475 :
人間七七四年:
>>信雄と家康が土下座した
信雄や家康は土下座なんてしてねーよボケ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1299835153/717 >>22日は東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任
はぁ?なんで東国なんてノータッチの場所が平定されてる事になるんだよ。
ひょっとして秀吉の「東国は氏政、北国は景勝まで秀吉の存分に候」とかデタラメをデッチあげている誇大喧伝を真に受けてるのか?。
>>12/12には家康が早速、義伊(秀康)を秀吉への人質
アホかお前。天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
>>正親町天皇が譲位の思召を伝えるとすぐ天正12年10月4日には譲位後の生活を送る仙洞御所を造営すべく縄打を開始してる
そりゃ秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
476 :
451:2013/11/30(土) 13:04:44.20 ID:W3xNEHVU
>>446 なんだよ(笑
結局長文コピペでレス流して逃亡、ってことね。
477 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 17:56:39.61 ID:MgWR9WS0
武田旧臣で籠城と調略の天才だった依田信蕃がいなかったら、
甲斐府中でビビって引きこもっていた家康は北条に大敗して
甲斐も信濃も手に入れることは出来なかった。
依田信蕃はもっと評価されるべき名将。 依田は武田軍団内でも随一の名将だからな。
孤軍奮闘の田中城で結局最後まで徳川方相手に粘り勝ったし、
天正壬午やその後の佐久郡平定戦でも大活躍したからね。
家康の威圧にもまったく屈せず勝頼死去確認と穴山からの開城勧告を得て
やっと開城したほど徹底抗戦したので、依田の旧武田遺臣からの信用性抜群だったのが
幸いして調略がうまくいっていたからね。
特に信濃に進出していた北条軍の背後を遮断するべく佐久郡に戻ってきた依田が
9/28真田家を調略したのは大金星
これがおきて北条は窮してしまい、1ヶ月後の10/29には北条と徳川の和睦成立だからね。
9/13の段階では宇都宮氏を相手に家康は劣勢のあまり、
秀吉と丹羽長秀と柴田勝家がもうすぐ援軍にくるから北条なんて掃討できる
などと、大ウソを吐いてまで、自陣営が見限られないように
必死に佐竹など北関東連合を繋ぎとめてるほど劣勢だったからね。
天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
長曾我部らに対して、もうすぐ北条の援軍がくるから!
とか言い出して白昼夢願望を語り始めたよなw
だいたいウソ援軍話を家康が言い出した時は超劣勢で、
他大名に見限られないよう繋ぎ止める為の虚勢。
秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
信雄への援軍すら出せずに見捨てたくらいヘタレてたのに
秀吉から懇望があったからとか負け惜しみ言ってるくらいw
家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳するし、
ハッタリとウソで生きてきた詐欺師なのが家康。
478 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:00:10.19 ID:MgWR9WS0
天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わったからね。
家康信雄連合は、結局のところ秀吉から雀の涙の如き
一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的だった。
やっぱり家康を天正12年にフルボッコした秀吉が死んだ後の
豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから、
皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかったけど、
別に家康が凄かったわけでも無い。利家如きにビビってたくらいだしな。
つか家康が恐れた人物なんて逸話を拾うと30人はいるよなw
家康は武断派に騙されて、急いで西上してきただけで
それ以前はビビって江戸から動かなかったじゃん。
関ヶ原だって井伊とかもいたが、
ほとんど豊臣恩顧が戦ってただけじゃん。家康は棚ぼたなだけだし
479 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:02:32.22 ID:MgWR9WS0
秀吉は国家創業の事業をやってるから、
国づくりと整備の関係行政文書がたんまり残っている。
刀狩りによる兵農分離→検地後の農民への土地分配による中間搾取層の廃止からくる新税収システム
転封による武家と土地の切り離しと、それによる国人の官僚化と、
取次・奏者・指南と言う手筋システムによって大名後見人という内政干渉と蔵入地設置による全国監視体制。
桃山時代とは旧態依然のボロボロの統治体制から
時代に合う新政策の試行錯誤により、新たに生み出された
全国統治政策であり、惣村一揆や堺などの商人コミニティによる都市国家など
新統治方式である地域の代表たちによる合議体制と全国の中央集権的統治体制の
共存を進めた結果が大老と奉行による政治体制だったが、秀吉の死が早過ぎて、戦乱の気風が風化する時が足らなかった。
家康にはそういう国家を創業する能力がないので、関係書類があまりなく、統治体制も豊臣政権の劣化コピーだった。
480 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:04:18.33 ID:MgWR9WS0
アンチ秀吉大量コピペ厨基地外、日本史板で論破され逃亡
・日記の日付の下に書かれてある干支の意味を知らず、曲解を展開。
あまりの無知さを日本史板住民に飽きれられ、スレから落ちろと言われると、捏造コピペ大量貼り付けして逃亡。
・秀吉は家康に土下座して妹を人質に差し出してきたという捏造コピペをあちこちに貼り付け。
朝日姫が家康の人質だったという一次史料を出せと言われると、全部無視して逃亡。
・「家忠日記」で、家忠本人の行動には主語がついていないことを知らず、家忠の行動を自分の都合に合わせて大政所や家康の行動と曲解。
家康は、本来家忠の自宅であるはずの「ふかうす(三河国深溝)」に居城を持ち、大政所を住まわせたと断定。
家康が深溝に築いた城の一次史料と、遺構の場所を提示しろと言われると、何も言わずに逃亡。
・大政所は天正14年11月12日、秀吉のもとに帰っているが、「大政所御帰候」がどうしても訳せず、
すぐ後ろの主語のない家忠の行動を大政所の行動だと言い張り、大政所はそれ以降もずっと恒久的な家康の人質として
三河国深溝の家康居城(←実際深溝にあったのは家忠の邸でありコピペ馬鹿の曲解)に住み、一度も三河から離れなかったと主張。
天正14年11月12日以降、大政所が京や大坂にいた史料を提示されると、自分の前言を無視して
一時的に家康の許可を得たんだ、家康も京や大阪に行っているだろ、と捏造。
大政所に家康は同行していないし、自由に京や大阪に住める人質がいるの、と問われると無視して逃亡。
天正14年11月12日以降も大政所が三河にいたという一次史料を上げろと言われると、それも一切無視して逃亡。
アンチ秀吉大量コピペ厨の特徴
基本的に自分の間違いは訂正しない。
常に上から目線で、相手をバカ、ハゲ、タコ、と罵倒しながら、自分の捏造コピペを大量に貼りつければ
相手が戦意喪失して自分の曲解が通ると信じている馬鹿。
史料読解は一切できず、どれだけ史料を提示されようが、自分の我流曲解以外は信じない重度の基地外。
秀吉や三成の悪口中傷して回るアンチ豊臣政権のきちがい在日チョンが
武田厨を装ってコピペ爆撃する自作自演にお気をつけください。
他人の過去レスを盗用し勝手にコピペ爆撃している中に
こっそり自分の作ったアンチ豊臣のレスを巧妙に混ぜているきちがいです。
武田関連の昔の他人のレスを大量にコピペして武田厨を陥れる工作をしつつ
自分が書いた輝元や家康を擁護レスで混ぜて秀吉を巧妙に貶めているコピペ厨。
日本史板・三戦板・歴史難民板・大河ドラマ板・歴史ゲーム板などで爆撃。
481 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 18:24:58.79 ID:MgWR9WS0
関が原?戦果挙げてたのは島左近だろ。足引っ張ったのは織田信雄、西軍から白金2000枚パクったw
清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。
北畠信雄の清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人としてどんな大罪であろうと
死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。
天正12年戦役で信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ北畠政権が樹立できただろうね。
実際は信雄と家康が一方的にフルボッコされ、家康は清洲、信雄は長島で、蛇に睨まれた蛙のように恐怖で固まってただけ。
家康らから人質を取る約束も成立し信雄と家康が土下座したので、 講和してやり11/21に近江坂本を発して帰京するや、
11/22日には東国平定を祝して朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じて武功を讃えた。
482 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:05:08.50 ID:1R4P9yRZ
>>478 無知すぎてワロタwwwww
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
483 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:05:48.48 ID:+qr8IInH
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
484 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:06:16.85 ID:ybiucyt8
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
485 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:06:57.24 ID:nueloS4d
>>正親町天皇が譲位し後陽成天皇即位する儀式に、家康を朝廷に帰服させるべく
だからなんで正親町親王の譲位問題に半分敵対勢力の徳川が絡むんだよアホ。
家康が朝廷に帰服しようがしまいが関係ねーよクズw
>>秀吉の朝廷への推挙で家康を5日に従三位に任じてもらい、
そりゃ秀吉自身家康にビビリまくってるからな。だからこそ自国の15分の1程度の国力しかなく
しかも譜代の離反で軍事機密が露見し領国崩壊状態の徳川に対して顕如や信雄に土下座して必死に和睦仲介やってもらったり
侵攻計画を散々講じておきながら、直前になるとビビリまくって母や妹を人質に差し出して家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに土下座して
なんとか家康がこれに応じただけだし。、
>>後陽成天皇の晴れ舞台を用意した秀吉
家康にビビリまくって土下座して臣従させたのを無理矢理正親町親王の譲位問題に摩り替えるアホ乙
>>秀吉への恩から織田秀信も織田信雄も関が原で西軍だった
はぁ?
