2 :
世界@名無史さん:02/07/30 15:13
新スレおめでとうございます。
総合的なスレですか。よいですな。多くの方の書き込みがあり、良スレになる
ことを期待しております。
4 :
世界@名無史さん:02/07/30 15:21
======2==C==H======================================================
2ちゃんねるのお勧めな話題と
ネットでの面白い出来事を配送したいと思ってます。。。
===============================読者数:120141人 発行日:2002/07/25
どもどもー、ロスタイムに身悶える、とっても苦しいひろゆきですー。。。
昨年5月、珍走団に「文句があったらいつでも来い!バーカ!バーカ!」といいつつ、本当に来られたら、土下座をしてしまったおいらですが、実は他にもあるですよー。恥ずかしい話は、、、うぅうぅ
昨年6月のことですが、おいらに批判的なチョンに「ボコる」「焼き入れる」「殺す」と慣れないセリフを使って一生懸命脅してみたですけど、チョンってば全然ビビッってくれないで「相手になってやる!」なんて言うですよー、、、うぅうぅ
おいらってば焦って必死に逃げ回って激ヤセしちゃったですよー、、、うぅうぅ
“歴史は繰り返す”といいますが“おいらの歴史”も繰り返しまくりですよー、、、うぅうぅ
皆さんご存知のとおり、おいらってばネットや電話では結構勇敢なんですが、どうも面と向かってしまうとすっかりドテチンになっちゃうみたいなんですよー、、、うぅうぅ
でも今はなんとか気を取り直してチョンに反撃をはじめたですよー、、、えっへん
イタズラ電話やウィルス爆弾とか家族への嫌がらせとか色々やってますですー。。。
ところで、おいらの病的な臆病さの原因は「腕力に自信がないから」だけではないんですー、、、
それはそれは、、本当に、、本当に、、根深い問題があるんですよー、、、うぅうぅうぅ
臆病さだけではありません。決断力のなさも笑われ始めてます、、、うぅうぅ
元削除人の皆さん!あんまりおいらの秘密言いふらすのやめてよー、、、うぅうぅ
んじゃ!
>>1 ありゃ?
新スレたったんですね、、、あのー新スレの初めからこんな事を
聞くのは恥ずかしいんですが・・・諸子百家って有名な所を教えて
下さい。
性悪説とか言うあれですか?
>>1 新スレ立て、お疲れさまです。
前スレは、内容が濃い、との評判を頂いておりましたが、
今回もそうなりたいものです。
>>5 諸子百家は、春秋戦国期の、あまたの思想家のことですね。
最も有名で、我が国にも後に大きな影響を与えたのが「儒家」でしょう。
孔子を祖とする思想集団ですな。
後、このスレにも降臨しておられる李耳=太上老君=老子の教えが、後に
民間信仰と混ざった「道家」、秦の統一に思想的に大いに貢献した「法家」
他に「墨家」「縦横家」など、多数あります。
「性悪説」は筍子でしたっけ?
まあ、これらの思想家の一人が立てた説です。
いろんな人がいますからね。「白馬は馬じゃない」なんて考え方を
呈示した思想家もいるんですよ。
法家って前スレにも出てましたね、もう一度もどって読んできます。
本当に百なんでしょうか??下らない問いかけなので、特にご返答は
いりません。
>>7 「百」=「たくさん」でしょう(w
何せ「白髪三千丈」の世界ですから…
>>1 新スレ、お疲れ様です。
とりあえず、いちおう前スレにおいて消化不良となった論題…
前スレ912氏の提起した中では
・「三晋の祖…六卿時代…四卿時代…晋分裂…に至る過程と勢力状況
各卿の支配地域の変遷、家格の相互的変位」
・「秦の力の源泉、人材交流、経済面」
・「諸侯改革の指向性およびif論」
伯約氏からの
・「西周末期-鄭の桓公・友の遷都と再建国に対する整合性と疑問点および
鄭武公・掘突の戦略・戦術面における検証ならびに文献の探索・紹介」
前スレ789、947両氏より
・「諸子百家」
…おおまかには、このあたり。
ざっと前スレ見てきました・・・
なんか、法家=蓁みたいな感じを受けました・・・国が伸長(どっちかと
いうと軍事力?)するのに適した考え方のような気がします。
んで、儒家というとどーなんでしょ・・・平穏無事な時代に適した考えと
いった感じでしょうか。
142子に質問なんですが…
姜子の提供された情報「野本の古本屋」で「戦国策」を検索すると、一番希望の
明治書院版は出て来なかったものの、142子が前スレで以前ご紹介下された
明徳出版のものと、平凡社東洋文庫のものが主な候補として出て参りました。
値段的には、どちらもしがないリーマンの手の届く範囲内(3〜5千円)です。
さて、どちらを推されますか?
>>10 法家は法律により、国を運営し富国強兵をする。国家の利益のため法を作
るから民は不満を持つことが多く、その不満をまた法で取り締まるという
悪循環から不満は貯まるに貯まる。それが爆発したのが秦の崩壊した直接
の原因(根本的な要因はまだあるが)。別に秦だけじゃなく、管仲も法家に
入れる人もいます。李克や子産も法を作ったので法家的な側面があったと
思う。子産は人民の不満を学校らしきもので解消させていたようなのですが。
儒家は徳や礼などのモラルにより国を治める。だから、国民の中に不満は
たまりにくいが、為政者の質により国のあり方が左右されやすい。はじめの
孔子は周の制度の礼賛者であり、孟子もその傾向をもち過去の名君に習い
政治を行い国を動かしていこうとしている。また、論語などを見ると個人の
人格の完成を求めているように思える。
平穏な時代に適しているかどうかについては儒家は僭越を嫌い今の身分を逸脱
しないという傾向があるので反乱や下克上をもっとも嫌う。故に適していると
言えなくは無い。しかし、前スレでもあったが、新進気鋭の人材は生まれず、
停滞に陥ることも多い。
以上、政治と法家、儒家について雑感。門外漢なのでこの程度しか書けません。
最近は良書も多いので、興味があったら本屋さんへどうぞ。儒家なら白川静の
「孔子伝」が新たな孔子像を提示していて面白いです。
>>10 浅い知識ながら追加を…
>>12で姜子が「反乱や下克上をもっとも嫌う。」と書かれていますが、
そこを為政者は利用した訳ですよ。上に立つ者にとって、体制の安定
こそが望ましい姿ですから。
で、我が国の戦国時代以前には、馬鹿な主君なら見限って平気で他所へ
乗り換えるという、比較的「自由」な社会だったのに、江戸幕府は体制
安定のためにその思想を利用し、よって「武士道とは死ぬことと…」と
いうような窮屈な社会になったんですね。
鎖国時代が約250年、その後開国して約130年、過去の遺産というのは
大きなもので、今の日本にもこの思想が、良きにつけ、悪しきにつけ
尾を引いてる訳です。
>>12>>13 有難うございました。
そうなると呉起も法家模様ですね・・・夏休みで時間もあるし本屋巡り
します。
15 :
世界@名無史さん:02/07/31 08:38
前スレの最後に質問した者です。
徳間書店の中国の思想シリーズを購入しました。
これから、読書始めます。
>>11 返答が遅れてもうしわけないものの、読みやすさを優先なれば、明徳出版の
方が良いかも。
ただし、この類の書をもとめる場合、多少は高価でも納得のいく方を選ぶべき
かと。
少なからず物足りなさを覚える時が来ないとも限らないので。
17 :
世界@名無史さん:02/07/31 10:22
覆水盆にかえらず、、、判りやすくも深いねぇ・・・・・・・・・・・
−スレ違い?−
18 :
聞き忘れました、:02/07/31 10:27
潰走とか破竹ってこの時代に出来た言葉ってホントなの?
>>18 「破竹(の勢い)」というと、三国時代、杜預の呉国遠征の過程で生まれた
ような憶えがあるが…。
それはそうと、杜預といえば「左伝癖」の方が有名なような。
>>15 私も厨房の頃、徳間の「史記」「戦国策」「孫子・呉子」を読みましたよ。
抄訳ですが、訳文の後ろに白文もついていて、入門には悪くないと思います。
そこで気に入った部分について、深めて行かれたら良いでしょう。その際には
このスレで質問されたら、親切な人が多数いるので参考になるでしょう。
私も、142子その他の方にいろいろ教えていただいています。
>>16 早速のご回答、有り難うございます。
うーん、どうしようか、というところですね。
とりあえず、明治書院から新しく出た「新書漢文大系」@1,000円に
目をとおしておいて、お金が貯まったら同社の「新釈漢文大系」に
すすむ、という手もありますが…
なお、「新書−」は「新釈−」のダイジェスト版ですが、「孫子・呉子」に
ついては新資料をもとに書き換えられているようです。
>>17 春秋 戦国スレですから、時代がちょっと違いますね。
「覆水盆にかえらず」は太公望の故事ですから…
21 :
世界@名無史さん:02/07/31 16:20
今日、本を買って来るのでage
前スレからのご縁で参加致します。 宜しく御願いします。
ただ前スレより更に学問的な展開についていけれるかどうか不安ですが
タイミングを見て参画させていただきます。 今は”見物”致します。
このレベルではちょっとついていけないので。。。。。
この時代で西欧諸国にも影響を与えた思想は孫子だとおもう。
24 :
世界@名無史さん:02/07/31 17:39
>>23 思想というより・・・軍略って感じでしょうか?
>>22 李老師、気軽に逝きましょうよ。
私だって参加できてるんだし、このスレの人って、間違えても
罵ったりしないで、さりげなく訂正してくれるし。
26 :
前スレ912:02/07/31 18:24
>>1 また142さん他
新しいスレッドでも個々の話題で盛り上がったら良いですね!
>142さん
論点再整理にm(__)m感謝です!
さて、
>>9で142子が問題の整理をして下さっているのを放置しては
申し訳ないので…
スレ主殿、どのテーマから参りましょうか?
28 :
世界@名無史さん:02/07/31 18:44
>>27 同意。「諸子百家」といえば、
たとえば墨家については高校でも習うんですよね。
法家もそう。
法といえば、沛公が咸陽に入ったときの有名な話に、法を大胆に“リストラ”して民を労った、というのがあります。
秦の法治の様子を端的に示した、興味深い挿話ではないかと思います。秦における法家の影響は実際どのようなものだったのか、興味深いです。
取あえず、前スレで
>>912さんが提起された下記内容を検討という
処で如何でしょう。
「蓁の源泉、人材交流、経済面」or「諸侯改革の指向性及びif論」
>>28 「法家」といえば、「諸子百家」のテーマにもなりますが、むしろ
「秦の力の源泉、人材交流、経済面」の、「秦の力の源泉」の面も
強いと思われます。
ま、秦の場合は、人材交流というよりも、人材吸収ですが(w
脇道にそれますが…
今、世界の多くの国も基本的には「法家」をベースにしている、とも
いえるのではないでしょうか。
西欧史にはほとんど馴染みがないのですが、この「法家」に相当する
ような思想が、同時代のギリシャ、ローマにもあったのでしょうか?
法家って刑学に通じているものが有りますしね・・・これは独り言ですが
性悪説を彷彿とさせます。
「秦の力の源泉、人材交流、経済面」と「諸侯改革の指向性およびif論」は
対で考えることができますね。
>>30でも書きましたが、秦の力の源泉ほ人材の吸収にあると思います。
一方、諸侯では、呉起がいた魏または楚に、改革のチャンスがあったのでは
ないでしょうか?ただ、彼の思想を定着しきれなかったがために、魏は戦国
初期の優越性を維持できず、楚は古い国体を改革できなかったのでしょう。
一方、秦は「よそ者」をうまく活用したがために隆盛したといえるのでは?
>>32 指導者層の資質に依るところが大きいですね。
改革は既得権者にとって不利な方向に向かう可能性が大きい
ですから。
今で言う、官僚制が完全に出来てしまうと、生半可な事では
改革は不可能でしょう・・・まるで今の日本(笑)
その点、蓁はどうだったんでしょうね?
国体を構築途中でタイミングよく改革思想が入り込んで来た
様に思えるんですが。
書き込める時間範囲が限られているので、まずは…
>>26(912氏)
もうしわけないことに、かなり時間がかかりそうです。
300年ほどあるわけで…。
>>27(田氏)
>>28>>29(スレ主)
提案の決議・採用、感謝します。
法家といえば、申不害や呉起、李悝、時代が遡るものの管仲と、秦以外にも
法家思想を(濃度は異なれど)取り入れて、一時的にしろ強盛を誇った国家も
存在する。
秦一国に捉われずに、広い見地で(決して排他的とならずに)語れればよいかと。
>>34 確かに、管仲など、その色合いが強いですな。
それと、前スレでしばし話題に上った子産も、法家に通じるものが
ありますね。子産の場合は、厳罰主義で法違反を防ごうという、
徳+法家という感じもありますが…
ただ、法家による支配は、一種の愚民政策に通じるものがあるようで、
結局秦からは「諸子百家」の一方の旗頭、というような思想家は出現
しなかったですね。
36 :
世界@名無史さん:02/08/01 17:48
秦は今のアメリカみたいに、国内の教育水準は必ずしも高いわけではなく
他国の人材を上手く引き抜いて、国力を高めてってるよね。
まあ、その結果国を外国人に乗っ取られたわけで・・・。
李斯の政策は結構、過小評価されるよね。
何でだろ?
韓非子からパクったとかってのは俗説じゃないの?
37 :
世界@名無史さん:02/08/01 18:19
>>36 言語は良く通じましたね。
特に秦⇔楚間とか。
38 :
世界@名無史さん:02/08/01 18:33
>36さん
李斯と韓非子では、政治家としてみれば李斯が上でしょう
但し思想家、戦略家としてみれば比較の対象外と思います。
断然韓非子の方が上であると思います。
>>37 そうですよね。
今でも言葉が通じないみたいなのに、当時通じたとは思えませんな。
通訳っていたんでしょうね。
>>40 正確な資料をベースにレスしてるわけじゃないです。
ただ、我が国でも、薩摩と津軽じゃまったく言葉が通じないのですから、
あの広大な中国のことだし、それにそもそも異姓の国=異民族なんて
こともあるでしょうから、通じない、と考えた方が却って自然では?
と思う次第です。
確か前スレで、どなたかが触れられていたような気がしますが…
42 :
世界@名無史さん:02/08/03 12:07
斉語が独特だったってのは有名ですな。
論題の難易度が(自分には)高いせいか、レスが伸び悩んでいる模様…。
>>31スレ主
なんであれば、検討内容の変更もやむなしかと。
ただ、桃山期には津軽と薩摩の大名は茶の湯の言葉を用いて意思疎通をした
というし、中世ヨーロッパでは王宮や教会がラテン語で会話していたんで、
上流階級の人々が一般庶民とは違う言葉を用いて意思疎通していた可能性はあり。
もしかしたら、詩経なんかをやたら引用して会話をしてたのも、自分がネイティ
ブでない言葉で微妙なニュアンスを伝えるのにはそれが一番効率がよかったの
かも。
うへーっ、このスレが、こんなに下がってるの初めて見た。
142子が
>>43でおっしゃっておられるように、ちょいと整理の必要が
あるかも知れませんな。もう少しテーマを整理・簡略化しないと、ごく
一部の専門家しか話について逝けない(w
「秦の力の源泉、人材交流、経済面」の中でも、以前のレスで私が書いた
「人材の吸収」について触れませんか?
この国は早くから「統一」思想があったみたいだけど、やはりそれを実現に
向けて動き出させたのは「商君の変法」だと思いますが、皆さんいかが
思われますか?
>>142 はい・・・難易度が高すぎますね。
私なんぞでは、とてもレス付けられません、、、ここはテーマの
中にある、蓁を議題の中心に致しましょう。
まずは、蓁が統一を成し得た素地・・・人材活用面辺りから行き
ましょう。
話が秦の人材活用からズレて、申し訳ありませんが…
先週の金曜日、会社帰りに家の近所の古本屋へ行ったら、前スレの
>>837で
姜子が書いておられた平凡社「中国古典文学大系」がぞろっと揃っていて、
とりあえず「戦国策・国語(抄)・論衡(抄)」と「資治通鑑選」を各800円で
買ってまいりました。ラッキー!
あと「論語」やら「孫子」やら「韓非子」やらがあったので、次回購入予定です。
灯台下暗し…とはこのことかと。
明治書院版が安くで手にはいれば、一番いいんですけどね。ま、自分の
力を考えれば、白文を読める訳じゃないので、これでとりあえずは善しと
しましょう。
>>47 身勝手な提案にもかかわらず甘受いただけたようで…
>>46>>47 秦の政治や文化、経済面の遅れがいかに甚だしいかといえば、史官を設けた
のが文公13年(前753年)という遅さからも窺える。
先代の襄公から(周の東遷に際しての功で)諸侯として認可されたものの、
西戎との戦いに明け暮れていたのが後進国たる要因ではないか。
ともあれ、文公(前765〜716年)の治世は50年ものながきにわたり、史官や
法(おそらく明文ではない)の整備、戎の討伐と秦の領土基盤の構築など、
後の穆公の時代に至るまでの基礎を確立したのが、この文公の時代らしい。
「統一思想」に関していえば明確ではないにしても精々、昭襄王の時代から
ではないかと思う。
先代の武王が入洛をおこなっていることから、統一国家というよりはむしろ
諸侯の朝献・入貢というかたちの王朝ではないかと。
「人材吸収」は、また。
>>44>>45 並行して論議を進めていただけないものかと。
(スレ主に対して僭越なれど…)
人材活用ですか、、、
商オウ(変換できないので商君とさせて下さい)が蓁へ行った原因
を思うに、前スレでも多く語られていた「氏族制度」によるためと
言えますね、有力者の縁故は、無能でも用いられるし(無能ではな
いが有名無実の趙括)
有能でも前文に当てはまらない人材は敬遠されてしまう。
ガイシュツスマソ。
>>50 「有力者の縁故」…厳密には公族のことでもあるかと。
人材活用に関し、秦の歴史(主に春秋期)をみていくと、あまり公族の勢力が
大きくは感じられない。
穆公の時代、公孫枝(子桑)や公子縶といった公族が有名ではあるものの、
時代を下っていくと、やはり散見できる人物は公族以外の方が多い。
もしかすると中原の諸国と異なり秦は君主の権威が大きく、それゆえ多国の
人物を登用しやすかったのかもしれない。
百里奚や憲叔、由余のみならず、丕鄭や士会なども秦は用いている。
ただし、中原からは辺土の後進国という認識が大きいため、亡命先としては
選ばれないようではあるが。 こちらも既出といえなくも…。
>>50 商・の蓁への売り込みについては、有力者を介してのものであり、蓁にても
氏族重視的な考えは有ったと考えます、、、、確かに中原諸侯よりはやや薄
めで有ろうとは思います。
中原諸侯にあっても他国からの流れ者が重用されている事も多々あり、君主
や宰相の才覚に依る所の方が大きいと感じるが・・・。
ところで、秦で活躍した「他所者」って、どんな人がいましたっけ。
古いところでは百里奚、そして衛鞅、それに張儀、范ショ…
他に活躍した人って、どんな人がいるかな?
56 :
世界@名無史さん:02/08/07 01:09
>>54 李斯忘れちゃイカンでしょ
韓非子もね
秦は何で蛮族扱いされてたんだろうね?
西周がもともとあった地域に、東周建国の功あって領地もらったのに
先祖が殷の臣下だったとかってのは説得力ないしなー
武公や穆公のあたりで一応そういう地位は脱出できたとは思うが
>>54 >>51でも書いたものの、百里奚と憲叔、戎族より由余、晋の丕鄭や士会などが、
重用された他国出身者ではないかと。
士会が河曲の戦いで秦に勝利をもたらしたのは、『春秋左氏伝』にもあるとおり
間違いなく、その際の働きが晋へ復帰する転機となった模様。
他には、白起の没後、軍事面での重鎮となった蒙驁は斉の出身。
范雎の後任となった蔡沢は燕出身。
また、恵文王と武王の時代に活躍し、初代左丞相となり、「四方八里」もの規模を
もち難攻不落の、韓の宜陽を攻略した甘茂は楚の出身。
調べてみると、思ったよりもいるのではないかと。
>>57で書き忘れたものの、閼与で趙奢に敗れた、衛出身の胡陽という
人物もいた憶えが…。
>>56 蛮族扱いされた理由として、混在する多くの戎の勢力圏内に割拠していた
ということと、風俗面での乱れ、ということがあるのではないかと。
もちろん、国体の古さや文化、経済面での遅れもあると思う。
>>56 中原諸国は会盟(この場合は会合と言ったほうがいいかも・・・)に
参加する義務があったのですが、蓁には参加要請もしないし、不参加
でもおとがめは無かったようです。
蓁初期の頃は明らかに
>>59申される戎の混在する「蛮夷」の国と見な
されていたようですが、時代と共に趣きが変わったように感じます。
中原諸国にとって蛮夷とは、蔑みと畏怖が同居した呼称であるとした
書物を読んだ事がありますが、‘成る程!’と感心したことを覚えて
います。
蓁が蛮夷と呼ばれた理由は中原諸国が抱いている「蛮夷への畏怖」と
「蓁の位置、距離」による為と考えます。
秦の法治について、
>>35で愚民政策ってあったのですけれど戦国後期に呂不偉
が市場に呂氏春秋の原本を置いて批判訂正させたというのは有名な話でそのこ
とから類推すると決して秦の知的水準は他国と比べ低い事はなかったと考えられる。
愚民政策というより思想統制に近いものがあったのでは。(呂不偉が宰相の時代は
どちらかというと学問の自由が認められていたが、呂氏春秋には秦の法家に批判
的な内容もある)焚書坑儒などは始皇帝になってからだが、商君の変法から李斯
にいたるまで国家に対する批判は罰せられている。法律の特徴は原則、為政者が
変わっても法は残るから、この思想統制は国家政策になっていたのでは。
>>56 >李斯忘れちゃイカンでしょ
>韓非子もね
仰せごもっともです。
ただ、個人的な感覚ですが、この二人は「戦国秦」というよりも、
「統一秦」のイメージが強いので、敢えて書かなかったのですよ。
142子が
>>57で、秦で活躍した「他所者」をどっさり書いて下さって
いますね。どうも秦には、自前で人を育てられなかった雰囲気を感じて
しまいます。
しかし、統一秦への布石は、やはり公孫鞅=衛鞅=商鞅の変法以外には
考えられないのですが、これって固執し過ぎでしょうか。
>>42、44、45
当時の言語に詳しい方は、並行してレスいただけませんか?
そればっかりになってしまうと、私には参加できないレベルに
なってしまうんだけど、その辺りの情報も呈示いただければ
少し賢くなれるような気がしますので…
国が小さい頃は、法より儒。
国が大きくなると、儒より法。
国を安定させるには儒と法。
てな感じでヨロシク。
>>61の続き
言葉の問題についてあったのですけど、言語学はまったく知りませんが、春秋
後期に広まった商業が戦国に入るとさらに大きくなり商人の力が各国に広まり
ます。各国に貿易に行く商人がいるなら方言などの特徴は次第に薄れていき標準語
みたいなものができるんじゃないですか。いまの日本みたいに。(法家の国では
商人は迫害されますがまったくないというわけではないでしょう)商人に限らず
人の流動化があるなら言語も共通なものができると考えるのが妥当と思います。
他国出身の人材については、平民でも秦の法で功績があるものにはそれなりのも
のが与えられ、王族でも功績がないとその特権が排除されるというものがあった
と思います。他国民でも出世できるチャンスがあったので有能な人材が集まって
きたのでしょう。(穆公は人材集めが好きだったと思われる)確か、労役につい
た平民でもその労役後は低い官位らしきものがもらえたそうです。
ちなみに法家の流れは、性悪説(荀子)→法家らしいです。
>>30で現在の国の法家性
についてありましたが、現代のは「法の支配」で、法家の考え方は「法治主義」に近
いと思います。法の支配は民意の反映がありますが、法治主義には法作成者の恣意的な
部分が大きいです(スレ違いになるので詳しいことは簡単な憲法の参考書で)
秦の強さは個人的に資源の多さも大きいと思います。楚も比較的に有能な人材が少ない
にもかかわらず、強国でありえたのは資源の充実にほかならず、秦にもそれが当てはま
る。それに加えて人材の確保ができたのだから統一ができたのも必然と思える。
>>52 で売り込みについて書かれていたのですけど、有能な人物を推薦すればそのことも評価の
対象になりうるので有力者が人材を求めていたとも考えられる(取って代わられたらおしまいだが)
地理的な側面からだと、やはり攻められにくいということも秦に有利な点であったと思う。
基本的に山間部が障壁となっていて、道の数個の「関」を通らないと攻め込まれない。
漢の首都を秦の土地に置くことを進めた劉敬(だと思う)のことばどうりでしょう。
上手くまとまらないですが、以上です。
「秦の強さ」について…
秦の攻勢が活発になった原動力のひとつは、蜀の獲得ではなかったかと
思われる。
恵文王の時代、司馬錯が蜀への進出論を唱えたのに対して、張儀が韓への
侵攻を提案し、蜀への侵攻案が採用されたと『戦国策』にも記述がある。
ここで司馬錯は蜀を獲ることの利と容易さにくわえ、韓を先に攻めること
にたいする不利益を説いている。
実際、商鞅によって改革されたとはいえ、秦の他国への攻勢を盛んにした
大きな要因に、蜀を得たことが挙げられるのは確かといえるのではないかと。
范雎の説いた「一寸獲れば一寸の利」ではないが、国土を拡大させ人口を
増加させることでの現実的な収益は、かなり大きいと思われる。
ついでに、
>>61にて挙げられている「地理的な側面」からみれば、蜀を得た
ことで長江上流を扼したことは、長江流域に主要都市を多く持つ楚にとって
かなりの脅威ではなかったかといえる。
と、こちらもまとまっていないものの、こんな感じです。
>>64 秦による統一まで、文字が統一されていなかったというのは非常に大きいはず。
文字が統一されて、しかも識字率がかなり高かった日本でさえ、話言葉で
まともに意思疎通がとれるようになったのは明治期になり、軍からの要請で
標準語が出てきてからということを考えれば、こと話し言葉での意思疎通に
ついてそうそう楽観的にはなれないと思われ。
もちろん、ヨーロッパにおけるラテン語のような、母言語と異なった意思疎通
用の言語の存在する可能性はある。
話を蒸し返す遅レス
>>31 荀況って韓非とか李斯の師だったと思うんですが。
そして関係ない話
兵家ってなんで諸子百家にはいってるんでしょ。あれって結局兵法でしょ。
思想とはなんか違う気がするんですが。
ついでに呉起も兵家に分類されてたり。
>>67 詳しくはないんですが、、、兵法といえば孫・十三編ですよね、
あれってよく読むと兵法書と言うよりも、哲学書?てな感覚に
とらわれるんですよ・・・ただ単に目前の敵を打ち破る方法を
説いているだけは無く、国家戦略、一種の帝王学にも通じるも
のが有り、思想として分類されても良いと思いますヨ。
呉・は兵家というより、法家のように感じますね、そう言うと
孫・も法家模様のように見えるし、、、
諸氏百家といっても、どうも法家と儒家が2強っていうとこで
はないかと。
以上、自分の思い込みだけで書きました。
69 :
世界@名無史さん:02/08/08 09:21
>>68 >諸氏百家といっても、どうも法家と儒家が2強っていうとこではないかと。
秦漢以降は見る影もなく廃れたけれど、墨家も加えた3強というべき。
諸氏百家→諸子百家
>>69 縦横家もひととき華やかに活躍しましたね。
道家はこの当時はどうだったんでしょう?
次代の漢の景帝あたりは、そちらに近かったような気がするので、
ある程度の勢力はあったのではないかと…
71 :
世界@名無史さん:02/08/08 14:37
楚出身の法家は道家の影響受けてるんじゃなかった?
道家自体、殷楚の流れうけてるからねえ。
楚が改革に乗り気じゃなかったのも、元来の支配体制が必ずしも後進的じゃなかったから
という説は無いの?
領土に恵まれてるだけじゃイマイチ説得力に欠ける。
72 :
世界@名無史さん:02/08/08 15:04
>>71 国土に恵まれているから旧態依然説(簡単に書いちゃうと)はおかしいという
ことと受け取れるが、、、そう言う意味ですか?
>>71 少なくとも、先進的ではないと思う。
『史記』の「貨殖列伝」を多少は参考にしたものの、楚は物産があまりに
豊富なうえ、農業を国力基盤の最重要項目としておらず、それが国民性にも
反映されていることで富農が少ないらしい。
反対に貴族や商人は富を求めやすいようである。
思うに、恵まれた環境が変革を求める気勢を削いでいるのではないか。
鉱物資源を産出する鉄・銅鉱山を多く所有しているため、良質な兵器の普及を
可能にしているものの、国民性に関しては貪欲で勇猛なうえ、組織的な行動は
不得手とする。
国土の広さに反して人口の密集率が低く、くわえて険峻な地形の少ないことから
国土の防衛にも難があるようである。
これらから鑑みて支配体制を考察すると、楚は封建貴族の勢力が大きいことと
官名の特殊(令尹、莫敖、上柱国など)さからみても国体は古く、政治の中枢を
多数の王族が占めているため、改革はかなり困難と思われる。
(優秀な中、下層の人材の養成、抜擢の障害ともいえる)
楚の封建貴族は、各々の領地で蓄財が容易だったのではないか。
既得権益を呉起の改革で剥奪された際の不満の大きさから窺えるからである。
自分個人の結論になるが、蛮夷と目され中原からの隔たりがあったこと、王号の
自称から察するに中央への反発心、南方においての対抗勢力の皆無なこと、
中原との接触に至った折(主に成王の時代)には諸侯を圧倒していたことなどが、
旧態依存からの脱却を阻み、惰性を伴って戦国期に至ったのではないかと思う。
かなり自信も根拠も無いので、異論や訂正を是非ともお願いする次第…。
74 :
世界@名無史さん:02/08/08 17:47
>>73 確かに、春秋期は明らかに中原代表の晋と、南方の異族代表の楚の対決
という構図が継続しますね。その中で、荘王、成王の頃など、相当な
力を見せ付けています。
そのことが却って改革を妨げた一因、といえるかも知れません。「大国
意識」とでも言ったら良いのでしょうか。
戦国時代の楚は、もはや「昔の名前で出ています」状態で、一度も優位に
たったことはありませんからね。そう、ちょうどアヘン戦争の直前の清を
思い出させます。
76 :
世界@名無史さん:02/08/08 22:52
田単さん、論点ではないのですけど、
中原の晋、「異族」楚、との一文でふと思い出したこと・・・
春秋期に説話として存在していたらしい、諸方民への周武王の布告また宣明。
殷周革命の思想的な背骨を表しているような気がしました。
いわゆる夷と密接な関係を持ち、諸方を打ち梟首供犠のためにとりわけ南人を狩った殷。
かつては殷の方伐・競合の対象「周方」であった夏の族、西周。
武王の呼び掛けには、異族尊重の意志が感じられます。つまり「殷の振る舞いをあらためるぞ」との。
春秋期、この説話の精神がどこかに残っていないかなあ、と・・・
>>74 最近、このスレに参加した素人なので判りません・・・ごめんなさい。
前スレではワールドカップにたとえて有ったが・・・・
もうすぐ斉(浦和)VS蓁(報徳)が始まる。
いい勝負かな?
亀レスですが先秦ゥ子について余りにも…なので。
法家という学派の存在は恐らく文献からは捉えられません。
はっきりと学派・集団を築いていたとわかるのは儒墨(墨も不明な点多し)のみです。
商鞅や申不害・韓非らは師承関係ではないですし。
それに現実の政治家として活躍する人々には学団の形成や遊説などよりも重要な仕事があった訳ですしね。
そもそも「〜家」と区分されたのは漢代に入って以後なのです。
漢代=かなり後の人が当時の実情というよりも残された文献の類似によって区分したものといえます。
「〜家」とついてるからと言って必ずしもそういう学派があったとは限りません。
付け加えて、今のゥ子の区分は前漢末の劉向からはじまった、というのが定説のようです。
「韓非子」顕学篇には「世の顕学は儒墨なり〜」と当時の儒家と墨家の勢いを想像させる文があります。
また「孟子」にも「楊朱・墨テキの言天下に盈(み)つ」などとあり
墨家に勢いのあったことは想像に難くないです。
儒家・墨家が天下を席巻していたことはかなり確実と言えるでしょう。
因みに儒家は言うまでもないですが、墨家が集団を形成していたことは「墨子」や「呂氏春秋」などから推測できます。
>>67 あなたのその分け方は現代的なあなた個人の考えによる区分であって
区分された当時の人々の考え方・区分の理由とは自ずから異なります。
>>70 上記のように「〜家」と言ったからといってそういう学派があったとは限りません。
あなたが思っているような「道家」というのは恐らく存在していなかったでしょう。
それに政治から離れることを標榜とする人々が表面立って活動するというのも…
>>74 漢代の史料にも「儒墨」併称の例はあります(「淮南子」など)
ただし、漢代以降のは「墨」の部分には実質的な意味はなかった、と言われています。
長文失礼しました。記憶のみで語ったので引用などかなりいい加減ですが大筋は外していないと思います。
80 :
世界@名無史さん:02/08/12 02:12
応援age
81 :
世界@名無史さん:02/08/12 03:00
>>79 古代専門じゃないけど、道家(というのがあったかどうかは別として)系統
の黄老思想の影響が漢初の宮廷内で強いのは、定説じゃないですか?
それに道家思想は必ずしも国家運営に関わるな、とは言っていないと思いますが・・・
(一番てっぺんになるのはマズイとかは言いますが)
劉向云々は説苑か何かに書いてあるのかな?
82 :
世界@名無史さん:02/08/12 08:09
>>81 定説ですね。ですが黄老道は(下限で)戦国最末期〜秦漢交代期に出てきた“新しい”道法折衷思想です。
よく混同されるようですが、このスレで戦国期に楚国北方で活動していたなどと言われる道家の先駆者たちとは全く異なります。
まして「老子」を綴った人々(人)が同様の考えを持っていたなどと考えるのは明らかに誤りでしょう。
黄老思想と「老子」と「荘子」(更に言うなら南北朝から本格的にあらわれるいわゆる「老荘思想」も)
はそれぞれ別のものと考えたほうが良いと思います。
>道家思想は必ずしも国家運営に関わるな、とは言っていないと…
あなたの言う「道家思想」とは何を指すのでしょうか?「老子」ですか?「荘子」ですか?
「老子」ならば政治に応用できる考えもある程度含まれていますが、「荘子」からそれを見出すことは非常に難しいでしょう。
両者はもとは同類の書物ではありません。明確な継承関係でもありません。
「荘子」は政治の及ぼす支配圏からの徹底的な逃避を語っています。「荘子」ならば、関わるな、とするでしょう。
「老子」の中の政治的な要素を抽出し法家思想と結び合わせたものがいわゆる黄老思想と言えますが
これは後の話であり、このスレで考えられている戦国期「道家」の人々が道法折衷という考えを持っていたとは到底言えません。
こうしたあたり、漢代と先秦時代を直結して考えないほうがよろしいかと思います。
それに漢の宮中で一世を風靡したからといってそれと諸侯国の宮廷とは別物でしょうし。
以上から黄老思想が楚の宮廷に影響を及ぼしていたなどとは到底ありえない話でしょう。
戦国期は道家にとってまだ黎明期だったのです。
>>79で述べたのはあくまでその黎明期の人々のことです。
景帝期の黄老思想(
>>70)からイメージされるような道家は存在しなかったと思います。
法家と結びついたのは後の人が加工しただけで当時のそうした人々が同様であったわけではありません。
(それが良いか悪いかの話ではありませんよ)
それに…もう少しだけ、何故隠遁するのかを考えてみてはいかがでしょうか?
>劉向云々…
いえ、校書作業のことを言っています。ここでは「漢書」藝文志に残されている分類のことです。
劉向>劉キン>班固という流れはご存知ですよね?
だめだ、何でこんなに纏めるの下手なんだろう(涙
しかも長々と、なぜか偉そうに書いておきながら所詮概説をつぎはぎしたにすぎないのがホントノトコロ。
あと一言だけ…
>(一番てっぺんになるのはマズイとかは言いますが)
むしろ「老子」では一番てっぺんの人の心構えを強く説いているように感じますw
無駄に長レスごめんなさい。
こういうのって安能務氏の影響なのかなぁ…
>>79=
>>82さん、はじめまして。
斉は回復したものの、魯仲連に戦に命をかけていないと指摘され、
また趙奢に「あんた、用兵のこと、知らないね」と馬鹿にされた
田単です。
私はスレ主ではありませんが、前スレで「コテハンのなりきり君が
多くてキショい」といわれた一人として、新たな有識者のスレへの
参加はうれしいことです。これからも、知識をご披露下さい。
ところで「秦の強さの源泉〜」について、私は「商君の変法」なくして
秦の統一なし、と考えてレスしているんですが、案外皆さん冷淡な反応
なんですよ。
>>79=
>>82さんは、いかが思われます?
84 :
世界@名無史さん:02/08/13 08:42
保全age
>>83 申し訳ありませんがその話こそ私が門外漢です。
様々な理由の複合によって成ったのは当然の話なのでわざわざ1つに限定する必要も無いかと思われます。
考えられる理由をより多く挙げられればそれで充分ではないでしょうか。
ただ、商鞅変法を度外に置いて統一事業について語る、というのは聞いたことがありませんが^^;
このスレ応援してます。
ですが、全くでたらめだと思う場合以外は横槍入れないようにしたく思ってます。
そういえばゥ子の訳本ですが大抵のものに付随している解説などにも
ゆっくり目を通してみると結構面白いですよ。
>>85 まあ確かに、一つに絞る必要もないわけですよね。
「横槍」とおっしゃらず、何かその時の流れてレスしていって下さい。
>>86 あれ、ホントにかなり古くからのスレみたいですね。全然知らなかった。
ただ、こちらはスレねたが「春秋戦国」に限定しているかわりに、ソースが
「史記」のみならず、「戦国策」「春秋左氏伝」「国語」「竹書紀年」等、
多岐にわたっていますから、かぶる、というほどではないのでは?
あちらは「漢楚攻防」を主にしたいようですし…
>>田単
だからさあ、キモいから
>斉は回復したものの、魯仲連に戦に命をかけていないと指摘され、
>また趙奢に「あんた、用兵のこと、知らないね」と馬鹿にされた
>田単です。
こういうのはやめろって。
>>88 そうだね。
注意致しますゆえ、ご容赦下され!
再度のお尋ねをご容赦下さい。
あれから孟子、論語、荀子をようやく通読し、今は史記を読んでいますが、
初見の漢籍を読むにあたって現代語訳のみならず書き下し文も読むようにした方が良いのでしょうか?
漢文に不慣れなため、共に読むといまいち内容がおえませんし、かと言って語釈だけですと、読んだ内容を翌日には忘れてしまいます。
皆様でしたら、いかがされていますか?
初歩的な質問で恐縮ですが、宜しければご経験をお聞かせ下さい。
私の拙い経験から申しますと…
まず、1回目は訳文のみ読んで、流れを把握します。
2回目に、訳文と対比しながら白文を読みます。
とまあ、こんな感じでしたね。
本来は「書き下し文」より「白文」を読むべきだと思いますが、他の
皆さんはどう思われます?
皆さん、夏休みなのかな。下がってますなぁ。
さて、もう一つのテーマ「諸侯改革の指向性およびif論」ですが、
秦以前(以外)に、統一する可能性があったのはどこでしょうか?
「if論」ですから、もし、あの時○○王が××の方策を取り上げて
いたら〜、という、たら・れば論になりますが…
93 :
世界@名無史さん:02/08/15 17:49
魏の恵王が孫ビンを敵に回さず、公叔座の言うとおり商鞅を用いていれば・・・
94 :
世界@名無史さん:02/08/15 19:59
私はこのスレを定期的に読んでるよーい。
マジで楽しみにしてます。
95 :
中華@名無史さん :02/08/16 02:20
>92
武霊王の胡服騎射の軍制改革をした趙かな?
休み中・・・age
IF論で語ると色々とあり面白いですね。
>>93の魏なんかは、特に人材の面でいうと放出しまくってますし、、、
楚における呉起の改革は外せないのでは?
順番を決めて議論しなければなりませんね・・・。
>>ALL
まずは、最初に名前が挙がっている「魏」辺りからでは如何でしょうか?
議論が一段落ついたら、別の国に移るということで・・・。
魏は惜しいことをしましたよね。
>>97で5子がレスしておられるとおり、ホントに放出しまくり!
なんであんなに実務者を放出できるのか、と呆れるくらいですね。
文侯の治世がもう少し長ければ…という感じです。
そうなれば、文武に人材が揃いまくっていましたから、あるいは、
という妄想も可能かと思います。
ところで、話は脇道にそれますが…
先日、前スレが上がっていたのでのぞいたら「まだ残っているのだから
最後まで使い切れ!」というお叱りのレスでした。
そこで、私は前スレの総括として、私としての「名将BEST5」を
書き込んでおきました。ただしBEST1はスレ主殿が決めた白起と
しておきました。
宜しければ皆さんも、個人のBEST5or10を書き込んでは如何ですか?
>>99 魏の宰相は文侯の時代から血縁者が多く、公子成や公叔痤、公孫衍(犀首)、
魏斉といった人物であり、もしくは田文や中山君、田需、范座などといった
近親者や高位・高官に属する人物で占められており、低位の人物を抜擢する
傾向がほとんど無い。
これは戦国末期まで変わらず、信陵君のような王族にいたっては、失脚させて
しまうほどである。
司馬遷は魏の滅亡を必然としているが、魏が仮に商鞅を登用したからといって
更に強国化にいたったかといえば、やはり疑問。
魏は楚と並んで国体の変化に乏しい国家ではないかと思う。
くわえて中原に位置するという地理的要因にも問題がある。
>>101 142子、それをいっちゃーおしまいですよ。
あくまで「if論」なんだから、「たら、れば」の世界ですよ。
正論でいけば「楚における呉起の改革は外せないのでは?」という
>>98でのご発言が、無意味になってしまいます。
103 :
世界@名無史さん:02/08/20 09:16
>>101横レスなんだが。
>国体の変化に乏しい国家ではないかと思う。
人材が離れる国はすべからく、そう呼ばれてしまうんじゃないの?
地理的要因はナンセンスだよ、そりゃ中原諸侯には新興国とちがう土壌が
あったとは思うが。
魏にも、興隆期が有ったのは確かだろ?ということは「変化した」って言う
事実があった訳で、その後、衰退したのは君主、支配層の資質による所が大き
いと思うね、その点は
>>100が言っていることは同意だね。
104 :
世界@名無史さん:02/08/20 14:46
長い出張を終えて久々に見たら、新スレが立っていたとは・・・・・・
前スレではコテハン使用していたが、色々と物議を醸したので止めとこう。
魏でifを語るとどうしても呉起となりますね。
呉起は文侯期(武侯期も)に西域の長官に任用され功績を挙げているが、
文侯をして社稷の臣とは思われていなかったようですね。
氏族社会の名残というか、儒家思想に照らして呉起の悪逆非道性を警戒
したために手放しでは受け入れられなかったようだし・・・
魏が没落したのは「桂陵の戦い」での大敗でなかったかな?
それまでは、ブイブイ言わしていたような・・・・・
西域?西河かと。
ただの突っ込みなのでsage
呉起と孫・て年代的に近かったの?
どなたか詳細を希望します。
>>108 いいかげんな答えですが、呉起は魏の文侯の時代、孫ビンは恵王の
時代だから、2世代程度の差、ですかな。
>>109 有難うございます。
>>104 では、呉起がいなくなって急速に衰退した訳じゃないんですね。
>>110 国力がそんなにすぐ衰えるもんでもないしね、、、
ただ、呉起が失脚した後は中途半端な状態で停滞していたんだろう
と思う。
>>111 呉起の亡命後の魏は、停滞していたというわけでもない。
魏の版図は武侯の時代に更に拡張しており、晋を滅ぼしたのも武侯の時代である。
次代の恵王の時代、魏は斉、趙、韓、宋と連年のように戦い続けており、その国力
には驚くものがある(全てに勝利しているわけではなく、敗戦も散見できる)
魯、衛、宋などの君主が魏に来貢してもおり、見方を変えれば、絶頂期は恵王に時代
ともいえる。
ただし恵王の時代の魏は、どうも軍事での主眼が定まっていない観がある。
114 :
世界@名無史さん:02/08/22 07:26
魏が衰えたのはその呉起の守った西河地方を秦に落とされたからだ
とかって市定の著作の中にあったような無かったような…
あの辺に大規模な塩池があって魏の経済を支えるもっとも重要な収入源で…て。
違ったらスマソ。
115 :
世界@名無史さん:02/08/22 09:06
塩は儲かる。
116 :
世界@名無史さん:02/08/22 14:29
老子の「大道廃れて仁義あり」の仁義って儒暴のこと?あるいは孟子のこと?
>>113 それでは、呉起の亡命がなければ、魏はさらにパワーアップしていた
可能性もありますね。
統一、という思想は多分なかったんだろうけど、西は秦を圧迫、韓・超の
領土を侵食、小国を併合し、斉と対立、というような、どちらかと言えば
後の秦のような立場に立っていたかも…
で、後に公孫鞅が宰相となり、法治主義が完成、一首一級の制度により
もともと強いといわれていた軍隊が更に強化され、まず韓が併合され…
とまあ妄想は広がって逝く訳で(w
118 :
世界@名無史さん:02/08/22 19:09
周辺国の大連合で四方から総攻撃されて結局後手に回って潰される気がする。
秦と違って位置的に悪いような
119 :
世界@名無史さん:02/08/22 20:10
日本も戦国時代があったが、甲斐の武田、関東の北条、中国地方の毛利、九州の
島津など群雄が割拠していて勢力は拮抗していた。そこに織田信長、豊臣秀吉
という天才武将が現れて天下が統一された。中国の戦国時代も七雄が拮抗して
いたが、秦は商オウ(オウの漢字の変換の仕方を知らない。スマソ)の変法以来、
他を圧する強国となり、最後に始皇帝という空前にして絶後の人物が出て、天下
を統一した。秦王政の前には、他の六国は、いかなる人物が居ようが居ようまいが、
攻め滅ぼされる運命にあったと思う。
120 :
世界@名無史さん:02/08/23 08:38
>>118 四方八方囲まれている状況ではそうだけど、趙、韓辺りをものにしてれば
良いのでは?
ましてや「名将 呉起」が中枢にいれば、囲まれて窮する前に策を講じる
はず。
121 :
世界@名無史さん:02/08/23 10:09
122 :
世界@名無史さん:02/08/23 10:30
>>119 そんな風に歴史が動いてきたなら楽でいいね
123 :
2チャンねるで超有名サイト:02/08/23 10:40
>>114 西河地方の特色は『史記』の「貨殖列伝」によれば、多数の胡や翟が入り混じった
民族で構成されており、農産業には見るべき特色は無いよう書いてある。
若干は商業で潤う地域らしい。
塩地に関する記述は無かったので、なんともいえない。
どちらにしろ、黄河以西の南北に伸びた領域を保持できる方が無理と思う。
魏は恵王の時代のはやい頃から、東方への進出に積極的な傾向のようであり、
安邑から大梁への遷都が『竹書紀年』によれば恵王6年(前365年)というから、
西河地方を失うよりも前になるわけで、西部への意識は少なからず薄らいでいた
のかもしれない。
>>123 マジレスしたらいけないんだけど、
>幼い中高生〜
にはちょっとワラタ!
中高生のどこがおさないんだか。
>>120 確かに、趙、韓を手に入れていたら、状況は違うでしょうね。
ただ、
>>118は、そこに至るまでに「対魏連合」ができている
可能性も高いような。そう、斉のように…
>>91 アドバイスありがとうございます。
私には白文で読むほどの能力は全くありません。
一度、杉山正明氏の著書に触発されて元史に挑戦して跳ね返されたことがあるのです。
書経や詩経を判りやすく訳した本はありませんか?
また司馬遷は史記で春秋を度々引き合いに出してましたが、こちらについても通釈の優れた本はあるでしょうか?
再三の質問で、済みません。
宜しければご教授ください。
>>127 私も前スレで「春秋」って書いて失敗したんですが、
「春秋左氏伝」のことですか?
それなら、私も先日平凡社版を買ったばかりなんです。
黄色い表紙のヤツは、2,600円程度でした。
箱に入った「中国古典文学大系」バージョンは、同じ物が
6,000円ほどします。
142子お勧めの明治書院版は4分冊で、1冊6,000円です。
こちらは、白文やら、解説やらついていますね。
>>128 当時は田斉の初期で、活力がありましたから、そのように結びつけば
更なるパワーアップが見込めたかも知れませんね。
>>129 魏が趙を斉が燕位を支配下におさめると立地上、後顧の憂いの少ない
斉が優位になる。
この状況でも斉との関係が良好ならば、蓁方面に向かえば良いし、仮
に悪くなっている様であれば、蓁と組む必要がありますね。
かなり難しい外交交渉が予想されるけど、、、
大事なのは他国よりも先に動く事でしょう。
くれぐれも、孫・を他国に出さないようにしないと・・・。
>>129 左伝ではありません
孔子が自ら著したという春秋です。
現存しないのでしょうか?
