1 :
人間七七四年:
ゲーム板や大河板を悩まし、
武田厨を装って成りすます工作コピペ大量爆撃のアホを報告してくれ。
2 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 14:59:20.37 ID:Obs9ybc0
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
3 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:00:01.44 ID:Obs9ybc0
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は
>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
4 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:11:04.24 ID:Obs9ybc0
>>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
5 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:11:38.19 ID:Obs9ybc0
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記[参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記[参考]柏崎物語
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集
萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
6 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:12:05.03 ID:Obs9ybc0
お前の嘘続き
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
7 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:13:36.02 ID:Obs9ybc0
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
8 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:14:31.72 ID:Obs9ybc0
ID:hLk578s2はいろんな所で嘘を書き連ねまくってる馬鹿
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
9 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:16:11.84 ID:Obs9ybc0
>おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ…
検討の余地ありは=偽書状ってことではない。本物でない可能性ありってだけだろ
>> あれ秀吉が自軍兵力を2万か3万でとか書いてて好い加減だろ。
本当にそれだけいるかどうかはともかく一次資料でいいなら上記のようにちゃんと大軍動員してる例はあるわけで。
>>そんなに兵力あるなら清水宗治を見捨てて和睦に応じないだろ。
有利な状況や大軍があっても味方を見捨てたりチャンスをむざむざ無駄にするのが毛利。
中国口の播磨但馬の攻防のときとか関が原の時とか本能寺の時とか見てれば毛利が天が与えた幸運や超有利な状況でも何もせず負ける馬鹿なのは
史実みてればわかる
>いやいやあんな戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で(信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか
>書いてたり)さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし
そんな妄想いわれてもな
偽書状と判明とか書いてるならともかく検討の余地ありだけでは偽ってことにはできずむしろ
今のところ本物だが偽かもしれないってだけだろ。そもそも大軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる
>>家わけ日記に出てる文書以外の毛利の史料は一次資料扱いされておらず偽文書
萩藩閥越録や毛利家日記を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
上月城下合戦のソースとしてあげられた文書は山口県史資料編と島根県史資料編からの抜粋で全て花押がついてる。
山口県史資料編中世三巻凡例
2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
ソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのは馬鹿のお前だけ
10 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:20:40.51 ID:Obs9ybc0
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
11 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 15:21:55.32 ID:Obs9ybc0
>そもそも当時の城外駐屯技術面・病気などの衛生対策・排便処理能力ではそんな馬鹿な大兵力は非現実的であり、ただの妄想だwwww
根拠なし。朝鮮というはるか彼方にすら30万以上の兵力をかなりの長期に渡って派兵し続けたし関が原の戦いでは畿内方面だけで西軍は18万もいたんだし(三成人数書立・慶長見聞集)
北条領国200万石に対し豊臣方は日本全土味方なんだしそれくらい余裕で可能
>>どんな本を見てもせいぜい20万前後だ(前田・上杉の北陸軍も含めて)
お前は馬鹿だな。豊臣方作成の陣立書で215000を動員してるのが確認できるしこれに佐竹結城宇都宮那須里見など関東の反北条勢2万+奥州の諸侯で最低でも25万は超える
享禄以来年代記によると29万動員してるとあるし那須記や榊原康政書状だと50万騎。しかも兵糧を20万石以上用意しながらわずか3ヶ月程度でなくなりかけてたんなら普通に単純計算で12ヶ月÷3=4
四×20万で80万くらいいた事になるなw
>>北条兵力もいつのまにか34500に変更しとんのかwww
はぁ?いつの間にかも糞も最初からそう言ってるだろ。天正壬午の時の若御子の対陣の兵力が2万だった事や(家康書状)北条は村落の欠落が目立ってた事。関東は実は貧困だった事や
北条家人数覚書・関東八州諸城人数覚書からその数字が妥当
>農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
農民町人なんていても作業普請くらいしか戦力にならないししかも北条領国では防衛体制構築のため天正14年か15年頃からその動員がなされており
この頃になるとかなり領国が疲弊して村落の欠落が目立って来ている
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>はいはい秀吉が派遣した兵が篭城してる城を攻めてすぐ落とせず、周囲に砦を築いて兵糧攻め→秀吉の大敗になる気持ち悪い脳w
秀吉本隊も駿河伊豆国境地帯の戦闘である程度打撃を受けたみたいで北条方から何枚も感状が出てる
しかも山中城忍城韮山城小田原城など豊臣方兵力と比べたらハナクソみたいな兵力しか篭もってないのに
そんな所を瞬殺できないどころか城攻めで重臣を戦死させたり大量の時間と費用費やす水攻め兵糧攻めなどに頼りまくりなんだから
いかに秀吉の指揮采配能力が糞かわかるな
>>さらに攻城戦で討ち死にが出ると秀吉の無能の証拠に変換
当たり前だろアホw30万も兵力いてわずか1000だの500だのの雑魚城で討死とか情けないにも程がある
その証拠に小田原本城1000にも手も足も出てないしな
12 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:33:32.89 ID:Obs9ybc0
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとかアホ。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦やってる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。
13 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:36:36.62 ID:Obs9ybc0
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
などと一貫あいて信雄家康への討伐を意思表明してる
14 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:39:39.56 ID:Obs9ybc0
>秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねー
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になる
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ? 北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
。 >2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め)
>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状があるな
>6月には北条降伏を待たずに早くも翌月の奥羽征討別働軍を派兵する計画を発表してるのにw
後から届けさせるか現地調達のつもりだったんじゃね
15 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:41:29.53 ID:Obs9ybc0
単に織田家を信長や信忠が殺され光秀が逆賊の汚名追ったところを火事場泥棒しただけなのが秀吉
前スレ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1365849357/l50 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
16 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:44:20.51 ID:Obs9ybc0
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
17 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:48:32.95 ID:Obs9ybc0
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
18 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:51:03.94 ID:Obs9ybc0
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情。顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停を
はかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの
家康(徳政連発と譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいある
であろう圧倒的優位な状況でありながら軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、
信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っているまた浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し
兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&
池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で
苦戦・敗戦を繰り返しまくって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
19 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 18:54:47.76 ID:Obs9ybc0
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから
滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
秀吉書状には敵が東美濃へ攻めてきたから自分も10/20に出陣すると書いているが
10/22には敵が退散したから、出陣部隊は美濃ではなく伊勢へ行くと
方針変更を伝えているだけだし。
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記)
20 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:19:45.76 ID:Obs9ybc0
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
上記のように秀吉は蟹江合戦当初滝川が軍事行動起こした蟹江から近い大垣近辺にいたため秀吉の軍事行動と容易に想像がつく
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
そもそも両者には会戦当初から秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字
その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる
また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した
また長久手合戦参加者の家記や家譜、合戦記などでも同じ数字が用いられている
そして陣立書や書状から秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
こんな圧倒的兵力差で負けまくって一年一杯使って信雄ごときの尾張半国すら自力では倒せなかったのが秀吉
21 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:23:32.22 ID:Obs9ybc0
●二重掘合戦
細川家記
3月27日秀吉一に25日、秀吉公犬山に入り、楽田・羽黒辺まて諸大将衆はかり召し連れられ、
仕寄の下知など仰せ付けられ先つ小牧山に対し向城を高く構え、堀を二重に深くほり、柵を堅く結び
井楼を上させられる、是を二重掘の要害といい、この外岩崎山・小松寺山・青塚内窪山等の付城勢を
分ヶ守らせらる…(省略)
秀吉公二重掘に附城三ヶ所仰せ付けられ、忠興君を初大将数多くして守らせられ、
小松山寺を本陣とし、用心厳しくして合戦を持て数日対陣有り、二重掘には細川与一朗・蒲生忠三朗
堀久太郎…(省略)
五月遡日、信雄小牧山より見て一あてせんと有しを、家康公御無用とおおせられ、ぜひにと有りて御立候間、
家康公御家人を召され、尾張勢定立らるへし、もり返す用心せよと仰せられ候、信雄の勢は木村・長谷川等の手に食い付き、
芝手の中まてかけこみ、両手の軍士散々に敗走いたし候、忠興君御手廻討に走出られ、芝手の上に御揚り御下知、…(略)
長久手にて3大将討ち死に、秀次利を失われ、二重掘にても既に味方追崩され、秀吉公御気色悪かりしに、忠興君御手にて敵を
追い返し、勢ひつくのみならず、…
徳川家の軍勢小牧山より打ち出て二重掘の前に一戦せんと備ふ、秀吉公下知には敵馬を入れ来らは成へき程折敷て防くこと、…
二重掘の神子田半左え門一戦にも及ばず敗走す、寄手是を追討…神子田、太閤の御勘気を蒙ると云々…
二重掘の軍勢周章して伍を乱す、信雄兵其の気に乗じて攻撃多く首級を得たり、
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな。秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな。しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や
大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀
(最期の二つは小牧山城から真東)これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を
築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。家康から
見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める。あと秀吉は
中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだがここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる
一柳直末にあてた書状から明らか。単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う。野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならない
のは自明の論理で、あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら戦場の変更とか転進
とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。
22 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:27:20.32 ID:Obs9ybc0
結局何一つ有効な手打てないままだらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず
滝川が作った大チャンスも無駄にし夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てた
だけ。当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなか
っただけ。7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてそれを秀吉のアホ作戦で台無し
にして奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを
小幡方面に向けて置いてればこんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々
とした行軍を無謀にもさせた。奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのにすぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させ
て間に合わずむざむざ家康を逃がした。正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり
軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手に
この醜態ってw
23 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:30:15.28 ID:Obs9ybc0
史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記
[参考]備前軍記 浦上宇喜多両家記陰徳太平記 御答書 總見記 柏崎物語
【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条
【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、
鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
24 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:35:46.19 ID:Obs9ybc0
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
結果でいえば豊臣家は滅ぼされたから秀吉は能力0だろ(死んだ後とかどうとか関係ない。結果は結果)
光秀に殺されて死んだ信長はいうまでもなく能力0だがな
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
25 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:41:29.24 ID:Obs9ybc0
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
26 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:45:26.27 ID:Obs9ybc0
>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
27 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 20:52:55.38 ID:Obs9ybc0
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも
>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
以下が正しい日付年表ね
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
28 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 21:34:20.12 ID:6uZodPFx
捏造歪曲が大好きな高麗棒子織田ちょんが暴れててキモイな
29 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:03:56.33 ID:Obs9ybc0
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候 天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明 あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw
30 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:06:53.20 ID:Obs9ybc0
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
31 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:10:15.91 ID:Obs9ybc0
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
32 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:13:03.77 ID:Obs9ybc0
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
33 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:14:16.78 ID:Obs9ybc0
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>お前さ、二重堀合戦の日付はいつだと主張してんの?
>>細川家記が言う5月朔日に家康の反対を押し切り
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で、
>>羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思っていたところ細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造してるが、
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで
5か月もようしているのは蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期
どうみても秀吉の失態です。
34 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:15:04.15 ID:Obs9ybc0
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。
>>6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
35 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 22:16:38.43 ID:Obs9ybc0
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
お前戸木城の位置わかってる?伊勢でもかなり南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから
強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
36 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:30:32.75 ID:Obs9ybc0
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
37 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:31:22.14 ID:Obs9ybc0
>>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず
恐れてるのは明らかに秀吉の方
家康・信雄は圧倒的に兵力に劣る上、楽田の留守居2万や美濃の後詰部隊放置して
加賀野井・竹鼻にむかったら別働隊に追撃されるなり小牧山襲撃されて退路たたれるなりしてアボーン
>>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
滝川からすれば物資はすぐ近くの秀吉陣からもたらされると思ったんだろう
>>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がヘタレなのではなく秀吉がビビッて放置したから降るしかなくなったのが滝川
7/3まで持ちこたえているがこれも秀吉が見捨てただけからってだけの話だろ
秀吉は三河方面への攻撃を想定していたのに結局この合戦の失敗で延期して信雄戦にきりかえる事になったんだから明らかに秀吉の失態
>>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
これは木造記(軍記物)の造り話。ちなみに秀吉も7月には木造の事に触れてるのに
この時は何も触れていないし中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵こいつらより
貫高で勝る連中も普通に人質出していない。木造記は具政を具康としてるくらいでただの軍記の信憑性だし別名木造軍記ともいうもの
>>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
そりゃ8000そこそこで8万も10万もの秀吉軍とガチンコでやりあうなんて無理
そんな勝って当たり前の状況と兵力差で苦戦しまくって1年無駄にしたのが秀吉
>>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
戸木も小牧山も松ノ木も小牧山周辺の砦郡も似たような状況で落とされなかったのにこれで勝ったような事いわれても
>>11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある。これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
あくまで秀吉が言ってる事なんでおおいに疑問
9月にも信雄が人質を出して懇望してきたけど許さなかったとか書いてるけど
なんで秀吉は11月になったら許すのかって話だし
>>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ビビリ信雄が勝手に和議を結んだから大義名分失って和睦せざるをえなくなっただけ
>>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
秀吉の書状なんて全部自分に都合いいことしかかかれてないし
家康領国が天正大地震と離反の連鎖と徳政連発で困窮してる状態ですら母と妹を人質に出した程のヘタレぶりかましたのが秀吉
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
家康領国は合戦前や合戦当初から徳政連発で十分困窮してるのがわかる
元々貧国ばかりだし上杉や北条の変心に備え大部分の兵力を領国に残してたからな
>>信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
そんな史料にない妄想いわれても
>>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
野戦回避してたのはむしろ家康がいた小牧山避けてしかも小牧山からでられないように
まわり砦で囲いまくって2万も残して一方で自分はこそこそ家康の出てこれない
木曽川筋の諸城圧倒的大軍で攻めるだけだった秀吉の方
>>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
7倍もの兵力比で歯がたつも立たないも糞もない
>>無条件降伏を飲む形で集結
母と妹差し出すのが無条件降伏とかアホですか
38 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:32:51.39 ID:Obs9ybc0
>>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ
>>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
傍観って小牧山周辺をガチガチに砦と2万もの兵力で囲われてるのに
放置して他地域にいけるわけないだろアホ
>>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
加賀野井城陥落は家康にとって地理不案内の上に圧倒的兵力差&小牧山留守居部隊がいたってだけ
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理
>>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
>>完全に戦略的大敗を決定づけたのが加賀の井城→竹鼻城落城の一連の流れ。
竹鼻陥落から5か月もたった後での事持ち出されても。
そもそも戦略的大敗も糞もない圧倒的兵力比&信雄領国寝返りばかりの圧倒的有利な状況なんだから
勝って当たり前。そんな戦闘で長久手二重堀戸木松ノ木蟹江など負けまくって自力では1年かかって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
蟹江合戦当初の6/16はまだ秀吉が大垣あたりにいたと思われる。大垣から蟹江なんて半日もかからんだろ
伊勢の楠本から大阪まで2日程度で移動してるし
>>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
南伊勢楽に切り取れたのは関や神戸・田丸・信包など地元勢力が秀吉の味方についたのと
池田に対応するため家康が尾張に転進したおかげ
>>秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
勝つまで2か月も経ってるな。しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
天正13年家康が領国内問題で離反した対真田の敗戦と同じく前年離反した木曽や
天正13年離反の小笠原への対応などで困窮したおかげで秀吉にとって圧倒的優位な状況
が生まれるがこの状況ですらまだ家中では主戦派が主だったが秀吉派であった石川・水野の離反と
軍事機密露見と天正大地震と天正11年からの徳政連発で困窮した家康は従わざるをえなくなっただけ
しかもそんな今川氏真でもかてそうな圧倒的優位な状況で母と妹人質に出したのが秀吉
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
そら信雄と一緒に和議結んでるのに勝手に盟約違反する馬鹿はいないだろ
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そもそも国力やら状況が糞みたいに秀吉有利なんだから家康優位なわけないだろアホ
石川も徳川方史料だろ天正12年秀吉との対決時でもすでに秀吉に篭絡されつつあったし
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ
>>15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
これは単に陣夫として輸送や調達など非戦闘業務が主と本多氏が定本徳川家康で書いてるな
家康は兵力8000そこそこだからな(当代記・家忠日記その他合戦記や家記・家譜)
残りは信雄の兵力だし
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
7〜8倍もの圧倒的兵力差で兵力が余りまくらないわけないだろアホ
そんな勝って当たり前の兵力で苦戦しまくり尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
39 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:35:11.28 ID:Obs9ybc0
>しかし信雄と家康は秀吉との正面衝突を恐れ城から出ず、6日には籠城衆が脱出を図るところを大量に討たれた。
秀吉は家康や信雄を野戦につり出して大破する目論見があったのに
家康が来ないからまんまと狙いが外れた
木曾川流域まで進出したら兵力で圧倒的に劣る家康は危険すぎただけ
>一両日で水に沈み抗戦不可と悟り、不破らは信雄の許可を得て長島へ退去し一柳が入城した。
当たり前。場所的関係から言って竹鼻救援に行くには加賀の井城を攻略しないといけないのだから
そんな芸当神でもないと無理。逆にこの2城取っても信雄領国で崩壊が起こっていないのが戦局に対して影響がなかった事をあらわしている
>一益はロクに兵も物資も持ってないので、これには家康も動き夜通し鉄砲を打ち込み、
そんな資料ありません
>すぐにヘタレ一益の蟹江城は矢玉の準備もロクになく戦意喪失し降伏。
滝川がへたれなのではなく清洲と長島を分断する大チャンスで秀吉がなぜか放置するような雑魚だから降っただけ
>9月に和議が持ち上がり、蒲生氏郷に秀吉は南伊勢五郡の知行を与えている。
このときの和議は信雄書状や家忠日記に書かれるように秀吉が申し出て信雄が蹴った
>和議は難航してる間にも信雄最有力家臣の木造長政の戸木城が半年の籠城の末に10月末に開城し
>信雄唯一の南伊勢の拠点も消失。
ソースは軍記のみです
>秀吉軍は2手に分かれて北伊勢から信雄のいる長島城を脅迫するべく10/25近江から行動開始。
>秀長も木曽川に沿って大垣から長久保(海津市)まで南下。
長久保は徳川方に奪回されてるのが一次資料で確認できる
>(酒井忠次が10/17清洲へ移っていた)家康も桑名表の危機的情勢を聞きやむなく11/8に尾張へ明日出陣を伝え
>清洲城へ11/9に入ったが何ら策なく、各戦線への援軍すら出せない諦観状態。
家康は美濃方面に出て遠山と共に羽柴と戦っている
>もう1人の最有力家臣の滝川雄利の浜田城も秀吉軍の付け城に包囲されており救援不可能。
>秀吉自らは11/10長島目前の桑名町屋川まで押し詰め付け城を構築開始(11/11書状では信雄が種々懇望と書いてある)
信雄は救援不可能になったのではなく苅田や放火の応酬にビビって勝手に和議を結んだだけ
三河物語や当代記に書いてある。つーか84年初頭からずっとこんな圧倒的兵力差で一進一退が続いているから
継戦不可能といわれても根拠なし
>これに恐怖した信雄は家康の支援が望めないと悟り降伏。11/12に講和成立。
降伏なんかしていない。ただの和議。その証拠に領土が信雄に北伊勢5郡と尾張の信雄方の城(尾張国内ほとんど)
>重臣たちと供に人質を出し、慌てた家康も秀康を人質に差し出して秀吉勝利のうちにこの戦役は終了した。
ヘたれ信雄がビビって和議結んだから単独で抗戦できなくなっただけ
>(家康側家臣の書状では養子と書くが、秀吉の書状にははっきり人質と書かれている)
なら秀吉も母と妹を翌年差し出したから秀吉は家康に降伏したということでいいな
>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
家康は85年までずっと戦闘態勢を解いていない
その後も秀吉に対して抗いつづけているしまだまだ戦い続けるつもりだったんだろう 574:名無し曰く、:2012/05/06(日) 15:57:15.33 ID:3YvKmTkl >信雄と家康は秀吉の大軍による本格南下に、蛇に睨まれた蛙状態で氷のようにカチカチ。
カチカチになっていたのは秀吉の方
7倍もの圧倒的兵力差なのに短期決戦で大敗したため家康の無防備な小牧山やその他スカスカの城郭をガチで攻め切れず
家康が後詰にこれない木曾川流域の城を圧倒的大軍でこれみよがしにせめるのがやっと
>秀吉軍の前に野戦回避し無策なまま籠城を続けた挙句に王手となり、
秀吉は家康からみて進出するのが危険な河川越えて後詰するしかない地域を荒らしまわって
釣り出そうと必死だったが完全に見抜かれていて無駄な骨折りだった
>家康はまったく歯が立たないで清洲でふるえていた。
秀吉は神戸・松ノ木・長久保・二重掘・蟹江・戸木と各城郭で苦戦・敗戦したため
家康にしてみれば雑魚すぎるぞこいつという感じだった
>無条件降伏を飲む形で集結し、小田原征伐に乗じて家康は国替
木曾小笠原真田水野石川が出奔し徳川の軍事機密も露見し圧倒的国力差が生じ
今川氏真でも勝てそうな状況で母と妹を人質に出し家康に大領土与え、豊臣滅亡の要因を直接作った
秀吉の大敗
40 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:37:31.03 ID:Obs9ybc0
>つまりなんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。
>家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に「必家康後巻可仕儀にて候間」書いてるように後詰決戦行う事だから
秀吉からしたらまんまと目論見が外れた結果
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>つまり加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに
>竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと
竹鼻を救援するなんて無理。そして大河を越えて少ない兵力で敵地へ飛び込むとかそれこそ馬鹿
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
滝川が蟹江・下島・前田の三城を奪ったのは6月13日。また九鬼嘉隆も船で進軍
蟹江は清洲と長島を分断する位置にあった事から秀吉側からすれば大チャンスだった。
秀吉は10日頃まで尾張で戦い25日でも伊勢にいるのが書状で確認が取れる
どうみても大チャンスにまんまと手をこまねいていただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包が秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることであり
>それを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
お前の主観なんて聞いてない
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康は十月二十八日に浜松評定を行った結果秀吉に対する強硬論派が過半を占め
また岡崎や東部の普請を始め、軍法の改革に着手し三河国衆の婦女子を遠州に移す段取りをしている
また本多重次を新たな岡崎城代に任命するなど秀吉に対して抗戦を想定している
また天正14年初頭に秀吉は上杉景勝にあてて家康討伐にあたり軍勢派遣を要請している
一貫して秀吉は家康への討伐、そして家康は秀吉に対する抗戦を想定していたが
母と妹を人質に送ってきたから上洛しただけ
>>583 木造が編纂しようが所詮は江戸期の軍記
誰々が降ったとかの注進が事細かになされていて木造に関しても7月頃書状で述べられているのに
降伏時だけ何も触れられないとか明らかに不自然
また土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない。信包が秀吉方は家忠日記にある
木造が北畠領において実質的に権力の頂点にあったのは本能寺前の頃
この頃は全く権力関係が異なり、いわば外様中の外様みたいなもの。夏ごろ秀吉に寝返りを画策してたようだしな
>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
家康も書状でもうすく勝ちで終わると書いている
41 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:39:13.98 ID:Obs9ybc0
>>戸木城開城はたしかに一次史料には無いけど他でもない木造家の編纂した木造記に具体的に無事を扱って開城したと書いてある
普段は軍記引用すると批判する一次資料厨なのにこういうときだけ軍記引用とか基地外だな
>>そこには伊勢国奄芸郡(現・三重県津市一身田の浄土真宗高田派本
>>10月下旬に左衛門佐具康父子が戸木城を退出し信雄の清洲へ退いた。
そんな重要な事項が何も秀吉も家康も触れてないとかありえないだろ
大体木造の事は秀吉も家康も書状でなんやかやと触れてるのに
>>ちなみに信雄・信益・中川定成・佐久間正勝・土方雄良・雑賀松庵のメンツが
>>人質を出してるのに木造親子が一切、人質を出してないのは不自然。
信雄は織田政権時とは全く異なり領地替えまであったのにこの頃まで木造が首脳だというソースよろしく
土方雄良・雑賀松庵この二人より大身(織田信雄分限帖)の吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊
小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
>>勢州軍記の方は信雄が和睦したので木造家も城を渡したとしか書いてない
>>しかし木造軍記は奄芸郡一身田高田山専修寺御門跡大僧正尭慧上人が
>>無事を扱ってくれたので開城したと書いてあって内容がぜんぜん違う。
なぜ内容も違う上に一次資料にもみえない事柄が事実といえるのか不明
>>10/28秀吉の脇坂(伊賀上野に駐留して11/3に伊賀城割開始))宛書状には桑名まで押し詰め付け城4、5ヶ所申し付けって書いてるし
>>同日の丹羽宛秀吉書状には書状が浜田表に届いたが、浜田城は滝川三郎(雄利)の持ち城だが
>>取り巻いて付け城4、5ヶ所申し付けって書いてあって、もう完全に信雄方は追い詰められていて
>>清洲までやってきた家康も近づけない有様になってると見ていい。
小牧山も戸木も松ノ木も似たような状況で落ちずしかも小牧山周辺の砦すら落とせず二重堀で逆襲くらったのに
囲っただけで勝ったようにいわれても
>>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから
筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに
勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
42 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:41:13.80 ID:Obs9ybc0
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
>>岡崎を吉川広家に占拠されただけでなく、駿府に入った秀吉を見た家臣の本多重次にまで
>>家康は「自分の居城を開けて他人に貸す国主とかwww」「じゃあ、今度はお前の女房衆を借りたいとか言われた貸すのwww」などと
>>散々にキレられながら言い放たれて勝手に自分の宿に帰っていかれちゃうほど
>>情けないことになっちゃったんだがw
そら臣従したらその軍事行動にしたがわなきゃならないし遠征するのに協力するのは当たり前だろ
なぜそれが情けない事になるのか意味不明。本多の逸話そんなんあったっけ?
