小早川隆景 VS 直江兼続 Prat2

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588無名武将@お腹せっぷく:2013/06/11(火) 19:01:26.77
氏真公は親の敵信長公の前で得意の蹴鞠を披露し滅亡を免れた
589無名武将@お腹せっぷく:2013/06/15(土) 11:30:02.42
上杉家は石高1/4になり給料が1/3になっても皆豊かな越後へ帰らず片田舎の米沢へ。
この一枚岩さ加減はなんなんだ。

それに比べて小早川浪人は哀れ。
590無名武将@お腹せっぷく:2013/06/29(土) 08:45:54.98
隆景の優れているところって...
591無名武将@お腹せっぷく:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN
>>590
まあ直江兼続より官位も領土も当時の知名度も上なだけで他には何もないと思う下の下だね
592無名武将@お腹せっぷく:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
>>574
純米吟醸(直江杉)はスッキリ系でうまい。ネットで是非。
慶長三年、上杉家の重鎮『直江山城守兼続』が参拝の折に自らお手植えされたという御神木。
かつて最上川舟運の船頭達が長井に入った事の目印に『宮の一文字杉』とも呼ばれていたという。
593無名武将@お腹せっぷく:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
信長の野望で言ったら能力は隆景のが圧倒的に上だな
594無名武将@お腹せっぷく:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
隆景が生きてる間でも毛利なんてクズだったよ

・大内・尼子の内部分裂を利用して併合しようとするもガチで戦うと忍原崩れや富田城始め負けばかり
・大友なんて竜造寺にもボロ負けするヘタレ相手に反大友の国人の加勢がありながら大苦戦・敗戦して九州撤退。
・尼子・大内に再三、再興軍や一揆を起こされ大苦戦。
・僅か5万石の南条に大苦戦して援軍派遣まで阻止される。
・備前半国程度の宇喜田秀家相手に反宇喜田勢の加勢を受けながら大苦戦。
・今度は大大名となった宇喜田の加勢を受けながら浦上らに大苦戦。
・織田がやってくるとやはり中国から追い出すどころではなく宇喜多直家・忠家に辛川合戦・加茂崩れで大敗するなど大苦戦
 圧倒的国力差で支援もほとんど受けていない宇喜多と一進一退
・四国でも河野らの支援を得ながら事実上敗退。


あと関が原で主家毛利を大衰退させ、分家の両川を滅亡させたのは100%隆景のせいだから
死んだ後の事も糞もない。隆景がもっとしっかりしてれば毛利が天下取れてもおかしくないくらいの大チャンスの連続があったが
隆景はことごとくそれを無駄にして主家は大衰退で分家は滅亡
595無名武将@お腹せっぷく:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
直江がどうこうというより小早川や毛利がゴミすぎるから比較する余地がない

毛利みたいな棚ボタラッキーチャンスが何回もありながらことごとく無駄にしたアホ大名は戦国期でも稀。
596無名武将@お腹せっぷく:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
隆景なんて軍記でしかろくな活躍ないしなぁ
一次資料の大日本史料家わけ日記とかみてもどこにも隆景の活躍とか出てこないし
597無名武将@お腹せっぷく:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
小早川隆景の評価低いね。
では何で秀吉さんは隆景を天下の政務をとり仕切れるなんて言ったんだろう。
金吾秀秋を養子に入れたいための、単なるヨイショだったってことか?
598無名武将@お腹せっぷく:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
その逸話自体捏造だろ。
599無名武将@お腹せっぷく:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
元春と違い秀吉に媚びまくってたからだろ。
600無名武将@お腹せっぷく:2013/09/07(土) 12:12:44.89
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。
秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。

当時の日本軍の北上はうまく行き過ぎて楽観論で支配されていた。
蔵に食料がたんまりあり、兵糧にこれほど困らない戦いはいままで無かったなどと言われるほど。
だけれどそれは現地の蔵にあるものを没収していたからで、
三成は日本との兵站線から先々は補給が厳しくなることを見通して朝鮮統治に力を割くようにしようとしていた。
そこに明軍が襲来である。
小早川隆景の馬鹿は後退により秀吉からの叱責を恐れて臨津江という大河を背に自分の守る開城で篭城することを主張し、
三成は背後の大河を使っての補給遮断の危険性を強調し、隆景が臆病者めと応じて大口論。
大谷と前野が仲介して、漢城へ後退し迎え撃つことに。結局、立花宗茂が活躍し明を撃退。
秀吉が後退をとがめるために浅野が使者としてやってくると、
隆景が奉行が臆病で仕方が無かったと連呼し、明軍撃退を自分ひとりの功績だと主張して得意がっていた。
三成は後退の叱責を一人でかぶり、開城撤退理由を話した。