132 :
世界@名無史さん:02/08/23 13:10
133 :
世界@名無史さん:02/08/24 17:28
>>132 質問の仕方が少しおかしいと思いますが…
仁義は字義通りで良いと思いますが。
とりたてて指している学派を限定するのは難しく思います。
まぁ儒家を主に指してはいるのでしょうが。
134 :
世界@名無史さん:02/08/24 22:05
>>133 白川静を読んでいたら、孔子の理想は仁、墨子は義、仁と義とは別のもの。
仁義とまとめていうのは孟子の主張だということだったので。
135 :
世界@名無史さん:02/08/25 13:02
>>131 そのような物はあっても訳が分からなく読み物として面白くないと思います。
>>134 仁義併称の例は『論語』にはありませんが『墨子』にもあるはずですよ。指す内容は当然変わりますが。
「仁義」という言葉が『孟子』で重要な語だったのは確かですが
結構色々なところで使われてるので必ずしも孟子だけを指すとは言い切れないと思います。
137 :
世界@名無史さん:02/08/26 08:37
取あえずage
138 :
世界@名無史さん:02/08/26 09:18
>>131 左伝から左丘明が付加した解説や事件顛末を取り去った、
「宣公二年 晋の趙盾、その君霊公を弑す。」
が春秋経の本文です。
本筋へ戻しますが…
もし、魏が
>>130で120さんがいわれるように進んでいたら、
覇権を握る(より強力な)可能性はあったんでしょうか?
そうすると、斉・魏・秦の3大国時代が到来したでしょうか?
140 :
世界@名無史さん:02/08/26 14:47
>>139 斉・魏・蓁の三強時代はどうでしょう?
その三国では恐らく「魏」が挟撃されることになるし、仮にどちらかと
友好関係を結んでも、友好国を利するのみになるでしょうね。
「魏」が真に強大になるのであれば、趙はもちろんの事「蓁」か「斉」
を傘下にいれないとダメなんではないでしょうか。
かなり御都合的な三強時代に思えるが、楚の存在がある以上、結局のところ、
魏は徐々に摩滅させられると思う。
それ以前に、公孫鞅を魏が用いたとしても、史実の秦に見られるような強国化は
多分に無理。
斉は威王末期〜宣王時代ほどの威勢を張ることもないだろう。
韓は申不害が登場する時代にはいる。
趙が最も弱国となりうる可能性がある。
要するに外交戦略が全てを決するような、程よく均衡のとれた展開にいたるの
ではないかと。
史実で合従・連衡を説く、縦横家の存在の有無は判断がつきかねる。
魏を含む三強とするならば、
>>141にある楚が有利な位置にいるよーな・・・
「蓁 楚 魏」か「斉 楚 魏」しか鼎立不能でしょう。
>>140にあるように、斉と蓁がいる状況では、魏の強大化は困難と
思われ。
皆様のご意見としては、各国に挟まれた立地の魏は、やはり頭一つ
抜け出た存在になるのは難しかろう、ということですな。
結局、
>>101で142子がおっしゃっておられたと同じですね。
では、
>>98で142子がおっしゃっておられる楚における呉起の改革が
実現していたら、どうなったと思われますか?
>>141は自分ですた…。
>>143 スレ主に代わっての議事進行、お疲れ様です。
楚での呉起の改革は実現しているので、この場合、「継続できたら」という方向での
話になるかと。
で、継続できるかといえば、完全に無理だと思われる。
主に世襲制封建貴族の勢力削減と軍事面の強化を意図した傾向にある改革のため、
軍の構成率の大部分を多数の封建貴族で占める楚にあっては、改革に並行して
水面下での反勢力の構築を助長させているのが自明であろうから、つまるところ
「悼王の死が先か、呉起の死が先か」ということになるのではないだろうか。
呉起一代で楚が他国を圧倒ないし併呑できるはずもなく、中原では魏の優位が
確立されている時期でもあろうし…。
145 :
まえの912:02/08/26 20:45
しかし、たとえば日本においては、
鞍作臣という同時代第一の名門蘇我の次期当主が自ら中央集権的な国づくりを、
(ある程度の自己犠牲も含め)進めようとしていたらしい。
政治的陰謀による逆転がなければ、日本史における別の画期となっていたでしょう。
楚の伝統的名門の態度についても、幾分かぐらいはこのあたりのifを交えてよいのかな、と思います。
146 :
世界@名無史さん:02/08/26 22:14
わ、確かに私がスレを仕切ってるようにみえますね。
スレ主殿に見つかったら、生き埋め確実だ、ガクガクブルブル
>>141が142子であるのはわかってましたよ。
しかし、呉起の改革がif論でも結実しない、というのは
悲しいですね。何か逆転満塁ホームラン、みたいな方法って
なかったんでしょうか?
連続でスミマセン。
142子、新スレも142を突破しましたので、「142」では
誤解を招くのではないかと思われるのですが、いかがでしょう?
>>1
if論では有りますが、「周室」はどうします?
>>150 個々が強大化もしくは統一を志向するのであるif論においては
この場合、無視してもよろしいと考えます。
>>148>>149 楚は稚拙な外交にも問題があるのでは?
杜陵や垂沙の戦いでも、国際間で孤立し、複数国を敵に戦う不利な状況を
生んでいる。
無論、結果は惨敗なのだが…。
楚は連戦連敗でも決してへこたれず、最後まで生き延びようとしたのがすげえ!
しかもよく復興したな、一時期とはいえ。
154 :
世界@名無史さん:02/08/28 16:52
楚は後々蓁に復讐したしね。
155 :
世界@名無史さん:02/08/29 09:47
なんか、前スレが賑やかだね。
156 :
世界@名無史さん:02/08/29 10:01
まあ楚はへたれではなかったわけで。
一応秦に逆襲して叩き潰したから。
壊王〜頃襄王らへんの頃はアフォみたいだったけどなー。
まさにウドの大木・・・秦の一強化を阻止しようとした意図はわかるが
157 :
世界@名無史さん:02/08/29 10:05
前スレで1000getしたよ!!!!!
158 :
世界@名無史さん:02/08/29 10:07
屈原が可愛そう。
三度諌めてきかざれば即ち退く
159 :
前スレ993:02/08/29 10:13
これよりこのスレに参戦します。
宜しくお願いいたします。
旧スレ、ついに1000いってしまいましたね。
スレ主の白起殿はじめ、142子、姜子、老子、孫子ほか多くの皆様、
大変お世話になり、有り難うございました。楽しい、良スレでしたね。
勉強にもなりました。
このスレも、同様になってくれれば良いのですが…
>>159さん、いらっしゃいませ。
一緒に楽しくやりましょう。って、私はスレ主じゃないんですけどね。
161 :
世界@名無史さん:02/08/29 13:20
屈原といえば、
『天問』・・・
とても悲しい詠唱・・
162 :
世界@名無史さん:02/08/29 13:44
名君を気取りたがる奴って始末に終えんな・・・
しかし、楚って、なんであんなに「老大国」になってしまったんでしょうね。
春秋期には、あれだけブイブイいわしていたのに。中原諸国対楚、という
構図だったでしょう?
戦国期に入ってからは、良い所なしですもんね。
戦争も、あんなに強かったのに、秦に連戦連敗ですからねぇ。
164 :
世界@名無史さん:02/08/29 14:42
楚と清は同じ。
ある所で進歩が止まる、、、気が付いたときはもう遅い。
165 :
世界@名無史さん:02/08/29 14:51
春秋期の楚は戦国後期の秦くらい存在感があったみたいだけど
呉や越が強大になって、呉に侵略されるようになってきたあたりで
「超大国・楚」の時代は終わったのかな?
>>165 でも、楚はその呉を併合していたりするんだよなぁ。
すまん。呉を併合した越を併合ね。
168 :
世界@名無史さん:02/08/29 15:36
衰退期といわれている時期でも、越や魯とか次々と征服してるのは
さすが強国と言った所だが。
169 :
世界@名無史さん:02/08/29 17:53
斉楚間の同盟の破棄さえなかったら
秦(三晋の河西部を併合、韓を属国化)
楚(魯、宋、越を併合)
斉(燕を属国化、宋、衛などを併合)
といった感じで三極化しそうな感じだったのかな?
それに楔を打ち込んだのが張儀と趙武霊王か
特に武霊王がいなかったら斉と秦の大国化はもっと早かったんじゃないのだろうか
無能と評判の斉の愍王(ビンの字違うな)を誰か語ってやってくれ
>>旧スレの994へ
まず、実戦経験が無価値だとは一言も言ってません
「歴戦の部隊と新参の部隊が双方とも装備、条件が同等で戦えば」と言われますが
そのような比較は無意味です
実戦に投入された部隊は損耗し消耗します
そのような部隊を再編成し、休養させ、再訓練して再び第一線に復帰させるためには
膨大なコストが必要とされます
比較するのならば、それだけのコストを費やして新編された部隊と比較すべきであり、
同じ兵力で比較しても意味がありません
それに、貴方が例にあげたアメリカ第1海兵師団は、ペリリューで死傷者6300の大損害を受け、
第一線に復帰するのは5年後朝鮮戦争まで待たねばなりませんでしたし、
この時、ペリリューで戦った者は一握りの将校と下士官しか残っていませんでした
確かに沖縄にも投入されてはいますが、この時は第一線師団ではありませんでした
明らかに最精鋭部隊に相応しい運用ではありません
それに、命のやり取りは野球とは違います
戦争はスポーツではありません
確かに過去の輝かしい戦歴を喧伝することにより、精強な部隊であると内外に
アピールする事例は珍しくありません
しかしそれはあくまでモラル向上のための一施策に過ぎず、戦歴が豊富=精鋭で
あるわけではありません
旧スレが埋められたのでここに書かせていただきました
スレ違い申し訳ありません
171 :
世界@名無史さん:02/08/30 08:46
>>170 経緯はよく判らんが、歴戦と新兵の比較みたいだね。
新兵にも「訓練」と「編成」と「休養」はいるんじゃないの?
実戦経験者と未経験じゃその差は歴然と思うが。
172 :
世界@名無史さん:02/08/30 09:17
>>717 論戦の元は白起が長平で敗残趙兵を処刑した理由なんだよ。
>>994氏が白起は敗残兵が将来趙軍の精鋭として復活するのを恐れて
処断したような事を発言されて、その後、
>>991氏が敗残兵が精鋭と
は成り得ないと申されたんですよ。
>>170 流れ的には、旧スレを踏まえているので良いと思います。
敗残兵と、歴戦のツワモノって、同一に論じてもダメな気がしますね。
特に長平みたいな惨敗だと、やはり尾を引きそうな気が…
で、本当に白起は「生き埋め」にしたんでしょうか?
「閉じ込め」も、可能性ありだという気がしますが…
>>174 兵の強い弱いはかなり将帥に左右されますね、精神的なものが大きい
んでしょうね。
事実、白起の軍は強かったみたいですし。
>「閉じ込め」も、可能性ありだという気がしますが・・・
文献のどれを見ても「生き埋め」になってますので恐らく事実なのでは?
反対に、数十万を閉じ込めるのは大変でしょう。
>>169 三極化、二極化っていうのは展開次第では有りですね。
>>175 最近のポピュラーなところでは、安能務氏が、「閉じ込め」説を
とっていますね。
「坑」(本当はこざとへんだったと思う)の字の解釈の違いですね。
>>177 閉じ込めた後、どう処遇したんでしょうか?
お分かりになられましたら、ご教示いただけませんか?
前スレ988
> 死線をさまよった事で、将来趙軍の精鋭となって復活する
> のを恐れたって話もあるし。
兵糧攻めで死線をさまよっても精鋭にはならないかと。
敢えて言うなら、趙兵が恨みを新たにして攻めてくる事を言っているのでしょう。
ただ、それが白起の真意ではないと思います。
真の目的は敵国の成員男子を虐殺して相手の国力を奪い反撃の余力断つ事。
私は薄学なので知らないのですが、こういう学説を説いた学者もいたのでしょう。
この辺り第二次大戦の都市無差別爆撃に通じるものがありますが、
今の昔も人間とは恐ろしい事を考えるものです。
ところで現代戦の例えをしている方がいるので一言申しておきますが、
銃火器登場以前と以後では生存率が全然違うという事をお忘れなきよう。
180 :
世界@名無史さん:02/08/30 14:24
徹底的に敵を打ちのめすのは中原の国家には出来ん。
蓁 楚のみ可能。
旧日本軍も出来ん。
アメリカのみ可能といってみる。
181 :
世界@名無史さん:02/08/30 15:10
旧日本軍も出来るだろ。
朝鮮ゲリラや中国ゲリラの殲滅作戦の徹底ぶりと言ったら大したもんだ。
農村ごとあぼーんだからな。
>>178 恥ずかしながら、そこまでは存じ上げません。
安能務「始皇帝」にも、そこまでは書かれていなかったような
記憶があります。
前スレ
>>502で、安能説以前にそういう解釈があったことが
書かれてありましたが…
まぁ、推測ですが、戦争捕虜は「奴隷」じゃないですか?
百里奚なんかも、そうじゃなかったでしたっけ?
183 :
世界@名無史さん:02/08/30 17:06
人質とかって身代金もらえたのかな?
184 :
世界@名無史さん:02/08/31 01:50
ちょっとしつもーん
竹書記年の日本語訳って出てます?
自分が知っている(おそらくは完全な日本語訳版)のは、以下のもののみ…
・『竹書紀年』(全二冊) 大本 元装箋欠 三浦衛興淳夫撰 朱入 40,000円
・『古本竹書紀年輯證』 3,500円
・『五代史記纂誤補 竹書紀年辨證』 (全3冊) 18,000円
ネット検索をかけた方が、はやいと思われる。
>181
ゲリラの掃討作戦と明言してる辺り、日本をかばってるのかな?
ともかく民族浄化ってそんな甘いものじゃないぞ。
>>ALL
楚についてはifにても余り芳しくないようで・・・
どうでしょう、、、この辺で呉 越辺りに話をもっていきませんか?
・践と・差を中心に如何?
て言うか、武霊王についての、天下統一の可能性検証はして戴けないので?(泣
>>189 これは失礼しました。
趙でも呉 越でも構いませんが、皆様のご意見を求む。
192 :
世界@名無史さん:02/09/03 10:39
趙武霊が国力伸長したって言っても、せいぜい「盟主」位が関の山。
魏と大差ないと思われ
>>191 戦国を重点にやっている感じですから、趙を先にしたらいかがですか?
宮城谷本では、武霊王は統一意識があったような描き方をしていますが
現実はどうだったんでしょうか?
ところで、スレ主殿、「白起」を名乗らなくなってしまわれたんですね。
最近は老子様も、孫子も、姜子も、単于もおみえではないし、名乗りは
私だけになってしまったなぁ…
誰がしゃべってるかわからないときがあるんですよねぇ。
194 :
世界@名無史さん:02/09/03 10:53
廉頗や趙奢がバリバリの状態で武霊の下に置きたい。
195 :
世界@名無史さん:02/09/03 13:31
>>194 もっと武霊王が長生きしたら実現してたろうなあ。何度妄想したことか。
かなりいいとこまで逝ったのでは。
でも彼の死は半ば自業自得だしなあ・・・
>>193 秦に攻め込む準備をしてたのは史実だよね。
196 :
世界@名無史さん:02/09/03 17:18
ところで、前スレにも何やかやと、有ったような気がするが趙の軍事力
ってどうなの?
でも趙奢は恵文王が抜擢して出世したわけだから、主父の世だったら世に出れるかわからないね。
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199 :
世界@名無史さん:02/09/04 08:39
趙括にはいきなりあのような大抜擢をせずに、どこかで敗北を経験させる、
経験をつませれば物になった。
200 :
世界@名無史さん:02/09/04 09:48
>>199 趙括?傲慢不遜の人物だよ?
功績を挙げれば自分の手柄にし、失敗すれば部下に八つ当たりする。
使い物にはならんぞ。
百戦錬磨の廉頗が持久戦法を取った理由を全く無視、、、もうダメポ。
201 :
世界@名無史さん:02/09/04 09:52
>>200 仰るとおりだと思う。
趙括の母親が孝成王に息子の抜擢の取り下げを願うくだりを読むと、
それがよくわかる(『史記−「列伝」』)
着任するなり軍令や部署を変更したというし…現代にも、確実に存在
しそうな低劣な上官(上司)かもしれない。
203 :
世界@名無史さん:02/09/04 11:00
>>20>>202 名士の子供って事で、周りがチヤホヤしすぎて増長した模様。
ところで、廉頗があのまま長平で指揮を執っていたらどうなったん
でしょうか、日々苦しい兵站を抱えた「蓁」は後退せざるを得ない
よね?
>>203 廉頗の戦略はそれなんですよね。
蓁昭王も趙さえ無力化すれば後の諸侯はたいした事は無いように
考えていたようですし、長平で蓁が大敗でもすれば蓁の優位は大き
く傾くと思われる。
兵の損耗、長期に渡る兵站による国力低下はかなりのダメージ有り。
>>203>>205 廉頗の専守防衛策を孝成王が支持して趙が勝利したとしても、閼与で秦が
受けた損耗をかなり上回るものの、優位性を覆すのは不可能だと思う。
秦は前年から韓に侵攻して国庫をかなり消耗しているものの、他の六国との
国力差はやはり大きいうえ、改革以来の安定した生産力がある。
ついでに、これは他国でも行うとは思うのだが、長平の戦いの際、昭襄王は
河内の民に爵位を授けて十五歳以上の男子を総動員している。
これは法治体制の整備された秦では、他国よりも容易に行えるものと思う。
仮に長平で完敗したとしても、国家総動員令を発動し函谷関で堅守するなら、
信陵君に河外で敗れた際とほとんど同様になるのではないかと考える。
そ〜か・・・函谷関か・・・・・たしかにあの要害は強味だなぁ〜。
孟嘗君は函谷関とは別のルートで秦に侵入してたし
武霊王も秦の北側から侵攻しようとしてた
楚の外交のまずさが全ての元凶かなー
209 :
世界@名無史さん:02/09/04 13:56
秦について、
「天下の十分の六を」
という国力評価があるなあ。
六分一殿どころではないなあ。
戦国末くらいだと、
>>142が仰せのように整備された蓁の優位は
動かんのだろうか・・・。
>>210 戦国末になると、やはり秦の優位はまったく動かんでしょうね。
例え他の6国が合従しても…ね。
>>211 戦国末を今のセリーグに例えてみる
秦=巨人 圧倒的な戦力、痴呆君主させいなけりゃ楽勝
趙=ヤクルト 一強に唯一独力で戦える、タレント揃いだが実は司令塔がいなくなるとヤバイ
斉=阪神 中期までは最強ですらあったが著しくへタレ化
楚=中日 潜在能力はトップクラスだが、それを結局発揮させずじまい
燕=広島 人材豊富で前評判は高かったが勝手に自滅してあぼーん
韓=横浜 最初から最後までいいとこなし
>>212 パリーグの方が、より適切なたとえになるかと…
214 :
世界@名無史さん:02/09/05 08:27
215 :
1(白起):02/09/05 08:51
>>ALL
本来、私事にスレを使うことは許されないのですが、皆様にお詫びと
お願いを申しあげます。
小生、来週より海外赴任(飛ばされました)となり、このスレに参加
できなくなります、、、
そこで、後のスレの誘導、差配をどなたかにお願いしなければならず
色々と思案致しましたが、前スレよりご高配いただいております方々
の中より、田単氏にお願い致したく思いますが如何でしょうか?
このスレ(前スレ)では、諸氏には大変お世話になりました。
何気なく立てたスレが有意義な物と成り得たのは、ひとえに皆様のお
かげと感謝の言葉もございません。
皆様のご健康とご繁栄を願いつつ行って参ります。
>>田単様
勝手なお願いですが何卒お願い申しあげます。
>>215 白起殿
突然のお申し越しに、当方も動転致しております。
海外赴任、ですか…
しかし、ものは考え様で、新しい習慣・風俗等の中に身をおいてこそ
つかめるものもあろうかと存じます。
「飛ばされた」とお書きの事実があるのかどうかは存じませんが、
御自身のプラスになるとお考えの上、健康・安全に十分ご配慮の上、
いってらっしゃいませ。
白起殿がご帰国のおり、2ちゃんねるが続いている限り、本スレが
「その×××」として継続していることができたら、と思います。
そういう状況でのご依頼につき、うだうだ遠慮をするのも失礼かと
思いますので、進行係を努めさせていただきます。
本スレにご参加の皆様、それでよろしゅうございますでしょうか?
なお、私PCの超初心者につき、本スレが一杯になった時に、新しい
スレを立てたりできません(恥 よって、その折にはどなたか助力
下さいますよう、お願い致します。
本当にビクーリ致しました…
217 :
世界@名無史さん:02/09/05 09:27
>>212 巨人は秦に対比させえるほどの強さは無いと思うが
最近は持ち直してきてるのかな
>>1殿
有難うございました。
お気をつけていってらっしゃいませ。
>>田単殿
戦国中期以降では、if論をもってしても蓁が圧倒的の模様ですね。
219 :
世界@名無史さん:02/09/05 14:30
>>212 魏は?
ちなみに襄公期の宋はPL学園って感じですかね、高校では(大国意外)最強
だっただけなのに、勘違いしてプロの中日(楚)に喧嘩を売った・・・プ
ところで、斉はどうだったんでしょう?
威王、宣王のころはかなりの強国だったような印象があります。
文化も、ここを拠点として開花したようなものですし、この国が
覇権を握る可能性はどうだったんでしょうか?
221 :
世界@名無史さん:02/09/06 11:19
斉は協調外交路線を歩んでいれば、自ずと盟主の座を秦から奪回できたんじゃない?
ビン王が調子に乗ってあっちこっちに迷惑かけたから、一斉に叩かれたわけで。
秦は既に盟主の座を獲得してたから、斉が自滅してくれて楽だったことでしょう
まあ趙が恵文王時代に引きこもりになっちゃったのはどう大勢に影響したんですかね?
武霊王存命で趙が秦にちょっかい出しつづけていたら、秦はきっと各国に対するアドバンテージを失って
いたことでしょう
覇権なんてそのくらい脆いものだからなあ
秦が膨張しないとなると斉は晴れて覇者ですか
もっと近いところでifを取るとすると、韓魏が秦に敗れた所かな
秦>斉の情勢をひっくり返すとすると、引きこもりの趙と組むしかないから
楚は秦に金玉抜かれた状態だから、同盟するには適切な相手じゃない
韓魏も秦に首根っこ押さえつけられてるから分からないな
後方の燕は属国だから問題なしとして(史実では問題大有りだが)
秦にどれくらい優位を示したまま、引き上げるかが問題になるなあ
孟嘗君が勝ったときぐらいの戦果であれば、覇者ゲットだぜなんだろうけどなあ
どうせ韓あたりで戦うことになるんだろうから、勝ち逃げが望ましいよなあ
222 :
世界@名無史さん:02/09/06 11:55
武霊王治下の強面な趙をもっと見たかった・・・
古代の国ってほんとにトップの性格がそのまま出るよなあ。
>>220 いつの間にやら、スレ主の代替があったようで…。
斉は宣王期に燕の内乱に介入して国土を荒廃させているようなので、とにかく
外交で趙を引き入れないと、後背の燕を掣肘できない。
燕が秦と結ぶことも懸念されるため、鍵は趙の帰趨如何ではないか。
また宋への対応だが、宋は斉、魏、楚の緩衝地帯ともいえる位置にあり、三国が
なべて宋領の獲得を企図しているため、外交上で譲歩しても、斉は魏と楚に恩を
売る方が得策ではないだろうか。
この場合、斉が突出した存在にはならないが、斉、趙、楚、魏の連盟はし易いはず。
宋は秦の同盟国であり、史実でも形式的だが斉の宋侵攻を譴責しているが、大勢への
影響は判断がつきかねる。
秦は結局は盟主ではなく一方的な侵略国であり、諸国と結ぶ手段も軍事力を誇示した
恫喝が大半であるため、斉王が徳を示して諸国の信頼を得るようつとめ、秦の侵攻に
窮する韓や魏を救う姿勢を示せば、御都合的ではあるが、秦の攻勢を挫くことも可能
かもしれない。
複数国の思惑や利害、見解が複雑に交錯するため、秦に敵対することが最善である、
とする国際世論を構築して合従を成立させなければ、秦の優位性を覆すことは困難。
もう少し文献や史書を熟読しておけば、まともな見解も生まれるのかも…。
しかし、斉は文化面では強烈に印象を残しましたね。
戦国期の思想家は、みな当時の斉に集まったような感があります。
ただ、実務的にどうだったのかという面では疑問ですが…
しかし、個人的な好みで申し訳ないんですが、当時の斉って、何か
惹かれるものがあるんですよね〜。
タイムマシンがあって、古代中国のどこかへ連れていってやろう、
ってことになれば、迷わす「臨シ」を選びますね。
142子、
スレ主の交替というより、私はあくまで「進行係」のつもりです。
下らない意見・提案を出すかも知れませんが、従前とおり、適切な
フォローをお願い致します。
蓁ってしたたかですよね。
大連合が出来そうになると、うまい具合に突き崩す所なんか見事!
連合をまとめて行ける人物は誰?
226 :
世界@名無史さん:02/09/06 17:50
>>225 月並みですが信陵君
それ以外だと、公孫衍かなあ
元祖でしたっけ?連衡策の
>>226 孟嘗君でも良さそうな気がしますね。
まぁ、名将に名前の出た人よりも、その2人が最適かと思われます。
>皆さん
私、会社のPCで仕事の合間にレスしてるもので、休日はレスできないのです。
もし、落ちていれば、上げておいて下さいますようお願い致します。
228 :
世界@名無史さん:02/09/07 11:06
最近、春秋戦国史(講談社・安能務著)を読んでるものですが、不思議というか、
いまいち納得いかないことがあります。ご存知だったら教えてください。
・呉、越がいきなり湧いて出た印象がある。しかも覇者になっている。
一体他の国は何やってたんだー。
・秦は始皇帝の代に他の国を全部滅ぼしているが…、何百年もばらばら
だったのに、何故突然滅ぶの?せめて親子3代で2ヶ国ずつほろぼす
というならわかるんですが。
・滅んだ国の王族ってどうなっちゃったんですか。
>>228 呉越:塩、鉄 歩兵の機動力(当時の戦車戦は戦える範囲が極めて限られていた)
あとは都市国家が未発達だったためか、はじめから領域国家的な思想だったらしい
そのため、中原の常識に縛られない行動を取ったこと
秦 :始皇帝が帝位についた時点で、秦は巴蜀、関中、さらには三晋の西部、かつての楚の
都だった郢のあった地域、斉まで直接侵攻できるくらいまでに領土を広げていた
韓は虫の息、魏も疲労困憊、趙は言わずもがな、燕は暗君が続き自滅、斉は各国との
連携に消極的で、楚ももはや昔日の面影は無かった
この状況は後世の漢や唐が旗揚げした際よりも遥かに恵まれていると思うんだが
滅亡国:首チョンパ、あるいは逃亡
衛の国は二世皇帝の時代まで残ってた、何でだろう?
230 :
世界@名無史さん:02/09/07 11:26
ありがとうございます。
(始皇帝即位時、もうそこまで平定してたのか…)
231 :
世界@名無史さん:02/09/07 11:27
秦崩壊時、あっちこっちで王族の子孫が擁立されたが怪しいもんだね。
>229
史記世家によればすでに濮陽の主でしかなくなっていた衛君は、
魏滅亡の際に野王県に領地換えされたとある。
んで、二世皇帝に潰されると。
秦も地方豪族の類まで潰してまわったわけもないし、
各国が衛を潰し忘れてるうちに、
そこまで衰弱していたのが幸い(?)したのかな?
233 :
世界@名無史さん:02/09/07 12:38
どんなに出世しても子孫が族誅されたら、さみしいね。
234 :
中華@名無史さん:02/09/07 13:39
>>229 東洋には、”月満ちれば次は欠けて行く”と言う様に、完璧に事を完成させて
しまうと、次は衰退して行くだけだ(余り良く無い)と言う様な思想が有ります。
だから完全に天下統一をしてしまうと、後は国が縮小の道を進むのみ、と言う
考えから、敢えて統一を未完の物としたのです。
ちなみに他の同様の事例は日本にも有り、それは日光東照宮の本殿が、余りにも
素晴らしい完成度なので、後の災いを危惧して、わざと柱の一本が上下逆に
成って居る、と言うエピソードです。
その言い伝えが本当だったのかは定かでは無いですが、余りその事に気を留めずに
統一を完成させてしまった二世皇帝は、滅びの道を突き進みましたね?
235 :
世界@名無史さん:02/09/07 14:59
「春秋時代」、「戦国時代」の代表的な勢力図はよく見ますが、もっと細かく
時代の変遷とともに勢力図を追っていきたいのですが、そんなサイトご存知で
したら教えてください。
秦の始皇帝即位時、とか、晋分裂時の勢力図なんて見てみたい。
>>229 逃げたって例えばどこに逃げたんですか?
>>237 逃げた場所がわかるようなら、逃げたことにならない罠
239 :
世界@名無史さん:02/09/08 15:33
>>236 そのサイトはいまいちだなぁ
235はもっと、いろいろ出ているサイトを希望しているんだろ
>>235 安易に回答を求めるより、自分で調べてみるのも悪くない。
戦国期の七ヶ国の勢力版図でいえば、とりわけ三晋の境界線などは常に
目まぐるしく交錯し、一定していない。
たとえば、魏の旧都・安邑にしても、秦に陥落させられて後も、外交などの
末に返還や割譲が幾度もあり、その都度、境界線は入れ替わる。
韓の上党や河水西岸域なども、随時にわたって領有国は変化している。
史書や文献と、ある程度の詳細な当時の地図を見渡しながら、考察・検証を
試みるのも悪くない。
『史記世家』や『史記-秦本紀』だけでも、それなりに理解はできると思う。
ひとつ挙げれば、『漢書-地理志』に、晋分裂後の三晋の獲得した地名が略記
されている。
241 :
世界@名無史さん:02/09/08 16:53
結局みんな知らないんだよ
>>241 下らん煽りはやめろ。お前は自分の知能のなさを知らしめて楽しいのか?
>>242 俺も実はよく知らないから偉そうなことは言えないなあ
ここの住人ならきっと信陵君に叩きのめされた後の秦の版図も分かるんでしょうな
煽りはこれくらいにしといて、実は都市国家が完全に解体してないから
国境線の確定は不可能という現実が俺たちの目の前には横たわっていたりするのは禁句ですか?
そもそも趙は邯鄲を度々秦に攻略されているが、少なくとも国境線が厳正に存在しているなら
もっと対応の仕方があったと思うぞ
うう、分かりにくくてスマソ
>>238 スマソ 237(リアル)です。
もし私の浅はかな質問について調べてくださった方がおられたらどうもありがとうございます。
この質問は無視していただいて結構です。鬱死
>>237 私、みっちりと読みこなしてる訳ではなんですが、私が「史記」を
読んだ範囲では、たいていの君主って、殺されてませんでしたっけ?
「逃げた」って記述の記憶がないような…
>皆様
次は、呉越の興亡と、更なる強大化の可能性がなかったか、あったとしたら
どういうところか、について、妄想いたしませんか?
246 :
世界@名無史さん:02/09/09 09:58
日本に逃げて九州あたりで集合、東上して大和王朝を築いた。
248 :
世界@名無史さん:02/09/09 10:19
そうとも言えんだろ
秦の統一、漢楚の戦い時、多くの人が朝鮮・日本に移住しているわけだし。
ごめんなさい。
>>246が、呉越の滅亡後のことをおっしゃってる、と勘違いしてたもんで。
>245
秦末漢初の動乱で各国の王族の類がわらわら沸いてきた辺り、
何か重要な役職の人でもなければ、没落するに任せてたのでは?
ageついでに、、、
>>250さんのご意見に対してですが、旧王族って各地方にては住民に擁護
されていたとか?
王族といえば、妻妾を大量に抱えていたでしょうから、その子孫たるや
膨大な数になっていた可能性もありますね。
女性の出身が高貴でなければ、その子に「跡継ぎ」レースへの参加資格も
与えられず、市井に没してしまうことも多かったのではないでしょうか?
私が名乗りのネタにさせていただいてる田単が擁立した斉の襄王にしても、
大乱で、太子も殺害されて、お鉢が回ってきたようなことを、宮城谷氏は
書いておりましたね(史記では太子になっていますが…)
羊飼い?が「楚王」だもんな〜、、、自称も多いんだろうなぁ。
254 :
世界@名無史さん:02/09/10 10:19
>>248 飛び入りのレスですまないけど、斉の国都であったリンシの後からでてきた春秋戦国時代の白骨群と日本人のDNAが一致するとかなんとかという話があったよね。
あと、日本の稲はDNA鑑定の結果、半島経由ではなく長江流域から来たという説が濃厚・・・というのは有名な話。
255 :
世界@名無史さん:02/09/10 10:51
>俺も実はよく知らないから偉そうなことは言えないなあ
>ここの住人ならきっと信陵君に叩きのめされた後の秦の版図も分かるんでしょうな
まじで、そういう「勢力図の変遷」がわかるサイトどなたか教えて。
あまり、ぱっとしたのがないんだよね。
ゴミみたいなサイトは山ほどあるんだが…
256 :
世界@名無史さん:02/09/10 10:51
曲阜には孔子の子孫が推定で三千家族ほどあるそうで。
>>255 私も色々と検索したが有りませんでした。
何処までの詳細性を求めるかにもよりますが・・・
>>255 オイオイ、そんなに簡単にいうかね。
それならまず藻前さまが調べてつくれという罠。
259 :
世界@名無史さん:02/09/10 15:16
漏れも勢力図や系図に興味あるけど…
確かになかなかいいとこ見つからないね。どなたか教えておくれ。
260 :
世界@名無史さん:02/09/10 15:31
そういえば、衛は、竹書記年とかで調べてると、統一前に滅んだとか聞いたけど?
261 :
世界@名無史さん:02/09/10 15:53
263 :
世界@名無史さん:02/09/10 16:36
>>261 きれいでとってもわかりやすいサイトでした。
ありがとん。
再び237です。皆様ありがとうございます。
やっぱり日本に来たんじゃないかと少し期待してしまいますよね。
>>261>>262>>263 どうも『史記』を信用しすぎに感じた。
六国年表や『竹書紀年』などを見ればわかるが、斉の威王、宣王、?王にくわえ、
宋と魏の君主の在位時期と期間には史書によってずれがあるのは周知の事実。
管理者の苦労は、十分にしのばれる。
失礼。
「?」は、「?(ビン)」です。
267 :
世界@名無史さん:02/09/11 08:13
最近はじめて春秋戦国志を呼んだんだけど戦国末期に
みんなが秦を恐れて右往左往するのっておもしろいね。
いきなり、始皇帝が現れて、均衡を破って統一したの
かと思ってたけど、そうじゃないんだね。
秦はもともと強かった…。
ところで、始皇帝が呂不イの子であって秦王の子でないって
のは信じてよいの?
>>267 忠父(呂不・)の子と思います、、、そのほうが楽しい。
訂正
忠父→仲父へ
270 :
世界@名無史さん:02/09/11 11:54
韓・魏・趙に国を奪われた晋公は、その後臣下の礼をとらされたってほんと?
その後どうなったの? 一族は残ったの??
なんか悲哀を感じるなぁ…、織田信雄みたい。
271 :
世界@名無史さん:02/09/11 11:55
>>261 とってもGOODなサイトですた。サンキュー。
もっと他におすすめあったら是非是非!
>>270 前453年に三晋に分割してより、晋は絳と曲沃のみの領有となり、晋の幽公の
時代(前438〜420年)には、三晋の君主のもとへ参朝するまでに権威は失墜して
いた模様。
以降も細々と生き残っていたものの、前376年に三晋に完全に滅ぼされ、晋公は
平民に墜とされた。
ただ、晋の国都はかなりの規模と堅固さを誇っていたらしく、韓が20万の兵力で
攻略を試みながら大敗したと、『史記-楚世家』にある。
273 :
世界@名無史さん:02/09/11 21:42
平民かぁ… 悲哀…
王のままでいたら、韓・魏・趙のように始皇帝に皆殺しにされただろうから…よかったかもね。
274 :
世界@名無史さん:02/09/12 08:25
平民とはいっても、裕福だったんでしょうね。
各国の勢力分布図及び王族のその後について盛り上がっておりますが…
勢力図については、変遷もあることですし、ちょいとこの場で取り上げるには
無理があるような…
そこで話をそろそろ戻していただいて…
呉、越の興隆の原因、そのまま大国として発展する可能性はなかったのか
等について、皆様のご意見をお伺いしたいのですが…
276 :
世界@名無史さん:02/09/12 09:21
盛り上がってるんだったら横槍入れんなよ
277 :
世界@名無史さん:02/09/12 09:27
「呉 越」って斉と楚の緩衝地帯?
278 :
世界@名無史さん:02/09/12 09:36
良スレに角を立たせないように黙ってたが
田単の仕切り厨ぶりちょっとウザい
>>278 田単さんもスレ主(異国に行かれた模様)に後事を託されている経緯がある
し、277のレス位で一段落ついたと思われたんでは?
訂正
277→274へ
どーも最近、間違いが多いです(申しわけ有りません・・・)
いっそのこと、複数の論題を並行させても良いのでは?
>>9にあるように、前スレより消化不良の論題もあり、単独の論題に拘ることで
スレの閑散をまねくことも考えられるかと。
依然として、以下の論題も残っているので、参考までに、いちおう…
・「三晋の祖…六卿時代…四卿時代…晋分裂…に至る過程と勢力状況
各卿の支配地域の変遷、家格の相互的変位」
※元来は世襲ではなかった六卿が、如何なる過程で六家の独占となりえたか?
何ゆえ荀氏一門からだけ、中行、知の二氏が六卿を輩出したか?
韓氏だけが公族の中で没落しなかったのは何故か? …などの論点、多々有。
・「西周末期-鄭の桓公・友の遷都と再建国に対する整合性と疑問点および
鄭武公・掘突の戦略・戦術面における検証」
ひとつめなどは、
>>255にもあるように、戦国期と合わせて検証の余地があるはず。
スレ主に対し僭越ながら、とりあえず提起。
>>278 >田単の仕切り厨ぶりちょっとウザい
左様ですか、不快感を与えたことは私の不徳の致す所です。
>>278さんはじめ、
不快にお感じになった方々に、深謝致します。
>>279 5さん、かばって下さって有り難うございます。
>>281 前スレ142子
晋の分裂って、前スレからのテーマでしたね。質問があって、私が142子を
けしかけた記憶がございます。引き続き、ご研究のほど、お願い致します。
また、ここで皆様のご意見をお伺いするのに適したテーマであるとも思われます。
ご参加の皆様に依存がなければ、取り上げたいですね。
適切なフォロー、有り難うございます。
そもそも、ここは掲示板なんですから、流れに大きな乖離が発生しない限り、
「仕切る」必要などないのかもしれませんね。
以降は、基本的に私も議論のみ参加、というスタンスで臨ませていただきます。
♪時の流れに身をまかせ〜、っと。
284 :
277ですが・・・:02/09/12 12:16
呉 越ってそもそもどうやって興りましたの?
教えてほすい。
285 :
世界@名無史さん:02/09/12 13:10
>>284 呉は古公檀父の長男・太伯と次男・仲雍が弟の季歴(文王の父)に位を譲る
ため周を出奔し立てた国。(従って呉は姫姓の正統、周は傍系)
越は夏の六代少康の息子が禹廟を守るため会稽に封じられたのが始まり。
ってのは良く有る「言った者勝ち」の類で、あの辺はもともと倭族(縄文人)が
住んでいた。
286 :
世界@名無史さん:02/09/12 13:19
287 :
世界@名無史さん:02/09/12 13:39
頼朝の子孫を名乗った島津のようなもんか… 同じく辺境だし。
【呉】
殷を打倒した周の文王・姫昌の祖父を古公亶父といい、彼は末子の季歴の
子―つまり孫である昌を後々の後嗣にと思い、父の意を察した長子・太伯と
次子・仲雍は自ら周を離れて江南の荊蛮の地に赴き、住民の支持を得、呉を
興した。無論、周は季歴…昌と継いでいくことになる。
また、太伯に後嗣が無かったため、後を仲雍とその子孫が継いでいくことに
なったようである。
ちなみに、春秋期に晋献公(文公・重耳の父)に滅ぼされる?(カク)と虞のうち、
前者は周文王である姫昌の弟の家系であり、後者は仲雍の子孫の支流によって
興った国である。
【越】
越は禹の後裔らしく、夏の六代少康の庶子・無余が、禹廟を祀るために会稽に封じられた
のが始まりらしい。
…と書いたが、呉や越の記述は眉唾といえる部分も多く、真意のほどは不明。
『史記家世』や『史記本紀』には、簡単なあらましがある。
>>286 古公檀父とか、その息子達っていうのは、商(殷)王朝終りごろの人です。
古公檀父が、末の弟の季歴に跡を継がせたいと考えているのを知って、
ともに周の地を離れ、当時未開の地とされていた呉へ行った、というものです。
越の祖である夏というのは、商(殷)王朝の前の王朝です。
黄河の治水に成功した禹が舜から国を譲られて建てた王朝です。
>>287さんの例えって、適切ですよね。
でも、島津って、頼朝のころにはもういませんでした?
290 :
277ですが・・・:02/09/12 14:07
>>287>>288>>289 あんがと!
呉は少し信用してもいいみたいだけど、越はかなり手前味噌の感じ
を受けます。
斉と楚の緩衝地帯で、斉とか楚が作った国じゃ無かったんですね。
勘違いしておりました・・・(汗
291 :
世界@名無史さん:02/09/12 14:30
秦以外の六国が女尊男卑だったという説もあるよ。
292 :
世界@名無史さん:02/09/13 08:57
age
293 :
世界@名無史さん:02/09/13 10:47
もともと蓁の領土は肥沃な地には思えんが、、、蜀を手に入れたのが大きい?
295 :
世界@名無史さん:02/09/13 11:30
もし、秦が先に韓を制圧していたら?
>>295 バックグラウンドが確固としたものでない段階で例えば韓を併合したとしても、
腹背から攻撃を受けやすくなり、防衛が大変だったのではないでしょうか。
その部分だけ中原へ飛び出した領地になる訳ですからねぇ。
>>295>>297 蜀の併合と韓の攻略を巡る議論の際、司馬錯は韓を伐つ不利を説いている。
韓を伐つことは周を刧(おびや(原文より))かすことにつながり、周室の威光が
(後代に比べて若干は)残っている以上、韓、楚、魏、趙の合従をまねく事は
必然のうえ、国際間での孤立化を招く危険性があるといっている。
現実的な角度からいえば、韓はこの時期、依然として宜陽という邑を有しており、
「名は県といえど実質は郡に相当」といわれるほどの大規模である。
無論、上党郡や南陽地方も健在であるため、この時期の秦の国力では、韓制圧は
全くの無謀としかいえない。
ちなみに、蜀の攻略には10ヶ月を要し、おおよそ10年後の武王の4年、甘茂が
宜陽を攻略するのだが、一邑の攻略に6ヶ月もの月日を要した。
299 :
世界@名無史さん:02/09/13 14:42
てことは?
蜀を手に入れる前なら蓁を討てた!?
どうなんでしょーかねェ?
300 :
世界@名無史さん:02/09/13 14:43
低俗ながら300get
>>299 合従すれば、可能だったのでは?
ただし、強烈なパワーのあるトップが率いるのでないと、烏合の衆と
化して反撃を食らうのがオチかと…
302 :
世界@名無史さん:02/09/13 15:00
ずーっと↑にあったけど・・・函谷関で防備されると苦しいのでしょ?
具体的にはどないしましょう・・・・。
>>299 たしかに、後年、斉が滅亡に瀕して、二強時代が終焉してからの情勢と比較
するなら、可能性は極僅かながら、あるのかもしれない。
とはいえ、秦の絶対的な優位性が確立していない以上、他の国家群が合従に
どこまで肯定的になるか、かなり疑わしい。
というのも、楚は秦と同様に周室の九鼎を欲しており、軍を催して北上する
ことが度々あり(『戦国策』に詳しい)、また、秦に対しての危機意識がある
にもかかわらず、結局は諸国の利害が一致していない。
斉は宣王の時代(『史記』では閔王期となっているが…)であり、軍事行動には
積極的ではない。
趙は中山の攻略に精力を傾倒しているさなかで、燕は荒廃し、韓や魏は論外。
最も問題になるのは、張儀によって斉楚を離反されたことかもしれない。
304 :
世界@名無史さん:02/09/13 15:31
>>303 ども!
成る程、、、蜀を併呑する前の蓁は中原にとっちみればそんなに脅威
には映らんかったかもね。
中原で足の引っ張り合いしてる間に国力UPて感じですか。
んでも、蓁は全ての面(人材 周辺事情 etc)で実に恵まれてるね。
305 :
世界@名無史さん:02/09/13 15:38
辺境から次世代の雄が出るのはよくある話。
妙な儀式や権力構造に足を引っ張られることなく、先進国のいいとこだけ
まねして、追いつけ追いこせで頑張れるし。
>>304 >んでも、蓁は全ての面(人材 周辺事情 etc)で実に恵まれてるね。
ってことはないと思われますが…
特に人材面は、秦にはこれといって目立った人材がいなかったのでは
ないでしょうか?それゆえ、外部人材の登用に努めざるをえず、それが
うまく的中して富国強兵を成し遂げた、という感じがします。
恵まれなかった(短所)ことを、かえって長所にしてしまった、という
感じに思えます。
>>306 挙句の果てに国を他国の商人に乗っ取られたんだけどね
自由な人材登用のマイナス面がこれだろうな
308 :
世界@名無史さん:02/09/13 16:59
「先祖代々の名門」がふんぞり返り、国の中枢に愚にもつかない
ヤシがのさばれないのは良い事だ。
309 :
世界@名無史さん:02/09/13 18:09
もし、秦が韓を制圧してから蜀に侵攻していたら?
>>309 蜀を併呑した後でないと、韓を制圧するほどの国力はなかったのでは?
さて皆様、前週末にも申し上げたとおり、私会社のPCですきを見て
シコシコ打っておりますが、3連休でございますので、レスできません。
落ちていたら、上げておいて下さいませ!
311 :
世界@名無史さん:02/09/13 19:00
>>11 >ただし、ガリシア語はボルトガル語ににているそうです。
galego-portuge^sがガリシア語とポルトガル語に分化した。
現代のガリシア人とポルトガル人は通訳を介せずに会話も可能。
紀元前3世紀末以降: ローマ人がイベリア半島に現れる〜俗ラテン語
5世紀から8世紀: galego-portuge^sが成立
13世紀初頭: galego-portuge^sの最古の文献
14世紀中葉: ガリシア語とポルトガル語と区別するに足る音韻上・文法上の差異が認められる初めての文献
スマソ!誤爆!
313 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:22
こまるなぁ〜
314 :
中華@名無史さん:02/09/15 01:12
315 :
世界@名無史さん:02/09/15 19:30
なかなかマターリしてて良いスレですな
連休明けage
ところで、晋の分裂ってやはり「リ姫の乱」とその後の混乱で公族が
かなり消されてしまったのが、家臣の台頭を招いたことが原因なんで
しょうか?