>>目論見も何も開戦当初の伊勢侵攻計画の規定路線を秀吉が冷静にやってるだけだよ。
>>たまたま池田が犬山城を奪取したから、冒険的に岡崎直撃をやる突発的な行動をして尾張東部へ攻め込んだだけ。
当初も糞も最初から最後まで徳川討伐と三河遠州への侵攻意思表明してるのにたまたまも糞もない
>>いやいや別に木曽流域に行く必要ないでしょ。秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
攻められてる地域無視してなぜ他の地域転進するのか意味不明。しかも楽田に留守居部隊2万も残されてるのに
>>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
傍観というかそもそも1万足らずの兵力じゃ何もできんだろ
>>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀野井を後詰したら危険な敵地&木曽川流域で秀吉の大軍に潰されてアボーン
>>その結果、竹鼻まで水攻めになる。竹鼻が救援できないのは完全に加賀の井を
失策も糞も最初からまともに会戦できる兵力差&状況じゃねーわアホ
>>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城は敵地のど真中で敵占領地の奥深くに孤立した地域にあるのに海使わないと兵糧搬入
なんてムリなんだから風吹いたら搬入できるわけねえだろカス
>>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。
兵力差が圧倒的なんだから当たり前
>>6月10日に竹鼻城が落ちてから(家忠日記)実際は6/8には話がまとまっていたので秀吉は墨俣で茶会やってる。
話がまとまってたなんて史料はない
>>6/28顕如書状で6/27の夜に秀吉が大坂へ帰り、次ぎの出陣日が談合で8/10となったと書いてるし
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
43 :
人間七七四年:2013/07/30(火) 23:51:19.46 ID:Obs9ybc0
>>7/5に秀吉は7/3に滝川親子が敗れたのを聞いたと書いてる。
蟹江から眼前の大垣近辺にいたのに滝川の軍事行動しらないわけねえだろアホ
>>さらに秀吉の8/11大坂出陣は9/2に和議の条件交渉に入り、攻撃中止されてる。
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる。和議による条件交渉ではなく
普通に攻撃失敗して攻略できなかっただけ
>>城攻め攻防の成否がなんで醜態ぶりなんだ?戦略的影響もなく普通に秀吉圧勝して終わったじゃんよ。
そら信雄がたまたま秀吉の示威行動にビビッて和議結んだからなんとかなったってだけだろ
尾張半国すら切り取れないのに圧勝も糞もない
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけ。滝川が降伏したのは7/3でこれも単に秀吉が後詰にこず単独で抗戦不可になっただけの可能性高い
>>秀吉はその戦況を無視して帰ってる。竹鼻城を手に入れたからそこを南下する戦略で
三河方面への侵攻計画書状で書きまくってるのに信雄討伐以外視野に入っていないわけねーだろアホ
>>滝川なんて見捨ててるのが現実。なんせ6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで何の準備もないし
ようは家康が怖かっただけだろ。新たに楽田留守居部隊も追加されてるし
>>すぐ家康が駆けつけ虎口を奪ったのは家忠日記でわかる
そら眼前にいた秀吉から何の支援も得られなかったってだけだろ
>>さらに6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、
>>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。
この戦いは3/13の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3/22渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4/8の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
44 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 04:16:20.81 ID:n4M70nsC
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰めと家康への討伐意思と行動が読み取れる
45 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 04:16:56.93 ID:n4M70nsC
>>いつの日付の誰宛の話をしてるかわからんから調べてない。日付書いてくれ。
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
>>が、圧倒的戦力をもっていた秀吉が4/8の小牧長久手で敗れるまで勝利まじかと書くのは普通だろ。
なら9月や11月に秀吉が勝利まじかと書いていたって勝利が近い信雄を追い詰めた状況の証明には全くならないわけで。
しかも家康も春頃勝利眼前・上洛まで程なくとか秋にも勝利まじかと書いていて全く追い詰められて焦ってる文面ではない
46 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 04:17:31.15 ID:n4M70nsC
>>それに伊賀や伊勢でもすでに開戦初頭からだいぶ蹂躙していたし(池田の犬山奪取で戦略変更したが)
伊賀はフロイスの日本史だかイエズス会年報によると戦わず降伏しただけだし
伊勢も家康が尾張に転進したおかげと神戸田丸信包関など地元諸将が秀吉の味方についたから楽に蹂躙できただけ
>>詳しい情勢を知らない遠方への対外外交で誇張するのは信長だってやってる。
信長の比ではない程秀吉は基地外じみたはったり誇大喧伝
>>でも身内への書状で秀吉が書く内容と一緒にするのはおかしいだろ。
上記のように身内宛書状でも士気高揚のためデタラメハッタリばかりなのが秀吉書状
>>本当に大活躍なら、それを機に家康が後詰めするなり、信雄の粘り籠城が継続するだろ。
>>独力で秀長の大軍南下が阻止できないだろ。
家康は清洲方面固めてただけだろ。信雄は示威行動にビビって和議を結んだだけで
家康も名文を失いそれに従わざるをえなくなっただけ
>>この家康と信雄と家康の対陣中の書状をみるとちゃんと〜城と書いてるじゃん。
>>長久保にはそれがない。秀長が南下したあとに長久保の陣の守備兵でも蹴散らしただけじゃないかね。
落居って言葉がこの攻防の中何回か使われてるが城が落ちたとき以外使用されていない上に
織田・徳川方が蟹江落としたときも城という言葉省略で落居といってるし秀吉も「城」という言葉省略しまくってる
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる お前は全体的に秀吉側に都合のいい妄想しか言えない馬鹿だから1から勉強し直せ
>>ヘタレないように軍事支援するのが家康の役目のひとつだろ。無策傍観で信雄もこりゃダメだと悟ったんだろ。
むしろ浜田も長島も桑名も砦に囲まれて苅田行われただけで和議結ぶ行動をヘタレじゃないと見る方が不思議
上記の城より小規模のはずの小牧山や松ノ木・敵中孤立の戸木ですら落ちなかったのに
>>そんな想定してない。間に大坂で土下座して秀吉配下同然になった
そんなら天正13年秋の浜松会議で主戦派多数になったりしないし融和派石川が身の危険を感じて出奔したりしない
北条との関係強化や真田攻撃など行っているしな
ちなみに天正14年初頭段階でも秀吉は家康討伐を考えていたのが各資料でわかる
>>信雄が入っていて(秀吉の雑賀攻めに信雄も参加)秀吉方の人質要求を家康に出すように伝えたりと
>>完全に信雄を折衝道具としての条件闘争をしているだけ。外交技術として強気の姿勢を示してるだけ。
いやいや何の史料だったか忘れたが実際に迎撃計画はあったな
>>実際は、佐々や長宗我部や紀州勢を家康は見捨ててる。
そりゃ和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してる
これは単なる小荷駄隊要因。家康の軍勢は夏に半分を返していて夏の対陣のときわずか1万たらずだったのが
当代記や家忠日記でわかる
>>そんなの去勢張ってるだけで見事なまでに85年中(天正13年)は
>>紀伊雑賀・根来衆や佐々成政や長宗我部や保田(佐久間)安政や遊佐河内守を家康は見捨ててるじゃんw
虚勢じゃないから秀吉が母と妹出すまで上洛拒否を貫き実際に城の普請や修築や軍備整備なども行っている
>>だから家康を見限って木曾小笠原真田水野石川らが出奔した結果となったんであって
木曽は前年小笠原との領土内の問題で離反。真田も北条との上野問題で離反
小笠原は石川が小笠原の人質連れて出奔したから離反。石川は小牧長久手時で
すでに篭絡されつつあったから家康が同盟者を見捨てたこととは直接関係ない
47 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 04:19:45.81 ID:n4M70nsC
>>家康が優位なんてバカなことはない。しかも酒井・石川まで人質を秀吉に取られているのに。
そりゃ信雄が勝手に和議を秀吉と結んだ事に端を発するというだけ
>>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
家康の軍勢の大半は領国に残されており夏の対陣の時はわずか1万足らず(家忠日記・当代記・御当家記念禄・御年賦徴考等)
年奇衆への軍役は単に小荷駄隊の役目と本多氏が書いている
>>秀吉は前田へ援軍を派遣したりと余裕ありすぎ。
そら圧倒的兵力差なんだから余裕あるに決まってるだろ
>>三河竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃そ疲弊したと記しており
>>家康もこれ以上の戦争継続は不可能だっただろう。
開戦前から徳政の連発で領国は困窮している。会戦時に家康が大軍を動員したなんて書いてる資料は一つもなく
圧倒的に寡兵であったのが徳川軍。元々貧国しかないしな
>>で、結局、北条の援軍こなかったよねw信玄西上の時は北条も援軍出しているのにw
当たり前。北条はあの時点で仮想敵国みたいなもので同盟関係にもかかわらず書状のやり取りが少ないばかりか
家康は北条の敵対者皆川や佐野などと頻繁に連絡をとっており氏政がたくらみの深い武将で家康の留守居をついて
駿河に乱入するとの風聞も垂れ流されて家康はそれに備えて軍勢を領国に多く残していたほど(御当家記念禄・御年譜徴考・小牧陣始末記など)
>>ププッそれ軍記の太閤記に出てくる 「蟹江城を奪うことで尾州に至て中入り」と書いてる清洲城と長島城を分断すると言う講談話の妄想戦略だろ・・・
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
>>そんなことを秀吉が命じたソースはないし滝川が自分の意思で調儀しただけで、
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をしたために
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃されて
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
>>19日には家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山にいたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな
>>当の秀吉は竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だし
家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>曲解してるだけだろ。
お前がな 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
お前は史料もまともに見取らんチンカスだから一から出直せこのタコ
楽田近辺に2万以上秀吉方留守居兵置かれてた状況無視して暴論だな
48 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 04:20:24.03 ID:n4M70nsC
信雄がそんな追い詰められてるなら家康が美濃方面に石川派遣して秀吉方を攻撃するわけないし
あと秀吉の納馬の先が大阪ではなく縄生だというソースは?
ただ程近くの場所に一時退却するだけで納馬なんていわないだろ
あと当代記や三河物語でも信雄が勝手に和議を結んだので家康もそれに従うほかなくなったと書いている
講談だろうとなんだろうと成立年代も木造記と同じ
木造側に不利な要素だからといって木造の軍記を引用してた馬鹿に
秀吉側に不利な要素だからといって秀吉軍記引用がどうとか突っ込まれる言われはない
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状の事か。
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけだろうが
実際秀吉の予定とは全く別 何の根拠にもならんよ
楽田留守居部隊放置して東美濃やら多方面にただでさえ少ない兵力さいて
転進したら楽田留守居部隊や美濃方面留守居部隊に追撃されて撃破されるか
小牧山やら清洲陥落させられてゲームオーバ。美濃なんて高木や遠山・小里など一部除いて秀吉方
で背後の木曽も春に秀吉に寝返ってる状況
木造記って別名木造軍記ともいうものなんだが?ソースは伊勢北畠氏の研究 木造記成立の論考
>>土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
>>信雄と家康がすでに追い詰められているのを
>>秀吉は知っていたからもうすぐ、この戦いはじき終わると終戦までのビジョンを
>>持っていて、見通しが付いていただけの話。そしてきっちり講和条件に秀吉は人質を取ってるし。
>>家康らに戦局を挽回する力はまったくないのだから。
小牧山や戸木や松ノ木ですら圧倒的大軍&周囲砦でガチガチな状況で落ちなかったのに
なぜ砦築いただけで勝ったかのように語るのか不明
>>だからさぁ、それ砦をたんまり構築して桑名表を制圧して長島を威圧してる体制を構築したから納馬すると言ってるだけで
>>信雄を完全に八方塞りにしてんじゃんよ。秀吉は信雄を追い詰めてんだよ。
敵中孤立の戸木や周囲砦ばかりの小牧山や松ノ木ですら攻め崩せなかったのに
桑名や浜田や長島落としてもないのに制圧とか追い詰めてるとかアホかと。
>>あとは放置してても信雄は降伏するしかない状況で王手してる。
信雄が降伏したのは勝手にヘタレただけで降伏するしかない状況という根拠は全くなく
長島なんて秀吉が落とせなかった上記3城よりも遥かに堅固だから防戦なんて余裕
>>11/13には長島にも押詰城々数ヶ所と書いてて完全に包囲してる。
包囲しただけで城が落ちるなんて妄想もいいところ。三木に2年も要した雑魚秀吉じゃ尚更
>>しかも納馬先として大坂ではなく、伊勢国の縄生城で秀吉が越年する姿勢に信雄が恐れて懇望してんのがわかる。
秀吉が越年するなんて秀吉が本心で考えたかどうかではなく秀吉からみた信雄の考えってだけだろ
信雄が秀吉が越年して城を攻める「様子」を見て取ってなどと秀吉が法螺ぶいているが丹羽宛では大阪に兵を納めるといっているし
>>そして信雄の実子や有楽斎の実子など人質に取る条件だし。
信雄が勝手に和議結んだから当たり前
>>つうか太田牛一の書いた太閤記は軍記であり、自分の仕えた秀頼の正当性を強調して
>>秀次を貶しまくるなど曲解を平気で書いててまったく史料として扱えない糞講談なのも知らんのか?