秀吉に対して信雄や秀信が恩があるわけねーだろクズw
信雄→主家簒奪に一時的に当主に祀り上げられながら、その後たいした理由もなく攻め込まれるなど
散々利用され、結果的に屈服を余儀なくされ、その後も無理矢理いちゃもんつけて改易
秀信→当時幼少だったにもかかわらず、秀吉の簒奪のために名目上の織田家当主として祀り上げられ
その後は秀信はほとんど無視の傀儡と化すほど、秀吉の勝手きままな専横によって織田政権は事実上崩壊。
主家を簒奪し滅ぼした張本人の秀吉に対して利用されただけの信雄や秀信が恩があるわけねーだろw
>>彼らを関が原後に改易したのは家康
その後皆大名に復帰してるわアホ
織田長益、織田信包、織田信高、織田信貞を
取り立てた家康が織田に復讐www
信雄の息子に至っては徳川家の庇護をあてにして生活していたのに
流石武田正嫡の武田信道が日本本土から隔離されて
宇喜多秀家と同レベルの冷遇をされただけはあるなw
家康は羽柴も織田も後北条も再興や存続を許しているけど
唯一存続を許さなかったのが武田だもんな。
挙句の果てには自分の息子に武田氏始祖の武田信義の名前をもじって名付け
まるで己の息子が武田始祖であるかのような振る舞いをしている有様
しまいには信玄直系を大久保事件にかこつけて無一文で伊豆大島に配流し
結局武田信道は伊豆大島で生涯を終えてしまうんだよね。
後北条や織田、羽柴ですら石高を貰って徳川幕府の体制下にいたことを考えると
家康の武田に対する扱いは極めて冷酷と言わざるを得ない
486 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:07:24.02 ID:+qr8IInH
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
487 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:09:11.93 ID:nueloS4d
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差がありながら秀吉はわずか16000程度の雑魚信雄に負けまくるからね
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
488 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:09:53.03 ID:joLRN0V4
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
489 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:10:20.43 ID:uOoFQ3n3
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
490 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:10:47.86 ID:+qr8IInH
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
491 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:11:21.41 ID:hPOhErPa
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
492 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:11:42.90 ID:uOoFQ3n3
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
493 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:12:13.05 ID:ybiucyt8
秀吉はある意味最強だよな
信雄・輝元・氏政にボロクズのように負ける武将なんてそうそういないだろうし
494 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 20:13:49.38 ID:Tsn7lCNy
豊臣政権の最大の問題点は讒言を繰り返し政権を混乱させてきた奸臣連中だった
奸臣連中の讒言により利休や秀次が粛清され豊臣政権はそのたびに新しい形を模索する羽目になり
秀吉は政権としての基盤を固めることが出来なかった
家康は豊臣政権から奸臣とその支援者達を排除することにより日本の安定統治を目指していたが
そういう家康の姿勢にこれまでやりたい放題を享受してきた奸臣が反発するのは当たり前だろう
彼らは秀次の時と同じ謀反人と糾弾する戦法を繰り返せば家康を排除できると考えたが
奸臣たちの糾弾騒ぎに多くの大名が辟易していたことに気付かなかった
その結果関ヶ原ではほとんどの西軍大名が戦闘を蜂起してしまい惨敗を喫するのは必然の結果だった
495 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:08:02.17 ID:pDqaO0zP
毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって
496 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:09:13.96 ID:pDqaO0zP
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
497 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:10:08.11 ID:ybiucyt8
直接対決で家康どころか信雄相手に135000も動員してわずか20000そこそこの織田徳川相手に
長久手で1万戦死者だす歴史的大敗
その後の攻防も二重堀で大敗戸木で負け松ノ木で負け東駒野で負け蟹江で負けと何一ついいところなく
1年かけて尾張半分すら切り取れず諦めて大阪に納馬しようとしてたら
たまたま信雄が和議にのってくれただけじゃねぇかww
しかも天正13年に石川木曽小笠原水野真田が徳川から離反し軍事機密露見
天正大地震と天正11年からの徳政連発で徳川領国がめちゃめちゃになったのに
秀吉はビビリまくって母と妹人質に出す醜態っぷりじゃねぇかw
498 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:10:52.54 ID:joLRN0V4
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
499 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:11:30.08 ID:nueloS4d
秀吉は武力平定路線が不可能だと自身で悟り朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
小牧長久手の戦いは7倍もの圧倒的兵力差がありながら
短期決戦しかけ三河方面への大規模軍事作戦が大敗により失敗
その後家康が後詰にこれない木曽川筋を圧倒的大軍でダラダラ攻め取るのがやっと
長久保奪われ神戸も奪われ蟹江でも負け戸木城でも松ノ木でも負け
おまけに夏の対陣でも圧倒的兵力差がありながら砦間の攻防で苦戦して退却
秋になって権力基盤がガタガタで北畠の傀儡状況だったほどの弱い信雄の領国に苅田や放火の応酬を行って
示威的行動してたらヘタレ信雄がビビって勝手に和議を結んだからなんとかなっただけ
秀吉が将軍というか朝廷権威によるよりも武力平定路線を歩んでいたが小牧長久手の戦いを契機に
朝廷への急速な接近をしていくのは近世成立記の大規模戦争論文でも学説でほぼ一致する所と言われてる
近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記
>>18と同じ見解を示している
秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
秀吉⇒和仁親王 銀20枚
7月 秀吉⇒天皇 白鳥三 蝶子三十
⇒誠仁親王 白鳥ニ 綿百吊
⇒和仁親王 太刀
⇒若御方 料紙
と献品しまくり
また寺社衆への所領安堵もしまくっている
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう
また豊臣政権の政権基盤の弱さを象徴するのが外様大名の広域な版図だな
それも当たり前。軍事力で屈服させたわけじゃなく惣無事令通達による停戦で平定しただけなんだから
トップが死ねばあっと言う間に政権が崩れるなんて誰の目にも明らか
500 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:12:22.51 ID:+qr8IInH
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
501 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:13:09.99 ID:ybiucyt8
>>秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
信雄も家康も全く追い詰められてもなければ屈服もしてねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼しこれにまんまと信雄が乗って
しまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない。兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている。ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が
起きたりしている)天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する。四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた
2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる。其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず公事に抜かりないように。
信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす。2/10くらいには尾張迄出馬するなどと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている。
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。
秀吉は短期決戦で135000の規格外の大軍持ちながらわずか16000程度の雑魚信雄相手に1万人ぶち殺され、しかもその後の攻防でも
蟹江・前田・下市場・二重掘・浜田・長久保・東駒野・松ノ木・戸木と負け続けて会戦早々から寝返りが連発してて崩壊状態だった信雄領国を1年一杯かけても
尾張半国すら切り取れない程アホみたいに蹴散らされてたからな。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
502 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:14:38.44 ID:hPOhErPa
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
503 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:17:01.04 ID:+qr8IInH
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
504 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:18:55.79 ID:joLRN0V4
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の
兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に
転進せざるをえなくなり不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で
手も足も出ず諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
