇までは九州王朝とは直接の関係はありませんが、
天武王朝は九州王朝一派の傀儡政権とみなしてもよいと言う見方もあります。
>>400 ありましたが、現存しません。
日本書紀では一書に曰くとして引用されていますが、書名が書かれていません。
タリシホコ朝で作られたものとして、「日本書」と「日本紀」の名称であったと推定します。
「日本書」は歴史書として、「日本紀」は歴代王の記録としてあったと思います。
「日本書」と「日本紀」のコピー合体書として「日本書紀」ができたものと推定しています。
>>401 ありがとうごじざいます。
壬申の乱を新羅系と結びつけ意見を聞いたので、
大まかな質問ですが、質問しました。
403 :
九州王朝大好き:03/03/03 00:10
>>402 タリシホコ朝(宗像朝)の分裂一派は、菊池朝派と亡命百済と共に、景行を支援した。
そこに新羅も一部かんでいたと考えられなくもありませんが。
404 :
日本@名無史さん:03/03/03 00:29
関裕二さんは天智系を九州王朝ってしてたけど。
トオノミネにたてこもってゲリラ戦?
天武系のほうが九州に関係多いよね。
草壁皇子は九州生まれっていうし
宇佐神宮のからみはなんかあるなーって。
楊貴妃伝説を九州王朝がらみであつかった人は
宇佐の神は高市皇子だとしていたな。
405 :
日本@名無史さん:03/03/03 19:23
やっぱり九州王朝説にはなんの根拠もない。
>>396 >北部九州と日本の他地域では50年以上の時間差があると思います。
実際に時間差を示す例があるのでしょうか?
現状では、1世代の間(20〜30年)にかなり広まっているとしか読み取れないようですが
尾張氏はどんな一族だったかご存知ですか?
追われて、東へ東へと移動したのでしょうか。
410 :
日本@名無史さん:03/03/04 20:49
>>401 タリシホコ朝の時点で「日本書」と「日本紀」と「日本」の国名を使用していたということですか?
当時国外にはまだ倭と名乗っていたと思いますし、朝鮮辺りの国に日本を使い始めたのも670年ぐらいからですよねぇ?
411 :
日本@名無史さん:03/03/05 06:52
九州王朝説には矛盾だらけ。
九州年号なんてのがあるらしいね。
414 :
日本@名無史さん:03/03/05 22:17
九州年号なんてドコにあるんだ?
>>414 日本中のあちらこちら
別に九州に限ったことではない
416 :
日本@名無史さん:03/03/08 09:36
じゃ九州年号じゃないじゃん。
417 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:16
そもそも九州王朝なんてものがデッチ上げの作り話でしょう。
418 :
日本@名無史さん:03/03/08 15:53
>>416 日本中にあると言っても山口・福岡・佐賀・長崎・大分・熊本あたりの
寺社の文書に集中して出てくるので、九州年号と呼んでも差し支えない
420 :
日本@名無史さん:03/03/08 16:26
>>417 金印に「国王」の文字があるんだし、何らかの王朝があったことは間違いない。
大和朝廷と繋がるかどうかは全くの別問題だけど。
422 :
日本@名無史さん:03/03/08 19:07
アンチ九州王朝派に告ぐ。
日本列島で7世紀以前から、朝廷とか中央政権といえば、大和の天皇家の
政権だけだった。・・・・この証拠がたった1つでもあるのか?
続日本紀に文武天皇の即位(697)のあとで、宣命を発するだろう。
高天原に事始めて続いてきた王権を今日からワシが引き継いだって書いてあるだろう!
この前日までは、天皇家王以外に引き継がれていたことを認めてるじゃないか。
続日本紀に反論してみよ。
423 :
日本@名無史さん:03/03/08 19:38
大和朝廷の天皇に、なぜ「朝臣」や「真人」の官位を持ってるのがいるのか。
カダフィ大佐じゃあるまいし・・・こんなの国家元首のはずがない。
425 :
日本@名無史さん:03/03/08 23:23
>>422 今日、法隆寺に行って来たが、それに匹敵する大寺が九州にあるのか?
大和が国の首都だった証拠じゃないか。
北朝鮮も、ピョンヤンだけ立派にしているのは、
そこが首都であり、他国に見られる場所だからだぞ。
426 :
日本@名無史さん:03/03/08 23:32
法隆寺は太宰府観世音寺の移築だという説をご存知ない
オリジナル法隆寺(若草伽藍)の規模が現法隆寺より小さいのはなぜ
法隆寺釈迦三尊像の光背銘に法興年号があるのは?
427 :
日本@名無史さん:03/03/08 23:44
>>426 若草伽藍って?
法興年号って?
塔も金堂も回廊も創建当時の物だって言ってたよ。
回廊のエンタシスの柱なんか、1300年前の物が触れるんだよ。
>>425 移築うんぬんは置いとくとしても観世音寺をご存じないですか?
>>422 あのさあ、その宣命にはね「天皇家が代々‥‥」って書かれてるの。
『続日本紀』はヤマトの王家がつくったモノなの。
そんなのに頼って九州王朝の邪魔するのやめてくれない?
それとも実はあんたがアンチなの?
「観世音寺」
御母斉明天皇追悼のために天智天皇が建立を発願し、80余年の歳月をかけ、
奈良時代(746年)に完成した。 講堂を中心にして五重塔、金堂を東西に並列し、
これを取り囲むように南大門、中門、鐘楼、敬蔵、僧房など七堂伽藍が配置され、
西日本仏教界の重鎮であった。奈良法隆寺、薬師寺とほぼ同じ規模であった・・・。
九州に匹敵する物が無いから、大和のは九州の移築だ、という理論が展開されてるのですね。
じゃ、箸墓も九州からの移築で、径百歩と言われた卑弥呼の墓ですか?
創建当時のもので残っているのは国宝の日本最古の梵鐘と諸堂の礎石、
天平石臼などである。
>>430 ほら「移築」とか書くから話がずれる
>御母斉明天皇追悼のために天智天皇が建立を発願し、80余年の歳月をかけ、
>奈良時代(746年)に完成した。
80年もかかった(かけた)理由の方が気になる....
根本的な話だが、九州王朝があったとして、何故それを隠すのか解らん。
天孫が天下ったのが筑紫の高千穂で、神武の東征が開始されたと記録している。
その事は、なぜ隠さなかったのかな?
>>430 「箸墓も九州からの移築で、径百歩と言われた卑弥呼の墓ですか?」
ウム、なかなか素晴らしい発想だ!そうだったんだ。
卑弥呼の墓は九州から畿内へ東遷したのだ。これは、さすがに思いつかんかった。
じゃあ、その東遷は箸墓以前ってことで、
箸墓は常識の範囲で三世紀、どんな電波君でも四世紀までのことだから
五世紀以後の九州王朝はありませぬな。
はい、終了。
435 :
日本@名無史さん:03/03/09 00:31
>>434 磐井は立派な九州王朝の王だろ。
少なくとの6世紀前半までは九州王朝は存在します。
436 :
日本@名無史さん:03/03/09 02:26
彼は独立戦争に失敗した地方首長。
若いころはヤマトに上京して門番かなんかやってた。
437 :
日本@名無史さん:03/03/09 02:38
>>437 久々に言わしてもらおう。
「ネタにマジレス、カコワルイ」
439 :
日本@名無史さん:03/03/09 14:09
>>432 >根本的な話だが、九州王朝があったとして、何故それを隠すのか解らん。
>天孫が天下ったのが筑紫の高千穂で、神武の東征が開始されたと記録している。
>その事は、なぜ隠さなかったのかな?
簡単な話。
中国に日本列島の代表政権として認めてもらう必要がある
そのくせ政権簒奪者でなく正当な王朝の後継者のふりもしなければならない
魏から続く忠義な国=倭の記述はわが国ですといわざるを得ない
だが九州王朝時代の為政者側の記録が、十分発見できなったので、
中国側の記録と矛盾しない、外交・内政の自国史が作りきれなかった
徹底的な改ざん創作も無理なので、無難な話は残した
さらに各勢力には昔の伝承があり、かなりバレバレだったこともあるだろう
440 :
日本@名無史さん:03/03/09 14:50
>>439 逆じゃないの?
安東将軍倭国王を中国に貰ったことを消し去りたかった。
それを認めてしまうと、任命した宋を継承した唐に倭の統治権があることを
認めてしまうことになる。
天皇の統治権は中国の皇帝に任命されたからではなく、皇祖神の神勅によって
もたらされたものというのが、日本側の主張。
だから過去に中国の皇帝に倭国王に任命されたという事実は都合が悪い。
441 :
日本@名無史さん:03/03/09 15:14
>>440 唐に倭の統治権があることを・・・
いわゆる今日的な統治権ではなく、自治権を認めたうえでの監督権みたいなもの
魏系列の政権は、隋以降復活していない。
だから倭は隋・唐に臣下の礼をとらなかった。
だが天皇家は唐と密通していた模様である。
白村江の海戦で、天皇が出した船は、出撃命令にもかわらず
「動かなかった」韓国側の記録があったっときおくしている(遺事か?)
過去の倭国王任命は魏からのもので、無関係なので可。
皇祖神の神勅は、中国の皇帝側は「天命」主義なので
まじめに聞こうとしなかったろうと思う。
442 :
日本@名無史さん:03/03/09 16:03
>>441 うーん…。あなたの言うことが良く理解できないんだけれども。
最初にオレの考えを言っとくと、中国側と日本側の史書がかみあわないのは、
別に九州王朝などを持ち出さなくとも理解できるってことなんだけど。
その前提としていくつかあげると
中国側は王朝が変わっても天命を受け継いで皇帝になったからには、
以前の皇帝の諸権利を受け継いでいると皇帝は認識していること。
随が高句麗に大軍を派遣したり、唐が百済を滅ぼしたりするのは、
あなたのいう監督権に基づくもの。
そうなると潜在的にでも唐が日本を攻撃するだけの名目があるということ。
たしかに朝鮮の3国は随に冊封をうけていた(はず)なので、日本とは事情が
違うのだが、日本も過去に宋に冊封をうけている。
それに対して日本側は、唐の監督権を認めたくない。
そのために苦心して歴史書まで作って、遥か昔より日本は独自の統治原理をもって
治める天皇をいただいてきたと主張した。
日本が中国を中心とする東アジアの統治原理から独立して、独自の統治原理を
打ち立てていこうとするための主張の元になるのが書紀なんだから、それから
それに中国とのかかわりを抹消するのは当然でしょう。
443 :
日本@名無史さん:03/03/09 20:14
倭の国に占領軍が来ているのに、
百済と高句麗が滅亡しているのに
なんで大和朝廷にだけ「東京裁判」がないのか?
天武以下の罪状判定と処刑があるはずだ。
一方670年に遣唐使が唐に対して「高句麗平定を賀す」(新唐書)
何だよこれは?って思いませんか。
九州王朝説なしではまったく話にならない、と個人的に思っています。
短めにちびちび「送信」しかできないぞ!長い話なんだが・・・
444 :
日本@名無史さん:03/03/09 20:55
倭の国に占領軍が来ているなんて妄想はまったく話にならない・・・当然。
445 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:07
「郭務そう」が3回倭に来ています。
2000人連れてきた。
マッカーサーって物見遊山に日本にきたの?
446 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:12
中国の正史にすら書いてないことを捏造するスレはここか?
447 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:15
>>446 中国の正史に書いてなかったら捏造と決めつけるレスならあるぞ。
448 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:39
天智3年郭務そう、5月来朝。
同年10月254人を連れて来朝。
天智8年郭務そう2000余人を連れて来朝。
唐の天子が命じた軍司指令官劉仁願が
郭務そうを倭に派遣した、とある。
マッカーサーって日本に芸者遊びに来たんだっけ?
敗戦国に2000余人で乗り込んだ敵国の軍人って
握手しに来るだけ?
449 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:55
郭務そうって軍人? ←かく妄想
450 :
日本@名無史さん:03/03/09 21:59
青によし奈良の都は咲く花の匂うがごとくいま盛りなり
この歌はどこで歌った歌でしょう?
近畿説のかた、わかりますか?
えっ、「奈良の都」?
まったく違います。
大宰府です。
意味・・・倭の国は滅亡し、大和朝廷はいま大いに栄えている。
しかし「永遠」というものはないのだ。
451 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:17
本当に占領しにきたのなら中国側がはっきりと書くはず。
妄想もたいがいにせい。
452 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:26
文武が初代天皇(ただし大和朝廷ではね)なんですよ。
697年8月17日この日が大和朝廷の「自称」発足日。
なぜなら「天孫ににぎ(初代)からの政権を今日からわしが引き継ぐ」、
と文武が宣命で言っているからです。
その前の日までは大和朝廷のだれも引き継いでいない。
この人その前の日まで天皇ですらない(形式上は)。
ついでに言うとこれ以前、大嘗祭を大和の天皇がしたことはなかった。
大嘗祭の「現場にいた」ことはあるのにね。
おかしいね。大嘗祭って一番偉い人がやるはずだけど。
さあ、近畿説の人どうしてでしょう。
ぜったい解けないから。
453 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:26
郭務ソウが来た前年、新羅が唐を裏切り高句麗に加勢。
唐は高句麗新羅と交戦中に、占領軍を派遣する余裕なんかない。
まっとうに考えて郭務ソウの目的は倭に新羅を牽制するように要請しにきたと
いうことだろう。
454 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:41
455 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:46
近畿説って松下見林以来、
根拠無いんだよね。
こっちが具体的に言ってるのに、
何を言っても「妄想」。
大和のどこに「阿蘇山」だあるか言ってごらん。
>>450 小野朝臣老が晩年を過ごすこととなった大宰府に着任したときに
もう戻ることのない奈良の都に思いを馳せて詠んだ有名な歌だ。
たいていのヤシは知ってると思うぞ。チミのように訳すヤシはおらんが。
457 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:52
>>456 解釈してごらん。
近畿説はこの歌の意味わかんない。
都が栄えてる、ばんざいって歌になってないよ。
458 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:53
>>454 ???
郭務ソウが帰ったのが672年、新羅の半島統一が676年。
戦後ではないだろ?
あんた、白村江の敗戦-> 新羅と唐の抗争を理解するのに、
太平洋戦争の敗戦->朝鮮戦争の流れを無意識にでもあてはめてないか?
図式に
459 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:57
>>451本当に占領しにきたのなら中国側がはっきりと書くはず。
妄想もたいがいにせい。
そう思うでしょう?
占領したときに何をするか、軍図機密だよね。
460 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:57
大体、本当に占領してたら唐の歴史書に明記するはず。
中国側には隠す理由などないのだからな。
明記されてないことをああだこうだ言っても捏造か妄想にすぎん。
書き込みミす
458=~s/\n\n図式に$// でよろしく
462 :
日本@名無史さん:03/03/09 23:06
>>458 年表見てほしいんだけど。
白村江の海戦は
紀・・天智2年=663年
463 :
日本@名無史さん:03/03/09 23:11
>>460明記されてないことをああだこうだ言っても捏造か妄想にすぎん。
明記されてる阿蘇山
明記されてる2000余人と郭務そう
明記されてる旧唐書の倭国と日本国
明記されてる文武の宣命
明記されてる大嘗祭
さあ、妄想はどっちだ。
464 :
日本@名無史さん:03/03/09 23:17
唐が倭国を占領したとか、どこにも書いてないが。
>>457 >解釈してごらん。
>近畿説はこの歌の意味わかんない。
>都が栄えてる、ばんざいって歌になってないよ。
456のレスが解釈そのものだろうが?
そんなことも読み取れんで和歌の講釈を人様に垂れんなさんな。
466 :
日本@名無史さん:03/03/09 23:25
467 :
日本@名無史さん:03/03/09 23:28
>>465 わたしの貧困な表現で失礼しました。
あなたはどう解釈するのでしょう。
この歌にうたわれている情念は何ですか?
中流氏族小野氏出身の老にとって大宰府行きは左遷というほどではない。
しかし、都での出世を諦めて、遠い筑紫の地に赴いた直後のこの歌からは望郷の念しか感じられない。
都の栄華を歌うことで鄙に追いやられた己の立場を対置しているのだろう。
つまり、小野の老にとって当時の大宰府は奈良の栄華に遠く及ばない世界なのだ。
老は筑紫の地で亡くなったわけではないらしいが、中央官人に復帰すること無く、太宰の大弐で生涯を終えている。
まったく誰が「占領」なんて言い始めたんだ?
年表見たぞい。おさらいのため書いとこう。
660年 百済、新羅に降伏
663年 白村江の戦い
664年 唐、余隆を熊津都督に
666年 唐、高句麗に主兵
667年 新羅、唐の命により高句麗に主兵
668年 唐・新羅、平壌を陥落、安東都督府を設置
670年 新羅、唐と敵対。
671年 郭務ソウら計2,000人が倭に出発
672年 新羅、熊津都督府を攻撃
672年 郭務ソウ、倭を出発
676年 新羅、安東都護府を攻撃
唐の占領軍が倭に来ている一方で、唐が半島から追い出されていることに
なるんですが…。
この情勢下での郭務ソウの目的はどうみても新羅への牽制だろ?