木造記を引用する馬鹿に言われたくないわ
>>家康は長島救援のために秀吉軍を引き付けるために軍事行動を東美濃で起こすことすらできずに
>>清洲城で震えて信雄の降伏を傍観してただけなんだから。
なぜ攻められている長島を無視して他地域に転戦するのか不明
ただでさえ圧倒的の大軍の秀吉は一部隊を東美濃に派遣して余裕で対応だろ
んで家康の後詰の心配のなくなった秀吉は長島攻略に専念できる絶好の状況創出だな
震えていたなんて史料は全く存在しない
>>まぁ家康の妄想どおりに北条軍が援軍に来たら
仮想敵国なのに来るわけねえだろアホ
>>伊木、池田・荒尾どころか土蔵や11/18利家にまで秀吉は語ってんじゃんよ。
>>完全に周知の事実だよ。
>>そもそも11/6に実際に加藤嘉明に縄尾(縄生)・桑部の両所に譜請を申しつけてる。
秀吉の書状は伊勢で越年し長島を攻略する、ではなく伊勢で越年し長島を攻略する様子を信雄が見て取って
等と信雄の目線を秀吉が勝手に推測してるだけで秀吉は納馬する予定なのが実際
そこにたまたま信雄が和議にのったから助かっただけ
49 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 04:21:56.07 ID:n4M70nsC
>>そもそも秀吉がまじかに陣を構築して家康を小牧に押し込めてる状態じゃんよ(4/10付書状)
そんな状況で全く攻められず攻めたら大敗したのが秀吉
>>顕如上人貝塚御座所日記でも敗軍したが、「秀吉の覚悟が堅固なのでやがてもちかためられ」
>>などと書いていて秀吉がまったく動揺せずに将帥としての威厳で纏めてしまったために
覚悟が堅固とか言ってる割に急いで楽田修築やら砦普請で防衛ガチガチに固めて
思いっきり持久戦体制に入ってる。圧倒的兵力差がありながら。それほど負けが痛かった証拠
顕如がいたのは思いっきり秀吉領国だから秀吉に都合いい捏造のフィルターで歪曲された情報が入っただけだろ
>>家康は勝利の戦果の拡大に失敗してる(勝利に酔い上洛の言葉まで家康は出して策もなく無為に過ごす・・・)
そんなもん我彼の圧倒的戦力差ってだけだろなんせ兵力比7倍くらいだからな
>>しかも顕如は1万余り討死の報は間違いで、のちに3000討死とわかったと訂正を入れてる。
>>(兼見卿日記4/13に尾州表から注進があり9日に秀吉敗戦したとのこと。
>>しかし追って注進があり秀吉在所も問題ないとのことで京都での騒動も終わったと書いてある)
なぜ最初の注進が間違いで後の沙汰(噂(堀氏訳は噂であって注進ではない))が本当なのか不明
しかもこれ以外の史料はこぞって戦死者1万人多くて2万としてるし
秀吉側に都合いい情報ばかり捏造して書かれるイエズス会年報や日本史などでも1万
また秀吉同盟者の小早川書状でも1万。そもそも家康は身内にあてた手紙でも1万といってるわけで
3000等と歪曲して書かれてるのは顕如日記のみ
>>4/13付けでも細川配下の松井も池田らの戦死ごときでは「此表御よわみにもならない」と書いてるし、
そんなもん弱気な言葉書く馬鹿がいるかアホw士気にかかわるだろうが
>>稲葉も「討たれたものの、はたもとのささわりには少しもならない」と楽観してる。
そら13万もいればそのうち1万死んでもまだ圧倒的優勢な兵力に変わりないってだけだろ
秀吉は9/23羽柴秀吉訓戒書で木下兄弟戦死残りの連中の討ち死にが大変迷惑だと書いている
外聞迷惑、於秀吉非可失面目儀候間、手討に可致候と秀次に怒りをぶつけており
自分の失態を秀次になすりつけているが(滝川の蟹江合戦も同じ)それだけ敗戦の精神的実質的損害は大きかったという事
>>それどころか同時期には秀長や筒井勢によって伊勢の松か島城が降伏して伊勢でさらに劣勢になってるのが家康と信雄。
松ヶ島は三月に崩壊した伊勢戦線の続きで長久手合戦と直接の関係も糞もないのに何が「それどころか」だ
神戸田丸信包関など地元諸将の帰参と家康の尾張転進で楽に蹂躙できただけの続きの戦だろうがw
>>秀次敗戦でもまったく秀吉陣営の圧倒的優勢ぶりに変化はない。
兵力比の差ってだけだろ
>>秀次を秀吉は若輩者と呼んでるし、秀吉本軍との綿密な連絡をせずに
>>無断で軍をさらに進めて索敵もしない不慮ゆえに4/9戦死した池田らの独断ぶりは非難されて当然だろう。
>>(4/11付で岩崎城攻め大勝利のところ、即、岡崎面へ深々に相動いたので勝利を失ったと敗戦理由を書いてる)
深々は別に非難のニュアンスはない。家康も長州我部あてに深々と働く事肝要とか言ってる
あと深々と働いた「ので」敗戦したとは書いていない。深々と働き敗戦したとは書いてる。因果関係を直接文中に見出す接続詞はない
4/8秀吉→丹羽長秀 池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
50 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 04:23:39.38 ID:n4M70nsC
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるという
かなり縦長の陣容だったがこの時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。柏井にいる一柳宛書状に
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としか
いいようがない。池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
あらしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
>>5/2に秀吉は犬山を加藤光泰、羽黒を山内一豊、楽田から春日井郡の戦線を掘秀政に、尾口西南を稲葉に委任して
>>2万を置いて納馬し帰っていったのに、それでも手が出せないほど劣勢なのが家康・信雄。
は?楽田から敗走して加賀野井・竹鼻攻撃に移ってるのに何が納馬なんだ?馬鹿か?
>>秀吉が帰る理由も5/2の隆景書状には小牧山要害に家康らが籠もって出てこないから無為に過ごすのも無駄なので
>>2万置いて帰り、秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
例のごとく信雄に大敗した話はひた隠しで都合いい情報しか書かれてないのが秀吉書状
正確には家康を攻めたら1万も損害だして圧倒的大軍があるけど自分じゃ戦闘がゴミカスレベルに弱すぎて攻められませんってのが正解。
家康は城から出てこないどころか蟹江合戦でも長久手合戦でもちゃんと動いている
>>しかも信雄・家康軍は香曽我部に15000討ち取ったと捏造戦果を書いて長宗我部の畿内出陣を願ってるほど追い詰められてる。
捏造戦果を書くことが追い込まれてる証拠なら秀吉は家康の百倍追い込まれてる証拠なのが佐竹その他宛書状でわかる
>>5/5には加賀野井城が攻められ、松ノ木城では外構えを放棄して本城籠城するように命じるなど
>>信雄・家康勢は圧されっぱなしで、5/6に加賀野井城を落とされ(池田の弔い合戦と秀吉は言ってる)
間宮らの反撃や蟹江の敗戦など含めると一進一退だろ。松ノ木や戸木も結局落ちなかったし
木曽川以西の家康が寡兵で後詰行動起こすには危険な地域を圧倒的大軍を使ってこれ見よがしに攻めてただけなのが秀吉
続いて竹鼻城が包囲されてるが信雄・家康は援軍の口だけ約束でヘタレぶりを晒してるだけ。
>>秀吉ははやく加賀野井城に後詰めに来ないかな〜叩き潰してやるのにwと余裕ぶり。
なぜ後詰誘引に失敗し二重堀でも大敗した秀吉が余裕なのか意味不明
>>5/7になっても香曽我部に池田らを討ち取り1万討ち取ったから(前回は15000と書いてたのにw)
>>はやく摂津・播磨へ討ち出るように言っていて、かなり家康・信雄勢が追い詰められて
戦闘では寡兵なら援軍なしに抗戦無理だろ。
51 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 07:29:34.10 ID:n4M70nsC
>>5/14にも長宗我部に援軍を哀願し、5/24には包囲された竹鼻城への後詰めに関して北条から援軍が来たら
そりゃ圧倒的兵力が劣るから単独で後詰なんて無理だろ。楽田で留守居兵も残されてるんだし
>>6/2には竹鼻城の注進は虚偽に違いない(水攻めのこと?)、松ノ木城は本城が小さいから援軍出さないなどと豹変するし。
単に信雄の情報収集能力が劣っていたか兵力が集まらなかっただけだろ
>>この戦況により信雄の本拠地長島城攻略が視野に入ることになる。
長島なんて伊勢方面から攻め立てればいいだけだからはじめから視野に入ってるだろ
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。
圧勝ってただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけじゃん
蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞っているのに。
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけないし
蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦
や尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし
長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が
蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。
注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
52 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 10:22:41.58 ID:VcP381dB
チョン鮮人の偏執ストーカーぶりは異常。
53 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 11:25:04.25 ID:FFWZMqHW
織田厨はこのキチガイに対してだけは絶対に批判しない件w
あきらかに在日織田厨の犯行だな。
54 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 14:54:13.95 ID:YxOEaPQU
反論も糞も読む気が起きん
55 :
人間七七四年:2013/07/31(水) 18:55:33.23 ID:mscfPMr5!
>>54 そもそもだが本人が勝手に荒らしているだけだからなwこいつは以前から「〇〇は織田厨」と、2ch上の適当なレスを勝手に「織田厨だ」と決めつけた前科があるw
自分の主張をぶちまけ信長と秀吉をこき下ろす → 両方が両方を貶めあうようなコピペをばら撒く →
「これは在日織田厨の仕業」「これはネトウヨ秀吉厨の仕業」と後出し宣言w → 両方とも叩かれるように仕向けて結果オーライw
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1371642754/ このスレではとっくの昔に「信長・秀吉を叩きたい朝鮮人の仕業」と結論が出ているwそもそもタカ派の代名詞と言われる信長や秀吉を好いた朝鮮人がいるわけないw
旧日本軍の東条英機、山本五十六を好いた英米人がいないのと同じw猿以下のだがw
56 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:20:40.19 ID:QrcYhfkH
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけだろ
大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。
ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない
11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
57 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:21:19.83 ID:QrcYhfkH
>>この地域での秀吉の優勢を示す、
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できず
ヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通り
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
>>この戦いに秀吉はなんら関わってない滝川が独断で失敗してる
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
直接のソースはなくても上記のように秀吉の作戦なのは自明
>>(多聞院も蟹江城を滝川の調略でと書いてて、秀吉の戦略ではない)
その滝川の調略が本人の意思なのか秀吉の戦略なのかは別問題
>>当然のように危険極まりない行為をした
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
>>16日夜に入城したものの18日には家康に即襲撃
その間に秀吉が後詰せずまた楽田方面からも軍勢出さなかったから負けただけ
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら
九鬼が兵出すわけないだろ。伊勢の楠本に26日大阪に28日で其の前ずっと佐和山に
いたんだから位置的に余裕で後詰できたのにな 家康が怖くなって逃げ出しただけだろ
>>二重堀合戦はいつ?細川家記が5月朔日
細川家記の日付が間違ってるだけだろ。家忠日記に楽田筋へ働きどうこうって4/26にある
>>信雄が攻め寄せ木村や長谷川らと混戦になり神子田が戦わずして敗走したことが原因で羽柴方が追い崩され秀吉の不興に思い細川が奮闘して信雄勢を追い返したと細川家マンセー話を捏造し
神子田がいなくなったんだから史実だろ。三鬼氏もそう書いてるし
58 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:22:30.99 ID:QrcYhfkH
>>この戦いには、秀吉はなんら関わってないし滝川が独断でやって、独断で失敗してるだけ。
滝川家臣でもない九鬼が行動している事・秀吉が三河方面への侵攻計画を一貫して表明してる事
秀吉が滝川退城によって三河方面攻撃を延期し信雄攻撃に切り替えた事・滝川は協力関係でも何でもなく秀吉の家臣である事
から秀吉の作戦だと容易に想像がつくし愛知県史資料編も谷口氏もそう結論づけている
>>滝川が自分の意思で調儀しただけで、
>>(6/16に勝手に滝川が調儀で手に入れただけで秀吉は何も知らないし何の準備もしてないし
その調略が秀吉の意思か滝川の意思かどうかとはまた別問題。現場に秀吉がいなくても秀吉の指示で行動なんて
全く矛盾もしないしそもそも総大将が調儀で敵陣中に城乗っ取りなんかできないから滝川が得意の調略で大チャンスつくっただけだろ
>>信雄と家康の軍に挟撃されている場所へ入城すると言う当然のように危険極まりない行為をしたために
危険極まりないどころか秀吉方拠点から程近くなんだから大チャンスだろ
蟹江から大垣なんてすぐだし尾張の秀吉方拠点からも近いだろうし
>>滝川は16日夜に入城したものの18日には清洲からわずか三里のため家康に即襲撃されて
秀吉が後詰しなかったからだろ
>>19日の家忠日記を見ると九鬼が逃げようとしたところを信雄の大船に捕捉されて
>>滝川の馬印まで取られて織田と徳川の挟撃で7/3にはすでに楠まで退去してんじゃねぇかw
秀吉は其の間なにやってたのって話だわな
佐和山に22日→伊勢楠本26日→大阪28日で逃げるように退却していったのが秀吉
>当の秀吉は蟹江城なんて援軍すら送らずまったく気にもせずに
ようは家康が怖かっただけ。7倍も兵力ありながら1万も殺されたんから当然だが
>>長島への中割戦略の成功たる竹鼻城攻略成功したので大坂へ帰る始末だしよ。
長島への中割という割りに結局秋に信雄がビビッてヘタレ降伏するまで5か月もようしているのは
蟹江の敗戦が原因。これにより三河方面への攻撃は頓挫し延期 どうみても秀吉の失態です。
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康相手に大敗して1万人も大損害だしたから怖くて近づけなかっただけ 大垣から蟹江なんてすぐだからな。いこうと思えばいつでもいけた
二重堀合戦が史実な証拠として神子田が改易され、信雄から感状もでてる
愛知県史資料編867〜869で滝川が蟹江から退去した事で秀吉は出陣日を改める事を伝えてるんだろうが
蟹江が何も意味ないなら出陣日改める必要なし 蟹江を落とせれば清洲と長島の分断&北だけでなく西からも長島を包囲可能
蟹江は秀吉がいた大垣から眼前の距離 谷口氏の論文や愛知県史資料編が位置づけているとおり蟹江合戦が秀吉の三河侵攻計画や
領国分断作戦の一貫の証明だろうが 大体滝川はただ協力してるだけじゃねえだろうが
前年に秀吉に降ってれっきとした家臣だろうが 独断で行動してたとするならそれこそ証明が必要
59 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:23:54.86 ID:QrcYhfkH
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
>>蟹江合戦が滝川の単独行動
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
60 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:26:09.44 ID:QrcYhfkH
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々 これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな 長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホ
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して、
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ、秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」 1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって
過小喧伝 してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
61 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:33:51.22 ID:QrcYhfkH
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を奪われていき空手形の発行をする始末だからねぇ。
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態
小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の信濃出兵のため残されており
さらに夏には少ない兵力の半分を返している(家忠日記当代記
>>八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
62 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:34:44.80 ID:QrcYhfkH
そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明 ただ逃散兵が多かっただけだろ
むしろ20万がガチンコで戦った関が原ですら8000しか死ななかったとすると小牧長久手の秀吉大敗がいかに
次元を超えたレベルの大敗かがわかる
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。
>>顕如日記の3000討死ってのが現実的だろうね。
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河からして完全に崩壊してるのが現実だし。
>>三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったか必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと 顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字いかに家康らが不利な状況だったかがわかる必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
63 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:35:47.21 ID:QrcYhfkH
むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
64 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 16:38:06.77 ID:QrcYhfkH
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
65 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 17:10:00.75 ID:QrcYhfkH
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
66 :
人間七七四年:2013/08/01(木) 19:13:35.73 ID:Z1V5kDSL
在日織田キチの病気が酷くなってからは、
武田厨過去レス収集コピ爆撃自体が無くなったな。
やっぱり織田厨の自演じゃねぇかよ。
67 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 02:46:09.23 ID:Ck+NxEk5
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
68 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 02:47:00.41 ID:Ck+NxEk5
>>家康が優勢だったなんて歪曲意外にあり得ないのにチョンは馬鹿だなワロスw
羽黒で大敗、小牧長久手で1万人戦死の大敗、戸木・松ノ木・河波・神戸・二重堀・蟹江・浜田で敗北
ちなみに兵力差は7倍ほどもあり信雄方は合戦当初から尾張でも美濃でも伊勢でも寝返りでまくりの圧倒的秀吉有利な状況
>>家康は八方塞がりで秀吉の攻勢に常に籠城してただけで、其の間に味方がどんどん切り崩されていっただけじゃんw
秀吉が切り崩したの木曽川筋の家康が出てこれないわずかな城だけだろ
他東駒野・河波・松ノ木・戸木・蟹江・二重堀・神戸・浜田など各城郭で敗北
結局秋になって秀吉が諦めて納馬しようとしてたところに信雄がヘタレ和睦してきて助かっただけ
>>秀吉がいなくなると、ちょっかいを出すが秀吉が来ると逃亡
むしろ至近距離で滝川が蟹江・前田・小口など奪って家康と決戦する大チャンスなのに
信雄と家康にビビッて逃げてったの秀吉だろ。滝川が蟹江合戦起こした当初最低でも至近距離の大垣にいたのに
いつでも後詰できるのにしなかったのは秀吉が小牧長久手で1万人も戦死する大損害だしたからヘタレビビリまくって逃げてただけ
>>根本的な解決策はなく、時間稼ぎ籠城してるだけ
家康単体では8000そこそこしか軍出せないのに根本的な解決できるわけねーだろアホ
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
69 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 02:47:40.55 ID:Ck+NxEk5
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
70 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 02:48:48.11 ID:Ck+NxEk5
>>秋に再度手立てに及ぶと書いてあり、秀吉が秋からの軍事行動で決着をつけるスケジュールなのがわかる。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる
71 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 02:50:48.90 ID:Ck+NxEk5
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は
余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
>指揮系統の話なら箕浦合戦で秀吉の与力として奮戦したことが
>『信長公記』に記録されてる樋口直房は旧浅井家臣で堀秀村の直臣当時の秀村は十二万石の大名だったのに対し秀吉は僅か五万石に過ぎず
>秀吉より遥かに格上で従わせるのが難しい存在だったわけで
箕浦合戦で堀軍が主力で撃退したのならなおさら秀吉は評価外
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃ
ならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど 秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
72 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 05:47:10.85 ID:Ck+NxEk5
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
73 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 11:06:12.44 ID:yVSc22/N
在日織田チョンの秀吉憎さは異常
74 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 12:54:54.62 ID:Ck+NxEk5
>>徳川・織田連合軍は秀吉によってどんどん領地を
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>三河の竜門寺によれば三河渥美郡も過重な陣賦役のために在地社会が激しく荒廃し疲弊したと記しており
会戦当初から徳政連発と貧国のために窮困状態 小牧長久手の戦いの時はむしろ大方の兵力は北条の変心と上杉の
信濃出兵のため残されており さらに夏には少ない兵力の半分を返している(家忠日記当代記
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返し
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って友軍の離反を繋ぎ止めてるが、
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
>>20万人が戦った関が原の戦いですら旧日本軍参謀本部が日本戦史・関原役において討死数を8000人としているわけだし。
全く違う戦いあげて根拠にするとか意味不明 ただ逃散兵が多かっただけだろ
むしろ20万がガチンコで戦った関が原ですら8000しか死ななかったとすると小牧長久手の秀吉大敗がいかに
次元を超えたレベルの大敗かがわかる
>>一次史料である9月20日付の近衛前久書状では4,000〜5,000人としている。顕如日記の3000討死ってのが現実的だろ
顕如日記は秀吉の過小歪曲フィルターがかかった捏造情報があとからもとらされただけ
>>家康の策源地である三河から完全に崩壊してる 三河渥美郡にある常光寺の日記
>>4/17には本拠地三河の渥美まで秀吉が派遣した100隻の軍船で襲撃されてるなど
織田徳川羽柴の書状にも見られないような局地戦と家康も無視している状況あげられて三河
が崩壊とか馬鹿ですか?むしろこの戦いでも攻略失敗なんだから秀吉の負け
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>家康らが不利な状況だったか必死な政略的宣伝工作か
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから 異常に少なく見積もられてるだけだろ 実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ 織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから 家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと 顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他
大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだからいかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
75 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 12:55:52.84 ID:Ck+NxEk5
>なんら策もなく傍観しかできなかっただけだろ。家康贔屓な主観を解釈にいれるとそういう曲解ができるんだね。
策もなくも糞もこの時の秀吉の狙いは書状に書いてるように後詰決戦行う事だから
家康にしてみれば少ない兵力で木曽川越えの木曽川地域に移動する方が馬鹿
>>加賀の井城の落城阻止すらできなかったくせに竹鼻城の援軍出せない理由に加賀の井城が邪魔だからとか意味不明。
竹が鼻の位置は加賀の井よりもさらに秀吉のいる大垣より。加賀の井を抜かないと 竹鼻を救援するなんて無理
>しかもこれによって長島城への道が切り開かれてしまい 秀吉による一挙長島攻略の南下が開始されてしまい
この2城が落ちてから長島が攻撃にさらされるまで半年もかかりその間神戸や長久保、蟹江などで敗戦する醜態ぶり
>7/3落城であり秀吉が大坂へ帰っていただけの話で放置も糞もないわw
秀吉はすぐ後に軍事行動おこしてるくらいだから滝川が城奪ってすぐに後詰すればよかっただけ
>すでに9/2の秀吉書状で蒲生が田丸氏や関氏や九鬼氏や澤氏や秋山氏や芳野氏を与力として
>南伊勢五郡を与えられてるしwww松ヶ島城あたりは算用次第(奪えたらやる)って書いてるし。
>他にも小島民部や榊原や朝成藤方や長野左京や水谷や河北佐助や恒川次助らに伊勢壱志郡を与えている。
当たり前。南伊勢半分は津15万石の信包・田丸・関などが秀吉につき、池田と森が予想に反して家康に付いたから家康らが尾張に転進せざるをえなくなったから楽に蹂躙できただけ
>秀吉の和睦条件は信雄と家康や石川から人質を取ることでありそれを最終的に家康らが拒否しただけの話。秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてる。
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリ
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
>でも結局、この条件で半年経たずに土下座することになるのが、信雄と家康。
信雄がへタレて勝手に和睦したから助かっただけ
>羽柴秀長の大軍南下の中で吉村又吉郎の独力でそれが可能なようには見えないけどな。
それはあんたの主観です
>まぁ11/10の信雄→吉村でいきなり長久保落居を聞いたと書いてるだけで
アホですか????長久保の城が落居じゃなきゃ長久保の何が落ちたというんだ?