北条徳川同盟が本格的に機能して北条軍徳川軍総力で対秀吉に臨めてたら確実に秀吉は戦死してただろうな。
135000の兵力があっても合計わずか16000程度の雑魚信雄に決戦で1万人ぶち殺される強さしか発揮できないレベルの指揮能力の秀吉なら
あと徳川北条の計40000が加われば確実に秀吉なんて討ち取れる。
開戦前から重臣がこぞって秀吉に人質を奪われていたために、あの会戦早々から領国が離反連鎖で崩壊状態の信雄ですら
松ノ木城・戸木城・浜田城・蟹江・前田・下市場・長久保・東駒野・二重掘・浜田城など秀吉に勝ちまくってたからね。
尾張でも石田毛利氏や毛利秀頼、松ノ木城近辺の諸将など会戦当初からあっさり信雄を見捨てててるのに
自力じゃ全くと言っていいほど秀吉は切り取れてないしな
確かに兵力の2乗=戦力だからね。
兵力が3倍程度に増えるなら、当然豊臣方の損害は史実の9倍の9万程度に増えるからな。
それこそ秀吉が討ち取られてていいレベルだろ。
505 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:19:38.30 ID:+qr8IInH
そもそも南伊勢も美濃も尾張の一部、木曽谷まで会戦そうそう織田方から羽柴方に寝返ってるってて
残りの地域でしか戦闘は行われてないじゃん
領国から遥かに離れた戸木城も秀吉方は敗北
秀吉方本陣から近距離の松ノ木城でも秀吉方は敗北(4月〜6月頃は戦闘が確認でき、信雄方から何回も戦功を賞されてる)
二重掘合戦では信雄方に奇襲くらって楽田から敗走(4月下旬→5月上旬にかけて)
おまけに前田・下市場・浜田・蟹江・長久保あたりは秀吉方本陣の大垣・伊勢浜田などから近距離にある拠点なのに信雄方に奪回されてる
信雄や家康は降伏なんてしてない
一時講和停戦しただけ。翌年も家康なんか浜松会議で抗戦する気まんまんなくらいに軍議開いたり
北条との同盟強化や諸城普請、人質収集など会戦に備え、秀吉方も秋には着々と出兵計画進めていたが
直前の天正14年春になったら秀吉がビビッて織田信雄に取り成し仲介を必至に依頼して、おまけに母と妹を人質に出して
「ワシに従ってくれ〜」とばかり土下座してきたので余りにかわいそうになった家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と離反の連鎖で領国軍事機密露見&天正11年からの徳政連発で極度に疲弊してたのに
ビビリまくってたのが実態
506 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:20:26.26 ID:ybiucyt8
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
507 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:20:59.24 ID:hPOhErPa
秀吉が実力で勝った戦なんてないよ。小田原合戦もほとんど徳川や上杉・真田・佐竹らが北条方の兵力が集中した下野・上野などの要衝を自力で落したのに対し
秀吉は24万もの規格外の兵力でもって500か1000しかいない韮山城や小田原城や忍城で醜態晒しまくってたからね。
結局わずか34000程度の北条に対し24万程度の瞬殺するに十分すぎる兵力で持って前田重臣や堀尾嫡男、一柳など重臣を悉く殺されまくって北条方の重臣が運よく戦意なし&伊達の帰参の影響などで
開城になっただけだし。
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
508 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:21:57.99 ID:BXCt3MNG
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
509 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:22:10.22 ID:sQKa7A84
>>434 加藤清正などは秀吉生前に秀頼への忠誠と法の順守を自ら起請文で
誓っているわけでそれを自ら反故にしたら本人が痛くも痒くもなくても
客観的評価として非難轟々なのは当然でしょう。
だいたい機能してないから破っていいなんて法の概念そのものを
否定した野蛮人の発想だわ。清正がその理屈に従ったっていうのなら
あまりにもクズ過ぎる。
関ケ原の結果豊臣家がその後どうなったかの知らないわけじゃないよね?
本来なら率先して豊臣家を支えるべき立場の人間が
その役目を果たさなかったのが不利益じゃない、と思うなら
あなたの頭の中だけで勝手にどうぞとしか言えないね。
510 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 21:37:19.56 ID:sQKa7A84
>>451 家康の私戦という言葉が正確がどうか私はしらないけど
少なくとも東軍は豊臣から何かしら公認を得ているわけでないし
家康自身も自分たちが公儀の軍だとは戦役中に主張していない。
それから「三成の挙兵はクーデターね。これ当たり前」っていってるけど
具体的にどうクーデターなのか理論的に説明してみて。
勿論ちゃんと一次史料根拠でね。
511 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 22:18:16.66 ID:Ej4vGtT5
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
512 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 22:19:41.97 ID:Ej4vGtT5
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
513 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 22:21:33.52 ID:Ej4vGtT5
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
514 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 22:22:21.63 ID:hPOhErPa
>>秀吉は天正12年戦役で家康を屈服させ
全く屈服してねーよクズ
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ
515 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 22:48:16.44 ID:hPOhErPa
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ
516 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 22:56:57.45 ID:hPOhErPa
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
517 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 23:02:11.80 ID:hPOhErPa
>>家康を天正12年にフルボッコした秀吉
家康どころか雑魚の信雄に、135000の兵力で短期決戦でフルボッコにされまくり
その後も負けまくったのが秀吉なんだがw
>>豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかっ
そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしな
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない
>>家康が凄かったわけでも無い
それは全く同意するが、その凄くもない棚ボタ家康に遥かに劣る雑魚信雄に、相手の8倍くらいの兵力で挑みかかって
規格外の敗戦を繰り返しまくったのが秀吉。
家康>>>>>>>>信雄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉だよ
どうみても。
518 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 23:03:16.32 ID:nueloS4d
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
なんで負けたかって言えば、そもそも秀吉から政務を委託された正当な大老であり、豊臣家を蔑ろにしていたわけでもない
家康を討つことには大義名分が少なく、家康が会津討伐に向かうため畿内を離れたというチャンスに機械的に
反応してしまい、自陣営の体制を構築する前に挙兵してしまったこと。
実態としては、明智光秀の本能寺の挙兵に近いものがあった。
会津征伐に飛びつかず、もっとじっくりと待つ必要があったと思うよ。勿論その場合は家康も着々と体制がためをしてくるが、
そこは政治力の勝負だ。 むしろ政治力の勝負を諦めたために関ヶ原がおこったとも言える。
そもそも合議の結果何かを決定するのは家康の役割だし、前田は豊臣家にすら無断帰国したのだから謀反を疑われて当然だし
上杉も穏便に処理しようとした家康の提案を蹴って、武装して割拠状態になったのでこれも謀反とされて当然
島津や毛利や宇喜多の家中の争いを喜んだ?そんな証拠は一切ない。というか介入すら最低限だ。
北政所にいたっては自分から西の丸を家康に譲ってるし大名への加増は三成ら奉行衆もそれこそ「合意」してる
ついさっきまで秀吉という専制独裁者が君臨していた政権において合議を破った専制独裁者という非難そのものが馴染まないんだよ
秀吉自身は一度も合議による政権運営なんてしたことがないから
普通の大名からすれば誰も見たことがない体験したことがないものを破ったと言われてもピンとこない
それに三成の家康批判は一歩間違えれば秀吉批判にも取られかねない危険な主張だ
三成が家康に名前を変えて秀吉の専制独裁を批判していると受け取れば豊臣のため三成を討伐することに何も問題はない
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
519 :
人間七七四年:2013/11/30(土) 23:06:05.03 ID:joLRN0V4
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
会戦当初から池田森津田富田八重羽津川尾張毛利両氏信包といった重臣連中が悉く寝返りがボロボロ出ていた上に重臣石川まで篭絡されていた織田徳川軍が一枚岩とか
とっくに軍閥化が完了し、誰も寝返らないどころか、最も外様であろう池田も森も丹羽も完全な上限関係と秀吉への必死な忠孝を行っているのが史料からわかるのに
敗戦原因を秀吉の指揮能力や采配能力ではなく、大軍ゆえに一枚岩ではなかったとか
徳川軍は結束していたとか他に押し付けようとする秀吉厨はガチで馬鹿だな
520 :
434:2013/11/30(土) 23:17:12.78 ID:qXpKF/q1
>>509 加藤清正がなぜ突然?(笑
まぁいいや。その起請文、詳細教えてもらえる?
それと誰が清正に非難轟々だったの?
起請文の誓い破りなら、全国の大名はほぼ該当するね。大坂城を攻撃して秀頼を害してるし。三成の謀反も惣無事令違反だしな。
当時のルールなんて所詮その程度。守り手側の自主性次第。
法治国家における法とは違うんだよ。
そうだね。関ヶ原の結果、豊臣の力は急速に縮小したね。
関ヶ原を起こした三成は不忠極まりないと思うよ。
関ヶ原は豊臣家が主体ではないし、七将襲撃と豊臣家の不利益は全く関係ないね。
521 :
451:2013/11/30(土) 23:33:05.47 ID:qXpKF/q1
>>510 東軍というのは、西軍が挙兵したから意味を成したものでしょ。
公認を得るも何も、家康が豊臣政権の大老である事を中断する事象がないし。
公儀の軍だと主張しなければ公儀でなくなる決め事でもあるの?(笑
理論的って大袈裟だな(笑
クーデターとは、@支配層の権力異動を目的とし、A非合法な武力によって、
B行政組織を設立し統治する活動だね。調べれば誰でもわかる。
三成の挙兵に端を発する西軍は、全てに該当するね。
それとも該当しない事でもある?
522 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 09:13:36.07 ID:EblQwzDf
で、三成がクーデターを起こしたとする一次史料はまだなの?