文公の血筋って、そもそも分家ですしね。
公族がいっぱい→分裂
公族が殲滅→家臣台頭→分裂
結局分裂しるという罠
>>317 前544年に晋を聘問した呉の季札、前539年の叔向、前525年に晋に訪れた魯の
子服回(昭伯)が、晋の衰亡を予見したことは有名かと思われる。
晋の分裂を招いた原因として、六卿の台頭が大きな要因であるのは、おそらく
間違いない。
ではなぜ六卿(後年には四卿)とよばれる氏族が君主の威権を脅かすまでに
至ったかといえば、軍事力と広大な支配領域…翻って晋の公室の直轄領土の
漸減…にあるのではなかろうか。
晋には、魏、韓、趙、荀(中行、知)、士(文家が范)の六氏の他に、それより
以前から、欒、郤、先、狐、伯、羊舌、胥などの有力な氏族が存在していた
のだが、次第に淘汰され、それらの支配地域を既存の氏族が吸収していった。
氏族間の私闘や君命によってなどの内乱後に、勝利した氏族が邑を加増される
結果が多いが、たとえば前514年に羊舌氏とキ氏が滅亡するが、両氏の領土を
十分割されて分与されている。
また、前497年には范氏と中行氏が内乱の末に敗れ、遺領を残った四氏で分割
されている。
これらが繰り返されれば、いやでも氏族の勢力が増大するのは自明。
くわえて有力氏族の少数化につながるため、互いに均衡して、もしくは最有力
氏族が国政を壟断する、という結果になったのではなかろうか。
無論、悼公以後、凡庸な君主が続いたのも要因のひとつかもしれないが、君主の
器量如何で、容易に封建制貴族社会における君主がうける弊害を排除できるか
といえば、無理な話。
史書をみると、四卿、とりわけ趙氏の領有する邑の数がかなり多い。
…纏まりが悪いが、いちおうはこんな感じ。
320 :
世界@名無史さん:02/09/17 13:14
戦国時代に「知氏の領土は今の秦より大きかった」という発言があるから、
魏韓趙の三氏以外の滅びた氏族の旧領は毎回知氏のものになり
晋の内部はほとんど知氏の領土だったのだろう。
魏韓趙は実は知氏の滅亡により突然強大になった可能性もある。
>>319 いつもながら、適切な解説、有り難うございます。
しかし、普通家臣のお家取り潰し、となれば、君主の直轄領となりそうな
ものなのに、そっくり家臣にいっちゃったんですね。家臣の叛乱→制圧→
領地の公収→手柄のあった部下に加増、というのが普通の流れだ、という
のは、後世の私どもの勝手な思い込みなんでしょうかねぇ。
322 :
世界@名無史さん:02/09/17 19:53
豊臣秀頼(主君)と徳川家康(家臣)みたいなもの? かな
豊臣は一応主君なのに関ヶ原の戦いで一層弱体化し、
逆賊の西軍を討った、一応家臣の徳川領は大きく増えていった…
(西軍の領地は全部徳川によって分配されてしまった。)
323 :
世界@名無史さん:02/09/18 08:27
ageついでに、、、
>>322 そんな感じですな。
主君の求心力がないと言うか有力者の為すがまま・・・。
>>321 遅まきながらも、補足というか説明不足な点を、もう少し。
前574年に郤氏が滅亡した際、続いて詞も弑されるのだが、この一連の件を
裏で総覧していた卿である欒氏は、加担した中行氏と共に、郤氏の遺領を接収
したのかもしれない(史書には明記されていないが)
郤氏の主な邑といえば、駒、冀、温などのほか、諸大夫から奪ったものがある。
ついでに
>>319にある羊舌氏とキ氏の遺領に関しては、公室が一旦は押収した後、
同年に没した韓起に代わって宰相となった魏舒により公正に分配された模様。
拙いレスとなり、大変に失礼を。
325 :
世界@名無史さん:02/09/18 16:58
良スレなんだろーね。
興味は有るんだけどねー。
レベルが高すぎるんで無い?アカデミ板なんで別に良いんだが。
>>325 そう硬くお考えにならず、どうぞご参加下さい。
私も進行係を任されていますが、全訳物の平凡社の「史記」程度が
ベースで参加していても、このスレの住人は罵ったりせずに、暖かく
フォローして下さいますから。
ですから、その時の流れをきにせす、聞きたいことがあれば聞いて
下さい。きっと前スレ142さん他の有識者が答えて下さいますよ。
しかし、晋って、大国というイメージがありますが、宮城谷「重耳」を
よむと、文公の祖父の代(本家と分家が争っていた時代)は、そんなに
大国であるようには書かれていませんね。
むしろ、私なんぞが弱小国と思っていた「カク」(字が出ない)なんぞ
を、大国として扱っていましたが、実態はどうなんでしょうね。
328 :
世界@名無史さん:02/09/20 12:13
そうそう、、大国の根拠って何なんでしょね?
昔の事だから具体的な数字は出ないよね?
その国の首都である都市の城壁の高さとかだったりしたら、何か子供っぽいなあ(w
人口でいいんじゃない?
晋が大国化したというより、もともとあった大きな部族が中華の枠組みに突如組み入れられた
印象が強いんだよな
部族連合的な要素を初めから持っていたために、力のあるワンマン君主が死んでしまうと
部下たちが権力争い始めちまうってのは元朝と一緒だな
>>329 人口って判ってたのかな?
城邑の数とかの方が判りやすい?或いは版図?
>>330 人口は分かってたんじゃないですか?
蘇秦なんかが国王に意見をいう時に「貴国は人口○○万、兵隊がなにがし…」って
やりますよね。ということは、わかってたんだと思いますが。
>>327>>328>>329 偶然に見かけた『漢書‐地理志』によれば、五つある周爵ごとに国土の広さは
定められている。
「公・侯は百里 伯は七十里 子・男は五十里」…とあり、これが規模を表す
基準のひとつだったのではないか(もちろん、ただの推測…)
無論、これらは春秋期においては意味をなさない。
次に、『周禮』には、周代における軍制が記されており、国の規模によって
保有できる軍事力が定められている。
「王六軍、大國三軍、次國二軍、小國一軍」…とある。
(周知とは思われるが、一旅500人、一師2500人、一軍12500人である)
国の規模を定める基準に関しては、現在は未詳…。
晋は文公(重耳)の祖父(武公)の時代、すでにいくつかの衛星都市を有するも
一軍を保有するのが限界であり、献公(文公の父)16年(前661年)に2軍を設け、
同年、霍、魏、耿の三国を滅ぼすに至る。
(最盛期には西は河西、北は蒲以北、東は河内に達した)
春秋初期の国は、一城一国の小国が大半であるから、献公の時期の晋では、
複数の衛星都市を有しているところから次国程度の規模なのではなかろうか。
ついでながら、晋は前655年に?(カク)と虞を滅ぼし、前633年には3軍を、
前629〜621年までは5軍を保有し、前588年には遂に六軍を設けた。
前560年以降は、従来の3軍に落ち着いた模様。
>>332の続き
?(カク)については、『国語』『春秋左氏伝』『史記 鄭世家』によると、
周幽王の時代、三家で連携しつつ個別に運営されていたらしく、黄河南北の
両岸に、上陽と下陽という規模の大きな邑を造っている。
(?(カク)は周の文王の弟から発した名門中の名門)
また、幽王死後の春秋初期には鄭の武公に十邑を与えており、かなりの勢力を
有していたものと思える。
晋も武公の時期には度々、本家と分家の争いに軍事介入・制裁をうけているなど
かなりの脅威であった模様。
(前705年には、?(ゼイ)、梁、荀、賈の四国を率いて討伐に来た)
最終的には、晋の献公が2軍を設ける時期と相前後して、下陽に続いて上陽(首都)も
落とされて、滅亡する。
かなり短時間で纏めたので、おおまかではあるのは、どうか御了承を。
>>333 そうですか、「カク」ってそんなに由緒のある国でしたか。
それなら、そこそこの力を(領地)を与えられていてもおかしくは
ないですね。
「カク」は晋と対立していましたから、結局滅ぼされる結果になった
わけですが、虞については気の毒ですな。まったくのだまし討ちの
形ですもんね。
さて、また3連休ですね。MyPCをお持ちの方は、スレが下がって
おりましたら、上げておいて下さいますよう、お願い致します。
なにせ、先の3連休には、他の板で突然消されてしまった下位スレも
ありましたから…
335 :
世界@名無史さん:02/09/20 22:07
<?> でるかな?
336 :
世界@名無史さん:02/09/20 22:10
だめだった・・・・<爪+寸+虎>=カク
337 :
世界@名無史さん:02/09/21 00:07
晋の話題が出ているところで、一つ疑問があるのだが。
史記には、晋は姫姓であると言われているけど、実際はどうなんだろう。
姫姓の国にしては、やけに同姓の国を滅ぼしているような気がする。
というより、同姓の国を滅ぼして大きくなった様な印象を受ける。
当時の概念からすると、かなり異質の国だと思うんだけど。
338 :
世界@名無史さん:02/09/21 00:26
一族間で代々殺し合いをやってるうちに
同姓を殺し滅ぼすことに抵抗が無くなった。
周りに同姓の国が多かった。
公位をめぐっての一族間の殺し合いは結構あるけど、2つの国に分かれて
長年殺し合いをした例はそんなに無いのではないかと。
殺し合いって言っても曲沃側の一方的な虐殺に近いけどね。
>>337 そう言えば宮城谷氏もそんなこと書いてましたな。唐という名前から晋に変わった
こともおかしいとか・・・でもそうすると、晋室から分かれた韓などは姫姓でなく
なるということになるのかな。
ところで?って二つか三つに分かれていませんでした。(小?とか・・)
>>336 漢字は部首変換の「とらがしら・とらかんむり」のところにありますよ。
前スレにちょこっと書いた、王子成父について少し解ったので流れに逆らう
様ですが、かいときます。
呂氏春秋で、王子城父とかかれ、菅仲に平原の戦いにおいて名将であり自分より上
と推薦され大司馬に任命されて斉が覇国になる大きな要素の一人であるとされている
ほかにも、菅仲は4人の人物を推薦していて、はじめてみる人も数人。桓公時代の
臣下は菅仲、鮑叔、隰朋くらいしか知らなかったので新発見でした。よく見たら「韓非子」
にも出てました。「新序」にも出ているようです。
王子という姓は韓非子では公子とあり、公族の一人らしいです。鄭の荘公の子供が金文で、
王子とかかれているようなので、覇者の子は王子と暗黙の中で称していたのでしょうか。
そうすると、桓公の子かなと推測できるので、結構若くして出世したのでしょうか。
しばらく来ない間に色々と進みましたな。新しい人もいて活気付いて良しです。
>>339 お久しぶりです。
王子成父については、たしか『春秋左氏伝』にも僅かに記述があったように記憶
しています。
また、『史記 斉太公世家』の斉恵公2年(前607年)の項に、王子城父とみえます。
「長?(テキ)」の侵入を退けたとあり、斉桓公の時代とは半世紀ほどの隔たりが
あるので、誤りなのではないかと。
桓公の公子であるかは、かなり疑わしいかと。
>>339 もう少し調べてみたところ…
王子成父に関して、『春秋左氏伝』(公羊伝、穀梁伝にも記述有)の魯文公11年
(前616年)にあり、そこでは斉襄公2年(前696年)の事跡が記されている。
(ついでながら、『晏子春秋』でも、一箇所のみ確認)
…ということは、やはり桓公の子ではなく、仮に斉の公族であったとしても、
襄公や桓公の父・釐公の子ということになるが、これも疑わしい…。
春秋戦国時代ではないけど、晋の初期に関して色々思った事。
お題は「唐=晋陽か晋」か。
・初封地の唐の方向には商の箕邑があったがどこに消えたのか?
・唐叔虞に与えられた懐姓の氏族は後の隗氏・介氏に通じるのでは?
・唐叔虞は戎の尺度を用いて政治をしたというが、晋陽付近にいたのはテキでは?
(晋の辺りだと季歴がさかんに戎を討伐してる)
・唐は伝説の地ではあっても夏の勢力圏の遥か北(←?)
・晋は確実に夏の勢力圏(付近に二里頭期の遺跡がある)&周の故地
・晋とは唐=晋陽のことなのか南遷先の晋なのか。
・唐叔虞の直系ではなく庶子が晋に封じられたという可能性は?
何だか、すさまじいレベルのスレになってきているような…
落ちていたのでage。
PCのハードがやっと直った!
記念の書き込み。
>>341,342
補足ありがとうございます。とすると、覇者のいた国の公子はとりあえず王子と
僭称したのでしょうか。推測の域を出ない・・・
以前、各国の言葉の違いについて
>>37あたりにあったので資料をさがしていたら
顔氏家訓に音辞第十八というものを見つけたので、そこにある春秋戦国に関係あり
そうな所があったのでそれについて少々。
顔之推ははじめに、昔から言葉には地方差があり、春秋戦国に至り初めて方言とし
て明確化されてきたといっている。その例として春秋の斉方言の伝文があり、離騒
は楚方言の古典であると。初めてそれ訳す基準のような書物ができたのが後漢の中期
から後期にかけて「説文」や「釈名」ができてからのようです。その後晋(司馬氏)
の東遷で南部に北方の方言が本格的に貴族や社会的地位の高い人に伝播したようです。
先に揚げた春秋の斉方言の伝文はどうやら公羊伝のようであり、隠公五年の「登来」
の文字は「得来」、桓公六年の「化我」は「過我」の訛りらしいと注に書いてありました。
その他にも南方の方言がちらほら載っています。私の持っているのは訳文だけなので
不正確かもしれません。
これ以上は大学の勉強に支障をもたらしそうなので、歴史を専門に勉強している方の
更なる、補足を望みます。
>>346の続き
意思疎通について、講談社学術文庫の「古代中国」(旧「中国の歴史」)では
戦国時代の竹簡の文字を比較すると中国全土に渡る統一的な筆記体がどう
やらできていたらしく、著者は戦国時代の遊説家は文字により自説を発表していた
と推測しています。
しかし、晋の他国併呑ぶりは、かなり凄まじいものがありますね。
この感じでは、宮城谷氏がいうように、姫姓の国ではないような
気もします。
そういえば、宮城谷「晏子」では、斉軍は晋軍に勝ったことがない
ように書いてありましたが、それだけ晋軍が強く、それで他国を
滅ぼすことができた、って感じなんでしょうか。
349 :
世界@名無史さん:02/09/25 17:30
楚の侵略ぶりもなかなかすごいぞ。
>348
晋といっても成師の家系は本家を絶えず脅かして、
周王朝の派遣した遠征軍にも屈せず、ついに本家を滅ぼしたような家。
同姓の国々を滅ぼしまくるのに抵抗がないのも自然なんでは?
351 :
世界@名無史さん:02/09/26 06:30
352 :
世界@名無史さん:02/09/26 09:31
日本の源氏の歴史や、戦国時代などを見ても、親兄弟で殺し合いやっているし、
叔父や親戚なら遠慮の「え」の字もなかった…
当時の思想、中国の思想で同姓には遠慮するなんて思想がそもそもあったの?
354 :
世界@名無史さん:02/09/26 10:28
>>352 おおあり。
どれだけ遠戚や遠類であっても、同姓での婚姻は禁止。
基本的な通念からしても、日本の戦国時代は全く比較対象にはならない。
355 :
世界@名無史さん:02/09/26 10:42
結婚できない話(常識)はいいって…話がずれてる… でんたんうざい
354はちゃんと読んで回答すべし その理由もつけて
>>352 同姓の問題について考えるには周について考えてみるのが手っ取り早いと思う。
1中国の革命は易姓革命と呼ばれるように、血族に天命が降りたと考えられていた。
2周は元々農耕民族(異説あり)で集合体としての姫姓(姫族)としての連帯、排他性がもともと強かった。
3周王朝の黎明期に多くの同姓の人を封じて守らせただけでなく、その後の成王から穆王にかけての影響力の拡大に同姓の者が多く活躍した。
こんなことから同姓意識のようなのものの強さ考えられると思う。
つまり、周の建国には同姓のまとまりが重要であったと思われる。
ほかには、殷の時代から先祖を祀るなど血族に対する憚りの念が強い。秦の風俗
(死んだ父や兄の妻や妾を子や弟がもらうこと)を中原の国(主に姫姓の国)
が嫌悪していたことからもうかがえる。
そのことが周王朝が衰えた春秋時代にも残っていたと思う。
たぶん、「周禮」かなんかに同姓と結婚するなってことは書いていたと思うが持って
ないので、確信はなし。
史書にも同姓を大切にしたり、信頼するような、記述も多く「左伝」なんかを見ると
すぐ見つかるので、そのことからも同姓に遠慮することが見て取れる。
>>356の補足
周の封建の仕方を観ると、同姓を比較的中原に近い重要な場所から大河に近い
交通の要所に、異姓を辺境の蛮夷に近いところが多いということも同姓を信頼
していた根拠にしてもよいと思う。
どうも、晋だけが姫姓のなかで特殊ということは否めない。東周の初期、鄭が
周王とうまくいってないときにでさえ、鄭を擁護する周王の臣がいて、鄭、周と
もに手加減しているように史書は読める。小国を併呑するにしても晋以前は周王
が取り潰した国を有力な諸侯が自国に吸収して大きくなることが金文の記述から
わかる。
>>355 姜子の丁寧な説明をまつまでもなく、結婚できない=意識・遠慮あり、と
推測できると思われ。
「田単」くらい漢字でお願い(w
>>358 おおっ、君は誰だ?
人のコテハン使って、他の人からかうような書きかたして…
誤解招くから、止めてくれよ!
香ばしくなってきました。
361 :
世界@名無史さん:02/09/26 15:39
司馬遷が周と同姓だとしていた燕が、西周青銅器銘文の研究で
じつは異姓だったことが判明した例もある支那。
逆にじつは異民族だろうといわれていた呉が
伝説どおりに周と同姓だったり。いろいろだな。
晋もなにがほんとだか和歌乱。
ところで、春秋時代、晋と楚のはざまで揺れ動く国々の中に
鄭がありますが、鄭ってそんなに弱い国だったのでしょうか?
むか〜し、何かの年表に「鄭の小覇時代」って文字を見かけた
ことがあるような気が…
祭足って、鄭の宰相でしたよね?
春秋 戦国期って道は整備されてたの?
当時の道路事情が知りたい。
364 :
世界@名無史さん:02/09/27 17:57
>>363 ローマ帝国って、主要都市と石畳の道が通じていたんだよね。
中国はどうだったんだろう?
車両の幅を統一したのは始皇帝だよね?だから春秋戦国の頃は、
他国に戦車で攻め入ると、轍の幅が違って、走りにくかったの
だろうね。
そういえば、自軍の戦車が走りやすいように、占領地の畑の畝の
向きを変えさせたりしたんだよね?
365 :
田単 ◆1aR3Q.f2 :02/09/27 21:10
さて皆様、連休でございますので、自宅のPCでお越しの方、
落ちていたら上げておいて下さいませ。
>>361 晋国の移動は異民族によるという説が強いらしいです。確か曲沃(漢字は?)の跡地
あたりに晋の三代以降の墓が発掘されていて、徐々に大きくなっていると
>>347の本に
書いてあった気がする。
>>362 鄭は東周の初期は強かったですよ。桓公、武公と名君が続き人々からの人気もすごく
周の運営にも加わり名声を轟かせた。平王の東遷にも尽力してますし。鄭が国を移って
から荘公が覇者の先鞭をつけました。それを嫌がった周王(たしか荘王)はカクなど
と鄭に親征しますがやられて鄭の地位は確立したとされる。その後、荘公は他国の問題
を処理して覇者になりました。後半は左伝の初めにあります。しかし、荘公の死後、後
継ぎ問題などでごたごたして国力を減退させ、斉の桓公があれよあれよと覇者になって
しまいました。以後の鄭は知ってのとおりに・・
>>363 斉なんかは発掘によると、かなりしっかりした計画のもと都市開発が行われていたようで
そこから類推すると、都市部ではそこそこしかっりした道路整備が行われていたのでは?
しかし、農村部となると364さんも書かれているように、畝を変えさせられた例もあり
田圃道みたいのではないかと思う。戦国になると各国の人の移動が多くなり、貿易も頻繁
になり、外交官の往来もおおいので都市部や交通の要所は道路整備が発達したと推測。史書
にも町並みの素晴らしさを記したものがあり、それを証明している。道幅については各国の
内乱時に路上で戦闘が行われ(斉や鄭など)戦車が何台も立ち回っているとすると都心部では
相当広かったのでしょう。
ところで、春申君って何者?どこからやってきたのだろう。楚で黄氏って記憶にない。
ある概説書だと遊説家って言っているものもある。四公子の一人なのに公族との繋がり
がはっきりしない。わかるつながりは子供が楚王になったということののみ。
詳しい情報求む。あと、史書読んでも平原君のよいところもいまいち解らないのでそれも
求む。
>>367 春申君の出自に関して、『戦国策』では「游學して博聞なり」という記述しかない。
『史記 列伝』や『史記 世家』でもはっきりしない。
ただ、春秋時代の初期に、黄という小国が存在しており、この地の出身なのかもと
根拠の無い想像はしている。
>>367 平原君に関して、『史記 列伝』と『戦国策』を洗ったものの、賢明さの感じられる
記述はほとんど無かった。
例を挙げれば、田単を招いて燕との戦争に起用することの愚を趙奢が指摘した際に、
平原君は、自らでもってすでに田単の起用は孝成王の聴許を得た、と供述している。
結果は趙奢の憂慮したとおり、趙にとっては無益どころか大損の始末。
他には、長平戦役の原因となった上党郡の受領についても、平原君は賛同している。
范雎の仇敵である魏斉を匿った際にも、秦の怨みを買い、同地で拘束される危機に
陥りかけている。
毛遂自薦の故事はいうまでもない。
更に挙げるなら、魯仲連という有名な人物がいるが、やはり軽薄な言動があり、また、
媚態めいた接し方をしたせいか、魯仲連は半ば呆れ加減で趙を去っている。
総括するとその多くは、過ちをおかしかけた際に周囲の人間の言に救われる、という
もの。
おおよそ秀でた先見性をもつわけでもなく、状況に流されやすい人物であった模様。
状況認識に欠陥がある場合や、短絡的思考が目立つ。
他人の言を素直に聞き容れる点に関しては、美点といえるかもしれない。
>>363 春秋・戦国期における大規模な幹線道路の存在は、自分も聞いたことはないので
なんとも。
各国々において程度や規模の差はあれど、首都と衛星都市を結んだ街道網程度は、
もしかしたら存在したのかもしれない。
全国規模で統一化されたのは、無論、始皇帝が全土の主要部に張り巡らせた”馳道”
から、ということになる。
畝の向きを変えさせた話では、鞍の戦いで敗れた斉に対して郤克が要求した件などが
あったはず。
>>369 とすると春申君は古臭い楚のなかでは珍しく成り上がりものですかな。
平原君・・・やっぱりあまり見つかりませんか・・・ほかにも、税金の
滞納とか信陵君を罵って自分の食客を逃がしたり、しょうもないことやってば
っかだし・・列伝立ててもらうような人物でないような気も。「濁世の佳公子」と
は司馬遷の贔屓か?
食客使ったという点では呂不偉の方が評価できるしな・・・(呂氏春秋や甘羅など)でも、君でなくて候か。
もしかしたら、平原君って公子で無かったら凡人?食客集めも人気取りで本当は人物
が好きでなかったと勘繰りたくなる・・
どうも愚痴っぽくなるな・・
実は四公子の中では一番平原君が好きなんだよなあ
政治家としてはほかの三人には負けるんだろうけど
孟嘗君のところは能力を要求されるし(実力主義)
信陵君なんか「先生方、討ち死に覚悟で趙へ援軍を出しましょう」って玉砕命令出すし
彼は食客を兵隊扱いで集めてたのか?と思ったよ
春申君は傲慢だしなあ
彼のもとに人が集まるのって、去るものは追わず的なスタンスの心地よさにあったのかも
そういう意味では後世の劉備に近いものがある
戦争弱いところや、いかにも大人ってところが似てる
仕えるならこういうタイプの人がいいな
あ、平原君の一番いい所は自分を知ってるところかな
ほかの人たちは自分の出処進退を誤りすぎだと思う
君主に疑われないってのは結構大事なポイントでは?
373 :
世界@名無史さん:02/09/29 16:06
父系血統(異性不養)
>>339 王子城父について少し考えてみます。
王子成父について梁玉繩の「人表考」(二十五史補編)を検すると([]内は原注)
「王子成父は始めて左(傳)文(公)十一(年)に見ゆ、又た成甫に作る[晏子春秋の
問上、新序四]、又た城父に作る[管子の小匡、呂覽の勿躬、史(記)の齊・魯世家、
並びに古の通用字]、亦た公子成父と曰ふ[韓子の外儲説左]、亦た王子と曰ふ
[史(記)の律書]、案ずるに城父は何王の子なるかを知らず、韓昌黎(唐の韓愈)の
王仲舒神道碑・(鄭樵の)通志略は以て姫姓と爲す、魏王基碑は以て王子比干の後と
爲す[錢宮・(清の錢大マ)の金石文跋尾]、未だ孰れの是なるかを知らず」とあり、
ほぼ
>>339-342に指摘された出典を網羅しているようです。
「人表考」は「漢書」の「古今人表」列記の各人物の考証です。「古今人表」は
太古のフク(宀の下に必)羲氏から秦の閻樂まで、二千人近くの人物を上の上から
下の下まで九等にランク付けしたリストです。これだけだと後世の研究者にとり
さして有益な資料ではありません。「史記志疑」の著者の清の梁玉繩がその一人
一人について、どういう典籍に出所があるのか広汎精細に渉猟捜索したのが即ち
「人表考」で、先秦の人物について調査するのに非常に役立ちます。「二十五史
補編」(開明書局刊)に入っていて割と入手し易いのではないかと思います。
以下に各出典の原文を挙げることにします。
「春秋」の文公の十一年の經文に「冬十月甲午、叔孫得臣は狄を鹹に敗る」とあり、
「左傳」には「晉のロ(三水に路、赤狄の国)を滅ぼすや、僑如の弟の焚如を獲たり、
齊の襄公の二年にソウ(叟の右に大里)瞞は齊を伐つ、齊の王子成父は其の弟の
榮如を獲、其の首を周首の北門に埋む」杜預の注に「王子成父は齊の大夫なり」
また「公羊傳」には「狄なる者は何ぞや、長狄なり、兄弟三人、一なる者は齊に之き、
一なる者は魯に之き、一なる者は晉に之く、其の齊に之く者は王子成父が之を
殺し、其の魯に之く者は叔孫得臣が之を殺す、則はち未だ其の晉に之く者を知ら
ざるなり」、「穀梁傳」も同旨の言及しかしていません。
「晏子春秋」の「問」上に晏嬰が齊の景公に対して「吾が先君の桓公は身體惰懈し
辭令給せざれば、則はち隰朋がジツ(日偏に匿)侍し、............軍吏怠り戎士
偸(おこた)れば、則はち王子成甫がジツ侍す」と答えたとあります。
「管子」の「小匡」には管仲が齊の桓公に対し「升降揖譲進退に、辧辭の剛柔に
閑習するは、臣は隰朋に若かず、請ふらくは立てて大行と爲さん、...........
平原に廣牧に車は轍を結ばず士は踵を旋らさず、之を鼓して三軍の士は死を視る
こと歸するが如きは、臣は王子城父に如かず、請ふらくは立てて大司馬と爲さん」
と答えたとあります。
「呂氏春秋」の「勿躬」にも管仲が齊の桓公に対し概ね同旨を答えたとあります。
ただ文辞は細かい所で「管子」と異同があります。
「韓非子」の「外儲説」左下には管仲が齊の桓公に対し「辭に辯察に貨に清潔に
して、人情に習ひて夷(たいら)なるは、吾は弦商に如かず、請ふらくは立てて以て
大理と爲さん、登降肅譲にして明禮を以て賓を待つは、臣は隰朋に如かず、請ふ
らくは立てて以て大行と爲さん、.........三軍既に陳を成し、士をして死を視る
こと歸するが如くなら使むるは、臣は公子成父に如かず、請ふらくは以て大司馬と
爲さん」と答えたとあります。
「史記」の「律書」には「是の後より名士は迭(かた)みに興り、晉は咎犯を用ゐ、
而して齊は用う」、この王子について司馬貞の「索隱」は徐廣の説を引いて王子
成父のことであるとしています。
「史記」の「齊世家」には「惠公の二年に長テキ(羽の下に隹)來たる、王子城父は
攻めて之を殺し、之を北門に埋む」とあり、裴イン(馬偏に因)の「集解」は賈逵の
説として「王子城父は齊の大夫なり」としています。
「史記」の「魯世家」には「晉の路を滅ぼすや喬如の弟のフン(林の下に分)如を
獲たり、齊の惠公の二年にソウ瞞は齊を伐つ、齊の王子城父は其の弟の榮如を獲、
其の首を北門に埋む」とあり、「集解」は「年表を案ずるに齊の惠公の二年は魯の
宣公の二年なり」としています。
「新序」の「雜事」四にも管仲が齊の桓公に対し概ね同旨を答えたとあります。
ただ文辞は細かい所で「管子」と異同があり、「城父」を「王子成甫」に作って
います。
「説苑」の「君道」には「晏子春秋」と同旨異辞の記事があり、「王子成父」に
作っています。
「漢書」の「五行志」には「春秋」の文公の十一年の「狄を鹹に敗る」に対する
穀梁・公羊両傳の文(前掲)を引き「長狄の兄弟三人、......一なる者は齊に之く」
に付せられた唐の顔師古の注には「榮如なり、齊の襄公の二年に齊を伐ち、王子
成父の獲る所と爲る」とあります。
「後漢書」の「馮衍傳」に劉玄の更始二年に馮衍が玄から派遣された尚書僕射の
鮑永に計を献じた言の中に「昔は周宣は中興の主にして齊桓は霸彊の君のみ、猶ほ
申伯・召虎・夷吾・吉甫有り、其のボウ(務の力を虫に入替)賊を攘ひ、其の疆宇を
安んじたり」とあり、唐の李賢の注に「申伯は周の宣王の元舅なり、召虎は召の
穆公なり、吉甫は尹吉甫を謂ふなり、皆な周の宣王の臣にして並びに毛詩に見ゆ、
夷吾は管仲の字なり」とあるのに対して、清の呉仁傑の「兩漢刊誤補遺」は管仲の
次に尹吉甫が置かれるのは年代錯誤だ、この「吉甫」は「成父」の誤記であろうと
しています。
「三國志」の「諸葛亮傳」の末尾には陳壽の「諸葛氏集」の進書表を付載していて
「昔は蕭何は韓信を薦め、管仲は王子城父を舉ぐ」とあります。
晉代以前の王子城父に言及した文献はほぼ以上に尽きるでしょう。
これら記事についての考察は明日以降に書きます。
>>前スレ142氏>>伯約氏
レス遅れましたが・・・有難うございました。
>>372 私も平原君嫌いではないんですけど、しょうもないことばっかやっているように思う
のです。2回も食客を激減させたのは彼だけですし・・・
孟嘗君と信陵君については出処進退を誤ったというより、能力が高くそれを君主が妬
んだり、秦の外交につけ込まれたと考えてます。平原君は能力が高くないのでとりあ
えず、長年、宰相が続けられたように思う。老荘的に見ると素晴らしいのでしょうが・・・
私の思ういい所は、人間味があり、何度失敗しても許せる雰囲気をもっているところでしょうか
そういうところは、劉邦に似ているかも。でも、補佐する食客が劉邦に及ばなかったなぁ。
>>378 考察楽しみにしております。「二十五史補編」は初めて知りました。それにしても資料いっぱい
でうらやましいです。
>>379 いえ・・私のは主観がいっぱいであてになりませんので、詳しい概説書や研究書で探ったほうが
よいです。お恥ずかしい・・・
381 :
世界@名無史さん:02/09/30 12:25
平原君は四公子に入る器じゃないと漏れは思うよ。
春申君は晩節を汚したけど有能だし、孟嘗君は名声・人望が抜きん出てるし、
信陵君は名将な上に人格者だけど、平原君はこれといって見るべきところが無いような気がする。
どうしてもこの中では見劣りするね。
>>381 代わりに入れるとすると?
やっぱり食客を友好的に使ったということでは呂不偉(君でなくて候だけど)
公子という点は平原君もいるように公族でなくても無視して・・
人格だと私は安陵君ですかね。始皇帝が憚ったくらいですから。
383 :
世界@名無史さん:02/09/30 12:37
>>382 安陵君とはどんな人だろうか・・・知らなくてスマソ
やっぱ呂不意かねえ。漏れの中では勝手に加えて五君子としてたくらいだから(w
>>378 お噂はかねがね…。
『史記』の「十二諸侯年表」の斉恵公2年(前607年)にも、王子成父の名が
みえます。
逆に、魯文公11年(前616年)の項には無いようです。
>>382 食客の増減でいえば、廉頗(信平君)にも似た話があると記憶。
おろ?
廉頗って信平君(なんか落語家みたい・・・)?
そういえば、趙奢も馬服君だし、、、、
○○君って誰がつけるんですか????
皆さんが、高度な内容でレスされているのに、
情けない質問ばっかで申しわけ有りません・・・。
>>385 >○○君って誰がつけるんですか????
友達じゃない?漏れも友達につけてるYO!
387 :
田単 ◆1aR3Q.f2 :02/10/01 08:14
>>383 戦国策の魏策とかに出てる人物です。安陵という魏の属国の君主で、六国が秦に滅ぼされ
た後にも始皇帝が安陵君の人格を憚って存続させていました。
>>385 うる覚えなんですけど、小国(属国?)の君主は○○君っていうと思いました。だから、君主なんじゃ
ないですか?だけど、孟嘗君は諡号とも書かれるし、春申君は列伝を読むと勝手に号したよ
うにも読めるし・・・でも、基本は君主から土地を与えられたことで貰うんじゃないですか。
始めまして。私は浅学なもんで、皆さんの書き込みを見てて、少しためらってしまいました。
>>385,388
私の憶測ですが、二通りあると思います。
一つは、国君から土地を賜った人に与えられる場合。商君とかがそうですね。
あと一つは、いわゆる四君子の人たち。孟嘗君とかですね。
前者は、「○○知事」とかっていうのと同義語ではないかと思います。
後者は、人徳を備えた君子と言う意味で使われていたのではないでしょうか。
390 :
田単 ◆1aR3Q.f2 :02/10/02 08:16
>>389 はじめまして。
土地の名をつけて「○○君」というのは納得です。
が、「君子」という概念が、この時期普遍的なものだったのでしょうか?
そこがちょいと気になります。どなたか詳しくご存知の方、ご教授賜りたく…
391 :
世界@名無史さん:02/10/02 08:37
>>389 孟嘗君は父の代からセツの領主ですよ。
単に商君のように封地からとったものと、孟嘗君のように封地名と
関係ないものの2つがあるってことでは?
>>388 訂正
春申君は列伝確認したら普通に土地を与えられています。
勘違いです。謹んで訂正いたします。
>>389 でも、知ってる限りでは封地が無く、名声だけで○○君としている人はすぐには思いつか
ないんですけど、誰かいます?
それに、人徳というよりも顕位に上った臣に与えられると考えたほうが合理的と思う。
あと、封地名と違う名のほうが圧倒的に多いような気もする。だから、基本的に敬称のようなもの
のような気もする。全部推測・・・
394 :
世界@名無史さん:02/10/02 23:16
初めて書いてみまし。
孟嘗君や春申君は、四君子ですね。
この場合の君と言うのは後代、
つまりあとから生まれた人が勝手に四人を四君子ってよんだみたいです。
食客が多い四人をまとめた訳ですね。
全員、秦時代になる何歩か手前のあたりです。
ちょうど賢人集めの流行が終わる寸前あたりの人です。
四人の名前はちょいと忘れてすみません。専門ではないもので…
中国と言うのは、御存知だとは思いますが敬意を表すために名前をつけるのが通例です。
普通は字(アザナ)で呼びますが、それよりさらに敬意をこめた感じでしょうか。
土地を持った人が君と呼ばれるのも、尊敬の意を込めた意味が強く、別に位の名前を言うものじゃありません。
分かりやすく言うと、盟主と同類でしょうか?
ただ、盟主と言うのは対等の人間関係(諸侯同士とか)で定義されるのに対して、
君は、上下関係の場合に使われたようですね。
よく君主とか言いますが、これは「仁」や「義」を重くみる中国だからこそ、
自分の主を、君主と呼んだみたいですね。
つまり君には「仁」や「義」に近い意味があるみたいです。
君主と呼んで、これだけ素晴らしい人だぞ。と言うアピールもあったのではないでしょうか?
あと、小説では、封神演義(知ってるかな?)に
ちょくちょく君と呼ばれる仙人が登場した記憶があるのですが、
あれもそのまま敬称を名前としてしまっているみたいですね。
君などの、敬称に使われる名前がそのまま身分名の一部になる事もたまにあったみたいです。
軽くざっと見てまいりました。
さっき初めて書いたばかりなのに、ずうずうしい気がしますが、
最近のものにレスさせていただきたいと思います。
>>362 >春秋時代、晋と楚のはざまで揺れ動く国々の中に
>鄭がありますが、鄭ってそんなに弱い国だったのでしょうか?
>むか〜し、何かの年表に「鄭の小覇時代」って文字を見かけた
>ことがあるような気が…
>祭足って、鄭の宰相でしたよね?
とありますが、鄭の祭足がいたのは春秋の始まりで、
まだ、中原のみの世界だったので晋と楚はあまり関係ありません。
この時代はまだ、表面上は周の王朝が絶対だったと思われていた時代で、
諸侯はまだイトコに近い関係でした。
しかし、祭足は春秋で初めて王朝の権力そのものを否定した人物です。
諸侯が架空の上下関係にとらわれれている間に、祭足は現実上の力関係を見ぬき、
有利に諸国との政治を進めていった人物です。
一番の手始めは、周王朝の権力を否定するために王朝から略奪などをしたとされています。
これは、一応反逆に当たるのですが、スデに周王朝の権力回復は無理だと見こんでやった。
と言う事になっています。
事実、王朝の回復が無理と言う事を前提とした政治的方針が鄭で取られていたようです。
祭足のやった事はほかにもイロイロあるのですが。
そして諸国より一歩早く現状に気付き、その対策を取っていたためこの時代の最強になったようです。
その結果として次第に諸侯も周王朝の実際の弱さに諸国は気付き始め、本格的に春秋が始まった事になっています。
あと、鄭には宰相と言う身分はなく、変わりに上卿と呼ばれていたようです。
……
順番にレスを書くと言いましたが、
なんかほとんど正しい答えが出てるみたいで書くところがないですね。。。
では、失礼致します。
>>390 儒教の祖・孔子の死亡年が紀元前479年、四君子の内最も早く生まれた孟嘗君は
その200年後に死亡しています。
その約200年の間に儒教の教え自体は大分広がっていたと思いますし、
それよりも前に「孝」とか「仁」「義」などの概念も普遍的に使われて
いたようなので、「君子」の概念も普遍的に使われていたと思います。
>>393 最初は春申君がそうじゃないかと思っていたのですが、
>>392のレスで土地を賜っているということを始めて知りました。
ですので、私も土地無しの○○君は記憶にありません。
えっ!?
「土地無しの○○君」なんて根本的に存在しないんじゃ・・・
君は身分ではないので概念的には存在するよ。
あ。
ごめんなさい。
>>398を見て大事な事を思い出しました。
春秋の終わりの方に、郡県制度と言うのが出来たのはみなさん御存知だと思いますが、
それと同時に君主制政治と言うのが出来ました。(と言っても名前だけみたいなものですが)
春秋時代ではまだ君主制のイメージが強く感じられないので、てっきり君は身分ではないと言ってしまいました。
だけど、それ以前から君は尊称だったし、
論点が四君子を中心とした尊称の話だったので、てっきり君の本則を無視して話しておりました。
↑一応…
上のは君その物の話じゃなくて、君主って意味です。
402 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/03 10:24
394さん、はじめまして。
日本では「君」っていうと遊女になってしまうんですけどねぇ。
もっとも、この場合、読みは「〜くん」ではなく「〜きみ」ですが…
>>397 公孫無知さん
個人的な推測なんですが、この時代、支配階級には儒教の考えはまだ
受け入れられていなかったのではないでしょうか。安定期ならともかく
混乱期には支配者に受け入れられにくいように思うのですが…
それと、「戦国四君」という表現が、戦国末期にすでに使われていた
ものなのでしょうか?
>>397 儒教については戦国時代には、孟子や孔子の弟子などが各国の君主や顕臣に対して
必死に遊説したり、使えたりしていますが(特に魏はその傾向が強い)まだ、当時
の思想の中で特に抜きに出ていたわけでなく、墨家、陰陽家、法家などがしのぎを削
っているような時代ですし、儒家の流れを汲むべき呉起や李悝、商鞅も法家に分類
されるなど、まだ儒教にとっては不安定な時代だと思う。
儒家がその地位を安定したのは漢武帝の時代で、それまでは黄老思想などが強いのは
「史記」など読むとわかる。
しかし、論語にも「述べて作らず」とあるように、儒教は基本的に古代中国の生活の
中での倫理、道徳の集積みたいなものだから、「孝」「仁」「義」などは文字としては
いざ知らず、その概念の萌芽はすでにあったのでしょう。
>>400 「商君」がそれですか?
>>402 中国でもちょっと違うけど、「王昭君」とか女性の「君」もいますねぇ・・・遊女じゃな
いけど。
戦国末期には君は称号として普遍化してたんじゃ無いのかな?
樂毅の望諸君てのは討斉の功を認められて、燕王から与えられた
称号だったはずだし
称号の附与と封地とは直接関係無いと思うんだけども
ただ封地無しで君の称号を得る事はあっても、それだけの功を挙げたら
同時に封地も得てるのが殆どだったと言う事なんじゃないかと
ただ戦国初期の商君、靖郭君あたりと末期の長平君とかとは百年単位で
間が開いてて、称号の持つ意味合い自体が異なってる可能性はあるかも
個人的には四君子も国体、政体、年代が異なる者同士を後世の人が
名称だけで結び付けた印象もあるので、同じ定義でまとめるのは難しい気がする
>>404 望諸君は趙王から封じられた際の称号
燕王から貰ったのは昌国君とかっだった気が…ちょっと自信ない
406 :
公孫無知 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/04 02:02
>>402 田単さん、
>>403 伯約さん
先ず、「儒教の教えが受け入れられたか」と言うことですが、
儒教が政治に反映された事は、孔子自身が行った以外はほとんど無かったと思います。
理由は御想像通りだと思います。「諭せば治まる」で通用するなら戦国時代なんて訪れません。
それなのに、「儒教の教えが広まっていたのではないか」と書き込んだ理由としては、
伯約さんが書き込んでいる通り、
>「儒教は基本的に古代中国の生活の中での倫理、道徳の集積みたいなもの」
をわざわざ説いていたという点です。
要は、一般道徳を強化していただけですが、それだけに一般人には受け入れやすく、
言われてみて「そこまで出来れば立派な人」という考えになりやすいからです。
一世で千人近くの門下生を輩出した理由もそこにあると思います。
その門下生が方々でそれを説いて廻っていた事もあって、
儒教の「教えは」広まっていたのではないか、と考えました。
では、なぜ戦争の役に立たない事を言っている儒学者を雇ったのか?
私の思い付く限りでは、「内政官(事務官)には向いていたから」ではないか、という事です。
政治家としてではなく、一般公務員としての需要は高かったのではないか、と思います。
>「戦国四君」という表現が、戦国末期にすでに使われていたものなのか
単なる想像ですが、戦国以降からだと思います。
幾らか年数に隔たりがあるので、戦国時代では孟嘗君、平原君、信陵君、春申君と
(生前は恐らく本名で)個別に言われていたと思いますが、
後代に入り、史書編纂の際に食客が多かった事で有名だった上記四人を
「四君子」と纏めた、と考えるのが妥当だと思います。
>>404,
>>405 今、横山史記を見た限りでは、燕王から封じられた時が昌国君で、
趙王から封じられ時が望諸君だそうです。
ちなみに、望諸君の際に与えられた地名は斉と燕の国境近くの
観津と言う場所だそうです。
田単さん始めまして。
実は他からやって来たのですがここは名前入りの人が多いですね。
と言う事で自分もこのまま394を使おうかな?なんとなく。
公孫無知さんはかなり詳しいようで。
ちょっと自分も儒教と孔子など思想について書かせてもらいます。
皆さんもおそらく知っているような事を偉そうに書いていきますがその辺はご勘弁下さい。
もし間違っていたら違うぞバカ。とでも書きこんでやって下さい。
何回かに分けて送信していますが、
けっこう時間かけて書いたので2回くらい読んでいただけるとありがたいです。
孔子(儒教)はこの時代、全く世間に見とめられていなかったようです。
世間と言うより、時代と言う方が正しいかもしれませんが。
孔子は沢山の技能を持っていた事は間違いないようです。
その一芸あっただけでも充分に政治の世界に食い込める実力があったと言われるほどです。
ただ、孔子は異常なほど礼、仁を重視しました。(なぜ異常かは客観的に孔子を勉強すれば分かると思います)
ここであからさまに問題なのは、孔子の言っている礼はもちろん周王朝の礼と言う事です。
>>395に書いた通り春秋の初めでさえ周王朝の権力がまともになかったのに、
今さら周王朝を前提とした方針は使えないもので当然です。
政治の方針も、周王朝が前提なので「安定した天下」を前提に作られた方針です。
戦乱の世なのにそれはないのでないか?と言った感じでした(自分の感覚では)
ただ、孔子の文を読む限り孔子が時代錯誤を犯しているわけでもなく、かと言って時代も分からない人物ではなかったようです。
と言うのも、孔子はどうやら自我が非常に強く、自分の理屈が自分の思い通りになっていないと気がすまない人物だったみたいです。
つまり自分が思う礼(この場合周の礼)を軽視するのはどんな事があっても間違いだ。と言った感じでしょうか?
孔子の王朝肯定説は凄いです。
歴史上、書物が書きかえられる事は普通ですが、孔子の場合、自分の理にかなっていない文章は全て消されたり書きかえられていたりします。
それを1000人以上の孔子門下が一生懸命やったので、一部の人間は儒教を嫌うようです。
普通は書きかえると言っても、自分の考えを新たに書きこんだり、元々あった文を自分なりに分かりやすく書き直すのが通例ですよね。
歴史的事実を書きかえる事もよくある事ですが、
それは何かこっちの事実の方が正しいのではないか?とかそう言った理由で書きかえるのが普通で、
自分達の信じる思想に反するからこれは消してしまえ、なんて指示をするのはおそらく孔子くらいなもんです。
礼を重く見る魯の国では認められていたようですが、孔子のせいで魯はあまり良くない状態になったとされています。
一方、他の国はと言うと、孔子の言っている事は今の時代の政治には通用しない。と理解していたようです。
だから孔子はまともな職に就けなかったんです。
それに加えて孔子が位を高望みしすぎたと言う理由もあるようです。
一応孔子は魯で司寇になっていますがこれは孔子が望む職ではなかったらしいです。
よって孔子は最期の時まで職を探しつづけていました。
春秋では、性善説と性悪説が唱えられましたが、性善説はどちらかと言うと自分の理想を書いたもので、
性悪説は現実直視理論になっています。
孔子の理想諭(内容はほぼ性善説)は絶対なものであるから、それに反した現実の記録も抹殺したわけですが、
それをそのまま言うと、孔子の言葉は現実上の問題から目をそむけて出来た理論と言う事になります。
孟子にいたっては言葉たくみに論点をすりかえて自分を正しく見せているふしがあります。
筍子の性悪説では、性善説をびっくりヒドイほど批判していますが、
それでも一応真っ向から向き合って否定の理屈を考えて議論(否定)しています。
対して性善説では現実(性悪説を思わせる事実)を一生懸命に抹消しています。
別にそれが悪いと言っている訳ではありませんが、現代人の自分から見ると少々迷惑です。
孔子理論の良い所言うなら、やっぱり感情に素直な所ではないでしょうか。
つまり、「こうしなさい。そうすれば素晴らしい人物になれます」と誰もが感情的に賛成したくなる事を言っています。
>>406は受け入れられ易いと言っていましたが、そんな理想諭に近いからこそ、受け入れられ易いものになったのではと思います。
受け入れられ易いからこそ広まった、と言うのはまさにその通りだと自分も思います。
それと広まったもう一つの理由としては、孔子直の門下が1000人以上にもふくれ上がったのには、孔子の開いた六芸塾がハンパじゃなかったって事もあると思います。
つまり、六芸の一つ一つが極められていたと言う事です。
孔子レベルの一芸なら充分に高い位を貰えたほどです。(と言われています)
だから、孔子の門下は孔子の思想より技術を学んだのではないでしょうか?
事実では、「孔子直属の1000人の門下のほとんどがその芸をもって就職出来てる!」とその時代の評判になっています。
孔子自身は職に就けませんでしたが、その変わり、儒教は爆発的に広まって行きました。
一方、性悪説でも「こうしなさい。そうすれば素晴らしい人物になれます」はありますが、それは感情的に賛成したいのではなく、
理論的にはそうなるな。と言った所でした。
しかも、それは「自分自身のため」という理論で、決して他人の幸福などを願うものではありません。
書いてある内容も一瞬の行動ではなく、苦労と努力の継続で、とても簡単には実践しがたい事が書かれています。
それと、視点が完全に政治の方法や帝王学であるから、当時の一般階級の人にはあまり役にたつとは思えませんでした。
元々が広まりにくい理論だった訳です。
しかも、それは国教にもなるほど広まった儒家をまとめて否定したような本ですから、やっぱり広まりません。
…と、まぁ、自分が何を言いたかったのは良く分かりませんがこれで終わりです。
あえて言いたかった事を書けば、孔子の思想は道徳的には良いけど、政治には全然使えないことでしょうか?
これは自分の憶測ですが、孔子は自分の思想を政治の場で使おうとしたから失敗したのでは?
と思っています。
412 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/04 08:26
394さん、詳細なご説明、有り難うございます。
このスレでは、誰の発言か明確にしておきたい、という考えの方が多く、
よって名前をつけている方が多数おられます。もっとも、前スレでは、
「コテハン、キモい」という批判もございましたが…
さて、前スレ142子、姜子、5さんその他以前からの住人の皆様、
394さんのお考えはどう思われますか?
>394
>408辺り何を根拠にそういう事言ってるのですか?
孔子は君主と貴族との主導権争いの激しい時代にあって、
君主の側について貴族の力をそごうとした革命家だった。
貴族にしてみれば危険な思想の持ち主だし、
君主にしてみれば登用すれば貴族の反感が恐い。
かくして孔子は就職できなかったのかと。
413>>
御説ごもっともでございます。
>孔子は君主と貴族との主導権争いの激しい時代にあって、
>君主の側について貴族の力をそごうとした革命家だった。
と言うのは、孔子が魯で司寇をしていた時の話ですよね。
この時の孔子は絶頂期の時で、トントン拍子に出世して司寇を手に入れた時でした。
あまり就職活動とは縁がなかったようです。
自分は孔子の思想が受け入れられないと書きましたが、
礼の国、魯では認められたと書いたはずですが…
上記のはどちらかと言うと離職の原因ではないでしょうか?