>そんなの去勢張ってるだけ
真田との攻防や北条との同盟関係強化に努め秀吉との対決に備えている
>しかも天正12年8/26には背後の駿河国ですら年寄衆へ15歳から60歳までの大動員をかけてるほど徳川は限界動員してるが
限界動因どころか兵の半分を返している(当代記・家忠日記)
>秀吉軍を長島方面へ向かわせないように、家康が軍事行動を再度、東美濃で起こして
小牧山周辺の砦には2万もの留守居兵が残されてる上に6月15日にはさらに楽田への加勢集として
1万1200が追加されてるから家康がただでさえ少ない兵力で秀吉の侵攻地域と関係ない東美濃に向かったら
そのまま美濃の後詰部隊と小牧山周辺の留守居兵に追撃されてアボーンまたは小牧山占領されて
一気に三河方面に侵攻されてアボーン
>長島城が危機的になり敗北確定になるまでなんら無策で信雄が追い込まれていくのを傍観してただけなのが家康。
蟹江合戦で危機的状況に素早く対応している。また8倍ほどの圧倒的兵力差で均衡を保っている
>加賀の井の落城を傍観して、なんら策がなかったのが家康。
加賀の井に行くには敵城の網の中の網を掻い潜りしかも川を渡らなければならない。10分の1の兵力でそんな芸当無理
また5月5日秀長宛書状で伝えるように家康が後詰として働いてきてもその対応は十分できているため
家康からすれば死地にいくようなもの
>7/12の家康は戸木城への兵糧搬入を強風のせいにして無理と言ってる始末だし
戸木城の位置は伊勢の相当南方で敵地のど真ん中。海上ルート使わないといけないから 強風吹いたら無理にきまってるだろ
>5/25の家康書状を見れば竹鼻救援する根拠として北条軍が来たらと言ってる。もう絵に描いた餅状態じゃん。
小牧山周辺には秀吉の留守居部隊2万が残されてるから当たり前
秀吉も6月4日佐竹義重宛に加賀井・奥両城は家康からみて「敵城中」に入っている(家康信雄からみて敵方である
秀吉方の城々に取り囲まれた位置にある)ので両城への後詰として家康が後詰した所を攻撃する計画だったといっている
家康からすれば木曽川諸城への後詰など自ら死地に赴くようなものだっただろう
76 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 12:56:47.58 ID:Ck+NxEk5
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
体調が悪いからとかんなもんただの言い訳だろ
最初から会戦しないか部下にまかせりゃよかっただけ
徳川方は春から特政・信雄領国は伊勢のみならず尾張でも会戦当初から寝返り続出と不利な条件だったんだから
夏の対陣のときでも徳川方は兵の半分を返していて(家忠日記)
総勢一万足らずだったとあるしな(当代記)
体調が悪かったなんて事書かれた史料あったっけ?
「見舞い」の事だったら戦場見舞いの事じゃないの?
大阪の二度目の対陣は蟹江合戦の敗戦により三河侵攻計画の前哨戦が頓挫したからだと
愛知県史資料編が位置づけている
あと二重堀合戦は家忠日記にある
77 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 12:58:28.14 ID:Ck+NxEk5
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
78 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 12:59:08.64 ID:Ck+NxEk5
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
79 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 13:00:15.80 ID:Ck+NxEk5
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
80 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 14:10:08.32 ID:Ck+NxEk5
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
81 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 14:10:48.50 ID:Ck+NxEk5
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも
>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
421 :名無し曰く、 :2013/03/15(金) 22:05:50.15 ID:pi2O8t9C 4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
82 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 14:11:42.65 ID:Ck+NxEk5
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案
紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ
顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明
あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
>>そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
>>これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw
83 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 14:12:24.52 ID:Ck+NxEk5
>>自軍有利を演出するためにずうっと過剰戦果の一万人討死させたから長曾我部くん早く助けてのループ。
なんで秀吉側のデタラメハッタリ誇大喧伝は史実で家康側の史料や秀吉側家記や家譜や敵対勢力の毛利の史料に残ってる戦果は誇大戦果になるんだアホ
史料を読む限り圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝して騙しまくって誤魔化していたか「わかる」
3月26日⇒佐竹
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた
11/13
家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認??????
明らかにデタラメ
84 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:12:40.79 ID:2IcYkU5z
>>しかも大和から筒井勢を新たに動員し始めてるし、丹羽は利家への援軍を出してるし
>>秀吉側はかなり兵力に余裕をもって伊勢でやりたい放題やってる。
当たり前だろそもそも秀吉陣営は135000くらいいるんだから
筒井はしかも新たにどころか春から動員され続け丹羽も当初から長重派遣、途中から長秀も尾張に参陣
とめちゃめちゃ圧倒的大軍なんだから
>>信雄がすでに懇望して侘び言を言ってきてるので、戦いはもう終わると書いてるし。
秀吉は9月にも同じ事言ってるのに11月まで終わらなかったし家康も10月にもうすぐ勝つと書状で書いてるし
そもそも秀吉書状なんて都合いい事ばら撒いてるだけだから味方に当てたものでもデタラメばっかり
>>11/6の大垣にいる加藤宛秀吉書状にはあちこち落として、あちこち砦を造り北五郡之儀無残所任存分候条って言ってる。
砦みたいな小さな所分捕っただけだろ。長島も桑名も浜田も囲って苅田してただけで攻撃もろくにかけてないのに勝ったように語るとかアホですか
>>翌日の土倉宛ての秀吉書状では東駒野取詰 即時乗崩と感状を出して 美濃でも攻勢を開始してるのがわかる。
美濃方面は当初からずっと攻めてるだろ。んで結局この頃まで攻め落とせなかったと。
>>尾濃葉栗見聞集によると、木曽川西北羽栗・中島・海西の三郡割り秀吉方へ勢州度会郡・篠島(知多郡)・海西の三郡割りを信雄領
なぜ信憑性が見聞集>>>書状なのか不明
>>天正12年甲申年9月の秀吉朱印状には壱志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・渡会郡・大和宇多郡の
>>大半を氏郷とその与力に与えていたりするしこれ取り消したりしないだろうし。
信雄は家臣達に蹂躙された南伊勢に代わって北伊勢与えてるのに秀吉に渡すわけねえだろうがアホ
>>講和条件については 「北伊勢四郡相渡」の文章の解釈が難しい。しかも細部の内容がまったくわからないし。
そもそも和睦条件についての話なのに細部の内容持ち出すとか意味不明
>>実際、虫あき的な状態で秀吉給地となった場所も多かったと思う。
和睦の条件は信雄の領地で秀吉が攻め落とせなかった所は信雄の物で秀吉が攻め落とした所は秀吉の物だったってだけだろ
>>尾張に関しても犬山(丹羽郡)・甲田(葉栗郡)は秀吉人数入れ置きと書いてるが、別な史料を除くと岩倉も秀吉方だと書いてるものもある。
だからなんで他の史料持ち出す必要あるんだカスが
>>川中島は一円、長尾方と書いてあるが実行されたんだろうか?
関係ねーわアホ
>>解釈が難しいが検地から逆算すると桑名・員弁・朝明郡の三郡は返却されたかも知れない。
返却も糞も占領すらしてねえだろうが馬鹿
>>どちらにしろ、家康完敗であって、家康の優勢勝ちなんて判断は一切できない。
いや戦闘レベルでは秀吉が家康ではなく「信雄に」完敗。家康はちょろっと兵連れてきただけだし
信雄が秀吉が攻めるぞってポーズ見せたらビビッて和議結んだから何とかなっただけ
>>講和になり抵抗していた者たちから人質を秀吉が取る時に源五殿実子(織田有楽斎)を人質に出すことになってる。
>>滝川雄利も実子または母を出すとなっているが、木造長政の名前がないのは、この時点ですでに秀吉方に降伏してるからだと思うがな。
吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
むしろ秀吉や家康が木造の事に何も触れていないのが不自然
>>家康も秀康を「養子」として出すと吹聴してるが秀吉方では「人質」としてる。石川数正も人質を出してるがのちに家康を裏切り出奔するフラグだな。
降伏ではなく和議なんだから養子だろ。人質なんて秀吉が都合よく妄想したにすぎん
石川は長久手戦頃から秀吉に篭絡されつつあったのが徳川史料にあるんだから人質どうこうはさして影響ないだろ
>>秀康を人質に送って先に降伏した信雄を間にクッションとして挟むことで戦にならないようにしつつ、条件闘争してただけ。
軍備ちゃんと整えたり真田攻めたり浜松会議で主戦派がメインだったりするのに単なる条件闘争なわけねえだろアホ
>>家康は雑賀衆だけでなく、長宗我部や佐々らまで見捨ててまで秀吉の怒りを買わないようにしてたのにw
そら領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
>>結局、さらに秀忠まで人質に出して北条攻め先鋒をやるだけでなく
>>家康の城まで秀吉が「借りた」ことで関東への転封を拒否することもできなくなる。
秀吉にそもそも従ってるのに借りた事が関東への転封につながるとか意味不明
85 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:13:37.88 ID:2IcYkU5z
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
そもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
86 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:14:33.07 ID:2IcYkU5z
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
むしろそんなスカスカな城を245000の圧倒的大軍で攻め込んだのに全く落とせず
小牧長久手の時と同じで苦戦や忍城や韮山城の敗戦や山中城の大苦戦を覆い隠すために茶会などという
何の中身もない金だけ膨大にかかる高松城水攻めとか一夜城とかと同じような無駄なパフォーマンスをするだけだったのが秀吉
韮山なんて500そこそこの城に50倍〜70倍の兵力で攻め込んで3ヶ月半〜4カ月も落とせず
忍城もう同様に大苦戦するなどもう弱いどうこうを超えてゴミクズレベルの指揮能力しか持っていないのが秀吉
87 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:15:31.52 ID:2IcYkU5z
秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
3月26日⇒佐竹 尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
4月8日秀吉⇒毛利輝元 伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定wwww
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないww
紀州表まで攻め込んだ⇒そんな事を裏付ける史料はないww撃退しただけw
日付不明 秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは三人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるのにwww
5月9日 秀吉→毛利輝元
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
6月4日 秀吉→佐竹義重
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)wwwww→いやはやこれは笑うしかないwww
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→三人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分wwww これが本当なら防衛どころじゃないwww
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンだわwwwwギャグがすぎるだろwwwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るwww
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認?????? 明らかにデタラメ
88 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:16:14.65 ID:2IcYkU5z
当初去就が不明だった池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出なかったのが秀吉
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>この圧勝ぶりから秀吉は6/4に佐竹に書状を書いてる。 ただ家康がでてこれない木曽川流域わずか3城をこれみよがしに圧倒的大軍で攻めただけ。蟹江敗戦・二重堀敗戦・松ノ木敗戦・戸木敗戦で完全に尾張方面の拡張は滞ってる
>>そして秀吉は住吉屋宗ニや山上宗ニや津田宗及を招き美濃墨俣で茶会を開いて豪遊。
小田原合戦の時と同じでただのパフォーマンスだろ
>>そして秀吉は滝川が勝手に行動してるのを無視して帰って行った。
滝川は秀吉の意思だろ。そもそも家臣なんだから勝手に行動するわけないし単独行動なら九鬼がついてくるわけない。蟹江から秀吉陣の大垣なんて寸での距離だし谷口氏や愛知県史資料編も秀吉の敵地分断作戦や
尾張方面の攻撃の前哨戦と位置づけているし秀吉は三河方面攻撃計画を諸大名あてにつづってるし長島も東西から攻撃可能になるし滝川退城で秀吉は三河方面攻撃を断念して延期してるし
>>お前の書いてることは家康擁護にはまったくなってないぞwいかに秀吉が戦略レベルで家康の動きを完全に封じてしまってるかを
>>よく知らしめることしか書いてないw 家康は長宗我部が秀吉の背後を襲ってくれない限り、戦局の打開への道がまったく見えてない。
戦略も糞もない。当初から7倍もの圧倒的兵力差&信雄領国寝返りの続出&家康徳政で困窮状態で戦ってたんだから
そんな半月で瞬殺できそうな状況で1年費やして自力では尾張半分すら切り取れず信雄のヘタレ具合に助けられただけなのが秀吉
>>しまいには北条の援軍がもうすぐ来るからなどと妄言で、味方を繋ぎ止めてる始末。
そら長宗我部が敵になったら大変だからそのくらいするわ
>>上杉相手にも苦戦して信濃諸将の離反を食い止めるのに必死の家康が
>>秀吉とまともに戦うなんてことは不可能で楽田に秀吉がいる時は小牧山で籠城。
秀吉のまともに戦えないような圧倒的兵力差で秀吉に1万もの圧倒的損害を与え1年一杯粘ったのが家康と信雄
89 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:27:11.52 ID:2IcYkU5z
>>伊勢に秀吉がやってきたら、清洲で引きこもるだけじゃん。
ゲームじゃあるまいし7倍ほどの圧倒的兵力差で戦えるわけないだろアホ
>>秀吉は秀長とニ軍で有機的結合した軍事作戦が展開できるが、信雄と家康は合同して一軍を形成して引きこもりしてるだけ。
んでそれが何がすごいの?兵力に圧倒的に恵まれながら苦戦しまくりって最高に雑魚だろ
>>一方の秀吉は開戦と同時に、今戦役の集結を見通している。
実際にその8か月後に終結した戦闘でいかに秀吉の見通しが楽観的なのかがわかる事だ
>>戦いは開始した時点である程度の終戦構想が見えてないと泥縄的になってしまう。
終戦構想を妄想していたがそれが現に妄想と化し信雄のヘタレという幸運に助けられただけなのが秀吉
>>つか秀吉は滝川が蟹江城を奪取したの無視して納馬して帰ってる。
家康が怖くて出てこれなかっただけ。大体20町ほどの至近距離で7倍もの圧倒的兵力差でまともに攻められない秀吉が蟹江後詰なんかできるわけがない
>>これも一次史料にまったくない細川家の自称捏造。
家忠日記にあるし神子田がこの後名前がなくなるから史実
>>「其外軍兵一万余討死則敗軍、然共筑州覚悟堅固之故」の真横に「已後ノ沙汰ハ三千討死ト云々」って
長久手町史資料編には書いていない。しかも真横に書いてる時点で書き足しがミエミエ
>>噂レベルの話の場合は顕如日記には雑説と書くが、この文にはそんなことは書いてない。
沙汰を噂とアンチ家康の堀氏ですら訳している。注進などと妄想するのはお前だけ。注進という時は注進と書かれているのが普通。家康書状信雄書状秀吉書状でもそう
>>違う場所へ転戦しただけだろw
どこに転進したのは史料をもって詳しく
>>そこには二重堀なんて出てこないぞ。
二重堀と書いてなくても敗北の体にて撤退といってるから二重堀の敗戦が史実だと容易に想像がつく
>>それで秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこないから
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>付け城を三箇所申し付けた
あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね
>>加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記など)
>>秀吉の攻勢を家康らは引きこもって無策なまま、
間宮らが南伊勢で反撃しまた蟹江でも二重堀でも大勝。松ノ木・戸木も秀吉軍撃退
>>ひたすら長宗我部の援軍に秀吉背後を襲って貰いたくて必死に自軍有利の捏造を書いてるだけで
自軍有利な情報書いてるだけなの秀吉書状だろ
>>信張の言ってることがまるでデタラメなのがわかる。
普通に家康討伐しにきて1万人も戦死者出す大敗して退却なんだから全然デタラメじゃないだろ
>>むしろ家康が消極的でビビっている反面、信雄の方が秀吉にビビってない。
そして信雄以上に信雄に対してびびってるのが秀吉
>>だいたい秀吉は体調が悪く大坂へ帰ったのも虫気の治療のためで(腹痛の一種)
そんな史料ありません。見舞いの事なら陣中見舞いってだけ。大体大阪に帰る理由に滝川退城を秀吉書状であげてるじゃねぇかw蟹江で敗戦して諦めて帰っただけだわ
>>8/2には摂津有馬で一週間ほど湯治してるのが顕如日記でわかるのに
湯治なんて病気の時以外でも健康維持のために行うだろ。家康でも。
>>「秀吉が負けた」からと池沼のように曲解の連続連呼。
実際に蟹江で負けて諦めて退却してる
>>家康は追い詰められ完全に絶望的だったのが現実。
そんな絶望的な状況で自力では尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
90 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:28:09.89 ID:2IcYkU5z
>>えっ捏造だとする根拠は?wこれだって信長公記だけに書いてあるわけじゃねーぞ。
>>そもそも金崎の退口という言葉自体が三河物語の記述からだし。そこでも秀吉が重要な撤退指揮したと書いてる。
それは今では定説になってる。三河物語の記述が元亀元年庚午二月日と月単位で大きくずれ過ぎているので全くソースにならない。そもそも三河物語の浅井朝倉との攻防全般の記述が
デタラメばかりなので(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている)
>>しかも波多野秀信宛に書かれた義昭奉行衆の一色藤長の5/4付け書状の内容でも(信長は4/30帰京)
秀吉の活躍で退却できたとは書いてない。そもそも朝倉軍が積極的に追撃してきたのか戦いがあったかすらわからない。現に信長公記には木下を残したとは書いてるが
朝倉が追撃してきて激しい戦になったとは全く書かれていない。朽木の奔走で朽木超えに成功したとあるだけ。
>> 金崎城に秀吉・光秀・池田勝正が残されたと書いてあり秀吉はきっちり残留組だ。
池田の軍が3000もいて、軍の主力をなしていたとするのが現在の定説で、これに木下明智に徳川が加わればかなりの軍勢になるので、防衛・撤退くらい余裕
朝倉の追撃がどの程度あり、どのような合戦があったかわかる史料が講談くらいしかないので論外
>>そればかりでなく、上洛成功し信長が美濃へ帰国する際10/26の5000を指揮して京防衛守備武将として残された中にも秀吉はいる。
それが何がすごいんだ?あと、一応史料提示もよろしく
>>そして正月の三好らによる本國寺の義昭襲撃を排除してる。
三好の軍勢数は?5000の軍勢で排除できないほどの大軍なのか?