合議制の元に専横独裁した基地外家康を謀反人認定し内府たがい条を発給したら会津征伐軍が崩壊して家康は賊になってるのにw
家康は武断派に騙されて急ぎ西上した結果、棚ぼた勝者になっただけだし。
本来の上杉攻めは出来なくなり、
小山から家康を捨てて西上した武断派の思惑に家康はひきづられただけなのにw
関ヶ原の戦い後にも武断派の協力がないから上杉征伐できず断念してるのにw
523 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:15:04.60 ID:9yIX1sd1
>>510 東軍は会津征伐をするための軍隊として豊臣はもちろん朝廷からも公認を得ている
豊臣だって家康に公認どころか軍資金2万両と兵糧2万石を渡している
ちなみに豊臣は西軍に対しては軍資金も兵糧も渡していない
三成が書状で軍資金も兵糧も足りないと催促しても平然と無視している
それに増田が家康に対して三成が謀反を起こしましたと手紙を出しているから
西軍が三成主導の軍事クーデターであることは東西に関係なく認識されている
524 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:21:36.88 ID:EPCjr4eJ
言ってる意味がよくわからないんだが?
西軍がクーデター政権に該当する事は、
>>521で説明済だけど。
それとも相変わらず三成の挙兵自体を否定したいのかい?(笑
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀家政書状
7月21日付 細川忠興書状
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状
複数の大名クラスの書状(一次史料)において、三成挙兵に触れられている。
普遍性が極めて高い史実であり、これに疑義を持つ識者はゼロ。
正当性のない非合法なクーデター政権が出した『内府ちかひの条』に、
家康を賊軍にする効力など存在しない。単なる西軍勝手の宣戦布告書に過ぎない。
諸大名に対する影響力は認めるが。
525 :
524:2013/12/01(日) 10:23:35.77 ID:EPCjr4eJ
526 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:50:53.67 ID:48tVDIFF
>>523 会津征伐は家康が大坂城西の丸で独裁していた時に発令されたので
公儀扱いとしての出兵になり、軍資金が出ているが、
内府たがい条で合議による
>>452専横独裁していた家康が賊となり排除されたので、
公儀の活動としての公認は消滅してる。
そして
>>447>>448のように家康が豊臣政権からも敵認定されてる。
527 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:52:36.04 ID:48tVDIFF
また家康の会津への動員はかなり強引に行われているので、
純粋に、家康の会津征伐〜関が原に賛同したものは限られている。
wikiだけの知識で必死に対抗しようとするバカ毛利厨乙w
伊予を毛利が平定するチャンスがあったとかバカも休み休み言えよwww
ぜんぜん知識もないアホ丸出しで毛利史観を盲信してんじゃねーよ。
阿波や讃岐が毛利の管理下に置かれてるから毛利の功績?もうデタラメすぎて腹が痛いよwww
伊予国松前城主加藤氏の場合
毛利軍の侵攻に対して弟や正木城を預かる佃らは
宇和島城主藤堂氏の援軍の申し出を「独力で守るわ!」と断り
5/18に決戦し村上・能島・曽根の三将を打ち取るも加藤側の被害はわずか味方手勢十余人の戦死。
これにより正木付近で毛利軍は壊滅させ敗走、さらに追撃し毛利と戦闘を重ね、
毛利軍は久米郡如来寺に籠城し一揆軍の決起を促す。
19日加藤軍の先頭の黒田九郎兵衛は山門を打ち破り寺内に乱入し
毛利兵を討ちまくるうちに鉄砲に当り討ち死。
あとに続いた飛松兵介も討死するも佃は兵を二手に分け前後より攻めて毛利軍を打ち破る。
この戦いで荏原村一揆と毛利を打ち破り、さらに和気郡山越村でも一揆と毛利軍撃破
毛利軍の最後は還熊八幡社を本陣にしたところ
佃は八幡山を襲撃し毛利の防衛線は破られ風早浦から逃げ帰った。
浮穴郡荏原城、和気郡山越付近と佃率いる加藤軍は連戦連勝し
一方、藤堂領宇和郡松葉村でも力石良連らに三瀬六兵衛が打ち取られ伊予の毛利壊滅。
阿波国徳島城蜂須賀氏の場合
家康が上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して
小笠原秀政の娘と婚姻してるこの時わずか15歳の至鎮を強引に連れ出して人質となして出征。
やむなく至鎮を守るために益田一正ら18騎も随行。
三成挙兵→至鎮の婚約者の小笠原秀政の娘を救うべく高木法斎が徳島にいた家政の許可なく
北陸軍として加賀大聖寺城に入ったために三成による弾圧を免れることに成功。
大坂方から木俣半之丞が徳島にきたが人質を取られた家政は家康追討の名分がないと反対。
これを受けて大坂から家政に親しい前田玄以が徳島へ出仕要求にきた。
家政は仕方がなく大坂へ出てきて「患いの最中でなおかつ年寄りでもあるから従軍は勘弁して欲しい。
その代わりに国兵を差し出すから自由に使って差し支えない」
と大阪に味方すると約して、諸将の了解を得て下城しのちに高野山へ行く。
そこで大坂方から小川越前&小早川豊前が徳島へ来て家政の意として大谷・木下勝俊に属して北陸へ向かうように指令。
9/12に1万で兵庫上陸するや蜂須賀隊を率いる稲田示植が病として進軍を3日の間ストップをかけ
15日枚方で関ヶ原の東軍勝報を聞き近江草津で至鎮に合流。
生駒一正は未だに部屋住みなりしも20騎を率いて家康に従う←ここら辺は至鎮と同じパターンだろ。
生駒親正は西軍として丹波田辺城を攻め向かうも関ヶ原を聞き家康を恐れて高野山へ行く←家政と違い大坂でうまく言い訳ができんかったw
西軍化した生駒も蜂須賀もまったく士気がなくやる気ゼロの軍
どこに毛利の功績があって、毛利が四国の大半を支配下に置けそうだったんだ?
毛利はいつもどうりに激弱かったので、西軍の足を引っ張って大坂方が苦労してただけだぜ。
528 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:53:56.02 ID:48tVDIFF
>>524 7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状→光成氏が吉川広家が言い訳するために作った
のちになって作られた偽書状群の一枚と主張。
この書状が徳川家に残されていないので、徳川方へ発送されていないのは確実。
7月16日付 堅田元慶宛蜂須賀蜂須賀家政書状
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、 武断派が三成憎しで大垣へ北進) あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや 待ちかねていたように急ぎ即日出発。 明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は 三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で 輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。 そもそも三成は直接、
輝元へ意見が言えず増田経由であるのに 三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても 三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請 決起を打ち明けられ同意を求められた家政が 16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで 家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ 瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。 三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり 物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして 三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて 輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。
蜂須賀の書状って、 最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。 三成らが悪いだけで輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。
7/17 内府たがい条がだされる。
7月21日付 四郎右・市正宛て 細川忠興書状 いつもの怪しげな細川家記シリーズ
三成憎しの忠興がかねてから三成のことを家康に中傷してきていたのがわかる書状
細川ガラシャ殺害を、大坂にいない三成がやったと捏造する細川家は、
戦後になると黒田長政ともケンカして嫌がらせをする性悪大名。
ちなみに細川家記には7/17に内府たがい条とともに細川家名指しで「太閤様が取り立てた福原長堯の領地を、
何の功も立てていないのに家康の扶助で手に入れたので、何も罪ない上杉への討伐で
細川家は一族残らず出陣した」として秀頼から討伐令が出たなどと偽書状をデッチあげて、
徳川への忠節を宣伝しまくってるアホ。
7月27日付 秋田実季宛榊原康政書状
秋田宛て榊原書状において下記の人たちが家康にガセ情報を流していたのがわかるね。
大坂より御袋様(淀)並びに三奉行(内府たがい条に署名してる面々)・北国羽肥州(利長)
前田利長まで巻き込んでこれだけおおがかりな詐欺まがいの政治外交を
指示できるのは西国取次ぎ役の大老輝元しか無理と言える。
529 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:57:45.90 ID:48tVDIFF
細川家記とは現在では綿考輯録と呼ばれていて
明智軍記からの引用もあって見事に怪しさ倍増になっている。
(本能寺の変から120年後に書かれた明智軍記から40年後に細川家記が書かれている)
内府たがい条に対する御袋様・三奉行(内府たがい条に署名してる面々)・北国羽肥州(利長)
前田利長らの挙兵を誤魔化す言い訳を家康が信じていたんじゃないかね。
それに三成謀反をチラつかせれば、武断派だけでも上杉征伐から抜けるので、上杉援護にもなる。
伏見城落城の報が宇都宮に届き家康が毛利が首謀者と確信することで、事の重大さを認識して会津から江戸へ戻ったのも8月に入ってからだし
細川家に残る霜女覚書(細川玉子(ガラシャ)侍女の霜の口述記録)
三成が捕らえに来るという「風聞」が7/12の時点ですでに流れていたのがわかる。
もちろん三成は大坂にはいないから大ウソ。
この7/12は三奉行と安国寺が輝元へ大坂へ来るように依頼した書状を出した日である。
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
安国寺江州において石田と大谷と決起の密談をしたと書いてあり
これが後に広家らが自己の立場を有利にするため偽造されたものであるので、
大谷と三成の決起の計画自体が大ウソになる。
7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
両人御同意の儀、初めは雑説と存
などと三成と大谷の決起を噂と思っていたら、輝元が決起したと驚いている。
光成氏は、7/13付益田、熊谷、宍戸書状も
広家書状同様に徳川方に送ってないと、
広家覚書に書いてあると指摘してる。
なんとしても三成と大谷を首謀者に仕立て上げたい作為が細川氏同様窺われるんだよな。。
530 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 10:59:21.30 ID:48tVDIFF
7/15付 上杉宛島津義弘書状
輝元・秀家を始め、大坂御老衆小西・大刑少・石治部少被仰談〜
拙者も其通りに候、委細石治より可被申候
薩藩旧記雑録収録書状。藩ではなく個人によって編集される。
明治13年に一応の完成を見るが、
増補訂正が明治30年まで続けられる。真偽問わず収録。
三成の名前は一番最後に書いているのはなぜか?三成は大坂にいないし大坂御老衆でもない。
兵を集め始める島津義弘もこの時期、まだ大坂にいない。
上杉に宛てて三成は本当に委細を述べる書状を出しているのか?
