879 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:28
「大宰」とする木簡は多数出土しているので、日本書紀の24ヶ所の「大宰」がみんな実は「太宰」であるという可能性は著しく低いでしょう。
これに対して「大傅」が一ヶ所であれば、こちらの誤写の可能性のほうが大ということで
「太宰→大宰と記していることは大いにありうることである」という「大いに」は「根拠なし」ですね。
あっと、
>>878は最後の方、変な日本語になってしまったかな?
つまり、少なくとも九州王朝の「根拠」はある、ということを、太宰府の用例で
主張したわけです。
「根拠なし」とあくまで主張する人がいるので、ちょっとマジになって調べて
反論しただけです。
881 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:38
そういう屋上屋を重ねた推定は根拠っていわないんじゃないの、普通。
882 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:42
ちょっとこだわるようだけど、
「根拠なし」じゃなくて、「その根拠は弱い」とか、
「その主張を否定するもっと強い根拠がある」という言い方の方がスジが通った
言い方だよね。
>>879 まあ、日本書紀の誤記というだけでなく、近畿天皇家側が「太宰」「太傅」という中国での
用例に詳しくなく、「大宰」「大傅」と記していた可能性も含めてのことなんだけどね。
「大宰率」「大宰帥」という役職は現実にあったわけだから、近畿天皇家による「大宰」の
使用例を否定するわけではないです。
ただ、近畿天皇家が太宰→大宰 という 記述の変更をしたのではないか、ということを
太傅→大傅によって述べたわけです。
ようは「根拠なし」とは言えんだろ、という主張。
884 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:45
あの・・・太宰府市の大宰府天満宮の人はなんて言ってるんでしょうね。
雑誌でたまにこう言った話見ますけど、行って聞いてきたって話、まだ
見たことないんです。九州で、しかも隣の筑紫野市に住んでながら。
個人で聞きにいこうにも聞きにくいですし。。。
885 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:52
ひとつの事実から正反対の2つの推論ができてしまうような場合、さいしょの「ひとつの事実」は2つの結論両方ともの「根拠」ではありえませんよね。
この場合2つの説とも「根拠なし」になるんじゃないですか?
この東宮大傅の例でいうと、もうひとつ逆の説もできる。
「大傅」は1例しかないから写本の誤写で「太傅」が正しい。これは唐王朝の三公である「太傅」の名称が唐でも日本でも三公しか使えないということはないという例である。
つまり南北朝の三公である「太宰」によく似た「大宰」という名前の地方官が日本にあってもなんら不自然ではない。
このように九州王朝説を否定する「根拠」になりました。
この場合アイコで「東宮大傅」はどっちの根拠にもならないとすべきでしょう。
>>884 それはうらやましい環境ですな。関東に住む私としては非常にうらやましい。
菅原道真公の話はたまに読むけど、どうなんでしょうか。私も知りたいです。
「翰苑」の倭国伝が伝えられていたってことだけど、それについても、何も
聞かないしねぇ。
日本では大宰・大師・大傅・大保・大尉・司徒・司空と書く
888 :
日本@名無史さん:03/01/24 00:58
>>883 >近畿天皇家側が「太宰」「太傅」という中国での用例に詳しくなく、「大宰」「大傅」と記していた可能性
をみとめれば、近畿天皇家が
>「太宰」を知っていて「大宰」の創設はありえない
が「根拠なし」になるよね?
>>880 >つまり、少なくとも九州王朝の「根拠」はある、ということを、太宰府の用例で
主張したわけです。
どうしてそれが九州王朝の「根拠」になるの?