時代は逆だけど、特に斉の国の宰相、嬰晏は孔子の理論を強く反対したみたいですね。
後半の
>貴族にしてみれば危険な思想の持ち主だし、
>君主にしてみれば登用すれば貴族の反感が恐い。
>かくして孔子は就職できなかったのかと。
に対しては、のちに孔子が凶のある人物だと広まって就職失敗の事を言ってるのだと思いますが、
それに対して吉はどうだったかと言うと、孔子の理論にこの時代の人は吉を見出せなかったようです。
魯国後の孔子の就職失敗を具体的にあげると、
やはり孔子が魯をめちゃくちゃにした話が広まったようです。
@一番の問題点は孔子が法を軽く見た事で国の総統が乱れ、それを無理にでも礼でまとめようとした。
A軍法も無視で、例え兵士の言ってることが嘘と分かっていながらも仁に反する理由で兵氏を逃がすなど。
自分が思う根本的な理由はこれですね。
確かに、魯で起こした
>>413の事を理由に讒言する人も居ましたが、
大それた事をやった前科者でも春秋戦国では起用した礼がけっこうあります。
中には死罪に問われている人物を、死罪になった理由も明らかにしないまま、
助けて登用したと言う話もどこかで見た記憶があります。
それより上の@とA(特にA)がこの時代のネタ話だったようです。
孔子の政治を言うと、孔子は突然「安定した天下」と同じ政治をやれば安定した天下になる。
と信じていたように思えます。
そしてそれの実行の一つに
>>413も含まれると。
言いたいのは、
>>413の言った事も含めて全て孔子の理論から出てきた失敗で、
やはり就職失敗は孔子の理論。と言うのが自分の考え
417 :
世界@名無史さん:02/10/04 10:18
孔子の思想を私観にて簡単に記します。
端的にいうと、文治統一国家(この場合は周朝)を前提にした思想
じゃ有りませんか?
諸侯にしてみれば「周朝の恩為に」という建前で動いていたけども
本音は別のところに有る。
孔子は諸侯の本音の部分が見えてなかった(見えてが目をつぶった)
為政者(ここでは諸侯)にとっては諸刃の剣のような思想で、両手
をあげて歓迎は出来ませんね。
最後の「です」をコピーしそこねた。。。
>>417 レスがあるとなんか嬉しいですね。
…それは自分へのおおよその肯定と取って良いですか…?
なんか微妙に反論するようで申し訳ないのですが、
孔子は今の時代その物は理解できていたようだ。
と書きましたが、自分がそう思う理由の一つとして、
周王朝前提は、斉の宰相、嬰晏に断られたきっかけで
少しづつ変わっているように感じるからです。
周王朝をたてるのを次第に孔子はやめていき、「もうすぐ新しい王朝が出来る」
と孔子は思ったようです。
と言う事は、「周前提」ではなく「安定天下用」の政治をした。
と見るのが自分は妥当だと思っています。
420 :
世界@名無史さん:02/10/04 11:04
>>419 >「もうすぐ新しい王朝が出来る」
孔子思想でいうと周王朝の天命は尽きて「有徳の天子が現れる」と
いった感じですか。
孔子の思想にはどうしても中心(理想の天子 君主)が必要ですね。
当時の実情と思想が余りにもかけ離れていませんか?
諸侯が求めるものは、天下安定はでなくて「領国安定 勢力拡大」で
そのところを履き違えといた様に考えます。
421 :
世界@名無史さん:02/10/04 11:06
皆さん名前を入れられているので。
>>420=
>>417です。
訂正
>履き違えといた→履き違えていた
久しぶりな気もしますが、推測を交えつつ。
>>389>>393あたりで挙がった「君」や「侯」に関して、自分の見解では、どうにも
統一性を見出せない。
秦において公孫鞅が定めた二十等級の爵位でみると、19級の関内侯と20級の列侯は
封地を与えられるようでも、封地名と称号は必ずしも一致してない。
ただし、一致する場合は「侯」である場合が多いようにも感じる。
魏冉の「穣」や「陶」、范雎の「応」が、そうである。
といっても、呂不韋の文信侯というものも存在するあたり、やはり絶対的なものでは
ないのかもしれない。
白起は武安君と称していることから、上記の二人よりも格下であろうと推測。
どうもこのあたり、郡県制度とも、密接な関わりがあるように思える。
春秋期には郡は県に属したが戦国期以降は反転するように、このあたり、詳しい方
より解説いただけたらと思う。
基本的には
>>404に同意。
423 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/04 18:03
さて、週末でございますゆえ、私めは2日間「や」でございます。
皆様、活発なご議論を乞う!
落ちてたら、ageておいて下さいね。
424 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/05 03:49
元・公孫無知です。他板にて、使用していたHNについてご指摘を頂きましたため、
いきなりですが、改名させていただきます。引き続き、よろしくお願いします。
>>422 仰る通り、何の統一性も無い上、資料などがありませんので、
これまで私が述べたものは憶測に過ぎません。
おまけに、国によってその地位の呼び方も変わるでしょうから、
なおさら結論に達せずにいます。
「君は候より格下ではないか」との事ですが、
では、「君が出世したら候になれるのか」というと、違うような気もしますし…。
現状では、私も
>>404の説が最も有力だと考えています。
ところで、秦以外に「候」を使っていた国ってどこかあったのでしょうか?
ご存知の方、いらっしゃいましたらご教授願います。
>秦において公孫鞅が定めた二十等級の爵位でみると、19級の関内侯と20級の列侯は
>封地を与えられるようでも、封地名と称号は必ずしも一致してない。
関内侯と徹侯は、一貫して封地はともなわないはず。
>ただし、一致する場合は「侯」である場合が多いようにも感じる。
>魏冉の「穣」や「陶」、范雎の「応」が、そうである。
それは徹侯よりもひとつ格上の実封侯でこれは地名をともない「○○侯」という。
>といっても、呂不韋の文信侯というものも存在するあたり、やはり絶対的なものでは
>ないのかもしれない。
>白起は武安君と称していることから、上記の二人よりも格下であろうと推測。
基本的には、地名がつくのは「爵号=封号」、美称でいうのは「尊号」だと思うので
1)「地名+侯」→古来からの爵号の流れ。
2)「地名+君」→これは1)より格下の新爵号か?
3)「美称+君」→尊号。ただの「侯」よりも格上であることを表現したものか?
4)「美称+侯」→3)が一般化した後でさらに荘重さを加えるため「侯」にあげてみますた(?)
という感じなのではないでしょうか?
394さん
儒教について自分の意見を少し・・・
儒教の思想の根幹は私は徳治政治の実践と個人の人格の完成の二つにあると思います。
その前者の方はおっしゃられている通り実現はできませんでした。しかし、儒家自体が
まったく認められなかったのでしょうか?少なくとも君主の人格的な完成という点は各国
の名君に対してそれなりの評価を受けていると思います。孔子の時代はあまり認められ
なっかた様ですが、その弟子や特に孟子の時代になりますと各国に遊説して君主の啓蒙に
成功しているように思う。(それが政治に生かされているかどうかは別ですが)
孔子の目指した政治(周の制度に倣う)は新の王莽の失政により否定されざるを得ませんが
個人の人格的完成という点では各国が君主制をとっている春秋戦国時代には評価されるべきで
、また実際評価されていたように思います。
性悪説については確かに純粋な筍子によるもの(悪を儒教により矯正)は役立たずでしたが、
前にも書いた通り、それは法により強制する法家に発展して戦国時代を代表した物となります。
法家の成り立ちについて、性悪説からか太公望からかに説が分かれますが(私が史書や概説書を
呼んだ限り)実践という点では太公望、管仲ですが理論として完成され始めるのは「管子」よりも
性悪説の要素を取り入れてからの様に思います。
孔子自身は時代に受け入れられなかったのは事実ですが、その思想は春秋戦国の風土、文化、社会に
影響され変化し中国思想の重要な要因をなしていたと思います。
>>428の続き
宮崎市定氏は著書の中で孔子の出現により「祭儀より政治を、宗教より倫理学を独立させた」と指摘しています。
また、黄老思想(道家)も儒教に影響されて発生したものであると氏は指摘している。
白川氏の「孔子伝」には墨家は儒家に対するアンチテ−ゼであると読め、このように
儒教は黄老、墨家、法家などの春秋戦国を彩る思想の中心であるように思え、儒家の意義
は春秋戦国時代でも大きいといわざるを得ない。
また、各国に使えた孔子の弟子も技術によるということは否定しませんが、人格的な高潔さも
認められているんじゃないだろうか。そして彼らの儒家としての思想も政治のなかで、ひっそりと
見えないように反映されているのだろうと想像してみたりする。
まとまらず、読みづらく長々とすみません・・・・
>>424 周は「候」を使っていますよ。もともと戦国時代の王も元は候の国が多いです。ここから勘ぐるに、
すでに秦は候を封じてから、周から秦に天命が移ったと考えていたのだろうか?
ところで、諸侯の侯ってなんでしょう?
>>426の
1)「地名+侯」→古来からの爵号の流れ。
これとみなして良いでしょうか?
君が身分になったのはやはり郡県制度と同時ですね。
自分は君主制と郡県制度は同じ物ではないのか…。
と思ったてたんですが…
ちょっと考えてみたら
この時点で君主制政治が出来たってそもそも謎でしたね。。
君主制の定義って、権力が一人にあることですから。
まぁ深入りはするまい……
>>420さん
孔子の目標はあくまでも天下の統一ではなく、
古き良き時代の再現であったため、そうなってくるのだと考えています。
あと、
>諸侯が求めるものは、天下安定はでなくて「領国安定 勢力拡大」で
>そのところを履き違えといた様に考えます。
とありますが、孔子は諸侯が求める政治なんかしたいと思っていなかった。
と答えてみる。
>>伯約さん
428と429を何回も読み、
書いてある要点をまとめてレスしてみました。
メインの内容は『孔子や儒教など』で、
他には少しだけ『性悪説や法など』
が書かれていたのでまず前者から。
核心と思われるこの2行に行ってみましょう。(428の真中のちょい下)
●個人の人格的完成という点では各国が君主制をとっている春秋戦国時代には評価されるべきで
●また実際評価されていたように思います。
この儒教が広まった結果の一部は429の前半に書いてありますが、
それを問い詰めるとやはりどうしても、上の2行に返ります。
上の2行は自分の考え(あくまで自分の考えね)
では素直に「その通りだ」と言えないふしがあります。
よって……
@なぜ評価されるべきで、どの部分が評価されるべきあったか?
A実際に評価されたのはどういった部分で、どう評価されたのか?
B儒教の考えは、国の基本を作る思想にどう影響していったか?
以上について伯約さんの考えを聞きたく思います。
(ちょっとワガママで申し訳お願いをしますが、
ヒマな時で良いので、出来るだけ考えてからのレスよろしいでしょうか?)
素直に「その通りだ」と言えない理由の根本を書くと、
自分は「儒家」と「儒者」を分けて考えるからです。
その考えについては、答えていただけた時に書こうかと思いますので
あまりお気になさらずに…
少しだけ触れていた『性悪説や法など』について…
さてまた例によって2行を抜きます。
●理論として完成され始めるのは「管子」よりも
●性悪説の要素を取り入れてからの様に思います。
@法の理屈と性悪説はどの程度結びつくか?
A法の成功を表す理屈は?
B性悪説が出てからの法と、それ以前の法とではどう変わったか?
以上について伯約さんの見解をお願いしたいと思います。
ただ、性悪説を詳しく知らないと答えは出ないと思われるので、
その時は流してやって下さい。
個人的に今、春秋では性悪説に対する興味が非常に強いんです。
と言う事で、性悪説に関する事ならなんでも良いので
誰かイロイロ書いてもらえると嬉しいです。
内容は問いません。どんな長文でもしっかり読みます。
(と言うか最近のレスは全部読んでますが)
う〜ん…
久々に熱中しました…
実は431を書くのに2時間以上も考えていました。
真剣に考えると時を忘れます。
434 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/07 00:21
425,426の名無しさん、伯約さん、394さん。先ずは御礼申し上げます。
周以外では、最初に王を名乗ったのは楚ですが、楚は候を封じたりはしていませんね。
となると、諸侯の中で候を報じたのは秦だけだったのでしょうか。
戦国期になると、何処も彼処も王を称しているのに、
何故候を封じなかったのかが気にはなりますが、とりあえず、
現在私の認識する限りでは、
1)○○候・○○君は土地を封じられた人物に付けられる名称である。
2)爵位の順では、「王>候>君」の形成を成している。
3)元・諸侯は、秦を除いて、春秋期では「候>君」、戦国期では「王>君」の形成を成している。
4)候・君に付けられる名称は、春秋期では地名、戦国期になると、尊称も使われるようになった。
と、言った所でしょうか?
435 :
世界@名無史さん:02/10/07 12:28
ageときますね。
>>431 素人の私観なので不完全なところも多くご指摘痛み入ります。
さて、補足してみます。
@について、
前提として君主の暴挙は国を危うくする。わたしは基本に考えています。
君主制では以前も書いたと思うのですが、君主の資質により国が左右することが多い
システムです。賢臣による補佐である程度矯正することも可能ですが、基本的には君主
のその資質(というより性格)如何により国の安定性が左右されます。春秋戦国は貴族
にその権力が移行する時期とはいえ、権威の絶対性は君主にあり、法は高貴な身分には
及ばないことは周知の通りでしょうから君主の暴挙を制限するものは礼と力(武力、権力)
になります。
力はその正当性について疑問があることも多く、場合によっては内乱の原因となり、実際
史書にもそれを見つけることは容易だと思います。
となると、君主を制限するものは礼になります。「礼とは何ぞや?」とこのスレにも話題
となったことがあるんですけど、この本質を知りえるのは子産などの賢人のみのようで、
史記の書を読んでもそれが十分だとは言い切れないほどのものです。
>>434 楚は春秋期から(不完全らしいものの)県制を布いてます。
代表的なものでは、楚領最北部に位置する「申」を治めた巫臣(屈巫)で、
「公」という呼称を用いている。
戦国期における楚の封君制に関して、湖北省から、懐王の時代の竹簡が発見
されており、封君名が記されています。
また、前312年の秦との大戦で大敗した折の損害が『戦国策』にあり、そこに
「通侯執珪死者七十餘人」とあることから、楚においても「侯」は存在したと
考えられる可能性の方が大きいように思われる。
ひとつ余計な気がするものの、各位の用いている「候」、正しくは「侯」では
ないかと。
>>436の続き
まぁ、礼は宇宙の原理という人もいますけど、そんなことは凡人はわからない。
そこで、制限するための礼について孔子は礼をわかり易く、実行し易い形として
論語などにある人格的完成に置き換えたのでは?(と想像するのです)
現実に名君と呼ばれる人物は溢れるばかりの欲望や暴挙を理性で抑えています。
その抑える根拠となる理論として儒教の人格的な完成は評価されるべきと書きました。
Aについて
孟子を見ると彼は各国を遊説し、君主に対し持論を訴え啓蒙に成功していると思う。
まぁ、実際にどれだけその君主が変わったかは別にして・・・
また、子夏(だったと思う)は魏の文候の師となっている。
Bについて
これが一番難しい。はっきりいって(春秋戦国では)国の基本とはなり得なかった。
>>428にも書いたように
徳治政治は無理でした。だから、君主の人格的完成という点でその理論を提供した
とするしかない。また、魯などでは僭越を嫌うと以前ありましたように、儒家の思想によれば
下克上を抑えれる根拠となりますが、戦国時代には役立たずですしねぇ・・・
まぁ、素人(ただの歴史好き)の勝手な私観ですから、「ははは、無知な奴だ」と
流してやってください。この補足も今日レス見ていきなり書いたので、不十分ですみません。
>>432についてはまた後日・・・
439 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/07 21:31
>>437 レスを拝見し、気になったので調べてみたら、
前312年の戦いの、楚軍の副将が丑という人で、逢(通?)侯に封じられていた様です。
楚も侯を封じていた様ですね。では、中原諸国でも封じていた可能性はありますね。
確かに、「候」と記述していました。ご指摘くださって有難うございます。
>>436の訂正
× 春秋戦国は貴族に
○ 春秋戦国は貴族、士大夫に
>>438の
魏文侯の儒教の影響は西門豹との会話や翟璜(テキコウ)との仁
君についての会話にみられます。
>>432 薄学なので、「荀子」は断片的にしか読んでなく性悪説も完全に理解は
できていません。ご忠告に従い、流そうと思ったのですが少し書いときます。
@について
私は単純に荀子が人の本性は悪であり、それを礼で矯正していると理解して
法家の思想統制の理屈は法により矯正すると考えている。
荀子は法家の実践国の秦を見て唯一の欠点は儒教を国の基本理念に置かないこと
と言っている。つまり、彼はその一点のみしか法家と思想の違いがない。
Aについて
成功とは何を持ってこの場合いうのかわかりませんが、とりあえず法家の思想
により、各国(特に秦)が富国し統一の道を歩んだことで成功とする。また、
小規模な面では信賞必罰が徹底され、最も難しいとされる論功行賞の基準が明確化して
不平不満はその面では減少した。法が高貴な身分のものにも及ぶようになり王侯の専断
が減る。計画経済により効率的に発展できた。などなど・・・
Bについて
当然のことですが、韓非は荀子の門下です。法家の理論を完成させたのは「韓非子」
であると私は思っています。「荀子」には各思想家の評論があり、決して独善ではなく
その儒家としての思想に法家としての思想が混ざって理論的に完成されたと考える。
貝塚氏は著書のなかで、荀子の論理学な面を入れることで法家は実証的帰納論理学に
大成されたとしている。蓋し、それまでの法家とされる人の思想は社会的な認識をする
ことでそれに対しての対応策が基本で論理学的な面では遅れている。また、
法家の基本である刑名学の祖とする名家の理論は理論倒れの詭弁に堕していること
は周知で韓非はそれに実証てきな面を組み入れることで法家の理論を完成させた。
まとまらず、本筋から何かずれてしまいました・・・
あまり、性悪説と関係ありませんな・・・ごめんなさい。もう、やめます。
えっと、ここでのカキコはお初ですが、ROMってました。
ヨロシク。
「儒者」についてですが、意外と見落とされがちなのが四書五経のなかの「易経」。
今読んでみても「なんじゃこりゃ? こんなもの読んでどうしろと? 小1時間問・・・」等と言われてしまうような内容のものですが、問題は内容では無く、それが儒教の主要教典である「四書五経の中の一つ」である、という点です。
ここで思い出して頂きたいのが「孟母三遷」のオハナシ。
最終的に引っ越していった先が学問所の前であった子供の孟子サマですが、「門前の小僧、習わぬ経を読み」のように論語とかをそらんじたワケでは無く、ゼイチク持ってジャラジャラ、だった、という事です。
母はこれを見てヨシとした、とありますが・・・。
当時の教育水準のあまり高くないであろう人々にとっての「儒者」とは、「学者」というよりは「占い師」としての面が強くなかったかとは言えないでしょうか?
井戸ひとつ掘るのにも、日にちを占いで決めたりしていた時代ですから、こういったことも決して無視はできないかと。
(今でも結婚式に大安とか仏滅とかを気にする人は多いですし。
外国の指導者でもお抱えの占星術師がいたとかいないとか、そんなウワサのある人もいましたし。)
こういった面から民衆レベルから指導者に至るまで「儒教」が浸透していった可能性もある、と考えてみた次第です。
(今も昔も女の人は占い好き多いし。)
先年出版された「孫ピン兵方書」の内容があまりにもアレなモノでしたので、という面もありますが。(笑)
手工業者や労働者などに支持者が多かった墨家なども、論理的な面から支持者を増やしていったと考えるよりは、こういったオカルト面から支持者を増やしていったと考えた方が、むしろ自然かも知れません。
(論理的な面で支持を得るほど、支持者自体の教育水準が高かったとは思えないので。)
では、こんなもので。
なんか、まとまり無いような。(笑)
443 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/09 02:01
>>442 はじめまして。こちらこそ、よろしくお願いします。
易経を読んだ事はありませんが、私の思うところを述べさせていただきます。
確かに政治の紀元は、占いによって人々の方針を決定し、従わせる事から始まっています。
ですが、当時は占いによって国を左右させるほどの方針を決めていたとは思えません。
「斎戒沐浴」だとか、「吉日を決める」等の迷信は残っていますが、
あくまで、礼に背かない様にする為に行っていたにすぎないのではないか、と思います。
孔子の六芸塾で易を教えていた事は、恐らく事実でしょう。
ただ、私の考える当時の占いというのは、複雑な計算の元に答えを導き出すものだと考えています。
質問された事に関して答えを考えながら、筮竹を振ったり、八卦盤を眺めたりして時間を稼ぎ、
神託(?)に事寄せて、自分の主張を発表する、というものだったのではないでしょうか。
六芸の中に、「数」というものがありますが、これに属する分野ではないかと思います。
しかし、そんな事は分からない人には当然分かりませんから、人智を超えた神の意思だと思い込み、
神や神秘の力を信じている人に対しは効果があったのだと思います。
だから、教育水準の低く、迷信ふかい民衆には浸透しやすかったのでしょう。
また、墨家ですが(こちらも読んでいませんが)、オカルト的な部分からの支持者は少なかったと思います。
私は「墨家」と聞いても、建築・守城兵器開発ぐらいしか想像できないのですが、
民衆に受け入れられるとしたら、建築面だと思います。
「こうすれば瓦が落ちにくくなるよ」という事を、目で見て、直接触るという形式の方が、
分かりやすかったのかもしれません。
以前に、儒教が民衆に広まっていたと考えた理由とかぶりますが、
「体得できる(頭で理解できなくても、体で覚えられる)ものは、民衆に受け入れられやすい」
という事だと思います。
そういった理由で、儒教や墨家などは支持を得られたのではないか、と考えます。
>>伯約さん
けっこう時間かけて自分の考えを書いてみたんですが…
自分の文を読み返しているウチに屁理屈のようにも見える気がしたので、
送信をどうするか考えています。ごめんなさい。
屁理屈のような文でも見たいのであらば送信しますが…
>>無名氏さん
一口に儒教と言っても、儒教って孔子の原型をとどめないほど
グチャグチャになってるのもありますからね……
>「儒者」とは、「学者」というよりは「占い師」
まぁ、孔子は「理想的理論」ですが「理想の現実」なのであまり目に見えない事は言ってませんし。
ん〜。一般的に儒教で通るけど、そこらへん自分は孔子自体とは無関係としています。
それに例え占いのような事でも庶民に広がったのかなぁ…?
占いって職業であって信じるべき学問だし。
そういえば低階級の人、及び農民などの意識が
国や学問などについてどう変わっていったかって一度も調べた事ありませんでした。
きちんと調べてみようと思います。
>>農耕牛さん
自分の思うところとほぼ一致します。
ただ、孔子は易を教えていたのでしょうか…?
と言う疑問。。
よろしければ何か聞かせてほしいです。
>>444 屁理屈でも何でも、見てみたいです。私は素人ですからあまり気にしませんので・・・
理屈と屁理屈の違いなんて微々たる物です。知識が増えればそれで良しです。
あと、春秋戦国期の儒家について「史記」の儒林列伝のはじめの方にも記述があり、
一応、魏、魯、斉で発展したのでしょう。
>>442 易が五経に入っている理由はについて想像すると、儒教は前に述べた通り当時の道徳、文化
の集大成みたいなもので、古代中国では殷の時代から卜などが行われ文化のひとつになっている。
また、周文王が八卦を発展させるなどの伝説があることからも創造できる。
易の内容をみると、確かにわけの解らない部分もあるが、当時の文化、思想を読み取ることもできる。
個人的な妄想に入りますが「天」という思想が儒家にあってそれを聞くことができるのが「天子」
つまり「王」この天命は通常一方的に天から次の王に民意や自然現象により現れるが、もしかしたら
こちらから天に問い掛けるのが占いなのかもしれない。そう考えると最も崇高な学問である。
金文や甲骨文字で殷王が祖先の霊に問い掛けている。その対象が周になって「天」に変化したのだろうか。
「史記」の(たぶん)日者列伝に漢文帝が占いにより皇帝になることを決めたとしているから、司馬遷の
当時もあったのだろう。
しかし、果たしてこの易が民間に入っていたのだろうか?これは推測ですが、天の意思を聞くことは
一部の特権階級者のもののような気がする。民間人が占いをしていたと言う記述が思い当たらない。
漢文帝の時代にトウ后の弟が筮をやっていたように思うが、このときも教えてもらったのは変な老人で
この人しか知らなかった。
春秋戦国の時代は立身出世をするにはやはり刑名学、縦横学で、その間に儒教の六芸が教養として
民間の向学心のある人物にまなばれていったとわたしは思う。
墨家についてはオカルトというより、倹約や尚賢などの思想、多くの技術、により手工業者や労働者
に広まり、兼愛の思想は戦争に疲れた人々によって受け入れられたのかも。また、一説によると墨翟
は罪人出身で、身近に感じられたのかも知れません。
448 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/09 17:46
しかし、凄まじいレベルのスレになってまいりましたね。
スレ主の白起さんは海外赴任ということでしたが、2ちゃんねるに
来れない環境なんでしょうか。もし、来られたら、この発展ぶりに
喜んでいただけるのではありますまいか。
煽り、罵詈雑言のないスレ展開を続けていただき、進行係としては
非常にありがたいことであると皆様に感謝しております。
ただ、ちょいと私のレベルでは入りづらい気もしますが…
>>442 無名氏さん、はじめまして。これからもよろしくお願いします。
>>446 引用が小説で申し訳ありませんが、宮城谷氏の小説で、「天」という
概念を用いたのは周からではないか、という記述がありましたね。
殷の桀王の悪行の代表として「酒池肉林」が上げられますが、あれは
「祭り」の一形態であったのでは?ということも書いてあったような…
周では、そういう祭りの対象がなく、代わりに「天」という概念を
用いだしたのだ、というような内容が「太公望」だったかにあったような
気がします。
孔子は古典の知識を元に雑多な信仰を整理して
正しい信仰の形を示したために知識人の支持を得たのでしょう。
一方、民間では司馬遷が史記冒頭で「教養のある人間が語るものではない」
と言っているような雑多な信仰が数多く行われていたらしいのですが、
知識人層に無視された結果、記録として残らなかったものが多いようです。
もっとも時代が下ると、知識人層の間にも古人が切り捨てた
民間の雑多な信仰を取り込もうという動きが見られ、
例えば司馬貞が史記に三皇本紀を補うといった状況になります。
色々とご教授、ご指摘ありがとうございます。
少し言葉足らず、説明不足の点がありました事をお詫びすると共に、僭越ながらも私なりの個人的な見解を述べさせていただきます。
ただし、以下は断片的な資料から発展させたモノですので、やはりツッコミドコロは多いかと思われます。(笑)
「儒家」と「墨家」の争点の中に「厚葬か薄葬か」の論議があったのは周知の事と思われます。
現代人的視点で見た場合、これはどのような場合に発生するか?を考えてみましょう。
例えば、政治家と法律家と軍人が政治的な立場で討議した場合、「葬式のやり方」が争点になるとは考えられません。
政治家と政治家、法律家と法律家、軍人と軍人同士の場合も、おそらくそうでしょう。
政治家と坊主、法律家と坊主、軍人と坊主でもそうなるとは考え難いです。
しかし、宗教/宗派の異なる坊主同士の場合、これは対立と論争の種になりえます。
つまり、「儒家」と「墨家」は対立する「同業者」だったのではないか? という事です。
「儒家」が冠婚葬祭を含む各種様々な儀式や祭礼のプロフェッショナルだった事もご存じかと思われます。
(これらは現在でもそうであるように、古代でも「宗教儀式」としての面が強いモノでした。)
その「儒家」に対して真っ向から対立する意見を唱える事ができるのは、やはり儀式祭礼のプロ集団だけでは無いでしょうか?
つまり、「墨家」も(宗教的)儀式祭礼のプロで、両者の宗教観からの対立が「厚葬か薄葬か」という言葉に凝縮されたのではないか? という事です。
図式としては、
派手で大袈裟な儀式が好きな富裕層に支持される儒家。
簡潔で質素な儀式に限定される貧民層に支持される墨家。
(無論、時代の流れと共に離散集合やカイ離融合が行われるのは「組織」というモノの宿命でしょうか。)
こういった観点からすれば、「墨家」に現代で言うところの「オカルト」が存在しなかった方が不思議になりますので、前述のように「オカルト云々」というカキコになった次第です。
長いとエラーになるので、この辺で。(TT)
でわっ。
451 :
世界@名無史さん:02/10/10 09:21
>>448 >煽り、罵詈雑言のないスレ展開・・・
煽り、突っ込みを入れれるようなレベルでは無いと思われ。
452 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/10 11:04
>>451 いや、前スレ142子、姜子、新たにお越しになった394さん、無名氏、
農耕牛さん、その他の博識な方々のレベルはおっしゃるとおりです。
問題は私ですな。
訳の分からん問いかけをしても、ここにお越しの皆様方は罵ったりなさることが
ありませんので、それに対するコメントです。
>>446の補足と訂正
史記の日者列伝を読み返したら、どうやら漢の時代には占い師は市場にいたようです。
しかし、この占い師はどうも、インチキ占い師の類のようで社会的な地位は低く多くの人
から、厄介者扱いされていたようです。こいつらが易に基づいた筮をやっているとは思われず、
きっと、勘(良く言うとインスピレーション)の適当なことをやっていたのでしょう。
しかし、この列伝から博学な占い師も市井に隠れているらしく、漢の時代のちゃんとした占い師
は、王侯に属していて、一部は市井に隠遁していたのだろう。
春秋戦国時代では史官として占いの専門家が役職についていたのは史書により明らかだが、民間に
流布していたかどうかは、判断不可能。しかし、史記の太史公自序(最後の列伝)の
日者列伝の解説で各国に占い方の違いが指摘されており地域差がある模様。
>このときも教えてもらったのは変な老人でこの人しか知らなかった。
この一文の変な老人というのは、外戚世家や論衡にもなく、昨日の私は宮城谷本の
内容を史実と勘違いした模様。当分頭を冷やしてきます。
>>445 孔子は晩年に易にはまっていたと言う記述を見た覚えが・・・・
454 :
世界@名無史さん:02/10/10 11:34
革命軍軍報
本日、革命軍所属の英雄的引きこもり同志
>>1は満身の怒りを込め、2ちゃん
ねる人民抑圧掲示板に対する激烈なクソスレ立て攻撃を敢行、掲示板機能停止
の大戦果をもぎとった。この戦闘によって、未曾有のクソスレ拝見を強制された
2ちゃんねるファシストどもは呆れ返り、いきり立ち、畏れおののき、完全に戦意
喪失した。
>>1が全人民の怒りをうけ叩きつけた威力絶大な攻撃を思い知れ。
反動2ちゃんねらー―ファシストJ右翼反革命集団は、完全匿名・無料掲示板
「2ちゃんねる」にたむろし、「お前引きこもりだろ プ」「引きこもりは逝ってよし!」
等というおぞましき暴言を、掲示板が開設された一九九九年五月一六日からほ
ぼ一貫して組織的に執り行ってきた。日帝の搾取システムが生み出した精神的
被虐階級―引きこもりへの精神的暴力・精神的差別を加え、これを抹殺せんと
する許されざる謀議なのである。
革命軍はこの歴史的大罪を絶対にゆるさない。帝国主義者に首輪をつけられ
た差別主義者どもには、怒りの階級的鉄槌をふりおろさねばならない。反革命
掲示板上での被抑圧階級(引きこもり)に対するあらゆる侮蔑・中傷・差別は、
>>1が実力で完全粉砕するであろう。日帝の走狗・極右反動2ちゃんねらーは、
いまや歴史的蓋然性の下、その解体・絶滅を明日にも待つ命運だ。
>>1はきょうも、その打ち震える怒りをパソコンのキーボードに叩きつける。革命
戦争はあらゆる弾圧をはねとばし断固継続される。全引きこもりよ、加虐的抑圧
に対し猛然と叛乱・決起せよ!君たちの血路を切り開くべく、
>>1は無制限・無制約
のクソスレ立て・コピペ荒らし・ブラクラ・自作自演闘争に突入することを宣言する。
歴史的勝利はたたかう革命的
>>1、人民、引きこもりのものだ!
すべての極右2ちゃんねらー粉砕!!
英雄的引きこもり同志、
>>1万歳!!武装したたかう
>>1万歳!!
>>1よ、これで満足だろ。さあ、今すぐ回線切って首吊って氏ね!!!!!!
>>450 葬儀の考え方にも違いはありますが、基本的な生活スタイルにおいても儒教は文質彬彬で
墨家は完全な実質主義です。儒家は音楽や服装などにも教養や礼儀として気を使いますが
墨家は坊主あたまで服装も質素、音楽や教養も実益に適わないものは排除する生活をしており
私はその意味で言うと、葬儀屋、オカルトの同業者よりも生活スタイルの提案者としての同業者
と考えてみたりもする。
君主制度と、郡県制度の関係を調べて来たので「簡単」に書きます。
君主制を言うに当たって君主制の定義を知らねばなりませんのでまずそれから。
・君主制>>権力が一人にある。
・貴族制>>権力が上位複数名にある。
・民主制>>権力が圧倒的多数にある。
@以下では王未満の上位権力者をまとめて貴族と呼びます。
この3ツに分けるらしいです。3ツをまとめて何と言うのかは知りませんが。
本来、中国4000〜5000年の歴史は君主制にある事はあえて書く必要はないと思います。
が、この時代になり、権力が天子から、諸侯。
諸侯から、貴族。となり、
実質的には貴族制に限りなく近い感じとなり、国の実権を貴族が握る形となります。
この状況をマズイと見ました。君主の視点でもマズイのですが、
今言うのは、時代、ひいてはその中にある国の存続がマズイと見た。と思って下さい。
では、なぜマズイか。
そもそもこの時代、実に中途半端な貴族制で、
王の国に対する意識と、貴族の国に対する意識はかなり違います。
実力関係と権力はおよそ貴族にあったにも関わらず、
国の所有者は王だ。と言う感覚が限りなく強かったのです。
これをもって自分は「中途半端な貴族制」と勝手に呼びます。
「中途半端な貴族達」の欲望の対象は、単純に自分の国となってきます。
貴族にはこれが自分の国、と言う意識が薄いため権力の増長に使う手段を他の国には求めません。
それは個人レベルで欲望を満たしている意味に直結します。
王が持っている権力をいかに奪い取ろうかと言った所でしょうか。
早い話が自分の国を食い荒らします。
対して王の視点はまた変わってきます。
王は貴族達に権力が移る危機感を覚える事もさながら、
自分の国が衰えていく事に恐怖を覚え始めます。
それを一番王の肌にビンビンと伝えてくるのが会合でないしょうか。
会合とは他国との政治的取引の場であるため、国力の関係は大きく影響してきます。
うまく相互の意見が噛み合わないとその場で競り合いになる事もしばしばです。
しかし中途半端な貴族は他国に権力を求めないため、その、競り合いに使う兵も動かそうとはしない。
そこで政治取引は内部分裂を起こす国が圧倒的に弱くなる。
まぁ、会合の例を参考に挙げましたが、王はいたる所で国力の弱さを実感していく事となります。
やはり貴族性と言っても表面上は君主制です。
国を自分の物と考える王にしかない危機の感じ方は、様々なところであったでしょう。
もちろん、貴族が政治をかえりみた例も2つ(自分がパッと思いつく限りでは)あります。
一つ目は晋で、最終的には三つの国に分裂しています。
2つ目は斉で、田氏に権力が移っています。
(この2つを知らない人がいるなら説明します。誰か自分に変わって説明してくれても助かります)
まぁ、この2つの例も貴族制の形で国が存続したわけではないので君主制となってしまいますが。
とにかく政治をかえりみない貴族に国を任せるのはマズかった。
これは王の視点と言うより、時代の流れとして当然だったと言う方が妥当だと思う。
もちろん、政治をまともに考えた貴族の国は、上に書いたように権力の所在を変えて存続しています。
よって自分は勝手に時代の視点と言い換えています。
権力は王に戻らないと破滅につながる…
そこで出たのが郡県制度。
つまるところ、今まで貴族に持たせていた土地を無理にでも王が奪い取り、
王個人の土地として郡県に編成し、反対する貴族の力を弱め、
王が、国を考えた政治を出来るような体系に変えて行った。
以上の事が一般的に言われている、「郡県制度」により「君主制が生まれた」
と言う事っぽいです。
これはどこかにそう書いてあった事ではなく、自分でイロイロ調べて出てきた事実を結びつけただけなので、
100%正しいと言える自信はありませんが、多分こういう事なのだと突き当たりました。
一般的に
「郡県制度」により「君主制が生まれた」
と言われていますが、
どうやらこれは「君主制が生まれた」ではなく、
「郡県制度」により「君主制を確立する技術」が出来た。
と言うほうが正しいみたいです。
あと、反対する貴族を具体的にどう押さえたか。は、質問があれば詳しく調べてみます。
それと申し訳ないのですが、もともとの論点であった「君」と言う身分名に関しては、
郡県制度とその付近には見つけられませんでした。
>>伯約さん
では、儒教と孔子が政治的に及ぼした影響、を
自分なりの解釈で考えていきます。
送信を迷った駄文ですがお付き合いください。
ではまず、
自分は孔子が社会的風潮に残した大きな物は以下のものがあると考えてます。
1.圧倒的多人数の儒教を作った。
2.儒者の良い面を分かりやすい模範として示した。
そして考えを整理するに当たって、自分は以下の点などに気をつけています。
・まず、1の人達は孔子の生き写しではない点。
・儒教の発生により、儒者と儒家がまるで同じであるかのように扱われている事がある点。
・帝王学には古くから(孔子以前から)儒者の功績を重く見ていた点。
上に書いた三点と、1と2が自分の考えの基本になります。
少し話がずれますが、自分の儒家と儒者の定義を書かせてもらいます。
儒者とは、伝説時代〜西周あたりまでの「聖王」や「有徳の人物」など、そういった人達とします。
儒家とは孔子の考えに同意する者ではなく、
「孔子を教祖」とし、孔子の教えを受け継ぐ者と定義します。
(もちろんほとんどの儒家は孔子を正しく受け継いでいません)
元々、本来の儒家と儒者の違いはそのようになっていたのですが(他にも説はあるけど)、
儒家=儒者みたいな感じになってきた社会的風潮がしばしば見られます。
しかし、元々の意味は全然違うので自分は分けて考えます。
以上の事を整理すると、
儒家が社会的に評価されるべきと思われているのは、実は儒者の実績の一部であって、
さらに孔子以前から、その考えは普通にあった。と言う事です。
もちろん実際に評価されていたのも儒者って事になります。
では、自分は孔子が凄くないって事を説明してるのか?
いえいえ、そんな事はございません。
上に書いた1と2こそが孔子の実績です。
1と2では社会的風潮と書いていますが、もはや儒教は文化になり、
さらに国教となるまで多大な影響力を示してます。
では、以上までに話が整理された事によって「論点が変わって」きます。
論点は、「孔子や儒家が直接政治や思想に及ぼした影響」ではなく、
「1と2が思想や政治に及ぼした影響」を考えるほうが妥当であると思えます。
(もちろん、今は孔子の存在を政治に結びつける事が前提なのでこうなります)
さらに、反論を恐れずにあえて言うと、「孔子や儒家が直接政治や思想に及ぼした影響」
を、考えるのは論点がずれているように思っているんです。
ではまた話がズレてしまいますが「1と2が思想や政治に及ぼした影響」を求める前に、
なぜ「孔子や儒家が直接政治や思想に及ぼした影響」を論ずるのに賛成出来ないか書いてみます。
一つ目は、2で言ってるように、孔子は儒者の良い所を「自分なりに解釈」し、
模範として示しただけであって、
孔子自信は、自分流の教えを作っていません。
よって「孔子の教えその物」と認識して論ずるのは、違うような気がします。
「孔子の教えその物」と認識すると、語る先は儒者のそれへと話が変わってしまいます。
これを逆に言うと、「孔子が作った儒者の模範」を論じた方が正しいと言う事です。
「孔子が作った儒家の模範」を論ずると言う事は、「模範から発生した」影響へと、
話を繋げていく事で孔子を政治まで持っていく事が出来ます。
もう一つは、いくつかのレスに出てきたように、
孔子の言葉は直接政治をおこなうための物ではない(孔子の意思は別として)事です。
よって「孔子の言葉その物」から発生する政治や思想の影響を論ずるのもまた、
何かが違うんです。
つまり、孔子を政治に結びつけるに当たって、
孔子のそれを「直接」政治に持っていくと、論議が成り立たなくなる(又は話が終わる)となってしまうのです。
そういった理由もあって、自分は儒家と儒者を混在しない事にしています。
(他にも理由は多数ありますが今は関係ないので…)
もちろん、「2その物」の価値が「孔子流思想」と思想の一つとして扱う価値がのではないか?
と言う疑問もあります。
「自分なりの解釈」なので、それは孔子の思想とも言えるでしょう。
が今、それとは全く別の話をしているのだ、と受け止めて頂きたく願います。
確かに孔子の残した物は、思想と呼ぶに匹敵、見かたによってはそれ以上の物があると思います。
もし、求める議論が「政治的影響」ではなく「孔子の凄さ」などといった場合は、その時に
「孔子流思想」を思想の一つとして扱えば良いかと思います。(なにが凄いかにもよりますが)
では、大きくそれた話を戻し、「1と2が思想や政治に及ぼした影響」
を考えてみます。
まず、推定するに1の現象により今まで帝王学とされた物(の一部)が一般階級にも広がっていきます。
そうなると、多くの人が徳を実践しやすくなると同時に、王へもと、それを求める傾向が強くなります。
さらに2は性悪説などの理論の組み立てに影響して行きます。
そしておそらく帝王学の王のあり方にもと影響したと思えます。
つまり、儒者の良い所がかなり整理されたため、理論立てて説明される性悪説などに大きく貢献されています。
もちろん荀子は儒教であったため孔子の内容を知らぬわけがありません。
で、431の自分なりの答えを書いてみます。
@なぜ評価されるべきで、どの部分が評価されるべきあったか?
A実際に評価されたのはどういった部分で、どう評価されたのか?
B儒教の考えは、国の基本を作る思想にどう影響していったか?
>>@
評価されるべきは実は儒者のそれであった。
また、儒者のそれを分かりやすくした事が孔子のそれである。
現代人の視点で見るなら2が評価されるべきそれである。
現代人からの1は見かたによって変わるので述べない。
また、儒家に対してはかなり孔子の考えが変わっているので単純には、
評価されるべきとは言う事が出来ない。
>>A
実際に評価されたのも儒者のそれで、孔子が評価されたと言うなら2であった。
儒家の間では孔子は絶対的に評価された。
>>B
思想は法などの技術の実践ではなく理論的な所が強い。その理論の整理に大きく影響していった。
最終的には荀子を通し、徹底的な現実理論である韓非子へと繋がります。
儒教が広がった事により、
多くの思想が徹底的に広がり、
その多くの思想が貴族にも受け入れられやすくなったとも想像します。
受け入れられやすくなれば柔軟に改革を進めて行きやすくなるのではないでしょうか。
もちろん、政治に思想が取り入れられやすくなったのは
孔子と言うより、時代。と言う方が妥当だと思いますが。
age
あ、さっき書き忘れましたけど、
性悪説や他のレスは今度します。
なにしろ何かから見た事をそのまま書いてるわけじゃないし、
ポンポンと出てくる簡単な事を書いてるわけでもないので……
にしてもレス遅れすぎてますが…。ごめんなさい。
それと掲示板に書くという理由で内容も不充分になってしまってます。
不明なところがあれば、ゆっくりですが説明させてもらいますので、言ってください。
467 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/11 00:30
2日来なかっただけなのに、こんなにレスが伸びてる…。
遅れましたが、返答させていただきます。(もう忘れてたかもしれませんが)
>>445 394さん
相変わらずほとんどが憶測なので、返答するのに躊躇してしまいますが、
ご存知だとは思いますが、六芸とは、礼・楽・射・御・書・数の六つの教養のことです。
「礼」は今更説明の必要は無いでしょう。(これだけ孔子・儒教の話で盛り上がっていますから)
「楽」は音楽の演奏・作曲。孔子は音楽の天才でもあったそうです。
「射」は、未確認ですが、射撃(弓や弩)の事だと思います。
「御」は御車技術。今でいう車両運転技術ですね。
「書」は文章・作詩。文字の練習等もしていたでしょう。
「数」。単純に「数学」で済ませるならば良いのでしょうが、
>>443でも述べていますが、
私は「易」や「占い」というのも計算の上で成り立つ物だと考えています。
(現代の様に、方程式だとか関数だとかがあったのであれば、それだけで十分ですが)
その為、「易」も「数」に入るのではないか、と考えました。
質問の「孔子は易を教えていたか」ですが、可能性は高いと思います。
ただし、「易」が筮竹をこね回すだけの怪しい代物であれば、可能性はかなり低いでしょう。
もし孔子が教えるとするなら、天文・気象での「易」だと思います。
星の運行や雲の流れ、季節ごとの気温などを調べ、明日・来週・来月・来年どうなるかを
予測するのは、吉日を選んで行う儀式には重要だと思います。
ただ、易経「も」読んでいませんので、記述の中に天文などは無いかもしれませんが…。
易経に詳しい方、よろしければご教授願います。
(たまには勉強しなくちゃいけませんね。でも会社勤めは電車の中しか…)
468 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/11 00:32
>>450 名無氏さん
>「厚葬か薄葬か」の論議
知りませんでした・・・。
現代では「自由葬」という名目で色々やっているそうですが、
信仰や迷信のかけらも無いようなものも多々ある様です。
昔(それこそ、科学なんて言葉も知らないような時代)は迷信深く、
霊魂や神託等も真剣に信じられていた様な状態ですから、
冠婚葬祭に関してはオカルト的な面も出てくると思います。葬儀ともなれば、なおさらです。
>>442を読んでいた時は、せいぜい吉兆占い程度だと思っていたので、
オカルト的な事で支持を集めたとは思わなかったのですが、
葬儀なども行ったというのであれば、あながち有り得なくもないか、と思いましたが、
それでも、オカルト的な事で支持されるというのは難しいと思います。
いつの世でも、「葬儀屋」が歓迎されることはありませんから。
>>452 田単さん
正直、付いて行くので精一杯です。
>468
葬儀の仕方を誤れば祟られかねないのですから、
「正しい葬儀」を行ってくれる人々はとても尊重されたと思います。
ところで、このスレではオカルトという言葉を使う使う人が多いですが、
ちょっと言葉の使い方に気をつけてるようには思えない。
真面目に宗教してる人が見ると顔をしかめると思います。
まあ、宗教儀礼を全部オカルト扱いする辺り、いかにも現代日本と思いますが。
470 :
世界@名無史さん:02/10/11 04:33
age
471 :
世界@名無史さん:02/10/11 09:06
>>469 「正しい葬儀」ってどんなん?
民族や部族の風習に添った葬儀をいうのでしょ?
まぁ、今の世の中は科学的根拠のない物を「オカルト」と表現しちゃう
からね。
科学的根拠とは簡単に言うと「全ての人が認識できる事象」で、現代社会は
これが主流ですわ・・・。
精神論的な話になると、とーぜんの事ながら「皆が認識」なんて有り得ない
訳で、一部の共感する人間だけが認識するにとどまり、多数から見ると「オ
カルト」に映っちまう、、、ほんとに変なのも有るが。
10人中1人しか信じてないと「オカルト」になっちゃって、その逆は「世の
中の真理」になるようでは如何なもんですかね?
スレ違いは許されたい。
>471
まさにスレ違いですね。ですが、お相手を。
「オカルト」は用法が限定される傾向にあります。
諸宗教を指してむやみに限定された用法での「オカルト」と呼ぶのは危険ですし、
ご指摘のように、元の用法で用いたつもりでも、
限定された用法の方が一般的である以上、誤解を招く恐れがあり不適当です。
結局、このようなニュアンスに難のある語は始めから使うべきではありません。
>>472 レスどうも。
このスレの住人の皆さんお騒がせしました、、、それではさヨーなら!