島津義弘が西軍参加をしたのは朝鮮出兵で一軍を形成していた小西との友情から。
家わけ島津家文書の中には朝鮮出兵中の小西→義弘親子への書状はやたら多い。
1/11に小西は島津義久宛てに正月の挨拶とともに肥後から上洛へ出発している。
では義弘の言う三成→上杉の連絡の話は成立しているのか?
7/17付け真田宛長束・増田・前田書状に続く
7/20付け真田宛大谷吉継書状(大谷と三成のことが始めてはっきりわかる書状)
伏見へは島津・輝元・宇喜多・小西が攻め寄せてると書いてあり、
また左衛方(信繁)へは東海道宇都宮へ出合候様に、佐和山より両使下し申候
とも書かれ、伏見攻撃が開始されたことで初めて佐和山との連絡が可能になったのがわかる。
7/29付け真田宛長束・増田・前田書状
其上景勝申談候者と、ここで初めて上杉に言及するようになり、最後に
猶石治少より可被申入候と長束・増田・前田らの命で三成が真田との取次をやるような内容である。
真田宛7/29付宇喜多書状と真田宛7/29付毛利書状も景勝申談候者と書いていて西軍と上杉の連携が開始される。
真田は7/21に真偽を確かめるべく懇意にしていた三成に書状を出し、7/27にやっと佐和山へ到着
このことから家康側は使者の佐和山への連絡を厳しく監視統制していたのが見える。
そして三成が7月末日に真田へ返信した内容に会津への使者と書状を届けて欲しいとお願いしている。
この7/末になって初めて、三成は植えすぎとの連絡を取り始めており、
大坂で指揮をとってる三奉行や毛利・宇喜多も7/29に初めて上杉に言及している。
とても義弘が7/15に書いた内容が事実を表しているようには見えない。
むしろ大谷と三成の名前を最後に書いているのは噂レベルの話だからか、
もしくは小西が噂を吹聴している張本人と思われる。
531 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:04:19.10 ID:dA8/WGhk
ソ連8月クーデターとだぶるのは気のせいか。
532 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:28:21.58 ID:48tVDIFF
>>523 >>三成が書状で軍資金も兵糧も足りないと催促しても平然と無視している
中井氏「この書状は古今消息集に収められているものだが、
正直なところ、これが三成が書いたものそのままとはとても思えない。
通常の三成文書と文体・内容ともかけ離れているからである」
そもそもこの書状は関原軍記大成やそれを元ネタにした江戸中期成立の木村高敦が書いた武徳安民記などの軍記類において、
大津の京極を訪問する北面の某が、山科辺りで石田の介者を捕縛して、書を奪い神君へ渡したなどと書いていて
とても信用できる書状写しではない。
佐竹も懇意にしていた三成へ挙兵について問い合わせているらしく
7/23・7/26と重ねて三成宛に書状を出している。
返答は8/7になってからで、
23日のものは大阪に着いたようです。26日付のものは佐和山で読みました。
この飛脚は大坂へ向かってからそちらへ帰ります。
などと書いており、三成は佐和山城にいるのがわかる。
そしてやはり三成の西軍参加への疑念から
真田同様に佐竹も必死に三成本人の意思を確認しようとしており
はっきりした三成本人の参加意思表明の確認ができるのは
真田へ宛てた7月末の書状が一番最初か?
三成を西軍に参加させる為に大谷が必死に説得した結果、
伏見城落城の目処がたってきた7月末にやっと三成も西軍参加を了承したと解釈できるね。
たしかに西軍参加を拒んでいたら、伏見城落城後に、瀬田大橋に駐留していた毛利軍に佐和山城は攻撃を受けるもんな…
三成の西軍参加の噂が事実かどうかの真偽を確かめるために
真田や佐竹が書状を出しているが、返信の書状が出されたのは7月末日になってから。
そしてこの日付けが三成が西軍参加意志を表明した初めての書状でもある。
なので、内府たがい条にはとうぜん三成の署名がない。
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が吉川家の意向を受けて、
関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして
毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
このことを山本洋氏が解説し、これを土台にして光成氏が書状研究した結果だね。
若狭小浜藩の大老酒井忠勝は直江と三成を首謀者にする
会津陣物語を作り上げ東国太平記でさらに昇華させ
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続偽書状を製造し
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付かせるのに成功。
これで徳川史観として三成と直江がすべて悪いと汚名を着せた。
直江状に本来なかった追而書を付け足す暴挙をやってのけて加筆したり
関が原前日の内通を約束する秀秋家臣稲葉(春日局のダンナ)宛て9/14付け井伊&本多ガセ書状を
捏造したりと怪しげなネタ満載の「関ケ原軍記大成」(著者は若狭小浜藩出身の宮川忍斎1655?1716没)
若狭小浜藩の歴史捏造事業(実態は低俗な軍記)は神レベルだと言えよう。
さらに毛利側も陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして三成と安国寺に騙されただけと
毛利も被害者ぶった史観を作りあげた。
三成を首謀者に仕立て上げるには
6/20三成→兼続偽書状
7/14三成→兼続偽書状
上記を偽ではなく、本物と解釈しないと成り立たないんだよ。
そうすると三成と兼続共謀説が史実化する。
533 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:32:56.83 ID:EPCjr4eJ
>>526 繰り返すが、正当性のない非合法なクーデター政権が出した『内府ちかひの条』に、
家康を賊軍にする効力など存在しない。単なる西軍勝手の宣戦布告書に過ぎない。
権威である豊臣『家』から、西軍が正当性を認定されていれば別だが。
司馬懿が郭太后から、ソンティがプミポン国王から支持を得たようにね。
534 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:41:27.53 ID:48tVDIFF
>>533 西軍は内府たがい条で、家康の罪を列挙して大義名分を告示している。
しかし家康には反論できず、黙殺するしか手段がなく、
秀吉の遺令による合議制を破壊したい家康の私軍と、
憎い5奉行を廃止したい武断派の利害がたまたま一致して徒党化した賊軍である事実は消えない。
家康には掲げるべき大義名分が一欠けらもない。
ただ秀吉の遺令を破壊し、秀頼が成長する前に権威権力を奪い取ろうと次々と大老を排除または、
従属させるべく威圧を加え平時に乱を起こし権力欲を満たすためでしかない。
535 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:41:33.74 ID:EPCjr4eJ
>>528 長文コピペ爆弾する人の説得力なんてゼロだと思うけどね。
7月14日付 榊原康政宛吉川広家書状
・光成史は、偽書状群の一枚などとの主張は全くしていない。
『関ヶ原合戦後に広家らが自己の立場を有利にするため偽造したか、作成されたが、
その直後に恵瓊から輝元も了解している証拠を提示されたため発送されなかった
という二つの可能性可能性が考えられる。』程度の推測しかしていない。
・未送付によって起こる議論は、輝元の西軍参加時期であり、三成決起には何ら影響を及ぼさない。
7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
・キミの推測は不要だし、口語訳は正確に行うべき。
『猶々、両人御同意の儀、初めは雑説と存じ、・・・』
× 三成らの挙兵は根拠ない噂と楽観していたら
◯ 三成らの挙兵に輝元様が同意したとの事、初めは噂に過ぎないと