>> 閏5/25付けの東寺の寺領安堵や10/9阿弥陀寺への兵士寄宿免除などから武将としては秀吉だけを残しているのが判明してる。
そりゃ他の方面の敵が心配だったってだけだろ。どこが困難な仕事なのか不明
>> 秀吉はもっとも困難な軍事的困難なことを常に任されてきてんだよアホ
いや最も楽な仕事しかしてない。箕浦合戦では敵軍が結束力のない一揆勢だから勝てたと勝利の理由を信長公記でもちゃんと書いてるし
>>しかし秀吉が浅井戦線最前線に転出し敵中孤立して張り付くとさっそく幕府との関係を瓦解し始める。
そりゃ単に織田軍の兵力と敵軍の兵力比の比が大きく変わったので戦況が大きく変化しただけ。むしろ金ヶ崎といい熊見川といい三木合戦の醜態といい秀吉が出てくと
必ず負け戦か大苦戦にしかならないのでそれだけ雑魚だった証拠
つうかお前他スレで金ヶ崎はなかったなどと書いてるのに平気で矛盾した事書くんだなw
71 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:22:30.76 ID:/rnb16KK
織田厨はバカ無知だから相手すんなw どうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が 天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。 仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には 義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。 信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし 信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して
義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により
浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし
二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う
浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
91 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 20:30:54.23 ID:2IcYkU5z
>> そもそも当時は上月城なんて呼称で呼ばれていない完全に江戸期になって毛利側が作った造語。
デタラメ書くなよ。信長公記にも上月城とはっきり書かれてるし天正4年に宇喜多直家が攻略した際の書状にも上月城とハッキリ書かれてるわ
また天正6年の5月に秀吉が上月城攻囲の毛利方と対峙した際の書状にもハッキリ上月城と書かれてる(阿波国古文書)
>>じゃあなんて呼ばれていたかといえば、七条城って呼んでた。だから当時の書状で上月城と書いてるのは偽書状。
いやむしろ七条城と読んでるのが偽文書。同年の多聞院日記4/29条にも上月城を助けるため滝川明智などを送ってるのがわかるし
熊見川の戦いをはじめ、上月城攻防関連の毛利の史料は山口県氏史資料編により、原本によって花押の確認が取れた書状ばかりなので全て本物。むしろ
七条城などとデタラメ呼称で読んでるのは全て秀吉や織田方が後年になって偽作した偽書状
>>12/5付秀吉→下村玄蕃助宛書状で(下村文書)
宇喜多はこの時期出陣などしておらず、国内での政務におわれてるのが一次資料で確認できるため、明らかに偽書状
>>はいはい偽書状乙w5月の秀吉が出した書状で本物認定されてるのは下記の書状だけだタコ(三鬼清一郎氏の認定)
三鬼の妄想なんぞ知らん。山口県史資料編3目次解説凡例の最後から2ページ目の12行目
でも見直せ山口県史資料編凡例 2ページ目
正門でないものについては、中世に書写されたと思われるものには「案」とし
近世以降に書写されたと思われるものには「写」とした
現段階では真偽の容易ではない文書、また偽文書と考えられるものでもその存在に
何らかの意味があると判断される場合は、検討を要する旨の注記をつけて収録した。
んでソースとしてあがってる書状をみてもそんな注記も「写」もついておらず
偽文書などという馬鹿妄想いうのはお前だけ
さらに「上月城」という呼称は下記の他の史料でも使われており他の呼び方をしている文書が捏造されてできてるだけ
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
>>秀吉による但馬の攻略が完了したことも報じていて
お前天正8年にやっと但馬が平定した事もしらんのか。天正8年の山名氏政→古志書状(古志文書で)4/13には織田勢が今度但馬に乱入してきて種種入魂之被申分、尤祝着候とか書いてるし
5/19には去4月18日但馬水生表の合戦で織田勢と竹野衆が合戦し竹野衆が勝利したと報じている
6/13垣谷豊続→岡遠江守感状で宵田表相動候処、則織田勢罷出候之間誠砕手数剋相戦切崩、得勝利などと勝利を書き綴っている
92 :
人間七七四年:2013/08/02(金) 23:17:53.13 ID:6/8m/z4Q
93 :
人間七七四年:2013/08/03(土) 15:47:25.87 ID:cE3iY8A5
>>66 確かにw
キチガイコピペ厨が武田厨を装う織田厨の工作ってバレた途端に
武田厨爆撃コピペが止まったよなwww
94 :
人間七七四年:2013/08/07(水) 10:35:25.44 ID:YwE30+NB
なにこの在日チョンのだが臭いスレ
95 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 12:20:09.07 ID:vGlLhTWo
反大友をキチンと一次史料の裏づけを提示してやるなら
ちゃんと相手してくれるんじゃないかな?
根拠を書かずに
>>937みたいなことを書いたらただの反大友の厨房キチガイでしょ。
ちなみに毛利厨が誤まった歪曲捏造知識を手に入れてるだろうことは想像がつく。
江戸時代に毛利は捏造歪曲毛利マンセー史を編纂してる。
大友や大内や尼子や宇喜多や竜造寺や浦上や赤松が滅亡してるから
他家史料との比較もできず、やりたい放題捏造できたから。
そしてその捏造軍記を手本に偽感状が生産され先祖の名誉ある武功が事実のように語られた。
それでまぁ、宗麟のこともデタラメを書いて、毛利の自己正当化が図られてる。
たとえば陰徳太平記での宗麟像は、
歳若い美女を領国中から求め、酒池肉林に溺れた生活をしていて
それを憂えた道雪が居所を集めて宗麟の気を引いてから諫言したが、すぐ元の堕落した生活に戻ったとか
家臣の妻が九州一に美女だと聞いて、その家臣を殺して妻を略奪したとか
まったく一次史料にない話をデッチ挙げている。
そのエピソードを盗用して高橋記では一万田の妻を奪った遺恨が実はあったなどと捏造し自己正当化してる。
宗麟がダメ人間とするエピはすべて大友滅亡後の江戸時代に作られた軍記ネタ
そもそも宣教師は宗麟は体質は元来、虚弱だが優秀な人物と評価しているし、
妻がそもそもヤバイ奈多夫人なので、略奪妻とかありえない。
96 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 12:20:27.11 ID:vGlLhTWo
3 名無し曰く、 2013/08/09(金) 11:34:05.86 ID:I88iWBBs
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
22:人間七七四年 08/14(日) 15:00 p7pjEErP [sage]
>>11>>19 摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
26:人間七七四年 08/15(月) 09:22 p9qSTrsV
そもそも秀吉が好色だったのかどうかすらも怪しい。
衆道をやってないなら好色だったんだろ!的な江戸庶民の妄想の産物だろ。
97 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 12:21:19.11 ID:vGlLhTWo
好色を証明するソースは無い。 唯一あげるとすれば信長がねねに出した書状くらいだが
それだけでは好色と大げさに言われるほどの内容じゃない。
そもそも子姓をはべらし衆道など性に奔放熱心だった信長や家康の方がはるかに側室も圧倒的に多いし子供も大量にいる。
むしろ子姓も侍らすことをせず能をやったり、オッサン達と軍記話をして楽しむことが多かった多趣味な秀吉は性欲があまり無かったから子作りに熱心じゃ無かったんじゃないかな。
38:人間七七四年 11/18(金) 20:44 umlTHGZA [sage]
女好き最強は中華の後宮並みと言われた信長だな。
秀吉は信長や家康と違い ガキあんまりいないから 女好きって軍記講談話に惑わされてるだけで、
実際にはエロより800人いたと言う御伽衆との会話ばっかり楽しんでいたと考えられる。
42:人間七七四年 08/23(木) 10:51 4cgiEJma [sage]
中国みたいな後宮つくってたのは明智軍記で1000人の女性を囲ってたとされる信長だけ
だから信忠をはじめ母が誰だかわからん子ばっか。基本的に戦国時代は一夫多妻制じゃないからね。
秀吉が側室をたくさん持ってたと誤解してるやつもいるけど
あれは人質として差し出させて厚遇してる姿をアピールしてただけ。
秀吉が手をつけてないのは子供ができなかったことでもわかる。
それを秀吉の種なし&秀頼の父は別人説をデッチ上げてるのは在日。
そもそも秀吉が女好きの変態みたいに書いてんのは陰徳記って言うもんを編集した毛利の捏造だから。
宇喜多秀家が厚遇されてんのは、秀家の母が秀吉に寵愛されてるからとか、
嫉妬して秀家を貶している醜い毛利
陰徳太平記は正則を酒狂いで家臣を自刃させたりする愛を知らない大工の子と書いてたり、
天野の武勇を聞いて宗茂が召し抱えた後に、正則が天野を召し抱えようとして
宗茂に先約ありと聞いて遺恨に持ち、朝鮮陣で何かと正反対の意見を吐き険悪だから
広家と長政が酒席に読呼んで和解を斡旋したが、武勇の家臣ときた宗茂と1人で来た正則。
酒の肴に宗茂が踊りながら正則の前に来たので,鴻門の会のようになり
険悪になったが広家と長政がうまく収めたとか、
秀吉死後に三成や増田が増長し始皇帝死後の趙高のようだと書いたり真偽不詳の嘘話多過ぎ。
しかも肝心な関ヶ原は書いてないからそんな悪評の三成と輝元が組んだり、
自称名将の広家が関ヶ原で下手うって、長政偽書状まで偽造して
広家のおかげで毛利が存続できたストーリーを作ったのかわからん。
そのくせ、やたら長政と親しいアピールがウザい。
江戸で動けなかった家康…黒田親子の家康へ協力しろ書状を再三にわたり無視してただろ伊勢にいた広家…
正則の悪評の元ネタの大半が陰徳太平記だからな…
よほど安芸の主人になった福島を毛利は逆恨みしてたんだろうなあ。
正則がアホ馬鹿だとイメージされてきた代表的エピソードの数々の出典って毛利捏造軍記だったとは…
正則の印象を変えなきゃならんね
98 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 12:24:33.53 ID:vGlLhTWo
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、
これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。
若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。
直江状に本来なかった追而書を付け足す暴挙をやってのけて加筆したり
関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。
さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。
光成氏「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、光成氏が指摘したように、
一次史料を装う吉川広家偽書状の自己正当化擁護の卑怯な歪曲のように
広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
99 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 12:29:29.70 ID:vGlLhTWo
山室氏も鴨川氏も元就が一次史料レベルで歴史の捏造してるのを指摘してるしな。
自分の過去の所業を改竄するとか歴史の冒涜までして正当化。
まじキモ大名毛利。
サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった
広島県立女子大学 秋山伸隆氏
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
毛利は偽書状祭りと言われてます反論お願いします。
特に下記では捏造武将隆景&元春と馬鹿にされてます。
小早川隆景 VS 直江兼続
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1295864542/l50 明治になっても捏造歪曲を続ける歴史コリエイトも毛利!
さすが看羊録でも朝鮮人に似ていると書かれた毛利!
贈位が行われた明治・大正にかけては長州閥の政治権力が強大であった為、
一部で不公平も見られる。例えば長州藩の祖である毛利元就に正一位、三兄弟に正三位が授与された。
これは正親町天皇即位式の功が理由とされる。
一方でその元主君大内義隆は後奈良天皇の即位式だけでなく日常的に朝廷や公卿への貢献が抜きん出ていたが
明治政府からの贈位を見送られた。この差は「毛利元就の献金は勤王だが、大内義隆の献金は
猟官運動目的であり勤王によるものではない」という見方による。
長州閥が毛利元就の下剋上を正当化する為には大内義隆の評判が悪いほうが都合が良い事情もある
100 :
人間七七四年:2013/08/10(土) 12:35:22.09 ID:vGlLhTWo
101 :
人間七七四年:2013/09/14(土) 20:57:34.86 ID:w+j4FQ1f
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
102 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 15:57:12.37 ID:xYeGFlCV
或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
103 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 16:15:35.25 ID:N5pxziaB
哀号 震える哀号 それはだがの歌〜♪
104 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:35:41.58 ID:9nRsuk3b
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
本能寺の変、信長を暗殺したのは秀吉だった★1
//awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1373875525/l50
家康が最も恐れた男は誰なのか?
//awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/l50
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。(続く)
105 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:37:49.66 ID:9nRsuk3b
(続き)
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
106 :
人間七七四年:2013/10/24(木) 18:41:29.98 ID:9nRsuk3b
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
107 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 08:01:14.66 ID:NVczAkqM
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
108 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 10:02:16.97 ID:bhqXCf6X
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。
109 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 19:18:29.01 ID:2MnTOxxv
基地外アンチ秀吉コピペ厨が来て自分の完全論破された基地外コピペ貼りつけ。
恥の上塗りしに来てるw
110 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:13:13.34 ID:3y7rt9Z3
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
111 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:13:54.69 ID:DCT+1A63
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
112 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:14:36.38 ID:jiuyOrWu
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
113 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:15:21.55 ID:6OMqmImx
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
114 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:16:10.68 ID:S1MlCeIG
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
115 :
人間七七四年:2013/10/25(金) 21:16:58.70 ID:6OMqmImx
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
116 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 06:55:36.31 ID:WkegeyP/
菅沼遼太
117 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 21:06:18.66 ID:mm2GDd0Q
相変わらずの基地外ぶりだな
118 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:26:27.79 ID:4ZfIgQe/
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
119 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:27:13.71 ID:vBp1+m7+
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
120 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:27:54.24 ID:2CYoN/9U
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
完全論破されてるのお前だろ。
どの道大政所が最初から家康上洛時に限定的に出された人質なんてどこにも書いてねーよバーカ
原文の秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二では、全く一時の物とか限定的な物とは触れられてない)
この記述じゃ大政所の人質と家康の上洛が交換条件という可能性はあっても
大政所の人質が一時的条件なんて事は一言も読み取れねーよ。つか上洛する人質なんだったら大政所が人質になる事が、家康上洛の条件という事になるだけだから
そのまま大政所がずっと家康の人質になってたとしか読み取れないだろ。
つか 他の史料でも多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>10/10や10/13、10/17、11/1の記事はただ単に大政所の居場所を記しただけの記述。
根拠不明。大政所が人質になったという事はかかれてても一時の単発的、限定的条件下での物なんて一言も触れられてないし
そもそもそんなものは人質とは言わない(上洛候人質なんだから、人質を出す代わりに家康が上洛するというように交換条件と考えられ、
大政所の人質預かりが一時の物では到底交換とはいえない。上洛候人質なんだから、家康の上洛するに際し、それを求めるため大政所の人質という条件がなされたとみるべき。)
121 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:28:28.45 ID:D/sJuL5J
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
11/12には再び三河深溝まで戻ってるのが家忠日記で確認できるし
天正16年6/23家忠日記 家康が大政所の病気見舞で大阪を出発し三河岡崎に到着してる
大政所が大阪に行ったのは天正16年8/10(言経卿記)
9/8家忠日記御前様(朝日姫)迎ににしの野迄こし候
9/9御前さま岡崎今日は御到着にて
9/9家忠日記 御前様御迎ニにしの野迄こし候
会下(額田郡本光寺)へ参候、御前さま岡崎今日ハ御とうりうにて御音信ニ人をこし候
>>大政所は秀吉の大坂城や聚楽第に自由に住めている。 天正15年9月13日は、完成間近の聚楽第の身内だけの内覧会で、
>>秀吉は大坂城から大政所や北政所などの身内だけを連れて聚楽第に行き、
それこそ家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
>>大政所が天正14年11月12日以降、三河にいない記事はまだまだあるんだがw
そんなもんない。お前が捏造してるだけ。仮にあったとしても
家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけだろ。
大政所が人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
大政所は人質だが、秀吉がだましうち的に襲って奪い取ったか、あるいは家康の温情で行事に参加させてやっただけ。
>>史料にないこと
史料にない事は「大政所が人質じゃなくなった事」や「大政所が一時的限定的条件のみの人質だった事」
大政所は家康の人質になったという事は史料にあるので、その人質である大政所が京や大阪にいるのは
家康の温情で晩年なのにかわいそうだから一時、京に返してやっただけあるいは
秀吉がだましうち的に襲って奪い取っただけ。
>>日記の日付の下に書いてある干支
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
日記の場合日付のすぐ下の部分に時刻が書かれるわけで(現に顕如日記とかがそういう構成になってる)
家忠日記の場合6月三日と書かれたすぐ下に丑と書かれてるから丑の刻に家忠が知らせを受け取って書いたんだよ
日付なんて十二支で現したって仕方ねーじゃん。
既に日付は書かれてるのにそんなもん日記として不要だろ。
122 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:29:22.99 ID:6TcS5Ldx
>>家忠は自分の行動に対しては主語をつけない
確かにその通りだが一文中での他の人から自分へと主語が切り替わるパターンはない。
なぜならそんな書き方をしたら読み手からして誰のことかわからなくなるから。そしてこの文の場合次に来てるのが
井伊直正が大政所を送に参じた、というようにあくまで大政所が文の中心になっていて、家忠に主語が切り替わっていないのがわかる。
また仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>「ふかうす帰候」という文章は家忠日記に無数に出てくる。
確かに出てくるが、この場合は、直前に大政所、と出てきてるので、大政所の事だろ。後ろの文でも大政所が話題の中心になってるしな。
>>天正14年6月23日条から大政所という言葉
見つかるも糞も直前の22日条に大政所様御煩以外と書かれてるじゃん。
それで翌日家康が岡崎へこし候て大平で、大政所と御めにかかり候という流れだろw
>>そもそも高齢で病気の大政所が大ひらまで出かけるって何だよw
いや元々そこに住んでたってだけだろw
現に、天正14年11/12条でその近くのふかうすに帰ってるじゃんw
秀吉御母大政所家康様御上洛候人質二→家康が上洛する時人質になったってだけだろアホ
大政所がその前のくだりで多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
って書いてあるしどこにも三河へ行ったのが秀吉へ謁見する時の限定条件なんて書いてねーよクズ
天正14年11/12家忠日記 大政所御帰候、ふかうそ帰候、井野兵部少諭送ニ被参候
→大政所が帰った。深溝へ帰った。井伊直政が送りに参じた。
>>ふかうすの主語は大政所じゃない
主語が変化する時はちゃんと書かれてる。書かれてないとそれが誰の行動だかわからないからな。次の文では井伊直政がちゃんと書かれてるし
井伊が送りに参じたと書いてるようにこの12日の文章全体が大政所の行動としてかかれており、家忠の行動とは全く関係ない(この日記を見ると日記の
文中で、一日・一文の区切りの中急に主語が変わったりする時はちゃんと明確に書かれてる)
前述のように大政所は「人質」なのだから、大政所が帰る先は三河か遠州かどちらか。人質じゃなくなったなんてどこにも書いてないからな。
家康と一緒に岡崎まで行った後ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候 という風に岡崎に帰っただけだろ。
123 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:29:51.05 ID:2RAGFiTt
>>「家康様御上洛候人質二」(「家忠日記」天正14年10月17日)
家康様が上洛された。人質になった。それだけ。その時だけとかそれ限定とか全くかかれてない。
書かれてない事を勝手に取り繕うお前の脳はガチでイカレてるなw
>>家忠日記11/12には大政所ふかうそ(三河額田郡深溝)帰候と書いてて
>>↑ また嘘つくwどこまで原文読んでない
どこが嘘なんだよタコw主語の転換がされてねーから大政所の事に決まってんだろアホw
主語が一つの文で変化する時はちゃんと明記されてるわ馬鹿。現に次に井伊が明記されて大政所の事が書かれててちゃんと文の中心が
大政所の事だとアホでもわかるだろ
>>「大政所御帰候」(「家忠日記」天正14年11月12日) だけ。
文中で主語が変化する時はちゃんと書かれてるわアホ10/7条とか9/26条とか読んでみろよアホ
>>では、家忠日記から、家忠が他人のことから家忠自身の話に切り替えるときに
>>家忠を表す主語をいれた例を抜き書いてごらん。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
>>「大政所御帰候」 「ふかうす帰候」 「井伊兵部少輔送二被参候」 がそれぞれ主語+述語を伴った一つの文章。
いやいや井伊直正が送ったと書いてるしそれはない。文の前後で大政所の話を中心的に入れてきてるのに
急にその間だけ家忠とかないわ。
124 :
人間七七四年:2013/10/26(土) 22:38:25.81 ID:WkegeyP/
菅沼遼太(本名脱糞したらコピペ連投生命終わりだ…)
菅沼遼太(そうだ、こっそり嘆願して音をかき消そう!)