472 :
日本@名無史さん:03/03/10 00:48
473 :
日本@名無史さん:03/03/10 00:52
>>468 ご丁寧にありがとうございます。
一般にはそういう解釈だと思います。
学校で先生もそう教えていると思います。
しかしなにか深みが足りないように思うのは
あなたや古田さんだけではない。
みんなつまんない歌だと思って詠んでいる。
こんなのに較べたら山上憶良や柿本人麻呂のほうが・・・いや違う!
ほんとうは王朝交代を見据え、自分の切ない境遇と重ね合わせ
ものの哀れを歌っているのだと思う。
ちなみに大宰府が書紀に初出するのが天智10年。
これ以前に大和朝廷が大宰府は「設置した」記事すらない。
さらに「府」は天子が政務をするところで
中流氏族出身者の官僚が執務する所ではない。
これはどういうことか。
記載がなけれがわからない、で済むだろうか。
天皇陛下が「天皇家は律令時代からです」
といっているのも近畿説で理解できないでしょう。
701年の大宝律令からだと思います。
安東都督府じゃないや、安東都護府ね
もうひとつ、高句麗や百済が唐に占領されると、都合の悪い支配者は廃されて、
あらためて王族などが都督に任命されている。
倭が占領されたのなら、どうして倭王の首をすげかえたと、はっきりと
書かれていないのでしょう?
476 :
日本@名無史さん:03/03/10 01:07
そういう事実はないからです。
477 :
日本@名無史さん:03/03/10 01:09
>>471 670年新羅入唐して謝罪
670年のどこで敵対しましたか?
・・・これ以降、新羅+唐は友好関係
>>477 剣牟岑の唐への反乱を新羅が援助。これが670年のこと。
その後、熊津都督府、安東都護府をあいついで攻撃。
唐が任命した現地の支配者を攻撃するのが有効関係とはこれ如何に?
479 :
日本@名無史さん:03/03/10 01:22
>>475 661年倭の天子博麻は捕虜になった。
697年文武天皇はかってに倭を引き継いだといっている。
唐の見方・・・日本はもと小国だが、倭国を併合したと主張している。
日本の言っていることは信憑性が無い。
ちゃんと歴史書に書いてあるでしょう?
見ようとしないの?
>>479 >697年文武天皇はかってに倭を引き継いだといっている。
>唐の見方・・・日本はもと小国だが、倭国を併合したと主張している。
>日本の言っていることは信憑性が無い。
だとすると、唐は日本に関しての正しい情報はどうだと言っているのですか?
それが書いてないはずがない。
481 :
日本@名無史さん:03/03/10 01:33
倭の天子が博麻だなんて、どこに書いてある。
捏造もたいがいにしろ。
482 :
日本@名無史さん:03/03/10 02:05
>>478 いや大変失礼、新羅大暴れしてました。
唐も手を焼いている模様。
ただし牟岑は高句麗人だと思う。
よって671年11月10日〜672年5月30日の郭務そう来朝は、
応援要請や、自軍の建て直し目的の可能性大有りですね、
いいことを聞きました、ありがとうございます。
倭の天子薩夜麻は661〜671年唐に捕囚されていましたから、
郭務そうと博多で会っていたでしょう。征服者と被征服者の関係で。
大和朝廷に隷属されていたかもしれません。
郭はきっと薩夜麻に言ったでしょう。皇太子の博麻の命を預かってるぜ、
神妙に言うことを聞けと。
しかし博多の地で第一勝者は唐、大和朝廷は第二。
この関係は崩れません。
訂正です。479の博麻は皇太子、天子が薩夜麻です
483 :
日本@名無史さん:03/03/10 02:09
>>480 疲れたので手抜きをお許しあれ。
「旧唐書」にはっきり書いてあります。
484 :
日本@名無史さん:03/03/10 02:34
倭が日本に改名したってね。
>捏造もたいがいにしろ。
そんなあ、だったら九州王朝について何も言えなくなっちゃうよ
ここしばらく約一名かなり妄想の入った方が居ますが
彼が九州王朝派の代表であるわけもなく
また九州王朝派全てがこうではないので
アンチの方も何卒その点はご理解の程を。
キムチ臭い奴が独り言を言っている、という事で宜しいか?
488 :
九州王朝大好き:03/03/10 12:32
>>486 僕もその約一名と同意見です。
>>487 「キムチ臭い奴」が九州王朝派とは? はて?
独り言ではありませんよ。僕が聞いておりまする。
彼の言うことに一々相づちをする必要はありません。
彼は当然の正当な事を言っているのですから。
>>488 なるほど。それではわたしの疑問に答えてもらえます?
>>471 と
>>475 です。
どこかにまとめてあるウェブページがあれば、そのポインタでもかまわんですが。
490 :
九州王朝大好き:03/03/10 18:58
>>490 どうもありがとうございます。
ちょっと言い方が失礼だったかなと思ってたところでした。
気に障ったら申し訳なかったです。
まあ、まったりといきましょう。
492 :
日本@名無史さん:03/03/10 19:10
倭の天子が薩夜麻だの、皇太子が博麻だのと妄想もたいがいにしろ。
ここは歴史捏造者のスレか?
493 :
日本@名無史さん:03/03/10 19:37
>>492 捏造・妄想と言い切る前に、
お手持ちの歴史書に書いてあるので
ご覧ください。
494 :
日本@名無史さん:03/03/10 20:34
書いてあるわけ無いでしょ!
それともあなたのいう歴史書って天井裏文書かい?
>>471 >唐の占領軍が倭に来ている一方で、唐が半島から追い出されていることに
>なるんですが…。
>この情勢下での郭務ソウの目的はどうみても新羅への牽制だろ?
僕もそのように見ています。
薩夜麻は663年唐の捕虜となりました。
しかし倭本土は唐に対してまだ降伏したわけではありません。
唐も新羅も倭本土に攻め入る軍事力も必要性もない為、倭本土には侵攻していません。
もし侵攻していれば記録に残ったでしょう。
670年唐と新羅が敵対関係になりました。
唐は新羅を牽制する為に倭に接近して来ました。
お土産は薩夜麻です。671年に郭務ソウが薩夜麻をつれて来倭したのです。
なお、倭は663年〜697年までは近畿王朝に屈服しておりません。
続日本紀によると、倭が近畿王朝に制圧されたのは、697年です。
郭務ソウは唐倭共同戦線を新羅に対して構築するのが来倭の目的とみられます。
672年半島での唐の敗色は決定的になり、郭務ソウは672年唐に戻ったわけです。
一方、この時期天智天皇と新羅に接近していたと見られる状況があります。
薩夜麻は天子ではなく皇太子として白村江の海戦で指揮をしたとも考えられます。
又は即位して間もない天子であった可能性もあります。
この場合は前天子が上皇として倭本土に残ったでしょう。
博麻は薩夜麻の従者のはずですが?
博麻は唐では奴隷に身を落としてまでして薩夜麻を守ったように記憶しています。
筑紫国風土記かな?出典不明忘却。
この後九州王朝は分裂し、九州在地派は699年に滅亡。
もう一方は天武天皇擁立に走りました。
九州王朝大好きさん、どうもです。
ということは、百済の残党を支援して白村江を戦った倭というのは九州王朝だって
ことですね。
そうすると余豊璋が人質に来ていた倭も九州王朝ですか?
余豊璋が三輪山で蜜蜂がどうたらという話と矛盾しませんか?
>>497 >そうすると余豊璋が人質に来ていた倭も九州王朝ですか?
>余豊璋が三輪山で蜜蜂がどうたらという話と矛盾しませんか?
上記話は知りません。
出典は何ですか?
余豊璋は何処の人で、倭の人質になったのですか?
この時代7世紀の国際情勢では、倭が人質を必要とする国は存在しえないのですが?
九州王朝が人質を必要とすれば近畿王朝なのですが?
>>498 >出典は何ですか?
>余豊璋は何処の人で、倭の人質になったのですか?
百済義慈王の子、662年、倭によって百済王に冊封され鬼室福信と共闘、のち鬼室福信を殺害。
白村江後は高句麗に逃亡。出典は日本書紀。
旧唐書には扶余豊として記述されていたはずです。
>この時代7世紀の国際情勢では、倭が人質を必要とする国は存在しえないのですが?
新羅の金春秋も人質として来ています。
この時期、新羅と百済が任那の故地をめぐって係争おり、倭が両国に対し任那の調を要求
しています。
倭は、高句麗・百済・新羅に対し朝貢を行うことを要求してますので、このことが
唐と衝突する原因になると私は思っているのですが。
500 :
日本@名無史さん:03/03/11 12:44
>>大好きさん
余豊璋のことを知らずに論を構築していたのはちょっとがっかりです。
金春秋なんかのうごきも考えてくださいな。
ただ、関東に永昌元年、唐年号の碑があるんだよね。
東国は新羅の痕跡が多い。どう考えるべきか……。
>>500 >余豊璋のことを知らずに論を構築していたのはちょっとがっかりです。
>金春秋なんかのうごきも考えてくださいな。
うん、ぼくも余豊璋、金春秋を抜きにしてどのように7世紀東アジアのなかに倭国を
位置付けることができるのか興味があります。
九州王朝大好きさんのご説を楽しみにしています。
502 :
九州王朝大好き:03/03/11 16:02
>>497>>500>>501 余豊璋の三輪山云々は朝倉郡三輪町の三輪山(目配山)のことです。
この地域は、5世紀から7世紀初頭までの後期九州王朝(菊池朝・熊本朝・倭の5王朝)
の中心部です。ですから何の疑問も考えられません。
7世紀後半になると末期九州王朝の一派である宗像朝(タリシホコ朝)が天武天皇を擁立し、
この朝倉郡近辺の地域の九州王朝の人々が奈良盆地に移住しています。
これは、朝倉郡周辺の地名と奈良盆地中央部の地名の配置がそっくりなことからもあきらかです。
三輪山についても朝倉郡三輪町の三輪山が奈良の三輪山と形がよく似ているので、
他の多数の地名同様に奈良盆地の山に命名したものと考えています。
元々奈良盆地にも「みわやま」があったと思えますが、
九州王朝人が移住の時に、「伝説」と「三輪山」を奈良盆地に移設したと見ております。
ですから、奈良の三輪山伝説は九州伝説と奈良在地伝説が合わさったものと見ています。
そうすることによって、奈良の三輪山伝説を理解しやすくできます。
[奈良三輪山伝説 = 九州三輪山伝説 + 近畿在地三輪山伝説]
余豊璋人質云々は5世紀から7世紀初頭までの対半島外交の流れの中の最終章の出来事ですね。
この時代の人質外交云々は九州王朝を裏付ける資料として豊富なの重要視していません。
余豊璋は、僕の勉強不足で、忘却の人物でした。
>>500>>501 金春秋についても7世紀半ばまでは、九州王朝への人質として意味があります。
金春秋についても勉強不足です。僕の関心の外でしたので。
>>502 菊池朝とか宗像朝とかは初耳なんですが、勉強不足と責めないで下さいね。
孝徳天皇が河内にいったり、天智天皇が近江にいったりするようなもんですか?
宗像朝がタリシホコ朝というからには随に使いを送った倭や白村江を戦った倭も
九州王朝で、薩夜麻が倭王だったということですか?
いや、基本的なことがもしれないが申し訳ない。あなたに聞くしかなさそうなので。
504 :
日本@名無史さん:03/03/11 18:14
>>502 勉強不足ですまないが、朝倉郡三輪町には何か遺跡などが出ているのでしょうか?
505 :
九州王朝大好き:03/03/11 18:26
>>503 熊本出身の菊池一族が設立した九州王朝を菊池王朝(5世紀〜6世紀前半)と呼んででいます。
景行天皇九州統一話は初期の菊池朝の何とかの君(忘れた)の話を盗用したものです。
ご存知の様に北部九州海岸を出発して、山口・大分・宮崎・鹿児島と制圧し、
熊本に戻って住民の歓迎を受け、朝倉郡の浮橋で九州統一遠征が完了した、と言うものです。
その後倭の五王・磐井・葛子まで続く王朝を菊池朝と呼んでいます。
菊池朝と言うかどうかはともかく、九州王朝支持者の多くの人はこの考え方を理解できると思います。
その後、6世紀後半に宗像出身の、タリシホコで有名な王朝に政権が交代しています。
タリシホコは新都を大宰府として移転しました。
この部分は私の自説で、まだどれだけの同調者がいるのか僕にもわかりません。
この末期九州王朝の前半王朝を、僕は「宗像朝」(6世紀後半〜7世紀前半)と呼んでいます。
宗像朝で有名な人物は、タリシホコ・上宮上皇と薩夜麻です。
薩夜麻の後、九州王朝の最終朝が699年に滅びました。
506 :
九州王朝大好き:03/03/11 19:00
>>504 三輪町は非常に範囲が狭いので、遺跡があるかどうか判りませんが、
朝倉郡のあのあたりは菊池朝時代の遺跡の宝庫ですが。
>>505 えっと、些細なことかもしれませんが、ひとつ指摘しておくと、
平安期以降は法皇=上皇がなりたつかもしれませんが、この時代において
上宮法皇=上宮上皇はさすがに無条件には言えないかと。
上宮法皇の勘違いですよね。
あ、でも
>>495にも上皇がでてきますね。うーむ…。
508 :
九州王朝大好き:03/03/11 19:08
>>507 間違えています。法皇が正しいです。ご指摘ありがとうございます。
倭や新羅が独自の王権を構築していく過程で冊封体制と衝突したというのが
私の考えなので、ここでポンと上皇なんてのがでてくると反応してしまいました。
揚げ足を取るつもりはなんで、気を悪くなさらないように。
それで本題なのですが、捕虜になった薩夜麻は唐の資料に出てくるのでしょうか。
これは本当に私の勉強不足で知らないんで教えて下さい。
出てくるとしたらどのような形で、出てこないなら倭王なのになぜ出てこないの
でしょう。
510 :
日本@名無史さん:03/03/11 19:44
薩夜麻は筑紫君の姓を持つ地方豪族。それを「倭王」というのは飛躍しすぎ。
唐の史料に倭王=薩夜麻なんて出てこない。
511 :
日本@名無史さん:03/03/11 19:45
出てくるわけないじゃん。薩夜麻は倭王だなんて妄想なんだから。
512 :
日本@名無史さん:03/03/11 20:44
敵国の王さま捕虜にしてたら唐は記録にそう書くよなー。普通。
>>509 唐の資料では薩夜麻は見つかりません。
筑紫国風土記によると、663年当時は若年のようでした。
また、帰国時の倭国民の迎えかたから、高貴な人のようです。
そのことから、僕は薩夜麻は皇太子であったと推定しています。
少なくとも将来を嘱望された天子一族のひとりでしょう。
薩夜麻を天子であったとするのには少し無理があります。
514 :
日本@名無史さん:03/03/11 21:12
皇太子とか天子一族とかいうのも十分無理があると思うが。>薩夜麻
史料の強引&恣意的な解釈はよくない。
515 :
日本@名無史さん:03/03/11 21:18
>>513 高貴な人のようだから皇太子というのも飛躍だよなぁ。
何かしらの具体的な根拠が無いのであれば、有力な皇族の一人という
レベルに留めておくのが普通じゃないの?
そうした飛躍がそこかしこに出てくるから色んな人から突っ込みが
止まらないんだろうし、こうしたことが信頼性を落とす原因になってるんじゃ
ないの?
常に妄想との指摘が入るのも理由が無いことじゃないね、これでは。
古代史に関わっていて余豊璋、金春秋が関心の外というのも普通じゃ考えられないし。
???
ここにいる九州王朝があったという人たちの言っていることはバラバラなんでちょっと困って
しまっているのですが、九州王朝大好きさん、ちょっと確認させてください。
わたしが初めて書き込んだのは
>>440なのですが、あなたは
>>439の意見に同意ですか?
もうひとつ、白村江以降に倭に対して唐または新羅が直接に影響力を行使したような書き込みが
いくつかありましたが、あなたもそのように考えていますか。
コテハンで頑張っておられるようなので甘えさせてもらいます。
あなたがなぜ九州王朝の存在を確信しておられるのか、わたしはそれが知りたい。
517 :
日本@名無史さん:03/03/11 22:26
神武から持統まで、だれもニニギの朝廷を引き継いでいないのに、
倭=大和朝廷なんて飛躍だなあ。
神武から持統まで、大嘗祭に出席したことはあっても、大嘗祭を主催したことが無いのに、
倭=大和朝廷なんて飛躍だなあ。
則天武后に認知されて、やっと大和朝廷=倭と偽装してもらったけど
旧唐書まで改ざんできないから、やっぱり飛躍だなあ。
518 :
日本@名無史さん:03/03/11 22:33
ニニギノミコトなんて架空の存在だろ。
神武だって架空の存在だろ。
大体、旧唐書を読んでも九州王朝なんてどこにも書いてないだろ。
519 :
日本@名無史さん:03/03/11 22:44
>>518ニニギノミコトなんて架空の存在だろ。
神武だって架空の存在だろ。
文武天皇がそう主張しているので、彼に聞いてください。
そんなこと俺が知るか!!