・この書状で、輝元が差し止めたのは、諸将の軍を指してはおらず、輝元自身の部隊だけ。
7月21日付細川忠興書書状
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
・全てキミの願望と推測。光成氏はこれらの書状を自身の論拠史料として活用している。
いつも同じ事言われて、長文コピペで逃げ回るよね(笑
536 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:48:31.97 ID:EPCjr4eJ
>>534 もう小説だね。客観性や冷静さの欠片も感じられない主張だよ(笑
繰り返すが、正当性のない非合法なクーデター政権が出した『内府ちかひの条』に、
家康を賊軍にする効力など存在しない。単なる西軍勝手の宣戦布告書に過ぎない。
西軍が豊臣家の支持を得られない賊軍スタートなのに、なぜ東軍の正当性を否定できるんだよ(笑
537 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 11:52:34.21 ID:9yIX1sd1
>>534 家康は明確に反論しているよ
三成という奸臣が天下を奪おうと仕組んだ陰謀であると
すると内府たがい条とやらで自信満々に署名した連中は三成の子分である宇喜多を除き
全員が戦意を喪失し関ヶ原で戦う気もなくしてしまった
署名した連中がこうなのだから他の一般大名など当然ながら家康と戦えるわけもない
大谷・小西といった石田派閥舎弟以外は関ヶ原を傍観するか内通するしかなくなってしまったわけ
西軍が家康の主張に対してなんらの反論も出来ずに逆に三成が首謀者であると白日の下に晒してしまったからね
538 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 22:30:48.19 ID:RUFLWNOS
>>520 文禄四年七月十二日付連署起請文(毛利家文書他)
文禄四年八月二十日付連署起請文(木下家文書)
>>521 主張するしない以前に公儀によって公認されなければ公儀性は纏えないわけだから
少なくとも東軍は豊臣公認の軍であるという理屈は成立しない。
豊臣家は上杉を討伐しろとは命令したけど西軍を討伐しろとは言ってないし
反西軍的言動もしていない。
あなたの言う通り「東軍というのは、西軍が挙兵したから意味を成したもの」
であって、あくまで西軍に対抗するために公儀の公認無く成立した勢力だから
上杉討伐軍とは同一のものでは無い。
>三成の挙兵に端を発する西軍は、全てに該当するね。
これを一次史料の記述を挙げて具体的に説明してください。
>>523 >増田が家康に対して三成が謀反を起こしましたと手紙を出しているから
この話の出典は「慶長年中卜斎記」だけどそんな書き方はされてない。
しかも「慶長年中卜斎記」は一次史料じゃない。
そもそも初期段階においては三成の挙兵は「雑説」つまり噂レベルの話で
挙兵の実際は個人の一存によらない豊臣大老奉行による組織的な行動でしょ。
539 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 22:40:35.69 ID:7Zhej8ob
群馬アンチ共沸いてるが群馬いい城多くね?
540 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 22:44:33.10 ID:RUFLWNOS
一.諸事太閤様御法度御置目之通無相違様可相守候事
541 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 22:51:14.09 ID:9SvfSkE9
留守を狙って挙兵して政庁抑えちゃえば大正義軍ってことか簡単やね
542 :
人間七七四年:2013/12/01(日) 23:49:51.62 ID:EPCjr4eJ
>>538 起請文の内容を教えてくれ、と言ってるんだけど?
7月12日付は、三成と増田の連署だから清正は関係ないだろ。
8月20日付ではなく、朝鮮在陣諸将による8月6日付では?
稚拙な屁理屈だね(笑
西軍は謀反軍であり、家康は豊臣政権大老の地位を中断されていない。
つまり東軍は、依然豊臣政権の軍であり賊軍には転んじない。
繰り返すがクーデターとは、@支配層の権力異動を目的とし、A非合法な武力によって、
B行政組織を設立し統治する活動。
具体的に説明するので、西軍の何が該当しないと思うのか教えてもらえる?
三成の挙兵が雑説レベルだったとする史料は?
543 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 11:01:50.59 ID:sNu2xTNO
544 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 11:17:48.50 ID:MI6ikCyo
豊臣政権が認定した敵に対して公儀とやらを主張する軍の2/3が戦闘放棄
半日で壊滅させられた挙句に大将なはずの毛利まで戦うことなく逃亡
つまり豊臣政権は末期の室町幕府のように実質的な統治能力を失っていたわけ
家康が筆頭大老として支えてあげることで辛うじて政権としての体裁を保っていたのに
その家康に不満があるからと喧嘩を吹っかければ無様な醜態を晒すだけなのは分かりきったことだろう
545 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 11:39:21.27 ID:sNu2xTNO
>>536 小説じゃなくて実際にあったことだろw
内府たがい条と言う大義名分に対して、
賊軍だった家康はそれに反論すらできなかっただろ。
完全に黙殺する以外に方法がなかったのは
家康自身が己に正義も大義もなく、権力欲だけで平時に乱を起した自覚があるからで、
賊認定された途端に会津征討軍が見事に瓦解。
家康は雑説に見事に騙され信じて
三成と大谷の蜂起なんて大したことねーよwwwと会津征伐をい進めようとしたが、
武断派は憎いやつらを討てると喜んで、家康を見捨てて西上していった始末。
家康と武断派は双方の思想信条で協調してたのではなく、完全に利害だけの関係でしかない。
しかも三成は家康派であったので、家康に対して挙兵する意志はまったく考えられず、
三成が始めて西軍参加を表明したのは、西軍が伏見城陥落に目処がつき、
西軍が近江へ本格的侵攻可能となった7月末日に三成が真田へ返信した書状まで一切ない。
(真田は7/21に三成挙兵の雑説の真偽を確かめるべく書状を出していた)
その次が8/7であり、佐竹が雑説が事実か?三成へ挙兵について問い合わせているらしく
7/23・7/26と重ねて三成宛に書状を出しており、その三成の返答が8/7なってやっと。
546 :
542:2013/12/02(月) 14:10:21.69 ID:eY46III9
>>543 >>447>>448は、要領を得ない長文コピペだし、『内府ちかひの条』がベースでしょ?
何度も言ってるんだけど、内府ちかひの条自体にに正当性が付されてないわけだから。
クーデター政権の作った宣戦布告書なんだから、そりゃ敵対する家康を否定して当然でしょ(笑
意図的に見なかったフリはキミでしょ?(笑
>>542の未回答がたくさんあるけど?
>>545は架空小説でしょ?お疲れ様(笑
547 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 17:25:13.82 ID:sNu2xTNO
>>542>>546に書かれている内容は
すべてお前の願望妄想じゃんwwwまったく一次史料による裏づけがない
お前が「思った」ことにすぎないのに、意図的に見なかったことにする必要あるわけ?w
お前、具体的な根拠を一切あげてないだろw
んで、起請文の内容の件については俺のレスじゃないから知らねーよ。
キチガイアンチ豊臣政権の織田朝鮮人が自演してるからって、相手まで自演してると思うなよw
548 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 21:17:57.30 ID:rxLpZh+u
>>542 >>三成の挙兵が雑説レベルだったとする史料は?