菅沼遼太「・・・・・・・・・・・プスゥープヒィー・・・・・」
削除明王「菅沼遼太くん、ど、どうしたんだいきなりよそよそしくなって」
菅沼遼太「なんでもな(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ
125 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 11:23:38.06 ID:lTjbXdDN
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡
126 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 11:30:55.87 ID:lTjbXdDN
アンチ秀吉コピペ厨、日本史板で論破され逃亡
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
127 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:25:21.37 ID:57uAcPdM
>>日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
はいはい根拠なし。日記は書いた記録の日付と時間を表すだけであって、時間ではなく日付を干支で現したとか曲解乙
>>秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきた
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。
128 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:26:05.13 ID:5chk9Qm2
また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
ぶっちゃけ家康なんて従属してないよな
秀康なんて停戦条件の和議の条件で養子として迎えただけだし(秀吉は秀康を人質としては扱ってないと信雄が天正13年7月書状で書いてる)
従属なら自分の母と妹を自国の15分の1の国力の相手に送り出すとかありえないし
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
129 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:26:39.39 ID:vGFEoMb+
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
130 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:27:03.19 ID:kL/gstiq
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
131 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:27:33.75 ID:wDINgq2n
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
132 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:28:06.70 ID:aupvfXBZ
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
133 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:28:31.44 ID:5chk9Qm2
>>家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
そもそも短い短文の一区切りの文章の中で文章の主語がころころ入れ替わる文なんてねーよ
たとえていうなら、あの人は深溝にいき、(私は)←省略 家に帰った。
こんな事書いても主語があの人としか解釈できねーだろうがアホ
つか、そのあとに井伊直正が大政所を送ったというくだりがでてきて、文の中心の話題が大政所なのに
急にころころ主語がいれかわるわけねーだろw
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
134 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:29:00.26 ID:vGFEoMb+
11/12のふかうすに帰ったのと家忠と決め付けるとか相当馬鹿だな。
仮にふかうそに帰ったのが家忠じゃなかったとしても、大政所が大阪に帰ったとか全く触れられておらず、大政所は下記史料
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記
天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ
>>家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
はぁっ?そんな事誰も書いてねーよクズ
>>家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所
なんでそんな議論と関係ない事を証明しなきゃならんのだよタコw
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
135 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 12:30:03.95 ID:kL/gstiq
>>大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
それ以降も糞も最初から人質なんであって一時的・限定的条件での人質なんて書いてねーよクズw
多聞院日記天正14年10/7条 関白殿母儀大政所へ参川へ人質ニ御越とて
10/13条秀吉老母人質ニ三州へ被下了ト10/8秀吉→一柳朱印状 大政所至三州下向候 10/10秀吉→田中、一柳 大政所三州へ下向候
家忠日記 10/17 秀吉御母大政所家康様人質ニ明日十八日ニ岡崎迄御越候間
10/18 大政所御迎ニ知鯉付迄こし候 顕如日記 天正14年11月1日条 大政所十日比ニ三州へ御下向、これハ証人の躰也
と書かれてて人質と上洛と交換条件であるとか、その時限定だとか全くかかれてないんだが。
から、人質である身分の大政所が帰る場所だから、明記されていない帰る場所=浜松か岡崎となるだけ。
つかその文の人質は大政所であり上洛するのは家康だから、普通に考えりゃ家康が上洛した、秀吉の母が人質になったと並列か
家康が上洛するに際し大政所が人質になった、と書かれてるかどっちかだろw
>>三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
そんな主張してねーよ。家康の居城かどうか知らんが深溝に11/12に帰ったって事だろ。それから先は京に行ったりもしてるようだな。
>>天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
>>一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろと捏造。
そりゃ家康の人質じゃなくなったとか一言も書いてねーからな。だから人質の本来帰る場所=岡崎か浜松
にもかかわらず京や大阪にいるのは秀吉が騙しうち的に奪い取ったか家康の慈悲と好意で京や大阪に一時的に住まわせてやっただけだろ。
>>大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っている
デタラメ乙。天正14年11/12条家忠日記には大政所が帰った。深溝に帰ったと書いてあるだけだわアホ
主語の転換がされてないからどうみても大政所が深溝に帰っただけだろ。仮に大政所が帰ったのが深溝じゃなかったとしても
大政所=家康の人質(上記史料)なんだから人質の帰る場所=岡崎か浜松だろ。
>>すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り
当たり前だろ。大政所の主語が出てきてるのに。主語の転記がされてないからな。
大政所が帰った。深溝に帰った。それだけ。
136 :
人間七七四年:2013/10/27(日) 14:12:29.86 ID:KV/Vqh7K
すがぬまー
荒らしてる暇あったら高認の勉強しろよ
137 :
人間七七四年:2013/11/19(火) 16:57:21.28 ID:xyDUiw3P
このIDを変えるキチガイは菅沼遼太君です。
信長の野望スレを4年間荒らしたキチガイが自ら本名を公開
http://www.logsoku.com/r/livejupiter/1380635645/ 荒らしのために複数回線と契約してる菅沼遼太さん。
各地で荒らし行為を繰り返して、住民に多大な迷惑を掛けていたにも関わらず、
自分が被害にあうと逆切れ↓(24も25も、成り済まし大好きな
21 : 菅沼遼太[
[email protected]] 投稿日:2013/10/01(火) 15:05:14.00 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp<8080><3128><8000><1080>[115.65.140.229] [1/1回]
対象区分:[個人・三種]優先削除あり
削除対象アドレス:
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1380092620/92 削除理由・詳細・その他: 個人の取り扱い
三種
上記2つに当てはまらない全ての人物
三種:
誹謗中傷の個人特定が目的である・文意により攻撃目的である
誹謗中傷
三種:
個人を完全に特定する情報を伴っている。
22 : 21[
[email protected]] 投稿日:2013/10/01(火) 15:10:35.88 HOST:g229.115-65-140.ppp.wakwak.ne.jp [1/1回]
>>21も削除していただきたいです。
23 : 不動 ◆HpcRk2ELiM @削除明王 ★[] 投稿日:2013/10/01(火) 18:41:44.52 0
>>21-22 却下。名前だけなら削除対象ではなく、削除する理由なし。
#名前との組み合わせで削除対象になる記述がありません。
#予備知識のない第三者には個人を全然特定できない上に、
#誹謗中傷として扱う記述もありませんでした。
#なお、もし当スレの21を正式に削除依頼しても、削除する理由がないので却下あるのみです。
24 : うんこ[] 投稿日:2013/10/01(火) 20:53:49.39 HOST:ntaich067177.aich.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp [1/1回]
>>23 却下
じゃねぇよボケ
ちゃんと仕事しろよクズ野郎
25 : 21[] 投稿日:2013/10/01(火) 21:10:10.04 HOST:g71.124-45-254.ppp.wakwak.ne.jp [1/1回]
>>23 手前ら無能な運営の不手際で個人情報が漏れてクレカ変更までやって手間取らせておいて
個人情報晒しも却下とかどんだけ身勝手なんだよクズ
138 :
人間七七四年:2013/11/26(火) 10:41:01.50 ID:cH0MPyeD
まーた単発ID自演大好き織田チョンの自演か。
139 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 01:59:14.83 ID:+m1zQp6o
キチガイは菅沼君だよ。
140 :
人間七七四年:2013/11/27(水) 08:49:40.64 ID:7iAv8zmk
菅沼遼太w
141 :
人間七七四年:2013/11/28(木) 22:34:30.44 ID:pueDQVsi
朝鮮人アンチ秀吉&家康ヲタ=戦国板&日本史板の荒らし菅沼遼太が
他人が立てた日本史板の同一スレに一日中大量コピペを貼り続け
ついにスレが512K容量オーバーで書き込めなくなった件
家康が最も恐れた男は誰なのか?
//awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/l50
142 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 08:58:57.22 ID:hP/NGFSg
>>141 自作自演乙w
スレが512K容量オーバーで書き込めなくなった事を知るには、
実際に書き込みしないとわからない。
つまりお前が日本史板のスレをコピペ埋めスレストした後、
ここに他人のフリをしてわざわざ報告してるだけだろ基地外チョンくん。
143 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 09:06:40.40 ID:b6Egul70
責任転換甚だしいな菅沼遼太
144 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 12:58:32.81 ID:NsCiPdm7
28 :人間七七四年[sage]:2013/11/11(月) 10:19:37.36 ID:/1X1HoE0
>>18 いま日本史板見てきた。
家康が最も恐れた男は誰なのか?スレが舞台だったみたいだが、
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/533-633 不等号大好き在日アンチ秀吉くんが屈辱的に馬鹿にされてんなw
>>(天下ハ朝倉(義景)殿持給え。我ハ二度望ミ無」ト起請ヲ書給ひて、無事ヲツクリて岐阜ヱ引給ふなどとデタラメをデッチ上げている
武田厨を装い、キチガイ爆撃コピペをして荒らしまわっていたが、ついに織田厨チョンの顔を現したかwww
勝手に俺の武田レスをコピペしまくってあちこちには貼っては、追い討ち自演で荒らし認定してまわんじゃねぇよカス織田在日チョン。
俺は不等号なんてガキくさいもん使って序列なんてつけないわ。つか俺のコピペから織田厨として一番不都合な部分は編集削除してんのなw
パクるなら下記みたいにキッチリ全文コピペしろや! つか絶対にコピペしない文章とかあるのは何でwww
どこに家康の勝利なんて書いてる馬鹿がいるんだよwww
家康と信長が大好きでわざわざ引っ越してまで三河安城市に住んでるならもう少し調べてから書けよwww
おっとw信長にへスレ住人の怒りが向かないように自分は武田と徳川が好きなフリをしてる在日君だったよな〜。
あくまで武田寄りの大昔のレスをコレクトして、大量投下し武田厨を荒らし認定しつつ、
在日チョンとしては決して譲れない秀吉・三成擁護レスにはムキになってスレごと埋め立てする勢いで超大規模投下レスをしてるんだもんな。
つか教科書まで捏造して自演したりとお前面白いなwww
秀吉が嫌いな為に家康擁護・信長大好き・武田厨は荒らしの罪を擦り付ける愛知県民らしい行動だなwww
そいつは武田厨を装い、武田厨のとっくの昔の過去レスを編集して大量爆撃コピペした後に
必ず武田厨をキチガイ荒らし認定追討ちレスを付ける自演キチガイ在日織田厨。
特徴は誰でも彼でも自分の意に沿わないレスは全部、だがの書き込みとして排除しまくり、
WIKIや外部に議論サイトを作り、そこに誘導してリモートホスト(IP)盗みや危険サイトへのリンク貼る犯罪予備軍。
さらにわざわざ工作スレをあちこちの板に作ってまわる粘着ストーカー。織田厨だと思われないように工作しているが、
信長より秀吉の方が優秀とするレスには真っ赤になって発狂し常軌を逸っしたレス埋め行為の火病を発症する。
また豊臣政権や光秀や三成の擁護にも火病を発症させ、ムキになって家康・輝元・信雄擁護で口から泡を吐く。
日本史板・ゲーム歴史板・三戦板・歴史難民板のすべての秀吉・三成・関が原・朝鮮出兵スレをコピペ爆撃で崩壊させた真性反日織田チョン。
昔から自分の意に添う正義の意見以外には悪のレッテルを貼り人格攻撃し排除する基地のため怖くてレスできないと文句を言われるや
自演呼ばわりして単発IDの異常な連投で正当化。そもそもSABからして2人以上存在していて、会津の石高で争いあった人たちを
みんな纏めてSAB呼ばわりし、札幌や横浜在住と言ってた人々をみんなSABと決めつけるアホ
愛知の安城が住所と言うのも安城のデパートの話やら豊橋貶しをしてる別人をSAB扱いしただけのことで
そもそもSABってのもWIKIで信玄や謙信のホモネタで荒らし編集してる人(こいつも信長ホモネタは絶対に書かなかった)
を指してSABとレッテル貼っただけのことで、それと戦国板に登場するSABとの関連性はまったくないのに同一視。
さらにSABは信玄や謙信の悪口は絶対に書かなかったなどと、ホモネタ荒らし行為を隠蔽し、むりくりSAB=だがとレッテル二重貼りまでやる始末。
だいたいだがからして二人以上いたのは明白で、それをだがの自演だと論理飛躍しないとつじつまがあわず、そこにSAB同一までくっつけて狂いすぎ
見分け方は不等号が大好きでよくそれを使って序列をつけたがるアホ&曲解してるので説明を一切つけない抜粋史料の日付け順羅列。
145 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 13:00:21.44 ID:NsCiPdm7
184 人間七七四年 2013/11/27(水) 12:11:23.27 ID:KPKeSkWy
>>183 それ織田厨の自演じゃんw
菅原なんて、最初から存在しないレッテル貼り工作じゃねーかよwww
存在している証明を一切してねーじゃんw
まるで存在するかのように、自演ででっち上げてるだけなのは
傍から眺めてればすぐわかる話なのにwww
織田厨自身にはその視点が見えてない完全な盲点みたいだな。
185 人間七七四年 2013/11/27(水) 12:14:47.21 ID:KPKeSkWy
ついでに言うと、wakwak.ne.jpって、
株式会社エヌ・ティ・ティ エムイー だから
仙台市になるから、愛知県ですらねーじゃんよwww
186 人間七七四年 2013/11/28(木) 11:06:11.00 ID:WrI0Yzla
仙台www織田朝鮮人の主張がデタラメなのが判明したなw
146 :
人間七七四年:2013/11/29(金) 16:35:40.40 ID:c1uK1/60
>>142 悔しいな、菅沼遼太。
日本史板の「家康が最も恐れた男は誰なのか?」スレのアンチ秀吉大量コピペは
日本史板や戦国板の住人には有名なスレ。
あのスレでまだ菅沼遼太のことが紹介されてなかったので書こうとしたら
菅沼の大量コピペのせいで512容量オーバーだったわけだ。
512容量オーバーの事詳しいな。
さすがは捏造大量コピペで数々のスレをぶっ潰してきた菅沼だけのことはある。
147 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 09:26:19.33 ID:EblQwzDf
ここ、だがが織田チョンを非難するために建てたスレなのに、
まるで織田チョンが建てたかのような乗っ取り態度ぶりで180度豹変だなw
さすが織田チョンは背乗り行為が得意なだけあるなw
主客転倒甚だしい。
148 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 18:28:07.34 ID:7jybM8lX
>>147 必死だな、菅沼遼太w
>>145にあがっているID:KPKeSkWy=菅沼遼太も話題そらしに必死なんだが
wakwak.ne.jpは日本全国共通なので仙台市なんて決まりはない
愛知県でも使われているので愛知ではない証明にはならない
むしろアンチ秀吉大量コピペ基地外がなんでそこまで必死になって否定するかだ
そこまで必死になるのはアンチ秀吉基地外が菅沼だからに他ならない
149 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:00:50.37 ID:TNWzfLhs
真田昌幸にさえフルボッコされた徳川軍の弱さに呆れ果て、
石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替えした。
そして家康は信雄に秀吉との和睦をすがった。
和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われたが、
姉との婚姻関係を結んで親族になってさえ、
殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は、
自分の母を三河に遣わし、
家康の上洛に謀殺の狙いは全く無いことを表し、
秀吉の功徳に新帝と上皇は喜んだ。
150 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:18:16.65 ID:+WCqyI7u
>>家康は信雄に秀吉との和睦をすがった
全くすがっていない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
151 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:19:40.69 ID:8vG7BK6W
>>年が明けるとすぐ信雄にあって秀吉への取次ぎを頼んだ。
はあ?取り成し頼んだのは秀吉であって家康じゃねーよクズ。
なんで豊臣に従ってもいない家康が、豊臣の配下になってた信雄に取り次を頼める立場にあるんだよアホ。
信雄はその時期もう完全に秀吉の配下であって、秀吉の意で動いてたんだから、秀吉が必死に戦いを避けるために
家康への仲介を依頼しただけだろどうみても。
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
152 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:21:14.06 ID:OASR7wQn
>>もうビビッて有楽斎に、信雄との冷え切った関係の修復の斡旋
そんな事全くやってないし、全くビビってない。下記をよめばわかるが秀吉のが圧倒的にビビってる。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
153 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:22:16.18 ID:4/9pscjv
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
154 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 09:26:32.61 ID:4/9pscjv
>>石川数正や小笠原らが家康を見限り、秀吉陣営に鞍替え
石川は天正12年春の時点ですでに秀吉に篭絡されつつあったのが三河物語や松平記などでわかるし
小笠原は石川が小笠原の人質を連れて秀吉の元に逃げ込んだから鞍替えしただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
木曽なんか天正12年時点で離反してるし真田も小笠原も天正壬午の時の空手形や北条との領土交渉
など信濃内での領土問題で家康に不満もって離反しただけなのに無理矢理家康の天正13年の行動と結びつけるとか相当馬鹿だな
ウザイからさっさと出てけよクズ野郎
155 :
人間七七四年:2013/12/06(金) 11:16:52.44 ID:4/9pscjv
>>和睦を成したあと、秀吉に上洛して来いと言われた
そんな事秀吉は言ってない。秀吉は直前まで出兵計画立ててたが
いざとなるとビビリまくって、信雄送って仲介やってもらった上に母や妹まで差し出して必死に土下座して戦いを避けただけ。
>>殺される恐怖から上洛だけは嫌がるヘタレ家康。
殺される恐怖ではなく、秀吉をナメくさって暢気に過ごしてただけだろ。前年には北条との同盟強化や浜松会談など、
秀吉の三河出兵計画や、木曽小笠原石川水野真田の離反や逸れに伴う軍事機密露見や天正13年夏の大地震、対真田の敗戦など
種種の領国崩壊要素があったにもかかわらず、秀吉の討伐計画に対して、全く危機感0で暢気に無視していただけなのが家康。
>>天皇の譲位と新帝即位の晴れの舞台を演出したい秀吉は自分の母を三河に遣わし
妄想乙。家康が怖くて母や妹を差し出したのを、晴れの舞台を演出するためとか曲解乙。
家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
156 :
人間七七四年:2013/12/10(火) 18:20:42.57 ID:GuGSHEPa
相変わらず暇だな、三河人家康ヲタ菅沼
157 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 11:17:59.82 ID:7NbDdC9k
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
,r' `' 、
/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 俺は嫌な思いしてないから
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| それに織田豊臣徳川らが糞味噌に叩かれようが俺の知った事ではないわ
l:,;'"`'、, ‐=・-; -・=‐ ;〈 だって全員俺が嫌いな連中だし
. ';i l :::i;;,, ::' ` ̄,:  ̄´ .:゙, 大袈裟に言おうがそいつらが無能でもなんとも思わん
l;゙、',.::l;;;i ゚人,,__,,人:.. l, それは俺の頭の中では信玄公こそ戦国最強の存在だから
l;;;;`‐;;;;;ヽ , __ij..__ 、: l;;;,, つまり日本人なら武田信玄公を崇めるべき
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ `Zエlフ'´ , !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン" ` ̄´´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l `
:.:.:.:| ','、 ''''''''' , ‐---,ェr'".l.| | |
:.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| | 菅沼 遼太
158 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 12:54:32.77 ID:kn3t/jXq
>>157 いや、菅沼君は三河人なので家康大好きだよ
家康を否定するコピペは出てないんじゃないかな?
159 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 17:08:38.94 ID:9tYMaOmB
よくわからんけど家康は勝頼より下だとかボロカス言われてね?