>>三成は小早川を領地没収処分に裏で導き
それは講談話だよ。 蔚山の戦いで秀秋が大将にあるまじき槍働きをしてので秀吉の激怒を買った時に
三成が秀秋に大領を持たせるのは秀頼様にとってよくないと耳元で囁いたっていう講談エピなのも知らんとは。
実際、秀秋転封話は慶長2年12/3にはもう出ており、
蔚山の戦いで秀秋が参戦してるのは慶長3年1/4なので順序が逆であり話しとして成立しない。
江戸幕府や毛利家が必死に捏造していた三成悪人伝説の一つに過ぎない。
601無名武将@お腹せっぷく:2013/09/07(土) 12:14:22.73
税金安くするため公務員に金儲けさせた最初の人(「原方衆」)。今の政府も増税の前に見習って欲しいもの。
雑草を金の生る木にして莫大に儲けた人(ウコギ、紅花、青苧)。政府もこういう知恵で金儲けして税金安くしてくれれば...。
ただの山を金の生る木にして莫大に儲けた人(瀬場、関川、相川等)。金の生る木は至る所にあることを示した事例。
本当は米沢城の石垣用だった巨石を洪水防止のため全部堤用に使っちゃった人(直江石堤)。城の建設より住民の安寧が第一、という思想。
自分が集めた貴重な書籍を人材育成のため全部禅寺に寄付しちゃった人(禅林寺)。上杉家よ勉強しろよ、という無言の圧力。

まあ、家康に堂々と反論。また、絶対に勝ち目が無かった織田信長にも最後まで屈しなかった人柄が偲ばれる。あの主従。

謙信公の教え「死なんとすれば生き。生きんとすれば死す」を地で行った二人だったね。
まあ、直江の弟子でもある真田信繁の生き方にも通ずるが。
602無名武将@お腹せっぷく:2013/09/07(土) 12:25:05.41
(*^-^-^-^-^-^-^-^-^-^*)
603無名武将@お腹せっぷく:2013/09/07(土) 13:03:14.96
白馬よりも邪悪だったのは小魔玉だった
604無名武将@お腹せっぷく:2013/09/11(水) 12:53:14.13
アンチ豊臣政権の基地外織田厨涙目w
605無名武将@お腹せっぷく:2013/09/14(土) 12:49:16.20
>>601
上杉景勝は真田信繁に一千貫(約三千石ぐらいか?)の扶持を与えた上で人質として春日山城内へ住まわせている。
春日山城には近所に直江兼続とお船の屋敷があり直江より7歳年下の真田信繁は夫妻に生活の面倒を見られていた。

状況が一変するのは徳川家康が真田攻めを行った第一次上田合戦。
真田信繁は信州の海津城の須田満親の元へ入り上杉家の援軍と密かに上田城に入った節あり。
(上杉と徳川との関係から真田家への援軍は御年譜でも明記はされていないが)。
第一次上田合戦後、信繁は豊臣の人質としてそのまま今度は大阪に赴くこととなる。
上杉謙信公の義の精神は景勝主従を通じ真田信繁にも立派に伝わっていたのだ。

以上のことから「表裏非興の者」とまで揶揄された真田氏は信繁の代に一躍「義の人」になってしまったのである。
606無名武将@お腹せっぷく:2013/09/21(土) 06:44:47.33
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
607無名武将@お腹せっぷく:2013/09/28(土) 10:25:21.72
山城守が京都での職務を終え、新天地会津へ赴く際、当時の著名な儒学者である藤原惺窩を訪ねた。
初日、二日目の訪問とも留守で会えず。三日目も留守で、遂に会津に向け出立しようと準備するさなかに惺窩先生が山城守を大津まで追い訪ねてきた。
山城守はやっと面会でき謝礼のうえ問うた。
古語に「絶えんとするを継ぎ、傾かんとするを扶く」とあるがこれは義の行動ですか?、惺窩先生はこの言葉をどう思われますか…。
つまり山城守は、天下の形勢は既に徳川にあることを承知したうえで、上杉は豊臣政権を助けるために行動つもりだが仁義や愛の精神に叶うかどうか、と堂々と聞いたのだ。