7日12日(松井家文書)前田玄以、増田長盛、長束正家の三人が輝元へ上坂を要請。三成・吉継の名は無し。
7月13日(義演准后日記)「大坂雑説」についての記述あり。ただし三成・吉継の名は無し。
7月13日(時慶卿記)毛利勢の大坂到着の記述あり。ただし三成・吉継の名は無し。
7月13日(吉川家文書)輝元家臣が家康家臣に大坂の情勢を報告。三成・吉継の名が出てくるが二人が具体的に
何をしていたのかの記述は一切無し。そして何故か三奉行による上坂要請の件が書かれていない。
7月14日(吉川家文書)吉川広家が榊原康政に報告。内容は輝元家臣のものとほぼ同じで、上坂要請の件はまたも書かれていない。
7月16日(毛利家文書)蜂須賀家政が三成と吉継の行動に輝元が同意したという「雑説」について恵瓊に尋ねたが
東軍への参加を止めたのは輝元の意志であると説明される。家政は三成と吉継の行動を「逆意」としているが、
三奉行の件にふれていない事からその情報源は輝元家臣あるいは広家。
7月17日「内府ちかひの条々」発。三成・吉継の名は無し。
7月21日(博物館古書)徳川秀忠は滝川雄利宛て書状で「大坂御奉行」とは「別儀無」くと報告。
上坂要請どころか17日に出された「内府ちかひの条々」の記述すら無い。
549 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 21:18:45.83 ID:rxLpZh+u
7月23日(譜牒余録)最上義光宛て家康書状で三成と吉継が「触状」を「廻」しているという「雑説」の記述あり。
7月27日(譜牒余録)榊原康政は秋田実季宛て書状で「別心」した三成と吉継の討伐のため大坂の奉行衆らから協力要請を受けているとしているが事実は全く逆。
7月29日(戸田家文書)家康は東軍諸将に「大坂奉行衆」の「別心」を伝える。
7月30日(真田家文書)真田昌幸宛て三成書状”先以今度意趣兼而御知も不申儀御立腹無余儀候共内府在大坂中諸侍之心いかにも難計付而言發儀遠慮仕畢”。
西軍の挙兵について事前連絡がなかった事を弁明しているがその挙兵が自分の計画によるものとは言っていない。
10月2日(吉川家文書)黒田長政によって「触状」を「廻」していたのは三成でも吉継でもなく輝元であった事、そして輝元と三奉行が共謀の上で西軍決起に及んだ事が確認されている。
つまり三成と吉継に関する重ねての「雑説」は輝元家臣あるいは広家が生み出した誤った情報。
確認した限りでは7月中に三成が他の大老奉行と連署した書状は無く西軍側の史料では三成と吉継の行動の詳細は不明。大坂にいた様子も無く重要なポジションは与えられていない。
550 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 21:29:02.11 ID:rxLpZh+u
>>542 >>起請文の内容を教えてくれ、と言ってるんだけど?
今度御太閤御煩御大事之由承候千万一ツモ御不慮之時者各致同心罷上被仰置旨承御飛ろい様可奉致御奉公候
如此申談上此加判衆中之内若私之遺恨を含相違仕人於有之者残衆同し致一統御法度之旨可申付候
551 :
人間七七四年:2013/12/02(月) 21:36:38.51 ID:rxLpZh+u
一.私遺恨を以諸傍輩相果候儀有之間敷候自然非分被申懸背御法度仁於有之者
各御置目をも被申付候衆相談之上を以得御諚可被加御成敗候事
552 :
546:2013/12/03(火) 00:06:08.87 ID:45j08Al/
>>547 普遍性が高く史実として認識されているものを組み立てただけだよ。
極めて単純な主張。具体的に、何が史実と違うのか指摘してもらえる?(笑
よっぽど、
『家康自身が己に正義も大義もなく、権力欲だけで平時に乱を起した自覚があるからで』(
>>545)
この自覚の有無とやらを一次史料で示して欲しいね(笑
553 :
542:2013/12/03(火) 00:27:21.45 ID:45j08Al/
>>548>>549 よく調べたなぁ、と感心したんだけど。。。
おいおい。
これ、光成準治の著書『関ヶ原前夜』から拾い上げただけじゃないか(笑
当該著書を持ってる人がこのレス読んだら大爆笑だね。
光成氏は、三成の挙兵を雑説などとしていないのに、都合よく曲解し過ぎ(笑
氏は、7月12日付松井文書より前に、三成・吉継・恵瓊の謀議が存在を認めているよ。
(同書57ページ)
キミ、恥ずかしくない?(笑
554 :
542:2013/12/03(火) 00:29:12.37 ID:45j08Al/
↑
× 三成・吉継・恵瓊の謀議が存在を
◯ 三成・吉継・恵瓊の謀議の存在を
555 :
547:2013/12/03(火) 00:35:08.12 ID:45j08Al/
>>550>>551 で、どの起請文に該当するの?日付で教えてもらえるかな?
起請文の存在自体に食いつくつもりはないから警戒しないでいいよ(笑
本命はその後なので。
556 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 01:08:38.02 ID:UwFtxE18
>>553 おいおいお前エラそうな態度だなw
光成準治の関ヶ原前夜なんて2009年の本だろw
もう2014年まで一ヶ月切ってるのに、
そんなに自信満々に大衆向けの安っすい古書を元に何その態度笑えるんだけどw
どんだけ過去の言説に縋って生きてんだw
557 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 01:13:37.28 ID:45j08Al/
558 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 12:13:31.08 ID:EnSIyDHn
よく関ヶ原は豊臣政権内の抗争であるとか言う奴がいるけどひどい間違いだよな
関ヶ原は豊臣が家康を謀反人として討とうとして失敗し完全敗北を喫した戦だろ
豊臣は勝負以前に軍隊として機能させることすら出来ず政権としての限界を露呈した
だから家康に降伏して領地をいくら切りとってもいいから筆頭大老に戻ってもらう方針に転換したわけ
家康も日本を無政府状態にすることは望んでいないから徳川政権に移行する前段階として形だけ豊臣政権を残してあげたのに
家康の温情を利用して豊臣政権内部の抗争であると関ヶ原を貶めるなんて許せないよ
559 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 12:55:58.21 ID:hrZ731b9
豊臣崩壊の元凶が家康に篭絡されたアホ武功派と
総大将に奉り上げられながら何もできず戦力を分散しまくり大敗した馬鹿輝元と
家康のいちゃもん無理矢理つけた示威行動にビビッて即効土下座したヘタレ浅野・前田だよな。
三成はむしろこれだけ不幸で不運な状況と無能連中に囲まれてる中でよく頑張って兵を集めた方。
560 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 13:18:00.37 ID:qgAknsXv
>>558 釣られるけど、
>関ヶ原は豊臣が家康を謀反人として討とうとして失敗し
そんな証跡は存在しないので、以下の文章は省略可(笑
561 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 16:35:12.31 ID:T8huy7eS
>>553>>557 光成氏は三成・吉継・恵瓊の謀議の存在の証明は一切やってないからなw
雑説というキーワードにまったく疑問を持たずにスルーしてしまった。
これは致命的に発想力が欠如している乏しさと言える。
当時、家康派だった三成を細川を筆頭に三成をなんとか家康の敵に仕立て上げようとしていた。
お前は一切、根拠を挙げずに屁理屈をたれて逃げてるだけだよな。
たまには「なるほど、勉強になるなぁ」と感心してもらえるレスくらいしろよw
>>556 そいつさ、最初は光成氏の本を知らずに、そんなのウソだとか鳴いて喚いていたんだぜw
光成氏の本を教えてもらったら態度を180度豹変して、そういう高飛車な態度になってんのw
2010年以降も水野や本多や林や島津や中井と言った人々が関が原の見解を示して研究が続いているのに
その馬鹿は2009年の本で、そんなに自信満々に高飛車な態度を取ってるんだぜw笑えるよなwww
>>558 家康の卑しい野心を見透かした武断派が、
家康にウソ情報を流して、それを信じた家康がまんまと武断派に騙され利用されたに過ぎない。
その結果、豊臣家に屈して、豊臣の名で武断派に大幅加増をせざるを得ない状況になり、
肝心の上杉征伐を撤回に追込まれ家康は徒労に終わってしまった。
結果、豊臣政権から正当に離脱する手段として
家康は征夷代将軍になり、武家の棟梁として支配を確立する方向に努力することになる。
562 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 22:33:51.20 ID:91g4uRTP
>>552 「普遍性が高く史実として認識されているもの」なら主張の材料としては
なんら問題ないし、覆したければ一次史料を出せばいいだけの事。
そもそも『家康自身が己に正義も大義もなく、権力欲だけで平時に乱を起した自覚があるからで』
なんて主張は私はしていないんだけども。
>>553 光成氏の論文はいくつか拝見しているけどその本は持っていないよ。
それとも私の家に来て確認でもされましたか。
だいたいこっちは「三成の挙兵を雑説などとしていない」という話に
賛同しているわけでもでもないし、氏の論説を敷衍しているわけでもない。
あなた自身が認めた「普遍性が高く史実として認識されているもの」を
用いて話をしただけ。
>>555 既に書いてあるんだけど。
563 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 23:21:16.03 ID:45j08Al/
>>561>>562 そんなに必死にならなくても(笑
キミが雑説にしたいだけでしょ?
動かざる常識を証明する必要も意味もない。
キミの妄想力は致命的な水準だと言える(笑
ウソだと喚いた記憶は全くないが、光成の著書を引用していたキミの主張が
大ウソだった事は暴いたけどね。捏造・曲解・誤訳だらけ(笑
で。水野、本多、林、島津、中井と言った人々の関ヶ原研究を読んだ結果が、
『三成・吉継の挙兵は雑説』、『三成は家康派』、『武断派が家康を騙し利用』なのか?(大笑
なんていうか、お疲れ様。
564 :
人間七七四年:2013/12/03(火) 23:30:01.27 ID:45j08Al/
>>562 だから私の主張で、何が史実と違うか指摘してくれればいいのに(笑
何の一次史料を出せばいいのかわからないんだけど?