信長より上の扱いだけで叩かれ具合は結構酷い
160 :
人間七七四年:2013/12/12(木) 21:22:08.19 ID:3YHOe9t6
だがは秀吉擁護で家康批判をしている。
むしろ単発ID自演コピペ爆撃キチガイのアンチ秀吉朝鮮人を絶対に批判しないのは織田厨。
最近になり、だがのせいに押し付ける工作を始めたのかよ。
161 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 02:48:16.36 ID:EaXjdmr+
秀吉マンセーする奴は馬鹿しかいないからね。
森長可スレとか斉藤道三信長秀吉の過大評価スレとかみると
秀吉厨の毎度毎度のアホ妄想が悉く毎回毎回同じコピペで論破されてるのがアホでもわかるし
162 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 10:08:45.00 ID:WF59cADR
>>160 自演お疲れ様菅沼遼太君w
教科書改変事件で日本の教科書使ってないのバレバレだからw
163 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 11:08:06.43 ID:D8YmMtj4
>>160 >>161 そもそも織田厨も秀吉厨も存在しないからなあ。
史料捏造アンチ秀吉コピペ基地外が自分を論破した人たちを全部まとめて
勝手に一人で織田厨、秀吉厨と言っているだけ。
織田厨、秀吉厨という言葉を使うのはアンチ秀吉朝鮮人基地外しかいないので
>>160 >>161がアンチ秀吉コピペ基地外本人だということが丸わかり。
で、アンチ秀吉コピペ基地外がどうして菅沼遼太をいもしない織田厨だと言い張るのか。
それはアンチ秀吉コピペ基地外が菅沼遼太だから話題そらししたいために他ならない。
164 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 11:30:21.21 ID:4zWOuiHL
現実にアンチ秀吉コピペ爆撃半島人を織田厨が一切、批判しないできたのは事実だろ。
なぜその事実を隠そうとするんだ?
アンチ秀吉コピペ爆撃半島人が盗用した菅沼過去レスのコピペをした時に、
次々に盗用を指摘され始めてからは、
もう菅沼を装う工作が出来なくなってしまい、
アンチ信長の盗用コピペ爆撃もやれなくなって、
菅沼のフリも断念してるの丸わかりじゃん。
165 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 11:45:49.25 ID:D8YmMtj4
>>164 で、複数ID使い分けている君は誰?
菅沼=アンチ秀吉朝鮮人基地外ではないということを証明することができるとすれば、
菅沼本人かアンチ秀吉朝鮮人基地外本人のどちらかということだよね、この2人が別人だというなら。
君はどっち?
どちらでもないというのならば君には、菅沼=アンチ秀吉朝鮮人基地外
を否定する理由もないし、証拠もない。
赤の他人のことだし君は何も知らないよね。
そこまで必死になる要素が何一つないんだが。
166 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:02:23.02 ID:EaXjdmr+
167 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:03:29.67 ID:Ljz0ILwG
168 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:05:15.91 ID:4zWOuiHL
ID使い分けなんてしてないわ。
いつものように必死チェッカーで調べてみろよ。
きっちり本日のレス一覧だって表示されるし。
むしろ必死チェッカーで過去レスが追われないように単発ID自演して足跡を消してるって過去に何度も指摘されてるのは、
工作大好き織田厨の方だろよ。
必死チェッカーで過去レスを晒されているのは常に織田厨が嫌っている人達だけだし。
169 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:07:12.44 ID:W7qi5jvO
秀吉厨の打ち砕かれた妄想
>>天正地震の震源地は尾張のあたりみたいだね。三河に入るには尾張を通ることが必要で、その尾張が壊滅的な被害では
>>秀吉とて戦どころではないわな。
尾張ルートが難しいなら信濃ルートで上杉と合流して南下すればいいだけじゃん。
木曽・小笠原・水野・真田・石川も既に秀吉に恭順し軍事機密も露見。
現に天正地震から一月以上経った1/9秀吉→上杉で先年に申しやったように先鋒隊を今月差し向け来月2/10くらいまでに馬を出すつもりである西国四国の軍勢その他兵糧以下の儀舟手を持って申しつけ
2月末3月のはじめくらいには海上を自由に行き来できるようになるから安心するように。それと同時に景勝の出馬を要請している
1/24顕如日記でも秀吉の出馬と徳川征伐の意思がわかる。兼見卿記1/28で秀吉が家康との再戦のため準備を始めている)
別に地震だからって通れないような状態になってる所しかないわけではないだろ。
織田信雄だって長島はぶっ壊れたけど、尾張の清洲に移ってずっと避難する事なく在国してるし
通れない状態の所避けて通るなりすれば大丈夫。刈谷の水野氏も石川も既に味方だし、
秀吉は地震があった後徳川への侵攻計画を中止したわけでもなく、むしろちゃくちゃくと準備進めてたし
地震のことなんか全く言及に上がってない。
信濃の徳川の分国支配は領土安堵状を出して国人の自立的統治を後押しするだけの間接統治で
支配力が弱いからせめるには絶好の地域だわな。
ただでさえ離反が続いて徳川の支配圏は諏訪佐久伊那のわずか3郡しかなかったし、
諏訪とか柴田康忠とか保科正直とか知久とか松尾小笠原とか今にも裏切りそうな連中でひしめいてたし。
秀吉は天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
ビビリとヘタレ土下座が秀吉の真骨頂だからね。本能寺の時も、毛利にこれもやるあれもやると口述詐欺で土下座しまくったら
毛利がまんまと騙されて結果的に救われた形になったし
170 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:08:10.00 ID:f3b/5cxy
>>小牧長久手以降、秀吉が家康を許したのは、家康よりも島津氏の伸長を恐れたからだ。家康と戦ったら、島津氏と戦えない。
>>ということで、家康を臣従させて九州平定に取りかかったのだ。
島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
その頃の島津は御船城の甲斐親直に負けまくり その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
171 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:09:34.55 ID:f3b/5cxy
>>家康は表向き懐柔されて秀吉に臣従したことになっている
家康は小牧長久手合戦で臣従なんてしてねーよ。
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
172 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:10:45.65 ID:f3b/5cxy
>>秀吉には本気で闘う気はない。家康相手では心理戦が通用しなかった
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
173 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:11:34.68 ID:f3b/5cxy
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
174 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:16:11.23 ID:BHtkvgV7
>>そうなると、秀吉の下に一枚岩の豊臣軍に対し、家康は小牧長久手の秀吉の様な立場となり、
>>大軍を己の強権の下に一元的に統制できず、敗北した可能性は高い。
秀吉の小牧長久手の敗因が寄せ集めの大軍だからとか言い訳もいい所だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
175 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:22:39.80 ID:CtN230S4
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
176 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:23:47.32 ID:Ljz0ILwG
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
177 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:29:20.91 ID:Ljz0ILwG
>>森長可が死んでくれたのは、秀吉にとって好都合
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
69 :人間七七四年:2013/05/16(木) 20:57:12.94 ID:GxDVR+ye
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
178 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:31:12.73 ID:Ljz0ILwG
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
179 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:32:09.51 ID:Ljz0ILwG
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
>>陣営内の統制しきれない勢力は、ときに陣営外の敵以上に脅威であることは常識だ。
秀吉時代は統制しまくってるわけだが。今までの信長の与力制分国統治は秀吉の頃になると終りをつげ完全に軍閥化し直轄統治が始まってる
(小牧長久手の時とか完全に一人ひとりの武将に事細かに指示送ってるし陣立書という統制してない軍団では不可能な軍方式を採用している)
>>しかし、この時点では、まだ、力だけで、それを権威で包むまでには行っていない。そのため、力関係が変われば、陣営内での秀吉の位置も急変する。
とりあえずお前は馬鹿すぎるから
>>67-71を読み直せ。清洲会議時点ですら池田より上の丹羽ですら秀吉とはっきり上下関係がみてとれるし池田森なんて秀吉にへつらいまくりなんだがw
>>小牧の戦以降、全般的に、秀吉が、陣営内の力関係でも、権威獲得でも、どれだけ優位になったのかを見れば
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
>>「笑いが止まらない」という評価は完全に同感できる。
妄想してんじゃねぇよボォケwwwww
>>なお、初期の長久手線が、小牧の陣の中心戦闘などという、その後の経過がなかったかのような小牧の闘い評価はそろそろ脱却すべきだ。
上記のように135000の秀吉に対し信雄家康16000〜7000でありながら格城郭で信雄家康に負けまくってる
>>小牧の陣での一大中心局面は、尾張西部の加賀野井城と竹の鼻城落城にある
加賀野井竹鼻なんて局地戦もいい所はねぇかw尾張の端っこの戦局には何も影響がない部分的な城を家康から見て川を渡った先にある家康からみて
後詰に飛び込むのが危険すぎる地域を規格外の兵力で攻めただけ。しかもその前には二重堀合戦で秀吉大敗してるし松ノ木・戸木・東駒野・河波と敗戦し、
長久保・前田・蟹江・浜田・神戸などは見事に奪回されてる
180 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:33:06.34 ID:Ljz0ILwG
その本の58-64で森の遺言書の解釈が書いてるがP63のまとめ部分で「森家が城主の家柄でなくなることを
長可が強く望んだわけですから、彼には上昇志向が全くなくむしろその反対であったことになります。これを事実として受け止めるしかないです
戦国武将の中にはこのような人物もいたということです。秀吉などは強烈な上昇志向の持っていたのでしょう。
しかし、上昇志向のない戦国武将もいたことを、本稿では確かめることができました」と書いてるわw
無理矢理遺言状に書いてない内容を捏造歪曲してんじゃねぇよクズw
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
雑魚信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田と森がもし味方じゃなかったら家康の尾張転進と、それにつぐ伊勢・尾張・信濃での離反連鎖は起こらず、
また美濃との国境を守る佐久間正勝の留守に乗じた北尾張の居留守ドロは到底できないので秀吉方は北尾張進出もかなわず
南伊勢の瓦解は全くおきずに当初から両者が予想してた通り(両者とも伊勢に兵力集中させてる)伊勢での攻防になり、一生この地方で足止めをくらい、
史実より遥かに秀吉に不利な会戦状況となるため史実より遥かに大きな損害を受けていたのは間違いない。それこそ秀吉は戦死していた可能性も高い
181 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:35:59.91 ID:Ljz0ILwG
誰も迷惑がってなんかねーよ馬鹿
つか池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
182 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:36:44.04 ID:f3b/5cxy
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
183 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:44:54.40 ID:W7qi5jvO
>>大軍は小回りが効かないし統率するのが難しい
いや寡兵のが遥かに大変。士気がグイグイ落ちて脱走兵、降伏や寝返りが非常に置きやすいし
単純に攻撃力と守備力が数や装備に比例してそのまま落ちるからな。
大軍が小回り効かないとか妄想にすぎん
大軍の中から小回りの効く部隊を起動させて残りを後詰にすればいいだけだし
現に大軍の数的優位を生かしたような戦を氏直も信玄も家康もやろうとしてるし
現に成功させてる
大軍で数的優位生かせない馬鹿は指揮采配能力の欠いた雑魚だけだよ
信長でも家康でも信玄でも敵が大軍であればあるほど、味方は寡兵であればあるほど苦戦や敗戦は増えてる
戦争なんて物量や兵力が圧倒的にものをいい、兵力の2乗は実際の戦力になる。
寡兵側が勝つには特別な戦術で敵を自陣深く釣り込んだり油断ついて奇襲したり地形をうまく使って包囲殲滅したり
偶発的条件、幸運などに恵まれない限り無理。普通にガチンコでやりあえば山地だろうが渓谷だろうが平野だろうが100%大軍が勝つに決まってる
戦争は装備と数で決まる
その装備や数をひっくり返して勝利した武将は戦上手
逆にひっくり返された雑魚は戦下手
武器性能と兵力数による戦争への影響度は計り知れない
毎回ちょろっとの指揮能力の差では兵力比はひっくり返らない。
実際には兵力の2乗×武器性能比が戦力となって実際の戦闘で現れるんだからもっと史実にのっとったバランスにすべき
兵力の数による戦争への影響の大きさを考慮すべき。
兵力比は実際にはその2乗となって戦争に影響するしこれに装備性能が加わったものが実際の戦力
これをくつがえすのはよほどの幸運・偶発的条件やうまい戦術、両将の指揮能力の差がないと無理(もちろん城攻めは別だが)
普通に平地でガチで遣り合えば100%兵力が二乗の戦力となり、装備差によって戦闘が決着する
ゲームでは統率や経略の少しの差で簡単に覆ってしまうが実際はなかなかそうはいかない
城攻めでも野戦でも兵力差が大きいと少ない方は味方の士気が下がったり離反や逃亡する兵が出たりするようにすべき。
後詰の望みがない防戦なんてよほどの偶発的条件か両将の指揮能力のよほどの差がない限り基本勝つ可能性皆無なんだから
逆にその影響度が圧倒的に大きい兵力差をひっくり返して撃破した武将と撃破された武将はかなり大きく指揮采配能力に差をつけるべき
武器性能比×兵力の2乗が実践での戦力比(敵軍に与えるダメージ比)だからね
地形補正を考慮するにしても常に規格外の大軍&畿内の高性能装備で寡兵の雑魚国力の敵に負けまくり
殺されまくった部将は相当指揮采配能力統率能力が欠如してるとしかいいようがないわな
普通の頭で考えれば地形に関係なく普通に正面からガチンコで戦えば大軍側が勝つに決まってるじゃん
20対10で戦った場合10人の方は結束したとしても20人分の攻撃を10人でうけなきゃいけないけど
20人の方は10人分の攻撃を20人で分散できるから一人のダメージ比は4対1だし
寡兵側が勝ってるのは相手の油断をついて奇襲・敵を自陣深くうまく釣り込んで殲滅・ポエニ戦争みたいに敵の左右の陣を突破して
包囲殲滅など優れた戦術や敵の油断をつくなど、かなりの指揮采配能力の差や、偶発的事故などが続くなりしないと無理。
普通に正面衝突すりゃ大軍側が100%勝つに決まってる
指揮官の指揮能力不足で軍の数が多過ぎて統率が取れず負けた例なんてない
大軍のために統率がとれなかったのではなく純粋に指揮官の戦術能力や采配能力によるというだけで
「軍の数」に起因するものではない(関が原の戦いが6000対7000の戦いだろうが、史実のように裏切り・日和見があれば間違いなく負けてた)
大体大軍の指揮には高度な指揮能力が必要で難易度高いというなら最初から頼りになる部下だけ連れて寡兵で出撃すりゃいいだけじゃん
物資兵糧調達や兵站の面・戦後の恩賞の面・行軍のスピード・機敏性など圧倒的に寡兵のがローコストでメリットも大きいんだし
それにもかかわらず毎回寡兵の敵に向けて大軍でたくさん物資や人件費かけてはるばる遠くまで出撃してるのはそれだけメリットが大きいんだろ
所詮大軍の指揮がどうとか妄言やいいわけにすぎん。
「大軍」は「寡兵」よりも圧倒的にアドバンテージであって、統率が難しいのではなく統率失敗するような武将は無能というだけ。
184 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:47:18.52 ID:advFtKVi
>>戦争は侵攻側が不利
別に地形補正で侵攻側不利って事はないな
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない
185 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:48:24.12 ID:CtN230S4
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
186 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 12:48:49.27 ID:W7qi5jvO
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
疲弊した末期の武田でも無理矢理兵質に関係なく兵の頭数そろえようとしてたし
朝鮮出兵のときとか1万石あたり450人や500人という普通の動員数より遥かに多い人数そろえて
出撃しようとしてた家もあるし関が原の戦いや大阪の陣でも徳川や豊臣はフルに兵力頭数そろえようとしてたのに
寡兵の方が統率しやすいだの強いだの大軍は瓦解しやすいだの言って相当馬鹿だな
兵力比はすべてではないがかなり大きく戦局を決定し、渓谷だろうが平野だろうが山地だろうが正面衝突でガチンコで
同装備でやりあえば100%大軍が勝つ
これを覆す事ができるのが指揮官の能力で、うまい戦術であり、優れた采配、あるいは偶発的条件・運
圧倒的兵力で寡兵の敵を潰すというのは圧倒的に物量による影響が大きい戦争においてはごく普通のことなので指揮官の能力とは関係ない
(ロボットが率いようが、寡兵の敵に正面から大軍で挑めば100%勝てる)
よほど相手が強い武将とか不運な状況があったときは別だがな
そもそも大軍がアドバンテージにならないなら最初から寡兵で侵攻すりゃいいだけ。
寡兵のが遥かにコストも抑えられるし、行軍速度・機動性など優れるという主張なんだからなw
187 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:18:29.11 ID:D8YmMtj4
>>166 全くの別人なのに酷い妄想だな、菅沼遼太。
悪いが、そのスレに書き込んだことは一度もない。
それに全部菅沼遼太が論破されてるじゃないか。
複数ID使い分けの基地外。
188 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:20:28.80 ID:iIIrbJFt
>>それに全部菅沼遼太が論破されてるじゃないか
例えば?レス番で指定してくれ。
189 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:24:29.77 ID:W7qi5jvO
190 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:26:35.97 ID:advFtKVi
191 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:28:07.75 ID:f3b/5cxy
秀吉厨の妄想とそれに対する論破レスを貼ってやるよ。
>>毛利軍自体が実は来てない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
192 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:28:45.15 ID:Ljz0ILwG
>>だからこの時期の織田軍は毛利と播磨西部で戦ってねーんだよカス
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
193 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:29:38.65 ID:f3b/5cxy
秀吉厨の嘘続き
朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。
こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」
天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw
>>東大史料編纂編纂所にガン無視された萩藩閥越録www
天正6年4月18日 2 吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲
天正6年4月29日 1 信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
天正6年5月4日 1 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す
天正6年5月21日 3 羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、
尋で、宗治、同城を復す、
天正6年6月21日 3 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
天正6年7月5日 1 播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記
[参考]柏崎物語
194 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:30:32.54 ID:Ljz0ILwG
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。 そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、 これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
そんな事でどこにも書いてねぇよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>萩藩閥越録は毛利の捏造文書集
萩藩閥越録を頭ごなしに捏造文書扱いしてるのは三鬼とかアホ学者くらいで
岡山県史編年史編とかでもちゃんとしたソース元として引用されてるし、山本浩樹氏も
毛利羽柴宇喜多の戦線の史料として直接的なソース元として引用してるほど。東京大学史料編纂所HPも参考軍記以外の直接的な
ソース元として利用してる。逆に無視してるのはしっかり登場するにもかかわらず上月は捏造名将で
七条が正式名称とか嘘をデッチあげてる三鬼とかアホ学者くらい
>>上月城という城名は、後世の捏造で、七条城が正しい
天正6年5月晦日 吉川元長→以徹尊老 此元山陣(播磨国上月城)以後不申通候、…此方山陣者、去月十八日、敵陣取者、
去四日ニて候、…(上月)城内ニハ勝久、羽柴筑前守 千木下藤吉郎・荒木以下にて候、然処、此間、従有方聞へ申候、従勢州滝河と申者佐間両人
所、羽築・荒木所へ…
天正6年5月吉川元長書状 上月一途之分候間、
天正6年7/12吉川元春→一色藤長 如仰此表敵陣之儀、去24日敗軍候、上月要害之儀茂山中鹿介種種致懇望、
尼子勝久・同助四郎方ニ腹を切せ申候、
7/18足利義昭御内書→吉川元春 上月城落居之由
7/27足利義昭御内書→吉川元春 至黒沢山陣替之由、重畳辛労無比類候、然者、織田城介三木表只今在のよし候条
7/27真木嶋昭光副状→吉川元春 至其表御陣替之段、誠御粉骨無比類被、依織田城介三木辺只今居陣之由候条
10/16足利義御昭御内書→吉川元春 今度播州永永遂在陣、殊打続、只今其表居陣由、重畳無比類忠功候、
12/7朝倉宮増丸→武田刑部太輔 太守御出馬播州表、始上月落居、被得御大利之旨、珍重存候、
天正7年7/27吉川元春等連署書状→小早川・口羽・福原 但州内郡之事、八木但馬守・太田垣土佐守・同軍監此方馳走候、
彼両人之所不被相抱候へは、但州之儀不可有正儀候、先年可為羽柴打入之時之躰候、誠聞崩ニ仕候様ニ不可有正儀候、さやう成行候者、
因州之儀者不及申、雲・伯にも何たる不慮有間敷にても無御さ候、但州之儀、内郡之先詰にハ竹田…
天正6年5/7真木嶋昭光奉書写→乃美宗勝 其表永永御陣、尤御忠義存候、御感悦候、上月城火急可為落去与、弥此度別而可被抽戦功、肝要由、上意候、
御粉骨之段、神妙被思召通、
天正6年7/16秀吉→新弾 神吉・志方両城事、中将殿御取巻候、
195 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:31:54.79 ID:Ljz0ILwG
天正6年6/26毛利輝元→二宮大宮司書状 去21日上月後巻の敵敗軍候(忌宮神社文書)
7/18毛利輝元→桂広繫 宴上月之儀一着候大慶此事候、(服部家文書)
6/28毛利輝元→林就長 敵破軍大慶候、上月もはや可為一着候 (福永家文書)
8/10輝元→児玉元兼 今度播州佐用郡内上月城執詰之時…(児玉家文書)
天正7年輝元→元兼 天正6年輝元→冷泉 依上月表之儀…(冷泉家文書)
また顕如条文案5/2や7/7でも先日上月表へ差下候使今日●寺候…
然去5日上月落居之由候…といっており明らかに七条城と書いてる秀吉書状は捏造デッチ上げの嘘文書でしかない
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書 仁保元棟洗米返事 御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押 同左近大夫殿 御返報
196 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:35:58.82 ID:e6+66hab
197 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:38:48.54 ID:Ljz0ILwG
198 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:40:37.66 ID:CtN230S4
毎回垂れ流される秀吉厨の同じ妄想集
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717 >>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
199 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:41:20.97 ID:f3b/5cxy
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
200 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:42:01.19 ID:CtN230S4
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
201 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:42:55.05 ID:CtN230S4