惺窩はこれに応えず黙って去り、自宅の軒先で「天心未だ禍を悔いざるか。億兆の生霊再び塗炭の苦を受けん」(天下は再び乱れるのか、人民はまた苦難にさらされる)と呟いたという。
後にこれを伝え聞いた山城守は「惺窩先生は学者ではあるが男児ではない」と言ったと伝えられている。
608無名武将@お腹せっぷく:2013/09/28(土) 10:29:26.40
白馬よりも邪悪だったのは小魔玉
609無名武将@お腹せっぷく:2013/09/28(土) 10:41:53.99
直江兼続はその生まれる時と場を選べば、秀吉の言うように「天下執柄の人」となっていたかもしれない。
しかし彼の戦いの場は、いつも中原を遠く離れた北陸や奥羽の小天地だった。堂々反徳川の旗を上げ会津盆地に家康を引き摺り込み乾坤一擲の大勝負を仕掛けようとの壮図もついに画餅と帰した。

しかし直江兼続の偉大さは、終生局地戦を戦い辺境を活動の場としながらも常に天下を睨んでいたことだ。仁義を重んじ、理想の天下を構想しながら辺境に戦い続け、そして敗れた。
そういう時代の脇役を現代の日本人はどう評価するのだろうか。
610無名武将@お腹せっぷく:2013/09/28(土) 23:45:09.36
>>417
直江版文選が「木活字」で制作されたと言ってるのは、あの天の邪鬼学者として有名な(全員が右というとあえて左という人)川瀬一馬氏が中心。
確かに慶長5年完成の要法寺版である法華経伝記が日性所有の木活字を利用していたのは事実だが、その6年後に要法寺で制作された直江版も日性の木活字を利用したと一括りにするのは全くの早計。
まず直江版は法華経伝記と比較し活字の字体がより鮮明になっている。また一部字体が違う活字も含まれている。
更に同時期に制作された「太平記」が日性の木活字を利用していたことが字体から明らかになっている。
そういった矛盾点に川瀬氏は全く触れず乱暴に「直江版は要法寺の日性の木活字を利用した」と断定しているのである。
もともと要法寺は「印刷所」として一般に利用されていた場所であり、直江は朝鮮から持ち帰った銅活字を利用して要法寺という印刷所を単に利用したというのが当初の通説であった。
また、直江版を所望した金地院崇伝を中心として直江版の一年後から駿河版(銅活字)制作開始していることからも直江版が要法寺で利用した活字が銅活字であったことも銅活字であった有力な疎明資料になり得る。

よって直江版が要法寺日性所有の木活字で印刷されたと単純に断定するのはいかがかと思う。
611無名武将@お腹せっぷく:2013/10/19(土) 11:31:11.51
 >>605
千貫=三千石?
612無名武将@お腹せっぷく:2013/10/24(木) 17:19:39.88
>605-610
物知りだなぁ
613無名武将@お腹せっぷく:2014/01/20(月) 23:22:10.62
長文のせいで過疎ったなw
614無名武将@お腹せっぷく:2014/03/05(水) 08:19:33.50
直江状にて堀家の上杉家謀反の讒言について反論

「道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条
此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存
ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候
に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、
上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は
何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる
無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成る
べく候」

直江(上杉家)の言うことももっともだけど、堀家では越後年貢米持ち去りの恨みが深かったんだろうな。
615無名武将@お腹せっぷく:2014/03/05(水) 17:36:48.00
妊活休暇に入りました。
616無名武将@お腹せっぷく:2014/03/09(日) 17:23:36.44
>613
たまに詳しい人が書き込んでくれると助かるよ
617無名武将@お腹せっぷく:2014/05/24(土) 14:00:29.58
直江さすがだよな。 
伊達蘆名による新発田の乱支援を打破するため、 
愚鈍政宗を操り、上杉滅亡の危機を脱してるからな。 