521 :
日本@名無史さん :03/03/11 22:56
>旧唐書を読んでも九州王朝なんてどこにも書いてないだろ。
書いてなくてもいいんじゃない。
唐の史書が九州王朝なんて書くだろうか
唐の史書に大和朝廷なんて書いているだろうか
>>516 僕は
>>439の意見に同意できません。
だからといって、あなたの意見にも同意できません。
僕は単純に捉えています。
連綿と数百年続いた九州王朝に対して、
分派で歴史のない自分達を唯一の存在であることと正統化する為の作業の結果が、
九州王朝を抹殺することであっただけです。
九州王朝も7世紀までは8世紀の近畿王朝と同じことをしてきたのでしょう。
九州王朝にも何度も王朝の交代があったにも関わらず、言い伝えや史書を改ざんして、
自分たちは遥かな昔から続いてきた正統な王朝であると主張していたのでしょう。
近畿王朝は歴代九州王朝同様のまね事をしたにすぎません。
すごい基本的なことで申し訳ないのですが
九州王朝(あるいは近畿王朝)っていうのは何ですか。
王朝って言われると時間的に継起したものを想像するのですが
(ヨーロッパ諸王朝など、いわゆる世界史で普通に言う王朝)
九州王朝・近畿王朝もそうなのですか。つまり今の天皇家の前に
この国を治めていたのが九州王朝ってことですか。
それとも同時期に、東と西に別々の王朝があったってことですか。
(この場合「王朝」って言うのはどうかと思うんですが)
524 :
日本@名無史さん:03/03/12 00:28
突然ヘンな話ですみませんが
1983年の春ぐらいですが
「まぼろしの
失礼しました。続きです。
「まぼろしの九州王朝・磐井の乱」というTV番組があったと
記憶しているのですが
覚えている方、ビデオにとっておられる方いませんか?
>>522 過去ログが見られない状態なんで、あなたの発言を遡ることができないんで
申し訳ないんですが、
>>439とも意見が違うとなると、倭の五王や随に使者を
送った倭王、そして白村江を戦った倭が日本書紀に出てくる近畿の王ではないと
するあなたの論拠は何なのでしょう。
薩夜麻を捕虜にした唐の記録がないとすると、筑紫君が倭王家とするのは厳しい
のではないかと思うのですが。
527 :
日本@名無史さん:03/03/12 01:46
>>513 >筑紫国風土記によると、663年当時は若年のようでした。
>また、帰国時の倭国民の迎えかたから、高貴な人のようです。
ほんとうに筑紫国風土記に薩夜麻のことがそう書いてあるの?
実際どの箇所になんて(原文)書いてあるの?
528 :
日本@名無史さん:03/03/12 14:14
529 :
日本@名無史さん:03/03/12 14:24
↑ リンク先に飛んだら「キャッシュ」の文字をクリックしてください。
黄色く色が付いているあたりがご希望の箇所です。
530 :
九州王朝大好き:03/03/12 15:17
>>527 薩耶馬についての筑紫国風土記の断片(遺文)が見つかりません。
薩耶馬について、「日本書紀」「三国遺事」に書かれてていない部分は、何処から来たのか記憶の整理調査中です。
>>528等の根拠となる原典・遺物についての記憶があいまいですみません。
531 :
九州王朝大好き:03/03/12 15:45
>>523 7世紀までは九州王朝が日本のNo1だったと言うことです。
8世紀からは近畿王朝となります。
日本列島の各地域で、九州王朝・近畿王朝以外にも琉球王朝、アイヌ王朝、陸奥王朝、古志王朝、等複数の王朝が同時存在していたとしても、何の問題も無いと思います。
各々が独立した政治国家組織をもっていれば王朝と言っても差支えはないと思います。
532 :
九州王朝大好き:03/03/12 15:51
>>526 >倭の五王や随に使者を送った倭王、
>そして白村江を戦った倭が日本書紀に出てくる近畿の王ではないとする
>あなたの論拠は何なのでしょう。
近畿の王との仮説をとるよりも、九州の王との仮説をとるほうが、
歴史をより合理的に説明できるからです。
>>532 >近畿の王との仮説をとるよりも、九州の王との仮説をとるほうが、
>歴史をより合理的に説明できるからです。
少なくとも白村江の時点においては、唐は薩夜麻を倭王もしくは王族と見ていなかった
と言う方が合理的だと思いますが。
660年に同じように捕虜になった百済の場合には、義慈王はじめ泰、隆、孝、演などの
資料が新唐書(だっけか?)に見えています。
>>533 資料が新唐書(だっけか?)に見えています。
↓
名前が新唐書(だっけか?)に見えています
#どうもミスが多くて申し訳ないです。
535 :
日本@名無史さん:03/03/12 20:08
けっきょく史料があるってのはウソで
妄想を「合理的だー」とわめいて自画自賛してるだけか。
>>533 薩耶馬を倭王もしくは王族と見ていいい証拠は日本書紀にも書かれています。
671年の薩耶馬の帰国について、実際とは異なる惨めな帰還であったかのように嘘で書かれています。
又、690年の博麻の帰国を取り上げて、薩耶馬を重ねて蔑んでいます。
これは、薩耶馬が九州王朝の重要な人物であることを示しています。
>>536 大好きさん、
>>533 で問題にしているのは「唐が」どうみていたかです。
われわれがどう見るかではないです。そこをお間違えなく。
それに「実際とは異なる」と書いておられますが、実際どうであったかが
分からない以上、まずは本当に惨めであったと考えるのが合理的ではないですか?
>>537 唐がどのように見ていたかは明確には判りません。
しかし、唐は倭の政治判断を動かせる重要人物とみています。
対新羅共同戦線をはる決断を倭に求めるには薩耶馬を適任とみなしていたのは明らかです。
これによって薩耶馬が倭王かそれに準じる人物であったと見なせます。
それ故、薩耶馬が唐の捕虜であったと歴史に残せないのです。
実際がどうであったかわかっています。
薩耶馬は九州王朝の城に凱旋したのは明らかです。
>>536 日本書紀が薩夜麻のことをどう蔑んでいるのかを調べようとして驚きました。
持統天皇が直々に博麻のことをホメているではないですか。
九州王朝仮説ではこれはどう考えれば良い?
近畿の王が九州の王族に尽くした部下について褒めているんでしょうか。
それとも九州の王が王族に尽くした部下について褒めた記録を近畿の王がホメた
ことにして近畿の史書に載せた…?
どっちにしても変ではないですか?
540 :
日本@名無史さん:03/03/13 00:13
ちょっと前に出ていた古代史ハンドブックという本
そのときまでの古代史の説や本をほとんど網羅紹介してた。
代表は石田某。
彼の意見ではサチヤマが天武天皇になったんだってさ。
ヨホウショウの背中をなでたのもサチヤマなんだってさ。
541 :
日本@名無史さん:03/03/13 00:27
九州王朝大好きさんへ
割り込みしてすいません。
難しい話は抜きにして、申します。
筑紫君が薩野馬だといっているのは大和朝廷(紀)。
天智6年(667年)に筑紫に唐の筑紫都督府が存在している(紀)。
771年薩野馬の帰国時までに筑紫都督府廃止の記述が見当たらない。
筑紫君がいて、筑紫都督府がある。大和朝廷が言っている。
また、三国史記(私は写本を持っていない)では
663年白村江で、新羅の文武王は百済と倭に勝利した。
薩野馬は逃げられず捕虜になった。
なのに文武王が倭人に語るくだりで、
なぜか帰国して王に新羅と和睦するように説得している。
どうしても、倭人の国は、二つあるのです。
これをどうご覧になりますか?
>>539 持統天皇が直々に博麻のことを褒めています。
そのことは、間接的に、臣下を奴隷にまでして、
のうのうと倭に帰って来た薩耶馬は、主君としてあるまじきではないかと、
賤しめ辱しめているのです。
>>541 倭は二つあった。
唐の傘下である九州王朝倭と、唐にまだ認めてられていない近畿王朝倭。
小難しく考えなければ、以上の様になると思います。
新羅には、敵の親唐倭(九州)と味方にできる反唐倭(近畿)の二つの倭があった。
>>542の間違い修正。
反唐倭(近畿) → 唐に認知されていない倭(近畿)
>>541 筑紫都督府。なんとも琴線に触れる言葉ですね。
わたしは白村江の後、唐が倭を冊封体制下に置こうとしたと考えています。
唐の戦争の目的は高句麗や百済を滅ぼすことではなく、あくまでも旧秩序への
復帰であるというわけです。
ところで、筑紫都督府に派遣された大山下境部連石積という人物は何者なので
しょうか。
何という文献のどこを調べろということでも教えていただければありがたいです。
>>544 派遣されたはまちがいですね。
境部連石積は遣唐使だったんですか? 坂合部石布って人と関係あるのかな。
546 :
日本@名無史さん:03/03/13 04:06
547 :
日本@名無史さん:03/03/13 06:49
九州王朝仮説って矛盾ばかりですね。
548 :
日本@名無史さん:03/03/13 09:52
旧唐書と三国史記に倭人の国が2国書いてあるのに
大和朝廷一元説なんて、
英国と米国の区別がつかない人のよう。
すごい矛盾だらけですね。
文武天皇が旧唐書の内容どおりの
2国間皇統継承宣言の宣命を言っているのに
これに異論を唱えた天皇がいないのに
近畿一元説の人だけ一元説。
すごい矛盾ばかりですね。
阿蘇山がある国こそ
大和朝廷でございますって
世界中の学者に説明するのでしょうか。
天皇が阿蘇山で行事した記録がないですね。
矛盾に満ち満ちていますね。
>>546 感謝。坂合部連石積、唐に行ってますね。
しかも小山から大山下に出世してますね。いつ出世したのかな?
それに「肇めて新字一部四十四巻を造」ったという記事が書紀の天武11年に
ありますね。
なんとも興味深い人ですね。いろんな「空想」への誘惑にかられますね、確かに。
550 :
日本@名無史さん:03/03/13 20:12
>2国間皇統継承宣言の宣命を言っているのに
そんなトンデモ解釈だれも賛同してないんだけど?
>阿蘇山がある国こそ
>大和朝廷でございますって
>世界中の学者に説明するのでしょうか。
するけど何か?
矛盾なんか何もないけど、これが矛盾にみえるのは相当歪んでるね。
551 :
日本@名無史さん:03/03/13 21:54
>>550 そんなトンデモ解釈だれも賛同してないんだけど?
日本書紀で、文武天皇があなたの意見に反対しています。
神武天皇から持統天皇まで誰もやらなかったのに
文武天皇がふしぎなことを宣言しました。
それは、天孫ににぎから、ずっと続いている皇統を
今日からこの私が引き継ぐことにいたしました、と言っている。
このあと今の天皇陛下まで、これに異議を唱えた天皇はおいででない。
また、このあとの誰も、天孫からずっと続いてきた皇統を
引き継いだ天皇はおられません。
文武天皇以前だれひとり、皇統を引き継いでいないと言っているのは、
古田武彦でもわたしでもありません。文武天皇です。
このとおりのことが、旧唐書に日本国として載っている。
日本の天皇と、中国の皇帝が、これがホントの歴史です、と言っている。
お認めになったらいかが?
あなたの説が「トンデモ」に間違いありません。
552 :
日本@名無史さん:03/03/13 22:08
↑頭おかしい?
553 :
日本@名無史さん:03/03/13 22:36
>>551 >それは、天孫ににぎから、ずっと続いている皇統を
>今日からこの私が引き継ぐことにいたしました、と言っている。
文武は「遠い先祖から」ずっと続いている皇統をこの私が引き継ぎますと言ってますが
何か?
554 :
日本@名無史さん:03/03/13 22:38
>>548 >旧唐書と三国史記に倭人の国が2国書いてあるのに
三国史記のドコに何て書いてあるの?
555 :
日本@名無史さん:03/03/13 22:59
すくなくとも文武は持統から引き継ぐと言ってるから
「2国間皇統継承宣言」というのは大ウソ
言っている。とか、書いてある。って断言するときは、どこに書いてあるかというのを
示してもらえませんか?
できれば原文を引用してもらえればありがたいんですが、無理ならせめて出典をあげて
もらえると当方の確認の手間が省けてうれしいです。
○○氏が△△という本で、××天皇がしかじかと言っていたと書いていた、というのでも
結構ですが。
557 :
日本@名無史さん:03/03/14 01:33
551は国語力に問題を抱えているだけだろう。
あるいは、自分の立てた仮説に眼が眩み、牽強付会な解釈しかできない
不自由な頭になってるだけなのだろう。まともに受け取るのもばからしい。
いや。
旧唐書も三国史記も続日本紀も見たこともなく古田武彦の本だけ読んだ間抜けだろう。
先ほど終夜営業の本屋に行って続日本紀を立ち読みしてきたんですが、
文武天皇の即位の記事を見ても該当する発言は見あたりませんでした。
ただ残念ながら口語訳のものしかなかったので、買わずに帰ってきましたが。
書いてあるというのを確認するのは簡単なのですが、書いてないということを
調べるのは意外に骨の折れる作業です。全部に目を通したわけではないので、
判断を保留せざるをえません。困ったものですね。
>>559 なにもあなたがそんな苦労をする必要は無いのでは
551が出展を明らかにすれば良いわけですから
>>560 そうなんですが、わたしも早いところ名無しさんになりたいんですよ。
出してもらえないのなら自分で調べたほうが早いかなと。全然早くないんですが。
押し問答を繰り返すよりは疲れないかなと思ったわけです。
というわけで、九州王朝大好きさん、薩夜麻についての意見をお聞かせいただいて
ありがとうございました。
大好きさんが薩夜麻が倭王または王族と考えられた根拠として、以下をあげて下さいました。
・薩夜麻の帰国時に九州の住民が歓待した。
・唐が薩夜麻を倭の政治判断を動かせる重要人物とみた。
・持統天皇が薩夜麻に対して博麻の主人としてあるまじきとあてつけた。
これらが全部正しいとしても、これって薩夜麻が九州の豪族であったということで充分説明の
つくことではないでしょうか。
薩夜麻が筑紫君として筑紫に一定の影響力を持っていたことは誰も否定しないと思います。
あなたは
>>531 で独立した政治国家組織を持っていれば王朝と言っても差支えはない、と
いっておられますが、そんなことはない。
鎌倉幕府は立法権、軍事権、裁判権などを持っていましたが、鎌倉王朝と言ってはいけない。
江戸幕府は加えて外交権、聖職者叙任権、一部の任官の権利までもっていましたが、江戸王朝
とは呼ばない。
あなたは筑紫君政権と呼ぶべきものを九州王朝と呼んでしまったために、無理のある理解を
せざるを得なくなってしまったのでは無いでしょうか。
もしも文武の宣命が
>>551 の言っておられるように解釈できるとしたら、
九州王朝を考えるよりも、中国の史書からパクってアレンジした可能性を
考えるのが先ではないかと思うのですが、どうなんでしょ?
パクる対象の中国の史書なんか存在しないでしょ?
>>564 ありゃりゃ。書き方が悪かったですね。
例えば、日本書紀の皇極から孝徳の譲位の記事は、魏志の献帝から文帝への禅譲の
記事をパクってアレンジした。
そういう意味です。
567 :
日本@名無史さん:03/03/14 13:54
続きです。話は日本書紀と続日本紀です。
日本書紀の天孫降臨説話で、ににぎの命は葦原の中つ国の主になった。
行きて治せよ、と天照大神にいわれて、君臨し、知国した。
でも天照大神は王位(地位)を交代していないから、
このににぎ命は「新しい王権」についたことになる。
新しい王権が始まった。
ににぎの子孫、神武は、辛酉年春正月朔、帝位にかしわらの宮に即いた。
王様の子孫が王様になった。これだけなら当たり前でしょう。
なのに、初めて(神武)天皇、天基を草創する日、と書いてある。
この天皇、ににぎの天基を継承しなかった。しないで草創した。
どうして継承しなかったのか?分家したのでしょうか?
王の子孫が王になり、天基を草創したんだから別な王権、
天武天皇は別な王統をはじめた。
これ、大和朝廷のことでしょう。(以上日本書紀)
では神武以前の王様の天基は何ていう朝廷ですか?
さて、文武天皇問題です。ここから続日本紀です。
ある日、文武が即位する(697年)。
つまり神武からずっと続いている天基を継承しました。
話はこれで終わり。なのに変なことをいっている。
即位後、余計な宣命をわざわざのべているのです。
「高天の原に事始めて〜中略〜大八島国知らさむ次と」
あれ、王権は神武からでしょう?