やっぱオカルトじゃなきゃ宗教じゃないよいね
475 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/11 18:02
>>474 当時の人たちの真剣な行為を「オカルト」という言葉で片づけるのは、
やはり不適当であると思います。
さて、3連休でございます。
自分のPCでご参加の皆様、落ちていたら、上げておいて下さいませ。
あらら、「オカルト」を使いはじめたのは私のようです。
お騒がせの原因をつくってしまったようで、たいへん申し訳ありません。
折角ですから、その「オカルト」の内容について解説させてくださいね。
一般的には、皆様も認識しているであろう「現代科学では確認できない事象」に関する事柄をさしています。
そして同時に「近代以降の科学でしか確認できない事象」をもさしています。
「進みすぎた科学は、時として魔法にしか見えない」
この言葉は、主にSFで超現代科学の説明(言い訳)として使用されています。
しかし、古代中国ではこの実例が幾つか存在するというのは、J.ニーダムらの研究を見ればご理解頂けるものと思います。
「五里霧中」の語源は、方士の用いた幻術「五里霧」に由来しています。
で、その「五里霧」の正体とは、現代で言う「催涙ガス」だったとニーダムらが文献からの資料で再現しています。
(当時の人々は、「近代兵器」を「方術」としか理解できなかったのでしょう。
正に「進みすぎた科学」=「魔法」ですね。)
「墨子」では守城戦で「毒ガス」の使用についても触れています。
トンネル戦を仕掛けてきた相手を毒ガスを使って撃退するという方法なのですが、この「毒ガス」の正体が第一次世界大戦でも使用されたマスタードガスであることも確認されています。
また医学や科学に貢献した「錬丹術」も、当時の人々から見ればかなり怪しい不気味なモノ、「方術」や「妖術」に見えたようですから、そういったモノ全てを含む意味で使用しました。
でわ。
m(_ _)m
電波ハケーン
>>477 電波とばかりも言い切れないよ
古代の優れた技術が、後世失われた用例には事欠かない
例えば、三星堆で出土する玉などは今の技術で作るのは厳しいと言われたりする
おそらく、日本の中小企業が作っている精密機械の部品もそういう扱いを受ける日が来るかも
戦車って何で失われたんだろう?
>>477 オーパーツネタとちゃうよ(笑
J.ニーダムはちゃんとした研究者。
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の初代の自然科学部長でケンブリッジ名誉文学博士号とかもろうた方です。
まあ、西洋の科学者はトンデモも多いのは事実だけど。(爆
>>477 おいおい、わかっていってんのか
ニーダムを電波扱いする奴は学界にはいないと思われ
>>479 こういう微妙な文化土壌にかかわる問題で「西洋の科学者は云々」と
十把ひとからげな言い方はどうかな。
英米仏独露それぞれかなり事情がちがうと思うけど
>>476 ×錬丹 → ○煉丹
春秋どころか、中国どころか、
世界の話は、おそらくスレ違いではないでしょうか…
>>467 「礼」
「楽」
「射」あってますヨ。
「御」は、馬術の意味も強いですヨ。
「書」
「数」
余談となりますが、
前にこの六芸を孔子が教え、その技術で弟子が登用されたのではないか?
と書きました。
この六芸は周王朝の重要な科目であったため、
位を手に入れるには大事なものとなっています。
そんな意味で自分は孔子に教えてもらった技術で仕官が成功した、と書いてみました。
(と言うか今までこの補足を忘れてました)
あと、墨子ですが、なんとなくある一方向にしか墨子を語っていないようにも感じますね…
墨子は無差別の人間愛が前提にあるのでそれを先に語るのが妥当だと思いますが…
その上で自分が出した葬儀や宗教的な方針などを順番に説明し、政治的又は社会的に及ぼした影響を語るのが妥当かと…
いえね、何度も読み返してみたんですが墨子を語るに当たっての論点が見つからなかったもので…。
出すぎてすみません。
あと、元々の話が儒家の広がりで、「オカルトを指示」と言われていましたが
儒教と墨子の二大学問を始めとする数々の学派が広がったのはその時代にとても重要視されたからですね。
自分は「オカルト」と言う言葉は使わないのですが、少なくともオカルトではなく学問の一部と言う認識だったので
斉に限らずドコでも重要視、礼遇された上、さらにタダメシが食えました。
これは多くの本に書いてあるので簡単に見つけられると思いますヨ。
最後には韓非子の言葉を用いて始皇帝が終止符を打った形となります。
なんか反論ばかりした上、詳しい説明もなしですみません。
御質問があらば答えますゆえどうぞ。
孔子が易にハマっていた話しは、言われて思い出しました。すみません。
>>456〜
ご苦労様でした。しっかりとすじの通った「理屈」です。読むだけでは失礼ですので
ちょこっと感想と質問。
>>459の1で「圧倒的多数の儒教」とありますが、どういうことでしょう。孟子や荀子
のことでしょうか?それとも、人数的なものでしょうか?
さて、儒者についてですが、これは具体的に湯王や文王、武王、周公旦らのことでしょうが、
彼らの事跡は具体的、各論的なもので孔子がそれらのものを精製しわかりやすい物にしたと解する
ことができる。結論で評価されるべきものの主は儒者の言動であり孔子の作業はそれに劣るとしてい
ますが、私は孔子自身が「述べて作らず」と言ったその作業自体を高く評価しています。
思想というものは基本的に多くの現存する文化や思想、民俗、価値観などをどれだけわかり易く纏める事
ができたかによって人に受け入れられるかどうかが決まります。その点では孔子は非常に上手かった。
その他については
>>464の結論は理論的にまとまっていて面白いのですが、やはり、私は394さんの言う
2の点についてもっと評価してもよいと思います。わかりやすくまとめる事は君主に受け入れられるかどうか
に大きく影響すると考えるからです。
あと、はじめに在った中途半端な貴族ですが、宋の斡旋による和平により団結する理由が希薄
になったこともあるのでしょう。蛇足ですが、この貴族たちが国外に欲望を満たす事はしないと
ありましたが、趙氏が代に攻めたこと、智氏が衛を取ろうとしていたこと、などは貴族が
他国に権利を増長させた例なのでは?
ところで、最近また書き込む人が減ってきたようで残念です。それでは、また頭を冷やしに
もどります。
どうも、初めまして、■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■で、コテハンをやっている、法主といいます。
前々から思っていたことなのですが、秦の統一は時間の差こそは、いつかは実現されたというのは、このスレッドの見解
だと思いますが、秦は統一後早期に滅亡しますが、統一を行う前、あるいは過程の中で、いかなる政治改革を行えば、
長命王朝になることができたとお考えでしょうか。
たとえ、始皇帝の後継者が扶蘇になったとしても、この国家体制では、長命は保てなかったと思います。六国という敵国
がいる場合はいいですが、富国強兵のみが至上命題である国においては、無理にでも、外敵討伐や大型公共事業を行わざるを得ず、
匈奴が相手では勝っても物資を減らし、負けたら大打撃をえてしまいます。また、大型公共事業も国家の長期展望のもとで行うため、
君主の自己顕示欲や芸術性を満たすためだけのものや民衆の反乱防止のもの、利点について理解を得にくいものが多く、
大きな反感を買ってしまいます。さらに、統一後では統一過程において、大きな成功を収めているため、
政策転換は不可能と考えております。
そこで、荀子が秦を訪問し、范雎に秦について、激賞したあと、理想の国に近づくため、「(儒の精神が)純粋に
とりいれられれば、王者となり、大雑把にとりいれられれば、覇者となり、全くとりいれなければ、
亡ぶだろう」といっております。
范雎がこのとき多少、覇業を遅れることも、政策転換していたらと思います。
(なお、陳舜臣の「中国の歴史」にこの話は拠っております)
また、秦は墨家が強かったことでも、知られており、もちろん「非攻」は採用できなくても、「兼愛」「節用(倹約)」
「尚賢(血族相続は完全否定)」の思想をある程度でも、国家にとりいれれば、あるいは・・・とも考えられます。
これは私だけの夢想で現実に無理なのでしょうか。よろしかったら、レスお願いします。
白起と范雎についても、お聞きしたいことがあったのですが、次回に回します。
色々とすみません。m(_ _)m
>>478 戦車は後漢末から三国時代まで残っていたらしい(諸説アリ)ですが、アブミが発明され普及していった時期に消えていったようですね。
>>480 ツッコミ感謝。(^^;
以後気をつけます。
>>482の394さん
これもツッコミ感謝。
全くもって仰る通りなのですが、長文過ぎて消え…(以下略)。
まあ、この手のスレの住人ならば、有名ドコロは今更言うまでも無いことであろうと判断して敢えて。(笑)
(細かい内容は知らずとも、「お題目」程度は理解しているであろうと。)
理屈で物事を判断するのは知識人階級だけ。
一般大衆は、食うのに困らなければ身分制度とか社会制度なんぞはどうでも良い、というのが現実。
…が持論なのもので。
(何年も社会人やっていれば、嫌でも理解させられる現実ですな。)
「非攻」とか「兼愛」等々の有名なモノの他に「墨子は弟子達に常にこう言っていた」という言葉があります。
「鬼神はたしかに存在し、禍福をもたらす力がある。
正しい人間には福をもたらし、邪な人間には禍をもたらす。」
(「墨子」 公孟)
やはり、一般大衆にはコレが一番解りやすかったのかも。
でわー。
またデムパ言われそうだな。(藁
>>484 読点が激しく多く読みづらい上に、何が言いたいのかよくわからない…
>>伯約さん
一度ちゃんと分かりやすいよう理論立てて書いたのですが、
PCがフリーズしてしまったのでもう一度書きます。
ちょっと理論立てを省略し、結論だけ書いてしまったので分かりにくい文かもしれません。
「圧倒的多数の儒教」とは、人数の事ですね。
それは主に風習などにつながります。
あと、自分は「評価」とか、そういったことはしないよう気をつけて書きました。
>趙氏が代に攻めたこと、智氏が衛を取ろうとしていたこと、などは貴族が
>他国に権利を増長させた例なのでは?
ごめんなさい、パッと思い浮かびませんでした。
おそらく晋が分裂する1〜2歩の事だと直感(←なんだそりゃ…)で思ったんですが。
言い訳をさせて頂きまと、
晋と斉以外の国でも他国に戦争を求めたことはありますが、
それも権力は国内に求め、国を荒らした結果につながります。
ちょっと過程を省略しすぎてすみません。
送信しようと思った瞬間にフリーズしちゃったんですよね…
>>法主さん
んと、秦の永続性についての論点だと思うのですが、
そう簡単に儒家や墨家の存在、などによって国は語れません。
ごめんなさい。
ハッキリと一つだけ確実に言えるとしたら、
韓非子は賢人で国の方針を決めるに値する内容でした。
しかし、いかに賢人の考えだろうとたった一人の考えで国を存続させるのは
中国史上一度も有り得ない事です。
だからと言って単純に儒家や墨家を取り入れたら良い、と言うことにはつながりませんが…
489 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/15 08:27
法主さんの「秦帝国の継続」ですが、安能務の著書には、法を本来は
帝王すらもその下に置こうとしていたのに、始皇帝が自らをその埒外に
置いてしまったのが問題だった、というようなことを書いておりません
でしたっけ?
>>487 老婆心ながら、圧倒的多数になったのは漢武帝からでしたな。春秋戦国ではまだ
多くの思想の一つでした。・・・・・・・確かにフリーズは怖い。
>>484 個人的には秦の統一が絶対だとは思わないのですが、とりあえず、秦が長生きするには
どうすべきだったか?について少し意見を。
法主さんは儒教や墨家の思想を取り入れればどうにかなったんじゃないかとしていますが
それだけではだめなことは
>>488で書かれている。しかし、以前に述べたように儒家の政治
体制では、君主の資質如何により国政が左右され、また、僭越を嫌うため新進気鋭の若手が
育たない。多少、長生きは可能だろうが胡亥の資質をみると、根本的な解決にならない。
また、墨家の思想は非常に強い倹約や節制をしいられるため、自発的になら良いが、強制的に
その思想を取り入れることは民の不満を買うように思われる。「兼愛」については思想は高邁だが
やっていることは高度な戦闘集団でその誹りを免れるためとも勘ぐれる。個人的には墨家の
技術や戦術のみを取り入れたことは間違いではなかったと判断している。
部分的に思想を取り入れれば・・・と考えがちだが、それが難しく、要らぬ内紛をもたらすことも・・・
だから、他思想を取り入れるのではなく、法家の思想を儒教などの影響のもとでそれ自体を変化させるべき
であり、それを韓非がある程度完成させていたが実行に移せなかった。
>>490の続き
これまた、個人的な考えなのですが法家の実践面での大成者は諸葛亮であると思っています。
(スレ違い・・)彼の評価である「恐れられて、愛される」のが法家の完成形じゃないかと。
また、
>>489で仰られている通り、法を君主の下に置いてしっまたということが法家の思想と
矛盾していた。故に法家の実践の中で長期政権の実、民衆の不満の解消を模索していくのが、
儒教などの思想を導入するより有効であると私は考えてみる。
批判されていた富国強兵について、そもそも富国は国を富ます、ひいてはその恩恵を国民にまで
広げるもので悪くないと思う。(国の一部の人にそれが集まるのは良くないけど)
また、匈奴対策については長城を築いているのだから、そこを境界にして、とりあえず
友好とまではいかないでも共存関係を築けば問題ないと思う。たしか、中公文庫の「世界の歴史」
の「西域とイスラム」とかいうのを昔読んだとき、遊牧民族にも、やはり穀物は必要でそれを盗るため
荒しにくるという意味のことが書いてあった。ので、定期的に穀物を渡し、その対価として
馬などをもらうなどの事をしていき、納得しないなら徐々に長城を北に伸ばしていけば良い。
以上のことは、個人の空想で皆様の叱責を覚悟で書いときます。まぁ、現実には上手くいかないものですから・・・
また、実践者に恵まれないと政策は上手く活きませんしね。
>>490の8行目の「しかし」は「蓋し」として読んでくださいまし。
492 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/15 18:01
スレの充実ぶりには、ほんと感心することしきり、なんですが…
実は最近のレベルだと、私、ついて逝けません(w
来場者が減っているのでは?とのご意見も、そのあたりが原因ではないかと…
んで、提案なんですが、ハイレベルな方はハイレベルな方で、現行通り
レスしていただき、ビギナー用のテーマも同時並行させる、っていうのは
いけませんでしょうか?
例えば、今、ハイレベルな方は春秋戦国期の思想について語られていますが、
ビギナーは法主さんの「秦帝国を長期政権化させるにはどうすべきか?」と
いうようなことを妄想する、というようなことなんですが。
ご来場者のご意見をお伺いしたく存じます。
>前々から思っていたことなのですが、秦の統一は時間の差こそは、
>いつかは実現されたというのは、このスレッドの見解だと思いますが、
漏れはそんなことぜんぜん思わないが。
494 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/16 01:14
>>489 今日丁度、同書のその部分を読みました。
確かにその様に書いてありました。
>>492 確かにハイレベルな検証で、「知識の幅が広いなぁ」と感心しつつROMってますが、
仕事が終わってから頭を使うのは辛いです(TT)
>統一を行う前、あるいは過程の中で、いかなる政治改革を行えば、長命王朝になることができたか
なんとも魅惑的なテーマですね。間違いなく結論は出ないでしょう(w
私は、長命王朝にする為の政治改革が必要だったとは思いません。
統一するのが早すぎたせいで崩壊が早かったのではないかと思っています。
五百数十年も続いた戦乱の世を統一するのが早いというのには反論もあると思います。
しかし、私の考えている早期崩壊の理由を短く言えば、
1.「大陸の半数以上の民衆が秦の法について行く事が出来なかった」
2.「亡国の朝臣や血族が再起使用とするのを諦めさせるような時間が無かった」
という事だと考えています。
わずか十数年で統一してしまった訳ですから、政治改革を行っても無駄ではないかと思います。
皆さんはどうお考えでしょう?
495 :
中華@名無史さん:02/10/16 02:27
漏れの考えも、ほぼ農耕牛さんに胴衣です。
一説には、中国が完全に天下統一されたのは、漢の景帝治政に起こった
「呉楚七国の乱」鎮圧に因って完成された。 と言う考え方も有ります。
漢統一当時でも、やはり七雄の故地で有る住民は、中央に対して
反感を持っていたと言われて居ます。
その為、漢は秦の様に郡県制では無く、それと封建制との折衷で有る郡国制を
採ったと言われて居ます。
もし、秦が長期的統一王朝に成るにはどうすれば良いか?と言うif論をするならば、
政策云々では無く、長期的に統一事業を進める。と言う戦略が必要だったのかな?と思います。
(一代で七雄を滅ぼすのは1ヶ国〜2ヶ国程度)
他の6国にしても多かれ少なかれ法の支配の下にあった訳で、
秦の支配となって運用が厳しくはなったでしょうが、
それだけでは革命は起こりません。民衆は乱を好みません。
それに、多少の暴動が起きたにしても、政府に鎮圧されるだけのことです。
当時の秦は本来の力なら十分に長期政権は可能だったと思います。
では、滅んだ原因が何かというと、やはり国力無視の大事業です。
秦は空前の規模の事業を繰り返した結果、空前の大反乱を招き、
さらにはそれを鎮圧すべき秦本国の力まで使い果たしていた。
特に章邯の軍がまるごと穴埋にされて、完全に国力が尽きてしまった。
章邯の軍の半分でも本国に戻れたら、
なお地方政権として存続する道もあったでしょうが、
かつて自らが趙などに対して行った事で滅んだのは歴史の皮肉でしょう。
497 :
世界@名無史さん:02/10/16 17:23
亡王族の影響が未だ払拭されきっていない状態での急速な中央集権化に
問題があったんでは?
封建制から緩やかに集権化をはかるべきと考える。
誰か、秦墨や楚墨に詳しいヒトいない?
墨家って何だかんだ言って、思いっきり権力に迎合しているような…
499 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/18 02:09
>秦帝国の長命化は可能だったのか?
ふと思ったのですが、始皇帝の死が早かったのも
早期崩壊の要因なんでしょうか?
500 :
世界@名無史さん:02/10/18 16:11
>>499 そうですね、
絶対的な人でしたからね、、、完全に登りつめる前に逝ってしまった
感じは有ります。
生存中に権力委譲が出来ていれば、、、でも胡・が後継者では・・・・。
501 :
世界@名無史さん:02/10/18 16:48
503 :
世界@名無史さん:02/10/18 17:09
始皇帝はなんだかんだいって有能で人格者な扶蘇を認めてたからね。
情だけで判断しない所はさすが英雄・始皇帝といった所だな。
有力後継者が辺境に大軍をもって駐屯してる事ほど危険な事はない訳で、
始皇帝が扶蘇を本気で外す意図があったどうかは疑問です。
505 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/18 18:09
安能務「始皇帝」では、始皇帝は有能な君主として描いていますね。
一方、宮城谷昌光「奇貨居くべし」では、冷酷非情な人物になっています。
見る立場によって、当然評価は異なりますが…
ただ秦王政は、確かに有能だったんでしょうが、置かれた環境に助けられた
面もあるのではないでしょうか。あの位置に趙の武霊王を置いても、やはり
独創的な施策を打ち出したような気もしますし、魏の文侯なんかを置いても
結構いけたんじゃないかな…なんて妄想してしまいます。
さて、私、連休でPCに触れない状態でございます。
落ちていたら、上げておいてくださいませ。
506 :
世界@名無史さん:02/10/18 18:31
まあ秦の覇業というのも始皇帝一代の成果ではなく
公孫鞅から始まって張儀、樗里子、魏冉、范雎、蔡沢、呂不韋、李斯とタイプは違えども
次々と有能な人物がほぼ切れ目無く政柄を握っていましたからねえ
正直、始皇帝は決着させただけという印象も個人的にはあるんですが
>>486 すみません。484を書き直したのでこちらをごらんください。少しは読みやすくなっていると思います。
敬語は意味がわかりにくくなりますのでやめました。
このスレッドの見解は「秦の統一は時間の差こそあれ、いつかは実現された」となっているようである。
それを踏まえた上で、統一過程の中で秦がいかなる政治改革を行えば、秦は統一後の早期滅亡を防げたであろうか?
たとえ、扶蘇が皇帝になったとしても、この国家体制では長命は保てなかったと思われる。歴史をみると、
富国強兵のみが至上命題である国においては外敵討伐や大型公共事業が目的となっている。
六国という敵国がいる場合はいいが、匈奴相手の戦争は勝敗に関らず、国力を弱めることになる。
また、大型公共事業も国家の長期展望のもとで行うため、利点について理解を得にくいものが多く、
大きな民衆の反感を買うことになる。さらに、統一後ではその大きな成功により、政策転換が不可能であると思われる。
これについて考えると、荀子が秦を訪問した時に范雎に対して、秦の政治について激賞したあと、
「秦が(儒の精神を)純粋にとりいれられれば王者となり、大雑把にとりいれられれば覇者となり、
全くとりいれなければ亡ぶだろう」と語ったことが思い出される。范雎がこのとき、覇業を遅らすことになっても、
政策転換を行っていたらどうであろうか。(なお、陳舜臣の「中国の歴史」にこの話は拠っております)
また、秦は墨家が強かったことでも知られており、もちろん「非攻」は採用することはできないが、
「兼愛」「節用(倹約)」「尚賢(血族相続は完全否定)」の思想をある程度でも、
国家にとりいれることができれば、などとも考えられる。
これは自分だけの夢想で現実に無理なのであろうか。よろしかったら、ご教授いただきたい。
>田単さん
安能氏は法家万能主義、儒家大嫌いですからね・・・。王朝が滅びたり、続いたりするのは、
民衆と時代の要望にある程度よらねばならないと考えております。まだ、古代である秦代においては、
皇帝はある程度は血族崇拝思想により、神格化されており、法律によって皇帝も含めて全て制御するのは、
明・清代の近世にくだらねば不可能ではないでしょうか。
古代では、法律で全ての民衆の理解を得るのは無理で、それに逆らう力の方が上回るのではないでしょうか。
秦一国なら可能だろうが、情報・輸送網も発達していない当時は中国全体には、ゆきとどかないような気がします。
前のスレでは言及してませんが、漢王朝が初期に道教思想者が多く、政治家としており、
道教ならば、比較的解釈が自由であり、うまくとりいれたことが可能ではないかなあと考えております。
510 :
世界@名無史さん:02/10/19 20:26
諸説ある春秋五覇のついて(誰がふさわしいのか)、どう考えていますか?
浅学なので、ご意見拝聴させてください。
511 :
世界@名無史さん:02/10/20 02:46
戦国後期〜末期の中華ってローマ共和制後期〜末期の地中海世界によく似てると思いますな。
じわじわと諸国の領土を削り取っていく。
名目上の独立国もみな弱りきってるか実質ローマ=秦の属国と化している。
そして一人の英雄が一気に片をつけて正真正銘の世界統一を果たす。
始皇帝=カエサルもしくはポンペイウスと言った所かな。
パルティア=匈奴?
そしてどちらも法治国家。どちらも土木工事の鬼(秦は始皇帝だけか)
どちらも途切れなく有能な人材が出てくる。
どちらもその頃の世界では辺境の方。
そういえば時代もけっこう近い。
なのに統一のその後がどうしてここまで違ったんだろうか?
秦とローマが戦ったらどっちが勝つんだろ・・・
>497
> 亡王族の影響が未だ払拭されきっていない状態での
> 急速な中央集権化に問題があったんでは?
それでは動乱に当たって秦本国すら保てなかった理由になりません。
> 封建制から緩やかに集権化をはかるべきと考える。
秦のみが法治主義で六国が封建制と思っているなら誤りです。
六国は秦よりも速く法治主義に移行していましたが、
後進の秦はもっとも厳正に運用したため強大になったのです。
513 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/20 04:24
>法主さん
とりあえず、現行の秦の政治体制では長期政権は無理な為、政治改革が必要だというのは分かりましたが、
その政治体制のどの部分がいけなくて、改革が必要だとお考えになったのでしょうか?
儒教や墨家・道教等の哲学・宗教の話が出ているので、
「法によって締め付けるばかりで緩めることが無く、民衆に心の平安がなかった」
という様にとらえたのですが、焦点としてはそこなんでしょうか?
>>510 斉桓公・晋文公・楚荘王・秦穆公の4人は、私の中では確定なんですが、
あと1人で悩みます。皆さんはどうお考えでしょうか。
>>511 ローマの方はぜんぜん分からなくて…。
秦の兵隊は雇うのにも規定があって、身長180cm以上、何十kg以上の荷物が持てて、
何キロを何分で進めるか、等の試験があって、それにパスしなければなれなかったそうです。
ローマの方はそういったものがあったのでしょうか?
後は、隊を率いる人材によると思います。
>>512 >秦本国すら保てなかった
それは趙高の専横が原因だと思われます。
仮に、胡亥ではなく、扶蘇が後継者となって政務を行っていたならば、
趙高に専横させる事も無く、乱が起きても無視せずに対応したと思われる為、
秦の元の版図まで侵されることはなかったと思います。
>>513 扶蘇がすんなり後嗣に就いていれば、あたら有能な将(蒙恬)を
殺す事も無く陳勝・呉広の挙兵にしても、瞬時に潰され後の乱に
続く芽は摘み取られていたでしょうね
おそらく蒙恬が政柄を握る事となり、個人的に行き掛かりがあった
趙高は間違い無く失脚していた事と思います
趙高の運が良かった所は李斯を取り込めた事でしょうね
515 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/21 08:28
秦の統一以降の話題で盛り上がっておりますね。
スレのテーマとは外れるんですが、秦は春秋戦国から続いてきている
国ですし、皆様、別によろしいですよね?
>>510 春秋五覇といえば、農耕牛さんのおっしゃるように、斉桓公・晋文公・
楚荘王・秦穆公の4人は確定だと思うんですが、あと1人は誰が適切
なんでしょうか?
個人的には、少々無理は感じるんですが、宋の襄公を推薦したいんですが…
516 :
世界@名無史さん:02/10/21 08:56
>>515 越勾践がよろしいのでは?
宋襄公は人格者とは思いますが如何せん実力が・・・。
>515
日本では「春秋戦国|秦漢」と分けるのに対し、
中国の方では「春秋戦国秦|漢」と分けるそうです。
秦漢の連続性を取るか後漢三国晋の連続性を取るかの問題ですが、
漢初は呉楚七国の乱まで戦国の風を引っ張っていた感があるので、
後漢の後の六朝の貴族文化に通じる社会情勢を取る
後者の方がよいと思っています。
と、スレ違いですのでsage。
518 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/21 18:10
>>517 ということは、秦帝国まで本スレに含めても問題ないのでは?
というご意見ですね?
519 :
世界@名無史さん:02/10/21 18:34
>>517 >中国の方では「春秋戦国秦|漢」と分けるそうです。
史記の表もそうなってますね。
520 :
農耕牛 ◆Y7ctWdcox2 :02/10/22 01:48
>>514 派閥の作りとしては、仰る通りになると私も思います。
>李斯を取り込めた
何の小説だったか忘れましたが、趙高は腕力も強く、李斯の説得も場合によっては
文字通り腕づくで従わせたであろう、っていう感じの事も書いてありましたが、
巡行中の側近が少なかったという事は、やっぱり運が良かったんですね。
>>515 田単さん
天下が完全に安定したのは漢代に入ってからですから、
私も秦代を春秋戦国期に入れる派です。
学校でどう区別していたかは忘れましたが、感覚的には「戦国時代かな」と思っていました。
ちょっと話がずれますが、私が消防の頃の中国の年表の覚え方は
「殷周秦漢…」だったような覚えがあります。春秋戦国500年はどこへやら?
>>515,
>>516 >春秋五覇のあと1人?
人によっては、楚荘王と秦穆公は、当時夷狄だった事から
五覇に数えない事という説もあるそうです。
個人的には宋襄公は入れたくないですね。ちょっと時代錯誤している辺りが理由ですが。
>>517 スレ違いではないと思いますよ。春秋戦国の時代の区分けですから。
あらためて、「韓非子」を読み返してみました。おもうに、秦は韓非の考えからいえば
相当、不十分ということが再確認されます。
韓非は刑名学を中心として当時の思想を集大成したことは既述です。具体的には国全体
の運営は法家、君主のあり方としては黄老思想、臣下については儒家、を基本に運営さ
れてゆくべきと考えているようです。秦は国全体の運営についてのみ韓非の思想を取り
入れたのでしょう。しかし、その他は韓非子に言う亡国の行いを数々している。
国費を私用に使う(墓など)、佞臣を近づける(趙高)、君主が好悪をはっきり出す、
法の適用に穴を作る(法を犯した趙高を赦す)などなど・・・
確かに始皇帝は名君に入るのだろうが、十過篇の君主の過失のうち少なくとも4つは
当てはまる。始皇帝は韓非の著作を読んだのにもかかわらず、自分の都合のよい場所
だけを取り入れたのだろうか?私の周りで、どうも秦の失敗を韓非の思想の敗北と
いうように勘違いしているやつがいて困ったものです。韓非子はただ厳しい法で人民を縛るもの
でなく、二柄篇にあるようにがんばった人にはちゃんと徳(賞)が与えられるべきで
行為と結果が明確になり国民にとって努力し甲斐のある制度を作ろうとしていたと思われる。
別に私自身、韓非礼賛なわけではないけれど、努力がちゃんと評価されるという点では
当時の思想として素晴らしいと思う。まぁ、何がいいたいかというと秦は法家で行くなら
もうちょっと韓非の思想を取り入れれば長生きできたかなという可能性があるということで。
>>494,495
個人的には短期間で六国を滅ぼしたことは正解であると思う。一国一国やってたのでは本当に対秦の
合従が完成して統一すらできないと思うから。むしろ統一後、数年は民生の安定を図れば相当磐石な
ものになったと思う。極論すると国民は生活が安定すれば君主は誰でもいいから。
>>510 五人に限るのは陰陽五行説かなんかの影響でしたっけ?八人のうち宋襄公は会盟に失敗
しているので、入れるのはどうだかと思うのですがそれ以外は誰でもいいんじゃないですか
斉桓公、晋文公が入っていれば。でも個人的には呉越は入れたくない。理由は時代的に
他の五人に比べて時代が下がり戦国に近く、一体感が感じられない。でもそうすると宋襄公
を入れざるを得ない。
522 :
世界@名無史さん:02/10/22 12:20
法の根源は信賞必罰。
>>523 半分賛成
周王から卿士に任命されてたりするし問題無いとは思うけど
正直個人的にはカクを討ったりしてる点で武公の方が相応しいと思う
でもこの人達マイナーだよね…
勢力範囲がほぼ華外と言っていい秦繆は正直入らないと思うんだけどな
楚荘は鼎の軽重やら鄭宋への干渉やら行動が充分
中華に影響を与えてた点で入れても問題無いと思う
中華への影響力と言う点で見れば残る一人は夫差…、かなあ
525 :
世界@名無史さん:02/10/23 01:31
古代中国人ならともかく現代人が
5人という数字にこだわる意味がまったくわからない。
「六覇」とか「七覇」じゃなにか具合が悪いのか?
>525
その通り。こだわる必要は全くないでしょう。
ところで、楚成王はいかがでしょう?
成王の最盛期に楚の盟下になかったのは秦・晋・斉くらい。
すぐに宋が離反して城濮の戦いを招き、
晋文公にひっくり返されたのですけどね。
それにしても、斉桓公の後に晋文公が覇権を確立する経緯は、
状況が2転・3転して実に面白い。
質問なんですが、孫(月賓)の名前って、五刑の(月賓)からきてるんですか?
孫(月賓)が孫武の子孫というのは伝説で、事実ではない。
孫(月賓)は異民族の出身だから漢字表記の本名というのはない。
孫氏というのは戦略にすぐれていたから孫子みたいだという渾名。
(月賓)も足を斬られていたからついた渾名。
入れ墨は刑罰を受けたのではなく南蛮の出身だったから。
>528
聞いた事のない説ですな。ぜひとも出典を教えて頂きたい。
>>522 法家は皆そうなのですけど、韓非子の信賞必罰でひかれるのは用人篇にかかれている
誰でも取れる賞を設け、誰でも避けることのできる罰を創るという内容です。まぁ、罰の方
は成文法にすればよほど変なものでなければ可能でしょうが、賞のほうはどうも一定の身分
以上の賞は結構名君と呼ばれる君主はやっていますが、それが誰でもとなると他は聴いたこ
とない。商鞅のあの一回は例外として。
>>524 でも、秦穆公は晋恵公、文公を内乱以後に送り込んでるのでその点では中原において覇者の
実はあると思います。
>>526 楚成王もその実はあると思いますが、基本的に一国一人みたいな不文律があるような・・・
(呉は二人候補はいますが、同時に二人を入れるという説は聞いたことない)
531 :
世界@名無史さん:02/10/23 12:41
>>530 扶差は課題はクリヤーしてるが、、、父上の方が宜しいと思ふ。
>伯約さん、(491、492に対するレス)
どうもありがとうございます。(遅レスですみません、考えるの時間かかるもん)
おっしゃったことにある、思想の部分的導入が難しいということは賛同しますし、儒教・
墨家の思想の導入は効率的ではない、あるいは無理であるというのももっともです。
しかし、
>批判されていた富国強兵について、そもそも富国は国を富ます、ひいてはその恩恵を国
>民にまで広げるもので悪くないと思う。(国の一部の人にそれが集まるのは良くないけ
>ど)
には、賛同できません。
なぜならば、古今、民を愛するという概念がなく、「富国強兵」を目的とする国は、近く
は戦前の日本をみれば分るとおり、軍事行動に勝利すればさらなる軍事拡大に着手し、敗
北すれば、国民の負担を省みず、また内乱を鎮圧するため軍事力の拡大を図ることを歴史
が証明しているからである。国が富んだとしてもそれは国民にかえらず、いたずらに国の
事業拡大につながることになるだけである。
戦前の為政者が特別に愚かであったとは考えにくく、為政者というものが民衆の不満の解
消という目にみえない活動よりも、軍事活動による勝利、大型公共工事による将来の安定、
自己の持つ権力に対する満足感及び民衆に対する示威行動(実際には逆効果のことが多い
が)を好むのである。晩年の始皇帝もこの心理に陥っていたようであり、特に、中国のよ
うな大国ではそのような心理に陥りやすいのは止むを得ないであろう。
(つづき)
>故に法家の実践の中で長期政権の実、民衆の不満の解消を模索していくのが、
>儒教などの思想を導入するより有効
>また、匈奴対策については長城を築いているのだから、そこを境界にして、とりあえず
>友好とまではいかないでも共存関係を築けば問題ないと思う。
一見すると、確かにこちらの方が手っ取り早く有効に思えるが、(実際、歴代の権力者も
民をわざわざ苦しめようとするものは少ないだろうから、同じように考えたであろう)
そのように考えることで、自ら批判勢力を失い、対立する価値観の中で模索することを忘
れ、独善を免れない。その中で暴走を止めることは、李斯には不可能であろう。
また、始皇帝という独裁者を失うことにより、統一という偉業をなしとげた軍部が急速に
力をつけるということはありえると思う。(実際は趙高の恐怖政策により実現しなかった)
そうなれば、匈奴を仮想敵国におき、和平などは難しいと思われる。
胡亥が後を継がなくても、心優しい扶蘇が将軍たちが命をかけて戦ってきているのを直接
見て、将軍たちを重用する可能性は十分にある。その場合、宰相となった蒙恬が名将であ
るがゆえに功名心にかられ、匈奴と無謀な戦争を起こす可能性が高く、相手はあの冒頓単
于となる可能性がこれまた高い。しかも、前漢とは違い、蒙恬としては敗北すれば名声を
失い処刑されるため、勝てなくても外交で処理しようとせず、国力を傾け決着をはかるだ
ろう。これでは勝利しても前漢の武帝と同じ運命をたどるのみならず、前漢のときほど国
力の蓄積がないため、そのまま滅亡すると思われる。
(さらに続き)
話はそれたが、宋(五代十国のあとのやつ)のように文治主義・弱体化はまぬがれない
が、それでも対立する価値観や批判勢力を導入するほうが、国体としての矛盾・対立を生
むことになっても有効と思われる。
荀子は韓非子の師匠にあたる人物であるし、現実をわきまえてないことはないはずであ
りそのままとどまってもらい、宰相となって秦を指導してもらうぐらいの度量が范雎にあ
ってもよかったと思う。(これは妄想かな?)
また、秦は占領地の地方官には地元の豪族を使い、その佐官として秦の役人を派遣し、
必要なときだけ法律で対応してもらうといったような道教的(ようはありのまま)思想を
導入することも可能だったのではないか。
いろいろいってすみません。皆様のご意見、お願いします。
>>521 自分も短期間で秦が六国を滅ぼしたのはいいと思います。三国の魏をみればわかるとおり、
滅ぼす時に滅ぼさねば、他国の無謀な戦いを退けたのを功績に功臣が力をつける可能性が
あるからです。(仮想敵国がいると緊張が保たれるので一長一短ですが)
>534
独裁国家の問題点を盛んに説いているようだが、
議会制民主主義でも導入しろと言うのだろうか…?
> また、秦は占領地の地方官には地元の豪族を使い、その佐官として秦の役人を派遣し、
>必要なときだけ法律で対応してもらうといったような道教的(ようはありのまま)思想を
>導入することも可能だったのではないか。
せっかく六国が苦労して直接掌握した人民を継承せずに
ただで豪族にくれてやるようなものですね。
確かに中央が弱ければ国家を破綻させるような大事業は不可能ですが、
ひとたび統制を失えばそのまま戦国の世に逆戻りです。
>>521 ちょっと横レスで失礼します。
私は秦と始皇帝は『韓非子』の思想の核心の重要な部分を取り入れていたと思います。
細かいところでいろいろと矛盾があったとしても。
それは「人間性への不信」と「国法万能主義」です。
で、前者は秦王朝そのものの不信を招きましたし、後者は統一したばかりの地域に無理に
法律を押し付けようとしたことがたたって反乱を招くことになりました。
「信賞必罰」を評価されてますが、それは国家の法律がそれを保証するというのが前提です。
つまり、最終的に国法を押し付けなければなりません。
韓非の思想は基本的に戦国国家体制の完成を目指したものなので、「守成」に弱い
面があるのは確かでしょう。
韓非の法家思想は儒教のような普遍思想ではなくあくまで限定的な目的に添った思想であるという
ことを踏まえる必要があります。
あるいは韓非の強い個人的なルサンチマンが投影された思想と見るべきです。
韓非自身、普遍的な理想を打ち出すという目的はありませんでした。
だから「戦争」というモチベーションがなくなった時に、人民に対していかに精神的充足を
与えるか、という課題に韓非はなにも答えることができません。
秦の失敗は法家的な戦国国家体制を、統一後も続けてしまったことです。
国法万能主義、大規模な軍事行動、宮殿建設、始皇帝の巡幸などなど。
これは中国や北朝鮮が革命による国家設立後にも文革やマスゲームをやっているようなものです。
伯約さんは韓非の思想との逸脱を問題にされてますが、
私は逸脱があるにしてもやはり荀子の主張に与したいと思います。
>>536 あまり詳しいことはいえませんが、
秦王朝は統治に当たって地元の有力者の支持を仰ぐ必要があったようです。
スイコチシンカンという法律文書でそれがうかがえるらしいです。
まあ、そうでしょう。一気に直接統治なんて無理ですからね。
それに初期の漢王朝は過去の封建体制を事実上承認しています。
次第に中央集権化していったことは確かですが、
秦もこういう緩やかな統合の方法でいくべきだったと私は思います。
あと、
>>537 の付け加えですが、
韓非は儒家思想それ自体はほとんど批判していません。
それも当然で、韓非と儒家は問題とする次元が違うのでそもそも論争になりえません。
韓非が儒家を批判しているように見えるのも、
儒教道徳によって国家を強くするという考え方に対してです。
おそらく韓非が儒家は道徳を語るのはいいが、それで国家が強くなるわけではない、
国家のことについては黙っててくれ、ということではないかと思います。
>539
そもそも、韓非子も李斯も始皇帝も儒家だという説があります。
説によると、儒学韓非子派が漢代に斉学(儒家の一派)に駆逐されていく過程で、
法家として儒学から区別されるようになっていったのだとか。
なかなか興味深い意見が多いので、このスレは色々と勉強になります。
歴史のIFは、なかなか難しいものです。
アチラを立てればコチラが立たず、と全てに目配せして考えると逆に考えがまとまらなくなるものです。
(わたしだけか?)
ちなみに、秦始皇の政治、兵法の師である尉遼がのこしたとされる「尉遼子」には、こんな一説があります。
「民を富ませば国々の王となる
武人を富ませば国々の覇者となる
大夫(官僚)を富ませる国はどうにか存続できる
王侯だけを富ませる国は滅亡する」
この書は、武経七書のひとつで「兵法書」なのですが、色々と面白い表現もあります。
未読ならば、是非御一読を。
でわー
(上記の引用は「意見」では無く、興味を引かせようとする為のモノです。(笑))
書き忘れ。
説によると、韓非子が儒家を非難してるように見える部分は、
儒家の他の学派を非難したものだそうです。
また、韓非子自体、漢代に儒学系以外の記事が追加されているそうで、
それが儒学から除外されていった理由だとの事です。
お久しぶりです。
ずっと見ていますがちょっと自分の考えを完璧に整理できないので
しばらく眺めていようと思います。
ところで秦の政治がイマイチ細かい所まで把握する事ができず、
不明な点があるのですが、儒家の偏見や書き換えなしに、
一番正確に事実を書かれているのはどの本でしょうか?
小説ではなく現存する本でお願いします。
勉強になるというか、、、すでにとんでもないレベルで・・・
あたくしなんかではレス付けられません。
なにかのコラムだったと記憶してますがその中に、
「朝、おきて畑に出て働いて糧を得て家族を養う、、、
皇帝の力なんてどこにある?」
ん〜っ・・・これこそが理想でしょうねぇ。
下らないレスしました。
545 :
世界@名無史さん:02/10/24 09:08
鼓腹撃壌の世だね
>>532 長文ご苦労様です。そこで、すこし反論・補足。
個人的には日本戦前軍部政治を参考にするのはどうかと・・・(理由を書くと恐ろしいくらい
スレ違い・板違いになるし変な人もやって来そうなのでやめときます)
富国強兵のみに関しては管仲の政策における斉をなんとなく参考にしていました。
富国による軍事力の拡大・公共事業はある程度仕方がないし、防衛という面からみても必要でしょう。
しかし、おっしゃられている通りそれが国民の不利益につながることが多々あるのは否めません。
なので、「韓非子」には国費を私的に用いることを禁忌しています。それを、勝手に拡大解釈して
公共の利益に反する事は止めろとして考えてみたわけです。
法家実践の中での不満解消については、具体的には子産の学校みたいので不満を言わせるだけ言わせ
ておいたなどを参考にして、さらに、法家の実践者であげた諸葛亮の政策を参考に考えてみたのです。
(具体的内容は長いのでやめておきます。正史準拠の本ですぐわかると思います)でも、確かに李斯には難しいかもしれません。
蒙恬の対匈奴方針はあまり無理をしないと思うのは私だけでしょうか?さらに、位人臣を極めた宰相
が無茶に攻めるという何の利益もないことをやるでしょうか。勝っても位は上がらず、負けたら死刑だし・・・
むしろ、外交を基本としてやむを得ない場合のみ戦闘となるんじゃないですか。
>>534の文治・弱体化は同意です。統一された思想の中では文化・技術・人材その他すべてが停滞し新しいもの
に打ち壊されるのは歴史の常のように感じます。しかし、それも統一国家にとって逃れられないものなのかも。
>>537 確かに韓非子の法家理論は戦国に適し守成にはそぐわない面もあるようです。しかし
荀子の言うように礼などの徳目により強制するのは現実的に見て難しいように感じるのです。
儒教の思想はやはり個人の矯正や君主・人臣のあり方として尊重(あくまで思想として)
されてもよいでしょうが、国家全体の方針として儒教を持ってくるべきなのでしょうか。
その点については
>>521の
>具体的には国全体の運営は法家、君主のあり方としては黄老思想、臣下については儒家、
>を基本に運営されてゆくべきと考えているようです。秦は国全体の運営についてのみ韓非の思想を取り
>入れたのでしょう。
というのはやはり正解だと思う。
そして、多くの方が主張している封建制から中央集権への緩やかな移行は個人的に危ないような気がする。
確かに漢はそれに成功して長期政権を確立しているが呉楚七国の乱は私が思うに相当危ないことだと。
周亜夫という名将の存在があって事なきを得たが、彼がいなければ漢は転覆していた、又は一王国として
旧秦ほどにおさえられて、戦国の続きとなっていたと推測する。その失敗した例が晋(司馬氏)の八王の乱
じゃないだろうか。歴史家や学者の中に分裂、統一を繰り返すと言う。故に秦の統一が必然のように
感じられる人もいるのだろうが、秦までは完全なる統一は無く、統一を求める国民の意思も希薄だったと思う。
なので、多少、強引でも中央集権の必要だったことをそこに見出してみたりする。
>>540 焚書坑儒をした始皇帝も儒教だったのですか?
>547
焚書=私学の禁
坑儒=始皇帝を批判して逃げた方士の侯生・許術関係者の処分
例えば、叔孫通は儒者ですが二世皇帝まで仕えています。(史記列伝参照)
焚書坑儒が儒家への弾圧という見方自体、
韓非子学派を攻撃するための過剰宣伝だったとの事。
ちなみに「殷周秦漢時代史の基本問題」の片隅に書かれてる論です。
549 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/25 17:57
ここまでの流れを拝見すると、秦までは、このスレに含めても問題ない、
という了解があるようですね。
ところで、始皇帝の「不老不死」願望が、秦の命脈を縮めることになった
っていうようなことはなかったのでしょうか?
さて、連休でございます。いつも通り、私は参加できませんので、落ちて
いたら、皆さん上げておいて下さいませ。
ええと、取り敢えず考えがまとまってきました。
が、ちょっと今回はまだ自分の考えはまだ書けません。
自分も韓非子全文を見なおしました。
と言うより、書いてある事が何に直結するのかを一つづつ洗ってみました。
荀子に比べるとやはり韓非のほうが見劣する(圧倒的範囲が狭い)感がありますね。
そもそも韓非は統一を最終目的としたものだから当たり前なのかな。
だからどうだと言うことはないんですが。
ええと、簡単に「現実の整理」をしたいと思います。
と言うのもなにか勘違いしてるかな?、と見受けられるレスもあったので。
>>532さん
富国強兵と韓非以外の法は農民を優先する所が強いですよ。
それと、軍事行動は「即」領土の支配には直結してはいません。
そこら辺イロイロな本に書かれているのですぐ分かると思います。
あと国が安定しないのはあまり庶民には関係ありませんね。
庶民が政治的に抑えつけられた例すらほとんどありません。
国の崩壊は権力の分化から始まる横暴などが主な原因でしょうか。
このあたりの時代は、商君が思想、風習、文化などの要になっていて
それが強く影響し続けています。そこら辺から調べてみてはいかがでしょう?
他にちょっと気になる点は…
儒家と言うのは多くの学派があり、
しかもそのほとんどが机上の空論であった事。(これは読み手も気をつけねばなりません)
しかも小説はあまり読まないのですが、小説を読むとかなり儒家視点な本が多く見受けられます。
それは作家や専門家が無知なのではなく、現実をつかみにくいと言う事が強く関係してきます。
ここら辺からさらに現実には関係ない机上の空論が広がっているようですね。
その儒家の言葉は天下に広まると言う事になりましたが、これらを韓非は凄く嫌ったみたいですね。
そこで
>>539の(韓非さんの意見)ような事になってくるのですが、
現実はそんななまやさしい物じゃなかったはずです。
百家争鳴も始めると「白馬は馬ではない」とか
そう言った論争を繰り広げる人達も優遇されます。
優遇された事自体はあまり書いていないのですが、大体の生活水準と待遇は予測がつきます。
(↑これ名家ですけど)
韓非が嫌ったのは儒家を初めとする机上の空論が実際の政治に支障をきたしている事。
机上の空論を取り入れるのも、机上の空論を金をかけて発展させるのも嫌がったわけです。
539さんが言う事よりもずっと深刻を極めていたと言う事です。
似たような話で…
「述べて作らず」と言う言葉がありますが、
これもあまり詳しくない人が惑わされそうな言葉だと思っています。
「述べて作らず」の実態は「虎の威を借りる」です。
もともと、孔子を初め儒家は儒者の都合のよい面を好きに解釈してしまっている感があります。
孔子によって儒者の人間像が好きに変えられたのは良いとしても、
孔子の言葉を好きに解釈する儒家が多く、これを特に韓非が問題にしたようです
それらは現実には役に立たない、または有り得ない事にいかにも真実味を持たせる事です。
ここら辺は数多くの書物に混在して書かれているので読み手は絶対に気をつけねばなりません。
余談ですが事実をよく曲げる孔子その物は、
時代と風習、文化などを整理してみるとけっこう現実に通じるものがあります。
考えてみると孔子は時代を間違っていただけでかなり現実を見つめた事が書いてあるみたいです。
孔子の言葉が一番正しく現存しているのは「論語」みたいです。
ほとんどの書物は二千数百年のウチに「現実」と「成功した(?)思想」が曲がりに曲がって自分の言葉は正しい。
となっているのでやはり気をつけねばなりません。
ちょっと下らない事を長々と書いてしまいましたが、
政治背景を取り違えていると思った(勝手に自分が思った)文が、少しありましたので。
一つの本にとらわれず多くの本から現実の整理が大切かな、と思っています。
あと、単純に法家や名家といったように分けない方が良いかもしれませんね。
例えば一口に法家と言っても、それぞれの
目的(影響させる範囲を含め)、自国や諸国にもたらした影響、狙い、法の内容、思想その物、時代背景など、
全て違います。
特に重要なのは、「時代背景」と「思想」だと思います。
こうやって見ていけば法家や儒家にとらわれず、対等の視点で見ていくことが出来ます。
論理と言うものは他のものと比べる時必ず同じ視点でみないとなりませんからね。
ちょっと自分の考えは書けませんでしたが、
近いウチしっかり順序だてて書こうかと思います。
では。
>>536 ちょっと、反論します。
>独裁国家の問題点を盛んに説いているようだが、
>議会制民主主義でも導入しろと言うのだろうか…?