蘆名盛隆(輝宗の姉が母で輝宗の妹を正室にしてる) 
急死で大混乱した蘆名をいち早く静めたのも伊達輝宗なんだよな〜。 
蘆名重臣新国定通は「盛隆死去、之に依って洞取り乱れ候の処、御念を入れられ候故、静め被れ〜」と 
甥の亀若丸を擁立した輝宗が蘆名に圧力を入れたので、その御威光に蘆名の上下皆が喜んでます。 
こんなに奥羽全域に威光があった輝宗だったが 
家督を継いだ政宗がいきなり奇襲攻撃で蘆名を攻めて大敗して以来、 
伊達の威光は地に落ち、失敗した政宗は邪魔になった輝宗を暗殺。 
そのため佐竹義重からも妻の兄を暗殺した暴君から二本松を救う義戦として介入される始末。 

伊達家文書之一 339 伊達上杉二氏ノ連合 
天正14年3/19 直江兼続→米沢へ 
貴札拝贍、仍去秋至新発田表、雖被企御飛脚、 
路次阨塞故、不罷通之由、御深切之處、 
不淺被存候、殊爾來別而可被仰談由、 
連々被申舒筋目候條、即被致雷同候、 
就中貴国近隣遠邦、  面倒なので省略 
618無名武将@お腹せっぷく:2014/05/24(土) 15:20:35.39
【2013年 TBSテレビ視聴率ワースト5】(GP時間帯のみ)

01.*3.2% 03/03 日曜ゴールデンで何やってんだテレビ
02.*4.5% 02/05 火曜曲!
03.*4.8% 01/26 ネプの超法則!!SP・最終回
04.*4.8% 01/29 爆笑学園ナセバナ〜ル!
05.*4.9% 02/05 爆笑学園ナセバナ〜ル!
05.*4.9% 02/07 イカさまタコさま
619無名武将@お腹せっぷく:2014/05/24(土) 18:04:01.44
直江あ策謀した政宗派閥によるクーデターでしょ。
輝宗の親蘆名政策から、政宗の親上杉政策への強制変更。
その結果、対立が最大限まで至り、政宗による輝宗暗殺につながる。

上杉侵攻で蘆名と足並みをそろえていた輝宗が蘆名に嫁いだ姉妹の子の後ろ盾になっていたが、
政宗は直江の調略で、上杉との同盟をした挙句に蘆名攻め奇襲して大敗してんじゃん。

政宗の対外外交方針の大変更で、
輝宗が築いた大伊達勢力圏が瓦解したからね。
大伊達勢力圏内には最上洞や蘆名洞や相馬洞や大崎洞や葛西洞などを内包した
対織田外交奥羽窓口にして、佐竹を威圧し、北条と互角に外交する巨大伊達探題圏だったのにな。

芦名に大敗したことで大内が政宗から離反。
芦名擁護の輝宗側に付いた二本松を攻めて、輝宗暗殺。
輝宗の仇討ち目的の佐竹の介入を招いて、
二本松攻め失敗して政宗逃亡。
惣無事違反で秀吉に睨まれた政宗のために、
伊達傘下の相馬が二本松を開城させる。
620無名武将@お腹せっぷく:2014/05/26(月) 09:00:40.05
輝宗の勢力圏なんて緩やか連合じゃん
織田信長の天下統一をにらんで信長とパイプを作り、緩やかながら広範囲の連合の中心に座って奥州の第一人者を目指したものの
本能寺で計画は頓挫。天下統一の可能性が少なくなったら、広範囲の連合なんて北条の拡大制作の当て馬にされかねない危険な立場
それならいっそのこと北条とつるんで直接支配地域を増やした方がいいに決まっている
外交政策をご破算にするには代替わりが都合が良かったに過ぎない
621無名武将@お腹せっぷく:2014/05/26(月) 15:44:50.57
夜中に目が覚めて下に手をやっていじって
ゆっくりパンティを下ろしてクンニ
「うーん、何してるのぉ?」って言う頃には下がベタベタ
「エッチなことだよ」
って言いながら挿入
腰ふるとしがみつくように抱きついてきてアンアン
安全日の時はそのまま中出し
「温かいのたれてるよぉ〜も〜・・・すけべさん」
そのままキスして裸で抱き合って寝る
なんか俺は緊張感、彼女はドッキリ感からか普段よりやたら感じる
ホント幸せ
最高の彼女です
622無名武将@お腹せっぷく:2014/05/26(月) 19:28:59.63
政宗の方が超緩やかな統治しか出来なかったじゃん。
伊達の要害制度なんて、まさに当主権の否定と家臣自立統治の現れだし。
だから仙台藩は大赤字でボロボロだったわけだ。
623無名武将@お腹せっぷく:2014/05/27(火) 08:47:53.16
むしろデカイ藩は貧乏アピールが必須だよ。ただでさえ江戸に一番近い外様の大大名なのに