>>885 まあ、「誤写」を前提とした推論は根拠としては弱いと思うけど、まあ、それはそうだと
言えますね。
しかし私は
>>870でも述べたように、「大宰」は「大いなる宰」ではないだろう、という
ことにも言及しました。それは近畿天皇家における「宰」の例がはなはだ薄弱であるのに、
「大いなる宰」が存在するのは不自然じゃないか、とするものです。
その上で、「東宮大傅」の例に言及したに過ぎません。
つまり大宰=大いなる宰 でないとする、さらなる可能性をこれによって見いだそう
としたわけです。
この役職は「皇太子の教育係り」というものらしいので、唐の三公の用例ではなく、
南北朝以前の太傅(皇帝の教育係)という意味合いが強いと思います。
(太宰、太傅、太保など南北朝時代以前から使用)
891 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:16
なるほど。
犯行現場に落ちていた凶器がAさんかBさんどちらかのものだという事実が
Aさんが犯人だという根拠にはならないってことだな。
>>888 もしそうなら、邪馬台国以降、倭の五王や、多利思北孤の倭国は、近畿天皇家では
ありえないことになるねぇ。
「太宰」を知らない倭国なんて・・・
893 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:20
南北朝以前から太傅は三公です。
894 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:25
>>890 >近畿天皇家における「宰」の例がはなはだ薄弱であるのに、「大いなる宰」が存在するのは不自然じゃないか
過去レスを見れば「大宰」はオオキミコトモチの訳語として作られたという考えが示されています。
さきに「宰」が存在してその大なるものという順序で主張している人はいないので、反論にも従来説の否定にもなっていないと思います。
>>892 これは典型的な「根拠なし」だな。
倭国ならば「太宰」を知っているはずだというための根拠となる事実が何もない。
>>893 いや、というか、大司馬・大司空・大司徒、あるいは太尉・司空・司徒が三公だった
時代もあるわけで。
その時、「太傅」は三公ではなく「皇帝の教育係」という役職だった。
「東宮大傅」が皇太子の教育係ということなら、この「大傅」はその「皇帝の教育係」
の「太傅」の例に倣ったものだとするのが妥当なわけです。
897 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:32
『三代實録』元慶八年五月廿九日
式部少輔兼文章博士菅原朝臣道眞奏議曰(中略)謹案漢書表云、
相國掌承天子、助理萬機。丞相同之。大尉・大師・大保、皆在其下。
後漢書志云。大傅上公一人、掌以善導、無掌職。大尉・司徒・司空、並在其下。
晋書志云。丞相非常人之職。相國同之。大宰・大傅・大尉・司徒・司空、並在其下。
宋書志云。大宰所以訓導人主、以徳義也。大傅・大保、同之。
就此等文案之、相國・大傅・丞相・大宰等、位冠百寮、掌殊常職(中略)
博士善淵朝臣永貞等奏議曰。一、職掌有否事。尚書周官曰、大師・大傅・大保、茲惟三公、
(中略)唐令云。大師・大傅・大保、右三師、師範一人、儀形四海。大尉・司徒・司空、右三公、
(中略)大内記菅野朝臣惟肖奏議曰。(中略)唐開元令云。
大師・大傅・大保・大尉・司徒・司空、大保以上三師者、師範一人、儀形四海(中略)
五經異義云。周禮説、天子立三公、曰大師・大傅・大保。無官屬、與王同職。(中略)
少外記大藏善行奏議曰(中略)唐開元令云。大師・大傅・大保、右三師、師範一人、儀形四海。
大尉・司徒・司空、右三公、經邦論道(中略)此即尚書周官云。
立大師・大傅・大保。茲惟三公、論道經邦(中略)五經異義云。
周禮説、天子立三公。曰大師・大傅・大保、無官屬、與王同職(後略)
>>894 いや、「オオミコトモチ」だったとしても、「ミコトモチ」の存在があってはじめて
「オオ」付きの役職が出来るわけです。
大宰=オオミコトモチ だったとしたら、宰=ミコトモチ の存在は不可欠。
しかし「宰」という官職は存在しないようですね。
つまり、大宰=オオミコトモチ とする論じたい、根拠がないことになりませんか?
大宰=オオミコトモチ
の解釈の根拠もお願いします。
899 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:38
>>897 その史料からだと、太宰=大宰 という解釈は根拠があることになりますね。
900 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:48
901 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:50
902 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:00
>>898 律令以前の段階では(もちろん施行後相当後世まで)地方の行政は在地首長を取り込むかたちで形成されています。
流官というもの自体が珍しいのですから「宰」という地方官はほとんど存在しないと考えるのが自然と思います。
ただ相当の要衝数ヶ所にだけ大宰・総領が配されている状況が律令以前として相応と思います。
903 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:05
>>896 南北朝期には三公の太傅と太子太傅の両方があります。
904 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:07
じゃ、私は寝ますが、なんでそれが九州王朝の根拠になると考えるのか理路を示しておいてください。
よろしく。
905 :
日本@名無史さん:03/01/24 09:04
>>898 >大宰=オオミコトモチ だったとしたら、宰=ミコトモチ の存在は不可欠。
しかし「宰」という官職は存在しないようですね。
ちょっとまってよ。以前にも似たような書き込みがあったと思うけど、
この考えでいくと、
・オオミコトモチ、もしくはミコトモチという職の存在
と
・その職に「大宰」「宰」という漢字を充てること
を、無意識のうちに同じことだと考えることになるよ。
『紀』では
「国司」をクニノミコトモチ、
「任那日本府」をミマナノヤマトノミコトモチ
と訓じている例がある。
したがって、ミコトモチは倭語であって、後に「宰」という字を当てたという
可能性が高いのではなかろうか。
それと、以前に
・『紀』での「大宰」は推古紀以降から見られる
って話がありましたけど、これも要注意でしょ。
『紀』にみえる官職名は、後世(『紀』編纂時)の官職名に
置き換えられている可能性が指摘されているよ。
(岩波日本古典文学大系本『紀』の註)
これらのことから、九州における「大宰」の存在は、
律令制定時の8世紀初頭を遡らないのではないかと思うんだが。
スマソ。
誤解を与える部分があった>したがって、ミコトモチは倭語であって、後に「宰」という字を当てたという
の部分は
>>したがって、ミコトモチは倭語であって、後に「宰」「府」「司」という字を当てたという
に変更ね。
よろしく。
「根拠」というから問題を起こしているので
「あったかもしれないと考えてみたくなる要素」
とか言い換えてみればよいのでは?