そうではありません。皇帝を支える官僚に批判勢力を置いた方がいいといっているわけです。
この時代は君主独裁制しか概念にはありえないでしょう。
秦・隋が早く滅び、漢・唐・宋が長期間保った理由の一つです。
>せっかく六国が苦労して直接掌握した人民を継承せずに
>ただで豪族にくれてやるようなものですね。
>確かに中央が弱ければ国家を破綻させるような大事業は不可能ですが、
>ひとたび統制を失えばそのまま戦国の世に逆戻りです
それはそうですが、秦の朝廷で全て握るのは当時は不可能ではないのでしょうか
それならば、豪族勢力に利益を与え味方につければいいと考えたのです。
(韓非さんも同じ意見のようだし)
豪族をそれぞれの「まち」ごとに分ければ勢力は小さいし、送った官吏は監視の
役目も果たします。そして、最終的に中央から来た官吏の方が立場が強いのでそう
やって豪族を骨抜きにすればいいのではないでしょうか。
それ以外はいずれ考えてからレスします。
>554
豪族を統制すべという点では同じようですね。
しかし、封建主義的な側から統制しようというのは無理があるかと。
ちなみに、科挙を中心とする中央集権のシステムが完成した
宋以降はどの政権も長命を保っています。
漢はそれ自体長命でしたが、漢代に成長した豪族達によって、
以後の魏晋南北朝の諸王朝はいずれも短命に終わりました。
>>548 どうも有り難う御座います。でも、始皇帝=儒家っていうのはどこから来たのでしょう。
あと、豪族制ですが、これは秦がある程度(豪族を押えつけられるくらい)の政治的
、軍事的影響力があればよいですけど、ひとたびそれが衰えたら憐れな末路が・・・
思うにどの統治システムも一長一短の感があり、その長所が現れると発展し、短所が露呈
すると崩壊するので一概に「これがいい!」というのは無いということが改めて確認でき
ました。(それぞれ危険の多寡の差はあるけれど)
ひどく単純に考えると、統治の正当性は民意と天意に在り、天意は民意の現れと考えられ
る。君主制においてはそれを理解できた君主の多い王朝が長生きできたのだろうと考えてみた。
でも、そうすると儒教徳治に近くなる。法治でも君主制なら君主の権力が大きくその恣意的な
行動範囲はやはり大きい。法治と君主制が相容れるのは難しいのかもしれない。
結局何の結論も出ないのですが・・・・愚痴のみ。
>556
例えば始皇帝が巡狩の途中で立てた諸刻石に書かれた内容は、
儒家的倫理思想に基づくものだそうです。
私も概論を読んだだけで詳しく論じられませんが、そこはご容赦を。
558 :
世界@名無史さん:02/10/28 09:21
ageときます
559 :
世界@名無史さん:02/10/28 10:20
始皇帝の天下統一って実質2代で消滅したから
秦は統一王朝っていっても不安定だったんだろうな
やっぱ漢からが事実上の統一王朝だろう
560 :
世界@名無史さん:02/10/28 13:22
どうでもいいが、戦国四公子をDQN順にならべたら
1)春申君・・・死に様が真性
2)平原君・・・あんまり実力はないとおもう
3)孟嘗君・・・のこのこ秦にいったのがマイナス
4)信陵君・・・まあ無難でしょう
ってどうよ?
>>560 信陵君を買い被り過ぎじゃないか?
王宮にいたまま趙の国内事情まで把握出来る諜報網を持ってたのにも関わらず
実力を発揮出来ないまま秦との情報戦で抑え込まれた感じだしなあ
存命しているだけで秦に対する安全弁になれたのに、寿命も全う出来ず夭折しちゃったし
秦に嵌められても脱出に成功し、寿命も全うし、存命中は薛のような小国を
存立させ続けた孟嘗君には及ばないと思う
まあ春申、平原の二君に較べれば直接秦の標的になった点で勝っているとは思うが
平原君は合従軍を率いた経験が無いから春申君より評価は劣ると思う
春申君は確かに晩年はアレだが実績的には平原君とはレベルが違う
平原君は趙国内はともかく対外的にはどうだったのかね?
李兌や楽毅、趙奢、藺相如、廉頗に較べると功績は地味だし、DQNな事を
やらかして、周囲にフォローされるってエピソードの方が多いと思うんだが
中国的な価値観だと仁徳の人って事で評価も高いのかも知れんが
漏れ的には
1)平原君
2)春申君
3)信陵君
4)孟嘗君
だと思う
562 :
世界@名無史さん:02/10/28 18:51
>>561 いや、孟嘗君よりは信陵君のほうがずっと上だろう。
なぜなら信陵君は五カ国連合軍を率いて秦軍を敗退させたという実績がある。
これは信陵君が国際政治の舞台でかなりの力量があった証拠。
秦の権謀術数にしてやられたがそれだけ秦が恐れていた証拠でもある。
孟嘗君は斉の重鎮なのに独立王国を築いて秦や魏に行ったりと自分勝手な行動が多く、
人間的な魅力はあっても政治的にはほとんど何の実績も残していない。
個人的には憎めない平原君は所詮はボッチャン貴族で政治的眼力がまるでなく、
春申君もやや地味でこれといって目立った実績がない。最期がひどかったし。
ということで一番は文句なしに信陵君。
信陵君の欠点は人格者である一方で政治のドロドロとした面に弱くバイタリティに欠けたこと。
だから最後は酒色に耽るしか能がなかった。
>>556 確かにそうですね。絶対ということはないと思います。
自分も三・戦板で「蒼天航路」嫌いといって嫌われましたが、
漫画や小説の中でも、絶対的なものを求める人間心理は自分は危うさと嫌悪を感じます。
(スレの流れをとめるとよくないので、今回はちゃんとしたレスはなしです)
>>562 合従軍を率いて秦を函谷関まで押し込めるのは孟嘗君もやってる(B.C.296)から一緒
むしろ秦に領土を割譲までさせた事で孟嘗君に軍配が上がる
無論、秦の直接の標的になるというのはそれだけ警戒されていた証ではあるが
それならば信陵君が屈した情報戦を凌ぎ切り、一度は招いて懐柔しようとまでさせた
孟嘗君の方が上だと見るが
実際、アレだけの人望がありながら兄王の信頼を得られず宰相職に就けなかったのは
政略的な面で(孟嘗君と比較して)疎漏があったと言う事
孟嘗君は斉の宰相職から3度遂われながら2度まで返り咲いてなお寿命を全うしている
両者の差は明らかだろう
始皇帝に土地邸宅を無心した王翦とまでは言わずとも、孟嘗君程度に身辺に
気を配っていれば魏で遠ざけられても他国に道を拓くことも出来たと思うので
酒に溺れ夭折するハメになる事も無かったと思われ
あと孟嘗君、信陵君には劣るものの、春申君の実績は地味どころじゃない
・太子時代の考烈王を秦の人質状態から救い出した
・宰相として魯を滅ぼした
・5ヶ国合従軍を組織し函谷関まで攻め込んだ
(その後反撃されて先達たる蘇秦、李兌同様結果的には敗北したが)
まあ最期が酷かったのは同意だけどね(w
晩年の楚の寿命の内、15年分くらいは春申君の功績と言っていい
566 :
世界@名無史さん:02/10/29 00:14
>>564 >合従軍を率いて秦を函谷関まで押し込めるのは孟嘗君もやってる(B.C.296)から一緒
むしろ秦に領土を割譲までさせた事で孟嘗君に軍配が上がる
すみません、これは不覚にも知りませんでした。
あわてて『史記』を開いてみたが、孟嘗君の大名誉となるはずの戦がはっきり書いてないのが疑問。
実のところ孟嘗君はどんな役割を果たしたのか?
また信陵君が指揮した戦で秦をやぶったのは2度で、これは『史記』にはっきり書かれてある。
いまのアメリカと言ってよい当時の秦を2回も破った実績はやはり凄いと思うのだが。しかも二つとも文句なしの快勝。
秦の統一にどれだけ効果的に反撃できたか、という点ではやはり信陵君に一日の長があるような気がする。
>>565 呉の開発も忘れちゃイカンよ
漢楚の争いのとき、項羽を支えたのはあのあたりだからね
信陵君の功績って、秦の統一後に削除されたって本当ですか?
確かに、趙や楚は滅亡させられそうだったのにその後も生き残ったわけだけど
もしかして秦ってこの時、大幅に領土失った?
>>563 政治的なことでなく、軍事的なことなんですけど、牧野の戦いの時は確か占卜は不吉
なものであって武王が殷との戦闘を止めようとしたのを太公望が行わせた。また、楚漢
の時代、項羽と和平が成った劉邦が引き上げようとしたとき、確か張良か陳平が反故してでも
項羽を討つべきと進言した。殷末周初は占卜の結果は絶対的な権威を持ち、楚漢抗争の時代
君主や統治において信義を通すということは重要な要素であったと思う。然るに上記の
名補佐役たちはそれらより、新しい価値観(形而上の迷信でなく形而下の実力や、信義より
統一による早期の安定)を主張してその王朝の礎の一端を作り上げた。
これらが絶対的に正しいものでないことは明らかで、諸手を上げて賛美されることはないだろうが
時代に応じた適切な手であったことは認められる。
統治システムにおいても、行き詰まった時代に応じた新しいシステムが必要になっていてそれが当時
韓非子の意義(理論的な統一までのプロセス〜中央集権の君主制)だったのかも。
漢武帝に至り法治を儒教のオブラートに包んだような守成のためのシステムに止揚されていったのだろう。
>>556 私も前スレで少々信陵君名将説をあげていたのですけれど、結果という点で見ると確かに軍事的な効果
という点では群を抜いているが具体的な記述が少ないのも事実です。特に二度目の秦を函谷関に押し戻した
というのは当時秦の実行支配地域は大梁に迫っていたので、戦国末期の秦軍から韓一国以上の土地を回復し
相手も当時の秦の名将だったというのに、秦本記や魏世家でも一行ほど、軍を出しているその他四国の世家
では触れられていない。戦国策では記述なし。という結果でした。まぁ、詳しくは前スレの私の稚拙な書き込み
を笑いながら見てみてくださいな。
570 :
世界@名無史さん:02/10/29 20:59
西の孤虎である秦が畏れていたのは
信陵君→孟嘗君→平原君→春申君 の順だろうな
信陵君の軍事的才能は、四公子のなかでもダントツだし
存命中秦が手を出せなかったのは邯鄲包囲大敗北が、
かなりのトラウマになったからだろう
ただ、奸言に弄されたのは世渡りがヘタだったからだろう
最後アル中で死んだのも王から疑われてそれをはらす手段が
思い浮かばずに慣れない酒で憂さを晴らしたからだろう
決して放蕩の末ではなかったとおもうよ
正直、魏から秦を撃退したらそのまま、また趙に亡命し
つづけていればよかったろうに(平原君は失脚するかもしれんが)
この点、孟嘗君のほうが世渡りは長けているような気がする
「狡兎三穴」の備えがいい例。ただ、のこのこ秦に出向いて
拉致されたのはアフォだが、馮驩センセイが付いてから
まともになった。薛にヒキコモっていたのも、国力を防衛に
集中させるためしかたなかったからだろう。
春申君と平原君はアフォ。春申君はたしかに孝烈王を救い出した
実績はあるが、後はあんまりパッとしない。似たような救出劇は
先人が結構やってるし、特異ともいえないし。李園のような小物
にやられるにいたっては司馬遷の評をまたず真性。平原君も
どうかなあという気がする。毛遂の一件くらいしか印象ないなあ。
それにこのころの趙って弱体化してたし、魏斉なんて厄介者を
一時かくまってたのも事実だし、あんまり賢明ってかんじなじゃいな。
みんな詳しいねえ。
俺も史記やらなんやら色々読んだけど詳しく覚えてないよ。
>>566 史記に関して孟嘗君の記述が少ないのは、司馬遷が薛を通り掛った際に
何やら不快な思いをしたので御当地の有名人孟嘗君を貶める記述をしたと
言う説がありまつ
平原君の封邑を通りかかった際に小柄なのを邑人に馬鹿にされた事で
食客を使って邑人を皆殺しにしたとかっていう本来有り得ない話が
わざわざ史記に載ってるのはそう言う訳だとか
573 :
世界@名無史さん:02/10/30 00:58
いや、みなさんの詳しさには脱帽。
私も詳しいつもりだったけど、ぜんぜん。
確かに司馬遷は信陵君ファンのフシもあるので、ひいきが入っているのかも。
>>572 孟嘗君の戦功話はどこに載っているんでしょう。戦国策?
しかし孟嘗君の大虐殺があり得ないというのはどうかな。
孟嘗君のやってることは貴族というよりは明らかにヤクザの親分なので、
それらしき乱暴なことは平気でやるような気がする。
評価は散々の平原君は個人的には嫌いじゃない。
見栄っ張りで政治的能力はないが、咎められるとすぐ反省するような素直さもある。
人はいい。だけど無能だった。
574 :
世界@名無史さん:02/10/30 01:17
あと戦国四君の全体についてですが、秦の天下統一事業にどれだけストップをかけられたか、
という側面から評価するとやや否定的にならざるを得ません。
というのは、彼らはしばしば国内よりも国外の貴族との付き合いを重視したからです。
孟嘗君はあちこちの国を渡り歩いてますし、信陵君は王命に背いて平原君との付き合いを優先させました。
しかも独自の領土と食客という「私兵」をかかえて国王に引けをとらない権力がありました。
人間としてはともかく「国益」という点からはこれは褒められたことではありません。
秦にもギゼンやハンショ、リョフイなど戦国四君以上の大物がいましたが、
秦の国益を越えて活動するということは基本的にありませんでした。
リョフイやや足を踏み外してしまってましたが。
575 :
世界@名無史さん:02/10/30 10:09
呂不韋と遊女が始皇帝の親っていうのは、どうかんがえても
漢代につくられたデマっぽいな。
高祖が農民出身だったので、前の王朝はより貶めたいっていう
意図で流したデマだろな
576 :
世界@名無史さん:02/10/30 10:17
春申君も王を助けた忠臣って評が先行してるけど、
後々自分の子を孕んだ李園の娘を献上してることからみれば
かならずしもその評はいかがなものか、って思うが
577 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/10/30 10:32
皆さん、戦国四君のネタで盛り上がっておりますので、スレのレベルを少々下げて、
「戦国四君人気コンテスト」でもしませんか?
お一人持ち点を10点とし、それを四君に好きに配分する…
例えば、
信陵君:3点
孟嘗君:4点
平原君:1点
春申君:2点
というような感じなんですが、いかがでしょうか?
そんな下らんことすんなよ、とのご意見が強ければ、sageますが…
最近少々スレのレベルが高すぎるきらいがありますもんで…
詳しい人には名前出してほしいな、
とか思ってみる今日この頃な個人的要望。
ところで、質問なのですが、(話題変えてすみません)
みなさんは戦国が統一された事に対してどう思いますか?
春秋の時代になって人は初めてまともに政治を考え、
数多くの思想や国家の形態が生み出されました。
周以前を教科書などでは奴隷社会と言われていますが、
それまではごく単純な、縦の人間社会。
そして今までありえなかった横の政治が春秋に起きました。
そこは綺麗事が通じない世界で、人それぞれが利害を求める政治。
君主にも求める所があれば、その下で働く人達もまた求める所が違う。
そんな状態が表面に出てきて、人は数々の思想や政治方法を見つけていきます。
それは春秋が人間の本質と向き合って考えていた時代だと思うのですが、
どうやら天下は安定していた方が良いみたいです。
事実、春秋戦国が終わると思想や政治の発展は止まってしまいました。
それがおそよ2000年もです。
なぜでしょう?
人は別に発展する事が目的ではないみたいですね?
目的は生活の維持なのでしょうか?
国家といっても人間は個人単位なので、
発展のために自分達が犠牲になるのを嫌うのでしょうか?
春秋はなぜ起きたのか。は、現実をみれば普通に分かるのですが、
春秋は人にとってどうゆう物だったのでしょうか?
そしてなぜ天下は安定を求めるのでしょうか?
今もし、国家が壊れて人が政治のありかたを模索しなければならない所まで来ると、
そこにあるのは辛い生活なのでしょうか?
春秋は実力主義でしかも農民など根本的な国家を支える者が優遇されたので
それほど辛いとはあまり思わない。。。と思うのですが。
(なぜか教科書では春秋も奴隷社会ですが)
それほどまでに統一を求める理由はなんなのでしょう?
春秋が終わったとはどういう事なのでしょう?
これが自分の質問です。
と言うより、ここら辺が知りたくて歴史を勉強している所が大きいです。
>>577田単さん
点数も面白いですが、
何を論点にするかで全然変わってくるので。。。どうしよう。
取り敢えず孟嘗君に1票入れてみます。w
581 :
世界@名無史さん:02/10/30 10:47
>>575 史記の呂不韋列伝にははっきり始皇帝が呂不韋の子だと書いてあるけど、
この事について言及した他の文献は全く無いんですかね?
史記だけだと確かに疑わしいかもしれない。
>>574 いや魏冉は自領である陶、穣を肥大化させて、秦において失脚した後も
独立国の国主として君臨していたよ
秦兵使って自領拡大やって、薛なんか目じゃない豊邑を作り上げたんだから
その放恣は孟嘗君や信陵君の比較にならない
(そもそも陶は春秋期での曹一国に当たる大領)
范雎は自邑を富ます事は無かったけど、自らの復讐心を満たす為に秦兵を
用いたと言う点ではその他の功績と相殺に出来ても、決して褒められたものでは
無いと思うが
孟嘗君が列国を渡り歩いたのは、秦の魏冉、趙の主父、桀宋等の覇権主義に対して
合従をまとめる為と認識しているが
秦で囚われた事をマイナスに数える人もいるが、あの時点での中華の脅威は
孟嘗君主導の斉魏韓合従で東進を阻まれていた秦ではなく、中山や燕を
狙っていた趙であり、それに対抗する為に秦を取り込む必要があったから
だからこそ、囚われた直接の原因は孟嘗君を脅威に思っていたであろう主父が
派遣していた宰相楼緩による讒言だったわけで
孟嘗君に関しては対秦だけで評価を決定するのは一面的過ぎると思われ
信陵君の場合は認識が甘かったと言うか、兄王の情に対する信頼が
大き過ぎたという事かな
>>581 そもそもそんが本当の事なら
そんな重大な事気軽にかくだろうか?
しかも1回明るみに出れば噂のごとく広まるのではないかな?
まぁ、こんな事は書いても答えが出ないのでしょうがないですが。
>>582 孟嘗君の事は、天下の形勢や政治に対してこうだ、と100%断言する事は自分には出来ませんでしたが、
なかなか良い人生だったと思ってます。
それにしてもこの4君と食客は、なかなか新鮮で面白いですね。
584 :
世界@名無史さん:02/10/30 11:37
やっぱ
信陵君・孟嘗君 vs 春申君・平原君
でハッキリ評価が分かれるな。後者不利、がんがれ!
>394氏
他の教科書も読んでみた方がいいかと。
奴隷制社会云々の論はちと無理がある気が。
586 :
世界@名無史さん:02/10/30 12:08
「周は礼で治めた、秦は法で治めた」
っていわれるが、礼というのは究極的には個人主義における
精神的対人対蹠法にすぎないんだろ。利害関係がムキだしに
なると一気に瓦解するというのを教えてくれたんだろうね。
秦が法治国家の走りだというのは正当かもしれんが、
「千尋の谷(韓非子)」のように過酷な法を弄びすぎたんで
自滅してしまった。漢は内容的に「仁(人情)」と調和の
とれた法体系に再整備したんだろ。
>>585さん
なるほど、変なのは自分の教科書だけですか。
>>586さん
自分が言いたいのは、
そう単純に誰でも現実から解釈できるものではなく、
もっと人の本質に近い所です。
よく考えてみると春秋から、現代の政治では根本的な部分は変わっていないと思うのですが。
つまり表面的な術と結果ではなく、やはり本質を。
と言う内容の質問です。
>>587 根本的な部分・本質というと考え方のことですか?
私も20年そこそこしか生きてないので歴史の本質などという高邁なことはわかりませんが
春秋戦国についての評価は個人的には中国史におけるカンブリア紀みたいなものではないかと。
殷・周と祭祀などの形而上の基準において国政が運営されていきそれが絶対的な価値を持ち
それに疑問をはさむ人はごく少数であった。しかし、西周後期になるとその政治・統治のゆきずまり
や不備により、多くの人が疑問を持ち始め少しずつ形而下の利益・権力の力を認め始め形而上の価値観
と形而下の価値観の移行期において、最も整合性のある理論を考えはじめたのではないでしょうか。
それが、諸子百家と一まとめにされて思想の面で花開き、まるで新時代への実験室のように
春秋戦国を形作るような気がする。そこから、新たな技術・文化が生成され面白い時代になったのでしょう。
その中で比較的多くの人に認められた儒家・法家・道家などと後世、呼ばれるいくつかの
思想が整合性高く、実践面での有効性がこの実験室である程度認められたため、さらに
それに基づく技術の進歩により中国全体が活気付いたと思う。それが統一の原動力となる。
しかし、分裂の時代というのは歴史的には面白く、実力のあるひとには一旗あげる機会も多く
魅力的だが、一般の普通の平和な幸せを求める多くの人にとっては迷惑千番で安らげる場所を欲していて
一方、君主や顕心にとっては物欲・名誉欲・権力欲を満たすため国を大きくしていきたい。
その両者の意思が合致して統一への欲求へと精製されたのだろうか。
政治の根本的な部分については、古く殷の湯王などの記述から古代の王は国民の犠牲になるべき
であったと白川氏などはその著書に書いている。今の政治も市民革命の時代から市民のための政治で
あるべきことは明確だが、現実は周知の通り。
素人の意見なのであまり当てにならず、見当はずれのことも多いでしょうが私の認識はこんなものです。
きっと史学科の人や専門家・研究家の人が啓蒙してくれるんじゃないかと期待していたりする。
戦国四君の長所
信陵君は軍事と人望(趙にとどまっても食客が減らず、平原君の食客が移ってきたほどで
五カ国の連合国を率いたときも彼が将になったと知らされると各国が送ってきた)が大きかった。
孟嘗君は内政(当時多くの人が内政手腕を賞賛している)と名声が大きかった。
春申君は外交と弁舌に長けていた。
平原君は他人の諫言をよく受け入れ、自分のできることを必死にがんばった(?)
ってところでしょうか。
590 :
世界@名無史さん:02/10/30 13:48
短所:
信)世渡りがヘタ(ex.兄王にしょっちゅう疑われた
孟)義理に欠ける (ex.他国の宰相になり本家斉を攻撃
春)保身がつよい(ex.王に手付けの娘を差し出した
平)優柔不断 (ex.結局、趙は弱体化している
ってどう?
>>583 >そもそもそんが本当の事なら
>そんな重大な事気軽にかくだろうか?
気軽に書けないから始皇本紀には書かずに呂不韋列伝に書いたのだと思ってました。
今となっては真偽を確認することは出来ませんが。
592 :
世界@名無史さん:02/10/30 13:54
でもそのころは儒教的空気が強くて、「親殺し=悪」って
いう道徳観が支配していた時代だろ?
だったら始皇帝により自害においこまれた呂不韋を
始皇帝の親って決めつけることによって、漢王朝の
正当性をより強調しようとしたんじゃないか?
593 :
世界@名無史さん:02/10/30 17:11
今進行中の話題とはずれますが
秦が統一を果たしたのは最も西に位置したため
メソポタミア方面から優れた製鉄技術が手に入り
他国を圧倒したためという話を聞きましたが
これは影響があったのでしょうか
>>593 鉄だったら、楚や呉越の方が先進地域だったんでないの?
秦のアドバンテージって何だろうね?
ペルシア舶来の中央集権システムとか、統一政策とかのハード面ぐらいか
595 :
世界@名無史さん:02/10/30 18:33
戦国時代の最初のほうで田斉が優勢だったのは、
東が海で兵力を西に集中できたからだって聞いたことがある。
秦の場合、異民族の進入とかなかったのかな?
596 :
世界@名無史さん:02/10/30 18:43
ちなみに、周王朝って最後どうなったの?
「天子」っていう名前で細々と戦国時代も
生きていたけど、最後始皇帝に絶滅させられたのかな?
>>595 西戎最大の族である義渠を武王の時に入朝させているな
それ以降は北方異民族のみに防衛力を傾注できたと言う事になっている
因みに中原に関しては函谷関という難攻不落の要害の御陰でそれほど
防備は必要無かったらしい
まあ項羽には最終的に破られた訳だが
598 :
世界@名無史さん:02/10/30 19:21
秦自体、蛮族扱いだったからなー
599 :
世界@名無史さん:02/10/30 19:30
オリエント・ギリシア全盛時代にはローマも蛮族だった。
パックス・ロマーナ時代にはゲルマン人も蛮族だった。
中華が世界の中心だったついこの間までは日本も蛮族だった。
世の中を変える力というのはえてして辺境なのさ。
600 :
世界@名無史さん:02/10/30 19:55
周も殷からみれば蛮族
601 :
世界@名無史さん:02/10/30 22:22
>>582 魏冉が失脚後も独立国の国主として君臨していたのは事実だが、
他国との貴族連中とは基本的に付き合いがなかった。
春申君もその意味ではなかった。
孟嘗君はあくまで自分の勢力を保全してくれる場所を探していただけ。
祖国斉のために奔走したという痕跡があまりない。
食客という無駄飯喰いを大量に抱えていたのも国益からは無意味と言わざるをえない。
>>578 >ところで、質問なのですが、(話題変えてすみません)
みなさんは戦国が統一された事に対してどう思いますか?
社会学的にいうと、農耕技術の発達で旧来の家族共同体的農法が前7世紀頃から解体し、
核家族化が進んでそれがさらに農業生産競争の激化を招来した、ということになります。
増大した生産物は既に解体した農村共同体に還元されることはなくなったので、
生産物の流通基地として都市が発達することになります。
こうして春秋期には荒野の大会戦だったのが、戦国期には攻城戦が主流になります。
戦国期にはこの都市間のネットワークが形成され、物流だけでなく思想文化の集積地となります。
斉の都、臨シがその代表です。
こうした社会の流動化は世襲階級の解体を招き、国境を越えて渡り歩く知識人(士)が登場します。
商オウ、呉起、蘇秦、張儀はみな祖国以外に活躍の場所を求めました。
戦国四君が必死にかき集めていた食客なる連中は、主人の勢力が衰えればそれきりでした。
主君と臣下の関係は制度や伝統に縛られない、きわめて流動的なものになっていました。
儒家はこれを古の礼教の理念で再秩序化しようとし、
墨家は流動化した社会をテコに万人平等のユートピアを描き、
道家は人間の本性のままにまかせる「大道」の理念を説き、
法家はバラバラになった個人を国法で縛りつけろと論じました。
しかし、諸国家の並存状態を正当化するような主張は全くでませんでした。
曰く「天に二日なく、地にニ王なし」と。
上記の諸々の事情から、戦国の統一は不可避であったことは確かです。
問題はその方法で、秦は明らかにそれを誤りました。
つまらない話だったかもしれませんが。
603 :
世界@名無史さん:02/10/31 00:33
たしかにイタリアの混乱がルネサンスを生んだのと
同様の史的背景が看取できるね
>>601 魏冉は魏韓とは親交が薄かったが趙の貴族とは懇意にしていたよ
そのツテで昭襄王即位の後ろ盾を武霊王に頼んでるくらいだし
春申君にしてもそういった付き合い無しに5国合従軍なんて組織出来ないと思う
信陵君の第一次合従軍に参戦したトコを見ると平原君辺りとも親交はあったようだし
というかそちらの主張には祖国至上主義が強すぎるきらいがあると思うな
公孫鞅に限らず、用いてくれた国に報いるというのは
別に問題無い事だと思うが
孟嘗君が斉を離れたのも自分からではなく、人望と権勢を王に疎まれて
退けられての事だし、2度までも望まれて復帰してるのに批判されるのは
正直どうかと思う
普通なら謀叛起こして王を討ってるとこだ
>食客という無駄飯喰い
あのー、戦国四君まとめて否定するつもりですか?
孟嘗君に限らず皆自腹で養ってたはずなんで国益云々とは関わり無いかと
孟嘗君は領地の賦税だけじゃ食客養うのに足りないからって
投機もやってたって話もある
605 :
世界@名無史さん :02/10/31 01:45
>>604 事実関係の訂正に感謝します。
祖国至上主義というのではなく、「強い国家」をつくるのにどれだけ貢献したかということ。
孟嘗君が考えてたのは戦争に強い国をつくることではなく、自分の権勢と領地を庇護してくれる国家とその時々に結びつくこと。
戦国国家の論理でいけばこれはあまり褒められたことではない。
もちろんその論理だけで孟嘗君が語り尽くせるわけではないことも確かだが。
また食客のような無駄飯喰いを大量に養う権力が平然と容認されていたことが、
強い国家をつくるに当たって弊害になったのではないか、と考える。
戦国国家の論理では当然食客も国家資源の一部にならなければならず、
才能があるならなおさらなのに、ほとんどはこれと言ったこともさせてなかった。
魏冉など秦の権臣たちが大量の食客を雇ってたという話はきかない。
失脚後も財産はあったが政治活動も全くせず大人しくしていた。
この違いが勝敗を分けたような気がしないでもない。
多分、宮城谷信者はここまで孟嘗君が貶されたら、もうメタメタなわけだが
でも孟嘗君みたいな、ビッグマンな生活には憧れるよ
各国の宰相に引張りダコでなおかつ面白い友人たちが身辺警護してくれるなんて
中国全土を旅行しまくってるよね
秦、魏、楚などなど
戦国四君で一番幸せだよ
実は、伯約さんの考えをけっこう期待して待っていたりしました。w
自分も20年と少々なんで、たいした事は考えれられません。
カンブリア紀とは、生命が一気に進化したといわれる時期でしょうか?
あまり知らないのですが。
>まるで新時代への実験室のように春秋戦国を形作るような気がする。
>そこから、新たな技術・文化が生成され面白い時代になったのでしょう。
>一般の普通の平和な幸せを求める多くの人にとっては迷惑千番で安らげる場所を欲していて
>一方、君主や顕心にとっては物欲・名誉欲・権力欲を満たすため国を大きくしていきたい。
たしかに春秋はハタから見ると面白いですね。
でも後半の2行ついては、全く逆の考えかたも出来ます。
そもそも春秋が身分の低いものにとって辛い時代だったとは
自分はあまり考えていません。
農民や身分の低い者がこれほど優遇された時代は珍しいですから。
そして嫌な事があれば他の国に逃亡しても喜んで受け入れてくれる。
税金がなんか払わなくても逃げる方法はたくさんある。
けっこう贅沢なくらしですよ?多分。
戦争面では軍法が厳しかったと思いますが、
待遇に関してはけっこう良かったと思います。
それに実際に記録に残っている戦果はほとんどウソっぱちで、
兵士はイザとなったら普通に逃げています。
で、安定しない時代の何が嫌だったのかな、と考えると
王は手に入れる物より失う物の方が多かったからではないでしょうか?
東周から見ると3桁〜4桁の国は全部潰れています。
なにか春秋を調べるとイツも王は大変そうだな、と思うんですよね。
野望など本気で考えて実行出来る人も、状況も、
少ないのではないでしょうか?
いや、そんな状況がありふれているとたまった物じゃありませんね。
ではなぜ結果的に相手の国を滅ぼすことが最後には目的となったのかな、
と考えると安心以外の何物でもないと思います。
春秋の初めから中盤以降までは、あまり国を潰す前提の戦争はなかったように思えます。
それが覇王など、そういった形で現れていたのですが、
最後にはヤッパリ邪魔なので消えてしまえ、と。
(なんて安易な考えでしょう。汗)
春秋が起きたのは、縦のみで行う政治が壊れ、横の関係が原因。
と言うのか強いと思っています。と言うかそれ以外に自分は思いつきません。
そして「天下に王は二人もいらない」みたいな所が統一に向かわせているのでしょうか??
でも民主主義でも統一したがるのはなんででしょうね?
生まれた時から勝手に国民にされて法や税金を押し付けられても文句言う人なんていませんし。
確かに社会に依存して生きる事はとても便利で楽しい事ですが、
上記の事を本気でわめいて騒ぐ人が居ないのは凄いような、凄くないような。
実際自分が春秋で特に面白いと思うのは、
それまでずっと縦の政治が行われていたのに、
王朝の崩壊によって国同士の横の関係となって、
政治方針を見失った。
って言うのが根本にあるから面白いと思うんです。
それは自分が思うに「進化」とは違うように思えます。
現実が変わって対応できなくなったための混乱であり、
今まで表面化されなかった事が浮き彫りにされ、未知の世界に変わっただけなので
やはり簡単に進化とは言いがたい物があります。
なぜなら、東周まで治まっていたのも人の本質の一面だと思うからです。
それが別の角度で現実を突き付けられた時に、対応出来なかったと。
別の本質や世界を見ただけでも進化、と言うようにも考えられますが、
少なくとも自分は「人の新たな一面を知った」と言う風にとどめておきます。
なぜなら人の求める物、本質が論点なので。
>古く殷の湯王などの記述から古代の王は国民の犠牲になるべきで
>あったと白川氏などはその著書に書いている
この考えは、政治はうまくいきそうな気がしますが、
あまり人の本質にそぐわないような気がします。
基本的に人は政治優先ではなく、自分優先、と言う事が証明されてるのですから。
つまりこれは理想諭で、現実は誰も犠牲になんかなりたくないと言う意味です。
しかも古代の聖王はとても飾りつけられているので、
こんな事が「現実」にあった。
と言う儒家の話をうのみにするのもどうかと思ってます。
政治って言うのは何がうまくいくかの前に、
何が有り得えて、有り得ないを考えないと
机上の空論になると思うんですよね。(政治以外もそうかな?)
春秋戦国でさえ君主制政治が基本なのに、
湯王にそれを求める白川氏はいかがな物かと…。
以上の事などを理由にで聖王などの話は現実には有り得ない、
人の本質とは関係ない話だと思っています。
そして机上の空論にしないためには、
人の本質を知る事だと思っています。
それと春秋ですが、「おかしな時代」という見方も出来ます。
そもそも、春秋になるためには、縦社会で作られた数多くの国が必要です。
それが壊れて横の世界になると、人はまた模索を繰り返し縦の世界に戻ろうしているようです。
根本が「君主制政治」だったから。と言ってしまえばそれまでですが、
何か人の本質の前では、横の世界と、縦の世界は
直接比べる事の出来ない別の物のように感じます。
「君主制政治」の統治理論を調べると、
その手の本では全て、一人の権力者が他の人に有意義な政治をしている。
だから、国家が成り立つ。
と書かれているのですが、どう見ても満足な答ではありません。
本質については、
個人的に荀子がなにかヒントを与えてくれているような気がするのですが…。
と言うわけの分からない事ばかり書いてしまったのですが、
ついでに権力ってなに?
と言うのも聞いてみたいと思います。
権力って、春秋が一番分かりやすく出ていますよね。
自分は「極論」を言ってしまえば全ての人が平等に権力を持っていると思うのですが。
で、現実の政治は権力が基本です。
権力=政治と言っても過言ではないような気がします。
権力とは「集団における相対的な人間関係を表したもの」ですから(←勝手に言ったけど正しい?)
と言う事で、自分の中ではほとんど、
権力=政治
の図式があります。
で、権力を考えるとわけがわからなくなるほど奥が深い。
覇王にしても、天子にしても、絶対的な権限はなくて、
完全に思い通りに出来る事など何一つないですよね。
その権力関係の中に人は身を置きたがって、
最後には全部一つの集団になりたがるようです。
権力にしても、実質的な利害関係がそのまま権力にはならないようです。
春秋の後半まで力のない王朝を特別視していましたし、
ただの身分名が力を持ってしまうこともあります。
中国以外の文明ではほとんど「神」と言う名前の
政治理論が真実であって、
世界的な文明を見るとほとんど文明を発展させているのは「神」です。
春秋ではかなり世界的に珍しく、
実質的な利害関係などで事が進んでいたようですが、
それでも虚栄の権力は数多くの場所で力を振るっています。
話すと長くなるので、この辺でみなさんの考えや思った事などを聞いてみたいです。
>>596さん
周は始皇帝により統一される50年ほど前に消された、と記憶にあります。
>>602韓非さん
ごめんなさい。また今度。
>394氏
前提条件を省きすぎで論が宙に浮いてしまっているし、
片手間で史学やってる人間にはこれでも長すぎる。
ここはひとつ論文にまとめて自分のサイトで公表してみてはいかが?
>>616 すみません、多くの人に話をうかがいたかったので…。
ここは春秋に詳しい方がたくさん居るので、意義のある話が出来るかな、
と思ってしまいました。
範囲が広いので時間はかかるかもしれませんが、
論文にしてみようと思います。
そのさいは春秋の事実を詳しく、
正確に見つめてしっかりと現実味のある文を書きますね。
>>594 斉のあたりが鉄の先進ではないでしょうか?
最初に楚は斉から鉄を求めていていたと
そんな文を何回か見た事があります。
>>601 >>604 食客は国益にならないと601が言い、
604は否定している訳ですが、
自分はどちらかと言うと、
601と同意見です。
特に孟嘗君は食客の効果によって、
かなり国内ではばを効かせていますから。
ある意味目の上のたんこぶだったとは思います。
ただ、やはり人は使いようだとも思っています。
>394さん
とりあえず、
>>588は当時の精神面から春秋戦国にアプローチしてみたのですが、どうも
私の矮小な頭の知識では無理があったようです。
ちょっと補足すると、カンブリア紀は地球上に得体の知れない面白い生物が一機に発生した
時期でどれが地球に適応できるかの実験室みたいな時期です。
農民や一般市民の生活については確かに実力のあるものには希望のある時代ですが、一方凡人
というか大志のあまりない人には頻繁な戦争による搾取や農地の荒廃、働き手の減少があったと
思うのでやはり苦しいのでは。逃げてもまたそこに生活の基盤を築かないといけないし・・・
国を併呑し始めた理由については前スレで少しあがったのですが、精神的なもの(滅ぼした国
の祖先の霊に対する畏敬)の減少が大きいと思います。
横の繋がりについてですが周、殷ともに完全な統一王朝でなく、多くの国の盟主みたいな地位に
毛の生えたようなものだと思うので、結構、昔からあったんじゃないかと。現に周の易姓革命時
や夏から殷への移行期には多くの諸侯(らしきもの?)のちからが大きく左右している。
むしろ、周の力が各諸侯を統御できない状態で周王室が存続できたことが特異と考えてみる。
白川氏の引用については言葉足らずであったようで、湯王が古代の聖王だから身を犠牲にした
ということではなくて、古代の王は天災その他の不可抗力の現象に対して、生贄みたいな地位に
置かれているようだと指摘している。もしかしたら私の思い違いがあるといけないので、「中国
古代の文化」という本を立ち読みでもして確認してみてください。つまり、為政者という存在はもともと
犠牲・生贄みたいなものだといいたかったのですよ。
>>617 世界で最初の鋳鉄がどこで発祥したか知ってる?
楚の貨幣がどんなんだったか覚えてないの?
戦国は鉄の時代の始まりかー
結構感慨深いな
余計な事を言ったかなと後悔気味。
それにしても、394さんのように次から次へと話題が出てくるのは
うらやましい限り。私も少しは見習わなければ。
> 論文にしてみようと思います。
ぜひとも頑張って下さい。
>>619 >世界で最初の鋳鉄がどこで発祥したか知ってる?
知りませんがかなり昔からあったみたいですね?
>楚の貨幣がどんなんだったか覚えてないの?
覚えてないのって…。
でも知ってますよ。
刀布と呼ばれる縦長のヤツですね。
確かに経済流通は、春秋に始まり、戦国末期までに大きな発展をしているみたいです。
そして、河南、山河で最初に刀布が使われていた可能性が高いとか。
でも、青銅ですよ、刀布って。
それで戦国末期までに青銅貨が広まったみたいですが、
その全てを始皇帝が禁止したと。
そうゆう記憶があります。
鉄銭が出現したのは、これより1300後の宋時代ですね。(←これは今調べました)
>>620 いえ、自分が歴史を勉強する意味の一つを書いただけですから。
別に話題を振り絞ったわけではありませぬ。
すみません、
書き忘れました。
他のレスはまた今度。
思想的な文はその場では送信しませんので。
623 :
593 賈人:02/10/31 18:56
>594、617
楚、斉、呉越が鉄の先進地域と言うようですが
どのルートを通って鉄は西方から伝わったのですか
秦だとステップロード(シルクロード?)沿いに伝わりそうですが
楚、斉、呉越だと海沿いですか
それとも他国が無視したがこれらが採用したのか
はたまた資源的なものですか
624 :
世界@名無史さん:02/10/31 20:04
>623
西アジアで世界で始めて現れた鉄は鍛鉄。
それに対し古代中国で始めて現れるのは鋳鉄。
鋳鉄は西方では14世紀になってようやく現れる技術です。
よって古代中国の製鉄技術は独自に開発したと考えられています。
日本語変だ…
> よって古代中国の製鉄技術は独自に開発したと考えられています。
↓
よって古代中国の製鉄技術は独自に開発されたと考えられています。
秦の兵馬ヨウの「兵士」らが装備していた武器類は、全て「青銅製」だったはず。
ただし、これらは同時期の他の大帝国の鉄製武器よりも高度な技術で作られていた事が確認されています。
剣等は錆び止めにクロムメッキが施され、硬度は低炭素鋼並だったそうですから、下手な作りの鉄製武器よりも強力だったはずです。
(高度な青銅の技術を持っていたショクを併呑した際、こうした技術を獲得したのでは無いかと?)
鉄製武器が一般的になるのは、漢代以降とされています。
戦国期は、鉄は武器よりも農具に使用される事が多く、農作物の収穫増加に貢献しています。
(青銅技術が発達しすぎた為、製鉄技術がなかなか追い越せなかった模様。
また、鉄は錆びやすいのが嫌われた理由とも言われています。)
627 :
世界@名無史さん:02/11/01 03:04
>626
クロムメッキって凄いな。
オーパーツ?それが作れるってのは、
大部分の現代人よりも凄いよ。
628 :
世界@名無史さん:02/11/01 11:49
唐突な質問ですまんが春秋戦国時代の中国って
世界の最先進地域だったのでしょうか?
オリエント・ヘレニズム世界や地中海世界よりも進んでたのでしょうか。
諸子百家は同時代に開花した古代ギリシアの思想や哲学に勝ってるんでしょうか。
>>628 思想に優劣は付けられないだろうね。
もし付けられたとしても現代基準でしかない。
孔子とプラトンが中庸について対談して記録が残っていれば
それぞれの特徴をより知ることはできるだろうけど
優劣は無理だろうね。
>>628 中国の思想は、世界に言わせれば思想ではないらしいです。
と言うのも黄河文明ってちょっと変わった文明でして。
内容が全然違うんですよ。
言葉では「思想」と言う同じ言葉を使っていますが、
内容がほとんど別のジャンルなので比べようがありません。
それに思想って自分達が居る世界に対しての
対処法や方針、対策、知識などが書いてありますから、
やっぱり違う世界と違う世界では比べられません。
でも、中国のはほとんど神にはふれず、
人の本質や利害関係、空間の哲理について書いてある事が多いから、
無理矢理比べる事は出来るかもしれません。
韓非さん&伯約さん。
書きたい事がなかなか小さな文にうまくまとめられません。
ごめんなさい。
>>628 中国は、紀元前五世紀頃から十九初頭頃まで世界の最先端地域であり続けた国です。
と言ったら、言い過ぎかもね。(笑
(時代々々による波もあれば、得手不得手もありますが。)
中国の古典は「実用書」が生き残ったものです。
知識として有するものではなく、実践してはじめて意義のあるものとなるのです。
(と、他人に大きな事を言えた義理では無いが。)
例えば「兵法書」の中の武経七書等々は、現代の軍隊内でも研究資料として利用されていますし、現代ビジネスに応用することも不可能ではないほどです。
「管子」や「韓非子」等も現代の政治家諸子に読んで欲しい、というか読め! ってな位の書物です。
スレ違いを承知の上で言えば、これらの中国古典が近代以降の西欧に大きな影響を与えたようです。
ヴォルテール等の啓蒙思想家の著作には、やたらと中国の古典絡みの記述が多く見られます。
また、マックス・ウェーバーが、これらの古典のほぼ全てに「評価」を加えているの見ても、かなりのものがラテン語or西欧各国語に翻訳され、読まれていた事も確かですね。
(でも、日本は近代化成功したけど、本家本元は漸く…、っていうのは???ですね。)
個人的には、西洋の古典は何が言いたいのかよく理解出来ませんでした…。
古代ギリシアのものは「ヨーロッパの古典」というよりも「オリエントの西端の古典」という位置付けの方があっているように思えますね。
>>627 中国側のネツ造でなければ事実かと。
「トンデモ本」は資料にしていませんから。(笑
…でも、「トンデモ」にも載っているらしい。>兵馬ヨウネタ
思想などの比べ様のない要素は別にしても
経済力とか文明の進み具合では世界最高の水準だったのかな?
春秋戦国の中華と同時代では他の地域にもギリシアのポリス絶頂期・ペルシア帝国・
アレクサンドロスによるヘレニズム諸国・カルタゴ・勃興中のローマ
等、手ごわそうなところが多いが。
634 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/01 21:18
さあ、残業が終わった!
3連休なんですが、その間にもう少しレベルが下がってくれたら…と
考えている私は、逝ってよしでしょうか?
>>632 春秋戦国期に関して言えば、威王時代の臨緇は人口100万を誇る
世界最大の都市だったらしいと聞いた事があるが
636 :
世界@名無史さん:02/11/02 09:56
637 :
世界@名無史さん:02/11/02 13:07
>>635 臨シって30万くらいじゃなかったっけ?
ちょっと確認できる資料がないので、確信が持てないけど。
639 :
世界@名無史さん:02/11/02 18:17
641 :
世界@名無史さん:02/11/03 10:34
いや、臨シは最盛期には50万〜80万いたはず。その頃の中華最大の都市。
趙都の邯鄲が20〜30万くらいだった。
それに楚都のエイや魏の大梁もそれと同程度が準じるくらいはいた。
あの時代でこれくらいの都市が複数あったのだからやはり春秋戦国時代はすごい。
近代以前は人口≒経済力・国力だから。
ちなみにその頃の他地域の大都市はアレクサンドリア=50万〜100万、
アテネ=20万〜30万、カルタゴ=30万など
アテネはギリシアポリスの中では例外的にでかかった
ペルシアの諸都市の人口はよくわからんがペルシアの総人口が属州含めて4000万人いたというから
スサやバビロンなど人口が多い大都市は相当あっただろう
そういえば春秋初期は1万〜2万でも大都市でしたね。
考えてみるとたった数百年でここまで膨れ上がっているんですね。
いや、江戸→東京。
と言う風に考えてみるとけっこう人口増加は有り得やすいことなのかな?
人口増加の理由を考えてみると、
農民の優遇から来る、
農具技術の発展、
農地の整備、
経済状態における流通システムの普及、
政治対策からくる農民の感覚的、実質的な現状の地位、又はポジションの変動、
などでしょか。
中国が世界の最先進国になったのは宋のころだと思う
それ以前は西アジア、ペルシアあたりがトップでしょ
644 :
世界@名無史さん:02/11/03 22:00
>>641 秦の咸陽はどうだったのかな?やっぱ田舎だったんかねえ・・
始皇帝が統一してから金持ち12万戸を咸陽に移住させたというが、白髪三千丈の臭いがプンプン・・
だって12万戸つったら1家族8人として96万人もいるもんな。多すぎるような気が。
ついでに、戦国期の中国の最先端の流行発信地は邯鄲だったらしいね。
オサレなシティーだったらしいっす。
>>644 秦に落とされそうになったときって「城内相食む」って状態だったんでしょう?
今じゃNYとかで人肉市場が開くぐらいのインパクトだったんだろうか
平原君、よくぞ守った
あんた宰相タイプじゃなくて君主タイプだよ
>644
田舎だったでしょう。重農主義の国ですから。
当時の中国の人口が4000〜5000万という話からすれば、
感陽が100万都市でも問題ないような。
ただし、100万都市の維持は秦にとってかなりの負担だったはず。
秦の滅亡の原因は案外こんなところにあったのかも。
>>644 1家族8人というのは何を根拠しているのかはわかりませんが、
当時の中国でも核家族が一般的だったと思われるので、4、5人くらいでしょう。
特に秦は商オウの変法以来分家による財産均分の奨励を国是としていたので。
そう考えると50万そこそこと考えたほうがいいのでは。
ちなみに現在にいたるまで中国の大多数は核家族です。
秦では中原諸国に比べて大商業都市が未発達だったらしいですが、
これが秦の天下統一を可能にしたともいえるでしょうね。
咸陽が商業的に栄えていたという話は聞きません。
おそらくやや雰囲気の堅い政治都市だったと思われます。
ここらへんはもっと詳しい人にお願いしたいですが。
いや、訂正です。
「金持ち」だったら8人くらいは確かにいるかも。
核家族はあくまで一般庶民の話です。
金持ちが一戸動いたら、使用人やその家族も含めて数十人の移動になると思われ。
咸陽は商鞅の変法による重農主義の影響もあって商人は極端に少なかったと思われ
変法当初は秦人が商人になるのを禁じていたという話も聞きますし
日本も影響を受けた士農工商の序列は秦が最初だったとか
>>644と
>>646 農民主義は都会だと思うのは自分だけでしょうか…。
商業の発展は君主制において国内を制御出来ていない結果とは言えないかな?