日本書紀と続日本紀、どちらがうそですか?
どちらも本当だと解釈できますか?
さらに続く・・・
矛盾したこの二つ、矛盾が無いと解釈することが可能です。
1:神武から続く天基を、持統天皇から継承(ふつうの即位)。
2:高天が原から続く「つぎて」を、神勅により継承(めずらしい引継ぎ)。
この二つは別なことです。だから別に言った。
で、両方自分が継承した。
↓
新・旧唐書にそのへんの事情が倭・日本の記述に出ている。
この話、中小路駿逸氏の説を、私が勝手に自分流に理解しただけですから、
氏には一切責任がありません。オリジナル説は上記の本が一番詳しいです。
569 :
日本@名無史さん:03/03/14 18:58
ようするに古田派特有のチン解釈ね
571 :
日本@名無史さん:03/03/14 20:01
>>567 >日本書紀の天孫降臨説話で、ににぎの命は葦原の中つ国の主になった。
>行きて治せよ、と天照大神にいわれて、君臨し、知国した。
そういう根拠は原文のどの箇所?
573 :
日本@名無史さん:03/03/15 10:03
通説のどこにも矛盾がないのに妙な読み方をして矛盾だ矛盾だと騒ぎたて
自分は本当に矛盾だらけの珍解釈を得々と述べるトンデモ説のありがちパターンでつ。
458さん
どういたしまして。それより
寒い中、深夜に書店に行かせてしまってすみませんでした。
九州王朝大好きさんと458さんの、質の高い対話を
今後も楽しませてください。
九州王朝大好きさん、
中断させてしまい、申し訳ありませんでした。
またつづきを、お願いいたします。
575 :
日本@名無史さん:03/03/15 11:26
「質が高い」だって!
低俗なデマの羅列なのに。
576 :
日本@名無史さん:03/03/16 00:08
>>562 鎌倉幕府以降の政権は、天皇に従属するもので、
独立した政治国家組織ではありません。
例えば、「征夷大将軍」は誰から任命されていたのでしょうか?
九州政権は完全に近畿政権とは切り離された政権ですから、
九州王朝と言って良いのです。
578 :
日本@名無史さん:03/03/16 15:42
>>567 >日本書紀の天孫降臨説話で、ににぎの命は葦原の中つ国の主になった。
>行きて治せよ、と天照大神にいわれて、君臨し、知国した。
そういう根拠は原文のどの箇所?
作り話だから返答不能?
579 :
日本@名無史さん:03/03/16 17:02
日本語わかれば言う。古事記と日本書紀。読んだ?
580 :
日本@名無史さん:03/03/16 20:03
どの箇所だか言えないのはヤッパリ作り話ってことのようだ。
「原文のどの箇所?」と聞かれて「古事記と日本書紀」と答える
>>579は日本語わからない人と思われ
御合高木神之女、萬幡豐秋津師比賣命、 生子、天火明命、
次、日子番能邇邇藝命【二柱】也。
是以隨白之、科詔日子番能邇邇藝命、
「此豐葦原水穗國者、汝將知國、言依賜。故、隨命以可天降。」
本スレ、やっと発見
584 :
日本@名無史さん:03/03/16 21:11
>>582 >日本書紀の天孫降臨説話で、ににぎの命は葦原の中つ国の主になった。
>行きて治せよ、と天照大神にいわれて、君臨し、知国した。
それは「行きて治せよ、と天照大神にいわれて」の部分だけ。
やっぱり作り話のようだな。
585 :
日本@名無史さん:03/03/16 22:44
>>584 じゃあ大国主がお隠れになってから
誰がそこの主になったのかね?
586 :
日本@名無史さん:03/03/16 23:44
「ににぎの命は葦原の中つ国の主になった」なんて書いてないことを認めたようだね。
歴年無主
589 :
日本@名無史さん:03/03/17 07:50
それでは資料を都合よく拾い読みしてると言われてもしかたが無いよ・・・
ほんと。恣意的な拾い読み+勝手な創作で珍説をでっち上げて「通説は矛盾してる矛盾してる」とのたまう
九州王朝説の病根そのものを見た
591 :
日本@名無史さん:03/03/18 02:55
粘着キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
キタ粘着━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
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九州王朝説の病根そのものを見た
九州王朝説の病根そのものを見た
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592 :
日本@名無史さん:03/03/18 11:01
>>590 >九州王朝説の病根そのものを見た
わたしは589ですけど、わたしは
>>588にむけて言ったつもりです。
ちなみにわたしはどちらかというと通説派です。
593 :
日本@名無史さん:03/03/18 17:12
| 歴年無主なんて答えちゃいけないよ
\
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__
/ /|
∧_∧ | ̄ ̄|/|
___ (´∀` )..| ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄|/|
////|____( と).| | | ̄ ̄|/|
| ̄ ̄ ̄|/ ∧∧ ̄□ ̄ ̄| | | ̄ ̄|/|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄( ,) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|. |
| | つ |. |
| 〜 | |/
し`J
|\
/ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 読めないけど日本書紀見せて
>>594 流れとしては
ニニギが天下りを命じられたという描写があり
その地ならしの過程が描かれて
それは成功し、大国主が譲ってるんだから
特に記述が無い以上、
ニニギが天下って支配したと読むのが素直な読み方じゃないの?
そういう文脈を無視してるのを「拾い読み」って言ったんじゃないかね。
596 :
日本@名無史さん:03/03/18 21:25
592です。
日本書紀の話をしていたわけですから、問題は日本書紀にどう書いてあるかでしょう。
そもそも文武天皇の宣命が話の発端です。
歴年無主とは日本書紀にそう書いてあるのでしょうか。
歴年無主の典拠は後漢書だろうと思われますが、それには、そのあとニニギが主になった
と書いてあるのでしょうか。
「都合よく拾い読み」は
>>361,
>>364 あたりのやりとりから引っ張りました。
597 :
日本@名無史さん:03/03/18 21:32
592です。
話がややこしくなってしまう前に言っておくと、わたしは大好きさんとのやりとりでは
458を名のっています。(忙しくなったので返事をさぼっていますが)
コテハンを名のるほどこの話題には入れこんでいないのですが、質問する以上は礼儀として
最低限の名前を名のっていました。
>>596 論点がおかしいのでは?
魏志や後漢書に使われているボキャブラリーを使っただけで何故「拾い読み」になるの?
大国主が国譲りをしたあとずっと誰が国主になったという記述も無い以上は歴年無主でしょうが。
599 :
日本@名無史さん:03/03/19 00:29
日本書紀の話をしてるときに呉越同舟と言っちゃいけないのか!
四面楚歌って言ったら「資料を都合よく拾い読みしてる」と悪罵を投げつけるのか!
無礼にもほどがある。
はっきりしてもらおうじゃないか!!
600 :
日本@名無史さん:03/03/19 00:37
はっきり言って猛烈に腹が立っている。
筋みちを立てて説明してほしい。
どこが「資料を都合よく拾い読みしてる」んだ!!!!!
そういう侮辱中の侮辱をするだけのはっきりした理由を言え!
601 :
荒らし橿原一派:03/03/19 00:46
, -'~ ̄ ̄ ̄~`ー、
/ ゚ ○ ヽ
| = 三 = oヾ、
l|. ,-―'、 >ー--、 l;;l、
i^| -<・> |.| <・>- b| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.||  ̄ |.|  ̄ .|/ < おめーら、生ぬるいぞ。もっと恫喝して、論理をぶち壊せ!
.| /(oo) ヽ | \______________
| _(⌒)___ノ /
/,-r┤~.l ニ `, /
(rf .| | ヽ -― '
.lヽλ_八_ ,, ̄)
`ー┬‐-ー' ̄
>>599 結構。はっきりしましょう。しょうがないからコテハンなのります。
それでは2点。
・日本書紀には主はいなかったとどこに書いてあるのでしょうか。
・そもそも日本書紀は主とは何だと主張していますか。
603 :
怒れる七氏:03/03/19 01:21
>・日本書紀には主はいなかったとどこに書いてあるのでしょうか。
どこにも。
・そもそも日本書紀は主とは何だと主張していますか。
「主」とは何だとも書いていない。
604 :
怒れる七氏:03/03/19 01:35
どうした。
「資料を都合よく拾い読みしてる」と悪罵を投げつける理由はまだか?
譲るってことは譲られたやつが居るんだよ
そんだけ
>>603 なるほど。
それでは「歴年無主」とはどういう状態ですか。
あなたが例に出した「呉越同舟」や「四面楚歌」は歴史上の故事と同様な状態
であるときに使います。
同様に日本書紀によると大国主から神武までの間は後漢書に書いてあるような
「歴年無主」と同様な状態であったというわけですね。
607 :
怒れる七氏:03/03/19 01:53
それで?
608 :
怒れる七氏:03/03/19 01:57
ところで
「ににぎの命は葦原の中つ国の主になった」
「君臨し、知国した」と書いてあるか?
609 :
怒れる七氏:03/03/19 02:07
どうした!ひとを侮辱するに足る理由をはやく言え!
610 :
怒れる七氏:03/03/19 02:20
どうした!
ぐちゃぐちゃ的を外した質問を繰り返してないで
>じゃあ大国主がお隠れになってから
>誰がそこの主になったのかね?
への答え「歴年無主」に対して
「資料を都合よく拾い読みしてると言われてもしかたが無い」と言う理由を
筋道立てて答えろ!
どこにもそう書いてないのに大国主から神武までの間は乱れていたということなんですが。
あなたは
>>588で他書を引用することで書かれてもいないこと主張しているわけで。
612 :
歴年名無 :03/03/19 02:25
他書を引用することで書かれてもいないこと主張する以上、
「資料を都合よく拾い読みしてると言われてもしかたが無い」
613 :
怒れる七氏:03/03/19 02:27
乱れていたなんて誰が言った?
主が無いと言っているだけだ。
それが「資料を都合よく拾い読みしてると言われてもしかたが無い」と言う理由か?
まさか、日本書紀に主が誰か書いていないということを
カッコ良く「歴年無主」といっただけだったとかそういうこと?
615 :
怒れる七氏:03/03/19 02:33
>書かれてもいないこと主張する以上
書かれていないことって何を主張したんだ?
言ってみろ!
おい! 言ってみろ!!!!!
後漢書でいうところの「歴年無主」という状態。
617 :
怒れる七氏:03/03/19 02:38
>>614 あたりまえだ。
お前こそ「大国主から神武までの間は乱れていた」とか書かれてもいないことを主張して何だ!
四面楚歌と言ったら漢の兵隊と戦っていると主張しているとでも言うのか?
618 :
怒れる七氏:03/03/19 02:41
>>616 それがどう「都合いい」んだ!
答えろ!
>四面楚歌と言ったら漢の兵隊と戦っていると主張しているとでも言うのか?
いや、「以前は味方だったものまで敵になってしまい、回り中敵だらけな状態」
というよ。
>>618 大国主に国を譲られてニニギが統治したとはっきりと書いてないことが、
後漢書でいうところの「歴年無主」という状態と根拠なしにイコールで
あるというところ。
621 :
怒れる七氏:03/03/19 02:51
待てよ。
仮に「後漢書の大乱のような状況だった」と
日本書紀からは必ずしも読み取れないような状況をかってに想像したとして
それがどうして「資料を都合よく拾い読みしてる」ことになるんだ?
「資料を都合よく拾い読み」っていうのは
自説にに都合のいい部分だけ取り上げて都合の悪い部分を無視することじゃないのか?
622 :
怒れる七氏:03/03/19 02:53
>>620 答えになってない。
何が何に都合いいんだ?
ちゃんと答えろ。
623 :
荒らし橿原一派:03/03/19 02:53
, -'~ ̄ ̄ ̄~`ー、
/ ゚ ○ ヽ
| = 三 = oヾ、 怒れる七氏よ
l|. ,-―'、 >ー--、 l;;l、
i^| -<・> |.| <・>- b| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.||  ̄ |.|  ̄ .|/ < 尻尾つかまれる前に、はやく暦年無主から話題をそらせ。恫喝しろ!
.| /(oo) ヽ | \______________
| _(⌒)___ノ /
/,-r┤~.l ニ `, /
(rf .| | ヽ -― '
.lヽλ_八_ ,, ̄)
`ー┬‐-ー' ̄
「四面楚歌」っていったら、項羽の最後と同じような状態をさすときに使うだろ?
「歴年無主」っていったら、倭国大乱と同じような状態をさすのに使わんか?
625 :
日本@名無史さん:03/03/19 02:57
村を3つ以上支配できれば「王朝」
626 :
怒れる七氏:03/03/19 03:00
627 :
?<eth>?N?1/4?3:03/03/19 03:01
>>626 クッキーが文字化けするぞ。
アホ抜かせ。それにおれはMacを使ってる。AAはズレてまともに見れん。
629 :
怒れる七氏:03/03/19 03:14
「四面楚歌」になったら必ず項羽のように死ぬとでもいうのか?
歴年無主と言っただけで大乱だと主張したと
日本書紀に書かれていないことを主張したと非難されて
「資料を都合よく拾い読み」と罵倒されるのか?
それこそ相手の発言を都合よく拾い読みじゃないのか!
630 :
歴年名無 :03/03/19 03:14
悪いが、四面楚歌や呉越同舟をもちだしたのはあんただ。
後漢書をもちだしたのもあんただ。
日本書紀の原文のどの箇所に書いてあると執拗に問うていたのもあんただ。
631 :
怒れる七氏:03/03/19 03:15
こっちも答えろ。再掲する。
「ににぎの命は葦原の中つ国の主になった」
「君臨し、知国した」と書いてあるか?
632 :
怒れる七氏:03/03/19 03:20
>>630 後漢書を持ち出した、引用したと執拗に言うが
こちらは四文字熟語を使っただけだ。
勝手に拡大解釈して非難するのは卑怯というものだ。
書いてないよ。おれは書いてあるといった覚えはないが。
634 :
荒らし橿原一派:03/03/19 03:22
, -'~ ̄ ̄ ̄~`ー、
/ ゚ ○ ヽ
| = 三 = oヾ、
l|. ,-―'、 >ー--、 l;;l、
i^| -<・> |.| <・>- b| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.||  ̄ |.|  ̄ .|/ < そうだ、567は読み下し文だと信じこませろ。声が小さいぞ!
.| /(oo) ヽ | \______________
| _(⌒)___ノ /
/,-r┤~.l ニ `, /
(rf .| | ヽ -― '
.lヽλ_八_ ,, ̄)
`ー┬‐-ー' ̄
歴年無主は熟語なのか?
ちなみにGoogleで検索しても11件しかないが。
636 :
怒れる七氏:03/03/19 03:26
>>633 じゃ、勝手に拡大解釈した「大乱」が原文に無いから「資料を都合よく拾い読み」と罵倒しておいて
明らかに原文いないことを主張してる
「ににぎの命は葦原の中つ国の主になった」「君臨し、知国した」は容認なのか?
おお、漢字が2つ以上使ってあれば熟語なのね。
638 :
怒れる七氏:03/03/19 03:29
歴年無主と言ったら大乱だというお前の理解が拡大解釈だと認めるか?
639 :
歴年名無 :03/03/19 03:29
>>636 容認してないよ。ただその根拠が書かれるのを待っていたけど。
おれは相手の発言に間髪いれずにツッコむほど暇ではない。
640 :
荒らし橿原一派:03/03/19 03:30
, -'~ ̄ ̄ ̄~`ー、
/ ゚ ○ ヽ
| = 三 = oヾ、
l|. ,-―'、 >ー--、 l;;l、
i^| -<・> |.| <・>- b| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.||  ̄ |.|  ̄ .|/ < 気づかれたじゃねえか薄ボケ。早く話題をそらせ、恫喝だ!
.| /(oo) ヽ | \______________
| _(⌒)___ノ /
/,-r┤~.l ニ `, /
(rf .| | ヽ -― '
.lヽλ_八_ ,, ̄)
`ー┬‐-ー' ̄
642 :
怒れる七氏:03/03/19 03:34
引用だなどと言った覚えも無い。
勝手な敷衍だ。
643 :
怒れる七氏:03/03/19 03:36
もう寝るが、お前だけは絶対許さないからな。
>>642 じゃあ、故事成語として確立してない言葉を後漢書から引っ張って何が言いたかったのだ.
歴年無主がただの四文字熟語なら、九州王朝もただの四文字熟語なんだが。
>>643 人がわざわざコテハンなのって、眠いのにずっとつきあったのに
捨てゼリフ吐いて消えるんか?