輝宗が芦名や佐竹に主君的な立場をとった事実は無いよ
北条と関東諸侯のパワーバランスが壊れて北条の拡大が確実な情勢で、のんきに芦名・佐竹とつるんでいるほど伊達家は呆けてなかっただけだね
織田信長にやられるのが確実な情勢で、のんきに跡目争いをやってた上杉とは違うね
624無名武将@お腹せっぷく:2014/05/27(火) 13:15:17.66
都内に住む40歳の主婦です。
見た目は若いと言われます。
625無名武将@お腹せっぷく:2014/05/27(火) 17:46:07.61
@ @ @ @
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626無名武将@お腹せっぷく:2014/06/01(日) 15:32:01.15
輝宗は遠藤片倉等の抜擢・中野ら権臣の放逐など家臣団を統制し
政宗時代の飛躍(復権)の礎を作った。
評価低いが出来損ないだなんてとんでもない。
大崎氏に関しては奥羽の管轄が一時期鎌倉府に移管してしまい
他の奥羽大名と一緒に鎌倉府へ出仕するハメになり権威が失墜してしまった。
第11代当主・大崎義直の代では伊達稙宗の援助のもとになんとか維持していけた。
大崎義隆は伊達の傀儡化に反抗し出羽の最上義光の支援のもと伊達氏から独立をしたのが大崎合戦

そもそも大内らも輝宗に従ってたのに政宗が大内らを離反させてしまったし
結局、石川弾正討伐中に大内に暴れられて困ってしまい
離反は絶対許さないって言ってた大内の要求に屈してしまうなど
とても強く隷属させたように思えないけど。
のちに関ヶ原の後に石川弾正に伊達相馬は大敗してるし南部にも大敗。
父を殺され政宗が許さないって言ってた畠山だって人取橋で敗退したために二本松城が陥落させられず
苦戦中に惣無事通達でビックリした田村伊達が相馬に斡旋を依頼したからで結果、父の仇の助命を条件に開城しただけだし。
政宗は妥協と譲歩を繰り返して迷走してる。

惣無事令違反した安東や津軽や本庄もみんな秀吉から本領安堵されたが伊達ときたらアホ外交でw
つかさ、植宗の時点で奥州守護で家格を引き揚げ版図は宮城・福島・山形に拡大してんだよな。
天文の乱は逆に伊達の家臣支配力が高まったからこそ米沢移転が可能になった。
晴宗はその強力な支配力の元にさらに奥州探題という権威を手にいれ室町幕府の東北諸将評価の中では伊達晴宗と芦名盛氏を2大勢力として重んじてる。
さらに巨大な権力を内紛が起きる前に輝宗に譲ったし妹は芦名盛興に嫁ぎ親伊達路線にし、
最上義守の娘を娶って親伊達政権にしとる。
芦名氏は三代続けて早世だった事もあり東北では伊達家に並ぶ者なかったのに政宗はグチャグチャに掻き回して伊達勢力圏を壊して大幅に減封しただけ。
猪苗代盛国が家督問題で意見が通らずに息子盛胤の猪苗代城を不意打ちで奪って伊達に支援を依頼したのがラッキーだったな。
摺上原では先方の富田隆実軍に押されまくられた片倉・原田・猪苗代の伊達隊。
あとは14歳芦名義広旗本700騎が突撃。 芦名軍はすでに戦う前から瓦解してて富田美作も佐瀬河内ら両翼は傍観。
それでも富田隆美は政宗本陣に切り込む活躍を見せて義広も突撃を敢行。
この時に風向きが変わらなければ芦名勝利確実だった。
627無名武将@お腹せっぷく:2014/06/01(日) 15:33:06.45
なるほど。惣無事令を守るために
最上が大崎を 佐竹が葦名を
支援できなくなり孤立化したと。 政宗はなんて姑息なこそ泥なんだ。
惣無事令を遵守する最上や佐竹らの後ろ盾らの影響で、
大崎も葛西も石川も白河も二階堂も岩城も惣無事令を守る為に伊達に一時的な偽りの降伏をしたんだな。
徳川時代の政宗は輝宗時代よりも、むしろ中央集権が後退している。
他藩と違い、家臣に大きな権限を与えすぎている。
そのため、白石・角田・亘理・水沢・涌谷・登米などがミニ城下町化して、自立的になってしまった。
この変な体制が足を引っ張り、幕末では雄藩化への脱皮ができなかった。
仙台藩は1600年代に春日山城のような時代錯誤の酷い青葉城設計をしただけでなく(某商人に騙されてボラれたと思われる)
政宗が要害制度統治体制と言う封権制度に逆戻りの古い支配体制を敷いた為に
最も遅れた後進的な藩の一つになってしまうなど、政宗の先見性の欠如は絶望的な酷い。