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
202 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:44:24.42 ID:A3L0v3hI
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
203 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:46:24.06 ID:fM6qCbVi
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
>>家康を天正12年にフルボッコした秀吉
家康どころか雑魚の信雄に、135000の兵力で短期決戦でフルボッコにされまくり
その後も負けまくったのが秀吉なんだがw
>>豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかっ
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしな
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない
>>家康が凄かったわけでも無い
それは全く同意するが、その凄くもない棚ボタ家康に遥かに劣る雑魚信雄に、相手の8倍くらいの兵力で挑みかかって
規格外の敗戦を繰り返しまくったのが秀吉。
家康>>>>>>>>信雄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉だよ
どうみても。
204 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:47:11.03 ID:Ljz0ILwG
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
205 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:48:48.24 ID:Ljz0ILwG
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
>>実力で負けた
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
206 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:50:17.74 ID:NZEVfTHT
207 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 15:58:23.83 ID:iIIrbJFt
>>169-205 秀吉厨はガチで脳味噌腐ってんなw
決着ついた話題を何回も他スレで張りなおすとか、リアルのアルツハイマーだろw
208 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 17:18:37.91 ID:VCZlHVnk
秀吉マンセーしてる奴が悉く馬鹿なのが証明されたな
209 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:24:19.12 ID:f3b/5cxy
>>それ原本ない武江創業録なるもんに収録されてるどんな家康花押かすら写してない鑑定不可能の怪しい写し書状だろ。
お前の妄想の中でどう思おうが、愛知県史資料編でも「織豊政権と東国」でもちゃんと本物認定されてて
偽者などと勝手にデッチ上げてるのはお前だけ。萩藩閥越録や児玉家文書の時と一緒でお前の脳内で偽物と認定しようが、それが本当に偽物になるわけではない。
>>石川は「足弱」「女房衆」を連れて逃げたって書いてるだけ
だからそれが人質なんだろって話なんだが。
>>百歩譲っても、石川出奔の大事件を利用して小笠原氏離反を石川のせいにして、
>>木曽氏や真田氏に続いて小笠原氏にまで俺が見限られたわけじゃないと北条相手に虚勢を張る言い訳
はいはい、根拠なし。妄想乙。
>>12/14 高遠を攻めた小笠原軍がすでに撤兵後の家康からの感状であり、とっくの昔に小笠原は離反済み
今後小笠原大夫逆意を企てと書いてるから文字通り今回裏切っただけで、とっくの前から離反してた根拠はない。
そもそも小笠原の離反理由は石川の人質連れて逃げた事以外に上杉景勝の川中島侵攻や天正壬午の際の空手形の連発などで生じた
家康の恩賞約束(安曇筑摩両郡あてがい?)が不履行に終わった事による事が推測されるから、無理矢理秀吉の調略と結び付けても根拠がない。
>>1/24〜29 三河家康御成敗に付き家康が信雄に秀吉へ属する為の斡旋を懇願し岡崎で条件をつめる会談をする
そんな事家康はやってない。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
210 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:25:01.30 ID:CtN230S4
>>天正12年戦役の結果、圧倒的な秀吉からの征伐から逃れる為家康や家臣らは秀吉に人質を出して属した。
家康は人質なんて出してない。下記が正しい年表ね。
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
211 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:26:48.11 ID:ViSRB3GI
>>人質を得て家康の服属を以って東国平定がなった秀吉
家康は人質なんて出してないし、全く服属してねーよカス
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
212 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:27:20.21 ID:f3b/5cxy
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
213 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:39:32.75 ID:f3b/5cxy
>>小牧・長久手の戦いは寄せ集めの大群より少数精鋭の方が強いことを証明
>>秀吉的にはうっとおしかった池田が戦死したり美味しい部分も
寄せ集めの大軍とか馬鹿だな
秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
寄せ集めの大軍だったから負けたのではなく、秀吉の指揮采配能力が雑魚すぎるから負けただけ
池田がうっとうしかったとか相当馬鹿だな。池田より地位が上の丹羽ですら下記のように完全に秀吉に屈服状態だってのに
丹羽はさっさと秀吉に従属。長久手でも長重派遣&後から自身も尾張出兵
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
214 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:40:56.91 ID:f3b/5cxy
池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる
小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
215 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:41:34.97 ID:CtN230S4
清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
216 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:42:27.15 ID:CtN230S4
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
天正12年秋の羽柴秀次折檻状で秀吉は散々「池田・森の二人が死んで不便だ。こんな失態繰り返すと親子の縁を切ってやる」とか自分の三河小幡方面への無謀な行軍計画失態を棚に上げて
うらみつらみ書き募ってるのに死んでよかったとか相当馬鹿だな
あの戦で大量の戦死者出して後、伊勢方面尾張方面美濃方面でも松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ねてる
(特に蟹江・前田・長久保・浜田あたりは秀吉方本陣とほど近くの距離なのにあっさり信雄に奪回されてる)
あんだけ規格外の兵力差がありながら膠着どころか劣勢に陥ってるのはそれだけあの敗戦のダメージが大きかった証拠。
信雄がもう少し気骨があり、顕如使った必至の取り成しを跳ね返してたら秀吉はどうしようもなかったろうな
一次資料見る限り秀吉は池田・森の両人の死をかなり悔やんで悲しんでいたのがわかる
おおち様(池田の母)あてで恒興の死を悼んで、恒興死後の池田家のことを重ね重ね手厚くする事を書いて
その後も何回も書状送ってるし
加賀野井城攻めを池田の弔い合戦としてやってるし秋の羽柴秀次折檻状でも「池田・森の両人が死んで大変不便だ。こんな事繰り返すと親子の縁切ると思え」
などと自分の糞作戦の失態棚に上げて秀次のせいにして責めてるし
まあ池田と森が味方についたおかげで伊勢方面に総軍で出かけてたため留守になった北尾張に居留守ドロ的に進出ができたし
この動きに家康が伊勢から尾張に転進したせいで伊勢方面が離反の連続で瓦解し神戸・鈴鹿以南の南伊勢を火事場ドロできたんだから当たり前だが。
尾張でも毛利秀頼・石田毛利氏・松ノ木近辺の諸将が寝返ってるし信濃木曽谷の木曽義昌が秀吉に寝返ったが
これも池田や森の動きに連動する所が大きいと思うし
最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし
217 :
人間七七四年:2013/12/13(金) 19:44:05.87 ID:CtN230S4
天正5年10月23日 秀吉、信長の命令で中国を平定に着手、是日、京都を発す
播磨小寺孝隆の姫路城に入りて、同国諸士の質を徴し、更に但馬に赴きて、岩洲城を攻略する
12月3日秀吉、竹中重治、小寺孝隆をして、備前宇喜多直家の属城播磨福原城を攻略せしめ、自ら同国七條城(上月城)を囲み、之を赴援する直家と戦ひて、之を破り、是日、七條城を陥る、尋で、秀吉、尼子勝久、山中幸盛を播磨三木城より同城に移らしむ
12月5日羽柴秀吉、播磨龍野に入る、尋で、上京す
天正6年2月23日秀吉、再び播磨に入り、書写山に陣す、尋で、同国三木城別所長治、毛利氏等に通じ、兵を挙ぐ、
3月15日秀吉、播磨中島隆重等に基本領を安堵せしむ、
3月29日羽柴秀吉、別所長治を播磨三木城に攻む、
4月3日羽柴秀吉、播磨三木の属城同国野口を攻め、是日、城將長井四郎左衛門を降す、
4月4日織田信忠、摂津石山城を攻む、尋で、軍を班す、
4月18日吉川元春、小早川隆景、播磨に入り、尼子勝久、山中幸盛を上月城に囲む、
4月29日信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援させる
5月1日 信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む、
5月4日 信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5月6日信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5月16日羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5月21日羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、
是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5月24日羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報じる
6月16日羽柴秀吉、入京して信長に謁す、信長、秀吉をして、播磨高倉山の営を徹し、神吉、志方の両城を攻めしむ、
6月21日毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
6月26日羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す、明日、織田信忠等と共に、別所長治の属城神吉を攻めて克たず
6月29日信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7月5日播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る、山中幸盛、偽り降り、
尋で、毛利氏の爲めに備中合の渡に殺さる、
7月7日織田氏の兵、毛利氏の兵を摂津木津の砦に攻む、
7月20日 織田信忠、羽柴秀吉等、播磨神吉城を攻めて、之を陥れ、秀吉、同城を守る
8月10日織田氏の軍、播磨志方城を攻略す、尋で、同国三木城を囲む
8月17日織田信忠、播磨より岐阜に帰る、
10月9日信長、摂津に出陣し、諸將を遣して、荒木村重を打たしむ、尋で、耶蘇会宣教師を遣し、同国高槻城高山友祥を誘降せしむ、
10月17日 荒木村重、新五郎父子、義昭、毛利氏及び本願寺光佐(顕如)と通じて、信長に背く、是日、光佐、村重と盟約す、
10月22日羽柴秀吉の兵、別所長治等と播磨三木城下に戦ひて、其弟治定を斬る、
11月14日織田氏の諸將、荒木村重を摂津在岡城に攻め、之を破る、
11月24日信長、摂津刀根山の塁に陣し、茨木城中川清秀を誘降す、尋で、瀧川一益等を遣し、同国兵庫等に放火せしむ、
12月11日信長、陣を摂津古池田に移し、將士をして、諸塁を守らしめ、羽柴秀吉等を播磨に、惟任光秀を丹波に遣す、尋で、安土に帰城す、
12月23日毛利輝元、荒木村重に援兵を遣す、是日、之を湯浅將宗に報ず、
218 :
人間七七四年:2013/12/14(土) 18:29:29.48 ID:lG4Md+kJ
>>168 菅沼、馬鹿だなあ。
お前がやってる通りパソコン、携帯、インターネットカフェを駆使すれば
同一人物が複数に成りすませるだろw
現に↑で菅沼遼太は誰も読まない全く同じコピペを同じ日に違うIDで貼り続けてる。
でも一度出現すると続けざまに6〜10コピペ貼っていくので同一人物なのが丸わかりだけどね。
別人を捏造してどうせやるなら24時間365日寝ないで昼も夜も1時間おきに1レスずつ貼りつけとかするべきなのにねえ。
下手だなあ。
219 :
人間七七四年:2013/12/14(土) 20:06:15.87 ID:/FFf432O
何にしろ秀吉厨がどうしようもない馬鹿なのには変わりないわけで。
220 :
人間七七四年:2013/12/14(土) 20:08:13.88 ID:jRU/0XII
221 :
人間七七四年:2013/12/14(土) 20:10:35.98 ID:IFfjZoX8
毎回毎回決着ついた話題を一から何もなかったように垂れ流す秀吉厨はガチでアルツハイマーだな
222 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 11:03:39.40 ID:cOwgSbu4
>>219>>220 >>221 また同じ時間に菅沼遼太出現w
史料一切無視・あちこちの板で論破された捏造コピペを繰り返し貼り
自分の馬鹿さ加減を連日披露する菅沼遼太は本当に恥ずかしいw
223 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 12:19:13.63 ID:+L4c/D7s
>>史料一切無視・あちこちの板で論破された捏造コピペ
具体的にどこがだ?スレッドとレス版で具体的に指摘してくれ。
224 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 12:20:03.50 ID:Se0onPnF
225 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 12:31:57.80 ID:bApnivTX
226 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 12:44:43.96 ID:3tzXr0Go
>>224 すげぇw
秀吉厨の妄想が全レス完璧に論破されてやがるw
227 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 15:01:33.77 ID:WlGhKTf2
都合が悪いレスがきたらコピペ爆撃をしてるだけじゃんw
必死チョン乙w
228 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 17:30:41.66 ID:+L4c/D7s
都合が悪いレスも糞も秀吉厨が反論無視して毎回同じ妄想垂れ流してるだけじゃん
>>169-205
229 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 17:35:47.58 ID:Shkbqb9U
230 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 17:39:46.86 ID:bApnivTX
231 :
人間七七四年:2013/12/15(日) 19:34:28.71 ID:CDQzp9vX
秀吉厨の妄想論破スレッドになってるな。
232 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:00:26.43 ID:VGCrGWWk
朝日姫が家康の人質だったという君の捏造コピペの一次史料は見つかった?
アンチ秀吉基地外コピペ=全く史料が読めない馬鹿=三河人家康厨菅沼遼太君。
まだまだあるけど、君は全部捏造について完全無視するからねえ〜
233 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:09:50.98 ID:jZUhGwgl
そんなどうでもいい所に揚げ足とって、全ての議論で自分が勝利したかのように語られても。
234 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:12:11.79 ID:GTyrpQON
>>232 >>まだまだある
例えば?スレとレス番でリンク指定で教えてくれ。
>>君は全部捏造について完全無視するから
秀吉厨の捏造は細かく指摘してあげてるよ。
それは
>>166-195 >>198-217 あたりを読めば分かる。
秀吉厨は反証がついた妄想コピペを各地で時間が立つと何もなかったかのように貼りまくってるどうしようもない池沼だからな。
235 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:13:55.96 ID:gZXtymXT
>>天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない
史実で総兵力を集中させて対信雄戦に挑んだ秀吉を家康1人に構ってられないからとか
北条の変心や上杉景勝の川中島侵攻にほとんどの兵力を残しわずか8000しか連れてなかった家康が
小牧長久手に集中してたとか相変わらず妄想をデッチあげてるな。いい加減学習しろよクズ野朗
秀吉は
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/440-447 のように領国中の兵力総動員して短期決戦に臨んだが、秀吉の指揮采配能力があまりにもクズすぎたせいで
わずか16000の雑魚信雄・徳川勢に10000人殺された上に、その後の攻防でも下記のように膠着状態に陥ってる。
長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど完全に持久戦の態勢に入っている4/12松井→紹安 一戦に池田親子・
森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人
が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた。播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた5/2信雄→不破広綱
今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが美濃
に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り
討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣した
ので近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
236 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:14:47.94 ID:gZXtymXT
>>天下執りを目指して方々に出兵している秀吉は家康一人に構ってられない
お前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
237 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:15:14.08 ID:PuH4NdoG
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが
この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
238 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:15:44.20 ID:XHeUxnhs
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
239 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:16:26.98 ID:XHeUxnhs
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
240 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:16:54.22 ID:PuH4NdoG
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
241 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:17:37.82 ID:PuH4NdoG
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
242 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:21:36.68 ID:PuH4NdoG
>>長久手のみに集中していればいい一地方大名にすぎない家康
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
243 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:22:32.98 ID:PuH4NdoG
>>当時は秀吉が家康を下すのは容易い
確かに国力的にはその通りだな。だが史実では135000と総動員して寝返りで崩壊中の雑魚信雄の分国に攻め込んだら
わずか16000そこそこの雑魚信雄に1万人殺された後、秀吉方は二重掘合戦でわずか1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって
楽田から大敗走。本陣の眼前にある蟹江・前田・下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されたあげく、戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城などいずれも1000貫そこそこの雑魚領主が
わずか500程度で篭もった城に大苦戦し、結局会戦当初から総じて離反だらけで崩壊状態の信雄分国を全くと言っていいほど切り取れなかったじゃんよ。
>>戦闘自体は1カ月で終わったとしても
一ヶ月どころか、1年かけても終わらなかったじゃん。
秀吉は短期決戦構想があったのは書状から明らかだが、結局長久手で想像を絶する大敗を喫し結局家康や信雄に土下座して母や妹まで差し出してる。
>>戦後処理で数年は余裕で掛かる
そんな戦争中世の合戦にねーよクズ
>>家康を倒す
直接対決でガチンコで1万人ぶち殺される大敗喫した上に
その後の攻防も蟹江・浜田・前田・下市場・長久保は奪回され
戸木城・松ノ木城・東駒野城・河波城・二重掘合戦攻防でも破れて結局会戦当初から
伊勢でも尾張でも美濃でも寝返り続出で崩壊状態だった信雄領国を自力では尾張半国すら切り取れなかったからな。
滅ぼせるわけがない
>>家康は怖くない
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
244 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:23:03.20 ID:AVd/Y6z3
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
245 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:23:40.54 ID:NTb/Nx7V
>>島津氏の台頭は秀吉も怖かった
島津を攻めたのは天正14年晩秋と大きく時期がずれてるし秀吉はその時点で島津が気になるから
徳川攻めを中止したなどと一言も触れていない。
秀吉は天正13年秋から翌年春にかけて下記のように着々と侵攻計画練ってた。
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
直前になったらビビリまくって信雄に仲介頼んだり母や妹を差し出して戦いを避けてる。
家康も家康で軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
天正13年時点じゃ秀吉は家康の事ばかり気にして島津なんて全く文書の中に出てくる気配すらないし
出兵計画始めただの信濃に軍勢をいれ差し遣わすだの一柳に尾張星崎から三河の情報収集を命じたり
来春三河に出兵するだの、西国四国の人数そのほか兵糧の儀を船手で用意させたり侵攻計画を散々書きまくってる様子しか見られないのに
島津を気にして出兵取りやめたとか相当馬鹿な妄想だな。
246 :
人間七七四年:2013/12/16(月) 11:25:46.89 ID:NTb/Nx7V
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ 信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ 公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれており
その他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦の痛手はひどかったんだろうね
何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだからな
>>秀吉にガンガン侵食されていくばかりで
尾張の木曽川筋をチョコっと攻め取っただけでガンガンとか言われても
>>ちなみに8月には筒井勢が駒野を攻撃していたようだが、11/5には高木貞利の居城だった東駒野城も陥落してる。
取り詰めに攻め落としたなんて意味はない。乗っ取り、落居などという時が攻め落とした時の言葉。ちなみにこの書状を東駒野「城」が落ちたなんて妄想解釈してる馬鹿はお前だけで
東大史料編纂所HPや史料編纂やら愛知県史資料編網文やら小牧長久手の戦いの構造時系列データベースでも城が落ちたなんて解釈していない。11/10にはちゃんと吉村が長久保を落として忠義を示してるのに。
>>しかし高木貞利の敗北と福田の降伏という流れは
高木は敗北なんてしてないし福田は降伏ではなく寝返り
>>この地域での秀吉の優勢をはっきり示すもので、
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない。3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの
報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛。美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった
犬山城に襲撃を食らう。伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
247 :
人間七七四年:
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
>>策の無い清洲で震えていた家康は彼らを支えることに失敗し、
震えていたなんて史料は存在しない
>>士気が崩壊した信雄軍という状況は
元々寝返りばかりで領国なんて困窮状態だがそんな信雄も自力では攻略できずヘタレ信雄の降伏に助けられただけなのが秀吉
>>秀吉の戦略通りに事態は遂行されていった結果だといえる。
秀吉の戦略は一貫して三河方面の攻撃と家康討伐なので戦略でいえば大敗といえる
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)