646 :
荒らし橿原一派:03/03/19 04:13
, -'~ ̄ ̄ ̄~`ー、
/ ゚ ○ ヽ
| = 三 = oヾ、 相手を怒らせて去るのはいいぞ!
l|. ,-―'、 >ー--、 l;;l、
i^| -<・> |.| <・>- b| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.||  ̄ |.|  ̄ .|/ < 日本書紀に暦年無主の語がないことは、うまく逃げ切れ。命令だ!
.| /(oo) ヽ | \______________
| _(⌒)___ノ /
/,-r┤~.l ニ `, / 595〜596は話題に出すな。枝葉末節の揚げ足取りに終始せよ!
(rf .| | ヽ -― '
.lヽλ_八_ ,, ̄)
`ー┬‐-ー' ̄
648 :
日本@名無史さん:03/03/19 10:57
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
O 。
, ─ヽ
________ /,/\ヾ\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|__|__|__|_ __((´∀`\ )< 生活かかってるから、新説は撲滅しなきゃね。
|_|__|__|__ /ノへゝ/''' )ヽ \_________
||__| | | \´-`) / 丿/
|_|_| 从.从从 | \__ ̄ ̄⊂|丿/ もっと強い極道のお兄さんいないかしら。
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\ / ::::::::::::ゝ/||
────────(~〜ヽ::::::::::::|/
649 :
日本@名無史さん:03/03/19 16:39
下手うった時、即消えるんじゃなくて
逆に粘着しまくってログ流して、
ほとぼり冷めた頃消えるってのは新しいな。
俺も今度使おうかな。
いま、「暦年無主」の四文字熟語を探しています。
見つけていただいた方には、なんらかのお礼を考えています。
家族総出で探していますが、日本書紀にも、熟語の辞典にも載っていません。
急いでおります、どうかお助けください。
A
「歴年無主」とは日本書紀にそう書いてあるのでしょうか。
「歴年無主」の典拠は後漢書だろうと思われますが。
↓
B
後漢書を持ち出した、引用したと執拗に言うが
こちらは四文字熟語を使っただけだ。
無知なものですが、
あの、日本書紀って後漢書のことじゃないんですか?
四文字熟語って四文字なら全部熟語じゃないんですか?
AさんとBさん、うそつきはどっちのほうですか?誰か教えてください。
652 :
九州王朝大好き:03/03/19 18:10
昨夜からのレスは楽しいですね。
じっと拝見させていただきました。
新手対応レスが出るは、漫画入りはしゃれているはで、ありがとうございます。
653 :
怒れる七氏:03/03/19 21:33
漫画しゃれてるか?
下品だぞ。
654 :
怒れる七氏:03/03/19 21:45
まあ本人一晩寝て頭も冷えたかとも思うが
相手の言っていることに勝手に尾ひれをつけて
その尾ひれの部分が日本書紀に書かれていないと文句をつけるマッチポンプぶりは相当居汚なかったぜ。
しかも「資料を都合よく拾い読み」と言えば
史料の中で自分に都合のいい部分だけ拾い読みして都合の悪い部分は無視することだと
ふつうの国語力がある人間ならわかる。
だから自分の言ったことが的外れどころか正反対だったと思い知ってただろう。
ところが自分を守るために無理して
「資料を都合よく拾い読み」するという意味を
「他書を引用することで書かれてもいないこと主張する」ことだと定義をスリカエて捏造しちゃった。
みえみえのごまかしを2連発して、なんという醜態だろう。
今頃恥辱で青くなってるだろうが、それが正常だ。
いくらなんでもまだ口先で誤魔化そうとするほど厚顔無恥な人間がこの世には実在するまい。
そういうことだ、うそつきのAさんよ。
655 :
日本@名無史さん:03/03/19 22:41
>いくらなんでもまだ口先で誤魔化そうとするほど厚顔無恥な人間がこの世には実在するまい。
居るんだな、これが
>>654 とか
656 :
日本@名無史さん:03/03/19 22:44
いやな予感がして来てみるとこれだ (笑)。
やばくなってきたらただの四文字熟語として使っただけだなどと情けないことを
いったことは一晩寝たら忘れたのか。
どうやら資料を系統だてて読んでるのがご自慢らしいが、あちこちからいいかげんに
言葉を引っ張ってくるんでは拾い読みしているのとかわらんぞ。
それとも歴年無主というのは適切な使用なのか?
658 :
日本@名無史さん:03/03/19 22:56
>史料の中で自分に都合のいい部分だけ→大国主がお隠れになった
>拾い読みして
>都合の悪い部分は→ニニギが復命して天降ったという描写、或いは大己貴神と高皇産霊尊との交渉などなど。
>無視することだと
659 :
漫画より下品な七氏:03/03/19 23:13
660 :
日本@名無史さん:03/03/19 23:17
>>629 >日本書紀に書かれていないことを主張したと非難されて
ところで日本書紀のどこに「歴年無主」って書いてあるんだろ。
そう解釈出来るってだけなら
「ににぎの命は葦原の中つ国の主になった」と同等だし
文脈から言えば後者の方が素直な解釈だが
661 :
怒れる七氏:03/03/19 23:57
>>657 >やばくなってきたらただの四文字熟語として使っただけだなどと情けないことを
いったことは一晩寝たら忘れたのか。
やばいとは何のことだ?
なせ情けない?
勝手な妄想で他人の主張を捏造して悦に入ってるのか?
>それとも歴年無主というのは適切な使用なのか?
適切でないと筋道立てて反論できるのか?
どうした!捏造屋。
662 :
日本@名無史さん:03/03/20 00:03
>>661 「譲る」という言葉の意味は?
「歴年無主」とは書記のどこに書いてあるのか?
誰が主がなかったかはっきりと書かれていないことを歴年無主といっても問題ないのなら、
天つ神による国つ神を平定したことを倭国大乱といって問題ないんだよな?
倭国大乱は単なる四文字熟語だぞ。
664 :
怒れる七氏:03/03/20 00:10
665 :
日本@名無史さん:03/03/20 00:11
>>664 あなたは
>>603で「主」とは何だとも書いてないといってるじゃない。
それで歴年無主といっても問題ないなら「倭国」くらい問題にならんだろ?
668 :
怒れる七氏:03/03/20 00:17
その四文字熟語の意味は?
>>668 倭の国が大いに乱れた。
倭は普通に考えると葦原中国だ。
天つ神が葦原中国を平定する過程を倭国大乱と四文字熟語を使っていいのか?悪いのか?
何をビビっているんだ?
670 :
日本@名無史さん:03/03/20 00:20
671 :
怒れる七氏:03/03/20 00:21
>>666 日本書紀に「倭国」とは何だとも書いてなくたって問題はないだろう。
倭国大乱と言った現代人が倭国の意味を説明できなきゃタワケだ。
672 :
怒れる七氏:03/03/20 00:23
>>670 スタンダードを2つ答えられたら相手してやる。
673 :
日本@名無史さん:03/03/20 00:25
>>672 まず俺の質問に答えてからだな。
オマエの順番は。
答えられないのか?ん?
674 :
日本@名無史さん:03/03/20 00:26
>>672 それともダブルスタンダードの意味がわからないのか?
>>672 四文字熟語として歴年無主は使って良いが、倭国大乱はダメ。
まさかそんなこと言わないよな?
>>672 どうした?
早く答えられる事を証明しろよ。
677 :
怒れる七氏:03/03/20 00:27
>倭は普通に考えると葦原中国だ。
頭の足りない人間は理由が説明できないと「普通に考えると」と言う。
理由を説明してみろ。
>>672 「歴年無主」とは書記のどこに書いてある?
書いてないとしたら、「主にならなかったという記述がないからニニギが中つ国の主になった」と解釈することと、
オマエがやってる事「主になったという記述がないから歴年無主」とどこが違うんだ?
譲るという言葉の意味は?
>>677 話題をそらすな。
まさか日本書紀に倭が葦原中国だと書いてないので使ってはいけないなどというんでは
ないだろうな。
「主」が何だと書いてなくても歴年無主といっていいんだろ?
680 :
怒れる七氏:03/03/20 00:35
>>675 >四文字熟語として歴年無主は使って良いが、倭国大乱はダメ。
>まさかそんなこと言わないよな?
言う。固有名詞が入ってるからな。
>>680 四面楚歌や呉越同舟には固有名詞が入っていないのか?
683 :
怒れる七氏:03/03/20 00:39
>「主」が何だと書いてなくても歴年無主といっていいんだろ?
「主」が何だと書いてなくても主がどのように行動するかは書いてあるから構うまい。
>まさか日本書紀に倭が葦原中国だと書いてないので使ってはいけないなどというんでは
ないだろうな。
倭と葦原中国の関係を述べるまえに使うべきでない。
686 :
怒れる七氏:03/03/20 00:41
>>682 「固有名詞」と「喩えられるもの」の関係が明らかになってるので構わない。
>>686 倭国と葦原中国が「固有名詞」と「喩えられるもの」の関係だ。
そんなこともわからないのか?
>>怒れる七氏
今日は、展開がオモロクない。
オマエは公務員で朝が早いんだから、もう寝なさいよ。
>>688 答えられないなら、そう言え。
こんだけ時間稼いでも駄目か?
>>687 ほう!「倭国」は比喩か。そうならそうと早く言うがいい。
きみが大国主去りし後の芦原中国の戦乱を「倭国大乱」と呼ぶことを妨げないよ。
>>690 ボク!相手にされてないこと早く気付いてね。おやすみ。
>>688 >>678に答えればいいんだよ。
オマエがダブルスタンダードの意味がわからないなら
それは勘弁してやるから。
>>692 そんな事は出来ることを証明してから言えよ、負け犬
>>692 どうしたダブルスタンダードの拾い読みの負け犬。
なんで下げてんだよ(藁
早く
>>678に答えてみせろ。
そしたら相手にされてなかったことに気付いてやるよ。
>>689のお勧めにしたがってもう寝る。
歴年名無くん。ちゃんとした反論をよく考えとくようにね。
, -'~ ̄ ̄ ̄~`ー、
/ ゚ ○ ヽ
| = 三 = oヾ、 怒れる七氏よ
l|. ,-―'、 >ー--、 l;;l、
i^| -<・> |.| <・>- b| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.||  ̄ |.|  ̄ .|/ < お前は掟を破った。恫喝・言い逃れ・はぐらかしだけしろ!
.| /(oo) ヽ | \______________
| _(⌒)___ノ /
/,-r┤~.l ニ `, / 論理を言うな。学問の精神を破壊せよ!
(rf .| | ヽ -― '
.lヽλ_八_ ,, ̄)
`ー┬‐-ー' ̄
↑たまにはイイこという!
>>691 心配しなくても、おれは比喩としてもそんなことは言わないよ。
比喩であるかどうかが不明確だからね。
天つ神による国つ神の平定の後、誰が主がなかったかはっきりと書かれていない。
これは倭国大乱、歴年無主である。
こういう事を言っても問題にしないんだよな。
>>696 オマエみたいな負け犬のダブルスタンダードの惨めな拾い読み野郎が
「九州王朝説」批判したら通説派が迷惑するだろが。
それともそれが狙いか?
また寝ちまったようだな (笑)
>>691のようなことが言える人物は、相手にしたくない。時間の無駄だ。理由は
>>700。
いいかげんに「比喩」や「四文字熟語」などを使う人物と資料が何を言っているのかというのを
やりとりしようとしたのが無駄だったようだ。
歴年無主などという言葉を何も考えずに平気で使えるような手合いとは、所詮話が噛み合んか。
罵倒をくりかえしていると、言葉への感性が鈍るようだな。
怒れる七氏、あんたがいろいろな資料を隅々まで読んでいることが自慢であろうことは想像が
ついた。隅々まで読んだのは拾い読みとは違うかもしれん。
だが、
>>588や
>>691のように、それらの資料に載っている言葉の取扱いに無頓着なのは
拾い読みよりもタチが悪い。はっきり言うが、あんたには学問は向いていない。歴史学や考古学
だけが、言葉をぞんざいに取り扱って良いというわけではあるまい。
あんたとのやりとりは無駄なので、これで止めにする。どう思ってもらっても結構だ。
おれが逃げたことにして、あんたのプライドを満たしてもらっても構わんよ。
時間を無駄にするよりもましだ。
, -'~ ̄ ̄ ̄~`ー、
/ ゚ ○ ヽ
| = 三 = oヾ、 怒れる七氏よ,おまえは論理に溺れた。掟を破ったからだ。
l|. ,-―'、 >ー--、 l;;l、
i^| -<・> |.| <・>- b| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.||  ̄ |.|  ̄ .|/ <
>>677 頭の足りない人間は理由が説明できないと「普通に考えると」と言う。
.| /(oo) ヽ | \______________
| _(⌒)___ノ /
/,-r┤~.l ニ `, / これを証明しろ!こんな言質を取られるようではもうだめだ。抗弁できんぞ。
(rf .| | ヽ -― '
.lヽλ_八_ ,, ̄)
`ー┬‐-ー' ̄
もう、おなかいっぱい。
メールで好きなだけやってくれよ、もう。
705 :
怒れる七氏:03/03/20 07:07
>687 :歴年名無 :03/03/20 00:44
>
>>686 >倭国と葦原中国が「固有名詞」と「喩えられるもの」の関係だ。
>そんなこともわからないのか?
>700 :歴年名無 :03/03/20 01:04
>
>>691 >心配しなくても、おれは比喩としてもそんなことは言わないよ。
>比喩であるかどうかが不明確だからね。
「倭国」と「葦原中国」が明確に「固有名詞」と「喩えられるもの」の関係だと自分で言ったな。
それを「比喩であるかどうかが不明確だからね」とは食言だな。
そういう誤魔化しを続けながら、相手のことを
>いいかげんに「比喩」や「四文字熟語」などを使う人物
などと言うとは見下げ果てた奴だ。
今後もそうやってウソをつくまくってコソコソ逃げ回るがいい。
706 :
広域糞力団:03/03/20 09:22
__ _____
___,ー゙:::::::::::::::::::'i;;;:::::::::::ー、 ̄ ̄て(___ _____, _ー、
,ー゙::::::::::::::::::::::::::::::::::'i;;;:::::::::::::::::\  ̄ ̄ ノノ
/::;;;;;;;;;;;;;;:::::──::::;:;;;、:'i;;;:::::;;;;;;;;;;一ゝ ,|'
イ;-~;;;;;;;;;;;;;;;、;、jヾjヾ!ヾー\y;'-'゙''"''1/ ,-、rー、 γ'ノ
彡";;;;;;;;;;;;;ミ゙~ || !,___!、 \________jζ
|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ミ ___,. _, ,ヘ|!_.└┴_ヽ___\─┘
l!'ニゞ;;;;;;;;;;ミ /二二\ 、_, "/⌒{ 丶 (づ ヽ 人間、引き際が大事だぜ
l"=〉i`''' ゙̄` ヾ''ー,, __//。ュ'┤、::. `ー;二コ;;,_ !,
'"'!,ヽ`! ー`ィ=・=;' イ __ヒ"ニ | ゙i;::::(づ ゙' ,゙!,
:::::\` l ~ ̄ _,- ,)ー、 | ゙i;::::: ̄ スミ ゙l゙!,
:::::::::::::Tl ,−".:.;:,.^: '"::, )丿 \::::/ .l
::::::::::::::::゙k ./ ./ーt- ェ,:,.;__ー'_;ィ' /:.\ ゙l i |
:゙i;:::::::::::::::\ ! ゝ.  ̄ ̄ ̄_,, j/:::::::::::. l ゙!、_ ノ .|
:::::゙i;:::::::::::::::\-、_ :;:.:;..;:.::::..:゙゙;,ノ゙::::::::::::::;::. l ,| .|\
::::::::゙i;:::::::::::::::::\''ー、_ー─r'''":;_;:|:::::::::/::::::゙l .|.゙'ー..,.,.,.,.,ノ |y|、
::::::::::::゙i;::::::::;;;─1 / |ヽ/|:::/:::`::::::/|/::::::::/\ ,!゙i,_ _,,ノ:::ノ:i
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:::::::゙!;::::::::::::::::'!;::::::l : |:::::::::::::::::::|::::::::::::::::::::::::|:::::::::::::::::::::::::::::::::::::|
707 :
逝ける七氏:03/03/20 10:20
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ヽ ̄ヽ )
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「 、_______」 ( つ つ
人 ヽノ
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ヽ ̄ヽ )グサグサ、;・∧;;;:.