908 :
にゃんちゅー:03/01/24 12:43
「宰」という職は無いけど「国宰」という職はあるみたいです。
官制大観のページには国宰(くにのみこともち)は、国司と書く
事もあり大宝令以降の国司とは職掌が異なると書いてあります。
「針間宰」とは「針間国宰」の略なのではないでしょうか。
909 :
九州王朝大好き:03/01/24 13:32
>>862の質問に絡む論議ありがとうございます。
>>862の質問に
>>863氏の疑問が直後に出てきて、862氏にお礼申しあげます。
流れとして1.の意味を問うつもりでしたが、私の気持ちには、2.の意味も少しは含んでいたので、
あいまいな質問になったと思います。
「大宰府」は倭語である可能性についての関連ある議論を皆さんがどの様にされるのかを個人的に知りたかったのです。
「大」はオオイナルとし、「宰」はミコトモチを当てたとする可能性の有無です。
可能性があれば、「大宰府」は倭語と考えられる可能性があります。
「県」九州→「郡」近畿→「郡(グン)」後世 の例も、
「大宰府」九州→「大宰府」近畿→「太宰府」後世 と考えられる参考となると思います。
九州・近畿・後世の後書きは趣旨を理解しやすくする為のものですから、気にしないで下さい。
910 :
世直し一揆:03/01/24 13:45
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉する(しかも好戦的・ファイト満々でキモイ、自己中心)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとす
る(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際には
たいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者に弱く
、弱い者には強い)
●あら探しだけは名人級(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●一人では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「世間体命」、「〜みたい
」とよく言う)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は
個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をし、ストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あいつの足を引っ張ってやる!!)」)
911 :
日本@名無史さん:03/01/24 13:47
きくち城ってどうですか?
大宰府の後方の城として行政を担ったそうですが。
あとあの周辺古墳多すぎ。
912 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:12
>>909 九州・近畿・後世の後書きは趣旨を理解しやすくする為のものですから、気にしないで下さい。
て,この部分以外を見ただけでも,「九州王朝は存在した」ってのが前提になってるのがミエミエ。
どうせ「九州王朝大好き」にマジレスつけても無視されるだけだしな。
自分が質問を振るより前に,過去の質問に「根拠」を添えて回答したらどうなんだい?
『日本書紀』敏達天皇六年(五七七)五月五日条
遣大別王與小黒吉士、宰於百濟國〈王人奉命爲使三韓、自稱爲宰。
言宰於韓、盖古之典乎、如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。〉
要するに天皇によって使わされて、ある地域や団体(「海人之宰」など)を
統轄してるってこったね、宰ってのは。
どうでもいいけど、評→郡だね。
915 :
九州王朝大好き:03/01/25 03:52
どちらかと言えば九州シンパだけど
↑のページはひどすぎるね。
東福寺・三十三間堂・源氏物語‥‥
いったいどんな人生送ればこうなるんだろう‥
917 :
日本@名無しさん:03/01/25 08:13
前二者についてはそこまでいうのもどうかとおもうが。流石に源氏物語はどうかと思うが。
918 :
日本@名無史さん:03/01/25 08:30
三十三間堂だってひどいよ。九州説を辱める悪質ジョークじゃないのか?
919 :
九州王朝大好き:03/01/25 10:54
類友
921 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:17
それよりも桂離宮にびっくらこきました。
江戸時代初期の建築であることは はっきりしてるのに。
922 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:42
>>917 東福寺と三十三間堂は、九州倭国の建物の移築の可能性がある。
>>918 東福寺は、九州倭国の建物の移築の可能性がある。
これが九州王朝の現状をものがたる。
ちなみに、
三十三間堂 1164年に後白河院の勅により平清盛が建立。火災により消失し1266年に再建。
東福寺 1236〜1255の19年をかけて完成するが、14世紀にほとんどを消失。
現存するものの大半は室町後半〜江戸初期にかけての建物。
http://www.tofukuji.jp/kenzo.html
923 :
日本@名無史さん:03/01/25 12:52
鞠智城(であっていると思う)ってぜんぜん話題に上らないね。
あんまり知名度ないのかな?
924 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:06
つーか
みんなが話してる九州王朝が存在した年代はいつなのよ?
西暦100年から500年 とかで示してくれよ。
925 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:11
白村江で大打撃くらって、遠からず亡んだんじゃないの?
他にあるのか?
926 :
日本@名無史さん:03/01/25 13:12
また立てるのか・・・
Part1〜Part3をぐるぐると繰り返し読んでても同じことだと小一時間(以下略