高田城が石垣じゃないのは伊達がすでに石垣を使える程度ほども財力がなかった証拠。
卑怯者にして背反常ならず武士のメンツがない命乞いの土下座を繰り返したため
幕府から完全に白眼視され、ナメられ嘲笑され続けた史上最大の負け組
強者にへつらい、弱者に残虐な土下座王政宗の大河化希望
使節団の船は家康が伊達を財政難にするために作らさせただけ。
東照宮も伊達堀も高田城普請もみんな伊達イジメ
政宗が死ぬや仙台は破綻し幕府から金を借りたりした挙げ句に伊達騒動勃発に誘導された。
伊達ほど幕府から惨めなまでの集中いびりをされた藩はない。 政宗は泣きながら死んでいったろうね。
だいたい秀忠の伊達征伐の噂が流れるや、松島で政宗自殺しか選択肢がないとされてひたすら土下座の日々だったし。
実際、金を使わせるため伊達は折檻されまくりで破綻しただろ。
秀忠が仙台へ侵攻した噂が流れた際に伊達が対幕府を想定してシュミレーションしたが、どう工夫しても勝てないって結果しかでなくて
伊達が大敗して政宗が最後の1兵になり松島で死ぬって結果しか出せず、それ以来、仙台藩代々の対幕府計画として残された話は割と有名な話でしょ。
政宗が造船するハメになった船は家康の厳命だったから幕府船奉行が派遣され、幕府の技術で作られただけだし。
しかも造船は家康から嫌われたヤツの帰国目的も兼ねていて、日本に恨みを持ってたから、行く先々で日本の悪口を行ってまわったから、みんな日本に悪感情を抱いただけに終わった。
家康は最初からムダなことを伊達にさせたに過ぎない。
628遊び人の太田:2014/06/03(火) 20:19:05.01
小生は直江ファンだが、残念ながら小早川の器が、より大きい
中国大返しの際に毛利家中を説得し、秀吉に援助した一件だけでも明らか
直江は謙信のコピーとして振る舞っただけ
629無名武将@お腹せっぷく:2014/07/21(月) 14:16:08.06
直江のどこが名将なんだかな
結局、時勢も見えず、戦局も判断できず、感情的な書状、敗戦で上杉家臣団を困窮させただけ。

景勝の糞判断も覆せず、長谷堂で散々に破られ三成の後詰めも出来ず、家康の掌で躍らされただけ。


評価されるのは御館の乱で迅速かつ秀逸な策謀を成功させた事の一点のみ。


小早川の方が断然優れていたと思うけどな。
630無名武将@お腹せっぷく:2014/08/17(日) 22:47:34.03
関ヶ原での西軍大敗。山形盆地に侵入し中央の情勢次第では、いつでも山形城を落とせるように庄内軍と三方面から囲み持久戦を執っていた直江。