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/ ≡<<<二二b╋・;・;;;:;ノ :; 悪は悪の手によって逝く
∠_____\≡≡b╋:;;・ ノ
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ヽゝ ヽ>
今日も引き続き、昨夜のレスを期待して見にきました。
が、昨夜はつまらない、辟易。
昨夜は歴年さんの切れが悪かったからね。だいぶ墓穴を掘っちゃった。
710 :
日本@名無史さん:03/03/20 20:49
こんばんは。おげんきですか、怒れる七氏さん。
711 :
日本@名無史さん:03/03/20 21:39
怒れる七氏さん
偵察に来たんでしょう、挨拶ぐらいはしてくださいよ。
「今後もそうやってウソをつくまくってコソコソ逃げ回るがいい」(怒れる七氏さん談)
712 :
日本@名無史さん:03/03/20 22:19
怒れる七氏さん
あなたはいつもおんなじ口調で、何十回も「煽り」を入れましたね。
過去ログでずいぶん暴言はいてますな。
713 :
日本@名無史さん:03/03/20 23:01
怒れる七氏さん
どうかこの板が、楽しい場となるよう、ご協力ください。
わたしの発言は、これだけです。
714 :
もう怒ってない七氏:03/03/20 23:33
>>713 暴言は大好きだ。
うそをつく人間にはウソツキと言う。
歪曲や捏造をする人間には卑怯者という。
丁寧な口調でうそをついたり事実を歪曲したりする輩は口を極めて罵ってやる。
それがこの板を楽しい場にする方法と信ずる。
>>714 暴言でも筋が通ってればそれなりに伝わるものがあるけどね、
君からは何も伝わってこない。
君が批判してることに一番あてはまってるのは君だからね。
自分が筋を曲げた以上、その結果は引き受けて諦めて今回は消えなさい。
ほほう。論理的に展開してみろ。
おれは何を批判していて、何が何にあてはまってるのかな?
誰もまともに反論できないようだな・・・って、一人か・・
>>716 そういうのが面白いと思う奴も居るのかもしれないが、
俺は全く面白いと思わない。
で、おれが批判してることって何?
>>720 俺の質問に答えない君の質問に答える謂れは無いね。
それとも
>>678に答える気になったかな?
かわいそうだから答えてやろう。
「
>>678が主にならなかったという記述がないから
>>678が中つ国の主になった」と解釈することと
「誰も主になったという記述がないから歴年無主」との違いがわかるか?
わからねば、もう寝ろ。
>>722 そういうのを拾い読みと言うんだよ。
あお説話全体は何を描いた物なんだ?
あと二つ質問はあっただろ。
「譲る」という言葉の意味は?
「歴年無主」とはどこにある?
>>722 で、何故一時的にしろ歴年にしろ、中つ国に主は居なくなったんだ?
大国主は何故隠れたんだ?
>>722 大国主が国譲りを要求されたのはなんの為だったんだ?
>あお説話全体は何を描いた物なんだ?
皇孫が権利者になったが取りにこなかった話だ。
>「譲る」という言葉の意味は?
要物契約の一種。
>「歴年無主」とはどこにある?
あの説話全体の中。
さあお待ちかね。答えたぞ。 じゃ次だ。おれが批判してるのは何だ?
>>722 君が
>>588で
「歴年無主」ではなく
「わからない」と答えてれば、少なくとも君の筋は通ってたんだよ。
>>726 答えになってないね
>>「歴年無主」とはどこにある?
>あの説話全体の中。
引用しろ、どこにある。
>要物契約の一種。
これも答えになってない。誰も分類しろとは言ってない。
意味を答えてみろ。
>皇孫が権利者になったが取りにこなかった話だ
取りにこなかったとどこに書いてある?
ところで権利者にはなったのか?
質問読んでないね、まちがいだ。
>「譲る」という言葉の意味は?
要物契約の一種。
>>「歴年無主」とはどこにある?
>あの説話全体の中。
これが通用するなら
「ニニギが主になったとどこに書いてある」
「あの説話全体」でも通用するわけだが
すまんな。あんたの話はあんまりまじめに読んでなかった。
取りあうほどもないと思ってな。
謝っとくよ。
>取りにこなかったとどこに書いてある?
あの神話じゃ、大国主は葦原中国を治めてる。
その大国主は皇孫に国を譲る意思表示をした。
でも皇孫は長狭んとこ行って国をもらっちゃった。
だから物件引渡しが未了なの。
だから芦原中国は空家で無主。ワカル?
追伸 「あの説話全体」云々するなら全体読まなきゃだめよ。
だから物件引渡しが未了なの
↓
統治権ぬきの不動産かよ!
>>731 何故長狭をもらったことで
中つ国を受け取ってない事になるんだ?
だから子孫が力づくで不法占拠者を追っ払いに行くわけだろ?
謝っとくよ
↓
何についてどういう点を謝ったんだよ!
長狭なんか貰わないぞ。キモチワルイ。
>>736 あのときも今も715を馬鹿にしてることをだ。本当にすまないと思ってる。
都知事が横浜に行くと「無主」かよ!
>>735 なぜ不法と言えるんだ?
不法に占拠されたその場所の「主」は誰なんだ?
>>735 不法占拠者という以上、正当な権利者がいるわけだが
それは誰なんだ?
ほんとに日本書紀よんだのか?
>>743 読んだよ、で?
葦原中つ国と長狭の国の関係は?
不法と言える根拠は?
長狭の国をもらったら、何故中つ国を貰ってない事になるんだ?
「主の無い国」の「不法占拠者」って一体どういう意味だ?
もう寝るぞ。
答える気があるのかよ!
そのくらい読んでわかれよ。じゃ、今夜はおやすみ。
748 :
皆さん就寝中ですが:03/03/22 01:12
皆さんがお休み中、お伝えしたいことがありまして、カキコします。
金曜日の日本経済新聞文化面に、法隆寺の建立に関する話が載っております。
日本書紀の焼失記事では670年に燃えたはずですが、五重塔の心柱は594年伐採のもので謎。
また、法隆寺が「材」という単位(1材=1.1尺)できれいに割り切れることが判明。
筑紫あたりからの移築と考えうる・・・といった内容です。
筆者は北海学園大学教授、川端俊一郎氏、専門は経済学だそうです。
>専門は経済学だそうです。
ワラ
750 :
日本@名無史さん:03/03/22 03:36
手軽な日本史用語辞典などに「薩夜麻」の項目すらないっていうのには
それはそれで何だかなって気にはなる
たいした人物じゃないからでは?
752 :
粘着バスターズ:03/03/22 10:24
おーい。留守から帰ったぞ。
>>715よ! 日本書紀読んどいたか?
754 :
七氏の最期:03/03/22 19:50
//.|
//./.|. / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
//./ | | | 七氏は、市中引き回しの上、さらし首でつ
//./|/:.| .| \_ __________________
□/ / //| |. |/
| |/.;;;;//. | ||.
| | ;;;;;;// | ||| l⌒)=|二二フ
| |.;;;// | |.|| ∧.|.∧
∧ ∧ | |.//. | | ||. ( ・∀・)
( ・A・).| |/. | |. || | ) わるい奴にゃ、当然にゃ!
__( ).| |___. | | || __.| | |____
| | | | |. //.| ̄ (__(__). /.| ∧_∧ ∧_∧ ∧ ∧
(__)__)| |. // |. //| (´-`;)(@・ )(;´∀)(
| |.//∧ ∧| ガクブル // | ∧∧ ∧ ∧. ∧_∧ ∧∧
(..| |/ (*゚ 0゚ ) .//. | (∀・ )( )(´∀`
(⌒ .| | / ̄ ⊂.⊃. .// / ∧_∧ ∧ ∧ ∧ ∧. ∧_∧
∧ ∧  ̄| | / └─┘// / <_` )(´・ω)(д゚` )( )(
( ・A・) | |/ // / ∧_∧ ∧ ∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧
( ) ~~ // / ( )( ゚∀゚)(` )( )(゚д
| | | // / ∧_∧. ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(__)__) // / (д- )( )(TдT)(∀` )
そげんかこつより、ちょっ聞いてよ
>>1。スレとはあんまり関係なかばってん。
昨日、ウチん近くの箸墓行ったっぢゃん。箸墓。
そしたら、なんか人のがばおって通れんやったったい。
で、よーっと見たらなんか垂れ幕の下がっとって、学術調査中、とか書いてあっぢゃん。
もうね、アホかち。馬鹿かち。
わがどみゃ、学術調査中やけんちゆうて、いっでん来ん箸墓に来んなや、こんバカが。
学術調査中ぜ、学術調査中。
なんか親子連れとかもおってくさ。一家4人で箸墓見物げな。おめでたかもんやの。
よーしパパが三角縁神獣鏡見つけんぞー、げな言いよっとや。もう見られせんもん。
わがどみゃ、墓ば発いちゃるけんそん道空けろち。
箸墓ちゆうとこは、まぁだ素人とか来るとこやなか。
濠沿いのテントに座った奴といつ喧嘩が始まったっちゃおかしゅなか、
刺すか刺さるっか、そげんか雰囲気がよかっちゃなかか。おなご子供は出て来んなや。
で、ようよう通れたち思たら、隣ん奴が、布留0ば見た、げな言いよっぢゃん。
そいでまたがば腹ん立ったとですよ。
あのくさ、布留0げなきょうび流行らんとぜや。バカーが。
得意げな顔ばして、布留0で、か。
わがはほんなこつ、布留0ば見たつかと問をごた。問い詰もごた。小1時間問い詰もごた。
わがは、布留0ち言をごただけじゃなかつか。
箸墓通の俺から言わせるげっとくさ、今、箸墓通の間での最新流行はやっぱ、
輪鐙、これたい。
木製輪鐙。こっが通のネタ。
輪鐙ちゆうとは三世紀に馬がおる。そん代わり倭人伝の記事がぶっ飛び。これ。
で、それに年輪年代。こっが最強。
そばってん、こっば言うと次から学会ににらまるっちゆう危険もつんのうてくる、諸刃の剣。
素人にゃお薦め出来ん。
まあ、わがどみゃド素人は、高松塚でも行っとったい。
ふっ…素人だな…
757 :
他人をコケにしてマスターベーションする七氏:03/03/22 21:28
↑
おれではない。考古はわからん。
759 :
煽りまくって板荒らしても全然反省の色が見えない七氏:03/03/22 22:14
↑
ウソをついて他人を誹謗する人間に比べたら何の罪もないわ。
えーい、うるさい!メールでやれ、馬鹿者ども!!
じゃ、お説をたまわろう。
763 :
馬鹿を感染させたがる七氏:03/03/23 00:21
↑
765 :
粘着七氏の暴言晒しあげ:03/03/23 10:55
「暴言は大好きだ。
うそをつく人間にはウソツキと言う。
歪曲や捏造をする人間には卑怯者という。
丁寧な口調でうそをついたり事実を歪曲したりする輩は口を極めて罵ってやる。
それがこの板を楽しい場にする方法と信ずる。」
信念がある人はリッパ
767 :
自作自演の七氏:03/03/23 12:57
なんか相当うらまれたようだな。
議論再燃期待age
もう、火病ってくれないのかな。
挙げ
新年度あげ
773 :
九州説と畿内説の火花:03/04/01 19:38
もう散っちゃったのね
775 :
日本@名無史さん:03/04/02 02:06
近畿王朝説は20世紀の仮説であったのだ。
邪馬台国は阿波だった。
777 :
日本@名無史さん:03/04/02 04:26
そういえば、徳島と天皇家ってなぜかつながりが・・・○麻とか。
ついでに777get
そういや昔、九州王朝説ってのがあったよね。
779 :
日本@名無史さん:03/04/02 12:47
近畿説より「アポロ11号はスタジオ撮影だ!」のほうが本当っぽい。
780 :
九州王朝大好き:03/04/04 03:20
age
781 :
日本@名無史さん:03/04/04 08:49
1ヶ月前のレスだが
>432
>根本的な話だが、九州王朝があったとして、何故それを隠すのか解らん。
>天孫が天下ったのが筑紫の高千穂で、神武の東征が開始されたと記録している。
>その事は、なぜ隠さなかったのかな?
それなんだが、近畿王朝は隠してなどいなかったのではないか。
だって、旧唐書に「倭国の地を併せたり」と書いてある。
日本書紀には併合とは書いてないが、何かの瑞祥に喩えたとか。
782 :
日本@名無史さん:03/04/04 10:57
>>781 日本書紀の天皇は大嘗祭を自ら行ったことがない。
出席した記録だけだ。誰の大嘗祭に出たのかは、
黙して語らないのが日本書紀の態度。
これを「隠していない」というのか「隠した」というのか微妙なところ。
壬申の乱で在来の近畿勢力を、九州勢力が押さえ込んで、
九州系の天武が政権取りましたと言い、続日本紀では文武が
近畿・九州両方を引き継ぎました、と宣言した。
ところが干されたのが唐。せっかく薩野馬傀儡九州政権を作ったのに、
この近畿=分派政権が本家=九州政権を倒しやがった。
783 :
日本@名無史さん:03/04/04 11:17
うーん.それをいったら,その時代は大嘗祭と新嘗祭の区別も無いんですよね.
しかも,新嘗を天皇・皇子・大臣が各自で勝手に独自にやっている.宮中行事でも
国家行事でもなく,各自の家で勝手にやる行事だったんじゃないですかね.
(まあ宮中行事だったとしても,大臣も皇子もあつまらない軽い行事だったんじゃ
ないですかね)
784 :
日本@名無史さん:03/04/04 12:56
大嘗祭=新嘗祭
こんな説は初めてだ。何か勘違いしていると思う。
785 :
日本@名無史さん:03/04/04 12:58
中国正史に明記もしてないことを捏造しているスレはここですか?
786 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:01
>せっかく薩野馬傀儡九州政権を作ったのに
そんな事実があったら、唐側の史料に「明記」するはず。
中国は日本に遠慮する必要などないし、百済については明記してるんだから。
いいかげん妄想や捏造はヤメレ。
787 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:04
大嘗祭を主催した人の名前、日本書紀に書いてあるの、ないの、どっちなの?
788 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:17
素朴な疑問なんだが、九州王朝説唱えてる人って九州人が多いの?
邪馬台国論争でも自分の出身地や居住地に「我田引水」する人が多いし。
789 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:26
>>788 九州王朝大好きさんは橿原の人って言ってたぞ。
わしは生まれも育ちも東日本だが九州説、古田氏も福島・広島・京都などを転々。
790 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:29
唐は「藩鎮」導入にいたるまでもなく筑紫都督府による平定に失敗、
担当した唐の軍人たちも左遷、唐の失政であったとさ。失政の詳細は隠蔽。
791 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:32
日本書紀に薩野馬だの筑紫都督府だのが載っていないなんて妄想はやめれ。
792 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:34
ていうか、中国正史自体に載ってないだろ>筑紫都督府
793 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:35
794 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:37
>>790 百済、新羅関係の記事を考えても「隠蔽」などするわけがない。
こうなると妄想というより、悪質な「捏造」だな。
795 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:37
中国史に大和朝廷は載ってないけど。
796 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:42
665年に唐の封禅(大嘗祭的な儀式)に倭の酋長が出てるんだが、天智天皇は出席してるか?
797 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:46
664年に中臣鎌足が郭務ソウに賜物してるが、唐のどの記録に書いてあるんだ。
798 :
日本@名無史さん:03/04/04 14:14
郭務ソウ・劉仁願は中国朝鮮でも記録されてるの?
799 :
日本@名無史さん:03/04/04 14:49
大和朝廷が「大宰府」「筑紫都督府」を設置した記事がぜんぜんないね。
誰か探してくれる?
801 :
日本@名無史さん:03/04/04 15:09
もともと筑紫都督府なんてものはありはせん。
802 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:18
もともと大和朝廷なんてものはありはせん。
803 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:36
>>784 皇極紀元年十一月の条に
「丁卯に天皇,新嘗きこしめす.是の日に,皇子,大臣,各自ら新嘗す」とある.
元年なのに「大嘗」ではなく「新嘗」.しかも,群臣が天皇のもとに集まったわけでは
なく,各自で勝手に新嘗している.
804 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:38
日本書紀では,新嘗と大嘗を区別していないのは明らかで,これは上古では
その区別がなく,大嘗(新嘗)が国家的大行事でもなかったことを意味している.
805 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:50
天皇・皇子・大臣が大嘗祭を主催した例をあげてください。いくつあるでしょうか?
806 :
日本@名無史さん:03/04/04 16:56
そもそも,大嘗の記述の例そのものが少ない.
807 :
日本@名無史さん:03/04/04 19:41
808 :
日本@名無史さん:03/04/05 00:04
急に春の嵐
>>807 そこ、勉強になりました。
あっべんきょうと安売りにはとどういう関連があるのかしら。
わしゃ日吉っって新羅系だと思ってたのに
スサノオの孫だしさー
百済系なの?ホント?
809 :
日本@名無史さん:03/04/05 03:20
九州王朝支持だけど生まれも育ちも関東。
遣隋使を送ったのは九州王朝。7世紀に5回行った遣唐使は近畿王朝。
遣唐使第一次630年、次は653年。
旧唐書倭国伝は648年で終わる。新羅本紀によると国名が日本になったのは670年。
663年に白村江で、郭務宗が来る。670年、新羅は唐と対立。
遣唐使は669年の第五次からしばらく途絶えて701年再開。
えーと…新羅の裏切りから30年間、近畿王朝は何やってたの?