>>650 >日本も影響を受けた士農工商の序列は秦が最初だったとか
春秋初期から徐々にこうなってきたのでどこが最初とかは難しいですね。
目に見える政治で現れたのは斉が覇王のあたり以降でしょうか。
>>651 確かに商人の力は中原の鄭などでは春秋時代から大きく子産などは彼らを憚る必要
があった様です。戦国に入ると魏では商人の白圭が国政に関与してくるし、貨殖列伝
では王侯に匹敵するような財力があり政治的な力も持っていたのかも。
しかし、国の方も関税を取ったりしてそれなりに利益を得ていた模様。
たぶん、商業が発展した理由は君主の力如何よりも、土地柄に根ざしていると考える
のがよいのでは。(農地の大きさ、肥沃かどうか、交通の利便性など)
秦が農業国として発展できたのは、司馬遼太郎曰く治水灌漑が大きいらしい。
それによって蜀が一気に穀倉庫に変化して多くの人の胃袋を満たせるようになったとか。
>>640 そういえば、142さんが晋の六卿から分裂までを調べてくれているんじゃ・・・
あやめさんも王子城父の正体を発表してくれるらしい。二人ともお忙しそうなので
気長に待ってみましょうか・・・
>>652 ええ、それもありますけど、
商人、商業が発達している地域では農民は生活できない。
が、当時の常識でしたからね。
どちらかと言うとこっちの意味を強く思い書きました。
最近戦国策を見直しています。
が、どうもあれは面白くないですね。
時代や政治背景を整理するだけでもすごく大変です、あの本は。
ましてや、どれがウソっぽいかなんて容易には分からない本ですね。
ただの独り言ですが。
あげますね
ところで、時代はちょっとさかのぼるのですけど、周公旦と召公せきは魯公、燕公
じゃないのでしょうかね。血筋からいうと、周公旦については明らかに魯の方が本家
なのに・・・また、周公、召公っていつまで周王朝の運営にかかわっていたのでしょうか。
どうも、周王朝自体の春秋戦国時代における政治的な部分がよくわからん。
また、左伝の後半のほうで劉子が会盟を開いたという記述があるんですけど、子爵程度
のものが開けるものなのですかねぇ。
どなたか情報求む。
>>655 実は、爵位って後世の適当な創作というには酷いが、勝手な推測の産物なんでしょ?
おいらは周王朝の朝廷はクリルタイみないなもの想像してるんだが
数年に何回か一族の長老が集まって、ガイガイワヤワヤ意見交換していく会議
だから西周時代は姫姓以外の有力な実力者は少なかった
王の専横も少なかった感じがするし
どうも孔子さまが自分の理想を周代にお寄せになったせいか、この時代が中華の時代というような
固定観念が拭えないのだが、実際はもっと異なった姿だったんだろうな
市民が政治に大きな影響を及ぼしていたと聞くし
657 :
世界@名無史さん:02/11/07 16:03
>>655 魯公(伯禽)は周公(旦)の息子でしょ?
姫旦は周(周王朝でなくその起源になった発祥地)と魯の両方の領主だけど
姫旦が生きてる間は本人は太傅、伯禽が魯公、次男某が周公という通称で、
伯禽が先に死亡して魯公という通称が伯禽に固着してしまったんでしょう。
それから召公セキは河北省の燕公(燕伯?)じゃない。
燕(偃のニンベンなし)が山東省(魯)から河北省(ペキン)に転封したのは成王の頃で
その頃はたぶん召公セキは死んでるんでないかな?
それから代々の周公召公は春秋末期か戦国時代初期まで続いて周王朝の大臣クラスだった。
遅くても西周君(西周武公)が分立した時にはなくなってたはずだけど。
658 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/07 20:23
おお、やっと思想の話から離れましたな。
思想の話なら哲学板にスレ立ってるでしょ
そーゆー思想の話じゃないんだよ。
661 :
世界@名無史さん:02/11/08 04:02
>>660 はぁ? じゃあどういう思想だよ?
思想にそーゆー思想だのこーゆー思想だのあるん?
ジャンル分けして「関係ないぽ」といった途端、
それは哲学に堕してしまい思想ではなくなるんじゃないの?
>>661 おそらく「一般的思想」(宗教などを含めた)ではなく
「政治思想」ということでは?
>>660本人ではないので断定はせんが。
思想と言っても時代背景とセットで考えるならいいんでない?
664 :
世界@名無史さん:02/11/08 09:10
教えて下さい。
この時代ってどうやって兵隊を集めてたんですか?
兵隊はやはり土着の農民がメインになるんでしょうか?
あとメリットは何なのでしょうか・・・。
春秋と戰國ではだいぶ違うような…
>664
春秋時代は王→諸侯→大夫→庶民の順に動員、
戦国時代は王→庶民のように直接動員と考えていいでしょう。
ただ、春秋時代は正確には移行期で、
春秋時代に試行錯誤されていた統治技術が、
戦国時代になって完成した結果、
国家による直接掌握が可能になったといった所かと。
667 :
世界@名無史さん:02/11/08 13:21
戦国時代の周王朝て、日本の戦国時代の天皇家みたいな
もんだったの?
668 :
世界@名無史さん:02/11/08 13:26
>>667 「えっ・・・!? まだ居たの???」てな感じ。
669 :
世界@名無史さん:02/11/08 13:38
670 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/08 18:29
さて、連休でございます。
とっつきやすい話題に戻りつつありますので、模様眺めの方、お戻りいただき、
落ちていたらageておいてくださいませ。
671 :
世界@名無史さん:02/11/08 20:25
>>668 いくらなんでもそれはないでしょう
西周・東周ともに中国の要衝地をしめていたし
かなり巨大な都市国家だったし
戦後臭くにも章立てされてるぐらいだし
戦国時代の最初の百年くらいは未だ権威を保っていたようですが、
4世紀半ばに諸国が相次いで王を称するようになってからは、
>667のような感じだったのではないでしょうか?
鄭・衛・中山・魯なんかよりは存在感あったろ
>>673 経済面において一都市としてみるならそうかも
多くの豪商が拠点としていたらしいし
でも国としては殆ど存在感無かったかとも思えるなあ
比較対象が673で挙げられてる4国だったとしても微妙
でも三晋や田斉に公号与えたのも周王なんだよなあ
鄭…戦国初期に滅亡するも三晋の攻撃をしぶとく持ち堪えた
滅亡後も韓の中心都市として名前が残っている
衛…春秋末期以降、趙の草刈り場でしかなかった、末期には公号を辞退して
君を名乗り 最後は秦に従属した為に実は六国よりも長く存続
中山…胡服騎射に転換後の趙と対峙して結構善戦、衛よりは存在感あり?
魯…春秋期はともかく戦国期は本当に存在感が無かったような…
しかし近所にいたのに桀宋にも斉ビン王にも滅ぼされてないのはどう判断すべきか
鄭>周>中山>魯>衛
こんな感じ?
考えてみれば存在感ある方が危険視されて滅ぼされる可能性は高いよな
周>>>>衛>>>>中山>>>>鄭=魯
鄭と魯は春秋時代はともかく戦国期に限定でいうとまったく問題外。
強大さだけでいえば中山は滅亡が早かっただけで宋や韓と同程度。
衛は最強の秦から遠隔地にあったのと要衝の地にあったので
綱渡り外交が功を奏しうまく世渡りした。
周も衛と基本的に同じだが衛の事情を十倍したようなもの。
都市国家としての強大さと地理的な位置の重要さは衛とは比較にならない。
676 :
世界@名無史さん:02/11/11 12:32
天命の尽きた周はもうだめ。
677 :
世界@名無史さん:02/11/11 15:07
衛・中山・鄭・魯には天命尽きるどころか最初から天命おりてないじゃん(w
678 :
世界@名無史さん:02/11/11 15:10
>>677 荘公のころの鄭には、天命がおりかけていたかもせんよ?
訂正
誤:いたかもせんよ?
正:いたかもしれませんよ?
680 :
世界@名無史さん:02/11/11 17:21
天命って考えは他の地域にはあるんだろうか?
そもそも、天命とは何時頃から・・・
681 :
世界@名無史さん:02/11/11 17:48
周王朝って最後、東西に分裂するんでしょ?
682 :
世界@名無史さん:02/11/11 18:38
鄭の公室って滅亡後どうなったの?皆殺し?
683 :
世界@名無史さん:02/11/11 23:30
>>681 細かい年代とか固有名詞は忘れちゃったけど、
西周東周の分裂はかなり経緯が入り組んでてなかなか理解できなかった記憶がある。
なんか調べても断片的な記述ばっかりだったんで。
最初は周のなんとか王が弟を「河南」の地に封じてこれを西周の○公といった。
なんか周公の役割を復興させようとしたとかなんとか。
それから何世代かして韓魏の兵が介入して東周・西周にわけ(東周君の○公というのも周の王族)
これ以来、周王朝は領土を失い西周君に居候することに。
だから「西周君」には前期と後期とふたつあって家系は続いてるけど
領地や居城はちがうらしい。後期は「鞏」だったかな?
684 :
世界@名無史さん:02/11/11 23:49
>>680 天命思想は周代以降から
商までは皇、帝、王だったのが周から天子という称号を用いるようになった
中国の天命思想の輸入だが日本も天皇って位だからそうなんじゃないかな
他の地域にもあるかもしれないが太陽信仰との区別が難しいと思われ
686 :
世界@名無史さん:02/11/13 11:34
天命ってその時々の権力者に都合のいいように使われるんだが・・・
天の命でてめーらを統治するんだぜ!だからつべこべぬかすな!
687 :
世界@名無史さん:02/11/13 11:52
てんどうぜかひか
>>685 そういえば、天皇の語源を津田左右吉氏は道教の原始天王の思想の影響としている。
それまでは、「おおきみ」って呼ばれてて七世紀の推古朝の時に中国の思想が輸入
されてきて天の思想を受け入れるなかでそれ以前のおおきみにも天皇という形があて
はめられていったと。
でも、天の思想と太陽信仰とは個人的には別物と思う。天は必ずしも太陽ではなく
孟子の考え方なんかではちょっと絶対神っぽい性質も見られる。
しかし、荀子の思想の中ではその傾向は薄れむしろ自然環境みたいなものと天を定義
しているようで、「天」そのものの能動性は失われていき、天による必然から人為による
偶然の連続により歴史を解釈してゆく傾向に移ったのだろうか。
しかし、漢の時代の儒家は天を一個の人格神みたいなものに戻したような気がする。
(確か、漢時代の儒家で天の目や手、耳はあるかという質問に対して古典を引用して
天の存在を一個の形而上的な存在として証明していたような記述があったと思う。)
>>688 夏は河川神「社」、商は豊穣神「稷」が信仰の対象で(逆かもしれない、
夏の始祖禹王は河水における治水の功績によって王に推された事を
考えるとコレでいいと思うけど)、両王朝の王、帝はその神官も兼ねていた、
と言うかその祭祀を司る事で神の代理人となる事が権力の裏付けだった
周はその2つの王権を否定する為に新たに神とは別の、天という絶対的な
信仰の対象を作ったという話もあるな
いつ頃から天を祭っていたのかはちょっと調べてみないと分からないんだが
商周革命以後なら周公旦あたりが考えついたんだろうか
>>690 周が「稷」じゃないっけ?
殷はよくわからん、鳥がトーテムで太陽神信仰があったとかないとか。
天を最高神と考えるのは世界中にあると思うんだが。
遊牧民族は雷を落とす天を畏れ敬うとか。
周もその延長だったんじゃない?
彼らの政治って遊牧民的な気がする。
西戎でも天は祀ってたような…これにはちょっと自信なし。
× >690
○ >691
各時代の最高神(に相当するもの)
夏:河(黄河の神)
商:帝(太陽神)
周:天
ちなみに稷はキビの神で周の祖先神。
社稷という言葉に関しての議論はどっかで読んだけど忘れたが、
そんな話ではなかったような…。思い出したらまた書きます。
693 :
世界@名無史さん:02/11/14 04:22
社はその土地を神として祭ったもの。
稷は農業の豊作の神。
都市国家ごとにかならず社稷を祭るようになったのは周代からといわれる。
694 :
世界@名無史さん:02/11/14 08:27
「社稷の臣」の意味もそんな所なんかね?
古代中国での太陽についての記述は羿が十個の太陽のうち、九個を射落としたという
やつくらいしか思い出せない。
だけど、白川氏の著書で十干は太陽の名前であり、その十干を殷の王が名前に使って
いたことから、
>>692で書いているように太陽信仰があったのだろう。でも個人的に
は甲骨文などから、どうも殷王朝というと祖先信仰が強いと感じられ、その祖先の権威
をさらに強めるため太陽信仰で補完したという感じが頭の隅にないわけでもない。
>>691 鳥がトーテムなのは周でなかったっけ?殷は周武王が魚が舟に入って来て喜んでいたから
殷は魚がトーテムなのだろう。龍についても左伝に記述がいっぱいあるけど、拳龍氏が夏
王朝の高位にあり司祭的なことを司っていたようだから、夏のトーテムは龍か?
>>694 後になると「社稷=国」となって「社稷の臣=国の石柱になる臣下」だったと思う。
>695
商には祖先神とも自然神とも明らかに違う特別な扱いを受けている神がいた。
祖先神とともに殷に加護を与え、人の祭祀を受け付けず、
他の自然神のように雨や稔りももたらすが、旱を独占的にもたらす神。それが「帝」。
すでに周代の天の概念に準じる性格をもつ特殊な神だが、
旱を独占的にもたらす事から元々太陽神ではなかったかとの議論がある。
トーテムが鳥なのは商で、夏は龍でよいかと。
武王は河神が使いを出して祝福してくれたのを喜んだだけ。
当時の国家の最大関心事は農業。そしてそれに当然伴う社や稷への祭祀。
転じて社稷が国家の意となった。社稷の臣は国家の臣との意。
宮城谷色が濃くなってきたなー(w
じゃあ彼の主張もうひとつ
商の祀っていた神様は俊(−にんべん)
まあ、先人たちの主張をあの人なりに咀嚼しての意見なんだろうけど
神話が滅びるのって寂しいよ
五行説とかは無機質的で詰まんないし
てなわけで鄒衍についてでも語ろうか…やっぱやめとく
アンチが来る前に断っておくが、
>697 氏が述べているのも含めて、れっきとした学者が出してる説。
宮城谷氏はそれを採用しているだけ。
699 :
世界@名無史さん:02/11/14 16:25
「帝」は殷では「遠い祖先」のことではなかったかな。
「帝」の字の原義は「統括する・概括する・束ねる」などの意味で
系図の線が枝分かれする前の祖先をいった。
「父<祖父<曾祖父<高祖父<(中略)<帝」みたいな感覚。
696のいうような特長もあるってのはそういえば漏れもどっかできいたことがある。
十干そのものは太陽の名かも知れないけど、殷の王名についてる十干は
母親の出自である十部族をあらわしているという説が有名なんじゃないの?
とすると、太陽神の子孫は「妣」(=きさき)を出す資格のあった十氏族であって
殷の王室じたいは太陽神の子孫ではないのかな?
>699
甲骨文字での「帝」は薪の束と憑坐を組み合わせた形。
つまりは祭祀に使用されるで象徴しているのだろう、
というのが私の読んだ本の見解。
701 :
世界@名無史さん:02/11/15 09:24
age。
スレ違いだが此処で聞いてみます!
北は玄武門 南は朱雀門とかそれぞれの方角に神?を置いていたん
だけど(日本も同様)これって何時頃からなんでしょうか?
随?唐?それよりもっと前?どんな信仰??
702 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/15 10:17
どなたか、ご存知の方、
>>701に答えてあげて下さい。
で、スレタイが「春秋戦国検討委員会」なのをここで強調しておきます、ハイ!
703 :
世界@名無史さん:02/11/15 11:55
四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)信仰は遅くとも戦国時代にはあったよ。
704 :
世界@名無史さん:02/11/15 14:28
>>703 瑞獣でなくて四神かい?
戦国時代じゃ四季神か
方角ではまだ四雉あたりが配置されてたのでは?
705 :
世界@名無史さん:02/11/15 18:24
>>703 そんなことはない。青龍・白虎・朱雀・玄武はありましたよ。
ちなみに703のいう「瑞獣と四神と四季神と四雉」は何がどうちがうんでしょうか?
四瑞獣と四神と四季神は漏れには全部同じに思えるが?
それに「四季神と四雉」というのは聞いたことない言葉だなあ。
戦国時代の四神といえば四時(四季)に属する『呂氏春秋』の句芒・祝融・蓐収・玄冥だろ?
青龍・白虎・朱烏・玄武の四神は『淮南子』以降なので漢代からしかない。
青龍の原型として『管子』五行篇の奢龍などが見られるが、
ともに五行に配当される神は奢龍・祝融・黄帝(蚩尤+大常)・大封・后土となる。
四雉というのは、殷の卜辞にあり『山海経』も登場する
四方神、四方風神と同じ様式で四方に配される雉のことで
『説文』の雉の項に「東方曰〜、南方曰〜」というフォーマットで書かれている。
『説文』は漢代のものだが、卜辞や『山海経』の方角神は鳥形をしていたという説や
鳳凰を中心とした五方神鳥なんてのもあったりする。
瑞獣を歓迎する瑞応思想の一端である四霊は龍、麒麟、鳳凰、亀の四種で
スウ虞とかの虎形の瑞獣もいるが四霊には含まれない。
>>705 ところで戦国時代に青龍・白虎・朱雀・玄武の四神があったというソースは何?
昔よんだ天文学の本に
「東方の星座を青龍・・・」とありこれらの天文学が戦国時代にできたとあった。
いろんなことがかなり詳しく書かれていたので信じていたヨ
708 :
701です:02/11/16 09:45
>>696>>699 指摘ありがとうございます。
ところで、最近「詩経」をちょっこと読んでるんですが、史書としての価値、評価
ってどんなものなんですかね。私の持ってる詩経の解説書みたいのは、どうも、古代の
歌集として詩経をとらえているので、そこんとこに詳しくない。
本日、休暇と事業会議の為2ヶ月半ぶりに‘帰国’しました!
10日間程は(2日間は出社しますが…)自由の身です。
>>田単殿
ものすごいスレになりましたね…ご尽力に感謝いたします!!
>>各位殿
ざっと目を通しましたが、皆様の博識ぶりには感服いたします
何気なく立てた駄スレが本当に内容の充実した物になりました
のも、皆さんのおかげと感謝の言葉もございません。
私事の書き込み申し訳ない。
711 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/18 13:02
>>710 白起殿、お久しぶりです!
元気でお過ごしですか?
お帰りになるめどは、まだつかないのでしょうねぇ…
スレのレベルには、本当に驚嘆している、というか、呆れている、というか…
率直に申し上げて、私なんぞが入ってゆける状態じゃーありません(泣
まぁ、進行係として目を通させていただいている、っていうのがホントのとこ
ですな。
とりあえずは落ちないように気をつけております。
今後もお元気でお過ごし下さいね。
おひさしぶり。
落ちているのでついでにあげますね。
>>伯約さん。
史書としての価値はあまりないかと思われます。
たまに来て、それだけです。
713 :
世界@名無史さん:02/11/19 12:28
許由=申公豹ってよく見るんだけど、
これってネタだよな?
714 :
世界@名無史さん:02/11/19 13:10
>713
安能氏版封神演義の独創らしい。某漫画もそうなんだっけか?
許も申も姜姓の国なんで民族出自で合わせたんだろう。
715 :
世界@名無史さん:02/11/19 15:06
白起の悲惨な最後を見ていると、有能な家臣を働くだけ
働かせたあげく、国王をしのぐ名声と富を得ると、後顧の
憂いを除くため、謀反とのいいがかりをつけて九族誅滅させる
春秋戦国国家の非情をひしひしと感じます。
717 :
世界@名無史さん:02/11/19 16:16
藺相如は、そのへんうまくやったな
718 :
世界@名無史さん:02/11/19 18:32
白起将軍も最後、昭王の飼ってる便所虫に虐められたからな〜
719 :
世界@名無史さん:02/11/19 18:38
>>718 便所虫とは応侯のことを言ってるのか?
何も考えずに40万人殺した殺人鬼の信者は氏ね!
>>716 殆どは王侯なり宰相が代替わりして後継者と意思疎通が出来なくなった場合だけどな
伍子胥、呉起、公孫鞅、白起、このあたりはみんなそう
殺されなかったけど孟嘗君、樂毅あたりもそれで失脚してる
代替わり無しでそれやったのって割と少ないよ
勾踐や漢の高祖が目立つ位か
721 :
世界@名無史さん:02/11/19 18:55
毛沢東だったら片手と片足を切り落として趙兵40万の
帰国を許すだろうな
722 :
世界@名無史さん:02/11/20 08:43
>>721 何か同じような記述が有ったような。。。
>>720 これも何かに(うる覚えなんです)No2でまっとうする事の
難しさを書いた本が有ったが・・・何処にしまったのか忘れた。
>>722 日本だと、No.2で終わった歴史上の人物(その位置をキープし続けた人物)、というのはいそうな感じですが、他の国だとかなり難しいですね。
実質的なトップが、一番安全な場所ですからね。
724 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/22 08:25
春秋戦国期で、終りまで無事勤め上げた、あるいは無事にリタイアできた
著名な臣下って、いますかねぇ?
725 :
世界@名無史さん:02/11/22 08:52
727 :
世界@名無史さん:02/11/22 13:32
>>724 アン嬰、子産、士会・・・
途中で難にあったものの生き残ったのや、知らん間に消えてったのを含めれば
いっぱいいるんじゃないの?
728 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/22 18:12
>>727 そ、そうですね(汗
確かにいますわな。
春秋の頃は、まだ血筋とか家柄とかそういったものに縛られていたという印象があります。
しかし、三晋の独立や田氏による斉の簒奪などの「下克上」が目に見えて行われるようになると、君主の側も力ある家臣を快く思わなくなってきたように思われます。
(「下克上」という表現は適当では無いかも知れませんが。)
アン嬰は三代にわたって仕えていますが、少し後の時代に生まれていたとしたら、果して…。
730 :
世界@名無史さん:02/11/23 19:58
>>730 おい、これって凄いニュースじゃねえの?
>>731 うむ、時代はスレと少しというか大きく違うけど、凄いニュース。
もっと資料が出てくるようなら、独立スレを立てるべきだね。
宋に報じられた微子啓が事実なんだから、朝鮮に報じられた箕子も99%
事実ってことでOK?
史書の「朝鮮」が今の朝鮮だという証拠がないのでやっぱり不明。
(中国から見て)東北の方に封じられたのだろう程度に思っておくのが無難。
735 :
世界@名無史さん:02/11/24 16:01
司馬遷が「朝鮮に封じられた」と書いたのは誤伝。
箕子については「箕侯」の銘文入りの青銅器が出土しており
西周期に今の西遼地方(漢代の右北平郡の域内)に
「箕」という小国が燕の属国として存在していたことが判明しています。
正確にはタケカンムリじゃなくて[己己]だけど。
朝鮮については戦国期にすでにほぼ現在の北朝鮮あたりをさしていることが明らかなので
今の遼西地方が昔は朝鮮といった、という可能性は低い。
737 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/27 09:17
あれまぁ、えらく下がってますなぁ。
>>727で、終りを全うした方が書かれていて、私も確かに
イパーイいるとは思ったんですが、よーく見ると、春秋の
人ばっか、ですな。
戦国期になると、君主の権力の絶対化がすすみ、No2の
生き難い世になったのでしょうかねぇ。
>737
春秋時代だと卿や大夫に逆らって殺された君主の多いこと。
戦国時代になって No1 が殺されなくなっただけ。
これを称して No2 の生き難い世になったというかは微妙な所。
739 :
世界@名無史さん:02/11/27 19:01
単に有名な臣下というならば、孫ピンとか電探とか趙奢とか蒙・のじい様方とか・・・。
引っかき集めたらそれなりの数になるが、派手に死んだ香具師も結構いるしね。
No2となると・・・よーわからん。何をもってNo2というか、って問題もあるし。
>>738 そう言えばそうでしたね。
「とかくこの世は棲みづらい。」って事ですね。
>>739 田単とかは、生き残るためにかなり苦労したようですが、ね。
(「戦国策」はどこまでアテになるのか。)
孫ピンは最後がよくわかりませんね。
孫武もよくわかりませんが。
やはり引き立ててくれた主君とともに身をひくのが
一番安全。
孫・の最後が判らんのは、静かに余生を送れたと思
われ最高じゃないですか?
742 :
世界@名無史さん:02/11/29 11:26
応侯こと・・って位を蔡沢にゆずって引退したとかいわれてるが、
殺されたって資料があることしっとるけ?雲望睡虎地?で見つかったそうな。
結構前だけど。
743 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/11/29 15:06
>>741 孫ビンについては、宮城谷氏は小説で「病死」としていたような記憶が
ありますが、出典はどこなんでしょうね。
>>742 前スレでも、その説をレスしておられた方がおられたように記憶して
います。
戦国期に無事リタイアした希有な例だと思ってたんですがねぇ。
>>742-743 まあ応侯も内政面ではともかく、晩年の外征政策においては
邯鄲攻略に失敗したり、自ら推挙した鄭安平が進退極まって
趙に降伏したりといいトコ無しだったしね…
そもそもそれまで私腹を肥やしていたとは言え、さしたる失策も
無かった魏冉を貶して失脚させ外征政策で自分を売り込む事で
昭襄王に取り立てられた経緯もあったわけで、白起排除もその
一環だった
それが白起がいなくなった途端失敗続きでは昭襄王の信頼も
薄くなっていた可能性は充分あるよね
ただメジャーな史料には殺された記述がないんで、仮に殺されたの
だとしても公的に誅殺されたわけではなく、宰相辞任後(引退ではなく)に
私怨で暗殺されたとかそういう事じゃないかな?
結局白起に続く人材は、呂不韋の見出した蒙ゴウまで待たなければ
ならなかった訳で、一方六国側には信陵君という不世出の名将や
春申君という名宰相が出現していた、そのあたりは巡り合わせの
不運もあったと思うけど
>>688の訂正(いまさらなんですけど)
>(確か、漢時代の儒家で天の目や手、耳はあるかという質問に対して古典を引用して
>天の存在を一個の形而上的な存在として証明していたような記述があったと思う。)
これは、漢は漢でも蜀漢の秦宓の言葉でした。儒家でもないし・・・
やっぱり退き際という点では范蠡が群を抜いている。一国の宰相から世に並ぶもの無い
金持ちへ。名実ともに得られた。やっぱり謙虚さが処世術の基本なのでしょう。
戦国では結構、楽毅の退き際がかっこいいような気がする。確かに恵王に疑われて趙に
亡命したけれど結果的には自分は趙で観津に封じられ望諸君。息子は昌国に封じられて
昌国君となり、恵王への書簡で忠臣の名声を後世に残し、両国で客卿となる。その後は
趙と燕のパイプ役となる。推測だが晩年は楽しく過ごせたのではないだろうか。
なんか応侯(范雎)のことできこうと思っていたので、ちょうどタイムリーだったんですけど。
長平の戦いにおける40万人の生き埋めは秦の軍法、もしくは秦の伝統的やり方をなぞったもので
あり、白起が残酷であったということではないという記述を読んだことがあるのですが、
実際はどうなのでしょうか。また、さすがにこれは白起の独断でおこなえるはずもなく、
むしろ、范雎や昭襄王の指示によるものと考えた方が自然な気もするのですが。
白起も罪の意識があったようですし。
また、范雎とははたしてそれ程の評価をうける人物なのでしょうか。
「遠交近攻」などはコロンブスの卵かもしれませんが誰でも思いつくと思います。
(実行にうつすのは大変ですが)司馬遷もさほどの評価はしてないようです。
登用した人物もたいしたことがなく、口先だけの弁士という印象があるのですが・・
みなさんはどう評価しているのでしょう。
宮城谷氏の「青雲はるかに」を読んで、范雎に全然魅力を覚えなかったのでちょっと気になりました。
747 :
前スレ912:02/12/01 12:30
蒸し返すようですけど、
>>611、
司馬遷は当時(漢代)の人民について、
古帝王の説話を長老が伝える土地は、その風俗・教化が他に比べてとても優れていた、と
感想を述べています。
死よりもつらかろう屈辱を耐えた人ですから、空虚な説話には彼なりに慎重だった、
でも敢えて『五帝本紀』を加えたのは、
風俗や徳には土地による大きな差が現に存在し、おそらく春秋戦国を通してそれが残った(ように思えた)ことを重要視したから。
歴史論議では、むしろ現代が相対主義・懐疑主義・性の「解放」に異常に傾いていることをふまえないと。
>>746 私も詳しいことはあれですが、そもそも40万という数が問題ですし、どうやって埋めたのかも疑問が残ります。
20万の南京事件でも真偽が問題になっているんですから、その倍の、しかも技術が未熟な時代の虐殺がどこまで可能だったのか。
ただ骨はゾロゾロ発掘されているようなので、虐殺自体は本当らしいです。
あえて白起を弁護すると、単純に白起は将軍の掟、作法に従っただけでしょう。
一方で、ハンショと対立した晩年も他国に出奔しようとはツユとも考えなかったようで、あんがい素直に自決しました。
中原諸国の将軍たちがあちこち動き回っていつのとは対照的です。
捕虜の処理方法という細かいことまで別に上の指示でやったものだとは私は思いません。
白起は長平以前から捕虜虐殺はよくやっていたので、同じことをしたまでだと思います。
749 :
世界@名無史さん:02/12/01 22:19
>>748 秦って入るのはたやすいけど、出るのは大変な国だったからねえ
>>749 それだけ聞くと、なんだか地獄かウツボカズラのよう響きですね。(笑
>748
捕虜に穴を掘らせて突き落としたってのは長平じゃなかったっけ?
虐殺の際に難しいのは対象が逃げてしまう事なんですが
長平の場合は空間の閉塞が完璧だったので十分可能だったかと。
最悪、包囲を続けるだけでも趙兵は全滅します。
敵国の成員男子をまとめて穴に放り込めば、
確かに敵国の国力はがたがたになる。
それが戦争といえばそれまでだが、何とも恐ろしい…
752 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/04 10:19
最近、来場者が減っているような・・・
>>751 私は、「坑」(本当はこざとへんだったと思うのですが)については、
一般的な「生き埋め」よりも、安能務氏のいう「閉じこめ」説をどうしても
取りたい気がするんですよ。自身で文献にあたったわけでもなく、根拠は
ないんですが・・・
この「人の多寡」=「国力」であった時代、そうそう簡単に大量の捕虜を
消滅させることができるのか、という疑問がつきまとうんですよね。
無論、戦争ですから、局地的な虐殺はあったんでしょうが・・・
>>746 范雎の評価については個人的には遠交近攻よりも宣太后・穣侯・陽君・高陵君
・華陽君の専制に対して昭襄王の権力を確立させたことが重要だと思う。基本的に
法家は権威と権力の乖離を嫌っているので明らかに、この五人は秦の体制にとって
近いうちに障害物となってくる。五人を特に大きな混乱なしに退場させたのは
相当難しいことではないかと。その点は范雎は大胆に、慎重にことを運んだと思う。
遠交近攻についてはおっしゃられているとおり実行に移したという点で評価できる。
ただ、魏斉に対しての処置はやはり個人的な恨みが先行して、秦の宰相として最善の
判断をしたかと問われれば疑問も残る。
鄭安平については、逆ギレや言い訳をしなかったという点では好感をもてるが、やっぱり
見る目のなさを露呈しているのだろう。あと、蔡沢に地位を譲るとき権力への執着をあまり
見せなかったのもよかった。
しかし、白起を使いこなせるだけの器でなかったのも事実。
まぁ、秦の肥大化に大きく貢献したのは明らかなのだから一応名宰相に入れても良いんじゃ
ないですか。
>>752 個人的にいえば虐殺あっての白起のイメージが強いので、やっぱり、穴埋めの方がすんなり
納得できる。まぁ、そこが前スレで白起を名将に入れたくない理由だったんですけどね。
ところで、各国別、「社稷の臣」を一名挙げるとすると、皆さん誰になりますか?
と振ってみる。
田斉 田嬰
燕 郭隗
韓 申不害
魏 李克
趙 董安于(普通は藺相如だと思うが個人的にこの人を外したくない)
秦 樗里子
楚 屈原
姜斉 晏嬰
晋 叔向
鄭 子産
宋 目夷
魯 曹沫
呉 季札
越 文種
ちょっとケチをつけますがご容赦を。
管仲をさしおいて晏嬰はいくらなんでもないのではないかと。
かつて宮城谷氏の「晏子」を読んで、アンシの偉大さがさっぱり理解できなかった記憶があります。
政変をのらりくらりかわして生き延びたという印象が強い。
むしろサイチョとか慶封とか我欲の強い連中のほうが面白かったりする。
田斉は広く君主以外ということだったら、淳ウコンか君王后をあげたいですね。
田嬰、孟嘗君のオヤジ・・・・・・って具体的になにをやった?
もちろん二千年以上も前の話ですから具体的にといわれても困るでしょうけど。
六国の社禝の臣は蘇秦に尽きる
>>755 まあ個人的な好みがあるのは認めます(w
実績よりも王(公)室王(公)統に対する敬意的なものを優先させた人物を
より評価してます
晏嬰は桓公逝去以降の混乱と晋の伸張で落ち目だった斉公室の中で
更に凡庸な君主であった景公を補佐して破綻させず、存命中は田氏の
専横も抑えていたという点で管仲より相応しいかと
晏嬰の死去後に田氏の勢力は一気に膨張してますしね
管仲は事蹟の巨大さでは晏嬰を遥かに凌ぎますが、ちょっと生臭い
エピソードもあったりして社稷の臣という礼的意味合いの濃い呼び方
には違和感を感じたので敢えて外しました
これが各国最高の名臣という事なら間違い無く管仲を挙げますけどね
そういう事なら郭隗じゃなく樂毅、叔向じゃなく士会、文種じゃなく范蠡
とかにしてたと思います
崔杼の人生波瀾万丈の方が面白いのは同意
田嬰に関して言えば、それまで自らを以って覇者を任じていた魏を説いて
斉に入朝させたという外交上どえらい実績を挙げています
これがビン王時代に東帝を名乗るまでになる田斉の興隆の第一歩ですから
父より評判高い息子は魏に走ったり秦に行ったりしてますが、この人は
斉一筋って事でも評価高いです
後は食客のルーツだとか…、これは微妙ですが
まあ淳于コンも悪くないんですがちょっと弱いかなと
君王后は臣という時点で対象外でしたし
>>756 蘇秦はシモのスキャンダルで身を滅ぼしたんでマイナス
実績は巨大なんですけどね
>>754 個人的には・・・
趙 李牧
秦 李斯
衛 南文子
楚 孫叔敖
周 王孫満
を入れてみたい。
759 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/05 12:19
うっ、まずい!
じ、実は、「名臣」は次スレのネタにしようと思ってたんですよ(泣
760 :
世界@名無史さん:02/12/06 02:51
>>757 シモのスキャンダルなんて、たかがそれだけのものなら、
蘇秦の手にかかれば揉み消すのは容易だったろう
真相はシモのスキャンダルじゃなくて純愛。
蘇秦は天下に飽きて女と天下を天秤にかけた上で女をとった
761 :
世界@名無史さん:02/12/06 05:35
>>760 はぁ?言ってて恥ずかしくない?
性 欲 に 負 け た ん だ よ 。
762 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/06 17:56
最近、ご来場者が少ないようですが、土曜・日曜にお越しの方、
ぜひとも上げておいて下さいますよう、お願い致します。
763 :
世界@名無史さん:02/12/07 00:49
じゃあげとく。
>>761 性欲はべつに悪くもなく恥ずかしくもない。
天然の本性、自然の摂理。
そこに勝ったの負けたのという価値観をもちこむのはむなしい一人相撲。
「性欲に負けますた」
これは流石にハズカシイ
>>754 季札を選考した基準は何なのでしょう?個人的には伍子胥の方を入れるんですが・・・
どうも、季札は聖人君子過ぎて、伯夷・叔斉臭さが滲み出てて国よりも徳や礼に固執
しすぎているきらいがあるように思えるのですが・・・
766 :
世界@名無史さん:02/12/07 11:48
伯約さんレスありがとうございます。
范雎は初めに史記読んだときから嫌いだったからそれが残っていたかもしれませんね。
小説は過大評価されすぎですが、まあ仕方ないです。
伍子胥はなんか個人的復讐心がありすぎて自分ならいれたくないです。
季札は没年はわかりませんが、最後まで呉に忠誠を尽くしたと思いますし。
768 :
世界@名無史さん:02/12/07 18:44
>>763 左様、性欲は自然の摂理。
しかし、一時の性欲に流されて正常な判断能力を失ったとあっては、
性欲に負けたと評されても仕方がない罠。
名臣にも二つのタイプがあると私は思います。
第一には、富国強兵のための実務官僚として有能なタイプ。
言うまでもなく、管仲、呉起、張儀、ショウオウ、李斯などがこれに当てはまります。
第二には、その人物の人徳や存在感それ自体が国をまとめているタイプ。
晏嬰、季札、孟嘗君、リン相如、呂不イなどがこれに当てはまります。
子産は両方の要素がありますが、私は現実主義と理想主義のバランスがよいという点で彼を高く評価してます。
>>769 >二つのタイプ
同意ですね
>>765 伯約さんの言われる社稷の臣というのは個人的に
第二の方だと解釈し、754の結果になりました
第一の基準でいくならば無論伍子胥という選択肢はありましたが…
法主さんの言われている理由もあって多分選んでないかな(w
個人的には呉に戦車戦の思想を導入した屈狐庸(巫臣の息子)を推します
この土台があってこそ後年、孫武、伍子胥の智謀が活きたというものですし
質問。
資治通鑑を図書館で見つけて読んでみたのですけど、楽毅の斉攻略の経過が史記や戦国策に
比べやたら詳しい。司馬光はどの資料から引っ張ってきたのでしょうか。
772 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/11 15:29
>>771 どちらかといえば、私なんかがそういう質問をして、姜子がそれに
答える、っていう構図のような内容である気がしますね。
>>771 ネットで検索したら
司馬光の引用史料ノートである「資治通鑑考異」(しじつがんこうい)三十巻に、
史料の取捨選択を記していると書いてあります。
中身までは検索したけどなかった・・・
それを、お探しになったらどうでしょうか。
なお、司馬光は雑史312種や小説からも考証の上とっているから現在にはないものも多いと思います。
774 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/13 18:22
最近なんだか寂しい状況ですね。
ageときます…
775 :
世界@名無史さん:02/12/14 12:29
>>773 資治通鑑考異をgoogleで検索してみたのですがその内容についてはわからずじまい。
大学の図書館にも無いし・・・きっと国会図書館あたりにはあるのだろうが、和書
で検索してみても無かったので、有ったとしても中国語だろう。英語、ドイツ語なら
辞書を引き引き読めるけど、中国語は高校のときの漢文レベルなので読めるかどうか。
このあたりが趣味としての限界なのだろうか。
777 :
なまえがない:02/12/14 13:04
質問なんですが、歴史を学ぶことで、文化的なもの意外で、
何に役立ちますか?
今なくなったことを情報として保存するというのは印象的にはすごそう
なんですが。
778 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/16 15:09
>>777 「前車の轍」を踏まないように生きる上で、役に経つのではないでしょうか?
もっとも、多数の四字熟語を生み出したお国では、踏みまくっているような
節もありますが…
779 :
世界@名無史さん:02/12/16 15:42
「呉下の呂蒙にあらず」を見習え
780 :
世界@名無史さん:02/12/16 16:27
>>779 「阿蒙」じゃない?…と、突っ込んでみる。
>>780 いやーーっははは(照れ笑い)
いまだ呂蒙はおろか阿蒙にもおよばず。
782 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/17 15:13
754さんに超亀な質問なんですが、名臣で屈原を入れられていますが、
どういうところで入れられました?
個人的には、国を支えきれた人物ではないので(無論暗君のせいですが)
さほど高く評価していなかったもので、気になったのです。
783 :
世界@名無史さん:02/12/17 16:42
三度諌めてきかざれば即ち退く。
>>779 「士、別れて三日なればすなわち刮目して相待つべし」ですね。こういわれるように
日々努力したいものです。
>>782 でも、屈原は戦国の楚において、数少ない名臣ですしねぇ。靳尚の讒言さえなければ
きっと、もっと活躍できたでしょうに。でも失脚させられたからこそ、憂国の天才詩人
として、後世に名を残せたと思うと複雑な心境。
楚は春秋時代には名臣、名君を多く登場させたのに戦国になってちょっと人材という点では
小粒になったような感じで少しつまらない・・・
>>776 普通「資治通鑑考異」は通鑑の胡三省注とともに通鑑本文と合刻されてます。
古籍出版社本が入手しやすいでしょう。
786 :
世界@名無史さん :02/12/18 16:49
>>784 子蘭曰く――――
どうも私は屈原大夫の敵役、「抵抗勢力」と誤解されているらしい。しかしみんな屈原という人をと立派に思い描きすぎじゃないのか?
たしかに、屈原どのは鋼のような信念をもち、潔癖で正義感あふれる愛国者であったことを認めることは私もやぶさかではない。
事実、私も親秦と反秦という政策上の違いはあったが、愛国者としての彼を一貫して尊敬してきた。
とくに、私の親秦政策が結果的に失敗したので、私が非難されて屈原どのが正しかったと言われることはまあ受け容れざるを得ない。
しかし個人的に付き合い始めると、だれもが屈原どのを嫌になる。私は屈原どのほどの強く正義にあふれた人間ではない。
まあ、だれもがそうだ。それは認める。しかし、あの人は、まあなんというか、御自分の正義、潔癖さを他人にも強く求めるところがある。
ちょっとした不正、瑕疵にも目くじらを立てて筋を正そうとする。王子の私にさえそうだ。
もちろんそれは悪いことではない。・・・・・・悪いことではないだけに一層屈原どのは嫌われたのだ。
屈原どのはよい詩をたくさん残されたが、思うにあの人は政治家というより芸術家だったのかもしれない。
だから現実の人間の愚かさ、みみっちさを直視できず、ひたすら軽蔑するだけであった。しかし軽蔑される方はたまったものではない。
残念ではあるが、屈原どのは「抵抗勢力」の抵抗にあって失敗したのではなく、自分でひたすら「抵抗勢力」をつくってしまってたというべきだろう。
こういう点をみないで単に我々だけを批判するのは千万迷惑な話だ。
787 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/18 17:41
>>786を読んでいると、我が国のある人物を思い出しますねぇ。
幼名「佐吉」、後に秀才官僚として名を挙げた石田三成も、こんな
感じ、だったような気がします。
>>771 >>773 樂毅の伐齊について「通鑑考異」は格別の言及はしていません。「考異」は元来
複数の史料間に相反する記述のある場合に、どちらの史料が信じられるか考証した
ものであって、全ての史実について根拠史料を示したものではありません。
先秦の歴史について史料を網羅したものに馬シュウ(繍の糸偏を馬偏に替える)編の
「繹史」があり、記事本末体なので検索に便利です。
この本で「樂毅が燕の爲に齊を破る、田單が齊を復す」の巻を検してみましたところ、
「戰國策」と「史記」以外では「呂氏春秋」「新序」「説苑」などが引かれています。
>>785,788
情報ありがとうございます。とりあえず、呂氏春秋、新序、説苑と手に入れやすいものから
あたってみようと思います。
>>786 曲学阿世が往々にしてに保身術に反していることは明白なのですが、それでも、屈原の人格は
個人的に嫌いじゃないのですよ。
はるか後の唐に太宗が魏徴が亡くなった時にいった言葉だと記憶しているのですが、その中に
「人をもって鏡とすれば自分の良いところ、悪いところがわかる。」という意味の
ことを言っている。太宗にとっては魏徴がその鏡でありました。
私が思うに屈原は質のもっとも高い鏡であったと。どんな人物でも鏡とすることは
できるが、その人の性情がひねくれていたりすると、自分の正しい姿を見ることができない。
たぶん、多くの人が屈原を嫌ったのは醜い自分自身を映し出す鏡を正視したくなかったのでは
ないだろうか。確かに自分の醜い部分は誰もが見たくない。しかし、それを受けいれ、正すこと
が為政者には必要不可欠であったと考える。
歪みの無い鏡を得ることは難しい。せっかくの鏡を使い切れなかった楚を残念に思っている。
また、論語に「君子は和して同せず、小人は同して和せず」とある。屈原は和することができなかった。
しかし、同することを拒んだ。そこんとこも個人的に好感が持てるのです。
以前、佐伝の劉子について疑問を書き込んでいたのですが、左伝を読み直してみたら、彼は周王朝の
運営にかかわっているみたいです。しかし、劉氏というと士会が秦に残してきた人が名乗ったという
記述が思い浮かぶのだが、陪臣で、歴史の新しい劉氏が王朝の運営にかかわれるのだろうか。周王朝の
運営にかかわっているのは史書や金文などには周公、召公、毛公、などの名門があり、そこに時々の有力
諸侯を非常勤のかたちで参加させているように読める。劉公が参加するとしたら後者なので、果たして
劉公にそこまでの力があったのであろうか。
それとも士氏の分家以前に別の劉という国があったのだろうか。
>>788 なんでそんなに旧字使うんだよ。読みにくいじゃん。
スノッブだから
792 :
世界@名無史さん:02/12/20 12:37
旧字…カコイイ! デモ、カケナイ。
「旧字」ではなく「正字」と言ってください。
スノビズムから正字を使っているのではありません。それが原史料において
表記されている本来の用字だからです。
東アジア史について厨学レヴェルを脱したい人は正字を毛嫌いしては駄目ですよ。
794 :
世界@名無史さん:02/12/20 14:20
だけどFEPパレットから選ぶのならできる
なんか
>>781さんの受け答えに笑ってしまった。
こういうのいいよね。
796 :
世界@名無史さん:02/12/21 15:06
どっ素人の疑問です。
世界中何処の地域も概ね、混沌→統一→混沌→統一を繰り返してますね
でも中国の戦国期って他と比べても長すぎると感じるんですが、
なぜなんでしょうか?
多角的に知りたいんですが・・・
>>796 長すぎるというより、始皇帝が出現するまで統一された
ことがなかったという方が正しいと思われ。
>>796 三国時代が約100年、西晋末〜隋が約250年、五代十国が約50年で、
他の混乱期は10〜20年程度ですから、春秋戦国の約550年は
非常に長いですね。
私としては、以下のような事が理由ではなかったのかと思います。
1)防御に比べて攻撃手段が未熟だった
春秋戦国時代の攻城戦は1年以上かかる事が珍しくなく、
攻め落とさずに講和というパターンが多かった。
秦統一以降は月単位での陥落が普通になってる。
攻城技術の進歩と、統一によって強大な城塞が破壊されたのが
以降の時代での覇業をスムーズにした。
2)統一された中国いう概念が無かった
殷や周も中央集権国家ではなく小国の連合体であり、戦国時代後半まで
中国の統一という発想がなかった。
戦国の初期までは、各国が相互に覇を争っていたというよりは
中原諸国同盟vs異民族(楚&秦)という構図になっており、
それなりの秩序状態(周の延長)であった。
つまり、本当の混乱期は戦国時代以降の150年程度。
3)各国が鼎立しバランスを取り合っていた
戦国時代では、数ヶ国のある程度実力伯仲した国々が鼎立するという、
他の混乱期に比べても統一が困難な状態であった。
799 :
世界@名無史さん:02/12/22 03:06
ローマがカルタゴ、ギリシャ、エジプトを降して地中海制覇するまで、かなりの時間
掛ったようなもんだな。
800 :
世界@名無史さん:02/12/22 03:42
ローマ=秦
イメージが非常に似ている
>>793 正字?でも所詮は旧字じゃん。しかもとっくに過去の遺物になってる字体だし。
学術論文に用いるというのならわからんでもないが、2ちゃんごときで
なにこだわってんだよ(藁
>東アジア史について厨学レヴェルを脱したい人は正字を毛嫌いしては駄目ですよ。
なにげに煽ってるし(w
時々いるんだよな、こういうヤシ。つまらんことに拘って一人よがりの論文書いて
博士に進めず、ぶち切れる。前○、おまえだよ(w
・・・身近に似たようなヤシがいたんでついつい。スマソ。
いや、こだわることは決して悪いことじゃないんだよ。
>796
戦国期以前なら「広大な領域を統治する仕組みがなかった」の一言かと。
戦国期200年弱に関しては諸国の鼎立状態だった分長引いたと思いますが、
他の時代と比べて特別に長いとは思いませんね。
>801
2ちゃんで正字を強制されても困るが、勝手に使う分にはそれこそ自由。
自分の鬱憤をこんな所で晴らそうなんてのは迷惑です。
>793
やはり専用IME辞書とか中文タイプ等をお持ちで?