西軍敗北に落ち込んでいる暇は無い。敗報の翌朝から二万の大軍を難所である狐越街道を通じ白鷹まで撤退させなければならない。

こうなれば大将である直江自身が殿を務めなければ、上杉軍は狐越街道の入り口で大混乱をきたし大敗を喫するであろう。

翌朝になり撤退開始。大将直江は自ら一千の旗本と殿軍として伊達最上連合の大追撃軍と対峙した。その間、他の上杉隊は整然と狐越街道を畑谷に向かって撤退。

これ幸いと最上義光は五千の兵を持って勢いに乗って大追撃。伊達政景三千も続く。多勢に無勢。直江本体が押され始めた所で直江が引き始める。今だとばかり追撃する最上・伊達の大軍。

そこで北方の山腹から水原と溝口の上杉の洗練された鉄砲隊が火を噴いた。

最上義光は織田信長から拝領した兜の前立てを打ち抜かれ、最上・伊達軍は大混乱。

しかし長谷道城の志村光安隊一千と最上義康率いる山形城からの七千名の後詰めが来援し、少数の直江は相懸り引きにより時間を稼ぎ何とか撤退。義光も虎口を逃れたが大魚を逃がした。

その直江の戦い振りを評して稀代の謀将最上義光は後に次のように家臣団に語っている(最上記斯波家伝)。

「直江は古今無双の兵(つわもの)也」と。
631無名武将@お腹せっぷく:2014/09/15(月) 11:08:39.90
チャイニーズガールチア

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ディレクター2ndパスポート

街道騒音異臭問題
632無名武将@お腹せっぷく:2014/10/12(日) 23:32:13.97
米沢で暴れ川として有名な松川(最上川)の氾濫を400年以上も完璧に防いでいる「直江石堤」と「蛇土手」。

その土木工事の素晴らしさは日本土木学会で選奨土木遺産に指定されていることでも判る。

小早川隆景公にはこのような民衆のための具体的な業績は、残念ながら無い。
633無名武将@お腹せっぷく:2014/10/12(日) 23:36:51.84
直江山城守兼続が切り開いた庄内地方への縦走路、朝日軍道

1598年、上杉家の若松転封で米沢を預かるようになった直江山城守は、もう一つの所領である庄内を結ぶ最短ルートを朝日連峰に開きました。
これが、世に云う「朝日軍道」であり、長井市草岡から葉山を経て、朝日連峰の主脈(1600m〜1800m級の峰々の稜線伝い)を通って庄内地方の鶴岡市鰐淵に抜ける65qにわたる壮大な山岳道路で、現在の朝日連峰縦走路の原型になったものです。

まさに直江山城守を尊敬するという上杉鷹山公の「為せば成る為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」を地で行くような計画でありました。

しかし、この軍道のおかげで西軍敗北後も酒田東禅寺城で最上他東軍連合の大軍に囲まれ一歩も引かず最後は開城した志駄義秀とその家臣も、最終的にこの軍道を通って若松に帰ることができました。

この軍道も、直江石堤と並び、直江山城ここに有りを示す一大土木事業だったのではないでしょうか。
634無名武将@お腹せっぷく:2014/10/13(月) 00:01:07.49
この最上領からの撤退は、旧日本陸軍参謀本部編纂「日本戦史」でも取り上げられる程見事なものであった。
また、一史家は、どのようにして2万近い大軍を一挙に、この狭い土地からほぼ無傷で撤退させることができたのか、と率直に疑問を提示している。
敵陣から無傷で撤退することが、如何に至難なわざであるかは、誰にでもわかる。
兵を引くとなると、その兵はもはや戦力と見ることができないのが常識である。われ先に、と先を争って逃げる羊の群れにも似ている。

そうさせぬことが撤退を成功させる、唯一無二の条件であった。
そのためにも直江は自ら殿をつとめたのである。直江が最後尾にある限り、兵たちは安堵して白鷹へ撤退することができたのである。
635無名武将@お腹せっぷく:2014/10/13(月) 03:27:43.25
>>1
小早川隆景は、四国攻め以降、天下人・秀吉の家老・軍団長的役回りを担当した

一方、直江兼続は、しょせんは上杉景勝の一家臣
しかも天下分け目の戦争で、景勝を説得できず、江戸目指して進撃するのではなく
目の前の最上領切り取りという、しょぼいローカルな戦闘やらかしただけ
しかも、敗北w

格が全然違う
636無名武将@お腹せっぷく:2014/10/13(月) 12:09:50.88
👄chu
637無名武将@お腹せっぷく
hossyu