30年も壬申の乱やってたのか。九州併合したあともう一波乱あったか。
810 :
九州王朝大好き:03/04/05 12:19
九州王朝が大好きだけれど、家系血縁は代々奈良盆地。
正月のお雑煮の餅を黄粉につけて食べるが、
これは奈良だけの風習だとは、
最近まで知らなかった
>>809 671年近畿王朝は消滅しました。
811 :
九州王朝大好き:03/04/05 15:35
継体は大和の王になるのに20年必要であったが、
天武は大和の王になるのに2年必要とした。
もちつけ熊襲
813 :
日本@名無史さん:03/04/05 20:15
九州兄政権=筑紫都督政権は、郭務ソウが薩野馬=筑紫都督をトップにした半属国。
九州弟政権=近畿天武政権は、壬申の乱で足固めをした、大和朝廷乗っ取り独立政権。
兄政権は弟政権に滅ぼされ、唐は面目丸つぶれ。唐は極東6都督府すべて失い敗退。
天武は大和の筑紫化を推進、在来勢力や天智系人脈も懐柔、政略結婚推進。
天武は唐とは断絶、兄政権+百済遺民とは反目、新羅と親交。
・・・それにしても天智の娘4人ももらったのは、ちょっとやりすぎか?
814 :
日本@名無史さん:03/04/05 20:56
また妄想か・・・
815 :
九州王朝大好き:03/04/06 00:46
>>809 >えーと…新羅の裏切りから30年間、近畿王朝は何やってたの?
>30年も壬申の乱やってたのか。九州併合したあともう一波乱あったか。
670年から700年まで遣唐使を派遣できる勢力が日本にいなかったのです。
669年遣唐使派遣。
670年筑紫都督府が設置され、倭は唐の支配地になったのです。
700年近畿王朝は完全に日本の覇者となり、
翌701年遣唐使を派遣できるようになったのです。
670年にどうやって唐が倭を支配できるんだ?
817 :
日本@名無史さん:03/04/06 04:47
日本書紀が筑紫都督府といってるんだから、その通りなんだろう。
818 :
日本@名無史さん:03/04/07 00:05
支配してその後退却したなら唐の正史に記載があるでそ
819 :
日本@名無史さん:03/04/07 00:07
427 名前:天之御名無主 :03/04/07 00:00
頭蓋から人種的に、弥生人の正体は朝鮮半島人ではなく、
渤海沿岸の河北人。
一重細目のっぺりなど、形質的に似ている点も多いが、
頭の形や頬骨など決定的な違いも多い。
天皇家はもとは縄文人の豪族。弥生時代に弥生人に、
古墳時代に百済人に形質的に置換された結果、
今の容姿にいたる。
820 :
日本@名無史さん:03/04/07 00:20
唐の正史にも書いてないことを妄想するスレはここですか?
821 :
日本@名無史さん:03/04/07 00:24
822 :
日本@名無史さん:03/04/07 00:27
>>820氏が理解不可能な仮説
劉仁願は「皇帝」の許可なく、独断で筑紫都督府設置策を決めたかも。
半島確保の失敗に、あせってポイント稼ぎに躍起になったのか。
知恵をお借りしたいです。
>>822 くだらん思いつきでレス付けるな、アホ。
許可が無かろうが、独断だろうが
正史にまったく書いて無いんだよ。
少しはまともなことを書いてくれ。
劉仁願の子孫はその後住み着き
中世博多商人には劉姓の者が多く見えます。
825 :
日本@名無史さん:03/04/07 01:23
>>824 「郭」さんではなくて、「劉」さんですか。
郭姓の者もかなり多く見えます
827 :
日本@名無史さん:03/04/07 02:16
>>826さん
ご親切にありがとうございます。驚きました、とても意味深長です。
おいおい、本気にするなよ。
824も826も軽い冗談だよ。
そんなわけねえだろ。
829 :
日本@名無史さん:03/04/07 03:02
何が「へっへ」?
831 :
日本@名無史さん:03/04/07 12:50
.
833 :
日本@名無史さん:03/04/08 11:48
『新唐書』列傳・東夷・日本
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲凡三十二世、皆以尊為號、居筑紫城。」(その王の姓は阿毎氏。みずから言う。初主は天の御中主と号す。彦瀲にいたるおよそ三十二世。みな尊をもって号とし、築紫城に居る。)
どういうことでつか?
その続きでつ。
『新唐書』列傳・東夷・日本
「彦瀲子神武立、更以「天皇」爲號、徙治大和州。」(彦瀲の子、神武立ち、更えて「天皇」をもって號とし、徙りて大和州に治す。)
神武のときに、九州から大和に移ったということでつ。
九州王朝はないということでつね。
835 :
日本@名無史さん:03/04/08 12:58
『日本書紀』巻第三
初天皇草創之日也
神武の大和朝廷は新政権でつ。
九州王朝は健在でつ。
文字がぬけたでつ
「初天皇草創天基之日也」
837 :
九州王朝大好き:03/04/08 20:54
>>834 近畿王朝のデータで編集されたのが新唐書ですから、
これで良いのです。
大和州(島)の政権は筑紫州(島)の出身だと言っているだけです。
誰もが認めていることですね。
838 :
日本@名無史さん:03/04/08 20:56
「臣籍ニ入リタル者」については男系子孫も含まれると解されます。
皇統とは明治の初期の考え方では天皇の男系の血筋、皇胤は天皇の男系の子 孫という意味です。明治初期の女帝論議でも、女帝は当初でもやむをえないも
のとして男系が絶えたときの最後の手段としてのみ認め、その場合でも、男系 でもつながってなければならないとしてその女帝の前の天皇とは皇位継承に準
じてその配偶者も前の天皇に男系で一番近くなければならないとしたのでしょ う。もう一度言いますが、男系継承が皇室という家の根幹です
839 :
↑ ↑ ↑ ↑ ↑:03/04/08 21:24
迷い子。
840 :
ちょっと抜粋してみました:03/04/08 23:08
高天原が九州?
842 :
日本@名無史さん:03/04/09 00:41
>>841 対馬に天照神社や岩屋があり
壱岐に天の原遺跡や原の辻遺跡がある
多分対馬が神域で壱岐が生活域だろう
天孫降臨は壱岐から九州本土に攻め込んだんだと思うよ
843 :
九州王朝大好き:03/04/09 02:29
>>842さんと同じことを表現を変えて書きます。
対馬は海と山だけです。多くの人が住めず経済力が育ちません。
壱岐は山のない台地平野で多くの人が住め農業もでき経済力も育ちます。
対馬は人口が少ないのに広矛の出土が異常に多い。
壱岐は島のいたるところに古代の生活痕跡だらけ。
対馬では半島と九州との経済交流で力を付け、壱岐に侵略。
壱岐(倭城)では農業も加え経済力を増し人口も増加。ウミヰ(海倭)国の成立。
そして糸島と博多の中間部に侵攻。
海岸から見上げると右手前方に日向峠、左手前方にクシフルダケ。
このあと、猿田彦ががんばって抵抗し、なかなか九州北部沿岸を征服できないのです。
彼らが天照神を祖とする一族でした。
そして時が流れ九州島北部のヤマヰ(山倭)国となったのでした。
844 :
日本@名無史さん:03/04/09 03:23
どうして日本のコネ入社ジャーナリストっていつも逃げてばかりで
他国記者の情報の寄せ集めなの?
他スレ用記事の混入か。
やまいの国でお大事に。
.
848 :
日本@名無史さん:03/04/11 17:17
849 :
九州王朝大好き:03/04/11 18:52
>>841 >>842>>848に同意
「天の原」狭義には壱岐の地名。
「天」はアマ国、壱岐は「山」でなく「原」の島で平坦な島である。
アマ国の平坦な島は、壱岐島のみである。
よって、
「天の原」広義には壱岐全体を指すと見てもよい。
そこで、古田説に同意。
壱岐の北側の海を中国に向かっていった時、
最後に見た故郷は、東南東方向の春日地方の三笠の山に月が昇る景色であった。
壱岐の北側の海から見える山は筑紫の三笠の山だけなのです。
あとは壱岐の台地と海しか見えないのです。
そこで、「高天原」は壱岐と見做します。高は接頭修飾につけられたと見ます。
850 :
日本@名無史さん:03/04/11 19:29
意味不明 スルーします
853 :
日本@名無史さん:03/04/12 06:15
あんたら「ふりさけみれば」って単語の意味知らないだろ。
高校出てんの?
自説なし。放置君ケテーイ。
855 :
日本@名無史さん:03/04/12 15:16
「ふりさけみれば」を古語辞典に書いてあるとおりの意味で読めばアホな九州王朝説が壊滅って
立派な自説ですが何か?
放置君。
橿原一派がなつかしい。
857 :
日本@名無史さん:03/04/12 18:29
どうやら「ふりさけみれば」の誤読が九州王朝説に致命的だったみたいですね。
しつこいのも、特徴だったな。
この『あまのはら』って『広々とした大空』のことでしょ・・・
と言ってみるテスト。
九州王朝説って無学
放置君の観察
相当痛手だったようだ
唐土にて月を見てよみける
広々とした大空をはるか遠く仰ぎ見ると月が出ている。
あの月は以前、(ふるさとの)春日にあった三笠の山に出た月と同じ月なんだよなぁ・・・・・
(ふるさとが懐かしい。帰りたいなぁ・・・・・)
>>859 "『あまのはら』って『広々とした大空』のことでしょ"
仲麻呂の望郷歌の解釈としてなら、通説ではそう言うことになっているね。
しかし、この歌が本当に仲麻呂のものなのかは、どうかと思う。
年少で唐土に渡り、二度と帰国できなかった彼の歌と言われるものは、これしか伝わっていない。
日本への伝承経路も不詳であるし、誰かが仲麻呂の心に仮託して詠んだ歌かもしれない。
因み、万葉の時より「天の原」は「ふりさけ見」るものだし、「春日なる三笠の山」に「月」は出」ると決まっている。
仲麻呂の真作であれ、仮託であれ、意味はかわらない。
と、言ってみるテスト
866 :
日本@名無史さん:03/04/12 21:37
これだけ貧困な歌に貶めた、放置君あわれ。
古典知識ゼロで墓穴
九州王朝説崩壊の憂き目
868 :
日本@名無史さん:03/04/12 23:38
「月が昇らない三笠の山」に、天変地異で月が出る!
放置君もうダメポ
869 :
九州王朝大好き:03/04/13 00:40
放置君。
辞書を振りかざして、通説を唱える。
厨房。
橿原一派の垢でも煎じて飲んだら?
偽史づくりの人たちって勝手てに古語まで作っちゃうんですね
天の原ふりさけ見れば白真弓張りて懸けたり夜路はよけむ(間人宿祢大浦)
天の原振りさけ見れば大君の御壽はながく天足らしたり(倭姫皇后)
あめつちの分かれし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺を
天の原振り放け見れば 渡る日の影も隠ろひ照る月の光も見えず白雲も
い行きはばかり時じくぞ雪は降りける語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ不尽の高嶺は(山部赤人)
春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく(作者不詳)
「振り離け見る」
遠く離れている大きなものを首を振って見回すこと
874 :
日本@名無史さん:03/04/13 10:43
佐紀も九州だとか際限なく妄想を増殖させていくんだろうか・・・
古今集選者紀貫之自身が土佐日記の中で仲麻呂の古歌を取って詠んだ歌です。
この場合、「青海原」を「ふりさけ見」た訳で「仰ぎ見る」要素は無くてもかまいません。
中西悟堂などは、「舞へる青鷺」を「ふりさけ見」たことも有ります。
首は上下にだけでは無く、左右にも振ることが出来るからです。
だから、船上から壱岐島(天の原)を「ふりさけ見る」ことも文法的には可能でしょう。
しかし、後世のほとんど人は「天の原」と「三笠山」を一枚のフレームに収める解釈は、
しません。それは「出でし月」が、文法上は、回想の中の「月」を示すからです。
余談ですが、私は「天の原・・・」の本歌の方の作者も貫之ではないかと考えています。
878 :
九州王朝大好き:03/04/13 18:15
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」
倭国の故郷の地壱岐天の原、壱岐の北部海上で、中国へ向かう船上から、
倭国と故郷に別れをつげようと振り返ると、故郷の三笠山の上に月が出ていた。
あれが最後に見た生まれ故郷の景色だなあ。
これほど写実的な臨場感のある回想はないでしょう。
7世紀までは、アマから連想する言葉は「阿毎」倭国の王の姓であり、
倭(ヰ)国の古い名前を表す象徴的な言葉「アマ」。
アマテル神(天照神)・アマ神(天神)・アマの原(天の原)etc.
879 :
日本@名無史さん:03/04/13 18:24
>>878 しかも、天宝12年11月15日の夜、遣唐使船上で帰国を待っていた時に詠じた歌ですから、
もうすぐ33年ぶりに見えるであろう祖国。ふるいつきたくなるような、気持ちだったでしょう。
最後の「かも」まで、ちゃんと訳してくださいな。
ところで、阿倍仲麻呂って何時の時代の人だと思ってるんだ?
新羅との関係が悪化した後で、北回りルートは取れないだろ。
882 :
日本@名無史さん:03/04/13 18:53
753年11月15日蘇州を出航した。沖縄経由で、北回りではないでしょう。
このあと仲麻呂の船はベトナムに流されてしまう。
いや、あの、行きに壱岐は通らんということなんだが・・・・・・・
884 :
日本@名無史さん:03/04/13 22:02
誰か行きの経路がわかる人〜!
>>884 717年は、五島−長江の「直行コース」なんですが、判りやすい資料は提示できない。
886 :
九州王朝大好き:03/04/13 23:34
>>884 安部仲麻呂は717年に南回りで長安に行きました。
ですから、壱岐を通ることはありません。
この歌を安部仲麻呂が詠んだとすること自体が間違いでしょう。
この歌は6〜7世紀の九州王朝の遣隋使又は遣唐使が詠んだ古歌と思えます。
887 :
九州王朝大好き:03/04/13 23:49
安部仲麻呂は第8次遣唐使(近畿王朝で言う)で行きましたから、716年出発の南回りですね。
誰か否定できる資料を提示できませんか?
888 :
日本@名無史さん:03/04/14 00:56
「倭国王」と「倭王」ってどう違うの?
889 :
日本@名無史さん:03/04/14 00:57
>>878 「天の原」を「ふりさけ見」た時と「三笠山」に月が「出でし」時では、時制が異いますよ。
891 :
日本@名無史さん:03/04/14 04:20
遣唐使は宗像大社に安全祈願したそうだが、果たして沖津宮・中津宮まで行ったかどうか。
892 :
日本@名無史さん:03/04/14 04:33
カラの腹 フリカケ見れば ガスが鳴る ミカンの山に 出でしはヨダレかも
893 :
九州王朝大好き:03/04/14 05:33
>>890 「天の原」から「ふりさけ見」た時と「三笠山」に月が「出でし」時では、時制が同じですよ。
>>889 http://www.kagoshimakenjinkai.ne.jp/motto/b/bounotsu.htm 上記(2)(3)のコースでも、壱岐を通りますが?
南コースは大阪湾→紀伊水道→土佐→豊後水道→佐多岬→坊津→唐ではないのですか?
697年以降は九州北部沿岸は九州王朝の敗残軍の水軍が倭寇化して、
近畿王朝の関連者の通行は無理でしょう。
700年の遣唐使はかろうじてまだ北九州ルートで出来たかもしれませんが、
705〜6年頃から近畿王朝は陸上では九州王朝の残党狩をしていますから、
海上では九州王朝の残党が海賊化していたはずで、遣唐使の通行は無理です。
安部仲麻呂は太平洋ルートで唐へ行ったものと見ます。
唐から日本の太平洋岸に帰るのは、対馬海流で北部九州に流されるか、
黒潮で太平洋に流されるかで、薩摩にたどり着くのはかなり困難です。
894 :
九州王朝大好き:03/04/14 06:11
>>893の続き。
近畿王朝遣唐使にとって、親近畿王朝の薩摩坊津は安全な海域ですが、
少し北側の天草長崎近辺は九州王朝残党海賊の海域となり危険極まりありません。
>上記(2)(3)のコースでも、壱岐を通りますが?