その手の環境がないと、ちょっとした文章打つにも不自由で困ります。
>>796 >>798 私は分裂期が長いとは思いません。
春秋中期までの人々は現世を乱世と思っていたのかどうもちと怪しいですし。
ただ長引いたとすれば、「辺境」の急激な拡大で文化の多元化現象が起き、
周王朝はそれを統合する政治制度の布置が追いつかなかった、ということだろうと思います。
あと、政治単位としての中国の観念が春秋期にはなかったことは確かですが、
「天下」が一元的な政治システムで統一されるべき、という観念はあったでしょう。
前にも書きましたが、「天に二日なく、地に二王なし」というのが理想です。
事実、春秋戦国の文献を眺めても、為政者にとって政治は「天下万民」のためにあったのであって、
「楚人」や「秦人」のためにあったのではないことは確かです。
地域主義を正統化する文章はほとんどありません。
>>801 >しかもとっくに過去の遺物になってる字体だし。
台湾あたりじゃまだ使ってなかったか?
昔の文献と完全に同じじゃないかもしれんが。
自分中心志向なんでしょ。
自分は使ってないから旧字ってな。
807 :
世界@名無史さん:02/12/23 11:18
あれってなんて字体なの?
中国語で言うところの繁字体?
808 :
世界@名無史さん:02/12/23 11:52
ああいう古い字体を日本では旧字体というんでないか?
それはともかく、斉って昔は「齊」と書いてたのね。
單獨で出てくると讀めんY。
809 :
世界@名無史さん :02/12/25 00:38
舊字體でも新字體でも簡體字でもお好きな樣にすれば好いいんじゃないかと。
舊字と正字の違いは、日本で昔使ってたのが舊字で『康熙字典』に載っている字が正字だったかな。
周知のように中國では簡體字、臺灣、香港では繁體字(日本の舊字に相當)です。
簡體字は讀み書きの能力向上の爲に採用されたのですが、實際はほとんど意味なかったとことは、
臺灣、香港でのいち早い近代化と經濟發展で證明されています。
810 :
世界@名無史さん:02/12/25 00:40
違った。「正字に相當」が正しい。
遅くなりました。
皆さんどうもアリガト!
812 :
世界@名無史さん:02/12/25 15:23
>>798 >3)各国が鼎立しバランスを取り合っていた
三つであるからこそ鼎立です。
細かいツッコミでごめん。
813 :
世界@名無史さん:02/12/25 22:32
>>805 >学術論文に用いるというのならわからんでもないが、2ちゃんごときで
なにこだわってんだよ(藁
学術論文の一部では旧字体(正字?)が厳然と使われています。
確か『東洋史研究』あるいは『中国史學』という雑誌だったと思う。
旧字体で書き込むのは勝手だが、旧字体で書かれていればいるほど、
その文章を読み飛ばす人が増える。
文章を他人に読んでもらうために書いているのか、それとも、
自己満足のために書いているのか。
それを考えてから書きこめよ。
ちょっと詳しい本を読めばいくらでも旧字が出てくるこの分野で、
旧字は読めない人がいるから禁止って言われてもねぇ。
結局、一般向けの入門書レベルの話以外するなという事か?
816 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/26 10:58
字体論争が続くのも不毛ですので、スレ主に進行係を任されている者として、
「字体は、レスする人の好きになさっていただいて結構です」ということで
まとめさせていただきます。
以降、ご自分の使いたい字体をお使い下さい。
ただ、正字使用の場合で、これは難読だな、と思われる場合には、読み方を
付記するなど、私のような超初心者にも配慮下さると有り難いです。
>>815 つい最近までのレスには特に難しい字は入ってなかった。
ということは今までの内容は入門書レベルの話ばっかりだったということか?
廉頗と 藺相如の事を思います。
819 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :02/12/27 13:18
皆さん、マターリと進行して下さい。
よろしくお願いします。
廉頗と藺相如の故事は有名ですが、他国にこのように人口に膾炙する
組み合わせって、あるでしょうか。
ところで、私は会社のPCを使っている関係上、明日から9連休となり、
参加できません。住民の皆様、お手すきのときには、倉庫入りを防いで
おいて下さいませ。
それでは、良いお年をお迎え下さい。
820 :
世界@名無史さん:02/12/27 19:16
そういえば、楚の竹簡が大量に見つかったと聞いたが。
詳細キボンヌ。
保守です。
保守
新年好!
『始皇帝暗殺』してるYO
825 :
世界@名無史さん:03/01/04 14:24
>>819 廉頗と藺相如の故事は有名ですが、他国にこのように人口に膾炙する
組み合わせって、あるでしょうか。
管鮑の交わりは?
826 :
世界@名無史さん:03/01/04 16:34
房と精子
不臣と火器
降雨と劉邦
ノブナガと乱○
マキコとムネヲ
アキレウスとパトロクラス
ロランとオリヴィエ
828 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/06 12:37
皆さん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
きっと、どうしようもないネタフリなんかをやってしまうと思いますが、
初心者として、大目に見てやって下さいませ。
ところで、私の年末のネタフリに、何やら訳の分からんレスがついて
おりますなぁ。フツーの住民の皆様は、お休みなんでしょうか?
829 :
世界@名無史さん:03/01/06 13:26
雪で遅刻した・・・
軍法に照らすと処刑される・・・どうせ死ぬならイチかバチか・・・。
>>828 気にすんな。ネタを楽しむ余裕くらいないとアラシ君の餌食にされかねんぞ。
831 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/08 15:26
おおっ、えらく下がっておりますなぁ。皆さんお忙しいのでしょうか?
っていってる私も、たまにしか来れない状況ですが…
廉頗と藺相如で思い出したんですが、昔、私が会社訪問をしていた頃、
何度も通った某社の人事部長に、中国古典好きというのを覚えられて、
「肝胆相照らす」ってどういうことかな?って振ってこられたことが
ありましたなぁ。
832 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/10 10:20
あれまぁ、最近まったく人の気配がないですね。
このままでは、私の独り言スレになってしまう…
833 :
世界@名無史さん:03/01/10 11:39
中山・東周・西周・衛・魯・鄭・宋・代・晋・姜斉なんかの
「七雄」以外の国にスポットを当ててほしい。
しかも春秋期でなく戦国期限定で。
834 :
世界@名無史さん:03/01/10 11:46
あと春秋期だったら異民族ネタが欲しいね
835 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/10 17:56
>>833 鄭は戦国初期に滅んじゃったんですよね。
最後まで残ったのは衛でしたっけ?
836 :
世界@名無史さん:03/01/10 19:06
宋は列強に数えられてもおかしくないと思うんだけどなあ。
正直、燕や韓なんて宋と大差ないじゃん?
837 :
世界@名無史さん:03/01/10 19:41
越もな〜
越は紀元前三世紀まで残ってたよね?
839 :
世界@名無史さん:03/01/10 20:09
越って地味に戦国時代中盤まで残ってたんだよな。
春秋後期の派手さは跡形も無いが。
(^^)
841 :
世界@名無史さん:03/01/12 13:58
>>836 韓があの時期まで生き残ってたのは国力からすると不思議なようだが
たぶん秦との同盟をうまく生かしたり中原の中央なので諸国のパワーバランスを利用しやすかったのかな。
あと燕は昭王以前は小国だったと思われてきたけど、実は強大化したのは
それよりもかなり以前だったことが考古学的にわかってきている。
東胡を撃退して東西二千里南北一千里の地を獲得したのは昭王よりはるか以前のことらしい。
昭王がやったのはその地に上谷郡から遼東郡までの五郡を設置したことと
造陽から襄平まで長城を築いたことと朝鮮半島まで勢力を伸ばしたこと。
とても久しぶりです。
忘れられてしまっているでしょうか?
俺も自分の番号を忘れて過去レスまで探しに行きました。
さて、最近「管子(管仲)」を読んだのですが、論理的な内容自体はクソでした(ぉ
しかし気になったのが、越や呉が管仲の時代には強国であり、猛威を振るっていたと想像させるような事が書いてありました。
この2国はイツ頃出来て、どのあたりから強国になったおでしょうか?
あと、管子自体はあやしいもので、あまり信じられるような内容ではなかったです。
特に論理に矛盾が多かったし、論調もコロコロ変わってしまう物でした。
……
て言うか話を強引に持ってきてごめんなさい。
843 :
世界@名無史さん:03/01/12 15:30
管子は戦国時代の偽書。管仲の時代に書かれたわけではない。
844 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/14 17:47
おお、久久に書き込みが(涙
白起さんに後事を託されて、スレが倉庫に落ちたりしたら、
それこそ軍法に照らされて処刑されかねませんからね。
韓って、瞬間風速的に強くなりませんでしたっけ?
確か戦国初期にそんな時期があったような気が…
845 :
世界@名無史さん:03/01/14 18:26
「韓」は、最初に改元を行った国。
846 :
世界@名無史さん:03/01/14 23:20
>>844 申不害がいたとき?
というか、韓の重要人物って申不害と韓非しか知らないけど。
847 :
世界@名無史さん:03/01/15 00:54
>>842 呉が強国になっていったのは、史書ですと寿夢あたりですから、B.C586年あたりから
だと思います。建国に関しては史記に太伯の話がありますけどどこまで信憑性があるかどうか。
越が強くなったのは允常あたりでしょうから、どちらも管仲が活躍していた時代とは隔たりが
あります。やはり、後世の偽書ということで時代が狂っているのではないでしょうか。
管仲の当時はまだ楚が中原に急速に台頭してきたときなので、呉、越に関心を払っていたとは思えないので・・・
>>846 一応、聶政も韓の有名人(?)にはいるのだろうか。文侯、哀侯、昭侯くらいまでは
それなりに存在感と国力があったような気がするのであるが、その後、周辺の他国が大きくなるにつれて
どんどん、薄くなってきた。中央にあったので領土という面では小さいのはしょうがないが、魏の戦国後期も
領土的には大差なく、韓の存在感のなさは別のところにあるのだろう。
秦は商鞅の死後もそのシステムを存続させていた。韓は申不害の死後、そのシステムは受け継がれていないように思う。
でも、根本的にやはり人材の育成がなかったのがつらいところなのでしょう。
また、外交上その動きが大国の追随であったことも要因の一つだろう。特に戦国後期は
完全に秦の属国化しているし・・・
地の利を生かし商業による富国の可能性ということが春秋の鄭同様思われてならない。(否定されるだろうけど)
>>848 韓の国政に携わった人間という意味では有名人は少ないですね
ただ単に韓出身というなら呂不韋とかがいますけども
あとちょっとスレ違いになりますけど後の漢楚戦争期には張良を
始めとして、韓出身の人間が多く活躍してるそうで
何で見たか忘れましたが史記の漢楚戦争時の人間に限れば列伝の
数では楚に次ぐ多さだとか
本当かどうか、今度実家に帰ったら数えてみようと思います
850 :
世界@名無史さん:03/01/16 23:18
呂不韋は周の出身では?
851 :
世界@名無史さん:03/01/17 02:01
スレ違いですが、楚漢の話が出たので・・・・
史記スレも落ちたみたいだし・・・・
楚漢といえば韓信、韓信といえば天下三分の計を説いたカイ通ですが、
史記淮陰侯列伝ではカイ通が滔々と韓信を説得しています。
が、これは韓信とカイ通二人だけのひそか事だったはずで誰一人記録していたはずのないものです。
だから、これは当然後世の誰かの創作ですよね?
一体誰が何の目的でこういう創作活動をしていたんでしょうか?
カイ通は劉邦にとっ捕まって、弁明したんじゃなかった?
それまでは狂人のフリしてたけど、メデタク無罪放免
…だった気がする
>>850 確か韓の陽テキの人という記述を記憶してるんですが…
今手元に史記列伝が無いのでググってみましたが衛の濮陽(商人呂不韋の
本拠)出身という記述以外が少しあった以外は殆ど陽テキになっているようです
周というのは初耳なので良ければ出典を教えて欲しいです
854 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/17 15:07
韓って、晋の南部の方ですから、いわゆる中原ですよね。すると
人口は当初はそこそこ多かったんでしょうね。
人口と国力が比例する時代ですから、うまく進めば、強国になる
可能性はあったんじゃないでしょうか?
また、各国に囲まれてるということは交通が発達してるってことも
言えるでしょうから、
>>848でいわれるような、物流を押さえる
ことによる覇権の確立、なんてことも考えられそうな気がします。
>>852 どうも。
カイ通はたしかに、劉邦の前に引き出されるものの赦免されています。
カイ通の言動は後に自分で書き残したか、この時の取り調べの記録にでもあったのでしょうか?
しかし、怪しいのはここだけではないですよね・・・・・
スレ違いの気がするので、やっぱり止めます。
>855
そもそも公式な取り調べなので当然記録があったはずですが、
それだけ人々の印象に残った説話だったという事でしょう。
説話の類に関しては疑わしきものも多いでしょうが、この説話に限っては、
・カイ通が韓信に謀反をそそのかして断られ、狂人と偽り出奔。
・韓信が謀反の罪で囚われた時「カイ通の言葉に従っておけば」と漏らす。
・そこで、カイ通は全国指名手配、捕まって引き出される。
・「天下を狙った者を皆謀反の罪で処刑するつもりか!」
と、前後関係がはっきりしているので疑う必要はないでしょう。
史記を疑うのは結構ですが、まずは史記だけでもきちんと読んでからでないと…
盗セキの犬、堯帝に吠える
858 :
世界@名無史さん:03/01/18 12:53
>>856 いや、韓信に反逆を薦めたのは事実でしょうけど、説得したときのあの長い長い説得の弁論を
何時、どこで、誰が、記録したのか、本当に記録しえたのか、ということなんです。
手元にある朝日選書 史記 中で、説得の弁論だけで16ページ、
原文の行数で32行あるんですよ。そのほとんどがカイ通の言葉です。
記憶だけでかける量じゃないです。
じゃ、誰が、何時、何の目的で書いたんでしょう?って事なんです。
>858
> じゃ、誰が、何時、何の目的で書いたんでしょう?って事なんです。
司馬遷は歴史説話を演劇の類から採取したらしい事が知られています。
司馬遷が史記を編纂するにあたってどのような資料を参考にしたか、
というのは昔からよく研究されているようですが、差し当たり、
「史記を語る」(宮崎市定著:岩波文庫)辺りが手に入りやすくよいと思います。
ただし、
> 記憶だけでかける量じゃないです。
それはほんの数時間の弁論に人生をかける乱世の縦横家を甘く見すぎかと。
周到に準備された弁論のはずで記憶くらいしていて当然でしょう。
もちろん、史記の記事の出典がカイ通自身なのか、誰かの創作なのかは、
私は薄学にして知りませんし、そういう研究があるのかも知りませんが。
860 :
世界@名無史さん:03/01/18 20:39
>>859 >というのは昔からよく研究されているようですが、差し当たり、
その『よく研究』された成果がどうなっているのかを、お尋ねしたかったわけです。
>「史記を語る」(宮崎市定著:岩波文庫)辺りが手に入りやすくよいと思います。
ありがとうございます。探して見ます。
>>853 すいません。周というのは出身地じゃなくて、
何かの小説で「おもに周と斉で活躍した」ぐらいの話だったかも。
結局、出身は、韓の陽テキなの? 衛の濮陽なの?
>>861 濮陽というのは文献において
「衛の濮陽の人(商人)」
という記述が比較的多いという事であって、イコール濮陽出身とは
取れないという意味です
出身地はやはり陽テキで間違いないと思いますが
PC不調で書き込めなくなり、それからだいぶ経ってますが、前スレで142だった者です。
(今更出て来るなと、住民の方々からお叱りをうけそうですが…)
ざっと眺めてきましたが、途中で儒教に絡んだ(かなり)濃い話があったようですし、
あやめ さんは、相変わらず博識ですな…。
864 :
世界@名無史さん:03/01/20 13:19
初心者です。
この時代って通貨はどうだったんですか?
それぞれの国で違うの(交換レートみたいのがあった?)でしょうか・・・
>>863 おお、前スレ142さん、お帰りなさい!
お叱りなんてとんでもないですよ。みんな口には
出さないけど心配&復帰を待ち望んでいたと思いますよ。
また理路整然とした142節を是非お願いしますですよ。
866 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/21 12:26
>>863 前スレ142さん、復帰をお待ちしてたんですよ。
もうお越しにならないのかとヒヤヒヤしながら(涙
ところで「前スレ142」っていうのも何ですから、たとえば
全角で「142」とかにされたらどうです?
人の名前にけちをつけるとは、あいかわらず臭いやつだな。
放置推奨
869 :
田単 ◇gm1aR3Q.f2:03/01/22 20:52
ごめんなさい、確かに臭かったかもしれません。
でもさっき久しぶりに銭湯いってきたのでもう大丈夫ですよ。
870 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/23 15:17
>>864 私もよく分かりませんが、そもそもこの時代に通過って
あったんでしょうか?
物々交換とか、貴金属が通過の代わりとかって状況を
想像してましたが…
>>869 バレるのを承知で、トリップ付のコテハンをコピーして
使うとは、お茶目な方ですね。
私は毎日自宅の風呂に入っております(w
>>870 あ・・・レスありがとうございます。
では当時の俸給なんかはどうやって支払っていたんでしょうか?
まさか・・・穀物?絹布?どなたか教えて下さい。
872 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/24 10:20
あ、「通貨」とするつもりが「通過」になってる!
確か、国庫が充ちて、銅銭をつなぐ紐が腐ってしまって…という話が
伝わってるのが、漢の景帝の時代だったと記憶してるんで、それ以前から
貨幣はあった、ってことになりますよね。統一秦になってからはじめて
貨幣が現れたということもないでしょうから、戦国期にはすでにあった
のでしょうね
すいません、知識がないもんで。
ここはやっぱり、前スレ142氏はじめ、博識な方々のご来臨をお待ち
するしかないですな。
873 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/28 08:16
最近、えらく下がりますなぁ。
とりあえず、ageときます。
>>864 通貨についてはこの時代(戦国)、各国で異なっていました。(刀の形とか、丸いのとか、
短冊みたいのとか、貝殻みたいのとか)
たぶん、この時代を扱った概説書でも立ち読みすれば、書いてあると思います。
特に商業が発達すると通貨が必要になってくるため、通貨の発生は必然なんでしょう。
でも、それが一般庶民にまで広く使われたかどうかは個人的には疑問です。たぶん、
農村部などでは物々交換なんじゃないでしょうか。
各国間のレートについてですが、詳しくはわかりませんが、前に読んだ本に
銭は形は同じでも大きさが違い、どうやら銭の重さによって価値が決められていたというような
内容の文を読んだことがあるので、もしかしたら、各国間でも銭の重さで一定のレート
みたいなものが在ったのではと推測してみたりする。
通貨発行権についても知らないのですが、漢の初期には富裕の民間人が通貨を発行していたようなので
あるが、春秋戦国時代にそこまでの力のある民間人がいて、国家が許していたとは思えないのだが・・・
推測ばっかりで、すみません。きっと誰かが資料に基づいて教えてくれるでしょう。たぶん。
>>863 どうも、お久しぶりです。
875 :
世界@名無史さん:03/01/28 16:09
戦国時代に白圭というカリスマがいたが
貨幣は作ってたんだろか
とりあえず初めて通貨を作ったのは、
商(殷)の最後の王受(紂)がはじめたとされてますな
色々ありがとうございます…>>諸氏
銀や金などそれ自体に価値のある物でなく、国家が補償している通貨
みたいなもんですね・・・今の貨幣経済と似てる所も有るみたい。
でも、国から国へ渡り歩く行商人は大変だったんでしょうねぇ。
>878
その辺の三国志スレ行けば?
ちなみに人口の激減は「国家が把握している人口の激減」でもあるので、
数字をそのまま受け取るのは危険という話。
よく「俸禄 一万戸」て言う表現がありますが、これって
読んで字の如く家(戸)なんでしょォか?
質問ついでにage…って逆だ……
朝日選書「貨幣の中国古代史」山田勝芳著を読むべし。
当時は布や穀物も貨幣代わりに使われていたらしい。
>>874の補足
ちょっと調べてみました。戦国時代の魏の通貨発行について、どうやら、都市ごとに
通貨を発行していたようです。ちなみに、原料は銅。
銀についても貨幣としてあったようですが、形でなく、完全に重さでその価値の基準
が定められていたようです。
漢初における民間人による通貨の発行はどうやら、例外であったらしくやはり基本的には
国家が通貨発行権を握っていたようです。
以上は基本的に都市部の商業が発達されている地域のことで、農村部ではどうだったのやら・・・
883 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/01/31 17:53
>>882 姜子、有り難うございます。
しかし、やはり農村部は物々交換、という感じがしますね。
>>880 家の戸数だと思います。その土地からの統治権、税の徴収権をもらうのでしょう。
しかし、厳密に一万とかいう訳でなく、それくらいの戸数のある土地ぐらいのもので
はないかと推測します。当時はまだ、完全に戸数の把握ができているかあやしいです
から。それに、封地に関しても一定の集落の単位で行われるでしょうから。
テストも終了したので、久しぶりに史記(世家)を眺めていたら、衛の末路が憐れでした。
衛は春秋黎明期には武公という詩経に残るくらいの英主をだして、爵位も公になり、その後も
地味ながら名臣を出し、恙無く存続してきたのに、戦国に入ると叩かれ、領地も減りその末期には
衛「君」にまで落ちぶれてしまいました。でも、一応、衛は秦の二世皇帝の時期まで祭祀を
残せたのは最長なのではないだろうか。長く国が存続するのはよいのだが、恥をさらして存続するのも
どうだろうか。
魯世家では煬の諡号を持つ君主がいた。周初期の人物だが、どんな暗君だったのだろう。これまで、中国の
歴代の君主で隋煬帝しかこの悪諡をもつ君主は知らなかったが他にもいるのだろうか。
>804
衛の滅亡もやはり秦の統一の年(前221)だろうという説をご存知ですか?
平勢氏の説によると、衛は戦国期を通して
踰年称元法(即位の年を元年とする)であったのに、
漢代に立年称元法(即位の翌年を元年とする)と誤解されたために、
滅亡の年が秦の統一後にずれ込んでしまったとの事です。
この他にも特に戦国時代の年代を片っ端から覆す意欲的な研究なんですが、
最近の本に両論併記の本が多い辺り、かなり人気の学説のようです。
× >804
○ >884
平勢氏の本は漏れも大好きだけど古文漢文板では結構叩かれてたね。
難しい議論でついていけなかったけど。
>>884 煬の諡号といえば、宋にもいますね。
魯の煬よりも、少し後の(懿王?)時代のようですが。
>>885 ほう、そうなんですか。それじゃあ、10年も差が出るんですねぇ。でも、戦国策を
見ると、安陵君は確か魏が滅亡後も存続していたので、「○○君」というのは秦統一後も
もしかしたら細々と集権が完全に整うまでは残っていると思ってました。
戦国に関しては私は史記しか、年代を示しているのを持っていないのでだめですな。
平勢氏ですか。暇な時、探して読んでみます。
>>888 諡号と人格がいつも合致するとは限らないですけど、きっと、よほどの暗君だったんでしょうねぇ。
たしか、魯の方はその次の君主が「霊」か「幽」どちらかの諡号を持つ人だったので、そいつに諡号を
つけらたのだから、もしかしたら、そんなに暗君じゃないのかもしれませんが・・・(魯煬公は史記では一行く
らいだったのでどんな人物かよくわからない)
諡号ネタついでに、宋王偃の諡号は、たしか「康」だと記憶しているんですが誰がつけたのでしょうね。
890 :
西洋の騎士:03/02/01 19:16
劉邦はけしからん。こんな卑怯な人間は絶対に許さん。まあ、やられた項羽もそれなりの理由があったけどね。
>887
そのスレを教えていただけませんか?
どうにも論の癖が強いからそういう事もあるとは思ってましたが。
>889
史記以外に戦国時代通してのまともに年代を書いてる史書なんてないのですが、
その史記自体にかなりの年代矛盾があるので、どう修正すべきかで議論があるのです。
892 :
世界@名無史さん:03/02/01 22:27
異民族の国だという秦・楚・斉・燕について何か教えてくれ。
異民族的なところにスポットをあてて。
あと、殷、周もできればよろしく。
893 :
世界@名無史さん:03/02/01 22:33
燕は、周と同姓の国ですから、、、
894 :
世界@名無史さん:03/02/01 22:35
しかし、蛮族扱いされてたともいう。
>>891 古文漢文板は2chで最もさびれた板なので、びっくりするほどログ流れが遅い。
今から自分で探してもすぐ見つかると思うよ。
>>893,
>>894 史記は「燕は周と同姓(姫)」としてるがこれは司馬遷のまちがいであり
実は周と異姓だったことが考古学的に判明している。
なんという姓だったかというとよくわからないのだが、推理の手がかりはある。
北燕と別に中原に南燕という小国がありこれは系統不明だが
周と異姓で[女吉](女ヘンに吉)という姓。
なので、両者が近縁だろうとみて燕は[女吉]姓とする説が有力。
897 :
世界@名無史さん:03/02/02 00:22
ナルホド。どういう民族なんだろ。狩猟民かなんかかな?
>>884 確か十八史略の記述では陳の後主陳叔宝はわざわざ煬と
付記されてた様に思います。
899 :
世界@名無史さん:03/02/02 00:51
900 :
まりのりる:03/02/02 01:42
らりにりなににになに
901 :
世界@名無史さん:03/02/02 02:14
>>897 いや、狩猟民とかじゃなくて、
殷の時代すでにかなりの勢力だった「召」という一族だったらしい。
それが周についた。形の上では臣従だが、かなり対等に近い同盟だったような。
>>901 周の建国の功臣で周公旦と並んで名前が挙がる召公セキが祖ですよね
功績で言うなら蘇フン生とかもいる筈なのに周公旦と同列で並べられるのはこの人だけ
やはり同盟者でかつ大族を率いていたというのが理由に思えますね
>895 >899
ありがとうございます。
早速行って来て「春秋平勢伝」に爆笑してました(w
さて、次スレも近いと言う事でお願いなのですが、
守備範囲に「上古〜西周」も含めて頂けませんか?
このスレでも何度も話題に出ていますし、
かといって別スレ建てるほど住人もいないと思われるので。
904 :
世界@名無史さん:03/02/02 22:13
周が西周と東周に分裂して対立していたときのことを知りたい。
秦の発展にも関係あるし。
>>904 それって前8世紀の事件の方? それとも前5〜前3世紀の方?
どっちも「西周と東周に分裂して対立していた」し「秦の発展にも関係ある」んだけど。
906 :
世界@名無史さん:03/02/03 00:59
三戦板の類似スレとの使い分けがわからん・・・・(悩
>>903=891
ねっ!あれ面白かったでしょ(笑
>>892 >異民族の国だという秦・楚・斉・燕について何か教えてくれ。
>異民族的なところにスポットをあてて。あと、殷、周もできればよろしく。
もっと具体的にきいてくれれば何か書くよ。
「何か」だけじゃ何からいっていいのかわからない。
>907
三皇五帝や夏についてそう話題がある訳もなく、
どっちもほとんど人がいないので引き取って頂きたいです。
>892
ならば、秦に関して。
日頃、西戎扱いされている秦だが、実は甲骨文字にも秦の名が見え、
しかも王室に婦を出すほどの親近の族であった事が知られる。
また金文や考古学の研究から、周が商に与した氏族を
関中各地に移動させていたらしい事も分かっている。
となると、秦もやはり周に屈服して西方の僻地に飛ばされた商の貴族、
といった史書に即した理解もまんざらでもなくなるのである。
912 :
世界@名無史さん:03/02/03 03:27
引き取れって、あなたがスレの立て主だったの?
913 :
世界@名無史さん:03/02/03 12:14
>>911 立て主なら自分で責任をもって削除依頼だせばいいじゃない。
そうじゃないんなら「引き取れ」って意味がわからん。
既存のスレは有効利用しようってのが正論でしょう。
現に漏れはあのスレは両方とも見てるよ。
「ほとんど人がいない」って決めつけんなよ。楽しんでるのもいるんだからさ。
914 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/03 12:23
次スレの話題になっていますね。
個人的には、あんまり範囲を広げると、話が散漫になってしまいそうな
気がしますので、やはりスレ主(白起氏=海外赴任中)がこだわって
おられるように、「春秋戦国」路線は踏襲したいと思うのですが、いかが
でしょうか?
テーマとしては、前スレでは主に武将にテーマを当て、本スレでは、
春秋戦国を全般的に見てきた感じがしますので、次のスレでは、
・例えば文官に光を当て、「春秋戦国の名臣・悪臣について」とか
・各国の興亡を取り上げて、「春秋戦国の各国の興亡を語る」なんていうのは
どうでしょうか?
>914
特に異論はないけど結局広範なテーマで語ることになる予感。
>>891 竹書記年はどうなんでしょう?(私は読んだことないのですが)確か年代が書いてある
というらしいのですが・・・それに新しく出てきた、戦国縦横家書(だったと思う)では
蘇秦の活躍した時代が史記に記述されている年代よりも遅いということを読んだことがあ
るのですが、これには年代は書かれていないのでしょうか。
>>904、905
個人的には8世紀のほうが興味あります。携王(虢公翰)と平王(申侯)の争いでしたよね。
確か、先に即位したのは携王の方だったと思います。でも血筋からいうと平王のほうが正しい。
一応、外敵(犬戎)は衛武公が平らげて、秦襄公が成周に周王室を移動させた。それでまぁ、秦
が諸侯になった。その後、鄭武公が平王のもとへ行く。そして、紀元前759に携王は平王につぶされる。
と、全体の流れはこんなものでしょうか。
それにしても虢(カク)は実力はあるくせに、いつも貧乏籤ばかりを引かされている
ような気がする。そもそも、平王のほうは衛、秦、鄭など当時の有力な諸侯がいたが
携王の方はどのくらいの実力があり、対抗しうる王朝だったのか疑問。
>>914 あまり、型にはめずに春秋戦国時代を基本として自由にいきませんか。
>912-913
スレ主ではないですが、合流するならdat落ちする前にと思って今お願いしています。
そもそも、私や>913さんのように住民がある程度共通で進行も遅いのに、
複数のスレを維持する事こそ資源の無駄遣いでしょう?
(世界史板はスレ数制限の緩いから構わないだろと言われればそれまでですが)
>914
このスレで何度か殷や西周の話題を振ってきましたが止めろと言う事でしょうか?
>916
戦国策の原本ではないかと言われている本の事ですね。
内容は知りませんがやはり編年記ではなく説話集なのでは?
新出の書物の内容は気になるのだけど、
やっぱ一般人向けの解説書が出るのはずっと先なんだろうなぁ…
920 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/03 17:03
>>918 >このスレで何度か殷や西周の話題を振ってきましたが止めろと言う事でしょうか?
いや、そこまでは申しません。
基本ラインは「春秋戦国」で行っては?という程度とお考え下さい。
ただ、基本的な話題を決めておいた方が、レス内容が散漫にならなくて良いと
考えているだけです。
>そもそも、私や>913さんのように住民がある程度共通で進行も遅いのに、
>複数のスレを維持する事こそ資源の無駄遣いでしょう?
ほんとに人がいないのなら勝手にdat落ちするんだから、ほっといてちょうだい!
>>919 竹書紀年は今本と古本があって、新本はクソだそうだ。
昔、台湾発行のやつ見つけて興奮しながら読んだけど、今本だったみたい(泣
編年体でつ。魏の君主の年代が基準なってまつ。
922 :
世界@名無史さん:03/02/03 23:07
>>911
しかし、周も西戎だからでは?それとも、小数派の
秦が西戎に飲み込まれていったのか?
923 :
世界@名無史さん:03/02/04 02:27
伝承では、秦氏と趙氏はともに贏姓からの分かれだが、この3字は上古音(漢代)で似ており、
春秋戦国や殷周までさかのぼったら同一発音の同一氏族である可能性が高い。
つまり周以降の西戎訛りが秦で、殷代には秦も趙も贏も同じものではないか。
しかも名目上、秦氏(庶流)が趙氏(嫡流)からわかれたのは殷の紂王の頃であり、
実質的に「秦」として趙氏から独立したのは前9世紀。その間は趙の家臣にすぎなかった。
だから甲骨文字に秦とあっても、そのさした実体は「趙」であった可能性の方が高いと思われ。
周も秦も、君主の家系をたとれば中原の諸侯だったというだけで、長らく異民族の地にいて
言語や生活文化は異民族に同化されていたんでしょう。
ただし秦は罵倒される時に「秦戎」とでもいえばいいのに実際は「秦狄」といわれるのは不自然。
周辺の異民族とは系統がちがっていたとすれば、本当の意味で異民族出身だった可能性が高いと思われ。
秦本紀の冒頭の伝承は秦ではなく趙の始祖伝承なのも少し違和感が否めない。
もともと趙氏に仕えていた異民族の首長で、主君(趙)の氏族名を冒いだのではないだろうか?
>921
いえ、私が言っているのは戦国縦横家書の事です。
それにしても、古本竹書紀年の原本が失われたというのがいかにも惜しい。
残っていたら戦国初期の状況がずいぶん明らかだったろうに…
>923
秦氏と趙氏の分派が商末周初というのは知っていますが、
秦氏が長く趙氏に臣従していたというのは初耳です。
もう少し詳しくお聞かせ願えるでしょうか?
ちなみに、他の贏姓諸国(徐・黄・江・筥…)の分布は東方に偏っています。
秦も趙も夏を倒した商に従い西進してきた東方の氏族の末裔だったのではとみています。
925 :
世界@名無史さん:03/02/04 23:21
つまり、京都育ちの頼朝たちを担いだ鎌倉武士のようなものか。
秦の西戎達は。
926 :
世界@名無史さん:03/02/05 21:00
戦国各国の民族の違いについて語ろう。
言語・服装・伝承などいろいろ。
>>924 >秦氏と趙氏の分派が商末周初というのは知っていますが、秦氏が長く趙氏に臣従していたというのは初耳です。
史記秦本紀によると趙氏から枝分かれした秦氏の系譜を述べた後「以造父之寵皆蒙趙城姓趙氏」とあります。
趙城というのは本家(趙氏)の封地。そしてこれは秦の祖先がいわゆる秦の地(犬丘。秦国の発祥地)に
まだ入植していない段階です。これは臣従していたと解釈するしかないのでは。
>>925 秦は923でいったように、戎ではなく狄。しかも初期の頃は一貫して戎とは敵対関係。
928 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/07 15:06
>>926 おっ、新スレのテーマ候補の一つですね。
929 :
世界@名無史さん:03/02/07 19:48
おい、もちつけよ
>戦国各国の民族の違いについて語ろう。言語・服装・伝承などいろいろ。
↑
これはもし新スレのテーマ候補なら
「戦国各国の民族の違いについて“も”語ろう。言語・服装・伝承など“も”いろいろ」
だろ
通常の政治史のぞいたらスレが成り立たんと思うが?
はっきし言って、「言語・服装・伝承」なんてあんまし興味も知識も無い。
少なくともネタを振れるレベルですらない。
↑みたいなこと言っている人って専門化さんですか?
>927
昨日、本紀のためだけに平凡社の史記を買ってきました。
なるほどそう書いてありますね。やはり秦の話は史記に限るか。
>930
民族の違いをまともに取り上げてる書物なんて残ってないので、
断片的な情報集めたり、少し後の時代の書物を参照したりすんでしょうが、
素人のテーマとしてはちとつらいですよ。
それとも、>926さんがいいネタを提供してくださるんだろうか?
>>931 言語、服装に関しては学術書・研究書があると思うのですが、あまりにも専門的過ぎて
たぶん、私みたいな素人ではきっと手に入れられないし、見つけて読んでも、わからないのでしょうね。
伝承に関しては、中国の伝説や神話に関する本なら比較的手に入れやすく、文庫になっているのもある。
それよりも、次は「名君」について多くの人の考えが聞いてみたい。
最近、宮城谷本の「春秋の名君」を立ち読みしてて、思ったのは五覇の時代を過ぎたら、もう呉越の名君に
ついてかかれていた。個人的には晋悼公や楚昭王なども好きで春秋中期の名君や、衛武公・晋文侯などの
春秋黎明期の英主もいる。皆さんのこれらのひとへの評価を聞いてみたい。また、戦国期の名君も多くネタ的には
面白いのではと思う。
強国、大国、メジャーな人物の話は飽きた。マイナーな弱小国きぼんぬ
>930 でちょっときつい書き方をしてしまったので、フォローしますが、
専門っぽくなる「言語・服装・伝承」をスレタイトルにするのはどうか?
ってことで、>926さんが語っていただけるならありがたく拝聴させて
頂きます。
>933 例えば?
杞
>933
春秋左氏伝を読み返していてちょっと目に付いた話。定公15年。
呉が楚を攻略した時、胡は楚の領土を奪った。
楚が立ち直ってからも楚に仕えず、胡子はこう言っていた。
「立つも滅びるも天命だ。楚の機嫌を取って何になろう?ただ費用がかかるだけだ。」
しかし、やはり楚に滅ぼされた。
…どうしようのない投げやりな態度が悲しいところ。
烏餘マンセー!
938 :
世界@名無史さん:03/02/09 01:32
壮子だか列子だかにも楚王と凡の君との会話があったあけど
>>936の話が元ネタなのかな。
こっちの方は投げやりどころかもっと逝っちゃってるけど。瞑想の世界(?)に。
939 :
世界@名無史さん:03/02/09 10:58
何と言っても信陵君はいい
白川静氏の著書に、宋の景公が干魃のとき自らの身を焼いて
雨乞いをしようとしたという話が『荘子』の佚文にある、
とありますが、出典をご存じの方いらっしゃいますか?
>>940 出典はよく知りませんが、有名な話だと思います。
自分の知る限りでは、『史記』の「宋世家」や『晏子春秋』のほか、『搜神記』にもあり、
『淮南子』や『三国志』の『正史』にも、数箇所にあったと思いますよ。
いい加減な答えですみませんが…。
『史記』の「宋微子世家」には書いてないんですよお。『晏子春秋』と
『搜神記』ですか。ありがとうございます。捜してみます。
あと景公については、「宋微子世家」と『左伝』で卒年が大きく食い違って
ますよね。で「宋微子世家」には景公のとき「火星とアンタレスが重なった」
という記述がありますけど、これから天文学的に年代の推定ってできないん
でしょうか?
943 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/10 17:47
残りレスの数を考慮しますと、そろそろ次スレのテーマを
決定したいと思いますが、いかがでしょう?
現在の案としては、
・私の提示しました
「春秋戦国の名臣・悪臣について」
「春秋戦国の各国の興亡を語る」
・姜子の提示されました
「春秋戦国の名君」
・
>>907で提示された
「殷〜西周〜春秋〜戦国 総合スレ」
といったところですが、他に案はございませんでしょうか?
別案があればご提示いただきたいですし、なければ上記案について
ご意見を賜りたいと思います。
>>943
若輩者ながら客観的意見を言わせていただきますと
「春秋戦国の名臣・悪臣について」がよろしいかと。
殆ど史記に頼るでしょうが・・・
一応一番語りやすいと思います。
じゃぁ、おいらも若輩ながら
「総合スレ」名臣・悪心について「春秋戦国」
なんてどうでしょう。
「」は、見易い他の文字に置き換え可。
名臣・悪臣または各国の興亡しか語っちゃいけないみたいに見えるので反対。
政治、経済、文化、社会、外交、他文化交渉などネタは豊富そうな時代なのに
世界史板らしくない。
「人物論」中心にするなら三戦板とか文学板とか古文漢文板とかの方がふさわしいように思うが。
947 :
世界@名無史さん:03/02/11 04:48
つーか普通に「春秋戦国2」じゃダメなのか?
簡潔の美。簡素を重んじろよ(←意味はないが(w)
>946
>世界史板らしくない。
>「人物論」中心にするなら三戦板とか文学板とか古文漢文板とかの方がふさわしいように思うが。
禿同
いつまでも人物萌話メインでは困る。
人物萌え話がスレの中で結果的にメインになってもそれは別にかまわない。
が、あらかじめスレタイで人物論メインのような唄い方するのは明らかに望ましいとは思えない。
民国期の軍閥スレみたいになってほしい
あそこは読みごたえがある
(歴史的)意義、制度や各勢力ごとに対する考察、研究書の紹介とか
勲章コレクターもいるし
そこまでレベルの高い人が何人もいるとは思えない。
954 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/12 17:24
本スレの元々のスレは、白起氏が三戦板で立てられた「春秋戦国の名将は
誰か?」(タイトルはあやふやです)だったと思います。
それが、よりアカデミックなレスを求めて、こちらへ引っ越してこられた
ように記憶しております。
前スレは
>>953にあるとおりですが、前スレ終りに新スレの話になった時
白起氏は「より総合的な…」という風なレスをしておられたような記憶が
あります。そう考えると、私が提示したようなテーマでは、いささか限定
し過ぎの感があることは否めません。
そこで、新スレは素直に「春秋戦国検討委員会2」で参りたいと存じます
が、いかがでしょうか?
その中で、時には名君・暴君や名臣・悪臣について語り、時には各国の
興亡・民族・風俗等について語る、そして商〜西周時代のことについても
レスを拒まない、という風にしたいのですが、総花的過ぎるでしょうか?
そのあたりについて、 皆さんのご意見を承りたいと存じます。
なお、私は進行係を引き受けた際にも申し上げましたとおり、スレ立ては
できませんので、新スレが決まりましたらどなたかご協力下さいますよう
再度お願い申し上げます。
955 :
イプスィロン:03/02/12 17:41
戦いの名前は忘れたけど楽毅の率いる5ヶ国連合軍団と斉軍の戦争は
おそらく最初にして最後の最強の名将が5人が共同して戦った戦争でしょう。
結果は斉軍の城がほぼ同時にして各軍に落ちたという戦いです。
956 :
世界@名無史さん:03/02/12 18:00
楽毅と白起が協力してるっていうだけでものすごい。
957 :
世界@名無史さん:03/02/13 01:11
もともと人が少ないんだから「総花的でなんでも拒まない」ってことにしないと
スレが過疎化してしまう。
つーか950過ぎてんだから950踏んだ椰子はスレ立てろよ
取り敢えず、次のスレは田単さんに立ててもらうようお願いします。
新しいスレもちゃんと仕切って、投げ出さない精神で。
と言うお願い。
>>957 俺もそう思う。
人物を中心に話をしていても、
政治・経済・文化・社会・民俗の話題も関連して出てくる。
総合スレとして立てて、
その中でいくつかのテーマを取り上げながら
ウダウダやった方が面白い。
>>955 済水付近での戦いの事だと思われますが、その戦いには、白起は参戦していない
ように思われます。
史料にみえる秦将は斯離となってますね。
ただ『資治通鑑』では、どうかはわかりませんが…。
961 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/13 17:54
申し訳ありませんが、以前にもレス致しましたとおり、私はスレ立てが
できませんので、どなたかお願いできませんでしょうか?
次スレ1の文案のみ、用意させていただきましたが、いかがでしょうか?
次スレ2は
>>953で用意して下さっています。
前スレに引き続き、春秋戦国時代についてどんなテーマでも良いので、
皆さんの知識や思いをぶちまけて下さい。
また、時代については、商〜西周時代についてもOKとします。
なお、本スレのスレ主は白起氏ですが、現在海外赴任中のため、氏の
委嘱を受けて田単が進行係を努めております。
過去ログ及び関連スレは
>>2をご参考に。
それではどうぞ!
963 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/14 11:14
皆さん、新スレを立てて下さいましたので、そちらへ移行して下さい。
前スレもそうでしたが、このスレもレベルの高い良スレ状態で終了することが
でき、参加者の1人として非常に嬉しい限りです。
特に私なんぞは、中国の古典が他の人よりちょっと好き、という程度のレベル
なので、進行係という役割を担うには、本当は役不足なんですが、それでも
皆さん罵詈雑言を浴びせることなくフォローして下さり、誠に有難いことだと
感謝しております。
スレ主の白起さんが戻っていらっしゃるまで、進行係を続けさせて頂きますが、
今後ともよろしくお願い致します。
少々残っておりますので、雑談致しましょうか?
春秋戦国の「戦国」って言葉の由来は、「戦国策」でよろしいのでしょうかねぇ。
964 :
世界@名無史さん:03/02/14 11:39
戦国時代って言うけど、当時の人たちは生きていた時代をなんて呼んでいたの
でしょうかね?
>>964 ふむー、恐らく国ごとに「○王の○年」だと思うんだけど。
古代とか中世とか近代とかは
歴史学の中から生まれた定義だろうから、
実際に古代に生きてた人が「今はまだ古代だから〜」
とは言わなかったかと。
推論ばかりですんません。
966 :
田単 ◆gm1aR3Q.f2 :03/02/14 15:44
>>965 例えば、国の周辺部に住んでいる人って、自分がどこの国の所属か
なんて発想そのものがあったんでしょうかねぇ。
もしなければ、「○王の○年」という発想もないでしょうね。
もっとも、士大夫以上の階層なら、話は別でしょうが…
例えば大梁に住んでるって人なら「○公の○○年」てのもありかな?
周辺部となると・・・蓁の版図になるのが嫌で趙に併合してもらった
とかなんとかってあったよね…何処の国の勢力下ぐらいの意識は
持っていたんでは?
968 :
世界@名無史さん:03/02/14 17:08
戦国の諸国は国境に長城を築いていましたよね。
そうすると、人民はある程度は○○王の領域だという認識はあったと思いますがね。
それに税金の取り立ての収税吏も来るだろうし。
969 :
世界@名無史さん:03/02/14 17:20
税の徴収された見返りが殆ど無いですな、、、気の毒に。
今の日本も・・・三割負担だって?宮仕えには辛い…おちおち風邪もひけん。
秦末漢初に戦国各国が相次いで復活したところを見ると、
戦国各国は民族意識は結構強かったと思われます。
「三戸といえども秦を滅ぼすものは必ず楚なり」
「民の斉言するもの皆斉に属せしめ」
といったような話が出てくるくらいですから。(少し後の時代ですが)
方言区分もほとんど国別だしね
共通で使用していたのは話し言葉ではなく
文字だけだったのだろうか?
文字も、同じ字なのにそこまで違うかというぐらい違う。
行商人がどんな字を使ってたのか知りたいものだが。
975 :
世界@名無史さん:03/02/17 03:39
文字は秦だけが隷書をつくったので四角っぽい書体だったけど
あとの六国はみな同じような丸っこい書体。
高校の書道で隷書の練習をした。
元々、宦官や奴隷身分になってしまった官吏が
公式書類を作る時に使っていた文字らしいけど、
俺はヘタだった。
俺は奴隷以下ということで。
遅レスだけど。
今うってる「東アジアの王権」っていう考古学の本かってみたら
秦の場合、始祖の「非子」以前はほとんど架空の話に近く具体的な史実をくみとるのは
困難なようでした。(読み終わるのに時間がかかってしまった)
978 :
世界@名無史さん:03/02/19 01:44
韓人と魏人って民族性のちがいってあんのかな?
楚や秦や趙や斉の連中からみると「お前らどこちがうのかわらかん」
でもバルカン半島みたいに似たようなのが入り組んでる方が仲悪いんだろうな。
隣国同士で似た民族ほど仲が悪いともいうし。
民族ってのは特徴がもう明らかにどうにもならないくらい違いすぎた方が仲良くなりやすい。
韓が滅亡した時、上党郡の市民が「秦の領地になるぐらいなら趙に併合されたい」
といって趙に救援をよんだことがあったね。
魏にたのまないで趙にたのむところがなんとも。
>>979 あの当時の魏は秦に入貢していたので秦の領地と同じ事
(引き渡せと言われたら断れない)
一方の趙は伊ケツでの勝利の事もあり、斉の没落以降唯一
単独で秦に対抗出来ると思われていたし、実際苦戦しながらも
なんとか対抗していた
長平の敗戦で全部台無しになったけど
>>980 あ、そうだったね。さんクスコ
中国分裂したまま河南省〜山西省のあたりに韓民族とか魏民族とかいたら面白かったろうな。
魯民族とか衛民族はロシアにあしらわれるウクライナみたいに
いくら自己主張しても斉民族から「ハァ?お前等は斉人の一種だろ」と侮辱されたりしそう。
むしろ三晋は悲願の統一とかいってそうw
楚民族は他から「いや、お前中華じゃないし」ってのけ者にされると。
983 :
世界@名無史さん:03/02/20 03:32
それをいうなら楚民族が呉民族に「お前中華じゃないし」といってる後で
晋民族から「お前モナー」とつっこまれて。
呉民族は晋民族に「晋は弟分。漏れ兄貴だし」といばったり。あ、こりゃちがうか(w
984 :
世界@名無史さん:03/02/20 03:40
>>982 悲願の統一とかいって揉めてんのは韓人と魏人だけなんだけど
韓は君主が晋公室の子孫だから、魏は旧晋領の中心を占めてたから。
で、お互いに仲わるいわりに韓・魏というのをやめて「晋民族」といいましょう!
とか国民運動やってんの。それを趙民族が冷ややかにみてると。
秦民族が趙と秦は同一祖先とか宣伝してるけど趙人は相手にせず。
秦国首相が長平の戦い2200周年追悼行事に出席して握手を求めるも
趙の首相は無視。マスコミの喝采を浴びて翌年も見事当選。
なんだか急に面白くなってきたな。
燕民族はこの世界でもやはり無視なんだろうか(w