正直言うと、キミとの議論(?)は、一次史料を使うまでもないレベルなんだよねぇ。
ゴメンね。(笑
ではもう一度聞くので教えてもらえる?
起請文の日付は、7月12日?8月20日?
565 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 09:12:48.32 ID:9njVxMuq
>>561 おいおい文章を間違えているぞ
関ヶ原は三成の卑しい野心を見透かした西軍諸大名が、
三成に家康と真面目に戦うというウソ情報を流して、それを信じた三成がまんまと騙され利用されたに過ぎない
その結果、徳川家に屈して、徳川に豊臣直轄領の渡して大幅加増をせざるを得ない状況になり
肝心の上杉も降伏に追込まれ三成は徒労に終わってしまった
結果、豊臣政権から正当に離脱する手段として
家康は征夷代将軍になり、武家の棟梁として支配を確立する方向に努力することになる
566 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 09:57:42.59 ID:M3xdZw5L
自演乙
567 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 11:33:23.35 ID:2h+iwFfH
相変わらず在日朝鮮人がむりやり家康と輝元を歪曲擁護して粘着してるのか。
しかも光成の本しか読んでない無知っぷりw
568 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 12:41:25.93 ID:s6LLkceN
>>559 保身に走って家康に内通してた増田長盛と小早川秀秋もだな
569 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 13:42:54.64 ID:KvaBuDnq
>>567 無理矢理歪曲とは、こういうのを指します(笑
『三成・吉継の挙兵は雑説』、『三成は家康派』、『武断派が家康を騙し利用』。。。
光成の本しか読んでないというか、光成著書がソースであるキミの主張を検証しただけだし(笑
捏造・曲解・誤訳だらけのツッコミどころ満載(笑
570 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 14:50:29.02 ID:Etg5V2WL
571 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 15:36:03.73 ID:F47xHcj7
白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。
水野伍貴も三成は家康派だったとしている。
なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、
結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して、
前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとあり
これは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。
中井俊一郎氏「家康の加賀攻めの際、三成は家康に従い越前に出陣している。
これは「看羊録」だけではなく、前田家の史料にも見られるので史実と思われる。
また大谷吉継は前田派の加藤清正の上坂に備えて淡路に出陣したという。
これも島津義弘の書状にあるので史実であろう。この当時、三成らは家康に従う姿勢を示していたのである」
つまり当初は家康との衝突を避けるために、少々のことは大目に見て融和しようとしていた三成だが、
いよいよ野心むき出しになる家康を見て、輝元や上杉と協調して家康を牽制する方向に軸足を移す。
しかし利家が死ぬや抑えが効かなくなった武断派のクーデターが発生し、これを悪用した家康によって、
毛利が屈服してしまい、三成は家康へ従属し家康派に転向し、
家康と共同して前田派(武断派も含む)と対抗することになる。
そのため西軍決起には三成はまったく関与しておらず、家康へ屈服した際に悔し涙まで出していた輝元の
会津征伐に便乗した専横奸臣家康への反撃への呼びかけと
豊臣家の将来を危惧する大老と奉行と大坂うちむきの権威の積極的参加による正当性の付与が、
内府たがい条が発給された根拠となる。
いまさら光成氏の2009年の古い話なんて問題にならない。
最近の論点は「看羊録」を利用した前田派と奉行派の対立軸をたくみに利用した家康という過程の論議が活発。
572 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 18:06:55.81 ID:F47xHcj7
前野長康や浅野長政の失脚を見てれば いつ政争の舞台から失脚しようが浮沈の覚悟もあって当然だろうね。
そして一年以上に渡り、三成はおとなしく生活していて事を起こすような証拠はまったくない。
嫡男の石田重家(三成が実父正継のために建立した寺である寿聖院の三代目を継ぎ生存)
次男の石田重成は津軽重臣として生存。
津軽2代藩主正室の辰姫として生存(子が津軽3代藩主信義)
三成首謀説は大老にもなった若狭酒井忠勝が主導して造られた東国太平記が
三成と兼続の陰謀話の証拠として登場させたのが発端だからw
それには現在では偽書状認定されている原書が存在しない書状が記載されてる。
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続書状がそれ。
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付いたもの。
三成と直江がすべて悪いと汚名を着せられたことと、
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
三成と直江首謀→三成首謀→三成と輝元首謀→輝元首謀と
だんだんと三成の関ヶ原での権力が疑問視されてきてるのが流れだ。
また毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
9/15付けの家康から政宗への関が原勝利レターも
濃州山中及一戦、備中中納言、島津、小西、石治部人衆悉討補候
などと書いてあって一番最後に名前があがるのが三成。
優先順位で考えても明らかに重要視されてない。秀家が一番重要視されてるでしょこれ。
白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している
毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
573 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 18:10:22.70 ID:F47xHcj7
上杉景勝は無罪になっているが、輝元は強制出家隠居にされていることからも、
輝元が首謀者として重い沙汰を下されている一方、
武断派の協力を得られず会津征伐を断念しなければならなかった上杉では雲泥の差。
いくら豊臣家を守るために大老として家康が関ヶ原で戦う羽目になったと曲解しても無駄だわ。
せめて国松だけでも生かしておいたら後世において
言い訳ができたけど、やったことは女子供関係なく大坂20万人を虐殺して
大坂城をいったん平地化しつくして完全破壊してからの新大坂城建設と、
秀吉の墓を暴いて神号剥奪。自分は東照大権現として神になる暴挙だもんな。
偽新田源氏を標榜したところでクズの本性は直らなかったな。
織田家は秀信が家康に改易され野垂れ死に追いやられた後になってさえ、
信雄親子も有楽斎親子も大坂城にいて、みんな反家康の豊臣擁護側のリーダーとされていたし。
豊臣と共に滅亡にならないギリギリまで織田家は大坂城で家康に抵抗していた。
どんだけ織田家は家康が嫌いなんだよレベル。
さすがは看羊録に以下のように書かれる反社会的糞人格だけあるな。
家康は恩怨を心ひそかに含み、一度でも反目することがあれば、
必ず相手を死地に追いやってしまって満足した。
それ故、諸大名は、家康の力を畏れて表面上は服従するが、一人として心服する者はいなかった。
配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。
彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。
自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり、
秀吉死んだら本性を露わにしたものの勝てるかわからん利家には和睦し、
彼らが死ぬまで待ってただけで、 ひたすら信長や秀吉や利家に屈辱の人生に、
やっと日の出をみる機会がきたから、 豹変して織田秀信や豊臣国松を死に追いやっただけだろ。
英雄群雄と競って実力で手に入れた天下ではなく、 幼君を傀儡に平時に乱を起こし簒奪して、
実力で負けたくせに逆恨みで報復しただけ。 信長に助けられて遠江や駿河を貰ったにも関わらず、
織田から甲斐信濃を盗み、 秀吉から東国取次ぎに抜擢されて関八州をプレゼントされた恩も、
すべて逆恨みとなしただけのキチガイ。
574 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 22:25:54.24 ID:UHtaJy8v
>>564 指摘もなにも私の主張をあなたは「普遍性が高く史実として認識されているもの」
として評価されているので話はそれで終わりなのですが。
一次史料に基づいた論説を否定するのに一次史料は必要無いとお考えなら
こちらとしては特段諫止する義理もないのですが
他の方々がどう受けとめられるか保証は致しかねるところです。
また史料の日付も内容も出典先も明示してありますので
発言者としての責はすでに充分に果たしております。
また出典先が明示されている以上私の発した情報の真偽を第三者が
検証する事は可能でありますから何ら謗りを受ける謂れもありません。
それを理解できないなのはあなたご自身の問題でありますから
私にはどうしようもない事でありますし
またそれによって私自身には何ら不都合は発生しないのです。
他人を攻撃しておきながらその人の情報に依存しなければ
持論を展開出来ないなどという理屈は普通認められませんよ。
575 :
人間七七四年:2013/12/04(水) 22:43:24.51 ID:UHtaJy8v
では日付君の為かつスレに有益な情報を、という意味で連署したメンバーを並べてみます。
羽柴対馬侍従羽柴柳川侍従羽柴久留米侍従鍋島加賀守小西摂津守加藤主計頭
寺沢志摩守黒田甲斐守毛利豊前守嶋津又八郎松浦式部卿法印松浦源三郎秋月三郎
高橋九郎相良宮内太輔築紫上野高橋主膳有馬修理大夫大村新八郎五藤孫右衛門
以上署名順。
メンバーの豪華さでは7月20日に流石に劣りますね。