みえみえのうそ
まあ、少なくとも『上記(2)(3)のコース』ならば、
『最後に見た故郷は、東南東方向の春日地方の三笠の山に月が昇る景色』ではないことだけはたしかだわな。
897 :
日本@名無史さん:03/04/14 12:20
898 :
九州王朝大好き:03/04/14 12:52
899 :
日本@名無史さん:03/04/14 13:04
900 :
九州王朝大好き:03/04/14 13:16
>>899 仲麻呂が宗像大社に参拝した事実であれば、仲麻呂の遣唐使団は九州北回りでしょう。
901 :
日本@名無史さん:03/04/14 16:11
言葉の解釈からみても、
「ふりさけ見る」対象は何かが問題だと思います。もし「天の原」だととれば、
前後の時制が異なるので、そこで「起承転結の転」の意を出さねばなりません。
ところが「ふりさけ見れば」の余韻は転じることなく続いたまま、「月」で終わってしまいます。
時制が異なる橋渡しとして、「同じ月」「覚ゆ」「偲ぶ」とかなんとか言わないと、
表現不足に思いませんか。
やはり「天の原」は「ふりさけ見」た場所とであり、
時制は単一と考えないと意の尽きていない歌になってしまいます。
場面設定(天の原)→絞込み(春日)→絞込み(三笠の山)→絞込み(月)という強い構造と
詠み手のたったひとつの行動「ふりさけ見る」に込められた万感の思いが崩れます。
仲麻呂が玄宗に愛された理由のひとつは、その文学的才能にあるでしょう。
名歌を作れる人だと思います。
>>898 ふぉ、ふぉ、ふぉ・・・
『上記(2)(3)のコース』ならば、 最後に見たのは五島か坊津あたりのの景色じゃろうて。
904 :
日本@名無史さん:03/04/14 20:59
905 :
日本@名無史さん:03/04/14 21:03
あまのはら ふるさけ飲めとせめられて 薬で時宗子をおろすなり
906 :
日本@名無史さん:03/04/14 21:05
9
>>901 「見れば」(現在)と「出でし」(過去)
仰首遥望した時と三笠山に出現した時では時制が違うと言う話です。
時制が違えば「月」も二つ。過去の月と現在の月です。
アナタが感じる語句の余韻の話ではありません。
それと、文末の「かも」は何故無視されるのですか?
最後の最後で「三笠山に出だ月か?」とは訳すわけにはいかないからでしょうかね(w
908 :
日本@名無史さん:03/04/14 21:59
>>907 こだわりますね、「かも」の一般的な意味「感嘆」でいいでしょう。
「現在の月」が表現できていないのに、「二つの月」は無理。
貴説だと、歌の美しさが損なわれると思います。
909 :
日本@名無史さん:03/04/14 22:13
★一重★目が細いか小さい★目頭がほとんど無い★ツリ目かトガリ目★
★ヨリ目★眉毛がかなり薄い★目と眉毛の間が広い★ハの字眉★
★肌が茶色い★ヒゲが薄いか生えない(男性限定)★
★歯が大きい、または出っ歯★スネ毛など体毛が薄いかほとんど生えない★
★頬骨が強く張っている★彫りが極端に浅く、起伏に乏しい★
★うりざね型の面長★絶壁頭(過短頭)★
以上のうち4つ以上該当すれば朝鮮
910 :
日本@名無史さん:03/04/14 23:37
おまえら、みんな朝鮮
912 :
日本@名無史さん:03/04/15 11:03
>>911 仲麻呂の故郷は「五島か坊津」と断言する?
913 :
九州王朝大好き:03/04/16 00:14
仲麻呂の故郷は奈良。
698年又は701年に生まれた。2説あり。
他人の受け売り根拠なし。
古田受け売り根拠なし。
915 :
九州王朝大好き:03/04/17 01:11
なるほど。
古田受け売り根拠なし。
安本受け売り根拠なし。
究極は、
教科書受け売り根拠なし。
学会受け売り根拠なし。
みんな妄言
ちょっと脱線なんすけど、
先日、考古学者の森浩一さんの本を読んでいて面白いなと思ったので書き込みします。
森浩一さんって、太伯皇祖説を支持しているわけではないんですけど、
倭人伝に出てくる九州の倭人を呉越と結びつけてるんですよね。
だから、太伯皇祖説について結構詳しく書いてたんですけど、
そこで江戸の国学者たちの話が出てくる。
勿論、国学者ですから太伯皇祖説なんかを頭から否定してるわけです。
でも、本居宣長なんかは魏志倭人伝に出てくる倭人は、
大和ではなく、クマソだとしてるんですね。
そう言った発想は、今日の古田氏の九州王朝論に繋がる発想だとして解説してたんですよね。
国学者が太伯皇祖説を否定するために、倭人伝の中の倭人をクマソだとしたことは、
とても興味深い。
江戸時代に倭人伝に出てくる九州の倭人を南方系の中国人と認識する風潮があったことは驚きでした。
(^^)
919 :
日本@名無史さん:03/04/17 13:36
>>917 「倭寇」は日本人が関与していない、って主張してたからかも?
挙げ
921 :
九州王朝大好き:03/04/18 20:50
揚げ
.
>917
だから、中国はハヤト系の特定の地域に拘ってるんだろ。
ぬるぽ来るなよ
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
308 :日本@名無史さん :03/04/10 23:10
邪馬台国が近畿にありこれが弥生人系の国で、後に南九州日向肥後を基盤とする
縄文人系の狗奴国に滅ぼされたと考えれば天孫降臨伝説も天皇の東征神話もすべて
説明がつく。
ついでに今の日本人のDNAが近畿人が最も韓国人に近く、九州人はむしろ
インドネシア人のDNAに近いことまで説明がつく。
これってどうよ?なんかなっとくしたげな
928 :
にゃんちゅー:03/04/20 03:15
薩長同盟の様に、南九州狗奴国が出雲などと力を合わせれば、
近畿邪馬台国を滅ぼす事も可能なのではないかと思うけど、
南九州狗奴国が単独で近畿邪馬台国を滅ぼすのは、物量の差
などから考えて、たぶん無理だと僕は思うよ。
929 :
日本@名無史さん:03/04/22 11:12
たしか司馬も東征神話を史実にちかいものとしてとらえてたよ
930 :
にゃんちゅー:03/04/22 17:15
神武の東征が有ったとすれば、卑弥呼の時代よりも
ずっと昔の事なんじゃないかな。
931 :
日本@名無史さん:03/04/22 20:03
賛成1票
932 :
九州王朝大好き:03/04/22 20:49
反対1票
神武の東征は4世紀でしゅ。
↑理由ぜんぜん無し
934 :
九州王朝大好き:03/04/22 21:11
↑理由は“九州王朝大好き”スレをどうぞ。来て見てね。
935 :
にゃんちゅー:03/04/23 15:40
九州をほぼ統一した島津氏だって秀吉に簡単に負けた訳だし。
大陸から大量の援軍でも来ない限り、九州勢力が本州勢力に戦って
勝てるとは到底思えません。もし、九州勢が本州に侵攻したとしても、
先ず出雲や吉備と戦わなくてはいけない訳で、でも出雲と吉備だって
そう簡単には負けないだろうから、その間に近畿などから援軍がぞく
ぞくとやってきて、九州勢はやっつけられてしまう。この時期に大陸
から大量の援軍なんか送れる筈が無いし。東征なんか無理なんじゃな
いかと僕は思うよ。
近畿が発達してたときはね。
だいぶ昔は、中国という国がかなり発達しててその恩恵を受けとても九州は文明進んで
いたの。 しってる?にゃんちゅー さん。
東征は、10人前後ではできません。むしろ移住だろ。
937 :
にゃんちゅー:03/04/23 17:42
いくら九州が文明的に発達していたとしても、
九州人と本州人が、人と猿ほどの差がある訳
でも無いだろうし、本州だって半島との交易
を通じてそれなりには発達していたと思うし、
戦争になれば、九州と本州じゃ物量的に見れ
ば圧倒的に本州の方が勝ってて断然有利だと
思うよ。
938 :
日本@名無史さん:03/04/24 13:28
939 :
にゃんちゅー:03/04/24 16:30
播磨にだって3〜4世紀頃から造られた前方後円墳が有るじゃんか。
だから、播磨国が大和国に従属していた事は間違いないと思うよ。
つーか、前方後円墳は播磨発祥の可能性が高い。
941 :
にゃんちゅー:03/04/24 18:57
だからと言って、6世紀末に播磨が大和に従属して
いなかった、と言う事にはならない。
だからと言って、3〜4世紀頃から播磨が大和に従属して いたことにもならない。
出す資料間違えたね。
943 :
にゃんちゅー:03/04/24 19:44
じゃあ、銅鐸は大和を中心として分布してるじゃんか。
播磨にも沢山有るし、これは、その頃に播磨国が大和国
に従属していたか友好関係に有ったと言う何よりの証拠
じゃないですか。
944 :
日本@名無史さん:03/04/24 19:50
最近渋谷で、讃岐うどんが人気だ。
渋谷区は香川県の属国になったに違いない。
>じゃあ、銅鐸は大和を中心として分布してるじゃんか。
あ。これよくある誤解。実は後期の銅鐸は大和にはほとんどないのだ。
>播磨にも沢山有るし、これは、その頃に播磨国が大和国
これもちゃう。ふるい鋳型の出土はあるけど、意外と播磨からは銅鐸は出てないんだ。
ちゃんと確認してみ。
946 :
にゃんちゅー:03/04/24 21:19
他の地域と比べると、大和には大型の遺跡や前方後円墳が
沢山有るじゃんか。この事から、大和には他の地域よりも
凄く沢山の人が住んでいたと言う事が解る。沢山の人を養
うには沢山の食べ物が無くてはいけません。沢山の食べ物
を集めるには、従属している地方の国々から食べ物を沢山
集めなければいけない訳で。あれだけの大きな遺跡や古墳
を作れる大勢力が、至近距離にある播磨を従属させていな
いハズがないじゃないですか。と僕は思うよ。
947 :
日本@名無史さん:03/04/24 21:31
わざわざ属国の文化を取り入れるハズがないじゃないですか。と僕は思うよ。
948 :
にゃんちゅー:03/04/24 21:38
国の発展の為に優れた文化を取り入れるのは、
当たり前の事じゃないですか。
949 :
日本@名無史さん:03/04/24 22:31
日本の古代は、今のような国家観をもった国じゃないと思うよ。
地域の王がいて、それを束ねる大王がいたというような
小さな国が集まった封建社会じゃないかな。
だから属国とかそういう支配ではなくて、大王にどんな利益をもたらすか?
その見返りに中央でどれだけ発言できるか?というような関係じゃないかな。
だから播磨に優れた文化があれば、大和が真似ることもあるしその逆もある。
私個人的には、九州王朝の東征はあったと思う。
大和の大王支配と同じ仕組みが九州にもあった。
その東征した大王は伝説では神武天皇だけど、実際には応神天皇もしくは
仁徳天皇じゃないかな?
情報伝達が遅い古代、地方の王の知らない間に、大王が摩り替わったなんて
ことがあってもおかしくないと思うし。
結局のところ、
証拠なんかいらない。
ヤマトはすごいからすごいんですごいんだっていう、
ヤマト中心史観とでもいうものに回帰しちゃったなぁ。
ちょっとがっかり。
951 :
にゃんちゅー:03/04/24 23:35
>>情報伝達が遅い古代、地方の王の知らない間に、大王が摩り替わったなんて
ことがあってもおかしくないと思うし。
九州勢力が出雲や吉備などの勢力を打ち破って、更にそれよりも
強大な大和を滅ぼすのを1週間位で出来れば、そう言う事も有り
得るけど、そんな事は絶対に有り得ないでしょう。少なくとも
数年は掛かるだろうし、それに、何回も言うけど九州と本州じゃ
物量に差が有り過ぎます。いったい1人当たり何人の人を殺さな
ければならない事か。戦いとゆうのは攻めるよりも守る側の方が
断然有利だとも思うし。やっぱり、大陸からでも援軍などの支援
がない限り東征なんか出来っこないよ。
952 :
日本@名無史さん:03/04/25 00:24
もし西南戦争で薩摩軍が豊後に侵攻してさらに瀬戸内海を渡り
大阪を突けば物量において大きく劣る薩摩軍が政府転覆できた
可能性は大きいと言われる(山県談)
邪馬台国の記録が一世紀近く途絶えたことを考えれば
日向あたりを勢力基盤としていた狗奴国が邪馬台国を滅ぼした
と考えるのに無理はないと思う。
953 :
日本@名無史さん:03/04/25 00:26
>それに、何回も言うけど九州と本州じゃ物量に差が有り過ぎます
これの根拠は?
955 :
日本@名無史さん:03/04/25 00:30
考古学的には,九州からの「東征」の証拠は全くありません。
>>952 薩摩軍だけで?
大阪襲撃の混乱に乗じて各地で反政府勢力が決起しなければ
政府転覆まではむりでしょ。
957 :
日本@名無史さん:03/04/25 00:41
>>951 だから古代は今の国家観とは違うんだって。
仲哀天皇記によると、仲哀天皇自ら熊襲征伐に出かけ最前線の長門で、
熊襲にやられ崩御してる。
神功皇后は妊娠したまま新羅征伐に行って、凱旋の途中の壱岐で応神天皇を
出産し、天皇として畿内に帰ってきたのは応神天皇。
しかも大和に入らずに河内に止まる。
これって時間をかけて九州から瀬戸内海沿岸の国々を巡回し、
私が新しい大王だって触れて廻ってかえって来たんじゃないの。
応神天皇は播磨にも行幸してるし。
古代なんて大王への忠誠心なんてないだろうから、激しく戦わなくても
神を名乗って信じてもらえれば、簡単に勢力図が変わったんじゃないかな。
各地に八幡信仰が残ってるようにね。
958 :
日本@名無史さん:03/04/25 00:43
大久保が大阪首都にしてたら大阪襲撃でジ・エンドでしょ
>>957の書き方じゃ誤解があるかもしれないので、
私が言いたいのは、神功皇后は皇統をつなぐための架空の人物で、
「仲哀天皇が熊襲にやられた」というのは、つまり「熊襲が勝った」ってこと。
で、畿内にやって来た新しい大王が応神天皇。
960 :
にゃんちゅー:03/04/25 13:46
>>古代なんて大王への忠誠心なんてないだろうから
そうだろうか?4世紀と言えば、あの三国志の劉備に対して、
関羽、張飛、諸葛孔明などが絶大な忠誠心を持って命を掛け
て戦った時代から、1世紀も後の事です。その時代に大王へ
の忠誠心がまったく無かったなんて、僕は到底思えないです。
>>神を名乗って信じてもらえば
縄文時代なら兎も角、4世紀の人たちは、そんなにアホじゃないと僕は思うよ。
961 :
日本@名無史さん:03/04/25 14:26
>>960 側近と地方豪族は違うんじゃないの?
中国でも側近以外は、「徳」という神に近い状態での従属だし、
「徳」がないと判断されたら、簡単に裏切られるし。
日本でも「神」を持ち出し、加持祈祷や占いの効能・効果で大王と
評価されてた時代じゃないかな。
それにしても歴代の天皇の中で、もっとも多くの神社で
神として崇められてるのが応神天皇ではないかな?
これってやっぱり日本の統治となんらか関係あるのでは?
>関羽、張飛、諸葛孔明などが絶大な忠誠心を持って命を掛け
演義の世界だなぁ・・・・・・・・
963 :
九州王朝大好き:03/04/25 21:06
964 :
日本@名無史さん:03/04/25 23:55
まだやる気なの?
いいかげん妄想の垂れ流しはやめてもらいたいもんだ。
だいたい,もうひとつのスレがあんじゃんか!
仕切るなよ
966 :
にゃんちゅー:03/04/26 08:56
>>「仲哀天皇が熊襲にやられた」というのは、つまり「熊襲が勝った」って
こと。で、畿内にやって来た新しい大王が応神天皇。
と言う事は、応神天皇は戦いに勝った熊襲の王と言う事に
なるんだろうけど、応神天皇の和風諡号には、「別」が付
いています。景行記に「別これ播磨別の始祖なり。・・・
諸国の別と謂えるは、即ちその別王の苗裔なり」と書いて
有りますが、何故、播磨別の後裔である応神天皇が熊襲の
王になってるのですか?僕は不思議でなりません。
967 :
九州王朝大好き:03/04/26 10:32
新スレッド“ ※九州王朝はあったか?※5 ”をやっと作成できました。
969 :
日本@名無史さん:03/04/26 13:44
>>966 >「別これ播磨別の始祖なり。・・・
>諸国の別と謂えるは、即ちその別王の苗裔なり」と書いて有りますが、
>何故、播磨別の後裔である応神天皇・・・
(播磨の)「別」は播磨別(国造)が始祖です。
・・・諸国の「別」は、その諸国の別王(国造)の末裔ですよ。
ということ。
つまり各国それぞれに「別」がいたわけで、応神天皇が播磨別の
末裔というわけではない。
970 :
にゃんちゅー:03/04/26 16:22
なるほどね。
僕の見た辞典に、紛らわしい書き方がして有ったからちょっと
勘違いしてしまったよ。
でも、今では応神天皇って5世紀位の人に比定されてるんじゃ
なかったっけ?
haltu
mu
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
975 :
日本@名無史さん:03/05/23 22:40
あほ
977 :
日本@名無史さん:03/05/27 00:49
つかいきれ
.
979 :
1001迄:03/05/27 10:59
.
980
981 :
日本@名無史さん:03/05/27 14:45
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ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
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